『資本論』学習資料No.10(通算第60回)上
◎『資本論』全3巻の構成(大谷新著の紹介の続き)
『資本論』の第1巻も読んでないのに、全3巻の話なんて、と思われるかもしれませんが、しかし『資本論』という本はやはり全3巻がそろって、「芸術的な一体」をなすのだとマルクス自身も述べていますし、まあ、『資本論』全体ががどのような構成からなっているのかを知ることは無駄ではないでしょう。
『資本論』全3巻を読んでない人でも、あるいは第1巻の表題は「資本の生産過程」であり、第2巻の表題は「資本の流通過程」、そして第3巻の表題は「資本主義的生産の総過程」となっていることぐらいは知っているかも知れません。
この表題だけを見ると、第3巻というのは、第1巻「資本の生産過程」と第2巻「資本の流通過程」とを統一したものとしての「総過程」ということなのかなあ、と思わせるものです。
しかしこの第3巻の表題はエンゲルスがマルクスが付けた表題を勝手に変えてつけたものなのです。マルクス自身は「総過程の諸形象化」という表題をつけているのです。これは一見大した変更ではないように見えますが、決してどうでもよいことではないのです。第3巻は単に第1巻と第2巻とを統一して、全体として見た「資本主義的生産の総過程」ではないということなのですから。
では第3巻は何が書かれているのでしょうか。
この点について、大谷新著は次のように述べています。
〈第1部では,資本主義的生産様式の統括的な(übergreifend)契機をなす「資本の生産過程」の分析によって,この生産様式の仕組みと運動との根幹が明らかにされるが,それはまだ根幹だけであり,それに第2部での「資本の流通過程」の分析が続くことによって,はじめて資本の再生産の総過程が把握される。第1部および第2部での資本主義的生産の本質の把握にもとついて,総過程のなかで資本と剰余価値とがとる諸姿態を,抽象的なものから具体的なものへと次々と追っていって,第1部の冒頭で読者と共有した資本主義社会についての表象を本質の現象形態として展開し尽くすこと,これが第3部の課題であった。〉 (大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』37頁)
マルクス自身は、第3巻の冒頭、次のように述べています。
〈「すでに見たように,全体として考察された生産過程は,生産過程と流通過程との統一である。このことは,流通過程を再生産過程として考察したさいに(第2部第4章*)詳しく論じた。この部(つまり第3部〔巻〕--引用者)で問題になるのは,この「統一」についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない。問題はむしろ,資本の過程--全体として考察された--から生じてくる具体的諸形態を見つけだして叙述することである。{諸資本がそれらの現実的運動のなかで互いに対し合うときの具体的諸形態にとっては,直接的生産過程における資本の姿態〔Gestalt〕も流通過程における資本の姿態〔Gestalt〕も,ただ特殊的契機として現われるだけである。だから,われわれがこの部で展開する資本の諸形象化〔Gestaltungen〕は,それらが,社会の表面で,生産当事者たち自身の日常の意識のなかで,そして最後にさまざまの資本の相互にたいする行動である競争のなかで,生じるときの形態に,一歩一歩近づいていくのである。}」(MEGAII/42,S.7.)〉 (大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』第2巻363頁)
〔* これはマルクスの草稿を大谷氏が訳したものですが、エンゲルス版はかなり手を入れて書き換えています。ここで〈第2部第4章〉とあるのは、誤植ではなく、マルクスがこの草稿を書いていた時には、まだ第2部はまったく書かれていなかったからこうなっているのだと思います。マルクスが第2部(巻)の執筆にとりかかったのは、第3部(巻)の第3章(篇)の途中か、あるいは第3章を書き終えたあと、第4章(篇)にとりかかる前に、第3部の執筆を一時中断して、第2部第1稿を書き上げたのですが、この第1稿はエンゲルス版の第2巻にはまったく使われていないのです。こうした事情は大谷氏の新著にも、その前の『マルクスの利子生み資本論』にも詳しく説明されています。〕
ご覧のように、マルクス自身が、第3巻の課題について、〈生産過程と流通過程との統一……についてあれこれと一般的反省を行なうことではありえない〉と述べているのです。そして注目すべきは、第1巻や第2巻については〈資本の姿態〔Gestalt〕 〉と述べていますが、第3巻については〈資本の諸形象化Gestaltungen〕〉と述べていることです。だからこの〈諸形象化〉というのが重要なのです。これをエンゲルスが表題から削ったのは、やはりよくなかったように思います。
しかしでは、この〈諸形象化〉とはそもそも何なのかということが問題なのですが、しかしそれについて、私なりの考えを述べることは、ここでは遠慮させて頂きます(これはあくまでも大谷新著の紹介なのですから)。それは、まあ、皆さんが第3巻を読む時のお楽しみということで、そういう問題もあるのだな、と記憶の片隅にでも置いておいてください。
思わせぶりで、申し訳ないのですが、本文の解読を続けます。今回は前回(№9)の続きで、第5パラグラフからです。
◎第5パラグラフ(商品市場での商品の変態)
【5】〈(イ)そこで、われわれは商品所持者のだれかといっしょに、たとえばわれわれの旧知のリンネル織職といっしょに、交換過程の場面に、商品市場に行ってみることにしよう。(ロ)彼の商品、二〇エレのリンネルは、価格が決まっている。(ハ)その価格は二ポンド・スターリングである。(ニ)彼は、それを二ポンド・スターリングと交換し、次に、実直ものにふさわしく、この二ポンド・スターリングをさらに同じ価格の家庭用聖書と交換する。(ホ)彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値姿態である金とひきかえに手放され、そして、この姿態からさらに他の一商品、聖書とひきかえにまた手放されるのであるが、この聖書は使用対象として織職の家にはいって行き、そこで信仰欲望を満足させることになる。(ヘ)こうして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態--商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである。65(ト)商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引--売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、である。〉
(イ) そこで、私たちは商品所持者のだれかといっしょに、たとえば私たちの旧知のリンネル織職といっしょに、交換過程の場面に、すなわち商品市場に行ってみることにしましょう。
さて、いよいよ“変態”の観察に行きましょう。蝶やカエルの変態を観察するためには、自然に出かけなければなりませんが、「商品の変態」の観察のためには、「商品市場」に出かける必要があります。第2章の「交換過程」では、冒頭、〈商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなければならない〉(全集23a113頁)とありました。だから私たちも第1章からおなじみのリンネル織職と一緒に出かけることにしましょう。
ところで、「商品市場」という言葉は、私たちには聞き慣れた言葉ですが、意外にも『資本論』ではここで始めて出てきます。それをマルクスは「商品交換の場」と説明しています。「市場」には、「商品市場」以外にも、『資本論』では、「世界市場」、「労働市場」、「貨幣市場」等が出てきます。しかしとりあえずは、それらは今は関係がないので、放っておきましょう
(ロ)(ハ) 彼の商品である二〇エレのリンネルは、価格が決まっています。その価格は二ポンド・スターリングです。
さて、商品リンネルの所持者であるリンネル織職は、市場では、まず彼の商品であるリンネルの価値を誰にでも分かるように表す必要があります。彼はそれを大声を出して市場に来る人々に分かるように言うか、それとも黙ってリンネルに値札をつけなければなりません。もちろん、両方やってもよいし、通常は商品所持者は両方します。20エレのリンネルの値札(価格)に書かれているのは、2ポンド・スターリングだそうです。「さあ、さあ、安いですよ、20エレのリンネルが、たった2ポンド・スターリング!」と彼は叫びます。
(ニ) 彼は、それを二ポンド・スターリングと交換し、次に、実直ものの彼にふさわしく、この二ポンド・スターリングをさらに同じ価格の家庭用聖書と交換するとしましょう。
すると、ちょうど、リンネルを欲しいと思っている人がいて、彼はそのポケットに「硬い貨幣」を持っているなら、リンネル織職は、20エレのリンネルを2ポンド・スターリングと交換します。しかしリンネル織職にとって市場でやることはこれで終わりではありません。そもそもリンネル織職が、リンネルを織って、それを市場に持ってきたのは、それが彼にとっては使用価値ではなく、それを別の彼の欲しいものを手に入れるためだったからです。そこで実直ものの彼は、手に入れた貨幣を今度は家庭用聖書と交換するのだそうです。これでやっと彼が市場でやることは終わったので、市場から聖書を持って出て行きます。
(ホ) 彼にとってはただ商品であり価値の担い手でしかないリンネルが、その価値姿態である金とひきかえに手放され、そして、この姿態からさらに他の一商品、聖書とひきかえにまた手放されたのですが、この聖書は使用対象として織職の家にはいって行き、そこで信仰欲望を満足させることになります。
さて、これがどうして「商品の変態」なのでしょうか、それが問題です。まずリンネル織職から見ると、彼のリンネルは彼にとってはただ他の商品を入手するための手段であり、他の商品と共通のものを持つもの、すなわち価値の担い手でしかありません。だから彼から見ると、リンネルはその姿態を脱ぎ捨てて、金という姿態になり、さらに聖書になったことになります。そして聖書は彼の信仰欲望を満たすことになるわけです。つまりリンネルの価値は、金に変わっても、聖書に変わってもまったく同じままです。つまり価値を主体としてみると、それは最初はリンネルという姿を持っていたのが、金という姿に変身し、さらに聖書に変身したのです。だからこの一連の商品交換の場におけるリンネル商品の姿態変換を「変態(メタモルフォーゼ)」とマルクスは表現しているわけです。
(ヘ) こうして、商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態--商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのです。
この商品の変態は、〈対立しつつ互いに補いあう二つの変態〉だと説明されています。つまり〈商品の貨幣への転化〉と〈貨幣から商品への再転化〉という二つの変態は、互いに反対の関係にありながら、互いにそれに固有の他者の関係にあります。そして〈商品の貨幣への転化〉は最終的には〈貨幣から商品への再転化〉によって補わなければならない関係にあるということです。これが「商品の変態」の全体を示しています。
(ト) 商品変態の諸契機は、同時に、商品所持者の諸取引でもあります。それは、売り、すなわち商品の貨幣との交換、買い、すなわち貨幣の商品との交換、そして両行為の統一、すなわち買うために売る、からなっています。
そしてこうした商品の変態は、現実には、商品所持者の互いの諸取引によって行われるわけです。それは「売り」と「買い」です。だから厳密にいえば、「売りと買い」は商品の変態を商品所持者の互いの商取引の行為として見たものと言うことができます(フランス語版では〈その所有者の観点から〉みた〈二つの行為〉と書かれています)。あるいは、その諸取引を商品(価値)を主体として見れば、それは「商品の変態」としてとらえられるということでもあるわけです。
そして商品所持者の取引として見た場合の商品の二つの互いに補い合う変態は、「売り」と「買い」として現象し、さらにこの両者を統一した「買うために売る」だと説明されています(フランス語版では〈これら二つの行為の全体を示している〉となっています)。リンネル織職の最終目的は、自分のリンネルを商品として販売するだけにあるのではなく、自分にとって必要な家庭用聖書を入手することであり、だから最初の「売り」は、最後の「買い」のためだからです。
これとは反対の「売るために買う」(G-W-G)は、第2篇「貨幣の資本への転化」で出てきます。
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《余談》
これは余談なのですが、マルクスは断続しながらも死の直前まで『資本論』の草稿を書き続けましたが、その最後に書いたものは、第2部(巻)の「第8草稿」だと言われています。これは最近の研究によれば1877年ぐらいに書き始められ、途中、中断があって1880年から再開されて1881年に書き終えた(というより書けなくなった?)ということのようです(因みにマルクスが亡くなったのは1883年3月14日です)。
この第8稿の最後のページ(だからマルクスが『資本論』の草稿として最後に書いたもの)は、マルクスがつけたページ番号では76頁、77頁になりますが(この77頁というのはノート裏表紙の内側が利用されており、大谷氏の翻訳本で7行分が書かれているだけです)、そこでは、面白いことに、今、われわれが取り組んでいる問題と関連する問題が論じられています。
マルクスは最初、資本の流通もその流通だけを見れば単純な商品の流通と同じだと指摘したあと、次のように述べています。
〈ここにあるのは,ただ,商品流通の両変態G-WおよびW-Gであって,この場合にはそれらの順序はまったくどうでもよいことなのである。このなかで変化するものはなにか。それは,同じ価値の,一方の形態から他方の形態への,商品形態から貨幣形態への,および,貨幣形態から商品形態への転態だけである,--つまり一つの状態変化〔Zustandsänderung〕である。商品がその価値で売られるとすれば,価値の大きさは,買い手の手にあっても売り手の手にあっても変わらない。ただその存在形態〔Daseinsform〕が変わっているだけである。言い換えれば,同じ価値がある状態が変わったのである。〉 (大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』269-270頁)
ここではマルクスは「変態(メタモルフォーゼ)」とは言わずに、〈状態変化〔Zustandsänderung〕〉だと述べていますが、同じことを述べていることが分かります。
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◎注65
【注65】〈65「ヘラクレイトスは言った。火が万物となり、また万物が火となること、あたかも黄金が諸財貨となり、また諸財貨が黄金になるごとくである、と。」(F・ラサール『エフェソスの暗き人ヘラクレイトスの哲学』、ベルリン、一八五八年、第一巻、二二二ページ。)この箇所へのラサールの注、二二四ページの注三は、貨幣を、まちがって、単なる価値章標だとしている。〉
これは〈商品の交換過程は、対立しつつ互いに補いあう二つの変態--商品の貨幣への転化と貨幣から商品へのその再転化とにおいて行なわれるのである〉という一文につけられた原注です。恐らくラサールの一文のなかに〈あたかも黄金が諸財貨となり、また諸財貨が黄金になるごとくである〉という文言があるから、貨幣の商品への変態と、商品の貨幣への変態を、ヘラクレイトスがすでに述べていたということなのでしょう。なおフランス語版ではラサールの注についての批判は削除されています。
◎第6パラグラフ(商品市場での全過程の最終結果)
【6】〈(イ)いま、リンネル織職が取引の最終結果を調べてみるとすれば、彼は、リンネルの代わりに聖書を、つまり、彼の最初の商品の代わりに価値は同じだが有用性の違う別の一商品をもっている。(ロ)同じやり方で、彼はそのほかの生活手段や生産手段も手に入れる。(ハ)彼の立場から見れば、全過程は、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物交換を媒介しているだけである。〉
(イ) いま、リンネル織職が自分の取引の最終結果を調べてみますと、彼は、リンネルの代わりに聖書を、つまり、彼が最初に市場に持ってきた商品の代わりに、価値は同じですが、有用性の違う別の一商品をもっていることになります。
リンネル織職の市場での二つの行為(売りと買い)の結果、彼は最初に持っていたリンネルの代わりに、彼の欲しい家庭用聖書を手に入れることができました。つまり彼は最初の商品の代わりに、価値は同じですが、有用性の異なる別の商品を手に入れたことになります。
(ロ) 同じやり方で、彼はそのほかの生活手段や生産手段も手に入れることができます。
同じように、リンネル織職は、リンネルを売ることによって、聖書以外にも彼が必要なさまざまな生活手段や、またリンネル織に必要な材料や用具を手に入れることができるでしょう。
(ハ) 彼の立場から見れば、全過程は、ただ彼の労働生産物と他人の労働生産物との交換、つまり生産物交換を媒介しているだけです。
だから彼の立場から見ると、販売と購買という行為の全過程は、ただ自分の労働生産物と他人の労働生産物とを交換しているだけに見えます。つまりリンネルの貨幣への転化と貨幣の聖書への転化という商品の変態は、こうした互いの労働生産物の交換を媒介しているだけなのです。
◎第7パラグラフ(商品の交換過程における形態変換)
【7】〈(イ)こういうわけで、商品の交換過程は次のような形態変換をなして行なわれる。
(ロ)商品-貨幣-商品
(ハ)W - G -W〉
(イ)(ロ)(ハ) こういうわけで、商品の交換過程は、商品をW、貨幣をGと名づけるならば、次のような形態変換をなして行なわれることになります。
商品-貨幣-商品
W - G -W
このパラグラフはただ商品変態を記号で表現しただけです。
◎第8パラグラフ(形態変換の素材的内容は社会的労働の物質代謝である)
【8】〈(イ)その素材的内容から見れば、この運動はW-W、商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝であって、その結果では過程そのものは消えてしまっている。〉
(イ) その素材的内容から見ますと、この運動はW-W、つまり商品と商品との交換であり、社会的労働の物質代謝です。しかしその結果では過程そのものは消えてしまっています。
「a 商品の変態」の最初のあたりでは、次のように述べていました。
〈交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。……そこで、われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。〉
また〈商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる〉などとも述べていました。だからこれまでは〈形態の上に起きるもの〉だけを見てきたのですが、しかし今度はその形態変換のなかにある素材的内容を問題にしているわけです。そうすると形態変換は素材変換を、つまり社会的物質代謝を媒介するものだということが分かるわけです。
〈その結果では過程そのものは消えてしまっている〉とありますが、これはどういうことでしょうか。『経済学批判』には、次のような説明があります。
〈循環W-G-Wは分解して、運動W-G、商品の貨幣との交換、すなわち販売と、反対の運動G-W、貨幣の商品との交換、すなわち購買と、そしてこれら二つの運動の統一W-G-W、貨幣を商品と交換するための商品と貨幣との交換、すなわち購買のための販売、となる。しかしこの過程が消えさる結果としては、W-W、商品の商品との交換、現実的な物質代謝が生じる。〉 (全集第13巻70頁)
だから商品の貨幣への転換、貨幣の商品への再転換という形態変換という過程が消えれば、ただ商品と商品との交換があるだけであり、結果として社会的な物質代謝が行われていることがわかるのだということのようです。形態転換はただそれを媒介しているに過ぎないということでしょうか。
◎第9パラグラフ(商品の貨幣への転化は商品の命懸けの飛躍である)
【9】〈(イ)W-G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔本全集、第一三巻、七一(原)ページ〕、商品の命がけの飛躍〔Salto mortale〕である。(ロ)この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないが、商品所持者にとってはたしかに痛い。(ハ)社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしている。(ニ)それだからこそ、彼にとって彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつのである。(ホ)しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取るのであり、しかもその貨幣は他人のポケットにある。(ヘ)それを引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣所持者にとっての使用価値でなければならず、したがって、商品に支出された労働は社会的に有用な形態で支出されていなければならない。(ト)言いかえれば、その労働は社会的分業の一環として実証されなければならない。(チ)しかし、分業は一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者たちの背後で織られたものであり、また絶えず織られているのである。(リ)場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれない。(ヌ)昨日まではまだ同じ一人の商品生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの特殊な作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離され、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになる。(ル)この分離過程のために事情はすでに熟していることもまた熟していないこともあるであるであろう。(ヲ)生産物は今日は或る一つの社会的欲望を満足させる。(ワ)明日はおそらくその全部または一部が類似の種類の生産物によってその地位から追われるであろう。(カ)労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の二〇エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいない。(ヨ)リンネルにたいする社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。(タ)もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。(レ)しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしよう。(ソ)ところが、今度は、どれだけの貨幣が? という問題が起きてくる。(ツ)答えは、もちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されている。(ネ)商品所持者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないことにしよう。(ナ)それは市場ではすぐに客観的に訂正される。(ラ)彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずである。(ム)だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかない。(ウ)しかし、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、われわれのリンネル織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしよう。(イ)昨日までは疑いもなく一エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなる。(ノ)それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所持者が最も熱心に立証するところであ。(オ)われわれの友人にとっては不幸なことだが、世の中にはたくさんの織職がいるのである。(ク)最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。(ヤ)それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうる。(マ)もし市場の胃袋がリンネルの総量を一エレ当たり二シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは、社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。(ケ)結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時聞を支出したのと同じことである。(フ)ここでは、死なばもろとも、というわけである。(コ)市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。(エ)そして、実際にどの一エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に1定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。〉
(イ)(ロ) W-G、商品の第一変態あるい「販売」です。商品はその自然の体から金の体へ変態します。このの商品価値の姿態変換、すなわち飛び移りは、私が『経済学批判』で書いたように、商品の「命がけの飛躍」なのです。この飛躍に失敗すれば、商品にとっては痛くはないでしょうが、商品所持者にとってはたしかに痛いものです。
さてここからは、商品の変態をさらに詳しく分析して行きましょう。まず最初の変態、W-G、「販売」です。この変態について、『経済学批判』では次のように書かれています。
〈W-G、すなわち販売。商品Wは、たんに特殊な使用価値、たとえば一トンの鉄としてだけではなく、また一定の価格をもつ使用価値、たとえば3ポンド17シリング10ペンス2分の1、すなわち1オンスの金という価格をもつ使用価値としても、流通過程にはいる。この価格は、一方では鉄にふくまれている労働時間の量、すなわち鉄の価値の大きさの指数であるが、それと同時にまた、金になりたいという鉄の敬虔な願望、すなわち鉄そのものにふくまれている労働時間に、一般的社会的労働時間という姿をあえたいという願望を表現している。もしこの化体が成功しないならば、1トンの鉄は商品でなくなるだけでなく、生産物でもなくなる。なぜならば、鉄はその所有者にとって非使用価値であるからこそ商品なのであり、言いかえれば、彼の労働は、他人にとっての有用労働としてだけ現実的労働であり、抽象的一般的労働としてだけ彼にとって有用であるからである。だから、鉄または鉄の所有者の任務は、商品世界で鉄が金をひきつける場所を見つけることである。しかしこの困難、商品の命がけの飛躍〔salto mortale〕は、この単純な流通の分析で想定されているように、販売が実際におこなわれれば克服される。〉 (全集13巻71頁)
だから商品は、この〈命懸けの飛躍〉に失敗すれば、それは商品でなくなるばかりか、生産物でもなくなるというのですから、例え商品にとってはそんなことはどうでもいいでしょうが、商品の所持者にとっては大変なことです。
(ハ)(ニ) 社会的分業は彼の労働を一面的にするとともに、彼の欲望を多面的にしています。だから、彼にとっては、彼の生産物はただ交換価値としてのみ役だつものでしかないのです。
しかも商品社会では社会的分業はますます発展します。分業が発展するということは、彼はもっばら彼の労働にますます縛りつけられ、よってその労働を一面的にするということです。他方で、ますます多くの生産物が商品として生産されて、彼の欲望を刺激し、その欲望を多面的にするということでもあります。だから彼にとっては、彼の生産物は、ますます多面的になる彼の欲望をただ満たすための手段、単なる交換価値として役立つものでしかないようになるのです。
(ホ) しかし、彼の生産物はただ貨幣においてのみ一般的な社会的に認められた等価形態を受け取ることができいるだけです。しかもその貨幣は他人のポケットにあるのです。
しかし彼の生産物が交換価値として役立つだけだといっても、それは直接にはそうしたものとして存在しているわけではありません。そのためには、まずは彼はその商品の価値を表象において貨幣に転化し、一般的に社会的に認められるものとして、すなわち価格として表現する必要があります。そしてその上で、その観念的な貨幣を、現実の貨幣に転化するのですが、しかし現実の交換価値として存在する貨幣というのは、他人のポケットにあるのであって、彼の自由にできるものではないのです。まさに、ここに困難が横たわっているのです。
(ヘ)(ト) それをポケットから引き出すためには、商品はなによりもまず貨幣の所持者にとっての使用価値でなければなません。ということは、商品に支出された彼の労働は社会的に有用な形態で支出されていなければならないということです。それは言いかえれば、その労働は社会的分業の一環であることが実証されなければならないということです。
彼が彼の商品の価値の現実形態である、他人のポケットにある貨幣を引き出すためには、彼の商品の使用価値が、そのポケットの所持者にとって必要なもの、つまり彼にとっての使用価値でなければなりません。つまり彼が彼の商品に支出した労働が、社会的に有用な形で支出されたものでなければならないということです。そしてそれは言い換えれば、彼の労働が社会的な分業の一環であることを実証するということなのです。
(チ) しかし、分業というのは一つの自然発生的な生産有機体であって、その繊維は商品生産者たちの背後で織られたものであり、また絶えず織られているのです。
彼の労働が社会的分業の一環であることを実証するというのがまたやっかいなものなのです。なぜなら、分業というものは、この商品社会では、自然発生的なものであって、一つの生産有機体をなしているからです。そしてその複雑な社会的な有機体をなす網の目は、実は商品生産者たち自身が編んでいることには違いはないのですが、しかしそれは彼らが意識的にそれをやっているのではなくて、実は彼ら自身はまったく知らないあいだに、彼らの背後で客観的な法則にもとづいて織られているものなのです。しかもそれはすべての有機体がそうであるように、“生きており”絶えず新しいものへと織り変えられているものでもあるのです。
(リ) 場合によっては、商品は、新たに生まれた欲望を満足させようとするかまたは或る欲望をこれから自力で呼び起こそうとする或る新しい労働様式の生産物であるかもしれません。
だから、場合によっては、彼の商品は、新たな欲望を満足させようとするものかもしれませんし、あるいはこれから新しい欲望を自力で呼び起こそうとしているような、新しい生産物であるかも知れません。しかしそれが果たして成功するか失敗するかは、それこそやってみなければ分からないのです。
(ヌ)(ル) 昨日まではまだ同じ一人の商品生産者の多くの機能のうちの一つの機能だった或る一つの特殊な作業が、おそらく、今日はこの関連から切り離され、独立化されて、まさにそれゆえにその部分生産物を独立の商品として市場に送ることになります。しかまたこの分離過程のために事情はすでに熟していることもまた熟していないこともあるのです。
分業が常に発展して、新たな網の目が織り直されているということは、昨日までは同じ一人の商品生産者がいろいろと作業をしていたその一過程が自立化して、その過程から切り離されて、独立した労働によって担われるようになり、一つの分業の環として自立することもあるわけです。するとそれはまた新たな部分生産物として独立の商品として市場に出ていくことになります。しかしその分離が、果たしてそのための条件が十分成熟していたのかどうか、それとも時期尚早だったのかも、これまた実際にはやってみなければわからないのです。
(ヲ)(ワ) 彼の生産物が今日は或る一つの社会的欲望を満足させているとしても、明日はおそらくその全部か、あるいは一部が別のよく似た種類の生産物によって、その地位から追われしまうかも知れません。
分業が自然発生的な網の目のように編まれるということは、生産が無政府的に行われるということです。だから彼の生産物が今は一つの社会的欲望を満たしていたとしても、それが永久に保証されるわけではなく、すぐに別の人が彼の商品とよく似た生産物を生産して、彼の地位を奪ってしまうこともありえます。
(カ) 労働が、われわれの織職のそれのように、社会的分業の公認された一環であっても、まだそれだけでは彼の二〇エレのリンネルそのものの使用価値はけっして保証されてはいないのです。
社会的分業の環の一つを実証するということは、単にその労働の生産物の使用価値が社会的な使用価値であるということだけでは駄目なのです。われわれのリンネル織職の場合、彼のリンネルは社会的に有用な労働の生産物であったとしても、しかしそのことだけでは、彼のリンネルがその20エレという使用価値全体がそのまま保証されているということにはならないのです。
(ヨ)(タ) リンネルにたいする社会的欲望、それには、すべての他の社会的欲望と同じに、その限度があるのであるが、それがすでに競争相手のリンネル織職たちによって満たされているならば、われわれの友人の生産物はよけいになり、したがって無用になる。もらい物ならば、いいもわるいもないのだが、彼は贈り物をするために市場を歩くのではない。
すべての物には質と量の二つの側面がありますように、社会的分業にも質的な契機と量的な契機があります。つまり質的にはさまざまな労働の有用性が互いに社会的に結びついたものになっているかどうかということが問題です。しかし量的には、さまざまな労働がそれぞれの分野にそれぞれに必要な分量で支出されているかどうかということが問題なのです。社会的分業というのは、こうした二つの契機において互いに絡まり合い、釣り合っていて、しかもそれが常に変化し発展しているものなのです。
だからリンネルにたいする社会的欲望にも、すべての他の商品に対しても同じですが、それぞれの限度というものがあるのです。だからそれがリンネル織職の競争相手によって満たされてしまうなら、私たちの友人の生産物は社会的には余分なものとなってしまいます。そうするとそれは最初にも言いましたが、無用なもの、商品でも生産物でもなくなってしまうことになります。彼は贈り物をするために、市場を渡り歩いているわけではないのですから。
(レ)(ソ) しかし、かりに彼の生産物の使用価値が実証され、したがって貨幣が商品によって引き寄せられるとしましょう。ところが、今度は、どれだけの貨幣が? という問題が起きてくるのです。
リンネル織職の前に立った人は、リンネルが必要だったとします。つまり彼の生産物は相手にとって使用価値であることが実証されたのです。貨幣は商品に引き寄せられました。しかし今度は、相手のポケッにはどれだけの貨幣があるのかが、問題になるのです。
(ツ)(ネ)(ナ) 答えは、もちろん、すでに商品の価格によって、商品の価値量の指標によって、予想されています。この場合、商品所持者がやるかもしれない純粋に主観的な計算のまちがいは問題にしないでおきます。そうした問題は、市場においてすぐに客観的に訂正されしまいます。
もちろん、20エレのリンネルには2ポンド・スターリングという値札がついています。この2ポンド・スターリングという価格が、ただ商品所持者の純粋に主観的なものだから、単なる思い込みに過ぎないこともありえます。しかし私たちはそうした問題は、とりあえず無視しましょう。なぜなら、そうした主観的な偶然的な契機を通じて貫いている一般的な関係を、私たちは今問題にしているのだからです。
(ラ)(ム) 彼は自分の生産物にただ社会的に必要な平均労働時間だけを支出したはずでなのです。だから、その商品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の量の貨幣名でしかないことになります。
だから彼の20エレのリンネルには、ただその生産に社会的に必要な平均労働が支出されたものとしましょう。値札に書かれた2ポンド・スターリングは、20エレのリンネルに対象化されている社会的労働の貨幣名であることになります。
(ウ)(ヒ)(ノ)(オ) ところが、古くから保証されていたリンネル織物業の生産条件が、私たちの友人のリンネル織職の同意もなしに、彼の背後で激変したとしましょう。昨日までは疑いもなく1エレのリンネルの生産に社会的に必要な労働時間だったものが、今日は、そうではなくなってしまっているのです。それは、われわれの友人の何人もの競争相手の価格表から貨幣所持者が最も熱心に立証するところです。われわれの友人にとっては不幸なことですが、世の中にはたくさんのリンネル織職がいるのです。
生産有機体である社会的分業は、常に変化し発展しています。それは私たちの友人であるリンネル織職の知らない間に、彼に何の断りもなしに変わっていくのです。だから彼の生産したリンネルが、昨日まではリンネル織業に保証されていた生産条件を満たし、だからそれに必要な社会的な平均労働が支出されていたとしても、しかし、生産条件が激変して、今日、同じ20エレのリンネルの生産に必要な社会的な平均労働を半減させることもありうるのです。それは、今、彼の前にいる貨幣所持者が、彼の競争相手である同じリンネル織職たちが自分たちのリンネルに付けている値札を指さして、すぐに教えてくれます。「2ポンド・スターリングか。高いなあ。あっちでは同じものが1ポンド・スターリングで売ってたよ」と。無政府的な生産では、競争相手に事欠きません。
(ク)(ヤ)(マ)(ケ)(フ)(コ)(エ) 最後に、市場にあるリンネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしましよう。それにもかかわらず、これらのリンネルの総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうるのです。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングという正常な価格で吸収できないとすると、それは、社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明しているのです。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時聞を支出したのと同じことになってしまいます。ここでは、死なばもろとも、というわけなのです。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされないのです。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのです。
その前の話では、私たちの友人のリンネル織職だけが、彼の背後で激変した生産条件を知らずに、彼の生産物であるリンネルが、それまでは社会的平均労働が支出されていたのに、リンネル生産に必要な社会的平均労働そのものが変わってしまっために、彼の商品が競争相手からはじき出されてしまったということでした。だから20エレのリンネルは2ポンド・スターリングでは売れないという話でした。
しかし今回はそうではなく、リンネル生産という生産部門そのものが問題になっているのです。彼の同業者たちは彼と同じように、リンネルの生産に社会的に必要な労働時間を対象化させたのに、しかし、今度は、それがそのように評価されない場合もあるという話なのです。というのは、商品の価値というのは、社会の総労働のうち、与えられた生産条件のもとで、その商品を社会が必要とする分だけ、その生産部門に配分されるということも含まれているからです。だからここでは、リンネルの生産部門と他の諸商品の生産部門との関係(バランス)が問題になってくるのです。そしてこうした関係においては彼の商品であるリンネルは同業者の他のリンネルとまったく一緒のものとして扱われ、彼の商品はその全体のリンネル量の加除部分をなすに過ぎないものになるのです。だからこうした影響はリンネル生産全体に等しくおよぶことになります。
マルクスはこうした事情について、『資本論』第3巻第6篇の「超過利潤の地代への転化」のなかで次のように述べています。
〈社会的欲望、すなわち社会的規模での使用価値がここでは社会的総労働時間のうちからいろいろな特殊な生産部面に割り当てられる部分を規定するものとして現われるのである。しかし、それは、すでに個々の商品の場合にも現われるあの同じ法則でしかない。すなわち、商品の使用価値は商品の交換価値の、したがってまた商品の価値の、前提だという法則である。……たとえば、割合から見て多すぎる綿織物が生産されているとしよう。といっても、織物というこの総生産物には与えられた条件のもとでそのために必要な労働時間だけが実現されているとしよう。しかし、とにかくこの特殊な部門では多すぎる社会的労働が支出されているのである。すなわち、生産物の一部分はむだなのである。だから、その全体が、まるでそれが必要な割合で生産されてでもいるかのようにしか売られないのである。このような、社会的労働時間のうちからいろいろな特殊な生産部面に振り向けることのできる部分の量的な制限は、ただ価値法則一般のいっそう展開された表現でしかないのである。といっても、必要労働時間はここではまた別な意味を含んでいるのではあるが。つまり、社会的労働時間のうちただこれだけの分量が社会的欲望の充足のために必要だということである.制限はここでは使用価値によって生ずる。社会は、与えられた生産条件のもとでは、その総労働時間のうちからただこれだけの分量をこの一つの種類の生産物に振り向けることができるのである。〉 (全集25b821頁)〉
また『剰余価値学説史』でも同様のことを、〈この立場からすれば、必要労働時間は別の意味をもつことになる〉と次のように述べています。
〈必要労働時間そのものがいろいろな生産部面間にどんな分量で配分されたかが問題である。競争は、この配分を絶えず規制し、また同じくこの配分を絶えず廃棄する。ある部門に社会的労働時間の大量が費やされたとしても、その等価は、あたかも相応の量が費やされたかのように支払われる。つまり、その場合には、その総生産物--すなわちその総生産物の価値--は、それに含まれている労働時間に等しいのではなく、その総生産物が他の諸部面の生産に比例していた場合に比例的に費やされたであろうような労働時間に等しいのである。だが、総生産物の価格がそれの価値よりも低く下がるだけ、その総生産物の各加除部分の価格も下がる。……したがって、商品の使用価値を想定しておけば、その価格の価値以下への下落というのは、たとえ生産物のどの部分も社会的に費用な労働時間だけを費やしたにしても{この場合、生産条件は同じままだと想定されている}、必要な総量よりも多くの社会的労働がこの一部問に費やされたことを示している。〉 (全集版第26巻Ⅰ271~272頁)
マルクスは価値法則について、「クーゲルマンへの手紙」で次のように述べていました。
〈価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についても、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国民でも、一年間はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子どもでも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことについてもそうです。すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれの一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくされるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のことです。自然の法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特徴としているような社会状態で、この労働の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。〉 (全集第32巻454頁)
だからもともと商品の価値というのは、こうしたものですから、商品の価値の大きさを規定する社会的必要労働時間というものの内容にも、与えられた技術的諸条件にもとづいて、その商品を生産するのに社会的に平均的に必要な労働時間という意味だけではなくて、社会的総労働のうちでその商品部門に社会的に配分されるべき労働時間の加除部分という意味も当然含まれているわけです。
(今回も字数制限をオーバーしましたので、二分割し、本文は「上」、付属資料は「下」として掲載します。)