『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(1)

2024-01-19 02:34:04 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(4)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №8)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第4回目です。〈A 「経済学批判」体系プランにおける利子と信用〉の〈(3)「経済学批判」体系プランにおける信用〉という小項目のなかで、大谷氏は〈「批判」体系プランでの「競争」から「信用」への移行も,まさに,「資本が自己を一般的資本として措定しようと努める」必然性によって行なわれる〉(91頁)と述べ、『1861-1863年草稿』『要綱』から抜粋して紹介しています。そのうちの『要綱』の一文を章末注〔19〕として掲げていますが、それを今回は検討しておきます。

  〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。」(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.541.)〉(117頁)

  なかなか難しく一筋縄では行きませんが、分かる限りで解読してみましょう。例によって細かく分けて見ていくことにします。
  (1)〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。
  ここで〈競争には〉とありますが、要するに『資本論』で言えば第1部、第2部では〈価値と剰余価値とについて立てられた基本法則〉にもとづいてその全体が論じられています。それに対して第3部ではそれとは〈区別して展開される基本法則がある〉というのです。
  〈価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によって〉規定されるというのは第1部、第2部での話です。しかし第3部では〈それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている〉というのです。
  これは一体どういうことでしょうか。これは社会全体の総需要にもとづいて社会的な総労働がそれぞれの生産力に応じて配分され、そうして初めて社会的な必要労働時間が決まってくるということです。私たちが第1部で知った、ある特定の個別の商品の生産に必要な社会的な労働時間というものではなくて、第3部では、ある特定の商品種類の生産に必要な社会的な労働時間によって規定されて商品の価値が決まってくるのです。それがその商品の市場価値なのです。市場価値は、単に個別商品の価値の平均からなるだけではなくて、その商品種類が社会的な需要を満たすに必要な社会的労働時間の配分も加味されたものになるのです。だからある特定の商品が社会の需要よりも多く生産されてしまった場合、その市場価値はその商品生産部門の平均的な価値ではなくて、平均よりも少ない労働時間で生産された価値が市場価値として規制することになり、それ以上の労働時間が支出された個別的商品は価値以下の評価しか受けず売れないことになります。こうして需要と供給との一致が計られるのです。つまり社会的必要労働時間と言ってもその特定の商品の生産に社会が許す労働時間が規制的な要素として入ってきたものを意味するということです。
  (2)〈最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。
  このように第3部では第1部・第2部で展開された資本主義的生産の内在的な諸法則が諸資本の競争によって逆転して現れてきます。しかしそれによってこそ個別の諸資本が資本一般の諸条件のなかに置かれるのだと述べています。これはどういうことかいうと、第1部・第2部の内在的諸法則もそれが貫徹するのは現実には諸資本の競争によって生じる偶然的諸現象のなかにおいてであって、つまり第3部での逆転した諸形象化された現象的諸運動を通して、その中に均衡的に貫いていくものとしてそれらの諸法則はあるのだということです。
  (3)〈だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。
  私たちが第1部で知った価値の大きさを規定する社会的必要労働時間は、ある特定の商品の生産に社会的に平均的に必要な労働時間というものでした。しかし第3部では規定される社会的必要労働時間というのは、ある特定の商品の生産に社会全体の総労働のなかで、その商品種類に配分される労働時間ということでもあるわけです。こうしたことは実は市場にある商品の価値の大きさについて、すでに第1部第3章のなかでも次のように述べられていました。

  〈最後に、市場にあるリレネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネル片の総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは、社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろとも、というわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。〉(全集第23a巻142頁) 

  ここではマルクスは第3部で出てくる市場価値について実際には語っているのです。そして以上が〈競争の基本法則〉だと述べています。
  (4)〈需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。
   第3部においては、諸資本が利潤を唯一の規定的目的とも動機ともして互いに競争するなかで一般的利潤率が形成されます。その一般的利潤率によって措定されるのが、生産価格なのです。生産価格は価値(市場価値)から乖離したものとして現れます。生産価格を中心に変動する市場価格にもとづいて、諸資本は社会的に配分されるのです。だからここでは価値法則は転倒して現れてきます。需要・供給もその限りでは使用価値が問題になりますが、しかしそれは生産価格を一つの均衡条件として変動するわけですから、それは価値法則からの偏倚を生じざるをえないのです。それが〈要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる〉ということの意味です。〈資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕〉というのはここでは第1部・第2部と考えて良いでしょう。それが第3部では〈逆となって現われる〉のです。
  (5)〈さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。
  これは商品の価値(価格)は第1部・第2部では、労働によって規定されるものとして現れますが、第3部では商品の価値は労働(賃金)や利潤や利子・地代によって構成されるものとして現れるということをいわんとしていると思います。以前にも紹介したことがありますが、草稿集⑥の一節を紹介しておきましょう。

  〈A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。〉(草稿集⑥145頁)

  (6)〈まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。
  例えば、さまざまな個別資本がその費用価格(資本が利潤の獲得を目的に支出した貨幣額)の大きさに応じて同じだけの利潤を得るというのは資本主義的生産の絶対的現実なのだということです。〈本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである〉(全集第25巻195頁)とマルクス述べています。それは諸資本の相互作用のなかで、それらが資本として振る舞わなければならない条件なのです。個別資本の無秩序な衝突のなかに、それらの資本主義的生産の一般的な法則が自己を貫くわけです。
  (7)〈諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。
  諸資本の相互間の作用は、諸資本の一般的資本としての措定になる、というのは資本の一般的な法則に諸資本は従わねばならないということでしょう。そしてそれは個別諸資本が外見的にはそれぞれ独立しているかに見えますが、それは資本一般の共同体のなかにあるとういことでもあります。そしてこうした資本の共同資本としての存在が信用でであり、利子生み資本はまさにそうした諸資本の共同資本として存在しているわけです。そうした資本にふさわしい形態がすなわち株式資本だとも述べています。株式資本において、資本の終極の形態を得るのであって、それは次の新しい生産様式への過渡形態でもあるわけです。
  今回は難しい『要綱』一文を拙いながら解読してみましたが、しかし驚くべきことは、この『要綱』の段階で、すでにマルクスは『資本論』第3部の位置づけをハッキリと持っていたということです。

  それでは本題に入ります。今回は前回の続き、「第8章 労働日」「第6節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法」の後半部分(第19-37パラグラフ)です。


第6節 標準労働日のための闘争  法律による労働時間の強制的制限  1833-1864年のイギリスの工場立法



◎第19パラグラフ(その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。)

【19】〈(イ)その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。(ロ)すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということ、これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していないということ、また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということはずっと変わらず、この範囲内で少年と婦人との最初は12時間の労働、のちには10時間の労働が、定められた諸条件のもとで行なわれることになっていたということ、これである。〉(全集第23a巻375頁)

  (イ)(ロ) その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければなりません。すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということです。これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していません。また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということもずっと変わらずです。つまり、この範囲内で少年と婦人との労働時間は、最初は12時間の労働、のちには10時間の労働に定められたということです。これらのことが分かっていければならないのです。

  より分かりやすい、イギリス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈(30) 以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。 1833年以来 朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。〉(インターネットから)

  先のパラグラフでは〈工場主諸氏は遠慮する必要はなかった。彼らは、単に10時間法にたいしてだけではなく、1833年以来労働力の「自由な」搾取をいくらかでも制限しようとした立法の全体にたいして、公然の反逆を起こした〉と述べましたが、その資本家たちの反逆を具体的に見ていくためには、以下のことが頭に入っていなければなりません。
  (1)1833年、1844年、1847年のそれぞれの工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しない限り、三つとも効力を持っていたということ。すなわち1844年法は1833年法を部分的に追加・修正したものであり、1847年法も同じような性格を持っています。だから追加・修正されていない部分については1833年法や1844年法がそのまま効力を持っていたということです。
  (2)これらの法律のどれも18歳以上の成人の男子労働者の労働日を制限していないということ。
  (3)1833年法で定められた、労働日、すなわち朝5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「労働日」であるということ。
  (4)この法定の「労働日」の範囲内で、これまでの工場法は少年と婦人の労働日の限度を、最初は12時間、のちには10時間に定めたということです。
  以上のことをまず頭に入れておきましょう。

  〈また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということ〉という部分は初版では〈また、1833年以来、朝の6時半から晩の9時半までの15時間が、相変わらず、法定の「昼間」である〉となっています。フランス語版は現行版と同じです。

  同じような問題点を指摘している『歴史』から引用しておきましょう。

 〈だが、わたくしたちの知るところによれば、はやくも1847年に、いく人かの製造業主のあいだで、法律の網をくぐる計画を企て、1日10時間以上機械を操業しつづける気配がみられたことについて、監督官は非難をこめて指摘している。この脱法行為は、つぎの三つの理由によって、比較的たやすいことであった。第一に、1833年、1844年、1847年の工場法は、どれも他の法律を修正しないかぎり、そのいずれも実効性をもっていたこと、第二に、これら三つの法律のどれも、18歳以上の大人の男子労働者の労働時間を制限しなかったこと、そうして、第三に、1833年以降、年少者と婦人の法定労働時間は12時間から10時間に短縮されたけれども、それに対応して、法定労働日の長さは短縮されず、依然として午前5時30分から午後8時30分までのままであった、という事実があったからである。〉(101頁)


◎第20パラグラフ(工場主たちの反逆はまず一部の少年と婦人労働者を解雇し、代わりに成年男子労働者に夜間労働を復活させることから始まった)

【20】〈(イ)工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。(ロ)彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉(全集第23a巻375頁)

  (イ)(ロ) 工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させました。彼らは叫びました。10時間法の下ではこれ以外に選ぶべき道がないのだ! と。

  工場主たちの反逆は、まず少年と婦人労働者の一部を、あるいは半数にも及ぶ人員を解雇し、その代わりに、成年男子労働者のあいだに、それまではほとんどなくなっていた夜間労働を復活させたことでした。彼らは10時間労働法のもとではこれ以外の代対策を残していないのだと言いました。


◎原注147

【原注147】〈147 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、132、134ページ。〉(全集第23a巻375頁)

  これは〈彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉という本文に付けられた原注です。ただ参照頁数が二つのページになっていますので、この原注は第20パラグラフ全体に対するものと考えた方がよいかもしれません。すなわち少年と婦人労働者を解雇し、それに代わって成年男子労働者に夜間労働を復活させたという部分も『監督官報告書』(132ページ)にもとづいたものなのかも知れません。これは実際に報告書を見なければ分からないでしょう。


◎第21パラグラフ(次の工場主たちの反逆は、食事のための法定の休み時間に向けられた)

【21】〈(イ)第二の一歩は、食事のための法定の休み時間に関連していた。(ロ)工場監督官たちの言うところを聞いてみよう。/
(ハ)「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している(148)。」
  (ニ)つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! (ホ)そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? (ヘ)ところが、刑事裁判所は次のように判決した。(ト)すなわち、定められた食事時間は
  「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である(149)」と。〉(全集第23a巻375-376頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 彼らの第二の攻撃は、食事のための法定の休み時間に向けられました。工場監督官たちの言うところを聞いてみましょう。
  「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している。」

  1844年の工場法における食事のための休憩時間の規定は〈食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉(第11パラグラフ)というものでした。
  ところが工場監督官たちの報告によれば、工場主たちは朝9時から晩7時までの10時間労働をする労働者に対して、食事時間は仕事が始まる9時前に1時間、晩の7時以後に半時間、
合計1時間半を与えればよいのだというのです。ということは労働者は朝9時前に食べた後は夜の7時以降までまったく食事も休憩もなしにまるまる10時間ぶっとおしで働かなければならないことになります。しかしそれでも十分に工場法の規定に違反していないし、十分に法律を守っているのだと彼らはいうのです。

  (ニ)(ホ) つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! というのです。そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? と言います。

  だから工場主たちの主張では、1844年の法律が与えている食事時間の規定というのは、工場に入る前にと工場を出たあとで、自宅で飲食する許可を与えたものだというのです。つまり朝の9時前に昼食を摂るのがどうしていけないのか、というわけです。しかしこれでは昼食とはいえないでしょう。

  (ヘ)(ト) しかし、こうした工場主たちの主張に対して、刑事裁判所は次のように判決しました。すなわち、定められた食事時間というのは
  「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である」と。

  しかしこうした工場主たちのむちゃくちゃな主張に対しては、刑事裁判所(イギリス語版は〈王室法律顧問〉、新日本新書版は〈勅撰弁護士たち〉は、法律で定められた食事時間というのは、実際の労働日のうち休み時間に与えられるべきであり、朝の9時から晩の7時まで休み無しに働かせるのは違法であると判定しました。この限りでは工場主たちの反逆も一歩後退です。


◎原注148

【原注148】〈148 『工場監督官報告書。1848年4月30日』、47ページ.。〉(全集第23a巻376頁)

  これは最初に引用されている〈工場監督官たちの言うところ〉の典拠を示すものです。


◎原注149

【原注149】〈149 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、130ページ。〉(全集第23a巻376頁)

  これは最後に〈刑事裁判所は次のように判決した〉として引用されているものの典拠を示すものです。


◎第22パラグラフ(次に資本は1844年法の文面に合致した形での反撃を開始した)

【22】〈(イ)これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始した。〉(全集第23a巻376頁)

  (イ) これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始しました。

  まあ、これらはご愛嬌というもので、愉快な示威運動ですが、次に資本は、1844年法の法文に合致した形で、その限りでは合法的な手段によって、反逆を開始したのでした。


◎第23パラグラフ(工場主たちは1844年法には12時以降の児童の労働については何も規定がないことを逆手にとって反逆を開始した)

【23】〈(イ)たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止した。(ロ)しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制しなかった! (ハ)それゆえ、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1/時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半まで3時間半、合計して法定の6時間半働かせることができた! (ニ)あるいはまた、もっとうまくやることもできた。(ホ)児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができた!
(ヘ)「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである(150)。」
(ト)労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議した。(チ)だが、資本は答えた。
(リ)「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
  いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます〔90〕。」〉(全集第23a巻376-377頁)

  (イ)(ロ)(ハ) たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止しています。しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制していません。 だから、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半までの3時間半、合計すれば法定の6時間半働かせることができるというのです。

  最初にフランス語版を見てみることします。

  〈1844年の法律は、正午以前に就業した8歳ないし13歳の児童を午後1時以後に再び使うことを、確かに禁止した。だが、それは、正午またはそれ以後に就業した児童の6時間半の労働を少しも規制しなかった。したがって、8歳の児童は正午以後1時まで、次いで2時から4時まで、最後に5時から8時半まで、合計して6時間半適法に使うことができた! 〉(江夏・上杉訳294頁)

  1844年法の児童の労働については第11パラグラフで次のように説明されていました。

  〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。
  「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」
したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。……午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。〉

  つまり昼の12時以前に働かされた児童は、午後1時以降再び使用されてはならないとされています。しかし12時かまたはそれ以後にはじまる児童の労働についてはまったく何の規定もしていません。
  だから昼の12時に労働をはじめた児童を、1時まで使い、そのあと午後2時から4時まで2時間使い、さらに午後5時から晩の8時半まで3時間半働かせても、合計すれば法定の6時間半働かせただけだから違法ではないことになるというわけです。

   (ニ)(ホ) あるいはまた、もっとうまくやることもできました。児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができたのです。

  フランス語版です。

  〈なおいっそううまいことがある。児童の労働を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に一致させるためには、工場主が午後2時以前には児童に仕事をなにも与えないで午後2時以降8時半まで中断なく工場内に留めて置けば充分であった。〉(同)

  さらにもっとうまくやることもできました。成年男子労働者の労働に合わせるために(児童や少年の労働は成年男子労働者の労働を補佐するものが多いですから)、工場主たちは児童の使用を午後2時までは何もさせず、2時から8時半までの6時間半を働かせば、法律に違反することなく、使えるというわけです。

   (ヘ) 「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである。」

  これは引用だけですが、フランス語版はちょっと違うところがあるので紹介しておきましょう。

  〈「今日はっきりと認められていることだが、工場主たちの貧欲と、10時間以上機械を運転させようとする彼らの切望との結果、8歳ないし13歳の男女の児童を、青少年や婦人の退出後に成年男子だけと一緒に晩の8時半まで労働させる慣習が、イングランドに忍びこんだのである(117)」。〉(同)

  これは工場監督官報告書からの引用ですが、工場主たちは、機械を10時間以上動かしておきたいために、成年男子労働者を午前5時半から晩の8時半まで15時間の範囲内で働かせ、その補助として少年や婦人労働者を午前5時半から午後2時以降まで10時間使った後、今度はそれに代わって児童を2時から晩の8時半まで6時間半使うというやり方をやりだしたというのです。

   (ト)(チ)(リ) これに対しては、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議しました。しかし、資本は次のように答えました。
  「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
  いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます。」

  フランス語版です。

  〈労働者と工場監督官は、道徳と衛生の名において抗議した。だが、資本はシャイロックのようにこう考える。「罪はこの身で引き受けるまで! 手前の望みはお裁判(サバキ)、証文通りの違背金をお願い申しておるんでございます」〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』、中野好夫訳、岩波文庫版、137-138ページ、より引用〕。〉(同)

  こうした工場主たちのやり方に対して、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上という二つの理由で抗議しましたが、工場主たちは、自分は正当なやり方をやっているのだ、それでも違反だというなら、出るところに出てもよいと開き直ったのです。

  最後の引用文には全集版には注解90が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)

  初版とは同じものを訳者注として引用文のあとに紹介しています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈シェイクスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場でのシャイロックのせりふ。小田島訳、『シェイクスピア全集』Ⅳ、白水社、240ページ。中野訳、岩波文庫、137-138ページ。〉(497頁)

  イギリス語版にはかなり長い訳者注が次のように付いています。

  (38) 労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。
 (39) 「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」(訳者注: このセリフは、シェークスピアのベニスの商人から。ユダヤ商人シャイロックが、裁判官ポーシャに、アントーニオへの慈悲を拒否して彼の胸の肉一ポンドを求めて云うセリフ。「慈悲とか正義とかのご高説はいい加減にしてもらいたい。私は法を要求しているんだ。私の債務証券に記された彼への罰則とその決済を要求しているんだ。」この後のセリフも次の文節で登場するが、その後ポーシャの「きっかり」肉一ポンドでなければならない、「血を一滴たりとも」流してはならない、キリスト教徒の血を一滴でも流したら、法によりあなたの土地と財産は、ベニスの国庫のものとなるぞ、と、どんでん返しの場面へと続く。)〉(インターネットから)


◎原注150

【原注150】〈150 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、142ページ。〉(全集第23a巻377頁)

  これは本文で引用されている引用文の典拠を示すものです。


  ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)

2024-01-19 02:00:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(2)


◎第24パラグラフ(次に資本は1844年法が児童の午後の労働については何の規定もしていないことに目をつけた)

【24】〈(イ)じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。(ロ)それでもまだ足りなかった! (ハ)資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということだった。(ニ)そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけでばなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのである!
(ホ)「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕〉(全集第23a巻頁)

  (イ) じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によりますと、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていたのです。

  実際、労働者や監督官の抗議にもかかわらず、少年や婦人労働者と児童の労働とを組み合わせて利用するやり方は、1850年7月26日に下院に提出された統計によりますと、同年7月15日には275の工場で3742人の児童がこうした「慣習」に従わされていたというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) それでもまだ足りなかったのです! 資本の山猫のような目が発見したのは、1844年の法律は午前の5時間労働は少なくとも30分の元気回復のための中休みなしには許さないが、午後の労働についてはその種のことはなにも規定していないということでした。そこで、資本は、8歳の労働児童を2時から晩の8時半まで絶えまなくこき使うだけではなく腹までへらさせるという楽しみを要求し、その要求を押し通したのです!

  さらに工場主たちの鋭い目は1844年法の次のような欠陥を見つけました。すなわち同法では〈児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない〉(第11パラグラフ)という規定がありましたが、しかし午後1時以後の労働については何の規定もないことに彼らは目をつけたのです。だから資本家たちは8歳の児童を午後2時から晩の8時半まで、食事のための半時間の休憩もまったく与えることなくこき使ったのです。

  (ホ) 「そうそう、その胸でございますよ、/
  ちゃんと証文に書いてある。(152)〔90〕

  つまりこれも法律にもとづいてそのとおりにやっているのだ、というのが彼らの主張なのです。

  注解90は次のようなものです。

  〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)

  ここでもイギリス語版のその部分を紹介しておきましょう。

  (41) 「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」(訳者注: シェークスピアのベニスの商人。裁判官ポーシャが、アントーニオへ胸をはだけよ、と命じたのに応じて、シャイロックが、文字通り、心臓直近の、と書いてあります、と続けるところ。「秤はあるか?」「用意しております。」)〉(インターネットから)


◎原注151

【原注151】〈151 『工場監督官報告書。1850年10月31日』、5、6ぺージ。〉(全集第23a巻378頁)

  これは〈じっさい、1850年7月26日の下院に提出された統計によれば、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には275の工場で3742人の児童がこの「慣習」に従わされていた(151)。〉という本文に付けられた原注です。これらの紹介されている統計数値の典拠を示すものです。


◎原注152

【原注152】〈152 (イ)資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない。(ロ)アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っている。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")(ハ)同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われた。(ニ)彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化した。(ホ)だから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でった。(ヘ)それだからこそ、シャイロック的な十銅表の法律! (ト)貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておこう。〉(全集第23a巻378頁)

   (イ)(ロ) 資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりません。アメリカの南北戦争が起きる少し前に奴隷所者の勢力がニュー・メキシコ准州に押しつけた法律書のなかでは、労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、「彼の(資本家の)貨幣である」と言っています。(“The labourer is his(the scapitalist's)money")

  これはパラグラフの最後に引用されているシェイクスピアの引用文につけられた原注です。

  シャイロックは、債務は債務者がもし弁済できないなら、自分の身体で弁済せよと弁済額に応じた身体の肉を要求したのですが、このあたりは『経済学批判』の貨幣の支払手段としての機能を説明しているところでも、マルクスは論じています。

  〈買い手の側では、貨幣は交換価値としては実際に譲渡されないのに、商品の使用価値で実際に実現される。まえには価値章標が貨幣を象徴的に代理したのに、ここでは買い手自身が貨幣を象徴的に代理する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とをよびおこしたように、いまは買い手の人格的象徴性が商品所有者間の法律的強制力ある私的契約をよびおこすのである。〉(全集第13巻118頁)

  つまり買い手は自分自身が貨幣を代理するわけですから、もし彼が貨幣の支払ができないなら、自身の身体で払うことになるわけです。だから次のようにも言われています。

  〈売り手と買い手は、債権者と債務者になる。商品所有者は、まえに蓄蔵貨幣の保管者として三枚目の役を演じたのに、こんどは彼は、自分ではなくその隣人を一定の貨幣額の定在と考え、自分ではなくこの隣人を交換価値の殉教者にするので、恐ろしいものとなる。彼は信心家(グロイビゲ)から債権者(グロイビガー)となり、宗教から法学に転落する。
  「証文どおりに願います!」〔23〕
 〔"I stay here on my bond!"〕〉(同119頁)
 〈注解(23) 「証文どおりにねがいましょう!」(I stay here on my bond!) --シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』、第四幕第一場、シャイロックのことば。〉(同660頁)

  ここでは〈資本の天性は、資本が未発展な諸形態にあっても、発展した諸形態にあっても、変わりはない〉と述べています。高利資本も現代の銀行資本も破産した債務者に対しては、その身体で支払うことを要求するわけです。
  南北戦争がおきる少し前に奴隷所有者たちが押しつけたニューメキシコ准州の法律書では、労働者は、資本家が労働力を買った限りは、それは「彼の(資本家の)貨幣である」と書いているということです。つまり資本家が買った労働者は資本家の貨幣だということは、資本家はそこに自己増殖する価値額しか見ていないということでしょう。それが資本の本性だということです。

  新日本新書版には、〈労働者は、資本家がその労働力を買った以上は、「その人の(資本家の)貨幣である」〉という部分には次のような訳者注が付いています。

  〈この奴隷所有者たちの観念は、旧約聖書、出エジプト記、21・20-21(人が杖で男女の奴隷を打ってそれが死ぬなら罰せられるが、「しかし、彼がもし1日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の金子だからである」)を手本にした〉(498頁)

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 同じ見解はローマの貴族のあいだでも行われていました。彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段をとおして、債務者の血と肉とに化したのだから、この「肉と血」は「彼らの貨幣」でした。だからこそ、シャイロック的な十銅表の法律になるのです! 貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕は、キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕といっしょに、そのままにしておきましょう。

  同じような見解は古代ローマにおいても見られたということです。貴族が平民に貸した貨幣は、平民がそれで生活手段を買ったのだから、それは彼らの血と肉になったのだから、もし平民が債務を返済しないなら、彼らの身体で返すべきということで、平民の「血と肉」は「彼ら(貴族)の貨幣」だと述べたということです。そこからシャイロック的な十銅貨表の法律が生まれたのだというのです。〈シャイロック的な十銅表の法律〉には全集版には次のような注釈91が付いています。

  〈(91) 十銅表の法律--ローマ奴隷制国家の立法的記念物である「十二表」の法律の元の異本。この法律は私有財産を保護し、支払不能の債務者にたいする自由剥奪や奴隷化や五体切断を規定した。それはローマ私法の出発点となった。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈日常生活上最も重要な条文を銅板に刻んだ最古のローマ法〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈紀元前451-450年に作成された銅板に記されたローマの法典のもとでの異文で、訴訟手続きを定めた第三表の文言は、債務不履行の場合には債務者の身体の切断の罰とすると解釈されている〉(498頁)

  ランゲの仮説とダウマーの仮説も同じようなものを描いているようには思えますが、しかしそれらの真偽を問うことはここではやめておきましょう。

  〈貴族である債権者たちがときおりティベル河の対岸で債務者の肉を煮て祝宴を張ったというランゲの仮説〔92〕〉についていいる注釈92というのは次のようなものです。

  〈(92) フランスの歴史家ランゲは、その著『民法理論。または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章のなかで、この仮説を述べている。〉(全集第23a巻17頁)

  初版には何の訳者注もありませんがフランス語版にはランゲのあとに〈フランスの歴史家〉とだけ訳者注が挿入されています。 新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈フランスの歴史家ランゲは、『民法の理論、または社会の基本原理』、ロンドン、1767年、第2巻、第5篇、第20章でこの仮説を述べている。マルクスは、すでに1845年にフランスのフリエ主義者の著書によってランゲの本書の抜粋を行っている〉(498頁)

  マルクスは『剰余価値に関する緒学説』なかでランゲについて論じています(草稿集⑤528-537頁)が、今回の仮説に言及してているところはありませんでした。

  また〈キリストの聖晩餐についてのダウマーの仮説〔93〕〉の注解93は次のようなものです。

  〈(93) ダウマーは、その著『キリスト教古代の秘密』のなかで、初期のキリスト信者は聖餐に人肉を使ったという仮説を主張した。〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版には〈キリスト教古代の信者は聖餐に人肉を使うという、ダウマーの仮説〉という訳者注が挿入されています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ダウマーはその著『キリスト教の秘密』、全2巻、ハンブルク、1847年で、初期キリスト教徒は、主の最後の晩餐を祝うとき人肉を用いたとした。マルクスとエンゲルスは、すでに1850年に反動的なダウマーの立場をきびしく批判している(『新ライン新聞……』の書評」。邦訳『全集』、第7巻、204-209ページ参照〉(499頁)

  この最後に参照を指示している第7巻の『新ライン新聞、政治経済評論』1850年2月、第2号の書評(マルクス=エンゲルス)の「1、G・Fr・ダウマー『新世紀の宗教。箴言の組み合わせによる基礎づけの試み』全2巻、ハンブルク、1850年」という論文を一通り読みましたが、今回の原注に関連したものはありませんでした。ただ〈ダウマー氏は、ニュルンベルク式の「文化段階」をもたらし、ダウマー流のモロク神捕獲者(131)の出現を可能にするためだけにすら、「上流階級にたいする下層階級の」闘争が必要であったということさえ知らないのである。〉(全集第7巻200頁)という一文に付けられた注解131には、次のようなことが書かれています。

  〈注解(131)これは、ダウマーの著書『……古代ヘブライ人の拝火教およびモロク崇拝』と『キリスト教的古代の秘密』二巻とをあてこすったものである。これらの著書でダウマーは、古代のユダヤ人や、初期のキリスト教徒が人間の犠牲祭をおこなっていたということを、証明しようとしていた。〉(第7巻603頁)


◎第25パラグラフ(少年と婦人労働者に関する1844年法の規制には資本は文面に拘らず公然と反逆した)

【25】〈(イ)とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものだった。(ロ)ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということである。(ハ)工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始した。(ニ)1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、
  「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。
(ホ)こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。(ヘ)それは、悪い助言に惑わされている労働者たち自身の利益のために、
  「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。(ト)「それは、10時間法のもとで大ブリテン/の産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」(チ)「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉(全集第23a巻378-379頁)

  (イ) とはいえ、このように、1844年の法律が児童労働を規制するかぎりではその文面にシャイロック的にしがみつくということは、ただ、同じ法律が「少年と婦人」の労働を規制するかぎりではこれにたいして公然と反逆することを媒介するだけのものでした。

  1844年法が児童労働を規制するかぎりでは、その文面にシャイロック的にしがみついて、その欠陥を突く形で攻撃したのですが、しかしそれは一つの踏み台みたいなもので、彼らは同じ法律が少年と婦人労働者を規制する限りでは、もはや文面どおりにとはいかず、文面に公然と反逆する形での攻撃を行ったのです。

  (ロ) ここで思い出されるのは、「不正なリレー制度」の廃止があの法律の主要な目的と主要な内容とをなしているということです。

  1844年法の細々とした規制の主な目的は、偽リレー制度を廃止するためでした。第11パラグラフを振り返ってみましょう。

  〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。労働日の開始は公設の時計、たとえばもよりの鉄道時計で示されなければならず、工場の鐘はこれに合わされなければならない。工場主は、労働日の開始と終了と中休みとを示す大きく印刷した告示を工場内に掲げておかなければならない。午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉

  (ハ)(ニ) しかし工場主たちは次のような簡単な宣言で彼らの反逆を開始しました。1844年の法律のなかの、15時間工場日を任意に短くくぎって少年や婦人を任意に使用することを禁止している条項は、「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」と。

  こうした1844年法の細則に対して、工場主たちは労働時間が12時間に制限されているあいだはまだ比較的無害だったが、10時間法が導入されてからは耐えられないものになったのだというのです。

  これは第9章に出てくるのですが、次のような工場主たちの意見が紹介されています。

  〈「そこで、労働時間を12時間から10時間に短縮することから生ずる害悪を見てみよう。……それは、工場主の期待と財産とにたいするきわめて重大な損傷と『なる』。もし彼」(すなわち彼の「使用人」)「が、これまで12時間労働していてそれが10時間に制限されるならば、彼の工場にある機械や紡錘の12個ずつがそれぞれ10個ずつに縮まるのであって、もし彼がその工場を売ろうとすればそれらは10個にしか評価されないわけで、こうして、国じゅうのどの工場の価値も6分の1ずつ減らされることになるであろう。」〉(全集第23a巻409頁)

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) そういうことから、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知したのでした。それは、悪い助言(資本にとってだが)に惑わされている労働者たち自身の利益のためにであるとか、「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだとかという理由を挙げて。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である。」「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?」というわけです。

  そういうことから資本家たちは、1844年法の法律の文面にはこだわらないで、元のリレー制度を復活するということを、公然と宣言し、監督官に通知したのでした。それは監督官などの悪い知恵で惑わされている労働者のためでもあり彼らの利益のためだとか、労働者にもっと高い賃金が支払えるようにするためだとか、10時間法が導入された今日、大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一可能な手段だとかと主張し、リレー制度のもとでは監督官が違反を発見することは多少は困難かも知れないが、それがどうしたというのだ、監督官の多少の不便と、この国の大きな工場の利益とどっちが大事かを考え見れば自ずから分かるだろうというのです。

  偽リレー制度の復活の動きについて『歴史』から紹介しておきましょう。

  〈このようにして、その当時、10時間以上操業したいと考えた雇主は、婦人と年少者の交替作業とリレー制度を利用して、かれらを助手として大人の男子労働者のもとに配置することによって、そうすることが可能であった。このようなやり方は決して新しいものではなかった。そのやり方は1833年法のもとで広範囲に行なわれていた。なぜならば、同法は児童の労働時間を1日9時間、年少者の労働時間を1日12時間に制限していたが、その就業時間を15時間の制限内であれぽどの時間にあててもよいと認めていたからである。監督官は、そのような制度のもとでは残業を摘発することが不可能である、と陳述した。そうして、1844年に、1833年法の多くの欠陥を修正するための一法案が議会に提出されたとき、残業を防止するために一層広範囲にわたる保護を講じなければならないということを、これほど政府に強く印象づけた法案はなかった。その目的は第二六項によって達成されるであろうと考えられた。すなわち、同項は、すべての保護該当者の労働時間を、「児童または年少者の1人がそのような工場において午前中最初に作業を開始したときから、計算しなければならない」と規定していた。同項は1847年までその目的を果たしていたが、「10時間労働日法」が実施されたとき、雇主たちは、1844年法が「リレー制度による作業を完全に禁止するだけの厳格な規定をもっていない」ことを知った。そうして、はやくも1847年には、不況はどん底であったけれども、若干の工場においてリレー制度がふたたび実施されたのである。〉(102頁)


◎原注153

【原注153】〈153 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、133ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈 「労働時間が12時間に制限されていたあいだはまだ比較的無害(comparatively harmless)だった。10時間法のもとではそれらは堪えられない圧制(hardship) である(153)」〉という引用文に付けた原注です。典拠を示すものです。


◎原注154

【原注154】〈154 なかんずく慈善家アッシュワースが、レナード・ホーナーにあてたクエーカー臭いいやらしい手紙のなかでそれをやっている。(『工場監督官報告書。1849年4月30日』、4ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈こういうわけで、彼らは、法律の文面にはこだわらないで元の制度を自力で復活させたいという旨を、きわめて冷静に監督官に通知した(154)。〉という本文に付けられた原注です。
  アッシュワースというのはイギリスの巨大綿業者の1人のようですが、シーニアに工場の現状を教え長時間労働の必要を認識させた1人でもあるようです。『61-63草稿』には次のようなものがありました。

  〈労働時間の強力的延長の結果生じる、労働能力の早期消耗、換言すれば早老〔について〕--1833年に私は、ランカシャーの非常に有力な工場主であるアシュワース氏から一通の手紙を受け取ったが、この手紙には次のような風変わりな一節が含まれている、--『次にはもちろん、4O歳に達すると、あるいはその後まもなく、死亡するとか労働に適さなくなるとか言われている老人たちについて、お尋ねになるでしょう』。4O歳の『老人たち』という表現に注目されたい!」(『工場監督官報告書』、1843年、12ページ)〉(草稿集④365頁)


◎原注155

【原注155】〈155 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、138ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは公然とリレー制度を復活させることを公言した資本家たちの理屈として〈「彼らにもっと高い賃金を支払えるようにするために」行なわれるのだ。「それは、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案である(155)。」〉という引用文に付けられた原注です。典拠を示すものです。


◎原注156

【原注156】〈156 同前、140ページ。〉(全集第23a巻379頁)

  これは〈「リレー制度のもとで反則を発見することは多少は困難かもしれない。だが、それがどうしたと言うのか? (what of that?)工場監督官や副監督官のほんのわずかなめんどう(some little trouble) を省くために、この国の大きな工場利益が二の次のものとして扱われてよいのだろうか?(156)」〉という引用文に付けられた原注でやはり典拠を示すだけのものです。


◎第26パラグラフ(工場監督官たちは告発を続けたが、内務大臣は工場主たちの圧力に負け、告発抑制を指示する回状を出す)

【26】〈(イ)もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたたなかった。(ロ)工場監督官たちは告発の手続をとった。(ハ)しかし、まもなく工場主たちの陳情の砂塵が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそぎ、その結果、彼は1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示した。
(ニ)「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」
(ホ)そこで、工場監督官J・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになった。(ヘ)これに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかった。〉(全集第23a巻379頁)

  (イ)(ロ) もちろん、こんなごまかしはすべてなんの役にもたちませんでした。工場監督官たちは告発の手続をとったのです。

  上記のように1844年法に公然と反逆し、少年と婦人労働者にリレー制度を復活させようとさまざまな屁理屈を並べた資本達に対して、工場監督官たちはまったくひるむことなく告発を行ったのです。

  (ハ)(ニ) しかし、まもなく工場主たちの陳情の嵐が内務大臣サー・ジョージ・グレーの頭上に降りそそいだので、彼はとうとう1848年8月5日の回状訓令のなかで、監督官たちに次のように指示しました。「少年と婦人を10時間以上労働させるために明白にリレー制度が乱用されているのでないかぎり、一般に、この法律の文面に違反するという理由では告発しないこと。」と。

  しかし工場主たちの陳情の嵐が内務大臣に降り注いだので、大臣は1848年8月5日の回状で明白にリレー制度が乱用されているのでない限り、法律の文面に違反するという理由では告発しないように、指示したのです。

   (ホ) そこで、スコットランドの工場監督官であるJ・ステユアートは、スコットランド全域で工場日の15時間の範囲内でのいわゆる交替制度(リレー制度)を許可し、スコットランドではやがて元どおりに交替制度が盛んになったのです。

  そこでスコットランドの監督官ステュアートは内務大臣の指示にしたがって、自分の管轄内では15時間の工場労働日の範囲内であればリレー制度を容認したので、スコットランドでは元通りにリレー制度が復活し、盛んになったのでした。

  『歴史』は次のように書いています。

  〈スコットランド地区担当の監督官であるジェイムズ・スチュアート(James Stuart) は、他の監督官と協力して法律を厳格に実施するように努力をすることを拒否したただ1人の人物であった。かれはリレー制度が違法であることを否定しなかったが、同僚の監督官たちは法律の文言にこだわりすぎており、かれらの活動は「議会が予想も/意図もしなかったほど過酷である」という意見を表明した。〉(104-105頁)

  (ヘ) しかしこれに反して、イングランドの工場監督官たちは、大臣は法律停止の独裁権をもってはいない、と言明して、奴隷制擁護反徒にたいしては引き続き法律上の処置をとることをやめなかったのです。

  しかしそれに対してイングランドの監督官たちは、大臣に法律を停止させる独裁権はないと言明して、1844年法に対する違反を告発し続けたのです。

  ここらあたりの状況について『歴史』は次のように述べています。

  〈雇主から多数の請願書が内務大臣に殺到したので、1848年8月5日付の回状のなかで、内務大臣は、監督官に対し、「実際に年少者が法律によって認められているよりも長時間働かされているという確証がない場合、同法の条項違反を理由として、すなわち、年少者をリレー制度によって働かせていることを理由として、工場主を告発してはならない」と指示した。これに対して、イングランドの監督官は、一方的に法律の実施をやめさせる権限を内務大臣はもっていないと主張し、いままでと同じように、リレー制度を採用している製造業主を告発した。〉(頁104)

  このように同じ工場監督官でも対応が異なったのですが、当時の工場監督官について詳しく論じている論文(「イギリス工場法思想の源流」『三田学会雑誌』73巻4号(1980年5月))から、少し紹介しておきましょう。それによれば4人の工場監督官の管轄区域は以下の図ようだったようです。


◎第27パラグラフ(監督官がいくら告発しても、裁判官の判事を工場主が兼ねていては、当然無罪が宣告されてしまう)

【27】〈(イ)しかし、いくら法廷に呼び出しても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕(157)が無罪を宣告してし/まえば、なんになろうか?  (ロ)これらの法廷では、工場主諸氏が自分たち自身を裁判したのである。(ハ)一例をあげよう。(ニ)カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示した。(ホ)拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまった。(ヘ)数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、フライデーではなかったが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出された。(ト)4人の判事が列席し、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだった。(チ)エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告し、そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言した。(リ)彼自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用した(158)。(ヌ)もちろん、この法廷の構成がすでに一つの公然の法律違反だった(159)。(ル)監督官ハウエルは次のように叫んでいる。
(ヲ)「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?(160)」〉(全集第23a巻379-380頁)

  (イ)(ロ) しかし、いくら法廷に呼び出しましても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕が無罪を宣告してしまいますと、なんにもなりません。というのは、これらの法廷では、工場主諸氏自身が自分たちを裁判したのですから。

  スコットランド以外の工場監督官たちは告発をし続けたのですが、しかし工場主諸氏自身が往々にして治安判事を兼ねていたので、彼らは自分たちを裁判したのですから、当然、無罪を宣告するわけで、告発はなんにもなりませんでした。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ) その一例をあげますと、カーショー・リーズ会社の紡績業者でエスクリッジという人が、自分の工場のために定めたリレー制度の方式をその地区の工場監督官に提示しました。当然、拒絶を回答されて、最初は彼は無抵抗にふるまったのです。しかし数か月後に、ロビンソンという名の人物、やはり紡績業者で、忠実な僕のフライデーではありませんでしたが、とにかくエスクリッジの親類だったこの人物が、エスクリッジが考え出したのと同じリレー案を採用したかどで、ストックポートの市治安判事〔Borough Justices)の前に呼び出されたのです。4人の判事が列席しましたが、そのうち3人は紡績業者で、首席は例のエスクリッジだったのです。当然、エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告しました。そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言したのです。そして彼は自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用したという次第です。

  その一例を挙げますと、紡績業者のエスクリッジという人物が、自分の工場でリレー制度を導入する計画を地区の監督官に提示し、当然拒否されたのですが、その時にはそのまま引き下がったのです。しかし、その後、エスクリッジの親類であったロビンソンが同じリレー制度を採用したかどで裁判にかけられたのですが、そのときに裁判官は4人のうち3人が紡績業者で、その首席は例のエスクリッジだったのです。だから当然、彼は無罪判決を出しました。そして彼はロビンソンに取って正しいことはエスクリッジにとっても正しいとして、自分の工場でリレー制度を採用したのです。裁判官を工場主諸氏が兼ねているかぎり監督官たちの告発は無意味になったのです。

  ここで〈フライデーではなかったが〉という一文がチョロと入っていますが、これは工場主の名前が〈ロビンソン〉であったので、それにあてこすってしゃれで述べているわけです。〈フライデー〉の部分に新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の主人公ロビンソンが孤島生活をともにした彼の従僕で、金曜日(フライデイ)にみつけたのでこう呼ばれ、一般に「忠実な召使い」をフライデイと言う。ここは名前にかけた言葉のしゃれ〉(502頁)

  (ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、このような法廷の構成そのものがすでに一つの公然の法律違反だったのです。監督官ハウエルは次のように叫んでいます。「この種の法廷茶番は切実に矯正手段を求めている。……およそこのような場合には……法律をこれらの判決に適合するものにするか、または、法律にかなった判決を下すようなもっと過誤の少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかにするべきである。なんと有給判事が切望されることであろうか?」と。

  このように工場主自身が判事を兼ねているために、彼らは自分たち自身を裁判するという茶番を演じているのです。だからこうした裁判官の構成そのものが違法なのです。監督官のハウエル(ウェールズを管轄)は、こうした茶番を無くすためには、法律そのものを変えるか、あるいは裁判所の構成を変えるか、どちらかにすべきだ。有給の判事が求められる! と主張したのです。当時の判事は名誉職で地区の有力者がなり無給だったからです。

  『歴史』から引用しておきます。

  〈イングランドの東部と南部において、一般に、二人の監督官は判事によって支持されていたが、マンチェスターの重点巡回地区において、レナード・ホーナーは法律を厳格に実施しようとしたために、強い反対にあった。ホーナーは困難な立場に立たされた。なぜならば、リレー制度によって作業をした使用者をかれが告訴したため、使用者がかれを激しく非難したからであった。そのうえ、治安判事がホーナーを支持しないという事実から、かれは自分の担当する全地区で法律を実施することが不可能であるということを知った。往々にして雇主自身が治安判事を兼ねていたから、かれらは自分たちの判決が正当かどうかを確める労さえとらず、簡単に監督官の訴えを却下した。ある訴訟のなかで、ホーナーはつぎのように報告している。「告訴したが、三度とも却下された結果……グリーン氏(Greene) が担当する治安判事管轄下にあるすべての工場では、わたくしがそれらを取り締まる権限をもっていないので、雇主は年少者と婦人をリレー制度によって働かせることができるであろう。」他方、ランカシァにリレー制度がひろまったとき、ホーナーは、法定労働時間を守っている使用者から、リレー制度を黙認しているといって非難された。かれらは、リレー制度によって長時間操業している他の雇主とは競争することができないと訴えた。〉(104頁)


  ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(3)

2024-01-19 01:37:33 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(3)


◎原注157

【原注157】〈157 (イ)この「州治安判事」、すなわちW・コベットの言う「偉大な無給者」は、諸州の有力者で構成される一種の無給治安判事である。(ロ)それは、事実上、支配階級の領主裁判所になっている。〉(全集第23a巻380頁)

  (イ)(ロ) この「州治安判事」、すなわちW・コベットの言う「偉大な無給者」は、諸州の有力者で構成される一種の無給治安判事です。それは、事実上、支配階級の領主裁判所になっているのです。

  これは〈しかし、いくら法廷に呼び出しても、裁判所、すなわち州治安判事〔county magistrates〕(157)が無罪を宣告してしまえば、なんになろうか? 〉という一文に付けられた原注です。
  当時の州治安判事は、それぞれの州の有力者で構成されるもので無給でした。コペットはそれを称して「偉大な無給者」というのですが、州の有力者となれば、当然、支配階級ですし、工場主もその一部をなしています。だからそれはある種の中世の領主裁判所のようになっていたのです。
  マルクスは領主裁判権について次のように述べています。

  〈ヨーロッパ大陸では、領主裁判権が論難されてき/たが、これは正当である。ところで、イギリスの無給の判事〔280〕は、現代化され、立憲的に塗りかえられた領主裁判権にほかならない。……無給の治安判事となっている工場主、郷紳〔Squire〕その他の特権的な身分も、やはり自分の問題で裁判をおこなっているのである。〉(全集第11巻551-552頁)
  注釈280は次のようなものです。

  〈領主裁判権--領内の農民たちを裁判し、処罰する領地所有者の封建的な権利で、ドイツでは1848年以後制限され、1877年に廃止された。
  イギリスの無給の判事というのは、有産階級の代表のうちから任命される治安判事のことである。〉(同697頁)

  〈W・コベット〉を人名索引から調べておきます。

  コペツト,ウィリアム Cobbet Wi11iam(1762-1835)イギリスの政治家,政論家,農民の出身.小ブルジョア的急進主義の抜群の代表者・イギリスの政治制度の民主化のために戦った.〉(全集第23b巻68頁)

  マルクスは『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853年7月22日に寄稿した「レアードの質問--10時間労働法案をめぐる闘争」のなかで、かなり長くコペットに言及しています。少しは10時間労働法と関連していますので、紹介しておきましょう。

  〈ウィリアム・コベットはもっとも有能な代議士であり、というよりは、旧イギリス急進主義の創始者であった。彼は、はじめてトーリ党とウイッグ党間の伝来の党争の秘密をあばぎ、ウイッグ党の寄生的寡頭政治からにせの自由主義をひきはがし、あらゆる形態の地主制に反対し、国教会の偽善的貧欲を嘲笑し、「スレッドニードル街の老夫人」(イングランド銀行) とウジ商会〔Mr.Muckworm & Co.〕(国債所有者たち)--この二つにもっともはっきりと体現されている金権政治を/攻撃した人であった。彼は国債を帳消しにし、国教会の領地を没収し、あらゆる種類の紙幣を廃止するよう提案した。彼は政治的中央集権化が地方自治を蚕食していく一歩一歩を観察し、それをイギリス臣民の特権と自由にたいする侵害であるときめつけた。彼はそれが産業的中央集権化の必然的結果であることを理解しなかった。彼はのちに国民憲章にまとめられたすべての政治的諸要求を提起した。だが彼においては、それらは産業プロレタリアというより、むしろ産業小ブルジョアジー〔petty industrial middle-clas〕の政治的憲章であった。本能と共感の点では平民であった彼も、知性の点では中間階級的改革の限界を突破することはまれであった。ウィリアム・コベットが、工場貴族階級の存在も、地主や銀行貴族や公債所有者や国教会の聖職者のように、人民大衆に敵対的なものであることをさとりはじめたのは、新救貧法が制定されたのち、やっと1834年においてであった。それは彼が死ぬ直前だった。ウィリアム・コベットは、一方でこうして近代のチャーティストの先駆者であったとすれば、他方、彼はそれ以上に、根からのジョン・ブルであった。彼は大ブリテンのもっとも保守的な人物であると同時にもっとも破壊的な人物であり、--旧いイギリスのもっとも純粋な権化で、若いイギリスのもっとも大胆な創始者であった。彼は、イギリスの衰退が宗教改革の時期から始まり、イギリス国民の究極の虚脱が1688年のいわゆる名誉革命から始まると考えていた。それゆえ、彼にとっては、革命は革新ではなくて復古であり、新時代の創造ではなくて「古き良き時代」の復権であった。彼の見おとしたのは、彼のいうイギリス国民の衰退期なるものが正確に中間階級の台頭の開始や近代的商工業の発達と時を同じくしていること、そして後者の成長と同じペースで国民の物質的状態が低下し、地方自治が政治的中央集権化のまえに消滅していったことであった。18世紀以来の、旧いイギリス社会の解体にともなった大きな変化は、彼の目を驚かせ、彼の心を嘆き悲しませた。だが、彼はその結果を見たとしても、その原因を、すなわち新しい社会的諸力が作用していることを、理解しなかった。彼は近代のブルジョアジーをみないで、官職を世襲的に独占し、中間階級の新しい欲求や要求によって必要となってきたあらゆる変化を法によって認可している貴族の一派だけをみていた。彼は機械をみたが、その隠された原動力をみなかった。それゆえ、彼の目には1688年以来生じたすべての変化の責任はウイッグ党にあると映った。彼らがイギリスの衰退とイギリス国民の堕落の主動力であった。ウイッグ寡頭制にたいする彼の熱狂的憎悪とやむことなき攻撃は、そこから出てきたのである。中間階級の侵害に反対して人/民大衆を本能的に代表したウィリアム・コペットが、世襲的貴族階級に反対する産業的中間階級の代表であると、自他ともに認めるという奇妙な現象は、そこから生じたのである。著述家としては、いまなお彼にまさるものは現われていない。〉(全集第9巻183-185頁

  コペットへの言及は結構多いのですが、ちょっと触れるだけのものが多いです。コベットに対する評価のようなものとしては『61-63草稿』に次のような言及があります。

  〈(コベットは確かに今世紀〔19世紀〕中のイギリス最大の政治評論家であるが、彼にはライプツィヒの教授的教養は欠けていたし、また、彼は「教養ある言葉使い」にまっこうか/ら反対した人であった)〉(草稿集⑥164-165頁)

  あるいは『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1853年7月11日に寄稿した「東インド会社--その歴史と成果」という小論のなかで〈たとえばコペットのような人民の立場にたつ著作家/が、1人ならず、人民の自由を未来よりもむしろ過去に探し求めることにもなったのである。〉(全集第2巻142-143頁)とも述べています。


◎原注158

【原注158】〈158 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、21、22ページ。同種の実例については、同書、4、5ページ参照。〉(全集第23a巻380頁)

  これは〈エスクリッジはロビンソンの無罪を宣告し、そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても正しい、と宣言した。彼自身が下した法律上有効な判決にもとづいて彼はすぐにこの制度を自分の工場で採用した(158)。〉という本文に付けられた原注です。これはこうした事実を報告している報告書を指示しているものです。また同様の実例についても同じ報告書にあることも述べています。


◎原注159

【原注159】〈159 サー・ジョン・ホブハウスの工場法として知られているウィリアム4世第1年および第2年の法律、第24章、第10節によって、およそ紡績工場または織布工場の所有者、またはこのような所有者の父や息子や兄弟は、工場法関係の問題では治安判事の職務を行なうことを禁止されている。〉(全集第23a巻380頁)

  これは〈もちろん、この法廷の構成がすでに一つの公然の法律違反だった(159)。〉という本文に付けられた原注です。1831年に成立したいわゆるホブハウス工場法では工場主やそ家族や関係者は、工場法関係の問題では治安判事の職務を行うことを禁止していたというのです。だからエスクリッジのような例は明らかに違反だったということです。

  『歴史』によりますと、同様の規定を行ったのは1825年と1831年の工場法だったと書いています。

  〈1825年法はつぎのように規定している。すなわち、……治安判事自身が工場主であるか、そのような工場主の父親または息子である場合、同法にもとつく告訴を聴取することが禁止された。提訴受理期間は違反事件発生後3カ月から2ヵ月に短縮された。……1831年、一層進んだ修正法が可決された。提訴受理期間はさらに3週間に短縮された。他方、工場主やその父親と息子だけでなく、いまでは、その兄弟もまた治安判事として告訴を聴取することが禁止され、必要とあれば、同じ州または半径12マイル以内の地区の治安判事に事件の審理を依頼しなければならないとされた。〉(33頁)


◎原注160

【原注160】〈160 『工場監督官報告書。1849年4月30日』〔22ベージ〕。〉(全集第23a巻頁380)

  これはパラグラフの最後に監督官ハウエルが不当な裁判に対して訴えているものが引用されていましたが、その典拠を示すものです。


◎第28パラグラフ(横行する偽リレー制度のもとで工場法が骨抜きにされている現状についての工場監督官たちの告発)

【28】〈(イ)刑事裁判所は1848年の法律の工場主的解釈を不条理だと宣告したが、社会救済者たちは惑わされなかった。(ロ)レナード・ホーナーは次のように報告している。
(ハ)「私は、別々の7つの裁判所管区で10回の告発によってこの法律を励行しようとして、ただ一度しか治安判事に支持されず……それからは、法律違反のかどでこれ以上告発してもむだだと思っている。この法律のうち、労働時間の画一を実現するために制定された部分は……もはやランカシャには存在しない。私も私の部下も、いわゆるリレー制度が行なわれている工場が少年や婦人を10時間より長くは働かせないということを確かめるための手段を全然もっていない。……1849年4月末にはすでに私の管区の118工場がこの方式で作業していた。そして、そのような工場の数は近ごろは急激に増加している。一般に、これらの工場は今では朝の6時から晩の7時半まで13時間半作業しており、いくつかの場合には朝の5時半から8時半まで15時間作業している。(161)」
(ニ)すでに1848年12月には、レナード・ホーナーがもっていた名簿のなかの65人の工場主と29人の工場管理人とが、一様に、どんな監督制度でもこのリレー制度のもとでは極度の過度労働を防止することはできない、と明言していた(162)。(ホ)同じ児童や少年が、ある時は紡績室から織布室などに、ある時は15時間のあいだに一つの工場から別の工場に移された(163)(shifted)。(ヘ)いったいどうすればこんな制度が取り締まられるのだろう!
  (ト)「その制度は、交替という言葉を乱用して、職工たちをカルタのように限りなくさまざまに混ぜ合わせ、また、労働時間と休息時間とを毎日個人個人によって別々にずらせて、同じ完全な1組の職工が同じ時間に同じ場所でいっしょに働くことはけっしてないようにするのである(164)。」〉(全集第23a巻381頁)

  (イ) 刑事裁判所は1848年の法律の工場主的解釈を不条理だと宣告しましたが、社会救済者たちは惑わされませんでした。

  全集版では〈刑事裁判所は〉となっていますが、新日本新書版では〈勅撰弁護士たちは〉となり、複数になっています。初版も〈刑事裁判官たち〉と複数、フランス語版は〈刑事裁判官は〉、イギリス語版は〈王室法律学者は〉となっています。果たしてこれらはすべて同じものを表しているのでしょうか。少なくとも州の治安判事は工場主たちの解釈を肯定しているのですから、それとは別の人物たちと考える必要があります。だから新日本新書版のように〈勅撰弁護士たちは〉ととらえる方が、この場合は合理的なような気がします。
  次に〈社会救済者たちは惑わされなかった〉(全集版)という部分については〈社会救済者たち(工場主たち)は考えを変えようとはしなかった〉(新日本新書版)、〈社会救済者たちは迷わされなかった〉(初版)、〈社会の救済者たちはほとんど動揺しなかった〉(フランス語版)、〈しかしこの社会の救世主らは、彼等の目的を転ずることについては、自分達を許さなかった。〉(イギリス語版)となっています。ここで〈社会救済者たち〉というのは何を指しているのかが問題です。新日本新書版では訳者の注だと思いますが丸カッコに入れて〈(工場主たち)〉と書いていますので、それは明らかに工場主たちのことで、マルクスは皮肉を込めて〈社会救済者たち〉と述べていることになります。まあ、このようにここでは解釈しておきましょう。
  要するに工場主たちのやっていることは、1848年の法律に違反していると勅撰弁護士たちは宣告しましたが、工場主たちはまったく意に介せず、自分たちの我を通したということです。

  (ロ)(ハ) レナード・ホーナーは次のように報告しています。
  「私は、別々の7つの裁判所管区で10回の告発によってこの法律を励行しようとして、ただ一度しか治安判事に支持されず……それからは、法律違反のかどでこれ以上告発してもむだだと思っている。この法律のうち、労働時間の画一を実現するために制定された部分は……もはやランカシャには存在しない。私も私の部下も、いわゆるリレー制度が行なわれている工場が少年や婦人を10時間より長くは働かせないということを確かめるための手段を全然もっていない。……1849年4月末にはすでに私の管区の118工場がこの方式で作業していた。そして、そのような工場の数は近ごろは急激に増加している。一般に、これらの工場は今では朝の6時から晩の7時半まで13時間半作業しており、いくつかの場合には朝の5時半から8時半まで15時間作業している。」

  ここではホーナーの報告がそのまま引用されています。結局、偽リレー制度が容認されれば、10時間労働法などはあって無なきがごとくだということです。なぜなら、偽リレー制度で労働者がバラバラに組み合わされて、頻繁に交替させられていたら、果たしてある特定の労働者の労働時間が何時に始まって何時に終わっているのかを調べる手だては工場監督官にはなくなるからです。だからそれが少年や婦人労働者が10時間よりも長く働かせないということを確かめる手段がまったくないのだと述べています。そしてホーナーの管轄区域でも工場は13時間半から15時間作業しており、そこで労働者は偽リレー制度で組み合わされて働かされているということです。

  『歴史』でも混乱した状況が次のように紹介されています。

  〈治安判事の矛盾した判決と監督官がとった異なった態度の結果、工場立法は完全に混乱状態におちいった。使用者たちはつぎのように不平を訴えた。「まったく異常かつ無政府的な状態が支配的である。ヨークシァでは或る条例が行なわれているが、ランカシァでは他の条例が行なわれており、ランカシァの一教区では或る条例が行なわれているが、そのすぐ近所では他の条例が行なわれている。」〉(105頁)

  (ニ) すでに1848年12月には、レナード・ホーナーがもっていた名簿のなかの65人の工場主と29人の工場管理人とが、一様に、どんな監督制度でもこのリレー制度のもとでは極度の過度労働を防止することはできない、と明言していました。

  こうして1848年12月にホーナーが持っていた名簿のなかの工場主と工場管理人たちは、一様に、どんな監督官制度でもこうしたリレー制度のもとでは過度労働を防止するすべはないと明言したということです。

  (ホ)(ヘ) 同じ児童や少年が、ある時は紡績室から織布室などに、ある時は15時間のあいだに一つの工場から別の工場に移されました(shifted)。いったいどうすればこんな制度のもとで10時間労働法に違反すると取り締まることができるのでしょうか!

  偽リレー制度では、児童や少年が、バラバラに組み合わされて、15時間の労働日のあいだに、ある時は紡績室から織布室に移されて、あるいは一つの工場から別の工場へと移されて仕事をさせられているのです。だからある特定の児童や少年が、果たして10時間労働の範囲内で仕事をしているのかどうかなど取り調べることなどできないのです。

  『歴史』から紹介しておきます。

  〈マンチェスターにおける最大規模の工場の一つである工場の経営者は、ホーナー氏に対して、「たとえ監督官が20人いるとしても、リレー制度による作業が許されているならば、わたくしたちはかれらの目を逃れることができるであろう」とのべた。長年の経験と広範囲にわたる調査をつみかさねてきた結果、ホーナー氏はつぎのような結論に達した。すなわち、リレー制度が認められるならば、「どんな実際的な監督制度も、広範囲に行なわれている不正な残業を取り締まることができないであろう。」〉(108頁)
                                     
  (ト) 「その制度は、交替という言葉を乱用して、職工たちをカルタのように限りなくさまざまに混ぜ合わせ、また、労働時間と休息時間とを毎日個人個人によって別々にずらせて、同じ完全な1組の職工が同じ時間に同じ場所でいっしょに働くことはけっしてないようにするのである。」

  これは工場監督官報告書からの引用ですが、偽リレー制度の内容がよく分かります。

  『歴史』からも引用しておきます。

   〈リレー制度の害悪を理解するために、わたくしたちがハウェル氏の「報告書」を引用すれば、つぎのようである--「リレーという形でかれらが導入しようとしている制度は、多種多様な仕事に職工たちを混ぜあわせて配置し、各職工のあいだで終日、労働時間と休憩時間を交替させるための多くの計画の一つであり、そのようにして、同じ時間に、同じ部屋で、職工たちが一緒に働くことがまったくできないようにすることを目的にしたものである。」〉(102頁)


◎原注161~164

【原注161~164】
  〈『工場監督官報告書。1849年4月30日』、5ページ。
    『工場監督官報告書。1849年10月31日』、6ページ。
    『工場監督官報告書。1849年4月30日』、21ページ。/
    『工場監督官報告書。1848年10月31日』、95ページ。〉(全集第23a巻381-382頁)

  これらは本文で引用されています工場監督官報告書の典拠を示すものです。


◎第29パラグラフ(リレー制度によって10時間法はまったく骨抜きにされた)

【29】〈(イ)しかし、現実の過度労働のことはまったく別として、このいわゆるリレー制度は、フリエの「短時間交替」〔“courtes séances"〕〔94〕のユーモラスな素描もそれにはかなわなかったほどの資本幻想の所産だったのであって、ただ労働の魅力が資本の魅力に変えられた点が違っているだけだった。(ロ)りっぱな新聞が「適度の注意と方法とが完成しうるもの」(“What a reasonable degree of care and method can accompish")の見本としてほめあげたあの工場方式を見てみよう。(ハ)労働者全員が多くの場合に12から15の部類に分けられ、これらの部類そのものもまた絶えずその構成部分を取り替えた。(ニ)1工場日の15時間のあいだ資本は労働者をときには30分、ときには1時間、引き寄せては突き放し、またあらためて工場に引き入れては工場から突き出し、そのさい、10時間の労働が完了するまではいつでも彼を見失うことなく、時間をこまかくちぎって彼をあちこちに追い回すのだった。(ホ)舞台の上でのように、同じ人物が次々に違った幕の違った場面に登場しなければならなかった。(ヘ)そして、俳優が劇の上演時間中は舞台のものであるように、労働者は今では工場への往復時間を計算に入れないで15時間は工場のものだった。(ト)こうして、休息の時間は、強制された怠惰の時間に変わってしまい、それは若い男工を酒場に追いやり、若い女工を娼家に追いやった。(チ)資本家が、労働者人員をふやさないで自分の機械を12時間か15時間動かしておくために、毎日のように新案を考え出せば、そのつど労働者はあるいはこの、あるいはあの切れ端(ハシ)の時間で彼の食事をまるのみにしなければならなかった。(リ)10時間運動の当時、工場主たちは、労働者のやつらは10時間の労働で12時間分の労賃がもらえることをあてにして請願するのだ、と叫んだ。(ヌ)彼らは、今度はメダルを裏返しにしていた。(ル)彼らは、労働力を12時間も15時間も自由に使うことと引き換えに10時間分の労賃を支払ったのだ!(165) (ヲ)これがむく犬の正体だったのだ、これが10時間法の工場主版だったのだ! (ワ)この感動に満ち人類愛にあふれた自由貿易論者こそは、穀物法反対運動のまる10年間、労働者に向かって、穀物の輸入が自由ならばイギリス産業の資力/をもってすれば資本家を富ますには10時間労働でまったく十分だということを1銭1厘まで計算して見せたその人だったのである(166)。〉(全集第23a巻382-383頁)

  (イ) しかし、現実の過度労働のことはまったく別にしますと、このいわゆるリレー制度は、フリエの「短時間交替」〔“courtes séances"〕のユーモラスな素描もそれにはかなわなかったほどの資本幻想の所産だったのです。ただ労働の魅力が資本の魅力に変えられた点が違っているだけだったのです。

 この部分のフランス語版をまず紹介しておきましょう。

  〈この上述のリレー制度は、それが設定した過度労働とは別に、フーリエが「短い参加時間」というこの上なくユーモラスなスケッチのなかでも及びえなかったような資本家の幻想の一産物であった。だが、この制度は労働の魅力を資本の魅力で置き換えた、と言わなければならない。〉(江夏・上杉訳298頁)

  偽リレー制度のもとで過度労働が行われていたことは別にしますと、リレー制度というものは、フリエの「短時間交替」を彷彿とさせますが、フリエの場合は労働の魅力を引き立てるためのものでしたが、資本のリレー制度は労働者を過度に搾取するための方策であり、それは資本の飽くなき搾取欲の所産だったのです。だからそこでは労働の魅力ではなく資本の魅力に置き換わっているのです。

  〈フリエの「短時間交替」〔“courtes séances"〕〔94〕〉の注釈94は次のようなものです。

  〈(94) 短時間交替(“courtes séances")--フリエは一つの未来社会の姿を描いたが、その社会では人間は1労働日のあいだに何種類もの労働に従事する、というのは、1労働日はいくつかの短時間交替(courtes séances)から成っており、そのうちのどれも1時間半ないし2時間より長くは続けられないことになっているからである。フリエの考えでは、これによって労働の生産性は非常に高くなり、どんなに貧しい労働者でも自分の欲望のすべてを以前の時代のどの資本家よりも十分にみたすことができるようになるというのである。〔平凡社『社会思想全集』版、石川訳『フーリエ社会科学』、501-504ページ。〕〉(全集第23a巻17頁)

  初版とフランス語版にば何の訳者注もありませんが、新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈フリエ『産業および組合的新世界』第3版、パリ、1948年、67-68ページ。フリエは、ここで、彼の理想社会では各人が2時間以内の各種の希望の仕事につぎつぎに参加したりそこから離脱したりできるように配置され、労働は楽しみそのものになると述べている〉(505頁)

  イギリス語版には訳者注が挿入されていますので、この部分全体を紹介しておきましょう。

  〈とはいえ、現実の超過労働のことを度外視したとしても、このいわゆるリレーシステムは、資本主義的な幻想である。かのチャールス フーリエ (訳者注: フランスのユートピア社会主義者 1772-1837 マルクスやエンゲルスは科学的社会主義の視点から批判してはいるものの、歴史的な流れにおいては、それなりに評価している。) が、ユーモアを添えて描写した「様々な労働の選択」なるものが、実現したわけではない。「労働の魅力」(訳者注: これが彼の論文の一節のタイトルなのである。) が、資本の魅力に換えられた云う点を受け入れるかぎりでは、実現したとも云える。〉

  最後に付属資料にエンゲルスのフーリエの理論の説明を紹介しておきましたので、参考にして下さい。

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) りっぱな新聞が「適度の注意と方法とが完成しうるもの」(“What a reasonable degree of care and method can accompish")の見本としてほめあげたあの工場方式を見てみましょう。それは労働者全員を多くの場合に12から15の部類に分けて、これらの部類そのものもまた絶えずその構成部分を取り替えました。1工場日の15時間のあいだ資本は労働者をときには30分、ときには1時間、引き寄せては突き放し、またあらためて工場に引き入れては工場から突き出し、そのさい、10時間の労働が完了するまではいつでも彼を工場主の管理のもとにおいておいて、時間をこまかくちぎっては彼をあちこちに追い回すのでした。それはまるで、舞台の上でのように、同じ人物が次々に違った幕の違った場面に登場しなければならないようなものです。そして、俳優が劇の上演時間中は舞台のものでありますように、労働者は今では工場への往復時間は除外して15時間は工場に拘束されたままなのです。こうして、休息の時間は、強制された怠惰の時間に変わってしまいます。それは若い男工を酒場に追いやり、若い女工を娼家に追いやったのです。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。

  〈このことを確かめるためには、工場主が提供した案を、すなわち、公正で穏健な新聞が「適度の注意と方法とが達成しうるもの<What a reasonable degree of care and method can accompish>」の模範として称賛した次の編成を、一見するだけで充分である。労働者の人員は、時として12および14の部類に分けられ、この部類の構成部分も絶えず新たに変更された。工場の1日を形成する15時間のあいだに、資本は労働者をいまは30分、次には1時間呼び寄せ、それから休みを与えて、10時間労働が完了するまでけっして彼を見失うことも手放すこともなく、ちりぢりばらばらの時間時間に彼をあちこちと追い立てながら、再び呼び寄せたりまたも休みを与えたりした。舞台の上と同じように、同じ端役がかわるがわるいろいろの幕のいろいろの場面に登場しなければならなかった。だが、俳優が劇の続いている全期間中は舞台に所属しているのと同様に、労働者も、工場に往復する時間を算入せずに15時間中、工場に所属していた。こうして、休憩時間が、若い男工を酒場に、若い女工を/娼家に誘惑する強制的怠惰の時間に変わった。〉(江夏・上杉訳298-299頁)

 こうした偽リレー制度をあるりっぱな新聞は「程度の注意と方法とが完成しうるもの」の見本だとほめあげたそうですが、それは次のようなものなのです。その具体的な内容はフランス語版の方が分かりやすいように思えます。
  要するに15時間という1労働日のあいだ労働者は工場に拘束されて、あるときは30分、別のあるときには1時間というふうに、工場主の意のままに、あちこちに配属されて仕事をさせられ、そのあいまあいまの休憩時間も、彼は工場にほぼ縛りつけられているというような状態だったというのです。そしてそれらの労働の端くれの合計が10時間だったらよいというのです。もっともそれが正確に10時間になるということは例え工場に強制的に入って調査のできる監督官でも確かめるすべはないのですが。こうした細切れの労働と強制的な休憩のモザイクが「適度の注意と方法とが達成しうるもの」だと褒めたたえられているというわけです。強制的な休憩時間に男子の工員は酒場に入り浸り、若い女工は売春のために娼家に入り浸るというのです。ようするに道徳的な退廃を生みだしたということでしょうか。

  〈労働者全員が多くの場合に12から15の部類に分けられ〉という部分は初版やフランス語版では〈12ないし14の部類〉となっています(イギリス語版も同じ)。

  (チ) 資本家が、労働者人員をふやさないで自分の機械を12時間か15時間動かしておくために、毎日のように偽リレー制度の新案を考え出しますと、そのつど労働者はあるいはこの、あるいはあの切れ端(ハシ)の時間で彼の食事をまるのみにしなければならなかったのです。

  フランス語版です。

  〈資本家が、人員をふやさないで自分の機械を12時間ないし15時間運転するために、なにか新たなものを考案する--それは毎日行なわれていたが--たびごとに、労働者は、食事をうのみにするために、あるときは自分の時間を無駄にし、あるときは急いで自分の時間を利用せざるをえなかった。〉(江夏・上杉訳299頁)

  このように偽リレー制度が毎日のように変えられると、労働者はそのたびごとに、仕事が変わり、労働時間もバラバラになるために、自分の食事時間をまともにとることもできもできず、ただ自分の時間を無駄にして、急いで食事をまるのみすることしかできない状態だったということです。

  (リ)(ヌ)(ル)(ヲ) 10時間運動の当時、工場主たちは、労働者のやつらは10時間の労働で12時間分の労賃がもらえることをあてにして請願するのだ、と叫びましたが、今度は、工場主たちこそが、そのメダルを裏返しにしているのです。なぜなら彼らは、労働力を12時間も15時間も自由に使うことと引き換えに10時間分の労賃を支払ったのですから。 これがむく犬の正体だったのです。これが10時間法の工場主版だったのだのです。

  フランス語版です。

  〈10時間運動の当時、工場主たちはいたるところで、労働者の輩が請願してもそれは10時間労働と引き換えに12時間分の賃金を手に入れることを希望してのことなんだ、と叫んだ、彼らは今度は、メダルを裏返しにしてしまった。彼らは12時間や15時間の搾取と引き換えに10時間分の賃金を支払ったのだ(132)! 10時間法が工場主によってどう解釈されたかと言えば、まさに以上のとおりである! 〉(江夏・上杉訳299頁)

  〈これがむく犬の正体だったのだ〉という部分には、新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈ゲーテ『ファウスト』、第1部、「書斎」のファウストの独白参照。手塚訳、中公文庫、第1部、97ページ〉(505頁)

  第1部でヴァーグナーとファウストとのやりとりのなかで、メフィスト(悪魔)がむく犬に化けて登場しますが、ファウストはその正体を見破ったということです。そこから「むく犬の正体」というのは「事の本質・真相」という意味のようです。つまり10時間法は実際には12時間や15時間労働をさせながら、10時間労働だけの賃金しか支払わないという法律になったということです。フランス語版ではこうした表現は避けられています。
  要するに10時間労働運動に対して、工場主たちは彼らは10時間で12時間分の労賃をせしめることが狙いなのだと叫んでいましたが、10時間労働法の下でも偽リレー制度が横行すると、まさに今度は工場主たちこそが10時間分の賃金で12時間も15時間も働かせているのだということです。これが10時間労働法が工場主たちによって歪められた現実の真相なのです。

  (ワ) この感動に満ちて人類愛にあふれた自由貿易論者たちこそは、穀物法反対運動のまる10年間のあいだ、労働者に向かって、穀物の輸入が自由化されればイギリス産業の資力をもってすれば資本家を富ますには10時間労働でまったく十分だということを細かく計算して証明して見せたその人だったのです。

  フランス語版です。

  〈自由な穀物輸入によって新しい飛躍的発展がイギリスの工業に与えられれば、資本家を富ますには毎日の10時間労働でたっぷり充分であることを、穀物法反対運動が続いた10年間、労働者に1銭1厘の末まで倦むことなく説明したのは、それでもやはり、宗教的情熱にこりかたまった、毛穴という毛穴から人類愛が発汗する当の人間、当の自由貿易論者であったのだ(133)。〉(江夏・上杉訳299頁)

  偽リレー制度で10時間労働法を骨抜きにして、労働者を12時間も15時間もこき使っている工場主たちは、以前、自由貿易論者として穀物法に反対していた10年間というものは、労働者たちに向かって、自由な穀物輸入が行われるならイギリス工業の飛躍的な発展によって、資本家たちを富ますためには10時間労働で十分だと10時間労働法の成立に手を貸した連中なのです。宗教的情熱に凝り固まり、人類愛に満ちたその連中が、しかし実際にやっていることいえば、彼らの約束を反故にして裏切り、ただ有頂天になって労働者を苛酷に搾取することに狂奔しているのです。


  ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(4)

2024-01-19 01:13:19 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(4)


◎原注165

【原注165】〈165 『工場監督官報告書。1849年4月30日』、6ページを見よ。また、『1848年10月31日の報告書』における工場監督官ハウエルおよびサーンダーズによる「交替勤務制度」〔“shifting system"〕の詳細な説明を見よ。さらに、1849年の春にアシュトンとその付近の聖職者が「交替勤務制度」に反対して女王に奉呈した請願書を見よ。〉(全集第23a巻383頁)

  これは〈10時間運動の当時、工場主たちは、労働者のやつらは10時間の労働で12時間分の労賃がもらえることをあてにして請願するのだ、と叫んだ。彼らは、今度はメダルを裏返しにしていた。彼らは、労働力を12時間も15時間も自由に使うことと引き換えに10時間分の労賃を支払ったのだ!(165) 〉という部分に付けられた原注です。
  ここでは三つの文献について参照指示が出ていますが、いずれも詳細は分かりません。


◎原注166

【原注166】〈166 たとえば、R・H・グレッグの『工場問題と10時間法案』、〔ロンドン〕、1837年、参照。〉(全集第23a巻383頁)

  これは〈この感動に満ち人類愛にあふれた自由貿易論者こそは、穀物法反対運動のまる10年間、労働者に向かって、穀物の輸入が自由ならばイギリス産業の資力をもってすれば資本家を富ますには10時間労働でまったく十分だということを1銭1厘まで計算して見せたその人だったのである(166)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここではグレッグの著書の参照指示が出ていますが、調べようがありません。
 〈R・H・グレッグ〉を人名索引で調べると、次のようになっています。

  〈グレッグ,ロバート・ハイドGreg,Robert Hyde(1795-1875)イギリスの工場主,自由貿易論者,自由党員.〉(全集第23b巻67頁)

  また文献索引では次のようなっています。

  〈〔グレッグ,ロバート・ハイド〕『工場被雇用者の健康と徳性に及ぼす影響の点から考察した工場問題.イギリスおよび外国の製造業に及ぼすその影響からみた「10時間労働法案」』,ロンドン,1837年〉(同10頁)

  これを見るとマルクスはグレッグの著書名をかなり端折って紹介しているようです。


◎第30パラグラフ(資本の反逆はついに財務裁判所のお墨付きを得て、10時間法は実質上廃止された)

【30】〈(イ)2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられた。(ロ)すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。(ハ)「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」(ニ)それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉(全集第23a巻383頁)

  (イ) 2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所〔Court of Exchequer〕の判決によって、仕上げを与えられました。

  1847年に公布された10時間労働法に対する資本家たちの2年間にわたる反逆は、ついに、
イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所の判決によって最終的な仕上げを見ることになりました。

  新日本新書版では〈財務裁判所〉の部分に次のように訳者注が付いています。

  〈もともと税務事件を取り扱う裁判所であったが、のちに民事の第一審を扱うにいたった〉(506頁)

  また原注167の付属資料で紹介していますエンゲルスの『10時間労働法』の本文につけられた注解164には次のような説明があります。

 〈財務裁判所(Count of Exchequer)--イギリスのもっとも古い裁判所の一つ、本来は、主として税務事件を取り扱う裁判所であり、19世紀にはイギリスの最高の裁判所の一つであった。1850年2月に、1847年6月8日付の10時間労働法に違反した工場主たちが、財務裁判所から無罪判決をうけた。この無罪判決は、事実上この法律の廃棄を意味するものであって、労働者の反抗にぶつかった。ついで、1850年8月5日に発布された議会条例によって、青年労働者および婦人労働者の1日の労働時間は10時間半を越えてはならないということが確定された。労働日の始業と終業の時刻も規定された。〉(全集第7巻610頁)

  (ロ)(ハ)(ニ) すなわち、この裁判所は、1850年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたにはちがいないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのです。「この判決をもって10時間法は廃止された。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついたのです。

  その判決についてエンゲルスの「イギリスの10時間労働法」は次のように述べています(原注167の付属資料ではこのエンゲルスの論文全文が紹介されています)。

  〈10時間労働法は、18歳以下の年少者と、すべての婦人労働者の労働時間を1日10時間に制限した。これらの人々と児童は、工場労働者の決定的な部類であるから、工場は、一般に1日10時間しか稼働しえなかったということは、必然の結果であった。しかし、工場主たちは、好況が彼らに労働時間の増大を要求したとき、一つの切抜け策を見いだした。工場主たちは、労働時間がいっそう短く制限されている14歳以下の児童の場合に、これまでやってきたことであるが、若干の婦人と年少者を従来より数名多く、補助と交替のために雇用した。このようにして彼らは、10時間労働法の適用をうける者のひとりびとりは、1日10時間以上働かせないで、その工場と成年労働者たちを、13時間、14時間、15時間も働かせることができた。これは、一部分は法律の文言にも抵触するが、それ以上に、/法律の精神全体と立法者の意思に反するものであった。工場監督官は告発した。治安判事の意見は一致せず、その判決もまちまちであった。好況が増大すればするだけ、工業家たちはますます声高く、10時間労働法と工場監督官の干渉とに抗議した。内務大臣、サー・G・グレイは、交替制(relayまたはshift system)を黙認するよう、監督官あての命令を出した。しかし、監督官のうちには、法律をたてにとって、命令を無視してやった者が多かった。ついに、一つのめだった案件が財務裁判所までもちこまれ、この裁判所は工場主に有利な判決をくだした。この判決とともに、10時間労働法は事実上廃棄され、工場主たちは、ふたたび完全に、彼らの工場の主人となった。彼らは、恐慌時には2時間、3時間、あるいは6時間、好況期には13時間ないし15時間操業することができた。そして、工場監督官は、もはやこれに干渉することは許されなかった。〉(全集第7巻245-246頁)

  また『歴史』も次のように述べています。

  〈1849年、景気が回復したとき、リレー制度が急速にひろまったので、ホーナーは、リレー制度の合法・非合法の両見解について決着をつけるために、「財政裁判所」に提訴した。パーク男爵は判決を下し、1847年法の条文は十分に厳密でないので、議会が意図したにちがいないと裁判所が「自信をもって推察した」だけでは、それを実施することはできない、と宣告した。このようにして、リレー制度は合法であると宣告され、その判決には別の形で議会に請願を行なう以外にまったく選択の余地がなかった。「時間短縮委員会」は、ただちに、動力機の使用制限による標準労働日完全実施運動を再開した。1849年には、ランカシァのすべての古い「時間短縮委員会Lが再建された。そうして、リレー制度がひろまったため、議会に請願を行なうことが必要であると予想されたとき、また、「財政裁判所」が判決を下したとき、「時間短縮委員会」は十分に活動できる態勢にあった。〉(105頁)

  このように1850年の財務裁判所の判決では、工場主たちは1844年の法律に反した行動をしたには違いないが、しかし法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいるので、議会が意図したに違いないと裁判所が推察しただけでは、それを実施することはできないと宣告したわけです。つまり工場監督官による告発は無効(告発された資本家無罪)ということになり、それ以降は実質上10時間法は廃止されたことになり、偽リレー制度による10時間法の骨抜きは公の認めるところとなったということです。だから、それまでは躊躇していた工場主たちもいまや公然とそれをやりだしたということです。
  しかし『歴史』の記述では労働者もそれに反対して〈標準労働日完全実施運動を再開した〉と述べています。


◎原注167

【原注167】〈167 フリードリヒ・エンゲルス『イギリスの10時間労働法案』(私が編集した『新ライン新聞。政治経済評論』、1850年4月号、13ぺージ。) 〔本全集、第7巻、240(原)ページを見よ。〕同じ「上級」裁判所は、同様にアメリカの南北戦争中にも、海賊船の武装を禁止する法律をその正反対のものに転倒するような、語句のあいまいさを発見したことがある。〉(全集第23a巻頁383)

  これは〈「この判決をもって10時間法は廃止された(167)。」〉という本文の引用文につけらた原注です。この引用文はエンゲルスの『イギリスの10時間労働法案』という論文からのもののようです。この論文の全文を付属資料に紹介しておきました。財務裁判所は、その判決で、工場主たちは10時間労働法に違反しているが、しかし同法そのものがそれを無効にする文言を含んでいるという理由で、工場主たちを無罪にしたのですが、同じ裁判所は、アメリカの南北戦争中に、海賊船の武装を禁止する法律がそれを正反対にするような語句のあいまいさがあることを発見したのだそうです。法律のわずかの語句の詮索によって、その法律の主旨までも否定する杓子定規な法解釈だといえます。

  〈海賊船の武装を禁止する法律〉という部分に新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈1819年の「外国服務取締法」をさす。この法は、とくに敵国船舶への武器供給などを禁止した。南部軍の船舶の建造に協力する政府に反対するイギリス人によって、これらは「海賊船」と呼ばれた〉(506頁)


◎原注168

【原注168】〈168 『工場監督官報告書。1850年4月30日』。〉(全集第23a巻383頁)

  これは〈それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた(168)。〉という本文につけられた原注です。
  つまりその判決以降は、リレー制度の導入にまだ躊躇していた一群の工場主もいまや大手を降ってリレー制度を導入して10時間労働法を骨抜きにしたということです。


◎第31パラグラフ(資本の決定的な勝利は、他方で労働者の強烈な反撃を呼び起こした)

【31】〈(イ)しかし、外観上は決定的な資本の勝利とともに、たちまち一つの急変が現われた。(ロ)それまで労働者がやってきた抵抗は、毎日たゆまず繰り返されたとはいえ、受け身のものだった。(ハ)いまや彼らは、ランカシャやヨークシャであからさまに威圧的な集会を催して、抗議した。(ニ)つまり、10時間法と称するものは、ただのごまかしで、議会の詐欺/で、いまだかつて実際にはなかったのだ! と。(ホ)工場監督官たちは、階級間の敵対は信じられないまでに緊張している、ときびしく政府に警告した。(ヘ)工場主たちでさえ一部のものは次のようにつぶやいた。
  (ト)「治安判事たちの判決が互いに矛盾しているために、まったく異常な無政府状態が広がっている。ヨークシャでは別の或る法律が行なわれ、ランカシャではまた別の法律が行なわれ、ランカシャの一教区では別の或る法律が、そのすぐ近所ではまた別の法律が行なわれている。大都市の工場主は法網をくぐることもできるが、いなか町の工場主はリレー制度に必要な人員も見いだせず、まして労働者を一つの工場から別の工場に移すのに必要な人員などはなおさら見いだせないのだ。」
  (チ)しかも、労働力の平等な搾取こそは資本の第一の人権なのである。〉(全集第23a巻383-384頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 確かに見かけ上は資本の側の決定的な勝利になりましたが、しかしたちまち一つの急変が現われたのです。それまで労働者がやってきた抵抗は、毎日たゆまず繰り返されたとはいえ、受け身のものだったのです。しかしいまや彼らは、ランカシャやヨークシャであからさまに威圧的な集会を催して、抗議したのです。10時間法と称するものは、ただのごまかしで、議会の詐欺で、いまだかつて実際にはなかったのだ! と言い出しました。工場監督官たちは、階級間の敵対は信じられないまでに緊張している、ときびしく政府に警告したのでした。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈ところが、一見終局的な資本のこの勝利には、たちどころに一つの反動が続いた。労働者はその当時まで、不屈な、しかも不断に再生する抵抗であるとはいえ、受け身の抵抗をしてきた。いまや彼らはランカシャやヨークシャで、ますます威嚇的な集会を催して抗議しはじめた。彼らはこう叫んだ。「いわゆる10時間法は邪悪な茶番、議会の欺瞞でしかなく、いまだかつて存在しなかったのではないか?」工場監督官は、階級間の敵対が信じがたい程度に高まっている、と政府に真剣に警告した。〉(江夏・上杉訳300頁)

  最高裁判所での判決で資本の側の決定的な勝利に終わったかに見えたのですが、しかしそれはたちまち強烈な反動を呼び起こしたのです。というのは労働者たちが、それまでのいわば受け身の抵抗姿勢を転換して、威嚇的な抗議集会を開いて、10時間法などというものは茶番であり、議会の詐欺でしかないと言い出したのでした。そのため資本と労働者との階級間の対立は異常に高まり、監督官たちも政府に真剣に警告を発するほどになりました。

  先に紹介しました『歴史』でも〈このようにして、リレー制度は合法であると宣告され、その判決には別の形で議会に請願を行なう以外にまったく選択の余地がなかった。「時間短縮委員会」は、ただちに、動力機の使用制限による標準労働日完全実施運動を再開した。1849年には、ランカシァのすべての古い「時間短縮委員会Lが再建された。そうして、リレー制度がひろまったため、議会に請願を行なうことが必要であると予想されたとき、また、「財政裁判所」が判決を下したとき、「時間短縮委員会」は十分に活動できる態勢にあった。〉(105頁)

  (ヘ)(ト)(チ) 工場主たちでさえ一部のものは次のようにつぶやきました。
  「治安判事たちの判決が互いに矛盾しているために、まったく異常な無政府状態が広がっている。ヨークシャでは別の或る法律が行なわれ、ランカシャではまた別の法律が行なわれ、ランカシャの一教区では別の或る法律が、そのすぐ近所ではまた別の法律が行なわれている。大都市の工場主は法網をくぐることもできるが、いなか町の工場主はリレー制度に必要な人員も見いだせず、まして労働者を一つの工場から別の工場に移すのに必要な人員などはなおさら見いだせないのだ。」
  しかも、労働力の平等な搾取こそは資本の第一の人権なのです。

  フランス語版です。

  〈工場主自身が不平を言いはじめた。彼らはこう歎いた。「治安判事の矛盾した判決のおかげで、全くの無政府状態が支配している。ある法律がヨークシャで、別のある法律がランカシャで、別のある法律がランカシャ州の一教区で、最後に別のある法律がすぐその近くで施行されている。大都市の工場主は法網をくぐることができても、リレー制度にとって必要な人員を、ましてや、労働者をある工場から別の工場へ移すために必要な人員を、全然見出さないほかの工場主については、事情がちがう、云々」。ところで、資本の第一の権利は、労働力の搾取においての平等ではないのか?〉(江夏・上杉訳300頁)

  資本の側からも不平が生まれきました。まずとにかく治安判事の判決そのものが矛盾したものであり、まったくの無政府状態に陥っていたことです。先の『歴史』のなかでもそうた混乱した状態が次のように述べられています。

  〈1850年にアシュリィ卿に手紙を送ったスティリィブリッジのある通信員は、リレー制度についてつぎのようにのべている--「今日、わたくしは、いわゆるリレー制度を全面的に適用している工場を見学しましたが、そのようなやり方で労働者を働かせる害悪を眼のあたりにみて、どうしても貴方にわたくしの気持ちをお伝えしたいと思っています。一工場では、335人の年少者と婦人がリレー制度のもとで働いているのを、わたくしは知りました。かれらは実働時間が10時間になるように、1日のうちのまちまちの時間に仕事を終わります。そうして、かれらは仕事を終わると、自分たちの家がどんなに遠くにあろうと、また天候がどんな状態であろうとおかまいなしに、工場から退出しなければなりません。わたくしは確めてみたのですが、かれらのいく人かは2マイルも離れたところに住んでおり、そのために、30分か1時間、または2時間もの時間を有効に利用することができないのです……ある工場長のいうところによれぽ、現在ほど『工場法が職工たちに重くのしかかっていることはありません。』」  
  そのような制度のもとでは、「10時間労働日法」はまったく実効性をもたなかったし、監督官が残業を摘発することも不可能であった。法律の条項を文字どおり解釈すれば、リレー制度は違法である、というのが監督官すべての一致した見解であった。だが、裁判にかけられた事件のなかでは、治安判事が異なった法解釈を下したため、高等裁判所の法務官に控訴された。だが、法務官はリレー制度が違法であると宣告する点では、監督官と同意見であるという報告書を作成した。
  このような見解が打ち出されたにもかかわらず、多くの治安判事は依然としてリレー制度による脱法行為を有罪とすることに反対した。1844年法の第26項の規定は曖昧であるから、同法を厳密に解釈することはできな/い、というのがその理由であった。
  雇主から多数の請願書が内務大臣に殺到したので、1848年8月5日付の回状のなかで、内務大臣は、監督官に対し、「実際に年少者が法律によって認められているよりも長時間働かされているという確証がない場合、同法の条項違反を理由として、すなわち、年少者をリレー制度によって働かせていることを理由として、工場主を告発してはならない」と指示した。これに対して、イングランドの監督官は、一方的に法律の実施をやめさせる権限を内務大臣はもっていないと主張し、いままでと同じように、リレー制度を採用している製造業主を告発した。イングランドの東部と南部において、一般に、2人の監督官は判事によって支持されていたが、マンチェスターの重点巡回地区において、レナード・ホーナーは法律を厳格に実施しようとしたために、強い反対にあった。ホーナーは困難な立場に立たされた。なぜならば、リレー制度によって作業をした使用者をかれが告訴したため、使用者がかれを激しく非難したからであった。そのうえ、治安判事がホーナーを支持しないという事実から、かれは自分の担当する全地区で法律を実施することが不可能であるということを知った。往々にして雇主自身が治安判事を兼ねていたから、かれらは自分たちの判決が正当かどうかを確める労さえとらず、簡単に監督官の訴えを却下した。ある訴訟のなかで、ホーナーはつぎのように報告している。「告訴したが、3度とも却下された結果……グリーン氏が担当する治安判事管轄下にあるすべての工場では、わたくしがそれらを取り締まる権限をもっていないので、雇主は年少者と婦人をリレー制度によって働かせることができるであろう。」他方、ランカシャにリレー制度がひろまったとき、ホーナーは、法定労働時間を守っている使用者から、リレー制度を黙認しているといって非難された。かれらは、リレー制度によって長時間操業している他の雇主とは競争することができないと訴えた。
  スコットランド地区担当の監督官であるジェイムズ・スチュアートは、他の監督官と協力して法律を厳格に実施するように努力をすることを拒否したただ1人の人物であった。かれはリレー制度が違法であることを否定しなかったが、同僚の監督官たちは法律の文言にこだわりすぎており、かれらの活動は「議会が予想も/意図もしなかったほど過酷である」という意見を表明した。〉(103-105頁)

  偽リレー制度を実施するためには、ある程度の人員を確保する必要があり、あちこちの工場に労働者を移すためには、それだけの工場をもっていなければならないために、そうした条件を欠いている資本の側から、不満が出るのは当然でした。だから資本の側からも労働者を搾取する条件がバラバラである状態に対する不満を訴える声が出てきたのでした。


◎第32パラグラフ(階級間の妥協が成立して1850年法が成立した)

【32】〈(イ)このような事情のもとで工場主と労働者とのあいだの妥協が成立し、それは1850年8月5日の新しい追加工場法のなかでは議会によって確認されている。(ロ)「少年と婦人」については、労働日は週のはじめの5日間は10時間から10時間半に延長され、土曜は7時間半に制限された。(ハ)労働は朝の6時から晩の6時までのあいだに行なわれなければならず(169)、そのあいだにある食事のための1時間半の中休みは、全員同時に、そして1844年の諸規定に従って、与えられなければならない、等々。(ニ)こうして、リレー制度には一挙に結末がつけられた(170)。(ホ)児童労働については1844年の法律が引き続き有効とされた。〉(全集第23a巻384頁)

  (イ) このような事情のもとで工場主と労働者とのあいだの妥協が成立し、それは1850年8月5日の新しい追加工場法のなかでは議会によって確認されました。

  1850年法の成立に過程については『歴史』は次のように述べています。

  〈アシュリイ卿は議会内でその法案の審議にあたり、1850年3月14日、「法案を提出する」許可を求めた。同法案は、「1844年に議会が意図したことを実施しよう」としたものであった。だが、1844年法の第26項に対する修正案としてかれが提案した条項は、実効をもたないことが明らかになったので、その問題について審議した法律家の会議は、食事時間に関する新しい規制を設けないかぎり、一つの条項をつけ加えただけでは、意図した目的を達成することができない、という結論に達した。政府はつぎの3点を法制化することによって困難を解決することを提案した。すなわち、第一点は、保護該当者に対する労働時間を12時間の限度内/--午前6時から午後6時まで、または午前7時から午後7時まで--に定めること、第二点は、食事時間を1時間半と定めること、第三点は、土曜日には、午後2時に仕事を終えなければならないと定めること、以上である。内務大臣であるジョージ・グレイ卿は、同法案を提出するにあたって、自分は真剣にこの問題を考慮したとのべたが、15時間の時間帯をそのまま放置しておきながら、労働時間の制限を円滑に実施することができるとは考えなかった。そうして、かれはつぎのように主張した。すなわち、政府案は、週に2時間だけ労働時間を延長することになるが、アシュリィ卿が提出した「法案」よりも、一層効果的に同卿の目的を達成するであろう。アシュリィ卿はこの妥協案を受け入れ、政府案は法律になった。〉(105-106頁)

  労働者の側の動きについては次のように述べています。

  〈政府の提案に対する「時間短縮委員会」の一般的な態度については、5月1日の日曜日の朝、マンチェスターの/コットン・ツリー・タバーンで開かれた代表者集会に関する記事から、推察することができるであろう。その集会の目的はつぎのような諸点を検討することにあった。すなわち、「政府が提案した計画に『10時間労働日法』の利点を完全に生かすような修正を盛り込んで、同案を改善するためには、どんな手段をとらねばならないか、もしこの試みが失敗した場合、政府法案を完全に否認して、もう1年間現状のままでいるのが賢明か、それとも、わたくしたちは、工場労働日を朝の6時から夜の6時までに制限する同法案が通過するのを黙認し、現在、わたくしたちには骨抜きにされている2時間の労働時間短縮を、次年度の議会に要求することの是非を考慮する権利を留保しておくべきか」以上の諸点であった。〉(106-107頁)

  そして同集会で最終的に採択された決議文というのは次のようなものだったということです。

  〈「工場の労働日を午前6時から午後6時までに制限するということは、工場立法のきわめて重要な点であり、その実現が最も望まれるところである。現在、労働時間を1日10時間に制限することを政府案に盛り込むように努力をしているが、この10時間労働日は職工が当然要求できる権利である。だが、同法獲得運動が挫折した場合、当集会は、次期の議会に対し、ふたたびわたくしたちの正当な諸権利を要求する権利を留保することを条件として、政府案が議会を通過することにあえて反対しないであろう。」〉(107頁)

  こうして1850年法は成立したのでした。

  (ロ)(ハ)(ニ) その中身は「少年と婦人」については、労働日は週のはじめの5日間は10時間から10時間半に延長され、土曜は7時間半に制限されました。労働は朝の6時から晩の6時までのあいだに行なわれなければならず(169)、そのあいだにある食事のための1時間半の中休みは、全員同時に、そして1844年の諸規定に従って、与えられなければならない、等々というものでした。 こうして、リレー制度には一挙に結末がつけられたのでした。

  1850年法の中身としては「少年と婦人」の標準労働日が決められたということです。週のはじめの5日間は10時間から10時間半に延長され、土曜日は7時間半に制限されました。労働は朝の6時から晩の6時までのあいだに行われなければならず、その間に1時間半の食事のために中休みが、全員同時に、1844年の規定にもとづいて与えられなければならないとされました。1844年法については第10~13パラグラフで取り上げられています。ここでは『歴史』の説明を紹介しておきましょう。

  〈1844年法は、同法の保護規定に該当する者が午前中仕事を開始したときから、12時間労働日を適用しはじめなければならないこと(第二六項)、同法の該当者は食事時間中職場に残っていてはならないこと(第三六項)、また、すべての年少者と婦人の食事時間は同1時間にとられねばならないこと、を規定した。
  労働時間と食事時間は、監督官によって認可された証明書づきの柱時計によって規制されることになった(第二六項)。これらの規制は、たとえ些細なものであっても、労働日を制限し、同時に明確にする必要を認めたことと同じことになり、このことによって、監督官は自分の職務をいままでよりも容易に遂行することができた。また、使用者による損失時間の取り戻しについても、いままでよりも厳格に取り締まった(第三三、三四項)。〉(86頁)

  また1850年法の意義については次のように述べています。

  〈1850年法は、イギリス工場法史上の重大な画期であった。同法によって、はじめて標準労働日がはっきりと制定された。いいかえるならば、法定労働日と法定就業時間とが同一になった。ただし、その間に食事時間を与える。E・フォン・ブレイナーはつぎのようにのべている。「1850年法は、すみやかに、また/永久に、従来の工場法のもつ曖昧さを取り除き、製造業地域で行なわれた運動を終結させた。しかも、同法は予想されたほど大きな抵抗も非難も受けなかった……ほとんど土曜日の午後の全時間に相当する余暇が得られたことは、とくに労働者諸階級にとって有益であった。」〉(107-108頁)

  (ホ) 児童労働については1844年の法律が引き続き有効とされました。

  しかし児童労働については1844年の法律が引き続き有効とされました。それは1850年法の問題点だと『歴史』は次のように述べています。

  〈だが、一般的に、1850年法の実効性については満足の意が表明されたけれども、依然としていくつかの適用もれが残されていた。その主な適用もれは児童に関するものであり、児童に対しては、まだ標準労働日が制定されていなかった。1850年法は1847年法を修正したものであり、その1847年法は婦人と年少者の労働だけを対象としていた。そうであるから、1844年法によれば、依然として、午前5時30分から午後8時30分までのあいだであるならば、8歳から13歳までの児童をどの時間に働かせても合法であるとされていた。〉(108頁)

  そこで〈1850年に、257工場が3,742人の児竜を雇用し、婦人と年少者が仕事を終わったのち、かれらを助手として18歳以上の大人の男子のもとで働かせている、と監督官は報告している。〉(108頁)という実態があったということです。


◎原注169

【原注169】〈169 冬は朝の7時から晩の7時までの時間に変えてもよい。〉(全集第23a巻384頁)

  これは〈労働は朝の6時から晩の6時までのあいだに行なわれなければならず(169)〉という本文に付けられた原注です。
  1850年法では1労働日は朝6時から晩の6時までの12時間に決まっていましたが、それは冬期には朝7時から晩の7時までに変更されてもよいと規定されていたということです。


◎原注170

【原注170】〈170 「現行法」(1850年の)「は一つの妥協で、これによって労働者は、労働時間を制限されている人々の労働の開始と終了とを全員同時にするという利益を得た代わりに、10時間法の恩恵を放棄したのである。」(『工場監督官報告書。1852年4月30日』、14ページ。)〉(全集第23a巻384頁)

  これは〈こうして、リレー制度には一挙に結末がつけられた(170)。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり1850年法はリレー制度を防止するための措置として妥協によって成立したということです。というのは労働者側は労働時間の開始と終了時間を全員同時にするという利益(つまりリレー制度をできなくさせる利点)を得た代わりに労働時間を10時間ではなくて、12時間に妥協したということです。『歴史』が〈1850年法は、イギリス工場法史上の重大な画期であった。同法によって、はじめて標準労働日がはっきりと制定された。いいかえるならば、法定労働日と法定就業時間とが同一になった。〉(107頁)と述べているのはこのことでしょうか。


◎第33パラグラフ(絹工場における児童労働にたいする特権)

【33】〈(イ)ある部類の工場主は、今度も以前と同じに、プロレタリアの子供にたいする特別な領主権を確保した。(ロ)絹工場主/がそれだった。(ハ)1833年には彼らは脅迫するようにほえたてた、「もし何歳の子供でも1日に10時間ずつ働かせてよいという自由を自分たちから奪うならば、それは自分たちの工場を休止させることだ」(“if the liberty of working children of any age for 10 hours a day was taken away,it would stop their works.")と。(ニ)十分な数の13歳以上の子供を買うことは彼らには不可能だ、というのである。(ホ)彼らは、欲しいと思った特権をゆすり取った。(ヘ)この口実は、その後の調査によって、まっかなうそだということが判明したが(171)、それでも、彼らは、10年ものあいだ、椅子(イス)にのせてもらわなければ労働ができないような小さな子供たちの血から毎日10時間ずつ絹を紡ぎ取ることを妨げられなかったのである(172)。(ト)1844年の法律は、11歳未満の児童を毎日6時間半よりも長く働かせる「自由」を彼らから「奪い」はしたが、その代わりに、11歳から13歳までの児童を毎日10時間働かせる特権を彼らに保証したのであり、また、他の工場児童については規定されていた就学義務を免除したのである。(チ)今度の口実は次のようだった。
(リ)「織物の繊細さのためには指の柔らかさが必要であり、この柔らかさはただ早くから工場にはいることによってのみ確保できるものである(173)。」
(ヌ)しなやかな指のために子供たちはみな屠殺されたわけで、ちょうど南ロシアで有角家畜が皮と脂肪とのために屠殺されるようなものだった。(ル)ついに、1850年には、1844年に許された特権は、絹撚り部門と絹巻き取り部門とに制限されたが、しかし、この時、「自由」を奪われた資本への損害賠償として、11歳から13歳までの児童の労働時間は10時間から10時間半に延長されたのである。(ヲ)その口実は、「絹工場では他の工場でよりも労働が軽く、また、けっしてそれほど健康に有害ではない(174)」というのだった。(ワ)あとになって政府の医学的調査が証明したところでは、それとは反対に、
  「絹業地方の平均死亡率は例外的に高く、しかも人口のうちの婦人部分ではランカシャの綿業地方に比べてさえ/より高いのである(175)。」
(カ)工場監督官たちの抗議は半年ごとに繰り返されてきたにもかかわらず、この不法は今日まで続いているのである(176)。〉(全集第23a巻384-386頁)

  (イ)(ロ) ある部類の工場主は、今度も以前と同じように、プロレタリアの子供にたいする特別な領主権を確保しました。絹工場主がそれだったのです。

 1850年法には児童労働に対する対応が欠けていることが指摘されましたが、それだけではなくて、絹工場ではむしろ児童労働をより酷使する特権が認められたのでした。『61-63草稿』には次のように書かれています。

  〈「たとえば絹業を取ってみると1850年以降、11歳以上(つまり11歳から13歳)の児童を、生糸の巻き取りと撚(ヨ)りとに1日10時間半働かせることは合法的である。1844年から1850年までは、彼らの日々の労働は10時間に--土曜日はもっと短時間に--制限されていたのであり、さらにこの時期以前には9時間に制限されていた。これらの変更は、絹工場での労働は他の織物のための工場での労働よりも軽度であり、またその他の点から見ても健康を害することがおそらくより少ない、という口実で行なわれたのである」(『工場監督官報告書。1861年1O月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、26ページ)。〉(草稿集④363頁)

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 1833年には彼らは脅迫するようにほえたてたました。「もし何歳の子供でも1日に10時間ずつ働かせてよいという自由を自分たちから奪うならば、それは自分たちの工場を休止させることだ」(“if the liberty of working children of any age for 10 hours a day was taken away,it would stop their works.")と。十分な数の13歳以上の子供を買うことは彼らには不可能だ、というのです。そして彼らは、欲しいと思った特権をゆすり取ったのです。その時掲げた彼らの口実は、その後の調査によって、まっかなうそだということが判明されましたが、それでも、彼らは、10年ものあいだ、椅子(イス)にのせてもらわなければ労働ができないような小さな子供たちの血から毎日10時間ずつ絹を紡ぎ取ることを妨げられなかったのです。

  第2パラグラフでは〈「1833年の法律以前には子供や少年が終夜か終日かまたはその両方か、どのようにでも随意に働かされた (were worked) ということ、これが事実である。」〉と言われ、第4パラグラフで〈1833年の法律が明言するところでは、普通の工場労働日は朝5時半に始まって晩8時半に終わるべきだとされ、また、この限界内すなわち15時間の範囲内では、少年(すなわち13歳から18歳までの人員)を1日のどの時間に使用しようと、それは、いくつかの特にあらかじめ定められた場合を除いて、同一の少年が1日のあいだに12時間より長くは労働しないかぎり、適法だとされる。この法律の第6節は、「このように労働時間の限定されている各人のために、各1日のうちに少なくとも1時間半の食事時間が認められるべきこと」を規定している。9歳未満の子供の使用は、のちに述べる例外を除いて、禁止され、9歳から13歳までの子供の労働は、1日8時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律によれば晩の8時半と朝の5時半とのあいだの労働は、9歳から18歳までの人員のすべてについて禁止された。〉とありました。それに対して〈資本は……長年にわたるそうぞうしいアジテーションを開始し〉し〈工場主暴徒はいよいよ激しく荒れ狂った〉(第8パラグラフ)と書かれていました。
  ここでは絹工場主たちのそのときの主張が紹介されています。彼らは絹工場で子供を使う自由を奪うなら工場を休止さぜるをえない、などと出鱈目を言って脅し、自分たちの特権を揺すり取ったのです。しかし彼らが主張したことは後に嘘っぱちだということが分かったのですが、しかしその後、10年ものあいだその特権は維持されたということです。

  (ト) 1844年の法律は、11歳未満の児童を毎日6時間半よりも長く働かせる「自由」を彼らから「奪い」はしましたが、その代わりに、11歳から13歳までの児童を毎日10時間働かせる特権を彼らに保証したのです。しかも、他の工場児童については規定されていた就学義務を免除したのです。

  こでは絹工場に与えられた特権の内容が示されています。1844年法についは第10パラグラフで〈それは労働者の新たな一部類を被保護者の列に加えている。すなわち、18歳以上の婦人である。彼女らはどの点でも少年と同等に扱われた。すなわち、その労働時間が12時間に制限され、夜間労働が禁止される、等々である。……13歳未満の児童の労働は、1日6時間半に、また或る条件のもとでは7時間に、短縮された〉とありました。しかしその代わりに絹工場主たちには、11歳から13歳までの児童を毎日10時間働かせる特権を許したということです。
  しかも他の工場児童には規定されていた就学義務を免除したともあります。『61-63草稿』には次のような指摘があります。

  〈「綿、紡毛糸、梳毛糸、亜麻の各工場で働く児童は、8歳から13歳になるまで通学を要求されているが、〔同じ児童でも、〕絹・撚糸工場で働く場合は、11歳で通学を免除され、以後は1日中使用される。このような非常に緩和された半日労働制度の適用ですら、やっと1844年の工場法で要求されたのであって、それ以前は、実際問題として工場主たちの児童労働の使用には、どんな制約もなかったのである。」(『工場監督官報告書、1856年10月31日〔にいたる半年間〕』、77ページ、アリグザーンダ・レッドグレイヴ氏の報告。)〉(草稿集④182頁)

  (チ)(リ)(ヌ) 今度の口実は次のようでした。
  「織物の繊細さのためには指の柔らかさが必要であり、この柔らかさはただ早くから工場にはいることによってのみ確保できるものである(173)。」
  しなやかな指のために子供たちはみな屠殺されたわけです。それはちょうど南ロシアで有角家畜が皮と脂肪とのために屠殺されるようなものだったのです。

  彼らが絹工場における特権を主張した口実は絹の繊細な糸を扱うためには児童の柔らかな手指が必要だなどというものだったというのです。しなやかな指のために子供たちは酷使され屠殺されたのですから、それは南ロシアで皮と脂肪を取るために有角家畜が屠殺されたのと同じようなものだということです。
  先に紹介しました『61-63草稿』にも〈絹工場での労働は他の織物のための工場での労働よりも軽度であり、またその他の点から見ても健康を害することがおそらくより少ない、という口実で行なわれた〉とありました。次のような監督官報告書が紹介されています。

  〈「1850年に絹業についてなされた、他の織物製造業よりも健康に良い仕事であるという陳述は証拠をまったく欠いているばかりでなく、見られる証拠はまったく正反対のものである。というのは、絹業地方では平均死亡率がきわだって高く、しかも人口のうちの婦人部分のそれは、ランカシャーの綿業地方--ここでは、児童が半日しか労働しないのは事実であるが、しかし綿業を健康に良くないものにするような原因がいろいろあるので、肺病で死亡する率の高いことが避けられないと恩われるかもしれないのであるが--に比べてさえ、それよりも高いのである」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、27ページ)。〉(草稿集④363頁)〉

  (ル)(ヲ) ついに、1850年には、1844年に許された特権は、絹撚り部門と絹巻き取り部門とに制限されましたが、しかし、この時も、「自由」を奪われた資本への損害賠償として、11歳から13歳までの児童の労働時間は10時間から10時間半に延長されたのです。そしてその口実というのは、「絹工場では他の工場でよりも労働が軽く、また、けっしてそれほど健康に有害ではないというのでした。

  こうした1844年法での特権は1850年法では絹撚り部門と絹巻き取り部門に制限されましたが、しかしその代償措置として、11歳から13歳の児童の労働時間が10時間から10時間半に延ばされたということです。そのときの口実も絹工場では労働が軽く、健康に有害ではないというものだったというのです。
  これは先に紹介しました『61-63草稿』でも〈絹工場での労働は他の織物のための工場での労働よりも軽度であり、またその他の点から見ても健康を害することがおそらくより少ない、という口実で行なわれた〉とありました。

  (ワ) あとになって政府の医学的調査が証明したところでは、それとは反対に、「絹業地方の平均死亡率は例外的に高く、しかも人口のうちの婦人部分ではランカシャの綿業地方に比べてさえより高いのである。」とあったというのです。

  『61-63草稿』にも次のような監督官報告書が紹介されています。

  〈「1850年に絹業についてなされた、他の織物製造業よりも健康に良い仕事であるという陳述は証拠をまったく欠いているばかりでなく、見られる証拠はまったく正反対のものである。というのは、絹業地方では平均死亡率がきわだって高く、しかも人口のうちの婦人部分のそれは、ランカシャーの綿業地方--ここでは、児童が半日しか労働しないのは事実であるが、しかし綿業を健康に良くないものにするような原因がいろいろあるので、肺病で死亡する率の高いことが避けられないと恩われるかもしれないのであるが--に比べてさえ、それよりも高いのである」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、27ページ)。〉(草稿集④363頁)

  (カ) 工場監督官たちの抗議は半年ごとに繰り返されてきたにもかかわらず、この不法は今日まで続いているのです。

  工場監督官たちは半年ごとの報告書のなかでそうした不当性を訴えてきたのですが、こうした不法は今日まで続いているということです。


  ((5)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(5)

2024-01-19 00:42:13 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(5)


◎原注171、172

【原注171、172】
  〈171 『工場監督官報告書。1844年9月30日』、13ページ。
    172 同前。〉(全集第23a巻386頁)

  原注171は〈1833年には彼らは脅迫するようにほえたてた、「もし何歳の子供でも1日に10時間ずつ働かせてよいという自由を自分たちから奪うならば、それは自分たちの工場を休止させることだ」(“if the liberty of working children of any age for 10 hours a day was taken away,it would stop their works.")と。十分な数の13歳以上の子供を買うことは彼らには不可能だ、というのである。彼らは、欲しいと思った特権をゆすり取った。この口実は、その後の調査によって、まっかなうそだということが判明したが(171)〉という本文に付けられた原注で、こうした事実の典拠を示すものといえます。
  原注172はそのあとに続く〈それでも、彼らは、10年ものあいだ、椅子(イス)にのせてもらわなければ労働ができないような小さな子供たちの血から毎日10時間ずつ絹を紡ぎ取ることを妨げられなかったのである(172)。〉という一文に対する原注ですが、これもその典拠を示すだけのものです。


◎原注173

【原注173】〈173 “The delicate texture of the fabric in which they were employed requiring'a lighness of touch,only to be acquired by their early introduction to these factories."(『工場監督官報告書。1846年10月31日』、20ページ。)〉(全集第23a巻386頁)

  これは絹工業に対して児童の就学義務を免除した理由として〈「織物の繊細さのためには指の柔らかさが必要であり、この柔らかさはただ早くから工場にはいることによってのみ確保できるものである(173)。」〉と本文で述べられていたものに付けられた原注ですが監督官報告書の同じ文言の原文が紹介されています。


◎原注174

【原注174】〈174 『工場監督官報告書。1861年10月31日』、26ぺージ。〉(全集第23a巻386頁)

  これは本文において1850年法で絹工場における児童の労働時間が半時間延長された口実として〈「絹工場では他の工場でよりも労働が軽く、また、けっしてそれほど健康に有害ではない(174)」というのだった。〉という部分に付けられた原注です。引用部分の典拠を示すだけのものです。


◎原注175

【原注175】〈175 同前、27ページ。一般に、工場法の適用を受けた労働者人口は肉体的に非常に改善されてきた。医師たちの証言はすべてこの点では一致しており、またいろいろな時期の私自身の観察によって私もそれを確信した。それにもかかわらず、そして幼年期の児童の恐ろしい死亡率は別としても、ドクター・グリーンハウの公式の報告は、工場地方の健康状態が「標準的健康状態の農業地方」に比べて不良だということを示している。その証明として、1861年の彼の報告書から特に次の表を引用しておこう。

(全集第23a巻386頁)

  これは本文で政府の医学的調査が証明したものとして引用されている〈「絹業地方の平均死亡率は例外的に高く、しかも人口のうちの婦人部分ではランカシャの綿業地方に比べてさえより高いのである(175)。」〉という部分に付けられた原注です。
   〈同前、27ページ。〉ということはその前の原注174にある〈『工場監督官報告書。1861年10月31日』〉の27ページにこうした医学的調査の結果が紹介されているということでしょう。
  一般的には、工場法の適用を受けた労働者人口は肉体的にも非常に改善されてきた事実が指摘されています。『61-63草稿』では次のような監督官報告書からの紹介がなされています。

  〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。
  「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(同前、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④355-356頁)

  そしてマルクス自身の観察によってもそれが確信できるとも述べています。
  しかしそれにも関わらず、幼年期の児童の死亡率の高さは別にしても、工業地方の健康状態の悪さは相変わらずだとドクター・グリーンハウの公式の報告から主な工業地方と農業地方の8地区とを比較する表を紹介しています。
  このあたりのものを論じている『61-63草稿』からも紹介しておきましょう。ここでは表の分析部分も紹介されています。

  〈「ドクター・グリーンハウの報告から、女子と児童労働が広範に使用されている絹などの織物その他の工業地方における肺病による死亡率と、イギリスの標準的な健康状態にある(農村)地方のそれとをくらべてみよう。  
〔以下、191ページ上段の表がつづく。〕(表は原注175に掲げられているものと同じ)
  この表から認められるように、どの地方でも、/またどの業種でも、その平均死亡率は男の場合も女の場合も、健康な8地方の平均死亡率の2倍以上である。……こういう結果は原因を道徳的なものに求めても、あるいは気候上の事柄に求めても、とうてい説明はつかないように思われる。だから密集した労働のなかにあるなにかが労働者の健康に危険な影響を及ぼしていて死亡率を高める結果を生んでいるとする、ドクター・グリーンハウその他の検査官たちの見解が裏づけられるのである。」(『工場監督官報告書、1861年10月31日〔にいたる半年間〕』、ロバト・ベイカーの報告、28ページ。)〉(草稿集⑨190-191頁)


◎原注176

【原注176】〈176 人の知るように、イギリスの「自由貿易論者」は絹工業のための保護関税をしぶしぶ断念した。フランスからの輸入に対抗する保護に代わって、今後はイギリスの工場児童の無保護が役だつのである。〉(全集第23a巻387頁)

  これは〈工場監督官たちの抗議は半年ごとに繰り返されてきたにもかかわらず、この不法は今日まで続いているのである(176)。〉というパラグラフの末尾の一文に対する原注です。
  こうした絹工業の児童労働に対する不法というのは、イギリスの絹工業がフランスからの絹製品の輸入に対抗するための保護関税を「自由貿易」を掲げる手前、しぶしぶ撤廃した代償として役立っているのだという指摘がなされています。

  イギリスの絹工業における保護関税についてAI(CatGPT)で調べると次のような説明がありました。
  〈スミスフィールド条約 (1824年): イギリスはフランスとの間でスミスフィールド条約を締結し、フランスからの絹製品の輸入に対して保護関税を導入しました。これにより、国内の絹産業を守るための一環として、一定の輸入制限や課税が行われました。〉
  それが撤廃された事情については
  〈全般的な傾向として、19世紀後半においては保護関税の撤廃や自由貿易が進展していったと言えます。
  特に1840年代から1850年代にかけて、イギリスでは自由貿易の考え方が強まり、関税法の大幅な改革が行われました。例えば、1846年にはコーン法(Corn Laws)が廃止され、穀物の輸入関税が大幅に緩和されました。これは保護主義から離れ、自由貿易路線に進む一環でした。〉
  というものです。


◎第34パラグラフ(1853年にようやく1850年法の児童労働に対する規定がない欠陥が補足された)

【34】〈(イ)1850年の法律は、ただ、「少年と婦人」について朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変えただけだった。(ロ)だから、児童については変わったところはないのであって、彼らは、その労働の総時間は6時間半を越えてはならなかったとはいえ、相変わらずこの12時間が始まる前に半時間、それが終わってから2時間半利用されてよかったのである。(ハ)この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出された。(ニ)しかし、むだだった。(ホ)背後には、好況期には児童を補助とする成年労働者の労働日を再び15時間にねじ上げようとする意図が待ち伏せていた。(ヘ)次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示した(177)。(ト)こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足された。(チ)それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した(178)。(リ)最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた(179)。〉(全集第23a巻387頁)

  (イ)(ロ) 1850年の法律は、ただ、「少年と婦人」について朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変えただけでした。だから、児童については変わったところはなかったのであって、彼らは、その労働の総時間は6時間半を越えてはならなかったとはいえ、相変わらずこの12時間が始まる前に半時間、それが終わってから2時間半利用されてよかったのです。

  ここらあたりの事情は『歴史』でも次のように述べています。

  〈だが、一般的に、1850年法の実効性については満足の意が表明されたけれども、依然としていくつかの適用もれが残されていた。その主な適用もれは児童に関するものであり、児童に対しては、まだ標準労働日が制定されていなかった。1850年法は1847年法を修正したものであり、その1847年法は婦人と年少者の労働だけを対象としていた。そうであるから、1844年法によれば、依然として、午前5時30分から午後8時30分までのあいだであるならば、8歳から13歳までの児童をどの時間に働かせても合法であるとされていた。〉(108頁)

  1850年法ではじめて標準労働日がはっきりと決められたが、しかしそれは少年と婦人労働者に対象が限定されており、児童に対する規定はなにもなかったというのです。もちろん1844年法によって13歳未満の児童の労働は1日6時間半、一定の条件のもとでは1日7時間と決められていましたが、しかし依然として午前5時半から午後8時半までのあいだであるならいつでも資本の都合で働かせることができたということです。

  (ハ)(ニ)(ホ) この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出されました。しかし、むだでした。背後には、好況期には児童を補助とする成年労働者の労働日を再び15時間にねじ上げようとする意図が待ち伏せていたのです。

  そのあたりの事情も『歴史』を参考に紹介しておきましょう。

  まず〈この法律の審議中に、議会にはこの変則の無恥な乱用に関する一つの統計が工場監督官たちによって提出された〉とありますが、それは恐らく次のようなものだったのではないかと思われます。

  〈1850年に、257工場が3,742人の児竜を雇用し、婦人と年少者が仕事を終わったのち、かれらを助手として18歳以上の大人の男子のもとで働かせている、と監督官は報告している。このようなやり方がひろまり、数多くの脱法行為が行なわれた〉(108頁)

  つまり少年と婦人労働者の仕事が終わったあとに(あいはその前に)児童を大人の男子労働者の補助として使って、大人の男子労働者の労働時間を15時間に延長しようとしていたということのようです。
  次に1850年法に児童労働に関する規定も盛り込もうとする動きについては……

  〈1850年、アシュリィ卿は修正法のなかに児童をふくめることが必要であると主張し、その趣旨にそった修正案を提出した。だが、その修正案は、つぎのような理由によって、2度とも--一度目は30票の差で、二度目は1票の差で--否決された。すなわち、アシュリィ卿の本当の動機は、働く児童に対する同情からでたものではなく、大人の男子の労働を制限したいという要求からでたものであり、かれらは児童が補助しなければ、工場の仕事を遂行することができない、というのがその理由であった〉(108頁)

  要するに資本は、少年や婦人が仕事が終わったあとに、児童を18歳以上の大人の男子労働者の補助として働かせることに利益を見いだしていたからであり、それによって成年労働者の労働日を再び15時間に延長しようという意図があったからだということです。

  (ヘ)(ト) 次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示しめしました。 こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足されたのでした。

  『歴史』でも児童を大人の補助として少年や婦人が仕事を終えたあとに利用するという無法がまかり通ったので〈このようなやり方がひろまり、数多くの脱法行為が行なわれた結果、「時間短縮委員会」は運動を再開した。〉(108頁)とのべています。
  労働者たちは労働時間の制限をすべての労働者に適用するためには、動力機の使用を制限するべきだと主張し、ランカシャやヨークシャにおいていくたびも集会を開いたと述べています。1850年1月、トッドモーデンの大集会では〈「多くの地方において、工場法の諸条項違反がある。そのため、同法を忠実に守っている雇主は明らかに不利な立場に立たされ、また労働者はいちじるしい重荷を負わさ/れている。そうであるから、そのような違反を防ぐ唯一の有効な手段は動力機の使用制限である、というのが当集会の意見である。」〉(108-109頁)という決議がなされたということです。そして次のように書かれています。

  〈つづく数年間、「10時間労働日法」をその本来の姿に戻すことを目的として、大規模で熱狂的な集会がつぎつつぎと開かれた。そうして、演説者たちが一貫して主張したことは、動力機の使用を制限しないかぎり、この目的を達成することができない、ということであった。かれらはすべての工場立法が間接的に大人の男子の労働を規制したことを十分に理解していたが、いまや、労働時間制限を直接かれら自身にも拡張すべきである、と堂々と要求するようになった。〉(109頁)

  1853年法については次のように述べています。

  〈同法によって、標準労働日は児童に拡張された。児童の法定労働時間--すなわち、毎日6時間半、または1週3日は10時間--はこれまでと同じであったが、もはや児童を午前6時以前または午後6時以後に働かせてはならない、と規定された。そうして、水力によって操業している工場で損失時間が生じた場合、そのような損失時間を取り戻すために児童を1日1時間以上働かせてはならない、と規定された。〉(111頁)

  (チ)(リ) それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制したのです。それは最初の工場法の制定以来、すでに半世紀が流れ去っていたのでした。

  『歴史』も次のように書いています。

  〈この1853年法は、法律によってすべての保護該当者に一律労働日を制定するという好ましい結果をもたらし/た。すなわち、それ以降、使用者はもはや1日に15時間操業することができなくなった。〉(111-112頁)

  ここにようやくすべての労働者を対象にした標準労働日が制定されたわけてす。それは1802年に最初の労働日の法的規制が問題になってから、すでに半世紀(51年)も経っていたのです。
  もっとも1853年法以降も悪質な雇主はさまざまな違法を行為を引き続き行ったとも『歴史』は次のように書いています。

  〈だが、全体としてみるならば、最初のうち、製造業主は標準労働日を守っていたけれども、しばらくすると、かれらは監督官が「噛り取り」と名づけたものにふたたび手をだしはじめた。すなわち、この「噛り取り」とは、朝の6時数分前から仕事をはじめ、夜の6時10分過ぎまで仕事をつづけることによって、労働時間を延長し、食事時間の始めと終りの数分間をぬすんで就業させることによって、食事時間を短縮するというやり方である。このようにして、悪質な雇主は1年間に1ヵ月分の追加労働を手に入れることができたが、これに対して、監督官はそのやり方をやめさせる権限をほとんどもっていないことに気づいた。1844年法によれば、「反証があげられないかぎり」工場内に人さえいれば、仕事中とみなされた。ホーナー氏はつぎのようにのべている--「いまでは、悪質な工場主にとって、反証をあげることほど容易なことはない。監督官が巡察に来るとすぐに、かれは蒸気機関をとめ、そうしてすべての作業をやめさえすればよい。だが、監督官はあらゆる情報のなかから、かれに訴えでた特定の人物が実際に就業させられていたということを証明しなければならない。1日の総労働時間は細分化された時間からなっており--そうして、それは労働日を6つの異なった時間に分けて行なわれる--違法作業がはじまるとすぐに、監督官が工場に来たことを知らせるために見張り人がおかれ、監督官の姿がみえるとすぐに、発動機をとめ、労働者を工場の外に出す合図が送られるのである。」〉(112頁)


◎原注177

【原注177】〈177 『工場監督官報告書。1853年4月30日』、30べージ。〉(全集第23a巻387頁)

  これは〈次の3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗にあって失敗せざるをえないことを示した(177)。〉という本文に付けられた原注です。
  1850年法の欠陥を突いて、資本は児童を少年や婦人の仕事が終わったあとに成年男子労働者の補助として使い、成年男子労働者の労働時間を再び15時間に延長しようと策動したのですが、しかしその試みは労働者の抗議の大集会などによって失敗に終わり、1853年法へと結果したことが工場監督官報告書に書かれているということでしょうか。


◎原注178

【原注178】〈178 (イ)イギリスの綿工業の最盛期、1859年と1860年とには、何人かの工場主は、超過時間にたいする高い労賃という餌(エサ)で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとした。(ロ)手紡工や自動機見張工は、自分たちの雇い主にあてた覚え書によってこの実験をやめさせたが、そこにはなかんずく次のように述べられている。(ハ)「率直に言って、われわれの生活はわれわれには重荷なのである。そして、われわれが他の労働者たちよりも週にほとんど2日」(20時間)「も長く工場に縛りつけられているかぎり、われわれは自分たちをこの国の奴隷にも等しいものと感じ、また、われわれ自身とわれわれの子孫とを肉体的にも精神的にも毒するような制度を永久化するものと心にやましく思うのである。……それゆえ、われわれは、新/年からは、1時間半の法定の中休み時間の控除をも含めて6時から6時まで、週に60時間よりも長くは1分間も労働しないであろうことを、ここに謹告する。」(『工場監督官報告書。1860年4月30目』、30ぺージ。)〉(全集第23a巻387-388頁)

  これは〈こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はよりおそくまで働かせること」の禁止によって補足された。それからは、わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した(178)。〉という本文に付けられた原注です。若干、長いものになっていますので、文節にわけて検討しておきましょう。

  (イ) イギリスの綿工業の最盛期、1859年と1860年とには、何人かの工場主は、超過時間にたいする高い労賃という餌(エサ)で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとしました。

  1859年と1860年の綿工業の最盛期に、何人かの工場主たちは、超過時間への高い労賃の支払をという餌で、成年男子紡績工などに労働日の延長を承諾させようとしました。
  調べてみますと1859年にはインドで「綿花飢饉」と呼ばれる不作が発生し、綿花の価格が高騰したために、イギリスでは代替品としてアメリカ産の綿花が輸入されるようになり、1860年には、アメリカ南部で南北戦争が勃発して、やはり綿花の生産が減少し、綿花の価格が高騰したとあります。だから1859年と1860年は必ずしも綿工業の最盛期とはいえないかも知れません。

  (ロ)(ハ) 手紡工や自動機見張工は、自分たちの雇い主にあてた覚え書によってこの実験をやめさせたが、そこにはなかんずく次のように述べられています。「率直に言って、われわれの生活はわれわれには重荷なのである。そして、われわれが他の労働者たちよりも週にほとんど2日」(20時間)「も長く工場に縛りつけられているかぎり、われわれは自分たちをこの国の奴隷にも等しいものと感じ、また、われわれ自身とわれわれの子孫とを肉体的にも精神的にも毒するような制度を永久化するものと心にやましく思うのである。……それゆえ、われわれは、新/年からは、1時間半の法定の中休み時間の控除をも含めて6時から6時まで、週に60時間よりも長くは1分間も労働しないであろうことを、ここに謹告する。」(『工場監督官報告書。1860年4月30目』、30ぺージ。)

  しかしその試みは失敗に終わったということです。手紡工や自動機見張工たちは、雇主たちにあてた覚え書きでそうした試みをやめさせたということです。その覚え書きでは、労働者の生活は苦しく、その上に労働時間が延長されるなら、労働者は奴隷にも等しいと感じさせるものだ、またそうした労働時間の延長を常態化させるなら、自分たちはもちろ自分たちの子孫までも、肉体的にも精神的にも毒する制度を永遠化することになり心やましいと述べ、週60時間を1分たりとも延長することは御免被ると書いているということです。


◎原注179

【原注179】〈179 この法律の用語が、この法律を破るための手段になっていることについては、議会報告『工場取締法』(1859年8月9日)およびそのなかのレナード・ホーナーの『現在ますます広く行なわれている違法作業を監督官が防止しうるようにするための工場法改正提案』を参照せよ。〉(全集第23a巻388頁)

  これは〈最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた(179)。〉というパラグラフの最後の一文に対する原注です。
  ここでは1853年法でようやくすべての労働者(といっても綿業に限定されていますが)を対象にした標準労働日が制定されたというのですが、しかしこの法律の用語が、この法律を破るための手段になっているというのです。その参照指示がされているものは直接には確かめる方法はありませんが、ただ『61-63草稿』にはここに紹介されている〈議会報告『工場取締法』(1859年8月9日)およびそのなかのレナード・ホーナーの『現在ますます広く行なわれている違法作業を監督官が防止しうるようにするための工場法改正提案』〉からの抜粋があります。それがここで指摘しているものかどうかは分かりませんが、紹介しておきます。

  〈「詐欺的な工場主は、午前6時15分前に(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を始め、午後6時15分すぎに(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の始めと終りから5分ずつを奪い取り、また名目上昼食のためにとってある1時間の始めと終りから10分ずつを奪い取る。土隠日には彼は、午後2時すぎに15分間(ときにはもっと長く、ときにはもっと短く)作業をする。
  したがって彼の利得{ここでは利得(ゲイン)はくすね取られた剰余労働と直接に同一視されている}は次のとおりである。
  午前6時以前…… 15分  |
  午後6時以後…… 15分  | 5日間の合計300分
  朝食時…………  10分    | 
  夕食時…………  20分    |
  〔計〕          40分       |
  土曜には
  午前六時以前……15分 |                             朝食時…………  10分     |  1週間の利得の合計340分、
  午後二時以後……15分   |
  〔計〕          40分      |
  すなわち、週に5時間40分であり、これは、祭日や臨時休業の2週間を引いて年間50労働週間を掛ければ、27労働日に等しい」(『工場取締法。1859年8月9日、下院の命により印刷』のなかにある『工場監督官L・ホーナ氏の工場法改正提案』、4、5ページ)。〉(草稿集④344頁)


◎第35パラグラフ(立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域の外に手を伸ばした。)

【35】〈(イ)立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域の外に手を伸ばした。(ロ)資本がこの新しい「無軌道」を許したときのふきげんさは、この法律の一字一句が語っている! (ハ)この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもない。(ニ)それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許している(180)。(ホ)それは議会の早産児である(181)。〉(全集第23a巻388頁)

  (イ) 立法は、1845年の「捺染(ナッセン)工場法」によって、はじめてその元来の領域、つまり綿業の外に手を伸ばしたのです。

  この1845年の「捺染工場法」の成立過程について『歴史』はかなり長々と書いていますが、中間を端折れば次のようになります。

  〈1845年2月、アシュリィ卿は捺染場における児童の労働時間を制限するための「法案」を提出した。だが、提案された規制は、前年の「工場法」(1844年法) に比べれば、それほど厳格なものでなかったとはいえ、議会の賛成をえるために、同卿はかなり苦労し、低姿勢で弁明に努めた。……/同法(アシュリィ卿の法案に対して出されたさまざまな条件を受け入れた妥協案--引用者)はわずかにつぎのような制限を課したにすぎなかった。すなわち、捺染場において、8歳未満の児童を働かせてはならない。午後10時から午前6時までのあいだ、13歳未満の児童または婦人を働かせてはならない。6ヵ月のうち30日は、13歳未満の児童を通学させなければならない、以上であった。〉(131-133頁)

  しかしこの法律によって工場法はその元来の領域、つまり綿業からはじめてそれ以外の領域に手を伸ばしたといえるわけです。

  (ロ) 資本がこの新しい「無軌道」を許したときのふきげんさは、この法律の一字一句が語っています!

  この法律の一字一句と言われてもよく分からないですが、アシュリィ卿がこの法案を提案した及び腰にもかかわらずそれに対する反撃の内容について上記に引用した『歴史』の一文で省略した部分を紹介しておきましょう。 それは次のようなものです。

  〈同卿は「同じ種類の問題をたびたび持ち出して」、自分が「議会をまったくうんざり」させないだろうかと憂慮した。同卿は、一方的な博愛家であり、自分が攻撃する害悪よりも一層大きな害悪に対しては目をつぶっている、といって再三にわたって皮肉られた。これに対して、一度にすべてのことを解決することはだれにもできない、と反論しても無駄であった。同卿が「10時間労働日法案」を最初に提出したとき、かれの反対者たちはかれに炭坑を視察させた。そうして、かれが炭坑についたとき、かれは捺染場の問題について問いただされ--「貴方はどの点でやめるのですか」と再三にわたって問われた。これに対して、アシュリィ卿はつぎのように答えた。「この巨大な害悪の一部でも除去されずに残っているかぎり、わたくしはどこまでもやめませ/ん。これがわたくしの答えです。」同卿の願望と野心は、「わが国のすべての働く児童に教育をさずけ、その機会を与えること--(もしかれらが教育の実施によって利益をえるならば)幸福で有益な市民の一員に加えること」であった。同卿がこのときに提出した「法案」はその一部にすぎなかったが、このような包括的な工場法政策を同卿が大胆に打ち出したことが議会を驚かせたことは、疑いのないところであった。ジェイムズ・グレイアム卿はアシュリィ卿のあとで演説し、この点を取り上げ、自分はそれを「深刻に考えねばならない」問題であると考えている、とのべた。グレイアム卿は、捺染労働と普通の工場労働とのあいだには差異があることを指摘した。「機械の使用によって、工場労働は必然的に一ヵ所で行なわれる--その結果、容易に監督を行なうことができる--その結果、脱法行為は困難である--その結果、製造業で働いている人びとに対して法律を適用することは容易である。」だが、捺染場における労働は一ヵ所で行なわれるのではなく、分散して行なわれている。その結果、監督は困難であり、脱法行為は容易である。コブデンは一層強い反対論をとなえて、つぎのようにのべた。「綿工場においては、仕事は蒸気機関によって制約されている。すなわち、蒸気機関がとまれば、すべての機械がとめられる。だが、キャラコ捺染場においては、半数以上の労働者が機械とは無関係に働いている。」
  ジェイムズ・グレイアム卿は、アシュリィ卿の「法案」が染色業、漂白業、つやだし業というまったく異なった作業が行なわれている仕事場を適用対象にふくめていることに、強く反対した。また、かれは、同産業における労働に対する需要が不確定であるという理由によって、労働時間制限に反対した。「受注期には、すべてのことは仕事が滞りなく行なわれるかどうかに依存している。」「そうであるから、注文が殺到しているあいだ、この労働を制限するためになんらかの対策を講じたならば、雇主に対してだけでなく、大人の男子労働者に対しても、また児童自身に対してさえも、金銭的な損害を与える。」他方、グレイアム卿は、8歳未満の児童の雇用を禁止し、13歳未満の児童と婦人の深夜業を禁止することに関しては、アシュリィ卿に賛成の意を表明した。ただし、これには、染色業、漂白業、つやだし業についての規定と、児童労働を1日8時間に制限することについての規定を、法案から削除することを条件付けた。アシュリィ卿はこの妥協案を受け入れることにきめた。〉(131-132頁)

   (ハ)(ニ)(ホ) この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもありません。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許しています。それは議会の早産児といえます。

  この捺染業に最初に適用された工場法は、8歳から13歳までの児童と婦人の労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限したというのです。16時間で「制限」というのは驚きです。しかもその間に食事のための中休みについて何も規定はなかったということです。さらに13歳以上の男子労働者については、昼夜を問わずこき使うことを許しているというのです。つまり夜間労働も許していることになります。まったく工場法としての意義がほとんとないに等しい規制ですが、それでもようやく綿業以外に法の規制が及んだ最初のものだったということのようです。だからこの法律はまったく不十分なままに法になったという意味で、〈議会の早産児〉だとマルクスは特徴づけています。
  すでに紹介しましたが『歴史』も次のように述べていました。

  〈同法(アシュリィ卿の最初の法案に対して出されたさまざまな条件を受け入れた妥協案--引用者)はわずかにつぎのような制限を課したにすぎなかった。すなわち、捺染場において、8歳未満の児童を働かせてはならない。午後10時から午前6時までのあいだ、13歳未満の児童または婦人を働かせてはならない。6ヵ月のうち30日は、13歳未満の児童を通学させなければならない、以上であった。〉(133頁)


◎原注180

【原注180】〈180 「最近の半年間」(1857年)「私の管区では8歳以上の子供たちは実際に朝の6時から晩の9時までこき使われていた。」(『工場監督官報告書。1857年10月31日』、39ページ。)〉(全集第23a巻388頁)

  これは1845年の「捺染工場法」について、〈この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、そのあいだに食事のための法定の中休みはなにもない。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜をつうじてかってにこき使うことを許している(180)。〉という本文に付けられた原注です。
  この監督官報告書では、8歳以上の子供たちが朝の6時から晩の9時までこき使われていたというのですから、15時間労働ということになります。『工場法の規定より1時間少ないですが、しかしそれでも大変な労働時間には変わりはありません。この監督官報告書が引用されています『61-63草稿』からの一文を紹介しておきましょう。

  〈工場監督官によれば、イギリスの捺染工場の労働時間はまだ事実上無制限であり、またここでは、1857年でもまだ、8歳以上の児童が朝の6時から晩の9時まで(15時間)〔働かされて〕いる。「捺染工場の労働時間は、法定の制限があるにもかかわらず、実際上は無制限であると考えてさしつかえない。労働にたいする唯一の制限は、捺染工場法(ヴィグトーリア女王治下第8年および第9年法律/第29号)の第22条に含まれているものであって、それの規定によれば、児童--すなわち8歳以上13歳未満の児童--を夜間働かせてはならないのであるが、ここで言う夜間というのは、午後10時から翌朝の午前6時までのことと定義される。それゆえ8歳の児童を多くの点で工場労働に似た労働に就かせること、しかもしばしば、むっとするような温度の部屋で、休憩や休息のために仕事を休むこともなく連続的に午前6時から午後10時まで(16時間)労働に就かせることが、法的に許されているのである。そして13歳に達した少年は、合法的に、昼夜を関わずどれだけの労働時間でも、少しの制限も受けずに働かしてよいのである。私の管区では、この半年問、8歳以上の児童は午前6時から午後9時まで働かされてきた」(『工場監督官報告書。1857年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1857年、39ページ、A・レッドグレイヴ氏の報告)。〉(草稿集④345-346頁)


◎原注181

【原注181】〈181 「捺染工場法は、その教育条項から見ても保護条項から見ても、一つの失敗と認められている。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、52ページ。)〉(全集第23a巻388頁)

  これはパラグラフの最後の〈それは議会の早産児である(181)。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり早産児であるということの根拠として、工場監督官報告書でも〈一つの失敗と認められている〉という指摘を紹介しているのでしょう。


  ((6)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(6)

2024-01-18 23:15:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(6)


◎第36パラグラフ(労働日を法的に規制するという原則は勝利をおさめ、1860年以来の進歩になった)

【36】〈(イ)それにもかかわらず、原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた。(ロ)1853-1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映った。(ハ)法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。(ニ)いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な/新業績として宣言した(183)。(ホ)だれにもわかるように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力はしだいに弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきた。(ヘ)こうして、1860年以来の比較的急速な進歩とはなったのである。〉(全集第23a巻388-389頁)

  (イ)(ロ)(ハ) それにもかかわらず、原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていました。1853-1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映りました。法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示したのです。

  参考のためにフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈けれども、近代的生産様式の固有の創造物である大工業部門における勝利によって、原則は終局的に凱歌をあげていた。1853年から1860年までの大工業部門の驚異的な発展は、労働者の肉体的、精神的な再生と肩を並べて進み、さほど先見の明もない人々の目をも驚かせた。労働日の法律上の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって少しずつ力ずくでかちとられてきた工場主自身が、いまなお「自由な」搾取部門とこの法律の適用を受ける工場とのあいだに存在している対照を、誇らかに浮き彫りにした(149)。〉(江夏・上杉訳304頁)

  全集版の〈大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた〉という文言はやや分かりにくいですが、フランス語版では〈けれども、近代的生産様式の固有の創造物である大工業部門における勝利によって、原則は終局的に凱歌をあげていた。〉(江夏・上杉訳304頁)となっていて分かりやすいです。ここで〈原則〉といわれているのは、労働日を法的に規制するという原則のことでしょう。大工業の発展そのものが労働者の労働日を法的に規制する必要を原則としたということでしょうか。そしてそれは工場労働者の肉体的・精神的な生まれ変わりをもたらすことによって、誰の目にもハッキリしたということです。法律によってこの半世紀にわたる攻防によって少しずつ労働日の制限や規制を受け入れざるを得なかった工場主たちでさえ、いまだ法的規制を逃れている他の搾取領域との対照を、つまり規制によって保護された工場労働者の肉体的・精神的な生まれ変わった姿を、誇らしげに指し示したということです。
  〈法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。〉という部分はイギリス語版では〈法的制限と規制が、南北戦争後の半世紀、工場主らを、一歩一歩絞め上げて行ったが、今や、その工場主自身が、依然として「自由」に搾取を続ける部門と、工場法下にある部門との違いにこれ見よがしに言及するのである。〉となっています。全集版などのいう〈半世紀にわたる内乱〉というのは1802年の最初の法規制から1853年の労働日の確定までの過程を指していると思いますが、イギリス語版ではそれが〈南北戦争後の半世紀〉となっています。しかしアメリカにおける南北戦争の勃発は1861年勃発ですから年代が合いません。あるいはここでいう〈南北戦争〉は別の戦争なのでしょうか。

  (ニ) いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言したのでした。

  まずフランス語版です。

  〈「経済学」のパリサイ人たちは、自分たちの「科学」の特徴的な新発見は、労働日の法的制限の必然性を認めたことだ、と言明しはじめた(150)。〉(同前)

  〈パリサイ人〉については、新日本新書版では〈〔偽善的独善者〕〉という訳者注が付いています(513頁)。要するに、ブルジョアに奉仕することをもっぱらとしてきた「経済学」の偽善的で独善的な論者たちも、今になって、労働日が法律によって規制される必然性を「洞察」したのが、自分たちの「科学」の新しい業績だなどと言い出したということです。

  (ホ)(ヘ) だれにもわかりますように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力はしだいに弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきました。こうして、1860年以来の比較的急速な進歩となったのです。

  フランス語版てす。

  〈容易に理解されるように、工業の大立物連が、自分たちでは妨げることのできないものに服従して、既定の結果と和解までしたとき、資本の抵抗力はしだいに弱まっていったが、他方、労働者階級の攻撃力が、闘争ではなんら直接的な利害関係をもたない社会層中の労働者階級の同盟者の数とともに、増大した。そんなわけで、1860年以来の比較的急速な進歩が生じたのである。〉(同前)


  標準労働日を制定する必要が確固としてくるにしたがって、資本家たちの抵抗も次第に弱まってきて、それに反比例するように、労働者階級の力も、社会のさまざまな階層の同盟者の数も増大するなかで、強まり、1860年以来の比較的急速な進歩となったということです。この進歩の内容は次のパラグラフで明らかにされています。

  『歴史』は工場法が綿業から他の産業部門にも拡張していった背景について次のように述べています。

  〈工場法は一産業から他産業へ拡張適用されていったが、それは繊維産業において次第に確立されていった規制と監督の原理をどのように考えるかの仕かたが変化していったことと歩調をあわせている。わたくしたちが前章までにのべたように、繊維産業に対する立法の制定は、一般に人びとが暗黙のうちに、または公然と承認しているように、これらの害悪が繊維産業、いいかえるならば、工場制工業に固有である一見して明らかな弊害を理由として、要求されたのであった。……綿工場で働く児童に最初に規制が適用された本当の理由は、綿業が一定の地域に集中しており、多数の労働者が働く大きな工場のなかで操業され、しかも、そのことがある程度まで知れ渡っていたので、政府にとって、その実情がどのようなものであり、また、どのようにすればその対策を講じることができるか、ということを学ぶことが比較的容易であったからである。他の産業の状態が一層深く研究されるようになれぽ、それだけ、それらの産業を無制限の競争にまかせ/おくことが困難になるであろう、ということを同委員会の委員たちは理解することができなかった。婦人.児童労働に対する規制は非常に緩慢にしか進展しなかったし、ことに児童の場合には、ほとんど犯罪的といってよいほど、その進展は遅々としたものであった。だが、規制は確固とした経験的原則にもとついて行なわれた。ある産業において一般的である状態について正確な知識を得ることは、法的規制を実施するための不可欠の条件である。この理由からすれば、綿業は最も取り締まりやすい職種であり、ひとたびこの職種において労働時間と労働条件に関する規制原則が確立されれば、政府は一層進んだ立法制定のための出発点として、その原則をたえず念頭におくことができた。もしこの法的規制を受けた産業が他の産業との競争に敗退するどころか、逆に、前進し、その機械を改善して、競争者よりも一層高度の水準の繁栄を享受したことが実証されるならぽ、そのとき、たとえその改善が立法制定によるものでなくても、いずれにせよ、良いことが行なわれたのであり、害になることではない、という強い印象が与えられたことであろう。そうして、現実はまさにそのとおりになった。いままで、だれ一人として、議会の内外において、決起し、「これが諸君の哀れな繊維産業である。諸君の悲惨な綿業である。その衰退と破滅はすべて工場法によるものである--ただちに工場法を撤廃しようではないか」と論じることのできる者はいなかった。かれらが認めねばならなかったことは、法的規制を受けた産業の改善は明白であり、顕著であるのに対して、他の産業における不法行為は依然として醜聞の種である、ということであった。そうして、次第に政治家の発言のなかに、つぎのような確信があらわれはじめた。すなわち、過度労働と不衛生な状態の害悪は、1、2の産業だけに固有なのではなく、特別に恵まれた状態のもとにある産業をのぞけば、すべての産業にひとしくみられるものである。事実、わたくしたちは、競争をゆるし、各世代のうちの幼い子供たちの一定部分を、文字どおり「酷使」し、しかも、児童の悲惨なまでに低い賃金以外にはなんの報酬も与えずにおくことによって、資本家は国民的資源を枯渇させることをゆるしていたのである。
  1845年と1860年のあいだに、世論は驚くほど急激に、徹底的に変化した。「10時間労働日法案」をめぐる白熱した論争をみれば明らかなように、1844年には、同法案に対する反対は最も手厳しいものであった。/だが、1861年には、「イギリス学術振興協会・経済部会」の会長は、その演説のなかでつぎのようにのべることができた。「10時間労働日法案」の結果は、「すべての党派が大いに誇りにできるものである。事実、つぎのことが一般的に認められている。すなわち、もし一つの変化が生じて、それが他のなににもまして、わが国の社会機構を強化統合し、多くの腐敗と不満を一掃し、わが国の製造業を安全な基盤の上に立脚させ、そうして、決して軽んじることのでぎない外国競争の影響に対抗できるだけの資力をわたくしたちに与えたとすれば、それは、まさに労働時間に関する堅固な法的干渉制度を製造業に確立するための、賢明にして、根気強い、すぐれた努力によってもたらされた変化にほかならない。」……そうして、1867年には、工場法をすべての工場と仕事場に拡張適用する提案を、世論も好意的に受け入れた。〉(123-125頁)


◎原注182

【原注182】〈182 たとえば、1863年3月24日の『タイムズ』あての手紙のなかのE・ポッター。『タイムズ』は10時間法にたいする工場主の反逆を彼に回想させている。〉(全集第23a巻389頁)

  これは〈法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。〉という本文に付けられた原注です。
  工場主たちが誇らしげに指し示した一例として、1863年3月24日付『タイムズ』あての手紙のなかのE・ポッターを見よということでしょうか。その内容はよく分かりませんが『タイムズ』の記事が10時間法に対する工場主たちの反逆をポッターに回想させているということのようです。
  E・ポッターを人名索引で調べると次のようになっています。

  〈ポツター,エドマンド Potter,Edmund イギリスの工場主,政治家,自由貿易論者。〉(全集第23b巻84頁)

  「第7篇 資本の蓄積過程」の「第21章 単純再生産」にポッターの書簡が長々と引用されていますので、関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈アメリカの南北戦争と、それに伴って起きた綿花飢謹とのために、人の知るように、ランカシャやその他の地方で多数の綿業労働者が街頭に投げ出された。労働者階級自身のなかからも、その他の社会層からも、イギリスの植民地や合衆国への「過剰者」の移住を可能にするために国家の援助や国民の自発的寄付を求める叫びがあがった。そのとき、『タイムズ』(1863年3月24日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポ・タの一つの書簡を公表した。彼の書簡は、適切にも、下院では「工場主宣言」と呼ばれた。ここでは、そのなかから、労働力にたいする資本の所有権があからさまに表明されているいくつかの特徴的な箇所をあげておこう。/
  「綿業労働者には次のように言ってよい。彼らの供給は大きすぎる。……それは、おそらく3分の1は減らされなければならない。そうすれぽ、残った3分の2にたいする健全な需要が現われるであろう。……世論は移民を促している。……雇い主」(すなわち綿業工場主)「は、自分の労働供給が取り去られるのを見て喜んではいられない。彼はそれを不正とも不法とも思うであろう。……もしも移民が公共の財源から援助を受けるとすれば、雇い主には、意見を述べる権利があり、また、おそらくは抗議する権利があるであろう。」
  同じポッターはさらに続けて次のようなことを論じている。すなわち、綿業がどんなに有益かということ、「それは疑いもなく人口をアイルランドからもイングランドの農業地帯からも流し去った」ということ、その規模がどんなに巨大かということ、それは、1860年にはイギリスの全輸出貿易額の13分の5を供給したということ、それは数年後にはさらに市場の拡大、ことにインド市場の拡大によって、また十分な「綿花供給を1ポンド当たり6ペンスで」無理取りすることによって、拡張されるであろうということがそれである。それから彼は次のように続ける。
  「時が--たぶん1年か2年か3年が--必要量を生産するであろう。……そこで私は尋ねたい、この産業は維持するに値するか、この機械」(すなわち生きている労働機械)「を整えておくことは労に値するか、そして、これを放棄しようなどと考えるのは最大の愚ではないか! 私はそうだと思う。たしかに、労働者は所有物ではないし、ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが、彼らは両者の強みであり、精神的な、訓練された力であって、この力は一代で補充できるものではない。ところが、もう一つの、彼らが使用する機械は、大部分は、12カ月で有利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を奨励したり許可したりして(!) いったい資本家はどうなるのか?/
  この心痛は侍従長カルプを思い出させる。
  「……労働者の精鋭を取り去ってしまえば、固定資本は非常に減価し、流動資本は劣等な労働のわずかな供給では戦いに身をさらさないであろう。……われわれは、労働者たち自身も移住を希望しているということを聞く。彼らがそれを望むのは非常にもっともである。……綿業の労働力を取り上げることによって、彼らの賃金支出を3分の1とか500万とか減らすことによって、綿業を縮小し圧迫すれば、そのとき労働者たちのすぐ上の階級である小売商人はどうなるだろうか? 地代は、小屋代は、どうなるだろうか? 小さな農業者、いくらかましな家主、そして地主はどうなるだろうか? そして、このような、一国の最良の工場労働者を輸出し一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に、一国のすべての階級にとって自殺的な計画がありうるだろうか?」「私は、救済を受ける人々の道徳的水準を維持するために、ある種の強制労働を伴う特別な法律的取締りのもとに、綿業地帯の救貧局に付設される特別委員会の管理する2年か3年にわたる500万か600万の貸付を勧告する。……大規模な、あとをからにしてしまう移民と、一地方全体の価値と資本とをなくしてしまうこととによって、彼らの最良の労働者を捨て去り、あとに残った人々を堕落させ無気力にするということ、地主や雇い主にとってこれ以上にわるいことがありうるであろうか?」/
  綿業工場主たちのえり抜きの代弁者ポッターは、「機械」の二つの種類を区別している。それはどちらも資本家のものであるが、一方は彼の工場のなかにあり、他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく、他方は生きている。生命のない機械は、毎日損傷して価値を失ってゆくだけではなく、その現に存在する大群のうちの一大部分が不断の技術的進歩のために絶えず時代遅れになってゆき、わずか数か月でもっと新しい機械と取り替えることが有利になることもある。反対に、生きている機械は、長もちがすればするほど、代々の技能を自分のうちに積み重ねれば重ねるほど、ますます改良されてゆくのである。『タイムズ』はこの大工場主に向かってなかんずく次のように答えた。
  「E ・ポッター氏は、綿業工場主たちの非常な絶対的な重要さを痛感するあまり、この階級を維持しその職業を永久のものにするために、50万の労働者階級をその意志に反して一つの大きな道徳的救貧院のなかに閉じ込めようとしている。この産業は、維持するに値するか? とポッター氏は問う。たしかに値する、あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を整えておくことは労に値するか? とさらにポッター氏は問う。われわれはここではたと立ち止まる。機械とポッター氏が言うのは人間機械のことである。」なぜならば、彼は、自分はそれを絶対的所有物として取り扱うつもりはない、と断言しているからである。じつを言えば、われわれは、人間機械を整えておくこと、すなわち、必要になるまでそれを閉じ込めて油を塗り込んでおくことが『労に/値する』とは思わないし、また可能だとさえも思わないのである。人間機械には、いくら油を塗っても磨きをかけても働かずにいれぽ錆びるという性質がある。そのうえ、人間機械は、一見してわかるように、かってに蒸気を起こして破裂したり、われわれの大都市であばれ回ったりすることもできる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産にはいくらか長い時間がかかるかもしれないが、しかし、機械技術者と貨幣とがあれば、いつでもわれわれは勤勉で屈強な働き手を見いだすであろうし、それによって、われわれが使いきれないほど多くの工場主を製造するであろう。……ポッター氏は、1年か2年か3年でこの産業が復活するもののように言って、われわれに、労働力の移住を奨励したり許可したりしないように望んでいる! 労働者が移住を望むのは当然だ、と彼は言う。しかし、彼の考えるところでは、この国は、この50万の労働者とこれにたよっている70万人とを、彼らの希望に反して、綿業地帯に閉じ込め、その必然の結果である彼らの不満を暴力で抑えつけ、彼らを施し物で養わなければならないのであり、しかも、いっさいは、綿業工場主たちがいつか再び彼らを必要とするかもしれないということをあてにしてのことなのである。……『この労働力』を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うためにこの島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」
  この『タイムズ』の論説は、ただの知恵くらべでしかなかった。「大きな世論」というのは、じつは、工場労働者は工場の付属動産だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼らの移住は阻止された。人々は彼らを綿業地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込めた。そして、彼らは相変わらず「ランカシャの綿業工場主たちの強み」となっているのである。〉(全集第23b巻747-751頁)


◎原注183

【原注183】〈183 なかでも、トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるW・ニューマーチ氏。世論にたいしていくじのない譲歩をすることが科学的な進歩なのだろうか?〉(全集第23a巻389頁)

  これは〈いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言した(183)。〉という本文に付けられた原注です。トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるニューマーチが、世論にいくじのない譲歩をしたということで、そうした〈「経済学」のパリサイ人〉の一人だと述べています。第36ラグラフの付属資料に草稿集④からの引用を付けましたが、そこでは次のように述べています。

  〈それにしても工場主たちの実践的抵抗は、彼らの代弁者かつ弁護者である職業的経済学者たちが行なった理論的抵抗よりも大きくはなかった。というのは、なにしろ、トゥックの『物価史』の共編者であるニューマーチ氏が、イギリス技芸協会(協会の名称は調べること)の、1861年9月にマンチェスターで開かれた最近の会議で、経済学部門の議長として、工場等における標準労働日の法律的規制およぴ強制的制限の必然性を洞察したことは今日の経済学の最新業績の一つであり、今日の経済学はこの点でその先行者たちよりもすぐれているのだ、と力説しないではいられないと感じたほどなのだから!〉(草稿集④341頁)

  ここではニューマーチは俗物としてあげられていますが、『資本論』の第3部第5章(篇)では議会の証言者の一人としてマルクスはいろいろとその証言を引用して論じています。『資本論辞典』からその概要を紹介しておきましょう。

  ニューマーチ Wi11iamNewmarch (1820-1882) イギリスの経済学者・統計学者.……銀行業等にかんする知識を通じてトゥックの知過を受け,トゥックの主著“History of Prices"第4巻(1848) の編集に当っても協力したが.同書の第5巻,第6巻(1857)では共著者として,数多くの統計の蒐集と分析に当った.……/1857年6月5日,彼は下院の銀行法特別委員会に喚問され,イングランド銀行の二部局分離.公定歩合の水準,運営機構,金属準備などの諸問題について証言を行なった。『資本論』において引用されているのは,この証言であるが,特にその後半には厳密な批判が加えられている.……(以下、『資本論』で取り上げられている証言の主な内容とその問題点が指摘されていますが省略します。)〉(526頁)


◎第37パラグラフ(それ以外のさまざまな工場への工場法の適用)

【37】〈(イ)染色工場と漂白工場(184)とは1860年に、レース工場と靴下工場とは1861年に、1850年の工場法の適用を受けることになった。(ロ)『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)によってこれと運命を共にしたものには、あらゆる種類の土器の製造場(製陶工場だけではない)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場(fustian cutting)があり、また「仕上げ」という名称で一括される多くの工程があった。(ハ)1863年には「屋外漂白業(185)」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになり、これによって、屋外漂白業は児童と少年と婦人との夜間(晩の8時から朝の6時まで) の労働を禁止され、製パン業は晩の9時から朝の5時までは18歳未満の製パン職人を使用することを禁止された。(ニ)その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしよう(185a)。〉(全集第23a巻389頁)

  (イ) 染色工場と漂白工場とは1860年に、レース工場と靴下工場とは1861年に、1850年の工場法の適用を受けることになりました。

   前パラグラフで労働時間を法的に規制する原則が勝利することよって、〈1860年以来の比較的急速な進歩とはなった〉とありましたが、ここではまず染色工場と漂白工場に1860年に、レース工場と靴下工場には1861年に、それぞれ1850年の工場法が適用されるようになったということです。
  1850年の工場法とは、第34パラグラフにありますように、標準労働日を確定した法律です。それは直接には1848年法に少年と婦人の労働時間を朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変更しただけでしたが、その後、1853年には1850年法に欠けていた児童労働に関する規定も入れられ、〈わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した〉と言われていたのでした。それが綿業だけではなくて、染色工場や漂白工場、レース工場や靴下工場にも適用されたということです。

  (ロ) 『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)によってこれと運命を共にしたものには、あらゆる種類の土器の製造場(製陶工場だけではありません)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場(fustian cutting)があり、また「仕上げ」という名称で一括される多くの工程がありました。

  『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)については、これまでにも第3節の第3パラグラフや第8パラグラフで製陶業における児童労働の実態を紹介するのに利用されています。第12パラグラフでは壁紙工場の児童労働の実態を紹介するのに引用されています。また第5節の原注114で製陶工場主たちが強制法が必要であると確信したという文言が引用されています。それ以外にも、後の章でもいろいろと引用されたりしていますが、その紹介は不要でしょう。
  要するに『児童労働調査委員会』の第一次報告書が1863年に出されたことによって、そこで取り上げられている。土器の製造業、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場、あるいは「仕上げ」という名称で一括される多くの工程に働く児童たちに対しても、やはり1850年法が工場法として適用されるようになったということでしょうか。

  (ハ) 1863年には「屋外漂白業」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになりました。そしてこれによって、屋外漂白業は児童と少年と婦人との夜間(晩の8時から朝の6時まで) の労働が禁止され、製パン業は晩の9時から朝の5時までは18歳未満の製パン職人を使用することが禁止されたのです。

  また1863年には「屋外漂白業」と製パン業とが特別な法律の適用を受けるようになったということです。そしてこれによって、屋外漂白業では児童と少年と婦人の夜間労働が禁止され、製パン業は18歳未満の労働者の夜間労働を禁止されたということです。

  (ニ) その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしましょう。

  その後も『児童労働調査委員会』から農業と鉱山業と運輸業とを除いた、あらゆる重要産業部門を対象にした児童労働の規制を行う緒提案が出されたということです。しかしこれについてはあらためて述べるとだけ書いているだけです。


◎原注184

【原注184】〈184 (イ)1860年に制定された漂白業と染色業とに関する法律は、労働日を1861年8月1日には暫定的に12時間に、1862年8月1日には最終的に10時間に、すなわち平日は10時間半、土曜は7時間半に短縮することを規定している。/(ロ)ところが、そのいやな1862年がやってきたときには、また古い茶番が繰り返された。(ハ)工場主諸君は、少年と婦人を12時間働かせることをもう1年だけ猶予してもらいたい……と議会に請願した。(ニ)「現在の営業状態(綿花飢饉時代の)では、毎日12時問ずつ労働してできるだけたくさん労賃をかせぐことが許されれば、労働者にとって大きな利益である、と。……この趣旨の一法案を下院に提出することにはすでに成功していた。それが成立しなかったのは、スコットランドの漂白業労働者の運動によるものだった。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、14、15ページ。) (ホ)こうして、労働者の名で語っている体(テイ)を装ったのに、当の労働者に撃退されてしまったので、資本は、次には法律家のめがねを借りてきて、1860年の法律は、「労働保護」のための法律がみなそうであるように、意味の紛らわしいひねった言葉づかいで書かれていて、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているということを発見した。(ヘ)いつでも資本の忠僕であるイギリスの司法権は、「民事」裁判所によって、三百代言的論法を承認した。(ト)「それは労働者のあいだに大きな不満の念をかきたてたのであるが、用語の定義の不完全が口実にされて立法の明白な意図が無にされてしまうのは、残念至極である。」(同前、18ページ。)〉(全集第23a巻389-390頁)

  これは〈染色工場と漂白工場(184)〉という本文に付けられた原注です。やや長文ですので、文節に分けて検討しておきましょう。

  (イ) 1860年に制定された漂白業と染色業とに関する法律は、労働日を1861年8月1日には暫定的に12時間に、1862年8月1日には最終的に10時間に、すなわち平日は10時間半、土曜は7時間半に短縮することを規定しています。

  1860年に制定された漂白業と染色業に関する法律は、労働日を最初は暫定的に12時間に、
そして最終的には10時間に規制するものだったということです。
  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈186O年に、漂白染色作業場法が発布された。
  捺染作業場法漂白染色作業業法工場法における規定は、それぞれ異なっている。  「漂白・染色作業場法はすべての婦人および少年の労働時間を午前6時から午後8時までのあいだに制限しているが、児童は午後6時すぎに労働させることを許していない。捺染作業場法は婦人、少年、児童の労働時間を午前6時から午後10時までのあいだに制限し、児童については、土曜日以外のどの日にも午後6時以前に5時間、どこかの学校に出席してくることを条件としている」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、20、21ページ)。「工場法は、1日に1時間半が与えられるべきこと、この1時間半は午前7時30分から午後6時のあいだに取られるべきであり、そのうち1時間は午後の3時以前に与えられるべきこと、また児童、少年、婦人のいずれも、いかなる日も午後の1時以前に、食事のための少なくとも30分の休憩時間を置かずに5時間以上使用されてはならないこと、を規定している。……捺染法には、……食事時間についての規定はまったくない。したがって、少年も婦人も、靭の6時から夜の10時まで、食事のための休止なしに労働してもいい」(同前、/21ページ)。「捺染作業場では、児童は朝の6時から夜の10時までのあいだ労働してもいい。……漂白作業場法によれば、児童は、工場法の規定どおりに労働することしか許されないが、少年および婦人については、日中行なわれてきた彼らの労働が引き続き晩の8時まで継続されてもいい」(同前、22ページ)。〉(草稿集④362-363頁)

  (ロ)(ハ)(ニ) ところが、そのいやな1862年がやってきたときには、また古い茶番が繰り返されたのです。工場主たちは、少年と婦人を12時間働かせることをもう1年だけ猶予してもらいたい……と議会に請願しました。「現在の営業状態(綿花飢饉時代の)では、毎日12時問ずつ労働してできるだけたくさん労賃をかせぐことが許されれば、労働者にとって大きな利益である、と。……この趣旨の一法案を下院に提出することにはすでに成功していた。それが成立しなかったのは、スコットランドの漂白業労働者の運動によるものだった。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、14、15ページ。) 

  〈そのいやな1862年〉という部分は新日本新書版では〈不吉な年である1862年〉(514頁)となっています。ようするに2年間の猶予期間が終わる1862年ということです。それが近づくと、おきまりの工場主たちの反撃が生じたということです。あと1年猶予してほしいという請願が議会に出されということで。
  彼らはそれが如何にも労働者のためであるかに装って、1861年の南北戦争によって綿花の生産がストップして綿花飢饉が生じたことを理由に、毎日12時間労働して労賃をかせぐことが労働者にとっても利益だから、などという理由をあげたということです。しかしそれが成立しなかったのはスコットランドの漂白業労働者の運動によるものだったと報告書は書いています。

  『61-63草稿』では工場主たちの反対理由について次のよう述べています。

  〈プラトンが分業をよしとするおもな論拠は、1人の人がさまざまな労働を行ない、したがっていずれかの労働を副業として行なう場合には、生産物が労働者の都合を待たねばならないが、むしろ逆に、労働のほうが生産物の要求するところに従うべきだ、ということであったが、最近、漂白業者と染色業者が、工場法{漂白染色作業場法は1861年8月1日に施行された}に従うことに抵抗して、同じことを主張している。すなわち、工場法--この問題に関連する同法の諸条項は漂白云々〔漂白・染色作業場法〕にもそのまま用いられている--によれば、「食事のために与えられている1時間半のどの部分であろうと、食事時間中に児童、少年、婦人を使用してはならない、あるいは、なんらかの製造工程が続けられているいかなる場所にも彼らをとどめることは許されない。またすべての少年および婦人にたいして、1日のうちの同じ時間に食事時間が与えられなければならない」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年)。〔同報告書は言う、〕--「漂白業者は、食事時間をいっせいに与えるという彼らにたいする要求に不平を鳴らして、次のように抗弁する、--工場の機械ならいつ停めても損害は生じないかもしれないし、また停めて生じる損失は生産を逸することだけであるけれども、けば焼き、水洗い、漂白、つや出し、染色のようなさまざまの作業は、どの一つをとってもそれを勝手なときに停めれば、損害の生じる危険がかならずある。……労働者の全員に同一の食事時間を強制することは、作業の不完全さからときとして高価な品物を損傷する危険にさらすことになるかもしれない、と」(同前、21、22ページ)。(同一の食事時間を決めるのは、そうしなければそもそも労働者に食事時間が与えられているかどうかを監督することさえ不可能になるからである。)〉(草稿集④509頁)

   (ホ) こうして、労働者の名で語っている体(テイ)を装ったのに、当の労働者に撃退されてしまったので、資本は、次には法律家のめがねを借りてきて、1860年の法律は、「労働保護」のための法律がみなそうであるように、意味の紛らわしいひねった言葉づかいで書かれていて、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているということを発見したのでした。

  結局、労働者のためであるかに装ったのに、肝心の労働者自身からの反撃で撃退されてしまった工場主たちは、今度は法律家に頼って、1860年の法律は、意味の紛らわしい言葉で書かれているとか、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているという発見などをしたということです。

  (ヘ)(ト) いつでも資本の忠僕であるイギリスの司法権は、「民事」裁判所によって、三百代言的論法を承認した。「それは労働者のあいだに大きな不満の念をかきたてたのであるが、用語の定義の不完全が口実にされて立法の明白な意図が無にされてしまうのは、残念至極である。」(同前、18ページ。)

  そして資本の忠実な僕である司法権は、そうした工場主たちの弁護を買って出た法律家たちの屁理屈を承認したのでした。監督官報告書は、そうした判決に労働者たちは大きな不満をもったが、ささいな用語の詮索によって律法の明確な意図がはぐらかされたのは、非常に遺憾であると書いているということです。


◎原注185

【原注185】〈185 (イ)「屋外漂白業者」は、婦人には夜間労働をさせていないといううそによって、1860年の「漂白業」に関する法律の適用を免れていた。(ロ)このうそは工場監督官によってあばかれたが、同時に、議会は、労働者の請願によっても、草原の清涼と結びついた「屋外漂白業」の観念を取り去られた。(ハ)この屋外漂白業では、華氏の90度から100度の乾燥室が使用されていて、そこではおもに少女が労働している。(ニ)「冷却」〔“cooling"〕というのは、時おり乾燥室から外気に逃げ出すことを表わす術語である。(ホ)「乾燥室にいる少女15人。リンネルには80度から90度、ケンブリク〔上質リンネル〕には100度かそれ以上の高温。12人の少女が約10フィート平方の小室でアイロンをかけたり布を広げたりしており、まんなかに密閉したストーブが一つある。少女たちはストーブのまわりに立っており、ストーブは恐ろしい熱気を放射してアイロン女工たちのために急速にケンブリクをかわかす。この女工たちの時間は制限されていない。忙しい時には、彼女らは何日も続けて夜の9時か12時まで労働する。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、56ページ。)(ヘ)ある医師は次のように言明している。(ト)「冷却のために特別な時間は与えられていないが、気温が堪えられないほどになるとか、女工の手が汗でよごれたときには、数分間出て行くことが彼女らに許されている。……この女工たちの病気の手当てをしたときの私の経験から、彼女たちの健康/状態が紡績女工のそれよりもずっと劣っていることを確認せざるをえない。」(それなのに、資本は議会への請願書のなかでは彼女たちをルーベンスのような手法で超健康的に描いたのだ!)「彼女たちの病気のうちで最も目につくのは、肺結核、気管支炎、子宮病、最もひどい形のヒステリー、そしてリューマチスである。すべてこのようなことは、私の信ずるところでは、直接または間接に、彼女たちの作業室の熱しすぎた空気から起きるのであり、また、冬のあいだ帰宅するときに彼女たちを冷たい湿った大気から保護するための十分な気持ちのよい衣服がないことから起きるのである。」(同前、56、57ページ。)(チ)工場監督官たちは、上きげんの「屋外漂白業者」から遅ればせにかち取られた1863年の法律について、次のように述べている。(リ)「この法律は、それが与えているように見える保護を労働者に与えることに失敗しただけでなく、……それは、児童と婦人が晩の8時以後に労働している現場を押えたときにはじめて保護が加えられるように書かれてあり、しかも、その場合でも、所定の証明方法には、ほとんど罰することができなくなるようなただし書がついているのである。」(同前、52ページ。)(ヌ)「人道的な目的や教育上の目的をもつ法律としては、それは完全に失敗している。なぜならば、年齢に関する制限も男女の差別もなく、漂白工場の付近の家族の社会的な慣習も顧慮せず、食事は都合しだいであったりなかったりで毎日14時間、おそらくはもっと長い時間労働することを、婦人や児童に許すということ、または、同じことになるのだが、彼らに強制するということは、人道的とは言えないからである。」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)〉(全集第23a巻390-391頁)

  これは〈1863年には「屋外漂白業(185)」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになり、〉という本文に付けられた原注です。つまり「屋外漂白業」についての注といえます。

  (イ) 「屋外漂白業者」は、婦人には夜間労働をさせていないといううそによって、1860年の「漂白業」に関する法律の適用を免れていました。

  『歴史』にも〈1860年7月二七日、法案(「漂白・染色仕事場法案」--引用者)は第三読会を通過した。同法は屋外の漂白場をのぞく屋内の漂白・染色場に「工場法」を適用した。〉(140頁)とあります。その理由は、婦人には夜間労働をさせていなといううそだったということです。しかし同じ『歴史』は〈1862年、屋外の漂白場における深夜業を禁止した「法律」が議会を通過した。〉(同前)とも述べています。

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) このうそは工場監督官によってあばかれたました。同時に、労働者の請願によっても、議会は、草原の清涼と結びついた「屋外漂白業」の観念は取り去らわれました。この屋外漂白業では、華氏の90度から100度(セ氏約32度ないし約38度)の乾燥室が使用されていて、そこではおもに少女が労働しています。「冷却」〔“cooling"〕というのは、時おり乾燥室から外気に逃げ出すことを表わす術語なのです。「乾燥室にいる少女15人。リンネルには80度から90度、ケンブリク〔上質リンネル〕には100度かそれ以上の高温。12人の少女が約10フィート平方の小室でアイロンをかけたり布を広げたりしており、まんなかに密閉したストーブが一つある。少女たちはストーブのまわりに立っており、ストーブは恐ろしい熱気を放射してアイロン女工たちのために急速にケンブリクをかわかす。この女工たちの時間は制限されていない。忙しい時には、彼女らは何日も続けて夜の9時か12時まで労働する。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、56ページ。)

  婦人は夜間労働をしないなどという屋外漂白業者のうそは工場監督官によって暴かれたということです。その報告書では屋外とはいうものの実際には大変熱い乾燥室のなかでの作業で、ときどき外に出て外気に逃げ出すことがあるだけのもののようです。報告書ではその作業の詳しい様子が書かれていますが、劣悪な労働環境であり、しかも忙しいときには、何日も続けて夜の9時から12時まで、つまりほぼ夜間労働をやっているということです。

  『歴史』でも漂白業と染色業の実態について次のように述べています。

  〈労働者はしぼしば華氏90度から130度にも達する高温にさらされながら、ときには1日に16時間または18時間もの長時間にわたって、立ちどおしであるという害悪をこうむっていることが明らかにされた。これらの仕事場で働く多数の婦人と少女が寝泊りする小屋へ診察に行った外科医のリヅチモンド氏は、労働時間に応じて病人名簿の患者数が増減している、と証言した。すなわち、仕事がひまな時期には、かの女たちのうちで病人はごくわずかであったが、かの女たちが所定時間働いたり、残業をした場合には、多数の病人がでた。〉(138頁)

  (ヘ)(ト) ある医師は次のように言明しています。「冷却のために特別な時間は与えられていないが、気温が堪えられないほどになるとか、女工の手が汗でよごれたときには、数分間出て行くことが彼女らに許されている。……この女工たちの病気の手当てをしたときの私の経験から、彼女たちの健康状態が紡績女工のそれよりもずっと劣っていることを確認せざるをえない。」(それなのに、資本は議会への請願書のなかでは彼女たちをルーベンスのような手法で超健康的に描いたのです!)「彼女たちの病気のうちで最も目につくのは、肺結核、気管支炎、子宮病、最もひどい形のヒステリー、そしてリューマチスである。すべてこのようなことは、私の信ずるところでは、直接または間接に、彼女たちの作業室の熱しすぎた空気から起きるのであり、また、冬のあいだ帰宅するときに彼女たちを冷たい湿った大気から保護するための十分な気持ちのよい衣服がないことから起きるのである。」(同前、56、57ページ。)

  これも監督官報告書によるものですが、屋外漂白業に携わる女工たちを診察した医師の証言が紹介されています。それによれば彼女たちの健康状態は紡績女工よりもずっと劣っているということです。
  エンゲルスの『状態』では漂白工の労働について次のように述べています。

  漂白工は非常に不健康な仕事をする。漂白工は、その仕事中に、肺にとってもっとも有害な物質の一つである塩素を、ひっきりなしに吸わねばならない。染色工の仕事のほうがずっと健康的であり、多くの場合、非常に健康的である。というのは、染色工の仕事は全身の緊張を必要とするからである。この階級がどのくらいの賃金を得ているかは、あまり知られていない。そしてこのことは、彼らが平均以下の賃金は得ていない、という結論に達する十分な根拠なのである。なぜなら、もしそうでないとすれば、彼らはかならず不平を訴えるであろうから。〉(全集第2巻429頁)

  (チ)(リ)(ヌ) 工場監督官たちは、上きげんの「屋外漂白業者」から遅ればせにかち取られた1863年の法律について、次のように述べています。「この法律は、それが与えているように見える保護を労働者に与えることに失敗しただけでなく、……それは、児童と婦人が晩の8時以後に労働している現場を押えたときにはじめて保護が加えられるように書かれてあり、しかも、その場合でも、所定の証明方法には、ほとんど罰することができなくなるようなただし書がついているのである。」(同前、52ページ。)「人道的な目的や教育上の目的をもつ法律としては、それは完全に失敗している。なぜならば、年齢に関する制限も男女の差別もなく、漂白工場の付近の家族の社会的な慣習も顧慮せず、食事は都合しだいであったりなかったりで毎日14時間、おそらくはもっと長い時間労働することを、婦人や児童に許すということ、または、同じことになるのだが、彼らに強制するということは、人道的とは言えないからである。」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)

  1863年の法律(「屋外漂白工場法」)は、失敗だったと監督官たちは述べているということです。『歴史』も〈「漂白・染色仕事場法」は適用除外と例外とを認めていたため、実効性をもっていなかった。〉(140頁)と述べています。


◎原注185a

【原注185a】〈185a 第二版への注。私が本文のようなことを書いた1866年以後は、再び反動がやってきた。〉(全集第23a巻391頁)

  これは〈その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしよう(185a)。〉というパラグラフの最後の一文に付けられた原注です。これは注の内容から考えると、このパラグラフ全体に付けられたものといえるかも知れません。つまりこのパラグラフで染色工場や漂白工場、あるはレース工場と靴下工場などなどさまざまな産業部門で工場法の適用が進んだことが述べられていましたが、しかし1866年以降、再び資本家たちの反撃が行われ、反動がやってきたということです。


  (付属資料№1に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(7)

2024-01-18 22:56:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(7)


【付属資料】(1)


●第19パラグラフ

《初版》

 〈その後に起きたことを理解するためには、次のことを思い起こさなければならない。すなわち、1833年、1844年、および1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを改正しないかぎり、上記三法のどれも有効であるということ、これらの法律のどれも、18歳以上の男子労働者の労働日を制限していないということ、また、1833年以来、朝の6時半から晩の9時半までの15時間が、相変わらず、法定の「昼間」であるということ、この範囲内で、青少年と婦人との最初には12時間労働が、後には10時間労働が、定められた諸条件のもとで行なわれることになっていたということ。〉(江夏訳319頁)

《フランス語版》

 〈以下に述べることを理解するためには、工場労働にかんする1833年、1844年、1847年の法律が、少なくとも一方が他方を改正しないかぎり、三つともすべて有効であったこと、どれも18歳以上の男子労働者の労働日を制限しなかったこと、また、1833年以来朝の5時半から晩の8時半までの15時間がずっと法定の「昼間」であって、/その限度内で、青少年や婦人の、最初は12時間の労働が、後では10時間の労働が、定められた諸条件のもとで行なわれるべきであったこと、を想い起こさなければならない。〉(江夏・上杉訳292-293頁)

《イギリス語版》

  〈(30) 以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。 1833年以来 朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。〉(インターネットから)


●第20パラグラフ

《初版》

 〈工場主たちは、あちこちで、自分たちが使っている青少年や女工の一部分を、ときにはその半数を解雇し始め、その代わりに、ほとんど忘れ去られていた夜間労働を、成年男子労働者のあいだに復活させた。10時間法のもとではこれ以外にとる方法がない! と彼らは叫んだ(147)。〉(江夏訳319頁)

《フランス語版》

 〈工場主たちはあちこちで、自分たちが使っている青少年や婦人労働者の一部、時にはその半数を解雇しはじめた。次いで彼らは、そのかわりに、ほとんどすたれていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。「10時間法はこれ以外の代替策を残していない(114)」、と彼らは叫んだ。〉(江夏・上杉訳293頁)

《イギリス語版》

  〈(31) 製造工場主らは、こっちでもあっちでも、自分達が雇った年少者や女性のある部分を、多くの場合は半数を解雇し、成年男子と入れ換え、すたれていた夜間労働を再開した。10時間法は、と彼等は叫んだ、これ以外の方法を残していないと。(工場査察官報告書 1848年10月31日)〉(インターネットから)


●原注147

《初版》

 〈(147) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、133、134ページ。〉(江夏訳320頁)

《フランス語版》

 〈(114) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、133、134ページ。〉(江夏・上杉訳293頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●第21パラグラフ

《初版》

 〈第二の方策は、食事のための法定の中休みに関連していた。工場監督官たちの言うことを聞いてみよう。「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実地の上では自分たちの意見をとことんまで実行に移していないとはいえ、こう主張している。たとえば朝の9時から晩の7時まで労働させるばあい、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えているのであるから、法律の規定を充分に守っている、と。若干のばあい、彼らはいまでは、昼食のために半時間を許しているが、同時に彼らは、10時間労働日の経過中に1[1/2]時間のなんらかの部分を許してやる義務は全くない、と頑強に主張している(148)。」だから、工場主諸氏の主張では、食事時間にかんする1844年の法律の綿密きわまる諸規定は、労働者たちにたいして、彼らが工場のなかにはいると工場から退出したあとでつまり自宅で飲食する許可を、与えたものでしかない! それでは、労働者たちが朝の9時前に昼食をとることも、なぜいけないのか? ところが、刑事裁判官たちはこういう判決を下した。すなわち、規定の食事時間は、「じっさいの労働日中の中休みに与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時まで続けて10時間、間断なく労働させることは、違法である(149)」と。〉(江夏訳320頁)

《フランス語版》

 〈彼らの第二の攻撃は、食事のために定められた法定の休止時間を対象にした。工場監督官に聴こう。「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、実際には自分たちの見解をその最終結論にまで押し通さなくとも、たとえば朝の9時から夕方の7時まで労働させても、朝には9時前に1時間、夕方には7時以後に半時間というふうに食事のために1時間半を与えることによって、自分たちは法律の諸規定にかなっているのだ、と主張する。現在彼らはあるばあいには昼食のために半時間を許しているが、同時に彼らは、10時間労働日の経過中に法定の1時間半のなにがしかの部分を認めなければならない義務は全くないのだ、と主張する(115)」。工場主諸君は、食事時間をきわめて厳密に規制している1844年の法律の諸条項は、ただたんに、労働者が工場への出勤前と工場からの退出後に飲食すること、すなわち自宅で食事をとることを許しているのだ、と主張した。実際に言って、労働者が朝の9時前に昼食をとっては、なぜいけないのか?  ところが、刑事裁判官は、食事のために定められた時間は実際の労働日中に間をおいて与えられるべきであって、朝の9時から夕方の7時まで絶え間なくまる10時間労働させることは違法である、と判決した(116)。〉(江夏・上杉訳293頁)

《イギリス語版》

  〈(32) 続く策略は、食事のための法的な休止時間に狙いをつけたことである。工場査察官達の報告を聞いてみよう。
 (33) 「働く時間が10時間に制限されることになって以来、工場占有者らは、依然としてそれを実際には実行してはいないが、その労働時間が朝9時から夕方7時までであり、朝9時以前に1時間、夕7時以後に半時間「の食事時間」を許すことによって、法の条項を満たしていると主張する。彼等が1時間または半時間の昼食時間を許している場合もないわけではないが、それはそれとして、工場における労働日の中で、1時間の断片または半時間を与えるべしと決めつけられているわけではない点に固執する。」(工場査察官報告書 1848年4月30日) 製造工場主らは、であるから、1844年の法は、食事時間については、厳密に条項を正確に読み取るならば、最も適切な飲食許可は、工場に来る前、そして工場を去った後に、つまり自分の家でのみ与えられることになると主張する。そして、こう云うのだ。何んで労働者達は、朝の9時前に昼食をとってはいけないのか? と。しかし、王室法律顧問は、規定されている食事時間は、
 (34) 「労働時間の間になければならず、そして、10時間連続して、朝9時から夕7時までいかなる休憩もなく働かせることが合法と定めているものでもない。」と判決した。(工場査察官報告書 1848年10月31日)〉(インターネットから)


●原注148

《初版》

 〈(148)『1848年4月30日の工場監督官報告書』、47ページ。〉(江夏訳320頁)

《フランス語版》

 〈(115) 『1848年4月30日の工場監督官報告書』、47ページ。〉(江夏・上杉訳293頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注149

《初版》

 〈(149)『1848年10月31日の工場監督官報告書』、130ページ。〉(江夏訳320頁)

《フランス語版》

 〈(116) 『1848年10月31日の工場監督官報告雷』、130ページ。〉(江夏・上杉訳293頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●第22パラグラフ

《初版》

 〈これらの愉快な示威運動の後に、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり適法な方策に訴えて、反逆を開始した。〉(江夏訳320頁)

《フランス語版》

 〈これらの愛らしい示威運動ののちに、資本は、1844年の法律に合致し、したがって適法であった手段を用いて、/叛逆の下準備を行なった。〉(江夏・上杉訳293-294頁)

《イギリス語版》

  〈(35) この様なふざけた主張の後に、資本は、その反逆を、1844年の法律文面に沿った手段でその前奏を開始した。だから合法であった。〉(インターネットから)


●第23パラグラフ

《初版》

 〈確かに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされている8歳ないし13歳の児童を再度午後1時以後に働かせることを、禁止した。ところが、この法律は、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6[1/2]時間の/労働を、全く規制していなかった!だから、8歳の児童たちは、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、そして夕方の5時から晩の9時半〔フランス語版では「8時半」に訂正〕まで3[1/2]時間、合計して法定の6[1/2]時間働かせることができた! あるいはもっとうまくやれた。児童たちの使用を成年男子労働者の晩の9時半〔フランス語版では「8時半」に訂正〕までの労働に合わせるためには、工場主は、児童たちに午後2時までは全く仕事を与えなければよいのであって、そうすれば、児童たちを晩の9時半〔フランス語版では「8時半」に訂正〕まで工場内に中断なくとどめておくことができた! 「そして、いまでははっきりと認められていることだが、機械を10時間以上運転させている工場主たちが熱望した結果、8歳ないし13歳の男女の児童を、青少年や婦人が全員工場から退出したあとで、成年男子とだけ一緒に、晩の9時半〔フランス語版では「8時半」に訂正〕まで労働させるという慣習が、最近イングランドに忍び込んできたのである(150)。」労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との理由から抗議した。だが、資本はこう答えた。
  「罪はこの身で引き受けるまで!手前の望みはお裁判(さばき)、
  証文通りの違背金をお願い申しておるんでございます」
  〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』、中野好夫訳、岩波文庫版、137-138ページ、より引用。〕〉(江夏訳320-321頁)

《フランス語版》

 〈1844年の法律は、正午以前に就業した8歳ないし13歳の児童を午後1時以後に再び使うことを、確かに禁止した。だが、それは、正午またはそれ以後に就業した児童の6時間半の労働を少しも規制しなかった。したがって、8歳の児童は正午以後1時まで、次いで2時から4時まで、最後に5時から8時半まで、合計して6時間半適法に使うことができた! なおいっそううまいことがある。児童の労働を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に一致させるためには、工場主が午後2時以前には児童に仕事をなにも与えないで午後2時以降8時半まで中断なく工場内に留めて置けば充分であった。「今日はっきりと認められていることだが、工場主たちの貧欲と、10時間以上機械を運転させようとする彼らの切望との結果、8歳ないし13歳の男女の児童を、青少年や婦人の退出後に成年男子だけと一緒に晩の8時半まで労働させる慣習が、イングランドに忍びこんだのである(117)」。労働者と工場監督官は、道徳と衛生の名において抗議した。だが、資本はシャイロックのようにこう考える。「罪はこの身で引き受けるまで! 手前の望みはお裁判(サバキ)、証文通りの違背金をお願い申しておるんでございます」〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』、中野好夫訳、岩波文庫版、137-138ページ、より引用〕。〉(江夏・上杉訳294頁)

《イギリス語版》

  〈(36) 確かに、1844年の法は、正午前に仕事につかせた8歳から13歳までの子供たちを、その同じ子供たちを、午後1時以降にも働かせることを禁じている。しかし、正午か正午を多少でも過ぎた時刻から仕事を始める子供たちの6時間半の労働については、いかなることも規制していない。8歳の子供たちがいて、もし彼等が正午に仕事を初めて、12時から1時までの1時間、午後2時から4時までの2時間、夕方5時から8時半までの3時間半を働かされたとしたら、計 合法的に6時間半となる。または、それよりもいい方法がある。子供たちの労働を、成人男子の労働に合わせて、午後8時半までとするために、製造工場主らは、午後2時までは子供たちに仕事をさせず、その後は途中の休憩もなしに、夕方8時半まで工場に居させることができた。
 (37) 「そして、現状において、英国には、日10時間以上彼等の機械類を稼働させたいという工場所有者らの欲求から、全ての年少者達と女性達が仕事から帰った後に、工場所有者の選択として、夕方8時半まで、成人男子の側に、子供たちを置いて仕事をさせるやり方が顕著に認められるものとなった。(工場査察官報告書 1848年10月31日)
 (38) 労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。
 (39) 「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」(訳者注: このセリフは、シェークスピアのベニスの商人から。ユダヤ商人シャイロックが、裁判官ポーシャに、アントーニオへの慈悲を拒否して彼の胸の肉一ポンドを求めて云うセリフ。「慈悲とか正義とかのご高説はいい加減にしてもらいたい。私は法を要求しているんだ。私の債務証券に記された彼への罰則とその決済を要求しているんだ。」この後のセリフも次の文節で登場するが、その後ポーシャの「きっかり」肉一ポンドでなければならない、「血を一滴たりとも」流してはならない、キリスト教徒の血を一滴でも流したら、法によりあなたの土地と財産は、ベニスの国庫のものとなるぞ、と、どんでん返しの場面へと続く。)〉(インターネットから)


●原注150

《初版》

 〈(15O) 同前、42ページ。〉(江夏訳321頁)

《フランス語版》

 〈(117) 同前、142ページ。〉(江夏・上杉訳294頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●第24パラグラフ

《初版》

 〈じっさいのところ、1850年7月26日の下院に提出された統計によると、ありとあらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には、3742人の児童が275工場で、この「慣習」に従わされていた(151)。れでもまだ足りなかった! 資本の山猫のような自が発見したことは、1844年の法律は、午前の5時間労働を、元気回復のための少なくとも30分の中休みぬきでは許さないが、午後の労働についてはその種のことをなにも定めていない、/ということであった。だから、資本は、8歳の労働児童を、2時から晩の9時半〔「8時半」の誤記〕まで、絶え間なく酷使するばかりでなく腹までへらさせる、という楽しみを、要求して強要したのである。
  「さょう、その胸だ。
  ちゃんと証文にある(152)」
〔前掲訳書、140ページ〕。〉(江夏訳321-322頁)

《フランス語版》

 〈実際、1850年7月26日に下院に提出された数字によると、あらゆる抗議にもかかわらず、1850年7月15日には、275工場における3742人の児童がこの新しい「慣習」に従わされていた(118)。これでもまだ充分ではなかった! 資本の鋭いまなざしが発見したのは、確かに1848年の法律は、元気を回復するための最低30分の休みも与えずに、午前中5時間以上労働させることを全く禁止しているが、それは同時に、午後の労働については同種のことをなにも規定していない、ということであった。そこで、資本は、8歳の児童を2時から晩の9時まで休みなしに苦役させるばかりでなく、食事もとらせずに空腹にさせる、という楽しみを要求し、獲得したのである。/
  シャイロックはこう言った。「さよう、その胸だ。ちゃんと証文にある(119)」〔前掲訳書、140ページ〕。〉(江夏・上杉訳294-295頁)

《イギリス語版》

  〈(40) 事実は、1850年7月26日に下院に提出された統計によれば、1850年7月15日に提出された多くの抗議にも係わらず、257の工場において、3,742名の子供たちが、この「判断」によって雇用されていた。(工場査察官報告書 1850年10月31日) それが全てではない、さらに加えて、資本の山猫のごとき目は、1844年の法に、正午前の5時間の労働が、少なくとも半時間の休息なしに行われることを許していないことを読み取っていながら、正午以後の労働には何も記されていないことを発見した。であるから、資本の判断として、9歳の子供たちを午後2時から午後8時半まで、休息なしに単調な骨の折れる労働に縛りつけるのみならず、子供達をしてこの間ひもじい思いをさせるという楽しみを要求し、それを獲得したのである。
 (41) 「はい、彼の心臓。債務証券にそう記されております。」(訳者注: シェークスピアのベニスの商人。裁判官ポーシャが、アントーニオへ胸をはだけよ、と命じたのに応じて、シャイロックが、文字通り、心臓直近の、と書いてあります、と続けるところ。「秤はあるか?」「用意しております。」)〉(インターネットから)


●原注151

《初版》

 〈(151) 『1850年10月31日の工場監督官報告書』、5、6ページ。〉(江夏訳322頁)

《フランス語版》

 〈(118) 『1850年10月31日の工場監督官報告書』、5、6ページ。〉(江夏・上杉訳295頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注152

《初版》

 〈(152) 資本の本性は、資本の未発達な諸形態にあっても発達した諸形態にあっても、変わりがない。アメリカの南北戦争が勃発する少し前に奴隷所有者の勢力がニューメキシコ準州に押しつけた法律書には、こう書かれている。労働者は、自分の労働力が資本家に買われたかぎり、「彼の(資本家の)貨幣である。」(“The labourer is his(the scapitalist's)money")と。同じ見解はローマの貴族たちのあいだでも盛んであった。彼らが平民債務者に前貸しした貨幣は、債務者の生活手段を媒介にして、債務者の肉と血に化した。だから、この「肉と血」が「彼らの貨幣」であった。シャイロック流の十銅板法〔日常生活上最も重要な条文を銅板に刻んだ最古のローマ法〕はそこから生まれた! 貴族である債権者たちがときおりティベル川の向こう岸で債務者の肉を煮て饗宴を催したというランゲの仮説は、キリスト教の聖餐式についてのダウマーの仮説〔キリスト教古代の信者は聖餐に人肉を使うという、ダウマーの仮説〕と全く同じように、そのままにしておこう。〉(江夏訳322頁)

《フランス語版》

 〈(119) 資本の本性は、資本の形態がまだやっと粗(アラ)削りであろうと完全に発逮していようと、いつも変わらない。アメリカの南北戦争の直前、奴隷所有者がニュー・メキシコ準州に授与した法典のなかには、こう書かれている。「労働者は、資本家が彼の労働力を買った以上は、彼の貨幣、(資本家の貨幣) である<The labourer is his(the scapitalist's)money>」。これと同じ見解は、ローマの貴族のあいだにも支配していた。彼らが平民の債務者に前貸しした貨幣は、生活手段をとおして、この不幸な債務者の肉と血に化した。だから、この「肉」とこの血は、「彼らの貨幣」であった。全くシャイロック流の十二銅板法〔日常生活に最も重要な条文を銅板に刻んだ最古のローマ法〕はそこから生まれた! 貴族の債権者が時々ティベル河の向う岸に、ほどよく焼いた債務者の肉を盛った饗宴へ招かれた、というランゲ〔フランスの歴史家〕の仮説には、キリスト教の聖餐式にかんするダウマーの仮説〔キリスト教古代の信者は聖餐に人肉を使うという、ダウマーの主張する仮説〕と同じように、もちろん触れないでおこう。〉(江夏・上杉訳295頁)

《イギリス語版》

  〈本文注; 資本の本質として、その発展した段階でも、未発達の段階と同じ形式を保持している。アメリカ南北戦争が始まる少し前の頃、奴隷所有者らの権力下において、ニューメキシコ領に課した規定には、こうある。労働者は、彼の労働力を資本家が購入した限りにおいて、「彼(資本家)の貨幣である。」 ローマ帝国の貴族らにも、同じような見方が流布していた。彼等が平民債務者に前貸しした貨幣は、生活手段を経由して、債務者の血となり肉となった。従って、この「血と肉」は、「彼等の貨幣である」と。かくて、シャイロック的十戒となる。リングハットの仮説、貴族債権者らが時々、テルベ河を越えて、債務者の肉を食する宴会を開いたと云う仮説は、ドーマーの云うキリスト教徒の聖餐と同様、依然として分からないままである。〉(インターネットから)


●第25パラグラフ

《初版》

 〈とはいえ、児童労働を規制するかぎりでの1844年の法律の文面に、このようにシャイロック流にしがみついていることは、「青少年と婦人」の労働を規制するかぎりでのこの法律にたいして公然と反逆することを、媒介せざるをえないものでしかなかった。ここで思い起こされることは、「不実のリレー制度」の廃止が、この法律の主要な目的と主要な内容になっている、ということである。工場主たちは、次のような簡単な宣言を発して反逆を開始した。すなわち、1844年の法律のなかでも、15時間という1工場日中の任意の短い時間で青少年や婦人を任意に使用することを禁止している諸条項は、「労働時間が12時間に制限されていたあいだは、比較的無害(comparatively/harmless)であった。10時間法のもとでは、これらの条項は堪えられない辛苦(hardship) である(153)」、という宣言。だから、工場主たちは、いとも冷やかに、法律の文面を無視して元の制度を一存で復活させたい旨を、工場監督官に通知した(154)。このことは、悪い助言に迷わされている労働者たち自身の利益のために、「彼らにもっと高い賃金を支払ってやれるように」行なわれるのだ、と。「このことが、10時間法のもとで大ブリテンの産業覇権を維持するための唯一の可能な案なのである(155)。」「リレー制度のもとでの違法行為を発見することは、多少は困難であるかもしれないが、それがどうしたと言うのだ? (what of that?)工場監督官や副監督官の労苦を少しでも(some little trouble)省くために、この国の大きな工場利益が副次的な物として扱われてもかまわないのだろうか?(156)」〉(江夏訳322-323頁)

《フランス語版》

 〈この1844年の法律が児童労働を規制するかぎりこんな風にその文面にしがみついたのは、この法律が青少年や婦人の労働を規制するかぎりこの法律にたいし公然と叛逆する用意をするためにすぎなかった。この法律の主要目的は、不正なリレー制度の廃止であったことが想い起こされる。工場主は、ただたんに次のように宣言して、彼らの叛逆を開始した。すなわち、1844年の法律のなかの、労働日中いつでも青少年や婦人の労働を休止させたり再開させたりして彼らを任意に使うことを禁止する諸条項は、労働時間を引き続き12時間に固定していたあいだは比較的細事にすぎなかったが、10時間法以後はこの条項に服するなどとんでもないことだ(120)、と。そこで、彼らは、自分たちは法律の文面にこだわらずに独断で旧制度を復活する旨を、ぎわめて冷静に工場監督官に伝えた(121)。こうして彼らはさらに、入れ知恵をされている労働者自身のために、「労働者にもっと高い賃金を支払うことができるように」振舞ったのである。「それはまた、10時間法のもとで大ブリテンの工業覇権を守り通すための唯一無二の手段でもあった」(122)。「リレー制度の慣行は、法律違反の発見を多少困難にするかもしれないが、それがどうしたというのか? <what of that?>工場監督官や副監督官の苦労を少しでも<some little trouble>減らすために、この国の大きな工場利益がいい加減に扱われてよい/のだろうか?」(123)〉(江夏・上杉訳295-296頁)

《イギリス語版》

  〈(42) このシャイロック式の1844年の法の字句へのこだわりは、
  子供たちの労働を規制する点に関する限りでは、その法への反逆の単なる言いがかりになっているにすぎない。「年少者達と婦人達」の労働に関する、「偽装リレーシステム」の廃止が、この法の主目的であり主題であったことが想起されるところであろう。工場主らは、彼等の反逆を、次のようなむき出しの宣言を以て開始した。1844年法の条項は、日15時間を細切れにして、年少者達と婦人達を好き勝手に(ラテン語)用いることを禁じているが、労働日が12時間と固定化されている限りでは、雇用者側が決めたことでもあり、「比較的無害なもの」であった。だが、10時間法下では、それらは「苦難に満ちた圧制」であった。(工場査察官報告書 1848年4月30日) 彼等は、工場査察官に、もっとも冷静なる態度をもって、自分らは、法の字句がどうであれ、自分らの考え通りに、前のシスシムを再導入すると通告したのであった。
  彼等は、丸め込まれた職工たち自身の利益のために、「より高い賃金を彼等に支払うことが出来るようにするために」やっているのだと見せかける。
 (43) 「これが10時間法下で大英帝国の製造業の優位を維持して行く唯一の可能な計画であった。」「多分、リレーシステムの不正を見つけることが多少は困難となるかも知れないが、それがどうしたというんだ。工場査察官や副工場査察官のちょっとした面倒を減らすために、この国の大製造業の利益をあたかも二次的な問題として取り扱うべきと云うのか? (工場査察官報告書 1849年4月30日)〉(インターネットから)


●原注153

《初版》

 〈(153) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、133ページ。〉(江夏訳323頁)

《フランス語版》

 〈(120) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、133ページ。〉(江夏・上杉訳296頁)

《イギリス語版》   本文に挿入。


●原注154

《初版》

 〈(154) なかんずく、博愛主義者アッシュワースがレナード・ホーナーに宛てた、クエーカー教徒くさいいやらしい手紙が、そうである。〉(江夏訳323頁)

《フランス語版》

 〈(121) なかんずく、博愛家のアッシュワースがレナード・ホーナーに宛てた、クエーカー派の教義のにじみ出た書簡のなかで述ぺたことが、そうである。〉(江夏・上杉訳296頁)

《イギリス語版》

  〈本文注; いろいろある中で、査察官 レオナード ホーナーに宛てた、慈善家 アッシュワースの不快極まるクエーカー教徒の手紙が、それをよく表している。(工場査察官報告書 1849年4月)〉(インターネットから)


●原注155

《初版》

 〈(155)同前、134ページ。〉(江夏訳323頁)

《フランス語版》

 〈(122) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、138ページ。〉(江夏・上杉訳296頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注156

《初版》

 〈(156) 同前、140ページ。〉(江夏訳323頁)

《フランス語版》

 〈(123) 同前、140ページ。〉(江夏・上杉訳296頁)

《イギリス語版》   本文に挿入。


●第26パラグラフ

《初版》

 〈もちろん、こんなごまかしは、どれもこれも役には立たなかった。工場監督官たちは告発した。ところが、まもなく、工場主たちの陳情の砂塵が、内務大臣サー・ジョージ・グレーに盛んに浴びせられたので、グレーは、1848年8月5日の回状でこう命じた。「青少年や婦人を10時間以上労働させるためにリレー制度が明白に濫用されていないばあいにはいつでも、この法律の文面に違反しているからといって、一般に告発を行わぬこと」、と。そこで、工場監督官J・ステュアートは、1工場日である15時間内でのいわゆる交替制度を、スコットランド全域で許可し、スコットランドでは、やがてこの制度が元どおりに再び栄えた。これに反し、イングランドの工場監督官たちは、大臣には法律を停止させる職権がないと言明して、奴隷制擁護の叛徒にたいしてまたも訴訟手続きをとりとりつづけた。〉(江夏訳323頁)

《フランス語版》

 〈これら一切の駄弁は、もちろんなんの効果も産まなかった。工場監督官は法的に起訴した。ところが間もなく、内務大臣サー・ジョージ・グレーは、大いに工揚主から請願攻めにされたので、1848年8月5日の回状のなかで、「婦人や青少年を10時間以上労働させるためにリレー制度の濫用されたことが、充分に証拠立てられないかぎり、法律文面の違反にたいしてけっして干渉しないこと」を、工場監督官に勧告した。工場監督官J・ステユアートは直ちに上述の制度をスコットランド全域で許可し、スコットランドではこの制度が以前よりも大いに再び栄えた。これに反し、イングランドの工場監督官は、大臣には法律を停止する独裁権がないと宣言して、叛逆者を引き続き法的に起訴したのである。〉(江夏・上杉訳296頁)

《イギリス語版》

  〈(44) これらの全屁理屈は当然ながら、なんの役にもたたなかった。工場査察官達は、法廷に提訴した。だが、もう一方の工場主らの請願書も、たちまちにして、国務大臣 ジョージ グレー卿を砂塵のごとく圧倒した。1848年8月5日の巡回裁判で、卿は、工場査察官に対して、しないようにと以下の勧告したのである。
 (45) 「法の字句の隙間解釈に関して、また年少者たちのリレー方式において、法が規定する時間よりも長い時間雇用されたと、そのような年少者たちが実際に存在するという信んずべき理由もなく、工場所有者らを提訴申請しないように。」以後、工場査察官 J. スチュアートは、全スコットランドにおいて、15時間以内の工場日では、いわゆるリレーシステムを黙認した。たちまち以前のやり方が跋扈した。イングランドの工場査察官は、これとは異なり、国務大臣は法に関して独裁的な裁量権は持っていないと宣言して、奴隷制擁護の反逆に対して彼等の法的行為を続行した。〉(インターネットから)


  (【付属資料】№2に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(8)

2024-01-18 22:44:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(8)


【付属資料】№2


●第27パラグラフ

《初版》

 〈しかしながら、いくら裁判所に召換しでも、裁判官である州治安判事たち(157)が無罪の判決を下してしまえば、これらの裁判所では、工場主諸氏は自分たち自身を裁判したわけだ。一例をあげよう。カーショー・リーズ会社という紡績業者でエスクリッジとやらいう人が、自分の管区の工場監督官に、自分の工場のために定めたリレー制度のプランを提示した。拒絶の返事を受けたので、彼は最初は消極的な態度をとった。数か月後に、ロビンソンという名の、これまた紡績業者で、フライデーではなかったが、とにかくエスクリッジの親戚であった人物が、エスクリッジが案出したものと同じリレー・プランを採用したかどで、ストックポートの市治安判事の前に召換された。4人の判事が列席したが、そのうち3人が紡績業者であり、首席はおきまりの例のエスクリッジであった。エスクリッジは、ロビンソンに無罪の判決を下し、そこで、ロビンソンにとって正しいことはエスグリッジにとっても正しい、と宣告した。彼は、自分自身が下した法律上有効な判決にもとづいて、すぐさまこの制度を自分自身の工場で採用した(158)。もちろん、この法廷の構成がすでに公然たる法律違反であった(159)。工場監督官ハウエルはこう叫んでいる。「この種の法廷茶番は、ある救済手段を熱望している。……法律を、これらの判決に適合させるか、それとも、法律にかなった判決を下すようなもっと誤りの少ない裁判所の所管にするか、そのどちらかである。このようなばあいにはいつでも、どれほど有給判事が要望されることか(160)!」〉(江夏訳324頁)

《フランス語版》

 〈だが、州治安判事(124)が無罪を言い渡す以上、資本家を法廷に連れてきてもなんの役に立とうか? これらの法廷では、工場主諸君は自分たち自身の訴訟事件の判事として列席した。一例をあげよう。カーショー・リーズ会社という社名の紡績業者でエスクリッジという者が、自分の工場に予定したリレー制度計画を自分の地区の工場監督官に提出した。一言で拒絶されたが、彼は当初なにも言わずにいた。数ヵ月後に、同じく綿紡績業者で、あのフライデーではないが、上述のエスクリッジの親戚でロビンソンという名の人物が、エスクリッジが考案したものと寸分ちがわないリレー計画を実施したかどで、ストックポートの市裁判所に出頭した。4人の判事が列席したが、そのうちの3人は綿紡績業者で、首席は発明の才あるエスクリッジであった。エスクリッジは、ロビンソンに無罪を宣告し、次いで、ロビンソンにとって正しいことはエスクリッジにとっても公正であると通告した。彼は自分自身の判決にもとづいて、直ちに自分自身の/工場でこの制度を実施した(125)。もちろん、この法廷の構成がすでに明白な法律違反であった(126)。工場監督官ハウエルはこう叫ぶ。「この種の法廷茶番は改める必要がある。……法律をこの種の判決に適合させるか、あるいは、もっと過誤が少なくて判決を法律に一致させることができる裁判所に、法律をまかせるか、のどちらかである。……いずれにしても、どんなに有給判事が必要とされていることか(127)!」〉(江夏・上杉訳296-297頁)

《イギリス語版》

  〈(46) とはいえ、法廷がこの場合のように、州治安判事らが、―― コルベットの「偉大なる無給判事」らが、―― それら提訴を無罪とするなら、資本家らを査問したところで何の期待があるというのか? これらの裁判において、一例を上げるならば、自分達の事案に、工場主らが判事の椅子に座るのである。ある男 エスクリッジは、綿紡績業者で、カーショウ、リーズ、他による会社の経営者である。彼は当該地区工場査察官に、彼の工場で実施する予定のリレーシステムの概要を提出した。拒絶回答を聞いて、最初は静かにふるまった。二三カ月後、ロビンソンという名の個人が、この男も綿紡績業者で、エスクリッジのやる事には全部係わっていたが、忠僕と云えるかどうかは分からないが、エスクリッジが発明した典型的なリレー方式導入の罪で、ストックポートの州治安判事の前に出頭した。四人の判事が座った。そのうちの三人は、綿紡績業者であった。彼等の首席は、避けようしともしない同1人物たるエスクリッジその人であった。エスクリッジはロビンソンを無罪とした。翻って、ロビンソンに正しいことは、エスクリッジにも公正であると述べた。彼自身の法的判断に支えられて、彼は、彼の工場に直ちにそのシステムを導入した。(工場査察官報告書 1849年4月30日 21・22ページ 同4・5ページの例も参照せよ。) 勿論、この裁判官席の構成そのものが法に違反していた。
 (47) この種の道化裁判官は「緊急の修正を要する。」と、査察官ホーナー叫ぶ。「-このような裁定に法を一致させるように改訂すべきか、または、法にこれらの裁定が一致するように、より過ちの少ない裁判所に管轄させるべきである。-今後このような事例が生じた場合には。 私としては、有給の裁判官を切望する。」(工場査察官報告書 1849年4月30日)〉(インターネットから)


●原注157

《初版》

 〈(157) これらの「州治安判事」、すなわちW・コベットの言う「偉大な無給者」は、諸州の名士で構成されている一種の無給治安判事である。彼らは、事実上、支配階級の領主裁判所を構成している。〉(江夏訳324頁)

《フランス語版》

 〈(124) これらの「州治安判事」、W・コベットの名づけるような「偉大な無給者<great unpaid>」は、諸州の名士のなかから選ばれてその職務を無償で果たす治安判事である。彼らは事実上、支配階級の領主裁判所を構成している。〉(江夏・上杉訳297頁)

《イギリス語版》 本文として挿入。


●原注158

《初版》

 〈(158) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、21、22ページ。類似の実例については、同書、4、5ページ、参照。〉(江夏訳324頁)

《フランス語版》

 〈(125) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、21、22ページ。同類の実例については、同書、4、5ページ、を見よ。〉(江夏・上杉訳297頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注159

《初版》

 〈(159) サー・ジョン・ホッブハウスの工場法として知られているウィリアム4世第一年および第2年の法律、第24章第1O節によると、およそ綿紡績工場または織物工場の所有者、もしくは、このような所有者の父や息子や兄弟は、工場法にかかわ/る問題では治安判事の職務を行なうことが、禁止されている。〉(江夏訳324-325頁)

《フランス語版》

 〈(126) サー・ジョン・ホブハウスの工場法という名称で知られているウィリアム4世治下に公布された法律では、紡績業または織物業のどんな所有者も、この所有者の父や息子や兄弟でさえも、工場法に属する問題では治安判事として職務を行なうことが禁止されている。〉(江夏・上杉訳297頁)

《イギリス語版》

  〈 (本文注: ジョン ウォブハウスの工場法として知られる、ウィリアム4世治下 1年度及び2年度の法 第24章 10節によれば、あらゆる綿紡績業または織物業の所有者、またはそのような所有者の父、息子、兄弟は、工場法に関するいかなる審理にも、治安判事としての参加は禁じられていた。)〉(インターネットから)


●原注160

《初版》

 〈(160) 同前〔『1849年4月30日の工場監督官報告書』〕。〉(江夏訳325頁)

《フランス語版》

 〈(127) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』。〉(江夏・上杉訳297頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●第28パラグラフ

《初版》

 〈刑事裁判官たちは、1848年の法律にかんする工場主たちの解釈は条理にかなっていないと言明したが、社会救済者たちは迷わされなかった。レナード・ホーナーはこう報告している。「私は、別々の7つの裁判所管区で104も告発してこの法律を押しつけようとしたが、一度しか治安判事に支持されず、それからは、法律違反のかどでこれ以上告発しても無駄だと思っている。この法律のうち、労働時間の画一を実現するために作成された部分は、もはやランカシャーには実在していない。いわゆるリレー制度が盛んに行なわれている工場が、青少年や婦人を10時間以上働かせない、とわれわれに請け合ってくれるような手段を、私も私の部下も全くもち合わせていない。……1849年4月末にはすでに、私の管区の118工場がこの方式で作業していたし、こういった工場の数は最近とみにふえている。一般に、これらの工場は、いまでは朝の6時から晩の8時半〔フランス語版では「7時半」〕まで13[1/2]時間作業しており、若干のぱあいには朝の6時から晩の9時まで15時間作業している(161)。」すでに1848年12月には、レナード・ホーナーが所持していた名簿に載っている65人の工場主と29人の工場支配人とは、どんな監視制度もこのリレー制度のもとでは極度の超過労働を防止することができない、と異句同音に言明していた(162)。同じ児童や青少年が、あるときは紡績室から織布室等々に、あるときは15時間中にある工場から他の工場に移された(shifted)(163)。「交替という言葉を乱用して、人手をカルタのように際限もなく多様にごちゃごちゃ混ぜ合わせ、また、同じひとそろいの1組の人手がけっして同じ場所で同じ時間に一緒に労働することがないほどに、労働時間と休息時間とを毎日個々人についてずらせている」制度を、どうやって取り諦まるのか(164)!〉(江夏訳325頁)

《フランス語版》

 〈刑事裁判官は、1844年の法律について工場主が示した解釈は不条理である、と言明したが、社会の救済者たちはほとんど動揺しなかった。レナード・ホーナーはこう報告する。「私は、別々の七つの裁判所管区で10回の告発によってこの法律を実施させようと試みて失敗し、治安判事からただの1回しか支持されなくなってからは、法律違反にたいする告発はどれも今後は無駄だと見なしている。この法律のうち、労働時間の画一を設定するために起草された部分は、もはやランカシャには存在しない。他方、私の副代理人も私も、リレー制度が支配的に行なわれている工場が青少年や婦人を10時間以上就業させていない、ということを確かめるための手段をなんらもっていない。1849年4月末以来、私の管区では、この方法にしたがって作業する工場がすでに118存在していて、その数は毎日急速に増加している。一般にこれらの工場はいまでは朝の6時から晩の7時半まで13時間半作業し、若干のばあいには朝の5時半から晩の8時半まで15時間作業している(128)」。1848年12月には、レナード・ホーナーがすでにもっていた名簿のなかの65人の工場主と29人の工場管理人とは、慣用のリレー制度のもとではどんな監督制度も過度労働が最大の規/模で行なわれることを妨げえない、と異口同音に言明した(129)。同じ児童や同じ青少年が、あるときは紡績室から織布室へ、あるときは一つの工場から別の工場へ移された(130)<shifted>。「リレーという言葉を濫用して、『人手』をカルタのように数知れぬさまざまな組合せでお互いに混ぜ合わせ、また、同一の完全な1組の『人手』がけっして同じ場所で同じ時間に労働しないくらいに、さまざまな個人にたいして労働時間と休憩時間とを毎日変更する(131)」制度を、どうやって取り締まるのか!〉(江夏・上杉訳297-298頁)

《イギリス語版》

  〈(48) 王室法律学者は、1848年の法に対するこの工場主らの解釈は不自然であると公言した。しかしこの社会の救世主らは、彼等の目的を転ずることについては、自分達を許さなかった。レオナード ホーナーは次のように報告する。
 (49) 「法の施行に努力するものの、…10の提訴を、7つの行政区で行い、治安判事から支持されたものはただの1件のみ… このように、法の網の目が破られるようでは、この先の提訴は何の役にも立たないことになる。1848年法の労働時間の画一性を守るようにと確定された部分は、… この状況で、もはや私の地区(ランカシャー) では、法が正しく施行されている工場は存在しない。副査察官または私自身が、リレーシステムの拡大方式と言うべきシフト方式が行われている工場を査察しても、我々は、年少者たちと女性たちが日10時間以上働いていないと、確認するいかなる手段も持っていない。4月30日の報告書に戻るが、シフト方式を用いる工場所有者は、114人を数え、瞬く間に急速に増大している。多くの場合、工場の労働時間は、13時間半に拡張されており、朝6時から夕方の7時半である。… ある実例では、15時間であり、朝5時半から夕8時半までである。」(工場査察官報告書 1849年4月30日)
 (50) 既に、1848年12月時点で、レオナード ホーナーは、65製造工場主のリストと、29人の監視員のリストを持っていた。彼等は全員一致で、このようなリレーシステム下では、無法極まる超過労働を防ぐための監視方法が無いと言明した。(工場査察官報告書 1849年10月31日) 現に、同じ子供たちや年少者たちは、紡績室から織布室にシフトされ、現に、15時間の中で、ある工場から別の工場へとシフトされる。(工場査察官報告書 1849年4月30日) このようなシステム下で、どうやって監督することが出来るというのか。
 (51) 「リレーシステム隠しの横行下、無限の「手」を混ぜ合わせて作りだす沢山の方法のうちの一つを見てもどうにもならない。全日での個々の、労働時間のシフト、様々な休息時間のシフト、があり、同じ時間、同じ室で、一緒に働く労働者達の完全なる一チームをも見ることはあり得ない。」(工場査察官報告書 1849年10月31日)〉(インターネットから)


●原注161~164

《初版》

〈(161) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、5ページ。/
   (162)『1849年10月31日の工場監督官報告書』、6ページ。
   (163)『1849年4月30日の工場監督官報告書』、21ページ。
   (164)『1848年12月1日の工場監督官報告書』、95ページ。〉(江夏訳325-326頁)

《フランス語版》

〈(128) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、5ぺτジ。
    (129) 『1849年10月31日の工場監督官報告書』、6ページ。
    (130) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、21ページ。
    (131) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、95ページ。〉(江夏・上杉訳298頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●第29パラグラフ

《大陸における社会改革の進展》(エンゲルス)

 〈フーリエがはじめて、社会哲学のある偉大な公理をうちたてたのであって、それは、それぞれの個人はすべて、ある特殊な種類の仕事へのこのみ、または偏愛をもっていながら、すべての個人のこれらすべてのものの総計は、全体として、すべてのものの欲求をみたすのに適当な力であるにちがいない、ということである。この原理から次のことがでてくる。すなわち、各個人が、なにをし、なにをしないかについて好きなとおりにするように、彼自身のこのみにゆだねられると、すべての人の欲求は、社会の現体制によってもちいられている強制手段なしに、みたされるであろう。この主張はむこうみずのようだが、しかしフーリエがそれを理論づけるやり方に従えば、まったく非難の余地のない、ほとんど自明なことであり、コロンブスの卵なのである。フーリエの証明するところによれば、各人は生まれながら、ある種の仕事へのこのみをもっているのであって、絶対的怠惰は無意味なもの、かつて存在したことがなく存在しえないものなのである。そして、人間精神の本質は、それ自体活動的であり、身体を活動にひきいれるものであって、したがって、社会の現状におけるように力ずくで人々を活動的にすることは、不必要なのであり、彼らの自然の活動性に正しい方向をあたえるだけでいいのである。彼はつづいて労働と享受との同一性の証明にとりかかる。そして、両者を分離して労働を労苦とし、享受を労働者の大多数の手のとどかぬところにおくような、現在の社会秩序の非合理性をしめすのである。彼はさらに、合理的なしくみのもとでは、各人が彼自身のこのみに従うにまかせておいて、いかにして労働が意図されたものたる享受になりうるかを、しめすのである。私はもちろん、自由労働についての彼の理論の全体にわたって、フーリエをあとづけることはできないし、また、イギリスの社会主義者たちに、フーリエ主義が彼らの注意に十分に値いする問題であることをしめすには、これで十分だとおもう。〉(全集第1巻526頁)

《初版》

 〈ところで、現実の超過労働は全く度外視すると、このいわゆるリレー制度は、フーリエが「短い参加時間」というこの上なくすばらしいスケッチのなかでも及びえなかったような資本の幻想の産物であって、ちがうところは、労働の魅力が資本の魅力に置き換えられているという点だけであった。立派な新聞が「分別のある注意深さと方法とが達成しうるもの(“What a reasonable degree of care and method can accompish")の見本だと言って賞めあげた、工場主たちの例の案を、見てみよう。労働者人員は、多くのばあい12ないし14の部類に分けられ、これらの部類そのものも、やはりその構成部分を絶えず変えた。1工場日の15時間のあいだ、資本は、労働者を、ときには30分ときには1時間、引き寄せては突き放し、またあらためて工場に引き入れては工場から突き出し、そのさい、10時間労働が完了するまでは、いつなんどきも彼を見失わずに、わずかのばらばらの時間ずつ彼をあちこちに追い回すのであった。舞台上と同じように、同じ人物がかわるがわる、ちがった幕のちがった場に登場しなければならなかった。そうなると、俳優が劇の上演全時間にわたって舞台のものであるように、労働者はいまでは、工場への往復時間を入れないで15時間のあいだ、工場のものであった。こうして、休息時間が、強制された怠惰の時間に変わってしまい、この時間が、年若い男工を居酒屋に追いやり、年若い女工を娼家に追いやったのである。資本家が、労働者の人員をふやさないで自分の機械を12時間か15時間運転させるために、毎日新しい着想を案出すると、そのたびごとに、労働者は、ときにはこの切れはしの時間でときにはあの切れはしの時間で、食事を丸のみにしなければならなかった。10時間運動の当時、工場主たちは、労働者連中は10時間の労働と引き換えに12時間分の労賃をもらうことをあて/にして請願している、と叫んだ。彼らはいまやメダルを裏返しにした。彼らは、労働力を12時間も15時間も自由に使うことと引き換えに、なんと10時間分の労賃を支払ったのだ(165)! これがむく犬の正体であり、これが10時間法の工場主版であったのだ! 感動にみち人類愛にあふれたこの自由貿易論者こそ、穀物の自由な輸入のもとでは、イギリス産業の資力をもってすれば、資本家たちを富ませるには10時間労働で全く充分だ、ということを、穀物反対運動のまる10年間、労働者に向かって、1銭1厘まで計算してみせた人であったのだ(166)。〉(江夏訳326-327頁)

《フランス語版》

 〈この上述のリレー制度は、それが設定した過度労働とは別に、フーリエが「短い参加時間」というこの上なくユーモラスなスケッチのなかでも及びえなかったような資本家の幻想の一産物であった。だが、この制度は労働の魅力を資本の魅力で置き換えた、と言わなければならない。このことを確かめるためには、工場主が提供した案を、すなわち、公正で穏健な新聞が「適度の注意と方法とが達成しうるもの<What a reasonable degree of care and method can accompish>」の模範として称賛した次の編成を、一見するだけで充分である。労働者の人員は、時として12および14の部類に分けられ、この部類の構成部分も絶えず新たに変更された。工場の1日を形成する15時間のあいだに、資本は労働者をいまは30分、次には1時間呼び寄せ、それから休みを与えて、10時間労働が完了するまでけっして彼を見失うことも手放すこともなく、ちりぢりばらばらの時間時間に彼をあちこちと追い立てながら、再び呼び寄せたりまたも休みを与えたりした。舞台の上と同じように、同じ端役がかわるがわるいろいろの幕のいろいろの場面に登場しなければならなかった。だが、俳優が劇の続いている全期間中は舞台に所属しているのと同様に、労働者も、工場に往復する時間を算入せずに15時間中、工場に所属していた。こうして、休憩時間が、若い男工を酒場に、若い女工を/娼家に誘惑する強制的怠惰の時間に変わった。資本家が、人員をふやさないで自分の機械を12時間ないし15時間運転するために、なにか新たなものを考案する--それは毎日行なわれていたが--たびごとに、労働者は、食事をうのみにするために、あるときは自分の時間を無駄にし、あるときは急いで自分の時間を利用せざるをえなかった。10時間運動の当時、工場主たちはいたるところで、労働者の輩が請願してもそれは10時間労働と引き換えに12時間分の賃金を手に入れることを希望してのことなんだ、と叫んだ、彼らは今度は、メダルを裏返しにしてしまった。彼らは12時間や15時間の搾取と引き換えに10時間分の賃金を支払ったのだ(132)! 10時間法が工場主によってどう解釈されたかと言えば、まさに以上のとおりである! 自由な穀物輸入によって新しい飛躍的発展がイギリスの工業に与えられれば、資本家を富ますには毎日の10時間労働でたっぷり充分であることを、穀物法反対運動が続いた10年間、労働者に1銭1厘の末まで倦むことなく説明したのは、それでもやはり、宗教的情熱にこりかたまった、毛穴という毛穴から人類愛が発汗する当の人間、当の自由貿易論者であったのだ(133)。〉(江夏・上杉訳298-299頁)

《イギリス語版》

  〈(52) とはいえ、現実の超過労働のことを度外視したとしても、このいわゆるリレーシステムは、資本主義的な幻想である。かのチャールス フーリエ (訳者注: フランスのユートピア社会主義者 1772-1837 マルクスやエンゲルスは科学的社会主義の視点から批判してはいるものの、歴史的な流れにおいては、それなりに評価している。) が、ユーモアを添えて描写した「様々な労働の選択」なるものが、実現したわけではない。「労働の魅力」(訳者注: これが彼の論文の一節のタイトルなのである。) が、資本の魅力に換えられた云う点を受け入れるかぎりでは、実現したとも云える。例えばこうだ。ある「名の通った」新聞が、この工場主らの方式を、「管理と方法の合理的な完成品」のモデルであると称賛したのを見れば、分かるだろう。労働者ら各員は、時には、12から14の範疇に分別された。そしてそれらの範疇の内容構成は、絶えず変えられ、かつ再編成された。工場日の15時間において、資本は、今度は30分、今度は1時間と労働者を無理やり引きずり込んで、そして放り出す。工場に入れては、工場から追い出す。時間を細切れにして、こっちへあっちへと追い立てる。10時間の仕事が終わる迄 彼を捕まえて離すことなはない。(訳者注: フーリエの論文の一節「労働の魅力」には、1時間半または2時間の労働なら、人は集中して楽しむことが出来るとの内容があるのだが、さらに、短い仕事にして、労働を楽しむように資本が考慮したと知ったら、ふざけるんじゃないと大声を出すだろう。) まるで、演劇舞台である。同じ人間が違う役を違う幕で演じねばならぬ。しかしながら、役者が、全演技の間は舞台に所属するのと違って、工場労働者は15時間工場に所属するのだが、あっちへ行ったりこっちへ来たりする時間は含まれていない。であるから、休息の時間は強制的な空き時間となり、青年たちを居酒屋の給仕に追い、少女たちを売春宿に追う。資本家が、彼の機械を12時間または15時間、労働者の数を増やすことなしに稼働させたいと日々思いつけばいつでも、労働者はこっちの細切れの時間に食事を飲み込まなければならないし、あるいは別のあっちの時間で食事を飲み下さねばならない。10時間法反対の煽動の時には、工場主らは、労働暴徒どもは、10時間の労働で12時間の賃金を要求していると叫んだものだが、今ではその言葉のメダルを裏返して、労働力の12時間または15時間の領有に対して10時間の賃金を支払った。(工場査察官報告書 1849年4月30日を見よ。また、工場査察官 ハウエルとサウンダースによる「シフトシステム」の詳細な説明 報告書 1848年10月31日 を見よ。また、アシュトン及び周辺区の聖職者達が1849年春 女王に提出したシフトシステムに反対する請願書も見よ。) これが、工場主らの10時間法の解釈であり、本質的な狙いそのものであった! これがあの同じ自由貿易主義者の姿である。穀物法反対運動のまるまる10年間、人間愛を熱く語り、ポンド、シリング、そしてペンスまで計算して、穀物の自由輸入と英国工業が所有する機械をもってすれば、資本家達を富ませるには10時間労働で充分であると、労働者に力説したあの者らの姿なのである。( 例えば、「工場問題と10時間法案」R.H.グレッグ 1837と比較してみよ。) 〉(インターネットから)


●原注165

《初版》

 〈(165) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、6ページ、を見よ。また、『1848年10月31日の工場監督官報告書』における工場監督官ハウエルおよびサーンダーズの「交替制度」にかんする詳細な説明、を見よ。なお、1849年の春にアシュトンとその付近の聖職者たちが「交替制度」に反対して女王に奉呈した請願書、を見よ。〉(江夏訳327頁)

《フランス語版》

 〈(132) 『1849年4月30日の工場監督官報告書』、6ページ、および、『1848年10月31日の工場監督官報告書』における工場監督官ハウエルとサーンダーズによって提供された「交替制度」にかんする詳細な説明、を見よ。同じく、アシュトンとその付近の聖職者が「交替制度」に反対して女王に奉呈した(1849年4月)請願書を見よ〉(江夏・上杉訳299頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注166

《初版》

 〈(166) たとえばR・H・グレグ著『工場問題と10時間法案、1837年』、を参照せよ。〉(江夏訳327頁)

《フランス語版》

 〈133) たとえば、R・H・グレッグ『工場問題と10時間法案』、1837年、を参照せよ。〉(江夏・上杉訳299頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●第30パラグラフ

《初版》

 〈2年間にわたる資本の反逆は、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所の判決によって、とうとう栄冠を与えられたのであって、この裁判所は、1850年2月8日に提訴された一事件で、工場主たちは確かに1844年の法律の趣旨に反して行動はしたものの、この法律自体が、この法律を無意味にする幾つかの文言を含んでいる、と判決した。「この判決でもって10時間法が廃止された(167)。」従来はまだ青少年や女工のリレー制度をはばかっていた多数の工場主が、いまや、両手を広げてこれにとびついた(168)。〉(江夏訳327頁)

《フランス語版》

 〈資本の叛逆は、2年続いた後で、イギリスの四つの最高裁判所の一つである財務裁判所の判決によって、とうとう栄冠を与えられた。この裁判所は、1850年2月8日に提訴のあった一事件について、工場主は確かに1844年の法律の趣旨に反して行動したが、この法律自体がこの法律を不条理にする若干の文言を含んでいる、と判決した。「この判決の結果、10時間法は事実上廃止された(134)」。その時まで青少年や婦人労働者にたいしてリレー制度を使うことをはばかっていた多数の工場主は、その時以降思い切ってこの制度に赴いたのである(135)。〉(江夏・上杉訳299頁)

《イギリス語版》

  〈この資本の反逆は、2年後、ついに勝利をもって結果の冠が与えられた。英国の四つの最高法廷の一つである財務裁判所法廷が、1850年2月8日に提出された提訴において次の様な判決を下したからである。製造工場主らは明らかに、1844年法の主旨に反した行動を取ったが、この法条項自体に、規定を無意味とする明確な言葉が書かれていると判決したのである。「この判決により、10時間法は廃止された。」
 これまでは年少者たちや女性たちに対して、リレーシステムを用いることに躊躇していた工場主連中は、いまや、それを用いることに、心臓も魂も注ぎ込んだ。(工場査察官報告書 1850年4月30日)〉(インターネットから)


  (付属資料№3に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(9)

2024-01-18 21:55:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(8)


【付属資料】№3


●原注167

《10時間労働法》 (エンゲルス)

 〈イギリスの労働者は、重大な敗北をうけた、しかも、もっとも予想しなかった方面から。イギリスの4つの上級裁判所のうちの一つ、財務裁判所は、数週間まえに、一つの判決をくだしたが、それによって1847年に公布された10時間労働法の主要条規は、廃止同然となった(164)。
〔注解164  財務裁判所(Count of Exchequer)--イギリスのもっとも古い裁判所の一つ、
本来は、主として税務事件を取り扱う裁判所であり、19世紀にはイギリスの最高の裁判所の一つであった。1850年2月に、1847年6月8日付の10時間労働法に違反した工場主たちが、
財務裁判所から無罪判決をうけた。この無罪判決は、事実上この法律の廃棄を意味するものであって、労働者の反抗にぶつかった。ついで、1850年8月5日に発布された議会条例によって、青年労働者および婦人労働者の1日の労働時間は10時間半を越えてはならないということが確定された。労働日の始業と終業の時刻も規定された。〕
  10時間労働法の歴史は、イギリスにおける階級対立の独特の発展様式を示す顕著な実例をなすものであり、したがって、詳細な検討に値する。
  人々は、大工業の出現にともなって、工場主による、まったく新しい、限りなく破廉恥な労働者階級の搾取が生じたことを知っている。新しい機械は、成年男子の労働を過剰なものとした。そして、その監視のため、成年男子よりも、はるかにこの仕事に適し、しかも、いっそう安価に雇いうる婦人と児童を必要とした。工業における搾取は、したがって、ただちに労働者家族全体をとらえ、これを工場にとじこめた。婦人や児童は、極度に疲労しきって倒れるまで、日夜を分かたず働かねばならなかった。貧民労役所に収容された貧児たちは、児童にたいする需要の増大にともなって、完全な商品となった。4歳、いな3歳から、これらの児童は、ひとまとめにして、徒弟契約という形式で、いちばん高い値をつける工場主にせりおとされていった。当時の児童や婦人にたいする恥知らずの残忍な搾取、筋肉や腱の一片まで、血の最後の一滴まで、しぼりあげずにはやまない搾取にたいする思い出は、現在なおイギリスの旧世代の労働者たちのあいだにまざまざと生きている。背骨が曲がったり、手足を切断して片輪になったりして、この思い出を身にとどめているものも少なくない。しかし、そのような搾取のなごりとして、だれもかれもが、完全に身体をこわしている。アメリカのいちばんみじめな栽植農場の奴隷の運命でも、当時のイギリスの労働者のそれとくらべれば、なおすぼらしい。
  文明社会のあらゆる条件をふみにじった、この、工場主の情け容赦ない搾取熱を抑制するため、すでにはやくから、国家の手で、若干の措置が講ぜられねばならなかった。にもかかわらず、この最初の法律上の制限は、非常に不十分なもので、やがてその法網はくぐられるようになった。大工業の生成後半世紀を経て、工業発展の奔流が尋常の水路/におさまった1833年にいたってようやく、目にあまるいきすぎに、すくなくとも若干の抑制をくわえるための有効な法律をつくりあげることができた。
  すでに、今世紀のはじめ以来、若干の博愛家の指導によって、工場における労働時間を1日10時間に制限する法律の制定を要求する、一つの党が結成された。この党は、20年代にはサドラーの、その死後はアシュリ卿とR・オーストラーの指導のもとに、10時間労働法案が現実に可決されるまで運動をつづけたが、そのあいだ、漸次、労働者自身のほかに、貴族と、工場主に敵対するブルジョアジーのすべての分派とをその旗のもとに糾合(キュウゴウ)していった。これは、労働者とイギリス社会における、まったく雑多な、極反動分子との連合であったから、10時間労働運動は、おのずから革命的労働運動のそとでおこなわれざるをえなかった。チャーテイストたちは、なるほど、最後の1人まで、10時間労働法案の賛成者であった。彼らは、10時間労働のためのあらゆる会合の参加者の大多数を占め、声援をおくった。彼らは、その機関紙を10時間労働委員会に提供した。しかし、チャーティストで、貴族やブルジョアの10時間労働論者とともに公然と運動をともにしたり、マンチェスターの10時間労働委員会〔Short-Time・Committee〕に出席したりしたものはだれもなかった。この委員会は、もっぱら、労働者と工場監督から構成されていた。しかし、これらの労働者はまったくうちひしがれ、働き疲れた人たちであり、おとなしく、敬虔(ケイケン)な、そしてチャーティズムや社会主義には神聖なおそれをいだくが、王と神にたいしては、しかるべくこれをうやまうと同時に、産業ブルジョアジーを憎むにはあまりに疲れはて、しかも、すくなくとも彼らの貧しさについて関心を示してくださる貴族には、うやうやしく敬意をはらうことをおこたらない、まじめな人々であった。これらの10時間労働論者たちの労働者トーリ主義は、工業の発展にたいする労働者の最初の反対--これは、古い家父長制的な状熊を回復しようとしたものであり、そのもっとも精力的な発現は機械の破壊以上にはでなかった--の余韻(ヨイン)であった。10時間労働派のブルジョアおよび貴族の首領たちは、これらの労働者と同様に反動的であった。彼らは、例外なく感傷的なトーリであり、多くは空想的なイデオローグであって、失われた家父長制的な、隠された搾取--敬虔、家庭への愛着、美徳、偏狭というようなお添えものをともない、固定し、伝統的にうけつがれた状態をともなう--の思い出にふける人々であった。彼らの偏狭な頭は、産業革命の渦(ウズ)巻を見て、めまいを起こしたのである。彼らの小ブルジョア的気分は、従来の社会で、もっとも尊敬に値する、もっとも侵すべからざる、もっとも重/要な階級をわずかな年月のうちに押し流して、これまで知られなかった新しい階級--その利害、同感、生活様式、考え方のすべてが、旧イギリス社会の諸制度と矛盾する階級にとりかえた、新しい、おどろくほど急激に成長してきた生産力を見て、愕(ガク)然とした。これらの、心やさしいイデナローグたちは、道徳、人間性、および同情の立場から、この社会的変革過程の貫徹にともなう、無慈悲な冷酷さや容赦なさとたたかうとともに、この変革過程に対抗して、消滅途上にある家父長制のもつ安定性、穏やかな気楽さ、つつましやかさを、社会の理想として掲げることを怠らなかった。
  10時間労働問題が公衆の注目をひくようになってきたころ、産業の変革によって、その利益をおかされ、その存立を脅かされた社会のあらゆる分派が、これらの分子に結びついた。銀行家、株式仲買人〔Stockjobbers〕、船主と商人、土地貴族、西インドの大地主、小ブルジョアジーが、このような時期に、10時間労働運動の扇動家たちの指導のもとに、ぞくぞくと結集した。
  10時間労働法案は、これらの反動階級や分派たちにとって、プロレタリアートと結んで、産業ブルジョアジーに対抗するための格好の地盤を提供するものであった。この法案は、工場主の富、勢力、社会的・政治的権力が急速に発展することをいちじるしくはばむ一方、労働者には、たんに物質的な、いな、もっぱら肉体的な利益をもたらしたにすぎなかった。それは労働者たちが、その健康をあまりに急激に破壊しないように保護した。しかしそれは、労働者たちがその反動的な同盟者たちにとって危険となりうるようななにものをも、労働者たちに与えはしなかった。それは、労働者たちに政治的権力を与えるものでもなく、賃金労働者としてのその社会的地位を変えるものでもなかった。むしろ反対に、10時間労働運動は、ひきつづき労働者たちを、たえずこれらの有産者的同盟者--選挙法改革法案およびチャーティスト運動の台頭以来、労働者たちがますます避けようとしていた、これらの有産者的同盟者の影響下に、ある部分は、その指導下にさえひきとめた。労働者たちが、もっぱら産業ブルジョアとの直接の闘争において、貴族や、ブルジョアジーのそれ以外の諸分派--労働者たちの直接の搾取者ではなく、ともに産業ブルジョアにたいしてたたかっていた--と結んだということは、とくに、産業革命の当初においては、当然すぎることであった。しかし、この同盟は、労働運動に強度の反動的夾(キョウ)雑物--それは、いまようやく徐々に消滅しつつあるが--をもちこんで、これに水ましをした。これは、労働運動における反動的な要素--その労働部門が、なおマニュファクチュア/段階にあり、したがって、産業の進歩そのものから脅威をうけている労働者、たとえば手織工たち--を、いちじるしく補強した。
  それゆえ、古い家父長制的党派のすべてが解体し、しかも、新しい党派がなお全然形成されていなかった1847年の混乱した時期に、10時間労働法案がついに通過をみたということは、労働者には幸いであった。それは、一連の、非常に混乱した、一見偶然だけが支配した表決によって通過した。そのさい、一方の、はっきりした自由貿易論の工場主、他方の、熱狂的な保護主義の地主を除いて、結束し首尾一貫して投票した政党は一つもなかった。それは、穀物法の廃止で工場主がかちえた大きい勝利に報復するため、貴族、ピール派とウイッグ党の一部が、工場主にたいしてたくらんだ、一つの奸策として通過をみたのである。
  10時間労働法は、労働者の健康を、工場主の狂暴な搾取から、なにほどか保護することによって、労働者に欠くことのできない肉体的欲求の充足をもたらしたのみではない。それはさらに、感傷的な空想家との仲間づきあいからも、イギリスの全反動階級との結びつきからも労働者を救いだした。オーストラーのような男の家父長制的なうわごと、アシュリ卿のような人の感動的な協力の約束も、10時間労働法案が、.これらの長広舌の要点でなくなって以後、1人の聞き手ももたなくなった。労働運動は、いまやはじめて、現在の社会全体の変革の最初の手段としての、プロレタリアートの政治的支配の実現にまったく集中した。そして、ここでは、たったいままで労働者の同盟者であった貴族とブルジョアジーの反動的諸分派は、そのまま狂暴な敵として、そのまま産業ブルジョアジーの同盟者として、労働運動に対抗した。
  イギリスに、世界市場を獲得し、自己の抑圧下にこれをひきとめる可能性を与えた工業は、産業革命によって、イギリスの決定的な生産部門となっていた。イギリスは、工業とその盛衰をともにし、工業の変動とその浮沈を同じくした。工業の決定的な影響にともない、産業ブルジョア、工場主が、イギリス社会の決定的な階級となり、工業家の政治的支配、さらに、大工業の発展に邪魔物となった、あらゆる社会的・政治的諸制度の除去は必至となった。産業ブルジョアジーは仕事にかかった。1830年以後現在にいたるまでのイギリスの歴史は、彼らが、つぎからつぎへと、彼らにたいする反動的な反対者たちの連合にうちかっていった勝利の歴史である。
  フランスの7月革命が金融貴族の支配をもたらしたのにたいして、その直後、1832年に通過をみたイギリスの選挙法改正法案は、まさに金融貴族の没落であった。銀行、/国債所有者、株式投機師、一言でいえば、貨幣取扱業者たち--貴族が莫(バク)大な借財を負っていた--は、選挙独占の色とりどりの偽装のもとに、これまで排他的にイギリスを支配してきた。大工業と世界貿易が発展すればするほど、個々の譲歩がおこなわれたにもかかわらず、彼らの支配は、ますます耐えがたいものとなった。ブルジョアジーのその他の諸分派全体と、イギリスのプロレタリアートおよびアイルランドの農民との同盟が、この支配をくつがえした。人民は革命をもって脅迫し、ブルジョアジーは、銀行にその銀行券を大量に返して、それを破産のふちに追いやった。金融貴族は、時を誤らず後退した。彼らの後退は、イギリスに2月革命をまぬかれさせた。
  選挙法改正法は、ごく貧弱な小商人にいたるまで、この国のあらゆる有産階級を政治的権力に参加させた。こうして、ブルジョアジーのあらゆる分派は、彼らが、その要求と権力とを主張することのできた法律上の地盤が与えられたのである。フランスにおいて、1848年の6月の勝利以来、共和制のもとでおこなわれた。ブルジョアジーの個々の分派のあいだの闘争は、選挙法改正法案成立後のイギリスにおいては、議会においておこなわれた。まったく異なった事情のもとで、結果もまた、この両国において異なっていたことは、いうまでもない。
  産業ブルジョアジーは、ひとたび選挙法改正法において、議会闘争への地盤を獲得するやいなや、あいついで勝利をおさめずにはいなかった。冗(ジョウ)職の制限(165)においては、金融業者の後尾としての貴族が、1833年の救貧法(18)においては窮民が、関税の引下げと所得税の実施においては、金融業者と地主の免税特典が、産業ブルジョアジーの犠牲とされた。工業家の勝利にともなって、その家臣の数は増大した。卸売商業と小売商業は、彼らに貢納を支払うようになったロンドンとリヴァプールは、工業家の救世主である自由貿易のまえにひざまずいた。しかし、彼らの勝利にともなって、その欲求、その主張も増大した。
  〔注釈165;冗職の制限--産業ブルジョアジーの圧力で、19世紀の30年代と40年代に、官職の売買および貴族出身者への僧禄の分与を取り締まる法律が発布された。
    注釈18;貧民労役所(workhouses)--1834年にイギリスで採択された救貧法によれば、貧民にたいしては次の一つの形態の扶助しか認められなかった。すなわち、彼らを刑務所的な制度をもった労役所に収容することである。人民はこれらの労役所を「貧民バスティーユ」とよんだ。〕
  近代大工業はたえず拡大し、たえず新しい市場を獲得するという条件のもとでのみ、存続することができる。きわめて大量的な生産の無限の容易さ、機械のたえまない進歩とその改良、それを条件とする資本と労働力とのたえざる駆逐は、近代大工業にそうすることを強いるのである。ここでは、どのような静止も、破滅の始まりにほかならない。ところで、工業の拡大は市場の拡大を条件としている。しかも工業は、その現在の発展水準では、その市場を増大しうる以上にはるかに急速に、その生産力を増大させるから、周期的恐慌が生じる。そうすると、生産手段と生産物の過剰から、商業界における流通がにわかに停滞し、過剰生産/物が新しい販路をつうじて放出されるまで、商業がほとんど完全に停止するにいたる。イギリスは、この恐慌の焦点であって、その麻痺的な作用は、世界市場のもっとも遠隔な、もっとも隠れた隅々にまで確実に達し、いたるところで、産業および商業ブルジョアジーのかなりの部分を破滅させる。とにかく、イギリス社会のあらゆる部分にたいして、彼らが工場主に依存していることをなによりも明らかに認識させる、このような恐慌には、救済手段はただ一つしかない。新市場の獲得であれ、旧市場のいっそう徹底的な開発であれ、市場の拡大がそれである。1842年の中国のように、これまで頑強にとざされていた市場が武力によって突破される、というような少数の例外的事例を除けば、工業的方法にもとついて新市場を開拓し、旧市場をいっそう徹底的に開発する手段はただ一つしかない。すなわち、価格を安くするという、つまり生産コストを低下させるという道である。生産コストは、新しい、より進歩した生産方法によるか、利潤の低減によるか、あるいは労賃の引下げによって低下させられる。しかし、より進歩した生産方法の採用は、恐慌から脱出することを可能にしない。けだしそれは、生産を増大し、したがってそれ自身、新しい市場を必要とするにいたるからである。だれもが損失に甘んじて売ろうとする恐慌においては、利潤の低減ということは問題になりえない。さらに、労賃についても同様である。労賃は、そのうえ、利潤と同じように、工場主の願望や意図にかかわらない法則によって決まるのである。しかも、労賃は、生産コストの主要構成部分をなすものであり、その継続的な引下げは、市場の拡大と恐慌からの脱出のための唯一の手段である。労賃は、しかし労働者の生活必需品がより安価に生産されるようになれば低下する。ところが、労働者の生活必需品の価格は、イギリスでは、穀物、イギリス植民地の生産物などにたいする保護関税と間接税によって、たかめられていたのである。
  それゆえに、自由貿易と、とくに穀物関税の廃止とを主張しての工業家の頑強な、激しい、一般的な扇動がおこなわれたのである。それゆえ、1842年以後、商業恐慌および工業恐慌のたびに彼らのあらたな勝利がもたらされるという特徴的な事実が生じたのである。穀物関税の廃止では、彼らのために、イギリスの地主が、砂糖などの差別関税の廃止では、植民地の地主が、航海条例の廃止では船主が、犠牲とされた。現在彼らは、国費の削減と租税の節減および労働者の一部--もっとも確かな部分--にたいする選挙権の付与を主張して扇動している。彼らは、イギリスの国家機構の伝統的な付属物で、すでにその意義を失っていながら、非常に高価につくもの、すなわち、貴族、教/会、冗職、半封建的な司法などを始末することのできる唯一の手段として、直接の政治的支配をできるだけはやく獲得するため、議会に新しい同盟者を引き入れようと望んでいる。いままさに目前に迫っている、あらたな商業恐慌、おそらくは、大陸でのあらたな、大規模な紛争と時を同じくして生じると思われるこの恐慌が、すくなくとも、イギリスの発展におけるこのような進歩をもたらすであろうことは、疑いえない。
  産業ブルジョアジーのこのようなうちつづく勝利の最中に、反動的諸分派は、10時間労働法案という束縛を、彼らに課することに成功したのである。10時間労働法案が通過をみたのは、好況期でも恐慌期でもない1時期、工業がなお過剰生産の結果にかなりに悩んでいるため、その能力の一部分しか運転させることのできないような、したがって、工場主自身が全時間就業させていないような中間期の一つであった。10時間労働法が工場主相互の競争を制限した、このような時機、このような時機においてだけ、それは耐えうるものであった。しかしこの時機は、やがてあらたな好況と代わった。品物が売りきれて空(カラ)になった市場は、あらたな供給を要求した。投機がふたたび起こって需要を倍加した。工場主は、操業をいくら強化しても追いつかなかった。いまや、10時間労働法案は、完全な独立性を、そのもちあわせているすべての資材の無限な自由処理を、これまでのいつよりもいっそう多く必要とした工業にとって、耐えがたい束縛となった。かりに、短い好況期に全力をあげて搾取することが、彼らに許されないとすれば、次の恐慌のあいだ、工業家は、いったいどうなるのであろうか? 10時間労働法はやめられなければならなかった。議会でそれを廃棄させるほど強力でないとすれば、それをくぐることにつとめねばならなかった。
  10時間労働法は、18歳以下の年少者と、すべての婦人労働者の労働時間を1日10時間に制限した。これらの人々と児童は、工場労働者の決定的な部類であるから、工場は、一般に1日10時間しか稼働しえなかったということは、必然の結果であった。しかし、工場主たちは、好況が彼らに労働時間の増大を要求したとき、一つの切抜け策を見いだした。工場主たちは、労働時間がいっそう短く制限されている14歳以下の児童の場合に、これまでやってきたことであるが、若干の婦人と年少者を従来より数名多く、補助と交替のために雇用した。このようにして彼らは、10時間労働法の適用をうける者のひとりびとりは、1日10時間以上働かせないで、その工場と成年労働者たちを、13時間、14時間、15時間も働かせることができた。これは、一部分は法律の文言にも抵触するが、それ以上に、/法律の精神全体と立法者の意思に反するものであった。工場監督官は告発した。治安判事の意見は一致せず、その判決もまちまちであった。好況が増大すればするだけ、工業家たちはますます声高く、10時間労働法と工場監督官の干渉とに抗議した。内務大臣、サー・G・グレイは、交替制(relay または shift system)を黙認するよう、監督官あての命令を出した。しかし、監督官のうちには、法律をたてにとって、命令を無視してやった者が多かった。ついに、一つのめだった案件が財務裁判所までもちこまれ、この裁判所は工場主に有利な判決をくだした。この判決とともに、10時間労働法は事実上廃棄され、工場主たちは、ふたたび完全に、彼らの工場の主人となった。彼らは、恐慌時には2時間、3時間、あるいは6時間、好況期には13時間ないし15時間操業することができた。そして、工場監督官は、もはやこれに干渉することは許されなかった。
  10時間労働法案は、主として反動家たちによって主張され、もっぱら反動的階級によって通過をみたのであるが、ここでわかることは、その法案が、その通過の仕方において、まったく反動的な措置であった、ということである(162)。イギリスの社会的発展の全体は、工場の発展・進歩と結びついている。この進歩を妨げ、それを制限したり、その外部にある基準に照らして規制し、支配したりしようとするあらゆる制度は、反動的であり、持続しえないものであり、その進歩のまえに屈伏せざるをえない。古いイギリスの家父長制的社会全体を、貴族と金融ブルジョアジーを、やすやすとかたづけてしまった革命力は、かならずや、10時間労働法というおだやかな水路に封じこめられはしないであろう。効力を失った法律を、政府の公示によって復活させようとするアシュリ卿やその同志たちのあらゆる試みは、無益であるか、あるいはせいぜい、1時的な、見せかけの効果を生むにすぎないであろう。
  〔注解162;後年の著作では、マルクスとエンゲルスは、10時間労働法についてもっと厳密な特徴づけを与えている(とくにカール・マルクスの『国際労働者協会創立宣言』および『資本論』第1巻、第8章、第5、第6、第7節を参照。)〕
  だが、それにもかかわらず、労働者にとって10時間労働法は、不可欠のものである。労働者にとって、それは肉体的な必要物である。10時間労働法がなければ、イギリスの全労働者は、肉体的に滅びてしまう。しかし、労働者がこんにち要求している10時間労働法と、サドラー、オーストラー、アシュリが宣伝し、1847年に連合した反動派の手によって通過をみた10時間労働法とのあいだには、雲泥の相違がある。労働者たちは、この法律の短い存続期間によって、その破棄の容易さ--議会の制定法でさえなく、裁判所の簡単な判決だけで、それを無効にするのに十分であった--によって、彼らのかつての反動的な同盟者のその後のふるまいによって、反動派との同盟が、どのような価値をもつものであるかを知った。彼らは、産業ブルジョ/アに対抗する個々の部分的措置を通過させても、はたしてどれだけ役にたつものかを知った。産業ブルジョアが、さしあたりなお、現在の時点において運動の先頭に立ちうる唯一の階級であるということ、彼らの進歩的な使命に反対することは無益であるということを知った。したがって、労働者たちは工業家たちにたいして直接の、すこしもおとろえていない敵意をいだいてはいるが、しかも現在では、もう一度博愛主義的な瞞着(マンチャク)にさそわれて、連合した反動派の旗のもとにくわわるよりは、自由貿易の完全実施、財政改革、選挙権の拡張を要求する工業家の運動を支持するほうにはるかにかたむいている。彼らは、工業家がその役割を果たしつくしたあかつきに、はじめて、労働者の時代が到来しうることを感じている。それゆえ、彼らは、工業家に支配権を与え、それによってその転覆を準備せざるをえない発展過程を促進しようという正しい本能をもっている。しかし、それだからといって、労働者は、工業家に支配権を獲得させることで、彼らが自分たちのもっとも本来的な、もっとも直接の敵に支配権を獲得させるのだということ、さらに、彼らは工業家の転覆によってのみ、自分自身の手に政治的権力を獲得することによってのみ、彼ら自身の解放に到達しうるということを、忘れはしない。10時間労働法の破棄は、彼らにたいして、このことを再度的確に証明している。この法律の復活は、いまでは、普通選挙権のおこなわれているもとでのみ意義をもっている。そして、住民の3分の2が産業プロレタリアであるイギリスでの普通選挙権は、労働者階級の独立的な政治的支配を、それと分かちがたい、社会状態のあらゆる革命的変革を意味する。労働者がこんにち要求する10時間労働法は、それゆえ、財務裁判所によってたったいま廃棄せられたものとは、まったく異なったものである。それは、もはや工業の発展を麻痺させるような、ばらばらの試みではない。それは、現在の社会形態全体を変革し、従来の階級対立を徐々になくしていく諸措置の長い連鎖の一環である。それは、反動的な措置ではなく、革命的な措置である。
  最初は工場主の一存で、次には財務裁判所によっておこなわれた10時間労働法の事実上の廃棄は、とりわけ、好況期を短くし、恐慌を促進するのに役だった。しかし、恐慌を促進するものは、同時に、イギリスの発展の歩みと、その当面の目標である、産業プロレタリアートによる産業ブルジョアジーの転覆を促進する。市場の拡大と恐慌の克服のために、工業家が利用しうる手段は非常に限られている。コブデンのいう国費の節減は、たんなるウイッグ式のおしゃべりにすぎないか、それとも、たとえ1時的な救済策のつもりであっても、完全な革命に等しいものとなるか、ど/ちらかである。--それを、もっとも大がかりな、もっとも革命的な仕方で--イギリスの工業家が革命的でありうるかぎりで--おこなうにしても、次の恐慌には、どのように対処したらよいのか? その生産手段がその販路とは比較しえないほど高度の膨張能力をもつ、イギリスの工業家は、駆け足で次のような時点に近づいていることは明らかである。それは、彼らの救済手段がつきはてる時点、現在なお一つの恐慌と次の恐慌とを分かっている好況期が、圧迫的な、過度に増大した生産力の圧力で完全に失われてしまう時点、一つの恐慌と次の恐慌とを分かつものが、停滞した、なかば眠ったような工場活動の短い期間にすぎなくなるような時点、もしこのような異常な状態がその内部にそれ自身の回復の手段をもたず、工業の発展が、同時に社会の運営をやがて担当しうる唯一の階級、プロレタリアートをつくりだしていなかったとするならば、一方では利用しえない生命力の過剰のため、他方では完全な消耗のために、工業、商業、近代社会全体が滅亡せざるをえなくなるような時点である。プロレタリア革命は、そのとき不可避である。そして、その勝利はまちがいない。
  これが、不可避の必然性をもって、イギリスの現在の社会状態全体から生じる事態の規則的な、正常な推移である。この正常な推移が、大陸での衝突や、イギリスにおける革命的突進によって、どこまで短縮されうるかは、やがて判明するであろう。
  そして、10時間労働法は?
  世界市場それ自体の限界が、近代工業のあらゆる能力の完全な展開にとって、あまりに狭隘(アイ)となったとき、近代工業が、自己の力を自由に発揮する余地を得るために、社会革命を必要とするにいたったとき、--このときから、労闘働時間の制限は、もはや反動的ではなく、もはや工業にたいする障害物ではなくなる。それは反対に、まったくおのずから現われてくる。イギリスにおけるプロレタリア革命の最初の結果は、国家すなわち支配者としてのプロレタリアートの手中への大工業の集中であろう。そして、この工業の集中にともなって、こんにち労働時間の規剃を工業の進歩と矛盾させている、あらゆる競争関係は消失する。このようにして、10時間労働問題の唯一の解決は、資本と賃労働との対立にもとづくあらゆる問題のそれと同様に、プロレタリア革命にある。〉(全集第7巻239-248頁)

《初版》

 〈(167) F・エンゲルス『イギリスの10時間法案』。(私が編集した『新ライン新聞、政治経済評論、1850年4月号、13ページ)。この同じ「高等」裁判所は、同様に、アメリカの南北戦争中にも、海賊船の武装を禁止する法律をその正反対物にひっくり返すような文言のあいまいさを、発見した。〉(江夏訳327頁)

《フランス語版》

 〈(134) F・エンゲルス『イギリスの10時間法案』(カール・マルクスによって編集された『新ライン新聞、政治経済評論』、185/0年4月号、13ページに所載)。この同じ「高等」裁判所はアメリカの南北戦争中にも、海賊船の武装を取り締まる法律の趣旨を全面的に変更してこれを反対の趣旨に変えたような文言の曖昧さを、発見したことがある。〉(江夏・上杉訳299-300頁)

《イギリス語版》

  〈 (本文注: F.エンゲルスの「英国10時間法案」( K.マルクスの編集による「新ライン新聞 政治経済評論」1850年4月号に収録) に、この同じ「最高」裁判所法廷は、アメリカ南北戦争中、海賊船の武装を禁止する法の意味を逆転させるような語句の曖昧さを発見した。)〉(インターネットから)


●原注168

《初版》

 〈(168) 『1850年4月30日の工場監督官報告書』。〉(江夏訳327頁)

《フランス語版》

 〈(135) 『1850年4月30日の工場監督官報告書』。〉(江夏・上杉訳300頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●第31パラグラフ

《初版》

 〈ところが、資本の外観上決定的なこの勝利とともに、たちまち一つの激変が現われた。労働者たちは、不撓不/屈で日に日に再生する抵抗であるとはいえ、受け身の抵抗をしてきた。いまや彼らは、ランカシャーやヨークシャーで、公然たる威嚇的集会を開いて抗議した。このいわゆる10時間法はつまり、ただのごまかし、議会の詐欺であって、かつて実在していなかったのだ! と。工場監督官たちは、階級敵対が信じがたい高さにまで緊張している、と政府に切に警告した。工場主たちでさえ、その一部はこう不平を鳴らした。「治安判事たちの判決が相矛盾しているために、全く異常な無政府状態が横行している。ヨークシャーでは別のある法律が、ランカシャーではまた別の法律が適用され、ランカシャーのある教区ではこれまた別のある法律が、そのすぐ近所ではこれまた別の法律が適用されている。大都市の工場主は法網をくぐることができるが、田舎町の工場主はリレー制度に必要な人員を見つけることはないし、ましてや、労働者をある工場から別の工場に移すのに必要な人員を見つけることはなおさらない、云々。」ところで、労働力の平等な搾取は、資本の第一の人権である。〉(江夏訳327-328頁)

《フランス語版》

 〈ところが、一見終局的な資本のこの勝利には、たちどころに一つの反動が続いた。労働者はその当時まで、不屈な、しかも不断に再生する抵抗であるとはいえ、受け身の抵抗をしてきた。いまや彼らはランカシャやヨークシャで、ますます威嚇的な集会を催して抗議しはじめた。彼らはこう叫んだ。「いわゆる10時間法は邪悪な茶番、議会の欺瞞でしかなく、いまだかつて存在しなかったのではないか?」工場監督官は、階級間の敵対が信じがたい程度に高まっている、と政府に真剣に警告した。工場主自身が不平を言いはじめた。彼らはこう歎いた。「治安判事の矛盾した判決のおかげで、全くの無政府状態が支配している。ある法律がヨークシャで、別のある法律がランカシャで、別のある法律がランカシャ州の一教区で、最後に別のある法律がすぐその近くで施行されている。大都市の工場主は法網をくぐることができても、リレー制度にとって必要な人員を、ましてや、労働者をある工場から別の工場へ移すために必要な人員を、全然見出さないほかの工場主については、事情がちがう、云々」。ところで、資本の第一の権利は、労働力の搾取においての平等ではないのか?〉(江夏・上杉訳300頁)

《イギリス語版》

  〈(53) だが、この明らかに決定的な資本の勝利に、たちまち激変が伴った。労働者達の抵抗は不屈で根気強いものではあったが、これまでのところは、受け身に終始していた。今度は、ランカシャーやヨークシャーで、脅威的な集会をもって抗議した。ごまかしの様な10時間法は、この様に、単なる戯言であり、議会の法的詐欺であり、今だかって存在したこともない! 工場査察官達は直ちに、議会に対して警告した。階級的対立が信じられない程の緊張点に達したと。ある工場主らは、仲間うちで愚痴をこぼす始末であった。すなわち、
 (54) 「治安判事の相矛盾する判決のために、事態はまったく異常となり、無政府的なものとなった。一つの法がヨークシャーで執行され、ランカシャーでは別の法が、一つがランカシャーの一行政区で、他のものが直ぐ隣の区で。大きな町の工場主は法を強引に切り抜けることができても、地方では、そのリレーシステムに必要な人々を見つけることはできない。工場から工場へシフトするにも人手が少な過ぎる。等々」
 (55) 云うまでもないが、資本の第一の生存権は、あらゆる資本家による、労働力の、平等なる搾取なのである。〉(インターネットから)


●第32パラグラフ

《初版》

 〈こういった事情のもとで、工場主と労働者とのあいだの妥協が成立したが、この妥協は、1850年8月5日の新たな追加工場法において議会の印璽を得た。「青少年と婦人」については、労働日は、週の初めの5日聞は10時間から1O[1/2]時間に延長され、土曜日は7[1/2]時間に制限された。労働は、朝の6時から夕方の6時までに、食事のための1[1/2]時間の中休みつきで行なわれ(169)、この中休みは、同時に、しかも1844年の諸規定にのっとって、与えられなければならない、云々。こうして、リレー制度には、きっぱりと結末がつけられた(170)。児童労働については、1844年の法律が依然として有効であった。〉(江夏訳328頁)

《フランス語版》

 〈これらのさまざまな事情は、工場主と労働者とのあいだに妥協をもたらしたが、この妥協は1850年8月5日に、追加工場法によって議会で確認された。「青少年と婦人」にたいしては、労働日が週の最初の5日では1O時間から1O時間半に引き上げられ、土曜日では7時間半に制限された。労働は、朝の6時から夕方の6時までに(136)、食事のための1時間半の休憩付きで行なわれなければならないが、この休憩は1844年の規定にしたがって全員に同時に与えられなければならない、等々。こうしてリレー制度は、これを最後に廃止された(137)。児童労働については、1844年の法律が依然有効であった。〉(江夏・上杉訳300頁)

《イギリス語版》

  〈(56) これらの状況下において、工場主と労働者の間の妥協が成立した。1850年8月5日の追加工場法である。議会の印章も捺印され確定した。「年少者たちと女性たち」の労働日は、週のうちの最初の5日間は、10時間から10時間半に伸び、土曜日は7時間半に短縮された。労働時間は朝6時から夕6時 ( 冬季は朝7時から夕7時となる) で、1844年の条件と同じく、食事時間として1時間半より少なくない時間の休息、そしてその食事時間は、一斉に同時刻に与えられるものとなった。これらにより、リレーシステムは永久に廃止された。子供たちの労働については、1844年の法が変わらず有効であった。〉(インターネットから)


●原注169

《初版》

 〈(169) 冬には、朝の7時から晩の7時までの時間に変更してもよい。〉(江夏訳328頁)

《フランス語版》  

 〈(136) 冬は、希望があれば朝の7時から晩の7時まで。〉(江夏・上杉訳300頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注170

《初版》

 〈(170) 「現行法(1850年の)は一つの妥協であって、この妥協によって、雇われている者は、労働を制限されている人々の労働の開始および終了の時間を斉一にするという利益と引き換えに、10時間法の恩典を放棄したのである。」(『1852年/4月30日の工場監督官報告書』、14ページ。)〉(江夏訳328-329頁)

《フランス語版》

 〈(137) 「現行法(1850年の)は一つの妥協であって、この妥協によって、雇用されている労働者は、労働を制限されている人々の労働開始時間と終了時間とを斉一にするという利益を得たかわりに、10時間法の恩恵を放棄したのである」(『1852年4月30日の工場監督官報告書』、14ページ)。〉(江夏・上杉訳301頁)

《イギリス語版》

  〈( 本文注: 「この現行法 (1850年の)は、妥協の産物であり、そこで、労働者は、10時間法の恩恵を譲り渡して、労働者を制約する労働開始・労働終了の斉1時刻の方を選び取ったのである。」(工場査察官報告書 1852年4月30日)) 〉(インターネットから)


●第33パラグラフ

《61-63草稿》

  〈「1833年の法より以前には少年や児童が終夜か終日かまたはその両方かどのようにでも随意に働かされたということ、これが事実である」(『工場監督官報告書。1860年4月30日にいたる半年間』、ロンドン、1860年、[5O、]51ページ)。1833年の法によって、夜間とは午後8時半から午前5時半までのあいだ〔とされていた〕。工場主たちは、「彼らの法定労働時間を、午前5時半から午後8時半の範囲内でどのような時限にとることも」許されていた。「昼間(デイ)」および「夜間(ナイト)」のこのような語義は、それ以降1850年にいたるまですべての工場法を通じて--労働時間の制限があったとはいえ--維持されたが、1850年になってはじめて、許される1日の労働時間が、午前6時から午後6時まで、また冬季には、工場主が希望すれば午前7時から午後7時までと定められたのである。〉(草稿集④354頁)
  〈「たとえば絹業を取ってみると1850年以降、11歳以上(つまり11歳から13歳)の児童を、生糸の巻き取りと撚(ヨ)りとに1日10時間半働かせることは合法的である。1844年から1850年までは、彼らの日々の労働は10時間に--土曜日はもっと短時間に--制限されていたのであり、さらにこの時期以前には9時間に制限されていた。これらの変更は、絹工場での労働は他の織物のための工場での労働よりも軽度であり、またその他の点から見ても健康を害することがおそらくより少ない、という口実で行なわれたのである」(同前、26ページ)。「1850年に絹業についてなされた、他の織物製造業よりも健康に良い仕事であるという陳述は証拠をまったく欠いているばかりでなく、見られる証拠はまったく正反対のものである。というのは、絹業地方では平均死亡率がきわだって高く、しかも人口のうちの婦人部分のそれは、ランカシャーの綿業地方--ここでは、児童が半日しか労働しないのは事実であるが、しかし綿業を健康に良くないものにするような原因がいろいろあるので、肺病で死亡する率の高いことが避けられないと恩われるかもしれないのであるが--に比べてさえ、それよりも高いのである」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、27ページ)。〉(草稿集④363頁)
  〈児童労働。「工場法の教育条項は工場主によって非常に嫌悪されている。」(『工場監督官報告書、1856年10月31日〔にいたる半年間〕』、66ページ、サー・ジョン・キンケイドの報告。)(学校教育にかんするこれらの条項がどんなに「奇怪な」やり方で守られているかを、ひとはこれらの報告書を読んで、自分の眼で確かめる必要がある。)(毎日数時間の通学〔について〕。}
  「綿、紡毛糸、梳毛糸、亜麻の各工場で働く児童は、8歳から13歳になるまで通学を要求されているが、〔同じ児童でも、〕絹・撚糸工場で働く場合は、11歳で通学を免除され、以後は1日中使用される。このような非常に緩和された半日労働制度の適用ですら、やっと1844年の工場法で要求されたのであって、それ以前は、実際問題として工場主たちの児童労働の使用には、どんな制約もなかったのである。」(同上書、77ページ、アリグザーンダ・レッドグレイヴ氏の報告。)「工場法のいわゆる教育条項は、児童をたんに通学させることを命じているにすぎない。……1844年の法律が制定されるまでは、学校教師または女教師によって署名のかわりに十字印をつけられた通学証明書がそれはどめずらしくなかった。というのは教師自身も字が書けなかったからである。あるとき、通学証明書を発行している学校と称する場所を訪れたときのことであるが、私は、教師の無知に驚くのあまり、彼に向かっていった。『失礼ながら、あなたは字が読めるのか?』と。彼は答えた。『ええまあ多少は〔summat〕(somewaht)』と。そして証明書を交付する正当な資格が彼にあることを弁明して彼はさらにつけ加えてこういった。『とにかく、私は生徒たちの前に立っているのだ』と。/
  1844年の法案が準備されているとき、監督官たちは、学校と称される場所がどんなにひどい状態にあるかを申し立てることはできたが、そこから手渡される証明書を法律上有効なものとして受け取らざるをえなかった。彼らが獲得できたのは、ただ、1844年の法律が制定されてから後は、通学証明書の数字は教師の手で書きこまれていなければならないこと、また教師は同じく彼の手で彼の名と姓とを略さずに署名しなければならないということだけであった。」(『〔工場監督官〕報告書、1855年10月31日〔にいたる半年間〕』、レナド・ホーナの報告、18、19ページ。)〉(草稿集⑨182-183頁)
  〈「こうして、この半日労働という教育制度には、しばしば、全日労働の報酬を求める親と、全日労働者を求める工場主という二人の敵対者が現われる。大部分の工場主は、仕事の性質からその配置が可能でありそしてまたより年齢の高いはたらき手の供給が十分にあれば、半日労働の児童つまり13歳未満の児童の労働は使わない。……織物の工場主は、子どもを使っているすべての工場主たちのなかでもいわばえり抜き〔のグループ〕である。……{というのは、工場制度がそのいまわしい面をみせて最初に発展したのは、これらの織物においてだったからである。児童労働調査委員会も、もとはといえば、これらの工場主の要請によってできたものであって、それは、他の工業部門つまり炭鉱やガラス工場、陶器工場などにも同様な、いやもっとひどい状態が支配していることを証明するためであった。}(『工場監督官報告書、1858年10月31日〔にいたる半年間〕』、アリグザーンダ・レッドグレイヴの報告、42ページ。)
  労働の使用者たちは、もし13歳以上の子どもでその仕事に適した者が十分な数だけ得られるなら、13歳未満の児童を2組も必要なしに雇ってはおかないだろう。じっさい、ある部類の製造業者、羊毛紡績業者が13歳未満の児童すなわち半日工を使用することは、今日ではまれである。(〔半日工(ハーフタイムズ)という〕この表現はよい、労働者は、全労働日(フルタイムズ)か半労働日(ハーフタイムズ)かというたんなる時間でしかない。)彼らは各種の改良された新しい機械を採用し、それが子どもを使用する必要性をまったくすたれさせた。たとえば、ある工程について述べてみると……そこでは糸つなぎ機と呼ばれる装置既存の機械付加されることによって、それぞれの機械の特性に応じて6ないし4人の半日労働の〔児童の〕ものであった仕事が、1人の少年によって行なわれるようになる。機械の改良は、手の労働を減らすこと、つまり人間の装置ではなくて鉄の装置によって一工程を遂行すること、つまり一つながりの製造の環を完遂すること、を目標にしているのである。半日労働の制度が『糸つなぎ機』の発明の刺激に一役買ったのはまちがいない。」(同上書、[42-]43ページ。)〉(草稿集⑨188頁)
  〈(1)「1844年から1850年のあいだの絹工業では、11歳以上(11歳以上13歳未満)の児童の毎日の労働時間は、土曜日は別として、1日10時間と定められていた。しかしそれ以前は(1833年以降)9時間だった。1850年の法律は、絹巻き取り作業と絹撚り作業に従事する11歳以上の子どもにたいしては10[1/2]時間と定めた。絹工業の労働は他の工業の労働よりも軽いというのがその口実だった」、云々。「しかし、次の一事はまったく明らかなことと思われる。絹工業の作業は織物工業の作業よりも健康的だという1850年の主張にはまったく証拠がなく、/証拠はむしろ正反対であることを示している。」(『工場監督官報告書、1861年10月31日〔にいたる半年間〕』、ロバト・ベイカーの報告、27ページ。)
  (1)〔注解〕この引用文は、『工場監督官報告書」(26ぺージ)では、次のようになっている。「たとえば、1850年以来の絹工場を例にとると、1日10時間半にわたって11歳以上の子どもを生糸の巻き取り、撚糸に雇用することは、ずっと合法的でありつづけた。1844年から1850年には、彼らの1日の仕事は、土曜日を別にして、10時間に制限されていた。そしてそれ以前の時期には、9時間であった。これらの変遷は、絹工場の労働が他の織物の工場よりも軽度であるという理由から生じた、……」〉(草稿集⑨191-192頁)

《初版》

 〈ある部類の工場主は、今度も以前と同じに、プロレタリアの児童にたいする領主特権を確保した。この工場主は絹工場主であった。1833年に彼らは威嚇的にこうわめきたてた。「なん歳の児重であれこの児童を1日に10時間酷使する自由が、もしもわれわれから奪われるならば、われわれの工場は休止するだろう」(if the liberty of working children of any age for 10 hours a day was taken away,it would stop their works.)、と。「13歳以上の児童を充分な数だけ買うことは、われわれにとって不可能であろう」、と。彼らは、欲しいままの特権を強奪した。この口実は、その後の調査によってまっかな嘘であることが判明した(171)が、だからといって、彼らが、10年にもわたって、労働させるためには椅子にのせてやらねばならないような幼い児童の血から、毎日10時間、絹を紡ぎ取ることには、なんの変わりもなかった(172)。1844年の法律は、11歳未満の児童を6[1/2]時間を越えてこき使う「自由」を、彼らから確かに「奪取」したが、その代わりに、11歳ないし13歳の児童を毎日10時間こき使うことを、彼らに保証したし、また、他の工場児童については規定されていた就学義務を、免除してくれた。今度の口実はこうであった。「織物が繊細であるためには指のやわらかさが必要であり、このやわらかさは、早くから工場に勤務することによってのみ保証されている(173)」。繊細な指のために児童たちは全員屠殺されたのであって、あたかも、南ロシアで有角家畜が皮と獣脂のために屠殺されたのと同じである。ついに1850年には、1844年に許された特権が、絹撚り部門と絹捲き取り部門とに制限されたが、ここでは、「自由」を奪われた資本にたいする損害賠償のために、11歳ないし13歳の児童の労働時間が、10時間から10[1/2]時間に延長された。その口実は、「絹工場では他の工場におけるよりも、労働が軽度であり、また、健康にけっしてそれほど有害ではない(174)」、ということであった。後日政府の医学上の調査が証明したところでは、これとは逆に、「絹業地方の平均死亡率は、例外的に高いし、しかも、この地方の住民中の婦人のあいだでは、ランカシャーの綿業地方におけるよりも高くさえなっている(175)」。工場監督官の抗議が半年ごとに繰り返されたにもかかわらず、違法行為は今日まで続いている(176)。〉(江夏訳329-330頁)

《フランス語版》

 〈別の部類の工場主は、今度も以前と同様に、プロレタリアの児童にたいする領主特権を確保した。それは絹工場主であった。1833年に、彼らは威嚇的にこうわめき立てた。「何歳の児童でも1日に10時間へとへとにさせるような自由が、われわれから奪われるならば、それは、われわれの工場を休止させるであろう。13歳以上の児童を充分な人数買うことは、われわれには不可能であろう」。こうして、彼らは望みどおりの特権を強奪した。その後の調査は、この口実がまっかな嘘であることを示した(138)が、それでも、彼らが10年間にわたり、労働の全期間中高い椅子にのせてやらねばならないほど小さな児童の血をもって毎日10時間絹を紡ぐことに、変わりはなかった(139)。1844年の法律は確かに、11歳未満の児童を6時問半以上労働させる「自由」を、彼らから「奪い取った」が、そのかわり、11歳ないし13歳の児童を10時間使い、ほかの工場の児童については義務づけられている通学を彼らの犠牲者には禁止する、という特権を、彼らに保証した。今度の口実は、「織物のしなやかさは、幼時から工場に入ることによってしか獲得できない指先の軽捷さを必要とする(140)」、ということであった。南ロシアでは有角家畜がその皮と脂肪のために大量に屠られたのと同じょうに、絹織物の繊細さのために児童が大量に屠られた。1844年に認められた特権はやっと1850年に絹の糸繰り作業場に制限されたが、ここでは、強奪された「自由」の貧欲を埋め合わせるために、11歳ないし13歳までの児童の労働時間が10時間から10時間半に引き上げられた。どんな新しい口実のもとでか? 「労働が絹工場では、ほかの工場でよりもはるかに容易であり、健康上はるかに有害でないからである(141)」。その後公式の医学上の調査が証明したところでは、これとは全く反対に、「絹の製造地域では、平均死亡率が例外的に高く、しか/もこの地域住民中の婦人部分についてはランカシャの綿業地域のそれを凌駕さえしている(142)」。6ヶ月毎に繰り返された工場監督官の抗議にもかかわらず、同じ特権がいまなお続いているのである(143)。〉(江夏・上杉訳301-302頁)

《イギリス語版》

  〈(57) 一部の工場主らは、この時も以前と同じように、プロレタリアートの子供たちに関する特別な領主権を法の上で確保した。絹製造工場主らであった。1833年でも、彼等は大声で吠えて上流階級を威嚇した。「もし、仮に、いかなる年齢の子供たちであれ、日10時間の労働の自由が(訳者注: 例によって、我々から) 奪われたなら、自分達の工場の仕事が停止するであろう。」(工場査察官報告書 1844年9月) 13歳以上の子供たちを充分な人数買うことは、自分達にとっては不可能であろうという言い分である。彼等は彼等の望む特権を強奪したのである。その後の調査で、この口実は故意の嘘であることが明らかとなった。(同上) とはいえ、以後10年間にわたって、日10時間の絹紡績において、仕事のためには椅子の上に乗せられねばならないような子供たちの血肉を用いることが、妨げられることは無かった。(同上) 1844年法は、確かに、彼等から11歳未満の子供たちを日6時間半以上雇用する「自由」を奪っていた。だがその一方で、11歳から13歳までの子供たちを日10時間働かせる特権を確保した。そして、他の全ての工場の子供たちに強制的に行われる教育を、彼等の場合には除外したのである。この時の口実は、以下の通りであった。
 (58) 「彼等が雇用された工場での織物の肌合いはとても繊細で、軽いタッチが必要で、早くからこれらの工場に導入された者たちによってのみ実現されるものなのである。」(工場査察官報告書 1846年10月31日)
 (59) 子供たちは、彼等の繊細な指のために、まるまる屠殺されたのである。ちょうど、南部ロシアで角を持った牛が彼等の皮と牛脂のために屠殺されるのと同じようにである。でもついに、1844年では認められた特権は、1850年には、絹糸撚糸と絹糸巻き取りの部門のみに限定された。ところがここで、資本の利益を温存するために、11歳から13歳までの子供たちの労働時間の資本の「自由」が10時間から10時間半に伸ばされたのであった。再びその口実は、「絹工場の労働は、」
 (60) 「他の織物工場に較べて容易なものであって、また、健康への影響も低いものである。」(工場査察官報告書 1861年10月31日) 後に、公式医療調査は、正反対であることを証明した。
 (61) 絹製品製造業地域の平均死亡率は、ことの他高く、特に全人口のうちの女性部分では、綿製品製造業地域であるランカシャーよりもさらに高い。
  (62) 6ヶ月ごとに提出される工場査察官の抗議にも係わらず、この健康被害は今なおこの時間でも続いている。〉(インターネットから)


  (付属資料№4に続く。)

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(10)

2024-01-18 21:31:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(9)


【付属資料】№4


●原注171、172

《初版》

 〈(171) 『1844年9月30日の工場監督官報告書』、13ページ。
    (172) 同前。〉(江夏訳330頁)

《フランス語版》

 〈(138) 『1844年9月30日の工場監督官報告書』、13ページ。
    (139)  同前。〉(江夏・上杉訳302頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注173

《初版》

 〈(173) “The delicate texture of the fabric in which they were employed requiring'a lighness of touch,only to be acquired by their early introduction to these factories."(同前、20ページ。)〉(江夏訳330頁)

《フランス語版》

 〈(140) “The delicate texture of the fabric in which they were employed requiring'a lighness of touch,only to be acquired by their early introduction to these factories."(『1846年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ)。〉(江夏・上杉訳302頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注174

《初版》

 〈(174) 『1861年10月31日の工場監督官報告書』、26ページ。〉(江夏訳330頁)

《フランス語版》

 〈(141) 『1861年10月31日の工場監督官報告書』、26ページ。〉(江夏・上杉訳302頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注175

《61-63草稿》

 〈「たいていの綿梳毛糸絹の工場では、近年非常に運転速度を高められた機械の面倒を労働者が十分に見ようと思えば、それには激しい疲労をともなう興奮状態が必要で、これが肺病による過大な死亡率の一原因ではあるまいかと私には思えるのであるが、これについては、、ドクター・グリーンハウが、このことを主題にした最近の称賛に値する報告のなかで指摘している。」(「工場監督官報告書、1861年10月31日〔にいたる半年間〕』、ロバト・ベイカーの報告、25-26ページ。)「ドクター・グリーンハウの報告から、女子と児童労働が広範に使用されている絹などの織物その他の工業地方における肺病による死亡率と、イギリスの標準的な健康状態にある(農村)地方のそれとをくらべてみよう。
  
  〔以下、191ページ上段の表がつづく。〕 (表は省略。『資本論』第1部第8章第6節の原注175に付けられている表と同じ)

  この表から認められるように、どの地方でも、/またどの業種でも、その平均死亡率は男の場合も女の場合も、健康な8地方の平均死亡率の2倍以上である。……こういう結果は原因を道徳的なものに求めても、あるいは気候上の事柄に求めても、とうてい説明はつかないように思われる。だから密集した労働のなかにあるなにかが労働者の健康に危険な影響を及ぼしていて死亡率を高める結果を生んでいるとする、ドクター・グリーンハウその他の検査官たちの見解が裏づけられるのである。」(『工場監督官報告書、1861年10月31日〔にいたる半年間〕』、ロバト・ベイカーの報告、28ページ。)〉(草稿集⑨190-191頁)

《初版》

 〈(175) 同前、27ページ。一般に、工場法の適用を受けている労働者住民は、肉体的に大いに改善されてきた。医師たちの証明はどれも、この点では一致しており、また私も、さまざまの時期の私自身の観察からして、この点を確信している。にもかかわらず、幼年期の児童のぞっとするような死亡率は別にしても、ドクター・グリンハウの公式の報告が示しているところでは、工場地方の健康状態は、「標準的な健康状態の農業地方」に比べて不良である。その証拠として、1861年の彼の報告書から、特に次の表を引用しておこう。

〉(江夏訳330頁)

《フランス語版》

 〈(142) 同前、27ページ。工場法の適用を受ける労働者住民は、概して、肉体的に非常に改善された。それにもかかわらず、ドクター・グリーンハウの公式の報告書のなかには、次の表が掲載されている。

〉(江夏・上杉訳302頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 工場査察官報告書 1861年10月31日 概して云えば、工場法に係る労働者人口については、身体的には大いに改善を見た。全ての医学的証言は、この点では一致している。また、様々な時点での個人的な観察も私をそう確信させるものである。だが、にもかかわらず、子供たちの、人生の最初の段階にある子供たちの恐るべき死亡率を別にしても、グリーンハウ博士の公式報告書によれば、「農業地域の通常的健康状態」と比較して、製造業地域の健康状態が好ましいものではないことを示している。証拠として、彼の1861年の報告書から以下の表を提示する。
 (表はうまくコピペできなかったので省略。)〉(インターネットから)


●原注176

《初版》

 〈(176) イギリスの「自由貿易論者」が、どんなにいやいや絹工業の保護関税を断念したかは、周知のとおりである。フランスからの輸入を防ぐ保護に代わって、いまでは、イギリスの工場児童の無保護が役立っている。〉(江夏訳331頁)

《フランス語版》

 〈(143) イギリスの「自由貿易論者」が、どんなにいやいやながら絹製造業の保護関税を断念したかは、周知のとおりである。フランスからの輸入にたいする保護が彼らに役立っていたのが、いまでは、彼らの工場で雇用されている児童の無保護が彼らに役立/っているのである。〉(江夏・上杉訳302-303頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 英国「自由貿易論者達」にとって、絹製造業者のための、絹の保護関税を断念することが、なんとも気の進まないものであったかは、よく知られたところである。フランスからの輸入保護関税に対応して、英国工場で働く子供たちの保護の撤廃が今度は彼等の言い分となった。〉(インターネットから)


●第34パラグラフ

《初版》

 〈1850年の法律は、「青少年と婦人」について、朝の6時半から晩の9時半までの15時間を、朝の6時から夕方の6時までの12時間に変更したにすぎない。だから、児童たちについては変更がなく、彼らは、その労働の総時間が6[1/2]時間を越えてはならなかったとはいえ、相変わらず、右の12時間が開始する前に半時間、それが終了する後に2[1/2]時間、使用されてもかまわなかった。この法律の審議中に、右の変則の破廉恥な乱用にかんする統計が、工場監督官たちから議会に提出された。しかし、無駄であった。背後には、好況期になれば児童を手助けとして成年労働者の労働日を再び15時間に吊り上げようという意図が、待ち伏せしていた。これに続く3年間の経験は、このような試みが成年男子労働者の抵抗に出会って失敗せざるをえないことを、明示した(177)。だから、1850年の法律は、1853年にはついに、「児童を青少年や婦人よりも朝は早くから晩はおそくまで使う」ことを禁止することで、補足さてた。その後は、1850年の工場法は、わずかな例外はあっても、この工場法の適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した(178)。最初の工場法の制定以来、いまや半世紀が流れ去っていた(178)。〉(江夏訳331頁)

《フランス語版》

 〈1850年の法律は、「青少年と婦人」についてだけ、朝の5時半から晩の8時半までの15時間を、朝の6時から夕方の6時までの12時間に変更した。このことは、児童たちの状態を全然改善しないのであって、彼らは、彼らの労働の総時間が6時間半を越えてはならなかったとはいえ、依然としてこの12時間の開始前に半時間、終了後に2時間半使われてもよかったのである。この法律の審議中に、工場監督官は議会にたいし、この変創が惹き起こした恥ずべき濫用にかんする一統計を提出した。だが、いっさいが無駄であった。この術策の奥底に隠されていた秘密の意図は、児童を活動させておくことによって、好景気の年のあいだ成年労働者の労働日を15時間に再び引き上げさせる、ということであった。続く3年間の経験は、そのような試みが成年労働者の抵抗に遭って挫折したことを示した(144)。1850年の法律は、1853年には、「児童を青少年や婦人よりも朝は早くから晩は遅くまで使用すること」の禁止によって、補足された。1850年の法律はこの時以降、わずかな例外を除いて、この法律の適用を受けた産業部門におけるあらゆる労働者の労働日を、規制した(145)。最初の工場法の公布以来半世紀が過ぎ去っていたのである(146)。〉(江夏・上杉訳303頁)

《イギリス語版》

  〈(63) 1850年の法は、「年少者たちと女性たち」についてのみ、朝6時から夕8時半での15時間を、朝6時から夕6時の12時間に変えただけである。従って、この時間の前の半時間と後の2時間半、いつもの様に使うことができる子供たちの労働についてはなんら影響するものでは無かった。子供たちの全労働時間が6時間半を超えないと言う条件ではあったが。この法案の審議中、工場査察官達は、この悪のりのはなはだしき乱用に係る統計を議会に提出した。無駄であった。その背後には、景気好調の年には、子供たちの補助によって、成年男子の日15時間労働をねじ込もうとする狙いが隠されていた。続く3年間の経験は、このような試みが、成年男子労働者の抵抗の前に、悲嘆に帰さねばならなかった。その結果、1850年の法は、「子供たちの、年少者たちと女性たちの時間より前の、朝の時間、以後の夕方の時間の使用」を禁じる条項により、1853年に最終的な完成を見た。以後、二三の例外を除けば、1850年の工場法が、全製造業種の全労働者を適用下に置いた。
 最初の工場法が、議会を通過してこの方、半世紀の時間が経過した。〉(インターネットから)


●原注177

《初版》

 〈(177) 『1853年4月30日の工場監督官報告書』、31ページ。〉(江夏訳331頁)

《フランス語版》

 〈(144) 『1853年4月30日の工場監督官報告書』、31ページ。〉(江夏・上杉訳303頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注178

《初版》

 〈(178) イギリスの綿業の絶頂時代である1859年と1860年には、幾人かの工場主は、超過時間にたいする労賃増額という好餌で、成年男子紡績工等々に説得して労働日の延長を受け入れさせようとした。手ミュール紡績工や自動機見張り工は、自分たちの雇主に宛てた覚え書きをたてにとって、この実験をやめさせたが、この覚え書きにはなかんずくこう書かれている。「卒直に申して、私たちの生活は私たちには重荷でありまして、私たちが他の労働者よりも週にほとんど2日(20時間)も長く工場に縛りつけられておりますかぎり、私たちは、自分たちをこの国の奴隷に等しいものと感じますし、また、私たち自身と私たちの子孫とを肉体的にも精神的にも害するような制度を永久化することを、心にやましく思います。……だから、新年/からは、1[1/2]時間の法定の中休みを差じ引き6時から6時まで、週に60時間を越えて1分たりとも長くは労働しない旨、ここに謹告申します。」(『1860年4月30日の工場監督官報告書』、30ページ。)〉(江夏訳331-332頁)

《フランス語版》

 〈(145) イギリス綿工業にとって最盛の年である1859年と1860年には、幾入かの工場主は、残業時間にたいし割増賃金を提供することによって、成年男子紡績工などに、労働日の延長を承諾する決心をさせようと試みた。成年男子紡績工などは、工場主に宛てた覚書によって、この種の試みをどれもやめさせたが、この覚書ではなかんずくこう述べられている。「全くありのままに言えば、われわれの生活はわれわれには重荷であって、われわれがほかの労働者よりも週にほとんど2日(20時間)も長く工場に縛りつけられているかぎり、自分たちをこの国の奴隷であると感じるし、また、われわれとわれわれの子孫にとって精神的にも肉体的にも衰弱の一原因となる制度を永続させることは、心にやましく思うのである。……だから、われわれは新年の元日からは、1時間半という法定の休憩を差し引き朝の6時から夕方の6時まで、週に60時間以上1分たりとも長くもはや労働しないことを、あなたがたに謹告する」(『1860年4月30日の工場監督官報告書』、30ページ)〉(江夏・上杉訳303頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 1859年と1860年の間、英国綿製造業の絶頂期、ある製造工場主らは、超過時間に対して高賃金という疑似餌を用いて、労働日の延長を成人男子労働者に認めさせようとした。ミュール紡績工らと自動挽き肉機監視工らは、雇用主らに対して請願書を提出し、この種の試みを停止させた。嘆願書には、次のように書かれていた。「分かりやすく云えば、我々の生活が我々の重荷となっている。そして、この国の他の労働者よりも週2日近く以上も(イタリック)工場に閉じ込められている間は、ここの農奴のように思う。そして、我々は、この不当なシステムを我々自身と将来の世代へも永続化しようとしている。…. 従って、ここに、最上の敬意をもって、あなた方に、通告するものである。クリスマスと新年の休暇の後に、作業を再開するに当たっては、週60時間働き、6時から6時まで、1時間半の休息を取り、働くが、それ以上は働かない。(工場査察官報告書 1860年4月30日)〉(インターネットから)


●原注179

《61-63草稿》

 〈「詐欺的な工場主は、午前6時15分前に(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を始め、午後6時15分すぎに(ときにはもっと早く、ときにはもっと遅く)作業を終える。彼は名目上朝食のためにとってある半時間の始めと終りから5分ずつを奪い取り、また名目上昼食のためにとってある1時間の始めと終りから10分ずつを奪い取る。土隠日には彼は、午後2時すぎに15分間(ときにはもっと長く、ときにはもっと短く)作業をする。
  したがって彼の利得{ここでは利得(ゲイン)はくすね取られた剰余労働と直接に同一視されている}は次のとおりである。
  午前6時以前…… 15分 |                              午後6時以後…… 15分   | 5日間の合計300分
  朝食時…………  10分      | 
  夕食時…………  20分   |                              〔計〕          40分     |                              土曜には
  午前六時以前……15分 |                             朝食時…………  10分   |  1週間の利得の合計340分、
  午後二時以後……15分 |
  〔計〕          40分     |
  すなわち、週に5時間40分であり、これは、祭日や臨時休業の2週間を引いて年間50労働週間を掛ければ、27労働日に等しい」(『工場取締法。1859年8月9日、下院の命により印刷』のなかにある『工場監督官L・ホーナ氏の工場法改正提案』、4、5ページ)。〉(草稿集④344頁)

《初版》

 〈(179) この法律の言葉づかいがこの法律を破るための手段になっていることについては、議会報告『工場取締法』(1859年8月6日)、および、そのなかのレナード・ホーナーの『現に盛んに行なわれている違法作業を監督官が防止しうるように工場法を改正するための提案』、を参照せよ。〉(江夏訳332頁)

《フランス語版》

 〈(146) この法律の文面がこの法律そのものに違反する手段になっていることについては、議会報告『工場取締法』(1859年8月6日)、および、この報告のなかでのレナード・ホーナーの意見書『現に盛んに行なわれている違法作業を監督官が防止し/うるように工場法を改正するための提案』、を調べること。〉(江夏・上杉訳303-304頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: この法の用語法が法の違反に寄与した点については、議会返書である「工場等標準法」(1859年8月6日)があり、その中には、レオナード ホーナーの「工場査察官をして、不法操業を防止することが出来るように工場法を修正するための提案、今やそれは、広く知られているものだが。」がある。〉(インターネットから)


  (付属資料№5に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(11)

2024-01-18 21:13:20 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(10)


【付属資料】№5


●第35パラグラフ

《イギリスにおける労働者階級の状態》

 〈捺染工場は、このように工場制度に完全に仲間入りしたけれども、工場制度にくわえられた法的制限のもとにはたっていない。捺染工場は流行品を製造する。だから、規則正しい労働時間というものはない。注文が少なけれぽ、ろくに働きもしない。ある見本で大当りをとって商売が繁昌すると、10時まででも、12時まででも、それどころか徹夜で仕事をする。マンチェスターの私の住宅の近くには、捺染工場が一つあった。この工場は、夜おそく私が帰宅するころまで、まだあかりのついていることがなんどもあった。そして、この工場では、子供たちはときおり非常に長く働かねばならないので、彼らは、石段のうえや、玄関のすみで、ほんのつかのまの休息と睡眠をとろうとするということを、私はたびたび聞/いた。私は、これがほんとうの話であるかどうかは、法律的には確実には知らない。もし確実に知っていれば、私はその会社名をあげるであろう。児童雇用委員会の報告は、この点きわめてぞんざいである。委員会はただ、イギリスでは、すくなくとも子供たちは、たいていかなりいい着物を着て、かなりいい食物をとっていること(これは、彼らの両親がたくさんかせいでいるか、いないかにおうじて相対的なことである)、また子供たちはまったく教育がなく、道徳教育もあまり役にたっていないことを、報告しているにすぎない。われわれはただ、これらの子供たちが工場制度のもとにいる、ということを考慮に入れさえすればよい。そして、この点についてはすでに述べた、ということを指摘しておいて、もっとさきにすすむことができるのである。衣料生地の製造に従事しているその他の労働者については、もうあまりいうことはない。漂白工は非常に不健康な仕事をする。漂白工は、その仕事中に、肺にとってもっとも有害な物質の一つである塩素を、ひっきりなしに吸わねばならない。染色工の仕事のほうがずっと健康的であり、多くの場合、非常に健康的である。というのは、染色工の仕事は全身の緊張を必要とするからである。この階級がどのくらいの賃金を得ているかは、あまり知られていない。そしてこのことは、彼らが平均以下の賃金は得ていない、という結論に達する十分な根拠なのである。なぜなら、もしそうでないとすれば、彼らはかならず不平を訴えるであろうから。ビロード剪(セン)毛工は、綿ビロードの消費が大きいときにはかなり人数が多くなり、3000人ないし4000人にも達するが、工場制度の影響によって、間接的に非常な苦境にたたされている。以前、手織機でつくられた商品は、きちんと一様には織られなかったので、一つ一つの糸目をきりひらくのに熟練した手を必要とした。この商品が機械織機でつくられるようになってからは、糸目はきちんと一様にはしり、どのよこ糸も、そのまえをはしっているよこ糸と正確に平行していて、もはや糸目をきりひらくことは、たいした技術ではなくなっている。機械によって失業化した労働者は、ビロード剪毛の仕事に殺到し、自分たちの競争によって賃金を引き下げる。工場主たちは、ビロードの剪毛には女や子供を利用できることを発見した--そして、賃金は女や子供の水準に下がり、一方、数百人の成年男子たちが駆逐された。工場主たちは、仕事を、労働者の自宅の仕事場でやらせるよりも、自分の工場の作業室でやらせるほうが安くつくことを発見した。というのは、労働者の仕事場にたいしては、工場主が間接にその家賃を支払ってやっているのだから。それ以来、剪毛室にあてられていた多くの小屋の低い二階は、空室のままになってい/るか、住宅として賃貸しされている。一方、ビロード剪毛工のほうは、自分の労働時間を自分できめる自由を失ってしまい、工場の鐘に隷属するようになっている。45歳くらいに見えるあるビロード剪毛工は、私につぎのように語った。「私がいま、1ヤール。1ペニーでしなければならないのと同じ仕事で、8ペンスもらっていた時代を私はおもいだすことができます。もちろん私は、糸目のきちんとした織物であれば、以前の織物よりももっとはやく剪毛することはできますが、私が以前一定の時間のあいだに剪毛した量の2倍は、同じ時間内にはとうていできません」、と--そこで、この剪毛工の週間賃金は、以前の4分の1以下に低落したわけである。(以下、略。)〉(全集第2巻428-430頁)

《61-63草稿》

 〈さて以上のことと、他方でのイギリスの資本主義的生産における、労働時間--剰余労働時間--への渇望とを対比してみよう。
  私はここでイギリスにおける機械の発明以降の過度労働の歴史に立ち入るつもりはない。事実は次のとおりである。--あまりにもいきすぎた結果、もろもろの悪疫が流行し/はじめ、それによる荒廃が資本家と労働者とを等しく脅かした。国家は、資本家たちのきわめて大きな抵抗があるなかで、標準労働日を工場で実施せざるをえなかった(のちには大陸のいたるところで多かれ少なかれ模倣された)。さらにこの瞬間にも、標準労働日のこの実施は本来の工場から他の労働部門(漂白業、捺染業、染色業)に拡大されざるをえなかった。いまこの瞬間にも、この過程はなおも進行しつつあり、それをめざす闘争(たとえば、10時間法案の実施のための、また工場法をたとえばノッティンガムのレース製造業にまで鉱張するための、等々)が続いている。この過程の初期の諸段階にかんする詳細については、私は、F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、ライプツィヒ、1845年、の参照を指示しておく。それにしても工場主たちの実践的抵抗は、彼らの代弁者かつ弁護者である職業的経済学者たちが行なった理論的抵抗よりも大きくはなかった。というのは、なにしろ、トゥックの『物価史』の共編者であるニューマーチ氏が、イギリス技芸協会(協会の名称は調べること〉の、1861年9月にマンチェスターで開かれた最近の会議で、経済学部門の議長として、工場等における標準労働日の法律的規制およぴ強制的制限の必然性を洞察したことは今日の経済学の最新業績の一つであり、今日の経済学はこの点でその先行者たちよりもすぐれているのだ、と力説しないではいられないと感じたほどなのだから!〉(草稿集④340-341頁)
  〈『デイリ・テレグラフ』、1860年1月17日付。「州治安判事プロートン氏は、1860年1月14日、ノッティンガム市の公会堂で開かれたある集会の議長として、次のように言明した。--地域住民のうちレース製造業に従事している部分には他の文明世界のどこにもまったく例がないほどの苦悩と窮乏とが存在している。……9歳から1O歳の児童が朝の2時、3時、4時ごろ彼らの汚いベッドから引き離されて、ただ露命をつなぐだけのために夜の1O時、11時、12時まで労働することを強制されるのであって、その間に児童の手足は衰え、骨格は萎縮し、顔は労苦をきざみ込み、彼らの人間性はまったく石のような無感覚状態に硬化して見るも無残なありさまである。……われわれは、マリト氏やその他の工場主たちが敢然と進み出てあらゆる論議にたいして抗議したことに驚きはしない。……この制度は、モンタギュー・ヴァルピ師が描いているように、無制限な奴隷状態、つまり社会的にも肉体的にも道徳的にも精神的にも奴隷状態の制度である。……成人男子の労働時間を1日18時間に制限してもらいたいと請願するために公けの集会を開くような町があることを、いったいどう考えたらいいのだろうか?……われわれはヴァージニアやカロライナの綿花裁培者たちをロをきわめて非難している。だがしかし、彼らの黒人市場は、そこには鞭の恐怖や人肉売買があるとはいえ、ヴェールやカラーが資本家の利益のために製造されるととのために行なわれているとの緩慢な人身御供にくらべて、それ以上に忌まわしいものと言えるのであろうか?」〉(草稿集④342頁)
  〈1860年に、漂白染色作業場法が発布された。
  捺染作業場法漂白染色作業場法工場法における規定は、それぞれ異なっている。
   〈工場〔監督官〕報告書が証明しているところでは、(1860年4月までに)工場法のもとに置かれており、したがって毎週の労働が法律によって60時間に引き下げられていた産業諸部門では、賃銀は下がらないで、むしろ(1859年を1839年と比べるならば)上がったのに、当時まだ「児童、少年および婦人の労働が制限されていない」諸工場では、賃銀は明確に下がった。この後者は、「捺染作業場、漂白作業場、染色作業場であって、これらの作業場では、1860年現在、労働時間はいまも20年前と変わっていないのであって、ここでは、工場法によって保護されている部類〔の労働者〕がときには1日に14、5時間も働かされている」。前者の種類の諸工場では、生産は以前に比べていっそう増加[した]し、また同時に、工場の急速な拡大が示しているように、工場主の利潤も増加した。「あらゆる種類の機械に加えられてきたもろもろの大改良は、機械の生産力を非常に増進させた。労働時間の諸制限がこれらの改良に、とくに、所与のある時間内の機械の速度の増大にかんする改良に、刺激を与えたということに疑う余地はない。これらの改良と労働者のなしうるいっそう強い緊張とは……短縮された時間内に、以前はもっと長い時間に生産されたのと同量の製品が生産される、という結果をひき起こしたのである」(『工場監督官報告書。1858年10月31日にいたる半年間』、10ページ)。(『工場監督官報告書。1860年4月30日にいたる半年間』、30ページ以下を参照せよ。)〉(草稿集④540頁)
  〈捺染工場における、工場〔法にもとづく〕教育のすてき/な例。(これらの工場が完全に工場法に服する前、1861年以前?)
 「捺染工場で使用される子どもの通学は次のように規定されている。
  どの子どもも、捺染工場で使用される前に、その就業第1日に先立つ6か月のあいだに少なくとも30日間そして最低150時間は通学していなければならない。そして捺染工場で働いているあいだも、その就業第1日からかぞえてやはり6か月という期間ごとに同じように30日間と150時間は通学しなければならない。
  通学は午前8時から午後6時までのあいだになされなければならない。同じ1日のうちに2時間半よりも少ないかまたは5時間を越える通学は、150時間の一部分として数えてはならない。
  ふつうの事情のもとでは、子どもは、30日のあいだ午前と午後、毎日少なくとも5時間は通学し、30日が過ぎて、150時間という法定の総時間数に達すれば、すなわち、彼ら自身のことばでいうと、『彼らの通学簿を仕上げてしまえ』ば、捺染工場に帰って、その6か月が終了して分割式の次の通学期がくるまでそこにとどまり、そしてふたたび次の通学簿が仕上がるまで学校にかよう。……法定の時間数(150時間)の通学をすませた少年も大部分は、彼らの捺染工場における6か月の労働を終えて学校に帰ってくるころには、彼らが少年捺染工としてはじめて登校したときと同じ状態になっている。……彼らはその前の通学によって得たものはすっかり忘れてしまっている。」(『工場監督官報告書、1857年10月31日〔にいたる半年間〕』、アリグザーンダ・レッドグレイヴの報告、41-42ページ。)
  「また別の捺染工場では、子どもの通学はまったく企業での仕事の必要に合わせて行なわれる。所要の時間数は、各6か月ごとに、一度に3時間から5時間までのこまぎれの時間を、おそらく6か月全部のあいだに分散しているそれらを綴り合わせたものである。……たとえば、ある日は午前8時から11時まで、また別のある日は午後1時から4時まで学校にきている。それから子どもはふたたび何日か欠席する。次に現われるときは、ことによると午後3時から6時までかもしれない。次にはたぶん3日か4日つづ/けてまたは1週間もやってくるが、するとまた3週間かまる1か月も学校にみえなくなる。そして次は、雇い主の職工が子どもを使わないですまそうと考えたなん日かの半端な日に、なん時間かあまった時間だけやってくる。こうして、150時間という数をかぞえおわるまで、子どもは、学校から工場へ、工場から学校へと、いわばこづきまわされるのである。」(同上書、42-43ページ。)〉(草稿集⑨184-186頁)
  〈「児童労働調査委員会は、その報告書が数年にわたって出版されているが、たくさんのしかもいまなお続いている非道を明るみにだした。--それらのいくつかは、かつて捺染その他の工場がそれで告発されたものにくらべてもずっとひどいものである。」(『工場監督官報告書、1858年10月31日〔にいたる半年間〕』、レナド・ホーナの報告、10ページ。〉(186頁)

《初版》

 〈工場立法は、1845年の“Print work's Act"(捺染工場法)でもって、初めて、その元来の領域の外に手をのばした。資本がこの新しい「無軌道」を許したさいの嫌悪の念は、この法律の1行1行が物語っている! この法律は、8-13歳の児童と婦人との労働日を、朝の6時から晩の10時までの16時間に制限したが、食事のための法定の中休みが全くない。この法律は、13歳以上の男子労働者を昼夜を通じて思いのままにこき使うことを、許している(180)。この法律は、議会の早産児である(181)。〉(江夏訳332頁)

《フランス語版》

 〈工場立法は、1845年の捺染工場法(綿捺染工揚にかんする法律)によって、はじめてその最初の範囲を脱け出した。資本がこの新しい「無軌道」を承諾したときの不快さは、この法律の各行ににじみ出ている! この法律は、児童や婦人の労働日を、食事のための法定の中断が全くなしに、朝の6時から晩の10時までのあいだの16時間に制限していている。それは13歳以上の男子労働者を、昼夜を通じて意のままに労働させることを許している(147)。これは議会の産みそこないである(148)。〉(江夏・上杉訳304頁)

《イギリス語版》

  〈(64) 1845年の「捺染工場法」は、工場立法としては最初の、本来のあるべき姿を逸脱したものであった。この新しい「おまけ」を受けた資本は今更という顔をしながらも、法の全行をわめきたてた。そこには、8歳から13歳までの子供たちと、女性のための労働日を16時間、朝6時から夜10時までに制限するものであり、その間には法的な食事時間のための休息も無かった。13歳を越える男性には、好きなだけ、昼夜通じて労働させることを許すものであった。
 それは、議会の流産児である。〉(インターネットから)


●原注180

《61-63草稿》

 〈工場監督官によれば、イギリスの捺染工場の労働時間はまだ事実上無制限であり、またここでは、1857年でもまだ、8歳以上の児童が朝の6時から晩の9時まで(15時間)〔働かされて〕いる。「捺染工場の労働時間は、法定の制限があるにもかかわらず、実際上は無制限であると考えてさしつかえない。労働にたいする唯一の制限は、捺染工場法(ヴィグトーリア女王治下第8年および第9年法律/第29号)の第22条に含まれているものであって、それの規定によれば、児童--すなわち8歳以上13歳未満の児童--を夜間働かせてはならないのであるが、ここで言う夜間というのは、午後10時から翌朝の午前6時までのことと定義される。それゆえ8歳の児童を多くの点で工場労働に似た労働に就かせること、しかもしばしば、むっとするような温度の部屋で、休憩や休息のために仕事を休むこともなく連続的に午前6時から午後10時まで(16時間)労働に就かせることが、法的に許されているのである。そして13歳に達した少年は、合法的に、昼夜を関わずどれだけの労働時間でも、少しの制限も受けずに働かしてよいのである。私の管区では、この半年問、8歳以上の児童は午前6時から午後9時まで働かされてきた」(『工場監督官報告書。1857年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1857年、39ページ、A・レッドグレイヴ氏の報告)。〉(草稿集④345-346頁)

《初版》

 〈〈18O) 「8歳およびそれ以上の児童が、私の管区ではこの半年間(1857年)、じっさいに、朝の6時から晩の9時までこき使われていた。」(『1857年10月31日の工場監督官報告書』、39ページ。)〉(江夏訳332頁)

《フランス語版》

 〈(147) 「私の管区では、1857年の下半期中、8歳以上の児童が朝の6時から晩の9時まで現にこき使われていた」(『1857年10月31日の工場監督官報告書』、39ページ)。〉(江夏・上杉訳304頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注: 「8歳とそれより年齢の多い子供たちが、実際に、最近の半年間、私の地区で、朝6時から夜9時まで使用されていた。」(工場査察官報告書 1857年10月31日)〉(インターネットから)


●原注181

《初版》

 〈(181) 「捺染工場法は、教育条項についても保護条項についても、失敗だと認められている。」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、52ページ。)〉(江夏訳332頁)

《フランス語版》

 〈(148) 「『捺染工場法』は、その保護規定にかんしてであろうと、その教育規定にかんしてであろうと、一つの産みそこないだと認められている」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、52ページ)。〉(江夏・上杉訳304頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「捺染工場法は、教育的な配慮に於いて、また児童保護の配慮の点でも、欠けるものと認められた。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)〉(インターネットから)


●第36パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さて以上のことと、他方でのイギリスの資本主義的生産における、労働時間--剰余労働時間--への渇望とを対比してみよう。
  私はここでイギリスにおける機械の発明以降の過度労働の歴史に立ち入るつもりはない。事実は次のとおりである。--あまりにもいきすぎた結果、もろもろの悪疫が流行し/はじめ、それによる荒廃が資本家と労働者とを等しく脅かした。国家は、資本家たちのきわめて大きな抵抗があるなかで、標準労働日を工場で実施せざるをえなかった(のちには大陸のいたるところで多かれ少なかれ模倣された)。さらにこの瞬間にも、標準労働日のこの実施は本来の工場から他の労働部門(漂白業、捺染業、染色業)に拡大されざるをえなかった。いまこの瞬間にも、この過程はなおも進行しつつあり、それをめざす闘争(たとえば、10時間法案の実施のための、また工場法をたとえばノッティンガムのレース製造業にまで鉱張するための、等々)が続いている。この過程の初期の諸段階にかんする詳細については、私は、F・エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』、ライプツィヒ、1845年、の参照を指示しておく。それにしても工場主たちの実践的抵抗は、彼らの代弁者かつ弁護者である職業的経済学者たちが行なった理論的抵抗よりも大きくはなかった。というのは、なにしろ、トゥックの『物価史』の共編者であるニューマーチ氏が、イギリス技芸協会(協会の名称は調べること〉の、1861年9月にマンチェスターで開かれた最近の会議で、経済学部門の議長として、工場等における標準労働日の法律的規制およぴ強制的制限の必然性を洞察したことは今日の経済学の最新業績の一つであり、今日の経済学はこの点でその先行者たちよりもすぐれているのだ、と力説しないではいられないと感じたほどなのだから!〉(草稿集④340-341頁)

《初版》

 〈とはいえ、原則は、近代的生産様式のきわめて独特な産物である大工業諸部門での勝利でもって、凱歌を奏でていた。1853-1860年の大工業の驚異的発展は、工場労働者の肉体的および精神的な更生と相並んで、どんな鈍い自にもはっきりと映った。工場主たちは、半世紀にわたる内乱によって労働日の法的制限と法的規制とを一歩一歩もぎ取られものの、みずから、まだ「自由な」搾取領域とのコントラストを誇らしげに指し示したほどである(182)。「経済学」のパリサイ人たちはいまや、法的に規制された労働日の必然性を洞察したことが、自分たちの「科学」の/特徴的な新発見である、と宣言した(183)。容易にわかることだが、工場の大立物連が運命に従い運命と妥協してからは、資本の抵抗力がしだいに弱まり、他方では同時に、労働者階級の攻撃力が、直接には利害関係のない社会層における彼らの同盟者の数が増すにつれて、増大した。こんなわけで、進歩は、1860年以降、比較的急速になった。〉(江夏訳332-333頁)

《フランス語版》

 〈けれども、近代的生産様式の固有の創造物である大工業部門における勝利によって、原則は終局的に凱歌をあげていた。1853年から1860年までの大工業部門の驚異的な発展は、労働者の肉体的、精神的な再生と肩を並べて進み、さほど先見の明もない人々の目をも驚かせた。労働日の法律上の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって少しずつ力ずくでかちとられてきた工場主自身が、いまなお「自由な」搾取部門とこの法律の適用を受ける工場とのあいだに存在している対照を、誇らかに浮き彫りにした(149)。「経済学」のパリサイ人たちは、自分たちの「科学」の特徴的な新発見は、労働日の法的制限の必然性を認めたことだ、と言明しはじめた(150)。容易に理解されるように、工業の大立物連が、自分たちでは妨げることのできないものに服従して、既定の結果と和解までしたとき、資本の抵抗力はしだいに弱まっていったが、他方、労働者階級の攻撃力が、闘争ではなんら直接的な利害関係をもたない社会層中の労働者階級の同盟者の数とともに、増大した。そんなわけで、1860年以来の比較的急速な進歩が生じたのである。〉(江夏・上杉訳304頁)

《イギリス語版》

  〈(65) 曲折はあったものの、この労働時間という原理は、近代産業の最も先端的性格を持つそれらの大きな工業部門で勝利することによって、はっきりと確立された。工場労働者の肉体的・道徳的再生と相まって、1853年から1860年にかけて、彼等の見事な前進は、全く鈍感な者をも驚かした。法的制限と規制が、南北戦争後の半世紀、工場主らを、一歩一歩絞め上げて行ったが、今や、その工場主自身が、依然として「自由」に搾取を続ける部門と、工場法下にある部門との違いにこれ見よがしに言及するのである。
 今や、「政治経済学」のパリサイ人らは、法的に規定された明確なる労働日の必要性の認識を、彼等の「科学」の特別なる新たな発見として高らかに宣言する。
 以下のことは、誰でも容易に分かるところであろう。工場主らのお偉方が諦めて、避けようもない事態に適応しようとすれば、資本の抵抗力も次第に弱まる。と同時に一方では、労働者階級の攻撃力は、直接的な利害関係にない社会階級の同盟者をも得て成長した。かくて、この時点から、1860年以後、かなりの急速な進歩が始まった。〉(インターネットから)


●原注182

《初版》

 〈(182) たとえば、1863年3月24日の『タイムズ』紙宛の書簡のなかのE・ポッターが、そうである。『タイムズ』紙は、ポッターに、10時間法に反対する工場主の反逆を回想させている。〉(江夏訳333頁)

《「第7篇 資本の蓄積過程」「第21章 単純再生産」》

 〈アメリカの南北戦争と、それに伴って起きた綿花飢謹とのために、人の知るように、ランカシャやその他の地方で多数の綿業労働者が街頭に投げ出された。労働者階級自身のなかからも、その他の社会層からも、イギリスの植民地や合衆国への「過剰者」の移住を可能にするために国家の援助や国民の自発的寄付を求める叫びがあがった。そのとき、『タイムズ』(1863年3月24日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポ・タの一つの書簡を公表した。彼の書簡は、適切にも、下院では「工場主宣言」と呼ばれた。ここでは、そのなかから、労働力にたいする資本の所有権があからさまに表明されているいくつかの特徴的な箇所をあげておこう。/
  「綿業労働者には次のように言ってよい。彼らの供給は大きすぎる。……それは、おそらく3分の1は減らされなければならない。そうすれぽ、残った3分の2にたいする健全な需要が現われるであろう。……世論は移民を促している。……雇い主」(すなわち綿業工場主)「は、自分の労働供給が取り去られるのを見て喜んではいられない。彼はそれを不正とも不法とも思うであろう。……もしも移民が公共の財源から援助を受けるとすれば、雇い主には、意見を述べる権利があり、また、おそらくは抗議する権利があるであろう。」
  同じポッターはさらに続けて次のようなことを論じている。すなわち、綿業がどんなに有益かということ、「それは疑いもなく人口をアイルランドからもイングランドの農業地帯からも流し去った」ということ、その規模がどんなに巨大かということ、それは、1860年にはイギリスの全輸出貿易額の13分の5を供給したということ、それは数年後にはさらに市場の拡大、ことにインド市場の拡大によって、また十分な「綿花供給を1ポンド当たり6ペンスで」無理取りすることによって、拡張されるであろうということがそれである。それから彼は次のように続ける。
  「時が--たぶん1年か2年か3年が--必要量を生産するであろう。……そこで私は尋ねたい、この産業は維持するに値するか、この機械」(すなわち生きている労働機械)「を整えておくことは労に値するか、そして、これを放棄しようなどと考えるのは最大の愚ではないか! 私はそうだと思う。たしかに、労働者は所有物ではないし、ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが、彼らは両者の強みであり、精神的な、訓練された力であって、この力は一代で補充できるものではない。ところが、もう一つの、彼らが使用する機械は、大部分は、12カ月で有利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を奨励したり許可したりして(!) いったい資本家はどうなるのか?/
  この心痛は侍従長カルプを思い出させる。
  「……労働者の精鋭を取り去ってしまえば、固定資本は非常に減価し、流動資本は劣等な労働のわずかな供給では戦いに身をさらさないであろう。……われわれは、労働者たち自身も移住を希望しているということを聞く。彼らがそれを望むのは非常にもっともである。……綿業の労働力を取り上げることによって、彼らの賃金支出を3分の1とか500万とか減らすことによって、綿業を縮小し圧迫すれば、そのとき労働者たちのすぐ上の階級である小売商人はどうなるだろうか? 地代は、小屋代は、どうなるだろうか? 小さな農業者、いくらかましな家主、そして地主はどうなるだろうか? そして、このような、一国の最良の工場労働者を輸出し一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に、一国のすべての階級にとって自殺的な計画がありうるだろうか?」「私は、救済を受ける人々の道徳的水準を維持するために、ある種の強制労働を伴う特別な法律的取締りのもとに、綿業地帯の救貧局に付設される特別委員会の管理する2年か3年にわたる500万か600万の貸付を勧告する。……大規模な、あとをからにしてしまう移民と、一地方全体の価値と資本とをなくしてしまうこととによって、彼らの最良の労働者を捨て去り、あとに残った人々を堕落させ無気力にするということ、地主や雇い主にとってこれ以上にわるいことがありうるであろうか?」/
  綿業工場主たちのえり抜きの代弁者ポッターは、「機械」の二つの種類を区別している。それはどちらも資本家のものであるが、一方は彼の工場のなかにあり、他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく、他方は生きている。生命のない機械は、毎日損傷して価値を失ってゆくだけではなく、その現に存在する大群のうちの一大部分が不断の技術的進歩のために絶えず時代遅れになってゆき、わずか数か月でもっと新しい機械と取り替えることが有利になることもある。反対に、生きている機械は、長もちがすればするほど、代々の技能を自分のうちに積み重ねれば重ねるほど、ますます改良されてゆくのである。『タイムズ』はこの大工場主に向かってなかんずく次のように答えた。
  「E ・ポッター氏は、綿業工場主たちの非常な絶対的な重要さを痛感するあまり、この階級を維持しその職業を永久のものにするために、50万の労働者階級をその意志に反して一つの大きな道徳的救貧院のなかに閉じ込めようとしている。この産業は、維持するに値するか? とポッター氏は問う。たしかに値する、あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を整えておくことは労に値するか? とさらにポッター氏は問う。われわれはここではたと立ち止まる。機械とポッター氏が言うのは人間機械のことである。」なぜならば、彼は、自分はそれを絶対的所有物として取り扱うつもりはない、と断言しているからである。じつを言えば、われわれは、人間機械を整えておくこと、すなわち、必要になるまでそれを閉じ込めて油を塗り込んでおくことが『労に/値する』とは思わないし、また可能だとさえも思わないのである。人間機械には、いくら油を塗っても磨きをかけても働かずにいれぽ錆びるという性質がある。そのうえ、人間機械は、一見してわかるように、かってに蒸気を起こして破裂したり、われわれの大都市であばれ回ったりすることもできる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産にはいくらか長い時間がかかるかもしれないが、しかし、機械技術者と貨幣とがあれば、いつでもわれわれは勤勉で屈強な働き手を見いだすであろうし、それによって、われわれが使いきれないほど多くの工場主を製造するであろう。……ポッター氏は、1年か2年か3年でこの産業が復活するもののように言って、われわれに、労働力の移住を奨励したり許可したりしないように望んでいる! 労働者が移住を望むのは当然だ、と彼は言う。しかし、彼の考えるところでは、この国は、この50万の労働者とこれにたよっている70万人とを、彼らの希望に反して、綿業地帯に閉じ込め、その必然の結果である彼らの不満を暴力で抑えつけ、彼らを施し物で養わなければならないのであり、しかも、いっさいは、綿業工場主たちがいつか再び彼らを必要とするかもしれないということをあてにしてのことなのである。……『この労働力』を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うためにこの島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」
  この『タイムズ』の論説は、ただの知恵くらべでしかなかった。「大きな世論」というのは、じつは、工場労働者は工場の付属動産だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼らの移住は阻止された。人々は彼らを綿業地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込めた。そして、彼らは相変わらず「ランカシャの綿業工場主たちの強み」となっているのである。〉(全集第23b巻747-751頁)

《フランス語版》

 〈(149) たとえば、1863年3月24日の『タイムズ』紙宛の書簡のなかのE・ポッター。『タイムズ』紙は・彼の記憶を親たに/させて、10時間法に反対する工場主の叛逆を回想させている。〉(江夏・上杉訳304-305頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注146: 例えば、1863年3月24日 タイムズ紙に宛てた、E. ポッターの手紙である。タイムズ紙は、10時間法案に反対する工場主らの暴動を彼に思い出させている。〉(インターネットから)


●原注183

《初版》

 〈(183) なかんずく、トゥックの『物価史』の協力者であり編儒者でもあるW・ニューマーチ氏が、そうである。世論にたいして意気地のない譲歩をすることが、科学的進歩なのか?〉(江夏訳333頁)

《フランス語版》

 〈(150) なかんずく、トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるW ・ニューマーチ氏。いったい、世論にたいして卑怯な譲歩をすることが科学的進歩なのか?〉(江夏・上杉訳305頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注147: いろいろある中で、トゥークの「物価史」の共同執筆者であり、編集者である W. ニューマーチ氏は、こんな具合である。大衆世論に対して意気地も見せず同意することが科学的進歩と云えるのか?〉(インターネットから)

  (付属資料№6に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(12)

2024-01-18 20:36:53 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(11)


【付属資料】№6


●第37パラグラフ

《61-63草稿》

  〈工場監督官によれば、イギリスの捺染工場の労働時間はまだ事実上無制限であり、またここでは、1857年でもまだ、8歳以上の児童が朝の6時から晩の9時まで(15時間)〔働かされて〕いる。「捺染工場の労働時間は、法定の制限があるにもかかわらず、実際上は無制限であると考えてさしつかえない。労働にたいする唯一の制限は、捺染工場法(ヴィクトーリア女王治下第8年および第9年法律第29号)の第22条に含まれているものであって、それの規定によれば、児童--すなわち8歳以上13歳未満の児童--を夜間働かせてはならないのであるが、ここで言う夜間というのは、午後10時から翌朝の午前6時までのことと定義される。それゆえ8歳の児童を多くの点で工場労働に似た労働に就かせること、しかもしばしば、むっとするような温度の部屋で、休憩や休息のために仕事を休むこともなく連続的に午前6時から午後10時まで(16時間)労働に就かせることが、法的に許されているのである。そして13歳に達した少年は、合法的に、昼夜を関わずどれだけの労働時間でも、少しの制限も受けずに働かしてよいのである。私の管区では、この半年問、8歳以上の児童は午前6時から午後9時まで働かされてきた」(『工場監督官報告書。1857年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1857年、39ページ、A・レッドグレイグ氏の報告)。〉(草稿集④345-346頁)
  〈「児童労働調査委員会はこの数年、報告書を公刊し、多くの無法な行為を明るみに出したが、そうした行為はいまだに続いており、しかもそれらのなかには、工場や捺染場がこれまでに罪に関われたどの行為よりもはるかにひどいものがある。……議会にたいして責任を負っていて自分たちの処置を半年ごとに報告する義務を守る有給の公務員による、組織化された監察体制がなかったならば、法律はすぐに効力がないものとなるであろう。このことは、1833年の工場法に先だつすべての工場法が効果がなかったことによって証明されており、また今日フランスで--1841年の工場法が系統的な監察についての規定を含んでいないために--そうなっているとおりである」(『工場監督官報告書。1858年10月31日にいたる半年間』、10ページ)。〉(草稿集④355頁)
 〈186O年に、漂白染色作業場法が発布された。
  捺染作業場法漂白染色作業業法工場法における規定は、それぞれ異なっている。  「漂白・染色作業場法はすべての婦人および少年の労働時間を午前6時から午後8時までのあいだに制限しているが、児童は午後6時すぎに労働させることを許していない。捺染作業場法は婦人、少年、児童の労働時間を午前6時から午後10時までのあいだに制限し、児童については、土曜日以外のどの日にも午後6時以前に5時間、どこかの学校に出席してくることを条件としている」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、20、21ページ)。「工場法は、1日に1時間半が与えられるべきこと、この1時間半は午前7時30分から午後6時のあいだに取られるべきであり、そのうち1時間は午後の3時以前に与えられるべきこと、また児童、少年、婦人のいずれも、いかなる日も午後の1時以前に、食事のための少なくとも30分の休憩時間を置かずに5時間以上使用されてはならないこと、を規定している。……捺染法には、……食事時間についての規定はまったくない。したがって、少年も婦人も、靭の6時から夜の10時まで、食事のための休止なしに労働してもいい」(同前、/21ページ)。「捺染作業場では、児童は朝の6時から夜の10時までのあいだ労働してもいい。……漂白作業場法によれば、児童は、工場法の規定どおりに労働することしか許されないが、少年および婦人については、日中行なわれてきた彼らの労働が引き続き晩の8時まで継続されてもいい」(同前、22ページ)。
  「たとえば絹業を取ってみると1850年以降、11歳以上(つまり11歳から13歳)の児童を、生糸の巻き取りと撚(ヨ)りとに1日10時間半働かせることは合法的である。1844年から185O年までは、彼らの日々の労働は10時間に--土曜日はもっと短時間に--制限されていたのであり、さらにこの時期以前には9時間に制限されていた。これらの変更は、絹工場での労働は他の織物のための工場での労働よりも軽度であり、またその他の点から見ても健康を害することがおそらくより少ない、という口実で行なわれたのである」(同前、26ページ)。「1850年に絹業についてなされた、他の織物製造業よりも健康に良い仕事であるという陳述は証拠をまったく欠いているばかりでなく、見られる証拠はまったく正反対のものである。というのは、絹業地方では平均死亡率がきわだって高く、しかも人口のうちの婦人部分のそれは、ランカシャーの綿業地方--ここでは、児童が半日しか労働しないのは事実であるが、しかし綿業を健康に良くないものにするような原因がいろいろあるので、肺病で死亡する率の高いことが避けられないと思われるかもしれないのであるが--に比べてさえ、それよりも高いのである」(同前、27ページ)。〉(草稿集④362-363頁)
  〈「児童労働調査委員会は、その報告書が数年にわたって出版されているが、たくさんのしかもいまなお続いている非道を明るみにだした。--それらのいくつかは、かつて捺染その他の工場がそれで告発されたものにくらべてもずっとひどいものである。」((『工場監督官報告書、1858年10月31日〔にいたる半年間〕』、レナド・ホーナの報告、10ページ。)〉(草稿集⑨186頁)
  〈捺染工場における、工場〔法にもとづく〕教育のすてき/な例。(これらの工場が完全に工場法に服する前、1861年以前?)
 「捺染工場で使用される子どもの通学は次のように規定されている。
  どの子どもも、捺染工場で使用される前に、その就業第1日に先立つ6か月のあいだに少なくとも30日間そして最低150時間は通学していなければならない。そして捺染工場で働いているあいだも、その就業第1日からかぞえてやはり6か月という期間ごとに同じように30日間と150時間は通学しなければならない。
  通学は午前8時から午後6時までのあいだになされなければならない。同じ1日のうちに2時間半よりも少ないかまたは5時間を越える通学は、150時間の一部分として数えてはならない。
  ふつうの事情のもとでは、子どもは、30日のあいだ午前と午後、毎日少なくとも5時間は通学し、30日が過ぎて、150時間という法定の総時間数に達すれば、すなわち、彼ら自身のことばでいうと、『彼らの通学簿を仕上げてしまえ』ば、捺染工場に帰って、その6か月が終了して分割式の次の通学期がくるまでそこにとどまり、そしてふたたび次の通学簿が仕上がるまで学校にかよう。……法定の時間数(150時間)の通学をすませた少年も大部分は、彼らの捺染工場における6か月の労働を終えて学校に帰ってくるころには、彼らが少年捺染工としてはじめて登校したときと同じ状態になっている。……彼らはその前の通学によって得たものはすっかり忘れてしまっている。」(『工場監督官報告書、1857年10月31日〔にいたる半年間〕』、アリグザーンダ・レッドグレイヴの報告、41-42ページ。)
  「また別の捺染工場では、子どもの通学はまったく企業での仕事の必要に合わせて行なわれる。所要の時間数は、各6か月ごとに、一度に3時間から5時間までのこまぎれの時間を、おそらく6か月全部のあいだに分散しているそれらを綴り合わせたものである。……たとえば、ある日は午前8時から11時まで、また別のある日は午後1時から4時まで学校にきている。それから子どもはふたたび何日か欠席する。次に現われるときは、ことによると午後3時から6時までかもしれない。次にはたぶん3日か4日つづ/けてまたは1週間もやってくるが、するとまた3週間かまる1か月も学校にみえなくなる。そして次は、雇い主の職工が子どもを使わないですまそうと考えたなん日かの半端な日に、なん時間かあまった時間だけやってくる。こうして、150時間という数をかぞえおわるまで、子どもは、学校から工場へ、工場から学校へと、いわばこづきまわされるのである。」(同上書、42-43ページ。)〉(草稿集⑨184-186頁)


《初版》

 〈染色工場と漂白工場(184)は1860年に、レース工場と靴下工場は1861年に、1850年の工場法を適用された。『児童労働調査委員会』の第1回報告書(1863年)によると、すべての土器製造所(製陶工場だけではない)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場(fustian cutting)、および“finishing"(仕上げ)という名称で一括されている多数の工程が、運命を共にした。1863年には「屋外漂白業(185)」と製パン業が特別法の適用を受け、このことによって、前者はなかんずく、児童や青少年や婦人の夜間(晩の8時から朝の6時まで)の労働を禁止され、後者は、18歳未満の製パン職人を晩の9時から朝の5時まで使用することを禁止された。その後、前述の委員会から、農業と鉱山業と輸送業を除いたイギリスのあらゆる重要産業部門からこれらの部門の「自由」を奪をうおそれのある諸提案が、提出されたが、これらの諸提案については、後に立ち戻ることにしよう。〉(江夏訳333頁)

《フランス語版》

 〈染色業と漂白業(151)は1860年に、レース工場と靴下工場は1861年に、1850年の工場法が適用された。『児童労働調査委員会』の第1回報告書によると、どの種類の土器製造所(陶器工場だけではない)も、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、および、「仕上げ」という名称のもとに包括される多数の工業工程と同じょうに、運命を共にした。1863年には屋外漂白業(152)と製パン業がひとしく二つの特別法の適用を受けたが、このうち第一の特別法は児童や婦人や青少年にたいして夜間(晩の8時から朝の6時まで)の労働を禁止し、第二の特別法は、18歳未満の製パン職人を晩の9時から朝の5時までのあいだに使うことを禁止した。同じ委員会のその後の諸提案には、農業と鉱業と運輸業を除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪うおそれのある諸提案には、後に立ち戻ることにしよう(153)。〉(江夏・上杉訳305頁)

《イギリス語版》

  〈(66) 1860年、染色工場と漂白工場が、1850年の工場法の適用下に入った。
 レース製造工場とストッキング製造工場は、1861年に、1850年の法律の適用下に入った。

 (67) 子供達の雇用に関する委員会(1863年) の最初の報告書に従って、同じ運命が、全ての土器製造工場 (単に製陶業のみではなく)、他にも分け与えられた。すなわち、黄りんマッチ製造工場、雷管製造工場、弾薬筒製造工場、絨毯工場、ファスチャン織り工場 (綿等にコールテン風の仕上げをする)、 他多くの「仕上げ」という名称の下に括られる工程を含む工場にもである。1863年には、野外漂白工場が特別工場法の適用下に入った。
 そして、製パン業も、この特別工場法の適用下に入った。これにより、野外漂白業では、年少者達と女性たちの夜間 (夕方8時から翌朝6時まで) の作業が、製パン業では、18歳未満の旅職人の、夕方9時と翌朝5時の間の労働が禁止された。我々は後に、英国製造業の全部門で、資本家らの「自由」を剥奪すると脅した この同じ議会の最近の提案に立ち戻るであろう。〉(インターネットから)


●原注184

《61-63草稿》

 〈プラトンが分業をよしとするおもな論拠は、1人の人がさまざまな労働を行ない、したがっていずれかの労働を副業として行なう場合には、生産物が労働者の都合を待たねばならないが、むしろ逆に、労働のほうが生産物の要求するところに従うべきだ、ということであったが、最近、漂白業者と染色業者が、工場法{漂白染色作業場法は1861年8月1日に施行された}に従うことに抵抗して、同じことを主張している。すなわち、工場法--この問題に関連する同法の諸条項は漂白云々〔漂白・染色作業場法〕にもそのまま用いられている--によれば、「食事のために与えられている1時間半のどの部分であろうと、食事時間中に児童、少年、婦人を使用してはならない、あるいは、なんらかの製造工程が続けられているいかなる場所にも彼らをとどめることは許されない。またすべての少年および婦人にたいして、1日のうちの同じ時間に食事時間が与えられなければならない」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年)。〔同報告書は言う、〕--「漂白業者は、食事時間をいっせいに与えるという彼らにたいする要求に不平を鳴らして、次のように抗弁する、--工場の機械ならいつ停めても損害は生じないかもしれないし、また停めて生じる損失は生産を逸することだけであるけれども、けば焼き、水洗い、漂白、つや出し、染色のようなさまざまの作業は、どの一つをとってもそれを勝手なときに停めれば、損害の生じる危険がかならずある。……労働者の全員に同一の食事時間を強制することは、作業の不完全さからときとして高価な品物を損傷する危険にさらすことになるかもしれない、と」(同前、21、22ページ)。(同一の食事時間を決めるのは、そうしなければそもそも労働者に食事時間が与えられているかどうかを監督することさえ不可能になるからである。)〉(草稿集④509頁)

《初版》

 〈(184) 1860年に制定された漂白工場と染色工場にかんする法律は、労働日を、1861年8月1日には暫定的に12時間に短縮し、1862年8月1日には最終的に10時間に、すなわち平日は10[1/2]時間に、土曜日は7[1/2]時間に短縮する、と規定している。さて、不吉な1862年が訪れると、旧来の茶番が繰り返された。工場主諸氏は、青少年や婦人を12時間働かせることをもう1年だけ許してほしい、と議会に請願した。……「現在の営業状態(綿花飢饉時代の)では、毎日12時間/労働してできるだけ多額の労賃を手に入れることが許されれば、労働者にとって大きな利益になろう、と。……こういった趣旨の法案を下院に上程することには、すでに成功していた。法案が成立しなかったのは、スコットランドの漂白工場労働者の運動が原因であった。」(1862年10月31日の工場監督官報告書』、14、15ページ。)労働者の名で語るふりをしたのに、当の労働者にこのように打ち負かされたので、資本は今度は、法律家の眼鏡を借りてきて次のことを発見した。すなわち、1860年の法律は、「労働の保護」のためのあらゆる国会制定法と同じに、意味のあいまいなひねった言葉で書かれていて、「艶出し工」と「仕上げ工」を適用除外にする口実を与えている、ということ。いつでも資本の忠僕であるイギリスの司法権は、「民事訴訟裁判所」の法定で、こういった三百代言を認可した。「このことは、労働者のあいだに大きな不満をかきたてたが、用語の定義が不完全であることを口実にして、立法の明白な意図が水泡に帰せしめられるのは、きわめて遺憾である。」(同上、18ページ。)〉(江夏訳333-334頁)

《フランス語版》

 〈(151) 1860年に公布された漂白業と染色業にかんする法律は、労働日が1861年8月1日には1時的に12時間に、1862年8月1日には最終的に10時間、すなわち平日については10時間半、土曜日については7時間半に、短縮されることをきめている。ところで、不吉の年である1862年がやってきたとき、また古い茶番が繰り返された。工場主諸君は、さらにわずか1年間に限って、青少年と婦人を12時間労働させることを許してもらうために、議会宛に次々と請願書を提出した。……彼らはこう述べた(綿花危機の期間に)。「現在の状態では、1日に12時間労働しこのようにしてでぎるかぎり多くの賃金を得ることが、労働者に許されるならば、それは労働者にとって大きな利益であろう」。……下院はすでにこの趣旨の一法案を可決しようとしていたが、スコットランドの漂白業労働者の運動が、この可決を阻止した(『1862年10月31日の工場監督宮報告書』、14、15ページ)。労働者の名において語ると言い張りながらその労働者にうち負かされたので、資本は法律家の眼鏡を借用し、1860年の法律も「労働保護のため」のあらゆる国会制定法と同じように曖昧な用語で書かれていて、この用語が「艶(ツヤ)出し工と仕上げ工」をこの法律の保護から除外する口実を与えている、ということを発見した。常時資本に仕えているイギリスの裁判権は、民事訴訟裁判所の判決によってこの屍理屈を承認した。「この判決は労働者のあいだに大きな不満をかき立てたが、用語の不完全な定義という口実のもとに立法の/明白な意図がはぐらかされているのは、非常に遺憾である」(同上、18ページ)。〉(江夏・上杉訳305-306頁)

《イギリス語版》

  〈 本文注148: 1860年に通過した法は、染色と漂白の各工場に関するもので、1861年8月1日から暫定的に12時間に、1862年の8月1日からは、明確に10時間、すなわち、通常日は10時間半、土曜日は7時間半にするべきものと決められていた。さて、運命の年 1862年が来た。また例の昔の茶番劇が繰り返されたのである。またまた、工場主らは、年少者たちと女性たちの12時間の雇用を1年間延長して認めて欲しいと議会に申請したのである。「現在の商売状況 (木綿不足の状況) では、労働者にとっては、日12時間働き、稼げる時に賃金を得るという非常に有利な状況にある。」法案は議会に、それらの声を受けて提出され、「そして、スコットランドの漂白作業を行う労働者らの行為を主な理由として廃案となった。」(工場査察官報告書 1862年10月31日) 労働者が申請したように見せかけて、その労働者によって覆されてしまった資本は、ほじくり屋法律家の助けも受けて、1860年の法が、「労働者の保護」のために書かれた全ての議会の法と同様の用語で書かれており、紛らわしい語句があって、彼等はその工場の中から、つや出し工場と仕上げ工場を除外する口実を与えることを発見した。いつなりとも資本の忠実なる使用人である英国法組織は、屁理屈部分を最高法廷で是認したのである。「労働者達は大いに失望させられた。…. 彼等は超過労働に不満を述べた。そして、立法府の明確な意図が不完全な定義という理由で損なわれてしまうことは実に残念なことである。」と述べた。(工場査察官報告書 1862年10月31日)〉(インターネットから)


●原注185

《イギリスにおける労働者階級の状態》(エンゲルス)

 〈漂白工は非常に不健康な仕事をする。漂白工は、その仕事中に、肺にとってもっとも有害な物質の一つである塩素を、ひっきりなしに吸わねばならない。染色工の仕事のほうがずっと健康的であり、多くの場合、非常に健康的である。というのは、染色工の仕事は全身の緊張を必要とするからである。この階級がどのくらいの賃金を得ているかは、あまり知られていない。そしてこのことは、彼らが平均以下の賃金は得ていない、という結論に達する十分な根拠なのである。なぜなら、もしそうでないとすれば、彼らはかならず不平を訴えるであろうから。〉(全集第2巻429頁)

《初版》

 〈(185) 「屋外漂白業者」は、婦人を夜間にはこき使っていないという嘘をついて、「漂白業」にかんする1860年の法律の適用を免れていた。この嘘は工場監督官によって暴露されたが、同時に議会も、労働者の請願によって、「屋外漂白業」とは草原の清涼のようなものだという考えを、打ちこわされた。この屋外漂白業では、華氏9O度ないし1OO度の乾燥室が使用され、この乾燥室では主に少女が労働している。“Cooling"(冷却)とは、ときおり乾燥室から外気にあたることを表わす術語である。「乾燥室には15人の少女がいる。リンネルのばあいには8O度ないし9O度の温度、白麻上布のばあいには1OO度かそれを越える温度。12人の少女が、中央に密閉したストーブのある約1Oフィート平方の小部屋で、(白麻上布等)にアイロンをかけたり布をひろげたりしている。少女たちはストーブのまわりに立っており、ストーブではものすごい熱を発して、アイロン女工たちのために白麻上布を急速に乾かす。これらの人手の時間には制限がない。多忙のときは、彼女たちは幾日もぶっつづけに夜の9時か12時まで労働する。」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、56ページ。)ある医者はこう述べている。「冷却用に特別の時間は許されていないが、気温に耐えられなくなるか、女工の手が汗で汚れるかすれば、彼女たちは数分間出てゆくことが許されている。……これらの女工の病気の手当をしたさいの私の経験からすると、彼女たちの健康状態は木綿女工たちのそれよりもはるかに劣っている、と確言せざるをえない(それなのに、資本は、議会への請願書のなかで、彼女たちをルーベンス風に健康にあふれたものとして描いた!)彼女たちの最も目立った病気といえば、肺結核、気管支炎、子宮病、最も恐ろしい症状のヒステリー、およびリューマチスである。これらはすべて、私の信ずるところでは、直接/間接に、彼女たちの作業室の空気が熱すぎることから生ずるものであり、また、冬のあいだ帰宅のさいに彼女たちを冷湿な大気から保護するに足る快適な衣服がないことから生ずるものである。(同上、56、57ページ。)工場監督官たちは、上機嫌の「屋外漂白業者」の意に反しておくればせながら実施された1863年の法律について、こう述べている。「この法律は、それが与えているかのように思える保護を、労働者に与えそこなったばかりではない、……それは、児童と婦人が晩の8時以降に労働している現場を取り押さえられたときに初めて保護が加えられるように書かれていて、しかも、そのばあいでさえ、所定の証明方法には、ほとんど罰を加えることができないような但し書きが、つけられている。」(同上、52ページ。)「人道的な目的や教育的な目的をめざす法律としては、それは完全に失敗である。年齢にかんする制限もなく、男女の差別もなく、漂白工場付近の家族の社会的慣習にもおかまいなく、食事は都合しだいであったりなかったりして毎日14時間、おそらくはもっと長時間、労働することを、婦人や児童に許すということ、あるいは同じことになるが強制するということは、やはり人道的とは言えたものではない。」(『1863年4月30日の工場監督官報告書』、40ページ。)〉(江夏訳334-335頁)

《フランス語版》

 〈(152) 「屋外漂白業者」は、夜間には婦人をけっして労働させないと偽った言明をすることによって、漂白業にかんする1860年の法律をまぬがれていた。彼らの嘘は工場監督官によって発見され、同時に議会も、労働者の請願書を読んでは、「屋外漂白業」という観念に感じとっていた清涼な感覚がことごとく消え失せることを理解した。この屋外漂白業では、華氏90度ないし100度の乾燥室が使用され、そこでは主に少女が労働している。「涼み」 とは、時々乾燥室から出ることにたいして彼女たちが用いる術語である。「乾燥室には15人の少女がいて、その暑さはリンネルのばあい80度から90度、白麻上布のばあい100度以上である。12人の少女が、密閉したストーブで暖房された約10フィート平方の小部屋のなかでアイロンをかける。彼女たちはこのストーブのまわりに立ち、ストーブはおどろくべぎ熱を発してアイロン女工のために白麻上布を急速に乾燥する。『これらの入手』の労働時間は無制限である。仕事があるときには、彼女たちは幾日も続けて晩の9時か夜中の12時まで労働する」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、56ページ)。ある医師はこう言明している。「涼みのための一定の時間は全くないが、温度が耐えられないとき、または、汗が女工の手をよごしはじめるとき、2分間出てゆくことが彼女たちに許されている。……これらの女工の病気を治療した私の経験では、彼女たちの健康状態が木綿女工のそれよりも大いに劣っていると認めざるをえない(それなのに、資木は議会宛の請願書のなかで、彼女たちを、ルーベンスの描くフランドル婦人よりも薔薇色で頬がふくれている婦人として描いていた)。彼女たちの主な病気は肺結核、気管支炎、子宮病、最も恐ろしい症状のヒステリー、リューマチスである。私の意見によれば、これらの病気はすべて、彼女たちの作業室の過熱した空気から、そしてまた、彼女たちが冬期に退出するときに彼女たちを寒気や湿気からまもることのできる適当な衣服がないことから、生じている」(同上、56、57ページ)。工場監督官は、その後1863年にこれらのご機嫌な屋外漂白業者の意に反して施行された法律について、こう述べている。「この法律は、それが与えるように見える保護を労働者に与えないばかりでなく、晩8時以降の婦入や児童の労働を現行犯で取りおさえたときだけこの法律の保護が要請できるように定められており、しかもこのばあいでさえも、所定の証明方法には、厳罰を加えることがほとんどできないような条項がある」(同上、52ページ)。「人道的、教育的な目的をめざす法律としては、それは完全に出来そこないである。結局のところ、年齢も性別も考慮せず、また漂白工場付近の家族の社会的慣習を顧慮することもなく、都合しだいで食事つきまたは食事ぬきで、1日に14時間、おそらくはさらに長時間労働することを婦人や児童に許すことは、あるいは同じことになるが、彼らにこれを強制することは、人道的であるとは言えないからである」(『1863年4月30日の工場監督宮報告書』、40ページ)。〉(江夏・上杉訳305頁)

《イギリス語版》

  〈本文注149: この「野外漂白工場」は、夜間に労働する女性たちはいないという嘘をついて、1860年の法から逃れていた。この嘘は工場査察官によって暴露された。同時に、議会は、労働者達からの嘆願書によって、野外で行われる漂白なる内容が、冷涼な牧草地で牧草の香りの中で実施されていると認識していたのを覆された。この大気によって漂白するという場所は、実は乾燥室のことであって、華氏90度から100度の温度なのである。中での作業は大部分が少女によって行われていた。「冷涼なる野外」とは彼女らが時々、乾燥室から新鮮な空気を求めて逃げ出すための工場用語のことなのである。「ストーブのある乾燥室には15人の少女たちがいる。リネンの場合は80度から90度、木綿の場合は100度かそれ以上となる。12人の少女たちがアイロン掛けや仕上げを10フィート四方の小さな部屋で行い、中央には密閉式ストーブがある。少女たちはストーブの回りに立って仕事をする。ストーブは恐ろしいほどに熱気を放射する。アイロン掛けのために、木綿等の布地を急速に乾かすためである。彼女たちの作業時間には制限がない。忙しい時期は、夜の9時または12時まで仕事をする。そのまま夜へと続けるためである。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 ある医師は、こう述べている。「体を冷やすための特別の時間は決められていない。でも、温度が高すぎたり、作業者の手が汗で汚れたりすれば、僅かばかりの時間、外に出ることが許される。…. 熱い中で働く人々の病気を取り扱って来た、少なくはない私の経験から云えば、彼女たちの衛生上の状態は、紡績工場の労働者に較べて決して良くないとの意見をあえて述べざるを得ない。( 一方の資本は、議会への陳述書で、田園の豊穣・田園の人々の豊満を描くルーベンス風の絵のような、健康的な彼女らを描き出す。) 彼女らの最も顕著な症状は、肺結核、気管支炎、子宮機能異常、最も悪化した状態のヒステリー、そしてリウマチである。私の信じるところでは、これらの症状は、全て、直接的または間接的に、彼女らが使用される作業室の汚濁した空気、高温の空気によるもので、また、冬場、彼女らが、自分達の家に帰る時、冷たく湿った空気から体を守るための適切な衣服を持っていないことに起因するものである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 工場査察官は、野外漂白業者によって掻きむしられたこの1860年の補遺法について、次のように述べている。「法は、当然に提供すべきもの、労働者に保護を与えることに失敗しただけでなく、ある条項で、…. 明らかに文字として、人達が夜8時以後働いていることを見つけられない限り、彼等は少しも保護条項に該当せずとある。仮に、働いていたとしても、それを証拠づける方式はなく、なんら摘発力が伴わない。」(工場査察官報告書 1862年10月31日)
 「以上の如く、様々な慈善または教育のための法として、その意図と目的という点で、この法は失敗している。であるからといって、女性達や子供達を日14時間、食事時間があろうと無かろうと、働かせるよう強いるに等しい内容が、慈善として認められ そう呼ばれることはあり得ない。場合によっては、多分これより長い時間、年齢の制限もなく、性別も考慮せず、そのような仕事 (漂白や染色) が行われる近隣の家庭の 社会的慣習も考慮することなしに 強いるであろうものを慈善とは云えない。」(工場査察官報告書 1863年4月30日)〉(インターネットから)


●原注185a

《初版》 初版には当然、この原注はない。

《フランス語版》

 〈(153) 私がこの本を書いた1866年以降、新しい反動が起きた。資本家たちは、工場立法の適用を受けるおそれのある産業部門では、労働力の無制限な搾取にたいする自分たちの「市民権」を主張するために、自分たちの全議会勢力を利用した。彼らは/もちろん、グラッドストーン自由党内閣のうちに、好意のある忠僕を見出したのである。〉(江夏・上杉訳306-307頁)

《イギリス語版》

  〈本文注150: 第2版へのノート。1866年、私が上記の一文を書いて以後、再び反動が始まった。 〉(インターネットから)


  (第6節は終わり。)

 

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