『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-02-28 23:18:18 | 『資本論』

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎春の陽気

 大阪は、ここ数日は好天に恵まれ、春のような陽気が続いています。
 第21回「『資本論』を読む会」開催当日(2月21日)もよい天気で、私たちが学習会を行った教室は50人ほどが入るほどの大きさなのですが、いつもはその真ん中の一番前の黒板に近い席を占めてこじんまりとやるのですが、今回はよい天気に誘われて窓際の席の各自思い思いの場所に座り行いました。おかげで学習会の最中に居眠りをしてほとんど聞いていなかったなどと、帰り道で話している人もあったほどでした。

 そうした陽気もあってか、等価形態の「第一の特性」をすべて終えました(第4~8パラグラフ)。さっそく、その報告を行いましょう。

◎「等価形態の矛盾」とは?

 今回は第4パラグラフからです。例によって全文を紹介し、議論も含めてその文節ごとの解読を紹介してゆきましょう。

【4】パラグラフ

 《等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。》

 ここから等価形態の「特色」(初版付録は「特性」、『補足と改定』は「独自性」となっている)の考察が始まっています。それは使用価値がその反対物である価値の現象形態になるということです。
 ところで、この等価形態の特色の考察の前に、『補足と改定』や『フランス語版』では次のような導入文があることが紹介されました。

《補足と改訂》

 《等価形態の独自性への移行
 等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする。》(小黒正夫訳72頁)


《フランス語版》

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。
 等価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏美千穂/上杉聡彦訳27頁)


 ここで《等価形態が内包する矛盾》(補足と改定)や《等価形態が含んでいる矛盾》(フランス語版)と言われているものは、一体、何を指しているのだろうかということが問題になりました。
 ピースさんはローゼンベルグの『資本論注解』を紹介してくれました。確かに『注解』でも〈ついでマルクスは右にあげた諸矛盾の特徴づけにうつる。それは三つある〉と述べて、等価形態の三つの特性を紹介しているのですが、ローゼンベルグの『注解』でも、いま一つ〈右にあげた諸矛盾〉が何を指しているのかよく分からないのです。ただその諸矛盾がより詳細に考察されて、三つの特性(独自性)が与えられていることは分かります。しかし何をもって〈諸矛盾〉と述べているのかは、やはりもう一つよく分かりません。
 亀仙人は、これらの導入文を見る限り、それまでの等価形態の考察(質的および量的)の結果、《等価形態の内包する矛盾》が明らかになったので、そのことはさらに等価形態の独自性を詳細に考察する必要があると読むことができるように思える。だからその直前で行われている等価形態の量的考察のなかに、その矛盾があるのではないか、と指摘して、次のような考えを述べました。
 “等価形態の内包する矛盾は、それまでに考察したことを直接受けたものだから、特に、等価形態には量的な被規定性は含まれていないということを意味するのではないかと思う。それがどうして矛盾しているのかというと、リンネルの価値は与えられているので、その量的表現は、上着の価値の量によって決まってくるわけだが、実際のリンネルの価値量の相対的な表現においては、上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないということではないかと思う。等価形態に置かれた上着は、ただ「一着」の上着というように上着の使用価値の一定量として表され、それで十分だから、上着の価値量がどれだけかは、そこではまったく表されていない。だから、リンネルの価値の量的表現は、上着の価値の大きさによって決まるのに、その表現形態においては上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないわけである。これをマルクスは等価形態が含んでいる矛盾と述べているようのではないか。”というわけです。
 ただその場合でも、何がどのように矛盾しているのか、そもそも矛盾とは何か、ということが問題になりました。この「矛盾」というのはそもそも何か、ということについては、以前、大阪で行った「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.16で鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)からその内容を一部紹介したことがありますので、それをもう一度紹介しておくことにします。

 【同書には本質について次のような説明があります。

 〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態にうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)

 ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。

 〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)
 〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)
 〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)】

 だから矛盾というのは〈二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立〉だということです。上着の価値の大きさは、リンネルの価値の量的表現を規定しているのに、実際の表現形態ではそれは含まれていないということ、これが矛盾ということではないでしょうか。

◎《取り替え〔Quidproquo〕》と《現物の皮》

【5】パラグラフ

 (イ)商品の現物形態が価値形態になるのである。(ロ)だが、よく注意せよ。(ハ)この取り替え〔Quidproquo〕が一商品B (上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A (リンネルなど)が商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。(ニ) どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。(ホ) すなわち、他の商品の現物の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》

 イ)《商品の現物形態が価値形態になるのである》とあります。これは先のパラグラフ(【4】)と較べると、《使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になる》を直接言い換えたものです。つまり《商品の現物形態》=《使用価値》、《価値形態》=《(使用価値の)反対物の、価値の、現象形態》という関係にあることが分かります。

 ロ)、ハ)だが注意する必要があるのは、《この取り替え〔Quidproquo〕》が一商品Bにおいて生じるのは、別の一商品Aが商品Bに対してとる価値関係においてだけだということです。

 ここで《取り替え〔Quidproquo〕》という言葉が出てきますが、この言葉については、所沢の「『資本論』を読む会」の報告では次のような大谷禎之介氏の説明が紹介されていますので、重引しておきましょう。

 〈マルクスが使っているこの《入れ替わり[Quidproquo]》という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが《入れ替わり》である。〉(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)

 つまり使用価値が価値の現象形態になります。使用価値というのは、それ自体が直接的なものです。つまり直接目に見える感覚的なものとして存在しています。しかし価値はそうしたものではありません。にも関わらず、その使用価値の直接的な定在が、価値が目に見える形で現れたものとしての意義を持たされるわけです。つまり価値が目に見えるように現れたものとして、その使用価値の直接性があるということです。だから使用価値の直接的な定在がそのまま価値の直接的な定在になっています。しかしあくまでも上着の使用価値がリンネルの価値の直接的な目に見える定在になっているのであって、上着の使用価値が上着の価値の直接的な定在になれるわけではありません。そしてそのためには上着の使用価値が価値の形態になるという入れ替わりがそこには生じなければならないわけです。もちろん、入れ替わりといっても上着の使用価値そのものは何も変わっていないのです。ただそのままの使用価値にリンネルの価値の現象形態という新たな形態規定性(役割)が付け加えられるだけなのです。しかしその付け加えられた新たな形態規定においては、上着の使用価値は、ただリンネルの価値の現象形態であるという役割しか持たされず、上着の使用価値自体に存在している他のさまざまの属性--例えば羊毛でできていて着心地がよいといったこと--はそこでは直接には問題になっていません。
 しかも重要なことは、上着がこうした役割を担わされるのは、リンネルとの価値関係に置かれる限りでのことだということです。

 ニ)というのは、どんな商品も、自分自身を自分自身の等価物にすることはできません。

 これは「1 価値形態の両極」のところで、指摘されていた《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という等式が価値表現ではなく、むしろ20エレのリンネルは一定量の使用価値だということを示すだけだと言われていたことと同じです。これでは何も価値は表現されていないのです。つまりどんな商品も自分自身の現物の皮(自分自身の使用価値)を自分自身の価値の表現に利用できないのです。だからどんな商品も自身の価値を表現しようとするなら、他の別の商品を等価物にして、それと関係する必要があるわけです。

 ここで使用価値を《現物の皮》と表現していますが、これはどういう意味なんだろうということも問題になりました。これは使用価値は直接的なものであるのに対して、価値は内在的なものであるということを具体的なイメージで示すものではないかということになりました。つまり使用価値は物の表面に顕れていて直接目に見えるものであるということで、それを動物の表面を覆っている皮に例えているわけです。それに対して価値は内在的なもので、直接には見えず、だから皮に覆われて見えなくされているものというイメージで捉えられているわけです。

 ホ)だから、その内在的な価値が直接的な目に見えるものにするためには、自分自身の皮は役に立たないこと、他人の皮の中に自分の内在的価値を映し出すのだということ、つまり他の商品の現物の皮を自分自身の価値の形態にしなければならないということです。

◎棒砂糖の例

【6】パラグラフ

 (イ)このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。(ロ)棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。(ハ)そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。(ニ)鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。(ホ)それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。(ヘ)この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。(ト)それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。(チ)この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。(リ)もしこの両方の物に重さかないならば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。(ヌ)両方を秤りの皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものでもあるということが、実際にわかるのである。(ル)鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。》

 イ)この等価形態の第一の特性(使用価値がその反対物である価値の現象形態になる)を分かりやすく説明するために、商品を量り売りするために、商品そのものの量を計る場合を考えてみましょう。例えば商品としての棒砂糖を量り売りするために、使用価値としての棒砂糖そのものの量を計る必要がありますが、それを考えてみるわけです。

 ロ)商品としての棒砂糖もやはり物体だから重さがあります。だからその重さで商品としての棒砂糖の量、つまりその使用価値の量を計ることができるわけです。しかし棒砂糖の重さは棒砂糖だけを見ているだけでは、見たり感じたりすることはできません。だから使用価値としての棒砂糖の量をその重さで計るためには、まずその棒砂糖の重さそのものを目に見えるような形で表し、その上で、買い手が自分自身の目でその量がどれぐらいかを確認できるように、計って見せなければなりません。買い手は自分の目で確認しない限り、これは幾らの棒砂糖だと一方的に言われても信用出来ないわけです。だからどうしても目に見えない棒砂糖の重さを、目に見えるようにして、その上でその量を買い手の目の前で計って見せる必要があるわけです。

 ハ)だから売り手は天秤計りを持ち出して、一方の皿に一定量の棒砂糖を乗せ、他方の皿にあらかじめ確定されている分銅を乗せて、その釣り合いを見ながら計るところを見せるわけです。こうして買い手は棒砂糖の重さを、よってその使用価値の量を自分の目で確認して納得して買うことが出来るわけです。

 ニ)しかし今、もし分銅が鉄で出来ているとするなら、それもやはり単なる鉄の固まりであり、鉄も物体としては、それだけを見ていても、やはり棒砂糖と同じで、その重さを見たり感じたりすることは出来ません。つまり鉄も、やはり重さが目に見えるような形で顕れている物とはいえないのです。

 ホ)それだのに、われわれ(買い手)はその鉄片によって、棒砂糖の重さが目に見えていると感じ、使用価値としての棒砂糖の量がそれによって計ることが出来たと納得するわけです。どうしてそうなっているのか、それが問題です。それは天秤ばかりで一方の棒砂糖と他方の分銅とが釣り合っていることを買い手は確認したからです。この場合、棒砂糖と分銅とは重量として同じである、つまり重量として等置の関係にあることを示しています。天秤ばかりは、この二つの物体が、互いの重さにおいて釣り合っていることを目に見える形で表しているのです。売り手は、天秤ばかりによって二つの物体を重量関係においたのです。

 ヘ)そしてこの重量関係において、鉄片は、重さ以外の何ものをも表さない物体とみなされているのです。

 ト)だから、さまざまな量の鉄片は、棒砂糖の重量の尺度として役立つのです。そしてその場合は、鉄片は棒砂糖に対して、ただ単に重さそのものの姿として、重さが目に見える形で顕れたものとして役立っています。つまり重さの現象形態を代表しているのです。

 チ)鉄片が、こうした役割を演じるのは、ただ棒砂糖とか、それ以外のその重量を表そうとするものが、この鉄片に対してとる関係、すなわち重量関係のなかだけのことです。

 リ)もちろん、両方に重さがないなら、両方を天秤ばかりに乗せることも出来ないし、だから重量関係に置くことも出来ません。だから一方を他方の重さの表現として役立てることも出来ないわけです。

 ヌ)両方を天秤ばかりの皿に乗せるなら、それらが釣り合い、それらは重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであることが、実際に目に見える形で分かります。この場合、棒砂糖の重さそのものが鉄片の個数として具体的に目に見える形で顕れているのです。

 ル)鉄の固まりが重量の尺度としては棒砂糖に対して、ただ重さだけを代表して、それを目に見える形で表しているのに対して、われわれの価値表現においては上着はリンネルに対して、ただ価値だけを代表し、それを目に見える形として表しているのです。

 ここでは、ピースさんが準備してくれたレジュメでは、〈天秤に棒砂糖を左側に、鉄を右側において釣り合わせる。この関係において、棒砂糖は右側の鉄を見て私と同じ質量を持っていることを見る〉という説明があったのですが、これに対して、マルクスは「価値」と「価値量」とにアナロジーさせて、「重さ」と「重量」とを区別しながら意識的に使い分けており、「質量」だとそれが分からないのではないかとの指摘がありました。

 (報告は資料も含めて三分割します。この続きは「その2」に続きます。)

コメント

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-02-28 22:57:28 | 『資本論』

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎棒砂糖の例の限界--自然的属性と超自然的属性

【7】パラグラフ

 (イ)とはいえ、類似はここまでである。(ロ)鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の物の超自然的な属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。》

 イ)、ロ)しかし棒砂糖の例にはおのずと限界があります。というのは、鉄は、棒砂糖の重量表現においては、重さという、両方の物体が持っている一つの自然属性を代表しているのに対して、われわれが問題にしているリンネルの価値表現においては、等価形態にある上着は、両方の商品が持つ超自然的な属性、すなわち価値という、純粋に社会的なあるもの代表しているのだからです。

 ところで、ここではマルクスは商品の価値を、商品という「物の超自然的属性」であると述べています。これを読んで、以前、商品の価値を商品の「属性」だと述べたことを批判した人があったことを思い出しました。その人は次のように批判したのでした。

 〈(O氏は--引用者)価値が“実体”であるということから、それは商品の属性――ただし自然的な属性ではなく、社会的な属性であると断るのだが――であると断言してはばからない。いかに「社会的」と言おうが、商品の「属性」、つまり商品そのものに属する性質であると言うかぎり、まさに物神崇拝意識そのものである。〉

 しかし価値を〈商品そのものに属する性質であると言う〉意味で、「商品の属性」といえば、物心崇拝意識そのものだという批判は、本当に正しいものでしょうか。例えば、マルクスは『補足と改定』では、次のように書いています。

 《しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。》(前掲73頁)

 ここではマルクスは商品の価値性格は《価値関係のなかで商品の物的な属性となる》と述べています。もし商品の価値を商品に刻印される社会的属性だと述べることが、物神崇拝意識そのものだというなら、マルクスもそうだといわねばならなくなるでしょう。問題はそういうことではなくて、価値関係によって物的な属性として現れてくるものを、価値関係の外でもそういうものとして捉えること、すなわち商品そのものが生まれながらに持つ物的な属性であるかに捉えることが、物神崇拝意識そのものだということではないでしょうか。

◎等価形態の謎

【8】パラグラフ

 《(イ)ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とはまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それが或る社会的関係を包蔵していることを暗示している。(ロ)等価形態については逆である。(ハ)等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。(ニ)いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである(21)。(ホ)しかし、ある物の諸属性は、その物の他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。(ヘ)それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現われるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。(ト)そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賎民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読みあげるのである。(チ)彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。》

 イ)、ロ)相対的価値形態も価値が目に見えるように現れるのですが、この場合は、例えばリンネルの価値存在をリンネルの身体やその諸属性とはまったく違った、別の商品の身体やその物的属性によって、例えば上着なら上着の自然属性によって表すのだから、商品と商品との社会的関係において現れてくることが分かります。だからそれらの価値関係の背後に社会的関係が潜んでいることが暗示されているのです。しかし等価形態についてはそれが逆になっているです。

 さて、この部分の『補足と改定』を見ると、次のようになっています。

 《すべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。等価形態においては逆である。》(前掲同)

 このようにマルクスはここでは《入れ替わり》は両方の形態に現れていると述べています。相対的価値形態においても、相対的価値形態にある商品の価値が、その使用価値と区別されて、別の商品の使用価値によって表されるという限りでは、やはり自然形態が価値の形態になるという入れ替わりがあるのですが、しかし、その入れ替わりは、他の商品との関係に媒介されていることもはっきりしており、価値関係が社会的関係の現象形態であることを示唆しているというのです。しかし同じ入れ替わりでも等価形態においては、それが逆であり、価値関係内部でのことであることが見えにくくなっているというのです。

 ハ)、ニ)というのは、等価形態の場合、商品体、例えば上着のそのあるがままの姿、その自然形態そのものが価値を表しており、だから上着そのものが、生まれながらに価値の形態を持っているかのように見えるからです。もちろん、等価形態にある上着が直接価値を表すのは、リンネルとの価値関係のなかでのみ認められることであり、上着の表している価値というのは、リンネルの価値であって、上着の価値ではないのですが、自然形態そのものが価値を表しているから、価値が、上着自身の自然属性であるかに見えてしまうというのです。

 ホ)というのは、ある物の諸属性というのは、ある物が他の物との関係から生じるのではなくて、ただ他の物との関係のなかで確認されるだけであるから、等価形態にある上着が価値を表すということも、あるいは直接的交換可能性の形態も、同じように上着の自然属性、例えば重さがあるとか、保温に役立つといった属性と同じように、生まれながらに持っているもののように見えてしまうというわけです。

 この部分の『補足と改定』の一部は次のようになっています。

 《しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。》(前掲74頁)

 つまり等価形態にある商品は、その自然形態そのものが価値の形態として認められ、よってその使用価値のままに、そのままで自らの価値を表す商品とは直接に交換可能なものとして通用するわけだから、そうした諸属性が、本来は相対的価値形態にある商品との価値関係のなかでのみ生ずるものであるのに、あたかも等価形態にある商品が生まれながらに持っている他の自然属性と同じようなものとして見えてしまうということです。というのは物の属性というのは等価形態のように他の物との関係で初めて生じるというような性格のものではないから、等価形態の諸属性も価値関係を離れても、等価形態に置かれた商品自体が自然に持っているもののように見えるのだということです。

 ヘ)こうして等価形態の謎的性格が感じられます。この謎的性格は、等価形態が完成されて貨幣になって、ブルジョア経済学者の粗雑な目にもようやく驚きを持って迎えられることになります。

 ト)彼は何とかとしてその金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにそれ以前に貨幣の役割を担ったさまざまな貨幣商品を持ってきて、それを説明したつもりになるのです。つまりこうしたまぶしくないものでも、そうした役割を果たしたのだから、燦然と輝き、誰もが欲しがる金銀がそうした役割を持っているのは当然なのだというわけです。

 チ)しかし彼は、もっと簡単な価値形態、20エレのリンネル=1着の上着 の中にこそ、こうした等価形態の謎を解く鍵があるということを考えてもみないのです。

 ところで所沢の「『資本論』を読む会」の学習会の報告では、「《等価形態の謎》とは、どのような内容なのか」という疑問が出されことが紹介され、大谷禎之介氏の「貨幣形態の謎」と「貨幣の謎」についての言及が紹介されています。この問題については、先にも紹介しました、大阪の「『資本論』を学ぶ会」の「ニュース」No.23でも以前紹介したことがあるので、それをここに再現しておきましょう。

 【◎「謎」と「秘密」の区別!?

 さて紙数は残りわずかとなりましたので、最後に、問題提起だけをやっておきます。『ニュース』前号(№22)で、第三節のまとめとして久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』の一節を引用しましたが、そこで久留間氏は第三節(価値形態論)の課題を「貨幣形態の謎を、そしてそれと同時にまた貨幣の謎を解くことにある」と述べていました。ここで「貨幣形態の謎」とは、「一般に商品の価値が特殊の一使用価値--金--の一定量という形態で表現されることの謎」と説明され、「貨幣の謎」とは「金の使用価値--本来価値の反対物たるもの--がそのまま一般に価値として妥当することの謎」である、と説明されています。そして「貨幣形態および貨幣の謎の核心」は「価値形態そのものの謎」であり、それは「商品の価値はそれに等値される他商品の使用価値で表示されるということ、そしてそのさい、この他商品の使用価値は、それを自らに等値する商品にとって価値の形態になるということこれである」と説明されていました。

 また大谷禎之介氏も『価値形態』という論文で次のように述べています。「物である金(Au)の量が価値の量を表現する、というようなことがいったいどのようにして可能なのか。……この謎を〈貨幣形態の謎〉と呼ぶ」「物である金、使用価値としての金が、その反対物である価値そのものとして通用することの謎、〈貨幣の謎〉」と。

 ところが最近、こうした久留間氏や大谷氏の「謎」の理解に異論が出されていることを知りました。まず武田信照氏は次のように指摘します。「(久留間)氏のいうように、上着という商品体=使用価値が直接価値形態になることが等価形態の謎なのではない。そうではなくて、リンネルとの価値関係の内部でのみ認められるこのような等価商品の性格が、この価値関係から独立しても認められるようにみえること、つまりその性格が上着という使用価値の生まれながらの自然属性にみえること、これが等価形態の謎なのである。非自然属性が自然属性にみえる等価形態の謎は、最も発展した等価形態である貨幣において完成した姿であらわれる」(『法経論集』経済・経営篇、53頁)と。

 これに対して藤本義昭氏は、この武田氏の指摘は正しいが、しかし武田氏は「上着がいかにして価値物となるかという問題」の理解で間違っていると指摘し、久留間氏にあっては「価値形態の秘密」および「貨幣の秘密」と「等価形態の謎」及び「貨幣の謎」とが「厳密に区別されずに混同されている」と指摘しています(『大阪市大論集』第30号、11頁)。そして次のように説明しています。

 〈簡単な価値形態に則して言えば、リンネル価値が上着の使用価値で表現されることによって上着が直接に価値物として意義をもち、リンネルの等価物となることは、この二商品の価値関係のうちにひそんでいる「価値形態の秘密」ではあっても、等価形態の謎ではない。この「価値形態の秘密」の発見は、上着が生まれながらにして直接交換可能性という属性をもつようにみえる等価形態の謎を解消させはするが、等価形態という上着に刻印された「一つの新たな形態」を解消させはしないのである。だから『資本論』では、「貨幣形態の生成を論証すること……これによって同時に貨幣の謎も消滅する」とされているように、金という特定の商品が生まれながらにして貨幣であるという「虚偽の仮象」をはぎとるために、貨幣形態の生成を論証することが価値形態論の課題として明確に提示されるのである。マルクスはこの課題を「いっさいの価値形態の秘密」の発見とそれを基礎にした価値形態の発展的移行の究明によって果たすのであるが、このうち前者が第三節の「A簡単な、個別的な、また偶然的な価値形態」における主要な課題である〉(同11~2頁)

 こうした疑問にどのように答えるのか、一度、皆様も考えてみてください。ここではこうした疑問や批判を検討する余裕はないので問題提起だけをしておきます。】

 武田氏の指摘はもっともであるような気がします。しかし藤本氏の主張は果たしてどうでしょうか。

◎反省規定という奇妙なもの

 最後は、注21です。

 《(21))およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである。》
 
 これと同じ注は初版本文にもありますが(付録にはない)、その注が付けられている本文では、次のような一文があります。

  《価値形態の両方の規定、または交換価値としての商品価値の両方の表示様式は、単に相対的であるとはいえ、両方が同じ程度に相対的に見えるのではない。リンネルの相対的価値 20エレのリンネル=一着の上着 においては、リンネルの交換価値が明白に他の一商品にたいするリンネルの関係として示されている。上着のほうは、たしかにただ、リンネルがそれ自身の価値の現象形態としての、したがってまたリンネルと直接に交換されうるものとしての、上着に関係するかぎりにおいてのみ、等価物である。ただこの関係のなかにおいてのみ上着は等価物なのである。しかし、上着は受動的にふるまっている。それはけっしてイニシアチブを取ってはいない。上着が関係のなかにあるのは、それが関係させられるからである。それだから、リンネルとの関係から上着に生ずる性格は、上着のほうからの関係の結果として現われるのではなくて、上着の作為なしに存在するのである。それだけではない。リンネルが上着に関係する特定の仕方は、たとえ上着がまったく控え目であって、けっして「うぬぼれて気の狂った仕立屋」の製品ではなくても、まったく、上着を「魅惑する」ように仕立てられている。すなわちリンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する価値体としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またそのかぎりにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。ところが、それがまったく逆に見えるのである。一方では、上着は自分自身では、関係する労をとってはいない。他方では、リンネルが上着に関係するのは、上着をなにかあるものにするためではなくて、上着はリンネルがなくてもなにかあるものであるからなのである。それだから、上着にたいするリンネルの関係の完成した所産、上着の等価形態、すなわち直接に交換されうる使用価値としての上着の被規定性は、たとえば保温するという上着の属性などとまったく同じように、リンネルにたいする関係のにあっても上着には物的に属しているように見えるのである。相対的な価値の第一の形態または単純な形態 20エレのリンネル=一着の上着 にあっては、このまちがった外観はまだ固定されてはいない。なぜならば、この形態は直接に反対のことをも言い表わしているからである。すなわち、上着がリンネルの等価物であるということ、および、これらの両商品のそれぞれがこのような被規定性をもつのは、ただ、他方の商品がその商品を自分の相対的な価値表現とするからであり、また、そうするかぎりにおいてのことである、ということがそれである。(21)》

 また『補足と改定』では、注としてではないのですが、次のような面白い例を使った説明も見ることが出来ます。

 《実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果……》前掲73頁)

 (付属資料は「その3」に掲載します。)

コメント

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2010-02-28 22:41:37 | 『資本論』

第21回「『資本論』を読む会」の報告(その3)


【付属資料】

 ここではこれまでと同様に、今回検討した各パラグラフごとに、関連する資料として引用集を紹介しておきます。

【4】パラグラフ

《初版付録》

 《c 等価形態の諸特性
 α 等価形態の第一の特性使用価値がその反対物たる価値の現象形態になる。》(国民文庫版139頁)

《補足と改訂》

 《等価形態の独自性への移行
 等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする》(小黒訳72頁)

《フランス語版》

 《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。
 価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏他訳27頁)

【5】パラグラフ

《初版付録》

 《商品の現物形態が価値形態になる。しかし、注意せよ、このような取り違えが一商品B(上着または小麦または鉄、等々)にとって起こるのは、ただ、その商品にたいして任意の他の一商品A(リンネル、等々)がはいるところの価値関係のなかにおいてのみのことでありただこの関係のなかにおいてのみのことである。それ自体としては、孤立的に考察すれば、たとえば上着は、リンネルまったく同じように、ただ、有用な物、使用価値であり、したがってまた、その上着形態も、ただ、一定の商品種類の使用価値の形態または現物形態であるにすぎない。しかし、どの商品も等価物としての自分自身に関係することはできないのだししたがってまたそれ自身の現物外皮をそれ自身の価値の表現とすることもできないのだから、商品は等価物としての他の商品に関係しなければならないのであり、言い換えれば、他の一商品体の現物外皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》(前掲139-140頁)

《フランス語版》

 《商品の自然形態がその価値形態になる。だが、実際には、この取り替えが商品B(上衣、小麦、鉄等)にとって生ずるのは、ただ、他の商品A(リンネル等)が商品B にたいしてとる価値関係の限界内でのことであり、たんにこの限界内に限られる。たとえば上衣は、これを単独に考察すれば、リンネルと同じく絶対に使用価値という有用物でしかなく、その形態は、特殊な種類の商品の自然形態でしかない。だが、どんな商品も等価物として自分自身に関係することはできないし、自分の自然形態を自分自身の価値形態にすることもないから、どんな商品も必ず他の商品を等価物として選ばなければならず、これによって後者の使用価値が前者にとって価値形態の役を果たすのである。》(前掲27-28頁)

【6】パラグラフ

《初版付録》

 《このことをわれわれに明示するものは、商品体としての、すなわち使用価値としての、商品体にあてがわれる尺度の例であろう。棒砂糖は、物体だから、重さがあり、したがってまた重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重さを見てとったり感じとったりすることはできない。そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。それにもかかわらず、棒砂糖を重さまたは重量として表現するためには、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。この関係のなかでは、鉄は、重さまたは重量以外のなにものをも表わしていない物体として認められている。それだからこそ、いろいろな鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿重さの現象形態を代表するのである。このような役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきなんらかの他の物体が鉄にたいしてとるところの、この関係のなかにおいてのみのことである。もしこの両方の物に重さがないならば、これらの物はこのような関係のなかにはいることはできないであろうし、したがってまた一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。われわれがこの両方の物を秤りの皿に載せてみれば、それらの物が重さとしては同じものであり、したがってまた一定の割合にあれば同じ重量のものである、ということが実際にわかるのである。この場合に鉄体が棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現においては上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである》(前掲140-1頁)

《フランス語版》

 《物体としての商品、すなわち使用価値としての商品に適用される尺度が、上述したことを読者の眼に直接明らかにするための事例として役立つ。棒砂糖は物体であるから重い、したがって重量をもっている。だが、この重量をたんに外観上眼で見ることもまたは手で触れることもできない。さて、既知の重量をもつさまざまな鉄片をとってみよう。鉄の物体形態は、それ自体として考察すれば、棒砂糖の物体形態と同じく重量の表示形態ではない。しかし、棒砂糖が重いことを表現するために、われわれは棒砂糖を鉄との重量関係に置く。鉄はこの関係のなかでは、重量以外になにも表わさない物体と見なされる。したがって、砂糖の重量を測るために用いられる鉄の量は、砂糖という物体にたいして単なる形態、すなわち、重量が表示される形態を表わす。鉄がこの役割を演じることができるのは、砂糖であろうと、重量を必ずもつ他のどんな物体であろうと、それらがこういった観点で鉄と関係させられるかぎりでのことなのだ。もし両物体に重さがなければ、相互間にこの種のどんな関係もありえないであろうし、一方が他方の重量の表現に役立つこともできないであろう。両者を双方とも天秤盤にのせると、両者が重量としては同じ物であり、したがって、両者がある比率のもとで同じ重さでもあることが、実際にわかるのである。鉄体が重量の尺度としては棒砂糖にたいして重量しか代表しないのと同じように、われわれの価値表現でも、上衣体はリンネルにたいして価値しか代表しない。》(前掲28頁)

【7】パラグラフ

《補足と改訂》--次のパラグラフと一緒に掲載

《フランス語版》

 《しかし、類似はここで終る。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両物体に共通な自然的特性、それらの重量を代表するのにたいし、上衣体は、リンネルの価値表現では、両物体の超自然的特性、それらの価値、純粋に社会的な刻印という性格を代表する。》(前掲28-9
頁)

【8】パラグラフ

《補足と改訂》

 《[A1]
 しかし,類似はここまでである。重量は鉄と棒砂糖との物質的属性である。それにたいして、リンネルと上着の,要するにすべての商品の価値性格は社会的な刻印であり、そしてそのことによって,価値関係のなかで商品の物的な属性となる。この入れ替わりは,両方の形態に現われているのであるが,商品の相対的価値形態におけるよりも等価形態においてより決定的に現われる。すなわち,一商品の相対的価値形懇は明かに他の商品との関係によって媒介されている。この形態が商品体の価値存在を,その感覚的存在およびその物的属性とはっきりと区別することによって,その形態は同時に,価値関係そのものを背後に潜んでいる社会的関係の単なる現象形態でありうるということを示唆している。相対的価値形態(等価形態の間違い?--引用者)においては逆である。
 実際,ある商品が等価物の役割を演ずるのは,ある他の商品の価値がそれにおいて表現されているからであり,またその限りでしかない。一商品の等価形態はこの関係から発生し,この関係の内部でのみ存在し,したがって,この関係に媒介されている。同じように、老婆の魔女的性格もまた迷信深い農民と彼女との関係のなかで成り立つのである,しかし,この老婆が農民にとって魔女として通用するのは,彼女が何もしなくても魔女的性格をもっているように見えるからでしかない。同じように,ある商品,たとえば上着が他の商品、たとえばリンネルの等価物であるのは,上着が何もしなくてもこの性格をもっているように見えるからにすぎない。上着は,リンネルが上着を自分自身の価値鏡にするかぎりにおいてのみ,等価物の形態を受け取る。リンネルは,上着がもともと,生まれながら価値鏡であるから,自分の価値を上着に映すように見える。その結果……
[A2]
 しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性であるそれらの重さを代表するのにたいして--上着体は,リンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性,それらの価値を,純粋に社会的な刻印という性格を,代表する。リンネルといったような一商品体の相対的価値形態は,その価値存在を,その商品体の感覚的な存在およびその物的属性とは完全に区別されるものとして,たとえば20エレのリンネルと1着の上着との同等性として表現するのであるが,そのことによって,価値関係がその背後に潜んでいる社会的関係を現しているということを,この形態は同時に暗示している。等価形態については逆である。等価形態とは,まさに,ある商品の身体が,その物が,あるがままで直接的に価値を表しているということなのである。
 [10〕確かに,このことが通用するのは,ある他の商品,たとえばリンネルの上着商品との価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p.23) しかし,ある物の一定の肉体的属性は,この属性が効力をもつようになる他の物との関係から生じるのではなく,この関係は,返って,逆に,すでに存在している属性をあらわにするだけであるから,上着は,価値関係とは関係なく,その等価形態を,つまり直接的交換可能性の形態を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属性と全く同じように,生まれながらにもっているように見える。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者の粗野な実際的な目を見はらせるのは,やっと,等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現わるときである。20エレのリンネル= 1着の上着という最も簡単な価値表現がすでに,等価物の謎的性格をもっているということに,ほんのすこしも気づくことをせずに,かえって彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうと妄想して,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みする。
[B]
   等価形態 第1の独自性
 しかし,類似はここまでである。鉄体は,棒砂糖の重量表現においては,両方の物体に共通な自然属性,--それらの重さ--,を代表するのにたいして,上着体はリンネルの価値表現においては,両方の物の超自然的属性を,それらの価値を,純粋に社会的なものを,代表する。
 一商品,たとえばリンネルの相対的価値形態は,リンネルの価値存在を,リンネルの身体およびこの身体の属性と完全に区別されるものとして,たとえば上着にひとしいものとして表現するのであるが,この形態は,この表現が社会的関係を隠していることを暗示している。
 等価形態については逆である。等価形態とは、まさに、ある商品体、たとえば上着がこのあるがままの物が,価値を表現し、したがって,生まれながらにして価値形態をもっている、ということなのである。確かに,このことが通用するのは,ただ,他の商品たとえばリンネルが,等価物としての上着に関係させられている価値関係の内部でのことにすぎない。(注21,p,23)しかし,ある物の身体的諸属牲は,その物の他の諸物との関係から生じるのではなく,むしろこのような関係のなかで確認されるだけであるから,上着もまた,その等価形態を,直接的交換可能性というその属性を,重さがあるとか寒さを防ぐとかというその属柱と同じように,生まれながらにもっているかのように見えるのである。そこから,等価形態の謎的性格が生じるのであるが,この謎的性格が経済学者のブルジョワ的な粗雑な目を見はらせるのは,やっと, 等価形態が完成されて貨幣となって彼の前に立ち現れるときである。そのとき,彼は,金銀の神秘的性格を説明し去ろうとして,金銀の代わりに目をくらませることのさらに少ないいろいろな商品をこっそりもってきて,かつては商品等価物の役割を演じたことのあるこれらいっさいの商品賎民の目録を棒読みしては,そのたびた満足のよろこびを新たにする。すでに,20エレのリンネル=1着の上着というようなもっとも簡単な価値表現が等価形態の謎を解く鍵を与えていることなど,
彼は感づきもしないのである。》(前掲73-76頁)

《フランス語版》

 《相対的形態が、たとえばリンネルという商品の価値を、その体躯そのものおよびその属性とは全く異なるあるものとして、たとえば上衣に類似しているあるものとして表現するとき、この相対的形態は、ある社会的関係がこの表現のもとに隠されていることを示している。
 等価形態のばあいは、逆のことが起こる。等価形態はまさに、ある商品体たとえば上衣が、そういうものとしてのこの物が、価値を表現し、したがって、当然に価値形態をもっている、ということから成り立っている。確かに、このことが正しいのは、リンネルのような他の商品が等価物としての上衣に関係するかぎりのことでしかない。(20)だが、ある物の物質的属性は、他の物にたいする外的関係から生ずるのではなく、この関係のなかで確認されるにすぎないのと同様に、上衣もその等価形態を、すなわち、直接に交換可能であるという属性を、重いとか熱いとかいう属性と同じく当然に、自然から引き出しているように見えるのであって、リンネルとの価値関係から引き出しているのではないかのように見える。ここから等価物の謎のような側面が生まれるのであって、この側面は、この形態がすっかり完成して貨幣の姿でブルジョア経済学者に現われるときにはじめて、彼の眼を驚かす。次いで彼は、銀や金のこの神秘的な性格を一掃するために、銀や金をそれほど眩しくない商品にこっそりとりかえようとする。彼は、かつて等価物の役割を演じてきたすべての物品のカタログをなんどもなんども作り変えては、そのたびに喜びを新たにする。二〇メートルのリンネルが一着の上衣に値するといったような最も単純な価値表現が、すでに謎を含んでいることも、自分がこの単純な価値形態のもとで謎解きの努力をしなければならないことも、彼は予感していない。》(前掲29頁)

【注21】

《フランス語版》

 《(20) ほかの概念界でも、やはりこのとおりである。たとえば、この人が玉であるのは、他の人々が彼の臣民と見なされ、それに応じて振舞うからでしかない。これらの人々は逆に、彼が王であるから自分たちは臣民であると信じている。》(同前)

コメント

第21回「『資本論』を読む会」の案内

2010-02-02 03:05:05 | 『資本論』

『資  本  論』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 


 「いのちを、守りたい。
 いのちを守りたいと、願うのです。」

 鳩山首相の施政方針演説である。
 昨年の所信表明演説も美辞麗句でよそよそしく飾られていたが、今回の施政方針演説もただ観念的で崇高な理念が掲げられているのみである。

 「資本主義社会を維持しつつ、行き過ぎた『道徳なき商業』」、『労働なき富』を、どのように制御していくべきなのか。人間が人間らしく幸福に生きていくために、どのような経済が、政治が、社会が、教育が望ましいのか。今、その理念が、哲学が問われています。」
 「人間のための経済、再び」
 「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です。」
 「『商業の道徳』を育み、『労働をともなう富』を取り戻すための挑戦」
等々。

 資本主義の現実と本質を知る労働者にとって、これらは何と空疎な文言として響くことか。マルクスは次のように述べている。

 《“わが亡き後に洪水は来たれ! Apres moi le deluge! ”これがすべての資本家およびすべての資本家国民のスローガンである。したがって、資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命に対し、何らの顧慮も払わない。肉体的、精神的萎縮、早死、過度労働の拷問に関する苦情に答えて資本家は言う--われらが楽しみ(利潤)を増やすがゆえに、それが何でわれらを苦しめるというのか? と。》(『資本論』第1巻、全集23a353頁)

 これこそが、労働者が日々体験している資本主義の現実ではないだろうか!

 一方で「資本主義社会の維持」を掲げながら、他方で、『労働なき富』を批判し(それをいうならまず自分自身を批判せよ!)、「『労働をともなう富』を取り戻す」ことを謳う鳩山首相の理念は、マルクスがブルジョア経済学者を批判して次のように述べたことがもっともよく当てはまる。

 《賃労働は自己疎外された労働であって、それにたいしては、それによってつくりだされた富が他人の富として対立し、それ自身の生産力がそれの生産物の生産力として対立し、それの致富が自己貧窮化として対立し、それの社会的な力がそれを支配する社会の力として対立するのである。ところが、このような、資本主義的生産において現われるところの、社会的労働の特定の独自な歴史的な形態を、これらの経済学者たち(鳩山首相と読め--引用者)は、一般的な永久的な形態、自然真理として言い表わし、また、このような諸生産関係を、社会的労働の絶対的な(歴史的ではない)必然的な、合自然的で理性的な諸関係として言い表わすのである。資本主義的生産の視野のなかに完全に閉じこめられているために、彼らは(鳩山首相は--同)、社会的労働がここでとるところの対立的な形態を、この対立から解放されたこの形態そのものと同様に必然的なものと断定するのである。こうして彼らは一方では労働を絶対的だとし(というのは、彼らにとっては賃労働は労働と同義なのだからである)、他方では資本を同様に絶対的だとし、労働者の貧窮と非労働者の富(鳩山家の巨万の富はまさにこれだ--同)とを同時に富の唯一の源泉として言い表わすのだから、彼らは絶えず絶対的な諸矛盾のなかで動いていながら、少しもそれを感じてはいないのである(だからノーテンキなことも言っていられるわけだ--同)。》(『学説史』26巻III340頁)

 ブルジョア社会の現実に対する無知を曝け出し、ノーテンキな理念を掲げるしか知らない鳩山政権を批判するためにも、あなたも、ともに『資本論』を一緒に読んでゆきませんか。

…………………………………………………………………………

第21回「『資本論』を読む会」・案内

                                                                                 ■日  時   2月21日(日) 午後2時~

■会  場   堺市立南図書館
        (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

■主  催   『資本論』を読む会


 

コメント