『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(1)

2023-10-20 19:37:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (1)



◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(2)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №6)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第2回目です。〈A 「経済学批判」体系プランにおける利子と信用〉の〈(2)「経済学批判」体系プランにおける利子〉という小項目のなかで、大谷氏は〈増分である利潤からこれを生みだすものとして区別される価値は,自己を増殖する価値,資本である。そして,利潤をもたらす資本の成立によって,貨幣はある率で利潤を生むという使用価値をもった商品として流通にはいることができるようになるのであり,こうして利子および利子生み資本が成立する。利子にたいする利子生み資本の関係は,自己を増殖する価値とその増分との関係としては,利潤にたいする利潤をもたらす資本の関係と等しいだけでなく,むしろ前者は,後者の「純粋に抽象的な形態」なのである〉(87頁、太字は傍点による強調)と述べ、それに章末注〔9〕として『経済学批判要項』の一文が付けられています。それが興味深いので、重引・紹介しておきます。

  〈利潤をもたらす資本は,現実の資本であり,自己を再生産すると同時にまた自己を累加しつつあるものとして措定された価値であり,しかも,同じままにとどまる前提として,自己によって措定された剰余価値としての自己自身から区別されている。これにたいして,利子をもたらす資本は,利潤をもたらす資本の純粋に抽象的な形態である。資本が,それの価値〔の大きさ〕に応じて(これには生産力の一定の段階が前提される)利潤をもたらすものとして措定されていることによって,商品が,すなわち貨幣という形態で措定されている商品が(自立化した価値という,言い換えれば--いまではそう言うことができるが--実現された資本という,この商品にふさわしい形態で措定されている商品が),資本として流通にはいることができる。資本が資本として商品になることができるのである。この場合には資本は利子つきで貸し出される資本である。資本の流通の--あるいは資本が経る交換の--形態は,その場合,これまでに考察された形態とは独自的に異なるものとして現われる。これまでわれわれは,資本が商品の規定においても貨幣の規定においても自己を措定することを見てきた。しかしこのことが行なわれるのは,商品と貨幣とが資本の循環の契機として現われ,資本がかわるがわる商品と貨幣として自己を実現していくかぎりにおいてでしかない。商品および貨幣は,消えては,絶えずふたたび生みだされる,資本の存在諸様式であり,資本の生活過程の諸契機にすぎない。といって,資本としての資本が,それ自身で流通の契機となることはなかった。資本そのもの〔が流通の契機となるのは〕,商品として〔であった〕。商品が売られたのは資本としてではなかったし,貨幣も資本として〔買ったの〕ではなかった。ひとことで言えば,商品も貨幣も--そして厳密に言えば,われわれが妥当な形態と見なさなければならないのは後者だけであるが,利潤をもたらす価値として流通にはいったのではなかったのである。(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.738.)〉 (112-113頁)

  なぜ、この一文が興味深いかといいますと、宇野弘蔵は、マルクスの利子生み資本論に異論を唱え、マルクスが利子生み資本を説明して、貨幣が商品として流通に入り売買(本当は貸し借り)されるとしていることに対して、利子生み資本というのは、資本として売買されることであり、それは架空資本のような株式や国債のような形態をとったもののことであり、それが資本として商品になり、売買されるのだと述べているのですが(これは目の前の現象にただしがみついているだけなのですが)、こうした宇野の批判に対する反論として重要ではないかと思ったからです。
  ここではマルクスは利子生み資本を貨幣という形態で商品になっていると一方で言いながら、他方ではそれは資本として流通に入るとも述べています。つまり貨幣という形態で措定されている商品が、資本として流通に入ることによって、資本が資本として商品になるとしているのです。
 これに対して、資本が商品の形態や貨幣の形態をとる場合は、それらは資本の存在様式であり、資本そのものが流通の契機になることは無かった。資本が流通はいる場合は単なる商品としてであり、単なる貨幣としてであったとしています。それらは利潤をもたらす価値として流通に入ったのではなかった、と。
 だから利子生み資本の場合、資本が資本として流通に入るということが一つの眼目であることが分かります。貨幣が商品になるという場合も、それが利潤を生むという使用価値によってであって、つまり資本としてなのです。だから貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではない、という宇野のマルクス批判はまったく的外れとしか言いようがないのです。なぜ貨幣が商品になるのかが理解されていないといえます。貨幣が商品になるのはその貨幣が利潤を生むという使用価値を持つからです。つまり資本という規定性によってなのです。
  その次も宇野のマルクス批判に対する回答として重要だと思いました。
 
  〈利子のところでは二つのことが考察されるべきである。/第1に,利子と利潤とへの利潤の分割。(イギリス人はこれら両者を合わせて,総利潤gross profit〕と呼ぶ。)この区別は,貨幣資本家〔monied capitalist〕から成る一階級が産業資本家から成る一階級に対立するようになると,感じられるもの,だれにでもわかるものとなる。第2に,資本そのものが商品となる,言い換えれば,商品(貨幣)が資本として売られる。これはたとえば,資本が,他のすべての商品と同様に,その価格を需要供給に合わせることを意味する。つまり,需要供給が利子率を規定するのである。だからここで,資本としての資本が流通のなかにはいるのである。/貨幣資本家と産業資本家とが二つの特殊的な階級を形成しうるのは,ただ,利潤が収入の二つの分枝に分離していくことができるからでしかない。二種類の資本家と言えば,これはたんに事実を表現したものにすぎないが,資本家の二つの特殊的階級が成長することができるためには,そのための基礎となる分裂が,すなわち,収入の二つの特殊的形態への利潤の分離が,現に生じていなければならない。/……賃金と利潤--必要労働と剰余労働--のあいだには,ある自然的な関係〔natural relation〕が存在する。しかし,利潤と利子とのあいだには,収入のこれら相異なる形態のもとに配置されるこれら二つの階級のあいだの競争によって決定される関係以外に,なんらかの関係があるだろうか。だが,この競争が存在するのには,そしてこの二つの階級が存在するのには,利潤と利子とへの剰余価値の分割がすでに前提されているのである。その一般性において考察された資本は,けっしてたんなる抽象ではない。一国民の総資本を,たとえば総賃労働(あるいはまた土地所有)との区別において考察するとき,あるいは,資本を他のある階級と区別されるある階級の一般的経済的土台として考察するとき,私は資本をその一般性において考察しているのである。それはちょうど,私がたとえば,人間を生理学的に獣と区別して考察する場合のようなものである。利潤と利子との現実的な区別は,産業資本家階級にたいする貨幣資本家階級〔moneyed class of capitalists〕の区別として存在している。しかしこうした二つの階級が対立しうるのには,つまり資本家たちの二重の存在は,資本によって生みだされた剰余価値の分離〔Diremtion〕を前提するのである。」(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.714-715.)〉 (113-114頁)

  ここではマルクスは〈資本そのものが商品となる〉ということを言い換えて、〈商品(貨幣)が資本として売られる〉とも述べています。つまりこの場合の商品である貨幣は単なる貨幣ではありません。それは平均利潤を生むという使用価値を持った貨幣なのです。そして売買は一つの仮象であって、実際には貸し借りなのです。貸し借りによって貨幣は資本として流通に入るわけです。だからこそそれは資本として流通に入り、利子という価格を持つのです。

  今回はただ『要綱』から引用だけで、しかもやや難解で、おまけにただ宇野弘蔵の利子論の批判だけなのですが、とりあえず、ここでの紹介はこうした紹介者の問題意識だけにもとづいたものですので、ご了承ください。今回の大谷本の紹介はこれだけにしておきます。


◎「標準労働日のための闘争」

 これから検討します、第5~7節には「標準労働日のための闘争」という共通の表題が付いています。
  私たちは第1節の第7パラグラフで、第5パラグラフで紹介された資本家側の言い分に対する労働者の側の言い分の最後で、〈ぼくは標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ〉と述べていたことを知っています。ここで初めて「標準労働日」という用語が出てきたのです。
  標準労働日というのは果たして何かを考えますと、ここでマルクスはそれについてそれは労働力商品の価値に該当するものだと述べています。
  その具体的な内容については〈平均労働者が合理的な労働基準のもとで生きて行くことのできる平均期間が30年だとすれば、きみが毎日ぼくに支払うぼくの労働力の価値、その全価値の 1/365×30 すなわち 1/10950 である。〉と述べ、それが〈正常な長さの労働日〉だとしています。
 ところで労働日というのは、1日における労働の継続時間であり、労働というのは労働力の使用価値です。だからそれが労働力の価値とどういう関係にあるのかが今問題になっているわけです。すべての商品は使用価値と価値との統一物です。しかしある特殊な商品はその独特の使用価値故に、その価値もまた独特なものとして現れます。例えば家屋の使用を一定期限に限って販売する場合、この商品の価値は、その使用によって損耗する程度によって決まってきます。例えばその家屋が10年でその使用価値をすべて無くすと考えますと、1カ月ではその家屋の建設に支出されたすべての労働時間、すなわちその価値(これはいま520万円とします)の520分の1、すなわち1万円分だけ損耗すると考えることが出来ます。だから家屋の1カ月の使用価値に含まれている価値は1万円ということになるわけです。

  マルクスは『61-63草稿』で次のように述べています。

  〈したがって、この商品--労働能力--の独自な使用価値から、一方では、その消費そのものが価値増殖〔Verwertung〕、価値創造である、ということが出てくるのと同様に、他方ではこの使用価値の独自な性質から、それが使用され価値増殖的に利用〔Verwerten〕される範囲は、その交換価値そのものを破壊しないためには、ある制限内に封じ込められなければならない、ということが出てくる。〉 (草稿集④285頁)

  つまり労働力の価値は、労働力の再生産費であり、労働力を再生産するために必要な生活手段の価値に帰着します。しかし労働力の使用価値である労働も、そもそも1日に支出されうる労働時間はどれだけかは決まっていません。確かにそれは1日24時間も支出できないのは当然としても、労働時間は一体何時間がその価値に合致するものなのかが問題なのです。そこには肉体的な社会的な限界があることが指摘されました。
  労働力の価値は労働力を日々再生産を可能にするために必要な生活手段の価値ですが、労働力はただ必要な生活手段を消費していれば常に再生産され得るというものではありません。そのためにはその使用価値である労働そのものが一定の限度内にあってこそ、それは再生産可能となるのです。ではその再生産可能な労働時間とは何か、それが標準労働日だということでしょう。そして標準労働日にもとづいた労働で消耗した生命力を回復して、再び健康的な体力を取り戻し、同じように労働を可能にするのに必要な生活手段の価値が、すなわち労働力の価値ということです。だから労働力の価値はその使用価値である労働が一定の限度内(標準労働日)にあることが前提されてはじめて規定されうるものなのです。

  そして最後の第8パラグラフの締めくくりは次のようになっていました。

  〈要するに、まったく弾力性のあるいろいろな制限は別として、商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は、したがって剰余労働の限界も、出てこないのである。資本家が、労働日をできるだけ延長してできれば1労働日を2労働日にでもしようとするとき、彼は買い手としての自分の権利を主張するのである。他方、売られた商品の独自な性質には、買い手によるそれの消費にたいする制限が含まれているのであって、労働者が、労働日を一定の正常な長さに制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張するのである。だから、ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保証されている権利対権利である。同等な権利と権利とのあいだでは力がことを決する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争--総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争--として現われるのである。〉

  つまり標準労働日というのは、何か経済法則として決まってくるようなものではなく、それは労働力の価値もとづいたものとはいえ、最終的には総資本家階級と総労働者階級との力関係によって社会的に法的に決められるものだということです。だからそれがどういう歴史的経緯を辿って来たのかをこれからの諸節で検討されるものと思われます。

  またこの第5節には「標準労働日のための闘争」という主題のあとに、「14世紀なかばから17世紀末までの労働日延長のための強制法」という副題が付いています(フランス語版ではこの副題がそのまま第5節の表題になっています)。つまりこの第5節の主要な問題はこの副題だということです。
  しかしこの副題のテーマが実際に論じられるのは第7パラグラフ以降で、それまでの前半部分ではそもそも労働日とは何か、標準労働日というものはどうして階級闘争によって、そして最終的には国家によって法的に決められねばならないのか、という問題がまず論じられています。

 


第5節 標準労働日のための闘争  14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法

 

◎第1パラグラフ(「1労働日とはなにか?」という問いに対する資本の答え)

【1】〈(イ)「1労働日とはなにか?」(ロ)資本によって日価値を支払われる労働力を資本が消費してよい時間はどれだけか? (ハ)労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を越えて、どれだけ延長されうるか? (ニ)これらの問いにたいして、すでに見たように、資本は次のように答える。(ホ)労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役だちを繰り返すために絶対に欠くことのできないわずかばかりの休息時間を引いたものである。(ヘ)まず第一に自明なことは、労働者は彼の一生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすぺて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。(ト)人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも--そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと(104)--ただふざけたことでしかない! (チ)ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。(リ)資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。(ヌ)資本は、外気や日光を吸うために必要/な時間を取り上げる。(ル)資本は、食事時間をへずり、できればそれを生産過程そのものに合併する。(ヲ)したがって、ただの生産手段としての労働者に食物があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に油脂が加えられるようなものである。(ワ)生命力を集積し更新し活気づけるための健康な睡眠を、資本は、まったく疲れきった有機体の蘇生のためにどうしても欠くことのできない時間だけの麻痺状態に圧縮する。(カ)ここでは労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の1日の可能なかぎりの最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定する。(ヨ)資本は労働力の寿命を問題にしない。(タ)資本が関心をもつのは、ただただ、1労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである。(レ)資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、貧欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。〉 (全集第23a巻346-347頁)

  (イ)(ロ)(ハ)「1労働日とはなんでしょうか?」資本によってその日価値が支払われた労働力を資本が消費してよい時間というのはどれだけでしょうか? 労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間(必要労働時間)を越えて、どれだけ(剰余労働時間を)延長されうるのでしょうか?

  この部分のフランス語版を参考のために紹介しておきます。以下、それぞれに該当するフランス語版をまず紹介することにします。

  〈1労働日とはなにか? 1日だけ資本によって価値が買われる労働力を、資本が消費する権利のある時間の長さとは、なんであるか? 労働日は、労働力の再生産に必要な労働を越えてどの点まで延長できるか? 〉 (江夏・上杉訳267頁)

  「1労働日というのは何か」という問題は、すでに第1節で問題にされました。まずマルクスは最初に労働日の最小限を規定し、それは資本主義的生産様式のもとでは必要労働時間までに短縮されることはないとしました。つまり剰余労働時間がなくなればそれはもはや資本主義的生産ではないのだということです。
  ではその最大限はというと、それは二重に規定されているとしました。一つは純粋に肉体的な制限です。休息、睡眠、食事をするなどの肉体的な諸欲求を満たすために必要な時間がまず労働日を制限します。さらにそれに加えて社会的・慣行的な諸制限があります。知的及び社会的な諸欲求の充足のための時間がそれです。それらが1日の労働時間を規制するのだと指摘されたのです。
  しかしこうした諸制限そのものは弾力的な性格をもつものであり、だから変動の余地は極めて大きいことも指摘されていました。
  そして「1労働日とは何か?」と問いには、〈とにかく、自然の1生活日よりは短い。どれだけ短いのか? 資本家は、この極限〔ultima Thule*〕、労働日の必然的限界については独特な見解をもっている〉と述べていました。このパラグラフではその〈独特な見解〉がより詳しく検討されます。

  (ニ)(ホ) これらの問いにたいして、すでに第1節で見ましたように、資本は次のように答えます。労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役だちを繰り返すために絶対に欠くことのできないわずかばかりの休息時間を引いたものである、と。

  同じくまずフランス語版です。

  〈これらすべての問いにたいしては、すでに見ることができたように、資本はこう答える。労働日とは、まる24時間から、労働力がその役立ちを再開するために絶対に欠くことのできない少しばかりの休息時間を、差し引いたものである。〉(江夏・上杉訳267頁)

  第1節では資本家はただ資本の人格化であり、資本としては〈自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である〉とだけ指摘されていました。だから資本にとっては1日の生活時間を可能な限り労働時間として使用したいわけです。しかし労働力がただ1日の使用でダメになってしまってはもともこうもないわけですから、そうならないための必要最低限の休息時間を除いたものが、資本にとっての1日の労働時間であり、1労働日だということになるわけです。

  (ヘ)(ト) まず第一に資本にとって自明なことは、労働者は彼の一生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということです。たがら彼の処分しうる時間はすぺて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということです。人間的教養のためや、精神的発達のためや、社会的諸機能の遂行のためや、あるいは社交のための、要するに肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも--そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと--ただふざけたことでしかない! ということです。

  フランス語版です。

  〈自明なことだが、労働者は自分の生涯を通じて労働力以外のなにものでもなく、したがって、自分の自由にできる時間はすべて、法的にも自然的にも、資本および資本化することに属している労働時間である。教育のための、知的発展のための、社会的職分の遂行のための、親戚や友人との交際のための、肉体力や精神力の自由な活動のための時間は、日曜日の聖餐式のための時間でさえも--しかも主日を聖なるものとして祝う国(71)で--、全く愚にもつかぬことである! 〉(江夏・上杉訳267頁)

  ここからはすべて「資本にとっては」という前提が省かれていますが、あくまでも資本にとっては、資本からみれば、という前提のもとに言われています。
  第一に自明なことは、資本はまる1日分の労働力を買ったのですから、まる1日の労働力の使用権を得たわけです。だから労働者の1日の生活時間のすべては労働力以外の何ものでもないということです。だから労働者が自由にできる時間もすべて、法的にも自然的にも、資本のための労働時間なのだということです。労働者が人間的教養や精神的発達のためや、社会活動に参加するための時間など、要するに肉体的・精神的な生命力の自由な営みと発展のための時間などは、資本にとってはとんでもないということです。これはキリスト教国でも、日曜礼拝のための時間さえも、資本にとってはとんでもないということなのです。

   (チ)(リ)(ヌ)(ル) ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越えます。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りします。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間をも取り上げます。資本は、食事時間をへずり、できればそれを生産過程そのものに合併しようとします。

  フランス語版です。

  〈ところが、資本は、剰余労働をもとめるその過度な盲目的熱情のあまり、その貧欲のあまり、たんに労働日の精神的限度ばかりでなく、さらにその肉体的な極限をも踏み越える。資本は、身体の成長や発育や健康維持が必要とする時間を横取りする。資本は、外気を吸い日光を享受するのに用いられるべき時間を奪う。資本は食事の時間を出し惜しみ、この時間をできるかぎり生産過程そのものに合体させる。〉(江夏・上杉訳267-268頁)

  だから資本はその剰余労働を求める際限のない欲求や盲目的な情熱や貪欲さのあまり、労働日の肉体的な社会的な制限されえをも踏み越えるのです。第3節で詳しく見てきましたように、資本は、児童を苛酷な労働に酷使して、その成長や発育や健康維持に必要な時間をも横取りしました。縫製労働者を狭い空間に押し込めて、夜間労働を強いて、外気に触れ日光を享受する時間さえも奪って来たのです。おまけに食事時間さえも削って、それを生産過程に合併しようとしてきました。

  (ヲ)(ワ)(カ) だから、ただの生産手段でしかない労働者に食物があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に油脂が加えられるようなもなのです。生命力を集積し更新し活気づけるための健康な睡眠を、資本は、まったく疲れきった有機体の蘇生のためにどうしても欠くことのできない時間だけの麻痺状態に圧縮します。ここでは労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の1日の可能なかぎりの最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定するのです。

  フランス語版です。

  〈したがって、単なる労働手段の役に引き下げられた労働者には、ボイラーに石炭が、機械に油や獣脂が供給されるように、食物が供給される。資本は、生命力を更新して元気を回復させるのに充てられる睡眠時間を、鈍感な麻痺状態の最低時間--この最低時間を欠いては、使い果たされた有機体はもはや機能することができない--に圧縮する。労働力の正常な維持が労働日の制限にたいする掟として役立つどころか、逆に、労働力の一日の最大限の支出が、それがどんなにはげしくどんなに骨の折れるものであろうとも、労働者の休息時間の限界を規定する。〉(江夏・上杉訳268頁)

  そもそも労働者は資本にとっては剰余労働を吸収するための手段でしかありません。資本にとっては労働者も機械や道具や役畜と同じ生産のための手段でしかないのです。だから労働者に食事を与えるのは、役畜に飼料をあたえ、機械に油を指し、ボイラーに石炭をくべるのと同じことなのです。
  だから同じように、労働者の生命力を更新して活気づかせるために必要な睡眠も、資本にとってはただどんなに疲れ切っていたとしてもとにかく人間有機体の生命が維持されていればよいだけのものに鈍感な麻痺状態になるような最低限まで削ろうとするのです。
  だから第1節で見ましたように、労働力の正常な維持を保証することが(肉的的・社会的な制限が)労働日を制限するのではなくて、労働力の1日の最大限の支出が、とにかく徹底的にそこから剰余労働をしぼれるだけしぼることが、労働者の休息時間を規制するという逆転した関係を作り出すのです。

  (ヨ)(タ)(レ) 資本は労働力の寿命を問題にしません。資本が関心をもつのは、ただただ、1労働日に流動化されうる労働力の最大限だけです。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達しようとするのは、ちょうど、貧欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功しようとするようなものです。

  フランス語版です。

  〈資本は労働力の寿命を少しも気にかけない。資本がもっぱら関心をもつものは、1日のうちに支出することのできる労働力の最大限である。そして資本は、労働者の寿命を短縮することでその目的を達成するが、このことは、貧欲な耕作者が土地の沃度を汲みつくすことでその土地からもっと多量の収穫を得るのと同じである。〉(江夏・上杉訳268頁)

  だから資本の本性を自由気ままに任せていれば、それは交換価値の法則をも踏み越えて、労働力の価値を越えてしまいます。資本は労働力の寿命などには少しも気にはしません。本来は労働力の価値は労働者が20年なら20年のあいだ同じ労働力として維持され再生産されることが、その労働力の価値の規定には含まれているはずですが、資本はそんなことはまったく気にしないのです。とにかく資本にとって最大の関心事は、1日のうちに支出できる労働を可能な限り絞り出すということです。だからその結果、労働者の寿命が短縮しようがそんなとこは資本のあずかり知らないことなのです。それは資本主義的農業が収奪農業であるのとよく似ています。つまり土地の肥沃度を当面の生産で汲み尽くして荒廃させても、とにかく当面の収穫を最大限得ようとする農業と同じなのです。
 この第1パラグラフではまず資本の本質的な性向を確認しています。資本にとって剰余労働を最大限吸収することこそがその本性であり、だからこの資本の本性をそのままにすれば、労働日の限界などは無きに等しいことになるということが、まず確認されているわけです。


◎原注104

【原注104】〈104 (イ)たとえばイギリスでは、今でもまだあちこちの農村で、自宅の前の小園で労働して安息日を冒したというかどで労働者に禁固刑が宣告されることがある。(ロ)同じ労働者が、たとえ信仰上の気まぐれからであろうと、日曜に金属工場とか製紙工場とかガラス工場とかを休めば、彼は契約違反で処罰されるのである。(ハ)正統派の議会も、安息日の冒涜が資本の「価値増殖過程」で行なわれる場合には、耳にふたをしている。(ニ)ロンドンの魚屋や鳥屋の旦雇い人たちが日曜労働の廃止を要求しているある陳情書(1863年8月)のなかでは、彼らの労働は週の初めの6日間は毎日平均15時間で、日曜は8時間から10時間だと言っている。(ホ)この陳情書からは、同時に、エクセター・ホール〔77〕の貴族的な偽信者たちの気むずかしい食道楽がことにこの「日曜労働」を激励するということも推測される。(ヘ)これらの「聖者たち」は、「自分のからだをだいじにすることでは」〔“in cute curanda"〕あんなに熱心でありながら、第三者の過度労働や窮乏や空腹には忍従の精神をもって堪えるということによって、彼らのキリスト教の信仰を証明するのである。満腹は君たち(労働者)には大いに害がある。〔Obseqium venteis istis peniciosius est.〕〉(全集第23a巻347頁)

  (イ)(ロ)(ハ) たとえばイギリスでは、今でもまだあちこちの農村で、自宅の前の小園で労働して安息日を冒したというかどで労働者に禁固刑が宣告されることがあります。同じ労働者が、たとえ信仰上の気まぐれからであろうと、日曜に金属工場とか製紙工場とかガラス工場とかを休みますと、彼は契約違反で処罰されるのです。正統派の議会も、安息日の冒涜が資本の「価値増殖過程」で行なわれる場合には、耳にふたをしているのです。

  これは〈人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも--そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと(104)--ただふざけたことでしかない! 〉という一文に付けられた原注です。
  〈正統派の議会も、安息日の冒涜が資本の「価値増殖過程」で行なわれる場合には、耳にふたをしている〉という部分はフランス語版では〈正教派である議会は、安息日の冒涜が「資本という神」の名誉と利益のために行なわれるばあい、この冒涜を気にかけない〉(江夏・上杉訳268頁)となっています。
  つまり安息日厳守のキリスト教の国でも、いざ資本の剰余価値に対する貪欲さにはたちうちできないということです。
 当時のイギリスの保守的な農村地域では、中世の残滓として、安息日に自宅にある小さな農園で労働したことが、安息日を冒したとして禁固刑に処されるところもあったということですが、しかし同じ労働者が日曜日でも工場で働くことを強要され、それを安息日だからと休んだとしたら、たちまち契約違反で罰さられるということです。つまり正教派である議会(イギリス語版では〈この古き伝統を守る議会〉とある)も、「資本という神」の前には、キリスト教の教義もへったくれもないということです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) ロンドンの魚屋や鳥屋の旦雇い人たちが日曜労働の廃止を要求しているある陳情書(1863年8月)のなかで、彼らの労働は週の初めの6日間は毎日平均15時間で、日曜は8時間から10時間だと言っています。この陳情書からは、同時に、エクセター・ホールの貴族的な偽信者たちの気むずかしい食道楽が、ことにこの「日曜労働」を激励するということも推測されます。これらの「聖者たち」は、「自分のからだをだいじにすることでは」〔“in cute curanda"〕あんなに熱心でありながら、第三者の過度労働や窮乏や空腹には忍従の精神をもって堪えるということによって、彼らのキリスト教の信仰を証明するのです。満腹は君たち(労働者)には大いに害がある、と。〔Obseqium venteis istis peniciosius est.〕

  ロンドンの魚や家禽の商店で雇われている日雇人たちが日曜労働の廃止を訴えた陳述書によれば、彼らは平日は毎日平均15時間、日曜日でも8から10時間も働かされているということです。そしてこの陳述書から分かることは、この安息日の禁を破ることを奨励しているのは、なによりもエクスター・ホール(ロンドンにある宗教団体や慈善団体の集会が催される所)の貴族的な偏狭な信者たちの気難しい食道楽だというのです。彼らは「自分たちの身体ことに気を配る」ことには熱心ですが、第三者、つまり労働者の過度労働や窮乏や空腹には忍従の精神でもって耐えることで(つまり無関心を装うことで)、自分たちのキリスト教徒としての身分を証明しているのです。美食は君たちには(つまり労働者には)有害である、と。

  新日本新書版にはいくつかの訳者注がついています。
 まず〈エクセター・ホール〉については、〈ロンドン中心部のストランド街にある宗教団体や慈善団体の集会所、現在はホテル〉(457頁)との説明があります。また全集版には注解77が付いていて〈エクセター・ホール--ロンドンにある建物で、宗教団体や慈善団体の集会所。〉(全集第23a巻末15頁)とあり、フランス語版では本文中に訳者注が挿入されていて、〈ロンドンにある宗教団体や慈善団体の集会所〉(286頁)とあります。
  次に〈「自分のからだをだいじにすることでは」〔“in cute curanda"〕〉という部分については〈ホラティウス『書簡体詩』、第1巻、詩II、第29行より〉(457頁)という説明があります。
  〈満腹は君たち(労働者)には大いに害がある。〔Obseqium venteis istis peniciosius est.〕〉という部分についても〈ホラティウス『風刺詩』、第2巻、詩Ⅶ、第1040行の言い換え。鈴木一郎訳、『世界文学体系』67、筑摩書房、190ページ参照〉(457頁)という説明があります。


◎第2パラグラフ(剰余労働を吸収しようとする資本主義的生産の本質的傾向は、労働者の寿命をまでも縮めても、生産時間を延長しようとする)

【2】〈(イ)つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるの/であるが、それだけではない。(ロ)資本主義的生は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する(105)。(ハ)それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである。〉(全集第23a巻347-348頁)

  (イ)(ロ)(ハ) つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのですが、それだけではありません。資本主義的生は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産します。それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのです。

  だから、資本主義的生産というのは本質的に剰余価値の生産であり、剰余労働の吸収ですから、それは際限のない労働者に対する搾取欲として現れます。だからそれは労働日の延長によって労働者の精神的なあるいは肉体的な発達と活動との諸条件を奪い、さらには労働力の早すぎる消耗と死滅をもたらすのです。資本主義的生産は、労働者の寿命を縮めても、ある期間の労働者の生産期間を引き延ばそうとするのです。これこそが資本主義的生産の本質的傾向であり、結果なのです。

  ここで〈それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである〉という部分は、新日本新書版では〈それは、労働者の生存期間を短縮することによって、ある与えられた諸期限内における労働者の生産時間を延長する〉(457頁)となっています。フランス語版でも〈それは、労働者の寿命を縮めることによって、ある期間内での彼の生産期間を延長する〉(269頁)となっています。つまり〈生活時間〉というのはあまり適訳ではないということです。


  ((2)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(2)

2023-10-20 19:03:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (2)



◎原注105

【原注105】〈105「われわれは、以前の報告書のなかで、時間外労働は……たしかに従業員の労働力を早期に消耗させる傾向がある、という趣旨の何人かの経験ある工場主の陳述を載せておいた。」(『児童労働調査委員会。第四次報告書。1865年』、第64号、別付13ページ。)〉 (全集第23a巻348頁)

  これは〈資本主義的生は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する(105)〉という本文に付けられた原注です。
  これは『児童労働調査委員会、第四次報告書』からの引用だけですが、これまでにも第3節では〈緩慢な人間屠殺〉とか医師の供述として〈「25年前に陶工たちのあいだで私が開業して以来、この階級の著しい退化が身長と体重との減少がしだいにひどく現われてきている。」〉という証言。あるいは〈「一つの階級として陶工は、男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。…(中略)…この地方の住民の退化(degenerescence) がもとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげであり、より健康な種族との結婚のおかげである。」〉という証言などもありました。


◎第3パラグラフ(労働力の早期の損耗は、その再生産費を高める。よって標準労働日の設定は資本の利害でもある)

【3】〈(イ)しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。(ロ)だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追求する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産にはいっそう大きい損耗費がはいることになり、それは、ちょうど、機械の損耗が速けれぽ速いほどその毎日再生産されるべき価値部分がいっそう大きくなるのと同じことである。(ハ)それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである。〉 (全集第23a巻348頁)

  (イ) しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の繁殖に必要な諸商品の価値を含んでいます。

  際限のない剰余価値の追求は資本をして労働者の寿命の短縮さえも生みだしますが、しかし本来、労働者が資本家に売った労働力の価値というのは、単に労働力を再生産するために必要な諸商品の価値だけではなくて、労働者がその階級として存続するために必要な諸商品の価値も含まれているはずのものです。

  (ロ) だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追求する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するのであれば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産にはいっそう大きい損耗費がはいることになります。それは、ちょうど、機械の損耗が速けれぽ速いほどその毎日再生産されるべき価値部分がいっそう大きくなるのと同じことです。

  ですから、もし資本の際限のない自己増殖運動が、労働日の自然法則にも反するような延長をもたらし、労働者の生存期間さえも、ということは労働力の耐久期間さえも短縮するのであれば、それだけ損耗した労働力を補充する必要性もまた生じ、そのための費用も大きくなります。それは機械の損耗が速ければ速いほど、再生産されるべき価値部分も大きくなるのと同じ理屈です。

  (ハ) それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのです。

  この部分のフランス語版は〈したがって、資本の利害そのものが、標準労働日を資本に要求しているように見える。〉(江夏・上杉訳269頁)となっています。イギリス語版では〈従って、資本自身の利益としては、通常の労働日へとその視線方向を向けるように思われる。〉となっています。

  つまり労働日に一定の制限を加えることは、資本にとっても、彼らの利害に基づいても、必要に思えるわけです。個々の資本では自己増殖欲に際限がなくなるために、彼らを共通に規制する何らかの公的な社会的な決まりとしても必要に感じるようになるということです。


◎第4パラグラフ(労働者の寿命の短縮を抑制することが資本にとっても必要であるということは、奴隷所有者と奴隷の関係とをみればよく分かる。)

【4】〈(イ)奴隷所有者が彼の労働者を買うのは、馬を買うようなものである。(ロ)彼が奴隷を失うことは資本を失うことであって、この資本は奴隷市場での新たな支出によって補填されなければならない。(ハ)しかし、
  「ジョージアの稲作地やミシシッピの沼沢地は、人体に致命的な破壊作用を加えるかもしれない。それでもなお、この人命浪費は、ヴァージニアやケンタッキーの充満した飼育場から補充できないほど大きくはない。経済上の考慮は、奴隷を人問的に取り扱うことが主人の利益を奴隷の維持と一致させるかぎりでは、そのような取り扱いの一種の保証になることもあるであろうが、奴隷貿易が始まってからは、反対に極度の奴隷虐待の原因に変わるのである。なぜならば、ひとたび外国の黒人飼育場からの供給によって奴隷が補充できるようになれば、奴隷の生命の長さは、その生命が続いているあいだのその生命の生産性よりも重要ではなくなるからである。それだか/らこそ、最も有効な経済は、できるだけ大量の働きをできるだけ短時間に人間家畜(human chattel) から搾(シボ)り出すことにあるというのが、奴隷輸入国では奴隷経済の一つの準則になっているのである。1年間の利潤がしばしば農場の総資本に匹敵する熱帯栽培においてこそ、まさに黒人の生命は最も容赦なく犠牲にされるのである。西インドの農業、この何世紀も前からのおとぎ話的な巨富の揺りかごこそは、幾百万のアフリカ人種を呑みこんだのである。今日では、その収入は幾百万と数えられ、その農場主が王侯にも似ているキューバにおいて、われわれは、奴隷階級のあいだで、粗悪きわまる食物や絶えまない極度の酷使のほかに、過度労働と睡眠や休養の不足というゆっくりと行なわれる責め苦によって一大部分が年々直接に滅ぼされてゆくのを見るのである(106)。」〉 (全集第23a巻348-349頁)

  (イ)(ロ) 奴隷所有者が彼の労働者(奴隷)を買うのは、馬を買うようなものです。彼が奴隷を早く死なせて失うことは資本を失うことであって、この資本は奴隷市場での新たな支出によって補填されなければならなりません。

  先に見ましたように、労働日を反自然的に延長して労働者の寿命を縮めて、労働力としての耐久期間を短縮させてしまうことは、むしろ反対に労働力の再生産費を高めるために、労働日に一定の制限を加えることは資本の利害の上でも必要になるのですが、それをもっとハッキリと理解するためには、奴隷所有者と奴隷との関係を考えればよいでしょう。
  奴隷所有者にとって、奴隷を買うということは、馬を買うのと同じです。馬は半ばものをいう道具ですが、奴隷はものをいう道具でしかないのです。だからもし奴隷を酷使して早く死なせてしまえば、それは馬をそうしてしまうのと同じで、彼にとっては自分の資本を失うことになります。だから奴隷所有者は、再び奴隷市場に行って、何らかの大枚をはたいて奴隷を仕入れて補充しなければなりません。それは彼にとっては一つの費用であり、負担です。、

  (ハ)しかし、「ジョージアの稲作地やミシシッピの沼沢地は、人体に致命的な破壊作用を加えるかもしれない。それでもなお、この人命浪費は、ヴァージニアやケンタッキーの充満した飼育場から補充できないほど大きくはない。経済上の考慮は、奴隷を人問的に取り扱うことが主人の利益を奴隷の維持と一致させるかぎりでは、そのような取り扱いの一種の保証になることもあるであろうが、奴隷貿易が始まってからは、反対に極度の奴隷虐待の原因に変わるのである。なぜならば、ひとたび外国の黒人飼育場からの供給によって奴隷が補充できるようになれば、奴隷の生命の長さは、その生命が続いているあいだのその生命の生産性よりも重要ではなくなるからである。それだからこそ、最も有効な経済は、できるだけ大量の働きをできるだけ短時間に人間家畜(human chattel) から搾(シボ)り出すことにあるというのが、奴隷輸入国では奴隷経済の一つの準則になっているのである。1年間の利潤がしばしば農場の総資本に匹敵する熱帯栽培においてこそ、まさに黒人の生命は最も容赦なく犠牲にされるのである。西インドの農業、この何世紀も前からのおとぎ話的な巨富の揺りかごこそは、幾百万のアフリカ人種を呑みこんだのである。今日では、その収入は幾百万と数えられ、その農場主が王侯にも似ているキューバにおいて、われわれは、奴隷階級のあいだで、粗悪きわまる食物や絶えまない極度の酷使のほかに、過度労働と睡眠や休養の不足というゆっくりと行なわれる責め苦によって一大部分が年々直接に滅ぼされてゆくのを見るのである。」

  この部分はほぼケアンズの『奴隷力』からの引用だけですので、引用部分はそのまま紹介しておきました。
  ケアンズの一文は、ジョージアの稲作地やミシシッピの沼沢地は、人体を破壊するほど苛酷な環境で、それだけ奴隷を浪費することになりますが、しかしその浪費は、ヴァージニアやケンタッキーから奴隷を補充することが間に合わないほどではないということ。経済上の考慮によって、奴隷を人間的に取り扱い維持することが奴隷主の利害と一致する限りで、奴隷はそのような取り扱いを受ける一種の保証になりえたということです。
  しかし奴隷貿易が始まると、奴隷の補充が一層容易になり、それは奴隷の極度の虐待の原因になったというのです。外国から奴隷がいくらでも供給されるようになると、奴隷の生命の長さは、奴隷所有者にとってはそれほど重要な経済的ファクターではなくなるといういうことです。だからもっとも経済的なのは、とにかく奴隷を使い捨てにして、絞り出せるだけ絞り出すことであり、だから黒人の命は容赦なく犠牲にされたということです。
  そのおかげで、奴隷所有者たちは幾百万も富を築き、キューバでは農場主たちは王侯のような生活を送る一方で、奴隷たちは粗悪な食物や絶え間ない酷使、過度労働と睡眠や休息の不足という劣悪な労働環境のなかで、年々黒人の一大部分が直接に滅ぼされつつあるのだということです。
 ケアンズについては『資本論辞典』からその概要を紹介しておきましょう。

 ケアンズ John Elliot Cairnes(1828-1875) アイルランドの経済学者.……1862年に著書《The Slave Power》を出版.これによって彼の名声は確立された.この著書はアメリカの南北戦争(1861-65)における北部諸州の奴隷廃止の主張を擁護したもので,イギリスおよびアメリカに大きな影響を与えた.……彼はみずからJ.S.ミルの祖述者をもって任じ,ミルやフォーセットと親交を重ね,リカードいらいの古典派経済学を擁護したので,学説史家は彼を新古典派と名づけている.
  マルクスは,もっぱらケアンズの《奴隷力》を傍証のために引用している.‘資本は労働力の寿命を問題にしない'.それが関心をもつのは. ただもっぱら一労働日のうちに流動化されうる労働力の最大限だけである.資本は労働力の寿命を短縮させることによってこの目的を達するのであって……(KⅠ-276;青木2-459;岩波2-221). その極端なばあいが奴隷力である.奴隷貿易が行なわれるようになって,‘奴隷がひとたび外国の黒人保育揚からの供給によって補充されうるようになるやいなや,奴隷の寿命は,その命がもつあいだの奴隷の生産性にくらべれば,重要性が少なくなる(ケアンズ《奴総力》,110.111)' (K1-277:青木2-460;岩波2-223).ところが,奴隷貿易の代わりに労働市場をおきかえてみると,ひとごとではない. このようにマルクスは,ケアンズの文章を利用する.また直接的生産者としての労働者と生産手段の所有者との対立にもとづくすべての生産様式では, <監督労働>が必然的に生ずるが.この対立が大きければ大きいほど,監督労働の演ずる役割は大きく,したがってそれは奴隷制度において最高限に達す(KⅢ-419:青木10-545:岩波10-84-85). この点をケアンズの《奴隷力》からの引用によって根拠づけている.(村上保男)〉 (486-487頁)


◎原注106

【原注106】〈106 ケアンズ『奴隷力』、110、111ページ。〉 (全集第23a巻349頁)

  これは第4パラグラフで引用されているケアンズの一文の最後に付けられた原注ですが、その典拠を示すものです。


◎第5パラグラフ(名まえが違うだけで、ひとごとではない)

【5】〈(イ)名まえが違うだけで、ひとごとではないのだ!〔Mutato nomine de te fabla narratur!〔78〕〕(ロ)奴隷貿易を労働市場と書き換え、ケンタッキーやヴァージニアをアイルランドと、またイングランドやスコットランドやウェールズの農業地方と書き換え、アフリカをドイツと書き換えて読んでみよ! (ハ)われわれは、どんなに過度労働がロンドンの製パン工をかたづけてしまうかを聞いたが、それでもなお、ロンドンの労働市場はドイツ人やその他の命がけの製バン業志願者であふれているのである。(ニ)製陶業は、われわれが見たように、従業者が最も短命な産業部門の一つである。(ホ)だからといって製陶工は不足しているだろうか?  (ヘ)ジョサイア・ウェッジウッド、近代的な製陶法の発明者で彼自身普通の労働者の出である彼が、1785年に下院で言明したところでは、この工業全体では15,000から20,000の人員を使用していた(107)。(ト)1861年には、大ブリテンにおけるこの産業の都市的所在地だけの人口が10,132だった。
(チ)「綿業は90のよわいを数える。……イギリス人の3世代のあいだに、それは綿業労働者の9世代を食いつくした。(108)」/
(リ)もちろん、いくたびかの熱病的な好況期には労働市場がかなりの欠乏を示したこともあった。(ヌ)たとえば、1834年がそうだった。(ル)だが、そのとき、工場主諸君は、農業地方の「過剰人口」を北部に送り出すことを救貧法委員に提案し、「工場主たちはそれを吸収し消費するであろう(109)」という説明をそれにつけた。(ヲ)これが彼らの本音だったのである。
(ワ)「救貧法委員の同意によってマンチェスターに周旋人が置かれた。農業労働者名簿が作成されて、これらの周旋人に送達された。工場主たちは事務所に駆けつけた。そして、彼らが自分たちの気にいった者を選び出してから、選ばれた家族がイングランドの南部から送り出された。これらの人間小荷物は、それだけの数の貨物の包みと同じように荷札つきで、運河や荷馬車で送られた、--ある者はあとから徒歩でついて行き、また、道に迷い半ば飢えて、工業地帯をうろつく者が多かった。これが発展して、一つのほんとうの取引部門になった。下院はこれをほとんど信じないであろう。この規則的な取引、この人肉商売は引き続き行なわれて、これらの人々は、黒人が南部諸州の綿花栽培業者に売られるのとまったく同じように規則的に、マンチェスターの周旋人からマンチェスターの工場主へと売買された。……1860年は綿業の頂点を示している。……再び人手が足りなくなった。工場主たちはまたもや人肉周旋人の助けを求めた。そして、周旋人たちはドーセットの砂丘、デヴンの丘陵、ウィルッの平野をくまなく捜しまわったが、過剰人口はもはや食いつくされていた。」
  (カ)『ベリー・ガーディアン』紙は、英仏通商条約の締結後には1万の追加職工が吸収されるかもしれないし、やがてはそのうえに3万か4万が必要になるだろうに、と嘆いた。(ヨ)人肉取引の周旋人や下請け人が1860年に農業地方をほとんど成果なしにあさりまわったのちに、
(タ)「ある工場主代表は、救貧局長官ヴィラズ氏に、救貧院から貧児や孤児を供給することを再び許可するように請願した(110)。」〉 (全集第23a巻349-350頁)

  (イ)(ロ) 名まえが違うだけで、ひとごとではないのだ!〔Mutato nomine de te fabla narratur!〕奴隷貿易を労働市場と書き換え、ケンタッキーやヴァージニアをアイルランドと、またイングランドやスコットランドやウェールズの農業地方と書き換え、アフリカをドイツと書き換えて読んでみよ! 

  全集版には〈名まえが違うだけで、ひとごとではないのだ!〔Mutato nomine de te fabla narratur!〔78〕〕〉という部分には、注解78が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈(78) 名まえが違うだけで、ひとごとではないのだ!(Mutato nomine de te fabla narratur!)--ホラティウスの『風刺詩』、第1巻、風刺1のなかの言葉。〉 (全集第23a巻15頁)

 また新日本新書版でも次のような訳者注が付いています。

  〈ホラティウス『風刺詩』、第1巻、第69行、鈴木一郎訳、前出、142ページ。〉 (463頁)

  先に引用されたケアンズの『奴隷力』で言われていることは、単にアメリカ諸州の奴隷だけの問題ではない、まさに現在のイギリスの労働者の置かれている現実なのだぞ、とマルクスは言いたいわけです。第4パラグラフの付属資料として草稿集⑨から同じ『奴隷力』からの引用文を紹介していますが、そこではマルクス自身が次のように引用文のなかに括弧に入れて挿入しています。

  〈「ジョージアの稲作地とかミシシッピの沼沢地は人体を致命的なまでに痛めつけるかもしれない。しかし、これらの地方の耕作につきまとう深刻な人命の浪費も、ヴァージニアやケンタッキーの豊富な飼育場から補充のきかないほどひどいものではない。(過剰人口がまだ使いつぶされたり、つぼみのうちに枯らされたりしていなかったころのアイルランドや、イングランドの農業地方と読め。)〉 (草稿集⑨324頁)

  ただ『資本論』ではさらに〈アフリカをドイツと書き換えて読んでみよ!〉という一文が追加されています。ということはアフリカからのアメリカ諸州への黒人の輸入と同じように、ドイツからイギリスへ安価な労働力の輸入がいくらでも行われているのだということのようです。

 (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ) 私たちは、どんなに過度労働がロンドンの製パン工をかたづけてしまうかを聞きましたが、それでもなお、ロンドンの労働市場はドイツ人やその他の命がけの製バン業志願者であふれているのです。製陶業は、私たちが見ましたように、従業者が最も短命な産業部門の一つです。だからといって製陶工は不足しているでしょうか?  近代的な製陶法の発明者であるジョサイア・ウェッジウッド(彼自身普通の労働者の出でありますが)が、1785年に下院で言明したところでは、この工業全体では15,000から20,000の人員を使用していたということです。ところが1861年には、大ブリテンにおけるこの産業の所在地の人口だけで10万1,302人だったのです。同じように「綿業は90のよわいを数える。……イギリス人の3世代のあいだに、それは綿業労働者の9世代を食いっくした。」とも言われています。

  奴隷貿易で奴隷の補充がいくらでも可能になると、奴隷の生命は容赦なく犠牲にされるようになりましたが、同じことはドイツから労働力の輸入が行われているイギリスの労働者についても言いうるということです。私たちは第3節でロンドンの製パン工場で働く労働者がその苛酷な労働で寿命を縮めている現実を知りましたが、しかし製パン工を希望する命懸けの労働者はドイツやその他から労働市場にあふれており、いくらでも補充は可能なのが現実です。
  製陶業でも労働者はもっとも短命な産業部門ですが、しかし製陶工は不足しているどころか、あふれています。1785年に近代的な製陶法を発明したジョサイア・ウェッジウッドが議会で証言したところでは、この工業全体で1万5千から2万人の労働者が存在していたのですが、1861年にはその関連産業に働く労働者人口は10万1302人と5倍以上ほどに膨れ上がっています。綿業でも発足して90年を数えますが、そのあいだ、つまりイギリス人の3世代のあいだに、綿業労働者の9世代を食いつくしたといいます。それだけ労働者は酷使され使い捨てにされているということです。だからアメリカ諸州の奴隷に起こったことは人ごとではないわけです。
  全集版では〈大ブリテンにおけるこの産業の都市的所在地だけの人口が10,132だった。〉となっていますが、新日本新書版でも初版でもフランス語版でも〈10万1302人〉になっていますので訂正しておきました。

   (リ)(ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、いくたびかの熱病的な好況期には労働市場がかなりの欠乏を示したこともありました。たとえば、1834年がそうでした。しかし、そのとき、工場主諸君は、農業地方の「過剰人口」を北部に送り出すことを救貧法委員に提案し、「工場主たちはそれを吸収し消費するであろう」という説明をそれにつけたのです。これが彼らの本音だったのです。

  もちろん、熱病的な好景気のときには、労働市場が逼迫する時が無かったわけではありません。たとえば、1834年がそうです。しかしそのときでも、工場主たちは、農村地方の「過剰人口」を北部に送り出すことを救貧法委員に提案して「われわれはこの過剰人口を吸収し消費することを引き受ける」と言明したのです。要するに、例え人手が不足してもいくらでも補充するための措置はあるということです。それが彼らの本音なのです。

   (ワ) 「救貧法委員の同意によってマンチェスターに周旋人が置かれた。農業労働者名簿が作成されて、これらの周旋人に送達された。工場主たちは事務所に駆けつけた。そして、彼らが自分たちの気にいった者を選び出してから、選ばれた家族がイングランドの南部から送り出された。これらの人間小荷物は、それだけの数の貨物の包みと同じように荷札つきで、運河や荷馬車で送られた、--ある者はあとから徒歩でついて行き、また、道に迷い半ば飢えて、工業地帯をうろつく者が多かった。これが発展して、一つのほんとうの取引部門になった。下院はこれをほとんど信じないであろう。この規則的な取引、この人肉商売は引き続き行なわれて、これらの人々は、黒人が南部諸州の綿花栽培業者に売られるのとまったく同じように規則的に、マンチェスターの周旋人からマンチェスターの工場主へと売買された。……1860年は綿業の頂点を示している。……再び人手が足りなくなった。工場主たちはまたもや人肉周旋人の助けを求めた。そして、周旋人たちはドーセットの砂丘、デヴンの丘陵、ウィルッの平野をくまなく捜しまわったが、過剰人口はもはや食いつくされていた。」

  これは原注108によりますと〈1863年4月27日の「下院」におけるフェランドの演説〉から録られているようです。引用だけですので、そのまま紹介しました。フェランドというのは人名索引によりますと、〈イギリスの地主、国会議員、トーリ党員〉(全集第23b巻80頁)ということです。

  救貧法委員の同意のもとに、マンチェスターに周旋人が置かれて、農業地方の名簿が作成され、労働者家族がまるで荷物のように運河や荷馬車で運ばれたということです。あるものは徒歩で行って道に迷い半ば飢えて工場地帯をさまようものもあったということです。そしてこの取引は一つの部門になり、その後も続いたということです。人肉売買とフェランドは述べていますが、奴隷貿易と同じように、規則的な労働者の補充が行われたということです。1860年も人手が足らなくて、周旋人たちは農業地方をくまなく探し回ったが、もう過剰人口は汲み尽くされてしまっていたというほどです。 

  (カ) 『ベリー・ガーディアン』紙は、英仏通商条約の締結後には1万の追加職工が吸収されるかもしれないし、やがてはそのうえに3万か4万が必要になるだろうに、と嘆いたということです。

  新日本新書版では〈英仏通商条約の締結後〉の部分に次のような訳者注が付いています。

  〈1860年1月、両国の関税引き下げを取り決めた協定。とくに、フランスへの輸出工業品の関税の撤廃または引き下げが行われ、イギリスの自由貿易の勝利とみなされた〉 (463頁)

  要するに1860年に綿工業が絶頂をなしてふたたび人手不足が生じても、もやは周旋人たちがイギリスの農業地方を探し回っても過剰人口はすでに汲み尽くされてしまっていたというのに、1861年の英仏通商条約の締結で、フランスへの工業製品の輸出の関税がとっぱらわれ、工業の一層の加熱が生じて追加的職工の必要が生じるのに、すでに過剰人口は存在しないと嘆いたということです。

  (ヨ)(タ) 人肉取引の周旋人や下請け人が1860年に農業地方をほとんど成果なしにあさりまわったのちに、「ある工場主代表は、救貧局長官ヴィラズ氏に、救貧院から貧児や孤児を供給することを再び許可するように請願した。」

  後半の引用部分は、フェランドの演説からの引用のようですが、とにかく人手不足を補うために、工場主たちは、救貧局長官に、救貧院から貧児や孤児を供給することを許可せよと請願したということです。


◎原注107

【原注107】〈107 ジョン・ウォード『ストーク・アポン・トレント市の歴史』、ロンドン、1843年、42ページ。〉 (全集第23a巻351頁)

  これは〈ジョサイア・ウェッジウッド、近代的な製陶法の発明者で彼自身普通の労働者の出である彼が、1785年に下院で言明したところでは、この工業全体では15,000から20,000の人員を使用していた(107)。〉という本文に付けられた原注です。
  新書版では〈『……ストウク・アポン・トレント市の歴史、ロンドン、1843年、42ページ。〉(461頁)と「……」が付いていますが、この著書の正式な名前は文献目録によりますと〈『もっとも慈悲深いヴィクトリア女王治世の初期におけるストーク・アポン・トレント市』〉というもののようです。
  要するに、ジョサイア・ウェッジウッドの下院での証言の内容は、このジョン・ウォードの著書に基づいたものだということでしょう。


◎原注108

【原注108】〈108 1863年4月27日の「下院」におけるフェランドの演説。〉 (全集第23a巻351頁)

  これは〈「綿業は90のよわいを数える。……イギリス人の3世代のあいだに、それは綿業労働者の9世代を食いっくした。(108)」〉という引用文につけらた原注です。すでに紹介しましたが、フェランドの演説から引用したということです。
  新日本新書版には〈フェランド〉に次のような訳者注が付いています。

  〈救貧法に反対し、工場法を支持した下院議員(1809-1898年)〉 (463頁)


◎原注109

【原注109】〈109 “That the manufacturers would absorb it and use it up.Those were the very words used by the cotton manufacturers"〕(同前。)〉 (全集第23a巻351頁)

  これは〈もちろん、いくたびかの熱病的な好況期には労働市場がかなりの欠乏を示したこともあった。たとえば、1834年がそうだった。だが、そのとき、工場主諸君は、農業地方の「過剰人口」を北部に送り出すことを救貧法委員に提案し、「工場主たちはそれを吸収し消費するであろう(109)」という説明をそれにつけた。〉という一文の引用部分につけられた原注です。英文になっていますが、新日本新書版では〈「工場主たちはこれを吸収し消費しつくすであろうということ。綿工場主たちはまさにこう言ったのである」(同前)。〉(461頁)となっています。フランス語版は〈(76) That the manufacturers would absorb it and use it up.これが綿業者の使ったとおりの言葉であった(同前)。〉(江夏・上杉訳271頁)となっています。これもフェランドの演説からのようです。


◎原注110

【原注110】〈110 同前。(イ)ヴィラズは、どんなに好意をもっていたにしても、「法律上」は工場主の懇請を拒絶しなければならない立場にあった。(ロ)しかし、工場主諸氏は地方の救貧当局の親切によってその目的を達した。(ハ)工場監督官A・レッドグレーヴ氏が確言しているところでは、孤児や貧児を「法律上」apprentices(徒弟)と認める制度は、このたびは「往年の弊害」--(この「弊害」についてはフリードリヒ・エンゲルス『労働者階級の状態』〔本全集、第2巻〕参照)--「をともなわなかった」、といっても、たしかに、ある場合には「スコットランドの農業地帯からランカシャやチェシャにつれてこられた少女や若い婦人に関してはこの制度の乱用がなされた」こともあったのではあるが。(ニ)この「制度」では、工場主は一定の期間にわたって救貧院当局と一つの契約を結ぶ。(ホ)彼は子供たちに衣食住を給し、わずかな手当を貨幣で与える。(ヘ)レッドグレーヴ氏の次のような言葉は奇妙に聞こえるが、次のような事情を考えてみると、ことにそうである。(ト)すなわち、イギリス綿業の繁栄の年のうちでも1860年は比類のない年であるが、そのうえに、労賃が高かったのは、異常な労働需要がアイルランドの人口減少にぶつかり、イングランドとスコットランドとの両方の農業地帯からオーストラリアやアメリカへの前例のない移住にぶつかり、イングランドのいくつかの農業地帯での人口の積極的な減少にぶつかったからである。(チ)そして、この最後の人口減少は、一部は、首尾よく達成された生命力の破壊の結果であり、また一部は、利用可能な人口がそれ以前に人肉商人の手で汲みつくされていたことの結果だった。(リ)それにもかかわらず、レッドグレーヴ氏は次のように言うのである。(ヌ)「とはいえ、この種の労働」(救貧院児童の)「は、ほかの労働が見いだされえない場合にだけ求められるものである。なぜならば、それは高価な労働(high-priced labour)だからである。13歳の少年1人の普通の労賃は1週4シリングくらいである。しかし、50人か100人のこのような少年に衣食住を給し、医療補助や適当な監督をつけ、そのうえに貨幣で多少の手当を与えるということは、1週1人当たり4シリングでは実行できないことである。」(『工場監督官報告書。1860年4月30日』、27ページ。) (ル)レッドグレーヴ氏が言い忘れているのは、いっしょに泊められ食わされ監督される50人とか100人とかの少年に工場主がしてや/れないというのに、どうして労働者自身が自分の少年たちに彼らの4シリングの労賃でこれらのことを全部してやることができるのか、ということである。(ヲ)本文からまちがった結論が引き出されるのを防ぐために、ここでもう一つ言っておかなければならないのは、イギリスの綿工業は、労働時間の規制などを含む1850年の工場法が適用されるようになってからは、イギリスの模範産業とみなされなければならない、ということである。(ワ)イギリスの綿工業労働者は、大陸にいる同じ運命の仲間よりも、どの点から見ても上に立っている。(カ)「プロイセンの工場労働者は、彼のイギリスの競争相手よりも1週当たり少なくとも10時間はより多く労働する。そして、彼が自分の織機で自宅で働かされる場合には、彼の追加労働時間のこの限界さえもなくなる。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、103ページ。)(ヨ)前記の工場監督官レッドグレーヴは、1851年の産業博覧会のあとで、大陸、ことにフランスとプロイセンとを旅行して、その地の工場事情を調査した。(タ)彼はプロイセンの工場労働者について次のように言っている。(レ)「彼は、自分がそれに慣れそれで満足している簡素な食物とわずかな慰安とを手に入れるのに足りる賃金を受け取る。……彼は、彼のイギリスの競争相手よりも苦しく生活して激しく労働する。」(『工場監督官報告書。1853年10月31日』、85ぺージ。)〉 (全集第23a巻351-352頁)

  (イ)(ロ) ヴィラズは、どんなに好意をもっていたにしましても、「法律上」は工場主の懇請を拒絶しなければならない立場にあったのです。ところが、工場主諸氏は地方の救貧当局の親切によってその目的を達したのです。

  これは〈人肉取引の周旋人や下請け人が1860年に農業地方をほとんど成果なしにあさりまわったのちに、「ある工場主代表は、救貧局長官ヴィラズ氏に、救貧院から貧児や孤児を供給することを再び許可するように請願した(110)。」〉という本文につけられた原注ですが、大変長いものになっていますので、文節に区切って見てゆくことにしましょう。

  農業地方をくまなくあさりまくっても過剰人口は見あたらなかった工場主諸君は、今度は救貧院から貧児や孤児を労働力として狩り出そうと、救貧院長官にかけあったわけです。本来は救貧院長官であるヴィラズは、断るべきだったのですが、結局、地方の救貧院の協力で工場主たちはその目的を達成したということです。

(ハ) 工場監督官A・レッドグレーヴ氏が確言しているところでは、孤児や貧児を「法律上」apprentices(徒弟)と認める制度は、このたびは「往年の弊害」--(この「弊害」についてはフリードリヒ・エンゲルス『労働者階級の状態』〔本全集、第2巻〕参照)--「をともなわなかった」、といっても、たしかに、ある場合には「スコットランドの農業地帯からランカシャやチェシャにつれてこられた少女や若い婦人に関してはこの制度の乱用がなされた」こともあったのではあるが、と。

  工場監督官のA・レッドグレーヴが言明しているところでは、1598年の救貧法で孤児や貧児を「法律上」徒弟として認めた制度は、このたび、つまり1860年においては、「往年の弊害をともなわなかった」、しかしある場合には「スコットランドの農業地帯からランカシャやチェシャに連れてこられた少女や若い婦人に関してはこの制度の乱用が見られたということです。
  新日本新書版では〈「法律上」徒弟とみなす制度〉に次のような訳者注が付いています。

  〈1598年の救貧法は、孤児の救済と貧児のための徒弟制度を規定していた〉 (463頁)

  1598年の救貧法が規定していた孤児と貧児のための徒弟制度の弊害については〈--(この「弊害」についてはフリードリヒ・エンゲルス『労働者階級の状態』〔本全集、第2巻〕参照)--〉とあります。全集の巻数だけ示されているだけで、頁数が書かれていません。だからハッキリとしませんが、見かけたものを一つだけ紹介しておきましょう。

 スタッフォードシァの鉄工業地方では、もっと事態はわるいように見える。ここでつくられる粗鉄製品の場合には、多くの分業(ある例外をのぞき)も、蒸気力も、機械も応用することができない。したがって、ここには--ウルヴァハンプトン、ウィルンホール、ピルストン、セッジリ、ウェンズフィールド、ダーラストン、ダッドリ、ウォールソール、ウェンズベリ等には--工場は比較的少ないが、それだけに小さな鍛冶(カジ)屋がいっそうたくさんある。これらの鍛冶屋では、小親方が、自分のところで21歳になるまで奉公している1人または数人の徒弟といっしょに、独立してべつべつに仕事をしている。小親方は、バーミンガムの親方とだいたい同じような状態にあるが、徒弟のほうは、たいていはるかにわるい状態にある。彼らのありつく食物といえば、たいてい病気になったり、たおれて死んだ動物の肉か、くさった肉や、くさった魚くらいなものにすぎず、同様に早産の子牛とか、鉄道で輸送中に窒息死した豚である。そして、こんなことを小親方だけがやるのではなく、30人ないし40人の徒弟をもっているかなり大きな工易主もやるのである。こんなことは、ウルヴァハンプトンでは、実際一般におこなわれているようにみえる。このことから自然におこる結果は、下腹疾患や、そのほかの病気にしょっちゅうかかることである。おまけに、子供たちはたいてい腹いっぱいの食物にありつけず、作業衣以外の衣服はめったに持っていない。そこで彼らは、その理由だけからでも日曜学校にはいかない。住宅はわるく、不潔で、しばしばそのために病気が発生するほどはなはだしいこともある。そして、このために子供たちは、もともとだいたい健康な仕事であるにもかかわらず、小さくて、発育不良で、虚弱であり、また多くの場合ひどい不具となる。たとえば、ウィレンホールには、ねじ万力でいつもやすりをかけているために、猫背になったり、一方の脚--彼らのいう後脚(hind-leg)--が曲がってしまい、そのためにK字形した脚の人たちがかぞえきれないほどいる。おまけに、この町の労働者のすくなくとも3分の1は脱腸になっているといわれる。ここでも、ウルヴァハンプトンでも、少女も--少女もまた鍛冶屋で働くのだ!--少年も、19歳になるまで思春期の遅れる例が無数にあった。ほとんど釘だけしかつくっていないセッジリおよびその付近では、人々は、不潔な点では豚小屋にも類するようなみじめな小屋に住み、そして働いている。少女や少年たちは、10歳か12歳からハンマーをふることになるが、彼らが毎日1000本の釘をつくるようになると、そのときはじめて一人前の労働者とみなされるのである。賃金は、1200本の釘にたいして5ペンス4分の3、つまり5ジルバーグロッシェンたらずである。どの釘も12回ずつハンマーでうたれる。そして、ハンマーの重さは1ポンド4分の1あるので、労働者は、このあわれな賃金をかせぎだすまでに、1万8000ポンドももちあげなければならない。このような重労働と栄養不足のために、子供たちは、発育不良の、小さい、虚弱な身体になるほかないし、またこのことは、委員たちの言明によっても実証されている。この地方の教育状態についても、すでに資料はあたえられている。教育は、この地区ではほんとうに信じられないほど低い。全部の子供の半数は日曜学校にさえいこうとしないし、またあとの半数も、きわめて不規則にしか日曜学校に通わない。ほかの地方にくらべて、字の読めるものが非常に少なく、字を書くこととなると、なおいっそうひどい状態にある。それも当然のことである。それというのも、子供たちは7歳から10歳のあいだに仕事につかされるのであるが、ちようどこの年ごろこそ、子供たちの能力がまさに学校にいってためになる程度に発達する時期だからであり、また日曜学校の教師たち--鍛冶屋か鉱夫--は、字もろくに読めず、自分の名まえさえ書けないことがよくあるからである。道徳状態というものは、こうした教育方法と一致するものである。ウィルンホールでは、と委員ホーンは主張している--そして、そのための例証を豊富に提供している--労働者のあいだには、道徳的感情といったものはまったく存在しない、と。とにかく彼は、子供たちが自分の両親にたいする義務を知りもしないし、まして両親にたいして愛着など感じていないことがわかった。子供たちは、自分のいっていることをよく考えてみるだけの力さえろくになく、あまりにも鈍感で、動物のように無知だったので、12時間ないし14時間も働かねばならず、ぼろを着てあるき、満腹するだけの食物をあてがわれず、数日たってもまだいたむほどなぐられても、それでも「私はよい待遇をうけているし、申し分ない生活をしています」、としばしば主張した。子供たちは、朝から晩まで、やめる許しがでるまで、さんざん苦労する生活のほかには、生活のしかたというものをまるで知らなかったし、また「つかれてはいないか」、という質問は、彼らには聞いたこともない質問で、その意味さえわからなかった(ホーン、報告および証言)。……」(エンゲルスの叙述はまだまだ続きますが、これぐらいにしておきます。あとは各自読んでください。) (全集第2巻435-437頁)

  (ニ)(ホ) この「制度」では、工場主は一定の期間にわたって救貧院当局と一つの契約を結びます。工場主は子供たちに衣食住を給与し、わずかな手当を貨幣で与えます。

  この新しい救貧法では、工場主と救貧院当局とが契約を結び、工場主は子供たちに衣食住を与え、わずかな手当てを貨幣で与えることになっていたということです。

  (ヘ)(ト)(チ) レッドグレーヴ氏の次のような言葉は奇妙に聞こえるが、次のような事情を考えてみると、ことにそうです。すなわち、イギリス綿業の繁栄の年のうちでも1860年は比類のない年ですが、そのうえに、労賃が高かったのは、異常な労働需要がアイルランドの人口減少にぶつかり、イングランドとスコットランドとの両方の農業地帯からオーストラリアやアメリカへの前例のない移住にぶつかり、イングランドのいくつかの農業地帯での人口の積極的な減少にぶつかったからです。そして、この最後の人口減少は、一部は、首尾よく達成された生命力の破壊の結果であり、また一部は、利用可能な人口がそれ以前に人肉商人の手で汲みつくされていたことの結果だったのです。

  この部分はややや錯綜していますので、フランス語版を見てみることにしましょう。次のようになっています。

  〈後で引用するレッドグレーヴ氏の言葉は、イギリスの綿業の繁栄期のなかでも1860年がとりわけ目立っていることや、異/常な労働需要があらゆる種類の困難に出くわしたためにその当時賃金が非常に高かったことを考慮すれば、かなり奇妙に思われる。アイルランドは人口が減少していたし、イングランドとスコットランドの農業地方は、オーストラリアやアメリカへの前例のない移住の結果空になっていた。イングランドの幾つかの農業地方では人口の絶対的な減少が支配していたが、その原因は、一部分は思いどおりにかなえられた生殖力の制限であり、一部分は人肉商人によってすでに実行されていた自由に使用できる人口の汲みつくしであった。〉 (江夏・上杉訳271-272頁)

  ここではこのあとに引用されるレッドグレーヴの言葉は、一層、奇妙に思われる理由が書かれています。①イギリスの綿業の繁栄期のなかでも1860年はとりわけて目立っていること、②アイルランドでは人口が減少していたし、イングランドとスコットランドの農業地方では、オーストラリアやアメリカへの前例のない移住が生じて空になっていたこと、③イングランドのいくつかの農業地方では人口の絶対的な減少が生じていたこと(その原因は、首尾よく達成された生命力の破壊のためであり、また一部分は、すでに人肉商人の手で汲み尽くされてしまったためです)。要するに労働需要に対してすでに労働力が枯渇してしまっているために、労賃があがらざるをえないという事情のようです。

  (リ)(ヌ) それにもかかわらず、レッドグレーヴ氏は次のように言うのです。「とはいえ、この種の労働」(救貧院児童の)「は、ほかの労働が見いだされえない場合にだけ求められるものである。なぜならば、それは高価な労働(high-priced labour)だからである。13歳の少年1人の普通の労賃は1週4シリングくらいである。しかし、50人か100人のこのような少年に衣食住を給し、医療補助や適当な監督をつけ、そのうえに貨幣で多少の手当を与えるということは、1週1人当たり4シリングでは実行できないことである。」(『工場監督官報告書。1860年4月30日』、27ページ。)

  〈それにもかかわらず、レッドグレーヴ氏は次のように言うのである。〉という部分はフランス語版では〈こういったいっさいのことにおかまいなく、レッドグレーヴ氏はこう言う。〉(江夏・上杉訳272頁)となっています。

   しかし上記のような理由から労働需要の逼迫が生じてることにはいっさいおかまいなしに、レッドグレーヴは、救貧院の児童が求められるのは、ほかの労働者が見いだされない場合だけ求められるというのですが、その理由としてこの救貧院の児童たちは高価な労働だからだというのです。というのは13歳の少年の賃金は普通は週4シリングですが、しかし50人から100人の児童に衣食住を与え、医療補助や適当な監督をつけ、貨幣で多少の手当てを与えることは、週1人4シリングでは実行できないからだというのです。確かに労賃は挙がっているでしょうが、救貧院の児童を労働力として必要としたのは、労働力がそれ以上にはないからであって、それらが高価な労働だから、最後に求められたのだ、というレッドグレーヴの主張はかなり奇妙なものに思えるというわけです。

  (ル) レッドグレーヴ氏が言い忘れていることは、いっしょに泊められ食わされ監督される50人とか100人とかの少年に工場主がしてやれないというのに、どうして労働者自身が自分の少年たちに彼らの4シリングの労賃でこれらのことを全部してやることができるのか、ということです。

  レッドグレーヴは救貧院の児童が「高価な労働」である理由を挙げていますが、しかし彼が忘れていることは、もし週1人4シリングで工場主ができないようなことを、どうして労働者自身が自分たちの少年たちに彼らの4シリングの労賃でできるのか、ということだということです。
  つまりレッドグレーヴは救貧院の児童を使うと、13歳の少年を週4シリングで使うより多くの費用を資本が負担しなけばならないかに言っていますが、ということは13歳の少年の週4シリングというのは、少年の労働力の価値にも達していないということでしかないですし、それとも救貧院の児童を使う場合の負担はもっと少ないからこそ、資本はその利用を求めたのではないのかということです。

  (ヲ)(ワ)(カ) 本文からまちがった結論が引き出されるのを防ぐために、ここでもう一つ言っておかなければならないのは、イギリスの綿工業は、労働時間の規制などを含む1850年の工場法が適用されるようになってからは、イギリスの模範産業とみなされなければならない、ということです。イギリスの綿工業労働者は、大陸にいる同じ運命の仲間よりも、どの点から見ても上に立っています。「プロイセンの工場労働者は、彼のイギリスの競争相手よりも1週当たり少なくとも10時間はより多く労働する。そして、彼が自分の織機で自宅で働かされる場合には、彼の追加労働時間のこの限界さえもなくなる。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、103ページ。)

  ここで〈本文から〉というのは、これは原注ですが、その原注がつけられた本文ということでしょう。しかしこの原注が付けられた本文(第5パラグラフ)だけではなくて、その前のパラグラフからも含めた本文ということではないかと思います。つまりイギリスの労働者の置かれた状態は、アメリカの南部諸州における奴隷と同じだ、だから人ごとではないのだ、と述べて来たわけです。ドイツなどから命懸けの労働力が輸入されることによって、イギリスの労働者は一層酷使され短命になっていること。好景気のときでも農業地方からの労働力の移入や最終的には救貧院の孤児や貧児まで狩りだされて、労働力の不足を補おうとしてきたわけです。その結果、イギリスの労働者はアメリカ南部諸州の奴隷のようにその命を使い捨てにされるほどなっているという結論を引きだすと間違ったものになるという趣旨ではないかと思います。
  というのは、1850年の工場法の適用以降、イギリスの綿工業は模範産業とみなされ、綿工業の労働者は、大陸諸国の同じ労働者よりも、どの点からみても上に立っているからです。プロイセンではイギリスの労働者より週10時間は多く労働すること、自宅で請負仕事をする場合はその限界さえなくなること等々です。

  イギリス語版ではこの部分に訳者の「余談」が次のように書かれています。参考のだめに紹介しておきましょう。

  〈訳者余談を挟む。テキストに、間違った結論に至るのを防ぐために、と書かれた部分を読んで、正しい結論に達したかどうかである。テキストは読めても、その裏までは読めないレベルでは、手が出ないかもしれないが、問題は、契約により、救貧院施設からランカシャーの工場へと連れて来られた見習い工が、いかなる処遇を受けたかということであって、正しい結論は、契約とは違った真っ赤な嘘というべき状況に投げ込まれたということである。工場法下にあり、大陸の労働者とくらべれば、雲泥の差もあるべき英国の工場で、長時間労働を強いられるはずもないところで、どのようなことが起こったかを正しく把握できたかどうかである。当時からは150年以上の歴史的経過があり、我々は多くのことを学んでいるのだから、ここで間違うはずもないだろう。名ばかり管理職で、残業代を奪われ、偽装請負で、労災保険が受けられず、安全も脅かされた。今度は、派遣法が改正されて、法律上は派遣労働が廃止となるのに、実際は無くならないことを知らない者はいない。契約があっても、名目であって、はなからそれを守る資本家はいないし、工場査察官もその報告書が後世で奇妙と指摘される程度までしか迫るものではない。工場査察官のうしろには、議会が張りついており、議会・政府は資本家の御用人そのものだからである。テキストには、正解が書かれてはいないが、何年か労働者をやっていれば、分かるはずである。本を読む難しさもこんなところにある。余談中の余談で申し訳ないが、この部分の訳には苦労した。向坂本では、本筋が見えてこず、参考にならなかった。何故かと我ながら考えてみたが、問題と正解という図式が見えていなかったからであろうかと判じた。資本家は、問題すら見出さないであろう。救貧院の孤児に報酬を与えたという話にしか読めないかもしれない。労働者に生活費を提供する資本家という図式は、今でもたびたび登場するのだから。〉(インターネットから)

  この訳者によれば、マルクスが〈本文からまちがった結論が引き出される〉と述べているのは、救貧院から連れてこられた児童たちが、その契約どおりに扱われたと考えることのようです。しかし現実はそうではなく、〈正しい結論は、契約とは違った真っ赤な嘘というべき状況に投げ込まれたということである〉としています。マルクスが〈イギリスの綿工業は、労働時間の規制などを含む1850年の工場法が適用されるようになってからは、イギリスの模範産業とみなされなければならない、ということである。イギリスの綿工業労働者は、大陸にいる同じ運命の仲間よりも、どの点から見ても上に立っている〉と述べている部分も、〈工場法下にあり、大陸の労働者とくらべれば、雲泥の差もあるべき英国の工場で、長時間労働を強いられるはずもないところで、どのようなことが起こったかを正しく把握できたかどうかである〉と述べています。つまりそれらもそうした状況でも、救貧院の児童たちは契約とは違った酷い状態に陥れられたということを言うために、これらのイギリスの労働者の状態が述べられているのだというわけです。
 果たしてこうした訳者の理解は〈正しい〉といえるのでしょうか。私には疑問に思えるのですが、どうでしょうか。

  (ヨ)(タ)(レ) 前記の工場監督官レッドグレーヴは、1851年の産業博覧会のあとで、大陸、ことにフランスとプロイセンとを旅行して、その地の工場事情を調査しました。彼はプロイセンの工場労働者について次のように言っています。「彼は、自分がそれに慣れそれで満足している簡素な食物とわずかな慰安とを手に入れるのに足りる賃金を受け取る。……彼は、彼のイギリスの競争相手よりも苦しく生活して激しく労働する。」(『工場監督官報告書。1853年10月31日』、85ぺージ。)

  この部分もその前のイギリスの労働者は他の大陸諸国の労働者よりもどの点からみても上にたっていることを裏付けるものとして論じているように思えます。つまり同じ工場監督官のレッドグレーヴが1851年にフランスとプロイセンを旅行して、その地の労働者がどれだけ貧相な食事で満足して、イギリスの労働者よりも激しく労働し、苦しい生活に耐えているかを見聞きしてきたということです。つまりそれだけイギリスの労働者は、もちろん彼らの闘いの結果でもありますが、相対的には恵まれていたということでしょう。
  だからマルクスは、奴隷貿易が始まって、奴隷の補充が容易になると奴隷を使い捨てにすることが経済的となり、黒人の生命は容赦なく犠牲にされたという第4パラグラフを受けて、第5パラグラフで、それは人ごとではないのだ、イギリスの労働者もドイツなどから労働力の移入や、農村地方からの労働力の移転によって、彼らの寿命は縮められ、使い捨てにされている状況が指摘されてきたわけです。
  しかしそうした本文の流れのなかで、イギリスの労働者が奴隷のような苛酷な状況に置かれているのだという結論を引きだすならば、それは間違いであって、1850年の工場法以降、イギリスの綿工業は模範産業とみなされ、労働者もどの点から見ても大陸諸国の労働者よりも上にあったのだとマルクスは誤解が生じないように述べているのだと思います。


  ((3)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(3)

2023-10-20 18:43:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (3)



◎第6パラグラフ(資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない)

【6】〈(イ)経験が資本家に一般的に示すものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。(ロ)といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形づくっているのではあるが(111)。(ハ)もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史的に言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに速くどんなに深く人民の力の生活根源をとらえてきたかを示しており、どんなに工業人口の衰退がただ農村からの自然発生的な生命要素の不断の吸収によってのみ緩慢化されるかを示しており、そしてまた、どんなに農村労働者さえもが、自由な空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを栄えさせるという彼らのあいだであんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にもかかわらず、すでに衰弱しはじめているかを示している(112)。(ニ)自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、/自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものである。(ホ)どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのであるが、しかし、だれもが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。(ヘ)われ亡きあとに洪水はきたれ!〔Après moi le dèluge〕〔79〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。(ト)だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである(113)。(チ)肉体的および精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次のように答える。(リ)この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか?〔80〕 と。(ヌ)しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。(ル)自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである(114)。〉 (全集第23a巻352-353頁)

  (イ)(ロ) 経験が資本家に一般的に示すものは、一つの恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口です。もっとも、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形づくっているのではありますが。

  ここでは資本家の〈経験〉、つまり彼らの直接的な表象が問題になっています。資本家たちが日常的に経験していることとして、一般的に恒常的な過剰人口の存在があるというのです。もっとも過剰人口と言っても発育不全な短命で急速に交替する何世代もの人間でその流れは形作られているというのです。

  (ハ) もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史的に言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに速くどんなに深く人民の力の生活根源をとらえてきたかを示しています。また、どんなに工業人口の衰退がただ農村からの自然発生的な生命要素の不断の吸収によってのみ緩慢化されるかをも示しています。さらにまた、どんなに農村労働者さえもが、清浄な空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを栄えさせるという彼らのあいだであんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にもかかわらず、すでに衰弱しはじめているかを示しているのです。

  もちろん、同じ「経験」というなら、他面では、賢明な観察者には、次のような事実も示しています。一つは資本主義的生産はようやく始まったとたんに、どれほど速くどんなに深く人民の力の生産の根源を脅かしているかということです。また、どんなに工業人口の衰退が進み、ただ農村からの新しい労働力の補充によって、つまり新鮮な生命要素の不断の吸収によって、その衰退がただ緩和されるたけだということ。さらには、その農村労働者さえもが、すでに衰退し始めているということ。農村労働者こそ、その清浄な空気と最強の固体を栄えさせるという全能の自然淘汰の原則によって、健全で新鮮な労働力を生き残させているはずなのにです。

  〈自由な空気にもかかわらず〉という部分は、やや意味が不明ですが、新日本新書版では〈自由な空気にめぐまれ〉(463頁)となっており、初版では〈戸外の空気にもかかわらず〉(江夏訳297頁)となっています。フランス語版は〈清浄な空気にもかかわらず〉(江夏・上杉訳273頁)となっています。初版やフランス語版だと意味がよく分かります。

   (ニ)  自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が、人類の将来の退廃や結局どうしても止められない人口減少やの予想によって、自分の実際の運動をどれだけ決定されるかということは、ちょうど、地球が太陽に落下するかもしれないということによって、どれだけそれが決定されるかというようなものです。

  ここで〈自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するためのあんなに「十分な理由」をもっている資本が〉と述べているのは、恐らく第4節の第5パラグラフ以降で資本家たちが昼夜交替制をどのように評価しているのかを見てきたことを指しているのではないでしょうか。彼らは一方では夜間労働を繰り返す方が、同じ休息時間をとることになり、それが変わるよりもよく眠れるとか、他方では別の人物のいうには1週間ごとに交替する方がよいのだとか、要するに自分の都合のよいようにあれこれと言い繕ってきたのでした。一週間おきに夜間労働をする労働者も昼間労働だけをする労働者とまったく同じように健康なのを知っている、などとも述べていました。
  しかしその結果が現実には労働者の寿命の短縮であり、労働者階級の衰退と人口減少なのです。しかし資本が人類の将来の退廃やどうしても止められない人口減少の予想によって、自らの実際の運動をどれだけ決定するかということは、ちょうど、地球が遠い将来には太陽に落下するかも知れないという予測には何ら左右されないのと、ちょうど同じことなのです。彼らは目先の利潤を唯一の目的とも推進動機ともするのであって、労働者階級の将来や人類の未来などが眼中にあるはずがありません。

  (ホ)(ヘ) どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは、だれでも知っているのですが、しかし、だれもが望んでいることは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということです。われ亡きあとに洪水はきたれ!〔Après moi le dèluge〕これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのです。

  投機というのは誰かが設ければ、それだけ誰かが損をするという賭け事、博打と同じです。だから株式投機の場合も、高騰する株価で大儲けをしていても、やがては大暴落を招き、その儲けを吐き出す時が必ず来るのです。しかし誰もが博打と同じように、一攫千金を夢見て、自分が株価が高騰しているときにうまく売り抜けて、ぼろ儲けをした後、大暴落が起こって他の株主たちがその犠牲を払わされるということです。我が亡き後に洪水は来れ、これがすべての資本家、資本家国家の標語なのです。誰もが自分さえよければ、目先の利益が挙がればそれでよいのです。他人のことや将来の社会のことなどを考えないのが資本家の資本家たるところなのです。

  〈われ亡きあとに洪水はきたれ!〔Après moi le dèluge〕〔79〕〉という部分には注解79が付いています。それは次のようなものです。

  〈注解(79) われ亡きあとに洪水はきたれ!〔Après moi le dèluge〕--この言葉は、宮廷で宴会やお祭り騒ぎばかりをやっていればその結果はフランスの国債がふえるばかりだという忠告を受けたときに、ポンパドゥール侯夫人が言ったものだといわれている。〉 (全集第23a巻15末頁)

  また新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈宮廷の奢侈が財政破綻を招くと忠告されたときに、フランスのルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人がノアの洪水伝説にちなんで言った言葉の言い換え。デュ・オセ夫人『回想録』、序文、19ページ。「あとは野となれ山となれ」の意〉 (466頁)

  (ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのです。肉体的および精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦についての苦情にたいしては、資本は次のように答えます。この苦しみはわたしたちの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわたしたちを苦しめるというのでしょうか? と。しかし、一般的に言いますと、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではないのです。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのです。

  だから資本は資本の本性のままにすれば、決して労働者の健康や寿命に気をつけるようなことはないのです。そのためには社会による強制が必要です。個別の資本家だけでは、ただ資本の本性のままに互いに競争して労働者から搾り取れるだけ搾り取ろうとするでしょう。だからこそ国家による強制は資本家側にとっても必要なのです。
  労働者の肉体的・精神的な萎縮や早死にや過度労働の責め苦に対する苦情に対して、資本家は次のように答えるでしょう。君たちの苦しみこそわたしたちの喜び(利潤)をもたらすのですから、どうしてそれがわたしたちを苦しめることがあるでしょうか、と。
  もっともこれも別に個々の資本家の悪意によるものではなく、資本の本性そのものがそれを言わしめるのです。だから自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個別の資本家に対して外的な強制法則として作用した一つの結果なのです。

  〈この苦しみはわれわれの楽しみ(利潤)をふやすのに、どうしてそれがわれわれを苦しめるというのか?〔80〕〉には注解80が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈 (80) ゲーテ『ズレイカへ』。〉 (15頁)

  また新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ゲーテ『西東詩集』、第7歌「ティームールの巻」中の「ズライカへ」末尾。小牧健夫訳、岩波文庫、118ページ。〉 (466頁)


◎原注111

【原注111】〈111 「過度に労働するものは、驚くべき早さで死ぬ。しかし、滅んでゆくものの席はすぐに再びふさがれて、登場人物はひんばんに入れ替わっても、舞台に変化は現われない。」『イギリスとアメリカ』、ロンドン、1833年、第1巻、55ページ。(著者はE・G・ウェークフィールド。) 〔日本評論社『世界古典文庫』版、中野訳、60-61ぺージ。〕〉 (全集第23a巻353頁)

  これは〈といっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう何世代もの人間でその流れを形づくっているのではあるが(111)。〉という本文に付けられた原注です。
  過度労働で短命になっていても、次々に入れ替わって、過剰人口をかたちづくるという同じ趣旨のことが述べられている一文が引用されています。
  E・G・ウェークフィールドについては『資本論辞典』の概要を紹介しておきましょう。

  ウェイクフィールド Edward Gibbon Wakefield (1796-1862) イギリスの経済学者・植民政策家.……/マルクスは『資本論』第l巻第7篇「資本の蓄積過程」第23章「資本主義的蓄積の一般的法則」の例解において,1830年前後のイギリス農業プロレタリアートの状態に関連して.『イギリスとアメリカ』の描写を引用するさい,ウェイクフィールドにたいし'この時期におけるもっとも重要な経済学者'という包括的な評価をあたえ(KI-712;青木4-1039;岩波4-200),同篇第25章に〈近代植民理論〉のタイトルを附して,ウェイクフィールドの植民論の経済学的側面をとりあげている.
  ウェイクフィールドの諸著作をつうずるいわゆる‘組織的植民'論の骨子は,イギリス産業革命から1825年の恐慌をへて30年代にいたるあいだの.イギリスの資本の蓄積と大衆の窮乏,過剰資本と過剰人口の形成を論じ.その対策として植民地への資本輸出と植民.貿易の振興を目的とするイギリス自治植民地の開拓と育成を主張したものである.イギリス植民地政策における自由主義から帝国主義への過渡をあらわす一個の植民政策論であったが,その反面に古典派経済学にたいする種々の批判点を蔵していた.マルクスが〈近代植民説〉としてとりあげた論点もその一つである.……(以下、省略)〉 (474頁)


◎原注112

【原注112】〈112 (イ)『公衆衛生。枢密院医務官第六次報告書。1863年』を見よ。(ロ)これは1864年にロンドンで公刊された。(ハ)この報告書は特に農業労働者を取り扱っている。(ニ)「サザーランド州は非常に改良された州だと言われてきたが、最近のある調査が発見したところでは、以前はりっぱな男子と勇敢な兵士とであんなに有名だったここの諸地方でも、住民は衰えて貧弱な萎縮した種族になっている。海に面した丘の中腹で最も健康的な位置にあるのに、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの裏町の腐った空気のなかにしかありえないほどやせていて青い。」(ソーントン『過剰人口とその解決策』、74、75ページ。)(ホ)じっさい、彼らは、グラスゴーがその裏町や路地で売春婦やどうぼうといっしょに寝かせている3万の「勇敢なスコットランド高地人」〔“gallant Highlanders"〕に似ているのである。〉 (全集第23a巻353頁)

  これは〈そしてまた、どんなに農村労働者さえもが、自由な空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを栄えさせるという彼らのあいだであんなに全能的に支配している自然淘汰の原則にもかかわらず、すでに衰弱しはじめているかを示している(112)。〉という本文に付けられた原注です。部分的にマルクスの説明もあるので、文節に分けて検討しておきます。

  (イ)(ロ)(ハ) 『公衆衛生。枢密院医務官第六次報告書。1863年』を参照。これは1864年にロンドンで公刊されました。この報告書は特に農業労働者を取り扱っています。

  ここでは『公衆衛生。第6次報告書』を参照するように指示があるだけで、その内容の紹介はありません。しかし「第13章 機械と大工業」の「第3節 機械経営が労働者に及ぼす影響」の「a 資本による補助労働力の取得 婦人・児童労働」において、その内容が少し紹介されています。一部分紹介しておきましょう。

  〈「婦人の就業が最も少ない」農業地区では「これに反して死亡率は最も低い」のである。ところが、1861年の調査委員会は予想外の結果を明らかにした。すなわち、北海沿岸のいくつかの純農耕地区では、1歳未満の子供の死亡率が、最も悪評の高い工場地区のそれにほとんど匹敵する、というのである.そこで、ドクター・ジョリアン・ハンターが、この現象を現地で研究することを委託された。彼の報告は『公衆衛生に関する第六次報告書』に採り入れられてある。それまでは、マラリアとかそのほか低湿地帯に特有な病気が多くの子供の命を奪ったものと推測されていた。調査は正反村の結果を示した。すなわち、
  「マラリアを駆逐したその同じ原因が、すなわち、冬は湿地で夏はやせた草地だった土地を肥沃な穀作地に変えたということが、乳児の異常な死亡率を生みだしたということ」だった。
  ドクター・ハンターがその地方で意見を聴取した70人の開業医は、この点についいて「驚くほど一致して」いた。つまり、土地耕作の革命にともなって工業制度が採り入れられたのである。
  「少年少女といっしょに隊をつくって作業する既婚婦人たちは、『親方』と称して隊全体を雇っている1人の男によって、一定の金額で農業者の使用に任される. これらの隊は、しばしば自分の村から何マイルも離れて移動し、朝晩路上で見かけるところでは、女は短い下着とそれにつりあった上着とを着て、長靴をはき、またときにはズボンをはいていて、非常にたくましく健康そうに見えるが、習慣的な不品行のためにすさんでおり、この活動的で独立的な暮らし方への愛着が家でしなびている自分の子供に与える有害な結果には少しもとんちゃくしない。」
  ここでは工場地区のすべての現象が再生産されるのであり、しかも、隠蔽された幼児殺しや子供に阿片を与えることはいっそう大きく再生産されるのである。イギリスの枢密院医務官で『公衆衛生』に関する報告書の主任編集者であるドクター・サイモンは次のように言っている。
  「それによって生みだされる害悪を知っているだけに、成年婦人のいっさいの包括的な産業的使用を私が強い嫌悪の念をもって見るのもやむをえないことであろう。」工場監督官R・べーカーは政府の報告書のなかで次のように叫んでいる。「もしすべての家族もちの既婚婦人がどんな工場で働くことも禁止されるならば、それは、じっさい、イギリスの工業地区にとって一つの幸福であろう。」〉 (全集第23a巻519-520頁)

  また「第23章 資本主義的蓄積の一般的法則」の「第5節 資本主義的蓄積の一般的法則の例解」の「b イギリスの工場労働者の低賃金層」にも同じ報告書が紹介されていますので、抜粋紹介しておきます。

  〈1863年には、枢密院は、イギリス労働者階級の最も栄養の悪い部分の窮状に関する調査を命じた。枢密院の医務官ドクター・サイモンは、この仕事のために前記のドクター・スミスを選んだ。彼の調査は一方では農業労働者に、他方では絹織物工、裁縫女工、革手袋製造工、靴下編工、手袋織工、靴工に及んでいる。あとのほうの部類は、靴下編工を除けば、もっぱら都市労働者である。各部類のなかの最も健康で相対的に最良の状態にある家庭を選択することが、調査の原則とされた。一般的な結果としては次のようなことが判明した。
  「調査された都市労働者の諸部類のうちでは、窒素の供給が、それ以下では飢餓病が発生するという絶対酌な最低限度をわずかに超過したものは、ただ一つだけだったということ、二つの部類では、窒素含有食物も炭素含有食物も両方とも供給が不足であり、ことにそのうちの一つの部類では非常に不足だったということ、調査された農業家族のうちでは、5分の1以上が炭素含有食物の最低必要量以下を摂取し、3分の1以上が窒素含有食物の最低必要量以下を摂取していたということ、三つの州(バークシャ、オックスフォードシャ、サマセットシャ)で/は、窒素含有食物の最低量に達しない不足が平均的な状態だったということ。」
  農業労働者のうちでは、連合王国の最も豊かな部分であるイングランドのそれが最も栄養が悪かった。一般に、農業労働者のうちで栄養不良になったのはおもに女と子供だった。なぜならば「男は自分の仕事をするために食わなければならない」からである。調査された都市労働者部類のあいだには、もっとひどい不足が見られた。「彼らの栄養は非常に悪いので、悲惨な健康破壊的な窮乏」(これはすべて資本家の「禁欲」なのだ! すなわち、彼の労働者が露命をつなぐために欠くことのできない生活手段の支払の禁欲!)「の場合も多いにちがいない。」〉 (全集第23b巻854-855頁)

  (ニ)「サザーランド州は非常に改良された州だと言われてきたが、最近のある調査が発見したところでは、以前はりっぱな男子と勇敢な兵士とであんなに有名だったここの諸地方でも、住民は衰えて貧弱な萎縮した種族になっている。海に面した丘の中腹で最も健康的な位置にあるのに、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの裏町の腐った空気のなかにしかありえないほどやせていて青い。」(ソーントン『過剰人口とその解決策』、74、75ページ。)

  これはソーントンの著書から抜粋だけですが、同じように以前はりっぱな男子や兵士を生みだしていた農村地方が、今では衰えて萎縮した種族になってしまっいてること、もっもと健康的な地方にあるのに、子供たちは、ロンドンの裏町の腐った空気のなかにある子供たち以上にやせて青白いと言う指摘がされています。
  ソーントンについては『資本論辞典』の説明の概要を紹介しておきましょう。

  ソーントン William Thomas Thornton (1813-1880) イギリスの経済学者で,J・S・ミルと親交があり,その影響をつよくうけたが, 学説の個々の点ではミルを批判Lているところもある…….主著には《Over-Population and its Remedy》(1846)がある.……前の主著は,19世紀の中棄におけるイギリスの過剰人口の問題にかんして,アイルランドへの移民論にたいする批判を主題としたものである.J・S・ミルがアイルランドの荒地にたいする移民を提唱しているのにたいして,ソーントンは移民計画そのものに反対し,土地の再分配をつよく擁護する一方,そのための国家的干渉を排除Lようとした.こうした議論と関連して,彼は中世および近代の労働人口が相対的に富裕であったとする通説にたいしても異議を唱えている.彼は土地国有を究極の理想としていたが,現段階では私的土地所有制度の害悪を最小限にとどめることを唯一の実際的方策と考えていた.マルクスは,ソーントンが,労働賃銀の規定にかんしても,労働者が正常な生活状態を維持するために必要な慾望の範囲を風俗習慣の諸条件に依存せしめている観点を記述していること(KI-179:青木2-321:岩波2-53)や,過剰人口の問題をめぐって資本の不断の搾取による工業人口の涸渇が農村からの労働力の供給によって塡補される事情,さらにその供給源の農村労働者さえも衰弱をよぎなくされている19世紀中葉の労働者事情を論じているこどを(KI-281:青木2-4;岩波2-229),きわめて高く解価している。 (玉野井芳郎)〉 (511頁)

  (ホ) じっさい、彼らは、グラスゴーがその裏町や路地で売春婦やどうぼうといっしょに寝かせている3万の「勇敢なスコットランド高地人」〔“gallant Highlanders"〕に似ているのです。

  ここに出てくる〈3万の「勇敢なスコットランド高地人」〔“gallant Highlanders"〕〉というのが何を意味するのかよく分かりませんでしたが、要するに農村地方でも住民は衰えて萎縮した種族になっている様は、同じく健康で勇敢なスコットランド高地に住む人たちを工業都市のグラスゴーの下町の路地に売春婦やどろぼうと一緒に寝かせられることによって、その健康や勇敢さを失ったことと似ているのだということのようです。

  例によって〈3万の「勇敢なスコットランド高地人」〔“gallant Highlanders"〕〉について生成AIに質問すると次のような回答が得られました。参考のために紹介しておきます。

  〈「3万の勇敢なスコットランド高地人」というのは、スコットランドの歴史上の出来事を指す言葉です。それは、1745年に起こったジャコバイト蜂起の一部で、スコットランド高地人の指導者チャールズ・エドワード・ステュアート(ボニー・プリンス・チャーリー)が、イングランド王ジョージ2世に対抗してスコットランド王位を主張した戦いです。
  チャールズは、フランスからスコットランドに上陸し、高地人たちに呼びかけて自分の支持者を集めました。彼は約3万人の高地人からなる軍隊を率いて、イングランドに侵攻しました。彼は最初は成功しましたが、ロンドンに近づくとイングランド軍の反撃に遭いました。彼は撤退を余儀なくされ、1746年4月16日にカロデンの戦いで決定的な敗北を喫しました。
  この戦いは、スコットランド高地人の歴史や文化に大きな影響を与えました。イングランド政府は高地人の反乱を鎮圧するために厳しい措置をとりました。高地人の伝統的な衣装や武器、音楽や言語などが禁止されました。多くの高地人が殺されたり追放されたりしました。
  「3万の勇敢なスコットランド高地人」という言葉は、この悲劇的な出来事を記念して使われることがあります。また、スコットランド高地人の勇気や忠誠心を称える言葉としても使われます。〉

  また「スコットランド・ザ・ブイレブ(勇敢なるスコットランド)」というスコットランド民謡もあるようです。これは有名な曲で聞けば、必ず一度は聞いたことがある曲です。


◎原注113

【原注113】〈113 「住民の健康は国の資本の非常に重要な一要素だのに、おそらく、われわれは、資本家たちにはこの宝を保存し尊重する用意がまったくないということを認めざるをえないであろう。……労働者の健康への顧慮が工場主に強制された。」(『タイムズ」、1861年11月5目。)「ウェスト・ライディングの人々は人類の織物製造者になった。……労働民衆の健康は犠牲にされて数世代のうちに種族は衰退するところだったが、しかし一つの反動が起きた。児童労働の時間は制限された、うんぬん。」(『戸籍長官第22次年次報告書』、1861年。)〉 (全集第23a巻354頁)

  これは〈だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わないのである(113)〉という本文につけられた原注です。一つは『タイムズ』からの抜粋、もう一つは『戸籍長官第22次年次報告書』からの抜粋です。
  『61-63草稿』には、ほぼ同じような抜粋がありますので、参考のために紹介しておきます。MEGAの注解や訳注も参考になりますので、一緒に紹介しておきます。

  〈「(1)住民の健康は国民的資本の非常に重要な一部分であるのに、労働使用者の階級には、この宝をこのうえもないものとして守り慈しむ姿勢がなかったと言わざるをえないであろう。『ウェストライディングの人々は(と『タイムズ』は(2)1861年10月の戸籍長官の報告から引用している)人類の織物製造者となり、この仕事に非常に没頭したので、労働者たちの健康は犠牲にされ、人類は数世代のうちに退化してしまうところであった。しかし一つの反動が起こった。シャーフツブリ卿の法案が児童労働の時間を制限した、云々。』労働者たちの(3)健康を顧慮することが(と『タイムズ』は言い添えている)、社会によって工場主に強制されたのである。」

  (1)〔注解〕このパラグラフは、ノート第7冊、ロンドン、1859-1862年、207ページから採られている。強調はマルクスによるもの。マルクスが引用しているのは、ロ/ンドンの『ザ・タイムズ』、1861年11月5日付、第24,082号、6ページに掲滅された、“Ever government has traditions..."という〔書き出しの〕記事である。
  (2)〔訳注〕『戸籍長官のイングランドの出生・死亡・婚姻に関する第22次年次報告書。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロソドン、1861年。
  (3)〔訳注〕「健康」への強調は二重の下線によるものである。〉 (草稿集④574-575頁)

  ご覧のように、草稿では全体が『タイムズ』の記事の抜粋として書かれており、戸籍長官の報告もタイムズが引用しているものとして紹介しています。それを『資本論』では『タイムズ』の記事と戸籍長官の報告書とに分けて引用されているわけです。
  『タイムズ』の記事は、住民の健康は国の資本の非常に重要な一要素なのに、資本家たちはそれを尊重する用意がまったくない、だから労働者の健康への顧慮が工場主に強制されたのだという内容です。
  戸籍長官の報告書は、ウェスト・ライディングの織物製造は世界に向けて販売され、そのために労働者の健康は犠牲にされて、数世代のうちに衰退するところだったが、児童労働の時間の制限が法的に決められることによって一つの反動が生じたということを指摘しているものです。


  ((4)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(4)

2023-10-20 17:46:28 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (4)



◎原注114と原注114への補足

【原注114と原注114への補足】〈114 (イ)それだから、われわれは、たとえば、1863年の初めに、J・ウェッジウッド父子商会をも含めて、スタフォードシャに広大な製陶工場をもっている26の商社が、ある請願書のなかで「国の強権的干渉」を請願しているのを見いだすのである。(ロ)「他の資本家たちとの競争」は、子供の労働時間の「自発的な」制限などを彼らに許さない。(ハ)「それゆえ、われわれがどんなに前述の弊害を嘆いても、それを工場主たちのあいだのなんらかの種類の協定によって防止することは不可能であろう。……すべてのこれらの点にかんがみて、われわれは、一つの強制法が必要だ、という確信に達したのである。」(『児童労働調査委員会。第一次報告書。1863年』、322ページ。)
  注144への補足。 (ニ)最近ではもっとはっきりした例が現われている。(ホ)綿花価格の騰貴は熱病的な好況の時期に、ブラックバーンの綿織物工場の所有者たちに、共同協定によって一定期間彼らの工場の労働時間を短縮させることになった。(ヘ)この期限は11月末ごろ(1871年)に切れた。(ト)その間に、紡績と織布とを結合している比較的富裕な工場主たちは、その協定によって生じた生産減少を利用して、彼ら自身の営業を拡張し、小さな雇い主たちの犠牲で大きな利潤をあげようとした。(チ)そこで小さな雇い主たちは苦しまぎれに助けを--なんと--工場労働者に求め、9時間運動を熱心に推進するように彼らに呼びかけ、この目的のために寄付金を出すことを約束したのである!〉 (全集第23a巻354頁)

  これは第6パラグラフの最後に付けられた原注ですが、内容から考えますと、その直前の〈しかし、一般的に言って、これもまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家にたいしては外的な強制法則として作用させるのである(114)。〉という部分へのものというより、第6パラグラフ全体に対する原注と考えてよいでしょう。全体が長いので文節に分けて検討してゆきましょう。

  (イ)(ロ)(ハ) それだから、わたしたちは、1863年の初めに、J・ウェッジウッド父子商会をも含めて、スタフォードシャに広大な製陶工場をもっている26の商社が、ある請願書のなかで「国の強権的干渉」を請願しているのを見いだすのです。「他の資本家たちとの競争」は、子供の労働時間の「自発的な」制限などを彼らに許しません。「それゆえ、われわれがどんなに前述の弊害を嘆いても、それを工場主たちのあいだのなんらかの種類の協定によって防止することは不可能であろう。……すべてのこれらの点にかんがみて、われわれは、一つの強制法が必要だ、という確信に達したのである。」(『児童労働調査委員会。第一次報告書。1863年』、322ページ。)

 ここで〈それだから〉というのは、その直前の一文を受けているというより第6パラグラフ全体を受けていると考えた方がよいように思えます。つまり資本の本性のままにしておくと、彼らは目先の利潤を得ることに盲目的になり、それが労働者の寿命を縮め、人口の減少を招き、結局、自身の生産の基礎を堀崩すことが分かっていても、それをやめることができないわけです。それは資本主義的生産の法則そのものから生じていることです。だからこそ、それを外的に強制する「国家の干渉」が必要になるということです。個別の資本としては、どれほど労働者の搾取に手心を加えようと考えたとしても、それは他の諸資本との競争戦での彼の敗北を意味するのですから、個人の善悪でどうこうできるものではないのです。
  こうして、スターフォードシャで製陶工場を経営している26の商社が、請願書で国家の干渉を要求したということです。スターフォードシャにおける製陶業については第3パラグラフでその苛酷な労働の実態が紹介されていました。そこでは北スターフォードシャ診療所の医長の次のような証言が紹介されていました。

  〈「一つの階級として陶工は、男も女も……肉体的にも精神的にも退化した住民を代表している。彼らは一般に発育不全で体格が悪く、また胸が奇形になっていることも多い。彼らは早くふけて短命である。遅鈍で活気がなく、彼らの体質の虚弱なことは、胃病や肝臓病やリューマチスのような病疾にかかることでもわかる。しかし、彼らがことにかかりやすいのは胸の病気で、肺炎や肺結核や気管支炎や喘息である。ある型の喘息は彼らに特有なもので、陶工喘息とか陶工肺病という名で知られている。腺や骨やその他の身体部分を冒す瘰癧(ルイレキ)は、陶工の3分の2以上の病気である。この地方の住民の退化(degenerescence) がもとずっとひどくならないのは、ただ、周囲の農村地方からの補充のおかげであり、より健康な種族との結婚のおかげである。」

 まさにこうした現実を前にして、製陶業者たちも自分たちの間での何らかの協定で防止することはとてもできず、国家による強制法が必要だと自覚させられたわけです。 

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ) 最近ではもっとはっきりした例が現われています。綿花価格の騰貴は熱病的な好況の時期に、ブラックバーンの綿織物工場の所有者たちに、共同協定によって一定期間彼らの工場の労働時間を短縮させることになりました。この期限は11月末ごろ(1871年)に切れました。その間に、紡績と織布とを結合している比較的富裕な工場主たちは、その協定によって生じた生産減少を利用して、彼ら自身の営業を拡張し、小さな雇い主たちの犠牲で大きな利潤をあげようとしました。そこで小さな雇い主たちは苦しまぎれに助けを--なんと--工場労働者に求め、9時間運動を熱心に推進するように彼らに呼びかけ、この目的のために寄付金を出すことを約束したのです!

  ここで〈小さな雇い主〉というのあまり適訳とは言えません。フランス語版は補足も含めて一つの注にしていますが、〈小工場主〉(江夏・上杉訳274頁)となっています。ようするに中小の企業ということでしょう。
  要するに綿花価格の高騰は熱病的な好景気をもたらし、工場主たちは労働時間を延長して増産に拍車をかけたのですが、あまりの過熱ぶりに、彼らは協定を結び一定期間工場の操業の時間短縮を決めたということです。しかしそれは11月末に切れたところ、紡績と織布とを結合している大きな工場主たちは小規模の工場を犠牲にしてさらに大きな利潤を挙げようとしたので、小規模の工場主たちは、苦し紛れに、今度は、国家にではなく、なんと、工場労働者に救いを求め、彼らの9時間労働運動の推進を熱心に勧め、その目的のために寄付を約束したということです。
  要するに資本主義的生産の内在的な本性を抑制するためには、国家による何らかの強制法が必要だということと、他方では、労働者階級自身による実力行使(階級闘争)こそが必要だということでしょう。


◎第7パラグラフ(標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である。しかし、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。)

【7】〈(イ)標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である。(ロ)しかし、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。(ハ)たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働取締法(115)と比較してみよ。(ニ)現代の工場法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとする。(ホ)資本がやっと生成してきたばかりでまだ単なる経済的諸関係の力によるだけ/ではなく国家権力の助けによっても十分な量の剰余労働の吸収権を確保するという萌芽状態にある資本の要求は、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらしぶしぶなさざるをえない譲歩に比べれば、もちろん、まったく控えめに見える。(ヘ)資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動的な生活時間の全体を、じつに彼の労働能力そのものを売ることに、つまり彼の長子特権を1皿のレンズ豆で売ることに〔旧約聖書、創世記、第25章、第29節以下〕、自由意志で同意するまでには、すなわち社会的にそれを強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのである。(ト)それゆえ、14世紀の半ばから17世紀の末まで資本が国家権力によって成年労働者に押しつけようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供の血の資本への転化にたいして時おり国家によって設けられる労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことである。(チ)今日たとえばマサチュセッツ州で、この北アメリカ共和国の現在まで最も自由な州で、12歳未満の子供の労働の国家的制限として布告されているものは、イギリスでは17世紀の半ばごろにはまだ血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日だったのである(116)。〉 (全集第23a巻354-355頁)

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果です。しかし、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示しています。たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働取締法と比較してみてください。現代の工場法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとしたのです。

  第5節の副題は〈14世紀の半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法〉というものです(因みにフランス語版ではこの副題が第5節の表題になっています)。しかしこれまではこの問題にはまったく触れることはありませんでした。むしろこれまでの展開は、国家による法的強制の必然性を論証することに主眼をおいてきたものといえるでしょう。つまり資本の本性をそのまま野放しにすれば、資本は際限のない搾取欲によって、労働者階級を滅ぼしてしまうだろうということです。しかし資本自身はそれに憂いても、自分たちではなんともできず、だから資本自身が国家に何らかの強制法の必要を請願したり、労働者階級に彼らの闘いの必要を訴え支援するというようなことまで行われたということです。こうしてようやくこのパラグラフで、国家による労働時間の制限、すなわち標準労働日の確立が課題になったというわけです。
  すでにわたしたちは第1節で〈資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界をめぐる闘争--総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級とのあいだの闘争--として現われる〉ということを知っています。それは何世紀にもわたる闘争の結果、ようやく国家によって制定され確立されたものだということです。
  しかし国家による労働時間の限界の制定の歴史を見ると、それはまったく二つの相反する流れを見いだすことができるというのです。
  一つは国家の助けによって労働時間を延長しようとするもの、もう一つは国家によって労働時間を制限しようとするものです。この二つの相反する流れは、前者は資本主義的生産が生まれたばかりでまだ一人立ちしていない段階のものであり、後者は資本主義的生産がようやく自分の足で立って歩き始めた以降のことです。『61-63草稿』から引用しておきましょう。

  〈資本主義的生産の傾向がどういうものであるかは、ブルジョア的産業の最初の黎明期の国家干渉(たとえば、14世紀の労働者法に現われているような)を近代の工場立法と比較すればはっきりする。前者では、労働者たちを強制してある一定分量の剰余労働(でなくても、とにかく労働でありさえすれば)を彼らの雇い主たちに提供させるため、すなわち、労働者たちに絶対的剰余労働を強制的に提供させるため労働時間が確定される。これにたいして、後者では、同じく強力的に一つの制限がもうけられるが、それはこの制限を超えて資本家に労働時間の絶対的延長を許さないため、つまりある一定の限界を超える労働時間の延長を妨げるためである。このような国家介入--大工業の母国たるイギリスで最初に現われる--の必要が避けられないということ、そしてまた、資本主義的生産が新たな産業部門をとらえるにつれてこうした介入をつぎつぎとそれらの部門におしひろげてゆかなければならない必要にせまられるということは、一方では、資本主義的生産には、他人の労働時間をわがものにすることにたいしてなんの制限もないことを、他方では、資本主義的生産の確立した体制内では、労働者たちは、彼らだけでは、--階級として国家に、そして国家をつうじて資本にはたらきかけることがなければ--肉体の維持に必要な自由な時間ですらも資本の(5)ハルピュイアの爪から守る力がないことを証明しているのである。

  (5)〔訳注〕ギリシア神話にでてくる、女性の頭をもち鳥の姿をした強欲な怪物。〉 (草稿集⑨311頁)

  (ホ) 資本がやっと生成してきたばかりでまだ単なる経済的諸関係の力によるだけではなく国家権力の助けがあってようやく十分な量の剰余労働の吸収権を確保できたという萌芽状態にある資本の要求というのは、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらしぶしぶなさざるをえない譲歩に比べれば、もちろん、まったく控えめに見えるのです。

  これは後のパラグラフで具体的にみていくことですが、資本が生成してやっと歩き始めたばかりのころは、まだ労働者を資本関係のなかに形式的に包摂したに過ぎず、労働者と生産手段との分離も十分には行き渡っておらず、だから経済的諸関係の力だけでは、労働者から十分な剰余労働を引きだすまでには働かせることができなかったのです。から彼らは国家による法律によって強制的に労働者を労働に借り出し縛りつける必要があったということです。だからその当時の国家による強制的な労働時間の延長と言っても、その程度は、資本が一人立ちして労働者を実質的にも包摂して、労働者への経済的な支配権利を確立してから、国家によって強制されてその搾取欲をしぶしぶ抑制し譲歩した程度に比べると、まったく控えめに見えるということです。それがどの程度かは後に具体的に見ていくことになります。

  (ヘ) 資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動的な生活時間の全体を、じつに彼の労働能力そのものを売ることに、つまり彼の長子特権を1皿のレンズ豆で売ることに〔旧約聖書、創世記、第25章、第29節以下〕、自由意志で同意するまでには、すなわち社会的にそれを強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのです。

  〈「自由な」労働者〉というのは、「第4章 貨幣の資本への転化」の「第3節 労働力の売買」で〈自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである〉(全集第23a巻221頁)という説明がありました。つまり労働者は自分の労働力を自分のものとして自由に売ることが可能であり(つまり封建社会のように身分制度でがんじがらめにされておらず)、他方で自分の労働力を売る以外に自分の生活を維持する諸手段がないということです。
  しかし資本主義的生産がようやく始まったときには、まだこうした自由な労働者を常に市場で見いだせるとは限らなかったのです。だから資本家たちは労働者を彼らの関係のなかに包摂したとしても、労働者は労働者としてかわずかな自分の土地をもち自身の生活資料を部分的に得る手段を持っていたのです。だから労働者は一方で自分の菜園で働き、その余分な時間を資本のもとで働くという段階があったということです。だから資本家はまだ彼らを長時間の労働にしばりつけることは、経済的関係だけではできなかったのです。
  しかし生産手段と労働力との分離が完全になりますと、労働者はただ自身の労働力を売るしか生活の糧を得る手段がなくなります。そうなると彼らは資本の経済的な関係のもとに自身の意志から従わざるをえなるなるわけです。そして強制されるままに長時間労働にも従い、資本のあくなき搾取欲にさらさせることになるわけです。しかしそうなるまでには数世紀の歳月が必要だったということです。
  ここには〈彼の長子特権を1皿のレンズ豆で売る〉という文言が出てきます。『16-63草稿』の中にもよく似た文言が出てきますので、紹介しておきましょう(MEGAの注解も一緒に)。

  したがって、労働者がこの交換によって富むことができないのは、(3)エサウが一杯の豆スープと引き換えに家督の権利を譲ったように、労働者は労働能力〔Arbeitsfähigkeit〕の現存の価値量と引き換えにそれの創造的な力〔Kraft〕を譲ってしまうからだ、ということは明らかである。それどころか、彼の労働の創造的な力が資本の力として、他人の力〔Macht〕として、彼に対立して確立されることによって、彼は貧困化せざるをえない。彼は富の生産力としての労働を、手放してしまう〔sich entaußern〕のであり、資本は労働をかかるものとして取得する〔わがものにする〕のである。それゆえ、労働と労働の生産物の所有との分離、労働と富との分離は、この交換行為そのもののなかに措定さ/れている。

  (3) 〔注解〕「エサウが一杯の豆スープと引き換えに家督の権利を譲った」--旧約聖書『モーセ第一番〔創世記〕』、第25章〔日本聖書協会『旧約聖書』、31-32ページ〕を見よ。〉 (草稿集④254-256頁)

  もちろん、この旧約聖書の意味するところを知らなくても全体としてマルクスが述べていることは十分に分かるのですが、少し調べてみました。例によって生成AIに訪ねてみると次のような回答かありました。

  〈エサウが一杯の豆スープと引き換えに家督の権利を譲ったというのは、旧約聖書の創世記に記されている物語です。家督の権利とは、長子の特権とも呼ばれ、父親の死後に一族の指導者となり、財産や祝福を多く受けることができる権利のことです。
  エサウはイサクとリベカの長男であり、ヤコブは次男でした。エサウは狩りが好きで、ヤコブは家で料理をすることが好きでした。ある日、エサウが狩りから疲れて帰ってきたとき、ヤコブがレンズ豆の煮物を作っていました。エサウは飢えていたので、ヤコブにその煮物を食べさせてくれるように頼みました。しかし、ヤコブはそれに対して、家督の権利を自分に譲るように要求しました。エサウは死にそうだと言って、家督の権利を軽んじてヤコブに売り渡しました。
  この行為は、後にエサウに大きな後悔と悲しみをもたらしました。ヤコブは母リベカの助けを借りて、父イサクから家督の祝福も奪い取りました。エサウはこれを知って怒り、ヤコブを殺そうとしました。ヤコブは逃げざるを得なくなり、兄弟はしばらく離れ離れになりました。
  この物語は、神が選んだ人々の歴史や摂理を示すものです。ヤコブは後にイスラエルという名前を与えられ、イスラエル民族の祖となりました。エサウはエドムという名前でも知られ、エドム人の祖となりました。イスラエル人とエドム人は敵対することが多くなりました。〉

  (ト) そういうことから、14世紀の半ばから17世紀の末までにおける資本が国家権力によって成年労働者に押しつけようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供たちの血を資本への転化するに際して時おり国家によって設けられた労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことでなのです。

  これも後のパラグラフで具体的に見ることになると思いますが、資本主義初期のころの国家権力による成年労働者に対する法的強制によって定めた労働日の延長が、19世紀の後半、つまり資本主義が十分に発達した段階において、子供たちに対する資本の搾取欲を抑制するために、国家によって制限された労働時間とがほぼ一致することになるのです。一方は成年労働者に強制された労働時間の延長された時間が、他方のようやく子供たちを救うために強制的に短縮させられた労働時間とほぼ一致しているというのです。

  (チ) 今日たとえばマサチュセッツ州で、この北アメリカ共和国の現在まで最も自由な州で、12歳未満の子供の労働の国家的制限として布告されているものは、イギリスでは17世紀の半ばごろにはまだ血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日だったのです。

  例えば、北アメリカのもっとも自由な州であるマサチュセッツ州で布告された、12歳未満の子供たちの労働時間の制限とされているものは、イギリスでは17世紀の、つまり資本主義的生産がようやく始まったばかりのころの、決起盛んな手工業者やたくましい農民や鍛冶工たちの標準労働日だったのです。これらは原注116のなかで具体的に紹介されています。


◎原注115

【原注115】〈115 (イ)これらの労働者取締法は、同時にフランスやオランダなどでも見られるものであるが、イギリスではやっと1813年に、それらが生産関係からはとっくに排除されてしまったあとで、形式的にも廃止されたのである。〉 (全集第23a巻355頁)

  (イ) これらの労働者取締法は、同時にフランスやオランダなどでも見られるものですが、イギリスではやっと1813年に、それらが生産関係からはとっくに排除されてしまったあとで、形式的にも廃止されたのです。

  これは〈たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働取締法(115)と比較してみよ〉という本文に付けられた原注です。
  まず同じような法律はフランスやオランダでも見られたという指摘があります。マルクスは後の「第24章 本源的蓄積」「第3節 15世紀末以後の被収奪者にたいする血の立法 労賃引き下げのための諸法律」のなかで次のように述べています。

  〈賃労働に関する立法は、もともと労働者の搾取をねらったもので、その歩みはいつでも同様に労働者に敵対的なのであるが、この立法はイギリスでは1349年のエドワード三世の労働者法〔Statute of Labourers〕から始まる。フランスでこれに対応するものは、ジャン王の名で布告された1350年の勅令である。イギリスの立法とフランスの立法とは並行して進んでおり、内容から見ても同じである。これらの労働法が労働日の延長を強制しようとするかぎりでは、私はもうそれには立ち帰らない。というのは、この点は前に(第8章第5節) で論じておいたからである。〉 (全集第23b巻964頁)

  イギリスの労働者取締法(新日本新書版は「労働者規制法」、初版は「イギリスの諸労働法」、フランス語版は「イギリスの労働法」)は14世紀から18世紀の半ばまでその効力を発揮してきたのですが、しかし資本主義的生産が一人立ちしても、法律そのものはそのまま残っていて、すでに現実の生産関係ではとっくに実質的には排除されていたのですが、1813年にようやく形式的にも排除されたということです。


◎原注116

【原注116】〈116 「12歳未満の児童をどんな工業施設でも1日に10時間よりも長く就業させてはならない。」(『マサチュセッツ一般法』、第60章、第3条。これらの法令は1836年から1858年までに公布された。)「すべての木綿、羊毛、絹、紙、ガス、亜麻の工場で、または鉄および真鍮の工場で、1日に10時間のあいだに行なわれる労働が、法定の1日の労働とみなされるべきである。また、今後は、どの工場に雇われる未成年者も、1日に10時間よりも長く、または1週に60時間よりも長く労働するために抑留されたりそれを強要されたりしてはならない。また、今後は、本州内のどの工場でも10歳未満の未成年者を労働者として採用してはならない。」『ニュージャージー州。労働時間等制限法』、第1条および第2条。(1855年3月18日の法律。)「12歳以上15歳未満の未成年者は、どの工業施設でも1日に11時間よりも長く、または朝の5時/以前または夕方の7時半以後に就業させられてはならない。」(『ロード・アイランド州改正法令』、第139章、第23条、1857年7月1日。)〉 (全集第23a巻355-356頁)

 これは〈今日たとえばマサチュセッツ州で、この北アメリカ共和国の現在まで最も自由な州で、12歳未満の子供の労働の国家的制限として布告されているものは、イギリスでは17世紀の半ばごろにはまだ血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日だったのである(116)。〉という本文に付けられた原注です。
  本文に述べられていることの論拠を示すものとなっています。
  まずマサチューセッツ一般法で12歳未満の児童の労働時間が10時間以下でなければならないということが決められています。
  次に「ニュージャージー州。労働時間等制限法」も木綿、羊毛、絹、紙、ガス、亜麻、鉄、真鍮の各工場における標準労働日を10時間と決めていることや、10歳未満の未成年を労働者として採用してはならないと決めていたということです。
  さらに「ロード・アイランド州改正法令」では、12歳以上15歳未満の未成年は11時間以下、または朝5時以前、夕方7時半以降は働かせてはいけないと決められていたことが示されています。
  こうした19世紀半ばの自由なアメリカ諸州における10時間や11時間という児童や少年・少女の標準労働日が、17世紀半ばのころの大人の手工業者や農僕や鍛冶工などの標準労働日と同じだったというわけです。


◎第8パラグラフ(イギリスにおける資本主義初期の労働者取締法の歴史)

【8】〈(イ)最初の「労働者取締法」〔“Statute of Labourers"〕(エドワード3世第23年、1349年) は、その直接の口実(その原因ではない、というのは、この種の立法は口実がなくなっても何世紀も存続するのだから) をペストの大流行〔81〕に見いだしたのであって、このペストは、トーリ党の一著述家の言うところでは、「労働者を適度な価格で」(すなわち彼らの雇い主に適度な量の剰余労働を残すような価格で)「労働につかせることの困難が実際に堪えられなくなった(117)」ほどに、人口を減少させたのである。(ロ)そこで、適度な労賃が、ちょうど労働日の限界と同じように、強制法によって命令された。(ハ)ここでわれわれが関心をもつのはこの労働日に関する点だけであるが、これは1496年(ヘンリ7世治下) の法律でも繰り返されている。(ニ)すべての手工業者(artificers) と農業労働者との3月から9月までの労働日、といってもけっして厳守されたのではなかったが、それは当時は朝の5時から晩の7時と8時とのあいだまで続くことになっていた。(ホ)しかし、食事時間は朝食の1時間と昼食の1時間半と4時のパンの半時間とであり、現行の工場法によるそれのちょうど2倍だった(118)。(ヘ)冬は中休み時間は同じで朝の5時から日暮れまで労働することになっていた。(ト)1562年のエリザベスの一法律は、「日賃金または週賃金で雇われる」労働者のすべてについて、労働日の長さには触れていないが、中間の休み時間を夏は2時間半に、冬は2時間にしようとしている。(チ)昼食は1時間に限られ、「半時間の昼寝」は5月の半ばと8月の半ばとのあいだだけ許されるべきだとする。(リ)欠勤は1時間につき1ペニー(約8プフェニヒ)ずつ賃金から差し引かれることとする。(ヌ)しかし、実際には事情は労働者にとって法文にあるよりもずっと有利だった。(ル)経済学の父であり、また統計学の創始者ともえるウィリアム・ベティは、17世紀の最後の3分の1期に著わした一書のなかで次のように言っている。
(ヲ)「労働者」(labouring men、当時ではじつは農業労働者)「は、毎日10時間ずつ労働して、毎週20回の食/事を、すなわち仕事日は毎日3回、日曜には2回の食事をとっている。このことからはっきりわかるように、もし彼らが金曜の晩は断食するつもりになり、現在そのために午前11時から1時まで2時間を費やしている昼食を1時間半にするつもりになれば、つまり彼らが20分の1だけ多く働いて20分の1だけ少なく消費するならば、前述の租税の10分の1は徴収されうるであろう(119)。」
(ワ)ドクター・アンドルー・ユアは、1833年の12時間法案を暗黒時代への後退として悪評する権利があったのではないか? (カ)もちろん、諸法令のなかに記されておりペティによって言及されている諸規定は、“ apprentices"(徒弟)にも適用される。(ヨ)しかし、17世紀の末には児童労働がまだどんな状態だったかは、次のような苦情からも推測される。
(タ)「われわれの少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまではまったくなんの仕事もしない。そして、それからも、できあがった手工業者になるためには、もちろん長い時間--7年--を必要とする。」
(レ)これに反して、ドイツはほめられる。(ソ)なぜならば、そこでは子供たちは揺りかごのなかから少なくとも「わずかばかりの仕事は仕込まれる(120)」からである。〉 (全集第23a巻356-357頁)


  (イ)(ロ) 最初の「労働者取締法」〔“Statute of Labourers"〕(エドワード3世第23年、1349年) は、その直接の口実(その原因ではありません。というのは、この種の立法は口実がなくなっても何世紀も存続するのですから) をペストの大流行に見いだしたのです。このペストは、トーリ党の一著述家の言うところでは、「労働者を適度な価格で」(すなわち彼らの雇い主に適度な量の剰余労働を残すような価格で)「労働につかせることの困難が実際に堪えられなくなった」ほどに、人口を減少させたのでした。そこで、適度な労賃が、ちょうど労働日の限界と同じように、強制法によって命令されたのです。

  ここからイギリスにおける資本主義初期の労働者取締法の具体的な歴史が述べられています。まず最初の法律は、1349年のもので、それは直接の口実としては1347~1350年のペストの大流行に見いだしたというのです。
  ペストの大流行は労働者人口をも激減させ、労賃の高騰を招いて、資本家たちが適度の剰余価値を得ることが困難になったために、適度の剰余価値を得ることが可能な労賃を強制的に決めるとともに、労働日の限界も一緒に法律によって決めたということです。

  全集版には〈ペストの大流行〔81〕〉には注解81が付いていますが、それは次のようなものです。

  〈(81) ペストの大流行--黒死病とも呼ばれた恐ろしいペストが1347年から1350年まで西ヨーロッパで猛威をふるった。この伝染病でおよそ2500万人、すなわち当時のヨーロッパの総人口の4分の1が死んだ。〉 (全集第23a巻15頁)

  また新日本新書版にも次のような訳者注が付いています。

  〈1347年からヨーロッパの大部分で猛威をふるったペストは、1348-1349年にイギリスをも襲い、人口の激減をきたした。〉 (472頁)

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) ここでわたしたちが関心をもつのはこの労働日に関する点だけですが、これは1496年(ヘンリ7世治下) の法律でも繰り返されています。すべての手工業者(artificers) と農業労働者との3月から9月までの労働日は、といってもけっして厳守されたのではありませんでしたが、朝の5時から晩の7時と8時とのあいだまで続くことになっていました。しかし、食事時間は朝食の1時間と昼食の1時間半と4時のパンの半時間とであり、現行の工場法によるそれのちょうど2倍だったのです。冬は中休み時間は同じで朝の5時から日暮れまで労働することになっていました。

  先の1349年の最初の労働法については労働日についても法律で決められたとありましたが、具体的な内容は示されていませんでした。しかしそれはそのあと147年後の1496年の法律でも繰り返されているということですから、今回のものも先の法律における労働日制定の内容と考えてよいでしょう。
  その内容というのは、すべての手工業者と農業労働者の労働は3月から9月までの期間は、朝の5時から晩の7時と8時との間まで続くことになっていました(14~15時間)。しかしそのあいだに朝食に1時間、昼食に1時間半、4時のパンに半時間、合計2時間がありました、つまり実労働時間は12~13時間ということになります。
  ただ、合計2時間の食事時間について、〈現行の工場法によるそれのちょうど2倍だった〉とありますが、第2節の第8パラグラフで紹介されている1850年の工場法では朝食に半時間、昼食に1時間、合計1時間半となっていますから、決して2倍とはいえません。
  冬は(ということは10月から2月までは)休み時間は同じで、朝5時から夕暮れまでとなっているということです。ただそのあとに引用されているペティの一文では10時間働き、食事は日に3回、そのうち昼食には11時から1時まで2時間をかけていると述べていますから若干、整合しないところがあります。
  もっとも法律で決められたからと言っても、この時代ではそれはそれほど厳格には守られなかったということです。つまりまだまだ労働者には自立性があり、有利な条件があったということでしょうか。ただ、それが徐々に資本主義が発展するつれてそれらは厳格になってゆき、さらにはそんな法律などお構いなしに労働日の延長が行われるようになり、結局、それらは有名無実化していったということではないかと思います。

  (ト)(チ)(リ)(ヌ) 1562年のエリザベスの一法律は、「日賃金または週賃金で雇われる」労働者のすべてについて、労働日の長さには触れていませんが、中間の休み時間を夏は2時間半に、冬は2時間にしようとしています。昼食は1時間に限られ、「半時間の昼寝」は5月の半ばと8月の半ばとのあいだだけ許されるべきだとしています。欠勤は1時間につき1ペニー(約8プフェニヒ)ずつ賃金から差し引かれるとなっています。しかし、実際には事情は労働者にとって法文にあるよりもずっと有利だったということです。

  先の法律(1496年)から66年後の1562年の法律では、労働日の長さには触れられていませんが、休み時間について夏は2時間半、冬は2時間にしようとしているとあります。つまり先の法律では休み時間は合計2時間だったのが、夏はそれよりも半時間長くなり、冬はちょうど同じ時間にしようとしているということです。
  昼食は1時間ですが、5月半ばから8月の半ばには昼寝の時間が半時間あったということですからずいぶんとのんびりしています。これが〈夏は2時間半〉の内容だとすると、昼食は1時間プラス昼寝タイム半時間で合計1時間半で、あと朝食と間食あわせて1時間、合計2時間半ということでしょうか。イタリアなどでは一昔前には昼食はかならず家に帰って食事をし、そのあとは夏は昼寝をして夕方また仕事に出てゆくと聞いたことがありますが、こうした慣習があったのでしょうか。
  欠勤は1時間につき1ペニーが賃金から差し引かれることになっていたということです。この1ペニーが重いのか軽いのかは判断がつきませんが、恐らくは軽いのでしょう。
  というのは、そのあとに実際には事情は労働者にとって法文にあるよりもずっと有利だったということですから。それほど労働者にとっては厳しい内容ではなかったと思えるからです。

  (ル)(ヲ) 経済学の父であり、また統計学の創始者ともえるウィリアム・ベティは、17世紀の最後の3分の1期に著わした一書のなかで次のように言っています。
  「労働者」(labouring men、当時ではじつは農業労働者)「は、毎日10時間ずつ労働して、毎週20回の食事を、すなわち仕事日は毎日3回、日曜には2回の食事をとっている。このことからはっきりわかるように、もし彼らが金曜の晩は断食するつもりになり、現在そのために午前11時から1時まで2時間を費やしている昼食を1時間半にするつもりになれば、つまり彼らが20分の1だけ多く働いて20分の1だけ少なく消費するならば、前述の租税の10分の1は徴収されうるであろう。」

  このペティの著書の刊行は原注119によりますと1691年となっています。つまり先の法律の129年後のものですが、そこでは労働日は10時間になり、仕事日は毎日3回、日曜日には2回の食事をとったとあります。
  さらにペティは当時の昼食時間は11時から1時の2時間であることも指摘し、それを1時間半にすれば、租税の10分の1は徴収されるだろうとなどと述べています。
  『61-63草稿』ではペティの同じ文章を引用しながら、そのなかにマルクスはコメントを挿入していますので、参考のために紹介しておきましょう。

  〈ペティは、『アイルランドの政治的解剖』を書いた。そのなかで彼はこう言っている。「労働者たちは日に10時間働き、そして週に2O回の食事を、すなわち、仕事日には1日に3回、日曜日には2回の食事をする(いまではただ2回のみ)。このことから明らかなように、彼らが金曜の夜は断食し、そして現在午前11時から午後1時までの2時間をかけている昼食を1時間半ですます(いまでは朝食と昼食とでやっと1時間半になるにすぎない)ことができれば、そのようにして2O分の1だけ多く働き、そして2O分の1だけ少なく消費することが、できれば、前述の{租税のための}1O分の1は徴収できるのである。」(第1O版、ロンドン、1691年。)この章句から明らかになるように、当時の成年者の労働時間は、現在の13歳以上の子どもの名目上の労働時間と比べても長くはなかったし、また労働者はより多くの時間を食事にかけていたのである。〉 (草稿集⑨312-313頁)

  なおペティについては原注119の解説を参照してください。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ)(ソ) ドクター・アンドルー・ユアは、1833年の12時間法案を暗黒時代への後退として悪評する権利があったのではないでしょうか? もちろん、諸法令のなかに記されておりペティによって言及されている諸規定は、“ apprentices"(徒弟)にも適用されました。しかし、17世紀の末には児童労働がまだどんな状態だったかは、次のような苦情からも推測されます。
  「われわれの少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまではまったくなんの仕事もしない。そして、それからも、できあがった手工業者になるためには、もちろん長い時間--7年--を必要とする。」
  これに反して、ドイツはほめられる。なぜならば、そこでは子供たちは揺りかごのなかから少なくとも「わずかばかりの仕事は仕込まれる」からです。

  ユアは1833年の12時間法案を暗黒時代への後退だと批判したのですが、確かにそれは半世紀近く前の法律にもどるように思えたのですから、その限りで正当なものです。しかし半世紀前には法律は強制的に労働時間を延長させるためのものであったのに対して、ユアの時代には労働時間を強制的に短縮させて12時間に決めたのだという違いがあることに彼は気づいていないわけです。彼はただ資本を擁護するために労働時間の短縮を不当なものとして罵倒するために暗黒時代への後退だと批判しているだけなのです。
  ペティによって述べられている規定(10時間労働)は徒弟にも適用されました。しかし17世紀には児童労働そのものはなく、徒弟になってから長い修業時代があったのみです。  
  その点、ドイツではもっと早くから子供たちは躾けられていたということです。

  ここに出てくるユアについては、以前、第5節の注103に出てきた時に『資本論辞典』の解説の概要を紹介しましたが、今回もそれを再録しておきます。

  ユアAndrew Ure (1778-1857)イギリスの化学者・経済学者. ……彼の経済学上の主著には《The Philosophy of Manulactures》(1835)がある. そこでは,当時の初期工場制度における労働者の状態が鮮細に記述されているのみならず,機械や工場制度や産業管理者にたいする惜しみなき賛美と無制限労働日のための弁解とが繰返されている.
 『資本論』では,バベッジとともに第1巻第8章・第12章・第13章の諸章において主として引用されている.マルクスは,彼を‘自動工場のピンダロス(叙情詩人)たるドクトル・ユア'‘工場主たちのこのピンダロス'とLて皮肉っているのみならず(K1-440・青木3-680 :岩波3-188),この主著をば‘工場精神の典型的表現'として特徴づけている.ユアは.バベッジとともに,いなバベッジよりもすぐれて, マユュファタチァの独自的性格を鋭くかぎ出している点で評価される(Kl-367:青木3-583:岩浪3-71-72). しかし:彼の大工業賛美論は厳しく批判される.第一に,彼は運動の出発点たる中心機械を自動装置(Automat)としてのみならず専制君主(Autocraft)としてとり扱いたがるだけでなく(KI-441:青木3-680;岩波3-189),機械の発明者たるアークライトこそは.労働者の熟練を排除することによってマエュファクチァにおいて不十分であった労働秩序を創造したというごとき暴論を行なう(K1-387.445-446:青木3-609.686-687:岩波3-103.196-197). 第二に, 彼の視点はまったく工場主の立場のみに限られ,一方ではシーニアと同じく工場主の禁欲について讃辞を呈するとともに.他方では断乎として労働日の短縮に反対する.そして1833年の12時間法案を‘暗黒時代への後退'として.罵倒するのみならず,労働者階級が工場法の庇護に入ることをもって奴隷制に走るものとして非難する(KⅠ-284,314:青木3-469,509:岩波 3-235,284)というごとく露骨をきわめている.〉 (572頁)


◎原注117

【原注117】〈117 〔J・B・パイルズ〕『自由貿易の誰弁』、第7版、ロンドン、1850年、205ぺージ。なお、この同じトーリ党員は次のことも認めている。「労賃を労働者に不利に雇い主に有利に規制した法律は、464年という長い期間にわたって存続した。人口は増加した。これらの法律は今では不必要でわずらわしいものになった。」(同前、206ぺージ。)〉 (全集第23a巻357頁)

  これは〈このペストは、トーリ党の一著述家の言うところでは、「労働者を適度な価格で」(すなわち彼らの雇い主に適度な量の剰余労働を残すような価格で)「労働につかせることの困難が実際に堪えられなくなった(117)」ほどに、人口を減少させたのである。〉という本文に付けられた原注です。つまりトーリ党の一著述家というのは、パイルズのことであり、彼の著書からの引用であることを示しているわけです。
  さらにはこの著者は、労賃を労働者に不利に雇い主には有利に規制した法律は半世紀近く存続したが、人口は増加したから、今では不必要でわずらわしいものになったなどと述べています。
  しかし実際には確かに人口も増加はしましたが、それ以上に資本主義的生産が生産様式を自己にあったものに作り替え、労働者を実質的にも包摂して、経済的な支配力を高めたから、もはや労働時間を延長するために経済外的な強制力を不必要にしたということです。
  『61-63草稿』にはパイルズの著書からの抜粋がありますので、紹介しておきます。マルクスはこの抜粋の最後の部分をこの原注で採用したようです。

  〈「人口がわずかで土地が豊富にあるときには、自由な労働者は怠惰で生意気である。人為的な規制は、しばしば、労働者に労働させるのに有用であるばかりでなく絶対に必要なものであった。カーライル氏によれば、今日わが西インド諸島の解放された黒人たちは、熱い太陽をただで、またたくさんのかぼちゃをただ同然で手に入れるので、働こうとしない。カーライル氏は、労働を強制する法律的規制が絶対に必要であり、それは彼ら自身のためでさえあるのだ、と考えているようである。彼がそう言うのは、彼らが急速にもとの未開状態に退化しつつあるからである。同様に5OO年前のイギリスでも、経験的に知られていたのは、貧民は働く必要がなく、働こうとしない、ということである。14世紀のひどい疫病が人口を減少させたので、穏当/な条件で人々を働かせることの困難は、まったく耐えがたいほどの、また、王国の産業を脅かすほどの程度にまで増大した。その結果1349年に、貧民に労働を強制し、また労働の賃銀に干渉する、エドワド3世治下第23年の法律が制定された。引き続き、数世紀にわたって同じ目的でいくつもの法律の制定が行なわれた。農業労働者の賃銀ばかりでなく手工業者の賃銀も、1日仕事の価格ばかりでなく出来高払い仕事の価格も、貧民が労働しなければならない時間も、それどころか(今日の工場諸法でのように)食事のための休憩時間さえも、法律によって規定された。賃銀を労働者に不利に雇主に有利に規制した議会諸法は、464年という長い期間にわたって存続した。人口は増加した。そこでこれらの法律は不必要でわずらわしいものに思われ、またじっさいそういうものになったのであった。1813年、それらはすべて廃止された」(〔ジョン・バーナド・パイルズ〕『自由貿易の詭弁と通俗経済学の検討』、第7版、ロンドン、185O年、205、206ページ)。〉 (草稿集④360-361頁)

  因みにジョン・バーナド・バイルズの著書の題名は文献索引によりますと『自由貿易の詭弁と通俗経済学の検討.--法廷弁護土著』・改訂増補第7版・ロンドン,1850年とあります。第24章の本源的蓄積にも出てきます。


  ((5)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(5)

2023-10-20 17:02:54 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (5)



◎原注118

【原注118】〈108 (イ)この法律に関連してジョン・ウェードが次のように言っているのは正しい。(ロ)「1496年の法律からは、食物は手工業者の所得の3分の1、農業労働者の所得の2分の1に相当するものと認められたということがわかる。そして、このことは、労働者の独立の程度が今日の大部分の状態よりも高かったということを示すものであって、今日では農業でも工業でも労働者の食物は彼らの賃金にたいしてずっと高い割合をなしているのである。」(ジョン・ウェード『中間階級および労働者階級の歴/史』、24、25、577ページ。)(ハ)この差異は、食料と衣料との価格の割合が現在と当時とでは違っていることによるものだ、というような見解は、ビショップ・フリートウッドの『物価年表』、初版、ロンドン、1707年、第2版、ロンドン、1745年、をほんのちょっとのぞいて見ただけでも反駁できるものである。〉 (全集第23a巻357-358頁)

  (イ)(ロ) この法律に関連してジョン・ウェードが次のように言っているのは正しいです。「1496年の法律からは、食物は手工業者の所得の3分の1、農業労働者の所得の2分の1に相当するものと認められたということがわかる。そして、このことは、労働者の独立の程度が今日の大部分の状態よりも高かったということを示すものであって、今日では農業でも工業でも労働者の食物は彼らの賃金にたいしてずっと高い割合をなしているのである。」(ジョン・ウェード『中間階級および労働者階級の歴史』、24、25、577ページ。)

  これは〈しかし、食事時間は朝食の1時間と昼食の1時間半と4時のパンの半時間とであり、現行の工場法によるそれのちょうど2倍だった(118)。〉という本文に付けられた原注です。因みにここでマルクスが〈この法律に関連して〉と述べているのは、1496年の法律のことを指しています。
  ここでウェードが述べていることは、いわゆるエンゲル係数というもののようで、収入のうちに食料費がどれだけ占めているかというものです。それを見ると、15世紀末には、手工業者は3分の1、労働者は2分の1だということで、これは比較的低い数値を表しています。ウェードがこの著書を出したのが1835年ですが、その当時では、農業でも工業でも労働者の食物は賃金に対してずっと高い割合を示していたということです。
  ジョン・ウェード『中間階級および労働者階級の歴史』についてはすでに「第3節 搾取の法的制限のないイギリスの産業諸部門」のなかで注64として引用されていました。そのときもマルクスはウェードに対して一定の評価をして引用していましたが、今回はウェードの主張を正しいものとして引用しています。以前も、『61-63草稿』におけるマルクスのウェードへの評価を紹介しましたが、もう一度、『資本論辞典』の説明の概要とともに紹介しておきましょう。

  〈(ウェイドは、彼の著書の抽象的な経済学的部分では、少しばかりの、当時としては独創的なものを示している、--たとえば経済恐慌、等々。これにたいして、歴史的部分はその全体が、イギリスの経済学者たちのあいだで流行っている恥知らずな剽窃の適切な一例である。つまり彼は、サー・F・モートン・イーデンの『貧民の状態、または、ノルマン征服期から現在までのイギリス労働者階級の歴史』、全3巻、ロンドン、1797年、からほとんど逐語的に引き写しているのである。)〉 (草稿集④150頁)

  ウェイドJohn Wade (1786-1875) イギリスの文筆業者.……主著としては.《British History.chronologically arranged》(1839)や《History of the Middle and Working Class.Also an Appendix of Prices》(1833)などがあげられる.マルクスは,この後者の著書をしばしば引用し,これを評して,その歴史的都分はイーデンの《The State of the Poor:or,An History of the Labouring Classes.in England.etc.》(1797)からの剽窃におわっているときめつけている.しかし,この彼の理論的な部分は.一種の経済原論をなしており.当時としては独創的なものをいくらかふくんでおり,たとえば商業恐慌にかんする叙述などにはそれがあらわれている.と評している.また彼の労働者階級の運命やこの階級の経済的利害についての叙述にも,かなりするどい洞察がみられるという.たとえば,労働者階級の全所得のうちで,食料に支出される部分の割合は. 18世紀末では手工業者で3分の1. 農業労働者で2分の1であるが. 19世紀中葉の資本主義社会では,その割合がきわめて高いとし,ここから労働者たちの経済的独立性は時代とともに失われてきているという帰結をひきだしている点や,また,資本蓄積の条件にかんして,資本が労働者を雇用する経済的限界を正しく指摘しながら,‘雇主の利益が平均利潤以下に低下するほど労働賃銀の率が高くなれば,彼は労働者を使用するのをやめるか,または,労働者が労働賃銀の引下げを承認するという条件で彼らを使用する'とのべている点などが,これである.〉 (『資本論辞典』475頁)

  (ハ) この差異は、食料と衣料との価格の割合が現在と当時とでは違っていることによるものだ、というような見解は、ビショップ・フリートウッドの『物価年表』、初版、ロンドン、1707年、第2版、ロンドン、1745年、をほんのちょっとのぞいて見ただけでも反駁できるものです。

  これはその前のウェードの主張は、300年以上も前と今日とでの食料と衣料との価格の割合の違いを見ていない、という批判に対して、ビショップ・フリートウッドの『物価年表』を見ればそれは間違いだということが分かるというものです。
  『物価年表』の詳しい内容は分かりませんが、食料と衣料との価格の割合はそれほど変わっているわけではないということなのでしょう。

  文献索引では〈ビショップ・フリートウッド〉ではなく、〈フリートウッド,ウィリアム〉となっています。初版とフランス語版は〈フリートウッド司教〉となっています。つまり〈ビショップ〉というのは「司教」(あるいは主教)という意味で、キリスト教の高級聖職者のことのようです。人名索引には〈イギリスの教会監督.イギリスにおける物価の歴史について書いた〉(全集第23b巻81頁)とあります。また年表の正式名称は文献索引によりますと、〈『物価年表,または,過去600年のイギリスの貨幣,穀物その他の商品の価格の調査』,ロンドン,1707年〉(全集第23b巻31頁)というものです。


◎原注119

【原注119】〈119 W・ペティ『アイルランドの政治的解剖、1672年』、1691年版、10ページ。〔岩波文庫版、松川訳『租税貢納論』、179ページ。〕〉 (全集第23a巻358頁)

  これは本文で引用されているペティからの引用文の典拠を示すものです。
   ペティについては、以前、「第4章 貨幣の資本への転化」の原注45に関連して、『剰余価値学説史』から次のような一文を紹介したことがありましたので、それを再掲しておきます。

  〈『アイルランドの政治的解剖』および『賢者には一言をもって足る』1672年(出版、ロンドン、1691年)。
  ……
  「平均的に見た一人の成年男子の、日々の労働ではなく日々の食料が、価値の一般的尺度であり、そしてこれは、純銀の価値と同じく規則的で恒常的であるように思われる……それゆえ私は、一戸のアイルランド人の小屋の価値を、建造者がそれの建築に費やした日々の食料の数によって評価した。」(65ぺージ。〔同前、松川訳、135ページ。〕)
  このあとのほうの文章はまったく重農主義的である。
  「なかには他の人たちよりも多く食べる人々もいるだろうということは、重要なことではない。なぜなら、われわれが日々の食料と言っているのは、あらゆる種類と大きさをもった〔100人の人が〕生活し、労働し、子孫をふやすために食べる食料の100分の1を考えているのだからである。」(64ページ。〔同前、松川訳、134ページ。〕)
  しかし、ペティがここでアイァランドの統計のうちに求めているものは、価値の一般的〔common〕尺度ではなく、貨幣が価値の尺度であるという意味における価値の尺度である。〉 (全集第26巻Ⅰ456-457頁)

  また『資本論辞典』の説明の概要も紹介しておきましょう。(解説は大変長く、マルクスの文献の版と頁数を示すものは煩雑になりますので省略しました)。

 ペティ Sir Wil1iam Petty (1633-1687)近世経済学の建設者にしてその父,もっとも天才的・独創的な経済学研究者であると同時に,いわば統計学の発明者。/まずしい毛織物工業者の第3子として南西イングランドに生まる。……/ベティは,労働は富の父であり、土地はその母だといい,また資本(Stock)とは過去の労働の成果だといっているが,ここで彼が問題にしている労働は.交換価値の源泉をなす抽象的・人間的労働ではなくて,土地とならんで素材的富の一源泉をなすところの具体的労働,つまり使用価値をつくりだすかぎりでの労働である。そして彼はこの現実的労働をただちにその社会的総姿態において,分業としてとらえたのであるが,彼が商品の「自然価格」を規定するばあい,それは事実上,この商品の生産に必要なる労働時間によって公的に規定されるところの(交換)価値にほかならないのである。しかし,同時に彼は,交換価値を,それが諸商品の交換過程で現象するがままに,貨幣と解いし,そして貨幣そのものは,これを実存する商品すなわち金銀と解した。彼は,一方では重金主義のあらゆる幻想をくつがえしつつも,他方ではこの幻想にとらわれ,金銀を獲得する特殊の種類の現実的労働を,交換価値を生む労働だと説明したのである。/彼の価値規定においては. a) 同等な労働時問によって規定される価値の大いさと. b)社会的労働の形態としての価値,したがって真実の価値姿態としての貨幣と,c) 交換価値の源泉としての労働と,使用価値の源泉としての労働(このばあい労働は,自然質料すなわち土地を前提とする)との混同,の三者が雑然と混乱している。彼が貨幣の諸機能を一応正当に把握しつつも,他方ではそれを金銀と解し,不滅の普通的富と考えたり,また価値の尺度として土地・労働の両者を考え,この両者のあいだに‘等価均等の関係'をうちたてようとしたりしたのも(このぱあい,事実上,土地そのものの価値を労働に分解することだけが問題になっているのだが),この混乱にもとづくのである。/ところで,以上の価値裁定に依存するベティの刺余価値の規定はどうかといえば.彼は剰余価値の本性を予感してはいたけれども彼が見るところでは,剰余がとる形態は'土地の賃料'(地代〕と‘貨幣の賃料'(利子)の二つだけであった。そして彼にとっては,のちに重農主義者にとってそうであるのと同じように,地代こそが'剰余価値'の本来の形態であって,彼は地代を剰余価値一般の正常的形態と考えるのであるから,利潤の方はまだぼんやりと労賃と熔けあっているか,またはたかだか,この剰余価値のうち資本家によって土地所有者から強奪される一部分として現象するのである。すなわち.彼は地代(剰余)を生産者が'必要労働時間'をこえておこなう超過労働として説明するばかりでなく,生産者自身の'剰余労働'のうち,彼の労賃および彼自身の資本の填補をこえる超過分として説明する,つまり地代は,'農業的剰余価値'全体の表現として,土地からではな<.労働からひきだされ,しかも労働のうち労働者の生計に必要なものをこえる剰余として説明されているのである。(以下、まだ続きますが長すぎるので省略します。)〉 (547-548頁)


◎原注120

【原注120】〈120 (イ)『機械工業奨励の必要に関する一論』、ロンドン、1690年、13べージ。(ロ)イギリスの歴史をウイッグ党とブルジョアとの利益に合うように偽造したマコーリは、次のように弁じたてる。(ハ)「子供を早くから労働につかせる慣習は……17世紀には、産業の当時の状態からはほとんど信じられないほどに広まっていた。羊毛工業の中心地ノリッジでは、6歳の子供が労働能力のあるものとして扱われた。なかには特別に温情的と見られた人もあった当時のいろいろな著述家たちは、この都市だけでも少年少女が創造する富は彼ら自身の生活費よりも1年間に12,000ポンドも多いという事実を、『大喜び』で述べている。われわれは、過去の歴史を詳しく研究すればするほど、われわれの時代を新たな社会的害悪に満ちたものと考える人々の見解をしりぞけるべき理由をますます多く見いだすのである。……新たなものは、この害悪を発見する知性と、それを直す人間性とである。」(『イギリス史』、第1巻、417ページ。) (ニ)マコーリは、さらに進んで、17世紀には「特別に温情的な」商業の友〔amls du commerce〕が、オランダのある救貧院で4歳の子供が働かされたことを「大喜び」で語っていると、いうことや、また、この「実践に移された徳性」〔“vertu mise en pratique"〕の実例は、アダム・スミスの時代に至るまでマコーリ流の人道主義者たちのあらゆる著書のなかで模範としてあげられているということを伝えることもできたであろう。(ホ)手工業とは違って、マニュファクチェアが現われるようになると、児童搾取の痕跡がはっきりしてくるが、この搾取は以前から或る程度まで農民のあいだに存在していたのであり、農夫に負わされるくびきが重ければ重いほどますますそれがひどくなるということは、ほんとうである。(ヘ)資本の傾向は紛れもないが、事実そのものはまだ双頭児の出現のようにまばらである。(ト)それだからこそ、このような事実は、特に注意に値し驚嘆に値するものとして、先の見える「商業の友」によって同時代の人のためにも後の世のためにも「大喜び」で書き留められ、またそれにならうことを勧められたのである。(チ)このスコットランド生まれのへつらいもので口じょうずな同じマコーリは言う、「今日聞こえるのはただ退歩だけで、見えるのはただ進歩だけだ」と。/(リ)なんという目、ことにまたなんという耳だろう!〉 (全集第23a巻358-359頁)

  (イ) 『機械工業奨励の必要に関する一論』、ロンドン、1690年、13べージ。

  これは本文の最後で引用されているものの典拠を示すものでしょう。すなわち〈「われわれの少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまではまったくなんの仕事もしない。そして、それからも、できあがった手工業者になるためには、もちろん長い時間--7年--を必要とする。」これに反して、ドイツはほめられる。なぜならば、そこでは子供たちは揺りかごのなかから少なくとも「わずかばかりの仕事は仕込まれる(120)」からである。〉という一文の前半の引用と後半の引用は『機械工業奨励の必要に関する一論』からのものだということです。文献目録を見ても、この著書の作者など詳しい説明はありませんでした。

  (ロ)(ハ) イギリスの歴史をウイッグ党とブルジョアとの利益に合うように偽造したマコーリは、次のように弁じたてる。「子供を早くから労働につかせる慣習は……17世紀には、産業の当時の状態からはほとんど信じられないほどに広まっていた。羊毛工業の中心地ノリッジでは、6歳の子供が労働能力のあるものとして扱われた。なかには特別に温情的と見られた人もあった当時のいろいろな著述家たちは、この都市だけでも少年少女が創造する富は彼ら自身の生活費よりも1年間に12,000ポンドも多いという事実を、『大喜び』で述べている。われわれは、過去の歴史を詳しく研究すればするほど、われわれの時代を新たな社会的害悪に満ちたものと考える人々の見解をしりぞけるべき理由をますます多く見いだすのである。……新たなものは、この害悪を発見する知性と、それを直す人間性とである。」(『イギリス史』、第1巻、417ページ。)

  マコーリについて、マルクスは〈歴史の偽善者〉(草稿集⑨654頁)と述べていますが、彼はウィッグ党員で議員でしたが、ブルジョアの利益にあうように歴史を偽造したというとです。彼は17世紀にはすでに児童労働が信じられないほど広まっていたと言いますが、これなどは嘘っぱちだとマルクスは述べているわけです。

  (ニ) マコーリは、さらに進んで、17世紀には「特別に温情的な」商業の友〔amls du commerce〕が、オランダのある救貧院で4歳の子供が働かされたことを「大喜び」で語っていると、いうことや、また、この「実践に移された徳性」〔“vertu mise en pratique"〕の実例は、アダム・スミスの時代に至るまでマコーリ流の人道主義者たちのあらゆる著書のなかで模範としてあげられているということを伝えることもできたでしょう。

  こうした偽善者たちには事欠かないわけですから、マコーリはいくらでも児童労働の例を持ち出すことは可能だっただろう、とマルクスは述べているわけです。

  (ホ)(ヘ)(ト) 手工業とは違って、マニュファクチェアが現われるようになると、児童搾取の痕跡がはっきりしてきますが、この搾取は以前から或る程度まで農民のあいだに存在していたものであり、農夫に負わされるくびきが重ければ重いほどますますそれがひどくなるということは、ほんとうです。資本の傾向は紛れもないものですが、事実そのものはまだ双頭児の出現のようにまばらなのです。それだからこそ、このような事実は、特に注意に値し驚嘆に値するものとして、先の見える「商業の友」によって同時代の人のためにも後の世のためにも「大喜び」で書き留められ、またそれにならうことを勧められたのです。

  児童労働そのものは確かに古くは農民のあいだで存在し、農夫に負わされるくびきが重ければ重いほどますますそれがひどくなるというのは本当だと思います。しかし資本主義的生産が発展していない段階で児童労働が一般的であったかにいうのは歴史の偽造なのです。資本の本性としては例え児童であろうと搾取の対象にして剰余労働を貪ろうとする傾向はありますが、しかし歴史的事実としては、資本主義的生産の発展以前は、児童労働そのものはまだ双頭児の出現のようにまれなことなのです。だからこそそのよう事実があれば、「商業の友」はそれを書き立てて勧めたということです。マルクスは『61-63草稿』でもマコーリの同じ一文を引用して論じていますが、そこでは次のように述べています。

  〈{マコーリが、現存するものの弁護者である--ただ過去にたいしてだけは監察官(ケンソル)カトーであり、現在への追従(ツイショウ)屋である--ウィッグ党員としてふるまうことができるために、経済上の事実をどんなにひどく歪めているかは、とりわけ次の箇所から〔明らかになる〕。--「児童をあまりにも早く労働に就かせる慣習--すなわち、われわれの時代には、自分自身を保護できない人々の正統の保護者たる国家が、賢明かつ慈悲ぶかくも禁止してしまったような慣習--は、17世紀には、当時の工業組織〔manufacturring system〕の規模に比べればほとんど信じられないほど、広く行きわたっていた。羊毛工業の中心地ノリッヂでは、ほんの6歳の子供が労働に就く能力があるものと考えられた。当時のいろいろの著述家たちは--そしてそのなかにはきわめて情けぷかいと見なされていた人もあった--、この都市一つだけでも幼い少年少女が創造する富は彼ら自身の生存に必要であるものよりも1年間に12,000ポンド・スターリングも多いという事実を、大喜びで述ベている。過去の歴史をたんねんに調べれば調べるほど、われわれの時代を新しい社会的害悪に満ちているものと考え/る人々に同じない理由を、われわれはますます多く見いだすのである。真実は、害悪はほとんど例外なしに昔のことである、ということである。新たなものは、これらの害悪を見きわめる知性とそれをただす人間性である」〈マコーリ『イギリス史』、第1巻、ロンドン、1854年、417ページ)。この箇所が証明しているのはまさに正反対のこと、すなわち、当時は児童労働はまだ例外的な現象だったのであり、だからこそ経済学者たちはこの現象に、とくに称揚すべきものとして大喜びで言及したのだ、ということである。現代のどの著述家が、いたいけな年の児童が工場で使用されていることを、なにかとくにめだったこととして言いたてるであろうか。チャイルドやカルペパなどのような著述家を良識をもって読む人であれば、だれでも同じ結論に達するのである。}〉 (草稿集④352-353頁)

  (チ)(リ) このスコットランド生まれのへつらいもので口じょうずな同じマコーリは言う、「今日聞こえるのはただ退歩だけで、見えるのはただ進歩だけだ」と。なんという目、ことにまたなんという耳でしょう!

  このマルクスの引用しているマコーリの一文は他の文献の引用のなかにも出てきませんでしたが、ここでマコーリが〈今日聞こえるのはただ退歩だけ〉と述べているのは、恐らく児童労働を制限する工場法のことを指しているのだと思えます。ブルジョアにとっては児童労働の制限は退歩に見えるからです。それを際立たせるために、マコーリは17世紀の昔はもっと児童労働が多かったかに歴史を偽造したわけです。そして〈見えるのはただ進歩だけだ〉というのも、いま一つハッキリしませんが、〈過去の歴史をたんねんに調べれば調べるほど、われわれの時代を新しい社会的害悪に満ちているものと考える人々に同じない理由を、われわれはますます多く見いだすのである。真実は、害悪はほとんど例外なしに昔のことである、ということである。新たなものは、これらの害悪を見きわめる知性とそれをただす人間性である〉(草稿集④)と述べていることと関連しているのかも知れません。つまりマコーリは害悪は例外なしに昔のことで、われわれの新しい時代は社会的害悪に満ちているなどいう考えには同意しないというのですから、今の社会は進歩しているのだということなのでしょう。
  しかしこうした歴史の偽造と現実をみない恥知らずな追従屋に対して、マルクスは〈なんという目、ことにまたなんという耳だろう!〉と感嘆符を付けて批判しているわけです。

  最後にマコーリについて『資本論辞典』から解説の概要を紹介しておきます。

 マコーリ Thomas Babington Macaulay,First Baron Macaulay (1800-1859)イギリスの政治家・歴史学者.……政治活動のかたわら書きはじめられた主著《History of England from the Accession of James Ⅱ》(1846-1861)は,その出版の当初から空前の売行を示し,マコーリの文名を不動のものとした. ……マルクスも『資本論』でイングランド銀行にたいして'すべての金匠や質屋が憤怒の叫ぴを挙げた'というマコーリの有名な一句を引用している。またたとえば,産業革命時代の幼児労働や苛酷な労働条件にふれても,これをその暗黒面としてとらえるよりは,むしろこれにそれ以後の知織とヒューマニティの増大とを対比させ,現状を是認する。マルクスは『資本論』で,マコーリは'イギリスの歴史をウィッグズとブルジョアジーの利益となるようにすりかえた'といい,また'計画的な歴史の偽造者'であると, 批判している。〉 (557-558頁)


◎第9パラグラフ(18世紀の大部分をつうじて、大工業の時代に至るまでは、まだイギリスの資本は労働力の週価値を支払うことによって労働者のまる1週間をわがものにすることには成功していなかった。)

【9】〈(イ)18世紀の大部分をつうじて、大工業の時代に至るまでは、まだイギリスの資本は労働力の週価値を支払うことによって労働者のまる1週間をわがものにすることには成功していなかった。(ロ)といっても、農業労働者は例外であるが。(ハ)労働者たちが4日分の賃金でまる1週間暮らすことができたという事情は、彼らには、残りの2日間も資本家のために労働するということの十分な理由だとは思われなかった。(ニ)イギリスの経済学者たちの一方のものは資本に奉仕してこのわがままを激しく非難し、他方のものは労働者を擁護した。(ホ)たとえば、当時その商業辞典が今日マカロックやマクグレガーの同種の著述が博しているのと同じ好評を博したポスルスウェートと、前に引用した『産業および商業に関する一論』の著者との論戦を聞いてみよう(121)。〉 (全集第23a巻359頁)

  (イ)(ロ) 18世紀の大部分をつうじて、大工業の時代に至るまでは、まだイギリスの資本は労働力の週価値を支払うことによって労働者のまる1週間をわがものにすることには成功していませんでした。といっても、農業労働者は例外ですが。

 18世紀の大部分を通じて、つまり大工業、すなわち資本主義的生産がまだ本格的に一人立ちして歩きだす以前においては、イギリスの資本は労働力を週価値で買ったとしても、労働者を1週間まるまる我がものにすることはできなかったということです。ただ農業労働者は例外だということです。
  イギリスの農業労働者については「第23章 資本主義的蓄積の一般的法則」の第5節の 「例証」のなかの「e 大ブリテンの農業プロレタリアート」に詳しく展開されています。マルクスはその書き出しで〈資本主義的生産・蓄積の敵対的な性格が野蛮に現われているという点では、イギリス農業(牧畜を含む)の進歩とイギリス農業労働者の退歩とにまさるものはない。〉(全集第23b巻878頁)と述べて、農村の労働者の過酷な状態が暴露されています。

  (ハ) 労働者たちが4日分の賃金でまる1週間暮らすことができたという事情は、彼らには、残りの2日間も資本家のために労働するということの十分な理由だとは思われなかったからです。

  というのは、当時は労働者たちはが4日分の賃金でまる1週間暮らすことができたからです。そうなりますと残りの2日間も資本家にために働く必要を彼らは感じなかったという単純な理由からです。

  (ニ)(ホ) イギリスの経済学者たちの一方のものは資本に奉仕してこのわがままを激しく非難し、他方のものは労働者を擁護しました。たとえば、当時その商業辞典が今日マカロックやマクグレガーの同種の著述が博しているのと同じ好評を博したポスルスウェートと、前に引用した『産業および商業に関する一論』の著者との論戦を聞いてみましょう。

  そしてこうした事情について、イギリスの経済学者の間で論争が生じたということです。
一方のものは資本の肩を持って、労働者のわがままを激しく批判し、他方のものは労働者を擁護したというのです。
  そこでこの両陣営の意見を聞いてみることにしましょう。一方の、資本の肩を持つ御仁は以前にも引用した『産業および商業に関する一論』という匿名の著書(しかし実際にはカミンガムが匿名で書いたものです)、他方は、商業辞典の著者ポスルスェートです。
  この論争者の二人については、すぐ続くパラグラフで取り上げられます。ここでは〈当時その商業辞典が今日マカロックやマクグレガーの同種の著述が博しているのと同じ好評を博したポスルスウェート〉という一文に出てくるマカロックとマクレガーについてどういう人物かを見ておくことにします。

  マカロックについては何度か説明したことがありました。それを再現しておくことにします。まず『剰余価値学説史』における言及です。

  〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。彼は、リカードだけでなくジェームズ・ミルをも俗流化した男である。
  そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている。〉 (全集第26巻Ⅲ219-220頁)
  〈マカロックは、徹頭徹尾リカードの経済学で商売をしようとした男であって、これがまた彼にはみごとに成功したのである。〉 (同224頁)

  全体としてはマルクスはマカロックを俗流経済学者として厳しい言葉で論難しています。
 『資本論辞典』からも説明の概要を紹介しておきます。

 マカロックJohn Ramsay M'Culloch(1789-1864) イギリスの経済学者.……/マルクスは『資本論』でも,十数箇所でマカロッタに言及しているが,包括的に彼の著書をとり上げて批判しているのは『剰余価値学説史』においてである.……/要するにマカロックは.リカードウの理論の発展と擁護を自称しながら,結果においてはその価値規定を根抵から破棄することになった.リカードウ派経済学を俗流化すると同時に解体させた,もっともあわれむべき像であり,またリカードウのみでなくジェイムズ・ミルをも俗流化した人物だといっている.……〉 (555-556頁)

  次はマクグレガーについてですが、この人物については詳しいものはありません。全集版の人名索引から紹介しておくだけにします。

  マクグレガー・ジョン MacGregor,John(1797-1857)イギリスの統計学者,自由貿易論者,国会議員,ブリティシュ・ロイアル・バンクの創立者で理事のひとり(1849-1856年).〉 (全集第23b巻35頁)


  ((6)に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(6)

2023-10-20 16:27:01 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (6)



◎原注121

【原注121】〈121 (イ)労働者を非難する人々のうちで最もひどく怒っているのは、本文にあげた『産業および商業に関する一論、租税の考察を含む』(ロンドン、1770年)の匿名の著者である。(ロ)すでにそれ以前から、彼の著書『租税に関する考察』(ロンドン、1765年)のなかでもそうだった。(ハ)ポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアスは『ハムレット』のなかのおしゃべりな宮内官〕、これはなんとも言いようのないおしゃべりの統計屋であるが、このヤングも同じ方向について行く。(ニ)労働者を擁護する人々のうちで先頭に立つのは、『貨幣万能論』(ロンドン、1734年)のなかでのジェーコブ・ヴァンダリント、『現時の食糧価格高騰原因の究明』(ロンドン、1767年)のなかでの神学博士ナサニエル・フォースター師、ドクター・プライスであり、またことにポスルスウェートは、その『商工業大辞典』への付録のなかでも、『グレート・ブリテンの商業的利益の解明と改善』、第2版(ロンドン、1759年)のなかでも、そうである。(ホ)事実そのものは、そのほか多くの同時代の著述家たち、ことにジョサイア・タッカーによって確認されているのが見いだされる。〉 (全集第23a巻359頁)

  これは〈たとえば、当時その商業辞典が今日マカロックやマクグレガーの同種の著述が博しているのと同じ好評を博したポスルスウェートと、前に引用した『産業および商業に関する一論』の著者との論戦を聞いてみよう(121)。〉という本文に付けられた原注ですが、文節に分けて検討しおきましょう。

  (イ)(ロ)(ハ) 労働者を非難する人々のうちで最もひどく怒っているのは、本文にあげた『産業および商業に関する一論、租税の考察を含む』(ロンドン、1770年)の匿名の著者です。すでにそれ以前から、彼の著書『租税に関する考察』(ロンドン、1765年)のなかでもそうでした。ポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアスは『ハムレット』のなかのおしゃべりな宮内官〕、これはなんとも言いようのないおしゃべりの統計屋ですが、このヤングも同じ方向について行っています。

  まず労働者たちは4日分の賃金で1週間くらせたから、残り2日間は働かなかったことについて、もっとも非難し怒っているのは『産業と商業に関する一論』の著者だということです。ここでもマルクスは〈匿名の著者〉と述べていますが、実際はすでに言いましたように、カミンガムことです。この著書の内容は第11パラグラフで問題になります。
  次に〈ポロニアス・アーサー・ヤング〉というのですが、〈ポロニアス〉というのは挿入されている説明文では〈ポロニアスは『ハムレット』のなかのおしゃべりな宮内官〉というのですからヤングを揶揄するための枕詞として付けているのでしょう。「おしゃべりなアーサー・ヤング」というぐらいの意味でしょうか。ヤングもカミンガムと同じ方向に、つまり労働者たちを批判する立場に立っているということです。ヤングについては『資本論辞典』の説明の概要を紹介しておきます。

  ヤング Arthur Young (1741-1820)イギリスの農学者.イングランドのサファタ州出身で,農業にかんする著作家としてもっとも著名な人の一人.彼ははじめ実際の農業家になろうとしたが,これに失敗したため研究家あるいは著述家に転じた.…….封建的農業経営の非合理を打破するものとして,従来は休閑地とされていたところに蕪を植栽することによって,近代的輪作による経営の合理化をはかるものであった.ヤングはこの方法こそイギリス農業の近代化をもたらすものであり,そしてこの経営は大農場においてこそもっとも合理的に行ないうるものとして,大農場経営を強調した.その結果.いままで小農経営の基盤であった開放耕地を徹底的に排除し,大規模の図込みをなすべきであるとした.……/このようにヤングはもっぱら資本家的農業家の立場に立って,イギリス農業近代化の方向を主張L. 余剰の人口は臨海軍に用いて国力を増進L. またこれを商工業に転じて国の富を増大すべきであるとした.……/マルクスはヤングを‘饒舌で無批判的な著述述家で,その名声は功績に逆比例している' とか,‘話にならない統計的饒舌家たるポロニアス' とか,'皮相な思索家ではあったが,精密な観察者,とか評している……労働者は4日分の賃銀で1週間生活しえたので,資本家のため他の2日を労働にあてないといって.労働者を非難した人々のうちに.ヤングが挙げられている。〉 (571-572頁)

  (ニ) 労働者を擁護する人々のうちで先頭に立つのは、『貨幣万能論』(ロンドン、1734年)のなかでのジェーコブ・ヴァンダリント、『現時の食糧価格高騰原因の究明』(ロンドン、1767年)のなかでの神学博士ナサニエル・フォースター師、ドクター・プライスであり、またことにポスルスウェートは、その『商工業大辞典』への付録のなかでも、『グレート・ブリテンの商業的利益の解明と改善』、第2版(ロンドン、1759年)のなかでも、そうでした。

  今度は労働者を擁護する人々については、4人挙げられています。最後のボルスウェートについては、すぐ次の第10パラグラフで取り上げられますので、ここではそれ以外の人については見ていくことにしましょう。
  まずその先頭に立つと言われている、『貨幣万能論』の著者ジェーコブ・ヴァンダリントについてです。カミンガムに反対する論者としてヴァンダリントの名前はしばしば出てきますが、具体的にその主張が引用されているものとしては、貨幣の諸機能に関連したものはいくつかありましたが、労働者を擁護する主張のようなものは見当たりませんでした。そこで『資本論辞典』からその説明を紹介しておくことにします。

  ヴァンダーリント Jacob Vanderlint (!1740)イギリスに帰化したオランダ商人.唯一の著書《Money answers all Things》(1734)によって知られている.貿易差額脱を批判して自由貿易論へ道を開き,下層・中間階級の地位の引上げを目標とし.高賃銀を要求し.土地にたいする不生産的地主の独占を攻撃した.マルクスはアダム・スミスにいたるまでの経済学が,哲学者ホッブズ,ロック.ヒューム.実業家あるいは政治家トマス・モア,サー・W・テンプル,シュリー,デ・ゲイツト,ノース,ロー.カンティヨン.フランクリンにより,また理論的にはとくに医者ペティ,バーボン. マンドヴィル,ケネーにより研究されたとしているが,ヴァンダリントもこれら先人のなかに加えられており,とくにつぎの三つの点でとりあげられている.第一に,流通手段の量は,貨幣流通の平均速度が与えられているばあいには,諸商品の価格総頬によって決定されるのであるが,その逆に,商品価格は流通手段の量により,またこの後者は一国にある貨幣材料の量によって決定されるという見解(初期の貨幣数量説)があり,ヴァンダリントはその最初の代表者の一人である.この見解は,商品が価格なしに,貨幣が価値なしに流通に入り込み,そこでこの両者のそれぞれの可除部分が相互に交換されるという誤った仮設にもとづく'幻想'である,と批判されている.またこの諭点に関連して,ヴァンダリントにおける,貨幣の退蔵が諸商品の価格を安くする,という見解が批判的に,産源地から世界市場への金銀の流れについての叙述が傍証的に引用されている.第二に,ヴァンダリントはまた,低賃銀にたいする労働者の擁護者としてしばしば引用され,関説されている.第三に,マニュフアクチュア時代が,商品生産のために必要な労働時間の短絡を意識的原則として宣言するにいたる事情が,ペティその他からとともにヴァンダリントからもうかがい知ることができるとされている.上述の批判にもかかわらず.《Money answers all Things》は,‘その他の点ではすぐれた著述'であると評価され,とくにヒュームの《Political Discourses》(初版1752)が,これを利用したことが指摘されている.《反デューリング論》の(《批判的学史》から)の章ではこの両者の関係が詳細に確認され, ヒュームはヴァンダリントにまったく迫随しつつ,しかもそれに劣るものであると断ぜられている(その他の点でも《反デュリング論》の参照が必要).〉 (472頁)

  その次に挙げられているのは〈『現時の食糧価格高騰原因の究明』(ロンドン、1767年)のなかでの神学博士ナサニエル・フォースター師〉です。フォースターについては、『資本論辞典』にも記載がありませんが、全集版の人名索引では〈イギリスの牧師.経済問題に関する二,三の著作の著者.労働者の利益を擁護した〉とだけあります。ただ『61-63草稿』には、この著書からの引用もいろいろとありますが、一つだけ紹介しておきます。

  〈「また、国民の大多数にとって、生活手段や食料のための諸生産物が大部分自然生的な{すなわち、労働の結果、でもなく、人間活動の発展にたいする刺激の結果、でもない}ものであり、また気候は衣服や住居の心配の必要がほとんどないか、またはその余地がほとんどないといった一片の土地に追いやられることほど、ひどい禍いを私は想像することができない。……その反対の極端もある、であろう。労働による生産ができない土地は、労働しなくても豊富に産出する土地とまったく同様に、悪いものである。」(〔ナサニエル・フォースタ〕『現在の食糧品高価格の諸原因に関する研究』、ロンドン、1767年、10ページ。)〉 (草稿集⑨456頁)

  次は〈ドクター・プライス〉ですが、第24章の本源的蓄積のところで、農村の囲い込み運動に反対する論者としてプライスの名が取り上げられています。一つだけ紹介しておきます。

  〈「ここでは開放地と既耕地との囲い込みについて述べよう。囲い込みを弁護する薯述家たちでさえも、囲い込/みが大借地農場の独占を増進し、生活手段の価格を高め、人口減少をひき起こすということは認めている。……そして、現在行なわれているような荒れ地の囲い込みでさえも、貧民からはその生活維持手段の一部を奪い、また、すでに大きすぎる借地農場をいっそう膨張させるのである。」ドクター・プライスは次のように言っている。「もし土地がわずかばかりの大借地農業者の手にはいってしまうならば、小借地農業者」(前には彼はこれを「自分の耕す土地の生産物により、また自分が共同地に放牧する羊や家禽や豚などによって自分と家族を養い、したがって生活手段を買う機会をほとんどもたない一群の小土地所有者と小借地農業者」と呼んでいる)「は、他人のための労働によって生計の資を得なければならないような、そして、自分に必要なすべてのものを市場に求めざるをえないような人々に変えられてしまう。……おそらくより多くの労働がなされるであろう。というのは、そのための強制がより多く行なわれるからである。……都市も工場も大きくなるであろう。というのは、そこには仕事を求める人々がますます多く追い立てられてくるからである。これが、借地農場の集中が自然的に作用する仕方なのであり、また、何年も前からこの王国で実際に作用してきた仕方なのである。」
  彼は囲い込みの総結果を次のように要約する。
  「全体として下層人民階級の状態はほとんどどの点から見ても悪化しており、比較的小さい土地所有者や借地農業者は、日雇い人や常雇い人の地位まで押し下げられている。また、それと同時に、このような状態で生活を維持することはますます困難になってきたのである。」(原注209〈ドクター・R ・プライス『生残年金の考察』、第2巻、155、156ぺージ。フォースター、アディントン、ケント、プライス、ジェームズ・アンダソンを読んで、それらを、マカロックの目録、『経済学文献』、ロンドン、1845年、のなかの彼の哀れな追従的多弁と比較せよ。〉〉 (全集第23b巻948-949頁)

  また『61-63草稿』でも言及は多いですが、一つだけ紹介しておきます。

 〈「以上のような政策は」、とドクター・プライスは言う、「一時代昔のものである。近代の政策はもっと上層階級の人々を利するものである、というのが実際のところである。その行き着くところはじきに明らかとなろう。すなわち、王国の住民はすべて、ジエントリ乞食だけに、あるいは貴族奴隷だけになってしまうだろう。(『生残年金についての考察』158ページ。)
  昔は土地占有者の数も多く、彼らはみな、自分自身のために労働する機会を今より多くもっていたのであるから、みずからすすんで他人のために働くような人の数はずっと少なかったし、日雇い労働の価格も高かったにちがいない、と結論してもなんらさしっかえないだろう。〉 (草稿集⑨627頁)

  最後に『資本論辞典』の説明も紹介しておきます。

  プライス Richard Price(1723-1791)イギリスの分離派の宗教家.1767年神学博士となったが,急進主義の思想家で,フランクリンやプリーストリの友人であった.…… 1776年《0bservations on the Nature of Civil Liberty》を著し.イギリスの植民地支配を批判してしてアメリカ独立運動に大きな役割を演じたが,1789年には非国教徒集会所で《Onthe Love Our Country》と題する有名な説教を行ない,当時勃発したフランス革命の正当怯とイギリスにおける議会改革の必要性を脱き,バークのフランス革命論執筆に動機を与えた. さらに《Observations on Reversionary Payments》(1769:3rd ed..1773)を箸わし,そのなかで. 1760年代以降大規模に展開された綜画連動が生み出した社会問題をとりよげて論評を加え,名誉革命以後の政策が商工業偏重で論家でり,綜画を法的に認めたため,耕地は大農に独占されて小農民が土地を収奪され,農梁生産力が破壊され.その結果,農産物価格が騰貴し,下層階級の生活維持が困難になり.かくて,一世紀以前にくらべてイギリスの国富と人口はいちじるしく減少したと主張した.このプライスの主張にたいしては多くの人々が反対したが.とくにヤングは,綜画と大農経営の擁護論を展開してもっとも精力的にプライス批判を行なった.これは人口論争と呼ばれるが,マルクスは『資本論』第l巻第24章で,プライスの主張が当時の農民と労働者の利益を代表し.素朴ながらも,資本の本源的蓄積過程の矛盾を鋭く摘出したものであるとして高く評価している。しかし,プラスの社会批判はこれに止まらず,重商主義の財政政策を批判し,《An Appeal to the PubIic on the Subject of the National Debt》(1762) において.減償基金制度の設置を提唱し,これは後にピットの財政改革に大きな影響を与えた. しかし. 『資本論』第3巻第24章では,このプライスの議論は,資本があたかもその生得の属性によって永遠に存続し. みずからを増殖する価値であるかのような表象にとらわれているものにすぎないと批判されている. 〉 (538頁)

  (ホ) 事実そのものは、そのほか多くの同時代の著述家たち、ことにジョサイア・タッカーによって確認されているのが見いだされる。

 ここで〈事実そのものは〉というのは、労働者が4日の賃金で1週間まるまる生活できるという事情などのことではないかと思います。タッカーについては、『資本論』ではやはり第24章の本源的蓄積のところに二度ほど出てきますが、具体的にその主張について詳しく論じたり引用されているものは見あたりませんでした。ただ『61-63草稿』には次のような一文がありました。MEGAの注解とともに紹介しておきます。

 〈{(1)ジョサイア・タッカーの諸著作
(1)〔注解〕ジョサイア・タツカー「貿易に附して、フランスと大ブリテンそれぞれにひきおこす有利と不利に関する小論』、第3版、ロンドン、1753年。序論、Ⅵページ。    「すべての商人によってめざされる主要な考え、または主眼は、物事の本位からして、またあらゆる国において、彼自身に有利な差額であるに違いない。しかし必ずしも、この差額が同じく国民に有利なものである、ということになるわけではない。」
  重商主義の貿易差額論に反対するけつこうな機知。(サブノートC、27ページ。)
  まず第一に、一般的過剰生産の可能性にたいする反対論。(同上。)
  人口〔は〕富。より多くの人間はより多〈の労働に等しい、そして労働は「一国の富」〔である〕。同上。
  より富裕な国は貨幣の流入等のゆえに、生産するものがより高くならざるをえない、というヒュームの理論にたいする反対論。(同上、28ページ。)}{国の価値。それを高くすることが、あらゆる交易の目的〔である〕。〉 (草稿集⑨657-658頁)

  また『資本論辞典』には次のような説明がありました。

  タッカー Josiah Tucker (1713-1799)イギリス国教教会の僧としてプリストルとグロースターとに居住.多くの経済・政治論説を執筆し,この活動によって著名であった.……『資本論』によれば,タッカーは'有能な経済学者'であり.とくに実践的感覚に鋭く,現状の把握のうえでも,たとえばイギリスの賃銀の実状について明確であった.しかし彼の自由貿易論には世界市場におけるイギリス産業資本の利己主義があらわれており,値民地放棄論もアメリカ人民の立場からのものではなく,政治的には頑固な保守派(その意味で'トーリー')として一貫した.これらがスミスと一線を画するところである.マルクスはしかし,アメリカ革命にたいしては自由主義者,フランス革命にたいしてはロマン主義者だったバークのような変節者にたいしては.その論敵タッカーの方を,'態度が正しい' (anständig) として尊重している.〉 (512-513頁)


◎第10パラグラフ(労働者を擁護するポスルスェートの主張)

【10】〈ボスルスウェートはなかんずく次のように言う。
  「私がこの簡単な所見を結ぶにあたって一言しないわけにはゆかないのは、もし労働者(industrious poor) が生活するために十分なだけを5日で受け取れるものならば彼はまる6日も労働しようとはしないだろう、という/あまりにも多くの人が口にするありふれた言いぐさについてである。このことから、彼らは、手工業者やマニュファクチュア労働者に絶えまない1週6日の労働を強制するためには、租税やその他なにかの手段によって生活必需品を高価にすることさえ必要だということを結論する。失礼ながら、私はこの王国の労働する人民の永久的な奴隷状態(the perpetual slavery of the working people) のために槍(ヤリ)を構えるこれらの偉い政治家たちとは違う意見をもっている。彼らは“all work and no play"(働くだけで遊ばないとばかになる) ということわざを忘れている。イギリス人は、これまでイギリス商品に一般的な信用と名声とを与えてきた彼らの手工業者やマニュファクチェア労働者の独創と熟練とを自慢するではないか? それはどういう事情のおかげだったか? おそらく、われわれの労働民衆が彼らの特有のやり方で気晴らしをするということ以外のなにのおかげでもないだろう。もしも彼らが1週にまる6日絶えず同じ仕事を繰り返しながら1年じゅう働きとおすことを強いられるならば、それは彼らの独創力を鈍らせて、彼らを元気にし敏活にするよりもむしろ愚鈍にするのではないだろうか? そして、このような永久的な奴隷状態によっては、われわれの労働者はその名声を維持するどころかそれを失ってしまうのではないだろうか?……そんなにひどくこき使われる動物(hard driven animals) からは、われわれはどんな種類の技能を期待できようか?……彼らの多くは、フランス人なら5日か6日かかる労働を4日でやる。しかし、もしイギリス人が永遠の苦役労働者でなければならないなら、彼らはフランス人よりもっと退化する(degenerate) おそれがある。わが国昆が戦場の武勇で名をあげるとき、われわれは、それは一面では国民の腹のなかにあるイギリスの上等なローストビーフとプディングとのおかげであり、他面ではそれに劣らずわれわれの立憲的な自由の精神のおかげである、と言うではないか? それならば、われわれの手工業者やマニュフアクチュア労働者のすぐれた独創力やエネルギーや熟練は、なぜ、彼らが彼らの特有のやり方で気晴らしをする自由のおかげであってはならないのか? 私は希望する、彼らがけっしてこれらの特権を失わないであろう/ことを、また彼らの技能の源(ミナモト)であると同時に彼らの元気の源でもある良い生活をも失わないであろうことを!(122) 」〉 (全集第23a巻359-361頁)

  このパラグラフは全体がほぼポスルスェートの著書からの引用だけで、しかも読めば分かるような内容なので、文節に分けて平易に書き直して考察する必要はないでしょう。
  ポスルスェートは1週間の生活費を5日の労働で受け取れるなら、6日目も働く必要ない、それどころかその与えられた余暇は労働者の創造力を豊かにして、むしろイギリスの商品の一般的な名声と信用を与えているのだと述べています。奴隷状態からは労働者の独創性や熟練は生まれないのだ、等々。

  〈“all work and no play"(働くだけで遊ばないとばかになる) ということわざ〉という部分には、新日本新書版には次のような訳者注がついています。

  〈17世紀のJ・レイの『イギリス格言集』に収められた有名な諺〉 (475頁)

  なおポスルウェイトについては原注122を参照してください。


◎原注122

【原注122】〈122 ポスルスウェート、同前、『第一序論』、14ページ。〉 (全集第23a巻361頁)

  これは第10パラグラフで引用されているポスルスェートの引用文の典拠を示すものです。
『資本論』ではこれ以外にポスルスェートへの言及は見あたりません。『61-63草稿』の草稿集⑨の文献目録ではポスルスェートの著書として〈『商工業大辞典.大きな追加と改善を付す』,ロンドン, 1774年 〉と〈『大ブリテンの商業的利益の解明と改善....』,第2版,ロンドン,1759年〉の二つが紹介されています。そして後者の一文が次のように引用されています。

  ポスルスウエイトは、『大ブリテンの商業的利益の解明と改善……』、第2版、ロンドン、1759年、という一つの著書において、次のように述べている。「重税は必需品の価格を上昇させるに違いないし、必需品の高価格は労働の価格を上昇させるに違いないし、さらに労働の高価格は諸商品の価値を上昇させるに違いない。だから、労働が最も安価な国は、つねに他の諸国よりも安い値で売ることができ、またそれらの国々との取引で儲けることができるのである。」〉 (草稿集⑨686頁)

  これは労働者の生活必需品の価格を引き上げて、労働者が1週間生活するためには1週間まるまる労働に縛りつけられねばならないようにするために、生活必需品への課税を主張したカミンガムに対する反論として書かれているものです。


◎第11パラグラフ(『産業および商業に関する一論』の著者〔カミンガム〕の主張)

【11】〈(イ)これにたいして、『産業および商業に関する一論』の著者は次のように答える。
(ロ)「もし週の7日めを休みにすることが神のおきてとみなされるならば、それには、他の週日が労働に」(というのは、すぐ次にわかるように、資本にということである)「属するということが含まれているのであって、この神の命令を強行することが、残酷だと言って叱られるわけはない。……およそ人類は生来安楽と怠惰とに傾くということ、このことを、われわれは、不幸にも、われわれのマニュファクチュア細民の行動から経験するのであって、この細民は、生活手段が騰貴する場合のほかは、平均して週に4日より多くは労働しないのである。……1ブッシェルの小麦が労働者の全生活手段を代表し、それが5シリングで、労働者は自分の労働によって毎日1シリングかせぐものと仮定しよう。その場合には、彼は1週に5日だけ労働すればよい。もし1ブッシェルが4シリングなら、4日だけでよい。……ところが、労賃はこの国では生活手段の価格に比べてもっとずっと高いのだから、4日労働するマニュファクチュア労働者は余分なかねをもっていて、そのかねで週の残りは遊んで暮らすのである。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態ではないということを明らかにするためには、私の述べたことで十分だと思う。われわれの農業労働者はこれを実行しているが、どこから見ても彼らは労働者(labouring poor)のうちで最も幸福な人々である(123) 。しかし、オランダ人はこれをマニュファクチュアで行なっていて、非常に幸福な国民のように見える。フランス人は、多くの休日があいだにはさまらないかぎり、それを行なっている(124)。……ところが、わが国の庶民は、自分にはイギリス人として生得の権利によって、ヨーロッパのどこかほかの国における」(労働者民衆) 「よりももっと自由で独立であるという特権がある、という固定観念を自分の頭に植えつけた。ところで、この観念は、それがわれわれの兵士の勇気に影響を及ぼすかぎりでは、多少/は有益であるかもしれない。しかし、マニュファクチュア労働者は、そのような観念をもつことが少なければ少ないほど、彼ら自身のためにも国家のためにもよいのである。労働者はけっして自分たちが自分たちの上長から独立している(independent of their superiors) と考えてはならないであろう。……おそらく総人口の8分の7が財産をほとんどかまたはまったくもっていないわが国のような商業国では、民衆を勇気づけることは格別危険である(125)。……わが国の工業貧民が、いま彼らが4日でかせぐのと同じ金額で6日働くことに甘んずるようになるまでは、救済は完全ではないであろう(126)。」
(ハ)この目的のためにも、また「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも、同じくまた「救貧税の軽減や勤勉精神の助長やマニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠義者〕は、公の慈善に頼っているこのような労働者を、一口に言えば、受救貧民〔paupers〕を、一つの「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse〕に閉じ込めるというきわめつきの方策を提案する。(ニ)「このような家は恐怖の家(House of Terror) にされなければならない(127)。」(ホ)この「恐怖の家」、この「救貧院の典型」では、「毎日14時間、といっても適当な食事時間がはいるので、まる12労働時間が残るように」労働が行なわれなければならない(128)。〉 (全集第23a巻361-362頁)

  このパラグラフの大部分は『産業および商業に関する一論』からの引用ですが、最後にマルクス自身の文章として関連したものが書かれていますので、文節に分けて(ただし引用はそのままに)検討しておきます。なおマルクスはこの著書が匿名で書かれていることもあり、その著者の名前は伏せたまましていますが、『61-63草稿』では明確に著者はカミンガムだと述べており、以下、カミンガムとして論じていきます。

  (イ)(ロ) これにたいして、『産業および商業に関する一論』の著者は次のように答えます。
  「もし週の7日めを休みにすることが神のおきてとみなされるならば、それには、他の週日が労働に」(というのは、すぐ次にわかるように、資本にということである)「属するということが含まれているのであって、この神の命令を強行することが、残酷だと言って叱られるわけはない。……およそ人類は生来安楽と怠惰とに傾くということ、このことを、われわれは、不幸にも、われわれのマニュファクチュア細民の行動から経験するのであって、この細民は、生活手段が騰貴する場合のほかは、平均して週に4日より多くは労働しないのである。……1ブッシェルの小麦が労働者の全生活手段を代表し、それが5シリングで、労働者は自分の労働によって毎日1シリングかせぐものと仮定しよう。その場合には、彼は1週に5日だけ労働すればよい。もし1ブッシェルが4シリングなら、4日だけでよい。……ところが、労賃はこの国では生活手段の価格に比べてもっとずっと高いのだから、4日労働するマニュファクチュア労働者は余分なかねをもっていて、そのかねで週の残りは遊んで暮らすのである。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態ではないということを明らかにするためには、私の述べたことで十分だと思う。われわれの農業労働者はこれを実行しているが、どこから見ても彼らは労働者(labouring poor) のうちで最も幸福な人々である。しかし、オランダ人はこれをマニュファクチュアで行なっていて、非常に幸福な国民のように見える。フランス人は、多くの休日があいだにはさまらないかぎり、それを行なっている。……ところが、わが国の庶民は、自分にはイギリス人として生得の権利によって、ヨーロッパのどこかほかの国における」(労働者民衆) 「よりももっと自由で独立であるという特権がある、という固定観念を自分の頭に植えつけた。ところで、この観念は、それがわれわれの兵士の勇気に影響を及ぼすかぎりでは、多少/は有益であるかもしれない。しかし、マニュファクチュア労働者は、そのような観念をもつことが少なければ少ないほど、彼ら自身のためにも国家のためにもよいのである。労働者はけっして自分たちが自分たちの上長から独立している(independent of their superiors) と考えてはならないであろう。……おそらく総人口の8分の7が財産をほとんどかまたはまったくもっていないわが国のような商業国では、民衆を勇気づけることは格別危険である(125)。……わが国の工業貧民が、いま彼らが4日でかせぐのと同じ金額で6日働くことに甘んずるようになるまでは、救済は完全ではないであろう。」

  これはカミンガムの著書から直接引用されたものというより、部分的に引用しながら、マルクスによって彼の主張を要約してまとめているもののように思えます。
 カミンガムは週7日目を休日と神が定めたのなら、あとの6日は労働すべきだというのも神の思し召しだと述べ、だから週6日を資本に捧げることは神の意志であって、残酷だなどいうことはないだなどと勝手な解釈を述べています。これは『61-63草稿』の抜粋を見ると、次のように述べています。

  〈「7日ごとに1日休日とすることが神聖な制度と考えられているのであれば、それは、他の6日を労働にあてることを意味するのであるから、労働を強制することは、当然にも、無慈悲なこととは考えられない、であろう。」(41ページ。)〉 (草稿集⑨頁)

  〈およそ人類は生来安楽と怠惰とに傾く〉というとらえ方は、カミンガムの立場を象徴しています。先のポスルスェートが余暇は労働者の独創性や、精力、熟練をもたらすという考えと対照的です。
  こうしたカミンガムの考えですから、だから4日分の賃金で1週間生活できるなら、残り2日間を労働者は働こうとしないのだ、だから賃金を低く抑えるか、あるいは生活必需品の価格を引き上げて、労働者が6日間目一杯働かないと生活できないようにすべきだ、というのが彼の考えなのです。
  そしてオランダ人やフランス人はそれをやっているではないか、それなのにイギリス人はなぜか自分たちはもっと自由で独立しているという固定観念にとらわれている。しかし労働者が自分は自分たちの上位の者から独立しているなどという観念は危険極まりないものだ、等々と述べています。
  マルクスはこのカミンガムの著書を重要視し、あちこちで引用していますが、『61-63草稿』でもかなりのスペースを割いて抜粋しています(付属資料参照)。その最初のところでこの著書の意義について次のように述べています。

 〈{〔カニンガム〕『貿易と商業に関する一論。わが国の製造業における労働の価格に影響を及ぼすと考えられている諸税に関する考察を含み、云々』、ロンドン、177O年。(この著作の本質的な中味は、同じ著者によってすでに、『……諸税に関する考察』、ロンドン、1765年〔、に述べられている〕。)この男は、当時農業労働者たちが置かれていたのと同じ「幸福な状態」に復帰するに違いない製造業労働者にたいして、非常に憤激している。彼の著作は非常に重要である。その著作からは、大工業が採用される直前でもなお、製造業においては規律が欠如していたこと、人手の供給がまだまったく需要に照応していなかったこと、労働者はまだけっして彼の全時間を資本に属するものと見なしていなかったことがわかる。(当然にも、当時はまだ労働者たちは粗野であった。だがそれも、彼らの生まれつきの上位者たちほどではなかった。)こうした弊害を除去するために、この著者は、生活必需品にたいする重税で、凶作の場合と同様に労働者に労働を強制すること、労働者のあいだの競争を強化するための一般的な帰化、そしてまた鋳貨の偽造(貨幣の引上げ)等々を推奨する。この勇ましい男が要求したことは、機械(マシネリー)をのぞいてすべて、まもなく実際に出現した。すなわち、食糧品の高価格、莫大な課税、通貨の減価、そして、賃金水準の引下げへ向かって作用し、また「イギリスのたくましい貧農」が体現していた「貧窮」と並んでようやく1815年に工場〔労働者〕のルンペン化をもたらした諸事情そのものが出現したのである。以下の諸章句はさしあたり、部分的には、製造業労働者が当時実際に働いていた労働時間の問題として、また部分的には、製造業労働者に彼らの力の許すかぎり労働することを強制しようとする(また製造業労働者に勤勉の習慣、労働の恒常性を身につけさせようとする)資本の性向の問題として重要である。〉 (草稿集⑨684頁)

  なお〈もし週の7日めを休みにすることが神のおきてとみなされるならば〉という部分には、新日本新書版では〈〔創世記、2・1-3、出エジプト記、23・12など〕〉(475頁)という説明文が挿入されています。

  (ハ)(ニ)(ホ) この目的のためにも、また「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも、同じくまた「救貧税の軽減や勤勉精神の助長やマニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠義者〕は、公の慈善に頼っているこのような労働者を、一口に言えば、受救貧民〔paupers〕を、一つの「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse〕に閉じ込めるというきわめつきの方策を提案しています。「このような家は恐怖の家(House of Terror) にされなければならない(127)。」この「恐怖の家」、この「救貧院の典型」では、「毎日14時間、といっても適当な食事時間がはいるので、まる12労働時間が残るように」労働が行なわれなければならないというのです。

  このカミンガムという男は、どうしょうもないほど悪辣な根性の持ち主ですが、救貧院のようなところに収容されざるを得ない人たちに対しても、それに投ずる税の軽減のためにも、また〈「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも〉〈「理想的な救貧院」〉に閉じ込め、強制労働をさせることを提案しているというのです。しかもこの労役場は〈「恐怖の家」〉にならなければならないなどとも述べているようです。この問題についても『61-63草稿』で次のように抜粋・紹介されています。

  労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)
 彼(同様にポスルスウエイトも見ること)が一方で、1週間に6日の労働は製造業で働く労働者にとってけっして「奴隷制」ではないということを証明し、オランダでは製造業において貧民が〔週に〕6日労働するということを特記すべきこととして挙げているのを見るならば、また、彼が他方で、彼のいう「恐怖の家」、「理想的な労役場」において12時間の労働を提案する場合にも、さらには、工場における、児童、婦人、若年層の労働時間を12時間に制限すること(1833年?)がひとつの恐るべき暗殺計画であるとしてユアや彼に同調する雇い主たち〔Brodgeber〕によって反対されたことと、フランスの労働者が労働時間を12時間に短縮したことを2月革命のたぐいまれなる功績と考えたこと(『工場監督官報告書』を見よ)とを対照するならば、資本主義的生産様式によって強制された労働時間(労働日)の延長が手にとるようにわかるのである。〉 (草稿集⑨689頁)

  なお〈資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠義者〕〉の部分は、全集版ではこのように説明文が挿入されていますが、新日本新書版では〈エッカルト〉に次のような訳者注が付いています。

  〈ドイツの伝説に出てくる長いひげの老人で、危険などを警告する人物。格言やゲーテの物語詩で著名。〉 (477-478頁)

  ただフランス語版では〈資本に忠実なわが戦士は〉(江夏・上杉訳281頁)とあるだけです。


◎原注123

【原注123】〈123 (イ)『産業および商業に関する一論』。(ロ)彼自身が、その96ページでは、すでに1770年にはイギリスの農業労働者の「幸福」がなんであったか、を語っている。(ハ)「彼らの労働力(their working powers)は、いっでも極度の緊張状態に(on the stetch)ある。彼らは彼らがやっているよりもそまつな暮らしをすることはできないし(they cannot live cheaper than they do)、またそれより激しく労働することもできない(nor work harder)。」〉 (全集第23a巻362頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 産業および商業に関する一論』。彼自身が、その96ページでは、すでに1770年にはイギリスの農業労働者の「幸福」がなんであったか、を語っています。「彼らの労働力(their working powers)は、いっでも極度の緊張状態に(on the stetch)ある。彼らは彼らがやっているよりもそまつな暮らしをすることはできないし(they cannot live cheaper than they do)、またそれより激しく労働することもできない(nor work harder)。」

  これは〈われわれの農業労働者はこれを実行しているが、どこから見ても彼らは労働者(labouring poor)のうちで最も幸福な人々である(123) 。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり1週間に6日働くことは、イギリスでも農業労働者はそれをやっているのだ、しかも彼らは〈最も幸福な人々〉だというのに対して、マルクスは彼がいう農業労働者の「幸福」というのもがどういうものかは、彼自身がそれについて語っているのだ、とその著書からの引用をしめしているわけです。
  そこでは当時の農業労働者が極度の緊張状態におかれ、これ以上は無理だというほど粗末なくらしをやり、それ以上に激しく労働することは不可能だというほどの労働にこき使われているのだと彼自身が語っているということです。
  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈「農業に雇用されているわが国の労働する人々は、それ〔1週間に6日の中位の労働〕をしているのであり、また彼らは、どこから見ても、わが国の労働するすぺての貧民中で最も幸福である。(この男は、まさにこの同じ著書のあとのほうで、こうした『幸福な』者たちが、すでにほぼ肉体的最低限に到達しており、彼らは少なくとも、賃金の引上げなしに必需品にたいする課税のそれ以上の増大にけっして耐えられない、ということを認めている。)〉 (草稿集⑨687頁)
  〈労働者は、より多く働いてもより多くのものを得てはならない。というのは、必要が、相変わらず彼らの労働の刺激剤であり続けなければならないからである。すなわち、彼らは貧しいままでなければならないが、しかしまた、「商業国家」--これはすなわち、彼らのブルジョアジーの言い換えなのだが--のを生み出さねばならないのである。「節度ある生活と恒常的な雇用こそ、貧民にとっては理性的な幸福に、国家にとっては富裕と権勢とに直結する途なのである。」(54ページ。)
  彼が貧民の「理性的な幸福」という言葉てどのようなことを理解しているにせよ、以上からわかることは、彼が農業「労働者」を「最も幸福な人々」として描いたということである。彼の著書の別の簡所で、彼自身次のように語っている。
  「農業労働者……は、ところが、……食糧品が最も安値の状態にあるまさにそのときに、生活が落ち込むのである。彼らはつねに全力を出しているのであって、彼らは、今以上に安く生活することもできないしよりきびしい労働をすることもできない。……しかし、これは、製造業労働者の場合とはまったく違っている。」(96ページ。}したがって、これこそが、貧民の「理性的な幸福」なのである。〉 (草稿集⑨690頁)


◎原注124

【原注124】〈124 (イ)プロテスタントは、伝統的な休日をほとんどすべて仕事日にしたことによっても、すでに資本の発生史の上で一つ重要な役割を演じている。〉 (全集第23a巻362頁)

  (イ) プロテスタントは、伝統的な休日をほとんどすべて仕事日にしたことによっても、すでに資本の発生史の上で一つ重要な役割を演じています。

  これは〈フランス人は、多くの休日があいだにはさまらないかぎり、それを行なっている(124)。〉という一文に付けられた原注です。つまりフランスはカソリックが支配的だったので、キリスト教にもとづく伝統的な休日がまだあったということのようです。それに比べればイギリスはプロテスタントになって、それらの休日をすべて労働日にすることによって、それだけ資本の発生史の上で重要な役割を果たしているということです。
  マルクスは『61-63草稿』のなかで、カンティヨンの著書から次のような見出しを付けて引用しています。

  プロテスタンテイズムは剰余労働を増大させるためのひとつの手段でもあった
  「……プロテスタンテイズムを採用したこれらの国々は、……ローマ・カトリック諸国では人々が休息をとる祭日、住民の労働をほとんど1年の8分の1だけ減少させる祭日/を、多数廃止したことによる利益を享受している。」(カンティヨン、『商業一般の性質に関する小論』、231ページ。)〉(草稿集⑨700-701頁)

  またマルクスは『資本論』の他のところでもプロテスタントとカトリックとを対比して、次のように述べています。

  〈重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」〔“The Scotch hate gold"〕紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。〉 (全集第25b巻765頁)


  ((7)へ続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(7)

2023-10-20 15:52:19 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (7)



◎原注125

【原注125】〈125 『産業および商業に関する一論』、41、15、96、97、55、56、57ページ。〉 (全集第23a巻頁363)

  これはそれ以前の引用部分の典拠を示すものといえます。このようにページ数が前後しているのを見ても、第11パラグラフのカミンガムの著書からの引用文は、マルクス自身の手による適宜な抜粋とまとめと言えるでしょう。付属資料に『61-63草稿』におけるマルクスによるカミンガムの著書からの抜粋を長く紹介していますので、それを参照してください。


◎原注126

【原注126】〈126 同前、69ページ。ジェーコブ・ヴァンダリントはすでに1734年に、労働民衆の怠惰についての資本家の苦情の秘密は、ただ単に、資本家が同じ賃金で4労働日の代わりに6労働日を要求したということでしかない、と説明した。〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈わが国の工業貧民が、いま彼らが4日でかせぐのと同じ金額で6日働くことに甘んずるようになるまでは、救済は完全ではないであろう(126)。〉という本文のカミンガムからの引用文につけられた原注です。カミンガムの時代は、まだ労働者は資本に形式的に包摂されただけで、資本の経済的な支配力は十分ではなく、生産手段と労働力との分離も不十分だったので、まだまだ労働者は独立していたので、如何にして労働者を生産へと駆り立て、労働の習慣を付け、4日で稼ぐのと同じ賃金で、つまり低い賃金でも6日働くのが当たり前というふうに習慣づけることが必要だというのがカミンガムの主張なわけです。
  それに対して、マルクスはすでに1734年につまり1730年のカミンガムの著書が出た当時において、労働につこうとしない民衆の怠惰についての資本家の苦情(それを代弁しているのがカミンガムなのですが)の真意は、4労働日の代わりに6労働日を要求していることでしかない、と喝破したというのです。
  同じように、『草稿集⑨』におけるカニンガムからの一連の引用のなかの一文で、マルクスは次のように書いています。

  〈当時、労働にたいする需要がその供給以上に急速に増大していた、という事実は、次の文章から見てとれる。(すでにヴァンダリント、またのちにはフォース夕、等が、ブルジョアは賃金をより高くすることでより多くの労働量を調達するということに抵抗することに気づいていた。)
  「わが王国における怠惰のもう一つの原因は、十分な数の働き手が不足していることである。(27ページ。)
  もろもろの製造業にたいする異常な需要によって労働者が不足するようになる場合には、労働者はつねに自分たち自身の責任(そんなものはあるはずがなかろう)を感じるし、それを彼らの親方に同じように感じきせるであろう。ところが、こうした場合に、一群の労働者が1日じゅう一緒に仕事を怠けることによって結託して彼らの雇用者を苦しめるほど、これらの人々の性向が堕落しているのは驚くべきことである。」(27、28ページ。)(この「驚くべき」事実とこの類まれなる「堕落」について、ヴァンダリントとフォースタを参照すること。)「そうしたことは、小麦やその他の必需品が高価な場合にはけっして起こらない。つまり、その場合には、労働が非常に豊富であり、労働することがぜひ必要となるので、そのように自然に背いた結託は許されないのである。」(28ページ。)〉 (『草稿集』⑨694頁)

  なお新日本新書版では〈1734年〉の部分に次のような訳者注が付けられています。

  〈1734年は、ヴァンダリントの唯一の著作である『貨幣万能論』の刊行された年であるが、同書には勤労者の怠惰の非難にたいする反論しか見あたらない。浜林・四元訳156ページ以下参照〉 (478頁)


◎原注127

【原注127】〈127 同前、242、243ぺージ。「このような理想的な救貧院は、『恐怖の家』にされなければならないのであって、貧民がたっぷり食わされ、あたたかくきちんと着せられ、ほんのわずかしか働かないというような、貧民の避難所にされてはならないのである。」〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈この目的のためにも、また「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも、同じくまた「救貧税の軽減や勤勉精神の助長やマニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠義者〕は、公の慈善に頼っているこのような労働者を、一口に言えば、受救貧民〔paupers〕を、一つの「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse〕に閉じ込めるというきわめつきの方策を提案する。「このような家は恐怖の家(House of Terror) にされなければならない(127)。〉というカミンガムからの引用文につけられた原注です。まずそれらの引用分の典拠として242、243ページが示され、さらにカミンガムからの引用文が追加されています。
  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

 労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[-243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉 (草稿集⑨689頁)


◎原注128

【原注128】〈128 “In this ideal workhouse the poor shall work 14 hours in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour" (同前。〔260ページ。〕)彼は言う、「フランス人はわれわれの熱狂的な自由の観念を笑っている」と。(同前、78ページ。)〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈この「恐怖の家」、この「救貧院の典型」では、「毎日14時間、といっても適当な食事時間がはいるので、まる12労働時間が残るように」労働が行なわれなければならない(128)。〉という本文に付けられた原注です。
  初版や全集版やフランス語版では英文がそのまま紹介されていますが、新日本新書版では次のようになっています。

  〈(128)同前(260ページ)。「フランス人は」--と彼は言う--「われわれの熱狂的な自由の観念をせせら笑っている」(同前78ページ)。〉 (477頁)

  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  労働階級は、彼らの上位者たちへの依存の念をもたなければならない。
  「しかし、製造業に従事するわが国の人々は、自分たちはイギリス人として、ヨーロッパのいかなる国におけるよりも自由で独立しているという生得の特権をほしいままにしている、という考えを抱いてきた。ところが今や、この考えは、わが国の軍隊を勇気づけるかぎりていくらか役に/立っかもしれないが、製造業に従事する貧民がこのような考えを抱かないほうが彼ら自身にとっても国家にとっても得策であることはまちがいないのである労働する人々は自分たちが彼らの上位者たちから独立しているなどとけっして考えてはならない。(56ページ。)おそらく全体の8分の7までがほとんどまたはまったく財産をもたない人々である、わが国のような商業国家で、下層民に活力を与えるのはきわめて危険である。(57ページ。)食糧品やその他の必需品の価格によって規定されるのは、労働の量であって、その価格ではない。つまり、必需品の価格を非常に低く低下させるならば、当然それに対応して労働の量が減少する。(48ページ。)人間というものが一般に、本来的に安楽と怠惰を好むものであるというのが真実であることは、食糧品が非常に高価になるようなことでもないかぎり、平均的にいって週に4日以上は働かないような、製造業に従事するわが国の大衆(下層民)の行状から、残念にも見てとれることである。」(15ページ。)〉 (草稿集⑨687-688頁)
  〈「イギリスの下層の人々は、自由についてのロマンティクな考えから、一般に、彼らに強制されるものをすべて拒絶し、それらすべてに反抗する。だから、処罰にたいする恐れを抱かせることによりある賃金である時間働くことを人々に強いることはできるとしても、仕事をきちんとやるように強いることはできない。(92ページ。)一般的な勤勉を強制しようとするいかなる計画にあっても、必要を基礎としなければならないのであるが、それにもかかわらず、イギリスの大衆の考えと性向を考えるならば、それは、議会のそうした法律がやるようには完全かつ直接に核心に触れるべきではないように思われる。というのは、そうした法律を実行すると、ほとんどつねに、不法な結託、暴動および混乱が生じてきたからである。できることなら、そうした法律の効果は、ほとんど気づかれずにまた力ずくのかたちをとらずに生み出されるべきである。」(93ページ。)〉 (草稿集⑨700頁)


◎第12パラグラフ(1770年の「理想的救貧院」、「恐怖の家」が強制した労働時間と63年後に長時間の児童労働を強制的に短縮させた労働時間とが同じ12時間という事実、それだけ長時間労働が歴史的に一般化してきたということである)

【12】〈(イ)「理想的救貧院」では、すなわち1770年の恐怖の家では、1日に12労働時間! (ロ)それから63年後の1833年、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳から18歳までの少年の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように見えた! (ハ)1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆*は一様に叫んだ、「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ!(129)」と。(ニ)チューリヒでは、10歳以上の子供の労働は12時間に制限されている。(ホ)アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮された(130)。(ヘ)なんという「1770年以来の進歩」だろう、マコーリならば「大喜びで」こう叫ぶことであろう!

  * 第三版および第四版では、民衆、となっている。〉 (全集第23a巻363頁)

  (イ)(ロ) 「理想的救貧院」では、すなわち1770年の恐怖の家では、1日に12労働時間です! それから63年後の1833年、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳から18歳までの少年の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように見えました! 

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈1日に12労働時間、これが1770年の模範的な救貧院、恐怖の家での理想、すなわち極地である! 63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に短縮した/ときには、イギリス工業の弔鐘が鳴ったかのように思われた。〉 (江夏・上杉訳281-282頁)

  ここではカミンガムが提唱した(1770年というのはカミンガムの著書が出た年)、「理想的救貧院」について、彼はそれは「恐怖の家」でなければならないとして労働時間の延長を強制しようとしたその労働時間が1日12時間だったというのです。つまり労働時間の延長を、しかも成年の労働者に強制して達成したのが、12時間であったというのです。次のように言ってました。

  〈「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉 (草稿集⑨689頁)

  ところがそれから63年たって、1833年にイギリス議会が四つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日を12労働時間に短縮したときには、まるでイギリス工業の弔鐘がなったかのように思われたということです。
  しかしそれは63年まえには、成年の労働者の労働時間、しかもやっと強制的に延長された「恐怖の家」の、つまり究極の長さの労働時間だったというわけです。
  次の第6節でマルクスは〈やっと、1833年の工場法--綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場に適用される--以来、近代産業にとって標準労働日が現われはじめる。〉(全集第23a巻366頁)と述べています。1833年というのはそういう年なのです。

  (ハ) 1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆は一様に叫びました。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ! と。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈1852年にルイ・ボナパルトが、ブルジョアジーを味方につけるために法定労働日に触れようとしたとき、フランスの労働者階層は異口同音に叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の法律のうちでわれわれに残されている唯一の善いものなのだ」。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  つまり労働日を12時間に制限することは、フランスの労働者にとっても労働者が闘いによって勝ち取った重要な成果なのだということです。
  だから1848年の革命が敗北し、権力を握ったルイ・ボナパルトがブルジョア達を見方につけるために、法定労働日に手を着けようとしたとき、労働者たちは共和国の勝ち取ったもののなかで唯一残されているものだと反発したということです。これについては原注129で詳しく述べられています。

  (ニ)(ホ) チューリヒでは、10歳以上の子供の労働は12時間に制限されています。アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮されましたた。

  イギリスやフランスだけではなく、スイスでも、児童に対しては12時間労働が標準労働日として勝ち取られているということです。

  (ヘ) なんという「1770年以来の進歩」でしょうか。マコーリならば「大喜びで」こう叫ぶことでしょう!

  フランス語版は次のようになっています。

  〈「1770年以来なんという進歩だ!」と、マコーリなら「大喜び」で叫ぶことであろう。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  これらは1770年に成年労働者になんとか強制した12時間労働が、今や児童の標準労働日として決まっているということは、何という大きな進歩でしょうか、とマコーリならぱ大喜びでこう叫ぶでしょうと言われています。
  マコーリというのは原注120に出てきた人物のことです。そこでも〈イギリスの歴史をウイッグ党とブルジョアとの利益に合うように偽造したマコーリ〉とか〈このスコットランド生まれのへつらいもので口じょうずな同じマコーリ〉などと言われていました。
  彼は原注120で紹介されていますように、児童労働は古くから一般的だったなどと歴史をねじ曲げたのですが、確かに彼の時代にはそれは歴史の偽造だったのですが、今日(19世紀の半ば)では彼がブルジョア達に奨励した児童労働は一般的となり、むしろその労働時間の制限が問題になるほどですから、児童搾取を奨励したマコーリにとっては今日ほど喜ばしいことはないとマルクスは皮肉を込めて述べているわけです。


◎原注129

【原注129】〈129 (イ)「1日に12時間より長い労働に彼らが反対したのは、特に、この時間を確定した法律が、共和国の立法のうち彼らの/手に残った唯一の善事だからである。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、80ページ。)(ロ)1850年9月5日のフランスの12時間法、それは1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア化版であるが、すべての作業場〔Ateliers〕に無差別に適用される。(ハ)この法律以前には、フランスの労働日は無制限だった。(ニ)労働日は工場では14時間、15時間からもっと長時間にわたるものだった。(ホ)『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』を見よ。(ヘ)このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではないが、彼は労働者の状態の調査を政府から委託されていたのである。〉 (全集第23a巻363-364頁)

  (イ) 「1日に12時間より長い労働に彼らが反対したのは、特に、この時間を確定した法律が、共和国の立法のうち彼らの手に残った唯一の善事だからである。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、80ページ。)

  これは〈1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆は一様に叫んだ、「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ!(129)」と。〉という本文に付けられた原注です。

  つまり本文で引用の形で述べているものは『工場監督官報告書』に記載されているものだということです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 1850年9月5日のフランスの12時間法、それは1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア化版ですが、すべての作業場〔Ateliers〕に無差別に適用されました。この法律以前には、フランスの労働日は無制限だったのです。労働日は工場では14時間、15時間からもっと長時間にわたるものだったのです。

  1850年の共和国による12時間法というのは、1848年の革命の臨時政府が布告したものを受け継ぎブルジョア化したものだったのですが、それでもそれはすべての作業場に一律に適用されるものだったということです。それ以前のフランスでは労働時間に制限はなく、14時間や15時間労働がまかり通っていたということです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間,がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕プランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。〉 (草稿集④349-350頁)

  (ホ)(ヘ) 『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』を見よ。このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではないが、彼は労働者の状態の調査を政府から委託されていたのである。

  フランス語版を紹介しておきます。

  〈ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級』を見よ。あの革命家のブランキ氏ではなく経済学者であるこのブランキ氏は、労働者の状態にかんする調査を政府から委嘱されていたのである。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  先に紹介しました『61-63草稿』ではこのブランキの著書からの引用があります。
  なおついでに指摘しておきますと、全集版は〈『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』〉となっていて、〈ブランキ氏著〉まで著者名のなかに入っているおかしさがありますが(これは初版も同じ)、フランス語版では訂正されています。
  新日本新書版では〈このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではない〉に次のような訳者注が付いています。

  〈経済学者のプランキは、革命家のブランキの兄〉 (479頁)

  全集第23a巻の人名索引には次のような説明があります。

  〈ブランキ,ジェローム-アドルフ Blanqui,Jérôme-Adolphe(1798-1854)フランスの経済学者,歴史家.革命家ルイ-オーギュスト・ブランキの兄.
  ブランキ,ルイ-オーギュストBlanqui,Louis-Auguste(1845-1881)フランスの革命家,ユートピア共産主義者.多くの秘密結社と陰謀の組織者,1830年の革命の積極的参加者.1848年の革命ではフランスの革命的プロレタリアートの指導者となり,陰謀組織による暴力的権力奪取と革命的独裁の必要とを主張した.36年間獄中ですごした。〉 (80-81頁)


◎原注130

【原注130】〈130 (イ)ベルギーは、労働日の取締りについても、ブルジョア的模範国としての実を示している。(ロ)ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日、外務省に次のように報告している。(ハ)「ロジエ大臣が私に説明したところでは、一般的法律も地方的取締りも、児童労働をどのようにも制限してはいない。政府は、過去3年間、会期ごとに、この問題に関する一法案を議会に提出しようと考えていたのであるが、そのつど、労働の完全自由の原則と矛盾するような立法にたいする疑い深い不安が、どうにもならない障害になったのである」!〉 (全集第23a巻364頁)

  (イ)(ロ)(ハ)  ベルギーは、労働日の取締りについても、ブルジョア的模範国としての実を示しています。ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日、外務省に次のように報告しています。「ロジエ大臣が私に説明したところでは、一般的法律も地方的取締りも、児童労働をどのようにも制限してはいない。政府は、過去3年間、会期ごとに、この問題に関する一法案を議会に提出しようと考えていたのであるが、そのつど、労働の完全自由の原則と矛盾するような立法にたいする疑い深い不安が、どうにもならない障害になったのである」!

  これは〈アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮された(130)。〉という本文に付けられた原注です。

  つまりイギリスやフランス、スイス、オーストリアでは、児童労働を12時間に短縮する法律が制定されているのに、ベルギーでは依然として何の制限もない状態が続いているということです。何度も労働時間を制限する法律について審議にのぼったのですが、〈労働の完全自由の原則と矛盾する〉という理由で頓挫したということです。〈労働の完全自由〉と言いますが、資本家が完全に自由に労働者を搾取するという原則のことでしょう。


◎第13パラグラフ(1770年には「理想」であった「恐怖の家」は、数年後にはマニュファクチュアの発展とともに現実となり、「工場」と呼ばれた)

【13】〈(イ)資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。(ロ)それは工場と呼ばれた。(ハ)そして、このたびは理想は現実の前に色あせたのである。〉 (全集第23a巻364頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立ちました。それは工場と呼ばれました。そして、それによって理想は現実の前に色あせたのです。

  1770年にカニンガムが『産業および商業に関する一論』で「理想的な労役場」と呼び、それを「恐怖の家」にすべきだと主張したものが、数年後にはマニュファクチュアの発展ととにも、現実のものになり、「労役場」ではなくて「工場」と呼ばれたが、その工場ではカニンガムの理想どころかそれをはるかに上回る長時間と苛酷な労働が強いられるようになったということです。かくして理想は現実の前に色あせたというのです。カニンガムは「恐怖の家」における理想の強制労働を12時間としたのですが、現実の「工場」では14時間や15時間がざらになったのですから。カニンガムの理想を現実がすでに乗り越えたということです。

  (付属資料№1へ続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(8)

2023-10-20 15:25:24 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (8)


【付属資料】No.1


●第1パラグラフ

《初版》

 〈「1労働日とはなにか?」資本が、日価値を支払って買う労働力を消費してもかまわない時間は、どれだけの長さであるのか? 労働日は、労働力そのものの再生産に必要な時間を越えて、どれだけ延長できるのか? これらの問いにたいしては、すでに見たように、資本はこう答える。労働日とは、1日まる24時間から、労働力が繰り返して役立つために絶対に欠くことのできないわずかな休息時間を、差し引いたものである。さしあたり自明なことであるが、労働者は、自分の一生活日の全体を通じて労働力以外のなにものでもなく、したがって、彼の自由にしうる時間はことごとく、自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものなのである。人間的教養のための、精神的発展のための、社会的職分の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的な生命力の自由な営みのための時間は、日曜日の安息時間でさえも--しかも、たとい安息日厳守の国においてであろうと(104)--、全くくだらぬものである! ところが、資本は、剰余労働を求める際限のない盲目的な衝動、人狼的渇望でもって、労働日の精神的な最大限度ばかりでなく純粋に肉体的な最大限度をも飛び越える。資本は、身体の成長や発育や健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気を吸い日光にあたるために必要な時間を奪う。資本は、食事時間をへずり、できればそれを生産過程そのものに合体させ、したがって、単なる生産手段としての労働者に食物があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に獣脂か油が、与えられるようなものである。生命力を集積し更新し元気づけるための熟睡を、資本は、すっかり疲れ果てた有機体の蘇生には欠くことのできない時間だけの無感覚状態に、圧縮す/る。ここでは、労働力の正常な維持が労働日の限界を規定するのではなく、逆に、労働力の最大可能な日々の支出が、たといこの支出がどんなに病的であり強制的であり苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を規定する。資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつものは、ひとえに、1労働日のうちに流動化しうる労働力の最大限だけである。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目的を達成するのは、食欲な農業家が土地の豊度の略奪によって土地収益の増加を達成するようなものである。〉(江夏訳291-292頁)

《フランス語版》

 〈1労働日とはなにか? 1日だけ資本によって価値が買われる労働力を、資本が消費する権利のある時間の長さとは、なんであるか? 労働日は、労働力の再生産に必要な労働を越えてどの点まで延長できるか? これらすべての問いにたいしては、すでに見ることができたように、資本はこう答える。労働日とは、まる24時間から、労働力がその役立ちを再開するために絶対に欠くことのできない少しばかりの休息時間を、差し引いたものである。自明なことだが、労働者は自分の生涯を通じて労働力以外のなにものでもなく、したがって、自分の自由にできる時間はすべて、法的にも自然的にも、資本および資本化することに属している労働時間である。教育のための、知的発展のための、社会的職分の遂行のための、親戚や友人との交際のための、肉体力や精神力の自由な活動のための時間は、日曜日の聖餐式のための時間でさえも--しかも主日を聖なるものとして祝う国(71)で--、全く愚にもつかぬことである! ところが、資本は、剰余労働をもとめるその過度な盲目的熱情のあまり、その貧欲のあまり、たんに労働日の精神的限度ばかりでなく、さ/らにその肉体的な極限をも踏み越える。資本は、身体の成長や発育や健康維持が必要とする時間を横取りする。資本は、外気を吸い日光を享受するのに用いられるべき時間を奪う。資本は食事の時間を出し惜しみ、この時間をできるかぎり生産過程そのものに合体させる。したがって、単なる労働手段の役に引き下げられた労働者には、ボイラーに石炭が、機械に油や獣脂が供給されるように、食物が供給される。資本は、生命力を更新して元気を回復させるのに充てられる睡眠時間を、鈍感な麻痺状態の最低時間--この最低時間を欠いては、使い果たされた有機体はもはや機能することができない--に圧縮する。労働力の正常な維持が労働日の制限にたいする掟として役立つどころか、逆に、労働力の一日の最大限の支出が、それがどんなにはげしくどんなに骨の折れるものであろうとも、労働者の休息時間の限界を規定する。資本は労働力の寿命を少しも気にかけない。資本がもっぱら関心をもつものは、1日のうちに支出することのできる労働力の最大限である。そして資本は、労働者の寿命を短縮することでその目的を達成するが、このことは、貧欲な耕作者が土地の沃度を汲みつくすことでその土地からもっと多量の収穫を得るのと同じである。〉(江夏・上杉訳267-268頁)

《イギリス語版》イギリス語版は途中原注が間に挟まっているが、それは別途原注のところに移しておく。

  〈(1) 「労働日とは何か? 資本家が購入した労働力の価値を、どの程度の時間的長さの間、消費することが許されるのか? 労働力そのものの再生産のために必要な時間を越えて、どの程度まで労働時間の拡張が許されると言うのか? 」これらの質問に対する資本家の答えるところは、すでに見てきたように、次のようなものである。すなわち、労働日は全24時間を意味する。それなくしては、労働力がその活用を絶対的に拒否する、僅かな休息の時間を控除はするが。であるから、労働者は、彼の全生活全時間を通して、労働力以外のなにものでもないことは自明である。であるから、彼が持っている時間は、ごく当たり前のこととして、法的な労働時間としても、資本の自己拡大のために捧げられたものである。学習のための時間、教養充実のため、社会的な役割のため、社交のため、自身の肉体的精神的な活動としての自由な遊びのため、日曜日の安息のため (そして、それがなんと、安息日を厳粛に守るキリスト教徒の国なのに! ) の時間は、月明かりのごとき代物、どうでもいいことである。
  まさに、資本の盲目的で抑制の効かない、剰余労働への狼人間的渇望をもって、道徳的範囲を越えるのみではなく、労働日としての、単に肉体的な限界のギリギリの範囲すらも踏み越える。それは、成長のための時間をも、発達のための時間をも、体の健康維持の時間をも強奪する。それは、新鮮な大気や日光に当たるために必要な時間をも盗む。それは、食事時間を値切り、しかもそれを生産過程そのものにできる限り組み込む。かくて、労働者に対する食事は、ボイラーに石炭を放り込むのと同じく、機器類にグリースを塗り、油を注すように、単なる生産手段に施されるものとなる。それは、麻痺するまでに至った肉体的活力の回復のために必要な、それを補い、刷新するために必要な、絶対的に消耗しきった生体組織の再生のために必須の、深い睡眠をむさぼりくすねる。労働日の限界を決めるものは、労働力の通常的な維持ではなく、労働力の日最大限の支出可能性がそれを決める。例えそれがどんなに病的であり、強制的であり、苦痛に満ちたものであろうともである。それはまた、労働者の休息時間の限界をも決めている。資本は、労働力の寿命についてはなんの関心も持たない。気づかうことは単純かつ唯一、労働日において潤沢に使うことができる最大限の労働力だけである。結果として、労働者の生命を短縮する。それは、丁度、貪欲な農夫が、土壌からより収穫を増やそうと、その肥沃土を台無しにするがごとくである。〉(インターネットから)


●原注104

《初版》

 〈(104)たとえば、イギリスでは、いまでもまだ、あちこちの農村では、自宅の前の小園で労働して安息日を犯したというかどで、労働者が禁固刑を課せられることがある。この同じ労働者が、たとい信仰上の気まぐれからであろうと、日曜日に金属工場とか製紙工場とかガラス工場を欠勤すれば、契約違反で罰せられる。正教派の議会は、安息日の冒涜が資本の「価値増殖過程」中に行なわれるばあいには、耳にふたをしている。ロンドンの魚屋や鳥肉屋の日雇い人たちが日曜労働の廃止を要求している陳情書(1863年8月)では、自分たちの労働は、週の初めの6日間は毎日平均15時間、日曜日は8-10時間続く、と言っている。この陳情書からは、同時に、エクセター・ホール〔ロンドンにある宗教団体や慈善団体の集会所〕の貴族的な偽善者たちの気むづかしい食い道楽が、とりわけこの「日曜労働」を励ましている、ということも推察される。これらの「聖者たち」は、「自分たちの皮膚への気づかいには」あれほど熱中していながら、第三者の超過労働や窮乏や飢餓には忍従の精神をもって耐えるということで、自分たちのキリスト教信仰を立証している。「美食はおまえたち(労働者)には有害である。」〉(江夏訳292頁)

《フランス語版》

 〈(71) たとえばイギリスの農村地方では、労働者が自宅の前の小園で鋤いて安息日を冒涜したというかどで禁鋼刑に処せられるのが、往々にして見られる。その同じ労働者は、信心からであっても日曜日に工場〔マイスナー第二版および第四版、現行版の各ドイツ語版では「金属工場」〕や製紙工場やガラス工場などを欠勤すれば、契約違反で処罰される。正教派である議会は、安息日の冒涜が「資本という神」の名誉と利益のために行なわれるばあい、この冒涜を気にかけない。魚や家禽の商店で雇われているロンドンの日雇人たちが日曜労働の廃止を要求している陳情書(1863年8月) のなかでは、自分たちの労働が週の最初の6日は毎日平均15時間続き、日曜日は8時間ないし10時間続く、と述べられている。この陳情書からわかることだが、「主」の日のこの冒涜を奨励するものは、なによりも、エクセター・ホール〔ロンドンにある宗教団体や慈善団体の集会所〕の貴族的な偏狭な信者の気むずかしい食道楽である。“in cute curanda"換言すれば自分の皮膚への気づかいに、あれほど熱心なこれらの聖者たちは、他人の過度労働や飢餓や窮乏には忍従の精神でもって耐えることによって、自分たちのキリスト教徒としての身分を証明しているのだ。美食は君たちには(すなわち労働者には)有害である。〉(江夏・上杉訳268頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 英国では、現在でも、農業地域で、労働者が自分の家の前の庭仕事をしただけで、安息日を冒涜したとして、投獄の刑を受ける。同じ労働者が、もし、彼が働く、金属、紙またはガラス工場に、日曜日に出勤しなかったならば、例えそれが宗教的な発心からであったとしても、契約違反として罰せられる。この古き伝統を守る議会には、それがもし、資本拡大過程で起こった、安息日破りに関してならば、何も聞こえないのであろう。ある陳情書 (1863年 夏) では、魚店や鶏肉店の日雇い労働者が、日曜日の労働の廃止を要求している。そして、彼等の仕事が週日は平均15時間、日曜日は8 -10時間であると述べている。同じ陳情書から、我々はまた、次のようなことを知る。エクゼター ホールの貴族的偽善者の中のとてもグルメな者達が、特にこの「日曜労働」を支持している。これらの「神聖なる者達」は、それは熱心に、彼等の肉体的楽しみを求め、他人の過重労働、窮乏、飢餓には耐えるという謙虚さをもって、彼等のキリスト教徒らしい信仰を表す。大食は、労働者等の胃をよりひどく痛める と、古代ローマの詩人ホラチウスの章句を歪曲する。(ラテン語)〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈かくして、本質的に剰余価値の生産すなわち剰余労働の吸収である資本主義的生産は、労働日の延長に伴って、労働力の正常な精神的および肉体的な発育と活動との諸条件を奪うような人間労働力の萎縮を、産むだけではない。資本主義的生産は、労働力そのものの早すぎる疲弊と死滅とを産む(105)。それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間中の労働者の生産時間を延長する。〉(江夏訳292頁)

《フランス語版》

 〈本質的に剰余価値の生産すなわち剰余労働の吸収である資本主義的生産は、それが押しつける労働日の延長によって、肉体的であろうと精神的であろうと、人間労働力からそれの正常な活動条件と発展条件とを奪うことによって、人間労/働力の低下を産むだけではない。それは人間労働力の早すぎる使いつくしと死とを産む(72)。それは、労働者の寿命を縮めることによって、ある期間内での彼の生産期間を延長する。〉(江夏・上杉訳268-269頁)

《イギリス語版》 原注が間に挟まっているが、それは別途紹介する。以下、特に断らずに同じような措置をとる。

  〈(2) 資本主義的生産様式 (本質的に、剰余価値の生産、剰余労働の吸収そのものである) は、労働日の拡張をもって、人間の労働力の発展と機能の一般的、道徳的かつ肉体的条件を人間の労働力から盗み取り、人間の労働力を低下させるだけではなく、労働力そのものの早期の消耗と死をも生産する。
  それは、労働者の実際の生命時間を短くすることによって、ある与えられた時間内の労働者の生産時間を延長している。〉(インターネットから)


●原注105

《初版》

 〈(105)「われわれは、以前の報告書のなかで、時間外労働は……確かに労働者たちの労働力を早期に疲弊させる傾向があるという主旨の、経験に富んだ幾人かの工場主の陳述を、載せておいた。(前掲書〔『児童労働調査委員会、第四回報告書』〕、第/64号、別付13ページ。)〉(江夏訳292-293頁)

《フランス語版》

 〈(72) 「われわれは、以前の報告書のなかで、残業時間にかんし、数人の経験ある工場主の意見を掲げておいた。……彼らの意見によると、この時間が人間労働力を早目に使い果たす傾向があることは、確実である」(『児童労働委員会。第四回報告書』、1865年、第64号、別付13ページ)。〉(江夏・上杉訳269頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「我々は、我々の以前の報告書に、何人かの経験のある工場主達が、超過時間労働の結果について述べているところを、書いている。… 明らかに、人の労働力を早期に喪失する傾向がある。」(第四次報告書 1865)〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところで、労働力の価値は、労働者の再生産にまたは労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本が際限のない自己増殖衝動にかられて必然的に追求する労働日の反自然的な延長が、個々の労働者の寿命を、したがって彼らの労働力の持続期間を、短縮するならば、損耗した労働力のいっそう急速な補填が必要になり、したがって、労働力の再生産にはいっそう大きな損耗費が必要になるのであって、このことはちょうど、機械が短期間に損耗すればするほど、機械の毎日再生産されるべき価値部分がますます大きくなる、のと同じである。だから、資本は、それ自身の利害関係からして、ある標準労働日を指示しているかのように思える。〉(江夏訳293頁)

《フランス語版》

 〈しかし、労働力の価値には、賃金労働者の再生産または賃金労働者階級の繁殖に不可欠な諸商品の価値が含まれている。したがって、労働日の反自然的な延長--資本はますます官己増殖しようとする過度な傾向のために、この延長を必然的に渇望する--が、労働者の生存期間、したがって彼らの労働力の持続期間を短縮するならぽ、摩損した労働力の補填は必然的にいっそう急速でなければならず、また同時に、労働力の再生産が必要とする費用額はいっそう多くなければならず、このことは、ある機械が速く摩損すればするほど、この機械にとっては毎日再生産されるぺき価値部分がますます大きくなる、のと同じである。したがって、資本の利害そのものが、標準労働日を資本に要求しているように見える。〉(江夏・上杉訳269頁)

《イギリス語版》

  〈(3) とはいえ、労働力の価値は、その商品の、つまり労働者の再生産に必要な価値を含んでいる。または、労働者階級の維持のためのものを含んでいる。もしそう言うことであるならば、労働日の不自然な延長は、資本が自己拡大のためへの無限の渇望を追って、必然的に奮闘するものとはいえ、労働者個々の命の長さを縮め、それゆえ、労働力の使用期間をも縮めるのであるから、より頻繁に置き換えを強いられるところとなる。そして、労働力の再生産のための支出総額もより大きな額となるであろう。丁度、機械の価値を毎日より大きく再生産することにすれば、機械はより早く磨耗させられる。従って、資本自身の利益としては、通常の労働日へとその視線方向を向けるように思われる。〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ケアンズ教授『奴隷力』、ロンドン、1862年、〔が言っていること〕は、工場主たちにはいっそうよくあてはまる。なぜなら、彼らは労働者には無条件土地相続権〔freesimple〕すら支払う必要がないからである。
  「ジョージアの稲作地とかミシシッピの沼沢地は人体を致命的なまでに痛めつけるかもしれない。しかし、これらの地方の耕作につきまとう深刻な人命の浪費も、ヴァージニアやケンタッキーの豊富な飼育場から補充のきかないほどひどいものではない。(過剰人口がまだ使いつぶされたり、つぼみのうちに枯らされたりしていなかったころのアイルランドや、イングランドの農業地方と読め。)しかし、そこに経済上の考慮が加わった場合、自然的〔奴隷〕制度/のもとでは、主人の利益と奴隷の保護は同一視されるので、むしろ奴隷が人間的扱いを受けるためのせめてもの保証となるのであるが、いったん奴隷貿易が行なわれるようになると、同じ経済上の考慮が、奴隷の労役をぎりぎりの極限まで搾りつくすための動機となるのである。なぜなら、外国の飼育場からの補給で奴隷がただちに穴埋めされるようになれば奴隷の寿命の長さはその生命がもちこたえているあいだの生産性に比べて重要な事柄ではなくなるからである。それゆえ、奴隷輸入諸国の奴隷経営の格言では、最高に効率のよい奴隷経済とは人間家畜からひきだすことのできる最大量のはたらきを最短時間内に搾りだす経済ということになるのである。1年間の利潤がしばしば農場の総資本に匹敵する熱帯栽培においてこそ、黒人の生命は情け容赦なく犠牲にされている。西インドの農業、それは数世紀このかたおとぎ話的な巨富の揺りかごであったが、それこそが、幾百万のアフリカ人種を呑みこんだのである。今日、キューバでは、総収入は数百万の単位で数えられ、農場主たちは王侯のごとくであるが、そこでこそわれわれは、奴隷階級のあいだに、粗悪きわまる食物や絶えまない極度の酷使をみるのであり、そればかりか、過度労働と睡眠や休養の不足というゆっくりと行なわれる責め苦によって、年々その一部が絶滅させられているのをすら目にするのである。」(110、111ページ。)〉(草稿集⑨324-325頁)

《初版》

 〈奴隷所有者は、自分の馬を買うのと同じように、自分の労働者を買う。彼は、奴隷を失うとともに資本を失うのであって、この資本は、奴隷市場での新たな支出によって補填されなければならない。だが、「ジョージアの稲作地やミシシッピの沼沢地は、人体に致命的な破壊作用を加えるかもしれない。とはいえ、この人命浪費は、バージニアやケンタッキーのあふれんばかりの飼育場から補充できないほど大きくはない。経済上の諸顧慮は、これらの顧慮が主人の利益を奴隷の保存と一致させるかぎりでは、奴隷の人間的な扱いにたいする一種の保証になることもありうるが、奴隷貿易が実施されてからは、これらの顧慮は、逆に、奴隷の極端な破滅の原因に変わる。というのは、外国の黒人飼育場からの供給によって、奴隷の席がひとたび補充されうるようになると、奴隷の寿命はその寿命が続いているあいだの奴隷の生産性よりも重要ではなくなるからである。だから、最も効果的な経済はできるだけ大量の成果をできるだけ短期間に人間家畜(human chattel)から搾り取ることだというのが、奴隷輸入国では奴隷経済の準則になる。年々の利潤がしばしば農場の総資本に等しい熱帯栽培においてこそ、黒人の生命は最も容赦なく犠牲に供される。西インド諸島の農業、すなわち、数世紀以前からのおとぎ話のような巨富のゆりかごこそが、幾百万のアフリカ人種を/呑み込んできた。今回、収入が数百万と数えられ、農場主が王侯のごとくであるキューバでは、奴隷階級のあいだでは、粗悪きわまる食物や絶え間ない極度の酷使のほかに、この階級の一大部分が、超過労働や睡眠不足や休養不足という真綿で首を締められるような責苦のために、年々直接に滅ぼされてゆく有様が、見受けられる(106)。」〉(江夏訳293-294頁)

《フランス語版》

 〈奴隷所有者は、自分の牛を買うのと同じように自分の労働者を買う。彼は奴隷を失えば資本を失うが、この資本は、市場での新しい支出によってしか補填することができない。だが、「ジョージアの稲作地や、ミシシッピの沼地が、人間の身体組織にたいしてどんなに致命的でどんなに破壊的な影響を及ぼすにしても、そこで行なわれる人命の破壊は、ヴァージニアやケンタッキーの溢れるほどの補給地によって補充ができないほどに大きくはない。奴隷の保存と奴隷の主人の利益とが同じであれば、経済上の考慮は、奴隷にたいしてある点まで人間的な扱いを保証することもあろうが、奴隷貿易が許されるとなると、この考慮は一つ残らず、奴隷の絶対的滅亡の理由に変わる。実際に奴隷が外国の黒人でもって容易に取り替えられうるようになるやいなや、奴隷の寿命の長さは奴隷の生産性よりも重要ではなくなる。したがって、最も有効な経済は、人間家畜<human chattel>が最短の時問内にできるだけ多くの収穫を供給するように、人/間家畜をしぼりとることにある、というのが、奴隷制を主張している地方の格言である。耕作の年々の利潤がしばしば農場の総資本に等しい熱帯地方においてこそ、黒人の生命が少しもはばかるところなく犠牲に供されるのである。数世紀以来、作り話のような富の揺藍である西インド諸島の農業が、幾百万人のアフリカ人種を呑みこんできた。今日では、その収入が数百万単位で数えられその農場主が王侯であるキューバにおいて、われわれは、奴隷階級が最も粗悪な食事を与えられ最もはげしい責苦にさらされるだけでなく、さらにまたその大部分が過度労働の長い責苦と睡眠や休息の不足のために直接に滅ぼされてゆくのを、見るのである」。〉(江夏・上杉訳269-270頁)

《イギリス語版》 イギリス語版は二つのパラグラフに分けているが、一緒に紹介しておく。

  〈(4) 奴隷所有者は、彼の労働者を、彼の馬を買うかのように、買う。もし、彼が彼の奴隷を失うならば、彼は奴隷市場で新たな支出によって、補填する分の資本を失う。  (5) だが、「ジョージアの米作沼地、またはミシシッピーの沼沢地は、人間の健康にとっては、致命的な性状をもっているやもしれないが、このような地域を耕すためには、人間の生命の消耗も必要であり、バージニアやケンタッキーの地が持っている豊穣から補填できないほどの、大きなものでもない。さらに、経済を考慮すれば、奴隷所有当初においては、奴隷の保持と所有主の利益が一致するため、思いやりのある取り扱いにいくらかの保証を与えるが、一旦奴隷売買があたりまえとなれば、それが、奴隷労働を最大限積み上げるための理由となる。なぜならば、奴隷は直ぐに外国領地から供給されて、置き換えることができ、その生産性がどの程度に達するかに較べれば、奴隷の生命の期間などはどうでもいい程度のものとなる。奴隷輸入国の奴隷使用にかかる格言によれば、もっとも効果的な経済とは、最も短時間内に、できるかぎりの方法によって、人間家財をして最大限の量の働きをさせるかにある。熱帯耕地では、たびたび年の利益が、当該農場への投資総額に匹敵し、黒人の生命は、最もでたらめに放棄された。西インドの農業は、数世紀にわたって信じられないほどの富をもたらした。そして、それは、数百万のアフリカ人を飲み込んだ。キューバでは、当時、その収益は、数百万を数え、そこの農場主は君主であり、奴隷階級は、粗悪極まる食料、最も疲弊しており、絶え間のない労働で、毎年その大部分の者が絶滅された。(ケアンズ "奴隷力") 〉(インターネットから)


●原注106

《初版》

 〈(106) ケアンズ、前掲書、110、111ページ。〉(江夏訳294頁)

《フランス語版》

 〈(73) ケアンズ、前掲書、110、111ページ。〉(江夏・上杉訳270頁)

《イギリス語版》  本部に挿入。


●第5パラグラフ

《初版》

 〈名前がちがうだけで、他人ごとではない! 奴隷貿易の代わりに労働市場と、ケンタッキーやバージニアの代わりにアイルランド、イングランド、スコットランド、ウェールズの農業地方と、アフリカの代わりにドイツと、読みたまえ! 超過労働がどのようにしてロンドンの製パン工を一掃したかをわれわれは耳にしたが、それにもかかわらず、ロンドンの労働市場は、絶えず、製パン所に職を求めるドイツ人やその他の余命いくばくもない人々であふれでいる。製陶業は、われわれが見たように、従業員が最も短命な産業部門の一つである。だからといって、製陶工が不足しているであろうか? 近代的な製陶業の発明者で自分自身が普通の労働者の出身であるジョウサイア・ウエッジウッドは、1785年に下院で、この工業全体では1万5OOOないし2万の人員を使っている、と述べた(107)。1861年には、大ブリテンにおけるこの産業の中心地である都市の人口だけで、1O万1302人であった。「綿業には9O年の歴史がある。……イギリス人種の3世代のあいだに、この産業は綿業労働者の9世代を食い尽くしてしまった(108)。」もちろん、個々の熱病的な好況期には、労働市場が気づかわしいほどの欠乏を呈することもあった。たとば、1834年がそうであった。ところが、そのとき、工場主諸氏は、農業地方の「過剰人口」を北方に送り出すことを救貧法委員に提案し、「工場主たちはこの人口を吸収し消費するであろう(109)」と説明した。これが彼らの本音であった。「救貧法委員の同意を得て、周旋人がマンチェスターに置かれた。農業労働者名簿が作成されて、これらの周旋人に送付された。工場主たちが事務所に駆けつけた。そして、彼らが自分たちの気に入った者を選び出すと、/それらの者の家族がイングランドの南部から発送された。これらの人間小荷物は、同じ数だけの貨物の包みと同じように、荷札をつけて、運河や荷馬車で配達された--若干の者はあとから徒歩で放浪の旅をし、そのうちには、道に迷い半ば飢えて工業地帯をさまよい歩く者も多かった。これが発展して、ほんとうの一取引部門になった。下院はこのことをほとんど信じないであろう。この規則正しい取引、この人肉売買は、引きつづき行なわれたのであって、これらの人々は、黒人が南部諸州の綿花栽培業者に売られるのと全く同じように規則正しく、マンチェスターの周旋人からマンチェスターの工場主に売買された。……186O年は綿業の頂点を示している。再び人手が足りなくなった。工場主たちはまたもや人肉周旋人に依頼した。そして、周旋人たちはドーセットの砂丘やデポンの丘陵やウィルツの平野を探しまわったが、過剰人口はすでに食い尽くされていた。『ベリー・ガーディアン』紙は、英仏通商条約の締結後には1万の追加の人手が吸収されうるであろうし、やがてはさらに3万か4万の人手が必要になるであろうに、と嘆いた。人肉取引の周旋人や周旋下請人が186O年に農業地方をほとんど成果も上げずにかすめ通ったのちに、「ある工場主代表は、救貧局長官ビラーズ氏に、以前と同じく救貧院から貧児や孤児をもらい受けることを、再ぴ許してほしい、と請願した(110)。」〉(江夏訳294-296頁)

《フランス語版》

 〈名前がちがうだけでおまえのことを言っているのだ! 奴隷貿易のかわりに労働市場と、ヴァージニアやケンタッキーのかわりにアイルランドおよびイングランド、スコットランド、ウェールズの農業地方と、アフリカのかわりにドイツと、読みたまえ。周知のことだが、過度労働はロンドンの製糖職工をなぎ倒すが、それにもかかわらず、ロンドンの労働市場は製糖所向けの志願者、それも大部分が夭折にゆだねられているドイツ人で、絶えず溢れている。製陶業も同様に、犠牲者の最も多い産業部門の一つである。このために製陶工が不足しているか? 近代製陶法の発明者であり、当初は自分自身が一介の労働者であったジョサイア・ウェッジウッドは、1785年に下院で、この製造業は全体で1万5000ないし2万人の人員を使っていると言明した(74)。1861年には、大ブリテンの諸都市に散在するこの産業の所在地の人口だけで、10万1302人であった。「綿業は90年前から始まっている。……イギリス人の3世代のあいだに、それは9世代の労働者を食いつくした(75)」。実を言うと、若干の熱狂的な好景気の時期には、労働市場はよくよく考慮すべき欠乏を呈した。たとえば、1834年にはそうであった。だが、このとき工場主諸君は、農業地方の過剰人口を北部に送り出すことを救貧法委員に提案して、「われわれはこの過剰人口を吸収し消費することを引き受ける(76)」と言明した。これが彼らの本音であった。「救貧法委員の許可を得て、周旋人がマンチェスターに派遣された。農業労働/者の名簿が作成されて、この周旋人に手渡された。工場主たちが事務所に駆けつけた。彼らが適当な者を選んでから、その家族がイングランドの南部から送られてきた。これらの人間荷物は商品荷物と同様に荷札をつけて引き渡され、運河か荷馬車で運搬された。ある者は徒歩で後を追い、多くの者が、道に迷い飢餓で半死のまま、工業地帯をあちこちとさまよった。下院はこのことをほとんど信ずることができないであろうが、この規則正しい取引、この人肉売買はただ増加する一途であって、黒人が南部諸州の栽培業者に売られたのと全く同じく組織的に、この人たちはマンチェスターの周旋人によってマンチェスターの工場主へと売買された。……1860年に綿業は絶頂に達する。人手が再び不足して、工場主たちはまたも人肉商人に申し込み、人肉商人はドーセットの砂丘、デヴンの丘陵、ウィルツの平野を探しまわりはじめたが、過剰人口はすでに食いつくされていた」。『ベリー・ガーディアン』紙は歎いて、英仏通商条約の締結後には1万人の追加の人手が吸収されうるだろうし、まもなくさらに3万ないし4万入の人手が必要になるだろう! と叫んだ。1860年に人肉取引の周旋人や下請周旋人がほとんど成果もあげずに農業地方を歩きまわったのち、「工場主たちは、以前と同じように救貧院から貧児や孤児を貰い受ける許可を再び得るために、代表を救貧局長官ヴィラズ氏 のもとに派遣した(77)」。〉(江夏・上杉訳270-271頁)

《イギリス語版》 イギリス語版ではこのパラグラフは(6)~(11)のパラグラフに分けられているが、一緒に紹介する。

  〈(6) この話は、あなたのこと。(ラテン語 古代ローマの詩人ホラチウスの章句) 奴隷売買を労働市場と、ケンタッキーとバージニアをアイルランドや英国の農業地域、スコットランドやウェールズと、アフリカをドイツと読む。我々は、いかに超過労働がロンドンの製パン業で働く者達をやせ細らせたかを知っているが、にもかかわらず、ロンドンの労働市場はいつも、製パン業者で死亡を望むドイツ人他の志望者の過剰待機者で溢れている。製陶業は、我々が見たように、労働者が最も短命である製造業種の一つである。が、そこにそれゆえ、製陶工場で働く者達の不足があるか? 近代的な製陶方法の発明者である、ジョシァ ウェッジウッド、彼自身元は普通の労働者であったが、1785年、下院で、この業界全体では、15,000人から 20,000人の人々を雇用している。と語った。1861年の大英帝国のこれらの業者が町の中心にある地域の人口は101,302人である。 
 (7) 「綿関係の業界は、90年も存在し続けている。… それは、イギリス人の三世代もの間存在し続けている。そして、私は確信しているが、充分に余裕を見ても、次のように云うことが許されるものと思う。この間に、九世代の工場労働者を使い捨てたと。」( 1863年 4月27日の下院における フェランドの演説)
 (8) 確かに、熱狂的な活気を呈したある時代には、労働市場が明らかに枯渇を示したことは疑いもない。例えば、1834年である。が、その時、製造業者達は、救貧法委員会に、農業地域の「余剰人口」を北に送り出すべきであると、「製造業者達が、それらを完全に吸収して使用する」との説明を付けて、申し入れをした。(これらの言葉は、綿製造業者達によって書かれたそのままのものである。)
 (9) 救貧法委員会の同意により、代理人が任命された。マンチェスターに、事務所が設置され、そこに、雇用を希望する( 誰が雇用を希望するかが問われねばならないのだが 訳者注) 農業地域の労働者のリストが送られ、彼等の名前が登録された。製造業者達は、これらの事務所にやって来て、彼等の選択によって、適当と思われる者を選んだ。「必要なる要望」としてそれらの者を選ぶと、マンチェスターに、できるだけ早くその者が来るようにと、なんのことはない、ただ指示書を書いた。その者たちは、品物の包みのごとくその案内書を与えられて送り出された。運河や、荷車や、その他の者は道を歩いて、そして多くの者は、行く先不明で、半分飢えた状態で、途中で、見つけられた。このシステムは、後に成長し、恒常的な商売となった。下院議会にとっては、信じがたいものと思われるが、私に云わせれば、この人身商売は長く維持され、その結果として、それらの者たちが当たり前に、これらの[マンチェスター]の製造業者達の元へと、あたかも奴隷が合衆国の綿耕作地に売られるがごとく、1860年の「綿関連業種の好況に沸き返る」場所に売られたのである。… 製造業者達は、再び、手が足りないことに直面した。… 彼等は、彼等が人身屋と呼んだ方式を採用した。これらの代理人が英国南部・東南部や、ドウセットシャーの牧草地や、デボンシャーの沼沢地や、ウイルシャーの雌牛を飼育する人々の所に送られたが、彼等代理人は、誰も見出すことができなかった。余剰人口は「吸収」されつくされていた。
 (10) バーリィ ガーディアン紙は、対フランス条約締結に際して、「追加的な10,000人の人手がランカシャーに吸収されるだろう、そして30,000人から40,000人が必要となるだろう。」と書いた。「人身屋やその下請け人」が、農業地域をくまなく無駄に回った後では、尚更である。
 (11) 代表が、ロンドンにやって来て、まさに正しき場所、名誉ある紳士、[ウ゛ィリアーズ氏、救貧院評議会の理事長]の所に、おもむいた。ある英国救貧院施設から貧しい子供たちをランカシャーの工場へと獲得する目論見を持ったからである。〉(インターネットから)


●原注107

《初版》

 〈(107) ジョン・ウォード『ストーク・アポン・トレント市の歴史。ロンドン、1843年』、42ページ。〉(江夏訳295頁)

《フランス語版》

 〈(74) ジョン・ウォード『ストーク・アポン・トレント自治市の歴史』、ロンドン、1843年、42ページ。〉(江夏・上杉訳271頁)

《イギリス語版》 なし。


●原注108

《初版》

 〈(108) 1863年4月27日の「下院」におけるフェランドの演説。〉(江夏訳295頁)

《フランス語版》

 〈(75) 1863年4月27日の下院でのフェランドの演説。〉(江夏・上杉訳271頁)

《イギリス語版》 なし。


●原注109

《初版》

 〈(109)“That the manufacturers would absorb it and use it up.Those were the very words used by the cotton manufacturers"〕(同前。)〉(江夏訳295頁)

《フランス語版》

 〈(76) That the manufacturers would absorb it and use it up.これが綿業者の使ったとおりの言葉であった(同前)。〉(江夏・上杉訳271頁)

《イギリス語版》 なし。


●原注110

《初版》

 〈(11O) 同前。ビラーズ氏は、どんなに好意をもっていても、「法律上は」工場主の懇願を拒絶しなければならない立場にあった。しかし、工場主諸氏は、地方の救貧官庁が唯々諾々としたおかげで、自分たちの目的を達成した。工場監督官A・レッドグレーブ氏が確言しているところでは、孤児や貧児を「法律上」apprentices(徒弟)であると認める制度は、このたび/は「往年の弊害」--(この弊害については、エンゲルスの前掲書〔『イギリスにおける労働者階級の状態』〕、参照)--「を伴わなかった」、とはいっても、確かに、あるばあいには、「スコットランドの農業地方からランカシャーやチェシャーに連れてこられた若干の少女や若い婦人については、この制度が濫用された」こともあったが。この「制度」では、工場主は一定の期間にわたって救貧院当局と契約を結ぶ。彼は児童たちに衣食住を給し、わずかな手当を金銭で与える。レッドグレーブ氏の次の言葉は奇妙に聞こえるが、次の事情を考慮に入れると、ことさらにそうである。すなわち、イギリス綿業の繁栄の年のうちでも186O年は、比類のない年であり、おまけに労賃が高かったが、高かった理由は、異常な求人が、アイルランドの人口減少にぶつかり、イングランドおよびスコットランドの農業地方からオーストラリアおよびアメリカ向けの前例のない移住にぶつかり、イングランドの若干の農業地方での絶対的な人口減少--この減少は、一部は、生命力がとうとう破壊された結果であり、また一部は、自由に利用しうる人口が、それ以前に人肉商人の手で汲み尽くされた結果であった--にぶつかったからである。それにもかかわらず、レッドグレーブ氏はこう言う。「とはいっても、この種の労働(救貧院児童の)は、他種の労働が見いだされえないばあいにしか求められない。というのは、この種の労働は高価な労働(high-priced labour)だからである。13歳の少年の普通の労賃は、週に約4シリングである。ところが、5O人か1OO人のこういった少年に衣食住を給し、医療を補助して適切に監督し、おまけに、少額ながら手当を金銭で支給することは、週に1人当たり4シリングでは実行できない。」(『186O年4月3O日の工場監督官報告書』、27ページ。)レッドグレーブ氏が言い忘れていることは、工場主が、一緒に住まわせ、まかない、監督している5O人とか1OO人の少年には、してやれないというのに、どうして労働者自身が、自分の少年たちに4シリングでこれらのことをなにもかもしてやれるか、ということである。本文から誤った結論を下さないように、私がここでなお言っておかなければならないことは、イギリスの綿業は、労働時間の規制等々を盛った185O年の工場法を適用されてからは、イギリスの模範産業とみなされるべきだ、ということである。イギリスの綿業労働者は、ヨーロッパ大陸にいる同じ運命の仲間に比べると、どの点から見ても上位にある。「プロイセンの工場労働者は、イギリスの競争相手よりも、週あたり少なくとも10時間以上長く労働する。そして、彼が自分の織機で自宅で働かされるばあいには、彼の追加労働時間のこういった制限さえなくなる。」(『1855年1O月31日の工場監督官報告書』、103ページ。)前述の工場監督官レッドグレーブは、1851年の産業博覧会のあとで、ヨーロッパ大陸、ことにフランスとプロイセンへ旅行して、その地の工場事情を調査した。彼は、プロイセンの工場労働者についてこう言っている。「プロイセンの工場労働者は、/自分が慣れており自分の満足がゆく簡素な食物とわずかな慰安とを手に入れるのに足りる賃金を、受け取っている。……イギリスの競争相手に比べると、生活が悪くて労働がはげしい。」(『1853年1O月31日の工場監督官報告書』、85ページ。)〉(江夏訳295-297頁)

《フランス語版》

 〈(77) 同前。ヴィラズ氏は、どんなに好意をもっていても、工場主たちの要求を「法律上」拒否せざるをえなかった。それにもかかわらず、これらの紳士たちは地方官庁の親切のおかげで自分たちの目的を達成した。工場監督官A・レッドグレーヴ氏が確言するところでは、孤児や貧児が「法律上」徒弟として扱われる制度は、このたびは過去と同じような弊害を伴わなかった(この弊害については、F・エンゲルスの『労働者階級の状態』を見よ)。とはいうものの、あるばあいには、「スコットランドの農業地方からランカシャやチェシャに連れてこられた少女や若い婦人については、この制度が濫用された……」。この制度では、工場主が救貧院当局と一定期間にわたって契約を結ぶ。彼は児童たちに衣食住を給し、少額の割増金を貨幣で与える。後で引用するレッドグレーヴ氏の言葉は、イギリスの綿業の繁栄期のなかでも1860年がとりわけ目立っていることや、異/常な労働需要があらゆる種類の困難に出くわしたためにその当時賃金が非常に高かったことを考慮すれば、かなり奇妙に思われる。アイルランドは人口が減少していたし、イングランドとスコットランドの農業地方は、オーストラリアやアメリカへの前例のない移住の結果空になっていた。イングランドの幾つかの農業地方では人口の絶対的な減少が支配していたが、その原因は、一部分は思いどおりにかなえられた生殖力の制限であり、一部分は人肉商人によってすでに実行されていた自由に使用できる人口の汲みつくしであった。こういったいっさいのことにおかまいなく、レッドグレーヴ氏はこう言う。「この種の労働(救貧院の児童の労働)は、別種の労働が見出されえないばあいにだけ求められる。それは高価な労働〈high priced labour〉だからである。13歳の少年の普通の賃金は、週に約4シリング(5フラン) である。だが、50人ないし100人のこれらの児童に衣食住を給し、彼らを適切に監督し、彼らに医療を施し、さらに少額の手当を貨幣で与えることは、週1人当り4シリングでは実行できないことである」(『1860年4月30日の工場監督官報告書』、27ページ)。レッドグレーヴ氏が言い忘れていることは、共同で住まわされ食事を支給され監督される50人ないし100人の児童にたいし、工場主がそうはしてやれないというのに、労働者自身がどうして自分の子供たちに4シリングの賃金でこれらすべてのことをしてやれるのか、ということだ。本文から引き出されるかもしれないあらゆる誤った結論を避けるために、私はここで、イギリスの綿業が、1850年の工場法やこの法律による労働時間の規制などに服して以来これまで、イギリスの模範工業と見なされてよい、ということを指摘しておかなければならない。イギリスの綿業労働者はすべての点で大陸の苦役仲間よりも結構な状態にある。「プロイセンの工場労働者は、イギリスの競争相手よりも週に少なくとも10時間多く労働するし、彼が自分自身の織機で自宅で仕事をさせられるばあい、彼の労働時間にはもはやこの限度さえもない」(『1855年10月31日の工場監督官報告書』、103ページ)。右に引用した工場監督官レッドグレーヴは、1851年の産業博覧会のあとで、大陸殊にフランスとプロイセンに旅行して両国の工場事情を調査した。彼はわれわれにこう言う。「プロイセンの工場労働者は、これまで慣れてもきており満足もしている簡単な食事様式とわずかな慰安とに足るだけの賃金を得ている。……彼はイギリスの競争相手よりも悪い生活をしていっそうはげしく労働する」(『1853年10月31日の工場監督官報告書』、85ページ)。〉(江夏・上杉訳271-272頁)

《イギリス語版》 イギリス語版では注のあとに「訳者余談」が存在しているので、それも紹介しておく。

  〈本文注: ウ゛ィリアーズ氏は、彼の立場において、最良の意図を持っていたとしても、「法律上」は、これらの製造業者の要望を断る義務があった。しかしながら、紳士諸君は、地方の救貧院評議会の当然の法律上の手続きを経て彼等の目的を達した。A.レッドグレーブ氏、工場査察官は、今回は、孤児や困窮者の子供たちは、「法律上」の、見習い工として、「昔のような乱用を伴うものではなかった」と、(この乱用については、エンゲルスの著作「労働者階級の状態」を )とはいえ、確かに「このシステムの乱用が、スコットランドの農業地域からランカシャーやチェッシャーに連れてこられた少女たちや若い女性たちの場合」にあったけれども、と主張する。このシステム下においては、製造業者達は、救貧院当局との間で、一定期間を定めた契約を交わす。契約の一方は、子供たちに、食事を与え、衣服を給し、宿舎を提供する。そして彼等たちに小額とはいえ貨幣による給与を出す。このレッドグレーブ氏の記述部分は、そのまま見れば奇妙である。特に、もし、我々が、イギリスの綿商売が繁栄の時期にあり、1860年は、前代未聞の好景気の時期であって、その上、賃金は異例の高さにあったことを考えても、このような契約はありえないのではと。この商売における異常とも云える人手の要望は、ちょうどアイルランドの人口減少とも、イギリスやスコットランドからオーストラリアやアメリカへの前例のない規模の移民とも、いくつもの英国農業地域の現実に起こっている人口減少とも直面した。一つは、労働者の活力ある力量を実際に、打ち壊したからでもあり、一つは、人身屋がすでに、使い捨てできうる人口を食い散らした結果である。このような状況にもかかわらず、レッドグレーブ氏は、「しかしながら、この種類の労働者は、その高価な労働者として、他の様々な策が尽きた後で探し出すべきものであろう。通常13歳の少年の賃金は、週4シリングである。しかし、50人から100人の少年のための、宿舎、衣服、食事、そして医療的な看視、そして適切な管理、そしてその他にそれなりの報酬をというならば、一人当り週当り4シリングではでは出来ない話である。」と、さらに奇妙な報告を書いている。(工場査察官報告書 1860年4月30日) レッドグレーブ氏は、労働者が彼の見習いに対して、子供たちの週4シリングなる賃金で、できることがなんなのかを我々に説明するのを忘れている。製造業者が50人または100人の子供たちに対して宿舎とか、まかないとか、監督指導とかの諸々を成し得ない時に、見習い預かりの労働者にできるはずがないのに。テキストから間違った結論に至るのを防ぐために、私は、ここに、英国綿産業の事情について書かねばならない。1850年の労働時間の規制他を定めた工場法のもとに置かれ、英国の模範的産業として注目されねばならない存在なのである。英国綿産業の職工は、惨めな状況にある大陸の仲間に較べれば、遥かによき存在として注目を集めている。「プロシャの工場で作業に従事する労働者は、少なくとも週10時間 英国の競争相手に較べて長く働いている。もし、彼の家で、自分の織機で働く条件の雇用者であるなら、彼の労働はさらなる追加的時間を縛られることなく働くことになる。(工場査察官報告書 1855年10月31日) レッドグレーブ、工場査察官は、1851年の産業博覧会のあと、大陸各国を旅行した後、特にフランスとドイツを、工場各所の状況を調査する目的のために、回った後に、上記のように述べた。プロシャの職工について、彼は、こう云った。「彼は、質素な暮らしをなんとか維持するに足る、そして慣らされたところの細き安らぎをなんとか満たすに足る 報酬を得る。… 彼は粗悪な暮らしをし、そして猛烈に働く。彼の状況は、英国の職工よりも劣悪である。」(工場査察官報告書 1855年10月31日)

  訳者余談を挟む。テキストに、間違った結論に至るのを防ぐために、と書かれた部分を読んで、正しい結論に達したかどうかである。テキストは読めても、その裏までは読めないレベルでは、手が出ないかもしれないが、問題は、契約により、救貧院施設からランカシャーの工場へと連れて来られた見習い工が、いかなる処遇を受けたかということであって、正しい結論は、契約とは違った真っ赤な嘘というべき状況に投げ込まれたということである。工場法下にあり、大陸の労働者とくらべれば、雲泥の差もあるべき英国の工場で、長時間労働を強いられるはずもないところで、どのようなことが起こったかを正しく把握できたかどうかである。当時からは150年以上の歴史的経過があり、我々は多くのことを学んでいるのだから、ここで間違うはずもないだろう。名ばかり管理職で、残業代を奪われ、偽装請負で、労災保険が受けられず、安全も脅かされた。今度は、派遣法が改正されて、法律上は派遣労働が廃止となるのに、実際は無くならないことを知らない者はいない。契約があっても、名目であって、はなからそれを守る資本家はいないし、工場査察官もその報告書が後世で奇妙と指摘される程度までしか迫るものではない。工場査察官のうしろには、議会が張りついており、議会・政府は資本家の御用人そのものだからである。テキストには、正解が書かれてはいないが、何年か労働者をやっていれば、分かるはずである。本を読む難しさもこんなところにある。余談中の余談で申し訳ないが、この部分の訳には苦労した。向坂本では、本筋が見えてこず、参考にならなかった。何故かと我ながら考えてみたが、問題と正解という図式が見えていなかったからであろうかと判じた。資本家は、問題すら見出さないであろう。救貧院の孤児に報酬を与えたという話にしか読めないかもしれない。労働者に生活費を提供する資本家という図式は、今でもたびたび登場するのだから。〉(インターネットから)

 (付属資料№2に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(9)

2023-10-20 14:59:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (9)


【付属資料】No.2


●第6パラグラフ

《初版》

 〈経験が資本家に一般的に示すものは、恒常的な過剰人口、すなわち、資本の当面の増殖欲に比べての過剰人口である。とはいっても、この過剰人口は、発育不全な、短命な、急速に交替する、いわば未熟なうちに摘み取られてしまう幾世代もの人間でもって、自己の流れを形づくっているのであるが(111)。もちろん、経験は、他面では、賢明な観察者には、歴史上から言えばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産が、どんなに速くどんなに深く国民の力の生活根源をとらえてきたか、を示しており、工業住民の衰退が、農村からの自然発生的な生命要素を不断に吸収することによってのみ、どんなに緩慢にされているか、を示しており、そしてまた、農村労働者さえもが、戸外の空気にもかかわらず、また、最強の個体だけを繁栄させるという、彼らのあいだであれほど全能的に支配している自然選択の法則にもかかわらず、すでにどんなに衰弱し始めているか、を示している(112)。自分をとり巻く労働者世代の苦悩を否認するのにあれほど「正当な理由」をもっている資本が、人類の将来の腐朽なり、結局はどっちみちとめがたい人口減少なり、を予想することでもって、自分の実践運動を決定されることがないのは、地球が太陽に落下するかもしれないということでもって、自分の実践運動を決定されることがないのと、おっつかっつである。どんな株式投機においても、誰もが、いつかは雷が落ちてくるにちがいないと知りながら、誰も自分自身が黄金の雨を受けとめてこれを安全な場所に移し終わったあとで雷が隣人の頭に落ちるように、望んでいる。後は野となれ山となれ! これが、あらゆる資本家のモットーであるし、あらゆる資本家国のモットーでもある。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会から顧慮するようにと強制されなければ、顧慮しない(113)。肉体上および精神上の萎縮や夫折や/超過労働の責苦についての苦情にたいしては、資本はこう答える。この苦しみがわれわれの楽しみ(利潤)を増すというのに、どうしてこの苦しみがわれわれを苦しめるというのか? と。ところが、一般には、このこともまた、個々の資本家の意志の善悪によってきまるものではない。自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を、個々の資本家にたいしては、外的な強制法則として有効ならしめる(114)。〉(江夏訳297-298頁)

《フランス語版》

 〈経験は一般的に資本家には、恒常的な過剰人口、すなわち資本の当面の必要に比較しての過剰人口が存在していること、を示している。とはいうものの、このあり余る分量は、発育の悪い、いじけた、すばやく消滅する、急速に排除される、いわば未熟のうちに摘みとられてまう代々の人間から形成されているのであるが(78)。経験はま聡明な観察者には、歴史的にいえば咋日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに急速に、人々の実体と力との根底そのものを襲っているか、工業人口の退化がどんなに、農村から借用された新しい諸要素の恒常的な吸収によってのみ緩慢にされているか、/農村労働者そのものもどんなに、清浄な空気にもかかわらず. また、彼らのあいだではきわめて強力に支配していて最強の個体だけを発育させる「自然選択」の原則にもかかわらず、衰弱しはじめているか、を示しているのである(79)。だが、自分をとり囲む労働者群の苦悩を否定するためのあれほど「適切な理由」をもっている資本が、その実践では、人類の腐敗、究極的には人口の減退という予想によって影響されないことは、地球が太陽に墜落するかもしれないことによって影響されないのと、おっつかっつである。どの投機取引でも、いつかは暴落がやってくることを誰もが知っているが、その誰もが、自分自身はちょっとの間に黄金の雨を集めてそれを安全な場所に移してしまってから、暴落が隣人を吹きとばすであろう、と期待する。後は野となれ山となれ! これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語である。し たがって、資本は、社会によって強制されることがなければ、労働者の健康と寿命の長さを少しも気づかいはしない(80)。肉体的および知的な堕落、夭折、過度労働の責苦について自分に向かって唱えられたどんな苦情にも、資本は簡単にごう答える。「これらの責苦がわれわれの喜び(われおれの利潤)を増すからには、なぜそれがわれわれを苦しめるというのか?(81)」確かに、ことを全体としてとらえれば、このこともまた個々の資本家の意志の善悪によることではない。自由競争は、資本主義的生産の内在的法則を、外的な強制法則として、資本家におしつける(82)。〉(江夏・上杉訳272-273頁)

《イギリス語版》 イギリス語版ではこのパラグラフの途中に注が挟まっているが、ここではそれを外して、注は原注のところで紹介することにする。

  〈12) これらの経験が資本家に示すものは、一般的に、不断の過剰人口である。それは、余剰労働を吸収しつつある資本のいつもの要求との関係における過剰ということである。だが、この過剰は、発育不全で、短命で、直ぐに互いに取り替えられ、もぎ取られた、いわば成熟前のということだが、の各世代の人間種から成り立っている。
  そして、はっきりと、これらの経験が、知識を有する観察者に、資本主義的生産様式が、人間史で云うならば、その日付はつい昨日からのことだが、人々を根源的に、あっという間に、強烈な握力で、捉えたことを教えている。-また、恒常的に、地方から、素朴で肉体的に痛んでいない人々を吸収することによって、工業人口の退化をいかに遅らすことができたかを示している。-また、新鮮な大気と自然淘汰の法則をして、彼等の内で、力強く働く者の中から、最も強き者のみの生存を許すという地方からの労働者ですら、すでに次々と死んでいく状況を知らしめている。
  資本の周囲に居る労働者の隊列の苦労などありはしないと云うためのご立派な言い分を持っている資本家は、早晩訪れるであろう人類の衰退や究極的な人口喪失を目の当たりにしても、実際になにをどうするのか、しないのかは、まるで、地球がいずれ太陽に落下するお話を聞くがごとくである。我 世を去りし後に、洪水よ 来たれ! (フランス語 イタリック) なる亡言こそ、ありとあらゆる資本家とありとあらゆる資本主義国家が腹のなかで思っていることである。以来資本家は、社会からの強制が無い限り、労働者の健康や命の長さについては、気にもしない。
  肉体的、かつ精神的な退化、早過ぎる死、超過労働の苦しみからの抗議に対する資本の解答は、それが我々の利益を増大させるものなのに、それがなぜ、我々を悩ませるものであるべきなのか? ただ、全体としてこれらの対応を見るならば、明らかに、それらが、個々の資本家の良きあるいは悪しき意志に依存していると云うものではない。自由競争という資本主義的生産の避け得ぬ法則がもたらすものが、強圧的外部法則の形で、全ての個々の資本家に作用するからである。〉(インターネットから)


●原注111

《初版》

 〈(111) 「超過労働をする者は、奇妙に早死にする。だが、滅んでゆく者の席はすぐに再びふさがれて、登場人物が頻繁に入れ替っても、舞台にはなんら変化が現われない。」『イギリスとアメリカ。ロンドン、1833年同第1巻、55ページ。(著者はE・G・ウェークフィールド。)〉(江夏訳298頁)

《フランス語版》

 〈(78) 「過度労働に服する労働者は、驚くぺき速さで死亡する。だが、亡びゆく者の席はすぐさま再び埋め合わされ、人物の頻繁な交替は舞台になんの変化も産み出さない」(『イギリスとアメリカ』、ロンドン、1833年、E・G・ウェークフィールド著)。〉(江夏・上杉訳273頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 超過労働で、「多くの者は、異常とも云える速さで死ぬ。しかし亡くなった者の場所は、瞬時に満たされる。そのように、人々の頻繁な入れ換えがあっても、その情景にはなんの変更も生じない。」(E.G. ウォークフィールド 1833 ロンドン「イングランドとアメリカ」)〉(インターネットから)


●原注112

《初版》

 〈(112)『公衆衛生、枢密院医務官第六回報告書、1863年』、を見よ。これは1864年にロンドンで公刊された。この報告書は特に農業労働者を扱っている。「サザーランド州は非常に改良された州だと言われてきたが、最近のある調査が発見したことだが、以前は立派な男子と勇敢な兵士とであれほど有名であったこの州の諸地方では、住民が退化して、やせこけて萎縮した人種になっている。海に面した丘の中腹という非常に健康的な場所にあるのに、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの裏町の腐った大気のなかにしかありえないほど、やせて蒼白である。」〈ソーントン、前掲書、74、75ページ。)彼らは、じっさい、グラスゴーの路地や袋小路で売春婦や泥棒と一緒に寝ている3万の「勇ましいスコットランド高地人」に、似ている。〉(江夏訳298頁)

《資本論》

  〈「婦人の就業が最も少ない」農業地区では「これに反して死亡率は最も低い」のである。ところが、1861年の調査委員会は予想外の結果を明らかにした。すなわち、北海沿岸のいくつかの純農耕地区では、1歳未満の子供の死亡率が、最も悪評の高い工場地区のそれにほとんど匹敵する、というのである.そこで、ドクター・ジョリアン・ハンターが、この現象を現地で研究することを委託された。彼の報告は『公衆衛生に関する第六次報告書』に採り入れられてある。それまでは、マラリアとかそのほか低湿地帯に特有な病気が多くの子供の命を奪ったものと推測されていた。調査は正反村の結果を示した。すなわち、
  「マラリアを駆逐したその同じ原因が、すなわち、冬は湿地で夏はやせた草地だった土地を肥沃な穀作地に変えたということが、乳児の異常な死亡率を生みだしたということ」だった。
  ドクター・ハンターがその地方で意見を聴取した70人の開業医は、この点についいて「驚くほど一致して」いた。つまり、土地耕作の革命にともなって工業制度が採り入れられたのである。
  「少年少女といっしょに隊をつくって作業する既婚婦人たちは、『親方』と称して隊全体を雇っている1人の男によって、一定の金額で農業者の使用に任される. これらの隊は、しばしば自分の村から何マイルも離れて移動し、朝晩路上で見かけるところでは、女は短い下着とそれにつりあった上着とを着て、長靴をはき、またときにはズボンをはいていて、非常にたくましく健康そうに見えるが、習慣的な不品行のためにすさんでおり、この活動的で独立的な暮らし方への愛着が家でしなびている自分の子供に与える有害な結果には少しもとんちゃくしない。」
  ここでは工場地区のすべての現象が再生産されるのであり、しかも、隠蔽された幼児殺しや子供に阿片を与えることはいっそう大きく再生産されるのである。イギリスの枢密院医務官で『公衆衛生』に関する報告書の主任編集者であるドクター・サイモンは次のように言っている。
  「それによって生みだされる害悪を知っているだけに、成年婦人のいっさいの包括的な産業的使用を私が強い嫌悪の念をもって見るのもやむをえないことであろう。」工場監督官R・べーカーは政府の報告書のなかで次のように叫んでいる。「もしすべての家族もちの既婚婦人がどんな工場で働くことも禁止されるならば、それは、じっさい、イギリスの工業地区にとって一つの幸福であろう。」〉(全集第23a巻519-520頁)
  〈1863年には、枢密院は、イギリス労働者階級の最も栄養の悪い部分の窮状に関する調査を命じた。枢密院の医務官ドクター・サイモンは、この仕事のために前記のドクター・スミスを選んだ。彼の調査は一方では農業労働者に、他方では絹織物工、裁縫女工、革手袋製造工、靴下編工、手袋織工、靴工に及んでいる。あとのほうの部類は、靴下編工を除けば、もっぱら都市労働者である。各部類のなかの最も健康で相対的に最良の状態にある家庭を選択することが、調査の原則とされた。一般的な結果としては次のようなことが判明した。
  「調査された都市労働者の諸部類のうちでは、窒素の供給が、それ以下では飢餓病が発生するという絶対酌な最低限度をわずかに超過したものは、ただ一つだけだったということ、二つの部類では、窒素含有食物も炭素含有食物も両方とも供給が不足であり、ことにそのうちの一つの部類では非常に不足だったということ、調査された農業家族のうちでは、5分の1以上が炭素含有食物の最低必要量以下を摂取し、3分の1以上が窒素含有食物の最低必要量以下を摂取していたということ、三つの州(バークシャ、オックスフォードシャ、サマセットシャ)で/は、窒素含有食物の最低量に達しない不足が平均的な状態だったということ。」
  農業労働者のうちでは、連合王国の最も豊かな部分であるイングランドのそれが最も栄養が悪かった。一般に、農業労働者のうちで栄養不良になったのはおもに女と子供だった。なぜならば「男は自分の仕事をするために食わなければならない」からである。調査された都市労働者部類のあいだには、もっとひどい不足が見られた。「彼らの栄養は非常に悪いので、悲惨な健康破壊的な窮乏」(これはすべて資本家の「禁欲」なのだ! すなわち、彼の労働者が露命をつなぐために欠くことのできない生活手段の支払の禁欲!)「の場合も多いにちがいない。」〉(全集第23b巻854-855頁)

《フランス語版》

 〈79) 『公衆衛生。枢密院医官第六回報告書、1863年』(1864年にロンドンで公刊)を見よ。この報告書は農業労働者を扱っている。「サザーランド州は、大改良が行なわれた州であると言われてきたが、最近の調査が証明したところでは、かつて男子の立派さと兵士の勇敢さとで名高かったこの地方では、退化した住民はもはや、痩せ細って傷めつけられた人種でしかない。海に面した丘陵の斜面にある最も健康な場所でも、彼らの子供たちの顔は、ロンドンの袋小路の腐った大気のなかで出くわすかもしれない人々と同じように、痩せていて蒼白である」(ソーントン、前掲書、74、75ページ)。実際に彼らは、グラスゴーがその「小路や路地」のなかに押し込んで盗人や淫売婦と一緒に寝かせている3万人の「勇ましいスコットランド高地人」に、似ているのである。〉(江夏・上杉訳273頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「公衆衛生 枢密院 医務官 第六次報告書、1863年」ロンドン 1864年発行 を見よ。この報告書は、特に、農業労働者のことを取り上げている。「サザーランド… は、通常、非常に良く改良された州を代表する…が…かっては、良質で勇敢な兵士を輩出するとして有名であったが、そこですら、住民が貧弱で、発育不全の人種であることが、最近の調査で発見された。この健康的な場所、海に面する丘で、飢えた子供たちは、あたかもロンドンの裏道の不潔な空気の中にいるかのように、青白い。(W. Th.ソーントン 過剰人口とその治療法) 彼等は、事実、グラスゴーの横町に豚が押し込まれるがごとくして、淫売・泥棒と一緒にいる3万の「勇敢なるスコットランド高地人」に似ている。〉(インターネットから)


●原注113

《61-63草稿》

 〈「(1)住民の健康は国民的資本の非常に重要な一部分であるのに、労働使用者の階級には、この宝をこのうえもないものとして守り慈しむ姿勢がなかったと言わざるをえないであろう。『ウェストライディングの人々は(と『タイムズ』は(2)1861年10月の戸籍長官の報告から引用している)人類の織物製造者となり、この仕事に非常に没頭したので、労働者たちの健康は犠牲にされ、人類は数世代のうちに退化してしまうところであった。しかし一つの反動が起こった。シャーフツブリ卿の法案が児童労働の時間を制限した、云々。』労働者たちの(3)健康を顧慮することが(と『タイムズ』は言い添えている)、社会によって工場主に強制されたのである。」

  (1)〔注解〕このパラグラフは、ノート第7冊、ロンドン、1859-1862年、207ページから採られている。強調はマルクスによるもの。マルクスが引用しているのは、ロ/ンドンの『ザ・タイムズ』、1861年11月5日付、第24,082号、6ページに掲滅された、“Ever government has traditions..."という〔書き出しの〕記事である。
  (2)〔訳注〕『戸籍長官のイングランドの出生・死亡・婚姻に関する第22次年次報告書。女王陛下の命により国会の両院に提出』、ロソドン、1861年。
  (3)〔訳注〕「健康」への強調は二重の下線によるものである。〉(草稿集④574-575頁)

《初版》

 〈(113)「住民の健康は一国の資本の非常に重要な一要素であっても、われわれが懸念するところだが、資本家にはこの宝を保存し尊重する用意が全くない、と認めざるをえないのである。労働者の健康にたいする顧慮が、工場主に押しつけられた。(『タイムズ』、1861年10月)。ウエスト・ライディングの人々は人類の織物製造業者になり、労働者の健康が犠牲に供されて、数世代のうちに種族は衰退するところであったが、反作用が生じた。児童労働の時間が制限された、云々。」(『1861年10月の戸籍長官報告書』)〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈(80) 「住民の健康は国の資本の重要な一要素であるにもかかわらず、われわれが懸念するのは、資本家はこの財宝を保存してこれをその価値どおりに評価する気がないのだ、と告白せざるをえないことである。工場主は、労働者の健康に配慮することを強制された」(『タイムズ』紙、1861年11月5日)。「ウェスト・ライディングの人々は全人類のラシャ製造業者になった。労働者たちの健康は犠牲に供されたし、反動が作用しなかったらこの種族を退化させるのに2世代で充分であったろう。児童の労働時間が制限されたのである、云々」(『1861年10月の戸籍長宮報告害』)。〉(江夏・上杉訳274頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「国家の資本にとっても、事実、人々の健康は非常に重要であるにも係わらず、残念ながら、我々は次のように云わざるを得ない。労働者を雇用する者達の階級は、この宝を守り、大切にするつもりが全くない。….職工たちの健康に配慮することが、工場主に強制された。」(タイムズ紙 1861年11月5日) 「ウエスト ライデングの人々は、人類の毛織物製造業者となった。….人類の労働者の健康は、犠牲となった。そして、人類が僅か2-3世代で、退化してしまうに違いない。ところがそこに反動が現われた。シャフツベリー卿の法案が、児童労働の時間を制限した。」云々。(1861年10月度の戸籍本署長官の報告書)〉(インターネットから)


●原注114と原注114への補足

《初版》  初版には当然ながら「補足」はない。

 〈(114)だから、われわれは、たとえば、1863年の初めに、J・ウエッジウッド父子商会をも含めて、スタッフォードシャーに広大な製陶工場をもっている26の商会が、ある請願書のなかで「国家の強権的干渉を請願しているのを、見いだすのである。「他の資本家たちとの競争」のために、児童の労働時間の「自発的な」制限等々が、これらの商会には全く許され/ない。「だから、われわれがどんなに前述の弊害を嘆いてみても、この弊害を工場主たちのあいだのなんらかの種類の協定によって防止することは、不可能であろう。……これらすべての点を考慮すると、われわれは、ある強制法が必要だという確信に到達した。」(『児童労働調査委員会。第一回報告書、1863年』、322ページ。)〉(江夏訳298-299頁)

《フランス語版》 フランス語版には全集版や初版にはない原注81が付けられている。また全集版の原注114とその補足が合体させられ一つの原注とされている。

 〈(81) ゲーテの言葉。
    (82) だからこそ、われわれはたとえば、1863年の初めにスタフォードシャの広大な製陶工場の26人の所有者が、そのなかにはJ・ウェッジウッド父子商会もあったが、陳情書のなかで国家の強権による干渉を請願したのを、見出すのである。「他の資本家との競争は、われわれが児童の労働時間を意のままに制限することを許さない、云々」。「われわれがいま述べたばかりの弊害をどんなにひどく歎いても、工場主間のどんな種類の協定をもってしても、この弊警を防ぐことは不可能であろう。……いっさいのことを充分に考慮して、われわれは、一つの強制法が必要だという確信に到達した」(『児童労働調査委員会。第一回報告書』、1863年、322ページ)。もっと顕著なごく最近の一例がある! 綿花価格の騰貴が、熱病的な好景気の時期に、ブラックバーンの工場所有者たちに、相互協定によって一定期間彼らの工場の労働時間を短縮させたが、1871年の11月末頃にその期限が切れた。その間に、同時に工場主でもあり紡績工場でもある〔マイスナー第2版および第4版、現行版の各ドイツ語版では「紡績と織布とを結合している」〕もっと富裕な工場主たちは、この協定によって生じた生産減退を利用して、自分たちの工場で死ぬほど働かせ、自分たち自身の事業を拡張し、小工場主を犠牲にして莫大な利潤を実現した。万策つきた小工場主は労働者たちに訴え、9時間運動を熱心に行なうようにと彼らをそそのかし、自分自身の金銭をこの目的に出すと約束した!〉(江夏・上杉訳274頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 我々は、それゆえ、以下のことを見つけた。1863年の初めの頃、スタッフォードシャーに広く製陶工場を所有する26の会社の中の一つである、ヨシア ウェッジウッド父子会社が、「いくつかの法律の制定」を求めて、請願書を提出した。他の資本家達との競争が、自分なりに子供たちの労働時間を制限すること他を許さない。製造業者間で、協定を設ける枠組みでは、前にもこの弊害について多くの遺憾を述べたが、子供たちの労働時間制限他を守ることはできない。….これらの全ての点を考慮して、我々は、いくつかの法律の制定こそ我々の求めるものと確信した。(児童雇用調査委員会 第1次報告書 1863年) 最近になって、より衝撃的な例が表れた。熱狂的な好景気で綿価格の急上昇が見られたことが、ブラックバーンの紡績業者達の互いの同意に基づく、ある一定期間、彼等の工場の労働時間を短縮する事態を引き起こした。この期間は、1871年11月の末に終了した。この間、紡績と織機を合わせ持つ裕福な工場主達は、この協定による減産を利用して、彼等自身の商売を拡張し、小さな雇用主の犠牲の上に、大きな利益をむさぼったのである。小さな雇用主達は、直ぐに、職工たちに対する、彼等の矛先を変えて、職工達に、熱心に、9時間労働を掲げて戦うようにと説いたのである。そして、その成立まで資金的に支援すると約束したのであった。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

 〈資本主義的生産の傾向がどういうものであるかは、ブルジョア的産業の最初の黎明期の国家干渉(たとえば、14世紀の労働者法に現われているような)を近代の工場立法と比較すればはっきりする。前者では、労働者たちを強制してある一定分量の剰余労働(でなくても、とにかく労働でありさえすれば)を彼らの雇い主たちに提供させるため、すなわち、労働者たちに絶対的剰余労働を強制的に提供させるため労働時間が確定される。これにたいして、後者では、同じく強力的に一つの制限がもうけられるが、それはこの制限を超えて資本家に労働時間の絶対的延長を許さないため、つまりある一定の限界を超える労働時間の延長を妨げるためである。このような国家介入--大工業の母国たるイギリスで最初に現われる--の必要が避けられないということ、そしてまた、資本主義的生産が新たな産業部門をとらえるにつれてこうした介入をつぎつぎとそれらの部門におしひろげてゆかなければならない必要にせまられるということは、一方では、資本主義的生産には、他人の労働時間をわがものにすることにたいしてなんの制限もないことを、他方では、資本主義的生産の確立した体制内では、労働者たちは、彼らだけでは、--階級として国家に、そして国家をつうじて資本にはたらきかけることがなければ--肉体の維持に必要な自由な時間ですらも資本の(5)ハルピュイアの爪から守る力がないことを証明しているのである。

  (5)〔訳注〕ギリシア神話にでてくる、女性の頭をもち鳥の姿をした強欲な怪物。〉(草稿集⑨311頁)
 〈まず最初にエドワド3世の法律以降の労働日を固定する(それと同時に賃金を抑制しようとする)強制的な立法。しかし、この労働日の固定は、現今の工場法とは正反対のもの〔である〕。前者の立法は、資本主義的生産の形成期、資本主義的生産の諸条件が初めて徐々に成熟してゆく時期に対応している。後者の立法は、みずからの前に立ちふさがる障害物をすべて取り除き、「自然法則」が自由に作用する状況を創出した、資本主義的生産様式の支配〔の時期〕に対応している。前者の立法によって労働日が規定されたが、それは、経済諸法則の強制力の外にあるひとつの強制力によって、労働者にある一定の労働量を日々給付することを強要するためであった。つまり、それは、労働者階級のいわゆる「怠惰と安楽」に対抗する法律である。これに反して、後者の立法は、超過労働に対抗する法律、経済諸法則の「自然的な遊戯」への干渉の法律〔である〕。これら両法律の対立性は、資本主義的生産が労働を強制する仕方様式を示している--すなわち、一方の法律は労働を強要し、他方の法律は労働日の諸制限を強制するのである。〉(草稿集⑨691頁)

《初版》

 〈標準労働日の確立は資本家と労働者とのあいだの数世紀にもわたる闘争の成果である。とはいうものの、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。たとえば、現代のイギリス工場立法を、14世紀から18世紀の中葉にいたるまでのイギリスの諸労働法(115)と比較せよ。現代の工場法が労働日を暴力的に短縮するのにたいして、以前の諸法律はこれを暴力的に延長しようとする。資本がようやく生成したばかりであるので、いまだに、経済的諸関係の暴力によるだけでなく国家権力の助けによっても充分な量の剰余労働の吸収権を確保しているという萌芽状態にある資本の要求は、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらもしぶしぶ行なわざるをえない譲歩に比べれば、もちろん、全くっつましやかに見える。資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、日常的生活手段の価格と引き換えに、自分の活動的な金生活時間、それどころか自分の労働能力そのものを売ることを、自分の長子特権を一皿のレンズ豆と引き換えに売ることを、自由意志で納得するまでには、すなわち社会的に強制されるまでには、数世紀の歳月が必要なのである。だから、当然のことだが、資本が14世紀中葉から17世紀末までに国家権力に訴えて成年労働者に押しつけようとする労働日の延長は、19世紀後半において児童の血液の資本への転化にたいしてときおり国家が設けるところの労働時間の制限と、ほぼ一致している。今日、たとえば、マサチューセッツ州で、すなわち、アメリカ共和国のなかでも最近まで最も自由な州で、12歳未満の児童の労働を国家が制限するとして布告されているものは、イギリスでは、17世紀中葉にはまだ、血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日であった(116)。〉(江夏訳299頁)

《フランス語版》

 〈標準労働日の確立は、資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の結果である。しかし、この闘争の歴史は二つの対立する流れを示している。たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀以降18世紀中葉までのイギリスの労働法(83)と比較せよ。現代の立法が労働日を暴力的に短縮するのに対し、かの古い法律は、労働日を暴力的に延長しようと試みる。資本が成長しつっあって、経済的条件の力だけによるのではなく公権力の助力によっても充分な分量の剰余労働の吸収権を確保しようとするような、まだ萌芽状態にある資本の要求は、確かに、資本がひとたび成熟期に達して心ならずもなさざるをえない譲歩に比較すれば、全く控え目に見える。「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展/の結果、自分の日常の生活手段の価格と引き換えに自分の活動する生活の全時間、自分の労働力量そのものを売ることを、レンズ豆の羹(アツモノ)と引き換えに家督の権を売る〔旧約聖書にある言葉〕ことを、自発的に承諾するためには、すなわち社会的に強制されるためには、実際に数世紀が必要である。したがって、当然のことながら、14世紀中葉以降17世紀末まで資本が国家の助力によって成年男子に押しつけようとする労働日の延長は、児童の血が資本に転化することを防ぐために国家が19世紀の後半にあちこちで布告し強制する労働時間の制限と、ほとんど一致している。今日たとえば、ごく最近でもなお北アメリカの最も自由な州であるマサチュセッツ州で、12歳未満の児童の労働時間の法的な限度と宣言されているものは、17世紀中葉のイギリスでは、逞しい手工業者や頑丈な農僕や頑健な鍛冶工の標準労働日であった。〉(江夏・上杉訳274-275頁)

《イギリス語版》

  〈(13) 標準労働時間の確立は、数世紀にわたる資本家と労働者の闘争の結果である。この闘争の歴史は、二つの対照的な違いを見せる。すなわち、我々の時代の英国の工場法と、14世紀から18世紀の中頃にまで至る間の英国労働法令とを比較してみよ。
  近代工場法は労働日を強制的に短縮するのに対して、初期の法令はそれを無理やりに延長しようとしたものである。勿論、萌芽時点の資本の要求で、-成長を始めた頃、資本が、充分な量(ラテン語)の剰余労働を吸収する権利を確実にしようとしたもので、経済的諸関係の力のみではなく、国家の助けによっても、それを果たそうとしたものである。-最初に表れた時は、控えめなもので、譲歩をもって相手とあい対峙したものが、不満になり、傲慢になり、成熟の状態へと成長したに違いないのである。数世紀の間、「自由な」労働者が、資本主義的生産の発展に感謝して合意したものが、社会的条件によって、覆されてしまった。彼の生きて活動する人生を、彼の働くあらゆる能力を、彼の生活必需品の価格のために売ることで、彼の生まれ持った権利を目茶苦茶にされた。言うなれば、14世紀から17世紀の終りに至るまで、資本が国家手段を用いて、成人労働者に負わそうとした労働日の延長と、19世紀後半で、このように、国家によって、子供たちの血を資本の鋳貨とするのを防止するために、労働日を短縮しようとしたこととは、まさに、表裏一体の関係で、当然の成り行きというものである。つまり、こう言うことである。今日、今までのところ、最も自由な北米共和国の州であるマサチュセッツ州が、12歳未満の子供たちの労働の制限を宣言したが、これは、英国の、17世紀中頃にすらあった、身体強健な工芸職人とか、頑丈な農耕労働者や、筋肉たくましき鍛冶屋達の標準労働日であった。〉(インターネットから)


●原注115

《初版》

 〈(115)これらの労働者取締法は、同時にフランスやオランダ等々でも見いだされるものであるが、イギリスではようやく1813年に、それらの取締法が生産諸関係からとっくに排除されてからずっとあとで、正式に廃止された。〉(江夏訳300頁)

《資本論》(第24章 本源的蓄積」「第3節 15世紀末以後の被収奪者にたいする血の立法 労賃引き下げのための諸法律」)

 〈賃労働に関する立法は、もともと労働者の搾取をねらったもので、その歩みはいつでも同様に労働者に敵対的なのであるが、この立法はイギリスでは1349年のエドワード三世の労働者法〔Statute of Labourers〕から始まる。フランスでこれに対応するものは、ジャン王の名で布告された1350年の勅令である。イギリスの立法とフランスの立法とは並行して進んでおり、内容から見ても同じである。これらの労働法が労働日の延長を強制しようとするかぎりでは、私はもうそれには立ち帰らない。というのは、この点は前に(第8章第5節) で論じておいたからである。〉(全集第23b巻964頁)

《フランス語版》

 〈(83) フランスやオランダなどでも見出されるこれらの労働法は、イギリスでは1813年に、やっと正式に廃止された。久しい以前から、生産条件はこれらの法律を時代おくれのものにしていたのである。〉(江夏・上杉訳275頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 英国労働法規は、似たようなものが、同時期フランスやオランダ他でも制定されたが、生産方法の変化が、それらを意味のないものにしてしまったずーっと後になって、英国では1813年になってやっと正式に廃止された。〉(インターネットから)


●原注116

《初版》

 〈(116)「12歳未満の児童をいかなる工場施設においても1日に10時間以上就業させてはならない。」『マサチューセッツ一般法』、63、第12章。(これらの法律は1836-1858年に公布された。)「すべての木綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場において、または鉄および真鎗の工場において、1日に10時間の時間中に行なわれる労働は、法定の1日の労働とみなされるものとする。今後、いかなる工場において雇用される未成年者にも、1日に10時間以上または1週に60時間以上労働することを守らせもしくは命じてはならない。今後、本州内のいかなる工場においても、1O歳未満の者を労働者として採用してはならない。」『ニュージャージー州。労働時間制限法』、61および2(1855年3月11日の法律。)「12歳以上15歳未満の未成年者は、いかなる工場施設においても1日に11時間以上、かつ朝の5時以前および夕方の7時半以降、就業させてはならない。」(『ロード・アイランド州改正法』、第39章、第23条、1857年7月1日。)〉(江夏訳300頁)

《フランス語版》 

 〈(84) 「12歳未満の児童はいかなる工場でも1日に10時間以上就業させてはならない」『マサチュセッツ一般法』、63、第12章(これらの法律は1836年ないし1858年に公布された)。「木綿工場、羊毛工場、絹工場、製紙工場、ガラス工場、亜麻工場においては、かつ金属工場においても、1日に10時間にわたって行なわれる労働は、法定労働日と見なされねばならない。今後、工場に雇われているいかなる未成年者も、1日に10時間以上または1週に60時間以上就労させてはならず、今後、本州のいかなる工場においてであるかを間わず、10歳未満の未成年者を労働者として採用してはならない」『ニュー・ジャージー州。労働時間等制限法』、第1条および第2条(1851年3月11日の法律)。「12歳似上15歳未満の未成年者は、工場において1日に11時問以上、かつ朝の5時以前および夕方の7時半以降、就労させてはならない」『ロード・アイランド州改正法』、第139章、第23条(1857年7月1日)。〉(江夏・上杉訳275頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「12歳未満の者を、いかなる製造工場においても、1日当り10時間を超えて雇用することがあってはならない。」マサチュセッツ州一般法令 63 第12章 ( 様々な法令が、1836年から1858年にかけて、議決された。) 「当州内においては、いかなる日であれ、10時間の間になされる労働が、綿、羊毛、絹、紙、ガラス、亜麻の工場であれ、鉄や真鍮の製造工場であれ、法的な日労働でなければならない。法令制定により、以後、いかなる日であろうと、いかなる工場であろうと、未成年者に10時間を超えて、また週 60時間を超えて、働くよう強要したり、拘束したりして仕事に従事させてはならない。また、以後、いかなる工場であれ、10歳未満の未成年者を労働者として用いてはならない。」ニュージャージー州 労働時間の制限法他 第1節及び第2節 (1851年3月18日付けの法) 「12歳以上かつ15歳未満の未成年者を、いかなる製造工場であれ、いかなる日であれ、11時間を超えて雇用したり、または朝の5時前や、夕方7時半以後に雇用したりしてはならない。」( 「改正法令 ロード アイランド州」他 第139章 第23節 1857年7月1日)〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ペティは、『アイルランドの政治的解剖』を書いた。そのなかで彼はこう言っている。「労働者たちは日に10時間働き、そして週に2O回の食事を、すなわち、仕事日には1日に3回、日曜日には2回の食事をする(いまではただ2回のみ)。このことから明らかなように、彼らが金曜の夜は断食し、そして現在午前11時から午後1時までの2時間をかけている昼食を1時間半ですます(いまでは朝食と昼食とでやっと1時間半になるにすぎない)ことができれば、そのようにして2O分の1だけ多く働き、そして2O分の1だけ少なく消費することが、できれば、前述の{租税のための}1O分の1は徴収できるのである。」(第1O版、ロンドン、1691年。)この章句から明らかになるように、当時の成年者の労働時間は、現在の13歳以上の子どもの名目上の労働時間と比べても長くはなかったし、また労働者はより多くの時間を食事にかけていたのである。〉(草稿集⑨312-313頁)

《初版》

 〈最初の『労働者取締法』(エドワード3世第23年、1349年)は、それの直接の口実(それの原因ではない。というのは、この種の立法は口実がなくなっても幾世紀も存続するのであるから)を、ひどいペストのうちに見いだしたのであるが、このペストは、トーリー党のある著述家が言うように、「労働者たちを手ごろな価格で(すなわち、彼らの雇主に、手ごろな分量の剰余労働を残すような価格で)就労させることの困難が、じっさいに耐えがたくなくなった(117)」ほどに、多くの住民を殺したのである。だから、手ごろな労賃が、労働日の限度と全く同じように、強制法によって命ぜられた。ここでわれわれにとって関心があるのは、労働日の限度にかんする点だけであるが、この点は1496年(へンリー8世〔へンリー7世の誤記〕治下)の法律のなかでも繰り返されている。すべての手工業者(artificers)と農業労働者との3月から9月までの労働日は、当時、といってもけっして実行に移されたわけではないが、朝の5時から晩の7時か8時まで続くことになっていたが、食事時間は、朝食の1時間と昼食の1[1/2]時間と4時の間食の12時間とであり、つまり、現行の工場法の規定のちょうど2倍であった(118)。冬には、中休み時間は同じで、朝の5時から日暮れまで/労働することになっていた。1562年のエリザベスのある法律は、「日賃金または週賃金で雇われている」すべての労働者について、労働日の長さには触れていないが、中休み時間を、夏は2[1/2]時間冬は2時間に、制限しようとした。昼食はわずか1時間にかぎられ、また、「1/2時間の午睡」は、5月の半ばから8月の半ばまでのあいだだけ許されることになっていた。1時間欠勤するごとに、賃金から1ペニー(約10ペニヒ)差し引かれることになっていた。だが、じっさいには、事情は労働者にとって、法文よりもはるかに有利であった。経済学の父であるし、いわば統計学の創設者でもあるウィリアム・ペティは、彼が17世紀の最後の3分の1期に公刊したある著書のなかで、こう言っている。「労働者会者(labouring men、当時は、厳密には農業労働者のこと)は、毎日10時間労働し、毎週2O回の食事を、すなわち、平日には毎日3回、日曜日には2回の食事をとる。このことからはっきりわかるように、彼らが金曜日の晩は断食するつもりになり、いまは昼食のために午前11時から1時までの2時間を費やしているが、この昼食を1時間半ですますつもりになれば、このようにして1/20別多く働き1/20少なく消費すれば、前述の租税の1O分の1は徴収可能であろう(119)。」ドクター・アンドルー・ユアが1833年の12時間法案を暗黒時代への後退であると非難したのは、もっともなことではなかったか? もちろん、これらの法律のなかでうたわれておりぺティが言及している諸規定は、“ apprentices"(徒弟)にも適用される。ところが、17世紀末には児童労働がまだどんな状態であったかは、次のような苦情から判断される。「わが国の少年は、このイギリスでは、彼らが徒弟になるまでは全く仕事をしない。しかも、徒弟になってからも、完全な手工業者になるためには、もちろん、長い歳月--7年--がかかる。」これに反して、ドイツはほめられてよい。なぜならば、ドイツでは、児童はゆりかごの時代から、少なくとも「わずかばかりの仕事を仕込まれている(120)」からである。〉(江夏訳300-301頁)

《フランス語版》

 〈最初の「労働者法」(エドワード3世、1349年)は、その直接の口実--その原因ではない。この種の立法は、口実が消え失せた後も数世紀存続するからである--を、ひどいペストのうちに見出したのであるが、このペストは、トーリ党の一著述家の表現によると、「労働者を相当の価格で(すなわち、彼らの雇主に相当な分量の剰余労働を残す価格で)手に入れる困難が、実際に耐えられなくなった(85)」ほどに、多くの人口を激減させた。その結果、この法律は、相/当の賃金を命ずるとともに労働日の限度をきめることをも引き受けた。ここではこの後者の点だけが関係があるのだが、それは1496年(ヘンリ7世治下) の法律のなかにも再現している。すべての手工業者〈artificers〉と農業労働者の3月から9月までの労働日は、けっして実行に移されなかったものの、当時は朝の5時から夕方の7時、8時まで継続することになっていた。だが、食事時間には、朝食のための1時間、昼食のための1時間半、4時頃の間食のための半時間、すなわち、現行の「工場法」がきめている時間のかっきり2倍が含まれていた(86)。冬には、労働は同じ中休み時間付きで、朝の5時に始まり夕暮れに終わることになっていた。エリザベスの法律(1562年)は、「日ぎめまたは週ぎめ雇い」のすべての労働者について、労働日の長さには触れていないが、中休み時間を夏には2時間半、冬には2時間に短縮しようとする。昼食は1時間に限られなけれぽならないし、「半時間の午唾」は5月の半ばから8月の半ばまでだけ許されるべきだとする。1時間欠勤することに、賃金から1ペニー(10サンチーム)が差し引かれることとする。しかし実際には、事情は労働者にとって、法文にうたわれているよりも有利であった。経済学の父であり、ある程度は統計学の発明者でもあるウィリアム・ペティは、17世紀の最後の3分の1期に著わした著書のなかで、こう言っている。「労働者(labouring men、当時は厳密に言えば農業労働者) は1日に10時間労働して、週に20回、すなわち平日は3回、日曜日は2回の食事をとる。このことからはっきりわかるように、彼らが金曜日の夜は断食するつもりになり、現在朝の11時から1時まで2時問も費やされている昼食を1時問半ですますつもりになれば、換言すると、彼らが20分の1多く労働して20分の1少なく消費すれば、前述の租税の10分の1は微収可能であろう(87)」。ドクター.アンドルー・ユアが1833年の12時間法案を暗黒時代への復帰としてけなしたのは、正しくなかったか? 諸法律のうちに記されておりペティが言及している諸規定は、まさに徒弟にも適用されるが、児童労働が17世紀末でさえまだどんな状態にあったかは、次のような苦情から直接にうかがわれる。「われわれの少年は、ここイギリスでは、徒弟になるときまで全くなにもしない。そして、このばあい彼らは、訓練されて熟練労働者になるためには、もちろん/長い時間(7年)を必要とする」。これに反して、ドイツは称賛される。そこでは、児童は揺藍時代から「少なくとも幾分かの仕事に慣らされている(88)」からである。〉(江夏・上杉訳275-277頁)

《イギリス語版》  イギリス語版ではこのパラグラフは(14)~(17)のパラグラフに分けられているが、一緒に紹介しておく。

  〈(14) 最初の「労働者法令」( エドワード三世在位第23年 1349年)は、その成立の直接的な口実として、大きな疫病が、人々を減少させたためであるとする。( 口実が消滅した後も、数世紀にわたって、この種の法令が存続したのであるから、存立理由とは云えない。) すなわち、トーリー党の書き手が云うように、「適切な価格で人を仕事に得ようとする困難性が、耐えられない程度に大きくなってしまった。」( 適切な剰余労働の量を得ようとする雇用者の算段から、その価格が離れてしまったということである。)
  合理的な賃金は、従って、労働日の制限と同様に、法令によって決められた。後者の労働日の制限が、ここでは我々のただ一つの関心事であるが、1496年の法令( ヘンリー七世) によっても、繰り返された。手工業職人や農耕労働者に対する労働日は、3月から9月まで、法に従えば、(とはいえ、強制できるものではなかったが) 朝の5時から、夕方の7-8時までの間である。それでも、食事時間として、朝食に1時間、夕食に1時間半、「昼食」に半時間があり、これは、工場法が今日規定しているものに較べて、正確に2倍あった。
  冬は、同じ食事時間を含んで、朝5時から暗くなるまで仕事が続く。エリザベス治下の1562年の法令は、「日払いであれ、週払いであれ」全ての労働者の労働日の長さには全く触れず、夏場の休息時間を2時間半、冬場は2時間に制限するものとなった。夕食は1時間、そして「午後の一休みは半時間」は、5月半ばから8月半ばの間のみ許された。いかなる場合でも1時間の欠席は、賃金から1ペニーが差し引かれた。実際には、それでも、法令書に較べれば、労働者にとってはもう少し好ましいものであった。 ウィリアム ペティ 政治経済学の父、そして広く見るならば、統計学の創設者でもある彼は、17世紀の終り1/3頃に出版した著作でこう云っている。
  (15) 「労働者は、( 当時は農耕労働者を意味する) 1日当り ( ラテン語) 10時間働く、そして、週20回の食事をとる。すなわち、( ラテン語) 労働日には、1日3回、そして日曜日は2回である。もし、金曜日の夜を食事なしとするならば、そしてまた、11時から1時までの2時間としている食事時間を1時間半にすることができるならば、結果として、1/20多く働き、1/20少なく支出することとなり、上記( 租税) が増収となるであろうことは明らかである。」( W. ペティ 「アイルランドの政治的解剖 賢き人にはこれで充分(ラテン語)」1672 1691年版 ) ( 訳者注: ここは、税徴収上の計算の必要性はなく、かっては食事時間が長かったことの説明まで)
 (16) アンドリュー ユア博士が、1833年の12時間法を、暗黒時代への後戻りだとして非難したのは、正鵠を得たものではなかったのか? これらの規則はこの法に、ペティが述べたように、まさしく含まれており、見習い工にも適用される。だが、児童労働の実態は、17世紀末でさえあってなお、次のような苦情からうかがい知ることができる。
 (17) 「7歳で見習い工とする この我が王国のやりかたと較べれば、(ドイツの) 彼等のやり方は違う。 3歳とか4歳が普通の基準である。どういうことかと云えば、彼等は、揺りかごの頃から仕事のことを仕込む。それが彼等を機敏かつ従順ならしめる。その結果、仕事において成果を得ることになり、急速なる熟練へと到達する。ところが、ここ、我々の英国の若者は、見習い工になる前には何の育成もない。進歩も非常に遅く、職人として完璧の域に達するには、より長い時間を要する。」〉(インターネットから)


 (付属資料№3に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(10)

2023-10-20 14:25:33 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (10)


【付属資料】No.3

 

●原注117

《61-63草稿》

 〈「人口がわずかで土地が豊富にあるときには、自由な労働者は怠惰で生意気である。人為的な規制は、しばしば、労働者に労働させるのに有用であるばかりでなく絶対に必要なものであった。カーライル氏によれば、今日わが西インド諸島の解放された黒人たちは、熱い太陽をただで、またたくさんのかぼちゃをただ同然で手に入れるので、働こうとしない。カーライル氏は、労働を強制する法律的規制が絶対に必要であり、それは彼ら自身のためでさえあるのだ、と考えているようである。彼がそう言うのは、彼らが急速にもとの未開状態に退化しつつあるからである。同様に5OO年前のイギリスでも、経験的に知られていたのは、貧民は働く必要がなく、働こうとしない、ということである。14世紀のひどい疫病が人口を減少させたので、穏当/な条件で人々を働かせることの困難は、まったく耐えがたいほどの、また、王国の産業を脅かすほどの程度にまで増大した。その結果1349年に、貧民に労働を強制し、また労働の賃銀に干渉する、エドワド3世治下第23年の法律が制定された。引き続き、数世紀にわたって同じ目的でいくつもの法律の制定が行なわれた。農業労働者の賃銀ばかりでなく手工業者の賃銀も、1日仕事の価格ばかりでなく出来高払い仕事の価格も、貧民が労働しなければならない時間も、それどころか(今日の工場諸法でのように)食事のための休憩時間さえも、法律によって規定された。賃銀を労働者に不利に雇主に有利に規制した議会諸法は、464年という長い期間にわたって存続した。人口は増加した。そこでこれらの法律は不必要でわずらわしいものに思われ、またじっさいそういうものになったのであった。1813年、それらはすべて廃止された」(〔ジョン・バーナド・パイルズ〕『自由貿易の詭弁と通俗経済学の検討』、第7版、ロンドン、185O年、205、206ページ)。〉(草稿集④360-361頁)

《初版》

 〈(117) 『自由貿易の論弁。第7版。ロンドン、185O年』、205ページ。このトーリー党員はさらに、次のことも認め/ている。「労賃を労働者には不利に定め雇主には有利に定めた国会制定法は、464年の長期にわたって存続した。人口が増加した。これらの法律はいまや無用でわずらわしいものになった。」(同上、206ページ。)〉(江夏訳301-302頁)

《フランス語版》

 〈(85) 『自由貿易の論弁』、第7版、ロンドン、1850年、205ページ。このトーリ党員はさらに次のことを承認する。「賃金の規制にかんする国会制定法は労働者には不利に雇主には有利に制定されたが、この制定法は464年の長期間にわたって存続した。人口が増加した。これらの法律は余計で厄介なものになった」(同上、206ページ)。〉(江夏・上杉訳277頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「自由取引の詭弁」第7版 ロンドン 1850及び9版で、この同じトーリー党員は、さらに、次のように認めている。「賃金を規制する議会法は、労働者に対しては不利に、雇用主には有利なものだが、464年の長期間存続した。人口も増大し、やがて、この法令は、事実上、不必要で、やっかいなものになってしまった。」〉(インターネットから)


●原注118

《61-63草稿》

 〈しかし、労働者にとって同様に好ましい状況は、とうに15世紀のイングランドに見いだせる。
  「(2)1496年の法令をみると、飲食費は手工業者の所得の3分の1相当、労働者の所得の2分の1相当とみなされていたことがわかるが、このことは、労働者階級に属するものの独立の程度が今日のおおかたの状態よりも高かったことを示している。というのは、今日では、労働者や手工業者の飲食費は、彼らの賃金にたいしてずっと高い比率になるとみられるからである。食事と息抜きの時間は昨今よりもゆるやかであった。たとえば、3月から9月までは、朝食に1時間、昼食に1時間半、そして午後の軽食に半時間をかける。つまり、3時間。冬場は朝の5時から暗くなるまで働いた。これにたいして、今日、工場では朝食にわずか半時間、昼食に1時間、15世紀のちょうど半分である。」(ジョン・ウェイド『中間階級および労働者階級の歴史』、第3版、ロンドン、1835年、24、25および577、578ページ。)

  (2) 〔注解〕ウェイドの原文では、次のようになっている。
  「前述の報告書からわかるように、1496年には飲食費は手工業者の収入の3分の1相当、労働者の収入の2分の1相当とみなされていたようだ。このことは、労働階級の多くの独立の程度が今日のおおかたの状態よりもずっと高かったことを示している。というのは、今日では食費は、労働者と手工業者の両方とも、彼らの賃金のうちのずっと大きな比率になるとみられるからである。食事や休息にかける時間もまた今日よりもたっぷりであった。」(25ページ。)
  「3月から9月まで、……朝食に1時間、夕食に1時間半、昼食には半時間をあてている。労働時間は冬季には、"日の出"から日没まで……:。」(24ページ。)
  「綿工場に雇用されている人々は、……朝食をとりに3O分か4O分帰宅し、……夕食には一時間をあてている。」(577ページ。)〉(草稿集⑨313-314頁)

《初版》

 〈(118)この法律にかんしてJ・ウェードが次のように述べているのは、もっともなことだ。「1496年の法律からすると、食物は手工業者の所得の1/3に等しく、農業労働者の所得の2/3に等しい、と認められていたことになる。そして、このことは、労働者の独立の程度が、今日支配的である独立の程度--今日では、農業でも工業でも、労働者たちの食物は彼らの賃金にたいしてはるかに高い割合になっている--よりも高い、ということを示している。(J・ウェード、前掲書、24、25および577ページ。)この差異は、多分、食料と衣料との価格の割合が現在と当時とではちがっているために生じた、というような見解は、フリートウッド司教の『物価年表、第1版、ロンドン、17O7年。同第2版、ロンドン、1745年)をほんのちょっとのぞいて見ただけでも、反駁できるものだ。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈(86) J ・ウェードはこの法律について、非常に正しい説明をしている。「1496年の法律からすると、食物は労働者が受け取ったものの3分の1に、農業労働者が受け取ったものの半分に価値が等しいものと見なされていたことになる。このことは、労働者の独立性が、今日支配的であるところの独立性よりも高度である、ということを示している。現在では、どんな階層の労働者の食物も、その賃金にたいしてはるかに高い割合を表わしているからである」(J・ウェード、前掲書、24、25および577ページ)。この差異は、たとえぱ食物と衣料との価格比率が当時と今日とではちがっていることによるものだ、という見解を論破するには、フリートウッド司教の『物価年表』、初版、ロンドン、1707年、第2版、ロンドン、1745年、をほんのちょっとのぞいてみるだけで充分である。〉(江夏・上杉訳277頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: この法令について、J.ウェードは、まさしくも、次のように述べている。「上記の記述から、( 法令のことを指している) 1496年では、日常の食事に係る費用は、手工業職人の収入の1/3と、農耕労働者の収入の1/2と等価であると考えられており、現在の状況に較べて、労働者階級にはより大きな独立性があったことを示していることは明らかである。較べるならば、農耕労働者も手工業職人も、現在は、食費が、彼等の賃金のより高い割合を占めると認められるであろう。(J.ウェード 「中産階級と労働者階級の歴史」) この差は、当時と現在の食料や衣料の価格関係の差に起因するというような見方は、次の本の一瞥をもって、その誤りが証明される。「物価年表 他」ビショップ フリートウッド著 初版 ロンドン 1707年、第2版 ロンドン 1745年〉(インターネットから)


●原注119

《初版》

 〈(119) W・ペティ『アイルランドの政治的解剖、1672年、1691年版』、10ページ。〉(江夏訳302頁)

《フランス語版》

 〈(87) W・ペティ『アイルランドの政治的解剖、1672年』、1691年版、10ページ。〉(江夏・上杉訳277頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●原注120

《61-63草稿》

 〈{ここで--子供たちを早くから労働者として搾取することに関連して--、ウィッグ党の追従(ツイショウ)屋マコーリから次のことを引用してもよい。これは歴史記述のやり方として(また経済学の分野での見解としても)特徴的なものである(それはたしかに、古き良き時代の讃美者〔laudator temporis acti〕ではない。それどころかその果敢さをもっばらうしろのほうに、はるか過ぎし日々に移しているのである。)工場での児童労働については類似のものが17世紀にあること。だがやはり〔これらのことに言及する場所としては〕、歴史的過程について、あるいは機械などについて、述べるところのほうがいい。工場報告書、1856年、を見よ。〉(草稿集④70頁)
  〈{マコーリが、現存するものの弁護者である--ただ過去にたいしてだけは監察官(ケンソル)カトーであり、現在への追従(ツイショウ)屋である--ウィッグ党員としてふるまうことができるために、経済上の事実をどんなにひどく歪めているかは、とりわけ次の箇所から〔明らかになる〕。--「児童をあまりにも早く労働に就かせる慣習--すなわち、われわれの時代には、自分自身を保護できない人々の正統の保護者たる国家が、賢明かつ慈悲ぶかくも禁止してしまったような慣習--は、17世紀には、当時の工業組織〔manufacturring system〕の規模に比べればほとんど信じられないほど、広く行きわたっていた。羊毛工業の中心地ノリッヂでは、ほんの6歳の子供が労働に就く能力があるものと考えられた。当時のいろいろの著述家たちは--そしてそのなかにはきわめて情けぷかいと見なされていた人もあった--、この都市一つだけでも幼い少年少女が創造する富は彼ら自身の生存に必要であるものよりも1年間に12,000ポンド・スターリングも多いという事実を、大喜びで述ベている。過去の歴史をたんねんに調べれば調べるほど、われわれの時代を新しい社会的害悪に満ちているものと考え/る人々に同じない理由を、われわれはますます多く見いだすのである。真実は、害悪はほとんど例外なしに昔のことである、ということである。新たなものは、これらの害悪を見きわめる知性とそれをただす人間性である」〈マコーリ『イギリス史』、第1巻、ロンドン、1854年、417ページ)。この箇所が証明しているのはまさに正反対のこと、すなわち、当時は児童労働はまだ例外的な現象だったのであり、だからこそ経済学者たちはこの現象に、とくに称揚すべきものとして大喜びで言及したのだ、ということである。現代のどの著述家が、いたいけな年の児童が工場で使用されていることを、なにかとくにめだったこととして言いたてるであろうか。チャイルドやカルペパなどのような著述家を良識をもって読む人であれば、だれでも同じ結論に達するのである。}〉(草稿集④352-353頁)
  〈あわれむべき弁護論者マコーリはその『イギリス史』(第1巻、417ページ)で次のように語っている。
  「子どもを早くから労働につかせる習慣は……17世紀にはマニユフアクチュア制度の広がりとくらべるとほとんど信じられないほどに広まっていた。織物業の中心地ノリツジでは、6歳の子どもが労働に耐えうる者として扱われた。当時の数人の著述家たち--そのなかには特別に温情的とみられた人もあった--は、この都市だけでも、いたいけな年ごろの少年少女が創造する富が彼ら自身の生活費である1年間の1万2000ポンドよりも多いという事実をおおはしゃぎで述べている。われわれは、過去の歴史を入念に調べれば調ぺるほど、われわれの時代が新しい社会悪に満ちたものと考える人々の見解をしりぞけるべき理由をますます多くみいだすであろう。真実はといえば、その悪はほとんど例外なく古いもので、新しいものはといえば、その悪を識別する知性とその悪を正す人間性なのである。」〉(草稿集⑨183頁)
  〈児童労働
  イギリス人が、児童を使用するようになる年齢は、ドイツに比ぺてより高い。(サブノートC、24ページ。これにたいして、歴史の偽造者たるマコーリを参照せよ。)〉(草稿集⑨654頁)

《初版》

 〈(12O) 『機械的工業を奨励する必要にかんする論考、ロンドン、1689年』、13ページ。イギリスの歴史をホイッグ党とブルジョアとの利益に合うように偽造したマコーレーは、次のように弁じたてている。「児童を早くから就労させる慣習は、17世紀には、産業の当時の状態からはほとんど信じられないほど広く、行なわれていた。羊毛工業の中心地ノリッジでは、6歳の児童が労働能力ありと見なされていた。当時のいろいろな著述家たちは、そのなかには非常に気立てがよいと見なされた幾多の人々もいるが、この都市だけでも、少年少女が創造する富は彼ら自身の生活費よりも1年間に1万2000ポンド・スターリングも多い、という事実を、“Exultation"(有頂天)になって述べている。われわれは、過去の歴史を綿密に調べれば調べるほど、われわれの時代を新たな社会的害毒にみちていると考える人々の見解がしりぞけられる理由を、ますます多く見いだすのである。新しいものと言えば、それは、この害毒を発見する知性と、この害毒を矯正する人間性とである。」(『イギリス史』、第1巻、419ページ。)マコーレーはさらに、「非常に気立てがよい」商業の友が、17世紀には、オランダのある救貧院で4歳の児童が働かされていたことを「有頂天」になって語っていることや、また、「実践に移された徳行」についてのこういった実例が、アダム・スミスの時代にいたるまで、マコーレー流の人道主義者のあらゆる著書のなかでは合格点をとっていることを、伝えることもできたであろうに。手工業とはちがうマニュファクチュアが発生するにつれて、児童搾取の痕跡が現われる、ということは正しい。資本の傾向はまぎれもないが、もろもろの事実そのものは、双頭児の外見と同じに、ま/だ個々別々である。だから、これらの事実は、特に注目に値し驚嘆に値するものとして、予感を抱いている「商業の友」によって、同時代や後世の人々のためにも、「有頂天」になって記録され、また、まねすることをすすめられたのである。スコットランドのおべっか使いで能弁家のこのマコーレーは、こう言う。「今日聞こえるのは退歩だけで、見えるのは進歩だけだ。」なんという目、とりわけ、なんという耳だろう!〉(江夏訳302-303頁)

《フランス語版》

 〈(88) 『機械工業奨励の必要にかんする論考』、ロンドン、1690年、13ページ。イギリスの歴史をホイッグ党とブルジョアとの利益のために偽造したマコーリは、次のように演説している。「児童を早くから労働させる慣習は、17世紀には、当時の工業状態としてはほとんど信じられない程度に支配的であった。綿業の主要な本拠であるノリッジでは、6歳の児童が労働能力のあるものと見なされていた。当時のいろいろな著述家は、そのうちの幾人かは非常に好意的であると考えられたが、この都市だけで少年少女が自分自身の生計費を毎年1万2000ポンド・スターリングも超過する富を創造するという事実を、大喜びで述べている。われわれは、過去の歴史を注意深く調べれば調べるほど、現代は新しい社会的弊害で満ちていると主張する人々の見解をしりぞけるべき理由を、ますます多く見出すのである。真に新しいもの、それは、この弊害を発見する知能であり、この弊害を軽減する人間性である」(『イギリス史』、第1巻、417ぺージ)。17世紀には「非常に好意的な」商業の友が、オランダのある救貧院で4歳の児童がどのように仕事に使われていたかを「大喜び」で語っていることを、また、こういった「実践に移された徳性」の実例が、アダム・スミスの時代にいたるまでマコーリ型の人道主義者のあらゆる著書のなかでどのように模範として引用されているかを、マコーリはさらに報告することもできたであろうに。マニュファクチュアが手工業にとってかわるにつれて児童搾取の痕跡が見出される、と述ぺることは正しい。この搾取は、農民のあいだ/にはある程度いつでも存在していたが、農民にのしかかる軛(クビキ)がきびしくなればなるほどますますひどくなったのである。資本の傾向はけっして見分けにくいものではないが、諸事実は双頭児の現象と同じくらいまだ一つ一つ孤立したままである。だからこそ、これらの諸事実は、先見の明ある「商業の友」からは特に称賛に値するあるものとして「大喜び」で指摘され、同時代人と後世とが真似ることを薦められたのである。スコットランドのおべっか使いで能弁気取りの人間であるこの同じマコーリは、つけ加えて言う。「今日聞くのは退歩だけで、見るのは進歩だけである」。なんという眼、殊になんという耳だろう!〉(江夏・上杉訳277-278頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「機械工業奨励の必要性に関する一論」ロンドン 1690年 ホイッグ党とブルジョワジーの意図にかなうように、英国の歴史を偽造した マコーリーは、次のように書いている。「子供たちを早くから仕事につかせる慣習は、….17世紀には、当時の製造システムのまあまあの広がりに較べれば、ほとんど信じがたい程に広く用いられていた。衣服商売で首座を占めるノーウィッチ市では、6歳の小さな生き物が労働に適合すると見なされていた。当時の数人の著述家等は、著名で慈悲深き人と見なされる者達であるが、その市において、まだ世話のやける年頃の少年・少女たちが、自分達の生活に必要な範囲を超えた 年12,000ポンドの富を作りだすと云う事実を、狂喜をもって書いている。我々(マコーリー達 訳者注) は、過去の歴史をより注意深く調べれば調べる程、我々の時代が新たな社会的害悪に満ちていると想像する者共と明確な一線を引くために、より多くの理由を見つけることができるであろう。」(「英国の歴史」第1巻) マコーリーは、さらに、17世紀「非常に、紳士的な」商業の友誌 (イタリック)が、狂喜をもって、いかなる方法を弄して、オランダの一救貧院から4歳の子供が雇用されたか、そしてこの「美徳の応用」(ラテン語) が マコーリー一派(フランス語) から アダム スミス至るまで、人道的な方法として用いられてきたかを披瀝していることについても、報告することができたであろう。確かに、手工芸に代わって、製造業となるに及んで、子供たちを用いることが顕著になった。この方法はいつでもある一定の範囲で貧農達の間では用いられてきたが、より一層おおっぴらとなり、農夫達に加えられた軛が重くなればなるほどそのようになった。資本の狙いは間違いようもなく明らかだが、それらの事実は、依然として、双頭の子の出現のように、ありもしない話として隔絶されていた。だからこそ、それらを、狂喜をもって、記録するに値するものとして、先見の明ある 商業の友誌 の驚異として、彼等の時代と子孫のために、この方式を推奨して、書いているのである。この類と同じスコットランドのお追従者で、ご立派なお喋りさんのマコーリーは、こう云った。「我々が今日聞くものは、ただの退化で、見るものは、ただただ進歩である。」一体、どんな目、そして特にどんな耳なのか。見てみたいもんだ。〉(インターネットから)


●第9パラグラフ

《初版》

 〈18世紀の大部分を通じ、大工業時代にいたるまでは、イギリスの資本は、労働力の週価値を支払うことによって労働者のまる1週間の労働をわがものにすることには、成功していなかった。とはいっても、農業労働者は例外であったが。労働者たちが4日分の賃金でまる1週間暮らせるという事情があるからといって、彼らは、あとの2日間も資本家のために当然労働するものだとは思わなかった。イギリスの経済学者の一派は、資本に奉仕してこのわがままを猛烈に非難し、他の一派は労働者を擁護した。たとえば、当時その商品辞典が今日マカロックやマクグレガーの同種の著述が博しているのと同じ名声を博していたポスルウェイトと、『産業および商業にかんする一論』の前述の著者との論戦を、聞いてみることにしよう(121)。〉(江夏訳頁)

《フランス語版》

 〈18世紀の最大部分を通じ、大工業の時代にいたるまでは、資本はイギリスでは、労働力の1週間の価値を支払うことによって労働者の労働をまる1週間掌握することには成功していなかった。といっても、農業労働者の労働は例外であったが。労働者は、自分たちが4日分の賃金でまる1週間生活できたということから、資本家のためにほかの2日も労働しなければならないという結論はけっして出さなかった。資本に奉仕するイギリスの経済学者の一派は、このわがままを非常にはげしく非難し、別の一派は労働者を弁護した。たとえば、ポスルスウェート--当時彼の商業辞典は、今日マカロックやマクレガーなどの商業辞典が博しているのと同じ名声を博していた--と、前に引用した『産業および商業にかんする一論』の著者との論争に、耳を傾けてみよう(89)。〉(江夏・上杉訳278頁)

《イギリス語版》

  〈(18) 18世紀の大部分の間、近代工業と機械の時代に行き着くまで、英国の資本は自らのために、労働者の全週を、労働力の週価値の支払いによって確保することには成功していなかった。と云うのも、農業労働者達の場合は例外的であったからである。事実、彼等は、4日分の賃金で、1週間生活できたから、他の2日分を資本家のために働くということは、労働者にとっては、充分なる理由とはならなかったからである。英国経済学者の一派は、資本の意向に添って、労働者のこの頑迷さを最上級の激烈なる態度をもって、非難した。もう一つの別の一派は、労働者を擁護した。そこで、マカロックやマクレガーの著作と同じく、今日、評判となった商業の辞典の著者 ポスルスェートと、「商業と貿易に関する評論」の著者(前述)(訳者注:マコーリー 但しここでは、匿名なのだが、前述とマルクスが書いており、明らかにした上で、次の本文注に続けている) との間でなされた論争を聞いてみることにしよう。〉(インターネットから)


●原注121

《61-63草稿》

  〈「地主たちと商人たちとは永久に衝突し合っていて、相互に相手の利益をねたみ合っている。」([ナサニエル・フォースタ]『現時の食糧価格……の諸原因の究明』、ロンドン1767年、22ページの注。)〉(草稿集⑥823頁)
 〈「また、国民の大多数にとって、生活手段や食料のための諸生産物が大部分自然生的な{すなわち、労働の結果、でもなく、人間活動の発展にたいする刺激の結果、でもない}ものであり、また気候は衣服や住居の心配の必要がほとんどないか、またはその余地がほとんどないといった一片の土地に追いやられることほど、ひどい禍いを私は想像することができない。……その反対の極端もある、であろう。労働による生産ができない土地は、労働しなくても豊富に産出する土地とまったく同様に、悪いものである。」(〔ナサニエル・フォースタ〕『現在の食糧品高価格の諸原因に関する研究』、ロンドン、1767年、10ページ。)〉(草稿集⑨456頁)
  〈{『現在の食糧口開高価格の諸原因に関する研究』、全2巻、(著者はナサニエル・フォースタ師)、ロンドン、1767年。食糧品の価格の上昇の諸原因、(一)「国の富、すなわち、その国に蓄積され、その国のすべての地域を流通する巨額の貨幣。」(1ページ。)(二)奢侈(35ページ)、そして(三)租税(49ページ)。
  あまりにも自然の豊鏡きにめぐまれていることは、一国の発展にとって不利〔である〕。(同上書。サブノートB、8ページ。)
  機械の擁護。(同上書。〔サブノートB、〕8および9ページ。)
  諸階級の対立。「地主階級商人階級とは永遠に仲たがいしており、互いに相手の利益をねたんでいる。」(同上書、22ページ脚注。)/
  「大部分の製造業と多くの商業の不安定な状態、そしてその結果生ずる賃金の変動が原因となって、親方と彼らの労働者たちとは不幸にも互い同士絶えることのない争いのなかにおかれている。」(61ページ。)〉(草稿集⑨632-633頁)
  〈「以上のような政策は」、とドクター・プライスは言う、「一時代昔のものである。近代の政策はもっと上層階級の人々を利するものである、というのが実際のところである。その行き着くところはじきに明らかとなろう。すなわち、王国の住民はすべて、ジエントリ乞食だけに、あるいは貴族奴隷だけになってしまうだろう。(『生残年金についての考察』158ページ。)
  昔は土地占有者の数も多く、彼らはみな、自分自身のために労働する機会を今より多くもっていたのであるから、みずからすすんで他人のために働くような人の数はずっと少なかったし、日雇い労働の価格も高かったにちがいない、と結論してもなんらさしっかえないだろう。〉(草稿集⑨627頁)
  〈ポスルスウエイトは、『大ブリテンの商業的利益の解明と改善……』、第2版、ロンドン、1759年、という一つの著書において、次のように述べている。「重税は必需品の価格を上昇させるに違いないし、必需品の高価格は労働の価格を上昇させるに違いないし、さらに労働の高価格は諸商品の価値を上昇させるに違いない。だから、労働が最も安価な国は、つねに他の諸国よりも安い値で売ることができ、またそれらの国々との取引で儲けることができるのである。」〉(草稿集⑨686頁)
  〈{(1)ジョサイア・タッカーの諸著作
  (1)〔注解〕ジョサイア・タツカー「貿易に附して、フランスと大ブリテンそれぞれにひきおこす有利と不利に関する小論』、第3版、ロンドン、1753年。序論、Ⅵページ。「すべての商人によってめざされる主要な考え、または主眼は、物事の本位からして、またあらゆる国において、彼自身に有利な差額であるに違いない。しかし必ずしも、この差額が同じく国民に有利なものである、ということになるわけではない。」
  重商主義の貿易差額論に反対するけつこうな機知。(サブノートC、27ページ。)
  まず第一に、一般的過剰生産の可能性にたいする反対論。(同上。)
  人口〔は〕。より多くの人間はより多〈の労働に等しい、そして労働は「一国の富」〔である〕。同上。
  より富裕な国は貨幣の流入等のゆえに、生産するものがより高くならざるをえない、というヒュームの理論にたいする反対論。(同上、28ページ。)}{国の価値。それを高くすることが、あらゆる交易の目的〔である〕。〉(草稿集⑨657-658頁)

《初版》

 〈(121) 労働者を非難する人々のなかで最も激怒しているのは、本文で言及した『産業および商業にかんする一論、租税の考察を含む。ロンドン、177O年』の匿名の著者である。これ以前すでに、彼の著書『租税にかんする考察、ロンドン、1765年』、のなかでも、そうであった。なんとも言いようのないおしゃべりの統計家であるポローニアス・アーサー・ヤング〔ポローニアスは『ハムレット』中のおしゃべりな宮内官〕も、これと同じ道順についてゆく。労働者を擁護する人々のなかで先頭に立っているのは、『貨幣万能論、ロンドン、1734年』のジェイコプ・ヴアンダリント、『現在の食糧高価の原因にかんする研究、ロンドン、1766年』、の神学博士ナサニエル・フォースター師プライス博士であり、またことに、『商工業大辞典』への補遺ならびに『大プリテンの商業利益の説明と改善、第2版、ロンドン、1759年』、のポスルウェイトである。事実そのものは、そのほか多くの同時代の著述家たち、ことにジョウサイア・タッカーによって確認されていることが、見いだされる。〉(江夏訳303頁)

《資本論》

   〈「雇い主と雇い人とは不幸にも絶えず互いに戦い合っている。前者の不変の目的は、自分たちの仕事をできるだけ安くやらせることである。そして、彼らはこの目的のためにはどんな策略を用いることも辞さない。ところが、同じように後者も、彼らの雇い主にいっそう大きな要求の承諾を強いるためにはどんな機会も逃がすまいとしている。」『現時の食糧価格高騰原因の究明』、1767年、61、62ページ。(著者ナサニエル・フォースター師はまったく労働者の側に立っている。)〉(全集第23a巻559頁)
  〈ドクター ・リチャード・プライス『生残年金の考察』、第6版、W・モーガン編、ロンドン、1803年、第2巻、158、159ページ。プライスは159ページで次のように言っている。「労働日の名目価格は現在では1514年の約4倍かせいぜい5倍よりも高くはなっていない。ところが、穀物の価格は7倍、肉類や衣類の価格は約15倍に騰貴している。したがって、労働の価格は生活費の膨張にはとうてい追いつけなかったのであって、今では生活費にたいするその割合は以前の割合の半分にもならないように思われる。」〉(全集第23b巻879頁)
 〈「ここでは開放地と既耕地との囲い込みについて述べよう。囲い込みを弁護する薯述家たちでさえも、囲い込/みが大借地農場の独占を増進し、生活手段の価格を高め、人口減少をひき起こすということは認めている。……そして、現在行なわれているような荒れ地の囲い込みでさえも、貧民からはその生活維持手段の一部を奪い、また、すでに大きすぎる借地農場をいっそう膨張させるのである。」ドクター・プライスは次のように言っている。「もし土地がわずかばかりの大借地農業者の手にはいってしまうならば、小借地農業者」(前には彼はこれを「自分の耕す土地の生産物により、また自分が共同地に放牧する羊や家禽や豚などによって自分と家族を養い、したがって生活手段を買う機会をほとんどもたない一群の小土地所有者と小借地農業者」と呼んでいる)「は、他人のための労働によって生計の資を得なければならないような、そして、自分に必要なすべてのものを市場に求めざるをえないような人々に変えられてしまう。……おそらくより多くの労働がなされるであろう。というのは、そのための強制がより多く行なわれるからである。……都市も工場も大きくなるであろう。というのは、そこには仕事を求める人々がますます多く追い立てられてくるからである。これが、借地農場の集中が自然的に作用する仕方なのであり、また、何年も前からこの王国で実際に作用してきた仕方なのである。」
  彼は囲い込みの総結果を次のように要約する。
  「全体として下層人民階級の状態はほとんどどの点から見ても悪化しており、比較的小さい土地所有者や借地農業者は、日雇い人や常雇い人の地位まで押し下げられている。また、それと同時に、このような状態で生活を維持することはますます困難になってきたのである。」(原注209〈ドクター・R ・プライス『生残年金の考察』、第2巻、155、156ぺージ。フォースター、アディントン、ケント、プライス、ジェームズ・アンダソンを読んで、それらを、マカロックの目録、『経済学文献』、ロンドン、1845年、のなかの彼の哀れな追従的多弁と比較せよ。〉〉(全集第23b巻948-949頁)

《フランス語版》

 〈(89) 労働者階級を非難する人々のなかで最もいきりたっているのは、本文中に記した著書『産業および商業にかんする一論。租税にかんする考察を含む』、ロンドン、1770年、の匿名の著者である。彼は別の著書『租税にかんする考察』、ロンドン、1765年、のなかで、すでに小手調べをしていた。同じ線上に、統計製作者のポロニアス・アーサー・ヤング〔ポロニアスは『ハムレット』中のおしゃべりな宮内官〕が後から続いてやって来る。弁護者の先頭には、著書『貨幣万能論』、ロンドン、1734年、のジェーコブ・ヴァンダリント、『現在の食糧高価の原因にかんする研究』、ロンドン、1767年、の神学博士ナサニエル・フォースター師、ドクター・プライス、『商工業大辞典』への補遺と、『大ブリテンの商業利益の説明と改善』、第2版、ロンドン、1775年、のボスルスウェートが見出される。事実そのものは、その他多数の同時代の著者たち、なかんずくジョサイア・タッカー師によって確認されている。〉(江夏・上杉訳278頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 労働者を非難する者のうち、最も立腹が目立つのは、「商業と貿易に関する評論 税他に関する所見を含む」ロンドン 1770年 を表した 匿名の著者。彼はこの論調を初期の著作「課税に関する検討」ロンドン 1765年 で、既に取り扱っている。そして同じ側の仲間の一人、言語をなさない統計学的片言屋 ポロニウス アーサー ヤング。一方の労働者階級擁護側の真っ先にいるのは、ヤコブ バンダーリント 「貨幣は全ての物に対応する」ロンドン 1734年 の著作がある。神学博士 ナザニエル フォースター師 「現在の食料が高価格である原因に関する調査」ロンドン 1767年の著作で知られる。プライス博士、そして特に、ポスルスェート 彼の「商業と貿易に関する全般辞書」の補遺と同様の「大英帝国の商業的利益に関する説明と改善策」 第2版 1755年の著作もある。彼等は、事実、当時の他の多くの著述家達によって認められている。中でもジョシア タッカーによって明確に位置づけされている。〉(インターネットから)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈ポスルウェイトはとりわけこう言う。「私がわずかばかりの所見を結ぶにあたって注意しないわけにはゆかないのは、もし労働者(industrious poor)が生活してゆくために充分なものを5日で受け取れるとすれば、まる6日も労働しようとはしないであろうという、あまりにも多くの人が口にするありきたりの言いぐさについてである。こういった事情から、彼らは、手工業者やマニュファクチュア労働者に、絶え間ない1週6日の労働を強制するためには、租税やその他なんらかの手段を用いて生活必需品を高価にすることさえ必要である、と結論する。お許し願わなければならないが、私は、この王国の労働住民の永久的な奴隷状態(“the perpetual slavery of the working people")を護持するために戦うこれらのお偉い政治家たちとは、意見がちがう。彼らは、“all work and no play"(働くだけで遊ばないと馬鹿になる)という諺を忘れている。イギリス人は、これまでイギリス商品に一般的な信用と名声とを与えてきた自国の手工業者やマニュファクチュア労働者の独創性と熟練とを、自慢しないのか? これはどういう事情のおかげであったのか? おそらく、わが国の労働者が思い思いに気晴らしをするという術を知っていることのおかげでしかない。彼らが1週にまる6日絶えず同じ仕事を繰り返しながら1年じゅうぶっつづけに労働することを強いられるならば、このことが、彼らの独創性を鈍らせ、彼らを快活で老練にする代わりに愚鈍にするのではなかろうか? そして、わが国の労働者は、このような永久的な奴隷状態におちいる結果、その名声を維持するどころか、その名声を失ってしまうのではなかろうか? こんなに酷使される動物(hard driven animals)から、われわれはどんな種類の手ぎわを期待できようか? ……彼らの多くは、フランス人なら5日か6日で仕上げる仕事を、4日で仕上げる。しかし、イギリス人が永遠の苦役労働者でなければならないなら、憂うべきは、彼らがフランス人よりももっと退化する(degenerate)ということである。わが国民が戦場の武勇で名を上げるとき、われわれは、このことは、一方では彼らの腹のなかにあるイギリス製の上等なローストビーフとプディングとのおかげであり、他方ではそれに劣らず、/わが国の立憲的な自由の精神のおかげである、と言うではないか? それでは、わが国の手工業者やマニュファクチュア労働者の卓越した独創性やエネルギーや熟練は、なぜ、彼らが彼ら特有のやり方で気晴らしをする自由のおかげであってはいけないのか? 願わくば、彼らがけっしてこの特権を失いもせず、また、彼らの技倆の源泉であるとともに勇気の源泉でもある良き生活を失うこともないように(122)」と!〉(江夏訳304-305頁)

《フランス語版》

 〈ボスルスウェートはなかんずくこう述べる。「私はこの短い観察を終えるにあたって、陳腐な、不幸にも余りに流布されすぎているある言いまわしに、注意を促さざるをえない。労働者は、生活するに足るだけのものを5労働日で手に/入れることができれば、まる6日労働しようとはしない、とある人々が言う。そして彼らは、ここから出発して、手工業者やマニュファクチュア労働者を週に6日の絶え間ない労働に拘束するためには、租税またはほかのなんらかの手段を用いて必要な生活手段を騰貴させることだって必要なのだ、と結論する。この国の労働者階層の永久的奴隷状態に味方する用意が万端整っているこれらの偉大な政治家とは、私の意見がちがうことを許されたい。彼らは、働くばかりで遊ばないと馬鹿になるという諺を忘れている。イギリス人たちは、大ブリテンの商品にいたるところで信用と名声を博させてきた彼らの手工業者とマニュファクチュア労働者の創意や熟練を、大いに誇りとしないのだろうか? それが、気晴しをする術を心得ている労働者たちの陽気で独創的なやり方のおかげでないとすれば、なんのおかげであろうか? 彼らが毎週まる6日間同じ仕事を不断に繰り返しながら1年中あくせく働かざるをえないとすれば、彼らの創意に富んだ精神は鈍くならないだろうか? 彼らは愚かで無力になり、このような永久的奴隷状態のために、その名声を維持するかわりに失ってしまうのではないだろうか? こんなに苛酷に取り扱われている動物から、われわれはどんな種類の芸術的巧妙さを期待でぎようか?……彼らの多くは、フランス人が5日か6日でやりとげるのと同じ分量の仕事を4日でやりとげる。だが、イギリス人が役畜のように労働するのを強制されるとすれば、彼らはフラソス人以下にも退化するおそれがある。わが国の国民が戦争で武勇の誉れが高いのは、一方では国民が腹のうちにおさめている上等なイギリスのロースト・ビーフとプディングとのおかげであり、他方ではその立憲的な自由の精神のおかげである、とわれわれは言っているではないか? それでは、われわれの手工業者やマニュファクチュア労働者の器用、エネルギー、熟練は、彼らが自己流に気晴しをするその自由さからどうして生じてはいけないのか? 私は希望する、彼らがこれらの特権をも、彼らの労働熟練の源泉であると同時に彼らの勇気の源泉でもあるすぐれた生活様式をも、けっして失わないことを(90)」。〉(江夏・上杉訳278-279頁)

《イギリス語版》

  〈(19) ポスルスェートは、いろいろある中から、こう述べている。
   (20) 「我々は、それらの少ない観察記を終わるに際して、以下の常套句に触れずして終わることはできない。もし、勤勉で貧しい者達が5日間で、彼等自身を維持するに充分な物を得られるならば、彼等は週6日は働かないであろうと云う、あまりにも多くの者が口にする、使い古された文句のことである。その結果、手工業や製造業で働く労働者を週6日果てし無く働かせるために、あえて課税または他の方法によって生活の必需品の価格等を操作する必要性すらほのめかす。私は、この王国で働く人々の永久的奴隷化を主張するそこいらの偉大なる政治家共とは心情を異にし、一線を画さねばならない。彼等は、働くばかりで遊びがなければどうなるか、という民衆の諺を忘れている。広く英国商品に信用と名声をもたらす、手工業や製造業で働く人々の独創性と器用さを英国人は自慢しないと云うのか? 何がこれらの独創性と器用さを生んでいると思うのか? 多分、働く人々が思い思いに遊ぶこと以上のものはないだろう。年中彼等を週6日のすべてを、同じ作業の繰り返しに縛りつけるならば、彼等の独創性を鈍らすことにならないとでも、また、注意深く器用な手を馬鹿でのろまの手と置き換えないとでも云うのか? そして、そのような永久奴隷化することで、我々の労働者たちのそれらの信用と名声を維持することにとって代わってそれを失うことにはならないとでも云うのか? … そして、我々は、そのように激しく強制される動物から、どのような職人の腕前を期待することができるのだろうか? … 彼等の多くは、フランス人なら5日か6日を要する仕事を、4日で片づけるだろう。だが、もし、英国人が永久苦役に置かれれば、彼等は、フランス人以下に退化すると恐れねばならない。我が国の兵士達が戦争では勇猛果敢と称賛される時、それが、英国風のローストビーフとデザートケーキが彼等のお腹の中にあるからと、またそれと同じように、彼等の憲法に記された自由な精神にあるからと、言わないのか? ならば、何故、我が手工芸や製造業の労働者の卓越した独創性と器用さが、彼等のそれぞれの好きな方法で行う自由かつ闊達な方法から生じるものであるとしてはならないのか、ここで、私は、そのような特権と、彼等の独創性を、彼等の果敢なる挑戦と同様に育む良き生活とが奪われるようなことがあってはならないと切望する。」(ポスルスェートの前述の著作の、最初の評論から)〉(インターネットから)


●原注122

《61-63草稿》

 〈ポスルスウエイトは、『大ブリテンの商業的利益の解明と改善……』、第2版、ロンドン、1759年、という一つの著書において、次のように述べている。「重税は必需品の価格を上昇させるに違いないし、必需品の高価格は労働の価格を上昇させるに違いないし、さらに労働の高価格は諸商品の価値を上昇させるに違いない。だから、労働が最も安価な国は、つねに他の諸国よりも安い値で売ることができ、またそれらの国々との取引で儲けることができるのである。」〉(草稿集⑨686頁)

《初版》

 〈(122) ポスルウェイト、同前〔『商工業大辞典』〕、『第一序論』、14ページ。〉(江夏訳305頁)

《フランス語版》

 〈(90) ポスルスウェート、同前、『第一序論』、14ぺージ。〉(江夏・上杉訳280頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。

 (付属資料№4に続く。)

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(11)

2023-10-20 12:04:57 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (11)


【付属資料】No.4


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

  〈{〔カニンガム〕『貿易と商業に関する一論。わが国の製造業における労働の価格に影響を及ぼすと考えられている諸税に関する考察を含み、云々』、ロンドン、177O年。(この著作の本質的な中味は、同じ著者によってすでに、『……諸税に関する考察』、ロンドン、1765年〔、に述べられている〕。)この男は、当時農業労働者たちが置かれていたのと同じ「幸福な状態」に復帰するに違いない製造業労働者にたいして、非常に憤激している。彼の著作は非常に重要である。その著作からは、大工業が採用される直前でもなお、製造業においては規律が欠如していたこと、入手の供給がまだまったく需要に照応していなかったこと、労働者はまだけっして彼の全時間を資本に属するものと見なしていなかったことがわかる。(当然にも、当時はまだ労働者たちは粗野であった。だがそれも、彼らの生まれつきの上位者たちほどではなかった。)こうした弊害を除去するために、この著者は、生活必需品にたいする重税で、凶作の場合と同様に労働者に労働を強制すること、労働者のあいだの競争を強化するための一般的な帰化、そしてまた鋳貨の偽造(貨幣の引上げ)等々を推奨する。この勇ましい男が要求したことは、機械(マシネリー)をのぞいてすべて、まもなく実際に出現した。すなわち、食糧品の高価格、莫大な課税、通貨の減価、そして、賃金水準の引下げへ向かって作用し、また「イギリスのたくましい貧農」が体現していた「貧窮」と並んでようやく1815年に工場〔労働者〕のルンペン化をもたらした諸事情そのものが出現したのである。以下の諸章句はさしあたり、部分的には、製造業労働者が当時実際に働いていた労働時間の問題として、また部分的には、製造業労働者に彼らの力の許すかぎり労働することを強制しようとする(また製造業労働者に勤勉の習慣、労働の恒常性を身につけさせようとする)資本の性向の問題として重要である。
  第一に、労働者の全労働時間は「商業国家」のものである。ここではこうしたかたちで、産業資本の共通利益が理解されねばならない。「1日に1時間の労働を失うことは、商業国家にとって莫大な損害である。」(47ページ。)/
  労働の強制。「……労働および勤勉さを強制する方法はいかなるものであれ人手〔労働者〕の数を増大させるのと同じ効果をもち、それが別様に行なわれる場合には重荷になってしまうものを、国の富と力に変える、であろう。」(18ページ。)(こうした方法に含まれるのは、食糧品の高価格であり、そのためには、生活手段等にたいする課税が有効である。)
もろもろの租税は労働の価格を低下させる傾向をもつ。」(14ページ。)
  労働の価格と労働の分量。(労働日の長さ。)
  「あまり労働せず安い賃金では労働しない、というのは、食糧品の価格が低いことの帰結である。」(14ページ。)
  「人々は、みずからの手中に、怠惰にしていられる手段をもっているあいだは働こうとしない。だが、こうした手段を使い尽くすやいなや、必要がふたたび彼らを労働に駆り立てるのである。そして、こうした理由から、生活必需品がほとんど労働せずに得られる国で、商業が相当の形をなしたことは、これまで、一度もなかったのである。」(26ページ。)
  だから、「一般的な勤勉を創出するために」なんらかの「方法」が「発見され」ねばならない。「それは、1週間に6日の中位の労働強制できるようになって、やがてはオランダ人の場合のように、習慣的なものにまでなる、ということである。というのは、このことは、製造業に従事する人々を3分の3近く増大させることと同じであろうし、また、商品のかたちで、1年あたりで何百万も多くのもの/を生産するだろうからである……節制、勤勉および恒常的な労働は、商業国家にとって、それほど、非常に重大なことなのであ。([28-]29ページ。)必需品の高価格から人々が1週間に6日労働することをよぎなくされている場合には、彼らは、みずからをまじめな状態に維持するし、またそうした人々の労働は、つねに最良のかたちで行なわれる……。(30ページ。)サー・ウィリアム・テンプルの考察によれば、そのような力をもつのは習慣の定着であり、恒常的な労働を恒常的安楽に転化することは、恒常的な安楽を恒常的な労働に転化することと同じくらい困難で不快なことなのである。(30[-31]ページ。)7日ごとに1日休日とすることが神聖な制度と考えられているのであれば、それは、他の6日を労働にあてることを意味するのであるから、労働を強制することは、当然にも、無慈悲なこととは考えられないであろう。」(41ページ。)
  「もしわが国の貧民が……ぜいたくな暮らしをし、また1週間に4日しか働かないのならば、もちろん、彼らの労働が高価であるに違いない。(44ページなど。)
  以上に述べてきたことで、1週間に6日の中位の労働が奴隷制でないことが十分明らかになったと思う。」[55ページ。]ポスルスウエイト(『商工業大辞典』の著者)にたいする反対論。ポスルスウエイトは、『大ブリテンの商業的利益の解明と改善……』、第2版、ロンドン、1759年、という一つの著書において、次のように述べている。「重税は必需品の価格を上昇させるに違いないし、必需品の高価格は労働の価格を上昇させるに違いないし、さらに労働の高価格は諸商品の価値を上昇させるに違いない。だから、労働が最も安価な国は、つねに他の諸国よりも安い値で売ることができ、またそれらの国々との取引で儲けることができるのである。」[12-13ページ。]わが不道徳な男〔カニンガム〕は、彼の最初の著書でこれに反対しているが、そのタイトルは、次のように、その著書の全内容を告示している。「わが国の製造業における労働の価格に影響を及ぼすと考えられている諸税に関する考察、また、わが王国の製造業に従事する大衆の一般的なふるまいと性向に関する若干の省察。そして、労働を強制するのは必要以外のなにものでもないこと、{だから賃金はつねに、/必要が来る日も来る日も、昨日も今日も存在するように、またそれが〔労働者を労働に〕駆り立てるように、そして労働者が、その「必要」からけっして逃れられないように、維持されるぺきである}また、生活必需品が低価格である国で貿易が相当の形をなしたことは一度もなかったし、またそういうことはけっしてありえないということを、経験から引き出された論拠によって示す、ロンドン、1765年』。ポスルスウェイトは、彼の『大辞典』の、のちに出たある版において、この男に返答している。(その章句はあとで引用することにするが、ポスルスウエイトはこの書物のなかでこの男に悪罵を投げかけている。)「農業に雇用されているわが国の労働する人々は、それ〔1週間に6日の中位の労働〕をしているのであり、また彼らは、どこから見ても、わが国の労働するすぺての貧民中で最も幸福である。(この男は、まさにこの同じ著書のあとのほうで、こうした『幸福な』者たちが、すでにほぼ肉体的最低限に到達しており、彼らは少なくとも、賃金の引上げなしに必需品にたいする課税のそれ以上の増大にけっして耐えられない、ということを認めている。)しかし、オランダ人は製造業においてそれをしているのであり、しかも非常に幸福な人々に恩われる。フランス人も、休日があいだにわりこまない場合にはそれをしているのである。」(55ページ。)
  労働階級は、彼らの上位者たちへの依存の念をもたなければならない。
  「しかし、製造業に従事するわが国の人々は、自分たちはイギリス人として、ヨーロッパのいかなる国におけるよりも自由で独立しているという生得の特権をほしいままにしている、という考えを抱いてきた。ところが今や、この考えは、わが国の軍隊を勇気づけるかぎりていくらか役に/立っかもしれないが、製造業に従事する貧民がこのような考えを抱かないほうが彼ら自身にとっても国家にとっても得策であることはまちがいないのである労働する人々は自分たちが彼らの上位者たちから独立しているなどとけっして考えてはならない。(56ページ。)おそらく全体の8分の7までがほとんどまたはまったく財産をもたない人々である、わが国のような商業国家で、下層民に活力を与えるのはきわめて危険である。(57ページ。)食糧品やその他の必需品の価格によって規定されるのは、労働の量であって、その価格ではない。つまり、必需品の価格を非常に低く低下させるならば、当然それに対応して労働の量が減少する。(48ページ。)人間というものが一般に、本来的に安楽と怠惰を好むものであるというのが真実であることは、食糧品が非常に高価になるようなことでもないかぎり、平均的にいって週に4日以上は働かないような、製造業に従事するわが国の大衆(下層民)の行状から、残念にも見てとれることである。」(15ページ。)
  製造企業者たちは、労働の名目的価値を変更すること以外にも、労働の価格を騰落させるさまざまな方法があることを知っている。(61ページ)
  「製造業で働くわが国の貧民が、現在4日間働いて得ているのと同じ額を6日間働くことで得ることに満足するまでは、改善は完全ではない。{69ページ。)これは、われわれがフランスと肩を並ぺるようになるためには不可欠のことである。([69-]70ページ。)
  1日の労働とは漠然としたものであるすなわちそれは長くも短くもありうる。」(73ページ。)
  「わが王国では……〔週に〕4日働く製造業労働者は、週の残りを怠惰に暮らすための貨幣の剰余をもっている。今かりに、〔……〕小麦が1ブッシェルあたり(5シリングから)7シリングに騰貴するとしても、製造業労働者が不平をこぼすに違いない害悪とは、週に1日半または2日多く働き、またオランダの製造業労働者やイギリスの農業労働者のように、質素でまじめになることをよぎなくされる、ということにすぎないのである。」(同上書、97ページ。)/
  労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。
「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)
 彼(同様にポスルスウエイトも見ること)が一方で、1週間に6日の労働は製造業で働く労働者にとってけっして「奴隷制」ではないということを証明し、オランダでは製造業において貧民が〔週に〕6日労働するということを特記すべきこととして挙げているのを見るならば、また、彼が他方で、彼のいう「恐怖の家」、「理想的な労役場」において12時間の労働を提案する場合にも、さらには、工場における、児童、婦人、若年層の労働時間を12時間に制限すること(1833年?)がひとつの恐るべき暗殺計画であるとしてユアや彼に同調する雇い主たち〔Brodgeber〕によって反対されたことと、フランスの労働者が労働時間を12時間に短縮したことを2月革命のたぐいまれなる功績と考えたこと(『工場監督官報告書』を見よ)とを対照するならば、資本主義的生産様式によって強制された労働時間(労働日)の延長が手にとるようにわかるのである。/
  「わが王国の労働する貧民のあいだでは、奢侈品の非常に莫大な消費が見られる。製造業で働く大衆のあいだではとくにそうであり、こうしたことにより、彼らはあらゆる消費のなかで最も取り返しのつかねものをすなわち彼らの時間を消費することにもなるのである。」(153ページ。)
  労働者は、より多く働いてもより多くのものを得てはならない。というのは、必要が、相変わらず彼らの労働の刺激剤であり続けなければならないからである。すなわち、彼らは貧しいままでなければならないが、しかしまた、「商業国家」--これはすなわち、彼らのブルジョアジーの言い換えなのだが--のを生み出さねばならないのである。「節度ある生活と恒常的な雇用こそ、貧民にとっては理性的な幸福に、国家にとっては富裕と権勢とに直結する途なのである。」(54ページ。)
  彼が貧民の「理性的な幸福」という言葉てどのようなことを理解しているにせよ、以上からわかることは、彼が農業「労働者」を「最も幸福な人々」として描いたということである。彼の著書の別の簡所で、彼自身次のように語っている。
  「農業労働者……は、ところが、……食糧品が最も安値の状態にあるまさにそのときに、生活が落ち込むのである。彼らはつねに全力を出しているのであって、彼らは、今以上に安く生活することもできないしよりきびしい労働をすることもできない。……しかし、これは、製造業労働者の場合とはまったく違っている。」(96ページ。}したがって、これこそが、貧民の「理性的な幸福」なのである。……/
  この男のものは、労働の強制のところで、また、資本の蓄積が要求する状況、つまり労働者階級を、価値増殖および可能なかぎり急速で大規模な資本の増大のためのたんなる手段に転化する状況が、国家権力等々の助けをかりで招来せられるところで、引用するのに非常にふさわしい。
  まず最初にエドワド3世の法律以降の労働日を固定する(それと同時に賃金を抑制しようとする)強制的な立法。しかし、この労働日の固定は、現今の工場法とは正反対のもの〔である〕。前者の立法は、資本主義的生産の形成期、資本主義的生産の諸条件が初めて徐々に成熟してゆく時期に対応している。後者の立法は、みずからの前に立ちふさがる障害物をすべて取り除き、「自然法則」が自由加に作用する状況を創出した、資本主義的生産様式の支配〔の時期〕に対応している。前者の立法によって労働日が規定されたが、それは、経済諸法則の強制力の外にあるひとつの強制力によって、労働者にある一定の労働量を日々給付することを強要するためであった。つまり、それは、労働者階級のいわゆる「怠惰と安楽」に対抗する法律である。これに反して、後者の立法は、超過労働に対抗する法律、経済諸法則の「自然的な遊戯」への干渉の法律〔である〕。これら両法律の対立性は、資本主義的生産が労働を強制する仕方様式を示している--すなわち、一方の法律は労働を強要し、他方の法律は労働日の諸制限を強制するのである。
  この男は次のように説きおこしている。
  「エドワド6世の治世においては、実際イギリス人は、もろもろの製造業の奨励貧民の雇用とに真剣に取り組んでいたように恩われる。このことは、以下のようなくだりをもっ注目すべき法律から見てとれる。
  『浮浪者は、すべて焼印を押され、2年間は彼らを捕えた人々の奴隷とならねばならぬ。そのさい、パンと水{の/ちには農業労働者の標準的な食物}で扶養され、首や腕や脚に鉄伽または鉄輪をはめねばならぬ。そして、逃亡した場合は、さらに焼印を押したうえ、一生奴隷であることを宣告されねばならない。さらにふたたび逃亡した場合は、絞り首にされねばならない。』(エドワド6世治下第1年の法律第3号。)」[5-6ページ。]
  食糧品の騰貴は、労働する貧民を(強圧的諸法律なしで)「彼らが……〔今以上に〕安〈生活することもできないし、よりきびしい労働をすることもできない」状態、したがってまた彼らを、イギリスの誇り高き貧農の「理性的幸福」の状態に至らせる事情なのである。[14-15ページ。]
  食糧品の価格が高い場合には、
  「一般的な勤勉が即座に生み出される。労働者は、製造業企業者の家のまわりに群がって、ほとんどどんな賃金でもかまわず仕事を乞い求める。そして彼らは、週に3日か4日ではなく、5日か6日働くのである。労働は一種の商品なので、こうして供給される量が多くなれば、その価格は低下する傾向をもつ。」([15-]16ページ。)(この供給される量は、けっして労働者の量のみによって左右されるのではなく、供給される労働の量によって左右されるのである。そして、この労働の量は、〔労働者の〕数が与えられている場合には、労働日の長さによって決まり、労働日の長さが与えられている場合には、労働者の数によって決まる。)だから、われわれの友人が次のように述ぺているのはまったく正しい。
  「労働と勤勉とを強制する方法は、いかなるものであれ、人手を増加させるのと同じ効果をもつであろう。」(18ページ。)ところで、食糧品の騰貴は、第一に、領土に比しての人口の増大によって自然的に生じうる。
  「ある小さな領土に多数の人々が寄せ集められれば、食糧品の価格は上昇するであろう。しかし同時に、治安がよければ、そのことが労働の価格を低い水準に保ち、人々を勤勉にし、彼らにみずからのあらんかぎりの能力をもろもろの製造業の進歩のために発揮する気を起こさせるにちがいない。」(19ページ。)/
  外国の労働者を呼び寄せてることによって人口を増大させることまたそれにより労働者間の競争をぞうだいさせこと
  「しかし、人々の数を増大させて、労働の価格を低い水準に保ち、勤勉を強制し、またわが国のもろもろの製造業を進歩させてゆくための最も迅速な途は、一般的な帰化である。」(20ページ。)(機械導入の時期以降の工業地域等へのアイルランド人の流入は、この不道徳な男が「一般的な帰化」に期待したすべてのことを成就した。実際に、産業ブルジョアジーと商業ブルジョアジーのためのこの恥知らずな告訴人が淡々と述べているすぺての敬虞な願望--すなわち、農業生産物の価格上昇、国債の増大、必需品にたいする課税の実施、外国の労働者の呼び寄せ、貨幣の減価、恐怖の家としての労役場、ひとつの恒常的な「労働の過剰」の人為的生産--が、イギリスにおける大工業の成立期以降に実現された、というのは、注目すべきことである。
  この男が、「労働および勤勉を強制する」すべての手段として、支払いをよりよくすること、あるいは賃金を上げることを思いついていないのは、最も特徴的なこと.である。逆である。つまり、彼の著書からは、機械制工業の導入のまさに前夜、イギリスでは労働にたいする需要がその供給よりも急速に増大したこと、また、製造業ブルジョアジーが、すでに農業労働者の陥っていた「理性的幸福」をうらやみ、またねたんで、全力をあげて賃金率の上昇に反抗したことが見てとれるのである。機械(マシネリー)が導入されたのは、ちょうE、ブルジョアジーの代弁者が、労働にたいする需要がその供給よりも優勢となっている状態のもとで、賃金を高めるこtなしにその供給を増大させることにいかに着手すべきか、ということに頭を悩ましていた時期にあたっている。実際、機械(マシネリー)は、賃金をどうやって引き下げるか、ということが思案されていたときに出現したのである。/
  当時、労働にたいする需要がその供給以上に急速に増大していた、という事実は、次の文章から見てとれる。(すでにヴァンダリント、またのちにはフォースタ、等が、ブルジョアは賃金をより高くすることでより多くの労働量を調達するということに抵抗することに気づいていた。)
  「わが王国における怠惰のもう一つの原因は、十分な数の働き手が不足していることである。(27ページ。)
  もろもろの製造業にたいする異常な需要によって労働者が不足するようになる場合には、労働者はつねに自分たち自身の責任(そんなものはあるはずがなかろう)を感じるし、それを彼らの親方に同じように感じきせるであろう。ところが、こうした場合に、一群の労働者が1日じゅう一緒に仕事を怠けることによって結託して彼らの雇用者を苦しめるほど、これらの人々の性向が堕落しているのは驚くべきことである。」(27、28ページ。)(この「驚くべき」事実とこの類まれなる「堕落」について、ヴアンダリントとフォースタを参照すること。)「そうしたことは、小麦やその他の必需品が高価な場合にはけっして起こらない。つまり、その場合には、労働が非常に豊富であり、労働することがぜひ必要となるので、そのように自然に背いた結託は許きれないのである。」(28ページ。)
  だから、なんらかの「方法」が「一般的な勤勉を創出するために発見され」なければならない。([28-]29ページ。)
  必需品の価格の自然的な騰貴や一般的な帰化のほかに、必需品にたいする課税が手段〔となる〕。
  「怠惰と安楽は貧民のぜいたくであって、それらが習慣になってしまわないようにするためには、しばしばそれら/にふけることをさせないようにすべきである。というのは、もしそうなったら致命的だからである。そこで、貧民の必需品にたいする課税はすべて、この致命的な放縦を防止する作用をもっているから、より有効であるように思われるし、それゆえにまた、それは〔……〕最も廃止してはならない租税なのである。」(45ページ。)
  「イングランドの下層の人々が支払うもろもろの租税の半分は、賛沢品にたいするもの、または下等な放蕩のための手段にたいするものであって、必需品にたいするものではない。製造業で働く大衆が、ブランデー、ジン、茶、砂糖、外国の果物、強めのビール、柄入りの亜麻布、かぎタバコ、刻みタバコ等々というような奢侈品を消費していることが考慮されるなら、もろもろの租税は労働の価格を引き上げるとか、あるいは、貧民がそれほどたくさんの贅沢品を消費していることを知りながら、彼らが快適に生活できるようにするためにわれわれの租税によって労働の価格を引き上げることが必要だとか、考えるほど愚鈍な者がいるとしたら、それは驚くべきことである。(46ページ。)
  もろもろの租税が、……わが国のもろもろの製造品を外国市場において騰貴させることによってわが国の外国貿易に損害をもたらす、というようなことはけっしてないのであって、われわれが製造品を輸出できなくなるとすれば、それはすべての租税がことごとく廃止されるようなことがあった場合、また、他の競争上の諸原因によって、製造業で働くわが国の貧民が過去20年間やってきたのにくらべて半分の支出で生活ができるようなことがあった場合である、と私は確信する。」(47ページ。)
  「アムステルダムの大都会においては、死刑を宣告された罪人は1年に4人を越えず、また街路にはほとんど1人の乞食も見られない。これらは重税食糧品の高価格および治安のよさの幸福な結果である。……偉大なデ・ヴィットは、オランダで知られている彼の格言において、『重税は、発明、勤勉および倹約を鼓舞する』と言っている。」(49ページ。)/
  イギリスがさまざまな国でフランス人によって「より安く売り抜かれる」ことの主な原因は、「労働の価格が高いこと」である。(67ページ。)
  彼が労働するイギリス人を導いてゆこうとしている「理性的な幸福」の状態が、次の文で叙述されているが、ここで彼は欺瞞を演じているにすぎない。というのは、彼の語っているフランスの労働者たちは農業労働者であったが、彼自身の見地からしでも、農業労働者は当時のイギリスでもすでに同じ「理性的な幸福」の状態にあったからである。(製造業労働者の賃金と農業労働者の賃金との不均衡は、当時、定住法によって強制されていた。)
  「これは、われわれがフランスと肩を並べるようになるためには不可欠のこと〔のように忍われる〕。」「ノーサンプトンの一製造業者を自称するある著者は、次のように言っている。『フランスでは、労働がイギリスにおけるよりも3分の1だけ安い。というのは、フランスの貧民はよく労働し、食料や衣服にかんしてきりつめてやりくりし、彼らの主要な食物は、パン、果物、植物、根菜、および魚の干物であり、また、彼らは非常に稀にしか肉を食べず、小麦が高いと非常にわずかなパンしか食ぺないからである。』さらにこれに、彼らの飲み物は水かまたは他のちょっとした酒類なので、彼らは非常にわずかな貨幣しか支出しない、ということをつけ加えてよかろう……。」(〔69-〕70ページ。)「こうしたことが実行されるのは非常に困難である。しかし実行不可能ではない。なぜなら、フランスとオランダの両国においては、それらが成しとげられているのであるから。」(70[-71ページ。)
  「一般的な勤勉を強制するためには」食糧品の価格が高いことが必要である、ということの典拠として、次のよう/な引用がなされている。
  「サー・ウィリアム・テンプルは、アイルランド副総替にあてた彼の論文のなかで、『一般的な勤勉を強制するほどに食糧品が高価にされなければならない』と述べている。また、サー・W・ペティ、サー・ジョサイア・チヤイルド(この男は、17世紀半ばの株式投機家の始祖)、ポリクスフエン氏、ジー氏(重要な重商主義者)等々は、みな一致して同じ意見を述ぺている。すなわち、生活必需品が非常に安価なところでは、商業が大きく拡張されることはありえない、と。」(83ページ。)
  さらに彼は、税金屋でイギリスの土地所有貴族へのおぺつかつかいである、あわれなアーサー・ヤングを引用しているが、このヤングの農学上の業績はかなり過大評価されているし、さらにその経済学上の諸見解は言語道断である。この男〔ヤング〕は昔から食糧品の高価格に夢中になっているのだが、それは、部分的には、彼が名言しているように、その高価格がジエントリにとって租税の「埋め合わせとなり」、彼らに不可欠な免税を保証するからであり、また部分的には、高価格は一方で賃金水準を押し下げ、他方で低下してゆく賃金でより多く労働することを労働者に強要するからである。彼は、「穀物の高価格」をその主要な反対者である製造業者に受容させるために、(また、穀物輸出にたいする奨励金を製造業者の気に入らせるためにも)『ウェールズへの6週間の旅』、ロンドン、1769年、のなかで、統計的に(同上書、18ページ)次のことを指摘している。すなわち、「労働の値段と食糧品の値段とのあいだにはなんら比例関係はなかった」[〔カニンガム『一論』、〕290ページ]し、むしろ、それらのあいだにはある逆の関係が支配しているのであって、「一方の値段は、他方のそれに規制されることがまったくなく、両者はほとんど対立しているほどである。」[291ページ。]彼の『穀物の自由輸出を認めることによる便宜』、1770年、はこのことを証明することのみを目的としている。「しかし、常識の名において、食糧品の値段が高いことは製造業にとって有害だということを証明する事実はどこにあるのか、また、それを証明する論拠は何なのか。〔……〕製造業で働く人々の生活維持を可能にする唯一のものである一般的な勤勉が彼らのあいだに根づくまでは、/生活が高価なものにされていなければならない。」[293ページ。]「労働する貧民は、1週間のうち、自分を維持するために十分な日数以上は働かないのであり、残りの日々は怠惰に過ごすのである。」[294ページ。](ヤング、同上書、28〔27〕ぺlジ以下。)典拠〔にされているの〕はここまで。
  だから国債がよい。というのは、国債は租税の引上げを生じさせ、しかも幸いなことに、「富の」増大は国債の引上げにつうじるからである。
  「富の増大は、……いかなる危急のさいにも政府が低利率で貨幣を借り入れるのをきわめて容易にすることによって、国債を増大させる傾向をもっている。」(164、165ページ。)オランダの国債とオランダのもろもろの租税が引用されている。「結局、それでもなお、そこではイギリスよりも労働が安い。」(170ページ。)
  貨幣の減価もまた、一つの格好の手段である。
  「1613年以降、フランス人は、自国の貨幣守しばしば引き上げることによって、銀と諸商品との関係を変化させてきた。すなわち、彼らは価値の尺度を変更してきたのであり、このような手段により、1日の労働にたいして、150年前に支払っていたものの半分の銀も支払わないのである。(211ページ。)フランスは同じ労働量を、わが国におけるよりも少ない銀で買うのであり、結局、フランスにおいてはイギリスにおけるよりも労働が安いのである。」(213ページ。)それゆえ、彼は、「貨幣の価値」における「いくらかの変更」を望んでいる。(213ページ。)/
  「イギリスでは労働〔の価格〕は、小麦が1ブッシェル当り10シリングのときも、それが2シリング6ペンスのときと同じままである。そして、他の国々では、小麦の価格は労働の価格をほとんど規制しない、と私は信じる。」(160ページ。)ところが、「わが国のもろもろの租税の増大が、貧しい製造業労働者の1日の必需品の価格を2ペンス引き上げる」としよう。「雇用が十分存在すると想定すれば、こうしたことから生じうる最大の悪弊は、製造業労働者が、……1週間のあいだ、1日当りて2時間多く働かなければならない、ということである。彼は、こうして1、2時間特別に働くことによって、この租税の増大が行なわれる前と同じだけ多くの必需品や賛沢品を買うことができるであろう。(161ページ。)
  製造業で働く人々は、凶作によって小麦が非常に高い場合、自己維持のためにより多く働く必要に容易に服従する。……貧民の必需品にたいするもろもろの課税は、こうしたかたちでかなり力を発揮するし、労働と勤勉への刺激を大いに与えるものなのである。……労働の価格は、けっしてそれによって影響を受けはしないのであって、それによって影響を受けるのはその量だけである。」(94ページ。)ポスルスウエイトやその仲間のような男たち、まさに「こうした人々が黙ってい」さえすれば、労働者たちは、もろもろの課税によるこうした作用の自覚なしに、その作用に服したであろう。(95ページ。)
  労働量の強制のための国家的な措置強圧的法律。まず最初にさきに引用したエドワド6世の法律。それから、エリザベスによるさまぎまな法律。(サブノートG、32ページ。)(40ページ。)アンの〔治世〕第1年の法律。(40ページ。)(同上。)1531年10月7日付のオランダのカール五世の法律。(同上、45ページ。)(乞食にたいするもの。)1614年3月19日付のオランダの州と市における最初の布告。(同上、45、46ページ。)(乞食のむち打ち、追放、火あぶり。)同じく1649年6月25日付の「連合州の告示」。(同上、46ページ。)/
  しかし彼はイギリスではこうしたあからさまな強圧的立法ではうまくいかないと考えている。同じ効果が、もっと目立たないやり方、て実現されねばならないのである。
  「イギリスの下層の人々は、自由についてのロマンティクな考えから、一般に、彼らに強制されるものをすべて拒絶し、それらすべてに反抗する。だから、処罰にたいする恐れを抱かせることによりある賃金である時間働くことを人々に強いることはできるとしても、仕事をきちんとやるように強いることはできない。(92ページ。)一般的な勤勉を強制しようとするいかなる計画にあっても、必要を基礎としなければならないのであるが、それにもかかわらず、イギリスの大衆の考えと性向を考えるならば、それは、議会のそうした法律がやるようには完全かつ直接に核心に触れるべきではないように思われる。というのは、そうした法律を実行すると、ほとんどつねに、不法な結託、暴動および混乱が生じてきたからである。できることなら、そうした法律の効果は、ほとんど気づかれずにまた力ずくのかたちをとらずに生み出されるべきである。」(93ページ。)〉(草稿集⑨684-700頁)


  (第11パラグラフの付属資料の途中ですが、字数オーバーなので、一旦、切ります。付属資料№5に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(12)

2023-10-20 11:27:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (12)


【付属資料】No.5

  (第11パラグラフの付属資料の続きです。)

《初版》

 〈これに答えて、『産業および商業にかんする一論』の著者はこう言う。
  「週の7日目を休みにすることが神の掟と見なされるならば、このことは、他の週日が労働に(すぐにわかるように、資本に、ということ)属しているということを含意しているのであって、この神の掟を強制しても残酷だと言って叱られるはずがない。……人間は一般的には生来安楽と怠惰とを好むということ、このことを、われわれは不運にも、わが国のマニュファクチュア賎民の行為から経験するのであって、この賎民は、生活手段が騰貴するばあいは除いて、平均して週に4日以上労働することはない。……1ブッシェルの小麦が労働者の全生活手段を代表し、それが5シリングであって、労働者は自分の労働によって毎日1シリングかせぐ、と仮定しよう。そのぱあいには、彼は1週に5日だけ労働すればよい。1ブッシェルが4シリングであれば4日だけでよい。……ところが、労賃はこの王国では生活手段の価格に比べてはるかに高いので、4日労働するマニュファクチュア労働者は、余分の金銭をもっていて、この金銭で週の残りは仕事をしないで暮らしている。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態ではないということをはっきりさせるのに、私の言ったことで充分だ、と私は思っている。わが国の農業労働者はこのことを実行しており、どう見ても、彼らは労働者(labouring poor)のなかで最も幸福な人々である(123)。オランダ人はこのことをマニュファクチュアで実行しており、いたって幸福な国民のように見える。フランス人は、多くの休日が週のあいだ/にはさまらないかぎり、このことを行なっている(124)。……ところが、わが国のマニュファクチュア賎民は、イギリス人として生得の権利にもとづき、ヨーロッパのどこかほかの国の労働者よりもいっそう自由でいっそう自立的である特権が、自分にはそなわっている、という固定観念を、自分の頭に植えつけた。ところで、この観念は、それがわが国の兵士の勇気に作用するかぎりでは、幾らか有益であるかもしれない。だが、マニュファクチュア労働者は、こういった観念を抱いていることが少なければ少ないほど、彼ら自身にとっても国家にとってもますます都合がよい。労働者は、自分たちが自分たちの上長から独立している(“independent of their superiors")、と思ってはならない。わが国のような、おそらく全住民の8分の7が財産をほとんどか全くもっていない商業国で下層民を勇気づけることは、格別に危険である(125)。……わが国の工業貧民がいまは4日でかせいでいるのと同じ金額で6日労働することに甘んずるようになるまでは、完全な救治は行なわれないであろう(126)。」この目的のためにも、「怠惰や放縦やロマンチックな自由な夢想を根絶する」ためにも、同じくまた「救貧税を軽減し、勤勉精神を助長し、マニュファクチュアにおける労働価格を引き下げるためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠臣〕の口から、公の慈善を受けているこのような労働者を、一言で言えば、受救貧民を、「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse)のなかに閉じ込める、という保証づきの手段が、提案される。「このような家が恐怖の家(House of Terror)にしたてられることは、まちがいない(127)。この「恐怖の家」、この「理想の救貧院」では、「毎日14時間、といってもこれには食事時間が適当なだけ含まれているので、12労働時間がまるまる残るように」労働が行なわれなければならない(128)。〉(江夏訳305-306頁)

《フランス語版》

 〈『産業および商業にかんする一論』の著者の答えは、次のとおりである。
  「週の7日目が休日であることが神の掟によるものであれば、その結果は明らかに、ほかの日が労働に属する(もっと後でわかるように、資本に属するという意味である) ことになるのであって、この神の命令を強いて遂行させることは、けっして残酷呼ばわりしてもよい行為であるとはいえない。一般に、人間は生来無為のままでいて気ままに振舞う性向がある。われわれはこのことを、生活手段が騰貴するばあいを除いては週に平均して4日以上労働しないという、われわれのマニュファクチュア細民の振舞のうちに、宿命的に体験しているのである。……1ブッシェルの小麦が5シリングに値する労働者の全生活手段を代表し、労働者が毎日1シリングかせぐと仮定しよう。そのばあい、彼は週に5日だけ労働すればよい。1ブッシェルが4シリングに値すれば、ただの4日だけでよい。……だが、この王国では賃金が生活手段の価格に比ぺてはるかに高いので、4日労働するマニュファクチュア労働者は、週の残りはなにもしないで暮すだけの金銭を余分にもっている。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態でないことを明示するためには、私が述べたことで充分だと思う。わが国の農業労働者はこれを実行しており、労働者<labouring poor>のなかで最も幸福のようである(91)。オランダ人は同じことをマニュファクチュアで行なって、非常に幸福な国民であるように見える。フランス人は、休日がたくさんあることを別にすればまる1週間同じよように労働する(92)。……ところが、わが国のマニュフアクチュア細民は、それを構成するすべての個人がイギリス人として、生得の権利により、ほかのどんなヨーロッパ諸国の労働者よりも自由で独立である特権をもっているという固定観念を、自分の頭に植えつけた。この観念は、それによって勇気を鼓舞される兵士には有用であるかもしれない。しかし、マニュファクチュア労働者がそれに染まることが少なければ少ないほど、彼ら自身にも国家にもいっそうよいことなのである。労働者はけっして、自分を自分の上長者から独立のものと思ってはならない。おそらく人口の8分の7が財産をわずかしかもたないかあるいは全くもたな/いわが国のような商業国では、下層艮を勇気づけることはひどく危険である(93)。わが国の工業貧民が、いまは4日でかせぐのと同一の金額のために、6日労働することに甘んじないかぎり、救治は完全ではないであろう(94)」。この目的のためにも、「怠惰や放縦や空想的自由への耽溺を根絶する」ためにも、さらには「救貧税を軽減し、勤勉の精神を励まし、マニュファクチュアにおける労働価格を引き下げる」ためにも、資本に忠実なわが戦士は、すぐれた手段を提案する。それはどんな提案であろうか? それは、公の慈善の世話になっている労働者、一言にしていえば受救貧民を、理想的な救貧院<an ideal Workhouse>のなかに監禁することである。この救貧院は恐怖の家<house of Terror>であるにちがいない。この救貧院の理想の地では、食事の時間を差し引いてもまるまる12労働時間が残るように、1日に14時間労働させられることであろう(95)。〉(江夏・上杉訳280-281頁)

《イギリス語版》

  〈(21) これに対して、「商業と貿易に関する評論」の著者は、こう応じる。
   (22) 「もし、7日ごとの日を休日となせと、神が制定されたと云うのなら、同時に、他の6日間は働くということを意味していると見るのは当然のことである。」(彼が云いたいのは、資本の為にということである。直ぐにそのことを知ることになろう。) 「勿論、それは、冷酷に強制せよと云っているものではない。….とかく人類というものは、安楽と怠惰に堕する傾向があり、我々はこのことを経験からどうしようもなく知っている。我々製造業の衆愚の行動から見れば、彼等は、平均を超えては働かない。食料価格が高くならないならば、週4日を超えては働かない。…. 貧乏人の必要なものを一種類の物として見れば、例えば、それらを小麦であるとすれば、または次のように仮定すれば、…. 小麦のそのブッシェルが5シリングであるとして、そして彼 (製造工場主の彼) が彼の労働によって1シリングを稼ぐとすると、週 たったの5日働けばよい。もし、その小麦のブッシェルが4シリングになったとすれば、彼は週 4日働けばよい。だが、この王国の賃金は、生活に必要なものの価格に較べてかなり高い。…. 4日働く工場主は、週のあとの日を無為に過ごすだけの余分の貨幣を持っている。…. 私は、週 6日の適度の労働は奴隷制ではないと充分に述べたものと思う。我々の労働する人々は、このようにしており、全ての我々の働く貧しき者達は、最上の幸福を表している。
  しかし、オランダ人は、製造業で、このように行っており、人々は大変幸福の様子である。フランス人も、休日でない限りそのようにしている。
  しかるに、我が衆愚は、ヨーロッパのどの国よりも、より自由でより独立的であるという生得特権を満喫するという観念に落ち込んでいる。この観念は、いくらかの利点として、我が軍隊の勇敢さに寄与しているものではあるが、製造業貧民達にとってはなんの利点もない。彼等自身にとっても、国家にとってもいいことはない。労働する人々は、絶対に、自分達の上位の者から自分達が独立していると、絶対に考えるべきではない。… 我々のような商業国においては、そのような観念で、暴徒を焚きつけるようなことは危険きわまりない。ここでは、7/8に当たる人々は財産を持たないか、殆ど持っていない。我々の製造業貧民達が、今4日で稼ぐと同じ額で、6日働くことに同意するまでは、治癒は完璧ではない。」
  (23) この目的のために、そして「怠惰、放縦、過剰を根絶する」ために、産業の精神を促進するために、「我々の製造工場の労働の価格を低減させ、この国の、貧乏人のための課税率という重い負担を和らげる」ために、資本に「忠実なるエッカート」は、次のような広く認められている計画を提案する。そのような労働者が公の援助に寄り掛かることを止めさせると。別の言葉で云えば、生活困窮者の、救貧院を「恐怖の作業院」という理想的な作業院としなければならない。貧乏人の避難所にはしない。「今までの救貧院では、彼等は、多くの食事を与えられ、暖かで清潔な衣服があり、ほんの少ししか働かない。」この「恐怖の作業院で」、この「理想的な作業院で、貧乏人は、日14時間働く。食事のための適切な時間が許され、この方式で12時間の正味労働時間は残こされるであろう。」(本文注: 「フランス人は」と彼は云う。「この我々の自由なる素晴らしいアイディアを笑う」と。) (なぜ、またはどのようなフランス人が笑うのかは、次に進めば、直ぐに分かる 訳者注)〉(インターネットから)


●原注123

《61-63草稿》

  〈「農業に雇用されているわが国の労働する人々は、それ〔1週間に6日の中位の労働〕をしているのであり、また彼らは、どこから見ても、わが国の労働するすぺての貧民中で最も幸福である。(この男は、まさにこの同じ著書のあとのほうで、こうした『幸福な』者たちが、すでにほぼ肉体的最低限に到達しており、彼らは少なくとも、賃金の引上げなしに必需品にたいする課税のそれ以上の増大にけっして耐えられない、ということを認めている。)〉(草稿集⑨687頁)
  〈労働者は、より多く働いてもより多くのものを得てはならない。というのは、必要が、相変わらず彼らの労働の刺激剤であり続けなければならないからである。すなわち、彼らは貧しいままでなければならないが、しかしまた、「商業国家」--これはすなわち、彼らのブルジョアジーの言い換えなのだが--のを生み出さねばならないのである。「節度ある生活と恒常的な雇用こそ、貧民にとっては理性的な幸福に、国家にとっては富裕と権勢とに直結する途なのである。」(54ページ。)
   彼が貧民の「理性的な幸福」という言葉てどのようなことを理解しているにせよ、以上からわかることは、彼が農業「労働者」を「最も幸福な人々」として描いたということである。彼の著書の別の簡所で、彼自身次のように語っている。
  「農業労働者……は、ところが、……食糧品が最も安値の状態にあるまさにそのときに、生活が落ち込むのである。彼らはつねに全力を出しているのであって、彼らは、今以上に安く生活することもできないしよりきびしい労働をすることもできない。……しかし、これは、製造業労働者の場合とはまったく違っている。」(96ページ。}したがって、これこそが、貧民の「理性的な幸福」なのである。〉(草稿集⑨690頁)

《初版》

 〈(123)『産業および商業にかんする一論』、彼自身が96ページで、すでに177O年にはイギリスの農業労働者の「幸福」がなんであったか、を語っている。「彼らの労働力(“their working powers")はいつでも極度に緊張している(“on the/stetch")。彼らは、自分たちが暮らしているよりも、低い暮らしをすることはできないし(“they cannot live cheaper than they do")、もっとはげしく労働することもできない」(“nor work harder")。〉(江夏訳306-307頁)

《フランス語版》

 〈(91) 『産業および商業にかんする一論』。彼自身が96ページで、すでに1770年にはイギリス労働者の「幸福」がなんであったかを語っている。「彼らの労働力は極度に緊張している。彼らは現在よりも安価に暮らすことができず、もっとはげしく労働することもできない。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 彼は、彼の著作「商業と貿易に関する評論」で、1770年の英国農業労働者の「幸福」がどんなものかに触れている。「彼等の力は常に限界まで使われており、今の生活レベル以下の生活をすることもできないし、より激しく働くこともできない。」〉(インターネットから)


●原注124

《61-63草稿》

 〈プロテスタンテイズムは剰余労働を増大させるためのひとつの手段でもあった
  「……プロテスタンテイズムを採用したこれらの国々は、……ローマ・カトリック諸国では人々が休息をとる祭日、住民の労働をほとんど1年の8分の1け減少させる祭日/を、多数廃止したことによる利益を享受している。」(カンティヨン、『商業一般の性質に関する小論』、231ページ。)(草稿集⑨700-701頁)

《初版》

 〈(124)プロテスタントは、伝統的な休日をほとんどすべて仕事日にすることによって、すでに、資本の発生史上ある重要な役割を演じている。〉(江夏訳307頁)

《資本論》

  〈重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」〔“The Scotch hate gold"〕紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。〉(全集第25b巻765頁)

《フランス語版》

 〈(92) プロテスタンティズムは、ほとんどすべての休日を就業日にすることによって、資本の発生においてすでに一つの重要な役割を演じている。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: プロテスタントは、全ての伝統的な休日を、労働日に変えたことによって、資本の成因に重要な役割を演じている。〉(インターネットから)


●原注125

《初版》

 〈(125)『産業および商業にかんする一論』、15-57ページの各所。〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》
        
 〈(93) 『産業および商業にかんする一論』、41、15、96、97、55-57ページ。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》 なし。


●原注126

《61-63草稿》

  〈当時、労働にたいする需要がその供給以上に急速に増大していた、という事実は、次の文章から見てとれる。(すでにヴァンダリント、またのちにはフォース夕、等が、ブルジョアは賃金をより高くすることでより多くの労働量を調達するということに抵抗することに気づいていた。)
  「わが王国における怠惰のもう一つの原因は、十分な数の働き手が不足していることである。(27ページ。)
  もろもろの製造業にたいする異常な需要によって労働者が不足するようになる場合には、労働者はつねに自分たち自身の責任(そんなものはあるはずがなかろう)を感じるし、それを彼らの親方に同じように感じきせるであろう。ところが、こうした場合に、一群の労働者が1日じゅう一緒に仕事を怠けることによって結託して彼らの雇用者を苦しめるほど、これらの人々の性向が堕落しているのは驚くべきことである。」(27、28ページ。)(この「驚くべき」事実とこの類まれなる「堕落」について、ヴァンダリントとフォースタを参照すること。)「そうしたことは、小麦やその他の必需品が高価な場合にはけっして起こらない。つまり、その場合には、労働が非常に豊富であり、労働することがぜひ必要となるので、そのように自然に背いた結託は許されないのである。」(28ページ。)〉(『草稿集』⑨694頁)

《初版》

 〈(126)同前、69ページ。ジェイコブ・ヴァンダリントは、すでに1734年に、労働者の怠惰について資本家が申し立てる苦情の秘密は、たんに、資本家が同じ賃金と引き換えに4労働日ではなく6労働日を要求したことだ、と説明した。〉(江夏訳307頁)


《フランス語版》

 〈(94) 同前。69ページ。ジェーコブ・ヴァンダリントはすでに1734年に、労働者階層の怠惰にかんする資本家の苦情の全秘密は、同じ賃金と引ぎ換えに4労働日のかわりに6労働日を請求したことだけが動機である、と言明した。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1734年に、ヤコブ バンダーリントが、資本家が、労働する人々の怠惰について云いたい腹の中を、単純に同じ賃金で、4日に代わって6日 働くことを要求することであると述べている。〉(インターネットから)


●原注127

《61-63草稿》

 〈労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[-243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。
「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉(草稿集⑨689頁)

《初版》

 〈(127)同前、260ページ。「このような理想的な救貧院は、『恐怖の家』にしたてられるべきであって、貧民がたっぷり食事を与えられ、暖かくきちんと着物を着せられ、ほんのわずかしか労働しない、というような貧民の避難所に、したてられではならない。」〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》 フランス語版には原注127に該当する注はない。

《イギリス語版》  なし。


●原注128

《61-63草稿》

   〈労働階級は、彼らの上位者たちへの依存の念をもたなければならない。
  「しかし、製造業に従事するわが国の人々は、自分たちはイギリス人として、ヨーロッパのいかなる国におけるよりも自由で独立しているという生得の特権をほしいままにしている、という考えを抱いてきた。ところが今や、この考えは、わが国の軍隊を勇気づけるかぎりていくらか役に/立っかもしれないが、製造業に従事する貧民がこのような考えを抱かないほうが彼ら自身にとっても国家にとっても得策であることはまちがいないのである労働する人々は自分たちが彼らの上位者たちから独立しているなどとけっして考えてはならない。(56ページ。)おそらく全体の8分の7までがほとんどまたはまったく財産をもたない人々である、わが国のような商業国家で、下層民に活力を与えるのはきわめて危険である。(57ページ。)食糧品やその他の必需品の価格によって規定されるのは、労働の量であって、その価格ではない。つまり、必需品の価格を非常に低く低下させるならば、当然それに対応して労働の量が減少する。(48ページ。)人間というものが一般に、本来的に安楽と怠惰を好むものであるというのが真実であることは、食糧品が非常に高価になるようなことでもないかぎり、平均的にいって週に4日以上は働かないような、製造業に従事するわが国の大衆(下層民)の行状から、残念にも見てとれることである。」(15ページ。)〉(草稿集⑨687-688頁)
  〈「イギリスの下層の人々は、自由についてのロマンティクな考えから、一般に、彼らに強制されるものをすべて拒絶し、それらすべてに反抗する。だから、処罰にたいする恐れを抱かせることによりある賃金である時間働くことを人々に強いることはできるとしても、仕事をきちんとやるように強いることはできない。(92ページ。)一般的な勤勉を強制しようとするいかなる計画にあっても、必要を基礎としなければならないのであるが、それにもかかわらず、イギリスの大衆の考えと性向を考えるならば、それは、議会のそうした法律がやるようには完全かつ直接に核心に触れるべきではないように思われる。というのは、そうした法律を実行すると、ほとんどつねに、不法な結託、暴動および混乱が生じてきたからである。できることなら、そうした法律の効果は、ほとんど気づかれずにまた力ずくのかたちをとらずに生み出されるべきである。」(93ページ。)〉(草稿集⑨700頁)

《初版》

 〈(128)“In this ideal workhouse the poor shall work 14 hours in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour" (同前)。彼はこう言う。「フランス人は、われわれの熱狂的な自由の観念を笑っている。」(同前、78ページ。)〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》

 〈(95) 同前、260ページ。“Such an ideal workhouse must be made a House of Terror and not an asylum for the poor,etc.In this ideal worhouse the poor shall work 14 hours,in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour." 彼は、フランス人はわれわれの熱狂的自由の観念を笑っている、と言う(同上、78ページ)。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》 なし。


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

  〈「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。
「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉(草稿集⑨689頁)

《初版》

 〈177O年の理想の救貧院」である恐怖の家では、1日に12労働時間! それから63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、イギリス産業の最後の審判の日が現われ始めたように思えた! 1852年に、L・ポナバルトが法定労働日をゆさぶってブルジョアとしての地歩を占めようとしたとき、フランスの労働者たちは異口同音にこう叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法中われわれの手に残っている唯一の善きものだ(129)!」チューリヒでは1O歳以上の児童の労働12時間に制限されているアールガウでは1862年に、13歳ないし16歳の児童の労働が12[1/2]時間から12時間に短縮され、オーストリアでは186O年に、14歳ないし16歳の少年について同/じく12時間に短縮された(130)。ななんという「177O年以来の進歩」だと、マコーレーなら「有頂天になって」歓声をあげることであろうに!〉(江夏訳307-308頁)

《フランス語版》

 〈1日に12労働時間、これが1770年の模範的な救貧院、恐怖の家での理想、すなわち極地である! 63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に短縮した/ときには、イギリス工業の弔鐘が鳴ったかのように思われた。1852年にルイ・ボナパルトが、ブルジョアジーを味方につけるために法定労働日に触れようとしたとき、フランスの労働者階層は異口同音に叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の法律のうちでわれわれに残されている唯一の善いものなのだ(96)」。チューリヒでは、10歳未満の児童の労働が12時間に短縮された。アールガウでは1862年には、13歳ないし16歳の児童の労働が12時間半から12時間に短縮された。オーストラリア(ママ)でも1860年には、15歳ないし16歳の児童について事情は同じであった。「1770年以来なんという進歩だ!」と、マコーリなら「大喜び」で叫ぶことであろう。〉(江夏・上杉訳281-282頁)

《イギリス語版》

  〈(24) 1770年の「恐怖の家」、理想的な救貧院では日12時間労働! 63年後の1833年、英国国会が、13歳から18歳の子供たちの労働日を、4つの工業部門において、正味12時間に縮減した時には、英国製造業に最後の審判の日が来た! また、1852年 ルイ ボナパルドが、彼の位置をブルジョワジーとともに確かなものにしようと、法定された労働日を勝手に改悪することで、と模索した時、フランスの労働者達は、一つの声にまとまった。「労働日を12時間と限定した法律は、共和国の法律で、我々に残された、まさにその一つの宝だ。」と。
  チューリッヒでは、10歳以下の子供たちの労働は、12時間に制限されている。1862年アールガウでは、13歳から16歳までの子供たちの労働時間は12時間半から12時間に軽減された。1860年オーストリアでは、14歳から16歳までの子供たちに、同様の軽減がなされた。
  「なんという進歩」1770年以来の! と、マコーリーは、狂喜して叫ぶだろう。〉(インターネットから)


●原注129

《61-63草稿》

 〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間,がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕プランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。〉(草稿集④349-350頁)

《初版》

 〈(129)「彼らは1日に12時間以上労働することには特に反対しているが、その理由は、この時間をきめた法律が、この共和国の立法中彼らの手に残っている唯一の善きものだからである。」(『1856年1O月31日の工場監督官報告書』、80ページ。)185O年9月5日のフランスの12時間法は、1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア版であって、すべての作業場に無差別に適用される。この法律以前には、労働日はフランスでは無制限であった。労働日は、工場では、14時間や15時間かそれ以上続いた。『1848年におけるフランスの労働者階級。ブランキ氏著』、を見よ。ブランキ氏は、経済学者であって革命家ではないが、労働者の状態の調査を政府当局から委嘱されていた。〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈(96) 『1855年10月31日の工場監督宮報告書』、80ぺージ。フランスの1850年9月5日の12時間法は、1848年3月2日の臨時政府布告のブルジョア版であって、あらゆる作業場に無差別にひろがっている。この法律以前には、フランスの労働日は無制限であった。それは工場では14時間、15時間、またそれ以上続いた。ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級』を見よ。あの革命家のブランキ氏ではなく経済学者であるこのブランキ氏は、労働者の状態にかんする調査を政府から委嘱されていたのである。〉(江夏・上杉訳頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「彼等が、特に、日12時間を超えて働くことに反対したのは、共和国の法律で、彼等に残された、ただ一つの宝であるからである。」( 事実に関する 工場査察官調査報告 1856年10月31日 ) フランスの12時間法 1850年9月5日は、1848年5月2日の暫定政府が定めた法律のブルジョワ版だが、いかなる工場も例外なく拘束するものであった。この法律以前のフランスの労働日に関する法律は、何の制限もないものであった。各工場においては、14、15、またはそれ以上の時間の状態が続いていた。「1848年におけるフランスの各階級の状況 パル M. ブランキ」を見よ。M.ブランキ 経済学者、革命論者の方のブランキではなく、経済学者のブランキは、労働者階級の状況に関する調査を、政府から委任されていた。〉(インターネットから)


●原注130

《初版》

 〈(13O) 1853年8月13日および1854年8月12日のv・d・ハイトならびにマントイフェル両氏の法令は、それが施行されていたならば、賞賛に償したであろうに。ベルギーは、労働日の取締りについてもブルジョア的典型国としての実を示している。ブリュッセル駐在のイギリス全権公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日に、外務省宛にこう報告している。「ロジェ大臣が私に説明したところでは、国法も地方の条令も児童労働をなんら制限していない。政府はこの3年間、会期ごとに、この間題にかんする法案を議会に提案する考えを抱いていたが、いつでも、労働の完全な自由の原則と矛盾するような立法に反対する疑い深い不安が、どうしょうもない障害になっていたのである!」〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈97) 労働日の取締りにかんしては、ベルギーは模範的なブルジョア国家の地位を保っている。ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日の外務省あての報告書のなかで、こう書いている。「ロジェ大臣は私にこう言明した。『児童労働は国法によっても地方の条令によっても制限されていない。政府は最近3年間、会期ごとに、この問題にかんする法律を議会に提出する意図をもっていたが、政府はいつも、労働の絶対的自由の原則に立脚していないような立法であればどれもこれもがかりたてるところのねたみ深い不安のうちに、乗り越えられない障言を見出すのであった』、と」。自称「ベルギーの社会主義者」は、自国のブルジョアジーから与えられたこのスローガンを、曖昧な形式で繰り返しているにすぎない!〉(江夏・上杉訳282頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: ベルギーは、労働日の規制については、ブルジョワ国の模範である。駐ブリュセル 英国全権大使 ウエルデンのハワード上院議員が、1862年5月12日外務省にこう報告した。「M. ロジャー大臣は、私に、次のことを教えてくれた。子供たちの労働は、一般法でも、その他の地方法でも制限されてはいない。ここ3年政府はこの件に関する法律案を提出しようと、あらゆる会期で考えてきたが、いかなる法律でも労働の完全な自由の原理に反するものとする執拗な反対が、常に障碍として立ちふさがる。と。」〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈資本の魂が177O年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後には、マニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。それは工場と呼ばれた。そして今度は、理想が現実の前に色あせた。〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」は、数年後には、マニュファクチュア労働者のために建てられた巨大な「救貧院」のなかで実現した。その名は工場であって、理想は現実の前に色褪せたのである。〉(江夏・上杉訳282頁)

《イギリス語版》

  〈(25) 1770年では単に夢であった資本家の心が、貧乏人のための「恐怖の家」が、二三年後には、工業労働者自身のための、巨大な「作業院」として実現されたのである。その名は、工場と呼ばれる。そして、このたびは、現実の前にアイディアは色褪せる。〉(インターネットから)


  (第5パラグラフ終わり。)

 

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