『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(2)

2021-12-17 02:13:32 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(2

 

 ◎第4パラグラフ(単純な商品流通は価値をふやす手段ではない)

【4】〈(イ)抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値と取り替えられるということのほかに、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。(ロ)同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。(ハ)この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。(ニ)そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。(ホ)この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。(ヘ)この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものでないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替する場合のようなものである。(ト)こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。(チ)それだから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。(リ)だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても、両方が交換価値で得をすることはありえないのである。(ヌ)ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」(18)ということになるのである。(ル)もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる(19)。(ヲ)その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである(20)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこないさまざまな事情は無視して、過程を抽象的に考察しますと、ある使用価値が他の別のある使用価値と取り替えられるということのほかにはここには何もありません。つまり単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもないのです。同じ価値が、つまり同じ量の対象化された社会的労働が、同じ交換者の手のなかでとどまっています。例えこの価値が、最初は彼自身の生産物(商品)の姿で、次にはこの商品が転化した貨幣の姿で、そして最後にはこの貨幣が再転化した商品の姿へと変転するとしても。だからこの形態変換は少しも価値量の変化を含んでいません。

  私たちの課題は単純な商品流通がその性質上、価値の増殖、よって剰余価値の形成をもたらすものかどうかを調べることです。だから単純な商品流通の内在的な法則からは出てこない偶然的な諸事情は無視して、過程を抽象的に考察しなければなりません。そうすると単純流通は、ある使用価値が別のある使用価値と取り替えられるという以外には何もありません。商品の変態以外には何もないのです。
  同じ価値が、つまり同じ量の対象化された社会的労働が、最初は交換者の手のなかで商品の形態で存在し、次にはその商品が転換した貨幣の姿で存在し、そして最後には再び再転化した別の商品の姿に転換しますが、しかしこの一連の形態変換には少しも価値量の変化、その増殖は含んでいないのです。

  (ニ)(ホ) そして、商品の価値がこの過程で経験する唯一の変転は、その貨幣形態の変転に限られています。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはその価格として表現されていたある貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として、存在しるのです。

  そして商品の価値がその形態変換のなかで経験する唯一の変転は、その貨幣形態の変転に限られています。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格(値札)として存在し、次にはその価格の実現された形態としてある貨幣額として存在し、そして最後には別のある等価物の価格として存在しています。

  (ヘ) この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものでないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替してもその価値量が変化しないとの同じことです。

  こうした商品の価値の形態変換が、それ自体としては価値量の変化を含んでいないことは、ちょうど5ポンドの銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨と両替してもらってもその価値量に変化がないのと同じことです。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ) ところで、商品の流通はただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすだけだから、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすだけであるのは明らかです。だから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが均衡する、だからそれらの作用がなくなるということを前提するのです。だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがあっても、交換価値について双方が得をすることはありえないのです。ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」といういいまわしが用いられるのです。

  このように商品の流通はただ商品の価値の形態変換を引き起こすだけですから、もし現象の偶然事を取り去り過程を純粋に考察するなら、価値量には何の変化もなく、ただ等価物どうしの交換を引き起こすだけです。だから価値がなんであるかを知らない俗流経済学者たちでも、彼らなりに過程を純粋に考察しようとするなら、いつでも需要と供給が均衡すること、つまりそれらの作用が働かないことを前提にし話を進めるのです。
  だから単純な商品流通では、使用価値に関しては交換当事者の双方が得することがあっても、交換価値に関しては双方が得をすることはありえないのです。ここでは「平等のあるところに利得はない」といういいまわしが用いられるのです。

  (ル)(ヲ) もちろん、確かに商品は、その価値からずれた価格で売られることもありえます。しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われるのです。その純粋な正常な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのです。

  もちろん現実の商品流通では、確かに商品は、その価値からずれた価格で売られこともあります。しかしこうした価値からずれた価格による交換は交換の法則からの逸脱であり、現実の過程によって是正されます。だからその純粋な正常な姿では、商品交換は等価物どうし交換であって、よって価値をふやす手段はないのです。


 ◎原注18

【原注18】〈"Dove e eguallta non e lcuro" (ガリアーニ『貨幣について』、クストディ編、近世篇、第4巻、244ページ。)〉

  これは〈ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」(18)ということになるのである〉という本文に付けられた原注です。
  これは第3パラグラフの解説のなかで紹介した『61-63草稿』のなかに次のように引用されていました。

  〈ところが、交換価値については事情はまったく違う。この場合には反対に次のように言われている、--「平等のあるところに、利得はない」(フェルディナンド・ガリアーニ『貨幣について』、グストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、18O3年、244ページ)。〉 (草稿集④26-27頁)

 ガリアーニは、第1節の原注10aなどそれ以前の多くの注のなかで引用紹介されています。『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ガリアニ Ferdinapdo Galiani (1728-1787) .イタリアの牧師・外交官・経済学者……重商主義者で,重農主義に反対した.……ガリアニによれば,商品価値は効用に依存する,さらに稀少性の影響もうける.人間労働によってつくりだされた財貨のばあいには,その価値は労働量あるいは労働者の数できまる.しかしどちらかといえば,価値の主観的・心理的説明に傾いていて,その意味では効用説の先駆のひとつをなす.しかるに,その価値や貨幣にかんする議論では,のちの労働価値説をもととしたような明快な諸命題がみえており,マルクスはこれを評価している.たとえば,価値を人間のあいだの一関係とみる観点,金銀は本来的に貨幣だという命題,平等のあるところに利得なしという等価交換的見方,産業改良による労働の生産性の向上と価値低落の指摘などは,マルクスによって引用されている.〉(451頁)

 

◎原注19

【原注19】〈19「もしなにか外的な事情が価格を下げるか上げるかするならば、交換は両当事者の一方にとって不利になる。その場合には平等は侵害されるが、しかし、この侵害は、あの原因によってひき起こされるのであって、交換によってひき起こされるのではない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、904ページ。)〉

  これは〈もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる(19)。〉という本文につけられた原注です。価値からの価格のずれは交換によって引き起こされるのではなく、その侵害によって生じているのだという指摘です。
  ル・トローヌの同著からは先の原注17などそれ以外の多くの原注のなかでも引用されています。ル・トローヌについては原注17の説明を参照してください。


 ◎原注20

【原注20】〈20「交換は、その性質上、ある価値とそれに等しい価値とのあいだに成立する対等の契約である。だから、それは富をなす手段ではない。というのは、受け取るのと同じだけを与えるのだからである。」(ル・トローヌ、同前、903、904ページ。)〉

  これは〈その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである(20)〉という本文に付けられた原注です。同じことを的確に指摘しているものとしての紹介ではないかと思います。なおル・トローヌについては同じく原注17の解説を参照してください。


 ◎第5パラグラフ(商品流通を剰余価値の源泉として説明しようと試みる人たちは、使用価値と交換価値とを混同している)

【5】〈(イ)それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。(ロ)たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。
(ハ)「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。(21)」
   (ニ)これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである(22)。(ホ)それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。(ヘ)ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。(ト)たとえば、次のように言う。
  (チ)「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない(23)。」
  (リ)しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。(ヌ)また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。(ル)そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? (ヲ)また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言えるであろう。〉

  (イ) それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みる人たちは、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値とを混同しているのです。

  これは先のパラグラフの結論として〈その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではない〉と述べていたことに対応しています。だから商品流通を剰余価値の源泉として説明する人たち(重商主義者たち)の多くは、使用価値と交換価値とを取り違え、混同しているというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) その一例を示すと、コンディヤックの場合は次のように述べています。「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会をすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのです。

  その一例としてコンディヤックの一文が紹介されています。
 コンディヤックは〈商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいで〉〈逆である〉と述べています。そしてその理由として〈われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする〉からだと言うのです。というのは〈諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある〉からだというのです。ということはコンディヤックのいう「価値」というのは使用価値以外の何ものでもないわけです。つまりコンディヤックが〈二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与える〉という場合、自分にとって使用価値でないものを与え、自分にとって使用価値であるものをそれと引き換える手に入れると述べているにすぎません。つまり先にみたように使用価値に関してなら、確かに交換者双方が得をするといいうることはすでに確認したことです。そして使用価値が異なるからこそ、それらは交換されるというのもまったく当たり前のことです。それをコンディヤックは、価値と使用価値とを混同して論じているだけのことです。
  しかし他方でコンディヤックは〈交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった〉とも述べています。つまりこの場合の「価値」は貨幣に等しいものとして述べられており、その意味では正しい意味で述べられています。そしてこの場合は〈等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった〉と述べているのです。だからコンディヤックは等価交換ということも認めているわけです。しかしそれだけでない、〈もう一つ別な考慮が加えられなければならない〉として使用価値に関しては不等価な交換だというわけです。
  マルクスはそれだけではなくて、コンディヤックは発達した商品生産の社会を、生産者が自分で生活手段を生産して、ただその欲望を越える余剰分だけを、互いに交換し合うという交換の未発達な状態にすり替えて論じているのだとも指摘しています。これは原注22を見るとよく分かります。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) こうしたコンディヤックの議論はしかし古い昔の話ではなくて、現代の経済学者たちによっても、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値の源泉であるとして説明しようとする場合には、しばしば繰り返されているのです。たとえば、次のように言われています。「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない。」云々。

  この引用されているコンディヤックの著書『商業と政府』は1776年に出ています。つまりマルクスが『資本論』を書いている時より90年ほど前のものです。しかしこうしたコンディヤックの議論は、現代の経済学者たちによっても、交換の発展したものである商業を剰余価値の源泉であるかに説明しようとする人たちによって繰り返されているというのです。そしてその一例としてS・P・ニューマンの『経済学要論』からの一文が紹介されています。この著書は1835年に出ています。つまりコンディヤックの著書が出てから半世紀以上たったものです。
  このニューマンの主張は、〈商業は生産物に価値をつけ加える〉というものですが、その理由として〈生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつ〉からだというのです。しかしこれは明らかに使用価値について述べていると思えます。〈商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない〉というのは、商業と運輸業をごっちゃにしているような気がしないでもありません。商業は別のところで仕入れたものを他のところで売ることから、当然、そこに商品を輸送する過程が入ってきますが、それ自体は商業ではなく運輸業であり、運輸業は延長された生産過程だとマルクスが述べているように、その限りは価値を生産し追加するのですが、しかし商業はあくまでも価値の形態変換を媒介するだけのものであって、その限りでは価値をまったく付け加えないし、もちろん生産もしないのです。

  (リ)(ヌ)(ル)(ヲ) しかし、人々は商品にたいして二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその交換価値に、支払うのではありません。それに、商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがいっそう有用だとしても、その商品の貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用なのです。そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあるでしょうか? だから彼らの言い分をまねるなら、買い手は、たとえば靴下販売商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を果たしているのだ、とも言えるでしょう。

  ニューマンは〈生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつ〉というのですが、しかし消費者は商品の価値に加えてその使用価値に対しても支払うわけではないとマルクスは述べています。確かに商品は使用価値に関しては、売り手にとってよりも、買い手にとっの方がよりいっそう有用だとしても、しかし売り手が手にする貨幣は、買い手よりももっと有用なのだとマルクスは指摘しています。というのは、買い手は買った商品の使用価値だけにその欲望が限定されていますが、売り手はその貨幣で自分の欲しいものなら何でも手に入れる可能性を手にしたからです。まさに売り手は、自分の商品を販売して、直接的に交換可能な価値の一般的形態を、あらゆる商品に交換可能な一般的な富を手に入れることが出来るからこそ、彼らは自分の商品を販売したのです。
  だからマルクスは、ニューマンのように〈商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない〉というなら、〈買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言える〉と皮肉って述べています。しかし買い手は、ただ商品を買っただけで、あとはその商品を消費するだけのことで、その商品について何の生産行為もしていないことは明々白々なことです。


 ◎原注21

【原注21】〈21 コンディヤック『商業と政府』(1776年)、所収、デールおよびモリナリ編『経済学叢書』、パリ、1847年、267、291ページ。〉

  これは本文のなかで引用されているものの典拠をしめすだけのものです。コンディヤックについても『資本論辞典』を参照しておきましょう。

  〈コンディヤック Etienne Bonnot de Condillac,abbè de Mureaux (1715-1780)フランスの哲学者・経済学者.……彼によれば,価値は効用にもとづくものであり,効用は物の慾望にたいする稀少性にある.したがって価値は慾望・効用にのみかんする主観的・相対的概念であって.すべての交換にさきんじて存在し,商業は交換者相互の余剰の不等価交換において成立する.これによって彼はケネー一派の重農主義者たちが等価交換説にもとづいて商工業を不生産的とするのにたいして,商業は同時に交換者双方に二つの価値をもたらし,工業は余剰を加工してあたらしい価値を増加するのであり,いずれも農業とともに生産的であると主張した.これにたいして重農主義的見解を忠実に信奉するル・トローヌは,生産物の評価はその効用だけでなく相互の交換において考えられるべきであり,価値は交換以前に存在するのではなく,交換関係において生ずることを指摘し,発展した社会には余剰のものは存在せず,したがってコンディヤックの相互余剰交換説は.今日の社会に妥当しえないと批判した.マルクスは『資本論』第1巻第4章で,商品流通を剰余価値の源泉と主張する背後には使用価値と交換価値の混同があることを指摘し,その例としてコンディヤックの説をあげ,彼が交換価値の本性についてすこしも理解していないと指摘している.さらにマルクスはル・トローヌの批判を引用しながら,コンディヤックが発展した商品生産のを社会を,生産者が自分の生活維持手段しか生産せず,自己需要をこえる超過分を余剰として流通に投ずるような単純な一の状態とすり換えていると指摘している.〉(491頁)


 ◎原注22

【原注22】〈22 (イ)それだから、ル・トローヌは彼の友人コンディヤックに次のように非常に正しく答えているのである。(ロ)「発達した社会にはおよそ余分なものというものはないのである。」(ハ)同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっている。(ニ)「もし交換当事者の両方が、同じだけより少ないものと引き換えに同じだけより多くのものを受け取るとすれば、彼らは両方とも同じだけを受け取るのだ。」(ホ)コンディヤックは、交換価値の性質には少しも感づいていないからこそ、教授ヴィルヘルム・ロッシャー氏にとっては氏自身の小児的概念の似合いの保証人なのである。(ヘ)ロッシャーの『国民経済学原理』、第3版、1858年、を見よ。〉

  (イ)(ロ) それだから、ル・トローヌは彼の友人コンディヤックに次のように非常に正しく答えているのです。「発達した社会にはおよそ余分なものというものはないのである。」

 これは〈コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである(22)〉という本文につけられた原注です。
  先の原注21で紹介した『資本論辞典』を見ると、コンディヤックは〈商業は交換者相互の余剰の不等価交換において成立する〉と主張し、〈これによって彼はケネー一派の重農主義者たちが等価交換説にもとづいて商工業を不生産的とするのにたいして,商業は同時に交換者双方に二つの価値をもたらし,工業は余剰を加工してあたらしい価値を増加するのであり,いずれも農業とともに生産的であると主張した〉とありました。〈これにたいして重農主義的見解を忠実に信奉するル・トローヌは,生産物の評価はその効用だけでなく相互の交換において考えられるべきであり,価値は交換以前に存在するのではなく, 交換関係において生ずることを指摘し,発展した社会には余剰のものは存在せず,したがってコンディヤックの相互余剰交換説は.今日の社会に妥当しえないと批判した〉とあります。それをマルクスも指摘しているといえます。

  (ハ)(ニ) 同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっています。「もし交換当事者の両方が、同じだけより少ないものと引き換えに同じだけより多くのものを受け取るとすれば、彼らは両方とも同じだけを受け取るのだ。」

  本文に引用されている一文でコンディヤックは〈二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである〉と述べていました。これに対して、トローヌはそれなら交換者は双方とも同じだけの価値を受け取ることになるではないかとからかっているというのです。

  (ホ)(ヘ) コンディヤックは、交換価値の概念をまるっきり持っていないからこそ、ヴィルヘルム・ロッシャー教授は彼を、氏自身の子供じみた概念の似合いの後援者とみなしたのです。ロッシャーの『国民経済学原理』、第3版、1858年、を見よ。

  本文で見たように、コンディヤックは価値と使用価値とを混同して、価値について正しい概念を持っていないことを暴露していますが、それだからこそ、ロッシャーはそのコンディヤックの価値概念に依拠して子供じみた概念を展開しているというのです。
  ロッシャーについても『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉(586-587頁)


 ◎原注23

【原注23】〈23 S・P・ニューマン『経済学綱要』、アンドウヴァおよびニューヨーク、1835年、175ページ。〉

  これは〈それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う〉として引用されているものの典拠を示すものです。
  ニューマンについても『資本論辞典』を見てみることにしましょう。

  〈ニューマン Francis William Newman(1805-1897)イギリスの著述家・神学者.……経済学の著作としては,『経済学綱要』がある.マルクスは,時としてこの書にみられる浅薄な考えを論難しているが(KⅢ-642:青木11-839:岩波10-444),近世初頭から19世紀にかけてのイギリスの経済事情の洞察にみるべきものがあり,なかんずく国有地や共有地の強権的私有化,農民の土地からの迫放,高利貸などの具体的・歴史的叙述は,すぐれていると評している.〉(527-528頁)


 ◎第6パラグラフ(等価物同士の交換では剰余価値は生まれないが、非等価物同士の交換ではどうか)

【6】〈(イ)もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。(ロ)そうすれば、剰余価値の形成は行なわれない。(ハ)しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どうしの交換を条件とするとはいえ、ものごとは現実には純粋には行なわれない。(ニ)そこで、次に互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみょう。〉

  (イ)(ロ) もしも等しい価値の商品または等しい価値の商品と貨幣とが、すなわち等価物同士が交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しことはできません。だからそうだとすれば、剰余価値の形成は何ら行なわれないことになります。

  これまで検討してきましたように、等価交換、すなわち等しい価値の商品と商品とが、あるいは等しい価値の商品と貨幣とが交換されても、誰も交換以前に持っていた価値以上の価値を流通から引き出すことできません。つまり等価交換の流通からは剰余価値は生まれないのです。

  (ハ)(ニ) しかし、確かに商品流通の純粋な形態では、等価物どうしの交換を条件としますが、しかし周知のように、現実にはものごとは決して純粋には起こるものではありません。そこで、次には互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみましょう。

  商品流通の純粋な形態では、常に等価物どうしの交換を前提としますが、しかし現実の商品流通は、常に純粋に推移するとは限りません。だから等価どうしの交換が常に行われるとは限らないのです。むしろ現実の流通には常に不等価な交換を含んでいるといえるでしょう。では、等価ではない商品どうしの交換、あるいは不等価な商品と貨幣との交換を想定すれば、果たして剰余価値が生まれうるのかどうか、それを次に検討してみましょう。


 ◎第7パラグラフ(商品市場ではただ商品所持者と貨幣所持者が相対するだけ、一方は売り手、他方は買い手)

【7】〈(イ)とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。(ロ)いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。(ハ)というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。(ニ)このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけである。(ホ)すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。(ヘ)したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。〉

  (イ) いずれにしても、商品市場に存在するのは交換者と交換者だけであって、これらの人たちが互いに行使しあう力は、自分たちの商品の力でしかありません。

  しかしその前に、純粋ではない状態とは言っても、商品市場に存在するのは交換者と交換者だけであって、彼らが互いに行使し合う力は、自分たちの商品や貨幣の力でしかないと想定する必要があります。

  (ロ)(ハ) いろいろな商品の素材的な相違は、商品所持者たちが交換する素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させるものです。というのは、彼らのうちのだれもが自分自身の欲望の対象はもっていないが、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからです。

  あるいはまた、いろいろな商品の素材的な違いは、商品所持者たちが交換する動機であり、また彼らを互いに相手に依存させる理由でもあります。というのは、彼らは互いに自分自身の欲望を満たすものは持っていないが、しかし相手の欲望を満たすに足るものは持っているのだからです。

  (ニ)(ホ) このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけです。すなわち商品の現物形態と商品の価値形態態との区別、すなわち商品と貨幣との区別だけです。

  このような諸商品の使用価値の素材的な相違のほかに、諸商品にはその現物形態と価値形態(値札)という区別が存在しています。つまり商品と貨幣との区別です。

  (ヘ) だから、商品所持者たちは、ただ、一方は商品の所持者として売り手であり、他方は貨幣の所持者として買い手である、という観点から区別されるだけです。

  というわけで、私たちがこれから検討する純粋な商品流通とは異なる諸要因を入れて検討するとしても、しかし商品所持者たちは、一方は商品の所持者として、すなわち売り手として、他方は貨幣の所持者として、すなわち買い手として考察するという点は、何一つ変わらないということは確認しておかねばなりません。


   (以下は、(3)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(3)

2021-12-17 02:13:00 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(3

 

◎第8パラグラフ(売り手に価格をつり上げる特権があった場合、結局、価値どおりの交換に帰着する)

【8】〈(イ)そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しよう。(ロ)つまり、売り手は10という剰余価値を収めるわけである。(ハ)しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になる。(ニ)今度は第三の商品所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっている。(ホ)かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる(24)。(ヘ)成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着する。(ト)すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことである。(チ)このような、諸商品の一般的な名目的な値上げは、ちょうど、商品価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生みだす。(リ)諸商品の貨幣名、すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は変わらないであろう。〉

  (イ)(ロ) そこで、なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高く売ること、たとえばその価値が100ならば110で、つまり名目上10%の値上げをして売ることが許されると仮定しましよう。その場合はには、売り手は10という剰余価値を収めることになります。

  ではそのうような前提のもとに、今、何かわけの分からない特権によって、売り手には、商品をその価値より高く売ることができると仮定しましょう。つまりその価値が100なら、彼はその商品を110で売ることが許されるのです。彼は名目上は10%の値上げをして販売することになります。
  その場合には、確かに売り手は、彼の商品の価値より高い価格で販売するのですから、10という剰余価値を手に入れることになります。つまりこの場合の商品流通は不等価の交換によって剰余価値を形成したわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) しかし、彼は、売り手だったあとでは買い手になります。そして今度は第三の商品所持者が売り手として彼に相対し、この売り手もまた商品を10%高く売る特権をもっているわけです。だからかの男は、売り手としては10の得をしましたが、次に買い手としては10を損することになるのです。

  しかしそれで喜んでいるわけには行きません。というのは、彼は売り手であったあとには買い手になるからです。W-GのあとにはG-Wの過程を経なければならないのです。ところがこの買い手に相対する売り手も、彼と同様、彼の商品を10%高く売る特権をもっていることになります。だから彼は売り手として得た10の剰余価値を、今度は買い手として10の損失を被ることによって、失うことになります。

  (ヘ)(ト) ことの成り行きの全体は実際には次のようなことに帰着します。すべての商品所持者が互いに自分の商品を価値よりも10%高く売り合うので、それは、彼らが商品を価値どおりに売ったのとまったく同じことになるということです。

  つまり全体として商品流通を見渡せば、結局、次のようになります。すべての商品所持者が互いに自分の商品をその価値より10%高く売り合うならば、結局、それは彼らが自分の商品を価値どおりに売ったのと同じことになるということです。一方で得た得を、他方で損をするのですから、差し引きゼロということです。

  (チ)(リ) このような、諸商品の一般的な価格騰貴は、ちょうど、商品の価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるような場合と同じ結果を生み出します。諸商品の貨幣名、つまり価格は膨張するでしょうが、諸商品の価値関係は変わらないままでしょう。

  こうしたすべての商品所持者が、彼の商品を一般的にその価値よりも高い価格で販売し合うというようなことは、丁度、商品の価値が例えば金で評価する代わりに銀で評価される場合と同じような結果をもたらします。金1gで評価された商品の価格は銀では15gとなり、つまり名目的には1が15という高い価格で表されます。しかし貨幣名は大きくなりますが、諸商品の価値関係には何の変化もないはずです。
  いずれにせよ、商品を価値以上の価格で売買してもそれよっては剰余価値は生まれないということです。


 ◎原注24

【原注24】〈24 「生産物の名目的価値の引き上げによっては……売り手は富を増すことにはならない。……というのは、彼らが売り手としてもうけるのとちょうど同じだけを、彼らは買い手の資格で出してしまうのだからである。」(〔ジョン・グレー〕『諸国民の富の主要原理』、ロンドン、1797年、66ページ。)〉

  これは〈かの男は、売り手としては10の得をしたが、次に買い手としては10を損することになる(24〉という本文に付けられた原注です。まさにジョン・グレーも同じことを指摘しているということでしょうか。ジョン・グレーについては『剰余価値学説史』の中に編集者のつけた項目ですが、〔ジョン・グレー〕という項目があり、〔重農学派の立場からの土地貴族にたいする論難〕という表題がつけられて、〈〔ジョン・グレー〕『諸国民の富の主要原理。アダム・スミス博士とその他の若干の誤った学説に反対した説明』、ロンドン、1797年。……これこそは、直接に重農学説とつながりのある唯一の重要なイギリス人の著作である。……この著作は、第一に、重農学説の非常にすぐれた簡潔な要約を含んでいる。……彼は、重農学派を「正確にではないけれどもきわめて体系的に説明した」(〔グレー〕4ぺージ)学説として叙述している〉(全集第26巻のⅠ、486頁)等々と高く評価し、以下のようなその著書からの引用がなされています。

 〈重農主義は、どのようにして剰余価値(彼〔グレー〕においては収入と同じ)が生産されまた再生産されるか? を問題にする。どのようにして剰余価値がより大きな規模で再生産されるか、すなわち増加されるかということは、二番目の問題である。剰余価値の範疇、剰余価値生産の秘密が、まず暴露されなければならない。
  剰余価値と商業資本
  「収入の生産が問題である場合に、これと、すべての商業取引をそれに帰着させることができる収入の移転とをすりかえることは、まったく非論理的である。」(22ページ。) 「商業という語の意味は、商品交換ということにほかならない。……それは、ときに、一方にとっては他方にとってよりも有利なことがある。だが、それにしても、一方が得るものを、他方はつねに失うのであって、彼らの取引は実際にはなんの増加も生じないのである。」(23ページ。) 「あるユダヤ人が、1クラウン貨幣〔5シリソグ銀貨〕を10シリングで売っても、あるいはアン女王時代の1ファージング銅貨〔4分の1ペニー銅貨〕を1ギニ〔21シリング〕で売っても、彼は自分の所得を疑いもなくふやすであろうが、しかし彼は、それによって、貴金属の量を増加させることはないであろう。そしてこの取引の性質は、こっとう収集家の彼の顧客が、彼と同じ町に住んでいようと、フランスまたは中国に住んでいようと、同じことであろう。」(23ぺージ。)
  重農学派にあっては工業の利潤は譲渡に基づく利潤として(つまり重商主義的に)説明されているそれゆえこのイギリス人はこの利潤は工業品が外国に売られる場合にだけ利得であるという正しい結論を引きだす彼は重商主義的前提から正しい重商主義的結論を引きだすのである。〉 (同上488頁)

 さらに今回の原注24で紹介されている部分も次のように書かれています。

  売り手の側での価格の名目的引上げからは剰余価値を導きだすことはできない
  「生産物の名目的価値の引上げ」によっては「……売り手は富裕にならない。……というのは、彼らが売り手として儲けるものを、彼らはまさに買い手の資格において支出するからである。」(66ページ。)〉 (同491頁)

  このグレーについて全集の注解には〈マルクスがここで分析している匿名者の著書の筆者がジョン・グレーなる人物だったということは確認されているが、その経歴は明らかにされていない。1802年には同じ人物がロンドンでさらに一つの所得税に関する本を著わした。この人物は、マルクスが『経済学批判』第1冊や『資本論』第1巻で触れている1798年から1850年まで生きていたユートピア社会主義者のジョン・グレーと同じ人ではない。〉とあります。


 ◎第9パラグラフ(買い手に安く買う特権がある場合もやはり同じ)

【9】〈(イ)今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみよう。(ロ)ここでは、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもない。(ハ)彼は、買い手になる前にすでに売り手だったのである。(ニ)彼は買い手として10% もうける前に、売り手としてすでに10% 損をしていたのである(25)。(ホ)いっさいはやはり元のままである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 今度は、逆に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみましょう。この場合は、買い手が再び売り手になるということを思い出す必要さえもありません。彼は、買い手になる以前にすでに売り手だったのですから。

  今度は、反対に、商品をその価値よりも安く買うことが買い手の特権だと仮定してみましょう。しかし彼は買い手になる前には、すでに売り手だったのです。つまり彼が売り手だったとき、その相手の買い手は安く買う特権を生かして、彼から剰余価値をせしめていたのです。

  (ニ)(ホ) 彼は買い手として10% もうける前に、売り手としてすでに10% 損をしていたのです。やはりいっさいは元のままなのです。

  だから彼は買い手として得る剰余価値を、すでに売り手のときに失っていたことになります。彼は買い手として10%の得をするのですが、しかしその彼はすでに売り手の時に10%の損をしていたのです。つまりやはり買い手に特権があった場合と同じく一切は元のままということになります。


 ◎原注25

【原注25】〈25 「もし24リーヴルの価値を表わす或る分量の生産物を18リーヴルで売らざるをえないとすれば、同じ金額を買うために使えば、やはり24リーヴルで得られるのと同じだけが18リーヴルで得られるであろう。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、897ページ。)〉

  これは〈彼は買い手として10% もうける前に、売り手としてすでに10% 損をしていたのである(25)〉という本文につけられた原注です。ル・トローヌもまったく同じことを指摘しているということのようです。ル・トローヌについては原注17で紹介しています。


 ◎第10パラグラフ(売り手や買い手の特権からは剰余価値は生まれない)

【10】〈(イ)要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのである(26)。〉

  (イ) 結局、剰余価値の形成、したがって、貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品をその価値よりも安く買うということによっても、説明することはできないのです。

  以上のように、商品流通にわけのわからない特権を持ち込んで、売り手が商品をその価値より高く売ることができるとしてみたり、あるいは反対に買い手が商品をその価値より安く買うことが出来るとしてみても、結局は、一方で得られた剰余価値は他方で失うのであり、だからそれによっては剰余価値の形成は説明できないのです。


◎原注26

【原注26】〈26 「だから、どの売り手も、つねに自分の商品を値上げすることができるためには、自分もつねに他の売り手の商品により高く支払うことを承認せざるをえない。そして、同じ理由によって、どの消費者もつねにより安く買い入れることができるためには、自分の売る商品も同様に値下げすることに同意せざるをえない。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『自然的および本質的秩序』、555ページ。)〉

  これは先のパラグラフ全体につけられた原注と考えられます。つまりリヴィエールもまったく同じことを指摘しているということのようです。リヴィエールについては、何度か原注として引用されており、以前、第1節の原注2で次のように説明したことがあります。

  《リヴィエールについては『資本論辞典』でもヒットしなかったのですが、ウィキペディアには、次のような説明がありました。

  〈ピエール=ポール・ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエール・ド・サン=メダール(Pierre-Paul Le Mercier de la Rivière de Saint-Médard、1719年3月10日 - 1801年11月27日)は、フランスの重農主義の経済思想家。名前は、ルメルシエ(Lemercier)と表記されることもある。
  ソミュールに生まれる。父親はトゥール納税区に勤務した財務官。1756年にケネーと知り合った。1759年から1764年まで、西インド諸島のフランス植民地マルティニークの知事を務めた。
  1767年に主著『政治社会の自然的・本質的秩序(l'Ordre naturel et essentiel des sociétés politiques) 』を公刊した。この著作は、重農主義学説の立場から本格的に政治体制について記したものである。作品のなかで、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、「合法的専制」という統治概念を提起した。この観念は、ケネーが理想の経済秩序との関係で唱えた「正統な専制政治」の理論をさらに詳細に発展させたものであった。この作品は、ディドロやアダム・スミスによって高く評価されたが、ヴォルテールやマブリらの批判を呼んだ。政界ではディドロと親しいロシアのエカチェリーナ2世に評価され、彼女の招きによって、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールはロシアを訪問した。
  1785年公の活動から引退したが、その後の1792年に、ユートピア小説『幸福な国民またはフェリシー人の政体』を出版した。〉》

  ところがその後、原注15では『資本論辞典』から次のような引用を紹介しています。

  〈Paul Pierre Le Mercier de la Rivière de Saint Mèdard (1720-1793) フランスの官吏・重農学派(Physiokraten)の一人. ……マルクスは資本の転形や等価交換の説明にかんしてメルシエを引用・参照しているが,『剰余価値学説史』でメルシエが,工業における剰余価値をもって工業労働者そのものとなんらかの関係をもつものとの予感をいだいていたことを指摘しているのは注目に値する. 〉(568頁)

  これは、上記のウィキペディアとは生・没の年が違いますが、恐らく同一人物だと思われます。

 

◎第11パラグラフ(生産者と消費者の観点を持ち込んでも、何も変わらない)

【11】〈(イ)そこで、問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはならない。
(ロ)「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある(27)。」
   (ハ)流通のなかでは生産者と消費者とはただ売り手と買い手として相対するだけである。(ニ)生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題に仮面をつけるだけのことでしかない。(ホ)売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかであるが、同様に買い手もまた彼の貨幣に表された商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているか、どちらかである。(ヘ)だから、ここで相対するのは、生産者と生産者とである。(ト)彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということである。(リ)商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみてもそれは、われわれを一歩も前進させるものではない(28)。〉

  (イ)(ロ) そこで、今度は問題外の諸関係をこっそりもちこんで、たとえばトレンズ大佐などといっしょに次のようなことを言ってみても、問題は少しも簡単にはなりません。「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある」と。

  そこでさらに等価物どうしの交換を前提とする純粋な商品流通とは違う、別の商品流通外の問題をこっそり持ち込んでみてはどうでしょうか。例えばトレンズ大佐が次のようなことを持ち込んでいるようにです。
 「有効需要とは、直接的交換によってであろうと間接的交換によってであろうと、商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える、という消費者の能力と性向(!)とにある」と。
  しかし、これは結局、消費者、つまり買い手がその商品の価値よりも大きい価格で購入する「能力と性向」もつということです。ようするに資本(売り手)が自分の生産した商品の価値(商品の生産に費やされるもの)よりも高い価格で売る特権を持っているということと同じです。

  ところでここでトレンズの一文のうち〈商品と引き換えに、資本のすべての成分のうちの、その商品の生産に費やされるよりもいくらか大きい部分を与える〉という一文は、マルクスによる独語訳だが、トレンズの原文は〈受け取る商品と引き換えに、資本の全成分のうちから、それらの商品の生産に要費するよりも大きい一部分を引き渡す〉となっているのだそうです(山内清氏)。後に紹介する『61-63草稿』ではトレンズの原文どおりになっています。

  (ハ)(ニ) 生産者と消費者も、流通のなかではただ売り手と買い手として相対するだけです。だから生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品に価値よりも高く支払うということから生ずる、と主張することは、先に検討したように、商品所持者は売り手として高すぎる価格で売る特権をもっているという簡単な命題をただ言い換えただけに過ぎないでしょう。

  つまり商品流通に生産者や消費者という関係を持ち込んでも、しかし現実の流通の場面では、生産者や消費者はただ売り手と買い手として相対するだけなのです。だからトレンズ大佐のように、消費者が商品の価値よりも高く支払う能力をもっていることから、生産者の剰余価値の形成を説明することは、結局は、先に検討したように、商品所持者が売り手として価値より高い価格で売る特権をもっているという簡単な命題をただ言い換えただけに過ぎないのです。

  (ホ)(ヘ)(ト) 売り手はその商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代表しているか、どちらかですが、同じように買い手もまた彼の貨幣に表された商品を自分で生産したか、またはその生産者を代表しているかの、どちらかです。だから、ここで相対するのは、結局、生産者と生産者なのです。彼らを区別するものは、一方は買い、他方は売る、ということです。

  私たちが単純な商品流通で想定している商品所持者(売り手)は、その商品を自分で生産したか、あるいはその生産者を代表しているだけかの、どちらかですが、同じように買い手も、彼が持っている貨幣を入手するために、彼自身が生産した商品を販売して手に入れたものか、あるいはその生産者を代表して彼の貨幣を持って買い手として現れているのかの、どちらかです。だからもし商品流通の外の関係を持ち込むとしても、結局は、生産者と消費者ではなく、生産者と生産者との関係なのです。彼らの区別は一方は買い、他方は売るというだけに過ぎません。

  (リ) 結局、商品所持者が、生産者という名で商品をその価値よりも高く売り、消費者という名で商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみてもそれは、それはすでに検討したように、私たちを一歩も前進させるものではないです。

  だから、商品所持者が、生産者という名でその商品を価値よりも高く売り、消費者という名で商品に高すぎる価格を支払うのだといってみても、結局は、それはすでに検討したものと同じことでしかないのです。

  このパラグラフとほぼ同じことを論じている『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

  〈にもかかわらず、著名な近代の経済学者たちにあってさえも、剰余価値は総じて、買うよりも高く売ることから説明されるべきだ、というたわごとが見いだされる。たとえばトランズ氏がそうであり、次のように言う。「有効需要とは、直接的な交換(バーター)によってであろうと回り道をした交換(バーター)によってであろうと、受け取る諸商品と引き換えに、資本の全成分のうちから、それらの商品の生産に要費するよりも大きい一部分を引き渡す、という、消費者の側での能力と性向である」(ロバト・トランズ大佐『富の生産に関する一論』、ロンドン、1821年、349ページ)。われわれの前にいるのは、ここでは売り手と買い手だけである。次のような事情、すなわち、商品所有者(売るほう)だけが商品を生産してもっているのにたいして、他方の買い手(だが彼の貨幣も商品の販売から生まれたにちがいないのであって、それは商品の転化された形態にすぎないのであるが)は商品を、消費のために買おうとする、すなわち消費者として買おうとする、というような事情は、少しも関係を変えはしない。売り手はつねに使用価値を代表するのである。さきのたぐいのきまり文句が言っていることは、この文句をその本質的な内容に還元し、そのときどきの言い回しを取り除くならば、すべての買い手がその商品を価値以上で買う、ということ、つまり売り手は総じて自分の商品を価値以上で売り、買い手はいつでも自分の貨幣の価値以下で買う、ということでしかない。生産者と消費者をもち込んでみても、事柄は少しも変わりはしない。というのは、交換行為で彼らが相対しあうのは、消費者と生産者としてではなくて、売り手と買い手としてだからである。そしてそもそも諸個人がただの商品所有者として交換を行なうにすぎない場合には、各人は生産者であるとともに消費者でもなければならず、また、彼がそのうちの一方でありうるのは、彼が他方でもあるかぎりにおいてである。この前提のもとでは、各人は、売り手として得るものを買い手として失うことになるであろう。〉 (草稿集④32-33頁)

◎原注27

【原注27】〈27  R・トレンズ『富の生産に関する一論』、ロンドン、1821年、349ぺージ。〉

  これは本文で引用紹介されているトレンズの一文の典拠を示すだけのものです。トレンズについては『資本論辞典』から紹介しておきます。

  〈トランズ Robert Torrens (1780-1864)イギリスの海軍士官で経済学者.……1837年に大佐となる.現役中より文筆と経済学の研究に携わり,著書を発表しはじめたが.退役後はロンドンでウィッグ党の急進派として文筆活動をつづけた.ジェイムズ・ミル, リカード等とともに1821年,〈経済学グラブ)(Poltical Economy Club)を創立し,会長に選ばれるなど,経済学者としての彼の令名は高かった.……1837年イングランド銀行改革問題につき同行の二部局分離を提案,それ以後オーヴァストーン,ノーマンとともに,〈通貨主義〉の主唱者となって,トゥックと論争した.……『資本論』ではまず第1巻で.剰余価値の源泉の問題に関連してトランズの説が批判され.そこでは剰余価値の形成をそれが流通から.販売者が商品をその価値以上に販売したり,購買者が商品をその価値以下で購買するということから説明しょうとする論者としてトランズが挙げられる.マルクスは『富の生産に関する一論』を引用して,「無縁な諸関係を密輸入して,たとえばトランズ大佐とともに,“有効需要とは,直接的交換によってであれ間接的交換によってであれ,商品と引換えに,その生産に要費するよりも大きい,すべての資本成分中のある特定部分を支払うべき消費者たちの能力および傾向(!) である"などと語ることによっては,問題はけっして簡単化されない"(KⅠ-169;青木2-306:岩波2-35)とする.……以下、玉ノ井芳郎氏によるこの項目の説明は大変長いのですが紹介は割愛します。各自参照。〉(524頁)


◎原注28

【原注28】〈28 「利潤は消費者によって支払われるという考えは、たしかにまったくおかしい。消費者とはだれのことか?」(G・ラムジ『富の分配に関する一論』、エディンバラ、1836年、183ページ。)〉

  これは〈商品所持者は、生産者という名では商品をその価値よりも高く売り、消費者という名では商品に高すぎる価格を支払うのだ、と言ってみてもそれは、われわれ一歩も前進させるものではない(28)〉という一文につけられた原注です。
  この利潤を支払う〈消費者とはだれのことか?〉とういうラムジの一文は、次のパラグラフへの誘導になっています。つまり生産することなくただ消費する階級の存在を想定してみることに繋がっています。

  G・ラムジについても『資本論辞典』を参照しておきましょう。

  〈ラムジ Sir George Ramsay(1800-1871) スコットランドの経済学者.……マルクスが, ラムジの理論における主要な貢献とみなしている点は,彼が,固定資本および流動資本という従来の資本形態の区別をそのまま踏襲しながらも,事実上そこに不変資本と可変資本の区別を把握していることである.すなわち,生産過程におけるいっさいの物的要素たる労働手段や原料を固定資本に包括せしめ,これにたいして労働者に前払いされる生活手段とその他の必需品はすべてこれを流動資本に一括することによって(KⅡ-224,440-411;青木6-293.570;岩波6-119.146).ラムジは,事実上価値増殖過程の観点から生じる資本の第一義的な機能上の区別に到達している.そしてこの資本区別から,すくなくとも三つの注目すべき見解がうちたてられるにいたっている.すなわち,第一に,彼が資本の有機的構成に着目し,資本の蓄積にともなう生産力の発展の過程において流動資本が固定資本に比して相対的に減少し,資本構成が高度化することを力説するとともに,これによって影響される労働者階級の状態に言及していること(KI-665;青木4-980;岩波4-121).第二に,商品価値は賃銀・利潤・地代の各種の収入に分解されるというアダム・スミスいらいひろくおとなわれた俗論を排除して,固定資本と労働とが商品価値としての生産費の要素をなすという立場から,商品価値には賃銀部分と剰余価値部分とのほかに不変資本を補填すべき価値部分がふくまれていることを指摘したこと(KⅡ-393; 青木7-509;岩波7-7l),第三に.商品価値に不変資本部分を復位せしめたために. 利潤率の理解を従来の学者よりも一段と明確化したこと.……マルクスは,ラムジにおいて経済学が.資本はたんなる偶然的な歴史的生産条件である,ということを説明するところにまで到達した.と述ベている.〉(573-574頁)

  これを見るとラムジは理論的には結構いいところまで行っていたようです。『剰余価値学説史』には〈第22章 ラムジ〉という章が設けられて、かなり長い(全集版で427-470頁)記述が見られます。そしてその中には、今回の原注で紹介されている部分も次のように言及されています。

  同様にマルサスに反対して
  「利潤が消費者によって支払われるという考えは、確かに非常にばかげている。消費者とはだれなのか? それは地主か、資本家か、雇い主か、労働者か、そのほか給料を受け取る人々かでなければならない。」(183ページ。)「総利潤の一般的な率に影響することができる唯一の競争は、資本家的企業者と労働者とのあいだの競争である。」(206ページ。)〉 (全集版第26巻Ⅲ460-461頁)


◎第12パラグラフ(売ることなしにただ買うだけの階級を想定しても、剰余価値の説明にはならない)

【12】〈(イ)それゆえ、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるとかいう幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。(ロ)このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場すなわち単純な流通の立場からは、まだ説明のできないものである。(ハ)しかし、ここでは先回りしてみることにしよう。(ニ)このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとついて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならない。(ホ)この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことである(29)。(ヘ)たとえば小アジアの諸都市は年々の貨幣貢租を古代ローマに支払った。(ト)この貨幣でローマはそれらの都市から商品を買い、しかもそれを高すぎる価格で買った。(チ)小アジア人はローマ人をだました。(リ)というのは、彼らは商業という方法で征服者から貢租の一部分を再びだまし取ったからである。(ヌ)しかし、それにもかかわらず、やはり小アジア人はだまされた人々であった。(ル)彼らの商品の代価は、相変わらず彼ら自身の貨幣で彼らに支払われたのである。(ヲ)こんなことはけっして致富または剰余価値形成の方法ではないのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) だから、剰余価値は名目上の値上げから生ずるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生ずるとかいう幻想を一貫して主張する人たちは、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのです。このような階級の存在は、わたしたちがこれまでに到達した立場、すなわち単純な商品流通の立場からは、まだ説明のできないものです。しかしまあ、ここでは先回りしてみることにしまょう。

  だからこれまで見てきたように、剰余価値を商品交換から生ずるものとして説明する人たちは、結局は、売ることなしに買うだけの人、あるいは生産することなしにただ消費する人たち、そうした一階級を想定しいるのです。こうした階級の存在(土地所有者やそれに寄生する人たちや国家とそれに寄食す人たちなど)はまだ私たちが考察している単純な商品流通の立場からは説明のできないものです。しかしとりあえず、そうした階級の存在を前提してみましょう。

  (ニ)(ホ) このような階級が絶えずものを買うための貨幣は、交換なしで、無償で、任意の権原や強力原にもとづいて、商品所持者たち自身から絶えずこの階級に流れてこなければならないのです。だからこの階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことなのです。

  こうした階級が絶えずものを買うための貨幣は、結局は、交換なしに、無償で、何らかの権限や力によって、現実の商品所持者(生産者)たち自身からこの階級に流れてこなければならないことになります。だからこの階級に商品を売る人たち(商品の所持者・生産者)が、彼が販売する商品をその価値よりも高く売ることよって剰余価値を形成するといっても、結局は、彼が無償で与えたものをただ再びその一部をだまし取るというだけに過ぎません。

  この部分を説明している『61-63草稿』から紹介しておきましょう。また長くなりすぎるのでここでは紹介を割愛しましたが、付属資料の同草稿からの抜粋も参考にしてください。

 〈こういうわけで、一方では、剰余価値--ここではまだわれわれは、どんな形態の利得でもこう呼ぶことができる--が交換から出てくると言いたいのであれば、それはなんらかの--と言っても定式G-W-Gのなかには見ることも知ることもできない--行為によって、すでに交換以前から存在していたものであるほかはない。「利潤(これは剰余価品の独自な一形態である)は、市場の通常の状態では、交換することからは得られないもしそれがこの取引かまえに存在していなかったすれば、それはこの取引のあとにも存在しえないであろう」(ジョージ・ラムジ『富の分配に関する一論』、エディンバラ、1836年、184ページ)。ラムジは同じ箇所で次のように言う。「利潤が消費者たちによって支払われる、という考えは、たしかに、非常にばかげている。この消費者たちというのはだれのことだろうか」、云々(183ページ〉。相対しているのは商品所有者たちだけであり、彼らのそれぞれが生産者であり、また同じく消費者でもある。そして彼らがこのうちの一方でありうるのは、彼らがまた他方でもあるかぎりにおいてである。そしてもし、先取りして、生産することなしに消費する諸階級のことを考えるならば、これらの階級の富はやはりただ、生産者たちの商品からの取り分から成り立つほかはないのであり、無償で諸価値を引き渡される諸階級が、これらの価値を出して行なう逆の交換で詐取される、ということからは、価値の増加は説明できない。(マルサスを見よ。)〉 (草稿集④33-34頁)

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) たとえば小アジアの諸都市は毎年、古代ローマに貢租を貨幣で収めました。ローマはこの貨幣で商品をそれらの諸都市から買い、しかもそれを高すぎる価格で支払ったのです。小アジア人はローマ人をだまし、こうして彼らは、商業という方法で征服者から強奪された貢租の一部分を再び奪い返したのです。しかし、それにもかかわらず、結局は、小アジア人はやはり相変わらずだまされた人たちでした。彼らがうまくだまし取ったと考えた商品の代価は、結局は彼ら自身の貨幣で彼らに支払われただけなのですから何も生み出されていないのです。こんなことはけっして富を生むための方法、あるいは剰余価値を形成する方法ではないのです。

  同じものを歴史的に遡って見ますと、小アジアと古代ローマとの関係に見ることができます。小アジアの諸都市は、毎年、古代ローマに貢租を貨幣で収めました。ローマはその貨幣でそれらの諸都市から商品を買いましたが、そのときそれを高すぎる価格で支払ったのです。小アジア人たちはうまくローマ人をだまして、商業という方法で征服者から強奪された貢租の一部を奪い返したのですが、しかし、にも関わらず彼らが相変わらず強奪されているという現実は何一つ変わらなかったのです。彼らがうまくだまし取ったと考えた商品の代価は、結局は彼ら自身の貨幣だからです。だからこうした関係を考えても、こうした関係からは何も価値は生み出されていないことがわかります。こんなことはけっして富を生むための方法ではないし、剰余価値は形成されないのです。


◎原注29

【原注29】〈29 「ある人にとって需要がないとき、マルサス氏は、この人の品物を買わせるためにだれかほかの人に支払ってやることを、この人にすすめるのか?」リカード派の一人は憤慨してマルサスにこう尋ねるのであるが、このマルサスは、その弟子の坊主チャーマズと同じように、単なる買い手または消費者の階級を経済的に賛美しているのである。『近時マルサス氏の主張する需要の性質および消費の必要に関する原理の研究』、ロンドン、1821年、55ページを見よ。〉

  これは〈この階級に商品を価値よりも高く売るということは、ただで引き渡した貨幣の一部分を再びだまして取りもどすというだけのことである(29)〉という本文に付けられた原注です。〈リカード派の一人〉の主張の紹介とマルクスのコメントからなっていますが、文節に分けて解説する必要はないでしょう。
 マルサスは弟子の坊主のチャーマズと一緒に、単なる買い手または消費者の階級(寄生的な階級)が不可欠であることを主張し、その存在を賛美しているのですが、このリカード派の一人は、ある人が需要がない、自分の商品が売れないというとき、この商品の買い手の存在を求めるために、まず最初に買い手に貨幣を支払ってやることをマルサスは勧めるのか、と問うているわけです。つまり寄生的な階級の存在の必要を説くマルサスの主張はまさにそうしたものだ、と批判しているのです。
  この〈『近時マルサス氏の主張する,需要の性質および消費の必要に関する諸原理の研究.この原理から,課税と不生産的消費者の維持とが富の増進を促すことができるということが帰結する』ロンドン,1821年〉という文献は草稿集⑨の文献索引に出ていて、『61-63草稿』の多くの個所で引用紹介されていることが分かるのですが、その著者名については索引にも、そしてどうやら本文のなかでも書かれていないようです。マルクスが〈この匿名の著者は、……〉(草稿集⑦83頁)と述べているところを見ると、マルクス自身にも分かっていなかったのかも知れません。

  (以下、(4)に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(4)

2021-12-17 02:12:31 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(4

 

◎第13パラグラフ(問題は登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえてはいないということからきているのか)

【13】〈(イ)そこで、われわれは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまることにしよう。(ロ)われわれの当惑は、ことによると、われわれが登場人物を人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえてはいないということからきているのかもしれない。〉

  (イ)(ロ) 私たちは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であるという商品交換の限界のなかにとどまらざるをえません。私たちが困惑してたのはおそらく、私たちが登場人物をただ人格化された範疇としてとらえているだけで、個人としてとらえてはいないということからきているのかもしれません。

  フランス語版ではこのパラグラフと次のパラグラフとが一つのパラグラフに纏められています。これだけが一つのパラグラフになっているよりはよいように思えます。

 さて、私たちは売り手や買い手の特権を想定してみたり、ただ買うだけの、消費するだけの一階級の存在を想定してみても、やはり剰余価値の形成は不可能なことを確認したのですが、やはり依然として売り手は買い手であり、買い手は売り手であるという単純な商品交換の限界のなかで考えることにします。
  そうすると私たちが剰余価値の形成で困難に突き当たったのは、あるいは私たちが想定してきた人たちが、売り手は「売り」という商行為の人格化したものであり、買い手も「購買」という商行為の人格化された範疇だったのかも知れません。つまり流通当事者を個々の性格をもった諸個人として捉えてこなかったからではないか、という疑問が生じます。そこでそれを入れて考えてみることにしましょう。


◎第14パラグラフ(不等価交換は、価値の分配は変えても価値の総量は変わらない)

【14】〈(イ)商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。(ロ)Aは40ポンド・スターリングという価値のあるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしよう。(ハ)Aは彼の40ポンドを50ポンドに転化させた。(ニ)より少ない貨幣をより多くの貨幣にし、彼の商品を資本に転化させた。(ホ)もう少し詳しく見てみよう。(ヘ)交換が行なわれる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングだった。(ト)交換のあとでも、総価値は同じく90ポンド・スターリングである。(チ)流通する価値は少しも大きくなっていないが、AとBとへのその分配は変わっている。(リ)一方で剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われる。(ヌ)同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたであろう。(ル)流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。(ヲ)一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである(30)。〉

  (イ) 人格化された範疇としてだけではなく、個人の狡猾さなどの個性も入れて検討するとして、商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBやCをだますかもしれないが、BやCのほうはどうしても仕返しができないということにしてみましょう。

  私たちが商品流通の現実でつねに見ていることですが、ある人は商才に長け、狡猾に立ち回り、一代で財をなす人もいれば、どうしようもないほど無能でたちまち財を失う人もいます。そうした流通当事者の個性を入れて検討してみればどうなるのか考えてみましょう。
  いまAは非常にずるい男で、同じ商売仲間のBやCをだますが、BやCのほうはお人好しで何も仕返しができないとしましょう。

  (ロ)(ハ)(ニ) さて、Aは40ポンド・スターリングの価値あるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングという価値のある穀物を手に入れるとしましょう。とするとAは彼の40ポンドを50ポンドに転化させたことになります。つまりより少ない貨幣をより多くの貨幣にし、剰余価値を獲得し、彼の商品を資本に転化させたといえます。

  そうするとどうなるでしょうか。Aは40ポンドの価値あるぶどう酒をBに売って、それと引き換えに50ポンドの価値ある穀物を手に入れるとしましょう。つまりAは40ポンドをまんまと50ポンドに転換したのですから、10ポンドの剰余価値を手に入れたことになります。つまりAは彼の商品を資本に転化させたのです。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ) しかしもう少し詳しく見てみましょう。交換が行なわれる前には、Aの手には40ポンド・スターリングのぶどう酒があり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物がありました。だから総価値は90ポンド・スターリングだったのです。交換のあとはどうかというと、やはり総価値は同じく90ポンド・スターリングです。つまり流通する価値は少しも大きくなっていないのです。ただAとBとへのその分配は変わっています。一方で剰余価値として現われるものは他方では不足価値であり、一方でプラスとして現われるものは他方ではマイナスとして現われているのです。

  しかしこの関係をもう少し詳しく検討してみましょう。交換が行われる前には、Aには40ポンドのぶどう酒があり、Bには50ポンドの穀物がありました。だから流通にある商品の価値の総額は90ポンドです。
  では交換のあとはどうか。Aは50ポンドの穀物を持ち、Bは40ポンドのぶどう酒を持っています。やはり総額は90ポンドで交換が行われる前と変わりません。
  ということは流通する価値そのものは何も変わらないし、大きくなっていないということです。ただ変わっているのは、AとBとへの価値の配分が変わっています。Aが儲けた分だけBが損をしているのです。一方でプラスと現れたものは他方ではマイナスになっていて、総額は変わらないのです。

  (ヌ) 同じ変化は、Aが交換という仮装的な形態によらないでBから直接に10ポンドを盗んだとしても、起きたでしょう。全体の価値の増大は何もないのです。

  ただAとBとへの流通にある商品の価値総額の配分が変化するというだけなら、Aが交換という手続きを経ずに、Bから直接10ポンドを盗んでも同じことが生じたでしょう。つまりたとえ一人が狡猾で他の人をだまして、商品を盗み取ったとしても、流通にある商品の価値はびた一文を増大しないということです。それは盗んだ人の得るものが、ただ盗まれた人が失うだけに過ぎません。

  (ル)(ヲ) 流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかなことです。それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないというのと同じです。一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのです。

  だから流通にある商品の価値総額を、その配分を変えることによって増やすことは出来ないのです。それはある狡賢いユダヤ人が、骨董的価値はあっても最低価格の銅貨であるアン女王時代(在位:1702年4月23日-1707年4月30日)の1ファージング貨を、現代通用している最高価格の金貨である1ギニーで売ったとしても、ユダヤ人自身は大儲けしたと思うかもしれませんが、それで一国の貴金属量を増やしたことにならないのと同じです。一国の資本家階級全体が自分で自分をだまし取って富を増やすことなどできないのです。
  ここでマルクスが〈流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである〉と述べているのは、原注24の解説で紹介したジョン・グレーの一文から取ってきたように思えます。ジョン・グレーは次のように述べていたからです。

  〈「商業という語の意味は、商品交換ということにほかならない。… … それは、ときに、一方にとっては他方にとってよりも有利なことがある。だが、それにしても、一方が得るものを、他方はつねに失うのであって、彼らの取引は実際にはなんの増加も生じないのである。」(23ページ。) 「あるユダヤ人が、1クラウン貨幣〔5シリソグ銀貨〕を10シリングで売っても、あるいはアン女王時代の1ファージング銅貨〔4分の1ペニー銅貨〕を1ギニ〔21シリング〕で売っても、彼は自分の所得を疑いもなくふやすであろうが、しかし彼は、それによって、貴金属の量を増加させることはないであろう。そしてこの取引の性質は、こっとう収集家の彼の顧客が、彼と同じ町に住んでいようと、フランスまたは中国に住んでいようと、同じことであろう。」(23ぺージ。)〉

  だからこのような商品流通にありがちな個々人の商才の有無という個性を考慮に入れてみても、やはり剰余価値の形成を説明することはできないのです。

  同じような問題を論じている『61-63草稿』を少し長くなりますが、紹介しておきます。

 〈ところで、一方が失うものを他方が得るということ、したがって両交換者が非等価物を交換するということ、つまり、一方の交換者は自分が投入した交換価値よりも高い交換価値を--しかも他方の交換者が交換から引き出す交換価値が、交換に投入した交換価値よりも低ければ低いほど、それだけ高い交換価値を--交換から引き出すということ、このことはもちろん可能である。100重量ポンドの綿花の価値が100シリングだとしよう。いま、Aが150重最ポンドの綿花を100シリングでBに売るとすれば、Bは5Oシリング得をしたわけであるが、それはただ、Aが5Oシリング損をしたからにすぎない。
  もし、150シリングの価格をもっ150重量ポンドの綿花(ここでは価格は、貨幣で表わされ、測られた綿花の価値にすぎない)が100シリングで売られるならば、両方の価値の合計は、販売のまえと同じく25Oシリングである。したがって、流通のなかにある価値の総額は増加しなかったし、自己を増殖しなかったし、なんらの剰余価値も生みださなかったのであって、不変のままである。交換のなかで、あるいは販売によって生じたのは、それに前提されていた・それ以前にすでに存在し・またそれからは独立に存在する・価値の配分における変化だけである。5Oシリングが一方の側から他方の側に移っただけである。したがって、いずれか一方の側による詐取〔Übervorteilung〕は、それが買い手の側によって行なわれるものであろうと、売り手の側によって行なわれるものであるうと、流通内にある交換価値(これが商品の形態で存在しようと貨幣の形態で存在しようと)の合計を増加させるものではなく、さまざまの商品所有者のあいだでのその配分を変更する〔alterieren〕(変える〔verändern〕)ものにすぎないことは明らかである。上記の例で、150シリングの価値のある150重量ポンドの綿花を、Aが100シリングでBに売り、Bがそれを150シリングでCに売ったと仮定すれば、Bが50シリング得をすることになる。あるいは、Bの100シリングの価値が150シリングの価値を生んだように見える。しかし実際には、取引後にも取引前と同様に、Aの所有する100シリング、Bの所有する150シリング、それに、Cの所有する150シリングの価値の商品、--総計して400シリングがある。はじめには、Aの所有する150シリングの価値の商品、Bの所有する100シリング、Cの所有する150シリング、--総計して400シリングがあった。A、B、Cのあいだでの400シリングの配分における変化のほかには、なんの変化も生じなかった。50シリングがAのふところからBのふところに移動し、AはBが豊かになったのとちょうど同じだけ貧しくなった。一つの購買と一つの販売とについて言えることは、同様にすべての販売と購買との総計についても、要するに、ある任意の期間にすべての商品所有者のあいだで行なわれる、すべての商品の流通についても言える。商品所有者のうちの一人、あるいは一部分が、他の部分からの詐取によって流通から引き出す剰余価値〔Mehrwert〕は、詐取された商品所有者たちが流通から取り出す不足価値〔Minderwert〕によって正確に測られる。一方の人々が、投げいれた価値よりも多くの価値を流通から取り出すのは、ただ、他方の人々が、投げいれた価値よりも少ない価値を流通から引き出し、彼らが最初に投入した価値からの控除、その縮減を被っているからにすぎず、またそのかぎりにおいてにすぎない。現存する価値の総額はこのことによっては変化していないのであり、ただその配分が変化しただけである。(「等しい二つの価値のあいだで行なわれる交換は、社会のなかに存在する価値の量をふやしも減らしもしない。不等な二つの価値の交換も……やはり、社会の側値の総額を少しも変えはしない。といっても、それは、一方の財産から取り上げるものを他方の財産に加えるのではあるが。」ジャン-バテイスト・セー『経済学概論』、第3版、第2巻、パリ、1817年、443、444ページ。)一国の資本家の全体をとり、彼らのあいだでの販売と購買との、たとえば一年間の、総額をとってみれば、たしかに一方が他方から詐取すること、したがってまた一方が、自分が流リ通に投げいれた価値よりも多くの価値を、流通から取り出すことはできるが、しかしこの操作が行なわれたとしても、これによっては流通する資本価値の総額はびた一文増加しなかったであろう。換言すれば、一方が失うものを他方が得るということによっては、資本家階級全体が階級として豊かになること、彼らの総資本を増加させること、あるいは剰余価値を生産することはできないのである。階級全体0が自分自身から詐取することはできない。流通する資本の額は、この資本の個々の構成部分がその所有者たちのあいだで違ったように配分される、ということによっては、増加されることができない。つまり、この種の操作によっては、これをどれだけ積み重ねて考えてみたところで、総価値額の増加は実現されず、流通内にある総資本にたいする、新価値あるいは剰余価値、あるいは流通内にある総資本にたいする利得は、実現されないのである。〉
(草稿集④28-30頁)


◎原注30

【原注30】〈30 デステェット・ド・トラシは、フランス学士院会員だったにもかかわらず--またはおそらくそうだったからこそ--これとは反対の意見だった。彼は次のように言う。産業資本家たちは、「彼らがすべてのものをその生産にかかったよりも高く売る」ということによって、彼らの利潤をあげる。「では、だれに彼らは売るのか? まず第一に、互いに、である。」(『意志とその作用』、239ページ。)〉

  これは〈流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできないということは明らかであって、それは、ちょうど、あるユダヤ人がアン女王時代の1ファージング貨を1ギニーで売っても、それで一国の貴金属量をふやしたことにはならないようなものである。一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである(30)〉という本文につけられた原注です。これはマルクス自身のコメントとトラシからの引用からなっていますが、文節にわけて解説する必要はないでしょう。
  トラシは、〈流通する価値の総額をその分配の変化によってふやすことはできない〉、〈一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできない〉という主張に、〈反対の意見だった〉ということです。というのは、トラシは産業資本家の利潤を彼らが彼らの商品をその生産にかかったよりも高く売ることによって説明しているからです。では、彼らは誰にその商品を高く売るのか、まず、第一に、互いにと答えています。ということは、資本家たちは一方で得た利潤を他方でつまり今度は彼が買い手に回ったときに失うことを意味しており、結局、彼らは利潤を得たことにならないわけです。トラシはこうした矛盾に気づいていないようです。
  なおトラシについては原注14の解説に『資本論辞典』の説明を紹介しています。


◎第15パラグラフ(流通または商品交換は価値を創造しない)

【15】〈(イ)要するに、どんなに言いくるめようとしても、結局はやはり同じことなのである。(ロ)等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない(31)。(ハ)流通または商品交換は価値を創造しないのである(32)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) どんなにもがいてみても、事態は相変わらず同じです。等価物どうしが交換されても剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されてもやはり剰余価値は生まれません。流通あるいは商品交換は価値をなんら創造しないのです。

  こうして私たちは、売り手や買い手の特権や、商品流通の外の生産者や消費者を登場させてみたり、あるいはただ消費するだけの一階級を想定してみても、あるいは流通当事者の狡猾さなどの個性を考慮に入れたとしても、やはり事態は変わりませんでした。等価物同士が交換されても、非等価物どうしが交換されても、やはり剰余価値は生まれないのです。要するにどんなにあがいてみても、流通あるいは商品交換においては価値は増えないし創造されないという結論を得たのです。

   このパラグラフも同じようなことを論じている『61-63草稿』から紹介しておきます。

  等価物が交換されるということは、じつは、諸商品がその交換価値で交換されるということ、その交換価値で買われ、売られ、買われる、ということでしかない。「等価物とは、じつは、他の一商品の使用価値で表現された、一商品の交換価値である」(『経済学批判』第1分冊、全集第13巻25ページ)。しかし、交換が流通の形態にまで発展しているかぎり、商品はその交換価値を価格で--貨幣(価値の尺度として、したがってまた貨幣として役立つ商品、という材料)で表現されて--表示する。商品の価格は、貨幣で表現された、それの交換価値である。つまり、商品が貨幣としての等価物と引き換えに売られるということは、商品がその価格で、すなわちその価値で売られる、ということでしかない。同様に購買では、貨幣が商品をその価格で買うということ、すなわちこの場合には、等しい額の貨幣で買う、ということでしかない。諸商品が等価物と交換されるという前提は、それらがその価値で交換される、その価値で買われ、売られる、ということと同じことなのである。
  ここから二つのことが出てくる。
  第一。諸商品がその価値で売買されるときには、等価物が交換される。各人の手から流通に投じられた価値は、流通からふたたび同じ手に復帰する。だから価値は交換行為によっては増加されないばかりか、およそ影響を受けることがない。それゆえ、資本は、すなわち、流通のなかでまた流通によって自己を増殖する・すなわち自己を増加させる・剰余価値を生む・価値は、諸商品がその価値で売買されるときには、ありえない、ということになる。
  第二。だが、諸商品がその価値で売られる、あるいは買われるのではないとすると、この場合にありうるのは次のことだけである。--そもそも非等価物が交換されうるのは、ただ、一方が他方から詐取する場合、すなわち、交換のなかで、一方が自分の投入した価値よりも少ない価値しか受け取らず、しかもそれとちょうど同じ量だけ他方は、自分の投入した価値よりも多くの価値を受け取る、という場合だけである。しかしこのことによっては、交換される価値の合計は不変のままであり、したがってまた、交換によっては新価値は少しも発生しない。Aは1OOシリングの価値ある1OO重量ポンドの綿花を所有している。Bはそれを5Oシリシグで買う。Bは50シリング得をしたのであるが、それはAが5Oシリング損をしたからである。価値の合計は、交換のまえに150シリングであった。それは交換のあとも15Oシリングである。Bは交換のまえにはこの1/3しかもっていなかったが、交換のあとには、2/3をもっている。しかしAのほうは、交換のまえには2/3をもっていたのに、交換のあとにはもはや1/3しかもっていない。つまり、15Oシリングという価値額の配分における変化が起こっただけである。この額そのものは不変のままだったのである。
  したがってこのようなやり方では、資本、すなわち自己を増殖する価値は、富の一般的な形態としては、第一の場合と同様にまた、ありえないであろう。というのは、一方の側での自己を増加させる価値にたいして、他方の側での自己を減少させる価値が対応しており、したがって価値そのものは増加していないからである。一方の価値が流通のなかで増加するのは、ただ他方の価値が減少し、したがって流通のなかで自己を維持することさえもしないからなのである。
  したがって、直接的な物物交換の形態であろうと、流通の形態であろうと、交換それ[自体]は、そのなかに投じられた諸価値を不変のままにしておくのであって、少しの価値をも付け加えない、ということは明らかである。「交換は生産物に、価値を少しも与えない」〈フラーンシス・ウェイランド『経済学綱要』、ボストン、1843年、169ページ)。〉  (草稿集④30-32頁)

 

◎原注31

【原注31】〈31 (イ)「二つの等しい価値のあいだに行なわれる交換は、社会にある価値の量をふやしも減らしもしない。二つの等しくない価値の交換も……やはり社会の価値の総額を少しも変えはしない。といっても、それは、一方の財産から取り上げるものを他方の財産に加えるのではあるが。」(J・B・セー『経済学概論』、第2巻、443、444ページ。〔増井訳『経済学』、下巻、617、618ページ。〕) (ロ)セーは、もちろんこの命題の帰結がどうなるかにはおかまいなしに、これをほとんどその言葉どおりに重農学派から借用している。(ハ)その当時は世に知られていなかった重農学派の著作を彼が自分自身の「価値」の増殖のために利用したやり方は、次の例によってもわかるであろう。(ニ)セー氏の「最も有名な」命題、「生産物は生産物でしか買えない」(同前、第2巻、438ページ〔増井訳『経済学』、上巻、384ページ〕)は、重農学派の原文では、「生産物は生産物でしか支払われない」(ル・トローヌ『社会的利益について』、899ページ)となっている。〉

  これは〈等価物どうしが交換されるとすれば剰余価値は生まれないし、非等価物どうしが交換されるとしてもやはり剰余価値は生まれない(31)〉という本文につけられた原注です。
  まずマルクスはセーから引用していますが、セーの一文はこれまでの数パラグラフで論じてきたことを述べています。すなわち等価物どうしの交換は、社会にある価値の量を増やしも減らしもしない、非等価物どうしの交換でも、やはり社会の価値の総額は変わらない。しかしその配分は変わると述べています。
  マルクスはこのセーの指摘は、実は重農学派から借用したものだと指摘し、それれをこっそり拝借して、自分の著書の「価値」の増殖に使ったと皮肉を述べています。そしてその一例としてセーの「生産物は生産物でしか買えない」というのは、重農学派の原文では「生産物は生産物でしか支払われない」というル・トローヌの一文を紹介しています。
  J・B・セーについては原注11の解説を参照してください。ル・トローヌについても原注17の解説に『資本論辞典』の説明を紹介しています。


◎原注32

【原注32】〈32 「交換は生産物にどんな価値も与えない。」(F・ウェーランド『経済学綱要』、ボストン、1843年、168ページ。)〉

  これは〈流通または商品交換は価値を創造しないのである(32)〉という本文につけられた原注です。
  ウェーランドについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ウェイランド Francis Wayland (1796-1865) アメリカの牧師・教育家.……奴隷制に反対し,自由貿易を主張した.……マルクスは,上述の『経済学綱要』から"交換は生産物にたいして,一般になんらの価値をも賦与するものではない"という言葉を引用して,素朴な等価交換論の支持者としてのウェイランドをみとめているが,他方では,その俗流性を論難している.およそ社会的生産過程では,生産手段と労働力とが消費されて,あらたな生産物が生産されるわけであるが,資本主義社会では,これが同時に,価値創造と価値移転の過程になる.そのばあいに.生産手段の価値は,消耗されるわけではなく,ただその担い手たる使用価値が消耗されるところから.他の使用価値に再現されるにすぎない.これに反して労働力の価値は,労働力の消費をつうじて.あらたに再生産される.ウェイランドは,この生産手段の価値の再現と労働力の価値の再生産との本質的区別を混同し,剰余価値を分析する道をとざしてしまった.……(以下略)〉(475-476頁)


◎第16パラグラフ(古い商業資本と高利資本とをさしあたりはまったく考慮に入れないのは、それらが等価交換ではないからです)

【16】〈(イ)こういうことからも、資本の基本形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態をわれわれが分析するにあたって、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本と高利資本とをさしあたりはまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるであろう。〉

  (イ) こういうことからも、資本の基本形態、すなわち近代社会の経済組織を規定するものとしての資本の形態を私たちが分析する場合に、なぜ資本の普通に知られているいわば大洪水以前的な姿である商業資本と高利資本とをさしあたりはまったく考慮に入れないでおくのか、がわかるでしょう。

  この部分はフランス語版では次のようになっています。

 〈さて今度は、われわれの資本分析では、最も通俗的な、いわばノアの大洪水前の資本形態、商業資本と高利貸資本が、なぜ一時的に除外されるか、が理解される。〉 (江夏・上杉訳150頁)

  つまりこのパラグラフはそのあとのパラグラフで本来の商業資本(第17パラグラフ)や高利資本(第18パラグラフ)を取り上げるための導入をなしていることが分かります。

  単純な商品流通においては、等価物どうしの交換を想定しても、非等価物どうしの交換を想定しても、剰余価値は生まれませんでした。商品流通や商品交換からは価値は何ら創造されないことが確認されたのです。だからこそ、資本主義的生産の基本的形態として、現代の社会の経済組織を規定するものとしての資本の考察においては、われわれは大洪水以前から独立して存在していた商業資本や高利資本をさしあたりは考慮に入れずに置く理由が分かるのです。古代の商業資本や高利資本は資本主義的生産の規定的な資本形態である産業資本の勃興とともに、それに従属させられ組み込まれて、その派生的形態になったものとして後に考察の対象になるだけだからです。

  『61-63草稿』では次のように書かれています。

  〈ここですでに知ることができるのは、資本についての日常の表象に最も近く、また事実上歴史的には資本の最古の定在形態である、資本の二つの形態--これは二つの機能における資本であり、それが一方または他方の形態で機能するのに応じて、それは特殊な種類の一資本として現われる--が、なぜ、われわれが資本そのものを問題にしているここでは、まったく問題とならず、むしろ資本そのものの派生的二次的な形態として展開されねばならないのか、ということである。〉 (草稿集④36頁)


◎第17パラグラフ(本来の商業資本は、等価交換では不可能であり、詐欺に見える)

【17】〈(イ)本来の商業資本では、形態G-W-G'、より高く売るために買う、が最も純粋に現われている。(ロ)他方、商業資本の全運動は流通部面のなかで行なわれる。(ハ)しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば(33)、不可能なものとして現われ、したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的に割りこむ商人によってこれらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。(ニ)この意味で、フランクリンは、「戦争は略奪であり、商業は詐取である(34)」と言うのである。(ホ)商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提になっているここでは、まだまったく欠けているのである。〉

  (イ) 本来の商業資本(つまり前近代的な商業資本)では、形態G-W-G'、より高く売るために買う、が最も純粋に現われています。

  古代の商業資本は、シルクロードの隊商や地中海貿易を牛耳ったフエニキアなどの商業民族を考えても、彼らは安く手に入れたものを、遠くで高く売ることによって儲けていました。だから彼らにおいては形態G-W-G'が純粋に現れていると言えます。

  (ロ)(ハ)(ニ) そして商業資本の全運動は流通部面のなかで行なわれます。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのですから、結局、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば、不可能なものとして現われます。だから、古代の商業資本では、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的に割りこむ商人によって、これらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われるのです。この意味で、フランクリンは、「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と言うのです。

  しかしそもそも商業資本の運動は流通部面で行われます。そして流通部面では、貨幣の資本への転化、すなわち剰余価値の形成は不可能なのですから、結局、商業資本は、等価物どうしの交換が行われるようになれば、不可能なものとして現れざるを得ません。だから古代の商業民族(資本)は、さまざまな共同体的な生産組織の隙間に生息して、それらの社会組織に寄生して、これらの生産者たちの両方からだまし取ることから彼らの利潤を引き出していたのです。だから、フランクリンは、このような意味で、「戦争は略奪であり、商業は詐取である」と言っているのです。

  (ホ) 商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのですが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提になっているここでは、まだまったく欠けているのです。

  フランス語版ではこの文節はカットされています。

  もし商業資本の価値増殖、すなわち彼らの利潤が、単なる商品生産者からの詐取としてではなく説明されるためには、それが展開されるまでの長い中間項を経る必要があります(『資本論』では第3巻の第3篇までで第1巻からはじまる産業資本の考察が終わったあと、第4篇で商業資本が考察されています)。だからそれは商品流通とその単純な諸契機とが私たちの唯一の前提となっている段階では、まだ全く説明できないことなのです。(商業資本の利潤は産業資本の利潤が分割されたものとして説明されます)。

  このパラグラフも『61-63草稿』から該当すると思われる部分を紹介しておきましょう。

 〈本来の商人資本では、運動G-W-Gが最も明白に現われる。それゆえ、商人資本の目的が流通に投じられた価値あるいは貨幣の増加であること、また、それがこのことをなし建ける形態は、買ったのちにふたたび売る、というものであることは、むかしから目につくことであった。「あらゆる種類の商人たちに共通な点は、彼らは転売するために買う、ということである」(テュルゴー 『富の形成と分配とに関する省察』〈1766年に刊行さる)、所収、『テュルゴー著作集』、第1巻、パリ、1844年、ウジェーヌ・デール編、43ページ〔岩波書店版、津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、102ページ〕)。他方、ここでは剰余価値は、純粋に流通において、すなわち、商人が買うよりも高く売る--あるいは、売るよりも安く買う、としてもよい(商品をその価値以下で買い、そしてそれをその価値で、あるいはその価値以上で売るてあるいは、それをその価値で買うが、その価値以上で売る、としてもよい--ことから生じるものとして現われる。彼は商品をある人から買い、それを他の人に売る。彼は一方の人にたいしては貨幣を、他方の人にたいしては商品を代表する。また彼は、運動を新たに始めることによって、同様に売ったのちに買うのであるが、しかしそうしたからと言って、商品そのものが彼の目的であるわけではけっしてないのであり、したがって、買う、という後者の運動は、売る、という前者の運動の媒介として役立つだけである。彼は買い手と売り手とにたいして、交互に流通の異なった側(段階)を代表する。また、彼の全運動は流通の内部に属するのであり、あるいはむしろ、彼は流通の担い手として、貨幣の代表者として現われるのであって、このときは、単純な商品流通では全運動が流通手段から、流通手段としての貨幣から、出発するように見えるのとまったく同様である。彼はただ、商品が流通のなかで経過すべき異なった諸段階の、媒介者として現われるにすぎず、したがってまた、ただ、既存の諸極のあいだを、既存の商品と既存の貨幣とを表わしている、既存の売り手たちと買い手たちとのあいだを、媒介するにすぎない。ここでは流通過程につけ加わる他の過程はないので、つまり、商人が--彼の操作のすべては販売と購買とに帰着するのだから--交互に売ったり買ったりすることによって作りだす剰余価値(利得)〔……〕ので、彼が流通のなかにもちこむ貨幣、あるいは総じて価値の増加は、純粋に、彼が交互に関係をもっ相手方から詐取することから、非等価物の交換から、こうしてこのことによって、彼はつねに自分が流通に投げ込むのよりも大きい価値を流通から引き出す、ということから、説明されるべきものとして現われる。こうして、彼の利得--交換にもちだされた彼の価値が彼のために生みだした剰余価値--は、純粋に流通から生じるように、したがってまた、彼と取引する人々の損失だけから成っているように見える。事実、商人財産は純粋にこの方法によって生じうるのであって、産業的に未発展な諸国民のあいだで仲介商業を営む商業諸民族の致富は、おもにこの方法で生じたのであった。商人資本は、生産の、また総じて社会の経済的構造の、さまざまの段階にある諸国民のあいだで活動を続けることができる。だからそれは、資本主義的生産様式が少しも行なわれていない諸国民のあいだで、したがって、資本がその主要な諸形態において発展するはるか以前に、活動を続けることができるのである。だが、商人の作りだす利得、あるいは商人財産の自己増殖が、単に商品所有者たちの詐取から説明されてはならず、つまり、前から存在している価値額の単なる別の配分以上のものでなければならないのだとすれば、それは明らかにただ、商人資本の運動、その特有の機能、には現われていない諸前提から導き出されるよりほかになく、またその利得、その自己増殖は、単に派生した、二次的な形態として現われるのであって、この形態の源泉はどこかほかのところに求められなければならない。反対に、もしその特有の形態がそれだけで〔für sich〕独立に考察されるならば、商業はフランクリンの言うように、単なる詐取として現われるにちがいないし、もし諸等価物が交換されるならば、すなわち諸商品がその交換価値で売買されるならば、商業はおよそ不可能なものとして現われるにちがいない。「不変な等価物の支配のもとでは、商業は不可能であろう」(ジョージ・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、1851年、67ページ)。(だからこそエンゲルスは、似たような意味で、『独仏年誌』、パリ、1844年、『国民経済学批判大綱』において、交換価値と価格との相違を、諸商品がその価値で交換されるならば商業は不可能だ、ということから説明しようとしているのである。)〉 (草稿集④36-38頁)

  (以下は(5)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(5)

2021-12-17 02:12:03 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(5)

 

◎原注33

【原注33】〈33 「不変な等価物の支配のもとでは商業は不可能であろう。」(G・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、1851年、66-69ページ。)「真実価値と交換価値との相違の根底には一つの事実がある--すなわち、ある物の価値は、商業でその物と引き換えに与えられるいわゆる等価とは違うものだということ、すなわちこの等価は等価ではないということがそれである。」(フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、95、96ページ。〔本全集、第1巻、508(原)べージを見よ。〕)〉

  これは〈しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば(33)、不可能なものとして現われ〉という本文につけらた原注です。
  この原注はオプダイクとエンゲルスからの引用で構成されています。オプダイクの述べていることはただ等価物どうしの交換では商業は不可能ということで、本文と同じ主旨の主張です。
  しかしエンゲルスの一文はいま一つ分かりにくいように思います。しかし本文解説の最後に紹介した『61-63草稿』の最後のあたりで同じようにオプダイクとエンゲルスの紹介がありました。その部分をもう一度紹介してみると次のようになります。

  〈もし諸等価物が交換されるならば、すなわち諸商品がその交換価値で売買されるならば、商業はおよそ不可能なものとして現われるにちがいない。「不変な等価物の支配のもとでは、商業は不可能であろう」(ジョージ・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、1851年、67ページ)。(だからこそエンゲルスは、似たような意味で、『独仏年誌』、パリ、1844年、『国民経済学批判大綱』において、交換価値と価格との相違を、諸商品がその価値で交換されるならば商業は不可能だ、ということから説明しようとしているのである。)〉

  つまりエンゲルスの先の一文は〈交換価値と価格との相違を、諸商品がその価値で交換されるならば商業は不可能だ、ということから説明し〉たものだというのです。先のエンゲルスの一文から(『大綱』の本文を読んでみても)そのように読み取ることはなかなか難しい感じがしますが、マルクスはそのように言っているのですから、そうしたものとして理解することにしましょう。なお付属資料の『国民経済学批判大綱』『61-63草稿』の部分も参照してください。

 エンゲルスについては説明は不要と思いますが、オプダイクについては『資本論辞典』から紹介しておきます。

  〈オプグイク George Opdyke (1805-1880)アメリカの企業家・政治家・経済学者.……奴隷廃止倫者として政界に入り,ニューヨーク市会議員,ニューヨーク市長等をつとめた.……マルクスのとりあつかいは,彼の議論の二,三を断片的にとりあげるにとどまっている.……『資本論』第1巻で"貨幣の資本への転化"を論ずるさい,G-W-G'の形態がもっとも純粋に現象する"本来的な商業資本"では"(価値増殖)は(流通部面の内部から説明しなければならないのに,一方そこに等価物の交換を前提したのでは,それが説明できないから)一見不可能にみえると説き,商業は等価交換の支配のもとでは不可能であるというオプダイクの説を引き合いにだしている(KI-172:青木2-310:岩波2-40-41). 〉(479-480頁)


◎原注34

【原注34】〈34 べンジャミン・フランクリン『著作集』、第2巻、スパークス編、『国民の富に関する検討されるべき諸見解』。〔376ページ。〕〉

 これは本文で引用されているものの典拠を示すだけのものです。
  フランクリンについては『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈フランクリン Benjamin Franklin (1708-1790) アメリカの政治家.ボストンに生まれ,はじめは出版業者・科学者.1757年からは政治家.外交官として活躍.アメリカ独立運動では大きな役割を演じ,1776年には独立宣言起草委員に任命され,1787年憲法制定会議では大小の州のあいだの利益調停のため努力した.またアメリカにおける啓蒙運動のもっとも署名な代表者として,著述家でもあった.生まれながらの自由主義者,功利主義者であり,典型的なアメリカ人であり,マルクスも,彼をブルジョア的生産諸関係が輸入されて急速に生長した新世界の人だと評価し,彼の"人間は道具をつくる動物だ"という言葉はヤンキー主義の特徴を示すものとした.マルタスは,彼が,ウィリアム・ペティ以後はじめて商品価値の本性が労働であることを意識的に明確にした人であり,"近代的な経済学の根本法則を定式化した"人と高く評価……『資本論』第1巻第4章では,彼の"戦争は盗奪であり,商業は詐取である"という言葉を引用して,それは,商品所有者間に寄生的に介在する商人の詐取的な性格を示すものとしている(KⅠ-171-172:青木2-310-311 ;岩波2-40-41)……以下略〉(540頁)

  ついでに『61-63草稿』からも紹介しておきます(そこに付けられているMEGA編集者の注解も参考のためにつけておきます)。

 問題のなかにある--課題の諸条件のなかにある--外見上の諸矛盾は、フランクリンをして次のように言わしめている。
  (1)「一国の富を増加させる方法は三つしかない。第一は、戦争によることであって、それは強奪である。第二は、商業によることであって、これは詐取である。そして第三は、農業によることであって、これこそが唯一の公正な方法である」(『ベンジャミン・フラングリン著作集』、スパークス篇、第2巻、『国民の富に関する諸見解の検討』)。

  (1)〔注解〕この引用は、「引用ノート」の48ページから採られている。使われた原典はおそらく、ベンジャミン・フランクリン『紙幣の性質と必要とについての小研究』、所収『フランクリン著作集』、ジェイリッド・スパークス編、第2巻、ボストン、1836年、376ページであろう。フランクリンの原文では次のようになっている。--「……最後に、一国民が富を獲得するには三つの方法しかないように思われる。第一は、戦争によることであって、ローマ人たちがしたように、被征服隣国民から略奪することである。これは強奪である。第二は、商業によることであって、これは一般に詐取である。第三は、農業によることであって、唯一の公正な方法である……。」〉 (草稿集④36頁)


◎第18パラグラフ(高利貸資本G-G'は商品交換からは説明できない)

【18】〈(イ)商業資本にあてはまることは、高利資本にはもっとよくあてはまる。(ロ)商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖された貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動によって、媒介されている。(ハ)高利資本では、形態G-W-G'が、無媒介の両極G-G'に、より多くの貨幣と交換される貨幣、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。(ニ)それだからアリストテレスも次のように言うのである。
(ホ)「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通にもとついていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとついていないで相互の詐取にもとついているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称」(τσκος 利子および生まれたもの)「もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかし、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれが最も反自然的なものである(35)。」〉

  (イ)(ロ) 古代の商業資本について今述べたことは、古代の高利資本にはもっとよくあてはまります。商業資本では、その両極、すなわち市場に投ぜられた貨幣と、市場から引きあげられる増殖された貨幣とは、少なくとも買いと売りとによって、流通の運動によって、媒介されています。

  本来の商業資本は、生産者のあいだにあって両方に寄生して、それらを詐取することによって利潤を得ると説明しましたが、このことは高利資本にはいっそうよく当てはまります。というのは商業資本の場合には、少なくとも仕入れた商品を遠隔地まで運び、それを販売して彼が投じた貨幣の何倍かのものを手に入れたのですが、だからそこには流通の運動が不可避に必要です。しかし高利資本にはこうしたものさえ無いので、その寄生性が際立っているからです。

  (ハ) 高利貸資本では、形態G-W-G'が、無媒介の両極G-G'に、より多くの貨幣と交換される貨幣に短縮されています。これは貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態なのです。

  高利資本では、本来の商業資本が純粋に示したG-W-G'の運動形態の両極が、何の媒介もないC-G'という両極だけの運動形態として示されます。しかしこれは貨幣の性質とは矛盾しています。少なくとも貨幣は流通のなかでその価値を増殖することなどできないからです。だから商品交換の立場からは説明不可能な形態なのです。

  (ニ)(ホ) だからアリストテレスも次のように言っています。「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通にもとついていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとついていないで相互の詐取にもとついているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称」(τσκος 利子および生まれたもの)「もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかし、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれが最も反自然的なものである。」

  だからアリストテレスも次のように言っているのです。
  「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通にもとついていて、当然非難される(というのは、それは自然にもとついていないで相互の詐取にもとついているからである)。それゆえ、高利が憎まれるのはまったく当然である。というのは、ここでは貨幣そのものが営利の源泉であって、それが発明された目的のために用いられるのではないからである。じっさい、貨幣は商品交換のために生じたのに、利子は貨幣をより多くの貨幣にするのである。その名称」(τσκος 利子および生まれたもの)「もここからきている。なぜならば、生まれたものは、生んだものに似ているからである。しかし、利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれが最も反自然的なものである。」

  アリストテレスの主張は引用なのでそのまま紹介しましたが、アリストテレスは、単純な商品流通W-G-Wを家政術とし、自然なものであり、貨幣の目的にかなったものだとしていますが、G-G'は自然にもとづかないで相互の詐取にもとづいているから、だから高利は、憎まれて当然であると述べています。

  アリストテレスの貨殖術と家政術については、すでに原注6で詳しく論じられましたので、そのときの付属資料も含めて、参考にしてください。

  ここでは高利資本について述べた『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈資本のもう一つの形態は、同様に非常に古いものであり、また通俗的な見解はこの形態から自分の資本概念をつくりあげたのであるが、それは利子を得るために貸し付け〔ausleihen〕られる貨幣の形態であり、利子生み貨幣資本の形態である。ここでわれわれが見るのは、貨幣がまず商品と交換され、ついでその商品がより多くの貨幣と交換されるという、運動G-W-Gではなく、運動の結果、すなわちG-Gだけである。貨幣はより多くの貨幣と交換される。それはその出発点に復帰するが、しかし増加する。それは最初は100ターレルであったが、いまではそれは11Oターレルである。それは--1OOターレルで表示された価値は--自己を維持し、そして自己を増殖した、すなわち1Oターレルの剰余価値を生んだ。社会の生産様式がいかに低いものであろうとも、またその経済的構造がいかに未発展であろうとも、われわれはほとんどすべての国々、歴史的時代に、利子生み貨幣を、貨幣を生む貨幣を、したがって形態の上では、資本を見いだすのである。この場合には、資本の一方の側面が、商人財産の場合よりもさらに表象に近づいてくる(ギリシア人のケパライオン〔という語〕も、その語源的生成からみれば、われわれの資本である。)その側面とは、価値それ自体が自己を増殖し、剰余価値を生むのは、それが価値として、自立的な価値(貨幣)として(流通にはいるから)、まえもってすでに存在しているからだということであり、また、価値が前提されていたがゆえにのみ価値が生みだされ、価値の維持と倍加とが生じるのだということ、価値が価値として、自己自身を増殖するものとして働くのだということである。〉 (草稿集④40頁)


◎原注35

【原注35】〈35 アリストテレス『政治学』、第1巻、第10章、〔17ぺージ〕。〔山本訳『政治学』、57ページ。〕〉

  これは本文で引用されているアリストテレスの一文の典拠を示すだけのものです。
  アリストテレスについて『資本論辞典』の説明の概要を紹介しておきましょう。

  〈アリストテレス Aristoteles(紀元前384-322)ギリシャの哲学者.……マルクスも,アリストテレスの名を尊敬の念をもって呼び(KI-64.88:青木1-151.186:岩波1-115.157),アリストテレスは"きわめて多くの思惟形態・社会形態および自然形態と同じように,価値形態をはじめて分析した"といい,彼が商品規定や貨幣規定へ深い洞見をしめしている点を称揚している.すなわち"5枚の褥=1軒の家" は ,"5枚の褥=若干の貨幣"と"区別されるところはない"というアリストテレスの命題について,"アリストテレスはまず第一に商品の貨幣形態は,簡単な価値形態の……さらに発展した姿態にすぎぬということを明白に述べ"ているとし,さらに価値表現と価値関係との関連について,アリストテレスが"交換は同等性なしにはありえないが,同等性は較量可能性なしにはありえない"とした点を高く評価している.そしてアリストテレスが価値形態のより以上の分析を断念し,価値実体としての同等な人間的労働の概念に達しえなかったことを,不等な奴隷労働を基礎としていたギリシャ社会の歴史的制約に帰している(KI-64-65:青木1-151-152:岩波1-116-117). 
  マルクスはさらに,アリストテレスが共同体間における貨幣の歴史的発生過程について正しい洞察をおこない(Kr-47:岩波56:国民48:選集補3-40:青木62),またW-G-WとG-W-G'との形態規定の区別を経済術(エコノミーク)と貨殖術(タレマティスティク)との対応としてとらえ(Kr-146:岩波119:国民110:選集補3-158;青木181),流通手段としての貨幣の規定と,蓄蔵貨幣ないし資本としての貨幣の規定とを区別した点を指摘し,要するに" アリストテレスは貨幣をばプラトンよりもはるかに多面的かつ深刻に理解していた"と評価している(Kr-123:岩波150:国民141:選集 補3-130:青木154. KⅠ-159-160:青木2-292-293:岩波2-18-19).〉(469頁)


◎第19パラグラフ(近代的な商業資本や利子生み資本は資本の派生的形態)

【19】〈(イ)商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。(ロ)また同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われるかということもわかるであろう。〉

  (イ)(ロ) 私たちは私たちの研究の終わりに、古代の商業資本や利子生み資本が派生的な形態として見るでしょう。そしてその時には、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われたかということもわかるでしょう。

  商業資本については、すでに指摘しましたが、『資本論』第3部第4篇で、利子生み資本は同第5篇で取り上げられています。しかし商業資本にしても、利子生み資本にしても、そこで基本的に取り上げられているのはその近代的なそれであって、それらの歴史的な形態はそれぞれの篇の最後の章(第20章、第36章)で問題にされているだけです。
  マルクスは『経済学批判要綱』序説のなかの「3 経済学の方法」で、次のように述べています。

  〈すべての社会形態にはある一定の生産があって、それがその他のすべての生産に順位と影響力とを指定し、したがってその生産の諸関係がまた他のすべての諸関係に順位と影響力とを指定するのである。それは一般的照明であって、その他のすべての色彩はそれにひたされて、それぞれの特殊性のままにに変色させられる。それは特殊的なエーテルであって、そのなかに浮き出てくるすべての定在の比重を決定する。〉 (草稿集①59頁)
  〈したがって経済学的諸範疇を、それらが歴史的に規定的な範疇であったその順序のとおりに並べるということは、実行できないことであろうし、また誤りであろう。むしろ、それらの序列は、それらが近代ブルジョア社会で相互にたいしてもっている関連によって規定されているのであって、この関連は、諸範疇の自然的序列として現われるものや、歴史的発展の順位に照応するものとは、ちょうど反対である。〉 (同61頁)

  つまり資本主義的生産様式の基礎的な資本形態は産業資本ですが、それが歴史的に勃興してくる過程で、それ以前の歴史において独立して存在していた商業資本や高利資本は、産業資本に従属させられ、その色に染められて、その体制の中に組み込まれて、編制のなかに位置づけられ、その派生的形態に貶められたのです。だから資本主義的生産様式のなかでの商業資本や利子生み資本は、産業資本の循環過程の一契機が自立化したものとして捉え直されています。そして商業資本の商業利潤や利子生み資本の利子は、産業資本が生産した利潤が分割されたものとして展開されているのです。


◎第20パラグラフ(流通外の生産でも、新価値を付加できるが自己増殖する価値ではない)

【20】〈(イ)これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない(36)。(ロ)しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるだろうか? (ハ)流通は、商品所持者たちのすべての相互関係(*)の総計である。(ニ)流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。(ホ)その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいるということに限られている。(ヘ)この労働の量は、彼の商品の価値量に表現される。(ト)そして、価値量は計算貨幣で表わされるのだから、かの労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現される。(チ)しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではない。(リ)すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない。(ヌ)商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。(ル)彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。(ヲ)同じ素材が今ではより多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。(ワ)それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値は元のままである。(カ)革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。(ヨ)つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。
  (*) 第三版および第四版では、商品関係、となっている。 〉

  (イ) これまでに明らかにしましたように、剰余価値は流通から発生することはできないのですから、それが形成されるには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならなりません。

  ここで〈それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない〉という部分はフランス語版では〈剰余価値の形成を可能にするなにものかが、流通の外部で起こらざるをえない〉となっています。

  これまでの私たちの考察の結論は、剰余価値は流通からは生まれないということでした。
だからそれが形成されるためには、流通を考察しているだけではまだ目にすることのできないような何事かが、流通の外部で起こっていなければならないことになります。

  (ロ)(ハ)(ニ) しかし、剰余価値は流通からでなければほかのどこから発生することができるのでしょうか? 流通は、商品所持者=生産者たちのすべての相互関係の総和です。流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけです。

  しかし流通から発生しないのであれば、剰余価値はほかのどこから発生することができるのでしょうか。商品流通というのは、そこに登場する商品所持者達がそこで互いに関係し合うそうした全体のことを意味します。〈各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。この総過程は商品流通として現われる〉(第1篇第3章、全集23a148頁)のです。
  しかしもしこの流通の外にでるとなると、商品の所持者は他のものとの関係ではなく、ただ彼自身の流通を通じて入手した商品か、あるいはこれから流通に出す予定の商品との関係にあるだけです。果たしてそこから剰余価値が生まれるのでしょうか?

  この文節の最後の部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈流通の外部では、交換者は、一定の社会法則にしたがって測られる自分自身の労働の若干量を含む自分の商品とだけ、いつまでも関係している。〉 (江夏・上杉訳151頁)

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ) 商品所持者が関係する商品の価値というのは、その商品に彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量が含んでいるということに限られています。この労働の量は、彼の商品の価値量として表現されています。そして、価値量は計算貨幣で表わされるのですから、その労働量は、たとえば10ポンド・スターリングというような価格に表現されます。しかし、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越えるある超過分とで表わされるのではありません。つまり、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではありません。商品所持者は彼の労働によって価値を形成することはできますが、しかし、自己増殖する価値を形成することはできません。

  この部分で〈すなわち、同時に、11という価格である10という価格で、それ自身よりも大きい一つの価値で、表わされるのではない〉という部分は少しややこしいところがありますが、フランス語版では次のようになっています。

  〈この労働は生産物の価値のうちに表現されるが、この価値は計算貨幣で表現されるから、この労働は10ポンド・スターリングという価格で表現されることになる。しかし、この労働は、生産物の価値とこの価値の超過分とのうちに、同時に11ポンド・スターリングの価格でもある、すなわち、この価値自身よりも大きい価値でもある10ポンド・スターリングの価格のうちに、実現されるわけではない。生産者は確かに、自分の労働によって価値を創造することができるが、自分自身の力で増加するような価値を少しも創造することはできない。〉 (江夏・上杉訳151-152頁)

  フランス語版でもそれほど分かりやすいとは言えませんが、要するにマルクスがいわんとすることは次のようなことではないでしょうか。
 流通から離れた商品所持者はただ自分の商品と関係するのみですが、しかしこの流通の外の商品所持者と商品との関係のなかで、では剰余価値が生まれうるのか、という問題です。商品所持者が関係する商品というのは、その商品に彼自身の労働の一定量が社会的法則にもとづいて支出されているということだけです。この労働の量は、例えば10ポンドという価格に表現されますが、しかしその労働量の価格表現のなかに何かその価値を増殖する秘密があるわけではありません。10ポンドの価格が、同時に11ポンドという超過分を加えた増殖された価格として表現されるわけではないのです。つまり流通の外部でもやはり剰余価値の形成をみることはできない、というのがマルクスが言いたいことと思います。

  (ル)(ヲ)(ワ)(カ)(ヨ) 彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってです。たとえば革で長靴をつくる場合のように。この場合は、同じ素材が今ではより多くの価値をもちます。というのはそれがより大きな労働量を含んでいるからです。だから、長靴は革よりも多くの価値をもっていますが、しかし革の価値は元のままです。革は自分の価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではありません。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのです。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈生産者は確かに、自分の労働によって価値を創造することができるが、自分自身の力で増加するような価値を少しも創造することはできない。彼は、新たな労働によって新たな価値を現存の価値につけ加えることによって、たとえば皮で長靴を作ることによって、商品の価値を高めることができる。同じ素材がいまでは、より多くの労働を吸収したために、より多くの価値をもっている。長靴は皮よりも多くの価値をもっているが、皮の価値は元のままであって、長靴の製造中に剰余価値を少しもつけ加えなかった。したがって、流通の外部で生産者=交換者が、別の交換者と接触することなしに価値を増殖しうること、すなわち、剰余価値を産む特性を価値に伝えうることは、全く不可能であると思われる。ところが、このことなしには、彼の貨幣または商品が資本に転化されることはない。〉  (江夏・上杉訳152頁)

  彼が流通の外で対峙する商品の価値を高めうるのは、現にある商品の価値に新たな労働によって価値を付加することによってのみです。例えば革で長靴を作る場合、長靴は革が持っていたよりも多くの価値を含んでいます。しかし革の価値そのものは、長靴製造過程においてもやはり同じままであって、革そのものがその過程で剰余価値を身につけたわけではないのです。だから、革商品の所持者が、長靴の生産者とは関係なしに、その革の価値を増殖し、剰余価値を生み出すこと、だからまた貨幣や商品を資本に転化することは不可能なのです。

  『61-63草稿』には次のような一文があります。

  〈あるいはもしかして、次のように言いたいのだとすれば、--すなわち、貨幣所有者は商品を買うが、彼はこれを加工し、生産的に充用し、こうしてそれに価値を付加し、それからふたたび売るのだ、と言いたいのだとすれば、この場合には剰余価値は、完全に彼の労働から発生することになるであろう。この場合には、価値そのものは働かなかったであろうし、自己を増殖することもなかったであろう。彼がより多くの価値を受け取るのは、彼が価値をもっているからではない。そうではなくて、労働の追加によって価値が増加したのである。〉  (草稿集④34-35頁)


◎原注36

【原注36】〈36 「市場の通常の状況のもとでは、利潤は交換によっては得られない。もしそれがこの取引より前になかったとすれば、そのあとにもありえないであろう。」(ラムジ『富の分配に関する一論』、184ページ。)〉

  これは〈これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない(36)〉という本文につけられた原注です。内容については特に解説する必要はないでしょう。
  ラムジについては、すでに原注28にも出てきましたので、その解説の中で『資本論辞典』の説明を紹介しています。


◎第21パラグラフ(資本は流通から発生するわけにもいかないし、発生しないわけにもいかない)

【21】〈(イ)つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。(ロ)資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。〉

  (イ)(ロ) 結局、結論として言えることは、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのです。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのです。

  このパラグラフはフランス語版では無くなっています。ここで文節(イ)と(ロ)は同じことを言い換えているだけに思えますが、この言い換えには何か意味があるのでしょうか。このパラグラフだけでは、なかなか分かりずらいところがありますが、その説明は次のパラグラフで行われています。

  因みに『61-63草稿』には次のような一文があります。

 〈剰余価値、あるいは価値の自己増殖は、交換から、流通からは、発生しえないのである。他方では、それ自身が価値を生みだす価値は、ただ、交換の、流通の一産物でしかありえない。というのは、価値が交換価値として働くことができるのは、ただ交換のなかにおいてでしかないからである。〉  (草稿集④34頁)

  こちらの方がまだしも分かりやすい気がします。要するにこのパラグラフは「一般的表式の諸矛盾」(第2節の表題)を簡潔に表したものといえるでしょう。
  矛盾というのは「AはAであってAでない」と表現できますが、これは例えばAが運動しているとき、それはある瞬間には確かにAなのですが、次の瞬間にはすでにAではなく、別の場所にあるAになっています。つまり運動するAを規定した場合、それは矛盾したものとして表すしかないのです。同じように貨幣が資本へ移行する過程を説明するとき、それは矛盾したものとして現れてきますが、その諸矛盾の展開を私たちはこれまで見てきたのです。それをこのパラグラフでは総括的に簡潔に言い表しているといえます。しかしこうしたある意味では哲学的な、あるいは衒学的な表現はフランス語版では避けられたと考えられます。


◎第22パラグラフ(資本の一般的定式の矛盾、等価物の交換と剰余価値の形成を同時に説明せよ)

【22】〈(イ)こうして、二重の結果が生じた。
(ロ)貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる(37)。(ハ)いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。(ニ)彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。(ホ)これが問題の条件である。(ヘ)ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!〔Hic Rhodus,hic salta!〕〉

  (イ)(ロ)(ハ) こうして、私たちは二様の結果に到達したわけです。貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきです。だから等価物どうしの交換が当然出発点とみなされるわけです。つまり、いまのところまだ資本家に生まれつつあるわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならないのです。

  このパラグラフはその前のパラグラフで簡潔に言い表されたものを説明しているといえます。
  ここで〈二重の結果〉というのは、いうまでもなく、その一つは貨幣の資本への転化は商品流通において行われなければならないというものであり、もう一つの結果、商品流通の等価交換を前提しては、剰余価値は生まれないということです。この矛盾した二つの結果に私たちは到達したということです。
  しかし資本の運動というのは、単純流通をその運動の表面に不可欠の契機として持っています。資本の運動のさらに深い関係は、しかし流通からは隠されています。しかし資本はかならずブルジョア社会の表層にある流通を経過せずして、自己の資本の増殖を図ることはできないのです。資本はかならずその生産に必要な諸条件を商品流通を媒介して手に入れる必要があり、さらに生産した商品を流通を媒介して実現して、増殖した価値を手に入れ、資本の資本としての実を示す必要があるからです。私たちはまだこうした資本の運動の本当の姿を知らず、ただ流通に出ているものだけを対象にしています。だからそこでは単純流通の諸法則(=等価交換)に則って行われながら、なおかつ価値を増殖するという矛盾したものとして現れているのです。
  だから資本は単純流通ではその法則に則って、商品を価値どおりに購買し、価値どおりに販売するのですが、しかし過程の終わりには、自分が最初に投げ入れたもの(これは生産に必要な諸条件の購入のために投げ入れた貨幣です)より多くの価値(これは彼が生産した商品の価値を実現したもので、すでにそこには剰余価値が存在しています)を流通から引き出さねばならないのです。

  (ニ) つまり、彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならないのです。

  だから彼が資本家になるためには、やはり流通部面で行われるのです。実際、歴史的にも商品流通の発展が資本主義的生産の前提になっています。しかし単純流通の部面では、決して剰余価値は形成されないのですから、流通部面に止まっているだけでは資本家にはなれないのです。

  (ホ)(ヘ) これが問題の条件です。ここがロドスだ、さあ跳んでみなさい!

  この難問が、資本を解明する条件なのです。これを解くことが必要です。さあ、この手品を解けるものなら解いてみよ、とマルクスは挑発しているわけです。

  〈ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!〔Hic Rhodus,hic salta!〕〉というのは、イソップの寓話から取られたもののようです。全集版の注には〈イソップの寓話からとったもので、その話のなかでは、一人のほら吹きが自分はロドス島で非常に大きく跳んだことがあると言い張った。そこで、彼はこう言い返された。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ! と。〉。また新日本新書版の訳者注には〈アイソーポス『寓話』ハルム版、203行。山本光雄訳『イソップ寓話集』岩波文庫、54ページ。ロドス島で大跳躍をしたというだぼら吹きにたいして、それではここで跳んでみろ、と人々が言ったという寓話から〉とあります。

  またヘーゲルも『法の哲学』の序文なかで次のように使っています。

  〈そこで実際、本稿は、国家を一つのそれ自身のうちで理性的なものとして概念において把握し、かつあらわそうとするこころみよりほかのなにものでもないものとする。それは哲学的な著作として、あるべき国家を構想するなどという了見からは最も遠いものであらざるをえない。そのなかに存しうる教えは、国家がいかにあるべきかを国家に教えることをめざしているわけはなく、むしろ、国家という倫理的宇宙が、いかに認識されるべきかを教えることをめざしている。
  〔ここがロドスだここで跳べ
  存在するところのものを概念において把握するのが、哲学の課題である。というのは、存在するところのものは理性だからである。個人にかんしていえば、だれでももともとその時代の息子であるが、哲学もまた、その時代を思想のうちにとらえたものである。なんらかの哲学がその現在の世界を越え出るのだと思うのは、ある個人がその時代を跳び越し、ロドス島を跳び越えて外へ出るのだと妄想するのとまっく同様におろかである。その個人の理論が実際にその時代を越え出るとすれば、そして彼が一つのあるべき世界をしつらえるとすれば、このあるべき世界はなるほど存在してはいるけれども、たんに彼が思うことのなかにでしかない。つまりそれは、どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域のうちにしか存在していない。
  さっきの慣用句は少し変えればこう聞こえるであろう--
  これがローズ(薔薇)だ、ここで踊れ。
  自覚した精神としての理性と、現に存在している現実としての理性とのあいだにあるもの--まえのほうの理性をあとのほうの理性とわかち、後者のうちに満足を見いださせないものは、まだ概念にまで解放されていない抽象的なものの枷(カセ)である。〉(『世界の名著』第35巻170-172頁)

  ここでマルクスが突きつけた謎について、後に第3篇第5章第2節「価値増殖過程」のなかでマルクスは次のようにそれが解明されたことを述べています。

  〈こうして、27シリング30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。
  問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されてはいない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生みだした。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くも安くもなく、売る。それでも、彼は、初めに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない、流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである。こうして、「最善の世界では万事が最善の状態にある」のである。〉  (全集23a255頁)


◎原注37

【原注37】〈37 (イ)以上の説明によって、読者は、ここでは、ただ、資本形成は商品価格が商品価値に等しい場合にも可能でなければならないということが言われているだけだということを、理解するであろう。(ロ)資本形成は、商品価値からの商品価格の偏差によって説明することはできない。(ハ)価格が価値から現実にずれているならば、まず価格を価値に還元して、すなわちこのような状態を偶然なものとして無視して、商品交換を基礎とする資本形成の現象を純粋な姿で眼前におき、その考察にさいしては本来の過程には関係のない撹乱的な付随的な事情に惑わされないようにしなければならない。(ニ)なお、言うまでもなく、この還元はけっして単なる科学的な手続きではない。(ホ)市場価格の絶え間ない振動、その上昇と低下は、互いに償い合い、相殺されて、おのずからその内的基準としての平均価格に還元されるのである。(ヘ)この基準は、たとえば、いくらか長い期間にわたるすべての企業で商人や産業家の導きの星となる。(ト)つまり、彼は、いくらか長い期間を全体として見れば、商品は現実にはその平均価格よりも安くも高くもなくその平均価格で売られるということを知っているのである。(チ)だから、かりに、利害関係を離れた考え方こそがおよそ彼の関心事なのだとすれば、彼は自分にたいして資本形成の問題を次のように提起しなければならないであろう。(リ)平均価格によって、すなわち結局は商品の価値によって、価格が規制される場合に、どのようにして資本は発生することができるのか? と。(ヌ)私が「結局は」と言うのは、平均価格はA・スミスやリカードなどが考えるように直接に商品の価値量と一致するものではないからである。〉

  (イ)(ロ) 以上の説明によって、読者は、ここでは、ただ、資本の形成は商品価格が商品価値に等しい場合にも可能でなければならないということが言われているだけだということを、理解されたでしょう。資本の形成は、商品価値からの商品価格の偏差によって説明することはできないということをまず確認すべきです。

  私たちはわけの分からない特権で商品をその価値よりも高く売ったり、安く買ったりしても、あるいは狡賢く相手から詐取しても、何もそこからは剰余価値は形成されないことを確認しましたが、これは資本の形成は商品の価格がその価値に等しい前提の元で可能でなければならないということを述べているわけです。剰余価値の形成、ゆえに資本の形成は、商品の価値からの価格の偏差によって説明することはできないのです。まずその確認が必要です。

  (ハ) だからもし価格が価値から現実にずれているのであれば、まず価格を価値に還元して、すなわちそのようなずれは偶然的なものとして無視して、商品交換を基礎とする資本形成の現象を純粋な姿で眼前におき、その考察にさいしては本来の過程には関係のない撹乱的な付随的な事情に惑わされないようにしなければならないのです。

  だから商品市場の現実を持ち出して、現実には価格が価値からずれているではないか、というのであれば、私たちはその価格をまず価値に還元して、そうしたずれは偶然的なものとして無視して、商品交換の純粋な姿のもとに、資本の形成を論じなければなりません。だからそのためには、本来の過程には関係のない攪乱的な付随的な事情には惑わされないようにしなければならないのです。

  (ニ)(ホ) 言うまでもありませんが、こうした還元はけっして単なる科学的な手続きだけではありません。現実の市場価格の絶え間ない振動、その上昇と低下は、互いに償い合い、相殺されて、おのずからその内的基準としての平均価格に還元されるのです。

  こうした還元は、単に科学的な手続きというだけのものではありません。現実の過程が、常にこうした還元を行っているのです。確かに現実の商品市場では、商品の価格は絶え間なく変動しています。しかしその変動の上昇と低下は、互いに打ち消し合い、相殺されて、おのずからその内的な基準としての平均価格に還元されるのです。

  (ヘ)(ト) この内的基準としての平均価格は、たとえば、いくらか長い期間にわたるすべての企業で商人や産業家の導きの星となります。つまり、彼は、いくらか長い期間を全体として見れば、商品は現実にはその平均価格よりも安くも高くもなくその平均価格で売られるということを知っているのです。

  この内的基準としての平均価格は、企業や商人や資本家などの目標になるものです。彼は、いくらか長い期間を通して全体としてみれば、商品は現実にはその平均価格で売られることを知っているのです。

  (チ)(リ) だから、もしかりに、資本家が彼の利害関係を離れて考えることを好ましく思うならば、彼は自分にたいして資本形成の問題を次のように提起しなければならないでしょう。価格が平均価格によって、すなわち究極には商品の価値によって規制されるならば、どのようにして資本は発生することができるのか? と。

  〈だから、かりに、利害関係を離れた考え方こそがおよそ彼の関心事なのだとすれば、彼は自分にたいして資本形成の問題を次のように提起しなければならないであろう〉という部分はフランス語版では〈産業家は、はっきり見ぬくことを望ましく思うならば、問題を次のように提起すべきであろう〉となっています。

  だからブルジョア達でも彼らの利害を越えて問題を率直に見ようとするなら、彼は次のように問題を立てる必要があります。すなわち、価格が平均価格によって、だから究極的にはその価値によって規制されるならば、どうして貨幣は資本に転化しうるか、と。

  (ヌ) 私が「究極には」と言うのは、平均価格はA・スミスやリカードなどが考えるように直接に商品の価値量と一致するものではないからです。

  私がここで「究極的には」というのは、平均価格(生産価格)は、スミスやリカードなどが考えるように、直接には商品の価値量と一致しないからです。

  ここでマルクスが〈平均価格〉と述べているのは、『資本論』第3部第2篇で問題になる「生産価格」のことです。マルクスは『61-63草稿』の段階では、生産価格のことを「平均価格」と述べていました。生産価格は価値を前提にして理論的に説明することが出来るのです。諸資本の競争によって一般的利潤率が形成され、商品の平均価格が生産価格になると、商品の市場価格は価値を基準にではなく、生産価格を基準にして変動するようになります。だから一部(資本の有機的構成が平均的な部門)を除いて商品の価格は、価値から恒常的に乖離することになるのです。しかしこうした偏差は究極的には価値法則によって規制されており、ある段階では、その偏差を恐慌によって強力的・暴力的に是正するために価値法則が自己を貫徹することになるのです。


  (付属資料は、以下に掲載します。)

 

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(6)

2021-12-17 02:11:30 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(6)

 

【付属資料】


●第1パラグラフ

《初版》

 〈貨幣が繭(マユ)から出て資本になるばあいの流通形態は、商品なり価値なり貨幣なり流通そのものなりの性質についての既述のあらゆる法則に、矛盾している。この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの対立的過程である販売と購買との順序が転倒されていることである。では、こういった純粋に形態的な区別が、どうして、これらの過程の性質を魔術のように変えざるをえないのか?〉(江夏訳155-156頁)

《フランス語版》

 〈貨幣が資本に変態するのに通過するところの流通形態は、商品、価値、貨幣、および流通自体の性質についてこれまでに詳述したすべての法則に矛盾する。資本の流通を単純な流通から区別するものは、販売と購買という同じ二つの対立する段階の順を追って現われる順序が逆になるということである。順序が逆になるという単に形態上の差異であるのにすぎないのに、販売と購買という二つの現象の性質がこれほど不思議に変わりうるのは、何故だろうか?〉(江夏・上杉訳141頁)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈それだけではない。この顛倒は、相互に取引する三人の取引仲間の一人にとってだけ、存在している。私は、ただの商品所持者としては、商品をBに売り次いで商品をAから買うが、資本家としては、商品をAから買ってそれをまたBに売る。取引仲間のAやBにとっては、こういった区別は存在しない。彼らは、商品の買い手または売り手としてのみ登場する。私自身は、彼らにはそのつど、ただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対しており、私はしかも、確かに、どちらの順序においても、一方の人には買い手としてのみ他方の人には売り手としてのみ、一方には貨幣としてのみ他方には商品としてのみ、相対しているのであって、どちらの人にも、資本または資本家あるいは代表者--貨幣や商品以上のなにものかを、すなわち、貨幣や商品の作用以外の作用をなしうるなにものかを、代表する者--として、相対しているわけではない。私にとっては、Aからの購買とBへの販売とが一つの順序を成している。ところが、この二つの行為のあいだの関連は、私にとってのみ存在している。Aは、私とBとの取引にかかわりがないし、Bは、私とAとの取引にかかわりがない。もし私が、順序を顛倒することによって私がたてる特別の手柄を説明しようとでもすれば、彼らは私に、私が順序そのものをまちがえているということ、この取引全体が購買で始まって販売で終わったのではなく、逆に販売で始まって購買で終わったということ、を証明するであろう。じっさい、私の第一の行為である購買は、Aの立場からは販売であったし、私の第二の行為である販売は、Bの立場からは購買であった。AとBは、これには満足せず、順序全体がよけいでごまかしであった、と言うであろう。Aはその商品をBに直接に売るであろうし、BはそれをAから直接に買うであろう。こうすることによって、取引全体が、通例の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる販売になり、Bの立場からは単なる購買になる。だから、われわれは、順序を顛倒したからといって単純な商品流通の部面からぬけ出ているわけではなく、むしろ、単純な商品流通が、その本性上、そこにはいってくる価値の増殖したがって剰余価値の形成を許すかどうか、ということを注意深く見守らなければならない。〉(江夏訳156-157頁)

《フランス語版》

 〈そればかりではない。互いに補足しあう段階の逆転は、ともに取引する三人の「取引仲間」のうちの一人にとってのみ、存在する。私は資本家としては、ある商品をAから買ってそれをBに売るのに対し、私は単なる交換者としては、商品をBに売ってそれをAから買う。AとBとはこのばあい区別がない。彼らは買い手または売り手として機能するだけである。私自身は彼らにたいして単なる貨幣所有者もしくは単なる商品所有者であり、実を言えば、二つの取引系列で私はいつも、一方の人には買い手として、他方の人には売り手として、前者には貨幣として、後者には商品として、相対する。両者のどちらにたいしても、私は資本でも資本家でもないし、商品または貨幣以上のなにものかの代表者でもない。私からみれば、Aからの購買とBへの販売は一つの系列を構成するが、これらの項の関連は私にとってしか存在しない。Aは私のBとの取引を少しも気にかけないし、Bも私のAとの取引を少しも気にかけない。私が彼らに、私が諸項の順序の転倒によって得た特別の功績を証明しようと企てれば、彼らは私に、私が順序そのものを間違えているということ、取引全体は購買で始まり販売で終わったのではなくこれとは全く逆であるということ、を証明するであろう。実際、私の第一の行為である購買は、Aからみれば販売であり、私の第二の行為である販売は、Bからみれば購買であった。AとBはこれに満足せず、この取引全体が一つの見せかけでしかなかったとついには言明するであろうし、その後は、前者は後者に直接売り、後者は前者から直接買うであろう。そのばあい、取引全体は単一の通常の流通行為、Aからみれば単なる販売、Bからみれば単なる購買、に縮められる。したがって、取引段階の順を追って現われる順序を転倒することによって、われわれは商品流通の部面をとび越えたわけではないのであって、商品流通が本来、そこに入りこむ価値の増加すなわち剰余価値の形成を許すものかどうか、について考察することが、われわれには当然残されている。〉(江夏・上杉訳頁)


●第3パラグラフ

《61-63草稿》

 〈商品の単なる使用価値が考察されるかぎりでは、明らかに、交換によって当事者の双方が得をする〔gewinnen〕ことができる。この意味では、「交換は、双方がもっぱら得をする取引だ」、と言うことができる。(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第4部および第5部。意志および意志作用論』、パリ、1826年、68ページ。そこでは次のように言われている、--「交換は、二人の当事者の双方がいつでも得をする、すばらしい取引である」。)全流通が商品と商品とを交換するための媒介運動にすぎないかぎり、各人は自分が使用価値として必要としない商品を譲渡して、自分が使用価値として必要とする商品を取得する。つまり双方がこの過程で得をするのであって、彼らの双方がここで得をするからこそ、彼らはこの過程を成立させるのである。そればかりではない。鉄を売って純物を買うAは、あるいは、ある所与の労働時間で、穀物耕作者Bが同じ時間に生産できるのよりも多くの鉄を生産し、またBのほうも、Aが同じ労働時間に生産できるのよりも多くの穀物を生産するかもしれない。つまり交換によって--それが貨幣によって媒介されようとされまいと--、交換が行なわれなかったとした場合よりも、同じ交換価値でAはより多くの穀物を、同じ交換価値でBはより多くの鉄を手に入れるのである。つまり、鉄と穀物という使用価値が考察されるかぎり、双方が交換によって得をするのである。また購買と販売という二つの流通行為のそれぞれを独立に考察しても、使用価値が考察されるかぎりは、どちらの側も得をする。自分の商品を貨幣に転化する売り手は、商品をいまはじめて、一般的に交換可能な形態でもつのであり、またこうしてはじめて、彼の商品が彼にとっての一般的交換手段になる、ということによって得をする。自分の貨幣を商品に再転化する買い手は、貨幣を、ただ流通のために必要とするだけでそれ以外には役に立たないこの形態から、自分にとっての使用価値に置き換えた、ということによって得をする。要するに、使用価値が問題であるかぎりは、交換のさいに両方の側のそれぞれが得をする、ということを理解するには、まったくなんの困難もないのである。〉(草稿集④25-26頁)
 〈ところが、交換価値については事情はまったく違う。この場合には反対に次のように言われている、--「平等のあるところに、利得はない」(フェルディナシド・ガロアーニ『貨幣について』、グストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、18O3年、244ページ)。AとBとが等価物を交換するとすれば、すなわち同じ大きさの量の交換価値あるいは対象化された労働時間を交換するとすれば、AとBとは、貨幣の形態であると商品の形態であるとを問わず、交換に投入したのと同じ交換価値をそこから引き出す、ということは明らかである。Aが自分の商品をその価値で売るならば、彼はいまや、彼がまえに商品の形態でもっていたのと同じ量の対象化された労働を、つまり同じ交換価値を、貨幣の形態で(あるいは--実際的には彼にとって同じことであるが--同じ量の対象化された労働にたいする指図証券の形態で)もっているのである。これとは逆に自分の貨幣で商品を買ったBについても、同様である。彼はいまでは、彼がまえに貨幣の形態でもっていたのと同じ交換価値を、商品の形態でもっている。二つの交換価値の合計は相変わらず同じであり、双方のそれぞれがもつ交換価値も同様である。〉(草稿集④26-27頁)

《初版》

 〈流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にあるばあいを、とりあげてみよう。二人の商品所持者が、互いに商品を買いあって、相互の貨幣請求権の残高を支払日に決済するというばあいが、つねにそれである。貨幣はこのばあい、計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役立っているが、商品そのものに、物として相対しているわけではない。使用価値にかんするかぎり、明らかに、交換者は双方とも、このばあい得することができる。双方とも、自分たちに使用価値としては無用な商品を譲渡して、自分たちが使用のために必要とする商品を手に入れる。しかも、こういった利益が唯一の利益ではないであろう。葡萄酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀物栽培者Bが同じ労働時間内に生産しうるよりも多くの葡萄酒を生産するであろうし、穀物栽培者Bは同じ労働時間内に、葡萄栽培者が生産しうるよりも多くの穀物を生産するであろう。したがって、これら二人の各人が、交換せずに、自分自身で葡萄酒や穀物を生産しなければならないばあいに比べて、同じ交換価値と引き換えに、Aはいっそう多くの穀物を手に入れ、Bはいっそう多くの葡萄酒を手に入れる。だから、使用価値にかんしては、「交換は、双方が得をする取引である(14)」、と言ってかまわない。交換価値はそうではない。「葡萄酒はたくさんもっているが穀物は全くもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているが葡萄酒は全くもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで、この交換は、一方にとっても他方にとって5Oの価値の小麦が、5Oの価値の葡萄酒と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、なんら交換価値の増加にはならない。なぜなら、各人とも、交換の前にすでに、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をもっていたからである(15)。」貨幣が流通手段として商品と商品のあいだにはいり、購買ならびに販売という行為が知覚しうるように別れても、自体は何ら変わらない(16)。商品の価値は、その商品が流通にはいる前にその商品の価格で表わされており、したがって、流通の前提であって結果ではない(17)。〉(江夏訳157-158頁)

《フランス語版》

 〈われわれは流通現象を、それが単なる商品交換として現われる形態においてとりあげてみよう。このことは、二人の生産者=交換者がお互いに買いあって彼らの相互の信用が支払期日に相殺されるたびに、生ずる。貨幣はそのばあい、商品の価値をその価格によって表現するために、計算貨幣として観念的にしか入りこまない。使用価値が問題となるかぎり、これらの交換者たちが双方とも得をすることができるのは、明らかである。双方とも、自分たちにはなんら有用でもない生産物を譲渡して、自分たちの必要とする他の生産物を獲得する。その上、葡萄酒を売って小麦を買うAは、おそらく、Bが同じ労働時間内に生産しうるよりも多くの葡萄酒を生産するであろうし、Bは同じ労働時間内に、Aが生産しうるよりも多くの小麦を生産するであろう。したがって、両者のおのおのが交換なしで、自分自身のためにこの二つの消費物を生産せざるをえないばあいに此べ、Aは同じ交換価値と引き換えにより多くの小麦を獲得し、Bはより多くの葡萄酒を獲得する。したがって、使用価値が問題であれば、「交換とは、双方の側で得をする取引である(1)」、と言うことが許される。交換価値については、もはやこれと同じでない。「葡萄酒はたくさんもっているが小麦はほとんどもっていない一人の男が、小麦はたくさんもっているが葡萄酒は少しももっていない別の男と取引する。彼らのあいだで、50の価値の小麦と50の価値の葡萄酒との交換が行なわれる。この交換はどちらにとっても富の増加ではない。彼らはめいめい、この手段によそ得た価値に等しい価値を、交換以前にもっていたからである(2)」。貨幣が流通手段として商品間の媒介者の役目を果たし、販売行為と購買行為がこのように分離されても、このことで問題が変わるわけではない(3)。価値は、商品が流通に入りこむ以前に商品の価格で表現されているのであり、流通の結果そうなるのではない(4)。〉(江夏・上杉訳142-143頁)


●原注14

《初版》

 〈(14)「交換は、二人の契約当事者がつねに(!)得をする感嘆すべき取引である。」(デステュツト・ド・トラシ『意志および意志作用論、パリ、1826年』、68ページ。)この本はのちに、『経済学概論』という題名で刊行された。〉(江夏訳158頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「交換とは、二人の契約当事者がつねに(!)得をする感嘆すべき取引である」(デステユット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、パリ、1826年、68ページ)。この本は後に、『経済学概論』という題名で刊行された。〉(江夏・上杉訳143頁)


●原注15

《初版》

 〈(15)メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、544ページ。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈(2) メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、544ページ。〉(江夏・上杉訳143頁)


●原注16

《初版》

 〈(16)「これら二つの価値の一方が貨幣であるか、または双方とも普通の商品であるか、これほどそれ自体どうでもよいことはない。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、同前、543ページ。)〉(江夏訳158頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「これら二つの価値の一方が貨幣であるか、あるいは双方とも普通の商品であるか、これほどそれ自体どうでもよいことはない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、同前、543ページ)。〉(江夏・上杉訳143頁)


●原注17

《初版》

 〈(17)「価値について判断を下すのは、契約当事者ではない。価値は約定以前に決定されている」(ル・トローヌ、前掲書、906ページ。)〉(江夏訳158頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「価値について判断を下すのは、契約当事者ではない。価値は約定以前に決定されている」(ル・トローヌ、前掲書、906ページ)。〉(江夏・上杉訳143頁)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値で置き換えられるということを除くと、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、商品の単なる形態変換、のほかにはなにもない。同じ交換価値、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、この所持者の商品の姿で、この商品が転化する貨幣の姿で、この貨幣が再転化する商品の姿で、という具合に、かわるがわるとどまっている。この形態変換は、価値量の変化を全く含んでいない。だが、商品の交換価値そのものがこの過程で経験する変転は、この交換価値の貨幣形態の変転にかぎられている。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはこの価格のうちに表現されている同じ貨幣量として、最後にはある等価商品の価格として、存在している。この形態変換がそれ自体として価値量の変化を含んでいないことは、ちょうど、五ポンド券をソブリン貨や半ソブリン貨やシリング貨と両替えするようなものである。したがって、商品の流通は、それが商品の交換価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、すなわち、現象が純粋に進行するならば、等価物と等価物との交換をひき起こす。だから、価値がなんであるかにはほとんど感づいていない俗流経済学でさえ、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするたびごとに、需要と供給が一致するということ、すなわち、それらの作用が一般的には停止するということ、を前提にしている。したがって、使用価値にかんして双方の交換者が得をすることがありえても、双方とも交換価値で得をすることはありえない。このばあいには、むしろ、「同等であるばあいには利得がない(18)。」ということになる。もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、こういったずれは、商品+交換の法則を侵害するものとして現われている(19)。商品交換は、その純粋な姿では、等価物同士の交換であり、したがって、価値を増殖するための手段ではけっしてない(20)。〉(江夏訳158-159頁)

《フランス語版》

 〈流通の内在的法則からはけっして出てこないような偶然的な事情を無視すれば、ここでは、ある有用生産物が他の有用生産物によって置き換えられることを除くと、商品の変態、すなわち商品の単なる形態変換以外には、なにも生じない。同じ価値、すなわち、同量の実現された社会的労働が、同じ交換者の手中に相変わらずとどまっている。たとえ彼がこの価値を順々に、彼自身の生産物の形態で、貨幣の形態で、そしてまた他人の生産物の形態で、保持するにしても、そうなのである。この形態変換は、価値量の変化をなんらもたらさない。商品の価値が経験する唯一の変転は、その貨幣形態の変転に限られている。この貨幣形態は、最初は販売に供された商品の価格として、次はこの価格に表現された同じ貨幣額として、最後は等価商品の価格として、現われる。100フラン券と4枚のルイ金貨や4枚の100スー貨との両替が価値量に影響しないのと同じように、この形態変化も価値量に影響しない。ところで、流通は商品の価値にかんしては形態変化しか含んでいないから、流通からは等価物の交換しか生ずることができない。それゆえに、俗流経済学さえも、現象をその完全な姿で研究しようとするたびごとに、需要と供給とは均衡する、すなわち、価値にたいする需要と供給との作用はゼロである、といつでも前提しているのだ。したがって、使用価値について二人の交換者が得をすることがありえても、交換価値について双方とも得をすることはありえない。ここでは逆に、「相等しければ利益がない(5)」という言いまわしが用いられる。確かに商品は、その価値から離反する価格で売られることがありうるが、この離反は交換法則の侵害として現われる(6)。商品交換は、その正常な形態では、等価物の交換であり、したがって、利益を得る手段ではありえない(7)。〉(江夏・上杉訳143-144頁)


●原注18

《初版》

 〈(18)"Dove è eguaglità,non è lucro"(ガリアーニ『貨幣について』、タストディ編、近世篇、第4巻、244ページ。)〉(江夏訳159頁)

《フランス語版》

 〈(5)"Dove è eguaglità,non è lucro"(ガリアーニ『貨幣について』、クストディ編、近世の部、第4巻、244ぺージ)。〉(江夏・上杉訳144頁)


●原注19

《初版》

 〈(19)「ある外的な物が、価格を下げるかまたは上げるばあいには、交換は、両当事者の一方にとって不利になる。そのばあい同等性は侵害されるが、侵害は右の原因から生ずるのであって、交換から生ずるのではない。」(ル・トローヌ、前掲書、904ページ。)〉(江夏訳159頁)

《フランス語版》

 〈(6)「ある外的なものが価格を下げるかまたは上げるばあいには、交換は当事者の一方にとって不利になる。そのばあい同等性は侵書されるが、侵害はこの原因から生ずるのであって、交換から生ずるのではない」(ル・トローヌ、前掲書、904ページ)。〉(江夏・上杉訳144頁)


●原注20

《初版》

 〈(2O) 「交換は本来、等価値のあいだで行なわれる対等の契約である。したがって交換は致富の手段ではない。というのは、人は、受け取るものと同じだけのものを与えるから。」(ル・トローヌ、同前、903ページ。)〉(江夏訳159頁)

《フランス語版》

 〈(7)「交換は本来、等価値のあいだで行なわれろ対等契約である。したがって、交換は致富の手段ではない。というのは、人は受け取るものと同じだけのものを与えるから」(ル・トローヌ、同前、903ページ)。〉(江夏・上杉訳144頁)


●第5パラグラフ

《初版》

 〈だから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、たいてい、とりちがえが、使用価値と交換価値との混同が、隠れている。たとえばコンディヤックがそうである。「商品交換では等しい価値同士で交換が行なわれるというのは、誤りである。逆である。二人の契約当事者のどちらも、つねに、より大きい価値と引き換えにより小さい価値を与える。……つねに、等しい価値同士がじっさいに交換されれば、どの契約当事者にとっても利得はけっして生じないであろう。だが、双方とも得をしているか、または、どっちみち得をするはずである。なぜか? 諸物の価値は、たんに、われわれの必要にたいするそれらの物の関係のうちに存在している。一方の人にとってより多くのものは、他方の人にとってより少ないのであり、また、これとは逆でもある。……われわれが自分たちの消費に必要不可欠な物を売りに出すということは、想定しないことにする。……われわれは、自分たちにとって必要な物を手に入れるために、自分たちには無用な物を手放そうとする。われわれは、より多くのものと引き換えに、より僅かなものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが、同量の貨幣と価値が等しかったときにはいつでも、交換においては等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられる、と判断するのが当然であった。……しかし、もう一つ別の考慮がさらに加えられなければならない。われわれは双方とも余分なものをある必要なものと交換しているかどうかが、問題になる(21)。」このように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているばかりでなく、発展した商品生産を伴う社会を、一つの状態--そこでは、生産者が、自分の生活手段を自分で生産し、自分自身の必要を越える超過分、余分なものだけを、流通に投ずるような状態--に、まことに無邪気にすりかえている(22)。それにもかかわらず、コンディヤックの議論は、現代の経済学者の口からもしばしば繰り返されているのであって、商品交換の発展した姿である商業を、剰余価値を生産するものとして叙述することが問題であるばあいには、ことさらそうである。たとえば次のように言われている。「商業は、生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうが、より多くの価値をもつからである。したがって、商業は、文字どおりに(strictly)生産行為と見なされるべきである8 23)。」だが、人は商品にたいし、二度にわたって、一度はその使用価値に、もう一度はその交換価値に、支払いをするわけではない。また、商品の使用価値が売り手よりも買い手のほうにもっと有用であれば、商品の貨幣形態は買い手よりも売り手のほうにもっと有用である。そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? また、それだから、全く同様に、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおりに(strictly)「生産行為」を行なうのだ、と言ってもかまわない。〉(江夏訳159-160頁)

《フランス語版》

 〈商品流通が剰余価値の源泉であることを証明しようとする試みは、その主謀者たちにあっては、ほとんどつねに、使用価値と交換価値との取り違い、混同を暴露している。この証人はコンディヤック。この著述家はこう述べている。「交換においては等しい価値と引き換えに等しい価値が与えられると言うのは、誤りである。逆に、契約当事者のどちらもつねに、より大きい価値と引き換えにより小さい価値を与える。実際、等しい価値と引き換えに等しい価値がいつも交換されれば、契約当事者のどちらにとっても、収得すべき利益はないであろう。ところで、双方とも利益を収得しているし、または収得するはずである。なぜか? 物はわれわれの必要にとって相対的価値しかもたず、ある人にとってより多いものは、別の人にとってより少ないものであり、また、この逆である。……われわれが売りに出すと見なされているものは、われわれの消費にとって必要な物でない。それはわれわれには余分なものだ。われわれは、自分たちに必要な物を手に入れるために、自分たちに無用な物を引き渡したいのである。……次のように判断するのは、当然であった。すなわち、交換された諸物は、それぞれの価値の点で同量の貨幣に等しいと評価されるたびごとに、交換において等しい価値と引き換えに等しい価値が与えられたのだ、と。さらにもう一つ、計算に入れなければならない考慮があるのであって、それは、われわれが双方とも余剰分を必要物と交換しているかどうか、を知ることである(8)」。コンディヤックは使用価値と交換価値を相互に混同するばかりでなく、なおまた、子供らしい単純さで、商品生産にもとづく社会では、生産者は自分自身の生活手段を生産し、自分の個人的必要を越える余剰分だけを流通に投ずるはずである、と仮定している(9)。それにもかかわらず、現代の経済学者たちが、交換の発展した形態すなわち商業が剰余価値の源泉である……ということを、証明しようと試みるばあい、コンディヤックの論拠が彼らによってしばしば再生されている。たとえばこう言われる。「商業は生産物に価値を付加する。生産物は生産者の手中よりも消費者の手中でより多くの価値をもっているからである。したがって、商業は厳密に〈strictly〉生産行為と見なすべきである(10)」。だが、商品は二度にわたって、一度はその使用価値を、もう一度はその交換価値を支払われるわけではない。それに、商品の使用価値は売り手よりも買い手にとっていっそう有用であっても、商品の貨幣形態は買い手よりも売り手にとっていっそう有用なのだ。そうでなければ、売り手は商品を売るだろうか? 全く同じように、買い手は、たとえば靴下販売商の靴下を貨幣に転化すれば 厳密に生産行為を果たしているのだ、と言えるであろう。〉(江夏・上杉訳144-145頁)


●原注21

《初版》

 〈コンディヤック『商業と政府』(1776年)。デールおよびモリナリ共編、所収、『経済学論叢、パリ、1847年』、267ページ。〉(江夏訳160-161頁)

《フランス語版》

 〈(8) コンディヤック『商業と政府』(1776年)、デール、モリナリ共編、所収『経済学論叢』、パリ、1847年、267ぺージ。〉(江夏・上杉訳145頁)


●原注22

《初版》

 〈(22)だから、トローヌは彼の友人コンディヤックに、いとも正しくこう答えている。「成熟した社会では、どんな種類の余剰もない。」同時に、彼はコンディヤックをこう皮肉にからかっている。「交換者の双方が、同じだけより少ないものと引き換えに、同じだけより多いものを受け取るならば、彼らは双方とも同じだけのものを受け取ることになる。」コンディヤックは交換価値の怯質についていまだにまるっさりわかっていないのだから、彼は、教授ヴィルヘルムロッシャー氏にとっては、氏自身の子供じみた概念の似合いの保証人である。ロッシャーの『国民経済学原理、第3版、1858年』、を見よ。〉(江夏訳161頁)

《フランス語版》

 〈(9) ル・トローヌは非常に正しく彼の友コンディヤックにこう答える。「成熟した社会では、どんな種類の余剰もない」。同時に彼はコンディヤックに次のように指摘して、コンディヤックをからかっている。「二人の交換者が、同じだけいっそうわずかなものと引き換えに同じだけいっそう多くのものを受け取れぱ、彼らは双方とも同じだけのものを受け取るのだ」。コンディヤックが交換価値の性質についての概念をちっとももたないので、ロッシャー教授は彼を、自分自身の子供じみた観念の後援者と見なした。彼の著書『国民経済学の基礎』、第3版、1858年、を見よ。〉(江夏・上杉訳145頁)


●原注23

《初版》

 〈(23) S.P.ニューマン『経済学綱要』、アンドヮヴャおよびニューヨーク、1835年、85ページ。〉(江夏訳161頁)

《フランス語版》

 〈(10) S.P.ニューマン『経済学綱要』、アンドゥヴァおよびニューヨーク、1835年、175ページ。〉(江夏・上杉訳145頁)


●第6パラグラフ

《61-63草稿》

 〈そもそも、商品がその価値によって〔gemäß〕交換される、あるいは--流通過程で生じる、交換の特殊な形態を考慮すれば--売買される、ということは、ただ、等価物、等しい価値量が交換され、相互に補塡されるということ、すなわち、諸商品の使用価値が等量の為し加えられた〔aufgebeitet〕労働時間を含むような比率、それらが等しい分量の労働の定在であるような比率で、諸商品が交換される、ということを意味するにすぎないのである。〉(草稿集④28頁)

《初版》

 〈交換価値の等しい商品同士が、または貨幣と商品とが、つまり等価物同士が、交換されるならば、明らかに誰も、自分が流通に投げ入れるよりも多くの価値を、そこから引き出しはしない。そのばあい、剰余価値の形成は生じない。ところで、商品の流通過程は、その純粋な形態においては等価物同士の交換をひき起こす。とはいっても、物事は、現実には、純粋に生ずるものではない。だから、非等価物同土の交換を想定してみよう。〉(江夏訳161頁)

《フランス語版》

 〈等しい価値の商品または等しい価値の商品と貨幣が、すなわち等価物が交換されるかぎり、誰も流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出さないことは、自明である。そのばあい、剰余価値の形成はなんら起こりえない。しかし、流通は純粋な形態のもとでは等価物同士の交換しか許さないにしても、周知のように、現実にはものごとはけっして純粋に起こるものではない。したがって、非等価物同士の交換が存在すると仮定しよう。〉(江夏・上杉訳145-146頁)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈とにかく、商品市場では商品所持者だけが商品所持者に相対するのであって、これらの人々が互いに及ぼしあう力は、彼らの商品の力だけである。諸商品の素材的なちがいは、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させている。というのは、彼らのうちの誰も、自分自身の必要の対象は手にもっておらず、各人が、他人の必要の対象を手にもっているからである。諸商品の使用価値のこういった素材的なちがいのほかには、諸商品には、もう一つの区別、それらの現物形態とそれらの転化された形態との区別、商品と貨幣との区別、が存在するだけである。したがって、商品所持者たちは、売り手すなわち商品の所持者として、および、買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるにすぎない。〉(江夏訳161頁)

《フランス語版》

 〈どちらにしても、市場に存在するのは交換者対交換者だけであって、これらの人物が互いに行使しあう力は、自分たちの商品の力でしかない。商品間の素材上の相違が、交換の素材上の動機であり、交換者たちを相互依存の関係に置くが、このことは、どちらも自分が必要とする対象を手中にもたず、めいめいが他人の必要とする対象をもっている、という意味でのことである。商品の有用性のあいだでのこの相違を別にすれば、商品間のもう一つの相違、商品の自然形態と商品の価値形態である貨幣との相違しか、もはや存在しない。同じように、交換者たちがお互いに区別されるのは、一方が商品所有者である売り手であり、他方が貨幣所有者である買い手である、という唯一の観点からでしかない。〉(江夏・上杉訳146頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈他方、商品をその価値以上に売るのは売り手の特権だという理由によって、彼が商品をその価値以上に売るのだと仮定すれば、第一の行為において--すなわち彼自身が、商品を買い受けたのち、それをふたたび売る以前に--彼に相対するほかの売り手がいて、この売り手は彼に商品をより高く売ったはずである。すべての人が商品を、たとえば1O%だけ高く売るとすれば、すなわち1O%だけその価値以上に売るとすれば--そしてここでは、互いに相対しているのは、自分の商品を商品の形態でもっていようと貨幣の形態でもっていようと、商品所有者たちだけだとしているのであるから、むしろ彼らはだれもが交互に、商品を一方の形態または他方の形態でもつことになろう--、それは、彼らが自分たちの商品をその現実的価値で相互に売り合ったのと、まったく同じことである。すべての人が商品を、たとえば1O%だけ価値以下で買う、と仮定しても、同様である。〉(草稿集④24-25頁)

《初版》

 〈さて、なにか説明のつかない特権があるために、売り手には、商品をその価値以上に、'すなわちその価値が1OOであるとき11Oで、つまり名目上1O%の値上げをして、売ることが許される、と仮定しよう。そうすると、売り手は1Oの剰余価値を手のうちに収める。ところが、彼は、売り手のあとでは買い手になる。いまや、第三の商品所持者が売り手として彼に出会い、この売り手もまた、商品を1O%高く売る特権にあずかっている。さきの男は、売り手としては1Oの得をしたが、買い手としては一Oの損をした(24)。このこと全体は、実は、次のことに帰着する。それは、すべての商品所持者が互いに自分たちの商品を価値よりも1O%高く売りあうということであって、あたかも、彼らが商品をその価値どおりに売ったのと全く同じことである。諸商品のこのような一般的な名目上の値上げは、諸商品の価値がたとえば金の代わりに銀で評価されるばあいと同じ結果を生ずる。諸商品の貨幣名すなわち価格は吊り上がるが、諸商品の価値比率は相変わらず不変であろう。〉(江夏訳161-162頁)

《フランス語版》

 〈そこで、売り手がなにかわからない不可解な特権によって、自分の商品をその価値以上に、たとえば100の価値しかないのに110で、すなわち10%の高値で売る、ということが許されると仮定しよう。売り手は10の剰余価値を受け取る。しかし、彼は売り手であった以後には買い手になる。第三の交換者が売り手として彼の前に現われ、この売り手が今度は10%高く商品を売る特権をもっている。したがって、例の男は、一方で10を利得し、他方で10を失った(11)。とどのつまりは、実際上、すべての交換者が相互に自分たちの商品を10%だけその価値以上に売りあうことであって、このことは、彼らが自分たちの商品をその価値どおりに売りあうばあいと、同じことである。このような一般的な価格騰貴は、商品の価値が金で評価されずにたとえば銀で評価されるばあいと、同じ結果を産む。商品の貨幣名すなわち名目価格は騰貴するが、商品の価値比率は同じままであろう。〉(江夏・上杉訳146頁)


●原注24

《初版》

 〈(24)「生産物の名目上の価値を引き上げたからといって……売り手たちが富裕になることはない。……なぜなら、彼らは、自分たちが売り手として儲けるものを、ちょうどその分だけ買い手の資格で支出するからである。」(『諸国民の富の主要原理、ロンドン、1797年』、66ページ。)〉(江夏訳162頁)

《フランス語版》

 〈(11) 「生産物の名目価値の引き上げは、……売り手たちを富まさない。……というのは、彼らは、売り手として利得するものを、まさに買い手として失うからである」(『諸国民の富の主要原理』、ロンドン、1797年、66ページ)。〉(江夏・上杉訳146頁)

  (以下、続く)

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(7)

2021-12-17 02:10:33 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(7

 

【付属資料】 (続き)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈説明のできないなんらかの事情によって、買い手には、より安く買うこと、すなわち商品をその価値以下で買うことが、またそれをその価値で、またはその価値以上で売ることが許されると仮定すれば、例の人物はたしかに第一の行為では(G-Wでは)買い手であり、したがって商品をその価値以下で買うことになるが、しかし第二の行為では彼は売り手であって(W-G)、だれかほかの商品所有者が買い手として彼に相対するのであり、したがってこの買い手もまた、商品をその価値以下で彼から買い受ける特権〔Privilegium〕をもつことになる。この場合には彼は、一方の手で得たものを他方の手で失うことになる。〉(草稿集④24頁)

《初版》

 〈逆に、商品をその価値以下で買うことが買い手の特権である、と仮定しよう。このばあい、買い手があらためて売り手になるということは、なんら思い出す必要がない。彼は、買い手になる以前には売り手であった。彼は、買い手として1O%儲ける以前に、すでに売り手として1O%損をしていた(25)。万事はやはり旧態依然である。〉(江夏訳162頁)

《フランス語版》

 〈逆に、商品に価値以下を支払うのが買い手の特権であると仮定しよう。このばあいは、買い手が再び売り手になるということを思い起こすまでもない。彼は買い手になる以前には売り手であった。彼は販売ですでに10%を失っていた。彼が購買で10%利得すれぽ、万事が同じ状態のままである(12)。〉(江夏・上杉訳147頁)


●原注25

《初版》

 〈(25)「24リーヴルの価値があるようなある分量の生産物を、18リーヴルで引き渡さざるをえないなら、人は、この同じ貨幣を購買に用いるばあい、24リーヴル支払うであろうものを、18リーヴルで同じく手に入れるであろう。」(ル・トローヌ、前掲書、897ページ。)〉(江夏訳162頁)

《フランス語版》

 〈(12) 「24リーヴルの価値があるようなある分量の生産物を18リーヴルで引き渡さざるをえないなら、人は、この同じ貨幣を購買に用いるぱあい、24リーヴル支払うであろうものを18リーヴルで同じく手に入れるであろう」(ル・トローヌ、前掲書、897ページ)。〉(江夏・上杉訳147頁)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈だから、剰余価値の形成、したがって貨幣の資本への転化は、売り手たちが商品をその価値以上に売るということによっても、買い手たちが商品をその価値以下で買うということによっても、説明することができない(26)。〉(江夏訳162頁)

《フランス語版》

 〈剰余価値の形成、したがって、貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値以上で売ることからも、買い手が商品をその価値以下で買うことからも、生ずることができないのだ(13)。〉(江夏・上杉訳147頁)


●原注26

《初版》

 〈(26)「したがって、それぞれの売り手が、慣例として自分の商品を首尾よく値上げすることができるためには、このことと同じに、別の売り手の商品にたいし慣例としていっそう高く支払うことに同意するしかない。同じ理由で、それぞれの消費者も、自分が買う物にたいし慣例としていっそう安く支払うことができるためには、このことと同じに、自分が売る物の価格について同様な引き下げに同意するしかない。」〈メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、555ページ。)〉(江夏訳163頁)

《フランス語版》

 〈(13) 「したがって、それぞれの売り手が慣例として自分の商品を首尾よく値上げすることがでぎるためには、これと同じく、別の売り手の商品にたいし慣例としていっそう高く支払うことに同意するしかない。同じ理由によって、それぞれの消費者も自分が買うものにたいし慣例としていっそう安く支払うことができるためには、これと同じく、自分が売る物の価格について同様な引き下げに同意するしかない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、555ページ)。〉(江夏・上杉訳147頁)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈にもかかわらず、著名な近代の経済学者たちにあってさえも、剰余価値は総じて、買うよりも高く売ることから説明されるべきだ、というたわごとが見いだされる。たとえばトランズ氏がそうであり、次のように言う。「有効需要とは、直接的な交換(バーター)によってであろうと回り道をした交換(バーター)によってであろうと、受け取る諸商品と引き換えに、資本の全成分のうちから、それらの商品の生産に要費するよりも大きい一部分を引き渡す、という、消費者の側での能力と性向である」(ロバト・トランズ大佐『富の生産に関する一論』、ロンドン、1821年、349ページ)。われわれの前にいるのは、ここでは売り手と買い手だけである。次のような事情、すなわち、商品所有者(売るほう)だけが商品を生産してもっているのにたいして、他方の買い手(だが彼の貨幣も商品の販売から生まれたにちがいないのであって、それは商品の転化された形態にすぎないのであるが)は商品を、消費のために買おうとする、すなわち消費者として買おうとする、というような事情は、少しも関係を変えはしない。売り手はつねに使用価値を代表するのである。さきのたぐいのきまり文句が言っていることは、この文句をその本質的な内容に還元し、そのときどきの言い回しを取り除くならば、すべての買い手がその商品を価値以上で買う、ということ、つまり売り手は総じて自分の商品を価値以上で売り、買い手はいつでも自分の貨幣の価値以下で買う、ということでしかない。生産者と消費者をもち込んでみても、事柄は少しも変わりはしない。というのは、交換行為で彼らが相対しあうのは、消費者と生産者としてではなくて、売り手と買い手としてだからである。そしてそもそも諸個人がただの商品所有者として交換を行なうにすぎない場合には、各人は生産者であるとともに消費者でもなければならず、また、彼がそのうちの一方でありうるのは、彼が他方でもあるかぎりにおいてである。この前提のもとでは、各人は、売り手として得るものを買い手として失うことになるであろう。〉(草稿集④32-33頁)

《初版》

 〈無縁な諸関係をもち込み、したがって、たとえばトレンズ大佐と一緒になって次のようなことを言ってみても、問題はちっとも簡単にはならない。「有効需要とは、直接的な交換によってであろうと間接的な交換によってであろうと、商品と引き換えに、その商品の生産に費やされるよりも大きな、資本の全成分中の一部分を、与えるという、消費者の能力と傾向(!)である(27)。」流通のなかでは、生産者と消費者とは、売り手と買い手としてのみ相対している。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品にたいして価値以上に支払うことから生ずる、と主張することは、商品所持者が売り手として価値よりも高く売る特権をもっているという単純な命題に、仮面をかぶせているにすぎない。売り手は、その商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代理しているが、同様に買い手も、彼の貨幣に表わされた商品を自分で生産したか、またはその商品の生産者を代理している。したがって、生産者が生産者に相対していることになる。彼らを区別するものは、一方が買い他方が売るということである。商品所持者が、生産者という名のもとでは商品をその価値以上に売り、消費者という名のもとでは商品にその価値よりも高く支払う、と言ったところで、われわれを一歩も前進させるものではない(28)。〉(江夏訳163頁)

《フランス語版》

 〈無関係な考察をこの問題に導入したばあい、たとえば、トレンズとともに次のように言ったばあい、問題は少しも簡単にならない。有効需要とは、「交換が直接に行なわれようと媒介によって生じようと、商品と引ぎ換えに、資本の全成分中の、その商品の生産に費やされたよりも幾らか大きな部分を、与えるという、消費者の能力と性向(!)である(14)」。生産者と消費者は互いに、売り手と買い手としてしか流通のなかには現われない。生産者にとっての剰余価値は、消費者が商品にその価値よりも高く支払うことから生ずる、と主張することは、次の命題を粉飾しようとするものだ。すなわち、交換者は売り手として、余計に高く売る特権をもっている、という命題である。売り手はみずから商品を生産したか、あるいはその商品の生産者を代理するが、買い手もまた、貨幣に変換される商品を生産したか、あるいはその商品の生産者を代理する。したがって、両極に生産者が存在するのであって、彼らを区別するものは、一方が買い他方が売る、ということである。商品所有者が生産者の名のもとで商品をその価値以上に売り、消費者の名のもとで商品に余計高く支払うことは、問題に向って一歩前進させることにはならない(15)。〉(江夏・上杉訳147-148頁)


●原注27

《初版》

 〈(27)R・トレンズ『富の生産にかんする一論』、ロンドン、1821年、349ページ。〉(江夏訳163頁)

《フランス語版》

 〈(14) R・トレンズ『寓の生産にかんする一論』、ロンドン、1821年、349ページ。〉(江夏・上杉訳148頁)


●原注28

《初版》

 〈(28)「利潤は消費者によって支払われるという考えは、確かにきわめて馬鹿げている。消費者とは誰なのか?」〈G・ラムジー『富の分配にかんする一論』、エジンバラ、1836年、184ページ。)〉(江夏訳163頁)

《フランス語版》

 〈(15) 「利潤が消費者によって支払われるという観念は、全く馬鹿げている。消費者とは誰なのか?」(G・ラムジ『富の分配にかんする一論』、エディンバラ、1836年、183ぺージ)。〉(江夏・上杉訳148頁)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

  〈商品の生産に参加していないのに商品または貨幣--これは商品の形態でしかない--を所有している諸階級が存在するときには、彼らは諸商品にたいする持分を、ここではこれ以上説明できない法的権原あるいは強力的権原によって交換なしに所有するのだということ、これはだれにでもよくわかることである。商品所有者あるいは生産者--さしあたって商品所有者はもっぱら商品生産者であると考えておくことができる--は彼らに、自分の商品の一部分を、あるいは彼が自分の商品を売って得た貨幣の一部分を、譲り渡さなければならない。彼らが、なんの等価も引き渡すことなしに入手したこの貨幣を使えば、その場合には彼らは、それまで売り手だったことは一度もないのに、消費者となり、買い手となることになる。しかしこの買い手たちは、売り手〔商品所有者〕の諸商品への関与者(共同所有者〔Mitbesitzer〕)であるという説明しかできないのであって、彼らはそれらの商品を、ここでは説明できない過程によって受け取るのである。したがって、諸商品を買うとき彼らは、別の諸商品との・彼らが商品所有者生産者から交換なしに受け取った諸商品との・交換というかたちで、商品の一部分を商品所有者や生産者たちに返すにすぎない。すべての商品生産者が彼らの商品を〔右のような買い手たちに〕それらの価値以上で売るならば、商品生産者たちは、自分たちがこの買い手たちに引き渡すよりも多くを買い手たちから取り戻すのであるが、しかし、より多くと言っても、もともとは彼らのものである価値額のなかから取り戻すのにすぎないことは、まったく明らかである。ある男が私から1OOターレルを盗むが、しかし私はその男に9Oターレルの価値しかない商品を1OOターレルで売るのであれば、私は彼から1Oターレル儲けることになる。これは、生産者であることなしに消費者であるこの買い手から、もともとは私のものである1OOターレルの価値額のうちの一部分を、商取引を通じてふたたび取り上げる、一つの方法である。彼が年々私から1OOターレルを取り上げ、私も同様に年々、彼に9Oターレルの商品を1OOターレルで売るならば、私はたしかに年々1Oターレルを彼から儲けることになるが、しかしそれはただ、私が年々1OOターレルを彼のために失っているからにすぎない。彼がこのように1OOターレルを奪い取ることが一つの制度だとすれば、それに続く商取引は、この制度を部分的に、ここでは1/10だけ、またもとに戻すための一つの手段である。けれども、どのみち剰余価値は発生しないし、私がこの買い手から詐取できる大きさ、すなわち私が彼に9Oターレルの商品を1OOターレルで売ることができる取引の数は、まさに、彼がなんらの等価も引き渡さないで私から1OOターレルを取り上げた行為の数にかかっている。したがってこのような取引からは、資本、すなわち流通のなかで自己を維持し増加させる価値を、ましてや資本の剰余価値を、説明することはできない。〉(草稿集④12-13頁)
 〈こういうわけで、一方では、剰余価値--ここではまだわれわれは、どんな形態の利得でもこう呼ぶことができる--が交換から出てくると言いたいのであれば、それはなんらかの--と言っても定式G-W-Gのなかには見ることも知ることもできない--行為によって、すでに交換以前から存在していたものであるほかはない。「利潤(これは剰余価品の独自な一形態である)は、市場の通常の状態では、交換することからは得られないもしそれがこの取引かまえに存在していなかったすれば、それはこの取引のあとにも存在しえないであろう」(ジョージ・ラムジ『富の分配に関する一論』、エディンバラ、1836年、184ページ)。ラムジは同じ箇所で次のように言う。「利潤が消費者たちによって支払われる、という考えは、たしかに、非常にばかげている。この消費者たちというのはだれのことだろうか」、云々(183ページ〉。相対しているのは商品所有者たちだけであり、彼らのそれぞれが生産者であり、また同じく消費者でもある。そして彼らがこのうちの一方でありうるのは、彼らがまた他方でもあるかぎりにおいてである。そしてもし、先取りして、生産することなしに消費する諸階級のことを考えるならば、これらの階級の富はやはりただ、生産者たちの商品からの取り分から成り立つほかはないのであり、無償で諸価値を引き渡される諸階級が、これらの価値を出して行なう逆の交換で詐取される、ということからは、価値の増加は説明できない。(マルサスを見よ。)〉(草稿集④33-34頁)

《初版》

 〈だから、剰余価値は、名目上の値上げから生ずるとか、商品を価値よりも高く売る売り手の特権から生ずるとか、こういった幻想.を首尾一貫して主張する人々は、売ることなしに買うだけの階級を、したがってまた、生産することなしに消費するだけの階級を、想定しているのである。このような階級の存在は、われわれがこれまでに到達した立場、すなわち単純な流通の立場からすれば、まだ説明がつかない。だが、われわれは先回りしておこう。このような階級が絶えず買うために使う貨幣は、交換ぬきで無償で、任意の法的および暴力的な権原にもとづいて、商品所持者たち自身から、絶えずこの階級に流れてこなければならない。この階級に商品を価値以上に売るということは、無償で譲り渡した貨幣の一部を、あらためてぺてんで取り戻すことにほかならない(29)。このようにして小アジアの譜都市は、貨幣貢租を年々古代ローマに支払った。この貨幣でもってローマは、商品をこれらの都市から買い、しかもそれを価値よりも高く買い入れた。小アジア人はローマ人をだました。というのは、彼らは、商業という方法で、征服者から貢租の一部をあらためてだまし取ったからである。だが、それにもかかわらず、小アジア人はやはりだまされた人々であった。彼らの商品の代価は、相変わらず、彼ら自身の貨幣で彼らに支払われた。こんなことは、けっして致富または剰余価値形成の方法ではない。〉(江夏訳163-164頁)

《フランス語版》

 〈かの幻想の、すなわち、剰余価値は価格の名目的な引き上げから、すなわち、売り手が自分の商品を余計に高く売る特権から生ずるという幻想の、首尾一貫した支持者たちは、不断に買うがけっして売らないか、または、生産せずに消費する階級を、認めざるをえない。このような階級の存在は、われわれが到達した観点、単純な流通の観点からは、まだ説明できない。だが、先回りしよう! このような階級が不断に買うために使う貨幣は、無償で、交換なしに、自発的にまたは既得権によって、生産者の金庫からこの階級の金庫に不断に戻ってこなければならない。この階級に商品をその価値以上に売ることは、失ったと諦めていた貨幣を一部取り戻すことである(16)。たとえば小アジアの諸都市は毎年、古代ローマに貢租を鋳貨で納めたものであった。ローマは、この貨幣で商品を上記の諸都市から買い、しかも高価すぎる支払いをした。小アジア人はローマ人の皮を剥ぎ、こうして、征服者から強奪された貢租の一部を商業によって奪い返した。だが結局、小アジア人はやはり、相変わらずだまされた者たちであった。彼らの商品は相変わらず、自分たち自身の貨幣で支払われた。それはけっして富むための方法、あるいは剰余価値を創出するための方法ではない。〉(江夏・上杉訳148頁)


●原注29

《61-63草稿》

 〈「マルサス氏がときどき言うところによれば、まるで、二つの別個のファンドが、すなわち資本と収入とが、供給と需要とが、生産と消費とがあって、両者は互いに歩調がそろうように、一方が他方を追いこすことのないように、配慮されなければならないかのようである。まるで、生産された商品総量のほかに、それらを買うために天から降ってくる--のでもあろう--別の量が必要であるかのようである。……彼が必要とするような、消費のためのファンドは、ただ、生産を犠牲にしてのみ得られるものである」(l『近時マルサス氏の主張する、需要の性質および消吹の必要に関する原理の研究』、49、50ページ)。「ある人が需要不足の状態にあれば、マルサス氏は彼に、あなたの財貨をもっていってもらうためにだれかほかの人に支払いなさい、と勧めるのであろうか」(〔同前、〕55ページ)。〉(草稿集④15頁)

《初版》

 〈(29)「ある人にたいして需要がないとき、マルサス氏はその人に向かって、その人の財貨をもち去るために誰かほかの人に支払ってやれ、とすすめるであろうか?」と、ある憤激したリカード学徒がマルサスに尋ねているが、このマルサスは、彼の弟子であるチャマーズ牧師と同様、単なる買い手または消費者に属する階級を、経済的に賛美しているのである。『最近マルサス氏が主張する需要の性質および消費の必要にかんする諸原理の研究』、ロンドン、1821年、55ページ、を見よ。〉(江夏訳164頁)

《フランス語版》

 〈(16) 「ある人の商品のための買い手がなければ、マルサス氏はこの人に、その商品を買うために誰かに支払ってやれ、と勧告するだろうか?」これが、肝をつぶしたあるリカード学徒の、マルサス宛の質問である。マルサスは、彼の弟子であるチャーマズ牧師と同じように、単なる買い手または消費者の階級にたいして、経済的な見地からは充分な賛美をしていない〔マイスナー第2版および第4版、現行版の各ドイツ語版は、「賛美している」という肯定文である〕(『最近マルサス氏の主張する需要の性質と消費の必要にかんする諸原理の研究』、ロンドン、1821年、55ぺージ、を見よ)。〉(江夏・上杉訳148頁)


  (以下、(8)に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(8)

2021-12-17 02:10:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(8)


【付属資料】(続き)

 

●第17パラグラフ

《61-63草稿》

 〈本来の商人資本では、運動G-W-Gが最も明白に現われる。それゆえ、商人資本の目的が流通に投じられた価値あるいは貨幣の増加であること、また、それがこのことをなし建ける形態は、買ったのちにふたたび売る、というものであることは、むかしから目につくことであった。「あらゆる種類の商人たちに共通な点は、彼らは転売するために買う、ということである」(テュルゴー 『富の形成と分配とに関する省察』〈1766年に刊行さる)、所収、『テュルゴー著作集』、第1巻、パリ、1844年、ウジェーヌ・デール編、43ページ〔岩波書店版、津田内匠訳『テュルゴー経済学著作集』、102ページ〕)。他方、ここでは剰余価値は、純粋に流通において、すなわち、商人が買うよりも高く売る--あるいは、売るよりも安く買う、としてもよい(商品をその価値以下で買い、そしてそれをその価値で、あるいはその価値以上で売るてあるいは、それをその価値で買うが、その価値以上で売る、としてもよい--ことから生じるものとして現われる。彼は商品をある人から買い、それを他の人に売る。彼は一方の人にたいしては貨幣を、他方の人にたいしては商品を代表する。また彼は、運動を新たに始めることによって、同様に売ったのちに買うのであるが、しかしそうしたからと言って、商品そのものが彼の目的であるわけではけっしてないのであり、したがって、買う、という後者の運動は、売る、という前者の運動の媒介として役立つだけである。彼は買い手と売り手とにたいして、交互に流通の異なった側(段階)を代表する。また、彼の全運動は流通の内部に属するのであり、あるいはむしろ、彼は流通の担い手として、貨幣の代表者として現われるのであって、このときは、単純な商品流通では全運動が流通手段から、流通手段としての貨幣から、出発するように見えるのとまったく同様である。彼はただ、商品が流通のなかで経過すべき異なった諸段階の、媒介者として現われるにすぎず、したがってまた、ただ、既存の諸極のあいだを、既存の商品と既存の貨幣とを表わしている、既存の売り手たちと買い手たちとのあいだを、媒介するにすぎない。ここでは流通過程につけ加わる他の過程はないので、つまり、商人が--彼の操作のすべては販売と購買とに帰着するのだから--交互に売ったり買ったりすることによって作りだす剰余価値(利得)〔……〕ので、彼が流通のなかにもちこむ貨幣、あるいは総じて価値の増加は、純粋に、彼が交互に関係をもっ相手方から詐取することから、非等価物の交換から、こうしてこのことによって、彼はつねに自分が流通に投げ込むのよりも大きい価値を流通から引き出す、ということから、説明されるべきものとして現われる。こうして、彼の利得--交換にもちだされた彼の価値が彼のために生みだした剰余価値--は、純粋に流通から生じるように、したがってまた、彼と取引する人々の損失だけから成っているように見える。事実、商人財産は純粋にこの方法によって生じうるのであって、産業的に未発展な諸国民のあいだで仲介商業を営む商業諸民族の致富は、おもにこの方法で生じたのであった。商人資本は、生産の、また総じて社会の経済的構造の、さまざまの段階にある諸国民のあいだで活動を続けることができる。だからそれは、資本主義的生産様式が少しも行なわれていない諸国民のあいだで、したがって、資本がその主要な諸形態において発展するはるか以前に、活動を続けることができるのである。だが、商人の作りだす利得、あるいは商人財産の自己増殖が、単に商品所有者たちの詐取から説明されてはならず、つまり、前から存在している価値額の単なる別の配分以上のものでなければならないのだとすれば、それは明らかにただ、商人資本の運動、その特有の機能、には現われていない諸前提から導き出されるよりほかになく、またその利得、その自己増殖は、単に派生した、二次的な形態として現われるのであって、この形態の源泉はどこかほかのところに求められなければならない。反対に、もしその特有の形態がそれだけで〔für sich〕独立に考察されるならば、商業はフランクリンの言うように、単なる詐取として現われるにちがいないし、もし諸等価物が交換されるならば、すなわち諸商品がその交換価値で売買されるならば、商業はおよそ不可能なものとして現われるにちがいない。「不変な等価物の支配のもとでは、商業は不可能であろう」(ジョージ・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、1851年、67ページ)。(だからこそエンゲルスは、似たような意味で、『独仏年誌』、パリ、1844年、『国民経済学批判大綱』において、交換価値と価格との相違を、諸商品がその価値で交換されるならば商業は不可能だ、ということから説明しようとしているのである。)〉(草稿集④36-38頁)

《初版》

 〈本来の商業資本では、形態G-W-G'、もっと高く売るために買うことが、最も純粋に現われている。他方、商業資本の全運動は、流通部面の内部で行なわれる。ところが、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を、流通そのものから説明することは不可能であるから、商業資本は、等価物同士が交換されるかぎりは、不可能であるかのように見え(33)、したがって、買う商品生産者と売る商品生産者とのあいだに寄生的にはいり込む商人から、上記二人の生産者が双方ともだまされるということからのみ、導き出されうるかのように見える。こういった意味で、フランクリンは「戦争は略奪であり商業は詐欺である(34)。」と言っている。商業資本の増殖が商品生産者の単なる詐欺以外のものから説明されるべきであるとすれば、そのためには長い一連の中間項が必要であるが、この中間項は、商品流通とそれの単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提を成しているここでは、まだ全く欠けている。〉(江夏訳166頁)

《フランス語版》

 〈A-M-A' 、の形態、より高価に売るために買うことは、商業資本の運動で最も明瞭に現われる。他方、この運動は流通の域内で全面的に遂行される。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を、流通そのものによって説明することはできないから、交換が等価物のあいだで行なわれるかぎり、商業資本は不可能であるように思われる(20)。買い手と売り手とのあいだに寄生的媒介者として介在する商人が、買い手としての、また売り手としての商品生産者からかちとるところの二重の利益からしか、商業資本は生じえないように思われる。フランクリンはこの意味で、「戦争は掠奪にほかならず、商業は詐欺と瞞着にほかならない(21)」、と述べている。〉(江夏・上杉訳150頁)


●原注33

《国民経済学批判大綱》

 〈真実価値と交換価値との相違の基礎にはつぎのような事実がある--つまり、ある物の価値は、商業のさいそのかわりにあたえられるいわゆる等価とはちがっているということ、すなわちこの等価は等価ではないということがそれである。このいわゆる等価は物の価格であって、もし経済学者が正直なら、彼は、この言葉を「商業価値」の代りにもちいるであろう。だが彼はそれでもやはり、商業の不道徳性があまりにもはっきりと明るみにでないように、価格はなんらかの仕方で価値と関連しているという外見の痕跡を維持していかなければならない。ところで、価格が生産費と競争との相互作用によって決定されるということはまったく正しいことであって、私的所有の基本法則である。これは経済学者が発見した第一の法則であり、純経験的な法則であった。ついで彼は、彼の真実価値を、すなわち、競争関係が均衡し、需要と供給が一致したときの価格を、ここから抽象した。--そうすると当然生産費があとにのこる。そしてこれを経済学者は真実価値とよんでいるが、それは価格の一規定性にほかならない。だが経済学では万事がこのようにさかだちしているのであって、本源的なものであり、価格の源泉である価値が、それ自身の産物である価格に従属させられているのである。周知のように、この転倒は抽象の本質であって、これについてはフォイエルバッハを参照せよ。〉(全集第1巻552頁)

《61-63草稿》

 〈(16)「不変な等価物の支配のもとでは、商業は不可能であろう」(ジョージ・オプダイク『経済学に関する一論』、ニューヨーク、1851年、67ページ)。(17)(だからこそエンゲルスは、似たような意味で、『独仏年誌』、パリ、1844年、『国民経済学批判大綱』において、交換価値と価格との相違を、諸商品がその価値で交換されるならば商業は不可能だ、ということから説明しようとしているのである。)

  (16)〔注解〕この引用は、「引用ノート」の18ページから採られている。オプダイクの原文では次のようになっている。--「そのうえ、もし生産物の真の価値は正確に確定されるととができず、また正確な尺度の助けがあったとした場合でさえも、不変な等価物の支配のもとでは利益をともなう生産物の交換はなされえないとすれば、どのように、またどんな規則によって、商業は諸価値の交換に支配されているのであろうか?」
  (17)〔注解〕フリードリヒ・エンゲルス『国民経済学批判大綱』所収『独仏年誌』第1・2冊、パリ、1844年、95-96ページ〔『全集』、第1巻、508ページ〕。そこには次のように書かれている。--「真実価値と交換価値との区別の基礎には一つの事実がある--すなわち、ある物の価値は、商業でその物と引き換えに与えられるいわゆる等価物とは異なっているということ、すなわち、この等価物は等価物ではないということがそれである。」〉(草稿集④38-40頁)

《初版》

 〈(33)「不変な諸等価物の支配のもとでは、商業は不可能であろう。」(G・オプダイク『経済学にかんする一論、ニューヨーク、1851年』、69ページ。)「真実価値と交換価値との区別の根底には、一つの事実が横たわっている--すなわち、ある物の価値は、商業でその物と引き換えに与えられるいわゆる等価とはちがうということ、すなわち、この等価はなんら等価ではないということが、この事実である。」(F・エンゲルス、前掲書、96ページ。)〉(江夏訳167頁)

《フランス語版》

 〈(20) 「商業が等価物の交換を不変の規則とするならば、商業は不可能であろう」(G・オプダイク『経済学にかんする一論』、ニューヨーク、1851年、66-69ページ)。「真実価値と交換価値との差異は次の事実にもとついている。すなわち、ある物の価値は、商業でこの物と引き換えに与えられるいわゆる等価とはちがう、という事実。このことは、この等価が等価でないことを意味している」(F・エンゲルス『国民経済学批判大綱』、95-96ページ)。〉(江夏・上杉訳150頁)


●原注34

《61-63草稿》

 〈問題のなかにある--課題の諸条件のなかにある--外見上の諸矛盾は、フランクリンをして次のように言わしめている。
  (1)「一国の富を増加させる方法は三つしかない。第一は、戦争によることであって、それは強奪である。第二は、商業によることであって、これは詐取である。そして第三は、農業によることであって、これこそが唯一の公正な方法である」(『ベンジャミン・フラングリン著作集』、スパークス篇、第2巻、『国民の富に関する諸見解の検討』)。
  (1)〔注解〕この引用は、「引用ノート」の48ページから採られている。使われた原典はおそらく、ベンジャミン・フランクリン『紙幣の性質と必要とについての小研究』、所収『フランクリン著作集』、ジェイリッド・スパークス編、第2巻、ボストン、1836年、376ページであろう。フランクリンの原文では次のようになっている。--「……最後に、一国民が富を獲得するには三つの方法しかないように思われる。第一は、戦争によることであって、ローマ人たちがしたように、被征服隣国民から略奪することである。これは強奪である。第二は、商業によることであって、これは一般に詐取である。第三は、農業によることであって、唯一の公正な方法である……。」〉(草稿集④36頁)

《初版》

 〈(34)ベンジャミン・フランクリン『著作集』、第2巻、スパークス編、所収、『国富について検討されるべき諸見解』〉(江夏訳167頁)

《フランス語版》

 〈(21) ベンジャミン・フランクリン『著作集』、第2巻、スパークス編、『国富について検討されるべき諸見解』。〉(江夏・上杉訳150頁)


●第18パラグラフ

《61-63草稿》

 〈資本のもう一つの形態は、同様に非常に古いものであり、また通俗的な見解はこの形態から自分の資本概念をつくりあげたのであるが、それは利子を得るために貸し付け〔ausleihen〕られる貨幣の形態であり、利子生み貨幣資本の形態である。ここでわれわれが見るのは、貨幣がまず商品と交換され、ついでその商品がより多くの貨幣と交換されるという、運動G-W-Gではなく、運動の結果、すなわちG-Gだけである。貨幣はより多くの貨幣と交換される。それはその出発点に復帰するが、しかし増加する。それは最初は100ターレルであったが、いまではそれは11Oターレルである。それは--1OOターレルで表示された価値は--自己を維持し、そして自己を増殖した、すなわち1Oターレルの剰余価値を生んだ。社会の生産様式がいかに低いものであろうとも、またその経済的構造がいかに未発展であろうとも、われわれはほとんどすべての国々、歴史的時代に、利子生み貨幣を、貨幣を生む貨幣を、したがって形態の上では、資本を見いだすのである。この場合には、資本の一方の側面が、商人財産の場合よりもさらに表象に近づいてくる(ギリシア人のケパライオン〔という語〕も、その語源的生成からみれば、われわれの資本である。)その側面とは、価値それ自体が自己を増殖し、剰余価値を生むのは、それが価値として、自立的な価値(貨幣)として(流通にはいるから)、まえもってすでに存在しているからだということであり、また、価値が前提されていたがゆえにのみ価値が生みだされ、価値の維持と倍加とが生じるのだということ、価値が価値として、自己自身を増殖するものとして働くのだということである。〉(草稿集④40頁)

《初版》

 〈商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはなおいっそうあてはまる。商業資本では、それの両極、すなわち、市場に投ぜられた貨幣と、市場から引き上げられる増殖された貨幣とは、少なくとも、購買と販売で、流通の運動で、媒介されている。高利貸資本では、形態G-W-G'が無媒介の両極G-G'に、もっと多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の観点からは説明のつかない形態に、短縮されている。だから、アリストテレスはこう言う。「貨殖術は二様のものであって、一方は商業に他方は家政術に属し、後者は必要なもので賞賛すべきものであるが、前者は流通にもとづいており、非難されるのが当然である。(なぜならば、それは、自然にもとづいていないで相互間の詐欺にもとづいているから)。それゆえに、高利が憎まれるのは全く当然である。というのは、ここでは、貨幣そのものが営利の源泉であって、自己の発明目的のために用いられないからである。そのわけは、貨幣は、商品交換のために生まれたのに、利子は、貨幣をより多くの貨幣にするからである。ここからその名称(τσκος 利子および生まれたもの)も生じている。というのは、生まれたものは、産んだものに似ているからである。しかし、利子は、貨幣から生まれた貨幣であるから、これが、すべての営利部門のうちで最も反自然的である(35)。」〉(江夏訳167頁)

《フランス語版》

 〈われわれが商業資本についていましがた言ったことは、高利貸資本についてはなおいっそう真実である。前者については、両極、すなわち、市場に投ぜられた貨幣と、多かれ少なかれ増加して市場から戻ってくる貨幣とは、少なくとも、購買と販売という流通運働そのものを中間項としている。後者については、A-M-A'の形態が中澗項なしに両極のA-A'に、より多くの貨幣と交換される貨幣に簡約されており、これは貨幣の性質と矛盾し、商品流通の見地からは説明できない。したがって、アリストテレスはこう書いている。「貨殖術は二重の科学であって、一方では商業に、他方では家政術に関係している。それは、後者の点からみれば、必要であり称賛すべきである。それは、流通を土台とする前者の点からみれぽ、当然に非難されるぺきものである(それは物の性質にもとつかず相互瞞着にもとついているから)。それだから、高利貸が憎まれるのは当然である。というのは、貨幣自体が、ここでは金儲けをする手段になって、発明された用途には役立たないからである。貨幣の目的は商品の交換を容易にすることであったが、利子は貨幣によってより多くの貨幣を産む。ここからその名称(τσκος,生まれたもの、産み出されたもの)が生じた。子供は両親に似ているからである。これは、金儲けをするあらゆる方法のなかで最も自然に反するものである(22)」。〉(江夏・上杉訳150-151頁)


●原注35

《初版》

 〈(35)アリストテレス、前掲書、第1巻、第1O章。〉(江夏訳167頁)

《フランス語版》

 〈(22) アリストテレス、前掲書、第1巻、第10章。〉(江夏・上杉訳151頁)


●第19パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ここでは次のことを注意しておけば十分である。(どこか別のところでこの問題に立ち返るべきだ)。第1。貨幣が言葉の近代的な意味において資本として貸し付け〔ausleihen〕られるとすれば、すでに次のことが、すなわち、貨幣--ある価値額--が即自的に〔an sich〕資本であるということ、すなわち、貨幣を借り受けた〔geliehen werden〕人はそれを生産資本として、自己増殖する価値として充用することができる、あるいはそうするであろうし、またこのようにして創造された剰余価値の一部分を、彼に貨幣を資本として貸した〔leihen〕人に払わなければならない、ということが、前提〔unterste--en〕とされている。つまりここでは、利子生み貨幣資本が明らかに資本の派生的一形態--ある特殊の機能における資本--であるばかりでなく、資本はすでに十分に発展しているものとして前提〔unterstellen〕されているのであって、その結果、いまではある価値額が--それが貨幣の形態にあろうとあるいは商品の形態にあろうと--貨幣および商品としてではなく、資本として貸し付け〔verleihen〕られることができるのであり、また、資本そのものが独自な種類の〔sui generis〕商品として流通に投じられることができるのである。ここでは資本はすでに、貨幣あるいは商品の、一般に価値の力能〔Potenz〕として前提され、また完成されており、その結果、資本はこの力能を高められた〔potenzirt〕価値として流通に投じられることができる。つまり利子生み貨幣資本は、この意味ですでに、資本の発展を前提〔unterstellen〕している。資本がこの特殊的形態で現われうる以前に、資本関係はすでに完成していなければならない。自分自身を増殖するという価値の本性は、ここではすでに、価値に生えこんでいるものとして前提されており、その結果、任意の価値額が自己を増殖する価値として売られ、第三者に一定の条件で譲り渡されることができるのである。そもそも剰余価値は、のちに利潤、地代、利子のようなさまざまの収入を形成する、さまざまの形態に分裂するのであるが、この場合にも同様に、利子は、剰余価値の一つの特殊な形態、分枝として現われるにすぎない。したがって、利子の大きさ等についてのすべての問題は、また、現存する剰余価値がさまざまの部類の資本家たちのあいだにどのように分配されるか、という問題としても現われる。剰余価値一般の存在はここでは前提されている。〉(草稿集④40-41頁)
  〈ところで、たとえ資本がまだ生産を支配しておらず、資本主義的生産が、したがって言葉のすぐれた意味での資本が、まだ存在していなくても、たとえば、生産が奴隷制の基礎の上で行なわれていようと、あるいは剰余収益が領主〔landlord〕に帰属していようと(アジアや封建時代におけるように)、あるいは手工業や農民経済、等々が行なわれていようと、いずれの場合にも、貨幣はもろもろの生産的な目的のために貸し出さ〔ausleihen〕れることができ、したがって形態の上では〔formell〕資本として貸し出されることができる。つまり、資本のこの形態は、商人財産がそうであるのと同様に、生産諸段階の発展にはかかわらない(商品流通が貨幣形成にまで進んでいることだけが、前提される)のであり、したがってまた、歴史的には資本主義的生産の発展以前に現われるのであって、資本主義的生産の基礎の上では二次的形態をなしているにすぎないのである。商人財産と同じく、それはただ形態の上で〔formell〕資本でありさえすればよく、次のような機能、すなわち、資本はその機能においてはそれが生産を支配する以前から存在することができる、そういう機能における資本でありさえすればよいのであって、ただ生産を支配する資本だけが、社会の独自な歴史的生産様式の基礎なのである。〉(草稿集④42-43頁)

《初版》

 〈われわれは、われわれの研究途上では、商業資本と同様に利子産み資本をも派生的な形態として見いだすであろうし、また同時に、なぜそれらが、それらの近代的基本形態における資本より以前に歴史上現われるかを、見るであろう。〉(江夏訳167頁)

《フランス語版》

 〈われわれはわれわれの研究の終りに、高利貸資本と商業資本が派生的な形態であることを見るであろうし、その時に、それらがなぜ、近代社会の経済組織を規定する基本的形態のもとにある資本よりも以前に、歴史に登場するか、ということも説明するであろう。〉(江夏・上杉訳151頁)


●第20パラグラフ

《61-63草稿》

 〈あるいはもしかして、次のように言いたいのだとすれば、--すなわち、貨幣所有者は商品を買うが、彼はこれを加工し、生産的に充用し、こうしてそれに価値を付加し、それからふたたび売るのだ、と言いたいのだとすれば、この場合には剰余価値は、完全に彼の労働から発生することになるであろう。この場合には、価値そのものは働かなかったであろうし、自己を増殖することもなかったであろう。彼がより多くの価値を受け取るのは、彼が価値をもっているからではない。そうではなくて、労働の追加によって価値が増加したのである。〉(草稿集④34-35頁)

《初版》

 〈剰余価値は流通からは生ずることができず、したがって、それが形成されるさいには、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが、流通の背後で起こらざるをえない(36)、ということがわかった。だが、剰余価値は、流通以外のどこから生ずることができるだろうか? 流通は、商品所持者たちのいっさいの相互関係の総和である。流通の外部では、商品所持者は、自分自身の商品と関係しているだけである。彼の商品の価値(37)にかんしては、この関係は、彼の商品が、特定の社会的諸法則にしたがって測られた彼自身の労働の量を、含んでいるということに、限定されている。この労働量は、彼の商品の価値量で表現されるし、また、価値量は計算貨幣で表わされるがゆえに、この労働量は、たとえば10ポンド・スターリングという価格で表現される。ところが、彼の労働は、その商品の価値とその商品自身の価値を越える超過分とで、表わされるわけではない。すなわち、同時に11ポンド・スターリングという価格でもある10ポンド・スターリングという価格で、それ自身よりも大きな価値で、表わされるわけではない。商品所持者は、自分の労働によって価値を形成することはできるが、自己を増殖する価値を形成することはできない。彼は、新たな労働によって現存の価値に新たな価値をつけ加えることによって、たとえば皮を長靴にすることによって、ある商品の価値を高くすることができる。同じ素材がいまではよりいっそう大きな価値をもっているのは、それがよりいっそう大きな労働量を含んでいるからである。だから、長靴は皮よりも大きな価値をもっているが、皮の価値は元のままである。皮は自己を増殖したのではない、すなわち、長靴製造中に自己の原価値を剰余価値分だけふやしたのではない。だから、商品生産者が流通部面の外部で、他の商品所持者たちと接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させる、ということは不可能である。〉(江夏訳168頁)

《フランス語版》

 〈流通のなかに投ぜられた価値額は、流通のなかでは増大しえないことが、したがって、剰余価値の形成を可能にするなにものかが、流通の外部で起こらざるをえないことが、すでに証明された(23)。だが、要するに生産者=交換者の相互関係の総和である流通の外部で、剰余価値は生じうるものなのか? 流通の外部では、交換者は、一定の社会法則にしたがって測られる自分自身の労働の若干量を含む自分の商品とだけ、いつまでも関係している。この労働は生産物の価値のうちに表現されるが、この価値は計算貨幣で表現されるから、この労働は10ポンド・スターリングという価格で表現されることになる。しかし、この労働は、生産物の価値とこの価値の超過分とのうちに、同時に11ポンド・スターリングの価格でもある、すなわち、この価値自身よりも大きい価値でもある10ポンド・スターリングの価格のうちに、実現されるわけではない。生産者は確かに、自分の労働によって価値を創造することができるが、自分自身の力で増加するような価値を少しも創造することはできない。彼は、新たな労働によって新たな価値を現存の価値につけ加えることによって、たとえば皮で長靴を作ることによって、商品の価値を高めることができる。同じ素材がいまでは、より多くの労働を吸収したために、より多くの価値をもっている。長靴は皮よりも多くの価値をもっているが、皮の価値は元のままであって、長靴の製造中に剰余価値を少しもつけ加えなかった。したがって、流通の外部で生産者=交換者が、別の交換者と接触することなしに価値を増殖しうること、すなわち、剰余価値を産む特性を価値に伝えうることは、全く不可能であると思われる。ところが、このことなしには、彼の貨幣または商品が資本に転化されることはない。〉(江夏・上杉訳151-152頁)


●原注36

《初版》 初版には原注36だけでなく、原注37が本文の〈彼の商品の価値(37)〉に付けられている。だからそれも紹介しておく。なおこの原注37は第二版だけではなくフランス語版でもなくなっている。

 〈(36)「市場の通常の状況のもとでは、利潤は、交換によっては得られない。もしそれがこの取引よりも前になかったとすれば、それはこの取引のあとにもありえないであろう。」(ラムジー、前掲書、184ページ。)〉(江夏訳168頁)

  〈(37)私が本書で、価値という言葉を、一段と詳しく特徴づけずに用いるばあいには、つねに交換価値を意味すべきである、ということをここで指摘しておく。〉(江夏訳169頁)

《フランス語版》

 〈(23) 「利潤は、市場の通常の状態では交換から出てこない。利潤があらかじめ存在しなかったならば、それはこの取引の後にはなおさら存在しえないであろう」(ラムジ、前掲書、184ページ)。〉(江夏・上杉訳152頁)


●第21パラグラフ

《61-63草稿》

 〈剰余価値、あるいは価値の自己増殖は、交換から、流通からは、発生しえないのである。他方では、それ自身が価値を生みだす価値は、ただ、交換の、流通の一産物でしかありえない。というのは、価値が交換価値として働くことができるのは、ただ交換のなかにおいてでしかないからである。〉(草稿集④34頁)

《初版》

 〈だから、資本は、流通から生ずることができないし、同様に、流通から生じえないわけにもゆかない。それは、流通のなかで生じなければならないのと同時に、流通のなかで生じてはならない。〉(江夏訳169頁)


《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフはなくなっている。


●第22パラグラフ

《初版》

 〈だから、二様の結果が生じたわけである。
  貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて説明されるべきであり、したがって、等価物同士の交換が、出発点であると見なされる(38)。まだ資本家の幼虫でしかないわが貨幣所持者は、商品を、その価値どおりに買い、その価値どおりに売り、そうはいっても、過程の終わりには、投入したよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成育は、流通部面で行なわれなければならないし、しかも流通部面で行なわれではならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!〉(江夏訳169頁)

《フランス語版》

 〈こうして、われわれは二重の結果に到達した。
  貨幣の資本への転化は、商品流通の内在的法則を基礎として説明されるべきであるから、等価物同士の交換が出発点として役立つのである(24)。まだ蛹の状態にしかない資本家であるわれわれの貨幣所有者は、まず商品をその正当な価値で買い、次いでその価値どおりに売らなければならないが、それでも最後には、彼が以前に前貸ししたよりも多くの価値を回収しなければならない。貨幣所有者の資本家への変態は、流通部面で起こらなければならず、同時にけっしてそこで起こってはならない。これが問題の条件である。ここがロドスださあ跳べ!〉(江夏・上杉訳152頁)


●原注37

《初版》

 〈(38)以上の説明から、読者は、ここで述べられていることは、たとい商品価格が商品価値に等しくとも資本形成が可能でなければならない、ということが言われているだけだ、ということを理解するであろう。資本形成は、商品価値からの商品価格の偏差によって説明することはできない。価格が価値から現実にずれていれば、まず価格を価値に還元して、すなわち、こういう状態を偶然なものとして無視して、資本形成の現象を商品交換の基礎上で純粋に表象し、その考察にさいしては、本来の過程に関係のない撹乱的な付随的事情に感わされないようにしなければならない。おまけに、この還元は明らかに、けっして単なる科学的な手続きではない。市場価格の不断の振動、その上昇と低落は、相互に相殺しあい、相互に消去しあい、その内的基準としての平均価格におのずから還元される。この基準は、たとえば、比較的長い期間を必要とするすべての企業では、商人や産業家の導きの星になる。つまり、彼は、比較的長い期間を全体として考察すれば、商品が現実にはその平均価格より安くもなくくもなくその平均価格で売られる、ということを知っている。だから、彼の関心がいやしくも、片寄らない考え方に向いていれば、彼は、資本形成の問題を次のように提起しなければならないであろう。価格が平均価格によって、すなわち結局は商品の価値によって規制されているばあい、資本はどのようにして生じうるのか? と。私が「結局」と言うのは、平均価格は、A・スミスやリカードたちが考えているように、商品の価値量と直接に一致するものではないからである。〉(江夏訳169-170頁)

《フランス語版》

 〈(24) 前述の説明にしたがえば、これはただたんに次のことを意味しているということが、読者には理解される。すなわち、資本の形成は、商品価格が商品価値に等しいばあいにも、可能でなけれぱならないということ。資本の形成は、商品価値と商品価格との差、隔たりによっては、説明できない。もし価格が価値とちがっているならば、価格を価値に還元しなければならない。すなわち、問題を複雑にするぱかりの偶然事によって混乱させられずに、商品交換の基礎上で、完全な姿での資本形成の現象を観察しうるためには、こういう事情を、純粋に偶然なあるものとして度外視しなければならないのである。おまけに、周知のように、この還元は単なる科学的手続きではない。市場価格の不断の振動、その低落と騰貴とは、相互に相殺し、消去しあって、その内的規準としての平均価格におのずから還元されるのである。この基準は、やや長い期間を必要とするどの事業でも、商人または産業家を支配する。充分に長い期間を考察すれば、商品は平均価格以下でも以上でもなく、平均価格で売られることを、彼は知っているのである。産業家は、はっきり見ぬくことを望ましく思うならば、問題を次のように提起すべきであろう。価格が平均価格によって、すなわち究極には商品価値によって規制されるならば、どのようにして資本は発生することができるのか? と。私が「究極に」と言うのは、A・スミス、リカード、その他の者が考えているように、平均価格は商品価値と直接には一致しないからである。〉(江夏・上杉訳152-153頁)

《マルクスからフェルディナント・ドメラ・ニーヴェンホイスへの1880年6月27日付け書簡》

  〈『社会科学年報』(第1巻、下半期号)のなかで読んだあなたの論文によって、あなたがオランダの人たちに『資本論』の要約をするのに、まったく適しておられることには、すこしも疑いをもちません--ついでに言っておきますが、シュラム氏(C・A・S、81ぺージ)は、私の価値論を誤解しています
  『資本論』のなかのひとつの注に、A・スミスとリカードは、価値生産価格とを(市場価格についてはまったく別としても)混同している点でまちがっている、ということが述べてありますが、この注を読んだだけでも彼は次のことを理解できたでしょうに。すなわち、「価値」と「生産価格」との関係、したがってまた「価値」と「生産価格」を中心として振動する市場価格との関係は、けっして価値論そのものに属するのではなく、まして一般的なスコラ的な空語によって予想されうるものではなおさらない、ということです。〉(全集第34巻368頁)

(以上です。)

 

 

 

 

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