『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第12回「『資本論』を読む会」の報告

2009-04-20 19:23:47 | 『資本論』

◎あっ、という間に葉桜に

 今年の桜は開花も早かったが、散るのも早かったですねぇ。
 4月3日に、静岡の“花追い人”の知人に付き合って、奈良県宇陀市にある「又兵衛桜」を観に行きました。樹齢300年とも言われるしだれ桜の古木は7分咲きといった程度でしたが、しかしなかなか見事なものでした。まだその段階では染井吉野はちらほら程度だったのが、その日曜日には瞬く間に満開になり、一週間後には桜吹雪となって、あっという間に葉桜になってしまいました。今年はいわゆる“花冷え”が満開後に無かったことが花の足を早めた原因かも知れません。
 いずれにしても見事な散りっぷりです。われわれも別に一花咲かさずとも、散り際だけはかくありたいものです。

◎第16パラグラフをめぐる議論

 さて、今回は、第2節の最後のパラグラフである第16パラグラフだけをやりました。このパラグラフは第2節全体のまとめであり、それだけに十分時間をかけて議論する意義があると考えたからです。まずこのパラグラフをそのまま紹介しておきましょう。

  《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 このパラグラフを巡っては、資料として出された(後に紹介)、このパラグラフの構造を分析した図を見ても分るように、マルクスは明らかに「労働の二重性」について、少なくとも「二段階」ともいうべき二つのレベルで見ていることが指摘されました。一つは「人間労働力の支出」というレベルであり、もう一つは労働の「属性」というレベルです。この二つのレベルは、抽象度が異なっているように思えます。

 「抽象的人間労働」については、これまで数多くの論争や議論がなされてきましたが、その論争の中心は、「抽象的人間労働」というのは、歴史的な概念なのか、それとも歴史貫通的な概念なのかという問題でした。1920年代には、当時のソ連において、ルービン等による論争がすでにあり、日本でも長く論争されてきた歴史があります。

 白須五男氏は『マルクス価値論の地平と原理』(広樹社1991.2.20)のなかで、日本のマルクス経済学者のなかで、〈もっとも基本的な対極をなしてきた立場〉として、次のように区分けしています。

 〈抽象的人間労働を商品生産社会に固有に定在する特殊歴史的な労働とみなす学説(歴史的カテゴリー説)〉に立つ人たち--(戦前)河上肇・櫛田民蔵(戦後)遊部久蔵・林直道・安部隆一・宮川実(最新)正木八郎・頭川博・松石勝彦(目される人)平田清明(哲学畑)広松渉(白須氏はそれぞれの主な著書や論文も紹介していますが、省略します)。
 〈反対にその労働をすべての社会形態に歴史貫通的に存在する労働とみなす学説(超歴史的カテゴリー説)〉に立つ人たち--白杉庄一郎・岩瀬文夫・山本二三丸・見田石介・荒又重雄・吉原泰助・種瀬茂(同)。

 なぜこの用語がこれほど問題になるのでしょうか。もちろん、それはこの用語がそれほど現在の資本主義社会を理解する上で決定的な本質的な概念であるからですが、しかし他方で、マルクス自身が、「抽象的人間労働」と基本的には同じ内容をなすと思えるものをさまざまな言い方で表して論じているからでもあるように思えます。そのなかには歴史的な概念であると思わせるものもあれば、歴史貫通的なものと思わせるものもあるわけです。だからなかなか理解が困難なんだと思います。

 しかしそうしたマルクスのさまざまな用語の使い方は(それにはどういうものがあるのか資料を参照してください)、しかしこの第2節の最後のパラグラフの構造を分析すると、そこにはマルクスなりの意図があることが明確に理解できるような気がします。

 すなわち「人間労働力の支出」というレベルで見ている場合は、歴史貫通的なものとしてそれを捉えているような気がします。それに対して「労働の属性」として二つの契機を捉えている場合は、歴史的なものとしてそれを捉えているような気がするのです。

 しかし問題はこの歴史貫通的な概念としての「人間労働力一般の支出」と歴史的概念である「抽象的人間労働」とは如何なる関係にあるのかを理解することだ、という問題提起が亀仙人からあり、それに関してひとしきり議論がなされました。しかし、問題はなかなか難しく結論が出たとはとても言えません。よって、その紹介は残念ながら割愛せざるをえません。最後に、今後も、この問題については、引き続いて考えていくことを確認して終わったのでした。

◎第16パラグラフの関連資料

1、このパラグラフのマルクスの敍述の変遷

 この最後のパラグラフの現行のような文言は、第二版で登場するのであるが、そこに至るまでのほぼ同じ部分と考えられるものの、マルクス自身の敍述を辿ってみよう(下線はマルクスによる強調個所)。

(1)初版から

 《以上に述べたことからは次のような結論が出てくる。すなわち、商品のなかには、もちろん、二つの違った種類の労働が含まれているわけではないが、しかし、同じ労働が、その労働の生産物としての商品の使用価値に関連して見られるか、それとも、その労働の単に対象的な表現としての商品価値に関連して見られるか、によって、違った規定を受けるし、また、対立的にさえ規定されている、ということである。商品は、価値であるためには、なによりもまず使用対象でなければならないのであるが、それと同時に、労働も、人間の労働力の支出として、したがってまた単なる人間労働として、数えられるためには、なによりもまず有用な労働、すなわち目的を規定された生産的な活動でなければならないのである。》(国民文庫版39-40頁)

(2)第二版への補足と改訂から

                  《[A]
 〔5〕p.13)すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。他面では,目的を規定された形態でのすべての力の支出である。労働力が支出されるこの特殊な形態あるいはあり方は,商品の使用価値を,つまり一定の有用効果をもたらす。それとは反対に,商品価値は,次の事を述べているにすぎない。すなわち,この物は人間的労働力の支出以外のなにものも現してはおらず,この支出の量はそれの価値の大きさに現わされている,ということである。
                  [B]
 すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。生産物の価値は,その生産物が支出された労働力すなわち人間的労働そのもの以外のなにものも現わしてはいないということ,そしてその支出の量はその価殖の大きさに表わされている,ということを意味しているのである。他面において,労働力は何らかの規定された形態において支出される,すなわち何らかの方法で使われた,そして特殊な,目的を規定された生産的行為としてのみ労働力は使用価値をすなわち有用効果を生み出す。

                  [C]
 [すべての労働は]一面では,人間的労働力ー般の支出,したがって抽象的人間的労働である。そして,抽象的人間的労働というこの属性において労働は価値を形成する。他面において,すべての労働は何らかの特殊な目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり,そしてそのような具体的有用労働として労働は商品の使用価値を生産するのであのである。》(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5号57-8頁、小黒正夫訳)

(3)第二版(現行版とほぼ同じ)

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

(4)フランス語版

 《上述の結果、次のことが生ずる。すなわち、厳密に言って、二種類の労働が商品のなかにあるわけではないが、労働をその生産物としての商晶の使用価値に関連づけるか、または、その純粋に客体的な表現としての商晶の価値に関連づけるかにしたがって、その商品のなかで同じ労働が自己とは反対のものになる、ということ。どんな労働も一方では、生理学的な意味で人間労働力の支出であり、この同等な人間労働という資格において商品の価値を形成する。他方、どんな労働も、特殊な目的によって規定されるなんらかの生産形態のもとでの、人間労働力の支出であって、この具体的な有用労働という資格において使用価値あるいは有用性を生産する。商品が価値であるためには、商品はなによりもまず有用でなければならないのと同じように、労働が人間労働力の支出、言葉の抽象的な意味での人間労働と見なされるためには、労働はなによりもまず有用でなければならない。》(江夏美千穂/上杉聰彦訳16頁)

2、このパラグラフの構造の解析

 まずこのパラグラフを再度引用しておこう。

 《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

 このパラグラフはシンメトリーな構造を持っている。それを図示してみよう。

  

3、「抽象的人間労働」に類似するさまざまな用語例

 第2節では、この用語は最後のパラグラフに1回出てくるだけである。だからマルクスは同じような内容をさまざまな言い方で表しているわけである。それには一体、どういうものがあるのか、一度、この第2節の最後のパラグラフまでで、同じような内容がどういう用語で述べられているのか、すべて調べてみた(引用は全集版から頁数も同じ)。

§第1節から

■価値の社会的実体

(1)《一つの等しいもの》《ある内実
 《したがって、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する、ということになる。しかし、第二に、交換価値は、そもそもただ、それとは区別されるべきある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。》(50頁)

(2)《同じ大きさのある共通物が……存在する》《第三のもの》(50頁)

(3)《同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働
 《そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。》(51-2頁)

(4)《幻のような同一の対象性》《区別のない人間労働》《その支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出》の《単なる凝固体》《これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけ》《社会的実体の結晶
 《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。である。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値・・商品価値である。》(52頁)

■価値の量的考察

(5)《抽象的人間労働が対象化または物質化されている》《「価値を形成する実体」》《労働の分量》《労働の量
 《したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。》(52-3頁)

(6)《同等な人間労働》《同じ人間労働力の支出》《ここでは同一の人間労働力として通用する》《一つの社会的平均労働力という性格》《社会的平均労働力として作用》《一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である》《社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。》
 《一商品の価値がその生産のあいだに支出された労働の量によって規定されるならば、ある人が怠惰または非熟練であればあるほど、彼はその商品の完成にそれだけ多くの時間を必要とするのだから、彼の商品はそれだけ価値が大きいと思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなす労働は、同等な人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値に現される社会の総労働力は、たしかに無数の個人的労働力から成りたっているけれども、ここでは同一の人間労働力として通用する。これらの個人的労働力のそれぞれは、それが一つの社会的平均労働力という性格をもち、そのような社会的平均労働力として作用し、したがって、一商品の生産にただ平均的に必要な、または社会的に必要な、労働時間のみ用いる限りにおいて、他の労働力と同じ人間労働力である。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的・標準的な生産諸条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度とをもって、何らかの使用価値を生産するのに必要な労働時間である。》(53頁)

(7)《社会的に必要な労働の量》《その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間》《等しい大きさの労働量》《商品の生産に必要な労働時間》《一定量の凝固した労働時間
 《したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。個々の商品は、ここでは一般に、その商品種類の平均見本とみなされる)。それゆえ、等しい大きさの労働量が含まれている、または同じ労働時間で生産されうる諸商品は、同じ価値の大きさを持つのである。一商品の価値と他のすべての商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、一定量の凝固した労働時間にほかならない」。》(53-4頁)

§第二節

(8)《同じ実体をもつ物》《同一性質の労働の客観的表現》《一定部分の人間労働》《労働の有用な性格を度外視すれば、労働に残るのは、それが人間労働力の支出であるということである》《人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに、人間労働である》《人間の労働力を支出する》《人間の労働力そのもの》《人間労働自体を、人間労働〔第1版とフランス語版では、人間労働力、となっている〕一般の支出》(59頁)

(9)《それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である》《単純労働》(60頁)

(10)《ただ人間労働力の支出としてのみ通用する》《ただ、これらの労働の特殊な質が捨象され、両方の労働が等しい質、人間労働という質》(61頁)

(11)《もはやそれ以上の質をもたない人間労働に還元された》《後の場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる》(61頁)

(12)《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。》(63頁)


 

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