『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

2022-02-13 13:07:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№5)(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きで、その第5回目です。
    前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁しているのに対して、それでは実際問題として、著書『価値形態論と交換過程論』のなかで久留間氏自身はどのように問題を提起しているのかを検討し、その問題提起のなかで久留間氏が引用している『資本論』第1篇第2章の第15パラグラフで、マルクスは何を問題にしているのかを問い、それは久留間氏がいうように〈それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる〉と、あたかもマルクスが貨幣に関する考察を結論的に述べているところであるかに説明していますが、果たしてマルクスにはそうした意図があったのかどうか、を検討するために、第15パラグラフ全体を紹介して、その解説を試みたのでした。しかしその解説はあまりにも長くなりすぎるので、一旦、途中で中断したのでした。今回はその続きです。やはり、もう一度、第15パラグラフ全体を紹介しておきます(久留間氏が引用している部分は赤字で示しました)。

 【15】〈(イ)先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。(ロ)金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば10ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。(ハ)どの商品もそうであるように、貨幣*はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。(ニ)貨幣*自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される。(ホ)貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。(ヘ)それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。(ト)すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。(チ)困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。
〔* カウツキー版、ロシア語版では「金」となっている〕

 (前回は、各文節ごとの解説を試み、(イ)から(へ)までの解説を紹介しました。今回はその続きの最後の文節(ト)(チ)の解説です。)

  《(ト)(チ) すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み込んだ端緒がなされていて、貨幣が商品であることは知られていました。しかし、それはやはり端緒に過ぎなかったのです。困難は、貨幣が商品であるということを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にあるのです。

 貨幣が商品であるという理解に達していた諸説の例は、第14パラグラフにつけられた原注45で紹介されていました。それらの引用文とその著者のそれぞれの人名索引の解説をつけて、もう一度、書き出して見ましょう。

 ・〈「われわれが貴金属という一般的名称で呼ぶことのできる銀や金そのものは····価値が····上がったり下がったりする····商品である。····そこで、そのより小さい重量でもってその国の生産物または製造品のより大きい量が買われるのならば、貴金属の価値は高くなったものとみなされる」〔S・クレマント〕『相互関係にある貨幣、商業、および為替の一般的観念に関する一考察。一商人著』、ロンドン、一六九五年・・・・
 (クレメント,サイモンClement,Simonイギリスの商人。)
 ・「銀や金は、鋳造されていてもいなくても、他のすべての物の尺度として用いられるけれども、ワイン、油、タバコ、布や織物と同じく一つの商品である」〔J・チャイルド〕『商業、ことに東インド貿易に関する考察』、ロンドン、一六八九年・・・・
 (チャイルド,サー・ジョサイアChild,SirJosiah(1630-1699)イギリスの商人,経済学者,重商主義者.高利貸資本に反対する「商業および産業資本の先駆者」,「近代的銀行業者の父」(マルクス)。)
 ・「厳密に言えば、王国の資産と富を貨幣に限定するのは適切でないし、金や銀を商品ではないとすべきではない」〔Th・パピロン〕『東インド貿易は最も有利な貿易である』、ロンドン、一六七七年・・・・〉
 (パピロン,トマスPapillon,Thomas(1623-1702)イギリスの商人,政治家,国会議員,東イソド会社の支配人のひとり。)

 原注では、この順序に引用文が紹介されていましたが、これを見ると、マルクスは17世紀の最後の数十年間のなかでも、もっとも最近のものから歴史を遡って紹介していたことが分かります。これらが貨幣分析の端緒だったというわけです。

 そしてその次に書かれている一文(困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある)が久留間鮫造氏によって、『資本論』の第1章第3節(どのようにして)、第4節(なぜ)、第2章(何によって)のあいだの関連を説明するものとして、問題提起されたことによって、極めて有名になったものです(『価値形態論と交換過程論』)。果たして久留間氏のようにこの一文に着目して、こうした『資本論』の一連の展開を説明することが、あるいはそれで説明可能だとすることが、妥当なのでしょうか。
  この問題については、すでに何度も論じてきたので(例えば第1回、第32回、第36回等々を参照)、ここで改めて取り上げる必要はないかも知れませんが、やはりこの問題は、これまで多くの人たちによって取り上げられ、論争にもなってきた問題なので、もう一度、論じておきましょう。
 ただ、私たちは、その久留間説を評価するためにも、そもそもこの第15パラグラフでは、全体としてマルクスは何を論じているのか、このパラグラフの本来の課題は何か、という問題から考えてみることにしましょう。というのは、久留間氏の問題提起が、あまりにも強い影響力があるために、あたかもこのパラグラフの課題は最後の文節で言われていることにあるかに思い込んでいる人がいないとも限らないからです。
 しかし果たしてマルクスがこのパラグラフで言いたかったことは、〈困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある〉ということなのでしょうか。私にはどうしてもそのように思えないのです。というのは、もし、そうしたことがこのパラグラフでマルクスが言いたいことなら、どうしてマルクスは、等価形態にある商品の価値の量的規定という問題から話を始めているのでしょうか。その説明がなかなかつかないのです。
 そうではなく、マルクスがこのパラグラフで中心に述べていることは、文節記号でいうと(ホ)で述べていることではないかと考えます。つまり貨幣としての金の価値の大きさは、産源地での他の諸商品との直接的な交換取引の中で確定されるのだということです。だから貨幣として、現実に流通にある金の価値は、すでに与えられたものとして前提されているのであって、流通過程の内部でも金と商品とが直接的な交換取引の関係に入って、それによってそれらの相対的価値がそれらの相互の交換によって確かめられるなどと考えるのは間違いなのだ、ということです。これは先に紹介した『経済学批判』の一文を良く吟味すれば分かります。
 だから17世紀の最後の十数年間における貨幣分析のなかで、当時の商人や経済学者たちが貨幣が商品であるとの理解に達していたとしても、彼らがそうした正しい認識に達していたというのではないのだということです。マルクスが〈それはやはり端緒にすぎなかった〉と述べているのはそういう意味ではないかと思います。つまり彼らはすでに金が貨幣として流通している現実を前提したうえで、そこで貨幣としての金と他の諸商品とが交換される現実を見て、それをあたかも直接的な交換取引と見立ててそうした主張をしているに過ぎないのですが、しかし、そうした理解そのものは決して正しいものではないのだ、というのがマルクスが言わんとすることではないでしょうか。
 つまり貨幣としての金が、他の諸商品と同じ一つの商品として登場するのは、あくまでも金の産源地においてのみであるということです。そうしたことを理解した上で、17世紀の最後の十数年間の商人や経済学者たちが貨幣は商品であると理解していたわけでは無かったということです。そうしたことを理解するためには、〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのか(商品が貨幣になるのか〉、つまり「商品の貨幣への転化」を論じたこの第2章でマルクスが展開してきたように論証する必要があるのだ、ということではないかと思います。
 だから、久留間氏が注目した最後の二つの文節((ト)(チ))で述べていることは、このパラグラフ全体でマルクスが中心に言いたいことから見れば、ある意味では、副次的な、あるいはそれを補強するようなものでしかないといえるのではないでしょうか。
 なぜ、マルクスがこうした貨幣としての金の価値の量的確定という問題を、ここで論じているのでしょうか。それは貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって、その価値の量的規定が確定されるのは産源地という特殊な交換過程の問題だからです。こうした産源地における金の他の諸商品との直接的交換取引というものは、全体の商品交換の過程からみるなら、極めて特殊なものですが、しかし、それもやはり交換過程の問題であることは確かでしょう。だからこそマルクスは、交換過程の最後あたりで(この第2章を締めくくる最後のパラグラフの直前のパラグラフで)、その特殊な交換過程の果たす役割として貨幣としての金の価値量の確定という問題を取り上げているのではないでしょうか。》

 (やはり今回も、途中ですが、一旦、ここで打ち切ります。続きは次回に回します。)

  それでは本文テキストの解説に移ります。今回から第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の第3節「労働力の売買」からになります。


◎  第3節  労働力の売買

 この〈第3節 労働力の売買〉はフランス語版は〈第3章 労働力の売買〉になっています。つまり〈〉が〈〉に格上げされているのです。ここらで、『資本論』の冒頭部分の構成が初版、第2版(現行版はほぼ第2版にもとづいていますが、若干の相違はあります)、フランス語版ではどのようになっているのかを見ておくことにしましょう。

〈初版〉 (江夏美千穂 訳)

  第1部 資本の生産過程
第1章 商品と貨幣
  (1)商品
  (2)商品の交換過程
  (3)貨幣または商品流通
      A 価値の尺度
      B 流通手段
     (a)商品の変態
      (b)貨幣の流通
     (c)鋳貨。価値象徴(シンボル)
      C 貨幣
      (a)貨幣蓄蔵
      (b)支払手段
      (c)世界貨幣)
第2章  貨幣の資本への転化
  (1)資本の一般的表式
  (2)一般的表式の諸矛盾
  (3)労働力の売買

〈第2版〉 (江夏美千穂 訳) 
      第1部 資本の生産過程
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
    第2節 商品のうちに表示されている労働の二重性格
    第3節 価値形態あるいは交換価値
       A 単純なあるいは単一の価値形態
         (1) 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
         (2) 相対的価値形態
            (a) 相対的価値形態の内容
            (b) 相対的価値形態の量的規定
         (3) 等価形態
         (4) 単純な価値形態の全体
       B 総和のあるいは発展した価値形態
         (1) 発展した相対的価値形態
         (2) 特殊的な等価形態
         (3) 総和のあるいは発展した価値形態の欠陥
       C 一般的な価値形態
         (1) 価値形態の変化した性格
         (2) 相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (3) 一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
    第4節 商品の呪物的性格とその秘密
  第2章 交換過程
  第3章 貨幣あるいは商品流通
    第1節 価値の尺度
        (価格-価格の尺度-価格の一般的上昇または下落-貨幣の計算名称、計算貨幣-価値量と価格との量的不一致-両者の質的不一致-商品の観念的な価値形態にほかならない価格)
    第2節 流通手段
         a 商品の変態(循環W-G-W-販売W-G-購買G-W-一章品の総変態-
           商品流通-商品流通と生産物交換とのちがい)
         b 貨幣の流通(商品変態と貨幣流通-貨幣の二度の位置変換-流通しつつ
           ある貨幣の量-流通速度-流通の流れと停滞-流通しつつある貨幣の量
           を規定する諸要因)
         c 鋳貨 価値象徴(鋳貨と棒状地金、鋳貨の摩滅-価値象徴-銀表章と銅表章
           -紙幣-強制通用している紙幣流通の法則)
    第3節 貨幣
         (a) 貨幣蓄蔵
         (b) 支払手段
         (c) 世界貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章  貨幣の資本への転化
    第1節 資本の一般的定式
    第2節 一般的定式の矛盾
    第3節 労働力の売買
       (「自由な労働者」-労働力の価値-「労働力」商品の特有な性質)

〈フランス語版〉  (江夏・上杉 訳)

      第1部 資本主義的生産の発展
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因--使用価値と交換価値または厳密な意味での価値(価値の実体。価値量)
    第2節 商品によってあらわされる労働の二重性格
    第3節 価値形態
       A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
         (a)価値表現の両極、価値の相対的形態と価値の等価形態
         (b)相対的価値形態
         (c)等価形態とその特色
         (d)単純な価値形態の全体
       B 総和の、あるいは発展した価値形態
         (a)価値形態の性格の変化
         (b)相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (c)一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
         (d)商品の物神性とその秘密
  第2章 交換
  第3章 貨幣または商品流通
   第1節 価値の尺度
   第2節 流通手段
        (a)商品の変態
        (b)貨幣の流通
        (c)鋳貨--価値表章
   第3節 貨幣
        (a)貨幣蓄蔵
        (b)支払手段
        (c)普遍的貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章 資本の一般的定式
  第5章 資本の一般的定式の矛盾
  第6章 労働力の売買

  こうして比較してみると、初版は部・章・(1)・A・(a)の構成になっているのに対して、第2版は部・篇・章・節・A・(1)・(a)の構成になっているために、第2篇と第4章の表題が「貨幣の資本への転化」という同じものが並ぶことになっています。それに対してフランス語版は、部・篇・章・節・A・(a)の構成ですが、第2篇は篇と章の構成になっているために、同じ表題が重なる愚が避けられています。


◎第1パラグラフ(流通過程で生じない価値の増加は、商品の使用価値で生じるしかない。その消費が価値を創造する独自の使用価値を持つ商品=労働力)

【1】〈(イ)資本に転化するぺき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。(ロ)なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。(ハ)同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。(ニ)なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。(ホ)そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。(ヘ)というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからである。(ト)だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。(チ)ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。(リ)そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に。〉

  (イ)(ロ) 資本に転化するぺき貨幣の価値変化、その増大はこの貨幣そのものには起こりえません。というのは、単純流通においては貨幣は購買手段としても支払手段としても、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけだからです。または、それが流通から引き上げられても、貨幣としての形態にとどまりこそすれ、蓄蔵貨幣という価値量のまったく変わることのない化石に固まってしまうからです。

  このパラグラフ全体はフランス語版では大幅に書き換えられており、パラグラフそのものは四つのパラグラフに分けられています。ここでは該当するフランス語版をまず最初に紹介して、引き4続いてその解説を行うことにしましょう。まずフランス語版です。

  〈価値の増加--これによって貨幣は資本に転化するはずであるが--は、この貨幣自体からは生ずることができない。貨幣は、購買手段または支払手段として役立つにしても、それで買うかまたは支払う商品の価格を実現するにすぎない。
  貨幣が元のままにとどまり、自分自身の形態を保持するならば、貨幣はもはやいわば石化した価値でしかない(1)。〉 (江夏・上杉訳154頁)

  私たちは第2節「一般的定式の諸矛盾」の結論として次のような「二重の結果」を得ました。すなわち貨幣の資本への転化は、①商品交換に内在する諸法則(=等価物同士の交換) にもとづいて展開されるべきこと、②それは流通部面で行われなければならず、しかも流通部面で行われてはならない、というものです。
  資本としての貨幣の流通G(貨幣)-W(商品)-G'において如何にして価値の増殖、剰余価値の形成が可能でしょうか。まず最初のG-Wにおいて、貨幣が購買手段や支払手段として機能したとしても、その価値を増やすことできません。それはただ諸商品の価値を実現するだけであって、そこに価値の増減はないのが法則だからです。
  また貨幣そのものは流通から引き上げられても、ただ蓄蔵貨幣に石化するだけで何ら価値の増大は生じません。

  (ハ)(ニ) 同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえません。というのは、この行為は商品の価値をただ現物の形態から貨幣の形態に再転化させるだけだからです。

  該当するフランス語版です。

  〈A-M-A'、すなわち、貨幣の商品への変換およびその同じ商品のより多くの貨幣への再変換が表現するところの価値の変化は、商品から生じなければならない。だが、 M-A'、という第二の行為では、商品がただたんに自然形態から貨幣形態に移行する転売では、価値の変化は実現しえない。〉 (同)

  それでは資本としての貨幣の流通の第二の部面、W-G'ではどうでしょうか。しかしこの場合も価値の変化は生じません。というのは、この流通はただ商品の価値をその現物形態から貨幣の形態に転化するだけで、商品交換の内在する諸法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、価値の変化はないからです。

  (ホ)(ヘ) そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないのですが、しかしその商品の価値に起きるのではありません。というのは、商品交換の法則では、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからです。
 
  同じくフランス語版です。

  〈さて今度は、A-M,という第一の行為を考察すれば、等価物同士の交換が存在すること、したがって、商品は、この商品に変換する貨幣よりも大きな交換価値をもたない、ということが見出される。最後の仮定が、すなわち、変化は商品の使用価値、つまり商品の使用または消費から生ずるという仮定が、残されている。〉 (同)

  価値の増大が貨幣で生じないのなら、あとは商品に生じると考えるしかありません。すなわちG-W-G'最初の流通行為C-Wの結果であるW(商品)に生じるしかないのです。しかし商品の価値にはではありません。なぜなら、商品の価値は商品交換の法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、その価値には変化が生じないはずだからです。

  (ト)(チ)(リ) だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはないことになります。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないでしょう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのです。すなわち労働能力または労働力という商品にです。

  まずフランス語版です。これはかなり書き換えられています。

  〈ところで、問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品--その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品--を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない。
  そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉 (江夏・上杉訳154-155頁)

  だから商品の価値に変化が生じないとすれば、その使用価値に生じる必要があります。しかし商品の使用価値は価値とは対立的な契機であって、使用価値には価値はまったく含んでいないのです。だから問題は使用価値の実現であるその消費の過程で価値が新たに生じるような独特の使用価値をもつ商品が見いだされなければならないのです。我が貨幣所持者は、市場において、その消費が価値を創造するような独特の使用価値を持つ商品を見いださねばならないのです。そしてそれは見いだされます。すなわち労働能力あるいは労働力という商品にです。
  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値--使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費--が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉 (草稿集④61頁)


◎原注38

【原注38】〈38 「貨幣の形態にあっては……資本は利潤を生まない。」(リカード『経済学原理』、267ページ。〔岩波文庫版、小泉訳、上巻、243ぺージ。〕)〉

  これは〈また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。〉という本文につけらた原注です。
  この引用では途中……と部分的に省略されていますが、小泉訳でも、そのあと出された羽鳥・吉澤訳でも中抜けはありませんでした。次のようになっています。

 〈貨幣の形に於いては、この資本は何等の利潤を生ずるものではないが、それと交換され得るべき、原料機械及び食物の形に於いては、それは収入を生じ、国家の富と資源を増すであろう。〉 (岩波文庫版、昭和27年6月第1版、上、243頁)
 〈貨幣の形態では、この資本は利潤をまったく生まない。貨幣がそれと交換されうる原料、機械および食料の形態では、資本は収入を生み、国家の富と税源を増加させるであろう。〉 (岩波文庫版、1987年6月、下、31頁)


◎第2パラグラフ(労働力の定義)

【2】〈(イ)われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。〉

  (イ) わたしたちが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことです。

  まずここでも最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈この名称のもとでは、人間の身体という人間の生きた一身のなかに存在していて、人間が有用物を生産するために運動させなければならないところの、肉体的および精神的力能の総体を、理解しなければならない。〉 (江夏・上杉訳155頁)

  ここでは労働能力、あるいは労働力の定義がなされています。それは生きている人間の肉体にそなわっていて、何らかの使用価値(有用物)を生産するときに、運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体を意味するということです。

  第1章「商品」の第2節「商品にあらわされる労働の二重性」の最後のパラグラフに、次のような説明がありました。

  〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a巻63頁)

  ここでは〈生理学的意味での人間の労働力の支出〉と〈特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出〉という形で〈人間の労働力の支出〉という言葉が二度出てきます。しかしこの段階ではまだ〈労働力〉というのはそもそも何か、ということは問わないままでした。

  また同章第4節「商品の物神的性格とその秘密」にも次のような一分があります。

  〈いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。〉  (全集第23a巻96-97頁)

  ここでは人間の身体に備わった潜勢的な力としての労働力ではなく、実際にそれが発揮される〈有用労働または生産活動〉を規定しているといえます。しかし〈人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だ〉というのは「労働力の支出」を規定しているといえるのではないでしょうか。

  最後に『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。--労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を--ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが--もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉 (草稿集④78-79頁)


◎第3パラグラフ(労働力が商品になる第一の条件は、労働力の自由な所持者であること)

【3】〈(イ)しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。(ロ)商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。(ハ)この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。(ニ)労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(39)。(ホ)労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。(ヘ)この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。(ト)なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。(チ)彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。(リ)そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである(40)。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければなりません。商品交換には、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んでいません。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、労働力の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからです。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのです。彼らの違いといえば、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人なのです。

  第1パラグラフの最後で〈われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に〉とありましたが、このような幸運に貨幣所持者が出会うためには、さまざまな条件があるというのです。それは商品交換そのものが示す条件でもあります。商品交換そのものにおいては商品所有者のあいだには対等の関係があるだけで、一方が他方を強引に暴力的に市場に引き出すようなことはできません。だから労働力が商品として市場に出てくるためには、労働力の所有者が自分の意志でそうすることが出来なければならないのです。そしてそのためはまず第一に、労働力が彼の自由な所有物として認められているということです。そうした自由が認められて、初めて彼は自分の労働力を自分の自由意志で商品として売りに出すことができるのです。だから市場における労働力の所持者と貨幣の所持者とは、リンネルを売ろうとしている人とそれを買おうとしている貨幣所持者との関係とまったく同じであって、彼らはまったく対等な平等な関係であって、違いはただ一方は売り手であり、他方は買い手であるという違いだけで法律上は同じ価値の所持者としてまったく対等・平等の関係にあるのです。

  (ヘ)(ト) この関係を持続させるためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とします。というのは、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまったなら、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからです。

  労働力の所持者が常に自分の自由意志で労働力を売ることが出来るためには、彼はそれを常に一定の時間を限って販売する必要があります。というのは、もし彼がそれをひとまとめに売ってしまうなら、それは彼自身を販売することになり、それは彼自身が貨幣所持者の持ち物になるということだからです。そうなると彼はただ貨幣所持者の奴隷になったのと同じです。彼は二度と彼の労働力を商品として販売することはできないでしょう。だからこうした貨幣所持者と労働力の所持者が市場で出会うことが維持されるためには、労働力の所持者は常に一定の時間を限って自分の労働能力を使用する権限を貨幣所持者に販売することでなければならないのです。

  (チ)(リ) 労働力の所持者が彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする関係、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければなりません。そして、そうでありうるのは、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけでなければなりません。そしてそのためには、彼は、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないということを堅持しなければならないのです。

  だから労働力の所持者は常に彼の労働力に対して、彼の所有物として相対し、彼の所有する商品という関係になければならないのです。そしてそのためには、彼は常に彼の労働力を一定の時間、期間を限って、その買い手に使用する権限を与えるのであって、労働力を譲渡してもその所有権は手放さず、保持していることができなければならないのです。

  『61-63草稿』『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

 〈ここではわれわれは商品流通の基礎の上に立っているのであり、したがって交換者たちのあいだには、流通過程そのものによって与えられる依存関係のほかには、どんな依存関係もまったく前提されておらず、彼らはただ、買い手と売り手として区別されるだけである。したがって、貨幣が労働能力を買うことができるのは、ただ、労働能力が商品そのものとして売りに出され、その持ち主〔Inhaber〕、すなわち労働能力の生きた所有者〔Besitzer〕によって売られるかぎりにおいてである。その条件は、第一に、労働能力の所有者〔Besitzer〕が自分自身の労働能力を思いどおりに処分する〔disponieren〕ということ、商品としてそれを思いどおりに処理する〔verfügen〕ことができるということである。そのためには彼はさらに、労働能力の所有者〔Eigtümer〕でなければならない。そうでなかったならば、彼はそれを商品として売ることができない。〉 (草稿集④52頁)

  労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた。〉 (全集第16巻128-129頁)

    (今回も長くなりましたので、全体を9分割して掲載します。)

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(2)

2022-02-13 13:07:17 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(2)


◎原注39

【原注39】〈39 古典的古代に関する百科事典のなかでは次のようなばかげたことを読むことができる。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とがなかったことを別とすれば」資本は十分に発達していた、というのである。モムゼン氏も彼の『ローマ史』〔全3巻、第2版、ベルリン、1856-1857年〕のなかでたびたびはき違えをやっている。〉

  これも最初はフランス語版をまず最初紹介しておきましょう。

  〈(2) 歴史家のあいだには、古典的古代では、「自由な労働者と信用制度が欠けていた」という例外を除き、資本が完全に発達していた、という不合理でもあり誤ってもいる主張が、しばしば見出される。モムゼン氏もまた、彼の『ローマ史』のなかで、これと同じような取り違いを積み重ねている。〉 (江夏・上杉訳155頁)

  さて、これは〈労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(39)〉という本文につけられた原注です。マルクスの文章からなっていますが、文節に分けて解説するまでもないと思います。
   要するに労働力を商品として市場に見い出すことができるのは、ある特定の歴史段階、すなわち資本主義的生産様式が発展してくる段階においてであって、それ以前の古代世界にはない条件だということです。ところが百科事典ではそうした歴史的条件というものに対する無知と混乱しか見いだせないということです。
   モムゼンの『ローマ史』でも、自由な労働者と信用制度が古代世界にはないことは認めているものの、資本は十分に発達していたというのですから、自由な労働者のないところに資本の十分な発達はないということが分かっていないとマルクスは指揮しているわけです。
 第3巻の「商人資本」を論じている第4篇の注46のなかでは、次のように書いています。

  〈46 W・キーセルバッハ氏(『中世における世界商業の歩み』、1860年)は、じっさい相変わらず、そこでは商人資本が資本一般の形態だという世界の観念のなかで暮らしている。資本の近代的な意味を彼は少しも感知していないのであって、それは、著書『ローマ史』のなかで「資本」や資本の支配を語っているときのモムゼン氏と同様である。〉 (全集第25a巻408頁)


◎原注40

【原注40】〈40 (イ)それゆえ、多くの立法が労働契約の最大限度を確定しているのである。(ロ)自由な労働が行なわれている諸国民の場合には、すべての法律書が契約解除予告条件を規制している。(ハ)いくつかの国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された准州でも、またクーザの変革までは事実上ドナウ諸州でも)奴隷制が債務奴隷制〔Peonage〕という形態の下に隠されている。(ニ)労働で返済されることになっていて、代々伝わってゆく前貸しによって、労働者個人だけではなく彼の家族も事実上は他の人々やその家族の所有物になる。(ホ)フアレスは債務奴隷制を廃止した。(ヘ)自称皇帝マクシミリアンは一つの勅令によって再び債務奴隷制を取り入れたが、この勅令はワシントンの下院で適切にもメキシコにおける奴隷制の再採用のための勅令として非難された。(ト)「私の特別な肉体的および精神的な技能と活動可能性とについて、私は……時間的に限定された使用をある他人に譲渡することができる。というのは、それらは、この限定にしたがって、私の全体性と一般性とにたいする外的な関係を与えられるからである。私の労働によって具体的な全時間と私の生産物の全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節。〔岩波書店版、速水・岡田訳、109ページ。〕)〉

 (イ)(ロ) それだから、多くの法律によって労働契約の最大限度を確定しているのです。自由な労働が行なわれている諸国民の場合には、すべての法律書が他方で労働の契約を解除する予告条件を規制しています。

  これは〈彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである(40)〉という本文につけられた原注です。

  つまり〈ただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで〉あること、だから〈労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しない〉ということが、労働契約のときの労働時間の最大限を決めることによって確定しているというのです。
   先に紹介した『賃金・価格・利潤』でもマルクスは〈労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである〉と述べ、そこに付けられた注では〈イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた〉とありました。
    ここでは労働契約を解除するための予告条件も法律で決められているとも指摘されています。いきなりにクビというのではなく、現在では、経営者が労働者のクビを切るためには、30日前に予告することが法律で決められています。そうしない場合は、会社側は30日分以上の平均賃金を支払う必要があるということです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) いくつかの国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された准州でも、またクーザの変革までは事実上ドナウ諸州でも)奴隷制が債務奴隷制〔Peonage〕という形態の下に隠されて存在しています。債務奴隷制というのは、代々伝わってゆく前貸しが、労働で返済されることになっていて、労働者個人だけではなく彼の家族も事実上は他の人々やその家族の所有物になるような制度です。フアレスは債務奴隷制を廃止しました。自称皇帝マクシミリアンは一つの勅令によって再び債務奴隷制を取り入れましたが、この勅令はワシントンの下院で適切にもメキシコにおける奴隷制の再採用のための勅令として非難されたのでした。

    ここにはさまざまな歴史的な事実が紹介されていて、それらを調べていくと限りがありません。だから具体的な事実についても一応は調べましたが、その解説は省略します。
  ここで重要なのは、一見、自由な労働者であるかに思える場合も、債務関係に縛りつけられて、事実上、労働者個人だけではなく、その家族も雇い主の所有物になるような関係があるということです。それを債務奴隷制というのですが、それらは奴隷制というだけあって、いまここで問題になっているような〈労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しない〉というような関係はすでに事実上なくなっているのだということです。

  マルクスは1867年10月11日のクーゲルマンへの手紙のなかで、クーゲルマンから「債務奴隷制と何か?」という質問を受けたに対して、次のように説明しています。

  債務奴隷制〔peonage〕とは、将来の労働にたいする貨幣の前貸しです。この前貸しは普通の高利の場合と同じことです。労働者は一生債務者であり債権者の強制労働者であるばかりではなく、この関係は家族やそのあとの世代にも引き継がれ、したがってあとの世代は事実上債権者に属するのです。〉 (第31巻465-466頁)

  (ト) 「私の特別な肉体的および精神的な技能と活動可能性とについて、私は……時間的に限定された使用をある他人に譲渡することができる。というのは、それらは、この限定にしたがって、私の全体性と一般性とにたいする外的な関係を与えられるからである。私の労働によって具体的な全時間と私の生産物の全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節。〔岩波書店版、速水・岡田訳、109ページ。〕)

  これはヘーゲルの『法哲学』の一文ですが、分かりにくいので、比較的分かりやすい長谷川宏訳を紹介しておきましょう。

  〈わたしの肉体的・精神的な特殊技能や活動の可能性のうち、それにもとづく個々の産物や時間的に限られたその使用は、他人に売ることができる。このような限定がつけば、それは、私の全体性や一般性の外に出たものとなるのだから。労働によって具体化された時間の全体や産物の全体を売るのは、わたしの魂を、わたしの活動一般と現実一般を、わたしの人格性を、他人に所有されることである。〉 (『法哲学講義』作品社2000年4月、154頁)

 この『法哲学講義』にはヘーゲル自身の書いた『法哲学要綱』とそれをヘーゲル自身が講義のなかで口頭で説明したものとを区別して紹介していますが、口頭での説明の部分も一部紹介しておきましょう。

 〈召使や日雇いは、金で他人に雇われるが、時間単位で雇われる点で、奴隷とは本質的にちがいます。だれかが全生涯を雇われたとすると、私たちの国家はこれを認めないでしょう。それは奴隷になることであるし、全生涯をかけてうみだすものは、その人の人格そのものですから。〉 (同前155頁)

 だからヘーゲルの先の引用文でも、前半部分は時間を限って労働力を売ることについて述べていますが、後半部分は〈私の一般的な活動と現実性、私の人格をある他人の所有とすることになる〉というのは奴隷について述べているわけです。


◎第4パラグラフ(労働力が商品になるための第二の条件)

【4】〈(イ)貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならないということである。〉

   (イ) 貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力の所持者が自分の労働が対象化されている商品を持っておらず、売ることができないので、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力を、商品として売り出さなければならないという条件にあることです。

    労働力がそれを所持する人の自由な所有物であることだけでは、それが商品として市場に売りに出される条件としては不十分です。というのは、彼はその労働力を自分自身に必要なものを生産することに支出することも可能だからです。だから彼が自分の労働力を彼自身の生活手段などの生産に支出できない状態になければなりません。つまり彼が自分の労働力を支出する対象物(原料や用具)を持っておらず、だから商品として売ることのできる有用物を生産できない状態でなければならないのです。つまり彼に売ることができるのは、彼自身の肉体に備わっている労働力だけだという状態にあることが必要なのです。
  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈だが、第一の条件にすでに含まれている第二の条件は、彼が次の理由によって、自分の労働能力そのものを商品として市場にもたらし、売らねばならないということである。その理由というのは、彼はもはや自分の労働を、交換に出すことのできるような、なにか別の商品の形態で、なにかほかの使用価値に対象化された(彼の主体性の外に存在している)労働の形態でもってはおらず、彼が提供しうるものとして、売りうるものとしてもつ唯一の商品は、まさに、彼の生きた身体のなかに現存する、彼の生きた労働能力〔Arbeitsvermögen〕だ、ということである。(このVermögenという言薬は、ここではけっして、fortuna,fortune〔財産〕の意味でではなく、Potenz〔力能〕、δύναμς〔可能態〕の意味で理解されるべきである。)〉 (草稿集④52頁)


◎第5パラグラフ(生産手段も生活手段もないから労働力そのものを商品として販売せざるをえない)

【5】〈(イ)ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。(ロ)彼は革なしで長靴をつくることはできない。(ハ)彼にはそのほかに生活手段も必要である。(ニ)未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできない。(ホ)そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない。(ヘ)彼が生産を始める前にも、生産しているあいだにも。(ト)もし生産物が商品として生産されるならば、生産物は生産されてから売られなければならないのであって、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させることができるのである。(チ)生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのである。〉

 (イ)(ロ) ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、その商品を生産するために必要な生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければなりません。革なしでは長靴をつくることはできないのです。

  このパラグラフは、その前の第4パラグラフのさらなる説明になっています。前のパラグラフで〈労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売り出さなければならない〉とありましたが、今回のパラグラフはそのさらに詳しい説明といえるでしょう。
  すなわち、ここでは労働力の所持者が長靴の生産に自らの労働力を支出して、長靴を商品として販売して、その貨幣で彼に必要なものを購入することができるためには、彼は長靴を作るための革や道具を持っていなければならないことが指摘されています。

  (ハ)(ニ)(ホ) 彼にはそのほかに生活手段も必要です。長靴を生産してそれを販売して生活手段を購入するまでのあいだ、彼は生きていなければならないのですから、彼が商品の生産者になるためには、生産手段だけではなく、生活手段も必要なのです。いま生産している長靴が売れれば、食べるものが買えると言っても、それまでの間、生活手段なしには生きられません。未来の生産物では、したがってまたその生産がまだ終わっていない使用価値では、だれも、未来派の音楽家でさえも、食ってゆくことはできないのです。そして、人間は、地上に姿を現わした最初の日と変わりなく、いまもなお毎日消費しなければならない宿命にあります。

  ここでは労働力の所持者が自分で商品を生産してそれを売って生活していくためは、生産手段だけではなくて、生産して販売して、それで生活手段を入手するまでの間に消費する生活手段も事前に持っていなければならないことが指摘されています。いずれにせよ私たちはとにかく毎日食べなければ生きていけないのですから、それは厳然たる過酷な自然必然性なのです。

  (ト)(チ) もし例え生産物が商品として生産されたとしても、その生産物は生産されてからさらに売られなければならないのであって(すぐに売れるとは限らない)、売られてからはじめて生産者の欲望を満足させる諸物を入手することができるのです。だから生産時間にさらに販売のために必要な時間が加わってくるのです。

  生産時間に販売時間を加えた時間、生産者はとにかく生きるために食べなければならず、だから彼は生産者になるためには、生産手段だけではなく、生活手段も必要なのです。この両者があって初めて彼は自分の労働力を自分の商品の生産のために支出することが可能になりますが、ということは彼が自分の労働力そのものを商品として販売せねばならないということは、彼にはこうしたすべての条件がないということに他なりません。
  ここでも『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈彼が、自分の労働がそのなかに対象化されているなんらかの商品の代わりに、自分の労働能力を、すなわち、他のすべての商品--それが商品の形態で存在しようと、貨幣の形態で存在しようと--から独自に区別されるこの商品を、売ることを強制されるためには、次のことが前提されている、--すなわち、彼の労働能力を実現するための対象的諸条件、彼の労働を対象化するための諸条件が欠けており、無くなってしまっており、その諸条件はむしろ富の世界、対象的富の世界として他人の意志に従属しており、彼にたいして商品所有者の所有物〔Eigentum〕として、流通においてよそよそしく対立している--他人の所有物〔Eigentum〕として対立している--、ということである。彼の労働能力を実現するための諸条件とはどのようなものか、言い換えれば、労働の、すなわち過程にある〔in processu〕・使用価値に実現されつつある活動としての・労働の対象的諸条件とはどのようなものか、ということは、あとでもっと詳しく明らかにしよう。〉 (草稿集④52-53頁)


◎第6パラグラフ(貨幣が資本に転化するためには、二重の意味での自由な労働者が必要)

【6】〈(イ)だから、貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。(ロ)自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。〉

  (イ)(ロ) 貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければなりません。ここで自由というのは、以上に述べたことから分かるように、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、もう一つは労働力のほかには商品として売るべきものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味での自由なのです。

  このパラグラフはそれまで述べてきたことをまとめて結論的に述べています。すなわち、貨幣が資本に転化するためには、二重の意味で自由な労働者が歴史的に登場することが前提されるということです。このような自由な労働者の存在は封建社会が崩壊する過程の血塗られた歴史のなかで準備されたのですが、それは『資本論』の第1巻の最後の篇で問題になります。だから次のパラグラフで述べているように、ここでは問題にされません。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈つまり、貨幣の資本への転化のための条件が、貨幣と生きた労働能力との交換、すなわちその持ち主からの生きた労働能力の購買である以上、そもそも貨幣が資本に、あるいは貨幣所有者が資本家に転化できるのは、まったくただ、彼が商品市場で、流通の内部で自由な労働者を見いだすかぎりにおいてである。自由な、というのは、一方では彼が自分自身の労働能力を、商品として思うままに処分するというかぎりにおいてであり、他方では彼が思うままに処分できるほかの商品をなに一つもっていない、言い換えれば、彼の労働能力を実現するための、すべての対象的諸条件から自由であり、免れており、離れている〔frei,los und ledig〕というかぎりにおいてである。だからまた、貨幣所有者が対象化された労働の、自己自身を堅持する〔an sich selbst festhaltend〕価値の、主体および担い手として、資本家であるのと同じ意味で、労働能力の持ち主は彼自身の労働能力の単なる主体、単なる人格化として、労働者なのである。〉 (草稿集④53-54頁)


◎第7パラグラフ(自由な労働者が歴史的に生まれる過程は当面の課題ではない)

【7】〈(イ)なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現われるかという問題には、労働市場を商品市場の一つの特殊な部門として自分の前に見いだす貨幣所持者は関心をもたない。(ロ)そして、この問題はしばらくはわれわれの関心事でもない。(ハ)われわれは、事実にしがみつくという、貨幣所持者が実地にやっていることを、理論的にやるわけである。(ニ)とはいえ、一つのことは明らかである。(ホ)自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのではない。(ヘ)この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。(ト)それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) どうしてこうした自由な労働者が流通において、自分の前に立ち現われたのかということについては、労働市場も商品市場の一つの特殊な部門として考えている貨幣所持者は関心をもちません。そして、この問題にはしばらくは私たちもとらわれずに、とりあえずは関心の外に置きます。私たちは、そうした事実、二重の意味での自由な労働者が市場に存在しているという事実にしがみつくという、貨幣所持者が実際にやっていることを、とりあえずは理論的にやることにしましょう。

  すでに述べましたように、自由な労働者を市場に見いだすということは貨幣が資本に転化するための条件なのです。つまりそれは資本主義的生産様式が歴史的に登場することと同じ意味を持ちます。しかし私たちは発展した資本主義的生産様式を前提してその内在的な諸法則を解明しようとしているわけですから、それが歴史的にどのように生まれてきたか、ということはとりあえずは別の問題なのです。もちろん両者は深く関連していますが、しかし理論的には分けて考える必要があるということです。だからマルクスは『資本論』の第1巻で、とりあえず資本の生産過程の解明をひとまず終えたあとの最後の篇でそうした歴史的な問題を取り上げているのです。
  だからとりあえず、私たちは商品市場の特殊的な部門である労働市場に自由な労働者が存在するという前提にしがみついて、以下の考察をやっていくということです。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) とはいいましても、一つのことはだけは明らかです。つまり自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を生みだし、他方の側にただ自分の労働力だけの所持者を生みだすのでは決してありません。この関係は、決して自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもないのです。それは、明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、多くの経済的変革の産物なのです。すなわち、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物といえるのです。

  二重の意味での自由な労働者が流通過程に現れる理由を問わないと言いましたが、しかしハッキリしていることは、それは決して自然の結果そうしたことになったわけではありません。それは一つの歴史的なものですが、あらゆる時代に共通な社会的な関係というわけでもありません。それは明らかに、資本主義的生産が勃興してくる前提なのですから、それに先行する諸社会の歴史的な発展の産物でしり、その結果といえるのです。資本主義的生産以前の多くの過去の社会的な生産有機体(構成体)が没落していく過程によって生み出されてきたものと言えるでしょう。しかしそうした歴史を辿ることはここでの課題ではありません。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

 〈だが、この自由な労働者は--したがってまた、貨幣所有者と労働能力の所有者とのあいだの、資本と労働とのあいだの、資本家と労働者とのあいだの交換は--、明らかにそれ自身、先行した歴史的発展の産物、結果であり、多くの経済的変革の要約〔Resumé〕であり、また他の社会的生産諸関係の没落と、社会的労働の生産諸力の一定の発展とを前提する。この関係の前提と同時に与えられている一定の歴史的諸条件は、この関係についてののちの分析のさいにおのずから明らかとなろう。しかし資本主義的生産は、自由な労働者、すなわち、売るべきものとしては自分自身の労働能力しかもっていない売り手が、流通の内部に、市場に、見いだされる、という前提から出発する。つまり資本関係の形成は、はじめから、この関係が社会の経済的発展の--社会的生産諸関係および生産諸力の一定の歴史的段階にしか現われることができない、ということを示している。それははじめから、歴史的に規定された経済的関係として、すなわち経済的発展の、社会的生産の、一定の歴史的時代に属する関係として現われるのである。〉 (草稿集④54頁)

  次に『賃金・価格・利潤』からも紹介しておきます。

  だがそうするまえに、次のことが問題にされるかもしれない。市場には〔一方に〕土地や機械や原料や生活資料--自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である--をもった〔労働力の〕買い手の一組がおり、他方には、労働力すなわち労働する腕と頭のほかにはなにも売るべきものをもっていない〔労働力の〕売り手の一組がいるという、この奇妙な現象、一方の組は利潤をあげ金をためるためにたえず買い、他方の組は暮らしをたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうして起こるのか? と。この問題の研究は、経済学者たちが「先行的蓄積または原蓄積*とよんでいるもので、だがじつは原収奪とよぶべきものの研究になるであろう。われわれは、このいわゆる原蓄積の意味するところは、労働する人間と彼の労働手毅とのあいだに存在する原結合解体をもたらした一連の歴史的過程にほかならないことを知るであろう。しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外である。労働する人間と労働手段との分離がひとたび確立されると、こうした状態はおのずから存続し、つねに規模を拡大しながら再生産され、ついに生産様式上の新しい根本的な革命がふたたびこれをくつがえして新しい歴史的形態で原結合を復活させるまでつづくであろう。
  * アダム・スミスは、労働にさきだっておこなわれる蓄積といっている(『諸国民の富』、前掲訳書、(2)、232-233ページ、②、94ぺージ)。なお「原蓄積」Oribinal Accumulationは、『資本論』第1巻第24章で「本源的蓄積」Primitive Accumulaitonといわれているものにあたるが、ここでは「原罪」などと同じ言い方で、風刺的意味をふくんでいると思われる。以下の「原収奪」「原結合」もこれにならった言い方である。〉 (全集第16巻129-130頁)


◎第8パラグラフ(先に考察した経済的諸範疇もそれらの歴史的な痕跡を帯びている)

【8】〈(イ)さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている。(ロ)生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包みこまれている。(ハ)商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。(ニ)われわれが、さらに進んで、生産物のすべてが、または単にその多数だけでも、商品という形態をとるのは、どんな事情のもとで起きるのかを探究したならば、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが見いだされたであろう。(ホ)とはいえ、このような探究は商品の分析には遠いものだった。(ヘ)商品生産や商品流通は、非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれうるのである。(ト)生産物が商品として現われることは、社会内の分業がかなり発展して、最初は直接的物々交換に始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とする。(チ)しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 歴史を問わないといいましたが、これまで私たちが考察してきた経済的諸範疇も実はそれらの歴史的な痕跡を帯びているのです。例えば生産物が商品になるというのは一つの歴史的な諸条件があってはじめて言えることなのです。つまり生産物が商品になるためには、生産物が生産者自身のための直接的生活手段として生産されているような状態ではだめなのです。

  このパラグラフはその前のパラグラフで二重の意味での自由な労働者が市場に登場する歴史的な過程は問わないで、私たちはそれをただ前提して考察をはじめるのだと述べていたことに関連して、歴史は問わないと言っても、そもそもそれまで私たちが考察してきた経済的な諸範疇そのものも歴史的な痕跡を帯びているし、その考察のなかで歴史的な背景に遡ることも行われてきたことが指摘されています。
  それは生産物が商品になるのはどうしてか、ということが第1章の第4節で取り上げられたようにです。生産物が商品になるためには、それが自分自身の生活手段になるのではなく、他人のための使用価値(生活手段)になるものでなければなりません。つまり社会的な分業が前提されるのです。『61-63草稿』を紹介しておきましょう。

  〈われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。商品の分析は、商品の定在のなかに一定の歴史的諸条件が包み込まれていることをも示した。たとえば、生産物が生産者たちによって使用価値として生産されるだけであれば、その使用価値は商品とはならない。このことは、社会の成員のあいだに歴史的に規定された諸関係があることを前提している。〉 (草稿集④54頁)  

  (ニ)(ホ) 単に生産物が商品になるというだけではなくて、さらに進んで、生産物のすべてが、あるいはその多数が、商品になるのは、どんな事情のもとでかを探究したのでしたら、それは、ただ、まったく独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上だけで起きるものだということが分かったでしょう。とは言っても、このような探究をしたなら商品の分析から外れてしまうことになったでしょうが。

  すべての生産物が、あるいは生産物の多くが、商品になるのは、資本主義的生産様式においてであって、それ以外の先行する諸社会では、商品になる生産物はかぎられたものだったのです。しかしどうしてどんな事情でそうしたことが生じるのかを探求するのは、ここでの課題ではありません。先に紹介した『61-63草稿』の続きです。

  〈ところで、もしわれわれがさらに次の問題を、すなわち、どのような事情のもとで生産物が一般的に商品として生産されるのか、あるいはどのような諸条件のもとで商品としての生産物の定在が、すべての生産物の一般的かつ必然的な形態として現われるのか、という問題を追究したならば、それは、まったく特定の歴史的生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上でのみ生じることだ、ということがわかったであろう。しかしそのような考察をしたとすれば、それは商品そのものの分析からは遠く離れてしまうことになったであろう。というのは、われわれがこの分析でかかわりあったのは、商品の形態で現われるかぎりでの諸生産物、諸使用価値であって、あらゆる生産物が商品として現われなければならないのは、どのような社会的経済的基礎の上でのことか、という問題ではないからである。〉 (草稿集④54-55頁)

  (ヘ)(ト)(チ) 商品生産や商品流通は、歴史的には、まだ非常に大きな生産物量が直接に自己需要に向けられていて商品に転化していなくても、つまり社会的生産過程がまだまだその広さからも深さからも完全には交換価値に支配されていなくても、行なわれえます。生産物が商品として現われることは、社会内の分業がある程度発展していて、最初は直接的な物々交換で始まる使用価値と交換価値との分離がすでに実現されていることを条件とします。しかし、このような発展段階は、歴史的に非常に違ったいろいろな経済的社会構成体に共通なものなのです。

  私たちは第1章第4節や第2章のなかで、商品交換が生まれてくるのはどのようにしてか、まずは有用物と価値物との分離が生じ、やがて貨幣が生まれて、商品流通がますます発展してくる過程を学びました。そして価値形態の発展とは、まさにこうした商品交換が発展する過程において、価値関係のなかの価値表現という関係だけを取り出してそれを発展的に見たものだということが分かったのでした。だから私たちが第1篇で考察したことはそうした商品交換の歴史的な発展過程を凝縮して分析的に考察したことでもあるのです。
  『61-63草稿』の残りの部分を紹介しておきましょう。

  〈われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、したがってまた商品流通は、さまざまの共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、したがってまたけっして商品の形態をとらないのに--生じうる。〉 (草稿集④55頁)〉


◎第9パラグラフ(貨幣もまた歴史的に初期の段階に生まれ、さまざまな社会に共通するものであるが、資本はある特定の発展段階においてのみ生まれ、歴史的に一つの世界史を包括している)

【9】〈(イ)あるいはまた貨幣に目を向けるならば、それは商品交換のある程度の高さを前提する。(ロ)種々の特殊な貨幣形態、単なる商品等価物、または流通手段、または支払手段、蓄蔵貨幣、世界貨幣は、あれこれの機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的生産過程の非常にさまざまな段階をさし示している。(ハ)それにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分である。(ニ)資本はそうではない。(ホ)資本の歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてない。(ヘ)資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。(ト)それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである(41)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 他方、貨幣に目を向けますと、それは商品交換のある程度の高さを前提とします。さまざまな特殊な貨幣の形態、単なる商品の等価物としての貨幣、または流通手段や支払手段としての貨幣、さらには蓄蔵貨幣や世界貨幣は、あれこれの貨幣の機能の範囲の相違や相対的な重要さにしたがって、社会的な生産過程のさまざまな段階をさし示しています。しかしそれにもかかわらず、これらのすべての形態が形成されるためには、経験の示すところでは、商品流通の比較的わずかな発達で十分なのです。

  このパラグラフも先のパラグラフの冒頭〈さきに考察した経済的諸範疇もまたそれらの歴史的な痕跡を帯びている〉ということの説明の続きです。先のパラグラフでは〈生産物の商品としての定在のうちには一定の歴史的な諸条件が包みこまれている〉ことが説明されましたが、今回は貨幣を問題にするということです。
  そして貨幣の場合も商品の交換のある程度の高さを前提としますが、しかし商品流通の比較的わずかな発達段階でも、貨幣は生まれてくるし、その特殊な諸形態、等価物としてのその存在や、流通手段や支払手段、蓄蔵貨幣や世界貨幣という貨幣の諸形態や諸機能もそうした商品流通の初期のころから生まれてくると指摘されています。
  この部分も先に紹介してきた『61-63草稿』の続きの部分を紹介しておきましょう。

  〈他方、貨幣流通のほうは、したがってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外にはなにも前提しない。もちろんこれもまた一つの歴史的前提ではあるが、しかしそれは商品の本性に従って、社会的生産過程のきわめてさまざまの段階でみたされうるものである。個々の貨幣形態、たとえば蓄蔵貨幣としての貨幣の発展や支払手段としての貨幣の発展を、立ちいって考察すれば、それは社会的生産過程のきわめてさまざまな歴史的段階を示唆するであろう。すなわち、これらさまざまの貨幣機能の単なる形態から生まれる歴史的区別を示唆するであろう。しかしながら、右の考察によって、蓄蔵貨幣としての、あるいは支払手段としての形態での貨幣の単なる定在は、商品流通がいくらかでも発展しているあらゆる段階に同様に属するものであること、したがってまたそれはある一定の生産時代に制限されないものであること、それは生産過程の前ブルジョア的段階にもブルジョア的生産にも同様に固有のものであることが明らかになるであろう。〉 (草稿集④55頁)

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 資本はそうではありません。資本が生まれてくる歴史的存在条件は、商品・貨幣流通があればそこにあるというものではけっしてないのです。資本は、すでにこれまでにも指摘してきましたが、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのです。そして、この条件が生まれるということには、一つの歴史的な条件が発生することであり、それは一つの世界史を包括しているのです。だから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのです。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈資本についてはそうでない。資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている。〉 (江夏・上杉訳157-158頁)〉

  これまで見てきたように、商品や貨幣は歴史的にはかなり初期の段階から生まれてくるし、それはさまざまな歴史的な生産様式に共通のものとして存在していることが指摘されました。しかしここでは資本という経済的範疇も歴史的な痕跡を帯びていますが、しかしそれは商品や貨幣とは違って、ある特定の歴史的な発展段階においてであって、商品や貨幣があればそこにあるというようなものではない、と指摘されています。確かに資本は商品や貨幣を前提しますが、しかしそれ以上に決定的なのは、二重の意味での自由な労働者が市場に登場するということだからです。そしてこうした労働者が生まれてくるのは、すでに指摘されましたように、〈多くの経済的変革の産物、たくさんの過去の社会的生産構成体の没落の産物なので〉す。だから資本主義的生産様式というのは、歴史的に階級対立の社会の最後の発展段階を指し示しており、だから世界史の特定の段階を包括したものとして登場したのです。それははじめから社会的生産過程の新しい一時代を告げ知らせるものなのです。
  ここで〈資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである)〉{フランス語版=〈資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている〉}ということでマルクスは何をいわんとしているのでしょうか。
  これは商品や貨幣という経済的諸範疇は歴史的には多くの社会的生産のなかにその比重の大小はあっても共通している存在しているものです。しかしそれはある特定の生産段階全体を覆うようなものとして存在しているわけではありません。いずれもさまざまな社会組織のなかに共通しているものですが、それはあくまでも部分的な限定された形でしかなかったのです。しかし資本の場合は、それも古代から高利資本や商人資本として部分的には存在しましたが、しかし社会的生産全体を根底から包括するものとしては、資本主義的生産様式という歴史的には特定の発展段階において初めて登場したのであって、しかもそれは社会的生産全体が資本によって染め上げられるようなものとして存在しているのです。こうした意味で商品や貨幣とは同じ形態的諸範疇だとはいえ、根本的に違っているのです。こうしたことをマルクスは言いたかったのではないかと思います。
  最後に『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈しかし資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。〉 (草稿集④55頁)


  (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(3)

2022-02-13 13:06:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(3)

◎原注41

【原注41】〈41 (イ)つまり、資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということである。(ロ)他方、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が一般化されるのである。〉

   (イ)(ロ) つまり、資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとって彼のもっている商品という形態をとっており、したがって彼の労働が賃労働という形態をとっているということです。他方で、この瞬間からはじめて労働生産物の商品形態が支配的な社会形態になるのです。

  これは〈それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである(41)〉という本文に付けられた原注です。なおこの原注は初版にはありません。
  労働力が商品になり、労働者の労働が賃労働になるということが資本主義時代を特徴づけることになると指摘されています。そして資本主義的生産様式において、はじめて生産物の商品形態が一般的になり、ますます多くの生産物が商品になり,価値法則が社会全体に貫くものになるということです。だから商品の価値も資本主義的生産様式において、初めてその概念に相応しいものになるといえるのかも知れません。


◎第10パラグラフ(労働力という独特な商品の価値はどのように規定されるのか?)

【10】〈(イ)そこで、この独特な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。(ロ)他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている(42)。(ハ)この価値はどのように規定されるであろうか?〉

  (イ)(ロ)(ハ) そこで、この資本主義を特徴づける独特な商品である労働力が、もっと詳しく考察されなければなりません。他のすべての商品と同じように、この商品もある価値をもっています。この価値はどのように規定されるでしょうか?

  ここから話題は転換して、労働力という独特の商品を詳しく考察するとしています。そしてその最初に労働力という商品の価値はどのようにして規定されるかと問題を提起して終わっています。しかしフランス語版では単に?で終わるのではなく、〈その価値はどのようにして規定されるか? その生産に必要な労働時間によって〉(江夏・上杉訳158頁)と答えも書いています。


◎原注42

【原注42】〈42 「一人の人の価値は、他のすべての物の価値と同じに、彼の価格である。すなわち、彼の力の使用にたいして支払われるであろうだけのものである。」(T・ホッブス『リヴァイアサン』、所収、『著作集』、モールズワース編、ロドンドン、1839-1844年、第3巻、76ページ。〔岩波交庫版、水田訳、(1)、147-148ページ。〕)〉

  これは〈他のすべての商品と同じに、この商品もある価値をもっている(42)〉という本文につけられた原注です。
  ここではホッブズの『リヴァイアサン』からの抜粋だけですが、『賃金・価格・利潤』でも同じようにホッブズの『リヴァイアサン』に次のように言及しています。

  イギリスの最も古い経済学者で、かつ最も独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその著『リヴァイアサン』で、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。
  「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である*。」
  * 『リヴァイアサン』。ホッブズ『著作集』、ロンドン、1839年、第3巻、76ぺージ(岩波文庫版、水田洋訳、(1)、147-148ぺージ)。〉 (全集第16巻129頁)

  また『剰余価値学説史』のなかには、次のような記述が見られます。

  労働能力
  「ある人の価値または値うちは、他のすべてのものについてと同じように、彼の価格、すなわち、彼の力の使用にたいして与えられるだけのものである。」((『リヴァイアサン』、『T・ホッブズの英文著作集』、モールズワース篇、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ。〔岩波文庫版、水田洋訳『リヴァイアサン』(1)、147/ 148ページ。〕) 「人間の労働」(つまり、彼の労働する力の使用) 「もまた、他のどんなものとも同じように、利益を得て交換しうる一つの商品である。」(同前、233ページ。〔水田訳、(2)、146ぺージ。〕)〉 (全集第26Ⅰ443頁)

  最後にホッブズについて『資本論辞典』の説明から紹介しておきましょう。

  〈ホッブズ Thomas Hobbes(1588-1679)イギリスの哲学者.……哲学ではベイコンの唯物語論を徹底し,体系化したが,同時に幾何学の影響により,彼の唯物論は機械的で‘人間ぎらい'となった,とされる((Die Heilige Familie)WerkeⅡ-136;大月版全集2-134). 人間もまた運動する物質であり,その衝動の対象が善であり,力と自由は同一だ,というのであるが,主著『Leviathann』(1651)(〔岩議文庫〕水田洋訳)において,この人間を中心にすえて,自然法を近代化し,自然権(自己保存)を基礎とする市民社会の原理をたてた.人は自然状態では各人自然権を行使して万人は万人と戦い,自然権の自己否定におちいる.これを救うため理性にもとづき契約をもって一定の人に国家主権を委託して平和秩序をつくる.この主権は絶対であって人民に反抗権はない.この社会原理はイギリス市民革命の真中での近代社会体制の分析であり,ホッブズは,なお絶対主義思想を脱しえなかった.『資本論』では,経済学研究を開始した人々の一人にかぞえられ,その方法が経済学者の方法となったとされる(KⅠ-408.646:青木3-637,4-958;岩波3 -136,4-100)ほか.労働力が商品として売買されることを知っていた(KⅠ-178;青木2-319;岩波2-52),と指摘されているにとどまる.『経済学批判』では具体的労働を素材的富の源泉としたが,ペティのようにその結果を実らしえなかった,と批判されており(Kr50.岩波:国民50;選集補3-42:青木64),『剰余価値学説史』ではさらに,精神労働,科学が文明の母であるにもかかわらず,その労働は低評価されているとしている点,および生産的労働にかんする短い引用文がふくまれている(MWⅠ-317,329;青木3-513-514.531)〉(553頁)


◎第11パラグラフ(労働力の価値とは、労働者を維持するために必要な生活手段の価値である、それには精神的・歴史的な要素も含まれる)

【11】〈(イ)労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。(ロ)それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけである。(ハ)労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけである。(ニ)したがって、労働力の生産はこの個人の存在を前提する。(ホ)この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。(ヘ)自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。(ト)だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。(チ)言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。(リ)だが、労働力は、ただその発揮によってのみ実現され、ただ労働においてのみ実証される。(ヌ)しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。(ル)この支出の増加は収入の増加を条件とする(43)。(ヲ)労働力の所有者は、今日の労働を終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければならない。(ワ)だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならない。(カ)食物や衣服や採暖や住居などのような自然的な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。(ヨ)他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである(44)。(タ)だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。(レ)とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されています。それが価値であるかぎりでは、労働力そのものは、ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表わしているだけです。

  ここでは労働力という人間の生身のなかに一つの潜在的に存在する力の価値なるものを規定しようというのですが、それがいずれにせよ商品になっているわけですから、他の商品の価値と同じように、その価値も規定されなければならないわけです。とするなら労働力の価値は労働力という商品の生産に必要な労働時間によって規定されていることになります。だから労働力の価値というのは、労働力という商品に対象化されている社会的平均労働を表しているだけだとも指摘されています。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ) 労働力は、ただ生きている個人の素質として存在するだけですから、労働力の生産はこの個人の存在を前提とします。そしてこの個人の存在が与えられていますと、労働力の生産とはその個人を再生産し、あるいは維持するということです。個人の存在を維持するためには、彼が生きていくために、いくらかの量の生活手段を必要とします。だから、労働力の生産に必要な労働時間というのは、その生活手段の生産に必要な労働時間に帰着します。言い換えると、労働力の価値とは、労働力の所持者の生存を維持するために必要な生活手段の価値ということができます。

  ここには 労働力→生きている個人の素質→労働力の生産は個人の存在を前提→労働力の生産とは個人の生産・再生産・維持→個人を維持・再生産するための生活手段→労働力の生産に必要な労働時間=生活手段の生産に必要な労働時間→労働力の価値=生活手段の価値 という論理の繋がりが見えます。
  つまり労働力というのは、その限りでは目に見えない特定の個人の生身のなかに潜在的に存在している力を意味します。しかしそれが商品になっているわけです。私たちがこれまで考察してきた商品というのは、何らかの物的対象物でした。リンネル、上着しかりです。しかし労働力はそうしたものとは違います。もちろん、これまでも商品の派生的形態としては名誉などのような物的対象性のないものもありましたが、労働力というものもそうした物的対象性のない商品なのですが、決して派生的なものではなく、資本主義的生産において決定的な役割を果たす商品なわけです。そしてその価値を規定する必要がありますが、名誉のような派生的なものは価値というようなものはなく、ただ価格があるだけでした。
  しかし潜在的な力としてはその限りでは観念的な存在である労働力の価値を如何に規定するのかが問題です。一般に、商品の価値というのはその商品の生産に社会的に必要な労働時間によって規定されます。商品の生産に必要な社会的な平均的な労働時間が対象化されたものが商品の価値なのです。だから労働力という商品の価値も同じように規定されると考えることができます。
  しかしそのためにはそもそも労働力というのは生身の人間のなかに存在するものですから、労働力を生産するといっても、それは結局は、生身の人間そのものを生産する、あるいは再生産し維持するということになります。生身の人間を再生産し・維持するためには、何程かの生活手段を必要とします。だから労働力を生産するに必要な労働時間というのは、その生身の人間を再生産し・維持するに必要な労働時間ということであり、それは結局、そのために必要な生活手段の生産に必要な労働時間に帰着するということです。
  だから労働力の価値というのは、労働力を維持するために、労働する個人の生活に必要な生活手段の価値になるということです。
  『要綱』には次のような一文があります。

 〈では労働者の価値は、どのようにして決められるのだろうか? 彼の商品のなかに含まれている対象化された労働によってである。この商品は彼の生命力〔Lebendigkeit〕のうちに存在している。この生命力を今日から明日まで維持するためには--労働者階級については、つまり彼らが階級として自己を維持していけるための消耗の〔wear and tear〕補充については、われわれはまだ問題にしない、というのは、ここでは労働者は労働者として、したがって前提された多年生的主体〔perennirendes Subjekt〕として資本に対立しているのであって、まだ労働者種属〔Arbeiterart〕のうちのはかない個体として資本に対立しているのではないからである--、彼は一定量の生活手段を消費し、使いはたされた血液の補充などをしなければならない。彼は等価物を受けとるだけである。したがって明日には、つまり交換が行なわれたのちにも--そして彼が交換を形式的には終えたとしても、その交換を完遂するのは生産過程になってからである--、彼の労働能力〔Arbeitsfähigkeit〕は、以前と同じ様式で存在している。すなわち、彼が受けとった価格は、彼が以前にもっていたものと同一の交換価値を彼に所持させることになるのだから、彼は正確な等価物を受けとったのである。彼の生命力のなかに含まれている対象化された労働の分量は、資本によってすでに彼に支払われている。彼はそれを消費してしまったが、それは、物として存在していたのではなく、生命をもつもののなかに能力として存在していたのであるから、その商品の特有の本性--生命過程の特有の本性--からして、彼はふたたび交換を行なうことができる。彼の生命力に対象化された労働時間--すなわち、彼の生命力を維持するうえで必要な生産物の代金を支払うのに必要だった労働時間--のほかに、さらにそれ以上の労働が彼の直接的定在のうちに対象化されているということについては、すなわち、ある特定の労働能力、ある特殊的な熟練〔Geschicklichkeit〕を生みだすために彼が消費した諸価値--それらの価値は、どれだけの生産費用で類似の特定の労働技能を生産することができるかという点に示される--については、ここではまだ関係がない。つまりここでは、一つの特殊的資格をもった労働〔besonders qualificirte Arbeit〕を問題にしているのではなく、労働そのもの〔Arbeit schlechthin〕、つまり単純労働〔einfache Arbeit〕を問題にしているのである。〉 (草稿集①395-396頁)

  『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈労働能力は、労働者の生きた身体に含まれている能力〔Fähigkeit〕、素質〔Anlage〕、力能〔Potenz〕としてのみ存在するのだから、労働能力の維持とは、労働者そのものを彼の労働能力の発揮に必要な程度の活力、健康、要するに生活能力をもった状態に維持することにすぎない。〉 (草稿集④78頁)
  〈さらに、労働能力としてその消費のまえから存在しているこの使用価値は交換価値をもっているが、それは他のあらゆる商品のそれと同じく、そのなかに含まれている、したがってまたその再生産に必要な労働の分量に等しく、またすでに見たように、労働者の維持に必要な生活手段を創造するのに必要である労働時間によって、正確に測られている。たとえば重量が金属のための尺度であるように、生活そのもののための尺度は時間であるから、労働者を1日生かしておくのに平均的に必要な労働時間が、彼の労働能力の日々の価値なのであり、これによって労働能力は日ごとに再生産され、あるいは--ここでは同じことであるが--同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加え〔modifizieren〕られているような自然的諸欲望によって限定されているものである。〉 (草稿集④79頁)

  (リ)(ヌ)(ル) 潜在的な力である労働力は、ただその発揮によってのみ実現されますが、その発揮とは労働そのものであり、だから労働によって実証されるのです。そして、その実証である労働においては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されます。だから、それは再び補充されなければなりません。この支出の増加は当然、収入の増加を条件とします。

  最初にフランス語版の同じところを紹介しておきましょう。

  〈労働力はその外的発現によって実現される。労働力は労働によって発現し確認され、この労働のほうは人間の筋肉、神経、脳髄の若干の支出を必要とし、この支出は補塡されなければならない。損耗が大きければ大きいほど、修理の費用はますます大きくなる(6)。〉 (江夏・上杉訳158-159頁)

  労働力そのものは人間の個人の生身に潜在的に存在するに過ぎませんが、その価値はすでに見ましたが、その使用価値とは労働そのもののことです。つまり労働力は現実の労働によってその力を発揮し、その労働力としての存在を実証するわけです。そして現実の労働においては、個人はその筋肉や神経や脳を働かせます。つまりそれをそのかぎりでは消耗するのです。だからそれを補充する必要がありますが、それは生命力を回復・維持するということであり、それに必要な生活手段を摂取するということです。だからその消耗が激しければ、その補充に必要な生活手段の増大もまた必要な条件になることはいうまでもありません。

  (ヲ)(ワ) 労働力の所有者は、今日の労働が終わったならば、明日も力や健康の同じ条件のもとで同じ過程を繰り返すことができなければなりません。だから、生活手段の総額は、労働する個人をその正常な生活状態にある労働する個人として維持するのに足りるものでなければならないのです。

  だから労働力の所有者は、自分の労働力を発揮して、労働が終わったならば、明日もまた同じ労働を繰り返すためにも、彼の力や健康を同じ条件のもとで繰り返し維持し補充する必要があるということです。だから労働力の価値に相当する労働力の所持者を維持するに必要な生活手段の総額というのは、労働する個人をその正常な生活状態に維持するに足るものでなければなりません。

  (カ)(ヨ)(タ)(レ) 食物や衣服や暖房や住居などのような自然的な諸欲望そのものは、それぞれの国の気象その他の自然条件によって違っています。そして、いわゆる生活に必要な欲望の範囲そのものも、その充足の仕方も、それらは一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まっています。それに重要な契機として、自由な労働者の階級が、歴史的にまた地域的にどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものなのです。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいるのです。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均的な範囲は与えられています。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈食糧、衣服、暖房、住居などのような自然的必要は、一国の気候やその他の自然的な特殊性に応じて異なる。他方、いわゆる自然的必要の数そのものは、それをみたす様式と同じに、歴史的産物であり、したがって、大部分は到達した文明度に依存している。それぞれの国の賃金労働者階級の起源、この階級が形成されてきた歴史的環境は、久しい間、この階級が生活にもちこむところの、習慣や要求にもまた当然の結果として必要にも、最大の影響を及ぼしつづけている(7)。したがって、労働力は価値の観点からみれば、精神的、歴史的な要素を内包しており、このことが労働力を他の商品から区別しているのである。だが、与えられた国、与えられた時代については、生活手段の必要な範囲もまた与えられている。〉 (江夏・上杉訳159頁)

 ここでは〈労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉が、しかし生活手段そのものは、国が違えば、あるいは時代が違えば違ってくる。自然条件が違えば、食料や衣服や暖房や住居などの必要な生活手段は違ってくるし、文明度が違えば、必要の限度や程度も違ってくる。何より自由な労働者が登場する歴史的条件や環境や慣習などが大きな影響を与えると指摘されています。だから労働力の価値は、他の商品の価値とは異なり、精神的・歴史的な要素が入ってくるのだということです。しかしある与えられた国や時代においては、必要な生活手段の範囲は与えられているということです。


◎原注43

【原注43】〈43 それだからこそ、古代ローマのヴィリクス〔villicus〕は、農耕奴隷の先頭に立つ管理者として、「奴隷よりも仕事が楽だ」という理由で「奴隷よりももっと不十分な量」を受け取ったのである。(T・モムゼン『ローマ史』、〔第1巻、第2版、ベルリン〕、1856年、810ぺージ。)〉

  これは〈しかし、その実証である労働によっては、人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それは再び補充されなければならない。この支出の増加は収入の増加を条件とする(43〉という本文に付けられた原注です。モムゼンの『ローマ史』については原注39でも出てきました。
  ここではヴィリクスという農耕奴隷の管理者(彼も奴隷)が、農耕の力仕事をする奴隷に比べて楽な仕事をやっているという理由で、彼が管理する奴隷たちよりも少なく受け取ったということです。つまり消耗が多ければそれだけそれを補充する費用も多くなるが、そうでなければ少なくて済むということで、本文の〈この支出の増加は収入の増加を条件とする〉という一文を裏付けるものになっているわけです。

  モムゼンについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈モムゼン Theodor Mommsen (1817-1903)ドイツの古代史家とくにローマ史の研究で有名である.……マルクスはモムゼンが『ローマ史』のなかで,古代ギリシャやローマにおける資本家という言葉を使用したり,資本が当時においても,すでに十分に発達していた,といっている点を批判し,彼が‘今なおヨーロッパ大陸に存続しているような俗見にしたがって'いること,彼が資本について錯誤を重ねていることを多くの箇所で指摘している(KI-175,KⅢ-359.837;青木2-316.9-465,13-1109;岩波2-47.9-194-195.11-293).しかし同時に,モムゼンがローマの奴隷制.ことに奴隷監督(villicus)について記している部分を引用して自分の主張の裏づけとしている.すなわちマルクスは,労働力の価値は,労働力の所有者の維持に必要な諸生活手段の価値であるが,労働力の実証たる労働によって,人間の筋肉・神経・脳髄等々の一定分量が支出されるので,これはふたたび補填されねばならず.この支出の増加は収入の増加を条件とすることを例証するために,古代ローマのヴィリクスで,奴隷よりもらくな仕事をしているものは,奴隷よりも不十分な量をうけたというモムゼンの記述を引用しているし(KI-179;青木2-321 ;岩波2-53),またヴィリクスの監督労働には両面.すなわち生産的労働の面と,労働者と生産手段の所有者との対立から生ずる独自の監督強制の役割との両面があることを例証するために,モムゼンの記述を引用している(KⅢ-420;青木10-546;岩波10-85-86).〉(569頁)


◎原注44

【原注44】〈44 『過剰人口とその解決策』、ロンドン、1846年、W・T・ソーントン著、参照。〉

  これは〈他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって形成されたか、によって定まるものである(44)〉という本文に付けられた原注です。現行版ではこのように参照著書を示すだけで頁数も書いていませんが、初版やフランス語版ではもう少し詳しく書いています。初版を紹介しておきましょう。

〈(44) W・Th・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済、ロンドン、1846年』のなかで、このことについて興味のある例証を提供している。〉 (江夏訳176頁)

  また『61-63草稿』の注解のなかに次のような説明がありました。

  〈(1)〔注解〕ウィリアム・トマス・ソーントン『過剰人口とその対策、またはイギリスの労働者階級のあいだに広がっている窮乏の程度および原因ならびにその対策の研究』、ロンドン、1846年、第2章、19ページ以下。この書物からの浩潮な抜粋が、ノート第13冊、ロンドン、1851年、の14-21ページにある。〉 (草稿集④181頁)

  ソーントンについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ソーントン William Thomas Thornton(1813-1880) イギリスの経済学者で,J.S.ミルと親交があり,その影響をつよくうけたが,学説の個々の点ではミルを批判しているとろもある.……マルクスは,ソーントンが,労働賃銀の規定にかんしても,労働者が正常な生活状態を維持するために必要な慾望の範囲を風俗習慣の諸条件に依存せしめている観点を記述していること(KI-179:青木2-321:岩波2-53)や,過剰人口の問題をめぐって資本の不断の搾取による工業人口の涸渇が農村からの労働力の供給によって補填される事情,さらにその供給源の農村労働者さえも衰弱をよぎなくされている19世紀中葉の労働事情を論じていることなどを(KI-281:青木2-4“;岩波2-229),きわめて高く評価している.〉(511頁)


◎第12パラグラフ(市場で労働力が永遠に供給されるためには、労働力の価値には子供たちの生活手段の価値も含める必要がある)

【12】〈(イ)労働力の所有者は死を免れない。(ロ)だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」(45)、やはり生殖によって永久化されなければならない。(ハ)消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければならない。(ニ)だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである(46)。〉

  (イ)(ロ) 労働力の所有者は死を免れません。だから、貨幣の資本への転化が途切れずに連続的に行われるためには、労働力の所有者が市場に現われることも連続的でなければなりません。だから、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」、やはり生殖によって永久化されなければならないわけです。

   労働力は日々再生産されるとはいえ、やはりそれには限界があり、やがては労働者は死を迎えねばなりません。だから貨幣の資本への転化がそれによって途切れないように、労働力の所持者も、すべての生きている個体がその生殖によって命を永久化するように、生殖によって、つまり子供を産み育てることによって永久化しなければならないのです。

  (ハ)(ニ) 消耗と死とによって市場から引きあげられる労働力は、どんなに少なくとも同じ数の新たな労働力によって絶えず補充されなければなりません。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額には、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、このようにしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのです。

  だから労働市場から引き上げられる労働力に代わって、常に新たな、少なくとも引き上げられるもの以上の、労働力が供給される必要があります。だから労働力の生産に必要な生活手段のなかには、こうした新たな労働力を育成するための手段、すなわち子供たちの生活手段も含んだものでなければなりません。
  こうして労働力という独特な商品の所持者の種族が商品市場で永久に維持されることになるのです。

  『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

  〈だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供--労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供--を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。〉 (全集第16巻130頁)


◎原注45

【原注45】〈45 ぺティ。〉

  この原注は〈だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提するところとして、彼が市場に現われることが連続的であるためには、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されるように」(45)、やはり生殖によって永久化されなければならない〉という本文で引用された引用文の典拠を示すものです。
  しかし、ここではただ〈ぺティ〉とあるだけですが、新日本新書版は次のような訳者の説明がついています。

  〈(45)ペティ。〔ドナウ・トー編英語版文献索引、フランス語エディシオン・ソシアル版、スペイン語アルゼンチン版には、『賢者には一言をもって足りる』からと指示されているが、ドイツ語版そのほかの版本には文献とページ数の指示がなされていない。なお『賢者には……』には末尾に似た文があるが、これと同じ文はみあたらない〕〉 (293頁)

  山内清氏は次のような解説を加えています。

  〈④マルクスが『経済学批判』の注で「天才的剛胆さ」および「独創的」と評したイギリスの経済学者で統計学者(1623-87)。原注45の引用は彼の『アイルランドにおける政治的解剖』(1672年)にある。〉 (『コメンタール資本論』八朔社2009年9月15日、273頁)

  『剰余価値学説史』には〈ペティ『人類の増殖に関する一論』(1682年)。分業(35/36ページ〉という一項目があり、次のような一文が見られます。

  〈『アイルランドの政治的解剖』および『賢者には一言をもって足る』1672年(出版、ロンドン、1691年)。
  ……
  「平均的に見た一人の成年男子の、日々の労働ではなく日々の食料が、価値の一般的尺度であり、そしてこれは、純銀の価値と同じく規則的で恒常的であるように思われる……それゆえ私は、一戸のアイルランド人の小屋の価値を、建造者がそれの建築に費やした日々の食料の数によって評価した。」(65ぺージ。〔同前、松川訳、135ページ。〕)
  このあとのほうの文章はまったく重農主義的である。
  「なかには他の人たちよりも多く食べる人々もいるだろうということは、重要なことではない。なぜなら、われわれが日々の食料と言っているのは、あらゆる種類と大きさをもった〔100人の人が〕生活し、労働し、子孫をふやすために食べる食料の100分の1を考えているのだからである。」(64ページ。〔同前、松川訳、134ページ。〕)
  しかし、ペティがここでアイァランドの統計のうちに求めているものは、価値の一般的〔common〕尺度ではなく、貨幣が価値の尺度であるという意味における価値の尺度である。〉 (全集第26巻Ⅰ456-457頁)

  ここには今回の引用文そのものは見られませんが、上記の引用を見るとペティは労働力の価値のうちに〈子孫をふやすために食べる食料〉も入れているように見えます。


◎原注46

【原注46】〈46 (イ)「その」(労働の)「自然価格は……労働者を維持するために、また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために、一国の気候や習慣に応じて必要になる生活手段と享楽手段との量である。」(R・トレンズ『穀物貿易論』、ロンドン、1815年、62ページ。)(ロ)ここでは労働という言葉が誤って労働力のかわりに用いられている。〉

  これは〈だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでいるのであり、こうしてこの独特な商品所持者の種族が商品市場で永久化されるのである(46)〉という本文に付けられた原注です。
  トレンズは労働力の自然価格(価値)は、労働者を維持し、その家族を養うことを可能にする生活手段と享楽手段の量だと的確に指摘しています。労働者とその家族が「享楽」するに必要な諸手段の量も入れていることは注目に値します。もっともマルクス自身は〈また市場で減少しない労働供給を保証するだけの家族を彼が養うことを可能にするために〉ということが加えられていることを評価したのではないかと思いますが。
  トレンズについてはすでに原注27の解説で『資本論辞典』の説明を紹介しましたので、それを参照してください。


◎第13パラグラフ(修養費も労働力の価値のなかに入る)

【13】〈(イ)一般的な人間の天性を変化させて、一定の労働部門で技能と熟練とを体得して発達した独自な労働力になるようにするためには、一定の養成または教育が必要であり、これにはまた大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。(ロ)労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかによって、その養成費も違ってくる。(ハ)だから、この修業費は、普通の労働力についてはほんのわずかだとはいえ、労働力の生産のために支出される価値のなかにはいるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 普通の人間の能力を変化させて、その労働部門で必要な技能や熟練を獲得してある程度発達した労働力になるようにするためには、一定の養成や教育が必要です。そしてこれにはまたそれなりの額の商品等価物も必要になります。そういう媒介がどの程度加えられるかによって労働力の養成費も違ってきます。だから、そうした養成費用は、普通の労働力についてはそれほどのものとはなりえませんが、しかし労働力の生産のために支出されるべき価値のなかにはいるのです。

  まず少し書き直されてより分かりやすくなっているフランス語版を紹介しておきましょう。

 〈他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特殊な方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るのである。〉 (江夏・上杉訳160頁)

  ここには何も解説しなければならないほど難しい問題はないと思いますが、『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。

 〈身体を維持することに労働が限定されず、直接に労働能力そのものを変化させて〔modifizieren〕、一定の熱練を発揮できるところまで発達させる特殊的労働が必要であるかぎりでは、この労働もまた--複雑労働の場合と同様に--労働の価値のなかにはいるのであって、この場合には、労働能力の生産に支出された労働が、直接に労働者のなかに同化〔verarbeiten〕されているのである。〉 (草稿集④73頁)

  ここでは若干視点が違っています。現行版やフランス語版では、労働力を発達させるために必要な商品等価物も労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るとしているの対して、草稿では、労働力を発達させるために必要な特殊的な労働もまた複雑労働と同様に、労働力の価値のなかに入るとし、こうした労働力の生産に支出され労働は、そのまま直接に労働者のなかに同化されているのだとしています。


  (続く)

 

 

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)

2022-02-13 13:06:24 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(4)


◎第14パラグラフ(労働力の価値は生活手段の価値に帰着する)

【14】〈(イ)労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。(ロ)したがってまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。〉

  (イ)(ロ) よって労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着します。だからまた、労働力の価値は、この生活手段の価値、すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのです。

  ここではひとまず労働力の価値について、結論めいたことを述べているように思いますが、しかしフランス語版をみると、〈労働力は一定額の生活手段と価値が等しいから、その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する〉(江夏・上杉訳160頁)となっていて、むしろ労働力の価値は生活手段の価値の変化によって変化するというところに重点があることが分かります。とするとこのパラグラフはその次の第15パラグラフへの橋渡しの役割を持っているのかも知れません。
  しかしとりあえず、『賃金・価格・利潤』と、さらに関連するものとして『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。

  〈以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。〉 (全集第16巻131頁)
 労働能力の価値の規定は、労働能力の販売に基礎をおく資本関係の理解にとって、もちろんきわめて重要なものであった。したがって、とりわけ、この商品の価値はどのように規定されるのかが、確定されなければならなかった。というのは、この関係における本質的なものは、労働能力が商品として売りに出されるということであるが、商品としては、労働能力の交換価値の規定こそ決定的だからである。労働能力の交換価値は、それの維持と再生産とに必要な生活手段である諸使用価値の価値または価格によって規定されるのだから、重農学派は--彼らが価値一般の本性をとらえる点ではどんなに不十分だったにしても--労働能力の価値をだいたいにおいて正しくとらえることができた。それゆえ、資本一般について最初の条理ある諸概念をうちたてた彼らの場合、生活必需品の平均によって規定されるこの労賃が、一つの主要な役割を演じている。〉 (草稿集④71頁)


◎第15パラグラフ(労働力の一日の価値量と価格)

【15】〈(イ)生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければならない。(ロ)他の生活手段、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗し、したがってもっと長い期間に補充されればよい。(ハ)ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならない。(ニ)しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されようとも、それは毎日、平均収入によって償われていなければならない。(ホ)かりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすれば、これらの商品の一日の平均は、(365A+52B+4C+etc.)/365であろう。(ヘ)この1平均日に必要な商品量に6時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。(ト)すなわち、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要である。(チ)労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成する。(リ)また、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとすれば、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格である。(ヌ)もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとすれば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しい。(ル)そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 生活手段の一部分、たとえば食料や燃料などは、毎日新たに消費されて毎日新たに補充されなければなりません。他の生活手段の場合、たとえば衣服や家具などはもっと長い期間に消耗します。だからもっと長い期間に補充されればよいわけです。生活手段のうち、ある種の商品は毎日、他のものは毎週、毎四半期、等々に買われるか支払われるかしなければならないことになります。しかし、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されたとしても、それは毎日の平均収入によって償われなければならないのです。

  ここで書かれていることは何も難しいことはありません。フランス語版では、このパラグラフは二つに分けられていますが、この部分に該当するものをまず紹介しておきましょう。

  〈生活手段の一部、たとえば食糧や暖房などを構成するものは、消費によって毎日失われるものであり、毎日更新されなければならない。それ以外の衣服や家具などのようなものは、これよりも緩慢に消耗するものであって、これよりも長い期間に更新するだけでよい。若干の商品は毎日、他の商品は毎週とか半年ごと等々に、買われあるいは代価を支払われなければならない。しかし、これらの支出が一年の期間内にどのように配分されることがあっても、その総額はいつでも1日の平均収入によって支弁されなければならない。〉 (江夏・上杉訳160頁)

  『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活手段の消費の速さはさまざまである。たとえば、日々食料として役立つ使用価値は、また日々消尽されるし、またたとえば、暖房、石けん(清潔)、照明に役立つ使用価値も、同様である。これにたいして、衣服や住居のような、その他の必要生活手段は、たとえ日々使用され使い減らされてはいても、もっとゆっくりと消耗する。若干の生活手段は、日々新たに買われ、日々更新(補塡)されなければならないが、たとえば衣服のようなその他の生活手段は、もっと長い期間にわたって使用価値として役立ち続け、この期間の終りにはじめて消粍しつくされて、使用できなくなるので、それらは日々使用されなければならないものだとしても、もっと長い中間期間に補塡され更新されさえすればよい。〉 (草稿集④73-74頁)
  〈ここで労働能力の価格というのは、貨幣で表現されたそれの価値のことでしかない。したがって、1日あるいは1週間のあいだ労働能力を維持するのに必要な生活手段の価格が支払われるならば、1日あるいは1週間分の労働能力の価値が支払われるのである。しかし、この価格あるいは価値を規定しているものは、労働能力が日々消費しつくす生活手段ばかりではなく、同様に、たとえば衣服のように、労働能力によって日々使用されはするが、しかし日々消尽される結果、日々更新されねばならないというわけではない、したがって、一定の期間内に更新され補充されさえすればよい生活手段もそうである。たとえ衣服に関述するすべての対象が、1年のうちに1度だけしか消耗しつくされない(たとえば飲食のための食器は、衣服ほど早くは消耗しつくされないから、衣服ほど早く補充される必要はなく、家具、ベッド、机、椅子、等々はさらにその必要が少ない)としても、それでもなお、1年間のうちにはこの衣料の価値は労働能力の維持のために消費されるであろうし、また1年が終わったあとで、労働者はこの衣料を補充することができなければならないであろう。したがって彼が日々平均して受け取るものは、日々の消費のための日々の支出を差し引いたのちにも、一年間が経過したあとで消耗しつくされた衣服を新しい衣服で補充するのに十分なものが、つまり、1着の上着のこれこれの部分を日々補充するというのではないけれども、1着の上着の価値の1日あたりの可除部分を補充するのに十分なものが残されるだけの大きさでなければならないであろう。つまり、労働能力の維持は、それが継続的であるべきだ--そしてこれは資本関係では前提されていることであるが--とすれば、日々消費しつくされ、したがってまた翌日には更新される、補充されるべき生活手段の価格によって規定されるばかりでなく、そのうえに、もっと長い期間に補充されねばならないが、日々使用されねばならない生活手段の価格の日々の平均がつけ加わるのである。〉 (草稿集④76-77頁)

  (ホ) だからかりに、労働力の生産に毎日必要な商品の量をAとし、毎週必要な商品の量をBとし、毎四半期に必要な商品の量をC、等々とすると、これらの商品の一日に平均に必要な額は、(365A+52B+4C+etc)/365でしょう。

  この部分もそれほど難しくはなく、フランス語版もほぼ変わらないので、『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働者が労働者として生きていくために、日々消費しなければならない生活手段の総額をAとすれば、それは365日では365Aである。これにたいして、彼が必要とするその他すべての生活手段の総額をBとし、しかもこれらの生活手段は年に3回更新され、つまり新たに買われさえすればよいのだとすれば、1年間に彼が必要とするのは3Bだけである。そこでこれらを合計すれば、彼が年間に必要とするのは、365A+3Bであり、1日あたり、(365A+3B)/365である。これが、労働者が日々必要とする生活手段の平均総額であり、この総額の価値が、彼の労働能力の日々の価値、すなわち労働能力の維持のために必要な生活手段を買うために--すべての日について平均して--毎日必要とする価値である。
  (1年を365日と計算すると、日曜日は52日となり、313日の仕事日が残る。だから平均して31O仕事日と計算してよい。)ところで(365A+3B)/365の価値が1ターレルだとすれば、彼の労働能力の日々の価値は1ターレルである。彼は、1年じゅう毎日生きていくことができるように、日々それだけは稼がなければならない。そしてこのことは、若干の商品の使用価値は日々更新されるのではないということによっては、少しも変わらない。そこで、生活必需品の年間の総額は所与のものとする。次にわれわれは、この総額の価値あるいは価格をとる。ここからわれわれは日々の平均をとる、すなわちそれを365で割る。こうしてわれわれは、労働者の平均的生活必需品の価値、あるいは、彼の労働能力の平均的日価値を得るのである。(365A+3Bの価格が365ターレルであれば、日々の生活必需品の価格は(365A+3B)/365=365/365、つまり1ターレルである。)〉 (草稿集④74-75頁)〉

  (ヘ)(ト)(チ) この1日に平均的に必要な生活手段の量に6時間の社会的労働が含まれているとしますと、1労働日を12時間すると、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになります。つまり、労働力の毎日の生産のためには半労働日が必要なのです。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量は、労働力の日価値、すなわち毎日再生産される労働力の価値を形成します。

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきましょう。フランス語版ではここから改行されています。

  〈1平均日に必要なこの商品量の価値は、これらの商品の生産に支出された労働総量のみを表わしているが、それを6時間と仮定しよう。そのばあいには、労働力を毎日生産するために、半労働日が必要である。労働力が日々自己を生産するために必要とする労働量が、労働力の日価値を規定する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ついでに『61-63草稿』からも紹介しておきます。

  〈生活必需品は、日々更新される。そこで、たとえば1年間に、労働者が労働者として生きていき、自分を労働能力として維持することができるために必要とする生活必需品の量と、この総額のもつ交換価値--すなわち、これらの生活手段のなかになし加えられ、対象化され、含まれている労働時間の分量--とを取った場合、全部の日について平均計算するならば、労働者が、一年を通じて生きていくために、平均して1日に必要とする生活手段の総額およびこの総額の価値は、彼の労働能力の1日あたりの価値を、あるいは、労働能力が翌日も生きた労働能力として存続し、再生産されるために、1日に必要とする生活手段の分量を表わすであろう。〉 (草稿集④73頁)

   労働者が1日に平均的に必要とする生活手段の価値が6時間の社会的労働の対象化されたものだとすると、1労働日(1日の労働者の労働時間)を12時間とすると、それは半労働日になります。つまり労働者が日々自分を再生産するために必要とする労働時間は、彼が1日労働する時間の半分だということです。では残りの半分の労働時間はどうなるか、ということはまだここでは問題になっていません。

  (リ)(ヌ)(ル) もしまた、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルという金量で表わされるとしますと、1ターレルは労働力の日価値に相当する価格になります。もし労働力の所持者がそれを毎日1ターレルで売りに出すとしますと、労働力の販売価格は労働力の価値に等しいことになります。そして、私たちの前提では、自分の持っているターレルを資本に転化したいと熱望する貨幣所持者は、この価値を支払うわけです。

  該当するフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈さらに、6時間という半労働日のあいだに平均して生産される金の総量が、3シリングあるいは1エキュ(10)に等しい、と仮定する。そのばあいには、1エキュの価格が労働力の日価値を表現する。労働力の所有者が毎日労働力を1エキュで売るならば、彼はそれを正当な価値で売るのであり、われわれの仮定にしたがえば、自分のエキュを資本に変態しつつある貨幣所有者は、金銭を払ってこの価値に支払いをするのである。
  (10) ドイツの1エキュ〔1ターレルのこと〕は、イギリスの3シリングの値うちがある。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  ここでは労働者が日々販売する労働力の価値の貨幣表現、すなわち労働力の日価格が求められています。そして資本家はその日々の労働力の価格を支払うことによって彼の貨幣を資本に転化することになるわけです。


◎第16パラグラフ(労働力の価値の最低限)

【16】〈(イ)労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。(ロ)もし労働力の価格がこの最低限まで下がれば、それは労働力の価値よりも低く下がることになる。(ハ)なぜならば、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。(ニ)しかし、どの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのである。〉

  (イ) 労働力の価値の最後の限界あるいは最低限をなすものは、その毎日の供給なしには労働力の担い手である人間が自分の生活過程を更新することができないような商品量の価値、つまり、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことです。

  この部分のフランス語版を紹介しておきます。

  〈労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  この労働力の価値の最低限というのは、〈肉体的に欠くことのできない生活手段の価値〉(現行版)とか〈生理的に不可欠な生活手段の価値〉(フランス語版)と書かれており、〈これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値、切り下げられるとき、その最低限に達する〉(同)となっているので、この最低限というのは、労働者個人の生理的に肉体的に欠くことのできない生活手段の価値のことなのかと思えますが、しかし次に紹介する『賃金・価格・利潤』の説明を見るとそうではなく、労働者がその家族を養い子供を養育するに必要な費用もその最低限のなかに入るということが分かります。次のように書いています。

  〈この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。
  だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品を受け取らなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。〉 (全集第16巻148頁)

  (ロ)(ハ) もし労働力の価格がこの最低限まで引き下げられますと、それは労働力の価値よりも低く下がることになります。というのは、それでは労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからです。

  フランス語版では次のようになっています。

  〈労働力の価格がこの最低限に低落すると、その価格は労働力の価値以下に下がったのであって、そのばあいにはもはや糊口をしのぐだけのものでしかない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  つまり労働力の価値というのは、労働者が日々健康でその労働能力を維持し再生産し、家族を養い、一定の能力を獲得するために必要な生活手段の価値のことですから、もし肉体的最低限に引き下げられてしまいますと、労働力そのものが萎縮した形でしか維持できないということです。
  しかし『61-63草稿』ではあの手この手で資本家たちは労働力の価値を引き下げようとするそのさまざまなやり方について紹介しています。例えば次のように……。

  〈より低級な商品が、労働者の主要生活手段をなしていたより高級かつより高価な商品に、たとえば穀物の小麦が肉に、あるいはじゃがいもが小麦やライ麦に、とって代わるならば、もちろん、労働者の必需品の水準が押し下げられたために、労働能力の価値の水準が下落する。これにたいしてわれわれの研究ではどこでも、生活手段の量と質とは、したがってまた必需品の大きさも、なんらかの所与の文化段階にあって、けっして押し下げられることはないものと前提〔unterstellen〕されているのであって、その理由は、このような、水準の騰落そのもの(とくにそれの人為的な押し下げ)についての研究は、一般的関係の考察にはなんの変更をも加えないからである。たとえばスコットランド人のうちには、小麦やライ麦の代わりに、塩と水とを混ぜただけのひきわり燕麦(オートミール)や大麦の粉で何か月ものあいだ、しかも「非常に安楽に」暮らしている家族がたくさんある、とイーデンは著書『貧民の状態、云々』、ロンドン、1797年、第1巻第2部第2章で言っている。前世紀末に、こっけいな博愛主義者、爵位を授けられたヤンキーのランファド伯は、低い平均を人為的に創造しようとして愚かな頭をふりしぼった。彼の『論集』は、労働者に現在の高価な常食に代えて代用食を与えるための、最も安価な部類に属するありとあらゆる種類の食物(エサ)の調理法を盛り込んだ、美(ウルワ)しい料理全書である。この「哲人」ご推奨による最も安価な料理は、8ガロンの水に大麦、とうもろし、こしよう、塩、酢、甘味用薬草、4尾のにしんをいれた、スープとかいうしろものである。イーデンは右に引用した著書のなかで、この美(ウルワ)しい食物(エサ)を救貧院の管理者に心をこめて推奨している。5重量ポンドの大麦、5重量ポンドのとうもろこし、3ペンス分のにしん、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスのこしようと薬草--合計20[3/4]ペンス--、これが64人分のスープになる。なんと、穀物の平均価格で言えば、1人前あたり1/4ペンスに費用を押し下げることができる、というわけである。〉 (草稿集④67-68頁)
  〈一方では、より安価なかつより悪質な生活手段が、より良質な生活手段にとって代わることによって、あるいはそもそも生活手段の範囲、大きさが縮小されることによって--生活手段の価値、あるいはそれら〔生活手段〕の充足の仕方、を引き下げることになるので--、労働能力の価値の水準を引き下げることが可能である。しかしまた他方では、この水準--平均的な高さ--には子供たちと妻たちの扶養がはいるので、妻たち自身が労働することを強制され、また、発育すべき時期[に]子供たちがすでに労働に向けられることによって、この水準を押し下げることが可能である。このような場合も、労働の価値の水準にかかわる他のすべての場合と同様に、われわれは考慮しないでおく。つまりわれわれは、ほかでもない、資本のこれらの最大の醜悪なことども〔Scheußlichkeiten〕を存在しないものと前提することによって、資本にたいして公正な機会〔fair chance〕を与えるのである。}{同様に、労働の単純化によって、修業の時間または修業の費用が、可能なかぎりゼロに向けて縮小されれば、この水準は引き下げられることができる。}〉 (草稿集④69-70頁)

  (ニ) しかし、いずれにしてもどの商品の価値も、その商品を正常な品質で供給するために必要な労働時間によって規定されているのです。

  だから労働力の価値も他の商品と同じように、その商品が正常な品質を保って供給されるために必要な労働時間によって規定されているのですから、私たちは労働力の価値という場合はその最低限ではなく、そうしたものを想定すべきでしょう。
  
  マルクスは『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈労働能力の価値に一致する労賃は、われわれが述べてきたような、労働能力の平均価格であり、平均労賃である。この平均労賃はまた、労賃あるいは賃銀の最低限〔Minimum des Arbeitslohns oder Salairs〕とも呼ばれるのであるが、ここで最低限と言うのは、肉体的必要の極限〔die äußerste Grenze〕のことではなく、たとえば1年についてみた日々の平均労賃であって、労働能力の価格--それはあるときはそれの価値以上にあり、あるときはそれ以下に下がる--はそこに均衡化されるのである。〉 (草稿集④79頁)


◎第17パラグラフ(労働力と労働との違い、労働力が売れなければ労働者にとっては無である)

【17】〈(イ)このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷である。
   (ロ)「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである(47)。」
  (ハ)労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことである。(ニ)消化という過程のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のものが必要である。(ホ)労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではない。(ヘ)むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのである。(ト)もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたたないのであり、彼は、むしろ、自分の労働能力がその生産に一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感ずるのである。(チ)そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である(48)」ということを発見するのである。〉

  (イ)(ロ) このような事柄の本質から出てくる労働力の価値規定を粗雑だとして、ロッシなどといっしょになって次のように嘆くことは、非常に安っぽい感傷です。「生産過程にあるあいだは労働の生活手段を捨象しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、一つの妄想〔ëtre de raison〕を把握することである。労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである。」

  まずこの部分をフランス語版で見てみましょう。

  〈労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金、と言っているのである(11)」。これにまさる誤りはない。〉 (江夏・上杉訳161頁)

  このようにフランス語版をみるとロッシが引用文で述べていることをマルクスは〈これにまさる誤りはない〉と批判して否定していることが分かります。では何が誤りなのでしょうか。それはそれに続くマルクスの一文のなかで明らかにされています。

   (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 労働能力のことを言っている人が労働のことを言っているのではないということは、ちょうど、消化能力のことを言っている人が消化のことを言っているのではないのと同じことです。消化のためには、だれでも知っているように、じょうぶな胃袋以上のもの、つまり消化する材料である食料、あるいそれを買う金、が必要です。労働能力を語る人は、労働能力の維持のため必要な生活手段を捨象するのではありません。むしろ、生活手段の価値が労働能力の価値に表わされているのです。

  これもフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈労働能力と言う人は、まだ労働とは言っていないのであって、それは、消化能力が消化を意味しないのと同じである。そうなるためには、誰もが知っているように、健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ、生活手段の価値は、労働能力の価値によって表現されているのだ。〉 (江夏・上杉訳161-162頁)

  つまりロッシが〈労働を語る人、労働能力を語る人は、同時に労働者と生活手段を、労働者と労賃を語るのである〉と述べているのに対して、マルクスは労働能力を語っているときは、まだ労働について語っているのではない、両者は明確に区別するべきだと述べているわけです。それは消化能力と消化とは違うように違うのだということです。消化能力があっても、その人が実際に消化するためには、健康な胃があるだけでは十分ではなく、消化する食物を買う金が必要です。だから労働能力という人は、労働能力の維持に必要な生活手段を無視しているのではなく、むしろ生活手段の価値が労働能力の価値として表現されているのだということです。

  (ト)(チ) もし労働能力が売れなければ、それは労働者にとってなんの役にもたちません。彼は、その場合は、自分の労働能力を生産し維持するためには一定量の生活手段を必要としたということ、また絶えず繰り返しその再生産のためにそれを必要とするということを、残酷な自然必然性として感じざるをえないでしょう。そこで、彼は、シスモンディとともに、「労働能力は……もしそれが売れなければ、無である」ということを発見するのです。

  この部分もフランス語版をまず見ておきましょう。

  〈だが、労働者は、労働能力が売れなければそれを光栄とは感じないのであって、むしろ、自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたということ、その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを、残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼はこのばあい、シスモンディとともに、労働能力は売られなければなにものでもない、ということを発見するであろう(12)。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  上着の価値を実現する人は、それを売って得た貨幣で小麦を購入するように、労働力の価値を実現して、すなわちそれを資本家に売って、得た貨幣で彼は彼の労働力を維持し再生産するための生活手段を買って彼の生命を維持しうるのです。だから労働力が販売できなければ、彼自身の生命を維持できないという残酷な現実に突き当たります。だからシスモンディがいうように労働能力は売れなければ無であることを思い知らさせられるわけです。

  このパラグラフとよく似た一文が『61-63草稿』のなかに出てきます。紹介しておきましょう。

   〈「生産の作業についているあいだの労働者の生活資料を捨象しながら労働の能力〔la。 puissance du travail〕を考えるのは、頭のなかにしかないもの〔un être de raison〕を考えることである。労働というのは、労働の能力というのは、つまるところ同時に、働き手〔travailleurs〕と生活資料のことであり、労働者〔ouverier〕と賃銀のことであって、……同じ要素が資本の名のもとにふたたび姿を現わすのである。まるで、同じものが同時に二つの異なった生産用具の一部をなすかのように」(同前、37O、371ページ)。単なる労働能力は、いかにも「頭のなかにしかないもの」である。だが、この「頭のなかにしかないもの」は実在している。だからこそ、労働者は、自分の労働能力を売ることができなければ、飢え死にするのである。しかも資本主義的生産は、労働の能力がそのような「頭のなかにしかないもの」に還元されている、ということにもとづいているのである。
  だから、シスモンディが次のように言うのは正しい、--「労働能力は、……それが売れなければ、無である」(シスモンディ『新経済学原理』、第2版、第1巻、パリ、1827年、114ページ〔日本評論社『世界古典文庫』版、菅間正朔訳『新経済学原理』、上巻、121ページ〕)。
  ロッシにおいてばかげている点は、彼が「賃労働」を資本主義的生産にとって「本質的でない」ものとして描こうと努めていることである。〉 (草稿集④234-235頁)

  ところで、全体として、このパラグラフはどういう意義を持っているのかが、なかなか分かりにくい気がします。これまで論じてきた労働力の価値規定が粗雑だとして、ロッシなどと一緒に嘆いても、安っぽい感傷に過ぎなというのですが、一体、マルクスは何を言いたいのでしょうか?
 ロッシの主張の〈誤り〉は、第一に、彼は生産過程にある間の労働者の生活手段がまさに労働力の価値のなかに含まれている(それによって表現されている)ことが分かっていないことです。第二に、労働能力と労働とは同じではないこと、両者の区別が分かっていないということです。さらに第三に、賃労働が資本主義的生産にとって本質的であることも分かっていないことです。
  マルクスがこのパラグラフ全体で言いたいことは労働力と労働とは異なること、労働能力はただの可能性にすぎず、それが売られなければ労働者にとっては何の意味もないこと、労働者の労働力はその使用価値を発現するための諸条件を欠いた単なる主体的な能力としてしか存在していないこと、しかしそれこそ資本主義的生産を規定する本質的なものであるということを述べているように思えます。
  そして次の第18パラグラフでは労働力を販売してその使用価値(労働)を譲渡するときの独特の特性について語り、そこから労働者が自分の労働力を資本家に前貸しするという特有な両者の関係が生じてくることが述べられていますが、このパラグラフはそれを論じる一つの前提として労働力と労働との区別と関連を前もって論じておくという意義もあるのかもしれません。
  マルクスは『61-63草稿』では次のように論じています。

  〈まず第一に、労働者は自分の労働能力を、すなわちこの能力の時間ぎめでの処分権を売る。このことのうちには、彼が自分をそもそも労働者として維持するのに必要な生活手段を交換を通じて入手するということ、さらに詳しく言えば、労働者は「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料をもっているということが含まれている。彼が労働者として生産過程にはいり、この過程にあるあいだじゅう自分の労働能力を働かせ実現するためには、このことが前提されているのである。すでに見たように、ロッシは資本を、新たな生産物を生産するのに必要な生産手段(原料、用具)としか理解していない。問題となるのは、労働者の生活手段は、たとえば機械によって消資される石炭、油、等々がそうであるように、あるいは家畜によって食われる飼料がそうであるように、そうした生産手段に属するのかどうかということである。要するに補助材料〔と同様であるのかどうかということである〕。労働者の生活手段も補助材料に属するのであろうか? 奴隷の場合には、彼の生活手段を補助材料のうちに入れるべきことにはなんの問題もない。なぜなら、奴隷は単なる生産用具であり、したがってそれが消尽するものは単なる補助材料だからである。〉 (草稿集④223頁)

  ここでは労働力の価値には、〈「生産行為にたずさわっているあいだの」[ロッシ『経済学講義』370ページ]生活資料〉の価値も含まれることが指摘されています。しかしこのあたりの一連のマルクスの考察は、ロッシが生産過程一般(あるいは労働過程)とその資本主義的形態におけるものとを明確に区別せずに論じていることを批判するために展開されているようにも思います。
  なおロッシの主張とそれに対するマルクスの批判については付属資料も参照してください。


◎原注47

【原注47】〈47 ロッシ『経済学講義』、ブリュッセル、1843年、370、371ページ。〉

  これは本文のロッシからの引用文の典拠を示す原注です。ロッシの主張とそのマルクスによる批判については本文の付属資料を参照してください。ここては『資本論辞典』の説明を見ておくことにします。

  〈ロッシ Pellegrino Luigi Edoardo Rossi(1787-1848) イタリア人の経済学者・法律家・政治家・外交官.革命思想に刺激されて,19世紀中国際的に活躍した人物の典型的な一例.……マルクスは,彼について‘とんでもない知ったかぶりと,偉そうな出まかせの極致',‘ 大衆文芸的論議‘ 教義ある饒舌にすぎない'と酷評した.『資本論』第1巻第4章では,ロッシが,労働力の維持に必要な生活手段を度外視して労働と労働能力を云々することは幻想だとのベた文章を引用して.これは労働力の価値規定を理解しない‘非常に安価な感傷'だとしている(KI-181;青木2-323-324 ;岩波2-56-57).同じく第21章では.労働者の個人的消費過程が生産過程のたんなる附随的なものとされるにいたったばあい,彼の個人的消費は,一生産手段たる労働力を維持するために行なわれる直接の生産的消費となるが,このことが資本主義的生産過程にとっては本質的でない濫用としてあらわれることから,ロッシはこの点を強く非難している.しかしそれは彼が実際に‘生産的消費'の秘密を見抜いていないからだと評している(K1-600;青木4-893;岩波4-19-20).なお『剰余価値学説史』第1部では.生産的・不生産的労働の区別についてロッシは簡単に検討すべきことを注意し(MWⅠ-139,193;青木2-245,327),彼の経済的緒現象の理解における社会的形態の無視,不生産的労働者による‘労働節約'にかんする俗流的概念を批判している(MWⅠ-255-262;青木2-419-428),〉(586頁)


◎原注48

【原注48】〈48 シスモンディ『新経済学原理』、第1巻、113ページ。〔日本評論社『世界古典文庫」版、菅問訳『経済学新原理』、(上)121ぺージ。〕〉

  この原注は本文で引用されたものの典拠をしめだけのものです。シスモンディについては原注13の解説のなかで『資本論辞典』『経済学批判』の一文を紹介しながら詳しく解説しましたので、それを参照してください。


◎第18パラグラフ(労働力商品の特有な性質から、労働力の販売と現実の発現とが時間的に分離するので、その価格の支払いもあとから行われる)

【18】〈(イ)この独自な商品、労働力の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということをともなう。(ロ)労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前から決定されていた、というのは、労働力の生産のためには一定量の社会的労働が支出されたからであるが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのである。(ハ)だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在とが、時間的に離れているのである。(ニ)しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する。(ホ)資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受ける。(ヘ)だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけである。(ト)労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのである。(チ)この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)。(リ)とはいえ、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではない。(ヌ)労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。(ル)労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。(ヲ)だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 労働力という独自な商品の特有な性質は、買い手と売り手とが契約を結んでもこの商品の使用価値はまだ現実に買い手の手に移ってはいないということです。もちろん労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じように、労働力が流通にはいる前から決定されています。なぜなら、労働力の価値を規定する労働力の生産に必要な社会的労働はすでに支出されているからです。だから労働力が販売された時点(売買契約を結んだ時点)で、その価値は実現されたのですが、しかし、その使用価値はあとで行なわれる力の発揮においてはじめて成り立つのです。だから、力の譲渡と、その現実の発揮すなわちその使用価値としての定在の実証とは、時間的に離れているのです。

  フランス語版ではかなり書き換えられており、まずそれを紹介しておきましょう。

  〈契約がいったん買い手と売り手とのあいだで結ばれても、譲渡される物品の特殊な性質からして、その使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない、という結果が生ずる。その物品の価値は他のすべての物品の価値と同じように、それが流通の中に入る以前に、すでに規定されていた。その物品の生産が若干量の社会的労働の支出を必要としたからである。ところが、労働力の使用価値は、当然その後になってはじめて行なわれる労働力の発揮のうちに成立する。労働力の譲渡と、労働力の現実の発現すなわち使用価値としての使用とは、換言すれば、労働力の阪売とその使用とは、同時に行なわれるものではない。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  労働力という商品は、他の商品とくらべて独特の性質を持っています。その価値に精神的・文化的要素が入るというのもそうですが、それ以外に、それが販売されるのは、一定期間に限って、労働力を使用する権限を購買者に譲渡するということであって、実際に労働力の使用価値(労働)が譲渡される(実証される)のは、現実に労働が行われることによってであり、そこには不可避に時間的な間隔が生じてくるということです。こうした特性は労働力商品に限ったものではなく、例えは家屋を一定期間使う契約を結ぶ場合も、その価値は契約時点で確定しますが、実際に使用価値はその期間を通じて譲渡され実現されるという特性を持っています。

  (ニ) このような商品、すなわち販売においてはただ形式的に使用価値を譲渡するだけで、その現実の購買者への引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能します。

  これも該当する部分のフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈ところで、使用価値が販売によって形態的に譲渡されても現実にはそれと同時に買い手に譲られないようなこの種の商品が問題であるばあいには、ほとんどいつでも、買い手の貨幣は支払手段として機能する。すなわち、売り手の商品はすでに使用価値として役立ったのに、売り手は長短の差はあれ期間を隔てて、やっと貨幣を受け取るのである。〉 (江夏・上杉訳162頁)

  また第3章の「b 支払手段」のなかでは次のように述べられていました。

  〈ある種の商品の利用、たとえば家屋の利用は、一定の期間を定めて売られる。その期限が過ぎてからはじめて買い手はその商品の使用価値を現実に受け取ったことになる。それゆえ、買い手は、その代価を支払う前に、それを買うわけである。一方の商品所持者は、現に在る商品を売り、他方は、貨幣の単なる代表者として、または将来の貨幣の代表者として、買うわけである。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。ここでは、商品の変態または商品の価値形態の展開が変わるのだから、貨幣もまた一機能を受け取るのである。貨幣は支払手段になる。〉 (全集第23a巻176-177頁)
  
  労働力も家屋の利用と同じ特性を持っているいえます。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) 資本主義的生産様式の行なわれる国ではどの国でも、労働力は、売買契約で確定された期間だけ機能してしまったあとで、たとえば各週末に、はじめて支払を受けます。だから、労働者はどこでも労働力の使用価値を資本家に前貸しするわけです。労働者は、労働力の価格の支払を受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって、どこでも労働者が資本家に信用を与えるのです。この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく、多くのもっと持続的な結果によっても示されています。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。

  〈資本主義的生産様式が支配している国ではどこでも、労働力は、それが契約できめられた若干時間すでに機能したときに、たとえば各週の終りに、はじめて支払いを受ける(13)。したがって、労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家に前貸しして、この価格を手に入れる以前にこれを買い手に消費させる。一言にして言えば、労働者はいたるところで資本に掛売りする(14)。そして、この信用が空虚な妄想でないことは、資本家が破産したばあいに賃金の損失によって証明されるばかりでなく、これほど偶然ではない他の多数の結果によっても証明されるのである(15)。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  確かに私たちは、働いた結果、その成果として月末などに給与を受けていますが、しかしそれは私たちが資本家たちに自分の労働力の使用価値を前貸して、信用を与えているのです。つまり私たちは債権者であり、資本家はこの限りでは債務者なのです。だから資本家が破産したとき、労働債権の取り立てが問題になるわけです。
  ここで〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉というのが何を指しているのかは、原注51に詳しく説明されていますので、その時に検討しましょう。

  (リ)(ヌ)(ル) もっとも、貨幣が購買手段として機能するか支払手段として機能するかによっては、商品交換そのものの性質を少しも変えるものではありません。労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されていますし、労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのですから。

  フランス語版です。

  〈貨幣が購買手段として機能しても、または支払手段として機能しても、商品交換の性質は全然変わらない。労働力の価格は、家屋の家賃と同じように、後日になってはじめて実現されるとはいえ、契約によって確定されている。労働力は、後になってはじめて支払われるとはいえ、すでに売られているわけだ。〉 (江夏・上杉訳163頁)

  労賃が週の終わりか(週給)、月の終わりか(月給)はともかく、それによって労働者が彼の労働力を販売するという商品の交換の性質は何一つ変わりません。確かに労働力の価格は、使用価値が実証されてから実現される(支払われる)とはいえ、すでに労働力を販売する契約を交わした時点で、その価格は確定しており、すでに販売されているという事実は変わらないからです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきます。

 〈貨幣がここで単純な流通手段とみなされようと、支払手段とみなされようと、どちらでもよい。ある人が私にたとえば彼の労働能力のうちの12時間分の使用価値を売る、つまり彼の労働能力を12時間のあいだ売るとすると、私に対する労働能力の販売は実際には、私が彼に12時間の労働を要求し、彼が12時間の労働をなしおえた時にはじめて完了するのである、つまり彼は12時間が終わったときにはじめて12時間分の彼の労働能力の私への引きわたしが完了するのである。このかぎりでは、貨幣がここで支払手段として現われ、売りと買いとが両方の側で直接に同時に実現されることにならないことは、この関係〔労働能力と貨幣との売買〕の本性に根ざしている。ここで重要なことは、支払手段、一般的支払手段とは貨幣のことであり、したがってまた労働者は、自然生的な支払いの仕方が特殊なものであることによって買い手に対して流通諸関係とは別の諸関係のなかに入り込むわけではないということ、ただこれだけである。労働者は彼の労働能力を直接に一般的等価物に転化するが、この一般的等価物の占有者として彼は、一般的流通のなかで、他のだれとも同一の関係--その価値の大きさの範囲〔において〕--を、他のだれとも等しい関係を保持している。同様に彼の販売の目的もまた、一般的富、つまり一般的社会的形態をとっていてあらゆる享受の可能性としてある富なのである。〉 (草稿集③196頁)

  (ヲ) しかし諸関係を純粋に把握するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用でしょう。

  フランス語版です。

  〈無用な複雑さを避けるために、われわれは仮に、労働力の所有者が労働力を売るやいなや契約で定められた価格を受け取るもの、と想定することにしよう。〉 (江夏・上杉訳162-163頁)

  当面の考察では、いちいち支払手段としての機能を問題にせず、それを無視して、労働力商品もこれまでの商品交換で想定したように、便宜的に、労働力を販売した時点で、その使用価値を譲渡し、その価格も実現されるものと想定して考えることにするということです。

  最後に関連する『61-63草稿』の一文を紹介しておきましょう。

 〈労働能力というこの特殊的な商品の本性からして、この商品の現実の使用価値はその消費のあとではじめて現実に一方の手から他方の手に、売り手の手から買い手の手に移される、ということにならざるをえない。労働能力の現実の使用は労働である。しかしそれは、労働が行なわれるまえに、能力〔Vermögen〕、単なる可能性として、単なる力〔Kraft〕として売られるのであり、この力の現実の発現〔Äußerung〕は、買い手へのこの力の譲渡〔Entäußerung〕のあとではじめて生じる。したがってここでは、使用価値の形式的な譲渡とそれの現実的な引渡しとが時間的に分裂するので、買い手の貨幣は、この交換ではたいてい支払手段として機能する。労働能力は毎日、毎週、等々に支払われるが、しかしこの支払いは、それが買われた時点でではなく、それが毎日、毎週、等々に現実に消費されてしまったあとで行なわれる。資本関係がすでに発展しているすべての国では、労働能力は、それが労働能力として機能したあとに、はじめて労働者に支払われる。この点で、どこでも労働者は毎日あるいは毎週--しかしこれは彼が売る商品の特殊な本性と結びついている--資本家に信用を与える〔kreditieren〕、すなわち彼が売った商品の使用を引き渡し、そしてこの商品の消費のあとではじめてそれの交換価値あるいは価格を受け取る、と言いうるのである。{恐慌の時期には、また個々の破産の場合でさえ、労働者たちが支払われないことによって、彼らのこの信用供与〔Kreditieren〕はけっして単なる言い回しではない、ということがはっきりする。} しかしながら、このことはさしあたり、交換過程をいささかでも変えるものではない。その価格は契約で確定される--つまり、労働能力の価値が貨幣で評価される--それはのちにやっと実現され、支払われるのではあるが。したがって、価格規定もまた、労働能力の価値に関連しているのであって、それの消費の結果、それの現実の消耗の結果、それの買い手にもたらされる、生産物の価値に関連するのではなく、また、労働--これ自身は商品ではない--の価値にも関連しないのである。〉 (草稿集④80-81頁)


  (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

2022-02-13 13:06:04 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(5)

 

◎原注49

【原注49】〈49 「すべて労働は、それがすんだあとで代価を支払われる。」(『近時マルサス氏の主張する需要の性質…… に関する原理の研究』、104ページ。)「商人的信用は、生産の第一の創造者である労働者が、彼の節約によって、彼の労働の報酬を1週間とか2週間とか1か月とか4半期とかなどの末まで待てるようになった瞬間に、始まったにちがいない。」(C・ガニル『経済学の諸体系について』、第2版、パリ、1821年、第2巻、150ぺージ。)〉

  これは〈しかし、このような商品、すなわち売りによる使用価値の形式的譲渡と買い手へのその現実の引き渡しとが時間的に離れている商品の場合には(49)、買い手の貨幣はたいていは支払手段として機能する〉という本文につけられた原注です。
  この原注では匿名の著書とガニルの著書から二つの引用が行われています。最初の引用はまあよいとして、あとの方の引用は〈商人的信用は〉、労賃が週賃金などになった瞬間に〈始まったにちがいない〉というのですが、これは正しいとは言えません。ただマルクスは、こうした週賃金などの形態が商業信用の一関係であることを見抜いていることに注目しているのではないでしょうか。
  ガニルについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ガニール Charles Ganilh(l758~1836)フランスの経済学者・金融評論家で,新重商主義者.……,マルクスは‘復活した重商主義'とよび,彼を重商主義の‘近代的な蒸しかえし屋'あるいはフェリエとともに‘帝政時代の経済学者'と評価した.
  批判は,まずガニールが,富は交換価値からなり,貨幣--貨幣たるかぎりの商品--だとして,商品の価値を交換の生産物と考えた重商主義的見解に向けられ,それは商品の価値形態から逆に価値が生ずるとする誤れる見方であり,けっきょく,価値の実体を見ることなく,価値のうちにただ商品経済の社会的形態のみを,あるいは実体なきその仮象のみを見るものとした(KⅠ-66.87.98;青木1-164-155.185,203;岩波1-121-122,158.181.MW1第4章第8項). なお富は交換価値からなるという見方に関連して,『剰余価値学史』では,ガニールが,生産的・不生産的労働の区別をも交換によって判断し.労賃の支払われる労働は,非物質的生産に従事する労働や召使などの労働といえども,すべて生産的労働であるとして,スミスの生産的・不生産的労働の区別を論破しようとしたことを,ガルニエ, ローダデールの説と同様,'まったくくだらない話'であり,'大衆文芸的論議",'教養ある饒舌にすぎない'としている(MWI第4章第8項および262:青木2-285-300,428-429),……なお,資料的には,『資本論』第1巻第4章で,労賃の後払いが可能になった瞬間に,商業信用が始まったとする彼の文章を引用している(KI-182:青木2-325・岩波2-58-59).〉(480頁)


◎原注50

【原注50】〈50 「労働者は自分の勤勉を貸す」が、しかし、とシュトルヒは抜けめなくつけ加える、彼は「自分の賃金を失うこと」のほかには「なにも賭けてはいない。……労働者は物質的なものはなにも引き渡しはしない。」(シュトルヒ『経済学講義』ペテルブルグ、1815年、第2巻、36、37ページ。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)〉という本文につけられた原注です。

  シュトルヒは労働者が労働力の使用価値を信用貸しすることを認めながら、さらには賃金を失うこともありうることをも認めていますが、それは物質的なものではないということから、たいしたものではないかに主張して、資本家を弁護しているようです。
  シュトルヒについて『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈シュトルヒ Heinrich Friedrich von Storch (17166~1835)ロシアの経済学者.……マルクスの彼にかんする叙述は,つぎの二点に要約される.第一点は社会的総生産物と社会的収入とを区別しようとした人としてである.……(以下、略)……
  第二点はアダム・スミスの生産的労働と不生産的労働の区別づけにかんする倫争におけるもっとも署名な人としてである.……(略)
  その他『資本論』には,むしろマルタス自身の見解を確認するためにシュトルヒの文章を挙げているつぎのような箇所が見られる.第1巻では,本来的原料をmatièreとよぴ補助材料をmatèriauxとよんで両者を区別した人として(KI-I90:青木2-336;岩波2-73). また,賃金が労働期間後に支払われ,その間労働者の信用貸となることに関連して,シュトルヒが労働者は勤労を貸すのであってなんら物質的なものを渡きないのだから賃銀を失うこと以外になんの危険もないと指摘していること(K1-182 :青木2-325;岩波2-59).……(以下・略)〉(499-500頁)


◎原注51

【原注51】〈51 一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「フル・プライスド」と、この価値よりも安く売る「アンダーセラーズ」とである。あとのほうの部類はパン屋の総数の4分の3以上を占めている。(『製パン職人の苦情』に関する政府委員H・S・トリメンヒーアの『報告書』、ロンドン、1862年、XXXIIページ。)(ヘ)このアンダーセラーズが売っているパンは、ほとんど例外なく、明馨やせっけんや粗製炭酸カリや石灰やダービシャ石粉やその他類似の好ましい栄養のある衛生的な成分の混入によって不純にされてある。(前に引用した青書を見よ。また、「パンの不純製造に関する1855年の委員会」の報告、およびドクター・ハッスルの『摘発された不純製品』、第2版、ロンドン、1861年、を見よ。)サー・ジョン・ゴードンは1855年の委員会で次のように言明した。「この不純製造によって、毎日2ポンドのパンで暮らしている貧民は、いまでは実際には栄養素の4分の1も受け取ってはいないのである。彼の健康への有害な影響は別としても。」なぜ、「労働者階級の非常に大きい部分が、不純製造について十分によく知っていながら、しかもなお明馨や石粉などまでいっしょに買いこむのか」ということの理由として、トリメンヒーア(同前、XLVIIIページ)は、彼らにとっては「パン屋や雑貨屋がよこすパンを文句なしに受け取るのはやむをえないことである」ということをあげている。彼らは1労働週間が終わってからはじめて支払を受けるのだから、彼らもまた「彼らの家族が1週間に消費したパンの代価をやっと週末に支払う」ことができるのである。そして、トリメンヒーアは証言を引用しながらつけ加えて次のように言っている。「このような混ぜものをしたパンが特にこの種の客のためにつくられるということは、隠れもないことである。」〔"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〕「イングランドの多くの農業地方では」(だがスコットランドの農業地方ではもっと広く)「労賃は2週間ごとに、また1か月ごとにさえ、支払われる。この長い支払間隔のために農業労働者はその商品を掛けで買わなければならない。……彼は、普通より高い価格を支払わなければならないし、実際上、借りのある店に縛られている。こうして、たとえば賃金の月払いが行なわれているウィルトシャのホーニングシャムでは、農業労働者は、よそでは1ストーン当たり1シリング10ペンスで買える小麦粉に2シリング4ペンスも支払うのである。」(『公衆衛生』に関する『枢密院医務官』の『第6次報告書』、1864年、264ぺージ。)「ぺーズリとキルマーノック」(西スコットランド)「のサラサ捺染工は1853年にストライキによって支払期間の1か月から2週間への短縮をかちとった。」(『工場監督官報告書。1853年10月31日』、34ページ。)そのほかにも、労働者が資本家に与える信用のおもしろい発展としては、イギリスの多くの炭鉱所有者の用いる方法をあげることができる。これによれば、労働者は月末になってからはじめて支払を受け、それまでのあいだ資本家から前貸しを受けるのであるが、前貸しはしばしば商品で行なわれ、これにたいして彼はその市場価格よりも高く支払わなければならないのである(現物支給制度〔Trucksystem〕)。「炭鉱主たちのあいだでは、彼らの労働者に月に1回支払い、その中間の各週末に現金を前貸しするのが、普通の習慣である。この現金は店」(すなわちトミーショップ〔tommy-shop〕、つまり炭鉱主自身のもちものである雑貨店)「で与えられる。労働者はそれを一方で受け取り他方で支払うのである。」 (『児童労働調査委員会。第3次報告書。ロンドン、1864年』、38ページ、第192号。)〉

  これは〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということは、資本家が破産すると信用貸しされていた賃金の損失が時おり生ずるということによってだけではなく(50)、多くのもっと持続的な結果によっても示されている(51)〉という本文につけらた原注ですが、〈この信用貸しがけっして空虚な妄想ではないということ〉が、〈多くのもっと持続的な結果によっても示されている〉ことの説明になっています。
  長い原注ですが、かなりの部分が引用からなっており、文節ごとに細かく検討していく必要はないと考えます。
  まずマルクスは一つの実例として、ロンドンには二種類のパン屋がある話から始めています。一つは通常のパン屋、もう一つは安売りのパン屋です。そして後者のパン屋が売っているパンは粗悪な品物で、さまざまな人体に有害な混ぜ物がなされて、増量されており、そのために安いのでもありますが、しかしそのような有害なパンを労働者が買わざる得ない理由として、労賃の支払が週賃金とか2週間末に支払われるという賃金の支払形態にあることを指摘しています。彼らは1週間か2週間働いたあとになってやっと賃金を受け取るので、それまでの間はパンをツケで買わざるをえず、だからそうした有害なパンでもとにかく信用で売ってくれるパン屋で買わざるを得ないのだというのです。
  またスコットランドの農業地方では、賃金の支払いの間隔がもっと長く、そのあいだ労働者は信用で生活手段を購入せざるを得ず、だからツケで買える店に彼らは縛られており、そのために高い料金でもやむを得ず支払わされているのだと指摘されています。これも賃金の支払形態からくる労働者への搾取の強化の一形態です。
  このように賃金の支払が後払いになることによって、特にその支払が遅くなればなるほど労働者の不利益が大きくなるので、西スコットランドの捺染工たちはストライキに訴えて、支払期間を1カ月から2週間に短縮することを勝ち取ったことが例としてあげられています。
  さらに賃金の支払形態の特徴を生かした資本家による搾取の強化について、マルクスはイギリスの炭鉱労働者の例を挙げています。労働者は月末に支払をうけるので、それまでの生活手段を炭鉱主から前借りするのですが、それは事実上の現物支給であり、その場合の前借りする生活手段はその通常の市場価格よりも高いことが指摘されています。彼らは炭鉱主が経営する店でその前借りをするので、そんな高い商品でも買わざる得ないわけです。彼らへの支払いは月末に1回行われますが、それまでの間の彼らの生活のためには各週末ごとに炭鉱主の店で現金が前貸しされるので、労働者は受け取った現金をそのままその店の商品の購入に当てるので、受け取ったものを、そのまま支払うことになるというのです。


◎第19パラグラフ(流通過程から生産過程へ、貨殖の秘密があばき出される)

【19】〈(イ)いま、われわれは、労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知った。(ロ)この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われる。(ハ)この過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払う。(ニ)労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。(ホ)労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれる。(ヘ)そこで、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしよう。(ト)ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。(チ)貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいない。〉

  (イ)(ロ) 私たちは、すでに労働力というこの独特な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる価値の規定の仕方を知りました。この価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、現実の使用で、すなわち労働力の消費過程で、はじめて現われます。

 このパラグラフはこれまでの考察を踏まえたまとめであり、次の第5章への移行を、つまり流通過程から生産過程への移行を示すもののように思えます。まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈労働力というこの独創的な商品の所有者に支払われる価値が、どのような様式と方法できめられるかは、いまではわかっている。労働力の所有者が交換において買い手に与える使用価値は、彼の労働力の使用そのものにおいて、すなわちその消費において、はじめて現われる。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  まず私たちは、これまでの考察によって、労働力商品の独自性とその商品に特有な支払いの仕方を知りました。この独特の商品の価値の支払いが特有なものになるのは、その使用価値の実現の独自性から生まれます。その使用価値とは労働力の発現、すなわち労働そのもののことです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈さてわれわれは、自分の貨幣を資本に転化しようとしている・したがってまた労働能力を買う・貨幣所有者が労働者に支払うものはなにか、ということは実際に知っている。そして貨幣所有者が労働者に支払うものは、じつは、労働者の労働能力の、たとえば日々の価値であり、労働能力の日々の価値と一致する価格あるいは日賃銀であって、彼はこの支払いを、労働能力の日々の維持に必要な生活手段の価値に等しい貨幣額を労働者に支払うことによって行なうのである。この貨幣額は、これらの生活手段の生産のために、したがって労働能力の日々の再生産のために必要である労働時間と、ちょうど同じだけの労働時間を表示しているものである。われわれはまだ、買い手のほうがなにを入手するのか、ということは知らない。販売のあとに行なわれる諸操作が独自な本性のものであり、したがってまた特別に考察されねばならないということは、労働能力というこの商品の独自な本性、ならびに、買い手によってそれが買われるさいの独自な目的--すなわち、自分が、自己自身を増殖する価値の代表者であることを実証しようという、買い手の目的--と関連している。さらに--しかもこのことは本質的なことであるが--、この商品の特殊的な使用価値とこの使用価値の使用価値としての実現とが、経済的関係、経済的形態規定性そのものに関係しており、したがってまたわれわれの考察の範囲にはいる、ということがつけ加わる。ここでは付随的に、使用価値ははじめは、どれでもよいなにか一つの任意の素材的前提として現われるのだ、ということに注意を喚起しておいてもよい。〉 (草稿集④81-82頁) 

  (ハ) この消費過程に必要なすべての物、原料その他を、貨幣所持者は商品市場で買い、それらに十分な価格を支払います。

  だから貨幣所持者は労働力商品の消費過程に必要な、つまり労働者が彼の労働を対象化するのに必要なもの、すなわち原料その他を商品市場で購入して、その価格を支払います。ここまでは商品の流通過程における操作です。

  (ニ) 労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程です。

  そして労働力の消費過程というのは、労働力の使用価値を実現する過程、すなわち労働過程であり、同時に商品の生産過程であり、またそこで剰余価値も生産されるわけです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉 (草稿集④83頁)

  (ホ)(ヘ) 労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じに、市場すなわち流通部面の外で行なわれます。そこで、わたしたちも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていてだれの目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者といっしょに立ち去って、この二人について、隠れた生産の場所に、無用の者は立ち入るな〔No admittance except on business〕と入り口に書いてあるその場所に、行くことにしましよう。

  この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じように、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。われわれは貨幣所有者や労働力の所有者と一緒に、すべてが表面で、しかも誰の目にも見えるところで起こるような、この騒々しい部面を立ち去り、入ロに無用の者入るべからずと書いてある生産の秘密の実験室の中まで、この二人の後について行こう。〉 (江夏・上杉訳164頁)

  だから労働力の消費は、他のどの商品もそうですが、市場の外で、すなわち流通過程の外部の生産過程で行われます。だから私たちも、このすでに買われた労働力とそれを買った貨幣所持者のあとに付いて、流通過程から生産過程に行くことにしましょう。流通過程は資本主義的生産の表面に現れていて、直接目につくものですが、生産過程はその背後にあって私たちには隠されています。そして「無用のもの立ち入るべからず」という看板がその門に掲げられ、一般人の入門を拒んでいますが、しかし私たちは資本の生産の秘密を探るためにそこに入っていかねばなりません。

  (ト)(チ) ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるでしょう。貨殖の秘密もついにあばき出されるにちがいないのです。

  フランス語版を紹介しておきます。

  〈われわれはそこでは、どのようにして資本が生産するかということばかりでなく、さらになお、どのようにして資本自体が生産されるかをも、見ることになる。剰余価値の製造という、近代社会のこの重大な秘密が、ついに暴露されることになる。〉 (江夏・上杉訳164-165頁)

  この隠れた生産の場所では、どのようにして資本が生産をするのかだけではなくて、どのようにして資本そのものが生産されるのか、すなわち剰余価値が形成されるのかということも、分かるに違いありません。ついに貨殖の秘密が解きあかされるのです。


◎第20パラグラフ(流通過程は自由・平等・所有・利己主義の基礎)

【20】〈(イ)労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。(ロ)ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。(ハ)自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。(ニ)彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。(ホ)契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。(ヘ)平等! なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。(ト)所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。(チ)ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。(リ)彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。(ヌ)そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。〉

  (イ)(ロ) 労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園でした。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムです。

  ここから最後の二つのパラグラフはいわば補足というべきものでしょう。最初にフランス語版を紹介しておきます。

 〈労働力の販売と購買が行なわれる商品流通の部面は、実際、天賦の人権と市民権との真の楽園である。そこでひとり支配するものは、自由、平等、所有、そしてベンサムである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  すでに私たちは資本の秘密を探るために、生産過程に行くことを前のパラグラフで宣言したのですが、しかし振り返ってみれば、あの流通過程というのは、これから進むであろう生産過程に比べると何と天賦人権の花園だったことでしょう、というのは、ここで支配しているのは、ただ自由であり、平等であり、所有であり、そしてベンサム(利己主義)だったからです。

  ここで〈天賦の人権のほんとうの楽園〉というのは天がすべての人に対して平等に、分かち与えた権利のほんとうの楽園ということになりますが、これはキリスト教の旧約聖書に出てくるアダムとイブが神から追放される前のエデンの園を意味すると説明している文献もありますが、よく分かりません。

  (ハ)(ニ)(ホ) 自由! というのは、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけでしたから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約します。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果です。

  まずフランス語版です。

  自由! 一商品の買い手も売り手も強制によって行動せず、むしろ自分たちの自由意志によってのみ、規定されているからである。彼らは、同じ権利をもつ自由な人間として、ともに契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的表現をそのなかで与えられているところの、自由な産物である。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  自由というのは、労働力の売り手も、買い手も、彼らの自由意思にもとづいてその契約を結ぶからです。彼らは等価物同士の交換者として、同じ権利と自由を与えられています。契約はそうした彼らの共通の意志を法的に表現したものです。
 マルクスは『経済学批判・原初稿』で〈流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化であるとすれば、流通の過程は、そのものとしてみるならば……すなわち流通の過程を交換の経済的形態諸規定の点からみれば、それは社会的平等〔Gleichheit〕の完全な実現をなしている。〉(草稿集③126頁)と述べています。つまり自由と平等は内的に結びついたものなのです。『要綱』には〈経済的な形態すなわち交換が、あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば、交換をうながす内容、すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は、自由を措定する。したがって平等と自由が、交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく、諸交換価値の交換が、あらゆる平等自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は、純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし、法律的、政治的、社会的な諸関連において展開されたものとしては、この土台が別の位相で現われたものにすぎない。このことは歴史的にもたしかに確証されてきたことである。〉(草稿集①280頁)とあります。ただ〈自由という諸関連は交換の経済的形態諸規定に直接に関係するわけではなく、交換の法的形態に関係するか、あるいは交換の内容、つまり諸使用価値そのものまたは諸欲求そのものに関係するかのどちらかだ〉(草稿集③126頁)とも述べて、自由そのものは経済的形態規定性には直接関係しないとも述べています。〈自由と平等とは、純粋な理念としては、交換価値の過程のさまざまの契機の観念化きれた〔idealisirt〕表現であり、また法的、政治的および社会的な諸関連において展開されたものとしては、それらがただ〔経済とは〕別の展開位相〔Potenz〕において再生産〔再現〕されたものにすぎない〉(草稿集③134頁)のです。

  (ヘ) 平等! というのは、労働力の所持者も、貨幣の所持者も、ただ互いに商品所持者として関係し合い、等価物と等価物とを交換するのですから。彼らはその関係において平等なのです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきましょう。

  〈流通の諸主体としては、彼らはさしあたり交換を行う者であって、どの主体もこの規定において、したがって同一の規定において定立されているということが、まさに彼らの社会的規定をなしているのである。彼らは実際にはただ、主体化された交換価値〔subjektivirte Tauschwerthe〕として、すなわち生きた等価物として、つまり同等な者〔Gleichgeltend〕として対応しあっているにすぎない。彼らはそのような交換の諸主体としてただ平等であるというだけではない。そもそも彼ら相互のあいだにはなにひとつ差異がないのである。彼らが対応しあうのはもっぱら交換価値の占有者、および交換を必要としている者〔Tauschbedürftige〕としてであり、同一の、一般的で無差別の社会的労働の代理人〔Agent〕としてである。しかも彼らは等しい大きさの交換価値を交換する。というのは、等価物どうしが交換されるということが前提されているからである。各人の与えるものと受け取るものとが同等であるということが、ここでは過程それ自身の明示的な契機である。[彼らが]交換の諸主体としてどのように対応しあうかということは、交換行為において確証される。交換行為とは、そのものとしては、ただこの確証でしかない。彼らは交換を行なう者として、したがって同等なものとして定立され、彼らの商品(客体)は等価物として定立される。彼らが交換するものは等しい価値をもつものとしての彼らの対象的定在にほかならない。彼ら自身は等しい大きさの価値があるわけであるが、彼らが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてである。等価物はある主体が他の主体のために対象化したものである。すなわち等価物そのものは、等しい大きさの価値があるわけであるが、これらが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてなのである。諸主体は交換のなかで、ただ互いに相手に対する等価物を通してのみ同等な者として存在し、一方が他方に対して呈示する対象性の転換を通じて〔のみ〕、互いに同等なものとして確証されるのである。彼らは、ただ互いに相手に対して等価の主体としてのみ存在するのであるからこそ、同等であると同時に互いに無差別でもあるのである。彼らのそれ以外の区別は彼らには関係がない。彼らの個人的な特殊性は過程のなかには入ってこない。彼らの諸商品の使用価値の素材的な差異は、商品の価格としての観念的定在にあっては消えうせており、この素材的差異か交換の動因となっているかぎりでは、彼らは互いに相手の欲求であり(各々の主体が他の主体の欲求を代表する)、ただ等量の労働時間によって充足される欲求にすぎない。この自然的な差異こそ、彼らの社会的平等の根拠であり、彼らを交換の諸主体として定立するものなのである。かりにAの欲求がBの欲求と同一であり、かつAのもっている商品が充足する欲求とBのもっている商品が充足する欲求とが同一であったとすれば、経済的諸関連を問題とするかぎりでは(つまり彼らの生産の面からみれば)、両者のあいだにはまったくどのような関連も存在しないであろう。彼らの労働および彼らの商品の素材的差異を媒介にして彼らの諸欲求を互いに充足しあうことによってこそ、彼らの平等がひとつの社会的関連として成就され、彼らの特殊な労働が社会的労働一般のひとつの特殊な存在様式になるのである。〉 (草稿集③126-128頁)

  (ト) 所有! というのは、どちらもただ自分のものを処分するだけですから。

  『要綱』には次のような説明があります。

  〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenthum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。他人の労働の所有は自己の労働の等価物によって媒介されている。所有のこの形態は--自由と平等とまったく同様に--、この単純な関係のうちに措定されている。〉 (草稿集①271頁)

  また『経済学批判・原初稿』からも紹介しておきましょう。

  〈交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初に17世紀と18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。〉 (草稿集③134-135頁)
  〈交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、葛藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。〉 (草稿集③136頁)

  (チ)(リ)(ヌ) ベンサム! というのは、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけですから。彼らをいっしょにして一つの関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけです。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのです。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう。

  ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからである。彼らを対面させ、関係させる唯一の力は、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいあい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  上記の『要綱』の一文のなかにも〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎ〉ないと指摘されています。ただ自分の欲得にもとづいて、利己的な計算だけで、彼らは互いに交換者として関係し合うわけですから。そしてめいめいが自分のことだけを考えて行動することによって、諸関係のなかに内在する社会的な諸法則が自己を発現して、予定調和の摂理が働くことになるわけです。彼らは自分のことだけに関心を持って働きかけながら、その結果として他人の役にも立つのであり、社会全体の共通の利益にも寄与するのです。

  新日本新書版には〈事物の予定調和〉につぎのような訳注が付いています。

  〈〔世界を形成する実体はモナド(単子--1または単位の意)であるが、モナドからなる世界に秩序があるのは、神があらかじめモナド相互に調和をもたらすように定めたからであるとするドイツの哲学者ライプニッツの説にもとづく考え。普遍的調和ともいう。〉 (②301頁)

  最後にベンサムについて『資本論辞典』の説明を見てみおきましょう。
   
  〈ベンサム Jeremy Bentham (1748-1832)イギリスの法学者・功利主義思想の代表者.……彼はエルヴェシゥスのフランス唯物論およびイギリス経験論哲学を学び,道徳・立法の基礎を個人の利益・快楽におき'最大多数の最大幸福'(The greatest happiness of the greatest number)という功利主義をもって市民社会の基礎原理とした.……『資本論』では,この功利主義思想がイギリス・ブルジョアジーの思想として痛烈な批判をあびせられている.(K1-184;青木2 -327-328;岩波2-62).〉(550頁)


◎第21パラグラフ(流通過程の自由・平等の関係から生産過程の資本と賃労働との対立の関係へ)

【21】〈(イ)この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。(ロ)さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。(ハ)一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。〉

  (イ)(ロ)(ハ) この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのです。また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってきます。
  しかしこの天賦人権の花園を去って、あの隠れた生産過程に私たちは行くのですが、すでに私たちの登場人物たちの顔つきは、見受けるところでは、すでにいくらか変わっています。
  これまでの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力の所持者は労働力を買った資本家に属する労働者としてあとについて行きます。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のようにです。

  最初にフランス語版を紹介しておきます。

  〈単純な流通のこの部面は、俗流自由貿易論者にたいして、資本と賃労働にかんする彼の観念、概念、観察方法、判断の基準を提供しているが、われわれがこの部面から離れる瞬間に、われわれの戯曲の登場人物の相貌のなかに、ある変化が起きているように思われる。以前のわれわれの貨幣所有者が先頭に立ち、資本家として最初に行進する。労働力の所有者は、資本家に属する労働者として、後からついて行く。前者は、嘲笑的なまなざし、尊大で忙しそうな様子。後者は、自分自身の皮を市場に運んだが、もはや鞣(ナメ)されるという一事しか期待できない人のように、おずおずと、ためらいがちで、進み渋っている。〉 (江夏・上杉訳165頁)

  このような単純流通や商品交換の部面は、ブルジョア民主主義の基礎となっていますが、そこから小ブルジョアジーたちのそれに対する幻想をもたらす一方で、ブルジョアジーたちが自分たちの利害の隠れ蓑に利用するということが生じてきます。

  『要綱』には次のような一文があります。

  〈単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。〉 (草稿集①275頁)

  しかしこうしたブルジョア社会の表面に現れている天賦人権の花園を去れば、そこには厳しい搾取の現実が待っています。そこでは平等や自由はすでになく、資本と賃労働との対立が待ち構えているのです。同じ『要綱』から紹介しておきます。

  〈現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な〔scheinbar〕平等と自由は消失する。〉 (草稿集①285頁)

  新日本新書版には〈まるで自分の皮を売ってしまって〉に次のような訳者注が付いています。

  〈普通は「危険をしょい込む」「不快な結果に耐える」を意味する慣用句であるが、マルクスは語句どおりに用いて風刺している。〉 (②302)

  また山内清氏(『コメンタール資本論』貨幣・資本転化章)は、同じ部分に次のような説明を加えています。

  〈旧約聖書の「創世記」に、アダムとイブがエデンの園を追放されたとき神が「皮の長い衣」を与えたとある。〉 (284頁)


  (【付属資料】は(6)へ)

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(6)

2022-02-13 13:05:37 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(6)

 

【付属資料】


第1パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈商品は交換価値であるだけでなく、使用価値でもある。そして使用価値であるからには商品は目的に応じて消費されなければならない。商品が使用価値として役立つことによって、すなわち商品の消費のなかで、同時に交換価値が維持されなければならないし、また交換価値が消費の目的を規定する魂として現われなければならない。したがって商品が〔消費されて〕消えてなくなる過程が同時に、商品が消えてなくなることが消えてなくなる過程として、すなわち再生産過程として現われなければならない。だから商品の消費は、直接的享受のために行なわれるのではなく、それ自身商品の交換価値の再生産のための一契機として行なわれるのである。その意味で交換価値は商品の形態を示すだけではなく、商品の実体それ自体を燃え立たせる火としても現われるのである。こうした規定が使用価値の概念それ自体から生じてくるのである。しかし貨幣の形態をとっている時でも資本は、一面では流通手段としてただ消え去りゆくものとして現われるだけであろうし、他面では、資本が適合的な交換価値の規定性をとっている時でも、それはただ契機として、経過的なものとして定立されたにすぎない資本の存在として現われるだけであろう。〉(草稿集③181-182頁)
  〈形態G-W-Gが表わしているような貨幣と商品との現実的交換においては--つまり商品の実在的存在は商品の使用価値であり、しかも使用価値の実在的定在とは使用価値の消費のことだから--使用価値として実現される商品から交換価値そのものが、貨幣が、ふたたび生じてこなければならない。そして商品の消費が、交換価値が維持されるとともに価値増殖されもする形態として現われなければならない。流通は、交換価値に対して、交換価値そのものが実現される過程の契機として現われる。〉(草稿集③183-184頁)
   〈貨幣、すなわち自立化した交換価値が、それの対立物である使用価値そのものにただひたすら対立させられるかぎりでは、貨幣は実際には一つの抽象的な定在しかとることができない。貨幣は、それの対立物のなかで、つまりそれが使用価値になってゆくことのなかで、そして使用価値の過程である消費のなかで同時に交換価値として自分を維持するとともに増加してゆかなければならない、だから使用価値の消費そのもの--これは使用価値の能動的否定であるとともにそれの肯定でもある--が、交換価値そのものの再生産および生産に転化してゆかなければならない。〉(草稿集③184頁)
  〈貨幣は今では対象化された労働なのであって、この労働が貨幣の形態をもっていようと、特殊的商品の形態をもっていようと、かまわないのである。労働の対象的定在様式は資本に対立するものではなく、どんな対象的定在様式も資本の可能的存在様式として現われる。資本は単純な形態変換によって、つまり貨幣の形態から商品の形態に移行してゆくことによって、こうした存在様式をとることができる。対象化された労働に対する唯一の対立物は、対象化されていない労働、客体化された労働に対立している主体的労働である。あるいは時間的には過去のものだが空間的に存在している労働に対立している、時間的に現存している生きた労働である。労働は、時間的に現存している非対象的な(したがってまたいまだ対象化されていない)労働としては、能力〔Vermögen〕、可能性〔Möglichkeit〕、力量〔Fähigkeit〕としてしか現存しえない、つまり生きた主体の労働能力〔Arbeitsvermögen〕としてしか現存しえない。自立してあくまでも自分に固執する対象化された労働が資本であるが、この資本に対立することのできるものは、ただ生きた労働能力それ自体だけである。その意味で、貨幣が資本になることのできる唯一の交換は、貨幣の占有者が生きた労働能力の占有者、すなわち労働者と行なう交換である。〉(草稿集③188-189頁)
  〈ほかならぬ貨幣にとって使用価値であるものは、そのなかに貨幣が消えうせてしまうような消費物ではなくて、ただそれによって貨幣が自分を維持するとともに増大しもするような使用価値だけである。資本としての貨幣にとっては、それ以外の使用価値は存在しない。これこそまさしく、資本としての貨幣か交換価値として使用価値に対して行なう関係行為〔Verhalten〕なのである。資本としての貨幣に対して対立することができ、またそれを補完することもできる唯一の使用価値は、労働である。そして労働は労働能力のうちにあり、労働能力は主体として存在する。貨幣は、ただ非資本〔Nichtcapital〕、つまり資本の否定に対する関連のなかでのみ、資本として存在する。ただ資本の否定に対する関連のなかでのみ、貨幣は資本となる。現実的な非-資本〔Nicht-Capital〕とは労働そのものである。貨幣が資本となるための第一歩は、貨幣と労働能力との交換である。そしてこの交換を媒介として、商品の消費、すなわち商品を使用価値として実在的に定立するとともに否定する行為が同時に、交換価値としての商品の確証へと転化してゆくのである。〉(草稿集③191頁)
  〈貨幣の形態にある交換価値に対立しているのは、特殊的使用価値の形態にある交換価値である。しかしながら今ではすべての特殊的商品は、対象化された労働の特殊的定在様式としては、どれもこれも交換価値の表現であり、貨幣は、失われることなく、それに移行してゆくことができる。だからこれらの商品との交換によっては--今では、貨幣が貨幣の形態で存在していると前提しても、特殊的使用価値の形態で存在していると前提しても、どちらでもさしつかえないのだから--、貨幣はその単純な性格をなくすことができない。これができるのは、第一に、貨幣がみずから直接にとることのできない使用価値の唯一の形態--これはすなわち非対象的労働である--であると同時に、〔第二に、〕過程を進行してゆく交換価値〔processirender Tauschwerth〕としての資本にとって直接的使用価値であるもの--これもまた労働である--との交換によってである。したがって貨幣の労働との交換によってのみ、貨幣は資本に転化することができる。そこから交換価値それ自身が生成し、生み出され、また増大してゆくような使用価値だけが、可能的資本としての貨幣がそれと交換されることのできる使用価値でありうる。だがこの使用価値は労働にほかならない。交換価値は、使用価値に--あれやこれやの使用価値にではなく--交換価値そのものにかかわっている使用価値に--対応することによってはじめて、交換価値として実現されうるのである。この交換価値そのものにかかわっている使用価値とは労働である。労働能力とはそれ自身、それらの消費が労働の対象化、つまり交換価値の定立と直接に一致するような使用価値である。資本としての貨幣にとっては労働能力こそが、貨幣がそれと交換されなければならない直接的使用価値である。単純流通においては、使用価値の内容はどうでもよかったし、経済的形態関連〔die ökonomische FormBeziehung〕の外部にあることであった。〔だが〕ここでは使用価値の内容が、経済的形態関連の本質的な経済的契機なのである。というのは、交換価値がまずもって交換のなかで自分を堅持するものと規定されるのは、ただ、交換価値と対立することを自分自身の形態規定としているような使用価値と交換されることによってでしかないからである。〉(草稿集③192頁)

《61-63草稿》

 〈過程G-W-Gにおいては、価値(所与の価値額)は、それが流通にはいるあいだに、すなわちそれが交互に商品の形態と貨幣の形態とをとるあいだに、自己を維持し、自己を増加させなければならない。流通は単なる形態変換であってはならず、価値量を高くし、既存の価値に新価値すなわち剰余価値を追加しなければならない。資本としての価値は、いわば、第二の力能にある〔auf der zweiten Potenz〕価値、力能を高められた〔potenziert〕価値、でなければならない。〉(草稿集④47頁)
  〈対象化された労働にたいする唯一の対立物をなすのは、対象化されていない労働、生きた労働である。一方は空間のなかに存在する労働であり、他方は時間のなかに存在する労働である。一方は過去の労働であり、他方は現在の労働である。一方は使用価値に体化されているが、他方は人間の活動として過程を進みつつある〔prozessierend〕もの、また過程を進みつつあるときにはじめて、自らを対象化することができるものである。一方は価値であり、他方は価値を創造するものである。既存の価値が価値創造的活動と、対象化された労働が生きた労働と、要するに、貨幣が労働と交換されれば、この交換過程を媒介にして既存の価値が維持され、あるいは増大させられる可能性があるように見える。〉(草稿集④49頁)
  〈価値の増加とは、対象化された労働の増加のことでしかない。しかし、対象化された労働が維持され、あるいは増加されうるのは、生きた労働によってでしかない。〉(草稿集④51頁)
  〈価値が、貨幣の形態で存在する対象化された労働が、増大することができるとすれば、それはただ、次のような商品、すなわち、その使用価値そのものが交換価値を増加させることにほかならず、その消費が価値創造あるいは労働の対象化と同義であるような一商品との交換によってでしかないであろう。(そもそも、自己を増殖すべき価値にとっては、いかなる商品も、それの使用そのものが価値創造である場合、つまりそれが価値の増加に使用できる場合を除いては、直接に使用価値をもつことはない。)だが、そのような使用価値をもっているのは生きた労働能力だけである。それゆえ、価値、貨幣は、生きた労働能力との交換によってのみ、資本に転化されうるのである。価値、貨幣の資本への転化は、一方では価値、貨幣の、労働能力との交換を必要とし、他方では価値、貨幣の、労働能力の対象化が前提とする物的諸条件との、交換を必要とする。〉(草稿集④51頁)
  〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値--使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費--が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉(草稿集④61頁)

《初版》

 〈資本に転化すべき貨幣の価値変動は、この貨幣そのものにおいては生じえない。なぜならば、貨幣は、購買手段としても支払手段としても、それが買うか支払うかする商品の価格のみを実現するのであるが、他方、貨幣は、それ自身の形態にとどまっていれば、同等不変な価値量という化石に凝固する(39)からである。同様に、商品の転売という第二の行為からも、変動は生じえない。この行為は、商品を現物形態から貨幣形態に再転化させるにすぎないからである。だから、変動は、第一の行為G-Wで買われる商品に生ぜざるをえないが、その商品の交換価値に生ずるわけではない。なぜならば、交換されるのは等価物同士であり、商品はその価値どおりの支払いを受けるからである。だから、変動は、その商品の使用価値そのものからのみ、すなわちその商品の消費からのみ、生じうることになる。ある商品の消費から交換価値を引き出すためには、わが貨幣所持者は、運よく、流通部面の内部で、市場で、一商品--それの使用価値そのものが、交換価値の源泉であるという特異な性質をもっており、それゆえに、それを現実に消費すること自体が、労働の対象化でありしたがって価値創造である、というような一商品--を発見しなければならないであろう。そして、貨幣所持者は、市場で、このような独自な商品--労働能力あるいは労働力を、見いだすのである。〉(江夏訳170頁)

《フランス語版》フランス語版ではこのパラグラフは四つのパラグラフに分けられ、全集版の原注38は第12パラグラフのあとに注(1)としてつけられている。ここでは注を抜いて四つのパラグラフを紹介しておく。

 〈価値の増加--これによって貨幣は資本に転化するはずであるが--は、この貨幣自体からは生ずることができない。貨幣は、購買手段または支払手段として役立つにしても、それで買うかまたは支払う商品の価格を実現するにすぎない。
  貨幣が元のままにとどまり、自分自身の形態を保持するならば、貨幣はもはやいわば石化した価値でしかない(1)。
  A-M-A'、すなわち、貨幣の商品への変換およびその同じ商品のより多くの貨幣への再変換が表現するところの価値の変化は、商品から生じなければならない。だが、 M-A'、という第二の行為では、商品がただたんに自然形態から貨幣形態に移行する転売では、価値の変化は実現しえない。さて今度は、A-M,という第一の行為を考察すれば、等価物同士の交換が存在すること、したがって、商品は、この商品に変換する貨幣よりも大きな交換価値をもたない、ということが見出される。最後の仮定が、すなわち、変化は商品の使用価値、つまり商品の使用または消費から生ずるという仮定が、残されている。ところで、問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品--その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品--を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない。
  そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉(江夏・上杉訳154-155頁)


●原注38

《初版》

 〈(39) 「貨幣という形態にあっては、……資本はなんらの利潤も産み出さない。」(リカード『経済学原理』、267ページ。)〉(江夏訳170頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「貨幣形態のもとでは、……資本は利潤をなんら産まない」(リカード『経済学原理』、267ページ)。〉(江夏・上杉訳154頁)


●第2パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。--労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を--ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが--もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉(草稿集④78-79頁)

《初版》

 〈労働力あるいは労働能力についてわれわれが理解するものは、人間の身体すなわち生きている一身のなかに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的な諸能力の総体、のことである。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈この名称のもとでは、人間の身体という人間の生きた一身のなかに存在していて、人間が有用物を生産するために運動させなければならないところの、肉体的および精神的力能の総体を、理解しなければならない。〉(江夏・上杉訳155頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈われわれはまず最初に、資本と労働の関係のなかに含まれている単純な諸規定を分析し、そうして--これらの諸規定やまたそのいっそうの展開とが--以前の諸規定にたいしてもっている内的関連を見いだすことにしよう。
  第一の前提は、一方には資本があり、他方には労働があって、両者は相互に自立的な姿態として相対し、したがってまた両者は相互にたいして疎遠〔fremd〕だということである。資本に対立する労働は、他人の〔fremd〕労働であり、労働に対立する資本は、他人の資本である。相互に対立しあう両極は、特有の〔spezifisch〕異なり方をしている。単純な交換価値の最初の措定においては、労働は、生産物が労働者にとっての直接的な使用価値ではなく、直接的な生存手段ではないというように、規定されていた。このことは、ある交換価値をつくりだすうえでの、また交換一般の一般的条件であった。さもなければ、労働者はたんに一つの生産物--自分のための直接的な使用価値--をつくりだしただけで、交換価値をつくりだしはしなかったであろう。ところがこの交換価値は、一つの生産物のうちに物質化されており、そしてこの生産物はそのものとして他人のための使用価値をもち、またそのものとして他人の欲求の対象であった。〔ところが〕労働者が資本にたいして提出しなければならない使用価値、したがって彼が一般に他人のために提供しなければならない使用価値は、生産物のうちに物質化されてはおらず、およそ彼の外部に存在するものではなく、したがって現実に存在しているものではなく、ただ可能性〔Möglichkeit〕としてのみ、彼の能力〔Fähigkeit〕としてのみ存在しているにすぎない。それは、資本によって求められ、運動のなかにおかれてはじめて現実性となる。なぜなら対象をもたない活動など、無であるか、またはせいぜいのところ思考活動であって、こんなものはここでは問題にならない。この使用価値は、資本から運動を受けとるようになるやいなや、労働者の一定の生産的活動として存在する。それは、一定の目的にむけられた、それゆえにまた一定の形態で発現する労働者の生命力〔Lebendigkeit〕そのものである。〉(草稿集①314-315頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈貨幣が資本へ転化するための条件は、貨幣の所有者〔Eigner〕が貨幣を、商品である他人の労働能力と交換することができることである。したがって、流通の内部で労働能力が商品として売りに出されることである。というのは、単純流通の内部では交換当事者たちは、ただ買い手と売り手として以外には、対応しあうことがないからである。だからこの条件は、労働者が彼の労働能力を利用し尽くされる〔vermutzen〕べき商品として売りに出すこと、つまり彼が自由な労働者であるということである。この条件は、第一に、労働者が自由な所有者〔freier Eigenthümer〕として自分の労働能力を意のままに処分できること、商品としての自分の労働能力に対して関係することである。そのためには彼は自分の労働能力の自由な所有者でなければならない。しかしながら第二に、労働者は自分の労働をもはやそれ以外の商品の形態で、つまり対象化されている労働の形態で交換することはできず、彼が提供することができ、販売することができる唯一の商品は、まさしく彼の生きた肉体のうちに現存している彼の生きた労働能力だけであること、つまり自分の労働を対象化するための諸条件、自分の労働の対象的諸条件が、他人の所有として、流通のなかで自分自身の向う側に、相手の側にある商品として存在しているということである。〉(草稿集③193頁)

《61-63草稿》

 〈ここではわれわれは商品流通の基礎の上に立っているのであり、したがって交換者たちのあいだには、流通過程そのものによって与えられる依存関係のほかには、どんな依存関係もまったく前提されておらず、彼らはただ、買い手と売り手として区別されるだけである。したがって、貨幣が労働能力を買うことができるのは、ただ、労働能力が商品そのものとして売りに出され、その持ち主〔Inhaber〕、すなわち労働能力の生きた所有者〔Besitzer〕によって売られるかぎりにおいてである。その条件は、第一に、労働能力の所有者〔Besitzer〕が自分自身の労働能力を思いどおりに処分する〔disponieren〕ということ、商品としてそれを思いどおりに処理する〔verfügen〕ことができるということである。そのためには彼はさらに、労働能力の所有者〔Eigentümer〕でなければならない。そうでなかったならば、彼はそれを商品として売ることができない。〉(草稿集④52頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた。〉(全集第16巻128-129頁)

《初版》

 〈しかし、貨幣所持者が商品としての労働力を市場で見いだすためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるものを除くと、どんな依存関係をも含んではいない。こういった前提のもとでは、労働力商品として市場に現われることができるのは、ただ、それがそれ自身の所持者によって、すなわち、それを自分の労働力としてもっている人間によって商品として売りに出されるかまたは売られるかぎりにおいてのことであり、またはそうされるからなのである。労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処理することができなければならず、したがって、自分の労働能力である自分の一身の、自由な所有者でなければならない(40)。彼と貨幣所持者とは、市場で出会って、対等な商品所持者として互いに関係を結びあうのであり、彼らのちがいは、一方が買い手であり他方が売り手であるということだけであって、双方とも法律上平等な人間である。この関係が持続するためには、労働力の所有者がつねに労働力を一定の時間にかぎってのみ売る、ということが必要である。なぜならば、彼が労働力をひとまとめにして一度に売ってしまえば、彼は自分自身を売ることになり、彼は、自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。人間としての彼は、つねに、自分の労働力を、自分の所有物であり、したがって自分自身の商品である、と考えなければならない。そして、彼がそうできるのは、彼が、いつでも、ただ一時的に、一定の期間をかぎって、自分の労働力を買い手に用立て、買い手の消費にまかせ、こうして、労働力を譲渡しても労働力にたいする自分の所有権を放棄しない、というかぎりにおいてのことでしかない(41)。〉(江夏訳171頁)

《フランス語版》このパラグラフは、フランス語版では二つのパラグラフに分かれており、間に全集版の原注40に相当する注(2)が挟まっている。ここでは注を抜いて、二つのパラグラフを掲げておく。

 〈しかし、貨幣所有者が労働力を商品として市場で見出すためには、さまざまな条件があらかじめみたされていなければならない。商品交換はそれ自体では、その性質から生ずるもののほかにはどんな依存関係も生ぜしめない。この与件のもとでは、労働力が商品として市場に現われることができるのは、労働力が労働力自体の所有者によって売りに出されるか売られるばあいにかぎられる。したがって、労働力の所有者は労働力を自由に処分できなければならない、すなわち、自分の労働能力の、自分一身の、自由な所有者でなければならない(2)。貨幣所有者と労働力の所有者とは市場で出会い、同じ資格の交換者として相互に関係しあう。彼らがちがうのは、一方が買い他方が売るという点だけであり、このこと自体によって、双方とも法律上平等な人間なのである。
  この関係が持続するためには、労働力の所有者がつねにきまった時間についてだけ労働力を売る必要がある。彼が労働力をひとまとめにきっぱりと売れば、彼は自分自身を売るのであって、それまでの自由人から奴隷に、商人から商品になるからである。彼が自分の一身を保持したいと思えば、自分の労働力を一時的だけ買い手の処分にまかせざるをえず、その結果、労働力を譲渡しても、そのために労働力にたいする自己の所有権は放棄してはいないのである(3)。〉(江夏・上杉訳153頁)


●原注39

《初版》

 〈(4O) 古典的古代にかんする百科辞典のなかには、次のような不合理なことが書いてある。すなわち、古代世界では、「自由な労働者と信用制度とが欠けていたことを別にすれば」、資本は充分に発達していた、と。モムゼン氏も彼の著『ローマ史』のなかで、なんどもはきちがえをしている。〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈(2) 歴史家のあいだには、古典的古代では、「自由な労働者と信用制度が欠けていた」という例外を除き、資本が完全に発達していた、という不合理でもあり誤ってもいる主張が、しばしば見出される。モムゼン氏もまた、彼の『ローマ史』のなかで、これと同じような取り違いを積み重ねている。〉(江夏・上杉訳155頁)


●原注40

《初版》

 〈(41)だから、さまざまな立法は、労働契約にたいして最長期限を確定している。自由な労働が行なわれている諸国民のばあいには、すべての法典が、解約告知の条件を規定している。さまざまな国、ことにメキシコでは(アメリカの南北戦争以前にはメキシコから切り離された準州でも、また、ターザ〔1860年代に農地改革を実施した〕の変革までは事実上ドナウ諸州でも)、奴隷制がペオナージュ〔債務奴隷制〕という形態のもとに隠蔽されている。労働で返済されるはずで代々伝わってゆく前貸しが行なわれるために、個々の労働者ばかりでなく彼の家族も、事実上、他人やその家族の財産になる。ファレスはぺオナージュを廃止した。僣称皇帝マクシミリアンは、勅令を発布してこれを再び採用したが、この勅令は、ワシントンの下院では、適切にも、メキシコにおける奴隷制の復活のための勅令であると非難された。「私の特別な肉体的および精神的な技能および活動可能性について、私は……時間的に限定された使用を他人に譲渡することができる。なぜならば、それらは、こういった制限に応じて、私の全体性一般性とにたいする外的関係を保持しているからである。労働を介して具体化された私の全時間と私の生産全体とを譲渡することによって、私は、それらのものの実体的なもの、私の一般的な活動と現実性、私の一身を、他人の所有物にすることになるであろう。」(へーゲル『法哲学、ベルリン、184O年』、104ページ、第67節。)〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈(3) さまざまの立法は、労働契約についての最大限度をきめている。労働が自由であるような国民の法典はすべて、この契約の解除告知の条件を規定している。種々の国、とくにメキシコでは、奴隷制がペオナージュ〔債務奴隷制〕という名称をもつ形態のもとに隠蔽されている(アメリカの南北戦争以前にメキシコから引き離された領地でも、名称ではなく少なくとも事実上クーザ〔1860年代に農地改革を実施した〕の時代まではドナウ諸州でも、事情は同しであった)。労働で控除されることになっていて代々伝わってゆく前貸しによって、ひとりひとりの労働者ばかりでなく彼の家族もまた、他人とその家族の所有物になる。ファレスはメキシコのペオナージュを廃止した。僣称皇帝マキシミリアンは勅令によってこれを復活したが、ワシントンの議会は当然のことながら、この勅令を、メキシコでの奴隷制復活のための勅令であるとして告発した。
  「私は、私の肉体的および精神的能力と私の可能な活動力との使用を、きまった時間だけ他人に譲渡することができる。というのは、そのかぎりにおいて、それらは、私の存在の全体性と一般性と外的関係を保持しているにすぎないからである。しかし、労働のうちに実現された私の全時間と私の生産の全体とを譲渡することによって、私は、実体的なるもののうちにこそ存在するもの、すなわち、私の一般的活動力と私の一身とを、他人の所有物にするであろう」(へーゲル『法哲学』、ベルリン、1840年、104ページ、第67節)。〉(江夏・上杉訳155-156頁)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈だが、第一の条件にすでに含まれている第二の条件は、彼が次の理由によって、自分の労働能力そのものを商品として市場にもたらし、売らねばならないということである。その理由というのは、彼はもはや自分の労働を、交換に出すことのできるような、なにか別の商品の形態で、なにかほかの使用価値に対象化された(彼の主体性の外に存在している)労働の形態でもってはおらず、彼が提供しうるものとして、売りうるものとしてもつ唯一の商品は、まさに、彼の生きた身体のなかに現存する、彼の生きた労働能力〔Arbeitsvermögen〕だ、ということである。(このVermögenという言薬は、ここではけっして、fortuna,fortune〔財産〕の意味でではなく、Potenz〔力能〕、δύναμς〔可能態〕の意味で理解されるべきである。)〉(草稿集④52頁)

《初版》

 〈貨幣所持者が労働力商品として市場で見いだすための第二の本質的な条件は、労働力の所持者が、自分の労働が対象化されている商品を売ることができないで、むしろ、自分の生きている肉体のうちにのみ存在している自分の労働力そのものを、商品として売りに出さざるをえない、ということである。〉(江夏訳172頁)

《フランス語版》

 〈貨幣所有者が買うべき労働力を見出すための第二の本質的条件は、労働力の所有者が、自分の労働が実現されている商品を売ることができないで、自分の有機体のなかにのみ存在する自分の労働力そのものを、商品として売りに出さざるをえない、ということである。〉(江夏・上杉訳156頁)


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

 〈彼が、自分の労働がそのなかに対象化されているなんらかの商品の代わりに、自分の労働能力を、すなわち、他のすべての商品--それが商品の形態で存在しようと、貨幣の形態で存在しようと--から独自に区別されるこの商品を、売ることを強制されるためには、次のことが前提されている、--すなわち、彼の労働能力を実現するための対象的諸条件、彼の労働を対象化するための諸条件が欠けており、無くなってしまっており、その諸条件はむしろ富の世界、対象的富の世界として他人の意志に従属しており、彼にたいして商品所有者の所有物〔Eigentum〕として、流通においてよそよそしく対立している--他人の所有物〔Eigentum〕として対立している--、ということである。彼の労働能力を実現するための諸条件とはどのようなものか、言い換えれば、労働の、すなわち過程にある〔in processu〕・使用価値に実現されつつある活動としての・労働の対象的諸条件とはどのようなものか、ということは、あとでもっと詳しく明らかにしよう。〉(草稿集④52-53頁)

《初版》

 〈誰でも、自分の労働力とは別の商品を売るためには、もちろん、生産手段、たとえば原料や労働用具等々をもっていなければならない。彼は、皮がなければ長靴を作ることができない。彼には、そのほかに生活手段も必要である。誰でも、未来の生産物では、したがってまた、生産がまだ仕上がっていない使用価値では、食べてゆくことができない。しかも、人間は、世界の檜舞台に姿を現わした最初の日と同じように、いまもなお毎日、生産を始める前でも生産をしているあいだでも、消費しなければならない。生産物が商品として生産されれば、生産物は生産された後に売られなければならず、生産者の必要は、販売後にやっとみたされうることになる。生産時間には、販売のために必要な時間がつけ加わる。〉(江夏訳172-173頁)

《フランス語版》

 〈自分自身の労働力とは別な商品を売ろうとする人は誰でも、もちろん、原料や工具などのような生産手段を所有していなければならない。たとえば、彼は皮がなければ長靴を作ることができないし、しかも生活手段を必要とする。誰も、未来派の音楽家だって、後世の生産物で暮すことはできないし、まだ生産が完成していない使用価値によって生活を保つこともできない。人間は、世界の舞台に登場した最初の日と同様に、今日も、生産の以前でも生産の期間中でも、消費せざるをえないのである。生産物が商品であれば、生産者の必要をみたすことができるためには、生産物が売られなければならない。生産に必要な時間に、阪売に必要な時間が加わる。〉(江夏・上杉訳156頁)

   (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(7)

2022-02-13 13:05:15 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(7)

 

【付属資料】の続き

 

●第6パラグラフ

《61-63草稿》

 〈つまり、貨幣の資本への転化のための条件が、貨幣と生きた労働能力との交換、すなわちその持ち主からの生きた労働能力の購買である以上、そもそも貨幣が資本に、あるいは貨幣所有者が資本家に転化できるのは、まったくただ、彼が商品市場で、流通の内部で自由な労働者を見いだすかぎりにおいてである。自由な、というのは、一方では彼が自分自身の労働能力を、商品として思うままに処分するというかぎりにおいてであり、他方では彼が思うままに処分できるほかの商品をなに一つもっていない、言い換えれば、彼の労働能力を実現するための、すべての対象的諸条件から自由であり、免れており、離れている〔frei,los und ledig〕というかぎりにおいてである。だからまた、貨幣所有者が対象化された労働の、自己自身を堅持する〔an sich selbst festhaltend〕価値の、主体および担い手として、資本家であるのと同じ意味で、労働能力の持ち主は彼自身の労働能力の単なる主体、単なる人格化として、労働者なのである。〉(草稿集④53-54頁)

《初版》

 〈だから、貨幣資本に転化させるためには、貨幣所持者は、自由な労働者を商品市場で見いださなければならない。この自由とは、二重の意味での自由であって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として自由に処理する、という意味であり、他方では、売るべき他の商品をなにももたず、自分の労働力の実現のために必要ないっさいのから解放されていて自由である、という意味である。〉(江夏訳173頁)

《フランス語版》

 〈したがって、貨幣の資本への転化は、貨幣所有者が自由な、二重の観点から自由な労働者を市場で見出す、ということを必要とする。第一に、労働者は、自分の労働力を自分に属する自分の商品として思いのままに処分するような自由な人間でなければならない。第二に、彼はほかに売るべき商品をもっていてはならず、いわばすべてのことに自由であって、自分の労働能力の実現に必要な物をなにもかも奪い取られていなければならない。〉(江夏・上杉訳156頁)

 

●第7パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈所有の労働からの分離は、資本と労働とのこの交換の必然的法則として現われる。非資本そのものとして措定された労働は次のようなものである。(1)対象化されていない労働〔Nicht-vergegenständlichte Arbeit〕、否定的に把握されたそれ(それ自体としてはやはり対象的であるが、客体的形態にあっては非対象的なものそれ自体なのである)。このようなものとしては、労働は、非原料、非労働用具、非原料生産物であり、あらゆる労働手段と労働対象から、つまり労働の全客体性から切り離された労働である。それは、労働の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働(同様に非価値)であり、このような丸裸の存在〔völlibge Entblösung〕、あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働の存在なのである。それは、絶対的貧困〔absolute Armut〕としての労働、すなわち対象的富の欠乏としての貧困ではなく、それから完全に締め出されたものとしての貧困なのである。あるいはまた、存在している非価値そのものとして、したがってまた媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値として、この対象性は、人格から切り離されていない対象性、人格の直接的肉体性〔Leiblechkeit〕と一体化した対象性でしかありえない。その対象性がまったく直接的であるからこそ、それはまた直接的に非対象性でもある。言いかえると、それは個人そのものの直接的定在を離れては存在しえない対象性なのである。(2)対象化されていない労働非価値肯定的に把握されたそれ、すなわち自分自身にかかわってくる否定性、それは、対象化されていない、したがって非対象的な、すなわち主体的な、労働そのものの存在である。それは、対象としての労働ではなく、活動としての労働であり、それ自体価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働である。それは、富が対象的に現実性として存在する資本に相対して、行為のなかで自己をそのものとして確証する富の一般的可能性としての一般的富である。こうして労働が一方では対象としては絶対的貧困でありながら、他方では主体として、活動としては富の一般的可能性であるということは、いささかも自己矛盾することではない。というよりむしろ、いずれにせよ自己矛盾しているとの命題は、相互に条件づけあっているものであって、労働が資本の対立物として、つまり資本の対立的定在として、資本によって前提されるとともに、他方では労働の方でも資本を前提するという、労働の本質から生じている。〉(草稿集①353-354頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈貨幣占有者--あるいは貨幣と言いかえてもよい。というのは今のところわれわれにとって貨幣占有者とは、経済的過程それ自体のなかでは、ただ貨幣の人格化〔Personification〕にすぎないからである--が労働能力を商品として市場で、流通の諸限界のなかで見いだせること、われわれはここではこうした前提から出発する。またブルジョア社会の生産過程もこうした前提から出発するわけであるが、この前提は、明らかに、一つの長い歴史的発展の結果であり、たくさんの経済的変革の凝縮〔Resumé〕である。そしてそれは、他のもろもろの生産様式(もろもろの社会的生産諸関係)と社会的労働の生産諸力の特定の発展とが没落することを前提している。こうした前提のうちに与えられている過去の特定の歴史的過程には、この関係をさらに詳しく考察するところで、もっとはっきりとした定式が与えられるであろう。とはいえ経済的生産がこのような歴史的発展段階にあること--自由な労働者がいることからしてすでに、このことの産物そのものなのであるが--が、資本そのものが生成してくるための前提であり、だからなおさら資本そのものが定在するための前提なのである。〉(草稿集③193-194頁)

《61-63草稿》

 〈だが、この自由な労働者は--したがってまた、貨幣所有者と労働能力の所有者とのあいだの、資本と労働とのあいだの、資本家と労働者とのあいだの交換は--、明らかにそれ自身、先行した歴史的発展の産物、結果であり、多くの経済的変革の要約〔Resumé〕であり、また他の社会的生産諸関係の没落と、社会的労働の生産諸力の一定の発展とを前提する。この関係の前提と同時に与えられている一定の歴史的諸条件は、この関係についてののちの分析のさいにおのずから明らかとなろう。しかし資本主義的生産は、自由な労働者、すなわち、売るべきものとしては自分自身の労働能力しかもっていない売り手が、流通の内部に、市場に、見いだされる、という前提から出発する。つまり資本関係の形成は、はじめから、この関係が社会の経済的発展の--社会的生産諸関係および生産諸力の一定の歴史的段階にしか現われることができない、ということを示している。それははじめから、歴史的に規定された経済的関係として、すなわち経済的発展の、社会的生産の、一定の歴史的時代に属する関係として現われるのである。〉(草稿集④54頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈だがそうするまえに、次のことが問題にされるかもしれない。市場には〔一方に〕土地や機械や原料や生活資料--自然のままの状態にある土地以外は、これらはすべて労働の生産物である--をもった〔労働力の〕買い手の一組がおり、他方には、労働力すなわち労働する腕と頭のほかにはなにも売るべきものをもっていない〔労働力の〕売り手の一組がいるという、この奇妙な現象、一方の組は利潤をあげ金をためるためにたえず買い、他方の組は暮らしをたてるためにたえず売っているという、この奇妙な現象は、どうして起こるのか? と。この問題の研究は、経済学者たちが「先行的蓄積または原蓄積」*とよんでいるもので、だがじつは原収奪とよぶべきものの研究になるであろう。われわれは、このいわゆる原蓄積の意味するところは、労働する人間と彼の労働手毅とのあいだに存在する原結合解体をもたらした一連の歴史的過程にほかならないことを知るであろう。しかしこうした研究は、私の当面の主題の範囲外である。労働する人間と労働手段との分離がひとたび確立されると、こうした状態はおのずから存続し、つねに規模を拡大しながら再生産され、ついに生産様式上の新しい根本的な革命がふたたびこれをくつがえして新しい歴史的形態で原結合を復活させるまでつづくであろう。
  * アダム・スミスは、労働にさきだっておこなわれる蓄積といっている(『諸国民の富』、前掲訳書、(2)、232-233ページ、②、94ぺージ)。なお「原蓄積」Oribinal Accumulationは、『資本論』第1巻第24章で「本源的蓄積」Primitive Accumulaitonといわれているものにあたるが、ここでは「原罪」などと同じ言い方で、風刺的意味をふくんでいると思われる。以下の「原収奪」「原結合」もこれにならった言い方である。〉(全集第16巻129-130頁)

《初版》

 〈なぜ、この自由な労働者が流通部面で貨幣所持者に相対しているかという問題は、労働市場を商品市場の特殊な部門として見いだしている貨幣所持者には、興味がない。そして、この間題はさしあたって、われわれにも興味がない。貨幣所持者が実地に事実にかじりつくのと同様に、われわれは理論上事実にかじりつくのである。とはいえ、一つのことが明らかである。自然が、一方の側に貨幣または商品の所持者を産み出し、他方の側に自分の労働力だけの所持者を産み出しているわけではない。この関係は、自然史的な関係でもなければ、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それはそれ自体、明らかに、先行している歴史的発展の成果であり、多くの経済的変革の産物、多数の過去の社会的生産組織の没落の産物である。〉(江夏訳173頁)

《フランス語版》

 〈なぜこの自由な労働者が流通部面で見出されるのか? これは、労働市場を商品市場の特殊な一部門としか考えない貨幣所有者には、ほとんど関係のない問題である。そしてまた、それはさしあたりわれわれにもなおさら関係がない。われわれは、貨幣所有者が実践上そうしているように、理論上この事実に執着する。どちらにしても、まことに明白なことが一つある。自然は、一方に貨幣または商品の所有者を、他方に自分自身の労働力の所有者を、無条件に産み出すものではない。このような関係は、自然的基礎をなんらもつものではなく、歴史の全時代に共通な社会的関係でもない。それは明らかに、先行する歴史的発展の結果であり、あらゆる一連の古い社会的生産形態の破壊から生じた多数の経済的革命の産物である。〉(江夏・上杉訳157頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。商品の分析は、商品の定在のなかに一定の歴史的諸条件が包み込まれていることをも示した。たとえば、生産物が生産者たちによって使用価値として生産されるだけであれば、その使用価値は商品とはならない。このことは、社会の成員のあいだに歴史的に規定された諸関係があることを前提している。ところで、もしわれわれがさらに次の問題を、すなわち、どのような事情のもとで生産物が一般的に商品として生産されるのか、あるいはどのような諸条件のもとで商品としての生産物の定在が、すべての生産物の一般的かつ必然的な形態として現われるのか、という問題を追究したならば、それは、まったく特定の歴史的生産様式である資本主義的生産様式の基礎の上でのみ生じることだ、ということがわかったであろう。しかしそのような考察をしたとすれば、それは商品そのものの分析からは遠く離れてしまうことになったであろう。というのは、われわれがこの分析でかかわりあったのは、商品の形態で現われるかぎりでの諸生産物、諸使用価値であって、あらゆる生産物が商品として現われなければならないのは、どのような社会的経済的基礎の上でのことか、という問題ではないからである。われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、したがってまた商品流通は、さまざまの共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、したがってまたけっして商品の形態をとらないのに--生じうる。〉(草稿集④54-55頁)

《初版》

 〈さきに考察した経済的な諸範疇もまた、それらの歴史的な痕跡を帯びている。生産物の商品としての存在のうちには、特定の歴史的な諸条件が包み込まれている。商品になるためには、生産物は、生産者自身のための直接的生活手段として生産されてはならない。われわれがさらに進んで、生産物のすべてが、または、たんにその多数だけでも、どんな事情のもとで商品という形態を帯びるか、ということを探究すれば、このことは、全く独自な生産様式である資本主義的生産様式の基礎上でのみ起きる、ということが見いだされたであろう。とはいえ、このような探究は、商品の分析にはほど遠いものであった。商品生産や商品流通は、圧倒的な生産物量が直接に自家需要に向けられていて商品に転化していなくても、したがって、社会的生産過程がそれの全体的な広さおよび深さにおいてまだ充分に交換価値によって支配されていなくても、起こりうるのである。生産物が商品として現われていることは、使用価値と交換価値との分離--この分離は、直接的な物々交換取引において初めて始まるものである--がすでに完成しているほどに発達した社会的分業を、条件としている。ところが、このような発展段階は、歴史上いともまちまちな経済的社会組織に共通している。〉(江夏訳173-174頁)

《フランス語版》

 〈われわれがさぎに考察した経済的諸範疇も、これと同様に、歴史的痕跡を帯びている。労働生産物が商品に転化しうるためには、若干の歴史的諸条件がみたされていなければならない。たとえば、労働生産物がその生産者の必要を直接にみたすことにのみ充てられているかぎり、労働生産物は商品にはならない。もしわれわれが研究を先に進めて、すべての生産物、または少なくともそのうちの大部分が、どんな事情のもとで商品形態をとるかを自問していたならば、それが、資本主義的生産という全く独自な生産様式の基礎上でのみ起こることを、発見していたことであろう。ところが、このような研究は、単純な商品分析の全く埒外にあったのだ。生産物の最大部分がその生産者自身によって消費され、商品として流通のなかに入らないばあいでも、商品生産と商品流通は起こりうる。まさにこのばあいには、社会的生産がそのひろがりの全体とその深さの全体において交換価値によって支配されるには、ほど遠いものがある。生産物は、商品になるためには、使用価値と交換価値との分離--この分離は、物々交換の取引においてやっと現われはじめる--がすでに完成しているほどに発展した分業を、社会のなかで必要とする。ところが、このような発展段階は、歴史が証明するように、社会の非常に多種多様な経済的諸形態と両立しうるものなのである。〉(江夏・上杉訳157頁)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈他方、貨幣流通のほうは、したがってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外にはなにも前提しない。もちろんこれもまた一つの歴史的前提ではあるが、しかしそれは商品の本性に従って、社会的生産過程のきわめてさまざまの段階でみたされうるものである。個々の貨幣形態、たとえば蓄蔵貨幣としての貨幣の発展や支払手段としての貨幣の発展を、立ちいって考察すれば、それは社会的生産過程のきわめてさまざまな歴史的段階を示唆するであろう。すなわち、これらさまざまの貨幣機能の単なる形態から生まれる歴史的区別を示唆するであろう。しかしながら、右の考察によって、蓄蔵貨幣としての、あるいは支払手段としての形態での貨幣の単なる定在は、商品流通がいくらかでも発展しているあらゆる段階に同様に属するものであること、したがってまたそれはある一定の生産時代に制限されないものであること、それは生産過程の前ブルジョア的段階にもブルジョア的生産にも同様に固有のものであることが明らかになるであろう。しかし資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。〉(草稿集④54-55頁)

《初版》

 〈他方、われわれが貨幣を考察するならば、貨幣は、商品流通のある程度の高さを前提にしている。特殊な貨幣形態、すなわち単なる商品等価物または流通手段または支払手段なり蓄蔵貨幣なり世界貨幣なりは、そのいずれかの機能の範囲のちがいや相対的優越性に応じて、社会的生産過程のいともさまざまな段階をさし示している。それにもかかわらず、これらすべての形態が形成されるためには、経験によると、商品流通の比較的わずかな発展で充分である。資本についてはそうではない。資本の歴史的存在条件は、商品流通や貨幣流通があればそこにあるというものではない。資本が生ずるのは、生産手段および生活手段の所持者が、自分の労働力の売り手としての自由な労働者を、市場で見いだすばあいにかぎられており、そして、こういった一つの歴史的な条件が、一つの世界史を包括しているのである。だから、資本は初めから、社会的生産過程の一時代を告げ知らせている。〉(江夏訳174頁)

《フランス語版》

 〈他方、貨幣が舞台に登場しうるためには、生産物の交換が商品流通の形態をすでに保有していなければならない。単なる等価物、流通手段、支払手段、蓄蔵貨幣、準備金などとしての貨幣の多様な機能は、それらの一方が他方にたいし相対的に優越することによって、社会的生産のきわめて多様な段階を示している。ところが、経験がわれわれに教えるところによれば、これらすべての形態を孵化するためには、商業流通の比較的わずかな発達で充分である。資本についてはそうでない。資本の歴史的存在条件は、商品および貨幣の流通と同時には生じない。資本は、生産手段や生活手段の保有者が市場で、自分の労働力をそこに売りに来る自由な労働者に出会うところで、はじめて生まれるのであって、この唯一無二の歴史的条件が、新しい世界全体を包括する。資本は最初から、社会的生産の一時代を告げ知らせている(4)。〉(江夏・上杉訳157-158頁)


●原注41

《初版》 初版にはこの原注はない。

《フランス語版》

 〈(4) 資本主義時代を特徴づけるものは、労働力が労働者自身にとっては彼に所属する商品という形態を獲得し、したがって、彼の労働が賃労働という形態を獲得する、ということである。他方、この瞬間からはじめて、生産物の商品形態が支配的な社会的形態になる。〉(江夏・上杉訳158頁)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈そこで、労働力というこの独自な商品を、もっと詳しく考察しなければならない。他のすべての商品と同じに、この独自な商品も交換価値をもっている(42)。この価値はどのように規定されるであろうか?〉(江夏訳174頁)

《フランス語版》

 〈さて、労働力をもっと詳細に考察しなければならない。この商品は、他のすべての商品と同じように、価値をもっている(5)。その価値はどのようにして規定されるか? その生産に必要な労働時間によって。〉(江夏・上杉訳158頁)


●原注42

《賃金・価格・利潤》

  〈イギリスの最も古い経済学者で、かつ最も独創的な哲学者のひとりであるトマス・ホッブズは、すでにその著『リヴァイアサン』で、彼の後継者たちがみな見おとしたこの点に本能的に気づいていた。彼は言う。
  「人の価値つまり値うちとは、ほかのすべてのものにあってと同じように、彼の価格、すなわち彼の力の使用にたいしてあたえられるであろう額である*。」
  * 『リヴァイアサン』。ホッブズ『著作集』、ロンドン、1839年、第3巻、76ぺージ(岩波文庫版、水田洋訳、(1)、147-148ぺージ)。〉(全集第16巻129頁)

《初版》

 〈(42) 一人の人間の価値あるいは値うちは、他のすべての物のそれと同じに、この一人の人間の価格である。すなわち、この一人の人間の力の使用にたいして支払われるであろうだけのものである。」(Th.ホッブス『レヴィアサン』、所収、『著作集』、モールズワース編、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ。)〉(江夏訳175頁)

《フランス語版》

 〈(5) 「1人の人間の価値は、他のすべての物の価値と同じように、彼の価格である。すなわち、彼の能力の使用にたいして支払われなければならないだけのものである」(T・ホップス『リヴァイアサン』、所収、モールズワース編のホッブスの『著作集』、ロンドン、1839-44年、第3巻、76ページ)。〉(江夏・上杉訳頁)


●第11パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈では労働者の価値は、どのようにして決められるのだろうか? 彼の商品のなかに含まれている対象化された労働によってである。この商品は彼の生命力〔Lebendigkeit〕のうちに存在している。この生命力を今日から明日まで維持するためには--労働者階級については、つまり彼らが階級として自己を維持していけるための消耗の〔wear and tear〕補充については、われわれはまだ問題にしない、というのは、ここでは労働者は労働者として、したがって前提された多年生的主体〔perennirendes Subjekt〕として資本に対立しているのであって、まだ労働者種属〔Arbeiterart〕のうちのはかない個体として資本に対立しているのではないからである--、彼は一定量の生活手段を消費し、使いはたされた血液の補充などをしなければならない。彼は等価物を受けとるだけである。したがって明日には、つまり交換が行なわれたのちにも--そして彼が交換を形式的には終えたとしても、その交換を完遂するのは生産過程になってからである--、彼の労働能力〔Arbeitsfähigkeit〕は、以前と同じ様式で存在している。すなわち、彼が受けとった価格は、彼が以前にもっていたものと同一の交換価値を彼に所持させることになるのだから、彼は正確な等価物を受けとったのである。彼の生命力のなかに含まれている対象化された労働の分量は、資本によってすでに彼に支払われている。彼はそれを消費してしまったが、それは、物として存在していたのではなく、生命をもつもののなかに能力として存在していたのであるから、その商品の特有の本性--生命過程の特有の本性--からして、彼はふたたび交換を行なうことができる。彼の生命力に対象化された労働時間--すなわち、彼の生命力を維持するうえで必要な生産物の代金を支払うのに必要だった労働時間--のほかに、さらにそれ以上の労働が彼の直接的定在のうちに対象化されているということについては、すなわち、ある特定の労働能力、ある特殊的な熟練〔Geschicklichkeit〕を生みだすために彼が消費した諸価値--それらの価値は、どれだけの生産費用で類似の特定の労働技能を生産することができるかという点に示される--については、ここではまだ関係がない。つまりここでは、一つの特殊的資格をもった労働〔besonders qualificirte Arbeit〕を問題にしているのではなく、労働そのもの〔Arbeit schlechthin〕、つまり単純労働〔einfache Arbeit〕を問題にしているのである。〉(草稿集①395-396頁)

《61-63草稿》

 〈労働能力は、労働者の生きた身体に含まれている能力〔Fähigkeit〕、素質〔Anlage〕、力能〔Potenz〕としてのみ存在するのだから、労働能力の維持とは、労働者そのものを彼の労働能力の発揮に必要な程度の活力、健康、要するに生活能力をもった状態に維持することにすぎない。〉(草稿集④78頁)
  〈さらに、労働能力としてその消費のまえから存在しているこの使用価値は交換価値をもっているが、それは他のあらゆる商品のそれと同じく、そのなかに含まれている、したがってまたその再生産に必要な労働の分量に等しく、またすでに見たように、労働者の維持に必要な生活手段を創造するのに必要である労働時間によって、正確に測られている。たとえば重量が金属のための尺度であるように、生活そのもののための尺度は時間であるから、労働者を1日生かしておくのに平均的に必要な労働時間が、彼の労働能力の日々の価値なのであり、これによって労働能力は日ごとに再生産され、あるいは--ここでは同じことであるが--同一の諸条件のもとで引き続き維持される。ここで諸条件というのは、すでに述べたように、単なる自然的諸欲望によってではなくて、ある一定の文化状態において歴史的に変更が加え〔modifizieren〕られているような自然的諸欲望によって限定されているものである。〉(草稿集④79頁)
  〈総関係のこのような再生産--すなわち、全体として見れば賃労働者が過程から出てくるときの状態が、過程にはいるときの状態と同じでしかない、ということ--ともども、この事情が労働者たちにとってもつ重要性も、次のことにかかっている、すなわち、もともと彼らはどのような諸条件のもとで彼らの労働能力を再生産するのか、また、平均労賃はどのようなものであるのか、言い換えれば彼らが労働者として生きていくのに伝統的、一般的に必要とされる生活の範囲はどのようなものであるのか、ということである。これは、資本主義的生産の経過のなかで多かれ少なかれ破壊されるが、それには長い時間がかかる。労働者の維持に必要な生活手段はどのようなものか、すなわち、どのような生活手段が、どれだけの範囲で必要なものと一般に認められるのか。(この点についてはソーントンを見よ。)しかしこのことは、賃銀はただ生活手段だけに帰着するのだということ、労働者は依然として労働能力として出てくるにすぎないということを、はっきりと示している。区別があってもそれは、彼の欲望の限度と見なされるものの程度の差にすぎない。彼が労働するのは、つねに、消費のためでしかない。区別があってもそれは、彼の消費費用=生産費用の相対的な大小でしかない。〉(草稿集④181頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈では、労働力の価値とはなにか?
  ほかのあらゆる商品の価値と同じく、労働力の価値も、それを生産するのに必要な労働量によって決定される。人間の労働力は、彼の生きている個体のなかだけに存在する。人間が成長し生命をつなぐためには、一定量の生活必需品を消費しなければならない。だが、人間もやはり機械と同じく消耗するから、ほかの人間がいれかわらなければならない。彼には、自分自身の維持に必要な生活必需品の量のほかに、さらに一定数の子供--労働市場で彼にいれかわり、労働者種族が永続するようにする子供--を育てあげるための生活必需品の一定量も必要である。なおそのうえに、自分の労働力を発展させ、一定の技能を習得するために、さらにある分量の価値が費やされなければならない。われわれの目的からすれば、平均労働だけを考察すれば十分なのであって、平均労働の教育と発達に要する費用は微微たるものである。〉(全集第16巻130頁)

《初版》

 〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な物品の生産したがってまた再生産にも必要な労働時間によって、規定されている。労働力が交換価値であるかぎり、労働力そのものは、それに対象化された社会的平均労働の一定量しか表わしていない。労働力は生きた個人の素質としてのみ存在している。だから、労働力の生産はこの個人の存在を前提にしている。この個人の存在が与えられていれば、労働力の生産とは、この個人の再生産または維持のことである。この生きた個人は、自分を維持するために、幾らかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。すなわち、労働力の価値は、労働力の所持者を維持するのに必要な生活手段の価値である。だが、労働力は、自己を発揮することによってのみ実現され、労働においてのみ活動する。ところが、労働力の活動である労働によって、人間の筋肉や神経や脳等々の一定分量が支出されるのであって、これは再び補塡されなければならない。この支出の増加は、収入の増加を条件にしている(43)。労働力の所有者は、今日労働が終わったならば、明日も、同じ条件の力や健康を保って同じ過程を繰り返すことができなければならない。生活手段の総額は、労働する個人を、労働する個人として、彼の正常な生活状態において維持するのに、充分でなければならない。食物や衣服や暖房や住居等々のような自然的な必要そのものは、一国の気候その他の自然的な特色に応じてまちまちである。他方、いわゆる必要生活手段の範囲は、それの充足の方法と同じに、それ自身歴史的産物であり、したがって大部分は一国の文化段階に依存し、ことにまた、本質的には、自由な労働者の階級が、どのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求をもって、形成されたか、に依存している(44)。だから、労働力の価値規定は、他の諾商品とは対照的に、歴史的および精神的な要素を含んでいる。とはいえ、特定の国にとっては、特定の時代には、必要生活手段の平均的な範囲は与えられている。〉(江夏訳175-176頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられ、間に原注(6)が挿入されている。一応、ここでは原注を除いて三つのパラグラフを紹介しておく。

 〈労働力は価値としては、労働力のうちに実現されている社会的労働量を表わす。だが、労働力は実際には、生きた個人の力あるいは力能としてのみ存在する。個人が与えられるとすると、この個人は、自分自身を再生産しまたは保存することによって、自分の生命力を生産する。彼は、自己維持のため、あるいは自己保存のために、ある量の生活手段を必要とする。したがって、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。あるいは、労働力は、それを活動させている者に必要な生活手段の価値を、ちょうどもっているのである。
  労働力はその外的発現によって実現される。労働力は労働によって発現し確認され、この労働のほうは人間の筋肉、神経、脳髄の若干の支出を必要とし、この支出は補塡されなければならない。損耗が大きければ大きいほど、修理の費用はますます大きくなる(6)。労働力の所有者は、今日労働したら、明日も同じ活力と健康の状態で再び始めることができなければならない。したがって、生活手段の総量は、彼をその正常な生活状態に維持しておくのに充分なものでなければならない。
  食糧、衣服、暖房、住居などのような自然的必要は、一国の気候やその他の自然的な特殊性に応じて異なる。他方、いわゆる自然的必要の数そのものは、それをみたす様式と同じに、歴史的産物であり、したがって、大部分は到達した文明度に依存している。それぞれの国の賃金労働者階級の起源、この階級が形成されてきた歴史的環境は、久しい間、この階級が生活にもちこむところの、習慣や要求にもまた当然の結果として必要にも、最大の影響を及ぼしつづけている(7)。したがって、労働力は価値の観点からみれば、精神的、歴史的な要素を内包しており、このことが労働力を他の商品から区別しているのである。だが、与えられた国、与えられた時代については、生活手段の必要な範囲もまた与えられている。〉(江夏・上杉訳158-159頁)


●原注43

《初版》

 〈(43) だから、古代ローマのヴィリクスは、農耕奴隷の先頭に立つ管理者として、「奴隷よりも仕事が楽だという理由で、奴隷よりもわずかな量を受け取っていた。」(T・モムゼン『ローマ史』、1856年、810ページ。)〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(6) 古代ローマでは、農耕奴隷の先頭に立っている会計係のヴィリクスは農耕奴隷よりも少ない一人分の食糧割り当てを受け取った。というのは、彼の労働は農耕奴隷よりも辛くなかったからである(T・モムゼン『ローマ史』、1856年、810ぺージ、を見よ)。〉(江夏・上杉訳159頁)


●原注44

《61-63草稿》

 〈(1)〔注解〕ウィリアム・トマス・ソーントン『過剰人口とその対策、またはイギリスの労働者階級のあいだに広がっている窮乏の程度および原因ならびにその対策の研究』、ロンドン、1846年、第2章、19ページ以下。この書物からの浩潮な抜粋が、ノート第13冊、ロンドン、1851年、の14-21ページにある。〉(草稿集④181頁)

《初版》

 〈(44) W・Th・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済、ロンドン、1846年』のなかで、このことについて興味のある例証を提供している。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(7) W・T・ソーントンは、彼の著書『過剰人口とその救済』、ロンドン、1864年、のなかで、この点について興味ある細かい説明を提供している。〉(江夏・上杉訳150頁)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈労働力の所有者は死を免れない。だから、貨幣の資本への連続的な転化が前提しているとおりに、彼が市場に現われていることが、連続的でなければならないとすれば、労働力の売り手は、「どの生きている個体も生殖によって永久化されているように(45)」永久化されていなければならない。消耗と死のために市場から引き上げられる労働力は、少なくとも、同数の新たな労働力で絶えず補充されなければならない。だから、労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充員すなわち労働者の子供の生活手段を含んでおり、こうして、独自な商品所持者の属するこの種族が、商品市場で永久化されているのである(46)。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈労働力の所有者は死をまぬがれない。貨幣の資本への不断の転化が要求するとおりに、いつでも市場で労働力の所有者に出会うためには、「どの生きた個人も生殖によって永遠化されるのと同じように(8)」、労働力の所有者も永遠化されなければならない。損耗と死によって市場から奪い取られる労働力は、少なくとも同等の数によって、不断に更新されなければならない。労働力の生産に必要な生活手段の総量には、この特異な交換者の種族が市場で永久に存続するように、労働者の交代者すなわちその子供の生活手段が含まれている(9)。〉(江夏・上杉訳150-151頁)


●原注45

《初版》

 〈(45) ぺティ。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(8) ペティ。〉(江夏・上杉訳160頁)


●原注46

《初版》

 〈(46) 「それの(労働の)自然価格とは、……労働者を維持するために、また、市場において労働の供給が減少しないようにしておけるだけの家族を、彼が養うことができるために、一国の気候や習慣に応じて必要になるところの、生活必需品と慰安品との量のことである。」(R・トレンズ『穀物貿易論、ロンドン、1815年』、62ページ。)ここでは、労働という言葉が労働力の代わりに誤用されている。〉(江夏訳176頁)

《フランス語版》

 〈(9) 「労働の自然価格は、一国の気候の性質と習慣が要求したような生活に必要な物の量であって、この量は、労働者を維持することができ、しかも、彼が、市場で要求される労働者の数が減少しないように充分なだけの家族を養うことができる、というような量である」(R・トレンズ『穀物貿易論』、ロンドン、1815年、62ページ)。ここでは、労働という言葉が労働力のかわりに誤用されている。〉(江夏・上杉訳160頁)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈身体を維持することに労働が限定されず、直接に労働能力そのものを変化させて〔modifizieren〕、一定の熱練を発揮できるところまで発達させる特殊的労働が必要であるかぎりでは、この労働もまた--複雑労働の場合と同様に--労働の価値のなかにはいるのであって、この場合には、労働能力の生産に支出された労働が、直接に労働者のなかに同化〔verarbeiten〕されているのである。〉(草稿集④73頁)

《初版》

 〈一般的な人間本性を変え、このために、この本性が、特定の労働部門での熟練と巧妙とをかちとって発達した独自な労働力になるためには、特定の養成あるいは教育が必要であり、この養成あるいは教育にはまた、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。労働力がどの程度に媒介された性質のものであるかに応じて、労働力の養成費もまちまちである。だから、この修業費は、普通の労働力にとってはほんのわずかであっても、労働力の生産に必要な商品の範囲のなかにはいってくる。〉(江夏訳176-177頁)

《フランス語版》

 〈他方、特定の労働種類における能力、精密さ、敏捷さを獲得させるように人間の性質を変えるためには、すなわち、その性質を、特殊な方向に発達した労働力にするためには、若干の教育が必要であって、この教育自体に、大なり小なりの額の商品等価物が費やされる。この額は、労働力の性格がより複雑か複雑でないかに応じて、変動する。この教育費は、単純な労働力にとってはきわめてわずかであるとはいえ、労働力の生産に必要な商品の総計のなかに入るのである。〉(江夏・上杉訳160頁)


●第14パラグラフ

《61-63草稿》

 〈労働能力の価値の規定は、労働能力の販売に基礎をおく資本関係の理解にとって、もちろんきわめて重要なものであった。したがって、とりわけ、この商品の価値はどのように規定されるのかが、確定されなければならなかった。というのは、この関係における本質的なものは、労働能力が商品として売りに出されるということであるが、商品としては、労働能力の交換価値の規定こそ決定的だからである。労働能力の交換価値は、それの維持と再生産とに必要な生活手段である諸使用価値の価値または価格によって規定されるのだから、重農学派は--彼らが価値一般の本性をとらえる点ではどんなに不十分だったにしても--労働能力の価値をだいたいにおいて正しくとらえることができた。それゆえ、資本一般について最初の条理ある諸概念をうちたてた彼らの場合、生活必需品の平均によって規定されるこの労賃が、一つの主要な役割を演じている。〉(草稿集④71頁)

《賃金・価格・利潤》

  〈以上述べたところから明らかなように、労働力の価値は、労働力を生産し、発達させ、維持し、永続させるのに必要な生活必需品の価値によって決定される。〉(全集第16巻131頁)

《初版》

 〈労働力の価値は、一定額の生活手段の価値に帰着する。だからまた、労働力の価値は、この生活手段の価値に応じて、すなわち、この生活手段の生産に必要な労働時間の長さに応じて、変動する。〉(江夏訳177頁)

《フランス語版》

 〈労働力は一定額の生活手段と価値が等しいから、その価値は生活手段の価値につれて、すなわち、生活手段の生産に必要な労働時間に比例して、変動する。〉(江夏・上杉訳160頁)


  (続く)

 

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(8)

2022-02-13 13:04:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(8)

 

【付属資料】の続き

 

●第15パラグラフ

《61-63草稿》

 〈生活必需品は、日々更新される。そこで、たとえば1年間に、労働者が労働者として生きていき、自分を労働能力として維持することができるために必要とする生活必需品の量と、この総額のもつ交換価値--すなわち、これらの生活手段のなかになし加えられ、対象化され、含まれている労働時間の分量--とを取った場合、全部の日について平均計算するならば、労働者が、1年を通じて生きていくために、平均して1日に必要とする生活手段の総額およびこの総額の価値は、彼の労働能力の1日あたりの価値を、あるいは、労働能力が翌日も生きた労働能力として存続し、再生産されるために、1日に必要とする生活手段の分量を表わすであろう。生活手段の消費の速さはさまざまである。たとえば、日々食料として役立つ使用価値は、また日々消尽されるし、またたとえば、暖房、石けん(清潔)、照明に役立つ使用価値も、同様である。これにたいして、衣服や住居のような、その他の必要生活手段は、たとえ日々使用され使い減らされてはいても、もっとゆっくりと消耗する。若干の生活手段は、日々新たに買われ、日々更新(補塡)されなければならないが、たとえば衣服のようなその他の生活手段は、もっと長い期間にわたって使用価値として役立ち続け、この期間の終りにはじめて消粍しつくされて、使用できなくなるので、それらは日々使用されなければならないものだとしても、もっと長い中間期間に補塡され更新されさえすればよい。
  労働者が労働者として生きていくために、日々消費しなければならない生活手段の総額をAとすれば、それは365日では365Aである。これにたいして、彼が必要とするその他すべての生活手段の総額をBとし、しかもこれらの生活手段は年に3回更新され、つまり新たに買われさえすればよいのだとすれば、1年間に彼が必要とするのは3Bだけである。そこでこれらを合計すれば、彼が年間に必要とするのは、365A+3Bであり、1日あたり、(365A+3B)/365である。これが、労働者が日々必要とする生活手段の平均総額であり、この総額の価値が、彼の労働能力の日々の価値、すなわち労働能力の維持のために必要な生活手段を買うために--すべての日について平均して--毎日必要とする価値である。
  (1年を365日と計算すると、日曜日は52日となり、313日の仕事日が残る。だから平均して31O仕事日と計算してよい。)ところで(365A+3B)/365の価値が1ターレルだとすれば、彼の労働能力の日々の価値は1ターレルである。彼は、1年じゅう毎日生きていくことができるように、日々それだけは稼がなければならない。そしてこのことは、若干の商品の使用価値は日々更新されるのではないということによっては、少しも変わらない。そこで、生活必需品の年間の総額は所与のものとする。次にわれわれは、この総額の価値あるいは価格をとる。ここからわれわれは日々の平均をとる、すなわちそれを365で割る。こうしてわれわれは、労働者の平均的生活必需品の価値、あるいは、彼の労働能力の平均的日価値を得るのである。(365A+3Bの価格が365ターレルであれば、日々の生活必需品の価格は(365A+3B)/365=365/365、つまり1ターレルである。)〉(草稿集④73-75頁)
  〈ここで労働能力の価格というのは、貨幣で表現されたそれの価値のことでしかない。したがって、1日あるいは1週間のあいだ労働能力を維持するのに必要な生活手段の価格が支払われるならば、1日あるいは1週間分の労働能力の価値が支払われるのである。しかし、この価格あるいは価値を規定しているものは、労働能力が日々消費しつくす生活手段ばかりではなく、同様に、たとえば衣服のように、労働能力によって日々使用されはするが、しかし日々消尽される結果、日々更新されねばならないというわけではない、したがって、一定の期間内に更新され補充されさえすればよい生活手段もそうである。たとえ衣服に関述するすべての対象が、1年のうちに1度だけしか消耗しつくされない(たとえば飲食のための食器は、衣服ほど早くは消耗しつくされないから、衣服ほど早く補充される必要はなく、家具、ベッド、机、椅子、等々はさらにその必要が少ない)としても、それでもなお、1年間のうちにはこの衣料の価値は労働能力の維持のために消費されるであろうし、また1年が終わったあとで、労働者はこの衣料を補充することができなければならないであろう。したがって彼が日々平均して受け取るものは、日々の消費のための日々の支出を差し引いたのちにも、1年間が経過したあとで消耗しつくされた衣服を新しい衣服で補充するのに十分なものが、つまり、1着の上着のこれこれの部分を日々補充するというのではないけれども、1着の上着の価値の1日あたりの可除部分を補充するのに十分なものが残されるだけの大きさでなければならないであろう。つまり、労働能力の維持は、それが継続的であるべきだ--そしてこれは資本関係では前提されていることであるが--とすれば、日々消費しつくされ、したがってまた翌日には更新される、補充されるべき生活手段の価格によって規定されるばかりでなく、そのうえに、もっと長い期間に補充されねばならないが、日々使用されねばならない生活手段の価格の日々の平均がつけ加わるのである。〉(草稿集④76-77頁)

《初版》

 〈生活手段の一部、たとえば食料品や燃料等々は、毎日新たに消費されて、毎日新たに補充されなければならない。衣服や家具等々のような他の生活手段は、もっと長い期間にわたって消耗され、したがって、もっと長い期間にわたって補充されればよい。ある種の商品は毎日、他種の商品は毎週か毎四半期等々に、買われるかまたは支払われなければならない。だが、これらの支出の総額がたとえば1年間にどのように配分されようとも、この総額は毎日、平均収入で支弁されなければならない。労働力の生産に毎日必要な諸商品量がAであり、毎週必要な諸商品量がBであり、毎四半期に必要な諸商品量がCである、等々とすれば、これらの商品の1日の平均は(365A+52B+4C+等々)/365であろう。1平均日にとって必要なこの商品量のうちに、6時間の社会的に必要な労働が含まれているとすれば、労働力のうちには、毎日、半日の社会的平均労働が対象化されている、すなわち、半労働日が労働力の毎日の生産に必要である。労働力の毎日の生産に必要なこの労働量が、労働力の日価値、すなわち、毎日再生産される労働力の価値を、形成しているわけである。同じように、半日の社会的平均労働が3シリングまたは1ターレルの金量で表わされるならば、1ターレルが、労働力の日価値に相当する価格になる。労働力の所持者が労働力を毎日1ターレルで売りに出せば、労働力の販売価格は労働力の価値に等しいのであり、そして、われわれの前提によると、自分のターレルを資本に転化したいと熱望している貨幣所持者が、この価値を支払うわけである。〉(江夏訳177頁)

《フランス語版》 フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。ここでは二つのパラグラフを一緒に紹介しておく。またフランス語版には初版や現行版にはない原注(10)があるが、それもつけておく。

 〈生活手段の一部、たとえば食糧や暖房などを構成するものは、消費によって毎日失われるものであり、毎日更新されなければならない。それ以外の衣服や家具などのようなものは、これよりも緩慢に消耗するものであって、これよりも長い期間に更新するだけでよい。若干の商品は毎日、他の商品は毎週とか半年ごと等々に、買われあるいは代価を支払われなければならない。しかし、これらの支出が1年の期間内にどのように配分されることがあっても、その総額はいつでも1日の平均収入によって支弁されなければならない。労働力を生産するために毎日必要とされる商品量がAに等しく、毎週必要とされる商品量がBに等しく、毎四半期必要とされる商品量がCに等しい、等々であると想定すれば、これらの商品の1日当りの平均は(365A+52B+4C+等々)/365に等しいであろう。
  1平均日に必要なこの商品量の価値は、これらの商品の生産に支出された労働総量のみを表わしているが、それを6時間と仮定しよう。そのばあいには、労働力を毎日生産するために、半労働日が必要である。労働力が日々自己を生産するために必要とする労働量が、労働力の日価値を規定する。さらに、6時間という半労働日のあいだに平均して生産される金の総量が、3シリングあるいは1エキュ(10)に等しい、と仮定する。そのばあいには、1エキュの価格が労働力の日価値を表現する。労働力の所有者が毎日労働力を1エキュで売るならば、彼はそれを正当な価値で売るのであり、われわれの仮定にしたがえば、自分のエキュを資本に変態しつつある貨幣所有者は、金銭を払ってこの価値に支払いをするのである。
  (10) ドイツの1エキュ〔1ターレルのこと〕は、イギリスの3シリングの値うちがある。〉(江夏・上杉訳160-161頁)


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

 〈より低級な商品が、労働者の主要生活手段をなしていたより高級かつより高価な商品に、たとえば穀物の小麦が肉に、あるいはじゃがいもが小麦やライ麦に、とって代わるならば、もちろん、労働者の必需品の水準が押し下げられたために、労働能力の価値の水準が下落する。これにたいしてわれわれの研究ではどこでも、生活手段の量と質とは、したがってまた必需品の大きさも、なんらかの所与の文化段階にあって、けっして押し下げられることはないものと前提〔unterstellen〕されているのであって、その理由は、このような、水準の騰落そのもの(とくにそれの人為的な押し下げ)についての研究は、一般的関係の考察にはなんの変更をも加えないからである。たとえばスコットランド人のうちには、小麦やライ麦の代わりに、塩と水とを混ぜただけのひきわり燕麦(オートミール)や大変の粉で何か月ものあいだ、しかも「非常に安楽に」暮らしている家族がたくさんある、とイーデンは著書『貧民の状態、云々』、ロンドン、1797年、第1巻第2部第2章で言っている。前世紀末に、こっけいな博愛主義者、爵位を授けられたヤンキーのランファド伯は、低い平均を人為的に創造しようとして愚かな頭をふりしぼった。彼の『論集』は、労働者に現在の高価な常食に代えて代用食を与えるための、最も安価な部類に属するありとあらゆる種類の食物(エサ)の調理法を盛り込んだ、美(ウルワ)しい料理全書である。この「哲人」ご推奨による最も安価な料理は、8ガロンの水に大麦、とうもろし、こしよう、塩、酢、甘味用薬草、4尾のにしんをいれた、スープとかいうしろものである。イーデンは右に引用した著書のなかで、この美(ウルワ)しい食物(エサ)を救貧院の管理者に心をこめて推奨している。5重量ポンドの大麦、5重量ポンドのとうもろこし、3ペンス分のにしん、1ペニーの塩、1ペニーの酢、2ペンスのこしようと薬草--合計20[3/4]ペンス--、これが64人分のスープになる。なんと、穀物の平均価格で言えば、1人前あたり1/4ペンスに費用を押し下げることができる、というわけである。〉(草稿集④67-68頁)
  〈一方では、より安価なかつより悪質な生活手段が、より良質な生活手段にとって代わることによって、あるいはそもそも生活手段の範囲、大きさが縮小されるととによって--生活手段の価値、あるいはそれら〔生活手段〕の充足の仕方、を引き下げることになるので--、労働能力の価値の水準を引き下げることが可能である。しかしまた他方では、この水準--平均的な高さ--には子供たちと妻たちの扶養がはいるので、妻たち自身が労働することを強制され、また、発育すべき時期[に]子供たちがすでに労働に向けられることによって、この水準を押し下げることが可能である。このような場合も、労働の価値の水準にかかわる他のすべての場合と同様に、われわれは考慮しないでおく。つまりわれわれは、ほかでもない、資本のこれらの最大の醜悪なことども〔Scheußlichkeiten〕を存在しないものと前提することによって、資本にたいして公正な機会〔fair chance〕を与えるのである。}{同様に、労働の単純化によって、修業の時間または修業の費用が、可能なかぎりゼロに向けて縮小されれば、この水準は引き下げられることができる。}〉(草稿集④69-70頁)
  〈貨幣で表現された、労働能力のこの価値が、それの価格であるが、これについてわれわれは、この価格は支払われるものと前提する。というのは、われわれは総じて等価物の交換、あるいは商品の価値どおりの販売を前提〔unterstellen〕しているからである。この労働価格が労賃と呼ばれる。労働能力の価値に一致する労賃は、われわれが述べてきたような、労働能力の平均価格であり、平均労賃である。この平均労賃はまた、労賃あるいは賃銀の最低限〔Minimum des Arbeitslohns oder Salairs〕とも呼ばれるのであるが、ここで最低限と言うのは、肉体的必要の極限〔die äußerste Grenze〕のことではなく、たとえば1年についてみた日々の平均労賃であって、労働能力の価格--それはあるときはそれの価値以上にあり、あるときはそれ以下に下がる--はそこに均衡化されるのである。〉(草稿集④79頁)

『賃金・価格・利潤』

  〈この彼の労働力の価値は、彼の労働力を維持し再生産するのに必要な生活必需品の価値によって決定されるものであり、生活必需品のこの価値は、結局はそれらのものを生産するのに必要な労働量によって規制されるものである、と。
  だが、労働力の価値または労働の価値には、ほかのすべての商品の価値と区別されるいくつかの特徴がある。労働力の価値を形成するのは二つの要素である。一つは主として生理的な要素、もう一つは歴史的ないし社会的な要素である。労働力の価値の最低の限界は、生理的要素によって決定される。すなわち、労働者階級は、自分自身を維持し再生産し、その肉体的存在を代々永続させるためには、生存と繁殖に絶対に欠くことのできない生活必需品を受け取らなければならない。したがって、これらの必要欠くべからざる生活必需品の価値が、労働の価値の最低の限界となっているのである。〉(全集第16巻148頁)

《初版》

 〈労働力の価値の究極の限界あるいは最低限を形成しているものは、ある商品量--この量が毎日供給されなければ、労働力の担い手である人間は、自分の生活過程を更新することができない--の価値、したがって、肉体的に欠くことのできない生活手段の価値である。労働力の価格がこの最低限に下がれば、この価格は労働力の価値以下に下がる。なぜならば、そうなると、労働力は萎縮した形でしか維持されることも発揮されることもできないからである。だが、どの商品の交換価値も、その商品を標準的な品質で供給するのに必要な労働時間によって、規定されている。〉(江夏訳178頁)

《フランス語版》

 〈労働力の価格は、それが、生理的に不可欠な生活手段の価値に、すなわち、これ以下になれば労働者の生命そのものを危険にさらさざるをえないような商品総量の価値に、切り下げられるとき、その最低限に達する。労働力の価格がこの最低限に低落すると、その価格は労働力の価値以下に下がったのであって、そのばあいにはもはや糊口をしのぐだけのものでしかない。ところで、どの商品の価値も、その商品を標準的な品質で引き渡しうるために必要な労働時間によって、規定されている。〉(江夏・上杉訳161頁)


●第17パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈流通の内部に属しているものは、〔--〕しかもそれ自身が単なる流通関係として定在しているような、資本と労働とのあいだの交換であるものは--貨幣と労働とのあいだの交換ではなく、貨幣と生きた労働能力とのあいだの交換なのである。使用価値としては労働能力は、労働活動それ自体のなかでしか実現されることはない。とはいえこのことは、1本のワインを購入したときに、その使用価値がワインを飲むことによってはじめて実現されることと、まったく同じである。飲むという行為が単純な流通過程のなかに含まれないのと同様に、労働それ自体もそれには含まれない。ブドウ酒も能力〔Vermögen〕、可能態にあるものとしては、飲むことができる物であり、ブドウ酒を買う行為は、飲むことができる物を領有することである。これと同様に労働能力を買う行為も、労働を意のままに処分しうる能力〔Dispositionsfähigkeit über Arbeit〕のことである。労働能力は主体それ自身の生命のうちに存在しており、主体それ自身の生命の発現〔Lebensäusserung〕としてのみ表出されるものであるから、労働能力の購入、労働能力を使用できる名義〔Titel〕の領有によって、使用行為のあいだに、買い手と売り手とが、対象化された労働が対象として生産者の外部に存在している場合に彼らが置かれるのとは異なった関係のなかに置かれるのは、当然である。こうなったからといって単純な交換関係が侵害されるわけではない。貨幣と労働との交換がG-W-Gという特有な交換になるのはなぜかといえば、それはひとえに貨幣によって購買される使用価値のもつ特有な本性--すなわちそれの消費が労働能力の消費であり、つまり生産、対象化しつつある労働時間、交換価値を定立する消費であり--それの使用価値としての現実的定在が交換価値を創造することであるという--特有な本性によることなのである。G-W-Gという特有な交換においては、交換価値それ自身が交換の目的として定立されており、また購入された使用価値は直接に交換価値のための使用価値、すなわち価値を定立する使用価値なのである。〉(草稿集③195頁)

《61-63草稿》

 〈さてわれわれは、労働能力そのものを、貨幣の形態でそれに対立している商品との対比において、あるいは対象化された労働、価値--貨幣所有者あるいは資本家のかたちで人格化されており、またこの人格において自分の意志、自覚的存在〔Fürsichsein〕、意識された自己目的、となった価値--との対比において考察しよう。一方では、労働能力は絶対的貧困として現われるのであるが、そのわけは、素材的富の全世界、ならびにその一般的形態である交換価値が、他人の商品および他人の貨幣として労働能力に対立しているが、しかし労働能力そのものは、単に、労働者の生きた身体のうちに現存し、また含まれている、労働する可能性にすぎないからである。これは可能性ではあるが、自己の実現のすべての対象的条件から、つまり自己自身の現実性から絶対的に分離されており、また対象的諸条件にたいして自立して対立し、対象的諸条件を奪われて存在している、といった可能性なのである。すべての対象的諸条件が、労働の現実的過程のために、その現実的要請〔Sollziation〕に応えて、生みだされるかぎり--、労働の対象化のためのすべての条件が、労働の能力と現実の労働とのあいだの媒介をなすかぎり--、それらはすべて、労働手段と呼ぶことができる。貨幣所有者および商品所有者によって代表される対象化された労働・資本家として労働能力に対立して人格化されている価値・にたいして、自分の労働能力そのものを商品として売りに出さねばならぬ労働者、という自立的な姿で、特有の要因として相対することができる、そういう労働能力は、自分の労働手段を奪われた労働能力である。現実の労働は人間の諸欲望の充足のために自然的なものを取得する〔わが物とする〕ことであり、人間と自然とのあいだの素材変換〔新陳代謝〕を媒介する活動であるから、労働能力は、労働手段、すなわち、労働による自然的なものの取得の対象的諸条件を奪われることによって、同様に生活手段をも奪われる。じっさい、すでに以前に見たように、諸商品の使用価値は、まったく一般的に言えば、生活手段として特徴づけられうるのである。したがって、労働手段および生活手段を奪われた労働能力は絶対的貧困そのものであり、また労働者は、そのような労働能力の単なる人格化として、現実には自分の諸欲望をもっていながら、他方それらを充足するための活動は、ただ、対象をもたない〔gegenstandslose〕・自分自身の主体性のなかに包み込まれた・素質〔Anlage〕(可能性)としてもっているにすぎない。労働者はそのようなものとして、その概念からして、貧民〔Pauper〕であり、自分の対象性から孤立化され〔für sich〕切り離されたこの能力の人格化および担い手として、貧民である。他方、素材的富・諸使用価値の世界・は、労働によって変形〔modifzieren〕された自然素材だけから成り立っているのであり、したがってそれはただ労働によってのみ取得されるのだから、また、この富の社会的形態である交換価値は、諸使用価値のなかに含まれている対象化された労働の、一定の社会的形態以外のなにものでもないのだから、しかも、労働能力の使用価値、現実の使用は労働そのもの、つまり使用価値を媒介し、かつ交換価値を創造する活動なのだから、--だから労働能力は同様に素材的富の一般的可能性であり、また、富が交換価値としてもつ規定された社会的形態における、富の唯一の源泉である。それどころか、対象化された労働としての価値は、まさに、対象化された、労働能力の活動にすぎないのである。それゆえ、近代の経済学が資本関係を取り扱う場合に次の前提から出発するとき、この経済学がその出発点としているかに見える背理は、事態の本性にその根拠をもっているのである、--すなわち、対象化された労働が自己を維持し増加させる--価値が自己を維持し増加させる--のは、貨幣所有者あるいは商品所有者が流通のなかでたえず次のような人口部分、すなわち、労働能力の単なる人格化、単なる〔なにももたない〕労働者であり、したがってまた自分の労働能力を商品として売る、市場でたえず売りに出す、そういう人口部分を見いだすことによってである、という前提である。近代の経済学は一方では労働を、富--その素材的内実(ゲハルト)においてもその社会的形態においても、すなわち使用価値としても交換価値としても--の源泉として告示しながら、他方では同様に、労働者の絶対的貧困の必然性を告示する--この貧困が意味するのはまさに、彼の労働能力は彼が売りうるものとしてもつ唯一の商品であり、彼は対象的な現実の富に単なる〔なにももたない〕労働能力として対立している、ということにほかならない--。この矛盾は、価値が--それが商品の形態で現われようと貨幣の形態で現われようと--、特殊な一商品としての労働能力そのものに対立している、ということによって与えられているのである。〉(草稿集④56-58頁)
  〈ロッシ、等々が言いたいこと、そうでなければ彼らが--言いたかろうと言いたくなかろうと--事実上言っていることは、実際には、賃労働それ自体は労働過程の必要
な〔必然的な〕条件ではない、ということでしかない。そのさい彼らはただ、そうであれば同じことが資本についても言える、ということを忘れているのである。〉(草稿集④211頁)
  〈労働そのものは、直接には商品ではない。商品はかならず、対象化された、ある使用価値のなかになし加えられている労働である。リカードウは、労働者が売る商品としての一定の交換価値をもつこの使用価値としての労働能力と、この能力の実際の〔in actu〕使用にすぎない労働とを、区別していないので、彼は、ベイリが強調している矛盾--すなわち、生きた労働はその生産に充用された労働の分量によっては評価されえないということ--は別としても、どのようにして剰余側値が発生しうるのか、そもそもどのようにして、資本家が労働者に賃銀として引き渡す労働の分量と、この対象化された労働の分量と引き換えに資本家が買う生きた労働の分量とのあいだの不等性が生じうるのか、ということを証明できないのである。〉(草稿集④72頁)
  〈ラムジと似ているのはロッシである。彼はまず〔『経済学講義』の〕第27講で、資本についての一般的説明を与える。「資本とは、生産された富のうち、再生産にあてられる部分である」(364ページ)。けれどもこれは、使用価値であるかぎりでの資本に--その形態にではなくてその素材的内容に--かかわるものでしかない。だから、同じロッシが、資本の形態からしか説明できない構成部分--給養品〔approvisiomment〕、すなわち、労働能力と交換される部分--を、資本の必然的な構成部分ではない、およそ資本の概念的な構成部分ではない、と言明しているのは、つまり、一方では資本を必要な〔必然的な〕生産動因であると言明しながら、他方では賃労働を必要な〔必然的な〕生産動因ないし生産関係ではないと言明しているのは、少しも不思議なことではない。ほんとうは、彼は資本を「生産用具」としか解していないのである。彼によれば、用具資本〔Capital-matitère〕と原料資本〔Capital-instrument〕とはたしかに区別できるが、しかし実際には、経済学者たちが原料を資本と呼ぶのは正しくないのである。というのは、「それは」(原料は)「ほんとうに生産の用具であろうか、それはむしろ、生産者の諸用具が働きかけるべき対象ではないだろうか」(『講義』、367ページ)、というわけである。あとでは彼は、「生産用具、すなわち、自己自身に働きかける原料、対象であると同時に主体である・被勤者であると同時に動作主である・原料」(同前、372ページ)、と定義している。じっさい、彼は372ページではあけすけに、資本を単に「生産手段」と呼ぶ。ところで、給養品が資本の一部分をなすということに反対するロッシの議論については、ここで二つのことを区別しなければならない。言い換えれば、彼は二つのことをごちゃまぜにしているのである。第一に彼は、賃労働一般--資本家が賃銀を前貸しすること--を生産の必然的な形熊とは、言い換えれば、賃労働を労働の必然的な形態とは見なしていないのであるが、ただ、そのさい彼が忘れているのは、資本は労働条件ないし生産条件の必然的な形態ではない(すなわち、絶対的な形態ではなくて、むしろ、特定の歴史的な形態にすぎない)ということである。換言すれば、労働過程は、資本のもとに包摂されていなくても行なわれうるのであって、この特定の社会的形態を必然的に前提するものではなく、生産過程それ自体はかならずしも資本主義的生産過程ではない、ということである。ところが彼はここでもまた、資本による労働能力の購買を賃労働にとって本質的なものとは見ないで、なにか偶然的なことと見る、という誤りを犯している。生産に必要であるのは生産諸条件であって、資本、すなわち、特別な階級のもとへのこの生産諸条件の収用〔Appropriation〕と労働能力の商品としての定在とから生じる関係ではない。愚鈍さは、賃労働を(あるいはまた資本の自立的形態をも)認めておきながら、しかも賃労働が資本を成立させるという、資本にたいする賃労働の関係を取り除いてみせるというところにある。資本は社会的生産の必然的な形態ではない、ということは、賃労働は社会的労働の一つの過渡的な歴史的形態でしかない、ということを意味するにすぎない。資本主義的生産は、その成立のために労働者と労働諸条件との分離という歴史的過程を前提するばかりではない。資本主義的生産はこの関係をつねに拡大する規模で再生産し、またそれを尖鋭なものにするのである。このことは、資本の一般的概念の考察のさいにすでに示されることではあるが、のちに競争--これが本質的にこの分離(集積、等々)を引き起こすのである--のところでさらに明瞭に示される。現実の生産過程のなかで、資本を構成する諸対象が労働者に対立するのは、資本としてではなくて、労働材料や労働手段としてである。なるほど労働者は、これらの対象が他人の所有物〔Eigentum〕等々であり、資本である、という意識はもっている。だが同じことは、売られてしまった彼の労働についても言えるのであって、これは労働者のものではなく、資本家のものなのである。
  しかし第二に、ロッシの論法にはもう一つ別の論点が紛れ込んでいる。(第一の論点とは、貨幣と労働能力との交換であった。ロッシは、この操作を生産一般にとって必然的なものではないと言明しているかぎりでは正しい。彼は、この関係なしにはおよそ資本主義的生産は存在しないのに、この関係を資本主義的生産の非本質的、偶然的な契機と見なしているかぎりでは正しくない。)というのはこうである。われわれがすでに見たように、まず第一に、労働者は自分の労働能力を、すなわちこの能力の時間ぎめでの処分権を売る。このことのうちには、彼が自分をそもそも労働者として維持するのに必要な生活手段を交換を通じて入手するということ、さらに詳しく言えば、労働者は「生産行為にたずさわっているあいだの」[370ページ]生活資料をもっているということが含まれている。彼が労働者として生産過程にはいり、この過程にあるあいだじゅう自分の労働能力を働かせ実現するためには、このことが前提されているのである。すでに見たように、ロッシは資本を、新たな生産物を生産するのに必要な生産手段(原料、用具)としか理解していない。問題となるのは、労働者の生活手段は、たとえば機械によって消資される石炭、油、等々がそうであるように、あるいは家畜によって食われる飼料がそうであるように、そうした生産手段に属するのかどうかということである。要するに補助材料〔と同様であるのかどうかということである〕。労働者の生活手段も補助材料に属するのであろうか? 奴隷の場合には、彼の生活手段を補助材料のうちに入れるべきことにはなんの問題もない。なぜなら、奴隷は単なる生産用具であり、したがってそれが消尽するものは単なる補助材料だからである。(このことは、すでに以前に述べたように、労働の価格(労賃)が本来の労働過程にはいらないのは労働材料および労働手段の価格がはいらないのと同様だ--これら三つはすべて、それぞれ異なった仕方ではあるけれども、価値増殖過程にははいるのであるが--ということを裏づけている。)〉(草稿集④221-224頁)
  〈「生産の作業についているあいだの労働者の生活資料を捨象しながら労働の能力〔la。 puissance du travail〕を考えるのは、頭のなかにしかないもの〔un être de raison〕を考えることである。労働というのは、労働の能力というのは、つまるところ同時に、働き手〔travailleurs〕と生活資料のことであり、労働者〔ouverier〕と賃銀のことであって、……同じ要素が資本の名のもとにふたたび姿を現わすのである。まるで、同じものが同時に二つの異なった生産用具の一部をなすかのように」(同前、37O、371ページ)。単なる労働能力は、いかにも「頭のなかにしかないもの」である。だが、この「頭のなかにしかないもの」は実在している。だからこそ、労働者は、自分の労働能力を売ることができなければ、飢え死にするのである。しかも資本主義的生産は、労働の能力がそのような「頭のなかにしかないもの」に還元されている、ということにもとづいているのである。
  だから、シスモンディが次のように言うのは正しい、--「労働能力は、……それが売れなければ、無である」(シスモンディ『新経済学原理』、第2版、第1巻、パリ、1827年、114ページ〔日本評論社『世界古典文庫』版、菅間正朔訳『新経済学原理』、上巻、121ページ〕)。
  ロッシにおいてばかげている点は、彼が「賃労働」を資本主義的生産にとって「本質的でない」ものとして描こうと努めていることである。〉(草稿集④234-235頁)

《初版》

 〈事の本性から出てくるこういった労働力の価値規定を粗雑であると考えて、たとえばロッシと一緒に次のように嘆くことは、いとも安っぽい感傷である。「生産過程中の労働の生活手段を度外視しながら労働能力〔puissance de travail〕を把握することは、幻想〔être de raison〕を把握するようなものである。労働と言い、労働能力と言う人は、同時に、労働と生活手段のことを、労働者と労賃のことを、言っている(47)。」労働能力と言う人は労働のことを言っているのではないのであって、このことはちょうど、消化能力と言う人が消化のことを言っているのではないのと同じである。消化という過程のためには、周知のように、丈夫な胃袋以上のものが必要である。労働能力と言う人は、それの維持に必要な生活手段を度外視しているわけではない。それどころか、生活手段の価値が、労働能力の価値のうちに表わされているのである。労働能力が売られなければ、それは労働者にはなんの役にも立たないのであって、彼はむしろ、自分の労働能力が、それの生産のために一定量の生活手段を必要としたし、また、それの再生産のために絶えず繰り返し一定量の生活手段を必要とするということを、残忍な自然必然性として感じているのである。そこで、彼は、シスモンディと一緒に、「労働能力は、……それが売られなければ無である(48)。」ということを発見する。〉(江夏訳178頁)

《フランス語版》

 〈労働力のこの価値規定を粗雑であると見なして、たとえばロッシとともに次のように叫ぶのは、理由もなしに、またきわめて安っぽく、感傷にふけることである。「生産行為中の労働者の生活手段を無視しながら労働能力を頭に描くことは、空想の産物を頭に描くことである。労働と言う人、労働能力と言う人は、それと同時に、労働者と生活手段、労働者と賃金、と言っているのである(11)」。これにまさる誤りはない。労働能力と言う人は、まだ労働とは言っていないのであって、それは、消化能力が消化を意味しないのと同じである。そうなるためには、誰もが知っているように、健康な胃の腑以上のあるものが必要である。労働能力と言う人は、労働能力の維持に必要な生活手段を少しも無視していない。むしろ、生活手段の価値は、労働能力の価値によって表現されているのだ。だが、労働者は、労働能力が売れなければそれを光栄とは感じないのであって、むしろ、自分の労働能力がその生産のためにすでに若干量の生活手段を必要としたということ、その再生産のためにまたも絶えず若干量の生活手段を必要とするということを、残酷な自然的必然性として感じるであろう。彼はこのばあい、シスモンディとともに、労働能力は売られなければなにものでもない、ということを発見するであろう(12)。〉(江夏・上杉訳161-162頁)


●原注47

《初版》

 〈(47) ロッシ『経済学講義、ブリュッセル、1842年』、370ページ。〉(江夏訳178頁)

《フランス語版》

 〈(11) ロッシ『経済学講義』、ブリュッセル、1842年、370ページ。〉(江夏・上杉訳162頁)


●原注48

《初版》

 〈(48) シスモンディ『新経済学原理』、第1巻、112ページ。〉(江夏訳178頁)

《フランス語版》

 〈(12) シスモンディ『新経済学原理』、第1巻、113ページ。〉(江夏・上杉訳162頁)


●第18パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈貨幣がここで単純な流通手段とみなされようと、支払手段とみなされようと、どちらでもよい。ある人が私にたとえば彼の労働能力のうちの12時間分の使用価値を売る、つまり彼の労働能力を12時間のあいだ売るとすると、私に対する労働能力の販売は実際には、私が彼に12時間の労働を要求し、彼が12時間の労働をなしおえた時にはじめて完了するのである、つまり彼は12時間が終わったときにはじめて12時間分の彼の労働能力の私への引きわたしが完了するのである。このかぎりでは、貨幣がここで支払手段として現われ、売りと買いとが両方の側で直接に同時に実現されることにならないことは、この関係〔労働能力と貨幣との売買〕の本性に根ざしている。ここで重要なことは、支払手段、一般的支払手段とは貨幣のことであり、したがってまた労働者は、自然生的な支払いの仕方が特殊なものであることによって買い手に対して流通諸関係とは別の諸関係のなかに入り込むわけではないということ、ただこれだけである。労働者は彼の労働能力を直接に一般的等価物に転化するが、この一般的等価物の占有者として彼は、一般的流通のなかで、他のだれとも同一の関係--その価値の大きさの範囲〔において〕--を、他のだれとも等しい関係を保持している。同様に彼の販売の目的もまた、一般的富、つまり一般的社会的形態をとっていてあらゆる享受の可能性としてある富なのである。〉(草稿集③196頁)

《61-63草稿》

 〈労働能力というこの特殊的な商品の本性からして、この商品の現実の使用価値はその消費のあとではじめて現実に一方の手から他方の手に、売り手の手から買い手の手に移される、ということにならざるをえない。労働能力の現実の使用は労働である。しかしそれは、労働が行なわれるまえに、能力〔Vermögen〕、単なる可能性として、単なる力〔Kraft〕として売られるのであり、この力の現実の発現〔Äußerung〕は、買い手へのこの力の譲渡〔Entäußerung〕のあとではじめて生じる。したがってここでは、使用価値の形式的な譲渡とそれの現実的な引渡しとが時間的に分裂するので、買い手の貨幣は、この交換ではたいてい支払手段として機能する。労働能力は毎日、毎週、等々に支払われるが、しかしこの支払いは、それが買われた時点でではなく、それが毎日、毎週、等々に現実に消費されてしまったあとで行なわれる。資本関係がすでに発展しているすべての国では、労働能力は、それが労働能力として機能したあとに、はじめて労働者に支払われる。この点で、どこでも労働者は毎日あるいは毎週--しかしこれは彼が売る商品の特殊な本性と結びついている--資本家に信用を与える〔kreditieren〕、すなわち彼が売った商品の使用を引き渡し、そしてこの商品の消費のあとではじめてそれの交換価値あるいは価格を受け取る、と言いうるのである。{恐慌の時期には、また個々の破産の場合でさえ、労働者たちが支払われないことによって、彼らのこの信用供与〔Kreditieren〕はけっして単なる言い回しではない、ということがはっきりする。} しかしながら、このことはさしあたり、交換過程をいささかでも変えるものではない。その価格は契約で確定される--つまり、労働能力の価値が貨幣で評価される--それはのちにやっと実現され、支払われるのではあるが。したがって、価格規定もまた、労働能力の価値に関連しているのであって、それの消費の結果、それの現実の消耗の結果、それの買い手にもたらされる、生産物の価値に関連するのではなく、また、労働--これ自身は商品ではない--の価値にも関連しないのである。〉(草稿集④80-81頁)

《初版》

 〈この独自な商品である労働力の独自な性質からして、買い手と売り手が契約を結んでも、労働力の使用価値はまだ現実に買い手の手には移ってはいない、という結果が生ずる。労働力の交換価値は、他のどの商品の価値とも同じに、労働力が流通にはいる前に規定されていたのであるが--なぜならば、一定量の社会的労働が、労働力の生産のために支出されたからである--、その使用価値は、あとから行なわれる力の発揮において初めて成り立つのである。だから、力の譲渡と、力の現実の発揮すなわち使用価値としての力の存在とは、時間的に離れている。ところが、販売による使用価値の形式的な譲渡と買い手への使用価値の現実の引き渡しとが時間的に離れているというような商品にあっては、買い手の貨幣はたいがい支払手段として機能する。資本主義的生産様式が行なわれている国ではどこでも、労働力は、売買契約で確定された期間にわたって機能し終えた後に、たとえば各週末に、やっと支払いを受ける(49)。だから、労働者はいつでも、労働力の使用価値を資本家に前貸ししている。労働者は、労働力の価格の支払いを受ける前に、労働力を買い手に消費させるのであり、したがって労働者はいつでも、資本家に信用貸ししている。この信用貸しがけっして空虚な妄想でないことは、資本家の破産のさいには信用貸しされた賃金の損失がときおり生ずること(50)によって示されるだけでなく、一連のいっそう持続的な結果(51)によっても示されている。だが、貨幣が購買手段として機能するかまたは支払手段として機能するかは、商品交換そのものの性質を変えるものではない。労働力の価格は、家賃と同じように、あとになってやっと実現されるものだが、契約で確定されている。労働力は、あとになって支払いを受けるものだが、すでに売られている。だから、この関係を純粋に理解するためには、労働力の所持者は、労働力を売ればそのつどすぐに約定の価格を受け取るものと、当面は常時前提しておくほうが、便利である。〉(江夏訳179頁)

《フランス語版》

 〈契約がいったん買い手と売り手とのあいだで結ばれても、譲渡される物品の特殊な性質からして、その使用価値はまだ現実に買い手の手に移行していない、という結果が生ずる。その物品の価値は他のすべての物品の価値と同じように、それが流通の中に入る以前に、すでに規定されていた。その物品の生産が若干量の社会的労働の支出を必要としたからである。ところが、労働力の使用価値は、当然その後になってはじめて行なわれる労働力の発揮のうちに成立する。労働力の譲渡と、労働力の現実の発現すなわち使用価値としての使用とは、換言すれば、労働力の阪売とその使用とは、同時に行なわれるものではない。ところで、使用価値が販売によって形態的に譲渡されても現実にはそれと同時に買い手に譲られないようなこの種の商品が問題であるばあいには、ほとんどいつでも、買い手の貨幣は支払手段として機能する。すなわち、売り手の商品はすでに使用価値として役立ったのに、売り手は長短の差はあれ期間を隔てて、やっと貨幣を受け取るのである。資本主義的生産様式が支配している国ではどこでも、労働力は、それが契約できめられた若干時間すでに機能したときに、たとえば各週の終りに、はじめて支払いを受ける(13)。したがって、労働者はどこでも、自分の労働力の使用価値を資本家に前貸しして、この価格を手に入れる以前にこれを買い手に消費させる。一言にして言えば、労働者はいたるところで資本に掛売りする(14)。そして、この信用が空虚な妄想でないことは、資本家が破産したばあいに賃金の損失によって証明されるばかりでなく、これほど偶然ではない他の多数の結果によっても証明されるのである(15)。貨幣が購買手段として機能しても、または支払手段として機能しても、商品交換の性質は全然変わらない。労働力の価格は、家屋の家賃と同じように、後日になってはじめて実現されるとはいえ、契約によって確定されている。労働力は、後になってはじめて支払われるとはいえ、すでに売られているわけだ。無用な複雑さを避けるために、われわれは仮に、労働力の所有者が労働力を売るやいなや契約で定められた価格を受け取るもの、と想定することにしよう。〉(江夏・上杉訳162-163頁)

(続く)

 

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『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(9)

2022-02-13 13:04:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(9)


【付属資料】の続き

●原注49

《初版》

 〈(49) 「どの労働も、それが終わったあとで支払いを受ける。」〈『……需要の性質にかんする諸原理の研究』、104ページ。)「生産の第一の創造者である労働者が、節約によって、自分の労働の報酬を1週間、2週間、1か月、3か月などの終わりまで待ち受けることができた瞬間に、商業信用が始まったにちがいない。」(Ch・ガニル『経済学大系』、第2版、パリ、1821年、第1巻、150ページ。)〉(江夏訳179-180頁)

《フランス語版》

 〈(13) 「どの労働も、それが終わったときに支払われる」(『需要の性質……にかんする諸原理の研究』、104ページ)。「生産の第一の創造者である労働者が、節約によって自分の労働の報酬を1週間、2週間、1ヵ月、3ヵ月などの終りまで待つことができた瞬間に、商業信用が始まったにちがいない」(C・ガニル『経済学体系』、第2版、パリ、1812年、第2巻、150ページ)。〉(江夏・上杉訳163頁)


●原注50

《初版》

 〈(5O) 「労働者は自分の勤労を貸す」、だが、シュトルヒは狡猾にこうつけ加えている。彼は、「自分の賃金を失うほかには、「なんら危険をおかさない、……労働者はなんらの物質も譲渡しない。」(シュトルヒ『経済学講義』、ペテルブルグ、1815年、第2巻、37ページ。)〉(江夏訳180頁)

《フランス語版》

 〈(14) 「労働者は自分の勤労を貸す」、だがしかし、とシュトルヒは悪賢く付け加えて言う。「自分の賃金を失うほかには、なんら危険をおかさない、……労働者はなんらの物質も譲渡しない」(シュトルヒ『経済学講義』、ペテルブルグ、1815年、第2巻、36、37ページ)。〉(江夏・上杉訳163頁)


●原注51

《初版》

 〈(51) 一つの実例。ロンドンには二種類のパン屋がある。パンをその価値どおりに売る「定価売り業者」と、この価値よりも安く売る安売り業者とである。あとのほうの部類がパン屋の総数の3/4以上を占めている。(『製パン職人が訴える苦情』にかんするH・S・トレーメンヒア政府委員の『報告書』、ロンドン、1862年、別付32ページ。)この安売り業者は、ほとんど例外なしに、明礬やせっけんや粗製炭酸カリや石灰やダービシァー石粉やその他類似のうまくて滋養分のある衛生的な成分を混入した粗悪なパンを、売っている。(右に引用した青書、ならびに、『パンの粗悪製造にかんする1855年委員会』の報告書およびドクター・ハッスルの報告書『露見された粗悪製造』、第2版、ロンドン、1862年、を見よ。)サー・ジョン、ゴードンは、1855年の委員会でこう説明した。「この粗悪製造の結果、毎日2ポンドのパンで暮らしている貧民が、いまでは、彼の健康への有害な影響は別としても、栄養素の4分の1をもじっさいは受け取っていない。」「労働者階級の非常に大きな部分が、粗悪製造のことは熟知しているにもかかわらず、なぜ明礬や石粉等々まで買い込むのか」ということの理由として、トレーメンヒアは、彼らにとっては、「パン屋か雑貨屋が勝手によこすままのパンを受け取ることは、万やむをえないことなのだ」、と述べている。(同上、別付48ページ。)彼らは労働週の終わりにやっと支払いを受けるのであるから、彼らもまた、「自分たちの家族がその週のあいだに消費したパンの代価を、やっとその週の末に支払う」ことができるわけである。そして、トレーメンヒアは、証言を引用しながらこうつけ加えている。「このような混ぜ物をしたパンが、この種の客用に特別に作られていることは、周知のとおりである。」(〔"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〕)イングランドの多くの農業地方では(だが、スコットランドの農業地方ではなおさらのこと)、労賃が2週間ごとに、また1か月ごとにさえ、支払われている。この長い支払間隔のために、農業労働者は自分の商品を掛けで買わざるをえない。……彼は、いっそう高い価格を支払わざるをえないし、掛け買いする底に事実上しばられている。こうして、たとえば賃金の支払いが1か月ごとに行なわれているウィルトシャーのホーニングシャムでは、彼は、よそでは1ストーンあたり1シリング10ペンスの小麦粉に、2シリング4ペンスも支払っている。」(『公衆衛生』にかんする『枢密院医務官』の『第6回報告書、1864年』、264ページ。)「ぺイズリーとキルマーノック(西スコットランド)の捺染工は、1853年に、ストライキに訴えて、支払期限を1か月から2週間に短縮することに成功した。」(『1853年1O月31日の工場監督官報告書』、34ページ。)イギリスの多くの炭鉱所有者たちの方法は、労働者が資本家に与える信用のなおいっそうみごとな発展と見なされうるのであって、この方法によると、労働者は、月末にやっと支払いを受け、その間資本家から前貸しを受けているのであるが、この前貸しはしばしば商品で行なわれ、この商品には、その市場価格よりも高く支払わなければならないのである(現物支給制度)。「炭鉱主たちのあいだでは、支払いが月に一度であって、労働者にはその中間の各週末に現金を前貸しする、というのが通常の習慣である。この現金は店(すなわち、トミー・ショップ、つまり炭鉱主自身のものである小売店)で支給される。労働者はこの現金を一方で受け取り、他方で費やすわけである。」(『児童労働調査委員会、第3回報告書、ロンドン、1864年』、38ページ、第192号。)〉(江夏訳180-181頁)

《フランス語版》

 〈(15) 無数の例のなかの一例。ロンドンには二種類のパン屋があって、それは、パンを価値どおりに売る定価売り業者と、この価値以下で売る安売り業者とである。後者の部類が、パン屋の総数の4分の3以上を占めている(『製パン職人が訴える苦情』にかんするH・S・トリメンヒーア政府委員の『報告書』、ロンドン、1862年、別添32ページ)。これら安売り業者はほとんど例外なく、明礬、石鹸、石灰、石膏、その他同程度に健康的で同程度に栄養のある類似の成分を混ぜた、粗悪なバンを売っている(上記引用の青書、『パンの粗悪製造にかんする1855年委員会』の報告、ドクター・ハッスルの報告『露見された粗悪製造』、第2版、ロンドン、1862年、を見よ)。サー・ジョン・ゴードンは、1855年の委員会の席上でこう述べた。「この粗悪製造の結果、毎日2ポンドのパンで暮している貧民は、このような食物が彼の健康に有害な影響を及ぼすことは別にしても、いまでは彼に必要な栄養素の4分の1もとっていない」。労働者階級の大部分が、この粗悪製造のことを完全に知っていながら、それでもなおなぜこの粗悪製造を我慢しているか、を説明するために、トリメンヒーアはこの理由をこう示している(同上、別添48ページ)。「パン屋か小売店で、売ろうとしているパンをそのまま買うことは、彼にとってはやむをえないことである」。労働者たちは週末になってはじめて支払いを受けるのであるから、「彼ら自身は、この期間中に自分たちの家族が消費したバンを、その週末にやっと支払うことができるのである」。そしてトリメンヒーアは、実地証人の確言にもとついて、こう付言している。「この種の混合物で調理されたパンが、この種の顧客のためにわざわざ作られていることは、周知のことである〈"It is notorious that bread composed of those mixtures,is made expressly for sale in this manner."〉」。「イングランドの多くの農業地方では(スコットランドではなおさらである)、賃金は2週ごとに、また1ヵ月ごとにさえ支払われている。労働者は、賃金の支払いまでは、自分の商品を掛けで買わざるをえない。彼にはなにもかも非常に高い価格で売られるのであって、彼は実際に、彼を搾取してすっからかんにさせる小売店に縛りつけられている。こうして、たとえば、賃金が1ヵ月ごとにしか支払われないウィルトシャのホーニングシャムでは、よそのどこでも1シリング10ペンスである同量(8ポンド) の小麦粉が、彼には2シリング4ペンスの値段である」(『枢密院医官による公衆衛生にかんする第6回報告書』、1864年、264ページ)。「1853年には、ぺーズリとキルマーノック(西スコットランド)の捺染工たちは、ストライキに訴え、自分たちの雇主にむりやり、1ヵ月ごとでなく2週間ごとに支払わせたのである」(『1853年10月31日の工場監督官報告書』、34ぺージ)。労働者が資本家に与える信用の結果としてこの労働者がこうむる搾取の事例として、さらになお、イギリスで多数の炭鉱経営者が用いている方法をあげることができる。彼らは労働者にたいして月に1度しか支払わないので、彼らはこの前貸しの期間中は、とりわけ、労働者が時価よりも高く買わざるをえないような商品で、労働者に支払いをする(現物支給制)。「炭鉱主が彼らの労働者に月に1度支払い、その間の各週末に金銭を前貸しするのは、彼らのあいだの日常の慣行である。この金銭はトミー・ショップで、すなわち雇主に所属する小売店で与えられるから、労働者は一方の手で受け取るものを、他方の手で返済するわけである」(『児童労働調査委員会、第3回報告書』、ロンドン、1864年、38ページ、第192号)。〉(江夏・上杉訳163-164頁)


●第19パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈商品の実在的定在、使用価値としての商品の定在は、単純流通の外部にある。この契機〔商品の使用価値およびそれの実現としての消費という契機〕はそのようなもの〔単純流通の外部にあるもの〕として資本の過程のなかに入ってゆかねばならない。この資本の過程のなかで、商品の消費は資本が自己増殖するための一契機として現われる。〉(草稿集③184頁)

《61-63草稿》

 〈さてわれわれは、自分の貨幣を資本に転化しようとしている・したがってまた労働能力を買う・貨幣所有者が労働者に支払うものはなにか、ということは実際に知っている。そして貨幣所有者が労働者に支払うものは、じつは、労働者の労働能力の、たとえば日々の価値であり、労働能力の日々の価値と一致する価格あるいは日賃銀であって、彼はこの支払いを、労働能力の日々の維持に必要な生活手段の価値に等しい貨幣額を労働者に支払うことによって行なうのである。この貨幣額は、これらの生活手段の生産のために、したがって労働能力の日々の再生産のために必要である労働時間と、ちょうど同じだけの労働時間を表示しているものである。われわれはまだ、買い手のほうがなにを入手するのか、ということは知らない。販売のあとに行なわれる諸操作が独自な本性のものであり、したがってまた特別に考察されねばならないということは、労働能力というこの商品の独自な本性、ならびに、買い手によってそれが買われるさいの独自な目的--すなわち、自分が、自己自身を増殖する価値の代表者であることを実証しようという、買い手の目的--と関連している。さらに--しかもこのことは本質的なことであるが--、この商品の特殊的な使用価値とこの使用価値の使用価値としての実現とが、経済的関係、経済的形態規定性そのものに関係しており、したがってまたわれわれの考察の範囲にはいる、ということがつけ加わる。ここでは付随的に、使用価値ははじめは、どれでもよいなにか一つの任意の素材的前提として現われるのだ、ということに注意を喚起しておいてもよい。〉(草稿集④81-82頁) 
  〈貨幣所有者は、労働能力を買った--自分の貨幣を労働能力と交換した(支払いはあとでやっと行なわれるとしても、購買は相互の合意をもって完了している)--のちに、こんどはそれを使用価値として使用し、それを消費する。だが、労働能力の実現、それの現実の使用は、生きた労働そのものである。つまり、労働者が売るこの独自な商品の消費過程労働過程と重なり合う、あるいはむしろ、それは労働過程そのものである。労働は労働者の活動そのもの、彼自身の労働能力の実現であるから、そこで彼は労働する人格として、労働者としてこの過程にはいるのであるが、しかし買い手にとっては、この過程のなかにある労働者は、自己を実証しつつある労働能力という定在以外の定在をもたない。したがって彼は、労働している一つの人格ではなくて、労働者として人格化された、活動している〔aktiv〕労働能力である。イングランドで労働者たちが、それによって彼らの労働能力が実証されるところの主要な器官によつて、つまり彼ら自身の手によつて、handsと呼ばれていることは、特徴的である。〉(草稿集④83頁)

《初版》

 〈さて、われわれは、労働力というこの独自な商品の所持者に貨幣所持者から支払われる交換価値がどう規定されるか、その仕方を知っている。この交換価値と引き換えに貨幣所持者のほうが受け取る使用価値は、労働力の現実の使用のなかで、労働力の消費過程において、初めて現われる。貨幣所持者は、原料等々のようなこの過程に必要なすべての物を商品市場で買い、それらには価格どおりに支払う。労働力の消費過程は、同時に、商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程でもある。労働力の消費は、他のすべての商品の消費と同じに、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。だから、われわれも、このそうぞうしい、表面で大騒ぎをしていて誰の目にもつきやすい部面を、貨幣所持者や労働力所持者と一緒に立ち去り、この二人のあとについて、その戸口に無用の者立ち入るべからずと書いである秘密の生産の場所に、はいってゆこう。ここでは、どのようにして資本が生産するかということだけでなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということも、明らかになるだろう。貨殖の秘密がついに露見するにちがいない。〉(江夏訳181頁)

《フランス語版》

 〈労働力というこの独創的な商品の所有者に支払われる価値が、どのような様式と方法できめられるかは、いまではわかっている。労働力の所有者が交換において買い手に与える使用価値は、彼の労働力の使用そのものにおいて、すなわちその消費において、はじめて現われる。原料などこの行為の履行に必要な物はすべて、生産物市場で貨幣所有者によって買われ、その正当な価格で支払われる。労働力の消費は同時に商品と剰余価値との生産である。労働力の消費は、他のどの商品の消費とも同じように、市場すなわち流通部面の外部で行なわれる。われわれは貨幣所有者や労働力の所有者と一緒に、すべてが表面で、しかも誰の目にも見えるところで起こるような、この騒々しい部面を立ち去り、入ロに無用の者入るべからずと書いてある生産の秘密の実験室の中まで、この二人の後について行こう。われわれはそこでは、どのようにして資本が生産するかということばかりでなく、さらになお、どのようにして資本自体が生産されるかをも、見ることになる。剰余価値の製造という、近代社会のこの重大な秘密が、ついに暴露されることになる。〉(江夏・上杉訳164-165頁)


●第20パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈すでに見てきたように、単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenthum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。他人の労働の所有は自己の労働の等価物によって媒介されている。所有のこの形態は--自由と平等とまったく同様に--、この単純な関係のうちに措定されている。交換価値がさらに発展してゆけば、このことは転化され、そして最終的には、自己の労働の生産物の私的所有〔Privateigenthum〕は、労働と所有との分離と同一であること、その結果、労働は他人の所有をつくりだすことに等しく、所有は他人の労働を支配する〔commandiren〕ことに等しくなることが、わかるであろう。〉(草稿集①271頁)
  〈そのうえこういえる。諸個人とこれら個人の諸商品のこの自然的差異性……が、これらの個人の相互補完のための動機を、すなわちそこで彼らが平等者としてたがいに前提されまた実証しあうような、交換者としての社会的関連をとりむすぶ動機をなすかぎり、平等の規定にさらに自由の規定がつけくわわる。個人Aが個人Bの商品にたいして欲求を感じることがあっても、彼はそれを力ずくで〔mit Gewalt〕自分のものにするのではない。AとBを逆にしたばあいも同様である。むしろ彼らは所有者として、すなわちその意志が自分たちの商品にしみこんでいる人格として、相互に承認しあうのである。したがってさしあたりここに、人格という法的契機〔juristisches Moment〕またそこに含まれるかぎりでの自由〔Freeheit〕という法的契機がはいってくる。だれも他人の所有物を力ずくで自分のものとはしない。だれでも所有物を自由意志で〔freiwillig〕譲渡する〔entäussert sich〕。しかしそれだけではない。個人Aが商品aによって個人Bの欲求に役立つのは、ただ個人Bが商品bによって個人Aの欲求に役立つかぎりにおいてであり、またそうであるからにほかならず、逆のばあいも同様である。どちらも自分自身に役立つために他人に役立つ。つまりどちらも相互に相手を自分の手段として用いる。〉(草稿集①278-279頁)
  〈したがって、経済的な形態すなわち交換が、あらゆる面からみて諸主体の平等を措定するとすれば、交換をうながす内容、すなわち個人的でもあれば物象的でもある素材は、自由を措定する。したがって平等と自由が、交換価値にもとづく交換で重んじられるだけではなく、諸交換価値の交換が、あらゆる平等自由の生産的で実在的な土台である。これらの平等と自由は、純粋な理念としてはこの交換の観念化された表現にすぎないし、法律的、政治的、社会的な諸関連において展開されたものとしては、この土台が別の位相で現われたものにすぎない。このことは歴史的にもたしかに確証されてきたことである。こうした広がりのなかでとらえられた平等と自由は、古代の自由や平等とはちょうど正反対のものであって、後者は発展した交換価値をその基盤にもたず、むしろ交換価値が発展するために潰え去るのである。この自由と平等は、古代世界においても中世においてもまだ実現されていなかった生産諸関係を前提としている。直接的な強制労働〔Zwangsarbeit〕が古代世界の基礎であって、共同団体〔Gemeinweesen〕は現存の土台であるこの強制労働にもとづいている。中世の基礎とみなされているのは、特権としての労働そのもの、いまだその特殊化された姿のうちにあって、一般的に交換価値を生産するものにはなっていない労働そのものである。労働は強制労働でもなければ、また中世のばあいのように、より高次なものとしての共同的なもの(同職組合)とのかかわりのなかで行なわれてもいない。〉(草稿集①280-281頁)
  〈ところで、交換者〔の関連]も、動機の面からみれば、すなわち経済的過程の外部に属する、自然的な面からみれば、やはりある種の強制にもとづいているということは、確かにそのとおりである。しかし、この関連は、一面からすれば、それ自体、相手が私の欲求そのものにとって、また私の自然的個体性にたいして無関心だということにすぎないし、したがって彼の私との平等と自由--しかしこの自由は彼のばあいと同じ程度に私の自由の前提でもある--にすぎない。他面では、私が自分の欲求によって規定され、強制されるかぎりでは、私に力ずくを行なうのは、もろもろの欲求と衝動の全体である私自身の本性にほかならず、なんら他人のもの〔Fremdes〕ではない(すなわち一般的な、反省された形態で措定された私の利益である)。しかしまた、私が他人に強制をくわえ、彼を交換制度のなかに追いこむものも、やはりこの面にほかならない。
  したがってローマ法〔römisches Recht〕では、奴隷〔servus〕は、自分のために交換をつうじて物を手に入れることのできない者として、正しく規定されている(『法学提要』をみよ)。それゆえ次のことも同様に明らかである。すなわち、このは、交換がまったく発展していなかった社会状態に対応しているにもかかわらず、しかしまた交換が一定の範囲内で発展していたかぎりでは、まさに交換する個人であるところの法的人格〔juristische Person〕の諸規定を展開することができたのであり、こうしてまたこの法は(基本的諸規定からみて)産業的社会のための法の先がけをなし、とりわけ勃興しつつあるブルジョア社会の法として、中世に対抗して効力をもたされるべきものとなったのである。しかしこの法の発展それ自体がまた、ローマ共同団体の解体と完全に一致しているのである。〉(草稿集①282-283頁)
  〈尺度としては、貨幣は等価物に一定の表現をあたえるにすぎず、また貨幣によってはじめて等価物は形態のうえからも等価物とされるのである。なるほど流通においては、いま一つの形態上の区別が現われてくる。すなわち、双方の交換者は、買い手と売り手という区別された規定で現われる。交換価値は、まず一般的交換価値として貨幣の形態で、次に特殊的交換価値として、ある価格をもつ自然的商品で現われる。しかし第一に、これらの規定は入れ替わる。流通そのものは、等しくないものの措定〔Ungleichsetzen〕ではなく、等しいものの措定〔Gleichestzen〕にほかならず、たんなる仮想的な区別の止揚〔Aufheben des mur vermeinten Unterschieds〕にほかならない。不平等はまったく形式的なものにすぎない。最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔sachlich--物象的に〕も平等が措定〔される]のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性〔Gleichgültigkeit〕と同値性〔Gleichgeltendheit〕とが物象〔Sache〕の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。3シリングで商品を買う労働者は、売り手にたいしては、商品の同じ買い方をする国王と、同じ機能、同じ平等のなかにあるものとして--つまり3シリングという形態で、現われる。両者のあいだの区別はいっさい消し去られている。売り手もそのものとしては、ただ3シリングの価格の商品の所持者として現われるだけであって、したがって両者は完全に平等であり、ただその3シリングが、あるときは銀となって、あるときは砂糖等となって存在するだけのことである。〉(草稿集①283-284頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈自己労働による領有の法則を前提すると、〔--〕しかもこれは流通そのものの考察から生じる前提であって、恣意的なものではない〔--〕この法則に基づくひとつの王国が、すなわちブルジョア的な自由と平等の王国が、流通において、おのずから演繹されるのである。〉(草稿集③113頁)
  〈このように流通があらゆる側面からみて個人的自由の現実化であるとすれば、流通の過程は、そのものとしてみるならば--というのは、自由という諸関連は交換の経済的形態諸規定に直接に関係するわけではなく、交換の法的形態に関係するか、あるいは交換の内容、つまり諸使用価値そのものまたは諸欲求そのものに関係するかのどちらかだからである〔--〕、すなわち流通の過程を交換の経済的形態諸規定の点からみれば、それは社会的平等〔Gleichheit〕の完全な実現をなしている。流通の諸主体としては、彼らはさしあたり交換を行う者であって、どの主体もこの規定において、したがって同一の規定において定立されているということが、まさに彼らの社会的規定をなしているのである。彼らは実際にはただ、主体化された交換価値〔subjektivirte Tauschwerthe〕として、すなわち生きた等価物として、つまり同等な者〔Gleichgeltend〕として対応しあっているにすぎない。彼らはそのような交換の諸主体としてただ平等であるというだけではない。そもそも彼ら相互のあいだにはなにひとつ差異がないのである。彼らが対応しあうのはもっぱら交換価値の占有者、および交換を必要としている者〔Tauschbedürftige〕としてであり、同一の、一般的で無差別の社会的労働の代理人〔Agent〕としてである。しかも彼らは等しい大きさの交換価値を交換する。というのは、等価物どうしが交換されるということが前提されているからである。各人の与えるものと受け取るものとが同等であるということが、ここでは過程それ自身の明示的な契機である。[彼らが]交換の諸主体としてどのように対応しあうかということは、交換行為において確証される。交換行為とは、そのものとしては、ただこの確証でしかない。彼らは交換を行なう者として、したがって同等なものとして定立され、彼らの商品(客体)は等価物として定立される。彼らが交換するものは等しい価値をもつものとしての彼らの対象的定在にほかならない。彼ら自身は等しい大きさの価値があるわけであるが、彼らが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてである。等価物はある主体が他の主体のために対象化したものである。すなわち等価物そのものは、等しい大きさの価値があるわけであるが、これらが互いに同等で無差別のものとして確証されるのは、交換行為においてなのである。諸主体は交換のなかで、ただ互いに相手に対する等価物を通してのみ同等な者として存在し、一方が他方に対して呈示する対象性の転換を通じて〔のみ〕、互いに同等なものとして確証されるのである。彼らは、ただ互いに相手に対して等価の主体としてのみ存在するのであるからこそ、同等であると同時に互いに無差別でもあるのである。彼らのそれ以外の区別は彼らには関係がない。彼らの個人的な特殊性は過程のなかには入ってこない。彼らの諸商品の使用価値の素材的な差異は、商品の価格としての観念的定在にあっては消えうせており、この素材的差異が交換の動因となっているかぎりでは、彼らは互いに相手の欲求であり(各々の主体が他の主体の欲求を代表する)、ただ等量の労働時間によって充足される欲求にすぎない。この自然的な差異こそ、彼らの社会的平等の根拠であり、彼らを交換の諸主体として定立するものなのである。かりにAの欲求がBの欲求と同一であり、かつAのもっている商品が充足する欲求とBのもっている商品が充足する欲求とが同一であったとすれば、経済的諸関連を問題とするかぎりでは(つまり彼らの生産の面からみれば)、両者のあいだにはまったくどのような関連も存在しないであろう。彼らの労働および彼らの商品の素材的差異を媒介にして彼らの諸欲求を互いに充足しあうことによってこそ、彼らの平等がひとつの社会的関連として成就され、彼らの特殊な労働が社会的労働一般のひとつの特殊な存在様式になるのである。〉(草稿集③126-128頁)
  〈貨幣が入ってきても、貨幣が実際、平等の関連の実在的な表現であるかぎり、貨幣がこの平等の関連を止揚することはけっしてない。まず第一に、貨幣が価格を定立する要素、つまり尺度として機能するかぎりでは、ただ量的な差異しか生じさせないことによって、諸商品を質的に同一のものとして定立し、諸商品の同一の社会的実体を表現することが、まさに貨幣の機能であることが、形態の面からも示されている。次いで流通においてもまた実際に、どの主体のもっている商品も同一のものとして現われる。それは、どの商品も流通手段という同一の社会的形態を受け取るからである。流通手段という形態においては、生産物のあらゆる特殊性が解消されており、どの商品の所有者も手につかめるかたちで主体化された、一般に適用する商品〔die handgreiflich subjektivite allgemeingültige Waaer〕の所有者となる。能幣は臭くない〔non olet〕ということが、ここでは本来の意味で妥当する。ある人の手にしているターレルがこやしの価格を実現したものか絹の価格を実現したものかは、そのターレルからは絶対にわかりようがないし、ターレルがターレルとして機能しているかぎりでは、個別的な差異はすべてそのターレルの占有者の手のなかでは消えうせてしまっている。しかも、こうした個別的差異の消失は全面的なものである。なぜなら、商品はすべて鋳貨の形態に転化するからである。流通はどの人をも、ある特定の契機において、他人と同等のもの〔gleich〕として定立するばかりでなく、同一のもの〔dasselbe〕として定立するのであって、流通の運動の本質は、社会的機能からみてどの主体も交互に他の主体にとってかわるということにある。交換者たちは流通のなかで、今はたしかに買い手と売り手として、つまり商品と貨幣として質的差異をもって〔qualitativ〕対応しあってはいるが、しかし彼らはやがてその位置を変換するのであって、〔流通の〕過程は不等性を定立する過程〔Ungleichsetzen〕であると同時にその不等性の定立を止揚する過程〔Aufheben〕でもある。その結果、この不等性を定立する過程は単に形態上のものにすぎないこととして現われるのである。買い手は売り手となり、売り手は買い手となるのであるが、どの人も、買い手となりうるのはただ彼が売り手であることによってのみである。〔しかし〕この〔買い手と売り手という〕形態上の区別は同時に、流通のすべての主体にとって、[彼らが]通過しなければならない社会的な変態としても存在している。それに加えて、商品は価格として観念的には、商品に対立している貨幣に劣らず貨幣である。それ自身流通するものとしての貨幣においては、それは、あるときはある人の手中に現われ、またあるときは他の人の手中に現われるが、貨幣は誰の手中に現われるかに対しては無頓着である。こうした貨幣という姿で平等が物象的に定立されており、区別は単に形態上のものにすぎないものとして定立されているのである。各人は他人に対して流通手段の占有者として現われるのであり、交換の過程が考察されるかぎりでは、彼自身貨幣として現われるのである。商品のうちに存在していた特殊な自然的差異はすでに消え失せており、また流通を通じて絶えず解消されてゆくのである。〉(草稿集③129-130頁)
  〈一般に諸個人の経済的過程の内部での彼らの社会的関連を吟味する場合には、われわれはこの過程そのものの形態諸規定だけに着目しなければならない。しかし流通においては、商品と貨幣との区別以外には、区別は何も存在しないし、さらにまた流通は両者の区別を絶えず消失させてゆく運動でもある。平等は、流通においては社会的(ゾツイアール)産物として現われる。それは交換価値が一般に社会的(ゾツイアール)定在であるからである。〉(草稿集③131頁)
  〈貨幣はただ交換価値の実在化〔Realisirung〕にすぎず、交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕の発展したものが貨幣制度〔Geldsystem〕であるから、貨幣制度は実際にはただ、この平等と自由の制度の実在化でしかありえない。〉(草稿集③132頁)
  〈だから、流通において展開される交換価値の過程は、自由と平等を尊重するだけにとどまらず、自由と平等とは交換価値の過程の産物なのである。つまり交換価値の過程こそが自由と平等の実在的な土台である。自由と平等とは、純粋な理念としては、交換価値の過程のさまざまの契機の観念化された〔idealisirt〕表現であり、また法的、政治的および社会的な諸関連において展開されたものとしては、それらがただ〔経済とは〕別の展開位相〔Potenz〕において再生産〔再現〕されたものにすぎない。このことは歴史的にも実証されている。交換価値の過程に基づく所有と自由と平等との三位一体は、まず最初に17世紀と18世紀のイタリア、イギリスおよびフランスの経済学者たちによって理論的に定式化されたが、それだけではない。所有、自由、平等は、近代ブルジョア社会においてはじめて実現された。古典古代世界では、交換価値は生産の土台としての役割をはたさず、むしろ交換価値の発展とともに生産は没落していったのであるが、その古典古代世界が産み出した自由と平等は〔近代ブルジョア社会における自由と平等とは〕まったく反対の、本質的に局地的〔lokal〕でしかない内実をもったものであった。他面では、古典古代世界においても自由人の範囲内では、少なくとも単純流通の諸契機は発展していたから、次のことは明らかである。すなわちローマ、とくに帝政ローマの歴史はまさに古典古代的共同体〔das antike Gemeinwesen〕の解体の歴史であるから、そのローマにおいて、法的人格〔juristische Person〕の諸規定、つまり交換過程の主体の諸規定が展開され、ブルジョア社会の法はその本質的諸規定についてはすでに完成させられていたとはいえ、この法はなによりもまず中世に抗して、成立しつつある産業社会の法として貫徹させられなければならなかった、ということである。〉(草稿集③134-135頁)

《初版》

 〈労働力の売買がその限界内で進行する流通あるいは商品交換の部面は、じっさい、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているものは、もっぱら、自由平等所有、そしてベンサムである。自由! なぜならば、ある商品たとえば労働力の買い手も売り手も、自分たちの自由意志によってのみ規定されているから。彼らは、自由な法的に対等な人間として契約を結ぶ。契約は、彼らの意志にたいして共通の法的な表現を与えているところの自由な産物である。平等! なぜならば、彼らは、商品所持者としてのみ互いに関係しあい、等価物と等価物を交換するから。所有! なぜならば、どちらも、自分のものだけを自由に処分するから。べンサム! なぜならば、どちらにとっても、自分のことだけが問題であるから。彼らを結び付けて関係させる唯一の力は、彼らの私利の、彼らの特殊利益の、彼らの私的利害の、力なのである。そして、このように各人が自分のことだけを考え、誰も他人のことを考えないからこそ、すべての人が、事物の予定調和の結果として、または、全能な摂理のおかげで、彼らの相互の利益の、公共の福利の、全体の利益の、事業だけを、遂行しているわけである。〉(江夏訳182頁)

《フランス語版》

 〈労働力の販売と購買が行なわれる商品流通の部面は、実際、天賦の人権と市民権との真の楽園である。そこでひとり支配するものは、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由! 一商品の買い手も売り手も強制によって行動せず、むしろ自分たちの自由意志によってのみ、規定されているからである。彼らは、同じ権利をもつ自由な人間として、ともに契約を結ぶ。契約とは、彼らの意志が共通の法的表現をそのなかで与えられているところの、自由な産物である。平等! 彼らは商品の所有者としてのみ相互に関係し、等価物を等価物と交換するからである。所有! どちらも自分に所属するもののみを処理するからである。ベンサム! 彼らのどちらにとっても、自分自身だけが問題だからである。彼らを対面させ、関係させる唯一の力は、彼らの利己主義の、彼らの個別的利益の、彼らの私益の、力である。各人は自分のことだけを考え、誰も他人のことを気にかけないのであって、まさにこのために、事物の予定調和によって、すなわち、全知の摂理の庇護のもとに、彼らはめいめい自分のために、めいめい自分の家で働きながら、同時に、全体の功利、共通の利益のためにも働くのである。〉(江夏・上杉訳165頁)


●第21パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈他方、貨幣関係がこれまでにその純粋な姿で、またそれよりも高度に発展した生産諸関係と無関係に展開されるかぎりでは、この貨幣関係の規定のなかには次のことが含まれている。すなわち、単純につかまれた貨幣諸関係のなかでは、ブルジョア社会の内在的対立がすべて消し去られたようにみえ、またこの面からして、ブルジョア経済学者によって現存の経済的諸関係を弁護するための逃げ場とされる以上に(彼らはこのばあい少なくとも首尾一貫していて、交換価値と交換という、貨幣関係以上に単純な規定にさかのぼる)、ブルジョア民主主義によって、この貨幣関係がふたたび逃げ場に使われるのである。事実、商品または労働がまだただ交換価値としてだけ規定され、さまざまの商品を相互にかかわりあわせているその関連が、これらの交換価値相互間の交換として、それら交換価値の等置として規定されているかぎり、この過程をたがいのあいだで進行させる諸個人、諸主体は、ただ単純に交換者として規定されているにすぎない。形態規定についてみるかぎり、彼らのあいだにはまったくなんの区別も存在しない。そして、これが経済的規定、すなわち彼らが相互に交易関係〔Verkehtsverhältniß〕にあるさいの規定であり、彼らの社会的機能または彼らの社会的相互関連の指標〔indicator〕である。主体はどちらも交換者である。すなわち、そのどちらもが、相手が彼にたいしてもっているのと同じ社会的関連を相手にたいしてもっている。それゆえ交換の主体として、彼らの関連は平等〔Gleichheit〕の関連である。彼らのあいだになんらかの区別とか、ましてや対立をさがしだすことは不可能であり、一つの差異性をさがしだすことさえ不可能である。……関係の純粋な形態、その経済的側面が考察されるかぎりでは……形式的に区別される次の三つの契機だけが現われてくる。すなわち、関係の諸主体、つまり諸交換者。これは同一の規定で措定されている。彼らの交換の諸対象、諸交換価値、諸等価物。これらは等しいだけでなく、明示的に等しいものとされねばならず、また等しいものとして措定されている。そして最後に、交換という行為そのもの、つまり媒介。これによって諸主体はまさに交換者、同等者〔Gleiche〕として、彼らの客体は諸等価物、等しい物として措定される。〉(草稿集①275-277頁)
  〈このような解釈の仕方がその歴史的意義において強調されるのでなく、より発展した経済的諸関係--そこでは個人はもはやたんなる交換者、すなわち買い手と売り手としてでなく、たがいに規定された諸関係のなかで相対して現われ、もはやだれもが同じ規定性におかれていることはない--にたいして、反駁としてもち出されるならば、それは、自然の諸物体は、たとえば重さの規定でつかめば、みな重さがあり、したがって同等だから、あるいはそれらはすべて三次元の空間を占めていることによって同等であるから、それら諸物体のあいだにはなんの区別も存在せず、いわんや対立や矛盾など存在しない、と主張しようとするのと同じことである。交換価値それ自体もまた、ここでは交換価値のより発展した対立的諸形態と対立させられて、単純な規定性のなかにとどめられている。科学の歩みのなかで見れば、これらの抽象的諸規定は、まさに最初の、もっとも空疎な〔dürftigst〕諸規定として現われる。それは部分的には歴史的にも先行して現われる。より発展したものはより後のものとして現われるのである。現存のブルジョア社会の全体のなかでは、諸価格としてのこうした措定や諸価格の流通などは、表面的な過程として現われ、その深部においてはまったく別の諸過程が進行し、そこでは諸個人のこのような仮象的な〔scheinbar〕平等と自由は消失する。〉(草稿集①285頁)
  〈他方では、社会主義者たち(とりわけ、社会主義がフランス革命によって宣明されたブルジョア社会の諸理念の実現であることを証明しようとするフランスの社会主義者たち)の愚かさも、同様に明らかであり、彼らは、交換、交換価値などは、もともとは(時間的に)、あるいはそれらの概念からすれば(それらの適切な形態においては)、万人の自由と平等の制度であるのに、貨幣、資本などによって改悪されてしまったのだ、ということを論証する。あるいはまた、歴史はその真理にふさわしい仕方でみずからを貫徹せんものとこれまでなお成功しない試みを重ねてきたが、いまや彼らは、たとえばプルドンのように、正真正銘の本物〔der wahre Jacob〕を発見したのであるから、それによってこれらの諸関係の真正の歴史がいつわりの歴史のかわりに提供されるはずだ、などということも論証する。彼らにたいする回答はこうだ。すなわち、交換価値、またいっそうくわしくいえば、貨幣体制は事実、平等と自由の体制なのであるが、この体制がさらに発展するなかで自由と平等のまえに妨害的に立ちはだかるものは、この体制に内在する妨害要因なのであり、やがては不平等と不自由として化けの皮をあらわすような平等と自由の現実化にほかならないのだ、と。交換価値が資本に発展しないようにとか、交換価値を生産する労働が賃労働に発展しないようになどというのは、かなわぬ願いであり、ばかげた願いでもある。これらの諸氏がブルジョア的弁護論者たちと区別される点は、一方では、この体制が含んでいる諸矛盾を感じとる心であり、また他方では、ブルジョア社会の実在的姿態と観念的姿態とのあいだの必然的区別を概念的に把握〔begreifen〕せず、したがって、観念的表現が突際にはこの現実の映像にすぎないものだから、この観念的表現それ自体をあらためて実現しようとするなど、無用な仕事に手を染めようとするユートピア主義である。〉(草稿集①286-287頁)
  〈同じく、労働者が貨幣の形態、つまり一般的富の形態で等価物を受けとることによってもまた、彼はこの交換において、他のすべての交換者と同様、同等者〔Gleicher〕として資本家に相対している。少なくとも仮象の上ではそうである。事実上は、この平等はすでに次のことによって妨げられている。すなわち、彼が労働者として資本家にたいしてもつ関係が、交換価値とは特有のかたちで〔spezifisch〕異なる形態をもつ使用価値として、しかも価値として措定された価値に対立して、この仮象上の単純な交換にたいして前提されていること、したがって、彼は実際のところ、経済的には別の規定をうけた関係のうちにあること--つまり彼は、使用価値の本性、商品の特殊的な使用価値は、それ自体としては、どうでもよいとする交換の関係の外にあるということである。そうはいうものの、この仮象は幻想として労働者の側に存在するとともに、またある程度は他方の側にも存在しており、したがってまたこの仮象は、労働者の関係を、他の諸社会的生産様式のうちにある労働者の関係と区別して、本質的に変容させるのである。〉(草稿集①340-341ページ)
  〈労働能力のなかに含まれている労働時間、すなわち、生きた労働能力をつくりだすのに必要な時間は、生きた労働能力を--生産諸力の段階が同一であると前提すれば--再生産するのに、すなわちそれを維持するのに必要な時間である。だから、資本家と労働者のあいだで行なわれる交換は、交換の諸法則に完全に照応しており、しかも、照応しているばかりでなく、それの最終的な開花である。というのは、労働能力それ自身が交換されないあいだは、生産の基礎はまだ交換に立脚しておらず、交換は、ブルジョア的生産に先行するあらゆる段階ではそうであるように、ただ、交換の土台としての非交換に立脚する狭い範囲にとどまるにすぎないのだからである。だが、資本家が交換によって手に入れた、価値という使用価値は、それ自身が価値増殖の要素および価値増殖の尺度、つまり、生きた労働および労働時間、しかも労働能力に対象化されている労働時間よりも多くの労働時間、すなわち生きた労働者の再生産に要する労働時間よりも多くの労働時間である。つまり資本は、労働能力を交換によって等価物として手に入れたことによって、労働時間--労働能力に含まれている労働時間を超えるかぎりでの--を交換によって等価物なしに手に入れたのであり、他人の労働時間を交換なしに、交換という形式を媒介として、取得したのである。それゆえに、交換はたんに形式的なものとなり、また、すでに見たように、資本が労働能力との交換によって、資本自身がもつ対象化された労働としての、労働能力以外のなにか他のものを手に入れるかのような、したがって総じて労働能力との交換によってなにかを手に入れるかのような外観もまた、資本がさらにいっそう発展すれば止揚される。だから、転回が生じるのは次のことによってである。すなわち、自由な交換の最後の段階は、商品としての、価値としての労働能力を、商品、価値と交換することだということ、労働能力が受け取られるのは対象化された労働としてであるが、しかしその使用価値は、生きた労働すなわち交換価値の措定にある、ということである。転回が生じるのは、価値としての労働能力がもつ使用価値が、それ自身、価値創造的要素であり、価値の実体であり、そして価値増加的実体である、ということからである。つまり、この交換において労働者が彼のうちに対象化されている労働時間の等価物と引き換えに与えるのは、価値を創造し増加する彼の生きた労働時間である。彼は、結果としての自分を売る。原因、活動としては、彼は資本によって吸収され、資本のなかに体化される。こうして交換はその反対物に転回し、そして私的所有の諸法則--自由、平等、所有--、すなわち自己労働にたいする所有とそれの自由な処分とは、労働者の所有喪失と彼の労働の放棄〔Entäußerung〕とに、彼が自分の労働にたいして他人の所有にたいするしかたで関わることに、またその逆に、転回する。〉(草稿集②443-445頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈このことから、あの社会主義者たち、とりわけフランスの社会主義者たちの誤謬が生まれる。つまり、彼らはフランス革命によって〔その真の意味を〕発見されないまま歴史的に流布されるに至ったブルジョア的な諸理念を実現させるのが社会主義なのだということを立証しようと望み、また、交換価値は本源的には(時間的に)、あるいはその概念からすれば(つまりその適合的な形態においては)、万人の自由と平等の制度であるのに、それが貨幣、資本等によって歪められているのだということを論証することに精を出している。あるいはまた、歴史はこれまでのところはまだ自由と平等をその真実〔Wshrheit〕に照応した形態で実現しようと試みて失敗しつづけてきたのだが、今や--たとえばプルドンのように--自由と平等の諸関係の歪められた歴史にかわってそれらの真の歴史を提供してくれるような万能薬〔つまり社会主義〕を発見することを歴史が求めているのだということを、論証することに精を出している。交換価値の制度〔Tauschwerthsystem〕は、そしてそれ以上に貨幣制度は、実際には自由と平等の制度である。そしてより深く展開してゆくにつれて現われてくる諸矛盾は、この所有、自由および平等そのものに内在している諸矛盾、蔦藤である。というのは、所有、自由および平等そのものが折あるごとにそれらの反対物に転変するからである。〔それが理解できずに〕たとえば交換価値が発展して商品や貨幣という形態から資本という形態に進むことがないように、あるいは交換価値を生産する労働が発展して賃労働に進むことがないようにと願ったりするのは、あだな望みでもあり、愚にもつかない望みともいうものだ。これらの社会主義者たちがブルジョア弁護論者たちから区刻されるのは、一面では、この制度のはらんでいる諸矛盾を彼らが感じていることによってであり、他面では、ブルジョア社会の実在的な姿態と観念的な姿態とのあいだの必然的な区別を概念的に把握せず、したがって〔ブルジョア社会の〕観念的表現を、つまり神々しく輝いているので、現実それ自体を映し出しているだけなのに、みずから光を発するものとみなされている映像を、もう一度それ自体として現実化させようという余計な仕事を引き受けるユートピア主義によってである。〉(草稿集③136-137頁)

《初版》

 〈こういった、単純な商品流通あるいは商品交換の部面から、俗流自由貿易論者は、資本と賃労働との社会にかんする見解や概念や自分の判断基準を引き出してくるのであるが、こういった部面から立ち去るにあたって、わが登場人物の容貌は、すでに幾らか変わっているように思われる。さきの貨幣所持者が資本家として先頭に立って進み、労働力所持者が貨幣所持者の労働者として貨幣所持者のあとについてゆく。一方は意味ありげにくすくす笑いながら、仕事一途に。他方はびくびくとしぶりがちに、まるで、自分自身の皮を市場に運んでいまや革になめされるよりほかにはなんの期待もない人のように。〉(江夏訳182頁)

《フランス語版》

 〈単純な流通のこの部面は、俗流自由貿易論者にたいして、資本と賃労働にかんする彼の観念、概念、観察方法、判断の基準を提供しているが、われわれがこの部面から離れる瞬間に、われわれの戯曲の登場人物の相貌のなかに、ある変化が起きているように思われる。以前のわれわれの貨幣所有者が先頭に立ち、資本家として最初に行進する。労働力の所有者は、資本家に属する労働者として、後からついて行く。前者は、嘲笑的なまなざし、尊大で忙しそうな様子。後者は、自分自身の皮を市場に運んだが、もはや鞣(ナメ)されるという一事しか期待できない人のように、おずおずと、ためらいがちで、進み渋っている。〉(江夏・上杉訳165頁)

以上。

 

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『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(1)

2022-02-13 13:03:52 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.27(通算第77回)(1

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№4)(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きで、その第4回目です。
  前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁しているのに対して、それでは実際問題として、著書『価値形態論と交換過程論』のなかで久留間氏自身はどのように問題を提起しているのかを検討したのでした。
 
  今回は、久留間氏が〈マルクス自身も、「資本論」の第2章「交換過程」の終りに近いところ(それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる) にこう書いている。「困難は、貨幣が商品であることを把握する点にあるのではなく、如何にして、何故に、何によって wie,warum,wodurch 商品が貨幣であるかを把握する点にある。」(98頁。) ここでのこれらの三つの困難の指摘が、同時に、彼自身が見事にそれらを克服したことを暗示している……わたくしは、この「如何にして」と「何故に」と「何によって」とが、それぞれ、第1章の第3節と第4節と第2章とで答えられているものと解するわけであるが、これによるとマルクスは、ここで三つの困難を指摘したさいに、彼がそれらを「資本論」で克服した順序にしたがってあげたのだ、ということになる〉と述べていましたが、『資本論』の第2章の久留間氏が引用している部分で、果たしてマルクスは何を問題にしているのか、それは久留間氏がいうように〈それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる〉と、あたかもマルクスが貨幣に関する考察を結論的に述べているところであるかに説明していますが、果たしてマルクスにはそうした意図があったのかどうか、ということを検討することにします。
  まず久留間氏が引用している部分を紹介しておきましょう。それは「第2章 交換過程」の第15パラグラフになります。すでにこの部分はこのブログで解説したところでもあり、その部分をそのまま紹介することにします。恐ろしく長くなりますが、ご容赦ねがいます(久留間氏が引用している部分は赤字で示しました)。

 【15】〈(イ)先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。(ロ)金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば一〇ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。(ハ)どの商品もそうであるように、貨幣〔*〕はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。(ニ)貨幣〔*〕自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される(48)。(ホ)貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。(ヘ)それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。(ト)すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。(チ)困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある(49)。〉
〔* カウツキー版、ロシア語版では「金」となっている〕

 (イ) 先に指摘しましたように、一商品の等価形態は、その商品の価値の大きさの量的規定を含んでいません。

 ここで〈先に指摘したように〉とあるのは、第1章第3節Aの「三 等価形態」の次の一文を指すと考えられます。
 
  〈ある一つの商品種類、たとえば上着が、別の一商品種類、たとえばリンネルのために、等価物として役だち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとが交換されうる割合はけっして与えられてはいない。この割合は、リンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって定まる。上着が等価物として表現され、リンネルが相対的価値として表現されていようと、または逆にリンネルが等価物として表現され、上着が相対的価値として表現されていようと、上着の価値量は、相変わらず、その生産に必要な労働時間によって、したがって上着の価値形態にはかかわりなく、規定されている。しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられてはいない。この商品種類は価値等式のなかではむしろただ或る物の一定量として現われるだけである。〉 (全集23a75-6頁)

 (ロ) 金が貨幣であり、よって他のすべての商品と直接に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、例えば10ポンドの金の価値がどれだけかは分かりません。

 10ポンドという金の物的な量は、金でその価値を表す(だから価格として表示される)商品、例えばリンネルの価値の大きさを10ポンドという金の重量で表しているわけです。だからそれは金そのものの価値の量的表現ではないわけです。

 (ハ) どの商品もそうですが、貨幣(金)はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、よって他の諸商品の助けを借りて、表現しうるのみです。

 第1章第3節Cの「2 相対的価値形態と等価形態との発展関係」には次のようにあります。
 
  〈反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態IIIを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態IIが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉 (同前93頁)

 すべての商品の価値は、商品に内在的なものですから、直接には目にすることは出来ません。商品の直接的な定在はその使用価値だからです。だからすべての商品は、その内在的な価値を目に見えるように表すためには、他の諸商品の直接的な定在であるそれらの使用価値を使って(助けを借りて)表す以外にありません。つまり「相対的に」表すしかないのです。目に見えるということは、直接的なものになるということです。「価値形態」というのは、本来内在的なものである「価値」を「形態」あるものに、つまり「形ある状態」にする、あるいはなったものということです。商品の価値は、それ自体としてはまったく姿形も分からない抽象的で本質的なものです。だからそれが具体的な姿をとって現象するようにしたのが、価値形態、すなわち価値の現象形態(交換価値)なのです。

 (ニ) 貨幣(金)自身の価値は、他の諸商品と同じように、その生産のために必要とされる社会的に必要な労働時間によって規定されます。だからそれと同じ大きさの労働時間が凝固した、他の諸商品の使用価値の量によって、金の価値も量的には表されなければならないのです。

 (ホ)(ヘ) 貨幣(金)の相対的価値の大きさかがこのような形で確定されるのは、金が生産される場所における直接的な交換取引(物々交換)の中でです。そしてそれが貨幣として流通に入る時には、すでにその価値は与えられたものとして存在しているのです。だから、それは決して流通のなかで与えられるのではありません。

 この点について、『経済学批判』には、次のようにあります。

 〈金は、他のすべての商品と同様に、その原産地では商品である。金の相対的価値と鉄やその他すべての商品の相対的価値とは、そこでは、それらが互いに交換される量であらわされる。しかし流通過程では、この操作は前提されており、商品価格のうちに金自身の価値はすでにあたえられている。だから、流通過程の内部で金と商品とは直接的交換取引の関係にはいり、したがってそれらの相対的価値は、単純な商品としてのそれらの交換によって確かめられる、という考えほどまちがったものはない。流通過程で金がたんなる商品として諸商品と交換されるように見えるとしても、この外観はたんに、価格で一定量の商品がすでに一定量の金と等置されているということ、すなわち一定量の商品がすでに貨幣としての、一般的等価物としての金に関係しており、それだからこそ直接に金と交換できるということから生じるのである。一商品の価格が金で実現されるかぎりでは、その商品は、商品としての金、労働時間の特殊な物質化したものとしての金と交換される。だが、金が、金で実現される商品の価格であるかぎりでは、その商品は、商品としての金ではなく、貨幣としての金、すなわち労働時間の一般的な物質化したものとしての金と交換される。しかし、二つの関係のどちらでも、流通過程の内部で商品と交換される金の量が交換によって規定されるのではなく、交換が商品の価格、すなわち金で評価されたその交換価値によって規定されるのである。〉 (全集13巻73頁、下線はマルクスによる強調)》

 (まだ途中ですが、長くなり過ぎますので、今回はここまでとし、続きは次回に回します。)

  それでは本文テキストの解説に移ります。今回から第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の第2節「一般的定式の矛盾」からになります。


 § 第2節  一般的定式の矛盾


◎第1パラグラフ(貨幣が資本になる流通形態は、これまでの単純な商品流通の法則に矛盾している)

【1】〈(イ)貨幣が繭(マユ)を破って資本に成長する場合の流通形態は、商品や価値や貨幣や流通そのもの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾している。(ロ)この流通形態を単純な商品流通から区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることである。(ハ)では、どうして、このような純粋に形態的な相違がこれらの過程の性質を手品のように早変わりさせるのだろうか?〉

  (イ) 貨幣が、蚕が繭(マユ)を破って蝶になるように、資本に成長する場合の流通形態というのは、商品や価値や貨幣や流通そのもの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾しているいます。

 この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈貨幣が資本に変態するのに通過するところの流通形態は、商品、価値、貨幣、および流通自体の性質についてこれまでに詳述したすべての法則に矛盾する。〉 (江夏・上杉訳141頁)

  私たちが資本の一般的定式として獲得したG-W-G'というのは、これまで単純な商品流通のなかで見てきた商品や価値や貨幣やその流通そのものの諸法則と矛盾しています。なぜなら、単純な商品流通では商品や価値や貨幣はその流通の過程で価値量を変化させないというのがその法則だったからです。ところが資本の一般的定式では流通過程でGがG'へとつまりGがΔGを生むというのですから、価値量の変化を前提しているからです。つまり流通過程そのものが価値の増殖を生み出すというのですから、明らかにこれは単純流通の法則とは矛盾しているのです。

  (ロ) この流通形態、つまり資本としての貨幣の流通G-W-G'を単純な商品流通W-G-Wから区別するものは、同じ二つの反対の過程である売りと買いとの順序が逆になっていることです。

  しかしどうしてこうしたことになったのでしょうか。私たちが資本としての貨幣の流通として定式化したG-W-Gというのは、ただ単純な商品流通W-G-Wの両極を一方は貨幣、他方は商品となっているだけで、同じ二つの反対の過程である売りと買いの順序がただ逆になっているだけです。

  (ハ) では、どうして、このような純粋に形態的な相違が、これらの流通過程の性質を手品のように早変わりさせるのでしょうか?

   この部分のフランス語版も紹介しておきましょう。

  〈順序が逆になるという単に形態上の差異であるのにすぎないのに、販売と購買という二つの現象の性質がこれほど不思議に変わりうるのは、何故だろうか?〉 (江夏・上杉訳141頁)

  どうして、このように購買と販売の順序が逆になるという純粋に形式的な違いが、これらの流通過程の性質をまったく違ったものに変えてしまったのでしょうか。まるで不可思議な手品を見ているようです。


◎第2パラグラフ(販売と購買の順序の逆転するだけでは単純な商品流通の部面からは抜け出ていない)

【2】〈(イ)それだけではない。(ロ)このような逆転が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。(ハ)資本家としては私は商品をAから買ってそれをまたBに売るのであるが、ただの商品所持者としては、商品をBに売って次に商品をAから買うのである。(ニ)取引仲間のAとBとにとってはこのような相違は存在しない。(ホ)彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現わすだけである。(ヘ)私自身も、彼らにたいしてはそのつどただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するのであり、しかも、私は、どちらの順序でも、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方にはただ貨幣として、他方にはただ商品として、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家として相対するのではない。(ト)すなわち、なにか貨幣や商品以上のものとか、貨幣や商品の作用以外の作用をすることができるようなものとかの代表者として相対するのではない。(チ)私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしている。(リ)しかし、この二つの行為の関連はただ私にとって存在するだけである。(ヌ)Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがない。(ル)もし私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が立てる特別な功績を説明しようとでもすれば、彼らは私に向かって、私が順序そのものをまちがえているのだということ、この取引全体が買いで始まって売りで終わったのではなく逆に売りで始まって買いで終わったのだということを証明するであろう。(ヲ)じっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのである。(ワ)これだけでは満足しないで、AとBは、この順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と言うであろう。(カ)Aはその商品を直接にBに売るであろうし、Bはそれを直接にAから買うであろう。(ヨ)そうすれば、取引全体が普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの立場からは単なる売り、Bの立場からは単なる買いになる。(タ)だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面から抜け出てはいないのであって、むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。〉

  (イ)(ロ) それだけではありません。このような逆転が生じるのは、互いに取引する三人の取引の仲間のうちのただ一人だけにとってのことなのです。

 さらに指摘しなければならないのは、こうした順序が逆になるというのは、この一連の商取引に関係する三人のうちただ私一人だけのことなのです。単純な商品流通W-G-Wでも最初の商品所有者(私)とそれを買う貨幣所持者B、そして私が購入しようとしている商品を所持しているAの三人の取引の仲間が必要でした。資本としての貨幣の流通G-W-Gでも貨幣の所持者としての私、私が購入する商品の所持者B、そして私が販売する商品を購入する貨幣の所持者Aの三人が必要です。しかしこの三人のなかで購買と販売が逆転するのは私のみなのです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 私が単なる商品所持者として交換するのであれば、私は商品をBに売って次に商品をAから買うだけです。ところが資本家としての私は商品をAから買ってそれをまたBに売るのです。つまりこの相違は買いと売りの順序がただ逆転しているだけなのです。しかし取引仲間のAとBとにとってはこのような相違は存在しません。彼らはただ商品の買い手かまたは売り手として姿を現わすだけです。また私自身も、彼らにたいしてはそのつどただの貨幣所持者または商品所持者として、買い手または売り手として、相対するだけです。しかも、私は、どちらの順序の場合でも、一方の人にはただ買い手としてみのみ他方の人にはただ売り手としてのみ、一方にはただ貨幣としてのみ他方にはただ商品としてのみ、相対するだけであって、どちらの人にも資本または資本家あるいはそれらの代表者--貨幣や商品以上のなにものかを、すなわち貨幣や商品の作用以外の作用をなしうるなにものかを、代表するもの--として、相対するのではありません。

  もっとも三人の取引仲間のなかで私だけが販売と購買を逆転させるといっても何か特別なことをするわけではありません。私が単純な商品流通の当事者であれば、商品をBに売って、その貨幣でAから商品を買いますが、それと同じことをやるだけで、ただその順序が違うというだけなのです。つまり資本家としての私は、まずBから商品を買い、それをAに売るというだけなのです。もっともAやBにはそうした相違はありません。彼らはただ私に対して、Bは商品の所持者(売り手)として、Aは貨幣の所持者(買い手)として現れるだけです。ただ私も彼らと同じように、Bに対してはただ商品の買い手として、Aに対しては商品の売り手として現れるだけで、その点でも何の違いもありません。だから私は貨幣や商品の所持者として以外の、例えば資本や資本家あるいはその代表者として、つまり貨幣や商品以外の何らかの作用をなしうるものの代表として、彼らに相対するわけではないのです。つまりこれらはすべて単純な商品流通の範囲内のことなのです。

  (チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) 確かに資本家としての私にとっては、Aからの買いとBへの売りとは、一つの順序をなしています。しかし、この二つの行為の関連はただ私にとって存在するだけです。Aは私とBとの取引にはかかわりがないし、Bは私とAとの取引にはかかわりがありません。もし資本家としての私が彼らに向かって、順序の逆転によって私が特別な功績でも立てたかに説明しようとでもすれば、彼らは私に向かっていうでしょう。私が順序そのものをまちがえているのだ、と。そして、この単純な商品流通の取引では買いで始まって売りで終わったのではなく逆に売りで始まって買いで終わったのだということを証明するでしょう。そしてじっさい、私の第一の行為である買いはAの立場からは売りだったのであり、私の第二の行為である売りはBの立場からは買いだったのですから。売り買いの順序を逆にしたからといって何も偉ぶることはないのです。

  もっと私からみればAからの購買とBへの販売は一つの系列をなす行為ですが、こうしかた行為の系列は私だけに存在するものです。Aは私とBとの取引にはまったく関わりがないし、Bは私とAとの取引には同じく関わりがありません。もし私が売りと買いを逆転することによって、彼らに何か特別なことをやったかに言うとすれば、彼らは私にたいして、言うかも知れません。順序が間違っているのだ、と。単純な商品流通では取引は販売ではじまり購買で終わるのだというでしょう。そして実際、私の第一の行為である購買は、Bからみれば販売であり、第二の行為である販売は、Aからみれば購買だったのです。だから売りと買いを逆転したからといって何か特別なことをしたわけではないという彼らの主張の正当性は明らかです。

  (ワ)(カ)(ヨ) あるいはAとBはそれだけでは満足せずに、資本家としての私の順序全体がよけいなものでごまかしだったのだ、と主張するでしょう。つまりAはその商品を直接にBに売ることができるし、Bはそれを直接にAから買うでしょう。そうすると、取引全体は普通の商品流通の一つの一面的な行為に縮まって、Aの商品がただBに売られるだけになるからです。そしてAの立場からは単なる売り、Bの立場からは単なる買いになるだけです。しかし結果は同じなのですから。

  AとBはそうしたことを証明するだけでは満足せず、この私の取引全体が一つのみせかけでごまかしだというかも知れません。つまりAはその商品を直接Bに売り、Bはそれを直接Aから買えば、私の一連の取引全体はただ普通の商品流通の一つの一面的な行為になってしまって、ただAの商品がBに売られたということになるからです。そしてAからみれば単なる販売、Bからみれば単なる購買に縮められているだけです。

  (タ) 結局、私たちはただ販売と購買の順序を逆転することによっては、単純な商品流通の部面からは抜け出てはいないのです。だからこそ、私たちは、流通にはいってくる価値の増殖、したがってまた剰余価値の形成を、商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのです。

  だから結局言えることは、ただ販売と購買の順序を逆転するによっては、単純な商品流通の部面を飛び越えたわけではないということです。だからそもそも商品流通がその性質上、そこに入ってくる価値の増殖を許すものかどうかを見極めなければならないでしょう。


◎第3パラグラフ(単純な商品流通では、交換者は使用価値に関しては得をするが、交換価値に関しては何の得もない)

【3】〈(イ)流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみよう。(ロ)二人の商品所持者が互いに商品を買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、つねにそれである。(ハ)貨幣はこの場合には計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役だってはいるが、商品そのものに物として相対してはいない。(ニ)使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかである。(ホ)両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要な商品を手に入れるのである。(ヘ)しかも、これだけが唯一の利益ではないであろう。(ト)ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するであろう。(チ)また、穀作農民Bは、同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。(リ)だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合に比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くのぶどう酒を手に入れるのである。(ヌ)だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得をする取引である」(14)とも言えるのである。(ル)交換価値のほうはそうではない。
(ヲ)「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換以前にもっていたのだからである。」(15)
(ワ)貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれても、事態にはなんの変わりもない(16)。(カ)商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである(17)。〉

  (イ) 流通過程が単なる商品交換として現われるような形態にある場合をとってみましょう。

  フランス語版ではこの部分は次のようになっています。

  〈われわれは流通現象を、それが単なる商品交換として現われる形態においてとりあげてみよう。〉 (江夏・上杉訳142頁)

  このパラグラフはその前のパラグラフの最後に〈むしろ、われわれは、流通にはいってくる価値の増殖したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならない〉と述べていることを直接受けたものです。つまり単純な商品流通そのものの性質を見極めようということです。そこでまず単純な商品交換として現れる流通過程をみてみるということです。これはそれぞれの商品生産者が互いに自分の生産した商品を交換し合うというケースです。

  (ロ)(ハ) 二人の商品所持者(=生産者)が互いに自分が生産した商品を販売しあい、互いに買い合って相互の貨幣請求権の差額を支払日に決済するという場合は、つねにそうしたものとして現れます。貨幣はこの場合にはただ計算貨幣として、商品の価値をその価格で表現するのに役だってはいますが、商品そのものに物として相対してはいません。

  流通が商品交換として現れるということは、二人の交換当事者がそれぞれが生産した商品を販売しあい、購買しあって、互いに相手の商品を自分の商品との交換によって手に入れるということです。こうしたことは、互いに信用で販売しあい購買しあって、差額を支払日に決済するという場合には、つねにそうしたものとして現れます。この場合は、貨幣はそれぞれの商品の価格を尺度する計算貨幣として機能するか、差額を決済する支払手段として存在するだけで、商品に直接相対するものとしては存在していません。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ) こうした流通形態の性質を考えますと、使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方とも利益を得ることができるということは、明らかです。両方とも、自分にとって使用価値としては無用な商品を手放して、自分が使用するために必要な商品を手に入れるのですから。しかも、それだけが唯一の利益ではないのです。ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産するでしょうし、穀作農民Bは、同じ労働時間でぶどう栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するでしょう。だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、ぶどう酒や穀物を自分自身で生産しなければならないような場合に比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くのぶどう酒を手に入れるのです。だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得をする取引である」とも言えます。

  こうした商品交換として現れる流通形態の性質を考えてみましょう。この流通形態は、使用価値が問題になるかぎりでは、流通当事者双方に利益をもたらすものであることは明らかです。
  というのは、両方とも、自分にとっては使用価値ではない商品を手放して、自分に取って使用価値を持っている商品を入手するのですから。
  しかもそれだけではありません。ぶどう酒を売って穀物を買うAは、おそらく穀物農家のBが同じ労働時間で生産することができるよりも多くのぶどう酒を生産することができるでしょうし、同じことは穀物農家のBについても言えて、Bは同じ労働時間でぶどう栽培者Aよりも多くの穀物を生産することが可能でしょう。だから、二人がそれぞれの生産した商品を交換し合うということは、各自が自分でぶどう酒や穀物を生産するよりも多くのものを手に入れることができるということだからです。
  だから使用価値に関していえば、交換は双方とも得をする取引であるといえます。

  関連すものとして、『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈商品の単なる使用価値が考察されるかぎりでは、明らかに、交換によって当事者の双方が得をする〔gewinnen〕ことができる。この意味では、「交換は、双方がもっぱら得をする取引だ」、と言うことができる。(デステュット・ド・トラシ『イデオロギー要論。第4部および第5部。意志および意志作用論』、パリ、1826年、68ページ。そこでは次のように言われている、--「交換は、二人の当事者の双方がいつでも得をする、すばらしい取引である」。)全流通が商品と商品とを交換するための媒介運動にすぎないかぎり、各人は自分が使用価値として必要としない商品を譲渡して、自分が使用価値として必要とする商品を取得する。つまり双方がこの過程で得をするのであって、彼らの双方がここで得をするからこそ、彼らはこの過程を成立させるのである。そればかりではない。鉄を売って純物を買うAは、あるいは、ある所与の労働時間で、穀物耕作者Bが同じ時間に生産できるのよりも多くの鉄を生産し、またBのほうも、Aが同じ労働時間に生産できるのよりも多くの穀物を生産するかもしれない。つまり交換によって--それが貨幣によって媒介されようとされまいと--、交換が行なわれなかったとした場合よりも、同じ交換価値でAはより多くの穀物を、同じ交換価値でBはより多くの鉄を手に入れるのである。つまり、鉄と穀物という使用価値が考察されるかぎり、双方が交換によって得をするのである。また購買と販売という二つの流通行為のそれぞれを独立に考察しても、使用価値が考察されるかぎりは、どちらの側も得をする。自分の商品を貨幣に転化する売り手は、商品をいまはじめて、一般的に交換可能な形態でもつのであり、またこうしてはじめて、彼の商品が彼にとっての一般的交換手段になる、ということによって得をする。自分の貨幣を商品に再転化する買い手は、貨幣を、ただ流通のために必要とするだけでそれ以外には役に立たないこの形態から、自分にとっての使用価値に置き換えた、ということによって得をする。要するに、使用価値が問題であるかぎりは、交換のさいに両方の側のそれぞれが得をする、ということを理解するには、まったくなんの困難もないのである。〉  (草稿集④25-26頁)

  (ル)(ヲ) しかし交換価値のほうはそうではありません。
  「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換似前にもっていたのだからである。」
  つまり交換価値としてはただ同じ価値量の交換になるだけだから、誰も得をしないのです。

  しかし交換価値のほうはそうではありません。リヴィエールは次のように述べています。
  「ぶどう酒はたくさんもっているが穀物はもっていない一人の男が、穀物はたくさんもっているがぶどう酒はもっていない一人の男と取引をして、彼らのあいだで50の価値の小麦がぶどう酒での50の価値と交換されるとする。この交換は、一方にとっても他方にとっても、少しも交換価値の増殖ではない。なぜならば、彼らはどちらも、この操作によって手に入れた価値と等しい価値をすでに交換以前にもっていたのだからである。」
  つまり価値に関しては、交換当事者は、交換以前に持っていたもの交換後も持っているだけであって、双方ともに得をすることはありません。

  やはり関連するものを『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈ところが、交換価値については事情はまったく違う。この場合には反対に次のように言われている、--「平等のあるところに、利得はない」(フェルディナンド・ガリアーニ『貨幣について』、グストーディ編『イタリア経済学古典著作家論集』、近世篇、第4巻、ミラノ、18O3年、244ページ)。AとBとが等価物を交換するとすれば、すなわち同じ大きさの量の交換価値あるいは対象化された労働時間を交換するとすれば、AとBとは、貨幣の形態であると商品の形態であるとを問わず、交換に投入したのと同じ交換価値をそこから引き出す、ということは明らかである。Aが自分の商品をその価値で売るならば、彼はいまや、彼がまえに商品の形態でもっていたのと同じ量の対象化された労働を、つまり同じ交換価値を、貨幣の形態で(あるいは--実際的には彼にとって同じことであるが--同じ量の対象化された労働にたいする指図証券の形態で)もっているのである。これとは逆に自分の貨幣で商品を買ったBについても、同様である。彼はいまでは、彼がまえに貨幣の形態でもっていたのと同じ交換価値を、商品の形態でもっている。二つの交換価値の合計は相変わらず同じであり、双方のそれぞれがもつ交換価値も同様である。〉  (草稿集④26-27頁)


   (ワ)(カ) ここで貨幣が先きの場合のように支払手段としてではなく、流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれたとしても、事態にはなんの変わりもありません。商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないからです。だから商品の価値には何も変化もないのです。

  先に私たちは流通が商品交換として現れる例として、商品所有者が互いに信用で売買しあって、差額を決済するケースを検討しましたが、これが例えば貨幣が流通手段として商品所持者のあいだを媒介して、販売と購買が感覚的に分離されたとしても同じことです。例えばぶどう生産者がぶどう酒を販売して、そこで入手した貨幣で、穀物を購入し、同じように穀物生産者が穀物を販売して、その貨幣でぶどう酒を購買したというケースも、やはり使用価値に関しては双方とも得をするし、交換価値に関してはやはり彼らが販売する以前にもっていた価値を、新たに購入して商品の価値として持っているだけで、商品の価値には何の変化もないのです。商品の価値は流通の前提であって結果ではないからです。


◎原注14

【原注14】〈「交換とは不思議な取引であって、そこでは契約当事者が両方ともつねに(!)得をするのである。」(デステュット・ド・トラシ『意志および意志作用論』、パリ、1826年、68ページ。)同じ著書は、『経済学論』としても刊行された。〉

  これは〈だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得をする取引である」(14)とも言えるのである〉という本文につけらた原注です。
  『資本論辞典』によれば、デステュット・ド・トラシ Antoine Louis Claude Destutt de Tracy (1754-1835)はフランスの哲学者ということです。〈彼はその主著の第4巻で経済学の原理を展開するが,マルクスはまず,リカードがその『経済学および課税の原理』において,価値の源泉を労働にもとめるデステュットの見解を労働を引用しているいきさつに触れる.デステュットは,たしかに富を形成するものがすべて労働を表示するというが,しかし他方ではそれらのものが労働の価値からその価値を受けとるとするのであって,特定商品(労働)の価値をまず前提し,しかる後に他の商品の価値を規定する俗流経済学の浅薄さを示している点を指摘するのである.……云々〉(517頁)


◎原注15

【原注15】〈メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『自然的および本質的秩序』、544ページ。〉

  これは本文として引用されたものの典拠を示すだけのものです。同じリヴィエールは第1節の原注4にも出てきました。これも『資本論辞典』から紹介しておきましょう。
  〈Paul Pierre Le Mercier de la Rivière de Saint Mèdard (1720-1793) フランスの官吏・重農学派(Physiokraten)の一人. ……マルクスは資本の転形や等価交換の説明にかんしてメルシエを引用・参照しているが,『剰余価値学説史』でメルシエが,工業における剰余価値をもって工業労働者そのものとなんらかの関係をもつものとの予感をいだいていたことを指摘しているのは注目に値する. 〉(568頁)


◎原注16

【原注16】〈「これらの二つの価値の一方が貨幣であるか、それとも両方とも普通の商品であるかは、それ自体まったくどうでもよいのである。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、同前、543ページ。)〉

  これは〈貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり、買いと売りという行為が感覚的に分かれても、事態にはなんの変わりもない(16)。〉という本文に付けられた原注です。要するに交換価値に関しては、交換以前も以後も変化はないということです。メルシェの説明は原注15を参照。


 ◎原注17

【原注17】〈「契約当事者たちが価値を決定するのではない。それは契約に先だって確定されているのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、906ページ。)〉

  これは〈商品の価値は、商品が流通にはいる前に、その価格に表わされているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである(17)。〉という本文につけらた原注です。
  これも『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ル・トローヌ・Guillaume Francois Le Trosne(1728-1780) フランスの経済学者.はじめ自然法学研究に従事したが,やがてケネーの影響をうけて経済学研究に入り.重農主義学説のもっとも有能な説明者の一人となった.……彼は価値の基礎を効用にだけおくコンディヤックに反対し,価値の発生を交換にもとめ,価値決定の原因を交換関係における効用・生産費・稀少怯・競争の共同作用によると説明した.つまりル・トローヌは一方に欲望にもとづく効用を認め他方に生産費を認めて主客折衷の価値説を示したが.コンディヤック批判では,彼の説に使用価値と交換価値の混同があることを指摘し得たのではなく,彼自身交換価値の本質については理解できず,使用価値と交換価値とを混同していた.マルクスはル・ローヌにたいして積極的には論評を加えていないが.『資本論』第1巻第1篇および第2篇で,重農主義の価値論を代表するものとして上記主著からしばしば引用し,彼が交換価値を異なる種類の使用価値の交換における量的関係すなわち比率として相対的なものと理解していること(KI-40;青木1・116;岩波1-74).また彼が商品交換は等価物間の交換であって,価値増殖の手段でないことを明示し(KⅠ-166;青木2・301-302;岩波2-30),コンディヤックの相互余剰交換説をきわめて正当に批判していること(KI-I86;青木2-3日3-304;岩波2-32)などを指摘している.〉500(頁)


 (長くなりましたので、全体を8分割して掲載します。)

 

 

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