『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第14回「『資本論』を読む会」の案内

2009-06-27 19:05:28 | 『資本論』

『  資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                     
 6月26日に上場企業の株主総会がピークを迎え、業績悪化による赤字決算や減配に、トヨタ自動車の豊田章男社長をはじめ、経営者はひたすら頭を下げる「おわび総会」になっていると新聞は報じている。90年代の半ばごろから「株主資本主義」ということが言われ、先行するアメリカにならって「コーポレート・ガバナンス(企業統治)」が声高に言われはじめた。つまり、株主が企業経営に注文をつけ、高配当、高株価を要求する「ものいう株主」のことである。今回の株主総会でも、怒号が飛び交う一幕もあったと新聞は報じている。

(09年6月26日『朝日』より)

 「株主資本主義」のもとで、法人企業の配当率と役員報酬(そして内部留保)だけが増大する一方で、労働分配率の顕著な低下が進み、非正規や派遣労働者の割合が増えてきた。例えば、02年から07年の全法人企業の支配配当総額は5兆円から15兆円と3倍にもなり、一人当たりの役員報酬も1800万円から3000万円へと増大しているのに、従業員給与はほぼ500万円の横ばいである。総務省の「労働力調査」によれば、非正規雇用労働者は98年の881万人から08年の1760万人に、派遣労働者は98年の90万人から07年の381万人へと増えている。

(『経済』09年7月号より)


 「株主資本主義」の下で、労働者への搾取が徹底して強化されてきたことは確かである。しかし注意しなければならないのは、問題は「株主資本主義」にあるのではないということである。「株主資本主義は、配当の増加や株価の上昇を意図して、企業に対してコスト削減による利潤の増大を求める」(同上『経済』12頁)と言われるが、しかしこうした傾向は資本主義に固有のものであり、何も「株主資本主義」だからそうであるというわけではない。だからまた「株主資本主義」を改めれば、あるいは「株主資本主義に閂(かんぬき)をかけ」(同26頁)ればよいという問題でもないのだ。問われているのは資本主義そのものである。マルクスは「株式会社の形成」の意義について次のように述べている。

 《2 ……それは、資本主義的生産様式そのものの限界のなかでの、私的所有としての資本の廃止である。
   3 ……このような、資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの私有としてのではなく、結合された生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである。それは、他面では、これまではまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点なのである。》
(全集25a557頁)

 まさに株式資本主義はこうした意味でますます将来の生産に近づけば近づくほどその資本制的形態との矛盾を深め、労働者階級との軋轢を深めるのであるが、それ自体が将来の社会への主体的準備の一条件でもあるのである。

 貴方も現代の高度に発達した資本主義社会を読み解くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

……………………………………………………………………………………

第14回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                          ■日時   7月19日(日) 午後2時~

  ■会場   堺市立南図書館(泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主催   『資本論』を読む会



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第一章 第3節の中の4つの価値形態 (mizz)
2009-07-03 22:03:31
今、英訳資本論を和訳しています。参考にして頂ければ有難いと思っています。

第一章 第3節の出だし部分は、前回コメントとして入れさせてもらいましたので、それ以降の、A,B,C,D と4つの価値形態を表した部分をここに書かせてもらいます。価値形態(この訳は、私は価値形式としています。英文のform of value に添ったものとしました。)

この各形式は、価値論の白眉となる部分です。なぜかと云うと、貨幣の成立を描き出すところであり、貨幣が資本に変換する大事な前提を成しているからです。向坂本では容易に捉えることはできません。英文なら明瞭です。

以下、該当部分 です。多少余計なものが入っていますが、ご容赦ください。

A. 最初に出会う、または偶然的な価値の形式
(第三節では、A,B,C,Dの4つの 価値の形式 が記述される: 訳者注)

x量の商品A = y量の商品B または、
x量の商品Aは、y量の商品B  に値する。

20ヤードのリネン = 1着の上着 または、
20ヤードのリネンは、1着の上着に値する。

1. 相反する二つの価値表現の極、相対的価値形式と等価形式

(1 ) この最初に出会う形式の中に、価値の形式の全ての神秘が隠されている。だからこそ、このことが我々にとって非常に難解なところなのである。

(2) ここでは、二つの種類の異なる商品 ( 我々の例では、リネンと上着 ) は、明らかに違った役割を演じている。リネンは、自身の価値を、上着で表している。ということは、上着はその価値を表すものとして使われている。 前者は能動的に演じ、後者は受動的に演じている。リネンの価値は相対的価値を表し、相対的価値形式となっている。上着は、等価であることを役目として示しており、等価形式となっている。

(3 ) 相対的価値形式と等価形式は、ともに一体的に結合されており、互いに依存しており、切り離せない価値表現の核心なのである。がしかし、同時に、互いに排除しあう、極端に対立する同じ価値表現の両極なのである。この二つは、二つの異なった商品がその価値表現としての関係に置かれた時、それぞれ別々に当てはめられるのである。
リネンの価値をリネンで表すことはできない。
20ヤードのリネン = 20ヤードのリネン としてもなんの価値表現にもならない。それどころか、この等式は単に20ヤードのリネンは20ヤードのリネンでしかないと、交換価値をも消失した表現で、リネンの使用価値の量のことのみを示すだけとなる。リネンの価値は、だから、なにか別の商品で相対的に表現される他はないのである。リネンの価値の相対的形式は、従って、なにか別の商品 (ここでは上着であるが) の存在を等価形式として予め想定している。一方の等価を表す商品は、同時に相対的価値形式を示すことはできない。等式の右辺に置かれた ( 二つの商品のうちの二番目のもの、 後者の) 商品 (上着)は、価値を表現されるものではない。単に等式の左辺に置かれた ( 二つの商品のうちの最初のもの、 前者の) 商品(リネン)の価値が表現されるための役を務めているだけである。

(4 ) 勿論、等式は逆の関係をも表しているから、20ヤードのリネン = 1着の上着 または20ヤードのリネンは1着の上着に値する、ということが、逆の1着の上着 = 20 ヤードのリネン または1着の上着は20ヤードのリネンに値する の意味にもなる。がしかし、逆に置く場合は、等式の左にくる1着の上着の価値を相対的形式で表すことになり、上着に替えてリネンを、等価形式で置くと、逆に考えなければならない。
一単体の商品は、従って、同時に、二つの価値形式で同じ価値を表現することはできない。この非常に対極的な二つの価値表現形式は、互いに相手を排除しあう。

(5 ) そして、一商品が相対的価値形式を表しているか、逆の等価形式を表しているかは、全くのところ、価値の表現における偶然的な位置による。それは、その価値が表現される商品であるか、価値を表現している商品であるかによる。


2. 相対的価値形式
(a.) この形式の性質と意味

(1 ) 二つの商品の価値関係の中に、商品の価値を表す、あの最初に出会った表現 (等式) が、どのように隠されているかを見つけ出すためには、我々は、初めに、後者(等価形式とした物)を量的な外観からは切り離して見て行かねばならない。
この点で、誰もが、大抵は、逆に、量的外観にとらわれ、価値関係としては何も見ず、二つの違った商品間の明確な量の比率を見て、その比率が互いを等しくしていると見てしまう。
違った物の大きさを、量的に較べるには、これらの物が同じ単位で表された場合だけなのを、忘れてしまっている。 両者が、同じ単位のものとして表わされた時だけ、同一尺度で計ることができるはずだ。

(2) 20ヤードのリネン = 1着の上着、 または = 20着の上着、 または = x着の上着となるかは、与えられた量のリネンが僅かな数の上着に値するのか、いや多数の上着に値するかのということで、どの場合も、リネンと上着の、価値の大きさを、同じ単位表現で、ある種の品物で見ているということである。であるからこそ、リネン = 上着という等式が成り立つのである。

(3 ) これら二つの商品の質の同一性が、このような等式で示されたとしても、同じ役割は果たせない。そうではなくて、ただ、リネンの価値が表されたということである。
それで、どの様にして? すなわち、他のものとも交換できる、等価を示す上着と照合することによってである。この関係によって、上着は価値の存在形態であり、価値の実体である。このような場合においてのみ、リネンもまた、同じ価値の実体となる。
リネンの方から見れば、リネン自体の価値を、自ら独立した表現でできるようになった。上着と同じ価値であり、上着と交換できると。
さて、この説明を化学式で例えてみよう。酪酸は蟻酸プロピルとは違った物質である。だが、どちらも、同じ化学的分子である炭素(C)、水素(H)、酸素(O)からできており、その比率も同じである。すなわちどちらも C4H8O2 である。もし、我々が酪酸

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