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『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第26回「『資本論』を読む会」の案内

2010-06-27 03:06:37 | 『資本論』

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    

 参院選が公示されました。

 菅直人首相は、所信表明演説や記者会見のなかで、「『強い経済』『強い財政』『強い社会保障』の一体的実現を、政治の強いリーダーシップで実現していく」と訴え、「経済成長を大きな軸に置き、2011年度予算編成に当たりたい。成長を支えるには強い財政が必要だ。日本の債務残高は国内総生産(GDP)比180%を超えている。ギリシャの例を引くまでもなく、財政が破綻すれば人々の生活、社会保障が破綻する」と消費税率引き上げの必要性を強調。「早期に超党派で議論を始め、自民党が提案した税率10%を一つの参考にしたい」と具体的な数値にまで言及したために、俄かに消費税の引き上げが、参院選の大きな争点として浮上してきました。

 2010年度の国債発行は、総額162兆4139億円を計画。09年度当初より30兆1285億円増。10年度末の国債発行残高(財投債除く)は637兆円の見込みで、国民1人あたり499万円の借金になる計算です。 国家財政が早くからすでに破綻していることは明らかです。そしてそのツケがやがては国民に押しつけられるだろうということも容易に予測できました。しかしそれがよりにもよって民主党政権によって実行されようとしているのです。

 理念先行の美辞麗句だけの鳩山内閣に代わって、庶民派宰相・菅内閣の誕生で少しはましな政治になるのかと期待しましたが、とんでもありません。菅政権は、“現実主義”の名のもとに、財政破綻のツケを庶民に押しつける大増税に先鞭をつける歴史的役割を果たそうとしているかです。まったく酷い内閣が誕生したものです。

 現在の財政破綻に国民が何か責任があるのでしょうか。決して否です。歴代の自民党政府が膨大な赤字国債を毎年毎年発行してきたのは、資本の危機を救済するがためです。特に90年代のバブル崩壊後の深刻な不況では、銀行などバブル時に“濡れ手に粟”のぼろ儲けをした資本家たちを救済するために膨大な資金を提供してきました。何度も景気浮揚策と称して無駄な公共事業にカネをつぎ込むために赤字国債を垂れ流してきたのです。現在の財政破綻に責任を負わなければならないのは独占資本なのです。ところが現在の独占資本は税金をほとんど払っていません。税収に占める法人税の割合は極めて少なくなっています(図表参照)。

 にも関わらず、菅政権は、そうした独占資本には法人税の減税を約束する一方で、財政破綻のツケをすべて国民を押しつけようというのです。消費税は、所得税のように国民が直接その痛みを感じることなく収奪できる、政府にとって都合のよい税制です。だからこれに一度手をつけると止めども無く、それに頼る財政が累進的に進むのです。

 マルクスは国債と税制は不可分の関係にあり、生活手段に課税する消費税を軸とする財政は、それ自体に自動累進の萌芽を含んでいると次のように指摘しています。

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言(しんげん)のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集23巻b986-7頁)

 増税押しつけの菅民主党政権には、この参院選挙でキッパリとノーを突きつけなければなりません。貴方も国債と税制のからくりを見抜くためにも、ともに『資本論』を読んでみませんか。

…………………………………………………………………………

第26回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                      ■日 時   7月18日(日) 午後2時~

  ■会 場   堺市立南図書館
          (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

  ■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主 催   『資本論』を読む会


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第25回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-06-25 04:22:01 | 『資本論』

第25回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎梅雨空

 毎日、うっとうしい天気が続きます。
 第25回「『資本論』を読む会」が開催された6月20日(日)も、どんよりとした曇り空でしたが、家を出るとすぐにパラパラと降ってきました。私たちは傘を持って出かけたのは言うまでもありません。
 鳩山に代わる菅政権になっても、民主党政権の本質は何も変わらないような気がします。理念ばかりの“おぼっちゃま”政治から、庶民感覚の“市民派”政治への転換かと期待したのですが、「消費税10%」が飛び出し、“現実主義”の名のもとにより露骨な庶民いじめの政治が横行しそうな気配です。政治の世界も、相変わらず“うっとうしい”状態が続きそうではあります。
 さて、「読む会」は前回から入った「4、単純な価値形態の全体」の続きで、第3パラグラフから始まりましたが、今回は、この「4」の最後まで終えました。さっそく、その報告に移りましょう。

◎「単純な価値形態の全体」の総括的な考察

 前回の報告で、この「4」全体の構成を次のように紹介しました。

 〈この「4 単純な価値形態の全体」は、項目「A」で考察された「単純な価値形態」を一つの自立した主体として捉えかえし、その直接的な考察(【1】パラグラフ)、学説史的考察(【2】パラグラフ)、総括的な考察(【3】パラグラフ)、歴史的な考察(【4】パラグラフ)、そして歴史的考察から不可避に生じる、次の発展段階(「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」(【5】~【7】パラグラフ)が論じられることになる〉と。

 だから今回、最初の検討対象になった第3パラグラフでは「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」が行われることになります。これまでと同じように、まずパラグラフ全体の本文を紹介し、それを文節ごとに学習会の報告と併せて詳細に検討していくことにしましょう。また関連する付属資料は最後に別途紹介することにします。まずは第3パラグラフの本文です。

【3】

 〈(イ)商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。(ロ)したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。(ハ)したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。〉

 (イ)商品Bに対する商品Aの価値関係のなかに含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみますと、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ商品Aの使用価値の姿として意義をもち、商品Bの現物形態は、ただ商品Aの価値形態、すなわち商品Aの価値が形ある物として現われているもの、あるいは価値姿態として、すなわち商品Aの価値が具体的な姿をとった物として意義をもつことが分かりました。

 (ロ)だから商品Aのうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、つまり二つの商品の対立的な関係によって表されているわけです。この関係のなかでは、商品A、つまりその価値が表現されるべき一方の商品は、直接には、つまり直接目に見えるものとしては、使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、商品B、つまりそれで価値が表現されるもう一つの商品の場合は、直接には、つまりその目に見えるものとして存在しているものとしては、ただ商品のAの交換価値としてのみ意義をもっていることになります。

 ここで、〈内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され〉るとありますが、そもそも「対立」というのは、どう理解したら良いのか、その「内的」なものが「外的」なものによって表されるとはどういう事かが問題になりました。
 まず「対立」については、以前、大阪市内で行っていた「『資本論』を学ぶ会」で毎回発行された『学ぶ会ニュース』の一文が亀仙人から紹介されました。それをもう一度、紹介しておきましょう。

 【◎「使用価値と価値との内的対立」とは?

 これは第3パラグラフの議論で出てきた疑問です。直接には第3パラの内容の理解というよりも、「商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立」という表現に関して、使用価値と価値は商品の二つの「属性」とか「契機」とかであって、「対立」しているとどうして言えるのかという疑問でした。そしてそもそも「使用価値と価値の内的対立」とはどういうことかが問題になり、「対立」と「矛盾」とはどう違うのか、といった論理学的な問題にまで発展しました。
 まず「使用価値と価値の対立」の理解としては、次のように言えるのではないでしょうか。商品の使用価値には価値は全く含まれていません。一つの商品をどんなにひねくり回しても、透かして見ても、価値は見えてきません。他方、価値には一原子の自然素材も入り込んでいないということはまた明らかです。このように両者は全く互いに排除しあった関係にあります。また使用価値が大きくなっても、そこに含まれる価値が必ずしも増大するとは限らず、むしろ両者は全く反対の動きさえします。このように量的にも両者は全く独立した動きをするものとしてあります。しかしまた両者は商品の二契機である限り、互いに分かれがたく前提しあっています。価値は使用価値が前提されなければ価値ではありえないし、また使用価値はそれが商品の使用価値であるためには価値の担い手でなければなりません。これが「対立」の内容ではないかと思います。
 次に「対立」や「区別」、「矛盾」といった論理学のカテゴリーの説明については、鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)から簡単な紹介をするだけにします。
 同書には本質について次のような説明があります。

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態のうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)
 〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)
 〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)

 区別、対立、矛盾の関係がだいたいお分かりいただけたでしょうか? 詳しくは同書を参考にしていただくとしてこれぐらいにしたいと思います。】(「『資本論』を学ぶ会ニュース」No.16より)

 ここでは「内的対立」の説明はされていますが、「外的対立」については、そもそも価値表現の両極として相対的価値形態と等価形態というのは、まさに二つの商品が一つの価値表現の兩極として「対立」関係にあることを示しています。例えば、初版付録の項目を紹介しますと、次のようになっています。

 〈(一)価値表現の兩極相対的価値形態と等価形態
   a 両形態の不可分性
   b 両形態の対極性。〉(国民文庫版129-130頁)

 このように相対的価値形態と等価形態は、〈その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること〉が分かります。つまりこの両者は二つの商品として外的な「対立」的な関係にあることが分かるのです。
 つまり商品Aと商品Bのそれぞれがとる二つの価値の形態、すなわち相対的価値形態と等価形態は、商品Aに内在する使用価値と価値の内的対立が、二商品の価値の形態として、外的な対立として現われたものであることが分かるのです。

 (ハ)だから、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのです。
 これが「単純な価値形態の全体」の「総括的な考察」の結論ということが出来ます。

  初版付録には、次のような具体的な説明が付いています。

 〈もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上153頁)

 ここでは私たちが「相対的価値形態の内実」に出てくる「商品語」について考察したときに指摘したことが、マルクス自身の言葉として語られています。すなわち、価値関係というのは、商品自身が主体的に関係しあう物象的な商品世界の話であるということです。そこでは商品自身が商品語で他の商品に語りかけているわけです。 つまりリンネル自身が上着との価値関係を取り結ぶことによって、自分が商品であることを語るわけですが、そのためには、(1)まずリンネルは自分は使用価値であり、(2)そしてそれとは区別される交換価値(上着と同じもの)である、と語ることによって、(3)自分自身が商品であることを示すのだというわけです。

 (字数制限の関係で、全体を三分割します。よって以下は「その2」に続きます。)

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第25回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-06-25 03:29:54 | 『資本論』

第25回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

◎「単純な価値形態の全体」の歴史的な考察

 次は第4パラグラフですから「歴史的な考察」です。もちろん、「歴史的な考察」と言っても、それが歴史的に如何に形成されたかを考察するというより、「単純な価値形態」が歴史的な存在であるということ、つまり歴史的なある発展段階の産物であり、歴史的に限界のあるものであることが考察され、指摘されるわけです。

【4】

 〈(イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。(ロ)それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉

 (イ)労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象ですが、労働生産物を商品にするのは、ただある歴史的な発展段階においてに過ぎません。すなわち、その使用物を生産するために支出された労働が、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として表される歴史的な一時期なのです。
 だから労働生産物が商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、その使用物に支出された労働が、使用物の価値の形態として現われる歴史的条件と一致することが分かります。

 (ロ)だから、商品の単純な価値形態は、単純な商品形態であり、商品形態の発展は価値形態の発展と一致するのです。

 ここで「対象的」が鍵括弧に入っているのはどうしてか、という疑問が出されました。それは商品の価値というのは、商品という客観的な対象物に備わった一つの社会的属性ではあるが、しかし商品の使用価値の諸属性のように商品自身の自然的属性とは区別された、われわれには直接には目に見えない、その意味では「幻想的な」、社会的属性であり、そこには自然物は一分子も含まれていません。しかし商品という対象物に備わった属性という意味では確かにそれもその限りでは対象的存在であるために、他の自然属性と区別する意味を込めて鍵括弧に括っているのではないか、という意見が出されました。しかし、完全な了解をえられたわけではありません。

 また「商品形態の発展」という文言が出てきますが、そもそも「商品形態」が発展するというのはどう考えたらよいのか、という疑問が出されましたが、これについてはピースさんが、これは商品として生産される生産物がますます増大し拡大するという意味ではないかと指摘し、ほぼそういう理解で一致しました。
 ただ一つ付け加えますと、すぐに後にも紹介しますが、初版付録には〈貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである〉という文言があります。つまりここでは「発展した商品形態」というのは、貨幣形態を意味しているわけです。つまり「商品形態の発展」というのは、商品形態が貨幣形態にまで発展するという含意なのかも知れない、ということです。

◎「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」

 初版付録には次のような項目があります。

〈(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(国民文庫版154頁)

 つまり、単純な価値形態の全体を考察したわれわれは、ここから単純な価値形態から貨幣形態にまで発展する諸系列を考察するわけですが、そのためには、単純な価値形態から次の発展段階である、「B 全体的な、または展開された価値形態」)への「移行」が問題にされなければならないわけです。
 ただこの「移行」部分は大きくは二つに分かれます。一つは「単純な価値形態」が最も発展した貨幣形態(=価格形態)から見て不十分なものであることが考察されている部分(【5】【6】)と、そして文字通りの次の発展段階への「移行」が論じられている部分(【7】)とにです。

【5】

 〈(イ)単純な価値形態、すなわち、一連の変態をへてはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは、一見して明らかである。〉

 (イ)このパラグラフでは、単純な価値形態が一連の変態をとげてはじめて価格形態に成熟するための萌芽形態であり、そしてその限りで不十分さを持っていることが指摘されているだけです。それに対して、次の【6】パラグラフでは、その不十分さの具体的な考察が行われます。

【6】

 〈(イ)ある一つの商品Bでの表現は、商品Aの価値をただ商品A自身の使用価値から区別するだけであり、したがってまた、商品Aを、それ自身とは異なる何らかの個々の商品種類に対する交換関係におくだけであり、商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表すものではない。(ロ)一商品の単純な相対的価値形態には、他の一商品の個々の等価形態が対応する。(ハ)こうして、上着は、リンネルの相対的価値表現の中では、リンネルというこの個々の商品種類との関係で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉

 (イ)単純な価値形態では、商品A、例えばリンネルの価値は、商品B(上着)よって表現され、商品A(リンネル)は価値形態を持ちます。しかし商品A(リンネル)は、自身の使用価値と区別された価値形態(交換価値)をもつだけです。しかも、商品A(リンネル)は、ただ商品B(上着)という単一のリンネル自身とは異なる商品種類に対する関係をもつだけです。しかし価値としては、商品A(リンネル)は、すべての他の商品と同じなのです。だから商品A(リンネル)の価値形態は、商品A(リンネル)を、すべての他の商品に対する質的な同等性や量的な比例関係に置く形態でも無ければならないはずなのです。

 (ロ)ところが単純な価値形態では、商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な(個別的な)等価形態が対応するだけです。つまりこの場合は商品B(上着)は、ただ単一の等価物として機能するだけなのです。

 (ハ)こうして、上着は、リンネルとの相対的な価値表現においては、ただ単一の商品種類リンネルに対してだけ等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているのみなのです。

【7】

 〈(イ)けれども、個別的な価値形態は、おのずから、それよりも完全な一形態に移行する。(ロ)たしかに、個別的な価値形態の媒介によって、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。(ハ)しかし、この第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦などかどうかということは、まったくどうでもよいことである。(ニ)したがって、商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる(22a)。(ホ)商品Aの可能な価値表現の数は、商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。(ヘ)だから、商品Aの個別的価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化する。〉

 (イ)しかし、個別的な価値形態は、おのずから、より完全な一形態へと移行します。

 ここではこれまでの「単純な価値形態」ではなく「個別的な価値形態」という文言が使われています。もともと「単純な価値形態」とわれわれが言ってきたものは、表題としては「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」でした(この表題そのものはエンゲルス版に固有であって、マルクスが直接携わった版にはこうした表題そのものはありません--詳しくは第14回の報告〔その1〕を参照)。ここで「簡単な価値形態」というのは、ほぼ「単純な価値形態」と同義でしょう。「個別的」と「偶然的」というのは、等価形態について言われているように思えます(上記報告参照)。つまり単純な価値形態においては、等価形態にある商品は、個別の一商品だけであり、ある一商品が等価物として置かれるのは偶然的であるという含意と考えられるのです。だからここで「個別的な価値形態」という文言が出てくるのは、等価形態に着目して、それが個別の一商品に限定されているという意味を込めて使われていると考えるべきではないかと思います。つまり個別の一商品によって表された価値形態という意味で、「個別的な価値形態」ということです。

 (ロ)確かに、個別的な価値形態では、一商品Aの価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されているだけです。

 (ハ)しかし第二の商品がどのような種類のものであるか、上着か、鉄か、小麦かどうかということは、まったくどうでもよいことです。

 (ニ)だから商品A(リンネル)が、あれこれの他の商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品、すなわち商品A(リンネル)のさまざまな単純な価値形態が生じることになります。

 (ホ)商品A(リンネル)の可能な価値表現の数は、商品A(リンネル)と異なる商品種類の数によって制限されているだけです。

 (ヘ)だから、商品Aの個別的な価値表現は、商品Aのさまざまな単純な価値表現のたえず延長可能な列に転化することになります。すなわち「全体的な、または展開された価値形態」に移行することになるのです。

【注】

 〈(22a) 第2版への注。たとえば、ホメロスにあっては、一つの物の価値が一連のさまざまな物で表現される〔ホメロス『イリアス』、第七書、第四七二-四七五行。呉茂一訳、岩波文庫、中、三九ページ〕。〉

 これは〈商品Aが他のあれこれの商品種類に対して価値関係に入るのに従って、同一の商品のさまざまな単純な価値表現が生じる〉という一文に付けられた注ですが、要するに、ホメロスの場合は、一つの物(葡萄酒)が、さまざまな物と交換されることが言及されているということのようです。『イーリアス』から当該部分を紹介しておきましょう。

 〈折ふしレームノス島から、葡萄酒を運んで来た船が、浜にかかった、……その船々から、頭髪を長く垂らしたアカイア人らは、酒をとって来た、ある者どもは青銅に換え、あるいは輝く鉄(くろがね)に換え、あるいはまた牛の皮に、あるいは生身の牛そのものに、他の者どもは(やっこ)に換えて、賑々しい宴をもうけ、……〉(岩波文庫、中、38-9頁)

 (【付属資料】は「その3」に掲載します。)

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第25回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2010-06-25 03:02:57 | 『資本論』

第25回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

 

【付属資料】

●【3】パラグラフに関連して

《初版付録》

 〈(五) 商品の単純な価値形態はその商品のなかに含まれている使用価値と交換価値との対立の単純な現象形態である

 上着にたいするリンネルの価値関係においては、リンネルの現物形態はただ使用価値の姿としてのみ認められており、上着の現物形態はただ価値形態または交換価値の姿としてのみ認められている。したがって、商品のなかに含まれている使用価値と価値との内的な対立は、一つの外的な対立すなわち二つの商品の関係によって表わされているのであって、これらの商品の一方は値接にはただ使用価値としてのみ認められ、他方は直接にはただ交換価値としてのみ認められているのであり、言い換えれば、この関係のなかでは使用価値と交換価値という両方の対立的な規定が二つの商品のあいだで対極的に分けられているのである。--もし私が、商品としてはリンネルは使用価値にして交換価値である、と言うならば、それは私が商品の性質について私が分析によって得た判断である。これに反して、20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、という表現においては、リンネルそのものが、自分が(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは区別される交換価値(上着と同じもの)であり、(3)これらの二つの別々なものの統一、つまり商品である、ということを語っているのである。〉(同上152-3頁)

《補足と改訂》

 〈商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ち入って考察してみると,この価値表現の内部では,商品Aの自然形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち,商品Bの自然形態はただ価値形態または価値の姿態としてのみ意義をもつ,ということがわかった。したがって,商品のうちに包み込まれている使用価値と価値との内的対立は一つの外的対立によって,すなわち二つの商品の関係によって表わされ,この関係のなかでは,それの価値が表現されるべき商品Aは,直接にはただ使用価値としてのみ意義をもち,これにたいして,それで価値が表現される商品Bは直接にはただ交換価値としてのみ意義をもつ。したがって,一商品の簡単な価値形態は,その商品に含まれている使用価値と価傾との対立の簡単な現象形態なのである。〉(79頁)

《フランス語版》

 〈BによってのAの価値表現を注意深く考察すれば、次のことが示された。すなわち、この関係では、商品Aの自然形態が使用価値形態としてのみ現われ、商品Bの自然形態が価値形態としてのみ現われる、と。このように、一商品の使用価値と価値との内的対立は、二つの商品の関係によって現われるが、この関係では、価値が表現されるぺきAは、使用価値としての地位のみを直接に得るが、これに反し、価値を表現するBは、交換価値としての地位のみを直接に得るのである。したがって、一商品の単純な価値形態は、この商品が包蔵している対立の、すなわち、使用価値と価値との対立の、単純な現象形態である。〉(33-34頁)

●【4】パラグラフに関連して

《初版付録》

 〈(六) 商品の単純な価値形態は労働生産物の単純な商品形態である

 使用価値の形態は、その現物形態における労働生産物を世のなかに出す。だから、労働生産物は、それが商品形態をもつためには、すなわち、それが使用価値と交換価値という対立物の統一体として現われるためには、ただ価値形態を必要とするだけである。それだから、価値形態の発展は商品形態の発展と同じなのである。〉(同上153頁)
 
《補足と改訂》

 〈労働生産物は,どのような社会状態においても使用価値すなわち使用対象であるが,労働生産物を商品に転化するのは,ただ,使用物の生産において支出された労働を,対象的属性として,すなわちその使用物の価値として表す歴史的に規定された社会の一つの発展の時期だけである。労働生産物は,その価値が交換価値の形態,すなわち,その使用価値の自然形態とは対象的な形態をもち,したがって,それと同時に労働生産物がこの対立の統一として表わされるや否や,商品形態を受け取るのである。それゆえ,こうなる一商品の簡単な価値形態は,同時に労働生産物の簡単な南品形態であり,したがってまた,商品形態の発展は価値形態の発展と一致する,と。〉(79頁)

《フランス語版》

 〈労働生産物は、どんな社会状態においても使用価値、すなわち有用物である。だが、労働生産物が一般的に商品に転化するのは、社会の歴史的発展上の一定の時代にかぎられるのであって、その時代は、有用物の生産に支出された労働が、この物に固有な特性、すなわちこの物の価値、という性格を帯びるような時代である。〉(34頁)

●【5】パラグラフに関連して

《初版付録》

 〈(七) 商品形態と貨幣形態との関係

 20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは1着の上着に値する、というかわりに、20エレのリンネル=2ポンド・スターリング または、20エレのリンネルは2ポンド・スターリングに値する、という形態を置いてみるならば、貨幣形態は商品の単純な価値形態のいっそう発展した姿、したがって労働生産物の単純な商品形態のいっそう発展した姿にまったくほかならない、ということは一見して明らかである。貨幣形態はただ発展した商品形態でしかないのだから、ただ、単純な商品形態から源を発しているのである。それだから、単純な商品形態が理解されていさえすれば、残るのは、ただ、単純な商品形態 20エレのリンネル=1着の上着 が 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング という姿をとるために通過しなければならない諸変態の列を考察することだけである〉(同上154頁)

《補足と改訂》

 〈簡単な価値形態,すなわち,一連の変態を経てはじめて価格形態に成熟するこの萌芽形態の不十分さは,一見して明らかである。〉(79頁)

《フランス語版》

 〈一見すれば、単純な価値形態の不充分さが認められるが、この形態は、価格形態に到達する以前に一連の変態を経なければならない胚種なのである。〉(34頁)

●【6】パラグラフに関連して

《初版本文》

 〈柑対的な価値の単純な形態においては、すなわち二つの商品の等価性の表現においては、価値の形態発展は両方の商品にとって、たとえそのつど反対の方向においてであっても、一様である。相対的な価値表現は、さらに、両方の商品のそれぞれに関して統一的である。というのは、リンネルはその価値を、ただ、一つの商品、上着においてのみ表わしており、また逆の場合は逆であるからである。しかし、両方の商品にとってはこの価値表現は二重であり、それらのおのおのにとって違っている。最後に、両方の商品のおのおのは、ただ他方の個別的な商品種類にとって等価物であるだけであり、したがってただ個別的な等価物であるだけである。〉(国民文庫版57頁)

《初版付録》

 〈(八) 単純な相対的価値形態と単一な等価形態

 上着での価値表現はリンネルに価値形態を与えはするが、この価値形態によってはリンネルは、ただ、価値として使用価値としての自分自身から区別されるだけである。この形態はまたリンネルを、ただ、上着にたいする、すなおちなんらかの単一な、リンネル自身とは違う商品種類にたいする、関係に置くだけである。しかし、価値としてはリンネルはすべての他の商品と同じなのである。それゆえ、リンネルの価値形態はまた、リンネルを、すべての他の商品にたいする質的な同等性および量的な釣り合いの関係に置く形態でもなければならない。--一商品の単純な相対的価値形態には他の一商品の単一な等価形態が対応する。すなわち、それにおいて価値が表現されるところの商品は、この場合にはただ単一な等価物として機能するだけである。こうして、上着は、リンネルの相対的な価値表現においては、ただこの単一な商品種類リンネルにたいして等価形態または直接的交換可能性の形態をもっているだけである。〉(同上154-5頁)

《補足と改訂》

 〈なにかある自分とは違った種類の商品Bでの価値表現は,商品Aの価値をただ商品Aの使用価値から区別するだけであり,それゆえまた,商品Aを,それ自身とは異なるなんらかの個々の商品種類にたいする交換関係におくだけであり,商品Aの他のすべての商品との質的同等性および量的比例関係を表わすものではない。一商品の簡単な相対的価値表現には,他の一商品の個々の等価形態が対応する。こうして,上着は,リンネルの相対的価値表現のなかでは,リンネルというこの個々の商品種類との関連で等価形態または直接的交換可能性の形態をとるにすぎない。〉(79-80頁)

《フランス語版》

 〈実際のところ、単純な形態は、一商品の価値と使用価値とを区別して、この商品を、なんらかの他の一つの商品種類との交換関係に置くにすぎず、すべての商品にたいするこの商品の質的同等性と量的比率とを表わすものではない。一商品の価値がこの単純な形態において表現されるやいなや、他の一商品のほうも単純な等価形態を帯びる。こうして、たとえぽ上衣は、リソネルの相対的な価値表現では、リンネルというただ一つの商品にたいする関係によってのみ、等価形態、すなわち自分が直接に交換可能なものであることを示す形態、をもっているにすぎない。〉(34頁)

●【7】パラグラフに関連して

《初版本文》

 〈このよううな等式、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または 20エレのリンネルは1着の上着に値する、というような等式は、明らかに、商品の価値をただまったく局限的に一面的に表現しでいるだけである。もし私がたとえばリンネルを、上着とではなく、他の諸商品と比較するならば、私はまた別の相対的な諸価値表現、すなわち、20エレのリンネル=u量のコーヒー 20エレのリンネル=v量の茶 などというような別の諸等式を得ることになる。リンネルは、それとは別な諸商品があるのとちょうど同じ数の違った相対的な価値表現をもつのであって、リンネルの相対的な価値表現の数は、新たに現われてくる諸商品種類の数とともに絶えず増加するのである(22)。

(22)「各商品の価値は、交換にさいしてのその商品の割合を表わすのだから、われわれは、各商品の価値を、その商品が比較される商品がなんであるかにしたがって……穀物価値とか布価値とか呼ぶことできるであろう。したがってまた、無数の違った種類の価値があるのであり、そこにある諸商品と同じ数の価値の種類があるのであって、それらはみな等しく真実でもあり、また等しく名目的でもある。」(『価値の性質、尺度および諸原因に関する批判的論究。主としてリカード氏とその追随者たちとの諸著作に関連して。意見の形成と公表とに関する試論の著者の著』、ロンドン、1825年、39ぺージ。〔日本評論社『世界古典文庫』版、鈴木訳『リカアド価値論の批判』、54ページ。〕) 当時イギリスで大いに騒がれたこの匿名の書の著者S・べーリは、このように同じ商品価値の種々雑多な相対的な表現を指摘することによって、価値の概念規定をすべて否定し去ったと妄信している。それにしても、彼自身の偏狭さにもかかわらず、彼がリカード学説の急所に触れたということは、たとえぽ『ウェストミンスター・レヴュー』のなかで彼を攻撃したリカード学派の立腹がすでに証明したところである。〉(同上57-8頁)

《初版付録》

 〈(九) 単純な価値形態から展開された価値形態への移行

 単純な価値形態は、一商品の価値がただ一つの--といってもそれがなんであってもかまわないのだが--他の種類の商品で表現される、ということを条件とする。だから、リンネルの価値が鉄や麦やその他で表現されても、それは、その価値が商品種類上着で表現される場合とまったく同じに、リンネルの単純な相対的な価値表現なのである。したがって、リンネルが価値関係にはいる相手の商品種類がこれであるか、あれであるか、にしたがって、そのつどリンネルの違った単純な相対的な価値表現が成立するのである。可能性から言えば、リンネルは、それとは別種な諸商品が存在するのとちょうど同じだけのいろいろな価値表現をもっているわけである。つまり、事実上リンネルの完全な相対的な価値表現は、一つの個別的な単純な相対的な価値表現なのではなくて、リンネルの単純な相対的な諸価値表現の総和なのである。こうして、われわれは次のような形態を得ることになる。〉(同上155-6頁

《補足と改訂》

 〈とはいえ,簡単な価値形態は,おのずから,それよりも完全な一形態に移行する。確かに,簡単な価値形態の媒介によって,一商品の価値は別の種類のただ一つの商品によって表現されるだけである。しかし,この第二の商品がどのような種類のものであるか,上着か,鉄か,小麦等かということは,まったくどうでもよいことである。(p.777,4)それゆえ,商品Aが他のあれこれの商品種類にたいして価値関係にはいるのに従って,同一の商品のさまざまな簡単な価値表現が生じる。商品Aの可能な価値表現の数は,商品Aと異なる商品種類の数によって制限されているだけである。だから,商品Aの個別的価値表現は,商品のさまざまな簡単な価値表現の絶えず延長可能な列に転化する。〉(80頁)

《フランス語版》

 〈それにもかかわらず、単純な価値形態はおのずから、もっと完全な形態に移行する。単純な価値形態は確かに、商品Aの価値をただ一つの他種類の商品においてしか表現しない。だが、この第二の種類の商品は全く、上衣、鉄、小麦等々、全くお望みどおりでかまわない。したがって、一商品の価値表現は、他の諸商品にたいするこの商品の価値関係と同じくらい多様になる。したがって、この商品の単独な価値表現は、随意に延長できる一連の単純な表現に変態されるのである。〉(34-35頁)

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ドキュメンタリー映画「フツーの仕事がしたい」上映会の案内

2010-06-04 13:13:48 | 『資本論』

6 / 2 7

ドキュメンタリー映画「フツーの仕事がしたい」

上     映     会 
                                             

 

 「自分を取りまいている労働者世代の苦悩を否認する実に『十分な理由』を持つ資本は、その実際の運動において、人類の将来の退化や結局は食い止めることのできない人口の減少という予想によっては少しも左右されないのであって、それは地球が太陽に墜落するかもしれないということによって少しも左右されないのと同じことである。どんな株式思惑においても、いつかは雷が落ちるに違いないということはだれでも知っているが、自分自身が黄金の雨を受け集め安全な場所に運んだ後で、隣人の頭に雷が命中することをだれもが望むのである。“わが亡き後に洪水は来たれ! Apres moi le deluge! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか?と。」(『資本論』第1巻全集版23a352-3頁) 

       
 このドキュメンタリーは、この資本の飽くなき搾取欲を暴露してやまない。また、労働者が団結して、それに対して闘いに起ち上がらない限り、その「肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問」に制限を加え、労働者の生活を守り、未来を切り開いていくことはできないことを明らかにしています。

 これは決して、『資本論』が書かれた150年前の出来事ではありません。また『蟹工船』が描いた、戦前の資本主義の姿でもないのです。今日の日本の高度に発展した資本主義の現実なのです。

  『資本論』がどれほど資本主義的生産様式の本質を深く明らかにし、今日までのその現実を見通したものであるかを、そして労働者の進むべき道を正しく指し示すものであるかを、私たちは、この映画からも学ぶことが出来るでしょう 。

 

…………………………………………………………………………

 

 ドキュメンタリー映画
『フツーの仕事がしたい』

上映会・案内

 

   ■日 時   6月27日(日) 午後1時~

   ■会 場   大阪市港区民センター
             (環状線・弁天町駅下車西500m)

  ■運 営    映画・上映
             監督挨拶 土屋トカチ
             講演 「労働者の団結を!」(平岡正行)
            労働者の挨拶(郵政労働者・杉原)
                (監督をまじえた参加者全員によるトークあり)

  ■主 催   集会実行委員会
            (連絡先・072-366-8515)

                   

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