『資本論』学習資料No.14(通算第64回)上
◎「自由な労働する諸個人のアソシエーション」(大谷新著の紹介の続き)
大谷氏は亡くなられましたが、その著書はわれわれに残されています。だからその研究は引き続き行い、そこから多くのことを学ぶべきでしょう。だから大谷氏の生前最後の著書『資本論の草稿にマルクスの苦闘を読む』の紹介も続けたいと思います。
本書は大きくは三部構成になっており、「Ⅰ 『資本論』に刻まれたマルクスの苦闘」、「II 『資本論』第2部・第3部の草稿を読む」、「III 探索の旅路で落ち穂を拾う」となっています。
これまではⅠのなかから興味深い考察や指摘を紹介してきました。
IIは「第5章 『資本論』第2部第8稿を読む--第8稿全文とMEGA版付属資料--」、「第6章 『資本論』第2部・第3部草稿の執筆時期について--四共著者への批判--」、「第7章 『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡--MEGA第II部門第11巻の刊行に寄せて--」、「第8章 流通過程および再生過程の実体的諸条件とはなにか--『資本論』第2部形成史の一齣--」からなっています。
第5章のほとんどは草稿の翻訳・紹介であり、ここで紹介できるようなものではありません(第2部第8稿の現行版第21章該当部分については、大谷氏が昔『経済志林』に発表された翻訳文を詳細に解読したものが電子書籍化してあります。興味のある方はココをクリック)。第6章も執筆時期そのものは、学者はともかく、私たちにとってはあまり興味を引くものではないでしょう。第7章は、実はそれを批判的に検討したものを別のブログに連載し、それを電子書籍化したものがあります(興味のある方はココをクリック)。また第8章についても、別の同じブログで批判的に検討したものを連載しました(同じくココをクリック)。ということで、このIIからは、ここで紹介することは割愛したいと思います。
ところでIIIの表題はやや文学的に「落ち穂を拾う」などと表現されていますが、これまで未掲載のものや、補足的なものが紹介されているようです。そのなかで今回は最初の「第9章 『図解 社会経済学』で読者に伝えたかったこと」から紹介します。ここにもいろいろと興味深い指摘がありますが、今回は「自由な労働する諸個人のアソシエーション」について語っている一文を紹介しましょう。
〈マルクスは,資本主義的生産が懐胎している新社会を,圧倒的に,「アソシエーション」と呼びました。詳しくは,「自由な労働する諸個人のアソシエーション」です。「収奪者を収奪すること」によって生まれるこの社会がどのような社会であるのか,ということについては,ここではもう立ち入ることはいたしません。拙著をお読みいただければ,と願っております。ただ,三つのことだけをつけ加えておきます。 第1は,マルクスが『資本論』第3部で,アソシエーションの土台をなす生産様式を「アソーシエイトした〔associated〕労働の生産様式」と呼んでいる(MEGAII/4.2,S.662),ということです。マルクスは,未来社会の土台をなす生産様式を,労働のあり方にそくしてこのように呼んでいたことに注目したいと思います。 第2は,マルクスは『ゴータ綱領批判』で,アソシエーションそのものの発展についてより低い段階とより高度な段階とを区別していますが,そのさいに彼が挙げた四つのメルクマールはいずれも,まさに労働にそくしてのものでありました。 第3に,マルクスは『資本論』の第3部で,「必然性の国」である本来の物質的生産の領域のかなたに「真の自由の国」がある,と述べていますが(MEGAII/4.2,S.838),ここから,未来社会では人間にとっての労働の意義が後景に退くのだ,などと考えてはならない,ということです。アソシエーションが発展するなかで,「必然性の国」での労働は,人間自身が直接に手をくだす労働から科学的労働に,『経済学批判要綱』でのマルクスの言葉を使えば,「彼自身の一般的生産力の取得,自然にたいする彼の理解,そして社会全体としての彼の定在を通じての自然の支配,一言で言えば社会的個人の発展」(MEGAII/1,S.581)になっていくことでしょう。それにもかかわらず,自然にたいする目的意識的な関わりという形態での,自然とのあいだでの人間の物質代謝が,人間の生存と人間社会の存続の基底をなすものであること,そして,人間の自然にたいするこの関わりの核心が労働であることには,いささかの変化もありません。〉 (435-436頁)
それでは本題の『資本論』のテキストの検討に進みます。今回は「第3章 貨幣または商品流通」、「第2節 流通手段」の小項目「b 貨幣の流通」の最初からです。
◎小見出しの翻訳について
〈b 貨幣の流通〉
このように、全集版では「貨幣の流通」になっていますが、新日本新書版は「貨幣の通流」となっています。そしてそこに次のような訳者注がついています。
〈〔英語版翻訳者(ムアおよびエンゲルス)の注--「この言葉〔currency ドイツ語ではUmlauf〕は、ここでは、そのもとの意味、すなわち貨幣が手から手に渡るときに貨幣がたどる過程または経路という意味で使われており、流通〔circulationドイツ語ではZirkulation〕とは本質的にちがう過程である。」〉 (194頁)
大谷氏はこの「Umlauf」と「Zirkulation」について、次のように述べています。
〈マルクスにおけるZirkulationsmittelという概念は「商品のZirkulationの手段」という意味であるのにたいして,Umlaufsmittelの場合には,「商品のUmlaufの手段」という意味ではなくて,umlaufenする手段という意味である。本書では「流通媒介物」(「流通手段」が「流通する手段」ではなくて「流通の手段」を意味することからすると,「流通媒介物」という訳語は,「流通する媒介物」ではなくて「流通を媒介する物」と読まれるおそれなしとしないが,当面こうしておく)と訳しているthe circulating mediumの場合にきわめて明瞭に現われているように,circulateするものとして意識されるのは,これによって媒介される商品の流通ではなくて,媒介物である貨幣ないしその代理物そのものである(英訳--1909年のカー版,1959年のモスクワ版,1998年のCollected Works版--では,Umlaufsmittelをthe circulating mediumと訳している)。currencyとcirculationとが「通貨」として同義に用いられるのはこの意味においてである。そこで,このことを明示するために,商品の流通Zirkulationと区別して貨幣やその代理物のUmlaufを「通流」と訳すことが行なわれている。マルクスの文献を訳すときに,マルクスがこの両語を明確に使い分けているところでは,訳語のこの区別が有用であることは確かであるが,しかし,マルクスはどんな場合にもZirkulationおよびUmlaufという語を必ずこのように使い分けているなどということはできない。……マルクスにあっては商品についても貨幣についても(さらに資本についても)同じ「流通〔Zirkulation〕」という語がきわめて広範に用いられていることを念頭に置いて,それぞれの箇所での意味をコンテクストから読み取ることが必要なのである。〉 (『マルクス利子生み資本論』第4巻12頁)
新書版はUmlaufは〈貨幣がたどる過程または経路という意味〉が付与されているということで、「流通」ではなく「通流」と言い換えて、その違いを表しているわけです。この部分では大谷氏がいうところの〈マルクスがこの両語を明確に使い分けているところ〉に該当するのでしょう。 要するに「商品の流通」という場合は、商品の運動(変態)として問題を見ているのに対して、「貨幣の通流」というのは、商品の変態に規定された貨幣の運動の側に観点を置いてその運動を見ているということでしょうか。
◎第1パラグラフ(商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の通流である)
【1】〈(イ)労働生産物の物質代謝がそれによって行なわれる形態変換、W-G-Wは、同じ価値が商品として過程の出発点をなし、商品として同じ点に帰ってくることを、条件とする。(ロ)それゆえ、このような商品の運動は循環である。(ハ)他方では、この同じ形態は貨幣の循環を排除する。(ニ)その結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、そこに帰ってくることではない。(ホ)売り手が自分の商品の転化した姿、貨幣を握りしめているあいだは、商品は第一の変態の段階にあるのであり、言いかえれば、ただその流通の前半を経過しただけである。(ヘ)この過程、買うために売る、が完了すれば、貨幣はさらにその最初の所持者の手から遠ざかっている。(ト)もちろん、リンネル織職が聖書を買ってからまたあらためてリンネルを売れば、貨幣はまた彼の手に帰ってくる。(チ)しかし、その貨幣ははじめの二〇エレのリンネルの流通によって帰ってくるのではなく、この流通によっては、貨幣はむしろリネル織職の手から聖書の売り手の手へと遠ざかっている。(リ)貨幣は、ただ、新たな商品のための同じ流通過程の更新または反復によってのみ帰ってくるのであり、この場合も前の場合も同じ結果で終わるのである。(ヌ)それゆえ、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、または貨幣の流通(currency,cours de la monnaie)である。〉
(イ)(ロ) 労働生産物の物質代謝は、W-G-Wという形態変換のかたちで行われます。この形態変換は、同じ価値が、商品として過程の出発点をなし、また商品として同じ点に帰ってくることを当然の条件として含んでいます。だから、商品のこの運動は循環です。
いうまでもなく、現代のブルジョア社会は、労働生産物が商品として交換され、流通することよって、その社会的な物質代謝が維持されています。だからW-G-Wのうち、W-Wが規定的であって、それを媒介する貨幣Gはそれに規定されたものでしかないのです。しかしこれは商品流通の現実から受ける印象とは違ったものです。現象的には貨幣が商品を流通させているように見えるからです。しかしW-W、つまり商品が同じ点に帰ってくることが本質的なことであり、その商品の運動をマルクスは循環だと述べています。商品(労働生産物)が、別の商品(労働生産物)と交換されて、この社会の物質代謝は維持されているからです。これが一番の基礎だとマルクスは述べているのです。
(ハ)(ニ) 他方では、この同じ形態は貨幣の循環を不可能にします。この形態の結果は、貨幣がその出発点から絶えず遠ざかることであって、同じ点に帰ってくることでありません。
だから他方では、貨幣の運動はこれを媒介するものですが、W-G-Wでは、貨幣は自分自身に帰ってくることはありません。それは商品の運動に規定されて、ただ出発点から遠ざかるだけなのです。
(ホ)(ヘ) 売り手が自分の商品の転化した姿である貨幣を握りしめているあいだは、商品はまだ第一の変態の段階を終えたところにいるのであり、言いかえれば、その流通の前半をあときにしただけです。売ってから買うという過程が完了すれば、貨幣も、その最初の所持者の手からさらに遠ざかっています。
例えば売り手が自分の商品を販売して貨幣を入手した段階を考えてみましょう。この段階では商品は最初の変態を終えただけですが、さらにその貨幣で自分の欲しいものを買って、その商品の最後の変態を終えるならば、結局、貨幣はまた別の所持者のところに移って行って、その最初の売り手の手から遠ざかっていくだけです。
(ト)(チ) もちろん、リンネル織職が聖書を買ったあとで、またあらたにリンネルを売れば、貨幣がまた彼の手に帰ってきます。しかし、この貨幣は、はじめの二〇エレのリンネルの流通によって帰ってくるのではありません。この流通によっては、貨幣はむしろリネル織職の手から聖書の売り手の手へと遠ざかっているのです。
確かに売り手の手に貨幣が再び戻ってくることはありえますが、しかしそれは売り手がまた新しい商品、例えばリンネル織職がリンネルを売ったあと手にした貨幣で聖書を買ってそれを手放したあとに、別に新たに織ったリンネルを売るならば、貨幣はまた彼の手に帰って来ます。しかしこの貨幣は、別の商品(新たなリンネル)の循環を表しているのであって、リンネル織職が最初に手放した貨幣そのものが帰って来たわけではありません。最初の貨幣は聖書の売り手の手へと遠ざかっているのです。
(リ) 貨幣は、同じ流通過程が新たな商品について更新または反復によって帰ってくるだけで、今度の結果もさっきの結果とまったく同じです。
だから貨幣は、リンネルの販売が、新しいリンネルによって繰り返されることによって、新たにリンネル織職の手に帰ってくるだけです。だから今回の結果も最初のリンネルの販売の場合とまったく同じことです。
(ヌ) ですから、商品流通によって貨幣に直接に与えられる運動形態は、貨幣が絶えず出発点から遠ざかること、貨幣が或る商品所持者の手から別の商品所持者の手に進んで行くこと、言い換えれば貨幣の通流(currency,cours de la monnaie)です。
ですからこういうことから言えることは、商品流通によって貨幣に直接与えられる運動形態というのは、貨幣が絶えず出発点から遠ざかっていくこと、貨幣が商品所持者の手を次々と渡り歩いて行くことです。それが貨幣の流通というのです。
ここでは単純な商品流通における貨幣の通流というのは、ただ出発点から絶えず遠ざかることが強調されています。なぜこうした貨幣の運動の特徴が問題になるでしょうか。『経済学批判』では〈貨幣流通は、一つの中心から円周上のすべての点に向かって放射し、円周上のすべての点からその同じ中心に向かって復帰する運動をあらわすものではなおさらない〉(全集第13巻83頁)などとも書かれています。ここで〈一つの中心から円周上のすべての点に向かって放射し、円周上のすべての点からその同じ中心に向かって復帰する運動〉というのも一体何を言いたいのかよく分からないと思いますが、実は『経済学批判要綱』には次のような一文があるのです。
〈1つの中心から円周上の異なる諸点にむかっての出発は,また円周のすべての点から1つの中心にむかっての復帰は,ここでわれわれが考察している段階での,つまり直接的な段階での貨幣通流の場合には生じないのであって,銀行制度に媒介された流通においてはじめて生じるのである。〉 (『マルクス経済学レキシコン 貨幣II』95頁)。
要するに、ここでマルクスが貨幣の流通として〈絶えず出発点から遠ざかる〉という貨幣流通の運動の特徴として挙げているのは、後に考察するであろう、「資本の流通」を暗に前提して、それと比較して述べていることが分かるのです。同じ『要綱』には、単純な貨幣流通と資本の流通とを比較した次のような一文もあります。
〈貨幣流通は無限に多くの地点から出て、無限に多くの地点へと帰った。復帰点はけっして出発点として措定されてはいなかった。資本の通流においては、出発点は復帰点として、また復帰点は出発点として措定されている。資本家自身が出発点であり、復帰点である。資本家は貨幣を生産の諸条件と交換し、生産を行ない、生産物を価値実現し〔verwerthen〕、すなわちそれを貨幣に転化し、そしてそれから新たにその過程を開始するのである。それだけで考察された貨幣流通は、貨幣が動いていない物となったとき、必然的に途絶える。資本の流通はそれ自身からたえず新たに発火し、流通のさまざまの契機に分かれていくのであって、一つの永久運動〔perpetum mobile〕である。〉 (草稿集②180頁)
さて、こうした商品の変態に規定された貨幣の運動を図示して詳しく説明したものを久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン 貨幣II』から紹介しておきましょう。
「貨幣II」のなかで「編集者による付録」として以下のような説明があります(なおこれは同氏の著書『増補新版 恐慌論研究』に掲載されたものです)。
〈私はここに,1948年に発表した私の労作のなかから,商品流通にかんする1つの図解を取って括入しておく。それが商品流通のさまざまの契機一個々の商品の変態,さまざまの商品の変態のからみあい,および貨幣の通流のあいだの現実的諸関係を理解するのに役立つことを願ってのことである。
a) -→……Wのうち-→は、使用価値および価値(ただしこの場合価値はすでに価格の形態を与えられており、したがって商品は、自然形態および価格形態の二重の形態をもって流通界にはいることが前提される)の統一物である商品が生産界から流通界にはいることを示す。後半の、……Wの点線は、商品が流通界にはいってから販売されるまでの期間をあらわす。
b) W-G……G-Wは価値としての商品の運動--商品の変態運動--をあらわす。
c) は2つの商品の対立的な変態が相互に実現しあう関係--それは、商品と貨幣の所有者または位置の変換として、われわれの眼には現象する--を表わす。
d) は使用価値としての商品の運動--すなわちそれが、その者にとっては 非使用価値である販売者の手から、その者にとって使用価値である購買者の手に移り(いわゆる「社会的質料変換」)、かくして流通界から消費界に脱落する運動--を表す。
f) G……Gの間の点線は、販売によって得られた貨幣が購買によって支出されるまでの期間を表わす。この期間中貨幣はいわゆるsuspndierte Munze(休職鋳貨)あるいはMunzreserve(鋳貨準備金)の状態にある。貨幣の流通速度はこの期間の長さによって決定される(逆比例する)。
g) 最初のW-Gの上方に再びG-Wと書くならば、その左方に再びW-Gと書かねばならなくなり、かくして過程は無限に連続することになる。これに反して、最初のW-GのGを、他商品の第1変態(W-G)の結果としてのGとして考えないならば、われわれは交換を流通過程の範囲外にとり出すことになる。これは、新たに生産された金と商品との交換の場合にあたる。それは新たに生産された商品としての(すなわち流通手段としてのではない)金と他商品との直接の交換取引であって、流通の1節ではないことになる。
h) 最後のW-Gの後にG-Wがつづかないときは、商品の価値はGの形態で凝固することになり、かくして商品は退蔵貨幣になる。
i) 本図ではW-Gは単一のG-Wに移行することに(すなわち商品生産者はかれの商品の販売の結果を全部一種の他商品の購買に支出することに)なっているが、実際には、1商品の第2変態は多数のG-Wに分裂し、多数の他商品の第1変態と交錯する。もしこの関係がうまく図形内にとり入れられたら、「流通界」と書いてある欄内の運動の全体はほぼ「商品流通」全貌を表すことになるであろう。〉(117頁)
◎第2パラグラフ(貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われる)
【2】〈(イ)貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示している。(ロ)商品はいつでも売り手の側に立ち、貨幣はいでも購買手段として買い手の側に立っている。(ハ)貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能する。(ニ)貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。(ホ)このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。(ヘ)商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。(ト)商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えないのである。(チ)商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。(リ)それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる(74)。(ヌ)その場所を商品の価値姿態または貨幣仮面が占める。(ル)流通の後半を、商品はもはやそれ自身の自然の皮をつけてではなく金の皮をつけて通り抜ける。(ヲ)それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくる。(ワ)そして、商品にとっては二つの反対の過程を含む同じ運動が、貨幣の固有の運動としては、つねに同じ過程を、貨幣とそのつど別な商品との場所変換を、含んでいるのである。(カ)それゆえ、商品流通の結果、すなわち別の商品による商品の取り替えは、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように見え、この貨幣が、それ自体としては運動しない商品を流通させ、商品を、それが非使用価値であるところの手から、それが使用価値であるところの手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くというように見えるのである。(ヨ)貨幣は、絶えず商品に代わって流通場所を占め、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行きながら、商品を絶えず流通部面から遠ざけて行く。(タ)それゆえ、貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみ現われるのである(75)。〉
(イ)(ロ)(ハ) 貨幣の流通は、同じ過程の不断の単調な繰り返しを示しています。商品はいつでも売り手の側にあり、貨幣はいでも購買手段として買い手の側にあります。貨幣は商品の価格を実現すること(すなわち価格で思い描かれている貨幣を現実の貨幣に変えること)によって、購買手段として機能します。
すでに言いましたように、貨幣の運動は商品の形態変換に規定されたものですが、貨幣を主体として見ますと、その運動は単調な繰り返しのように見えます。貨幣からみると、商品はいつも売り手の側にあり、貨幣はいつでも買い手の側にあります。貨幣は商品の価格を実現することによって、購買手段として機能します。
(ニ) 貨幣は、商品の価格を実現することによって、このように商品を売り手から買い手に移しますが、また同時に、自分は買い手の手から売り手の手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返します。
つまり貨幣は、売り手の商品の価格を実現して、その商品を売り手から買い手の手に移しますが、また再び、その同じことを繰り返して、今度はその売り手の手から、別の売り手の手へと移って、遠ざかっていきます。その過程の繰り返しです。
(ホ)(ヘ) このような貨幣運動の一面的な形態は商品の二面的な形態運動から生じているわけですが、このことはおおい隠されていて見えなくなっています。商品流通そのものの本性が、この本性とは反対の外観をもたらしているのです。
もちろん、こうした貨幣の一方的な運動は、商品の二面的な形態運動、つまり売りと買いという二つの形態変換によって生じているわけですが、そのことは貨幣の運動みる限りでは覆い隠されて見えなくなっています。これは以下に述べますように、商品流通そのもの本性から生じていることなのです。
(ト) 商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えますが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えません。
商品の第一の変態(売り)、すなわちW(リンネル)-G(貨幣)は、リンネルが貨幣に変態するのですから、それはリンネル自身の運動としても見ることができます。しかしその第二の変態(買い)、G(貨幣)-W(聖書)は、もはやリンネルの運動としては見ることができません。リンネルの姿はすでになく、今はその価値の姿態である貨幣の運動としてしか見えないからです。
(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) 商品は、その流通の前半で、貨幣と場所を取り替えます。それと同時に、商品の使用姿態が流通から抜け出て、消費にはいります。商品が占めていた場所に、商品の価値姿態すなわち貨幣仮面が入ります。商品は流通の後半を、もうそれ自身の自然の皮は脱ぎ捨てて、自分の金の皮をつけて通り抜けるのです。それとともに、運動の連続性はまったく貨幣の側にかかっることになります。
つまり商品は最初の変態で、貨幣と場所を取り替えると、その商品の使用価値は、流通から抜け出て、消費に入ります。商品が占めていた場所には、商品の価値姿態すなわち貨幣がつきます。つまり貨幣自身は、それがどういう商品の変態したのかをその姿では何も表していないのです。つまりここではリンネルの最初の変態の結果であることはまったく見えなくなっているのです。だから商品の第二の変態、つまり流通の後半は、ただ貨幣の運動としてしか見えないのです。こうしたことから運動の連続性はまったく貨幣の側にかかってくることになるのです。
(ワ) そして、商品にとっては二つの対立する過程を含む同じ運動が、貨幣自身の運動としては、つねに、貨幣とそのつど別な商品との位置変換という同じ過程を含んでいるのです。
そして貨幣の運動としては、商品自身の販売と購買という対立した運動が、ただ貨幣がその都度別の商品とその位置を変換したという同じ過程しか含んでいないのです。
(カ) ですから、商品が別の商品と取り替えられる、という商品流通の結果が、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段としての貨幣の機能によって媒介されるように思われるのです。また流通手段としての貨幣が、それ自体では運動しない商品を流通させて、商品を、それが非使用価値である人の手から、それが使用価値である人の手へと、つねに貨幣自身の進行とは反対の方向に移して行くとのだ、いうように見えるのです。
社会的物質代謝の大本である商品が別の商品と取り替えられるという商品流通の結果は、商品自身の形態変換によってではなく、流通手段という貨幣の新たな機能によって媒介されているようにみえるのです。つまり流通手段としての貨幣が、それ自体では運動しない商品を流通させて、それが非使用価値である人の手から、使用価値である人の手へと、移していくようにみえるのです。商品はただ、貨幣自身の進行とは反対の方向に移っているだけのようにみえます。
(ヨ)(タ) 貨幣は、たえず流通のなかの商品が占めていた場所はいり、それにつれて自分自身の出発点から遠ざかって行くことで、商品をたえず流通部面から遠ざけていきます。だからこそ、貨幣運動が商品流通の表現でしかないのに、その逆に商品流通が、ただ貨幣運動の結果として現われるのです。
貨幣は、たえず流通のなかで商品が占めていた場所に入り、そして自分自身の出発点から遠ざかっていくことによって、絶えず商品を流通部面から消費部面へと遠ざけています。 だからこそ、貨幣運動が商品流通の表現でしかないのに、逆に商品流通が、ただ貨幣運をとの結果として現れてくるのです。
ところでこのパラグラフの冒頭から、『資本論』では初めて「購買手段」という言葉が出てきます。購買手段というのはW-G-Wの商品の変態をただ貨幣の側からみて、G-Wとして把握したものといえます。だから購買手段というのは商品の変態の表現としての貨幣としてではなく、それ自身の独立したものとして貨幣を見ることを意味し、その意味では現象的な規定ということができます。久留間鮫造氏は次のように述べています。
〈……購買手段なる語は、直接には、商品の循環を形成する対立する二つの変態の過程--すなわち販売(W-G)および購買(G-W)--のうちの後者における貨幣の規定をあらわすにとどまる。すなわち流通手段をはじめから購買手段として把握することは、商品の変態の第二の過程における貨幣の規定をその前提たる第一の過程と無関係に、したがってまた、一般的に商品の変態そのものと無関係に、把握することを意味し、G-WのGをW-Gの結果として、すなわち商品そのものの脱皮した価値の姿として把握するかわりに、それ自身に独立した存在をもつものとして把握することを意味することになる。そしてその結果は、貨幣の運動を商品の変態運動の現象として把握するかわりに、商品の運動を貨幣の運動の結果として把握することになり、かくして、貨幣の通流の正しい認識の途はまったく見失われてしまうことになる。それゆえマルクスは、「貨幣の通流」に関する彼の考察を、流通手段の購買手段としての現象の批判から始めているのである。 「現実の流通は、直接には、偶然的にならびおこなわれる多数の購買および販売として現われる。購買においても、販売においても商品と貨幣とはつねに同一の関係において対立する。販売者の貨幣はつねに購買手段として現われ、かくして商品変態の対立的段階における貨幣の異なれる諸規定は認められなくなっている。」(国民文庫『経済学批判』、125頁)〔全集訳、第13巻、80ページ〕。〉(『マルクス経済学レキシコンの栞』№11 10-11頁)
◎注74
【注74】〈74 (イ)商品が何度も繰り返して売られる場合、といっても、それはここではまだわれわれにとって存在しない現象なのであるが、そのような場合にも、最後の決定的な売りによって商品は流通の部面から消費の部面に落ちて、そこで生活手段または生産手段として役だつのである。〉
(イ) 商品が(商人の手を経て)何度も繰り返して売られる場合でも--といっても、こうした現象はここでまだ私たちにとっては存在しないのですが--、そのような場合にも、商品は、最終的な販売での流通の部面から消費の部面に落ちて、そこで生活手段として、あるいは生産手段として、役だつのです。
これは〈商品はその流通の前半で貨幣と場所を取り替える。それと同時に、商品の使用姿態は流通から脱落して消費にはいる〉という本文につけられた注です。これは要するに商品が貨幣と交換されたからと言って、必ずしも消費に入るとは限らない場合もあるが、しかしそれはわれわれが想定している単純な流通過程でまだ問題にできないことなのだということです。これは商品流通に商人が介在してくると、生産者が卸売業者に販売し、卸売業者が小売り御者に販売し、小売業者が消費者に販売するという一連の過程をみれば、商品が売れたらすぐに消費に入るとは言えないケースもあるということです。しかしそうした場合でも、いずれにせよ最終的には商品は消費過程に(生産手段としてか生活手段として)入るのだということだと思います。
◎注75
【注75】〈75 「それ」(貨幣)「は、生産物によってそれに与えられる運動のほかには、どんな運動もしない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、885ページ。)〉
マルクスは多くの注のなかで、この〈ル・トローヌ『社会的利益について』〉から抜粋して、採用していますが、その多くは商品流通について的確な指摘を先験的に行っているものです。これもその一つだと思います。ここでは商品は貨幣によって流通させられているようにみえるにも拘らず、ル・トローヌはその外観に惑わされず、貨幣の運動は商品の運動によって与えられていると喝破しているわけです。
◎第3パラグラフ(商品の形態運動は、しかし感覚的にも貨幣の流通にも反映しなければならない)
【3】〈(イ)他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の独立化されたものであるからにほかならない。(ロ)だから、流通手段としての貨幣の運動は、実際は、ただ商品自身の形態運動でしかないのである。(ハ)したがってまた、この形態運動は感覚的にも貨幣の流通に反映しなければならない。(ニ)たとえば、リンネルはまず自分の商品形態を自分の貨幣形態に変える。(ホ)リンネルの第一の変態W-Gの最後の極、貨幣形態は、次にはリンネルの最後の変態G-Wの、リンネルの聖書への再転化の、最初の極になる。(ヘ)しかし、この二つの形態変換のどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらの相互の場所変換によって、行なわれる。(ト)同じ貨幣片が、商品の離脱した姿として売り手の手にはいり、そして商品の絶対的に譲渡可能な姿としてこの手を去る。(チ)それは二度場所を替える。(リ)リンネルの第一の変態はこの貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれを再び持ち出す。(ヌ)だから、同じ商品の二つの反対の形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の場所変換に反映するのである。〉
(イ)(ロ)(ハ) 他方、貨幣に流通手段の機能が属するのは、貨幣が諸商品の価値の自立化したものであるからにほかなりません。ですから、流通手段としての貨幣の運動は、実際には、商品自身の形態運動にほかならないのです。だからまた、この形態運動は、感覚的にも、貨幣の流通に反映しなければなりません。
確かに現象的には、商品は流通手段としての貨幣に媒介されて流通しているようにみえていますが、しかしそもそも貨幣が流通手段という機能を持ったのは、貨幣が諸商品の価値の独立した存在だからです。貨幣を貨幣たらしめたのは、諸商品が自ら価値を共同してそれで表現しているからでした。だから流通手段としての貨幣の運動にも、実際には、そういう商品の形態運動が感覚的にも反映していなければならないのです。
(ニ)(ホ)(ヘ) そこで、たとえばリンネルは、まず自分の商品形態を自分の貨幣形態に変えます。リンネルの第一の変態W-Gの最後の極である貨幣形態は、次には、リンネルの最後の変態G-Wの、リンネルの聖書への再転化の最初の極になります。しかし、この二つの形態変換のどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらの相互の位置変換によって、行なわれるのです。
そして実際、貨幣の運動形態を丁寧に見るならば、そうした反映を見ることができます。例えば、リンネルは最初の商品の変態において、自分の商品形態を貨幣形態に変えました。リンネルの第一の変態W-Gの最後の極である貨幣形態は、次には、リンネルの最後の変態G-Wの、すなわちリンネルの聖書への再転化の最初の極になります。この二つの形態変換はどちらも、商品と貨幣との交換によって、それらが互いに位置を変えることによって行われます。
(ト)(チ)(リ)(ヌ) 貨幣片が商品の脱皮した姿として売り手の手にはいりますが、その同じ貨幣片が、商品の絶対的に譲渡できる姿としてこの手を去ります。この貨幣片は、二度、位置を替えます。リンネルの第一の変態は、貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれをまた持ち出します。ですから、同じ商品の二つの対立する形態変換は、反対の方向への貨幣の二度の位置変換のなかに反映しているのです。
つまりこの過程を貨幣に注目して見ますと、最初のW-GのGというのは、商品リンネルの脱皮した姿として売り手の手に入ります。その同じ貨幣片が、今度はG-Wでは、商品の絶対的に譲渡できる姿として存在し、その売り手の手を去ります。貨幣片は、二度、その位置を変えます。リンネルの第一の変態は、貨幣片を織職のポケットに入れ、第二の変態はそれをまた持ち出します。だから、同じ商品の二つの対立する形態変換(売りと買い)は、反対の方向への貨幣の二度の位置の変換をもたらすという形で反映しているのです。
さて、ところで新日本新書版には(ニ)~(ヌ)の部分は〈フランス語版によってエンゲルスがマルクスの文を書き換えた〉(197頁)とあります。ということは、マルクスのもともとの文章とはどんなものだったのでしょうか。エンゲルスが利用したというフランス語版とともに、第二版(江夏美千穂訳)から当該部分を紹介しておきましょう。
●第二版から
〈われわれがある商品の総変態を同じ貨幣片の位置変換のたび重なる反復において観察すれば、われわれが無数の変態のお互い同士でのからみあいを観察すれば、この商品の二度にわたる形態変換はあらためて、同じ貨幣片の二度にわたる位置変換のうちに反映している。同じ貨幣片が、この商品の脱ぎ捨てられた姿態として売り手の手にはいり、この商品の絶対に譲渡可能な姿態として彼の手を去る。貨幣は二度にわたり、まずある商品にたいし次には別の商品にたいし、購買手段として同じように作用する。ところが、同じ商品にたいする両方の過程の内的な関連は、同じ貨幣片に極印されるところの・二度の対立する運動となって、現れているのである。リンネルの販売のさいに小麦耕作者のポケットからリンネル織り職のポケットにはいるところの同じ2ポンド・スターリングが、聖書の購買のさいにはリンネル織り職のポケットから出てゆく。それは二度の位置変換であって、リンネルまたはそれの代表者を中心として観察すると、貨幣の受け取りのばあいには陽、貨幣の支出の場合には陰と、対立する方向にある。〉 (114頁)
●フランス語版から
〈事実そういうことも起こるのだ。たとえば、リンネルはまずその商品形態を貨幣形態に変える。リンネルの第一変態(M-A) の最後の項である貨幣形態は、リンネルの最終変態の、日用商品である聖書への再変換(A-M) の、最初の項である。だが、これらの形態変換のどれも、商品と貨幣との交換によって、すなわち、それら相互の位置変換によって果たされる。同じ金貨が第一幕ではリンネルと位置を変え、第二幕では聖書と位置を変える。金貨は二度位置を変える。リンネルの第一変態は金貨を織工のポケットに入りこませ、第二変態は金貨を彼のポケットから出させる。したがって、同じ商品が受ける二つの逆の形態変換は、反対方向への同じ貨幣片の二重の位置変換のうちに反映されるのである。〉 (江夏・上杉訳96頁)
これを見ると、第二版はほぼ初版のままだったことが分かります(初版にあった下線はなくなっています。初版については付属資料を参照)。なおついでに指摘しておくと、第二版では初版と同様、次の第3パラグラフは改行されずに、第2パラグラフに続けて書かれています。
これらをみると、結局、この第3パラグラフでマルクスが言いたいことは、商品の変態運動が貨幣の運動にも感覚的に反映しているということは、要するに貨幣は商品所持者にとって、最初は収入として手に入り(それをマルクスは〈陽〉と言ってます)、そのあとは支出として出て行く(それをマルクスは〈陰〉と言います)という、ありふれた事実のことを指しているようです。この感覚的に捉えられる貨幣の運動こそ、商品の変態がそれに反映していることなのだ、ということだと思います。
◎第4パラグラフ(単なる売りか単なる買いかのどちらかが行なわれるとすれば、同じ貨幣はやはり一度だけ場所を替える)
【4】〈(イ)これに反して、ただ一面的な商品変態、単なる売りか単なる買いかのどちらかが行なわれるとすれば、同じ貨幣はやはり一度だけ場所を替える。(ロ)この貨幣の第二の場所変換は、つねに商品の第二の変態、貨幣からの商品の再転化を表わしている。(ハ)同じ貨幣片の場所変換のひんぱんな繰り返しには、ただ一つの商品の変態列が反映しているだけではなく、商品世界一般の無数の変態のからみ合いが反映しているのである。(ニ)なお、すべてこれらのことは、ただ単純な商品流通のここで考察された形態にあてはまるだけだということは、まったく自明のことである。〉
(イ)(ロ) これに対して、販売だけだと考えるか、それとも購買だけだと考えるか、そのどちらでもかまいませんが、ただ一面的な商品変態だけが行われるときには、同じ貨幣が場所を替えるのは、やはりただ一度だけです。この貨幣の第二の位置変換は、つねに商品の貨幣からの再転化という、商品の第二の変態を表わしています。
一つの商品の変態W-G-Wが、貨幣の運動にどのように反映しているかをみましたが、ただ単に販売だけとか、購買だけと言う場合にも、やはりこうした一面的な商品の変態の場合も、貨幣の運動に反映されるのです。この場合は貨幣はやはりただ一度だけ貨幣は場所を替えるだけです。例えば貨幣の第二の場所変換、すなわち買いの場合は、常に貨幣から商品への再転化だけを表しています。
(ハ) 同じ貨幣片の位置変換のひんぱんな繰り返しには、ただ一つの商品の変態列だけが反映しているのではなく、商品世界一般の無数の変態のからみ合いが反映しているのです。
だから買いにせよ、売りにせよ、同じ貨幣片が頻繁にそれを繰り返して変換するということは、ただ一つの商品の形態変態ではなくて、商品世界全体の無数の変態の絡まり合いをそれが反映していることを示しています。
(ニ) なお、まったく自明のことですが、こうしたことはすべて、ただ単純な商品流通というここで考察している形態だけについて言えることです。
なおこのことは自明のことですが、こうしたことが言えるのは、ただ単純な商品流通という、今われわれが考察している形態だけに言えることなのです。 なぜ、こうした断り書きがあるのかについて、久留間氏は次のように述べています。
〈簡単な商品の流通によって規定されるかぎりでの貨幣の運動の特徴は、たえず出発点から遠ざかることだ、ということでした。しかし、貨幣はいつでもこのような運動をするわけではありません。基本的な運動の主体が単純な商品から資本になると、その姿態変換は、それ自身のうちに自己更新の動機を含むものになり、循環するものになり、したがって、それによって規定される貨幣の運動もまた、たえず出発点から遠ざかるかわりに出発点に復帰する、いわゆる還流運動をすることになります。〉(レキシコンの栞№11 14-15頁)
それに関連すると思いますが、『経済学批判』には次のような一文もあります。
〈貨幣流通のより高度の媒介形態、たとえば銀行券流通では、貨幣の発行の諸条件がその還流の諸条件を内包していることが見られるであろう。これに反して、単純な貨幣流通にとっては、同じ買い手がふたた再び売り手になることは偶然である。現実の循環運動が恒常的に単純な貨幣流通に現われる場合には、それはより深い生産過程のたんなる反映である。たとえば工場主は金曜日に彼の銀行家から貨幣を受け取り、これを土曜日に彼の労働者たちに支払い、労働者たちはその大部分をすぐに小売商人その他に支払い、小売商人たちは月曜日にそれを銀行家にもどすのである。〉 (全集第13巻83頁)
なおこの部分でも、(ハ)の部分について、新日本新書版には〈〔「同じ貨幣片の」以下はフランス語版によってエンゲルスが挿入した文〕〉とあります。すでに指摘しましたが、初版や第二版では、第3パラグラフと第4パラグラフは一つのパラグラフとして続いたものになっています。恐らくエンゲルスがフランス語版を参考に二つのパラグラフに分けたのだと思います。なおフランス語版では(ニ)は注になっています(付属資料参照)。
(続く)