第14回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎子供たちには楽しい夏休みだが
猛暑日が続く、7月19日に、第14回「『資本論』を読む会」が開催されました。今年は3連休が入るために、ちょっぴり早い夏休みでしたが、さっそく暑さもウナギのぼりで、老体にはなかなか厳しい季節ではあります。 しかし会場の堺市立南図書館は冷房が効きすぎるぐらいで、タダで使わせてもらい、ありがたいことです。
今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の本題に入り、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態」だけをやりました。さっそく、その報告をやりましょう。
◎「偶然的な」とは何か?
まず問題になったのは、表題の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした。ここで「簡単な」「個別的な」というのは分かるが、「偶然的な」というのは、あたかも二つの商品が偶然に物々交換されているケースであるかに捉えられるが、そうではなく、例として上げられている2商品は資本主義的生産を前提にした商品を資本主義的関係を捨象して取り出されたものだ、とレポーターのピースさんが説明したのが切っ掛けでした。
それに対して、そもそもこの表題はエンゲルスの手による第4版にもとづくもので、マルクス自身のものには、こうした表題が見られないとの指摘がありました。マルクス自身が書いた表題には、次のようなものがあります。
●初版本文--《 I 相対的な価値の第一の、または単純な、形態》
●初版付録--《 I 単純な価値形態》
●第2版-- 《A 単純なあるいは単一の価値形態》(江夏美千穂訳24頁)
●フランス語版--《A 単純な、あるいは偶然的な価値形態》(江夏他訳18頁)
つまりエンゲルスは第2版とフランス語版をミックスして、この表題を現行のように改めたと思われます。上記の表題のなかで、「単純」で、「第一の」ものであり、「個別的な」あるいは「単一の」ものであることは分かるが、「偶然的な」ものであるとはどういうことかが改めて問題になりましたが、これは少し先走りますが、例えば、《B 全体的な、または展開された価値形態》の《1 展開された相対的価値形態》の最後のあたりに、次のような一文があることが紹介されました。
《第1の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。》云々。
この理解について、「偶然的」なのは「量的な割合」についてではないか、との意見もありましたが、そうではなく一定の量的割合も含めて二つの商品が交換されるということ自体も偶然的事実として説明されているのではないか、それに対して《全体的な、展開された価値形態》では、そうした《偶然的現象とは本質的に違ったていてそれを規定している背景》があることを指摘している、ということになりました。
またフランス語版の《C 一般的価値形態》の《(b)相対的価値形態と等価形態との発展関係》には、次のような一文があります。
《一商品の単純なあるいは単独な相対的価値形態は、なんらかのほかの一商品を偶然的な等価物として前提している。発展した相対的価値形態、他のすべての商品においての一商品のこうした価値表現は、他のすべての商品全部にいろいろな種類の特殊な等価形態を押しつける。》(前掲訳41頁)
だからやはり「偶然的な」というのは、リンネルの相対的価値を表す等価物が上着であるかどうかは偶然であって、それは別のどの商品でもよいという含意であろう、という結論になりました。
◎2商品の等式について
さて、上記の表題の次にあるのは、次のような等式です。
《x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。
(20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する)》
この等式についてJJ富村さんから、「実は以前から疑問に思っていたのだが……」と次のような疑問が出されました。数学では「=」の説明として、次の三つの条件を満たすことが要求されるというのです。
(1)「A=A」
(2)「A=B」→「B=A」
(3)「A=B」、「B=C」→「A=C」
しかし、2商品の単純な等式は(2)や(3)は否定されているように思うのだが、どう考えたら良いのか、というのです。それに対してピースさんは、(2)も(3)も商品の価値の関係としては成り立っているが、価値の表現としてはそれは別の表現になると言っているのではないか、との指摘がありました。また亀仙人は初版付録では、次のような一文があると紹介しました。
《相対的価値と等価物とは両方ともただ商品価値の諸形態であるにすぎない。いま、ある商品が一方の形態にあるか、それとも対極的に対立した形態にあるか、ということは、もっぱら、価値表現におけるその商品の位置によって定まるのである。このことは、われわれによってここでまず第一に考察されている単純な価値形態において明確に現われる。内容から見れば、両方の表現、
1 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と
2 1着の上着=20エレのリンネル または、1着の上着は20エレのリンネルに値する、とは、けっして違ってはいない。形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している。》(国民文庫版132-3頁)
つまりここではA=BとB=Aの二つの等式について、「内容から見れば、両方の表現……は、決して違っていない」と説明され、ただ「形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している」と説明されている、と。
◎「価値形態の分析には固有な困難がある」とは?
等式にあとには小見出し《1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態》があり、そのあと最初のパラグラフがあります。まずパラグラフ全体を紹介しておきましょう。
《すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有な困難がある。》
まず、初版付録やフランス語版では、この一文は等式のすぐあと小見出しの前にあることが指摘されました。また初版本文では、小見出しはなく、等式が示されたあと、その分析の困難さが、次のように指摘されていることも紹介されました。
《この形態は、それが単純であるがゆえに(16),分析するのが困難なものである。そのなかに含まれている異なった諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であって、そのためにただ抽象力のいくらかの緊張によってのみ識別され、確認されうるものである。しかし、次のことだけは、一見して明らかである。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、20エレのリンネル=x着の上着 であろうと、形態は同じままである、ということである(17)。
(16)それは、いわば貨幣の細胞形態である。または、へーゲルならば言うであろうように、貨幣の即自態〔das Ansich〕である。
(17)J・ベーリのように価値形態の分析に携わってきた少数の経済学者たちが少しも成果をあげることができなかったのは、一つには彼らが価値形態と価値とを混伺しているからであり、第二には、彼らが、実際的なブルジョアたちの粗雑さの影響のもとにあって、はじめからもっぱら量的な被規定性だけに着目しているからである。「量にたいする支配が……価値である。」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ。)著者はJ・べーリ。》(国民文庫版43-4頁)
また価値形態の分析の困難さについては、初版序文や当時のマルクスがエンゲルスと交わした書簡のなかにも次のようなものがあることが紹介されました。
●初版序文から
《なにごとも初めがむずかしいということは、どの科学にもあてはまる。だから、第一章、ことに商品の分析を含む節を理解することは、最大の難関になるであろう。価値実体と価値量の分析についてさらに詳しく言うと、私はこの分析をできるだけ万人向きのものにした(1)。価値形態の分析はそうはゆかない。このほうの分析は難解である。なぜなら、弁証法が、前者の叙述(『経済学批判』のこと--引用者)のばあいよりもはるかに鮮明だからである。だから、弁証法的な思考に全く不慣れな読者に、私は次のことをすすめておく。すなわち、15ページ(上から19行目)から34ページ末行までの部分はすっかり省いたまま読まずに、その代わり、本書に追補してある付録「価値形態」を読む、ということ。この付録では、問題の科学的な把握が許すかぎりでこの問題を単純にまた教師風にさえ叙述することが、試みられている。付録を読み終わってから、読者は本文に戻って35ページから読み続ければよい。
(1)このことがなおさら必要だと思われるのは、シュルツェーデーリッチに反対したF・ラサールが彼の著書のなかで、上記の題目にかんしての私の説明の「精神的核心」を与えていると明言している一節でさえも、重大な誤解を含んでいるからである。ついでに言っておこう。F・ラサールは、たとえば資本の歴史的性格、生産関係と生産様式との関連等々にかんする、彼の経済学上の労作のすべての一般的な理論的命題を、ほとんど一語一語たがわず、私が作り出した術語にいたるまで、私の著書から、しかも出所も示さずに借用したのであるが、こうしたやり方がなされたのは、おそらく宣伝上の考慮からであろう。もちろん、私が言うのは、彼のやっている細部にわたる論述や応用のことではないのであって、それらは私にはなんの関係もないことである。
価値形態--それの完成した姿が貨幣形態である--は、きわめて無内容で単純である。それにもかかわらず、人間精神は二千年以上も前からその究明にむなしい努力をはらってきたが、他方、これよりもはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析は、少なくともだいたいのところまでは成功をおさめた。なぜか? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。その上、経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学試薬も役に立つことができない。抽象力が両者の代わりをしなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態あるいは商品の価値形態が、経済的な細胞形態である。教養のない者には、この形態の分析は、あちこちと細事のせんさくだけをやっているように見える。このばあいにはじっさい細事のせんさくが問題になるのだが、このことは、微細にわたる解剖ではこのようなせんさくが問題になるのと全く同じことである。》(初版前掲訳書9-11頁)
●マルクスからエンゲルスへの書簡(1867年6月22日)から
《そのうえ、この問題はこの本全体にとってあまりにも決定的だ。経済学者諸氏はこれまで次のようなきわめて簡単なことを見落としてきた。すなわち、20エレのリンネル=1枚の上着、という形態は、ただ、20エレのリンネル=2ポンド・スターリングという形態の未発展の基礎でしかないということ、したがって、商品の価値をまだ他のすぺての商品にたいする関係としては表わしてはいないでただその商品自身の現物形態とは違うものとして表わしているだけの、最も簡単な商品形態が、貨幣形態の全秘密を含んでおり、したがってまた、労働生産物のいっさいのブルジヨア的な形態の全秘密を縮約して含んでいる、ということがそれだ。僕は最初の叙述(ドゥンカー)では、価値表現の本来の分析をそれが発展して貨幣表現として現われてからはじめて与えるということによって、展開の困難を避けたのだ。》(全集31巻256-7頁)
さらに初版付録の最後の項目は《単純な商品形態は貨幣形態の秘密である》というものであり、そこには次のような一文が見られる、と紹介がありました。
《貨幣形態の概念における困難は、一般的な等価形態の、したがって、一般的な価値形態一般の、形態IIIの、理解に限られる。しかし、形態IIIは、逆関係的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち20エレのリンネル=1着の上着 または、x量の商品A=y量の商品B である。そこで、使用価値と交換価値とがなんであるか、を知るならば、この形態 I は.任意の労働生産物たとえばリンネルを、商品としてすなわち使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示する最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうすれば、同時に、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が、その完成した姿、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通らなければならない諸変態の列も容易に見いだされるのである。》(国民文庫版170-1頁)