『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(1)

2024-06-13 17:39:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(1)



◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(8)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №12)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第8回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(4)『資本論』における信用制度の考察〉を見て行くことにします(なおこれは〈〉の最後の項目であり、これで〈序章B〉の検討は終わります)。
    大谷氏は第3部草稿の第5章の「5) 信用。架空資本」(エンゲルス版第5篇第25章に該当)の冒頭の一文を紹介して、その内容を要約されていますが、その冒頭パラグラフの後半部分をはしょって紹介しています。しかし私たちは章末注で紹介されているその全文を見ておくことにします。それは次のようなものです。

    〈〔87〕「信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。[/]そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。」(『資本論』第3部第1稿。MEGAII/4.2,S.469;本書第2巻157-158ページ。)〉(144頁)

    文中に入れた〈[/]〉の前までが大谷氏が本文で紹介しているものです。後半部分はカットされさています。そしてその内容を次のように述べています。

    〈〈資本の一般的分析を完結させるためには利子生み資本についても,それが信用制度のもとでとる具体的諸姿態にまで形象化を展開する必要がある。そのためにはそれに必要なかぎりで信用制度に論及し,それを考察しなければならない。しかしながらこの考察は,「信用制度とその諸用具」そのものを本来の対象とする,それなりに自立した「分析」ではない。それは依然として『資本論』の外に残されている。〉
    このように外に残された「分析」とは,『資本論』でなされた信用制度についての考察を自己の基礎的部分として含み,ここから「諸資本の現実的運動」の叙述にまで至る,信用制度そのものを対象とする特殊研究であろう。〉(108頁)

    これを読む限りではそれほど問題があるように思えないかもしれません。しかし詳細に検討すると、大谷氏は実はこの冒頭の一文を読み間違っているのです。大谷氏はマルクスが最初〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす,信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある〉と述べているために、それは〈『資本論』の外に残され〉た〈特殊研究〉になると考え、だから〈信用貨幣などのような諸用具との分析は〉、これ以降の「5)」のなかでは取り扱われないのだと述べていると考えたのです。しかしそれだと実際の草稿の状態からすれば明らかにおかしいわけです。だからマルクスが続けて書いている〈そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉という一文も理解不可能なものになってしまったのです(実はエンゲルスも同じような間違った読み方をしたのか、そのあとの展開との整合性をもたすために、〈商業信用〉を〈商業・銀行業者信用〉に勝手に書き換えています)。
    というわけで大谷氏はここでマルクスが述べている〈商業信用〉とは何かについて極めて苦渋に満ちた議論を展開することになってしまったのです。それについては、すでに当該部分の解読のところで指摘し批判しておいたのですが(あるいはこの連載が続いて大谷本の第2巻の当該部分を取り上げる機会があるかも知れませんが)、そのさわりの部分を紹介しておきましょう(だからその限りで大谷本第2巻の内容を先取りしています)。
    まず大谷氏は、ここでマルクスがいう〈商業信用〉について次のように述べています。

  〈草稿「5)信用。架空資本」の冒頭のパラグラフでは,「われわれはただ商業信用〔d.commercielle Credit〕だけを取り扱う」,とされており,エンゲルスがこのなかの「商業信用」を「商業・銀行業者信用〔der kommerzielle und Bankier-Kredit〕」に変えた,ということはすでに述べた。このエンゲルスの表現は,従来「商業信用と銀行信用」と訳され(長谷部訳,岡崎訳,向坂訳),信用論ではこの二つの信用を論じることがその根幹をなすという理解を支える重要な典拠となってきた。ところがマルクスの草稿では,「商業信用」としか書かれていないのであった。これをどのように考えたらよいのか。どのように理解したらよいのか。〉(第2巻126頁)

    そしてまず、「商業信用」についてのマルクス自身の規定を大谷氏は次のように紹介しています。

  〈「商業信用{すなわち再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用}は,信用システムの土台〔d.Basis d.Creditsystems〕をなしている。この信用を代表するものが,手形,債務証書(延払証券)である。人はそれぞれ一方の手で信用を与え,他方の手で信用を受ける。さしあたりは,本質的に違った別の一契機をなす銀行業者の信用Banker's Credit〕はまったく度外視しよう。」(MEGA II/4.2,S.535;本書第3巻433ページ。)〉(同126-127頁、下線はマルクス、太字は大谷による傍点箇所)

    そして大谷氏は次のように言います。

  〈さて,「われわれはただ商業信用だけを取り扱う」とマルクスが書いているときの「商業信用」がいま見たような意味での商業信用であるとするならば,この言明はこれに続いて書かれた「5)信用。架空資本」の実際の内容とはまったく食い違っていることは明らかである。なぜなら,一方では「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じているからである。しかも,この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べているのであって,齟齬はすでにここから始まっていることになるのである。これはいったいどういうことであろうか。〉(同127頁)

    こうして大谷氏の苦悩は始まるわけですが、大谷氏のあれこれの詮索の検討は省略して、結論だけを見ておきましょう。次のように述べています。

    〈結論から言うと,私は,「5)」の冒頭ではマルクスはまだ「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という言葉を「再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用」,「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」という意味で使うようになっていなかったのだ,と考える。〉(同127頁、太字は大谷氏による傍点による強調)
 〈マルクスは「商業信用〔der comercielle Credit〕」という語を,エンゲルス版第30章にあたる部分,しかももっと狭く言って,草稿〔340a〕-341ページ,MEW版では496ページを書いているときに,はじめて特定の内容をもつ規定された概念として用いることにしたのではないか,と思われるのである。すなわち,いったん「産業家や商人が再生産過程の循環のなかで相互になしあう前貸」と書いたのち,こうした前貸において授受される信用をこれから論じていくのにそれを特定の言葉で呼ぶことの必要を感じて,「商業信用{すなわち再生産に携わっている資本家が互いに与え合う信用}」と書きつけたのではないか,と考えるのである。〉(同128頁)

 それではこの冒頭部分で使われている「商業信用」をマルクスはどういう意味で使っているのでしょうか、それが問題です。次に大谷氏はその解明に取りかかります。マルクスがそれに続けて〈この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく〉と述べていることをヒントに、いろいろと検討した結果、次のように述べています。

 〈すなわち広く言えば「公信用」と区別される「私的信用」であり,狭く言えば「私的信用」のなかの銀行業者の信用である。「商業信用〔d.commercielle Credit〕」という語で考えられているのは,広く見れば私的信用一般であり,狭く見れば銀行業者の信用だということになる。〉(同129頁)
 〈ここでのd.comrnercielle Creditでのcommerciellも,国家にかかわる政治的なあるいは公的なものにたいして,私的営業にかかわるもの,というくらいの意味ではないかと考えられる。したがって,ここで「商業信用」というのは,どちらかと言えば私的信用一般を指しているものと考えられるのである。〉(同129-130頁)

  つまりマルクスはこの冒頭の部分では、まだ商業信用を〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味で使うに至っておらず、ここでは公信用と区別された意味での私的信用一般という意味で使っているのだ、というのが大谷氏の解明の結論です。

    しかし何とも奇妙なわけの分からない考察ではないでしょうか。実際、大谷氏の結論を読んで、そんなアホな! と思わず思ったのは私だけしょうか。
    しかし実際には、極めて簡単で、単純・明快なことなのです。ただ大谷氏が何らかの思い込みでもあったのか、マルクスの文章を素直に読むことができなかっただけの話なのです。それを説明するために、私たちはとりあえずもう一度マルクスのテキストを見てみることにしましょう。

 〈/317上/【MEGAII/4.2,S,469.7-12】信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある。ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい。そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う。この信用の発展と公信用の発展との関連は考察しないでおく。〉(同157-158頁)

    ついでにもう一つの商業信用が出てくる部分も再度それだけを取り出してみましょう。

 〈「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」(MEGAII/4.2,S.472.16-17;本書本巻174ページ。)〉(同130頁)

    大谷氏も最初の商業信用とあとの方の商業信用とはほぼ同じ意味で使っていることを認めています。ただそれはエンゲルス版第30章該当部分でマルクス自身が規定している商業信用の意味(=「再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用」という意味)ではないというのです。しかしそんな馬鹿げたことはないのです。
    大谷氏はこの冒頭の一文の理解の点で間違っているのです。素直に読めば次のように理解できます。マルクスは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具との分析は,われわれの計画の範囲外にある〉と述べながら、しかし〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と書いています。では何の〈わずかの点をはっきりさせるだけでよい〉と考えているのでしょうか。それはいうまでもなく、〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉についてです。つまりマルクスはそれらの〈分析〉は計画外だが、しかし〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉については、これからそれらを取り扱って論じていくのだと述べているのです。だからそれ以降の草稿の内容と何の齟齬もありません。そして〈そのさいわれわれはただ商業信用だけを取り扱う〉と述べているわけです。つまり信用制度と信用諸用具のわずかの点を取り上げるが、それらは商業信用との関連のなかで問題になる限りで取り上げるのだと述べているだけなのです。
    だから〈この信用の発展〉、つまり〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の発展と公信用の発展との関連は取り上げないということです(ただし、ここで〈この信用〉が単数であることを考えると、〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉と諸用具については括弧に入れるのが適切かも知れません。つまり〈この信用〉とは大谷氏が間違って理解しているように〈商業信用〉ではなく〈信用制度〉を指しているのです)。だからマルクスは信用制度の発展と公信用の発展との関連は考察しない、と述べているのです。
 だから結論を言いますと、ここでマルクスが〈商業信用〉と述べているのは、後に(エンゲルス版第30章該当個所で)規定していますように〈再生産に携わる資本家が互いに与え合う信用〉という意味と理解してよいのです。また〈この信用〉とマルクスが述べているのは、確かに少しややこしいのですが、その直前の〈商業信用〉ではなく、ここで主題となっている〈信用制度(とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具)〉を指しているのです。こうしたものは、〈ここではただ,資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点をはっきりさせるだけでよい〉のだから、〈この信用の発展〉などは問題にならないし、〈公信用の発展との関連〉も問題にしないということなのです。
    だからマルクスがこれから問題にしようとするのは〈信用制度とそれが自分のためにつくりだす, 信用貨幣などのような諸用具〉の〈資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なわずかの点〉ですが、だからそれは商業信用との関連だけが取り扱われます。すなわち、商業信用と銀行制度との関連、絡み合い、あるいは信用制度のそうした側面、あるいはそうした関連のなかで問題になる信用諸用具(手形・小切手・銀行券等々)であり、そうした限られた範囲内のものだけをこれから取り扱うのだと述べているのです。
    このように理解すれば、大谷氏が危惧したよう齟齬は何一つ生じません。むしろ大谷氏が〈「5)」で論じられているのが商業信用だけでないばかりか,商業信用に触れている箇所が主要な部分だとさえも言えないのであり,他方では「5)」でいわゆる「銀行信用」,上の引用中の「銀行業者の信用」について「商業信用」以上に立ち入って論じている〉とか〈この言明の直後のパラグラフでは「生産者や商人のあいだで行なわれる相互的な前貸」について,つまり実質的に商業信用について述べているものの,そのあとの諸パラグラフでは商業信用ではなくて銀行業者の業務と彼らの信用とについて述べている〉等々といった指摘も、まったく何の齟齬もなく了解できるのです。
    だからまたマルクスはその次の一文(=「貸付は(ここでは本来の商業信用〔Handelscredit〕だけを取り扱う),……等々によって,行なわれる。」)でも、銀行の貸付について論じる場合も、それは商業信用との関連だけを問題にすると限定しているわけです。だから銀行の貸付は、個人消費用の貸付やあるいは国家への貸付などは取り扱わないということです。
    このように大谷氏のこの問題での議論は、冒頭のマルクスの一文を正確に読めなかったことに起因しています(あるいは大谷氏は、同じように間違った読み方をして「商業信用」を勝手に「商業・銀行業者信用」に書き換えたエンゲルスに影響されたのかも知れませんが)。だからそれに関連する大谷氏のさまざまなややこしいある意味では込み入った(第2巻の10頁分も使った!)議論はすべてまったくの無駄骨折りといわざるをえないのです。
    以上、今回は若干先取りする形で大谷氏の理解(というより”誤解”)を紹介し、批判する内容になりましたが、以上で、今回の大谷本の紹介は終わります。

    それでは本来の『資本論』の解説に移りましょう。今回は「第4篇 相対的剰余価値の生産」「第11章 協業」です。最初はこの章の位置づけから説明していくことにします。



   第11章  協 業

 

◎「第11章 協業」の位置づけ

    「第10章 相対的剰余価値の概念」では相対的剰余価値とは何かが解明されました。〈労働日の延長によって生産される剰余価値を私は絶対的剰余価値と呼ぶ。これにたいして、必要労働時間の短縮とそれに対応する労働日の両成分の大きさの割合の変化とから生ずる剰余価値を私は相対的剰余価値と呼ぶ〉ということでした。しかし必要労働時間を短縮するためには労働の生産力を上げて、必要生活手段の価値、すなわち労働力の価値を引き下げる必要がありました。しかし〈労働の生産力の発展は、資本主義的生産のなかでは、労働日のうちの労働者が自分自身のために労働しなければならない部分を短縮して、まさにそうすることによって、労働者が資本家のためにただで労働することのできる残りの部分を延長することを目的としているのである。このような結果は、商品を安くしないでも、どの程度まで達成できるものであるか、それは相対的剰余価値のいろいろな特殊な生産方法に現われるであろう。次にこの方法の考察に移ろう〉とマルクスは第10章を締めくくっていたのです。
    だからこの第11章からは(第13章までは)、相対的剰余価値の特殊な生産方法を明らかにしていくことになります。第11章の「協業」はその最初のものということです。マルクスは『61-63草稿』で「第11章 協業」と「第12章 分業とマニュファクチュア」と「第13章 機械設備と大工業」との関係を次のように述べています。

  〈これ(協業--引用者)基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)

    マルクスは第6パラグラフで〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という〉と述べていますように、協業というのは比較的多数の労働者が作業場や工場などに集められて資本の指揮のもとで一緒に働かされる場合のもっとも基本的な生産の形態ということができます。

  〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)

    このように協業も必要労働時間を短縮させて、剰余労働時間を増加させる一方法、すなわち相対的剰余価値を獲得するためのもっとも基本的な生産方法といえます。それが如何にして労働の生産力を高め、よってまた相対的剰余価値の増大をもたらすのかをこれから見てゆこうといわうけです。


◎第1パラグラフ(かなり多数の労働者が、同じときに、同じ労働場所で、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている)

【1】〈(イ)すでに見たように、資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことである。(ロ)かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている。(ハ)生産様式そのものに関しては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもない。(ニ)ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけである。〉(全集第23a巻423頁)

  (イ) すでに見ましたように、資本主義的生産が実際にはじめて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせるようになり、したがってその労働過程が規模を拡張して量的にかなり大きい規模で生産物を供給するようになったときのことです。

    少し書き換えられていますフランス語版を最初に紹介することにします。

  〈資本主義的生産が実際に成立しはじめるのは、工場主がたった1人で多くの賃金労働者を同時に働かせ、大規模に行なわれる労働過程がその生産物の販路として広大な市場を要求するようになったときのことである。〉(江夏・上杉訳334頁)

    ここでマルクスが〈すでに見たように〉と述べているのは、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで次のように述べていたことを指していると思えます。

  〈剰余価値の生産についてのこれまでの考察から明らかなように、どんな任意の貨幣額または価値額でも資本に転化できるのではなく、この転化には、むしろ、1人の貨幣所持者または商品所持者の手にある貨幣または交換価値/の一定の最小限が前提されているのである。可変資本の最小限は、1年じゅう毎日剰余価値の獲得のために使われる1個の労働力の費用価格である。この労働者が彼自身の生産手段をもっていて、労働者として暮らすことに甘んずるとすれば、彼にとっては、彼の生活手段の再生産に必要な労働時間、たとえば毎日8時間の労働時間で十分であろう。したがって、彼に必要な生産手段も8労働時間分だけでよいであろう。これに反して、この8時間のほかにたとえば4時間の剰余労働を彼にさせる資本家は、追加生産手段を手に入れるための追加貨幣額を必要とする。しかし、われわれの仮定のもとでは、この資本家は、毎日取得する剰余価値で労働者と同じに暮らすことができるためにも、すなわち彼のどうしても必要な諸欲望をみたすことができるためにも、すでに2人の労働者を使用しなければならないであろう。この場合には、彼の生産の目的は単なる生活の維持で、富の増加ではないであろうが、このあとのほうのことこそが資本主義的生産では前提されているのである。彼が普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならないであろう。もちろん、彼自身が彼の労働者と同じように生産過程で直接に手をくだすこともできるが、その場合には、彼はただ資本家と労働者とのあいだの中間物、「小親方」でしかない。資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家として、すなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、したがってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする。……云々。〉(全集第23a巻404-405頁)

    つまりここでは個別資本家が資本家として労働者を指揮・監督し、剰余労働の搾取に専念できるようになり、得られた剰余価値の半分を蓄積に回すためには、少なくとも〈彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならない〉と述べられていたわけです。だから最低限でも一定数の労働者数を集めることが想定されなければならないことになります。

  (ロ) かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言って良いですが)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしています。

    フランス語版です。

  〈同じ資本の指揮のもとで、同じ空間で(なんなら同じ労働の場で)、同じ種類の商品を生産するために同時に働く多数の労働者、これが資本主義的生産の歴史的な出発点である。〉(同上)

    だからかなりの多数の労働者が、同じときに、同じ空間(同じ作業所など)で、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家のもとで働くということが、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしているわけです。
    ここでマルクスは〈歴史的にも概念的にも〉と述べています(フランス語版はこうした表現は無くなっていますが)。概念的にはすでに引用した「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで述べられていたことと思いますが、では歴史的にはどうでしょうか。次のように述べています。

 〈じっさい歴史的に見いだされるのは、資本がその形成の発端で、労働過程一般を自己の統御〔Kontrolle〕のもとにおく(自己のもとに包摂する)ばかりでなく、技術的に出来あいのものとして資本が見いだすままの、そして非資本主義的な生産諸関係の基礎の上で発展してきたままの、もろもろの特殊的な現実の労働過程を自己の統御のもとにおくのだ、ということである。それは現実の生産過程--特定の生産様式--を見いだし、はじめはこの様式を、この様式の技術的規定性にはなんの変更も加えないまま、ただ形態的に自己のもとに包摂する。資本は、それが発展していくなかではじめて、労働過程を自己のもとに形態的に包摂するばかりでなく、それを変形し、生産様式そのものを新たに形づくり、こうしてはじめて、自己に特有の生産様式を手に入れるのである。しかし、生産様式のこの変化した姿〔Gestalt〕がどのようなものであろうとも、それは、労働過程一般としては、すなわちその歴史的な規定性を捨象した労働過程としては、つねに労働過程/一般の一般的諸契機を含んでいる。〉(草稿集④145-146頁)

    すなわち歴史的には資本主義的生産に先行する分散的な手工業を一人の資本家がそのまま一つの作業場に集めて同じ商品を生産するように組織することから開始されるということです。

  (ハ)(ニ) 生産様式そのものについては、たとえば初期のマニュファクチュアを同職組合的手工業から区別するものは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数がより大きいということのほかには、ほとんどなにもなありません。ただ同職組合親方の仕事場が拡大されているだけでなのです。

    フランス語版は次のパラグラフの冒頭部分がここに含まれています。

  〈かくして、厳密な意味でのマニュファクチュアは、その初期にあっては、同時に働かされる労働者の数がいたって多いこと以外には、中世の手工業とほとんど区別がない。同職組合の親方の作業場がその規模をひろげただけのことだ。この区別は初めはたんに量的である。〉(同)

    マルクスは絶対的剰余価値の生産は、資本がまだそれに先行するさまざまな労働をただ形式的に資本関係に包摂するだけの関係において行われるものであると述べていました。
    だから資本主義的生産関係を始めたマニュファクチュアの初期のものは、生産様式そのものとしては、中世の手工業と何も変わらず、ただそれらを一つの作業場に集めて規模を広げただけにすぎないわけです。

    マルクスは協業を、まずは資本主義的生産が開始されるのはどういう条件においてかという問題から始めています。つまり問題の関心は、あくまでも資本主義的な協業であって、決して協業一般ではないわけです。あとからわかりますが、協業というのは資本主義的生産に固有のものではありません。それはもっとも原始的な狩猟・漁労の時代からあったとさえいえるでしょう。しかしマルクスはそうした協業一般ではなくて、あくまでも資本主義的生産における協業を問題にしているわけです。それはいうまでもなく、協業を相対的剰余価値を生産する方法の最初の基本的なものと位置づけているからにほかなりません。資本主義的生産における協業をまず目の前において、それを観察すれば、それは資本主義的生産そのものが始まるときに、同時にその一つの契機として存在するものであることを知るのです。というのは、資本主義的生産というのは、そもそもひとつの作業場などに労働者を集めて、同じ仕事をさせることから開始されるからです。だから協業もまた資本主義的生産のはじまるときに始まるといえるわけです。というより協業が資本主義的生産の前提であり、その一つの契機であるとも言えるでしょう。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈あらかじめなお、次のことだけは明らかにしておこう。商品所有者または貨幣所有者が彼の貨幣または商品を、要するに彼の所有する価値を資本として増殖するverwerten〕ため、したがってまた自分を資本家として生産するためには、彼が最小限ある数の労働者を同時に働かせうることがはじめから必要である。この観点から見ても、生産的資本として用いられうるための、ある最小限の大きさの価値が前提されている。この大きさの第一の条件は、すでに次のことから生じる。かりに労働者が労働者として生きていくためにであれば、彼は必要労働時間、たとえば1O時/間のそれを吸収するのに要するだけの額の原料(および労働手段)しか必要としない。資本家は、それに加えて、少なくとも、剰余労働時間を吸収するのに要するだけの原料を(またそれだけの補助材料等々をも)買うことができなければならない。そして第二に、必要労働時間が10時間で剰余労働時間が2時間であるとすれば、資本家は、自分が労働しない場合には、日々彼の資本の価値を越えて1O労働時間という価値を受け取るためにでもすでに5人の労働者を働かさなければならないであろう。ところが、彼が剰余価値の形態で日々受け取ったものは、彼が自分の労働者たちの1人と同じように生きていくことを可能にするだけである。こういう〔5人の労働者を働かさなければならないという〕ことでさえも、彼の目的が労働者の場合と同様に単なる生活維持であって資本の増加--これは資本主義的生産にあっては前提〔unterstellen〕されていることである--ではない、という条件のもとで〔生じうる〕にすぎない。かりに彼自身がともに労働し、かくして彼自身がなんらかの労賃を稼ぐとしても、この場合でさえもまだ、彼の生活様式は労働者の生活様式からほとんど区別されないであろう(彼に与えられるのは少しばかり高い支払いを受ける労働者の地位にすぎないであろう)(そしてこの〔労働者数の〕限界は同職組合規則によって固定される)し、とりわけ彼が自分の資本を増加させる、すなわち剰余価値の一部分を資本化するとすれば、どのみちまだ労働者の生活様式にきわめて近いものであろう。中世における同職組合親方の関係は、そして部分的にはなお今日の手工業親方の関係も、そのようなものである。彼らが生産するのは資本家としてではないのである。〉(草稿集④290-291頁)
   〈他方では、より多くの数の労働者を使用するためには資本が増大しなければならないことは明らかである。第一に不変部分が、すなわち、資本のうち、その価値が生産物に再現するだけの部分が増大しなければならない。より多くの労働を吸収するためには、より多くの原料が必要である。同様に、もっと不確定的な割合でではあるが、より多くの労働手段が必要である。手労働が主要因であり、生産が手工業的に営まれていると仮定すれば(--そしてこの仮定は、まだ剰余価値の絶対的形態を考察しているだけのここでは至当である、というのは、剰余価値のこの形態は資本によって変形された〔umgewandelt〕生産様式にとっても依然としてその基本形態ではあるけれども、資本が労働過程をただ形態的に自己のもとに包摂したにすぎないかぎりでは、つまり実際には、人間の手労働が生産の主要因であるような以前の生産様式が資本の統御のもとに取り込まれたにすぎないかぎりでは、いまだ剰余価値の絶対的形態が資本の生産様式にとって固有のものであり、この生産様式の唯一の形態であるからである--)、用具や労働手段の数は、労働者自身の数とより多くの数の労働者が労働材料として必要とする原料の分量とにほぼみあって増大しなければならない。このように、資本の不変部分全体の価値が、使用される労働者数の増大に比例して増大するのである。さて第二に、資本のうち労働能力と交換される可変部分が(不変資本が増大するのと同様に)、労働者数あるいは同時的労働日の数の増加に比例して増大しなければならない。資本のうちのこの可変部分は、前提のもとでは、つまり手工業的工業のもとでは、最も大きく増大するであろう。と/いうのはここでは、生産の本質的要因である個々人の手労働は所与の時間内にわずかの分量の生産物を提供するだけであり、したがって生産過程で消費される原料は、充用される労働に比べて少量であり、同様に手工業的用具は簡単なものであってそれ自身わずかな価値しか表わさないからである。資本のうちの可変部分は資本の最大の構成部分をなすので、資本が増大する場合にはこの部分が最も大きく増大せざるをえないであろう。言い換えれば、資本のうちの可変部分は資本の最大の部分をなすので、ほかならぬこの部分こそが、より多くの労働能力との交換のさいに最もいちじるしく増大しなければならないのである。〉(草稿集④292-293頁)


◎第2パラグラフ(相違はさしあたりはただ量的でしかないが、商品価値一般の生産についていえば、労働過程のどんな質的変化も無関係であるように見える)

【2】〈(イ)だから、相違はさしあたりはただ量的でしかない。(ロ)すでに見たように、与えられた一資本の生産する剰余価値量は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされる労働者の数を掛けたものに等しい。(ハ)この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を少しも変えるものではない。(ニ)また、商品価値一般の生産についていえば、労働過程のどんな質的変化も無関係であるように見える。(ホ)それは、価値の性質から出てくることである。(ヘ)12時間の1労働日が6シリングに対象化されるとすれば、この労働日の1200は6シリングの1200倍に対象化される。(ト)一方の場合には、12労働時間の1200倍が、他方の場合には12労働時間が、生産物に合体されている。(チ)価値生産では、多数はつねにただ多数の個として数えられる。(リ)だから、価値生産については、12/00人の労働者が別々に生産するか、それとも同じ資本の指揮のもとにいっしょになって生産するかでは、なんの相違も生じないのである。〉(全集第23a巻423-424頁)

  (イ) だから、違いはさしあたりはただ量的でしかないのです。

    だから資本主義的生産とそれ以前の生産と比べれば、違いはさしあたりはただ量的なものにすぎないのです。フランス語版ではこの部分は最初のパラグラフの最後に付けられています。だからフランス語版の紹介はありません。

  (ロ)(ハ) すでに見たように、与えられた一資本の生産する剰余価値量は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされる労働者の数を掛けたものに等しい。この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率または労働力の搾取度を少しも変えるものではありません。

    このパラグラフもフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初にフランス語版を紹介して行くことにします。

  〈働かされる労働者の数は、搾取度、すなわち、与えられた資本がもたらす剰余価値の率を、少しも変えない。〉(江夏・上杉訳334頁)

    ここでもマルクスは〈すでに見たように〉と述べていますが、これも「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第4パラグラフで〈したがって、生産される剰余価値の量は、1人の労働者の1労働日が引き渡す剰余価値に充用労働者数を掛けたものに等しい。〉(全集第23a巻400頁)と述べられていました。
    このようにただ量的に違うだけで、1人の資本家によって労働者が一つの場所に集められ同時に同じ商品の生産のために働かされる場合、資本が獲得する剰余価値の総量は、ただ1人の労働者の供給する剰余価値に同時に働かされる労働者数を掛けたものに等しいだけです。つまりただ労働者数を増やしただけでは、労働力の搾取度を高めたり、剰余価値率を引き上げることにはならないわけです。その意味では労働の生産力を上げて、労働力の価値を引き下げ、相対的剰余価値の拡大をはかるものにはその限りではなっていないといえます。しかしいうまでもなく後に明らかになりますが、協業はそうしたものにとどまらない側面をもっているのです。

  (ニ)(ホ) また、商品価値一般の生産について言いますと、労働過程のどんな質的変化とも無関係であるように見えます。それは、価値の性質から出てくることです。

    まずフランス語版です。

  〈また、生産様式に変化が生じても、その変化は、労働が価値を生産するものとしての労働に作用しうるようには見えない。価値の本性からしてそうなのだ。〉(同上)

    そして実際、商品の価値一般の生産ということで言いますと、それは労働者の支出する労働時間に関係があるだけで、それが如何なる生産様式のもとでなされるか、つまり労働過程の質的変化とは、無関係であるように見えます。それは価値の性質からそもそも導き出される結論です。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ) 例えば12時間の1労働日が6シリングに対象化されるとしますと、この労働日の1200は6シリングの1200倍として対象化されます。一方の場合には、12労働時間が、他方の場合には12労働時間の1200倍が、生産物に合体されています。価値生産では、多数はつねにただ多数の個として数えられます。だから、価値生産については、1200人の労働者が別々に生産するか、それとも同じ資本の指揮のもとにいっしょになって生産するかでは、なんの相違も生じないのです。

    フランス語版を紹介しておきます。

  〈12時間の1労働日が6シリングのなかに実現されるならば、100労働日は6シリング×100のなかに実現されるであろう。生産物に、初めは12労働時間が体現されていたのが、今度は1200労働時間が体現されるであろう。したがって、100人の労働者は、個々ばらばらに労働しても、彼らが同じ資本の指揮のもとで結合されるばあいと同じだけの価値を生産するであろう。〉(同上)

    具体的な例を上げて考えてみましょう。12時間の1労働日が6シリングの価値を対象化するとします。今、この労働者を1200人集めて同時に働かせたとします。そうすると生産される価値は6シリングの1200倍、すなわち7200シリング(=360ポンド)になります。
    次にマルクスは〈一方の場合には、12労働時間の1200倍が、他方の場合には12労働時間が、生産物に合体されている〉と書いていますが、順序が逆になっています。つまり本来は〈一方の場合〉は1人の労働者が対象化する価値を指し、〈他方の場合〉は1200人の労働者が対象化する価値になるべきところです(だから平易な書き直しではそのようにしました)。
    なおフランス語版では〈生産物に、初めは12労働時間が体現されていたのが、今度は1200労働時間が体現されるであろう〉と簡潔に書かれています。ところがイギリス語版では〈一つの場合では、12×1,200労働時間が、もう一つの場合は、日12時間のそのような大勢による労働が生産物に一体化される〉となっています。しかしこれではどちらも1200人の労働者の生産する価値について述べていることになってしまっています。これは翻訳が悪いのかどうかは分かりません。
    つまり価値の生産では、多数はただ個々の労働者の生産する価値をそれを倍加したものと数えられるだけです。だから価値の生産では、1200人が個々ばらばらに生産するか、そとも一カ所に集められて資本の指揮のもとで一緒に生産するかということによっては、何の相違も生じないのです。つまりこの限りでは相対的剰余価値の生産とは無関係に見えます。しかし協業はそうした外観を覆します。それは後のお楽しみ。

  『61-63草稿』ではマルクスは次のように書いています。

  〈すでに絶対的剰余価値を考察するさいに見たように、剰余価値の率が所与であれば、それの量は、同時に就業する労働者の数に依存する、つまりそのかぎりでは彼らの協業に依存する。ところがまさにここで、相対的剰余価値--これが高められた労働生産力を、したがってまた労働生産力の発展を前提するかぎり--との区別がはっきりと現われてくる。それぞれ2時間の剰余労働を行なう1O人の労働者に代わって2O人の労働者が充用されるとすれば、その結果は、第一の場合の2O剰余時間に代わって40剰余時間である。1:2=20:40。〔剰余価値の〕割合は、2O人についても、1人についても同じである。ここではただ、1人ひとりの労働時間の合算ないし掛け算があるだけである。協業それ自体は、ここでは、この割合にまったくなんの変化ももたらさない。〉(草稿集④411頁)
  〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)

   ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(2)

2024-06-13 16:44:34 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(2)



◎第3パラグラフ(とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。価値増殖一般の法則は、多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである)

【3】〈(イ)とはいえ、ある限界のなかでは、ある変化が生ずる。(ロ)価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、したがって平均的労働力の発現である。(ハ)ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけである。(ニ)どの産業部門でも、個別労働者、ペーターやパウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っている。(ホ)この個別的偏差は数学では「誤差」と呼ばれるものであるが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見れば、相殺されてなくなってしまう。(ヘ)有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っている(8)。(ト)それはとにかくとして、同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の1日分であるということは、明らかである。(チ)1人の1労働日を、たとえば12時間としよう。(リ)そうすれば、同時に働かされる12人の労働者の1労働日は、144時間の1総労働日となる。(ヌ)そして、12人のうちの各人の労働は多かれ少なかれ社会的平均労働とは違っているかもしれないし、したがって各人が同じ作業に要する時間はいくらか多かったり少なかったりするかもしれないが、それにもかかわらず、各個人の1労働日は、144時間の1総労働日の12分の1として、社会的な平均質をもっている。(ル)しかし、12人を働かせる資本家にとっては労働日は12人の総労働日として存在する。(ヲ)各個人の労働日は総労働日の可除部分として存在するのであって、そのことは、12人が互いに手をとり合って労働するのか、それとも彼らの労働の全関連はただ彼らが同じ資本家のために労働するということだけにあるのか、ということにはまったくかかわりがないのであ/る。(ワ)これに反して、もし12人の労働者のうちの2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われるとすれば、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうか、したがって一般的剰余価値率を実現するかどうかは、偶然となる。(カ)そこには個別的な偏差が生ずるであろう。(ヨ)かりに、ある労働者が、ある商品の生産に.社会的に必要であるよりも非常に多くの時間を費やすとすれば、つまり彼にとって個別的に必要な労働時間が社会的に必要な労働時間または平均労働時間とひどく違っているとすれば、彼の労働は平均労働とは認められないであろうし、彼の労働力は平均労働力とは認められないであろう。(タ)それはまったく売れないか、または労働力の平均価値よりも安くしか売れないであろう。(レ)だから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのであって、われわれがもっとあとで見るように、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのである。(ソ)それにもかかわらず、この最低限は平均とは違っており、しかも他方では労働力の平均価値が支払われなければならない。(ツ)それゆえ、6人の小親方のうち、一方のものは一般的剰余価値率よりも多くを、他方のものはそれよりも少なくを、取り出すことになるであろう。(ネ)この不平等は、社会にとっては相殺されるであろうが、個々の親方にとっては相殺されないであろう。(ナ)だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである(9)。〉(全集第23a巻424-425頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) とはいいいましても、ある限界のなかでは、ある変化が生じるのです。価値に対象化される労働は、社会的平均質の労働であり、平均的労働力の発現です。ところが、平均量というものは、つねにただ同種類の多数の違った個別量の平均として存在するだけです。どの産業部門でも、個別労働者、たとえばペーターやパウルは、多かれ少なかれ平均労働者とは違っています。この個別的偏差は数学では「誤差」と呼ばれるものですが、それはいくらか多数の労働者をひとまとめにして見ますと、相殺されてなくなってしまいます。有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っているほどです。

    これまではマルクスは資本家がそれ以前の手工業などを形式的に包摂しただけでは、ただ量的な変化が生じるだけで生産様式などに何の変化もない、だから相対的剰余価値の生産には何の影響もしないかに述べてきたのですが、しかしそうは言っても、ある限界のなかでは、ある変化(初版では「修正」)が生じるのだと述べています。それを以下、見ていくわけです。
    その変化の最初のものは、価値に対象化される労働というのは、社会的平均的な労働ですが、こうしたものはある程度の労働者の集まりがあってはじめて言いうるということです。平均量というのは多数の個別のさまざまなばらつきのあるものの平均として言いうるからです。どの産業部門でも、個別の労働者の労働は多かれ少なかれ平均労働とはそれぞれ違いがあります。しかしそれらの違いのある労働者をひとまとめに見ますと、その相違は相殺されて、平均的な労働者の集まりとみることができるようになるのです。エドモンド・バークは、借地農業者の経験から、5人の農僕をとってみただけでも、他の任意の5人との相違はなくなってしまうと言っているほどです。

    エドモンド・バークについては、以前「第6章 不変資本と可変資本」の原注32a)に出てきたときに、『資本論辞典』から紹介したことがありましたので、それを再掲しておきます。

  バーク どdmund Burke (1729-1797) イギリスの自由主義的政論家・著述家.……マルクスは,これらバークの政治的活動を評して,‘かつてアメリカの動乱の初期には,北アメリカ植民地に雇われてイギリス寡頭政府にたいし自由主義者たる役割を演じたのとまったく同様に,イギリスの寡頭政府に雇われてはフランス革命にたいしロマン主義者たる役割を演じたこの追従屋は.徹頭徹尾,俗物ブルジョアであった'(Kl-800;青木4-1156;岩波4-345) と非難した.そしてこの追従者たる無節操さから,バークは,'商業の法則は,自然の法則であり. したがって神の法則である'とのベ,自分自身その法則にしたがい最良の市場でみずからを売ることとなったのであり,そこになんの不思織もないと極言している〔同上). 
    なおバークの著書《Thoughts and Details on Scarcity,originally presented to the Rt.Hon.W.Pitt in Month of November1795》 (1800)からは,マルクス自身の主張を例証するものとして二,三の短い文章が引用されている.すなわち.生産過程において新価値を創造する賃労働者の労働が.他面では資本家に既存資本価値の維持という利益をもたらすことを示唆したものとして(K1-215;青木2-372;岩波2-116),また賃労働者は,自己の維持に必要な労働時間をこえて余分な労働時間を追加することによって,生産手段の所有者を養うことを示唆したものとして(KI-243;青木2-412-413;岩波2.166),さらに協業の発展が,各労働者の個別労働を社会的平均労働化する作用をもつことを例証したものとして(KI.338 ;青木3-544,546;岩波3-25,27)などである.〉(529-530頁)

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) それはとにかくとしまして、同時に働かされる比較的多数の労働者の総労働日をその労働者数で割ったものが、それ自体として、社会的平均労働の1日分であるということは、明らかです。1人の1労働日を、たとえば12時間としましょう。そうしますと、同時に働かされる12人の労働者の1労働日は、144時間の1総労働日となります。そして、12人のうちの各人の労働は多かれ少なかれ社会的平均労働とは違っているかもしれません。だから各人が同じ作業に要する時間はいくらか多かったり少なかったりするかもしれませんが、しかしにもかかわらず、各個人の1労働日は、144時間の1総労働日の12分の1として、社会的な平均質をもっているものとすることかできます。そして実際、12人を働かせる資本家にとっては労働日は12人の総労働日として存在するわけです。各個人の労働日は総労働日の可除部分として存在するのであって、そのことは、12人が互いに手をとり合って労働するのか、それとも彼らの労働の全関連はただ彼らが同じ資本家のために労働するということだけにあるのか、ということにはまったくかかわりがありません。

    ですから例え量的相違と言っても、それなりに意味のある変化があるということです。同時に働かされる労働者が比較的多数であるということは、その総労働日をその人数で割ったものが、それがそのまま社会的平均的労働の1日分と考えられることになるわけですから。(ここで〈それはとにかくとして〉という部分は初版では〈彼が示している数はこのばあいどうでもよいが〉、フランス語版は〈この観察が正確であろうとなかろうと〉となっています)
    今1人の労働日を12時間としますと、同時に働かされる12人の1労働日は144時間になります。この12人の各人の労働はそれぞれ社会的平均労働とは違っているかもしれません。ある人は同じ作業をするのに多くの時間を要し、他の人は少なくもよい等々、しかし12人を一まとめにしますと、そうした個別の相違は均されて各人の労働は144時間の1総労働日の12分の1として、社会的平均的な質を持つものとして考えることができるわけです。
    これは12人が互いに手を取り合って労働するか、それともバラバラになって、ただ彼らの関連が同じ資本家の指揮のもとにあるだけなのか、ということにはまったく関係ありません。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ)(ツ)(ネ) これとは違って、もし12人の労働者のうちの2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われているとしますと、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうか、だから一般的剰余価値率を各親方が実現するかどうかは、確たることはいえなくなります。おそらくそこには個別的な偏差が生ずるでしょう。かりに、ある労働者が、ある商品の生産に.社会的に必要であるよりも非常に多くの時間を費やすとしますと、つまり彼にとって個別的に必要な労働時間が社会的に必要な労働時間または平均労働時間とひどく違っているとしますと、彼の労働は平均労働とは認められないでしょうし、彼の労働力は平均労働力とは認められないでしょう。だからその労働力はまったく売れないか、または労働力の平均価値よりも安くしか売れないかも知れません。ですから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのです。これは私たちがもっとあとで見るのですが、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのです。もっともにもかかわらず、この最低限というのは平均とは違っています。しかも他方では労働力の平均価値が支払われなければなりません。だから、6人の小親方のうち、一人は一般的剰余価値率よりも多くを、もう一人はそれよりも少なくを、取り出すことになるでしょう。こうした不平等は、社会全体では相殺されるでしょうが、個々の親方にとっては相殺されません。

    こうした量的相違がもたら変化がより分かるように、それとは異なるケースを考えてみましょう。つまり12人の労働者のうち2人ずつがそれぞれ1人の小親方に使われていると考えてみましょう。そうすると6人の親方が同じ価値量を生産するかどうかは確たることはいえなくなります。つまり一般的剰余価値率を各親方が実現するかどうかは分からないのです。恐らく個別的な偏差が生じるでしょう。
    かりにある労働者が、商品の生産に社会的に必要であるよりも非常に多くの労働時間を費やすとしますと、彼の個別的な労働は社会的平均的な労働とは認められません。彼の労働力はまったく売れないか、あるいは平均的な価値よりも低いものとしてか売れないかも知れません。
    ですから労働の熟練度は一定の最低限は前提されているのです。といってもこの最低限は平均とは違います。しかし労働者には労働力の平均価値が支払われなければなりません。だから6人の小親方のうち、1人は一般式剰余価値率より多くを、もう1人はそれよりも少なくを、取り出すことになるでしょう。こうした不平等は、社会全体では相殺されますが、
個々の親方のあいでは相殺されません。
    だから比較的多くの労働者を一カ所に集めて、同じ労働をさせるという、単なる量的の相違は決して、どうでもよい相違ではないということです。
    ここでマルクスは〈だから、労働の熟練度の一定の最低限は前提されているのであって、われわれがもっとあとで見るように、資本主義的生産はこの最低限を計る手段を見いだすのである〉と述べています。初版ではこの部分は〈だから、労働能力の一定の最低限が前提されているのであって、もっとあとで見るであろうように、資本主義的生産はこの最低限を測る手段を見いだすのである〉となっています。
    〈この最低限を計る手段〉とは何を指すのはよくわからないのですが、「第24章 資本主義的蓄積の一般的法則」のなかで資本主義的生産はみずから相対的過剰人口をつくりだし、労働力の価値を資本の搾取欲と支配欲の枠内に抑制する手段を生みだすことが指摘されています。だから労働力の最低限に達しないものを停滞的過剰人口のなかに落とすことによって、その限度を計ることができるといえるのかも知れません。関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさの増減によって、過剰人口が吸収されたか再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。……産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。〉(全集第23b巻830-832頁)

  (ナ) というわけで、価値増殖の一般的な法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し、多数の労働者を同時に充用して、だからはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるわけです。

    というわけで、私たちがこれまで考察してきた価値の増殖過程というものは、資本家が多数の労働者を同時に充用して、最初から社会的平均的労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるわけです。
    雇用する労働者数の単なる量的相違そのものは、その限りでは、生産される価値量には何の変化ももたらしませんが、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の冒頭で〈これまでと同じに、この章でも労働力の価値、つまり労働日のうち労働力の再生産または維持に必要な部分は、与えられた不変な量として想定される〉と述べ、「第10章 相対的剰余価値の概念」の冒頭でも〈労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである〉と述べていますように、ある程度多数の労働者を同時に充用することによって、はじめから社会的平均労働を動かすことによって、初めて実際にもこうした前提が言えるのだということが分かります。
    つまりこの雇用される労働者数が比較的大量になるということ自体が、この単なる量的相違そのものが、最初から労働力を社会的平均労働に現実に還元することを可能にして、相対的剰余価値を生産する協業の基礎、前提を形成すると言えるわけです。


◎原注8

【原注8】〈8 「ある人の労働の価値と他のある人の労働の価値とのあいだには、力や熟練度や熱心さから見て、かなりの相違があるということは、疑いないことである。しかし、私が自分の最善の観察によって確信するところでは、どの任意の5人でも、全体としては、前述の年齢層に属する他の任意の5人と同じだけの労働を提供するであろう。それは、このような5人のうち、1人はよい労働者のあらゆる資格をそなえており、1人はわるく、残りの3人はその中間で前者または後者に近いであろう、ということである。こうして、5人というような小さな1組にあっても、5人でかせぎ出すことのできるものの完全な全量が見いだされるであろう。」(E・バーク『穀物不足に関する意見と詳論』、15、16ページ。〔河出書房版『世界大思想全集』、/社会・宗教・科学篇、第11巻、永井訳『穀物不足に関する思索と詳論』、254ページ。〕)平均的個人についてはケトレの所説を参照せよ。〉(全集第23a巻425-426頁)

    これは〈有名な詭弁家で追従者のエドマンド・バークは、彼が借地農業者としての実際経験から知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について見ても」すでに労働のいっさいの個人的な相違はなくなってしまい、イギリスの壮年期の農僕の任意の5人をひとまとめにして見れば、他の任意の5人のイギリスの農僕と比べて同じ時間ではまったく同じだけの労働を行なう、とさえ言っている(8)〉という本文に付けられた原注です。実際のバークの著書から該当部分の引用がされています。本文では〈農僕〉とされていましたが、実際の著書では〈労働者〉になっています。
   『61-63草稿』では同じ文献(エドマンド・バーク(故)『穀物不足に関する意見と詳論、もと1795年11月にW・ピット閣下に提出したもの』、ロンドン、1800年。)からのマルクスによる表題を付けた引用がされていますので、紹介しておきます。

  労働の価値多数の労働者の充用
  「ある人の労働の価値と他の人の労働の価値とは、強度、器用さ、実直な勤勉さにおいて大いに異なることは、疑いない。だが、私は非常によく観察した結果、以下のことをまったく確信している。どの与えられた5人の人々も、さきに述べた人生の時期〔12歳から50歳まで〕において、彼らの総計としては、いかなる他の5人とも同じだけの労働を供給するであろう。すなわち、その5人のなかには、優良労働者としてのあらゆる資格を有する者と劣悪な者とがおり、他の3人はその中問、前者に近い者および後者に近い者なのである。したがって、わずか5人からなるような非常に小さな一団においでさえも、一般に5人の人々ができるだけ努力して得られるものの総量が見いだされるであろう。」([15-]16ページ。)〉(草稿集⑨614頁)

    新日本新書版では最後の〈平均的個人についてはケトレの所説を参照せよ〉の〈ケトレ〉に次のような訳者注が付いています。

  〈19世紀のベルギーの統計学者、数学者、天文学者。『社会制度およびそれを規制する諸法則について』や『人間について』(平貞蔵・山村喬訳、岩波文庫)などで「平均人」を想定した〉(505頁)

  また全集第34巻の注解5には次のような説明があります。

  〈(5)「平均人」(average man)という概念は、ベルギーの統計学者ランベール-アドルフ-ジャック・ケトレが発展させたものである。ケトレは、人間の肉体的および精神的諸属性ならびにそれらの発達についての諸研究のなかで、個々の個人を捨象してひとつの「平均人」を仮定して/いる。この「平均人」を国民または社会に関連させて見れば、それは種属の合法則性の研究の手がかりとなりうる類型であり、モデルである、と彼は考えたのである。マルクスは人間の能力の発展にかんするケトレの基礎的所論を、英語版、『人間とその能力の発展についての一論』、エディンバラ、1842年、で読んだ。〉(449-450頁)


◎原注9

【原注9】〈9 ロッシャー教授は、教授夫人に2日間雇われる1人の裁縫婦は教授夫人が同じ1日に雇う2人の裁縫婦よりも多くの労働を提供するということを発見した、と主張している〔102〕。教授は、資本主義的生産過程の観察を子供部屋でやったり、主要人物である資本家のいない状態のもとでやったりしてはならないのである。〉(全集第23a巻426頁)

    これは〈だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を動かすようになったときに、はじめて完全に実現されるのである(9)〉という本文に付けられた原注です。
    これは本文に関連してロッシャー教授に対する皮肉を述べたものといえるでしょう。彼は教授夫人に雇われる裁縫婦について、2日間同じ裁縫婦がやる仕事の方が、1日に2人の裁縫婦がやる仕事より多いことを発見したと述べているが、彼は、資本主義的生産過程の観察を子供部屋でやったり、資本家のいない状態ですべきではない述べているわけです。

    全集版では注解102が付いていますがそれは次のようなものです。

  〈注解〔102〕W・ロッシャー『国民経済学原理』、第3版、シュトゥットガルトおよびアウクスブルク、1858年、88-89ページ。〉(全集第23a巻18頁)

    ロッシャーについては、「第4章 貨幣の資本への転化」の第2節の原注22に出てきたときに『資本論辞典』からの紹介をしておきましたので、それを再掲しておきます。

  ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉(586-587頁)


◎第4パラグラフ(労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす)

【4】〈(イ)労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こす。(ロ)多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時または交互に役だつ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになる。(ハ)一方では、商品の交換価値は、したがって生産手段のそれも、それらの使用価値の利用度がどんなに高められても、少しも高くならない。(ニ)他方では、共同で使用される生産手段の規模は大きくなる。(ホ)20人の織工が20台の織機で作業する1室は、2人の職人をもつ1人の独立の織匠の室よりも広くなければならない。(ヘ)しかし、20人用の仕事場を一つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかからない。(ト)したがって、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのである。(チ)共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的小さい価値成分を引き渡す。(リ)というのは、一つには、それらの引き渡す総価値が同時により大きい生産物量のあいだに割り当てられるからであり、また一つには、それらは、個々別々に使用される生産手段に比べて、絶対的にはより大きい価値をもってであるとはいえ、それらの作用範囲を考えれば相対的にはより小さい価値をもって、生産過程にはいるからである。(ヌ)これによって不変資本の一つの価値成分は低下し、したがってこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下する。(ル)その結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。(ヲ)このような、生産手段の充用における節約は、/ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものである。(ワ)そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取るのである。(カ)労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。〉(全集第23a巻426-427頁)

  (イ)(ロ) 労働様式は変わらなくても、かなり多くの労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命をひき起こします。多くの人々がそのなかで労働する建物や、原料などのための倉庫や、多くの人々に同時または交互に役だつ容器や用具や装置など、要するに生産手段の一部分が労働過程で共同に消費されるようになります。

    このパラグラフはフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  〈作業工程が変化しなくても、多数の人員を使用することは、労働の物的条件に変革を惹き起こす。建物、原料や仕掛品のための倉庫、用具、あらゆる種類の装置、要するに生産手段は、多くの労働者に同時に役立つ。すなわち、生産手段が共同で使われる。〉(江夏・上杉訳336頁)

    やはり問題は依然としてかなり多くの労働者を同時に充用するという量的相違に過ぎませんが、今度はその量的相違が現実に生産力そのものの変化を引き起こすケースが問題になっています。つまりその量的相違が労働過程の対象的諸条件(建物や原料のための倉庫、多くの人々に同時にあるいは交互に役立つ容器や用具や装置)に一つの革命を引き起こすからです。
    ようするに大勢で一緒に労働するようになると、使う用具や容器、装置も共同で使えたり、原料を保存する倉庫も一つで足りたり、作業する建物は大なものが必要ですが、個々バラバラに建てるのに比べれば安くて済んだり。多数の労働者を一緒に集めて労働させれば生産手段が節約されるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 一方では、商品の交換価値は、だからまた生産手段の価値も、それらの使用価値の利用度がどんなに高められても、少しも高くなりません。他方では、共同で使用される生産手段の規模は大きくなります。20人の織工が20台の織機で作業する一つの室は、2人の職人をもつ1人の独立の織匠の室よりも広くなければなりません。しかし、20人用の仕事場を一つつくるためには、2人用の仕事場を10つくるためよりも少ない労働しかかからないのです。

    フランス語版です。

  〈生産手段の交換価値が上がるのは、生産手段からいっそう多くの有用な役立ちが引き出されるからではなく、生産手段がいっそう巨大になるからである。20人の織工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人しか使わない1人の織工の部屋よりも広くなければならない。だが、2人ずつで労働する20人の織工のための10の作業場の建設は、20人が共同で労働する一つの作業場の建設よりも費用がかかる。〉(同上)

    生産手段の価値は、それが共同で使用されその利用度が高められたからといって高くなるわけではありません。その価値が大きくなるのは、生産手段そのものが大きくなり、よってその生産に必要な労働量か大きくなるからでしょう。しかし生産手段が大きくなったからといって、その価値もそれに比例して大きくなるとは限りません。例えば20人の織工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人しか使わない1人の織工の部屋よりも大きなものが必要ですが、しかし2人の職人の仕事場を10作るより少なくて済むのです。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) だから、一般に、大量に集中されて共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないのです。共同で消費される生産手段は、各個の生産物には比較的小さい価値成分を引き渡します。といいますのは、一つには、それらの引き渡す総価値が同時により大きい生産物量のあいだに割り当てられるからです。またもう一つには、それらは、個々別々に使用される生産手段に比べて、絶対的にはより大きい価値をもっていますが、しかしそれらの作用範囲を考えますと相対的にはより小さい価値をもって、生産過程にはいるからです。こうしたことから商品の価値として入る不変資本の価値成分は低下し、だからこの成分の大きさに比例して商品の総価値も低下するのです。そしてその結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったのとおなじことになります。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈一般に、共同の、集中された生産手段の価値は、これらの生産手段の規模と有用効果に比例して増大することはない。この価値は、これらの生産手段にと/ってかわられる分散した生産手段の価値よりも小さく、その上、相対的にいっそう多量の生産物の上に配分される。こうして不変資本の要素が減少し、まさにそのことによって、この要素が商品に移譲する価値部分も減少する。この作用は、生産手段がいっそう費用のかからない工程によって製造されたばあいと、同じである。〉(江夏・上杉訳336-337頁)

 また〈その結果は、ちようどこの商品の生産手段がより安く生産されるようになったようなものである。〉という部分のフランス語版は上掲しましたが、初版では〈こういった作用は、生産手段を供給するような生産諸部門で労働の生産力が増大するのと同じである。〉(江夏訳368-369頁)となっています。

    ですから一般的に言えるのは、大量に集中して共同で使用される生産手段の価値は、その規模や有用効果に比例しては増大しないということです。そして共同で使用される生産手段はその価値を相対的にいっそう多量の生産物の上に配分されるために、生産物に移転される価値部分は小さくなるということです。だから生産物の価値を構成する生産手段の価値部分が減少することになります。これは生産手段の生産部門で生産力が高まり、その価値が減少したのと同じ効果を生むということです。だからその生産部門における生産物の価値を引き下げ、だからまたそれは労働力の価値を引き下げることになり、相対的剰余価値の生産に結果することは明らかでしょう。

  (ヲ)(ワ)(カ) こうした生産手段の充用上の節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生ずるものです。そして、この生産手段は、別々に独立している労働者や小親方の分散した相対的に高価な生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで、協力して労働するのではない場合にも、受け取るのです。労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのです。

    フランス語版です。

  〈生産手段の使用における節約は、それらの共同消費からのみ生ずる。これらの生産手段が社会的労働条件としてのこういう性格--これらの生産手段を、分散されていて相対的により高価な生産手段と区別する性格--を獲得することは、集められた労働者が一つの共同作業に協力するのでなく、ただたんに同じ作業場内で互いに並んで作業するばあいでさえ、行なわれるのである。いかにも、物的労働手段は、労働そのものよりさきに社会的性格を受け取るのである。〉(江夏・上杉訳337頁)

    こうした生産手段の充用上の節約は、ただ、それを多くの労働者が労働過程で共同で消費するということだけから生じているものです。そしてこうした共同で使用される生産手段は、個々別々に独立して分散して使用される小親方のもとで使用される生産手段とは違って、社会的労働の条件または労働の社会的条件としての性格を受けとることになるのです。それは多くの労働者がただ場所的に集合して労働するという条件だけで生じているもので、それらの労働が社会的に結合されていない場合でも、ただ共同で使用される生産手段にはそうした社会的性格が生じてくるということなのてず。つまりこの場合、物的労働手段は、労働よりも先に社会的性格を受け取ることになるわけです。

    全集版〈労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものがそれを得るよりもさきに、得るのである。〉、初版〈労働手段の一部は、こういった社会的性格を、労働過程自体がこの性格を獲得する以前に、獲得しているのである。〉、フランス語版〈いかにも、物的労働手段は、労働そのものよりさきに社会的性格を受け取るのである。〉新日本新書版〈労働手段の一部分は、この社会的性格を、労働過程そのものが獲得する以前に獲得する。〉(566頁)、イギリス語版〈労働手段のある部分は、労働過程そのものが起動する以前から、このような社会的性格を獲得している。
    これはどういう事態をマルクスは述べているのでしょうか?
  〈この生産手段は、……社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこの性格を、多くの人々がただ場所的に集合して労働するだけで協力して労働するのではない場合にも、受け取る〉、フランス語版〈これらの生産手段が社会的労働条件としてのこういう性格……を獲得することは、集められた労働者が一つの共同作業に協力するのでなく、ただたんに同じ作業場内で互いに並んで作業するばあいでさえ、行なわれるのである。
    つまり生産手段そのものが社会的労働の条件に適合した社会的性格を持つということですが、それは労働そのものが社会的に結びついて支出されるからそうなるのではなく、ただ労働が同じ場所で並んで同時に支出されただけなのに、つまり労働そのものは社会的に結びついて支出されるのではなかったとしても、彼らが共同で使用する生産手段や、あるいは労働手段の一部は、社会的性格受け取るのだということです。
    これは具体的にはどういうイメージを持てばよいのでしょうか。多くの労働者がただ並んで作業するだけでも、彼らを収容する建物や照明器具などは共同で使用されます。つまり建物や照明器具は多くの労働を共同で収容したり照らしたりして、労働そのものはいまだ社会的に結びついていないのに、ただ同時に同じ場所で作業するというだけで社会的な性格を帯びて共同のものとして使用される事態を述べているのではないでしょうか。

    ところで、この点に関して、ついでに触れておきますと、イギリス語版の訳者はこの部分に次のような訳者注を付けています。

  〈( 訳者注: 読者が頭を叩く前に、データを呼び出しておこう。例えば、木を運ぶとか、石をどけるとか、広場を設けるとか、煉瓦を積むとか)〉(インターネットから)

 しかし果たしてこれは適切な注といえるかは疑問です。それこそこんな注を付けられたら読者は〈頭を叩く〉でしょう。

   ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(3)

2024-06-13 16:16:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(3)



◎第5パラグラフ(生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない)

【5】〈(イ)生産手段の節約は、一般に、二重の観点から考察されなければならない。(ロ)第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりで。(ハ)第二には、それが、前貸総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりで。(ニ)このあとのほうの点は、この著作の第3部の第1篇ではじめて論究されるので、すでにここでの問題にも関係のあるいくつかのことも、関連上、そこで述べることにする。(ホ)このような、対象の分割は、分析の進行の命ずるところであるが、それは同時に資本主義的生産の精神に対応するものである。(ヘ)というのは、資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立して相対するのだから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特殊な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるのである。〉(全集第23a巻427頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 生産手段の節約は、一般には、二重の観点から考察されなければなりません。第一には、この節約が商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりにおいて。第二には、それが、前貸総資本にたいする、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする剰余価値の割合を変化させるかぎりにおいて。このあとのほうの点は、この著作の第3部の第1篇ではじめて論究されますので、すでにここでの問題にも関係のあるいくつかのことも、関連上、そこで述べることにします。

    このように共同で使用されることによる生産手段の節約は、ここではそれが生産物の価値を引き下げ、よって労働力の価値を下げて、相対的剰余価値の生産をもらたす限りで、ここでは私たちは問題にします。
    しかし第3部では同じ生産手段の節約を「不変資本充用上の節約」として考察します。つまり同じ生産手段の節約の問題ですが、『資本論』ではそれを論じるのが分離して論じることになるのです。
 以前、第3部は第1部、第2部で明らかにされた資本主義的生産の内在的諸法則が資本主義的生産の表面に転倒して現れてくる諸形象化が問題になると説明しましたが、その意味では第3部で扱う不変資本充用上の節約は、相対的剰余価値の生産の一つの契機として考察される生産手段の節約のその具体的な現象形態ともいうこともできるかと思います。
    そういう事情から生産手段の節約は、一般的に二重の観点から考察されなければならないわけです。第一には、その節約が商品の価値を引き下げ、よって労働力の価値を引き下げて、相対的剰余価値の生産をもたらすという観点からです。第二には、私たちが第3部で前貸総資本(不変資本+可変資本)と剰余価値との割合(すなわち利潤)を変化させるものとしての不変資本充用上の節約の問題としてです。第3部では不変資本充用上の節約としてさまざまな観点から論じられますが、ここで論じるべきことにはそれに関連するものもありますが、詳しくは第3部で論じることにするということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈{あるいはここで、協業のこの単純な形態は多くの産業部門で労働の諸条件の、たとえば燃料、建物、等々の、共同利用を許すものであることが想起されるかもしれない。しかしこのことは、ここではまだわれわれにかかわりがない。それは利潤のところで考察されるべきである。われわれがここで見ておかなければならないのは、必要労働と剰余労働との割合がどの程度まで直接に影響を受けるか、ということだけであって、投下された資本の総額にたいする剰余労働の割合が受ける影響ではない。このことは以下の諸項目においても堅持しなければならない。}〉(草稿集④413頁)

  (ホ)(ヘ) このように、考察の対象を分割することは、分析の進行の命ずるところなのですが、それは同時に資本主義的生産の精神に対応するものでもあるのです。というのは、資本主義的生産にあっては、労働条件は労働者にたいして独立して相対するのですから、労働条件の節約もまた、労働者にはなんの関係もない一つの特殊な操作として、したがって労働者自身の生産性を高める諸方法からは分離された操作として、現われるからです。

    このように生産手段の節約という同じ主題でありながら、一つはこの相対的剰余価値の生産で取り扱い、もう一つは第3部の利潤論で取り扱うという形で分離して取り扱うのは、
ただ分析の進行の命ずるところだと述べています。
    そしてそれは同時に資本主義的生産の精神にもかなったものだということです。というのは資本主義的生産においては、労働諸条件は労働者に対して独立して資本として相対しするからです。だからその節約も労働者には何の関係もない資本の操作として、いやむしろ労働者に敵対する操作としても現れるのです(例えば資本家は労働者を機械など運動から保護する安全装置などもできるだけ"節約"しようとするからです)。だからそれらは必ずしも労働の生産力を高めるものとは違ったものとしても現れるのです。だから後者ものは第3部で詳しく論じることになるわけです。


◎第6パラグラフ(同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という)

【6】〈(イ)同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という(10)。〉(全集第23a巻427頁)

  (イ) 同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業といいます。

    ここで初めて「協業」の規定がなされています。
    これまでにも同様のことが述べられてきましたが、そこではそれを「協業」とは述べてきませんでした。例えば第1パラグラフでは〈かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働く〉と述べられていました。しかしこれは資本主義的生産の出発点として述べられたものです。しかし資本主義的生産の出発点として述べられたものが、「協業」の規定とほぼ同じ内容であるということはどうでよいことではありません。それは協業は資本主義的生産が歴史的に開始されるとともに、あるいはそれが開始される条件としてあるということなわけだからです。
 そのあとマルクスは労働者を同じときに、同じ空間(場所)で、同じ種類の商品の生産のために同じ資本家のもとで働くという条件が、最初はそれは雇用される労働者数の量的相違をもらたすだけですが、しかしそれは平均労働への還元を最初から資本にもたらし、剰余価値の法則が貫徹する基礎を形成すること、さらにはその量的相違が生産手段に一つの革命をもたらすことを指摘し、そのあとやっとそうした作業様式を「協業」というのだと、規定しているわけです。どうしてこのような展開になっているのでしょうか。
    何度も紹介しますが、マルクスは第1パラグラフで〈かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間で(または、同じ労働場所で、と言ってもよい)、同じ種類の商品の生産のために、同じ資本家の指揮のもとで働くということは、歴史的にも概念的にも資本主義的生産の出発点をなしている〉と述べています。つまり〈歴史的にも概念的にも〉そうしたことが言えるというのです。だからマルクスはこの「第11章 協業」と、次の「第12章 分業とマニュファクチュア」、さらに「第13章 機械と大工業」へと「相対的剰余価値の生産」の発展をあとづけるにおいて、それは資本主義的生産様式そのものの歴史的な発展過程に合致したものであると同時に概念的な(論理的な)発展過程でもあるものとしても論じようとしているのだと思います。
    だから「協業」も資本主義的生産そのものが歴史的に生まれてくる一つの契機として論じ、同時に資本主義的生産様式のもっとも基礎的な契機でもあると述べているのだと思います。ということで「協業」についても、今、この段階で初めて概念としてその規定をあたえるという展開になっているのではないでしょうか。
    すでに第11章の位置づけを論じるところで紹介しましたが、マルクスは『61-63草稿』で協業は資本主義的生産の〈基本形態〔Grundform〕であ〉り、それは分業にも、機械にもとづく作業場にもそれがベースとなっていて、むしろそれらは協業の特殊な様式にすぎないのだと述べています。しかし同時に、協業はそれ自体が特殊な形態であって、それがさまざまな特殊な諸形態に発展したものと並んでそれ自体が一つの単純なものとしても存在しているのだとも述べています。
    私たちはその単純に存在している協業をまずは対象にして分析を深めていくわけです。第6パラグラフ以前においては、協業の前提になる労働の社会的平均労働への還元であるとか、協業による外的諸条件(物的諸対象)における変革などが問題になりましたが、しかし第6パラグラフで協業を規定したあと、すなわち第7パラグラフ以降では、単純な協業そのものがもたらす生産力の発展が問題になっていくわけです。


◎原注10

【原注10】〈10 「諸力の協同。」〔“Concours de forces"〕(デステュット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、80ページ。)〉(全集第23a巻427頁)

    これは第6パラグラフの最後に付けられた原注です。すなわち〈同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的にいっしょに協力して労働するという労働の形態を、協業という(10)〉という一文に付けられたものです。「諸力の協同」という文言が引用されているだけです。
    今回の原注では簡単な引用だけですが、マルクスは『61-63草稿』はかなり詳しい引用を行っています。それを紹介しておきましょう。

  〈労働の生産性を増大させる手段として、デステュット・ド・トラシは次のような区別をしている。--
  (1)諸力の協同〔concours〕(単純協業)。「防禦が問題だとしようか? 10人の人間なら、彼らの一人ひとりを次次に襲うのであれば彼らを全滅させてしまったであろうような敵にたいしてでも容易に立ち向かっていくものである。重い荷物を運ぶ必要があるとしようか? たった一人の努力ではとても打ち勝てないような抵抗を示す重量物も、い/っしょに行動する数人の努力にはあっさりかぶとを脱ぐであろう。ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。一人があることをしているあいだに別の一人は別のことをし、こうして、すべての人々が、一人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。一人が漕いでいるあいだに別の一人は舵をとり、第3の一人は網を投げたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第四部および第五部。意志および意志作用論』、バリ、1826年、78ページ〉。この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④420-421頁)

    なおデステュット・ド・トラシについては、以前、「第2篇」「第2節 一般的定式の矛盾」の原注14にでてきたときに『資本論辞典』から簡単に紹介しました。しかし『辞典』では、今回の協業や分業についてのデステュット・ド・トラシ論及についてはまったく触れていません。よって以前のものを再敬するだけにしておきます。

  《『資本論辞典』によれば、デステュット・ド・トラシ Antoine Louis Claude Destutt de Tracy (1754-1835)はフランスの哲学者ということです。〈彼はその主著の第4巻で経済学の原理を展開するが,マルクスはまず,リカードがその『経済学および課税の原理』において,価値の源泉を労働にもとめるデステュットの見解を労働を引用しているいきさつに触れる.デステュットは,たしかに富を形成するものがすべて労働を表示するというが,しかし他方ではそれらのものが労働の価値からその価値を受けとるとするのであって,特定商品(労働)の価値をまず前提し,しかる後に他の商品の価値を規定する俗流経済学の浅薄さを示している点を指摘するのである.……云々〉(517頁)》


◎第7パラグラフ(集団力でなければならないような生産力の創造)

【7】〈(イ)騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っているように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうこと/が必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている(11)。(ロ)このような場合には、結合労働の効果は、個別労働では全然生みだせないか、またはずっと長い時間をかけて、またはひどく小さい規模で、やっと生みだせるかであろう。(ハ)ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである(11a)。〉(全集第23a巻427-428頁)

  (イ) 騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っていますように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうことが必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っています。

    ここからは単純な協業が独自に生みだす生産力について問題しています。
    すなわちこれは原注10のデステュット・ド・トラシからの引用文のなかでも〈「防禦が問題だとしようか? 10人の人間なら、彼らの一人ひとりを次々に襲うのであれば彼らを全滅させてしまったであろうような敵にたいしてでも容易に立ち向かっていくものである〉と触れられていましたが、騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力というものは、
騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に異なる力を発揮するものだということです。
    このように、個別の労働者の力をただ機械的に合計しただけのものとは、同じだけの労働者を分割せずに同時に多数の手が同じ作業をする場合には、本質的に違った力が生じるものだということです。
    例えばこれもデステュット・ド・トラシからの引用文のなかで〈重い荷物を運ぶ必要があるとしようか? たった一人の努力ではとても打ち勝てないような抵抗を示す重量物も、いっしょに行動する数人の努力にはあっさりかぶとを脱ぐであろう〉と触れられていましたように、一緒に重い荷物を揚げるとか、あるいはクランクを回すとか障害物を排除するとかが必要なときに発揮される社会的な潜勢力は個別的な力とは本質的に違ったものなのです。

  (ロ)(ハ) このような場合には、結合労働の効果は、個別労働では全然生みだせないか、またはずっと長い時間をかけて、またはひどく小さい規模で、やっと生みだせるかのようなものです。だからここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなくて、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのです。

    このように結合労働の効果というものは、個別の労働ではまったく生みだせないものか、
あるいは個別労働では長い時間がかかるものであるとか、あるいはもっと小さい規模でやっとやれるようなものです。
    しかし注意が必要なのは、今問題にしているのは、協業によって個別的な生産力の総合力が増大するというようなこと(もちろんこれも重要ですが)ではなくて、それとは本質的に違った集団力とでもいうべき新たな生産力が生まれるという問題なのです。

    部分的に先取りするところもありますが、同じような問題を論じている『61-63草稿』から紹介しておきます。

    〈この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。〉(草稿集④409頁)


◎原注11

【原注11】〈11 「いくつもの部分に分割できないような単純な種類の作業でも、多くの人手の協力なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば大きな材木を荷車に揚げること……要するに、分割されていない同じ仕事で同じときに非常に多くの人手が互いに助け合わなければできないようなすべてのもの……。」(ど・G・ウェークフィールド『植民の方法に関する一見解』、ロンドン、1849年、168ぺージ。)〉(全集第23a巻428頁)

    これは〈騎兵一中隊の攻撃力とか歩兵一連隊の防御力とかが、各個の騎兵や歩兵が個々別々に発揮する攻撃力や防御力の合計とは本質的に違っているように、個別労働者の力の機械的な合計は、分割されていない同じ作業で同時に多数の手がいっしょに働く場合、たとえば重い荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を排除するとかいうことが必要な場合に発揮される社会的な潜勢力とは本質的に違っている(11)〉という本文に付けられた原注です。
    これはウェークフィールドの著書からの引用ですが、多数の人手の協力になしには遂行できない作業が具体例をあげて論じられています。

  『61-63草稿』ではウェークフィールドの植民制度の功績について言及しながら、今回の注で引用しているものも紹介しています。

  〈つまり植民地では、とくにその発展の最初の諸段階では、ブルジョア的諸関係はまだできあがっておらず、古くから確立されている諸国とはちがってまだ前提されていない。それらはやっと生成しつつある。したがって、その生成の諸条件がより明瞭に現われる。この経済的諸関係はもともとから存在するものでもなければ、経済学者がともすると資本等々をそう理解しがちであるのとは異なり、でもない、ということが明らかになるのである。ウェイクフィールド氏が植民地でこの秘密を嘆ぎつけ、彼自身が驚いているという次第は、のちに見ることにしよう。ここではさしあたり、協業のこの単純な形態に関連する箇所を引用するにとどめよう。
  「諸部分に分割する余地がないような単純な種類の作業でも、多くの入手の協業なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば、大木を荷車に積みあげること、穀物が成長している広い畑で雑草がのびないようにすること、大群の羊の毛を同時に刈りとること、穀物が十分に実りしかも実りすぎないときにその取り入れをすること、なにか非常に重いものを動かすこと、要するに、非常に多くの入手が、分割されていない同じ仕事で、しかも同時に、互いに助けあって行なう、というのでなければできないようなすべてのことである」(エドワド・ギボン・ウェイクフィールド『植民の方法に関する一見解、大英帝国への現在の関連で』、ロンドン、1849年、168ページ)。〉(草稿集④410頁)

    また『資本論辞典』からも紹介しておきましょう。

  ウェイクフィールド どdward Gibbon Wakefield (1796-1862) イギリスの経済学者・植民政策家.……/マルクスは『資本論』第l巻第7篇「資本の蓄積過程」第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」の例解において, 1830年前後のイギリス農業プロνタリアートの状態に関連して.『イギリスとアメリカ』の描写を引用するさい,ウェイクフィールドにたいし「この時期におけるもっとも重要な経済学者」という包括的な好備をあたえ、同篇第25掌に「近代植民税」のタイトルを附して,ウェイクフィールドの植民論の経済学的側面をとりあげている.
    ウェイクフィールドの諸著作をつうずるいわゆる「組織的植民」の骨子は,イギリス産業革命から1825年の恐慌をへて30年代にいたるあいだの.イギリスの資本の蓄積と大衆の窮乏,過剰資本と過剰人口の形成を論じ.その対策として植民地への資本輸出と植民.貿易の振興を目的とするイギリス自治植民地の開拓と育成を主張したものである.イギリス植民地政策における自由主義から帝国主義への過渡をあらわす一個の植民政策論であったが,その反面に古典派経済学にたいする種々の批判点を蔵していた.マルクスが「近代植民地説」としてとりあげた論点もその一つである.(以下略)〉(474頁)


◎原注11a

【原注11a】〈11a 「1トンの重さを揚げることは、1人にはできないし、10人でも努力が必要だが、100人でならばめいめいの指一本の力でもやることができる。」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立提案』、ロンドン、1696年、21ページ。)〉(全集第23a巻428頁)

    これは〈ここではただ協業による個別的生産力の増大だけが問題なのではなく、それ自体として集団力でなければならないような生産力の創造が問題なのである(11a)〉という本文に付けられた原注です。集団でなければできない力を発揮する例が紹介されています。
    草稿集にはベラーズの別の著書からの抜粋はありますが、協業に関連した『産業専門学校設立提案』からの引用はありませんでした。
    ここでは『資本論辞典』から紹介しておきます。

   ベラーズ John Bellers (c.I654-1725)イギリスのクウェイカー派(フレンド派)の博愛主義者・織物商人.その一生を,貧民のための授産所の経営,教育制度の改善,慈善病院の役立などの社会事業や.監獄の改革,死刑の廃止にささげた.……前者の著作(=『産業専門学校設立提案』--引用者)は,多数の業種にたずさわる労働者およびその家族を産業専門学校と称する施設に収容して,彼らに適当な教育と生活環境をあたえることを主張したものである.その経営は,富裕なひとびとの基金によっておこなわれるが.その企業の利益は,これをもっぱら労働者たちの生活向上のためにあてられるべきだと訴えている.マルクスは,彼を「経済学史上の非凡なる人物」と呼んで,この書の内容のいくつかをきわめて高く評価している.たとえばベラーズは,貨幣は商品にたいする社会的な担保物(pledge)をあらわすにすぎない,したがって貨幣は富それ自体とはいえない,むしろ真の富は土地や労働であると述べ,貨幣の蓄蔵形態は「死んだ資本」というべく.外国貿易に使用されるばあいのほかは,国になんらの利益をももたらさないと記している.またベラーズは,協業は個別的生産力をますばかりでなく,集団力としてのひとつの生産力の創造であるとして,協業の利益を示唆したり,機械と労働者との闘争に言及して労働日の規制を主張したり,社会の両極に持てるものの富裕化と持たざるものの貧困化をつくりだす資本主義社会の教育/と分業との組織を排除せよと訴えたり,労働者の労働こそ富めるひとびとの富裕化の源泉だととなえたりしている.17世紀の末に,すでに,マニュファクチュア時代の資本主義的生産の諸矛盾について,これだけの洞察をなしている点で,イーデン もまた.ベラーズをその著作でしばしば引用している.〉(549-550頁)


◎第8パラグラフ(単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高める)

【8】〈(イ)多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである(12)。(ロ)このことは、人間は生来、アリストテレスが言うように政治的な動物(13)ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのである。〉(全集第23a巻428頁)

  (イ) 多くの力が一つの総合力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別にして、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのです。

    今度は協業がもたらす生産力の発展のもう一つの側面です。すでに指摘しました、多くの力が一つの総合力に融合することによって発揮される新たな潜勢力は別にしましても、多くの人が一緒に労働することによって互いに刺激し合い、競争心や活力を引き出して、それぞれの個別的な作業能力を高めるという問題です。だから12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日が供給する総生産物は、めいめいが個別に12時間ずつ労働して生みだす12人分の総生産物や一人が12日間続けて労働して生みだす総生産物よりも、ずっと大きくなるということです。
    これは有名な秀吉の一夜城や、家康の江戸城普請でも、城壁の石垣作りを各大名に分割担当させ、互いに競争させたなどの例が思い浮かべられます。

    新日本新書版では〈単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして〉という部分は〈単なる社会的接触によって、生気("動物的精気*")の独自な興奮と競争心とが生みだされ〉と訳され、*印の「動物的精気」に次のような訳者注が付いています。

  〈脳髄から発して運動や感覚を生む微妙な流動体。アリストテレスやデカルトなどの仮説で、中世哲学では、自然精気(肝臓に発し生長などを促す)、活力精気(心臓に発し熱と命を与える)と区別された〉(569頁)

  (ロ) このことは、人間は生来、アリストテレスが言うに政治的な動物ではないにしても、とにかく社会的な動物だということからきているのです。

    こうした効果は、人間は生来、アリストテレスがいうような政治的動物ではないにしても、社会的な動物だということから来ているのです。

   〈政治的な動物〉には原注13が付いていますが、新日本新書版では同じところに次のような訳者注も付いています。

  〈『政治学』、第1巻、第2章。山本光雄訳、『アリストテレス全集』15、7ページ。同訳、岩波文庫、35ページ〉(569頁)

 そこで『アリストテレス全集』15から該当個所を少し前から紹介しておきましょう(太字は該当する箇所と思われる部分)。

  〈しかし、二つ以上の村からできて完成した共同体が国である、これはもうほとんど完全な自足の限界に達しているものなのであって、なるほど、生活のために生じてくるのではあるが、しかし、善き生活のために存在するのである。それ故にすべての国は、もし最初の共同体も自然に存在するのであるなら、やはり自然に存在することになる、何故なら国はそれらの共同体の終極目的であり、また自然が終極目的であるからである。何故なら生成がその終極に達した時に各事物があるところのもの--それをわれわれは各事物の、例えば人や馬や家の自然と言っているからである。さらに或る事物がそれのためにあるところのそれ、すなわち終極目的はまた最善のものでもある、しかし自足は終極目的であり、最善のものでもある。/
  そこでこれらのことから明らかになるのは、国が自然にあるものの一つであるということ、また人間は自然に国的動物であるということ、また偶然によってではなく、自然によって国をなさぬものは劣悪な人間であるか、あるいは人間より優れた者であるかのいずれかであるということである、〉(6-7頁)


◎原注12

【原注12】〈12 「またそこには」(同じ人数が、10人の借地農によって30エーカーずつの土地でではなく、1人の借地農によって300エーカーの土地で使用される場合には)「農僕の数における一つの利益があるのだが、それは実際家似外の人にはたやすく理解されないであろう。4に対する1は、12に対する3に等しい、と言うのは当然であるが、それは実際にはあてはまら/ないであろう。なぜならば、収穫時やその他の同様に急を要する多くの作業では、多くの人手をいっしょにすることによって、仕事はもっと良くもっと速くなされるからである。たとえば、収穫時には、2人の御者、2人の積み手、2人の投げ手、2人の掻き手、その他わら積みをしたり穀倉にいる人々は、同数の人手が別々の農場で別々の組に分かれている場合にする仕事の2倍の仕事を片づけるであろう。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究』、一農業家著、ロンドン、1773年、7、8ページ。)〉(全集第23a巻428-429頁)

    これは〈多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな潜勢力は別としても、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力(animal spirits) の独特な刺激を生みだして、それらが各人の個別的作業能力を高めるので、12人がいっしょになって144時間の同時的1労働日に供給する総生産物は、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個別労働者または引き続き12日間労働する1人の労働者が供給する総生産物よりも、ずっと大きいのである(12)〉という部分に付けられた原注です。
    アーバスノトが述べているものはやや分業の契機も入っているように思われますが、最初の部分で述べように、同じ人数が10人ずつに分割され働かされるよりも、1人の借地農業者によって10倍大きな土地で一緒に働かせた方が一つの利益があると述べており、労働者たちが互いに刺激し合い、競争心や活力などの興奮を生みだすというようことは必ずしも指摘していませんが、マルクスはそうした内容を含んでいると考えたのだと思います。
  『61-63草稿』でも、若干数値に相違がありますが、同じような引用がされていますので、紹介しておきましょう。

  単純協業。「一農場での彼らの(元小屋住み農夫たちの)共同労働による場合のほうが、各自が小さな土地で1人で休みなく働かなければならない場合よりも、生産物の増加は大きいであろう。」(同前、128ページ。)
  「また使用人の比率の面で(同数の人が、3人の農場主によって100エーカーずつの土地で使用されるのではなく、1人の農場主によって300エーカーの土地に集められる場合には)利点があるが、その利点は、実際家たちによってしかたやすくは理解されないであろう。というのは、1対4は3対21と同じであるということは当然であるが、そのことは、実際にはうまくあてはまらないだろうからである。というのは、収穫時には、またあの種の敏速さを要する他の多くの作業では、多くの入手を一度に投入することによって、仕事は、よりよく、かつより速くなされるからである。たとえば、収穫時には、2人の御者、2人の荷積み人、2人の投げ込む入、2人の掻き集める人、そして穀物置き場や納屋にいる残りの人々は、同数の人手が別々の農場で別々のグループに分かれた場合にそうするであろう仕事を2倍速く片付けるであろう。」(同前、7、8ページ。)〉(草稿集⑨454頁)


◎原注13

【原注13】〈13 アリストテレスの定義は、元来は次のようにいうのである。人間は、生来、市民である、と。この定義は、古典的古代の特徴を表わすもので、それは、人間は生来道具をつくる動物だ、というフランクリンの定義がヤンキー気質の特徴を表わしているのに似ている。〉(全集第23a巻429頁)

    これは〈アリストテレスが言うように政治的な動物(13)ではないにしても〉という本文に付けられた原注です。
    実際のアリストテレスの定義は、人間は、生来、市民である、というものだということです。(これは先に紹介した『アリストテレス全集』では〈人間は自然に国的動物である〉となっています)。この定義は古典古代の特徴を表すものであり、古代の都市国家の構成員である市民こそが本来的な人間であるということでしょう。ということは奴隷などは人間ではないということにほかなりません。
    それはフランクリンが人間を道具をつくる動物だと規定したのが、ヤンキー気質を表すのと似ているというのですが、要するにそそれぞれの時代背景があってこうした定義も出てきたのだということでしょうか。

    アリストテレスについては『資本論辞典』から概要を紹介しておきます。

  アリストテレス Aristoteles(紀元前384-322)ギリシヤの哲学者. ……アリストテレスは、プラトンの分析的なイデア鈴にたいして弁経法的な形相(形態)論をたて,古代において観念弁経法に最高の思弁形式をあたえた.マルクスのヘーゲリアンとしての学位論文『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』はアリストテレスを典拠としている.「古代ギリシャの哲学者中,もっとも博学な頭脳」,「すでに弁駐在長的思惟のもっとも根本的な緒形式を探求した」というエンゲルスの評価(『Anti-Dühring』)は,マルクスと共有のものであろう.経済学に入ってからのマルクスも.アリストテレスの名を尊敬の念をもって呼ぴ.アリストテレスは「きわめて多くの思惟形態・社会形態および自然形態と同じように,価値形態をはじめて分析した」といい,彼が商品規定や貨幣規定へ深い洞見をしめしている点を称揚している.(以下、略)(469頁)

    フランクリンの定義については、以前、第3篇第5章第1節 労働過程で出て来ましたが(⑤パラグラフ)、そのときに『資本論辞典』からの紹介を行いましたので、それを再掲載しておきます。

  フランクリン Benjamin Franklin (1708-1790) アメリカの政治家.ボストンに生まれ,はじめは出版業者・科学者.1757年からは政治家.外交官として活躍.アメリカ独立運動では大きな役割を演じ,1776年には独立宣言起草委員に任命され,1787年憲法制定会議では大小の州のあいだの利益調停のため努力した.またアメリカにおける啓蒙運動のもっとも署名な代表者として,著述家でもあった.生まれながらの自由主義者,功利主義者であり,典型的なアメリカ人であり,マルクスも,彼をブルジョア的生産諸関係が輸入されて急速に生長した新世界の人だと評価し,彼の"人間は道具をつくる動物だ"という言葉はヤンキー主義の特徴を示すものとした.マルタスは,彼が,ウィリアム・ペティ以後はじめて商品価値の本性が労働であることを意識的に明確にした人であり,"近代的な経済学の根本法則を定式化した"人と高く評価……『資本論』第1巻第4章では,彼の"戦争は盗奪であり,商業は詐取である"という言葉を引用して,それは,商品所有者間に寄生的に介在する商人の詐取的な性格を示すものとしている。(KⅠ-171-172:青木2-310-311 ;岩波2-40-41)……以下略〉(540頁)

   ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(4)

2024-06-13 15:44:18 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(4)



◎第9パラグラフ(多くの人が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行ない、労働対象を速く運んだり、建物の建築のように、生産物の種々の空間部分が同じ時間に成熟するようになる)

【9】〈(イ)多くの人々が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行なうにかかわらず、各人の個別労働が総労働の部分として労働過程そのものの別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速く通過することがありうる。(ロ)たとえば、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶためにたくさんの手で一つの列をつくるとすれば、彼らはめいめい同じことをするのであるが、それにもかかわらず個々の作業は一つの全体作業の連続的諸部分を、すなわちすべての煉瓦が労働過程で通過しなければならない別々の段階を、なすのであって、こうすることによって、全体労働者のたとえば24本の手は、足場を登り降りする各個の労働者の2本の手よりも速く煉瓦を運ぶのである(14)。(ハ)労働対象が同じ空間をより短い時間で通過するのである。(ニ)他方では、たとえば一つの建物がいくつもの違った方面から同時に着工される場合には、協業者たちは同じことかまたは同種のことをするにもかかわらず、労働の結合が生ずる。(ホ)144時間の1結合労働日、それは空間的に多方面から労働対象に着手する、というのは、結合労働者または全体労働者が前にもうしろにも目と手をもっており或る程度まで全面性をもっているからであるが、そのような1結合労働日は、自分たちの仕事にそれよりも一面的に着手しなければならない多かれ少なかれ個々別々な労働者の12個の12時間労働日に比べれば、より速く総生産物を送り出す。(ヘ)生産物/の種々の空間部分が同じ時間に成熟するのである。〉(全集第23a巻429-430頁)

  (イ) 多くの人々が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行なう場合でも、各人の個別労働が総労働の部分として労働過程そのものの別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速く通過することがあります。

   フランス語版はやや書き換えられていますので、最初に紹介しておくことにします。

  〈一緒に作業する労働者が同時に同じ仕事を行なうばあいでも、各個人の労働は集団労働の部分として、別個の一段階--その進行は協業の結果速められる--を表わすことがありうる。〉(江夏・上杉訳頁339)

    これも協業による生産力の増大のもう一つの契機ということかできます。いわゆるバケツリレーがそのもっとも典型的な例ですが、多くの人が同じ作業かまたは同種の作業を同時に協力して行い、各人の個別労働が全体の労働の部分として一連の労働過程の別々の段階をなしていて、これらの段階を労働対象が、協業の結果として、いっそう速く通過するという場合です。

  (ロ)(ハ) たとえば、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶためにたくさんの手で一つの列をつくるとしますと、彼らはめいめい同じことをするのですが、にもかかわらず個々の作業は一つの全体作業の連続的諸部分を、すなわちすべての煉瓦が労働過程で通過しなければならない別々の段階をなすのであって、こうすることによって、全体労働者のたとえば24本の手は、足場を登り降りする各個の労働者の2本の手よりも速く煉瓦を運ぶことができるのです。労働対象が同じ空間をより短い時間で通過することができます。

     フランス語版です。

  〈12人の煉瓦積み工が建築用石材を足場の下から頂上まで運ぶために一列にならぶばあい、彼らはめいめい同じ操作を実行するが、それにもかかわらず、一つの共同作業の連続的部分である個別的操作はすべて、それぞれの石材が通過しなければならないさまざまな段階を形成するのであって、集団労働者の24本の手は、足場を昇ったり降りたりする個々別々の労働者の2本の手が行なうよりも、いっそう迅速に石材を運ぶのである(8)。労働対象が与えられた空間を通過する時間は、短縮される。〉(同上)

    その具体的な例としては、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶために、たくさんの人が並んで列をつくり、手から手へと煉瓦を渡す場合、彼らはめいめい同じことをするのですが、にもかかわらず、個々の作業は一つの全体作業の連結諸部分をなし、煉瓦が通過しなければならない別々の段階をなしています。こうすると全体の労働者のたとえば24本の手は、足場を上り下りする労働者の2本の手よりも速く煉瓦を運ぶことが出来ます。その結果、労働対象が同じ空間をより短い時間で通過することができそれだけ生産力を高めることになります。

  (ニ)(ホ)(ヘ) 他方では、たとえば一つの建物の建設にいくつもの違った方面から同時に着工される場合には、協業者たちは同じことかまたは同種のことをするにもかかわらず、労働の結合が生じます。144時間の1結合労働日は、それは空間的に多方面から労働対象に着手するわけです。というのは、結合労働者または全体労働者が前にもうしろにも目と手をもっており或る程度まで全面性をもっているからですが、そのような一結合労働日は、自分たちの仕事にそれよりも一面的に着手しなければならない多かれ少なかれ個々別々な労働者の12個の12時間労働日に比べれば、より速く総生産物を送り出すことができるのです。つまり生産物の種々の空間部分が同じ時間に成熟するわけです。

    フランス語版です。

  〈協業者たちが彼らの労働対象に種々の方面から同時に取りかかるばあい、彼らは同じ仕事または同種の仕事を行なっているのに、やはり労働の結合が生ずる。一つの建物の煉瓦積みに種々の方面から同時に従事し、その結合労働日が144労働時間である12人の煉瓦積み工は、1人の煉瓦積み工が12日すなわち144労働時間で行なうよりも、はるかに迅速に仕事を捗らせる。その理由は、集団労働者が前にも後ろにも眼と手をもち、ある程度いたるところに存在している、ということだ。このようにして、空間によって分離されている種々の生産物部分が、同じ時間内に成熟するのである。〉(同上)

    これも同じ協業ですが、若干違ったものです。つまり一つの建物の建設にいくつもの違った方面から同時に着工してとりかかるケースです。この場合、協業者たちは同じことかほぼおなじような種類の作業をするにもかかわらず、労働の結合が生じます。12人の労働者の各12時間、合計144時間の1結合労働日が、空間的に多方面から労働対象に着手され、結合労働者、あるいは全体労働者は前にもうしろにも目と手をもち、作業にとりかかるわけですから、そのような1結合労働日は、ただ一面的にとりかからなければならない、個々別々の労働者の12個の12労働時間に比べると、より速く総生産物を作り出すことができます。つまり生産物の種々の部分が同時に成熟するのです。
 『61-63草稿』では〈アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。〉(草稿集④409頁)と書かれています。


◎原注14

【原注14】〈14 「さらに確認されなければならないのは、労働者たちが一つの同じ作業をしている場合にも、このような部分的な分業は生じうるということである。たとえば、煉瓦を手から手へ足場の高いほうに運ぶことに従事する煉瓦積み工たちは、みな同じ労働をするのであるが、それにもかかわらず、彼らのあいだには一種の分業があるのであって、この分業は、彼らがめいめい煉瓦を一定の距離ずつ運んで行って、全部をいっしょにすれば、めいめいが自分の煉瓦を別々に高い足場の上まで運ぶ場合に比べて、ずっと速くそれを所定の場所に到達させるということにあるのである。」(F・スカルベク『社会的富の理論』、第2版、パリ、1839年、第1巻、97、98ベージ。)〉(全集第23a巻430頁)

    これは〈たとえば、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶためにたくさんの手で一つの列をつくるとすれば、彼らはめいめい同じことをするのであるが、それにもかかわらず個々の作業は一つの全体作業の連続的諸部分を、すなわちすべての煉瓦が労働過程で通過しなければならない別々の段階を、なすのであって、こうすることによって、全体労働者のたとえば24本の手は、足場を登り降りする各個の労働者の2本の手よりも速く煉瓦を運ぶのである(14)〉という本文に付けられた原注です。
    これは煉瓦を手渡しで運ぶ場合の協業(引用では「分業」と述べていますが)の効果を同じように述べていることから引用されていると思われます。
  『61-63草稿』ではスカルベクの同じ部分の引用が「単純協業」という表題のもとに引用されていますので、紹介しておきます。

  〈単純協業
  「さらに指摘しなければならないのは、この部分的分業は、労働者たちが同じ一つの仕事に従事しているとしても生じうる、ということである。たとえば、煉瓦を手から手へと渡して高い足場にまで運ぶことに従事している煉瓦積み工は、みんな同じ仕事をしているのであるが、にもかかわらず彼らのあいだには一種の分業があるのであって、この分業は、彼らのそれぞれはあるきまった距離だけ煉瓦を運ぶこと、そしてそれら全部を合わせれば、彼らがそれぞれ別々に自分の煉瓦を高い足場まで運んだ場合にかかるよりもはるかに速く煉瓦を所定の場所に到達させる、ということにある」(フレデリク・スカルベク『社会的富の理論』、第2版、第1巻、パリ、1839年、97、98ページ)。〉(草稿集④511頁)


◎第10パラグラフ(共同労働の最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずる)

【10】〈(イ)われわれは、互いに補い合う多くの人々が同じことかまたは同種のことをするということを強調したが、それは、共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずるからである。(ロ)労働過程が複雑ならば、いっしょに労働する人々が多数だということだけでも、いろいろな作業を別々の手に分配し、したがってそれらの作業を同時に行ない、こうして総生産物の生産に必要な労働時間を短縮するということを可能にするのである(15)。〉(全集第23a巻430頁)

  (イ) わたしたちは、互いに補い合う多くの人々が同じことかまたは同種のことをするということを強調しましたが、それは、共同労働のこの最も単純な形態が、協業の最も発達した形態にあっても一つの大きな役割を演ずるからなのです。

    このパラグラフも最初にフランス語版を紹介しておきます。

  〈われわれは、相互に補足しあう労働者が同じ仕事または同種の仕事をするというばあいを挙げたにすぎない。これは協業の最も単純な形態であるが、この形態は最も発達した形態のなかにも要素として再び現われる。〉(江夏・上杉訳339頁)

    このパラグラフで協業そのものがもたらす生産力の増大のさまざまなありようが、一つのまとめになっています。つまりこれまでは相互に補足し合う労働者が同じ仕事か同種の仕事を同時に行うということが強調されてきましたが、これは単純な協業の一つの特徴としてあるからです。それがもっと発達した協業の諸形態においても常にそのなかに要素として存在し続けるからだというのです。
  『61-63草稿』では次のように書いています。

  協業は、それ自身の発展したものあるいは特殊化したものからは区別される・そしてそれらのものから区別され切/り離されて実在する・形態としては、それ自身のもろもろの種類のなかで最も自然発生的な、最も手の加わっていない、最も抽象的な種類であるが、さらに、その単純性における、その単純な形態における協業が、依然として、それのより高度に発展したすべての形態の、基礎および前提であり続けるのである。
    したがって、協業はなによりもまず、同一の成果を、同一の生産物を、同一の使用価値(あるいは効用)を生産するための、多数の労働者の直接的な--交換によって媒介されていない--協業〔Zusammenwirken〕である。奴隷制生産の場合。(ケアンズを参照せよ。)〉(草稿集④407-408頁)

  (ロ) 労働過程が複雑になりますと、いっしょに労働する人々が多数だということだけでも、いろいろな作業を別々の人の手に分配し、だからそれらの作業を同時に行ない、こうして総生産物の生産に必要な労働時間を短縮するということを可能にするのです。

    フランス語版です。

  〈労働過程が複雑であれば、協業者がたんに多数だということだけで、さまざまな作業を種々の人手のあいだに分割し、これらの作業を同時に実行させ、こうして生産物の製造に必要な時間を短縮することが、可能になるわけである(9)。〉(同上)

  『61-63草稿』では次のようにも書いています。

  〈{〔労働者の〕結合〔Vereinigung〕が同一の空間で行なわれる必要は、絶対的なものではない。1O人の天文学者が異なった国々の天文台で同一の観測を行なう等々の場合、それは分業ではなく、ちがった場所での同一の労働の遂行であって、協業の一形態である。}しかし、同時にまた、労働手段の集積〔Konzentration〕も〔絶対的に必要であるわけではない〕。〉(草稿集④413頁)

    だから労働過程が複雑になりますと、多数の協業者が、一つの同じ労働過程のさまざまな作業を分担し、それらを同時に行うことによって、生産物の生産に必要な労働時間を短縮することが可能になります。これも協業の一つの効果ということができます。
    第7パラグラフからここまでは、単純な協業そのものがもたらす生産力の増大が取り上げられきました。だからその次(11パラグラフ)からは協業の別の契機(労働の本性や客観的な条件との関係など)が問題になっています。


◎原注15

【原注15】〈15 「ある複雑な労働を実行しようとする場合には、いくつものことを同時にしなければならない。一方の人が一つのことをしているあいだに別の1人は別なことをし、こうして、みなが、1人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。1人が漕いでいるあいだに別の1人は舵をとり、第三の1人は網を投げたり、鈷で魚をとったりし、こうして、漁業は、このような協力なしでは不可能であろうような成果をあげるのである。」(デステュット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、78ぺージ。)〉(全集第23a巻430頁)

    これは〈労働過程が複雑ならば、いっしょに労働する人々が多数だということだけでも、いろいろな作業を別々の手に分配し、したがってそれらの作業を同時に行ない、こうして総生産物の生産に必要な労働時間を短縮するということを可能にするのである(15)〉という本文に付けられた原注です。ここでは本文に述べている内容を適切な例を挙げて論じているトラシの一文が紹介されています。
    トラシについてはすでに原注10で出てきましたが、そのときは簡単な引用だけでしたが、関連して『61-63草稿』から紹介したものには、今回の原注で紹介されているものも含まれています。関連する部分だけをもう一度紹介しておきましょう。トラシの一文に対するマルクスのコメントが付いています。

 ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。一人があることをしているあいだに別の一人は別のことをし、こうして、すべての人々が、一人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。一人が漕いでいるあいだに別の一人は舵をとり、第3の一人は網を投げたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第4部および第5部。意志および意志作用論』、バリ、1826年、78ページ〉。この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④421頁)


◎第11パラグラフ(生産部門の決定的な瞬間の労働期間の短さが、協業によって生産場面に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる)

【11】〈(イ)多くの生産部門には或る決定的な瞬間がある。(ロ)すなわち、労働過程そのものの性質によって規定されていてそのあいだに一定の労働成果が達成されなければならないという時期である。(ハ)たとえば、一群の羊の毛を刈るとか、何/モルゲンかの穀物畑を刈り取って収穫するとかいう場合には、生産物の量も質も、作業が或る一定の時期に始まって或る一定の時期に終わるということにかかっている。(ニ)この場合には、たとえば鰊(ニシン)漁の場合などのように、労働過程の占めるべき期間は、あらかじめ定められている。(ホ)1人の個人は1日からはただ1労働日を、たとえば12時間のそれを切り取ることしかできないが、たとえば100人の協業は12時間の1日を1200時間の1労働日に拡大する。(ヘ)労働期間の短さが、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる。(ト)この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっており、有用効果の大きさは労働者数にかかっているとはいえ、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりもつねに小さい(16)。(チ)このような協業が行なわれないために、北アメリカ合衆国の西部では多量の穀物が、またイギリスの支配によって古来の共同体を破壊された東インドの諸地方では多量の綿花が、毎年むだにされるのである(17)。〉(全集第23a巻430-431頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 多くの生産部門には或る決定的な瞬間というものがあります。つまり、労働過程そのものの性質によって規定されていてそのあいだに一定の労働成果が達成されなければならないという時期です。たとえば、一群の羊の毛を刈るとか、何モルゲンかの穀物畑を刈り取って収穫するとかいう場合には、生産物の量も質も、作業が或る一定の時期に始まって或る一定の時期に終わるということにかかっています。この場合には、たとえば鰊(ニシン)漁の場合などのように、労働過程の占めるべき期間は、あらかじめ定められているのです。

    このパラグラフもフランス語版の方が分かりやすいので、最初に紹介しておくことにします。

  〈多くの産業では、所期の成果を獲得するためにとらえなければならない特定の時期、決定的瞬間がある。一群の羊の毛を刈るとか、収穫物を納屋に入れるとかいうばあいには、生産物の質と量は、労働が一定の期日に始まって一定の期日に終わるかどうかによってきまる。労働が行なわれるべき期間は、ここでは、鰊(ニシン)の漁労のばあいのように、労働の本性そのものによってきめられている。〉(江夏・上杉訳340頁)

    ここでは労働の本性そのものによって、ある期間に決定的に多くの労働を費やして作業を行わないと、有益な効果を得られないという場合、その決められた期間に労働を集中して投じることを可能にする協業の効果が問題になっています。
    それは一群の羊の毛を刈とるとか、穀物や果物などをもっとも適切なときに一挙に収穫するという場合、生産物の量も質も、作業がある一定の時期に始まってある一定の時期に終わるということが決定的なことになります。つまり労働過程の占めるべき時期は、あらかじめ決められた短い時間に限られるわけです。そうしたことを可能にするのが、協業の一つの効果だということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

   〈これにたいしてここでわれわれが協業を考察するのは、協業によって1人ひとりの労働が、ばらばらの個人の労働としてはもつことがないような生産性を獲得するそのかぎりでの社会的労働の自然力としてである。たとえば、100人が同時に草刈りをするとき、各人はただ1個人として労働するのであり、また同じことをするのである。しかし、ある期間内に、つまり干し草が腐る等々のことが生じないうちに草刈りを終えてしまう--この使用価値が生産されている--という成果は、100人がこの同じ仕事に同時にとりかかる、ということによってはじめて得られる成果である。〉(草稿集④420頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) 1人の個人は1日からはただ1労働日を、たとえば12時間のそれを切り取ることしかできませんが、たとえば100人の協業ですと12時間の1日を1200時間の1労働日に拡大することができます。労働期間の短さが、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされるのです。この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっています。有用効果の大きさは労働者数にかかっていますが、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりもつねに小さいのです。

    まずフランス語版です。

  〈単独の労働者は1自然日のなかから1労働日、つまり12時間の労働日しか切り取ることができないが、100人の労働者の協業はたった1日のなかに1200労働時間を詰め込むことであろう。このようにして、利用可能な時間が短くても、その短さは、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量で補われるのである。このばあい、適時に産み出される効果は、多数の結合労働日の同時的な使用に依存し、有用な効果の大きさは、使用される労働者の数に依存している(10)。〉(同上)

    こうしたことを可能なのは、当たり前のことですが、単独の労働者の1労働日は12時間ですが、しかし100人の労働者の協業がもたらす1労働日は1200時間になるからです。だから労働期間の短さを、決定的な瞬間に生産場面に投じられる労働者量の増大によって補うことになるわけです。だからこの場合の効果は、ただ適切な時期に多数の結合労働を同時に使用することに依存しており、その有用な効果の大きさは、同時に使用される労働者の数に依存しています。

  (チ) このような協業が行なわれないために、北アメリカ合衆国の西部では多量の穀物が、またイギリスの支配によって古来の共同体を破壊された東インドの諸地方では多量の綿花が、毎年むだにされるのです。

    こうした協業の効果の重要性は、例えば北アメリカ合衆国の西部では多量の穀物が、あるいはイギリスの支配によって古来からの共同体が破壊された東インドの地方では多量の綿花が、適切な時期に集中した労働を投じることができないまま毎年無駄になることを思い浮かべればよくわかります。


◎原注16

【原注16】〈16 「それ」(農業における労働)「を決定的な瞬間に行なえば、ますます大きな結果が得られる。」(〔J・アーバスノト〕『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究』、7ぺージ。)「農業では時という要因よりも重要な要因はない。」(リービヒ『農業の理論と実際』、1856年、23ぺージ。)〉(全集第23a巻431頁)

    これは〈この場合、適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかっており、有用効果の大きさは労働者数にかかっているとはいえ、この労働者数は、同じ期間に同じ作用空間を個々別々にみたすであろう労働者の数よりもつねに小さい(16)〉という本文に付けられた原注です。
    〈適時の効果は多数の結合労働日の同時充用にかかって〉いることが農業の場合にはそれが当てはまることが二つの著書からの引用例で裏付けられています。

  『61-63草稿』ではアーバスノトの同じ著書から以下のような引用がなされています。

  〈「時期が違えば必要とする馬の力も違うような作業が、/……ほとんどどの種類の土地についてもある。たとえば、ある場合には、休閑する土地片をすき返すには、犂1台につき6頭の馬が必要であろう。だからこの場合、300エーカーの土地をもつ農民は2台の犂を作業させるであろうが、他方小農は1台の犂も動かせず、仕事は長びかざるをえない。そうするうちにおそらく、好期を逃がしたための遅れを取り戻すには手遅れになる。そこまでには至らないとしても、少なくとも休閑に適した焼けつくような暑さの利益をすべて失なってしまっていることであろう。一方、休閑期や播種期にも多〈の作業があるが、その場合は3頭だての犂で十分である。このような場合には、300エーカーの農場は、4台を仕事につかせるが、他方はわずか1台しか使えない。[六ページ。]……それゆえ、適量の資本と馬の数を備えている300エーカーの土地をもつ農業者は、同じ時間内に、彼のなす仕事の割合よりも多くのことをすることができる。しかも、大事な時期にそれができるということが{この点についてはリービヒをも見よ}非常に大きな成果をもたらすのである。こうして彼の土地は自然に良質の耕地になり、彼の休閑、播種、施肥、すなわちどの作業もみなうまくゆくのである。というのはそれらの作業がすばやく行なわれうるからである。こうして彼の土地はより良い状態におかれ、彼の生産物がより多くなるにちがいないことは否定されないであろう。(7ページ。)大農業者はまた、彼の2輪馬車や4輪馬車についてもかなり有利な立場に立つだろう。……同様の利点は、まぐわ地ならし機、その他多くの道具についてもあてはまるだろう。」(8、9ページ。)〉(草稿集⑨629-頁)

    この引用文のなかの〈{この点についてはリービヒをも見よ}〉の部分には注解5が付いていて、それは次のようなものになっています。

  〈(5) 〔注解〕ユストゥス・フォン・リービヒ『農業における/理論と実践について』ブラウンシユヴアイク、1856年、23ページ。「農業においては、時期という要素以上に重要な要素はない。」〉(同630-631頁)


◎原注17

【原注17】〈17 「その次の弊害は、おそらくシナとイギリスを別にすれば世界じゅうのどの国よりも多くの労働を輸出する国で見られようとは思われないこと--綿花収穫のための十分な人手が得られないということである。その結果、多量の作物が摘まずに残され、他の部分は地面に落ちてから拾い集められ、もちろん変色していて、一都分は腐っている。こうして、適当な季節に労働が不足するために、栽培者はあんなにもイギリスが切望している作物の大きな部分を失ってしまうことに甘んじなければならないのである。」(『ベンガル・フルカル。隔月海外情報摘要』、1861年7月22日号。)〉(全集第23a巻431頁)

    これは〈このような協業が行なわれないために、北アメリカ合衆国の西部では多量の穀物が、またイギリスの支配によって古来の共同体を破壊された東インドの諸地方では多量の綿花が、毎年むだにされるのである(17)〉という本文に付けられた原注です。
    これは実際に限られた時期に労働力を必要なだけ投入できないために、多くの収穫が無駄になっているという事実がカルカッタからの通報によって報告されていることが紹介されています。『ザ・ベンガル・フルカル〔ベンガル通報〕』,カルカツタ(The Bengal Hurkaru.Calcutta)1861年7月22日号というのはこれ以外には利用されていないようです。


◎第12パラグラフ(協業は労働の空間範囲の拡大と生産領域の空間的縮小を可能にする)

【12】〈(イ)一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することを許すので、ある種の労働過程は、すでに労働対象の空間的関連によっても協業が必要になる。(ロ)たとえば土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設などの場合がそうである。(ハ)他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。(ニ)このように労働の作/用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費(faux frais)を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである(18)。〉(全集第23a巻431-432頁)

  (イ)(ロ) 一方では、協業は労働の空間範囲を拡張することができます。ある種の労働過程では、すでに労働対象そのものの空間的関連によっても協業が必要になります。たとえば土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設などの場合がそうです。

    このパラグラフも参考のために最初にフランス語版を紹介することにします。

  〈協業によって、労働のひろがる空間を拡張することができる。若干の事業は、土地の干拓や灌漑、運河や道路や鉄道/の建設などのように、この観点からだけでも協業を必要とする。〉(江夏・上杉訳340-341頁)

    ここでは広い範囲にわたって行われる協業がまず問題になっています。具体例として土地の干拓とか築堤、灌漑、運河や道路や鉄道の建設などが挙げられています。広く分散して行われながらそれらは同じ目的にために協同して行われる作業であり、協業の一つといえます。すでに先の10パラグラフのところで紹介しましたが、『61-63草稿』では次のように書かれています。

    〈{〔労働者の〕結合〔Vereinigung〕が同一の空間で行なわれる必要は、絶対的なものではない。1O人の天文学者が異なった国々の天文台で同一の観測を行なう等々の場合、それは分業ではなく、ちがった場所での同一の労働の遂行であって、協業の一形態である。}しかし、同時にまた、労働手段の集積〔Konzentration〕も〔絶対的に必要であるわけではない〕。〉(草稿集④413頁)

    このような世界の天文学者たちが協同して同じ彗星の観測を行うのも協業の一形態といえるわけです。

  (ハ)(ニ) 他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にします。このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費(faux frais)を節約させるのですが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものです。

    フランス語版です。

  〈他方、協業によって、生産規模を発展させると同時に、労働過程が実施される空間を縮小することもできる。この二重の作用、空費の節約上非常に効果のある梃子は、労働者の密集、ちがってはいるが関連のある諸作業の結合、生産手段の集中、にのみ負うているのである(12)。〉(江夏・上杉訳341頁)

    今回は具体例が書かれていないので、いま一つ言いたいことがよく分かりませんが、それは原注18をみればある程度わかります。
    つまり協業が発展すれば〈生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする〉というのは、どうやら〈「以前には500エーカーの土地に分散的に用いられていた資本や労働のすべてが、そしておそらくもっと多くのものが、いまでは100エーカーの土地のいっそう完全な耕作のために集中されるようになる。」〉というようなことを意味しているようです。このように狭い面積でも、集約農業が行われれば、収穫量はむしろ増えて、しかもさまざまな空費が節約され、生産力が上がることも協業の一つの側面であるということのようです。


◎原注18

【原注18】〈18 「農耕の進歩につれて、以前には500エーカーの土地に分散的に用いられていた資本や労働のすべてが、そしておそらくもっと多くのものが、いまでは10Oエーカーの土地のいっそう完全な耕作のために集中されるようになる。」「充用される資本や労働の量に比べて、面積は縮小されるが、生産範囲としては、以前は単一独立の生産者によって占拠され耕作されていた生産範囲に比べれば、拡大されている。」(R・ジョーンズ『富の分配に関する一論』『地代について』、ロンドン、1831年、191ページ。〔岩波文庫版、鈴木訳『地代論』、下、16ページ。)〕〉(全集第23a巻432頁)

    これは〈このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費(faux frais)を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである(18)〉という本文に付けられた原注です。
    ここではジョーンズの著書からの引用がなされています。ジョーンズの一文では必ずしも〈多額の空費(faux frais)を節約させる〉ことの指摘はありませんが、しかし生産範囲が縮小されて、資本や労働を集約して投ずることによって、土地のいっそう完全な耕作が行われると述べています。

    ジョーンズの同じ部分の引用が、『61-63草稿』でも行われています。関連して引用されている部分(マルクスの挿入文がある)も含めて紹介しておきましょう。

  〈耕作の進歩につれて、かつては粗放的に500エーカーを使っていた資本および労働のいっさいが、またもしかするとそれ以上さえもが、いまや100エーカーのより完全な耕転のために集約化〔集積〕されたのである」(リチャド・ジョウンズ『富の分配と税源に関する一論』、第1部「地代」、ロンドン、1831年、[190、]191ページ〔岩波文庫版、鈴木鴻一郎訳『ジョーンズ地代論』、下、16ページ〕)。「1エーカーから24ブッシェルを獲得していた費用は、2エーカーから24ブッシェルを獲得する費用よりも小さい。耕転作業が行なわれている、より集約化〔集積〕された面積{このように面積を集約化することはマニュファクチュアにおいても重要である。けれどもここではやはり、共同の〔gemeinshaftlich〕モーターを利用すること、等々のほうがもっと重要である。農業においては、充用される資本および労働の量に比べれば面積(スペース)が集約化されてはいるが、しかしながら、以前たった1人の独立した生産当事者が使用し労働していた生産範囲〔sphere〕に比べて、生産範囲は拡大されている。範囲は絶対的に大きくなっているのである。そこから、馬を使用する可能性、等々が生じる}は、なんらかの利益を与え、なんらかの出費を節約しているにちがいない。囲い、排水、種子、収穫作業、等々は、1エーカーに限定されたときには、より少なくてすむのである、云々」(同前、199ページ〔邦訳、下、25ページ〕)。〉(草稿集④573頁)

    またジョーンズについては『資本論辞典』の説明の概要を紹介しておきます。

 ジョーシズ Richard Jones(1790-1865)イギリスの経済学者.……ジョーンズの主題は,1830年以降ようやく歴史の舞台に登場してきた労働者階級の現状および将来という問題であった.いいかえれば,労働者階級の所得である賃銀がいかにして決定されているかをみずからの研究の主題とした.このばあい注意しなければならないことは.労働者とは,ジョーンズにおいて.歴史のはじめにみいだされると考えられた農奴,分益農,自作農,また当時のアジア,とくにインドにひろくみいだされた世襲的占有者から近代的賃銀労働者までをふくんでいることである.またこのことから当然に,賃銀も,農奴から近代的賃銀労働者までの彼らのうけとる報酬をふくんでいる.これらの労働者の報酬すなわち彼らによって消費される生活手段は,労働元本をかたちづくっている.そしてそれが種々の形態をもっていて,このことが緒国民の経済的構造.ないしは発展段階を規定するという見解から,ジョーンズは出発する.そして労働の形態によって諸国民の経済構造を二つに大別する.「諸国民の経済構造というばあいに,私は最初は土地の所有制度によって,すなわち土地の剰余生産物によって確立され,そしてのちに富の生産と交換とにおける,また労働人口を養い.雇用することにおける代理者である資本家の介入によって変化させられた種々の階級のあいだの関係を意味Lでいるのである」.かくて,ジョーンズによれば,諸国民の経済的構造ないしはその発展段階は,二つの要因によって決定される.すなわち,(1)土地所有の緒形態とそれにもとづく地代形態と,(2)労働者を維持する労働元本の諸形態とによってである.彼が本来の主題とした勤労者の報酬,すなわち賃銀は,前資本主義的経済構造においては,土地所有によって決定的な影響をうける.世界中の大多数の労働者(小農耕作者)によってうけとられる報酬の大きさに影響する諸原因の明確なる地代は,彼らの支払う種々の地代の形態と/条件の考察のあとに,はじめてえられるからである.このような理由のために,諸国民の経済学は,主題展開の順序として第一に地代を,ついで賃銀をとりあっかうことになる.……
  マルクスは『剰余価値学説史』第3部において.『遺稿集』をのぞき,ジョーンズの諸著を全面的にとりあげ,批判している.マルクスは『地代論』を批判して,ジョーンズの貢献をつぎのように把握しているが.これは,ジョーンズの著作全体に妥当するものと考えられる.「この最初の地代にかんする著述は,……すべてのイギリスの経済学者に欠けているところの生産様式の歴史的差別の理解をもってすぐれている」.すなわちイギリス古典派経済学者スミス,リカード等が資本主義的生産様式を絶対的かつ自然的なものとしてとりあつかっているのにたいし,ジョーンズがそれを歴史的・可変的な生産様式としてとりあげたところに,ジョーンズに最大の功績をあたえている.すなわち.ジョーンズは資本主義社会を,地伐の形態からは,第一に,土地所有が生産を,したがって社会を支配する関係でなくなったときに,第二に,農業そのものが資本主義的生産方法で営まれるときにはじめてあらわれてくる土地所有形態として把握し.また労働元本の形態からみたそれを,労働元本が「収入から貯蓄され利潤の目的をもって賃銀を前払いするのに使用される富,すなわち資本」としてあらわれてくる社会,いいかえれば労働者の生活手段はそれが賃労働と対立するとき,資本の形態をとってあらわれてくることを正しく把握した.マルクスは,前資本主義的踏関係のジョーンズの分析を高く評価するとともに,この資本主義把握にジョーンズの最大の功績をみとめ,「ジョーンズをして.おそらくシスモンディをのぞくすべての経済学者にたいして優越せしめている点は,彼が資本の社会的形態を本質的なものとして強調した点であり,また資本主義的生産様式の他の生産様式にたいする差異をすべてこの形態規定上の区別に還元する点である.」と述べている.……(以下、略)〉(501頁)

   ((5)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(5)

2024-06-13 15:16:47 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(5)



◎第13パラグラフ(協業による結合労働日の独自な生産力は、如何なる事情のもとであろうと、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力である)

【13】〈(イ)個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。(ロ)与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、それが労働の機械的潜勢力を高めるからであろうと、労働の空間的作用範囲を拡大するからであろうと、生産規模に比べて空間的生産場面を狭めるからであろうと、決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからであろうと、個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからであろうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからであろうと、いろいろな作業を同時に行なうからであろうと、生産手段を共同使用によって節約するからであろうと、個々人の労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと、どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。(ハ)この生産力は協業そのものから生ずる。(ニ)他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種属能力を発揮するのである(19)。〉(全集第23a巻432頁)

  (イ) 個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べますと、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させることができます。

 このパラグラフはそれまで検討してきた労働過程における「協業」の一つのまとめになっているように思えます。この部分は初版やフランス語版の方がより簡潔で分かりやすく書かれているように思えますので、初版を紹介しておきましょう。

  〈結合労働日は、これと同量である個々別々の個別的労働日の総和と比べれば、いっそう多量の使用価値を生産し、したがって、一定の有用効果を生産するために必要な労働時間を減少させる。〉(江夏訳374頁)

    要するに協業によって結合された労働は、その量としては同じである個々別々の労働の総和に比べますと、生産する使用価値量は大きくなります(もちろん価値量としては同じですが)。だから一定の使用価値量を生産するに必要な労働時間を減少させるということです。つまりそれは生産力を高くするということにほかなりません。

  (ロ)(ハ) 与えられた場合に結合労働日がこの高められた生産力を受け取るのは、それが労働の機械的潜勢力を高めるからでしょうと、労働の空間的作用範囲を拡大するからでしょうと、生産規模に比べて空間的生産場面を狭めるからでしょうと、決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからでしょうと、個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからでしょうと、多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからでしょうと、いろいろな作業を同時に行なうからでしょうと、生産手段を共同使用によって節約するからでしょうと、個々人の労働に社会的平均労働の性格を与えるからでしょうと、どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのです。この生産力は協業そのものから生ずるのです。

    こうした協業による結合労働日が高い生産力を受け取ることか出来ますのは、①それが労働の機械的な潜勢力を高めるからでしょうと、②労働の空間的な作用範囲を拡大するからでしょうと、あるいは生産規模に比べて空間的な生産範囲を狭めるからでしょうと、③決定的な瞬間に多くの労働をわずかな時間に流動させるからでしょうと、④個々人の競争心を刺激して活力を緊張させるからでしょうと、⑤多くの人々の同種の作業に連続性と多面性とを押印するからでしょうと、⑥いろいろな作業を同時に行うからでしょうと、⑦生産手段を共同使用によって節約するからでしょうと、⑧個々人の労働に社会的平均的な性格を与えるからでしょうと、いずれにしましても、こうした結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのです。これらの生産力は協業から生じています。
    ここでは協業が生産力を高めるさまざまな契機が羅列されていますが、それに今番号を付しました。これらはこれまでに述べられてきたものに対応しているように思えます。それぞれに対応するパラグラフをあてはめてみますと、①--7パラグラフ、②--12パラグラフ、③--11パラグラフ、④--8パラグラフ、⑤--9パラグラフ、⑥--10パラグラフ、⑦--4・5パラグラフ、⑧--3パラグラフとなります。かならずしも順序だったものではありませんが、これまでのパラグラフで指摘されてきたものが挙げられていることがわかります。これらが協業が独自に生みだす生産力だということです。

(ニ) 他人との計画的な協働のなかでは、労働者に彼の個体的な限界を脱け出させ、彼の種属的な能力を発揮させるのです。

    こうした協業が独自な生産力を生みだすということは、労働者は他人との計画的な協働においては、彼の固体的な限界を抜け出し、その種族的な能力を発揮させるものであることを示しています。
    このパラグラフでは、協業そのものが生み出す生産力についての一つの纏めがなされています。これまでは労働過程における協業そのものについて述べていたといえるでしょう。それに対して、次からはそれが資本主義的な関係のなかで行われることによる新たな形態規定性が問題になっているといえます。


◎原注19

【原注19】〈19 「個々の人間の力はまったく小さいものであるが、このまったく小さないくつかの力の結合は、すべての部分力を合計したものよりも大きい一つの総力を生み出すのであり、したがって、単に諸力を結合するだけでも、時間を短縮し諸力の作用/の範囲を拡大することができるのである。」(P・ヴェリ『経済学に関する考察』、196ページへのG・R・カルリの注。)〉(全集第23a巻432-433頁)

    これは〈他人との計画的な協働のなかでは、労働者は彼の個体的な限界を脱け出て彼の種属能力を発揮するのである(19)〉という本文に付けられた原注です。

    フランス語版では同じ注ですが(注番号は13)、次のように長いものになっていますので、紹介しておきましょう。

 〈(13) 「個々の人間の力はきわめて小さいが、小さい力の結合は、これらの力の総和よりも大きな一つの総力を産み出し、したがって、これらの力の結合という事実だけでも、これらの力は時間を短縮し、自分たちの活動空間を増大することができるので/ある」(G・R・カルリ、P・ヴェリ、前掲書、第15巻、196ページへの註)。「集団労働は、個別的労働がけっして提供することのできない成果を提供する。だから、人類が数を増すにつれて、結合事業の生産物は、この増加から計算される単純な足し算の和をはるかに超過するであろう。……科学の仕事においてと同じように力学上の技術においても、現在では人間はたった1日で、単独の1個人がその全生涯中になすことよりも多くのことをなすことができる。全体は部分に等しいという数学者の公理は、もはや真実ではなく、われわれの主題にも適用されない。人間存在のこの大支柱である労働にかんしては、蓄積された労苦の産物は、個別的で分離された労苦がつねに生産しうるいっさいのものよりはるかに多量である、と言ってよい」(T・サドラー『人口法則』、ロンドン、1830年)。〉(江夏・上杉訳341-342頁)

   またイギリス語版では〈G・R・カルリの注〉からの引用になっています。

  〈本文注: 13* 「一歩は不確かで小さいものだが、それらを集めればあのメディア人のように大きく高くなり、時間を縮め、空間を自分のものとする。」( G.R. カルリ 「P. ブエリへの手記」 既出 テキスト 15 ) ( イタリア語 )〉(インターネットから)

    最後に『61-63草稿』から関連する引用を紹介しておきます。

 〈「各人の力はごく小さいものであるが、このごく小さい諸力の結合は、同じ諸力の合計よりも大きい一つの総力を生みだすのであり、その結果、単に諸力が結合されるだけでも、時間を短縮し諸力の作用範囲を拡大することができるのである」(ピエトロ・ヴェルリ『経済学に関する考察』、クストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篤1 第15巻、ミラノ、1804年、196ページへのG・R・カルリの注1)。〉(草稿集④413頁)
  〈「全体はその部分の合計に等しいという数学的原理も、われわれの対象に適用すれば誤りとなろう。労働という人間存在の大黒柱についていえば、結合された労苦による生産物の全体は、個人的でばらばらな努力があるいはなし遂げることができるかもしれないすべてのものを限りなく越えていると言ってさしっかえない」(マイクル・トマス・/サドラー『人口の法則』、第1巻、ロンドン、1830年、84ページ)。〉(草稿集④415-416頁)


◎第14パラグラフ(協業の規模は、第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって決まる)

【14】〈(イ)およそ労働者はいっしょにいなければ直接に協働することはできないし、したがって彼らが一定の場所に集まっていることが彼らの協業の条件だとすれば、賃金労働者は、同じ資本、同じ資本家が彼らを同時に充用しなければ、つまり彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することはできない。(ロ)それゆえ、これらの労働力そのものが生産過程で結合される前に、これらの労働力の総価値、すなわち1日分とか1週間分とかの労働者たちの賃金総額が、資本家のポケットのなかにひとまとめにされていなければならない。(ハ)300人の労働者に、たった1日分だけでも、一度に支払うということは、少数の労働者に1年じゅうを通じて1週間ごとに支払う場合に比べて、より多くの資本投下を必要とする。(ニ)だから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分しうる程度によって、定まるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ) およそ労働者はいっしょにいなければ直接に協働することはできませんし、だから彼らが一定の場所に集まっていることが彼らの協業の条件だとしますと、賃金労働者は、同じ資本、同じ資本家が彼らを同時に充用しなければ、つまり彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することはできないことになります。だからこれらの労働力そのものが生産過程で結合される前に、これらの労働力の総価値、すなわち1日分とか1週間分とかの労働者たちの賃金総額が、資本家のポケットのなかにひとまとめにされていなければなりません。

    フランス語版の方がより簡潔に書かれているように思えますので、最初に紹介しておくことにします。

  〈一般に、人間は結合されなければ共同で労働することができない。彼らの集合は、彼らの協業の条件そのものである。賃金労働者たちが協業しうるためには、同じ資本、同じ資本家が、彼らを同時に使い、したがって、彼らの労働力を同時に買わなければならない。これらの労働力の総価値、すなわち1日分、1週間分などの若干の賃金総額は、労働者が生産過程で結合される以前に、資本家のポケットのなかに貯えられていなければならない。〉(江夏・上杉訳342頁)

    これまでは「協業」そのものについて論じてきましたが、ここからは、それが資本家のもとで資本主義的関係のもとにおいてなされるものであることによる諸特徴が問題にされることになります。
    川上肇の『資本論入門』ではここから「3 資本家的協業の特殊性」となっています。そして「前節(第3パラグラフからに該当するところに「2 協業のために生じる社会的生産諸力の増加」とあります)の研究対象と本節の研究対象との区別」と題して、次のように述べています。

  〈他の章におけると同じように、この章においても、協業はまず使用価値を生産する労働過程としての方面について観察され、しかるのち資本の増殖過程としての方面について観察される。それゆえ前節においてわれわれのみた協業の利益のなかには、資本家の介在がその条件となっているものは一つも含まれていなかったのである。しかるに本節においては、その協業が資本家の介在によって・資本家の利益のために・従って資本家の利益を主眼とする特殊な指揮監督のもとに・行われることから、その協業のうえに発生する諸特徴を明らかにすることを目的とする。〉(青木文庫版747頁)

    だからまずここでは協業は資本家によって多数の労働者が雇用され、一つの場所に集められることからはじまることが確認されているわけです。そしてそのためには資本家は多くの労働者を雇用するに必要な資本をポケットのなかに持っていなければならないことも確認されています。

  (ハ)(ニ) 300人の労働者に、たった1日分だけでも、一度に支払うということは、少数の労働者に1年じゅうを通じて1週間ごとに支払う場合に比べて、より多くの資本投下を必要とします。ですから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、1人の資本家が労働力の買い入れに投ずることのできる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分しうる程度によって、定まるのです。

    まずフランス語版です。

  〈300人の労働者に一度に支払うには、ただの1日分にすぎないにしても、もっと少数の労働者にまる1年を通じて毎週支払うよりも多額な資本前貸しが、必要である。したがって、協業者の数または協業の規模は、まず第一に、労働力を買うために前貸しすることのできる資本の大きさに、すなわち、1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由にする大きさに、依存している。〉(同上)

    資本家がどれほどの資本を必要とするかは、例えば300人の労働者をたった一日働かせるだけでも、300人分の賃金が必要ですし、少数の労働者に1年間、1週間ごとに支払う場合に比べますと、より多くの資本を投下する必要があることがわかります。
    ですから、協業する労働者の数、あるいは協業の規模は、第一に、一人の資本家が労働力を買い入れるために投じることが出来きる資本の大きさによって決まってくることがわかります。言い換えますと、一人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由に処分できる程度によって決まってくるということです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  協業--すなわち〔ここでは〕資本家・すなわち貨幣所有者または商品所有者・によるそれの利用--は、もちろん、彼の手中への労働手段の集積〔Konzentration〕ならびに生活手段(労働と交換される資本部分)の集積を必要とする。1人の労働者を年間36O日雇うのに必要な資本は、36O人の労働者を同じ日数だけ雇うのに必要な資本の1/360である。〉(草稿集④416頁)


◎第15パラグラフ(可変資本についていえることは不変資本についてもいえる。個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件である)

【15】〈(イ)そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことである。(ロ)たとえば、原料のための投下は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、それぞれ10人ずつを使っている30人の資本家の一人一人にとっての投下の30倍である。(ハ)共同で利用される労働手段の価値量も素材量も、使用労働者数と同じ程度に大きくはならないが、やはりかなり大きくはなる。(ニ)だから、個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのであって、協業の程度または生産の規模はこの集積の程度によって定まるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ)(ハ) そして、不変資本についても可変資本の場合と同じことがいえます。たとえば、原料のための投下は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、それぞれ10人ずつを使っている30人の資本家の一人一人にとっての投下の30倍が必要です。共同で利用される労働手段の価値量も素材量も、使用労働者数と同じ程度に大きくはなりませんが、やはりかなり大きくはなりますから。

    一人の資本家が多数の労働者を雇入れために必要とする資本、すなわち可変資本についていえることは不変資本についてもいえます。たとえば原料のための投下は、一人の資本家か300人の労働者を使う場合、10人の労働者を使っている30人の資本家の一人一人と比べますと、30倍の投下が必要です。
    もちろん、規模が大きくなりますと、工場の建屋や労働手段などは共同で使用される分、その価値量もその素材量も、節約されて必ずしも使用する労働者数の規模に比例して大きくなるわけではありませんが、しかしそれでもかなりの規模が必要になります。

  (ニ) ですから、個々の資本家の手のなかにかなり大量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件なのです。協業の程度または生産の規模はこの集積の程度によって定まるのです。

    ですから、個々の資本家が大量の労働者を雇用するということは、大量の生産手段が彼のもとに集積されていることが必要なのです。それが賃金労働者の協業の物質的条件なのです。一人の資本家のもとにおける生産手段の集積の程度が、協業の程度または生産の規模を規定しているわけです。


◎第16パラグラフ(小親方から資本家になるための資本の規模は、いまでは多数の賃労働者の協業を可能にする規模として現れている)

【16】〈(イ)最初は、同時に搾取される労働者の数、したがって生産される剰余価値の量が、労働充用者自身を手の労働から解放し小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われた。(ロ)いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立/な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのである。〉(全集第23a巻433-434頁)

  (イ) 最初は、同時に搾取される労働者の数、よってまた生産される剰余価値の量が、労働を充用する者自身を手の労働から解放して小親方を資本家にして資本関係を形態的につくりだすのに十分なものとなるためには、個別資本の或る最小限度の大きさが必要なものとして現われました。

    このパラグラフはフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初に紹介していくことにします。

  〈われわれが見た(第11章)ように、価値または貨幣のある総額は、それが資本に転化するためには、ある最低限度の大きさに達しなければならないが、この最低限度の大きさがあってこそ、その所有者は、手の労働を転嫁しうるほど/に充分な労働者を、働かせることができるわけである。この条件がなかったら、協業の親方や小雇主が資本家にとってかわられることもありえなかったであろうし、また、生産そのものも、資本主義的生産の形態的な性格を帯びることもありえなかったであろう。〉(江夏・上杉訳342-343頁)

    自分でも働く小親方から、手の労働から解放されて資本家になるためには、個別の資本のある程度の大きさが必要であることは、最初のパラグラフでも紹介しましたが、「第9章 剰余価値率と剰余価値量」の第11パラグラフで述べられていました。資本家が手の労働から解放されて、〈普通の労働者のたった2倍だけ豊かに生活し、また生産される剰余価値の半分を資本に再転化させようとすれば、彼は労働者数とともに前貸資本の最小限を8倍にふやさなければならない〉ことが確認されたのでした。
    フランス語版では〈(第11章)〉と訳者注が付いていますが、新日本新書版では〈はじめは〉のところに次のような訳者注が付いています。

  〈フランス語版では、「すでに述べたように」として本書の第9章「剰余価値の率と総量」をあげている。本訳書536ページ以下参照〉(575頁)

  恐らく訳者の勘違いでしょう。

  (ロ) いまでは、この最小限度の大きさは、多数の分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件として現われるのです。

    フランス語版です。

  〈諸個人の手中にある資本の最低限度の大きさがいまや、全く別の外観のもとで現われる。それは、個別的な別々の労働が社会的な結合された労働に転化するには必要であるところの、富の集積である。それは、生産様式がやがてこうむるであろう変化の物的基礎になる。〉(江夏・上杉訳343頁)

    しかし私たちはすでに単に資本家が手の労働から解放されるためだけではなくて、賃労働者の協業が実現されるためには、個別の資本家の手にどれだけ多くの資本が集積される必要であるかが分かっています。つまり個別の労働者の労働が社会的労働に結合されるに必要な富の集積です。それは生産様式がやがてこうむる変化の物質的基礎をなしているのです。


◎第17パラグラフ(多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる)

【17】〈(イ)同様に、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけだった。(ロ)多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してくる。(ハ)生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。〉(全集第23a巻434頁)

  (イ) 同じように、最初は、労働にたいする資本の指揮も、ただ、労働者が自分のためにではなく資本家のために、したがってまた資本家のもとで労働するということの形態的な結果として現われただけでした。

    このパラグラフもフランス語版ではかなり書き換えられていますので、最初に紹介することにします。

  〈資本の初舞台では、労働にたいする資本の指揮は、純粋に形態的な、ほとんど偶然的な性格をになっている。このばあい、労働者が資本の命令のもとで労働するのは、彼が自分の労働力を資本に売ったがゆえのことでしかない。彼が資本のために労働するのは、彼が自分自身のために労働するための物的手段をもっていないがゆえのことでしかない。〉(江夏・上杉訳344頁)

    最初にも確認しましたが、資本はただ最初は労働者を形式的に資本のもとに包摂し、一つの場所に集めて労働させるだけでした。だから資本家の命令もこの場合は、ただ労働者が彼の労働力を資本家に売った結果でしかありませんでした。彼が資本の指揮のもとで労働するのは、彼にはそれ以外に生活手段を得る方途がないからに過ぎません。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈資本家は、労働者に労働させることによって、労働者の労働能力を使用するのである。労働過程のすべての要因が、すなわち、労働材料、労働手段、それに資本家が買った労働能力の実証、使用としての生きた労働そのものが、資本家のものであるので、同様に、まるで彼自身が自分自身の材料と自分自身の労働手段とをもって労働しているかのように、労働過程の全体が彼のものなのである。だが、労働は同時に、労働者自身の生の発現であり、彼自身の人的熟練および能力〔Fähigkeit〕の実証--この実証は、彼の意志しだいであり、同時に彼の意志の発現である--であるから、資本家は労働者を監視し、自分のものたる行動としての労働能力の実証を統御する。彼は、労働材料が労働材料として合目的的に使用されるよう、労働材料として消費されるよう、気をつけるであろう。材料が浪費されれば、それは労働過程にははいらず、労働材料としては消費されない。労働手段についても、労働者がひょっとしてそれの素材的な実体を、労働過程そのもの/によってではなくそれ以外の方法で摩損させる〔aufreiben〕ことでもあれば、同じことが言えるであろう。最後に、資本家は、労働者がほんとうに労働するよう、時間いっぱい労働するよう、また、必要労働時間だけを支出するよう、すなわち、一定時間内に正常(ノーマル)な量の労働をするよう、気をつけるであろう。これらすべての側面から見て、労働過程が、同時にまた労働および労働者自身が、資本の統御のもとに、その指揮のもとにはいるのである。私はこれを、資本のもとへの労働過程の形態的包摂と呼ぶ。〉(草稿集④146-147頁)

  (ロ)(ハ) ところが、多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための必要条件に、一つの現実の生産条件に、発展してきます。生産場面での資本家の命令は、いまでは戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのです。

    フランス語版です。

  〈だが、賃金労働者のあいだに協業が存立するやいなや、資本の指揮は、労働の実施にとっての要件として、生産の現実的な条件として、発展する。そうなれば、生産場面では、資本の命令が、戦場での将軍の命令と同様に不可欠になる。〉(同上)

    しかし雇用される労働者が多数になり、彼らのあいだに協業が生まれますと、資本の指揮は、実際の労働にとって必要不可欠なものとなってきます。つまり資本の指揮は生産のための現実的な条件として発展してくるのです。そうなりますと、資本の命令は、戦場で将軍の命令と同じように不可欠なものになるのです。
    協業そのものにはこうした労働の社会的関連をもたらす指揮が必要なように思えます。たとえば何人かで重いものを持ち上げるとき、力を合わせるためには掛け声をかけねばなりませんが、その掛け声が諸労働を結合させるわけです。そうした指揮を資本家が担うことになると、資本の指揮はだから協業を行う上で不可欠なものになるわけです


◎第18パラグラフ(協業による生産体全体の運動から生じる一般的な機能としての指揮や監督は、資本のもとでは、資本の独自な機能となる)

【18】〈(イ)すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのであって、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのである。(ロ)単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮するが、一つのオーケストラは指揮者を必要とする。(ハ)この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。(ニ)資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのである。〉(全集第23a巻433頁)

  (イ)(ロ) すべての比較的大規模な直接に社会的または共同的な労働は、多かれ少なかれ一つの指図を必要とするのでして、これによって個別的諸活動の調和が媒介され、生産体の独立な諸器官の運動とは違った生産体全体の運動から生ずる一般的な諸機能が果たされるのです。単独のバイオリン演奏者は自分自身を指揮しますが、一つのオーケストラは指揮者を必要とするのと同じです。

    このパラグラフもフランス語版を先に紹介しておきます。

  〈充分に大きな規模でくりひろげられる社会的または共同的な労働はどれも、個別的な諸活動を調和させるための指揮を必要とする。この指揮は、生産体の全体としての運動とこの生産体を構成する独立した諸成員の個別的運動との差異から生ずるところの一般的諸機能を、果たさなければならない。独奏する音楽家は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。〉(江夏・上杉訳343頁)

    比較的大きな規模の共同的な労働は、どれもそれぞれの個別的な労働を関連させ、調和させるための指揮を必要とします。この指揮によって、個別的な諸労働は一つの生産体として統一されるのです。こうした指揮は、個々の労働とは区別される生産全体の運動から生じる一般的な機能として存在しています。たとえばバイオリンの独奏者は、自分自身を指揮して演奏できますが、オーケストラだと全体を指揮する人が必要です。この指揮者の機能はここの楽器を奏することとは別個のものであり、よってまた違った人格によって担われるのです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈多数者の結合労働〔Zusammenarbriten〕--彼らの連関そのものは彼らにとっては無縁の関係であり彼らの統一は彼らの外にある--とともに、指揮の、監督の必要性が、それ自身一つの生産条件として現われる、すなわち、労働者たちの協業によって必須のものになった、つまり協業が原因で生まれた新しい種類の労働、つまり監督労働〔labour of superintendence〕として現われる。それは、軍隊において、たとえそれが同一の兵科だけから成っているとしても、それが一つの兵団として行動しうるためには、指揮官の必要が、つまり命令の必要が生まれるのとまったく同じである。この指揮権は資本に属するものである。ただし個々の資本家はこの指揮権を、またふたたび独自な労働者によって行使させることができるが、〔この場合には〕この労働者たちは、労働者軍に対立して資本と資本家とを代表するのである。(奴隷制)(ケアンズ)〉(草稿集④419頁)

  (ハ)(ニ) この指揮や監督や媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になりますと、資本の機能になります。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格をもつことになるのです。

    まずフランス語版です。

  〈資本に従属する労働が協業的になるやいなや、こういった指揮、監督、媒介の機能が資本の機能になり、それは資本の機能として、独自な性格を獲得する。〉(同上)

    この協業そのものから生まれる指揮・監督の労働は、資本家のもとで働く労働者たちの協業となると、その指揮は資本の一機能になり、それによって独自な性格を持つことになります。 

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈資本主義的生産にとってまさに特徴的なことは、労働の生産力を高める労働の社会的性格ですら労働自身には無縁の力として、つまり労働の外部に存在する諸条件として現われるのであって、労働自身の属性・条件としては現われない--なぜなら、労働者は依然として彼の協働者たちとの社会的な連関の外でばらばらな労働者として資本と相対するのだからである--ということである〉(草稿集⑨194頁)

   ((6)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(6)

2024-06-13 14:40:24 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(6)



◎第19パラグラフ(資本のもとでの指揮労働の独自な性格)

【19】〈(イ)まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖(20)、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。(ロ)同時に従業する労働者の数の増大につれて彼らの抵抗も大きくなり、したがってまたこの抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に大きくなる。(ハ)資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなく、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって必然的にされているのである。(ニ)同様に、賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適当な使用を監督することの必要も増大する(21)。(ホ)さらにまた、賃金労働者の協業は、ただ単に、彼らを同時に充用する資本の作用である。(ヘ)彼らの諸機能の関連も生産的全体として/の彼らの統一も、彼らの外にあるのであり、彼らを集めてひとまとめにしておく資本のうちにあるのである。(ト)それゆえ、彼らの労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意志の力として、彼らに相対するのである。〉(全集第23a巻434-435頁)

  (イ)(ロ)(ハ) まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、つまりできるだけ大きい剰余価値の生産、だから資本家による労働力のできるだけ大きな搾取です。同時に従業する労働者の数の増大につれて彼らの抵抗も大きくなります。だから労働者の抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に大きくなります。ですから資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能であるだけではなくて、同時にまた一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあるのです。だからその指揮には搾取者とその搾取材料との不可避的な敵対によって必然的にされている役割もあるのです。

    このパラグラフは初版もフランス語版も形式的にはかなり違っています。初版は全集版の第19パラグラフと第20パラグラフが一つのパラグラフになっています(だから原注はすべて後ろに回されています)が、フランス語版は第19パラグラフそのものが三つのパラグラフに分けられています。ここではフランス語版を紹介しておくことにします。

  〈資本主義的生産の強力な拍車、大きな原動力は、資本を増殖するという必然性である。資本の決定的な目的は、剰余価値のできるかぎり大きな抽出であり(14)、結局同じことになるが、労働力のできるかぎり大きな搾取である。同時に搾取される労働者の総数が増加するにつれて、資本家にたいする彼らの抵抗が増大し、したがって、この抵抗を打ち破るた/めに行使しなければならない圧力も増大する。資本家の手中にあっては、指揮はたんに、協業的なあるいは社会的な労働過程の本性そのものから生ずる上記の独自な機能であるばかりでなく、さらに、しかも顕著に、社会的な労働過程を搾取する機能、搾取者と彼によって搾取される材料との不可避的な敵対に根拠を置く機能でもある。〉(江夏・上杉訳343-344頁)

    資本主義的生産の唯一の規定的目的、その推進動機は剰余価値の生産(利潤の獲得)です。つまり労働者の剰余労働を徹底的に搾取することです。しかし協業の規模が増大しますと、労働者の数そのものが増えることによって、その抵抗も大きくならざるを得ません。だからまたそれを抑圧し資本の搾取欲の枠内に統制するための資本の圧力も必然的に大きくなります。
    だから資本家に属する指揮労働は、単に協業による社会的な労働の本性から生じる独自の機能だけではなくて、資本家が労働者の抵抗を抑圧して、彼らから徹底的に剰余労働を搾取するための機能という独自な性格を持っているのです。つまり搾取者と被搾取者との敵対的な関係から生まれてくる機能です。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適切な使用を監督することの必要性も増大します。賃金労働者の協業は、ただ単に、彼らを同時に充用する資本の作用でもあるのです。彼らの諸機能の関連も生産的全体としての彼らの統一も、彼らの外にあるのであり、彼らを集めてひとまとめにしておく資本のうちにあるのです。ですから、労働者の労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意志の力として、彼らに相対するのです。

    フランス語版では、この部分は二つのパラグラフに分かれています。

  〈その上、他人の所有物として労働者に対立する生産手段の規模が増大するにつれて、生産手段の適当な使用を監督し検証する必要も増大する(15)。
    最後に、賃金労働者の協業は、彼らを同時に使用する資本の単なる作用でしかない。彼らの個別的機能のあいだの連携と、生産体としての彼らの統一とは、彼らの外にあるのであり、彼らを結合し引きとめる資本の内にあるわけなのだ。彼らの労働の連携は、彼らには資本家の計画として観念的に現われ、彼らの集合体の統一は、彼らには資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に服従させる他人の意志の力として、実際的に現われる。〉(江夏・上杉訳344頁)

    協業の規模が増大しますと、労働者に対立する生産手段の規模も大きくなり、よってその増大した生産手段が労働者によって適切に使用されているかどうかを常に監督・指揮する資本の機能もまた増大します。
    さらに資本のもとでの労働者の協業は、労働者自身のものではなくて、資本家によって命令されたものに過ぎません。労働者自身は個々バラバラに資本家に相対して、自己の労働力を売ったにすぎないからです。だからそうした個々バラバラの労働者を生産過程で社会的に結びつけ、一つの生産体にするのは資本の機能なのです。労働者は生産過程で互いに連携して働きますが、その彼らの互いの関連は彼ら自身のものではなくて、資本の指揮であり資本の意志によるものです。だから労働者の労働における関連は、観念的には資本家の計画として、労働者の集合体としての統一は、資本家の権威として存在しています。だからそれらは労働者にとっては彼らを服従させる他人の意志としてあるわけです。
    フランス語版ではこのパラグラフは三つに分けられていると言いましたが、それは内容的に分けられていることがわかります。すなわち次の三つの資本の機能から生じる指揮労働の独自の性格が述べられているように思えます。
    (1)労働者を搾取し最大限の剰余労働搾り取るために、協業によって増大する労働者の抵抗を抑圧するという資本の機能から生じる指揮労働の独自な敵対的な性格。
    (2)協業の規模の増大にもとづく生産手段の増大が、それを適切に使用されるように労働者の労働を指揮・監督する資本の独自な機能にもとづく指揮労働の性格。
    (3)個々ばらばらに雇用した労働者を生産過程のなかで社会的に結合するために、彼らの関連を媒介し、生産の統一性を維持する資本の機能としての指揮労働の独自性。
   これらは協業が資本関係のなかで生じてくる資本に固有の性格であり、指揮労働の独自の機能ということかできると思います。


◎原注20

【原注20】〈20 「利潤は……事業の唯一の目的である。」(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、11ページ。)〉(全集第23a巻435頁)

    これは〈まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖(20)、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である〉という一文に付けられた原注です。
    ここではヴァンダリントの同様の内容を示す一文が引用されています。
    ヴァンダリントについては第10章の原注1に出てきたときに『資本論辞典』からの引用を紹介しましたが、それを再度掲載しておきます。

  ヴァンダーリント Jacob Vanderlint (1740)イギリスに帰化したオランダ商人.唯一の著書《Money answers all Things》(1734)によって知られている.貿易差額脱を批判して自由貿易論へ道を開き,下層・中間階級の地位の引上げを目標とし.高賃銀を要求し.土地にたいする不生産的地主の独占を攻撃した.マルクスはアダム・スミスにいたるまでの経済学が,哲学者ホッブズ,ロック.ヒューム.実業家あるいは政治家トマス・モア,サー・W・テンプル,シュリー,デ・ゲイツト,ノース,ロー.カンティヨン.フランクリンにより,また理論的にはとくに医者ペティ,バーボン. マンドヴィル,ケネーにより研究されたとしているが,ヴァンダリントもこれら先人のなかに加えられており,とくにつぎの三つの点でとりあげられている.第一に,流通手段の量は,貨幣流通の平均速度が与えられているばあいには,諸商品の価格総頬によって決定されるのであるが,その逆に,商品価格は流通手段の量により,またこの後者は一国にある貨幣材料の量によって決定されるという見解(初期の貨幣数量説)があり,ヴァンダリントはその最初の代表者の一人である.この見解は,商品が価格なしに,貨幣が価値なしに流通に入り込み,そこでこの両者のそれぞれの可除部分が相互に交換されるという誤った仮設にもとづく'幻想'である,と批判されている.またこの諭点に関連して,ヴァンダリントにおける,貨幣の退蔵が諸商品の価格を安くする,という見解が批判的に,産源地から世界市場への金銀の流れについての叙述が傍証的に引用されている.第二に,ヴァンダリントはまた,低賃銀にたいする労働者の擁護者としてしばしば引用され,関説されている.第三に,マニュフアクチュア時代が,商品生産のために必要な労働時間の短絡を意識的原則として宣言するにいたる事情が,ペティその他からとともにヴァンダリントからもうかがい知ることができるとされている.上述の批判にもかかわらず.《Money answers all Things》は,‘その他の点ではすぐれた著述'であると評価され,とくにヒュームの《Political Discourses》(初版1752)が,これを利用したことが指摘されている.《反デューリング論》の(《批判的学史》から)の章ではこの両者の関係が詳細に確認され, ヒュームはヴァンダリントにまったく迫随しつつ,しかもそれに劣るものであると断ぜられている(その他の点でも《反デュリング論》の参照が必要).〉(472頁)


◎原注21

【原注21】〈21 イギリスの俗物新聞、『スぺクテータ』の1866年5月26日号の報ずるところでは、「マンチェスター針金製造会社」で資本家と労働者との一種の共同出資制が採用されてから、「第一の結果は、にわかに浪費が減少したことだった。労働者たちは、彼ら自身の財産をだれかほかの企業家の財産よりもひどく浪費するべき理由をもたなかったからである。そして、おそらく材料の浪費は悪質の債務に次いで事業の損失の最大の源泉であろう。」この新聞は、ロッチデール協同組合の実験〔103〕の根本欠陥として次のようなことを発見している。「これらの実験は、労働者の組合が売店や工場やほとんどすべての形の産業を成功裡に管理することができるということを示したし、また労働者の状態を大いに改善もしたが、しかし、そのとき、それは雇い主のためのあいた席を残さなかったのである。」なんという恐ろしいことだろう!〔Quelle horreur!〕〉(全集第23a巻435頁)

    これは〈同様に、賃金労働者にたいして他人の所有物として対立する生産手段の規模が増大するにつれて、その適当な使用を監督することの必要も増大する(21)〉という本文に付けられた原注です。
    これは労働者にとって生産手段(機械や原料など)は、他人のものということがそれらを手荒に扱ったり、無駄の大きい利用をやることに何の利害も感じなくさせるので、資本家はそれを防ぐために監視しなければならないわけですが、マンチェスターの針金製造会社で資本家と労働者との一種の共同出資制度が採用された結果、こうした生産手段の浪費がなくなったという利点を俗物新聞が報じていることを紹介しています。
    しかもそれだけではなくて、労働組合が生産や売店など工場のすべてをうまく管理できることを実証したのですが、その結果、資本家の居場所がなくなった、つまり資本家なるものは不要な存在であることを暴露してしまったというのです。だからマルクスはこのことは資本家や彼らに寄生する連中にとって〈なんという恐ろしいことだろう!〉と皮肉っているわけです。
    初版では〈「これらの実験は、労働者の組合が売店や工場やほとんどすべての形の産業を成功裡に管理することができるということを示したし、また労働者の状態を大いに改善もしたが、しかし、そのとき、それは雇い主のためのあいた席を残さなかったのである。」〉の部分は英文でも表記されています。
    なお全集版には〈ロッチデール協同組合の実験〔103〕〉には注解103が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈(103) ロッチデール協同組合の実験(Rochdale coperative experiments)--ユートピア社会主義者の思想/に影響されて、ロッチデール(マンチェスターの北方) の労働者は1844年に公正な開拓者の組合(Society of Equitable Pioneers) を結成した。それは最初は消費協同組合であったが、まもなく拡張されて、協同組合的生産施設をも設けた。ロッチデールの開妬者とともに、イギリスやその他の諸国の協同組合運動の新しい時代が始まった。〉(全集第23a巻18-19頁)

  新日本新書版には同じ部分に次のような訳者注が付いています。

  〈1844年12月にランカシャーのロッチデイルに成立された消費組合。出資金配当と購買配当の制度で成功し、のちの生産活動にも従事した〉(577頁)


◎第20パラグラフ(資本家の指揮は内容から見れば二重的であるが、形態的には専制的である。それは大規模な協業の発展とともに、産業士官や産業下士官という賃労働者を生み出す)

【20】〈(イ)それゆえ、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのであるが、この指揮はまた形態から見れば専制的である。(ロ)いっそう大規模な協業の発展につれて、この専制はその特有な諸形態を展開する。(ハ)資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産の開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのであるが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。(ニ)一つの軍隊が士官や下士官を必要とするように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maîtres)を必要とする。(ホ)監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのである。(ヘ)独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとつく植民地農/場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費〔faux frais de procduction〕に数える(21a)。(ト)これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能と同一視する(22)。(チ)資本家は、産業の指揮者だから資本家なのではなく、彼は、資本家だから産業の司令官になるのである。(リ)産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことである(22a)。〉(全集第23a巻435-436頁)

  (イ)(ロ) そういうことから、資本家の指揮は内容から見れば二重的であって、それは、指揮される生産過程そのものが一面では生産物の生産のための社会的な労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるというその二重性によるのですが、この指揮はまた形態から見ますと専制的なのです。いっそう大規模な協業が発展するのにつれて、この専制はその特有な諸形態を展開します。

   このパラグラフは初版やフランス語版では若干の書き換えがみられますので、両方を最初に紹介することにします。

 初版〈だから、指揮される生産過程自体が一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるがゆえに、この生産過程自体が二面性をそなえている結果、資本家の指揮は、内容上二面的であっても、形式上専制的である。協業がいっそう大規模に発展するにつれて、この専制は特有な諸形態を繰り広げる。〉(江夏訳377頁)
  フ版〈したがって、資本家の指揮は、指揮すべき対象そのものが、一方では協業的な生産過程であり他方では剰余価値の抽出過程であるがために、その内容の点では二重の面をもっているが--この指揮の形態は必然的に専制的になる--、協業が発展するにつれて、この専制の特殊な諸形態も発展する。〉(江夏・上杉訳344頁)

    まずこのパラグラフは〈それゆえ〉という文言から始まっていますように、前パラグラフを受けています。前パラグラフでは協業が資本主義的なものであることから生じる指揮労働の独自な性格(役割)についてみたのでした。一つは搾取対象である労働者に対する抑圧的性格、もう一つは増大する生産手段の適切な使用を監視する役割、そして最後に生産の統一性を労働者の労働にもたらす役割についてです。
    こうした資本主義的協業がもつ固有の性格から、資本家の指揮は内容的には二面性をもつと言われています。一つは協業が本来持っている労働の社会的結びつきから生じる指揮労働の側面です。もう一つは資本家的に行われるところから来る上記にあげた一連の性格です。しかし形態的にはそれは専制的だと述べています。内容的には確かに二面的な性格を持っていますが、形態的には、つまり具体的に労働者に対して直接現れてくる面からいえば専制的なものになるのだということです。つまり社会的労働にもとづく指揮労働の一般的機能としての側面は直接的なものとしては現れないということでしょう。

  (ハ) 資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産の開始のためにどうしても必要な最小限度の大きさに達したとき、まず手の労働から解放されるのですが、今度は、彼は、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を再び一つの特別な種類の賃金労働者に譲り渡すのです。

  初版〈資本家は、自分の資本が、本来の資本主義的生産をやっと開始するのに足りる最小限の大きさに到達すると、さしあたり手の労働から開放されるのであるが、このことと同様に、彼はいまや、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を、あらためて、特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。〉(同前)
  フ版〈資本家はまず手の労働から免れる。次いで、彼の資本が増大し、彼の働かせる集団労働力が彼の資本とともに増大す/ると、彼は、労働者や労働者群を直接に絶え間なく監督するという自分の機能を解除して、これをある特殊な種類の賃金労働者に移譲する。〉(江夏・上杉訳344-345頁)

    そしてこの資本の指揮労働の専制は、さらなる発展を遂げるということです。資本家は、彼の資本が資本主義的な生産を開始するようになる最低限を超えた時点では、彼は自身を手の労働から解放して、もっぱら指揮・監督の労働を担うようになりました。しかし今度は、さらにその指揮・監督の労働そのものを賃金労働者に譲り渡すということです。

  (ニ)(ホ) 一つの軍隊が士官や下士官を必要としますように、同じ資本の指揮のもとで協働する一つの労働者集団は、労働過程で資本の名によって指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maîtres)を必要とするのです。つまり監督という労働が彼らの専有の機能に固定するのです。

  初版〈軍隊がそうであるように、同じ資本の指揮のもとで協働する労働者集団は、労働過程そのものが行なわれているあいだ資本の名において指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maîtres)を、必要とする。監督労働が、彼らの専有の機能に固定する。〉(同前)
  フ版〈資本家が産業軍の先頭に立つやいなや、労働過程が続いているあいだ資本の名において指揮する上級士官(支配人、業務執行人)と下士官(監督者、巡視人、職工長)とが、彼には必要である。監督労働は、上級士官や下士官の専有機様(ママ)になる。〉(江夏・上杉訳345頁)

    つまり軍隊では士官や下士官という指揮・命令を行う対象である平の隊員を統率する上級軍人たちがいますように、大規模な協業を行う資本主義的な生産過程においても、資本の名において労働者を指揮する産業士官(支配人、マネージャー)や産業下士官(工場長や職工長など)を必要とするわけです。つまり監督労働が彼らの専有の機能に固定します。(イギリス語版では〈指揮監督の仕事が、彼等の確立された、そして排他的な機能となる。〉〔インターネットから〕となっています。)

  (ヘ)(ト) 独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとつく植民地農場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費〔faux frais de procduction〕に数えます。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能と同一視するのです。

  初版〈独立農民や独立手工業者の生産様式を、奴隷制にもとづく植民農場経営と比べるばあい、経済学者は、この監督労働を生産の空費に算入する(21a)。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的なしたがって敵対的な性/格の面から必要とされるかぎりでの指揮の機能と、同一視する(22)。〉(江夏訳377-378頁)
  フ版〈経済学者が、独立農民または独立手工業者の生産様式を、植民地の農場主が営むような奴隷制度にもとつく経営と比較するばあい、彼はこの監督労働空費のなかに数える(16)。ところが、彼が資本主義的生産様式を考察するとなると、彼は、協業的労働過程の本性から派生するかぎりでの指揮と監督の機能を、この同じ過程の資本主義的なしたがって敵対的な性格を基礎とするかぎりでの機能と、同一視する(17)。〉(同前)

    こうした産業士官や産業下士官などの指揮労働をもっぱらとする人たちの労働を如何に考えたらよいのでしょうか。
    経済学者たちは、独立農民や独立手工業者の生産様式と奴隷制にもとづく植民地農場経営とを比較して、後者で必要とする監督労働を生産の空費とするのですが、同じ経済学者は、資本主義的生産における指揮・監督労働を資本主義に固有の敵対的なものから生じてくる側面(その限りでは空費なのですが)と協業に必然的に随伴する一般的な機能としての側面とを混同して、主に後者を理由にその意義と正当性を主張するわけです。

    イギリス語版では〈単独に孤立する農場主や手工職人親方の生産様式と奴隷労働による生産とを比較する場合、前者の監督の仕事を、政治経済学者は、生産の雑費 の中に計上する。〉(同)となっていますが、ここで〈前者の〉は明らかに〈後者の〉とすべきだと思います。

  (チ)(リ) しかし、資本家は、産業の指揮者だから資本家なのではありません、彼は、資本家だから産業の司令官になるのです。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことなのです。

  初版〈資本家は、産業の指揮官であるがゆえに資本家であるわけではなく、資本家であるがゆえに産業の司令官なのである。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性であったのと、同じことである(22a)。〉(江夏訳378頁)
  フ版〈資本家はけっして、産業指揮者であるから資本家であるのではなく、逆に、資本家であるから産業指揮官になるのである。封建時代には戦争の指揮と裁判とが土地所有の属性であったのと同じように、産業における指揮が資本の属性になる(18)。〉(同前)

    しかしいうまでもなく、資本家は、指揮者だから資本家なのではありません。少なくとも労働者は資本家に指揮・命令されて生産過程に行くのではなく、自由な労働者として資本家と契約を交わし、その上で生産過程に自身の意志で赴くのですから。つまり資本家は、労働者と契約してその労働力を買い、必要な生産手段を準備して、それを生産過程で結合してはじめて彼は資本家になり、資本家になるからこそ生産過程における監督・指揮の機能を担うわけです。だから産業における最高指令が資本の属性になるのは、その生産関係がそうさせるのです。だからそれは封建社会で戦争や裁判における最高指令が土地所有の属性であったのと同じなのです。


◎原注21a

【原注21a】〈21a ケアンズ教授は、「労働の監督」〔“superintendence of labour"〕を北アメリ力南部諸州の奴隷制生産の一つの主要特徴として述べてから、さらに次のように続けている。「農民的土地所有者」(北部の)「は自分の土地の*全生産物を自分のものにするので、そのほかに努力を刺激するものを必要としない。監督はここではまったく不要である。」(ケアンズ『奴隷力』、48、49ページ。)
  * ケアンズの原文では、自分の労働の、となっている。〉(全集第23a巻436頁)

    これは〈独立農民や独立手工業者の生産様式を奴隷制にもとつく植民地農場経営と比較する場合には、経済学者はこの監督労働を生産の空費〔faux frais de procduction〕に数える(21a)〉という本文に付けられた原注です。
    ケアンズの一文が引用されていますが、彼はアメリカ南部の奴隷制的な生産では「労働の監督」を一つの主要な特徴として挙げ、それに対比するかたちで北部の農民的土地所有ではすべて自分の土地の全生産物を自分ものにするので、監督は不要だと述べています。つまり彼に言わせれば、南部における奴隷制農業経営で必要とする監督労働は必要悪であり、空費に属するのだと言いたいのだと思います。

    ケアンズについては第8章第5節の第4パラグラフで同じ著書からの引用があり、そのさい、『資本論辞典』から紹介したことがありますので、それを再度掲載しておきます。

 ケアンズ John Elliot Cairnes(1828-1875) アイルランドの経済学者.……1862年に著書《The Slave Power》を出版.これによって彼の名声は確立された.この著書はアメリカの南北戦争(1861-65)における北部諸州の奴隷廃止の主張を擁護したもので,イギリスおよびアメリカに大きな影響を与えた.……彼はみずからJ.S.ミルの祖述者をもって任じ,ミルやフォーセットと親交を重ね,リカードいらいの古典派経済学を擁護したので,学説史家は彼を新古典派と名づけている.
  マルクスは,もっぱらケアンズの《奴隷力》を傍証のために引用している.‘資本は労働力の寿命を問題にしない'.それが関心をもつのは. ただもっぱら一労働日のうちに流動化されうる労働力の最大限だけである.資本は労働力の寿命を短縮させることによってこの目的を達するのであって……(KⅠ-276;青木2-459;岩波2-221). その極端なばあいが奴隷力である.奴隷貿易が行なわれるようになって,‘奴隷がひとたび外国の黒人保育揚からの供給によって補充されうるようになるやいなや,奴隷の寿命は,その命がもつあいだの奴隷の生産性にくらべれば,重要性が少なくなる(ケアンズ《奴総力》,110.111)' (K1-277:青木2-460;岩波2-223).ところが,奴隷貿易の代わりに労働市場をおきかえてみると,ひとごとではない. このようにマルクスは,ケアンズの文章を利用する.また直接的生産者としての労働者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式では, <監督労働>が必然的に生ずるが.この対立が大きければ大きいほど,監督労働の演ずる役割は大きく,したがってそれは奴隷制度において最高限に達す(KⅢ-419:青木10-545:岩波10-84-85). この点をケアンズの《奴隷力》からの引用によって根拠づけている.(村上保男)〉(486-487頁)


◎原注22

【原注22】〈22 総じて、いろいろな生産様式の特徴的・社会的相違を見抜くことですぐれているサー・ジェームズ・ステユァートは、次のように述べている。「大マニュファクチュア企業は、奴隷の単純さに接近することによるのでなければ、どうして個人経営を滅ぼすのか?」(『経済学原理』、ロンドン、1767年、第1巻、167、168ページ。)〉(全集第23a巻436頁)

    これは〈これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、したがって敵対的な性格によって必然的にされるかぎりでの指揮の機能と同一視する(22)〉という本文に付けられた原注です。
    ステュアートの引用文は新日本新書版の訳では〈「大きな製造企業が家内工業〔個人工業〕を滅/ぼすのは、その企業が奴隷労働なみの単純さに近寄ることによってでないとすれば、なせであろうか?」〉(578-579頁)となっています。

   『61-63草稿』には次のような一文があります。

    〈資本のもとへの労働の実質的包摂とともに、生産様式そのもののなかで、労働の生産性のなかで、そして資本家と労働者とのあいだの--生産の内部における--関係のなかで、ならびに両者の相互間の社会的関係のなかで、一つの完全な革命が起こる。
    ただ最も簡単な形態である単純協業という形態だけは、以前の生産諸関係にあっても(以前のエジプト等々を見よ){そこではこの単純協業は、鉄道のためにではなくて、ピラミッド等々のために行なわれるのである}、そして奴隷関係(これについては後述を見よ)にあっても可能である。ここ〔資本関係〕では従属関係が、婦人・児童労働を取り入れることによってふたたび落ち込んで、奴隷関係に近づく。(ステューアトを見よ。)〉(草稿集⑨388頁)

    ここでは直接ステューアトの文言としてではありませんが、資本関係では従属関係が、婦人・児童労働取り入れることによって奴隷関係に近づくと述べて、ステューアトを参照として挙げています。
    つまりステューアトは、資本主義的な企業では奴隷労働なみの労働が行われているのだから、その指揮・監督の機能は、単なる共同的な労働過程からくるような指揮の機能だけではなくて、奴隷制の農場経営と同じような敵対的な性格をもっていることを喝破しているといえるでしょう。

    ジェイムズ・ステュアートについては『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  ステュアート ジェイムズ SirJames Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……/彼の主著『経済学原理』は,その当時の時論として,また商業資本家あるいは産業資本家の日常的経験を理論化するにとどまっていた重金主義,あるいは重商主義の理論を体系化して,はじめて経済学をつくりあげた地位を占めている,『原理』は一方では,生産様式の歴史的差異に注目した特徴をもつとともに,他方では,時代に制約されて「重金主義または重商主義の科学的再生産」,それらの「合理的表現」にとどまっている.なわち.彼は,
生産様式の歴史的差異を労働の諸形態にもめ.近代資本主義社会の特徴を,交換価値を生む労働と規定し.このような労働形態は労働者たちが生産手段や生活手段にたいする所有権を失い,これらのものが労働者にあらざるひとつの対象としてその労働者に対立することによっで発生するとと,ことに農業におけるそれが,工業における資本主義的生産の前提条件であることをあきらかにした.そLてこのような観点から労働の古代的および中世的形態に対立する労働の近代的形態をあきらかにした.マルクスは,ステュアートのこの側面での経済学への寄与を「資本の把握のための彼の功績は,一定階級の所有物としての生産諸条件と労働力とのあいだの分離過程が,どのようにしておこなわれるかをしめした点にある」と高く評価している.……(以下、略)〉(504-505頁)


◎原注22a

【原注22a】〈22a それゆえ、オーギュスト・コントとその学派は、彼らが資本のためにやったのと同じやり方で、封建領主の永久的必然性を証明することもできたであろう。〉(全集第23a巻436頁)

    これは〈産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性だったのと同じことである(22a)〉という本文に付けられた原注です。

    最初に初版の原注を紹介しておきましょう。

  〈(22a) だから、オーギュストコントと彼の学派は、彼らが資本家の永遠的必然性を証明したのと同じやり方で、封建領主の永遠的必然性を証明することができたであろうに。「実証哲学」をさらに詳しく分析すると、この哲学は、外見上はなにも/かも無神論であるにもかかわらず、カトリック教の土壌に深く根づいている。百科全書的な要約の方法は、A・コントをフランスで流行(ハヤ)らせた。約15年前に現われたへーゲルの『エンテクロペディー』に比べると、コントの総合判断は、地方的な意義しかもちあわせていない拙作である。〉(江夏訳378-379頁)

    全集版(フランス語版も同じ)では、初版にある後半部分はカットされたということです。
    オーギュスト・コントとその学派は、資本家の永遠性を証明したのですが、同じやり方で、封建領主の永遠性も証明できたでしょう、というマルクスの皮肉が述べられています。つまりコントは最高指令の必要から資本の支配の永遠化を主張したのですから、同じように封建領主もその戦争や裁判における最高指令を発する必要から、その永遠性を主張できるではないか、ということです。

    オーギュスト・コントについてはここ以外にはマルクスによる言及はありませんでした(第2版後記に簡単なものがあるだけ)。ただ初版の原注の後半部分と若干関連するものとしては、1866年7月7日付のマルクスからエンゲルスへの書簡のなかに次のような一文がありました。

  〈僕はいまついでにコントを研究している。というのは、イギリス人たちやフランス人たちがこいつについて大騒ぎをしているからだ。彼らをそれにひきつけるものは、百科全書的なもの、総合的なものだ。だが、ヘーゲルに比べれば惨めなものだ(コントは専門の数学者および物理学者としてはヘーゲルよりすぐれている、つまり細部ではすぐれているとはいえ、ヘーゲルはこの分野においてさえ全体としては無限に彼よりも偉大なのだ)。しかもこのくだらない実証主義は1832年に刊行されたのだ!〉(全集第31巻196頁)


◎第21パラグラフ(協業は個々の労働者が資本に個別に労働力を販売したあとの生産過程において生じるために、その社会的生産力は資本の生産力として現れる)

【21】〈(イ)労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取引しているあいだは、自分の労働力の所有者なのであり、そして、彼が売ることのできるものは、ただ彼がもっているもの、彼の個人的な個別的な労働力だけである。(ロ)この関係は、資本家が一つの労働力ではなく100の労働力を買うとしても、またはただ1人の労働者とではなく100人の互いに独立した労働者と契約を結ぶとしても、それによって少しも変えられるものではない。(ハ)資本家は100/人の労働者を協業させることなしに充用することもできる。(ニ)それだから、資本家は100の独立した労働力の価値を支払うのではあるが、しかし百という結合労働力の代価を支払うのではない。(ホ)独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのではあるが、お互いどうしでは関係を結ばないのである。(ヘ)彼らの協業は労働過程にはいってからはじめて始まるのであるが、しかし労働過程では彼らはもはや自分自身のものではなくなっている。(ト)労働過程にはいると同時に彼らは資本に合体されている。(チ)協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼ら自身はただ資本の一つの特殊な存在様式でしかない。(リ)それだからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は資本の生産力なのである。(ヌ)労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるのであり、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。(ル)労働の社会的生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのだから、また他方この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのだから、この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのである。〉(全集第23a巻436-437頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取引しているあいだは、自分の労働力の所有者であり、そして、彼が売ることのできるものは、ただ彼がもっているもの、つまり彼の個人的な個別的な労働力だけです。この関係は、資本家が一つの労働力ではなく100の労働力を買うとしても、またはただ1人の労働者とではなく100人の互いに独立した労働者と契約を結ぶとしても、それによって少しも変えられるものではありません。もちろん、資本家は100人の労働者を協業させることなしに充用することもできます。ですから、資本家は100の独立した労働力の価値を支払うのですが、しかし百という一つの結合労働力の代価を支払うのではありません。

    フランス語版には若干の書き換えがありますので、最初にフランス語版を紹介することにします。

  〈労働者は、自分の労働力の販売価格を資本家と掛け合っているかぎりは自分の労働力の所有者であり、そして、彼が売ることのできるものは、自分の所有しているもの、自分の個別的労働力だけである。この関係は、資本家が一つの労働力のかわりに100の労働力を買うからといって、または、1人の労働者とではなく相互に独立した100人の労働者と契約を結ぶからといって、また、彼が彼らを協業させずに使うことができるからといって、なにも変わるものでは/ない。したがって、資本家は100人の労働者のめいめいに、その独立した労働力の支払いはするが、100人の結合労働力の支払いはしない。〉(江夏・上杉訳345-346頁)

    このパラグラフでは、協業における資本と労働者との関係が問題になっています。協業も資本のもとでは疎外されたものとして現れることが明らかにされています。
 まず労働者が資本家に労働力を売る場合は、彼は個人として資本家に対峙します。彼が売るのは彼の個人的な労働力だけであり、資本家も例え100人の労働者を雇用する場合でも、労働力を買うのは一人一人の個人的労働力だけなわけです。だから100人の労働者の労働力を買うからといって、100人の労働者の結合した労働力を買うわけではないのです。資本家は100人の労働者を競業させずに労働させたとしても何も損をするわけではありません。

 『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈協業から生じる社会的生産力は無償である。支払われるのは、個々の労働者あるいはむしろ個々の労働能力であって、それも個々別々のものとしてのそれらに支払われるのである。彼らの協業とそこから生じる生産力は支払われない。資本家は36O人の労働者に支払うが、36O人の労働者の協業には支払わない。というのは、資本と労働能力との交換は、資本と個々の労働能力とのあいだで行なわれるのだからである。この交換は、個々の労働能力の交換価値によって規定されているが、この交換価値は、この労働能力がある種の社会的結合のもとで受け取る生産力にも、また労働者の労働時間および労働可能な時間が労働能力の再生産に必要な労働時間よりも大きいということにも、かかわりがないのである。〉(草稿集④416頁)

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ) 独立した人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係を結ぶのですが、お互いどうしでは関係を結ばないのです。彼らの協業は労働過程にはいってからはじめて始まるのですが、しかし労働過程では彼らはもはや自分自身のものではなくなっているのです。労働過程にはいると同時に彼らは資本に合体されています。だから協業者としては、一つの活動有機体の手足としては、彼ら自身はただ資本の一つの特殊な存在様式でしかないのです。だからこそ、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は資本の生産力なのです。

    まずフランス語版です。

  〈労働者たちは、独立の人間としては、同じ資本と関係を結ぶが相互には関係を結ばないという別々の諸個人である。彼らの協業は労働過程でのみ始まるが、労働過程では彼らはもはや、自分のものではなくなっている。労働過程に入るやいなや、彼らは資本に合体される。彼らが協業しているかぎりは、彼らが活動的有機体の成員を形成しているかぎりは、彼ら自身は資本の特殊な存在様式でしかない。したがって、賃金労働者が集団労働者として機能しながら発揮する生産力は、資本の生産力である。〉(江夏・上杉訳346頁)

    個々の労働者はそれぞれ独立した個人であって、彼らは個々人として別々に資本家と雇用関係を結びます。しかし彼ら同士は互いに関係を結びません。彼らが関係を結ぶのは、それぞれの労働力を販売したあと、すなわち資本家に従って赴いた生産過程においてです。しかし生産過程では、すでに彼らは資本家のものであって、自分のものではないのです。だからそこで生じる労働者同士の関係もやはり彼ら自身の関係ではなくて、資本家によって指示され強制された関係なのです。つまり彼らが協業し、生産的な統一体を形成するのは、資本の指揮と命令にもとづいたものです。だから労働者が集団労働によって発揮する生産力を資本家は自分の生産力としてその成果をわがものにできるのです。
   というのは、資本が彼らに命令して彼らの労働の結合を実現したのですから、その結合から生じる生産力は資本が生みだしたものになるからです。

  (ヌ)(ル) 労働の社会的生産力は、労働者が一定の諸条件のもとにおかれさえすれば無償で発揮されるものです。そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのです。労働の社会的生産力は資本にとってはなんの費用もかからないのですから、また他方では、この生産力は労働者の労働そのものが資本のものになるまでは労働者によって発揮されないのですから、この生産力は、資本が生来もっている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われるのです。

    フランス語版です。

  〈労働の社会的生産力は、労働者がある条件のもとに置かれるやいなや、無報酬で発揮されるのであり、そして、資本は労働者をそのような条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は資本にはなんの費用もかけないから、そして他方、賃金労働者は、自分の労働が資本のものになるときにはじめて労働の社会的生産力を発揮するから、この生産力は、資本が生来授けられている生産力であり、資本に内在的な生産力であるかのように見える。〉(同上)

    そもそも協業によって生じる生産力は、労働者が一定の諸条件のもとに置かれさえすれば自然に発揮されるものです。だからそれは無償に発揮されるものです。そしてそうした条件に労働者が置かれるのは、労働者自身の意志によるのではなく、資本の意志によるのです。だから協業という労働の社会的結合から生じる生産力は、資本にとって何の費用もかからないのに、彼らのものになるのです。またこうした協業にもとづく生産力は、労働者が自分のものと言おうとしても、彼らが生産過程に入らない限り、そうしたものは生じないのですから、そして生産過程に入るためには資本家に労働力を売る必要があるのですから、だからこうした協業が生みだす社会的生産力は、資本に本来的に授けられているかのような、あるいは資本に内在的なものであるかのように見えるのです。

    内容的にこのパラグラフ全体に対応していると思えます『61-63草稿』の一文を最後に紹介しておきます。

  〈じっさい、労働者が現実の労働過程にはいれば、労働能力としての彼はすでに資本に合体されているのであり、彼はもはや自分自身のものではなくて資本のものであり、したがってまた彼がそのもとで働く諸条件も、むしろ資本がそのもとで働く諸条件である。しかし労働過程にはいるまえには、彼は個々の商品所有者すなわち売り手として資本家と接触するのであり、しかもこの商品が彼自身の労働能力なのである。彼は、それを個別的なものとして売る。それは、労働過程にすでにはいってしまえば、社会的なものになる。労働者の身に起こるこの変態は、彼自身にとっては外的な事情であって、それは彼が関与するものではなく、反対に彼に押しつけられるものである。資本家は、1個ではなく多くの個別的労働能力を同時に買うが、しかしそれらをすべて、互いに独立した個々別々の商品所有者に属する、個々別々の商品として買う。労働者たちは、労働過程にはいるときには、すでに資本に合体されているのであって、それゆえ彼ら自身の協業は、彼ら自身がとり結ぶ関係ではなく、資本家によって彼らがそこにおかれる関係であり、それは彼らに属する関連ではなく、いまや彼らがそこに属する関連、それ自身が彼らにたいする資本の関係として現われる関連である。それは、彼ら相互の結合〔Vereinigung〕ではなくて、彼らを支配する統一であり、その担い手かつ指導者は、ほかならぬ資本そのものである。労働における彼ら自身の結合〔Vereinigung〕--協業--は、じっさい彼らには無縁の力〔Macht〕であり、さらに詳しく言えば、ばらばらの労働者に対立する資本の力〔Macht〕である。彼らが独立の人格として、売り手として、資本家にたいする関係をもつかぎりでは、それは、相互に独立した個々別々の労働者がもつ関係であって、彼らはいずれも資本家にたいする関係のなかにありはするが、しかし彼ら相互間の関係のなかにあるのではない。彼らが就労中の労働能力として相互間の関係にはいる場合には、彼らは資本に合体されているのであり、それゆえにまたこの関係は、彼ら自身の関係としてではなく、資本の関係として彼らに対立している。彼らは寄せ集められたものとして〔agglo/merirert〕存在する。彼らの集聚〔Agglomeration〕から生じる協業は、この集聚そのものがそうであるのと同様に、彼らに対立している資本の作用である。彼らの連関と彼らの統一は彼らのなかにあるのではなく、資本のなかにあるのであり、言い換えれば、そこから生じる彼らの労働の社会的生産力は、資本の生産力である。補填するだけでなく増加させるという個々の労働能力の力〔Kraft〕が資本の能力〔Vermögen〕として現われる--剰余労働--のと同様に、労働の社会的性格およびこの性格から生じる生産力も、資本の能力として現われるのである。〉(草稿集④417-418頁)

  ((7)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(7)

2024-06-13 14:08:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(7)



◎第22パラグラフ(単純な協業の効果は、古代のアジア人やエジプト人やエトルリア人などの巨大な工事にみごとに現われている。これらの諸王や親政者たちの権力は、近代社会では資本家の手に移っている)

【22】〈(イ)単純な協業の効果は、古代のアジア人やエジプト人やエトルリア人などの巨大な工事にみごとに現われている。
(ロ)「過去の時代には、これらのアジア諸国は、行政費や軍事費を支弁したあとになお生活手段の余剰をもっていて、それを奢侈や実用の工事のために支出することができた。ほとんどすべての非農耕人口の手と腕とに及んだ彼らの命令権と、かの余剰にたいする君主と僧侶階級との排他的処分権とは、彼らが国土をいっぱいにしたあの巨大な記念物を建造するための手段を彼らに与えた。……巨大な像や大量の物が運搬されたことは人を驚かすものがあるが、それらを動かすにあたってはほとんどただ人間の労働だけが惜しげもなく用いられた。労働者の数と彼らの労苦の集中だけで十分だった。たとえば、われわれは、たとえ各個の沈積物(depositary)は貧弱で微小でも巨大な珊瑚礁が大海の深みから隆起して島となり陸地を形づくるのを見る。アジアの王国の非農耕労働者/たちは、自分の個人的な肉体的な労苦のほかには、工事に寄与するべきものをほとんどもっていないのであるが、しかし彼らの数は彼らの力なのであって、この大群を指揮する権力があの巨大な工事の原動力となったのである。労働者たちが生きて行くための収入が一つまたは少数の手に集中されていたということこそは、あのような事業を可能にしたのである(23)。」
(ハ)このような、アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政者などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは、彼が単独な資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらないのである。〉(全集第23a巻437-438頁)

  (イ) 単純な協業の効果は、古代のアジア人やエジプト人やエトルリア人などの巨大な工事にみごとに現われています。

  私たちは協業の資本主義的形態における疎外された固有の関係をみましたが、同じように疎外された協業の形態は、古代のアジア人やエジプト人やエトルリア人などにおける巨大な構築物にみごとに現れています。
  ここに出てくる〈エトルリア人〉というのはそれほどなじみのある名前ではありませんが、念のためウィキペディアの説明を紹介しておきます。

  〈イタリア半島北部-中部(ボローニャ近郊からペルージャ‐ローマ近郊まで)に紀元前9世紀から紀元前1世紀まで住んでいた先住民族。インド・ヨーロッパ語族に属さない(先印欧語である)エトルリア語を使用していた。独自のエトルリア文化を築き、ギリシア人、フェニキア人と制海権を争い、特にギリシアでは海賊と見做され怖れられたが、紀元前5世紀頃から衰退し、共和政ローマによって紀元前396年にウェイイを陥落させられ、他の諸都市も徐々にその支配下に入った。
  初期のローマ人はエトルリアの高度な文化を模倣したとされ、ローマ建築に特徴的なアーチは元々、エトルリア文化の特徴であったといわれる。また、王政ローマの王の幾人かはエトルリア人であったともいわれ、異民族の王を追放することによってローマは初期の共和政に移行した。〉(インターネットより)

  (ロ) 「過去の時代には、これらのアジア諸国は、行政費や軍事費を支弁したあとになお生活手段の余剰をもっていて、それを奢侈や実用の工事のために支出することができた。ほとんどすべての非農耕人口の手と腕とに及んだ彼らの命令権と、かの余剰にたいする君主と僧侶階級との排他的処分権とは、彼らが国土をいっぱいにしたあの巨大な記念物を建造するための手段を彼らに与えた。……巨大な像や大量の物が運搬されたことは人を驚かすものがあるが、それらを動かすにあたってはほとんどただ人間の労働だけが惜しげもなく用いられた。労働者の数と彼らの労苦の集中だけで十分だった。たとえば、われわれは、たとえ各個の沈積物(depositary)は貧弱で微小でも巨大な珊瑚礁が大海の深みから隆起して島となり陸地を形づくるのを見る。アジアの王国の非農耕労働者/たちは、自分の個人的な肉体的な労苦のほかには、工事に寄与するべきものをほとんどもっていないのであるが、しかし彼らの数は彼らの力なのであって、この大群を指揮する権力があの巨大な工事の原動力となったのである。労働者たちが生きて行くための収入が一つまたは少数の手に集中されていたということこそは、あのような事業を可能にしたのである。」

    これはジョーンズの『国民経済学教科書』からの抜粋ですが、古代のさまざまな巨大建築物は、ただ労働者の数とその労苦を集めただけで築かれたものだと指摘されています(次に紹介します草稿には〈{労働者の数と彼らの集積〔Konzentration〕は単純協業の基礎である。}〉というマルクスの挿入文が入っています。アジアの国王たちは、それら非農業者たちを集めて指揮してあのような大事業を可能にしたのだということです。

    『61-63草稿』には同じジョーンズからの引用文が紹介されている一文がありますので、紹介しておきましょう。

   〈単純協業では、活動するのはただ人間力の集団だけである。二つの眼等々をもった1人に代わって、多くの眼、多くの腕、等々をもった怪物が現われる。そこから、ローマの軍隊の大きな働きが生まれ、アジアやエジプトの大規模な公共建造物が生まれたのである。アジアやエジプトでは、国家が国全体の収入の支出者であって、国家は、大集団を動員する力〔Macht〕をもっている。「過去のことであるが、これらの東洋諸国は、行政費や軍事費を支弁したあとになおもっている剰余があって、それを壮大さを示す建造物や実用のための建造物にあてることができたのであり、またそれらの建設では、ほとんどすべての非農耕人口の手と腕とに及んだこれらの国々の命令権[……]と、君主および僧侶のものであったこの食料とが、国土をいっぱいにした巨大な記念物を建造するための手段を彼らに与えたのである。……巨大な像や大量の物が運搬されたことは人を驚かすものがあるが、それらを動かすにあたってはほとんどただ人間の労働だけが惜しげもなく用いられた。……セイロンの仏塔や宝物殿、中国の長城、その廃嘘がアッシリアとメソポタミアの平原をおおっている多数の建造物」(リチャド・ジョウソズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年、77ページ〔日本評論社版、大野精三郎訳『政治経済学講義』、136-137ページ〕)。「労働者の数と彼らの労苦の集積だけで十分だった。{労働者の数と彼らの集積〔Konzentration〕は単純協業の基礎である。}たとえば、われわれは巨大な珊瑚礁が大海の深みから隆起して島となり陸地を形づくるのを見るけれども、各個の沈積物は微かで弱々しく取るに足りないものである。アジアの君主国の非農耕労働者たちは、自分の個人的な肉体的労苦のほかには、事業に寄与すべきものをほとんども/っていないのであるが、しかし彼らの数は彼らの力であってこの大群を指揮する力があの宮殿や寺院などのもととなったのである。労働者たちを養っていく収入があのように一つまたは少数の手に限られているということこそ、あのような事業を可能にするのである」(同前、78ページ〔邦訳、137-138ページ〕)。〉〉(草稿集④414-415頁)

    なおジョーンズについてはすでに原注18のところで『資本論辞典』の説明を紹介しましたので参照してください。

   (ハ) このような、アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政者などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのです。それは、彼が単独な資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらないのです。

  若干の書き換えがあるフランス語版を紹介しておきます。

  〈アジアの国王やエジプトの国王やエトルリアの神政者などのこうした権力は、近代社会では、単独の資本家の手に、または合資会社や株式会社などを通じて結合されている資本家の手に、入ったのである〉(江夏・上杉訳347頁)

    このようなアジアやエジプトの諸王やエトルリアの新政者などの権力は、近代社会では資本家に手に移っているわけです。それは個別の資本家であろうと株式会社の結合資本家としてであろうと同じことです。

    やはり『61-63草稿』に関連する一文がありますので、紹介しておきます。

  〈古代世界におけるエジプトやアジアの諸王ならびに神官あるいはエトルリアの神政者などのこの力〔Macht〕は、ブルジョア社会では資本の、したがってまた資本家の手に移っている。〉(草稿集④415頁)


◎原注23

【原注23】〈23 R・ジョーンズ『国民経済学教科書』、77、78ページ。〔大野訳『政治経済学講義』、136-138ページ。〕ロンドンやその他のヨーロッパの主要都市にある古代アッシリアやエジプトなどの収集品は、われわれをあの協業的労働過程の目撃者にする。〉(全集第23a巻438頁)

    原注で追加されているマルクスの一文のフランス語版を紹介しておきます。

  〈ヨーロッパの博物館が所有するアッシリアやエジプトなどの蒐集品は、かの協業的労働工程を示している。〉(江夏・上杉訳347頁)

    これは前パラグラフのなかで引用されていたジョーンズの著書からの一文の典拠を示すものです。
    それと同時に、ロンドンやその他のヨーロッパの主要都市の博物館などにある古代アッシリアやエジプトなどからの収集品(略奪品)は、私たちにその時代の協業による労働過程をかいま見せてくれるというマルクスが一文が付け加えられています。


◎第23パラグラフ(人類文化の発端で、狩猟民族やインドの共同体の農業で見られるような労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとついており、他面では個々の個人が種族や共同体の臍(セイ)帯からまだ離れていないことにもとついている。この二つのことは、このような協業を資本主義的協業から区別する。)

【23】〈(イ)人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで(23a)、またおそらくインドの共同体の農業で、支配的に行なわれているのが見られるような、労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとついており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れていないように個々の個人が種族や共同体の臍(セイ)帯からまだ離れていないことにもとついている。(ロ)この二つのことは、このような協業を資本主義的協業から区別する。(ハ)大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われているが、これは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいている。(ニ)これに反して、資本主義的形態は、はじめから、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提している。(ホ)とはいえ、歴史的には、それは、農民経営にたいして、また同職組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営にたいして、対立して発展する(24)。(ヘ)これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの特別な歴史的な形態として現われるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして/区別する歴史的な形態として現われるのである。〉(全集第23a巻438-439頁)

  (イ)(ロ) 人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで、またおそらくインドの共同体の農業で、支配的に行なわれているのが見られるような、労働過程での協業は、一面では生産条件の共有にもとついており、他面では個々の蜜蜂が巣から離れていないように個々の個人が種族や共同体の臍(セイ)帯からまだ離れていないことにもとついています。この二つのことは、このような協業を資本主義的協業から区別します。

    フランス語版の方がやや分かりやすいので、最初に紹介しておきます。

  〈われわれが人類文化の発端で狩猟民族のあいだ(20)やインドの共同体の農業などのなかに見出すような協業は、生産条件の共有に基礎を置いているし、一匹の蜜蜂が自分の群にくっついているのと同じようにしっかりと、各個人がまだ自分の種族または共同体にくっついている、という事実に基礎を置いている。これら二つの特徴は、この協業を資本主義的協業と区別する。〉(江夏・上杉訳347頁)

    協業そのものは、もっとも原始的な狩猟民族のあいだでも、あるいは古代のインドの共同体の農業においても見られますが、それらの協業は、生産条件の共有に基礎を置き、また人類が、まだ蜜蜂が自分の群れにくっついているのと同じように、各個人が自分の所属する共同体にくっついているような関係に基礎を置いているのです。
    この生産手段の共有と共同体的関係という二つの契機は、その協業を資本主義的な協業との違いを示しています。

  (ハ) 大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にもまばらに現われていますが、これらは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、もとづいています。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈古代や中世や近代的植民地での大規模な協業のまばらな使用は、直接的な支配・従属関係に、一般的には奴隷制度に、もとづいている。〉(同上)

    古代世界や中世や近代植民地経営のところどころで見られる協業は、直接的な支配隷属関係に、一般には奴隷制にもとづいているのです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) これに反して、資本主義的形態は、はじめから、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提しています。とはいいましても、歴史的には、それは、農民経営にたいして、また同職組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営にたいして、対立して発展するのです。これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの特別な歴史的な形態として現われるのではなくて、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別する歴史的な形態として現われるのです。

    フランス語版です。

   〈これに反して、資本主義的協業形態は、自分の労働力の売り手である自由な労働者を前提にしている。歴史上では、それは、農民の零細耕作と手工業の独立経営--手工業が同職組合的形態をもとうともつまいと--に対立して発展する(21)。零細耕作と手工業の独立経営にたいして、資本主義的協業はなんら協業の特殊形態として現われるのではない。逆に、協業そのものが資本主義的生産の特殊形態として現われるのである。〉(同上)

    こうした支配隷属関係にもとづく協業とは違って、資本主義的な協業は、自分の労働力を売り手である自由な労働者を前提にしています。
    といいましても、歴史的には、資本主義的協業は、農民経営に対立して、あるいは手工業経営に、それが同職組合的な形態をそなえているかどうかにはかかわりなく、対立して発展して来るのです。
    だからこれらの零細農業や手工業経営に対立して発展する資本主義的協業は、何か協業一般の特殊な形態として現れるのではなくて、むしろ協業そのものがそれらの対立する独立した諸経営と自身を区別するものとして、資本主義的生産に独自なものとして現れてくるのです。

    全集版の最後の一文〈これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの特別な歴史的な形態として現われるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別する歴史的な形態として現われるのである〉という一文はやや分かりにくいものになっています。しかしフランス語版をみるとマルクスの言わんとすることがよく分かります。


◎原注23a

【原注23a】〈23a ランゲが彼の『民法理論』のなかで狩猟が最初の協業形態だと言い、そして人間狩り(戦争)が最初の狩猟形態の一つだと言っているのは、おそらく不当ではないであろう。〉(全集第23a巻439頁)

    これは〈人類の文化の発端で、狩猟民族のあいだで(23a)〉という一文に付けられた原注です。

    『61-63草稿』には次のような一文があります。

    〈①この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。

    ①〔注解〕以下の二つの文については、マルグスは[シモン-ニコラ-アンリ・ランゲ]『民法理論、または社会の基本原理』、第1巻、ロンドン、1767年、によっている。ノート第7冊、ロンドン、1859-1862年、68-76ページでは、彼はこの著作、とくに第7-9章を、詳細に技粋した。『資本論』、第1巻、ハンブルク、1867年、には、その316ページに次の脚注がはいっている。--「ランゲが彼の『民法理論』のなかで狩猟が最初の協業形態だと言い、また人間狩り(戦争)が最初の狩猟形態の一つだと説明しているのは、ことによると不当ではないかもしれない。」〔『全集』、第23巻、353ページ。〕〉(草稿集④409頁)

  ランゲについては以前、第8章第1節の原注39に出てきたときに次のように説明しています。

  《ランゲについては、マルクスは「剰余価値に関する諸学説」のなかで一項目を当てて論じていますが、そのかで次のように特徴づけています。

    〈といってもランゲは社会主義者ではない。当時の啓蒙主義的な同時代人のブルジョア的-自由主義的な理想にたいする、ブルジョア支配の開始にたいする、彼の論難は、なかば本気であり、なかば皮肉であって、反動的な外観を呈している。彼は、開化されたヨーロッパ的専制君主政の形態に反対し、アジア的専制君主政を擁護する。たとえば、賃労働に反対して奴隷制度を擁護している。〉(草稿集⑤528頁)

    また『資本論辞典』からもその概要を紹介しておきます。

  ランゲ Simon Nicolas Henri Linguet(1736-1794) フランスの法律家・ジャーナリスト・痛烈な社会批判者. 中産階級の出身で,若くから歴史・哲学・文芸・政治等の広範囲にわたって活躍した.社会的不正を鋭く分析して批判を僧職者・富裕者階級に向け,法律および税制の改革を要求した.政治理論において国家は少数富裕者の所有権を保金することをのみ目的とし,その本質は暴力であることを指摘したが,近代社会が奴隷制社会の存続にすぎず.しかも奴稼制社会は自然と不可分であり必然的であると鋭いて,多くの嘲笑と非難をうけた.……マルクス.は彼の主著'Théorie des lois civiles.ou principes fondamentaux de in société'(1767)を『資本論』各巻で引用し,さらに『剰余価値学説史』第1部第7章で集中的に論じ.ランゲを社会主義者ではないが, 18世紀後半の啓蒙主義者たちのブルジョワ自由主義思想にたいする,つまりブルジョワジーの支配開始にたいする皮肉な,鋭い直観的批判者と説明している(MWI.308:青木3-502).マルクスよれば.ランゲは経済学での批判を重農主義に向け,'自然のたまもの'の少数富裕者による私的所有としての横領,つまりそのもっとも単純な形態では自然的要素にすぎなかった生産諸条件の疎外,およびその横領の神型化としての法律(Kl-647:青木4-957 :岩波4-99),さらに生産諸条件を失った労働者が賃銀労働者として,ひたすら富裕者を労働から解放することによってのみ生きることを強いられ, しかも彼らの労働を源泉とする超過分の分前にあずからない姿を社会の本質としてつかみ.これを奴隷制の永遠化ととなえ,奴隷と賃金労働者の鎖が本質的に同一であると説いた.マルクスはこれによってランゲがその反動的外観にもかかわらず.重農主義体系の資本主義的性格をあきらかにしていると指摘した.〉(575頁)》


◎原注24

【原注24】〈24 小農民経営と独立手工業経営とは、どちらも一部は封建的生産様式の基礎をなし、一部はこの生産様式が崩壊してからも資本主義的経営と並んで現われるのであるが、同時に、それらは、原始的東洋的共有制が崩壊したあとで奴隷制が本式に生産を支配するようになるまでは、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなしているのである。〉(全集第23a巻439頁)

    これは〈とはいえ、歴史的には、それは、農民経営にたいして、また同職組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営にたいして、対立して発展する(24)〉という本文に付けられた原注です。
    つまり資本主義的協業が対立して発展してくる、小農民経営と独立手工業経営というのは、どちらも封建的生産様式の基礎をなしているということが指摘され、その一部は封建的生産様式が崩壊したあとも、資本主義的経営とならんで現れていると指摘されています。これは今日でも日本の小土地所有にもとづく農業経営が他の資本主義的経営と並んで存在していることをみればよく分かります。
    それと同時に、この二つの経営は、原始的東洋的共同体(これはアジア的生産様式とほぼ同じでしょう)が崩壊したあとで奴隷制が本式に生産を支配するようになるまでは、最盛期の古典的共同体の経済的基礎をなしていると述べています。

 このようにこの原注は、『要綱』「資本主義的生産に先行する諸形態」で展開されている諸共同体の理論と関連させて考えると、いくつかのことが分かります。
    (1)まず小農民経営と手工業経営というのは、封建的生産様式の基礎をなしているということ。
    (2)その一部は封建的生産様式が崩壊したあとも残り、資本主義的経営と並んで現れるということ。
    (3)またこの二つの経営(小農民経営と手工業経営)は、アジア的生産様式が崩壊して奴隷制が本式に生産を支配するようになるまでの、最盛期の古典的共同体(これはギリシヤ・ローマ的形態ということでしょう)の経済的基礎をなしているということ。
    (4)つまりマルクスはここではアジア的生産様式が崩壊して奴隷制へ移行すると捉えていること。
    (5)ギリシヤ・ローマ的形態というのは、それ自体としてはまだ二次的形態ではなくて、一つの共同体的組織であり、アジア的生産様式から奴隷制へ移行するまでのあいだに存在した古典的共同体であるとマルクスは考えているということ。
    (6)その古典的共同体がやがて二次的形態である奴隷制へ移行するとマルクスは捉えているということ。
    (7)つまり「先行する諸形態」で論じられているアジア的、古代ローマ的、ゲルマン的諸形態そのものは、いまだ二次的形態以前の本源的な諸形態であるとマルクスは捉えていると考えられるということです。そうしたものがやがて二次的形態であるアジア的専制、奴隷制、封建制へと移行したということではないでしょうか。またアジア的専制が崩壊して奴隷制へ、そしてさらに封建制へと移行するともマルクスは捉えていると言えるのではないでしょうか。


◎第24パラグラフ(協業をその出発点とする資本主義的生産様式は、労働過程を一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現れる)

【24】〈(イ)協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現われるように、協業そのものも、個々別々な独立な労働者や小親方の生産過程に対立して資本主義的生産過程の独自な形態として現われる。(ロ)それは、現実の労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化である。(ハ)この変化は自然発生的に起きる。(ニ)その前提、同じ労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用は、資本主義的生産の出発点をなしている。(ホ)この出発点は、資本そのものの出現と一致する。(ヘ)それゆえ、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現われるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法として現われるのである。〉(全集第23a巻439頁)

  (イ)(ロ) 協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現われますように、協業そのものも、個々別々な独立な労働者や小親方の生産過程に対立して資本主義的生産過程の独自な形態として現われます。

    フランス語版は極めて簡潔に書き改められていますので、最初に紹介しておくことにしましょう。

  〈協業によって発揮される労働の集団力が、資本の生産力として現われるならば、協業は資本主義的生産の独自な様式として現われる。〉(江夏・上杉訳347頁)

    この部分の後半は前パラグラフの最後の部分とほぼ重複しています。もう一度前パラグラフ最後の部分を見てみましょう(但しフランス語版を利用します)。

  〈零細耕作と手工業の独立経営にたいして、資本主義的協業はなんら協業の特殊形態として現われるのではない。逆に、協業そのものが資本主義的生産の特殊形態として現われるのである。〉

    つまり協業によって発揮される労働の社会的生産力は資本の生産力として現れますように、協業そのものが、それ以前の小農民経営や独立手工業と対立するかたちで資本主義的生産の独自のものとして現れてくるのだと述べています。ようする協業というのは資本主義的生産そのものが生まれてくる独自の形態なのだということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) それは、現実の労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化です。この変化は自然発生的に起きます。その前提となります、同じ労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用というのは、資本主義的生産の出発点をなしています。この出発点は、資本そのものの出現と一致します。

    まずフランス語版です。フランス語版はやや長くなっています。

  〈これこそは、労働過程が資本への従属の結果通過する、最初の転化段階である。この転化は自然発生/的に生育する。多数の賃金労働者を同じ作業場で同時に使うという、こういった転化の基盤は、資本の存在そのものとともに与えられるものであり、封建的生産の組織を分解することに協力した諸事情と諸運動との歴史的な結果として、資本そのものに見出されるのである。〉(江夏・上杉訳347-348頁)

    協業というのはあくまでも労働過程の問題であるということはすでに指摘しました。私たちは第3篇第5章の「第1節 労働過程」で「労働過程」を学びましたが、そこでは〈労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察〉するものであり、〈労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である〉ものとして考察されました。考察の対象は人間と自然という極めて抽象的な二つの契機だけで捉えられた労働なのです。だから人間と人間、労働者と労働者との関係はそこでは捨象されていたのです。しかし協業というのはまさに労働における人間相互の関係以外の何ものでもありません。しかし人間相互の関係を考察するといっても、それが労働過程であることには変わりはないのです。
ただそれが社会的な過程になるということです。
    そして資本主義的生産というのは、まさに労働を社会的なものにする様式なのです。すなわち比較的多数の労働者を一カ所に集めて、同時に使うというのが、資本主義的生産の出発点だからです。だから協業と資本主義的生産の出版点とは一致しているわけです。

  (ヘ) だから、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現われるのですが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程をその生産力の増大によっていっそう有利に搾取するために資本が利用する一つの方法として現われるのです。

    まずフランス語版です。

  〈したがって、資本主義的生産様式は、単独の労働を社会的労働に転化するための歴史的必然性として現われるが、資本の手中にあっては、この労働の社会化が労働の生産力を増大するのは、もっと有利に労働を搾取するためでしかない。〉(江夏・上杉訳348頁)

    こうしたことから資本主義的生産様式は協業から出発するといっても過言ではありませんが、だからこそ労働過程が一つの社会的過程に転化する歴史的必然性としてもあるということです。そしてまた労働過程のこの社会的形態は、生産力を増大させそれを資本がいっそう有利に搾取する方法としてもあるということです。

  『61-63草稿』の関連するものを紹介しておきましょう。

  〈これは、資本のもとへの労働の包摂がもはや単なる形態的包摂として現われるのではなく、それが生産様式そのものを変化させることによって資本主義的生産様式が独自な生産様式となっている第一の段階である。個々の労働者が、独立の商品所有者として労働するのではなく、いまでは、資本家のものとなっている労働能力として、したがってまた資本家の指揮および監督のもとで、さらに、もはや自分のためにではなく資本家のために労働するというだけなら、また労働手段でさえも、もはや労働者の労働の実現のための手段として現われるのではなく、反対に彼の労働が、労働手段にとっての価値増殖の--すなわち労働を吸収することの--手段として現われるというだけなら、包摂は形態的である。この区別は、生産様式と生産が行なわれる社会的諸関係とにどのような変化もまったく加えられなくても存在しうるというかぎりでは、形態上の区別である。協業とともに、はやくも独自な区別が現われる。労働は、個々人の独立した労働の遂行を許さないような諸条件のもとで行なわれる、--しかもこれらの条件は、個々人を支配する関係として、資本が個々の労働に巻きつける紐帯として現われるのである。〉(草稿集④418頁)
 〈もともと資本主義的生産を特徴づけているのは、労働諸条件が、自立し人格化されて、生きた労働に対抗するということ、労働者が労働諸条件を使うのではなくて労働諸条件が労働者を使うのだ、ということである。まさにそういうふうにして、労働諸条件は資本になるのであり、その諸条件を自分のものにしている商品所有者が労働者に対立して資本家になるのである。現実の労働過程では、もちろんこの自立化はやむが、労働過程の全体が資本の過程であり、資本の過程に取り込まれているのである。労働者がこの過程に労働として現われるかぎりでは、彼自身は資本の一契機なのである。労働が資本のもとに形式的に包摂されているという場合は、これらの労働諸条件はなんらあらたな変化を受けない。それらは--素材的にみれば--依然として労働材料であり労働手段である。しかし、新しい生産様式のもとでは、つまり資本主義的生産がなしとげる生産様式における革命のもとでは、これらの労働条件はその姿態を変える。それらの労働条件は、社会的に協働する労働者たちのための条件となることによって新規定を受け取るのである。こうした変化は、単純協業と分業にもとづくマニュファクチュアのもとでは、ただ建物などのような共同で利用される一般的労働条件に及ぶだけである。機械にもとづく機械制作業場では、この変化は本来の労働用具をとらえる。資本のもとへの労働の形式的包摂の場合と同様に、これらの〔労働〕諸条件は、したがってまたその変化した姿態--労働そのものの社会的形態によって変化した姿態--は、あくまでも労働者には無縁の事情である。機械の場合、この対立あるいはこの疎外は、あとでみるように、敵対的な矛盾にまでも発展する。〉(草稿集⑨194-195頁)


◎第25パラグラフ(単純な協業は資本主義的生産のある段階を特徴づけるようなものではない)

【25】〈(イ)これまで考察してきたその単純な姿では協業は比較的大規模な生産と同時に現われるのであるが、しかし、それは資本主義的生産様式のある特別な発展期の固定的な特徴的な形態をなすものではない。(ロ)それがほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてであり(25)、またある種の大農業においてである。(ハ)その大農業というのは、マニュファクチュア時代に相応したもので、本質的にはただ同時に充用される労働者の数と集積された生産手段の量とによって農民経営から区別されるだけである。(ニ)単純な協業は、分業や機械が重要な役割を演ずることなしに資本が大規模に作業をするような生産部門では、つねにその部門の主/要な形態なのである。〉(全集第23a巻439-440頁)

  (イ) これまで考察してきました単純な協業は比較的大規模な生産と同時に現われるのですが、しかし、それは資本主義的生産様式のある特別な発展期の固定的な特徴的な形態をなすものではありません。

    フランス語版はかなり書き換えられており、全集版の(イ)(ロ)(ハ)を含んだ部分が次のようになっています。

  〈これまでは協業の初歩的な形態だけを考察してきたが、この形態では協業は大規模な生産と一致する。この姿態のもとでは、協業は、まだ手工業的であるマニュファクチュア初期(22)なり、マニュファクチュア時代に照応していて方法の点よりも規模の点でいっそう零細耕作から区別される大農業なりを、特徴づけることはあっても、資本主義的生産のどんな特殊な時代をも特徴づけるものではない。〉(江夏・上杉訳348頁)

    これまで考察してきた協業は単純なものであり、「単純協業」とも言われるものです。こうした単純協業は比較的大規模な生産と一致しますが、しかし資本主義的生産のある段階に特有なものとして現れるわけではありません。

  (ロ)(ハ) それがほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてであったり、あるいはまたある種の大農業においてです。その大農業というのは、マニュファクチュア時代に相応したもので、本質的にはただ同時に充用される労働者の数と集積された生産手段の量とによって個別的な農民経営から区別されるだけです。

    こうした協業は、歴史的には手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてであったり、大規模な農業生産にあらわれるものです。大規模な農業生産といってもただ同時に充用される労働者数であるとか集積された生産手段の量によって個別的な農民経営と区別されるだけものですが、こうしたものはマニュファクチュア時代に照応したものです。

  (ニ) 単純な協業は、分業や機械が重要な役割を演ずることなしに資本が大規模に作業をするような生産部門では、つねにその部門の主要な形態なのです。

    フランス語版を紹介しておきます。

  〈単純な協業は今日もなお、分業または機械の使用が重要な役割を演ずることなしに資本が大規模に作用しているような事業では、優勢を占めている。〉(同上)

    この単純な協業は、今日でも分業または機械による生産が重要な役割を演じることなしに資本が大規模に生産を行っているところでは、その生産の主要な形態となっているのです。


◎原注25

【原注25】〈25 「同じ仕事にいっしょに従事する多くの人々の結合された技能や勤勉や競争心は、仕事を進歩させる方法ではないだろうか? そして、イギリスにとって、その羊毛工業をあんなに高度に完成させることは、この方法によらないで可能だったであろうか?」(バークリ『質問者』、ロンドン、1750年、56ページ、521節。)〉(全集第23a巻440頁)

    これは〈それがほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的だった初期のマニュファクチュアにおいてであり(25)、またある種の大農業においてである〉という本文に付けられた原注です。
    これはバークリの『質問者』からの引用ですが、〈同じ仕事にいっしょに従事する多くの人々の結合された技能や勤勉や競争心は、仕事を進歩させる方法ではないだろうか? 〉というのは単純な協業を意味していると思いますが、それが初期のマニュファクチュアを特徴づけるものとして指摘していることにマルクスは注目しているのではないでしょうか。

   『61-63草稿』では同じ文献からの抜粋がありますので、紹介しておきます。

   〈協業。「一緒に同じ仕事に従事する多くの人々の熟練、勤勉、および競争心の結合は、仕事をはかどらせる方法ではないのかどうか? またこの方法によらないで、イギリスがその毛織物工業をこれほど高度に完成させることができたかどうか?」(バークリ『問いただす人』、ロンドン、1750年、質問521〔川村大膳・肥前栄一訳『問いただす人』、『初期イギリス経済学古典選集』6、東京大学出版会、243ページ、質問238〕。)〉(草稿集⑨476頁)

    バークリについては『資本論辞典』からも紹介しておきましょう。

  バークリ George Berkeley(1685-1753)アイァランドの僧侶・哲学者.……バークリは『経済学批判』の第2章で,「イギリス哲学における神秘的観念論の代表者」とよばれているように,ロックの経験論を観念論的におし進め,実在するのは観念だけで物質もまた観念にすぎないと考えた.……経済学にかんする主著は『Querist』(1734-1737)である.この『質問者』は,アイァランドの悲惨な経済状態を改善するため.産業の奨励・投機や不生産的消費の抑制・国立銀行の設立などを論じた機智にとんだ著作で,マルクスももっぱらこの著作から引用している.
  『資本論』第1巻第11章では,バークリが羊毛工業の発展を協業によって説明している点を指摘し,第12章ではく地域的分業〉の一例として,彼の挙げた羊毛マニュファクチュアにおける実例を引用している。……(以下略)〉(530頁)


◎第26パラグラフ(単純な協業はさらに発展した諸形態と並んで特殊な形態として存在しているが、同時につねに資本主義的生産様式の基本形態である)

【26】〈(イ)協業の単純な姿そのものはそのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現われるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのである。〉(全集第23a巻440頁)

  (イ) 協業の単純な姿そのものは、そのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現われるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのです。

    フランス語版は次のようにやや長いものになっています。

 〈資本主義的生産の基本的な様式、それは協業であるが、協業の初歩的な形態は、いっそう複雑な形態の胚種を含みながら、この複雑な形態の諸要素の一つとして、この複雑な形態のうちに再び姿を現わすだけでなく、さらにまた、特殊な様式として、この複雑な形態とならんで持続するのである。〉(江夏・上杉訳348頁)

    つまり協業というのは、その単純な形態においては、資本主義的生産の基本的なものであり、さらに複雑な分業や機械制的な生産においてもその基礎的な要素として存在していますが、それと同時にそうしたより発展したものと並んで、そうしたものとは区別された特殊なものとしてそれ自体でも存在しているということでしょうか。
 これは最初の第11章の位置づけのときに紹介したものですが、もう一度、『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈これ(協業--引用者)基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)

    なおイギリス語版は単純な協業は〈資本主義的生産様式を否定的に超えてさらに発展した段階〉でも存在しているかに理解した上で訳していますが、果たして正しい翻訳といえるかは疑問です。しかしこれには深入りは避けます。


 (付属資料(1)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(8)

2024-06-13 12:25:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(8)

 

【付属資料】(1)


●「第11章 協業」の位置づけ

《61-63草稿》

 〈これは基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)
  〈協業は、それ自身の発展したものあるいは特殊化したものからは区別される・そしてそれらのものから区別され切/り離されて実在する・形態としては、それ自身のもろもろの種類のなかで最も自然発生的な、最も手の加わっていない、最も抽象的な種類であるが、さらに、その単純性における、その単純な形態における協業が、依然として、それのより高度に発展したすべての形態の、基礎および前提であり続けるのである。
  したがって、協業はなによりもまず、同一の成果を、同一の生産物を、同一の使用価値(あるいは効用)を生産するための、多数の労働者の直接的な--交換によって媒介されていない--協業〔Zusammenwirken〕である。奴隷制生産の場合。(ケアンズを参照せよ。)〉(草稿集④407-408頁)
  〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)

《初版》

 初版ではこの項目は、「第4章 相対的剰余価値の生産」「(2) 協業」となっています。

《フランス語版》

  フランス語版では「第4篇 相対的剰余価値の生産」「第13章 協業」となっています。

《イギリス語版》

  イギリス語版では、「第4篇 相対的剰余価値の生産」「第13章 協同作業」となっています。


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さしあたり、資本の生産過程は--その素材的な側面から見れば、すなわち使用価値が生産されるかぎりでは--労働過程一般であり、またかかるものとしてそれは、きわめてさまざまな社会的生産形態のもとで、この過程そのものに当然帰属する、一般的な諸要因を示すのである。つまり、これらの諸要因は、労働の労働としての本性によって規定されている。じっさい歴史的に見いだされるのは、資本がその形成の発端で、労働過程一般を自己の統御〔Kontrolle〕のもとにおく(自己のもとに包摂する)ばかりでなく、技術的に出来あいのものとして資本が見いだすままの、そして非資本主義的な生産諸関係の基礎の上で発展してきたままの、もろもろの特殊的な現実の労働過程を自己の統御のもとにおくのだ、ということである。それは現実の生産過程--特定の生産様式--を見いだし、はじめはこの様式を、この様式の技術的規定性にはなんの変更も加えないまま、ただ形態的に自己のもとに包摂する。資本は、それが発展していくなかではじめて、労働過程を自己のもとに形態的に包摂するばかりでなく、それを変形し、生産様式そのものを新たに形づくり、こうしてはじめて、自己に特有の生産様式を手に入れるのである。しかし、生産様式のこの変化した姿〔Gestalt〕がどのようなものであろうとも、それは、労働過程一般としては、すなわちその歴史的な規定性を捨象した労働過程としては、つねに労働過程/一般の一般的諸契機を含んでいる。〉(④145-146頁)
 〈資本のもとへの労働過程のこの形態的包摂、あるいは労働者にたいする資本家の指揮は、たとえば同職組合的、中世的な工業で親方が職人と徒弟とにたいして行使するような関係と、共通する点はなにもない。それはむしろ、純粋に次のことから生じるのである、すなわち、生産的消費あるいは生産過程が、同時に、資本による労働能力の消費過程であること、この消費の内容およびその規定的目的は、資本の価値を維持し増加させることにほかならないが、この維持、増加は、労働者の意志、彼の勤勉、等々に左右される現実の労働過程ができるだけ合目的的に、できるだけ厳格に行なわれることによってのみ、実現されうるのであ/り、したがってこの過程は資本家の意志の統御および監視のもとにおかれるのだ、ということである。〉(④147-148頁)
   〈あらかじめなお、次のことだけは明らかにしておこう。商品所有者または貨幣所有者が彼の貨幣または商品を、要するに彼の所有する価値を資本として増殖するverwerten〕ため、したがってまた自分を資本家として生産するためには、彼が最小限ある数の労働者を同時に働かせうることがはじめから必要である。この観点から見ても、生産的資本として用いられうるための、ある最小限の大きさの価値が前提されている。この大きさの第一の条件は、すでに次のことから生じる。かりに労働者が労働者として生きていくためにであれば、彼は必要労働時間、たとえば1O時/間のそれを吸収するのに要するだけの額の原料(および労働手段)しか必要としない。資本家は、それに加えて、少なくとも、剰余労働時間を吸収するのに要するだけの原料を(またそれだけの補助材料等々をも)買うことができなければならない。そして第二に、必要労働時間が10時間で剰余労働時間が2時間であるとすれば、資本家は、自分が労働しない場合には、日々彼の資本の価値を越えて1O労働時間という価値を受け取るためにでもすでに5人の労働者を働かさなければならないであろう。ところが、彼が剰余価値の形態で日々受け取ったものは、彼が自分の労働者たちの1人と同じように生きていくことを可能にするだけである。こういう〔5人の労働者を働かさなければならないという〕ことでさえも、彼の目的が労働者の場合と同様に単なる生活維持であって資本の増加--これは資本主義的生産にあっては前提〔unterstellen〕されていることである--ではない、という条件のもとで〔生じうる〕にすぎない。かりに彼自身がともに労働し、かくして彼自身がなんらかの労賃を稼ぐとしても、この場合でさえもまだ、彼の生活様式は労働者の生活様式からほとんど区別されないであろう(彼に与えられるのは少しばかり高い支払いを受ける労働者の地位にすぎないであろう)(そしてこの〔労働者数の〕限界は同職組合規則によって固定される)し、とりわけ彼が自分の資本を増加させる、すなわち剰余価値の一部分を資本化するとすれば、どのみちまだ労働者の生活様式にきわめて近いものであろう。中世における同職組合親方の関係は、そして部分的にはなお今日の手工業親方の関係も、そのようなものである。彼らが生産するのは資本家としてではないのである。〉(④290-291頁)
  〈他方では、より多くの数の労働者を使用するためには資本が増大しなければならないことは明らかである。第一に不変部分が、すなわち、資本のうち、その価値が生産物に再現するだけの部分が増大しなければならない。より多くの労働を吸収するためには、より多くの原料が必要である。同様に、もっと不確定的な割合でではあるが、より多くの労働手段が必要である。手労働が主要因であり、生産が手工業的に営まれていると仮定すれば(--そしてこの仮定は、まだ剰余価値の絶対的形態を考察しているだけのここでは至当である、というのは、剰余価値のこの形態は資本によって変形された〔umgewandelt〕生産様式にとっても依然としてその基本形態ではあるけれども、資本が労働過程をただ形態的に自己のもとに包摂したにすぎないかぎりでは、つまり実際には、人間の手労働が生産の主要因であるような以前の生産様式が資本の統御のもとに取り込まれたにすぎないかぎりでは、いまだ剰余価値の絶対的形態が資本の生産様式にとって固有のものであり、この生産様式の唯一の形態であるからである--)、用具や労働手段の数は、労働者自身の数とより多くの数の労働者が労働材料として必要とする原料の分量とにほぼみあって増大しなければならない。このように、資本の不変部分全体の価値が、使用される労働者数の増大に比例して増大するのである。さて第二に、資本のうち労働能力と交換される可変部分が(不変資本が増大するのと同様に)、労働者数あるいは同時的労働日の数の増加に比例して増大しなければならない。資本のうちのこの可変部分は、前提のもとでは、つまり手工業的工業のもとでは、最も大きく増大するであろう。と/いうのはここでは、生産の本質的要因である個々人の手労働は所与の時間内にわずかの分量の生産物を提供するだけであり、したがって生産過程で消費される原料は、充用される労働に比べて少量であり、同様に手工業的用具は簡単なものであってそれ自身わずかな価値しか表わさないからである。資本のうちの可変部分は資本の最大の構成部分をなすので、資本が増大する場合にはこの部分が最も大きく増大せざるをえないであろう。言い換えれば、資本のうちの可変部分は資本の最大の部分をなすので、ほかならぬこの部分こそが、より多くの労働能力との交換のさいに最もいちじるしく増大しなければならないのである。〉(④292-293頁)
  〈それは、まず第一に、多数の労働者の協働である。したがって、同時に労働する多数の労働者を同一の空聞に(一つの場所に)寄せ集めること〔Agglomeration〕の、集積すると〔Zusammenhäufung〕の定在、これが協業の第一の前提である、--あるいは、それ自身がすでに、協業の物質的定在である。この前提は、それのより高度に発展したすべての形態にとっての基礎となるものである。〉(草稿集④408頁)
  〈協業の最も単純な、まだそれ以上の特殊化を受けていない様式は、明らかに、そのように一つの空間に結合されて同時に労働する人々が、違ったことをするのではなくて同じことをする、という様式であるが、この様式では、総じて一定の結果をもたらすために、あるいは一定の時間内にそれをもたらすために、彼らの行動の同時性が必要とされ/ているのである。協業のこの側面は、協業のより高度に発展した諸形態においても依然として残る。分業においても、多数の人々が同時に同じことをするのである。自動式の作業場ではなおのことそうである。〉(草稿集④408-409頁)
   〈富の最も基素的(エレメンターリッシュ)な形態としての商品がわれわれの出発点であった。商品と貨幣とは、いずれも、資本の最も基素的(エレメンターリッシュ)な定在様式、存在様式であるが、それらが発展して資本となるのは、一定の諸条件のもとではじめて生じることである。資本形成〔Kapitalbildung〕は商品生産および商品流通の基礎上でなければ、したがってある程度の範囲にまで成長した段階の商業がすでに与えられているところでなければ行なわれえないのであるが、逆に商品生産および商品流通(これは貨幣流通を含む)のほうは、それらの定在のために、けっして資本主義的生産を前提せず、むしろ資本主義的生産の必然的に与えられた歴史的前提として現われる。だが他方では、資本主義的生産の基礎上ではじめて商品が生産物の一般的形態となるのであり、またその基礎上でのみ、すべての生産物が商品という形態をとらねばならず、売買が生産の余剰ばかりでなく生存そのものをつかむのであり、さまざまの生産諸条件そのものが包括的に商品として、売買に媒介されて、生産過程そのものにはいるのである。それゆえ、一方では商品が資本形成の前提として現われるが、他方では同じ程度に、生産物の一般的形態としての商品が、本質的に、資本の生産物および結果として現われるのである。他の生産様式では、生産物が商品の形態をとるのは部分的である。これにたいして、資本は必然的に商品を生産するのであって、その生産物を商品と/して生産するか、さもなければなにも生産しないかである。それゆえまた、資本主義的生産が、すなわち資本が発展するにつれて、はじめて、商品について展開された一般的諸法則も、たとえば、商品の価値はそのなかに含まれている社会的必要労働時間によって規定されているという法則も、実現されるのである。ここでは、以前の生産諸時代にさえ属していた諸力テゴリーが、どのようにして、それらとは異なる生産様式の基礎上で、独自な異なる性格--歴史的性格--を受け取るのか、ということが明らかになる。〉(④503-504頁)
  〈剰余価値を考察する場合には、ただ可変資本にたいする剰余労働の関係だけを考察すべきであって、総資本にたいする剰余価値の関係は考察してはならないが、しかしながら、すでに相対的剰余価値の考察からだけでも完全に確認できることで、結果的に明らかであるように、相対的剰余価値増大の原因となる生産諸力の発展には〔次の〕2つのことが前提となっているか伴なっているのである。
    (1) 資本の集積、すなわち、個々の資本家が手中にしなければならない価値量の絶対的増大。というのは、大規模な労働が前提されているからである。したがって、個々の資本家の所有として現われる資本の総量の増大。したがって、この量は個々人の手中に集積されなければならない。/
    (2) 資本の絶対量が、個々の資本家の手中で増大し、それが社会的な規模として受けいれられているあいだに、同時に諸資本の構成に一つの変化が生じる。可変資本は、不変資本に比べて相対的に減少し、総資本中のしだいに減少していく成分となる。{このことは、資本主義的生産の特徴から諸結果を導きだすあとの節において総括すべきではないか。}生産過程にはいっていく資本の総価値が増加すれば、労働財源、つまり可変資本は、労働の生産力が同じままである以前の場合と比べて相対的に減少するにちがいない。もしも、100の1/2にかわってただ1/4だけが労働に前貸しされ、その割合が、75(c)+25(v)というように変化するときは、資本は、以前と同じ労働者数を充用するためには、100から200に増加しなければならないであろう。そのときは、C150+V50。〉(草稿集⑨238-239頁)

《初版》

 〈すでに見たように、資本主義的生産がじっさいに初めて始まるのは、同じ個別資本がかなり多数の労働者を同時に働かせ、したがって、労働過程がその範囲を拡大して生産物を量的にかなり大きな規模で供給するようになったときのことである。労働者の数が充分であるので、この充分な数の労働者が生産する剰余価値の量が、労働使用者自身を労働から解放するときに初めて、この労働使用者が、父母を同じくする資本家になる。だから、かなり多数の労働者が、同じときに、同じ空間(または、同じ労働の場と言ってもよい)で、同じ種類の商品を生産するために、同じ資本家の指揮のもとで活動するということは、歴史的にも概念的にも、資本主義的生産の出発点を形成している。生産様式そのものについて言えば、たとえば初期のマニュファクチュアは、同じ資本によって同時に働かされる労働者がもっと多数であるということ以外には、同職組合的手工業とは、ほとんどちがいがない。同職組合親方の仕事場が拡大されているだけのことである。〉(江夏訳365頁)

《フランス語版》

 〈資本主義的生産が実際に成立しはじめるのは、工場主がたった1人で多くの賃金労働者を同時に働かせ、大規模に行なわれる労働過程がその生産物の販路として広大な市場を要求するようになったときのことである。同じ資本の指揮のもとで、同じ空間で(なんなら同じ労働の場で)、同じ種類の商品を生産するために同時に働く多数の労働者、これが資本主義的生産の歴史的な出発点である。かくして、厳密な意味でのマニュファクチュアは、その初期にあっては、同時に働かされる労働者の数がいたって多いこと以外には、中世の手工業とほとんど区別がない。同職組合の親方の作業場がその規模をひろげただけのことだ。この区別は初めはたんに量的である。〉(江夏・上杉訳334頁)

《イギリス語版》

  〈(1) 我々が既に見て来たように、資本主義的生産は、各個々の資本が比較的大きな数の労働者を同時に雇用することが、唯一の出発点であり、そして実際にそこから始まる。その結果、労働過程は、広い規模で遂行され、相対的に大きな量の生産物を産出する。多くの数の労働者達が一緒に働き、同時に、一つの場所で、(または、あなたがそう云うならば、同じ労働の範疇で) 一人の資本家の支配の下、同じ種類の商品を作るために働くことは、歴史的にも、論理的にも、いずれにも、資本主義的生産の出発点を構成する。生産様式自体から見れば、その厳密な意味で、その初期の段階では、製造業を、ギルド的手工業商売から区別することはほとんどできない。ただ、一つの、同じ個としての資本によって大勢の労働者が同時に雇用されている事以外には、区別できるところはない。中世の手工業者の主人の作業所が単純に大きくなったものに過ぎない。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《61-63草稿》

 〈すでに絶対的剰余価値を考察するさいに見たように、剰余価値の率が所与であれば、それの量は、同時に就業する労働者の数に依存する、つまりそのかぎりでは彼らの協業に依存する。ところがまさにここで、相対的剰余価値--これが高められた労働生産力を、したがってまた労働生産力の発展を前提するかぎり--との区別がはっきりと現われてくる。それぞれ2時間の剰余労働を行なう1O人の労働者に代わって2O人の労働者が充用されるとすれば、その結果は、第一の場合の2O剰余時間に代わって40剰余時間である。1:2=20:40。〔剰余価値の〕割合は、2O人についても、1人についても同じである。ここではただ、1人ひとりの労働時間の合算ないし掛け算があるだけである。協業それ自体は、ここでは、この割合にまったくなんの変化ももたらさない。〉(草稿集④411頁)
  〈単純協業は、それの発展した諸形態と同様に--総じて労働の生産力を高めるあらゆる手段と同様に--、労働過程に属するものであって、価値増殖過程に属するものではない。それらは労働の効率を高めるのである。これにたいして労働の生産物の価値は、それを生産するために必要とされる必要労働時間に依存している。それゆえ、労働の効率〔の上昇〕は一定生産物の価値を減少させることができるだけであり、それを増加させることはありえない。ところが、労働過程の効率を高めるために充用されるこれらの手段はすべて、--総生産物の価値は、依然として、充用された労働時間の全体によって規定されているにもかかわらず--必要労働時間を(ある程度まで)減少させ、そうすることによって剰余価値、すなわち資本家のものとなる価値部分を増加させるのである。〉(草稿集④415頁)

《初版》

 〈だから、このちがいは、さしあたり量的でしかない。すでに見たように、ある与えられた資本が生産する剰余価値量は、1人の労働者が供給する剰余価値に、同時に働かされている労働者の数を掛けたもの、に等しい。この労働者数は、それ自体としては、剰余価値率、あるいは労働力の搾取度を少しも変えないのであって、商品価値の生産について言えば、総じて、労働過程のどんな質的変化も、この生産そのものにとってはどうでもよいかのように思える。このことは、一定量の対象化された労働にほかならない交換価値の性質から、生まれてくる。12時間の1労働日が6シリングに対象化されれば、この労働日の1200は6シリングに対象化される。一方のばあいには 12/労働時間×1200 が、他方のばあいには12労働時間が、生産物に合体されている。価値生産では、多数はつねに多数の個としてのみ数えられる。だから、価値生産にとっては、1200人の労働者が別々に生産するか、それとも、同じ資本の指揮のもとで力を合わせて生産するかということで、どんな質的なちがいも出てくるわけがない。〉(江夏訳365-366頁)

《フランス語版》

 〈働かされる労働者の数は、搾取度、すなわち、与えられた資本がもたらす剰余価値の率を、少しも変えない。また、生産様式に変化が生じても、その変化は、労働が価値を生産するものとしての労働に作用しうるようには見えない。価値の本性からしてそうなのだ。12時間の1労働日が6シリングのなかに実現されるならば、100労働日は6シリング×100のなかに実現されるであろう。生産物に、初めは12労働時間が体現されていたのが、今度は1200労働時間が体現されるであろう。したがって、100人の労働者は、個々ばらばらに労働しても、彼らが同じ資本の指揮のもとで結合されるばあいと同じだけの価値を生産するであろう。〉(江夏・上杉訳334頁)

《イギリス語版》

  〈(2) それ故、最初においては、その違いは純粋に、量の違いである。我々は、ある与えられた資本によって生産された剰余価値と、同時に雇われた大勢の労働者によって、合算された個々の労働者によって生産された剰余価値とが同じであることを見て来た。労働者の数自体は、剰余価値率や労働力の搾取の程度に関して、影響することはない。もし12時間労働日が6シリングの中に体現されているとすれば、そのような1,200日は、6シリングの1,200倍に体現されるであろう。一つの場合では、12×1,200労働時間が、もう一つの場合は、日12時間のそのような大勢による労働が生産物に一体化される。価値の生産においては、労働者の数は、それだけの多くの個の労働者の数と同じ並びでしかない。従って、1,200人が別々に働こうと、一人の資本家の支配下で結合されて働こうと、生産された価値には何らの差も作らない。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈とはいえ、ある種の限界内では、ある修正が生ずる。価値に対象化されている労働は、社会的平均質をもつ労働であり、したがって、労働力の価値は平均的労働力の価値である。ところが、平均量というものは、つねに、同種類の多数の相異なる個別量の平均としてしか存在していない。どの産業部門でも、個別労働者であるピーターとかパウルは、平均労働者から多かれ少なかれ背離している。この個別的偏差、または数学で「誤差」と呼ばれるものは、比較的多数の労働者が集められると、相殺されて消滅してしまう。有名な詭弁家でおべっか使いのエドマンドバークは、借地農業者という自分の実務上の経験から推して知るところでは、5人の農僕というような「小さな1組について」も、すでに労働のいっさいの個別的なちがいが消滅し、したがって、壮年期のイギリス人農僕を手あたりしだい5人集めれば、同じ時間内に、他の任意の5人のイギリス人農僕とちょうど同じだけの労働を行なう、とさえ言っている(8)。彼が示している数はこのばあいどうでもよいが、同時に働かされる比較的多数の労働者の全体労働日は、それ自体、社会的平均労働の1日分である、ということは明らかである。個々人の労働日は、たとえば12時間だとする。すると、同時に働かされる12人の労働者の労働日は、144時間の一全体労働日になり、そして、この12人の各人の労働が社会的平均労働から多かれ少なかれ背離しているかもしれないし、したがって、各人が同じ仕事をするのに要する時間は幾らか多かったり少なかったりするかもしれないが、とはいえ、各個人の労働日は、144時間の全体労働日の12分の1として、社会的平均質をもっているわけである。ところが、12人を働かせる資本家にしてみれば、労働日は12人の全体労働日として存在している。各個人の労働日は全体労働日の可除部分として存在している/のであって、こういった存在は、12人が互いに手をとりあって労働するか、それとも、彼らの労働の全関連は彼が同じ資本家のために労働する点だけにあるのか、ということには全くかかわりがない。これに反して、12人の労働者のうち2人ずつが1人の小親方に使われるとすれば、各個の親方が同じ価値量を生産するかどうかは、したがって、一般的な剰余価値率を実現するかどうかは、偶然なものになる。個別的な偏差が生ずるであろう。ある労働者が、ある商品の生産において、社会的に必要であるよりも著しく多くの時間を費やすならば、すなわち、彼にとって個別的に必要な労働時間が、社会的に必要な労働時間あるいは平均的な労働時間から著しく背離していれば、彼の労働は平均労働とは認められないし、彼の労働力は平均労働力とは認められないであろう。彼の労働力は全く売れないか、労働力の平均価値以下でしか売れないであろう。だから、労働能力の一定の最低限が前提されているのであって、もっとあとで見るであろうように、資本主義的生産はこの最低限を測る手段を見いだすのである。にもかかわらず、この最低限--他面では労働力の平均価値が支払われなければならないにもかかわらず--は、平均から背離している。だから、6人の小親方のうち、一方は一般的な剰余価値率より多く、他方はより少なく、搾り取るであろう。この不平等は、社会にとって相殺されても、個々の親方にとっては相殺されないであろう。だから、価値増殖の法則は、総じて、個々の生産者が資本家として生産し、多くの労働者を同時に使用し、したがって、最初から社会的平均労働を動かすようになったときに初めて、個々の生産者にとって完全に実現されるのである(9)。〉(江夏訳266-267頁)

《資本論》

  〈だいたいにおいて労賃の一般的な運動は、ただ、産業循環の局面変転に対応する産業予備軍の膨張・収縮によって規制されているだけである。だから、それは、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではなく、労働者階級が現役軍と予備軍とに分かれる割合の変動によって、過剰人口の相対的な大きさの増減によって、過剰人口が吸収されたか再び遊離されたりする程度によって、規定されているのである。……産業予備軍は沈滞や中位の好況の時期には現役の労働者軍を圧迫し、また過剰生産や発作の時期には現役軍の要求を抑制する。だから、相対的過剰人口は、労働の需要供給の法則が運動する背景なのである。それは、この法則の作用範囲を、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界のなかに、押しこむのである。〉(全集第23b巻830-832頁)

《フランス語版》 フランス語版はこのパラグラフは二つに分けられ、あいだに原注1が挟まっているが、ここでは一緒に紹介し、原注1は原注8のところで紹介する。

 〈それにもかかわらず、ある限界内ではある変化が生ずる。価値のなかに実現される労働は、社会的に平均した質の労働、すなわち1個の平均的労働力の現われである。平均は、同じ名称の大きさのあいだにしか存在しない。個々の産業/部門では、ピエールとかポールとかいう個々別々の労働者は、平均的労働者からは多かれ少なかれ離れている。この個別的な偏差、あるいは数学上誤差と名づけられるものは、多数の労働者について運算するやいなや、相殺され消去される。有名な詭弁家でへつらい者のエドマンドバークは、借地農業者としての彼自身の経験にもとづいて、こう断言する。5人の農僕の一集団ほどに「小さな一団において」さえ、労働のどんな個別的差異も消滅するのであり、したがって、5人の成年期のイギリス人農僕を全体として見れば、与えられた時間内では、ほかの任意の5人の農僕と同じだけの仕事を行なうのである(1)、と。この観察が正確であろうとなかろうと、同時に働かされるかなり多数の労働者の労働日は、社会的な、すなわち平均的な労働日を構成している。日々の労働が12時間継続すると仮定しよう。このばあい12人の労働者が1日に144時間労働するであろうが、たとえ彼らの1人1人が平均から多かれ少なかれ離れ、したがって、同じ作業のためにより多いかあるいはより少ない時間を必要としても、144時間という彼らの集団労働日は、社会的に平均した質をもっているのである。12人の労働者を働かせる資本家にとっては、労働日は144時間であって、1人1人の労働者の個別的労働日は、もはやこの集団労働日の割り当て分としてしか数えられない。12人が1個の共同生産物において協業するか、あるいは、たんに同じ仕事を並んで行なうかは、どうでもよい。しかし、これに反して、12人の労働者が6人の小雇主のあいだに配分されるならば、個々の小雇主が自分の組から同じ価値を引き出し、したがって、一般的剰余価値率を実現するかどうかは、全くの偶然になろう。そこには差異が生じるであろう。ある労働者がある物品の製造において、社会的に必要であるよりもずっと多くの時間を費やし、したがって、彼にとって個別的に必要な労働時間が平均から著しく離れているならば、彼の労働はもはや平均労働としては計算されず、彼の労働力も平均労働力としては計算されないであろう。それは標準価格以下で売られるか、あるいは、全然売られないであろう。
  だから、労働の熟練度の最低限が、つねに言外に含まれているのであって、われわれは後に、資本主義的生産がこの最低限を測る術(スベ)を知っている、ということを見るであろう。それでもやはり、この最低限が平均から離れていることは確かであるが、それにしても労働力の平均価値が支払われなければならないのだ。したがって、6人の小雇主のうち、ある者は一般的剰余価値率以上、他の者は以下を取り出すであろう。差異は社会にとっては相殺されるが、この小雇主にとっては相殺されないであろう。だから、価値生産の法則は、多くの労働者を集団的に働かせ、したがって、社会的平均労働を動かす資本家にたいして、はじめて完全に実現されるのである(2)。〉(江夏・上杉訳334-335頁)

《イギリス語版》

  〈(3) にもかかわらず、ある一定の制約下においては、ある変化が起こる。価値として実現された労働は、平均的社会的労働であり、それゆえに、平均的労働力の支出である。とはいえ、どの平均的大きさも、同一種類に属する全ての個別の大きさの数々の平均でしかない。それぞれはその量としては異なっている。いずれの製造業でも、個々の労働者は、ピーターとかポールとかいう名の者だが、平均的労働者とは違っている。これらの個々の違いは、数学的には「誤差」と呼ばれもするが、ある最低数の労働者が一緒に雇用される場合には、いつも互に相殺されて違いは消滅する。有名な詭弁家であり追従者であるエドムンド バークは、彼の農園主としての実践的観察者としての立場から、次のごとき主張をするまでに至る。すなわち、「まことに小さい小隊でも」例えば5人の農場労働者でも、全ての個人的差は労働の中では消滅する。結果的には、いかなる与えられた成人5人の農場労働者を一緒に用いても、他のいかなる5人と同じ時間に同じだけの労働をする。と。*1
   しかし、いかにその通りであるとしても、同時に雇用された大人数の労働者の全体としての労働日を、これらの労働者の数で除算したものが、一日の平均的社会的労働であることもはっきりしている。例えば、各個人の労働日が12時間であるとしてみよう。同時に雇用された12人の全体労働日が144時間であり、そして1ダースのそれぞれの労働が平均的社会的労働から多少上下にはずれたとしても、彼等のそれぞれが同じ仕事のために違った時間を要したとしても、それぞれの労働日は、依然として前と同じ、全体としての144時間労働日の1/12なのである。それは、平均的社会的労働日の質を保持している。ではあるが、この12人を雇用した資本家の視点から見れば、全1ダースの労働日である。各個人の労働日は全労働日の一分数部分であり、12人が互いに彼等の仕事を助け合おうと、また彼等の作業間の繋がりが単なる事実において、同じ資本家のための仕事として存在しようと、なんら問題にはならない。しかし、もし、12人が6つのペアの形で、多くの異なる小さな工場主に雇用されたとしたら、それぞれの工場主が同じ価値を生産するか、またその結果として、一般的な剰余価値率を実現するかは、全くの偶然となろう。
  個々のケースで差異が生じるであろう。もし、一労働者がある商品の生産のために、社会的に必要な時間よりもかなりのより多くの時間を要するのであれば、彼のケースでは、必要労働時間が、平均的な社会的労働時間からかなり逸脱している。その結果として、彼の労働は、平均的労働とはみなされないし、彼の労働力は平均的な労働力ともみなされない。その労働力は、全く売れないか、または、平均的労働力の価値よりある程度低い価値でしか売れないであろう。であるから、全労働のある決められた効率の最低値が想定される。そして我々は後に、この最低値を決める方法を資本主義的生産が備えていることを見ることになろう。しかしながら、この最低値は平均からは外れる。ではあっても、他方、資本家は平均的な労働力の価値を支払わねばならない。それゆえ、6人の小工場主のうち、ある者は、平均的剰余価値率以上を搾り取り、他の者は以下となる。この不公平は、大きな集団では補われ、個々の工場主では補われない。かくして、価値の生産の法則は、個人的生産者によってのみ完全に実現される。彼が資本家として、そして大勢の労働者をまとめて雇用する場合、それらの労働は、その集団としての性質により、直ぐに、平均的社会的労働として刻印される。*2 〉(インターネットから)


●原注8

《61-63草稿》

 〈労働の価値多数の労働者の充用
  「ある人の労働の価値と他の人の労働の価値とは、強度、器用さ、実直な勤勉さにおいて大いに異なることは、疑いない。だが、私は非常によく観察した結果、以下のことをまったく確信している。どの与えられた5人の人々も、さきに述べた人生の時期〔12歳から50歳まで〕において、彼らの総計としては、いかなる他の5人とも同じだけの労働を供給するであろう。すなわち、その5人のなかには、優良労働者としてのあらゆる資格を有する者と劣悪な者とがおり、他の3人はその中問、前者に近い者および後者に近い者なのである。したがって、わずか5人からなるような非常に小さな一団においでさえも、一般に5人の人々ができるだけ努力して得られるものの総量が見いだされるであろう。」([15-]16ページ。)〉(草稿集⑨614頁)

《初版》

 〈(8)「疑いもなく、ある人の労働の価値と他の人の労働の価値とのあいだには、力や器用さや誠実な勤勉という点で大きなちがいがある。しかし、私が自分の最善の観察を通じて全面的に確信しているところでは、任意のどの5人の人も彼ら全体として見れば、上述の年配の他のどの5人の人とも同じ労働量を提供する、すなわち、このような5人のうち、1人は良い労働者のあらゆる資格をそなえ、1人は悪い労働者のそれをそなえ、残る3人はその中間で、前者かまたは後者に近い。だから、たとい5人1組というほどの小さな1組にあっても、5人の人が獲得しうるいっさいがっさいが、見いだされるであろう。」(E・/バーク、前掲書、16ページ。)平均的個人にかんするケトレーの所説を参照のこと。〉(江夏訳367-368頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「疑いもなく、ある人間の労働の価値と他の人間のそれとのあいだには、力、器用さ、良心的な熱心さという点で、多くの差異がある。しかし、私は、厳密な経験によってであるが、私の定めた年齢が与えられれば、任意の5人の人間が他の任意の/5人の人間と同じ労働量を提供するであろうということ、すなわち、これら5人の人間のなかで、1人は良い労働者のあらゆる資格をそなえ、他の1人は悪い労働者の資格をそなえ、残りの3人は良くも悪くもなく両者の中間であろうということを、全面的に確信しているのである。このように、5人の人間というほどの小さな一団にあっても、あなたがたは、5人の人間が獲得することのできるいっさいのものを、見出すであろう」(E・バーク、前掲書、16ページ)。平均的人間にかんするケトレーの所説を参照のこと。〉(江夏・上杉335-336訳頁)

《書簡》 (1875年8月21日、マルクスからエンゲルスへ 全集第34巻 注解5)

 〈(5)「平均人」(average man)という概念は、ベルギーの統計学者ランベール-アドルフ-ジャック・ケトレが発展させたものである。ケトレは、人間の肉体的および精神的諸属性ならびにそれらの発達についての諸研究のなかで、個々の個人を捨象してひとつの「平均人」を仮定して/いる。この「平均人」を国民または社会に関連させて見れば、それは種属の合法則性の研究の手がかりとなりうる類型であり、モデルである、と彼は考えたのである。マルクスは人間の能力の発展にかんするケトレの基礎的所論を、英語版、『人間とその能力の発展についての一論』、エディンバラ、1842年、で読んだ。〉(449-450頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1*「ある人と他の人との労働の価値は、力においても、器用さにおいても、また誠実なやり方においても、そこにかなりの差があるのは、疑問の余地がない。だが、私の最良の観察から、いかなる与えられた5人でも、彼等の全体で見れば、他のいかなる5人と等しい一定の労働を、ある一定期間提供しできる。と私が述べたことは、今でもその通りと思っている。そのような5人の中に、一人はよき労働者としての全ての資質をもっており、一人は劣り、他の3人は普通だが、うちの一人は良いほうに、もう一人は劣る方にいるとしても、そのようにできる。であるから、そのような、小さな、僅か5人の小隊であっても、あなたは、完全なる5人が稼ぎ得る全ての完全な総量と同じ量を見るであろう。」(ど. バーク 既出) ケトレーの 平均的個人 と比較せよ。〉(インターネットから)


●原注9

《初版》

 〈(9) ロッシャー教授は、教授夫人が2日間働かせる1人の針女(ハリメ)は、この教授夫人が同じ1日に働かせる2人の針女よりも多くの労働を提供する、ということを発見したと主張している。この教授は、資本主義的生産過程にかんする観察を、子供部屋で試みるべきではないし、主要な人物である資本家のいない状態のもとで試みるべきでもない。〉(江夏訳368頁)

《フランス語版》

 〈(2) ロッシャー教授は、彼の夫人が2日間雇う1人のお針女は、夫人が同じ1日に雇う2人のお針女よりも多くの仕事をする、ということを発見する。教授は今後、資本主義的生産過程の研究を、保育室でも、主役である資本家が欠けている状態のもとでも、しないほうがよかろう。〉(江夏・上杉訳336頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 2* ロッシェル教授は、ロッシェル夫人に雇われた一人の裁縫婦が、二日間で、1日一緒に雇った二人の裁縫婦よりも多くの仕事をしたことを発見したと断言した。よく学ばれた教授は、この資本主義生産過程について、育児室や、主要な人物、資本家、が居ないという状況では、学習すべきではなかった。(訳者注: 当然のことながら、誰かさんと同じように、平均的社会的労働の何たるかには行き着かない。)〉(インターネットから)


  (付属資料(2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(9)

2024-06-13 11:55:53 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(9)


【付属資料】(2)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈単純協業の場合の主要な点は、依然として活動の同時性なのであって、この同時性の成果は、別々の労働者が時間的に相ついで活動にはいるということによってはけっして達成されえないものである。〉(草稿集④420頁)

《初版》

 〈労働様式が同じままであっても、かなり多数の労働者を同時に使用することは、労働過程の対象的な諸条件のうちに一つの革命をひき起こす。多くの人々がそこで労働する建物や、原料や半製品等々のための倉庫や、多くの人々が同時にまたは交互に使用することのできる容器とか用具とか装置等々、要するに生産手段の一部が、いまでは、労働過程において共同で消費される。一方では、商品の交換価値は、したがって生産手段の交換価値も、それらの使用価値の利用がどんなに高められても、けっしてふえない。他方では、共同で使用される生康手段の規模が、確かに大きくなる。20人の織物工が20台の織機を用いて労働している1室は、2人の職人を抱えている1人の独立した織り職の室よりも広くなければならない。だが、20人用の作業場を一つつくるには、2人ずつ用の作業場を10つくるよりも、少ない労働しかかからない。したがって、多量に集積され共同で使用される生産手段の価値は、一般には、それの規模やそれの有用効果に比例して増大するものではない。共同で消費される生産手段は、個々の生産物に比較的小さな価値成分を引き渡す。というのは、一つには、これらの生産手段によって引き渡される総価値が、同時に、より大きな生産物量に配分されるからであり、また一つには、これらの生産手段は、個々別々に使用される生産手段に比べると、それらの規模が大きくなったためになるほど絶対的にはより大きな価値をもってではあるが、それらの作用範囲を考えれば相対的にはより小さな価値をもって、生産過程にはいり込むからである。こういったことから、不変資本を補填する価値成分が低下し、したがって、この成分の大きさに比例して商品の総価値も低下する。こうい/った作用は、生産手段を供給するような生産諸部門で労働の生産力が増大するのと同じである。生産手段の使用上のこういった節約は、多数の人々の労働過程において生産手段が共同で消費されることからのみ、生ずるものである。そして、これらの生産手段は、個々別々に独立している労働者または小親方の、分散した相対的に高価な生産条件とは区別されるところの、社会的労働の条件または労働の社会的条件としてのこういった性絡を、多くの人々が空間的に集合して労働するだけで協力して労働しないばあいでさえ、受け取っている。労働手段の一部は、こういった社会的性格を、労働過程自体がこの性格を獲得する以前に、獲得しているのである。〉(江夏訳368-369頁)

《フランス語版》

 〈作業工程が変化しなくても、多数の人員を使用することは、労働の物的条件に変革を惹き起こす。建物、原料や仕掛品のための倉庫、用具、あらゆる種類の装置、要するに生産手段は、多くの労働者に同時に役立つ。すなわち、生産手段が共同で使われる。生産手段の交換価値が上がるのは、生産手段からいっそう多くの有用な役立ちが引き出されるからではなく、生産手段がいっそう巨大になるからである。20人の織工が20台の織機で労働する部屋は、2人の職人しか使わない1人の織工の部屋よりも広くなければならない。だが、2人ずつで労働する20人の織工のための10の作業場の建設は、20人が共同で労働する一つの作業場の建設よりも費用がかかる。一般に、共同の、集中された生産手段の価値は、これらの生産手段の規模と有用効果に比例して増大することはない。この価値は、これらの生産手段にと/ってかわられる分散した生産手段の価値よりも小さく、その上、相対的にいっそう多量の生産物の上に配分される。こうして不変資本の要素が減少し、まさにそのことによって、この要素が商品に移譲する価値部分も減少する。この作用は、生産手段がいっそう費用のかからない工程によって製造されたばあいと、同じである。生産手段の使用における節約は、それらの共同消費からのみ生ずる。これらの生産手段が社会的労働条件としてのこういう性格--これらの生産手段を、分散されていて相対的により高価な生産手段と区別する性格--を獲得することは、集められた労働者が一つの共同作業に協力するのでなく、ただたんに同じ作業場内で互いに並んで作業するばあいでさえ、行なわれるのである。いかにも、物的労働手段は、労働そのものよりさきに社会的性格を受け取るのである。〉(江夏・上杉訳336-337頁)

《イギリス語版》

  〈  (4) 労働のシステムに何の改変がなくても、大人数の労働者の同時の雇用は、労働過程の物質的条件に革命をもたらす。彼等が働く建物、原材料のための倉庫、同時に使われる道具や容器 または労働者個々の役割に応じて使われるそれらの物、端的に云えば、生産手段に係るところの物、は、ここでは、共同的に消費される。ここでは、これらの生産手段の交換価値は増大されない。より綿密に消費されようが、大きな利点が考えられようが、そのような生産手段の使用価値によって、それら一商品の交換価値が上昇させられることはない。だが、他方、共同で使用されるのであるから、当然以前よりは大きな規模となる。20人の織り工が20台の織機が労働する作業室は、二人の織り工を使う一親方の作業室より大きくなければなるまい。しかし、20人のための一作業場を作る労働は、二人の織り工を収容する10の作業場を作る労働よりも小さな労働コストですむ。だから、共同で使用する大きな規模に集約された生産手段の価値は、その拡大、そして増大されたそれら手段の有用な効果、に正比例して増大はしない。共同で使用する時、それらの手段は、それら自身の価値のより小さな部分を各一生産物に引き渡す。

  その一理由は、それらが付与するものの全体が、生産物のより大きな数量にばらまかれるからであり、また別の理由としては、それらの価値が、絶対的に大きなものとして、過程の稼働局面に関与することになるが、個々の孤立した生産手段の価値よりは相対的に小さいからである。このことによって、不変資本の一部分の価値は下落し、その下落の大きさに比例して、その商品の価値もまた下落する。その効果は、丁度生産手段のコストが小さくなったことと同じことである。彼等のやり方に於ける、その経済的節約は、全くのところ大人数の労働者による共同的消費によるものなのである。それ以上に、この社会的労働の必然的とも云える性格が、散在し相対的によりコスト高の生産手段をもつ隔絶された独立の労働者や小工場主からはっきりとその存在を区別する性格が、多くの労働者が互いに助け合うこともなく、単に並んで仕事をするだけでも、現われてくるのである。労働手段のある部分は、労働過程そのものが起動する以前から、このような社会的性格を獲得している。( 訳者注: 読者が頭を叩く前に、データを呼び出しておこう。例えば、木を運ぶとか、石をどけるとか、広場を設けるとか、煉瓦を積むとか)〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

 〈{あるいはここで、協業のこの単純な形態は多くの産業部門で労働の諸条件の、たとえば燃料、建物、等々の、共同利用を許すものであることが想起されるかもしれない。しかしこのことは、ここではまだわれわれにかかわりがない。それは利潤のところで考察されるべきである。われわれがここで見ておかなければならないのは、必要労働と剰余労働との割合がどの程度まで直接に影響を受けるか、ということだけであって、投下された資本の総額にたいする剰余労働の割合が受ける影響ではない。このことは以下の諸項目においても堅持しなければならない。}〉(草稿集④413頁)
  〈相対的に--おびただしい労働大衆と比べて--わずかの人々の手中への生産手段の集積は、そもそも資本主義的生産の条件および前提である--なぜならば、この集積なしには、生産手段が生産者たちから分離されることも、したがってまた生産者たちが賃労働者に転化されることもないはずであるからである--が、他方、この集積はまた、資本主義的生産様式を、それとともにまた社会的生産力を、発展させるための技術的条件でもある。要するに、大規模生産のための物質的条件なのである。この集積によって共同〔gemeinsam〕労働が、--結合〔Assoziation〕、分業、機械・科学・自然諸力・の応用が、発展する。だが、これに関連するなおもう一つの論点、利潤率のところで考察すべきで、剰余価値の分析のところではまだ考察すべきではない一論点がある。労働者および労働手段のかなり狭/い空間への集積、等々、動力の節約、多数の人々による諸手段(建物等々、暖房等々のような)の共同利用--それらの手段にかかる費用はそれらを使う人々の数に比例して増大するわけではない--、最後に、生産上の空費〔faux frais de production〕である労働も節約される。このことは、とりわけまた、農業においても現われる。〉(草稿集④572-573頁)
 〈他方、単純協業分業によって労働の生産力が高められる場合には、次のことがあきらかである。第1に、不変資本は商品に比例しては増えないこと。第2に、生きた労働/の生産性が高まることとそれに起因する個々の生産物の価値量の減少は別にしても、商品は、不変資本の節約によっても安くなるということ(とくに不変資本の共同利用によって。不変資本のうち建物・暖房・照明などの部分は一般的に対象的労働条件として大量の生きた労働にたいして同時に役立つもので、それらは生きた労働の分量と同じようには増えない)。われわれはこの事情を、資本と利潤を扱う篇ではじめてより詳細に考察するのであるが、それが商品を安くするかぎりは--生きた労働そのものの生産性の増大〔による商品の低廉化〕とは別に--〔ここで〕この事情に言及することができる。〉(草稿集⑨193-194頁)

《初版》

 〈生産手段の節約は、一般的には、二重の観点から考察されなければならない。一方では、この節約が商品を安くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げるかぎりにおいて。他方では、この節約が、前貸総資本にたいする--すなわち、前貸総資本の不変成分と可変成分との価値総額にたいする--剰余価値の割合を、変化させるかぎりにおいて。このあとのほうの点は、この著作の第3部で初めて論究されるので、すでにここで扱うべき幾多の問題も、関連上そこで述べることにする。一方では、分析の進行が主題のこういった分割を命ずる。他方では、この分割は資本主義的生産の精神に照応している。なぜならば、資本主義的生産では、労働諸条件が労働者には独立して相対しているのであるから、労働諸条件の節約もまた、労働者には無縁な特殊な操作として、したがって、資本によって消費される労働力の生産性を高めるための諸方法からは分離された操作として、現われているのである。〉(江夏訳369頁)

《フランス語版》

 〈生産手段の節約は、二重の観点のもとで現われる。それは第一に、商品の価格を引き下げ、まさにそのことによって、労働力の価値を引き下げる。それは第二に、剰余価値と、前貸資本すなわち資本の不変部分と可変部分の価値総額との、割合を変える。われわれは後者の点を本書の第3部ではじめて扱うであろう。分析の進行は、われわれの主題をこのように分割することを命ずるのであるが、この分割はまた、資本主義的生産の精神にも合致している。資本主義的生産では、労働条件は、労働者から独立して現われる。したがって、労働条件の節約は、労働者には無縁な、彼の個人的生産性を高めるのに役立つ方法とは全くちがう、あるものとして、現われるのだ。〉(江夏・上杉訳337頁)

《イギリス語版》

  〈 (5) 生産手段の使用における節約は、二つの面から考察されるべきである。その第一は、商品を安くすることである。そしてそれによって労働力の価値の低下に至る。第二は、前貸し資本に対する剰余価値率を良くすることであり、すなわち、不変資本と可変資本の価値総額に対する剰余価値率を改造することである。後者の局面については、我々が第三巻に至るまでは、取り上げて考察はしない。そこにおいて、それらの適切な諸関連とともに取り扱う対象なのである。その他の現在の問題に関連する点についても、ここでは取り上げず、後に論ずる。我々の分析の進行が、この分離を大事なテーマとして余儀なく迫っているのである。というのもこの分離は資本主義的生産の精神状態の方に見事な調和を見せるものだからである。なぜならば、この生産様式においては、労働者は、労働手段が彼自身から独立して存在しており、まるで、他人の財産のようなものであるのを見出す。節約は、それらを使う時、彼にとって見れば、独特の運動をするものであり、それは、彼には関心がない。従って、彼自身の個人的な生産力が増大されうる方法と何の関係もないからである。〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《61-63草稿》

  〈これは基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)

《初版》

 〈同じ生産過程で、または、ちがっていても関連のある生産諸過程で、多くの人々が計画的に相並んで協力して労働する、という労働の形態は、協業(10)と呼ばれる。〉(江夏訳369頁)

《フランス語版》

 〈多くの労働者が、同じ生産過程で、または、ちがってはいるが関連のある生産過程で、共同の目的のために一緒に働くばあい、彼らの労働は協業(3)という形態をとる。〉(江夏・上杉訳337頁)

《イギリス語版》

  〈(6) 大勢の労働者が、共に並んで作業する場合、それが一つの同じ過程であるか、または繋がってはいるが 違っている過程であるかのいずれであれ、それらは共同作業する、または共同作業として労働すると呼ばれる。〉(インターネットから)


●原注10

《61-63草稿》

 〈労働の生産性を増大させる手段として、デステュット・ド・トラシは次のような区別をしている。--
    (1)諸力の協同〔concours〕(単純協業)。「防禦が問題だとしようか? 10人の人間なら、彼らの一人ひとりを次次に襲うのであれば彼らを全滅させてしまったであろうような敵にたいしてでも容易に立ち向かっていくものである。重い荷物を運ぶ必要があるとしようか? たった一人の努力ではとても打ち勝てないような抵抗を示す重量物も、い/っしょに行動する数人の努力にはあっさりかぶとを脱ぐであろう。ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。一人があることをしているあいだに別の一人は別のことをし、こうして、すべての人々が、一人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。一人が漕いでいるあいだに別の一人は舵をとり、第3の一人は網を投げたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第四部および第五部。意志および意志作用論』、バリ、1826年、78ページ〉。この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④420-421頁)

《初版》

 〈(10〉「諸力の協力」(デステュット・ド・トラシ、前掲書、78ページ。)〉(江夏訳369頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「諸力の結合」(デステュット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、80ページ)。〉(江夏・上杉訳337頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注: 3* 「力の競演」デェステュート ド トラシィ 既出 )〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

  〈この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。〉(草稿集④409頁)

《初版》

 〈騎兵一中隊の攻撃力または歩兵一連隊の防禦力が、各個の騎兵および歩兵がひとりだけで発揮しうる個々別々の攻/撃力や防禦力の合計とは、本質的にちがっているように、個々別々の労働者の力の力学的な合計は、多くの人手が分割されていない同じ作業で同時に一緒に労働するばあいに、たとえば、荷物を揚げるとかクランクをまわすとか障害物を取り除くことが必要なばあいに、発揮される力学的な力能(11)とは、本質的にちがっている。このばあい、結合労働の効果は、個々別々の労働からは全然産み出しえないか、産み出せるにしても、ずっと長い時間をかけるかまたは規模を小さくする以外に方法がないであろう。このばあい、協業による個別的生産力の増大だけではなく、それ自体として集団力である生産力の創造(11a)もまた、問題になるのである。〉(江夏訳369-370頁)

《フランス語版》

 〈一騎兵中隊の攻撃力または一歩兵連隊の抵抗力が、個々の騎兵または歩兵によって別々に発揮される個別的な力の総和とは、本質的にちがうのと同じように、別々の労働者たちの力学的な力の総和は、たとえば、重い荷物を持ち上げるにせよ、クランクをまわすにせよ、または障害物を取り除くにせよ、彼らが同一の不分割作業のなかで一緒にかつ同時/に働くやいなや発揮される力学的な力とは、ちがうのである(4)。このようなばあい、共同労働の効果は、個別的労働では獲得できないか、あるいは、長期間の後にまたは全然小さい規模でやっと獲得できるかであろう。たんに個別的生産力を増大することだけでなく、集団力としてのみ働く新しい生産力を協業によって創造することも、問題なのである(5)。〉(江夏・上杉訳337-338頁)

《イギリス語版》

  〈 (7) 丁度、騎兵1大隊の攻撃力、または歩兵1連隊の防御力は、個々の別々に点在する騎兵や歩兵の攻撃または防御力の合計とは本質的に違うのと同様である。その様に、孤立した労働者によって用いられる機械力の総計は、新たに登場した社会的な機械力とは違う。多くの人手が同時に、一つのそして同じの、分割されていない作業に取り組むならば、ウインチを回して重量物を持ち上げ、あるいは障害物を取り除く。*4
  この様なケースでは、結合された労働の効果は、個々の孤立した労働によって生産されるものでも、または、大きな時間を使っての労働によってのみ生産されるものでも、または、非常に小さな小人によってなされるもののいずれでもない。共同作業によって、個人的な生産的能力の増大を獲得するだけでなく、新たな力、言うなれば、多数のそのもの集合的な力 を我々は獲得したのである。*5〉(インターネットから)


●原注11

《61-63草稿》

 〈ウェイクフィールドの新しい植民制度の功績は、彼が植民の術を発見したとか促進したとかいうことではなく、また、彼が経済学の領域でおよそなんらかの新発見をしたということでもないが、しかしその功績は、彼が経済学の偏狭さを無邪気に打ち明けたところにある。もっとも彼自身にはこれらの打ち明けの重要性はわかっていなかったし、また、彼自身は経済学的な偏狭さから少しも解放されてはいなかったが。
  つまり植民地では、とくにその発展の最初の諸段階では、ブルジョア的諸関係はまだできあがっておらず、古くから確立されている諸国とはちがってまだ前提されていない。それらはやっと生成しつつある。したがって、その生成の諸条件がより明瞭に現われる。この経済的諸関係はもともとから存在するものでもなければ、経済学者がともすると資本等々をそう理解しがちであるのとは異なり、物でもない、ということが明らかになるのである。ウェイクフィールド氏が植民地でこの秘密を嘆ぎつけ、彼自身が驚いているという次第は、のちに見ることにしよう。ここではさしあたり、協業のこの単純な形態に関連する箇所を引用するにとどめよう。
  「諸部分に分割する余地がないような単純な種類の作業でも、多くの入手の協業なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば、大木を荷車に積みあげること、穀物が成長している広い畑で雑草がのびないようにすること、大群の羊の毛を同時に刈りとること、穀物が十分に実りしかも実りすぎないときにその取り入れをすること、なにか非常に重いものを動かすこと、要するに、非常に多くの入手が、分割されていない同じ仕事で、しかも同時に、互いに助けあって行なう、というのでなければできないようなすべてのことである」(エドワド・ギボン・ウェイクフィールド『植民の方法に関する一見解、大英帝国への現在の関連で』、ロンドン、1849年、168ページ)。〉(草稿集④410頁)

《初版》

 〈(11) 「幾つもの部分に分割できないような単純な種類の作業でも、多数の組の入手が協業を行なわなければ遂行できないようなものが、たくさんある。たとえば、大きな木を荷車に揚げること。……要するに、いたって多数の組の入手が分割されていない同じ仕事でしかも同じ時にお互いに助けあわなければできないような、いっさいのもの。」(ど・G・ウェークフィールド『植民の方法にかんする一考察、ロンドン、1849年』、168ページ。)〉(江夏訳370頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「どんなわずかな細分も許さず多数の人手の協力なしには遂行できない、というほどに単純な種類の作業が、無数にある。たとえぱ、大木を4輪荷車に積むこと……要するに、多数の人手が同じ不分割の仕事で同じ時間内に彼ら同士で助けあわなければできないすべてのこと」(ど・G・ウェークフィールド『植民の方法にかんする一見解』、ロンドン、1849年、168ページ)。〉(江夏・上杉訳338頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 4* 「そこには、いろいろな部分に分割することを認めがたい全く単純な種類の作業が多く存在する。多くの人々の両手による共同作業なくしては実施されることができない作業がある。大きな木を荷馬車に載せるという場合を取り上げることができよう。…. 端的に云えば、同じで分割しえない作業を同時に、互いに助け合って行う多くの両手がなければでき得ない。」( ど.G. ウェイクフィールド 「植民地化の技能に関する一見解」ロンドン 1849年)   〉(インターネットから)


●原注11a

《初版》

 〈(11a) 「1トンの重さを揚げることは、1人の人間ではできないし、10人の人間では努力が必要だが、10O人の人間なら、めいめいの1本の指の力だけでやることができる。」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立のための提案、ロンドン、1696年』、21ページ。)〉(江夏訳370頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「1トンの重量を持ち上げることは、1人の人間ではけっしてできず、10人の人間でも骨折らざるをえないであろうが、100人の人間なら小指でも容易にやりとげるであろう」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立のための提案』、ロンドン、1696年、21ページ)。〉(江夏・上杉訳338頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 5* 「一人ではできず、そして10人でも、1トンの重量を持ち上げるには相当の苦労を要するにちがいない。けれども、100人なら、わずか彼等のそれぞれの指1本の力でできてしまう。」( ジョン ベッターズ 「産業大学の設立の提案」ロンドン 1696年 )〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈多くの力が一つの総力に融合することから生ずる新たな力学的力能はさておき、たいていの生産労働にあっては、単なる社会的接触によって競争心やあふれる活力(animal spitit)の独特な興奮が産み出されるのであるが、これらの競争心や興奮は個々人の個別的作業能力を高めるので、12人が一緒になれば、144時間の同時的1労働日には、めいめいが12時間ずつ労働する12人の個々の労働者よりも、または、12日間続けて労働する1人の労働者よりも、はるかに多くの全体生産物を供給することになる(12)。だから、このことは、人間は生来、アリストテレスが考えるように政治的な動物(13)ではないにしても、ともかく社会的な動物である、ということに由来している。〉(江夏訳370頁)

《フランス語版》

 〈多数の力を一つの共同力に融合することから生ずる新しい力は別にして、社会的接触だけでも競争心や血気の興奮を産み出すが、それらは個別的な作業能力を高めるので、12人の人間は144時間という彼らの結合労働日では、各人が12時間労働する別々の12人の労働者よりも、または、12日間続けて労働する1人の労働者よりも、はるかに大きな生産物を供給するのである(6)。このことは、人間は生来、アリストテレスの説くように政治的動物ではないにしても、ともかく社会的動物である、ということに起因している(7)。〉(江夏・上杉訳338頁)

《イギリス語版》

  〈  (8) 沢山の力が一つに融合されることから生じる新たな力については、別に置くとして、単なる社会的な接触は大抵の産業において、労働者各自それぞれに効率を高める動物的な精神である競争心と活気を生じさせる。であるから、12人が一緒になって働くならば、彼等の集合的労働日114時間は、孤立した12人のそれぞれの12時間よりも、また一人が12日連続して働くよりも遥かに多くを生産するであろう。*6
   その理由は、人間は、アリストテレスが主張するような、政治的な存在 *7 ではなく、いずれにせよ、社会的動物であることによる。〉(インターネットから)


●原注12

《61-63草稿》

  〈単純協業。「一農場での彼らの(元小屋住み農夫たちの)共同労働による場合のほうが、各自が小さな土地で1人で休みなく働かなければならない場合よりも、生産物の増加は大きいであろう。」(同前、128ページ。)
   「また使用人の比率の面で(同数の人が、3人の農場主によって100エーカーずつの土地で使用されるのではなく、1人の農場主によって300エーカーの土地に集められる場合には)利点があるが、その利点は、実際家たちによってしかたやすくは理解されないであろう。というのは、1対4は3対21と同じであるということは当然であるが、そのことは、実際にはうまくあてはまらないだろうからである。というのは、収穫時には、またあの種の敏速さを要する他の多くの作業では、多くの入手を一度に投入することによって、仕事は、よりよく、かつより速くなされるからである。たとえば、収穫時には、2人の御者、2人の荷積み人、2人の投げ込む入、2人の掻き集める人、そして穀物置き場や納屋にいる残りの人々は、同数の人手が別々の農場で別々のグループに分かれた場合にそうするであろう仕事を2倍速く片付けるであろう。」(同前、7、8ページ。)〉(草稿集⑨454頁)

《初版》

 〈(12) 「なおまた」(同数の労働者が、10人の借地農業者の手で30エーカーずつの土地で使われるのではなく、1人の借地農業者の手で300エーカーの土地で使われるばあいには)「農僕の比率の点で利益があるが、この利益は実務的な人にしか容易に理解されないだろう。というのは、4にたいする1は、12にたいする3に等しいと言うのは、当然であるが、このことは実地上はあてはまらないから。なぜならば、収穫期やその他これと同じように急を要する多くの作業では、多くの人手を寄せ集めれば、仕事がもっと立派にもっと迅速に行なわれるからである。たとえば、収穫期には、2人の御者、2人の積み手、2人の投げ手、2人の掻き手、それに、藁積みの山や納屋にいる残りの者は、同数の人手が別々の農場で別々の組に分けられてする仕事の2倍分を、手ばやくかたづけるだろう。」(『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究、借地農業者著、ロンドン、1773年』、7、8ページ。)〉(江夏訳371頁)

《フランス語版》

 〈(6) 「そこでは」(同数の労働者が、10人の借地農業者によって30アルパンずつの土地で使われるのではなく、1人の借地農業者によって300アルパンの土地で使われるばあい)「労働者の比率上での一つの利益があるが、この利益は実際家にしか充分に理解できない。実際、1対4は3対12に等しいと言いたくなるが、これは現実には成り立たない。収穫時やその他急を要する類似の時期には、多勢の人手を同時に使えば、仕事はより迅速にまたより立派に行なわれる。たとえば収穫では、2人の馭者、2人の積み手、2人の束ね手、2人の掻き手、その他穀物置場または納屋にいる者は、これと同数の人手が別々の農場に配分されたばあいに行なうよりも、2倍の仕事を行なうであろう」(『食糧の現在価格と農場規模との関連の研究』、一借地農業者著、ロンドン、1773年、7、8ページ)。〉(江夏・上杉訳338頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 6* 「そこにはまた、」( 同じ数の男等が、10人の借地農業者の各30エーカーごとに雇われるのに代わって、一人の借地農業者の300エーカーに雇われる場合には )「農僕の人数に利点がある、普通には理解しがたいかも知れぬが、実際にそれを行っている者には自明である。何故かと云えば、4に対する1は、普通に云えば、12に対する3である。しかし、実際の作業はそうは行かない。例えば収穫時、一緒に投入する沢山の手で手早く片付けたい沢山の仕事がある場合、もし収穫で、二人の馭者、二人の積み込み、二人の投げ込み、二人の掻き手、そして他の者は、山積みまたは納屋の中に居れば、同じ数の手がそれぞれの組に分けられて、異なる農場に居る場合の倍の早さで仕事が片付くであろう。(「食糧品の現在価格と農場の大きさとの間の関連に関する研究」一借地農業者 ロンドン 1773年 )〉(インターネットから)


●原注13

《初版》

 〈(13) アリストテレスの定義は元来、人間は生来市民である、ということなのである。この定義が古典的古代にとって特徴的であるのは、人間は生来道具作りをするものであるというフランクリンの定義が、ヤンキー気質にとって特徴的である、のと変わらない。〉(江夏訳371頁)

《フランス語版》

 〈(7) アリストテレスの定義は、厳密に言えば、人間は生来市民すなわち都市住民である、というものである。この定義は、「人間は生まれつき道具の製造者である」というフランクリンの定義が、ヤンキーを特徴づけているのと全く同様に、古典的古代を特徴づけている。〉(江夏・上杉訳339頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 7* 厳密に、アリストテレスの定義は、人は本質的に市域に住む市民となる。このことは古き古典的な社会そのままの性格を示す。丁度フランクリンの人の定義が、道具を作る動物となり、アメリカのヤンキー的性格を持つのと同じことである。〉(インターネットから)


  (付属資料(3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(10)

2024-06-13 11:26:52 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(10)


【付属資料】(3)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

  〈アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。〉(草稿集④409頁)

《初版》

 〈多くの人々が同じことまたは同種のことを同時に協力して行なうにもかかわらず、各人の個別労働が、全体労働の部分として、労働過程そのものの別々の段階--これらの段階を、労働対象は、協業の結果としていっそう速く通過する--を表わすことがありうる。たとえば、煉瓦積み工が煉瓦を足場の下から頂上まで運ぶために手を一列に並べるばあい、彼らはめいめい同じことを行なうが、それにもかかわらず、個々の作業は、一つの全体作業の連続的諸部分を、すなわち、それぞれの煉瓦が労働過程で通過しなければならない別々の諸段階を、形成しているのであって、こうすることによって、全体労働者のたとえば24本の手が、足場を登り降りする各個の労働者の2本の手よりも迅速に煉瓦を運ぶことになる(14)。労働対象が同じ空聞をもっと短い時間で通過するわけである。他方では、たとえば一戸の建物がいろいろな方面から同時に着手されるばあいには、協業者たちが同じことまたは同類のことを行なうにもかかわらず、労働の結合が生ずる。労働対象に空間的に多方面から着手する144時間の結合労働日は、結合労働/者あるいは全体労働者が前にも後にも目と手をもっていて、しかもある程度まで全面性をもっているので、自分の仕事に一方面から着手しなければならない多少とも個々別々な労働者の12個の12時間労働日に比べれば、いっそう迅速に全体生産物を送り出す。生産物の相異なる空間部分が同時に成熟する。〉(江夏訳371-372頁)

《フランス語版》  このパラグラフもフランス語版では二つのパラグラフにわけられており、間に原注8が挟まっているが(この原注は原注14で紹介する)、ここでは一緒に紹介しておく。

 〈一緒に作業する労働者が同時に同じ仕事を行なうばあいでも、各個人の労働は集団労働の部分として、別個の一段階--その進行は協業の結果速められる--を表わすことがありうる。12人の煉瓦積み工が建築用石材を足場の下から頂上まで運ぶために一列にならぶばあい、彼らはめいめい同じ操作を実行するが、それにもかかわらず、一つの共同作業の連続的部分である個別的操作はすべて、それぞれの石材が通過しなければならないさまざまな段階を形成するのであって、集団労働者の24本の手は、足場を昇ったり降りたりする個々別々の労働者の2本の手が行なうよりも、いっそう迅速に石材を運ぶのである(8)。労働対象が与えられた空間を通過する時間は、短縮される。
  協業者たちが彼らの労働対象に種々の方面から同時に取りかかるばあい、彼らは同じ仕事または同種の仕事を行なっているのに、やはり労働の結合が生ずる。一つの建物の煉瓦積みに種々の方面から同時に従事し、その結合労働日が144労働時間である12人の煉瓦積み工は、1人の煉瓦積み工が12日すなわち144労働時間で行なうよりも、はるかに迅速に仕事を捗らせる。その理由は、集団労働者が前にも後ろにも眼と手をもち、ある程度いたるところに存在している、ということだ。このようにして、空間によって分離されている種々の生産物部分が、同じ時間内に成熟するのである。〉(江夏・上杉訳頁339)

《イギリス語版》

  〈(9) 大勢の人が、同時に同じ場所に、または同じ種類の仕事に、一緒に従事させられたとしても、依然としてその労働のそれぞれが、集合的労働の一部であっても、労働過程の際立った局面を見せるかもしれない。それらの全局面において、共同作業の結果として、彼等の労働の対象が極めて早い速度で通過する。例えば、もし12人の煉瓦工が自分達を列に並べて、煉瓦を梯子の足元から梯子の先まで運ぶ場合、各自は皆同じことをするのだが、それにも係わらず、それぞれの個別の動作は、一つの全体としての作業の各部分の接続された形となるのである。それらは特別の局面であり、煉瓦のそれぞれを通さねばならない。そして、その結果、煉瓦は、人の列にある24本の手によって、それぞれの人が煉瓦を持って個々に梯子を上がったり降りたりするよりも早く運び終わる。*8
  対象の品物は、同じ距離を短時間のうちに運ばれてしまった。繰り返して云えば、労働の組み合わせは、例えば、普請の場合はいつでも生じ、同時に異なる場所で見られる。12人の煉瓦工の144時間の共同的な作業には、一人の煉瓦工が行う12日間 144時間の普請よりもより大きな進展が見られる。その理由は、一斉に働く人々の体は、手や目を、前にも後ろにも持っているからで、だから、ある程度の条件にもよるが、至るところに存在することができる。様々な労働の部分が同時に進展する。〉(インターネットから)


●原注14

《61-63草稿》

 〈単純協業
  「さらに指摘しなければならないのは、この部分的分業は、労働者たちが同じ一つの仕事に従事しているとしても生じうる、ということである。たとえば、煉瓦を手から手へと渡して高い足場にまで運ぶことに従事している煉瓦積み工は、みんな同じ仕事をしているのであるが、にもかかわらず彼らのあいだには一種の分業があるのであって、この分業は、彼らのそれぞれはあるきまった距離だけ煉瓦を運ぶこと、そしてそれら全部を合わせれば、彼らがそれぞれ別々に自分の煉瓦を高い足場まで運んだ場合にかかるよりもはるかに速く煉瓦を所定の場所に到達させる、ということにある」(フレデリク・スカルベク『社会的富の理論』、第2版、第1巻、パリ、1839年、97、98ページ)。〉(草稿集④511頁)

《初版》

 〈(14) 「さらに注目しなければならないのは、労働者たちが一つの同じ仕事に従事しているばあいでさえ、こういった部分的な分業が生じうる、ということである。たとえば、煉瓦を手から手へと足場の高いほうに運ぶことに従事している煉瓦積み工たちは、全員同じ仕事をしているが、それにもかかわらず、彼らのあいだには一種の分業が存在するのであって、この分業の本領は、彼らのめいめいが煉瓦を与えられた距離だけ運んでいって、みんなを一緒にすれば、めいめいが自分の煉瓦を別々に足場の高いほうまで運ぶばあいに比べて、はるかに迅速にそれを所定の場所に運ぶ、ということである。(F・スカルベルク『社会的富の理論、第2版、パリ、184O年』、第1巻、97、98ページ。)〉(江夏訳372頁)

《フランス語版》

 〈(8)  F・スカルベク『社会的冨の理論』、第2版、パリ、1840年、第1巻、97、98ページ、を見よ。〉(江夏・上杉訳339頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 8* ( 訳者注: 上記本文の原典の提示)「さらに、この様な労働の部分的な分割は、労働者が同じ仕事に従事する場合でさえも起きることがある。例えば、煉瓦工が煉瓦を手から手へ建物の高い場所へ送り渡して行く作業では、全ての者が同じ仕事を行っているが、それでも彼等の中には労働の分割のようなものが存在している。事実、ここには、彼等各々は与えられた場所を通して煉瓦を渡して行き、一緒に行うことで、彼等が個々に彼の煉瓦を個別に上の階に運ぶよりもより速やかに仕事を達成する。」( F. スカルベック「社会的豊かさの理論」パリ 1839年 )(各フランス語)〉(インターネットから)


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈これは基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)
  〈協業は、それ自身の発展したものあるいは特殊化したものからは区別される・そしてそれらのものから区別され切/り離されて実在する・形態としては、それ自身のもろもろの種類のなかで最も自然発生的な、最も手の加わっていない、最も抽象的な種類であるが、さらに、その単純性における、その単純な形態における協業が、依然として、それのより高度に発展したすべての形態の、基礎および前提であり続けるのである。
  したがって、協業はなによりもまず、同一の成果を、同一の生産物を、同一の使用価値(あるいは効用)を生産するための、多数の労働者の直接的な--交換によって媒介されていない--協業〔Zusammenwirken〕である。奴隷制生産の場合。(ケアンズを参照せよ。)〉(草稿集④407-408頁)
  〈{〔労働者の〕結合〔Vereinigung〕が同一の空間で行なわれる必要は、絶対的なものではない。1O人の天文学者が異なった国々の天文台で同一の観測を行なう等々の場合、それは分業ではなく、ちがった場所での同一の労働の遂行であって、協業の一形態である。}しかし、同時にまた、労働手段の集積〔Konzentration〕も〔絶対的に必要であるわけではない〕。〉(草稿集④413頁)

《初版》

 〈われわれは、互いに補いあう多くの人々が同じことかまたは同種のことを行なう、と強調したが、そう強調したのは、協業のこの単純な形態が、もっとあとで見るように、協業の最も完成した姿においてもある重要な役割を演ずるからである。労働過程が複雑ならば、一緒に労働する人々が多数であるということだけでもって、相異なる作業を相異なる入手に配分することが、したがってこれらの作業を同時に行なうことが、こうして全体生産物の生産に必要な労働時間を短縮することが、可能になる(15)。〉(江夏訳372頁)

《フランス語版》 このパラグラフもフランス語版は二つに分けられているが、ここでは一緒に紹介しておく。

  〈われわれは、相互に補足しあう労働者が同じ仕事または同種の仕事をするというばあいを挙げたにすぎない。これは協業の最も単純な形態であるが、この形態は最も発達した形態のなかにも要素として再び現われる。
  労働過程が複雑であれば、協業者がたんに多数だということだけで、さまざまな作業を種々の人手のあいだに分割し、これらの作業を同時に実行させ、こうして生産物の製造に必要な時間を短縮することが、可能になるわけである(9)。〉(江夏・上杉訳339頁)

《イギリス語版》

  〈(10) 上の例で、我々は人々が同じことをする、または同じ種類の仕事をするという点について強調してきたが、それは何故かと云えば、普通の労働の最も単純な形が、協同作業において偉大なる役割を演ずるからである。最高度に完璧に発展した状況においてさえも重要な役割を果たすからである。もし、作業が複雑で、共に働く者の数が少ない場合であればなおのこと、様々な仕事が違った人々に配分されて、そして、結果として、同時に遂行されることになるのである。全仕事の完成のための必要時間はそれによってむしろ短縮される。*9〉(インターネットから)


●原注15

《61-63草稿》

  〈ある複雑な仕事の実行が問題だとしようか? いくつものことが同時になされなければならない。1人があることをしているあいだに別の1人は別のことをし、こうして、すべての人々が、1人だけでは生みだせないような結果に寄与するのである。1人が漕いでいるあいだに別の1人は舵をとり、第三の1人は網を境けたり、銛(モリ)で魚を突いたりし、こうして、漁業は、このような協力なしには不可能であろうような成果をあげるのである」(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第4部および第5部。意志および意志作用論』、パリ、1826年、78ページ)。この場合、この最後の協業では、すでに分業が行なわれている。なぜなら「いくつものことが同時になされなければならない」からである。しかし、これは、本来の意味での分業ではない。この3人は、協働活動のときにそれぞれただ一つのことをするだけではあるが、彼らは代わるがわる、漕いだり、舵をとったり、魚をとったりすることができる。これにたいして本来の分業の眼目は、「数人が互いにたすけあって働くとき、各人は、自分が最も優れている仕事にもっぱら従事することができる、云々」(同前、79ページ)ということである。〉(草稿集④421頁)

《初版》

 〈(15) 「ある複雑な労働を実行するばあいには、多くのことを同時にしなければならない。ある者があることをしているあいだに、ほかの者がほかのことをして、ただの1人では産み出しえなかったであろう成果に、すべての者が寄与しているわけである。ある者が漕いでいるあいだに、ほかの者が舵をとり、第三の者が網を投げるか魚に銛(モリ)を打ち込むのであって、漁労はこういった協力がなければ成功しえない。」(デステュット・ド・トラシ、前掲書。)〉(江夏訳372頁)

《フランス語版》

 〈(9) 「ある複雑な労働を実行するばあいには、多くのことを同時にしなければならない。ある者が一つのことをしているあいだに、ほかの者がほかのことをして、ただの1人では産み出しえなかったであろう結果に、すべての者が寄与するのである。ある者が漕ぐあいだに、ほかの者が舵をとり、第三の者が網を投げるか魚に鈷(モリ)をうちこむのであって、漁労はこの協力なしには成功が不可能である」(デステュット・ド・トラシ、前掲書)。〉(江夏・上杉訳340頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 9*「込み入った数々の労働をこなすにはどうしたらいいか? 多くのことが同時になされなければならない。一人が一つの事をする時、別の人は別のことをする、そうして、彼等の全てが、一人では作り出すことができないであろう結果のために貢献する。一人が漕ぎ、他の者が舵を取り、三番目の者が網を投げたり、銛で魚を仕留める。このような漁をすれば、この協同作業なしには不可能な成功を享受する。」(デステュート ドゥ トレーシー 既出) ( フランス語 )〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈これにたいしてここでわれわれが協業を考察するのは、協業によって1人ひとりの労働が、ばらばらの個人の労働としてはもつことがないような生産性を獲得するそのかぎりでの社会的労働の自然力としてである。たとえば、100人が同時に草刈りをするとき、各人はただ1個人として労働するのであり、また同じことをするのである。しかし、ある期間内に、つまり干し草が腐る等々のことが生じないうちに草刈りを終えてしまう--この使用価値が生産されている--という成果は、100人がこの同じ仕事に同時にとりかかる、ということによってはじめて得られる成果である。これとは別に、力の現実的増大が生じる場合がある。たとえば、もちあげる、荷を/積む、等々。この場合には、ばらばらの個人がもっていないような、他の人々と同時に協働するときにのみ得られるような力が発生する。第一の場合、ばらばらの個人では、空間的に見て〔協業によって得られる〕成果を達成するのに必要とされるだけ彼の活動範囲を拡大することはできないであろう。第二の場合、ばらばらの個人では、必要とされるだけの力の増大〔Kraftpotenz〕を生みだすことはまったくできないか、あるいははてしのない時間の損失をともなうことであろう。後者の場合、1O人が1本の木を荷車に積む時間は、1人であったなら同じ結果を達成する(そもそもそういうことがありうると仮定して)のに必要とするであろう時間の1/10よりも小さい。ここでの結果は、協業によって、同じ数の諸個人がばらばらに労働する場合に生産できるだけのものがより少ない時間内に生産されるということか、あるいは、協業によって、そうでなければおよそ生産されえないような諸々の使用価値が生産される、ということである。1個人では100日かかってもできないこと、またしばしば、ばらばらの100人では100日かかってもできないことを、協業による100人は1日でやってのける。つまりこの場合には、個々人の生産力が、労働の社会的形態によって増大するのである。このように、より少ない時間でより多くを生産することが可能になるので、必要生活手段を、あるいはそれの生産に必要な諸条件を、より少ない時間で生産することができる。必要労働時間が減少する。それとともに相対的剰余時間が可能となっている。一方は延長されることが、他方は短縮されることができるのである。〉(草稿集④411-412頁)
  〈協業は継続的なものでありうる。また農業における収穫などの場合のように、一時的なものでしかないこともありうる。〉(草稿集④420頁)

《初版》

 〈多くの生産部面には、決定的瞬間が、すなわち、労働過程そのものの性質によって規定されている時期があって、この時期のあいだに一定の労働成果が達成されなければならないのである。たとえば、一群の羊の毛を刈るとか、数/モルゲンの穀物畑を刈り取って収獲するとかのばあいには、生産物の量も質も、作業がある時期に始まってある時期に終わるかどうかによってきまる。このぱあいには、たとえば鰊(ニシン)漁のばあいのように、労働過程が占めるべき期間がきめられている。個々人は1日からは、1労働日しか、たとえば12時間の1労働日しか切り取ることができないが、たとえば10O人の協業は、12時間の1労働日1200時間の1労働日に拡大する。労働期間の短さが、決定的瞬間に生産の場に投ぜられる労働量の大きさで、埋め合わされる。このばあい、時機を得た効果は、多数の結合労働日の同時使用にかかっており、有用効果の大きさは、労働者数にかかっているが、そうはいっても、この労働者数は、個々別々ならば同じ期間に同じ活動場面をみたすべき労働者の数よりも、必ず小さい(16)。アメリカ合衆国の西部で多量の穀物が、また、イギリスの支配によって古来の共同体が破壊された東インドの諸地方で多量の綿花が、年々だいなしにされるのは、こういった協業が欠けているからである(17)。〉(江夏訳372-373頁)

《フランス語版》

 〈多くの産業では、所期の成果を獲得するためにとらえなければならない特定の時期、決定的瞬間がある。一群の羊の毛を刈るとか、収穫物を納屋に入れるとかいうばあいには、生産物の質と量は、労働が一定の期日に始まって一定の期日に終わるかどうかによってきまる。労働が行なわれるべき期間は、ここでは、鰊(ニシン)の漁労のばあいのように、労働の本性そのものによってきめられている。単独の労働者は1自然日のなかから1労働日、つまり12時間の労働日しか切り取ることができないが、100人の労働者の協業はたった1日のなかに1200労働時間を詰め込むことであろう。このようにして、利用可能な時間が短くても、その短さは、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量で補われるのである。このばあい、適時に産み出される効果は、多数の結合労働日の同時的な使用に依存し、有用な効果の大きさは、使用される労働者の数に依存している(10)。アメリカ合衆国の西部では多量の小麦が、また、イギリスの支配が旧来の共同体を破壊してしまったインドの若干の地方では多量の綿花が、ほとんど毎年浪費されるのは、この種の協業が欠けているためである(11)。〉(江夏・上杉訳340頁)

《イギリス語版》

  〈  (11) 多くの産業においては、決定的な期間があり、労働過程の性質からそれが決められる。その間にある明確な結果が得られねばならない。例えば、一群の羊の毛を刈り取るとか、一面の小麦を刈り取って収穫するとかの場合、その生産物の数量とか質は、ある決まった時期に始めて終わる作業に依存している。これらのケースは、丁度、にしん漁のように、取りかかるべき時期が、その過程によって、予め決められている。たった一人では自然日のなかから、例えば12時間、日それ以上の時間をかけたとしても道路を切り開くことはできないが、100人の協同作業は労働日を1,200時間にも拡大する。その仕事のために許容された時間の短縮は、大勢の労働量が、生産の場に、決定的な時間に、投入されることによって、可能となる。適切な時間内に作業を完成することは、数多くの組み合わされた労働日を同時に適用することに掛かっている。多くの有益な効果は、労働者の数に掛かっている。この人数は、しかしながら、常に、同じ量の仕事を同じ時期に実施するために必要な、個々の孤立した労働者の人数よりも少ない。*10
  アメリカ西部で穀物の多量が、英国の支配が以前の社会集団を破壊したインド東部の綿花の多量が毎年期を失して無駄になったのは、この種の協同作業の不在による。*11〉(インターネットから)


●原注16

《61-63草稿》

  〈「時期が違えば必要とする馬の力も違うような作業が、/……ほとんどどの種類の土地についてもある。たとえば、ある場合には、休閑する土地片をすき返すには、犂1台につき6頭の馬が必要であろう。だからこの場合、300エーカーの土地をもつ農民は2台の犂を作業させるであろうが、他方小農は1台の犂も動かせず、仕事は長びかざるをえない。そうするうちにおそらく、好期を逃がしたための遅れを取り戻すには手遅れになる。そこまでには至らないとしても、少なくとも休閑に適した焼けつくような暑さの利益をすべて失なってしまっていることであろう。一方、休閑期や播種期にも多〈の作業があるが、その場合は3頭だての犂で十分である。このような場合には、300エーカーの農場は、4台を仕事につかせるが、他方はわずか1台しか使えない。[六ページ。]……それゆえ、適量の資本と馬の数を備えている300エーカーの土地をもつ農業者は、同じ時間内に、彼のなす仕事の割合よりも多くのことをすることができる。しかも、大事な時期にそれができるということが{この点についてはリービヒをも見よ}非常に大きな成果をもたらすのである。こうして彼の土地は自然に良質の耕地になり、彼の休閑、播種、施肥、すなわちどの作業もみなうまくゆくのである。というのはそれらの作業がすばやく行なわれうるからである。こうして彼の土地はより良い状態におかれ、彼の生産物がより多くなるにちがいないことは否定されないであろう。(7ページ。)大農業者はまた、彼の2輪馬車や4輪馬車についてもかなり有利な立場に立つだろう。……同様の利点は、まぐわ地ならし機、その他多くの道具についてもあてはまるだろう。」(8、9ページ。)〉(草稿集⑨629-頁)
  〈(5) 〔注解〕ユストゥス・フォン・リービヒ『農業における/理論と実践について』ブラウンシユヴアイク、1856年、23ページ。「農業においては、時期という要素以上に重要な要素はない。」〉(同630-631頁)

《初版》

 〈(16) 「それ(農業労働)を決定的時点で行なうことは、それだけいっそう重要なことである。」(『食糧の現在価格と……との関連の研究』、9ページ。)「農業では、時という要因ほど重要な要因はない。」(リービヒ『農業の理論と実際、1856年』、23ページ。)〉(江夏訳373頁)

《フランス語版》

 〈(10) 「まさに決定的な瞬間に労働(農業での)を行なうことは、第一級に重要なことである」(『食糧の現在価格と……との関連の研究』)。「農業では時ほど重要な要因はない」(リービヒ『農業の理論と実際』、1856年、23ページ)。〉(江夏・上杉訳340頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 10*「決定的な急場において、それを(農業労働) をなすことが、より良い結果をもたらす。」(「現在価格の諸関連に関する研究」他) 「農業においては、時季以上に重要な要素はない。」( リービッヒ 「農業における理論と実際」1856年) (ドイツ語)〉(インターネットから)


●原注17

《初版》

 〈(17) 「その次の弊害は、おそらくシナとイギリスを除けば、世界中の他のどの国よりも多くの労働を輸出している国で、そんなことがあろうとは予想されそうもないこと--綿花を刈り取るのに充分な数の入手が得られないこと、なのである。この結果、多量の穀物が摘み取られないままに残されているのに、他の部分は地面に落ちてから拾い集められるのだが、それはもちろん変色していて一部は腐っている。したがって、適当な季節に労働が不足しているために、耕作者は、イギリスがあれほど熱望して待ち受けている作物の大部分を失うことに、現に甘んぜざるをえないでいる。」(『ベンガル・フルカル。隔月海外情報摘要』、1861年7月22日号。)〉(江夏訳373頁)

《フランス語版》

 〈(11) 「次の災禍、おそらくシナとイギリスを除けば、世界の他のどの国よりも多くの労働者を輸出している国で見られようとは思われない災禍は、綿花を全部刈り取るために充分な数の人手を手に入れることが不可能なことである。その結果、多量の収穫が取り入れられず、いったん拾い集められたほかの部分も色褪せて腐敗することになる。所期の季節に労働者が不足するために、借地農業者は、イギリスがあれほどに気をつかって待ち受けている収穫物の大部分を失ってしまわざるをえないのである」(『ベンガル・フルカル、隔月海外情報摘要』、1861年7月22日号)。〉(江夏・上杉訳340頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 11*「次なる災害は、世界において、他国よりも多くの労働を輸出する国では殆ど見出し得ないものであって、多分中国や英国は例外であるが、綿畑から綿を摘み取る充分な人手を獲得することの不可能なることである。このため、大量の綿が摘まれずに放置される。その後、地に落ちて、変色したり、部分的には腐ったものが、そこから集められる。適切な時季における、労働の欠乏から、英国が渇望する期待の収穫の大部分が、損失となることを、耕作者は現実に認めなければならないことになる。」( ベンガル フルカル 「隔月海外情報要約」1861年7月22日) ( 訳者注: 上記のインド東部の出来事の出典である。何故労働力が不足したかは、マルクスは記述しているが、出典のこの部分には出てこない。さて、訳していて、分からないことが多い。まず各国の労働の輸出状況は、皆目分からない。さらに、中国と英国の、ここでは労働が不足しない例外であり、かつ労働を輸出しているであろう記述と読める点、そしてその意味も分からない。さらに、半分腐った綿がどの程度のものなのか、あるいはそれを片付けて次期の収穫のための必要となる追加的労働のことなのか、耕作者と英国の関係等々、分からないまま訳した。まあ、出典だから特に追及する必要はないと思うが、気にはなった。)〉(インターネットから)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈一方では、協業は労働の空間範囲を拡大し、したがって、ある種の労働過程には、労働対象が空間的に連続してい/るということだけで、協業が必要になる。たとえば、土地の干拓、築堤、灌漑、運河や道路や鉄道の建設等々のばあいが、そうである。他方では、協業は、生産規模に比べての生産領域の空間的縮小を可能にする。このように労働の作用範囲を拡張すると同時に労働の空間範囲を制限することは、多額の空費(faux frais)を節約させるが、こういった制限は、労働者の密集やいろいろな労働過程の接近や生産手段の集積から、生ずるものである(18)。〉(江夏訳373-374頁)

《フランス語版》

 〈協業によって、労働のひろがる空間を拡張することができる。若干の事業は、土地の干拓や灌漑、運河や道路や鉄道/の建設などのように、この観点からだけでも協業を必要とする。他方、協業によって、生産規模を発展させると同時に、労働過程が実施される空間を縮小することもできる。この二重の作用、空費の節約上非常に効果のある梃子は、労働者の密集、ちがってはいるが関連のある諸作業の結合、生産手段の集中、にのみ負うているのである(12)。〉(江夏・上杉訳340-341頁)

《イギリス語版》

  〈 (12) 一方で、協同作業は、作業が広い区域で実施されることを容認する。であるから、ある種の工事には協同作業が求められる。例えば、排水工事、築堤工事、灌漑、運河、道路、鉄道がある。他方では、生産規模を拡大しながら、その活動域の相対的な縮小を可能にする。この活動域の縮小は、規模の拡大から同時に始まり、それによって、多くの無駄な出費が削減される。この事は、労働者の複合、様々な過程の集合、そして生産手段の集中によってもたらされる。*12〉(インターネットから)


●原注18

《61-63草稿》

 〈耕作の進歩につれて、かつては粗放的に500エーカーを使っていた資本および労働のいっさいが、またもしかするとそれ以上さえもが、いまや100エーカーのより完全な耕転のために集約化〔集積〕されたのである」(リチャド・ジョウンズ『富の分配と税源に関する一論』、第1部「地代」、ロンドン、1831年、[190、]191ページ〔岩波文庫版、鈴木鴻一郎訳『ジョーンズ地代論』、下、16ページ〕)。「1エーカーから24ブッシェルを獲得していた費用は、2エーカーから24ブッシェルを獲得する費用よりも小さい。耕転作業が行なわれている、より集約化〔集積〕された面積{このように面積を集約化することはマニュファクチュアにおいても重要である。けれどもここではやはり、共同の〔gemeinshaftlich〕モーターを利用すること、等々のほうがもっと重要である。農業においては、充用される資本および労働の量に比べれば面積(スペース)が集約化されてはいるが、しかしながら、以前たった1人の独立した生産当事者が使用し労働していた生産範囲〔sphere〕に比べて、生産範囲は拡大されている。範囲は絶対的に大きくなっているのである。そこから、馬を使用する可能性、等々が生じる}は、なんらかの利益を与え、なんらかの出費を節約しているにちがいない。囲い、排水、種子、収穫作業、等々は、1エーカーに限定されたときには、より少なくてすむのである、云々」(同前、199ページ〔邦訳、下、25ページ〕)。〉(草稿集④573頁)

《初版》

 〈(18) 「農耕が進歩すると、かつては500エーカーにばらばらに用いられていた資本や労働のすべてが、そしておそらくはこれ以上のものが、いまでは、10Oエーカーをいっそう完全に耕作するために集中されるようになる。」「使用される資本量や労働量に比べれば空間は集中されている」ものの、「この空間は、ただ1人の独立の生産当事者がかつて占有していたか耕作していた生産範囲に比べれば、生産範囲としては拡大されている。」(R・ジョーンズ『地代について、ロンドン、1831年』、191、199ページ。)〉(江夏訳374頁)

《フランス語版》

 〈(12) 「農耕の進歩につれて、かつては500アルパンに分散されていたすべての資本と労働が、また、おそらくはそれ以上のものが、今日では、100アルパンの改良された耕作のために集中されている」。「使用される資本と労働の総量に比較して空間が集中されてはいるが、それでもなお生産範囲は、以前に単一独立の生産者が占有していたかまたは経営していた生産範囲に比較すれば、拡大されている」(R・ジョーンズ『地代について』、ロンドン、1831年、191ページ)。〉(江夏・上杉訳341頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 12* 耕作の進歩により、「全てが、多分それ以上に、かっては500エーカーを粗っぽく使用していた資本と労働は、今では100エーカーのより完全な耕作に集中されている。」別に云えば、「資本と雇用される労働者の量に対して、相対的に広さが縮小集中されており、生産局面は拡大されている。以前の生産局面が使用していたもの、または一独立の生産者のそれと較べればと言う事である。( R. ジョーンズ 「富の分配に関する一論」第1編 地代について ロンドン 1831年 )〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈活動範囲の拡大、一定の成果を達成する時間の縮小、最後に、ばらばらの労働者ではそもそも生みだすことができないような生産諸力の創出、--これらは単純協業にとっても、協業のさらに特殊化された形態にとっても、特徴的なことである。〉(草稿集④414頁)

《初版》

 〈結合労働日は、これと同量である個々別々の個別的労働日の総和と比べれば、いっそう多量の使用価値を生産し、したがって、一定の有用効果を生産するために必要な労働時間を減少させる。与えられたばあいに結合労働日がこういった上昇した生産力を受け取るのは--労働の力学的な力能を高めるからであろうと、労働の空間的な作用範囲を拡大するからであろうと、生産規模に比べて空間的な生産の場を縮小するからであろうと、決定的瞬間に多くの労働を短時間で流動させるからであろうと、個々人の競争心を刺激して彼らの活力を緊張させるからであろうと、多数の人々の同種の仕事に連続性と多面性との極印を押すからであろうと、相異なる作業を同時に行なうからであろうと、生産手段を共同使用によって節約するからであろうと、個別的労働に社会的平均労働の性格を与えるからであろうと、--事情のいかんを問わず、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力あるいは社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協働にあっては、労働者は、自分の個体的な限界を脱ぎ捨てて、自分の類としての能力を発揮する(19)。〉(江夏訳374頁)

《フランス語版》

 〈結合労働日は、これに等しい、個別的で単独な労働日の総和に比べれば、いっそう大きな使用価値をもたらし、こうして、所期の効果を獲得するために必要な時間を短縮する。結合労働日がこのいっそう高い生産性を獲得することが、労働の力学的な力を増すことによってであろうと、空間における労働の活動を拡大することによってであろうと、あるいは、生産規模に比べて生産場面を縮小することによってであろうと、決定的な瞬間に多量の労働を動員することによってであろうと、競争心を強めることによってであろうと、血気を刺激することによってであろうと、多くの労働者の画一的な労苦に多面性の刻印あるいは連続性の刻印を押すことによってであろうと、さまざまな作業を同時に実行することによってであろうと、共同消費によって生産手段を節約することによってであろうと、あるいは、個別的労働に平均的労働の性格を伝えることによってであろうと、そのいずれにせよ、結合労働日の独自の生産力は、労働の社会的生産力あるいは社会的労働の生産力である。それは協業そのものから生ずる。共通の目的のもとで、具体的な計画にしたがいつつ、他人と協力して行動することによって、労働者は自分の個体性のもつ限界を抹消して、類としての自分の力を発揮するのである(13)。〉(江夏・上杉訳341頁)

《イギリス語版》

  〈 (13) 結合された労働日は、関連的には、個別の孤立した労働日の同じ合計であると云えるが、より大きい使用価値量を生産する。結果、与えられた有益な効果の生産のための 必要労働時間を小さくする。 結合された労働日は、与えられたケースにおいて、この増大された生産的な力を取得する。なぜならば、労働の機械的な力を高めるからである。または より広い範囲に活動の局面を広げるからであり、または 生産規模に対して相対的に生産域を縮小するからであり、または 決定的な時機に作業する大勢の労働者を配置するからであり、または 個人間の競争を刺激し動物的な精神を高めるからであり、または 大勢の人によって行われる同じ様な作業に、連続性と多面性の刻印を明確に与えるからであり、または 同時に、違った作業を実施するからであり、または 共通に使用することで生産手段を節約するからであり、または 個々の労働に対して平均的社会的な性格を付与する、その性格が生産の増加の原因でもあるからであり、それぞれがどのように関係していようといまいと、この結合された労働日の特別な生産的な力は、いかなる状況であっても、労働の特別の生産的な力であり、または、社会的な生産的な力なのである。この力の出所は協同作業そのものなのである。労働者がシステムとして他の労働者と協同作業をする時、彼は、彼の個人的な足かせを脱ぎ捨てる。そして、彼の人間種としての可能性を発展させる。*13〉(インターネットから)


  (付属資料(4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(11)

2024-06-13 11:03:49 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(11)


【付属資料】(4)


●原注19

《61-63草稿》

 〈「各人の力はごく小さいものであるが、このごく小さい諸力の結合は、同じ諸力の合計よりも大きい一つの総力を生みだすのであり、その結果、単に諸力が結合されるだけでも、時間を短縮し諸力の作用範囲を拡大することができるのである」(ピエトロ・ヴェルリ『経済学に関する考察』、クストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篤1 第15巻、ミラノ、1804年、196ページへのG・R・カルリの注1)。〉(草稿集④413頁)
  〈「全体はその部分の合計に等しいという数学的原理も、われわれの対象に適用すれば誤りとなろう。労働という人間存在の大黒柱についていえば、結合された労苦による生産物の全体は、個人的でばらばらな努力があるいはなし遂げることができるかもしれないすべてのものを限りなく越えていると言ってさしっかえない」(マイクル・トマス・/サドラー『人口の法則』、第1巻、ロンドン、1830年、84ページ)。〉(草稿集④415-416頁)

《初版》

 〈(19) 「個々の人間の力はきわめて小さいが、小さい力を結合すれば、これらの力の総和よりも大きな総力になり、結局、小さな力でも集まれば、時間を短縮し作用空間をひろげるようになる。」〔P・ヴェリ〕、前掲書、176ページへのG・R・カルリの註。)〉(江夏訳375頁)

《フランス語版》

 〈(13) 「個々の人間の力はきわめて小さいが、小さい力の結合は、これらの力の総和よりも大きな一つの総力を産み出し、したがって、これらの力の結合という事実だけでも、これらの力は時間を短縮し、自分たちの活動空間を増大することができるので/ある」(G・R・カルリ、P・ヴェリ、前掲書、第15巻、196ページへの註)。「集団労働は、個別的労働がけっして提供することのできない成果を提供する。だから、人類が数を増すにつれて、結合事業の生産物は、この増加から計算される単純な足し算の和をはるかに超過するであろう。……科学の仕事においてと同じように力学上の技術においても、現在では人間はたった1日で、単独の1個人がその全生涯中になすことよりも多くのことをなすことができる。全体は部分に等しいという数学者の公理は、もはや真実ではなく、われわれの主題にも適用されない。人間存在のこの大支柱である労働にかんしては、蓄積された労苦の産物は、個別的で分離された労苦がつねに生産しうるいっさいのものよりはるかに多量である、と言ってよい」(T・サドラー『人口法則』、ロンドン、1830年)。〉(江夏・上杉訳341-342頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 13* 「一歩は不確かで小さいものだが、それらを集めればあのメディア人のように大きく高くなり、時間を縮め、空間を自分のものとする。」( G.R. カルリ 「P. ブエリへの手記」 既出 テキスト 15 ) ( イタリア語 )〉(インターネットから)


●第14パラグラフ

《61-63草稿》

 〈協業--すなわち〔ここでは〕資本家・すなわち貨幣所有者または商品所有者・によるそれの利用--は、もちろん、彼の手中への労働手段の集積〔Konzentration〕ならびに生活手段(労働と交換される資本部分)の集積を必要とする。1人の労働者を年間36O日雇うのに必要な資本は、36O人の労働者を同じ日数だけ雇うのに必要な資本の1/360である。〉(草稿集④416頁)

《初版》

 〈総じて、労働者たちは、一緒にいなければ直接に協働することができないし、したがって、特定の場所に密集していることが、彼らの協業の条件であるとすれば、賃金労働者たちは、同じ資本同じ資本家が、彼らを同時に使用しなければ、したがって、彼らの労働力を同時に買わなければ、協業することが不可能である。だから、これらの労働力そのものが生産過程で結合される以前に、これらの労働力の総価値、あるいは労働者たちの1日分とか1週間分とか等々の賃金総額が、資本家のポケットのなかでひとまとめにされていなければならない。30O人の労働者にただの1日分だけでも同時に支払いをするためには、少数の労働者にまる1年間にわたって1週間ごとに支払いをするばあいに比べて、いっそう多額の資本支出が必要である。だから、協業する労働者の数、または協業の規模は、まず第一に、個別資本家が労働力の購入に投資しうる資本の大きさによって、すなわち、1人1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由にする範囲によって、きまるわけである。〉(江夏訳375頁)

《フランス語版》

 〈一般に、人間は結合されなければ共同で労働することができない。彼らの集合は、彼らの協業の条件そのものである。賃金労働者たちが協業しうるためには、同じ資本、同じ資本家が、彼らを同時に使い、したがって、彼らの労働力を同時に買わなければならない。これらの労働力の総価値、すなわち1日分、1週間分などの若干の賃金総額は、労働者が生産過程で結合される以前に、資本家のポケットのなかに貯えられていなければならない。300人の労働者に一度に支払うには、ただの1日分にすぎないにしても、もっと少数の労働者にまる1年を通じて毎週支払うよりも多額な資本前貸しが、必要である。したがって、協業者の数または協業の規模は、まず第一に、労働力を買うために前貸しすることのできる資本の大きさに、すなわち、1人の資本家が多数の労働者の生活手段を自由にする大きさに、依存している。〉(江夏・上杉訳342頁)

《イギリス語版》

  〈 (14) 一般的法則としてだが、労働者は一緒にされなければ協同作業することはできない。彼等の一つの場所への集結は、彼等の協同作業の必要条件なのである。であるから、賃金労働者は、彼等が同時に同じ資本、同じ資本家に雇用されなければ協同作業することはできない。そして、であるから、彼等の労働力が同時に彼によって買われなければ、協同作業することはできない。これらの労働力の全価値、またはこれらの労働者の一日の、または一週の、いろいろなケースがありうるが、の賃金の大きさは、生産の過程のために労働者達が集められる以前に、資本家のポケットの中に準備されていなくてはならない。300人の労働者に一度に支払う金額は、例え一日分であろうと一週分であろうと、少人数の毎週ごとの一年分よりも資本にとっては大きな支出が求められる。従って、協同作業する労働者の人数、または協同作業の規模は、先ず第一に、労働力を購入するために用いることができる個人としての資本家の資本額に依存している。別の言葉で云えば、一資本家が調達できる 労働者の数に相当する生活手段の大きさに依存している。  〉(インターネットから)


●第15パラグラフ

《初版》

 〈そして、事情は、不変資本についても可変資本のばあいと同じである。たとえば、原料にたいする投資は、300人の労働者を使っている1人の資本家にとっては、めいめい10人ずつの労働者を使っている30人の資本家の1人1人に比べて、30倍も大きい。共同で利用される労働手段の価値量も素材量も、なるほど使用労働者数と同じ程度で大きくなるわけではないが、かなり大きくなる。だから、個々の資本家の手にかなり多量の生産手段が集積されていることは、賃金労働者の協業の物質的条件であって、協業の範囲または生産の規模は、こういった集積の範囲によってきまる。〉(江夏訳375頁)

《フランス語版》

 〈また、不変資本についても可変資本と同様である。たとえば原料は、300人の労働者を使う資本家にとっては、10人しか労働者を使わない30人の資本家の一人一人にとってよりも、30倍多くかかる。共同で使用される労働手段の価値と量は、働かされる労働者の数に比例して増加することはないが、それでもやはり著しく増加する。したがって、個別資本家の手中にある生産手段の集積は、賃金労働者間でのあらゆる協業の物的条件である。〉(江夏・上杉訳342頁)

《イギリス語版》

  〈(15) そして、可変資本と同様に、不変資本についても同じ事である。例えば、原材料への支出は、30人の資本家がそれぞれ10人を雇う場合と較べて、一人の資本家が300人を雇うならば、それは30倍の支出となる。この労働手段の量と価値は、通常は、実際のところ、労働者の数と同じ割合では増大しないが、それでもかなりの増大となる。従って、個々の資本家の手中にある大きな生産手段の集中は、賃銀労働者の協同作業の物質的な条件なのである。そして、協同作業の広がり、または生産の規模は、この集中の大きさに依存している。〉(インターネットから)


●第16パラグラフ

《初版》

 〈同時に搾取される労働者の数、したがって、生産される剰余価値の量が、個々の労働使用者自身を手の労働から解放し、小親方を資本家に変え、かくして資本関係を形の上でつくり出すのに、充分なものとなるためには、最初は、これら資本使用者の手中にある資本のある程度の最小限度の大きさが、必要なものとして現われていた。いまでは、この最小限度の大きさが、分散していて相互に独立している多数の個別的労働過程を1個の結合された社会的労働過程に転化させるための物質的条件として、現われている。〉(江夏訳376頁)

《フランス語版》

 〈われわれが見た(第11章)ように、価値または貨幣のある総額は、それが資本に転化するためには、ある最低限度の大きさに達しなければならないが、この最低限度の大きさがあってこそ、その所有者は、手の労働を転嫁しうるほど/に充分な労働者を、働かせることができるわけである。この条件がなかったら、協業の親方や小雇主が資本家にとってかわられることもありえなかったであろうし、また、生産そのものも、資本主義的生産の形態的な性格を帯びることもありえなかったであろう。諸個人の手中にある資本の最低限度の大きさがいまや、全く別の外観のもとで現われる。それは、個別的な別々の労働が社会的な結合された労働に転化するには必要であるところの、富の集積である。それは、生産様式がやがてこうむるであろう変化の物的基礎になる。〉(江夏・上杉訳342-343頁)

《イギリス語版》

  〈(16) 我々は前章で、ある程度の労働者数を同時に雇用するためには、それなりの最小量の資本が必要であることを見て来た。そしてその結果として、ある程度の量の剰余価値が産み出され、それが手作業労働をする一雇われ同様の彼自身を解放し、小さな工場主から資本家へと変換することになり、かくて、正式なる資本主義的生産を確立するのを見て来た。さて、我々は、多くの孤立化された、独立化された過程を、一つの結合された社会的過程に変換するためには、それなりの最小量の資本が必要条件になると分かった。〉(インターネットから)


●第17パラグラフ

《61-63草稿》

 〈自己のもとへの労働過程のこの形態的包摂・労働過程を自己の統御のもとにおくこと・は、労働者が労働者として資本の、あるいは資本家の監督下に、したがってまた指揮下に陥る、ということである。資本が労働にたいする指揮になるというのは、A・スミスがその意味で言っているような、富はそもそも労働にたいする指揮だ、という意味においてではなく、労働者が労働者として資本家の指揮のもとにはいる、という意味においてである。というのは、白分の労働能力を時間ぎめで労賃と引き換えに資本家に売ってしまえば、労働者はいまや、自分が労働者として、資本が働く〔arbeiten〕さいに必要とする諸要因の一つとして、労働過程にはいらなければならないからである。現実の生産過程は、労働による、したがって労働者自身の活動による、この過程にはいる諸使用価値の生産的消費であるが、それは他方では同じく、資本、あるいは資本家による労働能力の消費でもある。資本家は、労働者に労働させることによって、労働者の労働能力を使用するのである。労働過程のすべての要因が、すなわち、労働材料、労働手段、それに資本家が買った労働能力の実証、使用としての生きた労働そのものが、資本家のものであるので、同様に、まるで彼自身が自分自身の材料と自分自身の労働手段とをもって労働しているかのように、労働過程の全体が彼のものなのである。だが、労働は同時に、労働者自身の生の発現であり、彼自身の人的熟練および能力〔Fähigkeit〕の実証--この実証は、彼の意志しだいであり、同時に彼の意志の発現である--であるから、資本家は労働者を監視し、自分のものたる行動としての労働能力の実証を統御する。彼は、労働材料が労働材料として合目的的に使用されるよう、労働材料として消費されるよう、気をつけるであろう。材料が浪費されれば、それは労働過程にははいらず、労働材料としては消費されない。労働手段についても、労働者がひょっとしてそれの素材的な実体を、労働過程そのもの/によってではなくそれ以外の方法で摩損させる〔aufreiben〕ことでもあれば、同じことが言えるであろう。最後に、資本家は、労働者がほんとうに労働するよう、時間いっぱい労働するよう、また、必要労働時間だけを支出するよう、すなわち、一定時間内に正常(ノーマル)な量の労働をするよう、気をつけるであろう。これらすべての側面から見て、労働過程が、同時にまた労働および労働者自身が、資本の統御のもとに、その指揮のもとにはいるのである。私はこれを、資本のもとへの労働過程の形態的包摂と呼ぶ。〉(草稿集④146-147頁)
   〈資本の集積。小資本の絶滅による大資本の蓄積。吸引。資本と労働との中間結合物からの資本剥奪。これはただ次のような過程の最後の力と形態であるにすぎない。その過程というのは、労働条件を資本に転化させ、次いで資本および諸資本をより大きな規模で再生産し、最後に社会の多くの点で形成された資本をそれらの所有者から切り離して大資本家の手のなかに集中する過程である。このような、対立と矛盾との極端な形態とともに、生産は、疎外された形態においてであるとはいえ、社会的な形態に転化する。社会的な労働、そして現実の労働過程では生産用具の共同使用。資本家は、同時にこの社会的生産を促進するとともに生産力の発展をも促進する過程の機能者としては無用になるのであって、彼らが社会の代表として利益を享受するのと同じ度合いで、また彼らがこの社会的な富の所有者および社会的労働の指揮者として得意になるのと同じ度合いで、無用になるのである。彼らは封建貴族と同じような目に遭うのであって、封建貴族の諸権利は、ブルジョア社会の興隆とともに彼らの役だちと同じ度合いで無用になり、単なる反時代的な反目的的な特権に転化し、したがってその没落への道を急いだのである。〉(草稿集⑦402頁)

《初版》

 〈同様に、労働にたいする資本の指揮も、最初は、、労働者が自分のためではなく資本家のためにしたがって資本家のもとで労働するということの、形の上の結果としてのみ、現われていた。多数の賃金労働者の協業が発展するにつれて、資本の指揮は、労働過程そのものの遂行のための要件に、一つの現実の生産条件に、発展することになる。生産の場での資本家の命令が、いまでは、戦場での将軍の命令と同様に、なくてはならないものになる。〉(江夏訳376頁)

《フランス語版》

 〈資本の初舞台では、労働にたいする資本の指揮は、純粋に形態的な、ほとんど偶然的な性格をになっている。このばあい、労働者が資本の命令のもとで労働するのは、彼が自分の労働力を資本に売ったがゆえのことでしかない。彼が資本のために労働するのは、彼が自分自身のために労働するための物的手段をもっていないがゆえのことでしかない。だが、賃金労働者のあいだに協業が存立するやいなや、資本の指揮は、労働の実施にとっての要件として、生産の現実的な条件として、発展する。そうなれば、生産場面では、資本の命令が、戦場での将軍の命令と同様に不可欠になる。〉(江夏・上杉訳344頁)

《イギリス語版》

  〈 (17) また、我々は最初に、労働の資本への従属が、労働者が自分自身のために働くのに代わって、資本家のために、それゆえ、資本家の下で働くという事実の、唯一の帰結的な結果であることを見た。大勢の賃金労働者達の協同作業によって、資本の支配は、労働過程そのものを進める上での必要事項へと発展する。さらに、生産の実際の必須事項へと発展する。まるでそれは、資本家が生産領域を差配すべきであるということが、戦場で命令を下さねばならぬ将軍のそれのように、絶対に欠かす事ができないものへとなる。(訳者注: 資本家の下で働くという事実の、「唯一の帰結的な結果」 と訳した部分の英文は、極めて簡単な only a formal result とある単語群なのである。何故ここで悩むかは、単語のformal にある。辞書では、正式な とか、形式上のとか伝統的なとかの訳語が見られる。向坂訳は、形式的な結果 としている。単語には多くの裏表の意味が含まれることが多い。正式と形式上とでは意味はかなりの差がある。訳者は、ここでは、形式的とは訳しにくい。形式ならば本質をいつでも保持し、形式は脱ぎ捨てることが容易なものと思う。そうは行かない。しかし、正式かと云えば、そのような仮装上の正統性ではあっても、容易に認める場面でもない。そこで、帰結的なと置いて、歴史的経過的な意味での当然の成り行きとしての結果と表すことにした。難しくかつ面白いところである。)〉(インターネットから)


●第18パラグラフ

《61-63草稿》

  〈多数者の結合労働〔Zusammenarbriten〕--彼らの連関そのものは彼らにとっては無縁の関係であり彼らの統一は彼らの外にある--とともに、指揮の、監督の必要性が、それ自身一つの生産条件として現われる、すなわち、労働者たちの協業によって必須のものになった、つまり協業が原因で生まれた新しい種類の労働、つまり監督労働〔labour of superintendence〕として現われる。それは、軍隊において、たとえそれが同一の兵科だけから成っているとしても、それが一つの兵団として行動しうるためには、指揮官の必要が、つまり命令の必要が生まれるのとまったく同じである。この指揮権は資本に属するものである。ただし個々の資本家はこの指揮権を、またふたたび独自な労働者によって行使させることができるが、〔この場合には〕この労働者たちは、労働者軍に対立して資本と資本家とを代表するのである。(奴隷制)(ケアンズ)〉(草稿集④419頁)
  〈資本は生産過程では労働の管理者として、労働の指揮者(captain of industry)として現われ、したがって労働過程そのものにおける活動的な役割を演ずる。だが、これらの機能が資本主義的生産の独自な形態から生ずるかぎりでは--つまり、資本の労働としての労働にたいする、したがってまた資本の用具としての労働者たちにたいする資本の支配から生ずるかぎりでは、そして、社会的統一体として現われる資本、すなわち資本において労働を支配する力として人格化される労働の社会的形態の主体として現われる資本、この資本の本性から生ずるかぎりでは、この、搾取と結びついた労働(これは一人の支配人に任されることもできる)は、もちろん賃金労働者の労働と同様に生産物の価値にはいる労働であって、そのことは、奴隷制のもとでは奴隷監督者の労働も労働者自身の労働と同様に支払を受けなければならないのとまったく同様である。人間が自分自身の自然や外部の自然や他の人間にたいする自分の関係を宗教的な形態で独立化して、そのためにこれらの観念によって支配されるようになれば、人間は聖職者たちと彼らの労働とを必要とする。しかし、意識の宗教的形態や意識の諸関係の消滅とともに、聖職者のこの労働も社会的生産過程にはいることはなくなる。聖職者とともに聖戦者の労働もなくなり、同様に、資本家とともに、彼が資本家として行なうかまたは他の者に行なわせる労働もなくなる。(奴隷制の例を引用文によって詳論すること。)〉(草稿集⑦471-472頁)
  〈資本主義的生産にとってまさに特徴的なことは、労働の生産力を高める労働の社会的性格ですら労働自身には無縁の力として、つまり労働の外部に存在する諸条件として現われるのであって、労働自身の属性・条件としては現われない--なぜなら、労働者は依然として彼の協働者たちとの社会的な連関の外でばらばらな労働者として資本と相対するのだからである--ということであるが、このことは、この社会的労働の対象的諸条件についてはとりわけよくあてはまる。したがって、資本家の立場からみれば、対象的諸条件の考察は、資本にのみ関係する問題、つまりそれは徹頭徹尾資本の問題、であって、労働者にはまったくなんの関係もない事情の考察として現われる。これらの外的諸条件を、個々の労働者のためのばらばらな存在から社会的な存在に、集積された存在に、つまり空間的・時間的に集積して協働する労働者が共同で利用することによってより経済的に利用されうる存在--すなわち、それらの諸条件の費用を少なくしそれらの価値の消費を減らし価値増殖過程への参加を減らしながら、労働過程におけるその効率を高めるように利用されうる存在--に変えるのが労働そのもののこの社会的形態だけであるにもかかわらず、それは〔労働者にはまったく関係ない事情の考察として現われる〕のである。〉(草稿集⑨194頁)

《初版》

 〈かなり大規模に行なわれる、直接に社会的または共同的な労働は、いずれも、多かれ少なかれ指図を必要とするのであって、この指図によって、個別的諸活動の調和が、媒介され、生産体全体の運動--この生産体全体の独立した諸器官の運動とは別個のもの--から生ずる一般的な諸機能が、果たされるのである。バイオリンの独奏者は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。指揮、監督、媒介というこういった機能は、資本に従属する労働が協業的になるやいなや、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な特徴を授けられる。〉(江夏訳376頁)

《フランス語版》 フランス語版では二つのパラグラフに分かれているが、ここでは一緒に紹介しておく。

 〈充分に大きな規模でくりひろげられる社会的または共同的な労働はどれも、個別的な諸活動を調和させるための指揮を必要とする。この指揮は、生産体の全体としての運動とこの生産体を構成する独立した諸成員の個別的運動との差異から生ずるところの一般的諸機能を、果たさなければならない。独奏する音楽家は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。
  資本に従属する労働が協業的になるやいなや、こういった指揮、監督、媒介の機能が資本の機能になり、それは資本の機能として、独自な性格を獲得する。〉(江夏・上杉訳343頁)

《イギリス語版》

  〈(18) 全ての、大きな規模の結合された労働は、多かれ少なかれ、個々の活動の作業の調和を確保するために、そして、個別の組織器官の活動とは違う、結合された組織としてそれぞれが持つ普遍的な機能を発揮するために、指揮機能を要求する。一人のバイオリン奏者は、彼自身の指揮者ではあるが、オーケストラは明確な一人の指揮者を必要とする。労働が資本の下に、協同作業となった瞬間から、作業の指示、監督、調整、が資本の一つの機能となる。資本の機能が確立するやいなや、それが特別の性格を獲得する。〉(インターネットから)


●第19パラグラフ

《61-63草稿》

  〈この種の特殊的諸労働が資本主義的生産そのものの生みだす諸機能に起因するかぎり、資本がこれらの機能を果たすという理由によって資本が必要なものであることを論証しようとするのはもちろんばかげている。それは一つの同義反復である。それはちょうど、奴隷としてのニグロには鞭をもった奴隷監督が必要であり、ニグロの生産にはニグロ自身と同様に奴隷監督も必要だという理由によって、ニグロにむかつて奴隷制を正当化しようとするようなものであろう。だが、奴隷監督が必要なのは、ただ、ユグロが奴隷だから、またそのかぎりでのこと--つまり奴隷制という基礎の上でのこと--である。それにたいして、協業が、たとえばオーケストラでのように指揮者を必要とする場合に、それが資本の諸条件のもとでとる形態と、それがそうではないところで、たとえば連合社会〔Assoziation〕のも/とでとるであろう形態とは、まったく別物である。後者で〔それが必要とされるの〕は、他の労働諸機能とならぶ特殊な一機能としてであって、労働者自身の統一性を、彼らにとって無縁な統一性として実現し、彼らの労働の持取を、無縁な力〔Macht〕によって彼らにたいしてなされる搾取として実現する、そういう力としてではない。〉(草稿集④419-420頁)
  
《初版》 初版は19パラグラフと20パラグラフが一つのパラグラフになっており、原注20、21もその最後に(つまり現行版の20パラグラフのあとに)その他の原注と一緒にあるが、ここでは該当すると思われる箇所でパラグラフを分割して紹介し、原注もそれぞれのところで紹介することにする。

 〈まず第一に、資本主義的生産過程の主な動機および決定的な目的は、資本のできるだけ大きな自己増殖(20)、すなわちできるだけ大きな剰余価値生産、したがって、資本家の手による労働力のできるだけ大きな搾取である。同時に働かされる労働者の数がふえるにつれて、労働者の抵抗も増大し、したがって、この抵抗を抑圧するための資本の圧力も必然的に増大する。資本家の指揮は、社会的労働過程の性質から生じて資本家に属する一つの特別な機能で/あるばかりでなく、それは同時に、一つの社会的労働過程の搾取の機能でもあり、したがって、搾取者と彼の搾取材料とが不可避的に敵対しているという面から、必要とされているのである。同様に、賃金労働者にたいし他人の所有物として対立する生産手段の規模が拡大するにつれて、生産手段の有用な使用を監督することの必要性も増大する(21)。さらにまた、賃金労働者たちの協業は、彼らを同時に使用する資本の作用にほかならない。彼らの諸機能の関連も、生産体全体としての彼らの統一も、彼らの外部に、彼らを集めてひとまとめにしておく資本の手のうちに、あるわけである。だから、彼らの諸労働の関連は、資本家の計画として観念的に彼らに相対し、彼ら自身の統一は、資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従わせようとする他人の意志の力として、実践的に彼らに相対している。〉(江夏訳376-377頁)

《フランス語版》 フランス語版では三つのパラグラフに分かれ、あいだに注14と15が挟まっているが、ここでは注を除き、三つのパラグラフを一緒に紹介しておく。

 〈資本主義的生産の強力な拍車、大きな原動力は、資本を増殖するという必然性である。資本の決定的な目的は、剰余価値のできるかぎり大きな抽出であり(14)、結局同じことになるが、労働力のできるかぎり大きな搾取である。同時に搾取される労働者の総数が増加するにつれて、資本家にたいする彼らの抵抗が増大し、したがって、この抵抗を打ち破るた/めに行使しなければならない圧力も増大する。資本家の手中にあっては、指揮はたんに、協業的なあるいは社会的な労働過程の本性そのものから生ずる上記の独自な機能であるばかりでなく、さらに、しかも顕著に、社会的な労働過程を搾取する機能、搾取者と彼によって搾取される材料との不可避的な敵対に根拠を置く機能でもある。
  その上、他人の所有物として労働者に対立する生産手段の規模が増大するにつれて、生産手段の適当な使用を監督し検証する必要も増大する(15)。
  最後に、賃金労働者の協業は、彼らを同時に使用する資本の単なる作用でしかない。彼らの個別的機能のあいだの連携と、生産体としての彼らの統一とは、彼らの外にあるのであり、彼らを結合し引きとめる資本の内にあるわけなのだ。彼らの労働の連携は、彼らには資本家の計画として観念的に現われ、彼らの集合体の統一は、彼らには資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に服従させる他人の意志の力として、実際的に現われる。〉(江夏・上杉訳343-344頁)

《イギリス語版》  イギリス語版はこのあたりはやや複雑である。このパラグラフの内容はイギリス語版では(19)(20)パラグラフにまたがっており、しかもここで紹介する(20)パラグラフの前半部分は、すでに全集版の次の第20パラグラフの一部を含んでいる。だからここで紹介するものはぴったりとは対応しない。一部重複することもある。いずれにせよ内容で判断し区別するしかない。

  〈(19) 資本主義的生産の究極的な狙いは、その直接的な動機は、最大限のでき得る限りの剰余価値の量を引き出すことであり、*14 そして、その結果として、最大限のでき得る限りの労働力を搾取することである。
   協同作業する労働者の人数が増加するに応じて、資本の支配に対する彼等の抵抗もまた、増大する。そのため、この抵抗に打ち勝つことが資本にとっての必要事となる。資本家によって実施されるこの制御は、単に特別なる機能であるばかりでなく、社会的労働過程の性質から生じる、そしてその過程に特異なものであるばかりでなく、それは同時に、社会的労働過程の搾取機能となる。そして、その結果として、搾取者と、彼が搾取する 生きて働く原材料である者 との間に生じる 避けることができない敵対の根源となる。(訳者注: 色を変えた部分の英文は、living and labouring raw material)
   (20) 繰り返すが、生産手段の規模が増加するに比例して、今や、労働者の所有権は消え、資本家の所有物となる。それらの手段の適切な利用に関する効果的な制御の必要性も増大する。*15
  繰り返すが、賃金労働者の協同作業は、全くのところ、彼等を雇った資本家によってもたらされたものである。彼等が一つの生産的な姿に結合しているのは、彼等の個々の各機能間の繋がりの確立は、彼等にとっては、外的かつ対外的な事態であって、自分達自身の行動ではない。そうではなくて、彼等を一緒にして保持しているのは、資本の行動なのである。従って、彼等の様々な労働の間に存在する連結は、観念として、資本家の予め想定した計画の姿として彼等に写る。そして、事実上、同じ資本家の権威の実態となり、彼等の活動を彼の目的に服従させる他人の強力なる意志の実態となる。かくて、資本家の制御に本質的な二重性、生産過程そのもののが二重の性質を持つ理由から、すなわち、一つは使用価値の社会的生産過程、もう一つは剰余価値の創造過程であるからこそ、この後者をして、この制御を絶対的専制たらしめる。

  なおこの最後パラグラフについて、次のような訳者注が付いている。
 訳者注: この部分の向坂訳を示しておきたい。「指揮さるべき生産過程そのものの二重性のために、内容から見れば二重的であるとしても、形式から見れば専制的である。」把握不可能な難解訳となっている。資本の専制的制御機能の出自をしっかりと把握できなければ、剰余価値を社会的価値に転換すれば資本家の専制も消え去り、注にあるような労働者による、専制の余地のない管理も成立する論理を把握できないではないか。挫折なくこの文面を通過していたら、英訳資本論の和訳など始めなかったであろう。改めて感謝せざるをえない。和訳作業が、どんなに資本論を読むことになっているか痛感する。本当に有難い。〉(インターネットから)


●原注20

《初版》

 〈(20) 「利潤は……事業の唯一の目的である。」(J・ヴァンダリント、前掲書、11ページ。)〉(江夏訳378頁)

《フランス語版》

 〈(14) 「利潤……これが事業の唯一無二の目的である」(J・ヴァンダリント、前掲書、11ページ)。〉(江夏・上杉訳344頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 14* 「利益…. は、取引の唯一の目的である。」( J. バンダーリント 既出 )〉(インターネットから)


●原注21

《初版》

 〈(21) イギリスの俗物新聞、『スベタテーター』1866年6月3日号の報道によると、「マンチェスター針金製造会社」で資本家と労働者との一種の共同出資制が採用されてから、「第一の成果は、浪費が突然減少したことであった。職工たちには、自分たち自身の財産を誰かほかの雇主の財産よりも浪費すべき理由がなかったからである。ところで、浪費はおそらく、悪質の債務に次いで、製造上の損失の最大の源泉になろう。」この新聞は、ロッテデール協同組合の実験の根本的な欠陥として次のことを発見している。「これらの実験が実証したところでは、労働者の組合が売店や工場やほとんどすべての形の事業を成功裡に管理しうるし、また、職工の状態を大いに改善したが、しかしそのとき、これらの実験は、雇主のための紛れもない席を残さなかった。」(“Sie bewiesen,dass Arbeiterassociationen Boutquen,Fabriken und beinahe alle Formen der Industrie mit どrfolg handhben konnen,und sie verbesserten ausserordentilich die Lage der Leute selbst,aber !,aber dann lissen sie keinen sichtaren Platz for Kapitalisten offen."なんと恐ろしいことよ!)〉(江夏訳378頁)

《フランス語版》

 〈(15) イギリスのひどく低俗な新聞である『スペクテータ』の1866年5月26日号が報ずるところによれば、マンチェスターの「針金製造会社」では、資本家と労働者たちとのあいだに一種の共同出資制が創設された後には、「労働者たちには自分の財産を台なしにする理由がないので、第一の明らかな結果は、浪費の突然の減少であった。浪費はおそらく、悪質な債権とともに、工場にとっては損失の最大の源泉である」。この同じ新聞は、ロッチデール協同組合の実験のうちに、一つの根本的な欠陥を発見している。「これらの実験が証明するところでは、労働者の組合はあらゆる産業部門で店や工場を首尾よく経営し管理することができ、また同時に、労働者の状態を非常に改善することができるが、しかし! これらの実験が資本家にどんな席を残したかは、よくわからない」。なんと恐ろしいことよ!〉(江夏・上杉訳344頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 15* あの俗物ペリシテ新聞 スペクテイターは、次のように述べた。「マンチェスターの針金製造会社」において、資本家と労働者の間にある種の協同経営を導入した、すると、「その最初の結果は、無駄遣いが急に減ったことであった。人々は、他の工場主らの工場の浪費以上に、彼等自身の財産を無駄にすべき理由のないことに気がついた。多分、浪費は不良債権に次ぐ製造における損失の最大の源泉であると。」この同じ新聞は、ロッチダールの協同作業実験の主要なる欠陥を見出して、次のように述べている。「彼等は、労働者による組合が、店、工場、そして産業の全ての状態を上手に管理することができることを示した。そして、彼等は直ちに人々の健康状態を改善した。しかし、そこに、彼等は、ご主人様の明瞭なる立場の余地を、残していなかった。」 おお、なんと険悪なることぞ! (フランス語)〉(インターネットから)


  (付属資料(5)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(12)

2024-06-13 10:39:45 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(12)


【付属資料】(5)


●第20パラグラフ

《初版》

 〈だから、指揮される生産過程自体が一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり他面では資本の価値増殖過程であるがゆえに、この生産過程自体が二面性をそなえている結果、資本家の指揮は、内容上二面的であっても、形式上専制的である。協業がいっそう大規模に発展するにつれて、この専制は特有な諸形態を繰り広げる。資本家は、自分の資本が、本来の資本主義的生産をやっと開始するのに足りる最小限の大きさに到達すると、さしあたり手の労働から開放されるのであるが、このことと同様に、彼はいまや、個々の労働者や労働者群そのものを絶えず直接に監督する機能を、あらためて、特別な種類の賃金労働者に譲り渡す。軍隊がそうであるように、同じ資本の指揮のもとで協働する労働者集団は、労働過程そのものが行なわれているあいだ資本の名において指揮する産業士官(支配人、managers)や産業下士官(職工長、foremen,overlookers,contre-maîtres)を、必要とする。監督労働が、彼らの専有の機能に固定する。独立農民や独立手工業者の生産様式を、奴隷制にもとづく植民農場経営と比べるばあい、経済学者は、この監督労働を生産の空費に算入する(21a)。これに反して、資本主義的生産様式の考察にさいしては、経済学者は、共同的な労働過程の性質から生ずるかぎりでの指揮の機能を、この過程の資本主義的なしたがって敵対的な性/格の面から必要とされるかぎりでの指揮の機能と、同一視する(22)。資本家は、産業の指揮官であるがゆえに資本家であるわけではなく、資本家であるがゆえに産業の司令官なのである。産業における最高司令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高司令が土地所有の属性であったのと、同じことである(22a)。〉(江夏訳377-378頁)

《フランス語版》 フランス語版では二つのパラグラフに分けられているが、ここでは一緒に紹介しておく。

 〈したがって、資本家の指揮は、指揮すべき対象そのものが、一方では協業的な生産過程であり他方では剰余価値の抽出過程であるがために、その内容の点では二重の面をもっているが--この指揮の形態は必然的に専制的になる--、協業が発展するにつれて、この専制の特殊な諸形態も発展する。
  資本家はまず手の労働から免れる。次いで、彼の資本が増大し、彼の働かせる集団労働力が彼の資本とともに増大す/ると、彼は、労働者や労働者群を直接に絶え間なく監督するという自分の機能を解除して、これをある特殊な種類の賃金労働者に移譲する。資本家が産業軍の先頭に立つやいなや、労働過程が続いているあいだ資本の名において指揮する上級士官(支配人、業務執行人)と下士官(監督者、巡視人、職工長)とが、彼には必要である。監督労働は、上級士官や下士官の専有機様(ママ)になる。経済学者が、独立農民または独立手工業者の生産様式を、植民地の農場主が営むような奴隷制度にもとつく経営と比較するばあい、彼はこの監督労働空費のなかに数える(16)。ところが、彼が資本主義的生産様式を考察するとなると、彼は、協業的労働過程の本性から派生するかぎりでの指揮と監督の機能を、この同じ過程の資本主義的なしたがって敵対的な性格を基礎とするかぎりでの機能と、同一視する(17)。資本家はけっして、産業指揮者であるから資本家であるのではなく、逆に、資本家であるから産業指揮官になるのである。封建時代には戦争の指揮と裁判とが土地所有の属性であったのと同じように、産業における指揮が資本の属性になる(18)。〉(江夏・上杉訳344-345頁)

《イギリス語版》 このパラグラフも先のパラグラフと同様内容で区別していくしかない。

  〈かくて、資本家の制御に本質的な二重性、生産過程そのもののが二重の性質を持つ理由から、すなわち、一つは使用価値の社会的生産過程、もう一つは剰余価値の創造過程であるからこそ、この後者をして、この制御を絶対的専制たらしめる。
  協同作業の規模の発展に応じて、この専制もまた自身特有な形を取る。その最初といえば、彼の資本が資本主義的生産のための最小限に達するやいなや、資本家は実際の労働から一息ついて離れ、そうしてすぐに今度は、個々の労働者または労働者のグループを、直接的にまた常時監督する仕事を、特別な種類の賃金労働者に押しつける。資本家の指揮下にある労働者の産業軍隊は、まるで実際の軍隊のように、士官(管理者)、そして軍曹(手配役、監視役) を求める。彼等は、仕事がなされる間、資本家の名において命令する。指揮監督の仕事が、彼等の確立された、そして排他的な機能となる。単独に孤立する農場主や手工職人親方の生産様式と奴隷労働による生産とを比較する場合、前者の監督の仕事を、政治経済学者は、生産の雑費 の中に計上する。*16 (フランス語)
   しかし、資本主義的生産様式を考えるならば、これとは違って、彼( 訳者注: 政治経済学者の彼のこと) はこの制御の労働を、労働過程の協同作業という性格によって必要とされたそれと、その過程の資本主義的性格によって必要とされ、そしてまた、資本家と労働者の間にある利益の敵対的な性格から必要となる、全く異なる制御の労働とを、同一視するのである。*17
  彼が産業の指揮官であるから、彼が資本家なのではなく、全く逆に、彼が資本家であるという理由から、彼が産業の指揮官なのである。産業の統率力は、資本の一つの属性なのである。丁度、封建時代には、将軍とか裁判官の機能が、土地所有の属性であったようにである。*18〉(インターネットから)


●原注21a

《初版》

 〈(21a) ケアンズ教授は、「労働の監督」を北アメリ力南部諸州の奴隷制生産の一つの主要な特徴として述べたあとで、次のように続けて言う。「小自作農(北部の)は、自分の土地の全生産物をわが物にしているので、このこと以外には、努力を刺激するものをなんら必要としない。監督はここでは全く無用である。」(ケアンズ、前掲書、48、49ページ。)〉(江夏訳378頁)

《フランス語版》

 〈(16) ケアンズ教授は、労働の監督がアメリカ合衆国南部諸州の奴隷制生産の本質的条件の一つであることを示した後で、こう付言する。「自分の土地の全生産物をわがものにする農民的土地所有者(北部の)は、労働のための刺激をほかには必要としない。ここではどんな監督も余計である」(ケアンズ、前掲書、48、49ページ)。〉(江夏・上杉訳345頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: *16 ケアンズ教授は、北アメリカの南部諸州における奴隷による生産では、奴隷監督の仕事が主要な特徴であると述べた後で、こう続けた。「農地所有者(北の) は、彼の骨折りによる全ての生産物を占有するのであるから、努力させるためのものとして、その他にはなんの刺激策も不要である。監督労働は、ここでは全くなくて当然のものである。( ケアンズ 既出)〉(インターネットから)


●原注22

《初版》

 〈(22) いろいろな生産様式の特徴的な社会的相違を見抜くことでは、おしなべてすぐれているサージェームズステュアートは、こう述べている。「個人の事業が大マニュファクチュア企業の手で減ぼされるのは、大マニュファクチュア企業が奴隷制度の単純さにいっそう接近しているからではないとすれば、いったいどんな理由にもとづいているのか?」(『経済学原理』、フランス語訳、パリ、1789年、第1巻、308、309ページ。)〉(江夏訳378頁)

《フランス語版》

 〈(17) 概して、さまざまな生産様式の特徴的な社会的相違を大いなる洞察力をもって分析するサー・ジェームズ・ステユアートは、次のように省察している。「個人事業がマニュファクチュアの大企業によって破滅させられるのは、後者が奴隷制度の単純さにいっそう接近するという理由によるものでなけれぱ、いったいなぜなのか?」(『経済学原理』、フランス語訳、パリ、1789年、第1巻、308、309ページ)。〉(江夏・上杉訳345頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: *17 ジェームス ステュアート卿、作者であり、様々な生産様式の社会的な性格の識別について、完璧で顕著なる洞察力をもって知られる彼は、次のように述べた。「何故、製造業において、大きな業者が、個人的な製造業を崩壊させるのか、それはまさに、前者が、奴隷労働の単純さに近寄るからではないか?」(「政治経済学の原理」ロンドン 1767年 )〉(インターネットから)


●原注22a

《マルクスからエンゲルスへの書簡》 (1866年7月7日)

  〈僕はいまついでにコントを研究している。というのは、イギリス人たちやフランス人たちがこいつについて大騒ぎをしているからだ。彼らをそれにひきつけるものは、百科全書的なもの、総合的なものだ。だが、ヘーゲルに比べれば惨めなものだ(コントは専門の数学者および物理学者としてはヘーゲルよりすぐれている、つまり細部ではすぐれているとはいえ、ヘーゲルはこの分野においてさえ全体としては無限に彼よりも偉大なのだ)。しかもこのくだらない実証主義は1832年に刊行されたのだ!〉(全集第31巻196頁)

《初版》

 〈(22a) だから、オーギュストコントと彼の学派は、彼らが資本家の永遠的必然性を証明したのと同じやり方で、封建領主の永遠的必然性を証明することができたであろうに。「実証哲学」をさらに詳しく分析すると、この哲学は、外見上はなにも/かも無神論であるにもかかわらず、カトリック教の土壌に深く根づいている。百科全書的な要約の方法は、A・コントをフランスで流行(ハヤ)らせた。約15年前に現われたへーゲルの『エンテクロペディー』に比べると、コントの総合判断は、地方的な意義しかもちあわせていない拙作である。〉(江夏訳378-379頁)

《フランス語版》

 〈(18) オーギュスト・コントとその学派は、資本の領主の永遠なる必然性を証明しようと努めた。彼らは全く同じように、また同じ理由で、封建領主の永遠なる必然性を証明することもできたであろう。〉(江夏・上杉訳345頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: *18 オーギュスト コンテとその学派は、これに従って、資本のご主人の場合について行ったのと同じやり方で、封建領主が永遠に必要であると証明できるやもしれない。( 訳者の小余談: こう言う言い方があったとは、しっかり覚えておいて、応用させてもらうことにしよう。)〉(インターネットから)


●第21パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈つまりここでは、生産様式そのものは、まだ資本によって規定されてはおらず、資本によってその眼前に見いだされているのである。これらの分散した労働者たちを一つにする点は、彼らが資本にたいしてかわるがわるにもつ連関のなかにしかない。その結果、彼らの生産の生産物は資本家の手に蓄積されるのであり、また、彼らが自分自身の収入をこえてつくりだした剰余価値もそうなるのである。彼らが協働するのではなく/て、彼らの一人一人が資本のために労働する--それゆえ資本のなかに中心点をもつ--という意味では、彼らが協働する労働として存在するのは、ただ即自的にでしかない。だから、資本による労働者の一体化はただ形式的なものにすぎず、労働の生産物についてあてはまるだけなのであって、労働そのものについてはあてはまらない。彼らは、多くの人々と交換するかわりに、一人の資本家と交換する。だからそれは、資本による交換の集積である。資本は個別者として交換するのではなく、多くの人々の消費と必要を代表するものとして交換する。資本は、もはや個別的な交換者として交換するのではなく、交換行為において社会を代表するのである。資本の側からする、分散して労働する織布工等々との集合的な交換および集積する交換〔が生じ〕、彼らの労働生産物は、この交換によって集められ、一体化されるのであって、また彼らの労働そのものも、相互に独立して行なわれるにもかかわらず、そうなる。彼らの労働を一体化することは、一つの特殊的行為として現われるのであって、この特殊的行為とならんで、彼らの労働の自立的な分散状態が持続する。以上が、資本としての貨幣が自己を自由な労働と交換するための第一の粂件である。第二の条件は、これらの多数の労働者がおかれた自立的な分散状態の止揚である。ここではもはや、一つの資本が彼らに対立して、交換の行為における社会的集合力として現われ、その結果この資本において多くの交換が一体化されている、というだけではなくて、一つの資本が労働者たちを、一つの場所で自己の指揮のもとに、つまり一つのマニユフアクチュアに集めるのである。すなわち、資本はもはや、その眼前に見いだされる生産様式のなかに労働者たちを置いたままで、この基礎のうえに自己の力〔Macht〕をうちたてるのではなく、自己にふさわしい生産様式を、土台として自分のためにつくりだすのである。資本は、生産における労働者の一体化を措定するが、この一体化とは、さしあたりはただ、共通の場所で監督者たちのもとで〔生じる〕、一元的支配規律の強化〔労働の〕恒常性生産そのもののなかで措定された資本への従属、にすぎないであろう。〉(草稿集②298-299頁)

《61-63草稿》

  〈協業から生じる社会的生産力は無償である。支払われるのは、個々の労働者あるいはむしろ個々の労働能力であって、それも個々別々のものとしてのそれらに支払われるのである。彼らの協業とそこから生じる生産力は支払われない。資本家は36O人の労働者に支払うが、36O人の労働者の協業には支払わない。というのは、資本と労働能力との交換は、資本と個々の労働能力とのあいだで行なわれるのだからである。この交換は、個々の労働能力の交換価値によって規定されているが、この交換価値は、この労働能力がある種の社会的結合のもとで受け取る生産力にも、また労働者の労働時間および労働可能な時間が労働能力の再生産に必要な労働時間よりも大きいということにも、かかわりがないのである。〉(草稿集④416頁)
  〈協業、--この社会的労働の生産力は、労働の生産力としてではなく、資本の生産力として現われる。そしてこの転換は、資本主義的生産の内部では社会的労働の生産諸力のすべてについて生じるのである。これは現実的(レアール)労働に関連することである。労働の一般的抽象的な社会的性格--すなわち商品の交換価値--が貨幣として現われ、また、この一般的労働の表示としての生産物のもつすべての属性が貨幣の諸属性として現われるのとまったく同様に、労働の具体的な社会的性格が、資本の性格として、また資本の属性として現われるのである。〉(草稿集④416頁)
  〈じっさい、労働者が現実の労働過程にはいれば、労働能力としての彼はすでに資本に合体されているのであり、彼はもはや自分自身のものではなくて資本のものであり、したがってまた彼がそのもとで働く諸条件も、むしろ資本がそのもとで働く諸条件である。しかし労働過程にはいるまえには、彼は個々の商品所有者すなわち売り手として資本家と接触するのであり、しかもこの商品が彼自身の労働能力なのである。彼は、それを個別的なものとして売る。それは、労働過程にすでにはいってしまえば、社会的なものになる。労働者の身に起こるこの変態は、彼自身にとっては外的な事情であって、それは彼が関与するものではなく、反対に彼に押しつけられるものである。資本家は、1個ではなく多くの個別的労働能力を同時に買うが、しかしそれらをすべて、互いに独立した個々別々の商品所有者に属する、個々別々の商品として買う。労働者たちは、労働過程にはいるときには、すでに資本に合体されているのであって、それゆえ彼ら自身の協業は、彼ら自身がとり結ぶ関係ではなく、資本家によって彼らがそこにおかれる関係であり、それは彼らに属する関連ではなく、いまや彼らがそこに属する関連、それ自身が彼らにたいする資本の関係として現われる関連である。それは、彼ら相互の結合〔Vereinigung〕ではなくて、彼らを支配する統一であり、その担い手かつ指導者は、ほかならぬ資本そのものである。労働における彼ら自身の結合〔Vereinigung〕--協業--は、じっさい彼らには無縁の力〔Macht〕であり、さらに詳しく言えば、ばらばらの労働者に対立する資本の力〔Macht〕である。彼らが独立の人格として、売り手として、資本家にたいする関係をもつかぎりでは、それは、相互に独立した個々別々の労働者がもつ関係であって、彼らはいずれも資本家にたいする関係のなかにありはするが、しかし彼ら相互間の関係のなかにあるのではない。彼らが就労中の労働能力として相互間の関係にはいる場合には、彼らは資本に合体されているのであり、それゆえにまたこの関係は、彼ら自身の関係としてではなく、資本の関係として彼らに対立している。彼らは寄せ集められたものとして〔agglo/merirert〕存在する。彼らの集聚〔Agglomeration〕から生じる協業は、この集聚そのものがそうであるのと同様に、彼らに対立している資本の作用である。彼らの連関と彼らの統一は彼らのなかにあるのではなく、資本のなかにあるのであり、言い換えれば、そこから生じる彼らの労働の社会的生産力は、資本の生産力である。補填するだけでなく増加させるという個々の労働能力の力〔Kraft〕が資本の能力〔Vermögen〕として現われる--剰余労働--のと同様に、労働の社会的性格およびこの性格から生じる生産力も、資本の能力として現われるのである。〉(草稿集④417-418頁)

《初版》

 〈労働者は、自分の労働力の売り手として資本家と取引しているあいだは、自分の労働力の所有者であって、彼は、自分がもっているもの、自分の個人的で個別的な労働力を、販売しうるにすぎない。こういった事情は、資本家が1個の労働力ではなく10O個の労働力を買うからといって、または、ただ1人の労働者とではなく、互いに独立している10O人の労働者と、契約を結ぶからといって、少しも変わることはない。資本家は、10O人の労働者を、協業させずに使うこともできる。だから、資本家は、10Oの独立した労働力の価値を支払うが、10Oという結合労働力の代価を支払うわけではない。独立の人としては、労働者たちは個々別々の人であって、彼らは同じ資本と関係するが、お互い同士では関係しない。彼らの協業は労働過程にはいって初めて始まるが、労働過程では彼らはすでに自分自身のものではなくなってしまう。労働過程にはいると同時に、彼らは資本に合体される。協業者としては、活動的な有機体の手足としては、彼ら自身は資本の特殊な存在様式でしかない。だから、労働者が社会的労働者として発揮する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者たちが特定の諸条件のもとにおかれるやいなや、無償で発揮されるのであって、資本は彼らをこういう諸条件のもとにおいている。労働の社会的生産力は、資本にとっては一文の費用もかからないのであるから、また他方、この生産力は、労働者の労働そのものが資本のものになるまでは、労働者によって発揮されることがないのであるから、この生産力は、資本が生来そなえている生産力として、資本の内在的な生産力として、現われているわけである。〉(江夏訳379頁)

《フランス語版》

 〈労働者は、自分の労働力の販売価格を資本家と掛け合っているかぎりは自分の労働力の所有者であり、そして、彼が売ることのできるものは、自分の所有しているもの、自分の個別的労働力だけである。この関係は、資本家が一つの労働力のかわりに100の労働力を買うからといって、または、1人の労働者とではなく相互に独立した100人の労働者と契約を結ぶからといって、また、彼が彼らを協業させずに使うことができるからといって、なにも変わるものでは/ない。したがって、資本家は100人の労働者のめいめいに、その独立した労働力の支払いはするが、100人の結合労働力の支払いはしない。労働者たちは、独立の人間としては、同じ資本と関係を結ぶが相互には関係を結ばないという別々の諸個人である。彼らの協業は労働過程でのみ始まるが、労働過程では彼らはもはや、自分のものではなくなっている。労働過程に入るやいなや、彼らは資本に合体される。彼らが協業しているかぎりは、彼らが活動的有機体の成員を形成しているかぎりは、彼ら自身は資本の特殊な存在様式でしかない。したがって、賃金労働者が集団労働者として機能しながら発揮する生産力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者がある条件のもとに置かれるやいなや、無報酬で発揮されるのであり、そして、資本は労働者をそのような条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は資本にはなんの費用もかけないから、そして他方、賃金労働者は、自分の労働が資本のものになるときにはじめて労働の社会的生産力を発揮するから、この生産力は、資本が生来授けられている生産力であり、資本に内在的な生産力であるかのように見える。〉(江夏・上杉訳345-346頁)

《イギリス語版》

  〈(21) 労働者は、資本家と売りの交渉を完了するまでは、彼の労働力の所有者である。そして、彼が持っているもの、すなわち、彼個人の、孤立した労働力 以上のものを売る事はできない。この状態は、一人の労働力を買う代わりに、資本家が100人のそれを買うとしてもそのことによって変更されるものではない。だから、一人とに代わって、100人の繋がりなしの人と個別の契約を結ぶ。彼は、勝手に100人を働かしてもよい、何も彼等を協同させずともよい。彼は彼等に、100人の独立した労働力の価値を支払う。しかし、100人の結合された労働力には支払わない。互いには独立しているのであって、この労働者達は孤立状態にある。彼等は資本家との関係は持ったが、互いには何の関係にも入らない。この協同作業はただ、労働過程において始まるが、彼等自身に属するものではなくなる。過程に入れば、彼等は資本と一体となる。協同作業者として、労働する組織体の構成員として、彼等は、まさに、資本の特別の存在様式となる。であるから、協同作業として働く時、労働者によって発展させられた生産力は、資本の生産力となる。この力は、労働者がある与えられた条件の下に置かれたならばいつでも、無料で発展させられる。そして彼等をそのような条件下に置いたのは資本である。なぜならば、この力に対して資本は何も支払ってはいないからであり、一方で、労働者自身では、資本に所属する以前にはこの力を発展させてはいないからである。その力は、あたかも資本に内在する生産力という大自然 ( ) によって資本に付与された力のごとく現われる。(訳者挿入)〉(インターネットから)


●第22パラグラフ

《61-63草稿》

 〈たとえば漁務もそうである。多数の人々がいっせいにとりかかるときの成果は、狩猟の場合と同じである。鉄道の建設、運河の開さく、等々。この種の協業はエジプト人やアジア人の公共事業においても見られる。またローマ人は公共事業にその軍隊をあてた。(ジョウンズの該当箇所を見よ。)〉(草稿集④411頁)
  〈単純協業では、活動するのはただ人間力の集団だけである。二つの眼等々をもった1人に代わって、多くの眼、多くの腕、等々をもった怪物が現われる。そこから、ローマの軍隊の大きな働きが生まれ、アジアやエジプトの大規模な公共建造物が生まれたのである。アジアやエジプトでは、国家が国全体の収入の支出者であって、国家は、大集団を動員する力〔Macht〕をもっている。「過去のことであるが、これらの東洋諸国は、行政費や軍事費を支弁したあとになおもっている剰余があって、それを壮大さを示す建造物や実用のための建造物にあてることができたのであり、またそれらの建設では、ほとんどすべての非農耕人口の手と腕とに及んだこれらの国々の命令権[……]と、君主および僧侶のものであったこの食料とが、国土をいっぱいにした巨大な記念物を建造するための手段を彼らに与えたのである。……巨大な像や大量の物が運搬されたことは人を驚かすものがあるが、それらを動かすにあたってはほとんどただ人間の労働だけが惜しげもなく用いられた。……セイロンの仏塔や宝物殿、中国の長城、その廃嘘がアッシリアとメソポタミアの平原をおおっている多数の建造物」(リチャド・ジョウソズ『国民経済学教科書』、ハートファド、1852年、77ページ〔日本評論社版、大野精三郎訳『政治経済学講義』、136-137ページ〕)。「労働者の数と彼らの労苦の集積だけで十分だった。{労働者の数と彼らの集積〔Konzentration〕は単純協業の基礎である。}たとえば、われわれは巨大な珊瑚礁が大海の深みから隆起して島となり陸地を形づくるのを見るけれども、各個の沈積物は微かで弱々しく取るに足りないものである。アジアの君主国の非農耕労働者たちは、自分の個人的な肉体的労苦のほかには、事業に寄与すべきものをほとんども/っていないのであるが、しかし彼らの数は彼らの力であってこの大群を指揮する力があの宮殿や寺院などのもととなったのである。労働者たちを養っていく収入があのように一つまたは少数の手に限られているということこそ、あのような事業を可能にするのである」(同前、78ページ〔邦訳、137-138ページ〕)。〉〉(草稿集④414-415頁)
  〈古代世界におけるエジプトやアジアの諸王ならびに神官あるいはエトルリアの神政者などのこの力〔Macht〕は、ブルジョア社会では資本の、したがってまた資本家の手に移っている。〉(草稿集④415頁)

《初版》

 〈単純な協業の効果は、古代のアジア人やエジプト人やエトルリア人等々の大事業のうちに、みごとに現われている。/「過去の時代には、これらのアジア国家は、行政費や軍事費を支弁したあとでも生活手段の余剰分をもっていて、この余剰分を壮麗な工事や実用的な工事に支出することができた。ほとんどすべての非農耕民の手と腕とにたいするこれらの国家の命令権と、上記の余剰分にたいする君主や司祭階級の排他的な処分権とは、これらの国家が国じゅういっぱいにしたあの巨大な記念物を建造するための手段を、これらの国家に提供した。……巨大な像や途方もなく多量の物が運搬されたことに人はびっくりするが、これらの物を動かすばあいには、ほとんど人間の労働だけが惜しげもなく使われた。労働者の数彼らの労苦の集中だけで充分であった。たとえば、われわれが見るように、個体としての沈殿物(depositary)の一つ一つが微小で貧弱でつまらぬものであっても、巨大な珊瑚礁が大海の深みから降起して島になり陸地を形づくっている。アジアの王国の非農耕労働者たちは、自分たちの個人的な肉体的労苦を除けば、工事に寄与すべきものをほとんどもちあわせていないが、彼らの数が彼らの力なのであって、この集団を指揮する力が、あの巨大な工事の根源になったのである。労働者たちが生活してゆくための収入が1人の手または少数の手に集中されていることが、あのような事業を可能にしたわけである(23)。」アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政者等々のこういった権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、このことは、この資本家が単独の資本家として登場しようと、株式会社におけるように結合資本家として登場しようと、いっこうに変わらない。〉(江夏訳379-380頁)

《フランス語版》

 〈単純な協業の効果は、古代のアジア人、エジプト人、エトルリア人などの巨大な工事のうちに驚くほどにはっきりと現われている。「遠く隔たった時代には、これらのアジア諸国は、行政費と軍事費をいったん支弁した後に生活手段の余剰を所有し、これを壮大な工事や有用な工事に充てることができた。ほとんどすべての非農業住民の労働にたいするこれらの国の処分権と、上記の余剰の使用についての君主や聖職者団の専有権とは、これらの国の全土をみたすあの巨大な記念建造物を建立する手段を、これらの国に提供した。……巨大な像や大量な物の運搬は、驚きをよびおこすものだが、これらを動かすために、ほとんど人間の労働だけが惜し気もなく使用された。労働者の数と彼らの労苦の集積だけで充分であった。同じように、巨大な珊瑚礁を構成するのに力を合わせている個々の個体は、小さくて目に見えず、とるに足らないものであっても、この巨大な珊瑚礁が大洋の底から隆起して島や陸地をなすのを、われわれは見るのである。アジアの一君主国の非農業労働者たちは、彼らの肉体的な労苦のほかには提供すべきものをほとんどもたなかっ/たが、彼らの数が彼らの力であって、この群衆にたいする専制的な指揮権が、彼らの巨大な工事を産み出したのである。労働者を生活させる収入を、一人の手または少数の手の中に集積することが、ただそれだけで、このような事業の実施を可能にした(19)」。アジアの国王やエジプトの国王やエトルリアの神政者などのこうした権力は、近代社会では、単独の資本家の手に、または合資会社や株式会社などを通じて結合されている資本家の手に、入ったのである〉(江夏・上杉訳346-347頁)

《イギリス語版》

  〈 (22) この単純な協同作業の巨大な効果は、古代アジアの、エジプトの、エトルリア、その他の巨大建造物に見ることができる。
  (23) 「過去の時代、これらの東方諸国では、彼等の土木工事や軍事体制の支出を支払った後に、壮大なる建築等または役に立つ建築等に用いることができる余剰の所有に彼等自身が囲まれていることを発見した。そして、これらの建設において、非農業人口の殆どの手と腕を指揮して、驚くべき建造物を作り出した。それらは今でも彼等の力を顕示している。豊かなるナイル渓谷…. は、非農業人口の群衆のための食料を産み出した。そして、この食料は、皇帝や聖職者達の所有物であるが、国中を満たした巨大な建造物を立ち上げる手段をもたらした。巨大な像の移動や大量のものの運搬が世界の不思議を作ったのである。人間の労働、ほとんどそれだけなのであるが、その労働が惜しげもなく使われた…. 労働者の数と彼等の努力の集中、それで十分であった。我々は、巨大な珊瑚礁が大洋の深海から隆起して島となり、堅固な大陸となるのを知っている。しかしながら、それぞれの個々の寄生物は取るに足りないほど小さく、弱く、そしてどうでもいいようなものなのにである。アジアの君主制下の非農業労働者は何も持たず、ただ彼等の個々の肉体的な努力をもって仕事をするだけで、だが、彼等の数が彼等の力であり、そのこれらの集合のまとまった力が、宮殿を立ち上げ、寺院、ピラミッド、巨大像の一群を立ち上げたのである。これらのものは遺跡となって、我々を驚嘆させ、いかにして作り出したのか、なぜなのかと我々を困惑させる。かれらを養った剰余が一人または二三人の手に閉じ込められたからであり、それがこのような企てを可能にしたからである。*19 ( 本文注: 19* R. ジョーンズ 「講義テキスト」他、古代アッシリア、エジプト、他の ロンドンにある収集品 そして、他のヨーロッパ資本のそれは、我々の目には、協同作業の運用様式の証拠に見える。)
 (24) このアジア王やエジプト王の力、エトルリアの神権政治家、他の力は、近代においては、資本家に移管された。彼が一人の孤立した資本家であれ、または、共同株式の仲間であれ、一つの資本家集団なのである。〉(インターネットから)


●原注23

《初版》

 〈(23) R・ジョーンズ『国民経済学にかんする講義の教科書』、77、78ページ。ロンドンやその他ヨーロッパの主要都市にある古代アッシリアやエジプト等々の蒐集品を見れば、例の協業的労働過程が目に浮んでくる。〉(江夏訳380頁)

《フランス語版》

 〈(19) R・ジョーンズ『国民経済学教科警』、77、78ページ。ヨーロッパの博物館が所有するアッシリアやエジプトなどの蒐集品は、かの協業的労働工程を示している。〉(江夏・上杉訳347頁)

《イギリス語版》  (本文に挿入)

  〈 ( 本文注: 19* R. ジョーンズ 「講義テキスト」他、古代アッシリア、エジプト、他の ロンドンにある収集品 そして、他のヨーロッパ資本のそれは、我々の目には、協同作業の運用様式の証拠に見える。)〉(インターネットから)


●第23パラグラフ

《61-63草稿》

  〈この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。〉(草稿集④409頁)
  〈つまり植民地では、とくにその発展の最初の諸段階では、ブルジョア的諸関係はまだできあがっておらず、古くから確立されている諸国とはちがってまだ前提されていない。それらはやっと生成しつつある。したがって、その生成の諸条件がより明瞭に現われる。この経済的諸関係はもともとから存在するものでもなければ、経済学者がともすると資本等々をそう理解しがちであるのとは異なり、物でもない、ということが明らかになるのである。ウェイクフィールド氏が植民地でこの秘密を嗅ぎつけ、彼自身が驚いているという次第は、のちに見ることにしよう。ここではさしあたり、協業のこの単純な形態に関連する箇所を引用するにとどめよう。
  「諸部分に分割する余地がないような単純な種類の作業でも、多くの入手の協業なしには遂行できないものがたくさんある。たとえば、大木を荷車に積みあげること、穀物が成長している広い畑で雑草がのびないようにすること、大群の羊の毛を同時に刈りとること、穀物が十分に実りしかも実りすぎないときにその取り入れをすること、なにか非常に重いものを動かすこと、要するに、非常に多くの入手が、分割されていない同じ仕事で、しかも同時に、互いに助けあって行なう、というのでなければできないようなすべてのことである」(エドワド・ギボン・ウェイクフィールド『植民の方法に関する一見解、大英帝国への現在の関連で』、ロンドン、1849年、168ページ)。〉(草稿集④410頁)

《初版》

 〈人類の文化の発端で、すなわち狩猟民族のもとで(23a)なり、たとえばインドの共同体の農業においてなリ、そこで支配的に見いだされるような労働過程での協業は、一面では、生産諸条件の共有にもとづいており、他面では、密蜂の個体が巣からまだ断ち切られていないように、個々の個体が種族共同体の臍(ヘソ)の緒からまだ断ち切られていない、/ということにもとづいている。この二つのことは、こういった協業を、資本主義的協業から区別している。古代世界や中世や近代的植民地においての、大規模な協業のまばらな使用の土台は、直接的な支配および隷属関係であり、たいていは奴隷制である。これに反して、資本主義的形態は、最初から、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を、前提にしている。とはいっても、この形態は、歴史上は、農民経営にたいし、また、同職組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営(24)にたいし、対立して発展する。これらのものに対立して、資本主義的協業が、協業の一つの特殊な歴史的形態として現われているわけではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別している歴史的形態として、現われているのである。〉(江夏訳380-381頁)

《フランス語版》

 〈われわれが人類文化の発端で狩猟民族のあいだ(20)やインドの共同体の農業などのなかに見出すような協業は、生産条件の共有に基礎を置いているし、一匹の蜜蜂が自分の群にくっついているのと同じようにしっかりと、各個人がまだ自分の種族または共同体にくっついている、という事実に基礎を置いている。これら二つの特徴は、この協業を資本主義的協業と区別する。古代や中世や近代的植民地での大規模な協業のまばらな使用は、直接的な支配・従属関係に、一般的には奴隷制度に、もとづいている。これに反して、資本主義的協業形態は、自分の労働力の売り手である自由な労働者を前提にしている。歴史上では、それは、農民の零細耕作と手工業の独立経営--手工業が同職組合的形態をもとうともつまいと--に対立して発展する(21)。零細耕作と手工業の独立経営にたいして、資本主義的協業はなんら協業の特殊形態として現われるのではない。逆に、協業そのものが資本主義的生産の特殊形態として現われるのである。〉(江夏・上杉訳347頁)

《イギリス語版》

  〈(25) 人類発展の初期においてこのような協同作業は、狩猟生活を行っていた人々や *20
  または、いわゆるインド的農業共同体に見てきた。これらの協同作業は、一方で、生産手段の共同的所有に基づいており、他方では、事実上、これらのケースでは、各個人は彼の種族または共同体のへその緒から彼自身を解き放すようなものは、各蜜蜂が自分を巣との関係から自由でないのと同様に何も持ってはいない。このような協同作業は、ここに示した二つの特質から見て、資本主義的な協同作業とは区別される。古代や、中世や、近代植民地で時々起きる大規模な協同作業の活用は、統治と隷属の関係、主に奴隷制に基づく。資本主義的な形式では、これと違って、最初から最後まで、自由な賃金労働者、彼の労働力を資本家に売る者、を前提としている。従って、歴史的にこの形式は、小作農業や、独立した手工業者、それがギルドであろうとなかろうと、 それらに敵対しながら発展させられたものである。*21
  この点から見れば、資本主義的協同作業は、協同作業の特有な歴史的形式として自身を示したのではなく、協同作業そのものが、歴史的に奇妙なる形式、つまり、特別に際だった、資本主義的生産過程の奇妙な形式となった。〉(インターネットから)


  (付属資料(6)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(13)

2024-06-13 10:24:53 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.43(通算第93回)(13)


【付属資料】(6)


●原注23a

《61-63草稿》

  〈①この協業の最古の形態の一つが、たとえば狩猟のなかに見いだされる。同様にそれは戦争のなかにも見いだされるが、戦争は人間狩り、つまり発展した狩猟にすぎない。たとえば一騎兵連隊の突撃がもたらす効果は、一人ずつ別個に取り出した連隊の個々の隊員ではもたらすことができないものであって、このことは、突撃のあいだに各個人が--彼がそもそも行動するかぎり--行動するのはただ個人としてでしかないにもかかわらず、そうなのである。アジアの大建築物はこの種の協業のもう一つの見本であるが、一般に建築では、協業のこの単純な形態の重要性が非常にきわだって現われるものである。小屋ならたった一人で建てもしようが、家屋の建築ともなれば、それには同時に同じことをする多数の人々が必要である。小さなボートならたった一人で漕ぎもしようが、ちょっと大きな舟ともなれば、それにはある数の漕手が必要である。分業では、協業のこの側面が倍数比例の原理として現われるのであって、〔分業の〕どの特殊的分肢にも〔同じ〕倍数が用いられなければならないのである。自動式の作業場では、その主要な効果は、分業にではなくて、多数の人々によって同時に遂行される労働の同一性にもとづいている。たとえば、同じ原動機によって同時に動かされるミュール精紡機をしかじかの数の紡績工が同時に見張っている、ということにもとづいているのである。

  ①〔注解〕以下の二つの文については、マルグスは[シモン-ニコラ-アンリ・ランゲ]『民法理論、または社会の基本原理』、第1巻、ロンドン、1767年、によっている。ノート第7冊、ロンドン、1859-1862年、68-76ページでは、彼はこの著作、とくに第7-9章を、詳細に技粋した。『資本論』、第1巻、ハンブルク、1867年、には、その316ページに次の脚注がはいっている。--「ランゲが彼の『民法理論』のなかで狩猟が最初の協業形態だと言い、また人間狩り(戦争)が最初の狩猟形態の一つだと説明しているのは、ことによると不当ではないかもしれない。」〔『全集』、第23巻、353ページ。〕〉(草稿集④409頁)

《初版》

 〈(23a) ランゲは彼の『民法理論』のなかで、狩猟が協業の長初の形態であり、人間狩り(戦争)が狩猟の最初の諸形態の一つである、と公言しているが、このことはおそらく間違っていないであろう。〉(江夏訳381頁)

《フランス語版》

 〈(20) ランゲが彼の『民法の理論』のなかで、狩猟が協業の最初の形態であり、人間狩り(戦争)が狩猟の最初の形態の一つであると主張しているのは、おそらく不当ではないだろう。〉(江夏・上杉訳347頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: *20 ランゲは、多分正しいであろう。彼が、「市民法の各理論」で、狩猟が最初の協同作業の形式であり、人間狩り(戦争) が、最も初期の狩猟形式の一つであろう、と述べたが、その通りであろう。(フランス語)〉(インターネットから)


●原注24

《初版》

 〈(24) 小農民経営と独立手工業経営とは、双方とも、一部は、封建的生産様式の基礎を形成し、一部は、この生産様式の解体後も資本主義的経営と並んで現われているが、それらは同時に、原始的な東洋的共有制の解体以降奴隷制が生産を真にわが物にするにいたるまでは、最盛期における古典的共同体の経済的基礎を形成しているのである。〉(江夏訳381頁)

《フランス語版》

 〈(21) 零細耕作と独立手工業とはどちらも、一部は封建的生産様式の基礎をなしており、一部は封建的生産様式が崩壊してからも資本主義的経営とならんで持続する。これらはまた、原始的東洋的共有制が崩壊してしまった以後、奴隷制度が生産を真に支配するようになる以前に、最盛期の古代共同体の経済的基礎をなしていたのである。〉(江夏・上杉訳347頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: *21 小規模な小作農業や、独立した手工業者の業、それらはいずれも、封建的生産様式の基盤を形成しており、その様なシステムが溶解した後では、資本主義的様式そっくりで続けられたが、それでも古典的な共同体の経済的基礎を形成し、彼等の最盛期を過ごし得た。ただ、共同的土地所有の初期的形態が消失した後、奴隷制が生産を本気で鷲掴みするまでの時期においてだが。〉(インターネットから)


●第24パラグラフ

《61-63草稿》

  〈これは、資本のもとへの労働の包摂がもはや単なる形態的包摂として現われるのではなく、それが生産様式そのものを変化させることによって資本主義的生産様式が独自な生産様式となっている第一の段階である。個々の労働者が、独立の商品所有者として労働するのではなく、いまでは、資本家のものとなっている労働能力として、したがってまた資本家の指揮および監督のもとで、さらに、もはや自分のためにではなく資本家のために労働するというだけなら、また労働手段でさえも、もはや労働者の労働の実現のための手段として現われるのではなく、反対に彼の労働が、労働手段にとっての価値増殖の--すなわち労働を吸収することの--手段として現われるというだけなら、包摂は形態的である。この区別は、生産様式と生産が行なわれる社会的諸関係とにどのような変化もまったく加えられなくても存在しうるというかぎりでは、形態上の区別である。協業とともに、はやくも独自な区別が現われる。労働は、個々人の独立した労働の遂行を許さないような諸条件のもとで行なわれる、--しかもこれらの条件は、個々人を支配する関係として、資本が個々の労働に巻きつける紐帯として現われるのである。〉(草稿集④418頁)
 〈もともと資本主義的生産を特徴づけているのは、労働諸条件が、自立し人格化されて、生きた労働に対抗するということ、労働者が労働諸条件を使うのではなくて労働諸条件が労働者を使うのだ、ということである。まさにそういうふうにして、労働諸条件は資本になるのであり、その諸条件を自分のものにしている商品所有者が労働者に対立して資本家になるのである。現実の労働過程では、もちろんこの自立化はやむが、労働過程の全体が資本の過程であり、資本の過程に取り込まれているのである。労働者がこの過程に労働として現われるかぎりでは、彼自身は資本の一契機なのである。労働が資本のもとに形式的に包摂されているという場合は、これらの労働諸条件はなんらあらたな変化を受けない。それらは--素材的にみれば--依然として労働材料であり労働手段である。しかし、新しい生産様式のもとでは、つまり資本主義的生産がなしとげる生産様式における革命のもとでは、これらの労働条件はその姿態を変える。それらの労働条件は、社会的に協働する労働者たちのための条件となることによって新規定を受け取るのである。こうした変化は、単純協業と分業にもとづくマニュファクチュアのもとでは、ただ建物などのような共同で利用される一般的労働条件に及ぶだけである。機械にもとづく機械制作業場では、この変化は本来の労働用具をとらえる。資本のもとへの労働の形式的包摂の場合と同様に、これらの〔労働〕諸条件は、したがってまたその変化した姿態--労働そのものの社会的形態によって変化した姿態--は、あくまでも労働者には無縁の事情である。機械の場合、この対立あるいはこの疎外は、あとでみるように、敵対的な矛盾にまでも発展する。〉(草稿集⑨194-195頁)

《初版》

 〈協業によって発揮される労働の社会的生産力が資本の生産力として現われているように、協業そのものも、個々別々の独立労働者や小親方の生産過程に対立して、資本主義的生産過程の独自な形態として現われている。このことは、現実の労働過程が資本のもとへの従属によってこうむる最初の変化である。この変化は自然発生的に起きる。この変化の前提、すなわち、同じ労働過程で比較的多数の賃金労働者を同時に働かせることは、資本主義的生産の出発点を形成している。この出発点は、資本そのものの定在と一致している。だから、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として、現われるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程の生産力を高めることによって労働過程をいっそう有利に搾取するために資本が利用する一方法とし/て、現われるのである。〉(江夏訳381-382頁)

《フランス語版》このパラグラフはフランス語版では二つのパラグラフに分けられているが、ここでは一緒に紹介しておく。

 〈協業によって発揮される労働の集団力が、資本の生産力として現われるならば、協業は資本主義的生産の独自な様式として現われる。これこそは、労働過程が資本への従属の結果通過する、最初の転化段階である。この転化は自然発生/的に生育する。多数の賃金労働者を同じ作業場で同時に使うという、こういった転化の基盤は、資本の存在そのものとともに与えられるものであり、封建的生産の組織を分解することに協力した諸事情と諸運動との歴史的な結果として、資本そのものに見出されるのである。
  したがって、資本主義的生産様式は、単独の労働を社会的労働に転化するための歴史的必然性として現われるが、資本の手中にあっては、この労働の社会化が労働の生産力を増大するのは、もっと有利に労働を搾取するためでしかない。
〉(江夏・上杉訳347-348頁)

《イギリス語版》

  〈(26) 協同作業によって発展させられた労働の社会的生産力が、あたかも資本の生産力のように表れるように、協同作業それ自体は、孤立した独立の労働者達や、小人数の雇われ労働者達によってですら行われている生産過程とは明確に違いを見せて、資本主義的生産過程の特殊な形式として表れる。資本に従属させられることによって、現実の労働過程が経験させられる最初の変化である。この変化は、自生的にやってくる。一つの同じ過程における多人数の賃金労働者の同時的雇用が、この変化の必要条件である。また、資本主義的生産の開始地点の形式でもある。この地点は、資本自身の誕生地点とも一致する。であるから、もし一方で、資本主義的生産様式が自身を歴史的なものとして我々に、労働過程の社会的過程への転換のための必要条件であるとして示すならば、他方、それは、この労働過程の社会的形式が自身を、労働の生産性を高めることによって、より利益を上げようと、労働を搾取するために資本が採用する方法として示すことになろう。

  訳者余談 2010/08/05、チリの銅鉱山で、落盤、坑道が塞がり、鉱山労働者33名が閉じ込められた。 70日後2010/10/15に、無事全員救出された。この時の鉱山労働者達の協同作業は見事なものであった。この鉱山は、利益が出ないとして、しばらく閉山されていたが、中国の銅需要が増大して、銅価格が上昇したため採算の見通しが立ち、再開された。安全基準違反がチリ当局から指摘され、操業中止処分が何回か繰り返されたという。労働者他全300人という小鉱山である。10%の労働者が地下700mに隔絶された。まずは地下との連絡を確保するために、小口径の試験用孔を避難所に向けて掘削し、貫通させた。しばらくしてこれを引き上げると、ドリルの隙間に紙が挟まっており、全員無事との知らせが書かれていた。地下も地上も状況が分かり、救出作戦が開始された。世界中が注目し、様々な協同作業が展開された。この協同作業は、鉱山主のいつもの協同作業とは本質的に異なるものであった。資本は、この協同作業からは、いかなる労働の搾取もできなかった。そのための資本投下もできなかった。チリ大統領が現地に入り、機材等々を供給し、まるで国営鉱山のようになったが、国民の税金による労働の搾取の余地も無かった。地上の労働者達の協同作業も目覚ましいものがあったが、地下労働者達の様々な提案もまた、見事な結果につながった。 本章は、協同作業の人間的な本質と同時に、資本主義的生産における協同作業の特殊性を述べた所であるが、まさに、ここには前者の協同作業しかなく、後者の出番がなかった。地下生活等々にリーダーシップを発揮したウルスアさんが最後に救出され、また救出を支援した労働者達も地上に戻り、救出孔に蓋が閉められた。彼は、大統領と抱き合って喜んだ後に、「このような事故が二度と起こらないようにして貰いたい。」と言い、大統領は、「労働者の扱い方を先進国並みにする。」と云った。先進国が自国の労働者達をどのように処遇しているかを知っている我々にとっては、奇妙な話しであるが、チリの実状は、そう言わねばならない状況にあったということになる。この小さなサンホセ銅鉱山が、続けられるほどの、高銅価格がいつまで続くかは分からないが、中国の景気とその生産物を買う世界の需要状況の変化も予断を許さないものがあるから、長くもないだろう。さて、彼等が、資本の指揮する協同作業に復帰することになった時、自分達の人間的な協同作業を希求する、幾分かの気持ちも生じることであろう。〉(インターネットから)


●第25パラグラフ

《61-63草稿》

 〈この結合〔Vereinigung〕、つまり資本主義的協業の条件である資本の指揮のもとへの労働者の集聚〔Agglomeration〕は、二つの理由から生じる。第一に、剰余価値はその率に依存するだけでなく、その絶対量、その大きさは、同時にまた、同じ資本によって同時に搾取される労働者の数に依存する。資本の資本としての働きは、同時に使用する労働者の数に比例するのである。資本の登場とともに、生産に/おける労働者の独立性は過去のものとなってしまった。彼らは資本の監督とその指揮のもとで労働する。彼らが協働しつながりをもつ場合、彼らのこのつながりは資本のなかに存在する。言い換えればこのつながりは、それ自身が彼らに対立する外的なものにすぎず、資本の一定在様式でしかないのである。彼らの労働は強制労働になる。なぜなら、労働過程にはいれば、彼らは彼らのものではなく、すでに資本のものであり、すでに資本に合体されているからである。労働者は、資本の規律に服せられ、また、まったく変化した生活諸関係のなかにおかれる。オランダにおける、またマユュフアクチュアが自立的に発展し外から完成したかたちで輸入されたのでないすべての国々における、最初のマニュフアクチュアは、ほとんど、同じ商品を生産する労働者の集合〔Konglomeration〕、および、同じ作業場への同じ資本の指揮のもとへの労働手段の集積〔Konzentration〕以上のものではなかった。〉(草稿集④430-431頁)

《初版》

 〈協業は、これまで考察してきた単純な姿では、比較的大規模な生産と一致しているが、資本主義的生産様式のある特殊な発展固定した特徴的な形態を、形成しているわけではない。協業がほぼこのようなものとして現われるのは、せいぜい、まだ手工業的であったマニュファクチュア初期においてであり(25)、また、ある種の大農業--マニュファクチュア時代に照応したものであり、同時に使用される労働者の人数と集積される生産手段の規模とによってのみ、農民経営から本質的に区別されている--においてである。単純な協業は、いまでもつねに、分業または機械が重要な役割を演ずることなくして資本が大規模に作業するような生産部門の、一般的な形態である。〉(江夏訳382頁)

《フランス語版》

 〈これまでは協業の初歩的な形態だけを考察してきたが、この形態では協業は大規模な生産と一致する。この姿態のもとでは、協業は、まだ手工業的であるマニュファクチュア初期(22)なり、マニュファクチュア時代に照応していて方法の点よりも規模の点でいっそう零細耕作から区別される大農業なりを、特徴づけることはあっても、資本主義的生産のどんな特殊な時代をも特徴づけるものではない。単純な協業は今日もなお、分業または機械の使用が重要な役割を演ずることなしに資本が大規模に作用しているような事業では、優勢を占めている。〉(江夏・上杉訳348頁)

《イギリス語版》

  〈(27) 我々がここまで見て来たような初期的な形式においては、協同作業は、大規模な生産のすべてに必ず付随するものではあるが、それ自身としては、資本主義的生産様式の発展における特別の時代的に明確化された性格を示すものではない。それがそのように表れたのは、せいぜい、そして大まかに云えば、手工業的に始まった製造業の最初の頃である。*22
  そして、そのような種類の、大規模農業も、製造業の時代に呼応して、小作人による農業からははっきりと区別されるようになった。主に、多人数の労働者の同時雇用によってであり、そして、彼等の使用に供するための、大量の生産手段が集中化されたことによる。単純な協同作業は、常に、資本が大規模に運用するそれらの生産部門において支配的なものであるが、分業や機械の利用は、まだ副次的な役割に過ぎない。〉(インターネットから)


●原注25

《61-63草稿》

  〈協業。「一緒に同じ仕事に従事する多くの人々の熟練、勤勉、および競争心の結合は、仕事をはかどらせる方法ではないのかどうか? またこの方法によらないで、イギリスがその毛織物工業をこれほど高度に完成させることができたかどうか?」(バークリ『問いただす人』、ロンドン、1750年、質問521〔川村大膳・肥前栄一訳『問いただす人』、『初期イギリス経済学古典選集』6、東京大学出版会、243ページ、質問238〕。)〉(草稿集⑨476頁)

《初版》

 〈(25) 「同じ仕事に一緒に従事する多くの人々の、結合された熟練や勤勉や競争意識は、その仕事を促進させる方法ではないだろうか? そして、イギリスにとって、自国の羊毛工業をあれほど高度に完成させることは、この方法にたよらずして可能であったろうか?」(バークリー『質問者』、ロンドン、1750年、521ページ。)〉(江夏訳382頁)

《フランス語版》

 〈(22) 「多数の人間の熟練、勤勉、競争心を、一つの同じ仕事のために結合することは、この仕事を成功させる方法ではないか? そして、イギリスはそのラシャ工業を、これ以外の方法で、これほど高度に完成することができたであろうか? 」(バークリ『質問者』、ロンドン、1750年、56ページ)。〉(江夏・上杉訳348頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: *22 「同じ仕事に関して発揮される、結合された、熟練の技、精励さ、そして大勢による競争が、その進展への道ではなかったと云うのか? そして、英国の毛織物製造業をこのように偉大なる完成度に至らしめることができたのには、他の方法があったというのか? ( バークレー 「質問者」ロンドン 1751年 )〉(インターネットから)


●26パラグラフ

《61-63草稿》

  〈これ(協業--引用者)は基本形態〔Grundform〕である。分業は協業を前提する、言い換えれば、それは協業の一つの特殊な様式にすぎない。機械にもとづく作業場(アトリエ)なども同様である。協業は、社会的労働の生産性を増大させるためのすべての社会的な手だて(アレンジメイト)の基礎をなす一般的形態であって、それらの手だてのおのおのにおいては、この一般的な形態がさらに特殊化されているにすぎない。しかし協業は、同時にそれ自身、一つの特殊的形態であって、この形態はそれの発展した、またより高度に特殊化された諸形態と並んで実在する一形態である。(このことは、それが、これまでのそれのもろもろの発展を統括する〔übergreifen〕形態であるのと、まったく同様である。)〉(草稿集④407頁)
  〈最も重要な点は依然として次のことである。--単純協業は、労働の社会的性格を資本の社会的性格に転換させ、社会的労働の生産力を資本の生産力に転換させる最初のものであり、最後に、資本のもとへの〔労働の〕形態的包摂を生産様式そのものの実質的変化に転化させる最初のものだ、ということである。〉(草稿集④420頁)

《初版》

 〈協業は、それの単純な姿そのものが、それのいっそう発展した諸形態と並んで、特殊な形態として現われているとはいえ、相変わらず、資本主義的生産様式の基本形態である。〉(江夏訳382頁)

《フランス語版》

 〈資本主義的生産の基本的な様式、それは協業であるが、協業の初歩的な形態は、いっそう複雑な形態の胚種を含みながら、この複雑な形態の諸要素の一つとして、この複雑な形態のうちに再び姿を現わすだけでなく、さらにまた、特殊な様式として、この複雑な形態とならんで持続するのである。〉(江夏・上杉訳348頁)

《イギリス語版》

  〈(28) 協同作業が、いかに、資本主義的生産様式の基礎的形式を構成するものであるとしても、それにもかかわらず、協同作業の初期的形式は、資本主義的生産の特有の形式として、さらにそのより発展した生産様式の形式においても同様に、存在し続ける。( 訳者注: the more developed を、資本主義的生産様式におけるより発展した段階の意味なのか、資本主義的生産様式を否定的に超えてさらに発展した段階の意味なのか、悩むが、ここは、後者であるとして訳した。)

  訳者注: (28 )の向坂訳も掲げておく。「協業の単純な態容そのものは、そのさらに発展した諸形態とならんで、特別の形態をなすにしても、協業が、つねに資本主義的生産様式の基本形態であることに変わりはない。」またしても難解訳、把握回避訳、混乱製造訳である。なぜこうなるのか。ドイツ語の難しさもあるだろうが、ここでは、初期的協同作業も、さらにここに登場した特異な形態も、それらの歴史的内容を見落としているからに他ならない。〉(インターネットから)


  (第11章終わり)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(1)

2024-04-19 03:37:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(7)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №11)

    第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第7回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(2)貨幣取扱資本と利子生み資本〉はすでに〈B 『1861-1863年草稿』における利子と信用〉でも扱われていましたので飛ばして、次の〈(3)信用制度考察の必要とその可能性〉を見て行くことにします。
    ここでは有価証券はまったく資本ではないという注目すべきマルクスの主張が紹介されています。章末注から重引しておきましょう。

    〈〔81〕「まず,現存資本にたいする,あるいは将来の収益にたいする所有権原(国債,等々のような)の集積にすぎないいわゆる貨幣資本について言えば--いわゆる貨幣市場および貨幣資本の最大の部分をなすのはまさにこれらの有価証券である--,それは実際には,リカードウが国家の債権者の貨幣資本について正しく言っているように,まったく資本ではないのである。この「観念的資本」の形態についてのさらに詳しいことは,利子生み資本のところで(第3部第4章)述べるべきである。……貨幣資本の蓄積が,収入のうち資本にやがて再転化されるはずの部分がひとまず蓄蔵貨幣として遊休する,等々のことを意味するかぎりでは,このことも,同じく利子生み資本についての第4章で詳しく考察すべきである」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/41,S.360;前出邦訳『資本の流通過程』,274-275ページ。)〉(140頁)

    ここではマルクスは、有価証券について、いわゆる貨幣資本といい、それは現存資本に対する所有権限(株式)、あるいは将来の収益にたいする所有権限(国債)の集積にすぎないと述べています。そしてそれらはまったく資本ではないのだ、と。あるいは「観念的資本」とも述べています。これらは後に架空資本と述べるものを指していることは明らかでしょう。
    これも章末注で紹介されている第2部第1稿の一文ですが、少なくとも第3部第1稿ではこうした観点は見られません。その意味では興味深い指摘なので抜粋して紹介しておきます。

   〈〔82〕「いま,固定資本についてもっと詳しく展開されるべきことは…… 次のことである。……/(3)この2種類の資本〔固定資本と流動資本〕のそれぞれは,どの程度まで,より完全な意味での資本なのか。固定資本がこの生産様式とともに発展すること,資本主義的生産様式に特徴的なこととして〔展開すること〕。信用システム等々の土台としての固定資本,--信用システムがそれ自体〔perse〕つねに将来の労働にたいする指図であるというかぎりで。この両種類の資本の神秘化。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4,1,S,267;前出邦訳『資本の流通過程』,157ページ。)〉(140-141頁)

    ここでは信用システム等々の土台としての固定資本という表現とともに、信用システムはつねに将来の労働にたいする指図だとの指摘があります。次の一文も同じ問題を論じている章末注ですので、長いですが抜粋しておきます。

    〈〔83〕「国民的富のうちの固定資本から成る部分は--そして,この固定資本がますます固定資本として形象化されてくるにつれて,すなわち,流動資本とのそれの特徴的な区別をますます形象化し明確にしていくにつれて--,それの価値の補填がいよいよ徐々になり,それの価値を再生産する期間は,流動資本の再生産期間の尺度である1年をはるかに越えるようになる。それゆえ,流動資本--すなわちそれの価値実現〔Verwerthung〕--が,より多く,現在の労働--われわれが現在の〔contemporaneous〕労働と呼ぶのはその年のうちになされるすべての労働のことだが--にもとづいているのにたいして,固定資本の価値実現〔Verwerthung〕は,それが,たとえば本来の機械のように,直接に狭義の労働手段として直接的生産過程において機能するのであろうと,建築物,鉄道,運河,等々のように,直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能するのであろうと,はるかに高い度合いで,将来の労働にもとづいている。自己の価値を再生産する{そしてその上さらに,あとで明らかになるであろうように,自己の所有者に,他の諸資本が生産した剰余価値からの分け前を保証するはずの}資本としては,固定資本は将来の労働(そしてこの第2の場合には剰余労働)にたいする指図証である。だからこそ,固定資本が発展するにつれて有価証券が増えるのである。この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4.1,S.287-288;前出邦訳『資本の流通過程』,181-182ページ。)〉(141-142頁)

    ここには興味深い指摘がいろいろとあります。
  (1)まずここでは流動資本の再生産期間の尺度を1年としていることです。これは現行版における再生産表式における循環期間を全体として1年とマルクスが考えていたこと(それを明示的に示している文言は見当たらないのですが)を明確に示しているように思います。
  (2)「現在の労働」とマルクスがいう場合は〈その年のうちになされるすべての労働のこと〉を意味すると述もべています。これもマルクスが「生きた労働」という場合も同じでしょう。
  (3)流動資本の価値実現がより多く現在の労働にもとづいているのに対して、固定資本の価値実現ははるかに高い度合いで、将来の労働にもとづいている、と指摘されています。ここで流動資本の価値実現というのは商品の価値のうち流動資本部分の価値の実現のことでしょうが、これは価値補填と考えるべきではないでしょうか。つまり流動資本部分の価値補填は、より多くその年の労働によって生産された価値によって補填されるということでしょう。それに対して固定資本の場合は、その補填は何年間にもわたって貨幣が蓄積されてようやく補填されるのですからそれらは将来の労働(つまり将来生産される労働手段等に支出される労働)によって補填されるとしているのではないでしょうか。このあたりはもう少し考えてみる必要がありそうです。
  (4)固定資本のうち建築物、鉄道、運河、等々を〈直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能する〉ものとしていることも興味深いです。
  (5)自己の価値を再生産する資本としては固定資本は将来の労働に対する指図証書である、という注目すべき指摘があります。
  (6)そしてだから固定資本が発展すると有価証券が増えるのだとも述べています。こうした固定資本との関連についての指摘は第5章(篇)ではまったくありません。
  (7)そして次のようにのべています。〈この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。
 ここらあたりは株式を想定してマルクスが述べているように思えます。もちろん、株式で集中された貨幣資本は、単に固定資本(生産手段のうち機械や建屋など)だけに投資されるわけではありません。しかしマルクスは固定資本の巨大化がそれに投資する貨幣資本の増大をもたらし、株式による貨幣資本の集中の必要を生み出すと考えているのでしょう。だから株式として集められた貨幣資本は固定資本に投資されると考えているわけです。だから固定資本が発展すると有価証券も増えるのだとしているわけです。そしてここではそうした有価証券(株式)は固定資本の価値に対する所有権限を表しており、よってその価値の将来の再生産に対する所有権限をも表すのであり、さらにはそれによる将来の価値増殖に対する権限、つまり剰余価値からの分け前を受け取る権限を表しているとしているのでしょう。
  (8)そしてそれが信用制度の土台をなすのだと次のように述べています。〈つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。〉 
  ここでマルクスが信用制度を固定資本との関連で論じているのは、だから株式を主に想定していると考えるべきでしょう。固定資本の増大が信用制度の発展の土台になるというのは、固定資本が大きくなれば、貨幣資本の集中がそれだけ必要になり、それは一方では利子生み資本の借り受けの増大として現れ、他方では株式の発行による貨幣資本の集中として現れるでしょう。いずれも信用制度の発展抜きには発展できないものです。だから固定資本の増大は信用制度の発展の物質的基礎なのだというわけです。そしてそうであれば、信用制度の発展というのは、集中されたり貸し付けられた貨幣資本というものがそうであるように、将来の労働あるいは剰余労働に対する所有権限の蓄積の他には何も意味しない部分の発展であるとしているのです。
  (9)〈貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。
  ここで〈貨幣資本のうちのこの部分〉というのは有価証券と考えるべきでしょう。そしてそれの蓄積は〈先取りされた将来の富にたいする権原から成って〉いるというのです。だからこそ〈それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない〉のです。それらは〈現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしている〉のです。これは株式などを意味すると考えるべきでしょう。
  (10)〈しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。
 これも株式を想定して考えるとよく分かります。株式で集められた貨幣資本は、これからそれによって価値を、すなわち剰余価値を生産するためのものです。つまり〈前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない〉のです。
  (11)〈この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。
 株式で集められた貨幣資本は現実の鉄道に投資され固定資本を形成します。他方、株式はそれだけで架空な貨幣資本として株主の書類鞄のなかにありますが、しかしこれは価値が二重にあるのではなく、価値としては鉄道に投資されたものしか現実には存在しないということです。そしてそれは国債についても同じです。国債の場合は国家によって巻き上げられた貨幣は、国家によって消尽されてしまいます。しかし国債はそれ自体として価値をもっているかに運動していますが、しかし現実にはその価値は消尽してすでに存在しないのなのです。だから国債はただ将来の税金からの支払を受ける権限を表すにすぎないのです。つまり〈国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない〉のです。
  (12)〈しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。
 これは架空資本の運動を意味していますが、ここではその運動そのものは深くは論じられていません。これは現行版の第29章(草稿では「II)」と番号が打たれた項目)のなかで取り扱われています。
  (13)〈しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。
 ここではこうした有価証券、とくに株式の蓄積に生産や現実の運動を従わせようとすると指摘されています。彼らは株式の値上がりを目当てに現実の運動を考えたりするわけです。これは株式会社が一般化した現代の資本の運動を言い当てたものといえるのではないでしょうか。
 以上、ここで論じられていることは少なくとも現行の第5篇ではあまりマルクスよって論じられていないことであり、だからまたその妥当性はどこまであるのかもハッキリとは分かりませんが、注目すべきでことであるのは確かです。

  とりあえず、今回の大谷本の紹介はこれぐらいにしておきます。それでは『資本論』の解説に取りかかりましょう。今回は「第4篇 相対的剰余価値の生産」「第10章 相対的剰余価値の概念」です。まずはそれぞれの位置づけから見て行くことにします。

 


                第4篇 相対的剰余価値の生産

 

  第10章 相対的剰余価値の概念


◎「第4篇 相対的剰余価値の生産」の位置づけ

 以前、「第2編 貨幣の資本への転化」から「第3編 絶対的剰余価値の生産」への移行を論じたときに、「第1部 資本の生産過程」がどうして「第3篇 絶対的剰余価値の生産」になるのかを問い、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産は、「第3篇 絶対的剰余価値の生産」と「第4篇 相対的剰余価値の生産」とに分けられることを指摘しました。マルクスはこの二つの形態を切り離して論じる意義について、次のように述べています。

 〈この2つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

    そして絶対的剰余価値の生産は、それまでの生産様式をそのまま資本関係のなかに取り込んで行う(形式的包摂)生産ですが、相対的剰余価値の生産は生産様式そのものを資本制的生産に相応しいものに変革する(実質的包摂)過程であり、その意味では「資本の生産過程」の基本的な内容を明らかにするものといえるわけです。
    マルクスはこの二つの形態について次のように述べています。

    〈いずれにせよ、剰余価値のこの2つの形態--絶対的剰余価値の形態および相対的剰余価値の形態--がそれぞれ独立に別々の存在として考察される場合には、この両者には--そして絶対的剰余価値はつねに相対的剰余価値に先行するのであるが--、資本のもとへの労働の包摂の2つの別々の形態が、あるいは資本主義的生産の2つの別々の形態が対応しているのであって、このうちの第一の形態がつねに第2の形態の先行者となっている。といっても、他方また、より発展した形態である第2の形態が、第一の形態を新たな生産諸部門で導入するための基礎となることがありうるのではあるが。〉(草稿集⑨369頁)


◎「第10章 相対的剰余価値の概念」

    第10章は「第4篇 相対的剰余価値の生産」の端緒をなすものとして相対的剰余価値とはそもそも何かを解明するものです。絶対的剰余価値は労働力の価値を所与として(不変数として)、剰余価値の増大をはかるために労働日を絶対的に長くすることが問題となり、労働日の限度をめぐる労働者階級と資本家階級との闘いが取り上げられました。そしてその結果、歴史的に労働日は標準労働日として法的に10時間とか8時間などと決められ   たのでした。
    それを踏まえて今度は労働日そのものは所与(不変数)として、剰余労働の増大を図る方法として、必要労働時間を短縮して(労働力の価値を可変数にして)、その分、剰余労働時間(剰余価値)の延長(増大)を図ろうとするものです。これが労働日が確定したあとの残された資本の方法としてあるわけです。しかし必要労働時間を短縮するために、労働力の価値そのものを縮小する必要がありますが、そのためには生産様式そのものの革命が必要なわけです。そうした資本主義的生産への労働の実質的包摂の過程こそが、相対的剰余価値の生産過程であり、相対的剰余価値の概念でもあるわけです。マルクスは次のように述べています。

    〈つまり相対的剰余価値は、絶対的剰余価値から次の点で区別される。--いずれの場合にも、剰余価値は剰余労働に等しい、すなわち剰余価値の割合は、必要労働時間にたいする剰余労働時間の割合に等しい。第一の〔絶対的剰余価値の〕場合には、労働日がその限界を越えて延長され、そして、労働日がその限界を越えて延長されるのに比例して剰余価値が増大する(すなわち剰余労働時間が増大する)。第二の〔相対的剰余価値の〕場合には、労働日は一定である。この場合には、労働日のうち労貨の再生産に必要であった部分、すなわち必要労働であった部分が短縮されることによって、剰余価値、すなわち剰余労働時間が増加されるのである。第一の場合には、労働の生産性のある一定の段階が前提されている。第二の場合には、労働の生産力が高められる。第一の場合には、総生産物の一可除部分の価値、あるいは労働日の部分生産物は不変のままである。第二の場合には、この部分生産物の価値が変化する。しかしこの部分生産物の量(数)は、それの価値の減少と同じ割合で増大する。〉(草稿集④388頁)

    この第10章は相対的剰余価値の概念とともにそれに関連して出てくる「特別剰余価値」の概念も含めて、なかなか理解の困難なところでもあります。これまでにも多くの論者によってさまざまに議論されてきたところです。そうしたものをすべて踏まえることはできませんが、主なものを意識して論じて行くことにしたいと思います。それでは第1パラグラフから始めましょう。


◎第1パラグラフ(以前は必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。今度は、1労働日は不変で、必要労働時間が可変になる)

【1】〈(イ)労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである。(ロ)労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。(ハ)この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。(ニ)必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。(ホ)今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。(ヘ)線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。(ト)そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるだろうか? 言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか?〉(全集第23a巻411頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわたしたちにとっては不変量とみなされてきましたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのです。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができました。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとがきまったのでした。必要労働時間は不変だったのですが、反対に1労働日全体は可変だったのです。

     これまでの「第3篇 絶対的剰余価値の生産」では、労働力の価値は与えられたものとして前提されていました。実際、ある社会の経済的な発展段階を想定した場合、労働力の価値は一定の不変量として想定することができたのです。
   「第8章 労働日」の「第1節 労働日の限界」では次のように言われていました。

  〈われわれは、線分 a----b が必要労働時間の持続または長さ、すなわち6時間を表わすものと仮定しよう。労働が a b を越えて1時間、3時問、6時間などというように延長されれば、それにしたがって次のような三つの違った線分が得られる。
  労働日 Ⅰ  a----b--c
  労働日 Ⅱ  a----b---c
  労働日 Ⅲ  a----b----c
  この三つの線分は、それぞれ7時間、9時間、12時間から成る三つの違った労働日を表わしている。延長線 b c は剰余労働の長さを表わしている。1労働日は ab+bc または ac だから、1労働日は可変量 bc とともに変化する。〉

    だから絶対的剰余価値の生産というのは、労働力の価値の再生産の必要な労働部分(ab)、すなわち必要労働時間が不変なままに、剰余労働時間(bc)の増大をはかるために、労働日(ac)そのものを延長しようというのが資本の飽くなき欲求として現れたものです。だから資本による途方もない労働日の延長欲求から労働者たちは自らの生活を守るために闘い労働力の価値に見合った、つまり平常な労働力の再生産を保証する労働時間を要求して、標準労働日を法的に決めることを求めたのでした。
    だからこれまでの絶対的剰余価値の生産では、必要労働時間は不変だったのですが、労働日そのものは可変だったのです。  

  (ホ)(ヘ)(ト) 今度は、一つの労働日の大きさが与えられていて、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しましょう。今、線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、線分abは10時間の必要労働を、線分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしましょう。そこで、どうすると、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるでしょうか? 言い換えますと、剰余労働を延長することができるでしょうか?

    しかし労働日そのものが法的に制限されてしまったわたけですから、今度は労働日は不変で、その代わりに必要労働時間が可変のケースが問題になるわけです。
    よって、一つの労働日が与えられていて、それが必要労働と剰余労働に分割される割合が変化するものと仮定します。今、1労働日12時間を線分 a----------b--c で表した場合、 ab が10時間で必要労働時間を表し、bc が剰余労働時間を表しているとします。ここでac のこれ以上の延長なしに如何にして bc すなわち剰余時間を延長しうるかが問われているわけです。


◎第2パラグラフ(剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応する)

【2】〈(イ)労働日acの限界は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。(ロ)かりに、a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。(ハ)いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になる。(ニ)しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。(ホ)剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。(ヘ)すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになる。(ト)変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割であろう。〉(全集第23a巻412頁)

  (イ) 労働日acの限界は与えられているのに、bcは、その終点c、つまり同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見えます。

    acは変わらないまま、bcを延長するためには、b点をaの方にずらせば、その分bcは大きくなるように思えます。

  (ロ)(ハ) いまかりに、線分a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしましょう。いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされますと、この労働日は相変わらず12時間ですが、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になります。

    いま仮にb点をaの方にずらした点をb'とし、b-b'はb--cの半分の1時間とします。そうしますと、acの12時間は変わりませんが、剰余労働はb--cの2時間からb'---cの3時間になります。

  (ニ)(ホ) しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能です。この場合、剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応しているのです。

    しかしこのように剰余労働がbcからb'cに、つまり2時間から3時間に延長されるためには、必要労働であるabがab'に、つまり10時間から9時間に短縮されなければなりません。つまりこの場合、剰余労働の延長には必要労働の短縮が対応しているのです。

  (ヘ)(ト) つまり、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになるのです。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割なのです。

    必要労働の短縮ということは、労働者がこれまで自分自身の生活の再生産のために費やしてきた労働時間を少なくして、その分を資本家のための無償労働(不払労働)に転化するということです。労働日は不変のままに、それが必要労働と剰余労働とに分割される割合が変わるというわけです。


◎第3パラグラフ(剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、労働力の価値そのものが現実に減少する必要がある)

【3】〈(イ)他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。(ロ)労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。(ハ)1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングならば、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補塡するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければならない。(ニ)この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており(1)、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられている。(ホ)そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られる。(ヘ)12時間から10時間を引けば2時間が残り、そして、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるかは、まだわからない。(ト)もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、または/もっと少なくしか支払わないかもしれない。(チ)この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるであろうし、したがって、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。(リ)とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎないであろう。(ヌ)彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになる。(ル)この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけであろう。(ヲ)このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいえ、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されている。(ワ)このことが前提されるかぎり、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるものではなく、ただこの価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのである。(カ)労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。(ヨ)われわれの例で言えば、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかはないのである。〉(全集第23a巻412-413頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていますと、明らかにそれ自体与えられています。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補填するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければなりません。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられているのです。つまり、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられているのです。そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られます。12時間から10時間を引けぽ2時間が残ります。しかし、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるのかは、まだわかりません。

   最初に、フランス語版はやや簡潔に書かれていますので、紹介しておきましょう。

   〈他方、労働日の限界と労働力の日価値とが与えられると、剰余労働の持続時間が定められる。労働力の日価値が5シリング--10労働時間が体現された金の額--に達するとすれば、労働者は、資本家から日々支払われる労働力の価値を補填するために、あるいは、彼の日々の生計に必要な生活手段の等価を生産するために、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値が彼の労働力の日価値を決定し、後者の価値が彼の必要労働の日々の持続時間を決定する。全労働日から必要労働時間を差し引いて、剰余労働の大きさが得られる。12時間から10時間を差し引けば2時間が残るが、与えられた条件のもとで剰余労働がどのようにして2時間を越えて延長することができるかは、わかりにくい。〉(江夏・上杉訳324頁)

    1労働日は必要労働時間と剰余労働時間とに分かれるのですから、剰余価値の大きさは、労働日が与えられていますと、労働力の価値が決まれば、決まってきます。つまり労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の再生産に必要な労働時間、つまり必要労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスの金量で表されるとしますと、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は資本家が自分を雇用するために支払った労働力の日価値を補塡するためには10時間労働しなければなりません(5÷0.5=10)。以前にも引用しましたが〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)ということでした。
    つまり労働者がその生活を維持するため必要な生活手段の価値によって労働力の価値は決まってくるのであり、労働力の価値が決まってくれば、彼の必要労働時間の長さは決まってくるわけです。そして与えられた労働日からそれを引けば、剰余労働の大きさが決まってきます。今、1労働日の12時間から10時間を引けば、すなわち2時間が剰余労働時間になるわけです。しかしここからこの剰余労働の2時間を如何にして大きくするかは、まだ分かっていません。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはもっと少なくしか支払わないかもしれません。この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるでしょう。だから、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がることになります。しかしこの結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎません。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになります。この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけです。つまり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけです。このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるかも知れませんが、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されているのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介して置きしましょう。フランス語版では途中改行されています。

   〈もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはさらにもっと少なくしか、支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスの価値を再生産するには9労働時間で充分であって、剰余労働はこのばあい1/6労働日から1/4労働日に、剰余価値は1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。しかし、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってのみ、得られるであろう。労働者は、彼が9時間で生産する4シリング6ペンスをもってしては、従前よりも1/10だけ少ない生活手段を手に入れるのであり、したがって、自分自身の労働力を不完全にしか再生産しないであろう。剰余労働は、その正常な限界bcからの逸脱に/よって、必要労働時間からの盗みによって、延長されるであろう。
  さて、この慣行は、賃金の現実の運動で最も重要な役割の一つを演ずるのであるが、すべての商品が、したがって労働力もまた、その価値どおりに売買される、と仮定するここでは、この慣行は除外されている。〉(江夏・上杉訳324-325頁)

    もちろん、資本家は労働者にその日価値である5シリングを支払う代わりに、4シリング半しか支払わないか、あるいはもっと少なくしか支払わないことはありえます。5シリングを補塡するためには、労働者は10時間を必要労働時間として支出しましたが、今度は4シリング半を補塡するためには、9時間で十分になります。そうすると確かに剰余労働は以前の2時間から3時間に拡大することになるわけです。
    しかしその結果は、労働者は自身の労働力を不完全にしか再生産できないことになります。つまりこの場合の剰余労働の拡大は、資本家が労働力の再生産費の正常な限界を破って、必要労働時間を盗み取って拡大されたものにすぎないわけです。
    こうした労働力の価値以下への労賃の引き下げという問題は、労賃の現実の運動を取り扱うときには大きな問題の一つになるのですが、しかしすべての商品が、だから労働力商品も含めて、その価値どおりに売買されるという想定のもとでは、こうしたことは初めから除外されているのです。

  (ワ)(カ)(ヨ) だから価値どおりの販売が前提されるかぎりでは、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間も、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるとは考えられません。だから、問題は、労働力の価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのです。労働日の長さが与えられていますと、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるしかありません。逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのです。わたしたちの例で言いますと、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、だからまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかにはないのです。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈このことがいったん認められれば、労働者の維持に必要な労働時間を短縮できるのは、彼の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってではなく、たんにこの価値そのものを引き下げることによるしかない。労働日の限界が与えられれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生じるのが当然であって、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生じるのではない。われわれの例では、必要労働が1/10減少して10時間から9時間に減り、このため剰余労働が2時間から3時間にふえるためには、労働力の価値が現実に1/10下がらなければならない。〉(江夏・上杉訳325頁)

    だから価値どおりの販売を前提しているのでしたら、労働力の生産に必要な労働時間、すなわちその価値の再生産に必要な労働時間を下げるためには、その価値そのものが下がる必要があるのです。剰余労働を拡大するために、必要労働を短縮するのではなくて(つまり賃金をその価値以下に引き下げることではなく)、必要労働そのものが短縮されたがために、剰余労働が拡大されるというにする必要があるのです。私たちの例では、必要労働が10時間から9時間に減ったから、剰余労働が2時間から3時間に増えたというようにです。しかしそのためにはいうまでもなく、労働力の価値そのものが現実に10分の1だけ減少しなければなりません。

   ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(2)

2024-04-19 02:40:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(2)


◎原注1

【原注1】〈1 日々の平均賃金の価値は、労働者が「生活し、労働し、生殖するために」必要なものによって規定されている。(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、1672年、64ページ。〔岩波文庫版、松川訳『アイァランドの政治的解剖』、134ページ。〕)「労働の価格はつねに生活必需品の価格から構成されている。」労働者は、「…… 労働者の賃金が、彼らの多くがしばしば宿命的にもっている家族を、労働者としての彼の低い身分や地位にふさわしく養うに足りない場合には、いつで/も」相応な賃金を受け取ってはいないのである。(J・ヴァンダリント『貨幣万能論』、15ページ。)「自分の腕と自分の勤労とのほかにはなにももっていないただの労働者は、自分の労苦を他人に売ることができる場合にかぎって、なにかをもつことになる。……どんな種類の労働でも、労働者の賃金は彼が生計を維持するために必要なだけに限られるということは、そうなければならないことであり、また実際にもそうなっている。」(テユルゴ『富の形成と分配の考察』、デール版『著作集』第1巻、10ページ。〔津田訳『チュルゴ経済学著作集』、73ページ。〕)「生活必需品の価格は、事実上、労働の生産費である。」(マルサス『地代の性質……に関する研究』、ロンドン、1815年、48ページ、注。〔岩波文庫版、楠井・東訳『穀物条例論および地代論』、151-152ページ。〕)〉(全集第23a巻413-414頁)

    これは〈この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており(1)〉という本文に付けられた原注です。ここでは労働力の価値をその生活手段の価値に帰着せしめていると思われるペティとヴァンダリントとテュルゴとマルサスのそれぞれからその該当する部分の引用が紹介されています。
    マルサス以外の学者は、これまでにも何度か出てきたことがあります。だからその時に一応の解説を加えていると思いますが、ここでは重複を恐れず、まずそれぞれについて草稿集から関連するものを紹介しておきます。
    まず〈ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』〉ですが、ここで引用されているものと内容的に類似するものとしては、『61-63草稿』に次のような一文があります。

   〈(β)次に研究すべき第二の点は、労働の価値である。
   「法律は……労働者にちょうどそれをもって生活することができるだけのものを認めるべきであろう。というのは、もし諸君が〔労働者に〕2倍〔の賃金〕を認めるとすると、労働者は、彼がなすことのできたはずの、またそうでなければなしたはずの、半分しか労働しないからである。これは社会にとってそれだけの労働の果実の損失である。」(64ページ〔大内・松川訳、150-151ページ〕。)したがって労働の価値は、必要な生活諸手段によって規定される。労働者が剰余生産および剰余労働を行なわざるをえないのは、彼が生活するのにちょうど必要なだけのものを受け取るためにすら、自分の処分可能な全労働力を費やすように強制されるからにはかならない。しかしながら、その労働が安いか高いかは、二つの事情、すなわち、自然の豊かさと、気候によって規定される支出(欲求)の程度とによって、決まるのである。
   「自然的に高いか安いかは自然的必需品の生産に不可欠な入手の多少に依存する。すなわち、穀物は、1人の男が10人分の穀物を生産するところでは、彼が6人分の穀物しか生産しえないところでよりも安い。また同時に、気候に左右されて人々が必然的に〔穀物を〕より多く消費する気になるか、より少なく消費する気になるかに応じて〔穀物価格は上下する〕。」(67ページ〔大内・松川訳、155ページ〕。)〉(草稿集⑨488頁)
    〈「ある人々が他の人々よりたくさん食べるということは重要ではない。というのは、われわれは1日分の食料を、あらゆる種類またあらゆる体格の人々の100分の1が、生き、労働し、子孫を生むために食ぺるもの、と理解するからである。」(『アイルランドの政治的解剖』64ページ〔松川訳、134ページ〕。)〉(草稿集⑨605頁)

   また「第8章 労働日」「第5節 標準労働日のための闘争」のなかで原注119に出てきたときに、『資本論辞典』から紹介しましたが、それを再掲しておきます。

  ペティ Sir Wil1iam Petty (1633-1687)近世経済学の建設者にしてその父,もっとも天才的・独創的な経済学研究者であると同時に,いわば統計学の発明者。/まずしい毛織物工業者の第3子として南西イングランドに生まる。……/ベティは,労働は富の父であり、土地はその母だといい,また資本(Stock)とは過去の労働の成果だといっているが,ここで彼が問題にしている労働は.交換価値の源泉をなす抽象的・人間的労働ではなくて,土地とならんで素材的富の一源泉をなすところの具体的労働,つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。そして彼はこの現実的労働をただちにその社会的総姿態において,分業としてとらえたのであるが,彼が商品の「自然価格」を規定するばあい,それは事実上,この商品の生産に必要なる労働時間によって公的に規定されるところの(交換)価値にほかならないのである。しかし,同時に彼は,交換価値を,それが諸商品の交換過程で現象するがままに,貨幣と解いし,そして貨幣そのものは,これを実存する商品すなわち金銀と解した。彼は,一方では重金主義のあらゆる幻想をくつがえしつつも,他方ではこの幻想にとらわれ,金銀を獲得する特殊の種類の現実的労働を,交換価値を生む労働だと説明したのである。/彼の価値規定においては. a) 同等な労働時問によって規定される価値の大いさと. b)社会的労働の形態としての価値,したがって真実の価値姿態としての貨幣と,c) 交換価値の源泉としての労働と,使用価値の源泉としての労働(このばあい労働は,自然質料すなわち土地を前提とする)との混同,の三者が雑然と混乱している。彼が貨幣の諸機能を一応正当に把握しつつも,他方ではそれを金銀と解し,不滅の普通的富と考えたり,また価値の尺度として土地・労働の両者を考え,この両者のあいだに‘等価均等の関係'をうちたてようとしたりしたのも(このぱあい,事実上,土地そのものの価値を労働に分解することだけが問題になっているのだが),この混乱にもとづくのである。/ところで,以上の価値裁定に依存するベティの刺余価値の規定はどうかといえば.彼は剰余価値の本性を予感してはいたけれども彼が見るところでは,剰余がとる形態は'土地の賃料'(地代〕と‘貨幣の賃料'(利子)の二つだけであった。そして彼にとっては,のちに重農主義者にとってそうであるのと同じように,地代こそが'剰余価値'の本来の形態であって,彼は地代を剰余価値一般の正常的形態と考えるのであるから,利潤の方はまだぼんやりと労賃と熔けあっているか,またはたかだか,この剰余価値のうち資本家によって土地所有者から強奪される一部分として現象するのである。すなわち.彼は地代(剰余)を生産者が'必要労働時間'をこえておこなう超過労働として説明するばかりでなく,生産者自身の'剰余労働'のうち,彼の労賃および彼自身の資本の填補をこえる超過分として説明する,つまり地代は,'農業的剰余価値'全体の表現として,土地からではな<.労働からひきだされ,しかも労働のうち労働者の生計に必要なものをこえる剰余として説明されているのである。(以下、まだ続きますが長すぎるので省略します。)〉(547-548頁)

    次に〈J・ヴァンダリント『貨幣万能論』〉ですが、これも「第8章 労働日」「第5節 標準労働日のための闘争」の原注121に出てきました。そのときにも断りましたが、貨幣の機能に関連するものの引用はいくつかありましたが、それ以外のものは見あたらないので、ここでは『資本論辞典』からの紹介のみです(これも再掲)。

   ヴァンダーリント Jacob Vanderlint (1740)イギリスに帰化したオランダ商人.唯一の著書《Money answers all Things》(1734)によって知られている.貿易差額脱を批判して自由貿易論へ道を開き,下層・中間階級の地位の引上げを目標とし.高賃銀を要求し.土地にたいする不生産的地主の独占を攻撃した.マルクスはアダム・スミスにいたるまでの経済学が,哲学者ホッブズ,ロック.ヒューム.実業家あるいは政治家トマス・モア,サー・W・テンプル,シュリー,デ・ゲイツト,ノース,ロー.カンティヨン.フランクリンにより,また理論的にはとくに医者ペティ,バーボン. マンドヴィル,ケネーにより研究されたとしているが,ヴァンダリントもこれら先人のなかに加えられており,とくにつぎの三つの点でとりあげられている.第一に,流通手段の量は,貨幣流通の平均速度が与えられているばあいには,諸商品の価格総頬によって決定されるのであるが,その逆に,商品価格は流通手段の量により,またこの後者は一国にある貨幣材料の量によって決定されるという見解(初期の貨幣数量説)があり,ヴァンダリントはその最初の代表者の一人である.この見解は,商品が価格なしに,貨幣が価値なしに流通に入り込み,そこでこの両者のそれぞれの可除部分が相互に交換されるという誤った仮設にもとづく'幻想'である,と批判されている.またこの諭点に関連して,ヴァンダリントにおける,貨幣の退蔵が諸商品の価格を安くする,という見解が批判的に,産源地から世界市場への金銀の流れについての叙述が傍証的に引用されている.第二に,ヴァンダリントはまた,低賃銀にたいする労働者の擁護者としてしばしば引用され,関説されている.第三に,マニュフアクチュア時代が,商品生産のために必要な労働時間の短絡を意識的原則として宣言するにいたる事情が,ペティその他からとともにヴァンダリントからもうかがい知ることができるとされている.上述の批判にもかかわらず.《Money answers all Things》は,‘その他の点ではすぐれた著述'であると評価され,とくにヒュームの《Political Discourses》(初版1752)が,これを利用したことが指摘されている.《反デューリング論》の(《批判的学史》から)の章ではこの両者の関係が詳細に確認され, ヒュームはヴァンダリントにまったく迫随しつつ,しかもそれに劣るものであると断ぜられている(その他の点でも《反デュリング論》の参照が必要).〉(472頁)

    なお新日本新書版ではヴァンダリントからの引用文のところを〈「…… 労働者の賃金が、彼らの多くの者の宿命であるような大家族を、労働者としての彼の低い身分や地位と状態*とに応じて、養うに足りない場合には、いつでも」労働者は相応な賃金を受け取ってはいないのである。〉と訳し、*印について次のような訳者注を付けています。

  〈*〔ヴァンダリントのこの引用全文は、初版から第四版まですべて原文の英文で示されているが、それを独訳した現行のドイツ語ヴェルケ版は「状態」を脱字しているために、文章不明の構成になっている〕〉(549頁)

    その次は〈テユルゴ『富の形成と分配の考察』〉です。『61-63草稿』には今回の引用と重なる引用がありますので、紹介しておきます。

   〈{「自分の腕と自分の勤労とのほかにはなにも持っていないただの労働者は、自分の労苦を他人に売ることになんとか成功したときにかぎって、なにかを持つことになる。……どんな種類の労働にあっても、労働者の賃銀は彼が生計を維持するために必要なだけに限られなければならず、また実際にもそうなっている」(テュルゴー 『富の形成と分配とに関する省察』(初版の刊行は1766年)、所収、『著作集』、第一巻、ウジェーヌ・デール編、パリ、1844年、10ページ〔岩波書店版、津田内匠訳『チュルゴ経済学著作集』、73ページ〕)。}〉(草稿集④69頁)
   〈「自分の腕と勤勉を有するにすぎない単純労働者は、自分の労苦を他人に首尾よく売る以外にはなにももたない。……どんな種類の労働についても、労働者の賃金は彼の生活資料を手に入れるのに彼にとって必要なだけに限られるということが起こるはずであり、また実際に起こっているのである。」(同前、10ページ〔津田訳、73ページ〕。)
    ところで賃労働が生じてくると、「土地の生産物は二つの部分に分かれる。一つは、農業労働者の生活資料と利潤とを含む。これは、彼の労働の報酬であり、また彼が土地所有者の畑の耕作を引き受ける条件である。その残りは、土地がそれを耕作する者に彼の前貸と彼の労苦の賃金とを越えて純粋の贈りものとして与える、かの独立の自由に処分しうる部分である。そしてこれが土地所有者の分けまえまたは収入であり、彼は、これによって労働ぜずに生活することができるし、また、これを彼の望むところへ持って行くのである。」(14ページ〔津田訳、76ページ〕。)ところが、この土地の純粋の贈りものは、いまではすでに、土地が「それを耕作する者」に与える贈りものとして、したがって、土地がその労働に与える贈りものとして、規定されているように見える。すなわち、土地に投ぜられた労働の生産力、労働が自然の生産力を利用する結果としてもつところの生産力、したがって労働が土地からつくりだすのであるが、しかしただ、労働が土地からつくりだすところの生産力としてのみ規定されているように見える。それゆえ、土地所有者の手中においては、その剰余は、もはや「自然の贈りもの」としてではなく、他人の労働の--等価を支払わない--取得として現われる。この他人の労働は、自然の生産性によって自分自身の欲望を越えて生活手段を生産することができるが、しかし賃労働としてのその存在によって、労働の生産物のうち「彼が自分の生活資料にどうしても必要なもの」だけしか取得できないように制限されている。「耕作者は彼自身の賃金を生産し、そのほかに、職人その他の被雇用階級全体にたいする賃金の支払に用いられる収入を生産する。……土地所有者は耕作者の労働なしにはなにも手に入れるものはない(したがって自然の純/粋の贈りものによるのではない)。彼は、耕作者から、彼の生活資料と、他の被雇用者たちの労働にたいして支払うのに必要なものとを受け取る。……耕作者は、ただ慣習と法律にしたがって、土地所有者を必要とするだけである。」(同前、15ページ〔津田訳、77ページ〕。)
    こうして、ここでは、直接に剰余価値が、耕作者の労働のうち、土地所有者が等価を支払わずに取得する部分、したがって生産物のうち、土地所有者が買うことなしに売る部分、として説明されている。ただ、テュルゴーが念頭においているのは、交換価値それ自体、労働時間そのものではなく、生産物のうち、耕作者の労働が彼自身の賃金を越えて土地所有者にもたらす超過分である。だが、生産物の超過分はすべて、耕作者が彼の賃金の再生産のために労働する時間のほかに、土地所有者のために無償で労働する一定時間が対象化されたものにほかならない。〉(草稿集⑤30-31頁)

    また以前「第5章 労働過程と価値増殖過程」の原注4に出てきたときに『資本論辞典』からも関連する部分を紹介しましたので、それを再掲しておきます。

  テュルゴ Anne Robert Jacques Turgot(1727-1781) フランスの経済学者・政治家.……『剰余価値学説史』第1部第2章で指摘されているように,テュルゴはこの前払資本が最初はいっさいの耕作にさきだって土地により無償で提供されたと鋭明している(MWI-24; 青木 1-69-70).つまりそれらは野生の植物であり,木・石製の道具であり,野獣であり, しかも野獣は飼い馴らされて家畜となり食用および労働に使用され,さらに自然に繁殖し乳類・羊毛その他のような年生産物以上のものを提供したのである.したがって家畜は土地の耕作以前に動的富であったのであり,テュルゴは土地所有による農耕社会にいたるまでの狩猟・牧畜という経済生活の発展をこの動的富の所有形態によって説明し,さらに奴隷もまた他種の動的富として,これが耕作労働以外のすべての労働に使用されえたこと,したがって土地それ自体と交換されうる価値を持つにいたったことをのべている.……
  上述のように,マルクスは『資本論』各巻でテュルゴを引用したのち『剰余価値学説史』第1部第2章で集中的に論じている.マルクスは重農主義体系を本質的には封建的生産体制の廃墟にたつブルジョア的生産体制を宣言した体系と規定し,テュルゴがその重農主義体系の発展の極と指摘し,彼が重農主義者の虚偽の封建的仮象にもかかわらず, 1776年のブルジョア的経済大改革によってフランス革命を案内したとのべている.〉(519-521頁)

    最後は〈マルサス『地代の性質……に関する研究』〉です。『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきます。

  労賃。〔その〕平均および運動。「社会の進歩において賃金の低下ほど、すなわち、労働諸階級の慣習と結合して、生活手段に応じて人口の増加を調節するそのような低下ほど絶対的に不可避なものはない。」(マルサス『地代の……に関する一研究』、19ページ〔楠井・東訳、124ページ〕。)
    マルサス氏は、『穀物法および穀価昇落が国の農業および一般的な富に与える影響の諸考察』、第3版、ロンドン、1815年のなかで、A・スミスに反対して(したがって『人口に関する一論』における彼自身の誤った想定に反対して)次のように主張している。「労賃の全体がけっして穀物価格の諸変動に比例して騰落しうるものでない、ということは、明らかである。」(前掲書、6ページ〔楠井・東訳、13-14ページ〕。)この同じ人物が、『外国産穀物の輸入を制限する政策に関する一見解の諸根拠』、ロンドン、1815年のなかでは、次のように言っている。「これらの賃金は、結局、穀物の通常の貨幣価格等によって決定されるであろう。」(26ページ〔楠井・東訳、82ページ〕。)そしてこれと同じ見解が、『地代の……に関する一/研究』のなかでは、利潤と賃金とからの地代の分離の必然性を示すために主張されている。それでは、なぜこの男は『穀物法……影響の諸考察』のなかで、A・スミスから彼に継承されて、さらには彼によってA・スミスとはまったく別の一面的に倭小化した仕方で主張された上記の見解を、否認したのか? ジエイムズディーコンヒューム『穀物法についての見解』、ロンドン、1815年におけるその答えはこうである。「マルサス氏は、『労働の価格は穀物の価格によって支配される』というA・スミスの命題を論駁するために大いに骨をおった。……それはまさに問題の核心なのであるが、マルサス氏によってそれが取り扱われた方法は、他の人々が農業階級〔agriculturalinterest〕の法外な要求を擁護しうる示唆や論拠を、彼自身が直接に汚名をこうむることなiく提示しようとしている、という疑念を抱かせるものである。」(前掲書、59ページ。)(いたるところで、マルサスは卑劣な追従者である。)〉(草稿集⑨470-471頁)

    また『資本論辞典』からも紹介しておきます。

  マルサスThomas Robert Malthus (1766-1834)イギリリスの経済学者.……マルクスは《剰余価値学説史》第3部のなかで,……マルサスの経済理論を批判しているが,マルササ批判の大要はおよそつぎのとおりである.これらの著書において,マルサスは,価値にかんする基本的立場として,スミスの理論における俗流的な一面をなす価値構成論の立場を採用している.……そしてこの立場に立ってマルサスは,リカードの経済学における価値論の修正という難点をよりどころとして,労働価値税そのものを破棄する態度にでた.一般に諸資本の競争をつうじて,ひとしい資本にたいしてはひとしい利潤すなわち平均利潤が成立し,かくしてこのばあい商品価値は生産価格へと転化されるが,この価値と生産価絡との区別を明確にすることのできなかったりリカードは,資本の有機的構成および回転期間の差異のあるばあいにかぎって,労働による価値の規定という原則は例外的に修正をうけると考えた.これにたいしてマルサスは,利潤率の差異を生ぜしめるこれらの諸要因の存する事実を論拠として,このばあい労働量による価値規定という根本的法則は修正されるどころか,むしろ抹殺されてしまうほどであるとのベて,リカードが原則とみなしたものは例外であり,例外であるとみなしたものこそが原則であると批評した.しかしそれと同時にマルサスは,商品がそれ自身の価値にしたがっては交換されず,それとは異なる生産価格でもって売買されるという競争の現象を論拠として,リカードの理論的基礎をなしている科学的主張そのものを抹殺してしまったのである.……このようにし/て商品の価値をその生産価格と混同し,前者を後者として表象する誤った見地は,マルサスにより一つの法則にまで高められた.……(以下、まだまだ続きますが省きます。)(4459-460頁)


◎第4パラグラフ(労働の生産力を高め、労働力の価値を引き下げるためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならない)

【4】〈(イ)しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、それ自身また、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とする。(ロ)といっても、これは労働の生産力を高くすることなしには不可能である。(ハ)たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができる。(ニ)彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければならない。(ホ)そして、それは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその、両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできない。(ヘ)したがって、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに革命が起きなければならない。(ト)われわれが労働の生産力の上昇と言うのは、ここでは一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことである(2)。(チ)そこで、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのであるが、必要労働の剰余労働への転化による剰余価値の生産のためには、資本が労働過程をその歴史的に伝来した姿または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないのである。(リ)労働の生産力を高くし、そうすることによって労/働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのである。〉(全集第23a巻414-415頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) しかし、このように労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、以前は10時間で生産されたのと同じ量の生活手段が今では9時間で生産されるということを条件とします。これは労働の生産力を高くすることなしには不可能です。たとえば、ある靴屋は、与えられた手段で、1足の長靴を12時間の1労働日でつくることができるとします。彼が同じ時間で2足の長靴をつくろうとすれば、彼の労働の生産力は2倍にならなければなりません。そしてそれは、彼の労働手段か彼の労働方法かまたはその両方に同時にある変化が起きなければ、2倍になることはできません。だから、彼の労働の生産条件に、すなわち彼の生産様式に、したがってまた労働過程そのものに何らかの革命が起きなければならないのです。

    この部分もフランス語版ではやや簡潔に書かれていますので、最初に紹介して行くことにします(なおフランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられています)。

    〈1/10の低下は、当初10時間で生産された同じ量の生活手段がもはや9時間しか必要としないということ--労働の生産力が増大することなしには不可能なこと--を前提している。たとえばある靴屋は、与えられた手段を用いて12時間で1足の長靴を作ることができる。同じ時間で2足の長靴を作るためには、彼の労働の生産力を2倍にしなければならないが、彼の労働手段か彼の労働方法に、または同時に両者に、ある変化がなくては、そういうことは起こらな/い。生産条件のなかに、ある革命が遂行されなければならないのだ。〉(江夏・上杉訳325-326頁)

    何度も確認しますが、〈労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)。だから労働力の価値が10分の1だけ下がるということは、労働者を維持するために必要な生活手段の価値が10分の1だけ下がるということです。すなわち以前は10時間で生産されていたものがいまでは9時間で生産されるということです。しかしこれは生活手段を生産する労働の生産力が高くならない限り不可能です。
    例として靴屋の労働を考えてみましょう。靴屋は与えられた手段で、1足の靴を12時間の1労働日で作ることができたとします。もし彼が同じ1労働日に2足の靴を作ろうと思えば、生産力を2倍にしなければならないでしょう。そしてそのためには彼の靴を作るための労働手段か労働方法か、あるいはその両方に、何らかの改善がなければなりません。つまり彼の生産条件、すなわち生産様式に、ということは労働過程に何らかの革命が生じなければならないということです。

  (ト)(チ)(リ) わたしたちが労働の生産力の上昇と言うのは、一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮するような、つまりより小量の労働によってより大量の使用価値を生産する力を与えるような、労働過程における変化のことです。だから、これまで考察してきた形態での剰余価値の生産では生産様式は与えられたものとして想定されていたのですが、必要労働の一部を剰余労働に転化させる剰余価値の生産のためには、資本が労働過程を歴史的に伝来した姿、または現にある姿のままで取り入れてただその継続時間を延長するだけでは、けっして十分ではないことがわかります。労働の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のうちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮するためには、資本は労働過程の技術的および社会的諸条件を、したがって生産様式そのものを変革しなければならないのです。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

    〈われわれは、労働生産力あるいは労働生産性の増大ということを、一般には、一商品の生産に社会的に必要な時間を短縮し、この結果、より少量の労働量がより多量の使用価値を生産する力を獲得するという、労働過程における変化である、と理解する(2)。われわれが、延長された労働時間から生じる剰余価値を考察するばあいには、生産様式は与えられたものと見なされていた。しかし、必要労働の剰余労働への転化によって剰余価値を獲得することが問題となるやいなや、資本が伝統的な労働過程に手を触れないままで、たんに労働時間を延長することに満足するだけでは、もはや充分ではない。そのばあいには反対に、資本は技術的および社会的条件、すなわち生産様式を変えなければならない。そのときにだけ、資本は労働の生産性を高め、したがって労働力の価値を引き下げ、まさにそのことによって、労働力の再生産に必要な時間を短縮することができるであろう。〉(江夏・上杉訳326頁)

    生産力の増減は具体的な有用労働が生みだす使用価値量を変化させ、それが高まればより大きくなり、逆の場合その反対です。しかし生産力がどんなに変化しようとある一定の時間に生産される価値量には何の変化もありません。しかしそれは逆に言いますと、増大した使用価値量の一単位あたりの価値量は、生産力が高くなりますと小さくなり、反対に低くなると大きくなるということです。だから、私たちは労働の生産力の増大を、一般に、一商品の生産に社会的に必要な労働時間を短縮し、より少量の労働でより多量の使用価値を生産する力を獲得することだと理解するのです。それを引き起こす労働過程におけるある変化が生じたということです。
    これまでの「第3篇 絶対的剰余価値の生産」では、生産様式は与えられたものと前提されていました。ただ1労働日を延長することによって剰余価値の増大を求めたのです。
  しかし1労働日はある決まった値として想定して、必要労働時間の一部を剰余労働時間に転化して、剰余価値の増大を行うためには、資本は労働の生産力を高めるために、生産の技術的・社会的条件を、すなわち生産様式そのものを変化させなければならないのです。
    〈労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている。〉(全集第23a巻54頁) 
    このように資本は労働の生産力を高め、それによって労働力の再生産費を引き下げて、必要労働時間を短縮した分だけ、剰余労働時間の延長を、すなわち剰余価値の増大を得ることができるのです。

    最後に『61-63草稿』から紹介しておきます。

    〈商品を考察するさいに見たように、労働の生産力が高まれば、同じ使用価値がより短い労働時間で生産される。言い換えれば、より大量の同じ使用価値が同じ労働時間で(あるいはより少ない時間で--だがこれは第二の場合に含まれる--)生産される。商品の使用価値は相変わらず同一であるが、その交換価値は下落する、すなわち商品に対象化されている労働時間はより少量となり、その生産に必要な労働はより少なくなっている。労働能力の標準的な再生産に必要な生活手段の総額は、それらの交換価値によって規定されているのではなく、それらの使用価値によって--質的および量的に--規定されているのであり、したがってそれらの生産に必要な労働時間、それらに対象化されている労働時間によってではなく、この労働時間の成果によって、生産物で表示されるかぎりでの現実的労働によって規定されているのである。したがって、現実的労働/の生産性が高められることによって同じ生活手段の総額がより短い労働時間で生産されうるならば、労働能力の価値は低下し、したがってまた、労働能力は依然としてその価値どおりに売られるにもかかわらず、労働能力を再生産するために、その対価を生産するために必要な労働時間、つまり必要労働時間は減少する。それは、他のある商品が、依然として従来どおりの使用価値をもちながらも、それに含まれている労働時間が1/100だけ減ったためにいまではこれまでより1/100だけ少ない値となっているときに、それは依然として価値どおりに売られている、というのと同様である。この場合には、労働能力の価値が、したがってまた必要労働時間が低下するのは労働能力の価絡がその価値以下に下がるからではなくて、その価値そのものが下がったから、つまり、労働能力に対象化されている労働時間がより少量になり、だからまた労働能力の再生産に必要な労働時間がより少なくなったからである。この場合、剰余労働時間が増加するのは、必要労働時間が減少したからである。〉(草稿集④377-378頁)

   ((3)に続く。)

 

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