第25回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
◎「単純な価値形態の全体」の歴史的な考察
次は第4パラグラフですから「歴史的な考察」です。もちろん、「歴史的な考察」と言っても、それが歴史的に如何に形成されたかを考察するというより、「単純な価値形態」が歴史的な存在であるということ、つまり歴史的なある発展段階の産物であり、歴史的に限界のあるものであることが考察され、指摘されるわけです。
【4】
〈(イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。(ロ)それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉
(イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象ですが、労働生産物を商品にするのは、ただある歴史的な発展段階においてに過ぎません。すなわち、その使用物を生産するために支出された労働が、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表される歴史的な一時期なのです。
だから労働生産物が商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、その使用物に支出された労働が、使用物の価値の形態として現われる歴史的条件と一致することが分かります。
(ロ)だから、商品の単純な価値形態は、単純な商品形態であり、商品形態の発展は価値形態の発展と一致するのです。
ここで「対象的」が鍵括弧に入っているのはどうしてか、という疑問が出されました。それは商品の価値というのは、商品という客観的な対象物に備わった一つの社会的属性ではあるが、しかし商品の使用価値の諸属性のように商品自身の自然的属性とは区別された、われわれには直接には目に見えない、その意味では「幻想的な」、社会的属性であり、そこには自然物は一分子も含まれていません。しかし商品という対象物に備わった属性という意味では確かにそれもその限りでは対象的存在であるために、他の自然属性と区別する意味を込めて鍵括弧に括っているのではないか、という意見が出されました。しかし、完全な了解をえられたわけではありません。
また「商品形態の発展」という文言が出てきますが、そもそも「商品形態」が発展するというのはどう考えたらよいのか、という疑問が出されましたが、これについてはピースさんが、これは商品として生産される生産物がますます増大し拡大するという意味ではないかと指摘し、ほぼそういう理解で一致しました。
ただ一つ付け加えますと、すぐに後にも紹介しますが、初版付録には〈貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである〉という文言があります。つまりここでは「発展した商品形態」というのは、貨幣形態を意味しているわけです。つまり「商品形態の発展」というのは、商品形態が貨幣形態にまで発展するという含意なのかも知れない、ということです。
◎「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」
初版付録には次のような項目があります。
〈(七) 商品形態と貨幣形態との関係。
20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(国民文庫版154頁)
つまり、単純な価値形態の全体を考察したわれわれは、ここから単純な価値形態から貨幣形態にまで発展する諸系列を考察するわけですが、そのためには、単純な価値形態から次の発展段階である、「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」が問題にされなければならないわけです。
ただこの「移行」部分は大きくは二つに分かれます。一つは「単純な価値形態」が最も発展した貨幣形態(=価格形態)から見て不十分なものであることが考察されている部分(【5】【6】)と、そして文字通りの次の発展段階への「移行」が論じられている部分(【7】)とにです。
【5】
〈(イ)単純な価値形態、すなわち、一連の変態をへてはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。〉
(イ)このパラグラフでは、単純な価値形態が一連の変態をとげてはじめて価格形態に成熟するための萌芽形態であり、そしてその限りで不十分さを持っていることが指摘されているだけです。それに対して、次の【6】パラグラフでは、その不十分さの具体的な考察が行われます。
【6】
〈(イ)ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aを、それ自身とは異なる何らかの個々の商品種類に対する交換関係におくだけであり、商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表すものではない。(ロ)一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応する。(ハ)こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現の中では、リンネルというこの個々の商品種類との関係で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉
(イ)単純な価値形態では、商品A、例えばリンネルの価値は、商品B(上着)よって表現され、商品A(リンネル)は価値形態を持ちます。しかし商品A(リンネル)は、自身の使用価値と区別された価値形態(交換価値)をもつだけです。しかも、商品A(リンネル)は、ただ商品B(上着)という単一のリンネル自身とは異なる商品種類に対する関係をもつだけです。しかし価値としては、商品A(リンネル)は、すべての他の商品と同じなのです。だから商品A(リンネル)の価値形態は、商品A(リンネル)を、すべての他の商品に対する質的な同等性や量的な比例関係に置く形態でも無ければならないはずなのです。
(ロ)ところが単純な価値形態では、商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な(個別的な)等価形態が対応するだけです。つまりこの場合は商品B(上着)は、ただ単一の等価物として機能するだけなのです。
(ハ)こうして、上着は、リンネルとの相対的な価値表現においては、ただ単一の商品種類リンネルに対してだけ等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているのみなのです。
【7】
〈(イ)けれども、個別的な価値形態は、おのずから、それよりも完全な一形態に移行する。(ロ)たしかに、個別的な価値形態の媒介によって、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。(ハ)しかし、この第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦などかどうかということは、まったくどうでもよいことである。(ニ)したがって、商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる(22a)。(ホ)商品Aの可能な価値表現の数は、商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。(ヘ)だから、商品Aの個別的価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化する。〉
(イ)しかし、個別的な価値形態は、おのずから、より完全な一形態へと移行します。
ここではこれまでの「単純な価値形態」ではなく「個別的な価値形態」という文言が使われています。もともと「単純な価値形態」とわれわれが言ってきたものは、表題としては「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした(この表題そのものはエンゲルス版に固有であって、マルクスが直接携わった版にはこうした表題そのものはありません--詳しくは第14回の報告〔その1〕を参照)。ここで「簡単な価値形態」というのは、ほぼ「単純な価値形態」と同義でしょう。「個別的」と「偶然的」というのは、等価形態について言われているように思えます(上記報告参照)。つまり単純な価値形態においては、等価形態にある商品は、個別の一商品だけであり、ある一商品が等価物として置かれるのは偶然的であるという含意と考えられるのです。だからここで「個別的な価値形態」という文言が出てくるのは、等価形態に着目して、それが個別の一商品に限定されているという意味を込めて使われていると考えるべきではないかと思います。つまり個別の一商品によって表された価値形態という意味で、「個別的な価値形態」ということです。
(ロ)確かに、個別的な価値形態では、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されているだけです。
(ハ)しかし第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦かどうかということは、まったくどうでもよいことです。
(ニ)だから商品A(リンネル)が、あれこれの他の商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品、すなわち商品A(リンネル)のさまざまな単純な価値形態が生じることになります。
(ホ)商品A(リンネル)の可能な価値表現の数は、商品A(リンネル)と異なる商品種類の数によって制限されているだけです。
(ヘ)だから、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化することになります。すなわち「全体的な、または展開された価値形態」に移行することになるのです。
【注】
〈(22a) 第2版への注。たとえば、ホメロスにあっては、一つの物の価値が一連のさまざまな物で表現される〔ホメロス『イリアス』、第七書、第四七二-四七五行。呉茂一訳、岩波文庫、中、三九ページ〕。〉
これは〈商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる〉という一文に付けられた注ですが、要するに、ホメロスの場合は、一つの物(葡萄酒)が、さまざまな物と交換されることが言及されているということのようです。『イーリアス』から当該部分を紹介しておきましょう。
〈折ふしレームノス島から、葡萄酒を運んで来た船が、浜にかかった、……その船々から、頭髪を長く垂らしたアカイア人らは、酒をとって来た、ある者どもは青銅に換え、あるいは輝く鉄(くろがね)に換え、あるいはまた牛の皮に、あるいは生身の牛そのものに、他の者どもは(やっこ)に換えて、賑々しい宴をもうけ、……〉(岩波文庫、中、38-9頁)
(【付属資料】は「その3」に掲載します。)