『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(1)

2020-09-04 10:42:34 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(1)

 

◎「従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところ」とは?(大谷新著の紹介の続き)

  これまで大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第11章 マルクスの価値形態論」を取り上げ、その内容を紹介してきました。『資本論』の第1章の第3節の価値形態論というのは、ある意味では『資本論』のなかでもっとも難しいところであり、また論争の尽きないところでもあります。だからまだまだ紹介すべきものがあるのですが、いつまでもそれにかかわっているわけには行きません。だからそろそろこの章はここらで終わりたいと思います。ただ最後に第11章の「おわりに」で、大谷氏は、ここでは〈従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところがある〉(540頁)と述べています。その要点を3点にわたって述べているのですが、それを最後に紹介したいと思います。

  その一つは価値表現は、商品の交換関係からつかみだされていることを強調したことだということです。これは第1章第1節の最初の商品の分析において、マルクスはまず商品の使用価値の分析を行ったあと、商品のもう一つの側面である価値の分析を〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる〉(全集第23a巻49頁)として始めています。つまり商品の交換関係を前提して始めているのです。だから、第3節の価値形態の分析においても、常に諸商品の交換関係とその発展がそれぞれの価値形態の発展の前提としてあるというのは当然のことなのですが、しかし多くの論者によって案外と見過ごされていることでもあるのです。だからこの点を強調したというのは極めて正当なことだと思います。

  そして二つ目は、価値形態に含まれている「逆の関連」とは何か、ということについて明らかにしたことだと述べています。今回は、少し長くなりますが、その部分を紹介しておきましょう。次のように述べています。

  〈「連関する〔sich beziehen〕」とは,ある主体が他のものにたいして能動的に関係をもつことであり,「関わる〔sich verhalten〕」という語で言い換えることもできる。価値表現にあっては,主体は相対的価値形態にある商品であり,これが能動的に等価形態にある商品に連関し,関わって,この後者を,それのいかなる助力をも借りることなく,価値表現の材料にするのである。「逆の連関〔Rackbeziehung〕」あるいは「逆の連関では〔rückbezüglich」〕というのは,このような「連関」の能動的な主体とそれの受動的な対象とのあいだの主体-対象の関係とは逆の主体-対象の関係を指している。そのような「逆連関」は,どのような価値表現についても,価値表現そのものについては生じようがない。なぜなら,ある特定の価値表現は,特定の主体-対象の関係つまり特定の「連関」によって成立しているものだからである。だから,それぞれの価値形態そのものが,それの左辺と右辺とを置き換えた「逆の連関」をそれ自体として含んでいるはずがないのである。ところがマルクスは,それぞれの価値形態に含まれている「逆連関」について語り,しかも開展された価値形態から一般的な価値形態への移行にあたっては,まさに,開展された価値形態から,この形態のなかに含まれている「逆連関」の形態に移行しているのである。これをどのように考えたらよいのか。
  すでに述べたように,この「逆連関」は,それぞれの価値形態,価値表現を含んでいる交換関係のなかにあるものなのである。一商品の単純な価値表現を含む交換関係には,主体-対象を逆にした,もう一つの価値表現が含まれている。そのことをマルクスは,次のように書き表わす。
  「等式20エレのリンネル=1着の上着または20エレのリンネルは1着の上着に値するは,明らかに,同じ等式1着の上着=20エレのリンネルまたは1着の上着は20エレのリンネルに値するを含意している。つまり,リンネルの相対的価値表現においては上着が等価物としての役割を演じているのであるが,この価値表現は逆の連関では〔rückbezüglich〕上着の相対的価値表現を含んでいる〔enthalten〕のであって,それにおいてはリンネルが等価物としての役割を演じているのである。」(MEGA II/5,S.33岡崎訳『資本論第1巻初版』,54-55ページ。)
  「第2の形態は,第1の形態の諸等式だけの総和から成り立っている。しかし,これらの等式のそれぞれ,たとえば20エレのリンネル=1着の上着は,その逆の連関〔Rückbeziehung〕,すなわち1着の上着=20エレのリンネルをも包括している〔einschließen〕のであって,ここでは上着が自己の価値をリンネルで表わしており,まさにそれゆえにリンネルを等価物として表わしている。」(MEGA II/5,S.30岡崎訳『資本論第1巻初版』,61ページ。)
  「1着の上着=20エレのリンネルにおいて,上着が自己の価値を相対的に,すなわちリンネルで表現し,そうすることによってリンネルが等価形態を受け取るとき,この等式は直接に,逆の連関〔Rückbeziehung〕,すなわち20エレのリンネル=1着の上着を包括している〔einschließen〕のであって,ここでは上着が等価形態を受け取り,リンネルの価値が相対的に表現されるのである。」(MEGA II/5,S.39.岡崎訳『資本論第1巻初版』,67ページ。)
  これらの記述で,一方の等式が「逆の連関で」他方の等式を含んでいる,あるいは「逆の連関を包括している」と言うのは,一方の価値表現を含む交換関係が他方の価値表現を含んでいる,ということであるほかはない。そうだとすれば,初版本文で一般的価値形態が,「相対的価値の第3の,倒置された,すなわち逆の連関にされた〔rückbezogen〕第2の形態」(MEGA II/5,S.36.岡崎訳『資本論第1巻初版』,61ページ)と呼ばれ,また「逆の連関にされた〔rückbezogen〕第2の形態であり,したがってまた第2の形態において包括されて〔eingeschlossen〕いるところの形態III」(MEGA II/5,S37.岡崎訳『資本論第1巻初版』,63ページ)と言われているのも,まったく同様に,それぞれの価値表現を含んでいる交換関係のなかにある,主体-対象が逆の連関を指しているものと言わなければならない。
  そうであるとすると,開展された価値形態を,それを含む交換関係からつかみだしたとき,この交換関係にはすでに「逆の連関で」一般的価値形態が含まれていたことにならないであろうか。〉 (541-543頁、下線はマルクス、太字は大谷氏による傍点による強調箇所)

  そしてこれが、つまり開展された価値形態から一般的価値形態への移行に対応する交換関係の発展段階について指摘したことが、第3の積極的な論点だとも述べているのですが、それも紹介すると長くなりすぎますので、その紹介は次回に回すことにします。

  それでは本題に入ります。今回は「b 支払手段」の第5パラグラフからです。今回からは支払手段としての貨幣の流通量が問題になっています。

◎第5パラグラフ(支払手段としての貨幣の流通量)

【5】〈(イ)流通過程のどの一定期間にも、満期になった諸債務は、その売りによってこれらの債務が生まれた諸商品の価格総額を表わしている。(ロ)この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず第一に支払手段の流通速度によって定まる。(ハ)この流通速度は二つの事情に制約されている。(ニ)第一には、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取って次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払うというような、債権者と債務者との関係の連鎖であり、第二には支払期限と支払期限とのあいだの時間の長さである。(ホ)いろいろな支払の連鎖、すなわちあとから行なわれる第一の変態の連鎖は、さきに考察した諸変態列のからみ合いとは本質的に違っている。(ヘ)流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているだけではない。(ト)この関連そのものが、貨幣流通において、また貨幣流通とともに、はじめて成立するのである。(チ)これに反して、支払手段の運動は、すでにそれ以前にできあがっている社会的な関連を表わしているのである。〉

  (イ) 流通過程のどの期間をとっても、この期間に満期になる諸債務は、これらの債務を生んだもろもろの販売で譲渡された諸商品の価格総額を表わしています。

  さてこのパラグラフから支払手段としての貨幣の流通量はどのようにして決まってくるのかを考えてみることにしましょう。
  以前、学習した流通手段としての貨幣の流通量というのは、販売される商品の価格総額と同じ貨幣片が何回も流通するその回数、つまり貨幣の流通速度によって決まりました。すなわち 流通手段の量=[諸商品の価格総額]/[同名の貨幣片の流通回数] でした。
  それでは支払手段として流通する貨幣量というのはどのように決まるのでしょうか。
  私たちは、支払手段としての貨幣の機能から、自然発生的に商品流通の当事者の間に債権者と債務者という関係が生じることを見てきました。いわゆる掛け売買という新しい商品流通です。ここで債権者というのは、支払約束だけで商品を販売した人のことであり、債務者というのは、一定期日後に購買した商品の価格を支払うと約束して商品を購入した人のことでした。つまり「債務」というものには必ず一定期日後の支払というものが付いて回ってきます。だからある期間をとってみると、その期間の間に支払期日が来た(これを「満期」といいます)債務がどれだけあるか、ということが支払手段の量を考える場合には、まず問題になります。それはそれだけの価格の商品が支払約束で販売されたということを表しているからです。つまり一定期日の間に実現されるべき商品の価格総額です。

  (ロ) この価格総額の実現に必要な貨幣量は、まず、支払手段の流通速度に左右されます。

  ではこの満期になった債務の価格総額が支払手段の流通量を規定するのかというと、そうではなくて、それが基礎になっていますが、さらにそれが修正される必要があるのです。流通手段の場合も、販売されるべき商品価格の総額だけではなくて、同じ貨幣片が何回流通するのかが問題になったように、支払手段の場合も、同じ貨幣片が支払手段として一定期日の間に何回流通するかが問題になります。〈流通しつつあるすべての同名の貨幣片の総流通回数からは、各個の貨幣片の平均流通回数または貨幣流通の平均速度がでてくる〉(全集第23a巻157頁)とありましたように、この流通回数というのは流通速度ともいうことができます。つまり支配手段の流通速度によってその量が左右されるわけです。

  (ハ)(ニ) この流通速度は二つの事情に制約されています。第一には、Aが、自分の債務者Bから貨幣を受け取って、次にこの貨幣を自分の債権者Cに支払う、等々といった、債権者と債務者との関係の連鎖です。第二にはさまざまな支払期限のあいだの時間の長さです。

   さらにこの支払手段の流通速度というのは、流通手段の流通速度とは異なり、二つの事情によって規制されていることが分かります。まず支配手段の速度というものを考えてみますと、それは例えばある貨幣片を債務者であるAが債権者のBに支払い、その同じ貨幣片をBが今度は彼の債権者であるCに支払うというように、同じ貨幣片が一定期日の間に次々と支払手段として機能する回数を意味します。しかしこの繋がりには二つの事情があります。A、B、Cと債権・債務の関係が繋がっている必要があるということと、Aが支払ったあと、その支払を受けたBが、Cに支払うまで期間が問題になります。つまり単に債権・債務のつながりだけではなくて、それぞれの支払のあいだにある期間がどれだけかが、同じ貨幣片が一定期間内にどれだけ流通するかを規制しているということです。
   ここまでの説明の参考として『経済学批判』の関連部分を紹介しておきましょう。

  〈支払手段として流通する貨幣の量は、まず第一に支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定されるのであって、単純な貨幣流通の場合のように、譲渡されるべき商品の価格総額によって規定されるのではない。けれども、こうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、言いかえれば、多数の支払が過程をなしてつづく諸支払の連鎖としてあらわされる速度によって修正される。AはBに支払い、ついでBはCに支払う、等々。同じ貨幣片が支払手段としてのその機能をくりかえす速度は、一方では、同じ商品所有者がある者にたいしては債権者であり、他の者にたいしては債務者であるというような、商品所有者のあいだの債権者と債務者との関係の連鎖に依存し、他方では、さまざまな支払期日を分けへだてる時間の長さに依存する。〉 (全集第13巻122-123頁)

  (ホ) もろもの支払の、すなわちあとから行なわれる第一の変態の、つぎつぎと進んでゆく連鎖は、以前に商品の変態のところで考察した、もろもろの変態列のからみ合いとは本質的に違っています。

 ここでは諸支払の連鎖ということが問題になりました。この諸支払の連鎖とはそもそもどういうことかということを考えてみましょう。AがBからリンネルを一定期日後に支払うという約束で買い、BがCから同じように一定期日後に支払う約束のもとに上着を買ったとします。それぞれの支払約束(つまり債務です)の期日(満期)が、一定期間の中に連続して来たとします。そこでAがBに貨幣を支払、その同じ貨幣片をBがCに支払ったということです。つまりリンネルの第一の変態 リンネル(W)-貨幣(G)、上着の第一の変態 上着(W)-貨幣(G)が、次々と進んで繋がっていくということです。
  これは以前、商品の変態のところで学習した諸商品の変態の絡まり合いということと較べてみましょう。あれはリンネルが貨幣に転化しましたが、その貨幣は小麦の生産者が小麦を売って入手した貨幣でした。リンネル所持者はリンネルを売って、貨幣を手に入れ、今度はその貨幣で聖書を買いました。その聖書を売った坊主は、その貨幣でウィスキーを買ったのでした。つまりリンネルの販売と聖書の購買【W(リンネル)-G-W(聖書)】という一つの商品の変態は、他の諸商品の諸変態と絡み合っていたのです。〈こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている〉(全集第23a巻148頁)ということでした。
  しかし支払手段の連鎖は、このような流通手段における諸商品の変態の絡み合いとは本質的に違ったものなのです。

  (ヘ)(ト) 流通手段の流通では、売り手と買い手との関連がただ表現されているだけではありません。この関連そのものが、貨幣流通で、また貨幣流通とともに、はじめて成立します。

  まず流通手段の流通では、売り手と買い手との関連が表現されているだけではなくて、この売り手と買い手の関係そのものが、その貨幣流通によって初めて成立したのです。『経済学批判』では次のように説明されていました。

  〈だから、もし個々の商品の総変態が、始めも終わりもない一つの変態の連鎖の環としてだけでなく、多数のこういう変態の連鎖の環としてあらわされるとすれば、個々の商品はどれもみな流通W-G-Wを通過するのであるから、商品世界の流通過程は、無限に異なった点でたえず終わりをつげながら、またたえずあらたに始まるこういう運動の無限にもつれあった連鎖のからみ合いとしてあらわされる。だがそれと同時に、個々の販売または購買はどれもみなひとつの無関係な孤立的な行為として存立し、それを補完する行為は、時間的にも空間的にもそれから分離されることができ、したがってその継続として直接にそれに結びつく必要はない。〉 (全集第13巻75頁)

  (チ) これに反して、支払手段の運動は、この運動以前にすでにできあがって現存している社会的な関連を表現しているのです。

  このように流通手段における商品変態の絡まり合いは、互いに一つ一つ無関係な孤立した行為であり、時間的にも空間的にも分離しており、それらが継続するように結びつく必要なかったのですが、支払手段の運動は、それとはまったく反対に、すでに流通当事者の関係が事前に出来上がって存在していることが前提されるのです。
  例えば、リンネル販売者のBがAの支払約束だけで商品を譲渡したのは、Aが一定期日後には確実にその価格を支払ってくれると思ったからですが、それはAとBとが頻繁な商品の売買を通じて、流通当事者としての互いの合意が出来上がっていたからにほかなりません。同じことはBとCとについても言いうるのです。つまりA-B-Cという支払の連鎖が生じるということは、AとB、BとCという流通当事者同士の合意があったからなのですが、それはA、B、Cというそれぞれの商品(生産物)の社会的分業が一定の意識的な統制にもとに置かれていたということなのです。ここまでの説明の『経済学批判』を見てましょう。

  〈この諸支払の連鎖、すなわち、諸商品のあとからの第一の変態の連鎖は、流通手段としての貨幣の流通であらわされる諸変態の連鎖とは質的に違っている。後者は時間的に連続して現われるだけでなく、時間的に連続するなかではじめて連鎖となるのである。商品が貨幣になり、それからまた商品になり、こうして他の商品が貨幣になれるようにしてやる等々、言いかえれば、売り手は買い手になり、これによって他の商品所有者が売り手となる。こういう関連は、商品交換の過程そのもののうちで偶然に成立する。ところが、AがBに支払った貨幣が、BからCに、CからDに等々とつづけて支払われ、しかもすぐつぎからつぎへとつづく期間に支払われるということ--この外面的関連においては、すでにできあがって現存している社会的関連が明るみに出るだけである。同じ貨幣がいろいろな人々の手を通っていくのは、それが支払手段として登場するからではなくて、いろいろな人々の手がすでにつながりあっているからこそ、それが支払手段として流通するのである。だから貨幣が支払手段として流通する速度は、貨幣が鋳貨としてまたは購買手段として流通する速度よりも、個人が流通過程にはるかに深くはいりこんでいることを示している。〉 (全集第13巻123頁)


◎第6パラグラフ(諸支払の集中による相殺)

【6】〈(イ)多くの売りが同時に並んで行われることは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限する。(ロ)反対に、このことは支払手段の節約の一つの新しい挺子(テコ)になる。(ハ)同じ場所に諸支払が集中されるにつれて、自然発生的に諸支払の決済のための固有な施設と方法とが発達してくる。(ニ)たとえば、中世のリヨンの振替〔virements〕がそれである。(ホ)AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただ対照されるだけで或る金額までは正量と負量として相殺されることができる。(ヘ)こうして、あとに残った債務差額だけが清算されればよいことになる。(ト)諸支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量も小さくなるのである。〉

  (イ) 貨幣の通流のところでみたことから明らかなように、多くの販売が同時並行的に行われることは、貨幣の流通速度が鋳貨量の代わりをすることを制限します。

  貨幣の通流のところでは次のように述べられていました。

  〈流通する貨幣の量は、たんに実現されるぺき商品価格の総額によって規定されるだけでなく、同時に貨幣の流通する速度、つまり貨幣があたえられた期間内にこの実現の仕事をなしとげる速度によっても規定される。……だから金の流通の速度は、金の量の代わりをすることができるのであり、言いかえれば、流通過程における金の定在は、たんに商品とならんでいる等価物としてのその定在によって規定されるだけではなく、商品変態の運動の内部での金の定在によっても規定される。けれども、貨幣流通の速度はある一定の程度までしかその量の代わりをしない。なぜならば、どのあたえられた時点でも、際限なく分裂した購買と販売とが、空間的に並行しておこなわれるからである。〉 (『経済学批判』全集第13巻85頁)
  
  つまりバラバラの地点で同時に行われる販売や購買であれば、一つの貨幣片でそれらをすべてカバーすることはできないのは当然です。だから流通過程のさまざまな地点で同時に行われる販売や購買には、流通の速度での代替はできず、その数だけの貨幣が必要になるわけです。

  (ロ)(ハ) これとは反対に、多くの支払が同時並行的に行われることは、支払手段の節約のための新たな挺子(テコ)になります。同じ場所にもろもろの支払が集中されるにつれて、自然発生的に支払の決済のための固有な諸施設と諸方法とが発達してきます。

  ところが支払手段としての貨幣の機能では、反対にまったく違ったことになります。つまり諸支払が同時に並行して集中して行われれば行われるほど、むしろ支払手段としての貨幣が不要になり、貨幣の節約になるからです。つまり相殺です。一つの債務に対する支払義務のある人が、その支払義務のある相手に対する債権を持っていれば(そしてその価格と期日が合致すれば)、ただそれらの債務や債権を表す約定書を交換するだけで貸し借り無しになります。つまり支払手段が不要になるのです。
  だから支払手段としての貨幣の機能が発達してくると、こうした諸支払を集中して行うための施設や制度・方法が自然発生的に生まれてくるのです。

  (ニ) たとえば、中世のリヨンでの振替〔virements〕がそうです。

  中世のリヨンについて、次のような説明があります。

  〈1420年から始まったリヨンの定期市は、15世紀後半のルイ11世治世の時代には、衰退したシャンパーニュの地位を継承したジュネーヴとの定期市のセンターとしての競争で優位に立ち、国際取引の一大中心地に発展し、16世紀初めにはヨーロッパ最大の金融の決済地となった。〉 (「17世紀のリヨンの手形決済所規則」(小梁吉章、『広島法学』37巻2号57頁)

    なおこの論文では17世紀の振替のための「決済所規則」が邦訳されています。なお「振替」というのはそもそもどういうものかの説明は、以前、『資本論』第3部第4編第19章該当部分の草稿を解読したときに説明したものがありますので、興味のある方は参考にしてください。そこではアムステルダムの振替銀行の例も紹介されています。また異なる銀行間での手形交換所での交換にもとづく振替についても、最近それを説明したものがありますので、参照してください。

  (ホ)(ヘ) AのBにたいする、BのCにたいする、CのAにたいする、等々の債権は、ただつきあわされるだけで、ある金額まではプラスとマイナスの量として相殺されます。そのあとに残るのは、債務差額の清算だけです。

  「相殺」というものを少し考えてみましょう。今Aが亜麻をBに一定期日後に支払う約束のもとに100万円で売ったとします。AはB対する100万円の債権者になり、BはAに対する100万円の債務者になります。だからAはB宛ての貨幣請求権(Bは何月何日には100万円をAに支払いますという約定を示す証書)を持っています。ところがBもCに対して、一定期日後の支払約束でリンネルを100万円で売ったとしますと、BもC宛ての100万円の貨幣請求権を持っていることになります。さらにCもやはりAに対して、一定期日後の支払約束で上着を100万円で売ったとしますと、今度はCはA宛の100万円の貨幣請求権をもっていることになるわけです。だからこれらはその約定された期日が来ると、BはAに100万円を支払い、CはBに100万円を支払い、AはCに100万円を支払わねばなりません。つまり、支払手段としては300万円の貨幣が必要になります。ところがそれらの債権者が一同に会して、それぞれの債権を付き合わせると(それぞれの貨幣請求権を付き合わせると)、結局、誰も支払う必要がないことになります。というのはBがAへの支払いをCに対する請求権で支払うとAもCに対する支払いをその同じCに対する請求権で支払えば、結局、Cは自分自身の支払い義務のある証書を取り返すことになるので、Cも支払う必要がなくなり、誰も支払いをせずにすべての支払いが決済された事になるからです。これを「相殺」というわけです。もっともこの場合は、すべて同じ100万円という債権・債務でしたが、例え金額がそれぞれ違ったとしても、結局、その差額分を支払うだけでよいことになります。だから支払手段としては差額分だけが流通することになるわけです。

  (ト) 支払の集中が大量になればなるほど、相対的に差額は小さくなり、したがって流通する支払手段の量も小さくなります。

  そしてこうした諸支払いを集中して決済するための施設(手形交換所)や規則等が決められて、大量の支払いが集中されればされるほど、相対的に差額が小さくなります。手形交換所に参加する業者(銀行業者など)はさまざまな債権(他行の支払い義務のある証書)を持つ一方で、他方では多くの債務(自行の支払い義務のある証書)を発行しています(つまり他行がそれらの証書を持参しています)。だからそれらを互いに付き合わせて交換し、その交換にもとづいて自行内の顧客の間での帳簿上での「振替」をして決済することになるのです。だから流通手段として実際に流通に出て行く量は極めて小さくなるわけです。

  さてこのパラグラフに該当する『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈同時的な、したがって空間的にならんでおこなわれる売買の価格総額は、流通速度が鋳貨量の代わりをするうえでの限界をなす。この制限は、支払手段として機能する貨幣にとってはなくなる。同時におこなわれるべき諸支払が一つの場所に集中されると、これははじめ自然発生的には、商品流通の大集合点にだけ起こることだが、諸支払は、AはBに支払わなければならないが、同時にCから支払を受けるはずである、等々というわけで、正負の大きさとして相殺される。だから支払手段として必要な貨幣の総額は、同時に実現されるべき諸支払の価格総額によって規定されるのではなく、諸支払の集中の大小と、それらが正負の大きさとして相殺されたあとに残る差額の大きさとによって規定される。この相殺のための独自の施設は、たとえば古代ローマでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。しかしそれについての考察は、一定の社会圏内ではどこでも決まっている一般的支払期日の考察と同じく、ここでの問題ではない。ただここで注意しておきたいのは、この支払期日が流通する貨幣量の周期的変動に及ぼす特有な影響がやっと最近になって科学的に研究されたということである。〉 (全集第13巻123-124頁)

  イギリスのロンドンの手形交換所について、MEGA(マルクス・エンゲルス全集)の注解は次のように説明しています。

 〈④ 〔注解〕「手形交換所〔Clearing-House〕」--ロンドンのロンバード・ストリートにある手形交換所は1775年に設立された。メンバーは,イングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会だった。なすべき仕事は,手形,小切手その他からなる相互の債権の差引決済であった。〉  (大谷著『マルクスの利子生み資本論』第2巻167頁)}

 (全体を3分割します。続きは(2)へ)

 

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『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(2)

2020-09-03 23:03:12 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(2)

 

◎第7パラグラフ(支払手段の媒介されない矛盾は貨幣恐慌として爆発する)

【7】〈(イ)支払手段としての貨幣の機能は、媒介されない矛盾を含んでいる。(ロ)諸支払が相殺されるかぎり、貨幣は、ただ観念的に計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。(ハ)現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただ瞬間的な媒介的な形態として現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の独立な定在、絶対的商品として現われるのである。(ニ)この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する(99)。(ホ)貨幣恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の決済の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことである。(ヘ)この機構の比較的一般的な撹乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から堅い貨幣に一変する。(ト)それは、卑俗な商品では代わることができないものになる。(チ)商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。(リ)たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。(ヌ)商品こそは貨幣だ、と。(ル)いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわたる。(ヲ)鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ(100)。(ワ)恐慌のときには、商品とその価値姿態すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められる。(カ)したがってまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。(ヨ)支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に変わりはないのである(101)。〉

  (イ) 支払手段としての貨幣の機能は、媒介されない矛盾、すなわち対立がけっして解消されない矛盾を含んでいます。

  ここには〈媒介されない矛盾〉という難解な言葉が出てきます。これは一体何でしょうか? それを理解するために、まず〈媒介されうる矛盾〉というものを考えることにしましょう。商品には使用価値と価値という相容れない対立した契機があります。これが商品を交換しようとする場合、この対立した契機が矛盾として現われてくるのです。リンネルと上着が例え等価だとしても、リンネルと上着がすぐに交換可能かというとそうではありません。価値としては交換可能ですが、使用価値としてはそうとは限らないからです。つまり価値と使用価値との矛盾です。なぜなら、リンネルの所有者が上着を必要としても、上着の所有者がリンネルを必要としない場合は、交換はできないからです。
 しかしこうした直接的な交換(物々交換)の矛盾は、貨幣が媒介することによって、その限りでは解消します。リンネル所有者がまず最初にそれを貨幣と交換しさえすれば、上着でも何でも必要なものと交換可能になるからです。つまり貨幣の媒介によって、直接的な商品交換が売りと買いとに分裂することによって、矛盾が解消されたのです。といっても、この売りと買いという新しい運動において、矛盾は新たな矛盾としてただその形態を変えるだけなのですが。しかし少なくとも商品の直接的な交換過程に立ちはだった矛盾は、貨幣がそれを媒介することによって解消されたのです。これが〈媒介されうる矛盾〉なのです。
  ところが支払手段としての貨幣にある矛盾は、このように媒介されて解消されうるようなものではない、直接的な矛盾だというのです。それはどういうものでしょうか。

  (ロ)(ハ) 諸支払が相殺されるかぎり、貨幣は、ただ観念的に計算貨幣として、すなわち価値尺度として機能するだけです。現実の支払がなされなければならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、すなわち物質代謝のただつかのまの、仲立ちをする形態として、現われるのではなくて、社会的な労働の個別的化身、交換価値の自立的存在、絶対的商品として現われます。

  その直接的な矛盾というのは、支払手段としての貨幣の機能にもとづいて相殺が働いている限りでは、貨幣はただそれぞれの約定された商品の価格を決めるだけの、単に観念的な計算貨幣として、あるいは価値尺度として機能するだけよいのですが、しかし一旦、相殺ができないとなると、今度は貨幣は支払手段として、すなわち金の現物として存在しなければならないという矛盾なのです。支払手段としての貨幣は、流通手段のように、社会的な物質代謝の仲立ちをする一時的な形態ではなく、現物の貨幣(げんなま)として存在しなければなりません。つまり相殺されている限りは、観念的な存在でよかったものが、突然、それができないとなると生身の姿で、固い硬貨として現われなければならないという矛盾なのです。これが〈媒介されない矛盾〉、直接的な矛盾だというわけです。

  (ニ) この矛盾は、生産・商業恐慌中の、貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発します。

 ここでは〈生産・商業恐慌中の貨幣恐慌〉と書かれています。というのは貨幣恐慌そのものは、そうした生産・商業恐慌とは独立に生じる場合もあるからです。これは原注99でその理由が述べられていますので、それについては原注のところで見ることにしましょう。  いずれにせよ、支払手段の矛盾は、世界市場恐慌あるいは全般的過剰生産恐慌とも言われる生産・商業恐慌の一契機をなす貨幣恐慌として爆発するのです。『経済学批判』では〈これが貨幣恐慌と呼ばれる世界市場恐慌の特殊な契機である〉(全集第13巻124頁)と書かれています。
  矛盾が爆発するというのは、それまでの観念的な信用システムが現実的な貨幣システムに強制的に移行するということです。これは現行版『資本論』の第3部第35章で論じられています。ここでは大谷氏が翻訳された草稿から紹介しておきます。

  〈私がすでに以前に「支払手段」のところで述べたように,信用システム〔信用主義〕から貨幣システム〔重金主義〕への転回は必然的である。金属の土台を維持するために実物の富の最大の犠牲が必要だということは,ロイドによってと同様に,トゥクによっても承認されている。……だが,金銀はなにによって富の他の諸姿態から区別されるのか? その価値の大きさによってではない。というのも,これは金銀に物質化されている労働の分量によって規定されているのだからである。そうではなくて,富の社会的な性格の自立した化身,表現として区別される。この社会的な定在は,社会的な富の現実の諸要素と並んで,その外部に,彼岸〔Jenseits〕として,物として,物象として,商品として,現われるのである。生産が円滑に進んでいるあいだは,このことは忘れられている。いまや,富の社会的な形態としての信用が,貨幣の地位を押しのけて奪ってしまう。生産の社会的な性格にたいする信頼こそが,生産物の貨幣形態を,ただ瞬過的でしかないもの(たんなる心像),ただ観念的でしかないものとして現われさせるのである。ところが,信用が揺らげば--そしてそういう局面は現代産業の循環のうちにつねに必然的に出現する--,今度は,いっさいの実物の富が現実に貨幣に,金銀に転化されなければならなくなる。だが,この気違いじみた要求はシステムそのものから必然的に生え出てくるのであり,しかも,この巨額の要求と比べられる金銀のすべては,〔イングランド〕銀行の地下室にある数百万〔ポンド・スターリング〕でしかない。つまり,地金流出の諸結果のうちには,生産が現実には社会的な過程として社会的な統制に服していないという事情が,富の社会的な形態が富の外にある一つの物として存在するという事情が,きわめてどぎつく現われてくるのである。これはじっさい,ブルジョア的システムがそれ以前の諸システムと,これらのシステムが商品取引と私的交換とにもとついているかぎりでは,共通にもっていることである。しかしそれは,ブルジョア的システムのなかで最も明確に,そしてばかげた矛盾と背理との最もグロテスクな形態で現われる。〉 (大谷貞之介著『マルクスの利子生み資本論』第4巻281-283頁、全集第25巻b739、S.587-588)

  (ホ) 貨幣恐慌が起こるのは、ただ、諸支払のつぎつぎと進んでゆく連鎖と諸支払の決済の人工的なシテスムとが完全に発達している場合だけのことです。

  AはBから商品を信用で買って、一定期日後に支払う約定書(手形)渡します。BはCからやはり商品を信用で買って、その支払にAが振り出した手形に裏書きして支払います。CもまたDから信用で商品を買って、やはりBから受け取った手形に裏書きして支払います。こうしてAの発行した手形はその期日が来るまでに多くの人の手を経て流通します。しかしもしAがその約定を果たせず、支払ができないとなると、その間のすべての取り引きが駄目になります。それに裏書きした人たち全員がその支払の責任を負わねばならないのです。
  そしてこれは資本の流通を前提するともっと現実的なものになります。具体的なイメージを得るために、『剰余価値学説史』から長くなりますが、紹介しておきましょう。

  〈たとえば,織物業者が不変資本(生産手段(機械や原料等)--引用者)全体にたいして支払をしなければならず、この不変資本の諸要素は、紡績業者,亜麻栽培業者,機械製造業者,製鉄業者,製材業者,石炭生産者などから供給されたものであるとしよう。これらの者の生産する不変資本が,不変資本の生産にはいって行くだけで最終の商品すなわち織物には,はいって行かないものであるかぎりでは,彼らは資本の交換によって自分たちの生産条件を補填し合うのである。ところで,織物業者はその織物を1000ポンドで商人に売るが,しかし代金は手形で受け取り,したがって貨幣は支払手段として機能するとしよう。織物業者は彼としては手形を銀行業者に売り,それによって銀行で自分の債務を清算するか,あるいはまた銀行業者が彼のために手形を割引く。亜麻栽培業者は紡績業者に手形と引き換えに売り,紡績業者は織物業者に,同じく機械製造業者は織物業者に,同じく製鉄業者と製材業者は機械製造業者に,同じく石炭生産者は紡績業者,織物業者,機械製造業者,製鉄業者,製材業者に売ったとしよう。そのほかに製鉄業者,石炭業者,製材業者,亜麻栽培業者も相互に手形で支払をしたとしよう。いま商人が支払をしないとすれば,織物業者は自分の手形を落とすために銀行業者に払い込むことはできない。
  亜麻栽培業者は紡績業者から手形を受け取っており,機械製造業者は織物業者と紡績業者から手形を受け取っている。織物業者が支払うことができないのだから,紡績業者も支払うことができない。両者とも機械製造業者に支払うことができないし,この機械製造業者は製鉄業者,製材業者,石炭業者に支払うことができない。そしてまた,これらすべてのものは,彼らの商品の価値を実現することができない。こうして一般的恐慌が起こる。これはまったく,支払手段としての貨幣のところで説明した恐慌の可能性以外のなにものでもないのであるが,しかし,ここでは,つまり資本主義的生産においては,われわれは,
すでに,可能性が現実性に発展しうるところの,相互的な債権と債務との関連,販売と購買との関連を見いだすのである。〉 (上掲レキシコン185-187頁、『学説史』全集第26巻Ⅱ690-691頁)

  つまり織物業者が商人に商品(綿布)を販売して受け取った手形が不渡りになったために、織物業者と取り引きのあるすべての製造業者などとの信用の連鎖が断ち切られ、一般的恐慌が生じるというのです。
  〈諸支払の決済の人工的な組織〉については、マルクスは『資本論』第3部に利用するために、イギリスの議会証言の報告書からさまざまな抜き書きしていますが、そのなかでオーヴァーレンド・ガーニー商会の共同経営者であるチャプマンの証言を小林賢齋氏が紹介しているので、参考のために重引しておきましょう。

 〈チャップマンによると,「わが金融制度(our monetary system)」は,「一瞬に王国の鋳貨(the coin of the realm)で支払われることを要求されるかもしれない負債300,000,000ポンドをもっており,そして王国の鋳貨は,もしもその全部が[負債に]取って代えられる(substituted)としても,23,000,000ポンド,あるいはたとえ幾らであれ,それぐらいである」というような制度である。だからそれは,「ある瞬間には,われわれを激震(covulsion)に投げ込むかもしれない状態」にあり,「誰もが皆それを高度に人為的(highly artificial)であると告白するに相違ない」(第5173号A)ような制度なのである。〉 (小林賢齋著『マルクス「信用論」の解明』216頁)

  負債総額が3億ポンドもあるのに、それに支払うことかできる金鋳貨はすべてを数えてもたった2千3百万ポンドしかないというのです。だからそれほど微妙で危うい基礎のもとに高度に人為的に築かれた信用の楼閣が建っているということを述べているわけです。

  (ヘ) このメカニズムのかなり一般的な撹乱が起これば、それがどこから生じるであろうと、貨幣は、突然、また媒介されることなく、計算貨幣というただ観念的にすぎない姿から堅い貨幣に急転回します。

  上記の『学説史』の例では商人が支払ができないというところから発しましたが、しかしそれは債権・債務の連鎖のどこから生じるかには関わらず、すべての複雑に入り組んだ債権・債務の関係は攪乱し、ただ硬い硬貨だけが、つまり支払手段だけが、ものをいう世界に突如として移行するというのです。

  『経済学批判』から紹介しましょう。

  〈だから諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払の流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を撹乱する激動が生じると、貨幣は突然に価値の尺度としてのその気体状の幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。〉 (全集第13巻124頁)

  フランス語版からも

  〈この機構がなんらかの原因で調子の狂うようなことがあると、貨幣はたちどころに、突然の急変によって、しかも一足跳びに、もはや、計算貨幣という純粋に観念的な形態では機能しなくなる。貨幣は現金として要求され、もはや世俗の商品によって置き換えることができなくなる。〉 (江夏・上杉訳119頁)

  (ト)(チ) それは、卑俗な商品では代わることができないものになります。商品の使用価値はなくなってしまい、商品の価値はそれ自身の価値形態の前にして消え失せます。

  だからこうした逼迫期には、いくら商品を持っていてもなんにもなりません。商品はむしろ市場に溢れていて売れないからこそ、諸支払いができないという状況が生じているのだからです。だから商品の使用価値はあってなきがごとくものになります。貨幣だけが唯一の社会的な富となり、すべての商品はその前にひれ伏し、その身を捧げることを強制されるのです。だから商品は叩き売られて二束三文でもとにかく貨幣に換えて支払手段にすることを強制されるのです。商品の価値はそれ自身の価値形態、すなわち貨幣のまえに消えてしまったのです。

  『経済学批判・原初稿』から紹介しておきます。

  〈こうした恐慌の瞬間には、貨幣だけが排他的な富として現象する、そしてこれが排他的富であることが、すベての現実的富を、たとえば重金主義の場合とはちがって、ただ表象の上でだけ減価させるにとどまらず、それを実際にも減価させることによって、明示されるのである。諸商品の世界に対立して、価値はもはや貨幣という適合的で排他的な形態においてしか存在しなくなる。〉 (草稿集③38-39頁)

  『経済学批判』から

  〈こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる至上の善〔summum bonum〕は貨幣であり、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるというまさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現われる。〉 (全集第13巻124頁)

  (リ)(ヌ) たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していました。商品こそは貨幣だ、と。

  こうした恐慌の直前というのは、すでに過剰生産の状態に陥っているのですが、それがいまだ顕在化しないために、表面上は極めて安定した信用も万全のようにみえ、資本はますます繁栄に酔いしれて、蓄積に次ぐ蓄積、拡大に次ぐ拡大を競います。一般的利潤率の傾向的低下を利潤の絶対量の増大で打ち消そうと規模の拡大を急ぐのです。だから、恐慌の直前は、狂ったようなバブルの景気に沸き返るのです。だからブルジョア達は、貨幣などはまったく不要だ、すべてを信用でまかない、商品を買い求めるのです。商品こそが貨幣だ、というわけです。

  (ル)(ヲ) いまや世界市場に、ただ貨幣だけが商品だ! という声が響きわります。鹿が清水を求めて鳴くように、ブルジョアの魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫びます。

  しかし今や、世界市場に、貨幣だけが商品だ、という声が響きわたります。とにかく何がなんでも支払手段としての貨幣が必要になります。しかしまさにそうしたときにこそ、すべての人が貨幣を退蔵してしまい込んでしまうのです。だから貨幣を求めてブルジョア達は悲鳴を上げて、避けることのできない"倒産"の二文字におののくのです。抽象的一般的な社会的富の前に、現実的な富の破壊が待っています。

  (ワ)(カ)(ヨ) このように、恐慌のときには、商品とその価値の姿すなわち貨幣との対立は、絶対的な矛盾にまで高められます。ですから、ここではまた、貨幣が現われる形態がどうでもいいのです。支払に用いられるのが、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉であることには変わりはないのです。

  こうした恐慌として現われる矛盾は、まさに商品が価値と使用価値という対立物の直接的統一であることに根本的な原因があります。それが絶対的な矛盾まで高められたものが、すなわち恐慌なのです。だからとにかく支払手段としての貨幣が求められ、それが金鋳貨であろうと、銀行券であろうと、とにかく「現金」として通用しているものなら何でも良いのです。
  イギリスの1847年の恐慌や1857年の恐慌では、銀行条例(1844年)のもとで発行を制限されていたイングランド銀行券を求めるブルジョア達のあまりの狂乱状態に対して、当時のイギリス政府は銀行条例の一時停止を行い、銀行券の発行制限を解除したのです。1847年恐慌時には大蔵大臣の条例停止の書簡が出されたというだけで信用は回復しましたが、1857年には一時的ではあれ実際に銀行券の発行は制限を越えて異常に高まったのでした。

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 さて、これまでにも必要に応じて紹介してきましたが、このパラグラフも大阪市内で昔やっていた「『資本論』学ぶ会」のニュースで取り上げたことがありますので、それを最後に紹介しておきましょう。

 【前回は貨幣の支払手段の機能から生じる恐慌の可能性について論じているパラグラフから始めました。まず少し長くなりますが、そのパラグラフ全体を紹介しておきましょう。

 …… (パラグラフの紹介は略)……

  恐慌の可能性を論じるところでは、マルクスの叙述は弁証法的になって難しくなるように思えます。例えばすでに学んだ第三章第二節「a 商品の変態」の終わりの部分に出てくる販売と購買の分離による恐慌の可能性を論じているところでも、新しく参加した人が「マルクスは衒学的だ」などとぼやいていたことを思い出します。その部分も復習のために紹介しておきましょう。

 〈商品に内在的な対立、すなわち使用価値と価値との対立、私的労働が同時に直接に社会的労働として現れなければならないという対立、特殊な具体的労働が同時にただ抽象的一般的労働としてのみ通用するという対立、物の人格化と人格の物化との対立- -この内在的矛盾は、商品変態上の諸対立においてそれの発展した運動諸形態を受け取る。だから、これらの形態は、恐慌の可能性を、といってもただ可能性のみを、含んでいる〉。

 このように恐慌は資本主義的生産に内在する矛盾の爆発として生じます。もちろん、ここで論じているのは商品流通に内在する矛盾であり、だからそれはまだ恐慌の抽象的な可能性に過ぎないのですが、しかしマルクスはいずれも矛盾の発現として論じていることが分かります。マルクスは後者を恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」とし、前者を「第二の形態」ともしています。

 興味深いのは恐慌の抽象的可能性の「第一の形態」は「媒介されなければならない矛盾」から生まれ、「第二の形態」は「媒介されない矛盾」の発現であるということです。

 まず「第一の形態」の矛盾について分かりやすく説明している『マルクス経済学レキシコン』の栞(№6)の一文を紹介しましょう。

 〈商品は、使用価値と価値という対立物の直接的統一だから、それ自体一つの矛盾だ。だがこの矛盾は、商品の現実の交換過程のなかで、はじめて、媒介されなければならない現実的な矛盾として現れてくる。商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現との矛盾、等々としてね。この矛盾を媒介するものが貨幣だが、どのようにしてこの矛盾を媒介するのかというと、商品の交換過程のなかにある、商品の譲り渡しと譲り受けという二つの契機を、W-GとG-Wの二つの変態に分離することによってだね。これで矛盾がなくなるかといえば、もちろんそうではない。相合して一体をなす二契機が、外的に対立した二つの過程に独立化し、この両過程を通して、使用価値と価値との統一としての商品の矛盾が展開されることになる。交換過程の矛盾は一般化され、普遍化されざるをえない。この独立化は、それが進んでいって、ついには内在的な統一が強力的につらぬかざるをえない点にたちいたる可能性を含んでいる。これは可能性に過ぎないのだが、ともかくも、ここには恐慌の抽象的な可能性があるわけだ〉 (9頁)

 ところが支払手段の機能からくる恐慌の抽象的な可能性の場合は、「媒介されない矛盾」の発現なのです。学習会でも、最初に「一つの媒介されない矛盾」とは何か、という質問が出されました。これについては続けてマルクス自身が説明しているように、支払手段としての貨幣の機能が、諸支払いが相殺される限りは観念的なものとして機能するが、しかし現実の支払いが行われなければならないとなれば、交換価値の自立した定在として、つまり現実の「貨幣としての貨幣」、「本来の貨幣」でなければならないという矛盾だと説明されました。しかし①これは果たして矛盾と言えるのかどうか、②「媒介されない」とはどういうことか、という疑問が出されました。

 まず①について、一般に、矛盾とは、例えば「AはAであるとともに非Aでもある」といった関係のことです。つまり互いに排斥の関係にありながら、同時に共存していなければならないような関係です。だから支払手段として機能する貨幣は、一方では観念的でもよいが、しかし他方では現実的な貨幣でもなければならないというのですから、明らかにそれは矛盾です。では②それが「媒介されない」とはどういうことでしょうか。まず単純な誤解としてこの「媒介されない」というのは、そのすぐ後に出てくる「素材変換のただ一時的な媒介的な形態」ということに対応させて、素材変換を「媒介しない」ということではないか、という意見も出されましたが、しかしこれはそうした意味ではなく、新日本新書版で「媒介されない」というところに[直接的]と書き換えがあるように、そのあとに出てくる「貨幣は、突然かつ媒介なしに、計算貨幣というただ観念的なだけの姿態から硬い貨幣に急変する」とあるような意味での、つまり「直接的な移行を強制されるような」という意味だろうということになりました。

 つまり交換過程に内在する矛盾の場合は、貨幣に媒介されてより発展した運動諸形態を獲得するような矛盾だったのですが、しかし支払手段の機能に内在する矛盾は、そうしたものではなく、直接的に移行しあうような矛盾だといえます。

 次にこのパラグラフで理解困難として質問が出たのは「商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態をまえにして姿を消す」という部分です。これは一体どう理解すれば良いのでしょうか?

 しかしこの部分については、この部分をだけを取り出してどうこういうよりも、『経済学批判』の当該箇所を紹介しておくだけで十分と思います(下線部分を参照)。

 〈だから諸支払いの連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払いの流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を攪乱する激動が生じると、貨幣は突然に、価値の尺度としてのそのかすみのような幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから、商品所持者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的に商品であるとかいう迷信を見下して嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の十全な形態として、貨幣蓄蔵者が考えているのとまったく同様な唯一の富として再現する。……これが、貨幣恐慌と呼ばれる、世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる「至上の善」は貨幣、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるという、まさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現れる。〉 (「学ぶ会」ニュース№46(2000.10.9)から) 】


◎原注99

【原注99】〈(99) (イ)本文ですべての一般的な生産・商業恐慌の特別な段階として規定されている貨幣恐慌は、やはり貨幣恐慌と呼ばれてはいても独立に現われることのある、したがって産業や商業にはただはね返り的に作用するだけの特殊な種類の恐慌とは、十分に区別されなければならない。(ロ)このあとのほうの恐慌は、貨幣資本がその運動の中心となり、したがって銀行や取引所や金融界がその直接の部面となるものである。(ハ)(第3版 へのマルクスの注。)〉

  (イ) 本文ですべての一般的な生産・商業恐慌の特別な段階として規定されている貨幣恐慌は、やはり貨幣恐慌と呼ばれてはいても、自立的に現われることのある、したがって産業や商業にはただはね返り的に作用するだけの独自な種類の恐慌とは、十分に区別されなければなりません。

  これは〈この矛盾は、生産・商業恐慌中の貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に爆発する〉という本文に付けられた原注です。だからここで言われている一般的な生産・商業恐慌の特別な段階として現われる貨幣恐慌と、それとは独立して現われる貨幣恐慌とがあることに注意を促すために、この注が付けられているのだと思います。マルクスがこの両者を区別して論じているところは他でも見られます。その一例を紹介しておきましょう。

  〈労働の社会的性格が商品の貨幣定在として現われ,したがってまた現実の生産の外にある一つの物として現われるかぎり,貨幣恐慌は,現実の恐慌にはかかわりなく,またはそれの激化として,不可避である。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻540-541頁)

  このように、ここでもマルクスは貨幣恐慌を一つは〈現実の恐慌にはかかわりなく〉生じるものと、〈またはそれの激化として〉、つまり現実の恐慌の激化したものとして不可避だと述べて、両者を区別して論じています。

  (ロ) このあとのほうの恐慌は、貨幣資本がその運動の中心となり、したがってまた、銀行や取引所や金融界がそれの直接の部面となるものです。

 一般的な生産・商業恐慌とは独立に現われる貨幣恐慌というのは、貨幣資本がその運動の中心になって、取引所や金融界がその部面となって現われる恐慌です。例えば1847年10月の一般的な恐慌以前に生じたいわゆる「4月危機」というのは、ロンドンにある金融業者にはそれほど危機感は無かったものの、地方の金融業者にとっては貨幣逼迫として現象して、貨幣恐慌の状態だったと言われています。これはそれこそ"猫も杓子も"鉄道株の投機に走るなかで、そのために貨幣が地方の金融業者から引き下ろされ、それがロンドンに一時的に集中したからですが、地方の金融業者たちには激しい貨幣逼迫として現象したわけです。
  それに対して10月の貨幣恐慌は、まさに一般的な生産・商業恐慌の一契機としての貨幣恐慌だったわけです。

  (ハ) (第3版へのマルクスの注。)

  マルクス自身が出した『資本論』は第2版とフランス語版までで、第3版はエンゲルスの手で出されました。しかしマルクス自身も第3版を出すために、自用本に手を入れて準備をしていたということですから、恐らくエンゲルスはそれにもとづいてこの原注を入れたのだと思います。しかし、付属資料を参照して頂ければ分かりますが、若干の違いはあれ、初版でもこの注はあり、第2版にもほぼ初版と同じものがあります。マルクスは第3版用として第2版に手を入れたわけですから、それが一番よいとエンゲルスは判断したのだと思いますが、しかしフランス語版もマルクス自身が手を入れたものだといえばいえるわけです(フランス語版の原注は付属資料を参照)。


◎原注100

【原注100】〈(100)「(イ)このような、信用主義から重金主義への突然の変化は、実際のパニックのうえに理論的な恐慌をつけ加える。(ロ)そして、流通当事者たちは彼ら自身の諸関係の測りしれない秘密の前に身ぶるいする。」(カール・マルクス『経済学批判』、126ぺージ。〔本全集、第13巻、123(原)ページを見よ。〕)「(ハ)貧乏人がなにもしないのは、金持ちが彼らを雇う貨幣をもっていないからである。(ニ)といっても、金持ちは、食物や衣服を供給するための土地や人手は以前と同じにもってはいるのだが。(ホ)これらのものこそ一国の真の富なのであって、貨幣がそうなのではない。」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立提案』、ロンドン、1696年、3、4ページ。)〉

  (イ)(ロ) 「このような、信用主義〔信用システム〕から重金主義〔貨幣システム〕への突然の急変は、実際のパニックのうえに理論的な恐慌をつけ加える。そして、流通当事者たちは自分たち自身の諸関係の見抜くことのできない秘密の前に身ぶるいする。」

  この原注は〈鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ〉という本文の直後につけられていますが、その内容からはもっと前からの一連の文章につけられた原注と考えることができます。
  これは『経済学批判』からの抜粋ですが、その前の部分も含めて付属資料として紹介しています。その直前の一文を紹介しておきましょう。

  〈こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる至上の善〔summum bonum〕は貨幣であり、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるというまさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現われる。〉 (全集第13巻124頁)

  マルクスは〈実際のパニックのうえに理論的な恐慌をつけ加える。そして、流通当事者たちは彼ら自身の諸関係の測りしれない秘密の前に身ぶるいする〉と書いています。こううした恐慌は、彼らの社会的な関係が、彼ら自身の社会的な実践の結果でありながら、彼らの意識的な統制のもとにないがために、一つの物(貨幣)として現われているという、ブルジョア社会の"秘密"のなかにこそあるのですが、それを彼らは実際に体感し、それを克服すると称してさまざまな施策を行ないますが、結局、この社会的な関係は一つの自然法則として彼らに襲いかかり、自分たちの無力さを痛感させることになるわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 「貧乏人が立ちつくしているのは、金持ちが彼らを雇う貨幣をもっていないからである。といっても、金持ちは、食物や衣服を供給するための土地や人手は以前と同じにもってはいるのだが。これらの土地や人手こそが一国の真の富なのであって、貨幣がそうなのではない。」

  この一文はジョン・ベラーズの著書からの抜粋ですが、これも実際の富としてのさまざまな使用価値は溢れているのに、それが貧乏人には行き渡らないのは、結局、貨幣がそれを媒介しているからだと告発し、しかし貨幣は真の富とはいえないと喝破しています。ジョン・ベラーズの人となりについては『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  〈ベラーズ John Bellers (c.1654-1725)イギリスのクウェイカー派(フレンド派)の博愛主義者・織物商人.その一生を,貧民のための授産所の経営,教育制度の改善,慈善病院の役立などの社会事業や.監獄の改革,死刑の廃止にささげた.主著としては,づぎのものがあげられる.《Proposals for Raising a College of lndustry of a11 useful Trades and Husbandry,with Profit for the Rich,a Plentiful Living for the Poor,and a Good Education for Youth》(1695);《Essays about the Poor,Manufactures,Trade,Plantations.and Immorality,and of the Excellency and Divinity of lnward Light》(1699).前者の著作は,多数の業種にたずさわる労働者およびその家族を産業専門学校と称する施設に収容して,彼らに適当な教育と生活環境をあたえることを主張したものである.その経営は,富裕なひとびとの基金によっておこなわれるが.その企業の利益は,これをもっぱら労働者たちの生活向上のためにあてられるべきだと訴えている. マルクスは,彼を‘経済学史上の非凡なる人物'と呼んで,この容の内容のいくつかをきわめて高く評価している.たとえばベラーズは,貨幣は商品にたいする社会的な担保物(pledge)をあらわすにすぎない(Kl-136.青木1-261;岩波1-247),したがって貨幣は富それ自体とはいえない,むしろ其の富は土地や労働であると述べ(KI-l44:青木1-282;岩波1-273),貨幣の蓄蔵形態は‘死んだ資本'というべく.外国貿易に使用されるばあいのほかは,国になんらの利益をももたらさない(KI-152・青木1-282:岩波1-273)と記している.またベラーズは,協業は個別的生産力をますばかりでなく,集団力としてのひとつの生産力の創造であるとして,協業の利益を示唆したり(K1-341;青木3-548:岩波3-31),機械と労働者との闘争に言及して労働者の規制を主張したり(KI-505;青木3-765;岩波3-291),社会の両極に持てるものの富裕化と持たざるものの貧困化をつくりだす資本主義社会の教育と分業との組織を廃除せよと訴えたり(KI-514 ;青木3-777 ;岩波3-305),労働者の労働こそ富めるひとびとの富裕化の源泉だととなえたりしている(KI-645;青木4-955;岩波4-95)・17世紀の末に,すでに,マニュファクチァ時代の資本主義的生産の諸矛盾について,これだけの洞察をなしている点で,イーデン もまた.ベラーズをその著作でしばしば引用している.(石垣博美)〉(549-550頁)


◎原注101

【原注101】〈(101) (イ)このような瞬間が「商業の友」〔“amis du commerce”〕によって、どのように利用されるか。(ロ)「あるおりに」(1839年)「ある握り屋の老銀行家(ロンドン・シティの)が、その私室で、自分が向かっていた机のふたをあけて、一人の友人に幾束かの銀行券を示しながら、非常にうれしそうに言った。(ハ)ここに60万ポンドあるが、これは金詰まりにするためにしまっておいたもので、今日の3時以後にはみな出してしまうのだ、と。」(〔H・ロイ著〕『取引所の理論。1844年の銀行特許法』、ロンドン、1864年、81ぺージ。(ニ)半ば政府機関紙である『ジ・オブザーヴァー』紙の1864年4月24日号は、次のように述べている。(ホ)「銀行券の欠乏を生じさせるためにとられた手段について、ひどく奇妙なうわさがいくつか流れている。…… (ヘ)なにかこの種のトリックが用いられるなどと想像することはどうかと思われるとはいえ、うわさは相当に広まっており、たしかに言及に値するものである。」〉

  (イ) このような瞬間が「商業の友」〔“amis du commerce”〕によって、どのように利用されるかは、次のことからわかります。

  これは〈したがってまた、そこでは貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない。支払に用いられるのがなんであろうと、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉に変わりはないのである〉という一文につけられた原注です。
  〈このような瞬間〉というのはいうまでもなく、貨幣恐慌が勃発して、すべての商業人が貨幣を求めて泣き叫んでいる瞬間ということです。〈「商業の友〉というのはマルクス一流の皮肉であり、金融業者たちは日頃は商業人たちの友人づらをしているが、まさに彼らが危機に陥って困っている時に、それに助けの手をさしのべるのではなく、反対にそれを利用して大儲けを企んでいるのだというわけです。

  (ロ)(ハ) 「あるおりに」(1839年)「ある握り屋の老銀行家(ロンドン・シティの)が、その私室で、すわっていた机のふたをあけ、幾束かの銀行券を示しながら、非常にうれしそうに友人に言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが、これは金詰まりにするためにしまっておいたもので、今日の3時以後にはみな出してしまうのだ、と。」

  これはH・ロイ著『取引所の理論。1844年の銀行特許法』からの抜粋ですが、〈握り屋〉というのは「金銭をためこむばかりで出し惜しむ人」という意味だそうです。彼は60万ポンド・スターリングも持っていながら、その融通を求める商人たちには貸さずに、金詰まりになって利子率がもっと引き上った時に、貸し出そうと、引出しのなかにしまい込んできたわけです。だから〈今日の3時以後にはみな出してしまう〉というのは、もう十分に利子率が高くなって大儲けできると見込んだから、それを貸し出すというわけです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) 半ば政府機関紙である『ジ・オブザーヴァー』紙の1864年4月24日号は、次のように述べています。「銀行券の欠乏を生じさせるためにとられた手段について、ひどく奇妙なうわさがいくつか流れている。…… なにかこの種のトリックが用いられるなどと想像することはどうかと思われるとはいえ、うわさは相当に広まっており、たしかに言及に値するものである。」

  これは銀行券の欠乏が何らかの人為的な行為によってあおられているという噂がながれていることを報じている記事です。つまりこの噂は、実はその前にロイの紹介している一つの事例からも事実であることが明らかになっているわけです。しかもそれが噂として流れているということはそうした例は一つや二つではおさまらないということでしょうか。


◎第8パラグラフ(流通手段と支払手段とを合わせた貨幣の流通量)

【8】〈(イ)次に、与えられた一期間に流通する貨幣の総額を見れば、それは、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから相殺される諸支払を引き、最後に、同じ貨幣片が流通手段の機能と支払手段の機能とを交互に果たす回数だけの流通額を引いたものに等しい。(ロ)たとえば、農民が彼の穀物を2ポンド・スターリングで売るとすれば、その2ポンド・スターリングは流通手段として役だっている。(ハ)彼はこの2ポンドで、以前に織職が彼に供給したリンネルの代価をその支払期日に支払う。(ニ)同じ2ポンドが今度は支払手段として機能する。(ホ)そこで、織職は一冊の聖書を現金で買う--2ポンドは再び流通手段として機能する--等々。(ヘ)それだから、価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とが与えられていても、ある期間たとえば一日に流通する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致しないのである。(ト)もうとっくに流通から引きあげられてしまった商品を代表する貨幣が流通する。(チ)その貨幣等価物が将来はじめて姿を現わすような諸商品が流通する。(リ)また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである。〉

  (イ) 次に、所与の期間に流通する貨幣の総額を見ましょう。流通手段と支払手段との流通速度が与えられていれば、それは、イコール、実現されるべき商品価格の総額、プラス、満期になった諸支払の総額、マイナス、相殺される諸支払、マイナス、流通手段および支払手段の両方の機能で通流する貨幣片の総額、です。

    さて、以前、流通手段のところで流通する貨幣の量を問題にしましたが、流通手段と支払手段の二つが合わさった場合の貨幣の流通量について、今度は考えてみましょう。最初に思い出すために、以前の流通手段の量は次のように決まりました。

    それでは支払手段も含めて流通する貨幣の総量はどのように決まるのでしょうか。流通手段と支払手段との流通する速度(一定期間に一つの貨幣片が流通手段としてあるいは支払手段として流通する平均回数)が与えられていれば、それは(実現されるべき商品価格の総額+(満期になった諸支払の総額-相殺される諸支払額)-流通手段と支払手段の両方で機能する貨幣片の総額、となります。これを図示すると次のようになります。

    これは大谷氏の「貨幣の機能」(『経済志林』第61巻第4号227頁)に掲載されているものをそのまま紹介したものです。ついでの大谷氏の説明も紹介しておきましょう。

  〈ある国内流通で、一定期間に流通する貨幣の量は、流通手段として流通する貨幣の量と支払手段として流通する貨幣の量との合計であるが、多くの貨幣片は、じつは流通手段として商品の価格を実現したあとで、今度は債務の決済のために支払手段として流通する、という具合に、この両方の機能で流通するのだから、その部分が二重計算にならないように、上の両者の合計から差し引かなければならない。そこで、流通手段および支払手段として流通する貨幣の総額は、最終的に、上記の式によって規定されることになる。〉 (『経済志林』61巻4号227頁)

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) たとえば、農民が、穀物を2ポンド・スターリングで売ります。この2ポンド・スターリングは流通手段として役だっているわけです。彼はこの2ポンド・スターリングで、以前に織り職が彼に売ったリンネルの代価をその支払期日に支払います。同じ2ポンド・スターリングが今度は支払手段として機能します。そこで織り職は、一冊の聖書を現金で買います。ここで2ポンド・スターリングはふたたび流通手段として機能します、等々。

    少し具体的に考えてみましょう。1人の農民が自分が生産した穀物を2ポンド・スターリングで販売したとします。この場合、この2ポンド・スターリングは流通手段として役だちます。しかし農民は受け取った2ポンド・スターリングを、以前、信用で買ったリンネルの代金としてその支払期限が来たので支払うとします。そうするとこの同じ2ポンド・スターリングは、今度は支払手段として機能したのです。次に、この2ポンド・スターリングを受け取った織職は、それで一冊の聖書を買ったとします。すると今度は、再び2ポンド・スターリングは流通手段として機能するのです。
    このように同じ貨幣片でもあるときは流通手段として機能し、別の時には支払手段として機能するというように、一定期日の間には両方の機能で何度か働くことができるわけです。だからこの両方の機能を果たす貨幣片の量を流通手段として機能する貨幣量と支払手段として機能する貨幣量を合わせたものから引く必要があるわけです。

  (ヘ)(ト)(チ) ですから、諸価格と貨幣通流の速度と諸支払の節約の額とが与えられていても、ある期間、たとえば一日に通流する貨幣量と、流通する商品量とは、もはや一致することはありません。ここでは、もうとっくに流通から引き上げられしまった商品を代表する貨幣が通流します。また、その貨幣等価物がやっと将来になって現われるような諸商品が流通します。

    そもそも支払手段として流通する貨幣というのは、それがその価格を実現する商品が、すでに何カ月か前に流通して姿を消してしまったあとの話です。その姿を消した商品の価格が、いままさに支払手段によって実現されるわけです。だからこれを見れば、例えば一日に流通する貨幣の総量と、流通する商品の価格の総量がもはや一致することはないことは明らかです。単にすでに流通から引き上げられた商品の価格を実現するための貨幣が流通するだけではなく、その価格が将来に実現されるであろう諸商品がいま流通するわけですから、両者の不一致はもはや一目瞭然です。『経済学批判』から紹介しておきましょう。。

   〈単純な貨幣流通の考察から生じた流通する貨幣量についての法則は、支払手段の流通によって本質的に修正される。流通手段としてにせよ、支払手段としてにせよ、貨幣の流通速度があたえられていれば、あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるべき商品価格の総額〔プラス〕その同じ期間中に満期となる諸支払の総額マイナス相殺によって相互に消去しあう諸支払の総額によって規定されている。流通する貨幣の量は商品価格によって決まるという一般的法則は、これによってすこしも動かされない。というのは、諸支払の総額そのものは、契約上決められた価格によって規定されているからである。だが流通の速度と支払の節約とが同じままであると前提しても、一定の期間、たとえば一日のうちに流通する商品総量の価格総額と、同じ日に流通する貨幣の総額とが、けっして一致しないことは、まことに明らかである。なぜならば、その価格が将来はじめて貨幣で実現される多数の商品が流通しているし、対応する商品がずっと以前に流通から脱落してしまっている多数の貨幣が流通しているからである。この後者の数量そのものは、契約されたのはまったく違った時期でも同じ日に満期となる諸支払の価値総額の大きさによって決まるであろう。〉 (全集第13巻125-126頁)

  (リ) 他方では、ある日に契約される生来の支払の大きさと、同じその日に期限がくる支払の大きさとを量的に比較してみても、何の意味もありません。

  さらに言えることは、ある日に契約される諸支払の大きさは、その日に支払の期限がくる諸支払の大きさとは何の関係もありません。だから〈日々契約される債務と日々満期になる債務とは、全く通約不可能な大きさ〉(フランス語版、江夏・上杉訳121頁)なのです。


◎原注102

【原注102】〈102  「(イ)ある1日のあいだに行なわれる購買または契約の額は、この特定の1日に流通する貨幣の量には影響しないで、大多数の場合に、おそかれ早かれ後の日に流通するであろう貨幣の量をひきあてにする種々雑多な手形になってしまうであろう。……(ロ)今日受け取られた手形または開始された信用は、口数でも、金額でも、期間でも、明日または明後日受け取られたり開始されたりするものと類似している必要は少しもない。(ハ)むしろ、今日の手形や信用の多くは、期限がくれば、過去のまったく一定していないいろいろな日付けの債務の一団と一致するのであって、12か月とか6か月とか3か月とかあるいはまた1か月などの手形が、しばしばいっしょになって、特定のある1日に期限のくる債務を膨張させるのである。」(『通貨理論論評。スコットランド人民への手紙。イングランドの一銀行家著』、エディンバラ、1845年、29、30ページ等。)〉

  (イ) 「ある一日のあいだに行なわれる購買または契約の額は、この特定の一日に流通する貨幣の量には影響しないで、大多数の場合に、おそかれ早かれ後日になって流通するであろう貨幣の量を引きあてにするさまざまの手形になってしまうであろう。……

    この原注は〈また他方では、その日その日に契約される支払と、同じその日に期限がくる支払とは、まったく比較できない大きさのものである〉という本文につけられたもので、『通貨理論論評』という匿名の著者のものからの抜粋です。この『通貨理論論評』からの抜粋は、特に第3部に関連した雑録や補遺等のなかで数多くみることができます。
    信用による商品の売買というのは、流通手段による売買とは異なり(この場合は売買と同時に当事者の関係も生まれる)、すでに出来上がっている流通当事者のあいだの関係のもとで行われます。例えば自動車工場に部品を供給する子会社は、毎日決まった量の部品を供給する契約を結んでいます。こうした場合、毎日納入される商品総額が契約額になり、それが月末など一定期日後に支払われるという形になるかも知れません。しかしそうだとしても、社会全体を見ると、その日契約される価格総額と、ちょうどその日に満期になって支払手段として貨幣が流通する総額とは、何の関係もないことは明らかです。

  (ロ)(ハ) 今日受け取られた手形または開始された信用は、口数でも、金額でも、期間でも、明日または明後日受け取られたり開始されたりするものと類似している必要は少しもない。むしろ、今日の手形や信用の多くは、期限がくれば、過去のまったく一定していないいろいろな日付けの債務の一団と一致するのであって、12か月とか6か月とか3か月とかあるいはまた1か月などの手形が、しばしばいっしょになって、特定のある一日に期限のくる債務を膨張させるのである。」

   それはどうしてかというと、まず社会全体でみると、今日結ばれた信用による売買契約は、その件数や金額、契約期間などは、明日、あるいは明後日に結ばれるものと同じでなければならない理由は何もないからです。他方、今日満期になる手形には、その契約期間が、12カ月のものや、6カ月のもの、あるいは3カ月や1カ月のものなど契約期間がバラバラものがあります。それらがただ偶然に満期の日が同じになったというだけの話なのです。だからその総額がどれぐらいになるかは誰も予測できません。しかしそうしたものが、定期的に行われる手形交換所では、銀行や金融業者たちが集まって、それぞれがもっている満期の来た手形を一括りにして、付き合わされ、同額同士が交換されて相殺され、差額が支払手段によって清算されるわけです。

(【付属資料】は(3)に掲載)

 

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『資本論』学習資料No.22(通算第72回)(3)

2020-09-03 19:05:06 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.22(通算第72回) (3)

 

【付属資料】

 

●第5パラグラフ

《経済学批判》

  〈支払手段として流通する貨幣の量は、まず第一に支払の総額、つまり譲渡された商品の価格総額によって規定されるのであって、単純な貨幣流通の場合のように、譲渡されるべき商品の価格総額によって規定されるのではない。けれども、こうして規定された総額は、二重に修正される。第一には、同じ貨幣片が同じ機能をくりかえす速度によって、言いかえれば、多数の支払が過程をなしてつづく諸支払の連鎖としてあらわされる速度によって修正される。AはBに支払い、ついでBはCに支払う、等々。同じ貨幣片が支払手段としてのその機能をくりかえす速度は、一方では、同じ商品所有者がある者にたいしては債権者であり、他の者にたいしては債務者であるというような、商品所有者のあいだの債権者と債務者との関係の連鎖に依存し、他方では、さまざまな支払期日を分けへだてる時間の長さに依存する。この諸支払の連鎖、すなわち、諸商品のあとからの第一の変態の連鎖は、流通手段としての貨幣の流通であらわされる諸変態の連鎖とは質的に違っている。後者は時間的に連続して現われるだけでなく、時間的に連続するなかではじめて連鎖となるのである。商品が貨幣になり、それからまた商品になり、こうして他の商品が貨幣になれるようにしてやる等々、言いかえれば、売り手は買い手になり、これによって他の商品所有者が売り手となる。こういう関連は、商品交換の過程そのもののうちで偶然に成立する。ところが、AがBに支払った貨幣が、BからCに、CからDに等々とつづけて支払われ、しかもすぐつぎからつぎへとつづく期間に支払われるということ--この外面的関連においては、すでにできあがって現存している社会的関連が明るみに出るだけである。同じ貨幣がいろいろな人々の手を通っていくのは、それが支払手段として登場するからではなくて、いろいろな人々の手がすでにつながりあっているからこそ、それが支払手段として流通するのである。だから貨幣が支払手段として流通する速度は、貨幣が鋳貨としてまたは購買手段として流通する速度よりも、個人が流通過程にはるかに深くはいりこんでいることを示している。〉(全集第13巻122-123頁)

《初版》

  〈流通過程のどの一定期間においても、満期になった諸債務は、諸商品--その販売がこれらの債務をひき起こしたわけだが--の価格総額を表わしている。この価格総額の実現に必要な貨幣量は、さしあたって、支払手段の流通速度によってきまる。その速度は、二つの事情に制約されている。一つは、Aが自分の債務者Bから貨幣を受け取り、次にはこの貨幣を自分の債権者Cに支払う等々というような、債権者と債務者とのあいだの関係の連鎖であり、もう一つは、まちまちな支払期限のあいだの時間の長さである。諸支払の継続的な連鎖、すなわち、あとから行なわれる第一変態の継続的な連鎖は、さきに考察した変態諸系列のからみあいとは、本質的にちがう。流通手段の流通では、売り手と買い手のあいだの関連が、たんに表現されているだけではない。この関連そのものは、貨幣流通において、また、貨幣流通とともに、初めて成立しているのである。これに反して、支払手段の運動は、この運動以前にすでに出来あがって現存する社会的な関連を、表現している。〉(江夏訳132-133頁)

《フランス語版》 フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。

  〈一定の期間内に満期になった債務は、売られた商品の価格総額を表わしている。この総額を実現するために必要とされる貨幣量は、まず支払手段の流通速度に依存する。二つの事情がこの速度を規定する。(1)たとえば、自己の債務者Bから貨幣を受け取るAが、この貨幣を自己の債権者Cに渡す等々のばあいのように、債務者にたいする債権者の関係の連鎖。(2)さまざまな支払期限を分け隔てしている時間の間隔。連続的な支払系列、すなわち補完的な第一変態系列は、われわれが当初分析した変態系列の交錯とは全くちがう。
   売り手と買い手のあいだの関連は、流通手段の運動のうちに表現されているだけではない。この関連は貨幣の流通そのもののうちにも生ずる。これに反して、支払手段の運動はすでに存在する社会的関係全体を表現している。〉(江夏・上杉訳118頁)


●第6パラグラフ

《経済学批判》

  〈同時的な、したがって空間的にならんでおこなわれる売買の価格総額は、流通速度が鋳貨量の代わりをするうえでの限界をなす。この制限は、支払手段として機能する貨幣にとってはなくなる。同時におこなわれるべき諸支払が一つの場所に集中されると、これははじめ自然発生的には、商品流通の大集合点にだけ起こることだが、諸支払は、AはBに支払わなければならないが、同時にCから支払を受けるはずである、等々というわけで、正負の大きさとして相殺される。だから支払手段として必要な貨幣の総額は、同時に実現されるべき諸支払の価格総額によって規定されるのではなく、諸支払の集中の大小と、それらが正負の大きさとして相殺されたあとに残る差額の大きさとによって規定される。この相殺のための独自の施設は、たとえば古代ローマでのように、信用制度がすこしも発達していなくてもできてくる。しかしそれについての考察は、一定の社会圏内ではどこでも決まっている一般的支払期日の考察と同じく、ここでの問題ではない。ただここで注意しておきたいのは、この支払期日が流通する貨幣量の周期的変動に及ぼす特有な影響がやっと最近になって科学的に研究されたということである。〉(全集第13巻123-124頁)

《初版》

  〈諸販売の同時性と並存性とは、流通速度が鋳貨量の代わりをすることを、制限する。逆に、この同時性と並存性とは、支払手段の節約の新しい梃子(テコ)になる。諸支払が同じ場所に集中するにつれて、諸支払の決済のための自然発生的で独自な施設と方法とが、発展する。たとえば、中世のリヨンにおける振替がそうである。BにたいするAの、CにたいするBの、AにたいするCの、等々の債権は、ただつきあわされて、ある金額までは正量と負量として互いに相殺されさえすればよい。こうして、債務の差額だけが清算される。諸支払の集中が大量になればなるほど、差額がしたがって、流通する支払手段の量が、相対的にますます小さくなる。〉(江夏訳133頁)

《フランス語版》

  〈販売(もしくは購買)の同時性と隣接性は、流通手段の量がもはやその流通速度によっては相殺されえないようにするが、支払手段の節約では新しい挺子になる。支払いが伺じ場所に集中するにっ耽て、支払いを相互に洗済するたあの制度と方法が、自然発生的に発展する。たとえぽ中世のリヨソでは、それは振替であった。BにたいするAの、CにたいするBの、AにたいするCの等々の債権は、正量および負量としてある程度まで相互に相殺されるためには、ただつき合わせるだけでよい。このようにして、清算すべき勘定残高しか残らなくなる。支払いの集中が大きくなれぽなるほど、支払残高は相対的にますます小さくなり、それがために、流通状態にある支払手段の量もますます相対的に小さくなる。〉(江夏・上杉訳118-119頁)

 

●第7パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈ところが、信用が突如としてゆらいで、諸支払いが相殺されてゆく流れが中断され、諸支払いの機構が中断されると、突如として貨幣は現実の一般的支払手段として必要になる、そして、富がその全範囲にわたって二重に存在すべきこと、つまりあるときは商品として存在し、別のときには貨幣として存在すべきこと、そうしたうえでこの二つの存在様式〔をとっている富〕が一致すべきことが、要請されるのである。こうした恐慌の瞬間には、貨幣だけが排他的な富として現象する、そしてこれが排他的富であることが、すベての現実的富を、たとえば重金主義の場合とはちがって、ただ表象の上でだけ減価させるにとどまらず、それを実際にも減価させることによって、明示されるのである。諸商品の世界に対立して、価値はもはや貨幣という適合的で排他的な形態においてしか存在しなくなる。こうした契機をこれ以上展開することは、ここでは必要ではない。しかし本来の貨幣恐慌の瞬間に現われるものは貨幣の一般的支払手段としての発展に内在する矛盾であるということは、ここで述べておく必要がある。このような恐慌にさいして貨幣が必要とされるのは、尺度としてではない。というのは、尺度としてならば貨幣が生身の姿で現存しているかどうかは、どうでもよいことだからである。またそれは鋳貨としてでもない。というのは、支払いのさいに貨幣は鋳貨としての役をはたすわけではないからである。そうではなく〔貨幣恐慌にさいして貨幣が必要とされるのは〕、自立化した交換価値、物的に現存している一般的等価物、抽象的富の物質化としてなのである。要するに、まさしく本来の貨幣蓄蔵の対象となるような形態においてなのであり、つまり貨幣としてなのである。一般的支払手段としての貨幣の発展は、〔一方では〕交換価値がその貨幣としての存在様式から独立した諸形態をとっているのに、他方では、交換価値の貨幣としての存在様式こそがまさしく決定的かつ唯一適合的な存在様式として定立されているという矛盾を、包蔵しているのである。〉(草稿集③38-39頁)
  〈支払手段としての貨幣にあっては、諸支払いが相殺され、諸支払いの正量と負量とがたがいに打ち消しあうために、尺度としての貨幣の場合、つまり貨幣が価格付与の機能をはたすような場合と同じように、貨幣が諸商品の単なる観念的形態として現われることもありうる。これらの相殺の機構や部分的にこの機構を成り立たせている信用制度〔das Creditsystem〕が撹乱されるたびごとに、突然、近代的商業の決まりごと、つまりその一般的前提に反して、貨幣を実在的形態で手もとに持ちあわせておくべきこと、そしてその形態で支払いを行なうべきことが要求される。こうしたことから矛盾が生ずるのである。〉(草稿集③41-42頁)

《経済学批判》

  〈諸支払が正負の大きさとして相殺されるかぎり、現実の貨幣の介入はぜんぜんおこなわれない。この場合には、貨幣はただ価値の尺度としての形態で、一方では商品の価格において、他方では相互の債務の大きさにおいて、展開する。だからここでは、交換価値はその観念的な定在のほかには、なんら独立の定在をもたず、価値章標としての定在さえもたない。言いかえるならば、貨幣はただ観念的な計算貨幣となるにすぎない。だから支払手段としての貨幣の機能は、次のような矛盾をふくんでいる。すなわち、貨幣は一方では諸支払が相殺されるかぎり、ただ観念的に尺度として作用し、他方では支払が実際におこなわれなければならないかぎりでは、瞬間的な流通手段としてではなく、一般的等価物の休止的な定在として、絶対的商品として、ひとことでいえば貨幣として流通にはいっていくという矛盾がこれである。だから諸支払の連鎖とそれらを相殺する人為的制度とがすでに発達しているところでは、諸支払の流れを強力的に中断して、それらの相殺の機構を撹乱する激動が生じると、貨幣は突然に価値の尺度としてのその気体状の幻の姿から、硬貨すなわち支払手段に急変する。だから商品所有者がずっとまえから資本家になっており、彼のアダム・スミスを知っており、金銀だけが貨幣であるとか、貨幣は一般に他の諸商品とは違って絶対的商品であるとかいう迷信を見くだして嘲笑している、そういう発達したブルジョア的生産の状態のもとでは、貨幣は突然に、流通の媒介者としてではなく、交換価値の唯一の十全な形態として、貨幣蓄蔵者が考えているのとまったく同様な唯一の富として再現する。貨幣が富のこのような排他的定在としてその姿をあらわすのは、たとえば重金主義の場合のように、すべての素材的富がたんに頭のなかで価値を減少し、価値を喪失する場合ではなく、それらの富が現実に価値を減少し、価値を喪失する場合である。これが貨幣恐慌と呼ばれる世界市場恐慌の特殊な契機である。こういう瞬間に唯一の富として叫び求められる至上の善〔summum bonum〕は貨幣であり、現金であって、これとならんでは、他のすべての商品は、それらが使用価値であるというまさにその理由から、無用なものとして、くだらないもの、がらくたとして、またはわがマルティーン・ルター博士の言うように、たんなる華美と飽食として現われる。信用制度から重金主義へのこういう突然の転化は、実際のパニックに理論上の恐怖をつけくわえる。そして流通当事者たちは、彼ら自身の諸関係の見すかしえない神秘のまえにふるえあがるのである。〉(全集第13巻124-125頁)

《第3巻草稿》

  〈恐慌の時期に「支払手段」が欠乏していることは自明である。手形の〔貨幣への〕転換可能性〔Convertibility〕が商品の変態そのものにとって代わったのであって,しかもまさにこのような時点でこそ,一部がただ信用だけに頼って仕事をすることが多くなればなるほど,それだけますますそうなるのである。恣意的な銀行立法(1844-45年のそれのような)がこの貨幣恐慌をさらに重くすることもありうる。しかし,どんな種類の銀行立法でも恐慌をなくしてしまうことはできない。全過程が信用にもとついているところでは,ひとたび信用がとだえて現金払いしか通用しなくなれば,信用恐慌と支払手段の欠乏とが生じることは自明であり,だからまた,全恐慌が,一見したところでは〔primafacie〕,信用恐慌および貨幣恐慌として現われざるをえないことは自明である。しかし実際に問題となっているのは,手形の貨幣への「転換可能性」だけではない。膨大な額のこうした手形が表わしているのは,たんなる詐欺取引であり,失敗に終わった,また他人の資本でやられた投機であり,最後に減価している商品資本,あるいはもはやけっしてなされえない還流であって,それらがいまや爆発したのであり,明るみに出るのである。もちろん,再生産過程の強力的な拡張のこの人為的なシステムの全体を,いま,ある銀行(たとえばイングランド銀行)が紙券ですべての山師に彼らに不足している資本を与え,すべての商品を以前の名目価値で買い取る,というようなことによって治癒させることはできない。とにかく,すべてがねじ曲げられて現われるのである。というのは,この紙の世界ではどこにも実体的な価格やそれの実体的な諸契機は現われないのであって,現われるのは地金や銀行券や手形(〔貨幣への〕転換可能性)や有価証券なのだからである。ことに,国内の全貨幣取引が集中する中心地(たとえばロンドン)等々)では,このような転倒〔が現われる〕。生産の中心地ではそれほどでもないが。〉(大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻455-457頁)

《初版》

  〈支払手段としての貨幣の機能は、媒介ぬきの矛盾を含んでいる。諸支払が決済されるかぎり、貨幣は、計算貨幣あるいは価値の尺度として観念的にしか機能しない。現実の支払いがなされねばならないかぎりでは、貨幣は、流通手段として、物質代謝のたんに束の間の媒介的な形態として、現われるのではなく、社会的労働の個別的化身、交換価値の独立的存在、絶対的商品として、現われるのである。この矛盾は、生産および商業恐慌における・貨幣恐慌と呼ばれる瞬間に、爆発する(81)。貨幣恐慌が生ずるのは、譜支払の継続的連鎖と諸支払の決済のための人工的制度とが充分に発達しているばあいに、かまられている。この機構の一般的な撹乱が増大するにつれて、この撹乱がどこから生じょうとも、貨幣は、突然、媒介ぬきで、計算貨幣というたんに観念的な姿態から、硬貨に急変する。凡俗な商品では代わりがきかない。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値は自分自身の価値形態の面前で姿を消す。ついいましがたまで、ブルジョアは、好景気に酔いしれて尊大にも、貨幣は空虚な妄想だと公言していた。商品だけが貨幣だ、と。貨幣だけが商品だ! という声が、いまでは世界市場にかん高く響きわたる。鹿が清水を求めて啼くように、被の魂は唯一の富である貨幣を求めて叫ぶ(82)。恐慌のときには、商品とその価値姿態である貨幣との対立が、絶対的な矛盾にまで高められる。したがって、貨幣の現象形態は、ここではどうでもよい。支払いが金で行なわれるはずであろうと、たとえば銀行券といった信用貨幣で行なわれるはずであろうと、貨幣飢饉であることには変わりがない(83)。〉(江夏訳133-134頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは二つに分けられ、その間に注が挟まっている。ここでは間にある注を省いて紹介しておく。

  〈支払手段としての貨幣の機能は、媒概念なしの矛盾を含んでいる。支払いが相殺されるかぎり、貨幣は観念的に、計算貨幣や価値尺度として機能するにすぎない。支払いが現実に行なわれざるをえなくなるやいなや、貨幣はもはや、単なる流通手段として、生産物移転の仲介者の役をする他動的な形態として、現われるのではなく、社会的労働の個別的な化身、交換価値の唯一の実現、絶対的商品として、現われるのである。この矛盾は、貨幣恐慌と呼ばれてきた産業恐慌または商業恐慌の瞬間において、爆発する(48)。
  貨幣恐慌が生ずるのは、支払いの連鎖と、支払いを相互に相殺すべき人工的制度とが、発展しているところに、かぎられる。この機構がなんらかの原因で調子の狂うようなことがあると、貨幣はたちどころに、突然の急変によって、しかも一足跳びに、もはや、計算貨幣という純粋に観念的な形態では機能しなくなる。貨幣は現金として要求され、もはや世俗の商品によって置き換えることができなくなる。商品の有用性はなんの役にも立たず、商品の価値は、その価値形態にほかならないものの前に消え失せる。前日にはまだブルジョアは、繁栄から授かる身勝手なうぬぼれを抱いて、貨幣は空虚な幻想だと宣言していた。商品だけが貨幣だ、と彼は叫んでいた。貨幣だけが商品だ! これがいまでは、世界市揚で鳴り響く叫びなのである。飢えた鹿が湧き水の源泉をもとめて啼くように、彼の魂は唯一無二の富である貨幣を大声でもとめ叫ぶ(49)。商品とその価値形態との対立が、恐慌中は極点にまで押し進められる。貨幣の種類がなんであるかは、このばあいどうでもよい。金で支払わなければならないにしても、信用貨幣で、たとえば銀行券で支払わなければならないにしても、貨幣の欠乏は依然同じである(50)。〉(江夏・上杉訳119-120頁)


●原注99

《初版》

  〈(81)どんな恐慌であれその恐慌の局面として本文中に規定されているような貨幣恐慌は、全く独立した現象でありうるために、産業や商業には反作用的にしか作用しない特殊な種類の恐慌--たとい人が貨幣恐慌と呼んでも--とは、しっかりと区別されなければならない。この種の恐慌は、貨幣資本がその運動の中心になり、このためにまた、それの直接の有効範囲が、貨幣資本の政治劇の範囲、すなわち銀行や取引所や金融界になっている。〉(江夏訳134頁)

《第2版》

  〈(99)どんな恐慌であれ当該恐慌の局面として本文中に規定されているような貨幣恐慌は、全く独立した現象でありうるために産業や商業には反作用しか作用しない特殊な種類の恐慌--たとい人が貨幣恐慌と呼んでも--とは、しっかりと区別されなければならない。この種の恐慌は、貨幣資本がそれの運動の中心になり、このためにまた、それの直接の有効範囲が、貨幣資本の政治劇の範囲、すなわち銀行や取引所や金融界、になっている。〉(江夏訳141-142頁)

《フランス語版》  フランス語版では、これは先に紹介した二つに分かれたパラグラフの最初の方の後に付けられている。

  〈(48) ここで言われているところの、どんな恐慌であれその恐慌の一局面である貨幣恐慌は、同じ名称を与えられてはいてもなおかつ独立した現象でありうるのでその作用が工業や商業にたいし反作用的にしか影響を及ぼさないような特殊な種類の恐慌とは、区別されなければならない。この種の恐慌は、貨幣資本を支軸としており、その直接的な範囲は、したがって、この資本の範囲--銀行、取引所、および金融界--である。〉(江夏・上杉訳119頁)


●原注100

《初版》

  〈(82)「信用制度から貨幣〔正金〕制度へのこういった突然の変化は、じっさいのパニックに理論上の恐怖をつけ加える。そして、流通当事者たちは、自分たち自身の諸関係の測りしれない秘密の前に身震いしている。」(カール・マルクス、前掲書〔『経済学批判』〕、126ページ。)「貧乏人がなにもしないでいるのは、金持ちが、食物や衣類を供給するための土地や人手を、以前と同じにもっていながら、貧乏人を雇う貨幣をもっていないからである。これらの土地や入手が一国の真の富であって、貨幣がそうなのではない。」(ジョン・ベラーズ『産業専門学校設立のための提案、ロンドン、1696年』、3ページ。)〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈(49) 「信用制度から貨幣制度への突然の急変は、実際上のパニックに理論上の恐怖をつけ加え、流通の当事者たちは、自分たちの諸関係の測りしれない神秘の前で戦傑する」(カール・マルクス『経済学批判』、= 一六ページ)。「貧乏人は依然憂鰐であって、次のことに驚いている。すなわち、金持は貧乏人を働かせるための貨幣をもはやもたないがそれでもなお食物や衣類を供給する土地と人手が以前と同じに相変わらずそこにある、ということ。ところが、これこそが一国の真の富を構成するのであって、貨幣がそうなのではない」(ジョン・ペラーズ『産業専門学校設立のための提案』、ロンドン、一六九六年、三三ページ)。〉(江夏・上杉訳120頁)


●原注101

《初版》

  〈(83)このような瞬間が「商業の友」によってどのように利用されているか。「ある折り(1839年)のこと、ある握り屋の老銀行家(シティの)が、自分の私室で、対座していた机のふたをもちあげ、一人の友人に幾束かの銀行券を見せびらかせていとも愉快そうにこう言った。ここに6O万ポンド・スターリングがあるが、これは、金詰りにするためにしまっておいたもので、今日の3時すぎには残らず外に出て行くだろう、と。」(『為替の理論、1844年の銀行特許法、ロンドン、1864年』、81ページ。)半官的機関紙の『オブザーヴァー』紙は、1864年4月24日に次のように述べている。「銀行券の払底を生じさせるためにとられた手段について、ひどく奇妙な噂が幾つか流布している。……なにかこの種の詭計が用いられたと想像することは、疑問の余地があっても、この噂は相当にひろまっているので、確かに、言及しておくだけの値うちがある。」〉(江夏訳134頁)

《フランス語版》

  〈(50) この瞬間がそこでどのように利用されるかは、次のとおりである。「ある日(1839年)シティの老銀行家が、自分の私室で友人と話をし、自分が対座していた書見台の蓋をもちあげて、銀行券の束をひろげはじめた。彼は非常に嬉しそうな様子で言った--ここに60万ポンド・スターリングあります。これは金融を逼迫させるために〈to make the money tight〉とっておいたもので、今日の午後3時にはみんな外に出てゆくでしょう」(『為替の理論,1844年の銀行特許法』、ロンドン、1864年、81ページ)。半官的機関紙の『オブザーヴァー』は、1864年4月24日号で次のことを公にした。「銀行券の欠乏を創出するために使われた手段について、若干のまことに奇怪な噂が流布している。なにかこの種の詭計が用いられたことは、大いに疑問であるにしても、このことについて流布されている噂が、きわめて広くゆきわたったので、実際に言及する値うちがある」。〉(江夏・上杉訳120頁)


●第8パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈流通する貨幣の量は流通する諸商品の総価格によって決定されるという法則は、今では補正されて、ある一定の時期に満期となる諸支払いの総価格およびそれらの節約によって決定される、となる〉(草稿集③42頁)

《経済学批判》

  〈単純な貨幣流通の考察から生じた流通する貨幣量についての法則は、支払手段の流通によって本質的に修正される。流通手段としてにせよ、支払手段としてにせよ、貨幣の流通速度があたえられていれば、あるあたえられた期間内に流通する貨幣の総額は、実現されるべき商品価格の総額〔プラス〕その同じ期間中に満期となる諸支払の総額マイナス相殺によって相互に消去しあう諸支払の総額によって規定されている。流通する貨幣の量は商品価格によって決まるという一般的法則は、これによってすこしも動かされない。というのは、諸支払の総額そのものは、契約上決められた価格によって規定されているからである。だが流通の速度と支払の節約とが同じままであると前提しても、一定の期間、たとえば一日のうちに流通する商品総量の価格総額と、同じ日に流通する貨幣の総額とが、けっして一致しないことは、まことに明らかである。なぜならば、その価格が将来はじめて貨幣で実現される多数の商品が流通しているし、対応する商品がずっと以前に流通から脱落してしまっている多数の貨幣が流通しているからである。この後者の数量そのものは、契約されたのはまったく違った時期でも同じ日に満期となる諸支払の価値総額の大きさによって決まるであろう。〉(全集第13巻125-126頁)

《初版》

  〈さて、与えられたある期間内に流通する貨幣の総額を考察すると、その額は、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべき商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。だから、諸価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とがたとい与えられていても、ある期間たとえば一日内に流通する貨幣量と流通する商品量とは、もはや一致するものではない。ずっと以前に流通から引き上げられた諸商品を代表する貨幣が、流通している。それらの貨幣等価が将来初めて姿を現わすような諸商品が、流通している。他方、その日その日に契約される諸支払と、同じその日その日に満期になる諸支払とは、全く通約不可能な大きさである(84)。〉(江夏訳134-135頁)

《第2版》

  〈さて、与えられたある期間内に流通しつつある貨幣の総額を考察すると、その額は、流通手段および支払手段の流通速度が与えられていれば、実現されるべきもろもろの商品価格の総額に、満期になった諸支払の総額を加え、そこから、相殺しあう諸支払を控除したもの、に等しい。だから、諸価格と貨幣流通の速度と諸支払の節約とがたとい与えられていても、ある期間たとえば一日のうちに流通しつつある貨幣量と流通しつつある商品量とは、もはや一致するものではない。ずっと以前に流通から引き揚げられた諸商品を代表する貨幣が、流通している。自己の貨幣等価物が将来初めて姿を現わすような諸商品が、流通している。他方、その日その日に契約される諸支払と、同じその日その日に満期になる諸支払とは、全く通約不可能な大きさである(102)。〉(江夏訳142頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフも二つに分けられている。

  〈さて、一定の期間内に流通する貨幣総額を考察すれば、流通手段と支払手段との流通速度が与えられたばあい、われわれは、この総額が次のものに等しいことを見出すであろう。すなわち、実現すべき商品価格の総額に、満期となる支払総額を加え、相殺される支払総額を控除し、最後に、流通手段と支払手段という二重の機能として同じ貨幣片の二度またはそれ以上の頻度にわたる使用を控除したものである。たとえば、農民は流通手段として作用する2ポンド・スターリングで、自分の小麦を売った。彼は支払期日に、この2ポンド・スターリングを織工に渡す。いまや2ポンド・スターリングが支払手段として機 能する。織工はこの2ポンド・スターリングで聖書を買うが、この購買ではこの2ポンド・スターリングが再び流通手段として機能する、等々。
  貨幣の流通速度と支払いの節約と商品の価格が与えられていても、流通状態にある商品量はもはや、ある期間内たとえば1日のうちに流通する貨幣量には一致しない、ということがわかる。流通からもうとっくに取り去られた商品を代表する貨幣が、流通しているのである。貨幣の形での等価物がかなり後になってやっと現われてくる商品も、流通しているのである。他方、日々契約される債務と日々満期になる債務とは、全く通約不可能な大きさなのである(51)。〉(江夏・上杉訳120-121頁)


●原注102

《初版》

  〈(84)「与えられたどんな日であれその日のあいだに行なわれる諸販売または諸契約の額は、この特定の日に流通している貨幣の量には影響を及ぼさないで、たいがいのばあい、遅かれ早かれ後日になって流通すべき貨幣の量あての・多様な手形に、なってしまうであろう。……今日振り出された手形または開設された信用は、口数でも総額でもまたは期間でも、明日または明後日に振り出されるかまたは開設されるものと、類似している必要は少しもない。むしろ、今日開設された手形や信用の多くは、満期のさいには、全く不確定な過去のいろいろの日付に始まった一団の債務と、ばったり出会うのであって、12か月払や6か月払や3か月払や1か月払の手形が、しばしば一緒に集まって、特定の一日の共同の債務を膨張させる、云々。」(『通貨理論論評。スコットランド国民への手紙。イングランドの一銀行家著、ェジンパラ、1845年』、29、30ページの各所。)〉(江夏訳135頁)

《第2版》初版と同じ。

《フランス語版》

  〈(51) 「ある1日の間に契約された販売または購買の総額は、この同じ日に流通状態にある貨幣量にはなんら影響しないで、たいがいのばあい、遅かれ早かれこの日から隔たった後日に流通しうる貨幣量にたいして振り出される多数の手形に、変わるであろう。今日振り出された手形あるいは開設された信用は、口数でも総額でもまたは期間でも、明日または明後日に振り出されあるいは契約されるであろうものと、なんらかの関係をもつ必要がない。その上、多数の今日の手形や信用は、支払期日には、全く不確定な一連の過去の日付にはじまっているような一団の支払量と、出くわすのである。このようにして、12ヵ月払い、6ヵ月払い、3ヵ月払い、1ヵ月払いの手形が、しばしば一緒に集まって、同じ日に履行すぺき共同の支払量のなかに入ってくる」(『通貨理論論評。スコットランド国民への手紙、イングランドの一銀行家著』、エディンバラ、1845年、29、30ページの各所)。〉(江夏・上杉訳121頁)

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