『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(1)

2023-07-14 14:23:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(1)


◎大谷氏の最終講義(下)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №4)


  今回は大谷氏の最終講義が収められている「序章A マルクスの利子生み資本論」の後半(「3 マルクス利子生み資本論の構成と内容」)を取り上げます。
  ここでは、最初に(№33)紹介しました「第5章の構成」の一覧表にもとづいて、第5章全体の大まかな内容が紹介されています。
  すでに紹介しましたように、「第5章 利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本。」の草稿はマルクス自身によって1)~6)の項目に分けられています(一部番号の打ち間違いがあります)。それぞれの項目にはマルクス自身による表題があるものもあればないものもあります。先の一覧表のうち〔  〕内に書かれている表題は大谷氏によるものですが、〔  〕のないものはマルクス自身によるものです。つまりマルクス自身が表題を書いているのは〈2) 利潤の分割。利子率。利子の自然的な率〉、〈4) 利子生み資本の形態での剰余価値および資本関係一般の外面化〉、〈5) 信用。架空資本〉、〈6) 前ブルジョア的諸関係〉です。だから1)3)は項目だけあって、表題はないわけです。
  大谷氏はこの第5章の全体をその内容から考えて、大きく〈A、利子生み資本の理論的展開〉と〈B、利子生み資本についての歴史的考察〉の二つに分けられると考えています。そして〈利子生み資本の理論的展開〉は、〈Ⅰ.利子生み資本の概念的把握〉と〈II.信用制度下の利子生み資本の考察〉に分けられると考えています。そして〈〉には、マルクス自身の項目として1)~4)が入り、〈II〉には5)が入ると考えています。そして〈〉には6)が該当すると考えているわけです。
  〈Ⅰ.利子生み資本の概念的把握〉に入る1)~4)は草稿そのものの完成度が高く、エンゲルスも草稿をほぼそのまま利用して第21章~第24章を編集しています。
  しかし〈II.信用制度下の利子生み資本の考察〉に該当する〈5)  信用。架空資本〉は、完成度が低く、エンゲルスが編集でもっとも手こずった部分です。エンゲルスはそれを第25章~第35章の11の章に分けていますが、マルクス自身はⅠ)、II)、III)の三つの項目を付けているだけです。Ⅰ)はエンゲルス版の第28章にほぼ該当し、II)は第29章、III)は第30~32章にほぼ該当します。
  大谷氏は内容からみて〈II〉全体を、〈A 信用制度〉、〈B 信用制度下の利子生み資本(monied capital)〉、〈C 地金と為替相場。貨幣システムによる信用システムの被制約性〉の三つの部分に分けられると考えています。エンゲルス版の章を当てはめると〈A〉には第25章~第27章が該当し、〈B〉には第28章~第34章が該当することになります。そして〈C〉には第35章が該当します。ただし大谷氏は第26章と第33章、第34章は、マルクスが本文として書いたものではなくて、ただ抜粋集として書いたものを、エンゲルスが一つの章として本文として編集してしまっているものだと考えています。
  以上が第5章の全体の構成と内容です。大谷氏はそれぞれについて簡潔な説明を与えていますが、それを繰り返したり、要約することは不要でしょう。ここではやや疑問に思ったところと、重要な視点の指摘と思えた部分を紹介しておきましょう。まず後者からです。
  大谷氏は〈(2)信用制度下の利子生み資本(monied capital)の分析〉という小項目のなかで、次のように述べています。

  〈monied capita1を必然的に生み出して,それを自分の運動の媒介形態にするのは,生産的資本,最も根底的には,産業資本なのですから,monied capitalの分析とは,具体的には,この資本の運動が,この資本を生み出した産業資本の運動から離れてどのように自立化し,逆に生産的資本の運動にどのように反作用するのか,そしてこのような自立化にもかかわらず,生産的資本の運動によってどのように規定され,制約されているのか,ということを明らかにすることです。産業資本の運動というのは,資本の再生産過程の進行ですし,この進行の具体的な形態は産業循環,景気循環にほかなりませんから,この分析は,monied capita1の運動を,再生産過程からこの資本が自立化しながら再生産過程によって最終的に制約される過程としてとらえることですし,それはまた同時に,産業循環の局面転換のなかでの,monied capitalの運動と生産的資本の運動との内的関連を明らかにすることでもあります。〉(66頁)

  これは重要な指摘だと考えます。
  次にやや疑問に思った点です。〈(b)monied capitalの諸形態。架空資本としてのmonied capital〉という小項目のなかで、次のように述べています。

  〈そして,銀行資本がとっている形態のなかには,利子生み証券などのいわゆる擬制資本が含まれているだけでなく,じつは,銀行の準備金にいたるまで,そのすべての形態が本質的に架空なものであること,架空資本であることが明らかにされます。〉(67頁)

  大谷氏は「架空資本」と「擬制資本」の二つのタームを使っているのですが、それらがどのように異なり、どのように関連しているのかについて明確には述べていません。どうしてそれらを使い分ける必要があるのかについても何も述べていないのです。擬制資本については「いわゆる」という修飾語がついています。これは一般に言われているがという意味を込めているのかも知れませんが、しかしそうしたタームを使っている人たちには架空資本の明確な概念が無いからだという批判的視点がないのです。だからそうした俗説をそのまま受け入れていることになっているように思えます。
 また大谷氏は〈架空なもの〉と〈架空資本〉とを明確に区別せずに論じています。あたかもそれはただ言い方を変えただけのものであるかのように、〈銀行の準備金にいたるまで,そのすべての形態が本質的に架空なものであること,架空資本であることが明らかにされます〉という言い方がそれを示しています。しかしマルクス自身は〈架空資本〉と〈架空なもの〉とを明確に区別して論じているのです。「架空資本」はその独自な運動形態を持っていますが、「架空なもの」はそうしたものはありません。例えば株式や国債などは「架空資本」ですが、準備金や預金などは、それ自体に独自な運動形態などはないのですから、「架空なもの」とはいえても「架空資本」とはいえないのです。マルクスは第29章ではこうした区別を明確に意識して論じていることを大谷氏は見落としています。
  とりあえず、大谷本の紹介はこれぐらいにしておきます。それでは本論に入りましょう。今回は「第8章 労働日」の「第3節 搾取の法的制限のないイギリスの諸産業部門」を取り上げます。


第3節 搾取の法的制限のないイギリスの産業諸部門


◎第1パラグラフ(今度は労働力の搾取が今日なお無拘束であるか、またはつい昨日までまだ無拘束だったいくつかの生産部門に目を向けてみよう)

【1】〈(イ)これまでわれわれが労働日の延長への衝動、剰余労働にたいする人狼的渇望を考察してきた領域は、イギリスのあるブルジョア経済学者の言うところでは、アメリカン・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない極度の無法(64)のために資本がついに法的な取締りの鎖につながれることになった領域だった。(ロ)そこで今度はわれわれの目を、労働力の搾取が今日なお無拘束であるか、またはつい昨日までまだ無拘束だったいくつかの生産部門に向けてみよう。〉

 (イ) これまで私たちが労働日の延長への衝動、剰余労働にたいする人狼的渇望を考察してきた領域は、イギリスのあるブルジョア経済学者の言うところによりますと、アメリカン・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない極度の無法のために資本がついに法的な取締りの鎖につながれることになった領域だったわけです。

  ここで〈これまで〉と述べているのは、第1・2節を指していると思います。第2節の第7パラグラフでは〈ドナウ諸侯国のレグルマン・オルガニクは剰余労働にたいする渇望の積極的な表現だったのであり、それを各条項が合法化しているのだとすれば、イギリスの工場法は同じ渇望の消極的な表現である。この法律は、国家の側からの、しかも資本家と大地主との支配する国家の側からの、労働日の強制的制限によって、労働力の無際限な搾取への資本の衝動を制御する。日々に脅威を増してふくれあがる労働運動を別とすれば、工場労働の制限は、イギリスの耕地にグワノ肥料〔南米の海鳥の糞〕を注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一方の場合には土地を疲弊させたその同じ盲目的な略奪欲が、他方の場合には国民の生命力の根源を侵してしまったのである。ここでは周期的な疫病が、ドイツやフランスでの兵士の身長低下と同じ明瞭さで、それを物語ったのである〉と述べられていました。工場法による資本の搾取欲に対する法的制限が論じられていたのです。

  (ロ) そこで今度は私たちの目を、労働力の搾取が今日でもなお無拘束であるか、またはつい昨日までまだ無拘束だったいくつかの生産部門に向けてみることにしましょう。

  しかしこうした工場法の制限がすべての産業部門に一律に及んだのではなく、ある部門ではまったく法的規制が及んでいないか、つい最近までおよんでいなかった部門があり、それらをこれから取り扱うのだというわけです。

  第2節の注48でも次のように述べていました。

  〈〈48 イギリスにおける大工業の発端から1845年までの時期にはところどころで言及するだけにして、この時期についてはフリードリヒ・エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』、ライプツィヒ、1845年〔本全集、第2巻を見よ〕の参照を読者にすすめておく。エンゲルスが資本主義的生産様式の精神をどんなに深くつかんだかは、1845年以来公刊されている工場報告書や鉱山報告書などが示している。また彼が事態の詳細をどんなに感嘆に値するやり方で描いたかは、彼の著書と18年ないし20年後に公表された「児童労働調査委員会」の公式の報告書(1863-1867年)とをほんのうわつらだけ比較してみただけでも、よくわかる。すなわち、これらの報告書は、工場立法が1862年まではまだ実施されていなかったし部分的には今なお実施されていない産業部門を取り扱っているのである。だから、これらの部門では、エンゲルスの記述した状態にたいして多少とも大きな変更が外から加えられたことはなかったのである〉

  ここでもエンゲルスの著書が刊行された20年後に公表された「児童労働調査委員会」の公式の報告書(1863-1867年)について〈これらの報告書は、工場立法が1862年まではまだ実施されていなかったし部分的には今なお実施されていない産業部門を取り扱っている〉と述べています。だからこの第3パラグラフではこうした産業部門の問題を取り扱うということでしょう。

  ここには〈アメリカン・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない極度の無法〉という文言が出てきますが、生成AIを使って調べてみますと、次のような回答が出てきました。

  〈スペイン人の征服者たちは、15世紀から16世紀にかけて、西インド諸島やアメリカ大陸の先住民であるインディオを虐殺、奴隷化、掠奪しました。その悲惨な実態を記録したのが、ドミニコ会士でインディオの擁護者だったバルトロメ・デ・ラス・カサスの著書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』です1。この本は、1552年にスペインで出版されましたが、内容があまりにも恐ろしいために禁書となりました。ラス・カサスは、スペイン人がインディオに対して行った残酷な行為を詳細に描写し、征服戦争の停止と平和的な布教の必要性を訴えました。しかし、この本は反スペインの根拠として他国に利用されたり、中南米では独立運動や先住民擁護運動の参考文献として読まれたりしました。〉
  〈『インディアスの破壊についての簡潔な報告』には、スペイン人征服者たちがインディオに対して行った残虐な行為の具体的な記述がたくさんあります。例えば、以下のようなものです。
  エスパニョーラ島での虐殺:「彼らは、この島に住む人々を、まるで犬や羊やその他の動物を殺すように、あるいはまるで木の枝を切り落とすように殺しました。彼らは、子供や老人や若者を、男でも女でも区別せずに、剣で切り刻んだり、槍で突き刺したりしました。彼らは、妊娠中の女性の腹を割いて胎児を取り出したり、小さな子供を足首から持ち上げて岩に叩きつけたりしました。」p. 14
  キューバ島での虐殺:「彼らは、この島に住む人々を、まるで草を刈るように殺しました。彼らは、子供や老人や若者を、男でも女でも区別せずに、剣で切り刻んだり、槍で突き刺したりしました。彼らは、妊娠中の女性の腹を割いて胎児を取り出したり、小さな子供を足首から持ち上げて岩に叩きつけたりしました。」p. 20
  メキシコでの虐殺:「彼らは、この国に住む人々を、まるで草を刈るように殺しました。彼らは、子供や老人や若者を、男でも女でも区別せずに、剣で切り刻んだり、槍で突き刺したりしました。彼らは、妊娠中の女性の腹を割いて胎児を取り出したり、小さな子供を足首から持ち上げて岩に叩きつけたりしました。」p. 28
  このように、ラス・カサスは同じ言葉を繰り返してインディオへの暴力の恐ろしさと反復性を強調しています。また、他にも以下のような記述があります。
  インディオが犬にかみ殺される場面:「彼らは犬たちにインディオたちを食わせることが常でした。そのため犬たちはインディオたちの肉と血と骨と内臓と皮膚と筋肉と髪と爪と目と歯と舌と口と鼻と耳と顔と頭と首と胸と腹と手足と指先と爪先まで食べ尽くしました。」p. 16
  インディオが火あぶりにされる場面:「彼らはインディオたちを火あぶりにすることが常でした。そのためインディオたちは火焔の中で焼かれて灰となって消えました。」1 p.
  インディオが拷問される場面:「彼らはインディオたちを拷問することが常でした。そのためインディオたちは鉄の鎖や木の棒や鞭や針や爪やナイフや剣や矢や槍や石や火などで傷つけられて血だらけになりました。」p. 22
  これらの記述は、ラス・カサスが目撃したり聞いたりした事実に基づいています。彼は、インディオの人口が征服前と比べて激減したことも数値で示しています。p. 32-33
  ラス・カサスは、これらの記述を通して、スペイン人征服者たちがインディオに対して行った非人道的な行為を弾劾し、インディオの権利と自由を擁護するためにスペイン王室や教会に働きかけました。しかし、彼の主張は植民者や征服支持者から反発を受け、本書も禁書とされました。〉等々。


◎注64

【64】〈64 (イ)「工場主たちの貧欲、利得の追求における彼らの残虐は、スペイン人がアメリカ征服にさいして金の追求において行なった残虐にも劣らないほどのものだった。」(ジョン・ウェード『中間階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、114ページ。(ロ)この書の理論的な部分は、一種の経済学綱要で、当時としてはいくらか独創的なものを、たとえば商業恐慌について、含んでいる。(ハ)歴史的な部分は、サー・M ・イーデンの『貧民の状態』、ロンドン、1797年、からの無恥な剽窃でだいなしになっている。〉

  (イ) 「工場主たちの貧欲、利得の追求における彼らの残虐は、スペイン人がアメリカ征服にさいして金の追求において行なった残虐にも劣らないほどのものだった。」(ジョン・ウェード『中間階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、114ページ。

  これは〈これまでわれわれが労働日の延長への衝動、剰余労働にたいする人狼的渇望を考察してきた領域は、イギリスのあるブルジョア経済学者の言うところでは、アメリカン・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない極度の無法(64)〉という本文につけられた原注です。つまりこのマルクスの一文はジョン・ウェードの一文から借りてきたものであることを示すものです。この限りではウェードの指摘は正当なものだということでしょう。

  (ロ)(ハ) この書の理論的な部分は、一種の経済学綱要で、当時としてはいくらか独創的なものを、たとえば商業恐慌について、含んでいます。歴史的な部分は、サー・M ・イーデンの『貧民の状態』、ロンドン、1797年、からの無恥な剽窃でだいなしになっています。

  このように一定の評価をしてその一文を取り込んだのですが、しかしウェードの著書そのものは理論的な部分にはいくらかの独創性はあるものの、歴史的な部分は恥知らずな剽窃からなっているといるということです。
  マルクスは『61-63草稿』のなかでも同じようなウェードへの評価を次のように下しています。

  〈(ウェイドは、彼の著書の抽象的な経済学的部分では、少しばかりの、当時としては独創的なものを示している、--たとえば経済恐慌、等々。これにたいして、歴史的部分はその全体が、イギリスの経済学者たちのあいだで流行っている恥知らずな剽窃の適切な一例である。つまり彼は、サー・F・モートン・イーデンの『貧民の状態、または、ノルマン征服期から現在までのイギリス労働者階級の歴史』、全3巻、ロンドン、1797年、からほとんど逐語的に引き写しているのである。)〉(草稿集④150頁)

  ウェードとイーデンについては『資本論辞典』からその概要を紹介しておきます。

  ウェイドJohn Wade (1786-1875) イギリスの文筆業者.……主著としては.《British History.chronologically arranged》(1839)や《History of the Middle and Working Class.Also an Appendix of Prices》(1833)などがあげられる.マルクスは,この後者の箸舎をしばしば引用し,これを評して,その歴史的都分はイーデンの《The State of the Poor:or,An History of the Labouring Classes.in England.etc.》(1797)からの剽窃におわっているときめつけている.しかし,この彼の理論的な部分は.ー穏の経済原輸をなしており.当時としては独創的なものをいくらかふくんでおり,たとえば商業恐慌にかんする叙述などにはそれがあらわれている.と評している.また彼の労働者階級の運命やこの階級の経済的利害についての叙述にも,かなりするどい洞察がみられるという.たとえば,労働者階級の全所得のうちで,食料に支出される部分の割合は. 18世粗末では手工業者で3分の1. 農業労働者で2分の1であるが. 19世紀中葉の資本主義祉会では.その割合がきわめて高いとし、ここから労働者たちの経済的独立性は.時代とともに失われてきているという帰結をひきだしている点や.また,資本蓄積の条件にかんして.資本が労働者を雇用する経済的限界を正しく指摘しながら,‘雇主の利益が平均利潤以下に低下するほど労働賃銀の率が高くなれば.彼は労働者を使用するのをやめるか.または,労働者が労働賃銀の引下げを承認するという条件で彼らを使用する'とのべている点などが,これである.〉(475頁)
  イーデン Sir Frederick Morton Eden(1766-1809)イギリスの経済学者. ……主著としては,《The State ofthe Poor:or,An History of the Labouring Clases in England,from the Conquest to the Present Period;in which are particularly considered,their Domestic Economy,with respect to diet,dress,fuel,and habitation;etc.》(3 vo1s.,1797)があり.もっとも有名である.イーデンは1794-1795年の物価勝貴にともなう都市および農村の労働者階級の窮乏に直面して,貧民の生活状態を調査する計画をたて.実態調査に着手し,協力者をえて,各地の実情について材料を蒐集した.その結果を集大成したこの書物は, 18世紀末葉のイギリスにおける労働者階級の状態を,とくに労働者の家計状・貧民救済のための諸政策・救貧院・農工商業の各分野での共済組合などについて.具体的に分析検討したものであって,その実証的な成果は一般にアダム・スミス経済学の帰納的領域をいっそう発展させたものだとみられている.マカロッタは.この書を評して.イギリスの労働者階級にかんする知識の一大宝庫だといっているが.マルクスもまた,資本主義的蓄積の一般的法則や資本の本源的蓄積過程を論ずるさいの資料的裏付けとして,この書物からしばLば引用しており,‘イーデンはスミスの弟子のうち,18世紀中にこれというほどの仕事をなした唯一者だ, <KI-647:青木4-957:岩波4-98)とほめている.しかしマルクスにあっては,イーデンの歴史的諸事実にたいする経済学的理解や洞察の不足が指摘され,その理論上の混乱やプルジョア的視野の限界性なども批判されている.たとえば,イーデンが一方では資本主義初期の農民からの土地収奪を承認しながら.他方ではマニュファクチュア経営から大工場への転換はこれを否定するなどの混乱(KI-797:青木4-1151:岩波4-340), あるいはまたイーデンが労働者の資本家への従属関係を説くにあたり,それを市民的諸制度という法律的なものに帰せしめて,一般に生産関係を法的な幻想の産物とみなすところの転倒せる表象におちいっている点などが.あきらかにされている(K1-647:青木4-957:岩波4-98).〉(471頁)


◎第2パラグラフ(無制限な奴隷状態!--児童労働の実態)

【2】〈「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市の公会堂で催されたある集会の議長として、市の住民のうちレース製造に従事する部分では、他の文明社会には例がないほどの苦悩と窮乏とが支配的である、と明言した。……朝の2時、3時、4時ごろに9歳から10歳の子供たちが彼らのきたないベッドから引き離されて、ただ露命をつなぐだけのために夜の10時、11時、12時まで労働を強制され、その間に彼らの手足はやせ衰え、身体はしなび、顔つきは鈍くなり、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して、見るも無残なありさまである。われわれは、マレット氏やその他の工場主があらゆる論議にたいして抗議するために現われたことに驚きはしない。……この制度は、モンタギュー・ヴァルピ師が述べたように、無制限な奴隷状態の制度、社会的にも肉体的にも道徳的にも知的にもどの点でも奴隷状態の制度である。……男子の労働時間を1日18時間に制限することを請願するために公の集会を催すような都市があるというのは、いったいどういうことだろうか!……われわれはヴァージニアやカロライナの農場主を非難する。だがしかし、彼らの黒人市場は、そこにどんな鞭の恐怖や人肉売買があろうとも、ヴェールやカラーが資本家の利益のため製造されるために行なわれるこの緩漫な人間屠殺に比べて、それ以上にひどいものなのだろうか?(65)」〉

  これは全体が〈ロンドン『デーリ・テレグラフ』、1860年1月17日〉からの抜粋だけからなっています。この第3節ではこうした引用や抜粋が多く、しかも読めばほぼそれだけでわかるような歴史的事実であったり、現実の暴露であったりします。だから、それらを平易に書き直してもほとんど意味がないケースが多いので、特別な場合を除いて、平易な書き下し文は省略して、その内容について気づいたことを書いていくだけにしたいと思います。
  ここではノッティンガム市にあるレース製造業における児童労働の酷さを州治安判事というお偉いさんが告発するという内容になっています。ここで問題になっているレース製造業というのは、第1パラグラフにあった、いまだ労働法が及んでいない産業部門なのでしょう。これは1860年時点の状態ですから、1845年ごろまでが取り上げられているエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(以下、『状態』と略す)からすでに15年たっているわけです。しかしそこにある実態はエンゲルスが取り上げているものとほとんど変わらない状態にあることがわかります(『状態』についてはこのあと紹介)。
  ここでは、わずか9歳から10歳の子供が、朝の2時、3時、4時にベッドからたたき起こされて、夜の10時、11時、12時まで働かされているというのです。もし2時に起こされて10時まで働かされたとしても1日20時間労働です! 睡眠とその他のことにたった4時間しか残されていません。だから子供たちは心身ともに萎え衰え緩慢な人間屠殺の状態に陥っているというのです。本当に考えられないほどの恐ろしい状態にあったことがわかります。ブロートンはヴァルピ師の言として、それは黒人奴隷がおかれた状態よりより酷いものであり、無制限な奴隷状態だと断じています。

 エンゲルスの『状態』にも、ノッティンガムのレース製造業についての記述がありますので、少し長くなりますが、紹介しておきます。

  〈靴下編工のくらしている地方と同じところに、レース製造業の中心地もある。前の三つの州には、全部で2760台のレース編機が動いているのに、イギリスのそのほかの部分には、わずかに786台あるにすぎない。レース製造業は、厳格におこなわれている分業によって非常に複雑なしくみになっていて、たくさんの部門をもっている。まず、撚糸を糸巻にまかねばならない。この仕事は、14歳以上の娘たちの手でおこなわれる(糸巻工 winders)。つぎに、糸巻が、8歳以上の少年たち(糸通し工 threaders)の手で機械にかけられる。糸は、機械1台につき平均1800個ある細い穴をとおされ、その所定の場所にみちびかれる。それから労働者がレースを編むわけだが、レースは、幅のひろい布のようになって機械からでてきて、ほんの幼い子供たちの手で、つなぎの糸がぬきとられ、1枚1枚のレースに仕分けられるのである--これはレースほどき(running lace) とか、レースぬき(drawing lace)とかよばれまた子供自身は、レースの解き手(lace-runner) とよばれる。それからレースは、売りにだせるまで仕上げられる--糸巻工も、糸通し工も、機械の糸巻がからになるとすぐに必要となるので、きちんとした労働時間はもっていない。そして、労働者は夜間も編むので、どんな時間にでも工場や、編工の作業室によばれるかもしれないのだ。こうした仕事の不規則さ、頻繁な夜業、そのために生じるめちゃくちゃな生活様式が、たくさんの肉体的および道徳的害悪、とくにあらゆる証人が一致して認めている放縦な、ませた性交を生みだす。作業そのものが、目に非常に有害である。糸通し工の場合には、永続的な害は一般には確認されていないが、それでもこの害は目の炎症をひきおこし、糸を穴にとおしているときには、目が痛んだり、涙がながれたり、視力が一時ぼけたりするようなことさえおこる。しかし、糸巻工の場合には、その作業が目をひどくいため、しばしば角膜炎のほかに白内障眼(ソコヒ)や、黒内障眼もひきおこすきがめずらしくないことは、確認されている。編工自身の作業は非常に困難である。それというのも、機械の幅が時とともにたえずひろく製作されるようになり、そのためいまでは、3人の成年男子によって動かされるような機械ばかりになっているからである。この3人は、それぞれ4時間ごとに他の者と交替するので、彼らは、3人全部を合計すると毎日24時間、そのひとりひとりは毎日8時間働くことになる。このことからも、機械をあまり長くとめておかないように、糸巻工と糸通し工とが、なぜこのようにしばしば夜も仕事をしなければならないかが、明らかになる。いずれにせよ、1800個の穴に糸巻の糸をとおすには、3人の子供で2時間かかる。多くの機械は蒸気力によっても動かされるので、成年男子の労働は排除される。そして、児童雇用委員会の報告は、子供たちの募集される「レース工場」についてしかいつも述べていないので、この点から推察すると、近ごろは編工の仕事が工場の大作業室に移されたか、それとも蒸気編みの応用がかなり一般化した、という結論がでてくるようにみえる。これら2つの場合とも、工場制度の進歩である。だが、もっとも不健康なのは解き手〔ラソナー〕の仕事である。彼らは、たいてい7歳、それどころか5歳または4歳の子供である。委員グレインジャーは、2歳の子供さえこの仕事にたずさわっているのを目撃した。精巧に編みあわされた編物から、針でぬきだされる同じ1本の糸をたどっていくことは、目に非常に有害である。ことに有害なのは、この仕事が、一般におこなわれているように、14時間ないし16時間も続行される場合である。もっとも害の少ない場合でも、極度にひどい近眼になり、最悪の場合には、しょっちゅうおこることではあるが、黒内障眼(ソコヒ)によって不治の盲目となる。ところがそのうえに、子供たちはいつも背をかがめてすわっているために、虚弱になり、息切れがし、消化不良によって腺病質になる。娘たちの場合には、子宮の機能障害はほとんど一般的にみられ、また脊椎の彎曲も同様である。そこで、「解き手はみんなその歩き方でわかる」。レースの刺繍も、同じ結果を目にも、体質全体にももたらす。レースの生産に従事している子供たちの健康が、いずれもはなはだしくそこなわれているということ、またこれらの子供は顔色がわるく、きゃしゃで、虚弱で、その年齢のわりに小さく、病気にたいする抵抗力もほかの者よりはるかによわいということは、医師の証人たちがみな一致して認めている。この子供たちのふつうの病気はつぎのとおりである。一般的な虚弱、たびたびの失神、頭・横腹・背中・腰の疼痛、心悸亢進(シンキコウシン)、吐き気、嘔吐と食欲減退、脊椎の彎曲、るいれきおよび肺結核。ことに、女性の身体の健康は、たえまなく、そしてはなはだしくそこなわれる。貧血症、難産および流産についての訴えは一般的であった(グレインジヤーの報告のいたるところ)。そのうえさらに、児童雇用委員会の同じ小委員〔グレインジャー〕は、つぎのように報告している。子供たちは、そまつな、ぼろぼろ着物を着ていることが非常に多く、食物も十分でなく、たいていパンとお茶だけで、しばしば数ヵ月間もまったく肉にありつかない、と。これらの子供たちの道徳的な状態については、グレインジャーは、つぎのように報告している。
  「ノッティンガムのすべての住民が、警察、僧侶、工場主、労働者、子供の両親自身が、現在の労働制度は不道徳を生みだすもっとも実りゆたかな源泉である、ということを一様に信じている。たいていは少年である糸通し工と、たいていは少女である糸巻工とは、工場では同じ時間に--ときには真夜中に必要である。そして彼らの両親は、彼らが工場でどのくらいのあいだ使われるか知ることができないので、彼らは、けしからぬ関係を結んだり、仕事のあとでいっしょに遊びまわったりする絶好の機会をもっている。このことが、世論によれば、ノッティンガムにものすごく広範に存在しているといわれる不道徳に、少なからず寄与している。それでなくても、これらの子供や若い人たちのぞくしている家族の家庭的な安らぎや、心地よさが、こうしたきわめて不自然な事態のために、まったく犠牲にされている」と。〉(全集第2巻424-頁)


◎注65

【65】〈65 ロンドン『デーリ・テレグラフ』、1860年1月17日。〉

  これは第2パラグラフの引用分の出展を示すだけのものです。『ザ・デイリ・テレグラフ』(The Daily Telegraph) (ロンドン)は日刊紙で1855年から刊行されています。


◎第3パラグラフ(スタフォードシャの陶器製造業の三つの調査報告書)

【3】〈(イ)スタフォードシャの陶器製造業(pottery) は、最近22年間に3回にわたる議会の調査の対象になった。(ロ)その結果は、「児童労働調査委員会」への1841年のスクリヴン氏の報告と、枢密院の医務官の命令で公表されたグリーンハウ博士の報告(『公衆衛生。第三次報告書』、第1巻、102-113ページ)と、最後に1863年6月13日の『児童労働調査委員会。第一次報告書』のなかの1863年のロンジ氏の報告とに書かれてある。(ハ)私の課題のためには、1860年と1863年の報告書から、搾取される子供たち自身のいくつかの証言を借りてくるだけで十分である。(ニ)子供からは大人を、ことに少女や婦人を、しかも、それに比べれば綿紡績業などは非常に快適で健康的な仕事に見えるような産業部門では、推論してよいであろう(66)。〉

  (イ)(ロ) スタフォードシャの陶器製造業(pottery) は、最近22年間に3回にわたる議会の調査の対象になりました。その結果は、「児童労働調査委員会」への1841年のスクリヴン氏の報告と、枢密院の医務官の命令で公表されたグリーンハウ博士の報告(『公衆衛生。第三次報告書』、第1巻、102-113ページ)と、最後に1863年6月13日の『児童労働調査委員会。第一次報告書』のなかの1863年のロンジ氏の報告とに書かれてあります。

  陶器製造業は、最近22年間に3回も議会の調査対象にされ、その結果は、いくつかの報告書として公表されたということです。

  (ハ)(ニ) 私の課題のためには、1860年と1863年の報告書から、搾取される子供たち自身のいくつかの証言を借りてくるだけで十分です。子供からは大人を、ことに少女や婦人を、しかも、それに比べれば綿紡績業などは非常に快適で健康的な仕事に見えるような産業部門では、推論してよいでしょう。

  ここでマルクスが〈私の課題のためには〉と述べているのは、第3節の表題である〈搾取の法的制限のないイギリスの産業諸部門〉の実態を明らかにして、資本の搾取を抑制する法的制限の必要と正当性を明らかにするということでしょう。そのためには陶器製造業におけるその実態を見るためには、1860年と1863年の報告書から子供たち自身の証言を借りてくればよいということです。
  そしてそこでの子供たちの状況をみれば、大人の労働者や、ことに少女や婦人の労働者がどのような状態にあるかは推し量ることかできるだろうと述べています。
  ここでマルクスは陶器製造業に比べれば〈綿紡績業などは非常に快適で健康的な仕事に見える〉と書いていますが、そもそも児童労働調査委員会そものが、織物の工場主たちかの要請でできたものだと次のように述べています。

  〈{というのは、工場制度がそのいまわしい面をみせて最初に発展したのは、これらの織物においてだったからである。児童労働調査委員会も、もとはといえば、これらの工場主の要請によってできたものであって、それは、他の工業部門つまり炭鉱やガラス工場、陶器工場などにも同様な、いやもっとひどい状態が支配していることを証明するためであった。}〉(草稿集⑨188頁)


◎注66

【66】〈66 フリードリヒ・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249-251ページ参照。〔本全集、第2巻、423-425(原)ページを見よ。〕〉

  これは〈子供からは大人を、ことに少女や婦人を、しかも、それに比べれば綿紡績業などは非常に快適で健康的な仕事に見えるような産業部門では、推論してよいであろう(66)。〉という本文に付けられた原注で、エンゲルスの『状態』の参照箇所が示されています。指示されている箇所はスタッフォードシァの製陶業の労働者の状態が紹介されている部分です。その内容については付属資料を参照。


  ((2)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(2)

2023-07-14 13:56:41 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(2)


◎第4パラグラフ(『児童労働調査委員会。第1次報告書。1863年』による3人の少年の証言)

【4】〈9歳のウィリアム・ウッドは「働きはじめたときは7歳10カ月だった。」彼は最初から「型を運んだ」〔"ran moulds"〕(できあがって型にはいった品を乾燥室に運んではまたからの型を持って帰った)。彼は平日は毎日朝の6時にきて、夜の9時ごろにやめる。「私は平日は毎日晩の9時まで働いている。たとえば最近7-8週間はそうだ。」つまり、7歳の子供で15時間労働だ! 
  J・マーリという12歳の少年は次のように述べている。
  「私は型を運び、ろくろを回す。私がくるのは朝の6時で、4時のこともよくある。昨夜はけさの8時まで夜どおし働いた。私は昨夜から寝ていない。ほかにも8人か9人の子供が昨夜は夜どおし働いた。1人のほかは、けさもみなきている。私は週に3シリング6ペンス」(1ターレル5グロシェン) 「もらう。夜どおし働いてもそれより多くはもらえない。先週は2晩徹夜で働いた。」
  10歳の少年ファーニハフは次のように言っている。
  「昼食のためにまる1時間もらえるとはかぎらない。半時間だけのこともよくある。木、金、土曜はいつでもそうだ(67)。」〉

  これらは〈『児童労働調査委員会。第1次報告書。1863年』、付録、16、19、18ページ〉から紹介されています。
  ここで〈9歳のウィリアム・ウッド〉の最初の仕事として〈「型を運んだ」〔"ran moulds"〕(できあがって型にはいった品を乾燥室に運んではまたからの型を持って帰った)〉と説明されています。この型運びの仕事は『状態』のなかでエンゲルスによって〈有害な仕事〉の一つとして次のように指摘されています。

  〈とくに有害な仕事をしている子供たちのなかでも、型運び(mould-runners) については述べておく必要がある。型運びの連中は、かたちの仕上がった品物を型に入れたまま乾燥室にはこび、その後はじめの品物が適当に乾燥すると、からになった型を持ってかえらねばならない。このように型運びの子供たちは、1日じゅうその年齢のわりに重いものを持って、行ったり来たりしなければならない。そして、彼らはこういった仕事を高い温度のなかでしなければならないので、この高温が、彼らの疲労をいっそうはなはだしく増大させる。これらの子供たちは、ほとんどただ1人の例外もなく、やせて、青白く、虚弱で、小さくて、発育不良である。ほとんどすぺての子供たちが、胃病、嘔吐(オウト)、食欲不振になやみ、また彼らの多くが肺病で死ぬ。(全集第2巻440-441頁)

  〈J・マーリという12歳の少年〉は〈型を運び、ろくろを回す〉とその仕事が紹介されていますが、この〈ろくろを回し〉についても『状態』で次のように触れられています。

  〈ろくろまわし(jigger)とよばれている少年たちも、型運びの子供たちとほとんど同じように虚弱である。この少年たちは、彼らのまわさなければならないろくろ台(jigger) の名にちなんで、こうよばれているわけである。〉(同前441頁)

  これ以外にもエンゲルスの『状態』には製陶業における労働と労働者の状態に付いて、次のような紹介があります。

  〈しかし、ずっとひどく有害なのは、多量の鉛と、しばしばたくさんの砒(ヒ)素もふくんでいる液体のなかに、仕上がった品物をつけたり、または液につけたばかりの品物を手にとらねばならない人たちの仕事である。これらの労働者--成年男子と子供たち--の手と着物は、つねにこの液体でぬれている。皮膚はやわらかくなっていて、きめのあらい物をたえず扱うので、はがれてしまう。そこで、指はよく出血し、これらの危険な元素を非常に吸収しやすいような状態に、たえずおかれている。その結果は、胃や内臓の重病、しつような便秘、疝(セン)痛〔一定の時間をおいて周期的に現れることの多い,腹部の激痛〕、ときには肺病であり、もっとも頻繁におこるのは子供のてんかんである。成年男子の場合は、ふつう手の筋肉の部分的麻痺、すなわち画家の疝(セン)痛(colica pictorum) や手足全体の麻痺がおこる。ある証人の述べるところによると、この証人といっしょに働いていた2人の少年は、仕事中にけいれんをおこして死んだということである。また、少年のころ2年間、液に品物をつける手伝いをした経験のあるいま1人の証人は、つぎのように述べている。私は、はじめひどい下腹部の苦痛になやみました。それから、けいれんを1度おこし、そのために2ヵ月も病床につきました。それからというものは、けいれんはますます頻繁におこり、いまでは毎日のことで、1日に10回ないし12回もてんかん性の発作が頻発します。私の右半身は麻痺しています。そして医師の話では、私はもう2度と自分の手足をつかえるようにはならないとのことです、と。ある工場の浸潰(シンセキ)室〔浸潰とは液体につけひたすこと〕で働いていた4人の成年男子は、いずれもてんかん性の症状をていし、ひどい疵痛になやんでいた。また、2人の少年のうち、すでに2、3人はてんかん性の症状をていしていた。簡単にいえば、これらのおそろしい病気が、こうした仕事の結果として、まったく一般的におこってくるのであって、しかもこれがまた、ブルジョアジーのいっそう大きな金もうけのためなのである! 陶磁器をみがく作業室では、空気は、粉末となった硅(ケイ)石のごみで充満している。このごみを吸入することは、シェフィールドの研摩工が鋼鉄のごみを吸入するのと同じように、有害な作用をおよぼす。労働者たちの吸吸はくるしくなり、彼らは静かに横になることができず、傷ついた喉(ノド)や、ひどい咳にくるしみ、ほとんど聞きとれないくらいの低い声になってしまう。彼らもまたみんな肺病で死ぬ。陶磁器製造地方には、比較的多くの学校があり、子供たちに教育の機会をあたえているはずであるが、それでも子供たちは、非常に小さいときから工場にやられ、非常に長時間(たいてい12時間、しばしばそれ以上も)働かねばならないので、学校も利用することができない。そのために、委員たちの調査した子供の4分の3は、読むことも、書くこともできなかった。そして、この地方全体が無知のどん底にあった。何年間も日曜学校にかよった子供たちが、一つの文字をほかの文字と区別することができなかった。そして、この地方全体が、知的教育ばかりか、道徳教育においても、宗教においても、非常に低い水準にある(スクリヴン、報告と証言)。(441-442頁)


◎注67

【67】〈67 『児童労働調査委員会。第1次報告書。1863年』、付録、16、19、18ページ。〉

  これは第4パラグラフで紹介されている3人の子供の証言が記載されている典拠を示すものです。


◎第5パラグラフ(『児童労働調査委員会。第1次報告書、1863年』の三人の医師の証言)

【5】〈グリーンハウ博士は、ストーク・アポン・トレントやウルスタントンの製陶業地方では寿命が特別に短い、と言明している。ストーク地方では20歳以上の男子人口のわずか30.6%が、またウルスタントンではわずか30.4%が製陶工場で働いているだけなのに、第一の地方ではこの部類の男子の肺病による死亡の半数以上が陶工であり、第二の地方では約5分の2が陶工である。
  ハンリの開業医ブースロイド博士は次のように述べている。「陶工はすべて前の世代よりあとの世代のほうが短小で虚弱である。」
  もう一人の医師マックビーン氏も次のように言っている。「25年前に陶工たちのあいだで私が開業して以来、この階級の著しい退化が身長と体重との減少にしだいにひどく現われてきている。」
  これらの証言は、1860年のグリーンハウ博士の報告書から借りてきたものである(68)。〉

  このパラグラフも製陶業に関連したものです。3人の医師の証言からなっています。
  グリーンハウ博士は製陶業地方では寿命が特別に短いと述べ、ストーク地方やウルスタントンでは、成年男子の3割ぐらいが陶工になっているだけであるが、肺病による死亡数の半数以上(ストーク)や4割(ウルスタントン)が陶工であったと述べています。
  ハンリ(これはストーク市の町村の一つ)の開業医のブースロイドは、陶工はすべて前の世代よりあとの世代の方が短小で虚弱だと証言しています。
  もう一人の医師であるマックピーンも、25年前に製糖業地方で開業して以来、陶工たちの身長や体重の減少がひどいと述べています。
  いずれも製陶業がそこで働く陶工たちの身体をむしばんでいることが報告されています。


◎注68

【68】〈68 『公衆衛生。第三次報告書』、103、105ページ。〉

  これも第5パラグラフの三人の医師の証言の出展を示すものです。


◎第6パラグラフ(『児童労働調査委員会。1863年』の報告書・医師アレッジの証言)

【6】〈1863年の委員の報告書のなかには次のような証言がある。ノース・スタフォードシャ病院の医長J・T・アレッジ博士は次のように言っている。
  「一つの階級として陶工は、男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。遅鈍で活気がなく、彼らの体質の虚弱なことは、胃病や肝臓病やリューマチスのような病疾にかかることでもわかる。しかし、彼らがことにかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。ある型の喘息は彼らに特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨やその他の身体部分を冒す瘰癧(ルイレキ)は、陶工の3分の2以上の病気である。この地方の住民の退化(degenerescence) がもとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげであり、より健康な種族との結婚のおかげである。」〉

 このパラグラフも製陶業に関連するものです。1863年の『児童労働調査委員会』の報告書にあるスタフォードシャ病院の医長アレッジの証言が紹介されています。陶工は男女とも肉体的にも精神的にも退化していると述べています。とくに胸の病に罹り早く死ぬことが指摘されています。ただ地方からの健康な種族の補充のためにずっと酷くなるのを防いでいるだけだというのです。
  ここに出てくる〈瘰癧(ルイレキ)〉という言葉は、初版の付属資料にも追加説明していますが、〈ルイレキ: 結核性頸部リンパ節炎の古い呼称。感染巣から結核菌が運ばれて起こる結核症の特異型。多く頸のあたりに生じて瘤(こぶ)状をなし、次第に蔓延して膿をもち、終に破れて膿汁を分泌する。〉(インターネットから)ということです。


◎第7パラグラフ(1863年の報告書の続き・外科医ピアソンの証言)

【7】〈少し前まではまだ同じ病院の外科医員だったチャールズ・ピアソン氏は、委員ロンジにあてた手紙のなかでなかんずく次のように書いている。
  「私は、自分の観察から言えるだけで、統計的には言えないが、この哀れな子供たちの健康が彼らの親や雇い主の貧欲を満足させるために犠牲にされたのを見ては、幾度も憤激に燃えたということを、断言するのに、躊躇しない。」〉

  このパラグラフも製陶業の続きです。同じスタフォードシャ病院の外科医員のピアソンの手紙が紹介されています。それは哀れな犠牲にされている子供たちを見ては、幾度も憤激を覚えたという内容です。


◎第8パラグラフ(外科医ピアソンの証言の続きと委員会報告の結語)

【8】〈彼は陶工の病気の原因を数えあげて、最後に"Loog Hours"(「長時間労働」) をその頂点としている。この委員会報告書は次のように望んでいる。すなわち、
  「世界の注視のなかでこのように卓越した地位を占める一つの製造工業が、その偉大な成果に、自分の労働と技能とによってこのような偉大な結果に到達させた労働者人口の肉体的退化やさまざまな身体的苦痛や早期死亡がともなうという汚名を、もうこれ以上に長くは背負わないであろう(69)」ということを。
  イングランドの製陶工場について言えることは、スコットランドのそれにもあてはまる(70)。〉

  このパラグラフは先の第7パラグラフのピアソンの手紙の続きのようです。彼は陶工たちの病気の原因としていろいろとあるが長時間労働が頂点だと述べています。
  そして委員会報告書の希望なるものは、世界でも卓越した製造工業へと発展した成果が、労働者人口の肉体的退化や身体的苦痛や早期死亡を犠牲にしたものだという汚名を負っていることをこれ以上に長くは背負わないように、というものだそうです。
  そしてイングランドの製陶業にいえることは、スコットランドにも当てはまると指摘しています。


◎注69.70

【69.70】〈69 『児童労働調査委員会。1863年』、24、22、別付11ページ。
                    70  同前、別付47ページ。〉

  これも第8パラグラフで引用されている証言の典拠を示すものです。新日本新書版には原注69に次のような補足説明がついています。

 〈〔上記のアーリッジ医師の供述は24ページ。バースンズ(ピアスン)の供述は22ページとXIページにある。〕〉(420頁)


◎第9パラグラフ(マッチ製造業の実態)

【9】〈マッチ製造業は、1833年、燐を直接に軸木につけることの発明に始まる。それは1845年以来イングランドで急速に発達し、ロンドンの人口稠密な地区から、ことにまたマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリジ、ニューカスル、グラスゴーにも広がったが、それといっしょに、すでに1845年にヴィーンの一医師がマッチ製造工に特有な病気として発見していた首けいれん症も広がった。労働者の半数は13歳未満の子供と18歳未満の少年である。この製造業はその不衛生と不快とのために評判が悪くて、労働者階級のなかでも最も零落した部分や飢え死にしかかっている寡婦などがこの仕事に子供を、「ぼろを着た、飢え死にしそうな、かまい手のない、教育されない子供(71)」を、引き渡すだけである。委員ホワイトが(1863年に)尋問した証人のうち、270人は18歳未満、50人は10歳未満、10人はたった8歳、5人はたった6歳だった。12時間から14時間か15時間にもなる労働日の変化、夜間労働、たいていは燐毒の充満した作業室そのもののなかでとられる不規則な食事。ダンテも、こんな工場では、彼の凄惨きわまる地獄の想像もこれには及ばないと思うであろう。〉

  このパラグラフは、今度はマッチ製造業の実態が取り上げられています。読めばわかる内容なので、特に付け加えることはありません。

  新日本新書版には〈かまい手のない〉という部分は〈まったくうっちゃらかしの〉となっていて、訳者注としてこの一文はマルクスによる挿入であるとの指摘があります。


◎注71

【71】〈71 『児童労働調査委員会。1863年』、別付54ページ。〉

  これは第9パラグラフのなかで引用符で示されている〈「ぼろを着た、飢え死にしそうな、かまい手のない、教育されない子供(71)〉につけられた原注で、その典拠を示すものです。


◎第10パラグラフ(壁紙工場の実態)

【10】〈壁紙工場では、粗雑な種類は機械で、精巧な種類は手で(block printing)印刷される。最も忙しい月は、10月の初めと4月の末とのあいだである。この期間中はこの労働は、しばしば、またほとんど中断なしに、午前6時から夜の10時かもっと深夜まで続く。
  J・リーチは次のように証言する。「この冬」(1862年)、「9人の少女のうち6人は、過労からきた病気で欠勤した。彼女たちに居眠りをさせないためには、どなりつけなければならない。」
  W・ダフィ--「子供たちはしばしば疲労のために目をあけていられなかった。じっさい、われわれ自身もそんなことがよくある。」
  J・ライトボーン--「私は13歳だ。……われわれはこの冬は夜の9時まで、その前の冬は10時まで働いた。この冬は足の傷が痛くて毎晩のように泣いた。」
  G・アプスデン--「私のこの子が7歳のとき、私は彼を背負って雪の上を往復するのが常だった。そして彼は16時間働くのが常だった!……彼が機械について立っているあいだに私がしゃがんで食事させることがよくあった。彼は機械を離れたり止めたりしてはならなかったから。」
  マンチェスターの一工場の業務担当社員スミス--「われわれ」(と彼が言うのは「われわれ」のために労働する彼の「人手」のこと) 「は食事のための中断なしに労働するので、10時間半の1日労働は午後4時半に終わり、それからあとはすべて規定外時間である。(72)」(このスミス氏ははたして10時間半のあいだ全然食事をしないのだろうか?)「われわれ」(スミスその人)「は夕方の6時前にやめること」(と彼が言うのは「われわれ」の労働力機械の消費をやめること)「はまれなので、われわれ」(やはり同じクリスピヌス〔iterum Crispinus(72)〕) 「は実際は1年じゅう規定時間以上に労働しているのである。……子供も大人も」(152人の子供と18歳未満の少年と140人の大人が)「同じように最近18カ月間は平均して毎週少なくとも7日と5時間労働した。すなわち毎週78時間半である。今年」(1863年)「の5月2日までの6週間では、平均はもっと高かった--週に8日すなわち84時間だった!」〉

  このパラグラフは壁紙製造業が取り上げられています。
  ここでは5人の人物の証言が紹介されています。うちライトボーンは子供のようですが、
リーチやダフィは成人の労働者か工場の支配人のような人物かも知れません。アプスデンは7歳の子供を働かせる母親のようです。これらの証言は読めばわかりますが、業務担当者(フランス語版では〈業務執行社員〔出資者である社員のなかで業務執行をまかされている社員〉(江夏・上杉訳246頁))スミスの述べていることは、マルクスの挿入文が入っていることもあり、やや分かりにくいです。
  要するに、彼の工場では1日の労働は午前6時に始まり、食事時間を抜いて10時間半働き4時半には終わることになっていますが、しかし実際には夕方の6時前に終わることはまれで、もっと時間外労働をしているということです。その労働は平均して週7日と5時間、つまり7×10.5+5=78.5(78時間半)になるということです(これだと時間外労働は週合計5時間になり、1日当たりだと1時間もないことになります。これだと、夕方の6時前にやめることはまれだという供述とは合致しません)。今年(1863年)の5月2日までの6週間では労働はもっと多く週84時間だったと述べています(この場合は時間外労働は週合計10時間半になり、1日当たり1時間半の残業になり、これだと6時終業という供述と一致します)。
 ただこれが時間外労働も含めた全体の労働時間なのかどうかが明確には書かれていません。マルクスもスミスの証言については〈(このスミス氏ははたして10時間半のあいだ全然食事をしないのだろうか?)〉と疑問を呈しており、ややいい加減なところがあるのかも知れません。

  新日本新書版には〈精巧な種類は手で(block printing)印刷される〉という部分は〈精巧な種類のものは手("木版刷り")で印刷される〉となっています。

  また〈クリスピヌス〉には次のような訳者注が付いています。

  〈ユウェナリウス『風刺詩』、第4歌、第1行。クリスピヌスは、ローマ皇帝のドミティアヌスの廷臣で、第1歌で「この色欲ばかりふける大悪党めが」と皇帝に鞭打たれる。この句は、彼のふらちをとがめる語。転じて「またもや同じ人物」の意。〉(423頁)

  全集版には注解72が付いていています。

  〈(72) 見よ、やはり同じクリスピヌス--ユヴェナリスの『風刺詩』、第4歌はこの句で始まっている。この詩のはじめのところで、ローマ皇帝ド、ミティアヌスの廷臣クリスピヌスがむち打たれる。この言葉は意味が転用されて、「また同じ人物」とか「またもや同じこと」という意味に使われる。〉(全集第23a14-15頁)

  フランス語版も紹介しておきましょう。

  〈(同じクリスピヌス〔クリスピヌスは、ユヴェナリスの詩のなかの、ローマ皇帝ドミティアヌスの廷臣である。「同じクリスピヌス」とは、「また同じ人物」という意味で使われる〕)〉(江夏・上杉訳247頁)


◎注72

【72】〈72 これは、われわれの言う剰余労働時間の意味にとられてはならない。これらの諸君は、10時間半労働を標準労働日と、つまり標準的な剰余労働をも含む労働日と、みなしている。それから「規定外時間」が始まり、これにはいくらか多く支払われる。なおのちの機会に述べるであろうが、いわゆる標準日中の労働力の使用には価値よりも低く支払われるのであり、したがって「規定外時間」はより多くの「剰余労働」をしぼり出すための資本家の策略にすぎないのであるが、とにかくこのことは、「標準日」中に使用される労働力にほんとうに完全に支払われる場合でも、変わりはないのである。〉

  これは〈10時間半の1日労働は午後4時半に終わり、それからあとはすべて規定外時間である。(72)」〉という本文に付けられた原注です。すべてマルクスによるものですが、文節に分けて解説するまでもないでしょう。
  「規定外時間」の労働というのを、剰余労働時間の意味にとってはいけないということです。剰余労働時間というのは必要労働時間(労働力の価値を補填する労働時間)を超える労働時間のことですが、「規定外時間」というのは、標準労働日を超える労働時間のことだということです。
  この場合、規定外の労働時間にはいくらか多くの支払いがなされますが、しかしその代わりに規定内の労働時間、つまり標準労働時間にはより低く支払われるのだということです。要するに「規定外時間」というのは剰余労働をしぼり出すための資本家の策略だというのがマルクスの指摘です。
  そしてこのことはたとえ標準労働日に完全にそれに見合う支払いがなされたとしても、規定外時間の労働を労働者に強制することによって資本家はより多くの剰余価値を得るのだということてす。というのは時間外労働は労働力の消耗が激しく、少しばかり多く支払われても、それに見合ったものにならないということもあります。また労働時間が延長されるということは、機械の稼働時間を延長させ、機械の停止時間を少なくさせることによって、機械の道徳的な磨耗を防ぐという狙いもあります。これなどは昼夜労働によって24時間休みなく工場や機械を稼働させる動機にもなっています。


◎第11パラグラフ(壁紙工場の続き)

【11】〈しかし、尊貴複数〔君主が「私」と言う代わりに使う「われわれ」〕にひどく執着しているこのスミス氏は、にやにやしながらつけ加える、「機械労働はたやすい」と。すると、木版手刷り法〔block printing〕の使用者たちは言う、「手労働は機械労働よりも健康的だ」と。一般に工場主諸君は、「少なくとも食事時間中だけは機械を止めよう」という提案には、憤激をもって反対する。
  バラ(ロンドンの) の或る壁紙工場の支配人オトリ氏は次のように言う。「もし朝の6時から夜の9時までの労働時間を許す法律があれば、われわれには(!) 非常にありがたいのだが、朝の6時から夕方の6時までという工場法の時間は、われわれには(!) 適しない。……われわれの機械は、昼食時間中は」(なんという寛大さ)「止められる。この休止からは、紙や絵の具のこれというほどの損失は生じない。」「しかし」、と彼は同情的につけ加える、「それに付随する損失が好ましいものでないということはわかる。」〉

  このパラグラフは先の10パラグラフに直接続くものです(初版やフランス語版では次の12パラグラフも含めて一つのパラグラフになっています。しかし全集版ではあいだに原注72が挟まっているので、違うパラグラフにせざるを得ません)。
  だからこのパラグラフの前半部分は、〈マンチェスターの一工場の業務担当社員スミス〉の供述の続きです。ここで〈尊貴複数〔君主が「私」と言う代わりに使う「われわれ」〕にひどく執着しているこのスミス氏は〉という部分は、初版では〈複数の陛下〔われわれ〕にこうもひどく執着する当のスミス氏は〉(江夏訳268-269頁)となっておりますが、フランス語版では簡単に〈このスミスは、満足げにあざ笑いながらこうつけ加える〉(江夏・上杉訳247頁)となっています。初版や全集版ではスミス氏に対する皮肉を込めた表現にしたのだと思いますが、私たちにとってはフランス語版の説明で十分でしょう。
  〈業務執行社員〔出資者である社員のなかで業務執行をまかされている社員〕であるスミス氏〉(フランス語版)は、「機械労働はたやすい」というのに対して、木版刷りで壁紙を印刷している使用者は「手労働は機械労働よりも健康的だ」と言い合っていますが、しかし一般に工場主たちは「せめて食事時間に機械を止めよう」という提案には一致して断固として反対するのだそうです。
  しかしバラのある壁紙工場の支配人氏は、われわれの機械は昼食時間中は止められるが、この休止による損失は大したことはない、と述べているということです。ただそれに付随する損失がわずかでも好ましくないということはわかると反対する工場主たちに同情しているということです。
  しかしそうした「寛大さ」を示す彼も、工場法に定める朝6時から夕方の6時までという標準の労働時間には反対し、われわれには適しないと述べ、夜の9時までだとありがたい、などと述べているということです。


◎第12パラグラフ(壁紙工場の続き)

【12】〈委員会報告書は素朴に次のように言っている。時間、すなわち他人の労働を取得する時間を失い、またそれによって「利潤を失う」といういくつかの「有力会社」の心配は、13歳未満の子供や18歳未満の少年に12-16時間にわたって昼食を「とらせないでおく」ための、または、蒸気機関に石炭や水をやったり羊毛に石鹸をつけたり車輪に油をつけたりするように--生産過程そのもののあいだに単なる労働手段の補助材料として--彼らに昼食をあてがうための、「十分な理由」ではないのである(75)。〉

  これは壁紙工場について述べている部分の最後のものになります。ややわかりにくい文章になっています。初版の方がまだましですが、ここではフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈委員会報告書は素朴にも、次のような見解を示している。すなわち、他人の労働時間を少し減らすことで、幾らかの利潤を失うのではないかという懸念は、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12時間ないし16時間のあいだ昼食をとらせないでおくための「充分な理由」でもなければ、蒸気機関に石炭や水を、車輪に油を給するなどのように、一言にして言えば、生産の経過中に労働手段に補助材料を供給するように、彼らに昼食を支給するための「充分な理由」でもない(40)、と。〉(江夏・上杉訳247-248頁)〉

  要するに、委員会報告の述べていることは、労働時間を減らすことで、利潤を失うのではないか、と懸念する資本家たちに対して、それは13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12時間ないし16時間ものあいだ昼食をとらせないでおくための、十分な理由にはならないと述べているわけです。そしてそれは蒸気機関に石炭や水を供給し、車輪に油を給するなどのように、生産の経過中に労働手段に補助材料を供給するのと同じことであり、彼らに昼食をとらせることは、生産に必要不可欠な経費なのだ、と言いたいのだと思います。

  〈羊毛に石鹸をつけたり〉の部分に、新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈羊毛にふくまれる脂肪質を除去するために、マルセル石鹸とアンモニアの水溶液を使用する。〉(424頁)


◎注73

【73】〈73 『児童労働調査委員会。1863年』、付録、123、124、125、140ページ。〉

  これはだい12パラグラフの最後に付けられた原注ですので、このパラグラフ全体にかかるものです。委員会報告の紹介がなされているものの典拠でしょう。


◎第13パラグラフ(製パン業ほど古風な生産様式を今日まで保持しているものは一つもない)

【13】〈イギリスのどの産業部門を見ても、製パン業ほど--(近ごろやっと始まったばかりの機械製パンは別として)--古風な、じつに、ローマ帝政時代の詩人たちの作品から想像できるように古風な、前キリスト教的な生産様式を今日まで保持しているものは一つもない。しかし、資本は、前に述べたように、自分が征服する労働過程の技術的な性格にはさしあたりは無関心である。資本は労働過程をさしあたりは自分の目の前にあるとおりの形で取り入れるのである。〉

  このパラグラフから製パン業が問題になっています。製パン業についてはこのあと第21パラグラフまで続いています。
 マルクスには『ティー・プレッセ』に寄稿した「パンの製造」という小論文があります(1862年10月30日付、第299号、以下、「小論文」と略、全文を付属資料に紹介)。その内容がこのパラグラフ以下の製パン業の部分と重なるものが多いので、それを参考に紹介しながら見ていくことにしましょう。
  ここではまず製パン業は古風で前キリスト教的な生産様式を保持している部門だという指摘があります。「小論文」にも次のような叙述があります。

  〈イギリス人は、その「鉄と蒸気の環境のなかでの思想」を非常に誇りにしているのであるが、突如として、自分たちが、ノルマン人侵入の時代の太古のフランク族のようなやり方で“staff of life"(「生命のささえ」)を製造していることを発見したのである。唯一の重要な進歩は、近代化学によって不純物の混入が容易になったことにある。……最も直接的な需要〔をみたす部門〕は、従来多少とも頑固に大工業の影響をまぬかれてきたこと、そして太古から伝えられた、どうしようもないほど面倒な手工業の方法によって充足されることを予期していることを、われわれは見いだすであろう。(全集第15巻530頁)

  つまり製パン業は最近やっと始まったばかりの機械を使った製パンは別にして、資本によって経営されているなかでは、いまだにそれまでの技術をそのまま受け継いでいる部門だということのようです。
  ここで〈資本は、前に述べたように、自分が征服する労働過程の技術的な性格にはさしあたりは無関心である。資本は労働過程をさしあたりは自分の目の前にあるとおりの形で取り入れるのである〉とあるのは、第5章の「第1節 労働過程」の第22パラグラフで〈資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである〉(全集第23a242-243頁)」と述べていたことを指しているのではないでしょうか。
  いずれにせよイギリスの当時の製パン業というのは、資本主義的な生産様式にいまだ変革されていない旧式の様式をそのまま受け継いでいる部門だったということです。

  ところで、ここでは〈(近ごろやっと始まったばかりの機械製パンは別として)〉と機械製パンについてはついでにサラと述べている程度ですが、「小論文」では機械製パンについてはかなり詳しく論じています。それを紹介しておきましょう。

  〈じっさい、スティーヴンのパンこね機がすでに2、3のところでは採用されている。これと似た別の機械が一つ、産業博覧会に出されている。両方ともまだパン焼工程のあまりにも大きな部分を手労働にゆだねている。これにくらベると、ドーグリッシュ博士はパン製造の全方式を変革してしまった。これでは、小麦粉が倉を出た瞬間からパン焼き窯でパンができあがるまで、まったく人手をかけずにおこなわれる。ドーグリッシュ博士は完全にパン種をやめて、醗酵過程を炭酸を使ってなしとげる。彼は、パン焼きをふくめて、製パンの全作業を8時間から30分に短縮している。夜間労働は完全になくなる。炭酸ガスの使用は、不純成分の混入をすべてさしとめる。発酵方法が変わったことによって、だがとくに、いままでのように、糠(ヌカ)--フランスの化学者メージュ・ムリエスによれば穀粒の最も栄養のある部分--の3分の3を破壊してしまわないで、穀粒の珪酸質の外皮を除去するアメリカ人の発明を新式機械と結合することによっても、大幅な節約がなしとげられる。ドーグリッシュ博士の計算によれば、彼の処理法で、イギリスにとって年800万ポンド・スターリングの小麦粉が節約されるであろう。さらに、石炭消費も節約される。蒸気機関をも勘定にいれた石炭の費用は、窯あたりで1シリングから3ペンスに減少する。最良の硫酸から製造される炭酸ガスの値段は、〔小麦粉〕1袋あたりおよそ9ペンスであるが、パン種は現在パン屋にとって1シリング以上についている。
  ドーグリッシュ博士のいまや非常に改良された方法をもちいた一製パン所が、すでにすこしまえに、ロンドンのある場所に、波止場ちかくのバーモンジにつくられたが、営業所の場所がよくないために、また廃業してしまった。現在、同じような施設がポーツマス、ダブリン、リーズ、バース、コヴェントリでいとなまれていて、聞くところでは、非常に良い成績をおさめているとのことである。最近イズリングトン(ロンドンの郊外都市)にドーグリッシュ博士がみずから監督して建設したマニュファクチュアは、販売よりも、むしろ労働者の訓練を目的としている。パリの市営製パン所では、機械を採用するための大規模な準備がおこなわれている。
  ドーグリッシュの方法が一般に普及すれば、現在のイギリスの製パン業の親方たちの多数は、少数の大製パン工場主のたんなる代理業者に変わってしまうだろう。彼らは、もはや生産そのものにはたずさわらないで、かろうじて小売にたずさわることになろう。--大多数の親方にとっては、けっしてとくに苦痛な転身ではない。というのは、事実上、彼らはすでに現在大製粉業者の代理業者にすぎなくなっているからである。機械製パンの勝利は、これまでの要害堅固であった中世的手工業の隠れ場を攻略する、大工業の歴史の転換点を示すものとなるであろう(全集第15巻532-533頁)


  ((3)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(3)

2023-07-14 12:40:31 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(3)


◎第14パラグラフ(製パン業の続き。パンの不純製造)

【14】〈信じられないほどのパンの不純製造、ことにロンドンでのそれが、「食料品の不純製造に関する」下院委員会(1855-1856年)とハッスル博士の著書『摘発された不純製品』とによってはじめて暴露された(74)。この暴露の結果は、「飲食料品不純製造防止のための」〔"for preventing the adulteration of articles of food and drink"〕1860年8月6日の法律だったが、それは効果のない法律だった、というのは、もちろんそれは不純品の売買によって「正直にもうけよう」〔"to turn an honest penny"〕とするどの自由商業主義者にたいしても最大の思いやりのあるものだからである(75)。委員会自身も、自由商業は本質的には不純品の、またはイギリス人がしゃれて言う「ごまかし品」〔“sophisizierte Stoffe"〕の取引を意味する、という自分の確信を多かれ少なかれ素朴に表明した。じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」〔“Sophistik"〕は、白を黒とし、黒を白とすることをプロタゴラスよりもよく心得ているし、いっさいの実在的なものがただの仮象にすぎないことを目の前に実証して見せることをエレア学派〔75〕よりもよく心得ているのである(76)。〉

  ここではまずパンに不純物が混ぜられて製造されている実態が指摘され、その暴露とともに「飲食料品不純製造防止のための」法律が制定されたが、それは効果のない法律だったことが指摘されています。というのは、その法律というのが業者に思いやりのあるものだったからだというのです。要するに自由商業というものは多かれ少なかれ何らかのごまかしや駆け引きを常にを伴うものだというのが委員会自身の考えだったからということです。
  マルクスの「小論文」でも不純物混入については詳しく論じています。

  〈イギリスの古い諺(コトワザ)に、人はだれでも、たとえどんなにすぐれた人物でますも、一生のうちに“a speck of dirt"(大枡(マス)いっぱいのこみ) を食べねばならぬ〔英語の言いまわしで「ごみを食べる」とは、「屈辱を忍ぶ」の意。〕、というのがある。しかし、これは精神上の意味でであった。ジョン・ブルは、自分が、最も粗野な生理上の意味で、明けても暮れても、小麦粉、明馨、クモの巣、ゴキブリ〔black beetles〕、それに人間の汗の途方もない混ぜ物〔mixtum compositum〕を食しているのだということに、気がついていない。彼は聖書に詳しいのだから、人はそのひたいに汗してパンを得るということを、とうぜん知っていた。だが、人間の汗がパンのこね粉に香料成分としてはいらなければならないということは、彼にはまったく耳新しいことであった。〉(全集第15巻530頁)

  〈イギリス人がしゃれて言う「ごまかし品」〔“sophisizierte Stoffe"〕〉の部分は新日本新書版では〈この種の「混じりもの作り(ゾフィスティ)」〉となっています。そして〈ゾフィスティ〉には次のような訳者注がついています。

  〈ギリシアの弁論術・修辞学を業としたソフィストたちにちなみ、「詭弁を弄する」と「混ぜ物をする」の二義をかけた言い方〉(426頁)

  〈じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」〔“Sophistik"〕は、白を黒とし、黒を白とすることをプロタゴラスよりもよく心得ているし、いっさいの実在的なものがただの仮象にすぎないことを目の前に実証して見せることをエレア学派〔75〕よりもよく心得ているのである(76)〉という一文はマルクス特有の難しさがありますが、要するに、粗悪品の製造といっても、ブルジョア的な自由商業を基礎とする限りは、あれこれのごまかしは当然であり、ただそれをあれこれと言い繕うてごまかすだけのものでしかないということでしょう。それをマルクスはギリシャ哲学の観念的な屁理屈をコネ回す哲学者にアナロジーさせてややしゃれて言っただけではないでしょうか。あまり深く詮索する必要はないと思います。
  ついでにこの部分の初版とフランス語版を紹介しておきましょう。

  初版〈じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」は、白を黒とし黒を白とすることを、プロタゴラス(古代ギリシアの詭弁哲学者〕よりもよく心得ているし、いっさいの実在が仮象にすぎないことを自の前で実証することを、エレア学派〔古代ギリシア哲学の一派で、一元論を主張し、運動も諸現象の多様性も仮象にすぎぬと説く。〕 よりもよく心得ているのである(76)〉(江夏訳270頁)
  フランス語版〈そして実際に、この種のソフィスト的ごまかしは、白を黒とし黒を白とすることには、プロタゴラス〔古代ギリシアの詭弁哲学者〕よりも通暁しているし、また、すべてが仮象にほかならないことを眼の前で証明することには、エレア学派〔古代ギリシア哲学の観念論学派〕よりも通暁しているのである(43)。〉(江夏・上杉訳248-249頁)

  また全集版には〈エレア学派〉に注解73が付けられていますので、それを紹介しておきます。

  〈(73) エレア学派--紀元前6世紀および5世紀の古代ギリシア哲学の観念論学派で、その最も重要な代表者はクセノファネス、パルメニデス、ゼノンであった。エレア学派が特に論証しようとしたのは、運動も諸現象の多様性も現実界には存立せず、ただ思考のなかだけに存立するということであった。〉(全集第23a15頁)

  新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈「有るということ」が真の不変な実体であり、運動等は仮象にすぎないとするギリシア哲学の一派〉(426頁)

  〈プロタゴラス〉については人命索引から紹介しておきましょう。

  〈プロタゴラス,アブデラ出身のProtagoras aus Abdera(紀元前480ころ-411ころ)ギリシアの哲学者,ソフィスト,奴隷所有者民主制のイデオローグ.〉(全集第23b81-82頁)

  最後に、〈ソフィスト的ごまかし〉を生成AIに問うてみると、次のような答えが返ってきました。

  〈「ソフィスト的ごまかし」という用語は、ソフィストという古代ギリシアの弁論家・教育家のグループに由来します。ソフィストは、金銭を受け取って徳や弁論術などを教えるとされた人たちで、プロタゴラスやゴルギアスなどが有名です。ソフィストは、相対主義や懐疑主義の立場から、客観的真理や倫理的価値を否定し、詭弁や修辞を用いて相手を説得する技術を持っていました。そのため、ソフィストは、後世において詭弁家や危険思想家として批判されるようになりました。
  「ソフィスト的ごまかし」という用語は、このようなソフィストの手法になぞらえて、事実や真理に基づかないで、言葉の巧みさや説得力で相手をだますことを指します。例えば、「人間は万物の尺度」というプロタゴラスの言葉を引用して、自分の主張が正しいと言い張ることや、「存在しないものについては何も言えない」というゴルギアスの論法を使って、相手の反論を封じることなどが、「ソフィスト的ごまかし」の例として挙げられます。このような「ソフィスト的ごまかし」は、哲学者 ソクラテス や プラトン などによって厳しく批判されました。
  「ソフィスト的ごまかし」は、現代でも政治やビジネスなどの分野で見られることがあります。事実や根拠に基づかないで、感情や先入観に訴えるような話術やプレゼンテーションは、「ソフィスト的ごまかし」と呼ばれることがあります。このような「ソフィスト的ごまかし」に惑わされないためには、自分で情報を確認したり、論理的に考えたりすることが大切です。〉

  いかがでしょうか。


◎注74

【74】〈74 (イ)粉末にしたり塩をまぜたりした明馨(ミョウバン)が“baker's stuff"〔「バンのもと」〕という表示名をもつ標準商品なのである。〉

  これは〈信じられないほどのパンの不純製造、ことにロンドンでのそれが、「食料品の不純製造に関する」下院委員会(1855-1856年)とハッスル博士の著書『摘発された不純製品』とによってはじめて暴露された(74)。〉という本文につけられた原注です。
  粉末にしたり塩を混ぜた明礬が、そもそも「パンのもと」という製品名で売られているということです。
  これはいわゆる「ふくらまし粉」とは違います。ふくらまし粉は重曹などが反応して炭酸ガスを発生して、生地を膨らませるものですが、明礬は〈1価の陽イオンの硫酸塩と3価の金属イオンの硫酸塩の複塩の総称です。明礬にはいくつかの種類がありますが、一般にはカリウムミョウバン(硫酸カリウムアルミニウム十二水和物)を指すことが多い〉という説明があります(インターネット)。明礬そのものには毒性はないものの、多量に摂取すると、アルミニウムの過剰摂取は神経系に悪影響を及ぼすという指摘があります。あまり好ましくないものです。


◎注75

【75】〈75 煤(スス)は、よく知られているように・炭素の非常にエネルギーの大きい形態であって、資本家的煙突掃除業者がイギリスの農業者に売る肥料になっている。ところで、1862年のことであるが、イギリスの「陪審員」は或る訴訟事件で、買い手の知らぬまに90%の埃と砂をまぜた煤は、「商業的」意味での「ほんとうの」煤であるのか、それとも「法律的」意味での「不純にされた」煤であるのか、を決定しなければならなかった。「商業の友」〔“amis du commerce"〕は、それは「ほんとうの」商業上の煤であると決定して、原告の農業者を敗訴させ、原告はそのうえに訴訟費も負担しなければならなかった。〉

  これは〈この暴露の結果は、「飲食料品不純製造防止のための」〔"for preventing the adulteration of articles of food and drink"〕1860年8月6日の法律だったが、それは効果のない法律だった、というのは、もちろんそれは不純品の売買によって「正直にもうけよう」〔"to turn an honest penny"〕とするどの自由商業主義者にたいしても最大の思いやりのあるものだからである(75)〉という本文につけられた原注です。
  要するに混ぜ物を入れるのは、自由商業上では許されることであることが、煤の混ぜ物が「ほんとうの」商業上の煤だと陪審員が決定し、告発した農業者の訴えを棄却し、訴訟費用まで支払わせたことによっても明らかになったということです。つまり不純製造そのものは商業上の常識のたぐいで誰でもやっており、裁判でも公認されるほどだったということです。


◎注76

【76】〈76 フランスの化学者シュヴァリエは、商品の「ごまかし製造」に関する一論文のなかで、自分が検査している6百余種の品目のうちの多数について10種類も20種類も30種類もあるごまかし方法を数え上げている。彼はつけ加えて、自分はあらゆる方法を知っているわけではなく、また自分の知っている方法を全部あげるわけでもない、と言っている。彼は砂糖については6種のごまかし方をあげ、オリーブ油で9種、バタで10種、食塩で12種、牛乳で19種、パンで20種、ブランデーで23種、麦粉で24種、チョコレートで28種、ぶどう酒で30種、コーヒーで32種、等々をあげている。主なる神でさえもこの運命は免れられない。ルアル・ド・カル『聖体の偽造について』、パリ、1856年、を見よ。〉

  これは〈委員会自身も、自由商業は本質的には不純品の、またはイギリス人がしゃれて言う「ごまかし品」〔“sophisizierte Stoffe"〕の取引を意味する、という自分の確信を多かれ少なかれ素朴に表明した。じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」〔“Sophistik"〕は、白を黒とし、黒を白とすることをプロタゴラスよりもよく心得ているし、いっさいの実在的なものがただの仮象にすぎないことを目の前に実証して見せることをエレア学派〔75〕よりもよく心得ているのである(76)。〉という本文につけられた原注です。
  フランスの化学者が書いた商品の「ごまかし製造」に関する論文には、さまざまな商品のごまかし方法についてどれだけの種類があるかが詳細に示されているということです。

  〈フランスの化学者シュヴァリエ〉には新日本新書版では次のような訳者注がついています。

  〈主著に『食物、薬物、および商品内実の変造と不純物混和の辞典。鑑別法の指示を示を付す』、パリ、1850-1852年、全2巻がある〉(426頁)

  ウィキペディアから紹介しておきましょう。

  〈ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルール(仏: Michel-Eugène Chevreul, 1786年8月31日 - 1889年4月9日)は、フランスの化学者。脂肪酸の研究で知られる。マルガリン酸の発見や、動物脂肪とアルカリから作られる石鹸の製法の開発者とされる。102歳まで生き、晩年は老年学の先駆者となった。……(以下略)〉


◎第15パラグラフ(製パン業の続き。不純製造の監督から過度労働の規制へ)

【15】〈ともあれ、委員会は公衆の目を自分の「日々のパン」に、したがってまた製パン業に、向けさせた。それと同時に、公の集会でも議会への請願でも、過度労働などについてのロンドンの製パン職人の叫びが響きわたった。その叫びがますます痛切になったので、すでにたびたび触れた1863年の委員会の一員でもあるH・S・トリメンヒーア氏が勅命調査委員に任命された。彼の報告(77)は、証人の口述とあいまって、公衆を、その心ではなくその胃袋を、かき乱した。聖書に精通しているイギリス人のことだから、人間は、神の恩寵で選ばれた資本家や地主や冗職牧師でないかぎり、額に汗してそのパンを食うぺき運命を背負わされているということは知っていたが、そのイギリス人も、人間は、毎日そのパンとして、明砦や砂やその他のけっこうな鉱物性成分は別としても、腫(ハ)れものの膿(ウミ)や蜘蛛(クモ)の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母をまぜ込んだいくらかの量の人間の汗を食わなければならないということは知らなかったのである。そこで、聖なる「自由商業」様にはなんのおかまいもなく、それまで「自由」だった製パン業は国家の監督官の監視のもとにおかれて(1863年の議会会期末)、同じ法律によって、18歳未満の製パン職人には夜の9時から朝の5時までの労働時間は禁止された。この最後の条項は、われわれにこんなにも昔を思わせるこの営業部門での過度労働について、あますところなく物語るのである。〉

  ここで〈委員会〉というのは〈「食料品の不純製造に関する」下院委員会〉のことですが、もともとはパンの不純製造に関する調査を行う委員会だったのですが、それが公衆の目を日々のパンや製パン業に向けさせて、それと同時に、製パン業での過度労働に抗議する製パン職人の声を高める結果になったということです。
  またここで〈たびたび触れた1863年の委員会〉というのは〈『児童労働調査委員会。1863年』〉のことでしょう。その高まった苦情のに対処するために、その委員会の一員でもあるトリメンヒーアが〈勅命調査委員(新日本新書版では「王国調査委員」)〉に新たに任命され、報告書を提出したのですが、それが公衆の心をではなく胃袋を揺り動かしたということです。
  というのはその調査報告によれば、毎日食べるパンに〈明砦や砂やその他のけっこうな鉱物性成分は別としても、腫(ハ)れものの膿(ウミ)や蜘蛛(クモ)の巣や油虫の死骸や腐ったドイツ酵母をまぜ込んだいくらかの量の人間の汗〉まで含んでいることがわかったというのです。というわけで、それまで「自由」であった製パン業は国家監督官によって監督されることなり、それと同時に18歳未満の製パン職人に対しては、夜の9時から朝の5時までの労働時間が禁止されたということです。ということはそれまではそんな時間におかまいなしに製パン職人はこき使われていたということでもあるわけです。
  ここらあたりはマルクスの「小論文」にも詳しく次のように書かれています。

  〈ロンドンの製パン所の日雇労働者たちは、彼らの極度に悲惨な状態にかんする陳情書を議会に雨あられと舞いこませた。内務大臣は、こうした陳情にかんする報告者ならびにいわぽ予審判事に、トレメンヒア氏を任命した。暴風雨信号をだしたのは、トレメンヒア氏の報告書である。
  トレメンヒア氏の報告書は、二つの主要部分にわかれている。第一部は製パン所における労働者の困窮を描写し、第二部はパン製造じたいにまつわるいまわしい秘密を暴露している。
  第一部は、製パン所の日雇労働者を「文明の白色奴隷」として描写している。彼らの平日の労働時間は、晩の11時ごろに始まり、午後3時ないし4時までつづく。労働は週末になるとふえる。ロンドンの大部分の製パン所では、木曜の晩の10時から土曜の夜まで、労働は休みなくつづけられる。ここの労働者はほとんど肺病で死んでいるが、その平均年齢は42歳である。
  次にパンの製造じたいについてであるが、それはほとんどが、せまい、地下の、換気が悪いかあるいはまったく換気しないあなぐら部屋でおこなわれている。換気が悪いうえに、水はけのよくない下水溝から悪臭が発散し、「発酵過程にあるパンは、まわりをくまなく取り囲んでいる有毒ガスを吸収する」。クモの巣、ゴキブリ、大鼠、小鼠どもが、「こね粉といっしょにすりつぶされる」。
  トレメンヒア氏は言う。
  「非常に認めたくないことであるが、こね粉はほとんどいつもパンこね工の汗を、そしてしばしばもっと病的な分泌物を吸収しているという結論を、私は出さざるをえなかった。」
  最も優良な製パン所でもこうしたぞっとするような不快な事態をまぬかれてはいないが、それがなんとも言いようのないほどになるのは、貧民にパンを売っている製パン小屋であって、ここでは小麦粉への明馨や燐酸カルシゥムの混入もまったくほしいままにおこなわれている。
  トレメンヒア氏は、パンへの不純物の混入にかんするもっときびしい法律、さらに製パン所を政府監督下におくこと、「若年者」(つまり18歳未満の者)にたいする労働時間の、朝の5時から晩の9時までへの制限などを提案しているが、古い生産様式そのものから生ずる弊害を除去することは、もっともなことながら、議会にたいしてではなく、大工業に期待している。〉(全集第15巻531-532頁)


◎注77

【77】〈77 『製パン職人の苦情に関する報告書』、ロンドン、1862年、および『第二次報告書』、ロンドン、1863年。〉

  これは〈1863年の委員会の一員でもあるH・S・トリメンヒーア氏が勅命調査委員に任命された。彼の報告(77)は〉という本文に付けられた原注です。つまりトリメンヒーアが出した報告書の表題が紹介されています。
  全集第15巻の注解297には次のようにあります。

  〈(297) これは、トレメンヒア編『パン焼き職人の苦情にかんして女王陛下の内務大臣に提出された報告書。証言の付録とも』、ロンドン、1862年、をさしている。〉(全集第15巻657頁)


◎第16パラグラフ(製パン業の続き。トリメンヒーアの報告書から)

【16】〈「ロンドンの製パン職人の労働は、通例、夜の11時に始まる。この時間に彼はこね粉をつくるのであるが、それはひどく骨の折れる過程で、1釜のパンの大きさと品質とに応じて30分から45分つづく。次に彼は、こね板、というのは同時にこね粉をつくるおけのふたにもなるのであるが、このこね板の上に横になって、1つの麦粉袋を頭の下に置きもう1つの麦粉袋をからだの上にのせて数時間眠る。それから4時間の激しい絶えまない労働が始まり、こね粉を投げたり、秤ったり、型に入れたり、かまどに押し込んだり、かまどから取り出したりする。あるパン焼き場の温度は75-90度であり、小さいパン焼き場ではそれより低いことよりも高いことのほうが多い。食パンや巻きパンなどをつくる仕事がすめば、パンの配達が始まる。そして、日雇い人のかなりの部分は、前に述べたような激しい夜業をすませてから日中はパンをかごに入れてかついだり手押し車に載せて家から家に運んだりし、またそのあいだには何度もパン焼き場で作業する。季節や営業規模に応じて労働は午後1時と6時とのあいだに終わるが、職人のもう一つの部分は深夜おそくまでパン焼き場で働いている(78)。」「ロンドン季節〔ロンドンの社交季節で初夏のころ〕には、パンを『定価』で売るウェストエソドの製パン業者の職人は、通例は夜の11時に仕事を始め、1度か2度の、ときには非常に短い中休みをはさんで、翌朝の8時までパン焼きに従事する。それから彼らは4時、5時、6時、じつに7時までもパンの配達に使われ、また時にはパン焼き場でビスヶット焼きをすることもある。すっかり仕事をすませてから、彼らは6時間の、しばしばたった5時間か4時間の睡眠をとる。金曜にはいつももっと早く、たとえぽ夜の10時に労働が始まって、パンの製造とか配達とかで中断なしに翌土曜の夜の8時まで、また多くはずっと日曜の朝の4時か5時までも、労働が続く。パンを『定価』で売る一流の製パン工場でも、やはり日曜には4時間か5時問翌日のための準備作業をしなければならない。……『安売り親方』〔“underselling master"〕」(パンを定価より安く売る親方)、「しかも前に述ぺたようにロンドンの製パン業者の4分の3以上はこれなのだが、こういう親方の製パン職人は、労働時間はもっと長いのであるが、しかし彼らの労働はほとんどまったくパン焼き場だけに限られている。というのは、彼らの親方は、小さな小売店に供給するほかは自分の店で売るだけだからである。週末に近くなると……つまり木曜には、ここでは労働は夜の10時に始まって、わずかばかりの中休みがあるだけで、ずっと日曜の夜明け前まで続くのである(79)。」〉

  これはトリメンヒーアの報告書からの抜粋です。マルクスの「小論文」でも報告書の〈第1部は製パン所における労働者の困窮を描写し〉ているとし、〈第一部は、製パン所の日雇労働者を「文明の白色奴隷」として描写している。彼らの平日の労働時間は、晩の11時ごろに始まり、午後3時ないし4時までつづく。労働は週末になるとふえる。ロンドンの大部分の製パン所では、木曜の晩の10時から土曜の夜まで、労働は休みなくつづけられる。ここの労働者はほとんど肺病で死んでいるが、その平均年齢は42歳である〉と書いていましたが、恐らくその第1部に該当する分からの抜粋と思われます。「小論文」では簡単に書かれていましたが、ここでは報告書そのものからの引用という形で詳しく紹介されています。


◎注78.79

【78.79】〈78 前出『第一次報告書』、別付6-7ページ。
                    79 同前、別付71ページ。〉

  これは第16パラグラフの引用の典拠を示すものです。トリメンヒーアの 『製パン職人の苦情に関する報告書』の別付からの抜粋ということのようです。全集第15巻の注解で紹介されている報告書の名前はトレメンヒア編『パン焼き職人の苦情にかんして女王陛下の内務大臣に提出された報告書。証言の付録とも』、ロンドン、1862年、となっていますが、
恐らく〈別付〉というのは、〈証言の付録〉の部分かも知れません。


◎第17パラグラフ(製パン業の続き。リード『製パン業史』と第一次報告書・証言)

【17】〈「安売り親方」〔“underselling master"〕については、ブルジョア的立場でさえも「職人の不払労働(the unpaid labur of men) が彼らの競争の基礎をなしている(80) 」と理解している。そして、「定価売り製パン業者」〔“full priced baker"〕は、自分の「安売り」競争相手たちを、他人の労働の盗人で不純品製造者だとして、調査委員会に告発している。
  「彼らは、ただ、公衆をだますことによって、また彼らの職人から12時間分の賃金で18時間を引き出すごとによって、成功しているだけである。(81)」〉

  ロンドンには二種類のパン製造業者があり、一つは〈パンを『定価』で売る一流の製パン工場〉、もう一つは〈『安売り親方』〔“underselling master"〕」(パンを定価より安く売る親方)、「しかも前に述ぺたようにロンドンの製パン業者の4分の3以上はこれなのだが、こういう親方の製パン職人は、労働時間はもっと長い〉と先のパラグラフでは書かれていましたが、ここでは後者の「安売り親方」の下では、ブルジョア的な立場からでも〈「職人の不払労働(the unpaid labur of men) が彼らの競争の基礎をなしている(80) 」と理解している〉ということです。ここで〈不払労働〉というのは、支払労働に対する不払労働という意味ではなく(もしそういう意味ならそれは剰余労働という意味でしかない)、むしろいわゆる「サービス労働」という意味でしょう。あるいは時間外労働をやらされてもそれに見合った支払がないということです。
  これは〈「定価売り製パン業者〉が不当な競争相手として〈「安売り親方〉を調査委員会に告発しているのですから、まさにブルジョア的な立場からみても〈「安売り親方〉のもとでの労働というのは無償労働という過酷な搾取にもとづいているというわけです。すなわち彼らは〈12時間分の賃金で18時間を引き出すごとによって、成功しているだけ〉だというのです。

  マルクスは「第6篇 労賃」において、このパラグラフとほぼ同じ問題を論じています。それを参考のために紹介しておきましょう。

  〈われわれの記憶にあるように、ロンドンの製パン業者には二つの種類があって、一方はパンを標準価格で売り(the“fullpriced" bakers)、他方は標準価格よりも安く売っている(“the underpiriced",“the underaselling")。「標準価格売り」業者は議会の調査委員会で自分たちの競争者を次のように非難する。
  「彼らは、ただ、第一には公衆を欺き」(商品の不純化によって) 「第二には自分の使用人から12時間労働の賃金で18労働時間をむさぼり取ることによってのみ、生存している。……労働者の不払労働(the unpaid labour) は、競争戦をやりぬくための手段になっている。……製パン業者間の競争は、夜間労働を廃止することの困難の原因である。自分のパンを麦粉の価格につれて変わる原価よりも安く売っている安売り業者は、自分の使用人からいっそう多くの労働をたたき出すことによって、損失を免れている。私は私の使用人から12時間の労働しか取り出さないのに、私の隣人は18時間か20時間を取り出すとすれば、彼は販売価格で私を打ち負かすにちがいない。もしも労働者が時間外労働にたいする支払を要求することができれば、こんなやり方はすぐにおしまいになるであろう。……安売り業者の使用人のかなり多数は、外国人や少年少女などで、彼らはほとんどどんな労賃でも自分たちの得られるだけのもので満足せざるをえないのである。(44)」

  (44)『製パン職人の苦情に関する報告書』、ロンドン、1862年、別付52ページ、および証言、第479、第359、第27号。しかし、標準価格で売る業者たちも、前にも述べたように、また彼らの代弁者であるベネット自身も認めているように、彼らの使用人に「夜の11時かまたはもっと早くから作業を始めてしぽしばそれを翌晩の7時までも続け」さぜている。(同前、22ページ。)

  この泣き言が興味をひくのは、資本家の頭にはどんなに生産関係の外観だげしか映じないものかをそれが示しているからである。資本家は、労働の正常な価格もまた一定量の不払労働を含んでいるということも、この不払労働こそは自分の利得の正常な源泉であるということも、知ってはいないのである。剰余労働時間という範疇は彼にとってはおよそ存在しないのである。なぜならば、それは、彼が日賃金のなかに含めて支払っていると信じている標準労働日のなかに含まれているからである。とはいえ、彼にとっても時間外労働、すなわち労働の通例の価格に相応する限度を越えた労働日の延長は、やはり存在する。しかも、彼の安売り競争者にたいしては、彼はこの時間外労働にたいする割増払(extra pay) をさえも主張するのである。彼はまた、この割増払も通常の労働時間の価格と同様に不払労働を含んでいるということも知ってはいない。たとえば、12時間労働日の1時間の価格は3ペンスで、1/2労働時間の価値生産物であるが、時間外の1労働時間の価格は4ペンスで、2/5労働時間の価値生産物であるとしよう。前の場合には資本家は1労働時間のうち半分を、あとの場合には3分の1を、代価を支払わずに取り込むのである。〉(全集第23b巻712-713頁)


◎注80

【80】〈80 ジョージ・リード『製パン業史』、ロンドン、1848年、16ページ。〉

  これは第17パラグラフの前半部分の引用の典拠を示すものです。


◎注81

【81】〈81 『報告書(第一次)。証言』。「定価売り製パン業者」チーズマンの証言、108ページ。〉

  これも第17パラグラフの後半部分の引用の典拠を示すものです。〈『報告書(第一次)。証言』〉というのはトレメンヒーアの報告書のことで、そこに付けられた「証言付録」のなかの〈「定価売り製パン業者」チーズマンの証言〉からの引用ということです。


◎第18パラグラフ(製パン業の続き。パンの不純製造と労働日の無制限な延長と夜間労働の背景)

【18】〈パンの不純製造と、パンを定価より安く売る製パン業者部類の形成とは、イギリスでは18世紀の初め以来、この営業の同職組合的性格がくずれて名目上の製パン親方の背後に資本家が製粉業者や麦粉問屋の姿で立ち現われてから、発達した(82)。それとともに、資本主義的生産のための、労働日の無制限な延長や夜間労働のための、基礎が置かれた。といっても、夜間労働はロンドンにおいてさえ1824年にはじめて本式に足場を固めたのであるが(83)。〉

  このパラグラフはほぼマルクスの文章からなっていますが、文節に分けて検討する必要はないでしょう。
  ここではパンの不純製造と安売り業者の形成は、18世紀の初め以来、同職組合的な性格が崩れて、製パン親方の背後に資本家による製粉業者や麦粉問屋の形で立ち現れてからだと指摘されています。要するに中世的な同職組合制度がくずれて資本主義的生産が背後に誕生してくることによって、不純製造や安売り業者も生まれてきたのだということです。
  そして資本主義的生産のための労働日の無制限な延長や夜間労働の強制もまた生まれてきたということです。といっても夜間労働が本式に足場を固めるのは1824年になってからだと述べています。夜間労働と交替制については時節で取り扱われます。


◎注82

【82】〈82 ジョージ・リード、前出。17世紀の末から18世紀の初めにかけては、ありとあらゆる営業に侵入してくる問屋はまだ当局によって「公的不法妨害者」〔“Public Nuisances")として非難された。たとえば、サマセット州の四半期治安判事法廷の大陪審は下院にたいして一つの「告発」〔“presentment"〕を行なったが、そのなかではなかんずく次のように述ぺでいる。「ブラックウェル・ホールのこれらの問屋は、公的不法妨害者であり織物業に害をなすものであって、妨害者として抑圧されるべきである。」(『わがイギリス羊毛の事例』、ロンドン、1685年、6、7ページ。)〉

  これは〈パンの不純製造と、パンを定価より安く売る製パン業者部類の形成とは、イギリスでは18世紀の初め以来、この営業の同職組合的性格がくずれて名目上の製パン親方の背後に資本家が製粉業者や麦粉問屋の姿で立ち現われてから、発達した(82)。〉という本文につけられた原注です。
  リードの『製パン業史』によれば、〈18世紀の初め〉以前でも、すでに問屋制は徐々に浸食していたが、いまだ「公的不法妨害者」として非難されていた存在だったと書いています。大陪審が下院に対して〈妨害者として抑圧されるべき〉と告発するほどだったということです。しかしそれが18世紀初め以降は資本主義的生産の先駆けとして、製パン親方たちの背後に製粉業者や麦粉問屋の形で浸食し、それが製パン業者のなかに不純製造や安売り親方などが生じてきた背景だったのだというわけです。


◎注83

【83】〈83 『第一次報告書』、別付8ページ。〉

  これは〈それとともに、資本主義的生産のための、労働日の無制限な延長や夜間労働のための、基礎が置かれた。といっても、夜間労働はロンドンにおいてさえ1824年にはじめて本式に足場を固めたのであるが(83)〉という本文につけられた原注です。
  〈労働日の無制限な延長や夜間労働〉については、第16パラグラフで紹介されていた『第一報告書』からの引用のなかでも具体的に指摘されていましたが、しかしそれらは製パン業という特殊な職種にまつわるものです。しかし夜間労働そのものが本格的に足場を固めたのは1824年以降だということだす。


◎第19パラグラフ(製パン業の続き。製パン職人の短命)

【19】〈以上に述べたところからわかるであろうように、この委員会報告書は製パン職人を短命な労働者に数え、彼らは、労働者階級のどの部分でも常則になっている幼時死亡を幸いに免れたのちも、42歳まで生きることはまれだとしているのである。それにもかかわらず、製パン業はいつでも志願者であふれている。ロンドンへのこの「労働力」の供給源は、スコットランドであり、イングランドの西部農業地帯であり、そして--ドイツなのである。〉

  このパラグラフもマルクスよるものですが、文節に分けての考察は省略します。
  ここではトリメンヒーアの委員会報告の締めくくりとして、製パン職人の短命を指摘しています。マルクスの「小論文」でも〈ここの労働者はほとんど肺病で死んでいるが、その平均年齢は42歳である。〉(全集第15巻531頁)と書かれていました。
  にも関わらず製パン業への就業希望者はあふれているということです。その労働力の供給源はスコットランドであったり、イングランドの西部農業地帯であったり、さらにはドイツだあったりするということです。
  製陶業を取り扱った第6パラグラフでもスタフォードシャ病院の医長アーレッジの証言のなかに〈「……この地方の住民の退化(degenerescence) がもっとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげであり、より健康な種族との結婚のおかげである。」〉とありました。


   ((4)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(4)

2023-07-14 12:12:26 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(4)


◎第20パラグラフ(製パン業の続き。アイルランドの製パン職人)

【20】〈1858-1860年には、アイルランドの製パン職人は、夜間労働と日曜労働とに反対する運動のための大集会を自費で組織した。公衆は、たとえば1860年のダブリンの5月集会で、アイルランド人的熱情で彼らに味方した。この運動によって、ウェクスフォード、キルケニー、クロンメル、ウォータフォード、等々では夜間労働なしの昼間労働が実際に首尾よく実現された。
  「賃職人の苦痛が人も知るようにあらゆる限度を越えていたリメリクでは、この運動は、製パン親方、ことに製パン兼製粉業者の反対にあって失敗した。リメリクの実例は、エニスやティペラリでの敗退を招いた。公衆の不液が最も激しい形で表明されたコークでは、親方たちは、職人を追い出すという自分たちの権力の行使によってこの運動を失敗に終わらせた。ダブリンでは親方たちは最も頑強に抵抗し、運動の先頭に立った職人たちをい、じめることによって、そのほかのものに譲歩を強制し、夜間労働と日曜労働に服すること、を強制した(84)。」
  アイルランドですきまなく武装していたイギリス政府の委員会も、ダブリンやリメリクやコークなどの無情な製パン親方たちにたいしてはただ哀れっぼく抗議して次のように言うのである。
  「本委員会の信ずるところでは、労働時間は自然法則によって制限されているのであって、この法則は罰なしに犯されるものではないのである。親方たちが彼らの労働者に、その宗教的信念にたいする違背や国法の侵犯や世論の無視を、追放という威嚇をもって強制することによって」(宗教的信念にたいする違背などということはすべて日曜労働に関するものである)「彼らは資本と労働とのあいだに悪意を起こさせ、また宗教や道徳や公共の秩序にとって危険な一例を与えるものである。……本委員会の信ずるところでは、12時間を越える労働日の延長は労働者の家庭的および私的生活の横領的侵害であり、また、1人の男の家庭生活を妨害し、息子、兄弟、夫、父としての彼の家族義務の遂行を妨害することによって、有害な道徳的結果を招くものである。12時間を越える労働は、労働者の健康を破壊する傾向があり、早老や若死にを招き、したがってまた労働者家族が家長からの世話や扶助をそれが最も必要な時期に奪い取られる(“are deprived") という不幸を招くものである(85)。」〉

  このパラグラフは同じ製パン業の問題ですが、それまではロンドンの製パン業だったのが、今回はアイルランドの製パン業が問題になっています。
  アイルランドの製パン労働者は、夜間労働と日曜労働に反対して立ち上がり、大衆集会を開いて抗議したということです。その結果、ところによっては夜間労働が禁止されたところもあったということですが、しかし製パン親方の頑強な抵抗にあって挫折させられたということが書かれています。そして『1861年のアイルランド製パン業調査委員会報告書』からの引用がありますが、それは製パン親方に哀れっぽく訴えるような内容でしかないことが指摘されています。
  ここで〈アイルランドですきまなく武装していたイギリス政府の委員会も〉というのがいま一つピント来ませんが、新日本新書版では、この部分は〈イギリス政府はアイルランドにおいて寸分のすきなく武装しているのであるが、〉となっています。ついでに初版とフランス語版、イギリス語版も紹介しておきましょう。

  〔初版〕〈アイルランドで完全武装していたイギリス政府の委員会は
  〔フランス語版〕〈アイルランドで全身武装していたイギリス政府の委員会は
  〔イギリス語版〕〈英国政府委員会は、その政府は、アイルランドで、歯に至るまで武装して、そのことをいかに示すかをよく知っていたのだが

  どうもよく分かりませんが、イギリス語版が一番分かりやすいような気がします。イギリス語版はこのあとも部分も続けて紹介しますと、次のようになっています。

  〈英国政府委員会は、その政府は、アイルランドで、歯に至るまで武装して、そのことをいかに示すかをよく知っていたのだが、柔らかく、あたかも葬式に参列したかのような声色で、容赦しようともしないダブリン、リメリック、コーク他の、製パン親方達に次の様に忠告した

  要するにイギリス政府はアイルランドに対しては完全武装して望むほど強権的に対応するのですが、製パン労働者の過度労働の問題に関しては、アイルランドの製パン業の容赦のない親方たちに対して、ただへりくだって、哀れっぽくお願いするだけなのだ、ということではないでしょうか。つまり〈すきまなく武装していた〉という文言は、〈ただ哀れっぼく抗議して次のように言う〉という文言に対比させるためのものではないかと思います。


◎注84.85

【84.85】〈84 『1861年のアイルランド製パン業調査委員会報告書』。
                    85 同前。〉

  これは第20パラグラフに出てくる二つの引用の典拠を示すものです。


◎第21パラグラフ(スコットランドの農業労働者の闘いとロンドンの鉄道労働者の過度労働)

【21】〈われわれは今までアイルランドにいた。海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者が、この黎(スキ)を扱う男が、酷烈きわまる風土のさなかで日曜の4時間の追加労働(この安息日のやかましい国で!)をともなう彼の13時間から14時間の労働を訴えており(86)、同時に他方ではロンドンの大陪審の前に3人の鉄道労働者が、すなわち1人の乗客車掌と1人の機関手と1人の信号手とが立っている。ある大きな鉄道事故が数百の乗客をあの世に輸送したのである。鉄道労働者の怠慢が事故の原因なのである。彼らは陪審員の前で口をそろえて次のように言っている。10年から12年前までは自分たちの労働は1日にたった8時間だった。それが最近の5、6年のあいだに14時間、18時、20時闘とねじあげられ、そして遊覧列車季節のように旅行好きが特にひどく押し寄せるときには、休みなしに40-50時間続くことも多い。自分たちも普通の人間であって巨人ではない。ある一定の点で自分たちの労働力はきかなくなる。自分たちは麻痺に襲われる。自分たちの頭は考えることをやめ、目は見ることをやめる。あくまで「尊敬に値するイギリスの陪審員」〔“respectable British Juryman"〕は、彼らを「殺人」〔“manslaughrer"〕のかどで陪審裁判に付するという評決を答申し、一つの穏やかな添付書のなかで次のようなつつましやかな願望を表明する。鉄道関係の大資本家諸氏は、どうか将来は、必要数の「労働力」の買い入れではもっとぜいたくであり、代価を支払った労働力の搾取では「もっと節制的」か「もっと禁欲的」か「もっと倹約的」であってもらいたい、と(87)。〉

  先のパラグラフではアイルランドの製パン労働者の闘いが紹介されていますが、今度はスコットランドの農業労働者が、やはり酷烈な気候のなかでの長時間労働を訴えて立ち上がっているということです。
  またロンドンの鉄道事故がセンセーショナルに報じられたが、事故の背景には鉄道労働者の過酷な労働の実態があることが裁判のなかで明らかになったことが紹介されています。にも関わらず、鉄道労働者の労働条件の改善が指示されるのではなく、この場合も、陪審員はただ鉄道会社の資本家に労働力の搾取ではもっと禁欲的で倹約的であって欲しいとお願いするだけだったということです。

  〈彼らを「殺人」〔“manslaughrer"〕のかどで陪審裁判に付するという評決を答申し〉という部分は、新日本新書版では〈彼らを「“故殺"*」のかどで陪審裁判に付すという票決でもって答え〉となっていて、次のような訳者注がついています。

  〈* 過失致死など、殺意なく不法に人を殺すこと。「謀殺」の反対語。〉(434頁)

  因みに初版は〈“manslaughrer"(殺人罪)〉、フランス語版は〈過失致死〈manslaughrer〉、イギリス語版は〈殺人の罪〉になっています。


◎注86

【86】〈86 1866年1月5日の、グラスゴーに近いラスウェードでの農業労働者の公開集会。(1866年1月13日の『ワータマンズ・アドヴォケート』紙を見よ。)1865年末以来、まずスコットランドで、農業労働者のあいだに労働組合が結成されたことは、一つの歴史的な事件である。イングランドの最も抑圧されていた農業地方の一つであるバッキンガムシャでは、1867年3月、賃金労働者が、週賃金を9-10シリングから12シリングに引き上げさせるための一大ストライキを行なった。--(前述のことからもわかるように、イギリスの農業プロレタリアートの運動は、1830年のあとの彼らの激しい示威運動が鎮圧されてからは、また、ことに新たな救貧法の実施以後は、まったく中絶していたが、60年代には再び始まって、ついに1872年に至って画期的なものになるのである。この点には第2巻で立ち帰ることにするが、同様に、イギリスの農村労働者の状態について1867年以来刊行されている青書にもそこで言及することにする。第3版への補足。)〉

  これは〈海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者が、この黎(スキ)を扱う男が、酷烈きわまる風土のさなかで日曜の4時間の追加労働(この安息日のやかましい国で!)をともなう彼の13時間から14時間の労働を訴えており(86)〉という本文に付けられた原注です。

  ここで〈グラスゴーに近いラスウェードでの〉という部分は新日本新書版では〈エディンバラ*近くのラウスウェイドにおける〉となっていて、次のような訳者注が付いています。

  〈*ドイツ語原本では、初版以来「グラスゴウ」となっているが、誤り。各国語版では訂正されている。ラスウェイドはエディンバラ南東の村〉(434頁)

  因みに初版やフランス語版は同じですが、イギリス語版では訂正されています。なお初版やフランス語版ではこの原注は最初の部分だけで(〈……一つの歴史的な事件である。〉までで)短いものになっています(付属資料参照)。
  〈イングランドの最も抑圧されていた農業地方の一つであるバッキンガムシャでは、……〉以下の部分はマルクスの第三版への追加によることが新日本新書版では訳者注として挿入されています。
  つまりこの原注そのものは第22パラグラフのスコットランドの農業労働者の闘いについて、その情報原を示すととにも、スコットランドで農業労働者のあいだで労働組合が結成されたことの歴史的意義を確認するものだったのですが、その後、それに関連して、イングランドの農業労働者の闘いも付け加えられたということのようです。
  そしてさらに(   )に入れた追加がなされたことが分かります。この括弧内の文章は、イギリスの農業労働者の闘いは、1830年の激しい示威運動が鎮圧されたあと、さらに救貧法が実施されたあとは、鎮静していたが、それが再び運動が始まり1872年に至って画期的なものになったと書かれています。

  〈救貧法〉の部分は新日本新書版では〈救貧法*〔1834年〉となっていて、つぎのような訳者注がついています。

  〈* 救貧法は、イギリスの貧民救済と取り締まりを目的とした、16世紀にはじまる法律。貧民に救済を与える一方で、労働能力のある者を強制労働させる労役場を教区に設け、そこで働かぬ者は浮浪者として苛酷に取り締まった。〉(434頁)

   また新日本新書版では〈この点には第2巻で立ち帰ることにするが、同様に、イギリスの農村労働者の状態について1867年以来刊行されている青書にもそこで言及することにする〉という部分にも訳者による次のような挿入文があります。

  〈現行版の『資本論』の第2部および第3部には、この記述は見あたらない。〉(433頁)

  つまりマルクスはこのように〈第2巻で立ち帰る〉と書いていますが、実際にはそれに該当すものは見あたらないのだそうです。


◎注87

【87】〈87 『レノルズ・〔ニューズ〕ペーパー』、1866年1月〔21日〕。引き続いて、同じ週刊紙は毎週のように『恐ろしい大事故』、『戦標の悲劇』などという「センセーショナルな見出し」のもとにたくさんの新しい鉄道事故を報道している。これに答えてノース・スタフォード線の一労働者は次のように言っている。「機関手や火夫の注意が一瞬でもゆるめばその結果がどうなるかは、だれでも知っている。そして、ひどい悪天候のなかで休むひまもなく無制限に労働を延長されては、どうしてそうならずにいられようか? 毎日現われる一例をあげれば、次のようなことがある。今週の月曜、ある火夫が早朝から彼の1日の仕事を始めた。彼は14時間50分後にそれを終わった。茶を飲むひまさえなく、彼はまたもや仕事に呼び出された。こうして、彼は29時間15分のあいだ絶えまなしに労苦を続けなければならなかった。彼の1週間の仕事の残りは次のように組まれていた。水曜15時間、木曜15時間35分、金曜14時間半、土曜14時間10分。1週間分合計88時間30分。そこで、彼がたった6労働日分の支払しか受け取らなかったときの彼の驚きを想像せよ。この男は新まいだったので、1日の仕事とはなんのことか、と尋ねた。答え、13時間、だから1週間では78時間。では余分の10時間40分にたいする支払はどうなるのか? 長い争論のあげくに、彼は10ペンス」(10銀グロシェンにも足りない)「の手当を受け取ったのである。」同前、1866年2月4日号。〉

  これは第21パラグラフの後半部分の鉄道事故とそれに関する鉄道労働者の裁判所での陳述の内容の情報源を示すものですが、同時にそれに関連する鉄道労働者の追加的な言及が取り上げられています。それを見ると鉄道労働者の苛酷な労働の実態が具体的に暴露されています。


◎第22パラグラフ(さらなる過度労働の二つの具体例)

【22】〈殺された人々の霊がオデュッセウスのもとに押しかけたよりももっと熱心にわれわれのところに押しかけてくる、そして腕に抱えた青書がなくても一目で過度労働の色が見てとれる、あらゆる職業とあらゆる年齢と男女両性の色とりどりの労働者群のなかから、われわれはさらに二人の人物を取り出してみよう。この二人がなしている著しい対照は、資本の前では万人が平等だということを示している。それは、婦人服製造女工と鍛冶工である。〉

  このパラグラフは、それまで見てきた過度労働の数々の例を振り返りつつ、さらに二つの例を見てみようとする繋ぎのパラグラフといえます。

  全集版より初版やフランス語版の方が分かりやすいので、両方を紹介しておきましょう。

〔初版〕〈打ち殺された人々の霊が、オデュッセウス〔ギリシアの伝説上の英雄〕のもとに群れをなして押しかけたよりももっと熱心に、われわれのところに群れをなして押しかけてくるし、小脇にかかえた青書を見なくても一目で超過労働が察せられるというような、ありとあらゆる職業とあらゆる年齢の男女から成る雑多な労働者群のなかから、われわれはさらに、2人の人物--この2人の人物の顕著な対照が、すべての人間は資本の前では平等であるということを、示しているのだが--、婦人服裁縫女工鍛冶工とを、選び出してみよう〉(江夏訳277頁)
〔フランス語版〕〈地獄でオデュッセウス〔ギリシアの伝説上の英雄〕の前に現われた死の亡霊よりもさらに数多くわれわれの前に現われ、その小脇に抱えた青書を開かなくても一見して過度労働の跡が認められるような、あらゆる職業とあらゆる年齢と男女両性の労働者の雑多な群衆のなかから、われわれはついでにもう2人の人物を取り上げよう。この2人の顕著な対照が、すべての人間は資本の前で平等である、ということを証明してくれる人物--婦人服製造女工と鍛冶工--を〉(江夏・上杉訳254頁)

  ついでに訳者注がついている新日本新書版も紹介しておきます。

  〈あらゆる職業、性からなる労働者たちの種々雑多な群れが、オデュッセウスに群がり寄る打ち殺された人々の魂魄(*)よりもずっと熱心にわれわれのところに群がり寄る。そしてその小わきにかかえた青書を見なくても一目で彼らの過度労働が見てとれる、この群れのなかからわれわれは、さらにもう二人の人物--婦人服仕立女工と鍛冶工とを取り出そう。彼らのいちじるしい対照ぶりは、資本の前での万人が平等であることを実証するのである。
  *〔ホメロス『オデュッセイア』、第11書、第34行以下。呉茂一訳、岩波文庫、上、326ページ以下。冥界に着いたオデュッセウスが羊の血をいけにえにささげ、亡母や戦死者などの霊を呼び出し、それと語り合う場面をさす〕〉(434-435頁)

  これまで見てきたさまざまな過度労働によって殺されてきたあらゆる年齢や男女を問わない労働者たちの群れの魂は私たちの胸を打ちますが、さらに二人の人物(婦人服縫製工と鍛冶工)の例を取り上げようということです。


◎第23パラグラフ(20歳の婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリの死亡の例)

【23】〈1863年6月の最後の週に、ロンドンのすべての日刊新聞は、『単なる過度労働からの死亡』〔“Death from simple Overwork"〕という「センセーショナル」な見出しの記事を載せた。それは、ある非常に名声の高い宮廷用婦人服製造所に雇われていて、エリズというやさしい名の婦人に搾取されていた20歳の婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリの死亡に関するものだった。何度も語られた古い話が今また新たに発見されたのであって(88)、これらの娘たちは平均16時間半、だが社交季節にはしばしば30時間絶えまなく労働し、彼女たちの「労働力」がきかなくなると時おりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えられて活動を続けさせられるというのである。そしてそれはちょうど社交季節の盛りのことだった。新しく輸入されたイギリス皇太子妃のもとで催される誓忠舞踏会のための貴婦人用衣装を一瞬のうちにつくりあげるという魔術が必要だった。メアリ・アン・ウォークリは、ほかの60人の娘たちといっしょに、必要な空気容積の3分の1も与えないような一室に30人ずつはいって、26時間半休みなく労働し、夜は、一つの寝室をいくつかの板壁で仕切った息詰まる穴の一つで一つのベッドに2人ずつ寝た(89)。しかも、これは、ロンドンでも良いほうの婦人服製造工場の一つだったのである。メアリ・アン・ウォークリは金曜に病気になり、そして、エリズ夫人の驚いたことには、前もって最後の1着を仕上げもしないで日曜に死んだ。遅ればせに死の床に呼ばれた医師キーズ氏は、「検屍陪審」〔“Coroner's Jury"〕の前で率直な言葉で次のように証言した。
  「メアリ・アン・ウォークリは詰め込みすぎた作業室での長い労働時間のために、そして狭すぎる換気の悪い寝室のために、死んだのだ。」
  この医師に礼儀作法というものを教えるために、この証言にたいして「検屍陪審」は次のように言明した。
  「死亡者は卒中で死んだのであるが、その死が人員過剰な作業場での過度労働などによって早められたのではないかと考えられる理由はある。」
  われわれの「白色奴隷は」、と自由貿易論者コブデン、ブライト両氏の機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「われわれの白色奴隷は、墓にはいるまでこき使われ、疲れ果てて声もなく死んで行くのだ(90)。」〉

  このパラグラフは先のパラグラフで言及するとしていた〈二人の人物〉の例うち〈婦人服製造女工〉の場合です。
  ここでは1863年6月にさまざまな日刊紙にどぎつい見出しで記事になった婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリの過度労働による死亡について、それらの報道の内容を紹介する形で書かれています。『61-63草稿』の注解ではこのニュースを報じた新聞について、次のような指摘があります。

  〈〔注解〕……1863年6月にロンドンの新聞(とりわけ1863年6月24日付の『ザ・タイムズ』の“Worked to death…"という〔書き出しの〕記事、7ページ5段、同じく“Ten days ago…"という〔書き出しの〕記事、11ページ5段および6段、1863年6月23日付の『モーニング・スター』の記事「われわれの白色奴隷」、4ページ6段-5ページ1段)は、婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリの過度労働による死亡について報じた。〉 (草稿集④282頁)

  そこには婦人服製造女工の恐ろしいほどの過度労働の実態が生々しく描かれています。彼女らは30時間も休みなしに働かされ、しかも必要な空気容積もないような部屋で働き、とうとうメアリ・アン・ウォークリは死んでしまったというものです。


◎注88

【88】〈88 フリードリヒ・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、253、254ページ参照。〔本全集、第2巻、426-427(原)ページを見よ。〕〉

  これは〈何度も語られた古い話が今また新たに発見されたのであって(88)〉という本文につけられた原注です。エンゲルスの『状態』の参照箇所が挙げられています。エンゲルスは手工業では労働はより劣悪な条件でなされているとして、ロンドンの婦人装身具製造女工と縫製女工の例を紹介しています(付属資料参照)。


◎注89

【89】〈89 保健局勤務の医師レズビ博士はその当時次のように言明した。「大人に必要な空気の最小限度は、寝室で300立方フィート、居室で500立方フィートであるべきだ。」ロンドンのある病院の医長リチャードソン博士は次のように言っている。「各種の裁縫女工や婦人服製造女工や衣服製造女工や普通の裁縫女工は三重の困苦に悩んでいる--過度労働と空気不足と栄養不良または消化不良とである。概してこの種の労働は、どんな事情のもとでも、男よりも女のほうに適している。しかし、この営業の害悪は、それが、ことに首都では、26人ほどの資本家に独占されていて、彼らは、資本から生ずる(that spring from capital)権力手段によって、節約を労働からしぼり出す(force economy out of labour;彼の考えている意味では、労働力の乱費によって出費を節約する)ということである。彼らの権力は、この部類の女工全体のあいだで感知される。1人の女裁縫師がわずかな顧客でも獲得できたとすれば、競争は彼女に、客を失わないために自宅で死ぬほど労働することを強制し、そして必然的に彼女は自分の女助手たちにも同じ過度労働を押しつけなければならないのである。彼女の営業が失敗するか、または彼女が独立してやってゆけなくなれば、彼女は、労働がより少ないわけではないが支払が確実であるような店に助けを求める。そうなれば、彼女はただの女奴隷になり、社会の潮のみちひきにつれてあちこちに投げ出される。ある時は自宅の小部屋で飢えているか、または飢えかかっている。その次にはまた24時間のうち15時間か16時間も、じつに18時間も、ほとんど耐えられない空気のなかで働き、その食物は、品質がよい場合でも、きれいな空気が足りないので消化ができない。これらの犠牲によって肺病は生きてゆくのであって、それは一種の空気病にほかならないのである。」(リチャードソン博士『労働と過度労働』、所載、『ソーシァル・サイエンス・レヴェー』、1863年7月18日号。)〉

 これは〈これらの娘たちは平均16時間半、だが社交季節にはしばしば30時間絶えまなく労働し、彼女たちの「労働力」がきかなくなると時おりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えられて活動を続けさせられるというのである。そしてそれはちょうど社交季節の盛りのことだった。新しく輸入されたイギリス皇太子妃のもとで催される誓忠舞踏会のための貴婦人用衣装を一瞬のうちにつくりあげるという魔術が必要だった。メアリ・アン・ウォークリは、ほかの60人の娘たちといっしょに、必要な空気容積の3分の1も与えないような一室に30人ずつはいって、26時間半休みなく労働し、夜は、一つの寝室をいくつかの板壁で仕切った息詰まる穴の一つで一つのベッドに2人ずつ寝た(89)〉という本文につけられた原注です。
  最初は〈必要な空気容積の3分の1も与えないような一室に30人ずつはいって、26時間半休みなく労働し、夜は、一つの寝室をいくつかの板壁で仕切った息詰まる穴の一つで一つのベッドに2人ずつ寝た〉という本文に関連して、保険局勤務医師のレズビの大人に必要な空気の最小限度なるものが紹介されています。
  その次に、ある病院院長のリチャードソンの論文からの引用があり、縫製女工や婦人服製造女工の奴隷労働の実態が述べられています。これらはいずれも当時の労働者が如何に苛酷な労働条件のもとに働かされていたかを示すものです。


◎注90

【90】〈90  『モーニング・スター』、1863年6月23日。『タイムズ』紙は、ブライトたちに反対してアメリカの奴隷主を弁護するためにこの事件を利用した。同紙は次のように言う。「われわれの非常に多くが考えるところでは、われわれがわれわれ自身の若い婦人たちを鞭のうなりのかわりに飢餓の責め苦で死ぬまで働かせているあいだは、われわれには、奴隷主として生まれて自分たちの奴隷を少なくとも良く食わせ適度に働かせている家族に砲火や刀剣を向ける権利は、ほとんどないのである。」(『タイムズ』、1863年7月2日。)同じやり方で、トーリ党の機関誌『スタンダード』〔1863年8月15日〕は、ニューマン・ホール師を罵倒して次のように述べた。「彼は奴隷主たちを破門しているが、ロンドンの御者や乗合馬車の車掌たちを犬なみの賃金で1日にたった16時間労働させるような偉い人たちとは、いっしょに祈りを上げるのだ。」最後に、トマス・カーライル氏が神託を下したのであるが、彼については、私はすでに1850年に次のように述べたことがある(75)。「天才は消え失せ、崇拝が残っている」と。ある短い寓話のなかで、彼は現代史上のただ一つの大事件であるアメリカの南北戦争を、次のようなことに帰着させている。すなわち、北部のピーターは南部のポールの脳天を力いっぱいひっぱたこうとしているが、それというのも、北部のピーターは自分の労働者を「日ぎめ」で雇っているのに、南部のポールはそれを「一生涯雇いきりにしている」からだ、というのである。(『マクミランズ・マガジン』。アメリカの小イリアス、1863年8月号。)こうして、都市の--けっして農村のではない!--賃金労働者にたいするトーリ党的同情のあぶくは、ついにはじけた。その核心はすなわち--奴隷制!〉

  これは〈われわれの「白色奴隷は」、と自由貿易論者コブデン、ブライト両氏の機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「われわれの白色奴隷は、墓にはいるまでこき使われ、疲れ果てて声もなく死んで行くのだ(90)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは現在のイギリスの労働者のおかれた状況を、アメリカの黒人奴隷のおかれた状況と対比して、少しも変わらないではないかということを述べているものを『モーニング・スター』と『スタンダード』とカーライルの『マクミランズ・マガジン』紙のなかから引用紹介しています。
  『モーニング・スター』の記事は、『タイムズ』紙が自由貿易論者のブライトたちに反対するために、このあわれなメアリ・アン・ウォークリの死を、アメリカの奴隷主を擁護するために利用したと批判しています。つまりイギリス国内でこのような白色奴隷のもとで女工を殺しているわれわれは、少なくとも黒人奴隷を適度に食わせているアメリカの黒人奴隷主達を批判する資格はないというのです。
  トーリ党の機関紙『スタンダード』は、同じやり方で、南北戦争のときに北部を支持したニューマン・ホール師を罵倒して、彼はアメリカの奴隷主を破門したが、ロンドンの御者や乗合馬車の車掌たちを犬なみの賃金で働かせる偉い人たちには媚びるだと批判したということです。
  最後のトマス・カーライルについてですが、これも南北戦争について、北部の白色奴隷制は労働者を日ぎめで雇っているのに対して、南部の黒人奴隷制は黒人を一生涯雇いきりにしているというだけの違いで、北部は南部を攻めているのだというのです。
  マルクスが1850年に〈「天才は消え失せ、崇拝が残っている〉と述べたと書いていますが、これは『新ライン新聞、政治経済評論』1850年4月、第4号の書評のなかにある「1  トマス・カーライル編『近代論叢』、第1冊『現在』、第2冊『模範刑務所』、ロンドン、1850年」という論文です。言われている箇所は次のようなものです。

 〈ちなみに、ドイヅ交学全体のなかで、カーライルにもっとも影響を及ぼしたのは、ヘーゲルではなくて、文学の薬剤師であるジャン・ポールだったことは、特徴的である。
  このパンフレットのなかでは、カーライルがシュトラウスとともにしている天才崇拝から、天才がなくなって、崇拝だけが残っている。(全集第7巻260頁)

  〈最後に、トマス・カーライル氏が神託を下したのであるが〉という部分はフランス語版では〈最後に、天才崇拝〈hero workship〉の発明者であるチェルシイの巫(カンナギ)、トーマス・カーライルが語ったが〉(江夏・上杉訳256頁)となっています。

  〈アメリカの小イリアス〉という部分は、新日本新書版では〈「クルミの殻のなかのアメリカのイリアス*〉となっていて、次のような訳者注が付いています。

  〈* ホメロスの叙事詩『イリアス』全巻がクルミに収まるほどの細字でコピーされたと伝えるプリニウスの記述にもとづくもの〉(438頁)

  最後の〈こうして、都市の--けっして農村のではない!--賃金労働老にたいするトーリ党的同情のあぶくは、ついにはじけた。その核心はすなわち--奴隷制〉という部分は、フランス語版では〈最後に、トーリ党員たちは、彼らの博愛の最後の言葉を述べた。奴隷制! と〉(江夏・上杉訳256頁)となっています。
  要するに都市労働者へのトーリ党の同情というものの本音が透けて見えた、それは奴隷制の擁護だということでしょうか。


◎第24パラグラフ(鍛冶工の例)

【24】〈「死ぬまで労働することは、婦人服製造女工の仕事場だけでのことではなく、幾千の仕事場で、じつに商売の繁昌している仕事場ならばどこでも、日常の事柄である。……鍛冶工を例にとってみよう。詩人の言葉を信じてよいならば、鍛冶工ほど元気で快活な男はない。彼は早朝に起きて、太陽よりもさきに火花を散らす。彼はほかのだれよりもよく食い、よく飲み、よく眠る。ただ単に肉体的に見れば、彼は、労働が適度であるかぎり、じっさい人間の最上の状態の一つにある。だが、われわれは彼について都市に行き、この強い男に負わされる労働の重荷を見てみよう。また、わが国の死亡率表の上で彼がどんな地位を占めているかを見てみよう。マラルボウン」(ロンドンの最大区の一つ) 「では、鍛冶工は毎年1000人につき31人の割合で、またはイギリスの成年男子の平均死亡率よりも11人多い割合で、死んでいる。その仕事は、ほとんど本能的とも言える人間の一技能であって、それ自体としては非難するべきものではないが、それが、ただ労働の過重だけによって、この男を破壊するものになるのである。彼は毎日何度かハンマーを打ちおろし、どれだけか歩行し、どれだけか呼吸し、どれだけか仕事をして、平均してたとえば50年生きることができる。だれかが彼を強制して、どれだけかより多く打たせ、どれだけかより多く歩かせ、1日にどれだけかより多く呼吸させ、全部を合計して彼の生命支出を毎日4分の1ずつ増加させようとする。彼はやってみる。そして結果は、彼がある限られた期間に4分の1たくさんの仕事をして、50歳ではなく37歳で死ぬということである(91)。」〉

  このパラグラフは、第22パラグラフで〈あらゆる職業とあらゆる年齢と男女両性の色とりどりの労働者群のなかから、われわれはさらに二人の人物を取り出してみよう〉と述べて、〈婦人服製造女工と鍛冶工〉が挙げられていましたが、第23パラグラフで〈婦人服製造女工〉が取り上げられましたので、今回は〈鍛冶工〉を取り上げるわけです。〈この二人がなしている著しい対照は〉とマルクスが述べているのは、一方は若いが虚弱で肺病病みの女性労働者、他方は一見すると肉体的な健康を誇る肉体労働者という対照的な二人ですが、しかし結局は、〈資本の前では万人が平等だということを示している〉というのです。それはどうしてでしょうか。
  このパラグラフはすべて原注89)で引用されていたリチャードソン博士の『労働と過度労働』からの抜粋になっています。
  婦人服製造女工の過度労働による死というセンセーショナルな記事がありましたが、しかし死ぬまで労働することはどこでも日常のことであり、同じことだと述べています。そしていかにも健康的な印象を受ける鍛冶工の労働も同じことなのだと述べています。というのは彼らの死亡率が平均より高く、平均年齢も短いことからそれは窺い知れるからだということです。
  「過労死」という言葉は、決して昔の話ではなくて、今も“現役"です。まさに資本主義が資本主義であるかぎり、資本の本性は何一つ変わらず、過度労働による死は現実であり続けます。
  岸田首相は「異次元の少子化対策」などと言っていますが、「少子化」というのは、資本の搾取が過度になり、必要労働時間の確保さえできなくなってしまったこと、つまり労働力の再生産さえままならなくなってしまっていることを示しています。これが根本的な原因であって、小手先対処で克服できるようなものではないわけです。


◎注91

【91】〈91 リチャードソン博士『労働と過度労働』。所載、『ソーシァル・サイエンス・レヴュー』、1863年7月18日号。〉

  これは第24パラグラフで引用されていたものの典拠を示すものです。このリチャードソンの著書は原注89)でも引用されていたものです。


  (付属資料に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(5)

2023-07-14 11:43:00 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(5)


【付属資料】№1


●第1パラグラフ

《初版》

 〈われわれがこれまで、労働日の延長への衝動、剰余労働を求める人狼のような渇望を考察してきた領域は、イギリスのあるブルジョア経済学者の言うところによると、アメリカ・インディアンにたいするスペイン人の残虐にも劣らない無制限な無法(64)のために、資本がついには法的な取締りの鎖につながれることになった領域であった。いまや、われわれは、労働力の搾取が今日もなお無拘束であるかまたは昨日まで無拘束であった2、3の生産部門に、眼を向けてみよう。〉(江夏訳263頁)

《フランス語版》

 〈これまでわれわれは、アメリカ・インディアンにたいするスペイン人の残虐さにもほとんど劣らない資本の途方もない取り立て(30)のために、資本が法律によって鎖につながれたところでのみ、過度労働を研究してきた。さて、労働力の搾取が今日無拘束であるか昨日はまだ無拘束であった幾つかの産業部門を、一見することにしよう。〉(江夏・上杉訳242頁)

《イギリス語版》

  〈1) 我々は、ここまで、労働日の拡大に係る傾向を考察してきた。剰余労働に対する狼人間のごとき飽くなき渇望には、怪物的強制がともなった。それは、イギリスの一ブルジョワ経済学者をして、アメリカ大陸を征服したスペイン人が黄金のために行ったインディオに対する残虐さを上回るとは言わないが、と云わせたほどのものであった。しかるが故に、資本は最終的には法的規制の鎖に縛りつけられることになった。そこで、我々は、労働の搾取が法的規制から今日まで免れていた、または昨日までそうであったある産業部門について見て置くことにしよう。〉(インターネットから)


●注64

《61-63草稿》

 〈「労働は、資本を賃銀、利潤、あるいは収入を生じるものにする動因である」(ジョン・ウェイド『中間階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、161ページ〉。(ウェイドは、彼の著書の抽象的な経済学的部分では、少しばかりの、当時としては独創的なものを示している、--たとえば経済恐慌、等々。これにたいして、歴史的部分はその全体が、イギリスの経済学者たちのあいだで流行っている恥知らずな剽窃の適切な一例である。つまり彼は、サー・F・モートン・イーデンの『貧民の状態、または、ノルマン征服期から現在までのイギリス労働者階級の歴史』、全3巻、ロンドン、1797年、からほとんど逐語的に引き写しているのである。)〉(草稿集④150頁)

《初版》

 〈(64)「工場主たちの食欲、利得追求のさいの彼らの残虐は、スペイン人がアメリカ征服のとき金の追求のさいに犯した残虐に、ほとんど劣ることがなかった。」(ジョン・ウェイド『中産階級および労働階級の歴史、第3版、ロンドン、1835年』、114ページ。)一種の経済学原理であるこの本の理論的部分は、当時としては幾らか独創的なものを、たとえば商業恐慌について含んでいる。歴史的な部分は、サー・M・イーデンの『貧民の歴史『貧民の状態』の誤記〕、ロンドン、1799年』、からのあっかましい瓢窃である。〉(江夏訳263-264頁)

《フランス語版》

 〈(30) あるブルジョア経済学者は、次のように述べている。「工場主たちが貪欲であるために利得の追求において犯している残虐さは、スペイン人がアメリカ征服のとぎに金の追求において犯した残虐さに、ほとんど劣りはしなかった」(ジョン・ウェード『中産階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、114ページ)。この著書の理論的部分、すなわち一種の経済学概要は、当時としては、独創的なものを主として商業恐慌について含んでいる。歴史的部分は余りにもしばしば、サー・M・イーデンの著書『貧民の状態』、ロンドン、1797年、からのあつかましい剽窃である。〉(江夏・上杉訳242頁)

《イギリス語版》 なし。


●第2パラグラフ

《イギリスにおける労働者階級の状態》

  〈工場法の適用をうける4つの労働部門は、布地から衣服までの製造を目的としている。われわれは、ここではただちに、これらの工場から自分の原料をうけとるような労働者、しかもまずノッティンガム、ダービーおよびレスターの靴下編工のあとをおって述べるのが、いちばんよいであろう。これらの労働者については、児童雇用委員会の報告がつぎのように報じている。長い労働時間(これは低賃金にょって強制される)は、作業そのものの性質から生じるすわったままの生活様式や、目をつかれさせることといっしょになって、一般に身体を虚弱にし、とくに視力をよわくするのがふつうである、と。非常に強い光がないと、夜は仕事ができない。そこで編工は、光線を集中するためによくガラスのほやをつかうが、これが目を非常にいためる。14歳になると、ほとんどすべての編工は眼鏡をかけなければならない。そのさい、糸巻きと縫いもの(縁を折りかえして縫う仕事)をしている子供たちは、ふつうその健康と体質とに、いちじるしい障害をうける。彼らは、6歳、7歳、あるいは8歳のころから、ちっぽけな、うっとうしい部屋で、10時間ないし12時間も働く。多くの子供は、仕事のために虚弱となって、ごくふつうの家事の手伝いさえできないほどよわくなり、はやくも幼年時代のころから眼鏡をかけねばならなくなるほど近眼となる。腺病質的体質のあらゆる症候をそなえている子供が、委員たちによってたくさん発見された。そして工場主たちは、このような仕事をしていた娘は虚弱であるという理由で、たいてい工場で雇うのを拒否する。この子供たちの状態は「キリスト教国にとっての一汚点」とよばれ、また法的な保護をもとめる要請が述べられている(グレインジャー、報告の付録、第1部、Fの16ページ、132-142項)。工場報告はさらに、靴下編工はレスターでももっとも賃金の低い労働者である、と付言している--彼らは、毎日16時間ないし18時間も働いて、週に6シリング、非常に精だせば7シリングかせいだ。以前だと、20シリングから21シリングかせいだのだが、大型編機の採用は彼らの生業をだいなしにしてしまった。大部分の者は、あいかわらず旧式の、簡単な編機をつかって働いていて、機械の進歩と困難きわまる競争をしている。したがって、ここでもまた、どんな進歩もみな、労働者にとっては退歩となるのだ! だが、それにもかかわらず、靴下編工は、自分たちが自由であって、自分たちに食事や、睡眠や、仕事の時間を割り当てる工場の時鐘などまったくもっていない、ということを誇りにしている、と委員パワーは述べている。この種の労働者階級の状態は、賃金の点についてみれば、工場調査委員会が上記の言明をした1833年よりも、いまなおすこしも改善されていない--こうなったのも、それ自身食いものといえばほとんどなに一つもっていないザクセンの靴下編工の競争によるのである。この競争は、ほとんどすべての外国市場で、また品質のおとるものにあってはイギリスの市場でさえ、イギリス人に打撃をあたえている--ドイツの愛国的な靴下編工にとっては、自分の飢餓によってイギリスの靴下編工も失業させるということは、喜ばねばならないことではないだろうか? また彼は、ドイツエ業の名誉をたかめるために、誇りと喜びに胸をふくらませながら飢えつづけているのではないだろうか? それというのも、ドイツの栄誉は、編工の皿が半分しかいっぱいにならないことを要求しているからである。おお、競争とか、「諸国民の争闘」ということは、なんとすばらしいものではないか! 1843年12月の『モーニング・クロニクル』紙--これも自由主義的な新聞で、ことばのほんとうの意味におけるブルジョアジーの新聞である--には、ヒンクリのある靴下編工が、自分の仕事仲間の状態について報告した2、3の手紙が見うけられる。この編工は、わけても109台の編機で生活している50家族、あわせて321人について報告している。編機は、1台につき週平均5シリング6分の1の収益をもたらし、どの家族も、週平均11シリング4ペンスかせいだ。この収益のうちから、家賃、靴下編機の借り賃、石炭、灯火、石鹸、針のために、合計5シリング10ペンスが支出された。そこで、1日1人あたりの食料のためには1ペンス半--プロイセンの15ペニッヒ--が残り、衣服のためにはまったく残らなかった。
  「どんな目だって」、とこの靴下編工はいっている、「これらの貧しい人たちが耐えしのんでいる苦悩の半分も、見たことがないし、またどんな耳だって聞いたことがないし、どんな心だってわかったことがない。」
  寝具類はまったくないか、あるいは半数もなかった。子供たちはぼろを着て、はだしではしりまわっていた。男たちは目に涙をうかべていった。「われわれは、長い長いあいだひときれの肉も食ぺたことがない。われわれは、肉がどんな味のものかほとんどわすれてしまった」、と--そして、とうとう編工のなかのあるものは日曜日に働いた。世論は、日曜日の労働などすこしもゆるしはしなかったけれども、また編機のガチャガチャいう騒音は近所近辺に聞こえるにもかかわらず、おこなわれたのである。
  「しかし」とある編工はいった、「私の子供たちを見てくれ。そして、そんなことを聞くのはやめてくれ。私の貧乏がこんなことを私にさせるのだ。私が堂々とパンを入手できる最後の手段もとらないで、私の子供たちが、いつまでもパンをもとめて泣きさけぶのを、聞くこともできないし、また聞こうともおもわないのだ。先週の月曜目には私は3時ごろにおきて、真夜中ちかくまで働いたが、ほかの日でも、朝の6時から夜の11時、12時くらいまで働くのだ。私はこんなことをするのはいやだ。私は死にたくはないんだ。いまでは、私は毎晩10時ごろには仕事をやめ、そしてむだにした時間は、日曜日にとりかえしているんだ」と。
  賃金は、レスターでも、ダービーでも、またノッティンガムでも、1833年に比較して上がっていない。そして、いちばんわるいのは、レスターでは、すでにまえにも述べたように、トラック・システムがぎわめて広範におこなわれていることである。だから、この地方の靴下編工が、あらゆる労働運動に非常に活発な役割を演じるようになってきたし、また編機そのものがたいてい男たちの手で動かされるので、それだけいっそう熱心かつ効果的な役割を演じようになってきたことも、けっして驚くにはあたらないのである。
  靴下編工のくらしている地方と同じところに、レース製造業の中心地もある。前の三つの州には、全部で2760台のレース編機が動いているのに、イギリスのそのほかの部分には、わずかに786台あるにすぎない。レース製造業は、厳格におこなわれている分業によって非常に複雑なしくみになっていて、たくさんの部門をもっている。まず、撚糸を糸巻にまかねばならない。この仕事は、14歳以上の娘たちの手でおこなわれる(糸巻工 winders)。つぎに、糸巻が、8歳以上の少年たち(糸通し工 threaders)の手で機械にかけられる。糸は、機械1台につき平均1800個ある細い穴をとおされ、その所定の場所にみちびかれる。それから労働者がレースを編むわけだが、レースは、幅のひろい布のようになって機械からでてきて、ほんの幼い子供たちの手で、つなぎの糸がぬきとられ、1枚1枚のレースに仕分けられるのである--これはレースほどき(running lace) とか、レースぬき(drawing lace)とかよばれまた子供自身は、レースの解き手(lace-runner) とよばれる。それからレースは、売りにだせるまで仕上げられる--糸巻工も、糸通し工も、機械の糸巻がからになるとすぐに必要となるので、きちんとした労働時間はもっていない。そして、労働者は夜間も編むので、どんな時間にでも工場や、編工の作業室によばれるかもしれないのだ。こうした仕事の不規則さ、頻繁な夜業、そのために生じるめちゃくちゃな生活様式が、たくさんの肉体的および道徳的害悪、とくにあらゆる証人が一致して認めている放縦な、ませた性交を生みだす。作業そのものが、目に非常に有害である。糸通し工の場合には、永続的な害は一般には確認されていないが、それでもこの害は目の炎症をひきおこし、糸を穴にとおしているときには、目が痛んだり、涙がながれたり、視力が一時ぼけたりするようなことさえおこる。しかし、糸巻工の場合には、その作業が目をひどくいため、しばしば角膜炎のほかに白内障眼(ソコヒ)や、黒内障眼もひきおこすきがめずらしくないことは、確認されている。編工自身の作業は非常に困難である。それというのも、機械の幅が時とともにたえずひろく製作されるようになり、そのためいまでは、3人の成年男子によって動かされるような機械ばかりになっているからである。この3人は、それぞれ4時間ごとに他の者と交替するので、彼らは、3人全部を合計すると毎日24時間、そのひとりひとりは毎日8時間働くことになる。このことからも、機械をあまり長くとめておかないように、糸巻工と糸通し工とが、なぜこのようにしばしば夜も仕事をしなければならないかが、明らかになる。いずれにせよ、1800個の穴に糸巻の糸をとおすには、3人の子供で2時間かかる。多くの機械は蒸気力によっても動かされるので、成年男子の労働は排除される。そして、児童雇用委員会の報告は、子供たちの募集される「レース工場」についてしかいつも述べていないので、この点から推察すると、近ごろは編工の仕事が工場の大作業室に移されたか、それとも蒸気編みの応用がかなり一般化した、という結論がでてくるようにみえる。これら2つの場合とも、工場制度の進歩である。だが、もっとも不健康なのは解き手〔ラソナー〕の仕事である。彼らは、たいてい7歳、それどころか5歳または4歳の子供である。委員グレインジャーは、2歳の子供さえこの仕事にたずさわっているのを目撃した。精巧に編みあわされた編物から、針でぬきだされる同じ1本の糸をたどっていくことは、目に非常に有害である。ことに有害なのは、この仕事が、一般におこなわれているように、14時間ないし16時間も続行される場合である。もっとも害の少ない場合でも、極度にひどい近眼になり、最悪の場合には、しょっちゅうおこることではあるが、黒内障眼(ソコヒ)によって不治の盲目となる。ところがそのうえに、子供たちはいつも背をかがめてすわっているために、虚弱になり、息切れがし、消化不良によって腺病質になる。娘たちの場合には、子宮の機能障害はほとんど一般的にみられ、また脊椎の彎曲も同様である。そこで、「解き手はみんなその歩き方でわかる」。レースの刺繍も、同じ結果を目にも、体質全体にももたらす。レースの生産に従事している子供たちの健康が、いずれもはなはだしくそこなわれているということ、またこれらの子供は顔色がわるく、きゃしゃで、虚弱で、その年齢のわりに小さく、病気にたいする抵抗力もほかの者よりはるかによわいということは、医師の証人たちがみな一致して認めている。この子供たちのふつうの病気はつぎのとおりである。一般的な虚弱、たびたびの失神、頭・横腹・背中・腰の疼痛、心悸亢進(シンキコウシン)、吐き気、嘔吐と食欲減退、脊椎の彎曲、るいれきおよび肺結核。ことに、女性の身体の健康は、たえまなく、そしてはなはだしくそこなわれる。貧血症、難産および流産についての訴えは一般的であった(グレインジヤーの報告のいたるところ)。そのうえさらに、児童雇用委員会の同じ小委員〔グレインジャー〕は、つぎのように報告している。子供たちは、そまつな、ぼろぼろ着物を着ていることが非常に多く、食物も十分でなく、たいていパンとお茶だけで、しばしば数ヵ月間もまったく肉にありつかない、と。これらの子供たちの道徳的な状態については、グレインジャーは、つぎのように報告している。
  「ノッティンガムのすべての住民が、警察、僧侶、工場主、労働者、子供の両親自身が、現在の労働制度は不道徳を生みだすもっとも実りゆたかな源泉である、ということを一様に信じている。たいていは少年である糸通し工と、たいていは少女である糸巻工とは、工場では同じ時間に--ときには真夜中に必要である。そして彼らの両親は、彼らが工場でどのくらいのあいだ使われるか知ることができないので、彼らは、けしからぬ関係を結んだり、仕事のあとでいっしょに遊びまわったりする絶好の機会をもっている。このことが、世論によれば、ノッティンガムにものすごく広範に存在しているといわれる不道徳に、少なからず寄与している。それでなくても、これらの子供や若い人たちのぞくしている家族の家庭的な安らぎや、心地よさが、こうしたきわめて不自然な事態のために、まったく犠牲にされている」と。〉(全集第2巻422-426頁)

《61-63草稿》

 〈第一の例証ノッティンガムのレース製造業
  『デイリ・テレグラフ』、1860年1月17日付。
  「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日、ノッティンガム市の公会堂で開かれたある集会の議長として、次のように言明した。--地域住民のうちレース製造業に従事している部分には他の文明世界のどこにもまったく例がないほどの苦悩と窮乏とが存在している。……9歳から10歳の児童が朝の2時、3時、4時ごろ彼らの汚いベッドから引き離されて、ただ露命をつなぐだけのために夜の10時、111時、12時まで労働することを強制されるのであって、その間に児童の手足は衰え、骨格は萎縮し、顔は苦労をきざみ込み、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して見るも無残なありさまである。……われわれは、マリト氏やその他の工場主たちが敢然と進み出てあらゆる論議にたいして抗議したことに驚きはしない。……この制度は、モンタギュー・ヴァルピ師が描いているように、無制限な奴隷状態、つまり社会的にも肉体的にも道徳的にも精神的にも奴隷状態の制度である。……成人男子の労働時間を1日18時間に制限してもらいたいと請願するために公けの集会を開くような町があることを、いったいどう考えたらいいのだろうか?……われわれはヴァージニアやカロライナの綿花裁培者たちをロをきわめて非難している。だがしかし、徳らの黒人市場は、そこには鞭の恐怖や人肉売買があるとはいえ、ヴェールやカラーが資本家の利益のために製造されることのために行なわれているこの緩慢な人身御供にくらべて、それ以上に忌まわしいものと言えるのであろうか?」〉(草稿集④342頁)

《初版》

 〈「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市の公会堂で催されたある集会の議長として、当市の住民のうちレース製造に従事している人々のあいだでは、他の文明社会には例がないほどの苦悩と窮乏とが支配的している、と述べた。……朝の2時、3時、4時に、9歳ないし10歳の児童たち、きたないベッドから引き離されて、露命をつなぐだけのために夜の10時、11時、12時まで強制的に働かされ、その間に彼らの手足はやせ衰え、彼らの身長はちぢまり、彼らの顔つきは鈍くなり、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬直していて、見るもぞっとするようなありさまである。マレット氏やその他の工場主があらゆる論議にたいして異議をとなえるべく登場したことは、別に驚きはしない。尊師モソタギュー・ヴァルピ氏が記述しているように、この制度は、無制限な奴隷状態の制度、すなわち、社会的、肉体的、道徳的、知的といった点から見ても奴隷状態の制度である……。男子の労働時間は1日18時間に制限されるべきであると請願するために公の集会を催すような都市については、なんと考えるべきであろうか!……われわれはバージニアやカロライナの農場主をきびしく非難する。だが、彼らの黒人市場は、そこにどんな鞭の恐怖や人肉売買をもってしても、ヴェールやカラーが資本家の利益のため製造されるべく行なわれるこの緩漫な人間屠殺に比べて、よりいっそういまわしいものであろうか(65)?」〉(江夏訳264頁)

《フランス語版》

 〈「州治安判事ブロートン氏は、1860年1月14日にノッティンガム市役所で催された会合の議長として、市民のうちレース製造業に従事する部分では、残余の文明世界には知られていない貧困と窮乏の段階が支配している、と言明した。……9歳ないし10歳の児童たちが、朝の2時、3時、4時頃に不潔な寝床から追い立てられ、単なる糊口の資のため夜の10時、11時、12時まで労働することを強制される。痩せているために彼らは骸骨の状態に追い込まれ、身長は萎縮し、顔立ちは影がうすれ、体格のすべてが麻痺状態にこわばっているので、その容貌だけでも人を身震いさせる。……われわれは、マレット氏やその他の工場主があらゆる種類の討議にたいして抗議するために出席したことに、驚きはしない。……モンタギュー・ヴァルピ師が述べたように、この制度は無制限な奴隷状態の制度、社会的、肉体的、道徳的、知的なありとあらゆる観点での奴隷状態の制度である。……成人にとっての毎日の労働時間が18時間に短縮されるようにと請願するために、公の会合を主催する都市については、なんと考えるべきであろうか! ……われわれは、ヴァージニアやカロライナの栽培者たちをきびしく弾劾する。いったい、あらゆる鞭打ちの恐怖を伴う彼らの黒人奴隷市場は、彼らの人肉売買は、資本家の利潤のためにヴェールやシャツの襟を製造する目的でのみ行なわれるこの緩慢な人間殺戮よりも、恐ろしいであろうか(31)? 」〉(江夏・上杉訳242-243頁)

《イギリス語版》

  〈(2) ブロートン チャールトン州治安判事は、1860年1月14日、ノッチンガム議会で開催された会議の議長として、次のように述べた。「レース業界に関係する人々の大部分における、窮乏と苦難の状況は、英王国の他の地域や、世界の文明国では知ることができない程のものである。9歳または10歳の子供たちは、朝の2時、3時または4時に、彼等の汚いベッドから引きずり出され、かろうじての生存のために、深夜の10時、11時または12時まで働くことを強いられる。子供たちの手足はやせ細り、体はちぢこまり、顔は青白く、石のように麻痺したままで子供らしさは微塵も感じられない。本当に見るに忍びない。…我々は、マレット氏または、他のいかなる工場主が身を乗り出して、審議に反対の抗議をしようと、驚かされはしない。…この制度は、モンタギュー バルピー牧師が述べたように、厳格きわまりない奴隷制度そのものであって、社会的にも、肉体的にも、道徳的にも、精神的にも…人の労働時間は日18時間に減らされるべきであろうなどと云う申し立てのための公的会議を開催する町を我々は一体何と考えたらいいのか? …我々は、バージニアやカロライナの綿農園主を批難する。彼等の黒人市場、黒人を満載した船、黒人の人身売買が、ここで起こっている、資本家の利益のために編まれるベールや襟飾りの作業における、ゆるやかな人間性の喪失よりも、より忌まわしいものなのか。」〉(インターネットから)


●注65

《初版》

 〈(65) 1860年1月14日の『ロンドン・デーリー・テレグラフ』。〉(江夏訳264頁)

《フランス語版》

 〈(31) 『ロンドン・デーリー・テレグラフ』、1860年1月17日。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》  なし。


●第3パラグラフ

《初版》

 〈スタッフォードシャー陶器業(Pottery)は、最近23年間に、3たび議会の調査の対象になった。その結果は、「児童労働調査委員会」宛の1841年のスクリプン氏の報告書、枢密院医務官の命により公表された1860年のドクター・グリーンハウの報告書(『公衆衛生、第3回報告書』、第1巻、102-113ページ)、最後に、1863年6月13日の『児童労働調査委員会、第1回報告書』中の1863年のロンジ氏の報告書、のなかに記録されている。私の課題にとっては、1860年と1863年の報告書中のこき使われた児童たちの証言から、手短に抜粋すれば、それで充分である。児童の状態から、成人、ことに少女や婦人の状態を、しかも、ある産業部門(66)--この部門に比べると、綿紡績業等々は非常に快適で健康的な仕事のように思える--では、推論できるであろう。〉(江夏訳264-265頁)

《フランス語版》

 〈スタッフォードシャの製陶業は、最近22年間に、3回にわたる議会調査の原因になった。この結果は、1841年に「児童労働調査委員会」宛に提出されたスクリヴン氏の報告書、枢密院医官の命により1860年に公表されたドクター・グリーンハウの報告書(『公衆衛生、第3回報告書』、第1巻、102-113ページ)、そして最後に、1863年6月13日の『児童労働調査委員会、第1回報告書』につけ加えられたロンジ氏の報告書、のなかに記載されている。われわれの目的にとっては、1860年と1863年の報告書から、工場内で労働する児童たち自身の幾つかの証言を借用するだけで充分である。児童の状態によって、ある産業部門では成人、殊に婦人や少女の状態を判断することができるであろうが、この部門に比べれば綿紡績業は素晴らしく健康的で快適な場所のように思われてよい、と認めざるをえない(32)。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》

  〈(3) スタッフードシヤーの陶器製造業は、過去22年間で、3回、議会査問の対象となった。その結果は、1841年に「児童雇用コミッショナー」に提出されたスクリビン氏の報告書、1860年に枢密院の医務官の命令で公開されたグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書112-113 )、そして最後が、1862年のロンゲ氏の「第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年7月13日」に収録された報告書である。私の目的を達するには、搾取された子供たち彼等自身のいくつかの証言を、1860年と1863年の報告から引用すれば充分である。子供たちの証言からは、大人の、特に少女や女性の状況も推測される。そして、この産業部門から見れば、綿紡績部門が、好ましいもので健康的な作業場に見えると。(以下、これらの報告書から 訳者注)〉(インターネットから)


●注66

《イギリスにおける労働者階級の状態》

  〈スタッフォードシァの鉄工業地方の北部に、一つの工業地区があるが、われわれは、いまからこの地区へむかうことにしよう。すなわち製陶業(Potteries) のおこなわれている地区であって、その中心地はストーク市(borough)である。この都市は、合計6万〔7万の誤り〕の人口を擁するヘンリ〔ハンリの誤り〕、バーズレム、レーン・エンド、レーン・デルフ、エトルリア、コールリッジ〔コプリッジの誤り〕、ラングポート〔ロングポートの誤り〕、タンストールおよびゴールデン・ヒルの町村をふくんでいる。児童雇用委員会は、この工業についてつぎのように報告している。この製造業--陶磁器の--の2、3の部門では、子供たちは暖かい、風とおしのよい作業室で、らくな仕事をしている。ところが、そのほかの部門では、子供たちには困難な、骨のおれる仕事が要求されている。それなのに子供たちは、十分な食物も、ちゃんとした衣服ももらっていない。多くの子供たちがこううったえている。「食物が十分になく、たいていジャガイモと塩で、肉にも、パンにもまったくありつきません。学校にはいかないし、着物も持っていません。」-- 「きょうは昼飯をなんにも食べませんでした。家では昼飯を食うことなんかありません。たいていジャガイモと塩で、ときたまパンにありつきます。」--「これが私の持っている着物の全部です。家にも晴れ着はありません」と。とくに有害な仕事をしている子供たちのなかでも、型運び(mould-runners) については述べておく必要がある。型運びの連中は、かたちの仕上がった品物を型に入れたまま乾燥室にはこび、その後はじめの品物が適当に乾燥すると、からになった型を持ってかえらねばならない。このように型運びの子供たちは、1日じゅうその年齢のわりに重いものを持って、行ったり来たりしなければならない。そして、彼らはこういった仕事を高い温度のなかでしなければならないので、この高温が、彼らの疲労をいっそうはなはだしく増大させる。これらの子供たちは、ほとんどただ1人の例外もなく、やせて、青白く、虚弱で、小さくて、発育不良である。ほとんどすぺての子供たちが、胃病、嘔吐(オウト)、食欲不振になやみ、また彼らの多くが肺病で死ぬ。ろくろまわし(jigger)とよばれている少年たちも、型運びの子供たちとほとんど同じように虚弱である。この少年たちは、彼らのまわさなければならないろくろ台(jigger) の名にちなんで、こうよばれているわけである。しかし、ずっとひどく有害なのは、多量の鉛と、しばしばたくさんの砒(ヒ)素もふくんでいる液体のなかに、仕上がった品物をつけたり、または液につけたばかりの品物を手にとらねばならない人たちの仕事である。これらの労働者--成年男子と子供たち--の手と着物は、つねにこの液体でぬれている。皮膚はやわらかくなっていて、きめのあらい物をたえず扱うので、はがれてしまう。そこで、指はよく出血し、これらの危険な元素を非常に吸収しやすいような状態に、たえずおかれている。その結果は、胃や内臓の重病、しつような便秘、疝(セン)痛〔一定の時間をおいて周期的に現れることの多い,腹部の激痛〕、ときには肺病であり、もっとも頻繁におこるのは子供のてんかんである。成年男子の場合は、ふつう手の筋肉の部分的麻痺、すなわち画家の疝(セン)痛(colica pictorum) や手足全体の麻痺がおこる。ある証人の述べるところによると、この証人といっしょに働いていた2人の少年は、仕事中にけいれんをおこして死んだということである。また、少年のころ2年間、液に品物をつける手伝いをした経験のあるいま1人の証人は、つぎのように述べている。私は、はじめひどい下腹部の苦痛になやみました。それから、けいれんを1度おこし、そのために2ヵ月も病床につきました。それからというものは、けいれんはますます頻繁におこり、いまでは毎日のことで、1日に10回ないし12回もてんかん性の発作が頻発します。私の右半身は麻痺しています。そして医師の話では、私はもう2度と自分の手足をつかえるようにはならないとのことです、と。ある工場の浸潰(シンセキ)室〔浸潰とは液体につけひたすこと〕で働いていた4人の成年男子は、いずれもてんかん性の症状をていし、ひどい疵痛になやんでいた。また、2人の少年のうち、すでに2、3人はてんかん性の症状をていしていた。簡単にいえば、これらのおそろしい病気が、こうした仕事の結果として、まったく一般的におこってくるのであって、しかもこれがまた、ブルジョアジーのいっそう大きな金もうけのためなのである! 陶磁器をみがく作業室では、空気は、粉末となった硅(ケイ)石のごみで充満している。このごみを吸入することは、シェフィールドの研摩工が鋼鉄のごみを吸入するのと同じように、有害な作用をおよぼす。労働者たちの吸吸はくるしくなり、彼らは静かに横になることができず、傷ついた喉(ノド)や、ひどい咳にくるしみ、ほとんど聞きとれないくらいの低い声になってしまう。彼らもまたみんな肺病で死ぬ。陶磁器製造地方には、比較的多くの学校があり、子供たちに教育の機会をあたえているはずであるが、それでも子供たちは、非常に小さいときから工場にやられ、非常に長時間(たいてい12時間、しばしばそれ以上も)働かねばならないので、学校も利用することができない。そのために、委員たちの調査した子供の4分の3は、読むことも、書くこともできなかった。そして、この地方全体が無知のどん底にあった。何年間も日曜学校にかよった子供たちが、一つの文字をほかの文字と区別することができなかった。そして、この地方全体が、知的教育ばかりか、道徳教育においても、宗教においても、非常に低い水準にある(スクリヴン、報告と証言)。〉(全集第2巻440-442頁)

《初版》

 〈(66)エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249-251ページ、参照。〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈(32) エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、249-251ページ、を見よ。〉(江夏・上杉訳243頁)

《イギリス語版》  なし。


●第4パラグラフ

《初版》

 〈9歳のウィリアム・ウッドは「働き始めたときは7歳10カ月だった。」彼は最初から"ran moulds"した(できあがって型にはいった品を乾燥室に運び、そのあと空の型を持って帰った)。彼は平日は毎日、朝の6時にきて、夜の9時頃には仕事を終える。「私は平日には毎日晩の9時まで働いています。たとえば最近7-8週間はそうです。」つまり、7歳で15時間も働いた児童がいる! J・マレーという12歳の児童はこう供述している。「私は型を運び、turn jigger(ろくろをまわします)。私は朝の6時に、時には朝の4時にやって来ます。昨夜は今朝の8時まで夜どおし働きました。昨夜から寝ていません。私のほかにも8人か9人の児童が昨夜は夜どおし働きました。1人を除いて全員が今朝もまた来ています。私は週に3シリング6ペンス(1ターレル5グロシェン) もらいます。夜どおし働いてもそれ以上はもらえません。先週は2晩徹夜で働きました。」10歳の少年ファーニハフはこう言う。「私は、必ずしも昼食のためにまる1時間もらえるわけではありません。半時間だけのこともよくあります。木、金、土曜はいつでもそうです(67)。」〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈9歳のウィリアム・ウッドが「働きはじめたときは、7歳10カ月であった」。彼は「型運びをした」(坩堝(ルツボ)を乾燥場のなかに運び、次いで空の鋳型を持ち帰った)。このことを彼はいつも行なったのである。彼は1週間の毎日、朝の6時頃にやってきて、おおかた晩の9時頃に働くのをやめる。「私は毎日晩の9時まで働きます。たとえば最近7週ないし8週間はそうです」。なんとまあ、7歳の年から15時間も働いた児童がいる! 12歳の児童であるJ・マリーはこう述べている。「私は型運びをして、ろくろをまわします〈I run moulds and turn th'jigger〉。私は朝の6時に、ときどきは4時にやってきます。昨夜は今朝の8時まで夜どおし働きました。私はそれからは寝ませんでした。別の8人か9人の少年が、私と同じょうに昨夜は夜どおし働きました。私は毎週3シリング6ペンス(4フラン40サンチーム)を受け取ります。夜どおし働いても、これ以上は受け取りません。私は先週、2晩夜どおし働きました」。10歳の児童であるファーニハフはこう述べている。「昼食用にいつも1時間はありません。木、金、土曜日には半時間しかありません(33)」。〉(江夏・上杉243-244訳頁)

《イギリス語版》

  〈(4) ウイリアム ウッド 9歳は、7歳10ヶ月の時に働き始めた。彼は最初から「型運び」( 型に入っている品物を乾燥室に運び、その後、空になった型を、持ち帰る仕事) をやった。彼は、週の毎日朝6時に働きに来た、そして午後9時に帰った。「ぼくは週のうち6日は夜9時まで働き、7週から8週はそうであった。」7歳の子供に15時間労働とは!
 J マレー 12歳は、次のように証言した。「私はろくろを回し、型運びをした。私は6時に来る。時には4時に来る。昨日は徹夜で働いた。朝の6時まで。一昨日から、ベッドへは行っていない。他に8人か9人の他の少年たちが徹夜で働いていた。一人を除いて全員が今朝も来た。私は3シリング6ペンスを得る。私は夜の仕事をしてもそれ以上は得ていない。先週は二晩働いた。
 ファニーホウ 10歳の少年は、「いつも、(食事のための)1時間はない。時には30分しかない。木曜日、金曜日、そして土曜日。」(第一次児童雇用コミッショナー報告書 1863年)〉(インターネットから)


●注67

《初版》

 〈(67)『児童労働調査委員会、第1回報告書、1863年』、付録、16、19、18ページ。〉(江夏訳265頁)

《フランス語版》

 〈(33) 『児童労働調査委員会。第1回報告書、1863年』、付録、16、19、18ページ。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》  なし。


●第5パラグラフ

《初版》

 〈ドクター・グリーンハウは、ストーク・アポン・トレントウルスタントンの製陶業地方では寿命が特に短い、と述べている。ストーク地方では20歳以上の男子人口の30.6%しか、ウルスタントンでは30.4%しか、製陶工場に従事していないのに、20歳以上の男子で肺病が死因の死亡者数のうち、前者の地方では半ば以上が、後者の地方では約2/5が、陶工である。ハンリの開業医であるドクター・ブースロイドはこう供述している。「陶工の後の世代はどれも、前の世代よりも接小で虚弱である。」もう一人の医師マックビーン氏もこう言っている。「25年前に陶工のあいだで開業して以来、この階級の人目をひく退化が、身長や体重の低下のうちに、だんだん現われてきた。」これらの供述は、1860年のドクター・グリーンハウの報告書から借用したものである(68)。〉(江夏訳265-266頁)

《フランス語版》

 〈ドクター・グリーソハウは、陶器工場のあるストーク・アポン・トレントやウルスタントン地方では寿命が非常に短い、と言明している。陶器工場の従業者は、ストーク地方では20歳以上の男子人口の30.6%、ウルスタントン地方ではその30.4%だけであるのに、第一の地方では肺病による死亡件数の半数以上が、第二の地方では約2/5が、陶工のあいだで発見されている。
  一方、ハンリの医者であるドクター・ブースロイドは、こう断言している。「陶工のどの新しい世代もその前の世代より矮小で虚弱である」。同様に別の医師マックビーン氏もこう断言している。「私が陶工のあいだで開業して25年このかた、この階級の退化は身長と体重との減少を通して顕著に現われてきている」。これらの証言は、1860年のドクター・グリーンハウの報告書から借用されたものである(34)。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》

  〈(5) グリーンハウ博士は、ストーク-オン-トレンドやウォルスタントンの製陶業地域での平均寿命が異常に短いと述べた。陶器製造業に雇われている20歳以上の成人男子人口は、ストーク地域で僅か36.6%、ウォルスタントン地域ではただの30.4%に過ぎないのであるが、第一の地域では、20歳以上の成人男子で、肺疾患で亡くなった人の半数以上が、第二の地域では、約 2/5が、陶工であった。アンレイの開業医 ブースロイド博士は、「後継世代の陶工は、誰もが、先代の者に較べて、矮小で健康も劣っている。」と述べた。他にマックビーンズ医師も同様、「私が25年前に陶工達の間で開業して以来、私は、このはっきりした退化、特に身長と胸囲の減少が見られた。」これらの記述は、1860年のグリーンハウ博士の報告書(公衆衛生第三次報告書)から取りだしたものである。〉(インターネットから)


●注68

《初版》

 〈(68) 『公衆衛生、第3回報告書』、102、104、105ページ。〉(江夏訳256頁)

《フランス語版》

 〈(34) 『公衆衛生。第3回報告書』、102、104、105ページ。〉(江夏・上杉訳244頁)

《イギリス語版》 なし。


  (付属資料№2に続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(6)

2023-07-14 11:19:42 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(6)


【付属資料】№2


●第6パラグラフ

《初版》 初版では全集版の6、7、8パラグラフが一つのパラグラフになっている。該当するパラグラフ番号(⑥、⑦、⑧)を挿入しておく。

 〈⑥1863年の委員たちの報告書は次のとおりである。ノース・スタフォードシャー病院の医長、ドクター・J・T・アーレッジは、こう言っている。「一つの階級として、陶工は男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは通例、萎縮しており、体格が悪いし、胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。彼らは粘液質で貧血であり、体質が虚弱なことは、消化不良や肝臓障害や腎臓障害やリューマチスのような痼疾(コシツ:いつまでも完治しない病気。ながわずらい。持病。)にかかっていることでわかる。だが、彼らはとりわけ、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息といった胸部疾患にかかりやすい。ある型の喘息は彼らに特有のものであって、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨や身体のその他の部分を侵す瘰癧(ルイレキ: 結核性頸部リンパ節炎の古い呼称。感染巣から結核菌が運ばれて起こる結核症の特異型。多く頸のあたりに生じて瘤(こぶ)状をなし、次第に蔓延して膿をもち、終に破れて膿汁を分泌する。)は、陶工の3分の2以上の病気である。……この地方の住民の退化(Degenerescence)がこれ以上ずっとひどくならないのは、もっぱら、周囲の農村地方からの補充のおかげでもあし、いっそう健康な種族との雑婚のおかげでもある。」⑦先日までは同じ病院の住み込み外科医であったチャールズ・ピアソン氏は、ロンジ委員宛の手紙のなかで、なかんずくこう書いている。「私は、個人的観察から言えるだけで、統計上は言えないが、これらの哀れな児童たちの健康が両親や雇主の食欲をみたすために犠牲に供されているのを見ては、幾度も憤激に燃えた、と断言してはばからない。」⑧彼は、陶工の病気の原因を数えあげて、“Long Hours"「長時間労働」)を最たるものとしている。この委員会報告書はこう望んでいる。「世界の注視のなかでこのように卓越した地位を占めている製造業は、それの偉大な成果には、自分たちの労働と熟練とに依拠してかくも偉大な成果を達成した労働者住民の、肉体的退化や、多岐にわたる身体上の苦痛や、夭折が、伴っている、という汚名を、もうこれ以上長く負うことはないであろう(69)。」と。イングランドの製陶工場にあてはまることは、スコットランドの製陶工場にもあてはまる(70)。〉(江夏訳266-267頁)

《フランス語版》  フランス語版は全集版の第6・7・8パラグラフを一つのパラグラフにしている。パラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑥1863年に公表された委員会報告書からの抜粋。ノース・スタフォードシャ病院の医長J・T・アーレッジは、彼の証言のなかでこう言う。「階級としては、陶工は男も女も……精神的にも肉体的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に、身長が綾小で不恰好であり胸部が畸形である。彼らはいちはやく老いこんで短命である。彼らは粘液質で貧血であり、消化不良の執拗な発作や腎臓や肝臓の調子の狂いやリューマチスによって、体質の虚弱なことを表している。彼らはなによりもまず、胸部の病、すなわち肺炎や肺結核や気管支炎や喘息にかかりやすい。腺や骨や身体のその他の部分を冒す瘰癧(ルイレキ)は、陶工の3分の2以上の病気である。この地方の住民の退化がもっとずっとひどくならないのは、もっぱら、近隣の農村からの徴募と、もっと健康な種族との結婚による雑交とのおかげである。……」。⑦同じ病院の外科医であるチャールズ・ピアソン氏は、委員ロンジ宛の手紙のなかで、なかんずくこう書いている。「私は自分の個人的な観察にもとづいてしか語りえず、統計にもとづいては語りえないが、次のことを確認する。すなわち、これらの憐れな児童たちの健康が、過度労働によって彼らの両親や雇主の貪欲をみたすために犠牲に供されるのを見て、私はしばしば非常に憤激した、ということを」。⑧彼は陶工の病気の原因を数えあげ、最たるものの「長時間労働」〈The Long Hours〉をもって彼の一覧表を閉じている。この委員会はその報告書のなかで次のような希望を表わしている。「世界の注視するところでこれほどに高い地位を占めている一工業も、その輝かしい成果が、これを勝ちとらせた労働と熟練のために、労働者住民の肉体的退化や無数の肉体的苦悩や早死を伴っている、という恥辱には、もはや長い間耐えられないであろう(35)」。イングランドの陶器工場について真実であることは、スコットランドの陶器工場にも真実である(36)。〉(江夏・上杉訳244-245頁)

《イギリス語版》

  〈(6) 1863年の児童雇用コミッショナー報告書から、次のようなものを読むことができる。北スタッフードシヤー病院の上級医師である J. T. アーレッジ博士、こう述べている。「陶工は、一階級ひとまとめにして、男も女も衰弱しきった人々の代表である。肉体的にも精神的にもである。彼等は、一般的に、発育不全で、病弱で、多くは胸に病状が見られる。彼等は早くから年寄りのようになり、当然のように短命に終わる。彼等は無気力で、青白く、消化不良が顕著で、肝臓や腎臓の不調があり、またリウマチに罹っているなど、健康障害の数々が見られる。とはいえ、これらの様々な病気の中で、特にはっきりしている傾向は、胸の病気である。肺結核、気管支炎、そして喘息である。彼等に特異的に表れるのは、よく云われる陶工喘息、または陶工の使い捨てである。腺または骨、またはその他の体の各部分を冒す腺病は、陶工の2/3またはそれ以上を占める病気である。… この地方の人々の退化が現状より悪化しないのは、近郊から絶え間く陶工が補充されるからであり、またより健康な人々との結婚によるものである。」〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》 第6パラグラフに掲載

《フランス語版》  第6パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 イギリス語版は全集版の第7、8パラグラフが一つになっている。

  〈(7)⑦ 同病院の専門外科医であった、故 チャールス パーソンズ氏は、ロンゲ コミッショナー宛の手紙の中で、様々な事を書いているが、とりわけ次の点に触れている。「私は私の個人的観察からのみ云うことができるのであるが、統計的なデータからではないが、不憫な子供たちを見ては、何回となく感じざるを得ない怒りを表すに躊躇しない。子供たちは両親と雇用主のあくなき渇欲の満足のために、自分達の健康を犠牲にしている。」⑧彼は、陶工たちの病気の原因をいろいろと列挙し、次の言葉で要約している。「長時間労働」と。このコミッショナーの報告書は、以下のことを信じているとある。「全世界でこれほどの栄光を獲得したと称される製造業が、その成功の傍らに、労働者達の身体的退化、蔓延する肉体的な苦悩、早過ぎる死、がまつわり付いていると云う点を延々と指摘され続けることはないであろうと。この偉大な成果は、労働者の労働と技術によって達成されたのであるのだから。」そして、英国の製陶業で起こったことの全ては、スコットランドの製陶業でも同様であった。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》  第6パラグラフに掲載

《フランス語版》  第6パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 第7パラグラフに掲載。


●注69.70

《初版》

 〈(69)『児童労働調査委員会。1863年』、24、22ページ、および別付11ページ。
       (70)同前、別付47ページ。〉(江夏訳267頁)

《フランス語版》

 〈(35) 『児童労働調査委員会、1863年』、22、24ページ、および別付11ページ。
       (36)  同前、別付47ページ。〉(江夏・上杉訳245頁)

《イギリス語版》 なし。


●第9パラグラフ

《初版》

 〈マッチ製造業は、1833年に、燐を軸木そのものにつけることの発明から始まっている。それは、1845年以来イングランドで急速に発達し、ロンドンの人口調密な地区から、ことにマンチェスター、バーミンガム、リパプール、プリストル、ノリッジ、ニューカッスル、グラスゴーにも広まったが、それとともに、ウィーンのある医師がマッチ製造工に特有な病気であると1845年にすでに発見していた咬痙(コウケイ:口を開こうとすると口の筋肉が痙攣けいれんして、歯を食いしばるような状態になる症状。)も、広がったのである。労働者の半数は、13歳未満の児童と18歳未満の青少年である。この製造業は非衛生であり不快であるために評判が悪いので、この製造業に「ぼろをまとった、飢え死にしそうな、全くほっぽらかされた、無教育な児童(71)」を引き渡すのは、労働者階級中の最も零落した部分である飢え死にしそうな寡婦等々だけである。委員ホワイトが(1863年に)尋問した証人のうち、270人は18歳未満、40人は10歳未満、10人はわずか8歳、5人はわずか6歳であった。労働日の長さは、12時間から14時間、15時間のあいだにあり、夜間労働が行なわれ、食事は時間が不規則で、たいてダンテも、いは燐毒の充満した作業室そのもののなかで行なわれている(71)。ダンテも、こんな工場を見ては、彼の残酷きわまる地獄の表象もこれには及ばない、と思うであろう。〉(江夏訳267頁)

《フランス語版》

 〈マッチ製造業は1833年、燐を軸木に付着する方法が発明された時代に始まる。1845年以来それはイングランドで急速に発展し、そこでは、ロンドンの最も人口稠密な区域から、次にはマンチェスター、バーミンガム、リヴァプール、ブリストル、ノリジ、ニューカスル、グラスゴーにひろがったが、そのひろがりはいたるところで、ウィーンのある医者がすでに1845年にマッチ製造職人に特有であると表明した顎痙攣症(ガクケイレンシヨウ)を伴っていたのである。
  労働者の半数は13歳未満の児童と18歳未満の青少年である。この工業は非常に非衛生でむなくそ悪く、そのために非常に不評であるので、労働者階級のなかで最も貧困な部分だけが、この工業に子供を、「ぼろをまとった、飢餓で半死半生の、堕落した子供(37)」を、提供するのである。委員ホワイトが(1863年)聴聞した証人のうち、270人が18歳未満、40人が10歳未満、12人が8歳、5人がまだわずかに6歳であった。1労働日は12時間から14時間、15時間までのあいだを変動し、夜間労働が行なわれ、不規則な食事がたいてい、燐で毒された工場の部屋のなかでとられる。ダンテは、彼の地獄の責苦もこの工場の責苦には及ぼぬことを見出すであろう。〉(江夏・上杉訳245-246頁)

《イギリス語版》  イギリス語版は全集版の第9パラグラフを(8)、(9)の二つのパラグラフに分けている。ここでは一緒に紹介しておく。

  〈(8) 黄燐マッチ製造業は、1883年 マッチの軸木本体に燐を用いる方法の発明から始まった。1845年以降、この製造業は英国において急速に発展し、特にロンドンの人口の多い地区の中で広がり、同様、マンチェスター、バーミンガム、リバプール、ブリストル、ノーリッジ、ニューカッスル、そしてグラスゴーでも広がった。それとともに、破傷風初期によく見られる咬みあわせの痙攣も広がった。ウィーンの一医師が1845年に発見した、黄燐マッチ製造業に特異的な病気である。労働者の半数は、13歳以下の子供たちと、18歳以下の少年である。この製造業は、その非健康的であること、悪臭がひどく、その不快きわまりないことから、労働者階級の最も悲惨な人々、半飢餓状態の寡婦等々が、彼女等の子供たちをそこになげやった。ぼろを纏った、半飢餓の、教育を受けたこともない子供たちを。
 (9) (1863年)、ホワイト コミッショナーが尋問した証人の270人は18歳以下であり、50人は10歳以下、10人は8歳、5人はただの6歳であった。夜間の労働、不規則な食事時間、食事も大抵は有害な燐のある作業場そのものの中で取っていた。ダンテも、彼の最恐の地獄よりもさらに恐ろしい地獄を、この製造業の中に見つけたことであろう。〉(インターネットから)


●注71

《初版》

 〈(71) 同前、別付54ページ。〉(江夏訳367頁)

《フランス語版》

 〈(37) 同前、別付54ページ。〉(江夏・上杉訳246頁)

《イギリス語版》  なし。


●第10パラグラフ

《初版》  初版は全集版の第10・11・12パラグラフが一つのパラグラフになっている。該当する部分にパラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑩壁紙工場では、粗製品は機械で、精製品は手で(block printing)、印刷されている。最も仕事の忙しい月は、10月の初めから4月の終わりまでである。この期間中、この仕事は、しばしば、しかもほとんど中断なしに、午前6時から夜の10時かまたは深夜まで続く。  J・リーチはこう供述している。「この冬(1862年)には、19人の少女のうち6人が、超過労働が原因の病気のために欠勤しました。彼女たちを眠らせないために、私は彼女たちに向かってどなりつけなければなりません。」W・ダフィは言う。「児童たちはしばしば疲労のために自をあけていられませんでした。じっさい、私たち自身もしばしばほとんどそうなのです。」J・ライトボルンは言う。「私は13歳です。……私たちは、この冬は夜の9時まで、その前の冬は夜の10時まで、働きました。この冬はいつも、足の傷が痛くてほんとど毎晩泣いていました。」G・アプスデンは言う。「私のこの子が7つのとき、私はこの子を肩に背負って雪の中を行き帰りするのが常でした。そしてこの子は16時間働くのが常でした!……この子が機械のそばに立っているあいだにというのはこの子が機械を離れたりとめたりしてはならないからなのですが、私はしばしば、低くひざまずいてこの子に食べさせたものです。」マンチェスターのある工場の業務執行社員であるスミスは、こう言う。「われわれ(と彼が言うのは、『われわれ』のために働く彼の『入手』のことである)は食事のために中断することもなく働くので、10[1/2]時間の1日労働は午後の4時半に終わり、そのあとはすべて規定外時間(72)である。(このスミス氏自身、10[1/2]時間のあいだにはたして食事をとらないのであろうか? )われわれ(当のスミス)が夕方の6時前にやめること(と彼が言うのは、『われわれの』労働力という機械の消費をやめることである)はまれであるので、われわれ(同じクリスピヌス〔同じ人物という意味〕)は、実は、まる1年じゅう規定時間を越えて働いている。……子供と大人(152人の児童や18歳未満の青少年と140人の大人)が同じように、最近18か月間は、平均して週に少なくとも7日と5時間すなわち毎週78[1/2]時間、働いた。今年(1863年)の5月2日に終わる6週間では、平均はもっと高く--週に8日すなわち84時間であった!」⑪しかし、複数の陛下〔われわれ〕にこうもひどく執着する当のスミス氏は、にやにや笑いながらこうつけ加える。「機械労働はたやすい」と。すると、木版手制り法の使用者たちはこう言う。「手労働は機械労働よりも衛生的だ」と。一般に工場主諸氏は、「少なくとも食事時間中は機械をとめよう」という提案には、憤激して反対を表明する。バラ〔ロンドンにある自治区〕の壁紙工場の支配人オトリ氏はこう言う。「朝の6時から晩の9時までの労働時間を許す法律があれば、われわれには(!)たいへんありがたいのだが、朝の6時から夕方の6時までという工場法の時間は、われわれには(!)都合が悪い。……われわれの機械は昼食時間中(なんと寛容なことよ!) 停止されている。この機械の停止からは、紙や絵の具にこれというほどの損失は生じない。」「しかし」、と彼は思いやり深くつけ加えてこう言う。「私の理解できることだがこれと結びついている損失は好ましいものではない。」 ⑫委員会報告書は、素朴にも次のような意見である。時間、すなわち他人の労働時間を奪取する時間を失い、またこのことによって「利潤を失う」という、幾つかの「有力商会」の懸念は、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12-16時間のあいだ昼食を「とらせないでおく」ための、「充分な理由」でもなければ、生産過程そのもののあいだに労働手段の単なる補助材料として、蒸気機関に石炭や水をやったり羊毛に石鹸をつけたり車輸に油を塗ったりするように、彼らに昼食を支給するための、「充分な理由」でもない(73)。〉(江夏訳267-269頁)

《フランス語版》  フランス語版は全集版の第10・11・12パラグラフを一つのパラグラフにしている。パラグラフ番号を挿入しておく。

 〈⑩壁紙工場では、最も粗悪な種類の壁紙は機械で印刷され、最も精巧な種類の壁紙は手で印刷される〈block printing〉。最も活気のある季節は10月に始まって4月に終わる。この期間中、労働はしばしば、またほとんど中断することなく、朝の6時から夜の10時まで続き、深夜までも延長される。
  幾人かの証人の言うことに耳を傾けよう。--J・リーチ「昨年の冬(1862年)、19人の少女のうち6人は、過度労働が原因の病気のために、もはや出勤しませんでした。他の者たちの眼を覚ませておくために、私は彼女らの体を揺り動かさざるをえません」。--W・ダフィ「児童たちは非常に疲れているので眼をあけていることができないし、実はしばしばわれわれだってこれ以上眼をあけていることができません」。--J・ライトボーン「私は13歳です。……私たちは昨冬は晩の9時まで働き、その前の冬は10時まで働きました。この冬はほとんど毎暁、足がひどく痛むのでその痛みに泣いていました」。--G・アプスデン「私のこの幼い子が7歳のとき、雪のために、私はこの子を背中に背負って工場まで往復したものです、そして、この子は16時間も働くのが常でした!……私は実にしばしば、この子が機械についているあいだ、ひざまずいてこの子に食事をさせました。というのは、この子は自分の仕事から立ち去ることもそれを中断することもしてはならなかったからです」。--マンチェスターの一工場の業務執行社員〔出資者である社員のなかで業務執行をまかされている社員〕であるスミス「われわれ(彼が「われわれ」と言うのは、「われわれ」のために働く彼の「人手(38)」のことである)は、食事のために労働を中断することもなく働くので、10時間半という通常の労働日は午後4時半頃に終わり、残余はすべて残業時間(39)である(果してこのスミス氏が、10時間半のあいだ実際に全然食事をとらないのかどうか!)。われわれ(骨身を惜しまないスミス) は夕方の6時前にやめること(「われわれの人間機械」を消費することをやめる、という意味)が滅多にないので、われわれ(同じクリスピヌス〔クリスピヌスは、ユヴェナリスの詩のなかの、ローマ皇帝ドミティアヌスの廷臣である。「同じクリスピヌス」とは、「また同じ人物」という意味で使われる〕)は実際まる1年のあいだ残業して労働するのである。……児童と成人(152人の児童と18歳未満の青少年、および140人の成人)は最近18カ月間、規則的にしかも平均して1週間に少なくとも7日と5時間、すなわち78時間半労働した。今年(1863年) の5月2日に終わる6週間については、平均がいっそう高く、1週間に8日すなわち84時間であった!」⑪だが、このスミスは、満足げにあざ笑いながらこうつけ加える。「機械労働は骨の折れるものでない」。確かに、手刷りを使用する工場主のほうはこう言う。「手労働は機械労働よりも衛生的である」。要するに、工場主諸君は、たとえ食事の時間中でも機械をとめようとするどの提案にも、断乎として反対を表明する。バラにある壁紙工場の支配人オトリ氏は、こう言う。「朝の6時から晩の9時までの労働時間をわれわれに認めてくれる法律は、われわれの好みにぴったりだが、朝の6時から夕方の6時までの工場法の時間は、われわれに全くふさわしくない。……われわれは機械を昼食中とめている(なんと寛大なことよ!)。この停止によって生ずる紙や絵具の損失については、とやかく言うほどのことはない」。彼は好人物風にこう観察する。「しかし、こんな損失は誰も好まないことはわかる」。⑫委員会報告書は素朴にも、次のような見解を示している。すなわち、他人の労働時間を少し減らすことで、幾らかの利潤を失うのではないかという懸念は、13歳未満の児童や18歳未満の青少年に12時間ないし16時間のあいだ昼食をとらせないでおくための「充分な理由」でもなければ、蒸気機関に石炭や水を、車輪に油を給するなどのように、一言にして言えば、生産の経過中に労働手段に補助材料を供給するように、彼らに昼食を支給するための「充分な理由」でもない(40)、と。〉(江夏・上杉訳246-248頁)

《イギリス語版》 イギリス語版では全集版の第10が(10)と(11)に分けられ。(11)には全集版の第10パラグラフだけでなく、11、12パラグラフが合体させられている。ここではそれをすべて紹介しておく。

  〈(10)⑩壁紙製造業では、粗雑な下等ものは、機械印刷される。上等のものは、手で(木版印刷で)仕上げる。もっとも忙しい月は、10月の初めから4月の終りまでである。この間、仕事は朝6時から夜10時まで、またはさらに深夜近くまで、休みなく怒濤のごとく続く。
 (11) J. リーチは、次のように述べた。「冬、ここのところ、19人の少女のうち6人が、同時に、過労から病気で休んでしまったので、残りの彼女らを起こして置くために、私は、彼女らのそばで、どならねばならなかった。」
 W. ダッフィは、「子供たちは、眼を開けていられず、仕事にならなかったのをよく見ることがあった。本当のところ、我々もそんな状態だった。」
 J. ライトボーンは、「私は13歳、我々はこの冬、(夜の) 9時まで働いた。去年の冬は、10時までだった。この冬は足がうずき、いつも私は泣いていました。」
 G. アプスデンは、「私と働くその少年が7歳のとき、私は彼をおぶって、雪の中を行き来したものです。そして、いつも彼は一日16時間働きました。…私は、たびたび、機械の傍で立っている彼に、膝を床につけて、食事を与えました。なぜって、彼がそこを離れることも、機械を止めることもできなかったからです。」
 あるマンチエスター工場の共同経営者 スミスは、「我々は、(この我々なる意味は、自分たちのために働く手をそう云うのであるが) 食事のために休むということもなく、仕事をし続けるので、10時間半の日労働は、午後4時半には終了する。そして、それ以後のすべての時間は超過時間となる。」
 (さて、このスミス氏は、10時間半の間で、彼自身の食事を取らなかったのか) 「我々は、(スミス流の、例による我々のことだが) 夕方6時前に仕事を止めることは稀で、(彼の意味では、"自分達"が前貸しした労働力機械の消費を止めないと云うものだが) その結果、我々は、(またまたクリスピナス・スミスの云うところの我々のことだが 色の部分はラテン語) 実際のところ、年がら年中 全てにおいて超過時間作業を行っている。これらのことは、子供たちも大人も同様である。(152人の子供と少年たち、140人の大人達のことである。) このところの18ヶ月の平均労働は、少なく見ても、週7日と5時間、または週78時間半であった。今年(1862) 5月2日までの6週間の平均はより大きく、週8日または週84時間であった。」⑪その上、くだんのスミス氏は、相変わらず自分のことを我々と王族が自分表現に複数形を用いるように、(ラテン語) 極端に複数形に固執してこれを用いながら、こう、笑って、付け加えた。「機械作業は、大した作業じゃない。」木版印刷の雇用主らは、「手作業は、機械作業よりも健康的なもの。」と云う。概して、工場主は、「少なくとも、食事時間の間は、機械を止めよう。」という提案には、不正に対するかの様な憤激をもって、これに反対を申し立てる。ボローの壁紙工場支配人であるオトレー氏は云う。「法律条項が、朝6時から夜9時までの作業を許可するものならば、それは、我々( ! ) にとてもよく合う。しかし、工場法の朝6時から夕方の6時というのは、合わない。我々の機械は、いつも食事のために止められる。( おお、なんとまあ寛大なこと ! ) 止めたからといって、紙も色インクも、云うに及ぶ無駄はない。だが、」 彼は、同業者らの心情をおもんばかり、「時間のロスが好ましいものではないことは理解しうる。」と付け加える。⑫委員会報告書は、次のように、無邪気に、(英語の古語) 意見を書いている。ある主要な企業の云う時間をロスするという恐怖、すなわち、他人の労働を占有する時間のロスが、そのために利益を失うということが、13歳以下の子供らの、そして18歳以下の少年たちを、日12時間から16時間働かせることを許すに足る理由になるのか。なりはしないだろう。彼等の食事時間を減らす、あるいはそれを与えない理由として成り立ちうるのか。生産過程そのものにおいて、蒸気機関に石炭や水を給するように、羊毛に石鹸水を加えるように、車輪にオイルを注すように、単なる補助材料を労働手段に供するように、彼等の食事も食事時間も与えないのか。そんな理由があるはずもないだろう。と。〉(インターネットから)


●注72

《初版》

 〈(72) これは、われわれの言う剰余労働時間の意味だと解すべきではない。これらの諸氏は、10[1/2]時間労働を標準労働日、つまり、標準的な剰余労働を含む労働日、と見なしている。その後に、若干増し払いされる「規定外時間」が始まる。もっとあとの機会にわかることだが、いわゆる標準日中の労働力の使用は価値よりも低く支払われるので、「規定外時間」は、もっと多〈の「剰余労働」を搾り取るための資本家のたくらみにすぎないが、なお、このことは、「標準日」中に使用される労働力に、ほんとうに価値どおり支払われるばあいでさえ、そのとおりである。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない注38が追加されているので、ここでそれも一緒に紹介しておく。

 〈(38) イギリスの工場主の上品な言葉では、労働者は文字どおりに「手〈hands〉」と呼ばれる。この言葉がイギリスの引用文中に見出されるばあい、われわれはこの言葉をつねに「人手」と翻訳する。
   (39) これは、われわれが剰余労働時間に与えた意味で、理解されてはならない。これらの諸君は10[1/2]時間労働を、漂準労働日--標準の剰余労働をも含む労働日--を構成するものと見なしている。それから、わずかばかり増し払いされるこの「残業時間」が始まる。だが、そのかわり、いわゆる標準労働日中の労働力の使用がその価値以下に支払われることは、われわれが後になって見るとおりであろう。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: この超過時間は、我々の云う、剰余労働時間という意味で使われているものではない。これらの紳士諸君は、10時間半労働を通常の労働日と考えており、さらにその上、勿論のこと、通常の剰余労働が含まれていると考えているのである。この超過労働が始まれば、ほんの少しだけ余計に支払われる。でも、よく見れば、いわゆる通常日に支払われるものは、その価値よりも下回っているのが分かる。従って、超過時間は単純に、より多くの剰余労働を強奪するための、資本家のトリックなのである。例え通常日に対して適切に支払われたとしても、そう云うことになるであろう。〉(インターネットから)


●第11パラグラフ


《初版》  第10パラグラフに掲載。

《フランス語版》  第10パラグラフに掲載。

《イギリス語版》 第10パラグラフに掲載。


●第12パラグラフ

《初版》 第10パラグラフに掲載。

《フランス語版》  第10パラグラフに掲載。

《イギリス語版》  第10パラグラフに掲載。


●注73

《初版》

 〈(73) 前掲書〔『児童労働調査委員会。1863年』〕、付録、123、124、125、140ページおよび別付54ページ。〉(江夏訳269頁)

《フランス語版》

 〈(40) 『児童労働調査委員会、1863年』、付録123、124、125、140ページ、および別付54ページ。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》 なし。


●第13パラグラフ

《パンの製造》(1862年10月、マルクス、全文)

  〈パンの製造  〔『ディー・プレッセ』1862年10月30日付、第299号〕
  ガリバルディ、アメリカの内戦、ギリシアにおける革命、綿業恐慌、ヴェヤールの破産--これらすべては、現在ロンドンでは--パン問題、それもことばどおりの意味でのパン問題をまえにして、影をうすくしてしまった。イギリス人は、その「鉄と蒸気の環境のなかでの思想」を非常に誇りにしているのであるが、突如として、自分たちが、ノルマン人侵入の時代の太古のフランク族のようなやり方で“staff of life"(「生命のささえ」)を製造していることを発見したのである。唯一の重要な進歩は、近代化学によって不純物の混入が容易になったことにある。イギリスの古い諺(コトワザ)に、人はだれでも、たとえどんなにすぐれた人物でますも、一生のうちに“a speck of dirt"(大枡(マス)いっぱいのこみ) を食べねばならぬ〔英語の言いまわしで「ごみを食べる」とは、「屈辱を忍ぶ」の意。〕、というのがある。しかし、これは精神上の意味でであった。ジョン・ブルは、自分が、最も粗野な生理上の意味で、明けても暮れても、小麦粉、明馨、クモの巣、ゴキブリ〔black beetles〕、それに人間の汗の途方もない混ぜ物〔mixtum compositum〕を食しているのだということに、気がついていない。彼は聖書に詳しいのだから、人はそのひたいに汗してパンを得るということを、とうぜん知っていた。だが、人間の汗がパンのこね粉に香料成分としてはいらなければならないということは、彼にはまったく耳新しいことであった。
  従来、手仕事、手工業、マニュファクチュアが根をおろしていたいろいろな領域を大工業が掌握する順序は、一見したところ気まぐれのようにみえる。たとえば、小麦の生産は農村の生業であり、パン焼きは都市の生業である。工業生産は農村の生業よりも都市の生業をさきに掌握すると想定してはいけないだろうか? ところが、事の経過は逆であった。われわれがどこへ目をむけようと、最も直接的な需要〔をみたす部門〕は、従来多少とも頑固に大工業の影響をまぬかれてきたこと、そして太古から伝えられた、どうしようもないほど面倒な手工業の方法によって充足されることを予期していることを、われわれは見いだすであろう。イギリスではなく、北アメリカがはじめて、--やっと今日になって--この伝統に突破口をつくった。ヤンキーは機械をまず縫製業、製靴業などに使用し、それを工場から個人の家にまでもちこんだ。だがこの現象は簡単に説明される。工業生産は、個人消費のためにではなく取引のために、大量生産、大規模な生産を必要とし、そして事の性質上、原料と半製品とを最初の征服領域とし、直接消費用の完成商品を最後の征服領域とするのである。
  だがいまや、イギリスでパン屋の親方が没落し、パン工場主が台頭するときがやってきたように思われる。資本が、アメリカの恐慌のために、長いあいだそれが独占していた分野から大量に追いはらわれ、新たな移住領域を熱心にさがし求めているという事情がつけくわわらなかったら、「パンの秘密」にかんするトレメンヒア氏の暴露がよびおこした不快と嫌悪だけでは、こうした革命を起こすには十分でなかっただろう。
  ロンドンの製パン所の日雇労働者たちは、彼らの極度に悲惨な状態にかんする陳情書を議会に雨あられと舞いこませた。内務大臣は、こうした陳情にかんする報告者ならびにいわぽ予審判事に、トレメンヒア氏を任命した。暴風雨信号をだしたのは、トレメンヒア氏の報告書である。
  トレメンヒア氏の報告書は、二つの主要部分にわかれている。第一部は製パン所における労働者の困窮を描写し、第二部はパン製造じたいにまつわるいまわしい秘密を暴露している。
  第一部は、製パン所の日雇労働者を「文明の白色奴隷」として描写している。彼らの平日の労働時間は、晩の11時ごろに始まり、午後3時ないし4時までつづく。労働は週末になるとふえる。ロンドンの大部分の製パン所では、木曜の晩の10時から土曜の夜まで、労働は休みなくつづけられる。ここの労働者はほとんど肺病で死んでいるが、その平均年齢は42歳である。
  次にパンの製造じたいについてであるが、それはほとんどが、せまい、地下の、換気が悪いかあるいはまったく換気しないあなぐら部屋でおこなわれている。換気が悪いうえに、水はけのよくない下水溝から悪臭が発散し、「発酵過程にあるパンは、まわりをくまなく取り囲んでいる有毒ガスを吸収する」。クモの巣、ゴキブリ、大鼠、小鼠どもが、「こね粉といっしょにすりつぶされる」。
  トレメンヒア氏は言う。
  「非常に認めたくないことであるが、こね粉はほとんどいつもパンこね工の汗を、そしてしばしばもっと病的な分泌物を吸収しているという結論を、私は出さざるをえなかった。」
  最も優良な製パン所でもこうしたぞっとするような不快な事態をまぬかれてはいないが、それがなんとも言いようのないほどになるのは、貧民にパンを売っている製パン小屋であって、ここでは小麦粉への明馨や燐酸カルシゥムの混入もまったくほしいままにおこなわれている。
  トレメンヒア氏は、パンへの不純物の混入にかんするもっときびしい法律、さらに製パン所を政府監督下におくこと、「若年者」(つまり18歳未満の者)にたいする労働時間の、朝の5時から晩の9時までへの制限などを提案しているが、古い生産様式そのものから生ずる弊害を除去することは、もっともなことながら、議会にたいしてではなく、大工業に期待している。
  じっさい、スティーヴンのパンこね機がすでに2、3のところでは採用されている。これと似た別の機械が一つ、産業博覧会に出されている。両方ともまだパン焼工程のあまりにも大きな部分を手労働にゆだねている。これにくらベると、ドーグリッシュ博士はパン製造の全方式を変革してしまった。これでは、小麦粉が倉を出た瞬間からパン焼き窯でパンができあがるまで、まったく人手をかけずにおこなわれる。ドーグリッシュ博士は完全にパン種をやめて、醗酵過程を炭酸を使ってなしとげる。彼は、パン焼きをふくめて、製パンの全作業を8時間から30分に短縮している。夜間労働は完全になくなる。炭酸ガスの使用は、不純成分の混入をすべてさしとめる。発酵方法が変わったことによって、だがとくに、いままでのように、糠(ヌカ)--フランスの化学者メージュ・ムリエスによれば穀粒の最も栄養のある部分--の3分の3を破壊してしまわないで、穀粒の珪酸質の外皮を除去するアメリカ人の発明を新式機械と結合することによっても、大幅な節約がなしとげられる。ドーグリッシュ博士の計算によれば、彼の処理法で、イギリスにとって年800万ポンド・スターリングの小麦粉が節約されるであろう。さらに、石炭消費も節約される。蒸気機関をも勘定にいれた石炭の費用は、窯あたりで1シリングから3ペンスに減少する。最良の硫酸から製造される炭酸ガスの値段は、〔小麦粉〕1袋あたりおよそ9ペンスであるが、パン種は現在パン屋にとって1シリング以上についている。
  ドーグリッシュ博士のいまや非常に改良された方法をもちいた一製パン所が、すでにすこしまえに、ロンドンのある場所に、波止場ちかくのバーモンジにつくられたが、営業所の場所がよくないために、また廃業してしまった。現在、同じような施設がポーツマス、ダブリン、リーズ、バース、コヴェントリでいとなまれていて、聞くところでは、非常に良い成績をおさめているとのことである。最近イズリングトン(ロンドンの郊外都市)にドーグリッシュ博士がみずから監督して建設したマニュファクチュアは、販売よりも、むしろ労働者の訓練を目的としている。パリの市営製パン所では、機械を採用するための大規模な準備がおこなわれている。
  ドーグリッシュの方法が一般に普及すれば、現在のイギリスの製パン業の親方たちの多数は、少数の大製パン工場主のたんなる代理業者に変わってしまうだろう。彼らは、もはや生産そのものにはたずさわらないで、かろうじて小売にたずさわることになろう。--大多数の親方にとっては、けっしてとくに苦痛な転身ではない。というのは、事実上、彼らはすでに現在大製粉業者の代理業者にすぎなくなっているからである。機械製パンの勝利は、これまでの要害堅固であった中世的手工業の隠れ場を攻略する、大工業の歴史の転換点を示すものとなるであろう。1862年10月末に執筆〉(全集第15巻530-533頁)

《61-63草稿》

 〈〔注解〕……パン職人の労働時間についてマルクスが依拠したのは、おそらく次の資料であろう、--『製パン職人の苦情に関する内相あての報告番。付、証言付録。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロンドン、1862年、および、『製パン職人の苦情に関する内相あての第二次報告書。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロンドン、1863年。〉(草稿集④282頁)
  〈ロンドンの製パン業者のもとでの平均労働は17時間である。17時間は、綿工業の初期にはふつうのことであった。その後まもなく夜間労働が導入された。〉(草稿集④366頁)
  〈ここでは、実際は、ただ二つの場合を研究するだけでよい。(1)剰余労働時間が、労賃の引上げなしに、つまり、労働者がこの超過時間の一部分すらも自分のものにすることなしに、延長される〔場合〕。工場制度が工場自身と他の(工場外の)諸領域とに超過時間を際限なくおしひろげていった全期間をつうじて、大部分の場合がこの種の延長であった。(ロンドンの製パン労働の例。)〉(草稿集⑨321頁)

《初版》

 〈イギリスにおけるどの産業部門も--(近ごろやっと始まったばかりの機械製のパンは別として)--、製パン業ほど、古風な、さよう、ローマ帝政時代の詩人たちから判断できるごとき先キリスト教的な生産様式を、今日まで保持しているものは、一つもない。ところが、先述したように、資本はさしあたり、自分が占領している労働過程の技術的性格には無関心である。資本はさしあたり、労働過程をそのあるがままの姿で取り入れる。〉(江夏訳270頁)

《フランス語版》

 〈ごく最近の、機械による製パン業は別として、イギリスのどの産業も、ローマ帝国の詩人のかずかずの章句が証明するように、製パン業ほど時代遅れの生産様式を保存してきたものはない。ところが、すでに述べたことだが、資本は、自己が征服する労働種類の技術的性格には、ほんのわずかしか気をかけない。資本は初めのうちは、この労働種類を見出すままに取り入れる。〉(江夏・上杉訳248頁)

《イギリス語版》

  〈(12) (最近導入された機械による製パン方式は別であるが、)英国の製パン業ほど、古風な生産方法を保持している業界は他にはない。まるでローマ帝国の詩文からそのまま出てきたような、キリスト教以前のような製法である。前にも述べたが、資本は、労働過程の技術的な性格など最初はどうでもいいのである。それを見つけた時そのままを取り入れて、その過程を始める。〉(インターネットから)


  (付属資料№3に続く)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(7)

2023-07-14 10:56:43 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(7)


【付属資料】№3


●第14パラグラフ

《初版》

 〈パンの信じがたい粗悪製造が、ことにロンドンでは、「食料品の粗悪製造にかんする」下院委員会(1855-1856年)およびドクター・ハッスルの著書『露見された組悪製造(74)』によって、最初に暴露された。この暴露の結果が、「飲食料品粗悪製造を防止するための」1860年6月6日の法律であったが、この法律は、粗悪商品の売買で「正直に金儲けすること(75)」を企てているどの自由商業主義者にたいしても、もちろんきわめて当たらずさわらずのものなので、効果がなかった。委員会自身も、自由商業は本質的には粗悪品の取引、またはイギリス人の機知に富んだ言い方では「ごまかし品」の取引、を意味しているという確信を、なにがしか率直に表明した。じっさい、この種の「ソフィスト的ごまかし」は、白を黒とし黒を白とすることを、プロタゴラス(古代ギリシアの詭弁哲学者〕よりもよく心得ているし、いっさいの実在が仮象にすぎないことを自の前で実証することを、エレア学派〔古代ギリシア哲学の一派で、一元論を主張し、運動も諸現象の多様性も仮象にすぎぬと説く。〕 よりもよく心得ているのである(76)。〉(江夏訳270頁)

《フランス語版》

 〈パンの信じ難い粗悪製造が、殊にロンドンでは、「食料品の粗悪製造にかんする」下院の委員会によって、またドクター・ハッスルの著書『露見された粗悪製造(41)』のなかで、初めて(1855-56年)暴露された。これらの暴露の結果が、「飲食料品粗悪製造を防止するための〈for preventing the adulteration of articles of food and drink〉」1860年8月6日の法律であった。この法律は、粗悪商品の売買によって「正直に金儲けすること〈to turn an honest penny〉(42)」を目論むどの自由商業主義者にたいしても、優しさにみちているので、相変わらずなんの効果もなかった。委員会自身が、自由商業は本質的にいって粗悪製造品の取引、または、イギリス人の機知のある表現にしたがうと「ごまかし品」の取引を意味する、という自己の確信を多かれ少なかれ素朴に表明した。そして実際に、この種のソフィスト的ごまかしは、白を黒とし黒を白とすることには、プロタゴラス〔古代ギリシアの詭弁哲学者〕よりも通暁しているし、また、すべてが仮象にほかならないことを眼の前で証明することには、エレア学派〔古代ギリシア哲学の観念論学派〕よりも通暁しているのである(43)。〉(江夏・上杉訳248-249頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 特にロンドンでの、信じられないような、とんでもない混ぜ物のパンについて、下院の「食品への混入物に関する」調査委員会(1855-56)と、ハッサル博士の「混ぜ物の検出」調査によって初めて、明らかにされた。( 本文注: 硫酸アルミニウム (またはアルミナ または明礬) の粉末、またはそれに塩を混ぜたものが、通常の商品として、「パン製造業者向けの材料」と言う明確なる名前で出回っている。) これらの摘発の結果が、1860年8月6日の「食品・飲料への混ぜ物を予防するための」法律であったが、効力のない法律であった。いつもながらの、全ての自由な商売人達、混ぜ物の商品の買いや売りで、それを正直なペニーと交換することを決意している彼等に対して、手厚い配慮を施したものであった。当の委員会自身が、自由な商売とは、基本的に、混ぜ物の取引であり、英国人の独創性に富む「洗練された」代物という物の取引のことであると、多少はともかく、無邪気に、(英語の古語) 信じていたのである。実際のところ、この種の詭弁は、プロタゴラスが白を黒、黒を白とするよりも、よく知られており、エレア派が全てはただの外観であることを、直接目に、(ラテン語) いかに示すかにあると実証するよりも、よく分かっている。〉(インターネットから)


●注74

《初版》

 〈(74) 粉末にしたり塩をまぜたりした明礬が、「パンのもと」という独特な名の標準商品になっている。〉(江夏訳270頁)

《フランス語版》

 〈(41) 細かい粉末にしたり塩を混ぜたりした明礬が、「バンのもと〈baker's stuff>」という特別な名をもつ普通の商品になっている。〉(江夏・上杉訳249頁)

《イギリス語版》 なし。


●注75

《初版》

 〈(75) 煤(スス)は、周知のように、炭素の非常に高エネルギーな形態であって、資本家的煙突掃除業者がイギリスの借地農業者に売る肥料になっている。さて、1862年にある訴訟が起きたが、この訴訟では、イギリスの「陪審員」は、買い手の知らぬ聞に90%の埃と砂とを混ぜた煤が、「商業的」意味での「ほんとう」の煤か、それとも「法律的」意味での「粗悪製造の」煤であるか、を決定しなければならなかった。この「商業の友」は、それは「ほんとうの」商業よの煤であると決定して原告の借地農業者の告訴を却下し、原告はおまけに訴訟費用を支払わねばならなかった。〉(江夏訳270頁)

《フランス語版》

 〈(42) 誰でも知っているように、煤(スス)は炭素のごく純粋な形態であって、資本家的煙突掃除人がイギリスの借地農業者に売る肥料になっている。ところで、1862年にはある訴訟があったが、この訴訟で、イギリスの陪審員は、買い手の知らぬ間に90%の埃や砂を混ぜた煤が、「商業上の」意味での「本当の」煤であるか、「法律上の」意味での「粗悪に製造された」煤であるかを、決定しなければならなかった。「商業の友」である陪審員は、それは商業上の「本当の」煤であると決定して借地農業者の告訴を却下し、おまけに彼に訴訟費全額を支払わせたのである。〉(江夏・上杉訳249頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 煤は炭素の非常に利用しやすい形態であり、よく知られた物質である。そして、肥料となる。資本家的煙突掃除業者は、これを英国の借地農業者に売る。ところで、この時、1862年、英国の陪審員は法律上、買い手に知らされることなく、90%の埃や砂が混ざった煤が、商売上の観念から見て本物の煤であるのか、混ぜ物の煤なのかを決めたのである。「商売の友」(フランス語) は、その煤を、商売上の本物の煤と判決したのであった。そして農民の原告訴訟人の訴えは却下された。原告が訴訟費用をも負担したのである。(正直なペニーは、農民から資本家的煙突掃除業者の手に, 無邪気に、正直に、渡った。訳者追記)〉(インターネットから)


●注76

《初版》

 〈(76) フランスの化学者シュヴァリエは、商品の「ごまかし製造」にかんする論文のなかで、自分が検査している600余りの品目中の多数について、10、20、30の、いろいろな粗悪製造法を、列挙している。彼は、自分はあらゆる方法を知っているわけでもないし、知っている方法をすべてあげているわけでもない、と付言している。彼は、砂糖について6種、オリーブ油について9種、バターについて10種、食塩について12種、ミルクについて19種、パンについて20種、ブランデーについて23種、麦粉について24種、チョコレートについて28種、葡萄酒について30種、コーヒーについて32種、等々の粗悪製造をあげている。〉(江夏訳271頁)

《フランス語版》

 〈(43) フランスの化学者シュヴァリエは、商品の粗悪製造にかんする一論文のなかで、600あまりの品目を検査し、そのうちの多数について10、20、30の粗悪製造方法を数えあげている。彼は、自分はその方法をすべて知っているわけではないし、知っている方法のすぺてを記載しているわけでもない、とつけ加えている。彼は砂糖について6種、オリーヴ油について9種、バターについて10種、塩について12種、牛乳について19種、パンについて20種、ブランデーについて23種、麦粉について24種、チョコレートについて28種、葡萄酒について30種、コーヒーについて32種等々の粗悪製造を示している。ルアル・ド・カール氏の著書『聖体の偽造について』、パリ、1856年、が証明するように、神様でさえ免れられない。〉(江夏・上杉訳249頁)

《イギリス語版》

  〈もう一つ本文注: フランスの化学者 シュバリエは、商品の「洗練化」に関する彼の論文で、彼が調べた600以上の品物の多くにおいて、10、20、30種の様々な偽装方法を列挙している。彼は、私が全ての方法を知っている分けでもないし、知っているもの全てを述べているものではないと、付け加えている。彼は、砂糖の偽装について6種類、オリーブ油で9種、バターで10種、塩で12、ミルクで19、パンで20、ブランデーで23、オートミールで24、チョコレートで28、ワインで30、コーヒーで32、等々。全能の神ですら、この運命から逃げられない。ルアル ド カールの「聖体の偽装について」(フランス語併記) 1856年を見よ。( 資本主義体制の偽装については、嘘丸出しの800 訳者のワープロが突然自動車的に急発進 ブレーキが…)〉(インターネットから)


●第15パラグラフ

《初版》

 〈ともかく、委員会は、公衆の目を「日々のパン」に、したがって製パン業に、向けさせていた。それと同時に、公の集会でも議会への請願でも、超過労働等々についてのロンドンの製パン職人の叫ぴが響き渡った。その叫ぴがひどく緊迫してきたので、たびたび触れておいた1863年の委員会の一員でもあるH・S・トレーメンヒア氏が、勅命調査委員に任命された。彼の報告書(77)は、証人の供述とあいまって、公衆の心ではなくその胃袋を揺り動かした。聖書に精通しているイギリス人は、人間は、神の恩寵で選ばれた資本家や地主や禄盗人(ロクヌスビト)でないかぎり、額に汗してパンを食べるべき天職を授けられていることは、確かに知つてはいても、人間がパンを食べるさいには、毎日、明礬や砂石やその他結構な鉱物性成分は別としても、腫れものの膿(ウミ)や蜘蛛の巣や黒ずんだごきぶりの死骸や腐ったドイツ産酵母を吸い込んだ若干量の人間の汗を食べなければならないことは、知らなかった。だから、それまで「自由」であった製パン業は、自分の守り本尊である「自由商業」にはいっさいおかまいなく、国家の監督官の監視のもとにおかれ(1863年の議会会期末)、同じ国会制定法によって、18歳未満の製パン職人には晩の9時から朝の5時までの労働時間が禁止された。この最後の条項は、これほどまで昔をしのばせるこの営業部門における超過労働のことを、あますところなく物語っている。〉(江夏訳271頁)

《フランス語版》

 〈ともかく、委員会は公衆の注意を「日々のパン」に、そして同時に製パン業に向けさせた。そうしているあいだに、過度労働にかんするロンドンの製パン職人の叫びが、会合でも議会宛の請願でも同時に聞こえた。この叫びがひどく切実になったので、前述の1863年の委員会の既存メンバーであるH・S・トリメンヒーア氏が、この問題について調査を行なうために、勅命委員に任命された。彼の報告書(44)とこの報告書中の証言とは、公衆の心ではなくその胃の腑を感動させた。いつでも聖書に馬乗りになっているイギリス人は、神の恩恵が人間を資本家や地主かまたは禄盗人にさせてくださらなかったばあいには、人間は額に汗して自分のパンを食べるように運命づけられていることを、充分に知っていたが、その人間も毎日のパンを食べるときに、「明礬や砂やその他の全く同じくらいけっこうな鉱物成分は言うに及ばず、蜘蛛の巣や油虫の死骸や酵母菌や化濃した潰瘍の排泄物で溶かされた若干量の人間の汗」を食わざるをえない、ということは知らなかったのである。「自由な」製パン業は、教皇聖下である「自由商業」にはおかまいなしに、国家から任命された監督官の監視のもとに置かれ(1863年の議会会期末)、晩の9時から朝の5時までの労働が、同じ法律によって、18歳未満の製パン職人にたいし禁止された。この最後の条項は、労働者の体力がこの由緒ある家父長的な事業で濫用されていることについて、多くの内容を物語っている。〉(江夏・上杉訳249-250頁)

《イギリス語版》

  〈(14) これらの全ての報告書で、委員会は、大衆の注目を、その「日々のパン」に向けさせた。そして、そうであるからこそ、製パン業にも注目させることとなった。同時に、多くの人々の集会や、議会への申し立てに、ロンドンのパンの旅職人達の、超過労働に反対する叫びが沸き起こった。この叫びが非常に急激なものであったため、何回も登場する1863年の委員会だが、そのメンバーの一人である、H. S. トレメンヒア氏が王室直属の調査委員に任命された。彼の報告書は、付された証拠と合わせて、資本家、地主、名誉聖職者を激怒させた。これらの人物は、彼のパンを食べるには、額に汗することによってなすべきことと神に命じられていると知ってはいたが、その彼のパンで、一定量の人間の汗という分泌物も毎日食べねばならないとは知らなかった。さらに加えて、腫れ物の膿とか、蜘蛛の巣とか、ゴキブリの死骸とか、腐敗したドイツ酵母とかを混ぜて食べているとは知らなかった。硫酸アルミニウムとか砂とか、その他の、商品的には当然とした鉱物質の他に、こんなものを混ぜ合わせて食べねばならいとは、知らなかったからである。神聖なる自由な商売には何ら顧慮を施されることもなく、自由な製パン業は、かくて、( 1863,;の議会会期期間終了のため ) 国家監視官達の監視下に置かれたのであった。また、同議会の法律によって、18歳以下のパンの旅職人については、夜9時から朝5時までの労働が禁止された。この最後の条項は、超過労働に対する、様々の実情、古くから続く、ごくありふれた商売のなんたるかを見事に表している。( 旅職人の汗とゴキブリの死骸を混ぜたこの味は、この程度の法律に帰着するいい味なんだろう。訳者の補足的注である。)〉(インターネットから)


●注77

《初版》

 〈(77)  『製パン職人が訴える苦情にかんする報告書、ロンドン、1862年』、および『第2回報告書、ロンドン、1863年』。〉(江夏訳271頁)

《フランス語版》

 〈(44) 『製パン職人が訴える苦情にかんする報告馨』、ロンドン、1862年、および『第2回報告書』、ロンドン、1863年。〉(江夏・上杉訳250頁)

《イギリス語版》 なし。


●第16パラグラフ

《初版》

 〈「ロンドンの製パン職人の労働は、通例、夜の11時に始まる。この時間に彼はこね粉を作るが、それはひどく骨の折れる工程であって、1かまどのパンの大きさと品質とに応じて、1/2時間ないし3/4時間続く。次に彼は、こね板、これは同時に、こね粉を作るおけのふたにもなるのだが、このこね板の上に横たわり、1枚の麦粉袋を頭の下に敷き、もう1枚の麦粉袋を体の上にのせて、数時間眠る。それから、敏捷で休みのない4時間に及ぶ労働が始まり、こね粉を投げたり、秤ったり、型に入れたり、かまどに押し込んだり、かまどから取り出したり、等々のことをする。あるパン焼き場の温度は、75度ないし90度であって、小さなパン焼き場ではそれより高いことがあっても低いことはない。食パンやロールパン等々を作る仕事が終わると、パンの配達が始まる。そして、日雇い人のかなりの部分は、上述のきびしい夜業を終えたのち、昼間は、パンをかごに入れて家々に運ぶか手押し車にのせて家々に運ぶが、そのあいだ幾度もパン焼き場で作業する。季節や営業規模に応じて、労働は午後1時から6時のあいだに終わるが、職人のもう一方の部分は、深夜おそくまでパン焼き場で働いている(78)」「ロンドン季節〔ロンドンの上流階級の社交季節。初夏〕には、パンを『定価』で売るウエスト・エンド〔ロンドンの高級住宅・商業地区〕の製パン業者の職人たちは、通例、夜の11時に仕事を始め、1度か2度のきわめて短いがちな中休みをはさんで、翌朝の8時までパン焼きに従事している。その後彼らは、4時、5時、6時、それどころか7時までも、パンの配達に使われ、ときにはパン焼き場でビスケット焼きに使われることもある。仕事を終了すると、彼らは6時間、往々にしてわずか5時間か4時間、睡眠をとる。金曜日にはいつでも、もっと早くから、たとえば晩の10時に労働が始まって、パンの製造であれ配達であれ、中断なしに翌土曜日の晩の8時まで、さらにたいていは日曜日の朝の4時か5時までも、労働が続く。パンを『定価』で売る上等の製パン所でも、やはり、日曜日には4-5時間、翌日のための準備作業をしなければならない。……『安売り親方』(パンを定価よりも安く売る親方)--これは、前に述べたように、ロンドンの製パン業者の3/4以上に達する--の製パン職人たちは、労働時間がもっと長いが、その労働はほとんど全くパン焼き場にかぎられている。というのは、彼らの親方は、小さな小売店に供給するほかは、自分の店でしか売らないからである。週の『終わり』ごろすなわち木曜日には、ここでは、労働は晩の10時に始まって、日曜日の夜明け前まで統く(79)。」〉(江夏訳272-273頁)

《フランス語版》

 〈「ロンドンのある製パン労働者の労働は通例、晩の11時頃に始まる。彼はまずパン種を作る。それは、捏粉(コネコ)の分量と品質に応じて半時間ないし3/4時間続く骨の折れる作業である。次に彼は、練桶(ネリオケ)を蔽う板の上に横たわって、1袋の麦粉袋を頭の下に置きもう一つの空袋を体の上にかけておよそ2時間ほど眠る。次に、捏粉を捏(コ)ね、その重さを測り、型に入れ、パン焼釜に入れ、そこから取り出すなど、すばやくて絶え間ない4時間の労働が始まる。パン焼場の温度は通常75度ないし90度であって、その場所が狭ければこれより高くもなる。パン製造を構成するさまざまな作業がいったん終われば、パンの配達にとりかかる。労働者の大部分ははげしい夜業の後で、昼間は、パンを籠に入れて家から家へと運ぶか、それを二輪車の上にのせて運ぶが、そうだからといって、彼らが時々パン焼場で働くことに変わりはない。季節や製造規模に応じて、労働は午後の1時から6時までのあいだに終わるが、労働者のほかの一部は、なおも真夜中頃までパン焼場のなかで仕事をしている(45)」。「ロンドン季節〔ロンドンの上流階級の社交季節。初夏〕のあいだ、『定価売り』製パン業者(パンを定価で売る者) の労働者は、夜の11時から翌朝の8時までほとんど間断なく労働する。次いで彼らは4時、5時、6時、そして7時までもパンを届けることに使われ、または、時々パン焼場でビスケットを作ることに使われる。彼らは自分の仕事が終わると、およそ6時間の睡眠を許されるが、しばしば5時間か4時間しか睡眠しないことだってある。金曜日には労働は、いつでももっと早く、通例晩の10時に始まって、パン焼を準備するにしてもパンを届けるにしても、翌晩の8時まで全然休みなく続くが、たいていのばあい日曜日の午後4時か5時まで続く。パンが『定価』で売られる一流の製パン工場でも、日曜日には同じように、4時間か5時間、翌日のための準備労働がある。『安売り親方』(パンを定価以下で売る製パン業者)、しかもこれが、すでに述べたように、ロンドンの製パン業者の4分の3以上を構成しているが、この親方の労働者はさらにいっそう長い労働時間に従事させられている。だが、彼らの労働は一般的にはパン焼場のなかで行なわれる。というわけは、彼らの親方は、小売商への幾らかの供給を別にすれば、自分自身の店でしか売らないからである。彼らのところでは、『週の終わり』頃すなわち木曜日には、労働が夜の10時に始まって土曜日の真夜中や日曜日の夜明け前まで延長される(46)。〉(江夏・上杉訳250-251頁)

《イギリス語版》

  〈(15) ロンドンのパンの旅職人の仕事は、通常、大体夜の11時に始まる。まずは、「生地」を作る。これはかなりきつい労働過程で、約30分から45分係る。その回のバッチ量にもよるし、労働を捧げるべき内容にもよる。その後、彼は、捏ね鉢の蓋でもある捏ね板の上で、小麦粉袋一枚を敷き、もう一枚を丸めて枕とし、横になって大体2時間程度眠る。その後は、約5時間は続く、激しく連続する作業に従事させられる。生地を掴み取り、秤にかけ、型に入れる。それを竈に入れ、ロールパンその他の菓子パンづくりの準備をし、竈から、型パンを取りだす。そして店の仕事をこなし、等々と続く。竈作業室の温度は、約75°から90°の範囲にあり、小さな竈室の場合は、温度が低いと云うことはなく、通常は、むしろ高いと思われる。これらの食パン、ロールパン、その他の作業が一段落すれば、次にはこれらの配達の仕事が始まる。パンの旅職人のかなり多くの者は、仕事として、夜のこれらの激しい仕事をした足で、昼間の長い時間、バスケットや一輪車で配達する。そしてしばしば、また竈室に戻る。仕事は午後1時から6時の間の、季節による、様々な時間で、終わるか、彼等の主人の仕事の量と内容で終わる。他方、その他の者は、竈室に戻って、さらなるバッチを釜から取りだす作業に午後遅くまで従事させられる。
 いわゆるロンドン季節なる期間 ( クリスマスから 初夏の7月までの期間、議会が開催され、多くの人々が首都を訪れる期間 訳者注 ) には、市のウエストエンドの「正札価格」の製パン業者に所属する職人は、一般的には、午後11時に仕事を始め、製パン作業をする。1-2時間の短い休息の後、( 時々はほんの僅かな場合もあるが ) 翌朝8時まで続く。彼等は、その後、ほぼ全日、4、5、6時、そして夕方7時までパンの運搬に従事させられる。また、時には、午後、竈室に戻り、ビッケット焼きを手伝う。そして仕事を終えた後、時には5または6時間の、ある時は、たったの4または5時間の睡眠を、彼等の次の作業を開始する前に、持つことができるかもしれない。金曜日は、いつも、彼等はいつもより早い10時頃には仕事を始める。そしてある場合は、仕事、パン焼きとパンの配達だが、土曜日の夜8時まで続く、しかしより一般的には、日曜日の朝4または5時までも続く。そして日曜日、彼等は一日に2、3回、1、2時間、次の日のパンを準備する仕事に従事せねばならない…。
 安売り業者に雇われた職人は、平均時間より長い時間を働かねばならないだけでなく、殆ど全ての時間を竈室に閉じ込められる。( 安売り業者とは、正札以下で彼等のパンを売る業者のことであるが、すでに述べたように、ロンドンの全製パン業者の3/4を構成するのである。) 安売り業者は通常、彼等のパンを…店内で売る。もし、彼等がそれを外に送り出すなら、一般的ではないが、雑貨屋に供するのを除けば、大抵はその目的のために他人の手を雇っているはずである。パンを家から家へと配達する作業は職人の仕事ではない。週末に向けて、… 職人達は木曜日の夜10時に始めて、僅かな中休みで、土曜日の夕方遅くになるまで、続ける。〉(インターネットから)


●注78.79

《初版》

 〈(78)前掲『第一回報告書』、別付15ページ。
       (79)同前、別付71ページ。〉(江夏訳273頁)

《フランス語版》

 〈(45) 前掲『第1回報告雷』、別付6ページ。
       (46) 同前、別付71ぺージ。〉(江夏・上杉訳251頁)

《イギリス語版》 なし。


●第17パラグラフ

《初版》

 〈「安売り親方」については、ブルジョア的立場でさえも、「職人たちの不払労働(the unpaid labur of men)が、この親方の競争の基礎になっている(80)」、と理解している。そして、「定価売り製パン業者」は、「安売り」競争相手を、他人の労働の盗人であり粗悪製造業者であるというかどで、調査委員会に告発している。「彼らは、公衆をだますことによってのみ、また、自分たちの職人から12時間分の賃金と引き換えに18時間を搾り出すことによってのみ、繁昌している(82)。」〉(江夏訳273頁)

《資本論》「第6篇 労賃」から

  〈われわれの記憶にあるように、ロンドンの製パン業者には二つの種類があって、一方はパンを標準価格で売り(the“fullpriced" bakers)、他方は標準価格よりも安く売っている(“the underpiriced",“the underaselling")。「標準価格売り」業者は議会の調査委員会で自分たちの競争者を次のように非難する。
  「彼らは、ただ、第一には公衆を欺き」(商品の不純化によって) 「第二には自分の使用人から12時間労働の賃金で18労働時間をむさぼり取ることによってのみ、生存している。……労働者の不払労働(the unpaid labour) は、競争戦をやりぬくための手段になっている。……製パン業者間の競争は、夜間労働を廃止することの困難の原因である。自分のパンを麦粉の価格につれて変わる原価よりも安く売っている安売り業者は、自分の使用人からいっそう多くの労働をたたき出すことによって、損失を免れている。私は私の使用人から12時間の労働しか取り出さないのに、私の隣人は18時間か20時間を取り出すとすれば、彼は販売価格で私を打ち負かすにちがいない。もしも労働者が時間外労働にたいする支払を要求することができれば、こんなやり方はすぐにおしまいになるであろう。……安売り業者の使用人のかなり多数は、外国人や少年少女などで、彼らはほとんどどんな労賃でも自分たちの得られるだけのもので満足せざるをえないのである。(44)」

  (44)『製パン職人の苦情に関する報告書』、ロンドン、1862年、別付52ページ、および証言、第479、第359、第27号。しかし、標準価格で売る業者たちも、前にも述べたように、また彼らの代弁者であるベネット自身も認めているように、彼らの使用人に「夜の11時かまたはもっと早くから作業を始めてしぽしばそれを翌晩の7時までも続け」さぜている。(同前、22ページ。)

  この泣き言が興味をひくのは、資本家の頭にはどんなに生産関係の外観だげしか映じないものかをそれが示しているからである。資本家は、労働の正常な価格もまた一定量の不払労働を含んでいるということも、この不払労働こそは自分の利得の正常な源泉であるということも、知ってはいないのである。剰余労働時間という範疇は彼にとってはおよそ存在しないのである。なぜならば、それは、彼が日賃金のなかに含めて支払っていると信じている標準労働日のなかに含まれているからである。とはいえ、彼にとっても時間外労働、すなわち労働の通例の価格に相応する限度を越えた労働日の延長は、やはり存在する。しかも、彼の安売り競争者にたいしては、彼はこの時間外労働にたいする割増払(extra pay) をさえも主張するのである。彼はまた、この割増払も通常の労働時間の価格と同様に不払労働を含んでいるということも知ってはいない。たとえば、12時間労働日の1時間の価格は3ペンスで、1/2労働時間の価値生産物であるが、時間外の1労働時間の価格は4ペンスで、2/5労働時間の価値生産物であるとしよう。前の場合には資本家は1労働時間のうち半分を、あとの場合には3分の1を、代価を支払わずに取り込むのである。〉(全集第23b巻712-713頁)

《フランス語版》

 〈「安売り親方」については、親方たち自身が、自分たちの競争を可能にしているのは労励者の「不払労働〈the unpaid labur of men〉」である、と認めるまでになっている(47)。そして、「定価売り」の製パン業者は、これらの「安売りする」競争者を、他人労働の盗人であり粗悪品の製造業者であるとして、調査委員会に告発している。「彼らは、民衆を欺き労働者から12時間分の賃金と引き換えに18時間の労働を引き出すからこそはじめて、成功しているのだ(48)」、と彼は叫ぶ。〉(江夏・上杉訳251頁)

《イギリス語版》

  〈(16) ブルジョワ的知識人ですら、安売り業者の立場を理解している。「職人の不払い労働が、彼等の競争成立の根源を成している。」と。そして、正札業者は、彼等安売り業者という競争相手を、外国人 ( 何を指すのかは、後段(18 )で分かる。 ) の労働を盗み、なんやらを混ぜこんだ不良品を売っていると国の調査委員会に告発した。「彼等は、今では、ただ、まず第一に、大衆を騙し、第二に、12時間分の賃金で、18時間も職人を働かせることで存在しているだけである。」と。〉(インターネットから)


●注80

《初版》

 〈(80) ジョージ・リード『製パン業史、ロンドン、1848年』、16ページ。〉(江夏訳273頁)

《フランス語版》

 〈(47) ジョージ・リード『製パン業史』、ロンドン、1848年、16ページ。〉(江夏・上杉訳251頁)

《イギリス語版》 なし。


●注81

《初版》

 〈(81)『報告書(第一回)。証言。』「定価売り製パン業者」であるチーズマンの証言。108ページ。12時間分の賃金が、多分6時間の労働力価値しか表わしていないし、したがって、12時間のうち6時間が「不払い」であるということを、「定価売り」のチーズマン氏は、ほとんど感づいていない。〉(江夏訳273頁)

《フランス語版》

 〈(48) 『第1回報告書、証言』、「定価売り」製パン業者チーズマン氏の証言。〉(江夏・上杉訳251頁)

《イギリス語版》  なし。


●第18パラグラフ

《初版》

 〈パンの組悪製造と、パンを定価より安く売る製パン業者階層の形成とは、イギリスでは18世紀の初め以降、この営業の同職組合的性格がすたれて、名目上の製パン親方の背後に、資本家が製粉業者か麦粉問屋の姿で登場する(82)やいなや、発達した。それとともに、資本主義的生産のための基礎が、労働日の際限のない延長や夜間労働のための基礎が、すえられたのである。といっても、夜間労働は、ロンドンにおいてさえ、1824年になってやっと真に足場を固めたのであるが(83)。〉(江夏訳273頁)

《フランス語版》

 〈パンの粗悪製造と、定価以下で売る製パン業者階級の形成とは、イギリスでは18世紀の初めに始まるのであって、この営業がその同職組合的な性格を失い、資本家が製粉業者の形態のもとで製パン親方を自分の家臣にするやいなや、発展したのである(49)。こうして、資本主義的生産の基礎と昼夜労働の法外な延長の基礎とが、うち固められた。もっとも、夜間労働はロンドンでさえ、1824年に初めて真に足場を得たのである(50)が。〉(江夏・上杉訳251頁)

《イギリス語版》

  〈(17) パンに粗悪材料等を混ぜることと、正札以下で売る業者階級が形成されたのは、18世紀の初めの頃からである。協同的商売の性格が失われた時からで、製粉業者または小麦粉問屋の姿で、資本家が、普通の製パン業者の後ろに回って登場した頃からである。資本家的生産は、こうしたことを、この商売の中に持ち込んだのであり、労働日の際限のない拡張、夜間労働、もまた持ち込まれた。特に後者は、1824年以降、ロンドンにおいて、顕著な跋扈を見せる実態となった。〉(インターネットから)


●注82

《初版》

 〈(82)ジョージ・リード、前掲書。17世紀末と18世紀の初めには、ありとあらゆる営業に侵入してくる Factors(問屋)は、まだ当局からは「公的不法妨害者」というかどで告発されていた。たとえば、サマーセット州の四半期治安判事法廷の大陪審は、下院にたいして「告発」を行なったが、この告発のなかでは、なかんずくこう述べられている。「ブラックウェル・ホールのこれらの問屋は、公的不法妨害者であり衣類業に害を加える者であって、不法妨害者として抑制すべきである。」(『わがイギリス羊毛の事情、ロンドン、1685年、6、7ページ。)〉(江夏訳274頁)

《フランス語版》

 〈(49) ジョージ・リード、前掲書。17世紀の終わりと18世紀の初めには、あらゆる事業部門のなかに忍び込む問屋あるいは事業家は、公安上社会の厄介者として公に告発された。こうして、たとえば、サマセット州の四半期治安判事法廷では、大陪審が下院にたいして「告発」を行なったが、この告発ではなかんずくこう述ぺられている。「これらの問屋(ブラックウェル・ホールの問屋) は社会的な災禍であって、ラシャや衣服の取引に害を及ぼす。彼らは社会の厄介者として抑圧されるべきである」(『わがイギリス羊毛の事例』、ロンドン、1685年、6、7ページ)。〉(江夏・上杉訳頁252)

《イギリス語版》

  〈本文注: ( 製粉業者または小麦粉問屋の姿で、資本家が、普通の製パン業者の後ろに回って登場した頃、の部分に、以下の注を付けている。訳者付記 ) 17世紀の終り頃、そして18世紀の初めの頃は、ありとあらゆる商売に割り込んでくる問屋 ( 代理店 )は、依然として、「公衆の迷惑」として、批難された。サマセット州で四半期ごとに開廷される治安判事裁判の大陪審は、下院に対して、ある告発を送付した。いろいろとあるのだが、その中に、次のような陳述がある。「ブラックウエル ホールのこれらの問屋は、公衆の迷惑であり、布地の取引を害する、であるから、不法妨害として排除すべきである。」ジョージ リード著 「我々英国の羊毛の場合 …他云々」ロンドン 1685年〉(インターネットから)


●注83

《初版》

 〈(83)『第一回報告書』、別付8ページ。〉(江夏訳274頁)

《フランス語版》

 〈(50) 『第1回報告書』、別付8ページ。〉(江夏・上杉訳252頁)

《イギリス語版》 なし。


●第19パラグラフ

《初版》

 〈以上に述べたことからわかるように、この委員会報告書によると、製パン職人は短命な労働者のなかに数え入れられ、彼らは、労働者階級のどの部分でも常態になっている幼児死亡を幸いにして免れたのちも、42歳に達することがまれである。それにもかかわらず、製パン業はいつでも志願者であふれている。ロンドンへのこの「労働力」の供給源は、スコットランドやイングランドの西部農業地帯やドイツである。〉(江夏訳274頁)

《フランス語版》

 〈前述したところによれば、次のことが理解される。すなわち、製パン職人が委員会報告書のなかでは短命な労働者の部類に入れられており、彼らは、労働者階級のあらゆる階層で通例である幼児死亡から奇跡的に免れた後も、42歳に達することはまれであるということ。それにもかかわらず、製パン業はつねに志願者で温れている。ロンドンにたいするこれらの「労働力」の供給源は、スコットランドやイングランドの西部農業地方やドイツである。〉(江夏・上杉訳252頁)

《イギリス語版》

  〈18) これらが述べている内容を知れば、調査委員会が、パンの旅職人を、短命な労働者群に区分するという報告も理解できるものとなろう。彼等は、労働者階級の子供たちの多くが死んで行く一般的状況を幸運にも逃れ得たとしても、42歳に達する者は稀である。にもかかわらず、製パン業は応募者に溢れかえっている。ロンドンに供給される労働力の源は、スコットランドであり、英国西部農業地域であり、そして、ドイツなのである。〉(インターネットから)


●第20パラグラフ

《初版》 

 〈1858-1860年に、アイルランドの製パン職人は、自費で、夜間労働と日曜労働に反対する運動のための大集会を組織した。民衆は、たとえば1860年のダプリンの5月集会では、アイルランド人の熱狂的な本性のおもむくままに、製パン職人のいつも変わらぬ活気ある味方になった。この運動のおかげで、ウエックスフォード、キルケニー、クロンメル、ウォーターフォード等々では、もっぱら昼間だけの労働が、実に首尾よく実現された。「賃職人の苦痛が周知のようにありとあらゆる限度を越えていたリメリックでは、この運動は、製パン親方ことに製パン兼製粉業者の反対に出あって、挫折した。リメリックの実例は、エニスやティペラリでの敗退を招いた。公然たる不満が最も激しい形で表明されたコークでは、親方たちは、職人を追い出すという自分たちの権力を行使して、この運動を挫折させた。ダブリンでは、親方たちは最も頑強に抵抗し、運動の先頭に立っていた職人たちを迫害するという手段に訴えて、残余のものには、夜間労働日曜労働に服するという譲歩を余儀なくさせた(84)。」アイルランドで完全武装していたイギリス政府の委員会は、ダブリンやリメリックやコーク等々の無情な製パン親方にたいして哀れっぽくこう抗議している。「本委員会の信ずるところでは、労働時間は自然法則によって制限されているのであって、この法則は、これを犯せば必ず罪を受けることになるものである。親方たちが、自分たちの労働者にたいして、追放するぞと脅して、労働者に余儀なく宗教的信念に背かせ国法を犯させ世論を軽視させること(これらはどれも日曜労働にかんするものである)によって」、「彼らは、資本と労働とのあいだに悪感情をひき起こさせ、宗教や道徳や公の秩序にとって危険な一例を提供している。……本委員会の信ずるところでは、12時間を越える労働日の延長は、労働者の家庭生活および私生活の横領的な侵害であり、また、1人の男の家庭生活に干渉したり、息子、兄弟、夫、父としての彼の家庭義務の履行に干渉したりすることによって、道徳上有害な結果を招いている。12時間を越える労働は、労働者の健康をそこなう傾向があるし、早老夭折を招くし、したがって、労働者の家族が家長からの世話や扶助を最も必要とするちょうどその時期にその世話や扶助を奪われる(“are deprived")という、この家族の不幸を招いている(85)。」〉(江夏訳274-275頁)

《フランス語版》 フランス語版では第20パラグラフは二つに分けられて、あいだに原注51が挿入されている。ここでは二つのパラグラフを一緒に紹介し、原注は別途、原注84のところに掲載する。

 〈1858-60年に、アイルランドの製パン職人は、夜間労働と日曜労働に抗議するための大集会を自費で主催した。たとえばダブリンの5月の集会では、民衆はアイルランド人の激しやすい性質にふさわしく、どんなばあいでも熱烈に製パン職人の味方になった。この運動の結果、もっぱら昼間だけの労働がウェクスフォード、キルケニー、クロンメル、ウォータフォードなどで実際に確立された。「労働者の苦悩が一般の認めるように全く度を越えていたリメリクでは、この運動は製パン親方、殊に製パン兼製粉業者の反対にあって失敗した。リメリクの実例がエニスやティベラリに反応した。民衆の反感が最もはげしく現われたコークでは、親方たちは労働者を解雇してこの運動を失敗させた。ダブリンでは親方たちはこの上なく頑強に抵抗し、煽動の首謀者を迫害することによって、残りの者に譲歩を強制し、夜間労働と日曜労働に服することを強制した(51)」。
  アイルランドで全身武装していたイギリス政府の委員会は、ダブリンやリメリクやコークなどの無情な製パン親方たちに、哀願するような勧告を惜し気もなく与えた。「本委員会は、労働時間が、犯せば必ず罰せられるという自然法則によって制限されている、と信ずる。親方たちは、労働者に、宗教的感情の侵害や国法の侵犯や世論の蔑視(どれも日曜労働にかんするもの)を追放という脅しで弥制することによって、資本と労働とのあいだに憎悪の種をまき、また、宗教や道徳や公共の秩序にとって危険な実例を与えている。……本委員会は信ずる、12時間を越えて労働を延長することは、労働者の私生活と家庭生活にたいする真の横領、侵害であって、これは道徳上の不幸な結果をもたらし、こうした延長はまた、労働者がその息子や兄弟や夫や父としての家族義務を果たすことができないようにする、と。12時間以上の労働は、労働者の健康を消耗させる傾向があり、彼に早老と夭折をもたらし、したがって、ちょうど家族がいちばん必要とする時に家長の世話と扶助とが奪われるという家族の不幸をもたらすものである(52)」。〉(江夏・上杉訳252-253頁)

《イギリス語版》  イギリス語版も二つのパラグラフに分けているが、ここでは二つを一緒に紹介しておく。

  〈(19) 1858-60年、アイルランドのパンの旅職人達は、彼等自身の資金を集めて、夜間及び日曜日の労働に反対する抗議集会を組織した。大衆は、-例えば、1860年5月のダブリンの集会では-、アイルランド人としての温情をもって、彼等としての、支援する立場を、鮮明にした。運動の結果、ウエックス、キルケニー、クロンメル、ウオーターフォード等では、(夜間労働はともかく、訳者注) 週日労働のみについては成功裏に確立を見た。「旅職人の要求が強く表明されたリメリックでは、製パン親方の反対や、最も大きな反対者となった製粉・製パン一貫業者の反対によって、これらの運動は挫折させられた。リメリックの例が、エニスやティペレアリの運動を後退させた。最も強くあらん限りの示威感情が沸き上ったコークでは、親方達は、労働者を解雇するという彼等の実力を行使することで、運動を壊滅させた。ダブリンでは、製パン親方達はこの運動に対して反対の決意をあらわにし、旅職人の要求に対して、できる限りの手を使って挫き、日曜労働と夜間労働を承諾するよう追い込んだ。応じようとしない労働者には、これとは別の手を使って、追い払った。」
  (20) 英国政府委員会は、その政府は、アイルランドで、歯に至るまで武装して、そのことをいかに示すかをよく知っていたのだが、柔らかく、あたかも葬式に参列したかのような声色で、容赦しようともしないダブリン、リメリック、コーク他の、製パン親方達に次の様に忠告した。「委員会は、労働時間は自然の法則によって制限されており、罰則なしで冒されることはできないものと信じている。製パン親方達は、彼等の労働者に、解雇の恐怖をもって、彼等の宗教上の信念とかれらの良き感情とを冒涜し、国の法律に従わず、大衆の意見( この内容は日曜日の労働に関するものが全てではあるが ) を無視したことは、労働者達と親方達の間に反目を惹起させたと考えられる。…そして、宗教、道徳、社会的秩序等に危険な例を引き起こした。…委員会は、日12時間を超える定常労働は、労働者の家庭生活及び個人生活を浸食し、倫理崩壊に至らしめる。個々人の家庭に干渉し、そして息子としての、兄弟としての、亭主としての、家長としての、家族的義務を放棄させるものと信じている。12時間を超える労働は、労働者の健康に穴をあけるもので、早過ぎる老化と死をもたらす。労働者の家族にとっては耐えがたい痛手となる。かくて、最も必要な時に、家族の長の配慮や支援が剥奪される。」〉(インターネットから)


●注84.85

《初版》

 〈(84)『1861年のアイルランド製パン業にかんする委員会報告書』。
       (85) 同前。〉(江夏訳275頁)

《フランス語版》  フランス語版では、第20パラグラフが二つのパラグラフに分けられ、最初の部分に注51)が付けられている。それをここで、後半部分に付けられている注52)と一緒に紹介しておく。

 〈(51) 『1861年のアイルランド製パン業にかんする委員会報告書』。
       (52)  同前。〉(江夏・上杉訳252と253頁)

《イギリス語版》  なし。


  (付属資料№4に続く)

 

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『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(8)

2023-07-14 10:22:15 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.35(通算第85回)(8)


【付属資料】№4


●第21パラグラフ

《初版》

 〈以上は、まさにアイルランドのことであった。海峡のもう一方の側のスコットランドでは、農業労働者が、犂(スキ)を扱う男が、日曜日の4時間の追加労働(安息日を守るとの国で!)を伴う、この上なくきびしい気候のさなかでの13-14時間労働を、非難しており(86)、他方ではこれと同時に、ロンドンの大陪審の前に、3人の鉄道労働者が、すなわち1人の旅客車掌と1人の機関手と1人の信号手とが、立っている。ある大きな鉄道事故が、数百人の旅客をあの世に送った。鉄道労働者の怠慢がこの事故の原因である。彼らは陪審員の面前で異句同音にこう述べている。自分たちの労働は、10年ないし12年前には、1日わずか8時間続くにすぎませんでした。それが、最近5-6年のあいだに、14時間、18時間、20時間にねじ上げられ、そして、観光列車シーズンのばあいのように旅行愛好者が特にひどく殺到するときには、休みなしに40-50時間続くことが多いのです。自分たちは普通の人間であって、一眼巨人ではありません。ある与えられた点までくると、自分たちの労働力は役に立たなくなります。麻痺状態が自分たちに襲ってきます。頭は芳えなくなるし、目は見えなくなります。あくまで「尊敬に値するイギリスの陪審員」は、彼らを“manslaughrer"(殺人罪) のかどですぐ次の陪審裁判に付すという評決で答え、いんぎんな添付書のなかで次のようなあだな望みを述べている。鉄道の大資本家諸氏は、将来は、必要な数の「労働力」の買い入れではもっとぜいたくになり、代価を支払った労働力の搾取では「もっと節制的」か「もっと禁欲的」か「もっと節約的」になってくれればよいが(84)!と。〉(江夏訳275-276頁)

《フランス語版》

 〈さて、アイルランドから離れよう。海峡のもう一方の側であるスコットランドでは、農村労働者が、犂(スキ)を扱う男が、日曜日の追加労働4時間(安息日を神聖化するこの国で!(53))を伴う、いっそうきびしい気候のさなかでの13時間や14時間の労働を告発しており、これと同時に、3人の鉄道労働者が、1人の車掌と1人の機関手と1人の信号手が、ロンドン大陪審の前に連れてこられている。ある大きな鉄道事故が100人の旅客をあの世に送った。労働者の怠慢が、この不幸な原因であるということで起訴されている。彼らは陪審員の前で、10年か12年以前には労働は1日に8時間しか続かなかった、と異口同音に言明する。最近5、6年のあいだに、労働は14時間、18時間、20時間に引き上げられて、行楽列車の時期など、旅行愛好家が押し寄せる混雑時には、40時間ないし50時間続くことがまれではない。彼らは普通の人間であって、百眼巨人ではない。ある時点では、彼らの労働力はいうことをきかなくなる。麻痺状態が彼らをとらえ、頭は考えることをやめ、眼は見ることをやめる。尊敬に値するイギリスの陪審員は、過失致死〈manslaughrer〉のかどで彼らを次の巡回裁判に送るという評決で、彼らに答える。しかし、彼は慈悲深い添付書で、鉄道の大立物である資本家諸君は、どうか将来は、充分な数の「労働力」を購買するという点ではいまよりも気前よくなり、支払われた労働力を汲みつくすという点ではいまよりも「夢中」にならないでほしい、という敬虔な願望を述べている(54)。〉(江夏・上杉訳253-254頁)

《イギリス語版》

  〈21) ここまでは、アイルランドの場合を取り上げたが、海峡の向こう側、スコットランドでは、農業労働者、犂百姓達が、厳冬期の13-14時間労働と、その上に加えられる日曜日の4時間の労働に対する抗議を行った。( なんと、安息日を厳守するキリスト教徒達の国なのに! )
  一方で、同じ時間に、3人の鉄道員が、ロンドン検死官の陪審に立っていた。-車掌、機関手、信号手である。非常に大きな鉄道事故が、何百人という旅客をあの世への特急に乗せた。この不運の原因は、雇用者の過失である。彼等は、陪審員の前で、異口同音に次のような陳述した。10年または12年前、彼等の労働は日8時間続くのみであった。ここ5-6年は、それが14、18 そして20時間へと捩じり上げられた。そして、休日の運行、遊覧列車の運行と言った非常に過酷な圧力も加わった。たびたび、40から50時間の休息なしの運行状態が続いた。彼等は、普通の人間で、キュクロプス( ギリシャ神話の単眼巨人 訳者注 )ではない。ある時点・地点で彼等の労働力は消滅した。昏睡が彼等を捉えた。彼等の頭脳は考えることを止め、目は見るのを止めた、と。本当に「尊敬に値する」陪審員達は、評決によって、殺人の罪で、彼等を次の裁判に送った。その評決には、心やさしき「添え書き」があり、こう書かれていた。将来は、鉄道の資本家的有力者は、充分な量の労働力の購入により浪費的に、そして購入した労働力の排出に当たっては、より「節制的」に、より「自制的」に、そしてより「つつましく」あるべきものと信心深く希望する、と。 〉(インターネットから)


●注86

《初版》

 〈(86)グラスゴーに近いラスウェードでの1866年1月5日の農業労働者の公開集会。(1866年1月13日の『ワークマンズ・アドヴォケート』紙を見よ。)1865年末以降、まずスコットランドで農業労働者のあいだに労働組合が結成されたことは、歴史的な事件である。〉(江夏訳276頁)

《フランス語版》

 〈(53) グラスゴーに近いラスウェードでの1866年1月5日の農業労働者の公開集会(1866年1月13日の『ワークマンズ・アドヴォケート』紙を見よ)。1865年末以来、まずスコットランドで農業労働者のあいだに労働組合が結成されたことは、真に歴史的な事件である。〉(江夏・上杉訳254頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1866年1月5日、エジンバラに近いラスワードで開催された、農業労働者の大衆集会。( 「労働者の擁護者」紙 1866年1月13日を見よ。) 最初に、スコットランドにおいて、農業労働者達の中から、職業組合の組織化がなされたことは、歴史的な出来事なのである。中でも、最も抑圧された英国農業地域の一つ、バッキンガムシヤーで、1867年3月、労働者は、彼等の週賃金を9-10シリングから12シリングに上げるための一大ストライキを打った。( 前述紙に見るように、英国農業プロレタリアートの運動は、1830年以後、彼等の激しい意志表示が鎮圧されたことで、全く潰れてしまったが、また、新救貧法の導入によっても実際に潰滅されていたが、1860年代になって、再び開始された。1872年の画期的な時点に至るまでの間、様々に成長した。英国の地の労働者の位置について触れている1867年以降に発行された青書 ( 英国議会発行の報告書 訳者注 ) と、ともに、私は、第二巻でこの点に再度触れる。第3版にも補追した。)〉(インターネットから)


●注87

《初版》

 〈(87)1866年1月20日の『レーノルズ新聞』。その直後に、この週刊誌は毎週、「恐ろしいゆゆしき事故」、「ぞっとするような悲劇」等々という「センセーショナルな見出し」のもとで、新しい鉄道大惨事の全一覧表を掲載している。これに答えて、ノース・スタッフォード線のある労働者はこう言う。「機関手や火夫の注意力が一瞬でもゆるめば、その結果がどうなるかは、誰でも知っています。きわめてきびしい天候のもとで、休みも気晴らしもないまま無制限に労働を延長されれば、どうしてそうならずにいられましょうか? 毎日現われる一例として、次のばあいをあげておきましょう。今週の月曜日に、ある火夫がごく早朝から1日の仕事を始めました。彼はこの仕事を14時間50分後に終えました。茶を飲むひまさえもなく、またも仕事に呼び出されました。こうして29時間15分、休みなしに続けざま苦役しなければなりませんでした。彼の1週間の仕事の残りは、次のように組まれていました。水曜日が15時間、木曜日が15時間35分、金曜日が14[1/2]時間、土曜日が14時間10分、合計すると1週間に88時間40分。そこで、彼が6労働日分の支払いしか受け取らなかったときの驚きを、想像してください。この男は新米であったので、1日の仕事とはなんのことですかと尋ねました。答えは、13時間、だから1週間では78時間、ということでした。すると、追加の10時間40分の支払いはどうなりますか? 長い言い合いのあげく、彼は10ペンス(10銀グロシェンにも足りない)の手当を受け取りました。」(同上、1866年2月4日号。)〉(江夏訳276-277頁)

《フランス語版》

 〈(54) 1866年1月20日の『レイノルズ・ニューズ・ペーパー』。この新聞は毎週、「恐ろしいゆゆしき事故」、「戦慄の悲劇」などのようなセンセーショナルな見出し〈sensational headigs〉で、新しい鉄道大事故の全一覧表を公表している。ノース・スタフォード線のある労働者は、これについて次のように観察している。「機関手や火夫の注意が一瞬ゆるめば、どんなことが起きるかは、誰もが知っている。そして、休止または一刻の休息もなく労働が法外に延長されれば、どうしてこうならずにいられようか? 毎日起きていることの例として、最近起きたばかりの一事件をとりあげてみよう。ある火夫が去る月曜日、朝非常に早くから仕事を始めた。彼はその仕事を14時間50分後に終えた。お茶を飲むだけの時間もなく彼は再び仕事に呼び出され、こうして29時間15分も間断なく骨折らなければならなかった。彼の1週間の残りの仕事は、次のように配分されていた。すなわち、水曜日は15時間、木曜日は15時間35分、金曜目は14時間半、土曜目は14時間10分。1週全体の合計は88時間40分。さて、彼がたった6日分の支払いしか受け取らなかったときの驚きを想像せよ。この男は新参者であったので、1日分の仕事とはなにを意味するのかと尋ねた。答えは13時間、したがって1週間に78時間であった。だが、それでは、追加の10時間40分にたいする支払いはどうなるのか? 長い論争の後、彼は10ペンス(1フラン) の手当を得たのである」(同上、1866年2月4日号)。〉(江夏・上杉訳254頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: レイノルズ ニュース紙 1866年1月-毎週この新聞は、「恐ろしく、かつ破滅的な事故」「ぞっとするような悲劇」等々のセンセーショナルな見出しで、新たな鉄道事故を次々に取り上げた。これらの事故の一つに係る、北スタッフォードシャー線の雇用者の一人は次のように述べた。「誰でも分かるように、もし、蒸気機関車の機関手と火夫が、常に外を見ていなければ、こうなる。風雨の中、29-30時間も休息なしで仕事をする彼等から、それをどうやって期待できるのか。いつも行われていることだが、一つの例を上げれば、-ある火夫は月曜日の朝早くから仕事を始める。一日の仕事と称される仕事を終わった時、彼は14時間50分の職務を果たした。お茶を飲む時間の前に、彼は次の職務に呼び出される。…彼が14時間25分の職務を終えた時には、何の中断もない計29時間と15分の職務となっている。残りの週日の仕事は、次のようになっている。-水曜日 15時間、木曜日 15時間35分、金曜日 14時間半、土曜日 14時間10分、合計 週 88時間30分となる。そこで、旦那、この全ての時間に対して6日と1/4日分の支払いを受けた時の彼の驚きを想像してみよ。これは何かの間違いであると思った彼は、運行係に申し出た。…そして、一日の仕事を何と考えているのかを尋ねた。貨物輸送に当たる火夫では13時間 ( すなわち、週78時間 ) であるとの答えが戻った。それを受けて彼は、週78時間以上の職務についての支払いを求めた。が、拒絶された。とはいえ、最後に彼は、彼等が彼に別に1/4日分を与えると云われた。すなわち10ペンスを。」1866年2月4日号〉(インターネットから)


●第22パラグラフ

《初版》

 〈打ち殺された人々の霊が、オデュッセウス〔ギリシアの伝説上の英雄〕のもとに群れをなして押しかけたよりももっと熱心に、われわれのところに群れをなして押しかけてくるし、小脇にかかえた青書を見なくても一目で超過労働が察せられるというような、ありとあらゆる職業とあらゆる年齢の男女から成る雑多な労働者群のなかから、われわれはさらに、2人の人物--この2人の人物の顕著な対照が、すべての人間は資本の前では平等であるということを、示しているのだが--、婦人服裁縫女工鍛冶工とを、選び出してみよう。〉(江夏訳277頁)

《フランス語版》

 〈地獄でオデュッセウス〔ギリシアの伝説上の英雄〕の前に現われた死の亡霊よりもさらに数多くわれわれの前に現われ、その小脇に抱えた青書を開かなくても一見して過度労働の跡が認められるような、あらゆる職業とあらゆる年齢と男女両性の労働者の雑多な群衆のなかから、われわれはついでにもう2人の人物を取り上げよう。この2人の顕著な対照が、すべての人間は資本の前で平等である、ということを証明してくれる人物--婦人服製造女工と鍛冶工--を。〉(江夏・上杉訳254頁)

《イギリス語版》

  〈(22) あらゆる職業の労働者が、年齢・性別を問わず、我々の所に頻繁に押しかけてくる。殺された魂がユリシーズの所に押しかける以上に。彼等は、-その内容に言及した青書を腕に抱えてはないが、- 一見して過労の印が見てとれる。その雑多な中から、さらに二つの姿を取り上げる。その姿は、資本の前では全ての人間が均一であることを驚くべき鮮明さで証明している。- 婦人用帽子縫製工と鍛冶工とである。〉(インターネットから)


●第23パラグラフ

《61-63草稿》

 〈〔注解〕……1863年6月にロンドンの新聞(とりわけ1863年6月24日付の『ザ・タイムズ』の“Worked to death…"という〔書き出しの〕記事、7ページ5段、同じく“Ten days ago…"という〔書き出しの〕記事、11ページ5段および6段、1863年6月23日付の『モーニング・スター』の記事「われわれの白色奴隷」、4ページ6段-5ページ1段)は、婦人服製造女工メアリ・アン・ウォークリの過度労働による死亡について報じた。〉(草稿集④282頁)縫製

《初版》

 〈1863年6月の最後の週に、ロンドンのすべての日刊新聞は、“Death from Simple Overwork"(単なる超過労働が原因の死亡)という「センセーショナル」な見出しをつけた一文を掲載した。それは、ある非常に声望の高い宮廷用婦人服裁縫所に雇われていて、エリーズという感じのよい名の婦人に搾取されていたメアリ・アン・ウォークリという20歳の婦人服縫製女工の、死亡にかんするものであった。幾度も語られた古い物語が、いままた新たに発見されたのであって(88)、これらの娘は、平均して16[1/2]時間、だがロンドン季節中には往々にして30時間休みなく労働し、彼女たちの「労働力」がいうことをきかなくなると、ときおりシェリー酒やポートワインかコーヒーが与えられて活動を続けさせられたのである。それはちょうどロンドン社交期の盛りのことであった。新しく輸入されたイギリス皇太子妃に忠誠を誓う舞踏会用の貴婦人の晴着を、一瞬のうちに魔術のように作り上げなければならなかった。メアリ・アン・ウォークリは、ほかの60人の娘たちと一緒に、必要な空気容積の1/3もないような一室に30人ずつ入れられて、26[1/2]時間、間断なく労働したが、夜になると、1つの寝室をあれこれの板壁で仕切った息づまる穴の一つのなかで、1つのベッドに2人ずつ寝た(89)。しかも、これが、ロンドンでもましな婦人服裁縫所の一つであった。メアリ・アン・ウォークリは、金曜日に病気になり、そして、エリーズ夫人の驚いたことには、最後の1着を仕上げもしないで日曜に死んだ。遅ればせに死の床に呼ばれた医師キー氏は、検屍陪審員の前で、率直な言葉で次のように証言した。「メアリ・アン・ウォークリは、詰め込みすぎた作業室での長い労働時間が原因で、また、換気の悪いせますぎる寝室が原因で、死にました。」この医師に行儀作法を教えるために、この証言にたいして「検屍陪審員」はこう述べた。「死者は卒中で死んだが、その死が、詰め込みすぎた作業場での超過労働等によって早められたのではないか、と懸念する理由が、ないわけではない。」われわれの「白色奴隷は」、と自由貿易論者コブデンおよびブライトの機関紙『モーニング・スター』は叫んだ、「われわれの白色奴隷は墓にまでこき使われ、こっそりと、いためつけられて行く(90)。」と。〉(江夏訳277-278頁)

《フランス語版》

 〈1863年6月末の数週間、ロンドンのすべての新聞は、「単なる過度労働からの死亡〈Death from simple overwork〉」というセンセーショナルな見出しの一記事を掲載した。問題になったのは、20歳のメアリ・アン・ウォークリという婦人服製造女工の死亡であった。彼女は、宮廷の御用商人でエリズという優しい名前の婦人が経営していた非常に立派な仕事場で使われていたのである。これは、非常にしばしぼ語られた古い物語であった(55)。確かに若い女工たちは、1日に平均して16[1/2]時間しか働かなかったが、社交期中にかぎっては、休みもなく30時間続けざまに働いた。そして確かに、彼女らの衰弱した労働力を生きかえらせるために、幾杯かのシェリー酒やポートワインまたはコーヒーが彼女らに与えられた。ところで、社交期の真最中のことであった。ことは、新たに輸入されたイギリス皇太子妃に敬意を表する舞踏会に行く貴婦人たちのための衣裳を、一瞬のうちに仮縫いすることであった。メアリ・アン・ウォークリは、ほかの60人の少女たちと一緒に26]1/2]時間ひっきりなしに働いた。言っておかねばならないが、これらの少女たちが30人、必要な空気容積のほとんど3分の1もない1室のなかにおり、しかも夜は、どの寝間も幾つかの板壁で仕切られたむさくるしい部屋のなかで、2人ずつ眠ったのである(56)。しかもこれこそが、最も優秀な婦人服製造所の一つであったのだ。メアリ・アン・ウォークリは金曜日に病気になり、日曜日には、エリズ婦人が非常に驚いたことには、縫物に最後の針の先をあてぬまま死亡した。遅ればせに死の床に呼ばれた医師キーズ氏は、検屍陪審員の前で全く率直にこう表明した。「メアリ・アン・ウォークリは、詰め込みすぎた作業室での長時間労働や狭すぎて換気の悪い寝室が原因で、死亡した」。他方、「検屍陪審員」はこの医師に行儀作法を教えるため、こう言明した。「故人は卒中で死んだが、その死が詰め込みすぎた作業場での過度労働などによって速められたのではないか、と懸念すべき余地はあった」。自由貿易主義老コブデンやブライトの機関紙『モーニング・スター』は、こう叫んだ。「われわれの白色奴隷は、彼らを墓場にまで駆りたてる労働が産んだ犠牲者である。彼らは精根がつき果ててこっそりと死ぬ(57)」。〉(江夏・上杉訳254-255頁)

《イギリス語版》

  〈(23) 1863年6月の最後の週、ロンドンの日刊紙の全てが、「センセーショナル」な見出しで、「単なる過労による死」という小さな記事を掲載した。それは、婦人用帽子縫製工の死を取り上げたもので、マリー アン ウォークリー 20歳。非常に高い評価を受けている婦人服の仕立業者に雇用されていた。エリーズという感じのよい名前の一人のご婦人によって、労働力を搾取された。古い、よく登場する話題が、今一度語られる。この少女は、平均で16時間半働いた。季節によっては、30時間休みもなく働くこともあった。彼女の労働力が無くなると、たびたび、シェリーとか葡萄酒とか、またはコーヒーで回復されられた。その時はまさにこの季節の真っ只中であった。新らたに宮廷入りした英国皇太子妃のための舞踏会に招待された貴婦人達のために、豪華なドレスの数々を瞬きする間に魔法のように仕上げる必要があった。マリー アン ウォークリーは、休みもなく、他の60人の少女たちと、30人一部屋で、そこは、彼女たちに必要とされる空気量の1/3しか与えない狭さの中で、26時間半働いた。夜は、二人一組で、板で間仕切りされた窮屈極まる穴のような寝室で寝た。
  そして、この婦人用帽子製造業者は、ロンドンでも最良の部類に入る業者の一つであった。マリー アン ウォークリーは、金曜日に病気となり、日曜日に死んだ。彼女の仕事が完成することがないままに。マダム エリーズは、このことに仰天した。医師 キーズ氏は、臨終には間に合わなかったが、検死陪審が来る前に、状況をよく監察し、「マリー アン ウォークリーは、人数が多過ぎる作業室での長時間作業と小さ過ぎの不良通風装置しかない寝室のために死んだ。」と述べた。この医師に良き礼儀作法の授業を施すために、検死陪審は、検死報告に次のように記した。「脳卒中で死亡。しかし、過密作業室内での過重労働がその死を加速させた懸念という理由もある。等々。」「我々の白人奴隷」と自由取引業者 コブデンとブライドの機関紙、モーニングスター紙は叫んだ。「我々の白人奴隷は、墓場に入るまで働かされた。その間、黙ったまま、やせ衰えて、そして死んだ。」〉(インターネットから)


●注88

《イギリスにおける労働者階級の状態》

 〈手工業においては、資本の力と、ときとすると分業もまた同じような結果をともない、小ブルジョアジーを駆逐し、そのかわりに大資本家と無産労働者とをすえたということは、すでに私がまえに述べたとおりである。これらの手工業者については、実際に、ほとんどなにもいうことはない。なぜなら、手工業者に関係のあるいっさいのことは、すでに工業プロレタリアート一般について述べた例の個所で、考察しておいたからである。またここでは、労働のしかたや、それが健康におよぼす影響という点では、工業運動がはじまってこのかた、ほとんど変化していない。しかし、固有の意味での工業労働者との接触、職人たちがいまなお個人的な関係をむすんでいる小親方の圧迫よりもはるかにはっきりと感じられるようになった大資本家の圧迫、大都市生活の影響および賃金の下落は、ほとんどすべての手工業者たちを、労働運動の積極的な参加者にしてしまった。われわれは、この点については、ただちに語らねばならないのであるが、ロンドンの労働人口の一部類に目をむけてみよう。これらの労働者は、ブルジョアジーの金銭欲による搾取のされ方が異常なまでに野蛮であるという点で、とくに注目に値いする。私のいっているのは、婦人装身具製造女工と裁縫女工のことである。
  ブルジョアジーの貴婦人たちをかざりたてるのに役だつような品物の製造こそ、ほかならぬこの製造に従事する労働者たちの健康にたいして、悲惨このうえもない結果をともなうということは、特徴的なことである。われわれは、このようなことを、まえにレース製造業のところですでに見たが、いままたロンドンの婦人装身具店を、こうした陳述の証明とするのである。これらの商店は、たくさんの若い娘を雇っている--全部で1万5000人の娘がいるといわれている--彼女たちは、これらの商店に住みこんで食事をし、たいてい田舎からでてきているので、完全に雇い主の奴隷である。1年に約4ヵ月つづく流行シーズンの/あいだは、もっとも条件のよい商店でさえ、労働時間は毎日15時間であり、緊急の仕事があるときには18時間にもなる。けれども、たいていの店では、この期間中はまるではっきりした時間のきまりなしに、働かされる。そこで娘たちは、休息と睡眠にあてられる時間としては、24時間の打ち6時間以上ありつくことなどまったくなく、しばしば3時間か4時間しかない。それどころかときにはほんの2時間しかないこともあり、19時間ないし22時間も働かされる。それも、彼女たちが徹夜で働く必要のない場合のことであって、徹夜の労働もしょっちゅうあるのだ! 彼女たちの労働におかれているただ一つの限界といえば、これ以上はただの1分間でも針をはこぶのが絶対的・肉体的に不可能となる、ということである。これらの救いようもない生き物たちが、9日間ものあいだつづけさまに着物もきかえず、わずかに機会のあるたびにときどき敷きぶとんのうえで、ほんのつかのまの休息しかとれないような場合とか、食物をでぎるだけ短い時間にのみこめるように、こまかくきざんで、これらの生ぎ物にあてがうような場合もおこってくる。簡単にいえぱ、これらの不幸な娘たちは、道徳的な奴隷の鞭--首切りという脅威--によって、頑健な成年男子にさえたえられないような、まして14歳ないし20歳のかよわい娘たちにはなおさらたえられないような、たえまなくつづく労働をさせられているのである。おまけに、作業室や同じくまた寝室のしめっぽい空気、かがんだ姿勢、しばしばまずくて消化のわるい食物--これらすべてのことが、だがわけても長時間労働と戸外の空気からの隔離とが、娘たちの健康にたいして悲惨このうえもない結果をひきおこす。疲労と無気力、虚弱、食欲不振、肩・背・腰のいたみ、わけても頭痛がすぐさまおこる。それから脊椎の彎曲、高くつきでたぶかっこうな肩、萎縮、はれあがって、涙がながれ、いたんで、すぐにも近眼となってしまう目、咳、呼吸困難と息ぎれ、ならびにいっさいの女性の思春期病である。目は、多くの場合ひどくそこなわれるので、不治の盲目、眼球組織の全面的な破壊がおこる。そして視力が、仕事をつづけられる程度に運よくのこったとしても、肺結核がこれらの婦人装身具製造女工の、短くもいたましい生涯にとどめをさすのがふつうである。この仕事をかなりはやくやめた女工たちの場合でさえ、身体の健康は永久に破壊されてしまい、体力も衰弱してしまう。彼女たちは、たえず、とくに結婚すると、病身で虚弱となり、病弱な子供をうむ。委員(児童雇用委員会の) の質問をうけた医師たちは、これ以上に健康を破壊し、寿命にも達しない若死にをまねくことをめざすような生活のしかたは、けっして見つけだすことはできない、と口をそろ/えて述べている。
  裁縫女工、ことにロンドン裁縫女工は、これと同じような残酷さで、ただいくぶん間接的に搾取されている。コルセットの製造に従事している娘たちは、くるしい、骨の折れる、目をつかれさせる仕事をしている。では、彼女たちのうけとる賃金は、はたしてどれくらいであろうか? 私はそれは知らない。しかし、自分のうけとった材料を保証しなければならず、またひとりひとりの裁縫女工に仕事を割り当てている請負人が、1個あたり1ペニー半、プロイセンの15ペニッヒをもらっている、ということは私は知っている。この1ペニー半のうちから、さらに請負人の利益がさしひかれ、しかもその利益は、すくなくとも半ペニーである--したがって、せいぜい1ペニーしか、あわれな娘たちのふところにははいらないわけである。えり飾りをぬう娘たちは、16時間働く義務を負わねばならず、そして週4シリング半、プロイセンの1ターレル半の賃金をもらうが、この賃金で彼女たちは、ドイツのもっとも物価の高い都市で、ほぼ20ジルバーグロッシェンで買えるのと同じだけのものを買うことができる*。だが、もっと不幸なのは、シャツをぬう裁縫女工である。彼女たちは、並製のシャツ1枚について1ペニー半もらう--以前だと、彼女たちは2ペンスないし3ペンスもらっていたのに、ブルジョアジーの急進派の官憲によって管理されるセント・パンクラス救貧院が、この仕事を1ペニー半でひきうけはじめてからというものは、これらのあわれな女たちも、1ペニー半でしなければならなくなったのである。1日に18時間働いて仕上げることのできる上等の、飾りつきのシャツにたいしては、6ペンス、すなわち5ジルバーグロッシェンが支払われる。これら裁縫女工の賃金は、この点からみても、また女工や請負人たちの広範な陳述からみても、非常な努力をかさね、深夜にいたるまで仕事をつづけても、週に2シリング半ないし3シリングにしかならないのだ! そして、こうした恥ずぺき野蛮さを完全無欠なものに仕上げるものこそ、裁縫女工が、自分たちに委託された材料の金額を一部分供託しなければならない、という制度なのである。もちろん、彼女たちがこうした供託をするには、彼女たちが--これは材料の所有者も知っていることだが--その材料の一部を質に入れ、これを損をしてうけだすか、それとも材料をうけだすことができない場合には、1843年11月にある裁縫女工がでくわしたように、治安裁判所に出頭しなければならないか、そのどちらか選ぶ以外にはどうすることもできないのである。こうした不幸な目にあって、どうしたらよいかわからなかったあるあわれな娘が、1844年8月に、運河に身をなげて自殺した。/これらの裁縫女工は、ふつう小さな屋根裏部屋で、極度にまずしい生活をしている。ここで彼女たちは、1室にどうにかこうにか詰めこめるだけたくさん、いっしょに住んでいる。そして、冬になると、たいてい室内にいる人たちの動物的な体温が、ただ一つの暖房手段である。彼女たちは、そこで仕事をするためにかがみこんですわり、朝の4時か5時から真夜中までもぬい、2、3年のうちに健康をだいなしにし、どうしても必要不可欠なものさえ手に入れることもできずに、若死にしてしまうのである**。一方、彼女たちの足もとでは、上流ブルジョアジーの美しい儀装馬車が車輪の音も高らかにはしりすぎているし、またおそらく10歩とへだたっていないすぐ近くでは、あさましい伊達者が、彼女たちがまる1年かかってかせげるよりも多くの金を、一夜のうちに賭博カルタですっているのだ。

  *『ウィークリ・ディスパッチ紙』、1844年3月17日付けを参照のこと。(原注)
  **トマス・フッドは、現在のイギリスのあらゆるユーモア作家のなかでももっとも天分がゆたかであり、またあらゆるユーモア作家と同じように、人間的感情にはあふれているが、精神的エネルギーはちっとももっていない人物であるが、このフツドが、裁縫女工の貧困があらゆる新聞でさかんにとりあげられていた1844年のはじめに、「シャツの歌」(The Sonf of Shirt)という美しい詩を発表した。この詩は、ブルジョアジーの娘たちの目からすくなからぬ思いやりのある涙を、しかしなにもならない涙をさそった。私は、この詩をここに引用できるだけの余白をもっていない。この詩は、もともと『バンチ紙』にまず最初に掲載され、それからいろんな新聞につぎつぎと掲載された。裁縫女工の状態は、当時あらゆる新聞で論評されているから、とくに引用する必要はない。(原注)〉(全集第2巻443-446頁)

《初版》

 〈(88)F・エンゲルス、前掲書〔『イギリスにおける労働者階級の状態』〕、253、254ページ、参照。〉(江夏訳278頁)

《フランス語版》

 〈(55) F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、253、254ぺージ、参照。〉(江夏・上杉訳255頁)

《イギリス語版》 なし。


●注89

《初版》

 〈(89)保健局勤務の医師ドクター・レズピは、当時こう述べた。「どの大人にも必要な空気の最小限度は、寝室で300立方フィート、居室で500立方フィートであるべきだ。」ロンドンのある病院の医長であるドクター・リチャードソンは、こう言っている。「あらゆる種類の裁縫女工、すなわち婦人服裁縫女工や衣服裁縫女工や普通の裁縫女工は、三重の不幸--超過労働、空気の不足、栄養不足または消化不良--に苦しんでいる。一般に、この種の労働は、どんな事情のもとでも、男よりも女に適している。ところが、この仕事の害毒は、この仕事が、ことに首都では26人ばかりの資本家に独占されていて、彼らは、資本から生ずる(that spring from capital)権力手段に訴えて、労働から節約を搾り取る(force economy out of labour,彼の意味するところでは、労働力の濫費によって出費を節約すること)、ということなのである。この権力は、この女工の全階層にわたって感知される。ある女裁断師がわずかな範囲の顧客でも獲得できたならば、彼女は、顧客を失わないために競争によって、自宅で死ぬほど労働することを余儀なくされ、しかも、彼女は必然的に、自分の女助手たちにも同じ超過労働を諜せぎるをえない。仕事が失敗するか独立してやってゆけなくなると、彼女は、労働がより少ないわけではないが支払いが確実な店に、身を寄せる。そうなると、彼女はまじりけのない女奴隷になり、社会の波動のたびごとにあちこちに投げ出される。あるときは、自宅の小部屋で飢えているか飢えかかっているかと思えば、その次には、24時間のうち15時間、16時間、それどころか18時間も、ほとんど我慢しきれない空気のなかで働き、食物は、たとい良くても、きれいな空気を欠いているために消化できないでいる。これらの犠牲を餌にして、空気病にほかならね肺結核が生きているわけだ。」(ドクター-リチャードソン『単なる超過労働が原因の死亡』。『社会科学評論』、1863年7月号に所載。)〉(江夏訳278-279頁)

《フランス語版》

 〈(56) 保険局勤務の医師ドクター・レズピは、……その当時こう言明した。「成人に必要な空気の最小限は寝室で300立方フィート、居室で500立法フィートである」。ロンドンのある病院の医長ドクター・リチャードソンはこう述べる。「あらゆる種類の裁縫女工、婦人服製造女工、衣服仕立師などは、三つの災禍に冒されている。過度労働、空気の欠乏、栄養の不足または消化不良である。一般に、この種の労働はどんな事情のもとでも男子より女子に適している。だが、この営業にとっての不幸は、殊にロンドンでは、それが26人の資本家によって独占されてしまっていて、これらの資本家たちが、資本そのものから生ずる〈that spring from capital〉強制手段を用いて、労働力を浪費することによって支出を節約する、ということなのである。この権力はあらゆる裁縫部門で感ぜられる。たとえば、1人の衣服仕立師がわずかな範囲の顧客をもつことに成功すると、競争に駆られて、彼女は、その顧客を維持するために死ぬまで働かざるをえず、女工たちを労働でおしつぶさざるをえなくなる。彼女の事業がうまくゆかないか、または自立して身を立てられないばあい、彼女は、労働がより少ないわけではないが支払いがより確実な事業所に出かけて行く。こうした事情で彼女は一介の奴隷になり、社会の波動のたびごとにあちこちへ行く。ある時は自宅の小さな一室で餓死かまたはそれに近い状態に置かれ、ある時は作業場で24時間の内15、16、18時間も、ほとんど我慢のできない空気のなかで、よい食物であっても清浄な空気の不足のために消化できない食物を食べながら、仕事をさせられる。これらの人々が、毎日肺結核の生けにえに供されて肺結核の王国を永続させる犠牲者なのである。この病気には、汚れた空気以外になんの原因もないからである。」(ドクター・リチャードソン『労働と過度労働』。『ソーシャル・サイエンス・レヴュー』、1863年7月18日号所載)。〉(江夏・上杉訳255-256頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 保健委員会の顧問医師 レースビー博士は、「大人一人当り、寝室では300立方フィート、居室では500立方フィートが最低必要空気量としてあるべきである。」と述べた。ロンドンの病院の一つに所属する先任医師 リチャードソン博士は、「婦人用帽子縫製工、服飾縫製工、そして普通の裁縫婦達を含むあらゆる種類の裁縫工には、3つの苦痛がある。-過労、不十分な空気、そして食料不足または消化不良…裁縫作業は主として…圧倒的に男性よりも女性に適している。だが、この業種の欠陥は、特に首都では、僅か26人の資本家によって寡占されており、資本からはじけだす利益を独占するという権利をもつ資本家によって、資本へと労働から経済を取りだすことができることにあった。この力は、全階級にそのことを知らしめている。もし仮に、一人の裁縫師が僅かな顧客を得て経営することができたとしても、競争があり、維持していくためには、彼女の家で、彼女は死ぬほど働かねばならない。そしてこの過労を、彼女は彼女を支えてくれる人達にも強いねばならない。もし失敗するか、独立を試みることがなければ、より大きな業者に加わらざるを得ない。そこでは彼女の労働は少なくなりはしないが、彼女の金は安全である。このようになれば、彼女は単なる奴隷となる。社会の変化の中に投げ出される。たった一部屋の我が家で、飢えまたはそれに近い生活、そして24時間のうちの15、16、そして( aye 古英語:olde englishe )18時間ともなる作業に従事し、空気はやっと耐えられるもの、そして食べ物といえば、例えそれが良いものであったとしても、きれいな空気がなければ、消化されない。これらの犠牲の上に、肺病が、これこそ純粋に、悪い空気、悪い食料によって発症する病気である。」リチャードソン博士著 「社会科学評論」の中の「労働と過度労働」1863年7月18日 〉(インターネットから)


●注91

《初版》

 〈『モーニング・スター』、1863年6月23日。『タイムズ』紙は、ブライトたちに反対してアメリカの奴隷所有者を弁護するために、この事件を利用した。同紙はこう言う。「われわれののなかのきわめて多くの者の意見によると、われわれが、われわれ自身の若い婦人たちを、鞭のうなりの代わりに飢餓のこらしめで死ぬまで働かせているかぎり、生まれながらにして奴隷所有者であって自分の奴隷を少なくとも良く養い適度に働かせている家族に、砲火や刀剣を向ける権利は、われわれにはおおかたない。」(『タイムズ』、1863年7月2日。)トーリ党の機関誌『スタンダード』も、同じやり方で、ニューマン・ホール師を戒告してこう言っている。「あなたは奴隷所有者を破門しているが、ロンドンの御者や乗合馬車の車掌たちを犬なみの賃金で1日にわずか16時間労働させているようなご立派な方々と、祈りを共にしている。」最後に、トマス・カーライル氏が神託を下したが、彼については、私はすでに1850年にこう書いておいた。「天才は消え失せ、崇拝が残っている」と。彼はある短い寓話のなかで、現代史上唯一の大事件であるアメリカの南北戦争をこう要約している。すなわち、北部のピーターは南部のポールの脳天を力いっぱい打ちくだこうとするが、それというのも、北方のピーターは自分の労働者を「日ぎめ」で雇っているのに、南方のポールは自分の労働者を「一生涯雇いきりにしている」からだ、と。(『マクミラン・マガジン』。「アメリカの小イリアス」、1863年8月号。)こうして、都市の--断じて農村のではない!--賃金労働者にたいするトーリ党的同情のあぶくが、ついには破裂した。その核心は、いわく--奴隷制!〉(江夏訳279頁)

《フランス語版》

 〈(57) 『モーニング・スター』、1863年6月23日。『タイムズ』紙は、ブライト会社に反対してアメリカの奴隷主を弁護するために、この事件を利用した。『タイムズ』紙は言う。「われわれのうち多くの者の意見では、われわれが、鞭の唸(ウナ)りのかわりに飢餓のとげ棒を使うことによって、われわれの若い婦人を死ぬまで働かせているかぎり、われわれには、生まれながらの奴隷主であって自分の奴隷を少なくともよく養い適度に働かせている家族に向けて、剣と砲火に訴える権利は、ほとんどないのである」(『タイムズ』、1863年7月2日)。トーリ党の定期刊行物『スタンダード』も同様に、ニューマン・ホール師に説教して言う。「あなたがたは奴隷主を破門するが、ロンドンの乗合馬車の御者や車掌を犬も欲しがらない賃金で1日16時間も悔恨の念もなしに働かせているような立派な人々と、一緒に祈祷している」。最後に、天才崇拝〈hero workship〉の発明者であるチェルシイの巫(カンナギ)、トーマス・カーライルが語ったが、彼について私はすでに1850年に、「天才は消え去ったが崇拝は残った」と書いたことがある。彼はあるつまらぬ寓話のなかで、現代の唯一の大事件であるアメリカの南北戦争を、次の単純な事実に要約している。すなわち、北部のピーターは南部のポールの脳天を力いっぱい打ちくだこうとするが、それというのも、北部のピーターは労働者を日ぎめで雇うのに、南部のポールは労働者を一生涯雇いきりにしているからである、という事実(『マクミランズ・マガジン』。『アメリカの小イリアス』、1863年8月号)。最後に、トーリ党員たちは、彼らの博愛の最後の言葉を述べた。奴隷制! と。〉(江夏・上杉訳256頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: モーニング スター紙 1863年7月23日- ザ タイムズ紙は、この事件を利用して、ブライト他の言い分と比較して、アメリカの奴隷所有者を擁護した。「我々の多くは、こう思っている。」と、同紙社説 1863年7月2日 は云っている。「我々( ここの我々は自分達とは異なる英国人の我々ということである。訳者注) は、笞の音の代わりに、まるで強制する器具のように、飢餓の苦しみを使用して、我々(前述注)の若い婦人を死に至らしめたが、我々は、奴隷所有者の家族として生まれた者に対して、火や虐殺を用いて追い立てる権利は少しも持ってはいない。少なくとも、彼等 ( 奴隷所有者達のことだが、訳者注 ) は、奴隷たちをよく養い、少しだけ働かせる。」同じような態度で、スタンダード紙、保守主義者トーリー党の機関紙は、ニューマン ホール師を口汚くこき下ろし、「彼は、奴隷所有者を破門するが、ロンドンのバス運転手や車掌をして、犬に与える程の賃金で、日16時間も働かせるご立派なご一族と、良心の呵責もなく、お祈りを共にする。」最後にトーマス カーライル、私( スタンダード紙の論説者 訳者注 ) は、彼については1850年に書いたことがあるが( spake 古英語:olde englishe )、のご神託を。「悪魔が勝利したが、内実はなにも変わらなかった。」(ドイツ語) 短い寓話で、彼は現代史の一大偉業の一つであるアメリカ南北戦争をこのレベルの話に矮小した。次の様な話である。北のピーターは、南のポールの頭を、力を込めて叩き潰そうと思った。なぜならば、北のピーターは、彼の労働者を日単位で雇おうとし、南のポールは、彼の労働者を生涯で雇おうとするからである。( "マクシミリアンズ マガジン" 殻の中のイリアス アメリカーナ 1863年8月 ( ラテン語 ) ) かくて、都市労働者に対するトーリー的同情の泡が、-農業労働者にではない、が、-ここのところに来て破裂した。云いたいことは、-奴隷制擁護!〉(インターネットから)


●第24パラグラフ

《初版》

 〈「死ぬまで労働することは、婦人服縫製女工の仕事場だけでにかぎらず、幾千もの場所で、それどころか商売がうまくいっている場所であればどこでも、日常の事柄である。……鍛冶工を例にとってみよう。詩人の言葉を信じてよければ、鍛冶工ほど元気で快活な男はいない。彼は早起きして、太陽よりもさきに火花を散らす。彼は、ほかの誰よりもよく食い、よく飲み、よく眠る。たんに肉体的に見ると、労働が適度であれば、彼の状態は、じっさい、人間の最上の状態の一つである。ところが、彼のあとについて都市に行って、この強健な男に負わされる労働の重荷を見たり、わが国の死亡統計表で彼がどんな地位を占めているかを見たりしてみよう。メリ・レボウン(ロンドンの最大区の一つ)では、鍛冶工は毎年、1000人につき31人の割合で、すなわち、イギリスの成年男子の平均死亡率よりも11人多い割合で、死んでいる。その仕事は、ほとんど本能的とも言える人間の技能であって、それ自体としては非のうちどころがないが、労働のやりすぎということだけで人間の破壊者になる。彼は毎日、どれだけかハンマーを振り、どれだけか歩き、どれだけか呼吸し、どれだけか仕事をして、平均してたとえば50年生きることができる。ひとが彼を強制して、どれだけか多くハンマーを振らせ、どれだけかより多く歩かせ、1日にどれだけかより多く呼吸させ、全部を合計して彼の生命支出を毎日4分の1ずつ増加させる。彼はやってみる。そして結果は、彼が、ある限られた期間について4分の1多くの仕事をし、50歳ではなく37歳で死ぬ、ということになる(91)。」〉(江夏訳279-280頁)

《フランス語版》

 〈「死ぬまで労働することは、たんに婦人服製造女工の商店においてだけでなくどんな営業においても、日常のことである。鍛冶工を例にとろう。詩人の言うことを信ずると、鍛冶工ほど、逞しくて活気と快活にあふれている人間はいない。彼は朝早く起きて、太陽よりも先に火花を飛び散らせる。彼はほかのだれよりも食い、飲み、眠る。肉体的に見て、彼の労働が適度であれば、彼の状態は実際に、人間の最上の状態の一つである。だが、彼を都会まで追っていって、この強い男にどんな労働の重荷が負わされているか、彼がわが国の死亡率表でどんな地位を占めているか、を調べてみよう。マラルボウン(ロンドンの最大区の一つ)では、鍛冶工は毎年1000人につき31人の割合で死亡するが、この数はイギリスの成人の平均死亡率を11人も越えている。この職業は、人間のほとんど本能的な一技能であって、単なる労働過重だけでこの男を破壊するものになる。彼は1日にどれだけかハンマーを打ちおろし、どれだけか歩行し、なん度か呼吸し、どれだけか仕事をして、平均50年生きることができる。彼はどれだけかいっそう数多くハンマーを打ちおろし、いっそう数多く歩行し、どれだけかいっそう数多く呼吸し、そしてすべてを合計して、生命の日々の支出を4分の1だけ増すように強制される。彼はこれを試みる。その結果はどうか? 結果は、彼がある限られた期間中4分の1だけ多くの仕事をして、50歳ではなく37歳で死ぬ、ということなのである(58)」。〉(江夏・上杉訳256-257頁)

《イギリス語版》

  〈(24) 「あたかも一日の日課のごとき、死に至る労働は、何も服飾製造業者の作業室に限ったことではない。他に千もの場所がある。繁盛している商売がそこにあるならば、私が云った通り、その全ての場所で。…我々は、一つの典型として鍛冶屋を取り上げよう。もし詩人が正しいならば、鍛冶屋ほど、心暖かく、陽気な人はいない。彼は朝早く起き、太陽が光を広げる前に火花を打ち出す。彼は、他の人には見られない程、食べ、飲み、そして眠る。彼が、事実、適度に働くならば、肉体的に云えば、最良の人間の位置にいる者の一人である。しかし、彼の後に付いて市や町まで行けば、そこに、我々はこの強き男の上に覆いかぶさる仕事の重圧を見る。そして、彼の国の死亡率における彼の位置が、どのようなものであるかを見る。メアリルボーン(ロンドン北西約4kmにある地区 訳者注.) では、鍛冶屋が年 1,000人に、31人の割合で、死ぬ。別な言い方をすれば、成人男子のこの国全体の平均死亡率に較べて11人も上回る。この職業は、人間の活動としては全く自然なもので、人間の行う製造業の一分野としても異議を挟むこともないものであるが、それが、単なる労働の過重によって、人間を破壊することになる。彼は、日にかなりの回数で鉄を打ち、かなりの歩数で動き回り、かなりの回数の呼吸をする、そして、平均的に長生きし、50歳に至ることができる。彼は、もう少し余計に打ち、もう少し余計に歩き、もう少し余計に呼吸することで、合わせて、彼の人生の1/4分を余計に増加するよう仕向けられる。その努力に見合う、その結果は、限られた時間の中で、1/4多い労働によって、それだけ多い生産をなす。そして50歳に達せず、37歳で死ぬ。」〉(インターネットから)


●注91

《初版》

 〈(91) ドクター・リチャードソン、前掲書。〉(江夏訳280頁)

《フランス語版》

 〈(58) ドクター・リチャードソン、前掲書。〉(江夏・上杉訳257頁)

《イギリス語版》 なし。


 (以上で第3節は終わり)

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