『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(9)

2023-10-20 14:59:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (9)


【付属資料】No.2


●第6パラグラフ

《初版》

 〈経験が資本家に一般的に示すものは、恒常的な過剰人口、すなわち、資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。とはいっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう幾世代もの人間でもって、自己の流れを形づくっているのであるが(111)。もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史上から言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産が、どんなに速くどんなに深く国民の力の生活根源をとらえてきたか、を示しており、工業住民の衰退が、農村からの自然発生的な生命要素を不断に吸収することによってのみ、どんなに緩慢にされているか、を示しており、そしてまた、農村労働者さえもが、戸外の空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを繁栄させるという、彼らのあいだであれほど全能的に支配している自然選択の法則にもかかわらず、すでにどんなに衰弱し始めているか、を示している(112)。自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するのにあれほど「正当な理由」をもっている資本が、人類の将来の腐朽なり、結局はどっちみちとめがたい人口減少なり、を予想することでもって、自分の実践運動を決定されることがないのは、地球が太陽に落下するかもしれないということでもって、自分の実践運動を決定されることがないのと、おっつかっつである。どんな株式投機においても、誰もが、いつかは雷が落ちてくるにちがいないと知りながら、誰も自分自身が黄金の雨を受けとめてこれを安全な場所に移し終わったあとで雷が隣人の頭に落ちるように、望んでいる。後は野となれ山となれ! これが、あらゆる資本家のモットーであるし、あらゆる資本家国のモットーでもある。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会から顧慮するようにと強制されなければ、顧慮しない(113)。肉体上および精神上の萎縮や夫折や/超過労働の責苦についての苦情にたいしては、資本はこう答える。この苦しみがわれわれの楽しみ(利潤)を増すというのに、どうしてこの苦しみがわれわれを苦しめるというのか? と。ところが、一般には、このこともまた、個々の資本家の意志の善悪によってきまるものではない。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいしては、外的な強制法則として有効ならしめる(114)。〉(江夏訳297-298頁)

《フランス語版》

 〈経験は一般的に資本家には、恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の必要に比較しての過剰人口が存在していること、を示している。とはいうものの、このあり余る分量は、発育の悪い、いじけた、すばやく消滅する、急速に排除される、いわば未熟のうちに摘みとられてまう代々の人間から形成されているのであるが(78)。経験はま聡明な観察者には、歴史的にいえば咋日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに急速に、人々の実体と力との根底そのものを襲っているか、工業人口の退化がどんなに、農村から借用された新しい諸要素の恒常的な吸収によってのみ緩慢にされているか、/農村労働者そのものもどんなに、清浄な空気にもかかわらず. また、彼らのあいだではきわめて強力に支配していて最強の個体だけを発育させる「自然選択」の原則にもかかわらず、衰弱しはじめているか、を示しているのである(79)。だが、自分をとり囲む労働者群の苦悩を否定するためのあれほど「適切な理由」をもっている資本が、その実践では、人類の腐敗、究極的には人口の減退という予想によって影響されないことは、地球が太陽に墜落するかもしれないことによって影響されないのと、おっつかっつである。どの投機取引でも、いつかは暴落がやってくることを誰もが知っているが、その誰もが、自分自身はちょっとの間に黄金の雨を集めてそれを安全な場所に移してしまってから、暴落が隣人を吹きとばすであろう、と期待する。後は野となれ山となれ! これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語である。し たがって、資本は、社会によって強制されることがなければ、労働者の健康と寿命の長さを少しも気づかいはしない(80)。肉体的および知的な堕落、夭折、過度労働の責苦について自分に向かって唱えられたどんな苦情にも、資本は簡単にごう答える。「これらの責苦がわれわれの喜び(われおれの利潤)を増すからには、なぜそれがわれわれを苦しめるというのか?(81)」確かに、ことを全体としてとらえれば、このこともまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的法則を、外的な強制法則として、資本家におしつける(82)。〉(江夏・上杉訳272-273頁)

《イギリス語版》 イギリス語版ではこのパラグラフの途中に注が挟まっているが、ここではそれを外して、注は原注のところで紹介することにする。

  〈12) これらの経験が資本家に示すものは、一般的に、不断の過剰人口である。それは、余剰労働を吸収しつつある資本のいつもの要求との関係における過剰ということである。だが、この過剰は、発育不全で、短命で、直ぐに互いに取り替えられ、もぎ取られた、いわば成熟前のということだが、の各世代の人間種から成り立っている。
  そして、はっきりと、これらの経験が、知識を有する観察者に、資本主義的生産様式が、人間史で云うならば、その日付はつい昨日からのことだが、人々を根源的に、あっという間に、強烈な握力で、捉えたことを教えている。-また、恒常的に、地方から、素朴で肉体的に痛んでいない人々を吸収することによって、工業人口の退化をいかに遅らすことができたかを示している。-また、新鮮な大気と自然淘汰の法則をして、彼等の内で、力強く働く者の中から、最も強き者のみの生存を許すという地方からの労働者ですら、すでに次々と死んでいく状況を知らしめている。
  資本の周囲に居る労働者の隊列の苦労などありはしないと云うためのご立派な言い分を持っている資本家は、早晩訪れるであろう人類の衰退や究極的な人口喪失を目の当たりにしても、実際になにをどうするのか、しないのかは、まるで、地球がいずれ太陽に落下するお話を聞くがごとくである。我 世を去りし後に、洪水よ 来たれ! (フランス語 イタリック) なる亡言こそ、ありとあらゆる資本家とありとあらゆる資本主義国家が腹のなかで思っていることである。以来資本家は、社会からの強制が無い限り、労働者の健康や命の長さについては、気にもしない。
  肉体的、かつ精神的な退化、早過ぎる死、超過労働の苦しみからの抗議に対する資本の解答は、それが我々の利益を増大させるものなのに、それがなぜ、我々を悩ませるものであるべきなのか? ただ、全体としてこれらの対応を見るならば、明らかに、それらが、個々の資本家の良きあるいは悪しき意志に依存していると云うものではない。自由競争という資本主義的生産の避け得ぬ法則がもたらすものが、強圧的外部法則の形で、全ての個々の資本家に作用するからである。〉(インターネットから)


●原注111

《初版》

 〈(111) 「超過労働をする者は、奇妙に早死にする。だが、滅んでゆく者の席はすぐに再びふさがれて、登場人物が頻繁に入れ替っても、舞台にはなんら変化が現われない。」『イギリスとアメリカ。ロンドン、1833年同第1巻、55ページ。(著者はE・G・ウェークフィールド。)〉(江夏訳298頁)

《フランス語版》

 〈(78) 「過度労働に服する労働者は、驚くぺき速さで死亡する。だが、亡びゆく者の席はすぐさま再び埋め合わされ、人物の頻繁な交替は舞台になんの変化も産み出さない」(『イギリスとアメリカ』、ロンドン、1833年、E・G・ウェークフィールド著)。〉(江夏・上杉訳273頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 超過労働で、「多くの者は、異常とも云える速さで死ぬ。しかし亡くなった者の場所は、瞬時に満たされる。そのように、人々の頻繁な入れ換えがあっても、その情景にはなんの変更も生じない。」(E.G. ウォークフィールド 1833 ロンドン「イングランドとアメリカ」)〉(インターネットから)


●原注112

《初版》

 〈(112)『公衆衛生、枢密院医務官第六回報告書、1863年』、を見よ。これは1864年にロンドンで公刊された。この報告書は特に農業労働者を扱っている。「サザーランド州は非常に改良された州だと言われてきたが、最近のある調査が発見したことだが、以前は立派な男子と勇敢な兵士とであれほど有名であったこの州の諸地方では、住民が退化して、やせこけて萎縮した人種になっている。海に面した丘の中腹という非常に健康的な場所にあるのに、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの裏町の腐った大気のなかにしかありえないほど、やせて蒼白である。」〈ソーントン、前掲書、74、75ページ。)彼らは、じっさい、グラスゴーの路地や袋小路で売春婦や泥棒と一緒に寝ている3万の「勇ましいスコットランド高地人」に、似ている。〉(江夏訳298頁)

《資本論》

  〈「婦人の就業が最も少ない」農業地区では「これに反して死亡率は最も低い」のである。ところが、1861年の調査委員会は予想外の結果を明らかにした。すなわち、北海沿岸のいくつかの純農耕地区では、1歳未満の子供の死亡率が、最も悪評の高い工場地区のそれにほとんど匹敵する、というのである.そこで、ドクター・ジョリアン・ハンターが、この現象を現地で研究することを委託された。彼の報告は『公衆衛生に関する第六次報告書』に採り入れられてある。それまでは、マラリアとかそのほか低湿地帯に特有な病気が多くの子供の命を奪ったものと推測されていた。調査は正反村の結果を示した。すなわち、
  「マラリアを駆逐したその同じ原因が、すなわち、冬は湿地で夏はやせた草地だった土地を肥沃な穀作地に変えたということが、乳児の異常な死亡率を生みだしたということ」だった。
  ドクター・ハンターがその地方で意見を聴取した70人の開業医は、この点についいて「驚くほど一致して」いた。つまり、土地耕作の革命にともなって工業制度が採り入れられたのである。
  「少年少女といっしょに隊をつくって作業する既婚婦人たちは、『親方』と称して隊全体を雇っている1人の男によって、一定の金額で農業者の使用に任される. これらの隊は、しばしば自分の村から何マイルも離れて移動し、朝晩路上で見かけるところでは、女は短い下着とそれにつりあった上着とを着て、長靴をはき、またときにはズボンをはいていて、非常にたくましく健康そうに見えるが、習慣的な不品行のためにすさんでおり、この活動的で独立的な暮らし方への愛着が家でしなびている自分の子供に与える有害な結果には少しもとんちゃくしない。」
  ここでは工場地区のすべての現象が再生産されるのであり、しかも、隠蔽された幼児殺しや子供に阿片を与えることはいっそう大きく再生産されるのである。イギリスの枢密院医務官で『公衆衛生』に関する報告書の主任編集者であるドクター・サイモンは次のように言っている。
  「それによって生みだされる害悪を知っているだけに、成年婦人のいっさいの包括的な産業的使用を私が強い嫌悪の念をもって見るのもやむをえないことであろう。」工場監督官R・べーカーは政府の報告書のなかで次のように叫んでいる。「もしすべての家族もちの既婚婦人がどんな工場で働くことも禁止されるならば、それは、じっさい、イギリスの工業地区にとって一つの幸福であろう。」〉(全集第23a巻519-520頁)
  〈1863年には、枢密院は、イギリス労働者階級の最も栄養の悪い部分の窮状に関する調査を命じた。枢密院の医務官ドクター・サイモンは、この仕事のために前記のドクター・スミスを選んだ。彼の調査は一方では農業労働者に、他方では絹織物工、裁縫女工、革手袋製造工、靴下編工、手袋織工、靴工に及んでいる。あとのほうの部類は、靴下編工を除けば、もっぱら都市労働者である。各部類のなかの最も健康で相対的に最良の状態にある家庭を選択することが、調査の原則とされた。一般的な結果としては次のようなことが判明した。
  「調査された都市労働者の諸部類のうちでは、窒素の供給が、それ以下では飢餓病が発生するという絶対酌な最低限度をわずかに超過したものは、ただ一つだけだったということ、二つの部類では、窒素含有食物も炭素含有食物も両方とも供給が不足であり、ことにそのうちの一つの部類では非常に不足だったということ、調査された農業家族のうちでは、5分の1以上が炭素含有食物の最低必要量以下を摂取し、3分の1以上が窒素含有食物の最低必要量以下を摂取していたということ、三つの州(バークシャ、オックスフォードシャ、サマセットシャ)で/は、窒素含有食物の最低量に達しない不足が平均的な状態だったということ。」
  農業労働者のうちでは、連合王国の最も豊かな部分であるイングランドのそれが最も栄養が悪かった。一般に、農業労働者のうちで栄養不良になったのはおもに女と子供だった。なぜならば「男は自分の仕事をするために食わなければならない」からである。調査された都市労働者部類のあいだには、もっとひどい不足が見られた。「彼らの栄養は非常に悪いので、悲惨な健康破壊的な窮乏」(これはすべて資本家の「禁欲」なのだ! すなわち、彼の労働者が露命をつなぐために欠くことのできない生活手段の支払の禁欲!)「の場合も多いにちがいない。」〉(全集第23b巻854-855頁)

《フランス語版》

 〈79) 『公衆衛生。枢密院医官第六回報告書、1863年』(1864年にロンドンで公刊)を見よ。この報告書は農業労働者を扱っている。「サザーランド州は、大改良が行なわれた州であると言われてきたが、最近の調査が証明したところでは、かつて男子の立派さと兵士の勇敢さとで名高かったこの地方では、退化した住民はもはや、痩せ細って傷めつけられた人種でしかない。海に面した丘陵の斜面にある最も健康な場所でも、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの袋小路の腐った大気のなかで出くわすかもしれない人々と同じように、痩せていて蒼白である」(ソーントン、前掲書、74、75ページ)。実際に彼らは、グラスゴーがその「小路や路地」のなかに押し込んで盗人や淫売婦と一緒に寝かせている3万人の「勇ましいスコットランド高地人」に、似ているのである。〉(江夏・上杉訳273頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「公衆衛生 枢密院 医務官 第六次報告書、1863年」ロンドン 1864年発行 を見よ。この報告書は、特に、農業労働者のことを取り上げている。「サザーランド… は、通常、非常に良く改良された州を代表する…が…かっては、良質で勇敢な兵士を輩出するとして有名であったが、そこですら、住民が貧弱で、発育不全の人種であることが、最近の調査で発見された。この健康的な場所、海に面する丘で、飢えた子供たちは、あたかもロンドンの裏道の不潔な空気の中にいるかのように、青白い。(W. Th.ソーントン 過剰人口とその治療法) 彼等は、事実、グラスゴーの横町に豚が押し込まれるがごとくして、淫売・泥棒と一緒にいる3万の「勇敢なるスコットランド高地人」に似ている。〉(インターネットから)


●原注113

《61-63草稿》

 〈「(1)住民の健康は国民的資本の非常に重要な一部分であるのに、労働使用者の階級には、この宝をこのうえもないものとして守り慈しむ姿勢がなかったと言わざるをえないであろう。『ウェストライディングの人々は(と『タイムズ』は(2)1861年10月の戸籍長官の報告から引用している)人類の織物製造者となり、この仕事に非常に没頭したので、労働者たちの健康は犠牲にされ、人類は数世代のうちに退化してしまうところであった。しかし一つの反動が起こった。シャーフツブリ卿の法案が児童労働の時間を制限した、云々。』労働者たちの(3)健康を顧慮することが(と『タイムズ』は言い添えている)、社会によって工場主に強制されたのである。」

  (1)〔注解〕このパラグラフは、ノート第7冊、ロンドン、1859-1862年、207ページから採られている。強調はマルクスによるもの。マルクスが引用しているのは、ロ/ンドンの『ザ・タイムズ』、1861年11月5日付、第24,082号、6ページに掲滅された、“Ever government has traditions..."という〔書き出しの〕記事である。
  (2)〔訳注〕『戸籍長官のイングランドの出生・死亡・婚姻に関する第22次年次報告書。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロソドン、1861年。
  (3)〔訳注〕「健康」への強調は二重の下線によるものである。〉(草稿集④574-575頁)

《初版》

 〈(113)「住民の健康は一国の資本の非常に重要な一要素であっても、われわれが懸念するところだが、資本家にはこの宝を保存し尊重する用意が全くない、と認めざるをえないのである。労働者の健康にたいする顧慮が、工場主に押しつけられた。(『タイムズ』、1861年10月)。ウエスト・ライディングの人々は人類の織物製造業者になり、労働者の健康が犠牲に供されて、数世代のうちに種族は衰退するところであったが、反作用が生じた。児童労働の時間が制限された、云々。」(『1861年10月の戸籍長官報告書』)〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈(80) 「住民の健康は国の資本の重要な一要素であるにもかかわらず、われわれが懸念するのは、資本家はこの財宝を保存してこれをその価値どおりに評価する気がないのだ、と告白せざるをえないことである。工場主は、労働者の健康に配慮することを強制された」(『タイムズ』紙、1861年11月5日)。「ウェスト・ライディングの人々は全人類のラシャ製造業者になった。労働者たちの健康は犠牲に供されたし、反動が作用しなかったらこの種族を退化させるのに2世代で充分であったろう。児童の労働時間が制限されたのである、云々」(『1861年10月の戸籍長宮報告害』)。〉(江夏・上杉訳274頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「国家の資本にとっても、事実、人々の健康は非常に重要であるにも係わらず、残念ながら、我々は次のように云わざるを得ない。労働者を雇用する者達の階級は、この宝を守り、大切にするつもりが全くない。….職工たちの健康に配慮することが、工場主に強制された。」(タイムズ紙 1861年11月5日) 「ウエスト ライデングの人々は、人類の毛織物製造業者となった。….人類の労働者の健康は、犠牲となった。そして、人類が僅か2-3世代で、退化してしまうに違いない。ところがそこに反動が現われた。シャフツベリー卿の法案が、児童労働の時間を制限した。」云々。(1861年10月度の戸籍本署長官の報告書)〉(インターネットから)


●原注114と原注114への補足

《初版》  初版には当然ながら「補足」はない。

 〈(114)だから、われわれは、たとえば、1863年の初めに、J・ウエッジウッド父子商会をも含めて、スタッフォードシャーに広大な製陶工場をもっている26の商会が、ある請願書のなかで「国家の強権的干渉を請願しているのを、見いだすのである。「他の資本家たちとの競争」のために、児童の労働時間の「自発的な」制限等々が、これらの商会には全く許され/ない。「だから、われわれがどんなに前述の弊害を嘆いてみても、この弊害を工場主たちのあいだのなんらかの種類の協定によって防止することは、不可能であろう。……これらすべての点を考慮すると、われわれは、ある強制法が必要だという確信に到達した。」(『児童労働調査委員会。第一回報告書、1863年』、322ページ。)〉(江夏訳298-299頁)

《フランス語版》 フランス語版には全集版や初版にはない原注81が付けられている。また全集版の原注114とその補足が合体させられ一つの原注とされている。

 〈(81) ゲーテの言葉。
    (82) だからこそ、われわれはたとえば、1863年の初めにスタフォードシャの広大な製陶工場の26人の所有者が、そのなかにはJ・ウェッジウッド父子商会もあったが、陳情書のなかで国家の強権による干渉を請願したのを、見出すのである。「他の資本家との競争は、われわれが児童の労働時間を意のままに制限することを許さない、云々」。「われわれがいま述べたばかりの弊害をどんなにひどく歎いても、工場主間のどんな種類の協定をもってしても、この弊警を防ぐことは不可能であろう。……いっさいのことを充分に考慮して、われわれは、一つの強制法が必要だという確信に到達した」(『児童労働調査委員会。第一回報告書』、1863年、322ページ)。もっと顕著なごく最近の一例がある! 綿花価格の騰貴が、熱病的な好景気の時期に、ブラックバーンの工場所有者たちに、相互協定によって一定期間彼らの工場の労働時間を短縮させたが、1871年の11月末頃にその期限が切れた。その間に、同時に工場主でもあり紡績工場でもある〔マイスナー第2版および第4版、現行版の各ドイツ語版では「紡績と織布とを結合している」〕もっと富裕な工場主たちは、この協定によって生じた生産減退を利用して、自分たちの工場で死ぬほど働かせ、自分たち自身の事業を拡張し、小工場主を犠牲にして莫大な利潤を実現した。万策つきた小工場主は労働者たちに訴え、9時間運動を熱心に行なうようにと彼らをそそのかし、自分自身の金銭をこの目的に出すと約束した!〉(江夏・上杉訳274頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 我々は、それゆえ、以下のことを見つけた。1863年の初めの頃、スタッフォードシャーに広く製陶工場を所有する26の会社の中の一つである、ヨシア ウェッジウッド父子会社が、「いくつかの法律の制定」を求めて、請願書を提出した。他の資本家達との競争が、自分なりに子供たちの労働時間を制限すること他を許さない。製造業者間で、協定を設ける枠組みでは、前にもこの弊害について多くの遺憾を述べたが、子供たちの労働時間制限他を守ることはできない。….これらの全ての点を考慮して、我々は、いくつかの法律の制定こそ我々の求めるものと確信した。(児童雇用調査委員会 第1次報告書 1863年) 最近になって、より衝撃的な例が表れた。熱狂的な好景気で綿価格の急上昇が見られたことが、ブラックバーンの紡績業者達の互いの同意に基づく、ある一定期間、彼等の工場の労働時間を短縮する事態を引き起こした。この期間は、1871年11月の末に終了した。この間、紡績と織機を合わせ持つ裕福な工場主達は、この協定による減産を利用して、彼等自身の商売を拡張し、小さな雇用主の犠牲の上に、大きな利益をむさぼったのである。小さな雇用主達は、直ぐに、職工たちに対する、彼等の矛先を変えて、職工達に、熱心に、9時間労働を掲げて戦うようにと説いたのである。そして、その成立まで資金的に支援すると約束したのであった。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

 〈資本主義的生産の傾向がどういうものであるかは、ブルジョア的産業の最初の黎明期の国家干渉(たとえば、14世紀の労働者法に現われているような)を近代の工場立法と比較すればはっきりする。前者では、労働者たちを強制してある一定分量の剰余労働(でなくても、とにかく労働でありさえすれば)を彼らの雇い主たちに提供させるため、すなわち、労働者たちに絶対的剰余労働を強制的に提供させるため労働時間が確定される。これにたいして、後者では、同じく強力的に一つの制限がもうけられるが、それはこの制限を超えて資本家に労働時間の絶対的延長を許さないため、つまりある一定の限界を超える労働時間の延長を妨げるためである。このような国家介入--大工業の母国たるイギリスで最初に現われる--の必要が避けられないということ、そしてまた、資本主義的生産が新たな産業部門をとらえるにつれてこうした介入をつぎつぎとそれらの部門におしひろげてゆかなければならない必要にせまられるということは、一方では、資本主義的生産には、他人の労働時間をわがものにすることにたいしてなんの制限もないことを、他方では、資本主義的生産の確立した体制内では、労働者たちは、彼らだけでは、--階級として国家に、そして国家をつうじて資本にはたらきかけることがなければ--肉体の維持に必要な自由な時間ですらも資本の(5)ハルピュイアの爪から守る力がないことを証明しているのである。

  (5)〔訳注〕ギリシア神話にでてくる、女性の頭をもち鳥の姿をした強欲な怪物。〉(草稿集⑨311頁)
 〈まず最初にエドワド3世の法律以降の労働日を固定する(それと同時に賃金を抑制しようとする)強制的な立法。しかし、この労働日の固定は、現今の工場法とは正反対のもの〔である〕。前者の立法は、資本主義的生産の形成期、資本主義的生産の諸条件が初めて徐々に成熟してゆく時期に対応している。後者の立法は、みずからの前に立ちふさがる障害物をすべて取り除き、「自然法則」が自由に作用する状況を創出した、資本主義的生産様式の支配〔の時期〕に対応している。前者の立法によって労働日が規定されたが、それは、経済諸法則の強制力の外にあるひとつの強制力によって、労働者にある一定の労働量を日々給付することを強要するためであった。つまり、それは、労働者階級のいわゆる「怠惰と安楽」に対抗する法律である。これに反して、後者の立法は、超過労働に対抗する法律、経済諸法則の「自然的な遊戯」への干渉の法律〔である〕。これら両法律の対立性は、資本主義的生産が労働を強制する仕方様式を示している--すなわち、一方の法律は労働を強要し、他方の法律は労働日の諸制限を強制するのである。〉(草稿集⑨691頁)

《初版》

 〈標準労働日の確立は資本家と労働者とのあいだの数世紀にもわたる闘争の成果である。とはいうものの、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。たとえば、現代のイギリス工場立法を、14世紀から18世紀の中葉にいたるまでのイギリスの諸労働法(115)と比較せよ。現代の工場法が労働日を暴力的に短縮するのにたいして、以前の諸法律はこれを暴力的に延長しようとする。資本がようやく生成したばかりであるので、いまだに、経済的諸関係の暴力によるだけでなく国家権力の助けによっても充分な量の剰余労働の吸収権を確保しているという萌芽状態にある資本の要求は、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらもしぶしぶ行なわざるをえない譲歩に比べれば、もちろん、全くっつましやかに見える。資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、日常的生活手段の価格と引き換えに、自分の活動的な金生活時間、それどころか自分の労働能力そのものを売ることを、自分の長子特権を一皿のレンズ豆と引き換えに売ることを、自由意志で納得するまでには、すなわち社会的に強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのである。だから、当然のことだが、資本が14世紀中葉から17世紀末までに国家権力に訴えて成年労働者に押しつけようとする労働日の延長は、19世紀後半において児童の血液の資本への転化にたいしてときおり国家が設けるところの労働時間の制限と、ほぼ一致している。今日、たとえば、マサチューセッツ州で、すなわち、アメリカ共和国のなかでも最近まで最も自由な州で、12歳未満の児童の労働を国家が制限するとして布告されているものは、イギリスでは、17世紀中葉にはまだ、血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日であった(116)。〉(江夏訳299頁)

《フランス語版》

 〈標準労働日の確立は、資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の結果である。しかし、この闘争の歴史は二つの対立する流れを示している。たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀以降18世紀中葉までのイギリスの労働法(83)と比較せよ。現代の立法が労働日を暴力的に短縮するのに対し、かの古い法律は、労働日を暴力的に延長しようと試みる。資本が成長しつっあって、経済的条件の力だけによるのではなく公権力の助力によっても充分な分量の剰余労働の吸収権を確保しようとするような、まだ萌芽状態にある資本の要求は、確かに、資本がひとたび成熟期に達して心ならずもなさざるをえない譲歩に比較すれば、全く控え目に見える。「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展/の結果、自分の日常の生活手段の価格と引き換えに自分の活動する生活の全時間、自分の労働力量そのものを売ることを、レンズ豆の羹(アツモノ)と引き換えに家督の権を売る〔旧約聖書にある言葉〕ことを、自発的に承諾するためには、すなわち社会的に強制されるためには、実際に数世紀が必要である。したがって、当然のことながら、14世紀中葉以降17世紀末まで資本が国家の助力によって成年男子に押しつけようとする労働日の延長は、児童の血が資本に転化することを防ぐために国家が19世紀の後半にあちこちで布告し強制する労働時間の制限と、ほとんど一致している。今日たとえば、ごく最近でもなお北アメリカの最も自由な州であるマサチュセッツ州で、12歳未満の児童の労働時間の法的な限度と宣言されているものは、17世紀中葉のイギリスでは、逞しい手工業者や頑丈な農僕や頑健な鍛冶工の標準労働日であった。〉(江夏・上杉訳274-275頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 標準労働時間の確立は、数世紀にわたる資本家と労働者の闘争の結果である。この闘争の歴史は、二つの対照的な違いを見せる。すなわち、我々の時代の英国の工場法と、14世紀から18世紀の中頃にまで至る間の英国労働法令とを比較してみよ。
  近代工場法は労働日を強制的に短縮するのに対して、初期の法令はそれを無理やりに延長しようとしたものである。勿論、萌芽時点の資本の要求で、-成長を始めた頃、資本が、充分な量(ラテン語)の剰余労働を吸収する権利を確実にしようとしたもので、経済的諸関係の力のみではなく、国家の助けによっても、それを果たそうとしたものである。-最初に表れた時は、控えめなもので、譲歩をもって相手とあい対峙したものが、不満になり、傲慢になり、成熟の状態へと成長したに違いないのである。数世紀の間、「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展に感謝して合意したものが、社会的条件によって、覆されてしまった。彼の生きて活動する人生を、彼の働くあらゆる能力を、彼の生活必需品の価格のために売ることで、彼の生まれ持った権利を目茶苦茶にされた。言うなれば、14世紀から17世紀の終りに至るまで、資本が国家手段を用いて、成人労働者に負わそうとした労働日の延長と、19世紀後半で、このように、国家によって、子供たちの血を資本の鋳貨とするのを防止するために、労働日を短縮しようとしたこととは、まさに、表裏一体の関係で、当然の成り行きというものである。つまり、こう言うことである。今日、今までのところ、最も自由な北米共和国の州であるマサチュセッツ州が、12歳未満の子供たちの労働の制限を宣言したが、これは、英国の、17世紀中頃にすらあった、身体強健な工芸職人とか、頑丈な農耕労働者や、筋肉たくましき鍛冶屋達の標準労働日であった。〉(インターネットから)


●原注115

《初版》

 〈(115)これらの労働者取締法は、同時にフランスやオランダ等々でも見いだされるものであるが、イギリスではようやく1813年に、それらの取締法が生産諸関係からとっくに排除されてからずっとあとで、正式に廃止された。〉(江夏訳300頁)

《資本論》(第24章 本源的蓄積」「第3節 15世紀末以後の被収奪者にたいする血の立法 労賃引き下げのための諸法律」)

 〈賃労働に関する立法は、もともと労働者の搾取をねらったもので、その歩みはいつでも同様に労働者に敵対的なのであるが、この立法はイギリスでは1349年のエドワード三世の労働者法〔Statute of Labourers〕から始まる。フランスでこれに対応するものは、ジャン王の名で布告された1350年の勅令である。イギリスの立法とフランスの立法とは並行して進んでおり、内容から見ても同じである。これらの労働法が労働日の延長を強制しようとするかぎりでは、私はもうそれには立ち帰らない。というのは、この点は前に(第8章第5節) で論じておいたからである。〉(全集第23b巻964頁)

《フランス語版》

 〈(83) フランスやオランダなどでも見出されるこれらの労働法は、イギリスでは1813年に、やっと正式に廃止された。久しい以前から、生産条件はこれらの法律を時代おくれのものにしていたのである。〉(江夏・上杉訳275頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 英国労働法規は、似たようなものが、同時期フランスやオランダ他でも制定されたが、生産方法の変化が、それらを意味のないものにしてしまったずーっと後になって、英国では1813年になってやっと正式に廃止された。〉(インターネットから)


●原注116

《初版》

 〈(116)「12歳未満の児童をいかなる工場施設においても1日に10時間以上就業させてはならない。」『マサチューセッツ一般法』、63、第12章。(これらの法律は1836-1858年に公布された。)「すべての木綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場において、または鉄および真鎗の工場において、1日に10時間の時間中に行なわれる労働は、法定の1日の労働とみなされるものとする。今後、いかなる工場において雇用される未成年者にも、1日に10時間以上または1週に60時間以上労働することを守らせもしくは命じてはならない。今後、本州内のいかなる工場においても、1O歳未満の者を労働者として採用してはならない。」『ニュージャージー州。労働時間制限法』、61および2(1855年3月11日の法律。)「12歳以上15歳未満の未成年者は、いかなる工場施設においても1日に11時間以上、かつ朝の5時以前および夕方の7時半以降、就業させてはならない。」(『ロード・アイランド州改正法』、第39章、第23条、1857年7月1日。)〉(江夏訳300頁)

《フランス語版》 

 〈(84) 「12歳未満の児童はいかなる工場でも1日に10時間以上就業させてはならない」『マサチュセッツ一般法』、63、第12章(これらの法律は1836年ないし1858年に公布された)。「木綿工場、羊毛工場、絹工場、製紙工場、ガラス工場、亜麻工場においては、かつ金属工場においても、1日に10時間にわたって行なわれる労働は、法定労働日と見なされねばならない。今後、工場に雇われているいかなる未成年者も、1日に10時間以上または1週に60時間以上就労させてはならず、今後、本州のいかなる工場においてであるかを間わず、10歳未満の未成年者を労働者として採用してはならない」『ニュー・ジャージー州。労働時間等制限法』、第1条および第2条(1851年3月11日の法律)。「12歳似上15歳未満の未成年者は、工場において1日に11時問以上、かつ朝の5時以前および夕方の7時半以降、就労させてはならない」『ロード・アイランド州改正法』、第139章、第23条(1857年7月1日)。〉(江夏・上杉訳275頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「12歳未満の者を、いかなる製造工場においても、1日当り10時間を超えて雇用することがあってはならない。」マサチュセッツ州一般法令 63 第12章 ( 様々な法令が、1836年から1858年にかけて、議決された。) 「当州内においては、いかなる日であれ、10時間の間になされる労働が、綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場であれ、鉄や真鍮の製造工場であれ、法的な日労働でなければならない。法令制定により、以後、いかなる日であろうと、いかなる工場であろうと、未成年者に10時間を超えて、また週 60時間を超えて、働くよう強要したり、拘束したりして仕事に従事させてはならない。また、以後、いかなる工場であれ、10歳未満の未成年者を労働者として用いてはならない。」ニュージャージー州 労働時間の制限法他 第1節及び第2節 (1851年3月18日付けの法) 「12歳以上かつ15歳未満の未成年者を、いかなる製造工場であれ、いかなる日であれ、11時間を超えて雇用したり、または朝の5時前や、夕方7時半以後に雇用したりしてはならない。」( 「改正法令 ロード アイランド州」他 第139章 第23節 1857年7月1日)〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ペティは、『アイルランドの政治的解剖』を書いた。そのなかで彼はこう言っている。「労働者たちは日に10時間働き、そして週に2O回の食事を、すなわち、仕事日には1日に3回、日曜日には2回の食事をする(いまではただ2回のみ)。このことから明らかなように、彼らが金曜の夜は断食し、そして現在午前11時から午後1時までの2時間をかけている昼食を1時間半ですます(いまでは朝食と昼食とでやっと1時間半になるにすぎない)ことができれば、そのようにして2O分の1だけ多く働き、そして2O分の1だけ少なく消費することが、できれば、前述の{租税のための}1O分の1は徴収できるのである。」(第1O版、ロンドン、1691年。)この章句から明らかになるように、当時の成年者の労働時間は、現在の13歳以上の子どもの名目上の労働時間と比べても長くはなかったし、また労働者はより多くの時間を食事にかけていたのである。〉(草稿集⑨312-313頁)

《初版》

 〈最初の『労働者取締法』(エドワード3世第23年、1349年)は、それの直接の口実(それの原因ではない。というのは、この種の立法は口実がなくなっても幾世紀も存続するのであるから)を、ひどいペストのうちに見いだしたのであるが、このペストは、トーリー党のある著述家が言うように、「労働者たちを手ごろな価格で(すなわち、彼らの雇主に、手ごろな分量の剰余労働を残すような価格で)就労させることの困難が、じっさいに耐えがたくなくなった(117)」ほどに、多くの住民を殺したのである。だから、手ごろな労賃が、労働日の限度と全く同じように、強制法によって命ぜられた。ここでわれわれにとって関心があるのは、労働日の限度にかんする点だけであるが、この点は1496年(へンリー8世〔へンリー7世の誤記〕治下)の法律のなかでも繰り返されている。すべての手工業者(artificers)と農業労働者との3月から9月までの労働日は、当時、といってもけっして実行に移されたわけではないが、朝の5時から晩の7時か8時まで続くことになっていたが、食事時間は、朝食の1時間と昼食の1[1/2]時間と4時の間食の12時間とであり、つまり、現行の工場法の規定のちょうど2倍であった(118)。冬には、中休み時間は同じで、朝の5時から日暮れまで/労働することになっていた。1562年のエリザベスのある法律は、「日賃金または週賃金で雇われている」すべての労働者について、労働日の長さには触れていないが、中休み時間を、夏は2[1/2]時間冬は2時間に、制限しようとした。昼食はわずか1時間にかぎられ、また、「1/2時間の午睡」は、5月の半ばから8月の半ばまでのあいだだけ許されることになっていた。1時間欠勤するごとに、賃金から1ペニー(約10ペニヒ)差し引かれることになっていた。だが、じっさいには、事情は労働者にとって、法文よりもはるかに有利であった。経済学の父であるし、いわば統計学の創設者でもあるウィリアム・ペティは、彼が17世紀の最後の3分の1期に公刊したある著書のなかで、こう言っている。「労働者会者(labouring men、当時は、厳密には農業労働者のこと)は、毎日10時間労働し、毎週2O回の食事を、すなわち、平日には毎日3回、日曜日には2回の食事をとる。このことからはっきりわかるように、彼らが金曜日の晩は断食するつもりになり、いまは昼食のために午前11時から1時までの2時間を費やしているが、この昼食を1時間半ですますつもりになれば、このようにして1/20別多く働き1/20少なく消費すれば、前述の租税の1O分の1は徴収可能であろう(119)。」ドクター・アンドルー・ユアが1833年の12時間法案を暗黒時代への後退であると非難したのは、もっともなことではなかったか? もちろん、これらの法律のなかでうたわれておりぺティが言及している諸規定は、“ apprentices"(徒弟)にも適用される。ところが、17世紀末には児童労働がまだどんな状態であったかは、次のような苦情から判断される。「わが国の少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまでは全く仕事をしない。しかも、徒弟になってからも、完全な手工業者になるためには、もちろん、長い歳月--7年--がかかる。」これに反して、ドイツはほめられてよい。なぜならば、ドイツでは、児童はゆりかごの時代から、少なくとも「わずかばかりの仕事を仕込まれている(120)」からである。〉(江夏訳300-301頁)

《フランス語版》

 〈最初の「労働者法」(エドワード3世、1349年)は、その直接の口実--その原因ではない。この種の立法は、口実が消え失せた後も数世紀存続するからである--を、ひどいペストのうちに見出したのであるが、このペストは、トーリ党の一著述家の表現によると、「労働者を相当の価格で(すなわち、彼らの雇主に相当な分量の剰余労働を残す価格で)手に入れる困難が、実際に耐えられなくなった(85)」ほどに、多くの人口を激減させた。その結果、この法律は、相/当の賃金を命ずるとともに労働日の限度をきめることをも引き受けた。ここではこの後者の点だけが関係があるのだが、それは1496年(ヘンリ7世治下) の法律のなかにも再現している。すべての手工業者〈artificers〉と農業労働者の3月から9月までの労働日は、けっして実行に移されなかったものの、当時は朝の5時から夕方の7時、8時まで継続することになっていた。だが、食事時間には、朝食のための1時間、昼食のための1時間半、4時頃の間食のための半時間、すなわち、現行の「工場法」がきめている時間のかっきり2倍が含まれていた(86)。冬には、労働は同じ中休み時間付きで、朝の5時に始まり夕暮れに終わることになっていた。エリザベスの法律(1562年)は、「日ぎめまたは週ぎめ雇い」のすべての労働者について、労働日の長さには触れていないが、中休み時間を夏には2時間半、冬には2時間に短縮しようとする。昼食は1時間に限られなけれぽならないし、「半時間の午唾」は5月の半ばから8月の半ばまでだけ許されるべきだとする。1時間欠勤することに、賃金から1ペニー(10サンチーム)が差し引かれることとする。しかし実際には、事情は労働者にとって、法文にうたわれているよりも有利であった。経済学の父であり、ある程度は統計学の発明者でもあるウィリアム・ペティは、17世紀の最後の3分の1期に著わした著書のなかで、こう言っている。「労働者(labouring men、当時は厳密に言えば農業労働者) は1日に10時間労働して、週に20回、すなわち平日は3回、日曜日は2回の食事をとる。このことからはっきりわかるように、彼らが金曜日の夜は断食するつもりになり、現在朝の11時から1時まで2時問も費やされている昼食を1時問半ですますつもりになれば、換言すると、彼らが20分の1多く労働して20分の1少なく消費すれば、前述の租税の10分の1は微収可能であろう(87)」。ドクター.アンドルー・ユアが1833年の12時間法案を暗黒時代への復帰としてけなしたのは、正しくなかったか? 諸法律のうちに記されておりペティが言及している諸規定は、まさに徒弟にも適用されるが、児童労働が17世紀末でさえまだどんな状態にあったかは、次のような苦情から直接にうかがわれる。「われわれの少年は、ここイギリスでは、徒弟になるときまで全くなにもしない。そして、このばあい彼らは、訓練されて熟練労働者になるためには、もちろん/長い時間(7年)を必要とする」。これに反して、ドイツは称賛される。そこでは、児童は揺藍時代から「少なくとも幾分かの仕事に慣らされている(88)」からである。〉(江夏・上杉訳275-277頁)

《イギリス語版》  イギリス語版ではこのパラグラフは(14)~(17)のパラグラフに分けられているが、一緒に紹介しておく。

  〈(14) 最初の「労働者法令」( エドワード三世在位第23年 1349年)は、その成立の直接的な口実として、大きな疫病が、人々を減少させたためであるとする。( 口実が消滅した後も、数世紀にわたって、この種の法令が存続したのであるから、存立理由とは云えない。) すなわち、トーリー党の書き手が云うように、「適切な価格で人を仕事に得ようとする困難性が、耐えられない程度に大きくなってしまった。」( 適切な剰余労働の量を得ようとする雇用者の算段から、その価格が離れてしまったということである。)
  合理的な賃金は、従って、労働日の制限と同様に、法令によって決められた。後者の労働日の制限が、ここでは我々のただ一つの関心事であるが、1496年の法令( ヘンリー七世) によっても、繰り返された。手工業職人や農耕労働者に対する労働日は、3月から9月まで、法に従えば、(とはいえ、強制できるものではなかったが) 朝の5時から、夕方の7-8時までの間である。それでも、食事時間として、朝食に1時間、夕食に1時間半、「昼食」に半時間があり、これは、工場法が今日規定しているものに較べて、正確に2倍あった。
  冬は、同じ食事時間を含んで、朝5時から暗くなるまで仕事が続く。エリザベス治下の1562年の法令は、「日払いであれ、週払いであれ」全ての労働者の労働日の長さには全く触れず、夏場の休息時間を2時間半、冬場は2時間に制限するものとなった。夕食は1時間、そして「午後の一休みは半時間」は、5月半ばから8月半ばの間のみ許された。いかなる場合でも1時間の欠席は、賃金から1ペニーが差し引かれた。実際には、それでも、法令書に較べれば、労働者にとってはもう少し好ましいものであった。 ウィリアム ペティ 政治経済学の父、そして広く見るならば、統計学の創設者でもある彼は、17世紀の終り1/3頃に出版した著作でこう云っている。
  (15) 「労働者は、( 当時は農耕労働者を意味する) 1日当り ( ラテン語) 10時間働く、そして、週20回の食事をとる。すなわち、( ラテン語) 労働日には、1日3回、そして日曜日は2回である。もし、金曜日の夜を食事なしとするならば、そしてまた、11時から1時までの2時間としている食事時間を1時間半にすることができるならば、結果として、1/20多く働き、1/20少なく支出することとなり、上記( 租税) が増収となるであろうことは明らかである。」( W. ペティ 「アイルランドの政治的解剖 賢き人にはこれで充分(ラテン語)」1672 1691年版 ) ( 訳者注: ここは、税徴収上の計算の必要性はなく、かっては食事時間が長かったことの説明まで)
 (16) アンドリュー ユア博士が、1833年の12時間法を、暗黒時代への後戻りだとして非難したのは、正鵠を得たものではなかったのか? これらの規則はこの法に、ペティが述べたように、まさしく含まれており、見習い工にも適用される。だが、児童労働の実態は、17世紀末でさえあってなお、次のような苦情からうかがい知ることができる。
 (17) 「7歳で見習い工とする この我が王国のやりかたと較べれば、(ドイツの) 彼等のやり方は違う。 3歳とか4歳が普通の基準である。どういうことかと云えば、彼等は、揺りかごの頃から仕事のことを仕込む。それが彼等を機敏かつ従順ならしめる。その結果、仕事において成果を得ることになり、急速なる熟練へと到達する。ところが、ここ、我々の英国の若者は、見習い工になる前には何の育成もない。進歩も非常に遅く、職人として完璧の域に達するには、より長い時間を要する。」〉(インターネットから)


 (付属資料№3に続く。)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『資本論』学習資料No.37(通... | トップ | 『資本論』学習資料No.37(通... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『資本論』」カテゴリの最新記事