『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)

2024-03-14 16:09:10 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(4)


◎原注205a

【原注205a】〈205a (イ)近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかならない。{第三版への補足。}--(ロ)化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておく。(ハ)著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことであって、それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっている。(ニ)たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。(ホ)これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成される。(ヘ)これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照せよ。--F・エンゲルス〉(全集第23a巻406頁)

  (イ) 近代化学で応用され、ロランとジェラールとによってはじめて科学的に展開された分子説は、この法則にもとづくものにほかなりません。

    これは〈ここでも、自然科学におけると同様に、へーゲルがその論理学のなかで明らかにしているこの法則、すなわち、単なる量的な変化がある点で質的な相違に一変するという法則の正しいことが証明されるのである(205a)。〉という本文に付けられた原注です。初版やフランス語版はこの冒頭の部分だけが原注になっています。そのあとは〈{第三版への補足。}〉とありますように、第三版の編集のときにエンゲルスによって加えられたものです。ロランとジェラールについては人名索引から紹介しておきましょう(ただしあまりにも簡単すぎるので、ウィキペディアで調べたものもつけ加えておきます)。

  ロラン,オーギュストLaurent,Auguste(1807-1853)フランスの化学者.〉(全集第23b巻91頁)〈ローランは、有機化学反応においてどのように分子が結合するかを明らかにするために、分子中の原子の構造グループに基づいた有機化学における系統的命名法を考案した。さらに、電気化学的二元論では説明が困難であった置換反応を説明するために核の説を提唱したが、エテリン説を唱えるデュマの反発を買った結果、事実上フランスの化学界から排斥された上、結核に罹って夭折した。〉
  ジェラール,シャルルーフレデリクGerhardt,Charles-Frederic(1816-1856)ブランスの化学者.〉(全集第23b巻70頁)〈1843年に相同列(同族列)の概念に基づいた分子式に基づく化合物分類を提唱した。また残余の理論にもとづくとイェンス・ベルセリウスによる原子量・分子量の決定法に問題があることを示した。これはアボガドロの仮説の妥当性を示す第一歩となった。またこの年にオーギュスト・ローランと政治活動を通じて知り合い親交を結んだ。ローランは分子式に基づく分類を化合物の性質に関する情報を何も与えていないとして批判した。その後のジェラールの研究はローランからの批評に大きく影響されている。また分子式に基づく化合物分類の発表は師であるデュマとの間にプライオリティについての争いを引き起こした。ジェラールは年長者への敬意を欠いて自分の方が優れていると主張し、また批判が容赦ないものであったため、不遇な扱いを受けることになっていく。〉

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 化学者でない人にとってはあまり明瞭でないこの注の説明のために、次のことを一言しておきます。著者がここで言っているのは、1843年にC・ジェラールによってはじめてそう名づけられた炭水素化合物の「同族列」のことです。それらはそれぞれ特有の代数的構造式をもっています。たとえば、パラフィン列は CnH2n+2 であり、標準アルコール列は CaH2n+2O であり、標準脂肪酸列は CnH2nO2 である、等々。これらの例では、分子式に CH2 を単に量的に追加することによって、そのつど一つの質的に違った物体が形成されるのです。

    この問題についてはすでに第11パラグラフの付属資料として紹介したエンゲルスの『自然弁証法』に詳しいです。関連する部分だけ引用しておきましょう。

   〈このようなことは炭素化合物の同族列、とくに比較的簡単な炭化水素の同族列ではなおいっそう適切なものとして現われてくる。正パラフィン系のうちの最低位のものはメタン CH4 である。この場合には炭素原子の四個の結合単位は四個の水素原子で飽和している。第二番目のエタン C2H6 はたがいに結合した二個の炭素原子をもち、遊んでいる六個の結合単位は六個の水素原子で飽和している。このようにして公式 CnH2n+2 にしたがって C3H8,C4H10 等々とすすみ、CH2 が付加されるごとにそのまえのものとは質的に異なる物質が形成されてゆく。この系列の最低位の三つの成員は気体であり、既知の最高位のもの、ヘキサデカン C16H34 は沸点が摂氏二七八度の固体である。パラフィン系からみちびきだされる(理論的に)公式 CnH2n+2O の第一アルコールの系列と、一塩基脂肪酸(公式 CnH2nO2 )についても事情はまったく同じである。C3H6 の量的付加がいかなる質的区別をもたらしうるかは、どうにか飲めるかたちにしたエチルアルコール C2H6O を他のアルコール類と混ぜないで飲んだ場合と、同じエチルアルコールを飲むにしても、こんどは悪名高いフーゼル油の主成分をなすアミールアルコール C5H12O を少量つけくわえておいた場合の、二つの場合の経験が教えてくれるだろう。われわれの頭は翌朝には確実に、しかも頭痛とともに、これをさとることだろう。だから酔いとその後の二日酔いとは、一方はエチルアルコールの、他方はこれにつけくわえられた C3H6 の、ともに同じく質に転化された量だとさえいえるのである。〉(全集第20巻383頁)

  (ヘ) これらの重要な事実の確定におけるロランとジェラールとの関与、このマルクスによって過大評価された関与については、コップ『化学の発達』、ミュンヘン、1873年、709、716ページ、およびショルレンマー『有機化学の成立と発達』、ロンドン、1879年、54ページを参照してください。

    ただエンゲルスはこうした有機化合物の重要な事実の確定にロランとジェラールの関与についてのマルクスの評価は〈過大評価〉だと考えているようです。エンゲルスがここで参照するようにと上げている文献については直接当たることはできません。ただ文献索引と人名索引から調べたものを掲げておきます(ウィキペディアの説明の一部も紹介しておきます)。ショルレンマーについてはマルクス・エンゲルスとも友人関係にあったということですから、全集の人名索引を調べるといろいろなところで言及されています(特に往復書簡)。エンゲルスは「カール・ショルレンマー」という表題の追悼文を『フォールヴェルツ』(1892年7月3日付)に書いています(全集第22巻317-320頁)、また先に紹介したエンゲルスの『自然弁証法』には、次のような一文もありました。

  〈しかし最後にこのヘーゲルの法則は化合物だけではなく、化学的元素そのものにたいしてもなりたつのである。われわれは今日、
  「元素の化学的性質は原子量の周期関数であること」(ロスコー=ショルレンマー『詳解化学教程三第二巻、八二三ページ)、
  したがってその質が原子量という量によって条件づけられていることを知っている。そしてこのことの検証はみごとになしとげられた。メンデレーエフが立証したように、原子量の順に配列された親縁な元素の系列中にはさまざまな空位があり、それらはその箇所になお新元素が発見されるべきことを示唆するものである。これらの未知の元素の一つで、アルミニウムにはじまる系列中でアルミニウムの次にあるところからエカアルミニウムと彼が命名した元素について、彼はその一般的な化学的性質をまえもって記述し、おおよそその比重と原子量および原子容を予言しておいた。数年後ルコック・ド・ボアボドランはこの元素を実際に発見したが、メンデレーエフが予想していたことはごくわずかのずれを除いては的中した。エカアルミニウムはガリウムとして実在のものとなった(48)(前掲書、八二八ページ)。量の質への転化についてのヘーゲルの法則の--無意識的な--適用によって、メンデレーエフは、未知の惑星、海王星の軌道の計算におけるルヴェリエの業績(49)に堂々と比肩しうるほどの科学的偉業をなしとげたのである。〉(全集第20巻384頁)

  コップ,ヘルマン『化学の発達』所収:『ドイツにおける科学史.近代』,第10巻,第3篇,ミュンヘン,1873年〉(全集第23b巻13頁)〈コップ,ヘルマン・フランツ・モーリッツ KoPP,Hermann Franz Moritz(1817-1892)ドイツの化学者.化学史に関する著述あり.〉(全集第23b巻68頁)〈彼が注目したもう1つの質問は、化合物、特に有機の沸点とその組成との関係でした。これらや他の骨の折れる研究に加えて、コップは多作の作家でした。1843年から1847年に、彼は包括的な化学の歴史を4巻で出版し、1869年から1875年に3つの補足が追加されました。最近の化学の発展は1871年から1874年に登場し、1886年に彼は古代と現代の錬金術に関する2巻の作品を出版しました。〉
  ショルレンマー,カール『有機化学の成立と発達』,ロソドン,1879年〉(全集第23b巻17頁)〈ショルレンマー,カールSchorlemmer,Car1(1834-1892)ドイツ生まれの化学者,マンチェスターの教授,ドイツ社会民主党員,マルクスとエンゲルスとの親友.〉(全集第23b巻71頁)(ウィキペディアには掲載なし)


◎第12パラグラフ(1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。)

【12】〈(イ)1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っており、また、与えられた発展段階にあっても、生/産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがって違っている。(ロ)ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とする。(ハ)このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわれわれの時代に至るまでいくつかのドイツ諸邦で見られるように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもあれば、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともある。〉(全集第23a巻406-407頁)

  (イ) 1人の貨幣所持者または商品所持者が資本家に成熟するために処分することができなければならない価値額の最小限は、資本主義的生産の発展段階が違えばそれによって違っていますし、また、与えられた発展段階にあっても、生産部面が違えばその部面の特殊な技術的諸条件にしたがってまた違っています。

    前パラグラフでは剰余価値の生産のためには貨幣または交換価値の一定の最小限があることが明らかにされました。つまり一人の貨幣所持者が資本家になるためには、自由に処分可能な貨幣額の最小限があるということでした。この最小限は、資本主義的生産の発展段階が異なればそれによって違ってきますし、同じ発展段階でも、先に見ましたよう、紡績業と製パン業とでは資本の構成が異なるのと同じように、生産部面が異なればそれぞれの特殊な技術的条件によって資本の最小限が違ってきます。

  (ロ)(ハ) ある種の生産部面は、すでに資本主義的生産の発端から、個々の個人の手のなかにはまだないような資本の最小限を必要とすることがあります。このことは、コルベール時代のフランスでのように、またわたしたちの時代に至るまでのいくつかのドイツ諸邦で見られましたように、このような私人にたいする国家の補助金の誘因となることもありますし、あるいは、ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社--近代的株式会社の先駆--の形成を促すこともあります。

    産業部面が異なれば、必要な資本の最小限が違う一つの典型的なものとして、例えばオランダやイギリスなどの東インド会社などのように、資本主義的生産の発端から、その必要最小限が一人の私人によってまかないきれないものが必要となり、だから国家が主導し、その補助金や法的に独占権をもつ会社--近代の株式会社の先駆--の形成を促すこともあるということです。

    ここで〈コルベール時代のフランス〉とありますが、ネットでいろいと調べましたら、ジャン=パティスト・コルベール(Jean Baptiste Colbert, 1619-1683)は、ルイ14世治下のフランスの財務総監で、絶対王政の財源を支えるために、典型的な重商主義政策を実施。この次期のフランス重商主義は、彼の名をとって、コルベール主義と呼ばれることが多い、ということです。次のような説明もありました。

  〈コルベールは、先進国イギリス、オランダに対抗してフランスを貿易大国に育成し、貿易差額によって国富(金銀)を増大することを目ざし、絶対王制期の重商主義の典型とされるコルベルティスムColbertisme体系を築き上げた。彼の構想では、国際商業戦争に勝つためには、輸出向け戦略商品(とくに毛織物)を安価かつ大量に生産することが必要であった。そこで、穀物価格(食糧費)の引下げ政策によって工業生産者の工賃の低下を図り、また織物を輸出適格商品にするため綿密な工業規制règlementsを生産者に強制した。同時に、全国の都市、農村の生産者にギルド組織への加入を義務づけ、そうした工業規制の徹底化と、製品の指定輸出商への強制集中を図った。他方、王立または国王特許による特権マニュファクチュア(作業場)を各地に設けて、毛織物のほか奢侈(しゃし)品(ゴブラン織など)、ガラスなどを生産させた。こうした工業育成策を基に、徹底した保護貿易政策をとり、輸出を奨励すると同時に、輸入製品には禁止的保護関税をかけた。また、東・西インド会社、レバント会社などを設立または発展させ、海軍・海運を育成して海外経営に乗り出し、ついにオランダとの戦争(1672~1678)に突入して、フランシュ・コンテやフランドル(毛織物地帯)諸都市を獲得した。〉(日本大百科全書(ニッポニカ) の解説)

  〈近代的株式会社の先駆〉としての独占会社については本源的蓄積の部分でもマルクスは次のように触れています。

  〈植民制度は商業や航海を温室的に育成した。「独占会社」(ルター)は資本蓄積の強力な槓杆だった。〉(全集23b983頁)


◎原注206

【原注206】〈206 この種の施設をマルティーン・ルターは“Die Gesellschaft Monopolia"〔独占会社〕と呼んでいる。〉(全集第23a巻407頁)

    これは〈ある種の産業部門や商業部門の経営について法律上の独占権をもつ会社(206)〉という本文に付けられた原注です。こうした法的独占権をもつ会社のことをルターは「独占会社」と呼んでいるということです。
    新日本新書版には〈〔独占会社〕〉という部分に次のような訳者注が付いています。

  〈ルター『商取引と高利について』、ヴィッテンベルク、1524年(ヴァイマール版、第15巻、312ページ)。松田智雄・魚住昌良訳、『ルター著作集。第1集』第5巻、聖文舎、526ページ。ルターはこれらの説教で、国会の独占禁止決議にもかかわらず野放しになっている「独占商会」に激しく反対している〉(540頁)

 草稿集⑦には最後の方にルターからの長い抜粋がありますが、主に高利貸に対する批判であって、独占会社に対するものは見あたりませんでした。


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◎第13パラグラフ(ここでは、わずかばかりの要点だけを強調しておく)

【13】〈(イ)われわれは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにする。(ロ)ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきたい。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) わたしたちは、資本家と賃金労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化の詳細には、したがってまた資本そのもののさらに進んだ諸規定にも、かかわらないことにします。ただ、わずかばかりの要点だけをここで強調しておきます。

    このパラグラフの前には横線があり、問題がここから変わっていることを示しています(初版にはこうした横線はありません)。つまりここから第9章が第3篇から第4篇へ移行するために第3篇のまとめをやっていると考えることができます。ただこの冒頭のパラグラフそのものはフランス語版では削除されています。
    このパラグラフでは、資本家と賃労働者との関係の変化の詳細や、資本そのもののさらに進んだ諸規定については問題にせず、わずかな要点をのべるだけだという断りが述べられているだけです。つまりこれまで展開してきたものをここで繰り返す愚は避けるということでしょうか。


◎第14パラグラフ(生産過程のなかでは資本は労働にたいする指揮権にまで発展した)

【14】〈(イ)生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展した。(ロ)人格化された資本、資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 生産過程のなかでは資本は労働にたいする、すなわち活動しつつある労働力または労働者そのものにたいする指揮権にまで発展しました。人格化された資本、つまり資本家は、労働者が自分の仕事を秩序正しく十分な強度で行なうように気をつけるのです。

    それほど違いはありませんが、フランス語版の方がすっきり書かれているように思えますので、最初に紹介しておきましょう。

  〈われわれがすでに見たように、資本は労働の主人公になる。すなわち、運動中の労働力または労働者自身を、資本の法則のもとに服従させることに成功する。資本家は、労働者が自分の仕事を念入りにまた必要な強度で遂行するように監視する。〉(江夏・上杉訳320頁)

    これまでの展開で示されましたように、資本は生産過程にある労働者を管理し、指揮する役割を担う存在になりました。資本は人格化された資本として労働者から剰余労働を最大限絞り出すために、労働が秩序ただしく無駄なく十分な強度でなされているかを始終気をつけているわけです。
    絶対的剰余価値の生産では、資本はいまだ労働を形態的に包摂する(形式的に資本関係のなかに取り込んだだけ)にすぎないのですが、しかしそれでも資本は剰余労働を強制的に奪取するために労働者を指揮・監督する役割を担うようになったわけです。


◎第15パラグラフ(資本は、さらに剰余労働を強制する関係としては、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制をも凌駕するようになる)

【15】〈(イ)資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展した。(ロ)そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働の汲出者および労働力の搾取者として、資本は、エネルギーと無限度と効果とにおいていっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのである。〉(全集第23a巻407頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さらに、労働者階級に自分の生活上の諸欲望の狭い範囲が命ずるよりも多くの労働を行なうことを強要する一つの強制関係にまで発展しました。そして、他人の勤勉の生産者として、剰余労働を汲み出す人、すなわち労働力の搾取者として、資本は、そのためのエネルギーと無制限とその効果とにおいて、いっさいのそれ以前の直接的強制労働にもとつく生産体制を凌駕しているのです。

    このパラグラフも最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈資本は、その上、労働者階級に自分の狭い範囲の必要が要求するよりも多くの労働を遂行させざるをえなくする強制的関係として、現われる。他人の活動の生産者および利用者として、労働力の搾取者および剰余労働の詐取者として、資本主義制度は、種々の強制的労働制度に直接にもとづくあらゆる従前の生産制度を、エネルギー、効果、無限の力という点で凌駕している。〉(江夏・上杉訳320頁)

    労働の形態的包摂においては、労働過程そのものは技術学的には以前のまままですが、いまではそれらは資本に従属した過程として現れます。資本は、労働者に剰余労働を強いる関係にまで発展したのです。剰余労働の搾取者として資本は、そのエネルギーと無限性において、以前の直接的強制労働にもとづく生産体制を凌駕したものになります。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈加えられる強制が、すなわち剰余価値、剰余生産物、あるいは剰余労働の生みだされる方法が、違った種類のものなのである。もろもろの明確な区別は、次の項目〔Abschnitt〕で、つまり蓄積を論じるときに、はじめて考察することになる。この資本のもとへの労働の形態的包摂にあって本質的なことは次の点である。/
  (1) 労働者は、自分自身の人格の、だからまた自分自身の労働能力の所有者として、この労働能力の時間極(ギ)めでの消費の売り手として、貨幣を所持する資本家に相対しているのであり、だから両者は商品所持者として、売り手と買い手として、それゆえ形式的には自由な人格として相対しているのであって、事実、両者のあいだには買い手と売り手との関係以外の関係は存在せず、この関係とは別に政治的または社会的に固定した支配・従属の関係が存在するわけではない、ということである。
  (2) これは第一の関係に含まれていることであるが--というのは、もしそうでなかったら労働者は自分の労働能力を売らなくてもいいはずだから--、彼の客体的な労働諸条件(原料、労働用具、それゆえまた労働中の生活手段も)の全部が、あるいは少なくともその一部が、彼にではなく彼の労働の買い手かつ消費者に属し、それゆえ彼自身にたいして資本として対立しているということである。これらの労働諸条件が彼にたいして他人の所有物として対立することが完全になればなるほど、形態的に資本と賃労働との関係が生じるのが、つまり資本のもとへの労働の形態的包摂が生じるのが、それだけ完全になる。〉(草稿集⑨369-370頁)


◎第16パラグラフ(資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。したがって、資本は直接には生産様式を変化させない。)

【16】〈(イ)資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させる。(ロ)し/たがって、資本は直接には生産様式を変化させない。(ハ)それだから、これまでに考察した形態での、労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのである。(ニ)それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのである。〉(全集第23a巻407-408頁)

  (イ)(ロ) 資本は、さしあたりは、歴史的に与えられたままの労働の技術的諸条件をもって、労働を自分に従属させます。だから、資本は直接には生産様式を変化させないのです。

    絶対的剰余価値の生産では、資本はさしあたりは歴史的にあたえられたままの労働をただ資本主義的な関係のなかに包摂し、資本に従属させるだけです。『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈絶対的剰余価値にもとづく形態を、私は資本のもとへの労働の形態的包摂と名づける。この形態は、現実の生産者たちが剰余生産物、剰余価値を提供しているが、すなわち必要労働時間を超えて労働しているが、それが自分のためではなく他人のためであるような、それ以外の生産様式と、ただ形態的に区別されるにすまない。〉(草稿集⑨369頁)
  〈この場合には、生産様式そのものにはまだ相違が生じていない。労働過程は--技術学的に見れば--以前とまったく同じように行なわれるが、ただし、今では資本に従属している労働過程として行なわれるのである。けれども、生産過程そのもののなかでは、前にも述ぺたように{これについて前述したことのすべてがここではじめてその場所に置かれることになる}、第一に、資本家による労働能力の消費が、それゆえ資本家による監視と指揮とが行なわれることによって、支配・従属の関係が発展し、第二に、労働のより大きな逮続性が発展する。〉(同370頁)

  (ハ)(ニ) だから、これまでに考察した形態での、すなわち労働日の単純な延長による剰余価値の生産は、生産様式そのもののどんな変化にもかかわりなく現われたのです。それは、古風な製パン業でも近代的紡績業の場合に劣らず効果的だったのです。

    だから「第3篇 絶対的剰余価値の生産」においては、労働日の単純な延長による剰余価値の生産が問題になり、生産様式そのものには何の変化も無いものとして前提されたのです。だからそれは近代的紡績業にも古風な製パン業においても見られるものであり、実際にも私たちはそれらを具体的に検討してきたわけです。


◎第17パラグラフ(生産過程を価値増殖過程の観点から考察すると、一つの転倒現象が生じてくる。それが資本家の意識にどのように反映するか)

【17】〈(イ)生産過程を労働過程の観点から考察すれば、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段にではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係だった。(ロ)たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱う。(ハ)彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない。(ニ)われわれが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなった。(ホ)生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化した。(ヘ)もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのである。(ト)生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのであり、そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのである。(チ)熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しないならば、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")である。(リ)それだからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのである。(ヌ)貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのである。(ル)このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておこう。(ヲ)1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、
  「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営さ/れているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--
この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡(207)を寄せたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっている。
(ワ)「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう(208)。」〉(全集第23a巻408-409頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 生産過程を労働過程の観点から考察しますと、労働者の生産手段にたいする関係は、資本としての生産手段に対してではなく、自分の合目的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段にたいする関係でした。たとえば製革業では、彼は獣皮を自分の単なる労働対象として取り扱います。彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではこの部分はその前のパラグラフと合体されて、その途中から始まり、終わったところで改行されています。

  〈われわれが使用価値という単純な観点で生産を考察していたときには、生産手段は労働者にたいし、少しも資本という役割を演じていたのではなく、彼の生産活動の単なる手段および素材という役割を演じていたのである。たとえば鞣(ナメシ)皮業では、彼が鞣すのは皮であって資本ではない。〉(江夏・上杉訳321頁)

  「第5章 労働過程と価値増殖過程」で見ましたように、生産過程を労働過程としてみますと、労働者の生産手段に対する関係は、資本としての生産手段にたいする関係ではなく、単に合目的的な生産活動のための手段あるいは材料としての生産手段にたいする関係でした。例えば製革業では、労働者は獣皮をたんなる労働対象として取り扱います。彼が革をなめすのは、資本家のためにではないのです。

    新日本新書版では〈彼が皮をなめすのは、資本家のためにするのではない〉という部分は〈彼はなめすものは資本家の皮ではない〉(541頁)となっていて、この部分に次のような訳者注が付いています。

  〈なめし皮業者が徒弟をきたえるためにしたたか打ちのめすことを「徒弟の皮をなめす」と言ったのに由来する慣用句および学生用語の風刺の転用〉(543頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) しかし、わたしたちが生産過程を価値増殖過程の観点から考察するやいなやそうではなくなりました。生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化したのです。もはや、労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うのです。生産手段は、労働者によって彼の生産的活動の素材的要素として消費されるのではなく、労働者を生産手段自身の生活過程の酵素として消費するのです。そして、資本の生活過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動にほかならないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておくことします。

  〈われわれが剰余価値の観点で生産を考察するようになるやいなや、事態は変わった。生産手段は直ちに他人の労働の吸収手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使うのではなく、反対に生産手段が労働者を使う。生産手段は、労働者によって彼の生産活動の素材的要素として消費されるのではなく、生産手段自身の生活に不可欠な酵母として労働者自身を消費するのであって、資本の生活は、永遠に増殖途上にある価値としての資本の運動にほかならない。〉(同上)

    ところが、生産過程を価値増殖過程の観点から見ますと、生産手段はたちまち他人の労働を吸収するための手段に転化し、労働者と生産手段の関係も逆転して、もはや労働者が生産手段を自身の道具や材料として扱うのではなく、反対に生産手段が労働者を自身の生活過程(価値を増殖する運動)のための酵素として消費するのです。主体はもはや労働者ではなく、生産手段(あるいは資本)になっています。だから資本の生産過程とは、自分自身を増殖する価値としての資本の運動になっているのです。

  (チ)(リ) 熔鉱炉や作業用建物が夜間休止していてもはや生きている労働を吸収しなくなると、それは資本家にとっては「ただの損失」(“mere loss")でしかありません。だからこそ、熔鉱炉や作業用建物は、労働力の「夜間労働にたいする要求権」を構成するのです。

    フランス語版です。

  〈夜間には休止していて、生きた労働をなんら吸収しない熔鉱炉や工場の建物は、資本家にとっては純損<a mere loss>になる。だからこそ、熔鉱炉や工揚の建物は、労働者の「夜間労働にたいする請求権、権利」を構成しているのだ。これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である。〉(同上)
 
    生産手段が資本の生産手段になるということは、それが常に生きた労働と接触して剰余労働を吸収しつづけなければならないということです。だからそれが制止させられるということは、資本家にとってはただの損失でしかありません。だからこそ溶鉱炉や作業用建物が夜間休止していて、生きている労働を吸収できなくなる事態を防ごうとする資本の強い欲求が生じるのです。だから溶鉱炉や作業用建物は、労働力の夜間労働にたいする要求の根拠にされるのです。

  (ヌ) 貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働にたいする権原および強制力原に転化されるのです。

    フランス語版では上記のように〈これについてこれ以上述べることは、いまのところ無用である〉とありますようにこうした文言は省かれています。

    こうした生産手段と労働者の逆転した関係は、ただ貨幣が資本家の手によって生産過程の対象的要因すなわち生産手段に転化されるというだけで生じてきます。それだけで生産手段は他人の労働さらに剰余労働を強制する権限あるいは強制力の源となるのです。

  (ル) このような、資本主義的生産に特有であってそれを特徴づけている転倒、じつに、この、死んでいる労働と生きている労働との、価値と価値創造力との関係の逆転は、資本家の意識にどのように反映するか、このことを最後になお一つの例によって示しておきましょう。

    フランス語版です。なお、フランス語版ではここで改行されています。

  〈こういった、資本主義的生産を特微づけている役割の転倒が、死んだ労働と生きた労働との関係の、価値と価値創造力との関係の、こうした奇妙な転倒が、資本の所有主の意識のうちにどのように反映しているかを、ただ一例によって示すことにしよう。〉(同上)

    こうした資本主義的生産に特有な物象的関係の転倒、死んでいる労働(生産手段)と生きている労働との関係の逆転、あるいは価値(生産手段)と価値創造力(労働力)との関係の逆転が、資本家の意識にどのように反映するのかの例を、最後にもう一つ示すことにしましょう。

  (ヲ)(ワ) 1848-1850年のイギリスの工場主反逆のさいちゅうに、「西スコットランドの最も古くて最も名のある商社の一つで1752年以来存続し代々同じ家族によって経営されているカーライル同族会社というべーズリ所在の亜麻・綿紡績業の社長」、--この非常に賢明な紳士は、1849年4月25日の『グラスゴー・デーリ・メール』紙に『リレー制度』という題名で一つの書簡を寄せましたが、そのなかにはなかんずく次のような奇怪なまでに素朴な文句が混じっています。
 「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって(tthen every 12 machines or spindles,in his establishment,shrink to 10)、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」

    フランス語版はそれほどの違いはないので紹介は略します。

  ここで〈1848-1850年のイギリスの工場主反逆〉というのは、第8章第6節の第30パラグラフで〈2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉と書いていたもののことでしょう。
    その反逆のさいちゅうに、西スコットランドのカーライル同族会社の経営者が『リレー制度』という題名の書簡を『グラスゴー・デーリ・メール』紙に寄せたものが引用されています。
    それは労働時間が12時間から10時間に制限されると、彼の工場にある機械や紡錘まで、それまでの12個から10個に減ったものになり、国じゅうの工場の価値も同じように6分の1ずつ減らされたものとして評価されるというものです。
    つまり資本家にとっては生産手段というのは、労働を、とくに剰余労働を吸収することよってその価値を増殖する性質をもったものなのです。だからその吸収が制限されるということは、生産手段の価値そのものが減少することのように見えるわけです。資本家には生産手段は労働を吸収して増殖する性質がそれ自体に生え出ているもののように見えるわけです。物象的な関係が逆転して見えているということです。


◎原注207

【原注207】〈207 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、59ページ。〉(全集第23a巻409頁)

    これは本文で紹介されている書簡の典拠を示すものです。つまりこの書簡そのものが『工場監督官報告書』で紹介されているということです。


◎原注208

【原注208】〈208 (イ)同前、60ページ。(ロ)工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのであるが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言している。〉(全集第23a巻409頁)

  (イ) 同前、60ページ。

    これは本文で引用されている書簡が紹介されている『工場監督官報告書』の頁数を示すものです。

  (ロ) 工場監督官ステュアートは、彼自身スコットランド人であって、イングランドの工場監督官たちとは反対にまったく資本家的な考え方にとらわれているのですが、自分の報告書に収録したこの書簡について、それは「リレー制度を用いている工場主のなかの或る人によって書かれたもので、特にかの制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とするきわめて有益な通信である」と明言しています。

    この『工場監督官報告書』を書いたのはスコットランドとアイルランドを管轄していたステュアートで、彼自身スコットランド人で、イングランドやヴェールズを管轄していたホーナーやハウェル、あるいはソーンダースとは違って、資本家的な考えにとらわれていたということです。

  第8章第6節の第26パラグラフでも次のように書かれていました。

  〈しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
  「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
  そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉

    つまり工場監督官のうちステュアートだけが資本家の意を汲んで交替制を許可したのです。
    だから彼は工場主の書簡を高く評価し、リレー制度にたいする偏見や疑念を除くことを目的とする有益な通信だなどと述べているということです。


◎第18パラグラフ(資本家には、生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけている)

【18】〈(イ)この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのであって、そのために、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなく、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われるのだと、すなわち、紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなく、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される/剰余労働も支払われるのだと、実際に妄想しているのであって、それだからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのである。〉(全集第23a巻409-410頁)

  (イ) この西スコットランドの先祖伝来の資本頭脳にとっては、紡錘などという生産手段の価値と、自分自身を価値増殖するという、すなわち毎日一定量の他人の無償労働を飲みこむという生産手段の資本属性との区別がまったくぼやけているのです。だから、このカーライル同族会社の社長は、自分の工場を売れば、自分には紡錘の価値だけではなくて、そのうえに紡錘の価値増殖も支払われねばならなんと考えるのです。紡錘に含まれている同種の紡錘の生産に必要な労働だけではなくて、紡錘の助けによって毎日ぺーズリのけなげな西スコットランド人から汲み出される剰余労働も支払われねばならないと、実際に妄想しているのです。だからこそ、彼は、労働日を2時間短縮すれば紡績機の12台ずつの売却価格も10台ずつのそれに縮まってしまう! と思うのです。

    このパラグラフもまずフランス語版を紹介しておくことにします。

  〈われわれの見るとおり、スコットランドのこの石頭にとっては、生産手段の価値が、自己増殖しあるいは一定量の無償労働を日々同化するという生産手段のもつ資本属性と、全く混同されている。そして、カーライル同族会社のこの社長は、工場を売却するさいには、機械の価値だけでなく、おまけに機械の価値増殖も支払われる、すなわち、機械のなかに含まれていて同類の機械の生産に必要な労働だけでなく、機械の役立ちでぺーズリの律義なスコットランド人から日々詐取されている剰余労働までも支払われる、と信ずるほどに妄想を抱いている。彼の意見によれば、それだからこそ、労働日の2時間の短縮は、彼の機械の販売価格を引き下げるであろう。機械1ダースはもはや10個の価値しかないことになろう!〉(江夏・上杉訳322頁)

    労働時間が短縮されますと、その労働を使って生産手段に投じた自身の資本価値を増殖しようと考えている資本家にとっては、生産手段の価値そのものが、それだけ収縮するように思えるのはどうしてかを明にしています。
    それは生産手段の価値と、自分自身を増殖しようとする、つまり毎日一定量の他人の労働を無償で飲み込むという生産手段の資本属性との区別がぼやけているからだというのです。
    だから資本家にとっては、自分の工場を売るなら、自分には工場や紡錘の価値だけではなくて、その資本属性をも売ることになるので、その資本属性に対しても支払を受ける必要があると考えるわけです。だからこそ、彼は労働日が2時間短縮されると紡績機の12台の販売価格が10台分に減ると考えたわけです。

(【付属資料】(1)に続く。)

 

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