『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(1)
◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(4)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №8)
第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第4回目です。〈A 「経済学批判」体系プランにおける利子と信用〉の〈(3)「経済学批判」体系プランにおける信用〉という小項目のなかで、大谷氏は〈「批判」体系プランでの「競争」から「信用」への移行も,まさに,「資本が自己を一般的資本として措定しようと努める」必然性によって行なわれる〉(91頁)と述べ、『1861-1863年草稿』と『要綱』から抜粋して紹介しています。そのうちの『要綱』の一文を章末注〔19〕として掲げていますが、それを今回は検討しておきます。
〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。」(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.541.)〉(117頁)
なかなか難しく一筋縄では行きませんが、分かる限りで解読してみましょう。例によって細かく分けて見ていくことにします。
(1)〈競争には,価値と剰余価値とについて立てられた基本法則とは区別して展開される基本法則がある。それは,価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によってではなく,それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている,という法則である。〉
ここで〈競争には〉とありますが、要するに『資本論』で言えば第1部、第2部では〈価値と剰余価値とについて立てられた基本法則〉にもとづいてその全体が論じられています。それに対して第3部ではそれとは〈区別して展開される基本法則がある〉というのです。
〈価値が,それに含まれている労働またはそれが生産されている労働時間によって〉規定されるというのは第1部、第2部での話です。しかし第3部では〈それが生産されうる労働時間,すなわち再生産に必要な労働時間によって規定されている〉というのです。
これは一体どういうことでしょうか。これは社会全体の総需要にもとづいて社会的な総労働がそれぞれの生産力に応じて配分され、そうして初めて社会的な必要労働時間が決まってくるということです。私たちが第1部で知った、ある特定の個別の商品の生産に必要な社会的な労働時間というものではなくて、第3部では、ある特定の商品種類の生産に必要な社会的な労働時間によって規定されて商品の価値が決まってくるのです。それがその商品の市場価値なのです。市場価値は、単に個別商品の価値の平均からなるだけではなくて、その商品種類が社会的な需要を満たすに必要な社会的労働時間の配分も加味されたものになるのです。だからある特定の商品が社会の需要よりも多く生産されてしまった場合、その市場価値はその商品生産部門の平均的な価値ではなくて、平均よりも少ない労働時間で生産された価値が市場価値として規制することになり、それ以上の労働時間が支出された個別的商品は価値以下の評価しか受けず売れないことになります。こうして需要と供給との一致が計られるのです。つまり社会的必要労働時間と言ってもその特定の商品の生産に社会が許す労働時間が規制的な要素として入ってきたものを意味するということです。
(2)〈最初の法則が覆されたかのようにみえるにもかかわらず,実はこのことによってはじめて,個々の資本が資本一般〔Capital überhaupt〕の諸条件のなかに置かれる。〉
このように第3部では第1部・第2部で展開された資本主義的生産の内在的な諸法則が諸資本の競争によって逆転して現れてきます。しかしそれによってこそ個別の諸資本が資本一般の諸条件のなかに置かれるのだと述べています。これはどういうことかいうと、第1部・第2部の内在的諸法則もそれが貫徹するのは現実には諸資本の競争によって生じる偶然的諸現象のなかにおいてであって、つまり第3部での逆転した諸形象化された現象的諸運動を通して、その中に均衡的に貫いていくものとしてそれらの諸法則はあるのだということです。
(3)〈だが,資本それ自体の運動によって規定されたものとしての必要労働時間は,こうしてはじめて措定されているのである。これが競争の基本法則である。〉
私たちが第1部で知った価値の大きさを規定する社会的必要労働時間は、ある特定の商品の生産に社会的に平均的に必要な労働時間というものでした。しかし第3部では規定される社会的必要労働時間というのは、ある特定の商品の生産に社会全体の総労働のなかで、その商品種類に配分される労働時間ということでもあるわけです。こうしたことは実は市場にある商品の価値の大きさについて、すでに第1部第3章のなかでも次のように述べられていました。
〈最後に、市場にあるリレネルは、どの一片もただ社会的に必要な労働時間だけを含んでいるものとしよう。それにもかかわらず、これらのリンネル片の総計は、余分に支出された労働時間を含んでいることがありうる。もし市場の胃袋がリンネルの総量を1エレ当たり2シリングという正常な価格で吸収できないならば、それは、社会の総労働時間の大きすぎる一部分がリンネル織物業の形で支出されたということを証明している。結果は、それぞれのリンネル織職が自分の個人的生産物に社会的必要労働時間よりも多くの時間を支出したのと同じことである。ここでは、死なばもろとも、というわけである。市場にあるすべてのリンネルが一つの取引品目としかみなされず、どの一片もその可除部分としかみなされない。そして、実際にどの1エレの価値も、ただ、同種の人間労働の社会的に規定された同じ量が物質化されたものでしかないのである。〉(全集第23a巻142頁)
ここではマルクスは第3部で出てくる市場価値について実際には語っているのです。そして以上が〈競争の基本法則〉だと述べています。
(4)〈需要,供給,価格(生産費用)が,それに続く形態規定である。市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。〉
第3部においては、諸資本が利潤を唯一の規定的目的とも動機ともして互いに競争するなかで一般的利潤率が形成されます。その一般的利潤率によって措定されるのが、生産価格なのです。生産価格は価値(市場価値)から乖離したものとして現れます。生産価格を中心に変動する市場価格にもとづいて、諸資本は社会的に配分されるのです。だからここでは価値法則は転倒して現れてきます。需要・供給もその限りでは使用価値が問題になりますが、しかしそれは生産価格を一つの均衡条件として変動するわけですから、それは価値法則からの偏倚を生じざるをえないのです。それが〈要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる〉ということの意味です。〈資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕〉というのはここでは第1部・第2部と考えて良いでしょう。それが第3部では〈逆となって現われる〉のです。
(5)〈さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。〉
これは商品の価値(価格)は第1部・第2部では、労働によって規定されるものとして現れますが、第3部では商品の価値は労働(賃金)や利潤や利子・地代によって構成されるものとして現れるということをいわんとしていると思います。以前にも紹介したことがありますが、草稿集⑥の一節を紹介しておきましょう。
〈A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。〉(草稿集⑥145頁)
(6)〈まさに個別諸資本の相互間の作用こそ,それらが資本として振る舞わなければならないようにさせるのであり,個別的諸資本の外見的には独立した作用と個別的諸資本の無秩序な衝突こそが,それらの一般的法則の措定なのである。市場は,ここで,さらに別の意義をうけとる。〉
例えば、さまざまな個別資本がその費用価格(資本が利潤の獲得を目的に支出した貨幣額)の大きさに応じて同じだけの利潤を得るというのは資本主義的生産の絶対的現実なのだということです。〈本質的でない偶然的な相殺される相違を別とすれば、産業部門の相違による平均利潤率の相違は現実には存在しないということ、そしてそれは資本主義的生産の全体制を廃止することなしには存在できないであろうということは、少しも疑う余地のないことである〉(全集第25巻195頁)とマルクス述べています。それは諸資本の相互作用のなかで、それらが資本として振る舞わなければならない条件なのです。個別資本の無秩序な衝突のなかに、それらの資本主義的生産の一般的な法則が自己を貫くわけです。
(7)〈諸資本の個別的資本としての相互間の作用は,こうしてまさに,諸資本の一般的資本としての措定となり,また個別諸資本の外見的独立性と自立的存続との止揚となる。この止揚がさらに著しく生じるのは,信用においてである。そしてこの止揚の行き着く,だが同時に,資本にふさわしい形態にある資本の終局的措定でもある窮極の形態は,株式資本である。〉
諸資本の相互間の作用は、諸資本の一般的資本としての措定になる、というのは資本の一般的な法則に諸資本は従わねばならないということでしょう。そしてそれは個別諸資本が外見的にはそれぞれ独立しているかに見えますが、それは資本一般の共同体のなかにあるとういことでもあります。そしてこうした資本の共同資本としての存在が信用でであり、利子生み資本はまさにそうした諸資本の共同資本として存在しているわけです。そうした資本にふさわしい形態がすなわち株式資本だとも述べています。株式資本において、資本の終極の形態を得るのであって、それは次の新しい生産様式への過渡形態でもあるわけです。
今回は難しい『要綱』一文を拙いながら解読してみましたが、しかし驚くべきことは、この『要綱』の段階で、すでにマルクスは『資本論』第3部の位置づけをハッキリと持っていたということです。
それでは本題に入ります。今回は前回の続き、「第8章 労働日」の「第6節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法」の後半部分(第19-37パラグラフ)です。
第6節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法
◎第19パラグラフ(その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。)
【19】〈(イ)その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければならない。(ロ)すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということ、これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していないということ、また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということはずっと変わらず、この範囲内で少年と婦人との最初は12時間の労働、のちには10時間の労働が、定められた諸条件のもとで行なわれることになっていたということ、これである。〉(全集第23a巻375頁)
(イ)(ロ) その後に起きたことを理解するためには、次のことをおぼえておかなければなりません。すなわち、1833年、1844年、1847年の工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しないかぎり、三つとも効力をもっているということです。これらの法律のどの一つも18歳以上の男子労働者の労働日を制限していません。また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということもずっと変わらずです。つまり、この範囲内で少年と婦人との労働時間は、最初は12時間の労働、のちには10時間の労働に定められたということです。これらのことが分かっていければならないのです。
より分かりやすい、イギリス語版をまず紹介しておきましょう。
〈(30) 以下のことを理解するためには、1833年、1844年、1847年の各工場法を想起する必要がある。後者が前者を改正していない点がある限りは、いずれの法も、有効であり、18歳以上の男子の労働日の制限もその一つで改正されていない。 1833年以来 朝5時半から夕方8時半の15時間が、法的な「労働日」として残存している。そして、この制限内で、当初は12時間の、そして最終的には10時間となる年少者と女性の労働時間制限が所定の条件によって実行されるべきものとなったのだが、以下のことを把握するには、このことを改めて想起しておく必要がある。〉(インターネットから)
先のパラグラフでは〈工場主諸氏は遠慮する必要はなかった。彼らは、単に10時間法にたいしてだけではなく、1833年以来労働力の「自由な」搾取をいくらかでも制限しようとした立法の全体にたいして、公然の反逆を起こした〉と述べましたが、その資本家たちの反逆を具体的に見ていくためには、以下のことが頭に入っていなければなりません。
(1)1833年、1844年、1847年のそれぞれの工場法は、そのうちの一つが他のものを修正しない限り、三つとも効力を持っていたということ。すなわち1844年法は1833年法を部分的に追加・修正したものであり、1847年法も同じような性格を持っています。だから追加・修正されていない部分については1833年法や1844年法がそのまま効力を持っていたということです。
(2)これらの法律のどれも18歳以上の成人の男子労働者の労働日を制限していないということ。
(3)1833年法で定められた、労働日、すなわち朝5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「労働日」であるということ。
(4)この法定の「労働日」の範囲内で、これまでの工場法は少年と婦人の労働日の限度を、最初は12時間、のちには10時間に定めたということです。
以上のことをまず頭に入れておきましょう。
〈また、1833年以来、朝の5時半から晩の8時半までの15時間が法定の「日」であるということ〉という部分は初版では〈また、1833年以来、朝の6時半から晩の9時半までの15時間が、相変わらず、法定の「昼間」である〉となっています。フランス語版は現行版と同じです。
同じような問題点を指摘している『歴史』から引用しておきましょう。
〈だが、わたくしたちの知るところによれば、はやくも1847年に、いく人かの製造業主のあいだで、法律の網をくぐる計画を企て、1日10時間以上機械を操業しつづける気配がみられたことについて、監督官は非難をこめて指摘している。この脱法行為は、つぎの三つの理由によって、比較的たやすいことであった。第一に、1833年、1844年、1847年の工場法は、どれも他の法律を修正しないかぎり、そのいずれも実効性をもっていたこと、第二に、これら三つの法律のどれも、18歳以上の大人の男子労働者の労働時間を制限しなかったこと、そうして、第三に、1833年以降、年少者と婦人の法定労働時間は12時間から10時間に短縮されたけれども、それに対応して、法定労働日の長さは短縮されず、依然として午前5時30分から午後8時30分までのままであった、という事実があったからである。〉(101頁)
◎第20パラグラフ(工場主たちの反逆はまず一部の少年と婦人労働者を解雇し、代わりに成年男子労働者に夜間労働を復活させることから始まった)
【20】〈(イ)工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させた。(ロ)彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉(全集第23a巻375頁)
(イ)(ロ) 工場主たちは、あちこちで、自分たちの使用する少年と婦人労働者との一部分を、ときには半数を、解雇しはじめ、その代わりに、ほとんどなくなっていた夜間労働を成年男子労働者のあいだに復活させました。彼らは叫びました。10時間法の下ではこれ以外に選ぶべき道がないのだ! と。
工場主たちの反逆は、まず少年と婦人労働者の一部を、あるいは半数にも及ぶ人員を解雇し、その代わりに、成年男子労働者のあいだに、それまではほとんどなくなっていた夜間労働を復活させたことでした。彼らは10時間労働法のもとではこれ以外の代対策を残していないのだと言いました。
◎原注147
【原注147】〈147 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、132、134ページ。〉(全集第23a巻375頁)
これは〈彼らは叫んだ、10時間法はこれ以外に選ぶべき道を残さないのだ! と(147)。〉という本文に付けられた原注です。ただ参照頁数が二つのページになっていますので、この原注は第20パラグラフ全体に対するものと考えた方がよいかもしれません。すなわち少年と婦人労働者を解雇し、それに代わって成年男子労働者に夜間労働を復活させたという部分も『監督官報告書』(132ページ)にもとづいたものなのかも知れません。これは実際に報告書を見なければ分からないでしょう。
◎第21パラグラフ(次の工場主たちの反逆は、食事のための法定の休み時間に向けられた)
【21】〈(イ)第二の一歩は、食事のための法定の休み時間に関連していた。(ロ)工場監督官たちの言うところを聞いてみよう。/
(ハ)「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している(148)。」
(ニ)つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! (ホ)そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? (ヘ)ところが、刑事裁判所は次のように判決した。(ト)すなわち、定められた食事時間は
「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である(149)」と。〉(全集第23a巻375-376頁)
(イ)(ロ)(ハ) 彼らの第二の攻撃は、食事のための法定の休み時間に向けられました。工場監督官たちの言うところを聞いてみましょう。
「労働時間が10時間に制限されてからは、工場主たちは、まだ実際には彼らの意見を徹底的に実行してはいないとはいえ、次のように主張している。たとえば朝9時から晩7時まで作業する場合、彼らは、朝の9時以前に食事のために1時間、また晩の7時以後に半時間、つまり1時間半を食事のために与えることによって、法律の規定は十分守れるのだ、と。彼らがいま昼食のために半時間かまる1時間を許している場合もいくつかあるが、しかし同時に彼らは、10時間労働日の経過中には1時間半のどんな部分もあけてやる義務はまったくない、と頑強に主張している。」
1844年の工場法における食事のための休憩時間の規定は〈食事のための1時間半は、すべての被保護労働者に1日のうちの同じ時に与えられ、少なくとも1時間は午後3時以前に与えられなければならない。児童または少年は、食事のための少なくとも半時間の中休みなしには、午後1時以前に5時間より長く働かされてはならない。児童、少年、または婦人は、食事時間中は、なんらかの労働過程の行なわれている作業室内にとどまっていてはならない、等々。〉(第11パラグラフ)というものでした。
ところが工場監督官たちの報告によれば、工場主たちは朝9時から晩7時までの10時間労働をする労働者に対して、食事時間は仕事が始まる9時前に1時間、晩の7時以後に半時間、
合計1時間半を与えればよいのだというのです。ということは労働者は朝9時前に食べた後は夜の7時以降までまったく食事も休憩もなしにまるまる10時間ぶっとおしで働かなければならないことになります。しかしそれでも十分に工場法の規定に違反していないし、十分に法律を守っているのだと彼らはいうのです。
(ニ)(ホ) つまり工場主諸氏の主張したところでは、1844年の法律の食事時間に関する精密をきわめた諸規定が労働者たちに与えたものは、ただ、工場にはいる前と工場から出たあとで、つまり自宅で飲食することの許可だけなのだ! というのです。そして、労働者たちが朝の9時前に昼食をとるのが、なぜいけないのか? と言います。
だから工場主たちの主張では、1844年の法律が与えている食事時間の規定というのは、工場に入る前にと工場を出たあとで、自宅で飲食する許可を与えたものだというのです。つまり朝の9時前に昼食を摂るのがどうしていけないのか、というわけです。しかしこれでは昼食とはいえないでしょう。
(ヘ)(ト) しかし、こうした工場主たちの主張に対して、刑事裁判所は次のように判決しました。すなわち、定められた食事時間というのは
「実際の労働日のうち休み時間に与えられなければならず、また、朝の9時から晩の7時までつづけて10時間、中断なしに労働させることは違法である」と。
しかしこうした工場主たちのむちゃくちゃな主張に対しては、刑事裁判所(イギリス語版は〈王室法律顧問〉、新日本新書版は〈勅撰弁護士たち〉は、法律で定められた食事時間というのは、実際の労働日のうち休み時間に与えられるべきであり、朝の9時から晩の7時まで休み無しに働かせるのは違法であると判定しました。この限りでは工場主たちの反逆も一歩後退です。
◎原注148
【原注148】〈148 『工場監督官報告書。1848年4月30日』、47ページ.。〉(全集第23a巻376頁)
これは最初に引用されている〈工場監督官たちの言うところ〉の典拠を示すものです。
◎原注149
【原注149】〈149 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、130ページ。〉(全集第23a巻376頁)
これは最後に〈刑事裁判所は次のように判決した〉として引用されているものの典拠を示すものです。
◎第22パラグラフ(次に資本は1844年法の文面に合致した形での反撃を開始した)
【22】〈(イ)これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始した。〉(全集第23a巻376頁)
(イ) これらの愉快な示威運動ののちに、資本は、1844年の法律の文面に合致するような、つまり合法的な手段によって、その反逆を開始しました。
まあ、これらはご愛嬌というもので、愉快な示威運動ですが、次に資本は、1844年法の法文に合致した形で、その限りでは合法的な手段によって、反逆を開始したのでした。
◎第23パラグラフ(工場主たちは1844年法には12時以降の児童の労働については何も規定がないことを逆手にとって反逆を開始した)
【23】〈(イ)たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止した。(ロ)しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制しなかった! (ハ)それゆえ、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1/時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半まで3時間半、合計して法定の6時間半働かせることができた! (ニ)あるいはまた、もっとうまくやることもできた。(ホ)児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができた!
(ヘ)「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである(150)。」
(ト)労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議した。(チ)だが、資本は答えた。
(リ)「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます〔90〕。」〉(全集第23a巻376-377頁)
(イ)(ロ)(ハ) たしかに、1844年の法律は、昼の12時以前に働かされた8歳から13歳までの児童を再び午後1時以後に働かせることを禁止しています。しかし、それは、労働時間が昼の12時かまたはそれ以後に始まる児童の6時間半の労働をまったく規制していません。 だから、8歳の児童は、昼の12時に労働を始めれば、12時から1時まで1時間、午後2時から4時まで2時間、そして5時から晩の8時半までの3時間半、合計すれば法定の6時間半働かせることができるというのです。
最初にフランス語版を見てみることします。
〈1844年の法律は、正午以前に就業した8歳ないし13歳の児童を午後1時以後に再び使うことを、確かに禁止した。だが、それは、正午またはそれ以後に就業した児童の6時間半の労働を少しも規制しなかった。したがって、8歳の児童は正午以後1時まで、次いで2時から4時まで、最後に5時から8時半まで、合計して6時間半適法に使うことができた! 〉(江夏・上杉訳294頁)
1844年法の児童の労働については第11パラグラフで次のように説明されていました。
〈不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。
「児童および少年の労働日は、だれか或る1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」
したがって、たとえばAは朝8時に、Bは10時に労働を始める場合にも、やはりBの労働日もAのそれと同じ時刻に終わらなければならない。……午前の労働を12時以前に始める児童は、午後1時以後再び使用されてはならない。つまり、午後の組は午前の組とは別な児童から成っていなければならない。〉
つまり昼の12時以前に働かされた児童は、午後1時以降再び使用されてはならないとされています。しかし12時かまたはそれ以後にはじまる児童の労働についてはまったく何の規定もしていません。
だから昼の12時に労働をはじめた児童を、1時まで使い、そのあと午後2時から4時まで2時間使い、さらに午後5時から晩の8時半まで3時間半働かせても、合計すれば法定の6時間半働かせただけだから違法ではないことになるというわけです。
(ニ)(ホ) あるいはまた、もっとうまくやることもできました。児童の使用を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に合わせるためには、工場主は午後2時までは彼らになにも仕事を与えなければよいのであって、そうすれば晩の8時半まで中断なしに彼らを工場にとどめておくことができたのです。
フランス語版です。
〈なおいっそううまいことがある。児童の労働を晩の8時半までの成年男子労働者の労働に一致させるためには、工場主が午後2時以前には児童に仕事をなにも与えないで午後2時以降8時半まで中断なく工場内に留めて置けば充分であった。〉(同)
さらにもっとうまくやることもできました。成年男子労働者の労働に合わせるために(児童や少年の労働は成年男子労働者の労働を補佐するものが多いですから)、工場主たちは児童の使用を午後2時までは何もさせず、2時から8時半までの6時間半を働かせば、法律に違反することなく、使えるというわけです。
(ヘ) 「そして、今では明瞭に認められることであるが、近ごろは、自分たちの機械を10時間よりも長く動かしておきたいという工場主たちの熱望の結果、8歳から13歳までの男女の児童を、少年や婦人がみな工場から出てしまったあとで、ただ成年男子だけといっしょに晩の8時半まで働かせるという慣習がイングランドに忍び込んだのである。」
これは引用だけですが、フランス語版はちょっと違うところがあるので紹介しておきましょう。
〈「今日はっきりと認められていることだが、工場主たちの貧欲と、10時間以上機械を運転させようとする彼らの切望との結果、8歳ないし13歳の男女の児童を、青少年や婦人の退出後に成年男子だけと一緒に晩の8時半まで労働させる慣習が、イングランドに忍びこんだのである(117)」。〉(同)
これは工場監督官報告書からの引用ですが、工場主たちは、機械を10時間以上動かしておきたいために、成年男子労働者を午前5時半から晩の8時半まで15時間の範囲内で働かせ、その補助として少年や婦人労働者を午前5時半から午後2時以降まで10時間使った後、今度はそれに代わって児童を2時から晩の8時半まで6時間半使うというやり方をやりだしたというのです。
(ト)(チ)(リ) これに対しては、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上との二つの理由から抗議しました。しかし、資本は次のように答えました。
「自分の罰は自分で引き受けらあね。手前はお裁判(サバキ)を、
いやさ、証文どおりの違背金をお願いしているんでございます。」
フランス語版です。
〈労働者と工場監督官は、道徳と衛生の名において抗議した。だが、資本はシャイロックのようにこう考える。「罪はこの身で引き受けるまで! 手前の望みはお裁判(サバキ)、証文通りの違背金をお願い申しておるんでございます」〔シェイクスピア『ヴェニスの商人』、中野好夫訳、岩波文庫版、137-138ページ、より引用〕。〉(同)
こうした工場主たちのやり方に対して、労働者と工場監督官は、衛生上と道徳上という二つの理由で抗議しましたが、工場主たちは、自分は正当なやり方をやっているのだ、それでも違反だというなら、出るところに出てもよいと開き直ったのです。
最後の引用文には全集版には注解90が付いていますが、それは次のようなものです。
〈(90) シェークスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場。〔岩波丈庫版、中野訳、189ページ。〕〉(17頁)
初版とは同じものを訳者注として引用文のあとに紹介しています。新日本新書版には次のような訳者注が付いています。
〈シェイクスピア『ヴェニスの商人』、第4幕、第1場でのシャイロックのせりふ。小田島訳、『シェイクスピア全集』Ⅳ、白水社、240ページ。中野訳、岩波文庫、137-138ページ。〉(497頁)
イギリス語版にはかなり長い訳者注が次のように付いています。
〈(38) 労働者達と、工場査察官達は、衛生上及び道徳上の理由から抗議したが、資本はこう答えた。
(39) 「私の判断でやったこと!法が正しく行われますように。私の判断のようにご判断を。」(訳者注: このセリフは、シェークスピアのベニスの商人から。ユダヤ商人シャイロックが、裁判官ポーシャに、アントーニオへの慈悲を拒否して彼の胸の肉一ポンドを求めて云うセリフ。「慈悲とか正義とかのご高説はいい加減にしてもらいたい。私は法を要求しているんだ。私の債務証券に記された彼への罰則とその決済を要求しているんだ。」この後のセリフも次の文節で登場するが、その後ポーシャの「きっかり」肉一ポンドでなければならない、「血を一滴たりとも」流してはならない、キリスト教徒の血を一滴でも流したら、法によりあなたの土地と財産は、ベニスの国庫のものとなるぞ、と、どんでん返しの場面へと続く。)〉(インターネットから)
◎原注150
【原注150】〈150 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、142ページ。〉(全集第23a巻377頁)
これは本文で引用されている引用文の典拠を示すものです。
((2)に続く。)