『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(1)
◎「従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところ」とは?(大谷新著の紹介の続き)
これまで大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第11章 マルクスの価値形態論」を取り上げ、その内容を紹介してきました。『資本論』の第1章の第3節の価値形態論というのは、ある意味では『資本論』のなかでもっとも難しいところであり、また論争の尽きないところでもあります。だからまだまだ紹介すべきものがあるのですが、いつまでもそれにかかわっているわけには行きません。だからそろそろこの章はここらで終わりたいと思います。ただ最後に第11章の「おわりに」で、大谷氏は、ここでは〈従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところがある〉(540頁)と述べています。その要点を3点にわたって述べているのですが、それを最後に紹介したいと思います。
その一つは価値表現は、商品の交換関係からつかみだされていることを強調したことだということです。これは第1章第1節の最初の商品の分析において、マルクスはまず商品の使用価値の分析を行ったあと、商品のもう一つの側面である価値の分析を〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる〉(全集第23a巻49頁)として始めています。つまり商品の交換関係を前提して始めているのです。だから、第3節の価値形態の分析においても、常に諸商品の交換関係とその発展がそれぞれの価値形態の発展の前提としてあるというのは当然のことなのですが、しかし多くの論者によって案外と見過ごされていることでもあるのです。だからこの点を強調したというのは極めて正当なことだと思います。
そして二つ目は、価値形態に含まれている「逆の関連」とは何か、ということについて明らかにしたことだと述べています。今回は、少し長くなりますが、その部分を紹介しておきましょう。次のように述べています。
〈「連関する〔sich beziehen〕」とは,ある主体が他のものにたいして能動的に関係をもつことであり,「関わる〔sich verhalten〕」という語で言い換えることもできる。価値表現にあっては,主体は相対的価値形態にある商品であり,これが能動的に等価形態にある商品に連関し,関わって,この後者を,それのいかなる助力をも借りることなく,価値表現の材料にするのである。「逆の連関〔Rackbeziehung〕」あるいは「逆の連関では〔rückbezüglich」〕というのは,このような「連関」の能動的な主体とそれの受動的な対象とのあいだの主体-対象の関係とは逆の主体-対象の関係を指している。そのような「逆連関」は,どのような価値表現についても,価値表現そのものについては生じようがない。なぜなら,ある特定の価値表現は,特定の主体-対象の関係つまり特定の「連関」によって成立しているものだからである。だから,それぞれの価値形態そのものが,それの左辺と右辺とを置き換えた「逆の連関」をそれ自体として含んでいるはずがないのである。ところがマルクスは,それぞれの価値形態に含まれている「逆連関」について語り,しかも開展された価値形態から一般的な価値形態への移行にあたっては,まさに,開展された価値形態から,この形態のなかに含まれている「逆連関」の形態に移行しているのである。これをどのように考えたらよいのか。
すでに述べたように,この「逆連関」は,それぞれの価値形態,価値表現を含んでいる交換関係のなかにあるものなのである。一商品の単純な価値表現を含む交換関係には,主体-対象を逆にした,もう一つの価値表現が含まれている。そのことをマルクスは,次のように書き表わす。
「等式20エレのリンネル=1着の上着または20エレのリンネルは1着の上着に値するは,明らかに,同じ等式1着の上着=20エレのリンネルまたは1着の上着は20エレのリンネルに値するを含意している。つまり,リンネルの相対的価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが,この価値表現は逆の連関では〔rückbezüglich〕上着の相対的価値表現を含んでいる〔enthalten〕のであって,それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。」(MEGA II/5,S.33岡崎訳『資本論第1巻初版』,54-55ページ。)
「第2の形態は,第1の形態の諸等式だけの総和から成り立っている。しかし,これらの等式のそれぞれ,たとえば20エレのリンネル=1着の上着は,その逆の連関〔Rückbeziehung〕,すなわち1着の上着=20エレのリンネルをも包括している〔einschließen〕のであって,ここでは上着が自己の価値をリンネルで表わしており,まさにそれゆえにリンネルを等価物として表わしている。」(MEGA II/5,S.30岡崎訳『資本論第1巻初版』,61ページ。)
「1着の上着=20エレのリンネルにおいて,上着が自己の価値を相対的に,すなわちリンネルで表現し,そうすることによってリンネルが等価形態を受け取るとき,この等式は直接に,逆の連関〔Rückbeziehung〕,すなわち20エレのリンネル=1着の上着を包括している〔einschließen〕のであって,ここでは上着が等価形態を受け取り,リンネルの価値が相対的に表現されるのである。」(MEGA II/5,S.39.岡崎訳『資本論第1巻初版』,67ページ。)
これらの記述で,一方の等式が「逆の連関で」他方の等式を含んでいる,あるいは「逆の連関を包括している」と言うのは,一方の価値表現を含む交換関係が他方の価値表現を含んでいる,ということであるほかはない。そうだとすれば,初版本文で一般的価値形態が,「相対的価値の第3の,倒置された,すなわち逆の連関にされた〔rückbezogen〕第2の形態」(MEGA II/5,S.36.岡崎訳『資本論第1巻初版』,61ページ)と呼ばれ,また「逆の連関にされた〔rückbezogen〕第2の形態であり,したがってまた第2の形態において包括されて〔eingeschlossen〕いるところの形態III」(MEGA II/5,S37.岡崎訳『資本論第1巻初版』,63ページ)と言われているのも,まったく同様に,それぞれの価値表現を含んでいる交換関係のなかにある,主体-対象が逆の連関を指しているものと言わなければならない。
そうであるとすると,開展された価値形態を,それを含む交換関係からつかみだしたとき,この交換関係にはすでに「逆の連関で」一般的価値形態が含まれていたことにならないであろうか。〉 (541-543頁、下線はマルクス、太字は大谷氏による傍点による強調箇所)
そしてこれが、つまり開展された価値形態から一般的価値形態への移行に対応する交換関係の発展段階について指摘したことが、第3の積極的な論点だとも述べているのですが、それも紹介すると長くなりすぎますので、その紹介は次回に回すことにします。
それでは本題に入ります。今回は「b 支払手段」の第5パラグラフからです。今回からは支払手段としての貨幣の流通量が問題になっています。
◎第5パラグラフ(支払手段としての貨幣の流通量)
【5】〈(イ)流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。(ロ)この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。(ハ)この流通速度は二つの事情に制約されている。(ニ)第一には、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払うというような、債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さである。(ホ)いろいろな支払の連鎖、すなわちあとから行なわれる第一の変態の連鎖は、さきに考察した諸変態列のからみ合いとは本質的に違っている。(ヘ)流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているだけではない。(ト)この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。(チ)これに反して、支払手段の運動は、すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連を表わしているのである。〉
(イ) 流通過程のどの期間をとっても、この期間に満期になる諸債務は、これらの債務を生んだもろもろの販売で譲渡された諸商品の価格総額を表わしています。
さてこのパラグラフから支払手段としての貨幣の流通量はどのようにして決まってくるのかを考えてみることにしましょう。
以前、学習した流通手段としての貨幣の流通量というのは、販売される商品の価格総額と同じ貨幣片が何回も流通するその回数、つまり貨幣の流通速度によって決まりました。すなわち 流通手段の量=[諸商品の価格総額]/[同名の貨幣片の流通回数] でした。
それでは支払手段として流通する貨幣量というのはどのように決まるのでしょうか。
私たちは、支払手段としての貨幣の機能から、自然発生的に商品流通の当事者の間に債権者と債務者という関係が生じることを見てきました。いわゆる掛け売買という新しい商品流通です。ここで債権者というのは、支払約束だけで商品を販売した人のことであり、債務者というのは、一定期日後に購買した商品の価格を支払うと約束して商品を購入した人のことでした。つまり「債務」というものには必ず一定期日後の支払というものが付いて回ってきます。だからある期間をとってみると、その期間の間に支払期日が来た(これを「満期」といいます)債務がどれだけあるか、ということが支払手段の量を考える場合には、まず問題になります。それはそれだけの価格の商品が支払約束で販売されたということを表しているからです。つまり一定期日の間に実現されるべき商品の価格総額です。
(ロ) この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず、支払手段の流通速度に左右されます。
ではこの満期になった債務の価格総額が支払手段の流通量を規定するのかというと、そうではなくて、それが基礎になっていますが、さらにそれが修正される必要があるのです。流通手段の場合も、販売されるべき商品価格の総額だけではなくて、同じ貨幣片が何回流通するのかが問題になったように、支払手段の場合も、同じ貨幣片が支払手段として一定期日の間に何回流通するかが問題になります。〈流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる。〉(全集第23a巻157頁)とありましたように、この流通回数というのは流通速度ともいうことができます。つまり支配手段の流通速度によってその量が左右されるわけです。
(ハ)(ニ) この流通速度は二つの事情に制約されています。第一には、Aが、自分の債務者Bから貨幣を受け取って、次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払う、等々といった、債権者と債務者との関係の連鎖です。第二にはさまざまな支払期限のあいだの時間の長さです。
さらにこの支払手段の流通速度というのは、流通手段の流通速度とは異なり、二つの事情によって規制されていることが分かります。まず支配手段の速度というものを考えてみますと、それは例えばある貨幣片を債務者であるAが債権者のBに支払い、その同じ貨幣片をBが今度は彼の債権者であるCに支払うというように、同じ貨幣片が一定期日の間に次々と支払手段として機能する回数を意味します。しかしこの繋がりには二つの事情があります。A、B、Cと債権・債務の関係が繋がっている必要があるということと、Aが支払ったあと、その支払を受けたBが、Cに支払うまで期間が問題になります。つまり単に債権・債務のつながりだけではなくて、それぞれの支払のあいだにある期間がどれだけかが、同じ貨幣片が一定期間内にどれだけ流通するかを規制しているということです。
ここまでの説明の参考として『経済学批判』の関連部分を紹介しておきましょう。
〈支払手段として流通する貨幣の量は、まず第一に支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定されるのであって、単純な貨幣流通の場合のように、譲渡されるべき商品の価格総額によって規定されるのではない。けれども、こうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、言いかえれば、多数の支払が過程をなしてつづく諸支払の連鎖としてあらわされる速度によって修正される。AはBに支払い、ついでBはCに支払う、等々。同じ貨幣片が支払手段としてのその機能をくりかえす速度は、一方では、同じ商品所有者がある者にたいしては債権者であり、他の者にたいしては債務者であるというような、商品所有者のあいだの債権者と債務者との関係の連鎖に依存し、他方では、さまざまな支払期日を分けへだてる時間の長さに依存する。〉 (全集第13巻122-123頁)
(ホ) もろもの支払の、すなわちあとから行なわれる第一の変態の、つぎつぎと進んでゆく連鎖は、以前に商品の変態のところで考察した、もろもろの変態列のからみ合いとは本質的に違っています。
ここでは諸支払の連鎖ということが問題になりました。この諸支払の連鎖とはそもそもどういうことかということを考えてみましょう。AがBからリンネルを一定期日後に支払うという約束で買い、BがCから同じように一定期日後に支払う約束のもとに上着を買ったとします。それぞれの支払約束(つまり債務です)の期日(満期)が、一定期間の中に連続して来たとします。そこでAがBに貨幣を支払、その同じ貨幣片をBがCに支払ったということです。つまりリンネルの第一の変態 リンネル(W)-貨幣(G)、上着の第一の変態 上着(W)-貨幣(G)が、次々と進んで繋がっていくということです。
これは以前、商品の変態のところで学習した諸商品の変態の絡まり合いということと較べてみましょう。あれはリンネルが貨幣に転化しましたが、その貨幣は小麦の生産者が小麦を売って入手した貨幣でした。リンネル所持者はリンネルを売って、貨幣を手に入れ、今度はその貨幣で聖書を買いました。その聖書を売った坊主は、その貨幣でウィスキーを買ったのでした。つまりリンネルの販売と聖書の購買【W(リンネル)-G-W(聖書)】という一つの商品の変態は、他の諸商品の諸変態と絡み合っていたのです。〈こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。〉(全集第23a巻148頁)ということでした。
しかし支払手段の連鎖は、このような流通手段における諸商品の変態の絡み合いとは本質的に違ったものなのです。
(ヘ)(ト) 流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているだけではありません。この関連そのものが、貨幣流通で、また貨幣流通とともに、はじめて成立します。
まず流通手段の流通では、売り手と買い手との関連が表現されているだけではなくて、この売り手と買い手の関係そのものが、その貨幣流通によって初めて成立したのです。『経済学批判』では次のように説明されていました。
〈だから、もし個々の商品の総変態が、始めも終わりもない一つの変態の連鎖の環としてだけでなく、多数のこういう変態の連鎖の環としてあらわされるとすれば、個々の商品はどれもみな流通W-G-Wを通過するのであるから、商品世界の流通過程は、無限に異なった点でたえず終わりをつげながら、またたえずあらたに始まるこういう運動の無限にもつれあった連鎖のからみ合いとしてあらわされる。だがそれと同時に、個々の販売または購買はどれもみなひとつの無関係な孤立的な行為として存立し、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれから分離されることができ、したがってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。〉 (全集第13巻75頁)
(チ) これに反して、支払手段の運動は、この運動以前にすでにできあがって現存している社会的な関連を表現しているのです。
このように流通手段における商品変態の絡まり合いは、互いに一つ一つ無関係な孤立した行為であり、時間的にも空間的にも分離しており、それらが継続するように結びつく必要なかったのですが、支払手段の運動は、それとはまったく反対に、すでに流通当事者の関係が事前に出来上がって存在していることが前提されるのです。
例えば、リンネル販売者のBがAの支払約束だけで商品を譲渡したのは、Aが一定期日後には確実にその価格を支払ってくれると思ったからですが、それはAとBとが頻繁な商品の売買を通じて、流通当事者としての互いの合意が出来上がっていたからにほかなりません。同じことはBとCとについても言いうるのです。つまりA-B-Cという支払の連鎖が生じるということは、AとB、BとCという流通当事者同士の合意があったからなのですが、それはA、B、Cというそれぞれの商品(生産物)の社会的分業が一定の意識的な統制にもとに置かれていたということなのです。ここまでの説明の『経済学批判』を見てましょう。
〈この諸支払の連鎖、すなわち、諸商品のあとからの第一の変態の連鎖は、流通手段としての貨幣の流通であらわされる諸変態の連鎖とは質的に違っている。後者は時間的に連続して現われるだけでなく、時間的に連続するなかではじめて連鎖となるのである。商品が貨幣になり、それからまた商品になり、こうして他の商品が貨幣になれるようにしてやる等々、言いかえれば、売り手は買い手になり、これによって他の商品所有者が売り手となる。こういう関連は、商品交換の過程そのもののうちで偶然に成立する。ところが、AがBに支払った貨幣が、BからCに、CからDに等々とつづけて支払われ、しかもすぐつぎからつぎへとつづく期間に支払われるということ--この外面的関連においては、すでにできあがって現存している社会的関連が明るみに出るだけである。同じ貨幣がいろいろな人々の手を通っていくのは、それが支払手段として登場するからではなくて、いろいろな人々の手がすでにつながりあっているからこそ、それが支払手段として流通するのである。だから貨幣が支払手段として流通する速度は、貨幣が鋳貨としてまたは購買手段として流通する速度よりも、個人が流通過程にはるかに深くはいりこんでいることを示している。〉 (全集第13巻123頁)
◎第6パラグラフ(諸支払の集中による相殺)
【6】〈(イ)多くの売りが同時に並んで行われることは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。(ロ)反対に、このことは支払手段の節約の一つの新しい挺子(テコ)になる。(ハ)同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払の決済のための固有な施設と方法とが発達してくる。(ニ)たとえば、中世のリヨンの振替〔virements〕がそれである。(ホ)AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。(ヘ)こうして、あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。(ト)諸支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量も小さくなるのである。〉
(イ) 貨幣の通流のところでみたことから明らかなように、多くの販売が同時並行的に行われることは、貨幣の流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限します。
貨幣の通流のところでは次のように述べられていました。
〈流通する貨幣の量は、たんに実現されるぺき商品価格の総額によって規定されるだけでなく、同時に貨幣の流通する速度、つまり貨幣があたえられた期間内にこの実現の仕事をなしとげる速度によっても規定される。……だから金の流通の速度は、金の量の代わりをすることができるのであり、言いかえれば、流通過程における金の定在は、たんに商品とならんでいる等価物としてのその定在によって規定されるだけではなく、商品変態の運動の内部での金の定在によっても規定される。けれども、貨幣流通の速度はある一定の程度までしかその量の代わりをしない。なぜならば、どのあたえられた時点でも、際限なく分裂した購買と販売とが、空間的に並行しておこなわれるからである。〉 (『経済学批判』全集第13巻85頁)
つまりバラバラの地点で同時に行われる販売や購買であれば、一つの貨幣片でそれらをすべてカバーすることはできないのは当然です。だから流通過程のさまざまな地点で同時に行われる販売や購買には、流通の速度での代替はできず、その数だけの貨幣が必要になるわけです。
(ロ)(ハ) これとは反対に、多くの支払が同時並行的に行われることは、支払手段の節約のための新たな挺子(テコ)になります。同じ場所にもろもろの支払が集中されるにつれて、自然発生的に支払の決済のための固有な諸施設と諸方法とが発達してきます。
ところが支払手段としての貨幣の機能では、反対にまったく違ったことになります。つまり諸支払が同時に並行して集中して行われれば行われるほど、むしろ支払手段としての貨幣が不要になり、貨幣の節約になるからです。つまり相殺です。一つの債務に対する支払義務のある人が、その支払義務のある相手に対する債権を持っていれば(そしてその価格と期日が合致すれば)、ただそれらの債務や債権を表す約定書を交換するだけで貸し借り無しになります。つまり支払手段が不要になるのです。
だから支払手段としての貨幣の機能が発達してくると、こうした諸支払を集中して行うための施設や制度・方法が自然発生的に生まれてくるのです。
(ニ) たとえば、中世のリヨンでの振替〔virements〕がそうです。
中世のリヨンについて、次のような説明があります。
〈1420年から始まったリヨンの定期市は、15世紀後半のルイ11世治世の時代には、衰退したシャンパーニュの地位を継承したジュネーヴとの定期市のセンターとしての競争で優位に立ち、国際取引の一大中心地に発展し、16世紀初めにはヨーロッパ最大の金融の決済地となった。〉 (「17世紀のリヨンの手形決済所規則」(小梁吉章、『広島法学』37巻2号57頁)
なおこの論文では17世紀の振替のための「決済所規則」が邦訳されています。なお「振替」というのはそもそもどういうものかの説明は、以前、『資本論』第3部第4編第19章該当部分の草稿を解読したときに説明したものがありますので、興味のある方は参考にしてください。そこではアムステルダムの振替銀行の例も紹介されています。また異なる銀行間での手形交換所での交換にもとづく振替についても、最近それを説明したものがありますので、参照してください。
(ホ)(ヘ) AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただつきあわされるだけで、ある金額まではプラスとマイナスの量として相殺されます。そのあとに残るのは、債務差額の清算だけです。
「相殺」というものを少し考えてみましょう。今Aが亜麻をBに一定期日後に支払う約束のもとに100万円で売ったとします。AはB対する100万円の債権者になり、BはAに対する100万円の債務者になります。だからAはB宛ての貨幣請求権(Bは何月何日には100万円をAに支払いますという約定を示す証書)を持っています。ところがBもCに対して、一定期日後の支払約束でリンネルを100万円で売ったとしますと、BもC宛ての100万円の貨幣請求権を持っていることになります。さらにCもやはりAに対して、一定期日後の支払約束で上着を100万円で売ったとしますと、今度はCはA宛の100万円の貨幣請求権をもっていることになるわけです。だからこれらはその約定された期日が来ると、BはAに100万円を支払い、CはBに100万円を支払い、AはCに100万円を支払わねばなりません。つまり、支払手段としては300万円の貨幣が必要になります。ところがそれらの債権者が一同に会して、それぞれの債権を付き合わせると(それぞれの貨幣請求権を付き合わせると)、結局、誰も支払う必要がないことになります。というのはBがAへの支払いをCに対する請求権で支払うとAもCに対する支払いをその同じCに対する請求権で支払えば、結局、Cは自分自身の支払い義務のある証書を取り返すことになるので、Cも支払う必要がなくなり、誰も支払いをせずにすべての支払いが決済された事になるからです。これを「相殺」というわけです。もっともこの場合は、すべて同じ100万円という債権・債務でしたが、例え金額がそれぞれ違ったとしても、結局、その差額分を支払うだけでよいことになります。だから支払手段としては差額分だけが流通することになるわけです。
(ト) 支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量も小さくなります。
そしてこうした諸支払いを集中して決済するための施設(手形交換所)や規則等が決められて、大量の支払いが集中されればされるほど、相対的に差額が小さくなります。手形交換所に参加する業者(銀行業者など)はさまざまな債権(他行の支払い義務のある証書)を持つ一方で、他方では多くの債務(自行の支払い義務のある証書)を発行しています(つまり他行がそれらの証書を持参しています)。だからそれらを互いに付き合わせて交換し、その交換にもとづいて自行内の顧客の間での帳簿上での「振替」をして決済することになるのです。だから流通手段として実際に流通に出て行く量は極めて小さくなるわけです。
さてこのパラグラフに該当する『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。
〈同時的な、したがって空間的にならんでおこなわれる売買の価格総額は、流通速度が鋳貨量の代わりをするうえでの限界をなす。この制限は、支払手段として機能する貨幣にとってはなくなる。同時におこなわれるべき諸支払が一つの場所に集中されると、これははじめ自然発生的には、商品流通の大集合点にだけ起こることだが、諸支払は、AはBに支払わなければならないが、同時にCから支払を受けるはずである、等々というわけで、正負の大きさとして相殺される。だから支払手段として必要な貨幣の総額は、同時に実現されるべき諸支払の価格総額によって規定されるのではなく、諸支払の集中の大小と、それらが正負の大きさとして相殺されたあとに残る差額の大きさとによって規定される。この相殺のための独自の施設は、たとえば古代ローマでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。しかしそれについての考察は、一定の社会圏内ではどこでも決まっている一般的支払期日の考察と同じく、ここでの問題ではない。ただここで注意しておきたいのは、この支払期日が流通する貨幣量の周期的変動に及ぼす特有な影響がやっと最近になって科学的に研究されたということである。〉 (全集第13巻123-124頁)
イギリスのロンドンの手形交換所について、MEGA(マルクス・エンゲルス全集)の注解は次のように説明しています。
〈④ 〔注解〕「手形交換所〔Clearing-House〕」--ロンドンのロンバード・ストリートにある手形交換所は1775年に設立された。メンバーは,イングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会だった。なすべき仕事は,手形,小切手その他からなる相互の債権の差引決済であった。〉 (大谷著『マルクスの利子生み資本論』第2巻167頁)}
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