『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(1)

2020-02-14 22:28:51 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(1)

 

◎〈現象形態の分析〉→ 〈本質の把握〉→ 〈「謎」の浮上〉→〈現象形態の展開による「謎」の解明〉,という認識の筋道(大谷新著の紹介の続き)

  今回も大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」から紹介します。前回は第10章から紹介しましたが、今回は次の「第11章 マルクスの価値形態論」を取り上げましょう。これは1993年9月に『経済志林』第61巻第2号に「価値形態」という表題で発表したものを再録したものです。大谷氏は〈そこでの説明の内容には,マルクスの価値形態論についての多くの解説とは異なる筆者の独自の理解が含まれている〉(471頁)と述べています。しかしその独自の理解のすべてを紹介することはできませんので、ここでは〈貨幣形態の謎〉や〈貨幣の謎〉と関連させて論じている、方法論的に注目すべきと思える叙述を紹介するだけにします。次のように述べています。

 〈すでに序論で述べたように,ある事象を分析して,その事象の本質を把握し,その事象がこの本質の現象形態であることをつきとめたとしても,それだけでこの事象が理解できたとは言えない。把握された本質は,出発点であった現象形態にそのままのかたちで現われてはいなかったのであり,だからこそ,それの把握に分析を必要としたのである。だから,本質が把握されれば,それはまず,出発点であった現象形態と一致しないように見えるのがむしろ当然である。この不一致は,認識の過程として見れば,解かれるべき「謎」なのであり,この「謎」を解いてこの不一致を解消させることが,われわれが本質を把握したのちに,直ちに当面する課題である。そして,この「謎」の解明は,本質からそれの現象形態を展開する(developする,entwickelnする)こと,言い換えれば本質の認識にもとついて諸現象を説明すること,本質の転倒的形態の必然性をその本質そのものから明らかにすることによって成し遂げられるのである。このような,〈現象形態の分析〉→ 〈本質の把握〉→ 〈「謎」の浮上〉→〈現象形態の展開による「謎」の解明〉,という認識の筋道は,だから,いま問題にしている価値形態の認識に限られるものではなく,どのような事象の認識についても共通のものだと言わなければならない。
  ここで,三つのことを注意しておきたい。
  第1に,われわれがいま当面している「謎」がこのようなものであるとすれば,この「謎」は,われわれが最初に現象形態に接したときから「謎」としてあったわけではない,ということである。つまり,そこに現象していた本質が把握されたからこそ,本質と現象形態との不一致が「謎」として浮び上がってきたのである。このような,本質の把握ののちに解かれるべき課題としての「謎」と,貨幣にまつわりついており,人びとの日常的な意識にのぼっている,どことなく謎めいて見える性格とは,はっきりと区別されなければならない。
  第2に,われわれが最初に現象形態を分析して本質を析出するときには,われわれにはまだ本質はわかっていなかったのだから,そこでは,本質がどのように現われるのか,ということはまだ問題になりようがなく,現象形態そのものがどのようなものか,ということはまだ関心の的になりえなかったのであって,もっぱら,この形態から本質をつかみだすことに全力を集中したのであった。それにたいして,いまは,つまり本質から現象形態を展開するときには,本質はすでに既知のものとして前提して,われわれの関心を形態そのものに集中する。そして,ここではじめて,本質の認識にもとついて現象形態そのもの分析することになる。言い換えれば,本質が現象形態として現われるさいのその仕方様式そのものが分析されるのである。だから,現象形態はすでに与えられているのであって,ここでの本質からの現象形態の展開とは,あくまでも,このように与えられている現象形態の分析なのであって,本質から形態を演繹的,自己展開的に導出する,といったものではまったくない。
  そこで第3に,このような現象形態の分析と展開とを通じて現象形態がよく理解されることによって,そこに現象する本質についての認識も深まることはたしかであるが,そのことは,本質がここではじめて把握される,ということを意味するものではなく,あくまでも,本質の認識はすでに与えられているのだ,と考えられなければならない。価値形態について言えば,その分析,展開には,価値という本質の認識が,つまり価値概念がすでに与えられているのであって,これなしには,それが現象する形態の分析,展開はありえない。価値形態の展開のなかで価値概念がどれだけ「豊富」になるとしても,それはけっして,この分析,展開の結果はじめて価値概念が得られる,ということを意味するのではないのである。〉 (479-480頁)

  それでは本題に入りましょう。今回から「第3章 貨幣または商品流通」「第3節 貨幣」に入ります。


◎第3節の表題

〈第3節 貨幣〉

 新日本新書版と上製版には、この表題について次のような訳者注がついています。

 〈この「貨幣」は、貨幣一般を意味するDas Geld(第三章の表題) ではなく、定冠詞のないGeld(英語でmoney)であり、価値尺度および流通手段という第一および第二の規定にたいして「第三の規定における貨幣」とマルクスが呼んだものである。フランス語版では、この表題はLa monnaie ou l'argentとなり、次の最初のパラグラフもすっかり書き換えられている。〉 (上製版218頁、新書版219頁)

 なおこの定冠詞のついている「貨幣」とついていない「貨幣」との区別と意味については、後の〈a 貨幣蓄蔵〉という小項目の表題に関連して紹介するレキシコンの栞にある久留間鮫造氏の説明を参照してください。
 ここでは大谷禎之介氏の「貨幣の機能II」(『経済志林』第62巻第3・4号)の説明を紹介しておきましょう。

  〈すでに価値形態および交換過程の研究のなかで見たように,貨幣とは,交換過程の矛盾を媒介するものとして必然的に成立する一般的等価物の機能を社会的に独占する独自な商品である。だから,そもそも貨幣の概念のうちに,それが一般的等価物として機能するものだ,ということが含まれている。
  価値形態のところで見たように,一般的等価物である貨幣は,まずもってすべての商品のために価値表現の材料として役立つ。そこで第1に,貨幣のこの役立ちを,あらためて貨幣を主体としてそれの機能として,すなわち貨幣の価値尺度の機能として考察した。さらに,交換過程のところで見たように,一般的等価物は商品交換を,商品がひとまず一般的等価物に変態し,そののちに一般的等価物からさらに任意の商品に変態する,という過程に転化することによって,交換過程の矛盾を打開するのであって,商品の全面的交換が発展するにつれて,一般的等価物は最終的にはある特定の商品種類に--金銀に--固着せざるをえない。こうして貨幣が成立する。そこで第2に,このようにして成立した貨幣による商品の全面的な交換過程の媒介の役立ちを,あらためて貨幣を主体としてそれの機能として,すなわち貨幣の流通手段の機能として考察した。
  これらの考察のさい,つねに,貨幣商品は金だとしてきたが,しかし金が価値尺度の機能を果たすのは,生身の金そのものとしてではなくて,表象されただけの金,観念的な金としてであったし,W-G-Wを媒介する流通手段としての金は,流通過程の自然発生的な傾向によって,現実の金を代表するそれの象徴(シンボル)によって代理されるようになるのであって,金貨そのものが流通する場合でさえも,それは仮象の金として,すなわち完全な量目と品位の金貨のシンボルとして流通するのであった。
  けれども,価値尺度で表象されており,流通手段で象徴的(シンボリック)に代理されているのは, 、まさに現実の金,本物の金である。価値尺度の機能を果たす観念的な金は,それによって表象される現実の金の存在を前提しているし,流通手段として流通する象徴は,それによって代表される現実の金の存在を前提しているのであって,どちらの機能も,すでに金が一般的等価物として商品世界から排除され,一般的等価物の機能を社会的に独占していること,要するに金が貨幣となっていることを前提している。つまり,ある商品世界あるいはある国のなかで金が価値尺度として表象されており,かつ金が鋳貨によって象徴的に代理されているときには,そこではすでに,金が貨幣となっており,金という自然素材が貨幣とい形態規定を受け取っているのである。
  だから,この商品世界で価値尺度としても流通手段としても機能している独自の商品はなにか,と問うことは,この世界で一般的等価物としての機能を社会的に独占している商品はなにか,と問うこと,ここでの貨幣商品はなにか,と問うことと同じである。そしてそれは,商品世界のなかに労働生産物として現実に存在する金以外のものではありえない。この世界では,現物の金そのものが貨幣なのであり,それそのものが貨幣という形態規定をもっているのである。
  そこで,価値尺度として表象され,鋳貨および価値章標によって象徴的に代理される,貨幣である現物の金そのものは,それを観念的に表象しただけの〈価値尺度としの貨幣〉,および,それの象徴的な代理物でありうる〈流通手段としての貨幣〉とは区別して,〈貨幣としての貨幣〉と呼ばれる。 
  この〈貨幣としての貨幣〉は,貨幣の〈第一の規定〉であった価値尺度および〈第二の規定〉であった流通手段にたいして,〈第三の規定における貨幣〉である。また,〈価値尺度としての貨幣〉も〈流通手段としての貨幣〉もともに,貨幣である金が果たす機能であるのにたいして,〈貨幣としての貨幣〉は,これこそが〈貨幣〉なのだ,という意味で,<本来の意味での貨幣〉,あるいは〈厳密な意味での貨幣〉と言うこともできる。〉 (180-181頁)

◎前文(第3節全体の前文)

【前文】〈(イ)価値尺度として機能し、したがってまた自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品は、貨幣である。(ロ)それゆえ、金(または銀)は貨幣である。(ハ)金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、したがって貨幣商品として、現われなければならない場合、すなわち価値尺度の場合のように単に観念的にでもなく流通手段の場合のように代理可能にでもなく現われなければならない場合であり、他方では、その機能が金自身によって行なわれるか代理物よって行なわれるかにかかわりなく、その機能が金を唯一の価値姿態または交換価値の唯一の適当な定在として、単なる使用価値としての他のすべての商品に対立させて固定する場合である。〉

  (イ)(ロ) 価値尺度として機能し、したがってまた、自分の肉体でかまたは代理物によって流通手段として機能する商品、--それは貨幣(=定冠詞のない貨幣〔Geld〕)です。ですから、現にそのように機能している商品である金(または銀)は貨幣(ゲルト)なのです。

  この前文は、その位置から考えて、「第3節 貨幣」全体に対する前文と考えることができます。だから「第3節」の小項目「a 貨幣蓄蔵」、「b 支払手段」「c 世界貨幣」の内容を含んだものと考えられるわけです。
 『経済学批判』では〈だからある商品(金--引用者)は、まず価値尺度と流通手段との統一として貨幣となる。言いかえるならば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣である〉(全集第13巻103頁)と述べています。
  私たちは「第3章 貨幣または商品流通」をまず「第1節 価値の尺度」を考察し、そして次に「第2節 流通手段」を考察しました。そして「第3節 貨幣」を今度は考察するのですが、この貨幣(定冠詞のない貨幣[Geld〕)は、第1節と第2節でそれぞれ考察された貨幣の機能を統一したものだということです。
  ただ注意が必要なのは、この統一というのは大谷氏によれば〈否定的な統一〉なのであって、両機能を統一して併せ持っているということではなく、それらを否定するという関連のなかで統一しているということなのだそうです。なかなか難しいのですが、注目すべき指摘ですので、長くなりますが大谷氏の説明をすべて紹介しておきます。

  〈ただし,価値尺度としても,流通手段としても,金は金属的現身において登場する必要はないし、また逆に、金が金属的現身にある本来の貨幣として存在しているときは、それ自体は価値尺度としても流通手段としても機能してはいない。ある量の無垢の金が〈貨幣〉として存在し続けているとすれば、このことはむしろ、それ自身は価値尺度としても流通手段としても機能していないのだ、ということを意味している。だから,ここで〈価値尺度と流通手段との統一〉と言うのも,現に価値尺度として機能し,かつ流通手段としても機能しているもの,ということではない。むしろ,価値尺度としての貨幣でも流通手段としての貨幣でもなくなっていることによって〈貨幣〉そのものでありうるのだ,という意味では,それは「価値尺度としての貨幣と流通手段としての貨幣との否定的な統一」なのである。
  この「否定的な統一」の意味については,やや難解ではあるが,『経済学批判要綱』での次の文を参照されたい。すでに「概説」で見たように,商品がW-Gののちに,次にG-Wに移らないで流通から引き揚げられると,Gは〈蓄蔵貨幣〉となる。そしてこの蓄蔵貨幣は,本来の貨幣,貨幣としての貨幣の形態にある貨幣である。このことを念頭においておけば,ここでの記述の主旨は理解できるであろう。
  「……貨幣は,自立して流通から抜けだして流通に対立するものとしては,流通手段としての貨幣の規定と尺度としての貨幣の規定との否定(否定的な統一)である。……/第1に。貨幣は流通手段それ自体の,つまり鋳貨の否定である。しかしそれは同時に鋳貨を,自己がたえず鋳貨に転形されうる,ということによって否定的に,世界鋳貨〔世界市場で流通する貨幣〕として肯定的に,自己の規定として含んでいるのであるが,しかしそれ自体としては,貨幣は形態規定には無関心であって,本質的に商品それ自体であり,つねにいたるところに存在する商品,つまり場所によって規定されることのない商品なのである。…… /第2に。貨幣は,諸商品の諸価格のたんなる実現--この場合には特殊的な商品がつねにどこまでも本質的なものである--としての貨幣の否定である。それはむしろ,自己自身において実現されている価格となるのであり,またそのようなものとして富の物質的代表者となり,また富のたんに特殊的であるにすぎない諸実体としてのすべての商品に対立する富の一般的形態となるのである。だが,/第3に。貨幣は,それが諸交換価値の尺度にすぎないときの規定においても否定されている。富の一般的形態として,また富の物質的代表者として,それはもはや他の富の,つまり諸交換価値の観念的な尺度ではない。というのは,それそのものが交換価値の適合的な現実性であり,しかもそれがそのような現実性であるのは,それの金属的な定在においてなのだからである。……尺度としては,貨幣がどれだけ〔現実に〕あるかという,その数量〔Anzahl〕はどうでもよいことであったし,流通手段としては,単位となる物質がなんであるかという,貨幣の物質性はどうでもよいことであったが,この第3の規定における貨幣としては,特定の物質的な分量としてどれだけあるか,という貨幣自身の数量〔Anzahl〕が本質的である。一般的富というそれの質が前提されているのだから,それにはもはや量的な区別以外の区別はない。それは,それがいま一般的富の一定分量として所持される数量〔Anzahl〕の多寡に従って,一般的富の多寡を表わすのである。……」(MEGA,II/1.1,S.152-153.)
  マルクスはまた,このような,〈価値尺度としての貨幣〉と〈流通手段としての貨幣〉との統一でありながら,しかも両者の否定でもあるという〈貨幣としての貨幣〉が果たす機能について,『経済学批判。原初稿』で次のように書いている。
  「……〔国際的交換手段および国際的支払手段という〕貨幣としての貨幣のこれらの機能においては,貨幣は,きわめて異様なことに〔am auffallendsten〕,貨幣という,尺度と流通手段との統一という単純で同時にまた具体的な形態で機能しながら,しかも尺度としても流通手段としても機能してはいない……。」(MEGA,II/2,S.28.)
  〈価値尺度としての貨幣〉と〈流通手段としての貨幣〉と〈貨幣としての貸幣〉という,これら三つの規定を明確に区別したうえで,さらにそれらのあいだの関連を明らかにするのは,貨幣そのものの本質と生成とについての深い理解がなければ不可能である。日常生活のなかでの常識的な観念のなかでは,目に見える現象にとらわれて,これらの規定はさまざまのしかたで混同され,同一視されることにならざるをえない。
  しかし,商品の価格としてたんに表象されているだけの価値尺度としての貨幣と,実在的な鋳貨および実在的な本来の貨幣との区別は,観念的なものと実在的なものとの区別として,感覚的にも比較的容易である。これにたいして,実在的な鋳貨または価値章標の形態にある流通手段と,実在的な本来の貨幣とは,常識的な目には同じ実在的なものとして映じるので,どちらも〈金(カネ)〉として無区別にとらえられることになる。
  とはいえ,この両者のあいだの区別も日常的な感覚に投影されているのであって,たとえば,「イギリス人は流通手段としての貨幣のためにcurrellcyという良い表現を(鋳貨つまりcoinはそれに対応しない,なぜならこれ自体がまた一つの特殊性にある流通手段なのだから),第三の属性における貨幣〔つまり本来の貨幣〕のためにmoneyという良い表現をもっている」(MEGA,ll/1.2,S.735)。つまり,英語のcrrencyとmoneyとの区別には、鋳貨としての流通手段と本来の貨幣との区別が反映しているのである。日本語の〈御足(オアシ)〉ないし〈通貨〉ももともとは流通手段としての貨幣を表現する言葉である。
  しかし両者のあいだの区別は,本来の貨幣が理論的に把握されたときに,はじめて明確になるのであって,本来の貨幣をそれとして展開することができなかったイギリスの古典経済学者たちは,なにが鋳貨でなにが木来の貨幣なのか,ということを理論的に明らかにすることができなかった。
  資本主義的生産の当時者である資本家はもちろんのこと,マルクス以前の経済学者たちも,流通手段(鋳貨)と本来の貨幣との概念的な区別ができず,これらを混同したり,同一視したり,どちらかを無視したりするのであるが,さらにこれらのものと,ここではまだ取り上げることができない資本,とくに貨幣の形態にある資本(貨幣資木),そして貨幣形態で貸付けられる資本(利子生み資本)とを混同する。そのために,さまざまの深刻な,場合によってはまったくばかげた「混乱」が引き起こされる。たとえば,日常用語では,〈金(カネ)〉とは鋳貨であり,貨財でもあり,資本でもあるのであって,これらすべてが無区別に金(カネ)と呼ばれる。
  マルクスによる資本の理論の展開は,これらの概念のすべてを,体系的にそれぞれ然るべきところで確定して,それらの概念のあいだの区別と関連とを明らかにしていく。しかし,この仕事は,のちの利子生み資本の研究のところまで進んで,はじめて本格的に総括することができるものだから,いまここでは,こうした問題の所在を示唆するだけにとどめよう。
  なお,この注で引用した『経済学批判要綱』および『経済学批判。原初稿』は,ともに著書『経済学批判。第1分冊』よりも前に書かれた草稿であって,研究者にとっては〈汲めども尽きぬ泉〉なのであるが,初学者がそのすべてをただちに読みこなすことができるようなものではない。そこで,『資本論』の読者のために,この三つの著作でのものを含め,貨幣に関するマルクスのさまざまの叙述を体系的に整理・編集したものが,久留問鮫造編『マルクス経済学レキシコン』⑪(「貨幣1」)~⑮(「貨幣V」),大月書店,1979-1985年(近く,同書の邦訳部分をまとめた普及版が刊行される)である。その各巻に付された「栞」所載の「談話室」では,編者が通説とは異なる自説などを自在に語っており,これも『資本論』の内容の理解に役立っであろう。〉 (貨幣の機能Ⅱ186-189頁、下線は大谷、太字はマルクスによる強調)

  (ハ) 金が貨幣として機能するのは、一方では、その金の(または銀の)肉体のままで、それゆえ貨幣商品として、現われなければならない場合、つまり、価値尺度でとはちがって単に観念的にでもなく、流通手段でとはちがって代表されることができるようにでもなく、現われなければならない場合です。

  ここで〈貨幣として機能する〉という場合の〈貨幣〉というのも、いうまでもなく定冠詞のないGeld(ゲルト)です。ややこしく、いちいち説明するのも面倒なので、定冠詞のない場合の「貨幣」はすべて「貨幣(ゲルト)」と書くことにします。
  つまり貨幣が貨幣(ゲルト)として機能するのは、その金の肉体のままで、貨幣商品として現われなければならない場合だということです。だからそれは価値尺度の機能のように、ただ観念的な貨幣として果すようなものではなく、また流通手段のようにその代理物(補助鋳貨や紙幣など)によって果すようなものではない、金がその肉体のままで果たす機能だということです。
  ではそれはどういうものでしょうか。それはこのあとすぐに出てくる〈a 貨幣蓄蔵〉のなかにある〈蓄蔵貨幣〉と〈c 世界貨幣〉ではないかと思います。これら両者ともに貨幣は貨幣(ゲルト)、すなわち現物の金そのものとして存在しなければならないからです。

 (ハ)’ 金が貨幣として機能するのは、他方では、それの機能が、金自身によって果されるのか代理物よって果されるのかにかかわりなく、金を唯一の価値の姿または交換価値の唯一の適当な存在として、たんなる使用価値としてのほかのすべての商品に対立させて固定する場合です。

  同じ貨幣(ゲルト)であっても、もう一つその機能が、金自身によって果されるだけではなくて、その代理物によっても果される機能があるのです。それは〈b 支払手段〉に出てくる支払手段としての貨幣の機能です。この場合は金の現物そのものももちろん支払手段としての機能を果すことはできますが、それだけではなく、その代理物、例えば銀行券、特に法定通貨の規定を受けたイングランド銀行券のようなものも、支払手段としての機能を果すことが出来るのです。
  そしてこうした支払手段としての機能を果すものは、金あるいはその代理物が、唯一の価値の姿、あるいは交換価値の唯一の適当な存在として、単なる使用価値である他のすべての商品に対立して固定される場合だということです。こうした支払手段としての貨幣の機能は、後に検討することになりますので、ここでは詳論はしないでおきます。

  最後に、この部分の大谷氏の説明を紹介しておきましょう。

  〈このように,価値尺度において表象されており,かつ,流通手段において象徴的に代理されているものは,商品世界のなかですでに貨幣という形態規定を与えられている自然素材としての金,金属的現身の金である。価値尺度としての機能にとって前提され,かつ,流通手段としての機能にとって前提されている貨幣とは,まさにこの本来の貨幣にほかならない。本来の貨幣は,たんに価値尺度としての貨幣において表象されているだけでも,またたんに流通手段としての貨幣において象徴的に代理されているだけでもなく,この両者の形態規定が存在するところにはじめて存在する形態規定なのである。その意味で、本来の貨幣は「価値尺度と流通手段との統一」だと言うことができる。
  さて,価値尺度の機能と流通手段の機能とはどちらも,金という独自の商品が貨幣となっているところで,観念的に表象されたそれが果たす,またはそれを象徴する代理物が果たしうる機能であって,どちらの場合にも機能しているのは,現実の金そのもの,つまり本来の貨幣ではなかった。ところが,この二つの機能とは違って,現実の金,無垢(ムク)の金そのものこそが,つまり本来の貨幣がはじめて十全に,あるいは適合的に(entsprechend)果たすことができるもろもろの機能がある。そしてこれらの機能においてこそ,金が価値尺度としてでも流通手段としてでもなく,文字どおり貨幣として機能している,と言うことができるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ182-183頁)

  さらに大谷氏がこの前文そのものを解説しているものがありますので、それも紹介しておきましょう。

  〈短いけれども含蓄の多いこの文章(前文のこと--引用者)の意味を理解するには、マルクス自身が手を入れた『資本論』フランス語版での同じ箇所の文章が参考になる。
  「これまでわれわれは貴金属を,諸価他の尺度および流通の用具という二つの見地から考察してきた。貴金属は第1の機能を観念的な貨幣として果たすのであり,第2の機能では貴金属は象徴によって代理されることができる。だが,貴金属がその金属体のままで,諸商品の実在的な等価物として,すなわち貨幣商品として現われなければならない諸機能〔des fonctions〕がある。さらに,貴金属が自分自身で果たすことも代理者を通じて果たすこともできるが,貴金属がつねに,諸商品の価値の唯一適合的な化身として普通の商品のまえにたちはだかるという,別の一機能〔une autre fonction〕もある。これらすべての場合にわれわれは,貴金属が,諸価値の尺度および鋳貨としての機能とは対照的に,貨幣,または厳密な意味での貨幣として機能する〔fonctionner comme monnaie ou argent proproment dit〕,と言うのである。」(MEGA,II/7,S.102.)
  フランス語版を参考にして,前者の文章の意味を敷延してみよう。
  第3章第1節では,金を貨幣にする第1の機能である価値尺度の機能を考察した。価値尺度としては貨幣は表象されただけの観念的な金であったが,この金によって自己の価値を価格として表現する諸商品は,この価格を実現して実在的な価値体に転化し,さらに自己を価値として実現しなければならない。商品のこのような変態のなかで金が果たす媒介的機能が,第2節で考察された流通手段の機能である。この機能は,金自身によってだけではなく,それを代表するシンボルによっても果たされることができるものであった。このように,価値尺度として機能する商品,だからまた流通手段としても--それ自身でかあるいはそれの代理者によって--機能する独自な商品が,貨幣という経済的形態規定をもつ商品である。「金は生まれながらに貨幣であるのではない」にもかかわらず,こうした形態規定をもつことによって,金(または銀)は貨幣なのである。
  これまで考察してきた価値尺度および流通手段は,そのような貨幣の果たす機能だったのであるが,しかし,価値尺度の機能では,貨幣はこの機能をただ表象されただけの貨幣で果たすのであったし,流通手段の機能では,貨幣はこの機能をそれのシンボルを通じて果たすことができた。だから,金が貨幣であるにもかかわらず,この二つの機能にあっては,貨幣としての金が実際に金の肉体のままで現われる必要はなかった。
  ところが,これに反して,貨幣としての金がそれの肉体において,それの金属的現身において現われなければならない場合がある。つまり,貨幣としての金が,価値尺度の場合のように観念的に現われるのでも,流通手段の場合のように代理可能なものとして現われるのでもなくて,実在するその独自の商品の姿態で,つまり貨幣商品として現われなければならない場合である。
  他方,金が流通手段の場合と同様に自己の代表者を通じて果たすこともできる機能ではあるが,しかし,金に,諸商品に価値表現の材料を提供する(価値尺度)のでもなければ,諸商品の流通過程を媒介する(流通手段)のでもなく,使用価値の姿態をもって右往左往しているこれら凡俗の商品に対立して,価値の唯一の姿態として,価値の唯一の適合的な定在と して現われるようにさせる,それの独自の一機能がある。
  この二つの場合に貨幣である金が果たす諸機能は,価値尺度としてのそれの機能や流通手段としてのそれの機能とは,はっきりと区別されなければならない。これらの場合には,金は,価値尺度としてでも流通手段としてでもなく,まさに貨幣として機能するのである。
  以上が,さきの文章の意味するところの大要である。
  ところで,ここで述べられている貨幣としての貨幣の機能のうちの前者,すなわち「貴金属がその金属体のままで,諸商品の実在的な等価物として,すなわち貨幣商品として現われなければならない諸機能」に属するのは,貨幣蓄蔵が金属流通において果たす諸機能および世界貨幣としての貨幣が果たす諸機能だと考えられる。金属流通のもとでは,すなわち金属貨幣が流通手段として現実に流通していて,流通貨幣量の増減がこの金属貨幣の増減によって調節されている場合には,この調節は蓄蔵貨幣貯水池の存在によって行なわれる。この貯水池に溜まることができるのは金属的現身をもつ貨幣だけである。また,世界市場 で国際的支払手段,国際的購買手段,富の絶対的物質化として機能する貨幣,すなわち世界貨幣は実在的な金銀でなければならない。これらの機能では,金属体での金はつねに「諸商品の実在的な等価物」として,「貨幣商品」として存在しているのである。
  それにたいして,貨幣としての貨幣の機能のうちの後者,すなわち「貴金属が自分自身で果たすことも代理者を通じて果たすこともできるが,貴金属がつねに,諸商品の価値の唯一適合的な化身として普通の商品のまえにたちはだかるという,別の一機能」とは,、支払手段としての貨幣の機能であろう。支払手段としての貨幣は,本源的には商品の信用売買によって過去に発生した債務を決済するために流通にはいるが,ここでは貨幣は,「素材変換のただ瞬過的な媒介的形態」としてではなくて,「社会的労働の個別的化身,交換価値の自立的な定在,絶対的商品」として現われる。それはとりわけ,諸支払の決済機構の撹乱としての貨幣恐慌のさいに誰の目にも見えるものとなる。貨幣は「卑俗な商品では代わることができないもの」になる。「商品の使用価値は無価値となり,商品の価値はそれ自身の価値形態〔すなわち貨幣〕のまえに影を失う」。貨幣はまさに「唯一の価値姿態」,「諸商品の価値の唯一適合的な化身」として,「たんなる使用価値として他のすべての商品に対立させて固定」されるのである。しかし、ここでは「貨幣の現象形態がなんであろうとかまわない」のであって,求められる貨幣は,金そのものばかりではなく,銀行券であろうと,さらには価値章標であろうと,そのときの商品世界で貨幣として通用しているものでありさえすればいい。つまり,金はこの機能を「代理者を通じて果たす」ことができるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ190-192頁)


◎「a 貨幣蓄蔵」という表題について

 〈a 貨幣蓄蔵〉

 先の「第3節 貨幣」と同じように、何故、この表題そのものを問題にするのかといいますと、久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン』「貨幣III」の栞によりますと、マルクスの付けたこの表題に異議を唱える人がいるらしいのです。その代表的な人として栞では小林威雄氏の主張が紹介されています(その内容は省略)。それに対して、久留間氏はなぜ、この表題がこのようになっているのかを、次のように説明しています。これはすでに述べましたが、第3節の表題が定冠詞のない「貨幣」になっていることと併せて説明されており、参考になります(紹介に際して、若干、引用に鍵括弧を入れるなど修正しました)。

  久留間 いま紹介された小林氏の議論のなかにはどうかと思われる点がいくつかあるが、それらはすべて、マルクスが第三節の(a) の表題を「貨幣蓄蔵」としているのに反対して、それは「蓄蔵貨幣」と改めるべきだ、という主張を根拠づけるためのものなのだから、それらの検討はあとのことにして、まずもって、マルクスが第三節の(a) の表題を「貨幣蓄蔵」としたさいに彼がどのような考えでそうしたかを考えてみることにしましょう。『経済学批判』のなかで、マルクスは次のように言っています。
  第三節の(a)の表題をマルクスが「貨幣蓄蔵」としたのはどのような意図によったのだろうか
  「貨幣〔Das Geld〕が貨幣蓄蔵によって抽象的社会的富の定在として、素材的富の物質的代理者として展開されるやいなや、それは貨幣〔Geld〕としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる。」(『経済学批判』、ヴェルケ版、第13巻、115ページ。)
  同じく「貨幣」とはいっても…… 
  この内容に立ちいる前に、念のために注意しておきたいと思うことがあるのですが、それはどういうことかというと、いま引用した個所のなかに同じ「貨幣」という言葉が二度出てくるが、前の場合の「貨幣」とあとの場合の「貨幣」とは、その意味内容がちがっているということ、このちがいをはっきりさせて読まないと全体の意味がわからなくなる、ということです。では、そのあいだにどのような区別があるかというと、前の場合の貨幣は、それが順次に発展していろいろの規定性をもつことになるのだけれど、ひとまずそれらの規定性から離れて考えた貨幣、いわば貨幣一般を意味するものであり、後の場合の貨幣は、第三節で問題にされている特殊の規定性における貨幣なのです。マルクスはこの規定性における貨幣を、『グルントリッセ』(『経済学批判要綱』--引用者)では、「第三の規定性における貨幣」とも呼んでいます。第三の規定性というのは、「価値の尺度」および「流通手段」の次の規定性という意味であることは確かでしょう。そこで、あとのほうの「貨幣」は「第三の規定性における貨幣」といえばその内容がはっきりするから、そういうふうに言いかえてみると、さきに引用したマルクスの文章は次のようになります。
 この区別をわきまえて前に引用したマルクスの文章を説みかえすと

  「貨幣が貨幣蓄蔵によって抽象的社会的富の定在として、素材的富の物質的代理者として展開されるやいなや、貨幣は、第三の規定性における貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる。」
  これを読んでまず明らかになることは、貨幣は貨幣蓄蔵によって、抽象的社会的富の定在および素材的富の物質的代理者として発展することになるのだということ、貨幣がこのようなものとして発展してくると同時に、それは、第三の規定性における貨幣としてのこの規定性において、流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになるのだ、ということです。なお、ここで「流通過程の内部で独自の諸機能をもつことになる」と言っている場合の諸機能は、さしあたっては、第三節の(a) のあとの(b)「支払手段」および(c)「世界貨幣」を指しているものと考えられます。「さしあたっては」というのは、さらに進んでは、商品に代わって価値が運動の主体になる資本の運動--G-W-G'--の発端の形態としてのGの機能をも予想しているように考えられるからです。〉 (レキシコンの栞№12 2-3頁)

  そして久留間氏は、(a)の表題を「蓄蔵貨幣」とすべきという人たちは、第三節「貨幣」の三つの機能のうちの(a)とし、(b)「支払手段」、(c)「世界貨幣」というかたちで整然としたものになると考えているようだが、これは蓄蔵貨幣そのものを貨幣の一つの独自の機能だと考えるという誤解にもとづいているとして、次のように述べています。

  〈しかし、蓄蔵貨幣を貨幣の機能だと考えるのはまちがっていると思う。蓄蔵貨幣は、貨幣が置かれている一つの状態、あるいは貨幣の一つの形態規定ではあるが、それ自身が貨幣の一つの独自の機能なのではない。〉 (同4頁)

  ただ貨幣はそれが蓄蔵されていることによって様々な機能を行うということは出来る、とも述べて、『資本論』から抜粋・紹介しながら、次のように説明しています。

  〈「貨幣蓄蔵は金属流通の経済ではさまざまな機能を果たす。そのさしあたりの機能は、金銀鋳貨の流通条件から生じる。すでに見たように、商品流通の規模や価格や速度がたえず変動するのにつれて、貨幣の通流量も休みなく干満を繰り返す。だから、貨幣通流量は、縮小し拡大することができなければならない。あるときは貨幣が鋳貨として引き寄せられ、あるときは鋳貨が貨幣としてはじき出されなければならない。現実に通流する貨幣量が流通部面の飽和度にたえず照応しているためには、一国にある金銀量が鋳貨機能を果たしている金銀量よりも大きくなければならない。この条件は、貨幣の蓄蔵貨幣形態によって満たされる。蓄蔵貨幣貯水池は、同時に流通している貨幣の流出流入の水路として役立ち、したがって、流通する貨幣はその通流水路からけっしてあふれ出ないのである。(『資本論』第1巻、148ページ。) (〔323〕)
  「各国は、その国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにもそれを必要とする。だから、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通・支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生じる。……」 (『資本論』第1巻、158-159ページ。)
  「……たしかに、私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能すなわち、国内の支払手段のための、満期になった支払のための、準備金としての機能や流通手段の準備金としての機能や最後に世界貨幣の準備金としての機能がただ一つの準備金に負わされるということによって、ある複雑さがはいりこんでくる。このことからはまた、事情によってはイングランド銀行から国内への金流出が外国への流出と結びつくこともありうるということにもなる。しかし、そのほかになお複雑さが加わってくるのは、この蓄蔵貨幣にまったくかってに負わされているもう一つの機能、すなわち信用制度や信用貨幣が発達している諸国では銀行券の兌換の保証準備として役立つという機能によってである。……」(『資本論』第3巻、470-471ページ。) 〔378〕)
  しかしこのことは、蓄蔵貨幣そのものが貨幣の一つの独自な機能だということを意味するものではない
  このように、貨幣は蓄蔵貨幣の形態にあることによっていろいろの機能を果たしはするが、しかしこのことは、蓄蔵貨幣そのものが貨幣の一つの独自な機能だということを意味するものではない。貨幣の第一の機能は価値の尺度であり、第二の機能は流通手段であり、第三の機能は--蓄蔵貨幣ではなくて--支払手段なのです。小林氏が「貨幣蓄蔵」は「蓄蔵貨幣」と改めらるべきだと考える場合、このことの認識不足--すなわち蓄蔵貨幣そのものを、流通手段と支払手段との中間に位置する、それらと同格な、貨幣の一つの独自な機能だと思いちがえること--が、その根底にあるように思えるのです。このさい小林氏に--その他同じ考えに立つ改題論者に--望むことは、まず、蓄蔵貨幣を貨幣の機能だと考える既成観念を再検討してもらいたいということ、そのうえで、さきに紹介した『経済学批判』の個所を熟読玩味してもらいたいということ、そうしたうえで、第三節「貨幣」の(a) の表題を「蓄蔵貨幣」と改めるのが適当かどうかを、再考してもらいたいということです。〉 (同4-5頁)

  さらに久留間氏の説明は続くのですが、それはそのあとの問題に関連してきますので、そこで紹介することにして、最後に次のようにも述べていることを紹介しておきます。

  〈このさい重要なのは、貨幣蓄蔵が行なわれると、その結果貨幣が蓄蔵貨幣になる、ということではなく、第三の規定性における貨幣になる、ということです。さきに紹介した『経済学批判』のなかのマルクスの叙述をみると、このことがわかるはずです。〉 (5頁)

  なんともややこしい話ですが、マルクスは『批判』で〈このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣である〉(全集第13巻106頁)と述べています。ここで〈貨幣として〉というのは、久留間氏の説明を援用すれば、〈第三の規定性における貨幣〉(=定冠詞のないGeld)の意味ですから、第三の規定性における貨幣(=ゲルト)として不動化されたものが蓄蔵貨幣なのだということです。だから蓄蔵貨幣というのは、貨幣のある一定の状態、あり方を表す言葉ではあるが、それ自体が貨幣の機能を意味するわけではないということです。しかし、貨幣が蓄蔵貨幣という状態にある場合には、それによってさまざまな機能を果たすのだということのようです。

  たった表題の問題だけで大変長い説明になってしまいましたが、そろそろ肝心の本文に入って行きましょう。

(字数がブログが設定している制限をオーバーしましたので、全体を三分割して掲載します。本文の続きは(2)に。)

 

 

 

コメント

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(2)

2020-02-14 21:56:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(2)

 

◎第1パラグラフ(鋳貨から貨幣に転化する)

【1】〈(イ)二つの反対の商品変態の連続的な循環、または売りと買いとの流動的な転換は、貨幣の無休の流通、または流通の永久自動機関〔perpetum mobile〕としての貨幣の機能に現われる。(ロ)変態列が中断され、売りが、それに続く買いによって補われなければ、貨幣は不動化され、または、ボアギユベールの言うところでは、可動物〔meuble〕から不動物〔immeuble〕に、鋳貨から貨幣に、転化する。〉

  (イ) 貨幣の休むことのない流通に、すなわち流通の「永久運動」〔perpetum mobile〕としての貨幣の機能に現われているのは、二つの対立する商品変態の連続的な循環、または販売と購買とのよどみのない転換です。

  私たちが前節(流通手段)で見ましたように、流通手段としての貨幣は、商品の変態W-G-Wを媒介するものでした。それが代理物で置き換えうるのは、それが商品の価値の一時的な実在形態でしかなかったからです。だから貨幣が流通手段としての機能を果す条件は、商品の対立する運動、すなわち販売と購買がよどみなく繰り返されるということです。大谷氏の説明を紹介しておきましょう。

  〈単純流通における商品変態W-G-Wの絡み合いを媒介する,つまり商品流通を媒介する貨幣Gは流通手段である。金はそこでは,流通手段という形態規定性を受け取り,流通手段として機能する。W-G-Wでは,商品はまず変態W-Gののちに,商品は長かれ短かれ或る期間,貨幣形態で休止したのち,ふたたび流通にはいって任意の他商品に転化する。金がこの変態を媒介するものとして,つまり流通手段として機能するかぎりでは,それは金以外の素材からなる鋳貨または価値章標によって象徴的に代理されることができた。この場合には,商品の変態はW-鋳貨(価値章標)-Wという形態をとるが,ここでの鋳貨または価値章標は貨幣である金を象徴的(シンボリック)に代理しているのである。金以外の素材からなる鋳貨または相対的に無価値な価値章標が金を代理できるのは,ここでは,価値の自立な表示してのGは,変態W-Gののちに変態G-Wが行なわれるまでのあいだの瞬過的な(verschwindendな,つまりすぐに消えてしまう)存在でしかなく,Gが金そのもの(たとえば金鋳貨)であったとしても,ここではそれはただ,完全な品位および量目の金のシンボルとして機能するかぎりでの定在,つまり機熊的牢在となっているからである。要するに,W-GのあとにG-Wが販売のあとに購買が流動的に引き続くことによる商品の変態W-G-Wが,流通手段または鋳貨としての貨幣の休むことのない運動に表わされるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ195頁)

  (ロ) 変態列が中断されて、販売がそれに続く購買によって補われなくなれば、貨幣は不動化されます。言い換えれば、それは、ボアギユベールの言うように「可動物」〔meuble〕から「不動物」〔immeuble〕に、鋳貨から貨幣に転化します。

  ところが商品の変態列が中断されて、すなわち販売W-Gのあとに続く購買G-Wがなされなくなると、貨幣Gはその時点で、流通から引き上げられて停止します。そうすると鋳貨は貨幣(ゲルト)に転化するのです。
  これも大谷氏の説明を紹介しておきます。

  〈ところが,変態W-G-WがW-Gを終えたところで中断され,W-GがG-Wによって補足されないならば,Gは瞬過的な機能的定在として運動することをやめて停止し,価値の自立的な定在として不動化することになる。このように,W-Gあるいは販売ののちに,商品のとった姿態であり実現された価格であるGが,流通から引き揚げられ,流通にはいらないまま,流通の外に留め置かれているとき,この貨幣がとっている形態は〈蓄蔵貨幣〉と呼ばれる。そして,この蓄蔵貨幣を形成することを〈貨幣蓄蔵〉と言う。貨幣は,W-Gの中断によるW-Gの自立的な展開という商品変態の新たな事態によって,あるいは貨幣蓄蔵という商品所持者の新たな行為によって,蓄蔵貨幣という新たな形態規定性を受け取るのである。〉 (同195-196頁)


◎第2パラグラフ(貨幣を得ることが自己目的になる。蓄蔵貨幣)

【2】〈(イ)商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹(サナギ)を固持する必要と熱情とが発展する(86)。(ロ)商品は、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態と取り替えるために、売られるようになる。(ハ)この形態変換は、物質代謝の単なる媒介から自己目的になる。(ニ)商品の離脱した姿は、商品の絶対的に譲渡可能な姿またはただ瞬間的な貨幣形態として機能することを妨げられる。(ホ)こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者になるのである。〉

  (イ) 商品流通そのものが発展しはじめると、第一の変態の産物を、商品の転化した姿を、つまりは商品の金蛹(サナギ)を、固持する必要と熱情とが発展します。

  商品流通が発展しますと、人々の欲求も刺激され、それまでの自給自足の制限された生活から、さらに多くの欲望が解き放たれ、その欲望を満たすために諸商品を購入する必要が生じてきます。そうすると、そうした諸商品を手に入れるために、まずは貨幣を所持しなければならず、何でも欲しいものが手に入る貨幣を所持する必要と熱望が生じてきます。

  (ロ)(ハ) 商品が、そのあとで商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態に置き換えるために、売られるようになります。商品から貨幣の形態変換が、物質代謝の単なる媒介から自己目的になります。
            
   貨幣を持ってさえいれば何でも欲しいものが手に入るということから、とにかく貨幣を持つことが自己目的になり、あとで商品を買うためにではなく、商品を貨幣に置き換えるためだけに売るようになります。そうなると商品から貨幣の転化が、社会的な物質代謝を媒介するものではなく、それ自体が自己目的になるのです。

  『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  対象化された労働時間としては、金はそれ自身の価値の大きさを保証している。そして金は一般的労働時間の物質化したものであるから、金が交換価値としていつでも作用することを、流通過程が金にたいして保証する。商品所有者は商品を交換価値としての姿で、あるいは交換価値そのものを商品として、しっかりにぎっていることができるという事実そのものによって、商品を金という転化された姿でとりもどすための商品の交換が流通の本来の動機となる。商品の変態W-Gは、商品の変態そのもののために、すなわち商品を特殊な自然的富から一般的社会的富に転化するためにおこなわれる。物質代謝に代わって形態転換が自己目的となる。交換価値は、運動のたんなる形式からその内容に一変する。商品が富として、商品として自己を保つのは、ただそれが流通の領域内にとどまっているかぎりにおいてだけであり、それがこういう流動状態にとどまっているのは、ただそれが銀や金に硬化するかぎりだけのことである。それは、流通過程の結晶として流動状態にとどまるのである。ところが、金や銀は流通手段でないかぎりでだけ、貨幣として固定する。金銀は非流通手段として貨幣となる。だから商品を金の形態で流通から引き揚げることは、商品をたえず流通の内部にとどめておく唯一の手段である。〉 (全集第13巻107頁)

  (ニ) 商品の脱皮した姿は、商品の絶対的に譲渡できる姿として、すなわちただ瞬過的でしかない貨幣形態として機能することを妨げられます。

  こうなりますと、貨幣はただ商品の価値の一時的な姿態というものではなくなり、だから流通手段としての機能は妨げられることになります。

  (ホ) こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品の売り手は貨幣蓄蔵者、すなわち蓄蔵貨幣形成者になるのです。

  こうして、貨幣は蓄蔵貨幣になるのです。そして商品の売り手は、貨幣の蓄蔵者、つまた貨幣蓄蔵の形成者になります。

  大谷氏は次のように説明しています。

  〈すでに見たように,W-Gは商品の変態であって,変態の主体は商品である。しかし商品の変態は,意志をもった商品の持ち手の行為を,すなわち販売を必要とするのであって,この過程の人格的代表者が売り手であった。同様に,W-Gの中断によるGの蓄蔵貨幣への転化も,この中断の主体はGつまり貨幣であるにもかかわらず,諸個人の意志的行為を必要とするのであって,この過程の人格的代表者が貨幣蓄蔵者である。貨幣蓄蔵という行為によって,売り手は貨幣蓄蔵者になり,貨幣は蓄蔵貨幣になるのである。〉 (貨幣の機能Ⅱ196頁)

  もう一つ、貨幣蓄蔵と蓄蔵貨幣の関係についての大谷氏の説明も紹介しておきましょう。

  〈〈蓄蔵貨幣〉は,ドイツ語のSchatzという語の訳語である。ドイツ語のこの語は,もともとは宝物,財宝を意味する語であって,直接には貨幣だけを指すのではない。貨幣でないもの,たとえば宝石でも王冠でもSchatzになりうる。『資本論』のフランス語訳ではこのドイツ語の訳語としてtrésor,同じく英語訳ではhoardという語が使われているが,このどちらも,もともとは,貨幣であろうとなかろうと蓄えられた財物一般を意味する語である。しかし,経済学でSchatzと言うときには,地金,コイン,審美的製品のいずれの形態をとっていようと,いずれにせよ,蓄えられた貨幣商品のことを意味している。日本語では,W-Gの中断によって流通から引き揚げられた貨幣商品を意味する訳語として使用できる適当な語がない(「財宝」などの語は貨幣商品ではないものをより強くイメージさせる)ので,Schatzは多く〈蓄蔵貨幣〉(または退蔵貨幣)と訳されてきた。また,蓄蔵貨幣の形成は,ドイツ語では文字どおりSchatzbildung(つまりSchatz(蓄蔵貨幣)のBildug(形成),フランス語訳ではthésaurisation,、英語訳ではhoarding)と言うが,日本語訳では慣習的に〈貨幣蓄蔵〉と訳されてきている。本稿でも,蓄蔵貨幣および貨幣蓄蔵というこれらの訳語を踏襲するが,貨幣蓄蔵が,〈蓄蔵貨幣の形成〉ないし〈蓄蔵貨幣を形成すること〉を意味する語であることは記憶に留めておかれたい。〉 (貨幣の機能Ⅱ196-197頁)


◎原注86

【原注86】〈(86)「貨幣での富は……貨幣に変えられた生産物での富にほかならない。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、573ページ。)「生産物という形での価値は、ただ形態を取り替えただけである。」(同前、486ページ。)〉

  これは〈商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物、商品の転化した姿態または商品の金蛹(サナギ)を固持する必要と熱情とが発展する〉につけられた原注です。貨幣を持っていれば、あらゆる商品が入手可能だから、貨幣こそ富だという主旨のようです。商品が生産物という形で持っている価値は、ただ貨幣の形態を取り替えただけだ、とも述べています。
  このリヴィエールの著書からの抜粋は『資本論』のあちこちでなされています。全集版の最後にある人名索引をみると、〈メルシエ・ド・ラ・リヴィエール,ポールーピェールMercier de la Rivière,Pau1・Pierre(1720-1793)フランスの経済学者,重農主義者〉とあり、10箇所の関連頁が示されています。マルクスがゴヴァレフスキーへの手紙でリヴィエールに触れていますので、紹介しておきましょう。

  〈ある著者が実際に言明していることと、言明するつもりだったこととを見分けなければなりません。それはまさしく哲学上の諸体系にもあてはまります。だからスピノザがなにを彼の体系の礎石と見なしたかということと、実際に礎石をなしているのがなにかということとは、まったく別のふたつの事柄です。だから、ケネの何人かの追随者、たとえばメルシエ・ド・ラ・リヴィエールのような人々が、全体系の本質をその飾り物のなかに見ていたのに、1798年に書物を書いたイギリスの重農学派の人々がはじめてA・スミスに反対してケネにもとづきながら土地の私的所有を排除する必要を指摘したということも、驚くにはあたりません。〉 (全集第34巻419頁)

  これだけではなかなか分かりにくいと思いますが、ケネーもリヴィエールも彼らが依存していた絶対主義王政を支持していたのですが、しかしマルクスは〈ケネがはじめて経済学を現実的な、つまり、資本主義的な基礎の上に据えた〉(同上)のだとも述べています。だから資本主義的な基礎を徹底させれば、それは土地の私的所有の廃止にまで行き着くのであり、だからケネーが実際に言明していることと、言明するつもりだったこと(その言明が実際に意味している内容)とを区別すべきだというのです。そしてリヴィエールはケネーの追随者ですが、ケネーの経済学の全体系の本質をその飾り物のなかに見ていたのだということです。その限りではリヴィエールもその本質を表面的な形ではあれ表現していたのだということだと思います。だからまたマルクスも何度もリヴィエールの著書のあちこちから抜粋して原注のなかで紹介しているのではないでしょうか。


◎第3パラグラフ(商品流通の最初のころの貨幣蓄蔵。富の社会的な表現)

【3】〈(イ)商品流通が始まったばかりのときには、ただ使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。(ロ)こうして、金銀は、おのずから、有り余るものまたは富の社会的な表現になる。(ハ)このような貨幣蓄蔵の素朴な形態が永久化されるのは、かたく閉ざされた欲望範囲が伝統的な自給自足的な生産様式に対応している諸民族の場合である。(ニ)たとえば、アジア人、ことにインド人の場合がそうである。(ホ)ヴァンダリントは、商品価格は一国に存在する金銀の量によって規定されると妄信しているのであるが、彼は、なぜインドの商品はあんなに安いのか? と自問する。(ヘ)答えは、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、というのである。(ト)彼の言うところでは、1602-1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋めたが、それは元来はアメリカからヨーロッパにきたものだった(87)。(チ)1856-1866年に、つまり10年間に、イギリスはインドとシナに(シナに輸出された金属は大部分再びインドに向かって流れる) 1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出したが、この銀は以前にナーストラリアの金と交換して得られたものだった。〉

  (イ)(ロ) 商品流通が始まったばかりの時期には、ただ使用価値の余剰分だけが貨幣に転化します。こうして、おのずから金銀は、必要を超えた豊かさの、言い換えれば富の、社会的な表現になります。

 マルクスは〈商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で、始まる〉(全集第23a巻118頁)と指摘していますが、フェニキアやカルタゴなどの商業民族は、自給自足的な古い共同体的組織の隙間に住み、それらの余剰物を商品として交換することを媒介していたといいます。マルクスはこうした商品流通の原初的なものをすでに『資本論』のなかで次のように指摘していました。

  〈古代アジア的とか古代的などの生産様式では、生産物の商品への転化、したがってまた人間の商品生産者としての定在は、一つの従属的な役割、といっても共同体がその崩壊段階にはいるにつれて重要さを増してくる役割を演じている。本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所に存在するだけである。あの古い社会的諸生産有機体は、ブルジョア的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、しかし、それらは、他の人間との自然的な種属関係の膀帯(サイタイ)からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配隷属関係かにもとついている。このような生産有機体は、労働の生産力の低い発展段階によつて制約されており、またそれに対応して局限された、彼らの物質的な生活生産過程のなかでの人間の諸関係、したがって彼らどうしのあいだの関係と自然にたいする関係とによって制約されている。〉 (全集第23a巻106頁)

  余剰物というのは、少なくとも直接にはその使用価値を実現する当てが当面はないということです。だからそれらが商品として交換され貨幣に転化されると、その貨幣をすぐに別の商品に再転化する必要性もまた差し迫ってないということでもあるわけです。だからこうした場合の貨幣は貨幣(ゲルト)として留まる可能性が高くなるというわけです。こうして金銀は必要を超えた豊かさのを表すものとして、社会的な富を表すものになるのです。
  『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈富の最初の原生的な形態は過剰または余剰という形態であり、生産物のうち使用価値としては直接に必要とされない部分であり、あるいはまたその使用価値がたんなる必需品の範囲をこえるような生産物の所有である。商品から貨幣への移行を考察したさいに見たように、生産物のこういう過剃または余剰が、未発達の生産段階では、商品交換の本来の領域をなしている。過剰な生産物は、交換できる生産物すなわち商品となる。この過剰の十全な存在形態が金と銀であり、金銀は富が抽象的社会的富としてとらえられる最初の形態である。諸商品が金または銀の形態で、すなわち貨幣の材料で保存されうるというだけではなく、金銀は保蔵された形態の富である。使用価値はどれも消費されることによって、すなわち消滅させられることによって使用価値として役にたつ。しかし貨幣としての金の使用価値は、交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の物質化したものであることである。形態のない金属として、交換価値は不滅の形態をもつ。このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣である。古代人の場合のように、純粋な金属流通をもっていた民族にあっては、貨幣蓄蔵は個々人から国家にいたるまでの全面的な過程として現われるのであって、国家はその国有蓄蔵貨幣を保管するのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこういう蓄蔵貨幣は、むしろ彼らの権力の証拠として現われる。ギリシアやローマでは、余剰のいつでも確実な、いつでも利用できる形態として国有蓄蔵貨幣をつくることが政策となっている。こういう蓄蔵貨幣が征服者によって一国から他国へ急速に輸送されること、その一部分が突然流通のなかへ流れ入ることは、古代経済の一つの特徴をなしている。〉 (全集第13巻106-107頁)

  (ハ)(ニ) このような貨幣蓄蔵の素朴な形態が永久化されるのは、かたく閉ざされた欲望範囲が伝統的で自給自足的な生産様式に対応している諸民族の場合です。それは、アジア人、ことにインド人のもとで見られます。

  このように商品交換の初期のころの余剰物を商品として交換し貨幣に転化した人たちが、その貨幣形態を固辞して蓄蔵するのは、彼らが自給自足的な生産様式のもとで閉ざされた欲望を伝統的に保持しているからにほかなりません。それはすでに見たように、アジア人やインド人などの古い共同体的な生産様式にもとづいた諸民族においてです。

  (ホ)(ヘ) 商品価格は一国にある金銀の量によって規定されると誤って思い込んでいるヴァンダリントは、インドの商品があんなに安いのはなぜか? と自問し、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、と自答しています。

  ヴァンダリントの貨幣数量説については、すでに第2節の原注79で引用されていました。それは次のような主張でした。

  〈「どの国でも、金銀が国民のあいだで増加するにつれて、物価はたしかに上がって行くであろう。したがってまた、ある国で金銀が減少すれば、すべての物価は、このような貨幣の減少に比例して下落せざるをえない。」(ジェーコブ・ヴァンダリント『貨幣万能論』、ロンドン、1734年、5頁。)〉

  だから本来金銀の保有数が多いインドで物価が安いのはなぜか? というのがヴァンダリントの疑問だったのですが、彼はインドでは貨幣を埋蔵するから、流通する貨幣の量が少なくなり、だから商品の価格も安いのだと自答しているということです。ただここではマルクスはアジアやインドの遅れた自給自足的な生産様式のもとではその伝統的な制限された欲望から貨幣を蓄蔵する傾向が大きいのだという関連のなかで、ただヴァンダリントの言説を紹介しているに過ぎません。

  (ト)(チ) 彼の言うところでは、1602-1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋蔵しましたが、この銀は、もとはアメリカからヨーロッパにきたものでした。1856年から1866年までに、つまり10年間に、イギリスはインドと中国に1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出しました(中国に輸出された金属はその大部分が再びインドに流れていきます) が、この銀は以前にナーストラリアの金と交換して得られたものでした。

 これはヴァンダリントの述べているところとして紹介されているものです。それによると1602-1734年に、つまり132年間にインドは1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋蔵し、さらに1856-1866年、つまり10年間にほぼ1億2000万ポンド・スターリングの銀を埋蔵したということです。これは事実だけですが、それほどインドでは銀の埋蔵が盛んだったということでしょう。

 因みに、今現在、世界にどれだけの金があるのか、ウィキペディアには次のような説明がありました。

 〈金の地上在庫
 イギリスの貴金属調査会社トムソン・ロイターGFMSの統計によれば、2014年末時点で総量は 183,600トンである(金の地上在庫とはこれまでに採掘され精製加工された金の総量のこと)。 
(参考)主要各国の保有量
  ・アメリカ合衆国:8134トン(外貨準備に占める割合は78.2 %)
  ・ドイツ:3413トン(同66.3 %)
  ・フランス:2541トン(同59.4 %)
  ・イタリア:2452トン(同68.1 %)
  ・スイス:1064トン(同39.8 %)
  ・日本:765トン(同2.1 %)
  ・オランダ:621トン(同61.2 %)
  ・中華人民共和国:600トン(同1 %)
  ・インド:358トン(同3.3 %)
日本にある金の総量
 2008年1月現在、日本に「地上資源」ないし「都市鉱山」として存在する金は約6800トンで、これは全世界の金の現有埋蔵量の約16 %にも及ぶ量である。〉


◎原注87

【原注87】〈(87)「このような手段によって、彼らはすべての彼らの財貨と製品とをあんなに低い価格水準に保っているのである。」(ヴァンダリント『貨幣万能論』95、96ページ。)〉

   これは先のパラグラフの一文につけられた原注ですが、それは原注のついた一文だけではなく、その前の分も含めたもののようです。すなわち〈ヴァンダリントは、商品価格は一国に存在する金銀の量によって規定されると妄信しているのであるが、彼は、なぜインドの商品はあんなに安いのか? と自問する。答えは、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、というのである。彼の言うところでは、1602-1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋めたが、それは元来はアメリカからヨーロッパにきたものだった〉という一文です。ヴァンダリントが〈このような手段によって〉と述べているのは、すなわち〈1602-1734年に、インド人は1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋めた〉ということを指しているのでしょう。だから彼らは財貨や商品をあんなに低い価格水準に保っているのだということのようです。


◎第4パラグラフ(商品生産の発展につれて貨幣蓄蔵の必要が増し、黄金欲が生じる)

【4】〈(イ)商品生産がさらに発展するにつれて、どの商品生産者も、諸物の神経(*)〔nervus rerum〕、「社会的な質物」を確保しておかなければならなくなる(88)。(ロ)彼の欲望は絶えず更新され、絶えず他人の商品を買うことを命ずるが、彼自身の商品の生産と販売は、時間がかかり、また偶然によって左右される。(ハ)彼は、売ることなしに買うためには、まえもって、買うことなしに売っていなければならない。(ニ)このような操作は、もし一般的な規模で行なわれるとすれば、それ自身と矛盾しているように見える。(ホ)しかし、貴金属はその生産源では直接に他の諸商品と交換される。(ヘ)ここでは、売り(商品所持者の側での)が、買い(金銀所持者の側での)なしに行なわれる(89)。(ト)そして、それ以後の、あとに買いの続かない売りは、ただすべての商品所持者のあいだへの貴金属の再分配を媒介するだけである。(チ)こうして、交易のすべての点に、大小さまざまな金銀蓄蔵が生ずる。(リ)商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめてくる。(ヌ)商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち富のいつでも出動できる絶対的に社会的な形態の力が、増大する。
 (*)ギリシアの哲学者タラントル以来たわむれに貨幣のことをこう呼んだ。--訳者

  (イ) 商品生産がさらに発展するのにつれて、商品生産者のだれもが「諸物の腱」〔nervus rerum〕を、「社会的な担保物件」を、すなわち貨幣を確保しておかなければならなくなります。

  ここで出てくる〈諸物の神経(*)〔nervus rerum〕には全集版では訳者注があり〈 (*)ギリシアの哲学者タラントル以来たわむれに貨幣のことをこう呼んだ〉とあります。しかし新日本新書版にも訳者注1があり、それは次のようになっています。

  〈注1 〔貨幣をさすラテン語。初版をはじめ多くの版では"万物の連結(ネクスス・レルム)"(債務奴隷の意味もある)となっているが、『経済学批判』では「神経」であり、フランス語版でまた「神経」となり、その後の多くの版でもそうなっている〕〉 (225頁)

   そこで『経済学批判』を見ると次のようになっています。

 〈社会的物質代謝が動揺させられる時期には、発展したブルジョア社会においてさえも、貨幣の蓄蔵貨幣としての埋蔵がおこなわれる。凝縮した形態での社会的関連--商品所有者にとってはこの関連は商品のうちにあり、そして、商品の十全な定在は貨幣である--は、社会的運動から救いだされる。社会的な事物の神経〔nervus rerum〕は、それを自分の神経とする肉体のかたわらに埋葬される。〉 (全集第13巻111頁)

  つまり商品生産がさらに発展すると、貨幣こそが確かな担保物件として確保する必要に迫られるということです。そしてそれがもっともよく分かるのは、恐慌時のような混乱期であり、そういう時には貨幣は〈それを自分の神経とする肉体〉、つまり諸商品のかたわらに埋葬されるのだというのです。恐慌時には貨幣の退蔵(当時のイギリスではイングランド銀行券の退蔵)が生じることが、『資本論』の第3巻などで指摘しています。

  (ロ) 彼の欲求はたえまなく更新され、たえまなく他人の商品を買うことを命じますが、彼自身の商品の生産と販売は、時間がかかり、また偶然によって左右されます。

  人々の欲求は商品生産の発展とともに拡大され刺激されます。だから彼は他人の商品を絶え間なく買う必要を感じますが、しかしそのためには必要な貨幣を入手する手段である彼自身の商品の生産と販売には、時間がかかりしかも絶えず偶然に左右されます。だから彼は貨幣をもっとも安全な担保として常に確保しておく必要に迫られるのです。

  (ハ) 彼は、売ることなしに買うためには、まえもって、買うことなしに売っていなければなりません。

  つまり貨幣を確保して彼の欲望を満たす諸商品を購入するということは、売ることになしに買うことですが、しかしそのためにはまえもって、買うことなしに売って置かなければならないわけです。

  (ニ) このような操作は、もし一般的な規模で行なわれるのだとすれば、それ自身と矛盾しているように見えます。

  買うことなしに売るということは、しかしすべての人がそれをやるなら、それ自身矛盾したものになります。なぜなら、売るということが誰かが買うことを意味するからです。だから一般的な規模で売るだけで誰も買わないなどということはそれ自体が自己矛盾なのです。

  (ホ)(ヘ) けれども、貴金属は、その生産源では直接にほかの諸商品と交換されます。ここでは、買うこと(金銀所持者の側での)なしに売ること(商品所持者の側での)が行なわれるのです。

  しかし社会的に見ると、常に買うことになしに売ることが行われている特別な場所があります。それは金の原産地地における金と他の諸商品との直接的な交換です。ここでは買うことなしに(金所持者の側)、売ること(商品所持者の側)が行われているのです。
  以前、金原産地の直接的な交換について、久留間鮫造の『マルクス経済学レキシコン』「貨幣II」の小項目「7.産源地における金」には、次のような説明があることを紹介しました。

  〈a)新たに生産された金の他の諸商品との交換は,直接的な交換取引であって,範疇的な意味での購買ではない。
   b)ここでは販売(商品所有者の側での)が購買(金所有者の側での)なしに行なわれる。そしてこの一方的な販売によって追加的な金が流通内にもたらされるのであって,この金は,金にたいする需要を--それがどういう理由から生じるものであろうと--満たすのに役立つのである。
   c)金の相対的な価値の大きさの確定はもっぱらここで行なわれる。それがいったん貨幣として流通にはいれば,それの価値はすでに与えられたものとしてある。〉 (69頁)

  (ト)(チ) そして、そのあとにくる、後続する購買のない販売は、ただすべての商品所持者のあいだへの貴金属の再分配を媒介するだけです。このようにして、交易のすべての点に、さまざまな規模で金銀蓄蔵貨幣が生まれます。

  だから金産源地から流通に入った金は、そのあと購買のない販売、つまり自分商品を売ったあと、商品を買わずにその金を蓄蔵する人たちによって、商品流通のそれぞれの時点におけるそれぞれの規模の金銀の蓄蔵貨幣が形成され、貴金属の再分配が行われることになるわけです。

  (リ) 貨幣の形態で商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめます。

  商品を販売すれば、その交換価値を貨幣(金)という形で持っていることができます。そして交換価値の独立した姿態である貨幣(金)は、あらゆる商品と直接交換可能であり、貨幣(金)を持ってさえいれば、あらゆる商品を手に入れる力を持っていることを意味します。だからこそ、ここに何が何でも金を持とうという黄金欲が生まれてくるのです。
 『経済学批判要綱』には次のような一文があります。

  〈それゆえ、貨幣は致富欲〔Bereichetungssucht〕の一つの対象〔ein Gegenstand〕であるばかりでなく、致富欲のほかならぬその対象〔der Gegenstand〕なのである。致富欲は本質的にのろうべき黄金渇望〔auri sacrafames〕である。そのものとしての、衝動の特殊的形態としての致富欲、すなわち特殊的な富にたいする欲癖、したがってたとえば衣服、武器、装飾品、女、酒などにたいする欲癖、とは区別されたものとしての致富欲は、一般的富、そのものとしての富が一つの特殊的な物の姿をとって個体化されるようになったときに、はじめて可能となる。すなわち貨幣がその第三規定において措定されるようになったときに、はじめて可能となる。〉 (草稿集①243-244頁)

  (ヌ) 商品流通が拡大するにつれて、貨幣の力が、すなわち富の、いつでも出動できる、絶対的に社会的な形態の力が、増大します。

  商品流通が拡大し、すべてのものが商品として生産され流通するようになると、人々は何はともあれ、自分の欲求を満たすためには、まずは貨幣を手に入れる必要があります。そして貨幣さえ手に入れれば何でも入手できるわけです。地位や名誉や権力などあらゆるものに価格が付けられ、よって貨幣によって手に入れることができようになります。貨幣は世界を支配する力を持つことになるのてす。
  同じように『経済学批判要綱』から紹介しておきましょう。

 〈自然的富のどんな形態でも、富が交換価値によってとってかわられる以前には、それは、対象にたいする個人の一つの本質的な関連を想定しているのであって、その結果、個人は、彼の一つの側面にかんして、自身が物象というかたちで対象化されており、そして、個人による物象の占有は、同時に、彼の個体性の一つの規定された発展として現われるのである。つまり羊での富は、牧人としての個人の発展であり、穀物での富は、耕人としての個人の発展である、等々、これとは反対に貨幣は、一般的富の個体として、それ自身流通に由来して、ただ一般的なものだけを代表するにすぎぬものとして、ただ社会的結果にすぎないものとして、その占有者にたいする個人的関連をまったく想定していないのである。つまり貨幣を占有することは、貨幣の占有者の個体性の本質的諸側面のなんらかのものの発展ではなく、それは、むしろ、もろもろの没個体性〔Individualitätslose〕の占有なのである。なぜなら、この社会的〔関係〕が、同時に、一つの感性的、外的な対象としても存在しており、この対象を機械的にわがものとすることもできれば、同じくまた機械的にそれを喪失することもありうるからである。したがって貨幣の個人にたいする関連は、純粋に偶然的な関連として現われる。ところが、個人の個体性とはまったく関連していない物象にたいするこの関連こそが、同時に、この物象という性格によって、社会にたいする、つまり享楽、労働などの全世界にたいする一般的支配をその個人にあたえるのである。ちょうどそれは、たとえば一つの石を発見しさえすれば、私の個体性とはまったくかかわりなく、あらゆる科学の知識が私にあたえられることになったかのように思えるばあいと、同じことになる。貨幣の占有が、富(社会的富)にたいする関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。〉 (草稿集①242-243頁)

◎引用文

【引用文】〈「金はすばらしいものだ! それをもっている人は、自分が望むすべてのものの主人である。そのうえ、金によって魂を天国に行かせることさえできる。」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』、1503年。)〉

 これは引用だけですので、特に解説するようなこともないのですが、同じコロンブスからの引用は『経済学批判』では注として出てきます。それは「C 流通手段と貨幣にかんする諸理論」の冒頭の次の一文につけられたものです(*印)。

 〈近代ブルジョア社会の幼年期である16世紀と17世紀に、一般的な黄金欲が諸国民と諸王侯とを海を渡り越える十字軍によって黄金の聖杯を追いもとめさせたが(*)、それと同様に、近代世界の最初の解釈者である重金主義--重商主義はただその一変種にすぎない--の創始者たちは、金銀すなわち貨幣を唯一の富である、と宣言した。適切にも彼らは、ブルジョア社会の使命は金(カネ)を儲けること、したがって単純な商品流通の立場からすれば、紙魚(シミ)にも錆にもおかされない永遠の財宝を形成することである、と明言した。〉 (全集第13巻134頁)

 

【付属資料】は(3)に掲載します。

 

 

 

コメント

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(3)

2020-02-14 21:12:09 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(3)

 

【付属資料】


●第3節の表題

《経済学批判要綱》

 〈第2に、循環は、貨幣がただ尺度としても、交換手段としても、またその両者としても適用するだけでなく、第3の規定をもっていることをすでに含んでいる。ここでは貨幣は、第1に、自己目的として現われ、商品取引と交換とはただとの自己目的を実現するのに役立つにすぎない。第2に、ここでは循環が貨幣で終わるから、貨幣によってその等価物と交換された商品が流通から投げだされるように、貨幣は循環の外部に出ていく。貨幣が流通の作用因としてだけ規定されているかぎりでは、貨幣はいつも流通の循環のなかに閉じこめられたままであるということは、きわめて正しい。しかし、ここで示されているのは、貨幣はこの流通用具以外のなにか他のものであること、〔貨幣は〕また流通の外部で一つの自立した存在をもっており、この新しい規定においては、商品がたえず流通から最終的に引きぬかれなければならないのと同じように、流通から引きぬかれることができるということである。このようにしてわれわれは、貨幣をその第3規定で考察しなければならなくなる。この規定では、貨幣は最初の両規定を規定として自己のうちに含み、したがって尺度として役立つという規定も、一般的交換手段であり、それゆえ諸商品価格の実現であるという規定も、ともに含んでいるのである。〉(草稿集①214頁)
  〈G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。したがってまた流通から抜けだしてゆくのであるが、それは、その循環をまず完了して、商い物から消費物になってしまった特定の商品が、流通から抜けだしてゆくのと、同じことなのである。……
  貨幣の第3規定は、その完全な発展したかたちにおいては、初めの両規定を想定しており、両規定の統一である。したがって貨幣は流通の外で自立した存在をもっている。つまり貨幣は流通から抜けだしている。特殊的商品として、貨幣は、その貨幣という形態から奢侈品、つまり金銀装飾品の形態に転化されることがあり(たとえば英国の比較的古い時代のように、工芸がきわめて単純であるあいだは、銀貨幣から食器類〔plate〕への転化、またはその反対の転化が、たえず行なわれていた。テイラーを見よ)、あるときはまた、貨幣として蓄積され〔aufgehäuft〕、このようにして蓄蔵貨幣〔Schatz〕を形成することがある。貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、潜在的にはすでに含まれている。貨幣はたんに交換手段であるにすぎぬものとしては否定されている。それにもかかわらず、歴史的には、貨幣は交換手段として現われるまえに、尺度として措定されていることもありうるし、また、尺度として措定されるまえに、交換手段として現われることもありうるのだから--後者のばあいには、貨幣はただ特別に好まれる商品として存在するだけであろうが--、貨幣はまた、さきの両規定において措定されるまえに、歴史的に第3規定において現われることもありうるのである。しかし金および銀は、それらが両規定のどちらか一方の規定においてすでに現存しているばあいにかぎって、貨幣として蓄積されることができる、また、貨幣がさきの両規定において発展しているばあいにかぎって、貨幣は、第3規定においても発展したかたちで現われることができるのである。さもなければ、貨幣の蓄積はただ金と銀の蓄積であるにすぎず、貨幣の蓄積とはならない。……
  富の普遍的物質的代表物としての貨幣が流通から生じ、そしてそのようなものとしてそれ自体が流通の産物--流通とは同時により高い潜勢力〔Potenz〕をもった交換であり、交換の一つの特殊的形態でもある--であるかぎりでは、貨幣は、この第3規定においてもなお流通に関連している。つまり、貨幣は自立的なものとして流通に対立している、がしかし、このような貨幣の自立性は流通それ自身の過程にほかならない。貨幣は流通から出てくるとともに、ふたたび流通のなかにはいっていく。もしかりに流通にたいするあらゆる関連を貨幣からとり除いてしまうとすれば、貨幣は貨幣ではなくなり、一つの単純な自然対象、つまり金と銀であるにすぎない、ということになる。貨幣は、この〔第3〕規定においては、流通の前提でもあれば、またその結果でもある。貨幣の自立性とは、それ自体としては、流通への関連が停止してしまうことなのではなく、流通にたいする否定的関連のことなのである。〉(同235-238頁)
 〈貨幣を貨幣としてのその完全な規定性において把握することをとくに困難にしているもの--経済学は、貨幣の諸規定の一つを他の規定のために忘れたり、一つの規定に異論がつきつけられると他の規定に訴える、というやりかたで、これらの困難をまぬがれようとする--は、一つの社会関係、つまり諸個人相互間の一つの規定された関連が、ここではある金属として、ある石として、すなわち彼らの外部にある純粋に物体的な物象として現われ、しかもこの物象は自然のうちにそのままの姿で見いだされ、またその自然的存在から区別されるような形態規定はもはやなに一つそこに残されていない、ということである。金や銀はそれ自体としては貨幣ではない。自然が為替相場や銀行家を生み出すわけではないのと同様、自然が貨幣を生み出しはしない。ぺルーやメキシコでは、金銀は、装飾品としては存在し、しかも完成した生産組織がそこには見いだされるのに、貨幣としては使われなかった。貨幣であるということは、金銀の自然的性質ではなく、したがって物理学者、化学者などは貨幣としての金銀などはまったく知らない。だが貨幣は、直接に金銀である。尺度としてみれば、貨幣はなお形態規定が主となっており、このことが外的にも貨幣の刻印をおびて現われている鋳貨としてみれば、いっそうそうである。しかし第3規定においては、すなわち尺度であり鋳貨であるということが貨幣の機能として現われるにすぎない貨幣の完成状態においては、あらゆる形態規定は消滅している、すなわちそれは貨幣の金属存在と直接に一致している。そこでは、貨幣であるという規定がただ社会的過程の結果にすぎないということは全然みえていない。その存在自体貨幣なのである〔en ist Geld〕。〉(同273-274頁)

《経済学批判》

  〈3 貨幣

  W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-W の形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通の たんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉(102頁)

《初版》

  〈C 貨幣〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈第3節 貨幣<La monnaie ou l'argent>〉(江夏・上杉訳110頁)


●前文

《経済学批判要綱》

 〈さてこんどは、貨幣の第三規定にうつることにするが、この規定はさしあたり、流通の第二形態から生じる。すなわち、
  G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。したがってまた流通から抜けだしてゆくのであるが、それは、その循環をまず完了して、商い物から消費物になってしまった特定の商品が、流通から抜けだしてゆくのと、同じことなのである。〉(草稿集①235頁)
  〈それゆえ、流通から生じ、流通に対立して自立するものとしての、第三規定における貨幣は、鋳貨としての貨幣の性格をもまた否定するのである。貨幣が金銀に溶かし直されているか、またはただ金銀純分の量目にしたがって評価されるにすぎないかをとわず、貨幣は、ふたたび金と銀として現われる。貨幣はまたふたたび国民的性格を失い、諸国民のあいだの交換手段として、つまり普遍的な交換手段として役立つが、しかしそれは、もはや章標としてではなくて、一定の分量の金銀としてである。それゆえ、もっとも発展した国際的交換制度においては、金銀が最初の物物交換においてすでに一つの役割をはたしたさいの形態とまったく同一の形態で、ふたたび現われるのである。すでに指摘したように、金と銀とが現われるのは、交換そのものが現われるばあいと同様に、本源的には、一つの社会的共同団体の範域の内部においてではなくて、それがつきるところ、それの境界においてであり、つまりその共同団体が他の共同団体と接触する、あまり多くない地点においてである。こうして金銀は、いまや、商品そのものとして、すべての場所で商品としてのその性格を保ちつづける普遍的商品として措定されて現われる。金銀は、この形態規定からすれば、すべての場所で一様に通用する。このようなものとしてだけ、金銀は一般的富の物質的代表物なのである。〉(草稿集①250-251頁)
  〈さきに見たように、自立して流通からぬけ出し、流通に対立するものとしての貨幣は、流通手段および尺度としての貨幣の規定の否定(〔両規定の〕否定的統一である。……
  第1に。貨幣はそのものとしての流通手段の否定、鋳貨の否定である。しかし同時に、貨幣は、たえず鋳貨に転形されうることによって、否定的に、これをみずからの規定として含んでおり、また世界鋳貨としては肯定的に含んでいる。……
  第2に。貨幣は諸商品の諸価格のたんなる実現としての自己の否定であり、そのばあいには特殊的商品がつねにあくまでも本質的なものである。というよりもむしろ、貨幣は自分自身のうちで実現した価格となり、そのようなものとして貨幣は、富の特殊的諸実体にすぎないすべての商品に対立する、富の物質的代表物ならびに富の一般的形態となるのである。しかし、
  第3に。貨幣が諸交換価値の尺度であるにすぎないという規定においてもまた、貨幣は否定されている。富の一般的形態として、ならびに富の物質的代表物として、貨幣はもはや他者の、つまり諸交換価値の、観念的尺度ではない。なぜなら、貨幣はそれ自体が交換価値の適切な現実性であり、しかもその金属的定在のままの姿において交換価値の適切な現実性となっているからである。尺度規定は、ここでは、貨幣それ自体にそくして措定されなければならない。貨幣はそれ自身の単位であって、貨幣の価値の尺度、富としての、交換価値としての貨幣の尺度は、貨幣が自分自身によって表示するその量である。つまり単位として役立つところの、貨幣自身のある分量の集合数なのである。尺度としては貨幣の集合数はどうでもよかったし、流通手段としては貨幣の物質性、単位となるものの物質はどうでもよかった。この第3規定における貨幣としては、一定の物質的分量としての貨幣それ自体の集合数が本質的となる。一般的富としての貨幣の質が前提されれば、量的区別以外の区別は貨幣にはもはやないのである。貨幣はいまや、同じ貨幣の規定された分量として、それが所持される集合数の多いか少ないかにしたがって、一般的富の多いか少ないかを表わすのである。貨幣が一般的富であれば、人がそれを所持することが多ければ多いほど、その人は富裕であり、そして各個人にとっても、諸国民にとっても、唯一の重要な過程は貨幣の積み立て〔Anhäufen〕である。貨幣の規定にしたがって、ここでは貨幣は流通からぬけ出るものとして登場した。いまや、貨幣の流通からのこの引出しとその溜め込み〔Aufspeichern〕が、致富衝動の本質的対象として、致富の本質的過程として現われる。私は金銀というかたちで一般的富をその純粋な形態においてもっており、私がそれを積み立てれば積み立てるほど、ますます多くの一般的富を自分のものにすることになる。金銀が一般的富を代表するとしても、それが限定された諸量であるかぎりは、金銀は、限定された程度においてだけ一般的富を代表するにすぎないが、その程度は無際限に拡大することが可能である。金銀を流通からくり返して引揚げることとして示される、こうした金銀の蓄積〔Accumulation〕は、同時に流通にたいする一般的富の安全保障〔In-Sicherheit-Bringen〕でもある。流通においては、一般的富はつねに、特殊的な富と、最終的には消費されて消滅してゆく富と交換されて、失われてしまうのである。〉(草稿集①253-257頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日付け)》

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)の属性では(a)〔「尺度としての貨幣」のこと--引用者〕も(b)〔「交換手段としての貨幣。または単純な流通」--同〕もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり(ここでは貨幣の価値の、すなわち労働時間によって規定された価値の、可変性が重要になる)、蓄蔵の対象である。(この機能は、アジアでは今日なお重要なものとして現われ、また古代世界や中世では一般にそうだった。今日ではただ銀行業で従属的に存在するにすぎない。恐慌時にはふたたびこの形態での貨幣の重要性が現われる。この形態にある貨幣が、それの生み出す世界史的な幻想とともに考察される、等々。破壊的な諸属性、等々。)価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。
  (d) この単純な流通はブルジョア社会の表面であって、それが出てくるところの、もっと深い所で行なわれる諸操作は、そこでは消え去っているのだが、このようなそれ自体として考察された単純な流通は、交換のいろいろな主体のあいだの相違を、ただ形態的で一時的な相違のほかには、なにも示していない。これこそは、自由と平等と「労働」にもとつく所有との国なのだ。ここで貨幣蓄蔵という形で現われる蓄積は、ただより大きな節約でしかない、等々。そこで、一方では、より発展した諸生産関係やそれらの諸敵対関係にたいしてこの最も表面的で最も抽象的なものをそれらの真実として主張するという、経済的調和論者や近代的自由貿易論者たち(バテティアやケアリなど) の愚劣さ。また、この等価物交換(またはそういうものと仮定されるもの) に対応する平等やその他の諸観念を、この交換がそこに帰着するとかそこから出てくるとかいう不平等にたいする反対論として主張するプルドン主義者や類似の社会主義者たちの愚劣さ。この部面での取得の法則として現われるのは、労働による取得、等価物交換だから、交換はただ同じ価値を別の具体物で返すだけだ。要するに、ここではいっさいが「美しい」。だが、すぐにどぎもを抜かれるような結末になるだろう。しかも等価の法則にしたがって。そこでわれわれは次のものに到達する。〉(全集第29巻248-249頁)

《経済学批判》

  〈金、すなわち価値の尺度として、また流通手段として役だつ独特な商品は、社会のそれ以上の助けがなくても貨幣となる。銀が価値の尺度でもなく支配的な流通手段でもないイギリスで、銀が貨幣にならないのは、オランダで金が価値尺度としての地位を奪われるとたちまち貨幣でなくなったのと、まったく同様である。だからある商品は、まず価値尺度と流通手段との統一として貨幣となる。言いかえるならば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣である。だが、そのような統一としては、金はさらに、これら二つの機能におけるその定在とは異なった独立の実在をもつ。価値の尺度としては、金はただ観念的な貨幣であり、観念的な金であるにすぎない。たんなる流通手段としては、金は象徴的な貨幣であり、象徴的な金である。しかしその単純な金属の現身では金は貨幣である。言いかえれぽ、貨幣は現実の金である。
  さてしばらくのあいだ、われわれは、貨幣である休止している商品の金を、他の諸商品との関係で考察しよう。すべての商品は、その価格では一定額の金を代表しており、したがってただ表象された金ないし表象された貨幣にすぎず、金の代理者にすぎない。それは逆に価値章標では、貨幣が商品価格のたんなる代理者として現われたのと同様である。このようにすべての商品はただ表象された貨幣にすぎないから、貨幣は唯一の現実的な商品である。交換価値、一般的社会的労働、抽象的富の独立の定在をただ表象しているにすぎない諸商品とは反対に、金は抽象的富の物質的定在である。使用価値の面から言えば、どの商品も特殊な欲望にたいするるその関係をつうじてただ素材的富の一契機を表現するにすぎず、富のただ個別化された一面だけを表現するにすぎない。しかし貨幣は、どんな欲望の対象にも直接に転化されうるかぎりで、どんな欲望をもみたす。貨幣自身の使用価値は、その等価物をなす諸使用価値の無限の系列のうちに実現されている。貨幣はそのまじりけのない金属性のなかに、商品世界でくりひろげられているいっさいの素材的富を未展開のままふくんでいる。だから諸商品がそれらの価格で一般的等価物、つまり抽象的富、金を代表しているとすれば、金はその使用価値ですべての商品の使用価値を代表しているのである。金は、したがって素材的富の物質的代理者である。それは「すべてのものの要約」〔préxis de toutes les choses〕(ボアギユベール)であり、社会的富の概括である。それは、形態から言えば一般的労働の直接的化身であると同時に、内容から言えばすべての現実的労働の総括である。それは個体としての一般的富である。流通の媒介者としてのその姿では、金はありとあらゆる冷遇をこうむり、けずりとられて、あげくのはてにはただの象徴的な紙切れにまで薄くされた。だが貨幣としては、金にはその金色の栄光が返上される。それは奴僕から主人になる。それはただの手伝いから諸商品の神となる。〉(全集第13巻103-104頁)

《初版》

  〈価値尺度として機能し、したがってまた自分自身かまたは代理者によって流通手段として機能する商品が、貨幣である。だから金(または銀)は貨幣である。金(または銀)が貨幣として機能するのは、一方では、それが金の(または銀の)生身のままで、したがって貨幣商品として、現われていなければならないばあい、つまり、価値尺度のばあいのようにたんに観念的にでもなく流通手段のばあいのように代理可能としてでもなく、現われていなければならないばあいであり、他方では、それの機能がよしんば金自身によって果たされようと代理者によって果たされようとそのいずれを問わず、それの機能が、金を、唯一の価値姿態あるいは交換価値の唯一の適当な存在として、単なる使用価値としての他のすべての商品にたいして、固定させるばあいである。〉(124頁)

《フランス語版》

  〈これまでわれわれは、貴金属を、価値尺度と流通手段という二重の姿態のもとで考察してきた。貴金属は、観念的な貨幣として第一の機能を果たし、第二の機能では象徴によって代表されることができる。だが、貴金属がその金属体のままで、商品の実在の等価物すなわち貨幣商品として現われねばならない機能が、存在する。もう一つの機能、すなわち、貴金属が、あるいはみずからあるいは代理人によって果たしえても、日用商品の価値の唯一無二の的確な化身としてこの商品につねに対面する機能も、存在する。どちらのばあいも、貴金属が厳密な意味での貨幣として、価値尺度や鋳貨としての機能と対照的に機能する、とわれわれは言うのである。〉(江夏・上杉訳110頁)

   久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン』貨幣IIIでは同じフランス語版として次のような翻訳が紹介されている。
  〈〔〔フランス語版では,この個所が次のように更改されている。〕〕
  「これまでわれわれは,貴金属を価値尺度および流通手段という二重の属性から考察してきた。貴金属は,第1の機能を表象された観念的貨幣として果たし,第2の機能においては貨幣章標によって代理されうる。ところが,貴金属がその金の(または銀の)肉体のままで,それゆえ,価値尺度の場合のようにたんに観念的にでもなければ,流通手段の場合のように代理可能にでもなく貨幣商品として,現われねばならぬような諸機能がある。さらに,貴金属が自身ででも代用物によってでも果たすことができるが,しかしそこでは貴金属がたんなる使用価値としての他のすべての商品にたいして,それら諸商品の交換価値の唯一十全な定在として,すなわちただ1つの価値姿態として立ち現われる機能もある。すべてこれらの場合においては,われわれは,貴金属は価値尺度または鋳貨というその機能に対立して,本来の意味での貨幣〔フランス語では,monnaieあるいはargent〕として機能する,という。」〔〔ドイツ語訳はカウツキー。カウツキー版『資本論』第1巻,88ページ。〕〕〉(31頁)


●a 貨幣蓄蔵(表題)

《経済学批判》

  〈a 貨幣蓄蔵〉(全集第13巻105頁)

《初版》

  〈(a) 貨幣蓄蔵〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈(a) 貨幣蓄蔵〉(江夏他訳110頁)


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈……鋳貨は,そのものとして,すなわちたんなる価値章標として孤立化されると,ただ流通を通じてだけ,そして流通のなかにだけあるのである。蓄積される場合でさえ,それはただ鋳貨として蓄積されうるにすぎない。なぜならその力は,国の境界でなくなるからである。流通の過程自体から生じ,本来は流通の休止点であるにすぎないところの,すなわち流通のための一定の鋳貨準備としての,ないしは国内鋳貨自体で行なわなければならない支払準備金としての貨幣蓄蔵の諸形態以外には,ここで貨幣蓄蔵一般は,したがって本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。なぜなら,価値章標としての鋳貨には,たんなる象徴的価値ではなくて,その社会的機能のほか価値そのものの直接的定在であるがゆえに,一定の社会的関係から独立した富であるという,貨幣蓄蔵の本質的要素が欠けているからである。だから,価値章標がそのような章標であることのためにそれを制約している諸法則は,金属貨幣を制約するものではない。なぜなら金属貨幣は,鋳貨の機能に閉じこめられてはいないからである。
  なおまた貨幣蓄蔵,すなわち流通からの貨幣の引きあげと一定の場所でのその集積は、多様なものであるということが明らかである。--〔〔1〕〕購買と販売との分離という単純な事実から,すなわち単純な流通そのものの直接的な機構から生じる一時的な蓄積,〔〔2〕〕貨幣の支払手段としての機能から生じる貨幣の蓄積。〔〔3〕〕最後に抽象的富としての貨幣を堅持し保管しようと欲する本来の貨幣蓄蔵,あるいはまた,直接的欲望をこえる現存する富の余剰としての,また将来への保障ないしは流通の不可抗的な梗塞の頻発する場合への保障としての貨幣蓄蔵。交換価値の自立化,その妥当な定在が,もはや金としての直接の物的な形態でしかながめられないこの後の方の諸形態は,ブルジョア社会ではしだいに消滅する。反対に,流通の機構そのものから生じ,その機能を遂行する条件となる貨幣蓄蔵の他の諸形態は,大いに発展する。もっともその形態はさまざまであるが,こうした形態は銀行制度で考察すべきである。〉(レキシコン 貨幣III 33-35頁)

《経済学批判》

  〈商品がその変態の過程を中断して、金の蛹(サナギ)となったままでいることによって、金はまず貨幣として流通手段から分離した。このことは、販売が購買に転化しないときにはいつでも生じる。だから貨幣としての金の独立化は、なによりもまず流通過程または商品の変態が、二つの分離した、無関係に並存する行為に分裂したことの明白な表現である。鋳貨そのものが、その進路が中断されると、貨幣となる。鋳貨は、商品と引き換えにそれを回収する売り手の手中では、貨幣であって鋳貨ではなく、彼の手を離れるとたちまちいまいちど鋳貨となる。だれもが彼が生産する一面的な商品の売り手であるが、しかし彼が社会的生存のために必要とする他のすぺての商品の買い手である。売り手としての彼の登場は、彼の商品の生産のために必要とする労働時間に依存するのに、買い手としての彼の登場は、生活上の必要がたえず更新されることによって制約される。売らないで買うことができるためには、彼は買わないで売っていなければならない。じっさい、流通W-G-Wは、それが同時に販売と購買との分離の不断の過程であるかぎりで、販売と購買との過程的統一であるにすぎない。貨幣が鋳貨としてたえず流れるためには、鋳貨はたえず貨幣となって凝固しなけれぽならない。鋳貨のたえまない流通の条件は、鋳貨の大なり小なりの部分がたえず停滞して、鋳貨準備金--流通内部でいたるところに発生するとともに、この流通を制約するところの--をつくることであって、この準備金の形成、配分、解消、再形成はつねに交替し、その定在はたえず消滅し、その消滅はたえず定在する。アダム・スミスは、鋳貨の貨幣への、貨幣の鋳貨へのこの間断ない転化を次のように表現している。すなわち、どの商品所有者も、彼の売る特殊な商品とならんで、彼が買うための手段である一定額の一般的商品をつねに貯えておかなければならない、と。すでにみたように、流通W-G-Wでは、第二の環G-Wは、一度におこなわれないで時間的にあいついでおこなわれる一系列の購買に分裂するから、Gの一部分は鋳貨として流通するのに他の部分は貨幣として休止する。この場合、貨幣は実際には停止させられた鋳貨にほかならず、流通している鋳貨量の個々の構成部分は、たえず交互にあるいは一方の、あるいは他方の形態で現われる。だから、流通手段の貨幣への第一の転化は、貨幣流通そのもののたんに技術的な一契機をあらわしているのである*。
  ボアギユベールは、永久機関〔perpetuum mobile〕の最初の停止、すなわち流通手段としての貨幣の機能上の定在の否定のうちに、ただちに諸商品にたいする貨幣の独立化を感づいている。彼は言う。貨幣は「たえず運動して」いなければならない、「それは貨幣が動くことができるかぎりでのみ可能なことであり、それが動くことができなくなると、たちまち万事休すである。」(『フランス詳説』、213ページ)彼が見のがしていることは、この静止が貨幣の運動の条件だということである。彼が実際に言いたかったのは、諸商品の交換価値*はそれらの物質代謝のただ瞬時的な形態として現われ、けっして自己目的として固定するものではない、ということである。
  * 諸商品の価値形態、と言うべきである。〔自用本の注〕 〉(全集第13巻105-106頁)

《初版》

  〈二つの対立する商品変態の連続的な循環、すなわち販売と購買との涜動的な転換は、貨幣の絶え間ない流通のうちに、すなわち、流通の永久自動機関としての貨幣の機能のうちに、現われている。変態系列が中断され、販売がそれに続く購買によって補われなくなるやいなや、貨幣は動かなくなり、または、ボァギュベールが言うように、可動なものから不動なものに、鋳貨から貨幣に、転化する。〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈二つの相反する商品変態の循環運動、すなわち販売と購買との不断の交替は、貨幣の倦むことを知らぬ流通によって現われる、すなわち、流通の永久自動機関<perpetuum mobile>としての貨幣の機能のなかに現われる。変態系列が中断するやいなや、販売のあとに購買が続かなくなるやいなや、貨幣は動かなくなる、すなわち、ボアギュベールの言うように、可動なものから不動なものに、鋳貨から貨幣に転化される。〉(江夏・小杉訳110頁)


●第2パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈「商業は肉体から影を引きはなし、両者を別々に保持する可能性をもたらしたのである。」(シスモンディ。) したがって貨幣は、いまでは、その一般的形態において自立化した交換価値(交換手段としての貨幣がそのような自立化した交換価値として現われるにしても、それは、つねに、消滅してゆくものであるにすぎない)である。貨幣は、たしかに、一つの特殊的な有体性〔Körperlichkeit〕、すなわち金と銀という実体〔Substanz〕をもっており、しかもこのことがまさしく、貨幣にその自立性をあたえているのである。なぜなら、ただ他のものに付随して、他のものの規定または関連として存在するにすぎないものは、自立的なものではないからである。他方では、金と銀としてのこのような有体的自立性のかたちで、貨幣は一方の商品の交換価値を他方の商品にたいして代表するばかりでなく、すべての商品にたいしてその交換価値を代表している。しかも貨幣それ自体が一つの実体をもちつつも、貨幣は、金と銀としてのその特殊的な存在のかたちで、同時に他の諸商品の一般的交換価値として現われるのである。一方では、貨幣が所持されるのは、諸商品の交換価値としてであり、他方では、諸商品は、諸商品の数と同数の、交換価値の特殊的諸実体として存在している。そうであるからこそ、交換価値は、諸実体のもつ規定性や特殊性には無関心であり、またそれらのうえに超越していればいるだけ、これらの諸実体のいずれにでも交換をとおして転化してゆくことができるのである。それゆえ諸商品は偶然的な存在にすぎない。貨幣は「すべての物の概括〔Pteéis de toutes les choses〕」であり、そこでは商品のもつ特殊的性格は消えうせている。つまり、貨幣とは、商品世界において富が拡散し分散していることとは対照的な、筒潔な要約〔kurzgefaßtes Compendium〕としての一般的富なのである。特殊的商品においては、富は商品の一契機として現われる、いいかえれば商品が富の特殊的な一契機として現われるが、これにたいして、金と銀においては、一般的な富それ自体が特殊的物質に集約されたものとして現われる。特殊的商品はいずれも、それが交換価値であり、価格をもつかぎりでは、それ自体としては、ただ一定の分量の貨幣をある不完全な形態で表現しているにすぎない。なぜなら商品は、実現されるために、まず流通に投じられなければならず、しかもそれが実現されるか、されないかは、その商品のもつ特殊性のゆえに、あくまでも偶然的なものにとどまるからである。しかし商品が、価格としてあるのではなく、その自然的規定性においてあるかぎりでは、その商品が満たす特殊的な欲求にたいするその商品の関連によって富の契機であるにすぎない。そして〔欲求にたいする〕この関連においては、商品は、(1)使用上の富〔Gsbrauchsreichthum〕だけを、(2)この富のまったく特殊的な一側面だけを表現しているにすぎない。反対に貨幣は、価値をもつ商品としてのその特殊的な有用性を別とすれば、(1)実現された価格であり、(2)どんな特殊性にたいしてもまったく無関心に、どんな欲求の対象とでも交換されるかぎりでは、どんな欲求をも満たすのである。商品は、貨幣を媒介とすることによってのみ、このような性質をもつにすぎない。貨幣はすべての商品にたいして、したがって富の全世界にたいして、富そのものにたいして、直接に、このような性質をもっている。貨幣においては、一般的富は一つの形態であるばかりでなく、同時に内容それ自体でもある。富の概念は、〔貨幣においては〕いわば特殊的な対象に実現され、個体化されて〔indivisualisirt〕いる。特殊的商品においては、商品が価格であるかぎりでは、富は、まだ実現されていない、観念的形態として措定されているにすぎない。商品が一定の使用価値をもっているかぎりでは、商品は使用価値のまったく個別化された一側面を表現しているにすぎない。反対に、貨幣においては、価格は実現されており、貨幣の実体は、それが富の特殊的な存在諸様式を抽象されているという点からみても、またそれが富の総体性〔Totakität〕であるという点からみても、富そのものである。交換価値は貨幣の実体をなしており、交換価値は富である。したがって他方では、貨幣は、富を構成している特殊的な諸実体のすべてにたいして、富の有体化された形態でもある。だから、一方では、貨幣が対自的に〔für sich--それだけを別個にとりだして〕考察されるかぎりでは、富の形態と内容とは貨幣においては同一的であるが、他方では、他のすべての商品との対立において〔貨幣が考察されるかぎりでは〕、これらの商品にたいしては--これらの諸特殊性の総体が富の実体をなしているにもかかわらず--富の一般的形態なのである。貨幣は、前者の規定からすれば、富そのものであるとすれば、後者の規定からすれば、富の一般的物質的代表物なのである。貨幣それ自体においては、この〔富の〕総体性が諸商品の表象された総括〔vorgestellter Inbegriff〕として存在している。したがって富(総体性としての、また抽象としての交換価値)は、他のすべての商品を排除することによって初めて、そのものとして金および銀という姿に個体化されて、手につかめる一つの個別的な対象〔ein einzelner hndgreiflicher Gegenstand〕として存在するのである。それゆえ貨幣は諸商品のなかの神である。〉(草稿集①239-241頁)
 〈それゆえ貨幣は、手につかめる個別化された対象としては、偶然的に探し求め、見つけだし、盗み、発見することができるものであり、しかも一般的富は、手につかめるかたちで個々の個人の占有〔Besitz〕のもとにおくことができる。貨幣はたんなる流通手段としては、僕(シモベ)の姿〔Knechtsgestalt〕をもって現われたものだが、この僕の姿から、突然に、貨幣は、諸商品の世界の支配者および神〔Herrscher und Gott〕になる。貨幣は諸商品の天国的存在を表わしており、これにたいして諸商品は貨幣の現世的存在を表わしている。〉(草稿集①242頁)

《経済学批判》

  〈対象化された労働時間としては、金はそれ自身の価値の大きさを保証している。そして金は一般的労働時間の物質化したものであるから、金が交換価値としていつでも作用することを、流通過程が金にたいして保証する。商品所有者は商品を交換価値としての姿で、あるいは交換価値そのものを商品として、しっかりにぎっていることができるという事実そのものによって、商品を金という転化された姿でとりもどすための商品の交換が流通の本来の動機となる。商品の変態W-Gは、商品の変態そのもののために、すなわち商品を特殊な自然的富から一般的社会的富に転化するためにおこなわれる。物質代謝に代わって形態転換が自己目的となる。交換価値は、運動のたんなる形式からその内容に一変する。商品が富として、商品として自己を保つのは、ただそれが流通の領域内にとどまっているかぎりにおいてだけであり、それがこういう流動状態にとどまっているのは、ただそれが銀や金に硬化するかぎりだけのことである。それは、流通過程の結晶として流動状態にとどまるのである。ところが、金や銀は流通手段でないかぎりでだけ、貨幣として固定する。金銀は非流通手段として貨幣となる。だから商品を金の形態で流通から引き揚げることは、商品をたえず流通の内部にとどめておく唯一の手段である。〉(全集第13巻107頁)
  〈しかし実際には、貨幣のための貨幣の貯めこみは、生産のための生産の、すなわち伝来の欲望の制限を越えた社会的労働の生産力の発展の未開な形態である。商品生産が未発展であればあるほど、交換価値の貨幣としての最初の独立化、つまり貨幣蓄蔵はますます重要である。だから貨幣蓄蔵は古代諸民族にあっては大きな役割を演じており、アジアではいまにいたるまでそうであり、交換価値がまだすべての生産諸関係をとらえるにいたっていない近代の農業諸民族にあってもそうである。〉(全集第13巻113頁)

《初版》

  〈商品流通そのものの最初の発展につれて、第一変態の産物、すなわち、商品の転化された姿態あるいは商品の金蛹(サナギ)を、固持するということ(69)の必要と情熱とが、発展する。商品が、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態に置き換えるために、売られる。この形態変換は、物質代謝の単なる媒介からぬけ出て自己目的になる。商品の脱ぎ捨てられた姿態は、商品の絶対に譲渡可能な姿態あるいはほんの束の間の貨幣形態として機能することを、阻止される。こうして、貨幣が蓄蔵貨幣に石化し、商品の売り手が貨幣蓄蔵者になる。〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈商品流通が発展するやいなや、第一変態の産物、金または銀の蛹に変わった商品を、固定し保持しようとする必要と欲求もまた、発展する(36)。そうなると、他の商品を買うためばかりでなく、商品形態を貨幣形態で置き換えるためにも、蒔品が売られる。貨幣流通のなかで故意に足をとめられた貨幣は、蓄蔵貨幣になることによって、いわば石化し、売り手は貨幣蓄蔵者に変わる。〉(江夏・上杉訳110-111頁)


●原注86

《初版》

  〈(69)「貨幣状態の富は、貨幣に変えられた生産物状態の富……にほかならな。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、557ページ。)「生産物状態の価値は、形態を変えただけのことである。」(同上、486ページ。)〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈(36) 「貨幣状態の富は、貨幣に変えられた生産物状態の富……にほかならない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、573ページ)。「生産物状態の価値は、形態を変えただけのことである」(同上、486ページ)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判》

  〈富の最初の原生的な形態は過剰または余剰という形態であり、生産物のうち使用価値としては直接に必要とされない部分であり、あるいはまたその使用価値がたんなる必需品の範囲をこえるような生産物の所有である。商品から貨幣への移行を考察したさいに見たように、生産物のこういう過剃または余剰が、未発達の生産段階では、商品交換の本来の領域をなしている。過剰な生産物は、交換できる生産物すなわち商品となる。この過剰の十全な存在形態が金と銀であり、金銀は富が抽象的社会的富としてとらえられる最初の形態である。諸商品が金または銀の形態で、すなわち貨幣の材料で保存されうるというだけではなく、金銀は保蔵された形態の富である。使用価値はどれも消費されることによって、すなわち消滅させられることによって使用価値として役にたつ。しかし貨幣としての金の使用価値は、交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の物質化したものであることである。形態のない金属として、交換価値は不滅の形態をもつ。このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣である。古代人の場合のように、純粋な金属流通をもっていた民族にあっては、貨幣蓄蔵は個々人から国家にいたるまでの全面的な過程として現われるのであって、国家はその国有蓄蔵貨幣を保管するのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこういう蓄蔵貨幣は、むしろ彼らの権力の証拠として現われる。ギリシアやローマでは、余剰のいつでも確実な、いつでも利用できる形態として国有蓄蔵貨幣をつくることが政策となっている。こういう蓄蔵貨幣が征服者によって一国から他国へ急速に輸送されること、その一部分が突然流通のなかへ流れ入ることは、古代経済の一つの特徴をなしている。〉(106-107頁)

《初版》

  〈商品流通が始まったばかりのときには、使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。こうして、金銀はおのずから、余剰分または富の社会的表現になる。貨幣蓄蔵のこういった素朴な形態が永久化されているのは、固く閉ざされた必要範囲が伝統的な自給自足的生産様式に対応している、といったような諸民族のばあいである。アジア人ことにインド人のばあいは、そうである。ヴアンダリントは、商品価格は一国内にある金銀の量によって規定される、と妄信しているが、彼は、なぜインドの商品はあれほど安いのか? と自問して、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、と答えている。彼が述べるところによると、1602-1734年に、インド人は、もともとアメリカからヨーロッパに流れてきた1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋蔵した(70)。1856-1866年に、つまり10年間に、イギリスは、インドとシナに(シナに輸出された金属は大部分再びインドに流れてくる)、以前にオーストラリアの金と交換された1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出した。〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈とりわけ流通の端初では、使用価値の余剰分だけが貨幣商品と交換される。金や銀はこうしておのずから、余剰分と富との社会的な表現になる。伝統的な生産様式が狭い範囲の停滞的な必要を直接にみたしている諸国民のあいだでは、この素朴な貨幣蓄蔵形態が永遠化する。わずかな流通と多くの蓄蔵貨幣とが存在する。このことはアジア人のあいだで、殊にインド人のあいだで行なわれている。価格は一国内にある貴金属がどれだけ多量であるかに依存する、と思いこんでいる老ヴァンダリントは、インドの商品がなぜあれほど安いのか? と自問している。彼は、インド人は貨幣を地中に埋めるからだ、と言う。彼が述べるところでは、インド人はこうして、1602年から1734年までに、当初アメリカからヨーロッパにやってきた1億5000万ポンド・スターリングの銀を地中に埋めた(37)。1856年から1866年までに、つまり10年間に、イギリスは、以前にオーストラリアの金と交換された1億2000万ポンド・スターリングの銀を、インドとシナに輸出した(シナに輸入された金属は大部分がインドに逆流する)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●原注87

《初版》

  〈(70) 「こうした操作で、彼らは自分たちの全財貨と金製品とをこうも低い値段に保っている。」(ヴアンダリント、前掲書、95、96ページ。)〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈(37) 「このような慣行によって、彼らは自分たちの物品と製品とをあれほど安い値段に保っている」(ヴァンダリント、前掲書、95、96ぺージ)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈それゆえ貨幣は、手につかめる個別化された対象としては、偶然的に探し求め、見つけだし、盗み、発見することができるものであり、しかも一般的富は、手につかめるかたちで個々の個人の占有〔Besitz〕のもとにおくことができる。貨幣はたんなる流通手段としては、僕(シモベ)の姿〔Knechtsgestalt〕をもって現われたものだが、この僕の姿から、突然に、貨幣は、諸商品の世界の支配者および神〔Herrscher und Gott〕になる。貨幣は諸商品の天国的存在を表わしており、これにたいして諸商品は貨幣の現世的存在を表わしている。〉(草稿集①242頁)
  〈自然的富のどんな形態でも、富が交換価値によってとってかわられる以前には、それは、対象にたいする個人の一つの本質的な関連を想定しているのであって、その結果、個人は、彼の一つの側面にかんして、自身が物象というかたちで対象化されており、そして、個人による物象の占有は、同時に、彼の個体性の一つの規定された発展として現われるのである。つまり羊での富は、牧人としての個人の発展であり、穀物での富は、耕人としての個人の発展である、等々、これとは反対に貨幣は、一般的富の個体として、それ自身流通に由来して、ただ一般的なものだけを代表するにすぎぬものとして、ただ社会的結果にすぎないものとして、その占有者にたいする個人的関連をまったく想定していないのである。つまり貨幣を占有することは、貨幣の占有者の個体性の本質的諸側面のなんらかのものの発展ではなく、それは、むしろ、もろもろの没個体性〔Individualitätslose〕の占有なのである。なぜなら、この社会的〔関係〕が、同時に、一つの感性的、外的な対象としても存在しており、この対象を機械的にわがものとすることもできれば、同じくまた機械的にそれを喪失することもありうるからである。したがって貨幣の個人にたいする関連は、純粋に偶然的な関連として現われる。ところが、個人の個体性とはまったく関連していない物象にたいするこの関連こそが、同時に、この物象という性格によって、社会にたいする、つまり享楽、労働などの全世界にたいする一般的支配をその個人にあたえるのである。ちょうどそれは、たとえば一つの石を発見しさえすれば、私の個体性とはまったくかかわりなく、あらゆる科学の知識が私にあたえられることになったかのように思えるばあいと、同じことになる。貨幣の占有が、富(社会的富)にたいする関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。〉(草稿集①242-243頁)
  〈それゆえ、貨幣は致富欲〔Bereichetungssucht〕の一つの対象〔ein Gegenstand〕であるばかりでなく、致富欲のほかならぬその対象〔der Gegenstand〕なのである。致富欲は本質的にのろうべき黄金渇望〔auri sacrafames〕である。そのものとしての、衝動の特殊的形態としての致富欲、すなわち特殊的な富にたいする欲癖、したがってたとえば衣服、武器、装飾品、女、酒などにたいする欲癖、とは区別されたものとしての致富欲は、一般的富、そのものとしての富が一つの特殊的な物の姿をとって個体化されるようになったときに、はじめて可能となる。すなわち貨幣がその第三規定において措定されるようになったときに、はじめて可能となる。〉(草稿集①243-244頁)
  〈したがって貨幣は致富欲の対象であるばかりでなく、同時に致富欲の源泉でもある。所有欲〔Habsucht〕は貨幣がなくとも可能である。致富欲は、それ自身一定の社会的発展の産物であり、歴史的なものと対立した自然的〔なもの〕ではない。以上のことから、いっさいの悪の源泉は貨幣であるとする古典古代人〔Alten〕の悲嘆が生じたのである。〉(草稿集①244頁)

《経済学批判》

  〈社会的物質代謝が動揺させられる時期には、発展したブルジョア社会においてさえも、貨幣の蓄蔵貨幣としての埋蔵がおこなわれる。凝縮した形態での社会的関連--商品所有者にとってはこの関連は商品のうちにあり、そして、商品の十全な定在は貨幣である--は、社会的運動から救いだされる。社会的な事物の神経〔nervus rerum〕は、それを自分の神経とする肉体のかたわらに埋葬される。〉(全集第13巻111頁)

《初版》  初版では現行版の第4パラグラフと次の挿入文と第5パラグラフが一つのパラグラフになっている(現行版の原注の付けかたをみても、本来はこの初版の構成が正しいように思える)。全体を抜粋しておく。

  〈商品生産がなおいっそう発展するにつれて、どの商品生産者も、<nexus reum>「社会的質ぐさ」を確保しておかなければならない(71)。彼の必要は、絶えず更新され、他人の商品を絶えず買うようにと命令するが、他方、彼自身の商品の生産と販売とは、時間がかかり、偶然に左右されている。売ることなしに買うためには、彼はまえもって、買うことなしに売っていなければならない。こういった操作は、もしも一般的な規模で行なわれれば、自家撞着(ドウチャク)をきたすように見える。ところが、貴金属は、その原産地では他の諸商品と直接に交換しあう。ここでは、販売(商品所有者の側での)が購買(金銀所有者の側での)ぬきに行われる(72)。そして、これ以後の、あとに購買の続かない販売は、すべての商品所持者のあいだでの貴金属のいっそう広範な配分を、媒介するだけである。こうして、交易のすべての点に、大小さまざまな金銀蓄蔵が生ずる。商品を交換価値として、あるいは交換価値を商品として、固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめてくる。商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち、いつでも使える・絶対に社会的な・形態をもっところの富の力が、増大してくる。「金は驚嘆すべき物だ! それをもっている者は、自分が欲するすべての物の主人公だ。おまけに、金によって魂を天国に送り届けることもできる。」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』、1503年)。貨幣を見てもなにがそれに転化したかはわからないから、商品であってもなくても、なんでも貨幣に転化する。なんでも売買できるものになる。流通は、なんでもそこに飛び込んできてそこから貨幣結晶として再び出てゆく大きな社会的レトルトになる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのであって、もっときゃしゃな、人々の取引の外にある、聖なる物にいたっては、なおさらそうである(73)。諸商品のいっさいの質的な差違が貨幣では消え去っているように、貨幣は貨幣でまた、急進的な平等主義者として、いっさいの差違を消し去ってしまう(74)。だが、貨幣はそれ自身、商品、すなわち誰の私有物にもなりうる外的な物である。こうして、社会的な力が私人の私的な力になる。だから、古代社会は、貨幣を、この社会の経済的および道徳的秩序の代用貨幣であると言って非難する(75)。すでにその幼年期にプルートーンの神〔ギリシア神話での富の神〕の髪をつかんで大地の底から引きずり出した(76)近代社会は、黄金の聖杯のうちに、自己自身の生活原理の絢爛(ケンラン)たる化身を謳歌している。〉(江夏訳125-126頁)

《フランス語版》 フランス語版ではコロンブスからの引用文は改行されず、第4パラグラフの一部になっている。そして第4パラグラフにつけられた原注はそのあとにつけられ、そのあとに第5パラグラフが続くようになっている(これはマルクス自身の編集であろうから、最終的なマルクスの考えとしてはこうした構成に帰着したといえるのかも知れない)。

  〈商品生産がある程度の発展に到達するやいなや、それぞれの生産者は貨幣を貯えておかねばならない。そのばあい、貨幣は「社会的質ぐさ」、すなわち、物の神経<nervus reum>である(38)。実際に、生産者がもつ必要は、絶えず更新され、他人の商品を買うことを絶えず彼に押しつけるが、他方、彼の商品の生産と販売は、長短の差はあれ時間を要し、数知れぬ偶然に左右される。売らないで買うためには、彼はまず買わないで売り終わっていなければならない。この操作が一般的に遂行されうるということは、矛盾のように見える。しかしながら、貴金属はその原産地で、他の商品と物物交換される。ここでは、販売(商品所有者の側での)が、購買(金銀の所有者の側での)なしに行なわれる(39)。そして、後続の購買によって補足されることのない、これより後の販売は、貴金属をすべての交換者のあいだに配分するだけである。このようにして、取引関係のすべての点で、金銀の貯蔵がきわめて多様な割合で形成される。商品を交換価値として、または交換価値を商品として、保持しておく可能性が、黄金への情熱を目ざめさせる。商品流通が拡大するにつれて、社会的富のつねに処分可能な絶対的形態である貨幣の力もまた増大する。「金は驚嘆すべぎ物だ! 金をもつ者は、自分の欲するすべてのものの主人公だ。金によって、霊魂に天国のとびらを開くことさえできる」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』、1503年)。〉(江夏・上杉訳111-112頁)


●引用文

《経済学批判》

  〈(*) 「金は不思議なものである! それをもつ者は、彼の望むすべてのものの主人である。金をもってすれば、魂を天国にゆかせることができる。」(コロンブスのジャマイカからの手紙、1503年) 〔自用本の注〕〉(全集第13巻136頁)

《初版》   第4パラグラフに関連して紹介。

《フランス語版》 フランス語版では第4パラグラフの一部になっている。

コメント