『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)

2024-01-19 02:00:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)


◎第24パラグラフ(次に資本は1844年法が児童の午後の労働については何の規定もしていないことに目をつけた)

【24】〈(イ)じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。(ロ)それでもまだ足りなかった! (ハ)資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということだった。(ニ)そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけでばなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのである!
(ホ)「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕〉(全集第23a巻頁)

  (イ) じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によりますと、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていたのです。

  実際、労働者や監督官の抗議にもかかわらず、少年や婦人労働者と児童の労働とを組み合わせて利用するやり方は、1850年7月26日に下院に提出された統計によりますと、同年7月15日には275の工場で3742人の児童がこうした「慣習」に従わされていたというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) それでもまだ足りなかったのです! 資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということでした。そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけではなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのです!

  さらに工場主たちの鋭い目は1844年法の次のような欠陥を見つけました。すなわち同法では〈児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない〉(第11パラグラフ)という規定がありましたが、しかし午後1時以後の労働については何の規定もないことに彼らは目をつけたのです。だから資本家たちは8歳の児童を午後2時から晩の8時半まで、食事のための半時間の休憩もまったく与えることなくこき使ったのです。

  (ホ) 「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕

  つまりこれも法律にもとづいてそのとおりにやっているのだ、というのが彼らの主張なのです。

  注解90は次のようなものです。

  〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)

  ここでもイギリス語版のその部分を紹介しておきましょう。

  (41) 「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」(訳者注: シェークスピアのベニスの商人。裁判官ポーシャが、アントーニオへ胸をはだけよ、と命じたのに応じて、シャイロックが、文字通り、心臓直近の、と書いてあります、と続けるところ。「秤はあるか?」「用意しております。」)〉(インターネットから)


◎原注151

【原注151】〈151 『工場監督官報告書。1850年10月31日』、5、6ぺージ。〉(全集第23a巻378頁)

  これは〈じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。〉という本文に付けられた原注です。これらの紹介されている統計数値の典拠を示すものです。


◎原注152

【原注152】〈152 (イ)資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない。(ロ)アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っている。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")(ハ)同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われた。(ニ)彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化した。(ホ)だから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でった。(ヘ)それだからこそ、シャイロック的な十銅表の法律! (ト)貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておこう。〉(全集第23a巻378頁)

   (イ)(ロ) 資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりません。アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っています。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")

  これはパラグラフの最後に引用されているシェイクスピアの引用文につけられた原注です。

  シャイロックは、債務は債務者がもし弁済できないなら、自分の身体で弁済せよと弁済額に応じた身体の肉を要求したのですが、このあたりは『経済学批判』の貨幣の支払手段としての機能を説明しているところでも、マルクスは論じています。

  〈買い手の側では、貨幣は交換価値としては実際に譲渡されないのに、商品の使用価値で実際に実現される。まえには価値章標が貨幣を象徴的に代理したのに、ここでは買い手自身が貨幣を象徴的に代理する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とをよびおこしたように、いまは買い手の人格的象徴性が商品所有者間の法律的強制力ある私的契約をよびおこすのである。〉(全集第13巻118頁)

  つまり買い手は自分自身が貨幣を代理するわけですから、もし彼が貨幣の支払ができないなら、自身の身体で払うことになるわけです。だから次のようにも言われています。

  〈売り手と買い手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえに蓄蔵貨幣の保管者として三枚目の役を演じたのに、こんどは彼は、自分ではなくその隣人を一定の貨幣額の定在と考え、自分ではなくこの隣人を交換価値の殉教者にするので、恐ろしいものとなる。彼は信心家(グロイビゲ)から債権者(グロイビガー)となり、宗教から法学に転落する。
  「証文どおりに願います!」〔23〕
 〔"I stay here on my bond!"〕〉(同119頁)
 〈注解(23) 「証文どおりにねがいましょう!」(I stay here on my bond!) --シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』、第四幕第一場、シャイロックのことば。〉(同660頁)

  ここでは〈資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない〉と述べています。高利資本も現代の銀行資本も破産した債務者に対しては、その身体で支払うことを要求するわけです。
  南北戦争がおきる少し前に奴隷所有者たちが押しつけたニューメキシコ准州の法律書では、労働者は、資本家が労働力を買った限りは、それは「彼の(資本家の)貨幣である」と書いているということです。つまり資本家が買った労働者は資本家の貨幣だということは、資本家はそこに自己増殖する価値額しか見ていないということでしょう。それが資本の本性だということです。

  新日本新書版には、〈労働者は、資本家がその労働力を買った以上は、「その人の(資本家の)貨幣である」〉という部分には次のような訳者注が付いています。

  〈この奴隷所有者たちの観念は、旧約聖書、出エジプト記、21・20-21(人が杖で男女の奴隷を打ってそれが死ぬなら罰せられるが、「しかし、彼がもし1日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の金子だからである」)を手本にした〉(498頁)

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われていました。彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化したのだから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でした。だからこそ、シャイロック的な十銅表の法律になるのです! 貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておきましょう。

  同じような見解は古代ローマにおいても見られたということです。貴族が平民に貸した貨幣は、平民がそれで生活手段を買ったのだから、それは彼らの血と肉になったのだから、もし平民が債務を返済しないなら、彼らの身体で返すべきということで、平民の「血と肉」は「彼ら(貴族)の貨幣」だと述べたということです。そこからシャイロック的な十銅貨表の法律が生まれたのだというのです。〈シャイロック的な十銅表の法律〉には全集版には次のような注釈91が付いています。

  〈(91) 十銅表の法律--ローマ奴隷制国家の立法的記念物である「十二表」の法律の元の異本。この法律は私有財産を保護し、支払不能の債務者にたいする自由剥奪や奴隷化や五体切断を規定した。それはローマ私法の出発点となった。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈日常生活上最も重要な条文を銅板に刻んだ最古のローマ法〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈紀元前451-450年に作成された銅板に記されたローマの法典のもとでの異文で、訴訟手続きを定めた第三表の文言は、債務不履行の場合には債務者の身体の切断の罰とすると解釈されている〉(498頁)

  ランゲの仮説とダウマーの仮説も同じようなものを描いているようには思えますが、しかしそれらの真偽を問うことはここではやめておきましょう。

  〈貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕〉についていいる注釈92というのは次のようなものです。

  〈(92) フランスの歴史家ランゲは、その著『民法理論。または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章のなかで、この仮説を述べている。〉(全集第23a巻17頁)

  初版には何の訳者注もありませんがフランス語版にはランゲのあとに〈フランスの歴史家〉とだけ訳者注が挿入されています。 新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈フランスの歴史家ランゲは、『民法の理論、または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章でこの仮説を述べている。マルクスは、すでに1845年にフランスのフリエ主義者の著書によってランゲの本書の抜粋を行っている〉(498頁)

  マルクスは『剰余価値に関する緒学説』なかでランゲについて論じています(草稿集⑤528-537頁)が、今回の仮説に言及してているところはありませんでした。

  また〈キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕〉の注解93は次のようなものです。

  〈(93) ダウマーは、その著『キリスト教古代の秘密』のなかで、初期のキリスト信者は聖餐に人肉を使ったという仮説を主張した。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈キリスト教古代の信者は聖餐に人肉を使うという、ダウマーの仮説〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ダウマーはその著『キリスト教の秘密』、全2巻、ハンブルク、1847年で、初期キリスト教徒は、主の最後の晩餐を祝うとき人肉を用いたとした。マルクスとエンゲルスは、すでに1850年に反動的なダウマーの立場をきびしく批判している(『新ライン新聞……』の書評」。邦訳『全集』、第7巻、204-209ページ参照〉(499頁)

  この最後に参照を指示している第7巻の『新ライン新聞、政治経済評論』1850年2月、第2号の書評(マルクス=エンゲルス)の「1、G・Fr・ダウマー『新世紀の宗教。箴言の組み合わせによる基礎づけの試み』全2巻、ハンブルク、1850年」という論文を一通り読みましたが、今回の原注に関連したものはありませんでした。ただ〈ダウマー氏は、ニュルンベルク式の「文化段階」をもたらし、ダウマー流のモロク神捕獲者(131)の出現を可能にするためだけにすら、「上流階級にたいする下層階級の」闘争が必要であったということさえ知らないのである。〉(全集第7巻200頁)という一文に付けられた注解131には、次のようなことが書かれています。

  〈注解(131)これは、ダウマーの著書『……古代ヘブライ人の拝火教およびモロク崇拝』と『キリスト教的古代の秘密』二巻とをあてこすったものである。これらの著書でダウマーは、古代のユダヤ人や、初期のキリスト教徒が人間の犠牲祭をおこなっていたということを、証明しようとしていた。〉(第7巻603頁)


◎第25パラグラフ(少年と婦人労働者に関する1844年法の規制には資本は文面に拘らず公然と反逆した)

【25】〈(イ)とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものだった。(ロ)ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということである。(ハ)工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始した。(ニ)1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、
  「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。
(ホ)こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。(ヘ)それは、悪い助言に惑わされている労働者たち自身の利益のために、
  「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。(ト)「それは、10時間法のもとで大ブリテン/の産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」(チ)「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉(全集第23a巻378-379頁)

  (イ) とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものでした。

  1844年法が児童労働を規制するかぎりでは、その文面にシャイロック的にしがみついて、その欠陥を突く形で攻撃したのですが、しかしそれは一つの踏み台みたいなもので、彼らは同じ法律が少年と婦人労働者を規制する限りでは、もはや文面どおりにとはいかず、文面に公然と反逆する形での攻撃を行ったのです。

  (ロ) ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということです。

  1844年法の細々とした規制の主な目的は、偽リレー制度を廃止するためでした。第11パラグラフを振り返ってみましょう。

  〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。労働日の開始は公設の時計、たとえばもよりの鉄道時計で示されなければならず、工場の鐘はこれに合わされなければならない。工場主は、労働日の開始と終了と中休みとを示す大きく印刷した告示を工場内に掲げておかなければならない。午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉

  (ハ)(ニ) しかし工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始しました。1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。

  こうした1844年法の細則に対して、工場主たちは労働時間が12時間に制限されているあいだはまだ比較的無害だったが、10時間法が導入されてからは耐えられないものになったのだというのです。

  これは第9章に出てくるのですが、次のような工場主たちの意見が紹介されています。

  〈「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」〉(全集第23a巻409頁)

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) そういうことから、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知したのでした。それは、悪い助言(資本にとってだが)に惑わされている労働者たち自身の利益のためにであるとか、「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだとかという理由を挙げて。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である。」「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?」というわけです。

  そういうことから資本家たちは、1844年法の法律の文面にはこだわらないで、元のリレー制度を復活するということを、公然と宣言し、監督官に通知したのでした。それは監督官などの悪い知恵で惑わされている労働者のためでもあり彼らの利益のためだとか、労働者にもっと高い賃金が支払えるようにするためだとか、10時間法が導入された今日、大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一可能な手段だとかと主張し、リレー制度のもとでは監督官が違反を発見することは多少は困難かも知れないが、それがどうしたというのだ、監督官の多少の不便と、この国の大きな工場の利益とどっちが大事かを考え見れば自ずから分かるだろうというのです。

  偽リレー制度の復活の動きについて『歴史』から紹介しておきましょう。

  〈このようにして、その当時、10時間以上操業したいと考えた雇主は、婦人と年少者の交替作業とリレー制度を利用して、かれらを助手として大人の男子労働者のもとに配置することによって、そうすることが可能であった。このようなやり方は決して新しいものではなかった。そのやり方は1833年法のもとで広範囲に行なわれていた。なぜならば、同法は児童の労働時間を1日9時間、年少者の労働時間を1日12時間に制限していたが、その就業時間を15時間の制限内であれぽどの時間にあててもよいと認めていたからである。監督官は、そのような制度のもとでは残業を摘発することが不可能である、と陳述した。そうして、1844年に、1833年法の多くの欠陥を修正するための一法案が議会に提出されたとき、残業を防止するために一層広範囲にわたる保護を講じなければならないということを、これほど政府に強く印象づけた法案はなかった。その目的は第二六項によって達成されるであろうと考えられた。すなわち、同項は、すべての保護該当者の労働時間を、「児童または年少者の1人がそのような工場において午前中最初に作業を開始したときから、計算しなければならない」と規定していた。同項は1847年までその目的を果たしていたが、「10時間労働日法」が実施されたとき、雇主たちは、1844年法が「リレー制度による作業を完全に禁止するだけの厳格な規定をもっていない」ことを知った。そうして、はやくも1847年には、不況はどん底であったけれども、若干の工場においてリレー制度がふたたび実施されたのである。〉(102頁)


◎原注153

【原注153】〈153 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、133ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈 「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」〉という引用文に付けた原注です。典拠を示すものです。


◎原注154

【原注154】〈154 なかんずく慈善家アッシュワースが、レナード・ホーナーにあてたクエーカー臭いいやらしい手紙のなかでそれをやっている。(『工場監督官報告書。1849年4月30日』、4ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。〉という本文に付けられた原注です。
  アッシュワースというのはイギリスの巨大綿業者の1人のようですが、シーニアに工場の現状を教え長時間労働の必要を認識させた1人でもあるようです。『61-63草稿』には次のようなものがありました。

  〈労働時間の強力的延長の結果生じる、労働能力の早期消耗、換言すれば早老〔について〕--1833年に私は、ランカシャーの非常に有力な工場主であるアシュワース氏から一通の手紙を受け取ったが、この手紙には次のような風変わりな一節が含まれている、--『次にはもちろん、4O歳に達すると、あるいはその後まもなく、死亡するとか労働に適さなくなるとか言われている老人たちについて、お尋ねになるでしょう』。4O歳の『老人たち』という表現に注目されたい!」(『工場監督官報告書』、1843年、12ページ)〉(草稿集④365頁)


◎原注155

【原注155】〈155 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、138ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは公然とリレー制度を復活させることを公言した資本家たちの理屈として〈「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」〉という引用文に付けられた原注です。典拠を示すものです。


◎原注156

【原注156】〈156 同前、140ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉という引用文に付けられた原注でやはり典拠を示すだけのものです。


◎第26パラグラフ(工場監督官たちは告発を続けたが、内務大臣は工場主たちの圧力に負け、告発抑制を指示する回状を出す)

【26】〈(イ)もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたたなかった。(ロ)工場監督官たちは告発の手続をとった。(ハ)しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
(ニ)「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
(ホ)そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。(ヘ)これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉(全集第23a巻379頁)

  (イ)(ロ) もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたちませんでした。工場監督官たちは告発の手続をとったのです。

  上記のように1844年法に公然と反逆し、少年と婦人労働者にリレー制度を復活させようとさまざまな屁理屈を並べた資本達に対して、工場監督官たちはまったくひるむことなく告発を行ったのです。

  (ハ)(ニ) しかし、まもなく工場主たちの陳情の嵐が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそいだので、彼はとうとう1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示しました。「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」と。

  しかし工場主たちの陳情の嵐が内務大臣に降り注いだので、大臣は1848年8月5日の回状で明白にリレー制度が乱用されているのでない限り、法律の文面に違反するという理由では告発しないように、指示したのです。

   (ホ) そこで、スコットランドの工場監督官であるJ・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度(リレー制度)を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになったのです。

  そこでスコットランドの監督官ステュアートは内務大臣の指示にしたがって、自分の管轄内では15時間の工場労働日の範囲内であればリレー制度を容認したので、スコットランドでは元通りにリレー制度が復活し、盛んになったのでした。

  『歴史』は次のように書いています。

  〈スコットランド地区担当の監督官であるジェイムズ・スチュアート(James Stuart) は、他の監督官と協力して法律を厳格に実施するように努力をすることを拒否したただ1人の人物であった。かれはリレー制度が違法であることを否定しなかったが、同僚の監督官たちは法律の文言にこだわりすぎており、かれらの活動は「議会が予想も/意図もしなかったほど過酷である」という意見を表明した。〉(104-105頁)

  (ヘ) しかしこれに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかったのです。

  しかしそれに対してイングランドの監督官たちは、大臣に法律を停止させる独裁権はないと言明して、1844年法に対する違反を告発し続けたのです。

  ここらあたりの状況について『歴史』は次のように述べています。

  〈雇主から多数の請願書が内務大臣に殺到したので、1848年8月5日付の回状のなかで、内務大臣は、監督官に対し、「実際に年少者が法律によって認められているよりも長時間働かされているという確証がない場合、同法の条項違反を理由として、すなわち、年少者をリレー制度によって働かせていることを理由として、工場主を告発してはならない」と指示した。これに対して、イングランドの監督官は、一方的に法律の実施をやめさせる権限を内務大臣はもっていないと主張し、いままでと同じように、リレー制度を採用している製造業主を告発した。〉(頁104)

  このように同じ工場監督官でも対応が異なったのですが、当時の工場監督官について詳しく論じている論文(「イギリス工場法思想の源流」『三田学会雑誌』73巻4号(1980年5月))から、少し紹介しておきましょう。それによれば4人の工場監督官の管轄区域は以下の図ようだったようです。


◎第27パラグラフ(監督官がいくら告発しても、裁判官の判事を工場主が兼ねていては、当然無罪が宣告されてしまう)

【27】〈(イ)しかし、いくら法廷に呼び出しても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕(157)が無罪を宣告してし/まえば、なんになろうか?  (ロ)これらの法廷では、工場主諸氏が自分たち自身を裁判したのである。(ハ)一例をあげよう。(ニ)カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示した。(ホ)拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまった。(ヘ)数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、フライデーではなかったが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出された。(ト)4人の判事が列席し、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだった。(チ)エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告し、そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言した。(リ)彼自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用した(158)。(ヌ)もちろん、この法廷の構成がすでに一つの公然の法律違反だった(159)。(ル)監督官ハウエルは次のように叫んでいる。
(ヲ)「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?(160)」〉(全集第23a巻379-380頁)

  (イ)(ロ) しかし、いくら法廷に呼び出しましても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕が無罪を宣告してしまいますと、なんにもなりません。というのは、これらの法廷では、工場主諸氏自身が自分たちを裁判したのですから。

  スコットランド以外の工場監督官たちは告発をし続けたのですが、しかし工場主諸氏自身が往々にして治安判事を兼ねていたので、彼らは自分たちを裁判したのですから、当然、無罪を宣告するわけで、告発はなんにもなりませんでした。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ) その一例をあげますと、カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示しました。当然、拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまったのです。しかし数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、忠実な僕のフライデーではありませんでしたが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出されたのです。4人の判事が列席しましたが、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだったのです。当然、エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告しました。そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言したのです。そして彼は自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用したという次第です。

  その一例を挙げますと、紡績業者のエスクリッジという人物が、自分の工場でリレー制度を導入する計画を地区の監督官に提示し、当然拒否されたのですが、その時にはそのまま引き下がったのです。しかし、その後、エスクリッジの親類であったロビンソンが同じリレー制度を採用したかどで裁判にかけられたのですが、そのときに裁判官は4人のうち3人が紡績業者で、その首席は例のエスクリッジだったのです。だから当然、彼は無罪判決を出しました。そして彼はロビンソンに取って正しいことはエスクリッジにとっても正しいとして、自分の工場でリレー制度を採用したのです。裁判官を工場主諸氏が兼ねているかぎり監督官たちの告発は無意味になったのです。

  ここで〈フライデーではなかったが〉という一文がチョロと入っていますが、これは工場主の名前が〈ロビンソン〉であったので、それにあてこすってしゃれで述べているわけです。〈フライデー〉の部分に新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の主人公ロビンソンが孤島生活をともにした彼の従僕で、金曜日(フライデイ)にみつけたのでこう呼ばれ、一般に「忠実な召使い」をフライデイと言う。ここは名前にかけた言葉のしゃれ〉(502頁)

  (ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、このような法廷の構成そのものがすでに一つの公然の法律違反だったのです。監督官ハウエルは次のように叫んでいます。「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?」と。

  このように工場主自身が判事を兼ねているために、彼らは自分たち自身を裁判するという茶番を演じているのです。だからこうした裁判官の構成そのものが違法なのです。監督官のハウエル(ウェールズを管轄)は、こうした茶番を無くすためには、法律そのものを変えるか、あるいは裁判所の構成を変えるか、どちらかにすべきだ。有給の判事が求められる! と主張したのです。当時の判事は名誉職で地区の有力者がなり無給だったからです。

  『歴史』から引用しておきます。

  〈イングランドの東部と南部において、一般に、二人の監督官は判事によって支持されていたが、マンチェスターの重点巡回地区において、レナード・ホーナーは法律を厳格に実施しようとしたために、強い反対にあった。ホーナーは困難な立場に立たされた。なぜならば、リレー制度によって作業をした使用者をかれが告訴したため、使用者がかれを激しく非難したからであった。そのうえ、治安判事がホーナーを支持しないという事実から、かれは自分の担当する全地区で法律を実施することが不可能であるということを知った。往々にして雇主自身が治安判事を兼ねていたから、かれらは自分たちの判決が正当かどうかを確める労さえとらず、簡単に監督官の訴えを却下した。ある訴訟のなかで、ホーナーはつぎのように報告している。「告訴したが、三度とも却下された結果……グリーン氏(Greene) が担当する治安判事管轄下にあるすべての工場では、わたくしがそれらを取り締まる権限をもっていないので、雇主は年少者と婦人をリレー制度によって働かせることができるであろう。」他方、ランカシァにリレー制度がひろまったとき、ホーナーは、法定労働時間を守っている使用者から、リレー制度を黙認しているといって非難された。かれらは、リレー制度によって長時間操業している他の雇主とは競争することができないと訴えた。〉(104頁)


  ((3)に続く。)

 

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