『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(10)

2024-04-18 22:39:18 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(10)


【付属資料】(4)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働の生産性は--商品の分析のさいに見たように--、労働が表わされる生産物ないし商品の価値を高めるものではない。諸商品に含まれている労働時間が、所与の諸条件のもとで必要な労働時間、つまり社会的必要労働時間であると前提すれば--そしてこれは、商品の価値がそれに含まれている労働時間に還元されたのちにはつねに出発点とされる前提である--反対に次のことが起こる。すなわち、労働の生産物の価値は労働の生産性に反比例する、ということである。実際には、これは〔前提と〕同義の命題である。この命題が意味するのは、労働がより生産的になれば、それは同じ時間に同じ使用価値のより大きな量をつくりだすこと、同種の使用価値のより大きな量に体化されることができる、ということだけである。この使用価値の一可除部分、たとえば1エレのリンネルはその後はそれ以前よりも少ない労働時間を含む、したがって交換価値はより小さい。もっと厳密に言えば、1エレのリンネルの交換価値は、織布労働の生産性が増大したのと同じ割合で低下したのである。反対に、もしも1エレのリンネルを生産するのにこれまでよりも多くの労働時間が必要とされるならば(たとえば、1重量ポンドの亜麻を生産するのにより多くの労働時間が必要とされることから)、1エレのリンネルはいまではより多くの労働時間を、したがってより高い交換価値を含むことになる。それの交換価値は、それの生産に必要な労働が以前よりも不生産的になったのと同じ割合で増加することになる。つまり総労働日--平均的標準労働日--をとれば、それの生産物の総額の価値は、労働が以前/よりも生産的になろうと不生産的になろうと、それにはかかわりなく、変化しない。というのは、生産された使用価値の総額は、いままでと同様に1労働日を含んでおりな相変わらず同じ分量の、必要な社会的労働時間を表わしているからである。これにたいして、日々の総生産物の一可除部分あるいは一部分生産物をとれば、それの価値は、それのなかに含まれている労働の生産性に反比例して増減する。〉(草稿集④389-390頁)
  〈したがって、個々の商品の価値は、労働の生産性に比例するのに、所与の労働時間が体化される生産物総額の価値は、労働の生産性がどのように変化してもそれによっては影響を受けず、変化しないのであるが、それにたいして剰余価値は労働の生産性に左右されるのであって、一方で商品がその価値で売られ、他方で標準労働日の長さが与えられている場合には、剰余価値は労働の生産性の向上の結果としてのみ増大しうるのである。剰余価値は商品にかかわるものではなくて、それが表現するのは総労働日の二つの部分のあいだの--すなわち労働者が彼の賃銀(彼の労働能力の価値)を補填するために労働する部分と彼がこの補填を越えて資本家のために働く部分とのあいだの--関係なのである。この両部分がいっしょになって一労働日の全体をなすのであるから、またそれらは同じ一全体の部分なのであるから、明らかに、この両部分の大きさは反対の関係にあるのであって、剰余価値、すなわち剰余労働時間は、必要労働時間が減少するか増加するかに従って、増加し、あるいは減少する。そして、必要労働時間の増減は、労働の生産性にたいして反対の関係にあるのである。〉(草稿集④391頁)
  〈相対的剰余価値のところで、労働能力の価値は労働の生産性に反比例するのであって労働の生産性が発展していくのと同じ度合いで低下していく、ということを述べたが、このことは、まったくのところ、次の一般的命題の一つの個別的応用でしかない。すなわち、一商品の価値はそれのなかに実現されている労働の分量あるいは労働時間の大きさによって規定されているのだ、それの価値は、それをつくりだすことができる労働が減少するのに比例して低下するのだ、そして労働の生産力の発展とは、総じて、同じ分量の諸商品(使用価値)を生産するのに充用される労働分量が減少していくことを可能にするような諸条件の発展の/ことにはかならないのだ、だから、一商品の価値は、それをつくりだす労働の生産力の発展につれて低下していくのだ、という命題である。〉(草稿集⑨401-402頁)

《初版》

 〈商品の価値は労働の生産力に反比例する労働力の価値も、商品の価値によって規定されるものであるから、同様である。これに反して、相対的剰余価値は労働の生産力に正比例する。それは、労働の生産力が上がるにつれて上がり、労働の生産力が下がるにつれて下がる。12時間という社会的な平均労働日は、貨幣価値を不変であると前提すれば、いつでも6シリングという同じ価値生産物を生産するのであって、このことは、この価値総額が、労働力の価値の等価と剰余価値とのあいだでどのように分割されるかには、かかわりがない。ところが、労働の生産力の上昇の結果、日々の生活手段の価値、したがって労働力の日価値が、5シリングから3シリングに下がれば、剰余価値は1シリングから3シリングに上がる。労働力の価値を再生産するためには、10労働時間が必要であったが、いまでは6労働時間しか必要でない。4労働時間が解放されて、剰余労働の領域に併合されうるわけである。だから、商品を安くするために、そしてまた、商品を安くすることによって労働者そのものを安くするために、労働の生産力を高めることは、資本の内在的な衝動であり、資本の不断の傾向でもある(5)。〉(江夏訳362頁)

《フランス語版》

 〈商品の価値は、それを産む労働の生産性に反比例する。労働力の価値は商品の価値によって規定されるから、労働力についても同様である。逆に、相対的剰余価値は労働の生産性に正比例する。前者は後者とともに上下する。所与の限界をもつ社会的平均労働日は、つねに同じ価値を生産し、この価値は、その総額が賃金と剰余価値とに分配される割合/がどうあろうとも、貨幣の価値が変わらないかぎり、つねに同じ価格、たとえば6シリングのうちに表現される。だが、労働生産性の増大の結果、必要生活手段がいっそう安くなれば、労働力の日価値はたとえば5シリングから3シリングに下がり、剰余価値は2シリング増加する。労働力を再生産するためには、当初は1日に10時間が必要であったが、いまでは6時間で充分である。このようにして4時間が解放され、剰余労働の領域に併合されうるのである。資本は、商品の価格、したがって労働者の価格を引き下げるために、労働の生産力を増大する不断の性癖と不変の傾向とをもっている(6)。〉(江夏・上杉訳330-331頁)

《イギリス語版》

  〈(11) 商品の価値は、労働の生産力に反比例する。そしてそのように同じく、労働力の価値もそれに反比例する。なぜならば、それが、商品の価値に依存しているからである。相対的剰余価値は、逆である。生産力に直接的に正比例する。それは生産力の上昇に応じて上昇し、生産力の下落に応じて下落する。貨幣の価値が一定であるとするならば、12時間の平均的社会的労働日は常に、同じ、新たな価値、6シリングを生産する。それが剰余価値と賃金の間でどのように配分されようと全く関係はなく生産する。しかし、もし、増大した生産力によって、生活必需品の価値が下落するならば、そして、日労働力の価値が、そのため、5シリングから3シリングに減少するならば、剰余価値は、1シリングから3シリングに上昇する。労働力の価値の再生産のために、10時間が必要だったが、いまや、ただの6時間が必要とされる。4時間が自由なものとなる。そして剰余労働の領域に併合されることも可能となる。以来、労働の生産力の強化は、商品を安くするために、そしてそのように安くすることで、労働者自体を安くするために、資本における性向かつ定常的傾向として、資本家に内在するところとなった。*6〉(インターネットから)


●原注5

《61-63草稿》

  〈機械装置および平均賃金
   「賃金は、生産諸力が増大するのと同じ割合で、減少させられる。機械装置はたしかに生活必需品安価にするが、しかし、それはまた労働者をも安価にする。」(『競争と協同との功罪に関する懸賞論文』、ロンドン、1834年、27ページ。)/
   「機械が人間労働と競争するようになるやいなや、人間労働の賃金は、機械によるよりわずかな生産費に合わせられ始める。ターナー師は、1827年には、工業地域チェシャーのウィルムストウの教区長であった。移民委員会の質疑とターナー氏の応答は、どのようにして機械にたいする人間労働の競争が維持されているか、を示すものであった。質問。」「力織機の使用は、手織機の使用に取って代わったのではないのですか?」「答え。たしかに取って代わりました。もし手織機を使う織工たちが賃金の引下げに甘んじることができなかったなら、力織機の使用は、すでにそうしたよりもはるかに急速に、手織機を使う織工たちに取って代わっていたでしょう。」質問「しかし手織機を使う織工は、それに甘んじ、自分を養うのには不十分な賃金を受け取っています……。」答え「……事実、手織機と力織機との競争は救貧税によって維持されています。」「こうして、……屈辱的な受給貧民や国外移住が、勤勉な人々が機械の導入から受ける利益であり、彼らは、尊敬すべき、ある程度独立した職人から、慈善の恥ずべきパンで暮らす卑屈な貧乏人におとしいれられるのです。これを彼らは『一時的な不便』と呼んでいます。」{同前、29ページ。)
   「こうして、機械のこの弁護人(ユアにもあてはまる)は、改良を抑制することは労働者のためになると言いつつも、……実際には、ゆがんだ社会が機械の改良を有害なものとしていることを白状しているのである。われわれに人間の創意工夫の進歩を嘆かしめる体制の弁護人たちよ、恥を知るがよい。」(30ページ。)
   「たとえ労働者の収入が固定されていても、それ(機械装置)のおかげで、労働者は自分の収入で以前より多く購買することができる。ところが、もし機械装置が彼から仕事を取り上げるならば、それは彼からその収入をも取り上げるのである。そして失業させられるそれらの労働者たちは、就業している労働者たちと競争する。」(〔同前、〕27ページ。)
  「機械装置は、労働者の賃金を減少させることのほかに、労働者にたいして、その減少した賃金を得るためにさえ、より長く労働することを余儀なくさせる。以前には、彼は24時間のうち約9時間を彼の職業に費やしていた。さら/に、彼には地域の休日がもっとたくさんあった。」(〔同前、〕30ページ。)〔この著者は〕マルサスから次のように引用している。
   「彼らは、機械装置--これは一見して人間の労苦の総計を最も目立って少なくする--にかんして発明につぐ発明がなされたことを知っている。しかし、すべての人々に豊かさ、余暇、幸福を与えるこれらの明日な手段にもかかわらず、彼らは依然として、社会の大衆の労働は少なくならず、彼らの状態は悪化しなかったとしても、なんら際だって改善されていないと見ている。」(〔マルサス〕『人口の原理』、第五版、第二巻。)〉(草稿集⑨476-478頁)
   〈{『穀物輸出奨励金の廃止に関する考察。一友人あての数通の手紙。「穀物価格土地の価値を判断するためのなんらの標準でもないこと、土地の価値は土地のいろいろな生産物低廉になるのに比例して騰貴するであろうこと」、を示す追伸を付す』、ロンドン、1753年。これらの手紙は、はじめ『〔ジェネラル・〕イーヴニング・ポスト』紙に掲載されたものである。
    この男は、絶対的自由貿易論者であり、また、サー・M・デッカーとはちがって、航海条例の撤廃にも賛成している。……しかし彼はまた、資本主義的生産のすべての諸制限の枠内に屈服しようとしている。……
   「貿易の利益のためには、穀物やその他の食糧品がすべてできるだけ安価であることが求められる。というのは、それらを高くするものがなんであろうと、それはまた労働をも高くするにちがいないからであり、したがってまた製造品の売上げを減らすにちがいないからである。」(3ぺー/ジ。)〉((草稿集⑨706-707頁)
    〈「そして、もし生活必需品がより安い値段で手にはいるようになれば、事態はいっそう悪くなるだろう。……このことは、イギリスのすべての労働者についてあてはまる。というのも、イギリスでは、ほとんどすべての種類の製造業に独占権が与えられており、また、産業家は、彼らのためによく働いてくれそうな人手を雇うことは許されておらずもっぱら法律によって資格を与えられた者だけに制限されているからである。……産業が規制されていない国々ではどこでも、食糧品の価格は労働の価格に影響を及ぼすにちがいない。生活必需品の価格が安くなれば、労働の価格はつねに低落するであろう。」(三ページ。)〉(草稿集⑨708頁)

《初版》

 〈(5)「労働者の出費がどんな割合で減らされようとも、それと同時に、産業に課せられている諸拘束が廃止されれば、同じ割合で彼の賃金も減らされるであろう。」(『穀物輸出奨励金の廃止にかんする考察、ロンドン、1752年』、7ページ。)「商売の利益は、穀物やすべての食料ができるだけ安くなることを要求する。なぜならば、それらを高くするものはなんでも、労働をも高くするにちがいないからである。……産業が拘束を受けていないどの国でも、食料の価格は労働の価格に影響するにちがいない。生活必需品が安くなれば、労働の価格は必ず引き下げられるであろう。」(同上、3ページ。)「賃金は、生産諸力が上昇するのと同じ割合で減らされる。機械は確かに生活必需品を安くはするが、機械はまた労働者をも安くする。」(『競争と協同との功罪の比較にかんする懸賞論文、ロンドン、1834年』、27ページ。)〉(江夏訳362-363頁)

《フランス語版》

 〈(6) 「労働者の出費がどんな割合で減らされようとも、それと同時に、産業に課せられているいっさいの制約が廃止されるならば、同じ割合で彼の賃金も減らされるであろう」(『穀物輸出奨励金の廃止にかんする考察』、ロンドン、1753年、7ページ)。「商売の利益は、小麦やすべての生活手段ができるだけ安いことを要求する。それらの値段を上げるものはすべて、労働の値段をも同じように上げるはずだからである。……産業が制約されていないどの国々でも、生活手段の価格は労働の価格に影響するにちがいない。必需品がもっと安くなれば、労働の価絡は必ず引ぎ下げられるであろう」(同上、3ページ)。「賃金は、生産力が増大するのと同じ割合で下がる。確かに機械は必需品の価格を引き下げるが、まさにそのことによって労働者の価格をも同じように引き下げる」(『競争と協同との功罪の比較にかんする懸賞論文』、ロンドン、1834年、27ページ)。〉(江夏・上杉訳331頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 6 * 「労働者の支出の割合がどのように減少させられようと、もし、産業を拘束するものが同時に解除されるならば、同じ割合で、彼の賃金も減少させられるであろう。」(「穀物輸出助成金の廃止に関する考察」他 ロンドン 1753年) 「商売の利益は、穀物や全ての食料ができうる限り安くあるべきであることを要求する。それらのものを高くすれば、労働もまた同じように高くなるに違いないからである。…. あらゆる国において、産業が拘束を受けていなければ、食料品の価格が労働の価格に必ず作用する。労働の価格は、常に、生活必需品が安くなるならば、縮小させられるであろう。」(前出) 「賃金は、生産力の増大と同じ比率で減少される。機械は、まさに真実、生活必需品を安くする。それがまた、労働者を安くする。」(「競争と協業の各メリットの比較に関する懸賞評論」 ロンドン 1834年)〉(インターネットから)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈このところで、次の二つのことが注意されなければならない。--
    第一に。交換価値を目的とし交換価値によって支配される生産が個々の生産物の価値の最小限を追い求めるということは、一つの矛盾のように見える。しかし、生産物の価値それ自体は、資本主義的生産にとってはどうでもよいことである。それの目的は、できるかぎり大きな剰余価値の生産である。だからまたそれは、個々の生産物の、個々の商品の価値によって規定されているのではなく、剰余価値の率によって、つまり商品のうち可変資本を表わす部分の、その変化量にたいする、すなわち可変資本の価値を超えて生産物に含まれている剰余労働にたいする比率によって規定されている。それの目的は、個々の生産物が、だか/らまた生産物総量ができるだけ多くの労働を含むということではなくて、できるだけ多くの不払労働を含むということなのである。〉(草稿集⑨391-392頁)

《初版》

 〈商品の絶対的価値は、その商品を生産する資本家にとっては、それ自体としてはどうでもよい。彼が関心を抱くものは、その商品のうちに含まれていて販売で実現されうる剰余価値でしかない。剰余価値の実現は、おのずから、前貸しされた価値の補填を含んでいる。ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に正比例して増大するのに、商品の価値は労働の生産力の発展に反比例して低下するので、つまり、同一の過程が、商品を安くするのと同時に、この商品に含まれている剰余価値を増大させるので、交換価値の生産だけを問題とする資本家が、なぜ、商品の交換価値を不断に引き下げようと努力するか、という謎が解けるわけであって、これが、経済学の創始者の一人であるドクター・ケネーが彼の論敵たちを悩ませた矛盾であり、しかも、この矛盾について彼らはケネーに返事をよこしていないのである。ケネーはこう言う。「諸君も認めているように、生産に不都合をきたさずに、工業生産物の製造における費用または高価な労働を節約することができればできるほど、こういった節約はまずまず有利である。なぜならぱ、こういった節約は製品の価格を引き下げるからである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者たちの労働から生まれる富の生産の本領は、彼らの製品の交換価値の増大にある、と信じている(6)。」〉(江夏訳363頁)

《フランス語版》 このパラグラフも3つのパラグラフに分けられていますが、一緒に紹介しておきます。

 〈商品の絶対的価値は、それ自体として考察すれば、資本家にとってはどうでもよい。彼が関心をもつものは、絶対的価値に含まれていて販売によって実現可能である剰余価値だけである。剰余価値の実現ということは、前貸しされた価値の補填と絡みあっている。ところで、相対的剰余価値は労働の生産力の発展に比例して増大するのに、商品の価値は同じ発展に反比例するから、したがってまた、商品の価格を引き下げる同じ工程が商品の価格に含まれている剰余価値を引き上げるから、古くからの謎が解けるのである。すなわち、交換価値だけに専念する資本家がなぜ、この交換価値をまたも引き下げようと絶えず努力するかは、もはや疑問の余地がない。
    これこそ、経済学の創始者の一人であるドクター・ケネーが論敵たちの頭に投げつけた矛盾であって、彼らはなんの回答も見出さなかったのである。/
    ケネーは言った。「諸君が認めているように、手工業者の製作物の製造において、費用または高価な労働を支障なく節約することができればできるほど、この節約は、製作物の価格の低下からますます利益を得ることができるのである。それにもかかわらず、諸君は、手工業者の労働から生じる富の生産は、彼らの製作物の販売価値の増大にある、と信じている」。〉(江夏・上杉訳331-332頁)

《イギリス語版》

  〈(12) 商品の価値、それ自体については、資本家にとってはなんの興味もない。ただ一つ彼を魅了するのは、その中に住んでいる、そして売る事で実現される剰余価値ただ一つである。剰余価値の実現は、前貸しされた価値の払い戻しによってなされることが必要なのである。さて、ここでは、相対的価値は労働の生産力の発展に直接的に比例して増大するが、他方、商品の価値は同じ比率で減少する。一つのまたは同様の過程が商品を安くし、そしてそこに含まれる剰余価値を増加させる。我々は、ここに、ある謎の解法を得る。何故、資本家の唯一の関心事と言えば、交換価値の生産であるはずなのに、その彼が、絶え間もなく、何故、商品の交換価値の押し下げに努力するのか? この謎をして、政治経済学の創始者の一人であるケネーは、彼の論敵を困らせたのである。そしてこの謎に対して、論敵らは、彼に答えを出すことができなかった。
  (13) 「あなた達は次のようなことを認めるはずだ、」と彼は云う。「工業製品の生産においては、生産に支障をきたすことなく、労働への支出と費用をより少なくすることができればできるほど。そのような削減を、すればするほど、より有益なものとなると。なぜならば、出来上がった品物の価格を下落させるからである。だが、依然として、あなた方は、労働者の労働から生じる富の生産が、それらの商品の交換価値の増大の中に存在すると信じている。」*7〉(インターネットから)


●原注6

《初版》

 〈(6)“Ils conviennent que plus on peut,sans préjudice,épargner de frais ou de travaux dispendieux dans la fabrication des ouvragee des artisans,plus cette épargne est profitable par la diminution des prix de ces ourages,Cependant ils croient que la production de richesse qui résulte des travaux des artisans cosiste dans I'augmentation de la valeur vénale de leurs ouvrages"(ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ。)〉(江夏訳363頁)

《フランス語版》

 〈(7) ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、188、189ページ(デール版)。〉(江夏・上杉訳332頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 7 * 上記記述 (13) のフランス語原文を、注として表示している。( ケネー 「商業と職人の労働に関する対話」)〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって商品の価値は、労働の生産性〔の増大〕によってはけっして増大しえない。このことは一つの矛盾を含んでいるようだが、どうか。労働の生産性の増大は、労働がより少ない時間に同じ生産物〈使用価値〉をつくりだすことを意味する。生産物の交換価値の増大は、生産物が以前よりも多くの労働時間を含むことを意味する。〉(草稿集④390頁)
  〈相対的剰余価値が、だからまた独自に資本主義的な生産様式が発展させられるときにとられるすべての方法は、最も抽象的な形態では、次のことに帰着する。すなわちこの生産様式は、個々の商品の価値をそれの最小限に縮減することを、だからまたある与えられた労働時間内でできるだけ多くの商品を生産することを、言い換えれば労働対象の生産物への転化をできるだけ少ない分量の労働で、最も短い労働時間のうちにやりとげることをめざす、ということである。そもそも労働の生産性とは、最小限の労働をもって最大限の生産物を提供すること、言い換えれば、最小限の労働時間を最大限の生産物のかたちで実現すること、それゆえ個々の生産物の価値をそれの最小限に縮減することにはかならないのである。〉(草稿集⑨391頁)

《初版》

 〈だから、労働の生産力の発展から生ずる労働の節約(7)は、資本主義的生産では、けっして労働日の短縮を目的とし/てはいない。それは、一定の商品量の生産に必要な労働時間の短縮だけを目的としている。労働者が、彼の労働の生産力の上昇によって、1時間にたとえば以前の10倍の商品を生産し、したがって、各1個の商品には以前の10分の1の労働時間しか必要としないということは、相変わらず彼を12時間労働させ、この12時間内に、以前の120個ではなく1200個を生産させる、ということをけっして妨げるものではない。それどころか、これと同時に彼の労働日が延長されて、彼がいまや14時間で1400個を生産する、等々のこともありうる。だから、マカロック、ユア、シーニァー輩の型の経済学者やこのたぐいのすべての人々の著書を読むと、あるぺージには、生産諸力の発展は必要な労働時間を短縮するものであるから、労働者はこの発展を資本に感謝すべきだ、と書いてあり、すぐ次のぺージには、労働者は、10時間ではなくこれからは15時間労働して、この感謝をささげるべきだ、と書いてある。労働の生産力の発展が資本主義的生産のなかで目的としているものは、労働者が自分自身のために労働しなければならない労働日部分を短縮し、まさにそうすることによって、労働者が資本家のために無償で労働しうる別の労働日部分を延長することである。こういった成果が、商品を別に安くしなくてもどの程度まで達成できるかは、相対的剰余価値の特殊な生産方法において現われるであろう。次に、これらの方法の考察に移ることにしよう。〉(江夏訳363-364頁)

《フランス語版》 このパラグラフも2つに分けられて、最初パラグラフのあとに原注8が入っていますが、原注は別途紹介することにして、ここでは2つのパラグラフを一緒に紹介しておきます。

 〈資本主義的生産では、生産力の発展による労働の節約(8)は、けっして、労働日の短縮を目的とするものではない。そこでの問題は、一定量の商品を生産するために必要な労働の短縮だけである。労働者が、自分の労働の増大した生産性のおかげで、たとえば1時間で以前より10倍多く生産するということ、換言すれば、彼が各1個の商品について以前の10分の1の労働を支出するということは、彼に引き続き12時間労働させ、この12時間中に120個でなく1200個を生産させること、あるいは、彼の労働日を18時間に延長して1800個を生産させることさえ、けっして妨げるものではない。したがって、マカロック輩や、シーニア輩、その他すべての造詣深い経済学者にあっては、あるページには、労働者は、生産力の発展によって必要労働時間を短縮する資本に無限の感謝を捧げるべきだ、と書かれており、次のページには、今後は10時間ではなく15時間労働することによってこの感謝を表わさなければならない、と書かれている。
  労働の生産力の発展は、資本主義的生産では、労働者が自分自身のために労働しなければならない労働日部分を短縮/し、そうすることによって、労働者が資本家のために無償で労働すろことのできる別の労働日部分を延長する、ということを目的としている。相対的剰余価値の特殊な生産方法について次に行なう考察が示してくれるように、あるばあいには、商品価格を少しも引き下げずに同じ結果に到達するのである。〉(江夏・上杉訳332-333頁)

《イギリス語版》  著者の長い余談が挟まっているが、省略する。

  〈(14) 従って、労働日の短縮は、資本主義的生産においては、その生産力の増加によって労働を節約する局面では、なんら追及されることはない。*8
  ある一定量の商品の生産に必要な労働時間、そこで意図されることは、ただその必要労働時間の短縮のみである。事実は次のごとし。労働者の労働の生産力が増大され、彼が以前の10倍個の商品を作るとすれば、それは商品各1個に1/10の労働時間で済ますことであるが、以前のように12時間働き続けることをなにも妨げはしない。また、同様のことを別の言葉で云うなら、120個に代わって、その12時間の労働から1,200個を作り出すことを妨げはしない。いや、それ以上に、その時、彼をして、14時間で、1,400個の品物を生産するように、彼の労働日が拡張されることもあり得る。それゆえ、マカロック、ユア、ショーニア、類似の者等 (ラテン語)の箔押しがある論文に、我々は、あるぺージでは次のような言葉を読むであろう。労働者達は、自身の生産力の発展について、資本家に感謝する恩義がある。なぜならば、それによって、必要労働時間が縮小されたからである。そして次のページでは、彼は、10時間の替わりに今後は15時間働くことで、資本家への感謝の証としなければならない。とあるのを。労働の生産力の全ての発展の目的は、資本主義的生産の限界内では、労働日のある部分を短縮することにある。その部分においては、労働者は、彼自身の生活のために働かねばならない。そして、まさに、そこを短縮することが、もう一方の日部分を長くする。そのもう一方の部分においては、彼は自由に、資本家のために無償で働く。
 このような結果が、商品を安くすることなしに、同様にどこまで達成できるかどうかは、相対的剰余価値の特有な生産様式を調べて見る事で、明らかになるであろう。我々がこれからすぐに、調査をしようとするところである。〉(インターネットから)


●原注7

《61-63草稿》

 〈「資本家階級は、はじめは部分的に、ついでついには完全に手仕事の必要から解放される。彼らの関心事は、彼らが使用している労働者の生産力を可能なかぎり最大にすることでありる。この力を増進することに彼らの注意は集中されており、しかもほとんどもっぱらそれだけに集中されている。思考は、ますます人間の勤労のあらゆる目的を達成させる最良の手段に向けられる。知識は広がり、その活動領域を倍加し、勤労に力を貸すのである」(リチャド・ジョウンズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年)(第3講、[39ページ〔日本評論社版、大野清三郎訳『政治経済学講義』、72ページ。]
   「雇主はつねに、時間と労働とを節約するために全力をつくすであろう」(ドゥーガルド・スティーアト『経済学講義』、ハミルトン編『著作集』、第8巻、318ページ。「そうでなければ自分たちが支払わなければならなかったであろう労働者たちの労働をこんなに節約するこれらの投機家たち」(J・N・ビド『大規模製造機械により工業技術と商業とに生じる独占について』、第2巻、パリ、1828年、13ページ)。〉(草稿集④490-491頁)

《初版》

 〈(7)「自分たちが支払ってやらなければならない労働者の労働をこれほど節約する、これらの投機師。」(J・N・ビド『工業技術と商業において創設される独占について、パリ、1828年』、13ページ。)「雇主はいつも、時間と労働とを節約しようと緊張している。」(ドゥーガルド・ステュアート『サー・W・ハミルトン編纂の著作集』、エジンバラ、第8巻、1855年、『経済学講義』、318ページ。)「彼らの(資本家の)関心は、自分たちが使っている労働者の生産諸力ができるだけ大きくなることである。この力を増進することに彼らの注意は注がれており、しかも、ほとんどもっぱらこのことに注がれている。」(R・ジョーンズ、前掲書〔『国民経済学にかんする講義の教科書』〕、第3講。)〉(江夏訳364頁)

《フランス語版》

 〈(8) 「自分たちが支払ってやらなければならない労働者の労働を、これほど節約するこれらの投機師!」(J・N・ビド『工業技術と商業において創設される独占について』、パリ、1828年、13ページ)。「企業家は、時間と労働を節約する手段を見出すために、いつも脳味噌をしぼる」(デュガルド.ステュアート『サー・W・ハミルトン編纂の著作集』、エディンバラ、第8巻、1855年。『経済学講義』、318ページ)。「資本家たちの関心は、労働者の生産力ができるだけ大きくなることである。彼らの注意は、この力を増大させる手段に注がれており、そしてほとんどもっぱらこれに注がれている」(R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、第3講)。〉(江夏・上杉訳332頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 8 * 「自分達が支払わねばならぬ労働者の労働を、これほどまでに節約するこれらの工場主ら」( J. N. ビドー 「工業的手法と商業から発生する独占」パリ 1828年 )(フランス語) 「雇用者はいつも、労働と時間を節約するストレッチャーに縛りつけられることとなろう。」( ダガード スチュアート著 W. ハミルトン卿 編集「政治経済学講義」エジンバラ 1855年) 「彼等 ( 資本家ら) の関心事は、自分らが雇用する労働者達の生産的力を、でき得る限りの最大限にすべきだと云うことである。この力を進展させるためにと、彼等の関心が凝縮している。そして全くそのことのみに凝り固まっている。(R. ジョーンズ 前出 第3講義)〉(インターネットから)


  (第10章終わり。)

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