『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第28回「『資本論』を読む会」の案内

2010-09-05 08:04:01 | 『資本論』

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    

                                    
 民主党の代表選挙が、菅直人首相と小沢一郎元幹事長との一騎討ちとなり、
党を二分する激しい選挙戦が闘われています。

 停滞する日本経済を如何に建て直すか、折りからの急速な円高にどう対応するか等々も一つの争点です。日本記者クラブで行われた公開討論会でも対応が問われましたが、なかなか両候補とも有効な手段が打ち出せないというのが本当のところではないでしょうか。


 以前にも指摘しましたが(第25回案内参照)、「為替」というのは、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介して振り替えることによって、現金を運ばずに決済するための信用用具(有価証券)であり、だから決して厳密な意味での「通貨」と同じではないし、為替相場は通貨の交換レートとは概念的には異なるものなのです。
 通貨と為替とはまったく異なる流通(一方は商品市場、他方は貨幣市場)に属し、通常は直接的には関連しないが、しかし間接的には関連しているし、その関連を理論的に解明することが重要であるが、それを正しく説明しているものはほとんど見かけないとも指摘しました。だから今回は、この点を少し説明したいと思います。

 菅首相は、先の討論会で、記者の質問に答えて、「今回の急激な円高の背景には、アメリカ経済が期待されたほどの回復にいたっていないという、(米連邦準備制度理事会議長の)バーナンキさんなんかの自らの発言もあって、ある意味ドル安という形で円高になってきている」と答えていました。

 ここで「ドル安という形で円高になってきている」という意味は、ドルの“減価”が背景にあると言いたいのだと思います。もちろん、菅首相が通貨と為替との区別ができているとは思えませんが、こうした指摘には一定の客観的な根拠がないとはいえません。

 ニューヨーク金市場における金価格のここ2カ月間の推移をみますと、図にあるように、7月始めから9月始めにかけて、金価格は1オンス1200ドルから1250ドルへと高値に推移しています(つまりそれだけドルの代表する金量は減り、ドルは“減価”しています)。

 これに対して、東京金市場では、同じ期間、1グラムの金の価格は3400円前後を上下しているだけで、一方的な上昇傾向を示しているわけではありません。

 1グラム=0.03215トロイオンスで換算した場合、1ドル札と1万円札はそれぞれどれだけの金量を代表し、それがどのように推移したのかを見てみますと、7月初めごろの円とドルの通貨の実際のレートは1円=89.4ドルであるのに対して、9月初めにはそれが1円=84.6ドルになっています。

 これは通常言われている「為替レート」とは異なり、実際のアメリカ国内で流通しているドル札の代表する金量と日本国内で流通する円札の代表する金量との比較から計算した、その意味ではその概念にかなった「通貨レート」なのです。

 為替相場における、ドル建て、円建てのそれぞれの為替の価格も、当然、こうした各国の通貨の“価値”(代表する金量)をもとにしていることはいうまでもありません。金が諸商品の価値を尺度する唯一の貨幣商品であることは今日でも変わっていないのです。人によっては、金はすでに貨幣ではなく、「潜在的な貨幣としてあるだけだ」(状況の変化によっては貨幣になりうる可能性はあるが、現実には貨幣ではない)と言います。しかしそれは間違っています。金が「潜在的に貨幣」であるといいうるのは、金が鉱山から採掘されて、まだ金採掘業者がそれを他の諸商品との交換に出す前の段階にある金に言いうることであって、例えば金が世界のさまざまな金融機関、特に中央銀行やあるいは諸個人によって貯蔵されている場合については言い得ません。それらは本源的な蓄蔵貨幣として存在する金であり、だからそれらは“正真正銘”の貨幣そのもの(「本来的な貨幣」、あるはマルクスがいうところの「第三の規定による貨幣」)なのです。こうした誤った主張が出てくるのは、貨幣についての正しい概念が欠落しているからだと思います。実際に流通していなければ貨幣とはいえないというのは、古典派経済学的な間違った貨幣論に戻ることにほかなりません。

 そもそも諸商品の価値とは、与えられた生産諸力のもとで諸商品の使用価値が表している社会的分業にもとづいて、それらの使用価値を生産するために、社会の総労働を如何に配分されるべきかを示す指標なのです。それによって基本的な社会の物質代謝は維持されているのです。そしてその価値を目に見えるように表現し尺度するのが貨幣なのです。というのは、この社会ではそうした総労働の配分は意識的に行われるのではなく、ただ諸商品の交換の結果として客観的に貫かれるものとして存在するからです。だから諸商品の価値はただ別の共通な一商品によって相対的にしか表現できないし、尺度出来ないのです。そして商品世界から排除されて、そうした諸商品の価値を表現し尺度するものこそ貨幣なのです。

 だから今日の社会で諸商品が生産され、それがさまざまな形で売買されて、それを必要とするところに配分され、生産的にかあるいは個人的に消費されて、社会の物質代謝が維持されていることは誰もが認めることです。ということはこの社会に厳然として価値法則が貫いていること、諸商品を流通させるに必要な貨幣量が、それぞれの国ごとに客観的な法則として厳然として存在していることを、それらは示しているのです。実際にアメリカ国内で流通しているドル札であるとか、日本国内で流通している円札などは、そうした客観的に決まってくる流通必要貨幣量(流通必要金量)をただ代理しているだけなのです。それらがどれだけの金量を代理しているかは、不換制の今日では法的・制度的には決まっていません。しかし法的・制度的に決まっていないからといって、それらが一定の金量を代理している現実そのものが無くなるわけではありません。実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているかは、現実の経済過程(実際の商品流通の現実)によって決まってくるのです。そもそも流通代理物がどれだけの金量を代理しているかは、何か法的・制度的に決められるものではなくて、あくまでも現実の経済過程そのものが決めるのです。兌換制は、実際の経済過程で決まってくる金量を(だからそれは常に変動するわけですが)、常に一定の量に戻す力が働くように制度的に保障しているだけなのです。歴史的には、金鋳貨が流通しているときでさえ、それらの鋳貨は現実の流通過程では象徴と化すために、実際の金の市場価格とのずれが生じてくるのであって、そうした結果、時の権力者(国王など)は金貨の度量標準の変更を余儀なくされたりしたのです。

 では、実際に流通しているドル札や円札がどれだけの金量を代理しているのかを知るのはどうすれば出来るのでしょうか。それをわれわれが知りうるは、それぞれの国における金の市場価格以外にはありません。金の市場価格は、さまざまな要因によって決まり、変動します。一つは金の価値そのものの変化によって、あるいは現実の流通必要金量の変化によって、流通代理物の量が流通の外部から強制的な注入によって変化することによって、さらには直接的な金の需給によってです。だから時々刻々変化する実際の金の市場価格そのものは、直接にそれぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかを必ずしも正確に表しているとはいえませんが、しかし直接的な需給の変動を均せば、やはりそれは流通代理物がどれけの金量を代理しているのかをわれわれに教えているのです。

 しかし実際には、金は他の商品と同じように売買されており、単なる一つの商品にすぎないように見えます。しかしこれは単なる外観であって、決して金の売買と他の商品の売買とは同じではありません。もちろん、金も例えば工業用の材料として売買されるなら、それは他の商品と同じです。しかし金取り引きの多くはそうした金の使用価値を実現する(金を何らかの生産に使う)ためのものではありません。多くの人(あるいは法人・機関)は金を購入したからといって、金を消費するわけでは無いのです。だから金商品の購入というのは一つの外観であって、実際にはそれは流通貨幣を蓄蔵貨幣に転換しているのです。むしろこうした金の売買の現実こそが、金が依然として貨幣であることを物語っているのです。金を蓄蔵しているのは、石油やレアアースを備蓄しているのはわけがちがうのです。後者はやがてはそれを使用する(消費する)ために備蓄しているのですが(だから物質代謝の一過程ですが)、金の備蓄(蓄蔵)はただ価値の絶対的な形態を手にしているだけで、必要とあればいつでも通貨(流通貨幣)に転換して、諸商品の購入に充てることを考えて蓄蔵されているのです(だからそれは物質代謝を媒介するだけで、物質代謝の一過程ではない)。

 さて問題は、為替です。各国の通貨(ドル札や円札)そのものは、すでに何度も述べたように、決して為替とは直接には関係せず、その“価値”(代表する金量)はそれぞれの国内の商品市場の現実(流通する商品の価格総額、流通速度、諸支払の相殺度合い)に規定されているのであり、その限りでは独立変数なのです。

 実際の為替の相場そのものは直接には為替の需給に左右されますが、しかしそうした為替の売買には、国際的な諸商品の売買が反映しており(もちろん、為替は国際的な価値の移転だけのためにも売買されますが)、そして諸商品が売買される価格は、それぞれの国の通貨の“価値”によって規定されていることはいうまでもありません。だから為替の売買も、そのベースにはそれぞれの通貨の“価値”の比率が存在するといえるわけです。

 だから菅首相の肩をもつわけではありませんが、今回の円高には両国の通貨“価値”の比率の変化がある程度反映しているといえるかも知れません。

 為替と通貨との区別と関連はなかなか難しいものですが、そうした問題も『資本論』を研究するなかで、理論的に解明していくことが可能です。貴方も是非、共に『資本論』を読んでみませんか。

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第28回「『資本論』を読む会」・案内

 

   ■日 時   9月19日(日) 午後2時~

  ■会 場   堺市立南図書館
       (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主 催   『資本論』を読む会

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第27回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-09-03 12:59:03 | 『資本論』

第27回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎残暑、厳しいおり

 今年の暑さは記録的でした。大阪では9月になっても、まだ猛暑日が続いています。8月29日の第27回「『資本論』を読む会」の開催日も厳しい残暑のなかで行われました。
 “猛暑特需”というものがあるらしく、連日の猛暑様々でアイス製造業など一部の業界は潤っているのだそうです。しかし“猛暑特需”があるなら、“猛暑枯れ”もあるのではないでしょうか。植木の話ではありません。こんな猛暑日の昼日中にのこのこと炎暑のなかを出かけようなどと誰も思わないだろうということです。そのためともいえませんが、おかげで第27回「『資本論』を読む会」は、常連の参加者さえ姿を見せず、いつものことながら寂しい開催になりました。

 しかしまあ、愚痴を言っていても始まりません。今回は〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉からやりましたが、Bの最後まで終えることができました。さっそく、その報告に移りましょう。

◎どうして「欠陥」なのか?

 まず、今回の表題〈三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が問題になりました。つまりどうして「欠陥」なのか? というのです。
 前回までは〈B 全体的な、または展開された価値形態〉の相対的価値形態と等価形態について、それぞれ考察が行われましたが、今回からは、それらの考察を踏まえて、それらを統一した上で、〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉が考察の対象になっています。しかしBの全体としての考察が、どうしてその「欠陥」の考察になるのでしょうか。また「欠陥」というのは、何から較べての「欠陥」なのでしょうか?
 それは私たちが先に見た、Bの相対的価値形態(その質的および両的考察)と等価形態のそれぞれの考察は、A(単純な価値形態)の考察を踏まえたB(展開された価値形態)に固有の課題を明らかにするものであると指摘しましたが、それは同時にAの不十分な点が如何にしてBにおいて克服されているのかの考察でもあったのです。Aの最後で次のように言われていました。

 〈単純な価値形態、すなわち一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである〉(全集版83頁)

 つまり単純な価値形態の「不十分さ」というのは、〈一連の諸変態を経てはじめて価格形態にまで成熟するこの萌芽形態としての不十分さ〉なのです。つまり価値形態が価格形態(=貨幣形態)にまで発展することによって、価値はその概念にもっとも相応しい形態を獲得し、自立した姿態を得るとともに、諸商品を質的に同じで量的に比較可能なものとして表すことができるようになるのですが、価値形態の各発展段階は、だからそうしたもっとも発展した貨幣形態からみた場合に、いまだその「不十分さ」や「欠陥」があると言うことなのです。だから単純な価値形態の最後にその「不十分さ」が指摘されたように、展開された価値形態の場合も、その最後に、その欠陥が指摘され、次の発展段階への移行の必然性が明らかにされるという展開になっているわけです。
 とにかく、具体的に、以下、文節ごとに詳しく見て行くことにしましょう。

 (イ)第一に、商品の相対的価値表現は未完成である。というのは、その表示の列は完結することがないからである。(ロ)一つの価値等式が他の等式につながってつくる連鎖は、新たな価値表現の材料を与える新たな商品種類が現われることに、相変わらずいくらでも引き伸ばされるものである。(ハ)第二に、この連鎖はばらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。(ニ)最後に、それぞれの商品の相対的価値が、当然そうならざるをえないこととして、この展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限の価値表現列である。(ホ)――展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。(ヘ)ここでは各個の商品種類の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで一つの特殊的等価形態なのだから、およそただそれぞれが互いに排除しあう制限された等価形態があるだけである。(ト)同様に、それぞれの特殊的商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きるところのない現象形態でしかない。(チ)人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。(リ)しかし、そこでは人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。〉

 〈全体的な、または展開された価値形態の欠陥〉も、やはり相対的価値形態と等価形態にわけてそれぞれが考察されています。まず相対的価値形態の欠陥です。

 (イ)(ロ)第一に、商品の相対的価値表現は、未完成です。というのは、その表現の列は完結することがないからです。というのは、新たな商品種類が現われるごとに、価値等式の列は、相変わらずいくらで引き伸ばされて、限りがないからです。

 (ハ)第二に、この価値表現の繋がりは、さまざまな表現の寄せ集めのままです。

 〈この第二形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える〉(初版本文、国民文庫版58頁)

 (ロ)最後に、それぞれの商品の相対的価値は、この展開された形態で表現されるならば、当然のことながら、どの商品の(展開された)相対的価値形態も、他のどの商品の(展開された)相対的価値形態とも違った無限の価値表現の列になります。つまり諸商品それぞれが違った展開された価値形態で自らの価値を表現するわけですが、それらがすべて違っているわけです。

 次は等価形態の欠陥です。

 (ホ)展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態の欠陥として反映します。

 (ヘ)ここでは各個の商品の現物形態が、無数の他の特殊的等価形態と並んで、一つの特殊的等価形態ですから、それらは互いに排除しあう限られた等価形態があるだけです。

 (ト)同じように、それぞれの特殊的な等価物に含まれている特定の具体的な有用労働種類も、ただ人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかありません。

 (チ)(リ)人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、特殊的諸現象形態の総範囲のうちに持っていますが、しかし、人間労働は統一的な現象形態をまだ持っていないのです。
 この部分はフランス語版では次のようになっています。

 〈人間労働は確かに、その完全なあるいは総和の表示形態を、その特殊な形態の総体のうちにもっている。だが、形態と表現との統一が欠けている。〉(36-7頁)

 そして山内清氏はこの部分をフランス語版と関連させて次のように説明しています。理解をより深めるために、紹介しておきましょう。
 
 〈仏語版がいうように、第二形態は、その形態的内実と形態的形式とが不一致である。第二形態は、その形態にある限りですべての商品の質的同等性を表現するが、そういう形態的内実を、全体性、総範囲性という形態的形式で示しているにすぎず、本来そうあるべき、単純性、統一性、共同性の形式をもっていないのである。〉(山内清著『資本論商品章詳注』97頁)

◎全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行

 次のパラグラフとの間に初版付録には〈(五) 全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行〉という表題があることが指摘されました(国民文庫版158頁)。つまりここからは、価値形態の次の発展段階への移行が問題になるわけです。

 (イ)とはいえ、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。(ロ)たとえば、
   20エレのリンネル=1着の上着
   20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からである。〉

 (イ)(ロ)しかし、展開された相対的価値形態は、単純な相対的価値形態、すなわち第一形態の諸等式の総計からなっているにすぎません。すなわち、
   20エレのリンネル=1着の上着
   20エレのリンネル=10ポンドの茶
などの総計からです。

 〈(イ)しかし、これらの等式は、それぞれ、逆にすればまた次のような同じ意味の等式をも含んでいる。
(ロ)すなわち
   1着の上着=20エレのリンネル
   10ポンドの茶=20エレのリンネル
などを含んでいる。〉

 (イ)(ロ)そして、これらの等式は、それぞれを逆にすれば、次のような同じ意味の等式を含んでいます。すなわち、
   1着の上着=20エレのリンネル
   10ポンドの茶=20エレのリンネル
という等式をです。

 (イ)じっさい、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換し、したがってまたリンネルの価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に他の多くの商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換しなければならず、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値を同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現しなければならない。――(ロ)そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち事実上すでにこの列に含まれている逆関係を言い表わしてみれば、次のような形態が与えられる。〉

 (イ)そして、実際の交換関係を考えてみますと、ある人が彼のリンネルを他の多くの商品と交換して、自分の価値を一連の他の商品で表現するとしますと、それは必然的に他の多くの商品の所持者も彼らの商品を同じ第三の商品であるリンネルと交換しなければなりませんし、だから彼らはいろいろな商品の価値をリンネルで表現しなければならないことになります。
 ところでここでマルクスがリンネルを〈同じ第三の商品〉と述べていることに異論を唱えている人がいます(山内清前掲書)。つまり〈リンネルは、第二形態では当事者の一方であるから、「第三の」は疑問〉(前掲99頁)だというのです。しかし上記の一文をよく読むと、マルクスは〈彼らのいろいろな商品の価値を〉と述べています。つまりリンネルと交換して自分たちの商品の価値を表現する〈他の多くの商品所持者〉にとっては、彼らの商品相互の関係から見ると、リンネルは〈同じ(あるいは共通の)第三の商品〉になると述べているのです。ここでは、すでに表式が逆転して、リンネルがすでに一般的等価形態になっているのですから、こうした表現はそれを示唆しているものと考えられ、何ら問題はないと思います。

 (ロ)だから、20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=etc. という列を逆にすれば、すなわち実際上は、これらの列に含まれている逆関係を表わしてみますと、次のような形態が与えられるわけです。

 そしてその与えられる新しい価値形態こそ、一般的価値形態であり、次の項目では、以下のような等式が示されています。

〈 C 一般的価値形態

   1着の上着       =       
    10ポンドの茶     =
    40ポンドのコーヒー =
    1クォーターの小麦 =        20エレのリンネル
    2オンスの金     =             
    1/2トンの鉄    =
    x量の商品A     =
    等々の商品     =             〉


(以下は(その2)に続きます。)

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第27回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-09-03 12:46:54 | 『資本論』

第27回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎第二形態から第三形態への移行をめぐる論争

 このマルクスの第二形態(全体的な、または展開された価値形態)から第三形態(一般的価値形態)への移行については、賛否両論があり、従来から論争が繰り返されてきました。それらは大きくは、マルクスが「逆関係」を使って説明しているのを否定する主張と、それを肯定する主張とに分けることができます。今、その代表的なものを知るために、白須五男氏がまとめたものを紹介してみましょう。

 〈【逆連関否定の移行論】
   I
(1)価値形態の中に交換過程的論理を導入し、商品所有者の相互的な欲望表現を価値表現と同一視し、その表現の不一致から発生する交換の困難を解決するものとして第三形態を措定しようとする説--宇野弘蔵氏および宇野学派の多くの論者の見解 。
(2)マルクスの価値表現を相互的価値表現であると批判し、価値実体も商品所有者の欲望もともに前提せず、交換過程的論理を排除した「純化された価値形態的論理」それ自体の内で、価値と使用価値の二要因の矛盾が展開されることを通して第三形態を導出しようとする説--中野正氏、鈴木鴻一郎氏(および玉野井芳郎氏) の見解。
  II
(3)価値形態論の内部では第二形態から第三形態への移行を理論的に説くことには本質的困難が伴い、その発展過程に交換過程の全面的外化の矛盾を対応させることによって第三形態の成立が可能になるとする説--冨塚良三氏の見解 。
(4)逆連関を前提せずに、価値概念とその定在様式(価値形態)との矛盾の展開だけから第三形態の成立を措定しようとする説--武田信照氏の見解 。
  III
(5)価値形態論を価値表現の「類型論」として位置付け、第二形態から第三形態への移行は本来交換過程論の課題であって、価値形態論の内部ではその移行の論理は始めから説きえないとする説--大島雄一氏の見解 。
  【逆連関肯定の移行論】
(6)価値概念と価値の定在様式との不一致(矛盾)を形態移行の動力として価値概念に照応する第三形態を導出し、貨幣の現実的必然性が問題となる交換過程はその第二形態から第三形態への移行を媒介するものと捉える説--見田石介氏、尼寺義弘氏の見解。
(7)価値表現の両極性と両項の互換性についての「独自な」解釈に基いて、第二形態およびその逆連関としての第三形態が同一時点では必ずただ一つだけ成立可能と捉える説--頭川博氏の見解。〉(『マルクス価値論の地平と原理』158-9頁)

 なかなか、これだけでは、それぞれの主張を理解することはできませんが、さまざまな主張が入り乱れて論争が行われていることは了解頂けたのではないでしょうか。そのすべてについて具体的に検討することは、ほとんど不可能であるし、またその必要性もないと思いますので、ここでは、逆関係を否定する代表的な主張として、富塚氏の主張を批判的に検討してみることにしましょう。富塚氏の主張は次の一文に典型的に現われています。

 〈元来、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という等式関係は、亜麻布商品の所有者が「上衣一着とならば亜麻布20ヤールを交換してもよい」といっていることを表現しているにすぎないのであって、それは全く亜麻布所有者にとっての私事にすぎず、亜麻布所有者がそういっているからといって、上衣の所有者がそれに応じなければならないという理由は全くない。上衣の所有者はその商品を亜麻布と交換することを望まないかもしれず、仮りに亜麻布と交換しようとする揚合にも、20ヤールでは不足だとするかもしれない。要するに、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という亜麻布にとっての価値表現の関係は、20ヤールの亜麻布が必ず一着の上衣と交換されるということを表現してはおらず、1着の上衣=20ヤールの亜麻布 という逆の価値表現の関係を当初から予定してはいないのである。〉(『恐慌論研究』244頁)

 こうした富塚氏の主張は、明らかに価値形態を見誤っているとか言いようがありません。富塚氏は、マルクスが商品の価値を分析するのに、商品の交換関係から考察を開始したことを忘れています。マルクスは第1章で次のように書いています。

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。〉(下線は引用者、全集版49頁)
 〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の 小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか?〉云々(下線は引用者、同50頁)

 こうした考察から出発して、私たちは商品の価値をつかみだし、その実体を考察したのです。マルクスは、価値の実体を考察したあと、その量的考察に移る前に次のように述べていました。

 〈だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。〉(同52頁)

 だから第三節から始まった価値形態の分析は、マルクスがここでいう〈価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値〉の分析に他ならないのです。だから価値形態の分析においては、常にその背景として交換関係が前提されているということが留意されていなければならないのです。そして二商品の交換関係を前提すれば、リンネルと上着との交換には、当然、上着とリンネルとの交換が含まれており、リンネルの価値を上着で表すということと同時に、上着の価値をリンネルで表すという逆の関係が常に含まれていることはあまりにも当然のことではないでしょうか。価値形態の考察においては、二商品のこうした交換関係から商品所有者やその欲望を捨象して、二商品の交換という事実だけを取り出して観察し、分析しているわけです。

 こうした第二形態から第三形態への発展を、マルクスはモスト著『資本論入門』のなかでは歴史的に次のように描いています。

 〈交換のその次に高い段階(第二形態--引用者)を、われわれはこんにちでもまだ、たとえばシベリアの狩猟種族のところで見いだす。彼らが提供するのは、交換向けのほとんどただ一つの財貨、つまり毛皮である。ナイフ、武器、火酒(かしゆ)、塩等々といった彼らに供給される他人のすべての商品が、彼らにとってはそっくりそのまま、彼ら自身の財貨のさまざまの等価物として役立つ。毛皮の価値がこうして受け取る表現が多様であることは、この価値を生産物の使用価値から分離して表象することを習慣にするが、他方では、同一の価値をたえず増大する数のさまざまの等価物で計量することが必要となる結果、この価値の大きさの規定が固定するようになる。つまり、ここでは毛皮の交換価値はすでに、以前ばらばらに行なわれていただけの生産物交換の場合(第一形態--引用者)に比べて、はるかにはっきりした姿をもっているのであり、したがってまた、いまではこれらの物そのものもすでに、はるかに高い程度で商品という性格をもっているのである。
 こんどはこの取引を、異郷の商品所持者の側から観察してみよう彼らのおのおのはシベリアの狩人たちにたいして、自分の財貨の価値を毛皮で表現しなければならない。こうして毛皮は、一般的等価物になる。一般的等価物は、他人のすべての商品と直接に交換可能であるばかりでなく、また他人のすべての商品にとって、共通の価値表現のために、したがってまた価値を計るものおよび価値を比較するものとしても役立つ。言い換えれば、毛皮は生産物交換のこの範囲のなかでは、貨幣となるのである。
〉(大谷禎之介訳10-11頁)

◎第二形態から第三形態への発展には、どういう商品形態の発展が対応しているのか?

 第二形態から第三形態への移行を逆の関係から説明するマルクスのやり方を肯定するにしても、では、第二形態から第三形態への移行においては、ただ観察の視点の転換だけが問題なのでしょうか。〈全体的な、または展開された価値形態〉を、それまでリンネルの側から見ていたのを、ひっくり返して、それまで等価形態に置かれていた諸商品の側から見て、それらの相対的な価値の表現として見ただけなのでしょうか。そうではなく、やはり第二形態から第三形態への移行にも、商品形態の発展が対応しているのでしょうか、それが問題です。
 大谷氏はこの点で、先のマルクスの『入門』の説明は、〈やや舌足らずで、誤解を招く可能性がある〉と指摘しています。確かにそういう面がないとはいえませんが、しかし『入門』の説明でも、商品形態の発展を物語っているようにも思えます(それは後に紹介します)。しかし、とりあえず、この点では大谷氏の説明が参考になるので、紹介しておくことにしましょう。
 大谷氏は『価値形態』(『経済志林』61巻2号)で次のように述べています。

 〈じっさい,ある人が自分のリンネルを他の多くの商品と交換し,したがってまたリンネルの価値をそれらの商品で表現するならば,必然的に,他の多くの商品所持者もそれぞれ自分の商品をリンネルと交換しなければならず,したがってまたそれぞれ自分の商品の価値を,みな同じ商品,リンネルで表現しなければならないわけである。
 すでに述べたように,これらの他商品が相互にまったく無関係に存在して,相互にまったく無関係にリンネルと交換するのであれば,それらの商品がもつ価値形態は単純な価値形態でしかない。けれども,ここで生じる交換関係の発展の方向は,リンネルばかりでなく,これら他商品のほうでも他の多くの諸商品と交換関係を結び,したがってこれらの諸商品がみな同一の場で交換されるようになっていく,というものであるほかはない。その行き着くところは,リンネルの開展された価値形態を潜めている交換関係のなかで,リンネルにたいする多くの他商品の側でも,互いに商品として関わりをもち,同じ商品世界を形成しているということ,どの他商品もリンネルと交換しようとしているということである。そして,一方の側に開展された価値形態を含む交換関係は,他方の側にそのような多くの商品が立っことを排除するものではないのである。〉(212頁)

 つまりこういうことです。モストの『入門』の例を参考に考えてみましょう。シベリアの狩猟種族が彼らの獲物である毛皮を、狩りの旅の途中で出会うさまざまな種族と、それらの種族の生産した武器や火酒、塩等々と交換していく場合、毛皮は展開された価値形態を獲得します。しかし、毛皮と交換される武器や火酒、塩等々の側から見ると、それらの交換はいまだそれらの生産者にとっては偶然的なものにすぎません。だからそれらの商品から見た場合は、それらはいまだ単純な価値形態に過ぎないわけです。
 しかしそうした交換がさらに発展して行くと、武器や火酒や塩等々を生産する種族たちにとっても、商品の交換はますます偶然的なものではなくなり、彼らの間でも互いに商品を交換し合う関係が発展してくるわけです。そうした場合に、彼らは互いの商品交換において、それぞれの価値をまずは毛皮で表現して、彼らの商品の価値を比較しあうようになります。その上で、彼らは互いの商品を交換し合うわけです。そして、これがすなわち一般的な価値形態なのです。だから第二形態から第三形態への発展にも、商品交換の、よってまた商品形態の発展が対応していると考えられるわけです。先の『入門』を丁寧に読めば、マルクスは、こうした商品交換の歴史的な発展を描いていることが読み取ることができると思います。

【付属資料】は(その3)に掲載します。)

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第27回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2010-09-03 12:31:46 | 『資本論』

第27回「『資本論』を読む会」の報告(その3)


【付属資料】

●【1】パラグラフに関連して

《初版本文》

 〈第一の形態 20エレのリンネル=1着の上着 は二つの商品の価値のために二つの相対的な表現を与えた。この第二の形態は同じ商品の価値のために相対的な諸表現の雑多きわまる寄木細工を与える。価値の大きさの表現のためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=1着の上着 においては、じっさいどの表現においても同じままであるリンネルの価値の大きさが、ちょうど 20エレのリンネル=u量の茶 等々におけるのと同じに、あますところなく示されているからである。また、等価物の形態規定のためにもなんらかのものが得られたようには見えない。なぜならば、20エレのリンネル=u量のコーヒー 等々においては、コーヒー等々は、上着がそうだったのとまったく同じように、ただ個別的な等価物であるにすぎないからである。〉(国民文庫版58-9頁)

《初版付録》

 〈第一に、リンネルの相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示の動は完結することがないからである。第二に、それはぼらばらな雑多な価値表現の多彩な寄木細工をなしている。最後に、これはそうならざるをえないことであるが、それぞれの商品の相対的な価値がこの展開された形態で表現されるならば、どの商品の相対的価値形態も、他のどの商品の相対的価値形態とも違った無限な価値表現列である。--展開された相対的価値形態の欠陥は、それに対応する等価形態に反映する。各個の商品種類の現物形態がここでは無数の他の特殊的な等価形態と並んで一つの特殊的な等価形態であるのだから、およそ、ただ、それぞれが互いに排除し合う制限された等価形態があるだけである。同様に、それぞれの特殊的な商品等価物に含まれている特定の具体的な有用な労働種類も、ただ、人間労働の特殊的な、したがって尽きることのない現象形態でしかない。人間労働は、その完全な、または全体的な現象形態を、たしかにあの特殊的な諸現象形態の総範囲のうちにもってはいる。しかし、こうして人間労働は統一的な現象形態をもってはいないのである。〉(同158頁)

《フランス語版》

 〈まず、相対的な価値表現は、その表現系列がけっして終結されないために、未完成である。それぞれの価値比較を環とする鎖は、ある新たな商品種類が新たな表現の材料を提供するにつれて、随意に伸ばすことができる。もしさらに、そうならざるをえないとおりに、この形態が、すべての商品種類に適用されることによつて一般化されるならば、結局は、諸商品の価値表現と同数の、さまざまな際限のない諸系列が、得られるであろう。発展した相対的価値形態の不備は、この形態に対応する等価形態に反映する。それぞれの商品種類の自然形態がここでは、他の無数の特殊な等価形態とならんで、一つの特殊な等価形態を提供するから、一般的に言って、それぞれが他を排除するような断片的な等価形態のみが存在する。これと同じように、それぞれの等価物のうちに含まれている具体的な有用労働種類も、そこでは、人間労働の特殊な形態、すなわち、人間労働の不完全な表示のみを表わす。人間労働は確かに、その完全なあるいは総和の表示形態を、その特殊な形態の総体のうちにもっている。だが、形態と表現との統一が欠けている。〉(江夏訳36-7頁)

●【初版付録にのみある表題】

 〈(五) 全体的な価値形態から一般的な価値形態への移行〉(前掲158頁)

●【2】パラグラフに関連して

《初版付録》

 〈とはいえ、全体的なまたは展開された相対的価値形態は、ただ、単純な相対的な価値表現すなわち第一の形態の諸等式の総計から成っているにすぎない。たとえば、
  20エレのリンネル=1着の上着
  20エレのリンネル=10ポンドの茶、等々
の総計からである〉(同159頁)

《フランス語版》--次のパラグラフとくっついている

●【3】パラグラフに関連して

《初版付録》

 〈しかし、これらの等式は、それぞれ、逆関係的には次のような同じ意味の諸等式をも含んでいる。すなわち、
   1着の上着=20エレのリンネル
   10ポンドの茶=20エレのリンネル、等々
を含んでいる。〉(同159頁)

《フランス語版》

 〈しかし、総和のあるいは発展した相対的価値形態は、単純な相対的表現の総計、すなわち、次のような第一形態の等式、
 20メートルのリンネル1着の上衣
 20メートルのリンネル10ポンドの茶、等、
の総計からのみ成り立っているが、この等式の一つ一つが、次のような同一の等式を逆に含んでいるのである。
 1着の上衣  20メートルのリンネル
 10ポンドの茶20メートルのリンネル、等〉(前掲37頁)

●【4】パラグラフに関連して

 《初版本文》

 〈第二の形態は、第一の形態の諸等式だけの合計から成り立っている。しかし、これらの等式のそれぞれ、たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 は、その逆の関係 1着の上着=20エレのリンネル をも包括しているのであって、ここでは上着が自分の価値をリンネルで示しており、まさにそれゆえにリンネルを等価物として示しているのである。ところで、こういうことはリンネルの無数の相対的な価値表現のどれにもあてはまるのだから、そこでわれわれは次のような形態を得るのである。〉前掲(61頁)

《初版付録》

 〈じっさい、リンネルの所持者が彼の商品を多くの他の商品と交換し、したがってまた彼の商品の価値を一連の他の商品で表現するならば、必然的に多くの他の商品所持者もまた彼らの商品をリンネルと交換するにちがいなく、したがってまた彼らのいろいろな商品の価値同じ第三の商品で、すなわちリンネルで表現するにちがいない。--そこで、20エレのリンネル=1着の上着 または =10ポンドの茶 または =等々、という列を逆にすれば、すなわち、それ自体としてすでにこの列のなかに含まれている逆関係を言い表わしてみれば、われわれは次のような形態を得る。〉(同159-160頁)

《フランス語版》

 〈実際のところ、リンネルの所有者がリンネルを他の多数の商品と交換し、したがって、その価値を一連の同じ数だけの項のうちに表現するならば、他の商品の所有者たちは、自分たちの商品をリンネルと交換して、自分たちのさまざまな商品の価値を、リンネルという同一の項のうちに表現せざるをえない。20メートルのリンネル=1着の上衣、または=10ポンドの茶 または=その他 という系列を転倒するならば、すなわち、この系列のうちにすでに暗々裡に含まれている相反等式を表現するならば、次の形態が得られる。〉(前掲37-8頁)

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