『資本論』学習資料No.31(通算第81回)(1)
◎「随想・高須賀さんと佐藤さんとへの書債」と「あとがき」(大谷新著の紹介の続き)
大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第14章 随想・高須賀さんと佐藤さんとへの書債」と最後の「あとがき」を取り上げます。
前者は『マルクス経済学と現代資本主義』(鶴田満彦・長島誠一編、2015年7月、桜井書店)に挿入された「栞」のために書いたもののようです。ここで〈高須賀さんと佐藤さんとへの書債〉とあるのは、前回もとりあげた『資本論』が当初のマルクスの六部構成のプランからどのように変更されたのか、という問題に関するものです。
1987年11月28日に,高須賀氏の肝いりで,佐藤氏を囲む「『資本論』成立史をめぐる諸問題」の「合同シンポジウム」が開催されましたが、その場で佐藤氏は『経済学批判要綱』での「資本一般」と『資本論』との関係についてかつての考えが変わってきたと述べ、〈『資本論』は「資本一般」だ,と言うのは適切ではなく,『資本論』第3部でのマルクスの表現でのように「資本の一般的分析」と呼んだほうがいい〉(574-575頁)と主張したということです。
しかし佐藤氏は、なぜ『資本論』を「資本の一般的分析」と呼んだほうがよいのかについて、何も説明しなかったので、〈それ以来,筆者は,この点を方法に関連させて立ち入って説明すべき責務を負わされた,と感じてきていた〉(575頁)というのです。それが「書債」の内容のようです。そしてこの書債を大谷氏は2014年にようやく果たしたと次のように述べています。
〈2014年に経済理論学会刊の『季刊経済理論』(第51巻第2号)の特集「MEGA第II部門研究の現在」に執筆の機会を得て,拙稿「「資本の一般的分析」としての『資本論』の成立」を書き,『資本論』はなぜ「資本の一般的分析」と特徴づけられるべきかについて拙見を述べ,ほぼ四半世紀後にようやくこの書債を返すことができたのだった。〉 (575頁)
なおこの論考はその後、加筆されて『マルクスの利子生み資本論』第1巻に収録されたということです。
最後の「あとがき」ですが、本書は大谷氏が生前に刊行した最後の著書ということもあって、肺ガンとの闘病の経緯について、あるいは年相応の脳の老化の自覚など近況について率直に語っています。
そして〈本書は筆者の最後(サイゴ)っ屍(ペ)である。「まりも美しと嘆(ナゲ)く男」が見て嗅(カイ)いで味わってみたものの例もあるから,屍(ヘ)だから臭(クサ)いとはかぎらないかもしれない。そこで本書にも,香(コウ)を聞くようにそっと優しく接してくださるななら,ひょっとして,ここに薫(タ)き籠(コ)めたつもりの,香木(コウボク)が醸(カモ)す香気(コウキ)を感じていただけるかも,という秘(ヒソ)やかな願いを筆者は捨てられずにいるのである。〉(577頁)と綴っています。
そして高校時代からのマルクスの遍歴や久留間鮫造氏との出合など著者の長い研究生活の思い出を書き、さまざまな方へのお礼を述べて終わっています。
以上で、ながながと取り上げてきました本書の紹介を終えます。これまでは本書の主な内容をビックアップするかたちで紹介してきましたが、本書の大部をなす「『資本論』第2部第8稿」のテキスト部分はまったく取り上げませんでした(ただエンゲルス版の第21章該当部分の草稿の解読は以前やったことがあり、それを参照してください)。また「第7章 『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡--MEGA第II部門第11巻の刊行に寄せて--」もすでに雑誌『経済』掲載時に一度とりあげて批判を展開したことがありますので、これも省略しました。さらに「第8章 「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか--『資本論』第2部形成史の一駒--」についても第7章の補足として書かれたもので、それについても第7章の批判の続きとして取り上げて批判しており、それを参照していただけるので、ここでは取り上げませんでした。『資本論』第2部の第8稿のエンゲルス版第19章・第20章該当部分のテキストの解読はまだ手つかずですが、今取り組んでいる第3部第5篇該当部分の草稿の解読を終えたあと取り組む予定です。しかしそれまで私自身が生きながらえているのかどうかもハッキリしない状況ですので、確約はできません。
それでは肝心の『資本論』のテキストの解説に移ることにしましょう。今回から「第6章 不変資本と可変資本」に入ります。だからやはり第5章と第6章の関連などを見ることから始めましょう。
◎「第5章 労働過程と価値増殖過程」から「第6章 不変資本と可変資本」への移行について
マルクスは「商品に表される労働の二重性」のところで次のように述べていました。
〈最初から商品はわれわれにたいして二面的なものとして、使用価値および交換価値として、現われた。次には、労働も、それが価値に表わされているかぎりでは、もはや、使用価値の生みの母としてのそれに属するような特徴をもってはいないということが示された。このような、商品に含まれている労働の二面的な性質は、私がはじめて批判的に指摘したものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な跳躍点であるから、ここでもっと詳しく説明しておかなければならない。〉 (全集第23a巻56頁)
このようにマルクスは「労働の二重性」は自分によって初めて批判的に指摘されたことを述べ、その点は〈経済学の理解にとって決定的な跳躍点である〉とも述べていました。そして実際、私たちはこれまでの展開だけでも、労働の二重性があらゆるものの基礎にあることを見てきました。第5章で問題になった労働過程と価値増殖過程というのは、資本による商品の生産が使用価値の生産と価値(剰余価値)の生産という二つの契機の統一したものであることを明らかにしていますが、その背景には労働の二重性があることも指摘されたのです。
今回から問題にする「不変資本と可変資本」も労働の二重性と同じくマルクスによって初めて区別され範疇として確立されたものです。そしてそれはやはり労働の二重性と同じく、まさに『資本論』全3巻にわたって重要な意味を持っていることが分かってくるのです。
一例を挙げますと、例えば第2巻の第3篇では社会的総資本の再生産過程が分析にされていますが、これも資本の構成を不変資本と可変資本と剰余価値とに分けることによって、それらの相互補塡関係として、再生産過程が分析可能になっています。さらに第3巻では資本主義的生産が高度化すればするほど、資本が生産の目的とも推進動機ともする利潤率が傾向的に低下さぜるをえない法則をマルクスは明らかにしていますが、こうした法則の解明も不変資本と可変資本との区別なくしてはできないのです。だからこの第6章は比較的短いものですが、極めて重要な問題を論じているということがお分かりになるでしょう。
それでは実際に、その内容を具体的に見て行くことにしましょう。
◎第1パラグラフ(労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。)
【1】〈(イ)労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。〉
(イ) 労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加します。
第5章第1節「労働過程」の第3パラグラフには次のように書かれていました。
〈労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である。〉
つまり労働過程では、合目的な活動としての労働が労働手段を使って労働対象に働きかけて、生産物を生産するわけです。そして第8パラグラフでは次のように書かれていました。
〈この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。〉
つまり労働過程の結果としての生産物からその全過程を振り返ったら労働過程の諸契機は生産的労働と生産手段として現われるということです。
だから労働過程のいろいろな要因というのは、(1)労働そのもの、(2)労働対象、(3)労働手段があり、生産物から全過程をみれば、生産的労働と生産手段という諸要因があるということです。
これらの諸要因がそれぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加するというのですが、それをこれから詳しく見て行こうということです。
◎第2パラグラフ(生産手段の価値は、どのようにして、生産物に移転され保存されるのか)
【2】〈(イ)労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。(ロ)他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。(ハ)つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。(ニ)この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれる。(ホ)それは労働によって媒介されている。(ヘ)だが、どのようにしてか?〉
(イ) 労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加えます。
ここで問題なのは、労働過程の結果である生産物の価値が、その労働過程の諸契機によってどのように形成されるのかということです。問題が価値ですから、労働の質は問われていませんが、しかし労働過程の諸契機が価値形成にそれぞれどのように寄与するのかということですから、労働過程の諸契機がその限りでは問題になるわけです。
まず労働過程の一つの要因である労働そのものが、如何にして生産物の価値として結果するかが問題にされています。それは一定の労働が支出されて労働対象や労働手段がもっている価値にあらたな価値を付け加える形で生産物価値になります。
(ロ)(ハ) 他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだします。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのです。
すでに述べましたように、労働が新たな価値として付加すると述べましたが、このことは労働対象や労働手段の価値がそのまま生産物価値として見いだすことが前提されているということです。つまり労働対象や労働手段、ようするに生産手段の価値は、生産物に移転されて保存されることが自明のこととして前提されているわけです。
(ニ)(ホ)(ヘ) この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれます。それは労働によって媒介されていますが、しかし果たして、それはどのようにして行われるのでしょうか?
この生産手段の価値の生産物の価値としての移転と保存は、明らかに労働過程の結果とて行われるわけですから、労働によって媒介されています。私たちはそれを自明のこととして前提したのですが、しかし果たしてそれはどのようにして行われるのでしょうか。
◎第3パラグラフ(労働者の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転する)
【3】〈(イ)労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。(ロ)一方では自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。(ハ)そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。(ニ)しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。(ホ)同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。〉
(イ)(ロ)(ハ) 労働者は同じ時間に二重に労働するのではありません。つまり一方では自分の労働によって綿花に新たな価値をつけ加えるために労働して、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことですが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではないのです。そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのです。
生産手段の価値は、明らかに労働によって、生産物の価値として移転され保存されるわけですが、しかしそのために労働者は別に新たな労働をするわけではありません。それは労働者が新たな価値を付け加える労働によって、同時に生産手段の価値を生産物に移転して保存するわけです。
(ニ)(ホ) しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのですから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものです。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのです。
しかし労働対象に新たな価値を付け加えることと、生産物のなかに生産手段の価値を移転して保存するということは、まったく別のことであり、まったく違った結果です。しかし労働者はただ一度だけ労働するだけですから、この違いは、ただ労働そのものの二面性からしか説明できません。彼の労働の二つの側面、抽象的人間労働という側面と具体的な有用労働という側面で、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を移転し保存するのです。
〈労働そのものの二面性〉については、第1章第2節の冒頭の一文をすでに紹介しましたが、ここでは、その同じ第2節の最後の一文を紹介しておきましょう。
〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この 同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a巻63頁)
◎第4パラグラフ(労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。)
【4】〈(イ)労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのか? (ロ)いつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけである。(ハ)紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのである。(ニ)しかし、彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になる(20)。(ホ)生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである。(ヘ)ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。(ト)だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってである。(チ)このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのである。〉
(イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働者はそれぞれどのようにして労働時間を、したがってまた価値をつけ加えるのでしょうか? それはいつでもただ彼の特有な生産的労働様式の形態でそうするだけです。つまり紡績工はただ紡ぐことによってのみ、織物工はただ織ることによってのみ、鍛冶工はただ鍛えることによってのみ、労働時間をつけ加えるのです。彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になるのです。
このパラグラフはフランス語版では若干書き換えられていますので、まずフランス語版を紹介しておきましょう。
〈労働者はどのようにして労働を、したがって、価値を付加するのか? それは、有用な、また特殊な労働形態のもとで、しかもこの形態のもとでのみ、付加するのではないか? 紡績工は紡ぐことによってのみ、織工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛えることによってのみ、労働を付加する。だが、綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、新しい使用価値である生産物の形成要素に変えるものは、まさしく、機織や紡績などというこういった形態であり、一言にして言えぽ、労働力がそのなかで支出される特有な生産形態なのである(1)。〉 (江夏・上杉訳191-192頁)
生産手段の価値が生産物の価値として移転され保存されるのは、労働の二面的性質から説明できるというわけですから、ではそれはどのようにしてかを考えねばなりません。まずそもそも労働者の労働が生産手段に新たな価値を付け加えるのは、どうしてかを考えてみるに、それは何らかの具体的な有用な労働の形態をとって行われることによってです。そもそも価値を形成する抽象的な人間労働というのは、具体的な有用労働からその具体性を捨象して得られるものですから、価値形成労働そのものは具体的有用労働を抜きには存在し得ないものです。だから価値を形成するのは労働の抽象的契機によってですが、しかしそれが支出されるのは何らかの具体的な有用な形での労働でしかないわけです。だから労働者が紡績工であれば、その労働は紡ぐという具体的な形態で支出され、織物工はただ織るという具体的な形態を通して、あるいは鍛冶工は同じように鉄を鍛えるという具体的な労働の抽象的契機によって新たな価値を形成することになります。綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄床のような生産手段を、それぞれの生産物(糸、織物、錬鉄)に変えるのは、こうした具体的な有用な労働、それに特有な生産形態によってなのです。
(ホ)(ヘ) 生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなりますが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけです。ところで、価値形成過程の考察で明らかにしたように、ある使用価値が新たな使用価値の生産のために合目的的に消費されるかぎり、消費された使用価値の生産に必要な労働時間は、新たな使用価値の生産に必要な労働時間の一部分をなしており、したがって、それは、消費された生産手段から新たな生産物に移される労働時間である。
この部分もまずフランス語版を紹介しておきます。
〈生産手段の使用価値の旧形態が消減するのは、新しい形態をとるためでしかない。ところで、われわれがすでに見たように、ある物品を生産するために必要な労働時間は、その物品の生産活動において消費された諸物品を生産するために必要な労働時間をも、含んでいる。換言すれば、消費された生産手段を作るために必要な労働時間が、新しい生産物の中に算入されるのである。〉 (江夏・上杉訳192頁)
もちろん、これらの生産手段の使用価値は、労働過程のなかで消滅しますが、しかしそれは新しい使用価値になるためです。そして、私たちは第5章第2節の価値増殖過程のなかで次のような事実を指摘しました。
〈綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。〉 (全集第23a巻246頁)
つまりある使用価値を生産するために必要な労働時間は、その使用価値の生産のために合目的的に消費された生産手段を生産するために必要であった労働時間を含んでいるということです。
これはある意味では時間そのものの性質にもとづくもので、一つの自然法則ともいえます。
太郎が花子の家に行くのに、途中で郵便局によっていく場合、彼は自宅から郵便局まで10分、郵便局から花子宅まで20分かかったとしたら、彼は花子宅までどれだけの時間をかけて行ったことになるか、といえばそれは30分で、10分に20分を加えたものだというのはまったく自然なことです。
同じように、ロビンソンが机を作るために、まず森に行って木を切るのに10時間、木から木材をつくるのに20時間、そして木材から机を作るのに30時間かかったとしたら、彼は机を作るのに必要な労働時間として合計60時間が必要だったと計算するでしょう。つまり生産手段の生産に必要な労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部を形成するというのは一つの自然法則なのです。
ただロビンソンの場合はそれぞれの労働はロビンソンの合目的的な意識のもとに一連の労働は結び付いていますが、しかし商品生産社会ではそれぞれの労働は直接には社会的に結び付いて支出されません。それらは個々別々の私的な労働として支出されるだけなのです。だからそれらの労働の社会的な関係はそれらの労働の生産物の価値として関係するしかないわけです。すなわち価値が移転され保存されるという形で労働の社会的関係がそれによって実現されるわけです。
(ト)(チ) だから、労働者が消費された生産手段の価値を保存し、またはそれを価値成分として生産物に移すのは、彼が労働一般をつけ加えるということによってではなく、このつけ加えられる労働の特殊な有用的性格、その独自な生産的形態によってです。このような合目的的な生産活動、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることとして、労働は、その単なる接触によって生産手段を死からよみがえらせ、それを活気づけて労働過程の諸要因となし、それと結合して生産物になるのです。
フランス語版ではこの部分は改行されています。
〈労働者が消費された生産手段の価値を保存し、この価値を生産物価値の構成部分として生産物に移すのは、彼が労働一般を付加するからではなく、この付加的労働の有用的性格、その生産形態によってなのである。労働は、それが有用であり生産活動であるかぎり、生産手段との単なる接触によって、生産手段を死から蘇生させ、これを労働自身の運動の要因となし、これと結合して生産物を構成する。〉 (江夏・上杉訳191-192頁)
だから労働者が消費された生産手段の価値を保存し、新たな生産物の価値の構成部分として移すのは、彼の労働の一般的な性格によるのではなく、その有用な性格によるのです。なぜなら、労働の社会的関係は、その具体的な有用な形態にもとづいているからです。ロビンソンの伐採労働と製材労働と木工労働が机という生産産物を生産する一連の過程のなかで関連しているのは、その一般的抽象的な契機によってではなく、その伐採や製材や木工という具体的な形態によって結び付いているからです。確かに移転され、保存されるのは価値という社会的な対象性ですが、しかしその移転や保存を媒介するのは、抽象的な労働ではなく、具体的な労働なのです。
ここらあたりはなかなか分かりにくいところです。ある人は、具体的有用労働は使用価値を生産するのであって、それが価値をどうこうするというのはおかしいのではないか、という疑問を呈し、マルクスは間違っていると独断しました(もっともさすがにマルクスは間違っていると直接的には言えなかったのですが、しかし内容的にはそのように主張したのです)。しかし具体的な有用労働が生産手段の価値に直接関わって、それを移転し保存するわけではないのです。生産手段の価値が移転され、保存されるのは、それらの生産に必要な労働時間が、それを生産的に消費して生産された生産物の生産に必要な労働時間の一部になるという自然法則にもとづいているからです。それが商品生産社会では、価値の移転と保存という形で現われているに過ぎないのです。そして生産手段の生産に必要な労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部になるというのは、まさにそれらの一連の生産物の生産のために支出された具体的な有用労働によってそれらの労働が社会的に結び付いているからいえることなのです。だから具体的有用労働が生産手段の価値を移転し保存するとマルクスは述べているわけです。ここらあたりが分からずに迷いに迷ってマルクスが第2巻で展開している資本の社会的な再生産過程をまったく理解不可能なものにしてしまい、社会主義社会では如何にして生産物の価値規定にもとづく分配がなされるかという荒唐無稽な「理論」をでっち上げて、それが「社会主義の神髄」だなどという馬鹿げたことを主張した人もいたわけです(すでに故人になってしまいましたが。分かる人には分かると思いますが、分からない人は『マルクス研究会通信』というブログの「林理論批判」を参照してください。)。
◎原注20
【原注20】〈20 「労働は、消し去られた創造物の代わりに新たな創造物を与える。」(『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年、13ページ。)〉
これは〈しかし、彼らが労働一般を、したがってまた新価値をつけ加えるさいの、目的によって規定された形態によって、すなわち紡ぐことや織ることや鍛えることによって、生産手段、すなわち綿花と紡錘、糸と織機、鉄とかなしきは、一つの生産物の、一つの新しい使用価値の、形成要素になる(20)〉という本文につけられた原注です。ただ原注の引用文の内容を考えると、むしろそのあとの〈生産手段の使用価値の元の形態は消えてなくなるが、それは、ただ、新たな使用価値形態で現われるためになくなるだけである〉という一文に付けた方が適切かと思わないでもありません。
この引用されている〈『諸国民の経済学に関する一論』〉というのは匿名の著書のようです。『資本論草稿集』⑨にはこの著書からの引用が幾つか見られます。マルクスは〈著書『諸国民の経済学に関する一論』、ロンドン、1821年には二、三の非常にすぐれた独創的論点が含まれている〉(478頁)と述べて、幾つかの抜粋が行われていますが、そのなかに〈不変資本のたんなる維持と可変資本の再生産との相違〉とマルクス自身による表題が書かれた、今回の原注の一文が含まれる次のような引用文が抜粋されています(下線はマルクスによる強調個所)。
〈「本来の唯一の再生産的消費とは、労働が商品にたいして行なう最終消費であり、この消費が消滅した創造物の代わりに新たな創造物を与える。生産の全体は、私の考えるところでは、すべての中間的交換や中間的過程を経過すること、同時にまた、商品を、農業であれ製造業であれ、全的に創造するか、または既成の商品に改良を加えるかのいずれかによって新価値を生む労働に委ねることからなるように思われる。」(13、14ページ。)「諸生産物は、それらが再生産的消費のために(終局的に、すなわち、生地に吸収されるインディゴのように間接的にではなく)、食糧、衣類、住居がそうであるように、価値を生む労働に委ねられる場合にのみ、資本となる。」(67ページ。)〉 (479頁)
◎第5パラグラフ(労働の二面的な属性から、同じ時点における労働の結果の二面性が生じる)
【5】〈(イ)もし労働者の行なう独自な生産的労働が紡ぐことでないならば、彼は綿花を糸にはしないであろうし、したがってまた綿花や紡錘の価値を糸に移しもしないであろう。(ロ)これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず1労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。(ハ)だから、彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりでのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことであり、また、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、それが一定時間継続するからである。(ニ)つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。(ホ)それだから、同じ時点における労働の結果の二面性が生ずるのである。〉
(イ)(ロ)(ハ) もし労働者の行なう独自な生産的労働が紡ぐことでないのでしたら、彼は綿花を糸にはしないでしょう。たがらまた綿花や紡錘の価値を糸に移さないでしょう。しかしその反対に、同じ労働者が職業を変えて指物工になっても、彼は相変わらず1労働日には彼の材料に同じ価値をつけ加えるでしょう。つまり彼が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働や指物労働であるかぎりでのことではなく、それが抽象的な社会的労働一般であるかぎりでのことなのです。あるいは、彼が一定の価値量をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容をもっているからではなく、その労働が一定時間継続するからです。
このパラグラフは先のパラグラフをさらに補足するために、労働の二重の属性の対立的な性格を示すものになっています。
つまり労働者の労働が紡績労働などの具体的なものでなければ、彼は綿花を糸に変換しないし、だからまた綿花や紡錘の価値を糸の価値として移すこともしないということ。つまり生産手段の価値を生産物に移転し保存するのは、その労働の独自な具体的属性によってであることを確認し、他方でその労働が価値を付加するためには、同じ労働者が紡績労働ではなく、指物労働を行っても、1労働日に付加する価値は同じだと述べ、価値を付け加える労働は、労働の抽象的契機であり、その特殊な内容は問われないことを指摘しています。つまり価値を形成する労働としては紡績労働も指物労働も同じであり、それらは抽象的な同一の人間労働としてそれらは価値を形成するのだということです。しかし生産手段の価値を生産物に移転するのは、生産手段から生産物を現実に生産する労働のその具体的な内容が問われるわけです。だからどういう特殊な生産手段かということや、労働の目的や質的内容が問題になるわけです。なぜなら、綿花から机を作ることできないし、だからまた綿花の価値を机に移転することなどはできないのは当然だからです。
(ニ)(ホ) つまり、労働の抽象的な一般的な性質において、同じ人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのです。そして、紡績過程における労働の具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの綿花や紡錘という生産手段の価値を生産物である糸に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのです。だから、同じ時点で労働の二面的な属性(抽象的人間労働と具体的有用労働)によって、二面的な結果(価値の付加と価値の移転・保存)として現われるのです。
だから紡績工の労働は、指物工の労働と同じ属性、すなわち抽象的・一般的人間労働という属性によって、綿花や紡錘の価値に新たな価値を付け加えるのです。そしてその同じ労働の具体的な属性、すなわち紡錘を使って綿花を紡ぐというその労働の具体的な内容によって、綿花や紡錘の価値を糸の価値の一部として移転し保存するのです。だからこのような労働の二面性が同じ一つの労働によって、一方は新たな価値の付加、他方は旧価値の移転と保存という二つの結果をもたらすわけです。
◎第6パラグラフ(労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。)
【6】〈(イ)労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。(ロ)このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。〉
(イ)(ロ) 労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存されます。このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的な作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われます。
このパラグラフはこのような労働の二面的な属性が二面的な作用や結果をもたらすということがさまざまな現象として現われることを以下展開することを示すためのものといえます。ほぼ同じ内容ですが、フランス語版を参考のために紹介しておきましょう。
〈労働の単なる付加によって、新規の労働量によって、新しい価値が付加され、付加された労働の質によって、生産手段の旧価値が生産物のなかに保存される。労働の二重性格の結果であるところの、同じ労働のこの二重の作用は、無数の現象のなかで見分けがつきうるものになる。〉 (江夏・上杉訳163頁)
◎第7パラグラフ(生産力が6倍になった場合、旧価値を移転・保存する量は6倍になるが、新価値を付加する量はまったく変わらない)
【7】〈(イ)ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しよう。(ロ)合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になった。(ハ)その生産物は、6倍の糸、すなわち6ポンドに代わる36ポンドの糸である。(ニ)しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収しない。(ホ)綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるのであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつけ加えられるだけである。(ヘ)他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸のうちにある。(ト)6紡績時間で6倍の原料価値が保存されて生産物に移される。(チ)といっても、同量の原料には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるのであるが。(リ)このことは、同じ不可分の過程で労働が価値を保存するという性質は労働が価値を創造するという性質とは本質的に違うものだということを示している。(ヌ)紡績作業中に同量の綿花に移って行く必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きいが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きい。〉
(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) ある発明によって、紡績工が以前は36時間で紡いだのと同量の綿花を6時間で紡げるようになったと仮定しましょう。合目的的な有用的な生産的活動としては、彼の労働はその力が6倍になったわけです。その生産物は、6倍の糸、つまり6ポンドに代わる36ポンドの糸になります。しかし、その36ポンドの綿花は、今では以前に6ポンドの綿花が吸収したのと同じだけの労働時間しか吸収していません。たがら同じ一定量の綿花には古い方法による場合の6分の1の新たな労働がつけ加えられるだけであり、したがって以前の価値のたった6分の1がつけ加えられるだけなのです。
ここでは〈労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる〉ということを具体的な例を使って実証しています。
まず生産力が6倍になった場合です。その場合は紡績工は同じ6時間労働のあいだに6倍の綿花を紡いで6倍の糸を生産することになります。だから彼はその労働の具体的な有用な属性によって6倍の綿花の価値を糸に移転し保存します。しかしその労働の抽象的な人間労働の属性としては、旧来の生産と同じ6時間の労働しか綿花に付加しないわけです。だから新しく付け加えられる価値としてはまったく旧来と変わらないわけです。だから6倍の生産力で生産された糸の一定量には、新たに付け加えられた価値としては、旧来のものの6分の1しかないということになります。
(ヘ)(ト)(チ)(リ) 他方、今では6倍の綿花価値が、生産物である36ポンドの糸としてあります。6紡績時間で6倍の原料である綿花の価値が保存されて生産物に移されます。といっても、同じ量の原料(綿花)には以前の6分の1の新価値がつけ加えられるだけなのです。だからこのことは、同じ紡績労働でも、生産力が上がった結果、価値を保存するという性質は6倍の価値を保存するのに、価値を創造するという性質は量的にはまったく変わらない(あるいは一定量の綿花には以前の6分の1の価値を付加する)わけですから、両者は本質的に違うものだということを示しています。
生産物としては糸は以前の6倍の36ポンドになっています。そしてそれには旧来の6倍の綿花の価値が移転・保存されています。しかしその6倍の糸には旧来と同じ量の新しい価値が付け加えられているだけです。だから同じ紡績労働でも、生産力が上がった結果、価値を保存する性質は6倍になり、6倍の綿花が糸に変えられたのに、それによって付け加えられる価値はまったく変わらないということになるわけです。そればかりか生産物として同じ一定量の糸をとった場合、移転される旧価値はまったく変わらないのに(1ポンドの綿花の価値はやはり1ポンドの糸に移転・保存される)、新たに付け加えられる新価値としては、旧来に比して、たった6分の1でしかないということがわかります。だから旧価を移転し、保存するということと、新価値を付加するということはまったく本質的に異なることだということがわかります。生産力というのは具体的な有用労働の問題であるのに対して、抽象的な人間労働にはまったく関与しないということです。
第1章第2節から紹介しておきましょう。
〈生産力は、もちろん、つねに有用な具体的な労働の生産力であって、じっさい、ただ与えられた時間内の合目的的生産活動の作用程度を規定するだけである。それゆえ、有用労働は、その生産力の上昇または低下に比例して、より豊富な.またはより貧弱な生産物源泉になるのである。これに反して、生産力の変動は、価値に表わされている労働それ自体には少しも影響しない。生産力は労働の具体的な有用形態に属するのだから、労働の具体的な有用形態が捨象されてしまえば、もちろん生産力はもはや労働に影響することはできないのである。それゆえ,同じ労働は同じ時間には、生産力がどんなに変動しようとも、つねに同じ価値量に結果するのである。しかし、その労働は、同じ時間に違った量の使用価値を、すなわち生産力が上がればより多くの使用価値を、生産力が下がればより少ない使用価値を、与える。〉 (全集第23a巻62頁)
(ヌ) 紡績作業中に同じ分量の綿花に費やされる必要労働時間が多ければ多いほど、綿花につけ加えられる新価値はそれだけ大きくなりますが、同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される元の価値はそれだけ大きくなります。
紡績作業によって同じ分量の綿花を加工するために必要な労働時間が多ければ多いほど、綿花に付け加えられる新価値はそれだけ大きくなります。同じ労働時間で紡がれる綿花の量が多ければ多いほど、生産物のうちに保存される価値はそれだけ大きくなることは明らかです。
(全体を9分割します。続きは2へ。)