いちばんぼし まど・みちお
いちばんぼしが でた
うちゅうの
目のようだ
ああ
うちゅうが
ぼくを みている
まどさんの詩に触れると、あらゆる命がひとつの光として溶け合っている、なつかしい宇宙のふるさとが思い出されます。その命はひととき雨粒のように分かれて旅をして、ここでそれぞれに、ゾウやキリン、アリやカ、リンゴやけしゴムをやっています。宇宙の海に還るまでのたったひととき、このように存在することを、何にもかえがたい喜びとして慈しまれながら。
じゅくし
おやつの おさらに
じゅくしが ひとつ
つめたい きれいな顔(かお)で
ゆったりと
ぼくに 向(む)かいあっている
ようやっと いま
そこから たどりついた
だれも知らない はるかな国(くに)の
だいひょうのように
この ぼくを
にんげんの国(くに)の
だいひょうに して
まどさんは、今ここではちがう形をとって存在するものたちが、ふるさとの言葉でうたう詩(うた)を、人間の言葉に翻訳してくれます。その詩にひびきあうとき、クマがクマであることを喜んでいるように、リンゴがリンゴであることを全うしているように、私も私として生きようと、深呼吸することができます。そして、ひととき別々の存在となりながらも、根っこでは今もすべてひとつにつながったままなのだと、安心していられます。
つながってひとつであることを愛と呼び、そのふるさとの響きに耳を澄ませて呼びかわすことを、相聞と呼ぶのかもしれません。
ほんとうはひとつでありながら、今ここにいる私は、リンゴをかじり魚を焼いてしか生きられなくて、その悲しみに手をあわせるほかありません。けれども、まどさんがふるさとの光をここへ降ろしてくれることで、食べる側と食べられる側の悲しみは、もろともに光へと溶けてゆきます。
その光のうたこそが、挽歌と呼ばれるのでしょう。
〈春野りりん/短歌人会同人。2015年第1歌集『ここからが空』(本阿弥書店)上梓〉
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