「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第32回 辻聡之から遠藤由季「いいよね、シリウス」へ

2019-02-01 11:28:19 | 短歌相互評
作品 遠藤由季「いいよね、シリウス」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-01-05-19800.html
評者 辻聡之

 タイトルの「いいよね、シリウス」を目にした時になんとなく思い出したのは、遠藤さんの第一歌集の歌だった。

  馬頭星雲抱くオリオンが昇るころコンロの青き火揺らして待てり(『アシンメトリー』短歌研究社)

 もちろん、シリウスとオリオンの近さから来るもので、鳥の名前が出てきたら第二歌集『鳥語の文法』が頭をよぎる程度の、そんな他愛ない連想だ。けれど、今回の連作を読んで驚いたのは、第一歌集にも第二歌集にも「ほんとうのさみしさ」は詠われていなかったのか、ということだった。いや、何もそんな揚げ足をとるようなことを言わなくてもいいし、それはこの連作を読むうえでとりたてて重要なことではないので、ここまでの文は全くの蛇足であることを書き添えておく。ただ、それならば「さみしさ」とは何か、と考えてしまっただけで。



 連作には、作品内の時間軸に沿って進行するものと、時空間の制約に囚われずに主題をもって展開するものがあるように思う。そういう雑な区分をするなら、この「いいよね、シリウス」は前者のスタンスをとったものだと考えていいだろう。

  一杯の水からはじまる冬の朝青い小鳥の気配はしたり

 冬のきりっとした空気の中で飲み下す一杯の水に、まどろんでいた体が覚醒していく様子が上の句で伝わる。「青い小鳥」は、この日に何かいいことがありそうな、そんな明るい予感を暗示している。朝の始まりをさりげなく描いたこの歌が最初に置かれていることを踏まえると、ここから一日が幕を開け、この日の出来事が語られることが想像できる。(ちなみに、寝起きに飲む水は胃腸にいいとか、脳を活性化するとか言われるけれど、僕はおなかが弱いのでそれができない)
 清々しい冬の空気をまといつつ家を出ると、続く四首には川の描写が入る。川に群れるつがいのオオバン(※千葉県我孫子市の鳥)や対岸の消防車など、目に映る光景が瑞々しく表現されていて、作者の視界を借りている気にもなる。さらに続く四首では、その目を内側にぐるりと向けたように、一気に内省的な歌になっていく。そして、それらが内包する感情は一様ではない。

  あるもので一品作ると似ています近所の散歩で満ち足りること
  ああすればよかったと思うことはないけれどさくらのもみじ赤いね
  不自由を強いられるのはいつもおんな鮭は卵を産み散らしたり
  産んだのち運と自然に任せるという生ならば産んだかわれは


 ありあわせで料理ができてしまう人はすごいと思うし、そういう器用さはその人の生活の中で磨かれたものなのだろう。そのように現状を受容できてしまうことをポジティブに捉えていながら、どこか気恥ずかしさを覚えているのか、皮肉っぽさも滲む。「近所の散歩で満ち足りる」精神があるからこそ、「ああすればよかったと思うことはない」と言ってのけることができる。しかし、上の句から下の句へと変転する「けれど」という一語にこめられた僅かな逡巡、一見関係のなさそうな桜紅葉への言及は、モヤっとしたものを読者にも残していく。感情の割り切れなさの表現が巧みだ。「不自由を強いられるのはいつもおんな」と強く言い切ったあとには、もしかしたら産んだかもしれない仮定の人生について自問する。
 こうした次々と湧き出る思考は、散歩している時の何も考えていないようで何かしら考えてしまっている感覚をよく表していて、ライブ感がある。そして「産んだかわれは」と、どこかの過去を示唆することによって、記憶は「さみしさ」を呼び起こすのである。

  まっすぐにさびしさを言う人だった冬の陽射しのなかに気づけり
  ほんとうのさみしさ詠いしことはなくパン屋の袋溜まりてゆきぬ


 冬の陽射しはやけに眩しく感じるものだけれど、太陽の高度が夏よりも低いせいらしい(さっき調べた)。なるほど。ただ、そういう理屈を知らなくても、寒い中にそっと温めてくれる陽射しは、確かにさびしさに似ている。この歌において、相手との関係は明示されていない。恋人であれ、友人であれ、「まっすぐにさびしさを言」ってくるのは、よほど距離の近い間柄だろう。当時は思い至らなかったその伝え方に、はたと気づき、同じほどにはさみしさを表明できなかった自分自身を思う。溜まっていくパン屋の袋は、生活が坦々と過ぎていくことの比喩が託されているのと同時に、どこか空虚さを抱えた心情とも読める。「まっすぐにさびしさを言う人」と「ほんとうのさみしさ詠いしこと」のない「われ」、という対比がとてもさみしい。
 現在を見つめ過去を振り返る徒然なる近所の散歩も、終盤に向かうにつれて、再び心理描写が控えめになっていく。路地や電波塔といった景色に目を留め、写し取っていく。これは、途中で昂ぶってしまったけれど、ふっと我に返って自身をなだめるような、極めて理性的な作り方なのだろうなと思う。

  かっきりと八十八星座嵌まりおる夜空の区画整備を眺む
  はえ座とか南の空にあることの人の思考は不可思議でよし
  考えずなにも成し遂げずに眠る夜があってもいいよねシリウス


 冬の朝から始まった一日が暮れ、夜空の星を眺めるに至る。八十八もの星座を考え並べ、はえ座すら存在せしめた人間の思考をよしと思う。「夜空の区画整備」という把握には軽いユーモアが効かせてあるし、「はえ座とか」の「とか」という砕けた使い方は、下の句の「不可思議でよし」という大らかな物言いによく合っている。連作最後の一首は、タイトルにもなっている歌だ。シリウスは太陽を除けば全天で最も明るい恒星で、肉眼でもよく観察することができる。そうした星に比べれば、「考えずなにも成し遂げずに眠る」自分の取るに足りなさが際立つし、いっそ許してしまえる。何より、考えごとの多い一日だったのだから。「いいよねシリウス」という柔らかな問いかけが、そのまま眠りに落ちていく様を表しているようだ。
 ここまで、ほぼ連作の流れに沿って読んできたのだけれど、それはこの作品が全体を見渡しても細かなところまで注意を凝らしているから、そこにまずふれたかった。例えば結句を見ても、体言止めが続いたり、同じような動詞の活用が続いたりすることがない。基本的には文語の文体だけれど、時々、アクセントを効かすように口語の歌が入る。そうしたバランスが計算されたものだということは明白だろう。また、同じ単語やモチーフを拾いつつ、次の歌に生かしていくことで、歌どうしのつながりができ、全体の輪郭が明確になる。
 そもそも連作とはどういうものを指すのだっけ、とつまずいたので調べてみたら、『現代短歌大事典』(三省堂)の「連作」には次のように記されていた。曰く、「複数の作品を連ねることによって、単独作品では不可能な主題の展開をはかる作歌法。」とのこと。定義に照らし合わせても、この連作は、立体的な世界を読者に味わわせるために凝らした工夫が成功したと言えるだろう。



 ここで、序盤でさらっと流した歌について、もう一度振り返りたい。

  朝川はおんなが裾をまくりあげわたりゆくもの冬晴れの朝

 これ、一読して即座に分かるのは、古典にも通じている人ではなかろうか。少なくとも僕は浅学のため、何かあるに違いない……と睨みながら調べた。万葉集に次の歌がある。

  人言を繁み言痛み己が世に未だ渡らぬ朝川渡る

 詠んだのは、天武天皇の皇女・但馬皇女。諸説あるものの、人妻でありながら異母きょうだいである穂積皇子と恋に落ち、その思いの強さで朝の川を渡る、とかなんとか。遠藤さんの「朝川」がこの但馬皇女の歌を下敷きにしているのは明らかで、裾を捲り上げる仕草は躍動感があり、万葉の時代を飛び出して生き生きとしている。冬の冷たい川を眺めていたら、ふと但馬皇女のことが脳裏に浮かび、恋をする女性の情熱や力強さに思いを馳せた、と解釈してしまうのだけれど、果たしてそれでいいのだろうか。というのは、この後、「不自由を強いられるのはいつもおんな」という一首があるからだ。

  不自由を強いられるのはいつもおんな鮭は卵を産み散らしたり

 それはもう鮭の生態だから仕方ないのだけれど、産み散らす、という強烈なワードに不満や憤り、女であることの不如意がこめられている。この歌の「不自由」は出産に絡めての諸々に限らず、朝の川を渡らなければいけないのもまた不自由である。それを恋の情熱と読み取ってはめでたすぎるのではないか。それでも、万葉集に辿り着いてもらえなくても、ロマンチックな解釈をされても、「朝川」の歌を連作の二首目に置いたのは、何かを「越える」ことに意味をもたせたからだと思う。
 この連作には、朝川のように事物を「分かち、隔てる」モチーフがいくつか出てくる。

  国境を生身で越える厳しさを知らざる身にて立つ県境
  薄紙を透かして見える冬日差し人の記憶はいずれもやさしき
  冬の路地濡らして雨は去りにけり星空はまだ薄雲のかなた


 陸路で国境を越えられるところは、海外に行けば、どこかにあるのだろう。けれど、ここで言う「生身」はこの前の歌に出てくるバン、渡り鳥から来ているものであり、自然の中で生きる厳しさと同時に自由すら知らないことを突きつけてくる。「薄紙」も同様に前の一首から引き取った言葉だけれど、「さみしさ」の比喩として用いられていたものが、ここでは具体的な質感を得ている。こういう単語の使い方をずらしていくところに、連作のおもしろさの一つがある。雨は去ったものの星は見えず、けれど「まだ」が示すようにいずれ雲が晴れることを知っている。
 国境、薄紙、薄雲、あるいは産む性と産まない性、さびしさの表明と沈黙、考えてみれば、いたるところに隔たりは存在する。そうした隔たりをじっと見つめる、自省の眼差しが一貫しているところに、この作者の信条や態度のようなものが表れている。

  捨てられぬパン屋の袋の大小を鞄に入れて橋を渡らむ

 パン屋の袋に与えられた使命は、おいしいパンを適切に運搬、保管することであり、中身が無事に食べられたなら、その役目は終わる。後に残るのは空洞だけだ。でも、パンの味はもちろんのこと、そこには買った季節や食べた場所、その頃の思いを喚起する装置が内包されている(レトロでかわいいデザインのものも多くある)。
 いつか別れた人や選ばなかった道のことを、簡単に割り切ったり、忘れたりすることはできない。「パン屋の袋」のように温かな空虚、それさえ自覚し、しっかり抱えながら、新しい日々への橋を渡っていく。そんな何気ない一日がやさしい。

 こんな感じの評でいいかな。いいよね、シリウス。

短歌評第31回 須藤岳史から服部真里子「ルカ、異邦人のための福音」へ

2019-01-04 16:51:01 | 短歌相互評
「異邦人のための綺想」


歌を読むことには、作者を知っているからこそ気がつく秘密めいた部分と、逆に知らないからこそ生まれる創造的誤読があります。手元には第一歌集『行け広野へと』(2014年、木阿弥書店)と、この「ルカ、異邦人のための福音」の一連が収録されている最新の歌集『遠くの敵や硝子を』(2018年、書肆侃侃房)の2冊の歌集があるだけで、歌人・服部真里子さんについては、人となりから、声、話し方まで何も知りません。もしかしたらインタビューの記事や映像があるかもしれませんが、せっかく何も知らないので、特に探すこともなく、歌にだけ向き合い、創造的誤読と連想の羽ばたきを楽しんでみようと思います。

一読してまず気が付いたのは、服部さんの独特な作歌の技。歌人を一瞬捉えた言葉の並びがまずあって、その言葉が全く別の、時には思いもかけない言葉を連れてきて、歌の世界を築いているのではないかということです。ある一つの言葉のならびが、別の言葉のかたまりを呼び、それが連鎖して、一つの歌として結晶し、新しい「意味」が生まれてくる。そういう歌作りのプロセスを想像します。歌人を捉えた言葉はどこからかの「頂きもの」、そしてそれを歌へと結晶させるのは「人の技」。

つばさの端のかすめるような口づけが冬の私を名づけて去った

「つばさの端のかすめるような」冷たい体を持つ存在が、温かい「口づけ」をすることで名前=生命を与える。その口づけが私を名づけたのち、去ったというのです。名前とは与えられるものであり、かつ明かされるものです。ガブリエルの預言を信じなかったザカリアはヨハネの名を明かすまで口が聞けなくなりました。しかし、ヨハネの名を書きつけた途端にふたたび口が聞けるようになって預言を授かりました。名を与えられるということは、預言者としての資格を得ること。ここで歌を作る「私」も言葉を預かる資格を得ます。

縫い針はしきりに騒(さや)り雨だった頃のあなたをほのめかすのだ

「雨だった頃のあなた」という言葉の並びは、「では今のあなたは誰なのだろう?」という問いを連れてきます。縫い針のメタリックな質感から連想するのは、やはり雪。冬の初めに舞い降りる雪は、すぐに溶けて水になってしまいます。しかし、水になる代償として名前を残していきます。

死者の持つホチキス生者の持つホチキス銀(しろがね)はつか響きあう夜

前の歌の「縫い針」のメタリックな質感が、ホチキスの針へと転じています。ここでは温かみを持つ生者のホチキスまでが温度を失い、死者の冷たさと響きあい、夜の暗さの中で同化してゆくような蠱惑があります。

海峡を越えてかすかに翳りゆく蝶のこころとすれ違いたり

安西冬衛の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を連想しました。冬衛の蝶は大陸からの望郷の思い。それとすれ違うということは、大陸の冷たい空気の刻印を受けるということでもあります。ここでは前歌の温度差が、すれ違う二つの心へと連句のように転じています。

北窓の明かりの中に立っているあなたにエアホッケーの才能

レンブラントのアトリエは北向きだったそうです。またバルテュスも北から入る自然光の中でしか絵を描かなかったといいます。北窓の明かりは一定方向の影を生み出し、それは日が沈むまで変わりません。その静的なヴィジョンとエアホッケーの動的な速さの対比が、「あなた」の意外な一面を披露しています。北窓に立つ存在は、その影の遊びの少なさにより、実体がより際立ちます。実体があまりにも際立つということは、ある意味、非現実的であり、受肉できない存在がかりそめの肉体を得て、目の前にいる。そういった映像が浮かびます。

遠い日の火事さえ私の名を呼ぶよカモメたち刃のように飛び交い

「遠い日の火事」の禍々しさ。その火事の記憶そのものに呼ばれてしまう怖さ。刃のように飛び交うカモメが青空を切り裂き、めくれた空からめらめらと燃える炎が見えてくるかのような映像的な歌です。

復讐を遂げていっそう輝けるわたしの幻ののどぼとけ

キリスト教世界では復讐は神のものであり、それを人が行うことは是とされていません。その禁を犯してまで行われる復讐。「のどぼとけ」が「幻」ということは、復讐を遂げるものは、のどぼとけを持たない体、すなわち女性であることが想像されます。男性的な破壊の力の行使がもたらす代償(Adam’s apple)。しかし「いっそう輝ける」と感じる「わたし」は、それを誇らしく思っているようです。

犬のことでたくさん泣いたあとに見てコーヒーフロートをきれいと思う

悲しくてたくさん泣いた後は、まるで憑き物が落ちたかのように、その悲しみから遠ざかる経験は誰にでもあることでしょう。悲しみの後にやってくる不思議な幸福の感覚は、ありふれたコーヒーフロートにさえ美を見出す力を授けます。ここに罪悪感は全くないのですが、黒いコーヒーと白いアイスクリームが溶けあってゆく暗い色合いとその重さが、無意識に悲しみを引きずっている、そんな隠れた心情が読み取れます。

ふいの雨のあかるさに塩粒こぼれルカ、異邦人のための福音

表題を含むこの歌は不思議な歌で、よくわからない。もしかしたら「ルカ、異邦人のための福音」という言葉がふと歌人を捉え、そこから「ルカ」と繋がる「こぼれルカ」が呼び起こされ、こぼれるもの、塩粒(もちろん山上の垂訓「地の塩」を連想させる)、すなわち前歌の「涙」が要請されたのではないか?

横なぐりの雪 ではなく雪柳くずれた後の道で会いたい


「横殴りの雪」=真冬ではなく、「雪柳」のほころぶ季節、すなわち春に会いたいと願う。何かを願うのは、それを実現することが難しいから。冬の、透明度の高い質感を、春の穏やかな光の中で体験したいという、叶わぬ願い。

金(え)雀(に)枝(しだ)の花見てすぐに気がふれる おめでとうっていつでも言える

まるで何かに取り憑かれることを望んでいるかのような不気味な空気を感じます。金雀枝といえば、魔女の箒の材料でもあります。また、ヘロデ王の追っ手から逃れようとするマリアの居場所を知らせる密告者のイメージも浮かび上がります。金雀枝の重なり合う花弁のイメージが狂気と繋がってゆく。そこへ飛び込みたいという危険な誘惑。

だとしてもあなたの原野あしたまた勇敢な雪が降りますように

たとえ春に会えなくとも、あるいはたとえ狂ってしまったとしても、「あなた」のところには変わらず「勇敢な雪」が降りますようにという願い。この願いは、まるで「わたし」が消えてしまうかのような遺言的な寂しさを湛えています。

アランセーターひかり細かに編み込まれ君に真白き歳月しずむ

アランセーターは北方の地、アイルランドのアラン島が発祥とされる、縄目のような模様が入ったセーター。海へ出る男たちの無事と豊漁を願う祈りが込められた独特の模様は、母から娘へと代々伝えられているという話もあります。この歌で一つ気になったのは「君」という二人称です。ここまでの歌は「私(わたし)」と「あなた」が交互に登場し、時には両者が溶け合いながら物語が進んできましたが、突然飛び出した「君」。この「君」は第三者、おそらく私もあなたも消えた、ずっと後の世界の誰かを思わせます。私もあなたもいずれ消える、しかし「歌」は、残る。アランセータの模様のように連綿と読み継がれる限り、ずっと。私とあなたが過ごした季節が忘れ去られるということは、ない。

(須藤岳史)

短歌相互評30 寺井龍哉から山川築「つくりごと」へ

2018-11-28 20:15:25 | 短歌相互評
 標題は「つくりごと」、物語的な虚構のことのみを指すと見てもよいが、あえて「つくりごと」をせずありのままに語ることのできる事実も存在するのだから、この語には後ろめたい印象もつきまとう。世を渡る方便としてのささやかな嘘、観客を楽しませるための創作者による脚色、政権をゆるがす大いなる虚偽までを、「つくりごと」の語義は包摂する。

 真実の対義語ばかり使ふ日のはじめに飲み下す胃腸薬

「つくりごと」はまさに「真実の対義語」のひとつだろう。「真実」を回避し隠匿して過ごさねばならぬ日の最初に「胃腸薬」を服用する。よほどストレスの負荷のかかる日々なのだろう、と納得するのは簡単だが、それで済む話ではあるまい。私は「真実」への接近を規制されながら、受け入れがたい圧力や要求を飲む。もの言はずは腹ふくるるわざなり、とは兼好の言葉だが、言いあてられるべき「真実」を言えずに内面に溜まってゆく憤懣や憂憤を、私は「胃腸薬」で処理しようとするのだ。ままならぬ現実に「胃腸薬」で対応しようとする気息奄々の表情、というばかりではない。そのどす黒い念々を積極的に排出しようとする、潔いまでの自己防衛への志向を感じとるべきだろう。

  濃緑の丘を離るる気球見ゆ叫びのまへの呼吸は深し
  憤激の去りにしのちにわれの手はタブロイド紙を歪ませてをり


 絶叫の前の一瞬に、深く息を吸い込んで気球を見つめる。激しい感情のしずまったのちに、手に摑まれたものの形状からその感情の様相を省みる。私の内面の転変と叙述の視点は、すこしずつずれて同調しない。大きく息を吸い込んで吐き出すまでのひととき、そこには単純でない感情や思考の変化があるだろう。「タブロイド紙」の文面を目で追ってから自身の「憤激」に耐え、やがて手に込められた力の大きさを自覚するまで、意識は刻々と遷移する。高潮する意気と、離れた時点からそれを子細に眺めまわす視点が、一首のうちに二重の像を結んで存在している。読者はその複層性に現実味を感じすにはいないだろう。誰も誰も、単線的な感情の線のみを生きているわけではないからである。

  十字路の角の耳鼻科の看板に目のなき象が三頭ならぶ
  投入が殺人に見えもう一度袋の口を固く結びつ


 感覚や判断能力の摩耗ということも、主題のひとつかもしれない。「象」は、「耳鼻科の看板」であるというのみの理由で、耳と鼻の巨大さを買われて召集され、「看板」の絵のなかに小さく並ばされている。涙ぐましいではないか。しかも「象」は「目のなき」状態に置かれている。「投入が殺人に見え」も「目」による視覚の能力の不全を暗示する。たとえばゴミ袋をゴミ箱に「投入」する前に、ふと表示の文字を見間違える。そして私は、「殺人」よろしく「袋の口を固く結」ぶ。「真実の対義語ばかり使ふ」ことは、やがて正不正の判断以前の認知の能力も逓減させてゆくという流れを読みたい。

  黙すほど鋭くなれる痛みかなざなざなざなと墓地に降る雨

 それにしても、明らかに背面に誰かの死がある一連である。終盤になって出現する「殺人」、「固く結びつ」、「憤激」、「痛み」、「墓地」という語彙は、不穏な色をありありと見せつける。二首目の「有精卵が産み落とされて」の表現は、その対極の要素として布置されていたということに、ひとたび読み終えて後に想到するしくみである。
「真実」を秘匿し、次第に摩耗する感覚を用いながら、私は残酷な行動にも手を染めようとしてしまう。激する感情を離れた時点から眺める姿勢は崩さないものの、不如意な現実に立ち向かうこともできず、「黙すほど鋭くなれる痛み」を抱えて「墓地」に立ち尽くす。実際の意図はともかく、この一連の背後に、たとえば財務省の決済文書改竄や近畿財務局職員の自殺の問題を見ることは困難ではないように思う。事実を秘匿し虚偽を構築せよ、という指示を受けて思い悩んだ者の軌跡、そしてその死について、読者は考えざるを得ない。社会詠の窮まるところは、境涯詠と交差する。
 言うまでもないが、同時代の作品を読むということは、そうした観点を不可避的に引き入れてしまうことでもある。作品の魅力を汲みつくすために、それはどうしても必要なことだ。

短歌相互評29 山川築から寺井龍哉「大学院抄」へ

2018-11-25 15:45:27 | 短歌相互評
空あゆむ巨象の群れの溶けゆきて雲となりたるのちに眼をあぐ

そのまま受け取ると異様な光景だが、主体が眼をあげたのは象が雲となった後だから、象を捉えてはいないはずだ。すると「雲になる前の姿」を認識することは不可能ということになる。つまり、上の句には想像あるいは願望が入り込んでいるのではないだろうか。象は死ぬ前に群れから去るという都市伝説のように、消えていく巨象の群れは孤独感をかきたてる。全体を読むと、動きを表わすのは結句の「眼をあぐ」だけで、静かな一首といえる。この静的な印象は、連作に通底するものでもある。

秋晴れや机上ひとつを片づけてから出るといふことができない

連作の題やこのあとに続く歌からして、主体は勉学の徒であり、机はそのよりどころといえる。この歌は自宅、あるいは研究室から出かける前の場面だろう。片付けられない机は、彼の心の動揺の喩でもある(中学生のころ、担任の先生が「机の乱れは心の乱れ」なんておっしゃっていたことを思い出した)。初句では一首目につづいて空が登場し、しかも秋晴れだ。「や」という切れ字によって、澄み渡った空と主体の机および心の乱れの対比、あるいは屋外と屋内の対比が強調されている。また、初句だけが空を描き、二句以降で主体に焦点が移る構造は、一首目と対になっているようでもある。

君の頬あかくわが手のしろきかな二次会の話題おほかた無視す

アルコールが入って気分が高揚している「君」に対し、主体は盛り上がった雰囲気に乗れないのだろう。頬と手という身体の一部を切り取った端的な対比によって、2人の感情の落差が言外に提示されている。なんの二次会かは明示されていないのだけれど、連作を通して読むと、論文の中間発表で主体がきびしく批判された後の光景だと思えてしかたがない。

言はれればいつでも泣ける表情に深夜の坂をくだりくだりつ

上の句のひねくれた表現に立ち止まる。「言はれれば」は泣くように言われれば、という意味か。それは逆に、言われなければ泣かないということでもある。「表情に」の「に」という助詞の使い方が巧みで、滑らかに下の句へ移っている(これがたとえば「表情で」だったら一度切れてしまうだろう)。そして「深夜の坂をくだりくだりつ」というリフレインが効果的で、描かれているのは身体の動きだけれど、精神もまた暗く深いところへ、少しずつ確実に向かっていくことを暗示している。

孤独といふもの転がりて後ろ手に触れたり今は茄子のつめたさ

孤独という概念が「茄子のつめたさ」を持つものとして形象化されている。茄子のつるりとした感じはつめたさとよく響いているし、苦みのある味や暗い色調は、たしかに「孤独」と通じるところがある。主体は「孤独」に後ろ手に触れるだけで、目にするわけではない。この微妙な距離感に生々しさを感じた。

複写機のひとつひとつにともる灯を夢に見きまた目のあたりなる

「目のあたり」は眼前の意味か。複写機が何台か並び、それぞれに電源が入っている。そのような夢を見る主体は、複写機を頻繁に使用しているのだろう。景自体に加え、「ひとつひとつ」「また」という複数・反復を表わすことばが並び、一首自体が複写のような印象がある。また、電源が灯と表現され、さらにそれが夢というベールをかけられることで、眼前にありながら遠いような、不思議な感触を覚えた。

夜をかけて文字ならべられたるのみの資料ひかれりひかるまま捨つ

夜通しパソコンで資料を作成したが、それを価値のないものとして捨ててしまう。「文字ならべられたるのみ」という苦い認識が痛烈で、「ひかれり」「ひかるまま捨つ」という間をおかずに並べられた四句・五句に自棄のような疲労感が滲む。

書庫の鍵のながき鎖を小春日に回すさながら宍戸梅軒

宍戸梅軒は吉川英治『宮本武蔵』に登場する鎖鎌の達人で、武蔵と戦って敗れる人物である(というのは検索して知ったことですが)。しかし、主体が実際に回している鎖は武器ではなく、鍵の付属物だ。武器としての鎖は自分を解放し、敵を傷つけるものだが、この鎖は逆にあたかも自分を繋いでいるかのようだ。「さながら」というやや芝居かかった表現からは、自虐的な戯画化が読み取れる。

愛のみに待つにはあらず柱廊に干さるる靴の赤と黄と黒

柱廊は古い西洋建築などにある、柱が立ち並ぶ廊下のこと。やや観念的な初句・二句に対して、三句以降では一転して鮮やかな色彩が目に浮かぶ。干されている靴はいわば持ち主を待っているが、それは愛だけでなく様々な感情を含んでいる……ということなのか。あるいは三句以降をもっと象徴的に読み取るべきかもしれないが、いまひとつ読み切れなかった。『幸せの黄色いハンカチ』を連想したりもしたが……。

時計塔の時計は見えぬ並木にて八犬伝をふたたび読みき

八犬伝は曲亭馬琴による大長編小説(読本)。時計が見えない並木で、時間など存在しないかのように読みふけるのだろうか。

夜をはしる大型バスの胴腹のふるふがごとく生きたかりけり

大型バ「胴腹の」までが序詞的に「ふるふ」を導く。震うように生きるというのは、自分の存在を他者に意識させるようなことだろうか。胴腹とは一般的でないことばだけれど、大型バスの形容として非常にしっくりくる。

道の駅ひときは声のおほきかる老婆なだめて一座なごみぬ

道の駅は夜行バスの停車場所か。声の大きなお年寄りはしばしばいらっしゃるなあと思う。一座というのがおもしろい。知り合い同士ではなくても、同席している人々に連帯感や信頼感が生まれる瞬間はあるのだ。

滑走路と呼びても嘘でなき路よ いましばらくはひとりの暮らし

「滑走路」は、主体が今まで歩いてきた道を指していると読んだ。「呼びても嘘でなき」というからには、まだ飛び立ってはいないのだ。そこには、飛び立つこともできたけれど……という逡巡が含まれているのではないか。やや遠回しな表現にもそれが見て取れる。

このさきもそんなには変はらないだらう茱萸坂にそのひとを誘はむ

上の句のくだけた口語が印象的。「そんなには変はらない」と推測しているのはなんだろう。私は三句切れで、主体の漠然とした不全感のつぶやきだと読んだ。茱萸坂は千代田区永田町にある坂の名(らしい)。坂は四首目でネガティブな象徴として表れているが、そこにひとを誘うのだという。少し不穏さが匂う。「そのひと」は先に登場した「君」と同一なのか、少し考えたが、やや距離を感じさせる三人称からして、別人と判断した。

桐箪笥われにその背を見せぬまま六年(むとせ)を経たり、あいや七年(ななとせ)

年数は大学に入って独り暮らしを始めてからの期間と思われる。なるほど、長い間「同居」しているにもかかわらず、家具には全く知らない面があるのだ。擬人法と「あいや」というこれまた芝居がかった言い回しがおかしみを出しているが、やはり寂寥感も感じざるをえない。

矢を受けて乱るる隊伍わが胸にとどまれるまま逢ふために起つ

隊伍を映像として観たのか、あるいは本などで読んだのかはわからないが、それをなにか象徴的なものとして受け止めたのだろう。そのような心のまま「逢ふ」のは、なかなか穏やかならざるものを予感させる。

ちやん、ちやんと声をかけあふ少女らの手に手に赤きコカコーラ缶

「○○ちやん」という呼称は「○○さん」などと比べて幼さを感じさせる。また「ちやん、ちやん」は、話の落ちを表わす効果音のようでもある。少女たちの声に、主体はなにか終わりの兆候をかぎ取ったのかもしれない。赤いコーラの缶は危険信号のようにも見える、というのはすこし暗い方に考えすぎか。

人を待てば光あふるる秋の河 なにを忘れしゆゑのあかるさ

「あふるる」「秋」「川」「なに」「忘れし」「あかるさ」といった語頭のA音が開放的な印象を与える。陽光を受ける河の風景が「光あふるる」と美しく表現されているのだが、彼はそれを見て、なにを忘れたからそのあかるさがあるのか、と考えている。「暗い」……と言い切ることにはためらってしまうが、ここまで描かれたきた主体の姿は、決して明るくはない。河と対比される彼は、明るくなれない=忘れられないことばかりなのだろう。秋の河であることもさびしさを強調する。韻律(明)と内容(暗)および風景(明)と内面(暗)の対立が凝っている。

狡猾になれよと言へりかくわれに言はしめて雲ながれゆくなり

言ったのは主体で、そのことばを掛けた相手は、待ち合わせをした相手だろう。そして、彼にそう言わせたのは雲だという。冒頭の二首に表れているように、主体は空に感情を投影しており、ここでは逆になにかを受け取ったのだと思う。しかし雲自体はことばを発することなく、ただ流れていく。「狡猾になれよ」と言われた相手がどう反応したのかは、ここには書かれていない。一首を読んだあとには「狡猾になれよ」ということばの少々残酷な響きが残る。

空とほく呼びかはしつつ生き来しに友らつぎつぎ倒るる枯野

ふたたび、空だ。友たちは、主体と同じように大学院に進んで研究を続ける人たちだと捉えた。「空とほく呼びかはしつつ」を現実的に読むならば、連絡を取って励まし合うことだと思うが、このように書かれると、秋空に自分の発した大声が吸い込まれていき、かすかに友の応答が聞こえてくるような、心細い状況が浮かんでくる。しかし、「生き来し」という強い表現が選ばれていることからも、それを支えにしてきたのもたしかなことだろう。
ここまでに現れた宍戸梅軒や乱れる隊伍のイメージと合わせて、主体にとっての研究生活は、ほとんど戦いとして捉えられているように思える。友たちも倒れたという今、果たして八犬伝のような大団円に至る道はあるのだろうか。

短歌作品評 亜久津歩から荻原裕幸「夏の龍宮」へ

2018-11-02 02:43:15 | 短歌相互評
共感しないままふれる半神の歌の手ざわり――荻原裕幸「夏の龍宮 もしくは私の短歌の中で生きてゐる私が私の俳句や私の川柳や私の詩の中でも同じ私として生きはじめるとき私は漸く私が詩の越境をした実感ができるだらうと思ひながら選んだ十首」を読んで 亜久津歩

作品 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-10-06-19493.html


いろいろと前置きしたい気持ちはあるが、当初の予定よりかなり長くなってしまったのでさっさと本題に入ろう。予め、この連作に通じていることを述べておく。全体に夏の季語が散りばめられていること。それから、作中の主体が現世に住まう「ひと」ばなれしていること。

十薬匂ふ湯の沸きはじめの音がするこの世の時間しづかに進む

十薬、ジュウヤクはドクダミの別名で、夏(仲夏)の季語。湿っぽい日陰から不意に漂う独特の匂いは、誰にも覚えがあるのではないだろうか。
先ず「十薬匂ふ湯」と一息に読んでみる。乾燥させた葉で淹れるどくだみ茶や、生の葉や茎を使うどくだみ湯のための湯を沸かす。「音」が聴こえるのはお茶だ、鍋か薬缶か……ひとりの台所、コトコトという音、になろうとする気配が微かに鼓膜をふるわす。他に聞こえるものはなく「時間」だけが、ただ「しづかに進」んでいく。
次に「十薬匂ふ/湯の沸きはじめの音がする」と読み、こちらだと思う。十薬は茶葉よりも実物として捉えたいし、この繊細な知覚において、室内にある十薬ではやや刺激が強い。仲夏は6月6日頃から7月6日頃――梅雨がようやく明け、夏らしさを感じ始める頃。何処かの薄暗がりから風に運ばれ、開け放たれた窓へ、鼻腔へと至る十薬。空間的な広がりを感じるとともに、時間の奥行きも深まる。
そして「この世の時間」と絞ることで、言外に横たわる「この世の」ものではない時間。78577というリズムも、異質な時と普段の流れを表しているようだ。

ひとを食べ尽くした夏の正門が閉められてこちら側の寂しさ

「ひとを食べ尽く」された後に残された存在は、「ひと」でなくて何なのだろう。夏の景色の中に立つ、おそらく学校の(2、3首目は回想か)門。同時に季節の入口――夏という怪物のくち。「ひと」びとは、賑わいながら吸い込まれてゆく。食われているとも知らぬまま、ひとり残らず。「閉められ“た”」ではなく「閉められ“て”」という接続から、急な分断が際立つ。57587、少しはみ出した「閉められてこちら側の寂しさ」を持ち主体は、“あちら側”へ行きたいのだろうか。

赤ペンのひらがなひらくはつなつの進研ゼミは恋まで諭す

「はつなつ」はそのまま初夏の季語。漢字表記をひらがなにすることを意味する「ひらく」と、紙の上に咲くあざやかな「赤ペン」の大きな花まるのイメージが重なる。この夏、恋も!部活も!勉強も!と鼓舞する漫画冊子を思い出した。通俗的なアイテム(しかも教材)を用い、音も57577ぴたりと型通り。まるで巧みな擬態だ。あるいは、学生時代を規律正しく過ごしていたということか。しかし、やはり主体は外から「恋まで諭す」もの(と諭されるもの)を見ている。「進研ゼミ」の勧誘DMが送付されてくる年頃から、きっと「こちら側」にいたのだ。

夏の空には私のこゑもしみてゐて半世紀のその青を見てゐる

どこまでも青い夏空に自分の声が染みているとは、考えたことがなかった。「空」へ放たれた人々の叫びや囁きが「青」をなしているのかもしれない。下の句の字あまりからも、その長さを感じる。
荻原裕幸は1962生まれ。ちょうど「半世紀」ほど前である。1979年に作歌を始めている*1 ので、短歌作品以外の「私のこゑ」も含めて「見てゐる」のだろう。私は普段、詩を読む際に作中の人物と作者とは区別しているが、ここではあえて重なるに任せて読み進めたい。すると「その青」からは、歌集『青年霊歌』*2『永遠青天症』*3 も思い起こされる。『青年霊歌』刊行から30年、もしも「私の短歌の中で生きてゐる私」を通底したもの(≠同じキャラクター)と捉えてよいのであれば、「私のこゑ」は作品としても事実時を超え、空に染みている。

遠い夏の朝のピアノを聴くやうに過ぎてゆくその船を見てゐた

連作中、圧倒的に好きな一首。「遠い夏の朝のピアノを聴くように」のなんと美しく切ないことか。降り注ぐ光のように、僥倖に巡りあうように「その船」は「過ぎてゆく」。私は荻原裕幸の直喩が大好きで、出合えると飛び上がってしまう。
この5首目には色を表す語も描写も入っていないが、4首目の「青」が響いており、空と水との青の階調、日差しと波のきらめき、悠然と行く白い船体がありありと浮かぶ。4、5首目は「その青を見てゐる」「その船を見てゐた」と結ばれる。4首目の余韻が行き渡るのは、このセット感ゆえとも言えるだろう。「ゐる」→「ゐた」の変化によって単調さを回避しつつ、時間の経過を示している。留まるものを、過ぎゆくものを、主体は「見」続けているのだ。

枇杷の下には何が棲むのか呼んでみる静寂よりも静かな声で

「枇杷」・枇杷の実も十薬と同じく仲夏に属する季語である。一読すると枇杷の木陰に「棲む」(この字は人間には用いない)姿の見えない虫か小動物に、優しく囁きかけているようだ。しかしここへ来て、そうは思えない。現実的な木陰や地中というよりも「この世」の外なる異界へ呼びかけているのだ。「枇杷」は「琵琶」と掛かっているようにも感じる。
「静寂よりも静かな声」は比喩とも読めるが、おそらく本当に静寂よりも静かな――ひとには発声できない、聴きとることもできない――声なのだろう。

次はリューグーつて聞こえた名鉄のドアがひらけば夏の龍宮

「名鉄」は名古屋鉄道の略称。荻原裕幸の(そして加藤治郎の)出生地でもある愛知県名古屋市は、Twitterから短歌の世界を垣間見ている私などからすればメッカ的都市である。平和園へ行ってみたい。
さて。「次はリューグーつて聞こえた」に「名鉄」と続くことから、車内アナウンスか乗客の話し声だろうとリューグー駅を検索した。だが該当するものはなく、名古屋市港区竜宮町という地名に行き着くのみであった。海に面した町ではあるが……。
もしかすると、この地名との混同を避けて「龍」の字をあてたのだろうか。あるいは宮沢賢治にとってのイーハトーブ(岩手)*4 のように、現実の地名をモチーフとした架空の場と考えてもよいかもしれない。
なるほどこれは実際の台詞ではなく、ひとならぬものの呼び声なのだ。6首目では「呼んでみ」たが、7首目では何処からか「聞こえた」のである。「ドアがひらけば」水色の世界を行き来する虹のような魚たち。いつもの名鉄に乗っていたはずが、何ものかの声をトリガーとして「龍宮」という美しき異郷へ引き込まれてゆく。(ちなみに「龍宮(竜宮)」は「水晶宮」ともいう。荻原裕幸第一歌集第一章が「水晶街路」であることに、不思議な連なりを感じる)

わりと本気で雲に乗りたい八月の午後がとてつもなく寂しくて

季語は「八月」。2首目の「寂し」さが、さらに深いものとなっている。2首目では夏の始めの、生徒が一斉に登校する朝を想像した。「八月の午後」はそのしばらく後だ。「こちら側」にあり続ける「とてつもな」い「寂しさ」。「雲に乗りたい」のはふかふかのベッドで眠りたいわけではなく、青天の、天上の世界へ行きたいのだろう。そこはきっと、寂しくないから。

無いよだけど在ることにしてコメダする夏の終りの男女の友情

恋や性愛の対象となり得る間柄における「友情」は「在る」(こともある)が、「無いよ」という相手とは成立しない。「無いよだけど」の字あまりが、一瞬見せた本音を素早く上塗りする(「よ」と「だ」は0.5拍ずつで読むのがよいだろう)。意図的にチラリと見せているに違いない。越えるのは容易いよ、と。
ところで「コメダする」は、コメダ珈琲店へ行くことを意味する。コメダ珈琲店の本店・本社は名古屋市にあり、支店は名古屋市内だけで120店舗以上。私の暮らす埼玉県南部では聞かない言葉だが(「コメダにする?」「コメダ行こう」となる)いわば「お茶する」であり、普段通りの、一般的な日常を端的に表していると言える。
果たして「無いよだけど在ることにして」いるのは、「男女の友情」だけだろうか。

何処からか音だけがして八月のこの世には降ることのない雨

どの世には降る雨なのか。私はもう、この聴力を想像力や表現力などと呼んでいいのかわからない。まるで半神半人の言葉を聞いているようだ。足は地表につけながらも、知覚は異界を捉え続けている。
私はこの連作がとても好きだが、共感しているか、というと、していない。できないのだ。私は「この世の時間」以外の時間を知らないし「湯の沸きはじめ」は目で確かめる。無抵抗に「夏の正門」に飲まれ、「進研ゼミ」に「諭」されてきた。「静寂よりも静かな声」の出る声帯も「リューグーつて聞こえ」る鼓膜も具わっていない。雲の上は雲の下よりも「寂しくて」、「この世には降ることのない雨」に気づくこともない。けれどだからこそ、共感に心奪われることなく、言葉によって立ち上がる世界の手ざわりを、言葉そのものの美しさを堪能し、世界の更新や拡張に心底驚くことができる。共感されやすいことは必ずしもよい歌の要素ではないと改めて感じた。「身に覚えのあること」の先に広がる豊かな世界を見せてくれる。
この連作中、1、4、6、8首目の計4首が初句7音だ。やわらかく優美な印象はこのためでもある。なお、2首目と7首目は句またがり、5首目と9首目は6音の字あまりなので、くっきりとした初句5音からの57577は3首目と最終10首目のみである。3首目はまるで擬態だと書いた。ならば10首目は、「夏の龍宮」から「この世」へ帰する装置と言えよう。

終わりに。「詩の越境」について考え込んでいる。この一言だけで再び4000字始まってしまいそうなので締めるが、越境とその実感をしたい・できる・すべきとは言っていない点、「詩“型”の越境」ではない点を指摘しておきたい。それはこの作品が掲載されているサイト「詩客」の性格や、加藤治郎が最新歌集『Confusion』において「詩型の融合」をテーマの一つとしていることなどに対する、荻原裕幸のあり方を示唆しているのだろう。先ほど、この主体の聴力を荻原の想像力や表現力などと呼んでいいのかわからないと書いたが、当然、荻原は人間である。それを訝しみたくなるほどに、荻原裕幸であり荻原裕幸でない「私」が「短歌の中で生きてゐる」。この「私」が「私の俳句や私の川柳や私の詩の中でも生きはじめるとき私は漸く私が詩の越境をした実感ができるだらう」がそのまま、荻原の(現在の)スタンスなのだ。目指すよりも、至るに近い印象を受ける。
「詩の越境」とは、たとえば有季十七音の短歌を詠むことでも、10000字の川柳を作ることでもない。手先で型を弄るだけでは決して到達し得ない詩の、より深い領域を始点とする旅だ。ここにあるのは自身にとって「詩の本質とは何か」という問いでもある。荻原裕幸にとっての「詩」の「越境」とはこうである、では私にとっては?

あなたは?



*1 荻原裕幸1980-2000全歌集『デジタル・ビスケット』沖積舎より2001年刊行。
*2 荻原裕幸第一歌集『青年霊歌―アドレッセンス・スピリッツ』書肆季節社より1988年刊行。
*3「永遠青天症」は『デジタル・ビスケット』に「未完歌集」として収録されている。実質的第五歌集。
*4 異説あり。