こんにちは! 新日本婦人の会 王寺支部です

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JR王寺駅での「空襲と犠牲者」(1945/7/24)・・今は平和を願い「9の日行動」の場所に

2011年08月13日 00時46分00秒 | 私たちの願い
JR王寺駅北側 1945年7月24日 まさにこの場所に空襲・犠牲者 今ここで、毎月9日に「9の日行動」
 

王寺町にも戦時、空襲があった。そして犠牲者も出た。そのことを知る人は、王寺町内在住者でも少ない。
王寺町が編集・発行する「王寺町史」にも、旧国鉄王寺駅構内での空襲と犠牲者には触れていない。

新婦人王寺支部は、およそ5年前の2006年11月11日に、「憲法9条の会・王寺」主催の「戦争体験を聞く会」で、鈴木さんをお招きして、その生々しい空襲体験談を話していただいた。

鈴木さんご自身も、当時王寺町民であり、今のJR王寺駅近くに居住されていた。私たちも、身近かに感じることができた。鈴木さんは、九死に一生をえた。歴史の生き証人である。その模様は、新婦人王寺支部ニュース(2006年12月号)に載っている。(下図)
 
                
        
毎日新聞奈良で、鈴木さんの「語り部」活動は、およそ30年余りに渡り、300回超えたことを報道していた。鈴木さんのお話は、「涙無しには、聞けない」もの。これからもお元気で、「銃後にあっても戦争はむごたらしいもの」、との話を伝えていってもらいたい。
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<子どもたちに空襲体験「伝えることが私の使命」 今も頸椎に弾丸の破片>
        いま問う平和:’11夏 香芝の鈴木さん、語り部活動300回超 毎日新聞奈良 2011/8/10
 
第二次世界大戦で空襲被害が小さかったと言われる奈良県。それでも戦争末期には、交通の要衝や軍事施設がしばしば米軍の標的となった。旧国鉄王寺駅を狙った空襲で重傷を負った鈴木知英子さん(79)は、子どもたちに体験談を語り続けてきた。「伝えることが私の使命」と戦後66回目の夏に決意を新たにしている。
 終戦間際の1945年7月24日。県立高田高等女学校(現・県立高田高)3年だった鈴木さんがこの日早朝、勤労奉仕の一環で、現在の天理市にあった飛行場建設を手伝うために列車に乗り込んで発車を待っていた時、空襲警報が鳴った。
 「駅から離れろ!」。乗客たちは駅員の声に反応し、一斉に周囲の建物を目指して駆けだした。駅近くの自宅へ隠れようとした鈴木さんは避難途中、グラマン戦闘機の銃撃を腰にまともに受け、首や背中も血まみれになった。近くの救護所は負傷者であふれ返っていた。土間に寝かされた鈴木さんが隣に目をやると、胸に大きな穴の開いた女性が絶命していた。親指大の弾丸が摘出された鈴木さんは医師に「記念にちょうだい」と頼んだが、「これはまた弾になんねん!」と怒られた。

 空襲から40年近くたったころ、レントゲン撮影で頸椎(けいつい)の間に弾丸の破片が見つかった。最も大きなものは手術で摘出したが、今も細かい金属片は体内に残るため、MRI(磁気共鳴画像化装置)の検査などは受けられないという。「私の戦争は一生終わることがないんです」と話す。
 約30年前、知人の依頼がきっかけで保育園児に戦争体験を語った。「これから虫を殺すのやめるわ」と無邪気に話す子どもを見て、「命の大切さを伝えるために体験を伝えなければいけない」と決意。これまでに小学校などで取り組んだ語り部活動は300回以上を数える。「悪いことは悪いとはっきり言える人間になってほしい。皆が声を上げていれば、あの戦争の行く末も変わっていたと思うから」。現代の子どもたちへのメッセージだ。
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王寺町本町2丁目 達磨寺 真夏の情景 土塀の瓦越しに白花の夾竹桃 境内に白花の槿(ムクゲ)
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