「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第32回 辻聡之から遠藤由季「いいよね、シリウス」へ

2019-02-01 11:28:19 | 短歌相互評
作品 遠藤由季「いいよね、シリウス」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-01-05-19800.html
評者 辻聡之

 タイトルの「いいよね、シリウス」を目にした時になんとなく思い出したのは、遠藤さんの第一歌集の歌だった。

  馬頭星雲抱くオリオンが昇るころコンロの青き火揺らして待てり(『アシンメトリー』短歌研究社)

 もちろん、シリウスとオリオンの近さから来るもので、鳥の名前が出てきたら第二歌集『鳥語の文法』が頭をよぎる程度の、そんな他愛ない連想だ。けれど、今回の連作を読んで驚いたのは、第一歌集にも第二歌集にも「ほんとうのさみしさ」は詠われていなかったのか、ということだった。いや、何もそんな揚げ足をとるようなことを言わなくてもいいし、それはこの連作を読むうえでとりたてて重要なことではないので、ここまでの文は全くの蛇足であることを書き添えておく。ただ、それならば「さみしさ」とは何か、と考えてしまっただけで。



 連作には、作品内の時間軸に沿って進行するものと、時空間の制約に囚われずに主題をもって展開するものがあるように思う。そういう雑な区分をするなら、この「いいよね、シリウス」は前者のスタンスをとったものだと考えていいだろう。

  一杯の水からはじまる冬の朝青い小鳥の気配はしたり

 冬のきりっとした空気の中で飲み下す一杯の水に、まどろんでいた体が覚醒していく様子が上の句で伝わる。「青い小鳥」は、この日に何かいいことがありそうな、そんな明るい予感を暗示している。朝の始まりをさりげなく描いたこの歌が最初に置かれていることを踏まえると、ここから一日が幕を開け、この日の出来事が語られることが想像できる。(ちなみに、寝起きに飲む水は胃腸にいいとか、脳を活性化するとか言われるけれど、僕はおなかが弱いのでそれができない)
 清々しい冬の空気をまといつつ家を出ると、続く四首には川の描写が入る。川に群れるつがいのオオバン(※千葉県我孫子市の鳥)や対岸の消防車など、目に映る光景が瑞々しく表現されていて、作者の視界を借りている気にもなる。さらに続く四首では、その目を内側にぐるりと向けたように、一気に内省的な歌になっていく。そして、それらが内包する感情は一様ではない。

  あるもので一品作ると似ています近所の散歩で満ち足りること
  ああすればよかったと思うことはないけれどさくらのもみじ赤いね
  不自由を強いられるのはいつもおんな鮭は卵を産み散らしたり
  産んだのち運と自然に任せるという生ならば産んだかわれは


 ありあわせで料理ができてしまう人はすごいと思うし、そういう器用さはその人の生活の中で磨かれたものなのだろう。そのように現状を受容できてしまうことをポジティブに捉えていながら、どこか気恥ずかしさを覚えているのか、皮肉っぽさも滲む。「近所の散歩で満ち足りる」精神があるからこそ、「ああすればよかったと思うことはない」と言ってのけることができる。しかし、上の句から下の句へと変転する「けれど」という一語にこめられた僅かな逡巡、一見関係のなさそうな桜紅葉への言及は、モヤっとしたものを読者にも残していく。感情の割り切れなさの表現が巧みだ。「不自由を強いられるのはいつもおんな」と強く言い切ったあとには、もしかしたら産んだかもしれない仮定の人生について自問する。
 こうした次々と湧き出る思考は、散歩している時の何も考えていないようで何かしら考えてしまっている感覚をよく表していて、ライブ感がある。そして「産んだかわれは」と、どこかの過去を示唆することによって、記憶は「さみしさ」を呼び起こすのである。

  まっすぐにさびしさを言う人だった冬の陽射しのなかに気づけり
  ほんとうのさみしさ詠いしことはなくパン屋の袋溜まりてゆきぬ


 冬の陽射しはやけに眩しく感じるものだけれど、太陽の高度が夏よりも低いせいらしい(さっき調べた)。なるほど。ただ、そういう理屈を知らなくても、寒い中にそっと温めてくれる陽射しは、確かにさびしさに似ている。この歌において、相手との関係は明示されていない。恋人であれ、友人であれ、「まっすぐにさびしさを言」ってくるのは、よほど距離の近い間柄だろう。当時は思い至らなかったその伝え方に、はたと気づき、同じほどにはさみしさを表明できなかった自分自身を思う。溜まっていくパン屋の袋は、生活が坦々と過ぎていくことの比喩が託されているのと同時に、どこか空虚さを抱えた心情とも読める。「まっすぐにさびしさを言う人」と「ほんとうのさみしさ詠いしこと」のない「われ」、という対比がとてもさみしい。
 現在を見つめ過去を振り返る徒然なる近所の散歩も、終盤に向かうにつれて、再び心理描写が控えめになっていく。路地や電波塔といった景色に目を留め、写し取っていく。これは、途中で昂ぶってしまったけれど、ふっと我に返って自身をなだめるような、極めて理性的な作り方なのだろうなと思う。

  かっきりと八十八星座嵌まりおる夜空の区画整備を眺む
  はえ座とか南の空にあることの人の思考は不可思議でよし
  考えずなにも成し遂げずに眠る夜があってもいいよねシリウス


 冬の朝から始まった一日が暮れ、夜空の星を眺めるに至る。八十八もの星座を考え並べ、はえ座すら存在せしめた人間の思考をよしと思う。「夜空の区画整備」という把握には軽いユーモアが効かせてあるし、「はえ座とか」の「とか」という砕けた使い方は、下の句の「不可思議でよし」という大らかな物言いによく合っている。連作最後の一首は、タイトルにもなっている歌だ。シリウスは太陽を除けば全天で最も明るい恒星で、肉眼でもよく観察することができる。そうした星に比べれば、「考えずなにも成し遂げずに眠る」自分の取るに足りなさが際立つし、いっそ許してしまえる。何より、考えごとの多い一日だったのだから。「いいよねシリウス」という柔らかな問いかけが、そのまま眠りに落ちていく様を表しているようだ。
 ここまで、ほぼ連作の流れに沿って読んできたのだけれど、それはこの作品が全体を見渡しても細かなところまで注意を凝らしているから、そこにまずふれたかった。例えば結句を見ても、体言止めが続いたり、同じような動詞の活用が続いたりすることがない。基本的には文語の文体だけれど、時々、アクセントを効かすように口語の歌が入る。そうしたバランスが計算されたものだということは明白だろう。また、同じ単語やモチーフを拾いつつ、次の歌に生かしていくことで、歌どうしのつながりができ、全体の輪郭が明確になる。
 そもそも連作とはどういうものを指すのだっけ、とつまずいたので調べてみたら、『現代短歌大事典』(三省堂)の「連作」には次のように記されていた。曰く、「複数の作品を連ねることによって、単独作品では不可能な主題の展開をはかる作歌法。」とのこと。定義に照らし合わせても、この連作は、立体的な世界を読者に味わわせるために凝らした工夫が成功したと言えるだろう。



 ここで、序盤でさらっと流した歌について、もう一度振り返りたい。

  朝川はおんなが裾をまくりあげわたりゆくもの冬晴れの朝

 これ、一読して即座に分かるのは、古典にも通じている人ではなかろうか。少なくとも僕は浅学のため、何かあるに違いない……と睨みながら調べた。万葉集に次の歌がある。

  人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る

 詠んだのは、天武天皇の皇女・但馬皇女。諸説あるものの、人妻でありながら異母きょうだいである穂積皇子と恋に落ち、その思いの強さで朝の川を渡る、とかなんとか。遠藤さんの「朝川」がこの但馬皇女の歌を下敷きにしているのは明らかで、裾を捲り上げる仕草は躍動感があり、万葉の時代を飛び出して生き生きとしている。冬の冷たい川を眺めていたら、ふと但馬皇女のことが脳裏に浮かび、恋をする女性の情熱や力強さに思いを馳せた、と解釈してしまうのだけれど、果たしてそれでいいのだろうか。というのは、この後、「不自由を強いられるのはいつもおんな」という一首があるからだ。

  不自由を強いられるのはいつもおんな鮭は卵を産み散らしたり

 それはもう鮭の生態だから仕方ないのだけれど、産み散らす、という強烈なワードに不満や憤り、女であることの不如意がこめられている。この歌の「不自由」は出産に絡めての諸々に限らず、朝の川を渡らなければいけないのもまた不自由である。それを恋の情熱と読み取ってはめでたすぎるのではないか。それでも、万葉集に辿り着いてもらえなくても、ロマンチックな解釈をされても、「朝川」の歌を連作の二首目に置いたのは、何かを「越える」ことに意味をもたせたからだと思う。
 この連作には、朝川のように事物を「分かち、隔てる」モチーフがいくつか出てくる。

  国境を生身で越える厳しさを知らざる身にて立つ県境
  薄紙を透かして見える冬日差し人の記憶はいずれもやさしき
  冬の路地濡らして雨は去りにけり星空はまだ薄雲のかなた


 陸路で国境を越えられるところは、海外に行けば、どこかにあるのだろう。けれど、ここで言う「生身」はこの前の歌に出てくるバン、渡り鳥から来ているものであり、自然の中で生きる厳しさと同時に自由すら知らないことを突きつけてくる。「薄紙」も同様に前の一首から引き取った言葉だけれど、「さみしさ」の比喩として用いられていたものが、ここでは具体的な質感を得ている。こういう単語の使い方をずらしていくところに、連作のおもしろさの一つがある。雨は去ったものの星は見えず、けれど「まだ」が示すようにいずれ雲が晴れることを知っている。
 国境、薄紙、薄雲、あるいは産む性と産まない性、さびしさの表明と沈黙、考えてみれば、いたるところに隔たりは存在する。そうした隔たりをじっと見つめる、自省の眼差しが一貫しているところに、この作者の信条や態度のようなものが表れている。

  捨てられぬパン屋の袋の大小を鞄に入れて橋を渡らむ

 パン屋の袋に与えられた使命は、おいしいパンを適切に運搬、保管することであり、中身が無事に食べられたなら、その役目は終わる。後に残るのは空洞だけだ。でも、パンの味はもちろんのこと、そこには買った季節や食べた場所、その頃の思いを喚起する装置が内包されている(レトロでかわいいデザインのものも多くある)。
 いつか別れた人や選ばなかった道のことを、簡単に割り切ったり、忘れたりすることはできない。「パン屋の袋」のように温かな空虚、それさえ自覚し、しっかり抱えながら、新しい日々への橋を渡っていく。そんな何気ない一日がやさしい。

 こんな感じの評でいいかな。いいよね、シリウス。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿