『資本論』学習資料No.12(通算第62回)上
◎「資本主義的生産様式の矛盾」とは?(大谷新著の紹介の続き)
「資本主義的生産様式の矛盾」などといわれると、すぐに『経済学批判』の「序言」の「定式化」などを思い浮かべて、「生産力と生産関係の矛盾」などと“公式”の解答を思い浮かべるかも知れません。確かにマルクスは〈ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない〉(全集第13巻7頁)と述べています。しかしここでは〈物質的生活の諸矛盾〉として〈社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突〉について述べているのですから、必ずしも「資本主義的生産様式」に限定されたものとして述べているとはいえません。
では、「資本主義的生産様式の矛盾」とはなんでしょうか。それを如何に理解したらいいのでしょうか。大谷新著は次のように述べています。
〈資本主義的生産様式の矛盾とはどういうものか。マルクスによる最も一般的な表現は次のとおりである。「資本主義的生産様式の矛盾は,この生産様式が生産力諸力を絶対的に発展させようとする傾向をもちながら,この発展が,資本が運動する場である独自な生産諸関係とたえず衝突する,というところにある」(MEGAII/42.S.331;MEW25,S.268)。〉 (47-48頁)
さらに次のようにも述べています。
〈だから,資本の本質的な内在的矛盾とは,自己の歴史的使命を果たそうとする資本自身のこのような傾向が,資本主義的生産という社会的生産の独自の形態と衝突する,ということである。だから,「資本主義的生産様式は,物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段であるが,それはまた同時に,資本主義的生産様式のこの歴史的任務とこれに対応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的矛盾なのである」(MEGAII/42,S.324;MEW25,S.260)。〉 (48頁)
ところで、最近、若手の経済学者の一人として注目を浴びつつある斉藤幸平氏(彼も大谷氏からMEGAの編集を引き継いだ一人)は、『ニクス』という雑誌に掲載された論文「マルクスのエコロジーノート」のなかで、次のように述べています。
〈『資本論』のプロジェクトは未完に終わったが、マルクスは膨大な量の自然科学抜粋を晩年の15年間に作成した。それゆえ、これらのノートの内容をまったく検討せずに、マルクスのエコロジーを過小評価するのは早急だろう。事実、1868年のノートは、もし『資本論』が完成したなら、マルクスは人間と自然の物質代謝(Stoffwechel)の撹乱という問題を資本主義の根本的矛盾として扱ったという推測を根拠づけてくれるように思われる。裏を返せば、エコロジーがマルクスの経済学批判にとって中心的な位置を占めることが見逃されてきた一因には、マルクス自身が晩年の研究成果を『資本論』に十分に取り入れることが出来なかったことがある。しかしMEGAに基づく抜粋ノートの検討は、これまで見過ごされてきたマルクスのプロジェクトの一面に新たな光を当ててくれるだろう。〉(『ニクス』№3,25頁)
つまりマルクスがもし晩年の自然科学の研究の成果を踏まえて『資本論』を完成させることができたとしたら、〈人間と自然の物質代謝(Stoffwechel)の撹乱という問題を資本主義の根本的矛盾として扱った〉だろうというのですが、果たしてどうでしょうか。
彼の新著『大洪水の前に--マルクスと惑星の物質代謝』(この本は世界的な評価を受け、ドイッチャー賞を受賞した力作らしい)が近々、刊行されるらしいですから、まあ、その本を読ませて頂いてから、こうした主張についてはもう一度考えさせて頂くことにしましょう。
ということで、さっそく前回の続きをやることにします。今回は第14パラグラフからです。
◎第14パラグラフ(G-WのG〔貨幣〕は、売られた商品とこれから買われる商品を代表している)
【14】〈(イ)G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。(ロ)--貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またはそれらの一般的な譲渡の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。(ハ)貨幣はすべての価格を逆の方向に読むのであり、こうして、貨幣自身が商品になるための献身的な材料としてのすべての商品体に、自分の姿を映しているのである。(ニ)同時に、諸商品の価格は、諸商品が貨幣に投げかけるこの愛のまなざしは、貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示している。(ホ)商品は、貨幣になれば消えてなくなるのだから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わからない。(ヘ)それの出所がなんであろうと、それは臭くはない〔non olet〕(43)のである。(ト)それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。70〉
(イ) G-W、商品の第二の、または最終の変態、すなわち買い。
これまで私たちは商品の貨幣への転化、W-G、つまり商品の第一の変態(最初の変態、販売)を見てきましたが、次に、貨幣の商品への転化、G-W、つまり商品の第二の変態(最終の変態)である「買い」について見てゆくことにしましょう。
(ロ) 貨幣は、他のいっさいの商品が自分の自然の姿を脱ぎ捨てた姿です。またはそれらの諸商品を一般的に譲渡した結果得たものですから、反対に、絶対的に譲渡されうる商品とも言えるわけです。
商品はその価値においては、他の諸商品と同じであり、互いに交換可能なものであることを示しています。しかしその使用価値によって、それは無条件に他の諸商品と交換可能とはいえないものとしてあるわけです。こうした価値と使用価値との対立によって、商品はその商品と貨幣とへの二重化を必然としたのでした。だから貨幣こそ、さまざまな諸商品がその使用価値の姿態を脱ぎ捨てて、価値そのものの姿になったものなのです。しかし貨幣がそうしたものになりえたのは、すべての商品が特定の商品を自分たちの一般的な等価物としたからに外なりません。こうした関係からその一般的等価物は直接的な交換可能性を得ているわけです。だから貨幣こそ、無条件に、絶対的に譲渡されうる「商品」と言えるわけです。貨幣さえあれば何でも買えるというのが私たちの日常的な意識です。
(ハ) 貨幣はすべての価格を逆の方向に読みます。つまり、貨幣が商品になるための献身的な材料としてすべての商品体に、自分の形式的な使用価値の姿を映し出すわけです。
以前、次のように説明されていました。
〈展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表わされているのが見いだされる。〉 (全集第23巻a頁)
つまり貨幣自身は価値の固まりですから、量的表現しかありません。しかしその貨幣の価値の量的限度は、彼の価値を表すすべての商品列のそれぞれの使用価値量によって表されているわけです。『経済学批判』には次のようにあります。
〈金の商品への転化にとっては質的制限はなにもなく、ただ量的制限、それ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。〉 (全集第13巻74頁)
(ニ) 諸商品の価格表というのは、諸商品が貨幣に投げかける愛のまなざしなのですが、しかしそれは同時に貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示しています。
貨幣はその観念的な使用価値から現実的な使用価値になるために、彼の前に並んでいる商品列のなかから一つを選び出さねばならないわけですが、しかしそれがどれだけのものになるのかは彼自身の価値の大きさによって限定されているわけです。2ポンド・スターリングなら、20エレのリンネルになりえますが、1ポンド・スターリングなら、10エレのリンネルにしかなれません。
(ホ)(ヘ) 商品は、貨幣になれば流通から姿を消してしまう(消費過程に入る)のですから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わかりません。それの出所がなんであろうと、それは"臭く"はないのです。
商品は販売されて貨幣に転化した時点で流通から脱落して消費過程に(個人的消費か生産的消費かに)入ります。だから流通の現場には貨幣だけが残ります。だから貨幣を見てもそれがどうしてそれを持っている人の手に入ったのかはわかりせん。彼はそれを盗んだのかも分からないし、あるいは糞尿を売って手に入れたのかも知れません。いずれにせよ貨幣は"臭わない"のですから。
ここで〈臭くはない〔non olet〕〉には全集版には注解43が付いていますが。ここではより詳しい説明がされている新日本新書版の訳者注を紹介しておきましょう。
〈*〔ローマ皇帝ヴェスパシアヌス(在位69-79年)は、公衆便所への課税を息子から非難されたとき、第1回の税収貨幣を息子に示し、臭いかとたずね、臭くないとの返事に「それでもこれは糞尿からとったのだ」と言ったのにちなむ。スエトニウス『ヴェスパシアヌス』、23より〕〉
恐らく先のパラグラフの〈だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが〉という一文も同じ問題意識からと思えます。
(ト) 貨幣は、一方では売られた商品を代表しますが、他方ではこれから買われうる商品を代表するのです。
この部分は初版では次のようになっています。
〈貨幣は、諸商品にたいしては脱ぎ捨てられた姿態として向かいあい、商品世界は、絶対に譲渡可能な商品姿態としての貨幣に向かいあっている〉 (江夏美千穂訳100頁)
また『経済学批判』には次のような一文があります。
〈流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態での商品のかわりに、その金等価物が現われている。この第二の形態での商品は、それ自身の持続的存在をもっているのだから、この結果はさしあたりひとつの休止点となることができる。その所有者の手中ではなんらの使用価値でもなかった商品は、いまやいつでも交換できるがゆえにいつでも使用できるという形態で現存しており、それがいつ、そして商品世界の表面のどんなところで、ふたたび流通にはいるかは、事情のいかんにかかっている。〉 (全集第13巻73-74頁)
◎注70
【注70】〈70「われわれの手にある貨幣が、われわれが買いたいと思うことのできるいろいろな物を表わしているとすれば、それはまたわれわれがこの貨幣とひきかえに売ったいろいろな物をも表わしている。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、五八六ページ。)〉
これは本文の〈それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである〉に付けられた原注です。やはりこれもメルシエ・ド・ラ・リヴィエールから抜粋されています。
◎第15パラグラフ(一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなす)
【15】〈(イ)G-W、買いは、同時に、売り、W-Gである。(ロ)したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。(ハ)われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が二ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。(ニ)しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた二ポンド・スターリングをウィスキーに替える。(ホ)G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終変態は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の第一段階である。(ヘ)商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが、他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散させざるをえない。(ト)したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれる。(チ)こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。〉
(イ)(ロ) G-W、買いは、同時に、売り、W-Gです。だから、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態です。
すでに見ましたように、売りは同時に買いでしたから、そはれは反対からみれば、買いは同時に売りでもあるということです。だからある商品の最後の変態(第二段階の転化)、G-Wは、同時に他の一商品の最初の変態(第一段階の転化)、W-Gだということができます。
(ハ)(ニ) 私たちのリンネル織職にとっては、彼が市場に持ち込んだリンネルにこめた最終の目的は、彼がリンネルを転化させた二ポンド・スターリングを聖書に再転化することによって達成されます。しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた二ポンド・スターリングをウィスキーに替えることでその目的を達します。
これを私たちにおなじみのリンネル織職についてみますと、彼が自分が織ったリンネルを市場にもちこみ、販売したのは、最終的にはそれを売ってえた2ポンド・スターリングで家庭用聖書を買うためでした。しかし彼の最終目的を達する買い(G-W)は、その家庭用聖書を売る(W-G)人にとっては、最初の変態です。彼もやはりその販売で得た2ポンド・スターリングでやはりその最終目的であるウィスキーを買うことを望んでいるわけです。
(ホ) G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終変態は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の第一段階である。
だから常に言えることは、G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終の変態、つまり第二段階は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の最初の変態、つまり第一段階なのです。
(ヘ)(ト) 商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのですが、他方で、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散させざるをえません。したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれます。
リンネル織職が売ることができるのはリンネルしかありませんが、しかし商品社会では彼の欲望を刺激するものが商品として市場に溢れています。だから彼はリンネルを一生懸命に生産して、それを多量に売って、そしてそれで得た貨幣で、彼の多方面の欲望を満たすさまざまな商品を買い求めるでしょう。だから一つの売りは、いろいろな他の諸商品の多くの買いに枝分かれすることになります。
この部分のフランス語版は次のようになっています。
〈社会的分業は、生産者=交換者の各人を、彼がしばしば大量に売るある特殊な物品の製造に限定する。他方、彼は、始終再生する自分のいろいろな必要にせまられて、こうして得た貨幣を多少のちがいはあれ多数の購買のために使用せざるをえない。ただ一つの販売が幾つかの購買の出発点になる。〉 (江夏・上杉訳90頁)
また『経済学批判』にも次のような一文があります。
〈商品流通は、発達した分業を前提し、したがって個人の生産物の一面性に逆比例する彼の欲望の多面性を前提するから、購買G-Wは、あるときは一つの商品等価物との一等式であらわされ、あるときは買い手の欲望の範囲と彼の貨幣額の大きさとによって限定された一系列の商品等価物に分裂する。〉 (全集第13巻74頁)
(チ) こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのです。
このように、一つの商品の最終の変態は、他の多くの商品の最初の変態の総和を形成していくことになるのです。
◎第16パラグラフ(売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である)
【16】〈(イ)そこで今度は、ある商品、たとえはリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W-GとG-Wとから成っているということである。(ロ)商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的過程で行なわれ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。(ハ)売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になる。(ニ)しかし、商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。(ホ)同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。(ヘ)だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。〉
(イ) そこで今度は、ある商品、たとえはリンネルの総変態を考えますと、まず最初に目につくのは、それらが、互いに補いあう二つの反対の運動、W-GとG-Wとから成っているということです。
これまで私たちはリンネル織職のあとに続いて、市場での彼の振る舞いを見てきました。 まず彼はリンネルを貨幣と交換しましたが、それは商品リンネルの最初の変態でした。そして次にリンネル織職は手に入れた貨幣で、彼の最終目的である家庭用聖書を購入しました。これは商品リンネルの最後の変態でした。またそれぞれの変態が如何なる意味を持っているのかをそれぞれ個別に見てきたのでした。 だから今度は、リンネル織職の市場での振る舞いを全体として見てみることにしましょう。つまり商品リンネルの総変態を見るわけです。リンネル織職は、まずリンネルを販売してから、家庭用聖書を買ったのですから、それは商品変態としては、W-GをやったあとG-Wを行なったということになります。だから全体としては互いに補いあう二つの反対の運動(W-GとG-W)からなっていることに気づきます。
(ロ)(ハ) 商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的な運動として行なわれ、そしてそれは商品所持者の二つの反対の経済的役割として反映しています。つまり売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になのです。
リンネルのこの二つの互いに補いあいながら対立する変態を、リンネル織職は彼の市場おにおける振る舞いとして担うことになります。彼はまずリンネルの最初の変態としては、 リンネルの販売者という役割を担います。次に彼は貨幣保持者として、家庭用聖書を購入するリンネルの第二の変態を遂げる段階では、購買者として登場します。つまり彼は最初はリンネル販売者として「売り手」になり、家庭用聖書の購買者としては「買い手」になるわけです。このようにリンネルの変態は、リンネル織職に社会的に一定の役割を担わせ、それにもとづいて「売り手」と「買い手」という経済的役割を反映させるわけです。
(ニ) しかし、商品のどちらの変態でも、商品と貨幣とが対立して存在したように、商品の二重の形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在します。それと、同じように、商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対しています。
リンネルの二つの変態(W-GとG-W)では、どちらの変態でも商品(W)と貨幣(G)が対立して存在しています。しかしそれらは互いに反対の極として存在しているのです。だから商品の所持者(W)は、売り手として登場したときには、別の誰かが貨幣保持者(G)として相対します。つまりリンネル織職が売り手となるためには他の誰かが買い手にならなければならず、同じように彼が買い手になる時には、別の第三者が売り手にならなければならないわけです。
(ホ) 同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのです。
リンネルの変態はW-GとG-Wという二つの変態を次々に行なっていくことでした。すりわち商品から貨幣になり、そして貨幣から商品になるというようにです。同じことはリンネル織職の役割にもいえます。彼は市場に商品所持者として登場し、まず最初は売り手になり、そしてそれから買い手になったのです。
(ヘ) だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割でといえます。
だから売り手と買い手という役割は、決してある人の決まった性格というようなものではなく、商品流通のなかで絶えずそれを担う人が変わっていくようなものであり、役割だといえます。
『経済学批判』では次のように書かれています。
〈商品所有者たちは、単純に商品の保管者として流通過程にはいりこんだ。流通過程の内部では、彼らは買い手と売り手という対立的形態で、一方は人格化された棒砂糖として、他方は人格化された金として相対する。さて棒砂糖が金になると、売り手は買い手になる。だからこれらの一定の社会的性格は、けっして人間の個性一般から生じるものではなく、彼らの生産物を商品という一定の形態で生産する人々の交換諸関係から生じるのである。……だから買い手と売り手というこれらの経済的にブルジョア的な性格を、人間の個性の永久的な社会的形態だと考えるのは、ばかげたことであるが、それと同様に、これを個性の揚棄だとして嘆くのもまちがったことである。それらは、社会的生産過程の一定の段階を基礎とした個性の必然的表示である。〉 (全集第13巻76-77頁)
◎第17パラグラフ(一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する)
【17】〈(イ)一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。(ロ)まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。(ハ)こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。(ニ)次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。(ホ)第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。(ヘ)こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。71〉
(イ) 一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提します。
さてリンネルの変態の全体を振り返ってみましょう。まずリンネルは最初の変態(リンネル-貨幣)を行ないました。しかしリンネルのこの最初の変態は、彼に買い手として相対する貨幣所持者の最後の変態でした。彼は(小麦-貨幣-リンネル)という総変態の最後の変態を行なったわけです。次にリンネル第二の変態(貨幣-聖書)を見ると、彼に相対する聖書の所持者にとっては、最初の変態(W-G)です。彼も(聖書-貨幣-ウィスキー)という総変態を遂げるための最初の変態なのでした。
ということは、リンネルという一つの商品の総変態には、少なくとも、四つの極(W-GとG-W、すなわちリンネル、貨幣、貨幣、聖書)があり、三人の登場人物(リンネル織職、小麦生産者、聖書所持者)が存在していることが前提されています。
(ロ)(ハ) まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対しますが、この価値姿態、つまり貨幣は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっています。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対します。
先に見ましたように、リンネルの最初の変態のためには、貨幣が相対しなければなりません。その貨幣は他人(私たちの想定では小麦生産者)のポッケとのなかにあります。だからリンネル織職には、貨幣所持者である小麦生産者が相対します。つまりまず二人の登場人物が必要です。
(ニ)(ホ) 次に、商品が貨幣に転化されますと、その貨幣は商品の一時的な等価形態となります。そして等価形態である貨幣の使用価値は、観念的に市場に並んでいる他の商品体のうちにあります。だから第一の商品変態の結果である貨幣は、同時に第二の変態の出発点です。
商品が貨幣に転化しますと、その貨幣は、その商品の価値姿態の一時的な存在となります。それが一時的なのは、リンネル織職の場合を考えればよく分かります。彼はリンネルを販売して貨幣を入手しますが、それはその貨幣で聖書を買うためであって、貨幣はただそのための一時的な存在だからです。ただ貨幣は市場では、さまざまなものと交換でき、その使用価値は市場にならんでいる諸商品の形で観念的には表されています。だから第一の商品の変態(W-G)の結果であるGは、第二の変態(G-W)の出発点です。だからここには四つの極(W、G、G、W)があることになります。
(ヘ) こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対します。
そして先にも見たように、リンネル織職は、最初は売り手として登場し、次には買い手と登場しました。そして彼が買い手として登場する時には、彼には第三の商品所持者、つまり聖書を売り払おうと考えている人物が売り手として登場することが前提されています。つまりこれで登場人物は三人になったわけです。
◎注71
【注71】〈71「したがって、四つの終点と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人は二度はいってくる。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇九ぺージ。)〉
これは〈こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。〉のあとに付けられた原注ですが、この直前の一文に対する注というよりこのパラグラフ全体に対する注と考えるべきでしょう。
〈ル・トローヌ〉については、これ以外にも多くの箇所で、マルクスは原注に採用していますが、どういう人物なのか、『資本論辞典』の説明を紹介しておきましょう。
〈ル・トローヌ・Guillaume Francois Le Trosne(1728-1780) フランスの経済学者.はじめ自然法学研究に従事したが,やがてケネーの影響をうけて経済学研究に入り.重農主義学説のもっとも有能な説明者の一人となった.主著『De l'intet social. par rapport a la valeur,a la circulation, a l'industrie et au commerce interieu et exterieur(1777)』は, コンディヤックの『Le commerce et le gouvernement consideres relativementl'un a l'autre』 (1776)における重農主義批判にたいする反論として書かれ,重農主義学説の要旨を忠実に簡潔にまとめたものである.その特徴は重農主義が立つ社会的基盤を反映して自然の秩序のもとに啓蒙専制主義を正当化したことと.コンディヤック批判をふくめて重農主義学説の価値論を積極的に展開したことである.彼は価値の基礎を効用にだけおくコンディヤックに反対し、価値の発生を交換にもとめ,価値決定の原因を交換関係における効用・生産費・稀少性・競争の共同作用によると説明した.つまりル・トローヌは一方に欲望にもとづく効用を認め他方に生産費を認めて主客折衷の価値鋭を示したが.コンディヤック批判では,彼の説に使用価値と交換価値の混同があることを指摘し得たのではなく,彼自身交換価値の本質については理解できず,使用価値と交換価値とを混同していた.マルクスはル・トローヌにたいして積極的には論評を加えていないが.『資本論』第1巻第1篇および第2篇で,重農主義の価値論を代表するものとして上記主著からしばしば引用し、彼が交換価値を異なる種類の使用価値の交換における量的関係すなわち比率とLて相対的なものと理解していること(KI-40;青木1・116;岩波1-74).また彼が商品交換は等価物問の交換であって,価値増殖の手段でないことを明示し(KⅠ-166;青木2・301-303~304;岩波2-32) .コンディヤックの相互剰余交換鋭をきわめて正当に批判していること(KI-I86;青木2-303-304;岩波2-32)などを指摘している.〉(580頁) (なお第1巻では7カ所の参照箇所が指示されている。)
◎第18パラグラフ(一商品の変態は循環をなしている)
【18】〈(イ)商品変態の二つの逆の運動段階は、一つの循環をなしている。(ロ)すなわち、商品形態、商品形態の脱ぎ捨て、商品形態への復帰。(ハ)もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されているのである。(ニ)それは、その所持者にとって、出発点では非使用価値であり、終点では使用価値である。(ホ)こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われるが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのである。〉
(イ)(ロ) 商品の変態の二つの逆の運動(W-GとG-W)は、一つの循環をなしています。つまり、最初は商品形態として存在し、次にその商品形態を脱ぎ捨て、最後に再び商品形態へ復帰するわけですから。
商品の変態というのは、最初は商品が貨幣に転化し、そしてその貨幣が再び商品に再転化するわけですから、これは一つの循環を描いているということができます。
(ハ)(ニ) もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されています。なぜなら、最初の商品はその所持者にとっては非使用価値ですが、最後の使用価値はその所有者にとって使用価値だからです。
もちろん循環を描くといっても、一つの商品がまったく同じところに戻ってくるわけではありません。最初の商品はその所有者にとっては非使用価値ですが、再転化して戻ってくる商品は、その所有者にとっては使用価値だからです。だからここでは循環の契機をなす二つの商品は、非使用価値と使用価値という対立した性格をもつものとしてあります。 この部分はフランス語版では次のようになっています。
〈この循環は商品形態をもって始まり、商品形態をもって終わる。この循環は、出発点では、その所有者にとっては非使用価値である生産物に結びつき、復帰点では、その所有者にとっては使用価値として役立つ他の生産物に結びつく。〉 (江夏・上杉訳91頁)
(ホ) こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われますが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのです。
同じように、貨幣もこの循環ではその役割が変わります。まず最初は商品の価値姿態として固い価値結晶として現われますが、しかしあとはつまり商品の流通をただ媒介する役割という面からみると、それはこの循環においては、ただ商品のたんなる等価形態でしかなく、消滅していくだけのものでしかないのです。
この部分もフランス語版はかなり書き換えられています。
〈貨幣もそこでは同様に二重の役割を演じることを、さらに注意しておこう。第一変態では、貨幣は商品にその価値姿態として相対するが、この姿態は別の場所で、他人のポケットのなかで、硬くて音をたてる実在性をもっているのである。商品が貨幣という蛹に変転するやいなや、貨幣は硬い結晶ではなくなる。貨幣は商品の一時的な形態、消滅して使用価値に変換すべき商品の等価形態であるにすぎなくなる。〉 (江夏・上杉訳91頁)
なお初版では(ハ)(ニ)と(ホ)とが入れ代わり、次のようになっています。
〈貨幣が、まず商品を堅い価値結晶として表わし、のちにはこの商品の単なる等価形態として消え去ってゆくように、言わずもがなのことだが、商品そのものが、ここでは、それの所持者にとって出発点では非使用価値であり終点では使用価値であるというように、対立的に規定されている。〉 (江夏美千穂訳102頁)
この貨幣が単なる流通を媒介するものとしては消滅的なものだということについては、『経済学批判要綱』では次のように述べています。
〈流通の行為そのもののなかでは、貨幣の物質である、金および銀は、どうでもよいものだからである。貨幣は価格である。貨幣は一定の分量の金または銀である。しかしながら、価格のこの実在性が、このぱあいには、ただ消滅してゆく実在性にすぎず、この実在性は、たえず消滅してゆき、たえず止揚されてゆき、またそれは最終的実現であるとは認められず、ひきつづき、ただ仲介的な、媒介的な実現としてしか認められない、そういう定めをもっている実在性であるかぎり、また、このばあい、価格を実現することが一般的に問題とされているのではなく、特殊的な一商品の交換価値を他の一商品の材料で実現することが問題とされているかぎり、貨幣それ自身の材料はどうでもよく、価格の実現としては、価格の実現それ自体が消滅してゆくものである以上、貨幣も消滅的なものである。〉 (草稿集①228頁)
◎第19パラグラフ(諸商品の循環の絡み合いの総過程が商品流通として現われる)
【19】〈(イ)ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。(ロ)同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦) の総変態を閉じる。(ハ)その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。(ニ)これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。(ホ)こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。(ヘ)この総過程は商品流通として現われる。〉
(イ)(ロ)(ハ) ある一つの商品の循環を構成する二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしています。例えば同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始する(リンネル-貨幣)とともに、他の一商品(小麦) の総変態(小麦-貨幣-リンネル)を閉じます。つまりリンネルの第一の変態、つまり売りでは、リンネルはこの二つの役割(変態を開始するのと総変態を閉じるという役割)を一身で演じるわけです。
ある一つの商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡み合っています。私たちの例で見ますと、まずリンネルが、その最初の変態を開始するとき(リンネル-貨幣)を考えてみましょう。リンネルに相対する貨幣は、実はその総変態(小麦-貨幣-リンネル)の最後の変態を閉じようとしているわけです。つまりリンネルは、自分自身の最初の変態を開始するその同じ過程で、同時に、別の一商品(小麦)の最後の変態を閉じるという二つの役割を果たしていることになります。つまりリンネルの循環は小麦の循環と絡み合っています。
(ニ) これとは反対に、リンネルが転化した貨幣(生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹)としては、今度は同時に第三の一商品(聖書)の第一の変態を遂げさせることになります。
同じように、リンネルの転化した貨幣は、今度はリンネルの第二の変態(貨幣-聖書)を遂げるのですが、このリンネルの最後の変態は、同時に別の第三の商品(聖書)の総変態(聖書-貨幣-ウィスキー)の最初の変態を行なわせるということでもあるわけです。だからこれはリンネルの循環が別の第三の商品(聖書)の循環と絡み合っていることを示しているわけです。
ここで〈これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる〉といういささか文学チックな分かりにくい表現が出てきます。これは全集版の翻訳ですが、新日本新書版では次のようになっています。
〈これにたいして、商品そのものは金の蛹の姿であらゆる肉のからだ〔商品体〕の道を遍歴するが、この金の蛹として、その商品は同時にある第三の商品の第一の変態を終わらせる。〉 (190頁)
ずいぶんと翻訳によって違いますが、新書版の方がやや分かりやすいように思えます。ようするにリンネルは最初に貨幣に変態することによって(それを「金蛹」と表現しています)、さまざまな商品の身体になりうる(これを「遍歴する」と表現しています)、要するにさまざまな商品を購入できるということを、こうした文学的な言い方で述べているのでしょう。そしてその貨幣の商品への転化は、それは別の第三の商品の最初の転化を終わらせることでもあるということのようです。
少し面白いので、初版ではこの部分がどうなっているのかも紹介しておきましょう。
〈これに反して、この商品は、死に果てる道をたどって自分自身が転化してゆく金蛹として、同時に、第三の一商品の第一変態を終わらせる。〉 (江夏美千穂訳102頁)
〈死に果てる道をたどって〉というのは何を言いたいのか今一つよく分かりませんね。しかしいずれにせよ、フランス語版ではこうした文学的な表現がなくなって、以下のように極めて簡潔に、散文的に、しかしそれだけ分かりやすくなっています。
〈リンネルの最終変態(貨幣-聖書)は、聖書の第一変態(聖書-貨幣)である。〉 (江夏・上杉訳92頁)
これが何といっても一番分かりやすい。
(ホ)(ヘ) こうして、さまざまな商品の変態が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っています。この総過程は商品流通として現われるのです。
このように一商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡まり合っていましたが、 それぞれの絡み合っている他の二つの商品の循環もまた、別のそれ以外のさまざまな商品の循環と絡まり合っていることになります。このように商品の変態が描く循環は、他の諸商品と解きがたく縺れ合って絡まり合っているのです。この絡み合っている総過程を商品流通というのです。
フランス語版はこの部分は次のようになっています。
〈これらすべての循環の全体が商品流通を構成する。〉 (江夏・上杉訳92頁)
(付属資料は下に続きます。)