2018年6月2日(土)に開催された「現代短歌シンポジウム ニューウエーブ30年」(荻原裕幸氏、加藤治郎氏、西田政史氏、穂村弘氏)を「ねむらない樹」創刊号(2018年8月1日刊)が特集で再現している。
シンポジウムで分かったことは次の二つ。
一つ目は「ライトバースとニューウエーブの違い」、
二つ目は「ニューウエーブは荻原、加藤、西田、穂村の4人(のもの)」ということだ。
このシンポジウムで加藤氏が用意したニューウエーブ系の作品に
生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!
(石井僚一歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』)がある。
加藤氏は「これは本歌取りの歌」と紹介した後、石井氏に「どういうつもりで作ったの?」と尋ねた。
石井氏は「本歌取りではないです。思い付きで作りました」と即答、加藤氏は「とてもこわい。アナーキー」と反応されたが、オンサイトの聴講者の中にも、
言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!
(加藤治郎歌集『マイ・ロマンサー』)
が浮かんで衝撃を覚えた方がいただろう。石井氏は「影響は受けたかもしれません」と補足されたが「かも」なので着想時、先行作品の表現は、既に浸透しているツールとして取り入れたのだと思う。このやりとりを聞きながら、私は今後、新しい表現を探るとしたらそのドアノブはどこにあるのだろう、とふと思った。
同時に、本歌取りとは逆の発想として、制作者にとって偶発的に生まれた作品が、時空を遡り先行作品や歌集に到達、読者がその息吹き、生命力に出会う新しい試みの機会と考えられなくもない、とも思った。
それは「ねむらない樹」の編集委員である大森静佳氏の歌集『カミーユ』(2018年5月刊)により強く感じる。「短歌往来」九月号の岩内敏行氏の書評には大森氏が「河野裕子の生涯すべての歌集を精読し、その根幹をつかんだ」とあり、『カミーユ』の読み応えある情念の源に触れた思いがしたが、この歌集を手にした時、カミーユとロダンをテーマとした60首の連作を収録する加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(2008年5月刊)が頭に浮かんだのは私だけではないだろう。これは、ニューウエーブのひとり、西田政史氏の6月14日のTweet「加藤治郎さんの『雨の日の回顧展』が俄かに話題になっている」からも推測できる。
しかし『カミーユ』に明確なヒントはない。気付きは読者に委ねられている。そして。誰かがSNSでそっと呟く。これに目を留めた人が10年前に刊行された『雨の日の回顧展』を知り、Amazon等から入手する。・・・SNSを媒介として双方の歌集を響き合わせて読む読者が(多くはなくても)誕生したことは想像に難くない。
ちなみに両歌集とも5月刊行だが『雨の日の回顧展』は7日、『カミーユ』は15日である。ここに大森氏の先行歌集への密やかな敬意が込められているとみるのは深読みだろうか。
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