『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(2)
◎第4パラグラフ(単純な商品流通は価値をふやす手段ではない)
【4】〈(イ)抽象的に考察すれば、すなわち、単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこない諸事情を無視すれば、ある使用価値が他のある使用価値と取り替えられるということのほかに、単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもない。(ロ)同じ価値が、すなわち同じ量の対象化された社会的労働が、同じ商品所持者の手のなかに、最初は彼の商品の姿で、次にはこの商品が転化する貨幣の姿で、最後にはこの貨幣が再転化する商品の姿で、とどまっている。(ハ)この形態変換は少しも価値量の変化を含んではいない。(ニ)そして、商品の価値そのものがこの過程で経験する変転は、その貨幣形態の変転に限られる。(ホ)この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはある貨幣額、といってもすでに価格に表現されていた貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として存在する。(ヘ)この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものでないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替する場合のようなものである。(ト)こうして、商品の流通がただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすかぎりでは、商品の流通は、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすのである。(チ)それだから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが一致するということ、すなわちおよそそれらの作用がなくなるということを前提しているのである。(リ)だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがありうるとしても、両方が交換価値で得をすることはありえないのである。(ヌ)ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」(18)ということになるのである。(ル)もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる(19)。(ヲ)その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである(20)。〉
(イ)(ロ)(ハ) 単純な商品流通の内在的な諸法則からは出てこないさまざまな事情は無視して、過程を抽象的に考察しますと、ある使用価値が他の別のある使用価値と取り替えられるということのほかにはここには何もありません。つまり単純な商品流通のなかで行なわれるのは、商品の変態、単なる形態変換のほかにはなにもないのです。同じ価値が、つまり同じ量の対象化された社会的労働が、同じ交換者の手のなかでとどまっています。例えこの価値が、最初は彼自身の生産物(商品)の姿で、次にはこの商品が転化した貨幣の姿で、そして最後にはこの貨幣が再転化した商品の姿へと変転するとしても。だからこの形態変換は少しも価値量の変化を含んでいません。
私たちの課題は単純な商品流通がその性質上、価値の増殖、よって剰余価値の形成をもたらすものかどうかを調べることです。だから単純な商品流通の内在的な法則からは出てこない偶然的な諸事情は無視して、過程を抽象的に考察しなければなりません。そうすると単純流通は、ある使用価値が別のある使用価値と取り替えられるという以外には何もありません。商品の変態以外には何もないのです。
同じ価値が、つまり同じ量の対象化された社会的労働が、最初は交換者の手のなかで商品の形態で存在し、次にはその商品が転換した貨幣の姿で存在し、そして最後には再び再転化した別の商品の姿に転換しますが、しかしこの一連の形態変換には少しも価値量の変化、その増殖は含んでいないのです。
(ニ)(ホ) そして、商品の価値がこの過程で経験する唯一の変転は、その貨幣形態の変転に限られています。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格として、次にはその価格として表現されていたある貨幣額として、最後にはある等価商品の価格として、存在しるのです。
そして商品の価値がその形態変換のなかで経験する唯一の変転は、その貨幣形態の変転に限られています。この貨幣形態は、最初は売りに出された商品の価格(値札)として存在し、次にはその価格の実現された形態としてある貨幣額として存在し、そして最後には別のある等価物の価格として存在しています。
(ヘ) この形態変換がそれ自体としては価値量の変化を含むものでないことは、ちょうど5ポンド銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨やシリング貨と両替してもその価値量が変化しないとの同じことです。
こうした商品の価値の形態変換が、それ自体としては価値量の変化を含んでいないことは、ちょうど5ポンドの銀行券をソヴリン貨や半ソヴリン貨と両替してもらってもその価値量に変化がないのと同じことです。
(ト)(チ)(リ)(ヌ) ところで、商品の流通はただ商品の価値の形態変換だけをひき起こすだけだから、もし現象が純粋に進行するならば、等価物どうしの交換をひき起こすだけであるのは明らかです。だから、価値がなんであるかには感づいてもいない俗流経済学でさえも、それなりの流儀で現象を純粋に考察しようとするときには、いつでも、需要と供給とが均衡する、だからそれらの作用がなくなるということを前提するのです。だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがあっても、交換価値について双方が得をすることはありえないのです。ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」といういいまわしが用いられるのです。
このように商品の流通はただ商品の価値の形態変換を引き起こすだけですから、もし現象の偶然事を取り去り過程を純粋に考察するなら、価値量には何の変化もなく、ただ等価物どうしの交換を引き起こすだけです。だから価値がなんであるかを知らない俗流経済学者たちでも、彼らなりに過程を純粋に考察しようとするなら、いつでも需要と供給が均衡すること、つまりそれらの作用が働かないことを前提にし話を進めるのです。
だから単純な商品流通では、使用価値に関しては交換当事者の双方が得することがあっても、交換価値に関しては双方が得をすることはありえないのです。ここでは「平等のあるところに利得はない」といういいまわしが用いられるのです。
(ル)(ヲ) もちろん、確かに商品は、その価値からずれた価格で売られることもありえます。しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われるのです。その純粋な正常な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのです。
もちろん現実の商品流通では、確かに商品は、その価値からずれた価格で売られこともあります。しかしこうした価値からずれた価格による交換は交換の法則からの逸脱であり、現実の過程によって是正されます。だからその純粋な正常な姿では、商品交換は等価物どうし交換であって、よって価値をふやす手段はないのです。
◎原注18
【原注18】〈"Dove e eguallta non e lcuro" (ガリアーニ『貨幣について』、クストディ編、近世篇、第4巻、244ページ。)〉
これは〈ここでは、むしろ、「平等のあるところに利得はない」(18)ということになるのである。〉という本文に付けられた原注です。
これは第3パラグラフの解説のなかで紹介した『61-63草稿』のなかに次のように引用されていました。
〈ところが、交換価値については事情はまったく違う。この場合には反対に次のように言われている、--「平等のあるところに、利得はない」(フェルディナンド・ガリアーニ『貨幣について』、グストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、18O3年、244ページ)。〉 (草稿集④26-27頁)
ガリアーニは、第1節の原注10aなどそれ以前の多くの注のなかで引用紹介されています。『資本論辞典』から紹介しておきましょう。
〈ガリアニ Ferdinapdo Galiani (1728-1787) .イタリアの牧師・外交官・経済学者……重商主義者で,重農主義に反対した.……ガリアニによれば,商品価値は効用に依存する,さらに稀少性の影響もうける.人間労働によってつくりだされた財貨のばあいには,その価値は労働量あるいは労働者の数できまる.しかしどちらかといえば,価値の主観的・心理的説明に傾いていて,その意味では効用説の先駆のひとつをなす.しかるに,その価値や貨幣にかんする議論では,のちの労働価値説をもととしたような明快な諸命題がみえており,マルクスはこれを評価している.たとえば,価値を人間のあいだの一関係とみる観点,金銀は本来的に貨幣だという命題,平等のあるところに利得なしという等価交換的見方,産業改良による労働の生産性の向上と価値低落の指摘などは,マルクスによって引用されている.〉(451頁)
◎原注19
【原注19】〈19「もしなにか外的な事情が価格を下げるか上げるかするならば、交換は両当事者の一方にとって不利になる。その場合には平等は侵害されるが、しかし、この侵害は、あの原因によってひき起こされるのであって、交換によってひき起こされるのではない。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、904ページ。)〉
これは〈もちろん、商品は、その価値からずれた価格で売られることもありうるが、しかし、このような偏差は商品交換の法則の侵害として現われる(19)。〉という本文につけられた原注です。価値からの価格のずれは交換によって引き起こされるのではなく、その侵害によって生じているのだという指摘です。
ル・トローヌの同著からは先の原注17などそれ以外の多くの原注のなかでも引用されています。ル・トローヌについては原注17の説明を参照してください。
◎原注20
【原注20】〈20「交換は、その性質上、ある価値とそれに等しい価値とのあいだに成立する対等の契約である。だから、それは富をなす手段ではない。というのは、受け取るのと同じだけを与えるのだからである。」(ル・トローヌ、同前、903、904ページ。)〉
これは〈その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではないのである(20)〉という本文に付けられた原注です。同じことを的確に指摘しているものとしての紹介ではないかと思います。なおル・トローヌについては同じく原注17の解説を参照してください。
◎第5パラグラフ(商品流通を剰余価値の源泉として説明しようと試みる人たちは、使用価値と交換価値とを混同している)
【5】〈(イ)それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。(ロ)たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。
(ハ)「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。(21)」
(ニ)これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである(22)。(ホ)それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。(ヘ)ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。(ト)たとえば、次のように言う。
(チ)「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない(23)。」
(リ)しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない。(ヌ)また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがもっと有用だとすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用である。(ル)そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか? (ヲ)また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言えるであろう。〉
(イ) それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みる人たちは、たいていは一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値とを混同しているのです。
これは先のパラグラフの結論として〈その純粋な姿では、商品交換は等価物どうしの交換であり、したがって、価値をふやす手段ではない〉と述べていたことに対応しています。だから商品流通を剰余価値の源泉として説明する人たち(重商主義者たち)の多くは、使用価値と交換価値とを取り違え、混同しているというのです。
(ロ)(ハ)(ニ) その一例を示すと、コンディヤックの場合は次のように述べています。「商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいである。逆である。二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである。……もしも実際につねに等しい価値どうしが交換されるのならば、どの契約当事者にとっても利得は得られないであろう。だが、両方とも得をしているか、またはとにかく得をするはずなのである。なぜか? 諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある。一方にとってより多く必要なものは、他方にとってはより少なく必要なのであり、またその逆である。……われわれが自分たちの消費に欠くことのできないものを売りに出すということは前提にはならない。われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする。……交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。……しかし、もう一つ別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる。」これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会をすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのです。
その一例としてコンディヤックの一文が紹介されています。
コンディヤックは〈商品交換では等しい価値が等しい価値と交換されるということは、まちがいで〉〈逆である〉と述べています。そしてその理由として〈われわれは、自分に必要な物を手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。われわれは、より多く必要なものと引き換えにより少なく必要なものを与えようとする〉からだと言うのです。というのは〈諸物の価値は、ただ単に、われわれの欲望にたいするそれらの物の関係にある〉からだというのです。ということはコンディヤックのいう「価値」というのは使用価値以外の何ものでもないわけです。つまりコンディヤックが〈二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与える〉という場合、自分にとって使用価値でないものを与え、自分にとって使用価値であるものをそれと引き換える手に入れると述べているにすぎません。つまり先にみたように使用価値に関してなら、確かに交換者双方が得をするといいうることはすでに確認したことです。そして使用価値が異なるからこそ、それらは交換されるというのもまったく当たり前のことです。それをコンディヤックは、価値と使用価値とを混同して論じているだけのことです。
しかし他方でコンディヤックは〈交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった〉とも述べています。つまりこの場合の「価値」は貨幣に等しいものとして述べられており、その意味では正しい意味で述べられています。そしてこの場合は〈等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった〉と述べているのです。だからコンディヤックは等価交換ということも認めているわけです。しかしそれだけでない、〈もう一つ別な考慮が加えられなければならない〉として使用価値に関しては不等価な交換だというわけです。
マルクスはそれだけではなくて、コンディヤックは発達した商品生産の社会を、生産者が自分で生活手段を生産して、ただその欲望を越える余剰分だけを、互いに交換し合うという交換の未発達な状態にすり替えて論じているのだとも指摘しています。これは原注22を見るとよく分かります。
(ホ)(ヘ)(ト)(チ) こうしたコンディヤックの議論はしかし古い昔の話ではなくて、現代の経済学者たちによっても、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値の源泉であるとして説明しようとする場合には、しばしば繰り返されているのです。たとえば、次のように言われています。「商業は生産物に価値をつけ加える。なぜならば、同じ生産物でも、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつことになるからである。したがって、商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない。」云々。
この引用されているコンディヤックの著書『商業と政府』は1776年に出ています。つまりマルクスが『資本論』を書いている時より90年ほど前のものです。しかしこうしたコンディヤックの議論は、現代の経済学者たちによっても、交換の発展したものである商業を剰余価値の源泉であるかに説明しようとする人たちによって繰り返されているというのです。そしてその一例としてS・P・ニューマンの『経済学要論』からの一文が紹介されています。この著書は1835年に出ています。つまりコンディヤックの著書が出てから半世紀以上たったものです。
このニューマンの主張は、〈商業は生産物に価値をつけ加える〉というものですが、その理由として〈生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつ〉からだというのです。しかしこれは明らかに使用価値について述べていると思えます。〈商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない〉というのは、商業と運輸業をごっちゃにしているような気がしないでもありません。商業は別のところで仕入れたものを他のところで売ることから、当然、そこに商品を輸送する過程が入ってきますが、それ自体は商業ではなく運輸業であり、運輸業は延長された生産過程だとマルクスが述べているように、その限りは価値を生産し追加するのですが、しかし商業はあくまでも価値の形態変換を媒介するだけのものであって、その限りでは価値をまったく付け加えないし、もちろん生産もしないのです。
(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) しかし、人々は商品にたいして二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその交換価値に、支払うのではありません。それに、商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとってのほうがいっそう有用だとしても、その商品の貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとってのほうがもっと有用なのです。そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあるでしょうか? だから彼らの言い分をまねるなら、買い手は、たとえば靴下販売商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を果たしているのだ、とも言えるでしょう。
ニューマンは〈生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうがより多くの価値をもつ〉というのですが、しかし消費者は商品の価値に加えてその使用価値に対しても支払うわけではないとマルクスは述べています。確かに商品は使用価値に関しては、売り手にとってよりも、買い手にとっの方がよりいっそう有用だとしても、しかし売り手が手にする貨幣は、買い手よりももっと有用なのだとマルクスは指摘しています。というのは、買い手は買った商品の使用価値だけにその欲望が限定されていますが、売り手はその貨幣で自分の欲しいものなら何でも手に入れる可能性を手にしたからです。まさに売り手は、自分の商品を販売して、直接的に交換可能な価値の一般的形態を、あらゆる商品に交換可能な一般的な富を手に入れることが出来るからこそ、彼らは自分の商品を販売したのです。
だからマルクスは、ニューマンのように〈商業は文字どおりに(strictly)生産行為とみなされなければならない〉というなら、〈買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字どおり(strictly)一つの「生産行為」を行なうのだ、とも言える〉と皮肉って述べています。しかし買い手は、ただ商品を買っただけで、あとはその商品を消費するだけのことで、その商品について何の生産行為もしていないことは明々白々なことです。
◎原注21
【原注21】〈21 コンディヤック『商業と政府』(1776年)、所収、デールおよびモリナリ編『経済学叢書』、パリ、1847年、267、291ページ。〉
これは本文のなかで引用されているものの典拠をしめすだけのものです。コンディヤックについても『資本論辞典』を参照しておきましょう。
〈コンディヤック Etienne Bonnot de Condillac,abbè de Mureaux (1715-1780)フランスの哲学者・経済学者.……彼によれば,価値は効用にもとづくものであり,効用は物の慾望にたいする稀少性にある.したがって価値は慾望・効用にのみかんする主観的・相対的概念であって.すべての交換にさきんじて存在し,商業は交換者相互の余剰の不等価交換において成立する.これによって彼はケネー一派の重農主義者たちが等価交換説にもとづいて商工業を不生産的とするのにたいして,商業は同時に交換者双方に二つの価値をもたらし,工業は余剰を加工してあたらしい価値を増加するのであり,いずれも農業とともに生産的であると主張した.これにたいして重農主義的見解を忠実に信奉するル・トローヌは,生産物の評価はその効用だけでなく相互の交換において考えられるべきであり,価値は交換以前に存在するのではなく,交換関係において生ずることを指摘し,発展した社会には余剰のものは存在せず,したがってコンディヤックの相互余剰交換説は.今日の社会に妥当しえないと批判した.マルクスは『資本論』第1巻第4章で,商品流通を剰余価値の源泉と主張する背後には使用価値と交換価値の混同があることを指摘し,その例としてコンディヤックの説をあげ,彼が交換価値の本性についてすこしも理解していないと指摘している.さらにマルクスはル・トローヌの批判を引用しながら,コンディヤックが発展した商品生産のを社会を,生産者が自分の生活維持手段しか生産せず,自己需要をこえる超過分を余剰として流通に投ずるような単純な一の状態とすり換えていると指摘している.〉(491頁)
◎原注22
【原注22】〈22 (イ)それだから、ル・トローヌは彼の友人コンディヤックに次のように非常に正しく答えているのである。(ロ)「発達した社会にはおよそ余分なものというものはないのである。」(ハ)同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっている。(ニ)「もし交換当事者の両方が、同じだけより少ないものと引き換えに同じだけより多くのものを受け取るとすれば、彼らは両方とも同じだけを受け取るのだ。」(ホ)コンディヤックは、交換価値の性質には少しも感づいていないからこそ、教授ヴィルヘルム・ロッシャー氏にとっては氏自身の小児的概念の似合いの保証人なのである。(ヘ)ロッシャーの『国民経済学原理』、第3版、1858年、を見よ。〉
(イ)(ロ) それだから、ル・トローヌは彼の友人コンディヤックに次のように非常に正しく答えているのです。「発達した社会にはおよそ余分なものというものはないのである。」
これは〈コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、まったく子供じみたやり方で、発達した商品生産の行なわれる社会とすりかえて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を越える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態を持ち出しているのである(22)〉という本文につけられた原注です。
先の原注21で紹介した『資本論辞典』を見ると、コンディヤックは〈商業は交換者相互の余剰の不等価交換において成立する〉と主張し、〈これによって彼はケネー一派の重農主義者たちが等価交換説にもとづいて商工業を不生産的とするのにたいして,商業は同時に交換者双方に二つの価値をもたらし,工業は余剰を加工してあたらしい価値を増加するのであり,いずれも農業とともに生産的であると主張した〉とありました。〈これにたいして重農主義的見解を忠実に信奉するル・トローヌは,生産物の評価はその効用だけでなく相互の交換において考えられるべきであり,価値は交換以前に存在するのではなく, 交換関係において生ずることを指摘し,発展した社会には余剰のものは存在せず,したがってコンディヤックの相互余剰交換説は.今日の社会に妥当しえないと批判した〉とあります。それをマルクスも指摘しているといえます。
(ハ)(ニ) 同時に彼は次のような皮肉でコンディヤックをからかっています。「もし交換当事者の両方が、同じだけより少ないものと引き換えに同じだけより多くのものを受け取るとすれば、彼らは両方とも同じだけを受け取るのだ。」
本文に引用されている一文でコンディヤックは〈二人の契約当事者はどちらもつねにより小さい価値をより大きい価値と引き換えに与えるのである〉と述べていました。これに対して、トローヌはそれなら交換者は双方とも同じだけの価値を受け取ることになるではないかとからかっているというのです。
(ホ)(ヘ) コンディヤックは、交換価値の概念をまるっきり持っていないからこそ、ヴィルヘルム・ロッシャー教授は彼を、氏自身の子供じみた概念の似合いの後援者とみなしたのです。ロッシャーの『国民経済学原理』、第3版、1858年、を見よ。
本文で見たように、コンディヤックは価値と使用価値とを混同して、価値について正しい概念を持っていないことを暴露していますが、それだからこそ、ロッシャーはそのコンディヤックの価値概念に依拠して子供じみた概念を展開しているというのです。
ロッシャーについても『資本論辞典』から紹介しておきましょう。
〈ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉(586-587頁)
◎原注23
【原注23】〈23 S・P・ニューマン『経済学綱要』、アンドウヴァおよびニューヨーク、1835年、175ページ。〉
これは〈それにもかかわらず、コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発展した姿である商業を剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う〉として引用されているものの典拠を示すものです。
ニューマンについても『資本論辞典』を見てみることにしましょう。
〈ニューマン Francis William Newman(1805-1897)イギリスの著述家・神学者.……経済学の著作としては,『経済学綱要』がある.マルクスは,時としてこの書にみられる浅薄な考えを論難しているが(KⅢ-642:青木11-839:岩波10-444),近世初頭から19世紀にかけてのイギリスの経済事情の洞察にみるべきものがあり,なかんずく国有地や共有地の強権的私有化,農民の土地からの迫放,高利貸などの具体的・歴史的叙述は,すぐれていると評している.〉(527-528頁)
◎第6パラグラフ(等価物同士の交換では剰余価値は生まれないが、非等価物同士の交換ではどうか)
【6】〈(イ)もし交換価値の等しい商品どうしが、または商品と貨幣とが、つまり等価物と等価物とが交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しはしない。(ロ)そうすれば、剰余価値の形成は行なわれない。(ハ)しかし、その純粋な形態では、商品の流通過程は等価物どうしの交換を条件とするとはいえ、ものごとは現実には純粋には行なわれない。(ニ)そこで、次に互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみょう。〉
(イ)(ロ) もしも等しい価値の商品または等しい価値の商品と貨幣とが、すなわち等価物同士が交換されるとすれば、明らかにだれも自分が流通に投ずるよりも多くの価値を流通から引き出しことはできません。だからそうだとすれば、剰余価値の形成は何ら行なわれないことになります。
これまで検討してきましたように、等価交換、すなわち等しい価値の商品と商品とが、あるいは等しい価値の商品と貨幣とが交換されても、誰も交換以前に持っていた価値以上の価値を流通から引き出すことできません。つまり等価交換の流通からは剰余価値は生まれないのです。
(ハ)(ニ) しかし、確かに商品流通の純粋な形態では、等価物どうしの交換を条件としますが、しかし周知のように、現実にはものごとは決して純粋には起こるものではありません。そこで、次には互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみましょう。
商品流通の純粋な形態では、常に等価物どうしの交換を前提としますが、しかし現実の商品流通は、常に純粋に推移するとは限りません。だから等価どうしの交換が常に行われるとは限らないのです。むしろ現実の流通には常に不等価な交換を含んでいるといえるでしょう。では、等価ではない商品どうしの交換、あるいは不等価な商品と貨幣との交換を想定すれば、果たして剰余価値が生まれうるのかどうか、それを次に検討してみましょう。
◎第7パラグラフ(商品市場ではただ商品所持者と貨幣所持者が相対するだけ、一方は売り手、他方は買い手)
【7】〈(イ)とにかく、商品市場ではただ商品所持者が商品所持者に相対するだけであり、これらの人々が互いに及ぼし合う力はただ彼らの商品の力だけである。(ロ)いろいろな商品の素材的な相違は、交換の素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させる。(ハ)というのは、彼らのうちのだれも自分自身の欲望の対象はもっていないで、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからである。(ニ)このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけである。(ホ)すなわち商品の現物形態と商品の転化した形態との区別、商品と貨幣との区別である。(ヘ)したがって、商品所持者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。〉
(イ) いずれにしても、商品市場に存在するのは交換者と交換者だけであって、これらの人たちが互いに行使しあう力は、自分たちの商品の力でしかありません。
しかしその前に、純粋ではない状態とは言っても、商品市場に存在するのは交換者と交換者だけであって、彼らが互いに行使し合う力は、自分たちの商品や貨幣の力でしかないと想定する必要があります。
(ロ)(ハ) いろいろな商品の素材的な相違は、商品所持者たちが交換する素材的な動機であり、商品所持者たちを互いに相手に依存させるものです。というのは、彼らのうちのだれもが自分自身の欲望の対象はもっていないが、めいめいが他人の欲望の対象をもっているのだからです。
あるいはまた、いろいろな商品の素材的な違いは、商品所持者たちが交換する動機であり、また彼らを互いに相手に依存させる理由でもあります。というのは、彼らは互いに自分自身の欲望を満たすものは持っていないが、しかし相手の欲望を満たすに足るものは持っているのだからです。
(ニ)(ホ) このような、諸商品の使用価値の素材的な相違のほかには、諸商品のあいだにはもう一つ区別があるだけです。すなわち商品の現物形態と商品の価値形態態との区別、すなわち商品と貨幣との区別だけです。
このような諸商品の使用価値の素材的な相違のほかに、諸商品にはその現物形態と価値形態(値札)という区別が存在しています。つまり商品と貨幣との区別です。
(ヘ) だから、商品所持者たちは、ただ、一方は商品の所持者として売り手であり、他方は貨幣の所持者として買い手である、という観点から区別されるだけです。
というわけで、私たちがこれから検討する純粋な商品流通とは異なる諸要因を入れて検討するとしても、しかし商品所持者たちは、一方は商品の所持者として、すなわち売り手として、他方は貨幣の所持者として、すなわち買い手として考察するという点は、何一つ変わらないということは確認しておかねばなりません。
(以下は、(3)に続きます。)