わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第140回 ネルーダを知ったとき -パブロ・ネルーダ- 堀田季何

2015-02-02 10:47:46 | 詩客

 パブロ・ネルーダは私の中でとても特殊な位置を占めている。巨大な柱時計がリビングルームの壁面ど真ん中に置かれていて、適当な時刻に一日数回だけ、しかも愛おしく鳴っている、そんな感じである。理由は簡単で、私が原語のスペイン語に精通していなく、彼の詩は普段は英語で、偶に日本語で読んでいるからである。つまりは、翻訳でしか触れていないわけで、最初に高校時代の哲学の先生に薦められて英語で読んだときの衝撃、それ以来好きな詩人のトップ10にネルーダが入り続けて入る事実に対し、翻訳でしか読んでいないという「負い目」が二十年以上も私の心を侵し続けてきた。T・S・エリオット、ランボー、李商隠などは(翻訳版も捨てがたいが)原語で読めるし、朔太郎、光太郎、吉岡実等は自国の詩人だ。そういうわけで、ネルーダだけがトップ10にいるのに翻訳でしか読んでいない詩人ということになる。

 ここでネルーダを紹介する気はない。ウィキペディアで調べ、思潮社が出している『ネルーダ詩集』(田村さと子・訳)を読めば、彼の経歴や思想、作風に関しての大まかなイメージは掴めると思うからだ。これまた不思議なのだが、好きな詩人といっても、好きな作品がとても多い詩人という意味でネルーダが好きなだけであって、私自身は彼の経歴にも思想にも作風の変遷にも全く興味はない。彼はチリ人であり、ノーベル文学賞受賞者でもあるが、どうでもよい。彼についての多くの論評でも、本人の豊かな人間性、スペインのフランコ政権やアメリカのベトナム戦争でのやり口を詩で糾弾したこと(「そのわけを話そう」や「ニクソンサイドのすすめ」が有名)、チリのピノチェト軍事政権に弾圧されたこと等がよく語られるが、それまたどうでもよい。ましてや、映画『イル・ポスティーノ』が、彼の亡命経験に基づいていることなど、考えたくもない。多少興味があるとすれば、ガブリエル・ガルシア=マルケスが「どの言語の中でも20世紀最高の詩人」と彼を称えたこと、くらいか。

 結局は、一目惚れだったからだ。最初に読んだ作品が彼の「詩」という詩で最初の数行を読むなり、ネルーダとは似て非なる架空の作中主体に惚れてしまい、それから「100の愛のソネット」という百篇の求愛の詩の数篇を読んだ時点でノックアウト、彼に心を捧げてしまったからだ(私に男色の趣味はないことはここで断っておく)。つまりは、ノーベル賞級の「美辞麗句」にあっさりと口説かれてしまったようなもので(しかも原語でなく英語で!) 、二十年経っても惚れた弱みがあるままなのである。だから、ネルーダが実際にどういう男だったか興味がないのである。知りたくない、というのが正直なところ。ネルーダの詩の作中主体こそが私を人生で唯一口説いた人物である。だからこそ分別を以って彼の詩を読むなんてことはしたくない。パラテキストの情報は全く考えず、只々その詩才に酔っていたいのだ。恋文の習慣が途絶えて久しい現代日本に住む詩人たちの感覚からすれば、彼の愛の詩は臭く映るかもしれない。しかし、それは大胆な語句の使用と言い換えることができるし、それを成功させるために散りばめられている鮮烈かつ巧みな比喩は見落とせない。愛の詩だけでなく、哀悼の詩でも、皮肉めいた詩でも、彼の言葉は甘く、深く、切なく私の中に押し入ってくる。和歌よりも饒舌な彼の詩は、歌詠みの私をただの肉槐、彼に言わせれば「肉の林檎」 に貶めてしまう。もっともっと。囁いて。もっともっと。欲しい。好き。

※堀田季何-「中部短歌」「澤」「吟遊」所属


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