『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(1)

2022-06-17 22:09:52 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(1)


◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№6)(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きで、その第6回目(最終回)です。
    前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁しているのに対して、それでは実際問題として、久留間鮫造氏の著書『価値形態論と交換過程論』のなかで氏自身はどのように問題を提起しているのかを検討し、その問題提起のなかで久留間氏が引用している『資本論』第1篇第2章の第15パラグラフで、果たしてマルクスは何を問題にしているのかを問い、それは久留間氏がいうように〈それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる〉と、あたかもマルクスが貨幣に関する考察を結論的に述べているところであるかに説明していますが、果たしてマルクスにはそうした意図があったのかどうか、を検討するために、第15パラグラフ全体を紹介して、その解説を試みたのでした。しかしその解説はあまりにも長くなりすぎるので、一旦、途中で中断したのでした。今回はその続きです。

    やはり、もう一度、第15パラグラフ全体を紹介しておきます。

  【15】〈(イ)先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。(ロ)金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば10ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。(ハ)どの商品もそうであるように、貨幣〔*〕はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。(ニ)貨幣〔*〕自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される(48)。(ホ)貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。(ヘ)それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。(ト)すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。(チ)困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある(49)。〉
〔* カウツキー版、ロシア語版では「金」となっている〕

    前回は、各文節ごとの解説を試み、《だから、久留間氏が注目した最後の二つの文節((ト)(チ))で述べていることは、このパラグラフ全体でマルクスが中心に言いたいことから見れば、ある意味では、副次的な、あるいはそれを補強するようなものでしかない》ということを確認したのでした。
    今回はその上で久留間氏が提起している問題に戻って考えてみようということです。以下、やはり以前の解説からの紹介の続きです。

 《さて、その上で、それでは久留間氏の問題提起に戻りましょう。これまでの考察を前提して、最後の文節((チ))の内容をもう一度吟味してみましょう。まず〈貨幣が商品であることを理解する〉ことは、厳密にいえば正しいとはいえなくても、比較的容易なことであって、〈すでに17世紀の最後の数十年間〉に〈貨幣分析〉の〈端緒がなされ〉るなかでも指摘されてきたことです。しかし本当に困難なのは、そうしたことではなく、〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある〉とマルクスは言います。
    まずここで、〈商品が貨幣である〉とは、一体、どういうことなのでしょうか。フランス語版では,この部分は〈困難は、貨幣が商品であることを理解することにあるのではなく、どのようにして、なぜ、商品が貨幣になるか、を知ることである〉となっており、〈商品が貨幣になる〉と書かれています。また〈どのようにして、なぜ〉としか問われていません。フランス語版の場合は、ドイツ語版の初版や第二版に較べて、平易化する配慮がなされていることを考慮したとしても、ここでマルクスが述べていることは、貨幣は商品であるということより、商品が貨幣になるのはどうしてかを理解することの方が困難であり、またそれこそが貨幣の何であるかを知ることになるのだ、ということではないでしょうか。
 だから〈商品が貨幣である〉というのは、フランス語版のように、文字通り商品がどのようにして貨幣になるのかを知ることだということのように思えます。以前、第2章の位置づけや課題について、次のように論じたことがありました。

 【「第1篇 商品と貨幣」は「第1章 商品」と「第2章 交換過程」、「第3章 貨幣または商品流通」からなっています。この構成をみれば、第1章では商品とは何かが解明され、第3章では貨幣の諸機能と商品流通における諸法則が解明されることが明らかになり、第2章は、第1章と第3章を媒介する章であることが分かるのです。・・・・
  そして第2章が第1章と第3章を媒介する章であるとの位置づけが分かれば、それが短いのに一つの章として第1章と第3章と対等の位置に置かれているという理由も分かると思います。それは例えば第2篇には、一つの章しかなく、しかも分量としては短いものであるのに、第1篇や第3篇と対等の位置にどうして位置づけられているのかという理由と同じ理由なのです。第2篇の表題は「貨幣の資本への転化」ですが、これはまさに第1篇と第3篇を媒介する篇であることをその表題そのものが示しているといえるでしょう。だから同じような位置づけで考えるなら、「第2章 交換過程」は、内容からいえば、いわば「商品の貨幣への転化」とでも言えるような位置にあると考えられるわけです。・・・・〉(第33回報告)
 〈だからこの第3節は確かに貨幣に言及し、貨幣形態の発生を立証しているわけですが、しかし、それはあくまでも商品とは何か(それが第1章の課題です)を明らかにする一環としてそうしているのだということ、商品とは何かを明らかにするために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明するためのものだという理解が重要なのです。同じように貨幣の発生を説明しているように見える「第2章 交換過程」が、第1章の商品論を前提にして、商品がその現実の交換過程において、如何にして貨幣へと転化するのかを解明するものであり、それによって第1章と第3章とを媒介するものであるという、その役割や位置づけにおける相違も分かってくるのです。〉(第44回報告)
 〈(1)まず第1章では商品は、二重の観点で観察され、ある時は使用価値の観点のもとに、他の時は、交換価値の観点のもとに、分析されたのですが、しかし第2章では、商品はひつの全体として、すなわち使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるということです。つまり第1章では、その限りでは商品は抽象的に取り上げられたのですが、第2章では、商品はより具体的なものとして取り上げられることが分かります。だから諸商品の相互の現実の関係、つまり諸商品の交換過程が考察の対象になるというわけです。
 (2)そしてそうすると、商品はそうした使用価値と交換価値との直接的な統一物としては、直接的な矛盾だとも指摘されています。第1章では商品の二要因である使用価値と交換価値(価値)とは、互いに対立するものとして考察されました。これに対して、第2章では、そうした対立物の直接的な統一として商品が考察されるために、諸商品の交換は直接的な矛盾だというのです。矛盾ということは、諸商品が、使用価値として存在する場合、あるいは交換価値として存在する場合、それらは互いに前提し合いながらも、同時に排斥し合う関係にもあるということです。第2章では、現実の諸商品の相互の関係が、こうした直接的な矛盾として分析されることが指摘されています。そしてその矛盾が現実に解決されていく過程こそが、すなわち貨幣の発生過程でもあるというわけです。だから第2章は現実の諸商品の交換過程において、如何にして商品は貨幣へと転化するのかを解明するものでもあるといえるでしょう。
 (3)そしてまた商品の現実の関係である交換過程においては、互いに独立した諸個人、すなわち商品所有者が入り込む社会的過程でもあると指摘されています。つまり商品は第1章に比べてより具体的に考察されるわけですが、それは使用価値と交換価値との直接的な統一物として考察されるだけではなく、第1章では捨象されていた、それらの諸商品の所有者が新たに考察の対象に入ってくるということです。〉(第45回報告)
 〈しかし、これらの三つの矛盾の相互の関係を論じるまえに、そもそもどうして交換過程では、こうした矛盾が論じられているのでしょうか。まずそれから考えましょう。
 それを考えるためには、もう一度、第1章「商品」との関連で、第2章「交換過程」の課題を明確に掴む必要があります。
 これについては、一度詳しく論じたことがあります(第44回報告)。そこでは次のように説明しました。第1章「商品」は、商品とは何かを明らかにすることでした。確かに第1章ではリンネルや上着やコーヒーや鉄や金など、さまざまな商品が登場してそれらの関係が考察されたのですが、しかしこれらはあくまでも商品とは何かを明らかにすることが目的なのです。もちろん、商品とは何かを明らかにするということは、その商品がリンネルであろうが、上着であろうが何でも良かったのですが、しかし問題は、あくまでも商品とはそもそも何かを明らかにすることでした。そしてその商品の何たるかを解明するためには、商品は自らの価値を具体的に表す存在でなければならないこと、それを商品は貨幣形態、つまり価格という形で表していることをマルクスは明らかにしたのです。だからリンネルと上着との価値関係やリンネルと他の諸商品との展開された価値形態など、さまざまな諸商品との関係が考察されたのも、そもそも商品にはどうして価格が、すなわち値札が付けられているのか、そうしたことを明らかにするために商品の価値の表現形態としての貨幣の発生を論証したのでした。
 しかし重要なことは、そうした一連の諸商品の価値関係や価値形態の考察も、あくまでも、そもそも商品とは何かを解明するためであったということです。だから第1章では、商品はそれ自体として存在するもの、つまりその姿においてだれもが商品として分かる物的存在として、すなわち一つの現存在として把握されたのでした。あとはこの商品が一つの自立的存在として、今度はそれ自身の運動をわれわれは分析するのです・・・・
 だから第2章は、第1章で明らかにされた商品をもとに、今度は自立した商品の運動が、すなわちその交換の過程が分析の対象になるのです。・・・・
 つまり私たちが第1章で跡づけた価値形態の発展(単純な価値形態→展開された価値形態→一般的価値形態)は、いわば現実の商品交換の発展を前提して、そのうえで、そのそれぞれの発展段階の交換過程から、諸商品の交換を前提した上で、交換される諸商品そのものに注目して、それ以外の現実の商品交換に付随する商品所有者やその欲望等を捨象して、純粋に諸商品の交換関係だけを取り出し、商品の価値関係そのものに潜む、価値の表現形態の発展段階を分析してきたといえるのです。だからこそ、そうした商品の価値形態の発展の前提としてあった交換過程そのものが、今度は、第2章の分析の対象なのですから、諸商品の交換過程の発展が、こうした交換過程の三つの矛盾に対応していると言いうるのではないかと考えられるわけです(だからまた、当然、交換過程の三つの矛盾は、価値形態の三つの発展段階にも対応しているとも言えます)。〉(第46回報告)】

 だから〈どのようにして、なぜ、商品が貨幣になるか〉(フランス語版)というマルクスの問いは、自立した現存在として捉え返された諸商品の運動、すなわちそれらの交換過程のなかで、あるいはその歴史的な発展の過程において、〈どのようにして、なぜ、商品が貨幣になるか〉ということであって、それは決して久留間氏が考えたような、第1章の課題ではないのです。 第1章第3節が貨幣の発生を論証しているのは、あくまでも商品形態--つまりその目に見える姿や形だけで、直接、われわれが商品であると認識できるような状態--を説明するために、その貨幣形態(価格形態、すなわち値札、われわれは値札が付いていて、初めてそれが商品であることを知り得るのです)を説明するがためなのです。それは自立した諸商品の運動が、すなわちそれらの交換過程のなかで、如何にして貨幣になるのか、つまり貨幣を生み出すのか、要するに「商品の貨幣への転化」を直接説明するものではありません。それはあくまでも商品の価値の表現形態の発展過程を跡づけることが課題であり、その最終的な完成形態としての貨幣形態を--商品にはどうして値札がついているのかを--説明し論証するがためのものなのです。第1章第3節は、第2章の交換過程が、その歴史的な発展において、どのように貨幣を生み出していくのかというその道程を、ただ諸商品の価値の表現形態という一面だけから、いわばその一面だけを切り取って、抽象的に見ることで、その発展を跡付けたものだといえるものなのです。
 だから久留間氏のように、〈どのようにして〉が何処で論じられ、〈なぜ〉は何処で、〈何によって〉は何処だというような詮索の是非はともかく(そんな詮索そのものは本当は何も説明したことにはなっていないと思うのですが)、われわれは、これまでの第2章の展開のなかでそれらは追求され、明らかにされてきたのだと理解されるべきではないかと思います。
 いずれにせよ、以前にも指摘したように、この問題での久留間氏の問題意識そのものが最初から正しいものでは無かったといわざるを得ません。むしろ久留間氏の問題提起は、その影響力が極めて大きかったこともあり、マルクスが本来この第2章の第15パラグラフで言いたかったことを正しく理解することを反対に妨げてきたといえるのではなないかとさえ私には思われます。》

    以上が、以前説明したものの紹介です。これですでに答えは出ていると思いますので、この問題はこれで打ち切ることにします。

    それでは本文テキストの解説に移ります。今回から第3篇「絶対的剰余価値の生産」の第5章「労働過程と価値増殖過程」の第1節「労働過程」を対象にします。しかしその前に、第2篇から第3篇への移行について問題にすることにします。


◎第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行について

 今回から「第3篇 絶対的剰余価値の生産」に入ります。まず目次を確認しておきましょう。次のようになっています。

  〈第3篇 絶対的剰余価値の生産
        第5章 労働過程と価値増殖過程
          第1節 労働過程〉

   さて、私たちは「第1節 労働過程」の各パラグラフの解説に移る前に、「第2篇 貨幣の資本への転化」から「第3篇 絶対的剰余価値の生産」への移行について少し考えてみましょう。以前、第2篇の位置づけについて次のように説明しました。

  《だから第2篇第4章「貨幣の資本への転化」は、資本主義的生産様式の内在的諸法則を解明して、それを〈弁証法的形態で叙述する〉ために、貨幣から資本への移行を、すなわち第1篇「商品と貨幣」と第3篇「絶対的剰余価値の生産」とを媒介する篇なのです。それは第2章「交換過程」が、商品から貨幣への移行を、すなわち第1章「商品」と第3章「貨幣または商品流通」とを媒介する章であったのと同じ役割を果たしています。
 第2章「交換過程」では、まずは商品の交換過程における矛盾が明らかにされ、その矛盾を解決するために必然的に貨幣が生み出されたように、第4章でも、第3章の結果である貨幣としての貨幣が、資本の最初の現象形態であることが明らかにされ、資本の一般的定式が与えられ、さらにその一般的定式の矛盾が指摘され、その解決のためには、単純流通から資本の生産過程への移行が必然であることが明らかにされるわけです。》

    そして第2篇第4章の「第3節 労働力の売買」の第19パラグラフに次のように書かれていました。

  〈いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。〉

   こうして私たちはいよいよ『資本論』の第1部の表題「資本の生産過程」を直接対象にし、それを明らかにする門口に立ったことになったわけです。ここに来るまでには何と長い道のりがあったことでしょう。しかしそれらは確かに「資本の生産過程」を直接に対象にしたものではありませんでしたが、しかしそれを背後に隠してその表面に現象している単純な流通過程を対象にしたものでした。それは現実には資本の流通過程であるものをとりあえずはより具体的な資本関係を捨象して、そのなかに一般的に存在している抽象的な関係を取り上げて考察したものだったのです。だから確かに「資本の生産過程」を直接には取り扱いませんでしたが、しかしまぎれもなく資本主義的生産様式そのものを対象にしていたのです。

   ところで「労働過程」の解説に移る前にまだ片づけておかねばならないものがあります。
   まず第3篇の表題である「絶対的剰余価値の生産」についてです。第1部「資本の生産過程」の本題に入るわけですが、それがどうして「絶対的剰余価値の生産」になっているのかという問題です。
    私たちは第2篇の第1節で資本の一般的定式を知りました。それはG-W-G'でした。このG'については次のような説明がありました。

  〈すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。〉
  
    つまり剰余価値を生む運動がその貨幣を資本に転化させるのですから、資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程なのです。剰余価値の生産は「第3篇 絶対的剰余価値の生産」と「第4篇 相対的剰余価値の生産」との二つに分けることができます。これは労働者から剰余価値を搾り取るそのやり方の違いです。絶対的なものはとにかく長時間労働を強いて搾り取るか、あるいはきつい労働をやらせて搾り取るやりかたです。もう一つの相対的な搾取のやり方は、もっとスマートなやり方ですが、それは資本の生産力を高めて労働力の価値そのものを引き下げて、剰余労働を増やすやり方なのです。歴史的には最初の絶対的な搾取のやり方は資本がまだ労働力を雇い入れてそのまま使用して剰余価値を得るやり方ですが、後者の方法は資本がもっと発展して生産様式そのものを資本の生産にあったものに変革するなかで、行われるものです。だから『資本論』の叙述でもそれはあとから考察されることになっています。マルクスはこれを労働の形態的包摂から実質的包摂への移行などと言っていますが、そうした難しいことはまたそのときに問題にすればよいでしょう。

    その次に、問題にしなければならないは第5章の表題「労働過程と価値増殖過程」についてです。
    資本の生産過程というのは、商品の生産過程であり、その商品の生産を通じて剰余価値の生産を行うわけです。そして商品はご存知のように、使用価値と交換価値(価値)との直接的な統一物です。だから資本の生産過程も使用価値の生産と価値(剰余価値)の生産との直接的に統一された過程として存在しているのです。だからそれらを対象とする第5章は使用価値の生産と剰余価値の生産とを対象にすることになるのです。すなわち現行版では「労働過程と価値増殖過程」という表題になり、「第1節 労働過程」、「第2節 価値増殖過程」となっています。しかし、フランス語版ではこれが「第7章 使用価値の生産と剰余価値の生産」となっていて、「第1節 使用価値の生産」と「第2節 剰余価値の生産」と内容に則した表題になっています。

    そしてとりあえずは、分析的に一方の使用価値の生産、すなわち「第1節 労働過程」が私たちの分析の対象になります。
    ところで、すでに指摘しましたように、現行版の「労働過程」はフランス語版では「使用価値の生産」となっています。しかしそもそも「労働過程」というのは、どういうことでしょうか。それは「労働」に「過程」が付いていますが、「過程」が付くことによって何が変わるというのでしょうか。
    実は第1節の第3パラグラフのフランス語版には現行版にはない次のような注があります。本文と一緒に紹介しておきましょう。

 労働過程が分解される単純な要素は、次のとおりである。(1)人間の一身的な活動、すなわち、厳密な意味での労働、(2)労働活動の対象、(3)労働活動の手段。

  ① ドイツ語では労働過程(Arteits-Process)。「過程(procès)」という語は、発展の現実的諸条件の全体において考察される発展を表現しているが、この語は久しい以前から全ヨーロッパの科学用語に属している。フランスには、この語は当初processusというラテン語の形でおずおずと導入された。次いでこの語は、このペダンティックな仮装をはぎとられ、化学、生理学等の著書や形而上学の数々の著作のなかに忍びこんだ。それはついには、完全に自国語になるであろう。ついでながら注意しておくが、ドイツ人もフランス人と同じように、日常語では「訴訟(procès)」という語を法律的な意味で用いている。〉 (江夏・上杉訳168頁)

    つまり「過程」というのは〈発展の現実的諸条件の全体において考察される発展を表現している〉のだそうです。だから労働過程というのは労働が発展していく現実的諸条件をその全体において考察されるという意味を表しているということのようです。

    さて、商品の二要因である使用価値と価値とは対立したものであり、だから使用価値には価値は一切含まれず排除されています。また使用価値というのは、如何なる歴史的な社会形態とも無関係に歴史貫通的に存在しているものですから、だからこの労働過程も、とりあえずは資本関係が捨象された素材的な関係として私たちの前に現れます。それは如何なる社会関係にも関わりのない一般的な関係として取り扱われるのです。
   それでは実際に「第1節 労働過程」の各パラグラフの文節ごとの解説に移ることにしましょう。


第1節 労働過程


◎第1パラグラフ(労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない)

【1】〈(イ)労働力の使用は労働そのものである。(ロ)労働力の買い手は、労働力の売り手に労働をさせることによって、労働力を消費する。(ハ)このことによって労働力の売り手は、現実に、活動している労働力、労働者になるのであって、それ以前はただ潜勢的にそうだっただけである。(ニ)彼の労働を商品に表わすためには、彼はそれをなによりもまず使用価値に、なにかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に表わさなければならない。(ホ)だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物である。(ヘ)使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。(ト)それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力を使用するということは労働をするということです。労働力を買った人は、労働力を売った人に労働をさせることによって、その労働力を消費するわけです。

    すでに紹介しましたが、第2篇第3節の一文をもう一度紹介しておきましょう。

 〈いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。〉

    つまり資本家は労働者から彼の労働力を買い入れ、また労働力の使用に必要なすべての物、原料その他も市場で買い、いよいよ労働力の現実の使用に取りかかろうとするわけです。しかし労働力の使用というのは、労働そのもののことです。だから資本家は労働力を使用し消費するために、労働力の売り手である労働者に労働をさせなければなりません。こうして資本家は労働者のなかに潜在的にある力を発現させ、その可能性を現実化させるわけです。

  (ハ) このことによって労働力を売った人は、現実にも、活動している労働力に、つまり労働者になるのです。それ以前はただ潜勢的に、可能性としてそうだっただけなのです。

    こうして他方で、労働力を資本家に販売した人も、初めて労働者になるのです。すなわち現実に活動している労働力になるのです。だから彼らはそれまではただ潜勢的に労働者だったにすぎません。労働力を所持しているというだけでは労働者とは言えません。世の中には労働力を所持していながら、それを発揮していない人は一杯いますが、だから彼らを普通は労働者とは言いません(不労者とか寄食者とかいろいろと言い方はありますが)。その所持している労働力を現実に発揮している人こそが、労働者という資格があるわけです。

  (ニ)(ホ) 労働者は彼の労働を商品として表わすためには、彼はそれをなによりもまずは使用価値として、つまり何らかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に表わさなければなりません。だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物です。

    労働者は彼の労働によって商品を生産するのですが、商品は使用価値と価値との直接的な統一物です。たがら商品を生産するためには、まずは価値の素材的担い手である何らかの使用価値を作らなければなりません。つまり何らかの社会的な欲望を満たすのに役立つものに自身の労働を表さなければならないのです。つまり資本家が労働者に作らせるものは、ある特定の使用価値をもつもの、ある一定の物品でなければならないのです。

  (ヘ)(ト) 使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではありません。だから、その使用価値の生産、すなわち労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのです。

    何らかの使用価値あるいは何らかの財貨の生産というのは、いかなる社会形態にも関わらず存在しています。以前の第1章第2節「商品に表わされる労働の二重性」のなかでは次のように述べられていました。

 〈それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。〉 (全集第23a巻58頁)

    だからそれが資本家にために資本家の監督のもとで行われるからといって、その使用価値を生産するという一般的な性質を変えるものではありません。だから労働過程そのものは、まず第一にどんな特定の社会的形態にも関わりのないものとして考察されなければならないのです。

  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。〉 (草稿集④83頁)
  〈私が食べる小麦は、それを私が買ったのであろうと自分で生産したのであろうと、どちらの場合も同じく、その自然規定性に従って栄養過程で働きをする。同様に、私が私のために私自身の労働材料と労働手段とで労働しようと、あるいは私の労働能力を一時的に売った貨幣所有者のために労働するのであろうと、一般的形態における労働過程には、すなわち労働〔Arbeiten〕一般の概念的諸契機には、なんの変わりもない。この労働能力の消費、すなわちそれの、労働力〔Arbeitskrafte〕としての現実の実証、現実的労働--これは、それ自体としては〔an sich〕、ある活動が諸対象へのある種の諸関係にはいる、という過程である--は、依然として同じままであり、同じ一般的諸形態で運動する。いやそれどころか、労働過程あるいは現実の労働〔Arbeiten〕が前提〔unterstellen〕するのは、まさに次のこと、すなわち労働者は、彼の労働能力を売るまえには、彼がそのなかでのみ自分の労働能力を実証することすなわち労働することができるところの対象的諸条件から分離されていたが、この分離が止揚されるということ、彼はいまでは、彼の労働の対象的諸条件にたいする、労働者としての本性に即した関係〔Naturgemäße Beziehung〕に、労働過程にはいる、ということである。したがって、私がこの過程の一般的諸契機を考察するときには、私はただ、現実的労働一般の一般的諸契機だけを考察するのである。〉 (草稿集④101頁)


◎第2パラグラフ(労働の一般的規定。労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である)

【2】〈(イ)労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。(ロ)この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。(ハ)人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対する。(ニ)彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわる自然力、腕や脚、頭や手を動かす。(ホ)人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然〔天性〕を変化させる。(ヘ)彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせる。(ト)ここでは、労働の最初の動物的な本能的な諸形態は問題にしない。(チ)労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に現われるという状態にたいしては、人間労働がまだその最初の本能的な形態から抜け出ていなかった状態は、太古的背景のなかに押しやられているのである。(リ)われわれは、ただ人間だけにそなわるものとしての形態にある労働を想定する。(ヌ)蜘蛛(クモ)は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。(ル)しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているというのは、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからである。(ヲ)労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心豫のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのである。(ワ)労働者は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。(カ)彼は、自然的なもののうちに、同時に彼の目的を実現するのである。(ヨ)その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである。(タ)そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。(レ)労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要である。(ソ)しかも、それは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働というのは、第一に人間と自然とのあいだの一つの過程です。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのです。人間は、自然素材にたいして彼自身一つの自然力として相対します。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用されうる形態で獲得するために、彼の肉体にそなわっている自然力、腕や脚、頭や手を動かします。

    私たちは労働過程をどんな特定の社会的な形態ともかかわりなく考察しようとしているのですが、というより、如何なる社会的形態のなかにも普遍的に存在しているその一般的な形態で考察しようとしているのですが、その場合にまず最初に問題になるのは、そもそも「労働」というのは何なのか? ということです。
    労働というのは人間のなかに潜在的に備わっている労働力を発揮することです。しかしそのためには人間がその労働によって働きかける対象がなければなりません。その対象というのは本源的には自然そのものです。だから労働を一般的に見るなら、それは第一には人間と自然とのあいだの一つの過程だということです。
    人間は自然と労働によってかかわるなかで、人間が生きていくのに必要なものを自然から獲得・摂取し、不要なものを排泄しています。つまり人間は自身と自然との間の物質代謝を労働によってコントロールしているのです。
    このコントロールのなかでは、人間は自然に対して自身も一つの自然力として相対します。そして自然素材を自分の生活に必要なものに変化させ、それを獲得するために、自分自身の自然力として備わっている腕や足、あるいは頭と手を動かすのです。

  (ホ)(ヘ) 人間は、この運動によって自分の外の自然に働きかけてそれを変化させ、そうすることによって同時に自分自身の自然〔天性〕を変化させます。彼は、彼自身の自然のうちに眠っている潜勢力を発現させ、その諸力の営みを彼自身の統御に従わせるのです。

    このように人間は自身と自然との間の物質代謝をコントロールするなかで、人間は自然に変化をもたらすだけではなく、実は人間自身が自身に備わっている自然の力そのものを変化させ、発展させていくのです。彼は、彼自身のうちに眠っている潜勢力を発現させて、その諸力を自身の統御に従わせているのですが、その過程を通して自身の諸能力を発展させていくのです。

  (チ)(リ) ここでは、労働の最初の動物的な本能的な諸形態は問題にしません。労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に現われるという状態にたいしては、人間労働がまだその最初の本能的な形態から抜け出ていなかった状態は、すでに太古的背景のなかに押しやられているからです。

    私たちは労働をその一般的な姿で考察するとしましたが、しかしあくまでも人間に固有のものとしてそれを考察するわけです。だから人間がまだ動物的な本能的な形で自然に働きかけていたような状態のものは問題にしません。少なくとも労働者が彼自身の労働力の売り手として商品市場に現れているという状態を前提しているのであって、それに比べれば人間労働がその本能的な形態から抜け出ていないような状態は、はるか太古の時代の物語として私たちの視野には入ってこないのです。

  (ヌ)(ル)(ヲ) 蜘蛛(クモ)は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の建築師を赤面させます。しかし、もともと、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているのは、建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからです。だから労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の心豫のなかには存在していた、つまり観念的にはすでに存在していた結果が出てくるのです。

    私たちの労働に似たことは動物のなかにも見ることができます。例えば蜘蛛は、緻密な巣をかけて、織物のようなものを作りますし、蜜蜂が蝋で作る巣は極めて精緻な構造になっていて、へたくそな大工を赤面させるのに十分な出来ばえです。
    しかしこのような動物の作業と人間の労働との決定的な違いは、人間の場合にはその労働が始まる前に、その労働の結果が頭のなかに描かれているということです。動物の場合はただ本能によって行われている作業が、人間の場合に人間自身の意志によって行われているということです。労働過程の終わりには、その始めにすでに労働者の頭のなかにあった観念的なものが、現実に存在するものとして、労働過程の結果として現れてくるのです。

  (ワ)(カ)(ヨ) 労働者は、自然的な物の形態変化をひき起こすだけではありません。彼は、自然的な物のうちに、同時に彼の目的を実現するのです。その目的は、彼が知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのです。

    最初にこの部分のフランス語版を参照しておきましょう。

  〈彼はたんに自然的素材の形態変化を行なうだけではない。彼はこのばあい同時に、自分自身の目的--この目的は、自分が意識するものであり、法則として自分の行動様式を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである--を実現する。〉 (江夏・上杉訳168頁)

    だから労働者は、その労働によって自然の物のなかにその形態変化を引き起こすだけではありません。彼は自然の物のなかに、彼自身の目的を実現するのです。その目的というのは、彼がすでに彼の頭のなかに描いているものであり、そしてその目的を達成するために必要な自然のなかにある諸法則を認識し、それに彼の行動を従わせるために、自分の意志を働かせなければならないものです。

  (タ)(レ)(ソ)(ツ) そして、これに従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではありません。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって必要なのです。しかも、それは、労働がそれ自身の内容とその実行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を彼自身の肉体的および精神的諸力の自由な営みとして享楽することが少なければ少ないほど、ますます必要になるのです。

    この部分もまずフランス語版を見てみましょう。

  〈しかも、これに従わせるということは、一時的なものではない。仕事は、活動する諸器官の努力のほかに、それ自体が意志の不断の緊張からのみ生じうるような一貫して変わらない注意力を、仕事の全期間にわたって必要とする。労働がその対象とその遂行様式によって労働者の心をとらえることが少なければ少ないほど、労働が肉体的および知的諸力の自由な活動として労働者に感じられることが少なければ少ないほど、一言にして言えば、労働の魅力が少なければ少ないほど、仕事はますます上記の注意力を必要とする。〉 (江夏・上杉訳168頁)

    そしてこうした自然力のもつ諸法則に自身の行動を従わせるために意志を働かせるということは、労働するために必要な肉体的な諸力能をそれに従わせて発揮するだけではなく、注意力として発揮される合目的的な意志が労働の継続期間全体にわたって発揮されるということでもあるのです。
   だからこのような精神的な集中力は、その労働がそれ自身の内容やその実行の仕方によって労働者自身を魅了することが少なければ少ないほど、つまり労働者の労働が彼自身の肉体的・精神的な自由な営みとして、それ自体が喜びとなることが少なければ少ないほど、そうした合目的的な意志の強さは必要とされるのです。

 (全体を9分割して掲載します。以下は(2)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(2)

2022-06-17 21:46:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(2)


◎第3パラグラフ(労働過程の三つの契機)

【3】〈(イ)労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。〉

  (イ) 労働過程の単純な諸契機は、
  (1)合目的的な活動または労働そのものと
   (2)その対象と
   (3)その手段です。

 さて、労働過程をその一般的な姿で見てみますと、それは三つの契機からなっていることが分かります。一つは労働そのもの、すなわち合目的的な活動です。二つ目は労働が働きかける対象です。そして三つ目はその労働を行うために使われる手段です。

  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働過程のところでわれわれが関心をもつのは、労働過程がそれらから成っているところの、また労働過程としての労働過程に帰属すべき、まったく一般的な諸契機だけである。これらの一般的な契機は、労働そのものの本性から朗らかにされなければならない。労働者が彼の労働能力の処分権を売る以前は、彼はこの労働能力を労働として実証すること、実現することはできなかった、--なぜなら労働能力は、それの実証の対象的諸条件から分離されていたからである。現実の労働過程ではこの分離が止揚される。いまや労働能力が働く、--なぜならそれは、自分の対象的諸条件をその本性に即して取得している[わが物としている〕からである。労働能力は自らを実証する、--なぜならそれは、それが自らを実現するためには欠くことのできない対象的諸要因と接触し、それらとともに過程にはいり、それらと結びつくからである。これらの要因は、まったく一般的に、労働手段と呼ぶことができる。しかし労働手段そのものは必然的に次の二つのものに、すなわち、加工される、そしてわれわれが労働材料〔Arbeitsmaterial〕と呼ぼうと思う、対象と、本来の労働手段、すなわち、、対象(この対象は用具〔Instrument〕である必要はなく、たとえば化学的工程〔Prozeß〕であってもよい)とに、分かれる。さらに詳しく分析してみれば、あらゆる労働にあって労働材料と労働手段とが使用されていることが、つねにわかるであろう。〉 (草稿集④85頁)


◎第4パラグラフ(労働対象。原料)

【4】〈(イ)人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる) は(1)、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象として存在する。(ロ)労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は、すべて、天然に存在する労働対象である。(ハ)それは、たとえばその生活要素である水から引き離されて捕えられる魚であり、原始林で伐り倒される木であり、鉱脈からはぎ取られる鉱石である。(ニ)これに反して、労働対象がそれ自体すでにいわば過去の労働によって濾過されているならば、われわれはそれを原料と呼ぶ。(ホ)たとえば、すでにはぎ取られていてこれから洗鉱される鉱石はそれである。(ヘ)原料はすべて労働対象であるが、労働対象はすべて原料であるとはかぎらない。(ト)労働対象が原料であるのは、ただ、すでにそれが労働によって媒介された変化を受けている場合だけである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる) は、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象として存在しています。労働によってただ大地との直接的な結びつきから引き離されるだけの物は、すべて、天然に存在する労働対象です。それは、たとえばその生活要素である水から引き離されて捕えられる魚であったり、原始林で伐り倒される木であったり、鉱脈からはぎ取られる鉱石などです。

    労働過程の三つの契機のうち、第一の労働については、すでに述べましたので、その次の労働対象について考えてみましょう。
 労働対象の本源的な存在は自然そのものです。
    労働は人間と自然との間の一過程だ、ということが指摘されました。つまり労働が対象とするのは自然そのものなのです。自然には最初から私たち人間の食料になるものが天然に存在しているものもあります。だから大地と結びついているものをただそこから引き離して我が物とするだけでよいようなものは、すべて天然の労働対象ということができます。それは魚や木や鉱石などです。魚はその生活の場である水から引き揚げられて捕らえられます。木は原始林に分け入って切り倒されれば、私たちに役立つものになります。鉱石も、ただ天然にある鉱脈から引き剥がされて得られるものです。すべてこれらの労働対象は労働が加えられる以前には、いまだまったく人の手が加えられていない状態にある対象であるという特徴を持っています。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) これに反して、労働対象がそれ自体すでにいわば過去の労働によって濾過されているならば、私たちはそれを原料と呼びます。たとえば、すでにはぎ取られていてこれから洗鉱される鉱石はそうです。原料はすべて労働対象ですが、労働対象はすべて原料であるとはかぎらないわけです。労働対象が原料であるのは、ただ、すでにそれが労働によって媒介された変化を受けている場合だけです。

    こうした天然の労働対象に対して、すでに何らかの人の手が加えられたものを労働の対象にするとき、それを私たちは原料と言います。例えば鉱脈からはぎ取られた鉱石が洗鉱の対象になる場合がそうです。それは採鉱労働によって得られた鉱石を洗鉱労働の対象にしているのであって、すでに以前の労働の産物を対象にすることになるからです。だから原料はすべて労働対象ですが、すべての労働対象が原料であるわけではありません。

  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働材料、すなわちある特殊的な欲望のために労働によって取得される〔わが物とされる〕べき対象が、人間労働の関与なしに天然に見いだされる、ということはありうるのであって、たとえば水中で捕えられる魚、あるいは原始林で切り倒される木、あるいは坑道から取り出される鉱石がそうである。したがって、〔この場合には〕それ自身が以前の人間の労働の生産物であるのは労働手段だけだ、ということになる。このことは、採取産業と呼ばれうるすべてのものを特徴づけるものであって、農業についてはこれは、処女地などに手が加えられるような場合にかぎって、あてはまることである。ただし農業では、種子は労働手段でもあり労働材料でもあり、また、すべての有機的なもの、たとえば畜産における動物も、その両者である。〉 (草稿集④85-86頁)


◎原注1

【原注1】〈1 「土地の天然産物は少量であり、また人間にはまったく依存しないものであるが、それが自然によって与えられているさまは、青年を勤勉と成功とに導くためにわずかな金額が与えられるのと同じことのように見える。」(ジェームズ・ステユアート『経済学原理』、ダブリン版、1770年、第1巻、116ページ。)〉

   これは〈人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(経済的には水もそれに含まれる) は(1)、人間の手を加えることなしに、人間労働の一般的な対象として存在する〉という本文につけられた原注です。つまり〈人間のために最初から食料や完成生活手段を用意している土地(あるいは水)〉につけられた原注ということです。ジェームズ・ステュアートは天然の産物は少量だが、しかし人間がまだ初期のころにそれを獲得して、さらなるものを得られるように発展するための基礎になるものであり、そのための導きになるものだという指摘をしているようです。
 マルクスはサー・ジェームズ・ステュアートを理論上重要な人物と見ていますが、ジェームズ・すステュアートについては、すでに以前、第2篇第4章の原注3の解説のなかで紹介しておきました。しかし前に遡って調べるのも面倒でしょうから、それをもう一度、再録しておきましょう。

   マルクスは『剰余価値学説史』をイギリスの経済学者サー・ジェームズ・ステュアートに関する研究から始めています。冒頭、次のように述べています。

  〈重農学派よりも前には、剰余価値--すなわち利潤、利潤という姿でのそれ--は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。〉 (草稿集⑤6頁、全集第36巻Ⅰ 8頁)

    また次のようにも述べています。

 〈資本の理解についての彼の功績は、特定階級の所有物である生産条件と労働能力とのあいだの分離過程が、どのようにして生じるかを指摘した点にある。資本のこの成立過程について、彼は、--それを大工業の条件としては理解しているとしても、まだそれを直接に資本の成立過程そのものとしては理解することなしに--大いに論じている。彼は、この過程を特に農業において考察している。そして、彼においては、正当に、農業におけるこの分離過程によってはじめてマニュファクチュア工業〔manufacturer Industrie〕がそのものとして成立する。この分離過程は、A・スミスの場合にはすでに完成したものとして前提されている。〉 (草稿集⑤10-11頁、全集第36巻Ⅰ 11頁)

   『資本論辞典』からも紹介しておきましょう。

  〈ステュアート ジェイムズ Sir James Steuart (1712-1780) イギリスの経済学者.……彼は,剰余価値を流通過程=交換から,すなわち,資本家がその商品を価値を超えた価格で販売するところから生ずる,という重商主義的見解にとどまっていた.ただしこの通俗的見解は,このような交換から生ずる剰余価値は,なお富の積極的増加であると解釈していたが,ステュアートは,それは商品の販売者の側における利得が購買者の側における損失によって相殺されるために,相対的利潤にすぎず,なんら富の積極的な増加を意味するものでないと解釈した.このことは,当時の支配的な通俗的見解を批判し,それから一歩抜けでていることを示している.……しかしステュアートはこのような剰余価値の性質をそれ以上は研究しなかった.マルクスは,ステュアートが重金主義および重商主義の見解を踏襲,整理していったあとを総括して,ステュアートの理論を‘重金主義および重商主義の合理的表現'あるいは,それらの‘科学的再生産者'とよんでいる.〉(504-505頁)


◎第5パラグラフ(労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である。)

【5】〈(イ)労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である。(ロ)労働者は、いろいろ物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる(2)。(ハ)労働者が直接に支配する対象は--完成生活手段、たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつのであるが、このような場合は別として--労働対象ではなく、労働手段である。(ニ)こうして、自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になる。(ホ)その器官を彼は、聖書の言葉(*)にもかかわらず、彼自身の肉体器官につけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばすのである。(ヘ)土地は彼の根源的な食料倉庫であるが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもある。(ト)それは、たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を供給する。(チ)土地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役だつためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提する(3)。(リ)およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とする。(ヌ)最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具や石製の武器が見いだされる。(ル)加工された石や木や骨や貝がらのほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じている(4)。(ヲ)労働手段の使用や創造は、萌芽としてはすでにある種の動物も行なうことだとはいえ、それは人間特有の労働過程を特徴づけるものであり、それだからこそ、フランクリンも人間を"a toolmaking animal"、すなわち道具を作る動物だと定義しているのである。(ワ)死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遣物がもっているのである。(カ)なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。(ヨ)労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある(5)。(タ)労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけでその全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、たとえば管や槽や籠や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかにより決定的な特徴を示している。(レ)容器としての労働手段は、化学工業ではじめて重要な役割を演ずるのである(5a)。
  (*) 「汝らのうち、たれか思いわずらいて身のたけ一尺を加え得んや。」マタイ伝第6章第27節、ルカ伝第12章第25節。--訳者〉

  (イ) 労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への彼の働きかけの導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体のことです。

    さて、労働過程の三つの契機のうち、最後の労働手段について考えてみましょう。最初にこの文節のフランス語版を見てみましょう。

  〈労働手段とは、人間が自分と自分の労働対象とのあいだに自分の行為の導体として置くところの、一つの物かまたは諸物の全体である。〉 (江夏・上杉訳169頁)

    つまり労働手段というのは、労働者が対象に働きかけるときに、自分と対象との間に差し入れて、自分の対象への働きかけの導体として役立てるものです。あるいはそうしたものの複合体全体のことを言います。

  (ロ) 労働者は、物のいろいろな機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、他のいろいろな物に働きかける力の手段として作用させます。

 同じくフランス語版です。

  〈人間は、数々の物の力学的、物理的、化学的属性を利用して、その物を、自分の目的に応じて他の物にたいする力として作用させる。〉 (同上)

    労働者はそうした労働手段となるいろいろな物の機械的・物理的・化学的な性質を利用して、それらを彼の目的に応じて、彼自身の力の延長として利用して、労働対象に働きかけるわけです。
    例えば熱した鉄を打つことは素手ではとてもできませんが、ハンマーを使えば、熱い鉄も容易に打って、自分が目的とする形状(鍬や鎌など)に変形させることができます。もちろん、この場合は鉄を熱する釜もハンマーも鉄を鍛えその形状を変えるための労働手段ということができます。

  (ハ)(ニ)(ホ) 労働者が直接に支配する対象は労働対象ではなく、労働手段です。しかし既成の生活諸手段、たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつのですが、このような場合は別とします。こうして、自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になるのです。その器官を、彼は、聖書の言葉(*)にもかかわらず、彼自身の肉体器官につけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばすのです。

   やはり最初にフランス語版を紹介しておきます。

  〈ふと眼に入った生活手段の取得--たとえば、人間の器官が人間に道具として役立つところの果実のもぎとり--を別にすれば、労働者は自分の労働の対象でなくその手段を直接に占有している、ということがわかる。こうして、労働者は外部の物を自らの活動の器官に変えるが、こういう器官を彼は、聖書にさからい自分の自然のままの身長を伸ばすようなやり方で、自分の器官につけ加えるのである。〉 (同上)

    労働者が直接手にするのは、天然のものをつかみ取りするような場合は別として、普通は労働手段なのです。天然のものをつかみ取りする場合は自分の手が労働手段として役立っています。こうしたものを除けば、普通は人類が最初に手にするのは、動物を撃ち殺して食料にするための石ころなどです。つまり自然なものがそのまま彼の活動の器官になるのです。彼が手にする石や木片などは彼自身の手の延長であり、彼の肉体の機能をそれらを導体として使って拡大させるものです。つまり彼はそれらによって彼自身の自然に備わった身体能力を引き伸ばしているわけです。
    フォークリフトを使うと、とても人間一人では動かせない大きな石も簡単に一人で動かせます。彼はフォークリフトをまるで彼自身の手足の延長のように操って極めて大きな力を発揮して、昔なら何百人という労働者が何日もかけてやる仕事を、たった一人で1日もかけずにやってしまうことができます。

    ここには〈その器官を彼は、聖書の言葉(*)にもかかわらず、彼自身の肉体器官につけ加えて、彼の自然の姿を引き伸ばすのである〉という文言が出てきます。*印には全集版と新書版には訳者注が付いています。全集版のものはすでに紹介しているので、ここでは新書版を紹介しておきます。

  〈*1〔「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の身長を1エレでも伸ばすことができようか」、新約聖書、マタイ、6・27、ルカ、12・25。聖書教会訳口語聖書では「自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」となっているが、ここではマルクスが使用したルター訳聖書から直訳した。〕〉 (新日本新書308頁)

  (ヘ)(ト)(チ) 土地は彼の根源的な食料倉庫ですが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもあります。それは、たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を供給します。土地はそれ自体一つの労働手段ですが、それが農業で労働手段として役だつためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提とします。

    まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈土地は、彼の本源的な食糧倉庫であるのと同様に、彼の労働手段の本源的な武器庫でもある。土地はたとえば、彼に、彼がこすったり、切ったり、圧したり、投げたりする等々のために用いる石を、供給する。土地は、それ自体が労働手段になるが、一連のほかの労働手段が すべてあらかじめ与えられていなければ、農業での労働手段として機能しはじめることはない。〉 (同上)

    すでに見ましたように、土地は果実など天然の食料を私たちに与えてくれるものであり、その限りでの天然の労働の対象でしたが、同時に土地は本源的に私たちに労働手段をあたえてくれるところでもあるのです。例えば土地はまず簡単に石ころを私たちに与えてくれます。それで私たちは物を切ったり、こすったり、圧したり、投げたりして自然の物を私たちの衣食住に役立つように加工します。もちろん、土地そのものも一つの労働手段ですが、しかし土地を労働手段として利用するようになるには、農業労働を前提しなければならず、それはある程度の労働とその手段の一連の発展があらかじめなされていなければなりません。農耕が本格的に始まるのは、日本でも弥生時代からだと言われていますが(しかし最近の研究では縄文時代にすでに始まっていたという説もあるようですが)、人類の歴史でもようやく新石器時代になってからです。

  (リ)(ヌ)(ル) およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とします。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具や石製の武器が見いだされます。加工された石や木や骨や貝がらのほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じています。

    フランス語版です。

  〈労働は、それが多少とも発展するやいなや、すでに加工された労働手段なしには済まされないであろう。最古の洞窟内には、石製の道具や武器が見出される。われわれの見るとおり、加工された貝や石や木や骨と並んで、飼い馴らされた動物、すなわち、労働によってすでに変化させられた動物が、本源的な労働手段のなかで第一線に現われる。〉 (同上169-170頁)

    ただ自然にある動植物をただ採集するだけの労働ではなく、ある程度の労働が発展してきますと、すでに加工された石器のような労働手段がなければならなくなります。最古の洞窟には石製の道具や武器がすでに見いだされています。旧石器時代には、ただ単に石を欠け砕いたものをそのまま使っていますが、新石器時代になると石を研いで鋭くするようになります。このような加工された石や貝や木や骨などと並んで、すでに飼い馴らされた動物、労働によって変化させられた動物が、労働手段として現れてきます。
    こうした飼い馴らされた動物として最初のものは犬だと言われています。犬が狼から分枝するのは、多分に人間がそれを飼い馴らしたことと関係しているとも言われています。犬は人間が野獣を狩る時の手段として役立っていたのです。

  (ヲ) 労働手段の使用や創造は、萌芽としてはすでにある種の動物も行なうことだとはいえ、それは人間特有の労働過程を特徴づけるものです。だからこそ、フランクリンも人間を"a toolmaking animal"、すなわち道具を作る動物だと定義しているのです。

    フランス語版です。

  〈労働手段の使用と創造は、ある種の動物のあいだに胚種状態で存在しているとはいえ、すぐれて人間労働を特徴づけるものである。したがって、フランクリンも、人間は道具をつくる動物(a toolmaking animal)である、という定義を与えている。〉 (170頁)

    道具を使うことは、ある種の動物のあいだには見ることができます。例えばある水鳥は木片を水に浮かべてそれに近寄ってくる魚を捕食する術を知っています。またチンパンジーは木を手の延長として利用して、遠くのものを引き寄せたりすることができます。
    しかし労働手段を使い、それを創造・発展させるのは、人間に固有のものです。だからフランクリンも人間は道具を作る動物だという定義を与えているのです。

    フランクリンについては、これまでにも何度か出てきましたが、以前に紹介した『資本論辞典』からの抜粋をもう一度紹介しておきましょう。

  〈フランクリン Benjamin Franklin (1708-1790) アメリカの政治家.ボストンに生まれ,はじめは出版業者・科学者.1757年からは政治家.外交官として活躍.アメリカ独立運動では大きな役割を演じ,1776年には独立宣言起草委員に任命され,1787年憲法制定会議では大小の州のあいだの利益調停のため努力した.またアメリカにおける啓蒙運動のもっとも署名な代表者として,著述家でもあった.生まれながらの自由主義者,功利主義者であり,典型的なアメリカ人であり,マルクスも,彼をブルジョア的生産諸関係が輸入されて急速に生長した新世界の人だと評価し,彼の"人間は道具をつくる動物だ"という言葉はヤンキー主義の特徴を示すものとした.マルタスは,彼が,ウィリアム・ペティ以後はじめて商品価値の本性が労働であることを意識的に明確にした人であり,"近代的な経済学の根本法則を定式化した"人と高く評価……『資本論』第1巻第4章では,彼の"戦争は盗奪であり,商業は詐取である"という言葉を引用して,それは,商品所有者間に寄生的に介在する商人の詐取的な性格を示すものとしている。(KⅠ-171-172:青木2-310-311 ;岩波2-40-41)……以下略〉(540頁)

  (ワ)(カ)(ヨ) 死滅した動物種属の身体組織の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遣物がもっているのです。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するからです。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもあるのです。

    フランス語版です。

  〈滅亡した動物種属の構造の認識にたいして石化した骨の構造がもっているのと同じ重要さを、昔の労働手段の残骸は、消滅した社会の経済的形態の研究にたいしてもっている。ある経済時代を他の経済時代から区別するものは、作られるものよりも作る仕方、作るために用いる労働手段なのだ。労働手段は、労働者の発達の測度器であり、彼の労働がそのなかで行なわれる社会的関係の指数である。〉 (170頁

    恐竜の化石は生きた恐竜がどのような身体構造をしていたのかを私たちに知らせてくれます。それと同じように、遺跡から発掘される石器や土器などの労働手段はそれらのすでに死滅した経済的な社会構成体がどういう社会であったのかを私たちに教えてくれるものなのです。というのは、何が作られるかではなく、どのような労働手段で、どのように作られるかが、人類の歴史の経済的な諸時代を区別するメルクマールになるからです。だから労働手段は、労働者の労働の発達度を測る測度器になっています。また彼の労働が行われる社会的諸関係がどういうものであるのかを表しているものでもあるのです。
    封建社会では農耕はせいぜい鍬や鋤で行われているだけです。しかし大規模のトラクターによる耕作は、資本主義的な諸関係の下での農業を表しています。

  (タ)(レ) 労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけでその全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、たとえば管や槽や籠や壷などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかにより決定的な特徴を示しています。容器としての労働手段は、化学工業ではじめて重要な役割を演ずるのです。

    まずフランス語版です。

  〈しかし、その全体を生産の筋骨系統と名づけうるような力学的労働手段は、労働対象または労働生産物を受け取り保存することに役立つだけでその全体がいわば生産の血管系統を形成しているような労働手段、たとえば容器、籠、壷、水差しなどに比べて、ある経済時代のはるかに特徴的な性格を示している。後者の労働手設は、化学工業においてはじめて、いっそう重要な役割を演じはじめるのである。〉 (170頁)

    労働手段が経済的な諸時代を区別するメルクマールになると言いましたが、同じ労働手段でも、特にその全体が生産の筋骨系統と名付けうるような力学的な労働手段、例えばあらゆる道具や機械などは、そうしたメルクマールとしての役割をよく果たしますが、しかし同じ労働手段でも労働対象や労働生産物を受け取り保存するのに役立つようなもの、いわば生産の管脈系統ともいうべきもの、例えばあらゆる容器、籠、壺、樋などは、そうした役割としては弱いものです。こうした管脈系統の労働手段は、化学工業ではいっそう重要な役割を果たしています。


◎原注2

【原注2】〈2 「理性は有力であるとともに狡智に富んでいる。その狡智がどういう点にあるかと言えば、それは、自分は過程にはいりこまないで、もろもろの客体をそれらの本性にしたがって相互に作用させ働き疲れさせて、しかもただ自分の目的だけを実現するという、媒介的活動にある。」(へーゲル『哲学体系』、第1部『論理学』、ベルリン、1840年、382ベージ。〔岩波文庫版、松村訳『小論理学』、下巻、204ページ。〕)〉

    これは〈労働者は、いろいろ物の機械的、物理的、化学的な性質を利用して、それらのものを、彼の目的に応じて、ほかのいろいろな物にたいする力手段として作用させる(2)〉という本文につけられた原注です。
    これはヘーゲルの『小論理学』の第3部「概念論」「B 客観」の「c 目的的関係」の中にある有名な「理性の狡智」という一節です。これは〔補遺〕の冒頭部分ですが、本文は次のようになっています。

  〈(3) 手段をもってする目的活動はまだ外へ向かっている。なぜなら、この場合目的はまだ一面において客観と同一ではなく、したがってこれから客観へ媒介されなければならないからである。手段は客観であるから、この第二の前提のうちで、推理のもう一つの端項、すなわち前提されたものとしての客観性、素材と直接的に関係している。この関係は機械的関係および化学的関係の領域であって、それは今や目的に仕えており、その真理および自由な概念が目的なのである。主観的目的は、客観的なものがそのうちで相互に磨滅しあい揚棄しあう諸過程を支配する力として、自分自身はそうした過程のにありながらしかもそのうちに自己を保持している。これが理性の狡智である。〉(岩波文庫版下203-204頁、下線は傍点による強調箇所)

    また『大論理学』では次のようになっています。

  〈目的が直接に或る客観に関係してこれを手段にするということ,ならびに目的が手段によって他の客観を規定するということは,目的が客観とは全く別の本性をもつものとしてあらわれ,また両客観が相互に自立的な総体性であるかぎり,暴力とみなすことができる。しかし目的が自身を客観との間接的な関係のうちにおき,自分と客観との間に他の客観を挿入する(einschieben) ということは,理性の狡智とみることができる。……目的は,いまや客観を引き出して手段となし, 自分に代ってこの客観に外的に労役をやらせ,その身を疲労困ばいせしめる。しかも自分は,その客観の背後に身を置いて,機械的暴力に侵されることなく,超然と控えている。〉(『大論理学,下巻』武市健人訳、岩波書店,33頁)


◎原注3

【原注3】〈3 ほかの点ではみじめな著作『経済学の理論』(パリ、1815年)のなかで、ガニルは、重農学派に反対して、本来の農業の前提となる多数の労働過程を適切に数えあげている。〉

    これは〈土地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役だつためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提する(3)〉という本文につけられた原注です。
    マルクスがここで指摘している〈本来の農業の前提となる多数の労働過程を適切に数えあげている〉ということの内容については調べることはできませんでした(『学説史』にも該当するものはなかった)。ここでは『資本論辞典』からこの原注に関連する部分だけを紹介しておきましょう。

  〈ガニール,Charles Ganilh(l758-1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.フランス革命時代およびその後のナポレオン帝政時代に多くの公職につく.……マルクスは‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した.……『資本論』第1巻第5章では,農業で労働手段として土地を利用するのに,前提となるべき諸労働過程の大きな系列を彼が適切に数えあげていると指摘している(KI-187;青木2-233;岩波2-70).この指摘は.さきの彼の主著と異なり,『剰余価値学説史』でマルクスが‘未見の書'とした彼の《Théorie de l'economie politique,etc》(1815)によっている.〉(480-481頁)

  (以下は、(3)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(3)

2022-06-17 21:15:27 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(3)


◎原注4

【原注4】〈4 『富の形成と分配の考察』(1766年)〔津田訳『テュルゴ経済学著作集』、所収〕のなかで、テュルゴは、文化の初期にとっての馴らされた動物の重要さを手ぎわよく述べている。〉

    これは〈加工された石や木や骨や貝がらのほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じている(4)〉という本文につけられた原注です。
    この原注に少しは関連すると思えるものを『剰余価値学説史』から紹介しておきましょう。

  〈テュルゴーは労働条件を次のように分析している。
  「どんな職業でも、労働者は、あらかじめ道具を持ち、自分の労働の対象である材料を十分に持つことが必要である。また労働者は、彼の製品が売られるのを待つあいだ生活しなければならない。」(『富の形成と分配についての諸考察』(1766年)。『テュルゴー著作集』、デール版、第1巻、パリ、1844年、34ページ。〔岩波文庫版、永田清訳『チュルゴオ富に関する省察』、69ページ。〕)
  すべての、こうした前貸は、そのもとでのみ労働が行なわれうるところの条件であり、したがって労働過程の前提なのであるが、本源的には土地が無償で提供したものである。
  「土地は、いっさいの耕作に先立つ前貸の最初の財源を提供した」。それは、果実、魚、野獣等々としでであり、また木の枝や石のような道具としてであり、家畜としてであった。この家畜は、生殖過程によって幾倍にもふえるが、そのほかに次のような年々の生産物をも与える、すなわち「ミルク、羊毛、皮革、その他の材料である。これらは、森林で得た木材とともに、工業製品の最初の財源となった。」(同前、34ページ。〔永田訳、69-70ぺージ。〕)〉 (全集第26巻Ⅰ 30-31頁)

    また『資本論辞典』からも関連する部分を紹介しておきます。

  〈テュルゴ Anne Robert Jacques Turgot(1727-1781) フランスの経済学者・政治家.……『剰余価値学説史』第1部第2章で指摘されているように,テュルゴはこの前払資本が最初はいっさいの耕作にさきだって土地により無償で提供されたと鋭明している(MWI-24; 青木 1-69-70).つまりそれらは野生の植物であり,木・石製の道具であり,野獣であり, しかも野獣は飼い馴らされて家畜となり食用および労働に使用され,さらに自然に繁殖し乳類・羊毛その他のような年生産物以上のものを提供したのである.したがって家畜は土地の耕作以前に動的富であったのであり,テュルゴは土地所有による農耕社会にいたるまでの狩猟・牧畜という経済生活の発展をこの動的富の所有形態によって説明し,さらに奴隷もまた他種の動的富として,これが耕作労働以外のすべての労働に使用されえたこと,したがって土地それ自体と交換されうる価値を持つにいたったことをのべている.……
  上述のように,マルクスは『資本論』各巻でテュルゴを引用したのち『剰余価値学説史』第1部第2章で集中的に論じている.マルクスは重農主義体系を本質的には封建的生産体制の廃墟にたつブルジョア的生産体制を宣言した体系と規定し,テュルゴがその重農主義体系の発展の極と指摘し,彼が重農主義者の虚偽の封建的仮象にもかかわらず, 1776年のブルジョア的経済大改革によってフランス革命を案内したとのべている.〉(519-521頁)


◎原注5

【原注5】〈5 (イ)すべての商品のうちで、本来の奢侈品は、いろいろな生産時代の技術学的比較のためには最も無意義なものである。〉

  (イ) すべての商品のうちで、本来の奢侈品というのは、いろいろな生産時代の技術学的比較のためには最も意義のないものです。

    これは〈労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある(5)〉という本文につけられた原注ですが、マルクス自身によるものです。
    労働手段が労働が行われるその時代の社会的諸関係を表すものだといっても、本来の奢侈品を作るための労働手段というものは、そうした生産時代の技術学的な比較のためには最も意義のないものだということのようです。やはりそれぞれの生産時代を特徴づけるものは、社会的生活を主要に支える物的な生産であり、そのための技術がそれぞれの時代を特徴づけるものだということでしょうか。
    例えば封建社会では鍬や鋤が農耕社会の基本的な生産道具であり、技術でしたが、資本主義社会では機械制大工業が発展してきます。また同じ資本主義社会でも産業資本主義の勃興期には鉄鋼業や鉄道がその時代を特徴づけますが、やがてモータリゼーションが興って自動車がそれに取って代わり、今では電子計算機が主要な労働手段となっていると言えるのかも知れません。


◎原注5a

【原注5a】〈5a 第2版への注。(イ)これまでの歴史記述は、物質的生産の発達、すなわちすべての社会生活の基礎、したがってまたすべての現実の歴史の基礎をほとんど知らないのであるが、少なくとも先史時代は、自然科学的な、いわゆる歴史ではない研究にもとづいて、道具や武器の材料によって石器時代と青銅時代と鉄器時代とに区分されている。〉

  (イ) これまでの歴史の記述では、物質的生産の発達について注意を払ってきませんでした。つまりすべての社会生活の基礎、だからまたすべての現実の歴史の基礎というものをほとんど知らないといえます。しかし少なくとも先史時代については、自然科学的な、いわゆる歴史ではない研究(考古学?)にもとづいて、道具や武器の材料によって石器時代と青銅器時代と鉄器時代とに区分されています。

    これはこのパラグラフの末尾につけられた原注です。だからその直前の文節に対するものというよりむしろこのパラグラフ全体に付けられものと考えられます。平易に書き直した以上の解説は不要でしょう。
 ではマルクス自身は、歴史をどのように区分しているのでしょうか。よく知られたものとしては『経済学批判』の序言に次のような叙述があります。長いですが、紹介しておきましょう。

 〈私の研究の到達した結果は次のことだった。すなわち、法的諸関係ならびに国家諸形態は、それ自体からも、またいわゆる人間精神の一般的発展からも理解されうるものではなく、むしろ物質的な諸生活関係に根ざしているものであって、これらの諸生活関係の総体をへーゲルは、18世紀のイギリス人およびフランス人の先例にならって、「市民社会」という名のもとに総括しているのであるが、しかしこの市民社会の解剖学は経済学のうちに求められなければならない、ということであった。……私の研究にとって導きの糸として役だった一般的結論は、簡単にいえば次のように定式化することができる。人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。経済的基礎の変化とともに、巨大な上部構造全体が、あるいは徐々に、あるいは急激にくつがえる。このような諸変革の考察にあたっては、経済的生産諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、それで人間がこの衝突を意識するようになり、これとたたかって決着をつけるところの法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単にいえばイデオロギー諸形態とをつねに区別しなければならない。ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない。一つの社会構成は、それが生産諸力にとって十分の余地をもち、この生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で艀化されてしまうまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、もっと詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。大づかみにいって、アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式が経済的社会構成のあいつぐ諸時期として表示されうる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかしブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。したがってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる。〉 (全集第13巻9-7頁)

    ここでマルクスが歴史的な時代区分として述べている〈アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式〉というのは、アジア的生産様式(アジア的専制主義)、奴隷制生産様式、封建的生産様式、資本主義的生産様式と言い換えることもできると思います。そしてこれらは〈社会的生産過程の……敵対的形態〉における区分であり、いまだ〈敵対的形態〉が生まれていない原初的な形態である「原始共同体」はそれらに先行するものとして存在していると思えます。また当然、こうした〈最後の敵対的形態〉のあとに生まれる社会構成体である社会的(アソシエートした)生産様式も歴史的な時代区分としては入れられるべきでしょう。


◎第6パラグラフ(もっと広い意味での労働働手段)

【6】〈(イ)もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介ししたがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行なわれるために必要なすべての対象的条件がある。(ロ)それらは直接には過程にはいらないが、それらなしでは過程はまったく進行することができないか、またはただ不完全にしか進行することができない。(ハ)この種類の一般的な労働手段はやはり土地そのものである。(ニ)なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所〔locus standi〕を与え、また彼の過程に仕事の場(fild of employment)を与えるからである。(ホ)この種類のすでに労働によって媒介されている労働手段は、たとえば作業用の建物や運河や道路などである。〉

  (イ)(ロ) もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数えるものとしては、その対象への労働の働きかけを媒介し、したがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、およそ過程が行なわれるために必要なすべての対象的条件があります。それらは直接には過程に入りませんが、それらなしでは過程はまったく進行することができないか、またはただ不完全にしか進行することができないようなものです。

    さて、労働手段について基本的な点を確認してきましたが、しかし労働手段にはこれまで論じてきたものには納まらないものもあります。それはもっと広い意味で労働過程がその手段にするようなものです。それは労働が行われるために必要なすべての対象的な諸条件ともいうことができるでしょう。それらは直接には労働過程には入りませんが、しかしそれらなしでは労働できないようなものや、不完全にしか労働できないような条件のことです。

  (ハ)(ニ) この種類の一般的な労働手段はやはり土地そのものです。なぜならば、土地は、労働者に彼の立つ場所〔locus standi〕を与え、また彼の過程に仕事の場(fild of employment)を与えるからです。

    そうしたものとしてまず第一に挙げられるのが土地そのものです。土地は労働者に彼が立って仕事をする場所を与えてくれますし、また仕事場そのものもまずは土地を前提として成り立っています。
    土地以外に自然にある広い意味での労働手段としては何があるでしょうか? 河川は農業に水を供給してくれるという意味では広い意味での労働手段です。あるいは昔なら動力源としての落流などもそれに入るかも知れません。

  (ホ) この種類のうちで、すでに労働によって媒介されている労働手段としては、たとえば作業用の建物や運河や道路などです。

    そうした広い意味での労働手段としては、土地のような自然的な存在だけではなくて、すでに何らかの人の手の加わったものとしては、例えば作業用の建物であるとか運河や道路などが挙げられます。
    それに以外にも人の手の加わった広い意味での労働手段としては何があるかを考えてみてください。ダムやドックなどもそうしたものの一つでしょう。


◎第7パラグラフ(労働過程の結果としての生産物)

【7】〈(イ)要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。(ロ)この過程は生産物では消えている。(ハ)その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。(ニ)労働はその対象と結びつけられた。(ホ)労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。(ヘ)労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。(ト)労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。〉

  (イ)(ロ) 要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのです。しかしこの過程そのものは生産物では消えています。

    これまでで労働過程の三つの契機をすべて考察しました。要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って、労働対象に前もって企図された変化を引き起すわけです。この過程そのものは、その過程の結果である生産物では消えています。
 私たちは店頭に並んでいる商品、例えばリンゴを一つとっても、それが店頭に並ぶまでにどれだけの人の手が加えられているのかはまったく分かりません。すべての労働過程がそこでは消えてしまっているからです。

  (ハ) その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材です。

    しかしいずれにせよ、生産物というのはある使用価値です。すなわちその形態が変化させられて私たちの欲望を満たすようなものになった自然素材なのです。
    机や椅子は、木という素材から出来ていますが、しかし自然に生えている木を伐採して、乾燥させ、さらに製材し、そして最終的に木工労働によって机や椅子に形態変化させられて、それらは初めて私たちに役立つものになるのです。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 労働はその対象と結びつけられました。労働は対象化されており、対象は労働が加えられています。労働者の側では不静止の状態であったものが、今では静止した性質として、ある物の存在の形態で、すなわち生産物の側に現われています。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものです。

    この机や椅子という生産物を産み出す過程で、労働はその対象と結びついて、生産物として結果として出てきます。最初の伐採労働は自然林という対象と結びついて、木材という生産物を産み出しました。その木材が今度は製材労働の対象となり、材木という生産物を産み出します。そして材木は木工労働の対象となり、机や椅子という生産物を産み出します。それらのすべての過程で、労働はその対象と結びつき、対象化され、対象に労働が加えられて生産物が産み出されているのです。
 労働者の側では労働は不静止の状態であった(つまり流動状態であった)が、生産物の側ではそれは制止されたものとして、その生産物の性質や形状の変化のうちに現れています。労働者は紡いだのであり、糸は生産物として紡がれたものとして生まれてきたのです。

    このパラグラフと関連すると思える『61-63草稿』の一文を紹介しておきます。

  〈労働過程の結果は、この結果がまだ労働過程そのものとの関連で考察されるかぎり、すなわち結晶した労働過程--この過程のさまざまな要因は、静止している対象として、主体的活動とその素材的内容との結合物として、一つになっている--としては、生産物である。しかしこの生産物がそれだけで〔für sich〕、すなわちそれが労働過程の結果として現われるときにとっている自立性において、考察されれば、それはある一定の使用価値である。労働材料は、労働過程全体がそれを作りだすことを目的としていたところの、またそれが推進的目的として労働そのものの特殊的な仕方様式を規定していたところの、形態、規定された諸属性、を受け取った。この生産物は、それがいまでは結果としてここにあるという、したがって労働過程が、過ぎ去ったものとして、その生成の歴史として生産物の背後にある、というかぎりでは、ある使用価値である。〉 (草稿集④104頁)


◎第8パラグラフ(労働過程の三つの契機を結果である生産物から見た場合)

【8】〈(イ)この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段(6)として現われ、労働そのものは生産的労働(7)として現われる。〉

  (イ) この全過程をその結果である生産物の立場から見ますと、労働過程の三つの契機のうち二つのもの、すなわち労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われるのです。

    労働過程の結果として生産物が産み出されましたが、この生産物からそれを産み出した労働過程を振り返ってみるとき、労働過程の三つの契機は、また違った形態規定を受け取ります。まず労働手段と労働対象の二つは生産手段として現れます。そして労働そのものは生産的労働として現れるのです。つまり労働過程は生産物を産み出す生産過程であることが分かるのです。

    ここでも関連する一文を『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈労働そのものとの関連で考察された労働過程の諸契機は、労働材料、労働手段、および労働そのもの、と規定されている。これらの契機を全過程の目的、生みだされるべき生産物との関連において考察すれば、それらは、生産材料〔Produktionsmaterial〕、生産手段、および生産的労働、と名づけることができる。(あるいは、この後者の表現は〔適切では〕ないかもしれない。)〉 (草稿集④102頁)


◎原注6

【原注6】〈6 (イ)たとえば、まだつかまえられていない魚を漁業の生産手段と呼ぶということは、奇妙に思われる。(ロ)しかし、魚のいない水から魚をつかまえる術は、これまでのところではまだ発明されていないのである。〉

  (イ)(ロ) たとえば、まだつかまえられていない魚を漁業の生産手段と呼ぶということは、奇妙に思われます。しかし、魚のいない水から魚をつかまえるすべは、これまでのところではまだ発明されていないのですから、そう呼ぶしかありません。

    これは〈この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段(6)として現われ〉という本文に付けられた原注です。労働手段と労働対象を生産手段と呼ぶ場合、漁業の労働対象である水中を泳ぐ自然にある魚が魚を捕獲する場合の生産手段だということになりますが、それは奇妙に思われます。しかし、魚のいない水から魚をつかまえる方法は、まだ発明されていませんから、そう呼ぶしかないというのです。
    採取産業の場合、労働対象はほぼ自然にあるものですから、それらもやはり生産手段ということができるわけですがやや逆説的に聞こえることは否めません。例えば地下に鉱物として存在する石炭は、石炭を生産するための生産手段だというのは何か同義反復のような気がしないでもありません。採取産業にはこうした奇妙な外観がつきまとうように思われます。


◎原注7

【原注7】〈7 (イ)このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。〉

  (イ) このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではありません。

    これは〈労働そのものは生産的労働(7)として現われる〉という本文につけられた原注です。フランス語版ではもっと簡潔に次のように言われています。

  〈(8) 生産労働というこの規定は、資本主義的生産が問題となるやいなや、全く不充分になる。〉 (江夏・上杉訳171頁)

    この〈資本主義的生産が問題となるやいなや、全く不充分になる〉ということを理解するために、参考になるものとして、一つは『直接的生産過程の諸結果』から、もう一つは『資本論』第1部第5篇 「第14章 絶対的および相対的剰余価値」の冒頭部分から紹介しておきましょう。まずは『諸結果』からです。

  〈資本主義的生産の直接的目的でありその固有の生産物であるのは剰余価値である。それゆえ、直接に剰余価値を生産する労働だけが生産的であり、[自己の]労働能力をそのように行使する者だけが生産的労働者である。したがって、資本を価値増殖させるために生産過程で直接消費される労働だけが生産的である。
  労働過程一般の単純な観点からは、生産的労働として現われるのは、ある生産物に、もっと言えばある商品に実現される労働である。しかし、資本主義的生産過程の観点からは、次のようなより進んだ規定が追加されなければならない。すなわち、生産的であるのは、資本を直接に増殖させる労働、つまりは剰余価値を生産する労働である。〉 (光文社古典文庫255-256頁)
  〈資本主義的労働過程は労働過程の一般的な規定性を廃棄(アウフヘーベン)しない。それが生産するのは生産物と商品である。そのかぎりで、使用価値と交換価値との統一としての商品に対象化される労働は依然として生産的である。しかし、労働過程は資本の価値増殖過程にとっての手段でしかない。したがって、商品に表わされる労働は生産的なのだが、個々の商品を考察する場合には、その商品の一可除部分に表わされる不払労働が生産的なのであり、総生産物を考察する場合には、総商品量のうち不払労働をもつぱら表わしている一可除部分、したがって資本家にとって何の費用もかかっていない生産物を表わしている労働が生産的なのである。
  生産的である労働者とは、生産的労働を行なう労働者のことであり、生産的である労働とは、直接に剰余価値を生み出す労働、すなわち資本を増殖させる労働のことである。〉 (同256-257頁)
  〈だが労働者が生産的であるのは、その労働過程が、資本ないし資本家による労働能力の--この労働の担い手の--生産的消費過程である場合だけである。〉 (同258頁)
  〈生産的労働とは、労働能力と労働とが資本主義的生産過程において役割を果たすその関係の全体およびそのあり方を要約的に表現するものでしかない。したがって、われわれが生産的労働について語るなら、われわれは社会的に規定された労働のことを語っているのであり、労働の売り手と買い手とのある一定の関係全体を包括する労働のことを語っているのである。〉 (同265-266頁)

   次は『資本論』第14章から。

  〈労働過程は、まず第一に、その歴史的諸形態にはかかわりなく、人間と自然とのあいだの過程として、抽象的に考察された(第5章を見よ)。そこでは次のように述べられた。「労働過程全体をその結果の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。」そして、注7では次のように補足された。「このような生産的労働の規定は、単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない。」これが、ここではもっと詳しく展開されるのである。
  労働過程が純粋に個人的な過程であるかぎり、のちには分離してゆく諸機能のすべてを同じ一人の労働者が一身に兼ねている。彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的に獲得する場合には、自分自身を制御する。のちには彼が制御される。個々の人間は、彼自身の筋肉を彼自身の脳の制御のもとに活動させることなしには、自然に働きかけることはできない。自然の体制では頭と手が組になっているように、労働過程は頭の労働と手の労働とを合一する。のちにはこの二つが分離して、ついには敵対的に対立するようになる。およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体労働者の共同生産物に、すなわち労働対象の取扱いに直接または間接に携わる諸成員が一つに結合された労働要員の共同生産物に、転化する。それゆえ、労働過程そのものの協業的な性格につれて、必然的に、生産的労働の概念も、この労働の担い手である生産的労働者の概念も拡張されるのである。生産的に労働するためには、もはやみずから手を下すことは必要ではない。全体労働者の器官であるということだけで、つまりその部分機能のどれか一つを果たすということだけで、十分である。前に述べた生産的労働の本源的規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、全体として見た全体労働者については相変わらず真実である。しかし、個別に見たその各個の成員には、それはもはやあてはまらないのである。……以下、略〉 (全集版659-660頁)


◎第9パラグラフ(生産物は、労働過程の結果であるとともに、その条件でもある)

【9】〈(イ)ある一つの使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ以前のいくつもの労働過程の生産物である別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいって行く。(ロ)この労働の生産物であるその同じ使用価値が、あの労働の生産手段になる。(ハ)それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもあるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) ある一つの使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ以前のいくつもの労働過程の生産物である別の使用価値は生産手段としてこの労働過程にはいって行きます。この労働の生産物であるその同じ使用価値が、あの労働の生産手段になるわけです。それだから、生産物は、労働過程の結果であるだけではなく、同時にその条件でもあるのです。

    これはすでに述べた例を振り返っても分かります。木を製材する製材労働の過程は、木材を生産する伐採労働を前提し条件としています。また材木から机や椅子を生産する木工労働は、いうまでもなく材木を生産する製材労働を前提し条件としています。それぞれの労働過程の結果である生産物(木材、材木)は、最終生産物である机や椅子の生産の条件になっているのです。

    同じような問題を論じている『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈生産物は労働過程の結果である。まったく同様に、生産物は労働過程の前提としても現われるのであって、労働過程はこれらの生産物で終わるのではなく、それらが定在することを条件として出発する。労働能力そのものが一つの生産物であるばかりでなく、労働者が彼の労働能力の販売と引き換えに、貨幣所有者から貨幣として受け取る生活手段がすでに、個人的消費のために完成している生産物である。同様に彼の労働材料と労働手段も、そのうちのどちらか、またはその両者が、すでに生産物である。つまり生産にはすでに生産物が、すなわち個人的消費のための生産物ならびに生産的消費のための生産物が、前提されているのである。本源的には自然そのものが貯蔵庫であって、人間--人間も同様に自然の産物〔Naturptodukt〕として前提されているのであるが--はこの貯蔵庫のなかに、消費できる出来あいの自然の産物を見いだし、また一部は、彼自身の身体の諸器官のなかに、これらの産物を取得する〔わが物とする〕ための最初の生産手段を見いだす。労働手段、生産手段は、人間が生産する最初の生産物であって、たとえば石、等々のようなその最初の諸形態も、彼が自然のなかに見いだすものなのである。〉 (草稿集④102-103頁)


◎第10パラグラフ(特別な場合を除き、労働対象も労働手段もほぼ以前の労働の生産物である)

【10】〈(イ)鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで) のように、その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物である。(ロ)たとえば農業における種子がそれである。(ハ)自然の産物とみなされがちな動植物も、おそらくは前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態にあっては、多くの世代をつうじて人間の制御のもとに人間労働を介して継続された変化の産物である。(ニ)しかし、特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも過去の労働の痕跡を示しているのである。〉

  (イ)(ロ) 鉱山業や狩猟業や漁業など(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで) のように、その労働対象が天然に与えられている採取産業を除いて、他のすべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわちすでに労働によって濾過された労働対象であり、それ自身すでに労働生産物です。たとえば農業における種子がそうです。

    生産物が労働過程の結果であるだけではなく、その条件でもあるということは、しかし採取産業、例えば鉱山業や狩猟業、漁業などでは必ずしも当てはまりません。というのはすでに述べましたように、これらの場合の労働対象は自然にあるものだからです。しかしこれら場合も例えば鉱山業で使うハンマーや畚などは別の労働過程の生産物です。漁業も魚を獲る網や釣り針なども別の労働過程の生産物です。
    だからこうした採取産業以外の産業では、その生産手段はほぼ別の労働過程の生産物であるといえます。ただ例えば農業における種籾などはそれ自身の労働過程の結果であり、生産物です。同じことは石炭産業でもその石炭の採掘で燃料として使われる石炭は同じ労働過程の生産物といえます。

  (ハ) 自然の産物とみなされがちな動植物も、おそらくは前年の労働の生産物であるだけではなく、その現在の形態にあっては、多くの世代をつうじて人間の制御のもとに人間労働を介して継続された変化の産物なのです。

 この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈通例自然の生産物と見なされている動物や植物は、その現在の形態では、たんに前年の労働の産物であるばかりでなく、数世紀のあいだ人間労働の監督と世話のもとで継続されてきた変化の産物でもある。〉 (江夏・上杉訳172頁)

    採取産業ではなく、農耕や牧畜で労働手段や労働対象になっている動植物も、単に自然にあるものというより、すでに何らかの、あるいは何世代にもわたる人間労働によって継続的に変化させられた生産物だということができます。農耕で使われる役蓄はいうまでもありませんが、植えられる小麦や稲なども長い時間をかけて人間の手で品種改良されてきたものです。

  (ニ) しかし、特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに浅い観察眼にも分かるような過去の労働の痕跡を示しているのものです。

    農業における労働対象であるものは、自然にある動植物自身の物質代謝を人間が意識的に統制・管理して必要な結果を生産物として生み出すので、労働対象が人間労働の一つの結果であることは見えにくくなっていますが、しかし同じ生産手段でも労働手段の場合は、誰が見てもそれが一つの労働の結果であり、生産物であることは分かります。農業で使う鋤や鍬にしても鉄を鍛えてそれらを生産した鍛冶労働の生産物であることは誰でもわかります。

    このパラグラフに関連すると思われる一文を『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈労働材料は、粗生産物〔Rohproduktion〕を除けば、つねに、それ自身すでにもっとまえの或る労働過程を通過してきたものであろう。ある労働部門で労働材料として、したがってまた原料〔Rohmaterial〕として現われるものが、他の労働部門では結果として現われる。天然産物と見なされているものでさえその大多数は、たとえば多くの動植物は、いま人間によって利用されているような、また重ねて生みだされているような形態では、多くの世代を通じて人間の制御を受けつつ人間労働に媒介されて進行してきた変移の結果なのであって、この変移のなかでそれらの形態も実体も、変わってしまっているのである。同様に、すでに述べたように、ある労働過程における労働手段は、他の労働過程における労働の結果である。〉 (草稿集④87-88頁)


◎第11パラグラフ(原料には主要材料と補助材料とがある)

【11】〈(イ)原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありうる。(ロ)補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助ける。(ハ)主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになる。(ニ)なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として現われるものはなにもないからである(8)。〉

  (イ) 原料は、ある生産物の主要実体をなすことも、またはただ補助材料としてその形成に加わることもありえます。

    労働対象のうちすでに以前の労働の生産物であるものを原料と言いますが、原料には労働過程の結果である生産物の主要な実体をなすものと、ただ補助材料としてその生産物の形成にかかわるものとがあります。
 例えば、机や椅子の原料となる材木の場合、それは机や椅子の実体として引き継がれますから、それは主要材料といえますが、その木工過程で出てくる木屑は作業場の暖房のために使われるなら補助材料といえます。

  (ロ) 補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素がまだ漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすためにつけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や採暖のために用いられる材料のように、労働の遂行そのものを助けるものです。

    補助材料というのは、生産手段によって労働過程において消費されるものです。例えば石炭が蒸気機関によって消費され、油が車軸によって消費され、乾草がひき馬によって消費されるようにです。
    こうした補助材料には、上記のように労働手段を維持するために使われるものと、原料のうちに素材的な変化をもたらすために使用されるものとがあります。後者のものとしては、リンネルを漂白する塩素であるとか、鉄を熱する石炭であるとか、羊毛を染める染料であるとかなどです。
    さらに補助材料には、作業場の照明や暖房に用いられる材料などのように、労働を遂行することを助けるものもそのうちに入ります。

  (ハ)(ニ) 主要材料と補助材料との区別は本来の化学工業ではあいまいになります。なぜならば、充用された諸原料のうちで再び生産物の実体として現われるものはなにもないからです。

    この部分のフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈主要材料と補助材料との差異は、使用された材料がどれも生産物の実体としては再現しない厳密な意味での化学工業では、区別されなくなる。〉 (江夏・上杉訳172頁)

    しかし主要原料と補助材料との区別は、本来の化学工業ではあいまいになります。というのは化学的変化によって、充用された原材料のうち生産物の実体として現れるものがハッキリしない場合が多いからです。

  (以下は、(4)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(4)

2022-06-17 20:46:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(4)


◎原注8

【原注8】〈8 (イ)シュトルヒは、本来の原料を"matière"と呼んで、彼が"matèriaux"と呼ぶ補助材料から区別している(56)。(ロ)シェルビュリエは、補助材料を"matières instrumentales"と呼んでいる(57)。〉

  (イ)(ロ) シュトルヒは、本来の原料を"matière"と呼んで、彼が"matèriaux"と呼ぶ補助材料から区別しています。シェルビュリエは、補助材料を"matières instrumentales"と呼んでいます。

    これは第11パラグラフの最後に付けられた原注です。だから恐らくこのパラグラフ全体につけられた原注と考えてよいでしょう。
    全集版には編集者による注解56と57が付いていますが、これはシュトルヒとシェルビュリエの典拠を紹介するものです。次のようになっています(新書版では〔  〕内で訳者の説明がある)。

  〈(56) H・シュトルヒ『経済学講義。または、諸国民の繁栄を決定する原理の説明』、第1巻、ペテルブルグ、1815年、228ページ。〉
  〈(57) シェルビュリエ『富か貧か。社会的富の現実の分配の原因と結果との説明』、パリ、1841年、14ページ。〉

    つまりシュトルヒは主要材料と補助材料とを区別して、別々の用語を当てているということです。またシェルビュリエは補助材料については別の用語を当てているということを指摘しています。これはこれだけの原注と考えてよいでしょう。

    ここに出てくるシュトルヒについては、第2篇第4章第3節の原注50に出てきました。そこでは『資本論辞典』から紹介しましたが、同じものを再録しておきましょう。

 〈シュトルヒ Heinrich Friedrich von Storch (17166~1835)ロシアの経済学者.……マルクスの彼にかんする叙述は,つぎの二点に要約される.第一点は社会的総生産物と社会的収入とを区別しようとした人としてである.……(以下、略)……
  第二点はアダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区別づけにかんする倫争におけるもっとも署名な人としてである.……(略)
  その他『資本論』には,むしろマルタス自身の見解を確認するためにシュトルヒの文章を挙げているつぎのような箇所が見られる.第1巻では,本来的原料をmatièreとよぴ補助材料をmatèriauxとよんで両者を区別した人として(KI-I90:青木2-336;岩波2-73). また,賃金が労働期間後に支払われ,その間労働者の信用貸となることに関連して,シュトルヒが労働者は勤労を貸すのであってなんら物質的なものを渡きないのだから賃銀を失うこと以外になんの危険もないと指摘していること(K1-182 :青木2-325;岩波2-59).……(以下・略)〉(499-500頁)

    シェルビュリエについても『資本論辞典』から簡単に紹介しておきます。

  〈シェルビュリエ Antoine E1isèe Cherbu1iez (1797-1869) イギリスの経済学者でシスモンディの弟子.…… 『資本論』第1巻第5篇第22章では, 賃労働と資本との関係について彼の文章を引用しているにとどまる(KI-194.612;青木2-341-342.4-910)が.『剰余価低学説史』で立入った考察を加えている.彼は,賃労働者が自分の労働を一定量の生活手段(賃銀)と引きかえに資本家に完ることによって,自己の労働生産物にたいする権利を放棄し,生産物はもっぱら資本家に帰属するとして. 一応,賃労働と資本との関係を正当に把握したのであるが,他面,‘労働者が自己の労働生産物にたいして絶対的所有権をもっ'という‘占有の法則'は根本原則であって,その法則は資本主義的生産のもとでも.変化させられてはいるが,質労働をもって生産物を購入するという関係において貫徹しているとする.……(以下略)〉(492-493頁)


◎第12パラグラフ(同じ生産物でもさまざまな労働過程の原料になることができる)

【12】〈(イ)物はそれぞれさまざまな性質をもっており、したがっていろいろな用途に役だつことができるので、同じ生産物でも非常にさまざまな労働過程の原料になることができる。(ロ)たとえば穀物は製粉業者や澱粉製造業者や酒造業者や飼畜業者などにとっては原料である。(ハ)それは種子としてはそれ自身の生産の原料となる。(ニ)同様に、石炭は生産物としては鉱山業から出てくるが、生産手段としてはそれにはいってゆく。〉

  (イ) 物はそれぞれさまざまな性質をもっています。だからそれはいろいろな用途に役だつことができます。だから同じ生産物でも非常にさまざまな労働過程の原料になることができるのです。

    物にはさまざまな属性があり、それに応じてさまざまな有用性があります。第1篇第1章第1節の冒頭〈おのおのの有用物……は、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは、歴史的な行為である〉(全集第23a巻48頁)とありましたが、だから同じ生産物でもその多様な属性によってさまざまな労働過程の原料になりうるということです。

  (ロ)(ハ)(ニ) たとえば穀物は製粉業者や澱粉製造業者や酒造業者や飼畜業者などにとっては原料となります。それは種子としてはそれ自身の生産の原料です。同様に、石炭は生産物としては鉱山業から出てきますが、同じく生産手段としてはそれにはいって行きます。

    例えば穀物は製粉業者や澱粉製造業者、酒造業者、飼畜業者等々にとっては原料となります。また穀物の種子としてはそれ自身の生産過程の原料でもあります。同じことは、石炭についても言え、それはそのまま鉱山業における生産手段としても役立ちます。


◎第13パラグラフ(同じ生産物が同じ労働過程で労働手段しても原料としても役だつことがある)

【13】〈(イ)同じ生産物が同じ労働過程で労働手段しても原料としても役だつことがある。(ロ)たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもある。〉

  (イ)(ロ) 同じ生産物が同じ労働過程で労働手段しても原料としても役だつことがあります。たとえば家畜の肥育では、家畜という加工される原料が同時に肥料製造の手段でもあります。

    同じ生産物が、その同じ労働過程で労働手段としても原料としても役立つことがあります。例えば家畜の飼育という過程では、家畜というこれから加工される原料が、同時に肥料の製造の手段として役立っています。

  『61-63草稿』には次のような一文があります。

  〈ただし農業では、種子は労働手段でもあり労働材料でもあり、また、すべての有機的なもの、たとえば畜産における動物も、その両者である。〉 (草稿集④86頁)


◎第14パラグラフ(完成生産物が、新しく別の生産物の原料になる。半製品または中間製品。多くの中間製品が原料として機能する)

【14】〈(イ)消費のために完成された形態で存在する生産物が、たとえばぶどうがぶどう酒の原料になるように、新しく別の生産物の原料になることもある。(ロ)または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかには使いようのない形態で手放すこともある。(ハ)この状態にある原料、例えば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれるが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。(ニ)最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、いろいろな過程から成っている一つの全段階を通らなければならないことがあり、その場合には、それを完成生活手段または完成労働手段として押し出す最後の労働過程にいたるまでの各過程で、絶えず変化する姿で絶えず繰り返し原料として機能するのである。〉

  (イ) 消費のために完成された形態で存在する生産物が、たとえばぶどうがぶどう酒の原料になるように、新しく別の生産物の原料になることもあります。

    生産物のなかには、すでに完成された形態で存在しているものが、新しく別の生産物のための原料になることもあります。例えばぶどうはそのまま果実として食べることができる完成生産物ですが、同時にぶどう酒を生産するための原料になるようにです。

  (ロ)(ハ) または、労働がその生産物を、再び原料として使うよりほかには使いようのない形態で手放すこともあります。この状態にある原料、例えば綿花や繊維や糸などのようなものは、半製品とよばれますが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれません。

    この部分のフランス語版を紹介しておきます。

  〈原料以外のどの用役にも不適切であるような生産物を産む労働も、存在する。この状態では、この生産物は、いわば半加工しか受け取らなかったのであって、たとえば綿花や糸やキャラコなどのように、連続的または段階的な生産物でしかない、と言うほうがましであろう。〉 (江夏・上杉訳173頁)

    しかし他方で、生産物のなかには、それが再び他の労働過程の原料になるしかないようなものもあります。例えば綿花や繊維や糸などは、それぞれ紡績業や縫製業や綿布製造業の原料になるしかありません。
  このように最終的な完成生産物になるまでの途中の過程における生産物を半製品とか中間製品と言います。
  
  (ニ) 最初の原料は、それ自身すでに生産物であるにもかかわらず、いろいろな過程から成っている一つの全段階を通らなければならないことがあります。その場合には、それを完成生活手段または完成労働手段として押し出す最後の労働過程にいたるまでの各過程で、絶えず変化する姿で絶えず繰り返し原料として機能するのです。

    こうした中間製品という生産物を考えますと、最初に原料とするものも、実はそれ自身多くの労働過程を経て生産されてきたものであり、それが最終的に完成した生活手段や生産手段として生産される最後の労働過程にいたるまでに、多くの中間製品が、絶えずさまざまに変化した姿をとって、繰り返し原料として機能していることがわかります。


◎第15パラグラフ(ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置による)

【15】〈(イ)要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変わればかの諸規定も変わるのである。〉

  (イ) 要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現われるかは、まったくただ、それが労働過程で行なう特定の機能、それがそこで占める位置によるのであって、この位置が変わればかの諸規定も変わるのです。

    このようにある使用価値が、特定の労働過程の生産物であるのか、それともその労働過程の原料になるのか、あるいは労働手段になるのかは、まったくただ、その使用価値が特定の労働過程において行う特定の機能やそこで占める位置によるのです。それが変われば、その使用価値の規定性も変わることになります。
    例えばリンネルという使用価値は、紡織過程では生産物という規定性を受け取り、縫製過程では原料という規定性を受けます。同じように自動紡績機という使用価値は、機械製造業では生産物という規定性を持ちますが、紡績業では労働手段という規定性を持ちます。


◎第16パラグラフ(生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいると、生産物という性格を失い、それが過去の労働の産物だということは消え去っている。)

【16】〈(イ)それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失うのである。(ロ)それは、ただ生きている労働の対象的要因として機能するだけである。(ハ)紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱う。(ニ)もちろん、紡績材料や紡錘なしでは紡ぐことはできない。(ホ)だから、これらの生産物(*)が現にあるということは、紡績が始まるときには前提されている。(ヘ)しかし、この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の生産物だということはどうでもよいのであって、それは、ちょうど、栄養という行為ではパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはどうでもよいようなものである。(ト)むしろ反対に、もし労働過程にある生産手段が過去の労働の生産物としての性格を感じさせるとすれば、それはその欠陥のためである。(チ)切れないナイフや切れがちな糸などは、刃物屋のAとか蝋引工のEをまざまざと思い起こさせる。(リ)できのよい生産物では、その使用属性が過去の労働に媒介されているということは消え去っているのである。
  (*) 第4版では、この生産物、となっている。〉

  (イ)(ロ) それだから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失います。それは、ただ生きている労働の対象的要因として機能するだけです。

    ある使用価値が、特定の労働過程でどのように役立ち、だからまたどのような規定性を受け取るかは、その使用価値が特定の労働過程において行う特定の機能やそこで占める位置によるのです。それが変われば、その使用価値の規定性も変わることになります。だからリンネルが生産物という規定性を受け取るのは、紡織労働の結果というその位置によるのであって、それが縫製労働の原料となった場合には、すでに生産物という規定性はなくなっているのです。今度はリンネルは縫製労働の対象的要因として機能するものとして位置づけられていますので、労働対象、すなわち原料という規定性を受け取るのです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 紡績工は、紡錘を、ただ自分が紡ぐための手段としてのみ取り扱い、亜麻を、ただ自分が紡ぐ対象としてのみ取り扱います。もちろん、紡績材料や紡錘なしでは紡ぐことはできません。だから、これらの生産物が現にあるということは、紡績が始まるときには前提されています。しかし、この過程そのものでは、亜麻や紡錘が過去の労働の生産物だということはどうでもよいことなのです。それは、ちょうど、栄養という行為ではパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはどうでもよいようなものと同じです。

    このように生産物は、それが再び別の労働過程の原料や生産手段になる場合には、生産物としての規定性を失くします。紡績工は、紡錘を生産物としてではなく、ただ自分が紡ぐための手段として取り扱うのです。あるいは亜麻を、自分が紡ぐ対象として、すなわち原料として取り扱うのであって、生産物として扱うわけではありません。
    もちろん紡錘も亜麻も紡績が開始されるまでは、生産物として現にあることが前提されています。しかし紡績過程が開始される時点では、それらが以前の労働の生産物であるとういうことはどうでもよいことなのです。紡錘も亜麻も紡績労働の過程では、その使用価値のみが紡績労働という具体的な有用労働と結びつくのであって、それらが過去の労働の産物だということはまったく問題にならないからです。
    それはちょうど、パンがそれを食べた私たちの身体のなかで栄養になる過程では、そのパンが農民や製粉業者や製パン業者などの過去の労働の生産物だということはまったく問題にならないのと同じことです。その場合はパンの使用価値だけが問われるのだからです。

  (ト)(チ)(リ) むしろ反対に、もし労働過程にある生産手段が過去の労働の生産物としての性格を感じさせるとすれば、それはその欠陥のためです。例えば、切れないナイフや切れがちな糸などは、刃物屋のAとか蝋引工のEをまざまざと思い起こさせます。できのよい生産物では、その使用属性が過去の労働に媒介されているということは消え去っているのです。

    もし過去の労働の生産物が、別の労働の過程の原料や労働手段として機能するときに、それらが過去の労働の生産物であることを意識させるとするなら、それはそれらが不十分な欠陥のあるものの場合です。切れないナイフや切れがちな糸などは、ナイフを製造した刃物屋の手腕や糸を製造した蝋引き工の労働を思い起こさせ、それらはその有用性が不十分であるが故に、それらに対象化された具体的有用労働が不十分・不完全なものであったことを思い知らされます。しかしできのよい生産物であれば、それが別の労働過程に入っていくときには、その使用価値のみが問われるのであって、それが別の労働によって媒介されているかどうかは直接には問われないし、分からないものなのです。

    これに関連する『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

 〈現実の労働過程そのものの内部では、諸商品はただ使用価値として現存するのであり、交換価値として現存するのではない。というのは、諸商品は、現実の生きた労働にたいして、ただこの労働の諸条件として、この労働の実現の手段として、ある一定の使用価値において〔自らを〕実現するのにこの労働が必要とする・労働そのものの本性によって規定された・諸要因として、対立しているにすぎないからである。たとえば、織布の活動をしている亜麻布織工は、彼の労働材料である亜麻糸と関係をもっているが、この関係は、ただ、織布というこの規定された活動の材料としての、亜麻生産物の生産のための要素としての・亜麻糸との関係にすぎないのであり、交換価値をもっているというかぎりでの・それ以前の労働の結果であるというかぎりでの・亜麻糸とではなくて、その諸属性を利用して彼がそれを変形する・現存する・物としての亜麻糸との関係なのである。同様に織機もここでは、商品としては、交換価値の担い手としては、なんのかかわりもないのであり、ただ織布のための労働手段としてかかわりをもつにすぎない。かかるものとしてのみ、織機は労働過程で使用され消耗されるのである。労働材料と労働手段とは、それ自身商品であり、したがってまた、ある交換価値をもつ使用価値であるにもかかわらず、現実的労働にたいしては、ただ労働の過程の諸契機として、その諸要因として対立しているにすぎない以上、いわんやそれらがこの過程そのもののなかで、それにたいして資本として対立しているものでないことは、おのずから明らかである。現実的労働が用具を取得する〔わが物とする〕のは自らの手段としてであり、材料を取得するのは自らの活動の材料としてである。現実的労働は、これらの対象を、生気を与えられた肉体として、労働そのものの諸器官として取得する過程である。ここでは材料は、労働の非有機的な自然として、労働手段は取得する活動そのものの器官として現われる。〉 (草稿集④89-90頁)


◎第17パラグラフ(生きている労働は、生産手段を現実に有効な使用価値に変え、それらを新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費する)

【17】〈(イ)労働過程で役だっていない機械は無用である。(ロ)そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵される。(ハ)鉄は錆び、木は腐る。(ニ)織られも編まれもしない糸は、だめになった綿である。(ホ)生きている労働は、これらの物をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければならない。(ヘ)労働の火になめられ、労働の肉体として摂取され、労働過程で自分たちの概念と使命とにかなった機能を果たすように活気づけられて、これらの物は、たしかに消費されるにはちがいないが、しかし目的に適するように消費されるのであり、生活手段として個人的消費にはいるかまたは生産手段として新たな労働過程にはいることのできる新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費されるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働過程で役だっていない機械は無用なものです。そのうえに、それは自然的物質代謝の破壊力に侵されます。鉄は錆び、木は腐ります。織られも編まれもしない糸は、だめになった綿です。

    ある物の有用性は、それが人間の欲望を満足させることによって、そのある物を使用価値にします。だから使用価値は、それが人間によって使用されることによって使用価値としての実を示すのです。だからもう使用されない使用価値であれば、それは使用価値ではなく、無用なものでしかありません。
    もし使用価値が使用されないのであれば、それらは自然的物質代謝の破壊力によって侵されます。鉄は錆び、木は腐り、糸は布に織られないならただ腐るのみです。

  (ホ)(ヘ) 生きている労働は、これらの物をつかまえ、生き返らせて、単に可能的な使用価値から現実の有効な使用価値に変えなければなりません。労働の火になめられ、労働の肉体として摂取され、労働過程で自分たちの概念と使命とにかなった機能を果たすように活気づけられて、これらの物は、たしかに消費されるにはちがいありませんが、しかし目的に適するように消費されるのであり、生活手段として個人的消費にはいるかまたは生産手段として新たな労働過程にはいることのできる新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費されるのです。

    こうした使用価値としての生産手段を生き返らせるのは生きている労働です。それらは生きている労働によって、その使用価値を単に可能性としてあるものを現実に有効なものにするのです。生産手段としての使用価値を使用価値たらしめるのは、生きている労働なのです。生きている労働の火になめられて、それらは息を吹き返します。それらはただ消費されるだけですが、しかしその目的に適合した形で消費されるのであり、完成生産物として、新しい使用価値、新しい生産物の形成要素として消費されるわけです。

    関連するものを『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈他方、使用価値として新たな労働過程にはいるように規定されている生産物、つまり労働手段または未完成の生産物--すなわち、現実の使用価値になるため、個人的消費または生産的消費に役立っためには、さらに加工を加えることが必要な生産物--であるが、後続する労働過程のための労働手段または労働材料であるこれらの生産物が、労働手段または労働材料として実現されるのは、ただ次のことによって、すなわち、それらが生きた労働--これがそれらの死んだ対象性を止揚し、それらを消費し、それらを、可能性として存在するにすぎない使用価値から、現実の働いている使用価値に転化するのである--と接触すること、生きた労働がそれらを、自分自身の生きた運動の対象的諸要因として使用し、消耗することによってのみである。労働過程で役に立たない機械は無用であり、死んだ鉄および木材である。そのうえ機械は、自然の諸力〔die elementarischen Mächte〕による消耗--一般的な素材変換〔新陳代謝〕--[の手に]帰する、すなわち鉄はさび、木材はくちる。織られもせず編まれもしない、等々の糸は、だめになった綿花、すなわち、それが綿花としての、原料としての状態にあったときにはもっていた、その他の利用の仕方まで、損われてしまった綿花にすぎない。どの使用価値もさまざまに使用されることができ、どの物も、それを諸欲望に役立ちうるものにするさまざまの属性をもっているのであるが、それが以前のある労働過程によってある一定の方向にむけられた使用価値、諸属性--すなわち、これらの属性をもってしては、後続するある一定の労働過程でしかそれが役に立たないような諸属性--を受け取ったことによって、それはそうしたさまざまの属性を失うのである。したがって、労働手段および労働材料としてしか役立つことができない生産物は、〔それらがだめになってしまうことによって、〕生産物としての属性、それらが以前の労働によって受け取ったこの特定の使用価値としての属性を失うばかりではない。それらを成り立たせている原料がだめになってしまったのであり、むだに使われてしまったのであり、また、それが以前の労働によって受け取った有用的な形態とともに、自然の諸力〔Naturkräfte〕の解体作用の手に帰することになる。労働過程においては、以前の労働過程の生産物である労働材料および労働手段は、いわば、死から呼びさまされる。それらが現実の使用価値になるのは、ただ、それらが諸要因として労働過程にはいることによってのみであり、それらはただ労働過程のなかでのみ、使用価値として働くのであり、それらは、ただ労働過程によってのみ、一般的な素材変換〔新陳代謝〕における解体を免れて、生産物のなかに再生体〔Neubildung〕として再現するのである。機械もまた労働過程によって、使えないものにされるが、しかしそれは機械としては、である。それは機械として生き、働くのであり、それの消費は同時にそれの活動であり、それの運動は、材料の変化された形態のかたちで、新たな一対象の属性として実現されており、固定されている。同様に労働材料が、それが労働材料としてもっている使用諸属性を示すのも、ただ労働過程そのもののなかでだけである。それの消費過程は変形過程、変化であり、この変化の結果、それはより高次なものとされた使用価値として出てくるのである。したがって、一方では、既存の生産物、以前の労働の結果が、生きた労働の対象的諸条件として生きた労働の実現を媒介するとすれば、〔他方では〕生きた労働は、これらの生産物を使用価値として、生産物として実現することを媒介し、また、これらの生産物に「再生体」の要素として生気を与えることによって、それらを維持し、それらを自然の一般的な素材変換〔新陳代謝〕から免れさせるのである。〉 (草稿集④97-98頁)


◎第18パラグラフ(過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現する)

【18】〈(イ)このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくその存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれが生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである。〉

  (イ) このように、現にある生産物は労働過程の結果であるだけではなくて、その存在条件でもあるとすれば、他面では、それを労働過程に投げ入れることは、つまりそれらが生きている労働に触れるということは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのです。

    ここでは最初に初版の当該部分を紹介しておきましょう。

 〈現存の生産物が労働過程の結果であるばかりでなくこの過程の存在条件でもあるとすれば、他面では、この生産物を労働過程に投げ入れること、つまり、この生産物を生きている労働と接触させることは、過去の労働から成るこれらの生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段である。およそ労働過程が使用価値という結果にいたるのは、この過程の生産物が、個人的消費には生活手段としてはいり込むことができるか、または、新たな労働過程には生産手段としてはいり込むことができる、というかぎりにおいてのことでしかない。〉 (江夏訳190-191頁)

   もう一つ今度はフランス語版も見ておきましょう。

  〈さて、生産物がたんに労働過程の結果であるばかりでなく、さらにその存在条件でもあるならば、この生産物を、労働過程に投げ入れ、生きた労働と接触させることによってはじめて、過去の労働のこれらの結果を保持し利用することができるのである。〉 (江夏・上杉訳174頁)

    このパラグラフは短いものですが、いま一つ何を問題にしているのかわかりにくい面があります。第16パラグラフでは〈生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失う〉とか〈過去の労働の生産物だということはどうでもよい〉と書かれていましたが、ここではむしろ反対に、過去の労働の生産物としての結果を保持し利用することが説かれているように思えます。
    生産物が労働過程の結果であるばかりではなくて、その存在条件でもあるということから、この生産物を労働過程に投げ入れ、生きた労働と接触させることは、これらの過去の労働の生産物を、使用価値として維持させ実現させるための唯一の手段になります。労働過程の結果としての生産物が一つの使用価値であるのは、それが最終的に個人的消費に生活手段として入っていくような有用性を持っているか、あるいは別の労働過程の生産手段として役立つような有用性を、つまり使用価値を持っているからです。つまり使用価値こそがそれを生み出した過去の労働の結果を保持し利用できるようにしていると言えるのです。
    生産手段が過去の労働の生産物であるということは、労働過程のなかでは消えています。それらは労働過程ではただ素材的な使用価値としての役立ちによって、生きた労働と結び付くからです。しかしそれらがそうした使用価値を持っているのは過去の具体的な有用労働の結果であることもまた確かな事実なのです。だからその使用価値が生きた労働と結合することによって、その使用価値としての実を示すということは、過去の具体的な有用労働が有用なものであったことを示すことでもあるわけです。つまり〈過去の労働のこれらの結果を保持し利用する〉ことになるわけです。

    ここらあたりの関係を具体的に厳密に考察していると思われる『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

  〈過去の労働をその素材的な側面から考察するかぎりでは、すなわち、ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値について、この使用価値そのものがすでに、自然素材と労働との一つの結合である、という事情が堅持されるかぎりでは、諸使用価値に対象化された過去の具体的労働は、新しい労働を実現するために、あるいは同じことであるが、新しい諸使用価値を形成するために、手段として役立っていると言いうる。しかし、現実の労働過程ではこのことはいかなる意味でそのように言いうるのか、ということを、しっかりとつかんでおかなければならない。たとえば、織機および綿糸が織布で役に立つのはただこの過程のために織布の材料および手段としてそれらがもっている諸属性においてのみ、ただ、この特殊的な労働過程のためにそれらがもっている物的な諸属性によってのみである。それらはある一定の仕方で使用価値として役立っており、一つの特殊的な利用の仕方〔Nutzanwedung〕を受け取っているのだから、次のような事情は、それ自体としては、この特定の労働過程そのものにとってはどうでもよいことである。すなわち、綿花と木材および鉄とが右の形態を、すなわち一方は糸としての形態を、他方は織機としての形態を、すなわちそれらが労働過程でこれらの役立ちを果たすさいの形態を、受け取ったのだということ、それらはこの特定の使用の仕方〔Gebrauchsverwertung〕をそれ以前の労働の媒介によって受け取った--これは、栄養過程で小麦が果たす特定の役立ち、使用の仕方を、小麦はそれ以前の労働の媒介によって受け取った、という事情とまったく同様である--のだということ、それらは、それ自身がすでに労働と自然素材との一つの結合を表わすものだということ、これである。けれども、もし綿花と鉄および木材とが、それ以前の過去の労働過程によって、それらが糸および織機としてもつ姿、したがってまた特殊的な使用可能な諸属性を受け取っていなかったならば、このたびの労働過程は行なわれえないであろう。つまり、純粋に素材的に考察すれば、すなわち現実の労働過程そのものの見地からすれば、過去の一定の労働過程が、新しい労働過程が生じるための前段階および条件として現われる。だが、次にはこの後者の労働過程そのものが、ある一定の使用価値を生産するための条件としてのみ、つまりそれ自身使用価値の見地から、考察されるのである。そもそも使用価値の消費においては、使用価値のなかに含まれている労働はどうでもよいのであり、またそれは使用価値としてのみ働くのであり、言い換えれば、それの諸属性に応じて消費の過程である種の諸欲望を充足するのであり、したがって、それがこうした〔消費の〕対象としてもっているそれの諸属性だけが、また、それがこうした対象として果たすもろもろの役立ちだけが関心を引くのであるが、同様に、それ自身が使用価値の一定の特殊的な消費過程、使用価値の使用の一つの特殊的独自的な種類にすぎない労働過程においても、関心を引くのは、それ以前の労働の生産物がこの過程のためにもっている諸属性だけであって、これらの生産物の、過去の労働の物質化〔Materiatur〕としての定在ではないのである。なんらかの自然素材が以前の労働によって受け取った諸属性は、いまではそれ自身の物的諸属性であり、その自然素材はこれらの属性をもって働き、あるいは役立つ。これらの属性が以前の労働によって媒介されているということ、この媒介そのものは、生産物のなかでは止揚され、消え去っている。〉 (草稿集④93-94頁)


◎第19パラグラフ(労働は対象と手段の消費過程である。生産的消費と個人的消費)

【19】〈(イ)労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。(ロ)この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。(ハ)それゆえ、個入的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物である。〉

  (イ) 労働はその素材的諸要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くします。だから、それは一つの消費過程です。

    先のパラグラフ(第18)では、〈現にある生産物……が生きている労働に触れることは、これらの過去の労働の生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段なのである〉と述べられていました。ところがここでは労働によって、労働対象や労働手段は、その素材的要素を食いつくされ、消費されるとしています。以前は生きた労働と接触することは過去の労働の生産物を使用価値として、つまり素材的に維持して実現する唯一の手段だと述べられていたのとは、ある意味では真逆のことが述べられているような気がしないでもありません。
    これはどのように考えたらよいのでしょうか。マルクスは一体何を言いたいのでしょうか?
    いま一つの例として紡績労働を取ってみましょう。紡績労働では綿花を原料として紡錘を手段として綿糸を生産します。綿花も紡錘も、生きた紡績労働からみれば、過去の労働の生産物です。しかし紡績労働の過程では、それらが過去の労働の生産物だということはまったく問題になりません。綿花は綿花としての使用価値、その有用性が問われるだけであり、紡錘もその意味ではまったく同じであって、それが過去の労働の産物であるかどうかは問題にならないのです。労働過程では、紡績労働が綿花を紡いで糸にして紡錘に巻き取り、綿糸しての生産物を生み出します。その過程では綿花は素材的には消費されて糸になり、紡錘もすでに糸の巻かれたもの転化しています。それらはその素材的な形態を転換し、以前の使用価値を失っています。しかしそれらは別の新しい使用価値(綿糸)を生み出すためにそうなっただけなのです。つまり使用価値としてはある使用価値としての属性は失われましたが、それは別の新しい使用価値を生み出すためなのです。つまり過去の生産物は一つの使用価値の消滅と別の新しい使用価値の生成という使用価値の転成によって新しい生産物のなかに引き継がれ維持されているといえるのです。こうした純粋に素材的な過程を通して、今はまだ問題にされていませんが、あとで問題になる過去の労働の生産物の価値が、新しい生産物の価値として移転され保持されることにもなるのです。そうした過程を細かく詳しく論じようとしているのがマルクスの隠された狙いといえます。

  (ロ) この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを労働の、すなわち個人の働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってです。

    労働対象や労働手段は、労働過程で消費されますが、こうした生産的消費が個人的消費と区別されるのは、後者は生きている個人の生活手段としてその使用価値が実現される(消費される)のに対して、前者はその使用価値を、生きた労働の、つまり個人の働きつつある労働力の生活手段として、消費する(実現する)ということによってです。

  (ハ) だから、個入的消費の生産物は消費者自身ですが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物です。

    だから個人的消費によって生産されるのは消費者自身ですが、生産的消費の結果は消費者とはまったく違った物の生産物になります。

    このパラグラフに関連すると思われるものを『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈したがって労働過程は、労働者の側から一定の合目的的な活動が行なわれる過程であり、彼の労働能力、彼の精神力および体力の実証でもあり、これらのものの支出および消耗でもあるところの運動である。この運動によって彼は労働材料に一つの新しい姿を与えるのであり、かくしてまたこの運動が労働材料のなかに物質化されるのであって、この形態変化は化学的なものであっても機械的なものであってもいいし、あるいは生理的過程そのものの制御によって生じるのでもいいし、あるいは、単に対象を空間的に遠ざけること(対象の場所的定在の変化)でも、または、対象をそれと地球との結合から単に分離することでもいい。労働がこのように労働対象のなかに物質化されるあいだに、それは労働対象に形態を与え、また労働手段を自己の器官として使用し、消費する。労働は活動の形態から存在の形態に、対象の形態に移行する。対象を変化させるものとして、労働は〔同時に〕自分自身の姿を変化させる。形態を与えるこの活動は、対象を使いつくし、また、自分自身を使いつくす。それは対象に形態を与え、また、自らを物質化する。それは活動としての主体的形態における自分自身を使いつくし、また、対象の対象的なものを使いつくす、すなわち、労働の目的にたいする対象の無関心性を止揚する。最後に労働は労働手段を消費するのであって、労働手段は過程のあいだに、同様に自らを単なる可能性から現実性に移してしまう。そのさいそれは、労働の現実的な伝導体となるが、それとともに、それがはいる機械的または化学的過程によって、その静止的な形態においては同様に消尽されてしまうのである。過程の三契機--過程の主体である労働、ならびにこの労働の要因である・この主体がそれに作用する・労働材料、およびこの主体がそれをもって作用する労働手段--のすべてがいっしょになって一つの中性的(ニュートラル)な結果--生産物--を生みだす。〉 (草稿集④91頁)

  (以下は、(5)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(5)

2022-06-17 19:00:16 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(5)


◎第20パラグラフ(労働は、生産物をつくるために生産物を消費する)

【20】〈(イ)その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費する。(ロ)言い換えれば、生産物の生産手段として生産物を利用する。(ハ)しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行なわれるように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしていない生産手段も役だっているのである。〉

  (イ)(ロ) その手段やその対象がそれ自身すでに生産物であるかぎりでは、労働は、生産物をつくるために生産物を消費します。言い換えれば、生産物の生産手段として、生産物を利用するのです。

   初版から同じ部分を紹介しておきましょう。

  〈労働手段や労働対象が、それ自体すでに、生産物すなわち過去の労働過程の結果であるかぎりでは、労働過程は、生産物を作るために生産物がそのなかで消費されるところの、すなわち、生産物が生産物の生産手段としてそのなかで役立つところの、過程なのである。〉 (江夏訳191頁)

    ここでは労働過程では、生産物が別の生産物を生産するための手段になっているという関係が論じられています。
    以前のパラグラフ(第16)では、〈生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失う〉と言われていたのに、ここでは〈労働過程は、生産物を作るために生産物がそのなかで消費されるところの、すなわち、生産物が生産物の生産手段としてそのなかで役立つところの、過程なのである〉と説明されています。これは一体どう考えたらよいのでしょうか。
    マルクスは『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈つまり労働過程では、より高次の、すなわちより媒介された使用価値をもつ新しい生産物を作りだすために、それ以前の労働諸過程の生産物が使用され、労働によって消費される。特定の労働過程の諸制限--このなかでは労働の対象的諸要因は労働の実現の対象的諸条件としてのみ現われる--そのものの内部では、それ自身がすでに生産物であるという、使用価値のこの規定は、まったくどうでもよいことである。しかしこの規定には、さまざまな社会的労働様式が相互に素材的に依存しあっていること、および、それらが相互的に補完しあって、社会的労働諸様式の一全体となっていることが現われているのである。〉 (草稿集④93頁)

  つまり〈特定の労働過程の諸制限そのものの内部では、それ自身がすでに生産物であるという、使用価値のこの規定は、まったくどうでもよいことである〉が、生産物という〈この規定には、さまざまな社会的労働様式が相互に素材的に依存しあっていること、および、それらが相互的に補完しあって、社会的労働諸様式の一全体となっていることが現われている〉のであるから、だからこうした視点から捉えるなら、労働過程は生産物が消費される過程であり、それによって新たな生産物をつくる過程、つまり生産物で新しい生産物を作る過程だといえるということではないでしょうか。

  (ハ) しかし、労働過程が元来はただ人間とその助力なしに存在する土地とのあいだだけで行なわれますように、今もなお労働過程では、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合を少しも表わしていない生産手段も役だっています。

  しかし労働過程が生産物によって新たな生産物をつくる過程だと言っても、本源的な労働というのは、人間と自然(土地)とのあいだの一過程であるように、ほとんどの生産物を生産するためには別の生産物をその手段として利用している現代にあっても、依然として何ら人の手の加わっていない天然に存在しているようなものを生産手段にすることがないわけではありません。


◎第21パラグラフ(その単純な抽象的な諸契機における労働過程は、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、人間生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである。だから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかった。)

【21】〈(イ)これまでにわれわれがその単純な抽象的な諸契機について述ぺてきたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものである。(ロ)それだから、われわれは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのである。(ハ)一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのである。(ニ)小麦を味わってみても、だれがそれをつくったのかはわからないが、同様に、この過程を見ても、どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわからない。(ホ)たとえば、奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、あるいはまたキンキンナトゥス〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した〕がわずかばかりの土地の耕作でそれを行なうのか、それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか(9)、というようなことはなにもわからないのである。〉

  (イ) これまでに私たちがその単純な抽象的な諸契機について述ぺてきましたような労働過程は、使用価値をつくるための合目的的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にもかかわりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態に等しく共通なものです。

    このパラグラフはこれまでその抽象的一般的形態において考察してきた労働過程の一つのまとめということができます。
    これまで考察してきた単純な抽象的な契機において論じてきました労働過程というのは、使用価値を生産するための合目的的な活動であり、人間がその欲望を満たすために自然に働きかけ取得するための活動であり、よって人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件なのです。それは人間が生きていくための不可欠な永遠の自然条件なのです。だからこのような労働過程は、人がどんな社会にあるかには関わりなく、そのなかに普遍的に貫いていいるような一般的な条件でなのです。

   関連する一文を『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈使用価値を創造するかぎりでの、人間の欲望--これらの欲望が生産の欲望であろうと個人的消費の欲望であろうと--のための自然的なものの取得〔同化〕であるかぎりでの、実在的労働は、自然と人間とのあいだの素材変換〔新陳代謝〕の一般的条件であり、またこのような、人間生活の自然的条件としては、人間生活の規定された社会形態のすべてから独立しており、それらすべてに等しく共通したものである。同じことは、一般的な諸形態における労働過程についても言える、--なにしろ、それはもともと、その特殊的な諸要素に分解された生きた労働にすぎないのであり、それらの統一--労働手段による、労働材料への、労働の働きかけ〔Wirkung〕--として、それは労働過程そのものなのであるから。したがって、労働過程そのものは、その一般的な形態から見るときには、まだどんな特殊的な経済的規定性においても現われない。そのなかに表現されているのは、人間が彼らの社会的生活の生産においてとり結ぶ、特定の歴史的(社会的)な生産関係ではなく、むしろ一般的な形態であり、また、労働が--労働として作用するためには--あらゆる社会的生産様式において等しくそれらに分解されなければならないところの、一般的な諸要素なのである。〉 (草稿集④99頁)

  (ロ)(ハ) それだから、私たちは労働者を他の労働者との関係のなかで示す必要はなかったのです。一方の側にある人間とその労働、他方の側にある自然とその素材、それだけで十分だったのです。

  だから私たちは、これまでの考察では、労働者と彼が働きかける自然とその素材だけを問題にしてきたのでした。人間相互の関係、すなわち労働者と他の労働者との関係は問題にしなかったのです。
    同じく『61-63草稿』から。

 〈労働過程の、ここで考察された形態は、すべての規定された歴史的な諸特徴を剥ぎとられた、そしてあらゆる種類の労働過程に--労働過程のあいだに人間が相互にどのような社会的諸関係にはいろうと--適合する、それの抽象的な形態にすぎない。〉 (草稿集④100頁)

  (ニ)(ホ) 小麦を味わってみても、だれがそれをつくったのかはわかりません。同じように、それをつくる過程を見ても、どんな条件のもとでそれが行なわれるのかはわかりません。たとえば、奴隷監視人の残酷な鞭の下でか、それとも資本家の心配そうな目の前でか、あるいはまたキンキンナトゥス〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した〕がわずかばかりの土地の耕作でそれを行なうのか、それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか、等々というようなことはなにもわからないのです。

    この部分のフランス語版を見ておきましょう。

  〈小麦の味によって誰がその小麦を耕作したかを見破れないのと同じように、有用労働のデータによって、その労働が果たされた社会的条件を推察することはできないであろう。この労働が、奴隷監視人の残酷な鞭のもとで行なわれたのか、あるいは、資本家の不安なまなざしのもとで行なわれたのか、われわれはわずかばかりの土地を耕すキンキナトゥス〔古代ローマの高官〕の話をするのか、あるいは、石の一撃で獲物を屠殺する未開人の話をするのか、そのことをわれわれに示すものはなに一つない(10)。〉 (江夏・上杉訳174-175頁)

    確かに労働過程において、過去の労働の生産物を生産手段にするということは、その生手段を生産した人を前提するわけですから、人と人の関係も暗黙のうち前提しています。しかし単純な労働過程では、生産物はその使用価値としてその存在が問われるのであって、生産物においてはそれが如何なる人によって生産されたのかは消え去っています。
    例えば、小麦を味わっても、誰がそれを作ったのかはわかりません。小麦をつくる労働も、その単純な姿においては、それが奴隷監視人の残酷な笞のもとで奴隷労働によって行われたものか、それとも資本家の心配そうな眼差しの下で行われたものかはわかりません。
  だから単純な労働過程では他の人の生産物も、ただその使用価値だけが問題になるのであって、それが如何なる社会関係のもとでの生産物であるかは問題にならないのです。だから生産物が生産物を生産する手段になる関係を問題にする純粋に素材的な単純な労働過程を問題にする限りでは労働者と別の労働者との関係を問題していることにはならないのです。
 先の『61-63草稿』の続きです。

 〈小麦を味わってみても、それがロシアの農奴によって生産されたものか、それともフランスの農民によって生産されたものかはわからないのと同様に、一般的な諸形態におけるこの労働過程、この労働過程の一般的諸形態を見ても、それが奴隷監視人の鞭のもとで行なわれるのか、それとも産業資本家の監督のもとで行なわれるのか、それともそれは弓で獲物を斃す未開人の過程であるのか、ということはわからないのである。〉 (草稿集④100頁)

  テキストでは〈キンキンナトゥス〉には〈〔古代ローマの将軍、隠退して耕作した〕〉と説明が書かれていますが、新日本新書版には、こうした〔  〕内の説明はなく、その代わりに次のような訳者注が付いています。

  〈〔有徳と勇気のシンボルとされるローマの執政官。農耕中にローマ軍救出の命を受け、数日でそれを成就し、また農耕にもどった〕〉

  また〈わずかばかりの〉という一文は同じ新書版では〈数ユルゲム〉となっていて、それを訳者注で次のように説明されています。

  〈〔1ユルゲムは一組の牛が午前中に耕せる面積。ほぼ1モルゲン。約25アールにあたりる〕〉


◎原注9

【原注9】〈9 (イ)たぶんこの最高に論理的な理由からトレンズ大佐は未開人の石のうちに発見するのである--資本の起源を。(ロ)「未開人が野獣を追いかけながら投げつける最初の石に、手のとどかない果実を落とすために彼がつかむ最初の棒に、われわれは、他の財貨の獲得を目的とするある財貨の取得を見るのであり、こうして発見するのである--資本の起源を。」(R・トレンズ『富の生産に関する一論』、70、71ページ。)(ハ)なぜ英語ではstock〔木の幹〕が資本と同義なのか、これも、たぶん、この最初の棒〔stock〕から説明できるのであろう。〉

  (イ)(ロ) たぶんこの最高に論理的な理由からトレンズ大佐は未開人の石のうちに発見するのでしょう--資本の起源を。「未開人が野獣を追いかけながら投げつける最初の石に、手のとどかない果実を落とすために彼がつかむ最初の棒に、われわれは、他の財貨の獲得を目的とするある財貨の取得を見るのであり、こうして発見するのである--資本の起源を。」

    これは〈それとも石で野獣を倒す未開人がそれを行なうのか(9)〉という本文に付けられた原注です。
    抽象的に考察された労働過程というのは、如何なる社会形態にも関わらず、むしろそれらに共通に普遍的に貫いているような一般的なものだとマルクスは述べているのですが、トレンズはまさにその反対に未開人が野獣を倒すために投げつける石に、最初の資本の起源を見ていると皮肉を込めて指摘しているわけです。

  (ハ) なぜ英語ではstock〔木の幹〕が資本と同義なのでしょうか、これも、おそらく、このトレンズ氏と同じように未開人が使う最初の棒〔stock〕から説明できるのではないでしょうか。

  これも同じ主旨でしょう。英語で資本をstockと言いますが、これは木の幹と同義なのは、トレンズが見たように、未開人が最初に使う木の棒を資本と見ていることから来ているのではないか、というのです。つまり「資本」が一つの経済的形態規定性であることを理解しないから、如何なる社会関係かを問わず、それを未開人のなかにも見いだせるかに考えている人たちを皮肉っているわけです。

    トレンズ大佐については、第2篇第4章第2節「一般的定式の諸矛盾」のなかの原注27の解説において『資本論辞典』から紹介したことがありますが、それに今回の問題に関連する部分を加えて紹介しておきます。

  〈トランズ Robert Torrens (1780-1864)イギリスの海軍士官で経済学者.……1837年に大佐となる.現役中より文筆と経済学の研究に携わり,著書を発表しはじめたが.退役後はロンドンでウィッグ党の急進派として文筆活動をつづけた.ジェイムズ・ミル, リカード等とともに1821年,〈経済学グラブ)(Poltical Economy Club)を創立し,会長に選ばれるなど,経済学者としての彼の令名は高かった.……1837年イングランド銀行改革問題につき同行の二部局分離を提案,それ以後オーヴァストーン,ノーマンとともに,〈通貨主義〉の主唱者となって,トゥックと論争した.……『資本論』ではまず第1巻で.剰余価値の源泉の問題に関連してトランズの説が批判され.そこでは剰余価値の形成をそれが流通から.販売者が商品をその価値以上に販売したり,購買者が商品をその価値以下で購買するということから説明しょうとする論者としてトランズが挙げられる.マルクスは『富の生産に関する一論』を引用して,「無縁な諸関係を密輸入して,たとえばトランズ大佐とともに,“有効需要とは,直接的交換によってであれ間接的交換によってであれ,商品と引換えに,その生産に要費するよりも大きい,すべての資本成分中のある特定部分を支払うべき消費者たちの能力および傾向(!) である"などと語ることによっては,問題はけっして簡単化されない"(KⅠ-169;青木2-306:岩波2-35)とする.…(中略)…つぎにはトランズの棒切れ資本起源説が揶揄される. トランズは,未開人が野獣に投げつける石や果実を打落すために使う棒切れ(stock)のうちに.他の財貨を獲得する目的でするある財貨の取得を見て,そこに資本の起源を発見するのであるが,マルクスは‘英語のストックという言葉がなぜ資本と同意語なのかは.おそらくかの最初の棒切れから説明されるべきであろう.(KI-l92;青木2-340;岩波2-77)と,トランズをからかっている.(以下、玉ノ井芳郎氏によるこの項目の説明は大変長いのですが紹介は割愛します。各自参照。)〉(524頁)


◎第22パラグラフ(資本家は、さしあたりは、労働力をそのありのままで受け入れる。形態的包摂)

【22】〈(イ)われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。(ロ)われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要なすべての要因を、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを、買ってからのことだった。(ハ)彼は、抜けめのないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とかいうような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出した。(ニ)そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。(ホ)すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させる。(ヘ)労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変わらない。(ト)また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変わるわけではない。(チ)資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、したがってこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならない。(リ)労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、したがって、もっとあとで考察すればよいのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 私たちの将来の資本家のところに帰ることにしましょう。私たちが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要なすべての要因を、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを、買ってからのことでした。彼は、抜けめのないくろうとの目で、紡績業とか製靴業とかというような彼の専門の営業に適した生産手段と労働力とを選び出しました。そこで、私たちの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかります。すなわち、労働力の担い手である労働者にその労働によって生産手段を消費させるのです。

    私たちが資本家と別れたのは、第1パラグラフで次のように述べたことによります。

  〈資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物である。使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならないのである。〉

    それ以降では、どんな社会形態にも関わらない、いやどんな社会形態にも共通している関係として労働過程を考察してきたのでした。そのまとめを先のパラグラフで行ったので、このパラグラフでは再び資本家を登場させ、われわれが考察してきた労働過程というのは資本家のもとでの労働過程であったことを思い出そうというわけです。
    資本家はまず彼の労働過程を開始するために、一つは労働力を、そしてその労働力を使用するための対象的諸条件(生産手段)を市場で購入します。彼は資本家という玄人の鋭い目で彼が営む生産過程に適応した使用価値を選び抜きます。すなわち、主体的条件である労働力をその能力を見極めて買います。また客観的条件として労働手段と労働対象の使用価値を十分吟味して購入したのです。
    そして彼はその労働力を使用するのですが、それは彼の労働力の担い手である労働者から労働を引き出し、彼が買った生産手段をその労働によって消費させ、彼が目的とする生産物を生産することになるわけです。

  (ヘ)(ト)(チ) 労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうということによっては、もちろん変わりません。また、長靴をつくるとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家の介入によって変わるわけではありません。資本家は、さしあたりは、市場で彼の前に現われるがままの労働力を受け取らなければならないし、だからこの労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで受け取らなければならないのです。

    しかしこうした資本家の登場そのものは、とりあえずは、労働過程の一般的な性格を変えません。それはすでに見ましたように、あらゆる社会的形態とは独立した、むしろあらゆる社会的形態に共通の普遍的契機において考察されたものだから、それが資本家のもとで行われたからといってただちにその一般的性質を変えるわけはないからです。
    長靴や糸を生産する特定の有用な労働の形態も、差し当たりは資本家の登場によって変わるわけではありません。
    なにより資本家はとりあえずは、市場で彼の前に現れる労働力をそのまま受け取り、ただそれを彼の下で使うしかないのです。これを後には資本のもとへの労働の「形態的包摂」といいます。つまり資本家はただ資本主義的生産以前の社会的形態の崩壊過程から生み出された自由な労働力をそのまま彼の資本関係のなかに取り込み、とりあえずはそれを使って彼の生産を開始するしかないというような関係のことです。

  (リ) 労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっとあとになってからはじめて起きることができるのであり、だから、もっとあとで考察すればよいでしょう。

    資本家はこのように歴史的に資本が生まれる前の社会形態の崩壊の過程で生み出された自由な労働力をそのまま使い資本としての生産を始めるしかないのですが、しかし一旦資本主義的生産がはじまると資本は生産様式そのものを変革して資本主義的な生産様式へと変えて行きます。そうすると労働過程そのものが変革され資本の生産様式に合致したものになります。それが資本のもとへの労働の「実質的包摂」といいますが、それは後に「第4篇 相対的剰余価値の生産」で問題になります。

    このパラグラフと関連する一文を『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈貨幣所有者は彼の貨幣で、一部は労働能力の処分権を、一部は労働材料および労働手段を買ったのであるが、その目的は、この労働能力を労働能力として使用し、消費しうること、すなわち、労働能力に自らを現実的労働として実証させうること、要するに、労働者をいまや現実に労働させることであった。この労働が労働の他のあらゆる様式と共通にもっている一般的な諸規定は、この労働がここでは貨幣所有者のために、あるいは彼による労働能力の消費過程として現われる、ということによっては変えられない。彼は労働過程を彼の支配〔Botmäßigkeit〕のもとに包摂し、取得した〔わが物とした〕が、しかしそのことによって労働過程の一般的な本性を変化させはしなかった。労働過程が資本のもとへのその包摂そのものによってどれだけ変化をこうむるか、ということは一つの問題であるが、それは労働過程の一般的形態とはなんの関係もないので、あとで論じることになろう。〉 (草稿集④100頁)


◎第23パラグラフ(労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示す)

【23】〈(イ)ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示している。〉

  (イ) ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示しています。

  私たちは労働過程を資本家による労働力の消費過程として見ようとすると、そこに二つの特有な現象があることに気づきます。


◎第24パラグラフ(労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。)

【24】〈(イ)労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。(ロ)資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具がたいせつにされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむをえないかぎりでしか損傷されないように、見守っている。〉

  (イ) 一つは労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属しています。

  〈二つの特有な現象〉の一つとして気づくのは、資本家は労働力を市場で購入したのですから、その労働力は資本家のものだということです。これはリンゴを買った人は、リンゴを自分のものにするのと同じです。リンゴを買った人をはリンゴを食べて彼の欲求を満足させ、リンゴの使用価値を実現します。同じ関係は労働力を買った資本家と労働力を売った労働者との間でも生じます。資本家は彼が買った労働力を使用しますが、労働力の使用というのは労働そのものです。だから資本家は労働者を彼の監督のもとで労働させるのであり、その労働の過程そのものは労働者自身の労働の過程ですが、しかしその労働過程は資本家のものであり、彼に属している過程なのです。

  (ロ) 資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具がたいせつにされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむをえないかぎりでしか損傷されないように、見守っています。

    だから資本家は、彼の労働過程が順調に行われるように監視します。労働が整然と行われて生産手段が無駄に使われていないか、合目的的にそれらが使用されているかを。つまり原料がむだにされず労働用具が乱暴に扱われて棄損しないように監視するのです。いずれにせよ、原料も労働手段も、それらが正当に消費されているかを見守っているわけです。

  『直接的生産過程の諸結果』から関連する一文を紹介しておきましょう。

  〈資本のもとへの労働過程の従属は、すぐには現実の生産様式をいささかも変えるものではない。その唯一の実践的結果は、労働者が資本家の指揮権のもとに、その監督と指導のもとに置かれることである。もちろんそれはただ資本に属している労働に対する指揮権である。資本家が配慮するのは、労働者がいささかも時間を無駄にしないこと、たとえばどの1時間も1労働時間分の生産物をきちんと提供すること、生産物の生産に平均的に必要な労働時間だけが費やされること、である。〉 (光文社古典文庫69頁)


◎第25パラグラフ(生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない)

【25】〈(イ)また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない。(ロ)資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払う。(ハ)そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が1日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その1日は彼のものである。(ニ)商品の買い手には商品の使用が属する。(ホ)そして、労働力の所持者は、自分の労働を与えることによって、じっさいただ自分が売った使用価値を与えるだけである。(ヘ)彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのである。(ト)資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。(チ)彼の立場からは、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。(リ)労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。(ヌ)それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである(10)。〉

  (イ) また、もう一つは、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではありません。

    労働過程を資本家による労働力の消費過程として見たときに現れる〈二つの特有な現象〉の第二のものとしては、労働過程が資本家のものなのですから、その結果として出てくる生産物も資本家のものだということです。つまり生産物を生産するのは直接には労働者ですが、しかし生産物は労働者のものではなく、資本家のものだということです。生産物は資本家の所有物なのです。
 
  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 資本家は、労働力のたとえば1日分の価値を支払います。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じように、たとえば彼が1日だけ賃借りした馬の使用と同じように、その1日は彼のものになります。商品の買い手には商品を使用する権利が属します。そして、労働力の所持者は、自分の労働を与えることによって、じっさいただ自分が売った使用価値を与えるだけです。

    このことは労働力が資本家がその保持者である労働者から買ったものだということを考えれば当然のことです。資本家は労働者から労働力を、例えばそれを一日使用する権利を買ったのです。だから労働力を使用する権利は、当然、資本家のものになります。それは彼が買った馬の一日分の使用が彼のものであるのと同じです。商品の買い手には商品を使用する権利が存在することになります。だから労働力の所持者である労働者が、自分の労働力を売ったということは、その労働力の使用する権利を売ったということであり、彼にはその使用価値の実現を、つまり労働を、資本家のもとで、彼の管理と指示にもとづいて行う義務が生じるのです。

  (ヘ)(ト) 彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、すなわち労働は、資本家のものになったのです。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのです。

    これは労働者が彼の労働力を売った資本家の作業場に入った瞬間から、そうでなければなりません。その時点で、労働力の使用価値は、すなわち彼の労働そのものは、すでに資本家のものになっているからです。
    資本家は労働力を買うことによって、労働そのものを自分のものとし、その生きた労働を酵母として、死んでいる生産手段に合体させ、それらを死から蘇えらせて、新たな生産物を生み出すのです。

  (チ) 資本家の立場からみれば、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのですが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのです。

    だから資本家の立場からいえば、労働過程というのは、自分が買った労働力という商品の消費過程でしかないのです。彼はそれをやはり自分が別に買った商品である生産手段とを合体させることによって、それらを消費するのです。

  (リ)(ヌ) 労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程なのです。だから、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒蔵のなかの発酵過程の生産物が彼のものであるのと同じです。

    つまり労働過程というのは、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程にすぎないのです。だからこの過程の結果である生産物が彼のものであるのは当然のことです。それは丁度、彼が買ったぶどう酒が彼の酒蔵で発酵して良質のぶどう酒になったとしても、それは彼自身の所有物そのものが生み出したものですから、その良質のぶどう酒もやはり彼のものであるのと同じことです。

  『61-63草稿』から関連する一文を紹介しておきましょう。

 〈貨幣が自己を労働能力と交換することによって入手したもの、あるいは、貨幣所有者が自分の買った労働能力を消費すること--だがこの消費は、労働能力の本性に相応して、産業的、生産的消費であり、言い換えれば労働過程である--によって入手したものは、ある使用価値である。この使用価値は彼のものである。〔というのは〕彼はそれと引き換えに等価物を渡してそれを買ったのだからである。すなわち労働材料、労働手段を買ったの〔と同様〕である。だがまた、労働そのものも彼のものである。というのは、彼が労働能力を買った--つまり現実に労働がなされる以前に--ことによって、この商品の使用価値は彼のものとなっているのであり、しかもこの使用価値とはまさに労働そのものだからである。生産物は彼のものであるが、それは、かりに彼が自分自身の労働能力を消費した、すなわち自分自身で原料を加工した、とした場合にそうであるのとまったく同様である。彼が労働過程のすべての要素を、商品交換の基礎のうえで、またその諸法則に合致して、すなわちそれらの価格--これは貨幣で表現された、評価された、それらの価値である--での購買によって、手に入れたあとで、はじめて全労働過程が行なわれる。彼の貨幣が労働過程の諸要素に置き換えられたかぎりでは、また全労働過程そのものが、貨幣で買われた労働能力の消費として現われるにすぎないかぎりでは、労働過程そのものが、貨幣が経過する一つの変換として現われるのであるが、この場合には貨幣は、自らを既存のなんらかの使用価値と交換したのではなく、一つの過程と交換したのであり、この過程は貨幣自身の過程となっているのである。労働過程は、いわば貨幣に合体〔einverleiben〕されており、そのもとに包摂されている。〉 (草稿集④104-105頁)


◎原注10

【原注10】〈10  (イ)「生産物は、資本に転化される前に、取得されている。この転化は、生産物をかの取得から取り上げるものではない。」(シェルビェリエ『富か貧か』、パリ版、1841年、54ページ。)(ロ)「プロレタリアは、自分の労働を一定量の生活手段(Approvisionnement)と引き換えに売ることによって、生産物のいっさいの分けまえを完全に放棄する。生産物の取得は以前のままである。それは、前述の契約によっては少しも変えられていない。生産物は、ただ原料や生活手段を供給した資本家だけのものである。これは、取得の法則の一つの厳密な帰結であるが、この法則の根本原理は、これとは反対に、各自の生産物にたいする各労働者の排他的な所有権だったのである。」(同前、58ぺージ。)(ハ)ジェームズ・ミル『経済学綱要』、70、71ページ〔渡辺訳、83ページ〕には次のように言っている。(ニ)「労働者が労賃を受け取って労働する場合には、資本家はただ資本」(ここでは生産手段のこと)「だけの所有者ではなく、また労働の(of the labour also)所有者でもある。労賃として支払われるものを、慣習どおりに、資本の概念に含ませるとすれば、資本から切り離して労働を語るのは非常識である。この意味での資本という語は、資本と労働との両方を含んでいるのである。」〉

    これは第25パラグラフの最後に付けられた原注ですが、パラグラフ全体につけられたものといえます。労働過程をはじめるに必要な主体的条件である労働力や客観的条件である生産手段を、資本家が彼の貨幣で市場で購入したのだから、それらは資本家のものであり、だから労働過程そのものが、資本家自身の物と物とのあいだの一過程であり、だからその結果である生産物も資本家のものであるということを先験的に指摘している文献として一つはシュルビュリエから、もう一つはジェームズ・ミルからの抜粋が行われています。
 まず(イ)のシュルビュリエからの引用は、生産物は資本に転化する前に、すでに資本家によって取得されており、それが資本に転化されたからといって、つまり労働過程の一契機になったからといって、それが資本家に取得されていることには変わらないと述べています。
 次ぎに同じシュルビュリエから引用(ロ)では労働者は労働力を売った時点で、彼が生産する生産物への権利を完全に放棄したのだと指摘し。生産物は資本家の取得になるという事実は変わらないと述べています。生産物は、原料や生活手段(労働力の対価)を供給した資本家だけのものだと指摘し、これは取得の法則の一つの厳密な帰結であるが、しかしこの取得の法則の根本原理というのは、実は、反対に労働によって生み出した生産物はその労働の支出者が排他的に所有する権利があるというものだったのであり、だから資本関係ではこの所有法則の根本原理が逆転している事実を指摘しているわけです。しかし『資本論辞典』の解説を読むと、シュルビュリエ自身は必ずしもそうした関係を正しく把握しているわけではないようです。
 最後のジェームズ・ミルの引用(ハ)では労働者が労賃を受け取って労働する場合、資本家は生産手段だけではなくて、労働そのものの所有者でもあるという事実を指摘しています。労賃として支払われるものも資本の概念に含まれるとし(可変資本)、だから労働を資本と切り離して考えるのは非常識であり、この場合は資本という言葉は生産手段にも労働にも両方ともに該当すると述べています。
 これらは生産手段も労働力も資本家が市場でそれを買った時点で資本家のものであり、だからそれを消費する過程、なわち労働過程そのものも資本家のものであり、だからまたその結果である生産物も資本家のものである、という事実を不十分ながら述べている例としてマルクスが引用しているものといえます。

  シェルビュリエとジェームズ・ミルについては、『資本論辞典』から簡単に紹介しておきましょう。

 〈シェルビュリエ Antoine E1isee Cherbu1iez (1797-1869) :スイスの経済学者でシスモンディの弟子。……マルクスは,個々の問題についてはすぐれた洞察のあることを認めながら,全体的にはリカードおよびシスモンディの見解から一歩も出てないと批判した./『剰余価低学説史』では立入った考察を加えている.彼は,賃労働者が自分の労働を一定量の生活手段(賃銀)と引きかえに資本家に売ることによって,自己の労働生産物にたいする権利を放棄し,生産物はもっぱら資本家に帰属するとして.一応,賃労働と資本との関係を正当に把握したのであるが,他面,‘労働者が自己の労働生産物にたいして絶対的所有権をもつ'という‘占有の法則'は根本原則であって,その法則は資本主義的生産のもとでも.変化させられてはいるが,質労働をもって生産物を購入するという関係において貫徹しているとする.彼は,資本主義的生産が,価値にしたがい交換される商品交換の法則と異なり,労働の一部分をなんら支払うことなく占有する‘収奪の法則'に立脚していることを理解していない(MWⅢ-442-444;改造社版全集11-436-438).…… 以下略〉(492-493頁)

  〈ミル. ジェイムズ James Mill(1773-1836) イギリスの政倫家・経済学者.J.S.ミルの父.……リカードの残したもう一つの難点,すなわち労働力の売買を内容とする資本と労働との交換を労働価値説から説明することの困難についても,ミルは大体において形式的・独断的脱明に終始しているために. リカード理論の正しい側面を前進させるかわりに,かえって俗流化への道をひらいている. ミルによれば,資本家は.労働者が商品を生産するまえに.賃銀とひきかえに労働ではなくてその商品のうちの労働者の分前を彼から購買する.これを労働者の側からいえば,労働者は,商品を生産するまえに,彼の労働ではなくて彼に帰すべき商品の分前を,またはその分前にたいする請求権を販売する,というのである(KI-595;青木4-887;岩波4-13).なるほど,こういう説明によって,労働そのものを直接に資本と対立させることから生じる難点は.しりぞけられることになるが.しかしそのかわりに,労働者は労働力の販売者ではなくして,その労働力によって生産される商品生産物の分前の販売者に.すなわちたんなる商品販売者に解消せしめられる結果になる.これによってミルは,たんに賃銀労働者を一般商品販売者に改作する誤りをおかすばかりでなく.同時に剰余価値の源泉を完全に埋没させる結果ともなった.……(以下略)〉(564-565頁)

  (【付属資料】は(6)以下に掲載します。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(6)

2022-06-17 18:35:30 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(6)


【付属資料】(1)

  (今回からはサミエル・ムーア訳エンゲルス監修の『資本論』のイギリス語版の邦訳(訳者 宮崎恭一)がインターネットで公開されていることを知り(https://www.marxists.org/nihon/marx-engels/capital/chapter07/index.htm)、それを付属資料として付け加えることにします。)


●第2篇「貨幣の資本への転化」から第3篇「絶対的剰余価値の生産」への移行について

《初版》

 〈第3章 絶対的剰余価値の生産
  (1) 労働過程と価値増殖過程〉(江夏訳183頁)

《第2版》

 〈第3篇 絶対的剰余価値の生産
   第5章 労働過程と価値増殖過程
  (労働過程-労働対象、原料、労働手段-生産手段-生産的消費-資本家による労働力の消費過程としての労働過程-価値形成過程-労働力の価値、および、労働力が労働過程において別個の大きさに価値増殖すること-価値増殖過程、資本の発生)〉(江夏訳11-12頁)

《フランス語版》

 〈第3篇 絶対的剰余価値の生産
   第7章 使用価値の生産と剰余価値の生産
    第1節 使用価値の生産
    第2節 剰余価値の生産〉(江夏・上杉訳167頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈第1巻  資本の生産過程
   第3篇  絶対的剰余価値の生産
        第7章 労働過程と剰余価値生産の過程
          第1節 労働過程または使用価値の生産〉(インターネットから)


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈 つまり最初の結果はこうである。
  (α)労働が資本に合体することによって、資本は生産過程になる。だがさしあたっては資本は、物質的生産過程、生産過程一般〔Productionsprozeß überhaupt〕となり、その結果資本の生産過程は物質的生産過程一般と区別されなくなる。資本の形態規定は完全に消え去っている。資本がその対象的存在の一部を労働と交換したことによって、資本の対象的定在そのものが、対象としての自己と労働としての自己とに二分され〔dirimirt〕、両者の関連が生産過程を、あるいはさらに厳密に言えば労働過程〔Arbeitsprozeß〕を形成する。こうして価値に先立って出発点として措定された労働過程--これはその抽象性、純粋な素材性のゆえに、あらゆる生産形態にひとしく固有なものである--は、ふたたび資本の内部で、一つの過程として現われ、この過程が資本の素材の内部で進行し、資本の内容を構成するのである。〉(草稿集①366頁)

《61-63草稿》

 〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉(草稿集④83頁)
  〈労働過程そのものは、すでに述べたように、労働能力の購買という資本家の側での行為とはなんの関係もない。彼は労働能力の購買を済ませた。いまや、それを使用価値として使用すべきときである。労働の使用価値は、労働〔Arbeiten〕そのもの、労働過程である。そこでわれわれは、労働過程とはどういうものであるか、その一般的な諸契機から見た、したがって未来の資本家からは独立に見た労働過程とはどういうものか、と尋ねるのであるが、これはわれわれが、未来の資本家は小麦を買い、それをいまや栄養手段として使用しようとしている、では穀物による栄養過程とはどのようなものであるのか、あるいはむしろ、栄養過程一般の一般的な諸契機とはどんなものか、と問うのとまったく同じことなのである。〉(草稿集④103頁)
 〈私が食べる小麦は、それを私が買ったのであろうと自分で生産したのであろうと、どちらの場合も同じく、その自然規定性に従って栄養過程で働きをする。同様に、私が私のために私自身の労働材料と労働手段とで労働しようと、あるいは私の労働能力を一時的に売った貨幣所有者のために労働するのであろうと、一般的形態における労働過程には、すなわち労働〔Arbeiten〕一般の概念的諸契機には、なんの変わりもない。この労働能力の消費、すなわちそれの、労働力〔Arbeitskrafte〕としての現実の実証、現実的労働--これは、それ自体としては〔an sich〕、ある活動が諸対象へのある種の諸関係にはいる、という過程である--は、依然として同じままであり、同じ一般的諸形態で運動する。いやそれどころか、労働過程あるいは現実の労働〔Arbeiten〕が前提〔unterstellen〕するのは、まさに次のこと、すなわち労働者は、彼の労働能力を売るまえには、彼がそのなかでのみ自分の労働能力を実証することすなわち労働することができるところの対象的諸条件から分離されていたが、この分離が止揚されるということ、彼はいまでは、彼の労働の対象的諸条件にたいする、労働者としての本性に即した関係〔Naturgemäße Beziehung〕に、労働過程にはいる、ということである。したがって、私がこの過程の一般的諸契機を考察するときには、私はただ、現実的労働一般の一般的諸契機だけを考察するのである。(これらのことを利用したものとして次のことがある。すなわち、資本の弁護のために、資本が単純な労働過程一般のなんらかの契機と混同され、あるいは同一視されるということであって、それによれば、ほかの生産物の生産に役立つ生産物はまちがいなく資本だ、原料は資本だ、あるいは、労働道具〔Areitswerkzeug〕は、生産用具は資本だ、というのであり、それゆえ資本は、すべての分配諸関係や社会的生産諸形態からは独立した、労働過程一般の、生産の一要因だ、というわけである。この点は、価値増殖過程が論じられたあとではじめて、もっとよく詳論されうることである。自らを資本に(生産資本に)転化しようとする貨幣は、自らを労働材料、労働用具、および労働能力に転化しなければならないが、これらはすべて、新生産に用いられる、過去の労働の生産物、労働によって媒介された使用価値ばかりである。つまり、資本をその素材的な側面から見れば、それはいま、--それが使用価値として存在すいるかぎりでは--新生産に役立つ生産物の形態で、すなわち原料、道具の形態で存立しているもの〔bestehend〕、定在しているもの〔Daseind〕として現われる(だがまた労働としても現われるのだが)。しかしこのことから逆に、これらの物そのものが資本である、ということにはけっしてならない。これらの物は、一定の社会的諸前提のもとではじめて資本となるのである。そうでなければ、同様に、労働はそれ自体〔an und fur sich〕資本である、と言いうるであろうし、したがって、労働が有用だということから資本が有用だということを労働者に証明して見せることもできるであろう。というのは、労働は道具とまったく同じく、労働過程では資本家のものだからである。)〉(草稿集④101-102頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈しかし、これらの物(Sachen)が労働過程においてこうした役割を果たすのは、資本家がそれらを購入するからではないし、それらが資本家の貨幣の転化形態だからでもない。むしろ逆であって、資本家がこれらのものを購入するのは、それらが労働過程において先のような役割を果たすからである。たとえば、紡績過程それ自体にとっては、綿花や紡錘が資本家の貨幣を、したがって資本を表わしていること、支出された貨幣がその使命からして資本であることは、どうでもよいことである。綿花と紡錘はただ、労働する紡績工の手中においてのみ労働材料と労働手段となる。そしてそうなるのは、労働者が紡績をするからであって、彼が他人のものである綿花をその同じ他人のものである紡錘を用いてその同じ他人のために糸に転化するからではない。労働過程における諸商品が使用されたり生産的に消費されたりすることで、それらのものが資本になるわけではなく、労働過程の諸要素になるだけである。〉(光文社古典文庫・33-34頁、以下、同じ文庫版から)
  〈すでに見たように、貨幣の資本への転化は、二つの独立した過程に、すなわち、まったく異なった領域に属し、相互に分離して存在している二つの過程に分かれる。第一の過程は商品流通の領域に属し、したがって商品市場で起こる。それは労働能力の売買である。第二の過程は購入された労働能力の消費、あるいは生産過程そのものである。第一の過程においては、資本家と労働者は、相互に貨幣所持者および商品所持者として相対し、彼らの取引は、売り手と買い手とのあいだの他のすべての取引と同じく、等価物の交換である。第二の過程においては、労働者は一時的に資本そのものの生きた構成部分として現われ、交換のカテゴリーはここでは完全に排除される。というのも資本家は、この過程が始まる以前に、生産過程のあらゆる要因、人的(persönlich) のみならず物的な(sachlich)諸要因を購入することによってそれらを領有していたからである。とはいえ、この両過程は相互に独立して存在しているにもかかわらず、お互いに条件づけあっている。第一の過程は第二の過程の導入となり、第二の過程は第一の過程を完結させる。〉(49-50頁)
  〈第一の過程である労働能力の売買は、生産手段と生活手段とが現実の労働者に対して自立化していることを前提しており、したがってまた、人格化された生産手段と生活手段とを前提し、買い手としてのそれらが、売り手としての労働者と契約を結ぶのだが、次にこの過程から、すなわち流通部面、商品市場に属する過程から、直接的生産過程そのものへと移ろう。この過程はまず何よりも労働過程である。労働過程においては、労働者は労働者として、生産手段に対して、労働そのものの性質と目的によって規定された本来の能動的な関係に入る。労働者は生産手段を手にし、それらを自分の労働の単なる手段および材料として扱う。これらの生産手段の自立性、自己に固執し自らの頭脳を持った存在になること、労働からの分離といったことは、今では事実上止揚(アウフヘーベン)されている。労働の対象的諸条件は、労働の創造的働きの単なる質料および器官として、労働と正常な形で統一されている。労働者は、自分がなめす皮を自分の生産的活動の単なる対象として扱うのであって、資本として扱うのではない。彼は資本家のために皮をなめすのではない。〉(59-60頁)
 〈直接的生産過程は、ここでは常に労働過程および価値増殖過程と不可分であり、それはちょうど生産物が使用価値と交換価値との統一、すなわち商品であるのと同じである。〉(123頁)
  〈商品が使用価値と交換価値との直接的な統一であるのと同じく、生産過程もそうであって、商品の生産過程は労働過程と価値増殖過程との直接的な統一である。〉(181頁)
  〈資本の生産過程をその現実面から見るなら、あるいは、有用労働が使用価値に働きかけて新しい使用価値を生産する過程として見るなら、それはまずもって現実の労働過程である。このようなものとしては、その諸契機、その概念的に規定された諸構成部分は、労働過程一般のそれであって、どの労働過程にあっても、どのような経済的発展段階であれ、どのような生産様式が土台をなしているのであれ、つねに変わらず同じままである。〉(185-186頁)
  〈生産過程は労働過程と価値増殖過程との直接的な統一である。それは、その直接の結果である商品が使用価値と交換価値との直接的な統一であるのと同じである。しかし、労働過程は価値増殖過程の手段でしかなく、価値増殖過程それ自体は本質的に剰余価値の生産であり、すなわち不払労働の対象化過程である。そのことによって、生産過程の全体としての性格は独自の規定を受ける。〉(206-207頁)
  〈生産過程を二つの異なった視点から、つまり(1)労働過程として、(2)価値増殖過程として考察するとき、それが実際には単一不可分の労働過程であるということは最初から前提されている。労働が2回なされるわけではない。すなわち、一度目は一定の合目的的な生産物たる使用価値をつくり出して生産手段を生産物に転化するためになされ、二度目に、価値と剰余価値を生み出して価値を増殖させるためになされる、というのではない。労働はつねにただ特定の具体的で特殊な形態・方法・存在様式でつけ加えられる。そこでは労働は一定の目的を定められた活動であり、生産手段を特定の生産物に転化し、たとえば紡錘や綿花を糸に転化する。それは紡績労働、等々でしかなく、この労働がつけ加えられ、そのつけ加えが継続されることによってますます多くの糸が生産される。価値を生むのはこの現実の(レアール)労働である。だが、そうであるのは、この労働が標準的な一定水準の強度を持っているかぎりにおいてであり(あるいは、そうである場合にのみ計算に入る)、与えられた強度を持つこの現実の(レアール)労働が、時間で測られた一定の量だけ、生産物に物質化されるかぎりにおいてである。〉(207-208頁)

《初版》

 〈労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、労働力の売り手を働かせることによって、労働力を消費する。労働力の売り手は、このことによって、現実に活動しつつある労働力、労働者になるのであって、それ以前は潜在的にそうであったにすぎない。自分の労働を商品において表わすためには、彼はこの労働をなによりもまず、使用価値において、なんらかの種類の必要をみたすのに役立つ物において、表わさなければならない。だから、資本家が労働者に作らせるものは、特殊な使用価値、特定の物品である。使用価値あるいは財貨の生産は、この生産が資本家のために資本家の監督のもとで行なわれるからといって、その一般的性質を変えるものではない。だから、労働過程は、それの抽象的な契機にあっては、さしあたり、どんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されるべきである。〉(江夏訳183頁)

《フランス語版》

 〈労働力を使用することが労働である。労働力の買い手は、労働力の売り手を労働させることによって、労働力を消費する。労働力の売り手が商品を生産するためには、彼の労働は有用でなければならない、すなわち、使用価値のうちに実現されなければならない。したがって、資本家が自分の労働者に生産させるものは、ある個別的な使用価値、ある特殊な物品である。使用価値の生産が資本家のために彼の監督のもとで行なわれるからといって、この生産が性質を変えるということにはならないのは、もちろんのことである。したがって、われわれは、社会のあれこれの経済的発展段階が有用労働に刻印するかもしれない個々の独自性はすべて度外視して、まず、有用労働一般の運動を考察しなければならない。〉(江夏・上杉訳167頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

 〈(1)資本家は、労働力を、使うために、買う。そして、労働力の使用とは、労働そのものである。労働力の購入者は、その、売り手を働かせるように設定することで、それを消費する。働く事によって、売り手は、実際に、それ以前は単に潜在的であったに過ぎないが、労働力を可動させることで、労働者となる。彼の労働を、商品として再出現させるためには、彼は、なにはともあれ、それを何か有用なもののために、何らかの欲求を満足させることができるあるものに、支出しなければならない。であるから、資本家は、労働者をして生産させようと課すものは、特有な使用価値、特別なる品物である。使用価値の、または物品の生産が、資本家の指図の下に行われようと、また彼のために行われようと、それらの生産の一般的性格を変えるものではない。これが事実である。従って、我々は、まず 最初は、与えられた社会条件で表れる特定の形式から離れて、この労働過程を考えなければならない。〉


●第2パラグラフ

《61-63草稿》

 〈現実的労働は、ある使用価値を作りだすための、特定の諸欲望にかなったある仕方で、ある自然素材をわが物とするための、合目的的な活動である。この場合、この活動で、筋肉がより多く使われるか、それとも神経がより多く使われるかは、どうでもよいことであり、また同様に、その自然素材がすでに多少とも精製されている〔idealisirt〕かどうかも、どうでもよいことである。
  どんな現実的労働も、特殊的な労働であり、他の労働部門とは区別されるある特殊的な労働部門の実行〔Ausüben〕である。商品が互いにそれらの特殊的な使用価値によって区別されるように、それぞれの商品に体化されているのは、ある特殊的な種類の活動、労働である。貨幣の資本への転化、言い換えれば資本形成は、発展した商品流通を前提するから、それは発展した分業を前提するのであるが、ここでいう分業〔労働の分割〕は、流通する諸商品の多様性のなかにそれが示される(現われる)ような意味で、--つまり、社会的労働の総体、全体の、多様な労働諸様式への分割として、特殊的な労働諸様式の一つの全体として--理解されている。つまり、労働者が行なう労働は、労働者の労働能力そのものが一つの特殊的な労働能力であるのと同じく、もっぱら一つの特殊的な労働部門に属するであろう。ここでは、労働の特定の内容あるいは目的、したがってまた労働の特定の様式は、われわれには関係がないのであって、それは、商品の分析のさいに商品の特定の素材あるいは使用価値がわれわれには関係がないのと同様である。買い手はもちろんいつでもある特殊的な労働種類しか買うしかないのではあるが、どの特殊的な労働部門で労働者が労働するかは、どうでもよいことなのである。この場合にしっかりとつかんでおかなければならないただ一つの点は、労働が現実の過程として現われるさいにもつ、それの規定性である。労働の特殊的な内容にたいするこの無関心性は、われわれが行なう抽象であるばかりでなく、資本が行なう抽象であり、また本質的に資本の特徴づけの一部をなす抽象である、ということがさらにあとで示されるであろう。{商品の使用価値そのものの考察が商品学に属するように、その現実性における労働過程の考察は技術学に属する。}〉(草稿集④83-84頁)

《初版》

 〈労働過程はさしあたり、人間と自然とのあいだの過程、すなわち、人間が自分と自然との物質代謝を自分自身の行為で媒介し規制し制御しているところの過程である。人間は、自然素材そのものにたいしては自然力として相対する。彼は、自分の肉体にそなわっている自然力、腕や脚、頭や手を動かして、自然素材を自分自身の生活に必要な形態に同化する。彼は、この運動を通じて自分の外にある自然に働きかけこの自然を変化させて、同時に自分自身の自然をも変化させる。彼は、自分自身の自然のうちに眠っている諸力能を発現させ、それらの諸力の活動を自分自身の支配権に従わせる。ここでは、労働過程の最初の動物的で本能的な諸形態は問題にしない。労働者が自分自身の労働力の売り手として商品市場に現われるという状態にとっては、人間の労働過程がまだ最初の本能的な形態を脱却していなかった状態が、太古の背景のなかに押しやられている。人間にだけもっばらそなわっている形態の労働過程を、想定しよう。蜘蛛(クモ)は織り職の作業に似た作業を行ない、蜜蜂は、蝋房を建造して多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、最悪の建築師でも、最良の蜜蜂にもともとまさっているいわれは、彼が蜜房を蝋で築く以前にそれを自分の頭のなかで築いてしまっている、という点である。労働過程の終わりには、それの初めにすでに労働者の表象のなかに存在していた、つまり、すでに観念的に存在していた結果が、出てくるわけである。彼は、自然的なものの形態変化をひき起こすだけではない。彼は、自然的なもののうちに、同時に、彼の目的--この目的は、彼の知っているものであり、法則として彼の行動の仕方を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならない--を実現する。そして、これに従わせることは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働する諸器官の緊張のほかに、注意力として現われる合目的な意志が、労働過程の全期間にわたって必要になる。しかも、この意志は、労働がそれ自身の内容とそれを実行する仕方いかんで労働者を感動させなければさせないほど、したがって、労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的な諸力の活動として享受しなければしないほど、ますます必要になってくる。〉(江夏訳183-184頁)

《フランス語版》

 〈労働はまず、人間と自然とのあいだで行なわれる行為である。労働では人間自身が自然にたいして自然力の役割を果たす。人間は、自分の生活上有用な形態を素材に与えてこの素材を同化するために、自分の身体に授けられている力、腕と脚、頭と手を動かす。人間は、この運動によって外部の自然に働きかけてそれを変えると同時に、自分自身の自然を変えて、自分自身の自然のうちに眠っている力能を発展させる。われわれは、人間がまだ労働の純粋に本能的な様式を脱皮していない労働の原始的状態については、話をしない。われわれの出発点は、もっぱら人間にだけ所属する形態の労働である。蜘蛛は織工の作業に似た作業を行ない、蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの建築家の熟練の鼻をくじく。ところが、最も拙劣な建築家と最も熟練した蜜蜂とを最初から区別するものは、建築家は蜜房を、巣箱のなかに建築する以前に自分の頭のなかに建築している、ということである。労働の帰着する結果が、労働者の想像のなかに観念的に先在している。彼はたんに自然的素材の形態変化を行なうだけではない。彼はこのばあい同時に、自分自身の目的--この目的は、自分が意識するものであり、法則として自分の行動様式を規定するものであって、彼は自分の意志をこれに従わせなければならないのである--を実現する。しかも、これに従わせるということは、一時的なものではない。仕事は、活動する諸器官の努力のほかに、それ自体が意志の不断の緊張からのみ生じうるような一貫して変わらない注意力を、仕事の全期間にわたって必要とする。労働がその対象とその遂行様式によって労働者の心をとらえることが少なければ少ないほど、労働が肉体的および知的諸力の自由な活動として労働者に感じられることが少なければ少ないほど、一言にして言えば、労働の魅力が少なければ少ないほど、仕事はますます上記の注意力を必要とする。〉(江夏・上杉訳167-168頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(2)労働は、なんにもまして、人間と自然が共に参加する過程である。そこで、人は、自発的に開始し、調整し、彼自身と自然の間に起こる素材の反作用を制御する。彼は彼自身をもって、自然に対抗する。それはあたかも自然そのものの力で対抗する如くである。手足を動かし、頭と手を使い、彼の体という自然の力で、彼自身の欲求に叶うような形へ、自然の生産物を適当な物へとするために。このように、外部世界に働きかけ、それを変えることによって、彼は、同時に、彼自身の自然をも変えている。彼は、彼の潜在能力を発展させ、彼の意図に、彼の行動を従わせる。我々は、ここでは、それらの原始的・本能的な、我々のうちに残っている単に動物としての労働形式については、取り上げないこととする。人間労働が原始当初の本能的状態に留まっていた状況と、人が彼の労働力を商品として市場に持ってくる状況との間には、相当の長い時間があり、その間を大きく隔てている。我々は、他でもなく人間的なものと云える形式の労働を前提とする。蜘蛛は、織り職の作業に似た作業を行う。または蜂は、彼女等の巣房の建設に関しては、多くの建築家に恥を塗る。だが、最も優秀なる蜂と、最悪の建築家とを区別するものは、建築家がそれを実際に建てる前に、想像の上で、構築を仕上げているということである。あらゆる労働過程の終端には、我々には、すでに、その開始時点で、労働者の想像の上に存在していた結果が得られるということである。彼は、彼が働くことによって、素材の形の変化に影響を与えることだけではなく、彼のやり方に法則を与え、彼の意志を従わせる、彼自身の目的を実現するのである。(赤色ラテン語) そして、この従わせると云うことは、単に一時的な行動ではないのである。体の各器官の活用に加えて、その過程が、全作業期間を通じて、作業者の意志が彼の目的に一致して、きちんとむらなく存在することを要求している。このことは、厳密な注意力を意味している。その遂行される様式の 仕事の性質が 魅力的でなければないほど、従って、彼の体や精神力に、多少の遊びが与えられることが少なければ少ないほど、より厳密な注意力が強いられる。〉


●第3パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働過程のところでわれわれが関心をもつのは、労働過程がそれらから成っているところの、また労働過程としての労働過程に帰属すべき、まったく一般的な諸契機だけである。これらの一般的な契機は、労働そのものの本性から朗らかにされなければならない。労働者が彼の労働能力の処分権を売る以前は、彼はこの労働能力を労働として実証すること、実現することはできなかった、--なぜなら労働能力は、それの実証の対象的諸条件から分離されていたからである。現実の労働過程ではこの分離が止揚される。いまや労働能力が働く、--なぜならそれは、自分の対象的諸条件をその本性に即して取得している[わが物としている〕からである。労働能力は自らを実証する、--なぜならそれは、それが自らを実現するためには欠くことのできない対象的諸要因と接触し、それらとともに過程にはいり、それらと結びつくからである。これらの要因は、まったく一般的に、労働手段と呼ぶことができる。しかし労働手段そのものは必然的に次の二つのものに、すなわち、加工される、そしてわれわれが労働材料〔Arbeitsmaterial〕と呼ぼうと思う、対象と、本来の労働手段、すなわち、、対象(この対象は用具〔Instrument〕である必要はなく、たとえば化学的工程〔Prozeß〕であってもよい)とに、分かれる。さらに詳しく分析してみれば、あらゆる労働にあって労働材料と労働手段とが使用されていることが、つねにわかるであろう。〉(草稿集④85頁)

《直接的生産過程の諸結果》

 〈次に直接的生産過程の内部で資本が取る姿を考察するなら、資本は、単純商品と同じく使用価値と交換価値という二重の姿(Doppelgestalt)を取っている。しかし、より進んだ規定がこの両形態に入り込んでくるのであり、それは、独立に考察された単純商品の諸規定とは異なるいっそう展開された規定性である。
  まず使用価値に関して言うと、[単純]商品を概念規定するさいには、その特殊な内容、そのより進んだ規定性はまったくどうでもいいことであった。何らかの物品が商品であるためには、したがって交換価値の担い手であるためには、何らかの社会的欲求を満たさなければならず、したがって何らかの有用な属性を持っていなければならないのだが、それで十分だった。だが、生産過程で機能する諸商品の使用価値に関しては事情が違う。労働過程の性質から、まずもって生産手段は労働対象と労働手段とに区分され、あるいはより詳しく規定すると、一方では原料と、他方では道具、補助材料等々に区分される。それは、労働過程の性質そのものから出てくる使用価値の形態規定性である。使用価値は--生産手段との関係では--このようなより進んだ形態規定を受けるわけである。使用価値のこうした形態規定性は、ここではそれ自体、経済的諸関係、経済的範疇を展開する上で本質的なものである。
  だが、労働過程に入る使用価値はさらに、概念的に厳格に区別されるべき二つの契機と対立的規定に分かれる(先に述べた対象的な生産手段がそうであったのとまったく同じく)。一方では、対象的な生産手段、客体的な生産条件であり、他方では、活動する労働能力、合目的的に発現される労働力(Arbeitskraft)、すなわち主体的な生産条件である。これは、直接的生産過程の内部における使用価値の亜種として現われるかぎりでの、資本のより進んだ形態規定性である。〉(光文社古典文庫・182-183頁)

《初版》

 〈労働過程の単純な諸契機は、合目的な活動すなわち労働そのものと、それの対象と、それの手段とである。〉(江夏訳184頁)

《フランス語版》  フランス語版にはこのパラグラフには現行版にはない注(1)があります。その注(1)も一緒に紹介しておきます。

 〈労働過程(1)が分解される単純な要素は、次のとおりである。(1)人間の一身的な活動、すなわち、厳密な意味での労働、(2)労働活動の対象、(3)労働活動の手段。

  (1) ドイツ語では労働過程(Arteits-Process)。「過程(procès)」という語は、発展の現実的諸条件の全体において考察される発展を表現しているが、この語は久しい以前から全ヨーロッパの科学用語に属している。フランスには、この語は当初processusというラテン語の形でおずおずと導入された。次いでこの語は、このペダンティックな仮装をはぎとられ、化学、生理学等の著書や形而上学の数々の著作のなかに忍びこんだ。それはついには、完全に自国語になるであろう。ついでながら注意しておくが、ドイツ人もフランス人と同じように、日常語では「訴訟(procès)」という語を法律的な意味で用いている。〉(江夏・上杉訳168頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(3)労働過程の、基本的な要素は、1, 人の個人的活動・それ自身が仕事をすること、 2, その仕事の対象、3, その手段である。〉


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働材料、すなわちある特殊的な欲望のために労働によって取得される〔わが物とされる〕べき対象が、人間労働の関与なしに天然に見いだされる、ということはありうるのであって、たとえば水中で捕えられる魚、あるいは原始林で切り倒される木、あるいは坑道から取り出される鉱石がそうである。したがって、〔この場合には〕それ自身が以前の人間の労働の生産物であるのは労働手段だけだ、ということになる。このことは、採取産業と呼ばれうるすべてのものを特徴づけるものであって、農業についてはこれは、処女地などに手が加えられるような場合にかぎって、あてはまることである。ただし農業では、種子は労働手段でもあり労働材料でもあり、また、すべての有機的なもの、たとえば畜産における動物も、その両者である。これにたいして、労働用具が天然に、そのままなんの媒介もなしに見いだされるとすれば、それは、経済的発展が最も未成熟な段階でのみ、したがって資本関係の形成など考えられないような状態においてのみ、生じうることである。〉(草稿集④85-86頁)

《初版》

 〈人間にたいして最初から食料や仕上がっている生活手段を授けている(1)土地(経済的にはもこれに含まれる)は、人間の助力を借りずに、人間労働の一般的な対象として存在している。労働がなければ大地との直接的な結合から引き離されているままであるいっさいの物は、天然に存在する労働対象である。それは、自己の生活要素である水から引き離されて捕えられる魚であり、原始林で切り倒される木であり、鉱脈からもぎとられる鉱石である。これに反して、労働対象がそれ自体すでにいわば過去の労働によって濾過されていれば、それは原料と呼ばれる。たとえば、すでにもぎとられていてこれから洗鉱される鉱石が、そうである。原料はすべて労働対象であるが、どの労働対象も原料であるわけではない。労働対象が原料であるのは、すでにそれが、労働によって媒介された変化をこうむっているばあいに、かぎられている。〉(江夏訳184-185頁)

《フランス語版》

 〈土地(経済学の観点からは、水もこの言葉に含まれる)は、それが当初からすっかり用意された食糧を人間に供給するのと同じように、人間の行為なしに存在する普遍的な労働対象でもある。労働によって土地との直接的な結合から引き離されるだけでよい物は、すべて、自然の恩恵による労働対象である。水という生活要素から漁業によって引き離される魚、原始林で伐り倒される木、鉱脈から掘り出される鉱石が、そうである。以前の労働によってすでに濾過されている対象、たとえば洗鉱された鉱石は、原料と呼ばれる。すべての原料は労働対象であるが、すべての労働対象が原料であるわけではない。労働対象は、労働によって果たされるなんらかの変化をすでにこうむった後に、はじめて原料になる。〉(江夏・上杉訳169頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(4)土地 (経済的見地から云えば、水も含めての土地)は、未開墾の処女地の時から、人間に必要なもの、または生存の手段として手に入れることができる物を供給する。それらの全ての物は、彼等の環境との直接的な繋がりから、労働によって単純にもぎ取ってくる。それが、労働の対象であり、同時に、自然が分けて呉れたものである。例えば、魚、我々は捕まえて、かれらの要素である水から取りだしてくる。木材、我々は、処女林から切り出してくる。鉱石、我々は、それらの鉱脈から採掘する。もし、これとは違って、労働の対象を、云って見れば、以前の労働によって濾過されているものを取ってくるならば、我々は、それを原料という。すでに採掘されて、洗鉱されている鉱石は、それである。全ての原料は、労働の対象であるが、あらゆる労働対象が原料というものでもない。ただ、労働によって、なんらかの変化を受けた後でのみ、それになるのである。〉


●原注1

《初版》

 〈(1) 「土地の天然産物は少量であり、また、人間には全く依存していないものであるが、それが自然の手で供給されているさまは、青年を勤勉と財産づくりに導くためにこの青年にわずかな金額が与えられているのと、同じたとのように見える。」(ジェームズ・ステュアート『経済学原理、ダプリン版、177O年』、第1巻、116ページ。)〉(江夏訳185頁)

《フランス語版》 フランス語版では注(2)になっています。以下、注番号はずれています。

 〈(2) 「土地の天然生産物は少量にしか、しかも人間から全く独立してしか、現われない。それが自然によって供給されているさまは、1人の青年に、勤勉への道をみずから切り開いて産をなすことができるようにするために、少額の金銭を与えるのと、同じように見える」(ジェームズ・ステユアート『経済学原理』、ダブリン版、1770年、第1巻、116ページ)。〉(江夏・上杉訳169頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  邦訳が公開されているものには、原注は極めて少ない。この原注も同じである。


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

  〈人間の労働能力の発達がとくに労働手段あるいは生産用具の発達に示されるのは、自明なことであり、事態の本性から当然出てくることである。つまりそれは、次のことを示すのである。すなわち、人間が、彼のもろもろの労働目的に合わせてすでに整えられ・規制され・かつ伝導体〔Leiter〕として彼の意志のもとに置かれている・自然を、あいだに割り込ませること〔Dazwischeshieben〕によって、彼の直接的労働の自然的なものに及ぼす作用をどの程度にまで高めたか、ということである。〉(草稿集④86頁)

《初版》

 〈労働手段とは、労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられて、この対象への彼の活動の導体として彼のために役立つところの、一つの物または諸物の複合体である。労働者は、諸物の力学的、物理学的、化学的な属性を利用して、それらの物を、自分の目的に応じて、他の諸物にたいする強力手段として作用させる(2)。労働者が直接にわが物としている対象は--仕上がっている生活手段たとえば果実のつかみどりでは、彼自身の肉体器官だけが労働手段として役立っているのであるが、このようなばあいは別として--、労働対象ではなくて労働手段である。こうして、自然的なものがそれ自体、彼の活動の器官になる。この器官を、彼は、聖書の言葉にさからい、自分自身の肉体器官につけ加えて、自分の自然の姿を引き伸ばすわけである。土地は、彼の根源的な食料倉庫であるが、それと同じに、彼にそなわっているところの、労働手段の根源的な武器庫でもある。土地は、たとえば、彼が投げたりこすったり圧したり切ったり等々するのに使う石を、彼に供給する。土地はそれ自体労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役立つためには、さらに、たくさんの他の労働手段と、すでに比較的高度に発達した労働力とを、前提とする(3)。およそ労働過程がほんの幾らかでも発達すると、この過程は、加工ずみの労働手段を必要とする。最古の人間の洞窟のなかには、石製の道具や石製の武器が見いだされる。人類史の発端では、加工されたのほかに、馴らされた、つまり、それ自身すでに労働によって変えられた、飼育された動物が、労働手段として主要な役割を演じている(4)。労働手段の使用や創造は、萌芽状態ではすでにある種の動物の属性になっているとはいえ、独自な人間労働過程を特徴づけていおり、したがってフランクリンは、人間を"a toolmaking animal"、道具をつくる動物と定義づけている。死滅した動物種属の体制の認識にたいしては遺骨の構造が重要であるが、それと同じ重要性を、労働手段の遺物が、死滅した経済的社会組織の判定にたいしてもっているのである。なにが作られるかではなく、どのようにして、どんな労働手段で、作られるかが、いろいろな経済上の諸時代を区別している(5)。労働手段は、たんに人間労働力の発達の測度器であるばかりでなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の指示器でもある。労働手段そのもののうちでも、その全体を生産の骨格および筋肉系統と呼びうるような力学的労働手段のほうが、労働対象の容器用に役立つだけでその全体が全く一般的に生産の脈管系統を表示しうるであろうような労働手段、たとえば管や桶や寵や壷等々に比べて、ある社会的生産時代のはるかに決定的な特徴を示している。後者の労働手段は、化学工業で初めて重要な役割を演ずるのである。〉(江夏訳185-186頁)

《フランス語版》

 〈労働手段とは、人間が自分と自分の労働対象とのあいだに自分の行為の導体として置くところの、一つの物かまたは諸物の全体である。人間は、数々の物の力学的、物理的、化学的属性を利用して、その物を、自分の目的に応じて他の物にたいする力として作用させる(3)。ふと眼に入った生活手段の取得--たとえば、人間の器官が人間に道具として役立つところの果実のもぎとり--を別にすれば、労働者は自分の労働の対象でなくその手段を直接に占有している、ということがわかる。こうして、労働者は外部の物を自らの活動の器官に変えるが、こういう器官を彼は、聖書にさからい自分の自然のままの身長を伸ばすようなやり方で、自分の器官につけ加えるのである。土地は、彼の本源的な食糧倉庫であるのと同様に、彼の労働手段の本源的な武器庫でもある。土地はたとえば、彼に、彼がこすったり、切ったり、圧したり、投げたりする等々のために用いる石を、供給する。土地は、それ自体が労働手段になるが、一連のほかの労働手段が すべてあらかじめ与えられていなければ、農業での労働手段として機能しはじめることはない(4)。労働は、それが多少とも発展するやいなや、すでに加工された労働手段なしには済まされないであろう。最古の洞窟内には、石製の道具や武器が見出される。われわれの見るとおり、加工された貝や石や木や骨と並んで、飼い馴らされた動物、すなわち、労働によってすでに変化させられた動物が、本源的な労働手段のなかで第一線に現われる(5)。労働手段の使用と創造は、ある種の動物のあいだに胚種状態で存在しているとはいえ、すぐれて人間労働を特徴づけるものである。したがって、フランクリンも、人間は道具をつくる動物(a toolmaking animal)である、という定義を与えている。滅亡した動物種属の構造の認識にたいして石化した骨の構造がもっているのと同じ重要さを、昔の労働手段の残骸は、消滅した社会の経済的形態の研究にたいしてもっている。ある経済時代を他の経済時代から区別するものは、作られるものよりも作る仕方、作るために用いる労働手段なのだ(6)。労働手段は、労働者の発達の測度器であり、彼の労働がそのなかで行なわれる社会的関係の指数である。しかし、その全体を生産の筋骨系統と名づけうるような力学的労働手段は、労働対象または労働生産物を受け取り保存することに役立つだけでその全体がいわば生産の血管系統を形成しているような労働手段、たとえば容器、籠、壷、水差しなどに比べて、ある経済時代のはるかに特徴的な性格を示している。後者の労働手設は、化学工業においてはじめて、いっそう重要な役割を演じはじめるのである。〉(江夏・上杉訳169-170頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(5)労働の手段は、物、または、物の複合体である。労働者は、彼の労働対象と彼自身の間に介在させ、彼の活動の導体の役割を与える。彼は、ある物の機械的、物理的、化学的性質を利用して、他のある物を、彼の目的に役立つものに作る。人自身の腕を労働の手段として用い、集めてくるといった、すでに作られている生存手段、例えば、果実、というようなことから離れて、考えてみよう。そうすれば、労働者が最初に自身で持つものは、労働の対象ではなく、その手段であろう。かくて、自然は彼の活動の一つの器官となる。彼の体の器官にそれを付け加える。聖書の教えにも係わらず、彼自身の身の丈を伸ばす。大地は、彼の最初の食料貯蔵庫であり、また同様、彼の道具小屋である。その大地は、彼に、例えば、石を供する。投げたり、砕いたり、押したり、切ったり、その他いろいろな道具となる。大地は労働の手段である、しかしながら、農業のような形で使用するには、他の様々な手段の一連のもの、及び、比較的高度に発達した労働が伴わねばならない。労働が多少でも、発展するやいなや、それは、特別に用意された手段を求める。であるから、我々は、人類最古の洞窟で、石の道具や武器を見つける。人間の歴史の初期において、飼い馴らした動物、すなわち、目的のために飼育された動物、労働の手段として使用できるようにした動物も、労働の手段として、特別に用意された石、木、骨、貝殻と並んで、主要な役割を果している。労働の手段の使用や制作は、ある種の動物の中には、萌芽として存在してはいるものの、人間の労働過程の特別な性格と言える。だから、フランクリンが、人間を 道具を作る動物 と定義するのである。過去の労働手段の遺物は、絶滅した社会の 経済的形式を考察するためには非常に重要で、ちょうど、骨の化石が、絶滅種の動物を決定づけるのと、同様である。それは、何が作られたか、ではなくて、どのようにそれら等が作られたか、どんな道具によってか であり、我々をして、いかなる経済的時代であったのかを、他とはっきりと区分できるようにしてくれる。労働手段は、人間の労働が獲得した発展の度合いの基準を提供してくれるだけではなく、それらの労働が行われている社会的条件の指示器でもある。労働手段の中では、機械的な性質のもの、体に例えて云えば、生産の骨格と筋肉と呼べるものが、ある与えられた生産の時代のより大きな、決定的な性格を与えている。労働のための材料を保持するだけの、管、槽、籠、瓶、他は、一般的には、生産の管系と云え、骨や筋肉に付随する。だが、この管系が初めて重要な役割を演じ出したのが、化学工業である。〉

  (以下は、(7)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(7)

2022-06-17 18:10:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(7)

 

  【付属資料】の続き(2)


●原注2

《初版》

 〈(2)「理性は強力であると同じに狡猾でもある。狡猾とは、一般的に言って、諸客体を、それら自身の本性にしたがって相互に作用させ相互に働き疲れさせることによって、この過程に直接に干渉せずに、それでもなお自己の目的だけはなしとげるという、媒介的な活動のことである。」(へーゲル『エンチクロペディー』、第1部、『論理学、ベルリン、184O年』、382ページ。)〉(江夏訳186頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「理性は強力であると同じくらいに狡猾でもある。理性の狡智は一般に、諸客体をそれら自身の性質に応じて相互に作用しあうがままにすることによって、それらの相互作用に直接に介入することなく、しかもなおかつ、目ざす目的だけを達成するにいたるという、媒介的活動のうちに存する」(へーゲル『エンツィクロペディー』、第1部、『論理学』、ベルリン、1840年、382ページ)。〉(江夏・上杉訳170頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●原注3

《初版》

 〈(3)ガニルは、ほかの点ではみすぼらしい著書『経済学の理論、パリ、1815年』のなかで、重農学派に反対して、本来の農業前提をなしている綿々と続く諸労働過程を、適切に列挙している。〉(江夏訳186頁)

《フランス語版》

 〈(4) ガニルは、ほかの点ではみすぼらしい彼の著書『経済学の理論』(パリ、1815年)のなかで、重農学派に反対して、厳密な意味での農業の前提的基礎をなすところの、綿々と続く種々の諸労働を、きわめて適切に列挙している。〉(江夏・上杉訳170頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●原注4

《初版》

 〈(4) 上記に引用した『考察』のなかで、テュルゴは、馴らされた動物が文化の初期にとってもっている重要性を、みごとに述のべている。〉(江夏訳186-187頁)

《フランス語版》

 〈(5) 『富の形成と分配にかんする考察』(1766年) のなかで、テュルゴは、文明の初期にとって飼い馴らされた動物がもつ重要性を、立派に浮き彫りにしている。〉(江夏・上杉訳170頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●原注5

《初版》

 〈(5) あらゆる商品のなかでも、本来の奢侈品は、いろいろな生産時代の技術学的比較にとっては最も無意味である。〉(江夏訳187頁)

《フランス語版》 フランス語版では現行版の原注5と5aは一つに纏められ、原注(6)となっている。

 〈(6) すべての商品のうちで、厳密な意味での奢侈品は、種々の生産時代の技術学的比較にとっては最も無意義である。これまでに書かれた歴史書は、あらゆる社会生活の基礎に、したがってあらゆる現実の歴史の基礎である物質的生産に、関係のあるすべてのことについて、非常な無知を示してはいるが、それにもかかわらず、いわゆる歴史的な研究とはなんのかかわりもない自然科学者の科学的研究の結果、先史時代は、武器と道具の素材にしたがって、石器時代、青銅器時代、鉄器時代という名称で特徴づけられてきたのである。〉(江夏・上杉訳170-171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●原注5a

《初版》 初版にはこの注はない。

《フランス語版》 先の原注(6)に纏められている。

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●第6パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働材料とは区別される労働手段のなかには、最も簡単な道具または容器から最も発達した機械体系までの生産用具が含まれるだけではなく、労働過程がそれなしにはおよそ行なわれえないところの対象的諸条件、たとえば、そのなかで労働がなされる家屋、あるいはそのうえに種をまく耕地、等々、も含まれる。それらは、直接に労働過程のなかにはいるのではないが、しかしそれなしには労働過程が行なわれえない諸条件であり、したがって欠くべからざる〔notwendig〕労働手段である。それらは過程全体の進行の諸条件として現われるのであって、過程の進行の内部に含まれる諸要因としては現われない*。細部に立ちいることは、ここではなんの役にも立たない。
  * 同様に、労働手段そのものを用いるために消費される物質〔Substanz〕、たとえば油、石炭、等々、あるいは労働材料における種の変化〔Modifikation〕を引き起こさせるための化学的素材、たとえば漂白のための塩素、等々も、労働手段のなかにはいる。〉(草稿集④87頁)

《初版》

 〈もっと広い意味で労働過程がその手段のうちに数え上げられるものとしては、労働対象への労働の作用を媒介し、したがってあれこれの仕方で活動の導体として役だつ物のほかに、全過程が行なわれるためにおよそ必要なすべての対象的条件がある。これらの条件は労働過程には直接はいらないが、これらの条件を欠いては、労働過程は全く進行することができないか、または不完全にしか進行することができない。この種の一般的な労働手段は、やはり土地そのものである。というのは、土地は、労働者に彼の立つ場所を与え、彼の労働過程に仕事の場所(fild of employment)を与えるからである。労働によってはすで媒介されているようなこの種の労働手段は、たとえば作業場や運河や道路等々である。〉(江夏訳187頁)

《フランス語版》

 〈労働手段は、労働対象にたいする人間の作用の媒介、導体として役立つ物のほか、もっと広い意味で、すべての物的条件をも含んでおり、これらの物的条件は、労働の作用のうちに直接には介入しないがそれでもなお不可欠であるか、または、それなしには労働を不備にするものなのである。この種の一般的な労働手段は、やはり土地である。土地は労働者に、立つ場所、彼の土台を提供し、彼の活動にたいしてそれが展開しうる場、彼の作業の場を提供するからである。すでに以前の労働にもとづいているこの種の労働手段は、作業場、工事場、運河、道路などである。〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(6)広い意味で云うならば、それらの、直接的に労働をその対象に転換させるために使われる手段に加えて、労働過程の遂行に必要な、いろいろな方法で、活動の案内人役を務めるものも、手段として含めるのがいいだろう。これらのものは、直接にはこの過程に入らないが、それが無ければ、なにも始まらないか、僅かな部分しかできないであろう。もう一度、我々は大地を、そのような世界的手段として見出してみよう。なぜなら、それは労働者に明確な立場を用意し、彼の活動の雇用の場を整える。労働手段の中でも、それは、以前の労働の結果であり、また労働者階級に帰属するものである。我々は、作業者集会所、運河、道路、その他諸々を、見つけ出すであろう。(赤色ラテン語)〉


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働過程の結果は、この結果がまだ労働過程そのものとの関連で考察されるかぎり、すなわち結晶した労働過程--この過程のさまざまな要因は、静止している対象として、主体的活動とその素材的内容との結合物として、一つになっている--としては、生産物である。しかしこの生産物がそれだけで〔für sich〕、すなわちそれが労働過程の結果として現われるときにとっている自立性において、考察されれば、それはある一定の使用価値である。労働材料は、労働過程全体がそれを作りだすことを目的としていたところの、またそれが推進的目的として労働そのものの特殊的な仕方様式を規定していたところの、形態、規定された諸属性、を受け取った。この生産物は、それがいまでは結果としてここにあるという、したがって労働過程が、過ぎ去ったものとして、その生成の歴史として生産物の背後にある、というかぎりでは、ある使用価値である。〉(草稿集④104頁)

《初版》

 〈だから、労働過程は、人間の活動が、労働手段によって、もともと企図されている労働対象の変化をそのなかでひき起こすところの、過程なのである。この過程は生産物では消えている。この過程の生産物は、使用価値、すなわち、形態変化によって人間の必要に同化させられた自然素材である。この過程によって、労働は自己の対象と結びつけられた。労働が対象化されており、対象には労働が加えられている。労働者の側では非静止の形態で現われていたものが、いまや、生産物の側では、静止的属性として、存在の形態で、現われている。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。〉(江夏訳187頁)


《フランス語版》

 〈労働過程では、人間の活動が労働手段によって労働対象を望みどおりに変える。この過程は、生産物のなかに、すなわち使用価値のなかに、形態変化によって人間の必要に同化された自然素材のなかに、消失する。労働は、その対象と結合することによって具現されたのであり、素材は加工されたのである。労働者のもとでは運動であったものが、いまや生産物にあっては静止的な属性として現われる。労働者は織ったのであり、生産物は織物なのである。〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(7)労働過程において、従って、人間の活動は、労働手段の助けを借りて、働きかける材料に、当初から意図されたような、変化を及ぼす。過程は生産物の中に消え、後者は使用価値となる。自然の材料は、人間が欲求する形への変化に適合させられる。労働が自身と対象を一体化する。前者が具現化し、後者が変形される。労働が活動として表れ、次いで、生産物として、ある決まった品質が動きを止めて表れる。鍛冶屋が打てば、刃物が並ぶ。〉


●第8パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈最初、価値の資本への移行を考察したときには、労働過程は単純に資本のなかに取り入れられた。そして資本は、それの素材的諸条件から見て、つまりそれの物質的定在から見て、この過程の諸条件の総体として現われ、またこの過程に応じて、労働材料(原料〔Rohmaterial〕ではなく、これが、正確で概念的な表現である)、労働手段、および生きた労働という、質的に異なった特定の諸部分に区分された。一方では、資本が、それの素材的な構成に従ってこれら三つの要素に分かれたのであったが、他方では、これらの要素の動的な統一が(すなわち、これらの要素がいっしょになって過程にはいることが)労働過程であり、それらの静的な統一が生産物であった。この形態では、素材的要素--労働材料、労働手段、および生きた労働--は、ただ、労働過程それ自体の本質的諸契機として現われるだけであって、この労働過程を資本はわがものとするのである。けれども、こうした素材的側面--すなわち使用価値および実体的過程としての資本の規定--は、資本の形態規定とはまったく離れたものであった。〉(草稿集②472-473頁)

《61-63草稿》

 〈労働そのものとの関連で考察された労働過程の諸契機は、労働材料、労働手段、および労働そのもの、と規定されている。これらの契機を全過程の目的、生みだされるべき生産物との関連において考察すれば、それらは、生産材料〔Produktionsmaterial〕、生産手段、および生産的労働、と名づけることができる。(あるいは、この後者の表現は〔適切では〕ないかもしれない。)〉(草稿集④102頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈生きた労働そのものとの関係では、それらは労働の材料と手段である。労働の生産物との関係では、それらは生産手段である。そしてそれらは、これらの生産手段そのものがすでに生産物であるということからすると、新しい生産物の生産手段としての生産物である。〉(33頁)
  〈ロッシは、「原料」をも資本に数えることができるかどうかという「難問」に頭を悩ませている。たしかに、「原料としての資本」と「用具としての資本」とを区別できることを認めつつ、「それ」(原料)は「本当に生産用具だろうか? それはむしろ生産用具によって働きかけられる対象ではないのか」(367ページ)。彼が理解していないのは、いったん資本をその素材的な現象形態と混同し、したがって労働の対象的諸条件を単純に資本と呼んでしまうならば、たしかにそれらは、労働そのものとの関係では労働材料と労働手段として区別できるのだが、生産物との関係ではどちらも等しく生産手段なのだということである。〉(37頁)

《初版》

 〈この全過程をそれの結果である生産物の立場から見れば、労働手段労働対象もとに生産手段(6)として現われ、労働そのものは生産的労働(7)として現われている。〉(江夏訳187頁)

《フランス語版》

 〈この運動全体を、その結果である生産物の観点から考察すれば、労働手段と労働対象は双方とも生産手段として現われ(7)、労働そのものは生産労働として現われる(8)。〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(8)もし我々が、全過程を結果視点、つまり生産物から検討するならば、率直に云って、労働の対象と手段は、共に、生産の手段と言える。そして、労働そのものは、生産的労働と云える。
 (本文注: 労働過程だけからの視点で、何が生産的労働であるかを確定するこの分類法は、資本主義的生産過程の場合に直接適用できるという意味ではない。)〉


●原注6

《初版》

 〈(6) たとえば、まだつかまえられていない魚を漁労の生産手段と呼ぶことは、逆説のように思える。ところが、魚のいない水中で魚をつかまえる術は、いままでにまだ発見されていない。〉(江夏訳187-188頁)

《フランス語版》

 〈(7) たとえば、まだ捕えられていない魚を、漁業のための生産手段と呼ぶことは、逆説のように思える。だが、魚のいない水中で魚を捕える方法は、これまでまだ発明されていないのである。〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●原注7

《61-63草稿》

  〈資本主義的生産の意味での生産的労働とは、賃労働のことであって、これは、資本の可変約部分(賃金に投下される資本部分)と交換されて、資本のこの部分(またはそれ自身の労働能力の価値)を再生産するだけではなく、そのうえに資本家のための剰余価値をも生産する。このことによってのみ、商品または貨幣は、資本に転化され、資本として生産されるのである。資本を生産する賃労働だけが生産的である。(このことは、賃労働がそれに投下された価値額を増大させて再生産するということ、または、それが賃金の形態で受け取るよりも多くの労働を返すということ、と同じである。つまり、その経済的利用がそれ自身の価値よりも大きい価値をつくりだす労働能力だけが生産的なのである。)資本家階級の、したがって資本の、存在そのものは、労働の生産性を基礎にしているが、しかし、その絶対的生産性ではなく、その相対的生産性を基礎にしているのである。たとえば、かりに一労働日が労働者の生活を維持するのに足りる、すなわち、彼の労働能力を再生産するのに足りるだけだとしても、 絶対的にいえば、その労働は生産的であろう。なぜならば、その労働は再生産されるであろうし、換言すれば、それが消費した価値(それ自身の労働能力の価値に等しいもの)を絶えず補塡するだろうから。しかし、その労働は資本主義的な意味では生産的ではないであろう。なぜならば、それは少しも剰余価値を生産しないだろうから。(その労働は、事実上、新しい価値を少しも生産することなく、ただ元の価値を補塡するだけであろう。それは価値を、ある形態で消費して、別の形態で再生産したことになろう。そして、この意味において、それ自身の消費とその生産とが等しい労働者は生産的であると言われてきたのであり、また、再生産するよりも多くを消費する労働者は不生産的であると言われてきたのである。)この生産性は、労働者が元の価値を補塡するだけではなく新しい価値をもつくりだすという相対的生産性、すなわち、労働者が、労働者としての彼の生活を維持する生産物に対象化されているよりも多くの労働時間を、彼の生産物に対象化するという相対的生産性、を基礎にしている。この種の生産的賃労働をこそ、資本は、資本の存在は、基礎にしているのである。{しかし、かりに資本が存在せず、労働者が、彼の剰余労働を、すなわち、彼がつくりだした価値のうち彼が消費する価値を越える超過分を、みずから取得するとしよう。その場合には、この労働についてだけ、それは真に生産的である、換言すれば、新しい価値をつくりだすのだ、と言うことができるであろう。}〉(草稿集⑤171-172頁)
  〈資本を生産する労働だけが生産的労働なのである。しかし、商品または貨幣が資本となるのは、それが直接に労働能力と交換され、しかも、それ自身に含まれているよりも多くの労働によって補塡されるためにのみ交換される、ということによってである。なぜならば、労働能力の使用価値というのは、資本家としての資本家にとっては、その現実の使用価値に、すなわち、それが紡績労働や織物労働などであるというこの特殊な具体的な労働の有用性にあるのではないからである。それは、生産物が資本家にとっては商品であって(しかも、その最初の変態以前でさえもそうであって)消費材ではないから、彼がこの労働の生産物の使用価値そのものに関心をもたないのと同じである。彼が商品にたいしてもつ関心は、商品が、それにたいして彼が支払ったよりも多くの交換価値をもつということであり、したがって、彼にとっては労働の使用価値は、彼が賃金の形態で支払ったよりも多量の労働時間を回収する、ということなのである。この生産的労働者のなかには、当然、なんらかの仕方で商品の生産に協力する本来の手工労働者から支配人や技師(資本家とは区別されるものとしての)にいたるまでの、すべての労働者が属する。したがって、工場に関する最近のイギリスの官庁報告書もやはり、工場主だけを除き、工場と付属事務所で使われているすべての人を「はっきりと」就業賃労働者の部類に数えあげている。(これの結びを書き終える前に、報告書の字句を見ること。)〉(草稿集⑤176-177頁)
  〈生産的労働者の労働が物体化されている商品の使用価値は、きわめてつまらない種類のものであるかもしれない。こうした素材的規定は、むしろただ一定の社会的生産関係を表わすにすぎないところの、生産的労働のこのような属性とは、少しも関係がない。それは、労働の内容または労働の成果からではなく、労働の一定の社会的形態から生ずるところの、労働の一規定である。〉(草稿集⑤180頁)
  〈労働の、したがって労働生産物の、素材的規定性は、生産的労働と不生産的労働とのあいだのこうした区別とは絶対になんの関係もない。たとえば、一般のホテルの料理人や給仕は、彼らの労働がホテル所有者のための資本に転化されるかぎりでは、生産的労働者である。これと同じ人も、私が、彼らのサーヴィスで資本をつくるのではなくそれに収入を支出するかぎりでは、召使として不生産的労働者なのである。だが、実際には、この同じ人がホテルにいても、消費者である私にとっては、やはり不生産的労働者なのである。〉(草稿集⑤181頁)
  〈すでに述べたように、生産的労働と不生産的労働とのあいだのこの区別は、それ自体としては、労働のそれぞれの特殊性とも、またこの特殊性が物体化されているそれぞれの使用価値とも、なんの関係もない。一方の場合には、労働が資本と交換され、他方の場合には、収入と交換されるのである。一方の場合には、労働は資本に転化されて、資本家の利潤をつくりだす。他方の場合には、労働は支出であり、収入が費やされる項目の一つである。〉(草稿集⑤183頁)
  〈したがって、生産的労働とは、商品を生産するような労働、または、労働能力そのものを直接に生産し、形成し、発展させ、維持し、再生産するような労働であろう。〉(草稿集⑤200頁)
  〈商品は、ブルジョア的富の最も基素的な形態である。したがってまた、「生産的労働」について、それは「商品」を生産する労働だと説明することは、生産的労働とは資本を生産する労働だと説明する立場よりも、はるかにより基素的な立場に照応するものである。〉(草稿集⑤201頁)
  〈兵士が生産上の空費に属するのは、不生産的労働者の大部分と同じである。彼らは、みずからは精神的にも物質的にもなにも生産せず、ただ社会的諸関係に欠陥があることのゆえにのみ有用であり必要であるにすぎない、--彼らの存在は社会の害悪のせいである。〉(草稿集⑤446頁)
  〈労働能力そのものを再生産するか(これはたとえば学校教師または医師の労働がなしうるもの)それとも労働能力を買うための諸商品の価値を再生産するか、そのどちらかをなすような労働を充用するところの消費は生産的であることになるであろう。そのどちらも遂行しないような労働の消費は不生産的であることになるであろう。〉(草稿集⑤450頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈資本主義的生産の直接的目的でありその固有の生産物であるのは剰余価値である。それゆえ、直接に剰余価値を生産する労働だけが生産的であり、[自己の]労働能力をそのように行使する者だけが生産的労働者である。したがって、資本を価値増殖させるために生産過程で直接消費される労働だけが生産的である。
    労働過程一般の単純な観点からは、生産的労働として現われるのは、ある生産物に、もっと言えばある商品に実現される労働である。しかし、資本主義的生産過程の観点からは、次のようなより進んだ規定が追加されなければならない。すなわち、生産的であるのは、資本を直接に増殖させる労働、つまりは剰余価値を生産する労働である。〉(光文社古典文庫255-256頁)
  〈資本主義的労働過程は労働過程の一般的な規定性を廃棄(アウフヘーベン)しない。それが生産するのは生産物と商品である。そのかぎりで、使用価値と交換価値との統一としての商品に対象化される労働は依然として生産的である。しかし、労働過程は資本の価値増殖過程にとっての手段でしかない。したがって、商品に表わされる労働は生産的なのだが、個々の商品を考察する場合には、その商品の一可除部分に表わされる不払労働が生産的なのであり、総生産物を考察する場合には、総商品量のうち不払労働をもつぱら表わしている一可除部分、したがって資本家にとって何の費用もかかっていない生産物を表わしている労働が生産的なのである。
    生産的である労働者とは、生産的労働を行なう労働者のことであり、生産的である労働とは、直接に剰余価値を生み出す労働、すなわち資本を増殖させる労働のことである。〉(256-257頁)
  〈だが労働者が生産的であるのは、その労働過程が、資本ないし資本家による労働能力の--この労働の担い手の--生産的消費過程である場合だけである。〉(258頁)
  〈生産的労働とは、労働能力と労働とが資本主義的生産過程において役割を果たすその関係の全体およびそのあり方を要約的に表現するものでしかない。したがって、われわれが生産的労働について語るなら、われわれは社会的に規定された労働のことを語っているのであり、労働の売り手と買い手とのある一定の関係全体を包括する労働のことを語っているのである。〉(265-266頁)

《初版》

 〈(7) 生産的労働のこういった規定は、単純な労働過程の立場から生ずるものであるから、資本主義的生産過程にとってはけっして充分なものではない。〉(江夏訳188頁)

《第2版》

 〈労働過程はさしあたり、その歴史的諸形態にはかかわりなく、人間と自然とのあいだの過程として抽象的に考察された(第五章を見よ)。労働過程が純粋に個別的な過程であるかぎり、同一の労働者が、のちには分離してゆく諸機能をことごとく一身に兼ねている。。彼は、自分の生活目的のために自然対象を個人的にわが物としているばあいには、自分自身を制御している。あとになると彼が制御されることになる。個々の人間は、自分自身の筋肉を自分自身の脳髄の制御のもとに活動させなければ、自然に働きかけることができない。自然体系では頭と手が対(ツイ)をなしているように、労働過程は頭の労働と手の労働とを結合している。あとになると、この二つが分離して敵対的に対立するようになる。生産物は、一般的には、個人的生産者の直接的生産物から一個の結合された労働人員--その構成員は、ある程度は近くからあるいは遠くから労働対象の取り扱いにかかわっている--の共同生産物に転化する。だから労働過程そのものの協業的な性格が広がるにつれて、生産的労働の概念やこの労働の担い手である生産的労働者の概念も、必ず広がってくる。他方、こういった概念はせばまりもする。資本主義的生産は、商品の生産であるばかりではなく、本質的には剰余価値の生産でもある。労働者は、自分のために生産するのではなく、資本のために生産する。だから、彼が一般的に生産するというだけでは、もはや充分とはいえない。彼は剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけが、生産的である。……だから、生産的労働者という概念には、たんに、活動と有用的効果との関係、労働者と労働生産物との関係が、含まれているだけではなく、労働者にたいして資本の直接的増殖手段という極印を押すところの・独自に社会的な生産関係も、含まれているのである。だから、生産的労働者であるということは、少しも幸運ではなくて不運なきである。……以下、略〉(江夏訳595-596頁)

《フランス語版》

 〈(8) 生産労働というこの規定は、資本主義的生産が問題となるやいなや、全く不充分になる。〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

  〈ここでは「より高次の〔höher〕」使用価値ということを言っているが、これをなにか道徳的な意味に解してはならないのであって、それは、欲望の体系のなかで新しい使用価値はかならずより高い地位を占める、という意味でさえない。火酒に仕上げられる穀物は、火酒よりも低次の使用価値である。ある新しい使用価値の形成に要素として前提されている使用価値は、いずれもこの新しい使用価値の要素的な前提をなしているのだから、新しい使用価値にたいしてはいずれもより低次の使用価値であり、また、ある使用価値は、それを新たに形成する諸要素が、すでに多くの労働過程を経過してきていればいるほど、つまりこの使用価値の定在が、媒介されているものであればあるほど、それだけより高次のものなのである。〉(草稿集④90頁)
 〈生産物は労働過程の結果である。まったく同様に、生産物は労働過程の前提としても現われるのであって、労働過程はこれらの生産物で終わるのではなく、それらが定在することを条件として出発する。労働能力そのものが一つの生産物であるばかりでなく、労働者が彼の労働能力の販売と引き換えに、貨幣所有者から貨幣として受け取る生活手段がすでに、個人的消費のために完成している生産物である。同様に彼の労働材料と労働手段も、そのうちのどちらか、またはその両者が、すでに生産物である。つまり生産にはすでに生産物が、すなわち個人的消費のための生産物ならびに生産的消費のための生産物が、前提されているのである。本源的には自然そのものが貯蔵庫であって、人間--人間も同様に自然の産物〔Naturptodukt〕として前提されているのであるが--はこの貯蔵庫のなかに、消費できる出来あいの自然の産物を見いだし、また一部は、彼自身の身体の諸器官のなかに、これらの産物を取得する〔わが物とする〕ための最初の生産手段を見いだす。労働手段、生産手段は、人間が生産する最初の生産物であって、たとえば石、等々のようなその最初の諸形態も、彼が自然のなかに見いだすものなのである。〉(草稿集④102-103頁)

《初版》

 〈ある使用価値が生産物として労働過程から出てくるとき、それ自体が以前の労働過程の生産物であるところの別の使用価値は、生産手段としてこの労働過程にはいってくる。ある労働過程の生産物である当の使用価値が、別のある労働過程の生産手段を形成している。したがって、生産物は、労働過程の結果であるばかりではなく、同時にその条件でもある。〉(江夏訳188頁)

《フランス語版》

 〈ある使用価値はある労働過程の生産物ではあるが、この労働過程には他の使用価値--これもまた以前の労働の生産物である--が生産手段として入ってくる。一方の労働の生産物である当の使用価値が、他方の労働の生産手段にもなる。それだから、生産物はたんに労働過程の結果であるぽかりでなく、さらにその条件でもある〉(江夏・上杉訳171頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(9)生産物の形で、使用価値が労働過程から出てきたとしても、依然として、他の使用価値、以前の労働の生産物が生産手段としてそれに入り込んでいる。同じ使用価値が以前の過程の生産物と以後の生産手段の両方に存在する。従って、生産物は、単なる結果ではなく、また、労働の基本的な条件でもある。〉


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働材料は、粗生産物〔Rohproduktion〕を除けば、つねに、それ自身すでにもっとまえの或る労働過程を通過してきたものであろう。ある労働部門で労働材料として、したがってまた原料〔Rohmaterial〕として現われるものが、他の労働部門では結果として現われる。天然産物と見なされているものでさえその大多数は、たとえば多くの動植物は、いま人間によって利用されているような、また重ねて生みだされているような形態では、多くの世代を通じて人間の制御を受けつつ人間労働に媒介されて進行してきた変移の結果なのであって、この変移のなかでそれらの形態も実体も、変わってしまっているのである。同様に、すでに述べたように、ある労働過程における労働手段は、他の労働過程における労働の結果である。〉(草稿集④87-88頁)

《初版》

 〈採鉱や狩猟や漁業等々(農業は、最初に処女地そのものを開墾するかぎりで) のように、労働対象が天然に存在している採取産業を除けば、すべての産業部門が取り扱う対象は、原料、すなわち、労働によってすでに濾過された労働対象、それ自体がすでに以前の労働過程の生産物、である。たとえば農業における種子が、そうである。自然の産物と見なされがちな動植物は、さぞかし前の年の労働の生産物であるばかりではなく、それの現在の形態にあっては、多くの世代を通じ人間の制御のもとで人間労働を媒介として継承された変化の産物である。だが、特に労働手段について言えば、その大多数は、どんなに皮相な観察眼にも、過去の労働の痕跡を示している。〉(江夏訳188頁)

《フランス語版》

 〈採取産業--採鉱、狩猟、漁業など--において、また、処女地を開墾することに限られているかぎりでは農業においてさえも、労働対象は自然だけから供給される。その他のすべての産業部門は、原料、すなわち、たとえば農業における種子のように労働によってすでに濾過された労働対象を、取り扱う。通例自然の生産物と見なされている動物や植物は、その現在の形態では、たんに前年の労働の産物であるばかりでなく、数世紀のあいだ人間労働の監督と世話のもとで継続されてきた変化の産物でもある。厳密な意味での労働手段について言えぽ、それらの大多数は、ごく皮相的に見ても、過去の労働の痕跡を示している。〉(江夏・上杉訳172頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(10)直接的に自然から、労働のための材料を供給される、いはば、そこから取りだしてくる産業、例えば、鉱業、狩猟、そして農業(農業に関しては、処女地の開墾に限定されるが) と云った産業を除いて、全ての産業部門においては、原料を取り扱う。それらの物は、既に労働によって濾過されており、既に労働の生産物である。農業での種子もそうである。動物や植物も、我々は自然の産物と考えるのに慣れているが、現在の形は、云うならば、単に去年の労働の産物であるばかりでなく、人間の管理の下、彼の労働によってなされた、多くの年代を経て続いてきた、漸進的な変化の結果である。いや、大部分の場合、たとえどんなに皮相的にしか見ない観察者にも、労働の手段が、過去の時代の労働の痕跡を見せてくれる。〉


●第11パラグラフ

《初版》

 〈原料は、ある生産物の主要実体を形成することもありうれば、この生産物の形成のなかに補助材料としてのみはいり込むこともありうる。補助材料は、石炭が蒸気機関によって、油が車輪によって、乾草がひき馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、または、塩素が漂白されていないリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛につけ加えられるように、原料のうちに素材的変化を起こすべく原料につけ加えられるか、または、たとえば作業場の照明や暖房に使われる材料のように、労働の遂行そのものを援助する。主要材料と補助材料との区別は、本来の化学工業ではあいまいになる。というのは、使用された諸原料は、けっして生産物の実体として現われることがないからである(8)。〉(江夏訳188-189頁)

《フランス語版》

 〈原料は生産物の主要な実体をなすこともあれば、補助材料の形態でのみこの生産物に入りこむこともある。このばあい補助材料は、石炭が蒸気機関により、油が車輪により、乾草が挽馬によって消費されるように、労働手段によって消費されるか、あるいはまた、塩素が未漂白のリンネルに、石炭が鉄に、染料が羊毛に付加されるように、原料に付加されてこれを変化させるか、あるいはまた、たとえば作業場の照明や暖房に用いられる材料のように、労働自体の遂行を助ける。主要材料と補助材料との差異は、使用された材料がどれも生産物の実体としては再現しない厳密な意味での化学工業では、区別されなくなる。〉(江夏・上杉訳172頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(11)原料は、生産物の主要な実体をなすか、または、単に補助材料としてその構成関係に入るかの いずれかであろう。補助材料は、労働手段によって消費される。ボイラー焚口への石炭、車輪への潤滑油、荷役馬への干し草。また、それは、ある改質を与えるために、原料に混ぜられることもある。未漂白のリネンに塩素剤をとか、鉄に石炭をとか、羊毛に染色剤とか。また、同様に、作業の進行を支援することもある。作業室の暖房とか照明とかに用いられる材料の場合のように。主要なる実体と補助材料との明確な違いも、真に化学工業では、消滅する。なぜならば、生産物の実体においては、原料は、最初の構成で、再現されることもない。〉

  (以下は、(8)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(8)

2022-06-17 17:47:02 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(8)


  【付属資料】の続き(3)


●原注8

《初版》

 〈(8)シュトルヒは本来の原料を"marière"と呼んで、"matèrisux"と呼ぶ補助材料から区別している。シェルビュエリは補助材料を"matières instrumentales"と呼んでいる。〉(江夏訳189頁)

《フランス語版》

 〈(9) シュトルヒは、彼がたんに"matière"と名づける厳密な意味での原料を、彼が"matèrisux"と呼びシェルビュエリが"matières instrumentales"と呼ぶ補助材料から、区別している。〉(江夏・上杉訳172頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  なし。


●第12パラグラフ

 《61-63草稿》

  〈生産物のなかでは、労働は労働手段の媒介によって労働材料と結合してしまっている。生産物、すなわち、労働過程の終りに、生じるこの中性的な結果は、新しい使用価値である。要するに使用価値は、労働過程の生産物として現われるのである。この使用価値は、あるいはそれ自身が、生活手段として個人的消費に役立つことのできる最終の形態に到達していてもいい--それはこの形態でも、ふたたび新しい労働過程の要因になることができるのであって、たとえば穀物は、人間によってではなく、馬によって馬の生産のために食われることもできるし、あるいは、より高次の複雑な使用価値にとっての要素として役立つこともできる--。あるいはその使用価値は、新しい労働過程で労働手段として役立つべき、完成した労働手段である。〉(草稿集④91-92頁)

《初版》

 〈物は、それぞれいろいろな属性をもっており、したがっていろいろに利用できるので、同じ生産物でも、いともさまざまな労働過程の原料になりうる。たとえば穀物は、製粉業者や澱粉製造業者や醸造業者や牧畜業者等々にとっては原料である。それは、種子としてはそれ自身の生産の原料になる。同様に、石炭は、生産物としては鉱山業から出てくるが、生産手段としては鉱山業にはいってゆく。〉(江夏訳189頁)

《フランス語版》

 〈どんな物でもさまざまな属性をもっており、そのために多くの用途に使われるのであるから、同一の生産物はいろいろな作業の原料を形成することがある。したがって、穀物は、製粉業者、澱粉製造業者、酒造業者、牧畜業者等々には原料として役立ち、種子としては穀物自体の生産の原料になる。同じように石炭は、生産物として鉱業から出てきて、生産手段として鉱業に入りこむ。〉(江夏・上杉訳172頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(12)全ての物は、様々な性質を持っている。また、違った様々な使用に適用することができる。一つの同じ物が、従って、全く異なる過程への原料として役に立つ。例えば、トウモロコシは、製粉業者、澱粉製造業者、蒸留酒製造業者、畜産業者の原料である。それは、また、それ自身の生産のための原料として入る。種子の形で。石炭もまた、生産物であると同時に、生産手段として、石炭の採掘に加わる。〉


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

  〈ただし農業では、種子は労働手段でもあり労働材料でもあり、また、すべての有機的なもの、たとえば畜産における動物も、その両者である。〉(草稿集④86頁)

《初版》

 〈同じ生産物が同じ労働過程で、労働手段として役立つこともあれば原料として役立つこともある。たとえば家畜の肥育では、家畜という加工されている原料が、同時に、肥料製造の手段でもある。〉(江夏訳189頁)

《フランス語版》

 〈同じ生産物が同じ作業で、労働手段としても原料としても役立つことがある。たとえぽ家畜の肥育では、加工材料である動物が同時に厩肥(ウマヤゴエ)づくりのための労働手段としても機能する。〉(江夏・上杉訳172-173頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(13)さらに云えば、ある特別の生産物は、その物としての他、同時にその過程において、共に、労働の手段であり、かつ、原料として使用されうる。例を挙げるなら、牛の肥育である。ここでは、動物は原料であり、かつ、また、同時に、肥料生産の手段である。〉


●第14パラグラフ

《61-63草稿》

  〈あるいは最後にその使用価値は、未完成の生産物、すなわち半製品であるが、この半製品はさらに、それを自己の生産物として生みだす労働過程とは区別される他の労働諸過程に--この諸過程の系列には長短があるが--労働材料としてふたたびはいり、一連の素材的変化をも経過しなければならない。しかし、半製品が生産物として出てくる労働過程にかんしては、半製品は完成した最終の結果として、新しい一使用価値として現われるのであって、それの生産が労働過程の内容であり、労働活動--これは労働能力の支出、その消費であった--の固有の目的であったのである。〉(草稿集④92頁)

《初版》

 〈ある生産物は、消費用に仕上がった形態で存在しながらも、あらためて別の生産物の原料になることもありうる。たとえば、葡萄が葡萄酒の原料になるように。さもなければ、労働過程は、それの生産物を、後続の労働過程の原料としてしか使いようのない形態で手放す。こういった状態にある原料、たとえば綿花、縫糸、織糸等々は、半製品と呼ばれているが、中間製品と呼ぶほうがよいかもしれない。最初の原料は、それ自身すでに生産物であっても、いろいろな労働過程から構成されている一つの全段階を通らなければならないことがあって、このばあい、それを仕上がった生活手段または仕上がった労働手段として突きはなす最後の労働過程にいたるまで、つねに変化する姿で、絶えず繰り返し、原料として機能しているのである。〉(江夏訳189頁)

《フランス語版》

 〈すでに消費に適する形態で存在している生産物もやはり他の生産物の原料になることもあるのであって、葡萄は葡萄酒の原料でもある。原料以外のどの用役にも不適切であるような生産物を産む労働も、存在する。この状態では、この生産物は、いわば半加工しか受け取らなかったのであって、たとえば綿花や糸やキャラコなどのように、連続的または段階的な生産物でしかない、と言うほうがましであろう。最初の原料は、それ自身も生産物でありながら、全加工段階を通過しなければならないこともありうるのであって、全加工段階では、最初の原料は、それを消費物品または労働手段として排泄する最後の作業にいたるまで、絶えず変化する形態のもとで、原料として不断に機能するのである。〉(江夏・上杉訳173頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(14)直接的な消費の準備ができているのに、さらなる生産物のための原料となるかもしれない生産物、葡萄は、ワインのための原料となる。他方、労働が我々に、ある形で与えるその生産物が、ただ、原料としてのみ使うことができるものもある。それは、綿、繊維、撚糸と云ったものである。このような原料は、それ自身生産物であるにも係わらず、様々な過程の全行程を通過しなければならないであろう。各過程で、役割を果たし、次々に確実に形を変え、原料となり、全行程の最後の過程を終わるまで進み、そしてそれは完全な生産物を供する。個々の消費のために、または、労働の手段としての使用のために。〉


●第15パラグラフ

《初版》

 〈つまり、ある使用価値原料労働手段生産物かのうちどれとして現われているかは、全くのところ、労働過程におけるこの使用価値の特定の機能、この使用価値が労働過程において占める地位、によってきまるわけであって、この地位が変われば右の諸規定も変わってくる。〉(江夏訳189-190頁)

《フランス語版》

 〈われわれが見るとおり、生産物、原料、または労働手段という性格が使用価値に結びつくのは、ただ、使用価値が労働過程において占める特定の位置、使用価値が労働過程で占めている場所にだけよるのであって、使用価値の場所が変われぽ、使用価値がどう規定されるかも変わるのである。〉(江夏・上杉訳173頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(15)ここまで我々が見て来たように、使用価値が、原料として、労働の手段として、または生産物として見られるかどうかは、その労働過程の中でのそのものの機能に大きく依存している。それが、そこで占める状態に依存している。これは変化し、そのようにそれらの性格も変化する。〉


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

 〈現実の労働過程そのものの内部では、諸商品はただ使用価値として現存するのであり、交換価値として現存するのではない。というのは、諸商品は、現実の生きた労働にたいして、ただこの労働の諸条件として、この労働の実現の手段として、ある一定の使用価値において〔自らを〕実現するのにこの労働が必要とする・労働そのものの本性によって規定された・諸要因として、対立しているにすぎないからである。たとえば、織布の活動をしている亜麻布織工は、彼の労働材料である亜麻糸と関係をもっているが、この関係は、ただ、織布というこの規定された活動の材料としての、亜麻生産物の生産のための要素としての・亜麻糸との関係にすぎないのであり、交換価値をもっているというかぎりでの・それ以前の労働の結果であるというかぎりでの・亜麻糸とではなくて、その諸属性を利用して彼がそれを変形する・現存する・物としての亜麻糸との関係なのである。同様に織機もここでは、商品としては、交換価値の担い手としては、なんのかかわりもないのであり、ただ織布のための労働手段としてかかわりをもつにすぎない。かかるものとしてのみ、織機は労働過程で使用され消耗されるのである。労働材料と労働手段とは、それ自身商品であり、したがってまた、ある交換価値をもつ使用価値であるにもかかわらず、現実的労働にたいしては、ただ労働の過程の諸契機として、その諸要因として対立しているにすぎない以上、いわんやそれらがこの過程そのもののなかで、それにたいして資本として対立しているものでないことは、おのずから明らかである。現実的労働が用具を取得する〔わが物とする〕のは自らの手段としてであり、材料を取得するのは自らの活動の材料としてである。現実的労働は、これらの対象を、生気を与えられた肉体として、労働そのものの諸器官として取得する過程である。ここでは材料は、労働の非有機的な自然として、労働手段は取得する活動そのものの器官として現われる。〉(草稿集④89-90頁)
  〈労働の特殊的な様式、その推進的目的、その活動として現われたものが、いまではそれの結果のかたちで、生産物のなかに労働によって成就された対象の変化のかたちで、使用のための、諸欲望の充足に役立つ新たな一定の諸属性をもった一対象として現われる。もし、労働材料および労働手段が以前の労働の生産物であることを、われわれが労働過程そのもののなかで思いださせられるとすれば、それはただ、それらが必要な諸属性を示さない場合にだけ起こることであって、たとえば、挽けないのこぎり、切れないナイフ、等々がそうである。これらはわれわれに、現在の労働過程のための要因を提供した労働の不完全さを思いださせる。以前の労働諸過程の生産物が新たな労働過程に要因として、材料あるいは手段としてはいるかぎりにおいて、われわれの関心を引くのは、過去の労働の質だけ、つまり、この労働の生産物はほんとうに、それがもっていると称する合目的的な諸属性をもっているのかどうか、その労働は良いものであった悪いものであったか、ということだけである。ここでわれわれの関心を引くのは、その素材的な、作用および現実性、における労働である。このほかには、労働手段および労働材料が--かかるものとして諸使用価値が--現実の労働過程で役立ち、また合目的的な諸属性をもっているかぎり、それらが以前の労働の生産物であることは、まったくどうでもよいのである。(しかし、それらが使用価値としてのこの諸属性をもっている程度の高低、それらが自分の目的に役立つ完全さの大小は、それらを生産物として生みだした過去の労働にかかっている。)もしもそれらができあいのまま天から降ってくるとしても、それらは同じ役立ちをするであろう。それらが生産物として、すなわち過去の労働の結果として、われわれの関心を引くかぎり、それはただ、ある特殊的な労働の結果として、この特殊的な労働の質--それらの、使用価値としての質は、すなわち、それらが使用価値[として]この特殊的な消費過程に現実に役立つ程度は、この労働の質にかかっている--としてにすぎない。まったく同様に、ある所与の労働過程において労働が関心を引くのは、それがこの特定の合目的的活動として働くかぎりにおいて、この特定の素材的内容を〔もつ〕かぎりにおいてであり、また、生産物の良否の程度、労働過程のなかで受け取っているはずの使用価値を生産物が実際にもっている・受け取っている・程度が、労働の品質の良否、その完全さの大小、その目的に相応するそれの性格いかんにかかっている、というかぎりにおいてである。〉(草稿集④95-96頁)
  〈労働過程そのものにとっては、あるいは労働過程そのもののなかでは、活動する労働能力である現実の労働者が労働材料および労働手段に関連するのは、ただ、創造的な不静止〔Unruhe〕--これは労働そのものである--の対象的諸前提としてのそれらに、じっさいにはただ、労働の実現のための対象的手段としてのそれらにたいしてでしかない。それらがかかるものであるのは、ただ、それらの対象的諸属性によって、それらがこの特定の労働の材料および手段としてもっている諸属性によってでしかない。私のために書くことに役立つ机は、以前には家具労働の形態付与的な質あるいは規定性として現われたものを、それ自身の形態およびそれ自身の諸属性としてもっている。私は、机を今後の労働のための手段として使用するかぎりで、すなわちそれが使用価値として、机として、特定の利用の仕方に役立つかぎりで、それとかかわりをもつのである。それの一部となっている材料が以前の労働によって、家具労働によってこの形態を受け取ったということは、机の物的な定在のなかでは消えてしまっており、消し去られている。労働過程ではそれは、それを机にした労働にはまったく無関係に、机として役立つのである。〉(草稿集④112頁)

《初版》

 〈だから、生産物は、生産手段として新たな労働過程にはいることによって、生産物という性格を失う。それは、もはや、生きている労働の対象的要因として機能するにすぎない。紡績工は、紡錘には、自分が紡ぐための手段としてのみ関係し、亜麻には、自分が紡ぐ対象としてのみ関係する。当然のことだが、紡績材料や紡錘がなければ紡ぐことができない。だから、これらの生産物が現存していることは、現実の紡績過程が開始するさいに前提されている。しかし、この過程そのものにあっては、亜麻や紡錘が過去の労働の生産物であることはどうでもよいのであって、このことはちょうど、パンが農民や製粉業者や製パン業者等々の過去の労働の生産物であることが、現実の栄養過程ではどうでもよいのと、同じである。反対に、生産手段が労働過程において過去の労働の生産物としての性格を主張するとすれば、このことは、この生産手段の欠陥のせいなのだ。切れないナイフや絶えず切れる糸等々は、刃物屋Aや蝋引屋Eを生き生きと思い起こさせてくれる。できばえのよい生産物では、それの使用属性が過去の労働で媒介されているということは、消え去っている。〉(江夏訳190頁)

《フランス語版》

 〈生産手段として新しい作業のなかに入りこむ使用価値はどれも、生産物という性格を失って、もはや生きた労働の要因として機能するにすぎない。紡績工は紡錘および亜麻を、たんに自分の労働の手段および対象として取り扱う。労働手段なしでは、また材料なしでは、紡ぐことができないことは、確かである。したがって、これらの生産物の存在することが、紡績作業の初めにすでに言外に含まれている。だが、この最後の行為では亜麻と紡錘とが以前の労働の生産物であることはどうでもよいことであって、このことは、栄養摂取の行為ではパンが耕作民や製粉業者や製パン業者等々の以前の労働の生産物であることがどうでもよい、のと全く同じである。これと正反対に、いったん仕事が始まってしまうと、生産手段が生産物としての性格を主張するのは、もっぱら、これらの生産手段に欠陥があるためである。切れない小刀、絶えず切れる糸は、その製造者についての不愉快な思い出を目覚めさせる。優秀な生産物は、それがその有用な特性を引き出しているところの労働を、感じさせることがない。〉(江夏・上杉訳173頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(16)従って、生産物が、生産の手段として新たな労働過程に入る場合はいつでも、その生産物としての性格をそのことによって失う。そして、単なる過程の要素となる。紡績工は、紡錘を紡ぐための単なる道具として取り扱い、亜麻を単に彼が紡ぐ材料として取り扱う。勿論、材料や紡錘なくして、紡ぐことは不可能である。従って、これらの生産物であるところのものの存在が、紡績作業を開始する際には当然のことである。しかし、過程自体においては、事実それらが以前の労働の生産物であるとしても、そのことは、全くどうでもいいことである。丁度、消化の過程においては、食パンが、農夫の、製粉業者の、パン製造業者の、以前の労働の生産物であろうがなかろうが、なんの重要性もないのと同様である。だが逆に、生産物としてそれらに問題がある場合は、一般的に、いかなる過程の生産手段であるのかから、それらの生産物の性格において、それら自体がはっきりする。切れないナイフまたは弱い糸は、我々に、Mr.Aなる刃物工、またはMr.Bなる紡績工と、はっきりと思い当たる。生産物が完成した時点で、労働によって、それが有用な品質を確保しているならば、労働の諸々はどうでもよく、その姿は明らかに消え失せている。〉


●第17パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈労働は、それが働きかける材料とそれが用いる道具との価値を再生産するわけではない。労働は、労働過程において労働の対象的諸条件としての材料および道具に関係することだけによって、材料および道具の価値を維持するのである。〔価値に〕生命を与え、維持する労働のこうした力を得るために、資本はなんの費用も払わない。これはむしろ資本自身の力として現われる、云々。(38-40ページ)〉(草稿集③509頁)

《61-63草稿》

  〈他方、使用価値として新たな労働過程にはいるように規定されている生産物、つまり労働手段または未完成の生産物--すなわち、現実の使用価値になるため、個人的消費または生産的消費に役立っためには、さらに加工を加えることが必要な生産物--であるが、後続する労働過程のための労働手段または労働材料であるこれらの生産物が、労働手段または労働材料として実現されるのは、ただ次のことによって、すなわち、それらが生きた労働--これがそれらの死んだ対象性を止揚し、それらを消費し、それらを、可能性として存在するにすぎない使用価値から、現実の働いている使用価値に転化するのである--と接触すること、生きた労働がそれらを、自分自身の生きた運動の対象的諸要因として使用し、消耗することによってのみである。労働過程で役に立たない機械は無用であり、死んだ鉄および木材である。そのうえ機械は、自然の諸力〔die elementarischen Mächte〕による消耗--一般的な素材変換〔新陳代謝〕--[の手に]帰する、すなわち鉄はさび、木材はくちる。織られもせず編まれもしない、等々の糸は、だめになった綿花、すなわち、それが綿花としての、原料としての状態にあったときにはもっていた、その他の利用の仕方まで、損われてしまった綿花にすぎない。どの使用価値もさまざまに使用されることができ、どの物も、それを諸欲望に役立ちうるものにするさまざまの属性をもっているのであるが、それが以前のある労働過程によってある一定の方向にむけられた使用価値、諸属性--すなわち、これらの属性をもってしては、後続するある一定の労働過程でしかそれが役に立たないような諸属性--を受け取ったことによって、それはそうしたさまざまの属性を失うのである。したがって、労働手段および労働材料としてしか役立つことができない生産物は、〔それらがだめになってしまうことによって、〕生産物としての属性、それらが以前の労働によって受け取ったこの特定の使用価値としての属性を失うばかりではない。それらを成り立たせている原料がだめになってしまったのであり、むだに使われてしまったのであり、また、それが以前の労働によって受け取った有用的な形態とともに、自然の諸力〔Naturkräfte〕の解体作用の手に帰することになる。労働過程においては、以前の労働過程の生産物である労働材料および労働手段は、いわば、死から呼びさまされる。それらが現実の使用価値になるのは、ただ、それらが諸要因として労働過程にはいることによってのみであり、それらはただ労働過程のなかでのみ、使用価値として働くのであり、それらは、ただ労働過程によってのみ、一般的な素材変換〔新陳代謝〕における解体を免れて、生産物のなかに再生体〔Neubildung〕として再現するのである。機械もまた労働過程によって、使えないものにされるが、しかしそれは機械としては、である。それは機械として生き、働くのであり、それの消費は同時にそれの活動であり、それの運動は、材料の変化された形態のかたちで、新たな一対象の属性として実現されており、固定されている。同様に労働材料が、それが労働材料としてもっている使用諸属性を示すのも、ただ労働過程そのもののなかでだけである。それの消費過程は変形過程、変化であり、この変化の結果、それはより高次なものとされた使用価値として出てくるのである。したがって、一方では、既存の生産物、以前の労働の結果が、生きた労働の対象的諸条件として生きた労働の実現を媒介するとすれば、〔他方では〕生きた労働は、これらの生産物を使用価値として、生産物として実現することを媒介し、また、これらの生産物に「再生体」の要素として生気を与えることによって、それらを維持し、それらを自然の一般的な素材変換〔新陳代謝〕から免れさせるのである。〉(草稿集④97-98頁)

《初版》

 〈労働過程で役立たない機械は無用である。その上、それは自然的物質代謝の破壊力のために腐朽する。鉄は錆び木は腐る。織られもしなければ編まれもしない糸は、だめになった綿花である。生きている労働は、これらの物をつかまえ、蘇生させ、たんに可能的な使用価値から実在する効果的な使用価値に変えなければならない。これらの物は、労働の火になめられ、労働の肉体として同化され、労働過程では自分たちの概念と使命とにかなった機龍を果たすように活気づけられて、確かに消費されるが、この消費は、新たな使用価値の形成要素として合目的なものなのである。〉(江夏訳190頁)

《フランス語版》

 〈労働に役立たない機械は無益である。その上、それは自然力の破壊的な影響のもとで破損される。鉄は錆び、木は朽ち、加工されない羊毛は虫に食われる。生きた労働がこれらの物体を再びとらえ、死から蘇らせ、これらを可能的な有用性から実効的な有用性に変えなければならない。これらの物体は、労働の焔に舐められ、労働の器官に転化され、労働の息吹きによって独自の機能を果たすように促されたとき、とにかく消費されるのだが、それも、新たな生産物の形成要素として、ある特定の目的のために消費されるわけである。〉(江夏・上杉訳174頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(17)労働の目的のために役立たない機械は、無駄である。さらに加えて、破壊的な自然力の影響の餌食に陥る。鉄は錆び、木材は朽ちる。我々によって、織られもせず、編まれもしない撚糸は、いずれも、くず綿糸である。生きた労働が、これらの物を掴みあげて、それらを死の眠りから揺り起こし、単なる可能性にすぎない使用価値から、実際の有効なるそれへと変化させねばならない。労働の炎を浴び、労働者の器官の一部として充用されて、云って見れば、過程のなかで、それらの機能の遂行のためによみがえらせる。真に消費され、しかも目的に合わせて消費され、新たな使用価値、新たな生産物の基本的な構成物として、個人的消費のための生活手段としていつでも使えるように、または、ある新たな労働過程のための生産の手段としてよみがえらせる。〉


●第18パラグラフ

《61-63草稿》

  〈過去の労働をその素材的な側面から考察するかぎりでは、すなわち、ある労働過程で労働手段または労働材料として役立つある使用価値について、この使用価値そのものがすでに、自然素材と労働との一つの結合である、という事情が堅持されるかぎりでは、諸使用価値に対象化された過去の具体的労働は、新しい労働を実現するために、あるいは同じことであるが、新しい諸使用価値を形成するために、手段として役立っていると言いうる。しかし、現実の労働過程ではこのことはいかなる意味でそのように言いうるのか、ということを、しっかりとつかんでおかなければならない。たとえば、織機および綿糸が織布で役に立つのは、ただ、この過程のために織布の材料および手段としてそれらがもっている諸属性においてのみ、ただ、この特殊的な労働過程のためにそれらがもっている物的な諸属性によってのみである。それらはある一定の仕方で使用価値として役立っており、一つの特殊的な利用の仕方〔Nutzanwedung〕を受け取っているのだから、次のような事情は、それ自体としては、この特定の労働過程そのものにとってはどうでもよいことである。すなわち、綿花と木材および鉄とが右の形態を、すなわち一方は糸としての形態を、他方は織機としての形態を、すなわちそれらが労働過程でこれらの役立ちを果たすさいの形態を、受け取ったのだということ、それらはこの特定の使用の仕方〔Gebrauchsverwertung〕をそれ以前の労働の媒介によって受け取った--これは、栄養過程で小麦が果たす特定の役立ち、使用の仕方を、小麦はそれ以前の労働の媒介によって受け取った、という事情とまったく同様である--のだということ、それらは、それ自身がすでに労働と自然素材との一つの結合を表わすものだということ、これである。けれども、もし綿花と鉄および木材とが、それ以前の過去の労働過程によって、それらが糸および織機としてもつ姿、したがってまた特殊的な使用可能な諸属性を受け取っていなかったならば、このたびの労働過程は行なわれえないであろう。つまり、純粋に素材的に考察すれば、すなわち現実の労働過程そのものの見地からすれば、過去の一定の労働過程が、新しい労働過程が生じるための前段階および条件として現われる。だが、次にはこの後者の労働過程そのものが、ある一定の使用価値を生産するための条件としてのみ、つまりそれ自身使用価値の見地から、考察されるのである。そもそも使用価値の消費においては、使用価値のなかに含まれている労働はどうでもよいのであり、またそれは使用価値としてのみ働くのであり、言い換えれば、それの諸属性に応じて消費の過程である種の諸欲望を充足するのであり、したがって、それがこうした〔消費の〕対象としてもっているそれの諸属性だけが、また、それがこうした対象として果たすもろもろの役立ちだけが関心を引くのであるが、同様に、それ自身が使用価値の一定の特殊的な消費過程、使用価値の使用の一つの特殊的独自的な種類にすぎない労働過程においても、関心を引くのは、それ以前の労働の生産物がこの過程のためにもっている諸属性だけであって、これらの生産物の、過去の労働の物質化〔Materiatur〕としての定在ではないのである。なんらかの自然素材が以前の労働によって受け取った諸属性は、いまではそれ自身の物的諸属性であり、その自然素材はこれらの属性をもって働き、あるいは役立つ。これらの属性が以前の労働によって媒介されているということ、この媒介そのものは、生産物のなかでは止揚され、消え去っている。〉(草稿集④93-94頁)

《初版》

 〈現存の生産物が労働過程の結果であるばかりでなくこの過程の存在条件でもあるとすれば、他面では、この生産物を労働過程に投げ入れること、つまり、この生産物を生きている労働と接触させることは、過去の労働から成るこれらの生産物を使用価値として維持し実現するための唯一の手段である。およそ労働過程が使用価値という結果にいたるのは、この過程の生産物が、個人的消費には生活手段としてはいり込むことができるか、または、新たな労働過程には生産手段としてはいり込むことができる、というかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳190-191頁)

《フランス語版》

 〈さて、生産物がたんに労働過程の結果であるばかりでなく、さらにその存在条件でもあるならば、この生産物を、労働過程に投げ入れ、生きた労働と接触させることによってはじめて、過去の労働のこれらの結果を保持し利用することができるのである。〉(江夏・上杉訳174頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(18)だから、もし、一方で、完成された生産物が、結果だけではなく、労働過程の必要な条件であり、他方で、それらがその過程に入るという前提であるならば、生きた労働とそれらの接触が、そのことによって、それらの使用価値としての性格が保持でき得る、そして、活用される 唯一の手段となる。〉


●第19パラグラフ

《61-63草稿》

  〈彼は商品をも買うのであるが、この商品というのは、その使用価値が生きた労働によって消費され、労働過程の諸要因として消費されるべきものであって、その一部は、労働材料であるべき、したがってまたより高次の〔höher〕使用価値の要素であるべき使用価値であり、一部は、労働が労働材料に及ぼす作用に伝導体として役立つべき労働手段である。諸商品を--ここではさしあたり諸商品の使用価値を--このように労働過程で消費することを、人々は、それらを生産的に消費する、と言うのであり、これはすなわち、それによって、またそのなかで、労働がより高次の使用価値を創造するところの手段または対象としてのみ、それらを消耗する、ということである。それは商品(使用価値)の産業的消費である。以上は、労働能力との交換によっで自分の貨幣を資本に転化する貨幣所有者にかんすることである。〉(草稿集④88-89頁)
 〈したがって労働過程は、労働者の側から一定の合目的的な活動が行なわれる過程であり、彼の労働能力、彼の精神力および体力の実証でもあり、これらのものの支出および消耗でもあるところの運動である。この運動によって彼は労働材料に一つの新しい姿を与えるのであり、かくしてまたこの運動が労働材料のなかに物質化されるのであって、この形態変化は化学的なものであっても機械的なものであってもいいし、あるいは生理的過程そのものの制御によって生じるのでもいいし、あるいは、単に対象を空間的に遠ざけること(対象の場所的定在の変化)でも、または、対象をそれと地球との結合から単に分離することでもいい。労働がこのように労働対象のなかに物質化されるあいだに、それは労働対象に形態を与え、また労働手段を自己の器官として使用し、消費する。労働は活動の形態から存在の形態に、対象の形態に移行する。対象を変化させるものとして、労働は〔同時に〕自分自身の姿を変化させる。形態を与えるこの活動は、対象を使いつくし、また、自分自身を使いつくす。それは対象に形態を与え、また、自らを物質化する。それは活動としての主体的形態における自分自身を使いつくし、また、対象の対象的なものを使いつくす、すなわち、労働の目的にたいする対象の無関心性を止揚する。最後に労働は労働手段を消費するのであって、労働手段は過程のあいだに、同様に自らを単なる可能性から現実性に移してしまう。そのさいそれは、労働の現実的な伝導体となるが、それとともに、それがはいる機械的または化学的過程によって、その静止的な形態においては同様に消尽されてしまうのである。過程の三契機--過程の主体である労働、ならびにこの労働の要因である・この主体がそれに作用する・労働材料、およびこの主体がそれをもって作用する労働手段--のすべてがいっしょになって一つの中性的(ニュートラル)な結果--生産物--を生みだす。〉(草稿集④91頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈資本主義的生産過程は労働過程と価値増殖過程との統一である。貨幣を資本に転化するために、貨幣は労働過程の諸要因をなす諸商品に転化される。第一に、貨幣でもって労働能力が購入されなければならず、第二に、労働能力なしには使用されず働かせることのできない諸物(Sachen) が購入されなければならない。これらの物(Sachen)は、労働過程の内部では、労働の生活手段として、労働の使用価値として役立つという意味以外のいかなる意味も持っていない。〉(光文社古典文庫33頁)

《初版》

 〈労働過程では、この過程の素材的要素である対象と手段とは、使用価値として消費される。労働がそれらを食い尽くす。だから、労働過程は消費過程である。この生産的消費個人的消費から区別するものは、後者が生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者がそれを労働--活動しつつある労働力--の生活手段として消費する、という点なのである。だから、個人的消費の生産物は消費者自身であり、生産的消費の結果は、消費者とは別個の生産物である。〉(江夏訳191頁)

《第2版》

 〈労働はその素材的要素、すなわち労働の対象と手段とを消費するのであり、したがって、労働は消費行為である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者が生産物を個人の消費手段として消費するのに対して前者がこれを労働の運転手段として消費する、という点である。したがって、個人的消費の生産物は消費者自身であり、生産的消費の結果は、消費者とは関係のない生産物である。〉(江夏訳174頁)

《フランス語版》

 〈労働はその素材的要素、すなわち労働の対象と手段とを消費するのであり、したがって、労働は消費行為である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者が生産物を個人の消費手段として消費するのに対して前者がこれを労働の運転手段として消費する、という点である。したがって、個人的消費の生産物は消費者自身であり、生産的消費の結果は、消費者とは関係のない生産物である。〉(江夏・上杉訳174頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(19)労働が、その材料要素を、その対象を、その手段を使いきる、それらを消費する。そう、それが消費過程である。このような生産的消費は、個人的消費から、次の点によって区別される。後者は、個人が生きるための生活手段として、生産物を使用する。前者は、ただ労働のために、生きている個人の労働力が活動できうるように、使用される。従って、個人的消費の生産物は、消費者である彼自身である。生産的消費の結果は、消費者とは明確に違う生産物である。〉

  (以下、(9)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(9)

2022-06-17 17:24:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.29(通算第79回)(9)

 

  【付属資料】の続き(4)


●第20パラグラフ

《61-63草稿》

  〈つまり労働過程では、より高次の、すなわちより媒介された使用価値をもつ新しい生産物を作りだすために、それ以前の労働諸過程の生産物が使用され、労働によって消費される。特定の労働過程の諸制限--このなかでは労働の対象的諸要因は労働の実現の対象的諸条件としてのみ現われる--そのものの内部では、それ自身がすでに生産物であるという、使用価値のこの規定は、まったくどうでもよいことである。しかしこの規定には、さまざまな社会的労働様式が相互に素材的に依存しあっていること、および、それらが相互的に補完しあって、社会的労働諸様式の一全体となっていることが現われているのである。〉(草稿集④93頁)

《初版》

 〈労働手段や労働対象が、それ自体すでに、生産物すなわち過去の労働過程の結果であるかぎりでは、労働過程は、生産物を作るために生産物がそのなかで消費されるところの、すなわち、生産物が生産物の生産手段としてそのなかで役立つところの、過程なのである。だが、労働過程が元来は、人間と人間の助力を借りずに存在する土地とのあいだでだけ行なわれているように、労働過程では、相変わらず、天然に存在していて自然素材と人間労働との結合をなんら表わしていないような生産手段も、役立っているのである。〉(江夏訳191頁)

《フランス語版》

 〈労働手段と労働対象とがすでに生産物であるかぎり、労働は、生産物を作り出すために生産物を消費する、すなわち、新たな生産物の生産手段として生産物を使用する。しかし、人間と土地--それを人間は自分の外に見出すのである--とのあいだで本源的に行なわれる労働過程は、自然の要素と人間労働との結合をなんら表わさないような天然原産の生産手段を使用することをも、けっしてやめはしない。〉(江夏・上杉訳174頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(20)だから、それらの手段や対象が、それら自身の生産物である限りでは、労働は、生産物を作り出すために、生産物を消費する。別の言葉で云えば、一式の生産物自体を、他の一式のための生産手段に用いることで消費する。だがしかし、人類の初めの頃に戻れば、労働過程への単なる参加者は、人と大地であった。後者は人間からは独立している。それゆえ、今でさえも、直接的に自然からもたらされる多くの生産手段をそのまま、その過程に用いているが、だからといって、自然の物と人間労働との組み合わせなどと云うものはなにも示さない。〉


●第21パラグラフ

《61-63草稿》

 〈使用価値を創造するかぎりでの、人間の欲望--これらの欲望が生産の欲望であろうと個人的消費の欲望であろうと--のための自然的なものの取得〔同化〕であるかぎりでの、実在的労働は、自然と人間とのあいだの素材変換〔新陳代謝〕の一般的条件であり、またこのような、人間生活の自然的条件としては、人間生活の規定された社会形態のすべてから独立しており、それらすべてに等しく共通したものである。同じことは、一般的な諸形態における労働過程についても言える、--なにしろ、それはもともと、その特殊的な諸要素に分解された生きた労働にすぎないのであり、それらの統一--労働手段による、労働材料への、労働の働きかけ〔Wirkung〕--として、それは労働過程そのものなのであるから。したがって、労働過程そのものは、その一般的な形態から見るときには、まだどんな特殊的な経済的規定性においても現われない。そのなかに表現されているのは、人間が彼らの社会的生活の生産においてとり結ぶ、特定の歴史的(社会的)な生産関係ではなく、むしろ一般的な形態であり、また、労働が--労働として作用するためには--あらゆる社会的生産様式において等しくそれらに分解されなければならないところの、一般的な諸要素なのである。〉(草稿集④99頁)
  〈労働過程の、ここで考察された形態は、すべての規定された歴史的な諸特徴を剥ぎとられた、そしてあらゆる種類の労働過程に--労働過程のあいだに人間が相互にどのような社会的諸関係にはいろうと--適合する、それの抽象的な形態にすぎない。小麦を味わってみても、それがロシアの農奴によって生産されたものか、それともフランスの農民によって生産されたものかはわからないのと同様に、一般的な諸形態におけるこの労働過程、この労働過程の一般的諸形態を見ても、それが奴隷監視人の鞭のもとで行なわれるのか、それとも産業資本家の監督のもとで行なわれるのか、それともそれは弓で獲物を斃す未開人の過程であるのか、ということはわからないのである。〉(草稿集④100頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈労働過程とは労働そのものであって、その創造的活動を果たしている時点で見た労働に他ならない。労働過程の一般的諸契機はしたがって、何らかの特定の社会的発展から独立している。労働手段と労働材料(その一部はすでに過去の労働の生産物である)は、あらゆる時代、あらゆる状況下において、どんな労働過程でも一定の役割を果たす。〉(光文社古典文庫40頁)
  〈こうして、労働過程において使用価値としての資本が取る姿は、今では第一に、概念的に区別されながらも相互に連関している種々の生産手段に区分され、第二に、労働過程の性質から生じる概念的な区別、すなわち客体的な労働条件(生産手段)と主体的な労働条件とに区分される。後者は、合目的的に活動する労働能力、すなわち労働そのものである。しかし第三に、過程を全体として考察するならば、資本の使用価値はここでは使用価値を生産する過程として現われる、その中では生産手段はこの独自の規定性にしたがって機能する。つまり、その特定の性質に照応して合目的的に活動する特殊な労働能力の生産手段として機能する。言いかえれば、全体としての労働過程そのものが、その客体的契機と主体的契機との生きた相互作用を通じて、種々の使用価値の総体(Gesamtgestalt)として、すなわち生産過程における資本の現実の姿として現われるのである。〉(185頁)

《初版》

 〈労働過程--それの単純で抽象的な諸契機において述べてきたような労働過程は、使用価値を生産するための合目的な活動であり、人間の必要をみたすための自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、人間生活のどんな形態にもかかわりがなく、むしろ人間生活のあらゆる社会形態にひとしく共通なものである。だから、われわれは、労働者を他の労働者たちと関係づけて叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材、それだけで充分であった。小麦を味わってみても、誰がそれを耕作したかはわからないが、このことと同様に、この過程を見ても、この過程がどんな条件のもとで行なわれているのか、すなわち、奴隷監視人の残酷な鞭のもとでか、資本家の心配そうなまなざしのもとでか、それとも、キンキナトゥス〔古代ローママの高官で隠退して農耕を営む〕がわずかばかりの土地の耕作で行なっているのか、石で野獣を打ち倒す未開人が行なっている(9)のか、そんなことはわからない。〉(江夏訳191-192頁)

《フランス語版》

 〈これらの単純で抽象的な諸契機においてわれわれがいましがた分析したような労働過程--使用価値の生産を、必要のための外的物体をわがものにすることを、目的とする活動--は、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的条件であり、まさにそれゆえにあらゆる社会形態から独立した、あるいはむしろあらゆる社会形態にひとしく共通している人間生活の、自然的必然性である。したがって、われわれは、労働者にたいする労働者の関係を考察する必要がなかった。一方に人間とその労働、他方に自然とその素材、これで充分であった。小麦の味によって誰がその小麦を耕作したかを見破れないのと同じように、有用労働のデータによって、その労働が果たされた社会的条件を推察することはできないであろう。この労働が、奴隷監視人の残酷な鞭のもとで行なわれたのか、あるいは、資本家の不安なまなざしのもとで行なわれたのか、われわれはわずかばかりの土地を耕すキンキナトゥス〔古代ローマの高官〕の話をするのか、あるいは、石の一撃で獲物を屠殺する未開人の話をするのか、そのことをわれわれに示すものはなに一つない(10)。〉(江夏・上杉訳174-175頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(21)上記のように、その簡単な初期的な要素として分析した労働過程は、使用価値を、自然の物を人間の要求に充当させる物を、生産するための人間の行動である。人間と自然との間で、物のやりとりをもたらすための必要条件なのである。自然が課した、人間としての存在に係る、未来永劫変わらぬ条件なのである。従って、であるから、労働過程は、人間存在のあらゆる社会的局面からは独立しており、または、むしろ、あらゆる各局面において共通しているのである。従って、かつては、我々の労働者を、他の労働者との関係において表す必要性は無かった。人と彼の労働が一方に、自然とその物質が他方に、それで充分であった。小麦粥の味は、誰がそのからす麦を育てたのかを語りはしないし、単純な粥の作り方過程が、いかなる社会的条件のもとで作られたからす麦なのかをも語りはしない。奴隷主の野蛮な笞でか、または、資本家の例の目つきでかは、語られもしない。また、古代ローマのキンキナトウス将軍が、彼の小さな農園の固い粘土質の土地で栽培させたものなのか、石で野獣を殺戮する未開の地で取れたものなのかは、分からない。〉


●原注9

《初版》

 〈(9) 多分このきわめて論理的な理由からであろう、トレンズ大佐は、未開人の石のうちに、資本の起原を発見している。「未開人が追跡する野獣に投げつける最初の石のうちに、自分の手のとどかない果実を引きおろすために彼がつかんでいる最初の棒きれのうちに、われわれは、他の物品の獲得を目的とするある物品の取得を見るのであり、こうして資本の起源を発見するわけである。」(R・トレンズ『富の生産にかんする一論』、79ページ。)なぜ英語ではstockという言葉が資本と同義なのか、このことも、多分、この最初のStock〔棒〕から説明すべきであろう。〉(江夏訳192頁)

《フランス語版》

 〈(10) おそらくこのためだろう、トレンズ大佐は「高度な」論理を用いて未開人の石のなかに発見した--資本の起源を。「未開人が追いかけている獲物を目がけて投げる最初の石のなかに、手では届きえない果実を落すために彼が握っている最初の棒のなかに、われわれは、ほかの物品を手に入れることを目的としてある物品をわがものとすることを、見るのであり、こうしてわれわれは発見するであう--資本の起源を。」(R・トレンズ『富の生産にかんする一論』、70-71ページ)。英語のstockが資本の同義語になるのも、おそらく、この最初の棒、旧フランス語ではestoc、ドイツ語ではstockのせいであろう。〉(江夏・上杉訳175頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈偉大なる、論理的な明敏さという事実によって、トレンズ大佐は、未開人の石に、資本の起源を発見したのである。彼 [未開人]が野獣を追いかけて投げた、最初の石に、彼の届かぬ位置にある果実をたたき落とした、最初の棒に、我々は、目的のために、ある物を用い、別の物を獲得する補助としたのを見る。そして、そのように、資本の起源を発見したのである。〉


●第22パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって、労働能力を消費するためには、貨幣所有者が労働能力を{労働能力の時間ぎめでの処分権を}買うだけでは十分でないのであり、彼はまた、労働手段をも--その規模は大小さまざまでありうるが--、すなわち労働材料と労働手段とを買わなければならない。この点については、あとで立ち返る。ここで注意をしておかねばならないのは次のことだけである。すなわち、労働能力を買った貨幣所有者がこれを消費するところまで、すなわち現実の労働過程にまで進むことができるためには、彼は自分の貨幣のもう一つの部分で、商品として流通の内部で流通している〔roulieren〕対象的労働諸条件を、買っていなければならず、労働能力はこの諸条件と結びついてはじめて現実の労働過程に移っていくことができるのだ、ということである。〉(草稿集④88頁)
  〈貨幣所有者は彼の貨幣で、一部は労働能力の処分権を、一部は労働材料および労働手段を買ったのであるが、その目的は、この労働能力を労働能力として使用し、消費しうること、すなわち、労働能力に自らを現実的労働として実証させうること、要するに、労働者をいまや現実に労働させることであった。この労働が労働の他のあらゆる様式と共通にもっている一般的な諸規定は、この労働がここでは貨幣所有者のために、あるいは彼による労働能力の消費過程として現われる、ということによっては変えられない。彼は労働過程を彼の支配〔Botmäßigkeit〕のもとに包摂し、取得した〔わが物とした〕が、しかしそのことによって労働過程の一般的な本性を変化させはしなかった。労働過程が資本のもとへのその包摂そのものによってどれだけ変化をこうむるか、ということは一つの問題であるが、それは労働過程の一般的形態とはなんの関係もないので、あとで論じることになろう。〉(草稿集④100頁)

《初版》

 〈わが将来の資本家に立ち返ることにしよう。われわれが彼を置き去りにしたのは、彼が商品市場で、労働過程に必要なすべての要因を、すなわち、生産手段の状態にある対象的要因労働力の状態にある主体的要因とを、買ってから以後のことである。これらの生産手段やこれらの労働力がどんな特定のタイプであるかは、長靴、糸等々のいずれがつくられるべきであるかという労働過程のタイプ--このタイプに適合してこれらの生産手段やこれらの労働力が規定されることになる--いかんに、従うものである。かくしてわが資本家は、自分が買った商品である労働力を消費することにとりかかる。すなわち、労働力の担い手である労働者に、彼の労働によって生産手段を消費させる。労働過程の一般的な性質は、この過程を労働者が自分自身のためにではなく資本家のために行なうからといって、もちろん変わるものではない。さらに、長靴を作るとか糸を紡ぐとかいう特定の仕方も、さしあたりは、資本家が介在するからといって変わることはありえない。資本家はさしあたり、自分が市場で見いだすままの労働力を、受け取らなければならないし、したがって、この労働力が行なう労働をも、資本家がまだいなかった時代に生じた形のままで、受け取らなければならない。労働が資本に従属することから生ずる生産様式そのものの変化は、もっとあとになって初めて起きうるのであり、したがって、もっとあとで初めて考察すべきである。〉(江夏訳192-193頁)

《フランス語版》

 〈われわれの未熟な資本家に立ち戻ろう。彼が、労働の遂行に必要なすべての要因、客体的要因--生産手段--と主体的要因--労働力--とを市場で買い入れた瞬間に、われわれは彼を見失った。彼は玄人(クロウト)で抜け目のない人間として、紡績や製靴などの特殊な種類の作業に必要であるようなこれらの要因を選び出した。彼は、自分が買った商品である労働力を消費しはじめるが、このことは、彼が労働によって生産手段を消費させるということになるのだ。労働者が自分自身のためでなく資本家のために労働を行なうからといって、労働の一般的性質はもちろん全然変わらない。同様に資本家の介在も、長靴または糸が作られる特殊な過程を突然に変えることもできないであろう。労働力の買い手は、市場で見出すままの労働力、したがってまた、資本家がまだ存在しなかった時代に発達していたような労働を、受け取らなければならない。たとえ生産様式自体が、労働の資本への従属のためにたまたま根本的に変わることがあっても、それは後にはじめて起こることであって、われわれはそのばあいにはじめて、そのことを考慮することにしよう。〉(江夏・上杉訳175頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(22)それでは、ここで、我等の 資本家気取りの下に戻ることにしよう。我々は、彼が、自由市場で、労働過程に必要な要素全てを、その対象的要素である、生産手段を、その主体的要素である、労働力と同様に、購入した直後に、彼から離れたのであった。彼は、専門家の鋭い目で、生産手段を、また、彼の特別な商売のためにもっとも適用した労働力の種類を、選んだのである。その商売は、紡績業、深靴製造業、または他の様々な業種である。それから、彼は、それらの商品の消費に取りかかる。彼が買った労働力を、労働者とし、労働力を体現させ、彼の労働によって、生産手段を消費する。労働過程の一般的性格は、労働者が彼自身のために、代わって、資本家のために働くという事実によっても、何ら変わることはない。そればかりではなく、深靴製造業または紡績業で用いられる特別の方法や作業は、資本家が介入したとしても、直ちに変更されるものではない。資本家は、彼が、市場で見つけたそのままの労働力を用いることから始めねばならない。当然ながら、資本家の出現直前の時代に見られた様な種類の労働で満足せねばならない。労働の資本への従属によって、生産方法に変化が起こったのは、まだ、もっと後の時代のことである。従って、もう少し後の章で、取り扱うことにしなければならないであろう。〉


●第23パラグラフ

《初版》

 〈労働過程は、それが資本家による労働力の消費過程として行なわれるばあいは、ただ二つの独自な現象だけをさし示している。〉(江夏訳193頁)

《フランス語版》

 〈資本家による労働力の消費としての労働過程は、二つの特殊な現象だけを示している。〉(江夏・上杉訳176頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)イギリス版では、第23パラグラフと第24パラグラフが一つのパラグラフとして纏められている。

  〈(23)労働過程は、資本家が、労働力を消費する過程となるに及んで、二つの特有な事象を現わす。その一つは、労働者が、彼の労働が所属する資本家の差配の下で働くので、資本家が仕事が適切なマナーにおいてなされるように、細かく注意するので、そして、生産手段が一定の理解を持って使われるため、原料の不必要な浪費がなく、用具の消耗も、仕事上の必要な範囲を越えない。〉


●第24パラグラフ

《直接的生産過程の諸結果》

  〈資本のもとへの労働過程の従属は、すぐには現実の生産様式をいささかも変えるものではない。その唯一の実践的結果は、労働者が資本家の指揮権のもとに、その監督と指導のもとに置かれることである。もちろんそれはただ資本に属している労働に対する指揮権である。資本家が配慮するのは、労働者がいささかも時間を無駄にしないこと、たとえばどの1時間も1労働時間分の生産物をきちんと提供すること、生産物の生産に平均的に必要な労働時間だけが費やされること、である。〉(光文社古典文庫69頁)

《初版》

 〈労働者は、自分の労働の帰属者である資本家の監督のもとで、労働する。資本家は、労働が整然と行なわれ、生産手段が合目的に使用されるように、したがって、原料が少しも無駄使いされず、労働用具が大切にされる--すなわち、作業中の使用からやむをえないかぎりの損傷しか生じない--ように、監視している。〉(江夏訳193頁)

《フランス語版》

 〈労働者は、彼の労働が所属する資本家の管理のもとで労働する。資本家は、仕事が適切に行なわれ、生産手段が目ざす目的に応じて使われるように、原料が浪費されず、労働手段がその使用に不可分な損傷しかこうむらないように、念入りに監視する。〉(江夏・上杉訳176頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  第23パラグラフに含められている。


●第25パラグラフ

《61-63草稿》

 〈貨幣が自己を労働能力と交換することによって入手したもの、あるいは、貨幣所有者が自分の買った労働能力を消費すること--だがこの消費は、労働能力の本性に相応して、産業的、生産的消費であり、言い換えれば労働過程である--によって入手したものは、ある使用価値である。この使用価値は彼のものである。〔というのは〕彼はそれと引き換えに等価物を渡してそれを買ったのだからである。すなわち労働材料、労働手段を買ったの〔と同様〕である。だがまた、労働そのものも彼のものである。というのは、彼が労働能力を買った--つまり現実に労働がなされる以前に--ことによって、この商品の使用価値は彼のものとなっているのであり、しかもこの使用価値とはまさに労働そのものだからである。生産物は彼のものであるが、それは、かりに彼が自分自身の労働能力を消費した、すなわち自分自身で原料を加工した、とした場合にそうであるのとまったく同様である。彼が労働過程のすべての要素を、商品交換の基礎のうえで、まれたその諸法則に合致して、すなわちそれらの価格--これは貨幣で表現された、評価された、それらの価値である--での購買によって、手に入れたあとで、はじめて全労働過程が行なわれる。彼の貨幣が労働過程の諸要素に置き換えられたかぎりでは、また全労働過程そのものが、貨幣で買われた労働能力の消費として現われるにすぎないかぎりでは、労働過程そのものが、貨幣が経過する一つの変換として現われるのであるが、この場合には貨幣は、自らを既存のなんらかの使用価値と交換したのではなく、一つの過程と交換したのであり、この過程は貨幣自身の過程となっているのである。労働過程は、いわば貨幣に合体〔einverleiben〕されており、そのもとに包摂されている。〉(草稿集④104-105頁)

《直接的生産過程の諸結果》

  〈労働過程のこれらの対象的[客体的]諸要素が資本家によって購入されるかぎりでは、それらは彼の資本を表わす。だがこのことは労働にもあてはまる。労働もまた資本家の資本を表わしている。というのも、労働は労働能力の買い手[資本家] のものだからであり、それは、資本家によって購入された労働の対象的諸条件がその資本家のものであるのと同じである。そして、資本家のものであるのは単に労働過程の個々の要素だけではなくて、労働過程の全体がそうである。最初は貨幣の形態であった資本が、今では労働過程の形態で存在している。資本が労働過程をわがものとし、したがって労働者が自分自身のためではなく資本家のために労働するようになったからといって、労働過程はけっしてその一般的性質を変えるものではない。貨幣が資本に転化する際、それは労働過程の諸要因に転化し、したがって必然的に労働材料および労働手段という姿を取るのだが、だからといって、労働材料と労働手段が本来的に資本になるわけではない。貨幣がとりわけ金銀に表わされるからといって、金銀が本来的に貨幣になるわけではないのと同じである。〉(光文社古典文庫34-35頁)
  〈第一。生産過程ないし労働過程で生産手段として消費するために資本家が購入した諸商品は、彼の所有物(Eigentum) である。それらは実際、彼の貨幣が商品に転化したものにすぎず、この貨幣がそうであったのと同じく、彼の資本の定在である。それどころか、より強い意味でそうだ。というのも、それらは資本として実際に機能する姿で存在しているからである。すなわち価値創造の手段として、価値増殖のための、つまり価値を増加させるための手段として存在しているからである。これらの生産手段はしたがって資本である。
  他方で、資本家は、前貸しされた貨幣額のもう一方の部分を用いて労働者の労働能力を買った。あるいは、第四章で明らかにしたように、それは生きた労働を買ったものとして現われる。したがって、これも、労働過程の客体的諸条件が資本家に属するのとまったく同じく資本家に属する。〉(187-188頁)

《初版》

 〈ところで、第二には、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者の所有物ではない。資本家は、たとえば労働力の日価値を支払う。こうして、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が1日間賃借りした馬の使用と同じに、その1日間は彼のものになる。商品の使用は商品の買い手に属している。そして、労働力の所持者は、自分の労働を与えることによって、じっさいには、自分が売った使用価値を与えているだけのことである。彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、したがって労働力の使用である労働は、資本家のものになった。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んだ生産物形成要素に合体させたのである。彼の立場からすれば、労働過程は、自分が買った商品である労働力の消費でしかないが、そうはいっても、彼は、この労働力に生産手段をつけ加えることによってのみ、この労働力を消費することができるのである。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。だから、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼の葡萄酒蔵のなかでの醸酵過程の生産物が彼のものであるのと、全く同じである(10)。〉(江夏訳193-194頁)

《フランス語版》

 〈第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接的生産者である労働者の所有物ではない。資本家は、たとえば労働力の日価値を支払うのであり、したがって、その労働力の使用は、資本家が1日間借りた馬の使用と全く同じに、その1日間は彼に所属する。商品の使用は買い手に属していて、労働力の所有者は、自分の労働を引き渡すことによって、実際には、自分が売った使用価値しか引き渡さない。労働者が仕事場に入るやいなや、彼の労働力の有用性、すなわち労働は、資本家に所属したのである。資本家は、労働力を買うことによって、労働を、生命の酵母として、同じく彼に供給されていた受動的な生産物要素に合体したのである。彼の観点からすれば、労働過程は、彼が買った商品である労働力の消費にほかならないが、それに生産手段を付加しなければ彼はこの労働力を消費することができないであろう。労働過程は、資本家がすでに買い入れていて彼に所属するところの諸物のあいだでの、一作用である。したがって、この作用の生産物は、彼の葡萄酒蔵での醸酵の生産物と同じく当然に、彼に所属する(11)。〉(江夏・上杉訳176頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈(24)二番目は、その生産物が、資本家の所有物であって、その直接の生産者たる労働者のそれではないと云うことである。資本家が 日労働力ために、その価値を支払ったと言うことを思い出してみよう。だから、その労働力を一日使用する権利は彼に属している。他の商品を使用する権利と同じである。彼が、一日賃借りした馬のように。その使用は、商品の買い手に属している。そして、労働力の売り手は、労働を与えることによって、彼が売った使用価値を手離す以上に、実際のところ、何も行うことはない。彼が、作業場に入るやいなや、彼の労働力の使用価値は、労働であるから、繰り返しになるが、その使用は、労働の使用は、資本家に所属する。資本家は、労働力の買いによって、労働を、生きた酵母として、死んだ生産物の構成要素に混ぜ込む。彼の視点からは、労働過程は、買った商品の消費以上のなにものでもない。その労働力なのだが、生産手段と共に供給される労働力以外では、その消費はなんら効果を現わすことができないという労働力なのである。その労働過程は、資本家が買った物と物との間の、彼の所有物となった物と物との間の一過程なのである。従って、この過程の生産物は、彼に属す。ちょうど、彼のワイン貯蔵室で、発酵過程を経たワインがそうであるように。〉


●原注10

《初版》

 〈(1O) 「生産物は、それが資本に転化される以前に奪取されている。この転化は、生産物を右の奪取から引き離すものではない。」(シェルビュリエ『富裕か貧困か、パリ版、1841年』、53および54ページ。)「プロレタリアは、自分の労働を一定量の生活手段(Approvisionnement)と引き換えに売ることによって、生産物のいっさいの分け前を完全に放棄する。生産物の奪取は以前と変わらず同じである。それは、上述の契約によってはけっして変わることがない。生産物は、原料や生活手段を供給した資本家に、もっぱら所属している。これこそが、奪取法則--この法則の根本原理は、逆に、それぞれの労働者が自己の生産物にたいしてもっている排他的所有権であった--の厳密な論理的帰結である。」(同上、58ページ。)ジェームズ・ミル『経済学綱要』、75ページ、は、こう言っている。「労働者たちが労賃と引き換えに労働するばあいには、資本家は、資本(ここでは生産手段のことである)の所有者だけではなく、労働の(of labour also) 所有者でもある。労賃として支払われるものを、慣例上そうしているように、資本の概念のなかに含ませるならば、資本から切り離して労働を語ることは愚かである。この意味での資本という言葉は、資本および労働の双方を含んでいる。」〉(江夏訳194頁)

《フランス語版》

 〈(11) 「生産物は、それが資本に転化される以前に奪取されている。この転化は、生産物をこの奪取から蔽い隠すものではない」(シェルビュリエ『富裕か貧困か』、パリ版、1841年、54ページ)。「プロレタリアは、一定量の糧食と引き換えに自分の労働を売ることによって、生産物へのどんな参加をも完全に放棄する。生産物の奪取は相変わらず従前と同じである。それは上記の契約によっては少しも変わらない。生産物は、原料と糧食を引き渡した資本家にもっぱら所属する。これこそが、奪取法則--その根本源埋は逆に、自己の生産物にたいする個々の労働者の排他的所有権であった--の厳正な必然的帰結である」(同上、58ページ)。「労働者たちが賃金と引き換えに労働するばあいには、資本家はたんに資本(生産手段) の所有者であるばかりでなく、労働の(of labour also) 所有者でもある。慣例上そうしているように、賃金として支払われるものを資本の概念のなかに含ませるならば、資本と労働について別々に語ることは不合理である。資本という語はこの意味では、資本と労働という二つの物を含んでいる」(ジェームズ・ミル『経済学綱要』、ロンドン、70-71ページ)。〉(江夏・上杉訳176頁)

《イギリス語版》  (1887年イギリスで発行された版にもとづく)

  〈本文注: 生産物は、資本に変換される以前に、私有される。資本に変換されても、そのような私有をより安全にするものではない。(シェイブュリエ「富、貧からなる」Cheibuliez: "Richesse on Pauvrete," edit. Paris, 1841, p. 54.) プロレタリアは、彼の労働を一定量の生活必需品のために売ることによって、生産物の分け前の要求を全て放棄する。生産物の私有様式は、であるからといっても、以前と同じままである。我々が言及したことによる取引によっても、そこはなにも変わらない。生産物は、原料と生活必需品を供給した資本家に、独占的に所属する。そして、これが私有の法律の厳格な帰結である。が、この私有という法の根本的原理は、全く逆で、すなわち、あらゆる労働者が、彼が生産した物の所有者であるという、排他的権利を持っている。(l. c., p. 58.)
 労働者が、彼の労働により賃金を受け取ったから... だから、資本家は、資本 ( 彼は、生産の手段の意味で使っている。) のみではなく、また、労働の所有者でもある。もし、賃金として支払われたところのものが、普通に、資本という言葉に含まれるならば、資本から分けて労働を語ることは不合理である。このように、資本なる言葉が用いられる場合、労働と資本は共に含まれる。(ジェームズ・ミル「政治経済学の要素」James Mill: "Elements of Pol. Econ.," &c., Ed. 1821, pp. 70, 71.)〉

以上。

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

2022-02-13 13:07:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№5)(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きで、その第5回目です。
    前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁しているのに対して、それでは実際問題として、著書『価値形態論と交換過程論』のなかで久留間氏自身はどのように問題を提起しているのかを検討し、その問題提起のなかで久留間氏が引用している『資本論』第1篇第2章の第15パラグラフで、マルクスは何を問題にしているのかを問い、それは久留間氏がいうように〈それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる〉と、あたかもマルクスが貨幣に関する考察を結論的に述べているところであるかに説明していますが、果たしてマルクスにはそうした意図があったのかどうか、を検討するために、第15パラグラフ全体を紹介して、その解説を試みたのでした。しかしその解説はあまりにも長くなりすぎるので、一旦、途中で中断したのでした。今回はその続きです。やはり、もう一度、第15パラグラフ全体を紹介しておきます(久留間氏が引用している部分は赤字で示しました)。

 【15】〈(イ)先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。(ロ)金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば10ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。(ハ)どの商品もそうであるように、貨幣*はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。(ニ)貨幣*自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される。(ホ)貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。(ヘ)それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。(ト)すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。(チ)困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。
〔* カウツキー版、ロシア語版では「金」となっている〕

 (前回は、各文節ごとの解説を試み、(イ)から(へ)までの解説を紹介しました。今回はその続きの最後の文節(ト)(チ)の解説です。)

  《(ト)(チ) すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み込んだ端緒がなされていて、貨幣が商品であることは知られていました。しかし、それはやはり端緒に過ぎなかったのです。困難は、貨幣が商品であるということを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にあるのです。

 貨幣が商品であるという理解に達していた諸説の例は、第14パラグラフにつけられた原注45で紹介されていました。それらの引用文とその著者のそれぞれの人名索引の解説をつけて、もう一度、書き出して見ましょう。

 ・〈「われわれが貴金属という一般的名称で呼ぶことのできる銀や金そのものは····価値が····上がったり下がったりする····商品である。····そこで、そのより小さい重量でもってその国の生産物または製造品のより大きい量が買われるのならば、貴金属の価値は高くなったものとみなされる」〔S・クレマント〕『相互関係にある貨幣、商業、および為替の一般的観念に関する一考察。一商人著』、ロンドン、一六九五年・・・・
 (クレメント,サイモンClement,Simonイギリスの商人。)
 ・「銀や金は、鋳造されていてもいなくても、他のすべての物の尺度として用いられるけれども、ワイン、油、タバコ、布や織物と同じく一つの商品である」〔J・チャイルド〕『商業、ことに東インド貿易に関する考察』、ロンドン、一六八九年・・・・
 (チャイルド,サー・ジョサイアChild,SirJosiah(1630-1699)イギリスの商人,経済学者,重商主義者.高利貸資本に反対する「商業および産業資本の先駆者」,「近代的銀行業者の父」(マルクス)。)
 ・「厳密に言えば、王国の資産と富を貨幣に限定するのは適切でないし、金や銀を商品ではないとすべきではない」〔Th・パピロン〕『東インド貿易は最も有利な貿易である』、ロンドン、一六七七年・・・・〉
 (パピロン,トマスPapillon,Thomas(1623-1702)イギリスの商人,政治家,国会議員,東イソド会社の支配人のひとり。)

 原注では、この順序に引用文が紹介されていましたが、これを見ると、マルクスは17世紀の最後の数十年間のなかでも、もっとも最近のものから歴史を遡って紹介していたことが分かります。これらが貨幣分析の端緒だったというわけです。

 そしてその次に書かれている一文(困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある)が久留間鮫造氏によって、『資本論』の第1章第3節(どのようにして)、第4節(なぜ)、第2章(何によって)のあいだの関連を説明するものとして、問題提起されたことによって、極めて有名になったものです(『価値形態論と交換過程論』)。果たして久留間氏のようにこの一文に着目して、こうした『資本論』の一連の展開を説明することが、あるいはそれで説明可能だとすることが、妥当なのでしょうか。
  この問題については、すでに何度も論じてきたので(例えば第1回、第32回、第36回等々を参照)、ここで改めて取り上げる必要はないかも知れませんが、やはりこの問題は、これまで多くの人たちによって取り上げられ、論争にもなってきた問題なので、もう一度、論じておきましょう。
 ただ、私たちは、その久留間説を評価するためにも、そもそもこの第15パラグラフでは、全体としてマルクスは何を論じているのか、このパラグラフの本来の課題は何か、という問題から考えてみることにしましょう。というのは、久留間氏の問題提起が、あまりにも強い影響力があるために、あたかもこのパラグラフの課題は最後の文節で言われていることにあるかに思い込んでいる人がいないとも限らないからです。
 しかし果たしてマルクスがこのパラグラフで言いたかったことは、〈困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある〉ということなのでしょうか。私にはどうしてもそのように思えないのです。というのは、もし、そうしたことがこのパラグラフでマルクスが言いたいことなら、どうしてマルクスは、等価形態にある商品の価値の量的規定という問題から話を始めているのでしょうか。その説明がなかなかつかないのです。
 そうではなく、マルクスがこのパラグラフで中心に述べていることは、文節記号でいうと(ホ)で述べていることではないかと考えます。つまり貨幣としての金の価値の大きさは、産源地での他の諸商品との直接的な交換取引の中で確定されるのだということです。だから貨幣として、現実に流通にある金の価値は、すでに与えられたものとして前提されているのであって、流通過程の内部でも金と商品とが直接的な交換取引の関係に入って、それによってそれらの相対的価値がそれらの相互の交換によって確かめられるなどと考えるのは間違いなのだ、ということです。これは先に紹介した『経済学批判』の一文を良く吟味すれば分かります。
 だから17世紀の最後の十数年間における貨幣分析のなかで、当時の商人や経済学者たちが貨幣が商品であるとの理解に達していたとしても、彼らがそうした正しい認識に達していたというのではないのだということです。マルクスが〈それはやはり端緒にすぎなかった〉と述べているのはそういう意味ではないかと思います。つまり彼らはすでに金が貨幣として流通している現実を前提したうえで、そこで貨幣としての金と他の諸商品とが交換される現実を見て、それをあたかも直接的な交換取引と見立ててそうした主張をしているに過ぎないのですが、しかし、そうした理解そのものは決して正しいものではないのだ、というのがマルクスが言わんとすることではないでしょうか。
 つまり貨幣としての金が、他の諸商品と同じ一つの商品として登場するのは、あくまでも金の産源地においてのみであるということです。そうしたことを理解した上で、17世紀の最後の十数年間の商人や経済学者たちが貨幣は商品であると理解していたわけでは無かったということです。そうしたことを理解するためには、〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのか(商品が貨幣になるのか〉、つまり「商品の貨幣への転化」を論じたこの第2章でマルクスが展開してきたように論証する必要があるのだ、ということではないかと思います。
 だから、久留間氏が注目した最後の二つの文節((ト)(チ))で述べていることは、このパラグラフ全体でマルクスが中心に言いたいことから見れば、ある意味では、副次的な、あるいはそれを補強するようなものでしかないといえるのではないでしょうか。
 なぜ、マルクスがこうした貨幣としての金の価値の量的確定という問題を、ここで論じているのでしょうか。それは貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって、その価値の量的規定が確定されるのは産源地という特殊な交換過程の問題だからです。こうした産源地における金の他の諸商品との直接的交換取引というものは、全体の商品交換の過程からみるなら、極めて特殊なものですが、しかし、それもやはり交換過程の問題であることは確かでしょう。だからこそマルクスは、交換過程の最後あたりで(この第2章を締めくくる最後のパラグラフの直前のパラグラフで)、その特殊な交換過程の果たす役割として貨幣としての金の価値量の確定という問題を取り上げているのではないでしょうか。》

 (やはり今回も、途中ですが、一旦、ここで打ち切ります。続きは次回に回します。)

  それでは本文テキストの解説に移ります。今回から第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の第3節「労働力の売買」からになります。


◎  第3節  労働力の売買

 この〈第3節 労働力の売買〉はフランス語版は〈第3章 労働力の売買〉になっています。つまり〈〉が〈〉に格上げされているのです。ここらで、『資本論』の冒頭部分の構成が初版、第2版(現行版はほぼ第2版にもとづいていますが、若干の相違はあります)、フランス語版ではどのようになっているのかを見ておくことにしましょう。

〈初版〉 (江夏美千穂 訳)

  第1部 資本の生産過程
第1章 商品と貨幣
  (1)商品
  (2)商品の交換過程
  (3)貨幣または商品流通
      A 価値の尺度
      B 流通手段
     (a)商品の変態
      (b)貨幣の流通
     (c)鋳貨。価値象徴(シンボル)
      C 貨幣
      (a)貨幣蓄蔵
      (b)支払手段
      (c)世界貨幣)
第2章  貨幣の資本への転化
  (1)資本の一般的表式
  (2)一般的表式の諸矛盾
  (3)労働力の売買

〈第2版〉 (江夏美千穂 訳) 
      第1部 資本の生産過程
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
    第2節 商品のうちに表示されている労働の二重性格
    第3節 価値形態あるいは交換価値
       A 単純なあるいは単一の価値形態
         (1) 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
         (2) 相対的価値形態
            (a) 相対的価値形態の内容
            (b) 相対的価値形態の量的規定
         (3) 等価形態
         (4) 単純な価値形態の全体
       B 総和のあるいは発展した価値形態
         (1) 発展した相対的価値形態
         (2) 特殊的な等価形態
         (3) 総和のあるいは発展した価値形態の欠陥
       C 一般的な価値形態
         (1) 価値形態の変化した性格
         (2) 相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (3) 一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
    第4節 商品の呪物的性格とその秘密
  第2章 交換過程
  第3章 貨幣あるいは商品流通
    第1節 価値の尺度
        (価格-価格の尺度-価格の一般的上昇または下落-貨幣の計算名称、計算貨幣-価値量と価格との量的不一致-両者の質的不一致-商品の観念的な価値形態にほかならない価格)
    第2節 流通手段
         a 商品の変態(循環W-G-W-販売W-G-購買G-W-一章品の総変態-
           商品流通-商品流通と生産物交換とのちがい)
         b 貨幣の流通(商品変態と貨幣流通-貨幣の二度の位置変換-流通しつつ
           ある貨幣の量-流通速度-流通の流れと停滞-流通しつつある貨幣の量
           を規定する諸要因)
         c 鋳貨 価値象徴(鋳貨と棒状地金、鋳貨の摩滅-価値象徴-銀表章と銅表章
           -紙幣-強制通用している紙幣流通の法則)
    第3節 貨幣
         (a) 貨幣蓄蔵
         (b) 支払手段
         (c) 世界貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章  貨幣の資本への転化
    第1節 資本の一般的定式
    第2節 一般的定式の矛盾
    第3節 労働力の売買
       (「自由な労働者」-労働力の価値-「労働力」商品の特有な性質)

〈フランス語版〉  (江夏・上杉 訳)

      第1部 資本主義的生産の発展
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因--使用価値と交換価値または厳密な意味での価値(価値の実体。価値量)
    第2節 商品によってあらわされる労働の二重性格
    第3節 価値形態
       A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
         (a)価値表現の両極、価値の相対的形態と価値の等価形態
         (b)相対的価値形態
         (c)等価形態とその特色
         (d)単純な価値形態の全体
       B 総和の、あるいは発展した価値形態
         (a)価値形態の性格の変化
         (b)相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (c)一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
         (d)商品の物神性とその秘密
  第2章 交換
  第3章 貨幣または商品流通
   第1節 価値の尺度
   第2節 流通手段
        (a)商品の変態
        (b)貨幣の流通
        (c)鋳貨--価値表章
   第3節 貨幣
        (a)貨幣蓄蔵
        (b)支払手段
        (c)普遍的貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章 資本の一般的定式
  第5章 資本の一般的定式の矛盾
  第6章 労働力の売買

  こうして比較してみると、初版は部・章・(1)・A・(a)の構成になっているのに対して、第2版は部・篇・章・節・A・(1)・(a)の構成になっているために、第2篇と第4章の表題が「貨幣の資本への転化」という同じものが並ぶことになっています。それに対してフランス語版は、部・篇・章・節・A・(a)の構成ですが、第2篇は篇と章の構成になっているために、同じ表題が重なる愚が避けられています。


◎第1パラグラフ(流通過程で生じない価値の増加は、商品の使用価値で生じるしかない。その消費が価値を創造する独自の使用価値を持つ商品=労働力)

【1】〈(イ)資本に転化するぺき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。(ロ)なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。(ハ)同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。(ニ)なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。(ホ)そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。(ヘ)というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからである。(ト)だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。(チ)ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。(リ)そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に。〉

  (イ)(ロ) 資本に転化するぺき貨幣の価値変化、その増大はこの貨幣そのものには起こりえません。というのは、単純流通においては貨幣は購買手段としても支払手段としても、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけだからです。または、それが流通から引き上げられても、貨幣としての形態にとどまりこそすれ、蓄蔵貨幣という価値量のまったく変わることのない化石に固まってしまうからです。

  このパラグラフ全体はフランス語版では大幅に書き換えられており、パラグラフそのものは四つのパラグラフに分けられています。ここでは該当するフランス語版をまず最初に紹介して、引き4続いてその解説を行うことにしましょう。まずフランス語版です。

  〈価値の増加--これによって貨幣は資本に転化するはずであるが--は、この貨幣自体からは生ずることができない。貨幣は、購買手段または支払手段として役立つにしても、それで買うかまたは支払う商品の価格を実現するにすぎない。
  貨幣が元のままにとどまり、自分自身の形態を保持するならば、貨幣はもはやいわば石化した価値でしかない(1)。〉 (江夏・上杉訳154頁)

  私たちは第2節「一般的定式の諸矛盾」の結論として次のような「二重の結果」を得ました。すなわち貨幣の資本への転化は、①商品交換に内在する諸法則(=等価物同士の交換) にもとづいて展開されるべきこと、②それは流通部面で行われなければならず、しかも流通部面で行われてはならない、というものです。
  資本としての貨幣の流通G(貨幣)-W(商品)-G'において如何にして価値の増殖、剰余価値の形成が可能でしょうか。まず最初のG-Wにおいて、貨幣が購買手段や支払手段として機能したとしても、その価値を増やすことできません。それはただ諸商品の価値を実現するだけであって、そこに価値の増減はないのが法則だからです。
  また貨幣そのものは流通から引き上げられても、ただ蓄蔵貨幣に石化するだけで何ら価値の増大は生じません。

  (ハ)(ニ) 同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえません。というのは、この行為は商品の価値をただ現物の形態から貨幣の形態に再転化させるだけだからです。

  該当するフランス語版です。

  〈A-M-A'、すなわち、貨幣の商品への変換およびその同じ商品のより多くの貨幣への再変換が表現するところの価値の変化は、商品から生じなければならない。だが、 M-A'、という第二の行為では、商品がただたんに自然形態から貨幣形態に移行する転売では、価値の変化は実現しえない。〉 (同)

  それでは資本としての貨幣の流通の第二の部面、W-G'ではどうでしょうか。しかしこの場合も価値の変化は生じません。というのは、この流通はただ商品の価値をその現物形態から貨幣の形態に転化するだけで、商品交換の内在する諸法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、価値の変化はないからです。

  (ホ)(ヘ) そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないのですが、しかしその商品の価値に起きるのではありません。というのは、商品交換の法則では、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからです。
 
  同じくフランス語版です。

  〈さて今度は、A-M,という第一の行為を考察すれば、等価物同士の交換が存在すること、したがって、商品は、この商品に変換する貨幣よりも大きな交換価値をもたない、ということが見出される。最後の仮定が、すなわち、変化は商品の使用価値、つまり商品の使用または消費から生ずるという仮定が、残されている。〉 (同)

  価値の増大が貨幣で生じないのなら、あとは商品に生じると考えるしかありません。すなわちG-W-G'最初の流通行為C-Wの結果であるW(商品)に生じるしかないのです。しかし商品の価値にはではありません。なぜなら、商品の価値は商品交換の法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、その価値には変化が生じないはずだからです。

  (ト)(チ)(リ) だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはないことになります。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないでしょう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのです。すなわち労働能力または労働力という商品にです。

  まずフランス語版です。これはかなり書き換えられています。

  〈ところで、問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品--その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品--を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない。
  そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉 (江夏・上杉訳154-155頁)

  だから商品の価値に変化が生じないとすれば、その使用価値に生じる必要があります。しかし商品の使用価値は価値とは対立的な契機であって、使用価値には価値はまったく含んでいないのです。だから問題は使用価値の実現であるその消費の過程で価値が新たに生じるような独特の使用価値をもつ商品が見いだされなければならないのです。我が貨幣所持者は、市場において、その消費が価値を創造するような独特の使用価値を持つ商品を見いださねばならないのです。そしてそれは見いだされます。すなわち労働能力あるいは労働力という商品にです。
  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値--使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費--が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉 (草稿集④61頁)


◎原注38

【原注38】〈38 「貨幣の形態にあっては……資本は利潤を生まない。」(リカード『経済学原理』、267ページ。〔岩波文庫版、小泉訳、上巻、243ぺージ。〕)〉

  これは〈また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。〉という本文につけらた原注です。
  この引用では途中……と部分的に省略されていますが、小泉訳でも、そのあと出された羽鳥・吉澤訳でも中抜けはありませんでした。次のようになっています。

 〈貨幣の形に於いては、この資本は何等の利潤を生ずるものではないが、それと交換され得るべき、原料機械及び食物の形に於いては、それは収入を生じ、国家の富と資源を増すであろう。〉 (岩波文庫版、昭和27年6月第1版、上、243頁)
 〈貨幣の形態では、この資本は利潤をまったく生まない。貨幣がそれと交換されうる原料、機械および食料の形態では、資本は収入を生み、国家の富と税源を増加させるであろう。〉 (岩波文庫版、1987年6月、下、31頁)


◎第2パラグラフ(労働力の定義)

【2】〈(イ)われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。〉

  (イ) わたしたちが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことです。

  まずここでも最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈この名称のもとでは、人間の身体という人間の生きた一身のなかに存在していて、人間が有用物を生産するために運動させなければならないところの、肉体的および精神的力能の総体を、理解しなければならない。〉 (江夏・上杉訳155頁)

  ここでは労働能力、あるいは労働力の定義がなされています。それは生きている人間の肉体にそなわっていて、何らかの使用価値(有用物)を生産するときに、運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体を意味するということです。

  第1章「商品」の第2節「商品にあらわされる労働の二重性」の最後のパラグラフに、次のような説明がありました。

  〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a巻63頁)

  ここでは〈生理学的意味での人間の労働力の支出〉と〈特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出〉という形で〈人間の労働力の支出〉という言葉が二度出てきます。しかしこの段階ではまだ〈労働力〉というのはそもそも何か、ということは問わないままでした。

  また同章第4節「商品の物神的性格とその秘密」にも次のような一分があります。

  〈いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。〉  (全集第23a巻96-97頁)

  ここでは人間の身体に備わった潜勢的な力としての労働力ではなく、実際にそれが発揮される〈有用労働または生産活動〉を規定しているといえます。しかし〈人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だ〉というのは「労働力の支出」を規定しているといえるのではないでしょうか。

  最後に『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。--労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を--ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが--もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉 (草稿集④78-79頁)


◎第3パラグラフ(労働力が商品になる第一の条件は、労働力の自由な所持者であること)

【3】〈(イ)しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。(ロ)商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。(ハ)この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。(ニ)労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(39)。(ホ)労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。(ヘ)この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。(ト)なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。(チ)彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。(リ)そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである(40)。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければなりません。商品交換には、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んでいません。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、労働力の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからです。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのです。彼らの違いといえば、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人なのです。

  第1パラグラフの最後で〈われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に〉とありましたが、このような幸運に貨幣所持者が出会うためには、さまざまな条件があるというのです。それは商品交換そのものが示す条件でもあります。商品交換そのものにおいては商品所有者のあいだには対等の関係があるだけで、一方が他方を強引に暴力的に市場に引き出すようなことはできません。だから労働力が商品として市場に出てくるためには、労働力の所有者が自分の意志でそうすることが出来なければならないのです。そしてそのためはまず第一に、労働力が彼の自由な所有物として認められているということです。そうした自由が認められて、初めて彼は自分の労働力を自分の自由意志で商品として売りに出すことができるのです。だから市場における労働力の所持者と貨幣の所持者とは、リンネルを売ろうとしている人とそれを買おうとしている貨幣所持者との関係とまったく同じであって、彼らはまったく対等な平等な関係であって、違いはただ一方は売り手であり、他方は買い手であるという違いだけで法律上は同じ価値の所持者としてまったく対等・平等の関係にあるのです。

  (ヘ)(ト) この関係を持続させるためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とします。というのは、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまったなら、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからです。

  労働力の所持者が常に自分の自由意志で労働力を売ることが出来るためには、彼はそれを常に一定の時間を限って販売する必要があります。というのは、もし彼がそれをひとまとめに売ってしまうなら、それは彼自身を販売することになり、それは彼自身が貨幣所持者の持ち物になるということだからです。そうなると彼はただ貨幣所持者の奴隷になったのと同じです。彼は二度と彼の労働力を商品として販売することはできないでしょう。だからこうした貨幣所持者と労働力の所持者が市場で出会うことが維持されるためには、労働力の所持者は常に一定の時間を限って自分の労働能力を使用する権限を貨幣所持者に販売することでなければならないのです。

  (チ)(リ) 労働力の所持者が彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする関係、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければなりません。そして、そうでありうるのは、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけでなければなりません。そしてそのためには、彼は、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないということを堅持しなければならないのです。

  だから労働力の所持者は常に彼の労働力に対して、彼の所有物として相対し、彼の所有する商品という関係になければならないのです。そしてそのためには、彼は常に彼の労働力を一定の時間、期間を限って、その買い手に使用する権限を与えるのであって、労働力を譲渡してもその所有権は手放さず、保持していることができなければならないのです。

  『61-63草稿』『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

 〈ここではわれわれは商品流通の基礎の上に立っているのであり、したがって交換者たちのあいだには、流通過程そのものによって与えられる依存関係のほかには、どんな依存関係もまったく前提されておらず、彼らはただ、買い手と売り手として区別されるだけである。したがって、貨幣が労働能力を買うことができるのは、ただ、労働能力が商品そのものとして売りに出され、その持ち主〔Inhaber〕、すなわち労働能力の生きた所有者〔Besitzer〕によって売られるかぎりにおいてである。その条件は、第一に、労働能力の所有者〔Besitzer〕が自分自身の労働能力を思いどおりに処分する〔disponieren〕ということ、商品としてそれを思いどおりに処理する〔verfügen〕ことができるということである。そのためには彼はさらに、労働能力の所有者〔Eigtümer〕でなければならない。そうでなかったならば、彼はそれを商品として売ることができない。〉 (草稿集④52頁)

  労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた。〉 (全集第16巻128-129頁)

    (今回も長くなりましたので、全体を9分割して掲載します。)

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(2)

2022-02-13 13:07:17 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(2)


◎原注39

【原注39】〈39 古典的古代に関する百科事典のなかでは次のようなばかげたことを読むことができる。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とがなかったことを別とすれば」資本は十分に発達していた、というのである。モムゼン氏も彼の『ローマ史』〔全3巻、第2版、ベルリン、1856-1857年〕のなかでたびたびはき違えをやっている。〉

  これも最初はフランス語版をまず最初紹介しておきましょう。

  〈(2) 歴史家のあいだには、古典的古代では、「自由な労働者と信用制度が欠けていた」という例外を除き、資本が完全に発達していた、という不合理でもあり誤ってもいる主張が、しばしば見出される。モムゼン氏もまた、彼の『ローマ史』のなかで、これと同じような取り違いを積み重ねている。〉 (江夏・上杉訳155頁)

  さて、これは〈労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(39)〉という本文につけられた原注です。マルクスの文章からなっていますが、文節に分けて解説するまでもないと思います。
   要するに労働力を商品として市場に見い出すことができるのは、ある特定の歴史段階、すなわち資本主義的生産様式が発展してくる段階においてであって、それ以前の古代世界にはない条件だということです。ところが百科事典ではそうした歴史的条件というものに対する無知と混乱しか見いだせないということです。
   モムゼンの『ローマ史』でも、自由な労働者と信用制度が古代世界にはないことは認めているものの、資本は十分に発達していたというのですから、自由な労働者のないところに資本の十分な発達はないということが分かっていないとマルクスは指揮しているわけです。
 第3巻の「商人資本」を論じている第4篇の注46のなかでは、次のように書いています。

  〈46 W・キーセルバッハ氏(『中世における世界商業の歩み』、1860年)は、じっさい相変わらず、そこでは商人資本が資本一般の形態だという世界の観念のなかで暮らしている。資本の近代的な意味を彼は少しも感知していないのであって、それは、著書『ローマ史』のなかで「資本」や資本の支配を語っているときのモムゼン氏と同様である。〉 (全集第25a巻408頁)


◎原注40

【原注40】〈40 (イ)それゆえ、多くの立法が労働契約の最大限度を確定しているのである。(ロ)自由な労働が行なわれている諸国民の場合には、すべての法律書が契約解除予告条件を規制している。(ハ)いくつかの国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された准州でも、またクーザの変革までは事実上ドナウ諸州でも)奴隷制が債務奴隷制〔Peonage〕という形態の下に隠されている。(ニ)労働で返済されることになっていて、代々伝わってゆく前貸しによって、労働者個人だけではなく彼の家族も事実上は他の人々やその家族の所有物になる。(ホ)フアレスは債務奴隷制を廃止した。(ヘ)自称皇帝マクシミリアンは一つの勅令によって再び債務奴隷制を取り入れたが、この勅令はワシントンの下院で適切にもメキシコにおける奴隷制の再採用のための勅令として非難された。(ト)「私の特別な肉体的および精神的な技能と活動可能性とについて、私は……時間的に限定された使用をある他人に譲渡することができる。というのは、それらは、この限定にしたがって、私の全体性と一般性とにたいする外的な関係を与えられるからである。私の労働によって具体的な全時間と私の生産物の全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節。〔岩波書店版、速水・岡田訳、109ページ。〕)〉

 (イ)(ロ) それだから、多くの法律によって労働契約の最大限度を確定しているのです。自由な労働が行なわれている諸国民の場合には、すべての法律書が他方で労働の契約を解除する予告条件を規制しています。

  これは〈彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである(40)〉という本文につけられた原注です。

  つまり〈ただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで〉あること、だから〈労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しない〉ということが、労働契約のときの労働時間の最大限を決めることによって確定しているというのです。
   先に紹介した『賃金・価格・利潤』でもマルクスは〈労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである〉と述べ、そこに付けられた注では〈イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた〉とありました。
    ここでは労働契約を解除するための予告条件も法律で決められているとも指摘されています。いきなりにクビというのではなく、現在では、経営者が労働者のクビを切るためには、30日前に予告することが法律で決められています。そうしない場合は、会社側は30日分以上の平均賃金を支払う必要があるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) いくつかの国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された准州でも、またクーザの変革までは事実上ドナウ諸州でも)奴隷制が債務奴隷制〔Peonage〕という形態の下に隠されて存在しています。債務奴隷制というのは、代々伝わってゆく前貸しが、労働で返済されることになっていて、労働者個人だけではなく彼の家族も事実上は他の人々やその家族の所有物になるような制度です。フアレスは債務奴隷制を廃止しました。自称皇帝マクシミリアンは一つの勅令によって再び債務奴隷制を取り入れましたが、この勅令はワシントンの下院で適切にもメキシコにおける奴隷制の再採用のための勅令として非難されたのでした。

    ここにはさまざまな歴史的な事実が紹介されていて、それらを調べていくと限りがありません。だから具体的な事実についても一応は調べましたが、その解説は省略します。
  ここで重要なのは、一見、自由な労働者であるかに思える場合も、債務関係に縛りつけられて、事実上、労働者個人だけではなく、その家族も雇い主の所有物になるような関係があるということです。それを債務奴隷制というのですが、それらは奴隷制というだけあって、いまここで問題になっているような〈労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しない〉というような関係はすでに事実上なくなっているのだということです。

  マルクスは1867年10月11日のクーゲルマンへの手紙のなかで、クーゲルマンから「債務奴隷制と何か?」という質問を受けたに対して、次のように説明しています。

  債務奴隷制〔peonage〕とは、将来の労働にたいする貨幣の前貸しです。この前貸しは普通の高利の場合と同じことです。労働者は一生債務者であり債権者の強制労働者であるばかりではなく、この関係は家族やそのあとの世代にも引き継がれ、したがってあとの世代は事実上債権者に属するのです。〉 (第31巻465-466頁)

  (ト) 「私の特別な肉体的および精神的な技能と活動可能性とについて、私は……時間的に限定された使用をある他人に譲渡することができる。というのは、それらは、この限定にしたがって、私の全体性と一般性とにたいする外的な関係を与えられるからである。私の労働によって具体的な全時間と私の生産物の全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節。〔岩波書店版、速水・岡田訳、109ページ。〕)

  これはヘーゲルの『法哲学』の一文ですが、分かりにくいので、比較的分かりやすい長谷川宏訳を紹介しておきましょう。

  〈わたしの肉体的・精神的な特殊技能や活動の可能性のうち、それにもとづく個々の産物や時間的に限られたその使用は、他人に売ることができる。このような限定がつけば、それは、私の全体性や一般性の外に出たものとなるのだから。労働によって具体化された時間の全体や産物の全体を売るのは、わたしの魂を、わたしの活動一般と現実一般を、わたしの人格性を、他人に所有されることである。〉 (『法哲学講義』作品社2000年4月、154頁)

 この『法哲学講義』にはヘーゲル自身の書いた『法哲学要綱』とそれをヘーゲル自身が講義のなかで口頭で説明したものとを区別して紹介していますが、口頭での説明の部分も一部紹介しておきましょう。

 〈召使や日雇いは、金で他人に雇われるが、時間単位で雇われる点で、奴隷とは本質的にちがいます。だれかが全生涯を雇われたとすると、私たちの国家はこれを認めないでしょう。それは奴隷になることであるし、全生涯をかけてうみだすものは、その人の人格そのものですから。〉 (同前155頁)

 だからヘーゲルの先の引用文でも、前半部分は時間を限って労働力を売ることについて述べていますが、後半部分は〈私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになる〉というのは奴隷について述べているわけです。


◎第4パラグラフ(労働力が商品になるための第二の条件)

【4】〈(イ)貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。〉

   (イ) 貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力の所持者が自分の労働が対象化されている商品を持っておらず、売ることができないので、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力を、商品として売り出さなければならないという条件にあることです。

    労働力がそれを所持する人の自由な所有物であることだけでは、それが商品として市場に売りに出される条件としては不十分です。というのは、彼はその労働力を自分自身に必要なものを生産することに支出することも可能だからです。だから彼が自分の労働力を彼自身の生活手段などの生産に支出できない状態になければなりません。つまり彼が自分の労働力を支出する対象物(原料や用具)を持っておらず、だから商品として売ることのできる有用物を生産できない状態でなければならないのです。つまり彼に売ることができるのは、彼自身の肉体に備わっている労働力だけだという状態にあることが必要なのです。
  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈だが、第一の条件にすでに含まれている第二の条件は、彼が次の理由によって、自分の労働能力そのものを商品として市場にもたらし、売らねばならないということである。その理由というのは、彼はもはや自分の労働を、交換に出すことのできるような、なにか別の商品の形態で、なにかほかの使用価値に対象化された(彼の主体性の外に存在している)労働の形態でもってはおらず、彼が提供しうるものとして、売りうるものとしてもつ唯一の商品は、まさに、彼の生きた身体のなかに現存する、彼の生きた労働能力〔Arbeitsvermögen〕だ、ということである。(このVermögenという言薬は、ここではけっして、fortuna,fortune〔財産〕の意味でではなく、Potenz〔力能〕、δύναμς〔可能態〕の意味で理解されるべきである。)〉 (草稿集④52頁)


◎第5パラグラフ(生産手段も生活手段もないから労働力そのものを商品として販売せざるをえない)

【5】〈(イ)ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。(ロ)彼は革なしで長靴をつくることはできない。(ハ)彼にはそのほかに生活手段も必要である。(ニ)未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。(ホ)そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。(ヘ)彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。(ト)もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。(チ)生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。〉

 (イ)(ロ) ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、その商品を生産するために必要な生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければなりません。革なしでは長靴をつくることはできないのです。

  このパラグラフは、その前の第4パラグラフのさらなる説明になっています。前のパラグラフで〈労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならない〉とありましたが、今回のパラグラフはそのさらに詳しい説明といえるでしょう。
  すなわち、ここでは労働力の所持者が長靴の生産に自らの労働力を支出して、長靴を商品として販売して、その貨幣で彼に必要なものを購入することができるためには、彼は長靴を作るための革や道具を持っていなければならないことが指摘されています。

  (ハ)(ニ)(ホ) 彼にはそのほかに生活手段も必要です。長靴を生産してそれを販売して生活手段を購入するまでのあいだ、彼は生きていなければならないのですから、彼が商品の生産者になるためには、生産手段だけではなく、生活手段も必要なのです。いま生産している長靴が売れれば、食べるものが買えると言っても、それまでの間、生活手段なしには生きられません。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできないのです。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない宿命にあります。

  ここでは労働力の所持者が自分で商品を生産してそれを売って生活していくためは、生産手段だけではなくて、生産して販売して、それで生活手段を入手するまでの間に消費する生活手段も事前に持っていなければならないことが指摘されています。いずれにせよ私たちはとにかく毎日食べなければ生きていけないのですから、それは厳然たる過酷な自然必然性なのです。

  (ト)(チ) もし例え生産物が商品として生産されたとしても、その生産物は生産されてからさらに売られなければならないのであって(すぐに売れるとは限らない)、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させる諸物を入手することができるのです。だから生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのです。

  生産時間に販売時間を加えた時間、生産者はとにかく生きるために食べなければならず、だから彼は生産者になるためには、生産手段だけではなく、生活手段も必要なのです。この両者があって初めて彼は自分の労働力を自分の商品の生産のために支出することが可能になりますが、ということは彼が自分の労働力そのものを商品として販売せねばならないということは、彼にはこうしたすべての条件がないということに他なりません。
  ここでも『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈彼が、自分の労働がそのなかに対象化されているなんらかの商品の代わりに、自分の労働能力を、すなわち、他のすべての商品--それが商品の形態で存在しようと、貨幣の形態で存在しようと--から独自に区別されるこの商品を、売ることを強制されるためには、次のことが前提されている、--すなわち、彼の労働能力を実現するための対象的諸条件、彼の労働を対象化するための諸条件が欠けており、無くなってしまっており、その諸条件はむしろ富の世界、対象的富の世界として他人の意志に従属しており、彼にたいして商品所有者の所有物〔Eigentum〕として、流通においてよそよそしく対立している--他人の所有物〔Eigentum〕として対立している--、ということである。彼の労働能力を実現するための諸条件とはどのようなものか、言い換えれば、労働の、すなわち過程にある〔in processu〕・使用価値に実現されつつある活動としての・労働の対象的諸条件とはどのようなものか、ということは、あとでもっと詳しく明らかにしよう。〉 (草稿集④52-53頁)


◎第6パラグラフ(貨幣が資本に転化するためには、二重の意味での自由な労働者が必要)

【6】〈(イ)だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。(ロ)自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。〉

  (イ)(ロ) 貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければなりません。ここで自由というのは、以上に述べたことから分かるように、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、もう一つは労働力のほかには商品として売るべきものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味での自由なのです。

  このパラグラフはそれまで述べてきたことをまとめて結論的に述べています。すなわち、貨幣が資本に転化するためには、二重の意味で自由な労働者が歴史的に登場することが前提されるということです。このような自由な労働者の存在は封建社会が崩壊する過程の血塗られた歴史のなかで準備されたのですが、それは『資本論』の第1巻の最後の篇で問題になります。だから次のパラグラフで述べているように、ここでは問題にされません。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈つまり、貨幣の資本への転化のための条件が、貨幣と生きた労働能力との交換、すなわちその持ち主からの生きた労働能力の購買である以上、そもそも貨幣が資本に、あるいは貨幣所有者が資本家に転化できるのは、まったくただ、彼が商品市場で、流通の内部で自由な労働者を見いだすかぎりにおいてである。自由な、というのは、一方では彼が自分自身の労働能力を、商品として思うままに処分するというかぎりにおいてであり、他方では彼が思うままに処分できるほかの商品をなに一つもっていない、言い換えれば、彼の労働能力を実現するための、すべての対象的諸条件から自由であり、免れており、離れている〔frei,los und ledig〕というかぎりにおいてである。だからまた、貨幣所有者が対象化された労働の、自己自身を堅持する〔an sich selbst festhaltend〕価値の、主体および担い手として、資本家であるのと同じ意味で、労働能力の持ち主は彼自身の労働能力の単なる主体、単なる人格化として、労働者なのである。〉 (草稿集④53-54頁)


◎第7パラグラフ(自由な労働者が歴史的に生まれる過程は当面の課題ではない)

【7】〈(イ)なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現われるかという問題には、労働市場を商品市場の一つの特殊な部門として自分の前に見いだす貨幣所持者は関心をもたない。(ロ)そして、この問題はしばらくはわれわれの関心事でもない。(ハ)われわれは、事実にしがみつくという、貨幣所持者が実地にやっていることを、理論的にやるわけである。(ニ)とはいえ、一つのことは明らかである。(ホ)自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。(ヘ)この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。(ト)それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) どうしてこうした自由な労働者が流通において、自分の前に立ち現われたのかということについては、労働市場も商品市場の一つの特殊な部門として考えている貨幣所持者は関心をもちません。そして、この問題にはしばらくは私たちもとらわれずに、とりあえずは関心の外に置きます。私たちは、そうした事実、二重の意味での自由な労働者が市場に存在しているという事実にしがみつくという、貨幣所持者が実際にやっていることを、とりあえずは理論的にやることにしましょう。

  すでに述べましたように、自由な労働者を市場に見いだすということは貨幣が資本に転化するための条件なのです。つまりそれは資本主義的生産様式が歴史的に登場することと同じ意味を持ちます。しかし私たちは発展した資本主義的生産様式を前提してその内在的な諸法則を解明しようとしているわけですから、それが歴史的にどのように生まれてきたか、ということはとりあえずは別の問題なのです。もちろん両者は深く関連していますが、しかし理論的には分けて考える必要があるということです。だからマルクスは『資本論』の第1巻で、とりあえず資本の生産過程の解明をひとまず終えたあとの最後の篇でそうした歴史的な問題を取り上げているのです。
  だからとりあえず、私たちは商品市場の特殊的な部門である労働市場に自由な労働者が存在するという前提にしがみついて、以下の考察をやっていくということです。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) とはいいましても、一つのことはだけは明らかです。つまり自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのでは決してありません。この関係は、決して自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもないのです。それは、明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革の産物なのです。すなわち、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物といえるのです。

  二重の意味での自由な労働者が流通過程に現れる理由を問わないと言いましたが、しかしハッキリしていることは、それは決して自然の結果そうしたことになったわけではありません。それは一つの歴史的なものですが、あらゆる時代に共通な社会的な関係というわけでもありません。それは明らかに、資本主義的生産が勃興してくる前提なのですから、それに先行する諸社会の歴史的な発展の産物でしり、その結果といえるのです。資本主義的生産以前の多くの過去の社会的な生産有機体(構成体)が没落していく過程によって生み出されてきたものと言えるでしょう。しかしそうした歴史を辿ることはここでの課題ではありません。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈だが、この自由な労働者は--したがってまた、貨幣所有者と労働能力の所有者とのあいだの、資本と労働とのあいだの、資本家と労働者とのあいだの交換は--、明らかにそれ自身、先行した歴史的発展の産物、結果であり、多くの経済的変革の要約〔Resumé〕であり、また他の社会的生産諸関係の没落と、社会的労働の生産諸力の一定の発展とを前提する。この関係の前提と同時に与えられている一定の歴史的諸条件は、この関係についてののちの分析のさいにおのずから明らかとなろう。しかし資本主義的生産は、自由な労働者、すなわち、売るべきものとしては自分自身の労働能力しかもっていない売り手が、流通の内部に、市場に、見いだされる、という前提から出発する。つまり資本関係の形成は、はじめから、この関係が社会の経済的発展の--社会的生産諸関係および生産諸力の一定の歴史的段階にしか現われることができない、ということを示している。それははじめから、歴史的に規定された経済的関係として、すなわち経済的発展の、社会的生産の、一定の歴史的時代に属する関係として現われるのである。〉 (草稿集④54頁)

  次に『賃金・価格・利潤』からも紹介しておきます。

  だがそうするまえに、次のことが問題にされるかもしれない。市場には〔一方に〕土地や機械や原料や生活資料--自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である--をもった〔労働力の〕買い手の一組がおり、他方には、労働力すなわち労働する腕と頭のほかにはなにも売るべきものをもっていない〔労働力の〕売り手の一組がいるという、この奇妙な現象、一方の組は利潤をあげ金をためるためにたえず買い、他方の組は暮らしをたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうして起こるのか? と。この問題の研究は、経済学者たちが「先行的蓄積または原蓄積*とよんでいるもので、だがじつは原収奪とよぶべきものの研究になるであろう。われわれは、このいわゆる原蓄積の意味するところは、労働する人間と彼の労働手毅とのあいだに存在する原結合解体をもたらした一連の歴史的過程にほかならないことを知るであろう。しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外である。労働する人間と労働手段との分離がひとたび確立されると、こうした状態はおのずから存続し、つねに規模を拡大しながら再生産され、ついに生産様式上の新しい根本的な革命がふたたびこれをくつがえして新しい歴史的形態で原結合を復活させるまでつづくであろう。
  * アダム・スミスは、労働にさきだっておこなわれる蓄積といっている(『諸国民の富』、前掲訳書、(2)、232-233ページ、②、94ぺージ)。なお「原蓄積」Oribinal Accumulationは、『資本論』第1巻第24章で「本源的蓄積」Primitive Accumulaitonといわれているものにあたるが、ここでは「原罪」などと同じ言い方で、風刺的意味をふくんでいると思われる。以下の「原収奪」「原結合」もこれにならった言い方である。〉 (全集第16巻129-130頁)


◎第8パラグラフ(先に考察した経済的諸範疇もそれらの歴史的な痕跡を帯びている)

【8】〈(イ)さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている。(ロ)生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包みこまれている。(ハ)商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。(ニ)われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるのかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。(ホ)とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。(ヘ)商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれうるのである。(ト)生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。(チ)しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 歴史を問わないといいましたが、これまで私たちが考察してきた経済的諸範疇も実はそれらの歴史的な痕跡を帯びているのです。例えば生産物が商品になるというのは一つの歴史的な諸条件があってはじめて言えることなのです。つまり生産物が商品になるためには、生産物が生産者自身のための直接的生活手段として生産されているような状態ではだめなのです。

  このパラグラフはその前のパラグラフで二重の意味での自由な労働者が市場に登場する歴史的な過程は問わないで、私たちはそれをただ前提して考察をはじめるのだと述べていたことに関連して、歴史は問わないと言っても、そもそもそれまで私たちが考察してきた経済的な諸範疇そのものも歴史的な痕跡を帯びているし、その考察のなかで歴史的な背景に遡ることも行われてきたことが指摘されています。
  それは生産物が商品になるのはどうしてか、ということが第1章の第4節で取り上げられたようにです。生産物が商品になるためには、それが自分自身の生活手段になるのではなく、他人のための使用価値(生活手段)になるものでなければなりません。つまり社会的な分業が前提されるのです。『61-63草稿』を紹介しておきましょう。

  〈われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。商品の分析は、商品の定在のなかに一定の歴史的諸条件が包み込まれていることをも示した。たとえば、生産物が生産者たちによって使用価値として生産されるだけであれば、その使用価値は商品とはならない。このことは、社会の成員のあいだに歴史的に規定された諸関係があることを前提している。〉 (草稿集④54頁)  

  (ニ)(ホ) 単に生産物が商品になるというだけではなくて、さらに進んで、生産物のすべてが、あるいはその多数が、商品になるのは、どんな事情のもとでかを探究したのでしたら、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが分かったでしょう。とは言っても、このような探究をしたなら商品の分析から外れてしまうことになったでしょうが。

  すべての生産物が、あるいは生産物の多くが、商品になるのは、資本主義的生産様式においてであって、それ以外の先行する諸社会では、商品になる生産物はかぎられたものだったのです。しかしどうしてどんな事情でそうしたことが生じるのかを探求するのは、ここでの課題ではありません。先に紹介した『61-63草稿』の続きです。

  〈ところで、もしわれわれがさらに次の問題を、すなわち、どのような事情のもとで生産物が一般的に商品として生産されるのか、あるいはどのような諸条件のもとで商品としての生産物の定在が、すべての生産物の一般的かつ必然的な形態として現われるのか、という問題を追究したならば、それは、まったく特定の歴史的生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上でのみ生じることだ、ということがわかったであろう。しかしそのような考察をしたとすれば、それは商品そのものの分析からは遠く離れてしまうことになったであろう。というのは、われわれがこの分析でかかわりあったのは、商品の形態で現われるかぎりでの諸生産物、諸使用価値であって、あらゆる生産物が商品として現われなければならないのは、どのような社会的経済的基礎の上でのことか、という問題ではないからである。〉 (草稿集④54-55頁)

  (ヘ)(ト)(チ) 商品生産や商品流通は、歴史的には、まだ非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれえます。生産物が商品として現われることは、社会内の分業がある程度発展していて、最初は直接的な物々交換で始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とします。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものなのです。

  私たちは第1章第4節や第2章のなかで、商品交換が生まれてくるのはどのようにしてか、まずは有用物と価値物との分離が生じ、やがて貨幣が生まれて、商品流通がますます発展してくる過程を学びました。そして価値形態の発展とは、まさにこうした商品交換が発展する過程において、価値関係のなかの価値表現という関係だけを取り出してそれを発展的に見たものだということが分かったのでした。だから私たちが第1篇で考察したことはそうした商品交換の歴史的な発展過程を凝縮して分析的に考察したことでもあるのです。
  『61-63草稿』の残りの部分を紹介しておきましょう。

  〈われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、したがってまた商品流通は、さまざまの共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、したがってまたけっして商品の形態をとらないのに--生じうる。〉 (草稿集④55頁)〉


◎第9パラグラフ(貨幣もまた歴史的に初期の段階に生まれ、さまざまな社会に共通するものであるが、資本はある特定の発展段階においてのみ生まれ、歴史的に一つの世界史を包括している)

【9】〈(イ)あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。(ロ)種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、あれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をさし示している。(ハ)それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分である。(ニ)資本はそうではない。(ホ)資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。(ヘ)資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。(ト)それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである(41)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 他方、貨幣に目を向けますと、それは商品交換のある程度の高さを前提とします。さまざまな特殊な貨幣の形態、単なる商品の等価物としての貨幣、または流通手段や支払手段としての貨幣、さらには蓄蔵貨幣や世界貨幣は、あれこれの貨幣の機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的な生産過程のさまざまな段階をさし示しています。しかしそれにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分なのです。

  このパラグラフも先のパラグラフの冒頭〈さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている〉ということの説明の続きです。先のパラグラフでは〈生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包みこまれている〉ことが説明されましたが、今回は貨幣を問題にするということです。
  そして貨幣の場合も商品の交換のある程度の高さを前提としますが、しかし商品流通の比較的わずかな発達段階でも、貨幣は生まれてくるし、その特殊な諸形態、等価物としてのその存在や、流通手段や支払手段、蓄蔵貨幣や世界貨幣という貨幣の諸形態や諸機能もそうした商品流通の初期のころから生まれてくると指摘されています。
  この部分も先に紹介してきた『61-63草稿』の続きの部分を紹介しておきましょう。

  〈他方、貨幣流通のほうは、したがってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外にはなにも前提しない。もちろんこれもまた一つの歴史的前提ではあるが、しかしそれは商品の本性に従って、社会的生産過程のきわめてさまざまの段階でみたされうるものである。個々の貨幣形態、たとえば蓄蔵貨幣としての貨幣の発展や支払手段としての貨幣の発展を、立ちいって考察すれば、それは社会的生産過程のきわめてさまざまな歴史的段階を示唆するであろう。すなわち、これらさまざまの貨幣機能の単なる形態から生まれる歴史的区別を示唆するであろう。しかしながら、右の考察によって、蓄蔵貨幣としての、あるいは支払手段としての形態での貨幣の単なる定在は、商品流通がいくらかでも発展しているあらゆる段階に同様に属するものであること、したがってまたそれはある一定の生産時代に制限されないものであること、それは生産過程の前ブルジョア的段階にもブルジョア的生産にも同様に固有のものであることが明らかになるであろう。〉 (草稿集④55頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 資本はそうではありません。資本が生まれてくる歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてないのです。資本は、すでにこれまでにも指摘してきましたが、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのです。そして、この条件が生まれるということには、一つの歴史的な条件が発生することであり、それは一つの世界史を包括しているのです。だから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのです。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈資本についてはそうでない。資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている。〉 (江夏・上杉訳157-158頁)〉

  これまで見てきたように、商品や貨幣は歴史的にはかなり初期の段階から生まれてくるし、それはさまざまな歴史的な生産様式に共通のものとして存在していることが指摘されました。しかしここでは資本という経済的範疇も歴史的な痕跡を帯びていますが、しかしそれは商品や貨幣とは違って、ある特定の歴史的な発展段階においてであって、商品や貨幣があればそこにあるというようなものではない、と指摘されています。確かに資本は商品や貨幣を前提しますが、しかしそれ以上に決定的なのは、二重の意味での自由な労働者が市場に登場するということだからです。そしてこうした労働者が生まれてくるのは、すでに指摘されましたように、〈多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なので〉す。だから資本主義的生産様式というのは、歴史的に階級対立の社会の最後の発展段階を指し示しており、だから世界史の特定の段階を包括したものとして登場したのです。それははじめから社会的生産過程の新しい一時代を告げ知らせるものなのです。
  ここで〈資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである)〉{フランス語版=〈資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている〉}ということでマルクスは何をいわんとしているのでしょうか。
  これは商品や貨幣という経済的諸範疇は歴史的には多くの社会的生産のなかにその比重の大小はあっても共通している存在しているものです。しかしそれはある特定の生産段階全体を覆うようなものとして存在しているわけではありません。いずれもさまざまな社会組織のなかに共通しているものですが、それはあくまでも部分的な限定された形でしかなかったのです。しかし資本の場合は、それも古代から高利資本や商人資本として部分的には存在しましたが、しかし社会的生産全体を根底から包括するものとしては、資本主義的生産様式という歴史的には特定の発展段階において初めて登場したのであって、しかもそれは社会的生産全体が資本によって染め上げられるようなものとして存在しているのです。こうした意味で商品や貨幣とは同じ形態的諸範疇だとはいえ、根本的に違っているのです。こうしたことをマルクスは言いたかったのではないかと思います。
  最後に『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈しかし資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。〉 (草稿集④55頁)


  (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(3)

2022-02-13 13:06:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(3)

◎原注41

【原注41】〈41 (イ)つまり、資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。(ロ)他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。〉

   (イ)(ロ) つまり、資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということです。他方で、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が支配的な社会形態になるのです。

  これは〈それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである(41)〉という本文に付けられた原注です。なおこの原注は初版にはありません。
  労働力が商品になり、労働者の労働が賃労働になるということが資本主義時代を特徴づけることになると指摘されています。そして資本主義的生産様式において、はじめて生産物の商品形態が一般的になり、ますます多くの生産物が商品になり,価値法則が社会全体に貫くものになるということです。だから商品の価値も資本主義的生産様式において、初めてその概念に相応しいものになるといえるのかも知れません。


◎第10パラグラフ(労働力という独特な商品の価値はどのように規定されるのか?)

【10】〈(イ)そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。(ロ)他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている(42)。(ハ)この価値はどのように規定されるであろうか?〉

  (イ)(ロ)(ハ) そこで、この資本主義を特徴づける独特な商品である労働力が、もっと詳しく考察されなければなりません。他のすべての商品と同じように、この商品もある価値をもっています。この価値はどのように規定されるでしょうか?

  ここから話題は転換して、労働力という独特の商品を詳しく考察するとしています。そしてその最初に労働力という商品の価値はどのようにして規定されるかと問題を提起して終わっています。しかしフランス語版では単に?で終わるのではなく、〈その価値はどのようにして規定されるか? その生産に必要な労働時間によって〉(江夏・上杉訳158頁)と答えも書いています。


◎原注42

【原注42】〈42 「一人の人の価値は、他のすべての物の価値と同じに、彼の価格である。すなわち、彼の力の使用にたいして支払われるであろうだけのものである。」(T・ホッブス『リヴァイアサン』、所収、『著作集』、モールズワース編、ロドンドン、1839-1844年、第3巻、76ページ。〔岩波交庫版、水田訳、(1)、147-148ページ。〕)〉

  これは〈他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている(42)〉という本文につけられた原注です。
  ここではホッブズの『リヴァイアサン』からの抜粋だけですが、『賃金・価格・利潤』でも同じようにホッブズの『リヴァイアサン』に次のように言及しています。

  イギリスの最も古い経済学者で、かつ最も独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその著『リヴァイアサン』で、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。
  「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である*。」
  * 『リヴァイアサン』。ホッブズ『著作集』、ロンドン、1839年、第3巻、76ぺージ(岩波文庫版、水田洋訳、(1)、147-148ぺージ)。〉 (全集第16巻129頁)

  また『剰余価値学説史』のなかには、次のような記述が見られます。

  労働能力
  「ある人の価値または値うちは、他のすべてのものについてと同じように、彼の価格、すなわち、彼の力の使用にたいして与えられるだけのものである。」((『リヴァイアサン』、『T・ホッブズの英文著作集』、モールズワース篇、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ。〔岩波文庫版、水田洋訳『リヴァイアサン』(1)、147/ 148ページ。〕) 「人間の労働」(つまり、彼の労働する力の使用) 「もまた、他のどんなものとも同じように、利益を得て交換しうる一つの商品である。」(同前、233ページ。〔水田訳、(2)、146ぺージ。〕)〉 (全集第26Ⅰ443頁)

  最後にホッブズについて『資本論辞典』の説明から紹介しておきましょう。

  〈ホッブズ Thomas Hobbes(1588-1679)イギリスの哲学者.……哲学ではベイコンの唯物語論を徹底し,体系化したが,同時に幾何学の影響により,彼の唯物論は機械的で‘人間ぎらい'となった,とされる((Die Heilige Familie)WerkeⅡ-136;大月版全集2-134). 人間もまた運動する物質であり,その衝動の対象が善であり,力と自由は同一だ,というのであるが,主著『Leviathann』(1651)(〔岩議文庫〕水田洋訳)において,この人間を中心にすえて,自然法を近代化し,自然権(自己保存)を基礎とする市民社会の原理をたてた.人は自然状態では各人自然権を行使して万人は万人と戦い,自然権の自己否定におちいる.これを救うため理性にもとづき契約をもって一定の人に国家主権を委託して平和秩序をつくる.この主権は絶対であって人民に反抗権はない.この社会原理はイギリス市民革命の真中での近代社会体制の分析であり,ホッブズは,なお絶対主義思想を脱しえなかった.『資本論』では,経済学研究を開始した人々の一人にかぞえられ,その方法が経済学者の方法となったとされる(KⅠ-408.646:青木3-637,4-958;岩波3 -136,4-100)ほか.労働力が商品として売買されることを知っていた(KⅠ-178;青木2-319;岩波2-52),と指摘されているにとどまる.『経済学批判』では具体的労働を素材的富の源泉としたが,ペティのようにその結果を実らしえなかった,と批判されており(Kr50.岩波:国民50;選集補3-42:青木64),『剰余価値学説史』ではさらに,精神労働,科学が文明の母であるにもかかわらず,その労働は低評価されているとしている点,および生産的労働にかんする短い引用文がふくまれている(MWⅠ-317,329;青木3-513-514.531)〉(553頁)


◎第11パラグラフ(労働力の価値とは、労働者を維持するために必要な生活手段の価値である、それには精神的・歴史的な要素も含まれる)

【11】〈(イ)労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。(ロ)それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。(ハ)労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけである。(ニ)したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。(ホ)この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。(ヘ)自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。(ト)だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。(チ)言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。(リ)だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。(ヌ)しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。(ル)この支出の増加は収入の増加を条件とする(43)。(ヲ)労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。(ワ)だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。(カ)食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。(ヨ)他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである(44)。(タ)だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。(レ)とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されています。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけです。

  ここでは労働力という人間の生身のなかに一つの潜在的に存在する力の価値なるものを規定しようというのですが、それがいずれにせよ商品になっているわけですから、他の商品の価値と同じように、その価値も規定されなければならないわけです。とするなら労働力の価値は労働力という商品の生産に必要な労働時間によって規定されていることになります。だから労働力の価値というのは、労働力という商品に対象化されている社会的平均労働を表しているだけだとも指摘されています。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ) 労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけですから、労働力の生産はこの個人の存在を前提とします。そしてこの個人の存在が与えられていますと、労働力の生産とはその個人を再生産し、あるいは維持するということです。個人の存在を維持するためには、彼が生きていくために、いくらかの量の生活手段を必要とします。だから、労働力の生産に必要な労働時間というのは、その生活手段の生産に必要な労働時間に帰着します。言い換えると、労働力の価値とは、労働力の所持者の生存を維持するために必要な生活手段の価値ということができます。

  ここには 労働力→生きている個人の素質→労働力の生産は個人の存在を前提→労働力の生産とは個人の生産・再生産・維持→個人を維持・再生産するための生活手段→労働力の生産に必要な労働時間=生活手段の生産に必要な労働時間→労働力の価値=生活手段の価値 という論理の繋がりが見えます。
  つまり労働力というのは、その限りでは目に見えない特定の個人の生身のなかに潜在的に存在している力を意味します。しかしそれが商品になっているわけです。私たちがこれまで考察してきた商品というのは、何らかの物的対象物でした。リンネル、上着しかりです。しかし労働力はそうしたものとは違います。もちろん、これまでも商品の派生的形態としては名誉などのような物的対象性のないものもありましたが、労働力というものもそうした物的対象性のない商品なのですが、決して派生的なものではなく、資本主義的生産において決定的な役割を果たす商品なわけです。そしてその価値を規定する必要がありますが、名誉のような派生的なものは価値というようなものはなく、ただ価格があるだけでした。
  しかし潜在的な力としてはその限りでは観念的な存在である労働力の価値を如何に規定するのかが問題です。一般に、商品の価値というのはその商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されます。商品の生産に必要な社会的な平均的な労働時間が対象化されたものが商品の価値なのです。だから労働力という商品の価値も同じように規定されると考えることができます。
  しかしそのためにはそもそも労働力というのは生身の人間のなかに存在するものですから、労働力を生産するといっても、それは結局は、生身の人間そのものを生産する、あるいは再生産し維持するということになります。生身の人間を再生産し・維持するためには、何程かの生活手段を必要とします。だから労働力を生産するに必要な労働時間というのは、その生身の人間を再生産し・維持するに必要な労働時間ということであり、それは結局、そのために必要な生活手段の生産に必要な労働時間に帰着するということです。
  だから労働力の価値というのは、労働力を維持するために、労働する個人の生活に必要な生活手段の価値になるということです。
  『要綱』には次のような一文があります。

 〈では労働者の価値は、どのようにして決められるのだろうか? 彼の商品のなかに含まれている対象化された労働によってである。この商品は彼の生命力〔Lebendigkeit〕のうちに存在している。この生命力を今日から明日まで維持するためには--労働者階級については、つまり彼らが階級として自己を維持していけるための消耗の〔wear and tear〕補充については、われわれはまだ問題にしない、というのは、ここでは労働者は労働者として、したがって前提された多年生的主体〔perennirendes Subjekt〕として資本に対立しているのであって、まだ労働者種属〔Arbeiterart〕のうちのはかない個体として資本に対立しているのではないからである--、彼は一定量の生活手段を消費し、使いはたされた血液の補充などをしなければならない。彼は等価物を受けとるだけである。したがって明日には、つまり交換が行なわれたのちにも--そして彼が交換を形式的には終えたとしても、その交換を完遂するのは生産過程になってからである--、彼の労働能力〔Arbeitsfähigkeit〕は、以前と同じ様式で存在している。すなわち、彼が受けとった価格は、彼が以前にもっていたものと同一の交換価値を彼に所持させることになるのだから、彼は正確な等価物を受けとったのである。彼の生命力のなかに含まれている対象化された労働の分量は、資本によってすでに彼に支払われている。彼はそれを消費してしまったが、それは、物として存在していたのではなく、生命をもつもののなかに能力として存在していたのであるから、その商品の特有の本性--生命過程の特有の本性--からして、彼はふたたび交換を行なうことができる。彼の生命力に対象化された労働時間--すなわち、彼の生命力を維持するうえで必要な生産物の代金を支払うのに必要だった労働時間--のほかに、さらにそれ以上の労働が彼の直接的定在のうちに対象化されているということについては、すなわち、ある特定の労働能力、ある特殊的な熟練〔Geschicklichkeit〕を生みだすために彼が消費した諸価値--それらの価値は、どれだけの生産費用で類似の特定の労働技能を生産することができるかという点に示される--については、ここではまだ関係がない。つまりここでは、一つの特殊的資格をもった労働〔besonders qualificirte Arbeit〕を問題にしているのではなく、労働そのもの〔Arbeit schlechthin〕、つまり単純労働〔einfache Arbeit〕を問題にしているのである。〉 (草稿集①395-396頁)

  『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈労働能力は、労働者の生きた身体に含まれている能力〔Fähigkeit〕、素質〔Anlage〕、力能〔Potenz〕としてのみ存在するのだから、労働能力の維持とは、労働者そのものを彼の労働能力の発揮に必要な程度の活力、健康、要するに生活能力をもった状態に維持することにすぎない。〉 (草稿集④78頁)
  〈さらに、労働能力としてその消費のまえから存在しているこの使用価値は交換価値をもっているが、それは他のあらゆる商品のそれと同じく、そのなかに含まれている、したがってまたその再生産に必要な労働の分量に等しく、またすでに見たように、労働者の維持に必要な生活手段を創造するのに必要である労働時間によって、正確に測られている。たとえば重量が金属のための尺度であるように、生活そのもののための尺度は時間であるから、労働者を1日生かしておくのに平均的に必要な労働時間が、彼の労働能力の日々の価値なのであり、これによって労働能力は日ごとに再生産され、あるいは--ここでは同じことであるが--同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加え〔modifizieren〕られているような自然的諸欲望によって限定されているものである。〉 (草稿集④79頁)

  (リ)(ヌ)(ル) 潜在的な力である労働力は、ただその発揮によってのみ実現されますが、その発揮とは労働そのものであり、だから労働によって実証されるのです。そして、その実証である労働においては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されます。だから、それは再び補充されなければなりません。この支出の増加は当然、収入の増加を条件とします。

  最初にフランス語版の同じところを紹介しておきましょう。

  〈労働力はその外的発現によって実現される。労働力は労働によって発現し確認され、この労働のほうは人間の筋肉、神経、脳髄の若干の支出を必要とし、この支出は補塡されなければならない。損耗が大きければ大きいほど、修理の費用はますます大きくなる(6)。〉 (江夏・上杉訳158-159頁)

  労働力そのものは人間の個人の生身に潜在的に存在するに過ぎませんが、その価値はすでに見ましたが、その使用価値とは労働そのもののことです。つまり労働力は現実の労働によってその力を発揮し、その労働力としての存在を実証するわけです。そして現実の労働においては、個人はその筋肉や神経や脳を働かせます。つまりそれをそのかぎりでは消耗するのです。だからそれを補充する必要がありますが、それは生命力を回復・維持するということであり、それに必要な生活手段を摂取するということです。だからその消耗が激しければ、その補充に必要な生活手段の増大もまた必要な条件になることはいうまでもありません。

  (ヲ)(ワ) 労働力の所有者は、今日の労働が終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければなりません。だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならないのです。

  だから労働力の所有者は、自分の労働力を発揮して、労働が終わったならば、明日もまた同じ労働を繰り返すためにも、彼の力や健康を同じ条件のもとで繰り返し維持し補充する必要があるということです。だから労働力の価値に相当する労働力の所持者を維持するに必要な生活手段の総額というのは、労働する個人をその正常な生活状態に維持するに足るものでなければなりません。

  (カ)(ヨ)(タ)(レ) 食物や衣服や暖房や住居などのような自然的な諸欲望そのものは、それぞれの国の気象その他の自然条件によって違っています。そして、いわゆる生活に必要な欲望の範囲そのものも、その充足の仕方も、それらは一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まっています。それに重要な契機として、自由な労働者の階級が、歴史的にまた地域的にどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものなのです。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいるのです。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均的な範囲は与えられています。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈食糧、衣服、暖房、住居などのような自然的必要は、一国の気候やその他の自然的な特殊性に応じて異なる。他方、いわゆる自然的必要の数そのものは、それをみたす様式と同じに、歴史的産物であり、したがって、大部分は到達した文明度に依存している。それぞれの国の賃金労働者階級の起源、この階級が形成されてきた歴史的環境は、久しい間、この階級が生活にもちこむところの、習慣や要求にもまた当然の結果として必要にも、最大の影響を及ぼしつづけている(7)。したがって、労働力は価値の観点からみれば、精神的、歴史的な要素を内包しており、このことが労働力を他の商品から区別しているのである。だが、与えられた国、与えられた時代については、生活手段の必要な範囲もまた与えられている。〉 (江夏・上杉訳159頁)

 ここでは〈労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉が、しかし生活手段そのものは、国が違えば、あるいは時代が違えば違ってくる。自然条件が違えば、食料や衣服や暖房や住居などの必要な生活手段は違ってくるし、文明度が違えば、必要の限度や程度も違ってくる。何より自由な労働者が登場する歴史的条件や環境や慣習などが大きな影響を与えると指摘されています。だから労働力の価値は、他の商品の価値とは異なり、精神的・歴史的な要素が入ってくるのだということです。しかしある与えられた国や時代においては、必要な生活手段の範囲は与えられているということです。


◎原注43

【原注43】〈43 それだからこそ、古代ローマのヴィリクス〔villicus〕は、農耕奴隷の先頭に立つ管理者として、「奴隷よりも仕事が楽だ」という理由で「奴隷よりももっと不十分な量」を受け取ったのである。(T・モムゼン『ローマ史』、〔第1巻、第2版、ベルリン〕、1856年、810ぺージ。)〉

  これは〈しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。この支出の増加は収入の増加を条件とする(43〉という本文に付けられた原注です。モムゼンの『ローマ史』については原注39でも出てきました。
  ここではヴィリクスという農耕奴隷の管理者(彼も奴隷)が、農耕の力仕事をする奴隷に比べて楽な仕事をやっているという理由で、彼が管理する奴隷たちよりも少なく受け取ったということです。つまり消耗が多ければそれだけそれを補充する費用も多くなるが、そうでなければ少なくて済むということで、本文の〈この支出の増加は収入の増加を条件とする〉という一文を裏付けるものになっているわけです。

  モムゼンについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈モムゼン Theodor Mommsen (1817-1903)ドイツの古代史家とくにローマ史の研究で有名である.……マルクスはモムゼンが『ローマ史』のなかで,古代ギリシャやローマにおける資本家という言葉を使用したり,資本が当時においても,すでに十分に発達していた,といっている点を批判し,彼が‘今なおヨーロッパ大陸に存続しているような俗見にしたがって'いること,彼が資本について錯誤を重ねていることを多くの箇所で指摘している(KI-175,KⅢ-359.837;青木2-316.9-465,13-1109;岩波2-47.9-194-195.11-293).しかし同時に,モムゼンがローマの奴隷制.ことに奴隷監督(villicus)について記している部分を引用して自分の主張の裏づけとしている.すなわちマルクスは,労働力の価値は,労働力の所有者の維持に必要な諸生活手段の価値であるが,労働力の実証たる労働によって,人間の筋肉・神経・脳髄等々の一定分量が支出されるので,これはふたたび補填されねばならず.この支出の増加は収入の増加を条件とすることを例証するために,古代ローマのヴィリクスで,奴隷よりもらくな仕事をしているものは,奴隷よりも不十分な量をうけたというモムゼンの記述を引用しているし(KI-179;青木2-321 ;岩波2-53),またヴィリクスの監督労働には両面.すなわち生産的労働の面と,労働者と生産手段の所有者との対立から生ずる独自の監督強制の役割との両面があることを例証するために,モムゼンの記述を引用している(KⅢ-420;青木10-546;岩波10-85-86).〉(569頁)


◎原注44

【原注44】〈44 『過剰人口とその解決策』、ロンドン、1846年、W・T・ソーントン著、参照。〉

  これは〈他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである(44)〉という本文に付けられた原注です。現行版ではこのように参照著書を示すだけで頁数も書いていませんが、初版やフランス語版ではもう少し詳しく書いています。初版を紹介しておきましょう。

〈(44) W・Th・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済、ロンドン、1846年』のなかで、このことについて興味のある例証を提供している。〉 (江夏訳176頁)

  また『61-63草稿』の注解のなかに次のような説明がありました。

  〈(1)〔注解〕ウィリアム・トマス・ソーントン『過剰人口とその対策、またはイギリスの労働者階級のあいだに広がっている窮乏の程度および原因ならびにその対策の研究』、ロンドン、1846年、第2章、19ページ以下。この書物からの浩潮な抜粋が、ノート第13冊、ロンドン、1851年、の14-21ページにある。〉 (草稿集④181頁)

  ソーントンについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ソーントン William Thomas Thornton(1813-1880) イギリスの経済学者で,J.S.ミルと親交があり,その影響をつよくうけたが,学説の個々の点ではミルを批判しているとろもある.……マルクスは,ソーントンが,労働賃銀の規定にかんしても,労働者が正常な生活状態を維持するために必要な慾望の範囲を風俗習慣の諸条件に依存せしめている観点を記述していること(KI-179:青木2-321:岩波2-53)や,過剰人口の問題をめぐって資本の不断の搾取による工業人口の涸渇が農村からの労働力の供給によって補填される事情,さらにその供給源の農村労働者さえも衰弱をよぎなくされている19世紀中葉の労働事情を論じていることなどを(KI-281:青木2-4“;岩波2-229),きわめて高く評価している.〉(511頁)


◎第12パラグラフ(市場で労働力が永遠に供給されるためには、労働力の価値には子供たちの生活手段の価値も含める必要がある)

【12】〈(イ)労働力の所有者は死を免れない。(ロ)だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」(45)、やはり生殖によって永久化されなければならない。(ハ)消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。(ニ)だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである(46)。〉

  (イ)(ロ) 労働力の所有者は死を免れません。だから、貨幣の資本への転化が途切れずに連続的に行われるためには、労働力の所有者が市場に現われることも連続的でなければなりません。だから、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならないわけです。

   労働力は日々再生産されるとはいえ、やはりそれには限界があり、やがては労働者は死を迎えねばなりません。だから貨幣の資本への転化がそれによって途切れないように、労働力の所持者も、すべての生きている個体がその生殖によって命を永久化するように、生殖によって、つまり子供を産み育てることによって永久化しなければならないのです。

  (ハ)(ニ) 消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければなりません。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額には、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、このようにしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのです。

  だから労働市場から引き上げられる労働力に代わって、常に新たな、少なくとも引き上げられるもの以上の、労働力が供給される必要があります。だから労働力の生産に必要な生活手段のなかには、こうした新たな労働力を育成するための手段、すなわち子供たちの生活手段も含んだものでなければなりません。
  こうして労働力という独特な商品の所持者の種族が商品市場で永久に維持されることになるのです。

  『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

  〈だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供--労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供--を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。〉 (全集第16巻130頁)


◎原注45

【原注45】〈45 ぺティ。〉

  この原注は〈だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」(45)、やはり生殖によって永久化されなければならない〉という本文で引用された引用文の典拠を示すものです。
  しかし、ここではただ〈ぺティ〉とあるだけですが、新日本新書版は次のような訳者の説明がついています。

  〈(45)ペティ。〔ドナウ・トー編英語版文献索引、フランス語エディシオン・ソシアル版、スペイン語アルゼンチン版には、『賢者には一言をもって足りる』からと指示されているが、ドイツ語版そのほかの版本には文献とページ数の指示がなされていない。なお『賢者には……』には末尾に似た文があるが、これと同じ文はみあたらない〕〉 (293頁)

  山内清氏は次のような解説を加えています。

  〈④マルクスが『経済学批判』の注で「天才的剛胆さ」および「独創的」と評したイギリスの経済学者で統計学者(1623-87)。原注45の引用は彼の『アイルランドにおける政治的解剖』(1672年)にある。〉 (『コメンタール資本論』八朔社2009年9月15日、273頁)

  『剰余価値学説史』には〈ペティ『人類の増殖に関する一論』(1682年)。分業(35/36ページ〉という一項目があり、次のような一文が見られます。

  〈『アイルランドの政治的解剖』および『賢者には一言をもって足る』1672年(出版、ロンドン、1691年)。
  ……
  「平均的に見た一人の成年男子の、日々の労働ではなく日々の食料が、価値の一般的尺度であり、そしてこれは、純銀の価値と同じく規則的で恒常的であるように思われる……それゆえ私は、一戸のアイルランド人の小屋の価値を、建造者がそれの建築に費やした日々の食料の数によって評価した。」(65ぺージ。〔同前、松川訳、135ページ。〕)
  このあとのほうの文章はまったく重農主義的である。
  「なかには他の人たちよりも多く食べる人々もいるだろうということは、重要なことではない。なぜなら、われわれが日々の食料と言っているのは、あらゆる種類と大きさをもった〔100人の人が〕生活し、労働し、子孫をふやすために食べる食料の100分の1を考えているのだからである。」(64ページ。〔同前、松川訳、134ページ。〕)
  しかし、ペティがここでアイァランドの統計のうちに求めているものは、価値の一般的〔common〕尺度ではなく、貨幣が価値の尺度であるという意味における価値の尺度である。〉 (全集第26巻Ⅰ456-457頁)

  ここには今回の引用文そのものは見られませんが、上記の引用を見るとペティは労働力の価値のうちに〈子孫をふやすために食べる食料〉も入れているように見えます。


◎原注46

【原注46】〈46 (イ)「その」(労働の)「自然価格は……労働者を維持するために、また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候や習慣に応じて必要になる生活手段と享楽手段との量である。」(R・トレンズ『穀物貿易論』、ロンドン、1815年、62ページ。)(ロ)ここでは労働という言葉が誤って労働力のかわりに用いられている。〉

  これは〈だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである(46)〉という本文に付けられた原注です。
  トレンズは労働力の自然価格(価値)は、労働者を維持し、その家族を養うことを可能にする生活手段と享楽手段の量だと的確に指摘しています。労働者とその家族が「享楽」するに必要な諸手段の量も入れていることは注目に値します。もっともマルクス自身は〈また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために〉ということが加えられていることを評価したのではないかと思いますが。
  トレンズについてはすでに原注27の解説で『資本論辞典』の説明を紹介しましたので、それを参照してください。


◎第13パラグラフ(修養費も労働力の価値のなかに入る)

【13】〈(イ)一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。(ロ)労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。(ハ)だから、この修業費は、普通の労働力についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 普通の人間の能力を変化させて、その労働部門で必要な技能や熟練を獲得してある程度発達した労働力になるようにするためには、一定の養成や教育が必要です。そしてこれにはまたそれなりの額の商品等価物も必要になります。そういう媒介がどの程度加えられるかによって労働力の養成費も違ってきます。だから、そうした養成費用は、普通の労働力についてはそれほどのものとはなりえませんが、しかし労働力の生産のために支出されるべき価値のなかにはいるのです。

  まず少し書き直されてより分かりやすくなっているフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特殊な方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るのである。〉 (江夏・上杉訳160頁)

  ここには何も解説しなければならないほど難しい問題はないと思いますが、『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。

 〈身体を維持することに労働が限定されず、直接に労働能力そのものを変化させて〔modifizieren〕、一定の熱練を発揮できるところまで発達させる特殊的労働が必要であるかぎりでは、この労働もまた--複雑労働の場合と同様に--労働の価値のなかにはいるのであって、この場合には、労働能力の生産に支出された労働が、直接に労働者のなかに同化〔verarbeiten〕されているのである。〉 (草稿集④73頁)

  ここでは若干視点が違っています。現行版やフランス語版では、労働力を発達させるために必要な商品等価物も労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るとしているの対して、草稿では、労働力を発達させるために必要な特殊的な労働もまた複雑労働と同様に、労働力の価値のなかに入るとし、こうした労働力の生産に支出され労働は、そのまま直接に労働者のなかに同化されているのだとしています。


  (続く)

 

 

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)

2022-02-13 13:06:24 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)


◎第14パラグラフ(労働力の価値は生活手段の価値に帰着する)

【14】〈(イ)労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。(ロ)したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。〉

  (イ)(ロ) よって労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着します。だからまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのです。

  ここではひとまず労働力の価値について、結論めいたことを述べているように思いますが、しかしフランス語版をみると、〈労働力は一定額の生活手段と価値が等しいから、その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する〉(江夏・上杉訳160頁)となっていて、むしろ労働力の価値は生活手段の価値の変化によって変化するというところに重点があることが分かります。とするとこのパラグラフはその次の第15パラグラフへの橋渡しの役割を持っているのかも知れません。
  しかしとりあえず、『賃金・価格・利潤』と、さらに関連するものとして『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。

  〈以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。〉 (全集第16巻131頁)
 労働能力の価値の規定は、労働能力の販売に基礎をおく資本関係の理解にとって、もちろんきわめて重要なものであった。したがって、とりわけ、この商品の価値はどのように規定されるのかが、確定されなければならなかった。というのは、この関係における本質的なものは、労働能力が商品として売りに出されるということであるが、商品としては、労働能力の交換価値の規定こそ決定的だからである。労働能力の交換価値は、それの維持と再生産とに必要な生活手段である諸使用価値の価値または価格によって規定されるのだから、重農学派は--彼らが価値一般の本性をとらえる点ではどんなに不十分だったにしても--労働能力の価値をだいたいにおいて正しくとらえることができた。それゆえ、資本一般について最初の条理ある諸概念をうちたてた彼らの場合、生活必需品の平均によって規定されるこの労賃が、一つの主要な役割を演じている。〉 (草稿集④71頁)


◎第15パラグラフ(労働力の一日の価値量と価格)

【15】〈(イ)生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。(ロ)他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。(ハ)ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。(ニ)しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われていなければならない。(ホ)かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc.)/365であろう。(ヘ)この1平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。(ト)すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。(チ)労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。(リ)また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。(ヌ)もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。(ル)そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければなりません。他の生活手段の場合、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗します。だからもっと長い期間に補充されればよいわけです。生活手段のうち、ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならないことになります。しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されたとしても、それは毎日の平均収入によって償われなければならないのです。

  ここで書かれていることは何も難しいことはありません。フランス語版では、このパラグラフは二つに分けられていますが、この部分に該当するものをまず紹介しておきましょう。

  〈生活手段の一部、たとえば食糧や暖房などを構成するものは、消費によって毎日失われるものであり、毎日更新されなければならない。それ以外の衣服や家具などのようなものは、これよりも緩慢に消耗するものであって、これよりも長い期間に更新するだけでよい。若干の商品は毎日、他の商品は毎週とか半年ごと等々に、買われあるいは代価を支払われなければならない。しかし、これらの支出が一年の期間内にどのように配分されることがあっても、その総額はいつでも1日の平均収入によって支弁されなければならない。〉 (江夏・上杉訳160頁)

  『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活手段の消費の速さはさまざまである。たとえば、日々食料として役立つ使用価値は、また日々消尽されるし、またたとえば、暖房、石けん(清潔)、照明に役立つ使用価値も、同様である。これにたいして、衣服や住居のような、その他の必要生活手段は、たとえ日々使用され使い減らされてはいても、もっとゆっくりと消耗する。若干の生活手段は、日々新たに買われ、日々更新(補塡)されなければならないが、たとえば衣服のようなその他の生活手段は、もっと長い期間にわたって使用価値として役立ち続け、この期間の終りにはじめて消粍しつくされて、使用できなくなるので、それらは日々使用されなければならないものだとしても、もっと長い中間期間に補塡され更新されさえすればよい。〉 (草稿集④73-74頁)
  〈ここで労働能力の価格というのは、貨幣で表現されたそれの価値のことでしかない。したがって、1日あるいは1週間のあいだ労働能力を維持するのに必要な生活手段の価格が支払われるならば、1日あるいは1週間分の労働能力の価値が支払われるのである。しかし、この価格あるいは価値を規定しているものは、労働能力が日々消費しつくす生活手段ばかりではなく、同様に、たとえば衣服のように、労働能力によって日々使用されはするが、しかし日々消尽される結果、日々更新されねばならないというわけではない、したがって、一定の期間内に更新され補充されさえすればよい生活手段もそうである。たとえ衣服に関述するすべての対象が、1年のうちに1度だけしか消耗しつくされない(たとえば飲食のための食器は、衣服ほど早くは消耗しつくされないから、衣服ほど早く補充される必要はなく、家具、ベッド、机、椅子、等々はさらにその必要が少ない)としても、それでもなお、1年間のうちにはこの衣料の価値は労働能力の維持のために消費されるであろうし、また1年が終わったあとで、労働者はこの衣料を補充することができなければならないであろう。したがって彼が日々平均して受け取るものは、日々の消費のための日々の支出を差し引いたのちにも、一年間が経過したあとで消耗しつくされた衣服を新しい衣服で補充するのに十分なものが、つまり、1着の上着のこれこれの部分を日々補充するというのではないけれども、1着の上着の価値の1日あたりの可除部分を補充するのに十分なものが残されるだけの大きさでなければならないであろう。つまり、労働能力の維持は、それが継続的であるべきだ--そしてこれは資本関係では前提されていることであるが--とすれば、日々消費しつくされ、したがってまた翌日には更新される、補充されるべき生活手段の価格によって規定されるばかりでなく、そのうえに、もっと長い期間に補充されねばならないが、日々使用されねばならない生活手段の価格の日々の平均がつけ加わるのである。〉 (草稿集④76-77頁)

  (ホ) だからかりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすると、これらの商品の一日に平均に必要な額は、(365A+52B+4C+etc)/365でしょう。

  この部分もそれほど難しくはなく、フランス語版もほぼ変わらないので、『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働者が労働者として生きていくために、日々消費しなければならない生活手段の総額をAとすれば、それは365日では365Aである。これにたいして、彼が必要とするその他すべての生活手段の総額をBとし、しかもこれらの生活手段は年に3回更新され、つまり新たに買われさえすればよいのだとすれば、1年間に彼が必要とするのは3Bだけである。そこでこれらを合計すれば、彼が年間に必要とするのは、365A+3Bであり、1日あたり、(365A+3B)/365である。これが、労働者が日々必要とする生活手段の平均総額であり、この総額の価値が、彼の労働能力の日々の価値、すなわち労働能力の維持のために必要な生活手段を買うために--すべての日について平均して--毎日必要とする価値である。
  (1年を365日と計算すると、日曜日は52日となり、313日の仕事日が残る。だから平均して31O仕事日と計算してよい。)ところで(365A+3B)/365の価値が1ターレルだとすれば、彼の労働能力の日々の価値は1ターレルである。彼は、1年じゅう毎日生きていくことができるように、日々それだけは稼がなければならない。そしてこのことは、若干の商品の使用価値は日々更新されるのではないということによっては、少しも変わらない。そこで、生活必需品の年間の総額は所与のものとする。次にわれわれは、この総額の価値あるいは価格をとる。ここからわれわれは日々の平均をとる、すなわちそれを365で割る。こうしてわれわれは、労働者の平均的生活必需品の価値、あるいは、彼の労働能力の平均的日価値を得るのである。(365A+3Bの価格が365ターレルであれば、日々の生活必需品の価格は(365A+3B)/365=365/365、つまり1ターレルである。)〉 (草稿集④74-75頁)〉

  (ヘ)(ト)(チ) この1日に平均的に必要な生活手段の量に6時間の社会的労働が含まれているとしますと、1労働日を12時間すると、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになります。つまり、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要なのです。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成します。

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではここから改行されています。

  〈1平均日に必要なこの商品量の価値は、これらの商品の生産に支出された労働総量のみを表わしているが、それを6時間と仮定しよう。そのばあいには、労働力を毎日生産するために、半労働日が必要である。労働力が日々自己を生産するために必要とする労働量が、労働力の日価値を規定する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ついでに『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活必需品は、日々更新される。そこで、たとえば1年間に、労働者が労働者として生きていき、自分を労働能力として維持することができるために必要とする生活必需品の量と、この総額のもつ交換価値--すなわち、これらの生活手段のなかになし加えられ、対象化され、含まれている労働時間の分量--とを取った場合、全部の日について平均計算するならば、労働者が、一年を通じて生きていくために、平均して1日に必要とする生活手段の総額およびこの総額の価値は、彼の労働能力の1日あたりの価値を、あるいは、労働能力が翌日も生きた労働能力として存続し、再生産されるために、1日に必要とする生活手段の分量を表わすであろう。〉 (草稿集④73頁)

   労働者が1日に平均的に必要とする生活手段の価値が6時間の社会的労働の対象化されたものだとすると、1労働日(1日の労働者の労働時間)を12時間とすると、それは半労働日になります。つまり労働者が日々自分を再生産するために必要とする労働時間は、彼が1日労働する時間の半分だということです。では残りの半分の労働時間はどうなるか、ということはまだここでは問題になっていません。

  (リ)(ヌ)(ル) もしまた、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとしますと、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格になります。もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとしますと、労働力の販売価格は労働力の価値に等しいことになります。そして、私たちの前提では、自分の持っているターレルを資本に転化したいと熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うわけです。

  該当するフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈さらに、6時間という半労働日のあいだに平均して生産される金の総量が、3シリングあるいは1エキュ(10)に等しい、と仮定する。そのばあいには、1エキュの価格が労働力の日価値を表現する。労働力の所有者が毎日労働力を1エキュで売るならば、彼はそれを正当な価値で売るのであり、われわれの仮定にしたがえば、自分のエキュを資本に変態しつつある貨幣所有者は、金銭を払ってこの価値に支払いをするのである。
  (10) ドイツの1エキュ〔1ターレルのこと〕は、イギリスの3シリングの値うちがある。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ここでは労働者が日々販売する労働力の価値の貨幣表現、すなわち労働力の日価格が求められています。そして資本家はその日々の労働力の価格を支払うことによって彼の貨幣を資本に転化することになるわけです。


◎第16パラグラフ(労働力の価値の最低限)

【16】〈(イ)労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。(ロ)もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。(ハ)なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。(ニ)しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。〉

  (イ) 労働力の価値の最後の限界あるいは最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことです。

  この部分のフランス語版を紹介しておきます。

  〈労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  この労働力の価値の最低限というのは、〈肉体的に欠くことのできない生活手段の価値〉(現行版)とか〈生理的に不可欠な生活手段の価値〉(フランス語版)と書かれており、〈これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値、切り下げられるとき、その最低限に達する〉(同)となっているので、この最低限というのは、労働者個人の生理的に肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことなのかと思えますが、しかし次に紹介する『賃金・価格・利潤』の説明を見るとそうではなく、労働者がその家族を養い子供を養育するに必要な費用もその最低限のなかに入るということが分かります。次のように書いています。

  〈この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。
  だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品を受け取らなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。〉 (全集第16巻148頁)

  (ロ)(ハ) もし労働力の価格がこの最低限まで引き下げられますと、それは労働力の価値よりも低く下がることになります。というのは、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからです。

  フランス語版では次のようになっています。

  〈労働力の価格がこの最低限に低落すると、その価格は労働力の価値以下に下がったのであって、そのばあいにはもはや糊口をしのぐだけのものでしかない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  つまり労働力の価値というのは、労働者が日々健康でその労働能力を維持し再生産し、家族を養い、一定の能力を獲得するために必要な生活手段の価値のことですから、もし肉体的最低限に引き下げられてしまいますと、労働力そのものが萎縮した形でしか維持できないということです。
  しかし『61-63草稿』ではあの手この手で資本家たちは労働力の価値を引き下げようとするそのさまざまなやり方について紹介しています。例えば次のように……。

  〈より低級な商品が、労働者の主要生活手段をなしていたより高級かつより高価な商品に、たとえば穀物の小麦が肉に、あるいはじゃがいもが小麦やライ麦に、とって代わるならば、もちろん、労働者の必需品の水準が押し下げられたために、労働能力の価値の水準が下落する。これにたいしてわれわれの研究ではどこでも、生活手段の量と質とは、したがってまた必需品の大きさも、なんらかの所与の文化段階にあって、けっして押し下げられることはないものと前提〔unterstellen〕されているのであって、その理由は、このような、水準の騰落そのもの(とくにそれの人為的な押し下げ)についての研究は、一般的関係の考察にはなんの変更をも加えないからである。たとえばスコットランド人のうちには、小麦やライ麦の代わりに、塩と水とを混ぜただけのひきわり燕麦(オートミール)や大麦の粉で何か月ものあいだ、しかも「非常に安楽に」暮らしている家族がたくさんある、とイーデンは著書『貧民の状態、云々』、ロンドン、1797年、第1巻第2部第2章で言っている。前世紀末に、こっけいな博愛主義者、爵位を授けられたヤンキーのランファド伯は、低い平均を人為的に創造しようとして愚かな頭をふりしぼった。彼の『論集』は、労働者に現在の高価な常食に代えて代用食を与えるための、最も安価な部類に属するありとあらゆる種類の食物(エサ)の調理法を盛り込んだ、美(ウルワ)しい料理全書である。この「哲人」ご推奨による最も安価な料理は、8ガロンの水に大麦、とうもろし、こしよう、塩、酢、甘味用薬草、4尾のにしんをいれた、スープとかいうしろものである。イーデンは右に引用した著書のなかで、この美(ウルワ)しい食物(エサ)を救貧院の管理者に心をこめて推奨している。5重量ポンドの大麦、5重量ポンドのとうもろこし、3ペンス分のにしん、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスのこしようと薬草--合計20[3/4]ペンス--、これが64人分のスープになる。なんと、穀物の平均価格で言えば、1人前あたり1/4ペンスに費用を押し下げることができる、というわけである。〉 (草稿集④67-68頁)
  〈一方では、より安価なかつより悪質な生活手段が、より良質な生活手段にとって代わることによって、あるいはそもそも生活手段の範囲、大きさが縮小されることによって--生活手段の価値、あるいはそれら〔生活手段〕の充足の仕方、を引き下げることになるので--、労働能力の価値の水準を引き下げることが可能である。しかしまた他方では、この水準--平均的な高さ--には子供たちと妻たちの扶養がはいるので、妻たち自身が労働することを強制され、また、発育すべき時期[に]子供たちがすでに労働に向けられることによって、この水準を押し下げることが可能である。このような場合も、労働の価値の水準にかかわる他のすべての場合と同様に、われわれは考慮しないでおく。つまりわれわれは、ほかでもない、資本のこれらの最大の醜悪なことども〔Scheußlichkeiten〕を存在しないものと前提することによって、資本にたいして公正な機会〔fair chance〕を与えるのである。}{同様に、労働の単純化によって、修業の時間または修業の費用が、可能なかぎりゼロに向けて縮小されれば、この水準は引き下げられることができる。}〉 (草稿集④69-70頁)

  (ニ) しかし、いずれにしてもどの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのです。

  だから労働力の価値も他の商品と同じように、その商品が正常な品質を保って供給されるために必要な労働時間によって規定されているのですから、私たちは労働力の価値という場合はその最低限ではなく、そうしたものを想定すべきでしょう。
  
  マルクスは『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈労働能力の価値に一致する労賃は、われわれが述べてきたような、労働能力の平均価格であり、平均労賃である。この平均労賃はまた、労賃あるいは賃銀の最低限〔Minimum des Arbeitslohns oder Salairs〕とも呼ばれるのであるが、ここで最低限と言うのは、肉体的必要の極限〔die äußerste Grenze〕のことではなく、たとえば1年についてみた日々の平均労賃であって、労働能力の価格--それはあるときはそれの価値以上にあり、あるときはそれ以下に下がる--はそこに均衡化されるのである。〉 (草稿集④79頁)


◎第17パラグラフ(労働力と労働との違い、労働力が売れなければ労働者にとっては無である)

【17】〈(イ)このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
   (ロ)「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである(47)。」
  (ハ)労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。(ニ)消化という過程のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のものが必要である。(ホ)労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。(ヘ)むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。(ト)もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたたないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。(チ)そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である(48)」ということを発見するのである。〉

  (イ)(ロ) このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷です。「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである。」

  まずこの部分をフランス語版で見てみましょう。

  〈労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金、と言っているのである(11)」。これにまさる誤りはない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  このようにフランス語版をみるとロッシが引用文で述べていることをマルクスは〈これにまさる誤りはない〉と批判して否定していることが分かります。では何が誤りなのでしょうか。それはそれに続くマルクスの一文のなかで明らかにされています。

   (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことです。消化のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のもの、つまり消化する材料である食料、あるいそれを買う金、が必要です。労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではありません。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのです。

  これもフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈労働能力と言う人は、まだ労働とは言っていないのであって、それは、消化能力が消化を意味しないのと同じである。そうなるためには、誰もが知っているように、健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ、生活手段の価値は、労働能力の価値によって表現されているのだ。〉 (江夏・上杉訳161-162頁)

  つまりロッシが〈労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである〉と述べているのに対して、マルクスは労働能力を語っているときは、まだ労働について語っているのではない、両者は明確に区別するべきだと述べているわけです。それは消化能力と消化とは違うように違うのだということです。消化能力があっても、その人が実際に消化するためには、健康な胃があるだけでは十分ではなく、消化する食物を買う金が必要です。だから労働能力という人は、労働能力の維持に必要な生活手段を無視しているのではなく、むしろ生活手段の価値が労働能力の価値として表現されているのだということです。

  (ト)(チ) もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたちません。彼は、その場合は、自分の労働能力を生産し維持するためには一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感じざるをえないでしょう。そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのです。

  この部分もフランス語版をまず見ておきましょう。

  〈だが、労働者は、労働能力が売れなければそれを光栄とは感じないのであって、むしろ、自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたということ、その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを、残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼はこのばあい、シスモンディとともに、労働能力は売られなければなにものでもない、ということを発見するであろう(12)。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  上着の価値を実現する人は、それを売って得た貨幣で小麦を購入するように、労働力の価値を実現して、すなわちそれを資本家に売って、得た貨幣で彼は彼の労働力を維持し再生産するための生活手段を買って彼の生命を維持しうるのです。だから労働力が販売できなければ、彼自身の生命を維持できないという残酷な現実に突き当たります。だからシスモンディがいうように労働能力は売れなければ無であることを思い知らさせられるわけです。

  このパラグラフとよく似た一文が『61-63草稿』のなかに出てきます。紹介しておきましょう。

   〈「生産の作業についているあいだの労働者の生活資料を捨象しながら労働の能力〔la。 puissance du travail〕を考えるのは、頭のなかにしかないもの〔un être de raison〕を考えることである。労働というのは、労働の能力というのは、つまるところ同時に、働き手〔travailleurs〕と生活資料のことであり、労働者〔ouverier〕と賃銀のことであって、……同じ要素が資本の名のもとにふたたび姿を現わすのである。まるで、同じものが同時に二つの異なった生産用具の一部をなすかのように」(同前、37O、371ページ)。単なる労働能力は、いかにも「頭のなかにしかないもの」である。だが、この「頭のなかにしかないもの」は実在している。だからこそ、労働者は、自分の労働能力を売ることができなければ、飢え死にするのである。しかも資本主義的生産は、労働の能力がそのような「頭のなかにしかないもの」に還元されている、ということにもとづいているのである。
  だから、シスモンディが次のように言うのは正しい、--「労働能力は、……それが売れなければ、無である」(シスモンディ『新経済学原理』、第2版、第1巻、パリ、1827年、114ページ〔日本評論社『世界古典文庫』版、菅間正朔訳『新経済学原理』、上巻、121ページ〕)。
  ロッシにおいてばかげている点は、彼が「賃労働」を資本主義的生産にとって「本質的でない」ものとして描こうと努めていることである。〉 (草稿集④234-235頁)

  ところで、全体として、このパラグラフはどういう意義を持っているのかが、なかなか分かりにくい気がします。これまで論じてきた労働力の価値規定が粗雑だとして、ロッシなどと一緒に嘆いても、安っぽい感傷に過ぎなというのですが、一体、マルクスは何を言いたいのでしょうか?
 ロッシの主張の〈誤り〉は、第一に、彼は生産過程にある間の労働者の生活手段がまさに労働力の価値のなかに含まれている(それによって表現されている)ことが分かっていないことです。第二に、労働能力と労働とは同じではないこと、両者の区別が分かっていないということです。さらに第三に、賃労働が資本主義的生産にとって本質的であることも分かっていないことです。
  マルクスがこのパラグラフ全体で言いたいことは労働力と労働とは異なること、労働能力はただの可能性にすぎず、それが売られなければ労働者にとっては何の意味もないこと、労働者の労働力はその使用価値を発現するための諸条件を欠いた単なる主体的な能力としてしか存在していないこと、しかしそれこそ資本主義的生産を規定する本質的なものであるということを述べているように思えます。
  そして次の第18パラグラフでは労働力を販売してその使用価値(労働)を譲渡するときの独特の特性について語り、そこから労働者が自分の労働力を資本家に前貸しするという特有な両者の関係が生じてくることが述べられていますが、このパラグラフはそれを論じる一つの前提として労働力と労働との区別と関連を前もって論じておくという意義もあるのかもしれません。
  マルクスは『61-63草稿』では次のように論じています。

  〈まず第一に、労働者は自分の労働能力を、すなわちこの能力の時間ぎめでの処分権を売る。このことのうちには、彼が自分をそもそも労働者として維持するのに必要な生活手段を交換を通じて入手するということ、さらに詳しく言えば、労働者は「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料をもっているということが含まれている。彼が労働者として生産過程にはいり、この過程にあるあいだじゅう自分の労働能力を働かせ実現するためには、このことが前提されているのである。すでに見たように、ロッシは資本を、新たな生産物を生産するのに必要な生産手段(原料、用具)としか理解していない。問題となるのは、労働者の生活手段は、たとえば機械によって消資される石炭、油、等々がそうであるように、あるいは家畜によって食われる飼料がそうであるように、そうした生産手段に属するのかどうかということである。要するに補助材料〔と同様であるのかどうかということである〕。労働者の生活手段も補助材料に属するのであろうか? 奴隷の場合には、彼の生活手段を補助材料のうちに入れるべきことにはなんの問題もない。なぜなら、奴隷は単なる生産用具であり、したがってそれが消尽するものは単なる補助材料だからである。〉 (草稿集④223頁)

  ここでは労働力の価値には、〈「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料〉の価値も含まれることが指摘されています。しかしこのあたりの一連のマルクスの考察は、ロッシが生産過程一般(あるいは労働過程)とその資本主義的形態におけるものとを明確に区別せずに論じていることを批判するために展開されているようにも思います。
  なおロッシの主張とそれに対するマルクスの批判については付属資料も参照してください。


◎原注47

【原注47】〈47 ロッシ『経済学講義』、ブリュッセル、1843年、370、371ページ。〉

  これは本文のロッシからの引用文の典拠を示す原注です。ロッシの主張とそのマルクスによる批判については本文の付属資料を参照してください。ここては『資本論辞典』の説明を見ておくことにします。

  〈ロッシ Pellegrino Luigi Edoardo Rossi(1787-1848) イタリア人の経済学者・法律家・政治家・外交官.革命思想に刺激されて,19世紀中国際的に活躍した人物の典型的な一例.……マルクスは,彼について‘とんでもない知ったかぶりと,偉そうな出まかせの極致',‘ 大衆文芸的論議‘ 教義ある饒舌にすぎない'と酷評した.『資本論』第1巻第4章では,ロッシが,労働力の維持に必要な生活手段を度外視して労働と労働能力を云々することは幻想だとのベた文章を引用して.これは労働力の価値規定を理解しない‘非常に安価な感傷'だとしている(KI-181;青木2-323-324 ;岩波2-56-57).同じく第21章では.労働者の個人的消費過程が生産過程のたんなる附随的なものとされるにいたったばあい,彼の個人的消費は,一生産手段たる労働力を維持するために行なわれる直接の生産的消費となるが,このことが資本主義的生産過程にとっては本質的でない濫用としてあらわれることから,ロッシはこの点を強く非難している.しかしそれは彼が実際に‘生産的消費'の秘密を見抜いていないからだと評している(K1-600;青木4-893;岩波4-19-20).なお『剰余価値学説史』第1部では.生産的・不生産的労働の区別についてロッシは簡単に検討すべきことを注意し(MWⅠ-139,193;青木2-245,327),彼の経済的緒現象の理解における社会的形態の無視,不生産的労働者による‘労働節約'にかんする俗流的概念を批判している(MWⅠ-255-262;青木2-419-428),〉(586頁)


◎原注48

【原注48】〈48 シスモンディ『新経済学原理』、第1巻、113ページ。〔日本評論社『世界古典文庫」版、菅問訳『経済学新原理』、(上)121ぺージ。〕〉

  この原注は本文で引用されたものの典拠をしめだけのものです。シスモンディについては原注13の解説のなかで『資本論辞典』『経済学批判』の一文を紹介しながら詳しく解説しましたので、それを参照してください。


◎第18パラグラフ(労働力商品の特有な性質から、労働力の販売と現実の発現とが時間的に分離するので、その価格の支払いもあとから行われる)

【18】〈(イ)この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。(ロ)労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのである。(ハ)だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。(ニ)しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。(ホ)資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。(ヘ)だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。(ト)労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。(チ)この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)。(リ)とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。(ヌ)労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。(ル)労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。(ヲ)だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 労働力という独自な商品の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということです。もちろん労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、労働力が流通にはいる前から決定されています。なぜなら、労働力の価値を規定する労働力の生産に必要な社会的労働はすでに支出されているからです。だから労働力が販売された時点(売買契約を結んだ時点)で、その価値は実現されたのですが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのです。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在の実証とは、時間的に離れているのです。

  フランス語版ではかなり書き換えられており、まずそれを紹介しておきましょう。

  〈契約がいったん買い手と売り手とのあいだで結ばれても、譲渡される物品の特殊な性質からして、その使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない、という結果が生ずる。その物品の価値は他のすべての物品の価値と同じように、それが流通の中に入る以前に、すでに規定されていた。その物品の生産が若干量の社会的労働の支出を必要としたからである。ところが、労働力の使用価値は、当然その後になってはじめて行なわれる労働力の発揮のうちに成立する。労働力の譲渡と、労働力の現実の発現すなわち使用価値としての使用とは、換言すれば、労働力の阪売とその使用とは、同時に行なわれるものではない。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  労働力という商品は、他の商品とくらべて独特の性質を持っています。その価値に精神的・文化的要素が入るというのもそうですが、それ以外に、それが販売されるのは、一定期間に限って、労働力を使用する権限を購買者に譲渡するということであって、実際に労働力の使用価値(労働)が譲渡される(実証される)のは、現実に労働が行われることによってであり、そこには不可避に時間的な間隔が生じてくるということです。こうした特性は労働力商品に限ったものではなく、例えは家屋を一定期間使う契約を結ぶ場合も、その価値は契約時点で確定しますが、実際に使用価値はその期間を通じて譲渡され実現されるという特性を持っています。

  (ニ) このような商品、すなわち販売においてはただ形式的に使用価値を譲渡するだけで、その現実の購買者への引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能します。

  これも該当する部分のフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈ところで、使用価値が販売によって形態的に譲渡されても現実にはそれと同時に買い手に譲られないようなこの種の商品が問題であるばあいには、ほとんどいつでも、買い手の貨幣は支払手段として機能する。すなわち、売り手の商品はすでに使用価値として役立ったのに、売り手は長短の差はあれ期間を隔てて、やっと貨幣を受け取るのである。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  また第3章の「b 支払手段」のなかでは次のように述べられていました。

  〈ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる。〉 (全集第23a巻176-177頁)
  
  労働力も家屋の利用と同じ特性を持っているいえます。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) 資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受けます。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけです。労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのです。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されています。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。

  〈資本主義的生産様式が支配している国ではどこでも、労働力は、それが契約できめられた若干時間すでに機能したときに、たとえば各週の終りに、はじめて支払いを受ける(13)。したがって、労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家に前貸しして、この価格を手に入れる以前にこれを買い手に消費させる。一言にして言えば、労働者はいたるところで資本に掛売りする(14)。そして、この信用が空虚な妄想でないことは、資本家が破産したばあいに賃金の損失によって証明されるばかりでなく、これほど偶然ではない他の多数の結果によっても証明されるのである(15)。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  確かに私たちは、働いた結果、その成果として月末などに給与を受けていますが、しかしそれは私たちが資本家たちに自分の労働力の使用価値を前貸して、信用を与えているのです。つまり私たちは債権者であり、資本家はこの限りでは債務者なのです。だから資本家が破産したとき、労働債権の取り立てが問題になるわけです。
  ここで〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉というのが何を指しているのかは、原注51に詳しく説明されていますので、その時に検討しましょう。

  (リ)(ヌ)(ル) もっとも、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかによっては、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではありません。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されていますし、労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのですから。

  フランス語版です。

  〈貨幣が購買手段として機能しても、または支払手段として機能しても、商品交換の性質は全然変わらない。労働力の価格は、家屋の家賃と同じように、後日になってはじめて実現されるとはいえ、契約によって確定されている。労働力は、後になってはじめて支払われるとはいえ、すでに売られているわけだ。〉 (江夏・上杉訳163頁)

  労賃が週の終わりか(週給)、月の終わりか(月給)はともかく、それによって労働者が彼の労働力を販売するという商品の交換の性質は何一つ変わりません。確かに労働力の価格は、使用価値が実証されてから実現される(支払われる)とはいえ、すでに労働力を販売する契約を交わした時点で、その価格は確定しており、すでに販売されているという事実は変わらないからです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきます。

 〈貨幣がここで単純な流通手段とみなされようと、支払手段とみなされようと、どちらでもよい。ある人が私にたとえば彼の労働能力のうちの12時間分の使用価値を売る、つまり彼の労働能力を12時間のあいだ売るとすると、私に対する労働能力の販売は実際には、私が彼に12時間の労働を要求し、彼が12時間の労働をなしおえた時にはじめて完了するのである、つまり彼は12時間が終わったときにはじめて12時間分の彼の労働能力の私への引きわたしが完了するのである。このかぎりでは、貨幣がここで支払手段として現われ、売りと買いとが両方の側で直接に同時に実現されることにならないことは、この関係〔労働能力と貨幣との売買〕の本性に根ざしている。ここで重要なことは、支払手段、一般的支払手段とは貨幣のことであり、したがってまた労働者は、自然生的な支払いの仕方が特殊なものであることによって買い手に対して流通諸関係とは別の諸関係のなかに入り込むわけではないということ、ただこれだけである。労働者は彼の労働能力を直接に一般的等価物に転化するが、この一般的等価物の占有者として彼は、一般的流通のなかで、他のだれとも同一の関係--その価値の大きさの範囲〔において〕--を、他のだれとも等しい関係を保持している。同様に彼の販売の目的もまた、一般的富、つまり一般的社会的形態をとっていてあらゆる享受の可能性としてある富なのである。〉 (草稿集③196頁)

  (ヲ) しかし諸関係を純粋に把握するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用でしょう。

  フランス語版です。

  〈無用な複雑さを避けるために、われわれは仮に、労働力の所有者が労働力を売るやいなや契約で定められた価格を受け取るもの、と想定することにしよう。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  当面の考察では、いちいち支払手段としての機能を問題にせず、それを無視して、労働力商品もこれまでの商品交換で想定したように、便宜的に、労働力を販売した時点で、その使用価値を譲渡し、その価格も実現されるものと想定して考えることにするということです。

  最後に関連する『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

 〈労働能力というこの特殊的な商品の本性からして、この商品の現実の使用価値はその消費のあとではじめて現実に一方の手から他方の手に、売り手の手から買い手の手に移される、ということにならざるをえない。労働能力の現実の使用は労働である。しかしそれは、労働が行なわれるまえに、能力〔Vermögen〕、単なる可能性として、単なる力〔Kraft〕として売られるのであり、この力の現実の発現〔Äußerung〕は、買い手へのこの力の譲渡〔Entäußerung〕のあとではじめて生じる。したがってここでは、使用価値の形式的な譲渡とそれの現実的な引渡しとが時間的に分裂するので、買い手の貨幣は、この交換ではたいてい支払手段として機能する。労働能力は毎日、毎週、等々に支払われるが、しかしこの支払いは、それが買われた時点でではなく、それが毎日、毎週、等々に現実に消費されてしまったあとで行なわれる。資本関係がすでに発展しているすべての国では、労働能力は、それが労働能力として機能したあとに、はじめて労働者に支払われる。この点で、どこでも労働者は毎日あるいは毎週--しかしこれは彼が売る商品の特殊な本性と結びついている--資本家に信用を与える〔kreditieren〕、すなわち彼が売った商品の使用を引き渡し、そしてこの商品の消費のあとではじめてそれの交換価値あるいは価格を受け取る、と言いうるのである。{恐慌の時期には、また個々の破産の場合でさえ、労働者たちが支払われないことによって、彼らのこの信用供与〔Kreditieren〕はけっして単なる言い回しではない、ということがはっきりする。} しかしながら、このことはさしあたり、交換過程をいささかでも変えるものではない。その価格は契約で確定される--つまり、労働能力の価値が貨幣で評価される--それはのちにやっと実現され、支払われるのではあるが。したがって、価格規定もまた、労働能力の価値に関連しているのであって、それの消費の結果、それの現実の消耗の結果、それの買い手にもたらされる、生産物の価値に関連するのではなく、また、労働--これ自身は商品ではない--の価値にも関連しないのである。〉 (草稿集④80-81頁)


  (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

2022-02-13 13:06:04 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

 

◎原注49

【原注49】〈49 「すべて労働は、それがすんだあとで代価を支払われる。」(『近時マルサス氏の主張する需要の性質…… に関する原理の研究』、104ページ。)「商人的信用は、生産の第一の創造者である労働者が、彼の節約によって、彼の労働の報酬を1週間とか2週間とか1か月とか4半期とかなどの末まで待てるようになった瞬間に、始まったにちがいない。」(C・ガニル『経済学の諸体系について』、第2版、パリ、1821年、第2巻、150ぺージ。)〉

  これは〈しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する〉という本文につけられた原注です。
  この原注では匿名の著書とガニルの著書から二つの引用が行われています。最初の引用はまあよいとして、あとの方の引用は〈商人的信用は〉、労賃が週賃金などになった瞬間に〈始まったにちがいない〉というのですが、これは正しいとは言えません。ただマルクスは、こうした週賃金などの形態が商業信用の一関係であることを見抜いていることに注目しているのではないでしょうか。
  ガニルについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ガニール Charles Ganilh(l758~1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.……,マルクスは‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した.
  批判は,まずガニールが,富は交換価値からなり,貨幣--貨幣たるかぎりの商品--だとして,商品の価値を交換の生産物と考えた重商主義的見解に向けられ,それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり,けっきょく,価値の実体を見ることなく,価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを,あるいは実体なきその仮象のみを見るものとした(KⅠ-66.87.98;青木1-164-155.185,203;岩波1-121-122,158.181.MW1第4章第8項). なお富は交換価値からなるという見方に関連して,『剰余価値学史』では,ガニールが,生産的・不生産的労働の区別をも交換によって判断し.労賃の支払われる労働は,非物質的生産に従事する労働や召使などの労働といえども,すべて生産的労働であるとして,スミスの生産的・不生産的労働の区別を論破しようとしたことを,ガルニエ, ローダデールの説と同様,'まったくくだらない話'であり,'大衆文芸的論議",'教養ある饒舌にすぎない'としている(MWI第4章第8項および262:青木2-285-300,428-429),……なお,資料的には,『資本論』第1巻第4章で,労賃の後払いが可能になった瞬間に,商業信用が始まったとする彼の文章を引用している(KI-182:青木2-325・岩波2-58-59).〉(480頁)


◎原注50

【原注50】〈50 「労働者は自分の勤勉を貸す」が、しかし、とシュトルヒは抜けめなくつけ加える、彼は「自分の賃金を失うこと」のほかには「なにも賭けてはいない。……労働者は物質的なものはなにも引き渡しはしない。」(シュトルヒ『経済学講義』ペテルブルグ、1815年、第2巻、36、37ページ。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)〉という本文につけられた原注です。

  シュトルヒは労働者が労働力の使用価値を信用貸しすることを認めながら、さらには賃金を失うこともありうることをも認めていますが、それは物質的なものではないということから、たいしたものではないかに主張して、資本家を弁護しているようです。
  シュトルヒについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈シュトルヒ Heinrich Friedrich von Storch (17166~1835)ロシアの経済学者.……マルクスの彼にかんする叙述は,つぎの二点に要約される.第一点は社会的総生産物と社会的収入とを区別しようとした人としてである.……(以下、略)……
  第二点はアダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区別づけにかんする倫争におけるもっとも署名な人としてである.……(略)
  その他『資本論』には,むしろマルタス自身の見解を確認するためにシュトルヒの文章を挙げているつぎのような箇所が見られる.第1巻では,本来的原料をmatièreとよぴ補助材料をmatèriauxとよんで両者を区別した人として(KI-I90:青木2-336;岩波2-73). また,賃金が労働期間後に支払われ,その間労働者の信用貸となることに関連して,シュトルヒが労働者は勤労を貸すのであってなんら物質的なものを渡きないのだから賃銀を失うこと以外になんの危険もないと指摘していること(K1-182 :青木2-325;岩波2-59).……(以下・略)〉(499-500頁)


◎原注51

【原注51】〈51 一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「フル・プライスド」と、この価値よりも安く売る「アンダーセラーズ」とである。あとのほうの部類はパン屋の総数の4分の3以上を占めている。(『製パン職人の苦情』に関する政府委員H・S・トリメンヒーアの『報告書』、ロンドン、1862年、XXXIIページ。)(ヘ)このアンダーセラーズが売っているパンは、ほとんど例外なく、明馨やせっけんや粗製炭酸カリや石灰やダービシャ石粉やその他類似の好ましい栄養のある衛生的な成分の混入によって不純にされてある。(前に引用した青書を見よ。また、「パンの不純製造に関する1855年の委員会」の報告、およびドクター・ハッスルの『摘発された不純製品』、第2版、ロンドン、1861年、を見よ。)サー・ジョン・ゴードンは1855年の委員会で次のように言明した。「この不純製造によって、毎日2ポンドのパンで暮らしている貧民は、いまでは実際には栄養素の4分の1も受け取ってはいないのである。彼の健康への有害な影響は別としても。」なぜ、「労働者階級の非常に大きい部分が、不純製造について十分によく知っていながら、しかもなお明馨や石粉などまでいっしょに買いこむのか」ということの理由として、トリメンヒーア(同前、XLVIIIページ)は、彼らにとっては「パン屋や雑貨屋がよこすパンを文句なしに受け取るのはやむをえないことである」ということをあげている。彼らは1労働週間が終わってからはじめて支払を受けるのだから、彼らもまた「彼らの家族が1週間に消費したパンの代価をやっと週末に支払う」ことができるのである。そして、トリメンヒーアは証言を引用しながらつけ加えて次のように言っている。「このような混ぜものをしたパンが特にこの種の客のためにつくられるということは、隠れもないことである。」〔"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〕「イングランドの多くの農業地方では」(だがスコットランドの農業地方ではもっと広く)「労賃は2週間ごとに、また1か月ごとにさえ、支払われる。この長い支払間隔のために農業労働者はその商品を掛けで買わなければならない。……彼は、普通より高い価格を支払わなければならないし、実際上、借りのある店に縛られている。こうして、たとえば賃金の月払いが行なわれているウィルトシャのホーニングシャムでは、農業労働者は、よそでは1ストーン当たり1シリング10ペンスで買える小麦粉に2シリング4ペンスも支払うのである。」(『公衆衛生』に関する『枢密院医務官』の『第6次報告書』、1864年、264ぺージ。)「ぺーズリとキルマーノック」(西スコットランド)「のサラサ捺染工は1853年にストライキによって支払期間の1か月から2週間への短縮をかちとった。」(『工場監督官報告書。1853年10月31日』、34ページ。)そのほかにも、労働者が資本家に与える信用のおもしろい発展としては、イギリスの多くの炭鉱所有者の用いる方法をあげることができる。これによれば、労働者は月末になってからはじめて支払を受け、それまでのあいだ資本家から前貸しを受けるのであるが、前貸しはしばしば商品で行なわれ、これにたいして彼はその市場価格よりも高く支払わなければならないのである(現物支給制度〔Trucksystem〕)。「炭鉱主たちのあいだでは、彼らの労働者に月に1回支払い、その中間の各週末に現金を前貸しするのが、普通の習慣である。この現金は店」(すなわちトミーショップ〔tommy-shop〕、つまり炭鉱主自身のもちものである雑貨店)「で与えられる。労働者はそれを一方で受け取り他方で支払うのである。」 (『児童労働調査委員会。第3次報告書。ロンドン、1864年』、38ページ、第192号。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)〉という本文につけらた原注ですが、〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということ〉が、〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉ことの説明になっています。
  長い原注ですが、かなりの部分が引用からなっており、文節ごとに細かく検討していく必要はないと考えます。
  まずマルクスは一つの実例として、ロンドンには二種類のパン屋がある話から始めています。一つは通常のパン屋、もう一つは安売りのパン屋です。そして後者のパン屋が売っているパンは粗悪な品物で、さまざまな人体に有害な混ぜ物がなされて、増量されており、そのために安いのでもありますが、しかしそのような有害なパンを労働者が買わざる得ない理由として、労賃の支払が週賃金とか2週間末に支払われるという賃金の支払形態にあることを指摘しています。彼らは1週間か2週間働いたあとになってやっと賃金を受け取るので、それまでの間はパンをツケで買わざるをえず、だからそうした有害なパンでもとにかく信用で売ってくれるパン屋で買わざるを得ないのだというのです。
  またスコットランドの農業地方では、賃金の支払いの間隔がもっと長く、そのあいだ労働者は信用で生活手段を購入せざるを得ず、だからツケで買える店に彼らは縛られており、そのために高い料金でもやむを得ず支払わされているのだと指摘されています。これも賃金の支払形態からくる労働者への搾取の強化の一形態です。
  このように賃金の支払が後払いになることによって、特にその支払が遅くなればなるほど労働者の不利益が大きくなるので、西スコットランドの捺染工たちはストライキに訴えて、支払期間を1カ月から2週間に短縮することを勝ち取ったことが例としてあげられています。
  さらに賃金の支払形態の特徴を生かした資本家による搾取の強化について、マルクスはイギリスの炭鉱労働者の例を挙げています。労働者は月末に支払をうけるので、それまでの生活手段を炭鉱主から前借りするのですが、それは事実上の現物支給であり、その場合の前借りする生活手段はその通常の市場価格よりも高いことが指摘されています。彼らは炭鉱主が経営する店でその前借りをするので、そんな高い商品でも買わざる得ないわけです。彼らへの支払いは月末に1回行われますが、それまでの間の彼らの生活のためには各週末ごとに炭鉱主の店で現金が前貸しされるので、労働者は受け取った現金をそのままその店の商品の購入に当てるので、受け取ったものを、そのまま支払うことになるというのです。


◎第19パラグラフ(流通過程から生産過程へ、貨殖の秘密があばき出される)

【19】〈(イ)いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。(ロ)この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。(ハ)この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。(ニ)労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。(ホ)労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。(ヘ)そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。(ト)ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。(チ)貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。〉

  (イ)(ロ) 私たちは、すでに労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知りました。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われます。

 このパラグラフはこれまでの考察を踏まえたまとめであり、次の第5章への移行を、つまり流通過程から生産過程への移行を示すもののように思えます。まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈労働力というこの独創的な商品の所有者に支払われる価値が、どのような様式と方法できめられるかは、いまではわかっている。労働力の所有者が交換において買い手に与える使用価値は、彼の労働力の使用そのものにおいて、すなわちその消費において、はじめて現われる。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  まず私たちは、これまでの考察によって、労働力商品の独自性とその商品に特有な支払いの仕方を知りました。この独特の商品の価値の支払いが特有なものになるのは、その使用価値の実現の独自性から生まれます。その使用価値とは労働力の発現、すなわち労働そのもののことです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈さてわれわれは、自分の貨幣を資本に転化しようとしている・したがってまた労働能力を買う・貨幣所有者が労働者に支払うものはなにか、ということは実際に知っている。そして貨幣所有者が労働者に支払うものは、じつは、労働者の労働能力の、たとえば日々の価値であり、労働能力の日々の価値と一致する価格あるいは日賃銀であって、彼はこの支払いを、労働能力の日々の維持に必要な生活手段の価値に等しい貨幣額を労働者に支払うことによって行なうのである。この貨幣額は、これらの生活手段の生産のために、したがって労働能力の日々の再生産のために必要である労働時間と、ちょうど同じだけの労働時間を表示しているものである。われわれはまだ、買い手のほうがなにを入手するのか、ということは知らない。販売のあとに行なわれる諸操作が独自な本性のものであり、したがってまた特別に考察されねばならないということは、労働能力というこの商品の独自な本性、ならびに、買い手によってそれが買われるさいの独自な目的--すなわち、自分が、自己自身を増殖する価値の代表者であることを実証しようという、買い手の目的--と関連している。さらに--しかもこのことは本質的なことであるが--、この商品の特殊的な使用価値とこの使用価値の使用価値としての実現とが、経済的関係、経済的形態規定性そのものに関係しており、したがってまたわれわれの考察の範囲にはいる、ということがつけ加わる。ここでは付随的に、使用価値ははじめは、どれでもよいなにか一つの任意の素材的前提として現われるのだ、ということに注意を喚起しておいてもよい。〉 (草稿集④81-82頁) 

  (ハ) この消費過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払います。

  だから貨幣所持者は労働力商品の消費過程に必要な、つまり労働者が彼の労働を対象化するのに必要なもの、すなわち原料その他を商品市場で購入して、その価格を支払います。ここまでは商品の流通過程における操作です。

  (ニ) 労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程です。

  そして労働力の消費過程というのは、労働力の使用価値を実現する過程、すなわち労働過程であり、同時に商品の生産過程であり、またそこで剰余価値も生産されるわけです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉 (草稿集④83頁)

  (ホ)(ヘ) 労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれます。そこで、わたしたちも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしましよう。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じように、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。われわれは貨幣所有者や労働力の所有者と一緒に、すべてが表面で、しかも誰の目にも見えるところで起こるような、この騒々しい部面を立ち去り、入ロに無用の者入るべからずと書いてある生産の秘密の実験室の中まで、この二人の後について行こう。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  だから労働力の消費は、他のどの商品もそうですが、市場の外で、すなわち流通過程の外部の生産過程で行われます。だから私たちも、このすでに買われた労働力とそれを買った貨幣所持者のあとに付いて、流通過程から生産過程に行くことにしましょう。流通過程は資本主義的生産の表面に現れていて、直接目につくものですが、生産過程はその背後にあって私たちには隠されています。そして「無用のもの立ち入るべからず」という看板がその門に掲げられ、一般人の入門を拒んでいますが、しかし私たちは資本の生産の秘密を探るためにそこに入っていかねばなりません。

  (ト)(チ) ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるでしょう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいないのです。

  フランス語版を紹介しておきます。

  〈われわれはそこでは、どのようにして資本が生産するかということばかりでなく、さらになお、どのようにして資本自体が生産されるかをも、見ることになる。剰余価値の製造という、近代社会のこの重大な秘密が、ついに暴露されることになる。〉 (江夏・上杉訳164-165頁)

  この隠れた生産の場所では、どのようにして資本が生産をするのかだけではなくて、どのようにして資本そのものが生産されるのか、すなわち剰余価値が形成されるのかということも、分かるに違いありません。ついに貨殖の秘密が解きあかされるのです。


◎第20パラグラフ(流通過程は自由・平等・所有・利己主義の基礎)

【20】〈(イ)労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。(ロ)ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。(ハ)自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。(ニ)彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。(ホ)契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。(ヘ)平等! なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。(ト)所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。(チ)ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。(リ)彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。(ヌ)そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園でした。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムです。

  ここから最後の二つのパラグラフはいわば補足というべきものでしょう。最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈労働力の販売と購買が行なわれる商品流通の部面は、実際、天賦の人権と市民権との真の楽園である。そこでひとり支配するものは、自由、平等、所有、そしてベンサムである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  すでに私たちは資本の秘密を探るために、生産過程に行くことを前のパラグラフで宣言したのですが、しかし振り返ってみれば、あの流通過程というのは、これから進むであろう生産過程に比べると何と天賦人権の花園だったことでしょう、というのは、ここで支配しているのは、ただ自由であり、平等であり、所有であり、そしてベンサム(利己主義)だったからです。

  ここで〈天賦の人権のほんとうの楽園〉というのは天がすべての人に対して平等に、分かち与えた権利のほんとうの楽園ということになりますが、これはキリスト教の旧約聖書に出てくるアダムとイブが神から追放される前のエデンの園を意味すると説明している文献もありますが、よく分かりません。

  (ハ)(ニ)(ホ) 自由! というのは、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけでしたから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約します。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果です。

  まずフランス語版です。

  自由! 一商品の買い手も売り手も強制によって行動せず、むしろ自分たちの自由意志によってのみ、規定されているからである。彼らは、同じ権利をもつ自由な人間として、ともに契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的表現をそのなかで与えられているところの、自由な産物である。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  自由というのは、労働力の売り手も、買い手も、彼らの自由意思にもとづいてその契約を結ぶからです。彼らは等価物同士の交換者として、同じ権利と自由を与えられています。契約はそうした彼らの共通の意志を法的に表現したものです。
 マルクスは『経済学批判・原初稿』で〈流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化であるとすれば、流通の過程は、そのものとしてみるならば……すなわち流通の過程を交換の経済的形態諸規定の点からみれば、それは社会的平等〔Gleichheit〕の完全な実現をなしている。〉(草稿集③126頁)と述べています。つまり自由と平等は内的に結びついたものなのです。『要綱』には〈経済的な形態すなわち交換が、あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば、交換をうながす内容、すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は、自由を措定する。したがって平等と自由が、交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく、諸交換価値の交換が、あらゆる平等自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は、純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし、法律的、政治的、社会的な諸関連において展開されたものとしては、この土台が別の位相で現われたものにすぎない。このことは歴史的にもたしかに確証されてきたことである。〉(草稿集①280頁)とあります。ただ〈自由という諸関連は交換の経済的形態諸規定に直接に関係するわけではなく、交換の法的形態に関係するか、あるいは交換の内容、つまり諸使用価値そのものまたは諸欲求そのものに関係するかのどちらかだ〉(草稿集③126頁)とも述べて、自由そのものは経済的形態規定性には直接関係しないとも述べています。〈自由と平等とは、純粋な理念としては、交換価値の過程のさまざまの契機の観念化きれた〔idealisirt〕表現であり、また法的、政治的および社会的な諸関連において展開されたものとしては、それらがただ〔経済とは〕別の展開位相〔Potenz〕において再生産〔再現〕されたものにすぎない〉(草稿集③134頁)のです。

  (ヘ) 平等! というのは、労働力の所持者も、貨幣の所持者も、ただ互いに商品所持者として関係し合い、等価物と等価物とを交換するのですから。彼らはその関係において平等なのです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきましょう。

  〈流通の諸主体としては、彼らはさしあたり交換を行う者であって、どの主体もこの規定において、したがって同一の規定において定立されているということが、まさに彼らの社会的規定をなしているのである。彼らは実際にはただ、主体化された交換価値〔subjektivirte Tauschwerthe〕として、すなわち生きた等価物として、つまり同等な者〔Gleichgeltend〕として対応しあっているにすぎない。彼らはそのような交換の諸主体としてただ平等であるというだけではない。そもそも彼ら相互のあいだにはなにひとつ差異がないのである。彼らが対応しあうのはもっぱら交換価値の占有者、および交換を必要としている者〔Tauschbedürftige〕としてであり、同一の、一般的で無差別の社会的労働の代理人〔Agent〕としてである。しかも彼らは等しい大きさの交換価値を交換する。というのは、等価物どうしが交換されるということが前提されているからである。各人の与えるものと受け取るものとが同等であるということが、ここでは過程それ自身の明示的な契機である。[彼らが]交換の諸主体としてどのように対応しあうかということは、交換行為において確証される。交換行為とは、そのものとしては、ただこの確証でしかない。彼らは交換を行なう者として、したがって同等なものとして定立され、彼らの商品(客体)は等価物として定立される。彼らが交換するものは等しい価値をもつものとしての彼らの対象的定在にほかならない。彼ら自身は等しい大きさの価値があるわけであるが、彼らが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてである。等価物はある主体が他の主体のために対象化したものである。すなわち等価物そのものは、等しい大きさの価値があるわけであるが、これらが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてなのである。諸主体は交換のなかで、ただ互いに相手に対する等価物を通してのみ同等な者として存在し、一方が他方に対して呈示する対象性の転換を通じて〔のみ〕、互いに同等なものとして確証されるのである。彼らは、ただ互いに相手に対して等価の主体としてのみ存在するのであるからこそ、同等であると同時に互いに無差別でもあるのである。彼らのそれ以外の区別は彼らには関係がない。彼らの個人的な特殊性は過程のなかには入ってこない。彼らの諸商品の使用価値の素材的な差異は、商品の価格としての観念的定在にあっては消えうせており、この素材的差異か交換の動因となっているかぎりでは、彼らは互いに相手の欲求であり(各々の主体が他の主体の欲求を代表する)、ただ等量の労働時間によって充足される欲求にすぎない。この自然的な差異こそ、彼らの社会的平等の根拠であり、彼らを交換の諸主体として定立するものなのである。かりにAの欲求がBの欲求と同一であり、かつAのもっている商品が充足する欲求とBのもっている商品が充足する欲求とが同一であったとすれば、経済的諸関連を問題とするかぎりでは(つまり彼らの生産の面からみれば)、両者のあいだにはまったくどのような関連も存在しないであろう。彼らの労働および彼らの商品の素材的差異を媒介にして彼らの諸欲求を互いに充足しあうことによってこそ、彼らの平等がひとつの社会的関連として成就され、彼らの特殊な労働が社会的労働一般のひとつの特殊な存在様式になるのである。〉 (草稿集③126-128頁)

  (ト) 所有! というのは、どちらもただ自分のものを処分するだけですから。

  『要綱』には次のような説明があります。

  〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenthum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。他人の労働の所有は自己の労働の等価物によって媒介されている。所有のこの形態は--自由と平等とまったく同様に--、この単純な関係のうちに措定されている。〉 (草稿集①271頁)

  また『経済学批判・原初稿』からも紹介しておきましょう。

  〈交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初に17世紀と18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。〉 (草稿集③134-135頁)
  〈交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、葛藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。〉 (草稿集③136頁)

  (チ)(リ)(ヌ) ベンサム! というのは、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけですから。彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけです。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのです。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからである。彼らを対面させ、関係させる唯一の力は、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいあい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  上記の『要綱』の一文のなかにも〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎ〉ないと指摘されています。ただ自分の欲得にもとづいて、利己的な計算だけで、彼らは互いに交換者として関係し合うわけですから。そしてめいめいが自分のことだけを考えて行動することによって、諸関係のなかに内在する社会的な諸法則が自己を発現して、予定調和の摂理が働くことになるわけです。彼らは自分のことだけに関心を持って働きかけながら、その結果として他人の役にも立つのであり、社会全体の共通の利益にも寄与するのです。

  新日本新書版には〈事物の予定調和〉につぎのような訳注が付いています。

  〈〔世界を形成する実体はモナド(単子--1または単位の意)であるが、モナドからなる世界に秩序があるのは、神があらかじめモナド相互に調和をもたらすように定めたからであるとするドイツの哲学者ライプニッツの説にもとづく考え。普遍的調和ともいう。〉 (②301頁)

  最後にベンサムについて『資本論辞典』の説明を見てみおきましょう。
   
  〈ベンサム Jeremy Bentham (1748-1832)イギリスの法学者・功利主義思想の代表者.……彼はエルヴェシゥスのフランス唯物論およびイギリス経験論哲学を学び,道徳・立法の基礎を個人の利益・快楽におき'最大多数の最大幸福'(The greatest happiness of the greatest number)という功利主義をもって市民社会の基礎原理とした.……『資本論』では,この功利主義思想がイギリス・ブルジョアジーの思想として痛烈な批判をあびせられている.(K1-184;青木2 -327-328;岩波2-62).〉(550頁)


◎第21パラグラフ(流通過程の自由・平等の関係から生産過程の資本と賃労働との対立の関係へ)

【21】〈(イ)この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。(ロ)さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。(ハ)一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。〉

  (イ)(ロ)(ハ) この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのです。また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってきます。
  しかしこの天賦人権の花園を去って、あの隠れた生産過程に私たちは行くのですが、すでに私たちの登場人物たちの顔つきは、見受けるところでは、すでにいくらか変わっています。
  これまでの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力の所持者は労働力を買った資本家に属する労働者としてあとについて行きます。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のようにです。

  最初にフランス語版を紹介しておきます。

  〈単純な流通のこの部面は、俗流自由貿易論者にたいして、資本と賃労働にかんする彼の観念、概念、観察方法、判断の基準を提供しているが、われわれがこの部面から離れる瞬間に、われわれの戯曲の登場人物の相貌のなかに、ある変化が起きているように思われる。以前のわれわれの貨幣所有者が先頭に立ち、資本家として最初に行進する。労働力の所有者は、資本家に属する労働者として、後からついて行く。前者は、嘲笑的なまなざし、尊大で忙しそうな様子。後者は、自分自身の皮を市場に運んだが、もはや鞣(ナメ)されるという一事しか期待できない人のように、おずおずと、ためらいがちで、進み渋っている。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  このような単純流通や商品交換の部面は、ブルジョア民主主義の基礎となっていますが、そこから小ブルジョアジーたちのそれに対する幻想をもたらす一方で、ブルジョアジーたちが自分たちの利害の隠れ蓑に利用するということが生じてきます。

  『要綱』には次のような一文があります。

  〈単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。〉 (草稿集①275頁)

  しかしこうしたブルジョア社会の表面に現れている天賦人権の花園を去れば、そこには厳しい搾取の現実が待っています。そこでは平等や自由はすでになく、資本と賃労働との対立が待ち構えているのです。同じ『要綱』から紹介しておきます。

  〈現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な〔scheinbar〕平等と自由は消失する。〉 (草稿集①285頁)

  新日本新書版には〈まるで自分の皮を売ってしまって〉に次のような訳者注が付いています。

  〈普通は「危険をしょい込む」「不快な結果に耐える」を意味する慣用句であるが、マルクスは語句どおりに用いて風刺している。〉 (②302)

  また山内清氏(『コメンタール資本論』貨幣・資本転化章)は、同じ部分に次のような説明を加えています。

  〈旧約聖書の「創世記」に、アダムとイブがエデンの園を追放されたとき神が「皮の長い衣」を与えたとある。〉 (284頁)


  (【付属資料】は(6)へ)

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(6)

2022-02-13 13:05:37 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(6)

 

【付属資料】


第1パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈商品は交換価値であるだけでなく、使用価値でもある。そして使用価値であるからには商品は目的に応じて消費されなければならない。商品が使用価値として役立つことによって、すなわち商品の消費のなかで、同時に交換価値が維持されなければならないし、また交換価値が消費の目的を規定する魂として現われなければならない。したがって商品が〔消費されて〕消えてなくなる過程が同時に、商品が消えてなくなることが消えてなくなる過程として、すなわち再生産過程として現われなければならない。だから商品の消費は、直接的享受のために行なわれるのではなく、それ自身商品の交換価値の再生産のための一契機として行なわれるのである。その意味で交換価値は商品の形態を示すだけではなく、商品の実体それ自体を燃え立たせる火としても現われるのである。こうした規定が使用価値の概念それ自体から生じてくるのである。しかし貨幣の形態をとっている時でも資本は、一面では流通手段としてただ消え去りゆくものとして現われるだけであろうし、他面では、資本が適合的な交換価値の規定性をとっている時でも、それはただ契機として、経過的なものとして定立されたにすぎない資本の存在として現われるだけであろう。〉(草稿集③181-182頁)
  〈形態G-W-Gが表わしているような貨幣と商品との現実的交換においては--つまり商品の実在的存在は商品の使用価値であり、しかも使用価値の実在的定在とは使用価値の消費のことだから--使用価値として実現される商品から交換価値そのものが、貨幣が、ふたたび生じてこなければならない。そして商品の消費が、交換価値が維持されるとともに価値増殖されもする形態として現われなければならない。流通は、交換価値に対して、交換価値そのものが実現される過程の契機として現われる。〉(草稿集③183-184頁)
   〈貨幣、すなわち自立化した交換価値が、それの対立物である使用価値そのものにただひたすら対立させられるかぎりでは、貨幣は実際には一つの抽象的な定在しかとることができない。貨幣は、それの対立物のなかで、つまりそれが使用価値になってゆくことのなかで、そして使用価値の過程である消費のなかで同時に交換価値として自分を維持するとともに増加してゆかなければならない、だから使用価値の消費そのもの--これは使用価値の能動的否定であるとともにそれの肯定でもある--が、交換価値そのものの再生産および生産に転化してゆかなければならない。〉(草稿集③184頁)
  〈貨幣は今では対象化された労働なのであって、この労働が貨幣の形態をもっていようと、特殊的商品の形態をもっていようと、かまわないのである。労働の対象的定在様式は資本に対立するものではなく、どんな対象的定在様式も資本の可能的存在様式として現われる。資本は単純な形態変換によって、つまり貨幣の形態から商品の形態に移行してゆくことによって、こうした存在様式をとることができる。対象化された労働に対する唯一の対立物は、対象化されていない労働、客体化された労働に対立している主体的労働である。あるいは時間的には過去のものだが空間的に存在している労働に対立している、時間的に現存している生きた労働である。労働は、時間的に現存している非対象的な(したがってまたいまだ対象化されていない)労働としては、能力〔Vermögen〕、可能性〔Möglichkeit〕、力量〔Fähigkeit〕としてしか現存しえない、つまり生きた主体の労働能力〔Arbeitsvermögen〕としてしか現存しえない。自立してあくまでも自分に固執する対象化された労働が資本であるが、この資本に対立することのできるものは、ただ生きた労働能力それ自体だけである。その意味で、貨幣が資本になることのできる唯一の交換は、貨幣の占有者が生きた労働能力の占有者、すなわち労働者と行なう交換である。〉(草稿集③188-189頁)
  〈ほかならぬ貨幣にとって使用価値であるものは、そのなかに貨幣が消えうせてしまうような消費物ではなくて、ただそれによって貨幣が自分を維持するとともに増大しもするような使用価値だけである。資本としての貨幣にとっては、それ以外の使用価値は存在しない。これこそまさしく、資本としての貨幣か交換価値として使用価値に対して行なう関係行為〔Verhalten〕なのである。資本としての貨幣に対して対立することができ、またそれを補完することもできる唯一の使用価値は、労働である。そして労働は労働能力のうちにあり、労働能力は主体として存在する。貨幣は、ただ非資本〔Nichtcapital〕、つまり資本の否定に対する関連のなかでのみ、資本として存在する。ただ資本の否定に対する関連のなかでのみ、貨幣は資本となる。現実的な非-資本〔Nicht-Capital〕とは労働そのものである。貨幣が資本となるための第一歩は、貨幣と労働能力との交換である。そしてこの交換を媒介として、商品の消費、すなわち商品を使用価値として実在的に定立するとともに否定する行為が同時に、交換価値としての商品の確証へと転化してゆくのである。〉(草稿集③191頁)
  〈貨幣の形態にある交換価値に対立しているのは、特殊的使用価値の形態にある交換価値である。しかしながら今ではすべての特殊的商品は、対象化された労働の特殊的定在様式としては、どれもこれも交換価値の表現であり、貨幣は、失われることなく、それに移行してゆくことができる。だからこれらの商品との交換によっては--今では、貨幣が貨幣の形態で存在していると前提しても、特殊的使用価値の形態で存在していると前提しても、どちらでもさしつかえないのだから--、貨幣はその単純な性格をなくすことができない。これができるのは、第一に、貨幣がみずから直接にとることのできない使用価値の唯一の形態--これはすなわち非対象的労働である--であると同時に、〔第二に、〕過程を進行してゆく交換価値〔processirender Tauschwerth〕としての資本にとって直接的使用価値であるもの--これもまた労働である--との交換によってである。したがって貨幣の労働との交換によってのみ、貨幣は資本に転化することができる。そこから交換価値それ自身が生成し、生み出され、また増大してゆくような使用価値だけが、可能的資本としての貨幣がそれと交換されることのできる使用価値でありうる。だがこの使用価値は労働にほかならない。交換価値は、使用価値に--あれやこれやの使用価値にではなく--交換価値そのものにかかわっている使用価値に--対応することによってはじめて、交換価値として実現されうるのである。この交換価値そのものにかかわっている使用価値とは労働である。労働能力とはそれ自身、それらの消費が労働の対象化、つまり交換価値の定立と直接に一致するような使用価値である。資本としての貨幣にとっては労働能力こそが、貨幣がそれと交換されなければならない直接的使用価値である。単純流通においては、使用価値の内容はどうでもよかったし、経済的形態関連〔die ökonomische FormBeziehung〕の外部にあることであった。〔だが〕ここでは使用価値の内容が、経済的形態関連の本質的な経済的契機なのである。というのは、交換価値がまずもって交換のなかで自分を堅持するものと規定されるのは、ただ、交換価値と対立することを自分自身の形態規定としているような使用価値と交換されることによってでしかないからである。〉(草稿集③192頁)

《61-63草稿》

 〈過程G-W-Gにおいては、価値(所与の価値額)は、それが流通にはいるあいだに、すなわちそれが交互に商品の形態と貨幣の形態とをとるあいだに、自己を維持し、自己を増加させなければならない。流通は単なる形態変換であってはならず、価値量を高くし、既存の価値に新価値すなわち剰余価値を追加しなければならない。資本としての価値は、いわば、第二の力能にある〔auf der zweiten Potenz〕価値、力能を高められた〔potenziert〕価値、でなければならない。〉(草稿集④47頁)
  〈対象化された労働にたいする唯一の対立物をなすのは、対象化されていない労働、生きた労働である。一方は空間のなかに存在する労働であり、他方は時間のなかに存在する労働である。一方は過去の労働であり、他方は現在の労働である。一方は使用価値に体化されているが、他方は人間の活動として過程を進みつつある〔prozessierend〕もの、また過程を進みつつあるときにはじめて、自らを対象化することができるものである。一方は価値であり、他方は価値を創造するものである。既存の価値が価値創造的活動と、対象化された労働が生きた労働と、要するに、貨幣が労働と交換されれば、この交換過程を媒介にして既存の価値が維持され、あるいは増大させられる可能性があるように見える。〉(草稿集④49頁)
  〈価値の増加とは、対象化された労働の増加のことでしかない。しかし、対象化された労働が維持され、あるいは増加されうるのは、生きた労働によってでしかない。〉(草稿集④51頁)
  〈価値が、貨幣の形態で存在する対象化された労働が、増大することができるとすれば、それはただ、次のような商品、すなわち、その使用価値そのものが交換価値を増加させることにほかならず、その消費が価値創造あるいは労働の対象化と同義であるような一商品との交換によってでしかないであろう。(そもそも、自己を増殖すべき価値にとっては、いかなる商品も、それの使用そのものが価値創造である場合、つまりそれが価値の増加に使用できる場合を除いては、直接に使用価値をもつことはない。)だが、そのような使用価値をもっているのは生きた労働能力だけである。それゆえ、価値、貨幣は、生きた労働能力との交換によってのみ、資本に転化されうるのである。価値、貨幣の資本への転化は、一方では価値、貨幣の、労働能力との交換を必要とし、他方では価値、貨幣の、労働能力の対象化が前提とする物的諸条件との、交換を必要とする。〉(草稿集④51頁)
  〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値--使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費--が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉(草稿集④61頁)

《初版》

 〈資本に転化すべき貨幣の価値変動は、この貨幣そのものにおいては生じえない。なぜならば、貨幣は、購買手段としても支払手段としても、それが買うか支払うかする商品の価格のみを実現するのであるが、他方、貨幣は、それ自身の形態にとどまっていれば、同等不変な価値量という化石に凝固する(39)からである。同様に、商品の転売という第二の行為からも、変動は生じえない。この行為は、商品を現物形態から貨幣形態に再転化させるにすぎないからである。だから、変動は、第一の行為G-Wで買われる商品に生ぜざるをえないが、その商品の交換価値に生ずるわけではない。なぜならば、交換されるのは等価物同士であり、商品はその価値どおりの支払いを受けるからである。だから、変動は、その商品の使用価値そのものからのみ、すなわちその商品の消費からのみ、生じうることになる。ある商品の消費から交換価値を引き出すためには、わが貨幣所持者は、運よく、流通部面の内部で、市場で、一商品--それの使用価値そのものが、交換価値の源泉であるという特異な性質をもっており、それゆえに、それを現実に消費すること自体が、労働の対象化でありしたがって価値創造である、というような一商品--を発見しなければならないであろう。そして、貨幣所持者は、市場で、このような独自な商品--労働能力あるいは労働力を、見いだすのである。〉(江夏訳170頁)

《フランス語版》フランス語版ではこのパラグラフは四つのパラグラフに分けられ、全集版の原注38は第12パラグラフのあとに注(1)としてつけられている。ここでは注を抜いて四つのパラグラフを紹介しておく。

 〈価値の増加--これによって貨幣は資本に転化するはずであるが--は、この貨幣自体からは生ずることができない。貨幣は、購買手段または支払手段として役立つにしても、それで買うかまたは支払う商品の価格を実現するにすぎない。
  貨幣が元のままにとどまり、自分自身の形態を保持するならば、貨幣はもはやいわば石化した価値でしかない(1)。
  A-M-A'、すなわち、貨幣の商品への変換およびその同じ商品のより多くの貨幣への再変換が表現するところの価値の変化は、商品から生じなければならない。だが、 M-A'、という第二の行為では、商品がただたんに自然形態から貨幣形態に移行する転売では、価値の変化は実現しえない。さて今度は、A-M,という第一の行為を考察すれば、等価物同士の交換が存在すること、したがって、商品は、この商品に変換する貨幣よりも大きな交換価値をもたない、ということが見出される。最後の仮定が、すなわち、変化は商品の使用価値、つまり商品の使用または消費から生ずるという仮定が、残されている。ところで、問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品--その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品--を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない。
  そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉(江夏・上杉訳154-155頁)


●原注38

《初版》

 〈(39) 「貨幣という形態にあっては、……資本はなんらの利潤も産み出さない。」(リカード『経済学原理』、267ページ。)〉(江夏訳170頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「貨幣形態のもとでは、……資本は利潤をなんら産まない」(リカード『経済学原理』、267ページ)。〉(江夏・上杉訳154頁)


●第2パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。--労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を--ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが--もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉(草稿集④78-79頁)

《初版》

 〈労働力あるいは労働能力についてわれわれが理解するものは、人間の身体すなわち生きている一身のなかに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的な諸能力の総体、のことである。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈この名称のもとでは、人間の身体という人間の生きた一身のなかに存在していて、人間が有用物を生産するために運動させなければならないところの、肉体的および精神的力能の総体を、理解しなければならない。〉(江夏・上杉訳155頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈われわれはまず最初に、資本と労働の関係のなかに含まれている単純な諸規定を分析し、そうして--これらの諸規定やまたそのいっそうの展開とが--以前の諸規定にたいしてもっている内的関連を見いだすことにしよう。
  第一の前提は、一方には資本があり、他方には労働があって、両者は相互に自立的な姿態として相対し、したがってまた両者は相互にたいして疎遠〔fremd〕だということである。資本に対立する労働は、他人の〔fremd〕労働であり、労働に対立する資本は、他人の資本である。相互に対立しあう両極は、特有の〔spezifisch〕異なり方をしている。単純な交換価値の最初の措定においては、労働は、生産物が労働者にとっての直接的な使用価値ではなく、直接的な生存手段ではないというように、規定されていた。このことは、ある交換価値をつくりだすうえでの、また交換一般の一般的条件であった。さもなければ、労働者はたんに一つの生産物--自分のための直接的な使用価値--をつくりだしただけで、交換価値をつくりだしはしなかったであろう。ところがこの交換価値は、一つの生産物のうちに物質化されており、そしてこの生産物はそのものとして他人のための使用価値をもち、またそのものとして他人の欲求の対象であった。〔ところが〕労働者が資本にたいして提出しなければならない使用価値、したがって彼が一般に他人のために提供しなければならない使用価値は、生産物のうちに物質化されてはおらず、およそ彼の外部に存在するものではなく、したがって現実に存在しているものではなく、ただ可能性〔Möglichkeit〕としてのみ、彼の能力〔Fähigkeit〕としてのみ存在しているにすぎない。それは、資本によって求められ、運動のなかにおかれてはじめて現実性となる。なぜなら対象をもたない活動など、無であるか、またはせいぜいのところ思考活動であって、こんなものはここでは問題にならない。この使用価値は、資本から運動を受けとるようになるやいなや、労働者の一定の生産的活動として存在する。それは、一定の目的にむけられた、それゆえにまた一定の形態で発現する労働者の生命力〔Lebendigkeit〕そのものである。〉(草稿集①314-315頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈貨幣が資本へ転化するための条件は、貨幣の所有者〔Eigner〕が貨幣を、商品である他人の労働能力と交換することができることである。したがって、流通の内部で労働能力が商品として売りに出されることである。というのは、単純流通の内部では交換当事者たちは、ただ買い手と売り手として以外には、対応しあうことがないからである。だからこの条件は、労働者が彼の労働能力を利用し尽くされる〔vermutzen〕べき商品として売りに出すこと、つまり彼が自由な労働者であるということである。この条件は、第一に、労働者が自由な所有者〔freier Eigenthümer〕として自分の労働能力を意のままに処分できること、商品としての自分の労働能力に対して関係することである。そのためには彼は自分の労働能力の自由な所有者でなければならない。しかしながら第二に、労働者は自分の労働をもはやそれ以外の商品の形態で、つまり対象化されている労働の形態で交換することはできず、彼が提供することができ、販売することができる唯一の商品は、まさしく彼の生きた肉体のうちに現存している彼の生きた労働能力だけであること、つまり自分の労働を対象化するための諸条件、自分の労働の対象的諸条件が、他人の所有として、流通のなかで自分自身の向う側に、相手の側にある商品として存在しているということである。〉(草稿集③193頁)

《61-63草稿》

 〈ここではわれわれは商品流通の基礎の上に立っているのであり、したがって交換者たちのあいだには、流通過程そのものによって与えられる依存関係のほかには、どんな依存関係もまったく前提されておらず、彼らはただ、買い手と売り手として区別されるだけである。したがって、貨幣が労働能力を買うことができるのは、ただ、労働能力が商品そのものとして売りに出され、その持ち主〔Inhaber〕、すなわち労働能力の生きた所有者〔Besitzer〕によって売られるかぎりにおいてである。その条件は、第一に、労働能力の所有者〔Besitzer〕が自分自身の労働能力を思いどおりに処分する〔disponieren〕ということ、商品としてそれを思いどおりに処理する〔verfügen〕ことができるということである。そのためには彼はさらに、労働能力の所有者〔Eigentümer〕でなければならない。そうでなかったならば、彼はそれを商品として売ることができない。〉(草稿集④52頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた。〉(全集第16巻128-129頁)

《初版》

 〈しかし、貨幣所持者が商品としての労働力を市場で見いだすためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるものを除くと、どんな依存関係をも含んではいない。こういった前提のもとでは、労働力商品として市場に現われることができるのは、ただ、それがそれ自身の所持者によって、すなわち、それを自分の労働力としてもっている人間によって商品として売りに出されるかまたは売られるかぎりにおいてのことであり、またはそうされるからなのである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処理することができなければならず、したがって、自分の労働能力である自分の一身の、自由な所有者でなければならない(40)。彼と貨幣所持者とは、市場で出会って、対等な商品所持者として互いに関係を結びあうのであり、彼らのちがいは、一方が買い手であり他方が売り手であるということだけであって、双方とも法律上平等な人間である。この関係が持続するためには、労働力の所有者がつねに労働力を一定の時間にかぎってのみ売る、ということが必要である。なぜならば、彼が労働力をひとまとめにして一度に売ってしまえば、彼は自分自身を売ることになり、彼は、自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。人間としての彼は、つねに、自分の労働力を、自分の所有物であり、したがって自分自身の商品である、と考えなければならない。そして、彼がそうできるのは、彼が、いつでも、ただ一時的に、一定の期間をかぎって、自分の労働力を買い手に用立て、買い手の消費にまかせ、こうして、労働力を譲渡しても労働力にたいする自分の所有権を放棄しない、というかぎりにおいてのことでしかない(41)。〉(江夏訳171頁)

《フランス語版》このパラグラフは、フランス語版では二つのパラグラフに分かれており、間に全集版の原注40に相当する注(2)が挟まっている。ここでは注を抜いて、二つのパラグラフを掲げておく。

 〈しかし、貨幣所有者が労働力を商品として市場で見出すためには、さまざまな条件があらかじめみたされていなければならない。商品交換はそれ自体では、その性質から生ずるもののほかにはどんな依存関係も生ぜしめない。この与件のもとでは、労働力が商品として市場に現われることができるのは、労働力が労働力自体の所有者によって売りに出されるか売られるばあいにかぎられる。したがって、労働力の所有者は労働力を自由に処分できなければならない、すなわち、自分の労働能力の、自分一身の、自由な所有者でなければならない(2)。貨幣所有者と労働力の所有者とは市場で出会い、同じ資格の交換者として相互に関係しあう。彼らがちがうのは、一方が買い他方が売るという点だけであり、このこと自体によって、双方とも法律上平等な人間なのである。
  この関係が持続するためには、労働力の所有者がつねにきまった時間についてだけ労働力を売る必要がある。彼が労働力をひとまとめにきっぱりと売れば、彼は自分自身を売るのであって、それまでの自由人から奴隷に、商人から商品になるからである。彼が自分の一身を保持したいと思えば、自分の労働力を一時的だけ買い手の処分にまかせざるをえず、その結果、労働力を譲渡しても、そのために労働力にたいする自己の所有権は放棄してはいないのである(3)。〉(江夏・上杉訳153頁)


●原注39

《初版》

 〈(4O) 古典的古代にかんする百科辞典のなかには、次のような不合理なことが書いてある。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とが欠けていたことを別にすれば」、資本は充分に発達していた、と。モムゼン氏も彼の著『ローマ史』のなかで、なんどもはきちがえをしている。〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈(2) 歴史家のあいだには、古典的古代では、「自由な労働者と信用制度が欠けていた」という例外を除き、資本が完全に発達していた、という不合理でもあり誤ってもいる主張が、しばしば見出される。モムゼン氏もまた、彼の『ローマ史』のなかで、これと同じような取り違いを積み重ねている。〉(江夏・上杉訳155頁)


●原注40

《初版》

 〈(41)だから、さまざまな立法は、労働契約にたいして最長期限を確定している。自由な労働が行なわれている諸国民のばあいには、すべての法典が、解約告知の条件を規定している。さまざまな国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された準州でも、また、ターザ〔1860年代に農地改革を実施した〕の変革までは事実上ドナウ諸州でも)、奴隷制がペオナージュ〔債務奴隷制〕という形態のもとに隠蔽されている。労働で返済されるはずで代々伝わってゆく前貸しが行なわれるために、個々の労働者ばかりでなく彼の家族も、事実上、他人やその家族の財産になる。ファレスはぺオナージュを廃止した。僣称皇帝マクシミリアンは、勅令を発布してこれを再び採用したが、この勅令は、ワシントンの下院では、適切にも、メキシコにおける奴隷制の復活のための勅令であると非難された。「私の特別な肉体的および精神的な技能および活動可能性について、私は……時間的に限定された使用を他人に譲渡することができる。なぜならば、それらは、こういった制限に応じて、私の全体性一般性とにたいする外的関係を保持しているからである。労働を介して具体化された私の全時間と私の生産全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の一身を、他人の所有物にすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学、ベルリン、184O年』、104ページ、第67節。)〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈(3) さまざまの立法は、労働契約についての最大限度をきめている。労働が自由であるような国民の法典はすべて、この契約の解除告知の条件を規定している。種々の国、とくにメキシコでは、奴隷制がペオナージュ〔債務奴隷制〕という名称をもつ形態のもとに隠蔽されている(アメリカの南北戦争以前にメキシコから引き離された領地でも、名称ではなく少なくとも事実上クーザ〔1860年代に農地改革を実施した〕の時代まではドナウ諸州でも、事情は同しであった)。労働で控除されることになっていて代々伝わってゆく前貸しによって、ひとりひとりの労働者ばかりでなく彼の家族もまた、他人とその家族の所有物になる。ファレスはメキシコのペオナージュを廃止した。僣称皇帝マキシミリアンは勅令によってこれを復活したが、ワシントンの議会は当然のことながら、この勅令を、メキシコでの奴隷制復活のための勅令であるとして告発した。
  「私は、私の肉体的および精神的能力と私の可能な活動力との使用を、きまった時間だけ他人に譲渡することができる。というのは、そのかぎりにおいて、それらは、私の存在の全体性と一般性と外的関係を保持しているにすぎないからである。しかし、労働のうちに実現された私の全時間と私の生産の全体とを譲渡することによって、私は、実体的なるもののうちにこそ存在するもの、すなわち、私の一般的活動力と私の一身とを、他人の所有物にするであろう」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節)。〉(江夏・上杉訳155-156頁)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈だが、第一の条件にすでに含まれている第二の条件は、彼が次の理由によって、自分の労働能力そのものを商品として市場にもたらし、売らねばならないということである。その理由というのは、彼はもはや自分の労働を、交換に出すことのできるような、なにか別の商品の形態で、なにかほかの使用価値に対象化された(彼の主体性の外に存在している)労働の形態でもってはおらず、彼が提供しうるものとして、売りうるものとしてもつ唯一の商品は、まさに、彼の生きた身体のなかに現存する、彼の生きた労働能力〔Arbeitsvermögen〕だ、ということである。(このVermögenという言薬は、ここではけっして、fortuna,fortune〔財産〕の意味でではなく、Potenz〔力能〕、δύναμς〔可能態〕の意味で理解されるべきである。)〉(草稿集④52頁)

《初版》

 〈貨幣所持者が労働力商品として市場で見いだすための第二の本質的な条件は、労働力の所持者が、自分の労働が対象化されている商品を売ることができないで、むしろ、自分の生きている肉体のうちにのみ存在している自分の労働力そのものを、商品として売りに出さざるをえない、ということである。〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈貨幣所有者が買うべき労働力を見出すための第二の本質的条件は、労働力の所有者が、自分の労働が実現されている商品を売ることができないで、自分の有機体のなかにのみ存在する自分の労働力そのものを、商品として売りに出さざるをえない、ということである。〉(江夏・上杉訳156頁)


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

 〈彼が、自分の労働がそのなかに対象化されているなんらかの商品の代わりに、自分の労働能力を、すなわち、他のすべての商品--それが商品の形態で存在しようと、貨幣の形態で存在しようと--から独自に区別されるこの商品を、売ることを強制されるためには、次のことが前提されている、--すなわち、彼の労働能力を実現するための対象的諸条件、彼の労働を対象化するための諸条件が欠けており、無くなってしまっており、その諸条件はむしろ富の世界、対象的富の世界として他人の意志に従属しており、彼にたいして商品所有者の所有物〔Eigentum〕として、流通においてよそよそしく対立している--他人の所有物〔Eigentum〕として対立している--、ということである。彼の労働能力を実現するための諸条件とはどのようなものか、言い換えれば、労働の、すなわち過程にある〔in processu〕・使用価値に実現されつつある活動としての・労働の対象的諸条件とはどのようなものか、ということは、あとでもっと詳しく明らかにしよう。〉(草稿集④52-53頁)

《初版》

 〈誰でも、自分の労働力とは別の商品を売るためには、もちろん、生産手段、たとえば原料や労働用具等々をもっていなければならない。彼は、皮がなければ長靴を作ることができない。彼には、そのほかに生活手段も必要である。誰でも、未来の生産物では、したがってまた、生産がまだ仕上がっていない使用価値では、食べてゆくことができない。しかも、人間は、世界の檜舞台に姿を現わした最初の日と同じように、いまもなお毎日、生産を始める前でも生産をしているあいだでも、消費しなければならない。生産物が商品として生産されれば、生産物は生産された後に売られなければならず、生産者の必要は、販売後にやっとみたされうることになる。生産時間には、販売のために必要な時間がつけ加わる。〉(江夏訳172-173頁)

《フランス語版》

 〈自分自身の労働力とは別な商品を売ろうとする人は誰でも、もちろん、原料や工具などのような生産手段を所有していなければならない。たとえば、彼は皮がなければ長靴を作ることができないし、しかも生活手段を必要とする。誰も、未来派の音楽家だって、後世の生産物で暮すことはできないし、まだ生産が完成していない使用価値によって生活を保つこともできない。人間は、世界の舞台に登場した最初の日と同様に、今日も、生産の以前でも生産の期間中でも、消費せざるをえないのである。生産物が商品であれば、生産者の必要をみたすことができるためには、生産物が売られなければならない。生産に必要な時間に、阪売に必要な時間が加わる。〉(江夏・上杉訳156頁)

   (続く)

 

 

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