『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.9(通算第59回) 上

2019-02-23 01:53:51 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.9(通算第59回)上

 

◎『資本論』の対象は「現代社会」である(大谷新著の紹介の続き)

 マルチェロ・ムストは最近発売された『アナザー・マルクス』において、今また世界においては、新MEGAの出版が再開されることによって、マルクスの思想に対する新たな関心が生まれて「マルクス・リバイバル」ともいえる状況が生じていると述べています。しかし150年近くも前に出された『資本論』は(初版が出た1867年は、日本では慶応3年大政奉還がなされた時代)、やはり150年も昔の資本主義の現実を対象にしたものであり、今日のようなマルクスの時代とは較べ物にならないほどにグローバルに発展した資本主義にとってはすでに古くさいものになっているのではないかと思われ、そのように主張もされてきました。
 それは単にマルクスを批判し資本主義を擁護する人たちばかりではなく、資本主義を批判する人たちからも、いやそればかりか自らこの資本主義社会を変革する革命家を自認する人たちにおいてさえも、「変容し解体する資本主義」と称して、現代の資本主義は、マルクスの時代とは異なり、例えば貨幣一つとってもそれはすでに何の価値もない紙切れででしかなく、金との兌換の保証もないものであって、こうした「変容した」貨幣には、金貨幣を前提にした『資本論』の貨幣論など無用の長物でしかない。そんなものを現代の貨幣に適用しようとするならただ混乱をもたらすだけだ、などと堂々と主張する御仁もいるほどなのです。

  それに対して、大谷氏の新著は〈『資本論』の対象は「現代社会」である〉と明確に述べています。この「現代社会」というのは、マルクス自身が「modernな社会(die modern Gesellschaft)」と書いているからでもありますが(しかしこれをほとんどの訳者は「近代社会」と訳しているのですが)、しかしそれだけではなく、それはまさに多くの論者が「変容」してしまったとする現代の資本主義社会そのものを意味しているのだ、つまり『資本論』はわれわれが今目にしている現代の資本主義社会そのものを対象にしたものだと次のように論じています。

 〈資本主義社会は,自己の諸前提をたえず再生産することによって自己を維持している,先行の諸社会と種差を異にする一つの生きた全体であり,マルクスが使った別の語で言えば,一つの「社会的生産有機体〔gesellschaftlicher Produktionsorganismus〕MEGAII/6,S.109:MEW23,S93)だからである。そのようなものとしての資本主義社会は,どのような形態上の変化・発展を見せようとも,自らが産み落とす新たな社会に席を譲るまでは,自己同一性を保つのであって,この社会を形成している諸個人にとってはつねにmodernなものにとどまる。マルクスは『資本論』で,このmodernな社会のシステムを対象としたのである。そのような「社会的生産有機体」としての資本主義社会の「経済的運動法則を暴くこと」を最終目的とする『資本論』は,資本主義杜会が存続しているかぎり,この社会のなかにある諸個人にとって,どこまでいってもmodernな社会についての理論としての意義を持ち続ける。〉 (29頁)

  だから『資本論』の冒頭篇で論じられている貨幣の理論は(もちろんそれだけに限りませんが)、まさに現代の「管理通貨制度」と言われている貨幣制度を解明していくための理論的武器をわれわれに与えてくれているのです。それは古くさいどころかそれなくしては何の解決も解明もできないものなのです。それについてはこのブログでも常々問題にし、主張してきたところですが、さらに関心を持たれる方があれば、以下のサイトを一度覗いてみてください。(「現代貨幣論研究」 〈「変容し解体する資本主義」批判〉 )

  やや最後は自分の宣伝みたいになりましたが、それでは、テキストの解読を続けることにしましょう。

◎表題について

 〈第2節 流通手段
  a 商品の変態〉

  これから第2節に入りますが、表題は「流通手段」とあります。まあ、「商品が流通する」とよくいいますから、そのための「手段」というわけでしょうか。これが貨幣の次の機能というわけです。第1節の表題は「価値の尺度」でしたが、これが貨幣の「第1の機能」といわれましたから、「流通手段」は貨幣の「第2の機能」というわけです。
  しかし「流通手段」という言葉は、実は、これから検討する小項目「a 商品の変態」の一番最後に〈商品流通の媒介者として、貨幣は流通手段という機能をもつことになる〉と、この項目の締めくくりとして出てくるだけなのです。ということは、「第2節 流通手段」の最初の小項目「a 商品の変態」というのは、そもそも貨幣が流通手段という機能を持つとはどういうことかを説明するためのものだといえるのかもしれません。
  そこで、では、その小項目の表題「a 商品の変態」をみてみましょう。
 「変態やて!?」「ちょっとあの人変態ちゃう」と言う人がよくいますが、辞書をみると、「普通の状態と違うこと。異常な、または病的な状態」とか「《「変態性欲」の略》性的倒錯があって、性行動が普通とは変わっている状態。また、そのような傾向をもつ人」などという説明があったりします。
  しかしこれはなんぼなんでもおかしいやろ。当然です。
  もう一つありました。「動物で、幼生から成体になる過程で形態を変えること。おたまじゃくしがカエルに、蛹 (さなぎ) がチョウになるなど。」 いわゆる「メタモルフォーゼ」といわれるやつです。これがこの場合の「変態」の意味です。
  しかしカエルや蝶が変態をするというのなら分かりますが、商品が変態するというのは今一つピントと来ません。これはおいおい本文で説明されると思いますが、カエルや蝶の変態というのは、その個体は変わらず、その姿や形が個体の成長につれて変化するということです。同じように商品も、そこに内在する価値そのものは変わらず、その価値を宿している素材の姿や形が変わるので、だから、マルクスは、それをうまく表現するものとして、わざわざ生物学の用語である「変態(メタモルフォーゼ)」という言葉を使っているのだと思います。
  それではそろそろ本文に移りますか。

◎第1パラグラフ(交換過程の矛盾が商品の運動する形態をつくりだす)

【1】〈(イ)すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいる。(ロ)商品の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだす。(ハ)これは、一般に現実の矛盾が解決される方法である。(ニ)たとえば、一物体が絶えず他の一物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾である。(ホ)楕円は、この矛盾が実現されるとともに解決される諸運動形態の一つである。〉

  (イ) すでに「第2章 交換過程」で見ましたが、諸商品の交換過程は、矛盾した互いに排除しあう諸関係を含んでいます。

  いきなりやや哲学めいた話になります。しかし「矛盾」についは、すでに第1章や第2章でもいろいろと出てきました。第21回の「『資本論』を読む会」の報告では、ヘーゲルの論理学を参考に矛盾についていろいろと説明もしました。結論をいうと、〈矛盾というのは《二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立》だということです〉とその時は説明しました。こんな説明を受けてもさっぱり分からんと言われそうですが……。
  ところでここでは〈すでに見たように〉とあります。これは第1章で出てくるものではなくて、平易な書き下しで書きましたが、これは第2章の冒頭に出てくるものを指していると思います。交換過程では、「三つの困難」としてその矛盾が指摘されていました。以前の解説では、それを簡単に次のようにまとめました。

  〈1)〈諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない(価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない)〉〔第2・3パラグラフ〕。
  2)〈同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であるとともにもっぱら一般的社会的であるということはありえない〉〔第4パラグラフ〕。
  3)〈どの商品も一般的等価物ではなく、それゆえまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較しあうための一般的相対的価値形態をもってはいない〉〔第5パラグラフ〕。〉

  この矛盾の具体的なイメージは、あとで紹介する久留間鮫造著『貨幣論』からの引用を参照して頂ければただちに分かります。

  (ロ) 商品の交換過程の発展は、これらの矛盾を解消しはしないが、それらの矛盾の運動を可能にするような形態をつくりだします。

 〈商品の発展〉は、フランス語版では〈交換の発展〉を受けて、〈この発展は〉となっています。だから〈商品の交換過程の発展〉と書き下しました。第2章の交換過程では〈交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない。それゆえ、労働生産物の商品への転化が実現されるのと同じ程度で、商品の貨幣への転化が実現されるのである〉(全集23a117頁)と説明されていました。つまり商品の交換過程が発展すると商品に内在する使用価値と価値の対立は、商品と貨幣という二つの対立した関係として展開されるのですが、それこそ商品に内在する矛盾の一つの解決としての運動であり、形態だということではないでしょうか。
  つまりこれから「商品の変態」を考察するのですが、それは諸商品の交換過程の矛盾が、その解決を可能にするような商品の運動を作り出した一つの形態だということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) こうした商品の変態というのは、だから一般に現実の矛盾が解決される方法なのです。たとえば、一つの物体が絶えず他の一つの物体に落下しながら、また同様に絶えずそれから飛び去るということは、一つの矛盾ですが、楕円は、まさにこの矛盾が実現されるとともに解決される諸運動形態の一つなのです。

  ヘーゲルは〈矛盾は本質的な規定のうちにある否定的なものであり、一切の自己運動の原理であって、自己運動の本質は矛盾の提示に他ならない〉と述べ、〈或るものが運動するのは、……同じ今ここにあるとともにここになく、このここにあると同時にないということによるのみである〉(『論理の学』Ⅱ本質論69-70頁)と述べています。
  マルクスが論じている力学の問題については、大分昔の話になりますが、大阪市内で「『資本論』学ぶ会」なる学習会を行い、その機関紙として「学ぶ会ニュース」を発行していたのですが、その№35(1999.1.17)で、この部分を解説したことがあるので、それを援用させて頂きます。

  【もう一つの力学の問題は、丁度それを論じたものがあるので紹介しておきましょう。

 〈マルクスは、注意深く楕円を「諸運動形態の一つ」と述べている。なぜなら、力学的にみれば楕円ばかりでなく、放物線も双曲線も、つまり2次曲線一般が、接線方向に向かう物体の慣性と一方の焦点に向かう中心力との結果として物体のとる運動の軌道だからである。またマルクスが「落下しながら、また同様にそれから飛び去る」というのは、引力と斥力とのとる二つの反対方向を指すのではなく(なぜならこの場合斥力という現実の力は存しないから)、中心力と慣性の方向とみなければならないであろう。こうして、中心力と慣性という相互に排斥しあいながら媒介されあう対立物の統一として、つまり矛盾の実現と解決として、楕円等々の形態での運動が行われる。〉(岩崎允胤・宮原将平共著『現代自然科学と唯物弁証法』87頁)

 あまり易しい解説とは言えませんが、参考にして頂きたいのは、私が石を空中に斜め上に投げるとそれは放物線を描いて落ちてきます、これもここでマルクスが言っている矛盾の実現と解決の結果としての運動だということです。石は私が投げた力によって地球から飛び出そうとしますが、他方で重力によって地球に引き戻されます。その二つの矛盾した力の解決として放物線を描いて石は落下するのです。もしこの石の初速度を上げて行けば、石はより高くより遠くまで届きますが、やがては石は地球の回りを回る楕円軌道に乗ることになるでしょう(もちろん理論上のことであって実際には空気抵抗があり、石をそこまで早く打ち上げるうるかどうかは別です)。】
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  さて、先にも紹介しましたが、久留間鮫造著『貨幣論』は、商品の変態が、交換過程に内在する矛盾の解決であることを分かりやすく説明していますので、このパラグラフの最後に、少し長くなりますが紹介しておきましょう。

  〈いまかりに、問題の商品が亜麻布であったとし、その所有者はそれをバイブルと交換したいと思っていたとする。そのばあいに、たまたまバイブルの所有者の方でも亜麻布との交換を望んでいれば交換が成立するが、そうではなくて、亜麻布との交換を望んでいるのは小麦の所有者であってバイブルの所有者ではなく、バイブルの所有者は亜麻布ではなくて酒との交換を欲していたとすると、交換は成立しえない。この揚合、亜麻布を生産した労働は小麦の所有者の欲望--したがって祉会的欲望--の対象を生産しているわけですから、その労働は社会的に有用な形態で支出された人間労働の一定量として、その生産物である亜麻布の価値を形成しているはずなのだけれど、それにもかかわらず、亜麻布は価値として実現されるわけにいかない、言葉をかえていえば、任意の他商品--この揚合にはバイプル--と交換されえない。そしてこのように、価値として実現されえないかぎり、それは使用価値としても実現されえないことになる。すなわち、他人のための使用価値であるはずの亜麻布は、それが充足すべきはずであった欲望の持主--いまの例で言えば小麦の所有者--の手に移って、現実に他人のための使用価値になりえないことになる。したがって、そのままでは、商品生産は社会的生産の一つの形態として成り立ちえないことになる。
 だから、商品生産が社会的生産の一種として成り立つためには、この矛盾が解決されねばならぬわけですが、それはどのようにして解決されるかと言うと、いうまでもなく、それが貨幣を生み出して、貨幣によって媒介されることによるのです。    
  すなわち貨幣ができると、交換(W1-W2)は販売(W1-G)および購買(G-W2)の二つの過程を通して遂行されることになるが、そうなると、商品所有者は彼の商品をいきなり自分の欲しいと思う他の商品と交換しようとはしないで、まず貨幣に対して交換することになる。これが販売(W-G)ですが、この過程においては、商品所有者は彼の商品を直ちに価値として通用させようとする代りに、まずそれを使用価値として譲渡することによって貨幣--一般的な価値の形態--に転化する。この使用価値としての譲渡によって、その商品の生産のために支出された労働は社会的に有用な労働であったことが実証され、したがって商品は、社会的に妥当な価値の形態--商品世界を通じてあまねく価値として通用するもの--すなわち貨幣--になる。そしてそうなった上ではじめて商品所有者は、次の購買(G-W) の過程で、この貨幣を価値として通用させる、すなわち彼の欲しいと思う任意の他商品と交換する。貨幣になると、そうすることが客観的に可能になるわけです。(もともと普通の商品にすぎなかった金がいかにしてこのような特権をもつ貨幣になるかは、価値形態論で明らかにされている。)貨幣ができるまではそうはいかなかった。さきほどの例でいえば、亜麻布の所有者は彼の商品亜麻布が社会的欲望--小麦の所有者の欲望--をみたすものであったにかかわらず、それを価値として実現することができなかった、すなわち、彼が欲しいと思う他商品--バイブル--と交換することができなかった。こうした矛盾が、いま言ったような仕方で解決されることになる。W-Wが、貨幣の形成とともに、W-GおよびG-Wという対立的な二つの形態変換の過程に分かれ、それらの過程的統一としてのW-G-Wという形をとることによつて、交換過程論で考察された矛盾が解決されることになる。
 これが、第二章の交換過程論との関連から見た商品変態論の本来の意味なのです。〉(236-238頁)

◎第2パラグラフ(素材変換を媒介する形態変換)

【2】〈(イ)交換過程が諸商品を、それらが非使用価値であるところの手から、それらが使用価値であるところの手に移すかぎりでは、この過程は社会的物質代謝である。(ロ)ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わるのである。(ハ)ひとたび、使用価値として役だつ場所に達すれば、商品は、商品交換の部面から消費の部面に落ちる。(ニ)ここでわれわれが関心をもつのは、前のほうの部面だけである。(ホ)そこで、われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。〉

  (イ) 交換過程においては、諸商品を、その所有者にとって非使用価値であるものを、それらを必要とする、つまりその人にとっては使用価値であるところ人の手に移します。だからこの過程を、素材的側面だけから見るならば、社会的な素材変換であることが分かります。

 これから考察する「商品の変態」というのは、価値の形態に関わるものですが、それをそうしたものとして考察するために、その限定を行なう必要から、マルクスはまず、「素材」と「形態」とを区別する必要を論じようとしているわけです。
 マルクスは後に第3篇第5章第1節「労働過程」の最初のありたで次のように書いています。

 〈労働は、まず第一に人間と自然とのあいだの一過程である。この過程で人間は自分と自然との物質代謝を自分自身の行為によって媒介し、規制し、制御するのである。〉 (全集23a234頁)

  そしてこれを歴史的には人間は互いの何らかの社会的な関係のなかで行なうのです。われわれが今考察している資本主義社会というのは生産物を商品として生産し交換し合う社会です。だから人間は自然に働きかけてそこから自分たちに有用なものを取り出すのですが、それらを互いに交換し合うことによって社会的な物質代謝をおこなっているのです。
  だから交換過程というのは、商品を互いに交換する過程のことですが、商品を交換し合うということは、交換する人にとっては、自分の生産物が自分にとっては自分の欲求を満たすものではなく、だからそれを商品として交換に出し、自分にとって必要なものを入手するためのものでしかないということです。これを素材的に見ると、彼にとって使用価値でないものを、彼以外の第三者にとって必要な、よってその第三者にとっては使用価値であるものを、手渡す代わりに、彼にとっては必要な、よって彼にとっては使用価値であるものを手に入れることになるわけです。これがさまざまな商品の生産者たちによって行なわれて、社会によって生産された使用価値は、それが必要とされるところに配分され、消費されて、こうして社会の物質的な生産と生活は維持されているわけです。

  (ロ) 使用価値を互いに交換しあうということは、それら使用価値を作り出した具体的な有用な労働を互いに交換し合うということでもあります。

  本文は〈ある有用な労働様式の生産物が、他の有用な労働様式の生産物と入れ替わる〉とありますが、この主旨は使用価値を生産する対象化された具体的で有用な労働が互いに交換されるということではないかと思います。
  先に紹介した「労働過程」の一文は、〈どんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察され〉(同233頁)たものです。しかし商品生産の社会では、自然に働きかける労働は、個々バラバラに行なわれます。そして生産されたものを互いに交換し合うことによって、はじめてそれらの労働の社会的な関係が現実のものになるというような社会なのです。だから対象化された、つまりすでに支出されてしまった労働の互いの関係が問題になるのです。共同体社会の協同労働ではこうしたことは生じません。それらは前もって社会的に関連づけられて支出されるからです。だからこれは商品社会に固有の問題なのです。

  (ハ)(ニ) 交換過程を終えて、商品が、ひとたび使用価値として役だつ場所に移れば、商品は、交換の部面から消費の部面へと落ちて行きます。しかしここでわれわれが関心をもつのは、前のほう、つまり交換の部面であって、後者の消費の部面ではありません。

  商品がその人にとっては非使用価値である人の手から、その人にとって使用価値である人の手に移れば、そのあとはその使用価値が実現される過程に移ります。つまり消費過程です。しかし消費過程そのものはわれわれの考察の対象ではなく、われわれの考察の対象はあくまで商品が交換される過程の問題なのです。

  (ホ) だから私たちは、この交換過程を、その素材の面からではなく、全過程を形態の面から考察しなければなりません。それは社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察することなのです。

  だから商品生産の社会というのは、商品を生産しそれを交換し合うことによって社会的物質代謝を維持している社会なのですが、それをマルクスは社会的物質代謝を諸商品の形態変換によって媒介しているのだと述べているわけです。しかし「形態変換」とはそもそもどういうことでしょうか。実はこれについても、すでに紹介しました「学ぶ会ニース№35」で書いたものがありますので、紹介させていただきます。

  【◎諸商品の形態変換、または変態だけを考察するとは?

 第2パラグラフではマルクスは〈われわれは全過程を形態の面から、すなわち社会的素材変換を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない〉と述べています。この理解について若干議論になりました。マルクスはここでは〈素材〉、つまり「使用価値」と区別された「形態」に考察を限定すべきと述べているのですが、では「形態」とは一体何を意味するのでしょうか?

 久留間鮫造氏の『マルクス経済学レキシコン』第3巻「方法Ⅱ」には「Ⅶ、形態規定、形態規定性(経済的)」という大項目があり、その小項目は「47、形態規定は、マルクスにあっては何を意味しているか?」「48、使用価値はどの程度まで経済学およびその形態規定の外部にとどまり、どの程度までそれらのなかにはいるか?」「49、経済学者たちにみられる、経済的形態規定の把握のための理論的感覚の欠如」となっています。また同じ『レキシコン』第12巻の「貨幣Ⅱ」でも、「流通手段」「Ⅰ、商品の変態」の小項目のなかに「3、ここでわれわれは、全過程を形態の面から考察しなければならない、すなわち、--過程の素材的内容はさしあたり考慮の外に置いて--社会的素材変換を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを考察しなければならない」という小項目があり、われわれが問題にしている第2パラグラフが(だけが)引用されています。ところがさらに「3'、ここでさしあたり考慮の外に置かれた、過程の素材的内容は、資本の流通過程の分析のところでは、進んだ観点のもとでさらに規定されて、あらたに考慮に入れられることになる」という小項目が続き四つの引用がなされています。

 このようにマルクスあっては常に「形態(規定)」と「素材[使用価値]」とが明確に区別され、しかも後者が論理の展開に応じてどの程度まで「形態」の考察のなかに入るかという問題意識があるというのです。こうした観点からわれわれが問題にしている第2パラグラフ以下を読んでみることが必要なのかも知れません。

 マルクスが「形態(規定)」と言っているのはどういう意味なのかを『レキシコン』を参考に見てみましょう。

 〈一つの社会的生産関係が諸個人の外部に存在する一対象としてあらわされ、また彼らがその社会生活の生産過程でとり結ぶ一定の諸関係が、一つの物の特有な諸属性としてあらわされるということ、--このような転倒と、想像的ではなくて散文的・実在的な神秘化とが、交換価値を生み出す労働のすべての社会的形態を特徴づける。貨幣にあっては、それが商品の場合よりも、顕著に現われているだけである。〉(『経済学批判』)

 このようにマルクスが「形態(規定)」として述べているのは、生産における人間の社会的関係が物の属性や関係として現われ、新たに加わる規定のことだと分かります。だからまたマルクスは別のところでは〈彼らは、資本をその特有の形態規定性においては、それ自身に反照された生産関係として、あるがままに認めず、ただその素材的な実態たる……〉とか、〈形態規定の、すなわち社会的過程から生じる諸規定の止揚は、……〉(以上『要綱』)、あるいは〈こうして彼らは形態規定から、すなわち、資本主義的生産の立場からすれば……〉(『学説史』)などとも述べています。】

  以上。まあ昔の古い文章を紹介して終えるという安易なやり方になりましたが、ご堪忍ください。

◎第3パラグラフ(形態変換の理解を不十分にさせる理由)

【3】〈(イ)この形態変換の理解がまったく不十分なのは、価値概念そのものが明らかになっていないことを別とすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、普通の商品と貨幣商品との交換において行なわれるという事情のせいである。(ロ)商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになる。(ハ)金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのである。〉

  (イ) 形態変換を形態変換として理解することを困難にしているのは、価値概念そのものが明らかになっていないことを別とすれば、ある一つの商品の形態変換は、つねに二つの商品の、つまり普通の商品と貨幣商品との交換において行なわれるという事情のせいです。これがあまりにもありふれているからこそ、それにわれわれの注意も固執することなるからです。

 私たちが日常ありふれた風景としてみるのは、金で商品を買うということです。つまりある商品と金との交換です。これを他の関係と切り離すと、商品と別の商品金との直接の交換としかみえません。『経済学批判』はこうした状態を次ぎように指摘しています。

  〈もしわれわれがW-GのGをすでに完了した他の一商品の変態として考察しないとすれば、われわれは交換行為を流通過程から外へ取り出すことになる。だが、流通過程の外では、形態W-Gは消滅して、二つの異なるW、たとえば鉄と金とが対立するだけであり、それらの交換は、流通の特殊な行為ではなく、直接的交換取引〔物々交換〕の特殊な行為である。〉(全集13巻72-73頁)

  (ロ) しかし商品と金との交換というこの素材的な契機だけを固執しますと、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に起きるものを見落とすことになるのです。

  上記の『批判』の続きは次のようになっています。

  〈流通過程の内部で金と商品とは直接的交換取引の関係にはいり、したがってそれらの相対的価値は、単純な商品としてのそれらの交換によって確かめられる、という考えほどまちがったものはない。〉(同)

  こうした間違った考えは、まさにまさにみるべきものを見落としているわけです。特定の商品(その使用価値)と金(という使用価値)との直接的な交換という素材的な関係だけを見ているからです。そうすると見るべきもの、形態上の変化を見落とすというのです。

  (ハ) 金はただの商品としては貨幣ではないということ、そして、他の諸商品は、それらの価格において、それら自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させるのだということを、見落とすのです。

  ついでですから、さらに上記の『批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈金は、他のすべての商品と同様に、その原産地では商品である。金の相対的価値と鉄やその他すべての商品の相対的価値とは、そこでは、それらが互いに交換される量であらわされる。しかし流通過程では、この操作は前提されており、商品価格のうちに金自身の価値はすでにあたえられている。〉(同)

  つまり私たちが日常的にみている商品と金との交換というのは、素材に固執した見方というわけなのです。しがしそうした見方は、特殊な金の産源地での交換においてのみ正しいものなのです。そこでは確かに直接的交換取引(物々交換)なのです。しかし私たちが前提している商品の流通においては、一方は貨幣として商品世界から排除された一般的等形態にあり、他方は自らの価値をその価格として、貨幣との関わりを観念的に表している価格形態にある商品なのです。こうした形態上の関係をみることがここでは必要なのだというわけです。

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  このパラグラフを理解するために、少しは参考になるかと思いますので、「『資本論』を学ぶ会ニュース№35」からも紹介しておきましょう。

  【◎形態変化の不十分な理解とは?

 さてこの第2パラグラフの「形態」の理解と密接に関連するのが、第3パラグラフの理解なのです。第3パラグラフも、そこで何が問題になっているかについてさまざまな議論が行われました(しかしそれが十分解決したかは疑問です)。このパラグラフは先に紹介した『レキシコン』の「方法Ⅱ」の小項目「49」のなかにも引用されていますが、しかしそれはわれわれが手にするテキストとは若干違います。というのはマルクスが『資本論』第二版で削除したものもカッコ内に入れられているからです。その削除した部分を合わせて読んだ方が、マルクスがここで何を問題にしているかがよく分かるように思います。レキシコンの引用をまず紹介しましょう([  ]内が第二版で削除されたところです)。

 〈この形態変換についての[・貨幣の諸機能についての・貨幣がそのさまざまな機能からうけとるさまざまな形態規定性についての・]理解がまったく不十分なのは、価値概念そのものについて不明瞭であることを別とすれば、一商品のどちらの形態変換も、つねに二つの商品の、商品と貨幣商品との交換において表示されるという事情のせいである。商品と金との交換というこの素材的な契機だけに固執するならば、まさに見るべきもの、すなわち形態について起こることを見落とすことになる。[金の貨幣としての規定は、すでに、単なる商品としての金には属さない形態規定だということ、]他の諸商品は、それらの価格そのものにおいて、それら自身の貨幣姿態としての金と関係を持つのだということ[、そして、金は金で、商品一般が一つの一般的な相対的価値形態を自らに与えねばならなぬがゆえにのみ、一般的な直接的等価形態をうけとるのだ、ということ]を見落とすのである。〉

 このようにここでマルクスがまず第一に言っているのは、『レキシコン』の小項目[49]の表題にあるように、「経済学者たちにみられる、経済的形態規定の把握のための理論的感覚の欠如」だということが分かります。

 また問題をわかりにくくしているのは、翻訳のまずさにもあると思います。私の持っているテキストは新日本出版社の新書判ですが、そこでは〈どの商品の形態変換も、二つの商品の、すなわち……〉となっています。しかしこれではよく分かりません。この部分はあきらかに上記『レキシコン』のように〈一商品のどちらの形態変換も、つねに二つの商品の、……〉としなければ意味が通じないからです。つまりここではW-G、G-Wという一商品の二つの形態変換を問題にしているからです。この部分の理解については河上肇の『入門』の説明が適切です。

 〈後で詳しく述べるように、例えばAなる商品はまず自らを貨幣と交換することによって、その価値を貨幣形態に変じ、しかる後その貨幣は、更にBなる商品と自らを交換することによってその価値をBなる商品形態に変じる。かくてその結果から見れば、Aなる商品が直接にBなる商品と交換されたのと同じことになるのであるが、しかしかかる全体的な関連から切り離して、全体を構成している二つの関係を別々に取り上げてみれば、そこにはいつでもある商品と貨幣との交換が行われているだけのことになり、従ってAなる商品が貨幣との交換を媒介としてBなる商品に転形するということ(すなわち我々がここで問題としている商品の形態変化)は、まったく看過されることになるのである。〉(青木文庫版第二分冊416頁)】 

◎第4パラグラフ(交換過程では、商品の使用価値と価値との差別は、商品と貨幣の両極にそれぞれに逆に表されている)

【4】〈(イ)商品はさしあたりは金めっきもされず、砂糖もかけられないで、生まれたままの姿で、交換過程にはいる。(ロ)交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化、すなわち商品がその使用価値と価値との内的な対立をそこに表わすところの外的な対立を生みだす。(ハ)この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対する。(ニ)他方、この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である。(ホ)しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている。(ヘ)商品は実在的には使用価値であり、その価値存在は価格においてただ観念的に現われているだけである。(ト)そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立する金に、関係させている。(チ)逆に、金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。(リ)それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。(ヌ)その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。(ル)このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのである。〉

  (イ) 商品はさしあたりはその生まれたままの姿で、つまりありふれた日常の姿で交換過程に入ります。

  ここでは〈金めっきもされず、砂糖もかけられないで〉と書かれていて、一体マルクスは何を言いたいのかと思ってしまいます。しかしここは、要するに商品が交換過程に入る前と、交換過程に入ったなかでの振る舞いとは違いますよ、と言いたいのではないでしょうか。つまり交換過程においては新たな形態規定性を受け取るということを言いたいのではないでしょうか。フランス語版には〈商品の日用上の形態は商品の実在上の形態である〉との一文がありますが同じことを言っているように思えます。

  (ロ)(ハ)(ニ) 交換過程においては、商品は貨幣に転化し、商品と貨幣とへの商品の二重化を生み出します。それは商品に内在する使用価値と価値との対立を、商品と貨幣という外的な対立として生み出したものです。この対立では、使用価値としての諸商品が交換価値としての貨幣に相対します。しかし、この対立のどちら側もやはり商品であり、したがって使用価値と価値との統一体であることに違いはありません。

  すでに紹介したものですが、「第2章 交換過程」には〈交換の歴史的な広がりと深まりとは、商品の本性のうちに眠っている使用価値と価値との対立を展開する。この対立を交易のために外的に表わそうという欲求は、商品価値の独立形態に向かって進み、商品と貨幣とへの商品の二重化によって最終的にこの形態に到達するまでは、少しも休もうとしない〉(全集23a117頁)とありました。つまり交換過程の発展は商品と貨幣とへの商品の二重化を生み出すのです。それは商品に内在する使用価値と価値との対立を、商品と貨幣という外的な対立として現したものです。しかしそのことは商品も貨幣も本来的に使用価値と価値との統一体であることには違いはないわけです。

  (ホ) しかし、このような、差別の統一は、両極のそれぞれに逆に表わされていて、そのことによって同時に両極の相互関係を表わしているのです。

  ここには〈このような、差別の統一は〉と「差別」という言葉が出てきます。
  ヘーゲルはその論理学で〈区別は、第一に、直接的な区別、すなわち差別である〉(岩波文庫『小論理学』下23頁)と述べています。そして〈差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる〉(同)とあります。
  なかなかこれだけでは、なぜマルクスはここで「差別」という用語を使っているのかよく分かりません。もう少しテキストにそって検討してみましょう。
  まず〈このような、差別の統一は〉の〈このような〉とは何を受けているのかを考えてみましょう。それはその前に〈この対立のどちら側も商品であり、したがって使用価値と価値との統一体である〉とあるわけですから、〈このような〉というのは使用価値と価値ということではないでしょうか。つまり「使用価値と価値というような、差別の統一は」ということになります。しかそれまでは使用価値と価値というのは商品に内在する「対立」的契機として説明されて来ました。それなのにここではそれが「差別」と言われています。ということは使用価値と価値という商品に内在する対立をより表面的に見た区別ということでしょうか。それが〈両極のそれぞれに逆に表わされていて〉というのですが、ここで〈両極〉というのは商品と貨幣ということでしょう。だから商品と貨幣の両極に〈それぞれに逆に表わされてい〉る。何が? 「使用価値と価値というような、差別の統一」がというのです。では〈〉とは何でしょうか。それは〈どちらの極も、それの対極が実在的にそうあるところのものを観念的にあらわし、それの対極が観念的にそうあるところのものを実在的にあらわすという〉(『経済学批判』全集13巻72頁)関係のことのようです。つまり商品は実在的には使用価値を表し、貨幣における使用価値は、ただ観念的に貨幣に相対する諸商品の使用価値としてあり、商品の価値はただ観念的に価格としてあるが、貨幣においては価値は実在的なものとしてあるということのようです。
  このように使用価値と価値とが、実在的な使用価値と観念的な価値、実在的な価値と観念的な使用価値として、商品と貨幣という二つの極に、逆に現れてくるために、両極に現れるそれぞれの使用価値と価値との区別は、対立したものというより、この場合は、使用価値と価値との区別を、ただ表面的にそれ自身としてみたものの関係なのだとマルクスは言いたいのかもしれません。それがわざわざ「差別」という用語を使っている理由なのかも知れません。

  (ヘ)(ト) 商品は直接的には、すなわち実在的には使用価値であって、その価値存在は価格というただ観念的に現われているだけです。そして、この価格が商品を、その実在の価値姿態としての対立している金に、関係させているのです。

 これは先の文節の最後に〈そのことによって同時に両極の相互関係を表わしている〉と述べていた内容が説明されているように思えます。つまり商品と貨幣という両極の相互関係というのは、商品は実在的には使用価値としてあり、その価値存在は、ただ観念的に価格しとてあるだけであり、それによって実在の価値姿態である貨幣(金)に関係させているのだということです。

  (チ)(リ)(ヌ) 逆に、金は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけです。だから、金は実在的には交換価値なのです。その使用価値は、ただ一連の相対的価値表現のなかに、観念的に現れているに過ぎないのです。この一連の相対的価値表現のなかでは、金は、自分自身の実在的な使用姿態の全範囲を表す対立する諸商品と関連させられるのです。

  (ヌ)の部分だけをもう一度書き出すと〈その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである〉という何とも分かりにくい文章になっています。新日本新書版は、この部分は〈その使用価値は、一連の相対的価値表現のなかに、やはりただ観念的に現れるに過ぎないのであり、この一連の相対的価値表現のなかで、金は、その実在的な使用諸姿態の全範囲である、対立する諸商品と関連させられる〉となっています。この場合は新日本新書版の方が訳としては分かりやすいような気がします。だから平易な書き下し文では新日本新書版に依拠しました。
  さらに全集版では〈金材料〉となっていますが、しかしこれも新日本新書版はただ単に「金」と訳されています。初版もフランス語版も「金」です。原文は「Gold」ですから「金」でよいでしょう。ただ『経済学批判』には〈金にあっては、それ自体はひとつの現実的な使用価値であるとはいえ、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてだけ、したがって現実の個人的欲望とはなんの関係もない、ただ形式的な使用価値として存在するにすぎない〉と言われていますように、金と言っても、しかし、貨幣としての金の使用価値はただ形式的に価値の担い手として、つまり価値の塊としての意義しかなく、現実の欲望に関係する使用価値としては、その貨幣が相対するすべての諸商品の実在的な使用価値として、その限りでは金にとってはただ可能性として、つまり観念的にしか存在しないのだといいたいのだと思います。

  (ル) このような、諸商品の対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実の運動形態なのです。

  ここで〈諸商品〉が主語になっています。この場合の〈諸商品〉は、生まれたままに交換過程にはいる諸商品のことでしょう。それが交換過程のなかでは商品と貨幣とに二重化し、互いに対立した諸形態として存在することになります。こうした商品と貨幣とに商品にが二重化し、対立した形態をとることが諸商品の交換過程における現実の運動形態なのだということのようです。
  『経済学批判』では〈ただ商品と金とへの商品のこの二重化によって、しかもどちらの極も、それの対極が実在的にそうあるところのものを観念的にあらわし、それの対極が観念的にそうあるところのものを実在的にあらわすという、やはり二重の対立した関係によってはじめて、したがってただ商品を二面的に対極的な対立として表示することによってはじめて、諸商品の交換過程にふくまれている諸矛盾は解決されるのである〉(全集第13巻72頁)となっています。
  またフランス語版では〈さて、商品が金と交換されるばあい、この商品はそれと同時に、自己の日用上の形態を価値形態に変える。金が商品と交換されるばあい、金もまた同様に自己の価値形態を日用上の形態に変える〉(江夏・上杉訳83頁)となっています。

 (今回も残念ながら、3万字という字数制限をオーバーしましたので、やむなく二分割し、本文は「上」、付属資料は「下」として掲載します。

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『資本論』学習資料No.9(通算第59回) 下

2019-02-23 01:53:51 | 『資本論』

 

『資本論』学習資料No.9(通算第59回)下

 (やはり今回も字数をオーバーしましたので、付属資料は「下」として掲載します。)

 

 【付属資料】

 

●第1パラグラフ

 

《経済学批判要綱》

 

  〈貨幣は、直接的な物物交換ならびに交換価値の諸矛盾を、一般的に措定することによってだけ、解決するということが、貨幣の本性のうちにあることを、われわれは知る。かつては、特殊的な交換手段がある特殊的なそれと交換されたかどうかということは、偶然的であった。だがいまや、商品は一般的交換手段と交換されなければならないのであって、その交換手段にたいして商品の特殊性はいっそう大きく矛盾する関係にある。商品の交換能力を確保するために、交換能力それ自体が一つの自立した商品として商品に対置される。(それは手段から目的になる。)特殊的商品が特殊的商品にいきあうかどうかが、前には問題であった。しかし貨幣は交換の行為それ自体を止揚して、二つの相互に無関心な行為にするのである。〉(草稿集①211-212頁)

 

《経済学批判》

 

  〈商品が価格付与の過程でその流通可能な形態を得て、金がその貨幣性格を得たのちに、流通は諸商品の交換過程が内包していた諸矛盾をあらわすと同時に、それを解決するであろう。諸商品の現実の交換、すなわち社会的な物質代謝は、使用価値および交換価値としての商品の二重の性質が自分を展開し、しかも商品そのものの形態転換が同時に貨幣の一定の諸形態に結晶するような形態転換のかたちでおこなわれる。この形態転換を述べることが、流通を述べることである。すでにみたように、商品が発展した交換価値であるのは、商品の世界と、それとともに実際に発達した分業が前提される場合だけであるが、流通は、全面的な交換行為とその更新の不断の流れとを前提する。第二の前提は、諸商品は価格を決められた商品として交換過程にはいりこむということ、言いかえると、交換過程の内部では、諸商品は互いに二重の存在として、現実的には使用価値として、観念的には--価格で--交換価値として現われるということである。〉(全集13巻69頁)

 

《初版》

 

  〈すでに見たように、諸商品の交換過程は、矛盾した相互に排除しあう諸関係を含んでいる。われわれがまさに考察した商品の発展は、これらの矛盾を廃棄しないで、これらの矛盾がそのなかで運動しうる形態を作り出している。このことが、一般的に、現実の矛盾が解決される方法なのである。たとえば、一物体が、不断に他の一物体に落下し、全く同様に他の一物体から不断に逃げ去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が実現されると全く同じに解決されもする運動形態の一つである。〉(江夏美千穂訳92頁)

 

《フランス語版》

 

  〈すでに見たように、商品の交換は、相互に排除しあう矛盾した条件をみたすことによってしか、実現することができない。交換の発展は、商品を、使用価値と交換価値という二面をもつ物として出現させるが、この発展は、これらの矛盾を消滅させないで、これらの矛盾がそのなかで運動することのでぎる形態を創造する。しかもこれが、現実の矛盾を解決するための唯一の方法なのだ。たとえば、ある物体が不断に他の物体に落下し、しかもなお、不断にこの他の物体から逃げ去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、この矛盾が実現されると同時に解決されもする運動形態の一つである。〉(江夏・上杉訳82-83頁)

 

《ヘーゲル『大論理学』》

 

 〈矛盾は本質的な規定のうちにある否定的なものであり、一切の自己運動の原理であって、自己運動の本質は矛盾の提示に他ならない。外に見られる感覚的運動自身が、矛盾の直接的な定在である。或るものが運動するのは、この今ここに、他の今そこにあるということによるのではなく、同じ今ここにあるとともにここになく、このここにあると同時にないということによるのみである。人は古代の弁証法家たちに対して、彼らが運動のうちに示している矛盾を認めなければならない。だが、そうであるからといって、運動はないということがそこから帰結するわけではなく、帰結するのは、むしろ運動は定在する矛盾そのものであるということである。〉(『論理の学』Ⅱ本質論69-70頁)

 

●第2パラグラフ

《経済学批判》

 〈循環W-G-Wは分解して、運動W-G、商品の貨幣との交換、すなわち販売と、反対の運動G-W、貨幣の商品との交換、すなわち購買と、そしてこれら二つの運動の統一W-G-W、貨幣を商品と交換するための商品と貨幣との交換、すなわち購買のための販売、となる。しかしこの過程が消えさる結果としては、W-W、商品の商品との交換、現実的な物質代謝が生じる。
 W-G-Wは、もし第一の商品の極から出発するならば、その商品の金への転化と、その商品の金から商品への再転化とをあらわす。言いかえれば、商品がまず特殊な使用価値として存在し、次にこの存在を脱して、その自然のままの定在とのいっさいのつながりから解かれた交換価値または一般的等価物としての存在を獲得し、ふたたびこれから脱して、最後に個々の欲望のための現実的な使用価値として残る一つの運動をあらわす。この最後の形態で、商品は流通から脱落して消費にはいる。だから流通の全体W-G-Wは、なによりもまず、個々の各商品がその所有者にとって直接的使用価値になるために通過する変態の全系列である。第一の変態は流通の前半W-Gでおこなわれ、第二の変態は後半G-Wでおこなわれ、そして全流通が商品の履歴〔curriculum vitae〕をなすのである。けれども、流通W-G-Wが一個の商品の総変態であるのは、ただそれが同時に、他の諸商品の一定の一方的変態の総和であるからにほかならない。なぜならば、第一の商品のどの変態も、その商品の他の商品への転化であり、したがって他の商品のその商品への転化であり、したがってまた流通の同じ段階でおこなわれる二方面的な転化であるからである。われわれはまず、流通W-G-Wが分解するこの二つの交換過程のそれぞれを、別々に考察しなければならない。〉(全集13巻70頁)

《初版》

  〈諸商品の交換過程が、諸商品を、それらが非使用価値であるところの持ち手から、それらが使用価値であるところの持ち手に移すかぎりでは、この過程は社会的な物質代謝である。一方の有用な労働様式の生産物が、他方の有用な労働様式の生産物にとって代わる。諾商品は、ひとたび使用価値と見なされる場所に達すると、使用対象として役立つ、換言すれば、商品交換の部面から消費の部面に落下する。ここでわれわれの関心をひくのは、商品交換の部面だけである。こうなると、われわれは、全過程を形態の側面から考察しなければならない。つまり、社会的な物質代謝を媒介するところの、諸商品の形態変換あるいは変態だけを、考察しなければならない。〉(江夏美千穂訳92-93頁)

《フランス語版》

  〈交換は、商品を、それが非使用価値であるところの持ち手から、それが使用価値として役立つところの持ち手に移行させる。ある有用労働の生産物が、他の有用労働の生産物にとってかわる。これが社会的な物質代謝である。商品は、ひとたび使用価値として役立つ場所に達すると、交換の部面から消費の部面に落下する。だが、この物質代謝は、商品の一連の形態変化あるいは変態によってのみなしとげられる。われわれはいまやこれを研究しなければならない。〉(江夏・上杉訳83頁)

●第3パラグラフ

《経済学批判》

  〈もしわれわれがW-GのGをすでに完了した他の一商品の変態として考察しないとすれば、われわれは交換行為を流通過程から外へ取り出すことになる。だが、流通過程の外では、形態W-Gは消滅して、二つの異なるW、たとえば鉄と金とが対立するだけであり、それらの交換は、流通の特殊な行為ではなく、直接的交換取引〔物々交換〕の特殊な行為である。金は、他のすべての商品と同様に、その原産地では商品である。金の相対的価値と鉄やその他すべての商品の相対的価値とは、そこでは、それらが互いに交換される量であらわされる。しかし流通過程では、この操作は前提されており、商品価格のうちに金自身の価値はすでにあたえられている。だから、流通過程の内部で金と商品とは直接的交換取引の関係にはいり、したがってそれらの相対的価値は、単純な商品としてのそれらの交換によって確かめられる、という考えほどまちがったものはない。〉(72-73頁)

《初版》

  〈この形態変換について、貨幣の諸機能について、そこから生ずるいろいろな形態規定--これらの形態規定は、貨幣がそれのいろいろな機能から作り出しているものである--について、理解が全く不充分であるのは、価値概念そのものが明らかになっていないことを別にすると、商品の形態変換がつねに、商品と貨幣商品という商品の交換において表わされている、という事情に起因している。商品と金との交換というこの素材的な契機だけに執着するならば、見るべきものが、すなわち形態について起きていることが、まさに見逃される。金を貨幣として規定することは、すでに、金が単なる商品であるかぎり金には所属することのない形態規定であるということ、他の諸商品は、自分たちの価格そのものにおいて、自分たち自身の貨幣姿態としての金に関係しているということ、金のほうが一般的な直接的等価形態しか受け取らないのは、これらの商品がおしなべて一般的な相対的価値形態を受け取らなければならないからであるということ、これらのことが見逃されるのである。〉(江夏美千穂訳93頁)

《フランス語版》

  〈運動のこの形態学的側面は、一商品のどんな形態変化も二商品の交換によって実現されるために、いささか理解しにくい。たとえば、一商品は日用上の形態を脱いで貨幣形態をとる。どのようにしてこのことがおきるか? 金との交換によってである。二商品の単純な交換は、手で触れることのできる事実であるが、これをもっと細かに観察しなければならない。〉(江夏・上杉訳83頁)

●第4パラグラフ

《経済学批判》

 〈販売W-Gでは、購買G-Wでと同じように、交換価値と使用価値との統一である二つの商品が対立している。しかし商品にあっては、その交換価値はただ観念的に価格としてだけ存在するのにたいして、金にあっては、それ自体はひとつの現実的な使用価値であるとはいえ、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてだけ、したがって現実の個人的欲望とはなんの関係もない、ただ形式的な使用価値として存在するにすぎない。だから使用価値と交換価値との対立は、W-Gの両極に対極的に配分されていて、そのため、商品は金に対立して使用価値であり、その観念的な交換価値である価格を金ではじめて実現しなければならない使用価値であり、他方、金は商品に対立して交換価値であり、その形式的使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである。ただ商品と金とへの商品のこの二重化によって、しかもどちらの極も、それの対極が実在的にそうあるところのものを観念的にあらわし、それの対極が観念的にそうあるところのものを実在的にあらわすという、やはり二重の対立した関係によってはじめて、したがってただ商品を二面的に対極的な対立として表示することによってはじめて、諸商品の交換過程にふくまれている諸矛盾は解決されるのである。〉(全集第13巻72頁)

《初版》

  〈商品は、さしあたり、金めっきもされず、砂糖づけにもされず、そのありのままの姿で交換過程にはいり込む。交換過程は、商品と貨幣とへの商品の二重化を、商品が使用価値と交換価値との内的な対立をそこで表わすところの外的な対立を、産み出している。この対立にあっては、使用価値としての商品が、交換価値としての貨幣に相対する。他方、この対立のどちら側も、商品、つまり使用価値と価値との統一である。しかし、こういった差別の統一は、両極のそれぞれの上に逆さに表されており、このことによって同時に、差別の相互関係をも表している。商品は実在的には使用価値であり、商品の価値存在は価格のうちに観念的にしか現われていない。そして、この価格が、商品を、この商品の実在の価値姿態として対立しているに、関係させているのである。逆に、金素材は、価値の具象物である貨幣としてのみ認められている。だから、金素材は、実在的に一般的な等価物すなわち交換価値なのである。金素材の使用価値は、金素材が、自己の実在的な使用姿態の範囲であるところの、自己に対立する諸商品に、関係している、というような一連の相対的価値表現において、観念的にしか現われていない。諸商品のこういった対立的な諸形態が、諸商品の交換過程の現実的な運動形態なのである。〉(江夏美千穂訳93-94頁)

《フランス語版》

  〈金が一極を有し、どの有用物も反対の極を有する。使用価値と交換価値との統一である商品が、双方の側に存在している。だが、対立物のこの統一は、両極において逆に表現されている。商品の日用上の形態は商品の実在上の形態であるが、その交換価値は想像された金で、その価格によって、観念的にしか表現されない。これと反対に、金の自然形態すなわち金属形態は、その一般的な交換可能形態、その価値形態であるのに対し、その使用価値は、その等価物として姿を表わす諸商品の系列のうちに観念的にしか表現されない。さて、商品が金と交換されるばあい、この商品はそれと同時に、自己の日用上の形態を価値形態に変える。金が商品と交換されるばあい、金もまた同様に自己の価値形態を日用上の形態に変える。〉(江夏・上杉訳83頁)

 

 

 

 

 

 

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