『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(5)

2024-01-19 00:42:13 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(5)


◎原注171、172

【原注171、172】
  〈171 『工場監督官報告書。1844年9月30日』、13ページ。
    172 同前。〉(全集第23a巻386頁)

  原注171は〈1833年には彼らは脅迫するようにほえたてた、「もし何歳の子供でも1日に10時間ずつ働かせてよいという自由を自分たちから奪うならば、それは自分たちの工場を休止させることだ」(“if the liberty of working children of any age for 10 hours a day was taken away,it would stop their works.")と。十分な数の13歳以上の子供を買うことは彼らには不可能だ、というのである。彼らは、欲しいと思った特権をゆすり取った。この口実は、その後の調査によって、まっかなうそだということが判明したが(171)〉という本文に付けられた原注で、こうした事実の典拠を示すものといえます。
  原注172はそのあとに続く〈それでも、彼らは、10年ものあいだ、椅子(イス)にのせてもらわなければ労働ができないような小さな子供たちの血から毎日10時間ずつ絹を紡ぎ取ることを妨げられなかったのである(172)。〉という一文に対する原注ですが、これもその典拠を示すだけのものです。


◎原注173

【原注173】〈173 “The delicate texture of the fabric in which they were employed requiring'a lighness of touch,only to be acquired by their early introduction to these factories."(『工場監督官報告書。1846年10月31日』、20ページ。)〉(全集第23a巻386頁)

  これは絹工業に対して児童の就学義務を免除した理由として〈「織物の繊細さのためには指の柔らかさが必要であり、この柔らかさはただ早くから工場にはいることによってのみ確保できるものである(173)。」〉と本文で述べられていたものに付けられた原注ですが監督官報告書の同じ文言の原文が紹介されています。


◎原注174

【原注174】〈174 『工場監督官報告書。1861年10月31日』、26ぺージ。〉(全集第23a巻386頁)

  これは本文において1850年法で絹工場における児童の労働時間が半時間延長された口実として〈「絹工場では他の工場でよりも労働が軽く、また、けっしてそれほど健康に有害ではない(174)」というのだった。〉という部分に付けられた原注です。引用部分の典拠を示すだけのものです。


◎原注175

【原注175】〈175 同前、27ページ。一般に、工場法の適用を受けた労働者人口は肉体的に非常に改善されてきた。医師たちの証言はすべてこの点では一致しており、またいろいろな時期の私自身の観察によって私もそれを確信した。それにもかかわらず、そして幼年期の児童の恐ろしい死亡率は別としても、ドクター・グリーンハウの公式の報告は、工場地方の健康状態が「標準的健康状態の農業地方」に比べて不良だということを示している。その証明として、1861年の彼の報告書から特に次の表を引用しておこう。

(全集第23a巻386頁)

  これは本文で政府の医学的調査が証明したものとして引用されている〈「絹業地方の平均死亡率は例外的に高く、しかも人口のうちの婦人部分ではランカシャの綿業地方に比べてさえより高いのである(175)。」〉という部分に付けられた原注です。
   〈同前、27ページ。〉ということはその前の原注174にある〈『工場監督官報告書。1861年10月31日』〉の27ページにこうした医学的調査の結果が紹介されているということでしょう。
  一般的には、工場法の適用を受けた労働者人口は肉体的にも非常に改善されてきた事実が指摘されています。『61-63草稿』では次のような監督官報告書からの紹介がなされています。

  〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。
  「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(同前、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④355-356頁)

  そしてマルクス自身の観察によってもそれが確信できるとも述べています。
  しかしそれにも関わらず、幼年期の児童の死亡率の高さは別にしても、工業地方の健康状態の悪さは相変わらずだとドクター・グリーンハウの公式の報告から主な工業地方と農業地方の8地区とを比較する表を紹介しています。
  このあたりのものを論じている『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。ここでは表の分析部分も紹介されています。

  〈「ドクター・グリーンハウの報告から、女子と児童労働が広範に使用されている絹などの織物その他の工業地方における肺病による死亡率と、イギリスの標準的な健康状態にある(農村)地方のそれとをくらべてみよう。  
〔以下、191ページ上段の表がつづく。〕(表は原注175に掲げられているものと同じ)
  この表から認められるように、どの地方でも、/またどの業種でも、その平均死亡率は男の場合も女の場合も、健康な8地方の平均死亡率の2倍以上である。……こういう結果は原因を道徳的なものに求めても、あるいは気候上の事柄に求めても、とうてい説明はつかないように思われる。だから密集した労働のなかにあるなにかが労働者の健康に危険な影響を及ぼしていて死亡率を高める結果を生んでいるとする、ドクター・グリーンハウその他の検査官たちの見解が裏づけられるのである。」(『工場監督官報告書、1861年10月31日〔にいたる半年間〕』、ロバト・ベイカーの報告、28ページ。)〉(草稿集⑨190-191頁)


◎原注176

【原注176】〈176 人の知るように、イギリスの「自由貿易論者」は絹工業のための保護関税をしぶしぶ断念した。フランスからの輸入に対抗する保護に代わって、今後はイギリスの工場児童の無保護が役だつのである。〉(全集第23a巻387頁)

  これは〈工場監督官たちの抗議は半年ごとに繰り返されてきたにもかかわらず、この不法は今日まで続いているのである(176)。〉というパラグラフの末尾の一文に対する原注です。
  こうした絹工業の児童労働に対する不法というのは、イギリスの絹工業がフランスからの絹製品の輸入に対抗するための保護関税を「自由貿易」を掲げる手前、しぶしぶ撤廃した代償として役立っているのだという指摘がなされています。

  イギリスの絹工業における保護関税についてAI(CatGPT)で調べると次のような説明がありました。
  〈スミスフィールド条約 (1824年): イギリスはフランスとの間でスミスフィールド条約を締結し、フランスからの絹製品の輸入に対して保護関税を導入しました。これにより、国内の絹産業を守るための一環として、一定の輸入制限や課税が行われました。〉
  それが撤廃された事情については
  〈全般的な傾向として、19世紀後半においては保護関税の撤廃や自由貿易が進展していったと言えます。
  特に1840年代から1850年代にかけて、イギリスでは自由貿易の考え方が強まり、関税法の大幅な改革が行われました。例えば、1846年にはコーン法(Corn Laws)が廃止され、穀物の輸入関税が大幅に緩和されました。これは保護主義から離れ、自由貿易路線に進む一環でした。〉
  というものです。


◎第34パラグラフ(1853年にようやく1850年法の児童労働に対する規定がない欠陥が補足された)

【34】〈(イ)1850年の法律は、ただ、「少年と婦人」について朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変えただけだった。(ロ)だから、児童については変わったところはないのであって、彼らは、その労働の総時間は6時間半を越えてはならなかったとはいえ、相変わらずこの12時間が始まる前に半時間、それが終わってから2時間半利用されてよかったのである。(ハ)この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出された。(ニ)しかし、むだだった。(ホ)背後には、好況期には児童を補助とする成年労働者の労働日を再び15時間にねじ上げようとする意図が待ち伏せていた。(ヘ)次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示した(177)。(ト)こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足された。(チ)それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した(178)。(リ)最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた(179)。〉(全集第23a巻387頁)

  (イ)(ロ) 1850年の法律は、ただ、「少年と婦人」について朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変えただけでした。だから、児童については変わったところはなかったのであって、彼らは、その労働の総時間は6時間半を越えてはならなかったとはいえ、相変わらずこの12時間が始まる前に半時間、それが終わってから2時間半利用されてよかったのです。

  ここらあたりの事情は『歴史』でも次のように述べています。

  〈だが、一般的に、1850年法の実効性については満足の意が表明されたけれども、依然としていくつかの適用もれが残されていた。その主な適用もれは児童に関するものであり、児童に対しては、まだ標準労働日が制定されていなかった。1850年法は1847年法を修正したものであり、その1847年法は婦人と年少者の労働だけを対象としていた。そうであるから、1844年法によれば、依然として、午前5時30分から午後8時30分までのあいだであるならば、8歳から13歳までの児童をどの時間に働かせても合法であるとされていた。〉(108頁)

  1850年法ではじめて標準労働日がはっきりと決められたが、しかしそれは少年と婦人労働者に対象が限定されており、児童に対する規定はなにもなかったというのです。もちろん1844年法によって13歳未満の児童の労働は1日6時間半、一定の条件のもとでは1日7時間と決められていましたが、しかし依然として午前5時半から午後8時半までのあいだであるならいつでも資本の都合で働かせることができたということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出されました。しかし、むだでした。背後には、好況期には児童を補助とする成年労働者の労働日を再び15時間にねじ上げようとする意図が待ち伏せていたのです。

  そのあたりの事情も『歴史』を参考に紹介しておきましょう。

  まず〈この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出された〉とありますが、それは恐らく次のようなものだったのではないかと思われます。

  〈1850年に、257工場が3,742人の児竜を雇用し、婦人と年少者が仕事を終わったのち、かれらを助手として18歳以上の大人の男子のもとで働かせている、と監督官は報告している。このようなやり方がひろまり、数多くの脱法行為が行なわれた〉(108頁)

  つまり少年と婦人労働者の仕事が終わったあとに(あいはその前に)児童を大人の男子労働者の補助として使って、大人の男子労働者の労働時間を15時間に延長しようとしていたということのようです。
  次に1850年法に児童労働に関する規定も盛り込もうとする動きについては……

  〈1850年、アシュリィ卿は修正法のなかに児童をふくめることが必要であると主張し、その趣旨にそった修正案を提出した。だが、その修正案は、つぎのような理由によって、2度とも--一度目は30票の差で、二度目は1票の差で--否決された。すなわち、アシュリィ卿の本当の動機は、働く児童に対する同情からでたものではなく、大人の男子の労働を制限したいという要求からでたものであり、かれらは児童が補助しなければ、工場の仕事を遂行することができない、というのがその理由であった〉(108頁)

  要するに資本は、少年や婦人が仕事が終わったあとに、児童を18歳以上の大人の男子労働者の補助として働かせることに利益を見いだしていたからであり、それによって成年労働者の労働日を再び15時間に延長しようという意図があったからだということです。

  (ヘ)(ト) 次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示しめしました。 こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足されたのでした。

  『歴史』でも児童を大人の補助として少年や婦人が仕事を終えたあとに利用するという無法がまかり通ったので〈このようなやり方がひろまり、数多くの脱法行為が行なわれた結果、「時間短縮委員会」は運動を再開した。〉(108頁)とのべています。
  労働者たちは労働時間の制限をすべての労働者に適用するためには、動力機の使用を制限するべきだと主張し、ランカシャやヨークシャにおいていくたびも集会を開いたと述べています。1850年1月、トッドモーデンの大集会では〈「多くの地方において、工場法の諸条項違反がある。そのため、同法を忠実に守っている雇主は明らかに不利な立場に立たされ、また労働者はいちじるしい重荷を負わさ/れている。そうであるから、そのような違反を防ぐ唯一の有効な手段は動力機の使用制限である、というのが当集会の意見である。」〉(108-109頁)という決議がなされたということです。そして次のように書かれています。

  〈つづく数年間、「10時間労働日法」をその本来の姿に戻すことを目的として、大規模で熱狂的な集会がつぎつつぎと開かれた。そうして、演説者たちが一貫して主張したことは、動力機の使用を制限しないかぎり、この目的を達成することができない、ということであった。かれらはすべての工場立法が間接的に大人の男子の労働を規制したことを十分に理解していたが、いまや、労働時間制限を直接かれら自身にも拡張すべきである、と堂々と要求するようになった。〉(109頁)

  1853年法については次のように述べています。

  〈同法によって、標準労働日は児童に拡張された。児童の法定労働時間--すなわち、毎日6時間半、または1週3日は10時間--はこれまでと同じであったが、もはや児童を午前6時以前または午後6時以後に働かせてはならない、と規定された。そうして、水力によって操業している工場で損失時間が生じた場合、そのような損失時間を取り戻すために児童を1日1時間以上働かせてはならない、と規定された。〉(111頁)

  (チ)(リ) それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制したのです。それは最初の工場法の制定以来、すでに半世紀が流れ去っていたのでした。

  『歴史』も次のように書いています。

  〈この1853年法は、法律によってすべての保護該当者に一律労働日を制定するという好ましい結果をもたらし/た。すなわち、それ以降、使用者はもはや1日に15時間操業することができなくなった。〉(111-112頁)

  ここにようやくすべての労働者を対象にした標準労働日が制定されたわけてす。それは1802年に最初の労働日の法的規制が問題になってから、すでに半世紀(51年)も経っていたのです。
  もっとも1853年法以降も悪質な雇主はさまざまな違法を行為を引き続き行ったとも『歴史』は次のように書いています。

  〈だが、全体としてみるならば、最初のうち、製造業主は標準労働日を守っていたけれども、しばらくすると、かれらは監督官が「噛り取り」と名づけたものにふたたび手をだしはじめた。すなわち、この「噛り取り」とは、朝の6時数分前から仕事をはじめ、夜の6時10分過ぎまで仕事をつづけることによって、労働時間を延長し、食事時間の始めと終りの数分間をぬすんで就業させることによって、食事時間を短縮するというやり方である。このようにして、悪質な雇主は1年間に1ヵ月分の追加労働を手に入れることができたが、これに対して、監督官はそのやり方をやめさせる権限をほとんどもっていないことに気づいた。1844年法によれば、「反証があげられないかぎり」工場内に人さえいれば、仕事中とみなされた。ホーナー氏はつぎのようにのべている--「いまでは、悪質な工場主にとって、反証をあげることほど容易なことはない。監督官が巡察に来るとすぐに、かれは蒸気機関をとめ、そうしてすべての作業をやめさえすればよい。だが、監督官はあらゆる情報のなかから、かれに訴えでた特定の人物が実際に就業させられていたということを証明しなければならない。1日の総労働時間は細分化された時間からなっており--そうして、それは労働日を6つの異なった時間に分けて行なわれる--違法作業がはじまるとすぐに、監督官が工場に来たことを知らせるために見張り人がおかれ、監督官の姿がみえるとすぐに、発動機をとめ、労働者を工場の外に出す合図が送られるのである。」〉(112頁)


◎原注177

【原注177】〈177 『工場監督官報告書。1853年4月30日』、30べージ。〉(全集第23a巻387頁)

  これは〈次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示した(177)。〉という本文に付けられた原注です。
  1850年法の欠陥を突いて、資本は児童を少年や婦人の仕事が終わったあとに成年男子労働者の補助として使い、成年男子労働者の労働時間を再び15時間に延長しようと策動したのですが、しかしその試みは労働者の抗議の大集会などによって失敗に終わり、1853年法へと結果したことが工場監督官報告書に書かれているということでしょうか。


◎原注178

【原注178】〈178 (イ)イギリスの綿工業の最盛期、1859年と1860年とには、何人かの工場主は、超過時間にたいする高い労賃という餌(エサ)で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとした。(ロ)手紡工や自動機見張工は、自分たちの雇い主にあてた覚え書によってこの実験をやめさせたが、そこにはなかんずく次のように述べられている。(ハ)「率直に言って、われわれの生活はわれわれには重荷なのである。そして、われわれが他の労働者たちよりも週にほとんど2日」(20時間)「も長く工場に縛りつけられているかぎり、われわれは自分たちをこの国の奴隷にも等しいものと感じ、また、われわれ自身とわれわれの子孫とを肉体的にも精神的にも毒するような制度を永久化するものと心にやましく思うのである。……それゆえ、われわれは、新/年からは、1時間半の法定の中休み時間の控除をも含めて6時から6時まで、週に60時間よりも長くは1分間も労働しないであろうことを、ここに謹告する。」(『工場監督官報告書。1860年4月30目』、30ぺージ。)〉(全集第23a巻387-388頁)

  これは〈こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足された。それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した(178)。〉という本文に付けられた原注です。若干、長いものになっていますので、文節にわけて検討しておきましょう。

  (イ) イギリスの綿工業の最盛期、1859年と1860年とには、何人かの工場主は、超過時間にたいする高い労賃という餌(エサ)で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとしました。

  1859年と1860年の綿工業の最盛期に、何人かの工場主たちは、超過時間への高い労賃の支払をという餌で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとしました。
  調べてみますと1859年にはインドで「綿花飢饉」と呼ばれる不作が発生し、綿花の価格が高騰したために、イギリスでは代替品としてアメリカ産の綿花が輸入されるようになり、1860年には、アメリカ南部で南北戦争が勃発して、やはり綿花の生産が減少し、綿花の価格が高騰したとあります。だから1859年と1860年は必ずしも綿工業の最盛期とはいえないかも知れません。

  (ロ)(ハ) 手紡工や自動機見張工は、自分たちの雇い主にあてた覚え書によってこの実験をやめさせたが、そこにはなかんずく次のように述べられています。「率直に言って、われわれの生活はわれわれには重荷なのである。そして、われわれが他の労働者たちよりも週にほとんど2日」(20時間)「も長く工場に縛りつけられているかぎり、われわれは自分たちをこの国の奴隷にも等しいものと感じ、また、われわれ自身とわれわれの子孫とを肉体的にも精神的にも毒するような制度を永久化するものと心にやましく思うのである。……それゆえ、われわれは、新/年からは、1時間半の法定の中休み時間の控除をも含めて6時から6時まで、週に60時間よりも長くは1分間も労働しないであろうことを、ここに謹告する。」(『工場監督官報告書。1860年4月30目』、30ぺージ。)

  しかしその試みは失敗に終わったということです。手紡工や自動機見張工たちは、雇主たちにあてた覚え書きでそうした試みをやめさせたということです。その覚え書きでは、労働者の生活は苦しく、その上に労働時間が延長されるなら、労働者は奴隷にも等しいと感じさせるものだ、またそうした労働時間の延長を常態化させるなら、自分たちはもちろ自分たちの子孫までも、肉体的にも精神的にも毒する制度を永遠化することになり心やましいと述べ、週60時間を1分たりとも延長することは御免被ると書いているということです。


◎原注179

【原注179】〈179 この法律の用語が、この法律を破るための手段になっていることについては、議会報告『工場取締法』(1859年8月9日)およびそのなかのレナード・ホーナーの『現在ますます広く行なわれている違法作業を監督官が防止しうるようにするための工場法改正提案』を参照せよ。〉(全集第23a巻388頁)

  これは〈最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた(179)。〉というパラグラフの最後の一文に対する原注です。
  ここでは1853年法でようやくすべての労働者(といっても綿業に限定されていますが)を対象にした標準労働日が制定されたというのですが、しかしこの法律の用語が、この法律を破るための手段になっているというのです。その参照指示がされているものは直接には確かめる方法はありませんが、ただ『61-63草稿』にはここに紹介されている〈議会報告『工場取締法』(1859年8月9日)およびそのなかのレナード・ホーナーの『現在ますます広く行なわれている違法作業を監督官が防止しうるようにするための工場法改正提案』〉からの抜粋があります。それがここで指摘しているものかどうかは分かりませんが、紹介しておきます。

  〈「詐欺的な工場主は、午前6時15分前に(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を始め、午後6時15分すぎに(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の始めと終りから5分ずつを奪い取り、また名目上昼食のためにとってある1時間の始めと終りから10分ずつを奪い取る。土隠日には彼は、午後2時すぎに15分間(ときにはもっと長く、ときにはもっと短く)作業をする。
  したがって彼の利得{ここでは利得(ゲイン)はくすね取られた剰余労働と直接に同一視されている}は次のとおりである。
  午前6時以前…… 15分  |
  午後6時以後…… 15分  | 5日間の合計300分
  朝食時…………  10分    | 
  夕食時…………  20分    |
  〔計〕          40分       |
  土曜には
  午前六時以前……15分 |                             朝食時…………  10分     |  1週間の利得の合計340分、
  午後二時以後……15分   |
  〔計〕          40分      |
  すなわち、週に5時間40分であり、これは、祭日や臨時休業の2週間を引いて年間50労働週間を掛ければ、27労働日に等しい」(『工場取締法。1859年8月9日、下院の命により印刷』のなかにある『工場監督官L・ホーナ氏の工場法改正提案』、4、5ページ)。〉(草稿集④344頁)


◎第35パラグラフ(立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域の外に手を伸ばした。)

【35】〈(イ)立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域の外に手を伸ばした。(ロ)資本がこの新しい「無軌道」を許したときのふきげんさは、この法律の一字一句が語っている! (ハ)この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもない。(ニ)それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許している(180)。(ホ)それは議会の早産児である(181)。〉(全集第23a巻388頁)

  (イ) 立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域、つまり綿業の外に手を伸ばしたのです。

  この1845年の「捺染工場法」の成立過程について『歴史』はかなり長々と書いていますが、中間を端折れば次のようになります。

  〈1845年2月、アシュリィ卿は捺染場における児童の労働時間を制限するための「法案」を提出した。だが、提案された規制は、前年の「工場法」(1844年法) に比べれば、それほど厳格なものでなかったとはいえ、議会の賛成をえるために、同卿はかなり苦労し、低姿勢で弁明に努めた。……/同法(アシュリィ卿の法案に対して出されたさまざまな条件を受け入れた妥協案--引用者)はわずかにつぎのような制限を課したにすぎなかった。すなわち、捺染場において、8歳未満の児童を働かせてはならない。午後10時から午前6時までのあいだ、13歳未満の児童または婦人を働かせてはならない。6ヵ月のうち30日は、13歳未満の児童を通学させなければならない、以上であった。〉(131-133頁)

  しかしこの法律によって工場法はその元来の領域、つまり綿業からはじめてそれ以外の領域に手を伸ばしたといえるわけです。

  (ロ) 資本がこの新しい「無軌道」を許したときのふきげんさは、この法律の一字一句が語っています!

  この法律の一字一句と言われてもよく分からないですが、アシュリィ卿がこの法案を提案した及び腰にもかかわらずそれに対する反撃の内容について上記に引用した『歴史』の一文で省略した部分を紹介しておきましょう。 それは次のようなものです。

  〈同卿は「同じ種類の問題をたびたび持ち出して」、自分が「議会をまったくうんざり」させないだろうかと憂慮した。同卿は、一方的な博愛家であり、自分が攻撃する害悪よりも一層大きな害悪に対しては目をつぶっている、といって再三にわたって皮肉られた。これに対して、一度にすべてのことを解決することはだれにもできない、と反論しても無駄であった。同卿が「10時間労働日法案」を最初に提出したとき、かれの反対者たちはかれに炭坑を視察させた。そうして、かれが炭坑についたとき、かれは捺染場の問題について問いただされ--「貴方はどの点でやめるのですか」と再三にわたって問われた。これに対して、アシュリィ卿はつぎのように答えた。「この巨大な害悪の一部でも除去されずに残っているかぎり、わたくしはどこまでもやめませ/ん。これがわたくしの答えです。」同卿の願望と野心は、「わが国のすべての働く児童に教育をさずけ、その機会を与えること--(もしかれらが教育の実施によって利益をえるならば)幸福で有益な市民の一員に加えること」であった。同卿がこのときに提出した「法案」はその一部にすぎなかったが、このような包括的な工場法政策を同卿が大胆に打ち出したことが議会を驚かせたことは、疑いのないところであった。ジェイムズ・グレイアム卿はアシュリィ卿のあとで演説し、この点を取り上げ、自分はそれを「深刻に考えねばならない」問題であると考えている、とのべた。グレイアム卿は、捺染労働と普通の工場労働とのあいだには差異があることを指摘した。「機械の使用によって、工場労働は必然的に一ヵ所で行なわれる--その結果、容易に監督を行なうことができる--その結果、脱法行為は困難である--その結果、製造業で働いている人びとに対して法律を適用することは容易である。」だが、捺染場における労働は一ヵ所で行なわれるのではなく、分散して行なわれている。その結果、監督は困難であり、脱法行為は容易である。コブデンは一層強い反対論をとなえて、つぎのようにのべた。「綿工場においては、仕事は蒸気機関によって制約されている。すなわち、蒸気機関がとまれば、すべての機械がとめられる。だが、キャラコ捺染場においては、半数以上の労働者が機械とは無関係に働いている。」
  ジェイムズ・グレイアム卿は、アシュリィ卿の「法案」が染色業、漂白業、つやだし業というまったく異なった作業が行なわれている仕事場を適用対象にふくめていることに、強く反対した。また、かれは、同産業における労働に対する需要が不確定であるという理由によって、労働時間制限に反対した。「受注期には、すべてのことは仕事が滞りなく行なわれるかどうかに依存している。」「そうであるから、注文が殺到しているあいだ、この労働を制限するためになんらかの対策を講じたならば、雇主に対してだけでなく、大人の男子労働者に対しても、また児童自身に対してさえも、金銭的な損害を与える。」他方、グレイアム卿は、8歳未満の児童の雇用を禁止し、13歳未満の児童と婦人の深夜業を禁止することに関しては、アシュリィ卿に賛成の意を表明した。ただし、これには、染色業、漂白業、つやだし業についての規定と、児童労働を1日8時間に制限することについての規定を、法案から削除することを条件付けた。アシュリィ卿はこの妥協案を受け入れることにきめた。〉(131-132頁)

   (ハ)(ニ)(ホ) この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもありません。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許しています。それは議会の早産児といえます。

  この捺染業に最初に適用された工場法は、8歳から13歳までの児童と婦人の労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限したというのです。16時間で「制限」というのは驚きです。しかもその間に食事のための中休みについて何も規定はなかったということです。さらに13歳以上の男子労働者については、昼夜を問わずこき使うことを許しているというのです。つまり夜間労働も許していることになります。まったく工場法としての意義がほとんとないに等しい規制ですが、それでもようやく綿業以外に法の規制が及んだ最初のものだったということのようです。だからこの法律はまったく不十分なままに法になったという意味で、〈議会の早産児〉だとマルクスは特徴づけています。
  すでに紹介しましたが『歴史』も次のように述べていました。

  〈同法(アシュリィ卿の最初の法案に対して出されたさまざまな条件を受け入れた妥協案--引用者)はわずかにつぎのような制限を課したにすぎなかった。すなわち、捺染場において、8歳未満の児童を働かせてはならない。午後10時から午前6時までのあいだ、13歳未満の児童または婦人を働かせてはならない。6ヵ月のうち30日は、13歳未満の児童を通学させなければならない、以上であった。〉(133頁)


◎原注180

【原注180】〈180 「最近の半年間」(1857年)「私の管区では8歳以上の子供たちは実際に朝の6時から晩の9時までこき使われていた。」(『工場監督官報告書。1857年10月31日』、39ページ。)〉(全集第23a巻388頁)

  これは1845年の「捺染工場法」について、〈この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもない。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許している(180)。〉という本文に付けられた原注です。
  この監督官報告書では、8歳以上の子供たちが朝の6時から晩の9時までこき使われていたというのですから、15時間労働ということになります。『工場法の規定より1時間少ないですが、しかしそれでも大変な労働時間には変わりはありません。この監督官報告書が引用されています『61-63草稿』からの一文を紹介しておきましょう。

  〈工場監督官によれば、イギリスの捺染工場の労働時間はまだ事実上無制限であり、またここでは、1857年でもまだ、8歳以上の児童が朝の6時から晩の9時まで(15時間)〔働かされて〕いる。「捺染工場の労働時間は、法定の制限があるにもかかわらず、実際上は無制限であると考えてさしつかえない。労働にたいする唯一の制限は、捺染工場法(ヴィグトーリア女王治下第8年および第9年法律/第29号)の第22条に含まれているものであって、それの規定によれば、児童--すなわち8歳以上13歳未満の児童--を夜間働かせてはならないのであるが、ここで言う夜間というのは、午後10時から翌朝の午前6時までのことと定義される。それゆえ8歳の児童を多くの点で工場労働に似た労働に就かせること、しかもしばしば、むっとするような温度の部屋で、休憩や休息のために仕事を休むこともなく連続的に午前6時から午後10時まで(16時間)労働に就かせることが、法的に許されているのである。そして13歳に達した少年は、合法的に、昼夜を関わずどれだけの労働時間でも、少しの制限も受けずに働かしてよいのである。私の管区では、この半年問、8歳以上の児童は午前6時から午後9時まで働かされてきた」(『工場監督官報告書。1857年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1857年、39ページ、A・レッドグレイヴ氏の報告)。〉(草稿集④345-346頁)


◎原注181

【原注181】〈181 「捺染工場法は、その教育条項から見ても保護条項から見ても、一つの失敗と認められている。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、52ページ。)〉(全集第23a巻388頁)

  これはパラグラフの最後の〈それは議会の早産児である(181)。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり早産児であるということの根拠として、工場監督官報告書でも〈一つの失敗と認められている〉という指摘を紹介しているのでしょう。


  ((6)に続く。)

 

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