わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第1回 馬  相沢正一郎

2013-03-16 13:16:23 | 詩客
 ハンガリーの映画監督タル・ベーラの『ニーチェの馬』の冒頭、荒野の吹きすさぶ風のなか、喘ぎながら荷車を引く馬――土色のがっしりした体形は農耕馬だろうか。登場人物の父親は、右手が不自由だ。荒い息遣いの馬は、文字を書く方向に逆らって右から左へと、ビーグ・ミハーイの緊迫した音楽と強風のひびきとともに延々と走る。
 もうだいぶ前に観た映画だが、いまでも強烈に焼き付けられている。この馬の走るシーンで思い出したのが、「魔王」。シューベルトの曲で、たしか中学校の音楽の時間のときに聴いた。急き立てられるような緊張感がたたみこまれ、幼年時代に病気の高熱でうなされた記憶とも重なる。ゲーテの「魔王」の詩を読んだのは、音楽からだいぶ後。
 《何びとぞ 風荒ぶこの小夜更け馬を駆り行くは?/そは子を伴える父なり。父は子をその腕に、/暖けく 確と抱けり。//「吾子よ、何なればかくも怯え顔を覆う?」/「父よ、見ずや、かの魔王の姿を?/冠かぶり裳裾ひける魔王の姿を?」/「吾子よ、そはただ霧のたなびけるのみ」》。
 山口四郎の格調高いことばの音楽を生かした翻訳。夜の森を熱病に喘ぐ子を掻き抱き、父は馬を走らせる。最後、やっと家に辿り着いたものの、父親の腕のなかで子どもはすでに死に果てている。映画『ニーチェの馬』の登場人物は父と娘だった。なぜか父と馬は重なるような気がする。(また、魔王は父の負の側面のような気がする)。
 さて、シェイクスピアの芝居『リチャード三世』といえば、「薔薇戦争」の血で血を洗う抗争、暗殺の横行する時代を背景に、悪の歓喜に身を 任せるヒーロー。敵軍のリッチモンド伯ヘンリーに攻め寄せられ、最後に《馬をくれ、馬を! 馬のかわりにわが王国をくれてやる!》という名台詞を吐いて殺される。
 ここでは、逃げるための道具、という以上に、生命力の衰弱した「父」が求める過剰な「力」(ときに、暴力とかセックスアピール)ではないかと思う。それでは、「力」あるいは「走る」イメージとは別の馬は、と見まわしてみると、詩作品のなかにたくさん出てくる。まず、シュペルヴィエル(飯島耕一訳)の「動作」。
 《うしろをふり向いたその馬は/誰も見たこともないものを見た/それから彼はユーカリの木のこかげで/また草を食べつづけた。(……)/それはこの馬より二万世紀も前に/もう一匹のある馬が おなじ時間に/急にうしろをふり向いて/見たそれだった。/(……)
 以前にテレビを観ていたとき、ある能役者が、子どものときには動きは割と自由だったが、大人になってからわずかな動作になり、その分おおきな力を溜め込むようになった、と語っていた。《誰も見たこともないものを見た》馬のかすかな仕草にも、宇宙のひろがりと同時におおきな時間を感じる。キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』で、類人猿が宙に投げた骨が宇宙船に変わった、あの冒頭シーンも思い出した。
 「走らない馬」で思い出したのが、三好達治の「大阿蘇」。ここでも今の瞬間と永遠がある。《雨の中に馬がたつてゐる/一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる/雨は蕭々と降つてゐる/馬は草をたべてゐる/尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつて/彼らは草をたべている/草をたべてゐる》。阿蘇山で、蕭々と降り続く雨に濡れながら詩人は、草を食べる馬を眺めている。繰り返される「ゐる」という現在形動詞のリズムと、《もしも百年が この一瞬の間にたつとしても 何の不思議もないだらう》といったフレーズの永遠が溶け合っている。
 最後に、もうひとつ。山村慕鳥の「馬」。《だあれもゐない/馬が/水の匂ひを/かいでゐる》。達治の「大阿蘇」でもそうだが、「馬」が「水」に近づくと、精神的になる気がする。慕鳥の馬は、草を食べるのではなく、がつがつ水を飲むのではなく、鼻づらを水面にちかづける微かな動作。いつ、どこの光景なんだろう、静かな雰囲気と水彩画の透明感。
 まだまだ馬の登場する作品はたくさん。とくに宮沢賢治や水野るり子、天沢退二郎などの「馬」についても触れたかったが、紙面も尽きたので、またの機会に。

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