「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評136回「ねむらない樹」の扉をあけて -頭に浮かぶ先行作品-  大西久美子

2018-08-30 22:07:00 | 短歌時評
       

2018年6月2日(土)に開催された「現代短歌シンポジウム ニューウエーブ30年」(荻原裕幸氏、加藤治郎氏、西田政史氏、穂村弘氏)を「ねむらない樹」創刊号(2018年8月1日刊)が特集で再現している。
シンポジウムで分かったことは次の二つ。
一つ目は「ライトバースとニューウエーブの違い」、
二つ目は「ニューウエーブは荻原、加藤、西田、穂村の4人(のもの)」ということだ。
このシンポジウムで加藤氏が用意したニューウエーブ系の作品に
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!
(石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』)がある。
加藤氏は「これは本歌取りの歌」と紹介した後、石井氏に「どういうつもりで作ったの?」と尋ねた。
石井氏は「本歌取りではないです。思い付きで作りました」と即答、加藤氏は「とてもこわい。アナーキー」と反応されたが、オンサイトの聴講者の中にも、
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
(加藤治郎歌集『マイ・ロマンサー』)
が浮かんで衝撃を覚えた方がいただろう。石井氏は「影響は受けたかもしれません」と補足されたが「かも」なので着想時、先行作品の表現は、既に浸透しているツールとして取り入れたのだと思う。このやりとりを聞きながら、私は今後、新しい表現を探るとしたらそのドアノブはどこにあるのだろう、とふと思った。
同時に、本歌取りとは逆の発想として、制作者にとって偶発的に生まれた作品が、時空を遡り先行作品や歌集に到達、読者がその息吹き、生命力に出会う新しい試みの機会と考えられなくもない、とも思った。
それは「ねむらない樹」の編集委員である大森静佳氏の歌集『カミーユ』(2018年5月刊)により強く感じる。「短歌往来」九月号の岩内敏行氏の書評には大森氏が「河野裕子の生涯すべての歌集を精読し、その根幹をつかんだ」とあり、『カミーユ』の読み応えある情念の源に触れた思いがしたが、この歌集を手にした時、カミーユとロダンをテーマとした60首の連作を収録する加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(2008年5月刊)が頭に浮かんだのは私だけではないだろう。これは、ニューウエーブのひとり、西田政史氏の6月14日のTweet「加藤治郎さんの『雨の日の回顧展』が俄かに話題になっている」からも推測できる。
しかし『カミーユ』に明確なヒントはない。気付きは読者に委ねられている。そして。誰かがSNSでそっと呟く。これに目を留めた人が10年前に刊行された『雨の日の回顧展』を知り、Amazon等から入手する。・・・SNSを媒介として双方の歌集を響き合わせて読む読者が(多くはなくても)誕生したことは想像に難くない。
ちなみに両歌集とも5月刊行だが『雨の日の回顧展』は7日、『カミーユ』は15日である。ここに大森氏の先行歌集への密やかな敬意が込められているとみるのは深読みだろうか。










短歌相互評26 松村由利子から染野太朗「初恋」に寄せて 

2018-08-30 22:03:34 | 短歌相互評

作品 染野太朗「初恋」  http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-08-04-19370.html         
評者 松村由利子

 実に初々しく、恋の喜びや幸福感、そして痛みを伝えてくる連作だ。最初の二首では、恋を失った現在の苦しい思いが描かれる。
ひとの幸せを願へぬといふ罰ありきメロンパン口に乾きやまずき
くるしみを求めてたんだみづたまりに雨降るかぎり死ぬ水紋の

 「ひとの幸せ」は、かつての恋人の幸せである。メロンパンによる口中の渇きさえ、「罰」と感じられるのは、「くるしみを求め」るストイックな人物だからだろう。水たまりに広がり続ける波紋は繰り返し水面を刻み、波立たぬ水面のような心には戻れない悲しみが迫ってくる。
 アスタリスクで区切られた三首目以降は、回想の中の恋が濃やかに描かれる。その完璧にも近い至福の感情と昂揚は、失われたものゆえの輝きを思わせる。
きみがぼくに搬んだそれは夏だつた抱へたらもう海に出てゐた
聞きづらいときは顔寄せてくれることも灯台の灯(ひ)のやうで近づく
 
恋の喜びを「夏」と表現した一首目は、人称や指示詞が効果的に使われており、独自の文体となっている。平坦、冗長になりがちな口語を用いつつ、翻訳文のような文体によって魅力的な起伏と展開がもたらされていることには驚く。染野は多彩な文体の使い手であるが、この歌は口語短歌の一つの到達点と言えるのではないか。
 二首目は、古典和歌のような、なだらかで粘っこい韻律がいい。一首全体が結句の「近づく」を修飾するために詠まれており、ここで主体が「顔寄せてくれる」君から、作中主体に変わる。「近づく」はまるで大太鼓が曲のラストにどしりと一拍響かせるような効果を生み、歌に詠まれていない場面が余韻として読者に伝わってくる。
 両方とも喩の巧みさに魅了されるが、そこにとどまることなく、さらに文体が練られているところに特徴がある。染野にとって、喩は常に着地点ではなく、そこから飛躍するための美しい発見なのだろう。
海の色をあをとしか思へぬことのきみをしおもふ気持ちにも似て 
きみと来て食堂〈煮魚少年〉の味噌煮の鯖を箸にくづしつ
煮魚を食べつつきみと黙(もだ)すれどちよつと目の合ふ一瞬はある

「この人」と心に決める恋の必然性を「海の色」に喩えた美しさは、「あを」のイメージと共に果てしなく広がる。こうした大海原のような愛情を「食堂〈煮魚少年〉」の小さな卓に注ぎ込むところが、この歌人の巧さである。食堂名は非現実の世界を思わせ、そこで煮魚を食する二人の輪郭もやわらかい。人生も恋も短く、「ちよつと目の合ふ一瞬」こそが永遠である。そして、こんなにも愛おしい時間を過ごすにもかかわらず、作者は恋の終わりを予感する。
これもきつと最後の恋ぢやないけれど海風、奪へいつさいの声
 「最後の恋」ではないことの悲しみは、海風がさらってゆく。ここには、やがて訪れる別離への怖れはない。終わりがあるからこそ瞬間は輝くことを、この作者はよく知っている。十首を読み終えたとき、素晴らしい恋の結末をもう一度確かめようと、読者はアスタリスクの前に置かれた二首へ立ち戻らされる。小説のような歌集『人魚』を編んだ歌人の手並みは、ますます冴え渡っている。


松村由利子〈略歴〉一九六〇年福岡生まれ。沖縄・石垣島在住。「かりん」所属。最新歌集『耳ふたひら』。著書に『短歌を詠む科学者たち』など。

短歌相互評25 染野太朗から松村由利子「失くした鰭は」へ

2018-08-30 21:56:29 | 短歌相互評
作品 「失くした鰭は」松村由利子 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-08-04-19366.html
評者 染野太朗

 松村は社会や歴史を描く。俯瞰してそれらを見つめるだけでなく、それらと自らとのかかわりを正面から描く。57577のリズムをはっきりと感じさせる調べに、社会や歴史、そして自らを見つめる落ち着いた、ブレのない眼差しが練り込まれるから、松村の歌に対して幾度となくくりかえされているであろう「骨太」な歌、「批評」に富んだ歌、ということをまっさきに思う。「骨太」「批評」といった評語を読者として安易に引き寄せてしまうとき、僕たちはそれらと対極にある「繊細」だとか「心の揺らぎ」だとかいったことをそれらの歌に読もうとしなくなる。あるいは、それを忘れてしまう。評語が読者の眼差しや読みの言葉を曇らせることがある。僕は松村の歌に対してやはり「骨太」「批評」といったことを思う。「失くした鰭は」という今回の15首においてもそれを言うことができる。けれどもそれを松村の歌の本質としてしまうのはあまりにも安易なことなのだ。輪郭の濃い、迷いなくそこに据えられたような語と語のあいだから、繊細ということそのものがただよいでてくる。

  *   *   *

入念にだし巻き卵巻きながら 男を泣かせたこと二回ほど

 上の句と下の句のかかわりをいかに読むか、というところが読者の腕の見せどころなのだが、実はこの歌、そう簡単にそのかかわりを確定させることができない。かつて「男」に食べさせたことのある「だし巻き卵」、ということだろうか。それを作りながらふと男を泣かせた経験を思い出している。でも、食べさせたことがあるからと言って、なぜ今ここでそれを、しかもその回数を思い出すのだろう……と読んで、卵を割ったり出汁をくわえたり、油をうすく引いたりフライパンを何度も傾けたり、箸をこまやかに扱ったり、といったことを思うとき、また、焼くときの音やにおい、手や顔に感じる熱を思うとき、この「入念」という一語が負う情報量と体感におどろく。たったこれだけのシンプルな歌が、「泣かせた」ということと、「二回」という、それが多いのか少ないのかまずは判断を止めておかざるをえないその回数を、そしてその背後にあるドラマを、具体ではなく質・情感において、思いのほか色濃く提示する。一方で、「男」に対する潔い態度も見えてくる。骨太だけれど、読者は繊細に向き合う必要のある歌だと思う。

絶滅危惧種なること母に言いたれど鰻重届いてしまう帰省日

 僕はこの歌をとてもすぐれた「社会詠」だと感じる。ユーモアをにじませているようで、でも実はとても重い。絶滅危惧種だとわかっているから食べるのは避けたい。けれども母は娘を思ってそれを、むしろ無邪気に食べさせようとする。でも、これこそが〈現実〉なのだと思う。社会を見据えてそれなりの心がけや行動をしながら、それでも「鰻重届いてしまう」、そのような〈現実〉を僕たちは生きているのだと思う。とてもリアルな歌だ。

友達ではありませんかと問うてくる取り持ち女みたいなSNS
ぎんぎんと太陽沈む西の空町田康的深紅に染まり


 SNSと夕焼けが、それぞれ比喩をとおして描かれる。「取り持ち女」(売春婦と客との仲介役の女性)とつめたく言い放つようにして詠み据えられるSNS(「みたいな」という言い方がここではいかにも軽薄だ)と、あるひとりの作家の作品の世界観をまるごと背負ってそこにひろがる夕焼け。SNSに対する批評はあきらかだと思うが、加えて「女性/男性」という、対をなす隣り合った歌としても読むべきなのかもしれない。しかし、どちらの〈性〉も、かならずしも肯定的には描かれていないように思う。それにしても「取り持ち女」の登場は強烈だ。一連において「女」を単に「被害者」とか「弱者」とかいうふうに図式化させない表現のようにも思うし、一方で、ついに「加害者/被害者」「高潔/卑しさ」といった二項対立を軸にした表現から抜け出せない歯がゆさをも読者として感じるのだが、どうだろうか。それとも、〈性〉について読むのは、僕の行き過ぎだろうか。もっと単純に、違和感のみを読み取ればよいのか。いや、哀しみだろうか。……いや、そもそもそういったことを感じ取る読者としての僕自身とは、どのような読者なのだろう。

わたくしの失くした鰭は珊瑚いろ夕暮れどきの空に落とした

 連作はこのあたりから抽象度をぐんと増していく。「珊瑚いろ」のうつくしい「鰭」が失われた。「鰭」である以上、それを失くしたことによって「わたくし」は海をうまく泳げなくなる。この喪失感と、この世界の上下のありようとはさかさまに(すなわち海から空へと)「落とした」と表現される「鰭」。うつくしいが、しかし同時に、力の方向が逆であるところから、落とした、というよりも「空」の側に無理に奪われたような感じさえ僕は読んでしまった。しかしそれは、

プラスチックだらけの日々がなだれ込み亀の胃壁を目指すかなしみ
深海に死の灰のごと降り続くプラスチックのマイクロ破片


という歌の印象に引きずられすぎなのかもしれない。廃棄プラスチックが人間以外の生命を脅かしている。「プラスチックだらけの日々」は、そのような「日々」を送る人間への警鐘だろうし、「プラスチックのマイクロ破片」を「死の灰」=放射性降下物でたとえるこの認識はたいへんに重い。一首のすっきりとした構成によって、逆に見過ごしてしまうかもしれないけれど、やはり重い。こまかいことかもしれないが、降り「続く」、であることも怖ろしい。「骨太」な一首のたたずまいのなかに、読者として長く立ち止まるべき思考や批評が見えてくる。

東海道五十三次広重の腕太かりしこと確信す
湖底よりわれを呼ぶ声腕太きものの呼ぶ声 波紋広がる
取税人マタイ登りし木のように悲を抱きとる人となるべし
永遠を産んでしまった女たち水の匂いを滴らせつつ
からだどんどん古びてほつれゆく秋よ水の記憶は淡くなるのみ


 連作最後の五首。「失くした鰭は」というこの一連には、〈水〉のイメージが濃厚で、「海」や「湖」はもちろんだが、「雪」や、そして最後の二首のような、きわめて観念的・抽象的な「水」も登場する(もちろん上の「湖」も、「東海道五十三次」から想像するに浜名湖である可能性が高いが、そういった具体を超えて、観念的ではあると思う)。そういえば、冒頭の一首で描かれた男は泣いていた。涙という「水」がそこにはあった。それらの〈水〉同士がどのようにかかわり合うのか、つまりこの一連において〈水〉とはなにを象徴するものなのか、その解釈を確定させるのはたいへんにむずかしい。しかし「鰭」を失うということが、そういったあらゆる〈水〉から隔てられていく、疎外されていく、というイメージに重なるということを、あるいは読み取ることができるのかもしれない。「水の匂いを滴らせ」ながら、同時に、まさにその〈水〉から疎外される。ここに〈性〉をめぐる批評を読み取ろうとするのは恣意的に過ぎるだろうか。「腕太きもの」を男性に見立てるのも、図式的で安易な発想だろうか。また、とめどなく古びていく「からだ」の持ち主がもし「女たち」ならば、冒頭の一首の「男」から涙=〈水〉を奪った(奪った、と言ってよいのかどうか)その「二回」という数は、比べるまでもなくただ「少ない」ということなのかもしれない。

 「だし巻き卵」と「男」にまつわる個人的な経験に始まった連作が、社会批評を経て、抽象性をきわめて濃くした二首で終わる。冒頭に示した「骨太」ということ、そしてそこにあらわれた「具体」と「抽象」の振れ幅そのもの。そこに「骨太」と言うだけでは済まされない繊細を見る。
 手強い一連だった。