『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(1)

2022-11-19 05:40:18 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(1)

 

◎「随想・高須賀さんと佐藤さんとへの書債」と「あとがき」(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第14章 随想・高須賀さんと佐藤さんとへの書債」と最後の「あとがき」を取り上げます。
 前者は『マルクス経済学と現代資本主義』(鶴田満彦・長島誠一編、2015年7月、桜井書店)に挿入された「栞」のために書いたもののようです。ここで〈高須賀さんと佐藤さんとへの書債〉とあるのは、前回もとりあげた『資本論』が当初のマルクスの六部構成のプランからどのように変更されたのか、という問題に関するものです。
    1987年11月28日に,高須賀氏の肝いりで,佐藤氏を囲む「『資本論』成立史をめぐる諸問題」の「合同シンポジウム」が開催されましたが、その場で佐藤氏は『経済学批判要綱』での「資本一般」と『資本論』との関係についてかつての考えが変わってきたと述べ、〈『資本論』は「資本一般」だ,と言うのは適切ではなく,『資本論』第3部でのマルクスの表現でのように「資本の一般的分析」と呼んだほうがいい〉(574-575頁)と主張したということです。
    しかし佐藤氏は、なぜ『資本論』を「資本の一般的分析」と呼んだほうがよいのかについて、何も説明しなかったので、〈それ以来,筆者は,この点を方法に関連させて立ち入って説明すべき責務を負わされた,と感じてきていた〉(575頁)というのです。それが「書債」の内容のようです。そしてこの書債を大谷氏は2014年にようやく果たしたと次のように述べています。

  〈2014年に経済理論学会刊の『季刊経済理論』(第51巻第2号)の特集「MEGA第II部門研究の現在」に執筆の機会を得て,拙稿「「資本の一般的分析」としての『資本論』の成立」を書き,『資本論』はなぜ「資本の一般的分析」と特徴づけられるべきかについて拙見を述べ,ほぼ四半世紀後にようやくこの書債を返すことができたのだった。〉 (575頁)

    なおこの論考はその後、加筆されて『マルクスの利子生み資本論』第1巻に収録されたということです。

    最後の「あとがき」ですが、本書は大谷氏が生前に刊行した最後の著書ということもあって、肺ガンとの闘病の経緯について、あるいは年相応の脳の老化の自覚など近況について率直に語っています。
  そして〈本書は筆者の最後(サイゴ)っ屍(ペ)である。「まりも美しと嘆(ナゲ)く男」が見て嗅(カイ)いで味わってみたものの例もあるから,屍(ヘ)だから臭(クサ)いとはかぎらないかもしれない。そこで本書にも,香(コウ)を聞くようにそっと優しく接してくださるななら,ひょっとして,ここに薫(タ)き籠(コ)めたつもりの,香木(コウボク)が醸(カモ)す香気(コウキ)を感じていただけるかも,という秘(ヒソ)やかな願いを筆者は捨てられずにいるのである。〉(577頁)と綴っています。
    そして高校時代からのマルクスの遍歴や久留間鮫造氏との出合など著者の長い研究生活の思い出を書き、さまざまな方へのお礼を述べて終わっています。

    以上で、ながながと取り上げてきました本書の紹介を終えます。これまでは本書の主な内容をビックアップするかたちで紹介してきましたが、本書の大部をなす「『資本論』第2部第8稿」のテキスト部分はまったく取り上げませんでした(ただエンゲルス版の第21章該当部分の草稿の解読は以前やったことがあり、それを参照してください)。また「第7章 『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡--MEGA第II部門第11巻の刊行に寄せて--」もすでに雑誌『経済』掲載時に一度とりあげて批判を展開したことがありますので、これも省略しました。さらに「第8章 「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか--『資本論』第2部形成史の一駒--」についても第7章の補足として書かれたもので、それについても第7章の批判の続きとして取り上げて批判しており、それを参照していただけるので、ここでは取り上げませんでした。『資本論』第2部の第8稿のエンゲルス版第19章・第20章該当部分のテキストの解読はまだ手つかずですが、今取り組んでいる第3部第5篇該当部分の草稿の解読を終えたあと取り組む予定です。しかしそれまで私自身が生きながらえているのかどうかもハッキリしない状況ですので、確約はできません。

    それでは肝心の『資本論』のテキストの解説に移ることにしましょう。今回から「第6章 不変資本と可変資本」に入ります。だからやはり第5章と第6章の関連などを見ることから始めましょう。


◎「第5章 労働過程と価値増殖過程」から「第6章 不変資本と可変資本」への移行について

  マルクスは「商品に表される労働の二重性」のところで次のように述べていました。

    〈最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。次には、労働も、それが価値に表わされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された。このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。〉 (全集第23a巻56頁)

    このようにマルクスは「労働の二重性」は自分によって初めて批判的に指摘されたことを述べ、その点は〈経済学の理解にとって決定的な跳躍点である〉とも述べていました。そして実際、私たちはこれまでの展開だけでも、労働の二重性があらゆるものの基礎にあることを見てきました。第5章で問題になった労働過程と価値増殖過程というのは、資本による商品の生産が使用価値の生産と価値(剰余価値)の生産という二つの契機の統一したものであることを明らかにしていますが、その背景には労働の二重性があることも指摘されたのです。
    今回から問題にする「不変資本と可変資本」も労働の二重性と同じくマルクスによって初めて区別され範疇として確立されたものです。そしてそれはやはり労働の二重性と同じく、まさに『資本論』全3巻にわたって重要な意味を持っていることが分かってくるのです。
    一例を挙げますと、例えば第2巻の第3篇では社会的総資本の再生産過程が分析にされていますが、これも資本の構成を不変資本と可変資本と剰余価値とに分けることによって、それらの相互補塡関係として、再生産過程が分析可能になっています。さらに第3巻では資本主義的生産が高度化すればするほど、資本が生産の目的とも推進動機ともする利潤率が傾向的に低下さぜるをえない法則をマルクスは明らかにしていますが、こうした法則の解明も不変資本と可変資本との区別なくしてはできないのです。だからこの第6章は比較的短いものですが、極めて重要な問題を論じているということがお分かりになるでしょう。
    それでは実際に、その内容を具体的に見て行くことにしましょう。


◎第1パラグラフ(労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。)

【1】〈(イ)労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。〉

  (イ) 労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加します。

  第5章第1節「労働過程」の第3パラグラフには次のように書かれていました。

  〈労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。〉

    つまり労働過程では、合目的な活動としての労働が労働手段を使って労働対象に働きかけて、生産物を生産するわけです。そして第8パラグラフでは次のように書かれていました。

  〈この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。〉

    つまり労働過程の結果としての生産物からその全過程を振り返ったら労働過程の諸契機は生産的労働と生産手段として現われるということです。

    だから労働過程のいろいろな要因というのは、(1)労働そのもの、(2)労働対象、(3)労働手段があり、生産物から全過程をみれば、生産的労働と生産手段という諸要因があるということです。
    これらの諸要因がそれぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加するというのですが、それをこれから詳しく見て行こうということです。


◎第2パラグラフ(生産手段の価値は、どのようにして、生産物に移転され保存されるのか)

【2】〈(イ)労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。(ロ)他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。(ハ)つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。(ニ)この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれる。(ホ)それは労働によって媒介されている。(ヘ)だが、どのようにしてか?〉

  (イ) 労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加えます。

    ここで問題なのは、労働過程の結果である生産物の価値が、その労働過程の諸契機によってどのように形成されるのかということです。問題が価値ですから、労働の質は問われていませんが、しかし労働過程の諸契機が価値形成にそれぞれどのように寄与するのかということですから、労働過程の諸契機がその限りでは問題になるわけです。
    まず労働過程の一つの要因である労働そのものが、如何にして生産物の価値として結果するかが問題にされています。それは一定の労働が支出されて労働対象や労働手段がもっている価値にあらたな価値を付け加える形で生産物価値になります。

  (ロ)(ハ) 他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだします。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのです。

    すでに述べましたように、労働が新たな価値として付加すると述べましたが、このことは労働対象や労働手段の価値がそのまま生産物価値として見いだすことが前提されているということです。つまり労働対象や労働手段、ようするに生産手段の価値は、生産物に移転されて保存されることが自明のこととして前提されているわけです。

  (ニ)(ホ)(ヘ) この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれます。それは労働によって媒介されていますが、しかし果たして、それはどのようにして行われるのでしょうか?

    この生産手段の価値の生産物の価値としての移転と保存は、明らかに労働過程の結果とて行われるわけですから、労働によって媒介されています。私たちはそれを自明のこととして前提したのですが、しかし果たしてそれはどのようにして行われるのでしょうか。


◎第3パラグラフ(労働者の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転する)

【3】〈(イ)労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。(ロ)一方では自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。(ハ)そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。(ニ)しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。(ホ)同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 労働者は同じ時間に二重に労働するのではありません。つまり一方では自分の労働によって綿花に新たな価値をつけ加えるために労働して、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことですが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではないのです。そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのです。

    生産手段の価値は、明らかに労働によって、生産物の価値として移転され保存されるわけですが、しかしそのために労働者は別に新たな労働をするわけではありません。それは労働者が新たな価値を付け加える労働によって、同時に生産手段の価値を生産物に移転して保存するわけです。

  (ニ)(ホ) しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのですから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものです。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのです。

    しかし労働対象に新たな価値を付け加えることと、生産物のなかに生産手段の価値を移転して保存するということは、まったく別のことであり、まったく違った結果です。しかし労働者はただ一度だけ労働するだけですから、この違いは、ただ労働そのものの二面性からしか説明できません。彼の労働の二つの側面、抽象的人間労働という側面と具体的な有用労働という側面で、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を移転し保存するのです。

   〈労働そのものの二面性〉については、第1章第2節の冒頭の一文をすでに紹介しましたが、ここでは、その同じ第2節の最後の一文を紹介しておきましょう。

  〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この 同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a巻63頁)


◎第4パラグラフ(労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。)

【4】〈(イ)労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのか? (ロ)いつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけである。(ハ)紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのである。(ニ)しかし、彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になる(20)。(ホ)生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである。(ヘ)ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。(ト)だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。(チ)このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのでしょうか? それはいつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけです。つまり紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのです。彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になるのです。

    このパラグラフはフランス語版では若干書き換えられていますので、まずフランス語版を紹介しておきましょう。

   〈労働者はどのようにして労働を、したがって、価値を付加するのか? それは、有用な、また特殊な労働形態のもとで、しかもこの形態のもとでのみ、付加するのではないか? 紡績工は紡ぐことによってのみ、織工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛えることによってのみ、労働を付加する。だが、綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、新しい使用価値である生産物の形成要素に変えるものは、まさしく、機織や紡績などというこういった形態であり、一言にして言えぽ、労働力がそのなかで支出される特有な生産形態なのである(1)。〉 (江夏・上杉訳191-192頁)

    生産手段の価値が生産物の価値として移転され保存されるのは、労働の二面的性質から説明できるというわけですから、ではそれはどのようにしてかを考えねばなりません。まずそもそも労働者の労働が生産手段に新たな価値を付け加えるのは、どうしてかを考えてみるに、それは何らかの具体的な有用な労働の形態をとって行われることによってです。そもそも価値を形成する抽象的な人間労働というのは、具体的な有用労働からその具体性を捨象して得られるものですから、価値形成労働そのものは具体的有用労働を抜きには存在し得ないものです。だから価値を形成するのは労働の抽象的契機によってですが、しかしそれが支出されるのは何らかの具体的な有用な形での労働でしかないわけです。だから労働者が紡績工であれば、その労働は紡ぐという具体的な形態で支出され、織物工はただ織るという具体的な形態を通して、あるいは鍛冶工は同じように鉄を鍛えるという具体的な労働の抽象的契機によって新たな価値を形成することになります。綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、それぞれの生産物(糸、織物、錬鉄)に変えるのは、こうした具体的な有用な労働、それに特有な生産形態によってなのです。

  (ホ)(ヘ) 生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなりますが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけです。ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。

    この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。

   〈生産手段の使用価値の旧形態が消減するのは、新しい形態をとるためでしかない。ところで、われわれがすでに見たように、ある物品を生産するために必要な労働時間は、その物品の生産活動において消費された諸物品を生産するために必要な労働時間をも、含んでいる。換言すれば、消費された生産手段を作るために必要な労働時間が、新しい生産物の中に算入されるのである。〉 (江夏・上杉訳192頁)

    もちろん、これらの生産手段の使用価値は、労働過程のなかで消滅しますが、しかしそれは新しい使用価値になるためです。そして、私たちは第5章第2節の価値増殖過程のなかで次のような事実を指摘しました。

  〈綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。〉 (全集第23a巻246頁)

    つまりある使用価値を生産するために必要な労働時間は、その使用価値の生産のために合目的的に消費された生産手段を生産するために必要であった労働時間を含んでいるということです。
    これはある意味では時間そのものの性質にもとづくもので、一つの自然法則ともいえます。
    太郎が花子の家に行くのに、途中で郵便局によっていく場合、彼は自宅から郵便局まで10分、郵便局から花子宅まで20分かかったとしたら、彼は花子宅までどれだけの時間をかけて行ったことになるか、といえばそれは30分で、10分に20分を加えたものだというのはまったく自然なことです。
    同じように、ロビンソンが机を作るために、まず森に行って木を切るのに10時間、木から木材をつくるのに20時間、そして木材から机を作るのに30時間かかったとしたら、彼は机を作るのに必要な労働時間として合計60時間が必要だったと計算するでしょう。つまり生産手段の生産に必要な労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部を形成するというのは一つの自然法則なのです。
 ただロビンソンの場合はそれぞれの労働はロビンソンの合目的的な意識のもとに一連の労働は結び付いていますが、しかし商品生産社会ではそれぞれの労働は直接には社会的に結び付いて支出されません。それらは個々別々の私的な労働として支出されるだけなのです。だからそれらの労働の社会的な関係はそれらの労働の生産物の価値として関係するしかないわけです。すなわち価値が移転され保存されるという形で労働の社会的関係がそれによって実現されるわけです。

  (ト)(チ) だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってです。このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのです。

    フランス語版ではこの部分は改行されています。

  〈労働者が消費された生産手段の価値を保存し、この価値を生産物価値の構成部分として生産物に移すのは、彼が労働一般を付加するからではなく、この付加的労働の有用的性格、その生産形態によってなのである。労働は、それが有用であり生産活動であるかぎり、生産手段との単なる接触によって、生産手段を死から蘇生させ、これを労働自身の運動の要因となし、これと結合して生産物を構成する。〉 (江夏・上杉訳191-192頁)

    だから労働者が消費された生産手段の価値を保存し、新たな生産物の価値の構成部分として移すのは、彼の労働の一般的な性格によるのではなく、その有用な性格によるのです。なぜなら、労働の社会的関係は、その具体的な有用な形態にもとづいているからです。ロビンソンの伐採労働と製材労働と木工労働が机という生産産物を生産する一連の過程のなかで関連しているのは、その一般的抽象的な契機によってではなく、その伐採や製材や木工という具体的な形態によって結び付いているからです。確かに移転され、保存されるのは価値という社会的な対象性ですが、しかしその移転や保存を媒介するのは、抽象的な労働ではなく、具体的な労働なのです。
    ここらあたりはなかなか分かりにくいところです。ある人は、具体的有用労働は使用価値を生産するのであって、それが価値をどうこうするというのはおかしいのではないか、という疑問を呈し、マルクスは間違っていると独断しました(もっともさすがにマルクスは間違っていると直接的には言えなかったのですが、しかし内容的にはそのように主張したのです)。しかし具体的な有用労働が生産手段の価値に直接関わって、それを移転し保存するわけではないのです。生産手段の価値が移転され、保存されるのは、それらの生産に必要な労働時間が、それを生産的に消費して生産された生産物の生産に必要な労働時間の一部になるという自然法則にもとづいているからです。それが商品生産社会では、価値の移転と保存という形で現われているに過ぎないのです。そして生産手段の生産に必要な労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部になるというのは、まさにそれらの一連の生産物の生産のために支出された具体的な有用労働によってそれらの労働が社会的に結び付いているからいえることなのです。だから具体的有用労働が生産手段の価値を移転し保存するとマルクスは述べているわけです。ここらあたりが分からずに迷いに迷ってマルクスが第2巻で展開している資本の社会的な再生産過程をまったく理解不可能なものにしてしまい、社会主義社会では如何にして生産物の価値規定にもとづく分配がなされるかという荒唐無稽な「理論」をでっち上げて、それが「社会主義の神髄」だなどという馬鹿げたことを主張した人もいたわけです(すでに故人になってしまいましたが。分かる人には分かると思いますが、分からない人は『マルクス研究会通信』というブログの「林理論批判」を参照してください。)。


◎原注20

【原注20】〈20 「労働は、消し去られた創造物の代わりに新たな創造物を与える。」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年、13ページ。)〉

  これは〈しかし、彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になる(20)〉という本文につけられた原注です。ただ原注の引用文の内容を考えると、むしろそのあとの〈生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである〉という一文に付けた方が適切かと思わないでもありません。
    この引用されている〈『諸国民の経済学に関する一論〉というのは匿名の著書のようです。『資本論草稿集』⑨にはこの著書からの引用が幾つか見られます。マルクスは〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている〉(478頁)と述べて、幾つかの抜粋が行われていますが、そのなかに〈不変資本のたんなる維持と可変資本の再生産との相違〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています(下線はマルクスによる強調個所)。

  〈「本来の唯一の再生産的消費とは労働が商品にたいして行なう最終消費であり、この消費が消滅した創造物の代わりに新たな創造物を与える。生産の全体は、私の考えるところでは、すべての中間的交換や中間的過程を経過すること、同時にまた、商品を、農業であれ製造業であれ、全的に創造するか、または既成の商品に改良を加えるかのいずれかによって新価値を生む労働に委ねることからなるように思われる。」(13、14ページ。)「諸生産物は、それらが再生産的消費のために(終局的に、すなわち、生地に吸収されるインディゴのように間接的にではなく)、食糧、衣類、住居がそうであるように、価値を生む労働に委ねられる場合にのみ、資本となる。」(67ページ。)〉 (479頁)


◎第5パラグラフ(労働の二面的な属性から、同じ時点における労働の結果の二面性が生じる)

【5】〈(イ)もし労働者の行なう独自な生産的労働が紡ぐことでないならば、彼は綿花を糸にはしないであろうし、したがってまた綿花や紡錘の価値を糸に移しもしないであろう。(ロ)これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず1労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。(ハ)だから、彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりでのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、それが一定時間継続するからである。(ニ)つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。(ホ)それだから、同じ時点における労働の結果の二面性が生ずるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) もし労働者の行なう独自な生産的労働が紡ぐことでないのでしたら、彼は綿花を糸にはしないでしょう。たがらまた綿花や紡錘の価値を糸に移さないでしょう。しかしその反対に、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず1労働日には彼の材料に同じ価値をつけ加えるでしょう。つまり彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりでのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことなのです。あるいは、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、その労働が一定時間継続するからです。

    このパラグラフは先のパラグラフをさらに補足するために、労働の二重の属性の対立的な性格を示すものになっています。
    つまり労働者の労働が紡績労働などの具体的なものでなければ、彼は綿花を糸に変換しないし、だからまた綿花や紡錘の価値を糸の価値として移すこともしないということ。つまり生産手段の価値を生産物に移転し保存するのは、その労働の独自な具体的属性によってであることを確認し、他方でその労働が価値を付加するためには、同じ労働者が紡績労働ではなく、指物労働を行っても、1労働日に付加する価値は同じだと述べ、価値を付け加える労働は、労働の抽象的契機であり、その特殊な内容は問われないことを指摘しています。つまり価値を形成する労働としては紡績労働も指物労働も同じであり、それらは抽象的な同一の人間労働としてそれらは価値を形成するのだということです。しかし生産手段の価値を生産物に移転するのは、生産手段から生産物を現実に生産する労働のその具体的な内容が問われるわけです。だからどういう特殊な生産手段かということや、労働の目的や質的内容が問題になるわけです。なぜなら、綿花から机を作ることできないし、だからまた綿花の価値を机に移転することなどはできないのは当然だからです。

  (ニ)(ホ) つまり、労働の抽象的な一般的な性質において、同じ人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのです。そして、紡績過程における労働の具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの綿花や紡錘という生産手段の価値を生産物である糸に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのです。だから、同じ時点で労働の二面的な属性(抽象的人間労働と具体的有用労働)によって、二面的な結果(価値の付加と価値の移転・保存)として現われるのです。

    だから紡績工の労働は、指物工の労働と同じ属性、すなわち抽象的・一般的人間労働という属性によって、綿花や紡錘の価値に新たな価値を付け加えるのです。そしてその同じ労働の具体的な属性、すなわち紡錘を使って綿花を紡ぐというその労働の具体的な内容によって、綿花や紡錘の価値を糸の価値の一部として移転し保存するのです。だからこのような労働の二面性が同じ一つの労働によって、一方は新たな価値の付加、他方は旧価値の移転と保存という二つの結果をもたらすわけです。


◎第6パラグラフ(労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。)

【6】〈(イ)労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。(ロ)このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。〉

  (イ)(ロ) 労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存されます。このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的な作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われます。

    このパラグラフはこのような労働の二面的な属性が二面的な作用や結果をもたらすということがさまざまな現象として現われることを以下展開することを示すためのものといえます。ほぼ同じ内容ですが、フランス語版を参考のために紹介しておきましょう。

  〈労働の単なる付加によって、新規の労働量によって、新しい価値が付加され、付加された労働の質によって、生産手段の旧価値が生産物のなかに保存される。労働の二重性格の結果であるところの、同じ労働のこの二重の作用は、無数の現象のなかで見分けがつきうるものになる。〉 (江夏・上杉訳163頁)


◎第7パラグラフ(生産力が6倍になった場合、旧価値を移転・保存する量は6倍になるが、新価値を付加する量はまったく変わらない)

【7】〈(イ)ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しよう。(ロ)合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になった。(ハ)その生産物は、6倍の糸、すなわち6ポンドに代わる36ポンドの糸である。(ニ)しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収しない。(ホ)綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるのであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつけ加えられるだけである。(ヘ)他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸のうちにある。(ト)6紡績時間で6倍の原料価値が保存されて生産物に移される。(チ)といっても、同量の原料には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるのであるが。(リ)このことは、同じ不可分の過程で労働が価値を保存するという性質は労働が価値を創造するという性質とは本質的に違うものだということを示している。(ヌ)紡績作業中に同量の綿花に移って行く必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きい。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しましょう。合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になったわけです。その生産物は、6倍の糸、つまり6ポンドに代わる36ポンドの糸になります。しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収していません。たがら同じ一定量の綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるだけであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつけ加えられるだけなのです。

    ここでは〈労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる〉ということを具体的な例を使って実証しています。
    まず生産力が6倍になった場合です。その場合は紡績工は同じ6時間労働のあいだに6倍の綿花を紡いで6倍の糸を生産することになります。だから彼はその労働の具体的な有用な属性によって6倍の綿花の価値を糸に移転し保存します。しかしその労働の抽象的な人間労働の属性としては、旧来の生産と同じ6時間の労働しか綿花に付加しないわけです。だから新しく付け加えられる価値としてはまったく旧来と変わらないわけです。だから6倍の生産力で生産された糸の一定量には、新たに付け加えられた価値としては、旧来のものの6分の1しかないということになります。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ) 他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸としてあります。6紡績時間で6倍の原料である綿花の価値が保存されて生産物に移されます。といっても、同じ量の原料(綿花)には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるだけなのです。だからこのことは、同じ紡績労働でも、生産力が上がった結果、価値を保存するという性質は6倍の価値を保存するのに、価値を創造するという性質は量的にはまったく変わらない(あるいは一定量の綿花には以前の6分の1の価値を付加する)わけですから、両者は本質的に違うものだということを示しています。

    生産物としては糸は以前の6倍の36ポンドになっています。そしてそれには旧来の6倍の綿花の価値が移転・保存されています。しかしその6倍の糸には旧来と同じ量の新しい価値が付け加えられているだけです。だから同じ紡績労働でも、生産力が上がった結果、価値を保存する性質は6倍になり、6倍の綿花が糸に変えられたのに、それによって付け加えられる価値はまったく変わらないということになるわけです。そればかりか生産物として同じ一定量の糸をとった場合、移転される旧価値はまったく変わらないのに(1ポンドの綿花の価値はやはり1ポンドの糸に移転・保存される)、新たに付け加えられる新価値としては、旧来に比して、たった6分の1でしかないということがわかります。だから旧価を移転し、保存するということと、新価値を付加するということはまったく本質的に異なることだということがわかります。生産力というのは具体的な有用労働の問題であるのに対して、抽象的な人間労働にはまったく関与しないということです。
  第1章第2節から紹介しておきましょう。

  〈生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な.またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。それゆえ,同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。〉 (全集第23a巻62頁)

  (ヌ) 紡績作業中に同じ分量の綿花に費やされる必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きくなりますが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きくなります。

    紡績作業によって同じ分量の綿花を加工するために必要な労働時間が多ければ多いほど、綿花に付け加えられる新価値はそれだけ大きくなります。同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される価値はそれだけ大きくなることは明らかです。


    (全体を9分割します。続きは2へ。) 

 

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(2)

2022-11-19 05:10:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(2)

 

◎第8パラグラフ(紡績労働の生産性が変わらず、綿花そのものの交換価値が変動する場合)

【8】〈(イ)逆に、紡績労働の生産性が変わらず、したがって紡績工が1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間が必要だと仮定しよう。(ロ)しかし、綿花そのものの交換価値は変動して、1ポンドの綿花の価格が6倍に上がるか、または6分の1に下がるとしよう。(ハ)どちらの場合にも紡績工は引き続き同量の綿花に同じ労働時間、つまり同じ価値をつけ加え、また、どちらの場合にも同じ時間に同じ量の糸を生産する。(ニ)それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて一方の場合には6分の1であり、他方の場合には6倍である。(ホ)労働手段が高くなるか安くなるかするが労働過程では相変わらず同じ役だちをするという場合も、同様である。〉

 (イ)(ロ) 逆に、紡績労働の生産性が変わらないと仮定しましょう。だから紡績工が1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間が必要なわけです。しかし、綿花そのものの価値は変動して、1ポンドの綿花の価格が6倍に上がるか、または6分の1に下がると仮定しましょう。

    今度は紡績労働の生産力は同じままで、原料である綿花の価値が変わる場合です。生産力が変わらないということは、紡績工は1ポンドの綿花を1ポンドの糸にするためには以前と同じ労働時間が必要だということです。綿花の価値そのものが変わり、例えば1ポンドの綿花の価値が6倍になるか、6分の1になったと仮定した場合にどうなるかを検討しようというわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ) どちらの場合にも紡績工は引き続き同量の綿花に同じ労働時間、つまり同じ価値をつけ加え、また、どちらの場合にも同じ時間に同じ量の糸を生産します。それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて一方の場合には6分の1であり、他方の場合には6倍になります。労働手段(例えば紡錘)の価値が高くなるか安くなるかする場合も、労働過程では相変わらず同じ役だちをするでしょうが、移転する価値としては同じように6分の1であったり、6倍になるでしょう。

    まず確認しなければならないのは、綿花の価値がどのように変動しようと、生産力は変わらないのですから、1ポンドの綿花を1ポンドの糸にかえるために必要な労働時間も何の変化もないということです。つまり紡績労働の過程で付け加えられる新価値は同じだということです。
    しかし綿花の価値を糸の価値として移転・保存する量は、綿花の価値が6倍の場合には6倍になり、6分の1の場合は6分の1になるということです。また紡錘のような労働手段の場合にも同じことがいえます。6倍の価値の紡錘を使えば、やはり6倍の価値を移転・保存し、6分の1の価値の紡錘を使えば、移転される価値も6分の1になります。
    つまり生産力には変化がなく、原料や労働手段の価値に変化がある場合、付加される新価値には変化はないが、移転・保存される旧価値は、旧価値の大小に応じて変化するということです。


◎第9パラグラフ(生産力にも変化がなく、原料や労働手段の価値にも変化がない場合)

【9】〈(イ)紡績過程の技術的な諸条件が変わらず、またその生産手段にも価値変動が生じないならば、紡績工は相変わらず同じ労働時間で元どおりの価値の同じ量の原料や機械を消費する。(ロ)この場合には、彼が生産物のうちに保存する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例する。(ハ)2週間では、彼は、1週間でする労働の2倍の労働をつけ加え、したがって2倍の価値をつけ加え、また同時に、2倍の価値をもつ2倍の材料を消費し、2倍の価値をもつ2倍の機械を損耗させ、こうして2週間の生産物のうちに1週間の生産物の2倍の価値を保存する。(ニ)与えられた不変の生産条件のもとでは、労働者は、彼のつけ加える価値が多ければ多いほどそれだけ多くの価値を保存するのであるが、しかし、彼がより多くの価値を保存するのは、彼がより多くの価値をつけ加えるからではなく、彼がこの価値を、以前と変わらない、そして彼自身の労働には依存しない諸条件のもとで、つけ加えるからである。〉

  (イ)(ロ) 紡績過程の技術的な諸条件に変化がなく、生産手段にも価値の変動がない場合には、紡績工は依然として、同じ労働時間には同じ価値のそして同じ量の原料や機械を消費します。この場合には、彼が生産物のうちに保存する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例します。

    今度は、生産力にも変化がなく、原料や労働手段の価値にも変化がない場合です。この場合は当然、同じ労働時間には紡績工は同じ量の、しかも同じ価値の綿花や紡錘を消費します。だからこの場合には、紡績工が、生産物に移転・保存する価値量は、彼が新たに付け加える新価値の量に正比例します。

  (ハ) 2週間では、彼は、1週間でする労働の2倍の労働をつけ加えます。だから2倍の価値をつけ加えるのです。同時に、彼は2倍の価値をもつ2倍の材料を消費し、2倍の価値をもつ2倍の機械を損耗させ、こうして2週間の生産物のうちに1週間の生産物の2倍の価値を保存することになります。

    つまり2週間の労働では、1週間の労働で付加する価値の2倍の価値を新たに付け加え、同時に、2倍の価値をもつ2倍の量の綿花と紡錘を消費して、よって2倍の旧価値を移転・保存するわけです。

  (ニ) 与えられた不変の生産条件のもとでは、労働者は、彼のつけ加える価値が多ければ多いほどそれだけ多くの価値を保存するのですが、しかし、彼がより多くの価値を保存するのは、彼がより多くの価値をつけ加えるからではなく、彼がこの価値を、以前と変わらない、そして彼自身の労働には依存しない諸条件のもとで、つけ加えるからです。

    条件が不変の場合には、労働者は、彼が付け加える価値が多ければ多いほど、つまり彼の労働時間が長くなればなるほど、それだけ多くの労働対象や手段を生産的に消費し、よってそれだけ多くの価値を保存するわけです。しかし彼が多くの旧価値を保存するのは、彼がより多くの新価値を付け加えることによってではなく、ただその新価値の付加が以前と同じ技術的条件で付け加えられるからです。そしてこの労働の技術的条件、つまり生産力というのは具体的な有用労働に関係するだけで、新価値を付加する抽象的な人間労働とはまったく無関係なものなのです。


◎第10パラグラフ(相対的な意味では、いつでも労働者は新価値をつけ加えるのと同じ割合で元の価値を保存する)

【10】〈(イ)もちろん、相対的な意味では、いつでも労働者は新価値をつけ加えるのと同じ割合で元の価値を保存する、と言うこともできる。(ロ)綿花が1シリングから2シリングに上がっても、または6ペンスに下がっても、労働者が1時間の生産物のうちに保存する綿花価値は、それがどんなに変動しようとも、つねに、彼が2時間の生産物のうちに保存する価値の半分でしかない。(ハ)さらにまた、彼自身の労働の生産性が変動して、それが上がるか下がるかすれば、彼は、たとえば1労働時間のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花を紡ぐであろうし、それに応じて1労働時間の生産物のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花価値を保存するであろう。(ニ)それにもかかわらず、彼は2労働時間では1労働時間に比ぺて2倍の価値を保存するであろう。〉

  (イ)(ロ) もちろん、相対的な意味では、いつでも労働者は新価値をつけ加えるのと同じ割合で元の価値を保存する、と言うこともできます。綿花が1シリングから2シリングに上がっても、または6ペンスに下がっても、労働者が1時間の生産物のうちに保存する綿花価値は、それがどんなに変動しようとも、つねに、彼が2時間の生産物のうちに保存する価値の半分でしかありません。

    この部分は初版を若干書き換えたものになっています。初版を示しておきましょう。

  〈労働者はいつでも、自分が新価値をつけ加えるのと同じ割合で旧価値を保存する、ということは、当然のことながら、たとい絶対的な意味では言われなくても、相対的な意味ではそう言ってさしつかえない。綿花が1シリングから2シリングに上がっても、または6ペンスに下がっても、労働者が1時間の生産物のうちに保存する綿花価値は、たといそれがどんなに変動しようとも、必ず、彼が2時間の生産物のうちに保存する綿花価値の半分でしかない。〉 (江夏訳214頁)

    新価値の付加と同じ割合で旧価値の保存をするということは、相対的な意味では言えます。つまり綿花の価値がどんなに変化しようと、1時間に移転・保存される旧価値は、2時間に移転・保存される旧価値の半分だということが言えるからです。つまり新価値の付加が2倍になれば、旧価値の保存も、旧価値そのものがどんなに変化しようが、やはり2倍になるということかできるということです。

  (ハ)(ニ) さらにまた、彼自身の労働の生産性が変動して、それが上がるか下がるかしますと、彼は、たとえば1労働時間のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花を紡ぐでしょう。そして、それに応じて1労働時間の生産物のうちに以前よりも多いかまたは少ない綿花価値を保存するでしょう。それにもかかわらず、彼は2労働時間では1労働時間に比ぺて2倍の価値を保存するでしょう。

    さらにまた次のようにも言えます。紡績工の労働の生産力が上がるか下がるかした場合、彼が例えば1時間のあいだに紡ぐ綿花の量は以前よりもより多いかより少ないかに変化するでしょう。そしてそれに応じて1時間に生産物の価値として移転する旧価値は以前よりもより多いかより少ないかでしょう。しかしにもかかわらず、彼は2時間の労働では1時間の労働に比べて2倍の価値を移転し・保存するという点では変わらないのです。
    つまり労働の生産性が変動しても、やはり新価値の付加と同じ割合で旧価値の保存がされるということは相対的な意味では言えるということです。


◎第11パラグラフ(生産手段は、ただ生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す)

【11】〈(イ)価値は、価値章標での単に象徴的なその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。(ロ)(人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物である。(ハ)そして、労働そのものは、あの力の物的な発現である。)(ニ)だから、使用価値がなくなってしまえぽ、価値もなくなってしまう。(ホ)生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値をも失うのではない。(ヘ)というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、じつは、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからである。(ト)しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。(チ)このことからも明らかなように、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ、生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失うかぎりでのことである。(リ)生産手段は、ただ生産手段として失う価値を生産物に引き渡すだけである。(ヌ)しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情を異にしている。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 価値は、価値章標での単に象徴的なその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しないものです。(人間自身も、労働力の単なる定在として見れば、一つの自然対象であり、たとえ生命のある、自己意識のある物だとはいえ、一つの物です。そして、労働そのものは、その力の物的な発現です。)だから、使用価値がなくなってしまえぽ、価値もなくなってしまうわけです。

 〈商品は、使用価値または商品体の形態をとって、鉄やリンネルや小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありのままの現物形態である。だが、それらが商品であるのは、ただ、それらが二重なものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからである〉(全集第23a巻64頁)。だから普通は使用価値は価値の素材的担い手です。ただ紙幣のような価値章標では、価値はその素材とは無関係に存在しています。章標はただ価値をシンボルとして表すだけで、内在的な価値を持たないのです。だからマルクスは〈価値章標での単に象徴的なその表示を別とすれば〉と断っているわけです。
    ようするに価値は何らかの物的対象のなかにあるから、使用価値がなくなれば、本来は価値もなくなるわけです。労働力商品の価値も、その限りでは人間という物的存在と密接不可分なものとしてあります。そして労働力の発現である労働そのものも、やはり何らかの物的力の発現なのです。すくなくともここでマルクスが確認しているのは、使用価値がなくなれば、その素材的担い手がなくなったわけですから価値もなくなるという事実です。

  (ホ)(ヘ)(ト) 生産手段は、その使用価値を失うのと同時にその価値をも失うのではありません。というのは、生産手段が労働過程を通ってその使用価値の元の姿を失うのは、じつは、ただ生産物において別の使用価値の姿を得るためでしかないからです。しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要ですが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示していますように、どうでもよいことなのです。

    ところが生産手段の場合、労働過程でその使用価値を失うのにその価値は失われないのです。というのは、生産手段が労働過程で元の使用価値を失うのは、それによって生産された生産物という別の使用価値の姿をとるためだからです。
    そもそも価値というのは、生産物の生産のために支出された社会的労働を表すものです。だから生産手段の価値はその生産に支出された社会的労働を表しています。だから、その生産手段で生産される別個の生産物にその生産手段を生産した労働は移転・保存されるから、だから価値もそのまま移転・保存されて失われないわけです。
    要するに価値というのは、確かに何らかの素材的担い手としての使用価値のうちにあるわけですが、しかしそれがどんな使用価値にあるかには関わりなくあるということです。これは商品の変態を省みればよく分かります。リンネルの価値はその販売によって貨幣という姿態をとりますが、さらに購買によって小麦という姿態をとります。これらはすべて同じ価値がその姿を変えていく過程なのです。ようするに社会的な物質代謝を規制する法則によって決まってくる社会的に必要な労働がその物的素材に支出されていることを表すものが価値なのですから、とにかくそれに合致するものならば、どんな使用価値にもそれはへばりつくということなのです。

  (チ)(ヌ)(リ) このことからも明らかですが、労働過程で価値が生産手段から生産物に移るのは、ただ、生産手段がその独立の使用価値といっしょにその交換価値をも失うかぎりでのことです。ただ生産手段は、生産手段として失う価値を生産物に引き渡すわけですが。しかし、労働過程のいろいろな対象的要因は、この点ではそれぞれ事情を異にしているのです。

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきます。

  〈このことから、次のような結果が生ずる。すなわち、生産物が労働の経過中に生産手段の価値を吸収するのは、ただ、生産手段がその有用性を失うと同時にその価値をも失うかぎりでのことだ、ということ。生産手段は、生産手段として失う価値のみを、生産物に移すのである。しかし、労働の素材的諸要因はこの点ではそれぞれちがった行動をする。〉 (江夏・上杉訳195頁)

    だから生産手段の価値は、それを生産的に消費して生産された生産物の価値として移転・保存されるということは、新たな生産物の生産に必要な社会的な労働の一部分に、生産手段の生産に投じられた労働がなっているということを意味します。だから生産手段は、労働過程でその使用価値を失い、その限りではその価値も失うのですが、しかしその価値を新たな生産物の価値として引き継ぐことになるわけです。
    このように生産手段は、生産手段として失う価値だけを新たな生産物の価値として移転・保存することは確認できましたが、しかし労働過程のいろいろな対象的要因の相違によって、その移転・保存の条件はいろいろと違ってくるということです。それを次に見て行くことにしましょう。


◎第12パラグラフ(原料や補助材料は、労働過程でその使用価値を失い、その価値を移転するが、本来の労働手段は、労働過程で生産物に対して独立した姿を維持するが、やはり平均寿命のうちにその使用価値を徐々に失い、そのすべての価値を移転させる)

【12】〈(イ)機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまうが、車軸に塗られる油なども同様である。(ロ)染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われる。(ハ)原料は生産物の実体になるが、しかしその形を変えている。(ニ)だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの独立の姿をなくしてしまうわけである。(ホ)本来の労働手段はそうではない。(ヘ)用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役だつのは、ただ、それらのものが最初の姿を保持していて明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程にはいって行くかぎりでのことである。(ト)それらのものは、生きているあいだ、労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立の姿を保持しているが、それらが死んでからもやはりそうである。(チ)機械や道具や作業用建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられてつくられた生産物とは別に存在している。(リ)今このような労働手段が役だつ全期間を、それが作業場にはいってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察するならば、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っている。(ヌ)たとえば、ある紡績機械が10年で寿命を終わったとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械の全価値は10年間の生産物に移ってしまっている。(ル)だから、一つの労働手段の生存期間のうちには、この労働手段を用いて絶えず繰り返される労働過程の多かれ少なかれいくつかが含まれているのである。(ヲ)そして、労働手段も人間と同じことである。(ワ)人間は、だれでも毎日24時間ずつ死んでゆく。(カ)しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわからない。(ヨ)とはいえ、このことは、生命保険会社が人間の平均寿命から非常に確実な、そしてもっとずっと重要なことであるが、大いに利潤のあがる結論を引き出すということを妨げるものではない。(タ)労働手段も同じである。(レ)ある労働手段、たとえばある種類の機械が、平均してどれだけ長もちするかは、経験によって知られている。(ソ)労働過程での機械の使用価値が6日しかもたないと仮定しよう。(ツ)そうすれば、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失ってゆき、したがって毎日の生産物にその価値の6分の1を引き渡すことになる。(ネ)このような仕方で、すべての労働手段の損耗、たとえばその毎日の使用価値喪失とそれに応じて行なわれる生産物への毎目の価値引き渡しは、計算されるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 機関を熱するために用いられる石炭は、あとかたもなく消えてしまいますが、車軸に塗られる油なども同じです。染料やその他の補助材料も消えてなくなりますが、しかしそれらは生産物の性質のうちに現われます。原料は生産物の実体になりますが、しかしその形を変えています。だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの独立の姿をなくしてしまうわけです。

    ここでは原料や補助材料の場合は、労働過程でその使用価値を失うことが指摘されています。しがし失うと言っても、それぞれの素材によって異なってくるということです。例えば機関を熱するための石炭は、燃やされればあとかたもなく消え失せますし、車軸に塗る油も同じように消えてしまいます。しかし染料や他の補助材料はそれ自体の姿は消えますが、生産物の性質として現われています。それに比べて綿花などの原料は生産物である糸の実体としてその姿を変えて存在しています。要するに、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいっていくときの独立した姿を失うのですが、その失い方がいろいろだということです。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) 本来の労働手段はそうではありません。用具や機械や工場建物や容器などが労働過程で役だつのは、ただ、それらのものが最初の姿を保持していて明日もまた昨日とまったく同じ形態で労働過程にはいって行くかぎりでのことです。それらのものは、生きているあいだ、すなわち労働過程にあるあいだ、生産物にたいして自分の独立した姿を保持しています。そればかりか、それらが死んでからもやはりそうでしょう。機械や道具や作業用建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられてつくられた生産物とは別に存在しているからです。

    同じ生産手段でも、本来の労働手段の場合は労働過程でその姿を失うわけではありません。つまり用具や機械、工場の建物、容器などは、それらが労働過程で役立つのは、ただ、それらが労働過程において最初の姿を維持しその使用価値を実現させることができる限りにおいてです。それらのものは労働過程において生きているあいだも、つまり使用価値として役立っているあいだも、その独立した姿を保持しています。それらの独立した存在は、例え使用価値として労働過程で役立たなくなっても、依然として維持しているでしょう。機械や道具や作業用の建物などの死骸は、相変わらず、それらに助けられて生産された生産物とは独立した存在をもっているからです。
    ここでマルクスは〈本来の労働手段〉と〈労働手段〉に〈本来の〉という形容詞を付けていますが、これはその具体例をみれば分かるように、何らかの労働によって生産された労働手段ということでしょう。マルクスは労働過程の考察において、〈たとえば果実などのつかみどりでは、彼自身の肉体的器官だけが労働手段として役だつ〉と述べたり、〈たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石〉のように〈自然的なものがそれ自身彼の活動の器官になる〉(全集第23a巻235-236頁)とも述べていましたが、これらのものは本来の労働手段とはいえないということではないでしょうか。

  (リ)(ヌ)(ル) 今このような労働手段が役だつ全期間を、それが作業場にはいってきた日から、がらくた小屋に追放される日までにわたって考察すますと、この期間中にその使用価値は労働によって完全に消費されており、したがってその交換価値は完全に生産物に移っていると言えます。たとえば、ある紡績機械が10年で寿命を終わったとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械の全価値は10年間の生産物に移ってしまっていると言えます。だから、一つの労働手段の生存期間のうちには、この労働手段を用いて絶えず繰り返される労働過程の多かれ少なかれいくつかが含まれているのです。

    ではこのように労働過程で姿を変えずに役立っている、そしてそのかぎりではその使用価値を失うことなく存在しているように見える労働手段の価値はどのようにして生産物の価値として移転され保存されるのかを考えてみることにしましょう。
    確かにこうした本来の労働手段はその使用価値を労働過程で維持しているように見えますが、しかし徐々に磨耗してやがてその使用価値そのものをも失うときがくるはずです。だから労働手段が役立つ全期間を、それが作業場に入ってきた日から、がらくたになって廃棄されるまでの期間を考えますと、その期間中にその使用価値は労働によって完全に生産的に消費されてしまい、だからその価値もすべて生産物に移ってしまっていると言うことができるでしょう。
    例えばある紡績機械の寿命が10年だとすれば、10年間の労働過程のあいだに機械のすべての価値は10年間のあいだに生産物に移ってしまっていると言えるわけです。だから労働手段の生存期間のあいだには、この労働手段を用いて絶えず同じ労働過程が多かれ少なかれ繰り返されてきたことが分かるのです。

  (ヲ)(ワ)(カ)(ヨ)(タ)(レ) そのかぎりでは、労働手段も人間と同じことがいえます。人間は、だれでも毎日24時間ずつ死んでゆきます。しかし、どの人間を見ても、彼がすでに何日死んでいるかは正確にはわかりません。とはいっても、生命保険会社は人間の平均寿命から非常に確実な、そしてもっとずっと重要なことですが、大いに利潤のあがる結論を引き出していることは周知のことです。そして労働手段も同じなのです。ある労働手段、たとえばある種類の機械が、平均してどれだけ長もちするかは、経験によって知られているのです。

    労働手段、例えば機械がどれだけの寿命をもっているかを考えるとき、それは人間に例えればよく分かります。人間の場合、彼は毎日24時間ずつ死んで行きますが、しかしだからといって、ある人を見て、彼はすでにどれだけ死んだかということを正確にいうことはできません。その意味では機械も同じなのです。しかし保険会社は、人間の平均寿命から、彼等が儲けることのできる利率を考えて保険金を計算するように、同じことは労働手段の寿命についても言えるのです。資本家たちは彼らの経験からある種類の機械は平均してどれだけの寿命をもっているのかを知っているのです。いわゆる償却期間というものです。だからそれらが毎日どれだけの価値を生産物に移転するのかを計算できるのです。

  (ソ)(ツ)(ネ) 労働過程での機械の使用価値が6日しかもたないと仮定しましょう。そうすれば、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失ってゆき、したがって毎日の生産物にその価値の6分の1を引き渡すことになります。このような仕方で、すべての労働手段の損耗、たとえばその毎日の使用価値喪失とそれに応じて行なわれる生産物への毎目の価値引き渡しは、計算されるのでしょう。

    労働手段の価値の移転を考えるために、例えばある機械の使用価値は6日しかもたないと仮定しましょう。そうすると、その機械は平均して1労働日ごとにその使用価値の6分の1を失っていくことになります。そして毎日その価値の6分の1を生産物に移すことになります。
    このようにすれば、すべての労働手段の価値の移転について計算することが可能でしょう。すなわちその使用価値はその平均寿命で割った分だけ毎日損耗し、それに応じてやはりその価値を平均寿命で割った分だけ毎日生産物に引き渡すという形で計算できるわけです。


◎第13パラグラフ(生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではない)

【13】〈(イ)こうして、生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではないということが、適切に示される。(ロ)もしもその生産手段が失うぺき価値をもっていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それはけっして生産物に価値を引き渡しはしないであろう。(ハ)その生産手段は、交換価値の形成者として役だつことなしに、使用価値の形成者として役だつであろう。(ニ)それゆえ、天然に人間の助力なしに存在する生産手段、すなわち土地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木などの場合は、すぺてそうなのである。〉

  (イ) こうして、生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うよりも多くの価値を生産物に引き渡すものではないということが、適切に示されています。

  フランス語版を見てみましょう。

  〈生産手段は、それ自身が労働の経過中の消耗によって失う以上の価値を、けっして生産物に移さないということは、このばあい一目瞭然である。〉 (江夏・上杉訳196頁)

    上記の具体的な例を見て分かることは、原料や補助材料はいうまでもなく、本来の労働手段においても、生産手段は、それ自身が労働過程のなかで使用価値とともに失う価値以上のものを、決して生産物に移すことはできないということです。

  (ロ)(ハ)(ニ) もっともその生産手段が失うぺき価値をもっていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それはけっして生産物に価値を引き渡しはしないでしょう。その生産手段は、交換価値の形成者として役だつことなしに、使用価値の形成者として役だつのです。だから、自然のなかに人間の助力なしに存在する生産手段、例えば土地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木などの場合は、すぺてそうなのです。

    もっとも同じ生産手段でももともと価値をもっていないものであれば、当然、それが労働過程で生産手段として消費されても、生産物に価値を移転することはありません。そうした生産手段は、労働過程では何らかの使用価値の生産には役立ちますが、価値形成過程としては何の役立ちもしないのです。こうした生産手段、すなわち何ら人の手の加わっていない生産手段、例えば天然に存在する土地や風や水や鉱脈のなかの鉄や原始林の樹木などは、すべてそういうことがいえます。それらは生産手段として何らかの使用価値の形成には役立ちますが、価値の要素としては生産物に入っていかないのです。


◎第14パラグラフ(労働手段の価値の移転のなかに反映する労働過程と価値増殖過程の相違)

【14】〈(イ)ここでもう一つ別の興味ある現象がわれわれの前に現われる。(ロ)たとえば、ある機械に1000ポンドの価値があって、それが1000日で損耗してしまうとしよう。(ハ)この場合には、毎日機械の価値の1000分の1ずつが機械自身からその毎日の生産物に移って行く。(ニ)それと同時に、その生活力はしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能している。(ホ)だから、労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいるが、価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのである。(ヘ)労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射している。(ト)というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである(21)。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) ここでもう一つ別の興味ある現象がわれわれの前に現われます。たとえば、ある機械に1000ポンドの価値があって、それが1000日で損耗してしまうと仮定しましょう。そうすると、この場合には、毎日機械の価値の1000分の1ずつが毎日の生産物に移って行きます。機械の生活力はそれに応じてしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能しています。だから、労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程には全体としてはいりますが、価値増殖過程には一部分しかはいらないということがわかるのです。

    ここでは機械のような労働手段は、労働過程で消耗するにつれて、その価値を生産物に移転させますが、しかしその使用価値そのものは徐々に活力を失っていくとはいえ、常に全体として労働過程に入っていき役立たねばならないということです。だからある機械が1000ポンドの価値があり、その寿命が1000日だとすれば、毎日機械はその価値の1000分の1ずつ生産物に移転させますが、しかし機械そのものは常に労働過程のなかでその全体が機能しているわけです。
    だから労働過程のある要因、ある生産手段は、労働過程に全体としてはいりながら、価値増殖過程にはその一部分しか入らないということが言えるわけです。

  (ヘ)(ト) 労働過程と価値増殖過程との相違がここではこれらの過程の対象的な諸要因に反射していると言えます。というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからです。

    だから労働過程と価値増殖過程との違いが、ここでは労働手段の使用価値と価値との異なる運動として反射しているといえるわけです。同じ生産手段でも、労働対象(原料や補助材料)の場合は労働過程に入る分だけ、価値増殖過程にも入りますが、労働手段の場合は、労働過程には全体として入りますが、価値増殖過程には一部分ずつしか入らないのでです。


  (3に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(3)

2022-11-19 04:30:13 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(3)

 

◎原注21

【原注21】〈21 (イ)ここでは、労働手段、すなわち機械や建物などの修理は問題にならない。(ロ)修理される機械は労働手段としてではなく労働材料として機能する。(ハ)それを用いて労働がなされるのではなく、それ自身に労働が加えられてその使用価値が繕(ツクロ)われる。(ニ)このような修理労働は、われわれの目的のためには、労働手段の生産のために必要な労働のうちにつねに含まれているものと考えてよい。(ホ)本文で問題にされている損耗は、どんな医師でも治療のできないもので、だんだん死を連れてくるものであり、「ときどき補修するわけにはゆかないような、たとえばナイフで言えばついには刃物師も新しい刃をつけるに値しないというほどの状態にしてしまうような種類の損耗」である。(ヘ)本文で見たように、たとえば機械はいちいちの労働過程に全体としてはいるが、同時に行なわれる価値増殖過程には一部分ずつしかはいらない。(ト)これによって次のような概念混同にも判定が下される。(チ)「リカード氏は、靴下製造機を製作するときにつけ加えられた1人の機械製作工の労働量の一部分が」たとえば1足の靴下の価値のなかに含まれている、と言う。(リ)「しかし、どの1足の靴下を生産した総労働も……機械製作工の全労働を含んでいるのであって、ただ一部分だけを含んでいるのではない。なぜならば、一つの機械が何足もつくるにはちがいないが、そのうちのどの1足も、機械のどの部分かがなければつくれなかったであろうからである。」(『経済学における或る種の用語論争の考察、特に価値および需要供給に関して』、ロンドン、1821年、54ページ。)(ヌ)並みはずれてうぬぼれの強い「知ったかぶり屋」〔“wiseacre”〕のこの著者が、その混乱の、したがってまたその論難の権利をもつのは、ただ、リカードもその前後のどの経済学者も労働の二つの面を正確に区別しておらず、したがって価値形成でこの二つの面が演ずる役割の相違などはなおさら分析していないというかぎりでのことである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) ここでは、労働手段、すなわち機械や建物などの修理は問題になりません。修理される機械そのものは労働手段ではなく労働材料だからです。なぜなら、この場合、それを用いて労働がなされるのではなく、それ自身に労働が加えられてその使用価値が繕(ツクロ)われるわけですから。このような修理労働は、われわれの当面の課題では、労働手段の生産のために必要な労働のうちにつねに含まれているものと考えてよいでしょう。

    これは〈というのは、同じ生産過程で同じ生産手段が、労働の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては一部分ずつしか数えられないからである(21)〉という本文に付けられた原注ですが、この一文はこのパラグラフの最後ですから、あるいはパラグラフ全体につけられた原注かも知れません。
    そうすると本文の〈その生活力はしだいに衰えて行きながらも、いつでもその機械全体が労働過程で機能している〉という一文と関連して、機械は全体としてつねに労働過程で機能しますが、しかしそのためには常に何らかの補修を必要とするという事実から、まずその補修についてここでは問題にしているといえます。
    しかし補修の場合は、機械は補修労働の労働対象であって、労働手段ではないということです。だから私たちが今問題にしていることには補修そのものは関係がないということです。補修労働そのものは機械を生産するための労働の一部分であって、機械の価値はその補修分も含めて計算されるということです。

  (ホ) 本文で問題にされている損耗は、どんな医師でも治療のできないもので、だんだん死を連れてくるものであって、「ときどき補修するわけにはゆかないような、たとえばナイフで言えばついには刃物師も新しい刃をつけるに値しないというほどの状態にしてしまうような種類の損耗」なのです。

    だから先のパラグラフで1000ポンドの機械が1000日で寿命が尽き損耗してしまうという場合の損耗は、何か補修によってどうこうできるというようなものではなく、すでに補修の効かない種類の損耗だということです。

  (ヘ)(ト)(チ)(リ) 本文で見ましたように、たとえば機械は毎日の労働過程に全体としてはいりますが、同時に行なわれる価値増殖過程には一部分ずつしかはいりません。ここから次のような概念混同にも判定が下されます。「リカード氏は、靴下製造機を製作するときにつけ加えられた1人の機械製作工の労働量の一部分が」たとえば1足の靴下の価値のなかに含まれている、と言う。「しかし、どの1足の靴下を生産した総労働も……機械製作工の全労働を含んでいるのであって、ただ一部分だけを含んでいるのではない。なぜならば、一つの機械が何足もつくるにはちがいないが、そのうちのどの1足も、機械のどの部分かがなければつくれなかったであろうからである。」(『経済学における或る種の用語論争の考察、特に価値および需要供給に関して』、ロンドン、1821年、54ページ。)

    機械が常に全体として労働過程に入りながら、価値増殖過程には部分的にしか入らないということを理解することは労働の二重性をベースにしていえることですが、それが理解できないところからさまざまて混乱が生じているということです。
    リカードは靴下製造機械を生産した労働の一部が一足の靴下には含まれているとまっとうなことを主張したのに対して、うぬぼれ屋の『用語論争の考察』の著者は、どの一足の靴下の生産にも機械全体が常に働いたのだから、機械の一部分がそのために役立ったかに考えるのはおかしいと批判したわけです。

  (ヌ) 並みはずれてうぬぼれの強い「知ったかぶり屋」〔“wiseacre”〕のこの著者が、その混乱の、したがってまたその論難の権利をもつのは、ただ、リカードもその前後のどの経済学者も労働の二つの面を正確に区別しておらず、したがって価値形成でこの二つの面が演ずる役割の相違などはなおさら分析していないというかぎりでのことでしかありません。

    ここではマルクスはリカードの主張していることはその限りでは正しいのであって、この知ったかぶりのうぬぼれ屋の方が混乱しているのだということです。ただ、では、リカードが、あるいはその前後の経済学者たちが問題を正しく正確に理解しているかというとそうではなく、彼等は労働の二面性を正確に区別しなかったし、だから労働過程と価値増殖過程における労働の二重性が果している役割などはまったく分析していないから、それをもしこのうぬぼれ屋が批判できるなら、それはそれで正当でしょうが、そんなことはもちろんまったく期待できないということです。

    ここに出てくる〈『経済学における或る種の用語論争の考察、特に価値および需要供給に関して』、ロンドン、1821年〉という著書も匿名のもののようです。『資本論草稿集』⑦にこの著書を「種々の論争書」の一つとして最初に取り上げています。その前書きを紹介しておきましょう。

  〈1820年から183O年までの時期は、イギリスの国民経済学の歴史において形而上学的に最も重要な時期である。リカードウの理論にたいする賛否の理論上の試合が行なわれた。一連の匿名の論争書[が出版されたが〕、ここで.言及するのは、そのうちの最も重要なもので、特にただ、われわれの論題に属する点に触れているものだけである。だが同時に、これらの論争書を特徴づけているのは、それらのすべてが実際には単に価値概念の規定とそれの資本との関係を中心問題にしているだけだ、ということである。〉 (159頁)

   そして原注で引用している匿名の著書についてマルクスは〈この著書には、いくらか鋭さがないこともない。『用語論争』という表題は特徴的である。〉(160頁)と述べ、さまざまな引用と批判を行っていますが、今回の原注と関連するものをここでは紹介しておきましょう。

  〈たとえばリカードウが言っているのは、たとえば一足の靴下のなかに含まれている「機械製造のさいの機械工の労働の一部分」についてである。「だが、われわれが論じているのが一足一足の靴下であるとしても、一足一足の靴下を生産した『労働全体』は、その機械工の労働全体を含んでいるのであって、その一『部分』を含んでいるわけではない。というのは、一台の機械は多数のなん足もの靴下を製造するのであって、それらの靴下のどの一足も機械の全部分なしには製造されえなかったであろうからである。」(同前、54ページ。)〉 (163頁)

    これに対してはマルクスはそれに続けて〈あとのほうの文句は誤解によるものである。労働過程にはいるのは機械全体であるが、価値増殖過程にはいるのはただその一部分だけである〉(同頁)と書いているだけです。ここで〈あとのほうの文句〉というのは今紹介した部分を指しており、紹介したものはその前からの引用に続くものなのです。


◎第15パラグラフ(反対に、不可避の排泄物が出る場合、生産手段は、労働過程には部分的にしか入らないのに、価値増殖過程には全体として入る)

【15】〈(イ)他方、それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分ずつしかはいらないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありうる。(ロ)綿花を紡ぐときに毎日115ポンドについて15ポンドが落ちて、この15ポンドは糸にはならないで綿くず〔devil's dust〕にしかならないと仮定しよう。(ハ)それでも、もしこの15ポンドの脱落が標準的であって綿花の平均加工と不可分であるならば、糸の要素にならない15ポンドの綿花の価値も、糸の実体になる100ポンドの綿花の価値とまったく同じに、糸の価値にはいるのである。(ニ)100ポンドの糸をつくるためには、15ポンドの綿花の使用価値がちりにならなければならない。(ホ)だから、この綿花の廃物化は糸の生産の一つの条件なのである。(ヘ)それだからこそ、それはその価値を糸に引き渡すのである。(ト)これは、労働過程のすべての排泄物について言えることである。(チ)少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段に、したがってまた新たな独立な使用価値にならないかぎりでは、そう言えるのである。(リ)たとえば、マンチェスターの大きな機械製造工場では鉄くずの山が巨大な機械でかんなくずのように削り落とされ、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に運ばれて行くのが見られるが、それは他日再び大量の鉄になって製鉄所から工場に帰ってくるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 他方、それとは反対に、ある生産手段は、労働過程には一部分ずつしかはいらないのに、価値増殖過程には全体としてはいることがありえます。綿花を紡ぐときに毎日115ポンドについて15ポンドが落ちて、この15ポンドは糸にはならないで綿くず〔devil's dust〕にしかならないと仮定しましょう。それでも、もしこの15ポンドの脱落が標準的であって綿花の平均的な加工と不可分であるのでしたら、糸の要素にならない15ポンドの綿花の価値も、糸の実体になる100ポンドの綿花の価値とまったく同じに、糸の価値にはいるのです。100ポンドの糸をつくるためには、15ポンドの綿花の使用価値がちりにならなければならないわけです。だから、この綿花の廃物化は糸の生産の一つの条件なのです。それだからこそ、それはその価値を糸に引き渡すのです。

    労働手段の場合は、全体として労働過程に入りながら、価値増殖過程にはその一部分ずつしか入らないということが言えましたが、それとは反対に、生産手段(労働対象)のなかには労働過程には一部分しか入らないのに、価値増殖過程には全体として入るケースがあります。
    例えば綿花を紡ぐときに、毎日115ポンドの綿花のうち15ポンドが落ちて、ほこりになってしまい、糸になりませんが、しかし115ポンドの綿花の価値は全体として価値増殖過程に入っていくのです。というのはこの15ポンドの失われた綿花は、糸にはならないものの糸を生産する過程では不可避な損失分であり、それ自体が糸の生産過程の不可分の契機ですから、価値としては15ポンドの失われた綿花も、糸の実体になる100ポンドの綿花と同じように100ポンドの糸の価値に入るのです。だから綿花(115ポンド)は労働過程には一部分(100ポンド)しか入らないが、価値増殖過程には全体が(115ポンドの綿花の価値として)入るということです。このような生産過程に不可避な廃物化したものも、その価値そのものは生産物に移転させるのだということです。

  (ト)(チ)(リ) これは、労働過程のすべての排泄物について言えることです。少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段に、したがってまた新たな独立な使用価値にならないかぎりでは、そう言えるのです。新たな独立な使用価値になるケースとしては、たとえば、マンチェスターの大きな機械製造工場では巨大な機械でかんなくずのように削り落とされた鉄くずの山が、夕方になると大きな車で工場から製鉄所に運ばれて行くのが見られます。それが他日再び大量の鉄となって製鉄所から工場に帰ってくるのです。

    だからこれは労働過程のすべての排泄物について言えることなのです。少なくとも、これらの排泄物が再び新たな生産手段になって、独立した新たな使用価値にならないかぎりではそういうことが言えます。
    排泄物が別に新たな生産手段になる例を挙げますと、マンチェスターの機械製造工場では毎日大きな機械で削り取られた鉄くずの山が排泄物として出てきますが、それらは製鉄所に運ばれて、再び大量の鉄として機械製造工場に帰ってくるのです。この場合は、排泄物になった鉄くずの価値そのものは、そのリサイクルの過程で不可避に失われる部分を除けば、製造された機械にはその価値を移転しないといえます。


◎第16パラグラフ(生産手段が労働過程にあるあいだにその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移す)

【16】〈(イ)ただ、生産手段が労働過程にあるあいだにその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。(ロ)それが労働過程でこうむることのできる価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値量によって、すなわちそれ自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。(ハ)それゆえ、生産手段は、それが役だてられる労働過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできないのである。(ニ)ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であっても、それが150ポンドに、たとえば500労働日に値するならば、それは、その役だちによって形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くはつけ加えないのである。(ホ)その価値は、それが生産手段としてはいって行く労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されているのである。(ヘ)労働過程ではそれはただ使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけであり、したがって、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないであろう(22)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) ただ、生産手段が労働過程にあるあいだにその元の使用価値の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのです。それが労働過程でこうむることのできる価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値量によって、すなわちそれ自身の生産に必要な労働時間によって、制限されています。だから、生産手段は、それが役だてられる労働過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは、けっしてできないのです。

    ここでは生産手段は、それが労働過程に入る以前に持っていた価値以上の価値を生産物に引き移すことは決して出来ないということが指摘されています。これはある意味ではあたり前のことのように思えますが、しかし次の原注でも紹介されていますが、当時の経済学者たちのなかには(今日でもブルジョア経済学者たちが利潤は資本全体から生まれてくると考えるように)生産手段も価値を生み出すのだという混乱した主張があったので、こうしたことを確認することには意義があるのです。

  (ニ)(ホ) ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であっても、それが150ポンドに、たとえば500労働日に値するのでしたら、それは、その役だちによって形成される総生産物に、けっして150ポンドより多くはつけ加えないのです。その価値は、それが生産手段としてはいって行く労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されているのです。

    ここでは労働材料や機械、あるいはそれ以外の生産手段がどんなに有用でも、それらがもし150ポンドの価値を持っているなら、その役立ちによって形成される生産物に、150ポンド以上の価値を引き渡さないと述べています。〈けっして150ポンドより多くはつけ加えない〉となっているので、何か価値を付加するかのように誤解を招く表現になっていますが、これは、言葉の綾であって、強いていえば翻訳の問題でしょう。生産手段の価値はあくまでも生産物に移転・保存されるのであって付加される(再生産される)のではないからです。
    その次の〈その価値は、それが生産手段としてはいって行く労働過程によってではなく、それが生産物として出てくる労働過程によって決定されているのである〉という一文ですが、これがなかなか何を言いたいのかよく分からなかったのですが、結局、次のようなことではないかと結論しました。
    恐らく、マルクスが言いたいのは、〈ある労働材料、ある機械、ある生産手段〉の価値というのは、それらが役立つ労働過程によって決まるのではなく、それらが生産される労働過程、つまりそれらが生産物として出てくる労働過程において支出さた労働時間によって決まるのだということです。そしてこのように考えれば当たり前のことをただ言っているにすぎないわけです。

  (ヘ) 労働過程ではそれらはただ使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけなのです。だから、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないのです。

    だから生産手段は、労働過程ではただその使用価値として、その有用な性質によって役立つだけです。労働過程というのは使用価値の生産過程であって、それ自体は価値とは無関係な過程です。だからもし、それらが労働過程に入る前に価値を持っていなかったならば、それらは生産物にまったく価値を引き渡さないわけです。


◎原注22

【原注22】〈22  (イ)このことから、まのぬけたJ・B・セーの愚かさがわかるであろう。(ロ)すなわち、彼は、剰余価値(利子、利潤、地代)を、生産手段、つまり土地や用具や革などが労働過程でその使用価値によって果たす「生産的な役だち」〔“services productiie”〕から導き出そうとするのである。(ハ)奇妙な弁護論的な思いつきをわざわざ印刷させておくことをなかなかやめようとしないヴィルヘルム・ロッシャー氏は次のように叫んでいる。(ニ)「J・B・セーが『概論』第1巻第4章で、いっさいの費用を引き去ったのちに搾油機によって生みだされた価値は、とにかくある新しいものであり、搾油機そのものをつくるために行なわれた労働とは本質的に違うものである、と言っているのは、きわめて正しい。」(『国民経済学原理』、第3版、1858年、82ページ、注。)(ホ)きわめて正しい! (ヘ)搾油機によって生みだされる「油」は、搾油機の製造に費やされる労働とは非常に違うものである。(ト)そして、「価値」とはなにかと言えば、ロッシャー氏は、「油」が価値をもっているという理由によって、価値とは「油」のようなしろものだと考えるのであるが、しかし、石油は、相対的には「非常に多量に」ではないにしても、「天然に」存在するのであって、次のような彼の別の言葉もおそらくこれを言おうとしているのである。(チ)「交換価値をそれ」(自然!)「はほとんどまったく生みださない。」〔同前、79ページ。〕(リ)ロッシャーの自然と交換価値との関係は、愚かな娘と「ほんの小さなものだった」子供との関係のようなものである。(ヌ)この同じ「学者」(“savant serieux”)は、前記の箇所でなお次のように言っている。(ル)「リカード学派は資本をも、『貯蓄された労働』として、労働の概念のもとに包摂するのが常である。これは無器用である(!)、というのは(!)、じつに(!)資本所有者は(!)、たしかに(!)、それの(なにの?)単なる(?!)産出(?)および(??)保存よりも多くのこと(!)をしたのだからである。まさに(?!?)自分の享楽の抑制こそがそれであって、その代わりに彼はたとえば(!!!)利子を要求するのである。」(同前。〔82ページ。〕)(ヲ)なんと「器用な」ことか! (ワ)単なる「要求」から、じつに、たしかに、まさに「価値」を展開する経済学のこの「解剖学的生理学的方法」なるものは!〉

  (イ)(ロ) このことから、まのぬけたJ・B・セーの愚かさがわかるでしょう。すなわち、彼は、剰余価値(利子、利潤、地代)を、生産手段、つまり土地や用具や革などが労働過程でその使用価値によって果たす「生産的な役だち」〔“services productiie”〕から導き出そうとするのですから。

    これは〈労働過程ではそれはただ使用価値として、有用な性質をもっている物として役だつだけであり、したがって、もしそれがこの過程にはいってくる前に価値をもっていなかったならば、それは生産物に少しも価値を引き渡しはしないであろう(22)〉という本文に付けられた原注ですが、パラグラフの最後に付けられているので、パラグラフ全体に対する原注と言えるかもしれません。

    これは最初の解説のときにも述べましたが、セーは剰余価値(利潤)を生産手段が労働過程で果たす役立ちから導き出そうとしているということです。

    マルクスは『資本論草稿集』⑦でマカロック(「セーより劣っている」とマルクスがいう)の批判のなかでリカードのセーに対する批判を次のように紹介しています。

 〈セー氏が……彼(A・スミス)の誤りだとしているのは、『彼が、人間の労働だけに、価値を生産する力を帰属させている』ということである。『より正確な分析が示すところでは、価値は、労働の作用、というよりもむしろ、自然が供給する諸力の作用資本の作用と結びついている人間の勤労によるものである。彼は、この原理を知らない
ために、富の生産にさいしての機械の影響についての真実の理論を確立することを妨げられたのである。』A・スミスの考えとは反対に、セー氏は……自然力によって諸商品に与えられる価値について語っている云々。しかし、これらの自然力は、使用価値を大いに増加させるにしても、セー氏がいま論じている交換価値を増加させることはけっしてない。」(〔リカードウ〕『原理』、第3版、334-336ページ〔堀訳、329ページ〕。)「機械と自然力は、一国の富を実に大きく増加させうるであろうが、……これらの富の価値にはなにもつけ加え……ない。」(335ページの注〔堀訳、329/330ページの注〕。)〉  (269-270頁)
 〈彼(マカロックのこと--引用者)は、ミルの「逃げ口上」によって厚かましくなり、セーに反駁しながら、同時にセーを盗用している。しかも彼が盗用しているセーの文句は、まさに、リカードウが第2O章「価値と富」のなかで自分やスミスの〔見解〕と根本的に対立するものとして攻撃しているものなのである。(ロッシャーが、マックは極端化されたリカードウである、と繰り返し言っているのは当然のことである。)ただ、セーが火や機械などの「作用」を労働と呼んでいないのに比べて、彼のほうが、よりばかげているだけのことである。しかも、前後撞着はよりひどい。というのは、セーは、風や火などが「価値」をつくりだしうるとするのだからである。〔ところが〕マックのほうは、ただ独占されうる使用価値である物だけが「価値」をつくりだしうるであろうとするのであって、これは、風や蒸気や水が、風車や蒸気機関車や水車を所有せずに動力として充用されうるかのようである! これでは、それを所有することによってのみ自然の諸力を利用しうることになる諸物を所有し独占している人たちが、これらの自然諸力をも独占することはないかのようである! 空気や水などであれば、自分の欲するだけ手に入れることができる。だが、それらを生産的な諸力として手に入れるのは、ただ、それの使用によってそれらがこのような諸力として作用するところの、諸商品、すなわち、こういう諸物を、私がもっている場合だけである! だから、マックはセーよりもなお劣っている。(272頁)

  また『資本論草稿集⑥』では次のように述べています。

 〈「アダム・スミスの意見に反対して、セー氏は、第4章で、生産にさいしてときには人間の労働にとって代わり、またときには人間と協力するところの、太陽、空気、気圧などのような自然力によって諸商品に与えられる価値について論じている。しかし、これらの自然力は、たとえある商品にたいして使用価値を大いに増加させるとはいえ、セー氏がいま論じている交換価値を増加させることはけっしてない。機械の援助によって、または自然科学の知識によって、以前には人間がやった仕事を自然力にやらせるようになれば、そのときには、こういう仕事の交換価値はそれに応じて下がる。」(335、336ページ〔堀訳、329ページ〕。)〉 (773頁)
 
  (ハ)(ニ) 奇妙な弁護論的な思いつきをわざわざ印刷させておくことをなかなかやめようとしないヴィルヘルム・ロッシャー氏は次のように叫んでいます。「J・B・セーが『概論』第1巻第4章で、いっさいの費用を引き去ったのちに搾油機によって生みだされた価値は、とにかくある新しいものであり、搾油機そのものをつくるために行なわれた労働とは本質的に違うものである、と言っているのは、きわめて正しい。」(『国民経済学原理』、第3版、1858年、82ページ、注。)

    ここではセーの価値を自然の力にもとめる主張に対して、ロッシャーが〈きわめて正しい〉と主張していることが紹介されています。
    マルクスは『資本論草稿集』⑥のなかで次のように述べています。

   〈リ力ードウにとってはただ、価値が労働時間によって規定されるからこそ、問題が存在するのである。いま言った連中の場合には、そうではない。ロッシャーによれば、自然そのものが価値をもっているのである。……言い換えれば、価値とはなんであるかを、彼は絶対に知らないのである。〉 (182頁)

  (ホ)(ヘ)(ト) きわめて正しい! だって。搾油機によって生みだされる「油」は、搾油機の製造に費やされる労働とは非常に違うものです。そして、「価値」とはなにかと言えば、ロッシャー氏は、「油」が価値をもっているという理由によって、価値とは「油」のようなしろものだと考えるのですが、しかし、石油は、相対的には「非常に多量に」ではないにしても、「天然に」存在するのであって、次のような彼の別の言葉もおそらくこれを言おうとしているのです。

    マルクスはロッシャーが〈いっさいの費用を引き去ったのちに搾油機によって生みだされた価値は、とにかくある新しいものであり、搾油機そのものをつくるために行なわれた労働とは本質的に違うものである、と言っているのは、きわめて正しい〉と述べたのに対して、〈搾油機によって生みだされる「油」は、搾油機の製造に費やされる労働とは非常に違うものである〉というのは確かに〈きわめて正しい!〉と皮肉っています。油と労働が極めて違うものであるのは当たり前のことだからです。ロッシャーは〈搾油機によって生みだされた価値〉と書いて、あたかも搾油機そのものが価値を生み出すかに述べているわけです。搾油機で絞りだされた油は価値を持っているので、それは労働とは違った価値なのだというわけです。しかし価値とは対象化された労働であって、油そのものは使用価値ではあっても価値ではないのはいうまでもありません。油そのものはわずかとはいえ天然にも存在するということから、彼は価値も天然に存在すると考えているわけですす。だから次のようなロッシャーの主張になるというわけです。

  (チ)(リ) 「交換価値をそれ」(自然!)「はほとんどまったく生みださない。」〔同前、79ページ。〕ロッシャーの自然と交換価値との関係は、愚かな娘と「ほんの小さなものだった」子供との関係のようなものです。

    ここでは交換価値を自然は〈ほとんどまったく〉生み出さないということによって、あたかも自然も価値をただ量がわずかであるというだけで生み出すかに彼が考えていることを示しているわけです。
   〈ロッシャーの自然と交換価値との関係は、愚かな娘と「ほんの小さなものだった」子供との関係のようなものである〉という一文はなかなか何を言いたいのか分かりにくいのですが、新日本新書版ではこの部分は〈ロッシャー氏の自然と(自然の生み出す)交換価値との関係は、愚かな未婚の娘と「とても小さいもの」でしかなかった赤ん坊との関係と同じようなものである。〉(351頁)となっています。これでもまだ分かりませんが、フランス語版ではこのあたりは次のようになっています。

  〈石抽は、相対的にわずかであっても「自然のうちに」存在するから、彼はこのことから次のようなもう一つの教義を引き出してくる。「それ(自然!)はほとんど交換価値を生産しない」、と。ロッシャー氏の自然とその交換価値とは、子供を産んでしまってから「でも、とても小さい子供なのよ!」とまさに白状した少女に似ている。〉 (江夏・上杉訳198頁)

    つまりロッシャーは自然も価値を生み出すと考えているのだが、ただそれはわずかの量であって〈ほとんどまったく〉生み出さないほどなのだと言い訳していることを、それは愚かな娘が子供を産んでしまってから、「しかしとても小さい子供なのよ」と言い訳しているのとよく似ているというわけです。例えわずかでも自然が価値を生むと考えることがそもそも間違っているのであって、問題は量の問題ではないということです。

  (ヌ)(ル) この同じ「学者」(“savant serieux”)は、前記の箇所でなお次のように言っています。「リカード学派は資本をも、『貯蓄された労働』として、労働の概念のもとに包摂するのが常である。これは無器用である(!)、というのは(!)、じつに(!)資本所有者は(!)、たしかに(!)、それの(なにの?)単なる(?!)産出(?)および(??)保存よりも多くのこと(!)をしたのだからである。まさに(?!?)自分の享楽の抑制こそがそれであって、その代わりに彼はたとえば(!!!)利子を要求するのである。」(同前。〔82ページ。〕)

    これもロッシャーの批判ですが、彼はリカードが資本を「貯蓄された労働」として労働に帰せしめていることを批判して、資本の所有者は自分の享楽を抑制することによって利潤や利子を生み出したのだからそれを要求しているのだと主張しているわけです。つまり労働ではなく資本の所有が利潤を生み、享楽の抑制の代わりに利子を要求すると彼は主張しているわけです。

  (ヲ)(ワ) なんと「器用な」ことでしょうか! 単なる「要求」から、じつに、たしかに、まさに「価値」を展開する経済学のこの「解剖学的生理学的方法」なるものは!

    だからマルクスは、ロッシャーは資本家の単なる「要求」から利子を説明して事たれりとしているのだから、その経済学の「解剖学的生理学的方法」なるものは何とも器用なものだと皮肉っているわけです。


◎第17パラグラフ(生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる)

【17】〈(イ)生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。(ロ)それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。(ハ)しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。(ニ)労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。(ホ)なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。(ヘ)だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。(ト)そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである(22a)。(チ)景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。(リ)労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせる(23)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きます。それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移ります。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれるのです。

    ここでは生産手段の価値が生産物に移転・保存されるのは、どうしてかを論じています。マルクスはそれを〈生産手段の価値には一つの転生が起きる〉と述べています。新日本新書版では〈生産手段の価値に一つの輪廻*が生じる〉(352頁)となっていて訳者注として〈*〔死から他の生へ生まれ変わることの繰り返しをさす仏教用語〕〉(353頁)という説明があります。またフランス語版では〈生産手段の価値は一種の輪廻を免れない〉(江夏・上杉訳199頁)となっています。
    つまり生産手段の価値はその使用価値とともに失われるが、それは新たな生産物の価値として生まれ変わるということをこのように述べているわけです。だから〈それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る〉とも述べています。そしてそれは現実の労働の背後で行われるのだということです。
    このように価値だけを見ていると何か神秘的なもののように思えますが、しかしそれはすでに説明しましたように、何の神秘性もありません。要するに生産手段の生産に支出された労働時間は、それを使って生産された生産物の生産に必要な労働時間の一部分になるということでしかないのです。そしてこれは厳然たる自然の法則なのです。
  ただそれが生産物の価値として現われているから神秘的なのです。それらが価値として現われるのは、それぞれの生産物に支出された労働が孤立した私的な労働でしかなく、直接には社会的な関係を持っていないからです。しかし生産手段が新たな生産物の生産のために役立つということは、生産手段を生産した労働とそれを使って新たな生産物を作る労働との社会的関係がそこでは問われているのです。しかし商品社会ではそれらの二つの労働は直接的には何の関係もないものとして存在しているので、だから労働の社会的な関係としては、生産手段の価値と生産物の価値という物の社会的な関係としてそれは現われるしかないのです。だからそれは一種の神秘性を帯びてくるわけです。

  (ニ)(ホ) 労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできません。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからです。

    このような価値の輪廻を生み出す労働は、使用価値を作り出す具体的な有用労働そのものですが、使用価値が価値の素材的担い手であるように、商品を生産する労働において、有用労働と価値形成労働とは不可分の関係にあります。だから元の価値を移転・保存する労働(有用労働)は、新たな価値を付け加える労働(価値形成労働)と不可分だと述べているわけです。彼が価値を形成するのは、彼がその労働を有用な形で何らかの種類の使用価値を生み出す限りでしかなく、よってその有用な労働によって、生産手段の価値を新たな生産物の価値として移転し保存することによってのみ出来ることです。だから新たな価値を付け加えようとするなら、何らかの生産手段の価値も移転して保存することを同時に行うことになるわけです。

  (ヘ)(ト) だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのです。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのです。

    だから価値を付け加えながら価値を移転し保存するということは、一つの労働がその労働の二面性によって同時に行うことであり、だから〈活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである〉と述べています。フランス語版では単に〈属性〉と述べているだけですが、この部分は次のように一つの文節として繋がっています。

  〈だから、活動中の労働力、生きた労働は、価値を付加しながら価値を保存するという属性をもっており、これこそは、労働者にはなんら費用がかからないが資本家には多額の利益をもたらす自然の贈り物であって、資本家は自分の資本の現存価値の保存をこれに負うている(4)。〉 (江夏・上杉訳199頁)

   〈この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらす〉とマルクスは書いていますが、それが労働者に何の費用もかからないというのは、それはある意味では自然法則そのものが価値という形態をとって現われているだけのものだからです。しかし資本家には極めて大きな恩恵を与えているのだというのです。これは生産手段が生きた労働と結び付かなければ自然の物質代謝によってその使用価値とともに価値をも失うのに、それが生きた労働と接触することによって死から蘇えりその価値を移転させ保存させてくれるからです。これは資本家にとっては何の費用もかからない多大な恩恵なわけです。

  (チ)(リ) 景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えません。労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせます(23)。

    こうした恩恵は景気がよいあいだは資本家には何の関係もない当たり前のことのように思えていますが、一旦、その労働過程が中断せざるを得ない事態が生じたら、その恩恵は痛切に感ぜざるを得ないものになるというのです。つまり恐慌で生産がストップしても、生産手段には自然の物質代謝が容赦なく襲いかかり、その使用価値とともに価値を破壊してしまい資本家に多大な損害を与えます。だから、そこで資本家は労働者の労働のありがた味、それによってこそ彼自身も生かされて来たことを思い知るわけです。


  (4に続く。)

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(4)

2022-11-19 03:52:45 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(4)

 

◎原注22a

【原注22a】〈22a 「農業で用いられるあらゆる器具のうちで、人間の労働こそは……農業者が彼の資本の償却のためにいちばん頼りにしているものである。ほかの二つのもの--現有の役畜と……荷車や犂(スキ)や鋤(スキ)など--は、いくらかの量の労働がなければなんにもならない。」(エドマンド・バーク『穀物不足に関する意見と詳論、もと1795年11月にW・ピット閣下に提出されたもの』、ロンドン、1800年版、10ページ。〔河出書房版『世界大思想全集』、社会・宗教・科学篇、第11巻、永井訳『穀物不足に関する思索と詳論』、251ページ。〕)〉

  これは〈だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである(22a)〉という本文に付けられた原注です。エドマンド・バークの著書から引用だけですが、バークは人間を農業で用いられる器具の一つと考え、それがあらゆる器具のなかで資本の償却のために頼りになるものだとしています。というのはそれ以外の器具、役畜や犂や鋤は労働がなければなんにもならないからだと述べています。つまりそれ以外の器具も労働が加えられることによって、その価値の償却を考えることが出来るということでしょうか。つまり生産物にそれらの器具の価値を移転し、その価値の回収が可能なのだということでしょう。エドマンド・バークについては『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  バークEdmund Burke (1729-1797) イギリスの自由主義的政論家・著述家.……マルクスは,これらバークの政治的活動を評して,‘かつてアメリカの動乱の初期には,北アメリカ植民地に雇われてイギリス寡頭政府にたいし自由主義者たる役割を演じたのとまったく同様に,イギリスの寡頭政府に雇われてはフランス革命にたいしロマン主義者たる役割を演じたこの追従屋は.徹頭徹尾,俗物ブルジョアであった'(Kl-800;青木4-1156;岩波4-345) と非難した.そしてこの追従者たる無節操さから,バークは,'商業の法則は,自然の法則であり. したがって神の法則である'とのベ,自分自身その法則にしたがい最良の市場でみずからを売ることとなったのであり,そこになんの不思織もないと極言している〔同上). 
  なおバークの著書《Thoughts and Details on Scarcity,originally presented to the Rt.Hon.W.Pitt in Month of November1795》 (1800)からは,マルクス自身の主援を例証するものとして二,三の短い文章が引用されている.すなわち.生産過程において新価値を創造する賃労働者の労働が.他面では資本家に既存資本価値の維持という利益をもたらすことを示唆したものとして(K1-215;青木2-372;岩波2-116),また賃労働者は,自己の維持に必要な労働時間をこえて余分な労働時間を追加することによって,生産手段の所有者を養うことを示唆したものとして(KI-243;青木2-412-413;岩波2.166),さらに協業の発展が,各労働者の個別労働を社会的平均労働化する作用をもつことを例証したものとして(KI.338 ;青木3-544,546;岩波3-25,27)などである.〉(529-530頁)


◎原注23

【原注23】〈23 (イ)1862年11月26日の『タイムズ』紙上で、ある工場主、というのは自分の紡績工場で800人の労働者を使用して毎週平均150梱(コリ)の東インド綿かまたは約130梱のアメリカ綿を消費している工場主であるが、彼は自分の工場の毎年の休業費を公衆に向かって嘆いている。(ロ)彼はそれを6000ポンドと見積もっている。(ハ)この失費のうちには、ここではわれわれに関係のない多くの費目がある。(ニ)すなわち、地代、租税、保険料、1年契約の労働者や支配人や簿記係や技師の給料などがそれである。(ホ)しかし、次に彼は、ときどき工場を暖めたり蒸気機関を時おり運転したりするための石炭や、そのほかにも臨時の労働によって機械を「動きやすく」しておく労働者の賃金を150ポンドと計算している。(ヘ)最後に、機械の損傷による1200ボンドがある。(ト)なぜならば、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめたからとて、その作用を中止しはしない」からである。(チ)彼は、この1200ポンドという金額は、機械がすでにひどい損耗状態にあるので、こんなに小さく見積もられたのだ、と明言している。〉

  (イ) 1862年11月26日の『タイムズ』紙上で、ある工場主、というのは自分の紡績工場で800人の労働者を使用して毎週平均150梱(コリ)の東インド綿かまたは約130梱のアメリカ綿を消費している工場主ですが、彼は自分の工場の毎年の休業費を公衆に向かって嘆いています。

  これは〈景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせる(23)〉という本分に付けられた原注です。これは『タイムズ』紙に掲載されたもののようで、インド綿とアメリカ綿を消費している紡績工場主の話で、〈自分の工場の毎年の休業費〉を訴えているというのですが、ここで〈休業費〉とあるのは新日本新書版では〈操業中断費〉(353頁)となっています。またフランス語版では〈一紡績工場主は、自分の工場での労働が断続的に中断するために失費する毎年の出費のことについて、泣き言を言っては公衆を悩ませている〉(江夏・上杉訳199頁)となっています。
    要するに工場がストップしたときの損失額を公衆に訴て嘆いているということでしょう。つまり工場が動いているあいだは気にもしなかったことが、工場がストップして大変な損害が発生しているというわけです。

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ) 彼はそれを6000ポンドと見積もっています。この失費のうちには、ここではわれわれに関係のない多くの費目があります。すなわち、地代、租税、保険料、1年契約の労働者や支配人や簿記係や技師の給料などがそれです。しかし、次に彼は、ときどき工場を暖めたり蒸気機関を時おり運転したりするための石炭や、そのほかにも臨時の労働によって機械を「動きやすく」しておく労働者の賃金を150ポンドと計算しています。最後に、機械の損傷による1200ボンドがあります。なぜならば、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめたからとて、その作用を中止しはしない」からです。彼は、この1200ポンドという金額は、機械がすでにひどい損耗状態にあるので、こんなに小さく見積もられたのだ、と明言しています。

    彼はその全額を6000ポンドと見積もっていますが、その内訳は今われわれが問題にしているものと関係のないものも多く含まれるということです。まず地代、租税、保険料、1年契約の労働者や支配人や簿記係や技師への給料などです。これらは工場がストップしたからといって支払わなくてもよいとはいかないから、彼にとっては失費になるわけです。それが差引計算すると4650ポンドあり、さらに工場を暖めたり蒸気機関を時おり運転してそれが何時でも稼働できるように維持しておくための石炭や臨時の労働者に支払う給料が150ポンドあるわけです。そしてそれに機械がストップすることによって自然に損傷する分として1200ポンドが計算されているということです。そして〈「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめたからとて、その作用を中止しはしない」から〉とその理由を述べているということです。しかもこの金額は、もともと機械そのものがすでにひどい損耗状態にあるために、小さく見積もられたのだということです。機械の価値の多くはすでに生産物に移転してしまっていて、残っている部分はわずかだから、それが自然の作用によって損耗する分もそれだけ少なく見積もっているということです。


◎第18パラグラフ(生産手段の価値は再現はするが再生産されるのではない)

【18】〈(イ)およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これの消費によって労働は生産物を形成するのである。(ロ)生産手段の価値は実際は消費されるのではなく(24)、したがってまた再生産されることもできないのである。(ハ)それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのものに操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。(ニ)それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。(ホ)生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である(25)。〉

  (イ)(ロ) およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これの消費によって労働は生産物を形成するのです。だから生産手段の価値そのものは消費されるわけではありません。だからまた当然、それが再生産されることもできないのです。

   新しい生産物を生産する過程で消費されるのは生産手段の使用価値であって、価値ではありません。労働過程では、生産手段の使用価値が消費されて新しい使用価値(生産物)が生産されるのです。生産手段の価値は、その使用価値が消費される時点で使用価値がなくなるとともに消滅しますが、しかしその使用価値は新たな生産物を生産するために消費されるので、その価値は新たな生産物の価値として移転されて保存されるのです。だからこの生産手段の価値は新たに再生産されたものではないのです。

  (ハ) 生産手段の価値は保存されますが、しかし、労働過程で価値そのものに何らかの操作が加えられて保存されるのではありません。価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失しますが、しかしただ別の使用価値となるたに消失するので、その価値が保存されるのです。

    そもそも生産手段の価値を新たな生産物に移転して保存するのは、労働過程における労働の有用な属性によるものです。しかし具体的な有用労働が生産手段の価値に何らかの操作を加えて、それを新たな生産物の価値として移転し保存するわけではないのです。ここらあたりが間違いやすいのですが、その間違った主張についてはすでに紹介しましたので、ここでは繰り返しません。そもそも価値というのはその商品の生産に必要な社会的な労働が対象化されていることを示すシンボルみたいなものです。だから生産手段が新たな生産物の生産のために消費されるから、その生産手段の生産に必要だった労働時間(価値)は、新たな生産物の生産に必要な労働時間(価値)の一部になるというだけで、そこには、つまり価値そのものに対しては、有用労働による何らかの作用などは生じていないのです。有用労働は、あくまでも生産手段の使用価値に作用するだけです。だから生産手段の価値が、生産物の価値として移転され保存されるのは、支出された労働時間はその過程で次の生産物の必要労働として積み重なっていくという一つの自然法則の商品形態における現われでしかないのです。ただ生産手段の使用価値を消費して新たな生産物を生産するのは具体的な有用労働ですから、具体的な有用労働が生産手段の価値を移転し保存するとマルクスは述べているのです。

  (ニ)(ホ) だから、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はしますが、しかし、正確に言いますと、再生産されるのではありません。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値なのです。

    だから生産手段の価値は、新たな生産物の価値として移転され保存されることによって「再現」されるとは言えますが、「再生産」されるとは言えないのです。つまり失われた価値が、何らかの操作によって「再生産」されたとはいえないということです。時間が積み重なったからといって、時間が再生産されたなどとはいわないのと同じです。生産手段を消費して生産されるのは、新たな生産物の価値ではなく新たな使用価値なのです。


◎原注24

【原注24】〈24 「生産的消費、そこでは商品の消費は生産過程の一部分である。……これらの場合には価値の消費はない。」(S・P・ニューマン『経済学綱要』、296ぺージ。)〉

  これは〈生産手段の価値は実際は消費されるのではなく(24)〉という本文に付けられた原注です。これはニューマンからの引用だけですが、ニューマンも生産的消費では、価値の消費はないいうことを指摘しているということです。S・P・ニューマンについても『資本論辞典』から紹介しておきましょう。

  ニューマン Samuel Phillips Newman(1797-1842) アメリカの牧師・著述家・教師.……主著として……《Eleoments of Political Economy》(1835)などがある.後者は,その大部分がアダム・スミスの経済学に依存しており,独創性に乏しいが.きわめて明快な文章でその当時生起しつつあった問題にかんし原理的説明をあたえたものである.ニューマンは,この書のなかで一方では,一般に生産過程で生産手段の消費がおこなわれるばあい.消費されるのはそれらの使用価値であって価値ではないというような正しい観察をものべているが(Kl-216;青木2-373;岩波2-117),他方では,'商業は生産物に価値を附加する,なぜかというに,同ー生産物が生産者の手中にあるより消費者の手中において,より多くの価値をもっているからだ.したがって"商業は,言葉どおりに生産行為と考えられなければならぬ' (KI-167;青木2-303 ;岩波2-31)といって,セーとともに,俗滅的見解に陥っている.〉(527-528頁)


◎原注25

【原注25】〈25 (イ)おそらく20版は重ねたと思われる北アメリカのある概説書のなかには次のように書いてある。(ロ)「どんな形で資本が再現するかは、問題ではない。」(ハ)その価値が生産物に再現するありとあらゆる生産成分を長々と数えあげてから、最後に次のように言っている。(ニ)「人間の生存や慰楽のために必要な各種の食料や衣服や住居もまた変化させられる。それは次から次へと消費され、そしてそれらの価値は、人間の身心に与えられる新たな力のうちに再現し、再び生産の仕事に用いられる新鮮な資本を形成する。」(F・ウェーランド『経済学綱要』、31、32ページ。)(ホ)ほかにもある奇妙な点はすべて問題にしないとしても、更新された力のうちに再現するものは、たとえばパンの価格ではなくて、血液を形成するパンの実体である。(ヘ)これに反して、力の価値として再現するものは、生活手段ではなくてその価値である。(ト)同じ生活手段は、それが半分にしか値しなくても、まったく同じだけの筋肉や骨などを、要するに同じ力を生産するが、しかし同じ価値のある力を生産するのではない。(チ)このように「価値」を「力」に置き換えることやまったくパリサイ人的なあいまいさは、前貸しされた価値の単なる再現から剰余価値をひねり出そうとする、どのみちむだな試みを、そのうちに隠しているのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) おそらく20版は重ねたと思われます北アメリカのある概説書のなかには次のように書いています。「どんな形で資本が再現するかは、問題ではない。」その価値が生産物に再現するありとあらゆる生産成分を長々と数えあげてから、最後に次のように言っています。「人間の生存や慰楽のために必要な各種の食料や衣服や住居もまた変化させられる。それは次から次へと消費され、そしてそれらの価値は、人間の身心に与えられる新たな力のうちに再現し、再び生産の仕事に用いられる新鮮な資本を形成する。」(F・ウェーランド『経済学綱要』、31、32ページ。)

    これは〈それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である(25)〉という本文に付けられた原注です。
  このウェーランドからの引用文では、まず〈どんな形で資本が再現するかは、問題ではない〉という一文がまず引用されています。これでウェーランドがあらゆる生産成分が資本として再現すると述べているわけでしょう。そして最後に、生活手段の価値は、人間の身心に与えられる力のうちに再現して、その力は生産に用いられて新たな資本の形成に役立つと述べています。確かに生活手段の価値は労働力の「価値」として〈再現〉されます(これは高級な労働力はそれだけ多くの養成費用がかかっており、だからその労働力の発現はより多くの価値を対象化することからわかります)が、しかしそれは「力」として再現するわけではありません。そしてその労働力が支出されて〈再び生産の仕事に用いられる新鮮な資本を形成する〉と、ここでは〈形成する〉となっています。ウェーランドの場合、〈資本が再現する〉とか〈資本を形成する〉としか述べておらず、それが「資本の価値」として再現するのか、「資本の価値」を形成するのかはハッキリしません。

  (ホ)(ヘ) ほかにもある奇妙な点はすべて問題にしないとしても、更新された力のうちに再現するものは、たとえばパンの価格ではなくて、血液を形成するパンの実体である。これに反して、力の価値として再現するものは、生活手段ではなくてその価値である。

    ここではマルクスはウェーランドの主張の奇妙な部分は無視すると、先の引用文のおかしな点として、労働力そのものはパンの価格によって形成されるのではなく、パンの使用価値によって形成されるのであり、労働力の価値として再現するものは、パンの使用価値ではなく価値であるとその正しい関係を対置して述べています。

  (ト) 同じ生活手段は、それが半分にしか値しなくても、まったく同じだけの筋肉や骨などを、要するに同じ力を生産するが、しかし同じ価値のある力を生産するのではない。

    ここでは先の関係をさらに実証する一例を挙げています。生活手段の価値が、半分になっても、その使用価値が変わらないなら、同じだけの筋肉や骨などの、ようするに労働力を形成する役立ちをすることを指摘し、しかし同じ価値の労働力を生産するのではないと述べています。ここでは〈生産する〉となっていますが、言い換えれば生活手段の価値が半分になれば、それが〈再現する〉労働力の価値も半分になる、ということでしょう。

  (チ) このように「価値」を「力」に置き換えることやまったくパリサイ人的なあいまいさは、前貸しされた価値の単なる再現から剰余価値をひねり出そうとする、どのみちむだな試みを、そのうちに隠しているのです。

   ウェーランドのように、生活手段の価値が労働力として再現するというように、「価値」を「力」に置き換えて説明するあいまいな説明の仕方は、往々にして前貸しされた価値の単なる再現から剰余価値をひねりだそうする魂胆を秘めているのだということです。ここで〈パリサイ人的なあいまいさ〉という言葉が出てきます。よく分からないのですが、パリサイ人というのは、キリストから偽善者として批判されたといいますから、「偽善者的なあいまいさ」というような意味でしょうか。


◎第19パラグラフ(労働力は生産物に新たな価値を付加する)

【19】〈(イ)労働過程の主体的要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではない。(ロ)労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存するあいだに、その運動の各瞬間は追加価値を、新価値を、形成する。(ハ)かりに、労働者が自分の労働力の価値の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断するとしよう。(ニ)この価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値からきた成分を越える超過分をなしている。(ホ)それは、この過程のなかで発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。(ヘ)もちろん、それは、ただ、資本家によって労働力の買い入れのときに前貸しされ労働者自身によって生活手段に支出された貨幣を補塡するだけである。(ト)支出された3シリングとの関係からみれば、3シリングという新価値はただ再生産として現われるだけである。(チ)しかし、それは現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではない。(リ)ある価値の他の価値による補塡は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのである。〉

  (イ)(ロ) 労働過程の主体的要因、活動しつつある労働力のほうは、そうではありません。労働がその合目的的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存するあいだに、その運動の各瞬間は追加価値を、新価値を、形成するのです。

    これまでは、生産過程の客体的要因、すなわち生産手段の価値が、生産物のうちに再現されることを見てきましたが、生産過程のもう一つの契機である主体的要因である労働力の場合に話を転じています。
   そして活動しつつある労働力の場合は、生産手段のように、ただ労働力の価値を生産物の価値として移転し再現するのではないということです。そうではなく、労働の具体的契機で生産手段の価値を移転しているあいだに、その抽象的契機によってそれは生産物に新たな価値を付加(形成)するわけです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) もし、労働者が自分の労働力の価値の等価を生産した点、たとえば6時間の労働によって3シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断するとしましょう。しかしその場合でも、この価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値からきた成分を越える超過分をなしています。それは、この過程のなかで発生した唯一の本源的な価値であり、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分なのです。もちろん、それは、ただ量としては、資本家によって労働力の買い入れのときに前貸しされて、労働者自身によって生活手段に支出された貨幣を補塡するだけです。

    例え労働者が自分の労働力の価値と等しいだけの価値を付加した時点で、労働を止めたなら、それは確かに自分の労働力の価値を生産物に再現したかに見えますが、しかしそうではなくその場合でも、労働が付け加えられた価値は、生産手段の価値が移転した分を超えたものであり、だから新たに形成された価値なのです。この価値部分こそこの生産過程で唯一生産された価値なのです。もちろん、量的には、それは資本家が最初に前貸しして労働力の購入に投じた分と同じであり、だからそれを補塡するものですが、しかしそれは新たに生産された価値として補塡されているものです。

  (ト)(チ)(リ) 支出された3シリングとの関係からみれば、3シリングという新価値はただ再生産として現われるだけです。しかし、それは現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のようにただ外観上再生産されているだけではありません。ある価値の他の価値による補塡は、ここでは新たな価値創造によって媒介されているのです。

    だから資本家が最初に投じた3シリングとの関係で見ると、3シリングの新価値はただ再生産されたものとしてあります。しかしそれは明らかに現実に再生産されたのであって、生産手段のようにただ再現されているだけで、見かけ上は再生産されているように見えるだけではないのです。労働力の価値を、活動しつつある労働によって形成された価値によって補塡するということは、新たな価値を形成することによって行われるのであって、単に再現することによってではないのです。


◎第20パラグラフ(もちろん、労働過程は、労働力の価値を補塡する点を越えて継続され、ある剰余価値を生産する)

【20】〈(イ)しかし、われわれがすでに知っているように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行される。(ロ)この点までは6時間で十分でも、それではすまないで、過程はたとえば12時間続く。(ハ)だから、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけではなく、ある超過価値が生産される。(ニ)この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物形成者すなわち生産手段と労働力との価値を越える超過分をなしているのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) もちろん、すでに私たちが知っていますように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて、なお続行されます。つまり6時間を越えて、たとえば12時間続きます。だから、労働力の活動によってはただそれ自身の価値が再生産されるだけではなく、それに加えてある超過価値が生産されるのです。

    しかし現実の生産過程は、ただ労働力の価値を補塡するだけに留まらず、労働はそれ以上に続行されます。つまり6時間ではなく、例えば12時間労働することになります。だから現実の労働過程においては労働力の活動は自身の価値を再生産するだけではなく、それを越える剰余価値を生産するわけです。補塡する部分もそれを越える部分も、それらはすべて労働が新たに形成する価値です。

  (ニ) この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物形成者つまり生産手段と労働力との価値を越える超過分をなしているのです。

    この剰余価値は、生産物価値のうち、消費された生産手段の価値と労働力の価値、つまり資本家が最初に投じた価値額を越える超過分をなしています。


◎第21パラグラフ(生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割は、資本自身の価値増殖過程での資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけるものである)

【21】〈(イ)われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。(ロ)生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。(ハ)一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。〉

  (イ) 私たちは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのです。

    このパラグラフは、これまでの一連の考察の一つのまとめといえます。
    私たちは冒頭〈労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する〉と述べて、労働過程の諸要因として生産手段と労働力という二つの契機にわけて、まず生産手段の価値が如何にして生産物価値の形成に参加するかを検討し、その次に労働力が生産物価値として如何にして新たな価値を付加するかを見てきました。こうした検討は、事実上、資本が自分の価値増殖過程で自身のさまざまな要因が果たす機能を見てきたことになるのだということです。
    つまりここには視点の転換があります。それまでは絶対的剰余価値の生産過程を使用価値の生産と価値の生産に分けて分析的に見てきましたが、ここではそれらを資本自身の運動して見るという視点の転換です。それらを資本自身が運動する場合のいろいろな機能として特徴づけたことになるのだというのです。そうした視点の転換があって、はじめて生産手段に投下された資本の価値を不変資本、労働力に投下された資本の価値を可変資本という資本の機能規定として特徴づけることができるわけです。つまりそのための導入をここでは論じているわけです。
    そもそも価値というのは単に質的に同じでただ量的に異なるものです。しかし私たちは同じ価値でも元の価値(あるいは等価)と剰余価値という区別を知っています。これらは価値自身が量的に区別されることからそれが自身が変化し増殖するものとして捉えられたときに、価値は常に自己自身を比較の対象にして自身を区別する存在として捉えられるからです。だからここでは元の価値とその増殖分としての剰余価値との区別が生じているのです。もちろん元の価値も剰余価値も同じ価値であり質的に同一なものです。
    そしてこの常に増殖する過程として存在する価値こそが資本という新たな形態規定性をもった価値なのです。資本もそれ自体としては単なる価値ですが、しかし資本が自己を増殖する過程のなかでその機能規定として受け取るのが、すなわち資本が自己増殖するために生産手段に投下した部分と労働力に投下した部分というその資本の機能上の区別として捉えられたものが、すなわち不変資本と可変資本という新たな規定性なのです。これらは資本の機能規定といえます。

  (ロ) 生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分です。

    このような資本自身の諸成分の果たす機能として特徴づけられてみると、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された部分は資本の超過分として捉えられるということです。

  (ハ) 一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのです。

    このように資本の諸成分として見た場合、生産手段や労働力は最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の資本の存在形態として捉えられるということです。つまり資本の相異なる機能を果たす別々の資本の存在形態だということです。


◎第22パラグラフ(生産手段を不変資本と呼ぶ)

【22】〈(イ)要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。(ロ)それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。〉

  (イ)(ロ) 要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにします。

    このように資本自身の成分としてみた場合、生産手段、すなわち原料や補助材料や労働手段などに転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えずに、ただ生産物にその価値を移転し再現するだけのものです。だから私はこれを不変資本部分と呼び、もっと簡潔に不変資本と呼ぶことにします。


◎第23パラグラフ(労働力に転換された資本部分を可変資本と呼ぶ)

【23】〈(イ)これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。(ロ)それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。(ハ)資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。(ニ)それゆえ、私はこれ可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。(ホ)労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。〉

  (イ)(ロ) これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変えます。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありえます。

    生産手段に対してもう一つの資本部分である労働力については、生産過程でその価値を変えて、それ自身の価値の等価ばかりか、それを越える超過分を、つまり剰余価値を形成します。そしてこの剰余価値そのものもそれ自身変動するものであって、より大きいこともあればより小さいこともあります。

  (ハ)(ニ) 資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行きます。だから、私はこれ可変資本部分、またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにします。

    だから労働力に投下された資本部分は、つねに生産過程では一つの不変量から一つの可変量に転化するわけです。だから私はこの資本部分を可変資本部分、より簡潔には可変資本と呼ぶことにします。

  (ホ) 労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのです。

   すなわち使用価値の生産という観点からは、お互いに客体的要因と主体的要因として、すなわち生産手段と労働力として区別された同じ資本の諸要素が、資本自身の諸成分としてみたとき、価値増殖過程という観点から不変資本と可変資本として機能規定されるのです。

 (5に続きます。)

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(5)

2022-11-19 03:37:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(5)

◎第24パラグラフ(不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない)

【24】〈(イ)不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない。(ロ)1ポンドの綿花が今日は6ぺンスであるが、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がると仮定しよう。(ハ)引き続き加工される古い綿花は、6ペンスという価値で買われたものであるが、今では生産物に1シリングという価値部分をつけ加える。(ニ)そして、すでに紡がれた、おそらくすでに糸になって市場で流通している綿花も、やはりその元の価値の二倍を生産物につけ加える。(ホ)しかし、明らかに、この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがない。(ヘ)もし古い綿花がまだ全然労働過程にはいっていないならば、それを今では6ペンスではなく1シリングでもう一度売ることもできるであろう。(ト)それどころか、それが労働過程を通っていることが少なければ少ないほど、いっそうこの結果は確実なのである。(チ)それだから、このような価値革命にさいしては、最も少なく加工された形態にある原料に賭けるのが、つまり、織物よりはむしろ糸に、糸よりはむしろ綿花そのものに賭けるのが、投機の法則なのである。(リ)価値変化はここでは綿花を生産する過程で生ずるのであって、綿花が生産手段として、したがってまた不変資本として機能する過程で生ずるのではない。(ヌ)一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいるが、しかしこの量そのものは社会的に規定されている。(ル)もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば--たとえば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きい量の労働を表わす--、前からある商品への反作用が生ずるのであって、この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず(26)、その価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではありません。1ポンドの綿花が今日は6ぺンスであるが、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がると仮定しましょう。引き続き加工される古い綿花は、6ペンスという価値で買われたものですが、今では生産物に1シリングという価値部分をつけ加えます。そして、すでに紡がれた、おそらくすでに糸になって市場で流通している綿花も、やはりその元の価値の二倍を生産物につけ加えることになるのです。

   不変資本というから、その価値は生産過程では変化しないのかというと必ずしもそうではないのです。例えば1ポンドの綿花が今日は6ペンスであったのが、不作のために1シリングに上がった場合、すでに生産過程にあり6ペンスで仕入れた綿花の価値も1シリングになり、だから1シリングの価値を糸に再現することになります。あるいはすでに糸に転化してしまってすでに流通している綿花もそれ自体としては6ペンスで仕入れたもので、糸には6ペンスの価値を移転したのですが、しかしそれがいまだ最終的に売られていない場合、綿花が1シリングに値上がりした時点で、糸に転換された綿花の価値も1シリングに上がり、糸の価値もそれだけ大きくなるわけです。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) しかし、明らかに、この価値変動は、紡績過程そのものでの綿花の価値増殖にはかかわりがありません。もし古い綿花がまだ全然労働過程に入っていないのでしたら、それを今では6ペンスではなく1シリングでもう一度売ることもできるでしょう。それどころか、それが労働過程を通っていることが少なければ少ないほど、いっそうこの結果は確実なのです。それだから、このような価値革命にさいしては、最も少なく加工された形態にある原料に賭けるのが、つまり、織物よりはむしろ糸に、糸よりはむしろ綿花そのものに賭けるのが、投機の法則なのです。

   しかしこうした不変資本としての綿花の価値の変化は、紡績過程そのものにおける変化ではありません。それは紡績過程とは違った別の綿花の生産過程の諸条件の変化による変化なのです。だから綿花が生産手段として参加する生産過程そのものにおいてその価値を変化させるわけではないという点では不変資本の概念から外れているわけではないのです。こうした生産過程の外での価値革命は、だから古い綿花がまだ全然生産過程に入っていない段階では明確にその価格の変化として現われてきます。それがすでに生産過程に入ったり、あるいはすでに生産過程を通って新たな生産物に転化してしまえばしまうほど、その価値革命の現われ方はさまざまな諸条件から不確実になるでしょう。すでに糸になったものを原料である綿花の価値が上がったからといって、そのまま糸の価格の引き上げとして反映できるかどうかはさまざまな市場の条件なども加わって不確実になるからです。だから価格の変動を見越して投機に走る人たちは、できるだけ川上に近いもの、織物よりも糸に、糸よりも綿花そのものに賭けるのが常道なのです。だから先物取引の市場では石油や金や銀や銅、あるいは穀物などの諸原料を扱うのが一般的なのです。

  (リ)(ヌ)(ル) 価値変化はここでは綿花を生産する過程で生ずるのであって、綿花が生産手段として、したがってまた不変資本として機能する過程で生ずるのではありません。一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されてはいますが、しかしこの量そのものは社会的に規定されているのです。もしその商品の生産に社会的に必要な労働時間が変化したならば--たとえば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きい量の労働を表わします--、前からある商品への反作用が生ずるのです。だから商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められません。そしてその価値は、つねに、社会的に必要な、したがってまたつねに現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって、計られるのです。

  綿花の価値の変化は、綿花を生産する諸条件の変化から生じるのであって、綿花が生産手段として入っていく、すなわち不変資本として機能する生産過程(紡績過程)で生じるのではありません。
  一商品の価値は、その商品に含まれている労働の量によって規定されていますが、その量そのものは社会的に規定されているのです。すなわちその商品の生産に社会的に必要な労働時間がその商品の価値を規定しています。だからその社会的条件が変化して社会的に必要な労働時間が変化すれば--例えば同じ量の綿花でも不作のときには豊作のときよりも大きな量の労働時間をあらわします--その価値は変化しますが、それはすでに前に商品として生産されていて、今は流通にあるか在庫として停滞している商品についても、あるいはすでに別の生産過程にある商品についても、その価値の変化は反作用して変化させるのです。
  だから商品は常に同じ商品種類の個別の見本としてしか認められないのです。つまりある一商品の生産に社会的に必要な労働時間というのは、その商品種類全体を生産するに社会的に必要な労働時間総量の一加除部分として考えられるということです。だからその商品種類の生産に社会的に必要な労働時間の変化は、同じ商品種類の個別の商品全体に行き渡るということです。そしてその社会的に必要な労働時間というのは、今その時点における生産の諸条件における社会的に必要な労働時間であって、だからそれは今その時点では、すでにその前に生産されたがいまだその価値存在を失っていないものにも影響するということなのです。生産手段(原料)としてある商品(綿花)の価値は、資本家(紡績業者)によって購入されることによってその商品としての価値は実現されますが、しかし資本としての価値は失いません。それは依然として資本の一機能(生産手段)を担うものとして価値(不変資本価値)を維持しているからです。だからこうした価値存在を維持しているものには、商品価値の変化は及ぶということです。だから綿花はすでに糸に転化してしまってその使用価値は存在していないのに、その価値は依然して綿花のその時点の価値の変化を反映して、糸の価値部分の変化として現われてくるわけです。


◎原注26

【原注26】〈26 「同じ種類の生産物の全体が本来はただ一つのかたまりをなしているのであって、このかたまりの価格は一般的に、そしていちいちの事情にかかわることなく、決定されるのである。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、893べージ。)〉

  これは〈この商品はいつでもただその商品種類の個別的な見本としか認められず(26)〉という本文に付けられた原注です。
  ここではトローヌは同じ種類の生産物は一つのかたまりとして存在していて、そのかたまりの価格が個々別々の事情にかかわりなく決まってくることを述べています。その意味では本文の主旨をそのまま述べているものとして原注に採用されているといえます。ル・トローヌについては第4章「貨幣の資本への転化」の原注17と19、20等々、いろいろと出てきました。原注17の解説のところでは『資本論辞典』から紹介しましたので、もう一度それを再録しておきましょう。

  ル・トローヌ・Guillaume Francois Le Trosne(1728-1780) フランスの経済学者.はじめ自然法学研究に従事したが,やがてケネーの影響をうけて経済学研究に入り.重農主義学説のもっとも有能な説明者の一人となった.……彼は価値の基礎を効用にだけおくコンディヤックに反対し,価値の発生を交換にもとめ,価値決定の原因を交換関係における効用・生産費・稀少怯・競争の共同作用によると説明した.つまりル・トローヌは一方に欲望にもとづく効用を認め他方に生産費を認めて主客折衷の価値説を示したが.コンディヤック批判では,彼の説に使用価値と交換価値の混同があることを指摘し得たのではなく,彼自身交換価値の本質については理解できず,使用価値と交換価値とを混同していた.マルクスはル・ローヌにたいして積極的には論評を加えていないが.『資本論』第1巻第1篇および第2篇で,重農主義の価値論を代表するものとして上記主著からしばしば引用し,彼が交換価値を異なる種類の使用価値の交換における量的関係すなわち比率として相対的なものと理解していること(KI-40;青木1・116;岩波1-74).また彼が商品交換は等価物間の交換であって,価値増殖の手段でないことを明示し(KⅠ-166;青木2・301-302;岩波2-30),コンディヤックの相互余剰交換説をきわめて正当に批判していること(KI-I86;青木2-3日3-304;岩波2-32)などを指摘している.〉(500頁)


◎第25パラグラフ(原料と同様、すでに生産過程で役だっている労働手段(機械など)の価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがある)

【25】〈(イ)原料の価値と同じように、すでに生産過程で役だっている労働手段すなわち機械その他の価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがある。(ロ)たとえば、もし新たな発明によって同じ種類の機械がより少ない労働支出で再生産されるならば、古い機械は多かれ少なかれ減価し、したがってまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移すことになる。(ハ)しかし、この場合にも価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外で生ずる。(ニ)この過程では、その機械は、それがこの過程にかかわりなくもっているよりも多くの価値を引き渡すことはけっしてないのである。〉

  (イ) 原料の価値と同じように、すでに生産過程で役だっている労働手段すなわち機械その他の価値も、したがってまたそれらが生産物に引き渡す価値部分も、変動することがあります。

    先には不変資本としての原料(綿花)の価値の変化の可能性を見ましたが、同じ不変資本である労働手段の場合にもやはりその価値が変化することがあるのです。だからその価値の変化とともにそれが生産物に引き渡す価値部分も変化することになります。しかしこの場合もやはり不変資本という概念から外れるようなことではないのです。

  (ロ) たとえば、もし新たな発明によって同じ種類の機械がより少ない労働支出で再生産されるならば、古い機械は多かれ少なかれ減価します。だからまた、それに比例してより少ない価値を生産物に移すことになるわけです。

    例えば、今、新しい発明によって同じ種類の機械がより少ない労働時間で生産されることになれば、当然その価値は減少します。そうするとすでに生産過程にある同じ機械の価値も同じように減価し、だから当然、それが生産物に引き渡す価値もそれに比例して減少することになるのです。

  (ハ)(ニ) しかし、この場合にも価値変動は、その機械が生産手段として機能する生産過程の外で生じています。この過程のなかでは、その機械は、それがこの過程にかかわりなくもっているよりも多くの価値を引き渡すことはけっしてないのです。

    すでに述べましたように、こうした場合も機械が不変資本としての概念からはずれているとは言えません。機械の価値の変動は、その機械が生産手段として機能している生産過程によって生じるのではなく、それとは別の機械そのものを生産する過程の変化によって生じたものです。だから機械が生産手段として機能している過程においては、その過程の外で決まった価値であっても、やはりその価値をそのまま生産物に移転するということは依然として変わらないのです。つまり不変資本の概念に合致しているのです。


◎第26パラグラフ(生産手段の価値の変動は、不変資本と可変資本との量的割合を変化させても、不変と可変との区別の相違には影響しない)

【26】〈(イ)生産手段の価値の変動は、たとえその生産手段がすでに過程にはいってから反作用的に生じても、不変資本としてのその性格を変えるものではないが、同様にまた、不変資本と可変資本との割合の変動も、それらの機能上の相違に影響するものではない。(ロ)労働過程の技術的な諸条件が改造されて、例えば、以前は1O人の労働者がわずかな価値の1O個の道具で比較的少量の原料に加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械で百倍の原料に加工するようになるとしよう。(ハ)この場合には、不変資本、すなわち充用される生産手段の価値量は非常に増大し、労働力に前貸しされる可変資本部分は非常に減少するであろう。(ニ)しかし、この変動は、不変資本と可変資本との量的関係、すなわち、総資本が不変成分と可変成分とに分かれる割合だけを変えるたけで、不変と可変との区別の相違には影響しないのである。〉

  (イ) 生産手段の価値の変動は、たとえその生産手段がすでに過程にはいってから反作用的に生じても、不変資本としてのその性格を変えるものではないが、同様にまた、不変資本と可変資本との割合の変動も、それらの機能上の相違に影響するものではありません。

  すでに検討しましたように、生産手段(原料や労働手段)の価値の変動が、すでに生産過程にある生産手段の価値に反作用してその価値の変動をもたらしても、その不変資本としての性格を変えるものではないことが確認されました。
  同じことは、不変資本と可変資本との割合が変化しても、それらの機能上の区別そのものには何の影響もないと言うこともできます。不変資本の価値が変化すれば、当然、不変資本と可変資本との割合は変化するでしょう。しかし不変資本の価値が変化しても不変資本でないことにはならないのですから、両者の区別もまた依然とし存在していることは当然なことです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 労働過程の技術的な諸条件が改造されて、例えば、以前は1O人の労働者がわずかな価値の1O個の道具で比較的少量の原料に加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械で百倍の原料に加工するようになったとしましょう。この場合には、不変資本、すなわち充用される生産手段の価値量は非常に増大し、労働力に前貸しされる可変資本部分は非常に減少するでしょう。しかし、この変動は、不変資本と可変資本との量的関係、すなわち、総資本が不変成分と可変成分とに分かれる割合だけを変えるたけで、不変と可変との区別の相違には影響しないのです。

  例えば具体的に見て行きましょう。労働過程の技術的な諸条件が変化して、以前は10人の労働者が、わずかな価値の10個の道具で比較的少量の原料を加工していたのに、今では1人の労働者が1台の高価な機械を使って以前の百倍の原料を加工したとします。この場合には、不変資本はわずかな価値の道具から、高価な1台の機械に置き換わったのですから、その価値部分は飛躍的に増大するでしょう。それに比して、可変資本、すなわち労働力に投じられる資本部分は、10人から1人になったのですから、1/10に減ったことになります。しかしこの変動は、総資本を不変資本と可変資本とに分けて投下する場合の量的割合を変化させますが、そのことは一方が不変資本で他方が可変資本だという資本の機能上の区別そのものには何の影響もしないということは明らかです。


  (付属資料1に続く。)

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(6)

2022-11-19 02:55:10 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回) (6)

 

  【付属資料】 (1)

 

●第1パラグラフ

《初版》

 〈労働過程のまちまちな諸要因は、生産物価値の形成にはまちまちに関与する。〉(江夏訳210頁)

《フランス語版》

 〈労働過程のさまざまな要因は、生産物価値の形成にさまざまな仕方で参加する。〉(江夏・上杉訳191頁)

《イギリス語版》  イギリス版は「第8章 不変資本と可変資本」となっている。

  〈(1)労働過程の様々な要素は、生産物の価値の形成に関しては、それぞれ違った役割を演じる。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を度外視すると、一定量の労働をつけ加えることによって、労働対象に新たな交換価値をつけ加える。他方、われわれは、消耗された生産手段の価値を、生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、再び見いだす。したがって、生産手段の価値は、それが生産物に移転されることによって、維持される。この移転は、生産手段が生産物になるあいだに、すなわち労働過程のなかで、行なわれる。それは労働媒介されている。だが、どのようにしてか?〉(江夏訳210頁)

《フランス語版》

 〈労働者は、労働の有用な性格がなんであろうと、新規の労働量を付加することによって、労働対象に新しい価値を伝達する。他方、われわれは、消費された生産手段の価値を生産物価値の要素として、たとえば綿花と紡錘の価値を糸の価値のうちに、再び見出すのである。生産手段の価値は、それが生産物に移されることによって、保存される。この移転は労働の経過中に、生産手段が生産物に変わるあいだに生ずる。労働はこの移転の媒介者である。だが、どのようにしてそうなるのか?〉(江夏・上杉訳191頁)

《イギリス語版》

  〈(2)労働者は、彼の労働対象に、ある量の追加的な労働をその上に費やすことによって、その労働の特別な性格や有用性がどうであろうとも、新たな価値を付け加える。他方、過程で使用された生産手段の価値は、保存される。そして、それら自身を、生産物の価値の構成部分として、新たな形で表す。例えば、綿や紡錘の価値は、撚糸の価値の中に、再現する。従って、生産手段の価値は、生産物に移管されることによって、保存される。この移管は、それらの手段が生産物に変換される間に、生じる。または、別の言葉で云えば、労働過程の間に生じる。つまり、労働によって、もたらされる。だが、いかにしてか?〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈資本1OOが綿花のための50、労賃〔Arbeitslohn〕のための40、用具のための10[に]わかれていて、また40ターレルの労賃が4時間の対象化された労働に等しいとし、この資本がいま8時間の労働を行なわせるとすれば、労働者は40ターレルを賃金のために、40ターレルを剰余時間(利潤)のために、10ターレルを用具のために、50ターレルを綿花のために、つまり計140ターレルを再生産しなければならないはずなのに、80ターレルしか再生産していないかに見える。というのも、40ターレルが半労働日の生産物であり、40ターレルがもう半分の剰余だからである。しかし、60ターレルは資本の他の二つの構成部分の価値である。労働者の現実的生産物は80ターレルであるから、彼が再生産できるのは80ターレルだけであって、140ターレルではない。むしろ彼は60ターレルの価値を減らしたことになるであろう。というのも、80ターレルのうち40ターレルは彼の労賃の補塡分であり、残り40ターレルの剰余労働〔Surplusarbeit〕は、60ターレルより2Oターレル[だけ]少ないからである。資本家は、40ターレルの利潤を得るどころか、用具と材料からなる当初のその資本部分について2Oターレルの損失をしたことになろう。労働者の労働日の半分は、彼の労賃を見ればわかるように、用具と材料を使って40ターレルをつくりだすだけであり、他の半分も同じ40ターレルしかっくりださず、また彼が意のままにできるのは1労働日だけであって、1労働日に2労働日も労働するわけにはいかないというのに、80ターレルのほかにさらに60ターレルの価値を、彼はいったいどのようにしてつくりだすというのであろうか。50ターレルの材料がⅹポンドの綿糸であり、10ターレルの用具が紡錘であるとしよう。さて、まず使用価値について言えば、綿花がそもそも紡ぎ糸の形態を、木材と鉄が紡錘の形態をもっていなければ、労働者が織物を、すなわちより高い使用価値を生産できないことは、明らかである。生産過程での労働者自身にとっては、50ターレルと10ターレルは、紡ぎ糸と紡錘以外のなにものでもなく、なんら交換価値ではない。彼の労働は、これらの紡ぎ糸と紡錘により高い使用価値をあたえ、それらに80ターレルの分量の対象化された労働を、すなわち彼が自分の労賃を再生産する40ターレルと剰余時間の40ターレルとをつけ加えたのである。使用価値--織物--は一労働日余分に含んでいるのだが、そのうち半分は、労働力能〔Arbeitsvermögen]にたいする処分権〔Disposition〕と交換した資本部分を補填するにすぎない。紡ぎ糸と紡錘に含まれ、生産物の価値部分を構成している対象化された労働時間は、労働者がつくりだしたものではない。彼にとってそれらのものは、これまでも、またいまもなお材料であり、彼はそれに他の形態をあたえ、新たな労働を合体させたのである。唯一の条件は、彼がそれらを浪費しなかったことだが、彼がそうしなかったのは、彼の生産物が使用価値を、しかも以前よりも高い使用価値をもつかぎりにおいてである。彼の生産物は、いまや対象化された労働の二つの部分--すなわち彼の労働日と、また彼とは独立に、彼の労働に先立って、彼の材料である紡ぎ糸と紡錘のうちにすでに含まれていた労働--を含んでいる。まえに対象化された労働が彼の労働の条件であった。それがあってはじめて彼の労働は労働となったのであり、彼はそれになんの労働も費やしていない。いまそれらのものが、資本の構成諸部分として、すなわち諸価値としてそもそも前提されておらず、彼はそれになんら費やさなかったと仮定しよう。そのばあい生産物の価値は、彼がまる1日労働したとすれば80ターレルであり、半日労働したとすれば40ターレルであろう。その価値は対象化された労働日にちょうど等しいことになろう。たしかにそれらのものを生産するさいには彼はなにも費やしていない。しかしそうだからといって、それらのものに対象化された労働時間が止揚されるわけではなく。この労働時間はそのまま残って、ただ別の形態を受けとるだけのことである。もし労働者が、織物のほかにさらに紡ぎ糸や紡錘までも同一労働日でつくりださなければならなかったというのであれば、そうした過程はとうていありえないことであった。つまり、それらのものが、もとの形態での使用価値としても、また交換価値としても彼の労働を必要とするのではなく、むしろすでに現存していたからこそ、彼による1労働日の追加が、1労働日よりもさらに大きい価値の生産物をつくりだすことになる。しかし彼がこの生産物をつくりだすのは、労働日をこえるこの超過分が彼のつくりださねばならないものではなく、材料として、前提としてあらかじめ彼のまえにあるかぎりでのことである。つまり、彼がこれらの諸価値を再生産すると言うことができるのは、ただそれらのものが労働がなければ腐ってしまい、役に立たなくなってしまうだろう、というかぎりでのことである。しかしそれらのものがなければ、労働も役に立たないであろう。労働者がこれらの価値を再生産するかぎり、その再生産は、彼がそれらの価値により大きな交換価値をあたえるとか、またそれらのものの交換価値をもってなんらかの過程にはいりこむとかによって、行なわれるのではなく、総じてそれらの価値を単純な生産過程にゆだねることによって、総じて労働することによって、行なわれるのである。しかし彼は、それらの加工といっそう大きい価値増殖とに必要とされる労働時間のほかに、より大きな労働時間を費やすわけではない。それは、資本が彼に課した労働するための条件である。彼は、それらのものにより大きな価値をあたえることによってのみ、それらのものを再生産するのであり、このより大きな価値の付与〔höhern Werth geben〕が彼の労働日に等しいのである。さもなければ、彼はそれらのものに手をつけず、あるがままにしておく。それらのもとの価値が保持されるのは、それらに新たな価値が付加されることによって行なわれることであって、もとの価値そのものが再生産され、つくりだされることによって行なわれるのではない。それらのものが以前の労働の生産物であるかぎり、以前の労働の生産物、以前に対象化された労働の総額は、どこまでも彼の生産物の一要素であって、生産物はその新価値のほかに、なおもとの価値をも含んでいる。つまり彼が実際にこの生産物において生産するのは、彼がそれに付加する労働日だけであって、もとの価値を保持するためには、新たな価値を付加するために彼が費やすもの以外、まったくなに一つ彼は費やしはしない。彼にとってそれはただ材料であり、たとえどのように形態を変えようとも、材料であることには変わりなく、したがって彼の労働とは独立に現存するものである。この材料はただ別な形態をとるだけであるから、材料であることに変わりはないのだが、それが、それ自体すでに労働時間を含んでいるということは、資本の問題であって、彼の問題ではない。同様にそれはまた、彼の労働とは独立しているのであって、彼の労働の以前に存在したままの姿で、彼の労働のあとにも存続する。このいわゆる再生産のために彼はいささかも労働時間を費やしはしない。むしろこの再生産は、現存する素材を彼の労働の材料として措定し、材料としての素材にかかわりをもつことにほかならないのであるから、それは彼の労働時間の条件なのである。したがって彼は、この目的のために特別の労働時間を追加することによってではなく、労働の行為そのものをとおしてもとの労働時間を補填するのである。彼は、単純に新たな労働時間をつけ加えることによってもとの労働時間を補填するのであって、それによってもとの労働時間は生産物のなかにそのまま保持され、新たな生産物の要素となるのである。つまり、原料と用具が価値であるかぎり、労働者は彼の労働日をもって原料と用具を補填するのではない。したがって資本家はこのもとの価値の保持を、剰余労働と同様に無償で〔gratis〕受けとる。しかし資本家がこれを無償で受けとるのは、それのために労働者がなに一つ費やしていないからというのでは[なく]、むしろそれが次のことの帰結だからである。すなわちそれは、材料と労働用具がすでに前提にしたがって彼〔資本家〕の手中にあり、そのために労働者は、対象的形態ですでに資本の手中に存在している労働を自分の労働の材料としないことには、したがってまたこの材料に対象化された労働を保存していかないことには、労働することができないということである。つまり資本家は、紡ぎ糸と紡錘--それらの価値--が、価値の面からみれば織物のなかに再現され、したがって保持されていたことにたいして、労働者になにも支払いはしない。このような保持は、単純に、より大きな価値をつけ加える新たな労働の付加をとおして行なわれる。したがって、資本と労働のあいだの本来の関係から次のことが明らかになる。すなわち、生きた労働が、生きた労働としてのその関連をとおして、対象化された労働にたいして行なうそうした役立ち〔Dienst〕は--それが労働者にとってもなんの費用もかからないのと同様、資本にとってもなんの費用もかからず、むしろ、労働の材料と用具が、労働者に対立して、資本であり、労働者とは独立の諸前提であるという関連を表わすにすぎない。もとの価値の保持は、新たな価値の付加と切り離された行為ではなく、おのずから行なわれ、もとの価値の自然的結果として現われる。しかしこの保持のために資本はなにも費やさず、労働者もまたなにも費やさないということは、資本と労働との関係--この関係は即自的にすでに前者の利潤と後者の賃金である--のなかにすでに措定されている。〉(草稿集①447-451頁)
  〈 原料と用具に含まれている労働時聞が同時に保持されるのは、労働の量〔Quantität〕結果ではなく、労働一般としての労働の〔Qualität〕の結果である。しかも、こういう労働の一般的質は、労働の特殊的な資格づけではなく--特殊に規定された労働でもない--、労働としての労働が労働である、ということにつきるのであるから、それにたいして特別の支払いがなされることもないのである。というのも、資本は、この質を労働者との交換において、すでに買いとってしまっているからである。しかしこの質(労働の特有の使用価値)にたいする等価は、もっぱらこの質を生産した労働時間の分量によって測られる。労働者は、さしあたってまず、用具を用具として使用し、原料を成形することによって、彼自身の賃金〔Salair〕のうちに含まれている労働時間に等しいだけの、新たな形態を、原料と用具の価値につけ加える。彼がそれ以上につけ加えるものは、剰余労働時間〔Surplusarbeitszeit〕、剰余価値〔Surpluswerth〕である。しかし用具が労働の用具として用いられ、原材料が労働の原材料として措定されるという単純な関係をとおして、すなわち、それらの用具や原材料が労働と接触し、労働の手段〔mittel〕および対象〔gegenstand〕として措定され、こうして生きた労働の対象化、労働そのものの諸契機として指定されるという単純な過程をとおして、それらの用具や原材料は、形態的には保持されないにしても、実体的には保持されるのであり、そして経済的にみれば、対象化された労働時間かそれらのものの実体なのである。対象化された労働時間は、生きた労働の物質的定在様式--手段および対象〔Objekt〕--として措定されること[によって]、一面的な対象的形態で存在することを--したがってたんなる物として化学的等々の過程をとおして分解にゆだねられることを--、やめてしまう。たんに対象化された労働時聞にすぎないということから、形態にたいする素材の無関心性が展開される。つまりこの対象化された労働時間の物的定在のなかで、労働は、もはや消え去ってしまったものとして、労働の自然的実体の外的形態として--この形態は(たとえば、木材にとって机という形態、あるいは鉄にとって圧延板という形態がそうであるように)この実体それ自体にとっては外的である--、つまり、素材的なものの外的形態というかたちでしか存在しないものとして、存続するのである。〉(草稿集①455-456頁)

《61-63草稿》

 〈紡績が綿花に価値を付加するのは、それが社会的な同等な労働一般に、労働のこの抽象的な形態に還元されるかぎりにおいてであり、またそれが付加する価値の大きさは、紡績というその内容にではなくて、それの時間の長さにかかっている。つまり紡績工は二つの労働時間を、すなわち一方の、綿花および紡錘の価値を維持するための労働時間と、他方の、それらに新価値を付加するための労働時間とを必要とするのではない。そうではなくて、綿花を紡ぎ、綿花を新たな労働時間の対象化にし、それに新価値を付加する、ということによって、彼は、それらが労働過程にはいるまえに消耗された紡錘のなかにもっていた価値を維持するのである。新価値の、新たな労働時間の単なる付加によって、彼は旧価値を、すでに労働材料および労働手段に含まれて/いた労働時間を維持する。〉(草稿集④122-123頁)
  〈労働者は、労働過程で新たな労働を付加すること--そしてこれは、彼が資本家に売る唯一の労働である--によっ/て、労働材料および労働手段に対象化された労働を、それらの価値を、維持する。しかも彼はこのことを無償で行なう。それは労働のもつ、労働としての生きた質によってなされるのであって、そのためになんらかの分量の新たな労働が必要とされるわけではない。……資本家はこれをただで手に入れる。〉(草稿集④178-179頁)
  〈日々6OO重量ポンドの綿花が紡がれねばならないように調整されている、1台の機械を私がもっているとすれば、(そして6重量ポンドを紡ぐために1労働日が必要であれば)1OO労働日が--機械類の価値を維持するために--これらの生産手段〔すなわち機械類および綿花〕によって吸収されなければならない。新たな労働がなんらかの仕方でこの価値の維持に従事しているかのように〔考えてはなら〕ない。むしろ、新たな労働は新価値を付加するだけであり、旧価値は不変のまま生産物のなかに再現するのである。しかし、旧価値が維持されるのは、新価値の付加によってでしかない。……6OO重量ポンドの綿花と機械の摩耗された可除部分とは、単純に生産物そのもののなかに再現する。新たに付加される労働はこれらを少しでも変化させるものではなく、生産物の価値を増加させるのである。この〔増加分の〕うちの一部は賃銀の(労働能力の)価格を補塡し、他の一部が剰余価値を創造する。しかしこの総労働が付加されなかったならば、原料および機械類の価値もまた、維持されなかったであろう。したがって、労働のうち、労働者が自分自身の労働能力の価値を再生産するだけの、したがってこの価値を新たに付加するだけの部分は、事実、材料および用具の価値のうちの、この労働分量を吸収した部分だけを維持するのである。剰余価値を形成するもう一つの部分は、材料および機械類のそれ以外の価値構成部分を維持する。〉(草稿集④184-185頁)
  〈綿花および紡錘の価値が維持されるのは、紡績労働がそれらを糸に転化するから、つまり、この特殊的な労働様式によってそれらが材料および手段として使用されるからである。6重量ポンドの綿花の価値が増加されるのは、ただ、この綿花が1時間の労働時間を吸収してしまったからであり、生産物である糸のなかに、価値要素である綿花および紡錘が含んでいた労働時間よりも、1時間多い労働時間が対象化されているからである。だが、労働時間が既存の諸生産物に、あるいはそもそも既存のなんらかの労働材料に付加されることができるのは、ただ、この労働時間が、ある特殊的労働の時間・材料および労働手段を自分の材料と手段として取り扱う〔sich verhalten〕労働の時間・であるかぎりにおいてであり、したがって、綿花と紡錘とに1時間の労働時間が付加されうるのは、ただ、これらのものに1時間の紡績労働が付加されうるかぎりにおいてである。それらの価値が維持される、ということは、ただ、労働の独自な性格に、すなわち、それが紡績であるという、まさにこの特定の労働--これにとっては綿花および紡錘は糸の生産のための手段である--であるという、さらにまた、それが、生きた労働一般であり、合目的的活動であるという、それの素材的な規定性に起因する。それらに価値が付加される、ということは、ただ、紡績労働が労働一般、社会的な抽象的労働一般であるということ、1時間の紡績労働が1時間の社会的労働一般、1時間の社会的労働時間に等置されているということ、に起因する。したがって、単に価値増殖の過程--これは実際には現実的労働を表わす抽象的な表現にすぎない--によって、すなわち新たな労働時間の付加の過程によって、--この新たな労働時間が付加される/のは特定の有用的かつ合目的的な形態においてでなければならないから--労働材料および労働手段の価値が維持され、それが生産物の総価値のなかの価値部分として再現するのである。しかし、二度にわたって、すなわち一度は価値を付加するために、一度は既存の諸価値を維持するために、労働が行なわれるのではない。労働時間が付加されるのは、ただ有用的労働、特殊的労働の、たとえば紡績の形態においてでしかありえないのだから、それは、それが材料および手段に新たな価値、すなわち労働時間を付加しているあいだに、おのずから材料および手段の価値を維持するのである。〉(草稿集④196-197頁)
     
《初版》

 〈労働者は同じ時間内に二重に労働するわけではない。すなわち、一方では、自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために、他方では、綿花の元の価値を維持するために、あるいは同じことだが、自分が加工する棉花や自分が労働するために使う紡錘の価値を、生産物である糸に移転するために、労働するわけではない。そうではなくて、彼は、新たな価値をたんにつけ加えることによって、元の価値を維持するのである。ところが、新たな価値を労働対象につけ加えることと、生産物のなかに元の価値を維持することとは、労働者が同じ時間に一度しか労働しないのに同じ時間内に産み出す二つの全く別個の結果であるから、こういった結果の二面性は、明らかに、彼の労働そのものの二面性からしか説明できないものである。同じ時点において、彼の労働は、一方の属性では価値を創造しなければならず、他方の属性では価値を維持または移転しなければならない。〉(江夏訳210-211頁)

《フランス語版》

 〈労働者は、同じ時間内に二重に労働するのではない。すなわち、一度は綿花に新しい価値を付加するために、もう一度は綿花の旧価値を保存するために、あるいは全く同じことになるが、彼が使用する紡錘の価値と彼が加工する綿花の価値とを糸という生産物に移すために、労働するのではない。彼は、新価値の単なる付加によって、旧価値を維持するのである。しかし、労働対象への新価値の付加と、生産物のなかでの旧価値の保存とは、労働者が同じ時間内に得る二つの全く異なる結果であるから、この二重の作用は明らかに、彼の労働の二重性格からのみ生ずることができるのである。この労働は同じ瞬間に、一方の属性によって価値を創造し、他方の属性によって価値を保存または移転しなければならないのだ。〉(江夏・上杉訳頁)

《イギリス語版》

  〈(3)労働者は、同時に二つの作業を行うのではない。一つは、綿に価値を与えるために、もう一つは、生産手段の価値を保存するために、または、同じものの価値を撚糸に移管、生産物に移管するために、綿の価値のために作業したり、紡錘の価値の一部のために作業したりするわけではない。そうではなく、新たな価値を追加する行為そのものによって、彼は、それらの以前の価値を保存するのである。だから、どうであれ、彼の労働対象に、新たな価値を追加すること、または、それらの以前の価値を保存すること の二つの全く明確なる結果は、労働者によって、同時に、一つの作業の間に生み出される。この事は、この結果の 二重の自然的性質が、彼の労働の 二重の自然的性質から説明されることができるのは当然の事と云える。その時かつ同時に、一つの性格により、価値を創造しなければならず、もう一つの性格により、価値を保存、または移管しなければならない。〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈さて価値増殖過程では、資本の価値構成諸部分--それらのうち一つは材料の形態で、他は用具の形態で存在する--は、労働者すなわち生きた労働(というのは、このような生きた労働として労働者が存在するのは、この過程のなかだけだからである)にたいして、価値としてではなく、生産過程の単純な諸契機として、労働にとっての諸使用価値として、労働が活動できるための対象的諸条件として、すなわち労働の対象的諸契機として現われる。労働者が用具を用具として使用し、原料に使用価値のより高度な形態をあたえることによって、それらの諸使用価値を保持するのは、労働そのものの本性である。ところがこうして保持された労働の諸使用価値は、資本の構成諸部分としては諸交換価値であり、またそのような諸交換価値としては、それらに含まれている生産費用〔Productionskosten〕、それらに対象化された労働の分量によって規定されている。(使用価値にとって問題なのは、すでに対象化された労働の分量だけである。)対象化された労働の分量が保持されるのは、その質が後続する労働のための使用価値として、生きた労働との接触をとおして保持されるととによってである。綿花の使用価値も、紡ぎ糸としての綿花の使用価値も、それが紡ぎ糸として織られることによって、織るさいの対象的諸契機の一つ(紡車とならんで)として存在することによって、保持される。つまりそれが保持されることによって、綿花と木綿糸に含まれていた労働時間の分量も保持される単純な生産過程では、先行した労働の--それをとおしてまた、その労働が措定されている材料の--質の保持として現われるものが、価値増殖過程では、すでに対象化された労働の分量の保持として現われる。資本にとってこの保持〔Erhaltung〕は、対象化された労働の分量を生産過程をとおして[保持すること〔das Erhalten〕]であるが、生きた労働自身にとっては、すでに現存し、労働のために現存している使用価値を保持することにすぎない。生きた労働は、新たな労働分量をつ別け加えるが、しかしそれがすでに対象化された労働分量を保持するのは、この量的付加によってではなく、生きた労働としての労働のによってである、言いかえると、過去の労働がそのなかに存在している諸使用価値にたいして、それが労働としてかかわる〔sich verhalten〕ことによってである。〉(459-460頁)
  〈生産過程そのものでの労働の生きた質とは、対象化された労働時間を生きた労働の対象的定在様式とすることによってその労働時間を保持することだが、それは労働者にはなんの関係もない。生産過程そのものにおいて生きた労働が用具と材料を自己の心にとっての身体とし、それによって死からよみがえらせるこの同化作用〔Aneignung〕は、労働が対象をもたず、すなわち直接的生命力のかたちでだけ、労働者における現実性で[あり]、--また労働材料と用具が対自的に存在するものとして資本のなかに存在していることと、事実上対立している。(この点にはあとでたちかえること。)資本の価値増殖過程は、生きた労働がその物質的な定在諸契機にたいする自然に即した関連におかれることによって、単純な生産過程をとおして、また単純な生産過程のなかで進行する。しかし生きた労働がこの関連にはいるかぎり、この関連は、生きた労働自身のためにではなく、資本のために存在する。つまり生きた労働そのものがすでに資本の契機なのである。〉(草稿集①461頁)

《61-63草稿》

 〈そこで、二つの結果がでてくる。
  第一。生産物のなかに消尽された労働材料および労働手段を生産するのに必要とされる労働時間は、その生産物を生産するのに必要とされる労働時間である。交換価値が考察されるかぎり、材料および労働手段のなかに物質化された労働時間は、あたかもこの両者が同一の労働過程の諸契機ででもあるかのように見なすことができる。生産物のなかに含まれているすべての労働時間は、過去の労働時間であり、それゆえ、物質化された労働である。材料および手段のなかに過ぎ去った労働時間が、直前の労働過程そのものにおいて直接に機能した労働時間よりももっとまえに過ぎ去った労働時間、つまりもっとまえの時期に属する労働時間である、ということは、少しも事態を変えるものではない。それらはただ、生産物のなかに含まれている労働時間がなし加えられた時期、自己のなかに直接はいる労働を代表する部分よりも以前の時期であるにすぎない。つまり、材料および労働手段の価値は、生産物のなかにそれの価値の構成部分として再現するのである。この価値は前提されている価値である、--というのは、すでに労働材料および労働手段の価格に、おいて、それらに含まれている労働時間がその一般的な形態で、社会的労働として表現されていたからである。これは、労働過程を開始する以前に貨幣所有者がそれらを商品として買ったときの価格である。それらがかつてそのなかに存在していたところの諸使用価値はなくなってしまったが、それら自身は不変のままにとどまったのであり、また、新たな使用価値のなかに不変のままにとどまっている。ただ、それらが新たな使用価値の価値の単なる構成部分、要因として、新しい価値の要因として、現われている、という変化だけが生じたのである。じっさい、商品がそもそも交換価値であるかぎりは、交換価値がそのなかに存在するところの特定の使用価値、特定の素材的規定性は、もともとそれのある特定の現象様式でしかない。要するに交換価値は一般的等価物であり、だからまたそれは、この体化物を他のどの体化物とも交換することができる。いなそれは、流通によって、またなによりもまず/自己の貨幣への転化によって、他のどんな使用価値の実体をも自己に与えることができるのである。〉(草稿集④116-117頁)
  〈第二に、それらはどのようにして維持されたのか。それは、それらが材料および手段として生きた労働によって使用され、生きた労働によって新たな使用価値である糸の形成のための諸要因として消費された、ということによってである。労働がそれらの交換価値を維持したのは、ただ、労働がそれらを使用価値として取り扱った〔sich verhalten〕から、すなわち、それらを新たな使用価値である糸の形成のための諸要素として消尽したからである。それゆえ、綿花および紡錘の交換価値が糸の交換価値のなかに再現するのは、労働一般、抽象的労働、単なる労働時間、交換価値の要素をなすような労働、がそれらに付加されたからではなくて、この特定の現実的労働である紡績、すなわち、ある特定の使用価値である糸に実現されるところの、また、この特殊的な合目的的活動として、自己の使用価値としての綿花および紡錘を消費するところの、有用的労働が、その諸要因を使用し、それらを自己自身の合目的的活動によって糸の形成諸要素にするからである。〉(草稿集④193頁)

《初版》

 〈労働者はめいめい、どのようにして労働時間をつけ加え、したがって価値をつけ加えるのか? いつでも、彼の独自な生産労働様式の形態でそうするにすぎない。紡績工は糸を紡ぐことによってのみ、織物工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加える。ところが、彼らが労働一般したがって新価値をつけ加えるさいの、目的を規定された形態に依拠して、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることに依拠して、生産手段、すなわち、綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、ある生産物の、ある新たな使用価値の、形成要素になる(20)。生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、消えてなくなるのは、新たな使用価値形態で現われるためにほかならない。ところが、価値形成過程の考察で明らかになったように、ある使用価値が、ある新たな使用価値の生産のために合目的に消費されているかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分を形成しており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。だから、労働者が消耗された生産手段の価値を維持し、または、それを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということに依拠しているのではなく、このつけ加えらる労働の特殊な有用的性格、この労働の独自な生産形態に依拠しているのである。このような合目的な生産活動として、すなわち、紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、たんに接触するだけで、諸生産手段を蘇生させ、それらを活気づけて労働過程の諸要因たらしめ、それらと結合して生産物になるのである。〉(江夏訳211-212頁)

《フランス語版》 フランス語版は、全集版の第4パラグラフを大きく変えて、二つのパラグラフに分けて、そのあいだに全集版の注20に相当する注1が入っている。ここでは二つのパラグラフを改行することによって続けて紹介し、間に入っている注1は、原注20のところで紹介することにする。

 〈労働者はどのようにして労働を、したがって、価値を付加するのか? それは、有用な、また特殊な労働形態のもとで、しかもこの形態のもとでのみ、付加するのではないか? 紡績工は紡ぐことによってのみ、織工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛えることによってのみ、労働を付加する。だが、綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、新しい使用価値である生産物の形成要素に変えるものは、まさしく、機織や紡績などというこういった形態であり、一言にして言えぽ、労働力がそのなかで支出される特有な生産形態なのである(1)。生産手段の使用価値の旧形態が消減するのは、新しい形態をとるためでしかない。ところで、われわれがすでに見たように、ある物品を生産するために必要な労働時間は、その物品の生産活動において消費された諸物品を生産するために必要な労働時間をも、含んでいる。換言すれば、消費された生産手段を作るために必要な労働時間が、新しい生産物の中に算入されるのである。
  労働者が消費された生産手段の価値を保存し、この価値を生産物価値の構成部分として生産物に移すのは、彼が労働一般を付加するからではなく、この付加的労働の有用的性格、その生産形態によってなのである。労働は、それが有用であり生産活動であるかぎり、生産手段との単なる接触によって、生産手段を死から蘇生させ、これを労働自身の運動の要因となし、これと結合して生産物を構成する。〉(江夏・上杉訳191-192頁)

《イギリス語版》

  〈(4)それでは、どのような方法を用いて、労働者は新たな労働とその結果としての新たな価値を付け加えるのか? 明らかに、ただ、特定の方法のうちにある生産的労働によってである。紡績工は紡ぐことで、織り職は織ることで、鍛冶屋は鉄を打つことで。とはいえ、特定の形式の労働、紡績、織り、鍛冶 それぞれが、当然ながら、一般的労働、それが価値なのである、として物に一体化される間の労働によって なのである。生産手段、綿と紡錘、撚糸と織機、鉄と鉄床は、生産物の構成要素となる。労働と生産手段が新たな使用価値として一体化される。それぞれの使用価値は消えて、新たな形のもとに 新たなる使用価値の中にのみ 再現する。我々は、今、価値創造の過程を検討している時、もし、使用価値が新たな使用価値の生産に有効に消費されるならば、消費された品物の生産に支出された労働の量が、新たな使用価値の生産に必要な労働の量の一部を形成する。この一部とは、それゆえに、生産手段から新たな生産物へ移管された労働なのである。ゆえに、労働者は、消費された生産手段の価値を保存する。または、その価値の一部であったそれらを生産物に移管する。内容をそぎ落とした追加的労働によってではなく、特定の有用な労働の性格によって、特別の生産的な形式によってそれをなす。であるから、労働が、そのように特別の生産的行為である限りにおいて、それが紡績、織り、または鍛冶である限りにおいて、ただ触れるだけで、生産手段を死からよみがえらせ、それらを労働過程の生きた要素とする、そして、それらを新たな生産物とするために、共に結合させる。〉(インターネットから)


●原注20

《初版》

 〈(2O) 「労働は、消滅した創造物の代わりに新たな創造物を与える。」(『国民経済学にかんする一論、ロンドン、1821年』、13ページ。)〉(江夏訳212頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「労働は、消減した創造物と引き換えに、新しい創造物を供給する」(『国民経済学にかんする一論』、ロンドン、1821年、13ぺージ)。〉(江夏・上杉訳192頁)

《イギリス語版》

   なし。(インターネットから)


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

 〈綿花および紡錘が使用価値として使用されるのは、それらが紡績という特定の労働に材料および手段としてはいるからであり、現実の紡績過程のなかで一方はこの生きた合目的的活動の対象〔Objekt〕として、他方はその器官としての位置に置かれるからである。つまりこのことによって、それらは価値として維持されるのであるが、それは、それらが労働のための使用価値として維持されるからである。それらはそもそも、使用価値として労働によって使用されるがゆえに、交換価値として維持されるのである。だが、それらをこのように使用価値として使用する労働は、現実的労働、その素材的な規定性[において]見られた労働であり、この特定の有用的労働であって、この労働だけが、労働材料および労働手段としてのこれらの特殊的な使用価値に関連し、自己の生きた発現のなかで、それらを労働材料および労働手段として取り扱う〔sich verhalten〕のである。紡績というこの特定の有用的労働こそが、綿花および紡錘という使用価値を交換価値として維持し、したがってまた交換価値の構成部分として、生産物であり使用価値である糸のなかに再現させるのであるが、そのわけは、紡績は現実の過程のなかで、それらを自己の材料および自己の手段として、自己の実現の諸器官として取り扱い〔sich verhalten〕、自己のこうした器官としてのそれらに生気を与え、かかるものと/して働かせるからなのである。だから、その使用価値から見て直接に個人的消費にははいらず、新たな生産に向けられているすべての商品の価値が維持されるのは、ただ、労働材料および労働手段としてのそれら--それらはただ可能性から見でかかるものであるにすぎない--が現実の労働材料および労働手段になり、それらがかかるものとして役立つことのできる特定の労働によって、かかるものとして利用される、ということによってにすぎない。それらが交換価値として維持されるのは、ただ、使用価値としてのそれらが、それらの概念的規定に従って生きた労働によって消費されることによってにすぎない。しかし、それらがこのような使用価値--材料および手段--であるのは、ただ、現実の規定された特殊的労働にとってのみである。私が綿花および紡錘を使用価値として使用することができるのは、紡績の行為においてのみであり、製粉や製靴の行為においてではない。--そもそも商品はすべて、可能性から見て使用価値であるにすぎない。それらは、それらの現実の使用、それらの消費によって、はじめて現実の使用価値になるのであり、そしてそれらのこのような消費が、ここでは、特殊的に規定された労働そのもの、特定の労働過程なのである。〉(草稿集④119-120頁)
  〈しかし他方では、紡績が綿花および紡錘の価値に新たな価値を付加するのは、それがこの特定の労働、紡績であるかぎりにおいてではなく、ただ、それが労働一般であり、紡績工の労働時間が一般的労働時間であるかぎりにおいてである。この一般的労働時間にとっては、それがどんな使用価値に対象化するかということ、労働--これの時間(尺度)として定在するのが一般的労働時間である--の特殊的な有用的性格、その特殊的な合目的性、かの特殊的な仕方様式あるいは存在様式、がどのようなものかということは、どうでもよいことである。ここでは、1時間の紡績労働が1時間の労働一般に等置される。〉(草稿集④195頁)

《初版》   

 〈労働者の独自な生産労働が紡ぐことでなければ、彼は綿花を糸にはしないであろうし、したがって、綿花や紡錘の一労価値を糸に移さないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず、1労働日によって自分の材料に価値をつけ加えるであろう。だから、彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働または指物労働であるかまりにおいてのことではなく、それが、抽象的な社会的な労働一般であまる、というかぎりにおいてのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働が特殊的な、有用な内容を、もっているからではなく、それが一定時間持続するからである。したがって、紡績工の労働は、それの抽象的な一般的な、属性において、人間労働力の支出として、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、紡績過程としての・それの具体的な特殊な有用な、属性において、これらの生産手段の価値を生産物に移し、こうして、これらの価値を生産物のうちに保存するのである。だから、労働の結果の二面性が同じ時点で生ずるわけである。〉(江夏訳212頁)

《フランス語版》 第5パラグラフもフランス語版は二つのパラグラフに分けている。改行することによって続けて紹介しておく。

 〈労働者の独自な生産労働が紡績作業でなかったならば、この労働は糸を作らず、したがって、綿花と紡錘の価値を糸に移さないであろう。だが、同じ労働者が職業を変えて、たとえば指物工になっても、彼は1労働日によって、原料に価値を相変わらず付加するであろう。
  彼は、織工か指物工の労働とは見なされずに人間労働一般と見なされるような労働によって、価値を付加するのであって、彼が一定量の価値を付加するのは、彼の労働が特殊な有用的性格をもつからではなく、それが若干時間継続するからである。紡績工の労働が綿花と紡錘の価値に新しい価値を付加するのは、人間の活力の支出としてのこの労働の一般的、抽象的な属性によるのであり、そして、この労働がこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうして、それを生産物のなかに保存するのは、この労働の具体的、特殊的な属性、紡績作業としての有用な属性によるのである。そこから、同じ時間内においての労働の結果の、二重性格が生ずる。〉(江夏・上杉訳192-193頁)

《イギリス語版》

  〈(5)もしも、作業者の特別な生産的労働が、紡績ではないとするならば、彼は、綿を撚糸に変換することはできない。従って、綿と紡錘の価値を撚糸に移管することもできない。この同じ作業者が、職種を変えて、木工指物師になったと想像してみよう、それでも彼は、彼が作業する材料に、依然として、1日の労働によって、価値を追加することができるであろう。この事から明らかなように、第一には、新たな価値の追加は、彼の労働が特に紡績であるからではなく、特に木工指物であるからでもなく、ただの 内容を問わない労働、社会の全労働の一部であるがゆえである。そして、次には、追加された価値は、ある与えられた量であり、彼の労働が持つ特別なる有用性のゆえではなく、ある量の時間 その労働が用いられたからである。一方は、だから、内容をそぎ落とした人間労働の支出というその一般的性格のゆえであり、紡績が綿と紡錘の価値に新たな価値を追加する。他方は、だから、その同じ紡績労働が、生産手段の価値を生産物に移管し、それらを生産物に保存するという 特別な性格を持つ、具体的な、有用な過程であるがゆえである。であるから、その時かつ同時に、二重の結果が生産される。〉(インターネットから)

 

(付属資料2に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(7)

2022-11-19 02:26:27 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回) (7)

 

  【付属資料】 (2)

 

●第6パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈したがって次の点が明らかである。すなわち、資本家は、労働者との交換過程を媒介として--事実資本家は労働者に、彼の労働力能に含まれている生産費用にたいする等価を支払う、すなわち彼の労働力能を維持する手段を彼にあたえるが--、しかし生きた労働をわがものとする〔aneignen〕ことによって、次のものを二重の意味で無償で手にいれる。すなわち第一に、彼の資本の価値を増加させる剰余労働を手にいれるが、同時にまた第二に、生きた労働の質を手にいれる。この質は、資本の構成諸部分のなかに物質化された過去の労働を保持し、こうしてまえもって存在している資本の価値を保持するのである。しかし、このような保持が行なわれるのは、生きた労働が対象化された労働の分量を増加させ、価値をつくりだすはとによってではなく、ただ、労働が新しい労働分量を付加しながら生きた労働として存在することによって、つまり生産過程をとおして措定された、労働の材料と用具にたいする内在的関係のなかに存在することによってであり、したがって生きた労働としての労働の質をとおしてである。だがこうした質としては、生きた労働自体は、単純な生産過程の一契機であって、資本家にとってなんの費用もかからず、紡ぎ糸や紡錘が同じく生産過程の諸契機であることのためにそれらの価格のほかになおなにかを費やすことはないのとまったく同様である。〉(草稿集①463-464頁)

《61-63草稿》

 〈つまり、労働過程にはいる価値が維持されるのは、とりもなおさず、生きた労働の質によってであり、生きた労働の発現の性質によってである。この発現によって、この死んだ諸対象--前提された諸価値は生きた労働の諸使用価値としてのこの諸対象のなかに存在する--は、いまや現実に、使用価値としてこの新たな有用的労働である紡績によってとらえられ、新たな労働の諸契機とされるのである。それらが価値として維持されるのは、それらが使用価値として労働過程にはいり、したがって、現実的有用的労働に対立して、労働材料および労働手段という概念的に規定されたその役割を演じることによってである。〉(草稿集④119頁)
  〈しかし紡績が旧価値を維持するのは紡績としてであり、労働一般としてでも労働時間としてでもなくて、その素材的な規定性においてであり、この独自な、生きた現実的労働としてのその質によってである。この現実的労働こそ、労働過程において、合目的的な生きた活動として、使用価値である純花および紡錘をそれらの無関心な対象性から救いだし、それらを無関心な諸対象として自然の素材変換〔新陳代謝〕の手にゆだねることなく、それらを労働過程の現実の諸契機にするのである。しかし、特殊的現実的労働の独自の規定性がどのようなものであろうと、次の点では、どんな種類の労働も他の種類の労働と共通している。すなわち、それはいずれも、自己の過程によって--それが自己の対象的諸条件と接触し、この諸条件との生きた相互作用にはいることによって--、それの本性とそれの目的とにかなった・労働手段および材料という役割を演じる・この対象的諸条件を、労働過程そのものの概念的に規定された諸契機に転化させ、こうして、この諸条件を現実の使用価値として使用することによって、それらを交換価値として維持する、ということである。したがって、労働過程において既存の生産物を自己自身の活動の・自己自身の実現の・材料および手段に転化させる、生きた労働としてのそれの質によってこそ、労働はこの〔既存の〕生産物および使用価値の交換価値を新しい生産物および使用価値のなかに維持するのである。労働がそれらの価値を維持するのは、労働がそれらを使用価値として消尽するからである。だが、労働がそれらを使用価値として消尽するのは、ただ、この独自な労働としてのそれがそれらを死から呼びさまし、自己の労働材料および労働手段にするからにすぎない。交換価値を創造するかぎりでの労働は、ただ、労働の規定された社会的形態・一定の社会的定式〔Formel〕に還元された現実的労働・にすぎず、この形態においては、労働時間が価値量の唯一の尺度である。〉(草稿集④123頁)

《初版》

 〈労働をたんに量的につけ加えることによって、新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって、生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。こういった、労働の二面的性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちに手にとるように現われる。〉(江夏訳212頁)

《フランス語版》

 〈労働の単なる付加によって、新規の労働量によって、新しい価値が付加され、付加された労働の質によって、生産手段の旧価値が生産物のなかに保存される。労働の二重性格の結果であるところの、同じ労働のこの二重の作用は、無数の現象のなかで見分けがつきうるものになる。〉(江夏・上杉訳163頁)

《イギリス語版》

  〈(6)ある量の労働の、単純な追加によって、新たな価値が付加される。この加えられた労働の質によって、労働手段の元の価値が、生産物に保存される。労働の二重の性格から生じる この二重の効用は、いろいろな現象のなかに、その痕跡を見ることができるであろう。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《61-63草稿》

 〈もし、紡績工が--したがって紡績労働が--これまでよりも精巧な機械--ただし価値比率はもとのまま--を使って、6[2/3]重量ポンドの綿花をこれまでのように1時間ではなくて、半時間で糸に転化するとすれば、生産物の価値は、3[1/3]シリング(綿花についての)プラス1[2/3]シリング(機械についての)プラス1[2/3]シリングの労働、となろう。というのは、半時間の労働時間は、前提によれば1[2/83]シリングで表現されるからである。したがって生産物の価値は8[1/3]シリンググであり、綿花および機械類の価値は、第一の場合とまったく同様に、このなかに再現したのである、--それらに付加される労働時間は第一の場合より50%だけ少ないにもかかわらず。しかし、それらが再現したのは、まったく、それらを糸に転化するのに半時間の紡績しか必要なかったからである。つまり、それらが再現するのは、まったく、半時間の紡績の生産物に、新たな使用価値である糸に、それらがすっかりはいったからである。それらを交換価値として維持するかぎりでの労働が、このことを行なうのは、ただ、それが現実的労働であり、ある特殊的な使用価値を生産するための特殊的な合目的的活動であるかぎりにおいてである。労働がそのことを行なうのは、紡績としてであって、労働の内容にたいしては無関心である抽象的な社会的労働時間としてではない。ここでは、紡績としてのみ、労働は綿花および紡錘の価値を生産物である糸のなかに維持するのである。他方で、そのなかで労働が綿花および紡錘の交換価値を維持するところのこの過程では、紡績という労働は綿花および紡錘を交換価値として取り扱う〔sich verhalten〕のではなく、使用価値として、紡績というこの特定の労働の諸要素として取り扱う。紡績工がある特定の機械類によって6[1/3]重量ポンドの綿花を糸に転化することができるとき、この過程にとって、綿花が重量ポンド当り6ペンスするのか、それとも6シリングするのか、ということはまったくどうでもよいことである。というのは、彼は紡績過程でそれを棉花として、紡績の材料として消費したのだからである。1時間の紡績労働を吸収するだけの量のこの材料が必要なのである。この材料の価格は少しもかかわりがない。〉(草稿集④193-194頁)
  〈他方では、材料および労働手段が所与であれば、価値としてのそれらの維持は、純粋に、付加される労働の生産性に、それらを新たなある使用価値に転化するために必要な時間の大小に、かかっている。したがってこの場合には、所与の諸価値の維持は、価値付加に反比例する。すなわち、労働が生産的になれば、それが諸価値の維持に必要とする労働時間はそれだけ少なくなる。逆の場合にはまた逆である。〉(草稿集④199頁)

《初版》

 〈なんらかの発明によって、紡績工が、以前は36時間で紡いでいたのと同量の綿花を、6時間で紡ぎうるようになる、と仮定しよう。彼の労働は、合目的で有用な生産活動としては、その力が6倍になった。彼の労働の生産物は、6倍の糸、すなわち、6ポンドではなく36ポンドの糸である。ところが、この36ポンドの綿花が、いまでは、以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同量の労働時間を吸収しているにすぎない。この綿花には、旧来の方法を用いるばあいの6分の1の新たな労働がつけ加えられており、したがって、以前の価値の6分の1しかつけ加えられていない。他方、いまでは、6倍の綿花価値が、36ポンドの糸という生産物のうちに存在している。6紡績時間中に、6倍の原料価値が保存されて生産物にされている。といっても、同じ原料には6分の1の価値がつけ加えられているのであるが。このことは、同じ不可分の過程中に労働が価値を保存するという属性は、労働が価値を創造するという属性とは本質的にちがう、ということを示している。紡績作業中に同量の綿花に同伴する必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、同じ労働時間内に紡がれる綿花のポンド量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される旧価値はそれだけ大きいわけである。〉(江夏訳212-213頁)

《フランス語版》

 〈なんらかの発明によって、労働者が、以前36時間で紡いだのと同じだけの綿花を、6時間で紡ぐことができる、と仮定しょう。有用な生産活動としては、彼の労働の能力は6倍になり、その生産物は6倍になり、6ポンドではなくて36ポンドの糸である。だが、36ポンドの綿花は、最初のばあいに6ポンドの綿花が吸収したよりも多くの労働時間を吸収するのではない。綿花には、旧方法が必要とした労働のたんに6分の1が、したがって、新しい価値のたんに6分の1が、付加されるだけである。他方、6倍の価値の綿花がいまでは、36ポンドの糸である生産物のうちに存在する。6紡績時間中に、6倍の原料価値が保存されて生産物に移される。この原料に付加される新しい価値が、6分の1になっているとしても。このことは、労働が価値を保存するという属性が、同じ活動中に労働が価値を創造するという属性と、どんなに本質的にちがっているか、を示している。紡績作業中に同量の綿花に移ってゆく必要労働が多ければ多いほど、綿花に付加される新価値はいっそう大きくなるが、同じ労働時間中に紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物中に保存される旧価値はいっそう大きくなる。〉(江夏・上杉訳193頁)

《イギリス語版》

  〈(7)ある発明が、紡績工に、彼が以前36時間を要して紡ぐことができたのと同じ量を、6時間で紡ぐことができるようになったと仮定してみよう。有用な生産の目的のために、彼の労働は、今では、以前よりも、6倍も効果的なものとなった。6時間の作業の生産物が、6倍に増大した。6ポンドから36ポンドに。しかし、今の36ポンドの綿は、ただ、以前の6ポンドの場合と同じ労働の量を吸収している。1/6の新たな労働が、綿各1ポンドによって、吸収された。であるから、労働によって各1ポンドに追加された価値は、ただ、以前のものの、1/6となるわけである。他方、生産物としては、36ポンドの撚糸としては、綿から移管された価値は以前の6倍も大きい。6時間の紡績によって、原料の価値は、生産物に保存され、移管されたが、それは以前よりも6倍も大きい。とはいえ、紡績工の労働によって追加された新たな価値は、その同じ原料の各1ポンドでは、以前のものの1/6である。このことは、価値を保存することができる一つの場合の特性と、価値を創造することができる他の場合の特性の、二つの労働の特性が、本質的に違ったものであることを示している。一方では、一定量の綿を撚糸に紡ぐに要する時間が長ければ長い程、より大きな新たな価値が材料に加えられる。他方、一定時間内に紡がれる綿の重量が大きければ大きい程、より大きな価値が保存され、それが生産物に移管される。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈逆に、紡績労働の生産性が変わらず、したがって、紡績工は、1ポンドの綿花を糸にするためには相変わらず同じ時間を必要とする、と仮定しよう。ところが、綿花そのものの交換価値が変動して、1ポンドの棉花を糸にするためには相変わらず同じ時間を必要とする、と仮定しよう。ところが、棉花そのものの交換価値が変動して、1ポンドの棉花の価格が6倍に上がるかまたは6分の1に下がるとしよう。どちらのばあいも、紡績工は引きつづき、同量の棉花に同じ労働時間を、したがって同じ価値をつけ加え、どちらのばあいも、同じ労働時間内に同量の糸を生産する。それにもかかわらず、彼が綿花から糸という生産物に移す価値は、以前に比べて、一方では6分の1であり、他方では6倍である。労働手段が高くなろうと安くなろうとそれが労働過程でつねに同じ役立ちをするばあいも、同様である。〉(江夏訳213頁)

《フランス語版》

 〈逆に、労働の生産性は不変のままであり、したがって、紡績工には1ポンドの綿花を糸に変えるために依然として同じ時間が必要であるが、綿花の交換価値が変動して1ポンドの綿花が以前の6倍かまたは6分の1に値するようになる、と仮定しよう。 双方のばあ いとも、紡績工はひきつづき同量の綿花に同じ分量の労働、すなわち同じ価値を付加し、また双方のばあいとも、彼は同じ時間内に同量の糸を生産する。しかし、彼が綿花から糸という生産物に、移す価値は、以前に比べ、一方のばあいには6分の1になり、他方のばあいには6倍になる。労働手段が値上がりしたりまたはいっそう安価に売られたりするが、それでもなお役立ちが相変わらず同じままであるばあいも、同様である。〉(江夏・上杉訳193-194頁)

《イギリス語版》

  〈(8)今度は、紡績工の労働の生産性が 変化するのとは代わって、一定に留まり、従って、彼は、1ポンドの綿を撚糸に変換するためには、彼が以前やっていたのと同じ時間を要するものとして、だが、綿の交換価値が変化し、以前の価値の6倍に上昇したり、その価値が、1/6に低下したりすると、仮定してみることにしよう。これらのいずれの場合においても、紡績工は、1ポンドの綿に同じ量の労働を据える。そして、だから、彼は、以前、彼が価値を変えたように、その同じ価値を追加する。彼は、また、彼が以前やっていたように、同じ時間に、ある与えられた重量の撚糸を生産する。だがそれにもかかわらず、綿から撚糸に移管する価値は、変化以前の1/6であったり、場合によっては、以前の6倍にもなったりする。同じような結果が、労働手段の価値が上昇したり、または、低下したりする場合にも生じる。だが、この場合は、その間、過程において、それらの有用な効力は変えられることなくそのままに留まるものとすればということである。〉(インターネットから)


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈新たな労働が維持する既存の諸価値の分量は、新たな労働が既存の諸価値に付加する価値の分量にたいして、一定の比例関係にある、ということ、言い換えれば、維持される・すでに対象化されている・労働の分量は、付加される・はじめて対象化される・新たな労働時間の分量にたいして、一定の比例関係にあるということ、ひとことで言えば、直接的な労働過程と価値増殖過程とのあいだに一定の比例関係が生じる、ということである。……/……ある一定の分量の材料は、ある一定の分量の労働時間しか吸収しない。この材料の価値が維持されるのは、ただ、この材料が吸収する労働時間の分量に比例してである(労働の生産性が所与だとして)。……労働の生産性が与えられていれば、すなわち、労働が一定時間に提供しうる使用価値の分量が与えられていれば、それが維持する所与の価値の分量は、純粋にそれ自身の継続時間にかかっている。言い換えれば、維持される、材料[および]手段の価値分量は、純粋に、付加される労働時間に、したがって新たな価値が創造される程度にかかっている。価値の維持は、価値の付加の増減に正比例して増減するのである。〉(草稿集④198-199頁)

《初版》

 〈紡績過程の技術的な諸条件が不変であり、しかも、この過程の生産手段についてなんらの価値変動も生じないとすれば、紡績工は相変わらず、同じ労働時間内に、元どおりの価値をもつ同量の原料や機械を消費する。このばあいには、彼が生産物のうちに保存する価値は、彼がつけ加える新価値に正比例する。彼は、2週間では、1週間でつけ加えるよりも2倍の労働、したがって2倍の価値をつけ加え、そしてまた同時に、2倍の価値をもつ2倍の材料を消費し、2倍の価値をもつ2倍の機械を損耗させ、したがって、2週間の生産物のうちに1週間の生産物の2倍の価値を保存する。与えられた生産条件が不変であれば、労働者は、彼がつけ加える価値が多ければ多いほどそれだけ多くの価値を保存するが、彼がいっそう多くの価値を保存するのは、彼がいっそう多くの価値をつけ加えるからではなく、彼がこの価値を、以前と変わらない、彼自身の労働から独立している諸条件のもとで、つけ加えるからである。〉(江夏訳213-214頁)

《フランス語版》

 〈紡績作業の技術的条件が同じままであって、その生産手段がどんな価値変化もこうむらなければ、紡績工はひきつづき、与えられた労働時間内に、元どおりに依然として同じ価値をもつところの与えられた分量の原料と機械とを、消費する。このばあい、彼が生産物中に保存する価値は、彼が付加する新しい価値に正比例する。彼は2週間では、1週間におけるよりも2倍の労働を、したがって、2倍の価値を付加し、これと同時に、2倍の原料と2倍の機械とを消費する。こうして彼は、2週間の生産物のうちに、たった1週間の生産物のうちよりも、2倍の価値を保存する。条件が変わらなければ、労働者は、いっそう多くの価値を付加すればするほど、ますます多くの価値を保存するのである。しかし、彼がいっそう多くの価値を保存するのは、彼がいっそう多くの価値を付加するからではなく、彼がこの価値を、以前と変わらない、しかも彼の労働から独立した事情のもとで、付加するからである。〉(江夏・上杉訳194頁)

《イギリス語版》  イギリス版は9パラグラフと10パラグラフを一つのパラグラフに結合している。ここではそれを全集版に合わせて、分割して紹介しておく。

  〈(9)再度確認しておこう。もし、紡績過程の技術的条件が、不変で、一定に保たれ、生産手段にも価値の変動がないとするならば、紡績工は、同じ作業時間で、同量の原料と、価値変動のない機械類の同じ量を消費し続ける。彼が生産物に保存する価値は、彼が生産物に付け加える新たな価値に、直接的に比例している。2週間にわたって、彼が、1週間に較べて2倍の労働を、つまり2倍の価値を一体化すれば、そしてその同じ時間に、2倍の原料と2倍の機械類損耗分を、つまりそれぞれ2倍の価値を消費すれば、その結果として、彼は、2週間の生産物に、1週間の生産物に較べて2倍の価値を保存する。生産の諸条件が一定である限りにおいて、労働者が、生きている労働によって付け加える価値が大きければ大きい程、彼はより大きい価値を移管し保存する。とはいえ、彼がそうするのは、単純に、この新たな価値の追加が生じる条件が 変化せず、かつ、彼自身の労働から独立しているからなのである。〉(インターネットから)


●第10パラグラフ

《初版》

 〈労働者はいつでも、自分が新価値をつけ加えるのと同じ割合で旧価値を保存する、ということは、当然のことながら、たとい絶対的な意味では言われなくても、相対的な意味ではそう言ってさしつかえない。綿花が1シリングから2シリングに上がっても、または6ペンスに下がっても、労働者が1時間の生産物のうちに保存する綿花価値は、たといそれがどんなに変動しようとも、必ず、彼が2時間の生産物のうちに保存する綿花価値の半分でしかない。さらにまた、彼自身の労働の生産性が変動して、それが上がるか下がるかすれば、彼は、たとえば1労働時間内に以前よりも多いかまたは少ない綿花を紡ぐであろうし、それに応じて以前より多いかまたは少ない綿花価値を、1労働時間の生産物のうちに保存するであろう。それにもかかわらず、彼は、2労働時間では、1労働時間のばあいよりも2倍の価値を保存するであろう。〉(江夏訳214頁)

《フランス語版》

 〈それにもかかわらず、相対的な意味では、労働者はいつも、新価値を付加するのに比例して旧価値を保存する、と言ってよい。綿花が1シリング騰貴または下落しても、1時間の生産物中に保存される綿花の価値はけっして、2時間の生産物中に見出される価値ではないであろう。同じように、紡績工の労働生産性が変動し、向上または低下すれば、彼はたとえば1時間に、以前より多くの、またはより少ない綿花を紡ぎ、したがって、1時間の生産物中に、より多くの、またはより少ない綿花価値を保存するであろう。だが、彼はどんなばあいでもつねに、2労働時間においては、ただの1労働時間においてよりも2倍の価値を保存するであろう。〉(江夏・上杉訳194頁)

《イギリス語版》

  〈(9)'勿論、このことは、次の様に云えるであろう。労働者は、彼が追加した新たな価値の量に常に比例して、古い価値を保存する、と。綿の価値が1シリングから2シリングに上昇、または6ペンスに下落したとしても、いずれの場合でも、作業者は、1時間の生産物の中に、2時間で保存する価値に較べて、ただ1/2の価値を変わることなく保存する。同様に、もし彼自身の労働の生産性が上昇または低下と変化するとしたら、彼は、1時間に、場合に応じて、彼が以前やっていたのに較べて、より多くの または より少ない、いずれかの綿量を紡ぐであろうし、その結果として、彼は、1時間の生産物の中に、より多くの または、より少ない綿の価値を保存するであろう。しかしながら、彼は、2時間の労働によって、1時間のそれと較べて、2倍の価値を保存するであろうことは、いずれの場合でも同じである。〉(インターネットから)


●第11パラグラフ

《初版》

 〈価値は、それが価値象徴においてたんに表象的に表示されていることを度外視すれば、使用価値あるいは物のうちにしか存在しない。(人間そのものは、労働力の単なる存在であると見なせば、自然対象すなわち物--たとい生命のある、自己意識のある物であろうとも--であり、労働そのものは労働力の物的発現である。)だから、使用価値が消滅すれば交換価値も消滅する。生産手段は、それの使用価値を失うのと同時にそれの交換価値を失うわけではない。というのは、生産手段が労働過程を通って自分の使用価値の元の姿を失うのは、じっさいには、別個の使用価値の姿を生産物において得るためでしかないからである。ところが、交換価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在することが重要であっても、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、交換価値にとってはどうでもよいことである。この結果、生産手段がそれの自立的な使用価値と一緒にそれの交換価値をも失うかぎりでのみ、生産手段の価値は労働過程のなかで生産物に移行する、ということになる。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを、生産物に引き渡す。だが、労働過程の対象的諸要因は、各自、この点について事情を異にしている。〉(江夏訳214-215頁)

《フランス語版》

 〈価値は、表章によるたんに象徴的なその表現を別にすれば、ある有用物、ある物体のなかにしか存在しない(人間そのものは、労働力の単なる実存としては、ある自然物、生きた、意識的な、ある物体であって、労働は労働力の外的な物的表示にほかならない)。使用価値が消滅すれば、交換価値も同じょうに消減する。使用価値を失った生産手段は、同時にその価値を失うわけではない。それというのも、労働過程が実際に生産手段をして有用性の最初の形態を失わせるのは、生産手段にたいして新しい有用性の形態を生産物のなかで与えるためでしかないからである。しかし、価値にとっては、なんらかの有用物のなかに存在することがどんなに重要であっても、この物体がなんであるかがどうでもよいことは、商品の変態が証明したところである。このことから、次のような結果が生ずる。すなわち、生産物が労働の経過中に生産手段の価値を吸収するのは、ただ、生産手段がその有用性を失うと同時にその価値をも失うかぎりでのことだ、ということ。生産手段は、生産手段として失う価値のみを、生産物に移すのである。しかし、労働の素材的諸要因はこの点ではそれぞれちがった行動をする。〉(江夏・上杉訳194-195頁)

《イギリス語版》

  〈(10)価値は、ただ、有用な品物の中に、物の中に存在する。その、純粋に、記念品のような象徴的な表現という思考から抜け出してみよう。( 人間 彼自身は、労働力の擬人化として見なせば、自然なる物、物 と言える。とはいえ、生きていて 意識のある物である。そして、労働が、彼の内に存在するこの力の明示に他ならない。) 従って、もし、品物がその有用性を失えば、それはまた、その価値を失う。生産手段が、それらが、それらの使用価値を失う時、その時と同時に、なぜそれらの価値を失わないのかの理由は、このようになる。それらは、労働過程において、当初の形式であるそれらの使用価値は失うが、ただ、生産物の中に、新たな使用価値を形成すると 考えるからである。しかしながら、とはいえ、価値として重要と思われる点は、それ自体を内に体現する有用なある品物でなければならないが、この目的を果たす特定な物が何であるかは、全くのところ、どうでもいいのである。このことは、商品の変態を取り扱う時に見たところである。従って、次の様に云える。労働過程において、生産手段は、それらの価値を、ただ、それらの使用価値とともに、それらの交換価値をも失う限りにおいてのみ、生産物に移管する。それらは、自身の生産手段として失った価値のみを生産物に差し出す。しかし、この点に関しては、労働過程の材料的要素は、全てが同じように振る舞うわけではない。〉(インターネットから)


●第12パラグラフ

《初版》

 〈機関を熱する石炭は、車軸に塗られる油等々と同じに、あとかたもなく消えてなくなる。染料やその他の補助材料も消えてなくなるが、生産物の属性のうちに現われる。原料は生産物の実体を形成するが、その形態を変えてしまっている。だから、原料や補助材料は、それらが使用価値として労働過程にはいってきたときの自立的な姿をなくしている。本来の労働手段はそうではない。用具や機械や工場建物や容器等々が労働過程で役立つのは、それらが元の姿を保持して明日も昨日と全く同じ形態で再び労働過程にはいってゆくかぎりにおいてのことでしかない。それらは、自分たちが生きているあいだ、すなわち労働過程のあいだ、生産物にたいして、自分たちの自立した姿を保持しているが、自分たちが死んだあとでもそうである。機械や道具や作業用建物等々の死骸は、相変わらず、それらに助けられて作られた生産物から自立的に離れて、存在している。いま、このような労働手段が役立つ全期間を、それが作業場にはいった日からがらくた小屋に追い払われる日までにわたって、考察するならば、この期間中に、それの使用価値は労働によってすっかり消耗されたのであり、したがって、それの交換価値はすっかり生産物に移行したのである。たとえば、ある紡績機械が1O年で寿命を終えたとすれば、この機械の総価値は、10年間の労働過程中に、1O年間の生産物に移行してしまっている。だから、ある労働手段の寿命のうちには、この労働手段を用いて絶えず新たに繰り返される多数または少数の労働過程が、含まれている。ところで、労働手段も人間と同じことである。人間は誰でも、毎日24時間ずつ死んでゆく。ところが、どの人間を見ても、この人間がこれまでに何日死んでいるかは、正確にはわからない。とはいえ、そうだからといって、生命保険会社が人間の平均寿命から、きわめて確実な、そしてもっとはるかに重要なことだがきわめて採算上有利な結論を、引き出すことに変わりはない。労働手段についても同じである。ある労働手段、たとえばある種類の機械が、平均してどれだけ長持ちするかは、経験上知られている。労働過程におけるこの機械の使用価値が6日しかもたない、と仮定しよう。そうすると、この機械は、平均して1労働日ごとに、それの使用価値の1/6を失い、したがって、それの交換価値の1/6を日々の生産物に引き渡すことになる。このような仕方で、すべての労働手段の損耗が、したがって、たとえば、それの日々の使用価値喪失、およびこの喪失に応じて行なわれるところの、生産物への日々の交換価値引き渡しが、計算されるのである。〉(江夏訳215-216頁)

《フランス語版》

 〈機関を熱する石炭は、車軸に塗る油等々と同様に、あとかたもなく消滅する。染料その他の補助材料も同様に消滅するが、生産物の属性のなかに現われる。原料は生産物の実体をなすが、それは、形態を変えてからのことである。原料と補助材料は、それらが使用価値として労働過程のなかに入りこむさいにもっていた姿態を、失うのである。厳密な意味での労働手段については、全く別である。なんらかの道具、機械、工場、容器は、最初の形態を保存しているあいだしか、労働に役立たない。それらは、生存中に、すなわち労働の経過中に、生産物にたいして固有の形態を維持するのと同じように、死後もやはりこの形態を維持する。機械や道具や作業場などの死骸は、それらが関与して作った生産物から独立して、これとは分離して、存在しつづける。作業場への搬入の日から廃品にされる日までの、労働手段の役立つ全期間を、考察すれば、その使用価値はこの期間中に労働によって全面的に消費されてしまい、したがって、その価値が生産物に全面的に移された、ということがわかるのである。ある紡績機械が、たとえば10年もったとすれば、この機械の10年間の運転中に、その全価値が10年間の生産物に体現したのである。したがって、このような労働手段の生存期間のうちには、 この労働手段の助けによって絶えず繰り返された若干数の同じ作業が、含まれている。そして、労働手段も人間と同じことである。人間は誰でも、毎日24時間ずつ死んでゆく。だが、ある人間の単なる外観からは、彼がすでに何日死んだかを知ることは不可能である。しかし、保険会社が、人間の平均寿命から、非常に確実な、保険会社にとっていっそう重要なことだが非常に利益になる結論を引き出すことに、変わりはない。ある労働手段、たとえば編物機が平均して何時間もつかも、同じく経験によって知られている。編物機の有用性が運転中の労働において6日しか維持されないと仮定すれば、この編物機は毎日平均してその使用価値の6分の1を失い、したがって、その交換価値の6分の1を日々の生産物に移すことになる。あらゆる労働手段の日々の損耗と、それがそれ自身の価値のうち生産物価値に日々移す量とは、このようにして計算するのである。〉(江夏・上杉訳195-196頁)

《イギリス語版》

  〈(11)石炭は、ボイラー釜の下で燃えて、痕跡も残さずに消え失せる。車軸に塗られたグリースも、同様に消え失せる。染料やその他の補助物質も同様に消失するが、生産物の性質として再現する。原料は、生産物の実質を形成するが、ただし、その形を変えた後でのことである。従って、であるから、原料や補助物質は、以前それらが纏っていた性格的形式を、労働過程に入る時に失う。労働手段はこれとは異なる。道具、機械、作業場、そして容器は、それらが、それらの元の形を保持している限りにおいて、労働過程で使えるのである。そして、それらの変わらぬ形が、毎朝、過程の再開を準備してくれる。このことは、それらの寿命のある期間、言うなれば、それらが、役割を果たす 継続する労働過程期間内では、生産物からは独立した形を保持する。またそのように、それらは死んだ後も形を保持する。機械、道具、作業場等々の死骸は、それらが創出を助けた生産物とは常に分離されかつ区別されている。今、もし、我々が、いずれもの労働手段の 使用された全期間を 取り上げて見るならば、それが仕事場へ入って来た日から、物置小屋に追放される日までを、考えるならば、その間に、それらの使用価値が完全に消費され、それゆえに、それらの交換価値が完全に生産物に移管されたことを、我々は見出すであろう。例えば、もし、紡績機械が10年間 使用に耐えうるとするならば、その活用期間に、その全価値が徐々に、10年間の生産物に移管されたことは当然のことである。従って、労働手段の一生は、長短の差はあれ、同じ作業の繰り返しの内に終わる。それらの一生は、人間のそれと同じと云えるかもしれない。日々が、人を、24時間だけ、墓場の近くへと連れていく。とはいえ、その道を何日間旅し続けるのかは、単に彼の外見を見たからといって、正確に告げることは誰にもできない。にもかかわらず、この難しさが、生命保険会社の営業を妨害するというものでもない。平均寿命理論を用いて、非常に正確に、同時に、非常に儲かる結論を得る上での妨げになるというものでもない。
  (この間に「訳者余談」が入っているが、省略)
  そう、労働手段についてもそのようなことなのである。特定の種類の機械がどの程度の耐用性を有するかは、平均的に、経験から知られているところである。そのものの、労働過程での使用価値が、ただの6日間しか持続しないとしよう。そうすれば、平均的に、その使用価値の1/6が日々失われる。従って、その価値の1/6が、1日の生産物へと切り離される。労働手段の損耗、それらの1日当りの使用価値の消失、生産物へと切り離される価値の相当量は、この原理に基づき、それ相応に計算されている。〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈生産手段は、それ自身がそれ自身の使用価値の消滅によって労働過程で失うよりも大きな価値を、生産物に引き渡すわけではない、ということが、ここでは適切に示されている。この生産手段が、失うべき交換価値をもっていなければ、すなわち、それ自身が人間労働の生産物でなければ、それは生産物になんらの交換価値も引き渡しはしないであろう。この生産手段は、交換価値の形成者として役立たぬまま使用価値の形成者として役立つであろう。だから、人間の助力をまたずに天然に存在しているすべての生産手段、すなわち土地や風や水や鉱脈内の鉄や原始林の樹木等等、のばあいが、そうである。〉(江夏訳216頁)

《フランス語版》

 〈生産手段は、それ自身が労働の経過中の消耗によって失う以上の価値を、けっして生産物に移さないということは、このばあい一目瞭然である。もし生産手段が失うぺき価値をなんらもたなければ、すなわち、それ自身人間労働の生産物でなければ、それはどんな価値をも生産物に移すことはできないであろう。この生産手段は、価値を形成することに役立つことなしに、日用物品を形成することに役立つであろう。自然が人間の関与なしに供給するすべての生産手段、すなわち、土地や水や風や鉱脈内の鉄や原始林の木材等々のばあいがそうである。〉(江夏・上杉訳196頁)

イギリス語版》

   〈(12)かくてこの様に、以下のことは、目を打つほど明白である。すなわち、生産手段は、労働過程において、自身の使用価値の損耗により、それらが、それら自身を消失するが、その価値以上のものを、生産物に決して移管しない。もし、その生産手段に失う価値がないならば、別の言葉で云えば、それが人間労働の生産物でないならば、生産物に移管する価値はない。それは、交換価値の形成にはなんら寄与しないが、使用価値を創り出すことは助ける。このようなものは、人間の助力なしに自然によって供給されるすべての生産手段の中に含まれている。それらは、大地、風、水、その辺にころがっている金属鉱石、処女林の木材等である。〉(インターネットから)


●第14パラグラフ

《初版》

 〈ここでは、もう一つ別の興味ある現象に出くわす。たとえば、ある機械が1000ポンド・スターリングの価値があり、1OOO日で働きを終えるとしよう。このばあい、毎日、機械の価値の1OOO分の1が、機械そのものから機械の日々の生産物に移ってゆくが、機械は生命力を減じながらも、つねに全体として労働過程で作用している。したがって、ここでは、労働過程の要因である生産手段は、労働過程には全体としてはいるが価値増殖過程には部分的にしかはいらない、ということがわかる。労働過程と価値増殖過程とのちがいが、ここでは、対象的な諸要因に反映している。というのは、同じ生産手段が同じ生産過程で、労働過程の要素としては全体として数えられ、価値形成の要素としては部分的にしか数えられない(21)からである。〉(江夏訳216-217頁)

《フランス語版》

 〈ここで、興味のあるもう一つの現象に出会う。ある機械がたとえば1000ポンド・スターリングに値し、1000日で摩損する、と仮定しよう。このばあい、機械の価値の1000分の1が、機械の日々の生産物に毎日移ってゆく。だが、機械は、その活力が絶えず減少するとはいえ、労働過程ではつねに全面的に機能するものである。したがって、ある労働要因は、使用価値の生産のうちに全面的に入っても、価値の形成のうちには部分的にしか入らない。このようにして、二つの過程のちがいが物的諸要因のなかに反映されている。それというのも、同じ作業で同一の生産手毅が、第一の過程の要素としては全面的に、第二の過程の要素としてはただ部分的に、計算されるからである。〉(江夏・上杉訳196頁)

《イギリス語版》

  〈(13)他に、まだ、生産手段自体が示す興味深い点がある。1,000英ポンドの価値がある機械があって、1,000日で全てが損耗すると仮定してみよう。であれば、日当りの生産物に、1日ごとに、1/1,000 相当の機械の価値を移管する。同時に、活力を減退させつつあるとはいえ、その機械は、全体として労働過程で、その役割を継続する。そのように、労働過程の一要素、生産手段は、全体として労働過程に入り続けるが、一方、その価値形成過程には、その分数部分のみしか入らない。二つの過程での違いは、それらの物質的要素の内に、以下のことを、このような違いとして反映しているのである。同じ生産手段が、労働過程では全体として役割を果たし、一方同時に、価値の形成の要素としては、ただ分数部分のみを入れるだけと云うことを。
〉(インターネットから)


●原注21

《直接的生産過程の諸結果》

  〈もちろん、この追加的労働はただ具体的労働の姿でのみつけ加えうるのであり、したがってただ特定の使用価値としての特殊な姿を取った生産手段につけ加えられる。さらに、
これらの生産手段に含まれている価値は、具体的労働によって労働手段として消費されることによってのみ維持される。だからといってこのことは次のことを排除しない。既存の価値、生産手段に対象化された労働が、それ自身の量を越えて増大するだけでなく、実際に、可変資本に対象化されている労働の量も越えて増大するのはただ、それが生きた労働を吸収するからであり、その度合いに応じてだということ、そして、この労働それ自身が貨幣として、一般的社会的労働として対象化されるからだということである。したがって、まさにこの意味において、すなわち資本主義的生産の固有の目的である価値増殖過程との関係において、資本は、対象化された労働(蓄積された労働、既存の労働、等々)として、生きた労働(直接的労働、等々)に相対するのであり、経済学者たちによってそのように対置されるのである。しかし、この点では彼らは--リカードでさえ-- 絶えず矛盾と曖昧さに陥っている。というのも、彼らは二重の形態での労働という観点から商品の分析を明快に行なわなかったからである。〉(光文社文庫212-213頁)

《初版》

 〈(21) ここでは、機械や建築物等々といった労働手段の修理労働は、問題にならない。修理される機械は、労働手段としてではなく労働材料として機能する。この機械を用いて労働が行なわれるのではなく、この機械自身に労働が加えられてこの機械の使用価値が繕(ツクロ)われる。このような修理労働は、われわれの目的にとっては、いつでも、労働手段の生産に必要な労働のうちに含まれている、と考えてよい。本文で問題になっている損耗は、どんな医者でも治療することができず、だんだんと死に至るもの、すなわち、「ときどき修理するというわけにはゆかないような、ナイフのばあいで言えば刃物師が新しい刃をつけるには値しないと言うほどの状態についにはなってしまうような、そういった種類の損耗」なのである。本文で述べたように、たとえば機械は、各個の労働過程のうちには全体としてはいっていっても、同時に行なわれる価値増殖過程のうちには部分的にしかはいってゆかない。この点からして、次のような概念混同が判断されるべきである。「リカード氏の言によると、靴下製造機を製作するさいの機械工の労働の一部分」は、たとえば1足の靴下の価値のなかに含まれている。「とはいっても、各1足の靴下を生産した総労働は、……機械工の総労働を含んでいるのであって、その一部を含んでいるわけではない。というのは、1台の機械は多くの足数の靴下を作るが、これらのどの1足も、機械のどの部分が欠けても作れなかったからである。」(『経済学におけるある種の用語論争にかんする考察、特に価値および需要供給に関連して。ロンドン、1812年』、54ページ。)並外れてうぬぼれの強い「知ったかぶり屋」のこの著者の混乱は、したがって彼の反論は、リカードもその前後の他のどの経済学者も労働の両面を厳密に区別せず、したがって、この両面が価値形成に及ぼす作用のちがいをなおさら分析しなかった、というかぎりでのみ、当然なことである。〉(江夏訳217頁)

《フランス語版》

 〈(2) ここでは、工具や機械や建物などの修繕労働は問題ではない。修繕される機械は、労働手段としてではなく、労働対象として機能する。人はそれを用いて労働するのではなく、その使用価値を補修するためにそれ自身に加工するのである。われわれにとっては、このような修繕はつねに、労働手段の生産のために必要な労働のうちに含まれているものと見なしてよい。本文で問題になっているのは、どんな医者も治療できずして、しだいに死をもたらすような損耗であり、「ときどき直すわけにはいかないような、たとえばナイフであれば刃物師がもはや新しい刃をつける値うちがないと言うほどの状態にとどのつまりいたらせるような、そういうたぐいの損耗」である。前に見たことだが、たとえば機械は、個々の生産作業のうちに全面的に入るが、同時に行なわれる価値形成のうちには部分的にしか入らない。このことによって、次のような取り違いを批判することができる。「リカード氏は、靴下製造機の製作における機械工の労働部分は、たとえば1足の靴下の価値のうちに含まれている、と語っている。しかし、各1足の靴下を生産した総労働は、機械工の総労働を含むのであって、一部分を含むのではない。1台の機械は数足の靴下を作るのであり、機械のすべての部分を使用しなければ、これらの靴下のどの1足も作ることができなかったであろうから」(『経済学におけるある種の用語論争にかんする考察、特に価値および需要供給に関連して』、ロンドン、1821年、54ぺージ)。自惚れにみちた衡学者でもあるこの著者が、彼の論戦においてある点まで道理にかなっているのは、リカードもその前後のどの経済学者も労働の両面を正確に区別せず、ましてや価値形成に及ぼすこれら両面のちがった影響を分析しなかった、という意味でのことなのである。〉(江夏・上杉訳196-197頁)

《イギリス語版》

   なし。(インターネットから)

 

(付属資料3に続く。) 

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(8)

2022-11-19 01:56:56 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回) (8)

 

  【付属資料】 (3)

 

●第15パラグラフ

《初版》

 〈他方では逆に、ある生産手段が、労働過程には部分的にしかはいらないのに、価値増殖過程には全体としてはいる、ということもありうる。綿花を紡ぐさいに、日々115ポンドについて15ポンドの屑が生じ、この15ポンドが糸にはならずに綿屑にしかならない、と仮定しよう。たといそうであっても、この15%の屑が標準的であって綿花の平均加工と不可分であれば、15ポンドの綿花の価値は、糸の要素でなくても、糸の実体になる100ポンドの綿花の価値と全く同じに、糸の価値のうちにはいるのである。100ポンドの糸を作るためには、15ポンドの綿花の使用価値はほこりにならざるをえない。だから、この綿花の消滅は糸の生産条件である。それだからこそ、この綿花はその交換価値を糸に引き渡すわけである。このことは、労働過程のすべての排地物について言える--少なくともこれらの排池物が、再び、新たな生産手段にならず、したがって新たな自立した使用価値にならない程度において--。たとえば、マンチェスターの機械製作工場では、鉄屑の山が、巨大な機械でかんな屑のように削りとられ、夕方には大きな車でこの工場から鋳鉄工場に移され、他日.再び、鋳鉄工場からこの工場に、鉄塊になって移し返されるのが、見受けられるのである。〉(江夏訳217-218頁)

《フランス語版》

 〈逆に、ある生産手段は、使用価値の生産のうちには部分的にしか入らないのに、価値形成のうちには全面的に入ることがありうる。紡績作業において、115ポンドの綿花につき15ポンドの屑、すなわち糸ではなくイギリス人が悪魔のほこり〈devil's dust>〔綿屑〕と呼ぶものを形づくっているものが存在する、と仮定しよう。それにもかかわらず、この15%の屑が製造上標準的であり、平均的に免れないならば、糸のどんな要素も形成しない15ポンドの綿花の価値は、糸の実体をなす100ポンドと全く同じに、糸の価値のなかに入る。100ポンドの糸を作りうるためには、15ポンドの綿花は悪魔のもとに行って〔綿屑になって〕しまわなければならない。まさにこの滅失が生産の条件であるからこそ、滅失した綿花もその価値を糸に移すのである。そして、労働のすべての排泄物についても同じことである。言わずもがなのことであるが、それが新しい生産手段を、したがって新しい使用価値を形成するのに役立たないかぎり、そうなのだ。こうして、マンチェスターの大工場では、鉄屑の山が、木屑が鉋によってはぎとられるように、巨大な機械によってはぎとられて、夕方には工場から鋳造所に運ばれ、翌日には純鉄のかたまりとして鋳造所 から工場に戻ってくるのが、見られるのである。〉(江夏・上杉訳197-198頁)

《イギリス語版》

  〈(14)他方、ある生産手段は、全体として、価値形成の役割を果たす、労働過程には、この間、それは少しずつのみ入る。綿の紡績において、115ポンドごとに、通常15ポンドの屑綿が、撚糸に変換されずに、「悪魔の塵」になってしまう。さて、この15ポンドの綿は、撚糸の構成要素には決してならないとはいえ、それでも、平均的な紡績の条件では、この屑綿量は、当然のもので、避けられないと考えられ、その価値は、そのまま確実に、撚糸の価値に移管される。撚糸の物質を形成する100ポンドの綿の価値と同じように。100ポンドの撚糸が作られる前に、15ポンドの綿の使用価値は塵に消えねばならない。この綿の崩壊は、従って、撚糸の生産には必要な条件なのである。だから、それが必要な条件であり、他にはない理由により、その綿の価値が生産物に移管されるのである。労働過程から生じるあらゆる種類の廃棄物は、この様に確かなものを持っている。ただ、その廃棄物が、新たなそして独立の使用価値をもって再び用いられることができないという限りでのことである。廃棄物の再利用というのも、マンチスターで活動する大きな機械ではよく見られる。そこでは、山のような鉄の削りくずが、夕方、鋳造所へと運び出される。翌朝、鉄の大きな固まりとして、仕事場に再び現われるために、積み出される。〉(インターネットから)


●16パラグラフ

《初版》

 〈生産手段が元の使用価値の姿での交換価値を労働過程中に失うかぎりでのみ、それは、生産物の新たな姿に交換価値を移すわけである。ところが、それが労働過程のなかでこうむってもかまわない価値喪失の最大限度は、それが労働過程にはいるときにもっていた元の価値量によって、すなわち、それ自身の生産に必要な労働時間によって、制限されている。だから、生産手段は、それがどんな労働過程に役立てられているかにかかわりなくそれがもっているよりも多くの価値を、生産物につけ加えることができない。ある労働材料、ある機械、ある生産手段が、どんなに有用であっても、それが150ポンド・スターリングたとえば5OO労働日を要すれば、それは、自分の役立ちによって作られる総生産物に、けっして150ポンド・スターリングよりも多くをつけ加えることはない。それの価値は、それが生産手段としてはいってゆく労働過程によってきめられるのではなく、それが生産物として出てくる労働過程によってきめられるのである。それは、労働過程では、使用価値としてのみ、有用な属性をもっている物としてのみ、役立つのであり、したがって、それが、この過程にはいってくる以前に交換価値をもっていなかったとすれば、それはけっして生産物に交換価値を引き渡しはしないであろう(22)。〉(江夏訳218-219頁)

《フランス語版》

 〈生産手段が価値を新しい生産物に移すのは、この価値を古い有用性の形態において失うかぎりでしかない。生産手段が、労働の経過中に失うことができる価値の最大限は、それが作業に入るときにもっていた最初の価値量、すなわち、その生産に必要であった労働時間を、限界とする。だから、生産手段はけっして、それ自身がもっているよりも多くの価値を生産物に付加することができない。ある原料、ある機械、ある生産手段の有用性がどうあろうとも、それが150ポンド・スターリング、つまり500労働日を要しているならば、それは、それが関与して形成するところの総生産物に、けっして150ポンド・スターリングよりも多くを付加しない。その価値は、それが生産手段として入ってゆく労働によってではなく、それが生産物として出てくる労働によって、きめられる。それは、それが使用される作業では使用価値としてだけ、有用な属性をもつ物としてだけ、役立つのであって、それがこの作業に入る以前になんら価値をもっていなかったならば、生産物になんら価値を付与しないであろう(3)。〉(江夏・上杉訳198頁)

《イギリス語版》

   〈(15)我々は、生産手段が、それらの古い使用価値の形の中に持っていた価値を労働過程期間内で消失する限りにおいて、価値を新たな生産物に移管するのを見てきた。それらが過程において、耐えることができた価値の最大損失量は、云うまでもなく、過程に入ってきた時の元の価値量に制約される。または別の言葉で云えば、それらの生産に必要な労働時間に制約される。従って、生産手段は、それらが備わる過程とは独立してそれら自体が持っている価値以上の価値を、生産物に移管することは決してできない。与えられた原料、または機械、または他の生産手段がいかに有用だとしても、それが、150英ポンドの価格で、また別の言葉で云えば、500日間の労働であるとしても、いかなる状況のもとであれ、依然として、150英ポンド以上の価値を生産物に加えることはできない。それらの価値は、それが生産手段として入った労働過程によって決められるのではなく、そこから生産物として出ることで決められる。それは、労働過程において、単に使用価値として役割を果たし、有用な性質を持つ物である、従って、それが以前に価値を持っていなかったならば、生産物には、いかなる価値をも移管しない。〉(インターネットから)


●原注22

《経済学批判要綱》

 〈個々の資本家は、次のように考えをめぐらすこともできる。(しかもこれが彼の計算のためにも同じように役立つのである〉すなわち、もし彼が100ターレルの資本、つまり50ターレルの綿花、労働を維持するための4Oターレルの生活手段、1Oターレルの用具を所持し、さらに彼の生産費用として1O%の利潤をみこんで計算するとすれば、労働は彼のために、綿花にたいする50ターレル、4Oターレルの生活手段、1Oターレルの用具、さらに50ターレル、4Oターレルおよび1Oターレルのそれぞれの1O%を補塡しなければならない、と。その結果彼の頭のなかでは、労働は彼のために、55ターレルの原料、44ターレルの生活手段、11ターレルの用具、合計11Oターレルに等しいものをつくりだすのである。ところが経済学者たちにとっては、これは注目すべき割引え--まったくおこがましくもリカードウにたいする修正としてもち出されているにもかかわらず--なのである。〉(草稿集①452頁)

《初版》

 〈(22) このことから、間ぬけなJ・B・セーの愚かさが理解される。すなわち、彼は、剰余価値(利子、利潤、地代)を、土地や用具や革等々という生産手段がそれの使用価値によって労働過程で果たすところの「生産的な役立ち」から、導き出そうとするのである。ごていねいな弁解がましい思いつきを印刷しておくことをなかなかやめようとしないヴィルヘルム・ロッシャー氏は、こう叫んでいる。「J・B・セーが、『概論』、第1巻、第4章で、いっさいの費用を控除したあとで搾油機を用いて産み出された価値は、確かにある新たなものであり、搾油機そのものをつくり出した労働とは本質的にちがう、と言っているのは、きわめて正しい。」(前掲書、82ページ註。)大いに正しい! 搾油機を用いて産み出される「」は、搾油機の製造に費やされる労働とは大いにちがったあるものである。そして、ロッシァー氏は、「価値」とは、「油」が価値をもっているがゆえに「」のような物だ、と解している。しかし、石油は、相対的に「非常に多量」ではないにしても「天然に」存在しているのであって、彼の次のような別の言葉も、おそらくこのことを言おうとしているのであろう。「それ(自然!)は交換価値をほとんど全く産み出さない。」ロッシャーの自然と交換価値との関係は、愚かな娘と「とても小さかった」にすぎない子供との関係のようなものである。この「学者」〈"savant sérieux"〉は、上述の機会にさらに次のように言っている。「リカード学派は、資本をも『貯蓄された労働』として労働の概念に含めるのが常である。これは不手際だ(!)、なぜならば(!)実に(!)資本を所持する者は(!)それの(なにの?)単なる(?!)産出(??)および(??)保存よりも多くのこと(!)をしたからである。まさに(?!?)自分の享楽の抑制がそれであって、その代わりに彼はたとえば(!!!)利子を要求するのである。」(同上。)単なる「要求」から、実に、まさしく、「価値」を説明する経済学のこの「解剖学的生理学的方法」は、なんと「手際のよい」ことよ!〉(江夏訳219頁)

《フランス語版》

 〈(3) 剰余価値(利子、利潤、地代) を、生産手段である土地や道具や皮革などがその使用価値によって労働にもたらすところの生産的な役立ちから、派生させようとする、J・B・セーの名案は、これによって判断することができる。白地の上に黒地を縫いつけたり部分や断片で作り上げた器用な説明を提出したりする機会を、けっして逃さないロッシャー教授は、この問題についてこう叫ぶ。「J・B・セーは『概論』、第1巻、第4章で、いっさいの費用を控除したのちに搾油機によって産み出された価値は、搾油機そのものを作り出した労働とは本質的にちがう新しいあるものである、ときわめて正しく述べている」(前掲書、82ぺージ、註)。これは実際、きわめて正しい! 搾油機によって生産される「油」は、この搾油機に費やされる労働とは非常にちがうあるものである。そして、ロッシャー先生は、油は価値をもっているという理由で、「油」のような物も「価値」という名称のもとに含めているが、石抽は、相対的にわずかであっても「自然のうちに」存在するから、彼はこのことから次のようなもう一つの教義を引き出してくる。「それ(自然!)はほとんど交換価値を生産しない」、と。ロッシャー氏の自然とその交換価値とは、子供を産んでしまってから「でも、とても小さい子供なのよ!」とまさに白状した少女に似ている。この同じ真面目な学者はさらに、別の機会にこう述べている。「リカード学派は、資本を蓄積された労働と定義することによって、資本を労働の概念のうちに入れる習慣がある。これは不手際だ(!)というのは、実に、資本の所有者は明らかに、それをたんに(!) 生産し保存するよりもはるかに多くのこと(!)をしたからである。」だが、資本の所有者はいったいなにをしたのか? そうだとも! 「彼はできるかぎり享楽することを抑制したのであって、それゆえに(!)彼は、たとえば利子を欲して要求するのである」。ロッシャー氏が「経済学の解剖学的・生理学的方法」と名づけるこの方法は、なんと器用なことよ! それは意志の単純な欲求を価値の無尽蔵な源泉に変える!〉(江夏・上杉訳198-199頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: このことから、我々は、J.B.セイの馬鹿らしい説を審判することができるだろう。彼は、余剰価値 ( 利子、利潤、地代 )が、
"生産的部分" ( フランス語 ) 生産手段、土地、道具、原料などの、それらの使用価値なるものを、労働過程に投入することで生じるという解説を企てる。
 Wm.ロッシェル氏は、紙に黒インクで、なんかを書いて置こうと、いつでもその機会を逃さないのであるが、独創的な思いつきの評論の一つとして、記したものに、次のようなものがある。"J.B.セイの示すところは、まさに正しい。搾油機によって作られる価値は、あらゆる費用を差し引いた後の、なにか新たなもので、搾油機自体が組み立てられた労働とは全く違ったあるものである"
 教授!、まさに真実、搾油機によって生産された油は、その通り、搾油機の構築に支出された労働! とは、確かに違う あるものである。ロッシェル氏は、価値を、そのようなもの、"油"のようなものと理解している。なぜなら、油は価値を持っているからと。それはそうだが、それにもかかわらず、"自然" は石油を産み出す、確かに相対的には"僅かな量"ではあるが。この事実に対する彼のさらなる観察から述べようとしているところは、次のようになる。"それ (自然) は、交換価値を産まない。"
 ロッシェル氏の"自然"と交換価値の見解は、愚かな処女が、彼女がその通りと子供を産んだことを認めながら、しかし、"それはただ小さなものであった" と云うのに似ている。
 この" 賢き熱心なる者" ( フランス語 )は、さらに続けて次のように云う。"リカード学派は、資本を、蓄積された労働として、労働の概念のもとに含めるのが習慣である。この論は巧みなものではない。なぜならば、まさに、資本の所持者は、結局のところ、その同じものを、保存したり、創造したりする以上のなにものかを成した。すなわち、利子を要求するために、それをただの楽しみから節欲したのである。"
 この政治経済学の、解剖学的・生理学的方法のなんと"巧みな"ことよ。"まさに"、単なる欲求を、"結局のところ"、価値の源泉に変換したのである。〉(インターネットから)


●第17パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈ところで、彼が6Oターレルの原料と用具に5Oターレル--10時間の労働(そのうち8時間はただ賃金の補塡分にすぎない)--をつけ加えたことによって、同時に材料と用具を保持した--この材料と用具は、ふたたび生きた労働と接触し、用具と材料として利用されることによってこそ、保持される--ということ、このことのために彼はすこしも労働を費やしはしないし(彼はまたそのようなことをする余分な時間などもたないであろう)、また資本家から彼に支払いがなされることもない。このように活力をあたえる労働の自然力--労働が材料と用具を利用することによって、それらの材料や用具をあれこれの形態で保持し、したがってまたそれらのなかに対象化された労働を、つまりそれらの交換価値を保持するということ--は、資本の力となるのであって、労働の力となるのではない。ちょうど労働の自然力または社会的な力--それも以前の労働の産物ではないもの、というよりは、くりかえされざるをえないような以前の労働の産物ではないもの(たとえば労働者の歴史的発展など)--がすべてそうであるように。したがってまた資本によって支払われることもない。労働者が考えることができるなどといったことでは、彼に支払いがなされないのと同様である。〉(草稿集①452-453頁)
  〈たとえば不況〔stagnations of trade〕の時期などに工場〔mills〕が休業となれば、機械や紡ぎ糸の生きた労働にたいする関連がなくなるとともに、機械はさびつき、紡ぎ糸は無用の長物となるばかりか、さらには腐ってしまうということが、実際に明らかになる。資本家が、剰余価値をつくりだすためにだけ--まだ存在していない価値をつくりだすためにだけ--労働させるのだとすれば、そこで明らかなのは、彼が労働させることをやめるとともに、彼の既存の資本も価値滅失する〔entwerthet werden〕ということ、したがって生きた労働は、ただ新しい価値をつけ加えるだけではなく、もとの価値に新しい価値をつけ加える行為そのものによって、もとの価値を維持し恒久化するということである。……したがって、もとの価値を増殖させる〔verwerthen〕労働によって現存資本を保持することは、資本にとってなんの費用もかからず、したがって生産費用の一部ではない。〉(草稿集①464-465頁)

《61-63草稿》

 〈したがって、材料と労働手段との価値の維持は、生きた現実的労働の、いわば天稟(テンピン)なのであり、したがってまた、価値を増加させる同じ過程で、旧価値が維持される--旧価値が維持されることなしには、新価値は付加されえない--のであるから、また、この働きは使用価値としての・有用的活動としての・労働の本質に由来し、労働そのものの使用価値に起因するのであるから、それは労働者にとっても資本家にとっても、なんの費用もかからないものである。したがって資本家は、前提された価値の、新生産物のなかでの維持を無償で受け取る。彼の目的が前提された価値の維持ではなくてその増加であるにせよ、労働のこの無償の贈り物は、たとえば現実の労働過程が中断される工業/恐慌のときに、それが決定的に重要なものであることを思い知らせる。機械は錆び、材料はだめになる。それらは交換価値を失い、交換価値は維持されない、--なぜならば、それらは使用価値として労働過程にはいらず、生きた労働と接触しないからである。それらの価値は維持されない、--なぜならば、それらは増加されないからである。それらは、現実の労働過程にまで進められる場合にのみ、増加されることができ、新労働時間が旧労働時間に付加されるととができるのである。〉(草稿集④124-125頁)

《初版》

 〈生産労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の交換価値には輪廻(リンネ)が生ずる。この交換価値は、消耗された肉体から、新たに形づくられた肉体に移る。ところが、この輪廻は、いわば、実在している労働の背後で生ずるものである。労働者は、旧価値を保存しなければ新たな労働をつけ加えることができないし、つまり、新たな価値を創造することができないなぜならば、彼は、労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、しかも、彼は、諸生産物をある新たな生産物の生産手段にし、そうすることによってこれらの生産物の価値をこの新たな生産物に移さなければ、労働を有用な形態でつけ加えることができないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動しつつある労働力の、生きている労働の、天性である。すなわち、労働者にはなんら苦労をかけず、しかも資本家には現存の資本価値の保存という多大な利益をもたらす、という天性なのである(23a)。商売が繁昌しているあいだは、資本家は貨殖に没頭するあまり、労働のこの無償の贈り物が目にうつらない。労働過程の暴力的な中断である恐慌は、彼にこの贈り物を敏感に気づかせることになる(23)。〉(江夏訳219-220頁)

《フランス語版》

 〈生産労働が生産手段を新しい生産物の形成要素に変えるあいだに、生産手段の価値は一種の輪廻を免れない。それは、消費された肉体から、新たに形成された肉体に移る。だが、この転生は、現実の労働が知らぬ間に行なわれる。労働者は、旧価値を保存することなしには、新しい労働を付加することができず、したがって、新価値を創造することができない。彼はこの労働を有用な形態で付加しなければならず、しかもこのことは、彼が諸生産物を一つの新しい生産物の生産手段に変え、まさにそのことによって諸生産物の価値を一つの新しい生産物に移転することなしには、起こりえないからである。だから、活動中の労働力、生きた労働は、価値を付加しながら価値を保存するという属性をもっており、これこそは、労働者にはなんら費用がかからないが資本家には多額の利益をもたらす自然の贈り物であって、資本家は自分の資本の現存価値の保存をこれに負うている(4)。事業がうまく進んでいるかぎり、彼は、剰余価値の生産に夢中になりすぎているから、労働のこの無償の贈り物を識別することができない。恐慌のような暴力的な中断は、彼がこれに気つくことを露骨に強制する(5)。〉(江夏・上杉訳199頁)

《イギリス語版》

 〈(16)生産的労働が、生産手段を、新たな生産物へと変えている間に、それらの価値は、霊魂輪廻を経る。その消費され尽くした体に、新たに創造された体を占有する褒美が与えられる。しかし、この生まれ変わりは、そう云えるものであるが、労働者の背後に隠れて起こる。彼は、同時に、以前の価値を保存することなくして、新たな労働を加えることはできないし、新たな価値を創造することもできない。このことは、彼が加える労働が特別に有用なものでなければならず、生産物を、新たな生産物のための生産手段とすることなくしては、有用な種類の作業をすることができないからである。であるからして、それらの価値を新たな生産物に移管する。従って、労働力の作動、生きた労働の、価値を保存する能力、同時にそれを付け加える その特質は、自然の贈り物であって、労働者にはなんの損失もない。しかし、資本家の資本の現在価値を保存する限りにおいては、彼にとって大きな利点である。商売が好調である限りにおいては、資本家は金儲けにのめり込み過ぎていて、この労働の無償の贈り物に一瞥もしない。恐慌による破壊的な労働過程の中断は、彼をして、このことに、敏感に気づかせる。〉(インターネットから)


●原注22a

《初版》

 〈(22a)  「農業上のあらゆる道具のうちで、人間労働は、……農業者が自分の資本の償還のために最も頼りにしているものである。ほかの二つのもの--役畜および……荷車や鋤(スキ)やシャベル等々は、与えられた量の人間労働がなくては、全くなんにもならない。」(エドマンド・バーク『穀物不足にかんる意見と詳論、初めは1795年11月にW・ピット関下に提出されたもの、ロンドン、18OO年版』、10ページ。)〉(江夏訳220頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「耕作民が使うあらゆる道具のうちで、人間労働は、彼が自分の資本の償却のために最も当てにしなければならない道具である。ほかの二つの道具、一方では荷車用や農耕用の牛馬、他方では鋤や荷車やつるはしやシャベル等々は、与えられた量の人間労働がなければ絶対になにものでもない」(エドマンド・バーク『穀物不足にかんする意見と詳論、初めは1795年11月にW・ピット閣下に提出されたもの』、ロンドン、1800年版、10ページ)。〉(江夏・上杉訳199頁)

《イギリス語版》

  なし。(インターネットから)


●原注23

《初版》

 〈(23) 1862年11月26日の『タイムズ』紙上で、8OO人の労働者を使って週平均15O梱の東インド綿花または約13O梱のアメリカ綿花を消費している紡績工場主が、自分の工場の毎年の休業費について、公衆の面前で嘆いている。彼は、それを6000ポンド・スターリングと見積もっている。この失費のなかには、ここではわれわれに関係のない数多くの費目がある。地代、租税、保険料、1年契約の労働者や支配人や簿記係や技師の給料等々が、そうである。次に彼は、ときおり工場を暖めときおり蒸気機関を運転するための石炭や、そのほかにも、臨時の労働を使って機械を「運転できるように」しておく労働者の賃金を、150ポンド・スターリングと計算している。最後に、機械の損耗が1200ポンド・スターリングである、と計算している。なぜならば、「天候と腐朽の自然法則とは、蒸気機関が回転をやめたからといって、作用を停止しない」からである。彼は、この1200ポンド・スターリングという金額は、機械がすでにひどい損耗状態にあるので、こんな少額に見積もられているのだ、と明言している。〉(江夏訳220-221頁)

《フランス語版》

 〈(5) 1862年11月26日の『タイムズ』紙上で、800人の労働者を使用し、毎週平均して150梱(コリ)のインド綿花、または約130梱のアメリカ綿花を消費する一紡績工場主は、自分の工場での労働が断続的に中断するために失費する毎年の出費のことについて、泣き言を言っては公衆を悩ませている。彼はこの出費を6000ポンド・スターリングと見積もる。この出費のなかには、地代、租税、保険料、1年契約の労鋤者や監督や簿記係や技師の俸給等々のような、われわれがいま取り扱うべきではない多くの費目がある。彼は次に、工場をときどき暖房し蒸気機関を運転するための石炭と、さらになお、随時必要になる労働をする労働者の賃金を、150ポンド・スターリングと計算する。最後に、機械のために1200ポンド・スターリングを、「天候と腐朽の自然原則とは、機械が運転しないからといってその作用を中止しない」という理由で、計算する。彼は、自分の見積もりがこの1200ポンド・スタリーングという金額をたいして越えないのは、自分の機械全体がもう少しで廃物になるからだ、と力説している。〉(江夏・上杉訳199-200頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1862年11月26日付けタイムズに、800人を雇い、150梱の東インド綿、または130梱のアメリカ綿を紡ぐ(訳者注: ここでは、週とか月とかの単位記述はしていない。)、ある製造業者が、仕事をしない彼の工場の、それでも生じる出費について、悲痛に満ちた様子で、窮状を述べている。年 6,000英ポンドに達すると、彼は見積もる。それらの項目の中には、地代、地方税、国税、保険、支配人・帳簿係・運転技師・他の給与といった、ここでは我々にとってなんら関係ないものも多い。その後に、工場を時々暖めたり、時々蒸気機関を動かすための石炭代として150英ポンドと計算する。これに、時々機械を作業状態に維持するために雇う人の賃金も含めている。最後に、機械の減価償却として、1,200英ポンドを計上する。なぜなら、蒸気機関が回転を止めたからといって、天候や自然の腐朽原理はその作用を停止しないからである。彼は、次のことをも強調する。彼の機械が、すでに、相当痛んでいるため、1,200英ポンドという小さな額以上には見積もっていないと。〉(インターネットから)


●第18パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第二。したがって労働手段および労働材料の価値は、生産物の価値のなかに自己を維持し、要因として生産物の価値のなかにはいる。だが、それらは生産物の価値のなかに再現するにすぎない、--なぜならば、使用価値がそれらのなかで受け取った現実の変化は、それらの実体にはまったく影響しなかったのであって、この変化が影響したのは使用価値の諸形態--過程のまえにもあとにもそれらはこの諸形態で存在する--だけであり、価値がそのなかに存在するところの、使用価値の特定の形態は、あるいは労働--これは価値においては抽象的労働に還元されている--の特定の有用性もまた、ことの本性からして、価値の本質にはまったく影響しなかったのだからである。〉(草稿集④117頁)
  〈{生産物における価値の再現すなわち単純な維持と、この価値の再生産とのあいだには、次のような区別がある。後の場合には、価値を含んでいた使用価値が消尽されたことによって消えてしまった交換価値の代わりに、新しい等価が現われる。前の場合には、はじめの価値の代わりになんらかの新しい等価が生みだされるわけではない。たとえば、机のなかに再現する木材の価値は、新たに創造される等価によって補塡されるのではない。木材の価値は机のなかに再現するが、それは、木材がその前から価値をもっており、木材の価値の生産が机の価値の生産にとっての前提であるからにすぎない。}〉(草稿集④379頁)

《初版》

 〈およそ労働過程中に生産手段のうちに消耗されるものは、それの使用価値であって、この使用価値を、労働を用いて消費すると、生産物ができあがる。生産手段の交換価値は、じっさいには消費されず(24)、したがって再生産されることもありえない。この交換価値は、保存されるが、労働過程でこの交換価値そのものにある操作が加えられるので、保存されるわけではなく、この交換価値がもともとそれのうちに存在していた使用価値が、なるほど消失はするが、ある別個の使用価値のうちに消失するので、保存されるわけである。だから、生産手段の交換価値は、生産物の価値のうちに再現するが、しかし、正確に言うと、再生産されるわけではない。生産されるものは、旧交換価値がそのうちに再現する新使用価値である(25)。〉(江夏訳221頁)

《フランス語版》

 〈生産手段において消費されるものは、その使用価値であって、この使用価値を労働によって消費することが、生産物の形成になる。生産手段の価値について言えば、それは実際には消費されず(6)、したがって再生産することもできない。それが保存されるのは、それが労働の経過中にこうむる操作によってではなく、当初それを自己のうちに存在させている物品が、新しい有用形態をとるがゆえにのみ消滅するからである。生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現するが、厳密に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、旧価値を自己のうちに再現している新しい使用価値である(7)。〉(江夏・上杉訳200頁)

《イギリス語版》 イギリス版はこのパラグラフは二つに分けられ、そのあいだに原注24に相当するものが「本文注」として入っている。ここでは分けられたものを改行で示して、一つものとして紹介しておく。

  〈(17)生産手段に関して云うならば、実際に消費されたものが、それらの使用価値であり、そして労働によるこの使用価値の消費が、生産物に帰結する。そこに、それらの価値の消費はない。
 従って、であるから、再生産されると云うならそれは正確ではない。むしろ保存される である。それは、過程においてそれ自身が成すいかなる作業によるものではなく、その品物の中にもともと存在するものが、消失するからである、それが真実ではあるが、ただあるその他の品物へと消失する。故に、生産物の中に、生産手段の価値の再現がある。ただ、厳密に云うならば、それらの価値の再生産ではない。つまりは、生産されたものは、新たな使用価値であり、その中に、以前の交換価値が再現するのである。〉(インターネットから)


●原注24

《初版》

 〈(24) 「生産的消費、--そこでは、商品の消費が生産過程の一部分である。……これらのばあいには、価値の消費は行なわれない。」(S・P・ニューマン、前掲書、296ページ。〉〉(江夏訳221頁)

《フランス語版》

 〈(6) 「生産的消費--商品の消費が生産過程の一部をなすばあい……このようなばあいには、価値の消費は少しも存在しない」(S・P・ニューマン、前掲書、296ページ)。〉(江夏・上杉訳200頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 生産的消費…においては、商品の消費は、生産過程の一部となっている。…この様な場合には、価値の消費は生じない。(S.P. ニューマン「経済学概要」 p. 296. )〉(インターネットから)


●原注25

《61-63草稿》

 〈「材料は変化をこうむる。……充用される用具または機械は……変化をこうむる。いろいろな用具が、生産中に、次第に破壊または消費される。……人間の生存と享楽のために必要な、さまざまの種類の食物、衣服、住居もまた変化を受ける。それらは、折にふれて消費され、それらの価値は、彼の身心に与えられる、かの新たな活力のうちに再現する。そしてこの活力が、ふたたび生産の仕事に充用されるべき新たな資本となるのである」(フラーンシス・ウェイランド『経済学綱要』、ボストン、1843年、32ページ)。〉(草稿集④180-181頁)

《初版》

 〈(25) おそらく2O版を重ねたであろう北アメリカのある概説書には、こう書いてある。「資本がどんな形態で再現しているかは、問題ではない。」生産物のうちに自分たちの価値を再現させているありとあらゆる生産成分を、だらだらと数えあげてから、最後にこう言っている。「人間の生存や安楽のために必要なさまざまな種類の衣食住も、変化する。それらはときどき消費され、そして、それらの価値は、人間の身心に授けられている新たな活力のうちに再現し、生産の仕事で再び用いられるべき新鮮な資本を形成する。」(F・ウェーランド、前掲書、31、32ページ。) 他のすべての奇妙な点を度外視すると、更新された活力のうちに再現しているものは、たとえばパンの価格ではなくて、血液を形成するパンの実体である。これに反して、活力の価値として再現しているものは、生活手段ではなくてそれの価値である。同じ生活手段は、それが半分の値うちしかなくても、会く同じだけの筋肉や骨等々を、要するに同じ活力を生産するが、同じ価値の活力を生産するわけではない。このように「価値」を「活力」に置き換えることにしろ、全くパリサイ人的なあいまいさにしろ、どちらも、前貸しされた価値単なる再現から剰余価値をひねり出そうとする、どのみち無駄な試みを、蔽い隠しているのである。〉(江夏訳221頁)

《フランス語版》

 〈(7) アメリカで印刷され、おそらくは20版を重ねたある概説書に、「資本が再現する形態はどうでもよい」と書いてある。その価値が生産物のうちに再現するあらゆる可能な生産成分を、眠気を催すほど列挙した後で、次のような結論が見出される。「人間の生存と安楽にとって必要な諸種の衣食住もまた、変化させられる。それらはときどき消費され、それらの価値は、人間の肉体と精神に伝えられる新しい活力のうちに再現し、この活力が、生産の仕事に再び用いられるであろう新しい資本を形成する」(ウェーランド、前掲書、31、32ページ)。ほかの奇妙な点は度外視するとして、人間の更新された力のうちに再現するものは、パンの価格ではなく、まさに、血液を形成するパンの実体である、ということを注意しておこう。これとは反対に、力の価値として再現するものは、生活手段ではなくてその価値である。同じ生活手段は、半分の値うちしかなくても、全く同じだけの筋肉や骨など、一言にして言えば同じ力を生産するが、同じ価値のある力を生産するのではない。「価値」と「力」とのこの混同、そしてまた、このパリサイ人的な曖昧さ全体は、ある無駄な試み、前貸しされた価値の単なる再現によって剰余価値を説明しようという試みを、隠すことだけが目的である。〉(江夏・上杉訳200頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 多分20版と多刷した アメリカの経済概要書の一節は、こう書き出される。「資本がどの様な形式で再現しようと、そんなことは、どうでもいい。」それから、饒舌極まる 生産物に再現される生産要素の可能性なるものを列挙したのちに、次のように結論づける。「様々な種類の食料、衣料 そして住まい、人間としての生存及び慰みに必要なもの、もまた、変化を受けてきた。それらのものは、時から時へと消費され、彼の体と心に新たな活力を添えることで、新たな資本を形成することで、生産の仕事に再び雇用されることで、それらの価値が再現する。(F. ウェイランド「経済学概要」pp. 31, 32.) 他の奇妙な点に言及しないとすれば、次のように述べれば充分であろう。新たな活力として再現する実体は、パンの価格ではなく、血液を形成するその物質である。また他方、活力の価値として表れる実体は、生存手段ではなく、ただそれらの価値である。同一の生活必需品は、価格が半分であっても、活力と同一の筋肉と骨を形成する。しかし、生活必需品の価格が異なれば、同一の価値なる活力を形成しない。この「価値」と「活力」の混乱は、我等が著者の脳が パリサイ人的曖昧さと結合しており、以前から存在している価値の単なる再現から 剰余価値を説明しようとしても、なんら 成果を得ることはない。〉(インターネットから)

  (付属資料4に続く。)

 

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『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(9)

2022-11-19 00:35:30 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.31(通算第81回) (9)

 

  【付属資料】 (4)

 

●第19パラグラフ

《61-63草稿》

 〈材料および労働手段のなかに前提されている価値に、労働過程のなかで生きた労働が価値を付加するのは、ただ、この生きた労働そのものがそれ自体として〔für sich〕ある分量の新たな労働であるかぎりでのことであって、それが現実的有用的労働であるかぎりにおいてではなく、その素材的な規定性から見てのことではない。糸は、そのなかに消尽された綿花および紡錘の価値の合計よりも大きい価値をもっているが、そのわけはただ、これらの使用価値を糸という新たな使用価値に転化するために、労働過程である分量の新たな労働がつけ加わったため、つまり、糸が綿花および紡錘に含ま/れていた労働分量のほかに新しくつけ加わった労働分量を受け取ったためにすぎない。だが綿花および紡錘の交換価値が維持されるのは、とりもなおさず、現実的労働である紡績労働がそれらを糸という新たな使用価値に転化し、したがってそれらを合目的的に使用し、自分自身の過程の生活要因〔Lebensfaktor〕にする、ということによるのである。〉(草稿集④118-119頁)
  〈それゆえ、労働材料および労働手段が交換価値として維持されるのは、ただ、使用価値としてのそれらが労働過程で消費されることによって、すなわち、生きている労働が実際に〔actu〕、それらを自己の使用価値として取り扱い〔sich verhalten〕、それらに自己の手段および材料の役割を演じさせ、それらを自己の生きた不静止のなかで手段および材料として措定し、また止揚する、ということによってにすぎない。そして、こうしたことを行なうかぎりでの労働は、現実的労働、特殊的な合目的的活動、すなわち、素材的に規定されており、労働過程で特殊的種類の有用的労働として現われる労働である。だが、労働が生産物に、すなわち労働過程にはいる諸対象--使用価値--に新たな交換価値を付加するのは、この規定性における労働ではない、--あるいはそれは、この規定性ではない。たとえば、紡績をとってみよう。紡績は、そのなかで消尽された綿花および紡錘の価値を糸のなかに維持するが、それは、この過程が綿花および紡錘を現実に紡ぎ、それらを糸という新たな使用価値の生産のための材料および手段として使用するからであり、言い換えれば、この過程が自らのために綿花および紡錘にたいして、いま現実に紡績過程で、紡績というこの特殊的な生きた労働の材料および手段として機能するようにさせるからである。しかし、紡績が生産物である糸の価値を高めること、すなわち紡績が、糸のなかにすでに前提されていでただ再現するだけの価値である紡錘および綿花の価値に、新たな価値を付加すること、こうしたことが生じるのは、ただ、紡績によって新たな労働時間が、綿花および紡錘に含まれている労働時間に付加されるかぎりでのととである。第一に、その実体から,見れば、紡績が価値を創造するのは、それがこの具体的な特殊的な素材的に規定された労働--紡績--であるかぎりにおいてではなくて、それが労働一般、抽象的な同等な社会的な労働であるかぎりにおいてである。したがってまた、それが価値を創造するのは、それが紡糸として対象化されているかぎりにおいてではなくて、それが社会的労働一般の物質化〔Materiatur〕であり、したがってある一般/的等価物に対象化されているかぎりにおいてである。第二に、付加される価値の大きさについて言えば、それはもっぱら、付加される労働の分量、付加されている労働時間にんかかっている。〉(草稿集④121-122頁)
  〈資本のうち、賃銀として支出される部分、すなわち労働能力の価格は、直接には労働過程にはいらない。……そもそも、前提された諸価値が価値増殖過程にはいるのは、それらが既存のものとして存在しているかぎりででしかない。賃銀については別である。というのは、それは再生産されるからであり、新たな労働によって補塡されるのだからである。〉(草稿集④183頁)

《初版》

 〈労働過程の主体的な要因、活動しつつある労働力は、そうではない。労働がそれの合目的な形態によって生産手段の価値を生産物に移して保存しているあいだに、それの運動の各瞬間は、付加的価値である新価値を形成する。労働者が自分自身の労働力の価値の等価を生産した点で、たとえば6時間の労働によって3シリングという価値をつけ加えた点で、生産過程が中断するとしよう。この価値は、生産物価値のうちの、生産手段の価値に負っている成分を越える超過分を、形成している。それは、この過程のなかで生じた唯一の本源的価値、すなわち、生産物価値のうちでこの過程そのものによって生産された唯一の部分である。もちろん、それは、資本家が労働力の購買のさいに前貸ししたし労働者自身が生活手段に支出したところの貨幣のみを、補塡する。支出された3シリングとの関係では、3シリングという新価値は、再生産としてのみ現われている。しかし、それは、現実に再生産されているのであって、生産手段の価値のように再生産が外観上のものにすぎぬということではない。一方の価値の他方の価値による補塡が、ここでは、新たな価値創造で媒介されている。〉(江夏訳222頁)

《フランス語版》

 〈生産の主体的な要因、すなわち活動中の労働力については、全く別である。労働が、その目的から規定される形態によって、生産手段の価値を生産物に保存し移すあいだに、労働の運動はどの瞬間も付加的な価値、新しい価値を創造する。労働者が自分自身の労働力の日価値の等価のみを提供した時点で、たとえば彼が6時間の労働によって3シリングの価値を付加したときに、生産が停止する、と仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産手段から生ずる価値諸要素にたいする超過分を、形成するのである。それは、生産された唯一の本源的価値であり、生産物価値中、この価値の形成過程において産み出された唯一の部分である。それは、資本家が労働力の購買のために前貸しし、労働者がその後生活手段に支出するところの貨幣を、補塡する。3シリングの新しい価値は、支出された3シリングにたいしては、単なる再生産として現われる。だが、この価値は現実に再生産されるのであって、生産手段の価値のように外観上再生産されるのではない。このばあい、一方の価値が他方の価値によって置き換えられるのは、新しい創造のおかげである。〉(江夏・上杉訳201頁)

《イギリス語版》

  〈(18)生産手段については、前段で、本文注も含めて述べて来た通りであるが、これとは全く違うのが、労働過程の主要な要素、活動している労働力である。労働者が、特別なる対象を持つ 彼の特別な種類の労働によって、生産手段の価値を生産物に保存または移管する間に、彼は同時に、単なる作業活動によって、その瞬間々々に、追加的なまたは新たな価値を創造する。ところで、作業者が、彼自身の価値、彼自身の労働力の価値と同価値を生産した時点で、生産過程が止められたと仮定してみよう。例えば、6時間の労働で、彼は、3シリングの価値を加えたのである。この価値は、生産物の全価値から、生産手段に起因する価値部分を、差し引いた余剰である。これこそ、過程において形成された唯一の価値の発現断片であり、この過程で創造された唯一の生産物の価値部分である。勿論我々は、この新たな価値が、資本家によって、労働力の買いに前貸しされた貨幣の、その貨幣は、労働者によって、生活必需品に支出されたのであるが、その、単なる置換であるということを忘れてはいない。労働者によって支出された貨幣について見れば、新たなる価値は、単なる再生産に過ぎないが、しかし、それにもかかわらず、実際に、生産手段の価値の場合とは違って、まさに明らかな、再生産なのである。一つのある価値の、他の価値への置換が、ここでは、新たなる価値の創造によって結実する。〉(インターネットから)


●第20パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈生きた労働時間が再生産するのは、対象化された労働時間(資本)のうち、生きた労働力能〔Arbeitsvermögen〕の処分権〔Disposition〕にたいする等価として現われる部分、したがってまた等価として、この労働力能のなかに対象化された労働時間を補塡しなければならない部分、すなわち生きた労働力能の生産費用を補塡しなければならない部分、言いかえるならば、労働者を労働者として生かしておくのに必要な部分にほかならない。生きた労働時間かより以上に生産するものは、再生産ではなく、新たな創造であり、しかも、ある使用価値のかたちでの新たな労働時間の対象化なのであるから、新たな価値創造〔Wertbschöpfung〕である。〉(草稿集①455頁)

《初版》

 〈とはいえ、われわれがすでに知っているように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象につけ加えられる点を越えて続行する。この点までは6時間で充分であっても、6時間ではすまずに、この過程がたとえば12時間続く。だから、労働力の活動によって、労働力そのものの価値が再生産されるばかりでなく、超過価値が生産されもする。この剰余価値は、生産物価値のうちの消耗された生産物形成者--すなわち生産手段と労働力--の価値を越える超過分を、形成している。〉(江夏訳222頁)

《フランス語版》

 〈ところが、われわれがすでに知っているように、労働時間は、労働力の価値の単なる等価が再生産されて労働対象に付加される時点を、超過する。作業は、この再生産のために充分である6時間ではなく、12時間またはそれ以上継続する。活動中の労働力は、たんに自分自身の価値を再生産するだけでなく、さらになお、余分の価値を生産する。この剰余価値は、生産物価値のうちの、消費された生産物要因の価値すなわち生産手段と労働力との価値を越える超過分、を形成する。〉(江夏・上杉訳201頁)

《イギリス語版》

  〈(19)それ以上に、我々はここまで読んできたことから、労働過程が、労働力の価値と単純に等価となるものを生産物に再生産し、一体化するに必要な時間を越えて、継続するであろうことを知っている。等価のためには充分な6時間に代わって、過程は、12時間も継続するであろう。労働力の活動は、従って、それ自身の価値を再生産するだけではなく、それを越えて、それ以上の価値を生産する。この剰余価値は、生産物の価値と、その生産物の形成のために消費された要素群の価値との差である。別の言葉で云えば、生産物の価値と、生産手段と労働力の価値との差である。〉(インターネットから)


●第21パラグラフ

《初版》

 〈われわれは、労働過程の相異なる要因が生産物価値の形成において演ずるいろいろにちがった役割を示すことによって、事実上、資本そのものの価値増殖過程において資本の相異なる成分が果たす機能を、特徴づけた。生産物の総価値のうちこの生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、価値増殖された資本のうち最初に前貸しされた資本価値を越える超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化するさいに帯びた別々の存在形態でしかない。〉(江夏訳222-223頁)

《フランス語版》

 〈われわれは、生産物価値の形成においてさまざまな労働要因が演じるいろいろにちがった役割を叙述することによって、実際に、剰余価値の形成における資本のさまざまな要素の機能を特徴づけたのである。生産物価値中その構成要素の価値を越える超過分は、剰余価値の分だけふえた資本が前貸資本を越える超過分である。生産手段と労働力とは、資本価値が貨幣から労働過程の諸要因に転化したさいにこの資本価値が帯びたところのさまざまな存在形態にほかならない 。〉(江夏・上杉訳201頁)

《イギリス語版》 イギリス版は二つのパラグラフは結合して一つにしているが、ここでは全集版に従って、二つに分けて紹介する。

   〈(20)生産物の価値の形成において、労働過程の様々な要素によって演じられる 役割の違いについての 我々の説明によって、事実、我々は、資本自身の価値拡大過程における、資本の異なる要素に付与された 異なる機能の性格を明らかにしてきた。生産物の全価値の剰余分、その構成要素の価値総計を越える分は、当初前貸しされた資本を越えて拡大された 資本の剰余分である。一方に生産手段があり、他方に労働力があるが、これらは、労働過程の様々な要素に変換された、当初資本となった貨幣であり、その価値の存在様式の単なる違いに過ぎない。〉(インターネットから)


●第22パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈すでにみたように、資本に対象化された労働時間は、次のように三つの部分からなる合計額として現われる。すなわち、(a)原材料に対象化された労働時間、(b)用具に対象化された労働時間、(c)労働価格に対象化された労働時間。ところで(a) と(b)の部分は、資本の構成部分としては不変〔unverändert〕のままである。たとえそれらの部分が、過程のなかでみずからの姿態を変え、その物質的定在様式を変えるとしても、価値としてはそれらは不変のままである。〉(草稿集①392頁)

《61-63草稿》

 〈ところで資本を考察すれば、それははじめは三つの構成部分に分かれる(若干の産業では二つの構成部分に分かれるだけである。たとえば抽出産業ではそうである。しかしわれわれは最も完全な形態、製造業の形態をとる)、--原料、生産用具、最後に、なによりもまず労働能力と交換される資本部分。われわれがここで問題にするのは、資本の交換価値だけである。さて、資本のうち、消費された原料と生産手段とに含まれている価値部分については、それは単に生産物のなかに再現するのだ、ということをすでに見た。資本のうちのこの部分が、生産過程とは無関係にそれがもっていたそれの価値以上のものを生産物の価値に追/加することはけっしてない。われわれは資本のうちのこの部分を、生産物の価値に関連させて、資本の不変部分と呼ぶことができる。この部分の価値は、1で述べているように、増減することがありうる。しかしこの増減は、この価値が材料および生産用具の価値としてはいっていく生産過程とはなんのかかわりもない。10時間に代わって12時間の労働がなされるならば、もちろん、2時間の剰余労働を吸収するために前より多くの原料が必要である。だから、われわれが不変資本と呼ぶものは、原料が吸収しなければならない・そもそも生産過程で対象化されるべき・労働の分量に応じて、さまざまの大きさで、すなわちまた価値の大きさ、価値量で生産過程にはいるであろう。けれどもそれは、それの価値量が前貸しされた資本の総額にたいしてどんな割合を取ろうと、この価値量が変化せずに生産物中に再現するかぎり、不変である。すでに見たように、不変資本の価値量そのものは、言葉の本来の意味で再生産されるわけではない。それはむしろ、労働材料および労働手段が労働によって(それらの使用価値の点から見て)新たな生産物の要素となり、そのためにそれらの価値がこの生産物のなかに再現する、ということによって、単に維持されるにすぎない。けれどもやはり、この価値は単に、それら自身の生産に必要であった労働時間によって規定されているのである。それらが生産物中に含まれている労働時間に与えるのは、生産過程以前にそれらのなかに含まれていたのと同じ労働時間だけである。〉(草稿集④273-274頁)

《初版》

 〈要するに、生産手段に、すなわち原料や補助材料や労働手段に、転換する資本部分は、生産過程において自分の価値量を変えることがない。だから、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単に不変資本と呼ぶ。〉(江夏訳223頁)

《フランス語版》

 〈生産手段に、すなわち、原料や補助材料や労働手段に転化する資本部分は、生産の経過中にその価値量を変えないのである。それゆえに、われわれはこれを資本の不変部分、またはいっそう簡潔に不変資本と呼ぶ。〉(江夏・上杉訳202頁)

《イギリス語版》

  〈(20)'資本のある部分、生産手段、原料、補助材料、そして労働手段は、生産過程において、いかなる価値量の変化も起こさないのであるから、従って、私は、これを、資本の不変部分、または、より短く、不変資本と呼ぶ。(constant capital)〉


●第23パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈資本を質的に異なる他のものと交換し、あたえられた分量の対象化された労働をある分量の生きた労働と交換するのは、(c)だけである。生きた労働時間が、労働価格に対象化された労働時間を再生産するにとどまるかぎり、このこともまた形式的なものにすぎず、価値にかんしては、そもそも同一の価値の他の定在様式としての生きた労働とのあいだに交替が生じたにすぎないことになるのであって、そのことは、労働材料と用具の価値についても、それらの素材的定在様式の変化が生じたにすぎないのと同じことになるであろう。資本家は労働者に1労働日に等しい一つの価格を支払い、労働者の労働日は原材料と用具とに1労働日をつけくわえるだけのことだとすれば、その資本家は、ある形態の交換価値を別の形態の交換価値と単純に交換しただけのことになろう。彼は資本として作用したことにはならないだろう。他方、労働者も単純な交換の過程にとどまったということではなかろう。というのも、彼は事実上自分の労働の生産物を支払いのかたちで受けとったことになるわけだが、ただ資本家は労働者に温情をほどこし、生産物の価格を、その価格が実現されるまえに労働者に前払いしたことになるからである。資本家は労働者に信用を、しかも無償で〔mgratis〕、得るところはなにもなく〔pour le roi de Prusse〕あたえたことになる。ただそれだけのことになる〔Voilà tout〕。資本と労働との交換--その結果が労働価格である--は、たとえ労働者の側からは単純な交換であるとしても、資本家の側からは非交換〔Nicht-Austausch〕でなければならない。資本家はあたえたものより大きな価値を受けとらなければならない。資本の側から見た交換は、ただ一つの仮象的な交換にすぎぬものでなければならない、すなわち、それは、交換の形態規定とは異なった経済的形態規定に属するものでなければならない。さもなければ、資本としての資本も、資本に対立した労働としての労働も、ありえないことになろう。〉(草稿集①392-393頁)
  〈われわれはさきに資本を、不変価値可変価値とに区分した。このことは、資本が生産局面の内部で、すなわちそれの直接的な価値増殖過程のなかで考察される場合には、つねに正しい。資本の再生産費の騰落にしたがって、あるいはまた利潤の低下、等々の結果、前提された価値としての資本それ自体が自己の価値をどのようにして変化させることができるか、ということは、明らかに、のちの、資本が実在的〔reel〕資本として、多くの資本相互の交互作用として考察される項目〔Abschnitt〕ではじめて論じられるべきことであって、ここでの資本の一般的概念において論じられるべきことではない。〉(草稿集②406-407頁)

《61-63草稿》

 〈したがって、可変であるのは、資本のうちの第3の部分、すなわち労働能力と交換される、言い換えれば労賃に前貸しされる部分だけである。第一に、それは現実に再生産される。労働能力の、あるいは労賃の価値は消滅させられ、(〔労働能力は〕価値も使用価値も)労働者によって消費される。ところがこの価値は、新たな等価によって補塡される。すなわち、労賃に対象化された労働時間に等量の生きた労働時間がとって代わるのであり、これを労働者は原料に付加する、言い換えれば生産物に物質化するのである。しかし第二に、資本のうちのこの価値部分は、ただ再生産され、単に等価によって補塡されるばかりではない。それは現実の生産過程のなかで、それ自身のなかに含まれている労働プラス超過分量の労働すなわち剰余労働、に等しい分量の労働と交換されるのであり、労働者は、彼自身の賃銀の再生産のために〔必要である〕・つまり資本のうち賃銀に帰着する価値構成部分に/含まれている・労働時間を越えて、この剰余労働を行なうのである。〉(草稿集④274-275頁)

《初版》

 〈これに反して、労働力に転換される資本部分は、生産過程において自分の価値を変える。それは、自分自身の等価と、この等価を越える超過分、すなわちそれ自身変動してより大きくもより小さくもなりうる剰余価値とを、再生産する。この資本部分は、絶えず、不変量から可変量に転化する。だから、私はこれを可変資本部分、またはもっと簡単に可変資本と呼ぶ。労働過程の立場からは、主体的要因と客体的要因として、生産手段と労働力として、区別されている同じ資本諸成分が、価値増殖過程の立場からは、不変資本可変資本として区別される。〉(江夏訳223頁)

《フランス語版》

 〈これに反して、労働力に転化される資本部分は、生産の経過中に価値を変える。それは、自分自身の等価と、さらになお超過分、すなわち、それ自体変動して大きくもなれば小さくもなりうる剰余価値とを、再生産する。この資本部分は、不変量から可変量に絶えず転化する。それゆえに、われわれはこれを資本の可変部分、またはいっそう簡潔に可変資本と呼ぶ。使用価値の生産という観点からは、お互いに客体的要因と主体的要因として、生産手段と労働力として区別される同じ資本要素が、価値の形成という観点からは不変資本と可変資本として区別される。〉(江夏・上杉訳202頁)

《イギリス語版》

  〈(21)資本のもう一つの部分、労働力であるが、これは、生産過程において、価値の変化を生ずる。それは、自身の価値の等価を再生産し、かつまたその超過分を生産する。剰余価値を生産する。剰余価値自体も変化するであろう。状況によって多くなったり、少なくなったりするであろう。資本のこの部分は、常に、不変のものから、量的変化するものに変換され続ける。従って、私は、これを、資本の可変部分、または、短く、可変資本と呼ぶ。(variable capital) 資本の同じ各要素は、労働過程視点で見れば、それら自体は、それぞれ生産手段と労働力、対象的と主体的な各要素を表す。剰余価値を創造する過程視点で見れば、それら自体は、不変資本と可変資本を表す。〉(インターネットから)


●第24パラグラフ

《61-63草稿》

 〈{しかし、労働材料および労働手段の価値が労働過程の生産物に再現するのは、ただ、それらが労働過程に価値として前提されていたかぎり、労働過程にはいるまえにそれらが価値であったかぎりにおいてである。それらの価値は、それらに物質化されている社会的労働時間に等しい、あるいは、所与の一般的な社会的生産諸条件のもとでそれらを生産するのに必要な労働時間に等しい。ところで、かりに、それらを生産する労働の生産性に、その後なんらかの変化が生じ、これらの特定の使用価値を生産するのに必要な労働時間が、多く、あるいは少なくなったとすれば、それらの価値は第一の場合には増大し、第二の場合には低下する、/--というのは、それのなかに含まれている労働時間は、それが一般的な、社会的な、そして必要な労働時間であるかぎりでのみ、それらの価値を規定するのだからである。したがって、それらがある一定の価値をもって労働過程にはいったとしても、社会がそれらを生産するために必要とした労働時間が一般に変化し、それらの生産費に、すなわちそれらの生産に必要な労働時間の大きさに、ある革命が起こったために、それらが過程にはいったときよりも大きな、あるいは小さな価値をもって出てくる、ということがありうる。この場合には、それらを再生産するために、つまり同一種類の新たな一見本を生産するために、まえよりも多くの、あるいはまえよりも少ない労働時間を必要とするであろう。しかし、労働材料および労働手段のこの価値変動は、それらが材料および手段としてはいる労働過程ではそれらはつねに、所与の諸価値、所与の大きさの諸価値として前提されている、という事情をけっして変えないのである。というのは、この過程そのものにおいては、それらが価値として出てくるのは、ただ、それらが価値として過程にはいったかぎりにおいてであるからである。それらの価値における変化が起こるとすれば、それはこの労働過程そのものから生じるのではなくて、むしろそれらを生産物として生産する、あるいは生産した労働過程--それゆえこの労働過程にはそれらが生産物〔生産要素〕として前提されているのではない--の諸条件から生じるのである。それらの一般的な生産諸条件が変わってしまえば、それらにたいする遡及作用〔Rückwirkung〕が生じる。いまそれらは、それらがはじめそうであったよりも多くの、あるいは少ない労働時間の対象化--より大きな、あるいは小さな価値--であるが、それはただ、いまではそれらの生産に必要とされる労働時間が、はじめよりも大きく、あるいは小さくなっているからにすぎない。この遡及作用は次のことから生じる。すなわち、それらは価値としては社会的労働時間の物質化〔Materiatur〕であり、また、それらがそれら自身に含まれている労働時間の物質化〔Materiatur〕であるのは、ただ、この労働時間が一般的な社会的労働時間に還元されており、同等な社会的労働時間の力能〔Potenz〕にまで高められているかぎりにおいてである、ということである。しかし、それらのこうした価値変動は、つねに、それらを生産物として生産する労働の生産性における変化から生じるのであって、それらがある所与/の価値をもった完成生産物としてはいる労働過程にはなんの関係もない。それらを要素とする新たな生産物が完成されるまえに、それらがこの価値を変えたとしても、それでもそれらは右の労働過程にたいして、この労働過程に前提された、独立した、所与の価値としてふるまう〔sich verhalten〕のである。それらの価値変動は、それらが材料および手段としてはいる労働過程の外部で、またそれとは独立に生じるそれら自身の生産諸条件の変化に起因するのであって、この労働過程の内部で行なわれる諸操作の結果として生じるものではない。それらがこの労働過程にたいして、この過程の外部ではたらく外的諸動因によってはじめそうであったよりも大きい、あるいは小さい価値量として前提されているとしても、この過程にとってはそれらはつねに、所与の前提された価値量なのである。}〉(草稿集④125-127頁)

《初版》

 〈不変資本という概念は、それの諸成分の価値革命をけっして排除するものではない。1ポンドの綿花が今日は6ペンスに値し、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がる、と仮定しよう。引きつづき加工されるはずの旧来の綿花は、6ペンスの価値で買われたが、いまでは生産物に1シリングの価値部分をつけ加える。そして、すでに紡がれた、おそらくすでに糸として市場に流通じつつある綿花も、やはり、旧価値の2倍を生産物につけ加える。ところが、明らかに、これらの価値変動は、紡績過程そのものにおける綿花の価値増殖には関係がない。旧来の綿花がまだ全く労働過程にはいっていなければ、それをいまや6ペンスではなく1ペンスで転売できるであろう。それどころか、それが労働過程を通っている頻度が少なければ少ないほど、この結果はますます確実である。だから、このような価値革命にさいしては、いちばん加工されていない形態の原料に投機するのが、織物よりも糸に、糸よりも綿花そのものに投機するのが、投機の法則である。価値変動は、ここでは、綿花を生産する過程で生ずるのであって、綿花が生産手段として、したがって不変資本として機能する過程で、生ずるわけではない。一商品の価値は、確かに、この商品のうちに含まれている労働の量によって規定されるが、この量は社会的に規定されている。この商品の生産にとって社会的に必要な労働時間が変われば--たとえば同量の綿花でも、不作のときは豊作のときよりも大きな量の労働を表わしている--、旧来の商品に遡及することになるが、そうなるのは、旧来の商品につねに、それが属している商品種類の個別的な見本としてしか認められず(26)、それの価値は、つねに、社会的に必要な労働によって測られ、したがってまたつねに、現在の社会的諸条件のもとで必要な労働によって測られるからである。〉(江夏訳223-224頁)

《フランス語版》

 〈不変資本の概念はけっして、その構成部分の価値変動を排除しない。1ポンドの綿花が今日は1/2シリングに値し、明日は綿花収穫の不足のために1シリングに上がる、と仮定しよう。ひきつづき加工される旧綿花は、1/2シリングの価格で買われたが、いまでは1シリングの価値を生産物に付加する。そして、すでに紡がれておそらくは市場に糸の形態で流通さえしている綿花も、同様に、その元の価値の2倍を生産物に付加する。ところが、これらの変動は、綿花が紡績作業そのものによって手に入れる価値増殖からは独立したものである、ということがわかる。旧綿花がまだ加工の途次になければ、それはいまでは1/2シリングでなく1シリングでもう一度売ることができるであろう。それが加工を受けることが少なければ少ないほど、この結果はいっそう確実になる。したがって、これと類似の価値革命が突発するばあいには、労働によって変更されることが最も少ない形態にある原料に、すなわち織布よりもむしろ糸に、糸よりもむしろ綿花に、投機売買を行なうのが、投機の法則である。このばあい価値変動は、綿花を生産する過程で生ずるのであって、綿花が生産手段として、したがって不変資本として機能する過程で生ずるのではない。確かに、価値は商品のうちに凝固された労働の分量によって測られるが、この分量そのものは社会的に規定されている。ある物品の生産に必要な社会的労働時間が変動すれば--そしてたとえば、綿花の同じ分量は豊作時よりも凶作時にいっそう大きな分量の労働を表わすものである--、そのばあいには、その商品種類の見本としてしかけっして考慮に入らない旧商品は(8)、この変動の影響を直接に受けるのであるが、それというのも、その価値がつねに、社会的に必要な労働によって、すなわち、現在の社会的条件のもとで必要な労働によって、測られるからである。〉(江夏・上杉訳202-203頁)

《イギリス語版》 イギリス版はこのパラグラフの途中に訳者の長い余談が挿入されているが、それは省略する。

 〈(22) 不変資本の定義は、前述の通りであるが、その要素において、価値の変化の可能性を排除するものではない。
  仮に、ある日 綿の価格が、1重量ポンドあたり6ペンスであるとしよう。翌日 綿の収穫の不足から1ポンドあたり1シリングになったとしよう。いずれの綿も6ペンスで買われ、そして価値が上昇した後で、仕事を終えた。生産物には、1シリングの価値が移管している。綿価格上昇以前に紡ぎ終えたものもまた、撚糸として市場流通するならば、同様、以前の価値の2倍を生産物に移管する。しかしながら、これらの価値の変化は、紡ぎ自体によって綿に加えられた 増加分または剰余価値から独立しているのは云うまでもないことである。もし、古い綿が、紡がれていなかったなら、価格上昇の後では、1ポンド6ペンスに替わって1シリングで、売ることができるであろう。さらに加えて云えば、綿が過程を経過している度合いが少なければ少ない程、この結果は、より確実なのである。我々は、それゆえに、投機家が、このような急な価値変化( 訳者挿入 such sudden changes in value occur, ここも向坂本は、これを、価値革命と訳している。 ) に際しては、最も少ない労働の量しか支出されていない材料に投資するということを法則化しているのを発見する。従って、布よりは撚糸に、撚糸よりは綿それ自体に投機する。我々が今見ているこの場合の価値の変化は、綿が生産手段の役割を演じている過程に起因するものでも、従って、不変資本としての機能に起因しているものでもなく、ただ、綿自身が生産される過程に起因しているのである。商品の価値は、これが真実である、それに含まれる労働の量によって決まる。ただし、この量自体は、社会的条件によって制約される。もし、いかなる商品であれ、その生産に必要となる社会的労働時間が変化したなら、--- 凶作の収穫の結果は、豊穣の収穫の結果よりも多くの労働が、与えられた綿の重量を表す。--- 以前から存在している全ての同じような商品群は、影響を受ける。なぜならば、それらは、かってそうであったように、今も、ただ、その種類の個々であるからであり、そして、それらの価値は、社会的に必要な ある与えられた時間で計量されるからである。すなわち、現に存在している社会的条件のもとでの 必要な労働によって、計量されるからである。〉(インターネットから)


●原注26

《初版》

 〈(26) 「同じ種類に属するすべての生産物は、本来、一つのかたまりしか形成せず、このかたまりの価格は、一般的に、そしてまた個々の事情を考慮に入れずに、きめられる。」(ル・トローヌ、前掲書、893ページ。)〉(江夏訳224頁)

《フランス語版》

 〈(8) 「同じ種類のすべての生産物は、本来、一つのかたまりしか形成せず、このかたまりの価格は一般に、そして個々の事情を考慮にいれずに、きめられる」(ル・トローヌ、前掲書、893ページ)。〉(江夏・上杉訳203頁)

《イギリス語版》

  なし。(インターネットから)


●第25パラグラフ

《61-63草稿》

 〈もしも、紡績工がなんらかの発明によって、ある特定分量の綿花とある一定数の紡錘とを〔これまでのように〕まる一労働日ではなくて半労働日で、糸に転化できるようになったとすれば、まえの場合にくらべると半分の価値しか糸に付加されていない。しかし、まえの場合にもあとの場合にも、すなわち綿花を糸に転化するのに必要な労働時間が一日であろうと半日であろうと、あるいは一時間であろうと、綿花および紡錘の全価値が、生産物である糸のなかに維持されているであろう。綿花および紡錘の価値は、そもそも綿花が糸に転化されたことによって、すなわち、綿花および紡錘が紡績の材料および手段になり、紡績過程にはいったことによって、維持されるのであるが、このことにとっては、この過程が必要とする労働時間はまったくどうでもよいことである。〉(草稿集④頁122)

《初版》

 〈原料の価値と同じように、すでに生産過程で役立ちつつある労働手段すなわち機械等々の価値も、したがって、これらの労働手段が生産物に引き渡す価値部分も、変動することがありうる。たとえば、新たな発明の結果、同じ種類の機械がいまよりもわずかな労働支出でもって再生産されるならば、旧来の機械はなにがしか減価し、したがってまた、この減価に比例して、いまよりも少ない価値を生産物に移す。だが、このばあいでも、価値変動は、この機械が生産手段として機能する生産過程の外部で生ずる。この過程では、この機械は、それがこの過程にかかわりなくもっている価値よりも多くの価値を引き渡すことはない。〉(江夏訳224頁)

《フランス語版》

 〈原料の価値と同様に、機械や建物などすでに生産で使用された労働手段の価値も変動し、また、まさにそのことによって、労働手段が生産物に移す価値部分も変動することがある。たとえば、新発明の結果、ある機械がいっそう少ない労働支出で再生産されることになれば、同種の旧機械は多かれ少なかれその価値を失い、したがってそれに比例していっそう少ない価値を生産物に付与する。だが、このばあいも前のばあいと同様に、価値変動は、機械が労働手段として機能する生産過程の外部で生ずる。この生産過程では、機械は、それ自体が所有しているよりも多くの価値をけっして移しはしない。〉(江夏・上杉訳203頁)

《イギリス語版》

  〈(23)原料の価値が変化するように、過程において用いられる労働手段、機械類等のそれも、同じく変化するであろう。その結果として、それらから生産物に移管される価値の該当部分は、同様、変化するであろう。もしも、新たな発明の結果、特定の種類の機器が、労働の小さな支出によって生産されることができたとしたら、古い機械は多少の差はあれ、その価値を低下させられる。その結果、それなりに少ない価値を生産物に移管する。しかしながら、ここで繰り返すが、この価値の変化は、機械が生産手段として活動する過程外のものに起因している。一旦この過程に入るならば、その機械は、過程外で持っていた価値以上のものを移管することはできない。〉(インターネットから)


●第26パラグラフ

《61-63草稿》

 〈機械類についても同様である。同じ機械類の価格がわずか半分だけになったとしても、同じ役立ちをするのであれば、このことは紡績過程にはけっして影響を与えない。紡績工にとっての唯一の条件は、材料(綿花)と紡錘(機械類〉とを、それらが1時間のあいだの紡績に必要であるだけの大きさで、それだけの量でもっている、ということである。綿花および紡錘の価値または価格は、紡績過程そのものにはなんの関係もない。それらは、/綿花および紡錘そのもののなかに対象化された労働時間の結果である。それゆえ、それらが生産物のなかに再現するのは、ただ、それらが生産物にたいして所与の価値として前提されていたかぎりにおいてであり、またそれらが再現するのは、ただ、商品である綿花および紡錘は、使用価値として、それらの素材的な規定性から見て、糸の紡績に必要なのであり、諸要因として紡績過程にはいるからである。〉(草稿集④194-195頁)

《初版》

 〈生産手段の価値の変動は、たといこの生産手段がすでに過程にはいったあとで遡及的に生ずるにしても、不変資本としてのこの生産手段の性格を変えるものではないが、このことと同様に、不変資本と可変資本との割合の変動も、それらの資本の概念上の区別に影響を及ぼすものではない。たとえば、労働過程の技術的な諸条件が改良され、そのために、以前は1O人の労働者がわずかな価値しかない1O個の道具で比較的少量の原料に加工していたが、いまでは1人の労働者が1台の高価な機械で1OO倍の原料を加工するとしよう。このばあいには、不変資本、すなわち充用される生産手段の価値量は、著しく増大し、労働力に前貸しされる資本の可変部分は著しく減少するであろう。しかし、この変動は、不変資本と可変資本との量的な割合を、すなわち、総資本が不変成分と可変成分とに分かれる比率を、変えるにすぎず、不変と可変との区別には影響を及ぼさない。〉(江夏訳224-225頁)

《フランス語版》

 〈生産手段の価値の変動は、たとえその生産手段が労働過程のなかに入った後でさえ生産手段に反作用するにもかかわらず、不変資本としての性格をなんら変えないが、それと同様に、不変資本と可変資本との比率の突発的な変動も、これら資本の機能上の差異にはなんら影響しない。労働の技術的条件が変えられた結果、たとえば10人の労働者がわずかな価値しかない10個の道具を用いて、それに比例して僅少な量の原料に加工していたところで、いまでは1人の労働者が1台の高価な機械を用いて、100倍の量の原料に加工している、と仮定しよう。このばあい、不変資本、すなわち使用される生産手段の価値は、非常に増大し、労働力に変えられる資本部分は、非常に減少するであろう。この変動は、不変資本と可変資本との量的関係、すなわち、総資本が不変的要素と可変的要素とに分解される比率を、変えるだけであって、これら資本の機能上の差異には影響しないのである。〉(江夏・上杉訳203頁)

《イギリス語版》

  〈(24)生産手段の価値の変化があったとても、それらが労働過程において、その役割を開始した後でさえも、不変資本というそれらの性格を変えるものではない。そのように、また、可変資本に対する不変資本の比率が変化したとしても、資本のこの二つの種類のそれぞれの機能には影響を与えない。労働過程の技術的条件が次のように大きく革新されたならば、以前は10人が10個の小さな価値の道具を使用して、比較的少量の原料で仕事をなしていたが、今では、1人で、高価な機械一つで、100倍の原料を取り扱うようになったならば、この後者の場合、我々は、巨大な不変資本の増大に直面する。このことは、使用される生産手段の全価値の大増大と、同時に、労働力に投資される可変資本の、大削減として表される。とはいえ、このような革新は、ただ、不変資本と可変資本の量的関係を変えたのみで、あるいは、全資本が、不変的要素と可変的要素に分割される比率を変えたのみで、この二つの根本的な違いには、いかなる変化も生じてはいない。〉(インターネットから)

(第6章終わり。)

 

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