『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第35回「『資本論』を読む会」の報告

2011-05-26 00:16:17 | 『資本論』

第35回「『資本論』を読む会」の報告

 

◎改むるに憚ること勿れ

 菅首相は、先の会見で浜岡原発全面停止要請を行い、中部電力はその要請を受け入れ、浜岡原発は停止しました。

 この首相の要請について、米倉経団連会長は「唐突感は否めない」と不満を述べ、各マスコミも一斉に「唐突だ」との批判の声を上げました。

 しかし福島原発事故の経験を踏まえれば、首相の判断は当然ではないでしょうか。浜岡原発は予想される東海地震の震源域のど真ん中に位置し、日本の大動脈である東海道線や首都東京にも近く、それが福島原発と同じ事態に陥れば、その影響は測り知れないことは容易に想像できます。地震調査研究推進本部の評価によると、30年内にマグニチュード8程度の地震が発生する可能性は87%と極めて高く、今日、明日にも大地震と大津波が生じても、決しておかしくはない状況だというわけですから。

 「過ちては改むるに憚ること勿れ」と言います。そもそもこんなところに原発を作ってしまったこと自体が問題なのですが(電力資本と癒着して原子力政策を推し進めてきた歴代の自民党の責任です)、それを直ちに止める判断そのものは是としたいと思います。事故が起きてしまってからでは、取り返しがつかないのですから。もちろん、止めるだけでなはなく、廃炉にすべきでしょう。

 福島の状況は一進一退を繰り返して、気にはなるところですが、私たちの「『資本論』を読む会」も、相変わらず細々とやっております。第35回は、再びピースさんが参加できないということで、JJ富村さんが、やはりピンチヒッターでレポートを担当してくれました。今回も、進んだのは第5・6の二つのパラグラフだけでした。その報告を行います。

◎商品の生産する労働の固有の社会的性格

 最初は第5パラグラフです。いつものように、最初にパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに記号を打ち、平易に書きおろす形で解読して行きます。

【5】〈(イ)このような、商品世界の呪物的性格は、前の分析がすでに示したように、商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。〉

 (イ)こうした商品世界の物神的な性格は、これまでの分析で明らかになったように、商品を生産する労働の固有の社会的性格から生じます。

 ここで、〈このような、商品世界の物神的性格は〉の〈このような〉というのは、その直前の第4パラグラフで〈これを私は呪物崇拝と呼ぶ〉と書かれていたのを受けていることは明らかです。それではその次の、〈前の分析がすでに示したように〉の〈前の分析〉とは、どの部分を指すのでしょうか。

 これはやはり、〈前の分析〉、つまり商品の物神的性格はどこから来るのかを追求し、探り出してきた、第4節の第1パラグラフ以降の分析ということではないかということになりました。

 では〈前の分析で〉〈商品を生産する労働に特有な社会的性格〉がどのように明らかにされ、そこから〈商品世界の……物神的性格〉がどのように〈生じ〉ることが明らかにされたのでしょうか。それをもう一度念のために確認するために振り返ってみることにしましょう。

 もちろん、ここで言われている〈商品を生産する労働に固有な社会的性格〉については、続くパラグラフ以降でより詳しく説明されるのだろうという予測は立つのですが、少なくとも〈前の分析がすでに〉それをどのように〈示した〉のかを確認しておこうというわけです。

  マルクスは、商品の物神的性格を、直接的には、まずはそれが感覚的でありながら、同時に超感覚的なものであるというところにみているように思えます。そして感覚的に捉えられるものとしては、まず使用価値やそれを生産する労働の具体的性格等々については、何の神秘的なものはないこと、では商品の価値からその神秘的性格は来るのかと問うて、確かにそうなのですが、しかし価値と言っても価値規定の内容そのものには、やはり何の神秘性もないのだと指摘しています。そしてその結果、だから商品の神秘性は商品の形態そのものから来るのだと突き止めているわけです。

 そして商品の形態においては、人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのもの対象的性格として、それらの物があたかも自然に備わっている属性と同じようなものであるかに反映させ、総労働に対する生産者たちの社会的な関係を、そうした諸対象の社会的関係として反映させるということ、こうした“入れ替わり”が生じていることを明らかにし、それこそが商品が感覚的でありながら、同時に超感覚的なものとして、われわれにとって現われてくる原因なのだと述べています。つまり商品を生産する労働の社会的性格が、生産者自身の直接的な社会的関係としては現われず、労働生産物の社会的自然属性や社会的諸関係として現われるという、商品を生産する労働の固有な社会的性格から来ているのだ、ということだったように思えます。

◎翻訳が問題に

 次は第6パラグラフです。

【6】〈(イ)およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。(ロ)これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。(ハ)生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。(ニ)言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。(ホ)それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。(ヘ)すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。〉

 (イ)そもそも使用対象が商品になるのは、それらの使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかなりません。

 これについては、第2節で次のように書かれていました。

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。〉(全集版57頁、下線は引用者)

 また「補足と改訂」では、もう少し詳しく、次のように書かれています。

 〈そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならず、それゆえ、それらのなかに表れている労働が互いに独立した私的労働によるものであるからにほかならない。〉(小黒訳下29頁)

 (ロ)これらの私的諸労働の総体は社会的総労働なしています。

 この部分も「補足と改訂」ではより詳しく次のように説明されています。

 〈さまざまな私的労働は物質的には互いに独立しており、また物質的に互いに補いあっている。それは、一方がこの社会的欲望を充足し、他方があの社会的欲望を充足して、それゆえ、すべてが一緒になって社会的欲望の全体を充足する、という限りでにほかならず、言い替えれば、どの私的労働もその特殊な有用的な性格によって、社会の総労働の一部分を遂行し、自然発生的社会的体制の、分業体制の一分肢をなすからにほかならない。まさに、部分労働者が特別な個々の社会的欲望だけを充足するがゆえに、私的労働者の労働はその私的労働者自身の多様な社会的欲望を充足しはしない。〉(同上)

 また初版本文には、次のような一文もあります。少し長いですが、参考のために紹介しておきましょう。

 〈すべての使用価値がじっさいに商品であるのは、それらの使用価値が、互いに独立した私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的労働は、私的労働とはいいながら、分業という自然発生的な体制の・独立しているとはいえ特殊な肢体として、素材的に互いに依存しあっている、というような私的労働なのだ。これらの私的労働がこのように社会的に関係しあっているのは、まさに、それらの差異に、それらの特殊な有用性に、依拠しているからである。だからこそ、これらは、質的に相異なる諸使用価値を生産している。そうでなければ、これらの使用価値は相互同士での商品にはならないであろう。他方、有用な品質がこのようにちがうだけでは、生産物はまだ商品にはならない。ある農民家族が自分自身の消費用に上着やリンネルや小麦を生産すれば、これらの物は、その家族には、その家族労働のそれぞれにちがった生産物として相対しているが、これらの物自身が相互に商品として相対しているわけではない。労働が直接的に社会的な労働、すなわち共同の労働であれば、諸生産物は、それらの生産者たちにとっては、共同生産物という直接的に社会的な性格を得るであろうが、相互同士での商品という性格を得ることはないであろう。とはいえ、われわれは、ここでは、諾商品のなかに含まれていて互いに独立している私的諸労働の社会的な形態が、なんであるかを、さらに立ち入って探究するには及ばない。この形態はすでに、商品の分析から明らかになっている。これらの私的労働の社会的な形態は、同等な労働としてのそれらの相互関係なのである。つまり、千差万別のいろいろな労働の同等性は、それらの不等性の捨象においてのみ存在しうるのであるから、それらの社会的な形態は、人間労働一般としての、人間労働力の支出としての、たといすべての人間労働がそれらの内容や作業様式がどうあろうとじっさいにそうであるところのものとしての、それらの相互関係なのである。どんな社会的な労働形態にあっても、別々な個々人の労働はやはり、人間労働として互いに関係しあうが、ここでは、この関係そのものが、諸労働の独自に社会的な形態として認められている。だが、これらの私的労働はどれも、それの自然形態では、抽象的な、人間的な、労働という、独自に社会的な形態をもたないが、このことはちょうど、商品がそれの現物形態では、単なる労働膠着物すなわち価値という社会的形態をもたない、のと同じである。〉(江夏訳54-5頁)

 (ハ)(ニ)生産者たちは、自分たちの労働生産物を互いに交換することによって、はじめて社会的に接触するようになるのですから、彼らの私的諸労働の独自な社会的な性格も、この交換によってはじめて現われるのです。言いかえますと、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれるところの、あるいは労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの、諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として、すなわち社会的分業の一分肢であることが実証されるのです。

 (ホ)(ヘ)そういうことから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的な結びつきは、その現実にあるがままに現われます。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて直接結び合うような社会的な関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係として、あるいは諸物の社会的な諸関係として、現われるのです。

 学習会ではこのパラグラフの最後の部分〔(ホ)(ヘ)〕の翻訳が問題になりました。というのは、JJ富村さんは岩波文庫版を亀仙人は新日本新書版をそれぞれ読んでいたのですが、その翻訳が少し違っており、微妙に意味も違って解釈できるように思えたからです。

 まず岩波文庫版のこの部分の翻訳を紹介してみましょう。

 〈したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な関係として現われるのである。〉(133頁)

 この翻訳は全集版とほぼ同じです。ついでに全集版も紹介しておきましょう。

 〈それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである。〉(99頁)

 岩波版も全集版も、この部分は二つの文節に分けられています。ところが新日本新書版は、この部分は次のようになっているのです。

 〈だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関係は、そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。〉(125頁)

 つまり新日本新書版では一続きの文になっているのです。そして亀仙人はこの新書版にもとづいて、〈そのあるがままのものとして、すなわち、人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく〉を一つの文として理解して、〈そのあるがままのもの〉というのを〈私的諸労働の社会的関係〉の「本来的なもの」というような意味として理解して、〈人と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係〉のことを指していると理解したのでした。しかし、JJ富村さんは、そうではなく、〈そのあるがままのもの〉というのは、私的諸労働の社会的諸関係が、実際に現われるままのものとして、すなわち〈人々の物的な諸関係として、また物の社会的な関係として現われる〉ことを指しているのだと理解したというわけです。

 さて、そこで、果たしてどちらの翻訳が原文を正しく訳しているのかが問題になりました。あいにく、学習会当日は原文を持っていなかったので、直接、確認することができませんでしたが、原文は、次のようになっていました。

 〈Den letzteren erscheinen daher die gesellschaftlichen Beziehungen ihrer Privatarbeiten als das, was sie sind, d.h. nicht als unmittelbar gesellschaftliche Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten selbst, sondern vielmehr als sachliche Verhältnisse der Personen und gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen.〉(S.87)

 ドイツ語原文をみる限りでは、これらは一続きの文になっており、その限りでは新日本新書版の訳の方が、より原文に忠実であるかに思えます。しかし、果たして亀仙人のような読み方は正しいのかどうかです。残念ながら、学習会の参加者の中にはドイツ語に堪能な人はいないので、ドイツ語により詳しい友人に問い合わせたところ、亀仙人のような読み方は、ドイツ語としては読めないのではないかという返事でした。というわけで、岩波版や全集版の方が、訳としてはより正確であり、新日本新書版の場合は、亀仙人のような読み方の余地を残しているという点では、やや問題があるという結論に、どうやらなりそうなようです。どなたかドイツ語に堪能な方のご意見をお伺いしたいと思います。

【お断り】

 6月は残念ながら会場を借りることができませんでした。だから第36回「『資本論』を読む会」は、7月開催になります。案内は別途行いますが、ご了承ください。

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【付属資料】

●第5パラグラフ

《補足と改訂》

〈[A]

 そこで、商品のこの物神的性格はどこから来るのか、とさらに問うとするならば、この秘密はすでにこれまでの分析で解決されている。商品の物神的性格は、商品を生産する労働の特殊な社会的性格から、また、それに照応した商品生産者の特有な社会的関係から発する。〉(29頁)

〈[B]

 商品世界のこの物神的性格は、これまでの分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格から発する。〉(29頁)

●第6パラグラフ

《初版本文》

 〈私的生産者たちは、自分たちの私的生産物である諸物に媒介されて、初めて社会的な接触にはいる。だから、彼らの労働の社会的な諸関係は、彼らの労働における人々の直接的に社会的な諸関係として、存在し現われているのではなくて、人々の物的な諸関係または諸物社会的な諸関係として、存在し現われている。ところで、物を、社会的な物として、最初にかつ最も一般的に表わすことは、労働生産物商品に転化することなのである。〉(63頁)

《補足と改訂》

 〈そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならず、それゆえ、それらのなかに表れている労働が互いに独立した私的労働によるものであるからにほかならない。さまざまな私的労働は物質的には互いに独立しており、また物質的に互いに補いあっている。それは、一方がこの社会的欲望を充足し、他方があの社会的欲望を充足して、それゆえ、すべてが一緒になって社会的欲望の全体を充足する、という限りでにほかならず、言い替えれば、どの私的労働もその特殊な有用的な性格によって、社会の総労働の一部分を遂行し、自然発生的社会的体制の、分業体制の一分肢をなすからにほかならない。まさに、部分労働者が特別な個々の社会的欲望だけをを充足するがゆえに、私的労働者の労働はその私的労働者自身の多様な社会的欲望を充足しはしない。〉

〈[B1]

 そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。私的諸労働は物質的に互いに独立しておりそして互いに補いあっている。それは、その私的諸労働が、あるものはこの、そして他のものはあの特殊な社会的欲望を充足する特殊な産業部門に属しているかぎりにおいてであり、言い替えれば、すべての私的労働がその特殊な有用的な性格によって社会的総労働の一部分を遂行し、それゆえ、栓会的分業という自然発生的体制の分肢をなすかぎりにおいてである。まさに、私的生産者が社会的総労働の特別な一部分しか遂行しないがゆえに、そしてそれゆえ、その生産的行為が一定の社会的欲望しか充足しないがゆえに、私的労働者の労働は彼自身の多様な欲望を充足しはしない。

[B2]

 そもそも使用対象が商品になるのは、使用対象が互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体が社会的総労働をなす。第三者たちは彼らの労働生産物の交換を通してはじめて社会的接触にはいるから、彼らの私的諸労働の独特な社会的性格もまたこの交換の内部ではじめて現われる。あるいは、私的諸労働は、交換によって労働生産物が、そしてまた労働生産物を媒介として生産者たちが、結ばれる諸関連を通して、事実上はじめて、社会的総労働の諸分肢として自己を発現する。だから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的諸関連は、そのあるがままのものとして、すなわち、入と人とが彼らの労働そのものにおいて結ぶ直接的に社会的な諸関係としてではなく、むしろ、人と人との物的諸関係および物と物との社会的諸関係として現れるのである。〉(小黒訳下29-30頁)

《フランス語版》

 〈一般的に言うと、有用物が商品になるのは、それらの有用物が、相互に独立して営まれる私的労働の生産物であるからにほかならない。これら私的労働の総体が、社会的労働を形成する。生産者たちは、彼らの生産物の交換によってはじめて社会的に接触するのであるから、彼らの私的労働の社会的性格が最初に確認されるのも、この交換の限界内に限られる。あるいは、私的労働は実際には、次の関係によってはじめて社会的分業として現われる。すなわち、交換が労働生産物のあいだに、そして間接には生産者たちのあいだにうちたてられるという関係によって。この結果、生産者たちには、自分たちの私的労働の関係が、あるがままのものとして、すなわち、自分たちの労働そのものにおける人と人との直接的な社会的関係としてではなくむしろ物と物との社会的関係として、現われることになる。〉(江夏他訳48頁)

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第35回「『資本論』を読む会」の案内

2011-05-09 18:12:28 | 『資本論』

『資 本 論 』 を 読 ん で み ま せ ん か 

                                    
                                     
 オバマ米大統領は、5月始め、9・11、ニューヨーク・ツインビル爆破など同時多発テロを首謀し、国際テロ組織・アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンを殺害したと発表した。


ウサマ・ビンラーディン

 9・11以降、アメリカは対テロ戦争を標榜して、“大儀なき闘い”と酷評されたイラク戦争に突入し、アフガン侵略戦争を引き起し、ビンラディンを匿うタリバン政権を打倒した。そしてこの10年間追い続けた最大の標的であり、「対テロ戦争」の「最優先事項」である、ビンラディンの殺害という課題をなし遂げたのだ、とオバマは誇った。「正義はなされた」と。

 しかしウサマ・ビンラディンは、帝国主義の超大国であるアメリカの、色々な意味での“産物”以外の何物でもなかった。

 タリバンの指導者オマルが、旧ソ連のアフガン侵攻に抵抗するムジャヒディンの一員として育ち、そのムジャヒディンを資金的にも軍事的にも支えたのがパキスタンやサウジアラビアの諜報機関であり、その背後にあったのはアメリカであったことは周知のことである。

 そしてアフガンで闘うムジャヒディンに、国際的に義勇兵を募り、訓練を施して送り出し、それを支えたのがビンラディンであり、その国際的なネットワークが、後にアルカイダになったのである。

 つまりこれらのほとんどはアメリカ自身の対旧ソ連への帝国主義的な争いと策謀のなかで培われてきたものなのである。

 そしてイスラム原理主義に凝り固まったこうした戦闘組織は、その後、それぞれの出身地に帰ると、アフガンで培った戦争技術を、今度は、アメリカの中東支配をはじめとする帝国主義的な世界支配に対抗する闘いへと生かし始め、それが98年のタンザニア・ケニア米大使館同時爆破事件など一連のテロ事件を引き起し、そして9・11へと繋がっていったのである。

 そして今やアメリカは、世界に張り巡らした自国の権益--経済的・金融的世界支配という超大国としての帝国主義的利害--を守るために、軍事的な支配の網の目を国際的に張りめぐらせる理由として、「対テロ戦争」を一つの口実として利用しているというわけである。

 今回のビンラディンの殺害は、イスラム急進派によるアメリカ帝国主義に対するテロリズムによる“闘い”の一つの挫折であり、その限界を暴露するものであろう。

 なぜなら、アメリカ帝国主義との闘いは、少数の陰謀組織が行うテロによってではなく、アメリカのそして世界の労働者階級によってこそなされなければならないし、なされるだろうからである。

 労働者階級はテロ戦術といった絶望的な闘いではなく、資本に対する階級闘争をこそ発展させるのであり、そうした闘いによって国際的に結び合い、世界中から帝国主義の支配を一掃するまで闘い抜くのである。

 マルクスは「革命的テロリズム」そのものは否定しなかったが、しかし、それは労働者の階級闘争の一環としてであり、労働者階級の革命政権が、反革命を打ち破るべき「剣」として認めたに過ぎない。次のように指摘している。

 「コミューンの組織がいったん全国的な規模で確立されたとき、おそらくその前途になお待っている災厄は、奴隷所者の散発的な反乱であろう。それらの反乱は、平和な進歩の仕事をしばらく中断させはするが、社会革命の手に剣を握らせることによって、かえって運動を促進するだけであろう。」(『フランスにおける内乱』第一草稿、全集17巻517頁)

 また次のようにも述べている。

 「反革命派の残忍さなどをみれば、諸国民は次のことを確信するようになるだろう。それは、古い社会の血なまぐさい死の苦しみと新しい社会の血にまみれた産みの苦しみを短くし、単純化し、一つにまとめる手段はたった一つしかないということ、そのたつた一つの手段とは革命的テロリズムだということである。」(「ヴィーンにおける反革命の勝利」全集第5巻457-8頁)

 だから、必要なのは資本の支配と闘う労働者の階級闘争を発展させることである。そしてそうした各国の労働者階級の闘いが国際的に結合することであろう。

 そしてそのためにも、労働者階級自身が、現代の資本主義社会の仕組みを科学的に解明し、理解することを不可欠にしている。

 是非、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか?

……………………………………………………………………………………


第35回「『資本論』を読む会」・案内


■日   時    5月15日(日) 午後2時~

■会  場   堺市立南図書館
      (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

■主  催  『資本論』を読む会


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