『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(1)
◎〈現象形態の分析〉→ 〈本質の把握〉→ 〈「謎」の浮上〉→〈現象形態の展開による「謎」の解明〉,という認識の筋道(大谷新著の紹介の続き)
今回も大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」から紹介します。前回は第10章から紹介しましたが、今回は次の「第11章 マルクスの価値形態論」を取り上げましょう。これは1993年9月に『経済志林』第61巻第2号に「価値形態」という表題で発表したものを再録したものです。大谷氏は〈そこでの説明の内容には,マルクスの価値形態論についての多くの解説とは異なる筆者の独自の理解が含まれている〉(471頁)と述べています。しかしその独自の理解のすべてを紹介することはできませんので、ここでは〈貨幣形態の謎〉や〈貨幣の謎〉と関連させて論じている、方法論的に注目すべきと思える叙述を紹介するだけにします。次のように述べています。
〈すでに序論で述べたように,ある事象を分析して,その事象の本質を把握し,その事象がこの本質の現象形態であることをつきとめたとしても,それだけでこの事象が理解できたとは言えない。把握された本質は,出発点であった現象形態にそのままのかたちで現われてはいなかったのであり,だからこそ,それの把握に分析を必要としたのである。だから,本質が把握されれば,それはまず,出発点であった現象形態と一致しないように見えるのがむしろ当然である。この不一致は,認識の過程として見れば,解かれるべき「謎」なのであり,この「謎」を解いてこの不一致を解消させることが,われわれが本質を把握したのちに,直ちに当面する課題である。そして,この「謎」の解明は,本質からそれの現象形態を展開する(developする,entwickelnする)こと,言い換えれば本質の認識にもとついて諸現象を説明すること,本質の転倒的形態の必然性をその本質そのものから明らかにすることによって成し遂げられるのである。このような,〈現象形態の分析〉→ 〈本質の把握〉→ 〈「謎」の浮上〉→〈現象形態の展開による「謎」の解明〉,という認識の筋道は,だから,いま問題にしている価値形態の認識に限られるものではなく,どのような事象の認識についても共通のものだと言わなければならない。
ここで,三つのことを注意しておきたい。
第1に,われわれがいま当面している「謎」がこのようなものであるとすれば,この「謎」は,われわれが最初に現象形態に接したときから「謎」としてあったわけではない,ということである。つまり,そこに現象していた本質が把握されたからこそ,本質と現象形態との不一致が「謎」として浮び上がってきたのである。このような,本質の把握ののちに解かれるべき課題としての「謎」と,貨幣にまつわりついており,人びとの日常的な意識にのぼっている,どことなく謎めいて見える性格とは,はっきりと区別されなければならない。
第2に,われわれが最初に現象形態を分析して本質を析出するときには,われわれにはまだ本質はわかっていなかったのだから,そこでは,本質がどのように現われるのか,ということはまだ問題になりようがなく,現象形態そのものがどのようなものか,ということはまだ関心の的になりえなかったのであって,もっぱら,この形態から本質をつかみだすことに全力を集中したのであった。それにたいして,いまは,つまり本質から現象形態を展開するときには,本質はすでに既知のものとして前提して,われわれの関心を形態そのものに集中する。そして,ここではじめて,本質の認識にもとついて現象形態そのものを分析することになる。言い換えれば,本質が現象形態として現われるさいのその仕方様式そのものが分析されるのである。だから,現象形態はすでに与えられているのであって,ここでの本質からの現象形態の展開とは,あくまでも,このように与えられている現象形態の分析なのであって,本質から形態を演繹的,自己展開的に導出する,といったものではまったくない。
そこで第3に,このような現象形態の分析と展開とを通じて現象形態がよく理解されることによって,そこに現象する本質についての認識も深まることはたしかであるが,そのことは,本質がここではじめて把握される,ということを意味するものではなく,あくまでも,本質の認識はすでに与えられているのだ,と考えられなければならない。価値形態について言えば,その分析,展開には,価値という本質の認識が,つまり価値概念がすでに与えられているのであって,これなしには,それが現象する形態の分析,展開はありえない。価値形態の展開のなかで価値概念がどれだけ「豊富」になるとしても,それはけっして,この分析,展開の結果はじめて価値概念が得られる,ということを意味するのではないのである。〉 (479-480頁)
それでは本題に入りましょう。今回から「第3章 貨幣または商品流通」の「第3節 貨幣」に入ります。
◎第3節の表題
〈第3節 貨幣〉
新日本新書版と上製版には、この表題について次のような訳者注がついています。
〈この「貨幣」は、貨幣一般を意味するDas Geld(第三章の表題) ではなく、定冠詞のないGeld(英語でmoney)であり、価値尺度および流通手段という第一および第二の規定にたいして「第三の規定における貨幣」とマルクスが呼んだものである。フランス語版では、この表題はLa monnaie ou l'argentとなり、次の最初のパラグラフもすっかり書き換えられている。〉 (上製版218頁、新書版219頁)
なおこの定冠詞のついている「貨幣」とついていない「貨幣」との区別と意味については、後の〈a 貨幣蓄蔵〉という小項目の表題に関連して紹介するレキシコンの栞にある久留間鮫造氏の説明を参照してください。
ここでは大谷禎之介氏の「貨幣の機能II」(『経済志林』第62巻第3・4号)の説明を紹介しておきましょう。
〈すでに価値形態および交換過程の研究のなかで見たように,貨幣とは,交換過程の矛盾を媒介するものとして必然的に成立する一般的等価物の機能を社会的に独占する独自な商品である。だから,そもそも貨幣の概念のうちに,それが一般的等価物として機能するものだ,ということが含まれている。
価値形態のところで見たように,一般的等価物である貨幣は,まずもってすべての商品のために価値表現の材料として役立つ。そこで第1に,貨幣のこの役立ちを,あらためて貨幣を主体としてそれの機能として,すなわち貨幣の価値尺度の機能として考察した。さらに,交換過程のところで見たように,一般的等価物は商品交換を,商品がひとまず一般的等価物に変態し,そののちに一般的等価物からさらに任意の商品に変態する,という過程に転化することによって,交換過程の矛盾を打開するのであって,商品の全面的交換が発展するにつれて,一般的等価物は最終的にはある特定の商品種類に--金銀に--固着せざるをえない。こうして貨幣が成立する。そこで第2に,このようにして成立した貨幣による商品の全面的な交換過程の媒介の役立ちを,あらためて貨幣を主体としてそれの機能として,すなわち貨幣の流通手段の機能として考察した。
これらの考察のさい,つねに,貨幣商品は金だとしてきたが,しかし金が価値尺度の機能を果たすのは,生身の金そのものとしてではなくて,表象されただけの金,観念的な金としてであったし,W-G-Wを媒介する流通手段としての金は,流通過程の自然発生的な傾向によって,現実の金を代表するそれの象徴(シンボル)によって代理されるようになるのであって,金貨そのものが流通する場合でさえも,それは仮象の金として,すなわち完全な量目と品位の金貨のシンボルとして流通するのであった。
けれども,価値尺度で表象されており,流通手段で象徴的(シンボリック)に代理されているのは, 、まさに現実の金,本物の金である。価値尺度の機能を果たす観念的な金は,それによって表象される現実の金の存在を前提しているし,流通手段として流通する象徴は,それによって代表される現実の金の存在を前提しているのであって,どちらの機能も,すでに金が一般的等価物として商品世界から排除され,一般的等価物の機能を社会的に独占していること,要するに金が貨幣となっていることを前提している。つまり,ある商品世界あるいはある国のなかで金が価値尺度として表象されており,かつ金が鋳貨によって象徴的に代理されているときには,そこではすでに,金が貨幣となっており,金という自然素材が貨幣とい形態規定を受け取っているのである。
だから,この商品世界で価値尺度としても流通手段としても機能している独自の商品はなにか,と問うことは,この世界で一般的等価物としての機能を社会的に独占している商品はなにか,と問うこと,ここでの貨幣商品はなにか,と問うことと同じである。そしてそれは,商品世界のなかに労働生産物として現実に存在する金以外のものではありえない。この世界では,現物の金そのものが貨幣なのであり,それそのものが貨幣という形態規定をもっているのである。
そこで,価値尺度として表象され,鋳貨および価値章標によって象徴的に代理される,貨幣である現物の金そのものは,それを観念的に表象しただけの〈価値尺度としの貨幣〉,および,それの象徴的な代理物でありうる〈流通手段としての貨幣〉とは区別して,〈貨幣としての貨幣〉と呼ばれる。
この〈貨幣としての貨幣〉は,貨幣の〈第一の規定〉であった価値尺度および〈第二の規定〉であった流通手段にたいして,〈第三の規定における貨幣〉である。また,〈価値尺度としての貨幣〉も〈流通手段としての貨幣〉もともに,貨幣である金が果たす機能であるのにたいして,〈貨幣としての貨幣〉は,これこそが〈貨幣〉なのだ,という意味で,<本来の意味での貨幣〉,あるいは〈厳密な意味での貨幣〉と言うこともできる。〉 (180-181頁)
◎前文(第3節全体の前文)
【前文】〈(イ)価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。(ロ)それゆえ、金(または銀)は貨幣である。(ハ)金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行なわれるか代理物よって行なわれるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。〉
(イ)(ロ) 価値尺度として機能し、したがってまた、自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品、--それは貨幣(=定冠詞のない貨幣〔Geld〕)です。ですから、現にそのように機能している商品である金(または銀)は貨幣(ゲルト)なのです。
この前文は、その位置から考えて、「第3節 貨幣」全体に対する前文と考えることができます。だから「第3節」の小項目「a 貨幣蓄蔵」、「b 支払手段」「c 世界貨幣」の内容を含んだものと考えられるわけです。
『経済学批判』では〈だからある商品(金--引用者)は、まず価値尺度と流通手段との統一として貨幣となる。言いかえるならば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣である〉(全集第13巻103頁)と述べています。
私たちは「第3章 貨幣または商品流通」をまず「第1節 価値の尺度」を考察し、そして次に「第2節 流通手段」を考察しました。そして「第3節 貨幣」を今度は考察するのですが、この貨幣(定冠詞のない貨幣[Geld〕)は、第1節と第2節でそれぞれ考察された貨幣の機能を統一したものだということです。
ただ注意が必要なのは、この統一というのは大谷氏によれば〈否定的な統一〉なのであって、両機能を統一して併せ持っているということではなく、それらを否定するという関連のなかで統一しているということなのだそうです。なかなか難しいのですが、注目すべき指摘ですので、長くなりますが大谷氏の説明をすべて紹介しておきます。
〈ただし,価値尺度としても,流通手段としても,金は金属的現身において登場する必要はないし、また逆に、金が金属的現身にある本来の貨幣として存在しているときは、それ自体は価値尺度としても流通手段としても機能してはいない。ある量の無垢の金が〈貨幣〉として存在し続けているとすれば、このことはむしろ、それ自身は価値尺度としても流通手段としても機能していないのだ、ということを意味している。だから,ここで〈価値尺度と流通手段との統一〉と言うのも,現に価値尺度として機能し,かつ流通手段としても機能しているもの,ということではない。むしろ,価値尺度としての貨幣でも流通手段としての貨幣でもなくなっていることによって〈貨幣〉そのものでありうるのだ,という意味では,それは「価値尺度としての貨幣と流通手段としての貨幣との否定的な統一」なのである。
この「否定的な統一」の意味については,やや難解ではあるが,『経済学批判要綱』での次の文を参照されたい。すでに「概説」で見たように,商品がW-Gののちに,次にG-Wに移らないで流通から引き揚げられると,Gは〈蓄蔵貨幣〉となる。そしてこの蓄蔵貨幣は,本来の貨幣,貨幣としての貨幣の形態にある貨幣である。このことを念頭においておけば,ここでの記述の主旨は理解できるであろう。
「……貨幣は,自立して流通から抜けだして流通に対立するものとしては,流通手段としての貨幣の規定と尺度としての貨幣の規定との否定(否定的な統一)である。……/第1に。貨幣は流通手段それ自体の,つまり鋳貨の否定である。しかしそれは同時に鋳貨を,自己がたえず鋳貨に転形されうる,ということによって否定的に,世界鋳貨〔世界市場で流通する貨幣〕として肯定的に,自己の規定として含んでいるのであるが,しかしそれ自体としては,貨幣は形態規定には無関心であって,本質的に商品それ自体であり,つねにいたるところに存在する商品,つまり場所によって規定されることのない商品なのである。…… /第2に。貨幣は,諸商品の諸価格のたんなる実現--この場合には特殊的な商品がつねにどこまでも本質的なものである--としての貨幣の否定である。それはむしろ,自己自身において実現されている価格となるのであり,またそのようなものとして富の物質的代表者となり,また富のたんに特殊的であるにすぎない諸実体としてのすべての商品に対立する富の一般的形態となるのである。だが,/第3に。貨幣は,それが諸交換価値の尺度にすぎないときの規定においても否定されている。富の一般的形態として,また富の物質的代表者として,それはもはや他の富の,つまり諸交換価値の観念的な尺度ではない。というのは,それそのものが交換価値の適合的な現実性であり,しかもそれがそのような現実性であるのは,それの金属的な定在においてなのだからである。……尺度としては,貨幣がどれだけ〔現実に〕あるかという,その数量〔Anzahl〕はどうでもよいことであったし,流通手段としては,単位となる物質がなんであるかという,貨幣の物質性はどうでもよいことであったが,この第3の規定における貨幣としては,特定の物質的な分量としてどれだけあるか,という貨幣自身の数量〔Anzahl〕が本質的である。一般的富というそれの質が前提されているのだから,それにはもはや量的な区別以外の区別はない。それは,それがいま一般的富の一定分量として所持される数量〔Anzahl〕の多寡に従って,一般的富の多寡を表わすのである。……」(MEGA,II/1.1,S.152-153.)
マルクスはまた,このような,〈価値尺度としての貨幣〉と〈流通手段としての貨幣〉との統一でありながら,しかも両者の否定でもあるという〈貨幣としての貨幣〉が果たす機能について,『経済学批判。原初稿』で次のように書いている。
「……〔国際的交換手段および国際的支払手段という〕貨幣としての貨幣のこれらの機能においては,貨幣は,きわめて異様なことに〔am auffallendsten〕,貨幣という,尺度と流通手段との統一という単純で同時にまた具体的な形態で機能しながら,しかも尺度としても流通手段としても機能してはいない……。」(MEGA,II/2,S.28.)
〈価値尺度としての貨幣〉と〈流通手段としての貨幣〉と〈貨幣としての貸幣〉という,これら三つの規定を明確に区別したうえで,さらにそれらのあいだの関連を明らかにするのは,貨幣そのものの本質と生成とについての深い理解がなければ不可能である。日常生活のなかでの常識的な観念のなかでは,目に見える現象にとらわれて,これらの規定はさまざまのしかたで混同され,同一視されることにならざるをえない。
しかし,商品の価格としてたんに表象されているだけの価値尺度としての貨幣と,実在的な鋳貨および実在的な本来の貨幣との区別は,観念的なものと実在的なものとの区別として,感覚的にも比較的容易である。これにたいして,実在的な鋳貨または価値章標の形態にある流通手段と,実在的な本来の貨幣とは,常識的な目には同じ実在的なものとして映じるので,どちらも〈金(カネ)〉として無区別にとらえられることになる。
とはいえ,この両者のあいだの区別も日常的な感覚に投影されているのであって,たとえば,「イギリス人は流通手段としての貨幣のためにcurrellcyという良い表現を(鋳貨つまりcoinはそれに対応しない,なぜならこれ自体がまた一つの特殊性にある流通手段なのだから),第三の属性における貨幣〔つまり本来の貨幣〕のためにmoneyという良い表現をもっている」(MEGA,ll/1.2,S.735)。つまり,英語のcrrencyとmoneyとの区別には、鋳貨としての流通手段と本来の貨幣との区別が反映しているのである。日本語の〈御足(オアシ)〉ないし〈通貨〉ももともとは流通手段としての貨幣を表現する言葉である。
しかし両者のあいだの区別は,本来の貨幣が理論的に把握されたときに,はじめて明確になるのであって,本来の貨幣をそれとして展開することができなかったイギリスの古典経済学者たちは,なにが鋳貨でなにが木来の貨幣なのか,ということを理論的に明らかにすることができなかった。
資本主義的生産の当時者である資本家はもちろんのこと,マルクス以前の経済学者たちも,流通手段(鋳貨)と本来の貨幣との概念的な区別ができず,これらを混同したり,同一視したり,どちらかを無視したりするのであるが,さらにこれらのものと,ここではまだ取り上げることができない資本,とくに貨幣の形態にある資本(貨幣資木),そして貨幣形態で貸付けられる資本(利子生み資本)とを混同する。そのために,さまざまの深刻な,場合によってはまったくばかげた「混乱」が引き起こされる。たとえば,日常用語では,〈金(カネ)〉とは鋳貨であり,貨財でもあり,資本でもあるのであって,これらすべてが無区別に金(カネ)と呼ばれる。
マルクスによる資本の理論の展開は,これらの概念のすべてを,体系的にそれぞれ然るべきところで確定して,それらの概念のあいだの区別と関連とを明らかにしていく。しかし,この仕事は,のちの利子生み資本の研究のところまで進んで,はじめて本格的に総括することができるものだから,いまここでは,こうした問題の所在を示唆するだけにとどめよう。
なお,この注で引用した『経済学批判要綱』および『経済学批判。原初稿』は,ともに著書『経済学批判。第1分冊』よりも前に書かれた草稿であって,研究者にとっては〈汲めども尽きぬ泉〉なのであるが,初学者がそのすべてをただちに読みこなすことができるようなものではない。そこで,『資本論』の読者のために,この三つの著作でのものを含め,貨幣に関するマルクスのさまざまの叙述を体系的に整理・編集したものが,久留問鮫造編『マルクス経済学レキシコン』⑪(「貨幣1」)~⑮(「貨幣V」),大月書店,1979-1985年(近く,同書の邦訳部分をまとめた普及版が刊行される)である。その各巻に付された「栞」所載の「談話室」では,編者が通説とは異なる自説などを自在に語っており,これも『資本論』の内容の理解に役立っであろう。〉 (貨幣の機能Ⅱ186-189頁、下線は大谷、太字はマルクスによる強調)
(ハ) 金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、それゆえ貨幣商品として、現われなければならない場合、つまり、価値尺度でとはちがって単に観念的にでもなく、流通手段でとはちがって代表されることができるようにでもなく、現われなければならない場合です。
ここで〈貨幣として機能する〉という場合の〈貨幣〉というのも、いうまでもなく定冠詞のないGeld(ゲルト)です。ややこしく、いちいち説明するのも面倒なので、定冠詞のない場合の「貨幣」はすべて「貨幣(ゲルト)」と書くことにします。
つまり貨幣が貨幣(ゲルト)として機能するのは、その金の肉体のままで、貨幣商品として現われなければならない場合だということです。だからそれは価値尺度の機能のように、ただ観念的な貨幣として果すようなものではなく、また流通手段のようにその代理物(補助鋳貨や紙幣など)によって果すようなものではない、金がその肉体のままで果たす機能だということです。
ではそれはどういうものでしょうか。それはこのあとすぐに出てくる〈a 貨幣蓄蔵〉のなかにある〈蓄蔵貨幣〉と〈c 世界貨幣〉ではないかと思います。これら両者ともに貨幣は貨幣(ゲルト)、すなわち現物の金そのものとして存在しなければならないからです。
(ハ)’ 金が貨幣として機能するのは、他方では、それの機能が、金自身によって果されるのか代理物よって果されるのかにかかわりなく、金を唯一の価値の姿または交換価値の唯一の適当な存在として、たんなる使用価値としてのほかのすべての商品に対立させて固定する場合です。
同じ貨幣(ゲルト)であっても、もう一つその機能が、金自身によって果されるだけではなくて、その代理物によっても果される機能があるのです。それは〈b 支払手段〉に出てくる支払手段としての貨幣の機能です。この場合は金の現物そのものももちろん支払手段としての機能を果すことはできますが、それだけではなく、その代理物、例えば銀行券、特に法定通貨の規定を受けたイングランド銀行券のようなものも、支払手段としての機能を果すことが出来るのです。
そしてこうした支払手段としての機能を果すものは、金あるいはその代理物が、唯一の価値の姿、あるいは交換価値の唯一の適当な存在として、単なる使用価値である他のすべての商品に対立して固定される場合だということです。こうした支払手段としての貨幣の機能は、後に検討することになりますので、ここでは詳論はしないでおきます。
最後に、この部分の大谷氏の説明を紹介しておきましょう。
〈このように,価値尺度において表象されており,かつ,流通手段において象徴的に代理されているものは,商品世界のなかですでに貨幣という形態規定を与えられている自然素材としての金,金属的現身の金である。価値尺度としての機能にとって前提され,かつ,流通手段としての機能にとって前提されている貨幣とは,まさにこの本来の貨幣にほかならない。本来の貨幣は,たんに価値尺度としての貨幣において表象されているだけでも,またたんに流通手段としての貨幣において象徴的に代理されているだけでもなく,この両者の形態規定が存在するところにはじめて存在する形態規定なのである。その意味で、本来の貨幣は「価値尺度と流通手段との統一」だと言うことができる。
さて,価値尺度の機能と流通手段の機能とはどちらも,金という独自の商品が貨幣となっているところで,観念的に表象されたそれが果たす,またはそれを象徴する代理物が果たしうる機能であって,どちらの場合にも機能しているのは,現実の金そのもの,つまり本来の貨幣ではなかった。ところが,この二つの機能とは違って,現実の金,無垢(ムク)の金そのものこそが,つまり本来の貨幣がはじめて十全に,あるいは適合的に(entsprechend)果たすことができるもろもろの機能がある。そしてこれらの機能においてこそ,金が価値尺度としてでも流通手段としてでもなく,文字どおり貨幣として機能している,と言うことができるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ182-183頁)
さらに大谷氏がこの前文そのものを解説しているものがありますので、それも紹介しておきましょう。
〈短いけれども含蓄の多いこの文章(前文のこと--引用者)の意味を理解するには、マルクス自身が手を入れた『資本論』フランス語版での同じ箇所の文章が参考になる。
「これまでわれわれは貴金属を,諸価他の尺度および流通の用具という二つの見地から考察してきた。貴金属は第1の機能を観念的な貨幣として果たすのであり,第2の機能では貴金属は象徴によって代理されることができる。だが,貴金属がその金属体のままで,諸商品の実在的な等価物として,すなわち貨幣商品として現われなければならない諸機能〔des fonctions〕がある。さらに,貴金属が自分自身で果たすことも代理者を通じて果たすこともできるが,貴金属がつねに,諸商品の価値の唯一適合的な化身として普通の商品のまえにたちはだかるという,別の一機能〔une autre fonction〕もある。これらすべての場合にわれわれは,貴金属が,諸価値の尺度および鋳貨としての機能とは対照的に,貨幣,または厳密な意味での貨幣として機能する〔fonctionner comme monnaie ou argent proproment dit〕,と言うのである。」(MEGA,II/7,S.102.)
フランス語版を参考にして,前者の文章の意味を敷延してみよう。
第3章第1節では,金を貨幣にする第1の機能である価値尺度の機能を考察した。価値尺度としては貨幣は表象されただけの観念的な金であったが,この金によって自己の価値を価格として表現する諸商品は,この価格を実現して実在的な価値体に転化し,さらに自己を価値として実現しなければならない。商品のこのような変態のなかで金が果たす媒介的機能が,第2節で考察された流通手段の機能である。この機能は,金自身によってだけではなく,それを代表するシンボルによっても果たされることができるものであった。このように,価値尺度として機能する商品,だからまた流通手段としても--それ自身でかあるいはそれの代理者によって--機能する独自な商品が,貨幣という経済的形態規定をもつ商品である。「金は生まれながらに貨幣であるのではない」にもかかわらず,こうした形態規定をもつことによって,金(または銀)は貨幣なのである。
これまで考察してきた価値尺度および流通手段は,そのような貨幣の果たす機能だったのであるが,しかし,価値尺度の機能では,貨幣はこの機能をただ表象されただけの貨幣で果たすのであったし,流通手段の機能では,貨幣はこの機能をそれのシンボルを通じて果たすことができた。だから,金が貨幣であるにもかかわらず,この二つの機能にあっては,貨幣としての金が実際に金の肉体のままで現われる必要はなかった。
ところが,これに反して,貨幣としての金がそれの肉体において,それの金属的現身において現われなければならない場合がある。つまり,貨幣としての金が,価値尺度の場合のように観念的に現われるのでも,流通手段の場合のように代理可能なものとして現われるのでもなくて,実在するその独自の商品の姿態で,つまり貨幣商品として現われなければならない場合である。
他方,金が流通手段の場合と同様に自己の代表者を通じて果たすこともできる機能ではあるが,しかし,金に,諸商品に価値表現の材料を提供する(価値尺度)のでもなければ,諸商品の流通過程を媒介する(流通手段)のでもなく,使用価値の姿態をもって右往左往しているこれら凡俗の商品に対立して,価値の唯一の姿態として,価値の唯一の適合的な定在と して現われるようにさせる,それの独自の一機能がある。
この二つの場合に貨幣である金が果たす諸機能は,価値尺度としてのそれの機能や流通手段としてのそれの機能とは,はっきりと区別されなければならない。これらの場合には,金は,価値尺度としてでも流通手段としてでもなく,まさに貨幣として機能するのである。
以上が,さきの文章の意味するところの大要である。
ところで,ここで述べられている貨幣としての貨幣の機能のうちの前者,すなわち「貴金属がその金属体のままで,諸商品の実在的な等価物として,すなわち貨幣商品として現われなければならない諸機能」に属するのは,貨幣蓄蔵が金属流通において果たす諸機能および世界貨幣としての貨幣が果たす諸機能だと考えられる。金属流通のもとでは,すなわち金属貨幣が流通手段として現実に流通していて,流通貨幣量の増減がこの金属貨幣の増減によって調節されている場合には,この調節は蓄蔵貨幣貯水池の存在によって行なわれる。この貯水池に溜まることができるのは金属的現身をもつ貨幣だけである。また,世界市場 で国際的支払手段,国際的購買手段,富の絶対的物質化として機能する貨幣,すなわち世界貨幣は実在的な金銀でなければならない。これらの機能では,金属体での金はつねに「諸商品の実在的な等価物」として,「貨幣商品」として存在しているのである。
それにたいして,貨幣としての貨幣の機能のうちの後者,すなわち「貴金属が自分自身で果たすことも代理者を通じて果たすこともできるが,貴金属がつねに,諸商品の価値の唯一適合的な化身として普通の商品のまえにたちはだかるという,別の一機能」とは,、支払手段としての貨幣の機能であろう。支払手段としての貨幣は,本源的には商品の信用売買によって過去に発生した債務を決済するために流通にはいるが,ここでは貨幣は,「素材変換のただ瞬過的な媒介的形態」としてではなくて,「社会的労働の個別的化身,交換価値の自立的な定在,絶対的商品」として現われる。それはとりわけ,諸支払の決済機構の撹乱としての貨幣恐慌のさいに誰の目にも見えるものとなる。貨幣は「卑俗な商品では代わることができないもの」になる。「商品の使用価値は無価値となり,商品の価値はそれ自身の価値形態〔すなわち貨幣〕のまえに影を失う」。貨幣はまさに「唯一の価値姿態」,「諸商品の価値の唯一適合的な化身」として,「たんなる使用価値として他のすべての商品に対立させて固定」されるのである。しかし、ここでは「貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない」のであって,求められる貨幣は,金そのものばかりではなく,銀行券であろうと,さらには価値章標であろうと,そのときの商品世界で貨幣として通用しているものでありさえすればいい。つまり,金はこの機能を「代理者を通じて果たす」ことができるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ190-192頁)
◎「a 貨幣蓄蔵」という表題について
〈a 貨幣蓄蔵〉
先の「第3節 貨幣」と同じように、何故、この表題そのものを問題にするのかといいますと、久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン』「貨幣III」の栞によりますと、マルクスの付けたこの表題に異議を唱える人がいるらしいのです。その代表的な人として栞では小林威雄氏の主張が紹介されています(その内容は省略)。それに対して、久留間氏はなぜ、この表題がこのようになっているのかを、次のように説明しています。これはすでに述べましたが、第3節の表題が定冠詞のない「貨幣」になっていることと併せて説明されており、参考になります(紹介に際して、若干、引用に鍵括弧を入れるなど修正しました)。
〈久留間 いま紹介された小林氏の議論のなかにはどうかと思われる点がいくつかあるが、それらはすべて、マルクスが第三節の(a) の表題を「貨幣蓄蔵」としているのに反対して、それは「蓄蔵貨幣」と改めるべきだ、という主張を根拠づけるためのものなのだから、それらの検討はあとのことにして、まずもって、マルクスが第三節の(a) の表題を「貨幣蓄蔵」としたさいに彼がどのような考えでそうしたかを考えてみることにしましょう。『経済学批判』のなかで、マルクスは次のように言っています。
第三節の(a)の表題をマルクスが「貨幣蓄蔵」としたのはどのような意図によったのだろうか
「貨幣〔Das Geld〕が貨幣蓄蔵によって抽象的社会的富の定在として、素材的富の物質的代理者として展開されるやいなや、それは貨幣〔Geld〕としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる。」(『経済学批判』、ヴェルケ版、第13巻、115ページ。)
同じく「貨幣」とはいっても……
この内容に立ちいる前に、念のために注意しておきたいと思うことがあるのですが、それはどういうことかというと、いま引用した個所のなかに同じ「貨幣」という言葉が二度出てくるが、前の場合の「貨幣」とあとの場合の「貨幣」とは、その意味内容がちがっているということ、このちがいをはっきりさせて読まないと全体の意味がわからなくなる、ということです。では、そのあいだにどのような区別があるかというと、前の場合の貨幣は、それが順次に発展していろいろの規定性をもつことになるのだけれど、ひとまずそれらの規定性から離れて考えた貨幣、いわば貨幣一般を意味するものであり、後の場合の貨幣は、第三節で問題にされている特殊の規定性における貨幣なのです。マルクスはこの規定性における貨幣を、『グルントリッセ』(『経済学批判要綱』--引用者)では、「第三の規定性における貨幣」とも呼んでいます。第三の規定性というのは、「価値の尺度」および「流通手段」の次の規定性という意味であることは確かでしょう。そこで、あとのほうの「貨幣」は「第三の規定性における貨幣」といえばその内容がはっきりするから、そういうふうに言いかえてみると、さきに引用したマルクスの文章は次のようになります。
この区別をわきまえて前に引用したマルクスの文章を説みかえすと
「貨幣が貨幣蓄蔵によって抽象的社会的富の定在として、素材的富の物質的代理者として展開されるやいなや、貨幣は、第三の規定性における貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる。」
これを読んでまず明らかになることは、貨幣は貨幣蓄蔵によって、抽象的社会的富の定在および素材的富の物質的代理者として発展することになるのだということ、貨幣がこのようなものとして発展してくると同時に、それは、第三の規定性における貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになるのだ、ということです。なお、ここで「流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる」と言っている場合の諸機能は、さしあたっては、第三節の(a) のあとの(b)「支払手段」および(c)「世界貨幣」を指しているものと考えられます。「さしあたっては」というのは、さらに進んでは、商品に代わって価値が運動の主体になる資本の運動--G-W-G'--の発端の形態としてのGの機能をも予想しているように考えられるからです。〉 (レキシコンの栞№12 2-3頁)
そして久留間氏は、(a)の表題を「蓄蔵貨幣」とすべきという人たちは、第三節「貨幣」の三つの機能のうちの(a)とし、(b)「支払手段」、(c)「世界貨幣」というかたちで整然としたものになると考えているようだが、これは蓄蔵貨幣そのものを貨幣の一つの独自の機能だと考えるという誤解にもとづいているとして、次のように述べています。
〈しかし、蓄蔵貨幣を貨幣の機能だと考えるのはまちがっていると思う。蓄蔵貨幣は、貨幣が置かれている一つの状態、あるいは貨幣の一つの形態規定ではあるが、それ自身が貨幣の一つの独自の機能なのではない。〉 (同4頁)
ただ貨幣はそれが蓄蔵されていることによって様々な機能を行うということは出来る、とも述べて、『資本論』から抜粋・紹介しながら、次のように説明しています。
〈「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではさまざまな機能を果たす。そのさしあたりの機能は、金銀鋳貨の流通条件から生じる。すでに見たように、商品流通の規模や価格や速度がたえず変動するのにつれて、貨幣の通流量も休みなく干満を繰り返す。だから、貨幣通流量は、縮小し拡大することができなければならない。あるときは貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。現実に通流する貨幣量が流通部面の飽和度にたえず照応しているためには、一国にある金銀量が鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は、同時に流通している貨幣の流出流入の水路として役立ち、したがって、流通する貨幣はその通流水路からけっしてあふれ出ないのである。(『資本論』第1巻、148ページ。) (〔323〕)
「各国は、その国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにもそれを必要とする。だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生じる。……」 (『資本論』第1巻、158-159ページ。)
「……たしかに、私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能すなわち、国内の支払手段のための、満期になった支払のための、準備金としての機能や流通手段の準備金としての機能や最後に世界貨幣の準備金としての機能がただ一つの準備金に負わされるということによって、ある複雑さがはいりこんでくる。このことからはまた、事情によってはイングランド銀行から国内への金流出が外国への流出と結びつくこともありうるということにもなる。しかし、そのほかになお複雑さが加わってくるのは、この蓄蔵貨幣にまったくかってに負わされているもう一つの機能、すなわち信用制度や信用貨幣が発達している諸国では銀行券の兌換の保証準備として役立つという機能によってである。……」(『資本論』第3巻、470-471ページ。) 〔378〕)
しかしこのことは、蓄蔵貨幣そのものが貨幣の一つの独自な機能だということを意味するものではない
このように、貨幣は蓄蔵貨幣の形態にあることによっていろいろの機能を果たしはするが、しかしこのことは、蓄蔵貨幣そのものが貨幣の一つの独自な機能だということを意味するものではない。貨幣の第一の機能は価値の尺度であり、第二の機能は流通手段であり、第三の機能は--蓄蔵貨幣ではなくて--支払手段なのです。小林氏が「貨幣蓄蔵」は「蓄蔵貨幣」と改めらるべきだと考える場合、このことの認識不足--すなわち蓄蔵貨幣そのものを、流通手段と支払手段との中間に位置する、それらと同格な、貨幣の一つの独自な機能だと思いちがえること--が、その根底にあるように思えるのです。このさい小林氏に--その他同じ考えに立つ改題論者に--望むことは、まず、蓄蔵貨幣を貨幣の機能だと考える既成観念を再検討してもらいたいということ、そのうえで、さきに紹介した『経済学批判』の個所を熟読玩味してもらいたいということ、そうしたうえで、第三節「貨幣」の(a) の表題を「蓄蔵貨幣」と改めるのが適当かどうかを、再考してもらいたいということです。〉 (同4-5頁)
さらに久留間氏の説明は続くのですが、それはそのあとの問題に関連してきますので、そこで紹介することにして、最後に次のようにも述べていることを紹介しておきます。
〈このさい重要なのは、貨幣蓄蔵が行なわれると、その結果貨幣が蓄蔵貨幣になる、ということではなく、第三の規定性における貨幣になる、ということです。さきに紹介した『経済学批判』のなかのマルクスの叙述をみると、このことがわかるはずです。〉 (5頁)
なんともややこしい話ですが、マルクスは『批判』で〈このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣である。〉(全集第13巻106頁)と述べています。ここで〈貨幣として〉というのは、久留間氏の説明を援用すれば、〈第三の規定性における貨幣〉(=定冠詞のないGeld)の意味ですから、第三の規定性における貨幣(=ゲルト)として不動化されたものが蓄蔵貨幣なのだということです。だから蓄蔵貨幣というのは、貨幣のある一定の状態、あり方を表す言葉ではあるが、それ自体が貨幣の機能を意味するわけではないということです。しかし、貨幣が蓄蔵貨幣という状態にある場合には、それによってさまざまな機能を果たすのだということのようです。
たった表題の問題だけで大変長い説明になってしまいましたが、そろそろ肝心の本文に入って行きましょう。
(字数がブログが設定している制限をオーバーしましたので、全体を三分割して掲載します。本文の続きは(2)に。)