第21回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎春の陽気
大阪は、ここ数日は好天に恵まれ、春のような陽気が続いています。
第21回「『資本論』を読む会」開催当日(2月21日)もよい天気で、私たちが学習会を行った教室は50人ほどが入るほどの大きさなのですが、いつもはその真ん中の一番前の黒板に近い席を占めてこじんまりとやるのですが、今回はよい天気に誘われて窓際の席の各自思い思いの場所に座り行いました。おかげで学習会の最中に居眠りをしてほとんど聞いていなかったなどと、帰り道で話している人もあったほどでした。
そうした陽気もあってか、等価形態の「第一の特性」をすべて終えました(第4~8パラグラフ)。さっそく、その報告を行いましょう。
◎「等価形態の矛盾」とは?
今回は第4パラグラフからです。例によって全文を紹介し、議論も含めてその文節ごとの解読を紹介してゆきましょう。
【4】パラグラフ
《等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。》
ここから等価形態の「特色」(初版付録は「特性」、『補足と改定』は「独自性」となっている)の考察が始まっています。それは使用価値がその反対物である価値の現象形態になるということです。
ところで、この等価形態の特色の考察の前に、『補足と改定』や『フランス語版』では次のような導入文があることが紹介されました。
《補足と改訂》
《等価形態の独自性への移行
等価形態が内包する矛盾はその独自性をさらに詳細に考察することを必要とする。》(小黒正夫訳72頁)
《フランス語版》
《等価形態が含んでいる矛盾は、いまでは、この形態の特色のいっそう徹底的な考察を要求している。
等価形態の第一の特色 。使用価値が、その対立物である価値の表示形態になる。》(江夏美千穂/上杉聡彦訳27頁)
ここで《等価形態が内包する矛盾》(補足と改定)や《等価形態が含んでいる矛盾》(フランス語版)と言われているものは、一体、何を指しているのだろうかということが問題になりました。
ピースさんはローゼンベルグの『資本論注解』を紹介してくれました。確かに『注解』でも〈ついでマルクスは右にあげた諸矛盾の特徴づけにうつる。それは三つある〉と述べて、等価形態の三つの特性を紹介しているのですが、ローゼンベルグの『注解』でも、いま一つ〈右にあげた諸矛盾〉が何を指しているのかよく分からないのです。ただその諸矛盾がより詳細に考察されて、三つの特性(独自性)が与えられていることは分かります。しかし何をもって〈諸矛盾〉と述べているのかは、やはりもう一つよく分かりません。
亀仙人は、これらの導入文を見る限り、それまでの等価形態の考察(質的および量的)の結果、《等価形態の内包する矛盾》が明らかになったので、そのことはさらに等価形態の独自性を詳細に考察する必要があると読むことができるように思える。だからその直前で行われている等価形態の量的考察のなかに、その矛盾があるのではないか、と指摘して、次のような考えを述べました。
“等価形態の内包する矛盾は、それまでに考察したことを直接受けたものだから、特に、等価形態には量的な被規定性は含まれていないということを意味するのではないかと思う。それがどうして矛盾しているのかというと、リンネルの価値は与えられているので、その量的表現は、上着の価値の量によって決まってくるわけだが、実際のリンネルの価値量の相対的な表現においては、上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないということではないかと思う。等価形態に置かれた上着は、ただ「一着」の上着というように上着の使用価値の一定量として表され、それで十分だから、上着の価値量がどれだけかは、そこではまったく表されていない。だから、リンネルの価値の量的表現は、上着の価値の大きさによって決まるのに、その表現形態においては上着の価値の量的規定性そのものは現れて来ないわけである。これをマルクスは等価形態が含んでいる矛盾と述べているようのではないか。”というわけです。
ただその場合でも、何がどのように矛盾しているのか、そもそも矛盾とは何か、ということが問題になりました。この「矛盾」というのはそもそも何か、ということについては、以前、大阪で行った「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.16で鰺坂真他編『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)からその内容を一部紹介したことがありますので、それをもう一度紹介しておくことにします。
【同書には本質について次のような説明があります。
〈本質は、より規定的にいえば、事物のうちにあって、その多様な諸形態にうちに自己をうつしだし、それらに媒介された一定の恒常的なものです。そして、このような本質の、もっとも基本的で抽象的な規定が、同一、区別、根拠という三つのカテゴリーです。〉(同66頁)
ところで今問題になっている「対立」や「矛盾」は、まさにこの本質の「基本的で抽象的な規定」の一つである「区別」のなかにあります。それは次のように説明されています。
〈区別は、より単純な形態からより複雑な形態へと三つにわけられます。それが、差異・対立・矛盾です。〉(同69頁)
〈差異とは、最初の直接的な形態での区別であり、相互に無関係な別々のもののあいだでの区別です。〉しかしこうした〈たんなる差異的区別は、かならずしも事物にとって必要な不可欠な区別ではありません。/たとえば、ひとびとのあいだには、背丈とか体重その他の点で、いろいろな差異的な区別があります。しかしこれらの区別は、人類そのものにとって、本質的な、なくてはならない区別ではありません。人類にとっての本質的な区別は、たとえば、男女や親子の区別であり、この種の本質的な区別は、それがより本質的な区別であればあるほど、当の事物のうちにある、いわゆる両極的な区別となっています。/対立とは、このような、事物のうちにある両極的な区別をいいます。右と左、プラスとマイナス、N極とS極などの区別がそれです。/この対立的な区別には、次の点で差異的な区別と異なっています。/第一に、対立は、右のことからして、事物におけるもっとも本質的で必然的な区別です。そして、対立的な二つのものは、その規定性に関しては相互に排斥しあう関係にあって、たがいに自分は他方のものではないということが、そのまま直接に自分自身の規定と合致するという関係にあります。/第二に、一般にあるものの他者とは、そのものではないもの、そのものの否定です。しかしペンではないものといっても、かならずしも本という特定のものを意味しません。ところが、人間のうちにあって男性でないものといえばただちに女性を意味するように、両極的な対立物はたがいに、たんなる他者としてではなくて、それぞれに固有の他者としてあるのです。/第三に、右のことは、かならずしも一方のものが他方の存在そのものを否定する関係にあることを意味しているわけではありません。むしろ両者は、一つのものの不可分の二側面として、たがいに前提しあい依存しあう関係にあります。このように、その規定性にかんしては相互排斥的な両極的関係にあるものが、その存在にかんしては相互前提的な関係にあること、これが対立です。〉(69~71頁)
〈ところで、事物における本質的であるがたんに対立的でしかない区別にたいして、二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立です。この関係を論理的に表現すると、「AはAであるとともに非Aである」ということになります。〉(71頁)】
だから矛盾というのは〈二つのものが、その存在そのものに関して、一方では共存の関係にあり、他方では逆に相互排除の関係にあるとき、この二つのものの関係が、矛盾としての対立〉だということです。上着の価値の大きさは、リンネルの価値の量的表現を規定しているのに、実際の表現形態ではそれは含まれていないということ、これが矛盾ということではないでしょうか。
◎《取り替え〔Quidproquo〕》と《現物の皮》
【5】パラグラフ
《(イ)商品の現物形態が価値形態になるのである。(ロ)だが、よく注意せよ。(ハ)この取り替え〔Quidproquo〕が一商品B (上着や小麦や鉄など)にとって起きるのは、ただ任意の他の一商品A (リンネルなど)が商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。(ニ) どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。(ホ) すなわち、他の商品の現物の皮を自分自身の価値形態にしなければならないのである。》
イ)《商品の現物形態が価値形態になるのである》とあります。これは先のパラグラフ(【4】)と較べると、《使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になる》を直接言い換えたものです。つまり《商品の現物形態》=《使用価値》、《価値形態》=《(使用価値の)反対物の、価値の、現象形態》という関係にあることが分かります。
ロ)、ハ)だが注意する必要があるのは、《この取り替え〔Quidproquo〕》が一商品Bにおいて生じるのは、別の一商品Aが商品Bに対してとる価値関係においてだけだということです。
ここで《取り替え〔Quidproquo〕》という言葉が出てきますが、この言葉については、所沢の「『資本論』を読む会」の報告では次のような大谷禎之介氏の説明が紹介されていますので、重引しておきましょう。
〈マルクスが使っているこの《入れ替わり[Quidproquo]》という表現は、あるものとあるものとが、入れ替わって現れることであって、それによって人びとが欺かれることになる。たとえばモーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』で、アルマヴィーヴェ伯爵を懲らしめるために伯爵夫人とスザンナが衣装を取り替えて別人になりすます。そしてこれに伯爵がまんまとひっかかる。これが《入れ替わり》である。〉(大谷禎之介「価値形態」「経済誌林」第61巻第2号191頁)
つまり使用価値が価値の現象形態になります。使用価値というのは、それ自体が直接的なものです。つまり直接目に見える感覚的なものとして存在しています。しかし価値はそうしたものではありません。にも関わらず、その使用価値の直接的な定在が、価値が目に見える形で現れたものとしての意義を持たされるわけです。つまり価値が目に見えるように現れたものとして、その使用価値の直接性があるということです。だから使用価値の直接的な定在がそのまま価値の直接的な定在になっています。しかしあくまでも上着の使用価値がリンネルの価値の直接的な目に見える定在になっているのであって、上着の使用価値が上着の価値の直接的な定在になれるわけではありません。そしてそのためには上着の使用価値が価値の形態になるという入れ替わりがそこには生じなければならないわけです。もちろん、入れ替わりといっても上着の使用価値そのものは何も変わっていないのです。ただそのままの使用価値にリンネルの価値の現象形態という新たな形態規定性(役割)が付け加えられるだけなのです。しかしその付け加えられた新たな形態規定においては、上着の使用価値は、ただリンネルの価値の現象形態であるという役割しか持たされず、上着の使用価値自体に存在している他のさまざまの属性--例えば羊毛でできていて着心地がよいといったこと--はそこでは直接には問題になっていません。
しかも重要なことは、上着がこうした役割を担わされるのは、リンネルとの価値関係に置かれる限りでのことだということです。
ニ)というのは、どんな商品も、自分自身を自分自身の等価物にすることはできません。
これは「1 価値形態の両極」のところで、指摘されていた《20エレのリンネル=20エレのリンネル》という等式が価値表現ではなく、むしろ20エレのリンネルは一定量の使用価値だということを示すだけだと言われていたことと同じです。これでは何も価値は表現されていないのです。つまりどんな商品も自分自身の現物の皮(自分自身の使用価値)を自分自身の価値の表現に利用できないのです。だからどんな商品も自身の価値を表現しようとするなら、他の別の商品を等価物にして、それと関係する必要があるわけです。
ここで使用価値を《現物の皮》と表現していますが、これはどういう意味なんだろうということも問題になりました。これは使用価値は直接的なものであるのに対して、価値は内在的なものであるということを具体的なイメージで示すものではないかということになりました。つまり使用価値は物の表面に顕れていて直接目に見えるものであるということで、それを動物の表面を覆っている皮に例えているわけです。それに対して価値は内在的なもので、直接には見えず、だから皮に覆われて見えなくされているものというイメージで捉えられているわけです。
ホ)だから、その内在的な価値が直接的な目に見えるものにするためには、自分自身の皮は役に立たないこと、他人の皮の中に自分の内在的価値を映し出すのだということ、つまり他の商品の現物の皮を自分自身の価値の形態にしなければならないということです。
◎棒砂糖の例
【6】パラグラフ
《(イ)このことをわかりやすくするのは、商品体としての商品体に、すなわち使用価値としての商品体にあてがわれる尺度の例であろう。(ロ)棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量をもっているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。(ハ)そこで、われわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。(ニ)鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。(ホ)それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。(ヘ)この関係のなかでは、鉄は、重さ以外のなにものをも表わしていない物体とみなされるのである。(ト)それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。(チ)この役割を鉄が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。(リ)もしこの両方の物に重さかないならば、それらの物はこのような関係にはいることはできないであろうし、したがって一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。(ヌ)両方を秤りの皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものでもあるということが、実際にわかるのである。(ル)鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。》
イ)この等価形態の第一の特性(使用価値がその反対物である価値の現象形態になる)を分かりやすく説明するために、商品を量り売りするために、商品そのものの量を計る場合を考えてみましょう。例えば商品としての棒砂糖を量り売りするために、使用価値としての棒砂糖そのものの量を計る必要がありますが、それを考えてみるわけです。
ロ)商品としての棒砂糖もやはり物体だから重さがあります。だからその重さで商品としての棒砂糖の量、つまりその使用価値の量を計ることができるわけです。しかし棒砂糖の重さは棒砂糖だけを見ているだけでは、見たり感じたりすることはできません。だから使用価値としての棒砂糖の量をその重さで計るためには、まずその棒砂糖の重さそのものを目に見えるような形で表し、その上で、買い手が自分自身の目でその量がどれぐらいかを確認できるように、計って見せなければなりません。買い手は自分の目で確認しない限り、これは幾らの棒砂糖だと一方的に言われても信用出来ないわけです。だからどうしても目に見えない棒砂糖の重さを、目に見えるようにして、その上でその量を買い手の目の前で計って見せる必要があるわけです。
ハ)だから売り手は天秤計りを持ち出して、一方の皿に一定量の棒砂糖を乗せ、他方の皿にあらかじめ確定されている分銅を乗せて、その釣り合いを見ながら計るところを見せるわけです。こうして買い手は棒砂糖の重さを、よってその使用価値の量を自分の目で確認して納得して買うことが出来るわけです。
ニ)しかし今、もし分銅が鉄で出来ているとするなら、それもやはり単なる鉄の固まりであり、鉄も物体としては、それだけを見ていても、やはり棒砂糖と同じで、その重さを見たり感じたりすることは出来ません。つまり鉄も、やはり重さが目に見えるような形で顕れている物とはいえないのです。
ホ)それだのに、われわれ(買い手)はその鉄片によって、棒砂糖の重さが目に見えていると感じ、使用価値としての棒砂糖の量がそれによって計ることが出来たと納得するわけです。どうしてそうなっているのか、それが問題です。それは天秤ばかりで一方の棒砂糖と他方の分銅とが釣り合っていることを買い手は確認したからです。この場合、棒砂糖と分銅とは重量として同じである、つまり重量として等置の関係にあることを示しています。天秤ばかりは、この二つの物体が、互いの重さにおいて釣り合っていることを目に見える形で表しているのです。売り手は、天秤ばかりによって二つの物体を重量関係においたのです。
ヘ)そしてこの重量関係において、鉄片は、重さ以外の何ものをも表さない物体とみなされているのです。
ト)だから、さまざまな量の鉄片は、棒砂糖の重量の尺度として役立つのです。そしてその場合は、鉄片は棒砂糖に対して、ただ単に重さそのものの姿として、重さが目に見える形で顕れたものとして役立っています。つまり重さの現象形態を代表しているのです。
チ)鉄片が、こうした役割を演じるのは、ただ棒砂糖とか、それ以外のその重量を表そうとするものが、この鉄片に対してとる関係、すなわち重量関係のなかだけのことです。
リ)もちろん、両方に重さがないなら、両方を天秤ばかりに乗せることも出来ないし、だから重量関係に置くことも出来ません。だから一方を他方の重さの表現として役立てることも出来ないわけです。
ヌ)両方を天秤ばかりの皿に乗せるなら、それらが釣り合い、それらは重さとしては同じであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであることが、実際に目に見える形で分かります。この場合、棒砂糖の重さそのものが鉄片の個数として具体的に目に見える形で顕れているのです。
ル)鉄の固まりが重量の尺度としては棒砂糖に対して、ただ重さだけを代表して、それを目に見える形で表しているのに対して、われわれの価値表現においては上着はリンネルに対して、ただ価値だけを代表し、それを目に見える形として表しているのです。
ここでは、ピースさんが準備してくれたレジュメでは、〈天秤に棒砂糖を左側に、鉄を右側において釣り合わせる。この関係において、棒砂糖は右側の鉄を見て私と同じ質量を持っていることを見る〉という説明があったのですが、これに対して、マルクスは「価値」と「価値量」とにアナロジーさせて、「重さ」と「重量」とを区別しながら意識的に使い分けており、「質量」だとそれが分からないのではないかとの指摘がありました。
(報告は資料も含めて三分割します。この続きは「その2」に続きます。)