作品 「失くした鰭は」松村由利子
http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-08-04-19366.html
評者 染野太朗
松村は社会や歴史を描く。俯瞰してそれらを見つめるだけでなく、それらと自らとのかかわりを正面から描く。57577のリズムをはっきりと感じさせる調べに、社会や歴史、そして自らを見つめる落ち着いた、ブレのない眼差しが練り込まれるから、松村の歌に対して幾度となくくりかえされているであろう「骨太」な歌、「批評」に富んだ歌、ということをまっさきに思う。「骨太」「批評」といった評語を読者として安易に引き寄せてしまうとき、僕たちはそれらと対極にある「繊細」だとか「心の揺らぎ」だとかいったことをそれらの歌に読もうとしなくなる。あるいは、それを忘れてしまう。評語が読者の眼差しや読みの言葉を曇らせることがある。僕は松村の歌に対してやはり「骨太」「批評」といったことを思う。「失くした鰭は」という今回の15首においてもそれを言うことができる。けれどもそれを松村の歌の本質としてしまうのはあまりにも安易なことなのだ。輪郭の濃い、迷いなくそこに据えられたような語と語のあいだから、繊細ということそのものがただよいでてくる。
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入念にだし巻き卵巻きながら 男を泣かせたこと二回ほど
上の句と下の句のかかわりをいかに読むか、というところが読者の腕の見せどころなのだが、実はこの歌、そう簡単にそのかかわりを確定させることができない。かつて「男」に食べさせたことのある「だし巻き卵」、ということだろうか。それを作りながらふと男を泣かせた経験を思い出している。でも、食べさせたことがあるからと言って、なぜ今ここでそれを、しかもその回数を思い出すのだろう……と読んで、卵を割ったり出汁をくわえたり、油をうすく引いたりフライパンを何度も傾けたり、箸をこまやかに扱ったり、といったことを思うとき、また、焼くときの音やにおい、手や顔に感じる熱を思うとき、この「入念」という一語が負う情報量と体感におどろく。たったこれだけのシンプルな歌が、「泣かせた」ということと、「二回」という、それが多いのか少ないのかまずは判断を止めておかざるをえないその回数を、そしてその背後にあるドラマを、具体ではなく質・情感において、思いのほか色濃く提示する。一方で、「男」に対する潔い態度も見えてくる。骨太だけれど、読者は繊細に向き合う必要のある歌だと思う。
絶滅危惧種なること母に言いたれど鰻重届いてしまう帰省日
僕はこの歌をとてもすぐれた「社会詠」だと感じる。ユーモアをにじませているようで、でも実はとても重い。絶滅危惧種だとわかっているから食べるのは避けたい。けれども母は娘を思ってそれを、むしろ無邪気に食べさせようとする。でも、これこそが〈現実〉なのだと思う。社会を見据えてそれなりの心がけや行動をしながら、それでも「鰻重届いてしまう」、そのような〈現実〉を僕たちは生きているのだと思う。とてもリアルな歌だ。
友達ではありませんかと問うてくる取り持ち女みたいなSNS
ぎんぎんと太陽沈む西の空町田康的深紅に染まり
SNSと夕焼けが、それぞれ比喩をとおして描かれる。「取り持ち女」(売春婦と客との仲介役の女性)とつめたく言い放つようにして詠み据えられるSNS(「みたいな」という言い方がここではいかにも軽薄だ)と、あるひとりの作家の作品の世界観をまるごと背負ってそこにひろがる夕焼け。SNSに対する批評はあきらかだと思うが、加えて「女性/男性」という、対をなす隣り合った歌としても読むべきなのかもしれない。しかし、どちらの〈性〉も、かならずしも肯定的には描かれていないように思う。それにしても「取り持ち女」の登場は強烈だ。一連において「女」を単に「被害者」とか「弱者」とかいうふうに図式化させない表現のようにも思うし、一方で、ついに「加害者/被害者」「高潔/卑しさ」といった二項対立を軸にした表現から抜け出せない歯がゆさをも読者として感じるのだが、どうだろうか。それとも、〈性〉について読むのは、僕の行き過ぎだろうか。もっと単純に、違和感のみを読み取ればよいのか。いや、哀しみだろうか。……いや、そもそもそういったことを感じ取る読者としての僕自身とは、どのような読者なのだろう。
わたくしの失くした鰭は珊瑚いろ夕暮れどきの空に落とした
連作はこのあたりから抽象度をぐんと増していく。「珊瑚いろ」のうつくしい「鰭」が失われた。「鰭」である以上、それを失くしたことによって「わたくし」は海をうまく泳げなくなる。この喪失感と、この世界の上下のありようとはさかさまに(すなわち海から空へと)「落とした」と表現される「鰭」。うつくしいが、しかし同時に、力の方向が逆であるところから、落とした、というよりも「空」の側に無理に奪われたような感じさえ僕は読んでしまった。しかしそれは、
プラスチックだらけの日々がなだれ込み亀の胃壁を目指すかなしみ
深海に死の灰のごと降り続くプラスチックのマイクロ破片
という歌の印象に引きずられすぎなのかもしれない。廃棄プラスチックが人間以外の生命を脅かしている。「プラスチックだらけの日々」は、そのような「日々」を送る人間への警鐘だろうし、「プラスチックのマイクロ破片」を「死の灰」=放射性降下物でたとえるこの認識はたいへんに重い。一首のすっきりとした構成によって、逆に見過ごしてしまうかもしれないけれど、やはり重い。こまかいことかもしれないが、降り「続く」、であることも怖ろしい。「骨太」な一首のたたずまいのなかに、読者として長く立ち止まるべき思考や批評が見えてくる。
東海道五十三次広重の腕太かりしこと確信す
湖底よりわれを呼ぶ声腕太きものの呼ぶ声 波紋広がる
取税人マタイ登りし木のように悲を抱きとる人となるべし
永遠を産んでしまった女たち水の匂いを滴らせつつ
からだどんどん古びてほつれゆく秋よ水の記憶は淡くなるのみ
連作最後の五首。「失くした鰭は」というこの一連には、〈水〉のイメージが濃厚で、「海」や「湖」はもちろんだが、「雪」や、そして最後の二首のような、きわめて観念的・抽象的な「水」も登場する(もちろん上の「湖」も、「東海道五十三次」から想像するに浜名湖である可能性が高いが、そういった具体を超えて、観念的ではあると思う)。そういえば、冒頭の一首で描かれた男は泣いていた。涙という「水」がそこにはあった。それらの〈水〉同士がどのようにかかわり合うのか、つまりこの一連において〈水〉とはなにを象徴するものなのか、その解釈を確定させるのはたいへんにむずかしい。しかし「鰭」を失うということが、そういったあらゆる〈水〉から隔てられていく、疎外されていく、というイメージに重なるということを、あるいは読み取ることができるのかもしれない。「水の匂いを滴らせ」ながら、同時に、まさにその〈水〉から疎外される。ここに〈性〉をめぐる批評を読み取ろうとするのは恣意的に過ぎるだろうか。「腕太きもの」を男性に見立てるのも、図式的で安易な発想だろうか。また、とめどなく古びていく「からだ」の持ち主がもし「女たち」ならば、冒頭の一首の「男」から涙=〈水〉を奪った(奪った、と言ってよいのかどうか)その「二回」という数は、比べるまでもなくただ「少ない」ということなのかもしれない。
「だし巻き卵」と「男」にまつわる個人的な経験に始まった連作が、社会批評を経て、抽象性をきわめて濃くした二首で終わる。冒頭に示した「骨太」ということ、そしてそこにあらわれた「具体」と「抽象」の振れ幅そのもの。そこに「骨太」と言うだけでは済まされない繊細を見る。
手強い一連だった。