『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第15回「『資本論』を読む会」の案内

2009-07-31 18:31:20 | 『資本論』

『  資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 


                                     
 今年の夏は、何かおかしい。

 すでに8月の声も聞こうかというのに、いまだに梅雨前線が日本列島に居すわって、各地でゲリラ的な集中豪雨をもたらし、突風、竜巻まで引き起し、十数人もの死者など甚大な被害を与えている。日照時間の少なさから北海道ではジャガイモなど根菜類の収穫が遅れ、野菜の値上がりが報じられている。これもやはり地球規模の環境破壊の影響であろうか。

 最近の新聞(「朝日」7月30日夕刊)でも、ヒマラヤの氷河が1984年撮影のものと2004年撮影のものと二つの写真が比較されていたが、氷河が急速に溶けだしていることが、視覚的に確認された。

(『朝日』7月30日夕刊より)

 地球環境の異変が叫ばれてすでに久しいが、しかしこうした地球規模による環境の破壊や異変の根本原因が資本主義的生産様式そのものにあるということは、あまり指摘されたことはない。

 マルクスは、人間の生産活動を生物学の用語を使って「社会的物質代謝」と規定している。人間は労働によって自然から有用物を取り出し摂取し、不要なものを自然に返す代謝活動を社会的に行なっている。だから社会にとって有用なものを生産するために、社会の総労働を必要な生産分野に配分しなければならないが、しかし人間はそれを意識的に行なっているわけではない。個々の生産分野はそれぞれ独立に私的な利害にもとづいて行なわれながら、その生産物を商品として交換することで、彼らの生産の社会的な結びつきを実現しているのである。だからどの分野にどれだけの労働を配分するかは、商品の交換の結果として決まってくるだけである。

 だから人間は、彼らの社会的物質代謝を自分たちの意識のもとにコントロールしているのではなくて、反対に社会的物質代謝の諸法則は、一つの“自然法則”として、人間を支配し統制する経済的な諸法則という形で立ち現れているのである。人間がそれらの諸法則に翻弄されていることは、今日の深刻な経済恐慌が私たちに何をもたらしているかを考えてみれば、明らかである。

 しかも資本主義的生産においては、個々の生産は集中・集積され、ますます大規模に徹底的に組織的に行なわれながら、しかし社会的には私的な生産でしかなく、依然として生産物は商品として交換されている。個々の資本は利潤を唯一の推進動機として猛烈な競争によって生産力を飛躍的に高める一方で、生産の社会的結びつきは、ただ商品交換を通じた偶然的な諸結果にまかせるしかない生産様式なのである。

 だから個々の資本はただ儲けることを最大の目的にし、社会全体のことを考えて生産するわけではない。ましてや地球規模の社会的物質代謝を考慮して生産することはできない。高度に発達した現代の物質的生産力は、豊かな富を生み出す一方で、社会的に統御されないために、地球環境には盲目的に作用して、それを破壊する。これが今日の地球規模の環境破壊や異変の本当の原因なのである。

 マルクスは将来の社会ではこうした社会的物質代謝を意識的な統制のもとにおく必要があると、次のように述べている。

 《社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。》(『資本論』第3部、全集版25b1051頁)

 人類が当面する地球規模の危機も、資本主義的生産様式が歴史的に克服される必要があることを示している。『資本論』はそうした人類史の壮大な歴史観にもとづいた科学的な経済書である。貴方も一緒にそうした『資本論』を読んでみませんか。

…………………………………………………………………………………………

第15回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                               ■日時   8月16日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m
            駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主催   『資本論』を読む会



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第14回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2009-07-22 16:53:25 | 『資本論』

第14回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎子供たちには楽しい夏休みだが

  猛暑日が続く、7月19日に、第14回「『資本論』を読む会」が開催されました。今年は3連休が入るために、ちょっぴり早い夏休みでしたが、さっそく暑さもウナギのぼりで、老体にはなかなか厳しい季節ではあります。 しかし会場の堺市立南図書館は冷房が効きすぎるぐらいで、タダで使わせてもらい、ありがたいことです。

 今回は、「第3節 価値形態または交換価値」の本題に入り、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「1 価値表現の両極--相対的価値形態と等価形態」だけをやりました。さっそく、その報告をやりましょう。

◎「偶然的な」とは何か?

  まず問題になったのは、表題の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした。ここで「簡単な」「個別的な」というのは分かるが、「偶然的な」というのは、あたかも二つの商品が偶然に物々交換されているケースであるかに捉えられるが、そうではなく、例として上げられている2商品は資本主義的生産を前提にした商品を資本主義的関係を捨象して取り出されたものだ、とレポーターのピースさんが説明したのが切っ掛けでした。

 それに対して、そもそもこの表題はエンゲルスの手による第4版にもとづくもので、マルクス自身のものには、こうした表題が見られないとの指摘がありました。マルクス自身が書いた表題には、次のようなものがあります。

●初版本文--《 I  相対的な価値の第一の、または単純な、形態》
●初版付録--《 I  単純な価値形態》
●第2版-- 《A 単純なあるいは単一の価値形態》(江夏美千穂訳24頁)
●フランス語版--《A 単純な、あるいは偶然的な価値形態》(江夏他訳18頁)

  つまりエンゲルスは第2版とフランス語版をミックスして、この表題を現行のように改めたと思われます。上記の表題のなかで、「単純」で、「第一の」ものであり、「個別的な」あるいは「単一の」ものであることは分かるが、「偶然的な」ものであるとはどういうことかが改めて問題になりましたが、これは少し先走りますが、例えば、《B 全体的な、または展開された価値形態》《1 展開された相対的価値形態》の最後のあたりに、次のような一文があることが紹介されました。

 《第1の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。》云々。

 この理解について、「偶然的」なのは「量的な割合」についてではないか、との意見もありましたが、そうではなく一定の量的割合も含めて二つの商品が交換されるということ自体も偶然的事実として説明されているのではないか、それに対して《全体的な、展開された価値形態》では、そうした《偶然的現象とは本質的に違ったていてそれを規定している背景》があることを指摘している、ということになりました。

 またフランス語版の《C 一般的価値形態》の《(b)相対的価値形態と等価形態との発展関係》には、次のような一文があります。

 《一商品の単純なあるいは単独な相対的価値形態は、なんらかのほかの一商品を偶然的な等価物として前提している。発展した相対的価値形態、他のすべての商品においての一商品のこうした価値表現は、他のすべての商品全部にいろいろな種類の特殊な等価形態を押しつける。》(前掲訳41頁)

 だからやはり「偶然的な」というのは、リンネルの相対的価値を表す等価物が上着であるかどうかは偶然であって、それは別のどの商品でもよいという含意であろう、という結論になりました。

 ◎2商品の等式について

  さて、上記の表題の次にあるのは、次のような等式です。

 《x量の商品A=y量の商品B または、x量の商品Aはy量の商品Bに値する。
 (20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する)》

 この等式についてJJ富村さんから、「実は以前から疑問に思っていたのだが……」と次のような疑問が出されました。数学では「=」の説明として、次の三つの条件を満たすことが要求されるというのです。

 (1)「A=A」
 (2)「A=B」→「B=A」
 (3)「A=B」、「B=C」→「A=C」

  しかし、2商品の単純な等式は(2)や(3)は否定されているように思うのだが、どう考えたら良いのか、というのです。それに対してピースさんは、(2)も(3)も商品の価値の関係としては成り立っているが、価値の表現としてはそれは別の表現になると言っているのではないか、との指摘がありました。また亀仙人は初版付録では、次のような一文があると紹介しました。

  《相対的価値と等価物とは両方ともただ商品価値の諸形態であるにすぎない。いま、ある商品が一方の形態にあるか、それとも対極的に対立した形態にあるか、ということは、もっぱら、価値表現におけるその商品の位置によって定まるのである。このことは、われわれによってここでまず第一に考察されている単純な価値形態において明確に現われる。内容から見れば両方の表現、
 1 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と
 2 1着の上着=20エレのリンネル または、1着の上着は20エレのリンネルに値する、とは、けっして違ってはいない形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している。》
(国民文庫版132-3頁)

  つまりここではA=BとB=Aの二つの等式について、「内容から見れば、両方の表現……は、決して違っていない」と説明され、ただ「形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している」と説明されている、と。

◎「価値形態の分析には固有な困難がある」とは?

  等式にあとには小見出し《1 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態》があり、そのあと最初のパラグラフがあります。まずパラグラフ全体を紹介しておきましょう。

  《すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有な困難がある。》

 まず、初版付録やフランス語版では、この一文は等式のすぐあと小見出しの前にあることが指摘されました。また初版本文では、小見出しはなく、等式が示されたあと、その分析の困難さが、次のように指摘されていることも紹介されました。

  《この形態は、それが単純であるがゆえに(16),分析するのが困難なものである。そのなかに含まれている異なった諸規定は、隠されており、未発展であり、抽象的であって、そのためにただ抽象力のいくらかの緊張によってのみ識別され、確認されうるものである。しかし、次のことだけは、一見して明らかである。すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 であろうと、20エレのリンネル=x着の上着 であろうと、形態は同じままである、ということである(17)。

 (16)それは、いわば貨幣の細胞形態である。または、へーゲルならば言うであろうように、貨幣の即自態〔das Ansich〕である。
 (17)J・ベーリのように価値形態の分析に携わってきた少数の経済学者たちが少しも成果をあげることができなかったのは、一つには彼らが価値形態と価値とを混伺しているからであり、第二には、彼らが、実際的なブルジョアたちの粗雑さの影響のもとにあって、はじめからもっぱら量的な被規定性だけに着目しているからである。「量にたいする支配が……価値である。」(『貨幣とその価値の転変』、ロンドン、1837年、11ページ。)著者はJ・べーリ。
(国民文庫版43-4頁)

 また価値形態の分析の困難さについては、初版序文や当時のマルクスがエンゲルスと交わした書簡のなかにも次のようなものがあることが紹介されました。

 ●初版序文から

  《なにごとも初めがむずかしいということは、どの科学にもあてはまる。だから、第一章、ことに商品の分析を含む節を理解することは、最大の難関になるであろう。価値実体価値量の分析についてさらに詳しく言うと、私はこの分析をできるだけ万人向きのものにした(1)。価値形態の分析はそうはゆかない。このほうの分析は難解である。なぜなら、弁証法が、前者の叙述(『経済学批判』のこと--引用者)のばあいよりもはるかに鮮明だからである。だから、弁証法的な思考に全く不慣れな読者に、私は次のことをすすめておく。すなわち、15ページ(上から19行目)から34ページ末行までの部分はすっかり省いたまま読まずに、その代わり、本書に追補してある付録「価値形態」を読む、ということ。この付録では、問題の科学的な把握が許すかぎりでこの問題を単純にまた教師風にさえ叙述することが、試みられている。付録を読み終わってから、読者は本文に戻って35ページから読み続ければよい。

 (1)このことがなおさら必要だと思われるのは、シュルツェーデーリッチに反対したF・ラサールが彼の著書のなかで、上記の題目にかんしての私の説明の「精神的核心」を与えていると明言している一節でさえも、重大な誤解を含んでいるからである。ついでに言っておこう。F・ラサールは、たとえば資本の歴史的性格生産関係と生産様式との関連等々にかんする、彼の経済学上の労作のすべての一般的な理論的命題を、ほとんど一語一語たがわず、私が作り出した術語にいたるまで、私の著書から、しかも出所も示さずに借用したのであるが、こうしたやり方がなされたのは、おそらく宣伝上の考慮からであろう。もちろん、私が言うのは、彼のやっている細部にわたる論述や応用のことではないのであって、それらは私にはなんの関係もないことである。

  価値形態--それの完成した姿が貨幣形態である--は、きわめて無内容で単純である。それにもかかわらず、人間精神は二千年以上も前からその究明にむなしい努力をはらってきたが、他方、これよりもはるかに内容豊富で複雑な諸形態の分析は、少なくともだいたいのところまでは成功をおさめた。なぜか? 発育した身体は身体細胞よりも研究しやすいからである。その上、経済的諸形態の分析にさいしては、顕微鏡も化学試薬も役に立つことができない。抽象力が両者の代わりをしなければならない。ところが、ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態あるいは商品の価値形態が、経済的な細胞形態である。教養のない者には、この形態の分析は、あちこちと細事のせんさくだけをやっているように見える。このばあいにはじっさい細事のせんさくが問題になるのだが、このことは、微細にわたる解剖ではこのようなせんさくが問題になるのと全く同じことである。》(初版前掲訳書9-11頁)

 ●マルクスからエンゲルスへの書簡(1867年6月22日)から

  《そのうえ、この問題はこの本全体にとってあまりにも決定的だ。経済学者諸氏はこれまで次のようなきわめて簡単なことを見落としてきた。すなわち、20エレのリンネル1枚の上着、という形態は、ただ、20エレのリンネル2ポンド・スターリングという形態の未発展の基礎でしかないということ、したがって、商品の価値をまだ他のすぺての商品にたいする関係としては表わしてはいないでただその商品自身の現物形態とは違うものとして表わしているだけの、最も簡単な商品形態が貨幣形態の全秘密を含んでおり、したがってまた、労働生産物のいっさいのブルジヨア的な形態の全秘密を縮約して含んでいる、ということがそれだ。僕は最初の叙述(ドゥンカー)では、価値表現の本来の分析をそれが発展して貨幣表現として現われてからはじめて与えるということによって、展開の困難を避けたのだ。》(全集31巻256-7頁)

  さらに初版付録の最後の項目は単純な商品形態は貨幣形態の秘密であるというものであり、そこには次のような一文が見られる、と紹介がありました。

  《貨幣形態の概念における困難は、一般的な等価形態の、したがって、一般的な価値形態一般の、形態IIIの、理解に限られる。しかし、形態IIIは、逆関係的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち20エレのリンネル=1着の上着 または、x量の商品A=y量の商品B である。そこで、使用価値と交換価値とがなんであるか、を知るならば、この形態 I は.任意の労働生産物たとえばリンネルを、商品としてすなわち使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示する最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうすれば、同時に、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が、その完成した姿、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通らなければならない諸変態の列も容易に見いだされるのである。》(国民文庫版170-1頁)

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第14回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2009-07-22 16:48:35 | 『資本論』

第14回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

  (以下は、第14回の報告の続きです)。

◎「等価物」とは?

 次は第2パラグラフです。これもまず全文紹介しておきます。

 《ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。》

 ここから単純な価値形態、先に例示した等式の具体的な分析が始まっています。しかしマルクスは表式では表示されていた、「x量」「y量」、「20エレ」「1着」という2商品の量は問題にはせずに、考察を開始しています。そしてまず単純な価値表現において、二つの商品が演じる役割の違いを指摘します。それは表にしますと次のようになります。

 ここで、「等価物として機能する」とありますが、「等価物」というのはどういうことかという疑問が出されました。所沢の「『資本論』を読む会」でも同じ質問が出され、〈「等しい価値を持つ物ということだろう」という結論になりました〉と報告されています(http://shihonron.exblog.jp/9825135/)。
 確かにこの時点ではそうした説明で良いのだろうと思いますが、初版本文には次のような一文があると紹介がありました。

 《上着でのリンネル価値の表現は、上着そのものに、ある新しい形態を極印している。じっさい、リンネルの価値形態はなにを意味しているか? 上着がリンネルと交換可能であるということである。上着はいまや、それのあるがままの姿をもって、上着というそれの現物形態において、他の商品との直接的な交換可能性の形態、交換可能な使用価値あるいは等価物の形態をもっているのである。等価物という規定は、ある商品が価値一般であるということを含んでいるだけではなく、その商品が、それの物的な姿において、それの使用形態において、他の商品に価値として認められており、したがって、直接に、他の商品にとっての交換価値として現存している、ということをも含んでいる。》(夏目訳34-36頁)

◎不可分性と対極性

 次は第3パラグラフです。

 《相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル はけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、20エレのリンネルは20エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》

 ここでは二つの商品がとっている相対的価値形態と等価形態というのが、どういう関係にあるのかを見ています。それは同じ一つの価値表現のなかの二つの形態という意味で、「互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な」関係にあるが、同時に「同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、両極」だと説明されています。初版付録では、この部分は細分されて、次のように説明されています。

 《いま、さらに詳しく分析しなくても、次の諸点ははじめから明らかである。

 a 両形態の不可分性

 相対的価値形態と等価形態とは、同じ価値表現の、互いに属し合い互いに制約し合っている不可分な諸契機である。

 b 両形態の対極性

 他方では、この両形態は、同じ価値表現の、互いに排除し合う、または対立し合う両端、すなわち両極である。それらは、つねに、価値表現が互いに関係させる別々の商品のうえに分かれている。たとえば、私はリンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネルは、けっして価値表現ではなくて、ただ一定量の使用対象リンネルを表現しているだけである。つまり、リンネルの価値は、ただ別の商品でしか、すなわちただ相対的にしか、表現されえないのである。だから、リンネルの相対的価値形態は、なんらかの別の一商品がリンネルにたいして等価形態にある、ということを前提しているのである。他方、リンネルの等価物として現われ、したがって等価形態にあるところの、この別の商品、ここでは上着は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それはそれの価値を表現しはしない。それはただ他の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。》(国民文庫版130-1頁)

 ここで《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という例が持ち出されているが、これは先に等式のところで議論した「(1)A=A」に該当するが、どうしてこれが持ち出されているのだろうか、ということが問題になりました。等式としてはマルクスも「(1)A=A」がありうることを認めているが、しかしそれは「価値表現」ではないと排除しているのではないかということになりました。
 だから「両形態の対極性」には(1)互いに排除し合う関係、(2)または対立し合う両端、両極という意味と、さらに(3)「つねに、価値表現が互いに関係させる別々の商品のうえに分かれている」という意味もあり、(4)一方の商品が相対的価値形態にある場合は、他方の商品は等価形態にあるということ、(5)等価形態にある商品は、同時に相対的価値形態にあることは出来ない、(6)つまりそれ自身の価値を表現することは出来ない、ということを含んでいるという指摘がありました。

◎逆関係

 次は第4パラグラフです。

 《もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または一着の上着は20エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。》

 これも両形態の対極性の説明の続きと考えられます。「逆関係」はフランス語版では「逆の命題」とされています。同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることが出来ないこと、だから両形態は互いに排除し合うことが説明されています。初版付録もほぼ同じような内容です。ただ初版付録には、このあとに次のような説明が続くのです。

 《そこで、われわれはリンネル生産者Aと上着生産者Bとのあいだの物々交換を考えてみよう。彼らが取引で一致するまえには、Aは、20エレのリンネルは2着の上着に値する(20エレのリンネル=2着の上着)、と言い、これにたいして、Bは、1着の上着は22エレのリンネルに値する(1着の上着=22エレのリンネル)、と言う。最後に、長いあいだ商談したあげく、彼らは一致する。Aは、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と言い、Bは、一着の上着は20エレのリンネルに値する、と言う。この場合には、両方とも、リンネルも上着も、同時に相対的価値形態にあるとともに等価形態にある。だが、注意せよ、それは二人の別々の個人にとってのことであり、また、二つの別々な価値表現においてのことなのであって、それらがただ同時に現われるだけのことなのである。Aにとっては、彼のリンネルは、--というのは彼にとってイニシアチブは彼の商品から出ているのだから--相対的価値形態にあり、これにたいして、相手の商品、上着は、等価形態にある。Bの立場からすれば、これとは逆である。だから、同じ商品はどんな場合にも、この場合にもやはり、同じ価値表現において両方の形態を同時にもっていることはないのである。》(前掲国民文庫版131頁)

 ここでは「リンネル生産者A」と「上着生産者B」と、「生産者」が登場し、しかも両者のあいだにおける「物々交換」が問題になっています。もちろん、「物々交換」とはいうものの、二つの商品が交換されるまでの商談による両者の最終的な合意までで、交換のための準備の段階だとも言えます(だからこそ、それは価値表現の問題なわけです)。ここで生産者が登場するのも、最終的に商談が一致するまでであって、一致した段階では、やはり商品が主体になっています。だから最終的には当初に掲げている等式と同じ前提になっていると考えることが出来ます。そしてここでも、最終的に言いたいことは同じ商品はどんな場合にも、……同じ価値表現において両方の形態を同時にもっていることはないということです。ただ物々交換が一つの例として持ち出されていることは、注目される、という指摘がされました。

◎価値表現での商品の位置が問題

 次は第5パラグラフです。

 《そこで、ある商品が相対的価値形態にあるか、反対の等価形態にあるかは、ただ、価値表現のなかでのこの商品のそのつどの位置だけによって、すなわち、その商品が、自分の価値を表現される商品であるのか、それともそれで価値が表現される商品であるのかということだけによって、定まるのである。》

 この部分は初版付録では、次のような一つの項目が立てられ、最初の等式の説明のときに、紹介した詳しい説明があるのです。重複しますが、もう一度、全体を紹介しておきましょう。

 《c 相対的価値と等価物とはただ価値の諸形態であるにすぎない

 相対的価値と等価物とは両方ともただ商品価値の諸形態であるにすぎない。いま、ある商品が一方の形態にあるか、それとも対極的に対立した形態にあるか、ということは、もっぱら、価値表現におけるその商品の位置によって定まるのである。このことは、われわれによってここでまず第一に考察されている単純な価値形態において明確に現われる。内容から見れば、両方の表現、
 1 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、と
 2 1着の上着=20エレのリンネル または、1着の上着は20エレのリンネルに値する、とは、けっして違ってはいない形式から見れば、それらはただ違っているだけではなくて、対立している。表現1においてはリンネルの価値が相対的に表現される。それだから、リンネルは相対的価値形態にあるのであるが、他方、同時に、上着の価値は等価物として表現されている。それだから、上着は等価形態にあるのである。いま、私が表現1を逆にするならば、私は表現2を得る。両商品は位置を取り替えるのであって、すると、たちまち上着は相対的価値形態にあり、これにたいしてリンネルは等価形態にある。両商品は同じ価値表現におけるそれぞれの位置を取り替えたので、両商品は価値形態を取り替えたのである。》
(国民文庫版131-3頁)

 なおフランス語版にはこのパラグラフに該当するものはありません。

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