「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評134回 「高島裕『抵抗の拠点』に思うこと 」北村早紀

2018-08-02 09:15:55 | 短歌時評



 ものを書くようになってからずっと、そしてこの半年はより一層、自分はなんのために書くのだろうと考えてきました。「橋を架けるため」というのが(生意気ながら)最近のお気に入りの答えですが、もちろん最終の答えはまだ出ていません。
 「(当事者ではない)あなたにはわからないからもういい!!」というフレーズは、言うまでもなく自分とは違う立場にいるひとに対して戸をぴしゃりと閉めるような効果があり(大人はわかってくれない、男には/女にはわからない、など無数のレパートリーがある)、言うと決め台詞のようでなんとなく達成感があるのでつい言ってしまいそうになりますが、結局のところはコミュニケーションの放棄なので、言わないように気をつけています。今回のことも、そのように片づけることは簡単ですが、それでは何にもならないので、できる限り丁寧に考えてみました。あなたの立ち位置からは見えにくいかもしれないけど私からはこういう風に見えるよ、という話し合いを丁寧に積み重ねた先にしか学びはないと思うからです。
 はじめに書いておかないと望まない事態を引き起こす可能性があるので書いておきますが、私は喧嘩がしたいわけではありません。ましてやこの件を「炎上」させたいわけでもなくて、冷静に私の考えを述べ、叶うならばいろんなひととこの件について話し合うきっかけにしたいのです。

 未来の七月号の高島裕さんの『抵抗の拠点』という時評に関して、いくつか考えてみたいことがあります(未来の時評はネット上でも読むことができるので、未読の方はこの機会に読んでいただければと思います。)。
 高島さんの時評は今年度のはじめあたりに大きな話題となった福田元財務次官の「セクハラ騒動」を話の出発点としています。この時評からは高島さんがこの「セクハラ騒動」による辞任を不当なものだと考えていることがわかります。
 報道は、次官本人と財務省を断罪し、麻生大臣の責任と不見識を言い立てるばかりで、テレビ局側が、かねてから嫌がっていたという女性記者をあえて次官の取材に差し向けた理由や、取材元である次官に無断で録音した音源を、他社に持ち込んで公開させたことの職業倫理上の是非を問う声はかき消されてしまった。「セクハラは許せない」という、誰にも反対できないお題目の前に、すべての疑問が封殺された形だ。
 まず私は「騒動」という表現に疑問を持ちました。「騒動」というと軽く聞こえますが、私はあれはれっきとした人権侵害に関する事件だったと認識しています。とすれば「騒動」ではなく「事件」、もしくは控えめに表現するとしても「問題」くらいにはなるのではないかと思います。また「セクハラは許せない」ということを「お題目」と表現したことも気になります。辞書を引いてみると、「お題目」とは「口先だけで、実質のともなわないこと」とありますが、まさか「セクハラは許せない」ということをそのようなことだと考えられているとしたら、私とは大きな認識の違いがあると言わざるを得ません。なぜなら、お題目などでは決してなく、心の底から「セクハラは許せない」からです。人が不当に圧力を受けたり不当に取り扱われたりすることを、私は許せないと感じます。セクハラというとどうしても性別を絡めた話になり、そうすると男性対女性の争いのようになってしまうこともありますが、そうではないと思います。すべてのひとが侵害されずに生きていけるようになるために、セクハラを許してはならないのだと考えています。
 上記の文章からは高島さんが、今回の事件の対応は強引であったと考えていることがわかります。その強引さについて、高島さんは「粗雑な手法が、ジェンダーとセクシュアリティをめぐるさまざまなコンフリクトを風通しの良い方向へ導きうるとは到底思えない。」と述べています。私は、これにも違和感を覚えます。今回の対応は確かに強引だったかもしれません。しかし、どんなことにも最初があり、続けていくうちに内容が洗練されていくのだと私は思います。むしろ、今回に関して言えば、強引な方法をとることでしか状況を動かすことができなかったのではないでしょうか。最初にこの事件について知ったとき、私も多少強引だと感じましたが、それ以上にこれは正当防衛だとも思いました。忘れてはいけないのは、表沙汰になってはいなくてもこのような出来事は日常に溢れているということです。私にも、女性だというだけで低く見られた経験があります。なかったことにされがちな出来事がしっかりと世に問われたということを、私は得難いことだと思います。

 この件で、とりわけ筆者が気になったのは、会話の一部分のみを、しかも一方の側の音声のみを切り取り、そこで確認できる発言内容をもって「セクハラである」と断定、断罪してしまったことだ。
 これを高島さんは「言語観の貧しさ」と書いていましたが、私はここにも疑問があります。高島さんが書いている、切り取られた会話の一部とは、具体的に示すと「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」などの言葉です。このような発言が許される文脈は非常に限られていると考えます。具体的に言えば、その非常に限られた文脈というのは相手がそのような関係性に合意しているような場合でしょう。そして、相手の方が告発に至った以上、お二人の関係はその文脈上のものではなかったのではないかと推測します。たとえ元財務次官に悪気がなかったとしても、相手が告発したということは、相手をよくない気持ちにさせてしまったことは動かしようのない事実なのではないでしょうか。
 これでは筆者が女性だから女性に肩入れしているのではないかという感じがしてしまうかもしれないので、念のため、告発した側にはじめから財務次官を貶めるような悪意があったという可能性について考えてみます。だとすれば、これは元財務次官の「言語観の貧しさ」が招いた結果ではないでしょうか。「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」などは非常にハラスメントと受け取られやすい言葉です。財務次官として発言を求められた場でそれらの非常にハラスメントと受け取られやすい言葉を使うという判断が言語観の豊かさから来るものだとは私には到底思えません。高島さんが指摘する通り、言葉を扱うときには「言葉そのものが孕む多義性や、生きた会話がもたらすさまざまなニュアンス、当事者同士のこれまでの関わり合いや双方の性格などから生まれる雰囲気や文脈といった、言葉と、言葉をめぐる環境との重層性」を意識することが必要となってきます。そのことに関しては私も高島さんに同意します(「騒動」「お題目」に関して前述のように私が違和感を覚えたことも、言葉の多義性によると言うことができるでしょう)。しかし私は、それは読み取る側だけでなく、使う側に関しても同じことが言えると考えます。つまり「抱きしめていい?」「胸を触っていい?」という言葉を、読みとる側がその重層性を意識して判断する必要があるだけでなく、その言葉を発する側もその重層性を意識しなくてはならないということです。相手は自分と同じ気持ちではないかもしれないし、自分を貶めようとしているかもしれないのです。元財務次官は相手がどのようにとらえるか、相手をどのような気持ちにさせるか、ということにあまりにも無頓着で無神経な発言をしたために、その発言に足元をすくわれたと考えることもできます。

 短歌という詩型が「一義的言語によるわかりやすい物語を生産し消費させてゆく巨大な力への、ささやかな、しかし強靭な抵抗の拠点であり続ける」というのは、納得できるような気がします。短歌に限らず詩とはそういうものだと思います。
 短歌は定型という限られたスペースがあるからこそ、全てを言い尽くすことは難しく、それぞれの言葉のあわいで表現することになります。例えば歌会に歌を提出したとき、作者としての自分が想定した以上に読みを広げてもらえてわくわくするようなこともありますし、狙った意味合いが伝わらなかったり、不本意な伝わり方をするもどかしさもよく経験します。だからこそ私たちは、繊細な手つきで言葉を扱わなければいけないのだということを身を以て知っているはずなのです。

高島さんの時評が発表されたことで、考える機会をいただけたことを大変ありがたく思います。