『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-11-27 15:33:33 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎紅葉

 どこに行っても紅葉がまばゆいばかりです。

 しかしその華やかさの陰で、はらはらと舞落ちる病葉は何故か儚い気持ちにわれわれを誘うものです。

 枯れ葉の行く末に何らかの暗示を受けながら、しかし私たちの「『資本論』を読む会」は依然として続けていくようではあります。はらはらと事毎に参加者が減りながらも、しぶとく続けていく意義が何処にあるのか、誰も分かりません。

 残念ながら、今回も寂しい開催になりました。途中、何人かが会場を覗きに来られましたが、いずれもどうやら目指す会場を間違って訪れたようで、謝って去りました。

 というわけで、今回は〈C 一般的価値形態〉〈二 相対的価値形態と等価形態の発展関係〉をやったのですが、淡々と進み〈二〉の最後まで終えることができました。その報告を行うことにしましょう。

◎〈二〉全体の構成

 いつものように、今回学習する〈二〉の課題とその構成について、まずみて行くことにしましょう。

 〈 一 価値形態の変化した性格〉では、獲得された一般的価値形態では、相対的価値形態と等価形態がどのように変化しているかが、それぞれ個別に考察されました。相対的価値形態と等価形態のそれぞれが形態 I (単純な価値形態)、形態II(展開された価値形態)、形態III(一般的価値形態)という価値形態の発展のなかで如何に変化したかが論理的にも歴史的にも遡って考察されていました。

 そうした考察を踏まえて、この〈二〉では、相対的価値形態と等価形態という二つの価値形態が、今度は統一されて、両者の関係の発展が考察されていると言えます。

 初版付録では、すでに紹介しましたように(第28回報告参照)、この部分は〈(3) 相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係〉と〈(4) 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉という二つの項目に分けられていました。だからここでは〈相対的価値形態と等価形態との発展関係〉が、〈相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展開係〉(【1】・【2】)と〈相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉(【3】~【7】)とに分けて考察されているわけです。

 そしてまたその考察は〈一〉の場合と同じように、形態 I 、形態II、形態IIIの順にその発展関係が考察されています。

 それでは前置きはこれぐらいにして、具体的にパラグラフをみて行くことにしましょう。今回もこれまでと同じように、まず本文を提示し、その文節ごとに(イ)、(ロ)、(ハ)……と記号を付して、それぞれを平易に書き下す形で進めることにします。

◎相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係

 まず第1パラグラフです。

【1】〈(イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応する。(ロ)しかし、これは注意を要することであるが、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないのである。〉

 (イ)相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応しています。

 (ロ)しかしこのことは十分注意すべきことですが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現であり、その結果に過ぎません。イニシアチブは、あくまでも相対的価値形態にあり、等価形態はただ受動的にそれを受け取るに過ぎません。

 ここで特に(ロ)で述べられていることは重要であることが指摘されました。JJ富村さんは、ここで書かれていることそのものは、そんなに難しいことではなく、これまでの展開を踏まえれば、何となく分かるような気がする、と述べました。しかし、それに対して、事はそれほど簡単ではないのだとの指摘がありました。というのは前回(第29回)の報告でも、〈一〉の【8】パラグラフの解説のなかで、一般的な相対的価値形態がリンネルに一般的等価物という性格を「押しつける」という表現に関連して、次のように説明しました。

 「ここでマルクスは〈一般的等価物としての性格を押しつける〉と〈押しつける〉という表現をとっていますが、リンネルの一般的等価物としての性格はあくまでもリンネルが受動的に商品世界から押しつけられたものだとの理解が重要だということが指摘されました。というのはこの一般的等価形態が貨幣になるとその性格があたかも貨幣が生まれながらに持っているかの外観が生じ、だから諸商品の交換関係から、貨幣が生まれるという関係が逆転して、貨幣によって諸商品が流通させられるという観念が生じてくるからだということです。」

 今回は、この転倒した観念に、現実には、どれほど多くの人たちが惑わされているかということが話題になり、次のような例が紹介されました。

 例えば戦後の世界資本主義は「管理通貨体制」と言われています。あるいは「管理通貨制度の下にある」とも。つまり「通貨」が国家によって「管理」されていると捉えられているのです。もちろん、ここには「通貨」概念の混乱が背景にあります。「通貨」というのは厳密には貨幣の流通手段と支払手段との機能を合わせたものを意味します。そしてこうした意味での「通貨」を「管理」できるなどと考えるのは、貨幣についてのまさに転倒した観念の産物なのです。ところが、ブルジョア経済学者だけではなく、ほとんどのマルクス経済学者も、今日のいわゆる「不換制」の下では、「通貨」は国家によって「管理」されているのだという認識を持っています。しかし、「通貨」を概念的に捉えれば、それを「管理」するなどいうことができないことは明らかなのです。なぜなら、このパラグラフでマルクスが強調しているように、諸商品の交換という現実があって(そしてそのために諸商品がその価値を相対的な価値形態として表すという現実があって)、貨幣形態(一般的等価形態)があるのだからです。イニシアチブをとっているのは商品交換という現実です。だからもし「通貨」を「管理」しようと思うなら、商品の交換そのものを「管理」しなければならないことになるのです。そしてそれは実質上、われわれの社会的な物質代謝を「管理」するということに他なりません。しかしこんなことは現代の資本主義社会をひっくり返さない限り不可能事でしょう。ところがマルクス経済学者を自認する人たちまで、資本主義を前提したままで、「通貨」の「管理」は可能だと考え、現代の資本主義はそうした体制なのだと説明して、何の疑いも持たず、いわばそれが常識と化しているありさまなのです。

 こうした現代資本主義においては「通貨」は「管理」されていると捉えている人たちの誤りには二つの理由が考えられます。一つは先に指摘した「通貨」概念の混乱にもとづくものです。つまり「通貨」と「利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed Capital)」との区別が分からずにごっちゃに論じていることから来るものです(これについては第30回の「案内」でも少し述べました)。本当は「利子生み資本としての貨幣資本(moneyed Capital)」の運動なのに、それを「通貨」の運動と捉えてしまっているのです。しかし「通貨」は社会的な物質代謝に直接関連します(媒介します)が、「貨幣資本(moneyed Capital)」は社会的な再生産の外部にある信用制度の下で運動する貨幣なのです。だからこうした人為的な制度のもとでは、それは信用(特に公信用)を背景にいくらでも膨張したり縮小したり、ある程度までは恣意的に左右できるわけです。だからそれを「通貨」と捉えると、「通貨」は国家によって恣意的に「管理」されていると捉えることになってしまうわけです。

 もう一つは貨幣名を変更することを持って、「通貨」を「管理」していると錯覚していることです。これについて詳しく説明すると、あとで学習する予定の〈第3章 貨幣または商品流通〉の内容にあまりにも踏み込みすぎますので、それは割愛しますが、いずれにせよ、貨幣名は確かに時の権力者によって恣意的に決めることが可能です。しかし、それは商品の価値量を表現する等価物の使用価値量が、例えば上着を「1着」「2着」と数えたり、ラクダを「1頭」「2頭」と数えるのも、ただ社会的な慣習にもとづいているように、一般に社会的な慣習によるものだからであり、だからまた貨幣としての金の量をどのように数えるのかも(それが貨幣名を決めるということです)、その限りでは恣意的に決めることが可能だというにすぎないのです。だからこれも決して「通貨」を「管理」しているわけではないのです。現代の不換制の下においても基本的にはこの延長上にあると考えるべきなのです。

 このように『資本論』を読んでいる限りでは分かったつもりになっていても、いざ、現実の過程を説明しようとなると、結局は『資本論』が何度も強調し注意している間違った転倒した観念にとらわれている例が実に多いのだという説明でした。

 次は第2パラグラフです。

【2】〈(イ)一商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にする。(ロ)相対的価値の展開された形態、すなわちすべての他の商品での一商品の価値の表現は、これらの商品にいろいろに違った種類の特殊的等価物という形態を刻印する。(ハ)最後に、ある特別な商品種類が一般的等価形態を与えられるのであるが、それは、すべての他の商品がこの商品種類を自分たちの統一的な一般的な価値形態の材料にするからである。〉

 (イ)一商品の単純な、個別的な相対的価値形態は、他の一商品を個別的等価物にします。

 (ロ)一商品の全体的な相対的価値形態は、一商品の価値を表す他のすべての商品に、それぞれ種類の違った特殊的な等価物という形態を与えます。

 (ハ)そして最後のすべての商品が共同でその価値を表す一般的な相対的価値形態は、その価値を表す材料となる商品世界から排除されたある特別な商品に一般的等価形態を与えます。

 この部分は初版付録では、次のようにより詳しい展開になっています。

 〈単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取らない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のすべての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。最後に、商品世界は、自分に、統一的な一般的な相対的価値形態を与えるが、そうするのは、商品世界が唯一の商品種類をのけものにし、この唯一の商品種類のうちに、他のすべての商品が自分たちの価値を共同で表現するからである。こうすることによって、こののけものにされた商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。〉(江夏訳902頁)

 より詳しい説明にはなっていますが、基本的に言われていることは同じことです。ここでは単純な相対的価値形態→「個別的」な等価形態、展開された相対的価値形態→「特殊的」等価形態、一般的相対的価値形態→「一般的」等価形態、という相互の発展関係が対比された形で示されています。ここで等価形態が「個別」、「特殊」、「一般」という形で発展して、商品の価値の概念にもっと相応しい形態を獲得する過程が示されているといえるでしょう。

◎ 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展

 次の第3パラグラフからは、相対的価値形態と等価形態との対極性の発展です。

【3】〈(イ)しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。〉

 (イ)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展関係とともに、それは同時に両形態の対極性、対立の発展でもあるのです。

 このパラグラフも初版付録では詳しく展開されていますので、まずそれを紹介しておきましょう。

 〈相対的価値形態と等価形態との対極的な対立、あるいは、不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているというと、したがって、(1)一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ、そしてまた、(2)一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ--価値表現の両契機のこういった対極的な対立は、価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する。〉(江夏訳902頁)

 ここでは〈対極的な対立〉を説明して、〈不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているということ〉という説明が加えられ、さらにぞれぞれについて(1)(2)と説明されています。すなわち〈不可分の一対である〉ということは、〈一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ〉と説明され、〈絶えず排除しあっているということ〉については、〈一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ〉という説明が加えられています。そしてさらに、こうした〈対極的な対立〉の発展が、〈価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する〉と説明されています。つまり対立が発展するということは、その対立が硬化する度合いが発展するということだということです。つまりそれぞれ対立した極に来る商品が特定のものに固定されることが、すなわちその対極性の発展の内容であることが示唆されています。

 ヘーゲルは「対立」について次のように説明しています。

 〈本質の区別は対立であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である〉(『小論理学』岩波文庫、下28頁)

 また以前にも紹介したことがある『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)は、さらに分かりやすく次のように解説しています。

 〈第一に、……対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。
 第二に、……人間のうちあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、兩極的な対立物は、たがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。
 第三に、……両者は、一つのものの不可分の二側面として互いに前提しあい依存しあう関係にあります。
 このように、その規定性にかんしては相互排斥的な兩極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(70-1頁)

 つまり相対的価値形態と等価形態とは、互いに前提しあいながら、同時に相互に排斥しあっているような関係にあるということです。こうした対立的な関係が、それぞれの価値形態の発展によって、対立そのものも発展し、硬化するというわけです。そうした対極性の発展関係が、単純な価値形態(【4】)から展開した価値形態(【5】)、そして一般的価値形態(【6】・【7】)へと価値形態が発展する度合いに応じて、どのように発展しているかを考察しようというわけです。

(以下、字数制限の関係で、この項目は「その2」に続きます。)

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第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-11-27 15:14:24 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

 (以下は、字数制限の関係で項目〈◎ 相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉の続きです。)

 だから第4パラグラフは単純な価値形態ではそれがどうなっているかの考察です。

【4】〈(イ)すでに第一の形態――20エレのリンネル=1着の上着――もこの対立を含んではいるが、それを固定させてはいない。(ロ)同じ等式が前のはらから読まれるかあとのほうから読まれるかにしたがって、リンネルと上着というような二つの商品極のそれぞれが、同じように、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。(ハ)両極の対立をしっかりとつかんでおくには、ここではまだ骨が折れるのである。〉

 (イ)すでに第一の形態(単純な価値形態)にも対立が含んでいることは〈A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態〉の〈一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態〉のなかでみてきました。例えば次のように説明されていました。

 〈相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている。〉

 だから相対的価値形態にリンネルがあるということは、リンネルは同時に等価形態にあることはできず、必ず他の別のある商品、例えば上着でなけれはならなかったのです。
 しかし単純な価値形態では、まだそれは固定させてはいませんでした。

 (ロ)例えば20エレのリンネル=1着の上着という等式がなりたつということは、同時に1着の上着=20エレのリンネルという等式も成り立ちました。つまりどちらの商品もあるときは相対的価値形態にあり、また別のあるときには等価形態にもあることができたのです。

 (ハ)だからこの場合、二つの形態が互いに排斥し合う関係にあるということをつかむためには、いささが骨が折れたのでした。だから次のような考察がなされたのでした。

 〈たとえば、リンネルの価値をリンネルで表現することはできない。20エレのリンネル=20エレのリンネル はけっして価値表現ではない。この等式が意味しているのは、むしろ逆のことである。すなわち、二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということである。つまり、リンネルの価値は、ただ相対的にしか、すなわち別の商品でしか表現されえないのである。それゆえ、リンネルの相対的価値形態は、なにか別の一商品がリンネルにたいして等価形態にあるということを前提しているのである。他方、等価物の役を演ずるこの別の商品は、同時に相対的価値形態にあることはできない。それは自分の価値を表わしているのではない。それは、ただ別の商品の価値表現に材料を提供しているだけである。
 もちろん、20エレのリンネル=1着の上着 または、二〇エレのリンネルは一着の上着に値するという表現は、1着の上着=20エレのリンネル または一着の上着は二〇エレのリンネルに値するという逆関係を含んでいる。しかし、そうではあっても、上着の価値を相対的に表現するためには、この等式を逆にしなければならない。そして、そうするやいなや、上着に代わってリンネルが等価物になる。だから、同じ商品が同じ価値表現で同時に両方の形態で現われることはできないのである。この両形態はむしろ対極的に排除しあうのである。〉

 次の第5パラグラフは展開された価値形態の場合です。

【5】〈(イ)形態Ⅱでも、やはりただ一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値を総体的に展開しうるだけである。(ロ)言いかえれば、すべての他の商品がその商品種類にたいして等価形態にあるからこそ、またそのかぎりでのみ、その商品種類自身が、展開された相対的価値形態をもつのである。(ハ)ここではもはや価値等式――たとえば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々――の二つの辺をおきかえることは、この等式の全性格を変えてこれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉

 (イ)形態II(展開された価値形態)でも、やはり両形態の対極的な対立は含まれています。すなわち、一つ一つの商品種類がそれぞれの相対的価値をそれ以外のすべての商品によって展開して表現しうるだけです。ある一つの商品種類が展開された相対的価値形態にあるなら、それはそれを表現する材料である他の多くの特殊的な等価形態の一つになることはできません。

 (ロ)言いかえれば、すべての他の商品が、その一つの商品種類に対して特殊な等価形態にあるからこそ、またその限りにおいてのみ、その一つの商品種類は展開された相対的価値形態を持つのです。確かにここでは、その一つの商品種類は、ある特定の商品に固定されてはいません。

 (ハ)しかし、ここでは単純な価値形態のように、この価値等式そのもの、例えば 20エレのリンネル=1着の上着 または=10ポンドの茶 または=1クォーターの小麦、等々の二つの辺をひっくり返すことは、もはやできません。それをやるとこの等式そのものを全性格を変えてしまい、全体的な価値形態から一般的価値形態に転化させることになってしまうからです。つまりここでは対極的な対立の「硬化」はその限りでは一段と進んでいることが分かります。

 次は一般的価値形態の場合についてですが、これは一般的な相対的価値形態(【6】)と一般的な等価形態(【7】)とに分けて考察されています(その間に注24が入ります)。

【6】〈(イ)このあとのほうの形態、すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。(ロ)したがって、一商品、リンネルが他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的に社会的な形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態をとっていないからであり、またそのかぎりでのことなのである(24)。〉

 (イ)形態III(一般的価値形態)は、商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えますが、それはただ一つの例外を除いて、商品世界のすべての商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのみです。これは相対的価値形態と等価形態の対極的な対立が、商品世界のすべての商品と、その商品世界から排除されたある例外的な商品種類という形で現われていることを意味します。ここでは一般的等価形態にある商品は、商品世界から排除された例外的存在としてあります。つまりその限りでは「硬化」は一段と進んでいるともいえます。

 (ロ)だから、この例外的な一商品、例えばリンネルが他のすべての商品との直接的な交換可能性の形態にある、あるいは直接的に社会的な形態にあるということは、他のすべての商品がこうした形態から排除されているからであり、またその限りにおいてのことなのです。

 初版本文では次のように説明しています。

 〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的社会的形態になるわけである。〉(江夏訳52頁)

 商品の直接的な存在は、その使用価値です。私たちは商品を見て感覚的に捉えうるのは、その物的存在でしかありません。だから一般に商品はその使用価値のままでは直接には交換できないのです。だから、それができるようになるためには、それが他の商品と同じものであることを示す必要があり、それがすなわちその商品の価値なわけです。商品は自らの価値を目に見える形で表現して、その現物形態が価値そのものであるものに転換してこそ、他の諸商品と直接に交換可能なもの、直接に社会的に妥当な形態を獲得することがてきます。そしてそうした現物形態が価値そのものを表すものこそ、すなわち等価形態であり、そうした商品世界から排除された唯一の例外的存在が、すなわち一般的等価形態だということです。

 この第6パラグラフについている注24も紹介して解読しておきましょう。しかし、各文節ごとの詳しい解読は省略します。

【注24】〈(24) じっさい、一般的直接的交換可能性の形態を見ても、それが一つの対立的な商品形態であって、ちょうど一磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように非直接的交換可能性の形態と不可分であるということは、けっしてわからないのである。それだからこそ、すべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかのように妄想することもできるのであって、それは、ちょうど、すべてのカトリック教徒を教皇にすることができると妄想することもできるようなものである。商品生産に人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろんまったく望ましいことであろう。この俗物的ユートピアを描きあげたものがプルドンの社会主義なのであるが、それは、私がほかのところで示したように〔26〕、けっして独創という功績などのあるものではなく、むしろ彼よりもずっと前にグレーやブレーやその他の人々によってもっとずっとよく展開されたのである。こういうことは、このような知恵が今日でもある種の仲間のあいだでは「科学」という名のもとに流行しているということを妨げないのである。プルドンの学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派はかってなかった。じっさい、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるものなんだ〔27〕。」〉

 一般的等価形態の直接的な交換可能性というのは、それが一つの対立的な商品形態であるからこそそうなのです。つまりそれは他のすべての商品が非直的な交換可能性にあるからこそそうなのです。それはちょうど一つの磁極の陽性が他の磁極の陰性と不可分であるように不可分なのです。しがしこうしたことは小ブルジョア的な観念には理解されない。だから彼らはすべての商品に同時に直接的交換可能性の極印を押すことができるかに妄想することができるのです。それは丁度、すべてのカトリック教徒を教皇にできると妄想するのと同じです。
 商品生産に人間の自由や個人の独立の頂点をみる小市民にとっては、この形態につきもののいろいろな不都合から免れようとすること、つり諸商品の非直接的交換可能性から免れるということはまことに望ましいことです。こうした俗物的なユートピアを描きあげたものがプルードンの社会主義なのです。それは私が『哲学の貧困』のなかで明らかにしたように、決して独創的なものではなく、彼よりずっと前にグレーやブレーやその他の人でとによってもっとずっとよく展開されたものなのです。
 しかしこういうことは、このような智恵が「科学」という名のもとに流行することを妨げないのです。プルードン学派ほど「科学」という言葉を乱用した学派かくてありませんでした。というのも「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまくまにあうようにやってくるもの」だからです。

 これに関連しては、エンゲルスが『哲学の貧困』の序文で述べている一文を紹介しておきましょう。またここでマルクスが言及しているグレーやブレーについては詳しくは【付属資料】を参照してください。

 〈労働が商品価値の尺度であることが認識されるやいなや、律気なブルジョアの善良な感晴も、この正義の原則を名目上は認めはするが、実際にはたえず平然とそれを無視しているようにみえる世間の意地悪さによって、ふかく傷つけられるのを感じないわけにはいかない。とりわけ小ブルジョア、すなわち彼のまじめな労働--たとえそれが彼の職人と徒弟の労働にほかならないにしても--が大生産と機械との競争によって日一日とますますその価値を失いつつある小ブルジョアは、とりわけ小生産者は、労働価値に従う生産物の交換が最終的に完全に例外なく実現しているような社会を、熱望しないわけにはゆかない。いいかえれば、商品生産の一つの法則はもっぱら完全に妥当するが、そのもとでのみ法則が一般に妥当しうるところの諸条件、すなわち商品生産の、さらに資本制生産の、他の諸法則が廃棄されるような社会を、熱望しないわけにはゆかない。
 このユートピアが、近代の--現実上あるいは観念上の--小ブルジョアの思考様式のなかにきわめて深く根をおろしていることの証拠は、次の事実である。このユートピアは、1831年にすでにジョソ・グレイによって体系的に展開され、30年代にイギリスにおいて実地に試みられかつ理論的にひろめられ、ドイツではロートベルトゥスによって1842年に、フランスではプルードンによって1846年に最新の真理と宣言され、さらに1871年にはロートベルトゥスによって、ふたたび社会問題の解決として、いわば彼の社会的遺言書として公表され、そして1884年にまたもや、それは、ロートベルトゥスの名のもとにプロイセンの国家社会主義をくいものにしようと懸命になっている出世主義者一味を信奉者にかちえている〉(全集第4巻879頁)

 次の第7パラグラフでは一般的な等価形態における対極的な対立がどうなっているかが考察されています。

【7】〈(イ)反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。(ロ)もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。(ハ)その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。(ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。(ホ)一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。(ヘ)こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉

 (イ)一般的な相対的価値形態について上記のようにいえるということは、反対に、一般的等価物の役割を演ずる商品については、この商品が、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは排除されているということがいえるわけです。

 (ロ)もしもリンネルが、つまり一般的等価形態にある何らかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとなると、その商品は自分自身のために等価物として役立たなければならなくなるでしょう。

 (ハ)しかしその場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、私たちが価値表現の兩極を考察したときに確認したように、これは価値も価値量も表さない同義反復でしかなく、ただ〈二〇エレのリンネルは二〇エレのリンネルに、すなわち一定量の使用対象リンネルに、ほかならないということ〉を示すだけに過ぎません。

 (ニ)一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態IIIを逆にしなければならないのです。
 
 (ホ)一般的等価物は、他のすべての商品の身体で、その無限の列で、自身の価値を相対的に表現するしかないのです。

 (ト)こうして、いまでは、展開された相対的価値形態、すなわち形態IIが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのです。

 ここで「等価物商品の独自な相対的価値形態」という用語が出てきますが、これについて大谷禎之介氏は『価値形態』という論文で次のように述べています。

 〈だから、一般的等価物となっている商品の価値を相対的に表現するためには形態C(形態III--引用者)を逆にしなければならない。そうすれば、それの価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されることになる。形態Cを逆をすれば、ふたたび形態B(形態II--引用者)が現われるのだから、いまや、展開された価値形態すなわち形態Bが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われているのである。ただし、等価物商品の価値を表現する商品体の列は、等価物である商品が直接に交換しうる他の諸商品のそれぞれの量を示す等式の列であって、形態から見れば展開された相対的価値形態と同じものであるが、それは事実上、商品世界に属するすべての商品の一般的価値表現の無限の列を、あるいはそれの一覧表を逆に読んだものにほかならない。だからそれは、等価物商品の独自な相対的価値形態と言われるのである。(第26図)〉(下線は大谷氏。『経済志林』第61巻220-1頁)

 ついでに大谷氏が図示している「第26図」も紹介しておきます。ただこれはあくまでも一つの参考して紹介するのであって、その是非は各自判断して下さい。

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第30回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2010-11-27 14:57:46 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その3)


【付属資料】

●〈二〉の表題について

《初版付録》--二つの項目に分けられている。

 〈(3)相対的価値形態と等価形態との均斉のとれた発展開係〉
 〈(4)相対的価値形態と等価形態との対極性の発展〉

《補足と改訂》

 〈2)相対的価値形態と等価形態との発展関係〉(小黒訳下23頁)

《フランス語版》

 〈(b) 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉

●【1】パラグラフに関するもの

《初版付録》

 〈相対的価値形態の発展度には、等価形態の発展度が対応している。ところが、このことは充分に注意すべきことだが、等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現でありかつまた結果であるにすぎないイニシアチブは、後者のほうから発動する。〉(江夏訳902頁)

《フランス語版》

 〈等価形態は相対的形態とともに、同時に、段階的に発展する。しかし、このばあいよく注意すべきことだが、前者の発展はたんに後者の発展の結果であり表現でしかない。発端が始まるのは後者からである。〉(江夏他訳41頁)

●【2】パラグラフに関するもの

《初版付録》

 〈単純な相対的価値形態は、一商品の価値を、唯一の他の商品種類でのみ表現するのであって、この商品種類がなんであってもかまわない。だから、この商品は、それ自身の使用価値形態あるいは現物形態とは異なる価値形態しか受け取らない。この商品の等価物も、単一の等価形態しか受け取らない。発展した相対的価値形態は、一商品の価値を、他のすべての商品で表現する。だから、他のすべての商品は、多くの特殊的な等価物という形態すなわち特殊的な等価形態を、受け取るわけである。最後に、商品世界は、自分に、統一的な一般的な相対的価値形態を与えるが、そうするのは、商品世界が唯一の商品種類をのけものにし、この唯一の商品種類のうちに、他のすべての商品が自分たちの価値を共同で表現するからである。こうすることによって、こののけものにされた商品が一般的な等価物になる。すなわち、この等価形態が一般的な等価形態になるわけである。〉(江夏訳902頁)

《補足と改訂》

 〈最初の文章 +
 一商品の簡単な、または個別的な価値形態は、他の一商品を個々の等価物にする。相対的価値の展開された形態、すなわち他のすべての商品による一商品の価値の表現は、それらの商品にさまざまな種類の特殊的等価物という形態を刻印する。最後に、ある一つの特殊的な商品種類が一般的等価形態を受け取るが、それは、他のすべての商品が、その商品種類を、それらの商品の一般的相対的価値形態の材料にするからである。〉(小黒訳下23頁)

《フランス語版》

 〈一商品の単純なあるいは単独な相対的価値形態は、なんらかほかの一商品を偶然的な等価物として前提している。発展した相対的価値形態、他のすべての商品においての一商品のこうした価値表現は、他のすべての商品全部にいろいろな種類の特殊な等価形態を押しつける。最後に、独自な一商品が一般的等価形態を獲得するが、それというのも、他のすべての商品がこの商品を、自分たちの一般的な相対的価値形態の材料にするからである。〉(江夏他訳41頁)

●【3】パラグラフに関するもの

《初版付録》

 〈相対的価値形態と等価形態との対極的な対立、あるいは、不可分な一対であるとともに同じく絶えず排除しあっているというと、したがって、(1)一商品は、他の商品が反対の形態になければ、一方の形態にあることができないということ、そしてまた、(2)一商品が一方の形態にあると、その商品は、この価値表現では、同時に他方の形態にもあることができないということ--価値表現の両契機のこういった対極的な対立は、価値形態一般が発展または完成するのと同じ度合いで発展し硬化する。〉(江夏訳902頁)

《補足と改訂》

 〈しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その両極である相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。〉(小黒訳下23頁)

《フランス語版》--独自のパラグラフとしてはない、次のパラグラフと一緒のパラグラフになっている。

●【4】パラグラフに関するもの

《初版本文》

 〈単純な相対的価値形態(形態 I )である 1着の上着=20エレのリンネルが、一般的な相対的価値形態である 1着の上着=20エレのリンネルから区別されるのは、この等式が今では次の系列の一環を形成しているからにほかならない。
 1着の上着=20エレのリンネル
 u量のコーヒー=20エレのリンネル
 v量の茶=20エレのリンネル
  等々
 つまり、形態 I は、じっさいには、リンネルが一つの単一の等価物から一般的な等価物に発展しているということによってのみ、区別されている。したがって、単純な相対的価値表現にあっては、自分の価値量を表現する商品ではなく、価値量がそれにおいて表現されるところの商品が、直接的交換可能性の形態、等価形態、したがって直接的に社会的な形態を得ているとすれば、同じことは、一般的な相対的価値表現についてもあてはまる。だが、単純な相対的価値形態にあっては、この区別はまだ形式的であってぼやけている。1着の上着=20エレのリンネル では、上着が自分の価値を相対的に、すなわちリンネルで、表現しており、そうすることによって、リンネルが等価形態を得ているとしても、この等式は、20エレのリンネル=1着の上着 という逆の関係を直接に含んでいるのであって、この関係では、上着が等価形態を得ており、リンネルの価値が相対的に表現されているのである。相対的価値としての・および等価物としての・両商品の価値形態がもっところの、このように対称的であり相互的である表示は、もう生じていない。1着の上着=20エレのリンネル 一般的な相対的価値形態--この形態ではリンネルが一般的な等価物である--が、20エレのリンネル=1着の上着 に転倒されても、そのことによって、上着は、すべての他商品にとっては一般的等価物になるのではなくて、リンネルの特殊な等価物になるにすぎない。〉(江夏訳50-1頁)

《初版付録》

 〈形態 I においては、この両形態はすでに互いに排除しあっているが、このことは形式的であるにすぎない。同じ等式を前方から読むか後方から読むかに応じて、リンネルと上着という両商品種のそれぞれが、一様に、あるときは相対的価値形態にあり、あるときは等価形態にある。対極的な対立をしっかりとらえておくには、このばあいまだ骨が折れる。〉(江夏訳902-3頁)

《補足と改訂》

 〈第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着--は、すでにこの対立を含んでいるが、それを固定化させてはいない。例えば20エレの[リンネル]=1着の上着という価値等式において、一方の極の上着が相対的価値形態にあり、反対の極のリンネルが等価形態にある。いま、この同じ等式を逆から読めば、上着とリンネルは単純に役割を交換するが、等式の形は不変である。それゆえ、ここでは、対立を固持するのはまだ骨がおれる〉(小黒訳下24頁)

《フランス語版》

 〈しかし、価値形態一般が発展するのに応じて、その二つの極である相対的価値と等価物との対立もまた発展する。20メートルのリンネル1着の上衣 という第一の価値形態自体が、すでにこの対立を含んでいるが、この対立を固定してはいない。この等式では、一方の項であるリンネルが相対的価値形態のもとにあり、これと反対の項である上衣が等価形態のもとにある。いまこの等式をあべこべに読むならば、リンネルと上衣とはただたんにその役割を変えるだけだが、等式の形態は同じままである。したがって、このばあい両項間の対立を固定することは困難である。〉(江夏他訳41頁)

●【5】パラグラフに関するもの

《初版付録》

 〈形態IIにおいては、いつでも一つ一つの商品種類がそれの相対的価値を総和として発展させることができるのは、すなわち、この商品種類自身が発展した相対的価値形態をもっているのは、他のすべての商品がこの商品種類にたいして等価形態にあるからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳903頁)

《補足と改訂》

 〈         [C]
 したがって、ここではもはや、20エレのリンネル=1着の上着または=1 0ポンドの茶または1クオーターの小麦または等といった価値等式の両辺を置き換えることは、等式の全性格を変えることなしに、そして、等式を全体的な価値形態から一般的価値形態へ転換するこなしには不可能である。
           [D]
 したがって、ここではもはや、等式の両辺を置き換えることは、この等式の全性格を変えてそれを全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには、不可能である。〉(小黒訳下24頁)

《フランス語版》

 〈形態IIでは、一種類の商品がその相対的価値を完全に発展させることができる、すなわち、総和の相対的価値形態を帯びている。というのは、他のすべての商品がこの商品にたいして等価形態のもとにあるからであり、またそのかぎでのことである。
 この形態では、この等式の性格を完全に変えて、これを総和の価値形態から一般的価値形態に移行させることなしには、この等式の両項を置き換えることがもはやできなくなっている。〉(江夏他訳41-2頁)

 (【付属資料】の以下の項目は、字数制限の関係で「その4」に続きます。)

コメント

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その4)

2010-11-27 14:37:11 | 『資本論』

第30回「『資本論』を読む会」の報告(その4)


【付属資料】の続き

●【6】パラグラフに関するもの

《初版本文》

 〈諸商品の一般的な相対的価値表現にあっては、上着やコーヒーや茶等々の各商品とも、自分の現物形態とはちがった価値形態、すなわちリンネルという形態をもっている。そして、まさにこういった形態において、諸商品は、交換可能なものとして、しかも量的に規定された割合で交換可能なものとして、互いに関係しあっている。なぜならば、1着の上着=20エレのリンネル、u量のコーヒー=20エレのリンネル、等々 であれば、1着の上着=u量のコーヒーでもあるからだ。すべての商品が同一商品のうちに自分たちを価値量として映し出すことによって、これらの商品は互いに価値量として映りあっているのである。ところが、これらの商品が使用対象としてもっている諸現物形態は、これらの商品同士にとっては、こういった回り道を経てのみ、したがって直接にではなく、価値の現象形態として認められているのである。だから、これらの商品は、自分たちの姿のままであれば、直接的に交換可能なものではなくなる。つまり、それらは、相互間での直接的交換可能性という形態をもっていない、すなわち、それらの社会的に妥当な形態は、媒介された形態なのである。逆に言えば、価値の現象形態としてのリンネルに、すべての他商品が関係することによって、リンネルの現物形態が、すべての商品とのリンネルの直接的交換可能性という形態になり、したがって、直接的にリンネルの一般的社会的形態になるわけである。〉(江夏訳52頁)
 〈だから、商品が、すべての他商品との直接的交換可能性という形態で、したがって直接的に社会的な形態で、存在しているのは、すべての他商品がこの形態で存在していないからでしかなく、またそのかぎりにおいてのことでしかない。すなわち、商品は総じて、それの直接的な形態がそれの使用価値という形態であってそれの価値という形態ではないために、直接的に交換可能な形態あるいは社会的な形態では、もともと存在していないからなのである。
 一般的な直接的交換可能性という形態を見ても、この形態が対立的な商品形態であり、非直接的交換可能性という形態と不可分であるのは、あたかも磁極の一方の陽性が他方の陰性と不可分であるようなものだ、といったことは、じっさいにはけっしてわからない。だから、すべての商品に直接的交換可能性の極印を同時に押すことができると想像しうるのであって、このことは、すべての労働者を資本家にすることができるかのように想像しうるのと、同じでである。ところが、じっさいには、一般的な相対的価値形態一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的形態の、対立的な、相互に前提しあい、相互に斥撥しあう両極なのである。(23)〉(同上53頁)

《初版付録》
 
 〈最後に、形態IIIにおいては、商品世界は一般的社会的な相対的価値形態をもっているが、このことは、商品世界に属するすべての商品が、等価形態あるいは直接的な交換可能性という形態から排除されているからこそであり、また、そのかぎりにおいてのことでしかない。〉(江夏訳903頁)

《補足と改訂》

 〈             [A]
 さいごに、形態III、
          1着の上着       =
          1 0ポンドの茶     =
          1クオーターの小麦 = 2 0エレのリンネル
          x商品のA         =
                    その他の商品       =
において、商品世界が一般的社会的な相対的価値形態をもつのは、全ての商品が、ただ一つの商品をのぞいて、等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりにおいてでのことにすぎない。リンネルという一つの商品が、ここで、他の全ての商品との直接的交換可能性の形態または直接的社会的形態にあるのは、他のすべての商品がこの形態にないからであり、またその限りでのことである。(これに対する注、本文p.31と注23)
 それゆえここでは、相対的価値形態自身が諸商品を等価形態から排除している。一般的等価物として機能し、それゆえ、商品の一般的相対的価値形態から排除されている商品については逆である。
 一般的等価物として機能する商品の相対的価値は、そのように等式を逆転することによって表現され、それゆえ・・・・に解消する。
              [B]
最後の形態、形態Eが、最終的に商品世界に一般的相対的価値形態をあたえる。
              [B2]
・・・ 、ただ一つの例外をのぞいて、すべての商品が等価形態から排除されているからであり、またその限りにおいてである。だから、リンネルという一つの商品が他のすべての商品との直接的交換可能性の形態または直接的社会的形態にあるのは、他のすべての商品がそこにないからでありまたその限りでのことである。(これに対する注、本文p.31 と注23)
 一般的等価物として機能し、商品の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態から排除されている商品については逆である。〉(小黒訳下24-5頁)

《フランス語版》

 〈終りに、最後の形態である形態IIIは、諸商品全体に一般的で画一的な相対的価値表現を与えるが、それは、この形態がただ一つの商品を例外として、他のすべての商品を等価形態から排除するからであり、またそのかぎりでのことである。したがって、リンネルという一商品は、他のすべての商品との直接的交換可能性という形態のもとにあるが、それは、他のすべての商品がこの形態のもとにないからであり、またそのかぎりでのことである。(23)〉

●【注24】に関するもの

《初版本文》

 〈(23)商品生産という形態のなかに人間の自由と個人の独立との頂点を見る小市民にとっては、この形態につきものの不都合から、ことにまた諸商品の非直接的交換可能性から免れるということは、もちろん、大いに望ましいことであろう。この俗物的なユートピアを描きあげたものが、プルードンの社会主義であって、この社会主義は、私が他の箇所で示しておいたように、けっして独創性という功績をもっているわけではなく、むしろ、彼よりもはるか以前に、ブレーやグレーやその他の人人々の手で、はるかにもっとうまく叙述されていた。このことは、このような知恵が今日フランスでは「科学」という名のもとではびこっているのを、妨げてはいない。プルードン学派ほど、「科学」という言葉を乱用した学派はなかった。なぜならば、「まさに概念の欠けているところに、言葉がうまく間にあうようにやってくるものなんだ。」ゲーテ『ファウスト』岩波文庫版、相良守峯訳、第1部、133頁、より引用〕。〉

《フランス語版》

 〈(23) 直接的、普遍的な交換可能性という形態は、一見したところでは、次のことをすこしも示していない。すなわち、この形態は、自己のうちに対立を含んでいる分極形態であって、磁石の一方の極の陽極としての役割が、他方の極の陰極としての役割から分離できないのと全く同じように、この形態は、直接的な交換が不可能であるような反対の形態から分離できない、ということ。したがって、人は、すぺての商品を直接的に交換可能なものにする能力が自分にある、と想像することができる。ちょうど、すべてのカトリック教徒を同時に教皇にすることができる、と想像することもできるように。だが、実際には、一般的な相対的価値形態と一般的な等価形態とは、諸商品の同じ社会的関係の、相互に想定しあい相互に排除しあう二つの対極なのである。
 諸商品間の直接的交換がこのように不可能であることは、現在の生産形態--ブルジョア経済学者はこの生産形態のうちに人間の自由と個人の独立との絶頂を見ている--に結びついている主要な不都合の一つであるが、この障害を克服するために、多くの無駄で空想的な努力が試みられてきた。私が別の場所で示したように、この試みではプルードンは、プレーやグレーやその他の人々に先を越されていたのである。〉(江夏他訳42頁)

・ブレイ、ジョン・フランシス(1809-1895)アメリカ生まれのイギリスのユートピア社会主義者、経済学者としてはオーエンの信奉者、職業は植字工、1837年創立のリーズ労働者協会の会計係、1842年にアメリカに帰る。ブレイの著書は『労働者の不当な処遇と労働者の救済策』(1839年)があるが、『哲学の貧困』ではそこからかなり長い引用がなされている(全集第4巻97-106頁参照)。そのなかでマルクスが結論的に述べている部分を紹介しておこう。

 〈はじめにあったのは、生産物の交換ではなくて、生産に困協力する労働の交換である。生産物の交換様式は、生産諸力の交換様式に依存するのである。一般に、生産物の交換の形態は、生産の形態〔生産様式--ドイツ語版〕に照応する。後者を変えれば、それに応じて前者も変化するようになるであろう。それゆえにわれわれは社会の歴史のなかに、生産物を交換する様式がそれらの生産物を生産する様式にもとついて規定されるのを見るのである。私的交換もまた一定の生産様式に照応している。そして、この生産様式そのものがまた、諸階級の敵対関係に照応しているのである。だから、階級対立がなければ私的交換はありえない。
 しかし、実直な〔ブルジョア的〕良心はこの明白な事実を拒否する。ブルジョアであるかぎり、人はこの敵対関係をば、他人の犠牲において自分だけ儲けることをだれにも許さない調和と永遠の正義の関係〔状態--ドイツ語版〕とみなすほかには、どうしようもないのである。ブルジョアにとっては、私的交換は諸階級の敵対関係がなくとも存続しうるのである。彼にとっては、私的交換と階級対立とは、まったく関係のない事がらなのである。ブルジョアが心のなかで考えているような私的交換は、実際におこなわれている私的交換とは似てもつかぬものなのである。
 ブレイ氏は、実直なブルジョアの幻想をば、彼が実現したいと念願している理想に祭りあげる。私的交換を浄化することによって、私的交換のなかに彼の見いだすいっさいの敵対関係を除去することによって、彼が社会のなかに忍びこませようと念願している「平等主義的」諸関係を見いだすことができる、と彼は信じこんでいるのである。
 ブレイ氏がこの世の中に適用しようと念願しているこの平等主義的関係なるものは、この、現実を是正する理想なるものは、それ自体が現在の社会の反映にすぎないのであり、したがってまた、現在の社会の美化された影にほかならぬものを基礎として社会を再建することはまったく不可能なことを、氏は理解しないのである。この影がふたたびはっきりとした姿となるにつれて、人々は、この姿が社会の夢想された理想像であるどころか、社会の実際の姿であることに、気づいていくのである。〉(全集第4巻105-6頁)

・グレイ、ジョン(1798-1850)、イギリスのユートピア社会主義者、ロバート・オーエンの門弟。グレイの著書は『社会制度論、交換原理についての一論』(1831年)、『貨幣の性質および用途にかんする講義』(1848年)等がある。マルクスは、『経済学批判』でグレーの学説について詳しく言及している(全集第13巻66-69頁参照)。今その最初の部分を紹介しておこう。

 〈労働時間を貨幣の直接の度量単位だとする学説は、ジョン・グレーによってはじめて体系的に展開された。彼は、国民のための一つの中央銀行に、その支店をつうじて種々の商品の生産についやされる労働時間を確かめさせようとする。生産者は、商品と引き換えに公式の価値証明書、すなわち彼の商品がふくんでいるだけの労働時間にたいする受領証を受け取る。そして一労働週、一労働日、一労働時間等々のこれらの銀行券は、同時に、銀行の倉庫に収納されている他のすべての商品のかたちでの等価物にたいする指図証券として役だつ。これがその根本原則であって、それは細目にわたって、またすべて現存のイギリスの諸制度にもとづいて、注意ぶかく考えぬかれている。(以下略)〉(66頁)

●【7】パラグラフに関するもの

《初版本文》

 〈上着の相対的価値形態が一般的であるのは、上着のそれが同時に、すべての他商品の相対的価値形態であるからにほかならない。上着にあてはまることは、コーヒー等々にもあてはまる。だから、諸商品の一般的な相対的価値形態はこれらの商品そのものが一般的な等価形態から排除する、という結果になる。逆に、リンネルのような一商品は、それが一般的な等価形態をもつやいなや、一般的な相対的価値形態から排除される。リンネルの一般的な、他の諸商品と統一的な、相対的価値形態は、20エレのリンネル=20エレのリンネル であろう。だが、これは同義反覆であって、この同義反、一般的な等価形態にありしたがって絶えず交換可能な形態にあるこういった商品の価値量を、表現するものではない。むしろ、20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=等々という発展した相対的価値形態が、いまでは、一般的な等価物の独自な相対的価値表現になるのである。〉(江夏訳51-2頁)

《初版付録》

 〈逆に、一般的な等価形態にある商品、すなわち、一般的な等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがって一般的な相対的価値形態からは、排除されている。もしリンネルが、すなわち一般的な等価形態にあるなんらかの一商品が、同時に、一般的な相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は、等価物としての自分自身に関係させられなければならないであろう。そうなると、われわれの手にはいってくるものは、20エレのリンネル20エレのリンネル という、価値も価値の大きさも表現されることのない同義反覆である、ということになる。一般的な等価物の相対的価値を表現するためには、形態IIIを逆にしなければならない。一般的な等価物は、他の誇商品と共通な相対的価値形態をなんらもっていないのであって、それの価値は他のすべての商品体の無限の系列のうちに相対的に表現されている。こうして、いまでは、発展した相対的価値形態、すなち形態IIが、一般的な等価物の役割を演ずる商品の独自な相対的価値形態として、現われているわけである。〉(江夏訳903頁)

《フランス語版》

 〈この形態IIIのもとでは、商品世界が社会的、一般的な相対的価値形態をもっているのは、その世界を構成するすべての商品が、等価形態から、すなわち、それらの商品が直接的に交換可能であるところの形態から、排除されているからにほかならない。これと反対に、一般的等価物として機能する商品、たとえぽリンネルは、一般的な相対的価値形態に参加することができないであろう。参加するためには、リンネルは自分自身のために等価物として役立つことができなければならないであろう。そのばあい、20メートルのリンネル20メートルのリンネル という、価値も価値量も表現しない同義反復が得られる。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、形態IIIをあぺこべに読まなければならない。一般的等価物は、他の商品と共通な相対的形態をすこしももたないのであって、その価値は、他のすべての商品の果てしない系列のうちに相対的に表現される。このようにして、発展した相対的価値形態、すなわち形態IIはいまや、一般的等価物が自分自身の価値をそのうちに表現するところの独自な形態として現われる。〉(江夏42-3頁)

コメント

第30回「『資本論』を読む会」の案内

2010-11-10 21:28:08 | 『資本論』

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    
 11月2日に開票された、アメリカの中間選挙は、オバマ民主党の大敗に終わった。民主党は下院で過半数を割り込み、上院では辛うじて過半数は維持したものの大幅な後退を余儀なくされた。


米中間選挙で敗北したオバマ大統領

 オバマ大統領は、敗因について「米国民にとって最大の懸念は、経済であることには疑いの余地がない。必要な前進ができていないという事実、私に直接の責任がある」と経済問題への対応の不十分さにあることを認めた。
 実際、米CNNの出口調査でも投票にあたって重視した政策では「経済」を挙げた人が62%に登ったという。今年9月の全米の失業者数は1477万人に登り、失業率も9.7%となっている。さらに仕事を失うだけでなく、資産の差し押さえなどで住む場所さえ失う人が増大しているのだという。

 しかし下院で過半数を割ったオバマ政権は、景気対策の主導権を失ったも同然とも言われている。オバマ政権は、この間、景気刺激策として史上最大となる7800億ドル(約64兆円)もの財政出動を行ってきた。しかし下院で過半数を握った共和党は、それらの政策を「大きな政府」政策として批判しており、今後は財政出動が困難になると予測されているからである。

 こうしたなかで11月3日、米連邦準備制度理事会(FRB)は、来年6月までに6000億ドル(約49兆円)の長期国債(米債)を金融機関から買い入れるなどの追加の金融緩和策を決めた。FRBは2008年のリーマン・ショックによる金融恐慌に対応するために、同12月にいわゆる「ゼロ金利政策」を導入、昨年3月には長期国債3000億ドルの購入や住宅ローン担保証券や政府機関債の購入など矢継ぎ早に信用を膨張させる政策を打ち出してきた。今回の国債の購入額はそれらを大幅に上回る規模である。

 これを受けて、日本銀行は、すでに35兆円の基金をもとに、5兆円規模の長期国債の市中銀行からの購入や、株価指数連動型上場投資信託(ETF)や不動産投資信託(J-REIT)の市場購入などに踏み切ることを打ち出していたが、それを始めるために、5日、政策決定会合を前倒しして、週明けから開始することを決めたのだという。

 こうした日米の膨大ないわゆる「金融緩和策」というものの実体は一体何なのであろうか。すなわち経済学的にはそれらはどのように説明されるべきであろうか。またそれは今後の世界経済にどのような影響を及ぼすのであろうか。

 人によっては、こうした政府の政策を、「通貨の垂れ流し」とか「ヘリコプターで通貨をばらまく」とか、あるいは「輪転機をフル回転してドルをばらまく」などと説明する。しかしこれらは厳密な意味での「通貨」とは直接には何の関係もない。それらはマルクスが「帳簿信用」と述べている操作にもとづいている。つまり預金の帳簿記録をただ書き換えているだけに過ぎないのである。それを政府の信用(公信用)だけにもとづいて行っているわけだ。だからこうした膨大な貨幣の貸し借りが可能なのである(国債等の債権購入の実際の内容は利子生み資本に固有の運動である「貸借」である)。マルクスは「通貨」と「貨幣資本(moneyed Capital)」とは、恐慌時のような支払手段としての現金への需要が強烈に生じる一時期を除けば、直接には関連しないと次のようにのべている(ただし、こうした現金需要そのものも、信用制度が高度に発達している現在では、例え恐慌時でもほとんどなくなっている)。

 〈このような場合(恐慌時--引用者)のほかは、通貨の絶対量は利子率(つまり貸し付け可能な貨幣資本の増減--同)には影響しない。なぜならば、この絶対量は――通貨の節約や速度を不変と前提すれば――第一には、諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており(といってもたいていの場合一方の契機は他方の契機の作用を麻痺させるのであるが)、また最後に信用の状態(諸支払の相殺度合い--同)によって規定されているが、逆にそれが信用の状態を規定するのではけっしてないからである。また、第二には、商品価格と利子とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉(『資本論』第3部第33章全集25b680頁)

 以前に指摘した、「通貨」と「為替」との区別と同様に、またその区別を理解するためにも、「通貨」と「貨幣資本(利子生み資本)」との区別を理解することは、今日の複雑な金融諸政策の実際の内容を読み解くには極めて重要なのである。

  さて、こうした政府の政策は、当然、市中銀行の貸し付け可能な貨幣資本を増大させる。だから金利は実質上ゼロに張りつく。しかしそれらが生産的な投資、すなわち蓄積に向かうことはほとんどできない。なぜなら、日米の産業資本はリーマン・ショック以後露呈した過剰生産に直面しており、何一つそれらが解消されていないからである。いくら市中銀行に実質ゼロ金利で入手した貸し付け資本が潤沢にあっても、彼らは将来焦げつきが予想され損失が確実な中小企業などに貸し付けるわけがないし、また大企業の側も低落した利潤率のもとで新規投資をする余地をほとんどなくしているからである。だからそれらのほとんどは銀行準備の一形態である様々な「金融商品」の購入に充てられざるを得ない。特に日米の金融機関に溢れる膨大な貨幣資本(moneyed Capital)は新興諸国の債権や土地等への投機資金として流出しており、それらの国々でバブルを引き起こす可能性が指摘されている。


 そしてこうした貨幣資本の流出は、同時に、日米の為替相場(ドルや円)を押し下げる効果をもち、他方、それが流入する新興諸国(例えば中国やインド、ブラジル等)の為替相場を押し上げて、それらの国々の輸出を困難にさせている。だからオバマや菅は、それをドル高や円高に対抗する有効な為替政策の一つともしているわけである。

 8日の人民日報は、米追加緩和策は間接的な為替操作だとする論説を掲載し、FRBの行動は「世界の通貨切り下げ競争を誘発、『通貨戦争』や貿易保護主義につながり、世界経済の脅威になる」と指摘した。しかしそういう中国政府自身も、米国などの強い抗議にも関わらず、為替相場に直接介入する姿勢を変えず、膨大な外貨準備を積み上げるばかりなのである。

 かくして、世界の大国は今や国内経済の行き詰まりのなかでますます余裕を失い、互いの損失を相手に押しつけ合う競争へと駆り立てられ、経済的・政治的な軋轢と対立・抗争の時代へと突入しつつあるかである。

 こうした世界情勢や各国政府の経済政策の実際の内容を解明していくためにも、やはり『資本論』をしっかり研究することがますます必要となりつつある。是非、貴方も『資本論』を共に読んでみませんか。

…………………………………………………………………………………………

第30回「『資本論』を読む会」・案内


                                                                                      ■日 時   11月21日(日) 午後2時~

  ■会 場   堺市立南図書館
          (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

  ■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主 催   『資本論』を読む会

 

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