『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その1

2013-04-06 14:22:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その1

 

 

◎「次元の違う金融緩和」だって?

 日本銀行は3月4日、黒田東彦新総裁就任後初となる金融政策決定会合で、新たな量的緩和策の導入を決めました。その内容は……

  ●2%の物価目標を2年で実現するために必要な措置をすべて入れた

  ●マネタリーベースを「約2倍」--現在の138兆円から270兆円--に拡大

  ●
長期国債は現在の2倍、月7兆円ペースで買い、長期国債の保有額は12年末の89兆円から、14年末に2倍の190兆円に

  ……等々、というものです。

 これで黒田総裁はデフレを脱却して、2年後には2%のインフレにするというのです。しかし、殘念ながら、これらは「貨幣数量説」という間違った貨幣理論にもとづいたものでしかありません。

 日銀のホームページでは「マネタリーベース」を次のように説明しています。

 〈マネタリーベースとは、「日本銀行が供給する通貨」のことです。具体的には、市中に出回っているお金である流通現金(「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」)と「日銀当座預金」の合計値です。
 
 マネタリーベース=「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」 

 このように日銀はこれらをひっくるめて「日本銀行が供給する通貨」と説明していますが、何度も述べてきましたように、これは間違っています。

 まず「日本銀行券発行高」というのは、市中銀行等が日銀にある自行の当座預金を現金で、つまり日本銀行券(1000円、2000円、5000円、1万円)で引き出した時の、その高のことです。

 「貨幣流通高」というのは、政府が発行する硬貨類(1円、5円、10円、50円、100円、500円)のことですが、これもやはり市中銀行が日銀の当座預金から引き出すことによって「流通」することになります。


 これら二つは確かに「通貨」ということができます。


 しかし「日銀当座預金」というのは、決して概念的には「通貨」ではないのです。


 そもそも通貨というのは、貨幣の抽象的な機能である流通手段と支払い手段を兼ねたものです(広義の流通手段)。それは商品市場で流通しているものであり、この社会の物質代謝を現実に媒介しているものです。しかし預金というのは、貨幣市場において、つまり貨幣の貸し借りにおいて生じるものなのです。それは再生産過程(つまり社会的物質代謝)の外部における信用に基づくものなのです。だから「日銀当座預金」というのは、確かに市中銀行が自行に還流してきた現金(日本銀行券と硬貨)を当面は運用する予定がないということで日銀に預けて生じる場合もありますが、しかしこのように例えそれが現金で預金されたものだとしても、これは通貨とは言えないのです。それはただ市中銀行が概念的には利子生み資本として日銀に貸し付けたものだからです(実際には利子はつきませんが)。


 そして現実には、今回の緩和策でもありますように、積み増される「日銀当座預金」の多くは、市中銀行などが持っている国債や株式等を日銀が買いつけて生じているものが大半です(それ以外にも何らかの担保をもとに貸し付て生じる場合もあるでしょう)。


 つまり国債を買って、その代金を当座預金として積みますことなのです。しかし市中銀行が持っている国債や株式などは、銀行の準備金(つまり当面運用あてのないカネ)の一形態なのです。だから市中銀行としては準備金の一部の形態をただ国債や株式等から日銀の当座預金に変えたに過ぎないのです。当面使うあてがないという状態は何一つ変わっていません。そもそも日銀が市中銀行から国債や株式を購入するということは、これは「売買」という外観を取っていますが、内容はやはり利子生み資本の運動であり、「貸し借り」なのです。だからこうしたものをいくら増やしても、「通貨」が増発されたということにはならないのです。


 そもそも厳密な意味での「通貨」というのは、商品流通の現実(つまり社会的物質代謝の状態)に規定されて流通するに過ぎないのであって、誰かが恣意的にその流通を増やしたり減らしたりできるようなものではないのです(そもそも自分たちの社会的物質代謝を統制・管理できないからこそ、貨幣というわけのわからないもののやっかいになっているのです)。


 では今回の金融緩和策が将来のインフレに繋がることはないのか、というと必ずしもそうとは言えません。というのは、日銀が市中銀行などが持っている国債を買い上げて、当座預金を積み増すのは、市中銀行がさらに政府から増発される国債を引き受けやすくするための措置であり、政府の信用膨張を容易にすることに繋がるからです。


 そして景気が上向けば、そうした膨張した信用は、すぐにインフレとして現れてくるでしょう。インフレが景気の上昇をもたらすのではなく、景気の上昇がインフレをもたらすということです。この点、日銀はいうまでもなく、多くのブルジョア経済学者たちも原因と結果を取り違えています。そして一旦、インフレが生じたらそれをコントロールできるなどということは一つの淡い幻想でしかないことが暴露されるでしょう。

 さて、それでは前回の続きをやることにしましょう。

◎第4パラグラフ

【4】〈(イ)金による一商品の価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。(ロ)鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような単一の等式で今や十分である。(ハ)この等式は、他の諸商品の価値等式と隊伍を整えて行進する必要はもはやない。(ニ)なぜなら、等価物商品である金がすでに貨幣の性格をおびているからである。(ホ)それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、今やふたたび、その最初の、単純なまたは個別的な相対的価値形態の姿態をとる。(ヘ)他面、展開された相対的価値表現、または相対的価値諸表現の無限の列が、貨幣商品の独特な相対的価値形態になる。(ト)しかし、この列は、今やすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。(チ)物価表の値段表示を後ろから読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表されていることがわかる。(リ)これに反して、貨幣は何の価格ももたない。(ヌ)他の諸商品のこうした統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。〉

(イ) 貨幣である金によって一つの商品の価値を表現する等式--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態、あるいは価格です。

 このパラグラフは、いわば第1章で展開した価値形態の反省です。ここで述べられていることは、すでに第1章で次のように述べられていました。

 〈すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。それゆえ、リンネルの「価格形態」は
 20エレのリンネル=2オンスの金
または、もし2ポンド・スターリングというのが2オンスの金の鋳貨名であるならば、
 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。〉(全集23a95頁)

(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)
 もはや例えば鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような一つの等式だけで十分です。というのは、等価物の商品である金がすでに貨幣になっているからです。だから諸商品の価値を一般的に表す価値形態は、われわれが第一章で見た一般的価値形態のようなさまざまな商品が隊伍を整えて行進する必要はもはや必要ないからです。だから諸商品の価値形態は、最初の単純なあるいは個別的な相対的価値形態の姿をとるわけです。
 
 第1章の一般的価値形態というのは、次のようなものでした。

   1着の上着     =
   10ポンドの茶    =
   40ポンドのコーヒー=
   1クォーターの小麦 =
   2オンスの金     = 20エレのリンネル
   1/2トンの鉄    =
   x量の商品A     =
   等々の商品     =

 そしてこの等式を説明して、次のように指摘されていました。

 〈一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。〉(90頁)

 しかし貨幣形態では、こうした隊伍は不要になるわけです。というのは貨幣商品としての金は、そのだけですでに社会的に認められた価値の具体物として存在しているからです。だから諸商品は、貨幣に等置されるだけで社会的に妥当な自らの価値を表したことになるわけです。初版には次のような説明があります。

 〈諸商品の、貨幣での単純な相対的価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--が、諸商品の価格である。諸商品の価格にあっては、諸商品は、第一には、価値として、すなわち、質的に等しいもの、同じ労働の具象物または労働の同じ具象物として、現われているし、第二には、量的に規定された価値量として現われている。なぜならば、諸商品は、ある割合で--この割合において、これらの諸商品はあれこれの一定の金量と相等しい--互いに相等しいからであり、言い換えれば、相等しい労働量を表わしているからである。〉(83頁)

 さらに、この部分については、「補足と改訂」も参考になるので、それも紹介しておきましょう。

 〈一商品の金での簡単な相対的価値形態--x商品A=y金商品--はその商品の価格である。もともと一商品は、等価物との等式が、すべての他の諸商品が同じ等価物と結ぶ等式の列のなかの一分肢として現れる限りにおいてのみ、一般的相対的価値形態をもった。この列はいまはなくなっている。商品の金との個々の等式、すなわちその価格は、先行する歴史的過程が金(または銀、またはあるその他の際だった商品)をすでに貨幣商品、つまり、その特殊な自然形態と一般的等価物形態がすでに社会的に癒着している商品にしているがゆえに、その商品の一般的相対的価値形態になるのである。〉(36頁)

 〈金による一商品の価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。しかし、いま、先行する歴史的過程がある特別な商品・金に、すでに社会的に認められた等価物商品の性格をおしつける、つまりその商品を貨幣にする、と仮定するならば--他の諸商品の等式の列とは無関係に--この単一の等式で十分である。いまや、一般的相対的価値形態は一番最初の簡単な相対的価値形態の姿をもっている。〉(37頁)

(ヘ)(ト)(チ)
 他方で、展開された相対的価値形態、あるいは相対的価値形態の無限の列が、今度は、貨幣商品の独特な相対的価値形態になります。しかし、この列そのものは、すでに内容が違っています。というのは、それはいまでは諸商品の価格として社会的には与えられているからです。だから物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがさまざまな商品で表されていることになるわけです。

 
 ここに出てくる〈展開された相対的価値表現〉というのは、第1章で出てきた形態IIであり、次のようなものでした。

 20エレのリンネル=1着の上着
    〃        =10ポンドの茶
    〃        =40ポンドのコーヒー
    〃        =1クォーターの小麦
    〃        =2オンスの金
    〃        =1/2トンの鉄
    〃        =等々

 ここで左項の「20エレのリンネル」の代わりに「2オンスの金」を入れ、右項の「2オンスの金」の代わりに「20エレのリンネル」を入れると次のような等式がなりたちます。

 2オンスの金 =1着の上着
    〃    =10ポンドの茶
    〃    =40ポンドのコーヒー
    〃    =1クォーターの小麦
    〃    =20エレのリンネル
    〃    =1/2トンの鉄
    〃    =等々

 これがすなわち貨幣商品金の価値表現というわけです。しかし、これは物価表、つまり2オンスの金に1万円という鋳貨名をつけると仮定すれば、1着の上着1万円、1ポンドの茶1000円、1ポンドのコーヒー250円等々というような表を逆に読めば、2オンスの金の価値は、1着の上着や10ポンドの茶や40ポンドのコーヒーや1クォーターの小麦等々の諸商品によって(それらの使用価値とそれぞれの量によって)表されているというわけです。
 初版にはより詳しく次のように説明されています。

 〈他方、発展した相対的価値表現、すなわち、相対的価値表現の無限の系列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。ところが、この系列は、いまではすでに、諸商品価格のうちに与えられている。物価表の相場を逆に読めば、貨幣の価値量がありとあらゆる商品で表わされていることがわかる。この系列は新たな意味をも得たわけである。金は、貨幣であるために、すでに、それの現物形態のうちに、それのもろもろの相対的価値表現にかかわりなく、一般的な等価形態すなわち一般的な直接的交換可能性という形態をもっている。だから、これらの価値表現の系列は、いまでは同時に、金の価値量のほかに、素材的な富あるいは使用価値の発展した世界を表わしているのであって、金はこれらの使用価値に直接に置き換えられうるのである。〉(江夏訳83頁)

 またこうした指摘そのものは、すでに第1章で次のように説明されていました。

 〈反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉(93頁、下線は引用者)

 ここではこの諸文節に関連するもの(下線部分)以外の部分(前半部分)も紹介しましたが、それは引き続く諸文節と関連しているからです。

(リ)(ヌ)
 これに反して、貨幣そのものは何ら価格を持ちません。もし他の諸商品と同じように、統一的な相対的価値形態に参加しようするなら、貨幣は自分自身の等価として自分自身に関係させられねばなりませんが、これは同義反復以外の何ものでもないからです。

 これについては先に引用した第1章の説明が参考になります。2オンスの金=2オンスの金 という等式は、価値も価値量も表していないということです。

(「その2」に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その2

2013-04-06 13:50:51 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その2

 

 

◎第5パラグラフ

【5】〈(イ)商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同じように、手でつかめるその実在的な物体形態から区別された、したがって単に観念的な、または想像されただけの形態である。(ロ)鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに存在する。(ハ)これらの価値は、それらの物の金との同等性によって、それらの物のいわば頭の中にだけ現れる金との関係によって、想像される。(ニ)だから、商品の保護者は、商品の価格を外界に伝えるためには、自分の舌で商品の代弁をするか、または商品に紙札をかかげるかしなければならない(51)。(ホ)金による商品価値の表現は観念的なものであるから、この操作のためには、やはりただ想像されただけの、または観念的な、金が使われる。(ヘ)商品の保護者のだれもが知っているように、彼が自分の商品の価値に価格の形態または想像された金形態を与えても、彼はとうていまだその商品を金に化したわけではなく、また、幾百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金の一片も彼には必要ではない。(ト)だから、価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、または観念的な貨幣として役立つのである。(チ)この事情は、きわめてばかげた諸理論を生み出した(52)。(リ)価値尺度機能のためには、ただ想像されただけの貨幣が役立つけれども、価格はまったく実在的な貨幣材料に依存している。(ヌ)たとえば、一トンの鉄に含まれる価値、すなわち人間労働の一定量が、等しい量の労働を含む貨幣商品の想像された一定量によって表現される。(ル)したがって、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って、同じ一トンの鉄の価値はまったく異なる価格表現を受け取るのであり、言いかえれば、金、銀、銅のまったく異なる量によって想像されるのである。〉

 (イ)(ロ)(ハ)(ニ)
 商品の価格、あるいは貨幣形態というのは、商品の価値形態一般がそうであったように、手でつかめるその実在的な物体とは区別された、観念的な、またはただ表象されただけの形態なのです。というのは鉄やリンネル、小麦などの商品の価値というものは、それ自体としてはまったく目に見えないばかりか思い浮かべることさえできないものです。しかし、それらの価値はそれらの物のなかに確かにあるのです。だからこれらの価値を、それらと同じ物である金と等しいものとすることによって、それらの物としての諸商品の頭の中に、自分の価値を一定量の金として表象させることになるのです。だからこそ、商品の保護者(所持者)は、表象として思い浮かべられた商品の価格を外界に伝えるためには、自分の舌で商品の代弁をする(「さぁー、いらっしゃい、安いですよ。一つ○○円です。さあさあ、いかがですかー。」と呼びかける)か、あるいは商品に紙札(「○○円」という値札)をかかげるかしなければならないのです。

 ここでマルクスは奇妙なことを述べています。というのは〈鉄、リンネル、小麦などの価値は、目には見えないけれども、これらの物そのもののうちに存在する。これらの価値は、それらの物の金との同等性によって、それらの物のいわば頭の中にだけ現れる金との関係によって、想像される〉と述べているからです。〈それらの物のいわば頭の中にだけ現れる金〉とは一体なんでしょうか? 鉄やリンネルや小麦が、金と同じように「物」であることは誰でも知っています。しかしそうした物に「頭」があるということは初めて聞く話です。もちろん、マルクスはここで〈いわば〉と述べており、それが一つの例えであることはわかります。しかし、それにしてもマルクスはこのことで何を言いたいのでしょうか。

 これに関連して、少し遠回りになりますが、『経済学批判要綱』の次のような一文の理解について少し考えてみましょう。

 〈もっとも粗野な物物交換〔Tauschhande〕においては、二つの商品が相互に交換されるとき、各商品はまずその交換価値を表現している一つの章標に等置される、たとえば西アフリカ海岸のある黒人のばあいには、Xバール〔bar〕に等しいとされる。一方の商品は1バールに等しく、他方の商品は2バールに等しい。こうした割合で商品が交換される。商品は、それらが相互に交換されるまえに、まず頭のなかで、そして言葉でバールに転化される。商品は、交換されるまえに評価されるが、商品を評価するためには、相互に一定の数的関係にもたらされなければならない。商品をかような数的関係にもたらし、通約できるようにするためには、商品は同じ呼称(単位〉を受けとらなければならない。(バールは、ただ想像上の存在をもつだけである、というのも、総じて関係というものが一つの特殊な物体化を受けとり、それ自体がふたたび個体化されることができるのは、ただ抽象による以外はありえないからである。)〉草稿集①114-5頁)

 〈私が1エレの亜麻布と交換できるパンの重さを決定するためには、私はまず、1エレの亜麻布はその交換価値に等しく、つまり1/x労働時聞に等しいものとおく。同様に私は、1ポンドのパンはその交換価値に等しく、1/xまたは2/x労働時間などに等しいものとおく。私は、商品のいずれもがある第三者に等しく、すなわち自分自身とは等しくないものとおく。両者とは異なったこの第三者は、ある一つの関係を表現しているから、まず頭のなかに、表象〔Vorstellung〕のうちに存在する。というのは、諸関係というものは、総じて、それらが、たがいに関係しあっている諸主体から区別されて、確定されなければならないとされるばあいには、ただ思考されることができるだけだからである。一生産物〈または活動〉が交換価値になることによって、生産物は一定の量的な関係に、ある関係数に--すなわち、他の諸商品のどれほどの量がそれに等しいかを表わす、つまりそれの等価物を表わす数に、あるいは、どのような割合でそれは他の諸商品の等価物であるかを表わす数に--転化されるばかりではなく、同時に質的にも転化され、ある他の要因に転置されなければならない。そのことによって、両商品は同じ単位をもった名数〔 benannte Grössen〕となり、したがって通約のできるものとなる。〉(同116頁)

  ご覧のように、最初の引用文では〈商品は、それらが相互に交換されるまえに、まず頭のなかで、そして言葉でバールに転化される〉(下線は引用者)とあり、次の引用文でも〈両者とは異なったこの第三者は、ある一つの関係を表現しているから、まず頭のなかに、表象〔Vorstellung〕のうちに存在する〉(同)と述べています。つまりどちらもまず「頭」のなかに表象として思い浮かべられ、転化されなければならないというのです。そしてそれを説明して、最初の引用文では〈というのも、総じて関係というものが一つの特殊な物体化を受けとり、それ自体がふたたび個体化されることができるのは、ただ抽象による以外はありえないからである〉とか、次の引用文では〈というのは、諸関係というものは、総じて、それらが、たがいに関係しあっている諸主体から区別されて、確定されなければならないとされるばあいには、ただ思考されることができるだけだからである〉などと説明されています。こうした説明をどのように理解したらよいのでしょうか。

 これは次のようなことではないかと考えられます。


 まず確認しなければならないのは、一般的に、あるものと他のものとが関係するということは、あるものと他のものに共通の何かがあるからこそ言えることだということです。両者に何の共通性も同一性もないなら、そもそも関係など問題にし得ないのです。だから両者の関係を問うということはそれは両者をそれらに共通の質に還元した上で言いうることなのですが、しかしそうした両者をその共通の質に還元することができるのは、ただ思考による以外にありえないというのがマルクスの言わんとすることではないでしょうか。つまりそうした両者の関係する根拠たる共通の質というものを両者と異なったものとして確定する作業というものは、思考によって初めて可能なのだということです。というのは両者が関係する共通の質というのは、両者に内在的なものであり、直接的なものではない(内に隠れていて、直接には目に見えないもの)ですから、そうした共通の質に還元し、両者の関係を問題にするということは、両者の直接性を捨象してその内在的なものを取り出さなければならないのですが、しかしそうした操作は、ただ思考において可能に過ぎないからということではないかと思います。


 両者に共通の質は内在的なものであり、その限りでは観念的なものなのです。だからそうした共通の質において関係を見るということは、そうした観念の世界に入ることであり、そのためには両者の直接性を揚棄しなければならないわけです。そして実際に諸商品が交換関係のなかで行っていることは、まさにこうしたことなのだ、というのがマルクスがいわんとすることではないかと思います。つまり、それぞれがその直接性を捨象して、両者に共通の質に還元して互いに関係し合うということです。

 だから諸商品が貨幣との同等性の関係において、自身の内在的な価値を、貨幣(金)という具体的な姿で表すということは、自分自身の内在的なものを金の姿の上に映し出すことですから、それは自分自身の直接的な定在である使用価値から離れてしかできませんが、それをマルクスはあたかも諸商品がその頭の中に思い浮かべる、想像することと同じなのだと説明しているのではないかと思います。諸商品は自身の価値を貨幣(金)の一定量として表象して、そしてその表象したものを何らかの仕方で、相手に伝えて、初めてそれらは互いに交換可能になるというわけです。

 マルクスは『学説史』のなかでも、なぜ諸商品はまずは価格として観念的なものとして現れるのかを次のように説明しています(ただし引用は草稿集⑦から。下線はマルクスによる強調箇所)。

 〈商品の交換価値の貨幣での独立化は、それ自身、交換過程の、商品に含まれている使用価値と交換価値との諸矛盾の発展の、また、それに劣らずその商品に含まれている次のような矛盾の発展の、所産である。その矛盾とは、私的個人の一定の特殊な労働が、その反対物、すなわち同等な、必要な、一般的な、そしてこの形態において社会的な労働として表わされなければならない、というのがそれである。商品の貨幣としての表示のなかには、ただ、諸商品の価値量の相違が、排他的な一商品の使用価値での自分たちの価値の表示によって計られる、ということが含まれているだけではない。同時に、諸商品はすべて一つの形態で表わされ、この形態では諸商品は社会的な労働の具体化として存在し、したがってまた他のどの商品とも交換可能であり、任意にどの任意な使用価値にも転換可能である、ということが含まれているのである。それだから、諸商品の貨幣としての--価格での--表示は最初にただ観念的にだけ現われるのであり、この表示は、諸商品の現実の販売によってはじめて実現するのである。〉(草稿集⑦192-3頁)

 〈労働は、私的個人の労働であって、一定の生産物に表わされている。しかしながら、価値としては、生産物は社会的労働の具体化でなくてはならないし、またそのようなものとして、ある使用価値から他のどんな使用価値へも直接に転化が可能でなくてはならない。(その労働が直接に表わされる一定の使用価値は、なんであってもよい。それゆえ、ある形態の使用価値から他の形態のそれへの転換が可能なのである。)だから私的労働は、直接、それの反対物として、社会的な労働として、表わされなくてはならない。このような転化された労働は、その直接の反対物としては、抽象的一般的労働であり、したがってまた、一つの一般的等価物でも表わされる労働である。このような労働の譲渡によってのみ、個人の労働は、現実に、それの反対物として表わされるのである。だが、商品は、それが譲渡されるより前に、このような一般的表現をもたなければならない。個人の労働を一般的労働として表示するこの必然性は、一商品を貨幣として表示する必然性である。この貨幣が、尺度として、また商品の価値の価格での表現として役だつかぎりで、商品はこのような表示を受け取る。商品の貨幣への現実の転化、すなわち販売によって、はじめて商品は、交換価値としてのその商品のこの妥当な表現を獲得する。最初の転化は単に理論的な過程にすぎないが、第二の転化は現実の過程である。〉(同上200頁)

 (ホ)(ヘ)(ト)
 金による商品の価値の表現は観念的なものですから、その操作、つまり諸商品の価値の貨幣による表現という操作に必要な貨幣(金)も、やはりただ想像されただけの、あるいは観念的な、金が使われます。しかし商品の保護者(所持者)なら、誰でも知っていますが、彼が自分の商品の価値に価格の形態、すなわち想像された金形態を与えたとしても、彼はとうていまだその商品を現実の金に転化したわけではないのです。だからまた何百万もの商品の価値を金で評価するとしても、現実の金はまったく一つも必要としないわけです。だから価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ想像されただけの、または観念的な貨幣として役立つだけなのです。

 (チ) こうした事情は、きわめてばかげた諸理論を生み出しました。

 この部分には、注52がつけられていますが、それは『経済学批判』「貨幣の度量単位に関する諸理論」の部分を参照するようにというものです。その最初の部分は次のように始まっています。

 〈諸商品は価格としてはただ観念的に金に、したがって金はただ観念的に貨幣に転化されるという事情は、貨幣の観念的度量単位説を生む動機となった。価格規定にあっては、ただ表象された金か銀かが機能するだけであり、金と銀はただ計算貨幣として機能するだけだから、ポンド、シリング、ペンス、ターレル、フラン等々の名称は、金または銀の重量部分、またはなんらかのしかたで対象化された労働を表現するものではなく、むしろ観念的な価値諸原子を表現するものである、と主張された。それで、たとえば1オンスの銀の価値が増加したとすれば、1オンスの銀はより多くのこういう原子をふくむこととなり、したがってより多くのシリングに計算され、鋳造されなければならない、というのである。〉(全集13巻59頁)

 マルクスによれば、こうした学説は17世紀末にその端を発しているらしいのですが、そこから当時の1858年の銀行法委員会報告まで、歴史的に登場したさまざまな学説を批判していますが、とてもここで紹介できるように簡単に要約できるようなものではありません。しかし、ここで論じられている問題は、現代の貨幣(通貨)を考える上でも非常に重要に思えますので、第1節が終わった時点で、一度、詳しくその内容を振り返ってみるのもよいかも知れません。

 (リ)(ヌ)
 確かに価値尺度の機能のためには、ただ想像されただけの貨幣で十分なのですが、しかし、実際に表現された価格がどうなるかということは、現実に存在している実在的な貨幣材料(金)に依存しているのです。

  確かに、諸商品の価値を尺度するためには、ただ頭に表象された金で十分なのですが、しかし、それがどういう価格として表されるかということは、実際に存在している実在的な金(それが持っている価値)に依存しています。

 (ル) だから、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って、同じ1トンの鉄の価値は、まったく違った価格表現を受け取ることになります。言い替えれば、金、銀、銅のまったく異なる量によって表象されことになるわけです。

 つまり金1グラムの価値(金1グラムを生産するに必要な労働時間)が、銀1グラムの価値の10倍であり、同じように銅1グラムの100倍であるとするなら、1グラムの金=10グラムの銀=100グラムの銅 という等式がなりたちます。今、鉄1トンの価値を、金で表すと1キロの金という形で表象されるとするなら、同じように鉄1トンを銀で表すなら、10キロの銀という形で、あるいは銅で表すなら、100キロの銅という形で表象されるわけです。つまり同じ鉄1トンの価値が、1キロ、10キロ、100キロというまったく異なる量によって表象されるというわけです。

◎注51と注52

 注については、これまでと同じように文節ごとに区切った解説は行いませんが、一応、本文の紹介と簡単な考察は行っておきたいと思います。

【注51】〈(51) 未開人や半未開人は別の仕方で舌を使う。たとえば、船長パリは、バフィン湾〔カナダの東側、グリーンランドとの間〕の西海岸について次のようにのべている。「この場合」(生産物の交換に際して)「・・・・彼らはそれ」(彼らに提供されたもの)「を舌で二度なめ、その後では、取り引きが満足のうちに終わったものと彼らが考えているように見えた」〔ウィリアム・エドワード・パリ『大西洋から太平洋への北西航路を発見するための航海日誌』、第二版、ロンドン、一八二一年、二七七~二七八ページ〕。同じく、東部エスキモー人の場合にも、交換者は品物を受け取るたびにそれをなめた。このように、北方では舌が取得の器官とされるのならば、南方では腹が蓄積された財産の器官とされ、カフィール人〔南東アフリカの部族〕が一人の男の富を彼の腹の太さで評価することに何の不思議もない。カフィール人は実にりこうな連中だ。というのは、一八六四年のイギリス政府の衛生報告が労働者階級の一大部分に脂肪形成物質が不足しているのを嘆いているのに、ドクター・ハーヴィーなる人物--もっとも、彼は血液循環を発見したハーヴィーではない--が同じ年にブルジョアジーや貴族の脂肪過多を取りのぞくと約束するいかさま処方によって産をなしたからである。〉

 この注は諸商品の価値を表すためには、商品はまずは貨幣としての金との同等性によって、金の一定量としてその価値を表象するわけだが、だからそのあとその表象を外界に伝えるために、〈自分の舌で商品の代弁をするか、または商品に紙札をかかげるかしなければならない〉という部分につけられたものです。こここで〈自分の舌で商品の代弁をする〉というのは、金の一定量として表象されたものを、「この商品の価格は金○○グラムです。」とその商品を買おうとしている貨幣所持者に伝えることだと説明しましたが、注を見ると、〈未開人や半未開人は別の仕方で舌を使う〉例が紹介されています。しかし、それらは果たして表象されたものを外界に伝える例として適切なのかどうかはやや疑問です。マルクスは〈舌が取得の器官とされる〉と述べていますが、いま一つよく分かりません。〈南方では腹が蓄積された財産の器官とされ〉るというのは、よく分かります。全体に、この注はやや皮肉を込めたもので、さまざまな知識をひけらかした程度で、深い意味はないと思うのですが、果たしてどうなんでしょうか。

【注52】〈(52) カール・マルクス『経済学批判』、「貨幣の度量単位に関する諸理論」、53ページ以下〔『全集』、第13巻、59ページ以下〕。〉

 この注は、すでに述べたように、参照箇所はかなりの頁数であり、また内容的にも決してその理解が容易な物ではありません。だからその解読は別途やるべきだと考えています。その機会があれば、是非、やってみたいと思っています。

 今回は、やや時間が足らず、中途半端なところで終わらなければなりませんが、そもそもこの解読は、未更新を避けてブログをそのまま残したい、という便宜的なものなので、今後も、こうした場合が考えられますので、ご了解とご容赦をねがいたいと思います。

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【付属資料】


●第4パラグラフ

《初版》

 〈諸商品の、貨幣での単純な相対的価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--が、諸商品の価格である。諸商品の価格にあっては、諸商品は、第一には、価値として、すなわち、質的に等しいもの、同じ労働の具象物または労働の同じ具象物として、現われているし、第二には、量的に規定された価値量として現われている。なぜならば、諸商品は、ある割合で--この割合において、これらの諸商品はあれこれの一定の金量と相等しい--互いに相等しいからであり、言い換えれば、相等しい労働量を表わしているからである。他方、発展した相対的価値表現、すなわち、相対的価値表現の無限の系列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。ところが、この系列は、いまではすでに、諸商品価格のうちに与えられている。物価表の相場を逆に読めば、貨幣の価値量がありとあらゆる商品で表わされていることがわかる。この系列は新たな意味をも得たわけである。金は、貨幣であるために、すでに、それの現物形態のうちに、それのもろもろの相対的価値表現にかかわりなく、一般的な等価形態すなわち一般的な直接的交換可能性という形態をもっている。だから、これらの価値表現の系列は、いまでは同時に、金の価値量のほかに、素材的な富あるいは使用価値の発展した世界を表わしているのであって、金はこれらの使用価値に直接に置き換えられうるのである。これに反して、貨幣はなんら価格をもっていない。他の諸商品のこういった統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣は、それ自身の等価物としてのそれ自身に、関係させられなければならないであろう。〉(83頁)

《補足と改訂》

 〈p.55、56)一商品の金での簡単な相対的価値形態--x商品A=y金商品--はその商品の価格である。もともと一商品は、等価物との等式が、すべての他の諸商品が同じ等価物と結ぶ等式の列のなかの一分肢として現れる限りにおいてのみ、一般的相対的価値形態をもった。この列はいまはなくなっている。商品の金との個々の等式、すなわちその価格は、先行する歴史的過程が金(または銀、またはあるその他の際だった商品)をすでに貨幣商品、つまり、その特殊な自然形態と一般的等価物形態がすでに社会的に癒着している商品にしているがゆえに、その商品の一般的相対的価値形態になるのである。

p. 5 6) 6) L 貨幣商品それ自身は価格をもたない。云々について...

[3 7] p. 5 6) 6) それにたいして、展開された相対的価値表現または個々の相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の特殊的相対的価値形態になる。この列は、いまや、つねにおおよそ物価のなかで与えられている。云々

7) 削除する。〉(36頁)

 〈p.5 5、56) 4)金による一商品の価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。しかし、いま、先行する歴史的過程がある特別な商品・金に、すでに社会的に認められた等価物商品の性格をおしつける、つまりその商品を貨幣にする、と仮定するならば--他の諸商品の等式の列とは無関係に--この単一の等式で十分である。いまや、一般的相対的価値形態は一番最初の簡単な相対的価値形態の姿をもっている。

p. 5 5) 5)貨幣商品は、それ自身としては、価格をもたない。

6 )この列は貨幣商品にとっては、つねに、社会的に、すなわち商品価格のなかに存在する。

7)削除。〉(37頁)

《フランス語版》 フランス語版は二つのパラグラフに分けられている。

 〈ある商品の金による価値表現、すなわち、x量の商品A=y量の貨幣商品 は、この商品の貨幣形態すなわち価格である。1トンの鉄=2オンスの金 という単独の等式はいまでは、鉄の価値を社会的に有効であるように表示するのに充分である。この種の等式はもはや、他のすべての商品の等式系列における環として現われる必要がない。というのは、等価物商品である金がすでに貨幣の性格をもっているからである。したがって、商品の一般的な相対的価値形態はいまは、その最初の姿、その単純な形態をとり戻しているわけである。
 貨幣商品のほうはなんら価格をもっていない。貨幣商品が、他のすべての商品に共通である相対的価値形態に参加できるためには、それば自分自身にたいし等価物として役立つことができなければならないであろう。逆に、一商品の価値が果てしない等式系列のうちに表現された形態は、貨幣にとっては自己の相対的価値の専有的形態になる。ところが、この系列はいまでは、商品の価格のうちにすでに与えられている。ありうべきいっさいの商品のうちに貨幣の価値量を見出すためには、価格表をあべこべに読めば充分である。〉(72頁)

●第5パラグラフ

《初版》 初版には、現行版の第5パラグラフの前に、「諸商品の価格変動」の考察が挿入されている。それも含めて、二つのパラグラフを紹介しておく。

 〈価格がきまっている商品は実在的な形態および想像的または観念的な形態という二重の形態をもっている。その商品の実在する姿は、使用対象の姿、具体的な有用な労働の生産物の姿、たとえば鉄である。その商品の価値姿態、一定量の同質の人間労働の具象物としての・その商品の現象形態は、その商品の価格、ある量のである。ところが、金は、鉄とはちがう物であって、鉄は、その価格においては、自分とは別な物であるとはいえ自分と価値の等しい物としての金に、自分自身を関係させている。商品の価格すなわち貨幣形態は、こういった等置する関係のなかでのみ、つまり、いわばその商品の頭のなかにのみ、存在するのであって、その商品の所持者は、その商品の価格を外界に向けて示すためには、自分の舌でその商品の代弁をするか、その商品に貼り紙をぶらさげるかしなければならない(46)。だから、その商品の価値の形態は、その商品の使用価値の・手でっかみうる実在的な体躯形態、とはちがうところの、想像された観念的な貨幣形態なのである。諸商品は、このように、自分たちの価値を、貨幣のなかで観念的にのみ表現しているのであるから、諸商品は、自分たちの価値をも、想像的なあるいは観念的な貨幣のなかでのみ表現しているわけである。だから、価値の尺度は、想像された観念的な貨幣としてのみ、貨幣なのである。どの商品所持者も、諸商品を金で評価するときには、すなわち、商品価値に商品価格という形態を与えるときには、自分が、実在する金をなんら使用していない、ということを知っている。貨幣が価値尺度として観念的にのみ機能するとはいえ、しかもなお価格は、実在の貨幣素材に全く依存している。なぜならば、ある商品たとえば一トンの鉄は、そ一定量の労働の具象物として、同じ量の労働の具象物としての一定量の貨幣素材に関係させられているが、同じ量の労働は、全くそれぞれにちがった量の金や銀や銅のうちに具象化されているからである。だから、一トンの鉄の価値は、金や銀または銅が価値尺度として機能する事情に応じて、全くそれぞれにちがった価格表現を受け取っているのである。〉(84-5頁)

《補足と改訂》

 〈p. 5 6、57) 8)価格の決定された商品は二重の形態をもっ、すなわち実際の形態と観念的な形態とである。その現実の姿態は、商品体とは感覚的に異なった使用価値、鉄、リンネル、穀物等である。それらの共同の価値姿態はそれらの価格、つまり、一定量の金、である。しかし、金は他の商品体、鉄、リンネル、穀物等とは異なったものであり、そして、その価格自身が諸商品体を、その他の物であるが、その価値に等しいものとしての金と関連させる。価格は云々……〉(36頁)

 〈8)一商品の価値はそれ自身の肉体のなかにのみ存在する。鉄、リンネル、穀物等は、それらの生産において人間的労働力が支出されているがゆえに、価値である。しかし、その価値は現実には、つまりそれらの肉体においては、現われてはこない。それゆえ、価値が感覚的に見えるようになる相対的価値形態は、観念的な表象された形態でしかない。というのは、それはそれらの価値の現実の存在とは異なる形態だからである。相対的価値形態一般についていえることは、価格についてもいえる。鉄、リンネル、穀物等がそれらの価格において価値姿態をもつのは、それらの諸商品が金量を表象するかぎりにおいてである。金はそれら諸商品と感覚的に異なった物である、そして、それら諸荷品の価格自身において、他の、しかし価値と等しいものとしての金と関係する。それゆえ、それら諸商品は、金と等しいものとして表現されることによって、価値として表現される。〉(37-8頁)

 〈p. 5 7)、58) 9)商品の保護者のだれもが知っているように、彼が自分の商品の価値に価格の形態または表象された金形態を与えても、彼はとうていまだその商品を金に化したわけではなく、また、幾百万の商品価格を金で評価するためにも、現実の金の一片も彼には必要ではない。だから、価値尺度という機能においては、貨幣は、ただ表象されただけの、または観念的な貨幣として役立つのである。この事情は、きわめてばかげた諸理論を生み出した。(注目『経済学批判~ p.53以下。I貨幣の度量単位についての諸理論」参照。)しかし、貨幣または単に表象された金が価値尺度の機能のために役立つとしても、価格はまったく実在的な貨幣材料に依存している。たとえば、一トンの鉄に含まれる価値、すなわち人間的労働の一定分量が、等しい量の労働を要する貨幣商品の表象された一定分量によって表現される。したがって、金、銀、銅のどれが価値尺度として使われるかに従って閉じ一トンの鉄の価値はまったく異なる価格表現を受け取るのであり、言い換えれば、金、銀、鍋のまったくことなる量によって表象されるのである。〉(38-9頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは三つのパラグラフに分けられており、しかも、テキストの第6パラグラフは分けれずに繋がっている。だから、ここでは第6パラグラフの部分も併せて紹介することにする。

  〈商品の価格すなわち貨幣形態は、商品の体躯すなわち自然形態から区別された価値形態一艇のように・観念的なあるものである。鉄やリソネルや小麦等の価値は、眼に見えないとはいえ、これらの物自体のうちに宿っている。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわば商品の頭のなかにあるにすぎない金との関係によって、表現される。したがって、交換者は、商品の代弁をするか商品に紙札をはりつけるかして、商品価格を外界に知らせなければならない(2)。
 金による商品価値の表現はただたんに観念的にすぎないから、この作用のためには、観念的な金、すなわち想像のなかにのみ存在する金しか必要ではない。
 どんな食糧品商人でも、たとえ彼が自分の商品の価値に価格形態すなわち想像的な金形態を与えたにしても、自分の商品でもって金を作ったどころか、幾百万の商品価値を金で評価するために実在の金を少しも必要とはしない、ということを非常によく弁えている。貨幣は価値尺度という機能では、観念的な貨幣としてのみ用いられる。こういう事情がこの上なく馬鹿げた理論を産んだ(3)。だが、貨幣は価値尺度としては観念的にだけ機能し、したがって、この目的に用いられる金は想像された金でしかないとはいえ、商品の価格はやはり貨幣材料に全く依存しているのである。価値、すなわち、たとえば一トンの鉄のうちに含まれている人間労働の分量は、ちょうど同量の労働を要する貨幣商品の分量によって想像的に表現される。金、銀、または銅が価値尺度としてえらぽれるのに応じて、一トンの鉄の価値は、相互に全くちがった価格で表現される、すなわち、銅、銀、または金の異なる量によって表わされる。[/]したがって、もし二つのちがった商品、たとえば金と銀とが価値尺度として同時に用いられるならば、すべての商品はその価格として二つのちがった表現をもつわけである。金にたいする銀の価値比率が相変わらず不変であるかぎり、たとえば一対一五の割合に維持されているかぎり、すべての商品は金価格と銀価格とをもち、両価格はともに相並んで悠々と流通する。この価値比率のどんな変化も、それがために商品の金価格と銀価格との割合を変え、こうして、価値尺度の機能がその二重化と両立しないことを事実でもって証明する(4)。
 (3) カール・マルクス『経済学批判』の「貨幣の尺度単位にかんする諸理論」と題する部分を見よ。〉(73-4頁)([/]は引用者が挿入。この部分以下が、第2版では第6パラグラフに該当する。なお注(4)は、第2版の注53の資料提供として紹介予定)

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