『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第13回「『資本論』を読む会」の報告(資料編)

2009-05-24 01:50:02 | 『資本論』

◎関連資料

§§「前文」の諸類型

 前文の原型は初版の本文にはなく、付録にある(初版本文とフランス語版には、価値形態への移行規定というべきものがある)。そしてマルクスは、第二版(これが現行版)のための補足と改訂を行い、さらにフランス語版ではわずかだが表現が変わっている。それぞれを全文、この順序で紹介する(太字はマルクスの強調)。

§初版本文とフランス語版の移行規定

 《これまではただ価値の実体と価値の大きさとが規定されただけなので、今度は価値の形態の分析の方に方向転換することにしよう。》(初版・国民文庫版40頁)

 《いまや、価値の実体と価値量とが規定された。まだなお価値形態を分析しなければならない。》(フランス語版・江夏他訳17頁)

§初版付録から

 《第1章(一)への付録

  価値形態

 商品の分析は、商品は一つの二重物、使用価値にして価値である、ということを示した。それだから、ある物が商品形態をとるためには、それは二重形態を、すなわちある使用価値の形態および価値の形態を、もたなければならない。使用価値の形態は、商品そのものの形態、鉄、リンネル、等々であり、商品体の、手でつかめる感覚的な存在形態である。これこそは商品の現物形態である。これにたいして、商品の価値形態は商品の社会的形態なのである。
 ところで、一商品の価値はどのようにして表現されるであろうか? つまり、価値はどのようにしてそれ自身の現象形態を得るのであろうか? いろいろな商品の関係によってである。そのような関係のなかに含まれている形態を正しく分析するためには、われわれはその形態の最も単純な未発展な姿から出発しなければならない。一商品の最も単純な関係は、明らかに、なんであるかを間わずただ一つの別の一商品に対するその商品の関係である。それだから二つの商品の関係は、一商品のための最も単純な価値表現を与えるのである。》(国民文庫版128-9頁)


§第二版のための「補足と改訂」から

 《

[A]

[2] 3)価値形態または交換価殖

 p.764 一つ一つの孤立した商品の価値対象性は見えないままである,なぜならば,それは,眼に見える商品体の正に反対物だからである。諸商品は一般に,それが同じ社会的単位の,つまり人間的労働の表現であるかぎりでのみ,それらの雑多な使用対象性とは異なった社会的価値対象性をもっのである。

[B]

[異文目録参照]

[C]

[3]3)価値形態。(注17)

 商品は,使用価値または商品体の形態でこの世に生まれてくる。これが商品のありふれた自然形態である。これとは反対に,商品の亡霊のような価値対象性は知覚できない。商品の価値対象性のなかには,むしろ,諸商品を感覚的にお互いに区別している全ての特徴が消え去っている。

[D]

L 商品は,使用価値または商品体の形態で,鉄,リンネル,小麦などとして,この世に生まれてくる。これが商品のありふれた自然形態である。とはいえ,商品が商品であるのは,それが二重のものであり,使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから,商品は,自然形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ,商品として現れ,言い換えれば,商品という形態をとるのである。
 L 商品の価値対象性は,どうつかまえたらいいかわからないことによって,寡婦のクイックリーと区別される。商品体の感性的にぎらぎらした対象性とは正反対に,商品の価値対象性には,一原子の自然素材もはいり込まない。だから,一つ一つの商品を好きなだけひねくり回しても,それは価値物としては,依然としてつかまえようがないものである。とはいえ,商品が価値対象性をもつのは,ただ,それが人間的労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと,それゆえ,商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること,を思い出せば,それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるということも,おのずから明かである。実際,われわれは,諸商の交換価値または交換関係から出発して,そこに隠されている諸商品の価値の足跡をさぐりあてた。いまや,われわれは,価値のこの現象形態に立ち返らなければならない。
 L だれでも,ほかのことはなにも知らなくても,諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な自然形態とはきわめていちじるしい対照をなす一つの共通の価値形態,すなわち貨幣形態をもっているということは知っている。しかし,いまここでなしとげなければならないことは,ブルジョア軽済学によって決して試みられることもなかったこと,すなわち貨幣形態の発生を立証すること,諸商品の価値関係のなかにふくまれている価値表現をそのもっとも簡単なもっともめだたない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで展開することである。それによって,同時に,貨幣の謎も消えうせる。

[10]3)価値形態

商品は,一般に,それらが価値関係を取り結ぶ限りにおいてのみ,おたがいに関係を取り結ぶのであるetc

[3]L_p.764(++)

〔6]3価値形態

1)交換価値として,すなわち,一商品の他の商品に対する関係において。
2)すなわち,それが,価値を表現している商品であるのか,あるいはさもなくば,価値が表現されている商品であるのか,によって……
 われわれは,いま,価値表現全体の二つの形態--相対的価値形態と等価形態--を,それぞれそれ自体として,より立ち入って考察することとしよう。》(MEM主義研究第5号/小黒訳/59-61頁)

§現行版から

 《第3節 価値形態または交換価値

 商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。
 商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。
 だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。
 もっとも単純な価値関係は、明らかに、どんな種類であろうと種類を異にするただ一つの商品に対する一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも単純な価値表現を与える。》(全集版64-5頁)

§フランス語版から

 《第三節 価値形態

 商品は、鉄やリソネルや羊毛等のような使用価値あるいは商品素材の形態で生まれてくる。これはただたんに商品の自然形態であるにすぎない。とはいうものの、商品が商品であるのは、商品が同時に二つの物、すなわち、有用物であるとともに価値の担い手であるからにほかならない。したがって、商品は自然形態と価値形態という二重の形態で現われるかぎりでしか、流通のなかに入ることができない。(16)

 (16)べーリのように価値形態を分析しようと試みた少数の経済学者は、どんな結論にも到達することができなかった。第一に、彼らはつねに価値とその形態とを混同するからであり、第二に、彼らはブルジョア的慣行の粗雑な影響のもとで、最初からもっばら量に心を奪われているからである。「量にたいする支配力が……価値を構成する」(S・べーリ『貨幣とその価値変動』、ロンドン、一八三七年、十一ページ)。

 商品の価値がもつ実在は、つかみどころがわからないという点では、フォルスタッフ〔シェイクスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』中の人物〕の女友達である寡婦クウィックリーとはちがっている。商品体のもつかさばりとは極度に対照的に、商品の価値のなかには素材が微塵も入りこんでいない。したがって、一つ一つの商品は、随意にどういじりまわすことができても、価値物としてはどこまでも手ではつかめない。だが、商品の価値には、純粋に社会的な実在のみがあるということ、また、その価値は、それが人間労働という同じ社会的単位の表現であるかぎりでのみ実在があるということ、を想い起こすならば、この社会的な実在もまた、社会的な取引においてのみ、ある商品と他の商品との関係においてのみ現われうることが、明らかになる。実際のところ、われわれは、商品の交換価値すなわち交換関係から出発して、そこに隠されている商品の価値の痕跡を発見した。いまやわれわれは、この形態--価値は最初この形態のもとでわれわれに姿を現わした--に、立ち戻らなければならない。
 ほかのことはなにも知らなくとも、商品が、そのさまざまな自然形態とは最も顕著に対照をなしているような一つの特殊な価値形態、貨幣形態をもっていることは、誰でも知っている。ブルジョア経済学がかつて試みなかったことを試みることが、いま問題なのだ。貨幣形態の発生を提供すること、すなわち、商品の価値関係のなかに含まれている価値 表現を、最も単純で最も目立たないスケッチから始めて、万人に一目瞭然なこの貨幣形態にまで発展させることが、問題なのである。それと同時に、貨幣の謎が解決されて消え失せるであろう。
 一般的に言って、諸商品は価値関係以外には相互に関係をもたないのであって、最も単純な価値関係は、明らかに、一商品の、どんな種類であれ他の異種の商品にたいする価値関係なのである。したがって、二商品の価値関係あるいは交換関係は、一商品にたいして最も単純な価値表現を提供する。》(江夏他訳/法政大学出版局/17-8頁)

§§その他の文献

 以下は、この前文を理解する上で、一つの参考になるかも知れないというものを紹介しておく。

§モスト『資本論入門』から

 この前文の最後の部分と「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」とも若干、関連すると思える。またここに出てくる「価値物」がどのように説明されているかにも注目。

 《さてここで交換価値に、つまり諸商品の価値が表現されるさいの形態に、立ち戻ろう。この価値形態は生産物交換から、また生産物交換とともに、しだいに発展してくる。
 生産がもっぱら自家需要に向けられているかぎり、交換はごくまれに、それも交換者たちがちょうど余剰分をもっているようなあれこれの対象について、生じるにすぎない。たとえば毛皮が塩と、しかもまず最初はまったく偶然的なもろもろの比率で交換される。この取引がたびたび繰り返されるだけでも、交換比率はだんだん細かに決められるようになり、一枚の毛皮はある一定量の塩とだけ交換されるようになる。生産物交換のこの最も未発展の段階では、交換者のそれぞれにとって、他の交換者の財貨が等価物として役立っている。すなわち、それ自体として彼の生産した財貨と交換可能であるばかりでなく、彼自身の財貨の価値を見えるようにする鏡でもあるような、価値物として役立つのである。》(大谷訳/岩波書店/10頁)

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第13回「『資本論』を読む会」の報告

2009-05-24 01:44:09 | 『資本論』

◎新型インフルエンザ

 新型インフルエンザが猛威をふるっています。神戸や大阪では高校生を中心に拡大しつつあったのが、いまや、あっというまに全国に広がりつつあります。
 実は、愚息もこの14日にカナダ経由で帰国したのですが、すぐに保険所から電話とファックスがあり、「健康観察票」なるものが送られてきました。21日までが要観察期間であり、18日と21日に連絡するようにとのことでした。結局、愚息は何の症状らしいものもなく済んだのですが、「不要不急の外出を避ける」と言われても、長く海外に居て、帰国したものは直ちにしなければならないものが山ほどあり、そうも行きません。まず有効期限が切れた免許証の復活手続きが必要ですし、車検切れになった車の車検、仕事の打ち合わせ等々、公私にわたって目まぐるしいほど忙しいのです。とても家にじっとしていることなど出来ないのです。だから当然、水際策をすり抜けた感染者たちも恐らく同じでしょう。だからそうした人たちから一気に広がることは不可避ともいえます。
 幸か不幸か、わが「『資本論』を読む会」参加メンバーは花粉症から、日頃からマスクが外せない人たちが多いので、その点、感染しにくいかも知れません。何が幸いするか分かりませんね。

◎「第3節 価値形態または交換価値」の前文

 さて、第13回「『資本論』を読む会」は、残念ながら欠席者が多く、ただでさえ少ない参加者なのに、一層寂しい開催となりました。しかし今回からは、第3節に入り、じっくり時間をかけて議論し、前文をすべて終えました。この前文は四つのパラグラフからなっていますが、各パラグラフごとにまず本文を示し、そのあとその解読と議論の紹介をやり、最後に、関連資料を紹介しておきましょう。

■第1パラグラフ

 《商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。》

 この部分では、まずJJ富村さんから「本文では『商品は、使用価値または商品体の形態をとって、……この世に生まれる』とあるのを、レジメでは『商品は使用対象であると同時に価値の担い手=商品体として生産される』と説明しているが、『または』と『同時に』とでは意味が少し違うように思う」と発言。レジュメを提出したピースさんは、「商品体を価値体という意味に理解して説明している」と答えました。JJ富村さんは、「『または』というのは、商品は使用価値として生まれ、あるいは『商品体』として生まれる、と解釈すべきで、だから商品体は使用価値のことだと思う」と批判。ピースさんは、「同時に」と解釈したのは、間違っていることは認めましたが、「商品体」を使用価値と解釈することには納得ができないようで、「『商品体』というのは、『生産物が価格で表されていること』の意味ではないのか」と食い下がりましたが、JJ富村さんは「『これが商品のありのままの現物形態である』と本文にあるように、これは使用価値を意味している」と反論。どうやら軍配はJJ富村さんに上がったようです。
 やはり本文を読む限りでは、「商品体」というのは、「使用価値」を言い換えただけで、鉄やリンネル、小麦というような、商品のありふれた現物形態について述べていると考えるべきでしょう。これは初版付録(付属資料参照)を見ると、《使用価値の形態は、商品そのものの形態、鉄、リンネル、等々であり、商品体の、手でつかめる感覚的な存在形態である》と説明していることを見ても明らかです。ここでは「商品」の「」をマルクスは強調しています。つまり使用価値の形態は商品の身体そのものとして現われている形態であり、手でつかめる感覚的な存在形態だということでしょう。またフランス語版(同)では、「商品体」てはなく、《商品素材》とも翻訳されています。
 ピースさんが言及した「価値体」については、もう少しあとででてきますが、これについては色々と論争もありますので、ここでは説明は保留しておきましょう。

 さて、この第1パラグラフは、とにかく商品が商品であるということは、二重の「形態」を持つ必要があることが指摘されています。「形態」というのは、フォルムですが、要するに何らかの形あるものとして「現われているもの」です。私たちは第1節の商品の分析で、商品は使用価値であるととにも価値であるということが分かったのですが、しかし使用価値と価値というだけでは、二重の「形態」を持っているとはいえません。なぜなら、確かに使用価値は目に見えて手でつかめる現物形態ですが、価値そのものは手でつかんだり見たり出来るものではないからです。価値は内在的なものであり、そのものとしては「形態」として「現われている」わけではないのです。しかし商品である限りは、価値もその「形態」を、つまり目で見えるような姿で現われてこなければならない(現象しなければならない)というのです。だから商品はその使用価値としての現物形態とともに価値の形態(価値形態)という二重の「形態」を持つ限りでのみ、商品として「現われ」得る、つまり商品という「形態」をとることになるわけです。すなわちその姿で自分は商品だよ、と誰にでも分かるようなものとして存在することになるのだというわけです。

■第2パラグラフ

 《商品の価値対象性は、寡婦のクイックリー〔シェイクスピアの『ヘンリー四世』などの中の人物〕と違って、どうつかまえたらいいかだれにもわからない。商品体の感性的にがさがさした対象性とは正反対に、諸商品の価値対象性には、一原子の自然素材も入りこまない。だから、一つ一つの商品を好きなだけひねくりまわしても、それは、価値物としては、依然としてつかまえようがないものである。けれども、諸商品が価値対象性をもつのは、ただ、価値対象性が人間労働という同じ社会的単位の表現である限りにほかならないこと、したがって、商品の価値対象性は純粋に社会的なものであること、を思い出せば、それがただ商品と商品との社会的関係においてのみ現れうるということも、おのずから明らかである。実際、われわれは、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている諸商品の価値の足跡を探りあてた。今や、われわれは、価値のこの現象形態に立ちかえらなければならない。》

 このパラグラフには「価値対象性」という用語が5回も出てきます(ところが初版付録やフランス語版ではまったくでてきません。フランス語版では「商品の価値がもつ実在」と言い換えられています)。それは商品が「持つ」ものであるが、しかし「まぼろしのような」ものであり、「亡霊のような」もの「知覚できないもの」と説明されています。「補足と改訂」では「それは,眼に見える商品体の正に反対物」とも言われ、「社会的価値対象性」という用語もでてきます(付属資料参照)。
 「同じ社会的単位の、つまり人間労働の表現である限りでのみ、社会的対象性をもつ」とも言われています。あるいはまた価値対象性は「価値物」とも言われており、価値物としても、やはり「依然としてつかまえようがないもの」だとも言われています。
 そうしてこういう幻のような価値対象性は、しかし商品と商品との社会的関係においてのみ「現われうる」ということ。すなわちその「形態」(現象形態)をもつとも言われています。ここから「価値対象性」とは何なのか、どう理解したらよいのか、そしてそれと関連して「価値物」というのも、どのように理解したらよいのか、ということがこのパラグラフの理解と関連して問題になってきます(「価値対象性」と「価値物」とは同じものと考えて良いのか、それともそれは異なるものなのか、異なるならどういう点で異なるのか、云々)。

 「対象」というのは、私たちの主観にかかわりなく、客観的に実在し、私たちの主体的な働きかけが向けられるもののことです。だから「対象性」というのは、そうした実在性と私たちが何らかの働きかけがなしうる性質ということでしょう。商品そのものは一つの客観的に実在するものです。そして商品は使用価値であるとともに価値であるということが分かっています。しかし、使用価値の場合は、目に見えてごわごわしたりギラギラした現物形態を持っていて、一目でそうした対象性はハッキリしていますが、しかし価値の場合は、確かにそれも客観的に実在する商品そのもののなかにあり、だから対象的存在ではあるのですが、しかしその対象性はまったく目に見えないものであり、手で触れうるものでもないのです。だからそれは、幻のような、亡霊のような、つかまえどころのないものだ、ということなのです。
 「価値対象性」というのは、そうした価値の私たちの主体的な働きかけ(認識)から見た性質ということが出来るでしょう。それに対して「価値物」というのは、商品は使用価値としては「物」としての存在は明らかですが、価値としては決して「物」として捉えることは出来ません。「価値」は「物」として「現われて」いないからです。しかし価値が商品に内在するものであるなら、その本質は現象せざるをえず、それはやはり「物」として現われてくるのです。「価値物」というのは、だから価値が「物」として現われたものですが、しかし商品そのものの「物」としての存在はその自然的・素材的な定在なのです。しかしそれは商品の使用価値であって価値ではありません。価値には一片の自然素材も含まれていないからです。だから、商品自身の自然素材においては価値は「物」として現れようがないのです。だから一つの商品を見ている限りは、やはり「価値物」としても捉えようがないのです。
 だからそうした幻のような対象性が目に見えるようなものとして「現われる」のはどのようにして可能なのか、ということですが、それは価値というのはそもそも社会的なものなのだから、社会的な関係のなかで、それも現われて来るのだ、実際、私たちは二商品の交換関係から出発して、価値を見いだしたのだから、その現象形態にもどればよいのだ、ということなわけです。

■第3パラグラフ

 《だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。》

 そして実際、私たちが日常目にする商品は、確かに使用価値の形態と価値の形態を持っています。この場合の価値の形態というのは、貨幣形態のことです。私たちが店頭に並んでいる品物が商品であるかどうかは、それに値札がついているかどうかで見分けることが出来るでしょう。この値札というのは、実は、その商品の貨幣形態なのです。つまり商品の価値を貨幣で表示したものが、すなわちその値札(価格)なのです。そしてそれが価値が目に見えるものとして現われているものなのです。だから商品は、その目に見える使用価値とともに、値札(価格)という貨幣形態によって自身の価値を目に見えるものとして現すことによって、商品であるという「形態」を持っていることになるのです。だからこそ私たちは、それを一目見れば、「あっ、これは商品だ、売り物だ」とわかるわけです。
 これはあまりにもありふれた現実であり、誰でも知っていることです。しかし、今、ここでやろうとしていることは、誰も知らないし、誰も試みたことさえないこと、では、どうして商品は値札をつけているのか、どのようにして値札をつけるようになったのか、値札をつけているということはどういう意味なのか、ということを説明しようということです。それはさまざまな商品の価値関係のなかに含まれている、価値を表現する形態を、そのもっとも単純なものから貨幣形態にいたるまで追跡して初めてわかることなのです。つまりそれはそもそも貨幣というのはどのようにして生まれてきたのか、ということを明らかにすることでもあるのです。それが分かれば、貨幣が持っているさまざまな不思議な力は何にもとづいているのか、そのカラクリが分かるでしょう。

 このパラグラフでは、やはりJJ富村さんから「貨幣の謎」の意味が質問されました。ピースさんは「謎というのは、何故、貨幣によって全ての商品が価格表現されているのか」ということではないかと説明しましたが、JJ富村さんあまり納得できない様子でした。この「貨幣の謎」については、これから価値形態を学んでゆく過程で分かってくることなのですが、少しだけ先回りして、紹介することにしましょう。
 実は、久留間鮫造著『貨幣論』(大月書店1979年刊)のなかで「『貨幣の謎』とはどういうことか?」とそのものズバリの表題がつけられて、かなり詳しい説明があります。それをすべて紹介すると、長くなりすぎるので、その核心部分だけを紹介しますが、是非、各自一度読んでみて欲しいと思います。

 〈マルクスが「謎」と言っているのは、等価形態におかれる商品の自然形態が、そして発展すれば金銀の自然形態が、直接的な交換可能性というまったく社会的な性質を生まれながらにしてもっているように見える、ということです。〉(28頁)

■第4パラグラフ

 《もっとも単純な価値関係は、明らかに、どんな種類であろうと種類を異にするただ一つの商品に対する一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値関係は、一つの商品にとってのもっとも単純な価値表現を与える。》

 だから私たちの出発点は、もっとも単純な価値の関係、つまり二つの商品をそれぞれが持っている価値という側面で関係づけて考えることから始まるのです。この二つの商品の価値関係は、一つの商品の価値のもっとも単純な価値の表現でもあるのです。

 とりあえず、本文の説明は以上で終わりです。あとは関連資料を紹介しておきます。

◎関連資料

 (文字数がオーバーしてしまったので、関連資料の紹介は、別途行ないます。)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第13回「『資本論』を読む会」の案内

2009-05-02 13:53:49 | 『資本論』

『  資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か

 


 政府は4月末、総額15.4兆円にのぼる過去最大の経済対策の財政的裏付けとなる補正予算案を閣議決定し国会に提出した。一カ月前に当初予算が成立したばかりであり、「異例ずくし」の予算と言われている。

 当初と合わせた予算規模は102兆円と初めて100兆円を突破。財源の多くは借金(国債)に頼り、歳入に占める税収の割合は45%と過去最低である。新規の国債の発行額は過去最悪の44兆円となり、ほぼ税収見通しと並ぶ。

 麻生内閣は、「景気の底割れリスクの回避」を掲げているが、その実態は、近づく選挙にむけての“バラマキ予算”、“国民買収予算”としか言いようがない。おまけにそのバラマキの対象は大手金融機関や大企業に対するもの以外は、車や家や家電等を買える富裕層を目当てにしたものでしかなく、母子家庭への生活保護費加算の打ち切りに象徴されるように、大企業を潤す公共事業を前倒しする一方で、社会補償費を削る姿勢にはまったく変化はなく、弱者に犠牲を強いる内容になっているのだ。

09年5月2日『朝日』から

 そればかりか国債残高は、09年度末で592兆円にのぼる見込みであり、国民一人あたり約463万円。つまり、生まれて来る赤ん坊は500万円近い借金を背負って生まれて来る勘定になる。5人家族だと2300万円を超える借金である。この借金は一体誰が返すのか。それは結局、国民しかいない。つまり将来の国民にすべての犠牲はしわよせされるのである。

 マルクスは国債について、次のように述べている。

 《国債はすべて全人民の勤労に課せられた抵当、人民の自由の縮小ではないだろうか? それは、国債所有者という名まえで知られている新しい一団の見えざる圧制者を生みだすのではないだろうか?》(マルクス・エンゲルス全集15巻117頁)

 つまりわれわれ全人民は、一人当たり500万円近い借金のために「勤労」することを強制され、それだけ「自由」を奪われる。他方、国債所有者として利子利得を居ながらにして我が物とする圧制者は国民を犠牲に肥え太るというわけである。

 麻生内閣の“選挙対策予算”、“国民買収予算”に反対し、「全人民」に災厄をもたらす資本主義社会の仕組みを解明し、理解するために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。


…………………………………………………………………………………………

第13回「『資本論』を読む会」・案内


                                                                                          ■日時   5月17日(日) 午後2時~

 ■会場   堺市立南図書館(泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m
                     駐車場はありません。)

 ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊 (どの版でも結構です)

 ■主催   『資本論』を読む会


コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする