わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

スカシカシパン草子 第5回 -お風呂について 暁方ミセイ

2013-01-05 12:32:01 | 詩客
 十代前半から二十二歳くらいまで、「家から出るとき」と「家から帰ったとき」は必ずお風呂に入らなければならないという自分だけのルールがあり、頑なに守っていた。今思うと、ちょっと潔癖症の気があったのかもしれないが、とにかく社会人になって圧倒的に時間がなくなり、疲労困憊して食べる間もなく眠るような、ゆっくりとお風呂には入れないやむにやまれぬ状態になるまでは、このこだわりを捨てられなかった。当時は入浴せずに人前に出たり、逆に帰宅して身体を洗わずにくつろぐことなど考えられなかった。そんなわけで、毎日必ず二回、平均三回(外出前、外出後、就寝前)、多いときで一日五回お風呂に入っていて、自宅でのほとんどの時間を浴室で過ごしていたといってもいいくらいである。今でも時間があれば、思う存分お湯に浸かりたいと思う。
 浴室で詩は書かないのだが、本は読む。それから、ふいに思うことが頭に浮かぶとメモ書きをする。これでもかというほど水分を摂り続けながら、一時間くらい湯船に浸かって、ときどき足し湯をする。水の音を聞くとほとんど頭が空っぽになる感じがする。窓を少し開けて、空が、朝は徐々に白くなり、夕方は桃色から紫、広重の浮世絵のような水色、そして紺色になるのを眺めるのも好きだ。もちろんそれが多分すごく贅沢なんだということには気づいていて、「こんなこといつかはできなくなるかもしれない」と思いながら、ありがたい気持ちで湯に浸かっている。日に五回も入浴するのを、両親がしぶしぶ黙認してくれていたのは、彼らも実は大のお風呂好きだったからだと思う。恐らく年間で五十回くらいは、銭湯、温泉の類に出かけていたと思う。週に一回近いペースで、近くのお湯から、箱根や日光まで足を伸ばしていた。そしてわたしも可能な限り、それに同行した。
 お風呂に入っていると、とにかくすごく気分がよい。どうしてそんな風に感じられるのかを、結構真剣に考えていた。
 そして十年以上お風呂好きをして思うには、やっぱり水の力が作用している。と思う。
旅先や自宅以外で入るお風呂は、そこの水に身体を浸す行為が、なにか洗礼儀式のように感じられる時がある。昔から気に入っている、神奈川県の飯山にあるお湯があるのだが、そこは温泉ではなく天然水で湯を沸かしていて、簡素な露天風呂があり、その露天は今にも農林組合のおじさんが電気ノコギリを持ってひょっこり現われそうな裏山にそのまま面している小さな地域の施設である。裏山は針葉樹林で、冬などに行くと薄い陽がすっと立ち並んだ林の梢の間からちろちろと光る。夜になると山の青いにおいがした。そのお湯に目を瞑り入っていると、水の辿ってきた道を、山の深い割れ目から溢れ出すところまで遡って感じるような気がする。山を受け入れ、山と交わるような、大げさにいうとそういう感覚がある。旅先の他の湯でも同じで、湯に入ることは、その土地に敬意を払い、受け入れるような行為の気がする。裸になり、身一つで、その土地の山や川の神様に挨拶をする。わたしはお湯に入る人たちが好きで、裸の人間はたいてい背を丸めて心細げに、恭しい様子で湯に入ると思う。それは美しいと思う。
 水そのものにも、魔力のようなものがあるだろうなと思う。先に書いたようなことは、本質は同じでも自宅のお風呂ではなかなか考えられないが、水の引力は感じられる。水を見ていると、自分の中の水が結合しようと意思するのか(?)、そちらに引っ張られる感じがしないだろうか。例えばコップの水は飲んで自分の中に取り込みたくなるし、海や深いプールを見ていると、ふいにそこに自分が飛びこまないかどきっとしたりしないだろうか。水は、謙虚で大人しくありふれているが、古代から変わらない姿で世界のあらゆる生物を生み出し、形をめまぐるしく変えながらたっぷりと隙間なく、他者との隔たりの証拠である皮膚を覆う。そこで母胎回帰を感じているかどうかはよくわからないが、大量の水を目の前にすると、妖しい力を感じてそこに入りたくなる。その願望を許容して、かつ肉体的に快適に叶えてくれるのがお風呂なのだと思う。
 さて、ここまでくると、池や川の記憶も蘇ってくる。幼い頃「ワニが逃げ出していまでも生息している」と嘘をつかれて本気にしていた植物園のエントランスの人工池、何十年も前に溺れて死んだ男の子の死体がまだ上がっていなくて底に沈んでいるという噂だった近所の沼池、小学生くらいまでよく連れていかれた関東の山奥の川(中ほどが急に深くなり、とても大きな魚が泳いでいるのが見えた)、魚の養殖場の青く深いプール、揚子江や、チャオプラヤや、今度は本当にワニがいるトンレサップ湖の濁った水、王の水深六メートルの沐浴場、グーグルマップで度々ポイントを合わせる、まだ見ぬイシク・クル湖の湖底遺跡。どれも死や圧倒的な水への「畏れ」と共に、抗いがたい引力を持っている。お風呂に入るときは、それらの潜在的な記憶が意識のすぐ下まで浮上してきて、水へと魅了するような気がする。お風呂に入ると、ちょっと、一度死んで転生するような感じにならない?わたしはよく、雲の上を歩くように体に浮力がついて、天井が左回りに、ぐるぐるぐるぐると回転し、そうしていると遠くからスネアドラムのような音が・・・・・・。湯あたりにはご用心です。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿