『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.12(通算第62回) 上

2019-04-16 00:23:31 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.12(通算第62回)上

 

◎「資本主義的生産様式の矛盾」とは?(大谷新著の紹介の続き)

  「資本主義的生産様式の矛盾」などといわれると、すぐに『経済学批判』の「序言」の「定式化」などを思い浮かべて、「生産力と生産関係の矛盾」などと“公式”の解答を思い浮かべるかも知れません。確かにマルクスは〈ある個人がなんであるかをその個人が自分自身をなんと考えているかによって判断しないのと同様に、このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならない〉(全集第13巻7頁)と述べています。しかしここでは〈物質的生活の諸矛盾〉として〈社会的生産諸力と生産諸関係とのあいだに現存する衝突〉について述べているのですから、必ずしも「資本主義的生産様式」に限定されたものとして述べているとはいえません。
  では、「資本主義的生産様式の矛盾」とはなんでしょうか。それを如何に理解したらいいのでしょうか。大谷新著は次のように述べています。

 〈資本主義的生産様式の矛盾とはどういうものか。マルクスによる最も一般的な表現は次のとおりである。「資本主義的生産様式の矛盾は,この生産様式が生産力諸力を絶対的に発展させようとする傾向をもちながら,この発展が,資本が運動する場である独自な生産諸関係とたえず衝突する,というところにある」(MEGAII/42.S.331;MEW25,S.268)。〉 (47-48頁)

  さらに次のようにも述べています。

  〈だから,資本の本質的な内在的矛盾とは,自己の歴史的使命を果たそうとする資本自身のこのような傾向が,資本主義的生産という社会的生産の独自の形態と衝突する,ということである。だから,「資本主義的生産様式は,物質的生産力を発展させこれに対応する世界市場をつくりだすための歴史的な手段であるが,それはまた同時に,資本主義的生産様式のこの歴史的任務とこれに対応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的矛盾なのである」(MEGAII/42,S.324;MEW25,S.260)。〉 (48頁)

 ところで、最近、若手の経済学者の一人として注目を浴びつつある斉藤幸平氏(彼も大谷氏からMEGAの編集を引き継いだ一人)は、『ニクス』という雑誌に掲載された論文「マルクスのエコロジーノート」のなかで、次のように述べています。

 〈『資本論』のプロジェクトは未完に終わったが、マルクスは膨大な量の自然科学抜粋を晩年の15年間に作成した。それゆえ、これらのノートの内容をまったく検討せずに、マルクスのエコロジーを過小評価するのは早急だろう。事実、1868年のノートは、もし『資本論』が完成したなら、マルクスは人間と自然の物質代謝(Stoffwechel)の撹乱という問題を資本主義の根本的矛盾として扱ったという推測を根拠づけてくれるように思われる。裏を返せば、エコロジーがマルクスの経済学批判にとって中心的な位置を占めることが見逃されてきた一因には、マルクス自身が晩年の研究成果を『資本論』に十分に取り入れることが出来なかったことがある。しかしMEGAに基づく抜粋ノートの検討は、これまで見過ごされてきたマルクスのプロジェクトの一面に新たな光を当ててくれるだろう。〉(『ニクス』№3,25頁)

  つまりマルクスがもし晩年の自然科学の研究の成果を踏まえて『資本論』を完成させることができたとしたら、〈人間と自然の物質代謝(Stoffwechel)の撹乱という問題を資本主義の根本的矛盾として扱った〉だろうというのですが、果たしてどうでしょうか。

  彼の新著『大洪水の前に--マルクスと惑星の物質代謝』(この本は世界的な評価を受け、ドイッチャー賞を受賞した力作らしい)が近々、刊行されるらしいですから、まあ、その本を読ませて頂いてから、こうした主張についてはもう一度考えさせて頂くことにしましょう。

  ということで、さっそく前回の続きをやることにします。今回は第14パラグラフからです。

 

◎第14パラグラフ(G-WのG〔貨幣〕は、売られた商品とこれから買われる商品を代表している)

 

【14】〈(イ)G-W、商品の第二の、または最終の変態、買い。(ロ)--貨幣は、他のいっさいの商品の離脱した姿、またはそれらの一般的な譲渡の産物だから、絶対的に譲渡されうる商品である。(ハ)貨幣はすべての価格を逆の方向に読むのであり、こうして、貨幣自身が商品になるための献身的な材料としてのすべての商品体に、自分の姿を映しているのである。(ニ)同時に、諸商品の価格は、諸商品が貨幣に投げかけるこの愛のまなざしは、貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示している。(ホ)商品は、貨幣になれば消えてなくなるのだから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わからない。(ヘ)それの出所がなんであろうと、それは臭くはない〔non olet〕(43)のである。(ト)それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである。70〉

  (イ) G-W、商品の第二の、または最終の変態、すなわち買い。

  これまで私たちは商品の貨幣への転化、W-G、つまり商品の第一の変態(最初の変態、販売)を見てきましたが、次に、貨幣の商品への転化、G-W、つまり商品の第二の変態(最終の変態)である「買い」について見てゆくことにしましょう。

  (ロ) 貨幣は、他のいっさいの商品が自分の自然の姿を脱ぎ捨てた姿です。またはそれらの諸商品を一般的に譲渡した結果得たものですから、反対に、絶対的に譲渡されうる商品とも言えるわけです。

  商品はその価値においては、他の諸商品と同じであり、互いに交換可能なものであることを示しています。しかしその使用価値によって、それは無条件に他の諸商品と交換可能とはいえないものとしてあるわけです。こうした価値と使用価値との対立によって、商品はその商品と貨幣とへの二重化を必然としたのでした。だから貨幣こそ、さまざまな諸商品がその使用価値の姿態を脱ぎ捨てて、価値そのものの姿になったものなのです。しかし貨幣がそうしたものになりえたのは、すべての商品が特定の商品を自分たちの一般的な等価物としたからに外なりません。こうした関係からその一般的等価物は直接的な交換可能性を得ているわけです。だから貨幣こそ、無条件に、絶対的に譲渡されうる「商品」と言えるわけです。貨幣さえあれば何でも買えるというのが私たちの日常的な意識です。

  (ハ) 貨幣はすべての価格を逆の方向に読みます。つまり、貨幣が商品になるための献身的な材料としてすべての商品体に、自分の形式的な使用価値の姿を映し出すわけです。

  以前、次のように説明されていました。

  〈展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表わされているのが見いだされる。〉 (全集第23巻a頁)

 つまり貨幣自身は価値の固まりですから、量的表現しかありません。しかしその貨幣の価値の量的限度は、彼の価値を表すすべての商品列のそれぞれの使用価値量によって表されているわけです。『経済学批判』には次のようにあります。

 〈金の商品への転化にとっては質的制限はなにもなく、ただ量的制限、それ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。〉 (全集第13巻74頁)

  (ニ) 諸商品の価格表というのは、諸商品が貨幣に投げかける愛のまなざしなのですが、しかしそれは同時に貨幣の転化能力の限界を、すなわち貨幣自身の量を示しています。

  貨幣はその観念的な使用価値から現実的な使用価値になるために、彼の前に並んでいる商品列のなかから一つを選び出さねばならないわけですが、しかしそれがどれだけのものになるのかは彼自身の価値の大きさによって限定されているわけです。2ポンド・スターリングなら、20エレのリンネルになりえますが、1ポンド・スターリングなら、10エレのリンネルにしかなれません。

  (ホ)(ヘ) 商品は、貨幣になれば流通から姿を消してしまう(消費過程に入る)のですから、貨幣を見ても、どうしてそれがその所持者の手にはいったのか、または、なにがそれに転化したのかは、わかりません。それの出所がなんであろうと、それは"臭く"はないのです。

  商品は販売されて貨幣に転化した時点で流通から脱落して消費過程に(個人的消費か生産的消費かに)入ります。だから流通の現場には貨幣だけが残ります。だから貨幣を見てもそれがどうしてそれを持っている人の手に入ったのかはわかりせん。彼はそれを盗んだのかも分からないし、あるいは糞尿を売って手に入れたのかも知れません。いずれにせよ貨幣は"臭わない"のですから。

  ここで〈臭くはない〔non olet〉には全集版には注解43が付いていますが。ここではより詳しい説明がされている新日本新書版の訳者注を紹介しておきましょう。

  〈*〔ローマ皇帝ヴェスパシアヌス(在位69-79年)は、公衆便所への課税を息子から非難されたとき、第1回の税収貨幣を息子に示し、臭いかとたずね、臭くないとの返事に「それでもこれは糞尿からとったのだ」と言ったのにちなむ。スエトニウス『ヴェスパシアヌス』、23より〕〉

  恐らく先のパラグラフの〈だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。といっても、糞尿は貨幣ではないが〉という一文も同じ問題意識からと思えます。

  (ト) 貨幣は、一方では売られた商品を代表しますが、他方ではこれから買われうる商品を代表するのです。

  この部分は初版では次のようになっています。

  〈貨幣は、諸商品にたいしては脱ぎ捨てられた姿態として向かいあい、商品世界は、絶対に譲渡可能な商品姿態としての貨幣に向かいあっている〉 (江夏美千穂訳100頁)

  また『経済学批判』には次のような一文があります。

    〈流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態での商品のかわりに、その金等価物が現われている。この第二の形態での商品は、それ自身の持続的存在をもっているのだから、この結果はさしあたりひとつの休止点となることができる。その所有者の手中ではなんらの使用価値でもなかった商品は、いまやいつでも交換できるがゆえにいつでも使用できるという形態で現存しており、それがいつ、そして商品世界の表面のどんなところで、ふたたび流通にはいるかは、事情のいかんにかかっている。〉 (全集第13巻73-74頁)

 

◎注70

 

【注70】〈70「われわれの手にある貨幣が、われわれが買いたいと思うことのできるいろいろな物を表わしているとすれば、それはまたわれわれがこの貨幣とひきかえに売ったいろいろな物をも表わしている。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、五八六ページ。)〉

  これは本文の〈それは、一方では売られた商品を代表するとすれば、他方では買われうる商品を代表するのである〉に付けられた原注です。やはりこれもメルシエ・ド・ラ・リヴィエールから抜粋されています。
 

◎第15パラグラフ(一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなす)

 

【15】〈(イ)G-W、買いは、同時に、売り、W-Gである。(ロ)したがって、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態である。(ハ)われわれのリンネル織職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が二ポンド・スターリングを再転化させた聖書で終わる。(ニ)しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた二ポンド・スターリングをウィスキーに替える。(ホ)G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終変態は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の第一段階である。(ヘ)商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのであるが、他方、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散させざるをえない。(ト)したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれる。(チ)こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのである。〉

  (イ)(ロ) G-W、買いは、同時に、売り、W-Gです。だから、ある商品の最後の変態は、同時に他の一商品の最初の変態です。

 すでに見ましたように、売りは同時に買いでしたから、そはれは反対からみれば、買いは同時に売りでもあるということです。だからある商品の最後の変態(第二段階の転化)、G-Wは、同時に他の一商品の最初の変態(第一段階の転化)、W-Gだということができます。

  (ハ)(ニ) 私たちのリンネル織職にとっては、彼が市場に持ち込んだリンネルにこめた最終の目的は、彼がリンネルを転化させた二ポンド・スターリングを聖書に再転化することによって達成されます。しかし、聖書の売り手は、リンネル織職から手に入れた二ポンド・スターリングをウィスキーに替えることでその目的を達します。

 これを私たちにおなじみのリンネル織職についてみますと、彼が自分が織ったリンネルを市場にもちこみ、販売したのは、最終的にはそれを売ってえた2ポンド・スターリングで家庭用聖書を買うためでした。しかし彼の最終目的を達する買い(G-W)は、その家庭用聖書を売る(W-G)人にとっては、最初の変態です。彼もやはりその販売で得た2ポンド・スターリングでやはりその最終目的であるウィスキーを買うことを望んでいるわけです。

  (ホ) G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終変態は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の第一段階である。

 だから常に言えることは、G-W、すなわちW-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の最終の変態、つまり第二段階は、同時にW-G、すなわちW-G-W(聖書-貨幣-ウィスキー) の最初の変態、つまり第一段階なのです。

  (ヘ)(ト) 商品生産者はある一つの方面に偏した生産物だけを供給するので、その生産物をしばしばかなり大量に売るのですが、他方で、彼の欲望は多方面にわたるので、彼は実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を絶えず多数の買いに分散させざるをえません。したがって、一つの売りは、いろいろな商品の多くの買いに分かれます。

  リンネル織職が売ることができるのはリンネルしかありませんが、しかし商品社会では彼の欲望を刺激するものが商品として市場に溢れています。だから彼はリンネルを一生懸命に生産して、それを多量に売って、そしてそれで得た貨幣で、彼の多方面の欲望を満たすさまざまな商品を買い求めるでしょう。だから一つの売りは、いろいろな他の諸商品の多くの買いに枝分かれすることになります。

 この部分のフランス語版は次のようになっています。

 〈社会的分業は、生産者=交換者の各人を、彼がしばしば大量に売るある特殊な物品の製造に限定する。他方、彼は、始終再生する自分のいろいろな必要にせまられて、こうして得た貨幣を多少のちがいはあれ多数の購買のために使用せざるをえない。ただ一つの販売が幾つかの購買の出発点になる。〉 (江夏・上杉訳90頁)

 また『経済学批判』にも次のような一文があります。

 〈商品流通は、発達した分業を前提し、したがって個人の生産物の一面性に逆比例する彼の欲望の多面性を前提するから、購買G-Wは、あるときは一つの商品等価物との一等式であらわされ、あるときは買い手の欲望の範囲と彼の貨幣額の大きさとによって限定された一系列の商品等価物に分裂する。〉 (全集第13巻74頁)

  (チ) こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一の変態の合計をなすのです。 

 このように、一つの商品の最終の変態は、他の多くの商品の最初の変態の総和を形成していくことになるのです。

 

◎第16パラグラフ(売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である)

 

【16】〈(イ)そこで今度は、ある商品、たとえはリンネルの総変態を考察するならば、まず第一に目につくのは、それが、互いに補いあう二つの反対の運動、W-GとG-Wとから成っているということである。(ロ)商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的過程で行なわれ、商品所持者の二つの反対の経済的役割に反射する。(ハ)売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になる。(ニ)しかし、商品のどちらの変態でも、商品の両形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在するように、同じ商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対している。(ホ)同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのである。(ヘ)だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割である。〉

  (イ) そこで今度は、ある商品、たとえはリンネルの総変態を考えますと、まず最初に目につくのは、それらが、互いに補いあう二つの反対の運動、W-GとG-Wとから成っているということです。

  これまで私たちはリンネル織職のあとに続いて、市場での彼の振る舞いを見てきました。 まず彼はリンネルを貨幣と交換しましたが、それは商品リンネルの最初の変態でした。そして次にリンネル織職は手に入れた貨幣で、彼の最終目的である家庭用聖書を購入しました。これは商品リンネルの最後の変態でした。またそれぞれの変態が如何なる意味を持っているのかをそれぞれ個別に見てきたのでした。   だから今度は、リンネル織職の市場での振る舞いを全体として見てみることにしましょう。つまり商品リンネルの総変態を見るわけです。リンネル織職は、まずリンネルを販売してから、家庭用聖書を買ったのですから、それは商品変態としては、W-GをやったあとG-Wを行なったということになります。だから全体としては互いに補いあう二つの反対の運動(W-GとG-W)からなっていることに気づきます。

  (ロ)(ハ) 商品のこの二つの反対の変態は、商品所持者の二つの反対の社会的な運動として行なわれ、そしてそれは商品所持者の二つの反対の経済的役割として反映しています。つまり売りの当事者として彼は売り手になり、買いの当事者として買い手になのです。

  リンネルのこの二つの互いに補いあいながら対立する変態を、リンネル織職は彼の市場おにおける振る舞いとして担うことになります。彼はまずリンネルの最初の変態としては、 リンネルの販売者という役割を担います。次に彼は貨幣保持者として、家庭用聖書を購入するリンネルの第二の変態を遂げる段階では、購買者として登場します。つまり彼は最初はリンネル販売者として「売り手」になり、家庭用聖書の購買者としては「買い手」になるわけです。このようにリンネルの変態は、リンネル織職に社会的に一定の役割を担わせ、それにもとづいて「売り手」と「買い手」という経済的役割を反映させるわけです。

  (ニ) しかし、商品のどちらの変態でも、商品と貨幣とが対立して存在したように、商品の二重の形態、商品形態と貨幣形態とが同時に、しかしただ反対の極に存在します。それと、同じように、商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が相対しています。

  リンネルの二つの変態(W-GとG-W)では、どちらの変態でも商品(W)と貨幣(G)が対立して存在しています。しかしそれらは互いに反対の極として存在しているのです。だから商品の所持者(W)は、売り手として登場したときには、別の誰かが貨幣保持者(G)として相対します。つまりリンネル織職が売り手となるためには他の誰かが買い手にならなければならず、同じように彼が買い手になる時には、別の第三者が売り手にならなければならないわけです。

  (ホ) 同じ商品が二つの逆の変態を次々に通って、商品から貨幣になり、貨幣から商品になるように、同じ商品所持者が役割を取り替えて売り手にも買い手にもなるのです。

  リンネルの変態はW-GとG-Wという二つの変態を次々に行なっていくことでした。すりわち商品から貨幣になり、そして貨幣から商品になるというようにです。同じことはリンネル織職の役割にもいえます。彼は市場に商品所持者として登場し、まず最初は売り手になり、そしてそれから買い手になったのです。

  (ヘ) だから、売り手と買い手とはけっして固定した役割ではなく、商品流通のなかで絶えず人を取り替える役割でといえます。

  だから売り手と買い手という役割は、決してある人の決まった性格というようなものではなく、商品流通のなかで絶えずそれを担う人が変わっていくようなものであり、役割だといえます。
  『経済学批判』では次のように書かれています。

  〈商品所有者たちは、単純に商品の保管者として流通過程にはいりこんだ。流通過程の内部では、彼らは買い手と売り手という対立的形態で、一方は人格化された棒砂糖として、他方は人格化された金として相対する。さて棒砂糖が金になると、売り手は買い手になる。だからこれらの一定の社会的性格は、けっして人間の個性一般から生じるものではなく、彼らの生産物を商品という一定の形態で生産する人々の交換諸関係から生じるのである。……だから買い手と売り手というこれらの経済的にブルジョア的な性格を、人間の個性の永久的な社会的形態だと考えるのは、ばかげたことであるが、それと同様に、これを個性の揚棄だとして嘆くのもまちがったことである。それらは、社会的生産過程の一定の段階を基礎とした個性の必然的表示である。〉  (全集第13巻76-77頁)

 

◎第17パラグラフ(一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する)

 

【17】〈(イ)一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提する。(ロ)まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対するのであるが、この価値姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。(ハ)こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。(ニ)次に、商品が貨幣に転化されれば、その貨幣は商品の一時的な等価形態となり、この等価形態の使用価値または内容はこちら側で他の商品体のうちに存在する。(ホ)第一の商品変態の終点として、貨幣は同時に第二の変態の出発点である。(ヘ)こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。71〉

  (イ) 一商品の総変態は、その最も単純な形態では、四つの極と三人の登場人物とを前提します。

  さてリンネルの変態の全体を振り返ってみましょう。まずリンネルは最初の変態(リンネル-貨幣)を行ないました。しかしリンネルのこの最初の変態は、彼に買い手として相対する貨幣所持者の最後の変態でした。彼は(小麦-貨幣-リンネル)という総変態の最後の変態を行なったわけです。次にリンネル第二の変態(貨幣-聖書)を見ると、彼に相対する聖書の所持者にとっては、最初の変態(W-G)です。彼も(聖書-貨幣-ウィスキー)という総変態を遂げるための最初の変態なのでした。
  ということは、リンネルという一つの商品の総変態には、少なくとも、四つの極(W-GとG-W、すなわちリンネル、貨幣、貨幣、聖書)があり、三人の登場人物(リンネル織職、小麦生産者、聖書所持者)が存在していることが前提されています。

  (ロ)(ハ) まず、商品にその価値姿態としての貨幣が相対しますが、この価値姿態、つまり貨幣は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっています。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対します。

  先に見ましたように、リンネルの最初の変態のためには、貨幣が相対しなければなりません。その貨幣は他人(私たちの想定では小麦生産者)のポッケとのなかにあります。だからリンネル織職には、貨幣所持者である小麦生産者が相対します。つまりまず二人の登場人物が必要です。

  (ニ)(ホ) 次に、商品が貨幣に転化されますと、その貨幣は商品の一時的な等価形態となります。そして等価形態である貨幣の使用価値は、観念的に市場に並んでいる他の商品体のうちにあります。だから第一の商品変態の結果である貨幣は、同時に第二の変態の出発点です。

  商品が貨幣に転化しますと、その貨幣は、その商品の価値姿態の一時的な存在となります。それが一時的なのは、リンネル織職の場合を考えればよく分かります。彼はリンネルを販売して貨幣を入手しますが、それはその貨幣で聖書を買うためであって、貨幣はただそのための一時的な存在だからです。ただ貨幣は市場では、さまざまなものと交換でき、その使用価値は市場にならんでいる諸商品の形で観念的には表されています。だから第一の商品の変態(W-G)の結果であるGは、第二の変態(G-W)の出発点です。だからここには四つの極(W、G、G、W)があることになります。

  (ヘ) こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対します。

  そして先にも見たように、リンネル織職は、最初は売り手として登場し、次には買い手と登場しました。そして彼が買い手として登場する時には、彼には第三の商品所持者、つまり聖書を売り払おうと考えている人物が売り手として登場することが前提されています。つまりこれで登場人物は三人になったわけです。
 

◎注71

【注71】〈71「したがって、四つの終点と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人は二度はいってくる。」(ル・トローヌ『社会的利益について』、九〇九ぺージ。)〉

 これは〈こうして、第一幕の売り手は第二幕では買い手になり、この幕では彼に第三の商品所持者が売り手として相対するのである。〉のあとに付けられた原注ですが、この直前の一文に対する注というよりこのパラグラフ全体に対する注と考えるべきでしょう。
 〈ル・トローヌ〉については、これ以外にも多くの箇所で、マルクスは原注に採用していますが、どういう人物なのか、『資本論辞典』の説明を紹介しておきましょう。

 〈ル・トローヌ・Guillaume Francois Le Trosne(1728-1780) フランスの経済学者.はじめ自然法学研究に従事したが,やがてケネーの影響をうけて経済学研究に入り.重農主義学説のもっとも有能な説明者の一人となった.主著『De l'intet social. par rapport a la valeur,a la circulation, a l'industrie et au commerce interieu et exterieur(1777)』は, コンディヤックの『Le commerce et le gouvernement consideres relativementl'un a l'autre』 (1776)における重農主義批判にたいする反論として書かれ,重農主義学説の要旨を忠実に簡潔にまとめたものである.その特徴は重農主義が立つ社会的基盤を反映して自然の秩序のもとに啓蒙専制主義を正当化したことと.コンディヤック批判をふくめて重農主義学説の価値論を積極的に展開したことである.彼は価値の基礎を効用にだけおくコンディヤックに反対し、価値の発生を交換にもとめ,価値決定の原因を交換関係における効用・生産費・稀少性・競争の共同作用によると説明した.つまりル・トローヌは一方に欲望にもとづく効用を認め他方に生産費を認めて主客折衷の価値鋭を示したが.コンディヤック批判では,彼の説に使用価値と交換価値の混同があることを指摘し得たのではなく,彼自身交換価値の本質については理解できず,使用価値と交換価値とを混同していた.マルクスはル・トローヌにたいして積極的には論評を加えていないが.『資本論』第1巻第1篇および第2篇で,重農主義の価値論を代表するものとして上記主著からしばしば引用し、彼が交換価値を異なる種類の使用価値の交換における量的関係すなわち比率とLて相対的なものと理解していること(KI-40;青木1・116;岩波1-74).また彼が商品交換は等価物問の交換であって,価値増殖の手段でないことを明示し(KⅠ-166;青木2・301-303~304;岩波2-32) .コンディヤックの相互剰余交換鋭をきわめて正当に批判していること(KI-I86;青木2-303-304;岩波2-32)などを指摘している.〉(580頁)  (なお第1巻では7カ所の参照箇所が指示されている。)

 

◎第18パラグラフ(一商品の変態は循環をなしている)

 

【18】〈(イ)商品変態の二つの逆の運動段階は、一つの循環をなしている。(ロ)すなわち、商品形態、商品形態の脱ぎ捨て、商品形態への復帰。(ハ)もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されているのである。(ニ)それは、その所持者にとって、出発点では非使用価値であり、終点では使用価値である。(ホ)こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われるが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのである。〉

  (イ)(ロ) 商品の変態の二つの逆の運動(W-GとG-W)は、一つの循環をなしています。つまり、最初は商品形態として存在し、次にその商品形態を脱ぎ捨て、最後に再び商品形態へ復帰するわけですから。

  商品の変態というのは、最初は商品が貨幣に転化し、そしてその貨幣が再び商品に再転化するわけですから、これは一つの循環を描いているということができます。

  (ハ)(ニ) もちろん、商品そのものがここでは対立的に規定されています。なぜなら、最初の商品はその所持者にとっては非使用価値ですが、最後の使用価値はその所有者にとって使用価値だからです。

  もちろん循環を描くといっても、一つの商品がまったく同じところに戻ってくるわけではありません。最初の商品はその所有者にとっては非使用価値ですが、再転化して戻ってくる商品は、その所有者にとっては使用価値だからです。だからここでは循環の契機をなす二つの商品は、非使用価値と使用価値という対立した性格をもつものとしてあります。   この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈この循環は商品形態をもって始まり、商品形態をもって終わる。この循環は、出発点では、その所有者にとっては非使用価値である生産物に結びつき、復帰点では、その所有者にとっては使用価値として役立つ他の生産物に結びつく。〉 (江夏・上杉訳91頁)

  (ホ) こうして、貨幣は、まず、商品が転化する堅い価値結晶として現われますが、後には商品の単なる等価形態として融けてなくなるのです。

  同じように、貨幣もこの循環ではその役割が変わります。まず最初は商品の価値姿態として固い価値結晶として現われますが、しかしあとはつまり商品の流通をただ媒介する役割という面からみると、それはこの循環においては、ただ商品のたんなる等価形態でしかなく、消滅していくだけのものでしかないのです。

  この部分もフランス語版はかなり書き換えられています。

  〈貨幣もそこでは同様に二重の役割を演じることを、さらに注意しておこう。第一変態では、貨幣は商品にその価値姿態として相対するが、この姿態は別の場所で、他人のポケットのなかで、硬くて音をたてる実在性をもっているのである。商品が貨幣という蛹に変転するやいなや、貨幣は硬い結晶ではなくなる。貨幣は商品の一時的な形態、消滅して使用価値に変換すべき商品の等価形態であるにすぎなくなる。〉 (江夏・上杉訳91頁)

 なお初版では(ハ)(ニ)(ホ)とが入れ代わり、次のようになっています。

  〈貨幣が、まず商品を堅い価値結晶として表わし、のちにはこの商品の単なる等価形態として消え去ってゆくように、言わずもがなのことだが、商品そのものが、ここでは、それの所持者にとって出発点では非使用価値であり終点では使用価値であるというように、対立的に規定されている。〉 (江夏美千穂訳102頁)

  この貨幣が単なる流通を媒介するものとしては消滅的なものだということについては、『経済学批判要綱』では次のように述べています。

  〈流通の行為そのもののなかでは、貨幣の物質である、金および銀は、どうでもよいものだからである。貨幣は価格である。貨幣は一定の分量の金または銀である。しかしながら、価格のこの実在性が、このぱあいには、ただ消滅してゆく実在性にすぎず、この実在性は、たえず消滅してゆき、たえず止揚されてゆき、またそれは最終的実現であるとは認められず、ひきつづき、ただ仲介的な、媒介的な実現としてしか認められない、そういう定めをもっている実在性であるかぎり、また、このばあい、価格を実現することが一般的に問題とされているのではなく、特殊的な一商品の交換価値を他の一商品の材料で実現することが問題とされているかぎり、貨幣それ自身の材料はどうでもよく、価格の実現としては、価格の実現それ自体が消滅してゆくものである以上、貨幣も消滅的なものである。〉 (草稿集①228頁)

 

◎第19パラグラフ(諸商品の循環の絡み合いの総過程が商品流通として現われる)

 

【19】〈(イ)ある一つの商品の循環をなしている二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。(ロ)同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始するとともに、他の一商品(小麦) の総変態を閉じる。(ハ)その第一の変態、売りでは、その商品はこの二つの役を一身で演ずる。(ニ)これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる。(ホ)こうして、各商品の変態列が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っている。(ヘ)この総過程は商品流通として現われる。〉

  (イ)(ロ)(ハ) ある一つの商品の循環を構成する二つの変態は、同時に他の二つの商品の逆の部分変態をなしています。例えば同じ商品(リンネル)が、それ自身の変態の列を開始する(リンネル-貨幣)とともに、他の一商品(小麦) の総変態(小麦-貨幣-リンネル)を閉じます。つまりリンネルの第一の変態、つまり売りでは、リンネルはこの二つの役割(変態を開始するのと総変態を閉じるという役割)を一身で演じるわけです。

  ある一つの商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡み合っています。私たちの例で見ますと、まずリンネルが、その最初の変態を開始するとき(リンネル-貨幣)を考えてみましょう。リンネルに相対する貨幣は、実はその総変態(小麦-貨幣-リンネル)の最後の変態を閉じようとしているわけです。つまりリンネルは、自分自身の最初の変態を開始するその同じ過程で、同時に、別の一商品(小麦)の最後の変態を閉じるという二つの役割を果たしていることになります。つまりリンネルの循環は小麦の循環と絡み合っています。

  (ニ) これとは反対に、リンネルが転化した貨幣(生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹)としては、今度は同時に第三の一商品(聖書)の第一の変態を遂げさせることになります。

  同じように、リンネルの転化した貨幣は、今度はリンネルの第二の変態(貨幣-聖書)を遂げるのですが、このリンネルの最後の変態は、同時に別の第三の商品(聖書)の総変態(聖書-貨幣-ウィスキー)の最初の変態を行なわせるということでもあるわけです。だからこれはリンネルの循環が別の第三の商品(聖書)の循環と絡み合っていることを示しているわけです。

  ここで〈これに反して、生きとし生けるものの道をたどってこのさなぎ商品そのものが化してゆく金蛹としては、それは同時に第三の一商品の第一の変態を終わらせる〉といういささか文学チックな分かりにくい表現が出てきます。これは全集版の翻訳ですが、新日本新書版では次のようになっています。

  〈これにたいして、商品そのものは金の蛹の姿であらゆる肉のからだ〔商品体〕の道を遍歴するが、この金の蛹として、その商品は同時にある第三の商品の第一の変態を終わらせる。〉 (190頁)

  ずいぶんと翻訳によって違いますが、新書版の方がやや分かりやすいように思えます。ようするにリンネルは最初に貨幣に変態することによって(それを「金蛹」と表現しています)、さまざまな商品の身体になりうる(これを「遍歴する」と表現しています)、要するにさまざまな商品を購入できるということを、こうした文学的な言い方で述べているのでしょう。そしてその貨幣の商品への転化は、それは別の第三の商品の最初の転化を終わらせることでもあるということのようです。

  少し面白いので、初版ではこの部分がどうなっているのかも紹介しておきましょう。

  〈これに反して、この商品は、死に果てる道をたどって自分自身が転化してゆく金蛹として、同時に、第三の一商品の第一変態を終わらせる。〉 (江夏美千穂訳102頁)

  〈死に果てる道をたどって〉というのは何を言いたいのか今一つよく分かりませんね。しかしいずれにせよ、フランス語版ではこうした文学的な表現がなくなって、以下のように極めて簡潔に、散文的に、しかしそれだけ分かりやすくなっています。

  〈リンネルの最終変態(貨幣-聖書)は、聖書の第一変態(聖書-貨幣)である。〉 (江夏・上杉訳92頁)

  これが何といっても一番分かりやすい。

  (ホ)(ヘ) こうして、さまざまな商品の変態が描く循環は、他の諸商品の循環と解きがたくからみ合っています。この総過程は商品流通として現われるのです。

  このように一商品の循環は少なくとも他の二つの商品の循環と絡まり合っていましたが、 それぞれの絡み合っている他の二つの商品の循環もまた、別のそれ以外のさまざまな商品の循環と絡まり合っていることになります。このように商品の変態が描く循環は、他の諸商品と解きがたく縺れ合って絡まり合っているのです。この絡み合っている総過程を商品流通というのです。

  フランス語版はこの部分は次のようになっています。

 〈これらすべての循環の全体が商品流通を構成する。〉 (江夏・上杉訳92頁)

 

 (付属資料は下に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.12(通算第62回) 下

2019-04-15 23:55:41 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.12(通算第62回)下

 (やはり今回も字数をオーバーしましたので、付属資料は「下」として掲載します。)

 

 【付属資料】

 

●第14パラグラフ

 
《経済学批判》 

 〈流通の第一の過程である販売の結果として、第二の過程の出発点である貨幣が生じる。第一の形態での商品のかわりに、その金等価物が現われている。この第二の形態での商品は、それ自身の持続的存在をもっているのだから、この結果はさしあたりひとつの休止点となることができる。その所有者の手中ではなんらの使用価値でもなかった商品は、いまやいつでも交換できるがゆえにいつでも使用できるという形態で現存しており、それがいつ、そして商品世界の表面のどんなところで、ふたたび流通にはいるかは、事情のいかんにかかっている。〉(全集第13巻73-74頁) 

《初版》 

  〈G-W。商品の第二変態あるいは最終変態。購買。--貨幣は、すべての他商品の脱ぎ捨てられた姿態、またはそれらの一般的な譲渡の産物であるから、絶対に譲渡可能な商品である。貨幣は、すべての価格をあべこべに読み、こうして、貨幣自身が商品になるべく身をささげた素材であるところの、すべての商品体のうちに、自分の姿を映し出している。同時に、諸商品が貨幣に投げかける愛のまなざしである価格は、貨幣の転化能力の限界を、すなわち、貨幣自身の量を、示している。諸商品は貨幣になって消え失せるのであるから、貨幣を見ても、それがどのようにしてそれの所有者の手もとにはいったか、または、なにがそれに転化したかは、わからない。たといそれの出所がなんであろうと、それは無臭である。貨幣は、諸商品にたいしては脱ぎ捨てられた姿態として向かいあい、商品世界は、絶対に譲渡可能な商品姿態としての貨幣に向かいあっている(55)。〉(江夏美千穂訳100頁) 

《フランス語版》 

  〈A-M、第二のそして最終の変態購買
  貨幣は、他のすべての商品の普遍的な譲渡の産物であるから、性格上絶対に譲渡可能な商品である。貨幣は、すべての価格をあべこべに読む。貨幣はそうすることによって、自分自身が使用価値になるための献身的な材料としてのすべての生産物の体躯のうちに、自分の姿を映し出しているのである。同時に、商品が貨幣に投げかけるいわば愛の秋波である価格は、貨幣の変換能力の限界、すなわち、貨幣自体の量を示している。商品は貨幣への変換行為のなかで消え失せてしまうから、ある個人が自由に使える貨幣ば、どのようにしてその貨幣が彼の手に落ちたか、また、なにものがその貨幣に転化されたか、そのどちらをもかいまみせない。その貨幣がどこからきたかは、嗅ぎつけることができない、つまり、無臭である。貨幣は、一方では売られた商品を代表するなら、他方では買われるべき商品を代表する(21)。〉(江夏・上杉訳89-90頁)
 

●注70 

《初版》 

 〈(55)もしわれわれの手にある貨幣が、われわれが買いたいと思うことのできる諸物を表わしているならば、この貨幣は、それと引き換えにわれわれが売ってしまった諸物をも表わしている。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、五八六ページ。)〉(江夏美千穂訳頁) 

《補足と改定》 

  〈3 2) p. 7 0 )それが一面では売られた商品を代表しているとすれば、他面ではそれはすべての買うことのできる商品を代表している。(ここに注55、p.7 0)〉(下42頁) 

《フランス語版》 

  〈(21)「もし貨幣がわれわれの手中で、われわれが買いたいと思うことのできる物を表わすならば、それは、われわれがこの貨幣と引き換えに売ってしまった物をも表わしている」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、五八六ページ)。〉(江夏・上杉訳90頁)

 

●第15パラグラフ


《経済学批判》 

 〈購買G-WはW-Gの逆の運動であり、同時に商品の第二の、または最後の変態である。商品は金としては、つまり一般的等価物としてのその定在では、他のすべての商品の使用価値で直接にあらわすことができ、他のすべての商品はみな、その価格において、同時に金を自分の来世として求めているが、しかし同時に、その肉体である使用価値が貨幣の側にとびうつり、その魂である交換価値が金そのもののなかにとびこむために、金が鳴らさなければならない音調をその価格のうちに示している。諸商品の譲渡の一般的産物は、絶対的に譲渡されうる商品である。金の商品への転化にとっては質的制限はなにもなく、ただ量的制限、それ自身の量または価値の大きさの制限があるだけである。「現金と引き換えならどんなものでも得られる。」商品は、運動W-Gでは、使用価値としての外化によって、それ自身の価格と他人の貨幣の使用価値とを実現するが、運動G-Wでは、交換価値としての外化によって、それ自身の使用価値と他の商品の価格とを実現する。商品は、その価格の実現によって同時に金を現実の貨幣に転化するが、その再転化によって金を商品そのもののただ瞬時的な貨幣定在に転化する。商品流通は、発達した分業を前提し、したがって個人の生産物の一面性に逆比例する彼の欲望の多面性を前提するから、購買G-Wは、あるときは一つの商品等価物との一等式であらわされ、あるときは買い手の欲望の範囲と彼の貨幣額の大きさとによって限定された一系列の商品等価物に分裂する。--販売が同時に購買であるように、購買も同時に販売であり、G-Wは同時にW-Gであるが、この場合には、イニシァチブは金、すなわち買い手の側にある。〉(全集第13巻74頁)   〈さらにわかることは、最後の環G-Wは、Gがただ一回の販売の結果であっても、G-W+ G-W"+G-W"'等々として表わされうること、したがってそれは多くの購買に、すなわち多くの販売に、すなわち諸商品のあらたな総変態の多数の第一の環に分裂しうる、ということである。〉(全集第13巻75頁) 

《初版》 

  〈G-Wという購買は同時にW-Gという販売でもあり、したがって、一商品の最終変態は同時に他の一商品の第一変態でもある。わがリンネル織り職にとっては、彼の商品の生涯は、彼が二ポンド・スターリングを再転化させた聖書でもって終わっている。ところが、元来の聖書所持者は、リンネル織り職から手に入れた二ポンド・スターリンの最終段階は同時に、W-G-W(リンネル-貨幣-聖書)の最終段階は同時に、W-G-W(聖書-貨幣-ウイスキー)の第一段階であるW-Gでもある。商品生産者は、一面的な生産物しか供給しないからこの生産物をしばしば大量に売るが、他方、彼の必要が多面的であるために、彼は絶えず、実現された価格すなわち手に入れた貨幣額を、たくさんの購買に分散せざるをえない。だから、一つの販売が、いろいろの商品の多数の購買のなかに流れ込む。こうして、一商品の最終変態は、他の諸商品の第一変態の合計を成している。〉(江夏美千穂訳101頁)

 

《フランス語版》フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフになっている。 

  〈購買A-Mは同時に販売M-Aであり、ある商品の最終の変態は他の商品の第一変態である。われわれの織工にとっては、彼の商品の生涯は、彼が自分の二ポンド・スターリングを変換した聖書で、終結する。だが、聖書の売り手はこの金額をブランデーに支出する。   M-A-M(リンネル-貨幣-聖書) の最終段階A-Mは、同時にM-A-M(聖書-貨幣-ブランデー)の第一段階M-Aである。   社会的分業は、生産者=交換者の各人を、彼がしばしば大量に売るある特殊な物品の製造に限定する。他方、彼は、始終再生する自分のいろいろな必要にせまられて、こうして得た貨幣を多少のちがいはあれ多数の購買のために使用せざるをえない。ただ一つの販売が幾つかの購買の出発点になる。このようにして、ある商品の最終変態は他の諸商品の第一変態の合計をなす。〉(江夏・上杉訳90頁)

●第16パラグラフ

《経済学批判》

 〈商品所有者たちは、単純に商品の保管者として流通過程にはいりこんだ。流通過程の内部では、彼らは買い手と売り手という対立的形態で、一方は人格化された棒砂糖として、他方は人格化された金として相対する。さて棒砂糖が金になると、売り手は買い手になる。だからこれらの一定の社会的性格は、けっして人間の個性一般から生じるものではなく、彼らの生産物を商品という一定の形態で生産する人々の交換諸関係から生じるのである。買い手と売り手との関係で表現されているものは、純粋に個人的な関係ではなく、両者はただ彼らの個人的労働が否定されるかぎりでだけ、すなわち、この労働がどの個人のものでもない労働として貨幣となるかぎりでだけ、この関係にはいりこむのである。だから買い手と売り手というこれらの経済的にブルジョア的な性格を、人間の個性の永久的な社会的形態だと考えるのは、ばかげたことであるが、それと同様に、これを個性の揚棄だとして嘆くのもまちがったことである。それらは、社会的生産過程の一定の段階を基礎とした個性の必然的表示である。それだけではなく、買い手と売り手との対立には、ブルジョア的生産の敵対的性質がまだきわめて表面的かつ形式的に表現されているだけであって、この対立は、ただ諸個人が商品の所有者として互いに関係することを必要とするだけであるから、それは前ブルジョア的社会諸形態にも属しているほどである。〉(全集第13巻76-77頁)

《初版》

  〈さて、ある商品たとえばリンネルの総変態を観察すると、まず目につくのは、この総変態が、対立しながらも互いに補いあう二つの運動、W-GとG-Wとから、成り立っている、ということである。この二つの対立する転形は、商品所持者の・二つの対立する社会的過程において、行なわれ、商品所持者の二つの対立する経済的役柄のうちに、自己を反射している。彼は、販売の当事者としては売り手になり、購買の当事者としては買い手になる。ところが、商品のどちらの転化にあっても、商品形態と貨幣形態という商品の両形態は、対立する極の上にのみ同時に存在しているのだが、このことと同じに、同じ商品所持者にたいして、売り手としての彼には別の買い手が、買い手としての彼には別の売り手が、対立している。同じ商品が、二つの逆の転化を次々に通って、商品から貨幣になり貨幣から商品になるのと同じに、同じ商品所持者が、売り手と買い手との役割を取り替える。だから、売り手と買い手とは、けっして固定した役柄ではなくて、諸商品の交換過程で絶えず人を取り替える役柄なのである。〉(江夏美千穂訳101頁)

《フランス語版》

  〈さて、完全な変態、M-AとA-M という二つの運動の全体を考察しよう。これら二つの運動は、交換者の相反する二つの取引、販売と購買とによって果たされるが、この二つの取引は交換者に売り手と買い手という二重の性格の極印を押す。商品のそれぞれの形態変化では、商品の両形態である商品と貨幣とが、たとえ対立する極においてであろうと、同時に存在するが、これと同じように、販売と購買の各取引でも、売り手と買い手という交換者の両形態が相対する。ある商品、たとえばリンネルが二つの逆の転化を交互に受け、商品から貨幣になり貨幣から商品になるのと同じように、商品所有者は市場では売り手と買い手との役割を交互に演じる。したがって、これらの性格は固定した属性ではなく、交互に一方の交換者から他方の交換者に移ってゆくものである。〉(江夏・上杉訳90-91頁)

●第17パラグラフ

《経済学批判》

  〈さて総流通W-G-Wにもどるならば、この総流通で一商品がその変態の総系列を通過することがわかる。だが、この商品が流通の前半を開始して第一の変態をとげるあいだに、同時に第二の商品が流通の後半にはいり、その第二の変態をとげて流通から脱落する。そして逆に第一の商品が流通の後半にはいり、その第二の変態をとげて流通から脱落するあいだに、第三の商品が流通にはいり、その行程の前半を通過して第一の変態をとげるのである。だから、一商品の総変態としての総流通W-G-Wは、つねに第二の商品の総変態の終わりであると同時に、第三の商品の総変態の始めであって、したがって始めも終わりもない一系列なのである。〉(全集第13巻76-77頁)

《初版》

  〈一商品の総変態は、それの最も単純な形態では、四つの極三人の登場人物とを前提にしている。まず、商品には、それの脱ぎ捨てられた姿態としての貨幣が、相対するが、この姿態は、向こう側で、他人のポケットのなかで、物的な堅い実在性をもっている。こうして、商品所持者には貨幣所持者が相対する。さて、商品が貨幣に転化するやいなや、貨幣は、商品の一時的な等価形態になるが、この等価形態の使用価値または内容は、こちら側の他の商品体のうちに存在している。この貨幣は、第一の商品転化の終点であると同時に、第二の商品転化の出発点でもある。こうして、第一幕の売り手が第二幕では買い手になり、第二幕では、彼にたいし第三の商品所持者が、売り手として相対する56。〉(江夏美千穂訳101-102頁)

《フランス語版》

  〈一商品の完全な変態は、その最も単純な形態では、四つの項を前提にしている。商品と貨幣、商品所有者と貨幣所有者とは、二度にわたって相対する二つの項である。とはいえ、交換者の一人は、まず商品所有者である売り手の役を演じ、次いで、貨幣所有者である買い手の役にまわる。したがって、存在するのは三人の登場人物だけである(22)。貨幣は第一変態の最終項として、同時に第二変態の出発点にもなる。これと同じように、第一幕の売り手が第二幕では買い手になり、この第二幕では第三の商品所有老が彼には売り手として現われる。〉(江夏・上杉訳91頁)

●注71

《初版》

  〈(56)「したがって、四つの極と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人が二度も仲にはいる。」〈ル・トローヌ、前掲書、九〇八ページ。)〉(江夏美千穂訳102頁)

《フランス語版》

  〈(22) 「したがって、四つの項と三人の契約当事者とがあって、そのうちの一人は二度も仲に入る」(ル・トローヌ、前掲書、九〇九ページ)。〉(江夏・上杉訳91頁)

●第18パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈貨幣は一つの商品と交換される。なぜなら貨幣は、商品の交換価値の一般的代表物であり、そして、そのようなものとして等しい交換価値をもつ他のすべての商品の代表物であり、一般的代表物であるからであって、貨幣は、まさにそのようなものとして流通それ自体のうちにあるのである。貨幣は、他のすべての商品にたいしては、その一つの商品の価格を表示し、また一つの商品にたいしては、他のすべての商品の価格を表示するのである。以上に述べた関連のなかでは、貨幣は、諸商品価格の代表物であるだけでなく、貨幣それ自身の章標でもある。すなわち、流通の行為そのもののなかでは、貨幣の物質である、金および銀は、どうでもよいものだからである。貨幣は価格である。貨幣は一定の分量の金または銀である。しかしながら、価格のこの実在性が、このぱあいには、ただ消滅してゆく実在性にすぎず、この実在性は、たえず消滅してゆき、たえず止揚されてゆき、またそれは最終的実現であるとは認められず、ひきつづき、ただ仲介的な、媒介的な実現としてしか認められない、そういう定めをもっている実在性であるかぎり、また、このばあい、価格を実現することが一般的に問題とされているのではなく、特殊的な一商品の交換価値を他の一商品の材料で実現することが問題とされているかぎり、貨幣それ自身の材料はどうでもよく、価格の実現としては、価格の実現それ自体が消滅してゆくものである以上、貨幣も消滅的なものである。それだから、貨幣がこうした不断の運動のなかにあるかぎりでは、貨幣はただ交換価値の代表物として存在するにすぎず、この代表物は、現実的交換価値がたえずその代表物にとってかわり、たえず代表物と場所をいれかわり、たえずこれと交換されることによって、はじめて現実的なものとなる。したがって、この過程においては、交換価値の実在性とは、貨幣が価格であることではなく、貨幣が価格を表示している〔vorestellen〕こと、価格の代表物であるということである。つまり価格の、したがって貨幣それ自身の対象的に現存する代表物であり、そのようなものとしてまた諸商品の交換価値の代表物である、ということである。交換手段としては、貨幣が諸商品の諸価格を実現するのは、一つの商品の交換価値を、他の商品をその商品の単位として、この他の商品で措定し、一つの商品の交換価値を他の商品で実現するためであるにすぎない。すなわち、他の商品を一つの商品の交換価値の材料として指定するためであるにすぎないのである。〉(草稿集①228-229頁)

《経済学批判》

  〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。
  W-G-W
  G-W-G
  ……
  W-G-Wは、もし第一の商品の極から出発するならば、その商品の金への転化と、その商品の金から商品への再転化とをあらわす。言いかえれば、商品がまず特殊な使用価値として存在し、次にこの存在を脱して、その自然のままの定在とのいっさいのつながりから解かれた交換価値または一般的等価物としての存在を獲得し、ふたたびこれから脱して、最後に個々の欲望のための現実的な使用価値として残る一つの運動をあらわす。この最後の形態で、商品は流通から脱落して消費にはいる。だから流通の全体W-G-Wは、なによりもまず、個々の各商品がその所有者にとって直接的使用価値になるために通過する変態の全系列である。〉(全集第13巻70頁)

《初版》

  〈商品変態の二つの逆の運動段階が、一つの循環を形成している。すなわち、商品形態、商品形態からの脱却、商品形態への復帰。貨幣が、まず商品を堅い価値結晶として表わし、のちにはこの商品の単なる等価形態として消え去ってゆくように、言わずもがなのことだが、商品そのものが、ここでは、それの所持者にとって出発点では非使用価値であり終点では使用価値であるというように、対立的に規定されている。〉(江夏美千穂訳102頁)

《フランス語版》

  〈一商品の変態の二つの逆の運動は、一つの循環を描く。すなわち、商品形態、この形態の貨幣への消滅、商品形態への復帰。
  この循環は商品形態をもって始まり、商品形態をもって終わる。この循環は、出発点では、その所有者にとっては非使用価値である生産物に結びつき、復帰点では、その所有者にとっては使用価値として役立つ他の生産物に結びつく。貨幣もそこでは同様に二重の役割を演じることを、さらに注意しておこう。第一変態では、貨幣は商品にその価値姿態として相対するが、この姿態は別の場所で、他人のポケットのなかで、硬くて音をたてる実在性をもっているのである。商品が貨幣という蛹に変転するやいなや、貨幣は硬い結晶ではなくなる。貨幣は商品の一時的な形態、消滅して使用価値に変換すべき商品の等価形態であるにすぎなくなる。〉(江夏・上杉訳91頁)

●第19パラグラフ

《経済学批判》

  〈さて総流通W-G-Wにもどるならば、この総流通で一商品がその変態の総系列を通過することがわかる。だが、この商品が流通の前半を開始して第一の変態をとげるあいだに、同時に第二の商品が流通の後半にはいり、その第二の変態をとげて流通から脱落する。そして逆に第一の商品が流通の後半にはいり、その第二の変態をとげて流通から脱落するあいだに、第三の商品が流通にはいり、その行程の前半を通過して第一の変態をとげるのである。だから、一商品の総変態としての総流通W-G-Wは、つねに第二の商品の総変態の終わりであると同時に、第三の商品の総変態の始めであって、したがって始めも終わりもない一系列なのである。……
  だから、もし個々の商品の総変態が、始めも終わりもない一つの変態の連鎖の環としてだけでなく、多数のこういう変態の連鎖の環としてあらわされるとすれば、個々の商品はどれもみな流通W-G-Wを通過するのであるから、商品世界の流通過程は、無限に異なった点でたえず終わりをつげながら、またたえずあらたに始まるこういう運動の無限にもつれあった連鎖のからみ合いとしてあらわされる。〉(全集第13巻74-75頁)

《初版》

  〈商品の循環を形成している二つの変態は、同時に、二つの他商品の逆の部分変態を形成している。同じ商品(リンネル)が、自分自身の変態の系列を開始し、他の一商品の(小麦の)総変態を閉じる。この同じ商品が、自分の第一の転化である販売では、この二つの役割を一身で演ずる。これに反して、この商品は、死に果てる道をたどって自分自身が転化してゆく金蛹として、同時に、第三の一商品の第一変態を終わらせる。こうして、各商品の変態系列でもって形成されている循環は、他の諸商品の諸循環と解けがたくからみあっている。この総過程が、商品流通として現われるのである。〉(江夏美千穂訳102頁)

《フランス語版》

  〈一商品の循環運動を講成する二つの変態は、同時に、他の二つの商品の逆の部分変態をなしている。
  たとえばリンネル,の第一変態(リンネル-貨幣)は、小麦の第二のそして最終の変態(小麦-貨幣-リンネル)である。リンネルの最終変態(貨幣-聖書)は、聖書の第一変態(聖書-貨幣)である。各商品の変態系列を形成する循環は、このようにして、他の商品が形成する循環のうちに絡み合っている。これらすべての循環の全体が商品流通を構成する。〉(江夏・上杉訳91-92頁)

 (続く)

 

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『資本論』学習資料No.11(通算第61回) 上

2019-04-11 13:30:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.11(通算第61回)上

 

◎「絶対的窮乏」とは?(大谷新著の紹介の続き) 

 昔から『資本論』を批判することで飯を食っている人たち(ほとんどの学者がそうですが、『資本論』を持ち上げるふりをしながら実はその理論を換骨奪胎して資本に奉仕している人たちも含めて)は、『資本論』の第1巻でマルクスが次のように書いていることに噛みついてきました。

 〈社会的な富、現に機能している資本、その増大の規模とエネルギー、したがってまたプロレタリアートの絶対的な大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。自由に利用されうる労働力は、資本の膨張力を発展させるのと同じ原因によって、発展させられる。つまり、産業予備軍の相対的な大きさは富の諸力といっしょに増大する。しかしまた、この予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に反比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなる、公認の受救貧民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。〉(全集23b巻839頁)
  〈われわれは第四篇で相対的剰余価値の生産を分析したときに次のようなことを知った。すなわち、資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の労働者の犠牲において行なわれるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の付属物に引ぎ下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外するということ、これらの手段は彼が労働するための諸条件をゆがめ、労働過程では彼を狭量陰険きわまる専制に服従させ、彼の生活時間を労働時間にしてしまい、彼の妻子を資本のジャガノート車の下に投げこむということ、これらのことをわれわれは知ったのである。しかし、剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべてまた逆にかの諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。最後に、相対的過剥人口または産業予備軍をいつでも蓄積の規模およびエネルギーと均衡を保たせておくという法則は、ヘファイストスのくさびがプロメテウスを岩に釘づけにしたよりももっと固く労働者を資本に釘づけにする。それは、資本の蓄積に対応する貧困の蓄積を必然的にする。だから、一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、すなわち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。〉
(全集23b巻839頁)

 これはいわゆる「絶対的窮乏化」論なる名称で多くの人たちによって議論されてきた問題です。その理屈は至って簡単で、現実はそうなっていない、というものです。資本主義は発展するとともに、労働者の生活状態もある程度はよくなっているではないか、だからそれを絶対的窮乏化だとか、絶対的な一般的法則だなどというのは事実に反する、というものです。
 宇野弘蔵もこの部分に噛みついています。彼は若干毛色の違った批判をしているつもりのようですが、基本は同じです。つまりここでマルクスが論じているような問題は、「純粋な資本主義」を想定してその法則を解明していくような「原理論」で取り扱うべき問題ではなく、「段階論」か「現状分析」で取り扱うべきだ、という批判です。しかしこれも言い換えれば、労働者の窮乏化は絶対的な一般的法則というようなものではない、という理屈です。つまり現状はそうなっていないではないか、というほかの人たちと基本的に同じ立場に立っていることを示しているわけです。

 しかしそれに対して大谷新著は、そうではなく労働者の窮乏化はまさに「原理」的に言いうることとしてマルクスは述べているのだ、と次のように述べています。

  〈「労働の実現のために必要な物象的な諸条件が労働者自身から疎外されている」(MEGAII/41,S78;邦訳『直接的生産過程の諸結果』,国民文庫54ページ)という労働する諸個人の状態をマルクスは『経済学批判要綱』で「絶対的窮乏」と呼んだ(MEGAII/1。1,S.216)。だが,社会の存続を担う労働の主体が,あらゆる客体性を欠いた「絶対的窮乏」の状態にある,というのは明らかにはなはだしい不条理である。マルクスが「疎外」について語るときには,つねに,この疎外という転倒的な状態、あるいはこの不条理は,あるところまで進むと必ず「廃棄」される,という含意が込められていた。その「あるところ」とは,疎外が「極度の形態」をとったところである。『経済学批判要綱』でマルクスは次のように言っている。「労働が,すなわち自分自身の諸条件と自分自身の生産物とにたいする生産的活動が,賃労働にたいする資本の関係として現われている,疎外の極度の形態は,一つの必然的な通過点である。だからまたそれは,即自的には,まだ転倒した逆立ちさせられた形態においてにすぎないが,すでに生産の一切の局限された諸前提の解体を含んでいる。それどころかそれは,生産の無制約的な諸前提を生み,つくりだし,したがって,個人の生産諸力が総体的,普遍的に発展するための十分な物質的諸条件を生み,つくりだす」(MEGAII/1aS417)。つまり,「疎外の極度の形態」はより高い形態への「必然的な通過点」なのである。このように,マルクスにとって,資本主義的生産のもとでの労働すなわち賃労働を「疎外された労働」としてとらえることは,そのもとでの労働する諸個人の「絶対的窮乏」を鋭く告発し,批判するというだけではなく,同時に,この形態を,「アソーシエイトした労働」という労働のより高い形態に到達するための「必然的な通過点」としてとらえることをも含んでいたのである。〉 (42頁)

 つまりマルクスは「疎外された労働」を「絶対的窮乏」状態にある労働だと述べているというのです。だから労働者の労働が賃労働である限り、こうした現実が無くなるはずもないのです。
 しかし絶対的窮乏化の法則の批判を公然とは受け入れない人たちにおいても、こうしたマルクスの思想を正しく受け継いでいるとはいえないとも大谷新著は次のように批判しています。

 〈労働が賃労働の形態にあるかぎり,労働する諸個人は「絶対的窮乏」の状態にあるのであり,劣悪な労働条件のもとで資本の指揮のもとで剰余労働を搾収されている。そこから,殺人的な長時間労働や,サービス残業や,ブラック企業のもとでの過酷な労働や,ワーキングプアや,過労死や,ホームレスや,環境破壊など,労働する諸個人のさまざまな悲惨な問題のすべてが生じているのである。これらの問題のいずれについても,それらの具体的な実相を一つひとつ暴き告発して,とりあえずの改善を勝ちとる闘いが不可欠かつ重要であることは言うまでもない。しかしながら,『資本論』を読んだことがあり,これらの問題を根本的に解決するためには資本主義的生産様式を廃棄してアソシエーションを打ちたてなければならないというマルクスの結論に同意しているのではないかと思われる人びと--同意していなかったのなら,ごめんなさい--が,それにもかかわらず,ヨーロッパ並みにしなければならないとか,新しい福祉国家をつくらねばならない,とかいったレベルの議論は盛んにやっても,資本・賃労働関係の廃棄の必要には言及しようとしない,という光景がわれわれのまえに広がっているのはまことに不思議なことである。〉 (57-58頁)

 大谷氏の"弟子"たち(果たして彼ら自身は大谷氏と師弟関係にあるとは思っていないのかも知れませんが)にも(その中にはMEGAの編集を引き継いだ若手学者たちも含まれています)、恐らくこの一文に接して「自分のことではないのか?」と少しは自省したのではないでしょうか? 彼らの著書や論文を読む限りでは、残念ながら、そこにはレーニンが批判した「改良主義」的主張しか見いだせないからです。単に改良を重視しているということが問題なのではなく、マルクスの革命的な主張そのものを改良主義的に歪めようとしているのですから、それは許しがたいことなのです(私は以前、その著書を改良主義だと批判する一文をFBに投稿したら、思いがけず著者本人から反論がありましたが、ハッキリ言って何も分かっていないと思いました。)
 まあ皮肉をかますのはこれぐらいにして、テキストの解読の続きに移りましょう。

 

◎第10パラグラフ(人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われている)

【10】〈(イ)このように、商品は貨幣を恋いしたう。だが、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」(“the course of true love never does run smooth”〕。(ロ)分業体制のうちにそのばらばらな四肢〔membra disjecta〕を示している社会的生産有機体の量的な編制は、その質的な編制と同じに、自然発生的で偶然的である。(ハ)それだから、われわれの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのであり、人々の相互の独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのである。〉

 (イ) このように、商品は貨幣を恋いしたいます。しかし、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」とも言います。

 さて、私たちは、前パラグラフで、商品の「命懸けの飛躍」がどのような「命懸け」にならざるをえないのか、その困難の数々を見てきました。しかしそれが困難であるからこそ、一層、商品は自らを貨幣へと転化しうることを請い願うわけです。しかし「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」とも言われますように、それはなかなか叶わないこともありうるわけです。

 ここで鍵括弧に入っている〈「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」(“the course of true love never does run smooth”〕〉という一文については、全集版には「注解」がついていますが、ここでは日本新書版の訳者注を紹介しておきましょう。

 〈*1 〔シェイクスピア『夏の夜の夢』、第1幕、第1場。小田島訳『シェイクスピア全集』Ⅲ、白水社、80頁。土井光知訳、岩波文庫、38頁)〉

 (ロ) 分業体制といっても、それは内在的に言いうるだけで、直接的にはばらばらの関係しか持ち得ない社会的生産有機体は、その量的な編制は、その質的な編制と同じように、まったく自然発生的で偶然的なのです。

 それが「叶わぬ恋」になりうることはひとえに彼の所有者(生産者)がおかれている立場にあります。彼の生産者は社会的な分業の環をなしていなければならないのですが、それは彼にはまったく与り知らないことだからです。彼が所属している社会的生産有機体は、変遷常ならぬものであるだけではありません。それ自体がまったくバラバラのブラウン運動のようなものの寄せ集まりでしかなく、まったくバラバラの運動を繰り返しているものなのです。だからその量的な編制はもちろん、質的な編制もまったく自然発生的に生まれたものでしかなく、偶然的なものだからです。

  ここで〈ばらばらな四肢〔membra disjecta〕〉は全集版では、とくに引用付はついていませんが、新日本新書版の場合は〈"引き裂かれたる四肢"〉と"  "が付いています。そして次のような訳者注がつけられています。

  〈*2〔ホラティウス『風刺詩』、第1巻、詩Ⅳ、第62行。鈴木一郎訳、『世界文学体系』67、筑摩書房、152頁〕〉

 (ハ) それだから、私たちの商品所持者たちは、彼らを独立の私的生産者にするその同じ分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係そのものを彼ら自身から独立なものにするということを発見するのです。人々の相互の人格的な独立性が全面的な物的依存の体制で補われていることを発見するのです。

 こうした盲目的な運動は、一方で彼の所有者が独立の私的生産者だからです。つまり彼は他の誰とも関係なしに、自分自身の都合(計算)で"自由に"生産しているからなのです。しかし彼が"自由"なるが故にこそ、彼自身の社会的生産過程における他の人たちと諸関係は、彼ら自身から独立した物象的な関係として自立させることになっているのです。人々は封建社会のように人格的に互いに依存しあう関係にはないのですが、しかしその代わりに彼らの社会的関係は、彼らから分離して独立した物象的な体制として現われてくるのです。そして彼らは、人格的に依存する代わりに、物象的に依存し、それに従属することになるのです。
 こうした物象的な転倒した関係は、すでに第1章の第4節「商品の物神的性格とその秘密」のなかで、次のように述べられていました。

 〈商品形態は人間にたいして人間自身の労働の社会的性格を労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係をも諸対象の彼らの外に存在する社会的関係として反映させるということである。……ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。……
  このような、商品世界の呪物的性格は、……商品を生産する労働の特有な社会的性格から生ずるものである。
  およそ使用対象が商品になるのは、それらが互いに独立に営まれる私的諸労働の生産物であるからにほかならない。これらの私的諸労働の複合体は社会的総労働をなしている。生産者たちは自分たちの労働生産物の交換をつうじてはじめて社会的に接触するようになるのだから、彼らの私的諸労働の独自な社会的性格もまたこの交換においてはじめて現われるのである。言いかえれば、私的諸労働は、交換によって労働生産物がおかれ労働生産物を介して生産者たちがおかれるところの諸関係によって、はじめて実際に社会的総労働の諸環として実証されるのである。それだから、生産者たちにとっては、彼らの私的諸労働の社会的関係は、そのあるがままのものとして現われるのである。すなわち、諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現われるのである 。〉 (全集第23巻a97-99頁)


◎第11パラグラフ(理論的には正常な形態転化を前提にしなければならない)

【11】〈(イ)分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にする。(ロ)同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にする。(ハ)とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければならず、したがってその正常な進行を前提しなければならない。(ニ)そこで、とにかく事が進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、変則的には形態変換で実体--価値量--が減らされたり加えられたりすることがあるにしても、つねに行なわれているのである。〉

 (イ) 分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然にします。

  だから問題は社会的生産有機体が、自然発生的分業によって成り立っていることにあるのです。こうした社会的な分業は、労働生産物を商品に転化させ、労働生産物の貨幣への転化を必然にします。貨幣こそ、労働の社会的関係が自立化して"物"として存在しているものだからです。だから貨幣に転化してこそ、その労働の社会性が実証されるわけです。

  第1章では次のように述べられていました。

  〈社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。古代インドの共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物が商品になるということはない。あるいはまた、もっと手近な例をとってみれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されてはいない。ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。〉 (全集第23巻a57頁)

 (ロ) 同時に、分業は、この化体が成功するかどうかを偶然にします。

  しかし分業が自然発生的であるということは、こうした労働生産物の貨幣の転化をまったく偶然的なものにもします。誰もそれを保証してくれません。ただ行き当たりばったりなのです。成功も失敗もただ、やってみれければわからない、のです。

 (ハ) とはいえ、ここでは現象を純粋に考察しなければなりません。だから私たちは、以下ではその正常な進行を前提することにしましょう。

  しかし私たちは失敗例をあれこれ問題にしても始まりません。問題はそうした物象的な関係のなかにある法則性を解明していくことだからです。だから私たちは、さまざまな失敗や挫折をもたらす偶然的な諸事情は捨象して、問題を純粋に考察しなければなりません。 だからここでは労働生産物の貨幣への転化は正常に進行するということを前提しましょう。

 (ニ) そこで、とにかく事が進行して、商品が売れないようなことがないとするならば、商品の貨幣への転換は、時には異常事態が生じて、その変換される価値量が減らされたり加えられたりすることがあったとしても、つねに行なわれていることになります。

  だから私たちは商品の形態変換は常に行なわれるものと仮定します。そして商品が売れないことがないとすれば、例え異常な事態が生じて、その価値量が減ったり増えたりしたとしても、商品の変態は常に行なわれているわけです。

  最後に、このパラグラフはフランス語版の方がすっきりと書かれているので紹介しておきましょう。

  〈分業は労働生産物を商品に転化し、そのこと自体によって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。分業は同時に、この化体の成功を偶然的にもする。だがしかし、われわれはここでは、現象をその本来の姿において考察すべきであり、したがって、その進行が正常であると前提すべきである。おまけに、商品が絶対に売れないものでないかぎり、たとえ商品の販売価格がどうあろうと、商品の形態変化はつねに生ずるのである。〉 (江夏・上杉訳87頁)

 以前の「『資本論』学ぶ会」では、このパラグラフ全体の位置づけについて若干議論が出たとニュースにあります。このパラグラフは、やはり第9・10パラグラフで考察された商品の貨幣への「命懸けの飛躍」の困難さの検討とその理由の説明を受けて、しかしわれわれは以下の考察においては、現象を純粋に考察するために、そうした諸困難をもたらすさまざまな偶然的諸事情は捨象して、事態が正常に進行することを前提すべきだということを述べるためにあるように思えます。

 

◎第12パラグラフ(商品の価格の実現は、同時に貨幣の観念的な使用価値の実現である。すなわち「売り」は同時にその対局からは「買い」である。)

【12】〈(イ)一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わる。(ロ)すぐ目につく現象は、商品と金との、二〇エレのリンネルと二ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換、すなわちそれらの交換である。(ハ)だが、なにと商品は交換されるのか? (ニ)それ自身の一般的な価値姿態とである。(ホ)そして、金はなにと? (ヘ)その使用価値の一つの特殊な姿態とである。(ト)なぜ金はリンネルに貨幣として相対するのか? (チ)二ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからである。(リ)もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって、すなわち、商品の価格ではただ想像されているだけの金を商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれる。(ヌ)それゆえ、商品の価格の実現、または商品の単に観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に貨幣の単に観念的な使用価値の実現であり、商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化である。(ル)この一つの過程が二面的な過程なのであって、商品所持者の極からは売りであり、貨幣所持者の反対極からは買いである。(ヲ)言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである。66〉

 (イ)(ロ) 一方の商品所持者にとっては金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては商品が彼の金にとって代わります。すぐに目につくのは、商品と金との、二〇エレのリンネルと二ポンド・スターリングとの、持ち手変換または場所変換です。つまりそれらの交換です。

  さて商品の貨幣への正常な転換を前提しますと、それをありのままに見ればわかりますが、まず商品の所持者(私たちの例ではリンネル織職)からみると、彼の商品(リンネル)が貨幣にとって代わっています。また他方の貨幣の所持者にとっては彼の貨幣(金)が商品(リンネル)に取って代わっています。つまり20エレのリンネルと2ポンド・スターリングとがその持ち手を変換したわけです。それがすなわちそれらの交換ということです。

 (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) だが、なにと商品は交換されるのでしょうか? それ自身の一般的な価値姿態とです。そして、金はなにと? その使用価値の一つの特殊な姿態とです。

  こんな当たり前のことをなぜくどくどと言うのか、ですって? 確かに現象そのものはありふれたことですし、あたり前のことです。しかし私たちはその現象の背後に隠されている内在的な関係をこれからみようとしているのです。
  まず商品は何と交換されるのでしょうか。貨幣とです。しかしその貨幣とは商品にとっては何を意味するのでしょうか。それは商品(リンネル)にとっては、自分自身の内在的な価値が--だからそれ自体は目に見えないものとしてありますが--、現実に目に見えるものになったものです。つまりそれは彼自身の価値の現実的な姿なのです。しかも単に彼自身の価値姿態だけではなく、一般的な価値姿態なのです。   フランス語版は、ここは次のようになっています。

  〈商品はなにと交換されるのか? 自己の交換価値形態、すなわち一般的等価形態とである。〉 (江夏・上杉訳87頁)

  では同じように、貨幣(金)は何と交換されるのでしょうか? その使用価値の一つの特殊な姿態とです。
  先に、私たちは次のように述べられていたことを思い出します。

  〈金材料は、ただ価値の物質化として、貨幣として、認められているだけである。それゆえ、金材料は実在的には交換価値である。その使用価値は、その実在の使用姿態の全範囲としての対立する諸商品にそれを関係させる一連の相対的価値表現において、ただ観念的に現われているだけである。〉 (全集23a139頁)

  つまり貨幣としての金の使用価値は貨幣が相対するすべての商品種類において観念的に表されているだけなのです。だから金は、その観念的な使用価値をここではリンネルという特殊な商品によって物質化したということになるわけなのです。

 (ト)(チ) どうして金はリンネルに貨幣として相対するのでしょうか? 二ポンドというリンネルの価格またはリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからです。

  しかしそれではそもそもなぜ金はリンネルに対して貨幣として相対するのでしょうか? それはリンネルがその首に値札をぶら下げているからです。つまり2ポンド・スターリングという価格、あるいはリンネル価値の貨幣名が、すでにリンネルを貨幣としての金に関係させているからです。だからリンネルの使用価値とその値札が貨幣としての金を呼びよせるのです。

  これもすでに以前、次のように述べられていました。

  〈価格形態は、貨幣とひきかえに商品を手放すことの可能性とこの手放すことの必然性とを含んでいる。〉 (全集第23巻a137頁)

 (リ) もとの商品形態からの離脱は、商品の譲渡によって行なわれます。つまり、商品の価格ではただ想像されているだけの金を、商品の使用価値が現実に引き寄せる瞬間に、行なわれるのです。

  こうして呼び寄せられた現実の金と、リンネルが交換された時に、その瞬間に、リンネルはそのリンネルというその商品形態の殻を脱ぎ捨てて、その内在的な観念的な価値が現実に現われたもの、すなわちその"生身"へと変身することになるのです。

  この部分も以前の叙述の一文を参照にあげておきましょう。

  〈だから、実際に交換価値の働きをするためには、商品はその自然の肉体を捨て去って、ただ想像されただけの金から現実の金に転化しなければならない。〉 (全集第23巻a137頁)

 (ヌ) だから、商品の価格の実現というのは、あるいは商品の単に観念的な価値形態の現実の価値姿態としての実現とは、同時に、逆に貨幣の単に観念的な形式的使用価値の現実の特殊な使用価値への実現なのです。商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化です。

 だから商品の価格の実現というのは、商品がその価格で自分の価値姿態を観念的に表象しているだけのものを、現実の価値姿態、つまり貨幣に転換することです。同時に、貨幣はその現実の価値姿態に対して、その使用価値は、貨幣が相対するすべての諸商品の姿において観念的に表象されています。だから貨幣の商品への転化、すなわち購買は、観念的な使用価値を、特殊な現実の使用価値に実現することなのです。商品の貨幣への転化は、同時に、貨幣の商品への転化です。どちらからみても、観念的なものを現実的なものに転化する過程といえます。

  『経済学批判』には次のような一文があります。

  〈販売W-Gでは、購買G-Wでと同じように、交換価値と使用価値との統一である二つの商品が対立している。しかし商品にあっては、その交換価値はただ観念的に価格としてだけ存在するのにたいして、金にあっては、それ自体はひとつの現実的な使用価値であるとはいえ、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてだけ、したがって現実の個人的欲望とはなんの関係もない、ただ形式的な使用価値として存在するにすぎない。だから使用価値と交換価値との対立は、W-Gの両極に対極的に配分されていて、そのため、商品は金に対立して使用価値であり、その観念的な交換価値である価格を金ではじめて実現しなければならない使用価値であり、他方、金は商品に対立して交換価値であり、その形式的使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである。〉 (全集第13巻72頁)

 (ル)(ヲ) この一つの過程は二面的な過程です。すなわち商品所持者の極からは売りであるものが、貨幣所持者の反対の極からは買いだからです。言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wなのです。

  これもある意味ではありふれた現象です。「売り」は反対側からみれば「買い」だというのは誰でも知っていることです。しかしそのなかにそれぞれの観念的なものが現実的なものへと互いに転換し合っていると捉えることはそれほど容易なことではありません。

 この部分はフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈同じたった一つの取引に二極がある。一方の極である商品所有者の極から見れば、それは販売であり、その対極である金の所有者の極から見れば、それは購買である。あるいは、販売は購買であり、M-Aは同時にA-Mである。〉 (江夏・上杉訳87-88頁)

◎注66

【注66】〈66「すべての売りは買いである。」(ドクトル・ケネー『商業および手工業者の労働に関する対話』、所収、『重農学派』、デール編、第一部、パリ、一八四六年、一七〇ページ。)または、ケネーが彼の『一般準則』のなかで言っているところでは、「売ることは買うことである。」(42)〉

  これは〈言いかえれば、売りは買いであり、W-Gは同時にG-Wである〉という部分につけられた原注です。ここで〈(42)〉とあるのは全集版の注解を指していますが、それは次のようになっています。

  〈(42) このケネーからの引用句は、『ウジェーヌ・デール編、重農学派……』、第1部、パリ、1846年、所収の、デュポン・ド・ヌムールの著作『ドクトル・ケネーの準則、または、その社会経済学原理の摘要』、392頁にある。〉 (全集第23巻a注解の10頁)

  ついでにより詳しい訳者注が付けられている新日本新書版のものも紹介しておきましょう。

  〈(66)「すべての販売は購買である」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、〔所収〕『重農主義学派』、デール編、第1部、パリ、1846年、170ページ〔島津きょう二・菱山泉訳、『ケネー全集』、第3巻、「商業について。H氏とN氏との対話』、有斐閣、227ページ。〕)、あるいは、ケネーが彼の『一般的箴言』で言っているように、「売ることは買うことである」(『重農主義学派』、第1部、392ページ。〕 〉 (185頁)

 

◎第13パラグラフ(われわれの想定では貨幣所持者は彼の商品を貨幣に転化し終えた人であるが、しかし貨幣にはその痕跡は失われている)

【13】〈(イ)これまでのところでは、われわれの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係のほかにはない。(ロ)それは、ただ自分の労働生産物を他人のものにすることによってのみ、他人の労働生産物を自分のものにするという関係である。(ハ)それゆえ、ある商品所持者に他の人が貨幣所持者として相対することができるのは、ただ、彼の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料であるからか、または、彼自身の商品がすでに脱皮していてその元来の使用形態を捨てているからである。(ニ)言うまでもなく、貨幣として機能するためには、金は、どこかの点で商品市場にはいらなければならない。(ホ)この点は金の生産源にあるが、そこでは金は、直接的労働生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換される。(ヘ)しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表わしている。67(ト)金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W-Gの、産物である。68(チ)金が観念的な貨幣または価値尺度になったのは、すぺての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの使用姿態の想像された反対物にし、自分たちの価値姿態にしたからである。(リ)金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからである。(ヌ)その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化する。(ル)それだから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからないのである。(ヲ)その貨幣形態にあっては、どれもこれもまったく同じに見える。(ワ)だから、貨幣は糞尿であるかもしれない。(カ)といっても、糞尿は貨幣ではないが。(ヨ)いま、われわれのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、一クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しよう。(タ)リンネルの売り、W-Gは、同時に、その買い、G-Wである。(レ)しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めるのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わる。(ソ)リンネルの買いとしては、この過程は一つの運動を終えるのであって、この運動はその反対の過程すなわち小麦の売りで始まったものである。(ツ)W-G (リンネル-貨幣)、この、W-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の第一の段階は、同時にG-W (貨幣-リンネル)であり、すなわちもう一つの運動W-G-W (小麦-貨幣-リンネル) の最後の段階である。(ネ)一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である。69〉

 (イ)(ロ)(ハ) これまでのところでは、私たちの知っている人間の経済関係は、商品所持者たちの関係以外にはありません。そこにあるのは、ただ自分の労働生産物を他人のものにすることによってのみ、他人の労働生産物を自分のものにすることかできるという関係です。だから、ある商品の所持者に他の人が貨幣の所持者として相対することができるのは、ただ、その他の人の労働生産物がもともと貨幣形態をもっており、したがって金やその他の貨幣材料だからか(つまり彼の生産物が金かその他の貴金属である場合か)、または、彼自身が生産した商品が、すでに最初の脱皮を終えて、つまりそれがもともと持っていた使用姿態を脱ぎ捨てて、貨幣に転化しているかです。

  第2章「交換過程」の冒頭、次のように述べられていました。

  〈ここでは人々は ただ互いに商品の代表としてのみ、したがって商品所持者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。〉 (全集第23巻a113頁)

  マルクスが『資本論』の第1篇「商品と貨幣」で前提している「単純流通」(商品と貨幣との単純な対立の立場)では、商品の所持者はその商品の生産者として前提されています。だからフランス語版では〈生産者=交換者〉と書かれています。『経済学批判要綱』では次のように述べています。

  〈単純流通そのもの(運動しつつある交換価値)においては、諸個人の相互的行動は、その内容からすれば、ただ彼らの諸必要を相互に利己的に満足させることにすぎず、その形態からすれば、交換すること、等しいもの(諸等価物)として措定することであるとすれば、ここでは所有〔Eigenfhum〕もまたせいぜい、労働による労働の生産物の領有〔Appropriation〕として措定されているにすぎず、また自己の労働の生産物が他人の労働によって買われるかぎりで、自己の労働による他人の労働の生産物の領有として措定されているにすぎない。〉 (草稿集①271頁)

   だからこうした単純流通では、貨幣の所持者の存在は二つのケースしか考えられません。一つは彼の生産物そのものが貨幣そのもの、つまり金かその他の貨幣商品(貴金属)である場合です。もう一つは彼の生産物がすでに商品から貨幣への転化を終わっていて、その結果として彼が貨幣所持者として登場しているという、この二つのケースです。

 (ニ)(ホ) 言うまでもありませんが、商品市場で、貨幣が機能しているということは、金は、どこかの点で商品市場にはいらなければなりません。このどこかの点とは、金が生産されるところです。しかしその場合は、金は、労働の直接的な生産物として、同じ価値の別の労働生産物と交換されるだけなのです。

  貨幣所持者が市場に登場するケースの最初の場合、つまり彼の生産物が金である場合は、 しかしこれは私たちが考察している商品流通とは異質のものです。『経済学批判』では次のように述べています。

  〈もしわれわれがW-GのGをすでに完了した他の一商品の変態として考察しないとすれば、われわれは交換行為を流通過程から外へ取り出すことになる。だが、流通過程の外では、形態W-Gは消滅して、二つの異なるW、たとえば鉄と金とが対立するだけであり、それらの交換は、流通の特殊な行為ではなく、直接的交換取引〔物々交換〕の特殊な行為である。〉 (全集第13巻72-73頁)

  つまりそこでは物々交換がなされ、貨幣(金)の価値が他の商品によって確定される過程なのです。

 (ヘ)(ト) しかし、この瞬間から、その金はもはや「直接的労働生産物」ではなく、いつでも「実現された商品価格」を表わしています。つまり金の生産源での金と商品との交換を別とすれば、どの商品所持者の手にあっても、金は、彼がすでに手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W-Gの、産物なのです。

  先に紹介した『経済学批判』の続きは次のようになっています。

  〈金は、他のすべての商品と同様に、その原産地では商品である。金の相対的価値と鉄やその他すべての商品の相対的価値とは、そこでは、それらが互いに交換される量であらわされる。しかし流通過程では、この操作は前提されており、商品価格のうちに金自身の価値はすでにあたえられている。だから、流通過程の内部で金と商品とは直接的交換取引の関係にはいり、したがってそれらの相対的価値は、単純な商品としてのそれらの交換によって確かめられる、という考えほどまちがったものはない。流通過程で金がたんなる商品として諸商品と交換されるように見えるとしても、この外観はたんに、価格で一定量の商品がすでに一定量の金と等置されているということ、すなわち一定量の商品がすでに貨幣としての、一般的等価物としての金に関係しており、それだからこそ直接に金と交換できるということから生じるのである。〉 (全集第13巻73頁)

  だから産源地のケースを除くと、商品所持者が貨幣所持者として現われるのは、彼の商品が最初の変態を遂げた結果だということ、つまり第一の変態W-G、すなわち「売り」の産物だということです。

 (チ) 金が観念的な貨幣、すなわち価値尺度にしたのは、すぺての商品が自分たちの価値を金で計り、こうして、金を自分たちの有用な生産物という自然形態に対立した、自分たちの想像された価値姿態にしたからです。

  金はその産源地における物々交換によって商品市場に入りますが、その瞬間からそれは貨幣として機能します。しかし貨幣として機能するといっても、まずはその観念的な貨幣として、すなわち諸商品の価値を尺度をするものとして機能するのです。それは諸商品たちが自分たちの使用姿態の反対物である観念的な価値を、まずは観念的な想像された金姿態に映し出すことから生じます。

 (リ) 金が実在の貨幣になるのは、諸商品が自分たちの全面的譲渡によって金を自分たちの現実に離脱した、または転化された使用姿態にし、したがって自分たちの現実の価値姿態にしたからです。

  金が単なる観念的なものとしてではなく、実在の貨幣として登場するのは、諸商品が貨幣としての金と全面的に交換することから生じます。すなわち諸商品はその全面的な譲渡によって、それぞれの自分たちの使用姿態を脱ぎ捨てて、転化された使用姿態、つまり彼らの内在的な価値を、現実的な価値姿態へと転化したからです。フランス語版ではこのあと次の一文が続きます。

 〈この運動は、諸商品をすべて金に変え、そのこと自体によって、金をもはや想像的にでなく実在的に、諸商品の変態された姿態にする。〉 (江夏・上杉訳88頁)

 (ヌ)(ル)(ヲ)(ワ)(カ) その価値姿態にあっては、商品は、その自然発生的な使用価値の、またそれを生みだしてくれる特殊な有用労働の、あらゆる痕跡を捨て去って、無差別な人間労働の一様な社会的物質化に蛹化します。だから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはまったくわかりません。その貨幣形態にあっては、どれもこれもまったく同じに見えるからです。だから、貨幣は糞尿の転化したものであるかもしれません。といっても、糞尿それ自体は決して貨幣ではありませんが。

  第1章の商品の分析でわかったように、商品の価値には一片の自然素材も含まれていません。だから商品が販売されて貨幣に転化したということは、商品がその商品に固有の使用姿態を脱ぎ捨てて、その一般的な価値の姿になったということですから、そこにはだから商品の特殊な使用素材の痕跡がまったくないということになるのです。貨幣というのは、均質の金属材料のなかに諸商品が自分たちの価値を映し出したものだからです。だから貨幣だけを見ていると、それがどういう商品がその使用姿態を脱ぎ捨てて転換したものなのは、まったくわからないわけです。あるいは糞尿が販売されて貨幣になったものかも知れません。だから糞尿それ自体は確かに貨幣ではありませんが、しかし貨幣は糞尿でもありうるのです。ここで「糞尿」が出てくるのは、次のパラグラフと関連していますが、それは次のパラグラフで見ることにしましょう。  この部分のフランス語版も参考のために紹介しておきましょう。

 〈諸商品の日用上の形態とその本源である具体的労働との最後の痕跡が、このようにして消滅してしまったので、あとには、同じ社会的労働という一様にして無差別な原器しか残らない。貨幣片を見ても、どんな物品がそれに変換されているかは、語ることができないであろう。したがって、泥土は貨幣でなくとも、貨幣は泥土であることもある。〉 (江夏・上杉訳88-89頁)

 (ヨ)(タ) いま、私たちのリンネル織職が自分の商品を手放して得た二枚の金貨は、一クォーターの小麦の転化された姿であると仮定しましよう。リンネルの売り、W-Gは、同時に、その買い、G-Wです。

  このように、私たちは貨幣を見ただけでは、どんな商品が販売されてその貨幣になったものなのかはわかりません。いま、私たちのリンネル織職が彼の20エレのリンネルを手放して得た二枚の金貨(2ポンド・スターリング)は、1クォーターの小麦の転化したものだったと仮定しましょう。つまりリンネル織職の前に現われた貨幣の所持者は小麦の生産者であり、彼は自分の1クォーターの小麦を販売して得た貨幣を持ってリンネル織職の前に現われ、そしてリンネルを買ったわけです。だからリンネル織職のリンネルの販売W-Gは、同時に、小麦生産者の買いG-Wなのです。

 (レ) しかし、リンネルの売りとしては、この過程は一つの運動を始めたのであって、この運動はその反対の過程すなわち聖書の買いで終わなければなりません。

  しかし売りは同時に買いだからということで、これで問題が完結しているわけではありません。リンネル織職としてはリンネルの売りは運動の最初であって、彼の目的は彼にとって必要な家庭用の聖書の買いで終わらねばならないからです。

 (ソ) 一方、リンネルを買う貨幣所持者からみれば、その買いは、彼にとっては一つの運動を終えることになります。その運動はそれと反対の過程、つまり小麦の売りから始まったものでした。

  他方で、リンネルの購買者である小麦生産者は、リンネルを買って、彼の目的は果されたことになります。彼は小麦の販売で運動をはじめ、リンネルの購買でその運動を終えたのわけです。

 (ツ)(ネ) W-G-W (リンネル-貨幣-聖書) の第一の、最初の段階である、W-G (リンネル-貨幣)は、同時にG-W (貨幣-リンネル)ですから、それはもう一つの運動W-G-W (小麦-貨幣-リンネル) の第二の段階、つまり最後の段階になります。一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化なのです。

  リンネル織職がリンネルを販売して貨幣を入手した過程は、彼にとって最終目的である家庭用聖書を購入するための最初の段階です。しかし彼のリンネルの販売は、同時に、それを購入する小麦生産者にとっては購買です。つまり小麦生産者にとっては、それは彼の最終目的を果すことなのです。つまり彼が小麦を販売したのは、それで得た貨幣でリンネルを購入するのが目的だったからです。だからリンネル織職の運動の第一段階(最初の段階)は、小麦生産者の運動の第二段階(最後の段階)だということになります。   だから一商品の第一の変態、つまり商品の貨幣への転化は、いつでも同時に、他の一商品の第二の変態、貨幣の商品への再転化だということがわかります。

  さて、このパラグラフでは、商品流通とは異質な金の産源地における交換が出てきます。この問題はこのパラグラフの主題とはいえませんが、各自が研究を深めるための一助として、以前、「『資本論』を学ぶ会」のニュースで書いたものを、参考のために紹介しておくことにします。

●産源地における金(『資本論』学ぶ会ニュース NO.36(1999.12.6)から)

 ここではマルクス自身はそれほど深くは論じていない「産源地の金」の問題について少し触れておきたいと思います。まずマルクスは第13パラグラフでこれを次のように論じています。

  〈金は、貨幣として機能するためには、当然どこかの地点で商品市場に入らなければならない。この地点は金の産源地にあり、そこにおいて金は、直接的労働生産物として同じ価値をもつ他の労働生産物と交換される。だが、この瞬間から、金はつねに実現された商品価格を表す。〉

  この部分の理解に関連して学習会でも、産源地ではその前のパラグラフ(第12)で述べられていたような、販売=購買という関係はなりたたない特別な場合だということが指摘されました。つまりマルクスも〈そこにおいて金は、直接的労働生産物として同じ価値をもつ他の労働生産物と交換される〉と述べているように、金生産者からは直接的な生産物交換でしかないのに対して、金と交換する商品所有者にとってはそれは販売であるという関係がなりたつということです。

  ただマルクスはこれ以上のことは、ここでは述べていません。ところが、例によって久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン』12巻「貨幣Ⅱ」では「7.産源地における金」という小項目をわざわざおこし、さらにそれに三つのサブ項目を付け、29頁にわたって10箇所の引用を行っています。今、その三つのサブ項目を紹介しておきましょう。

  〈a)新たに生産された金の他の諸商品との交換は、直接的な交換取引であって、範疇的な意味での購買ではない。
   b)ここでは販売(商品所有者の側での)が購買(金所有者の側での)なしに行われる。そしてこの一方的な販売によって追加的な金が流通内にもたらされるのであって、この金は、金に対する需要を--それがどういう理由から生じるものであろうと--満たすのに役立つのである。
   c)金の相対的な価値の大きさの確定はもっぱらここで行われる。それがいったん貨幣として流通にはいれば、それの価値はすでに与えられたものとしてある。〉

  実際の『レキシコン』の引用についてはもし興味ある方は各自検討してみてください。なおこの問題についてはすぐ後の「b 貨幣の通流」や「第三節 貨幣」の「a 蓄蔵貨幣の形成」のところでも出てきます。】

 

◎注67

【注67】〈67「商品の価格は、ただ他の一商品の価格でのみ支払われうる。」(メルシェ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、所収、『重農学派』、デール編、第二部、五五四ページ。)〉

  これは〈しかし、この瞬間から、その金はいつでも実現された商品価格を表わしている〉という部分につけられた原注です。フランス語版では〈実現された商品価格〉の部分が強調され、傍点が付されています。だからここで問題にしているのは、その前に述べている、金の生産源における物々交換の問題ではなく、それが一旦行なわれるなら、金はいつでも実現された商品価格を表している、つまり金は何らかの商品の転化したものを表しているのだ、という一文に付けられた原注なのです。
 だから原注の〈商品の価格は、ただ他の一商品の価格でのみ支払われうる〉というのは、商品の価格は、別の他の商品の価値の実現した貨幣で支払われうるという主旨だと理解できます。

 

◎注68

【注68】〈68「この貨幣を手に入れるためには、すでに売っていなければならない。」(同前、五四三ページ。)〉

 これは本文の〈どの商品所持者の手にあっても、金は、彼が手放した商品の離脱した姿であり、売りの、または第一の商品変態W-Gの、産物である〉という部分につけられた原注です。〈同前〉とあるから、注67と同じ著書からの抜粋です。〈メルシェ・ド・ラ・リヴィエール〉については、このあともマルクスは何度も原注として採用していますが、どういう人物なのか、『資本論辞典』の詳しい説明を紹介しておきましょう。

 〈メルシエ・ド・ラ・リヴィエール Paul Pierre Le Mercier de la Riviére de Saint Médard (1720-1793) フランスの官吏・重農学派(Physiokraten)の一人. 1747年パリ高等法院の法官となり, 1759年西インド諸島中の仏領マルティエック島の知事となって赴任.この頃からすでにケネーと相知っていたといわれるが,赴任後自由貿易主義の信条から,いかなる国籍の商人にたいしてもニュー・イングランドから必需物資をもちこみ,帰途に土産の糖酒や糖蜜をもち帰ることを許したため,本国の保護貿易論者たちのはげしい非難を買った.彼は本国への召還を待たずに.健康上の理由から帰国したが,ちょうどそれは,本国で従来の政策が徐々に改められ,内外にわたる穀物取引の自由を規定する1763年および1764年の法令が発布され,重農学派が最初の勝利をかちえた頃であった. これを機としてこの学派はしだいに民衆にたいしての宣伝・教育の活動に乗り出すが,その目的のために,この学派の学説を体系的にまとめよげる仕事を担当したのが彼である.その主著《L'Ordre naturel et essentiel des societes politiques》 (1767)がこれである.この書の刊行直後,彼はロシヤのエカテリナ女帝に招聘された.この書はアダム・スミスによって‘この学説のもっとも明瞭な,またもっとも系統立った記述'として賞讃されたが,その特徴はむしろ前半の政治・社会現論にあるのであって,後半の経済理論はまったくケネーの組述に終っている.ところが.マルクスが『資本論』で利用したデール(Eugene Daire)編の《Physiocrates》(1846)に収められているこの書物は,後半第27章から第44章までであり,経済理論の説明にあてられた部分のみである.マルクスは資本の転形や等価交換の説明にかんしてメルシエを引用・参照しているが, 『剰余価値学説史』でメルシエが,工業における剰余価値をもって工業労働者そのものとなんらかの関係をもつものとの予感をいだいていたことを指摘しているのは注目に値する(MWⅠ31 ;青木1-80)〉(568頁)

 

◎注69

【注69】〈69 前に述べたように、金銀の生産者は例外であって、彼は、自分の生産物をあらかじめ売っているということなしに、それを交換に出すのである。〉

  この原注は〈一商品の第一の変態、商品形態から貨幣へのその転化は、いつでも同時に他の一商品の第二の反対の変態、貨幣形態から商品へのその再転化である〉という本文に付けられたものです。だから金銀の生産者の場合は例外だということを注意しているといえるでしょう。
  先に『レキシコン』では「産源地における金」について〈a)新たに生産された金の他の諸商品との交換は、直接的な交換取引であって、範疇的な意味での購買ではない。 b)ここでは販売(商品所有者の側での)が購買(金所有者の側での)なしに行われる。〉という下位項目がつけられていることを紹介しましたが、産源地における金と他の商品との交換は、範疇的な意味での購買ではなく、販売が購買なしに行なわれているということです。範疇的な意味での購買ではないということに付いては、マルクス自身は〈すなわち、範疇的な意味での購買は、すでに金銀を商品の転化された姿として、または販売の産物として、前提しているからである〉(全集版第23巻a175頁)と説明しています。

 (付属資料は下に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.11(通算第61回) 下

2019-04-11 12:53:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.11(通算第61回)下

 (やはり今回も字数をオーバーしましたので、付属資料は「下」として掲載します。)

 

 【付属資料】

●第10パラグラフ
 

《経済学批判要綱》 

 〈流通は運動であり、この運動では一般的外化は一般的領有として、また一般的領有は一般的外化として現われている。ところでこうした運動の全体が社会的過程として現われれば現われるだけ、またこうした運動の個別的諸契機が諸個人の意識した意志や特殊的諸目的から出発すればするだけ、過程の総体はますます自然生的に成立する客体的連関として現われる。しかも、意識した諸個人の相互作用から出てくるものではあるのだが、彼らの意識のうちにもなく、全体として彼ら諸個人に服属させられることもないような客体的連関として現われる。諸個人自身の相互的衝突が、彼らのうえに立つ、疎遠な〔fremd〕社会的力〔Macht〕を彼らにたいして生産する。つまり彼らの相互作用が、彼らから独立した過程として、強力〔Gwalt〕として〔現われる〕。流通は、社会的過程の総体であるから、また、たとえば貨幣片、または交換価値といったもののばあいでのように、社会的関係が諸個人から独立したあるものとして現われるだけではなく、社会的運動それ自体の全体までもが諸個人から独立したあるものとしても現われるところの最初の形態でもある。〉(草稿集①205-206頁) 

《経済学批判》 

 〈最後に、交換価値を生みだす労働を特徴づけるものは、人と人との社会的関係が、いわば逆さまに、つまり物と物との社会的関係としてあらわされることである。一つの使用価値が交換価値として他の使用価値に関係するかぎりでだけ、いろいろな人間の労働は同等な一般的な労働として互いに関係させられる。したがって交換価値とは人と人とのあいだの関係である、というのが正しいとしても、物の外被の下に隠された関係ということをつけくわえなければならない。〉(全集第13巻19-20頁)   〈諸商品の交換は、社会的物質代謝、すなわち私的な諸個人の特殊な生産物の交換が、同時に諸個人がこの物質代謝のなかで結ぶ一定の社会的生産諸関係の創出でもある過程である。諸商品相互の過程的諸関係は、一般的等価物の種種の規定として結晶し、こうして交換過程は同時に貨幣の形成過程でもある。さまざまな過程の一つの経過としてあらわされるこの過程の全体が流通である。〉(全集第13巻36頁) 

《初版》 

  〈このように、商品は貨幣を恋するが、「まことの恋路はままならぬ。」 分業体制のうちに自己の肢体を表わしている社会的生産有機体の量的編成は、それの質的編成と同じに、自然発生的で偶然的である。だから、わが商品所持者たちは次のことを発見する。すなわち、彼らを独立の私的生産者にしている当の分業が、社会的生産過程とこの過程における彼らの諸関係とを、彼ら自身から独立させているということ、および、人々の相互の独立性が、全面的な物的依存の体制で捕われているということ、これである。〉(江夏美千穂訳97頁) 

《フランス語版》 (フランス語版は若干書き換えられており、注もあらたに付け加えられている。) 

  〈われわれが知っているように、商品は貨幣を愛するが、「まことの恋路はままならぬ(16)」。分業から自己の肢体〔membra disjecta〕が生まれてくる社会的生産有機体は、自己の肢体の機能自体が考察されようと、あるいは自己の肢体の比例関係が考察されようと、自然発生性と偶然性との極印を押されている。したがって、われわれの交換者たちは次のことを発見する。すなわち、彼らを独立の私的生産者とする当の分業が、社会的生産の進行やこの進行が創出する諸関係を、彼らの意志から完全に独立させているということ、したがって、人々相互の独立性が、その必然的な補足物を、諸物によって押しつけられた相互依存の体系のなかに見出しているということ、これである。   (16)シェイクスピア。〉(江夏・上杉訳86-87頁)

●第11パラグラフ

《経済学批判》

  〈このことはもちろん、商品の市場価格が、その価値以上または以下になりうることを妨げるものではない。けれども、こういう顧慮は、単純流通には無関係であって、あとで考察されるようなまったく別の領域に属する。そこではわれわれは、価値と市場価格との関係を研究するであろう。〉(全集第13巻73頁)

《初版》

  〈分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによって、労働生産物の貨幣への転化を必然なものにする。分業は同時に、この化体が成功するかどうかを偶然なものにもする。とはいっても、ここでは、現象を純粋に観察しなければならず、したがって、現象の正常な進行を前提にしなければならない。とにかく事が進行して、商品が売れないようなことがないとすれば、商品の形態変換は、たといこの形態変換において実体--価値量--が変則的に減らされたりふやされたりすることがありえても、つねに行なわれている。〉(江夏美千穂訳97頁)

《フランス語版》

  〈分業は労働生産物を商品に転化し、そのこと自体によって、労働生産物の貨幣への転化を必然的にする。分業は同時に、この化体の成功を偶然的にもする。だがしかし、われわれはここでは、現象をその本来の姿において考察すべきであり、したがって、その進行が正常であると前提すべきである。おまけに、商品が絶対に売れないものでないかぎり、たとえ商品の販売価格がどうあろうと、商品の形態変化はつねに生ずるのである。〉(江夏・上杉訳87頁)

 

●第12パラグラフ

《経済学批判》

 〈販売W-Gでは、購買G-Wでと同じように、交換価値と使用価値との統一である二つの商品が対立している。しかし商品にあっては、その交換価値はただ観念的に価格としてだけ存在するのにたいして、金にあっては、それ自体はひとつの現実的な使用価値であるとはいえ、その使用価値は、ただ交換価値の担い手としてだけ、したがって現実の個人的欲望とはなんの関係もない、ただ形式的な使用価値として存在するにすぎない。だから使用価値と交換価値との対立は、W-Gの両極に対極的に配分されていて、そのため、商品は金に対立して使用価値であり、その観念的な交換価値である価格を金ではじめて実現しなければならない使用価値であり、他方、金は商品に対立して交換価値であり、その形式的使用価値を商品ではじめて物質化する交換価値なのである。〉(全集第13巻72頁)

《初版》

  〈一方の商品所持者にとっては、金が彼の商品にとって代わり、他方の商品所持者にとっては、商品が彼の金にとって代わる。一目瞭然の現象は、商品と金との、二〇エレのリンネルと二ポンド・スターリングとの、持ち手変換あるいは位置変換、すなわち両者の交換である。だが、商品はなにと交換しあうのか? それ自身の一般的な価値姿態とである。なぜは、リンネルに貨幣として相対するのか? 二ポンド・スターリングというリンネルの価格、すなわちリンネルの貨幣名が、すでにリンネルを、貨幣としての金に関係させているからである。最初の商品形態を脱ぎ捨てることは、商品の譲渡によって、すなわち、商品の使用価値が、商品の価格のうちに想像されているにすぎない金を、現実に引き寄せる瞬間に、行なわれている。だから、商品の価格の実現、すなわち、商品のたんに観念的な価値形態の実現は、同時に、逆に、貨幣のたんに観念的な使用価値の実現でもあり、貨幣への商品の転化は、同時に、商品への貨幣の転化でもある。この一つの過程が、二面的な過程であって、商品所持者の極からは販売であり、貨幣所持者の対極からは購買である。すなわち、販売は購買であり、W-Gは同時にG-Wでもある。(51)〉(江夏美千穂訳98頁)

《フランス語版》 (二つの文節にわけられている。)

  〈かくして、交換において一目瞭然の現象とは、商品と金が、たとえば二〇メートルのリンネルと二ポンド・スターリングが、持ち手または位置を変更する、ということなのだ。ところが、商品はなにと交換されるのか? 自己の交換価値形態、すなわち一般的等価形態とである。それでは、金はなにと交換されるのか? その使用価値の特殊形態とである。なぜ金はリンネルにたいし貨幣として現われるのか? リンネルの貨幣名、二ポンド・スターリングというリンネルの価格がすでに、リンネルを、貨幣としての金に関係せしめているからである。商品は、譲渡されることによって、すなわち、その使用価値がその価格のうちに表わされているだけの金を現実にひきつける瞬間に、自己の最初の形態を脱ぎ捨てる。
  価格の実現、すなわち、商品の純粋に観念的な価値形態の実現は、同時に、貨幣の純粋に観念的な使用価値の逆の実現でもある。商品の貨幣への転化は、貨幣の商品への同時的な転化である。同じたった一つの取引に二極がある。一方の極である商品所有者の極から見れば、それは販売であり、その対極である金の所有者の極から見れば、それは購買である。あるいは、販売は購買であり、M-Aは同時にA-Mである(17)。〉(江夏・上杉訳87-88頁)

 

●注66

《初版》

  〈(51)「販売はどれも購買である。」(ドクトル・ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』。『重農学派』、デール編、第一部、パリ、一八四六年、一七〇ページ)。または、ケネーが彼の『一般準則』のなかで言っているように、「売ることは買うことである。」〉(江夏美千穂訳98頁)

《フランス語版》

  〈(17)「販売はどれも購買である」(ドクトル,ケネー『商業と手工業者の労働とにかんする対話』、『重農学派』、デール編、第一部、パリ、一八四六年、一七〇ページ)。あるいは、同じ著者が彼の『一般準則』のなかで述べているように、「売ることは買うこと」である。〉(江夏・上杉訳88頁)

 

●第13パラグラフ

《経済学批判》

 〈だから、われわれは商品の第一の変態を、商品の貨幣への転化を、第一の流通段階W-Gを通過した結果としてあらわすことによって、同時に他の一商品がすでに貨幣に転化しており、したがってすでに第二の流通段階G-Wにあることを想定しているわけである。こうしてわれわれは、前提の悪循環におちいる。流通そのものがこういう悪循環なのである。もしわれわれがW-GのGをすでに完了した他の一商品の変態として考察しないとすれば、われわれは交換行為を流通過程から外へ取り出すことになる。だが、流通過程の外では、形態W-Gは消滅して、二つの異なるW、たとえば鉄と金とが対立するだけであり、それらの交換は、流通の特殊な行為ではなく、直接的交換取引〔物々交換〕の特殊な行為である。金は、他のすべての商品と同様に、その原産地では商品である。金の相対的価値と鉄やその他すべての商品の相対的価値とは、そこでは、それらが互いに交換される量であらわされる。しかし流通過程では、この操作は前提されており、商品価格のうちに金自身の価値はすでにあたえられている。だから、流通過程の内部で金と商品とは直接的交換取引の関係にはいり、したがってそれらの相対的価値は、単純な商品としてのそれらの交換によって確かめられる、という考えほどまちがったものはない。流通過程で金がたんなる商品として諸商品と交換されるように見えるとしても、この外観はたんに、価格で一定量の商品がすでに一定量の金と等置されているということ、すなわち一定量の商品がすでに貨幣としての、一般的等価物としての金に関係しており、それだからこそ直接に金と交換できるということから生じるのである。一商品の価格が金で実現されるかぎりでは、その商品は、商品としての金、労働時間の特殊な物質化したものとしての金と交換される。だが、金が、金で実現される商品の価格であるかぎりでは、その商品は、商品としての金ではなく、貨幣としての金、すなわち労働時間の一般的な物質化したものとしての金と交換される。しかし、二つの関係のどちらでも、流通過程の内部で商品と交換される金の量が交換によって規定されるのではなく、交換が商品の価格、すなわち金で評価されたその交換価値によって規定されるのである。
 流通過程の内部では、だれの手中にある金も、販売W-Gの結果として現われる。だが、販売W-Gは同時に購買G-Wであるから、Wつまり過程の出発点である商品がその第一の変態をとげるあいだに、極Gとしてそれに対立する他の商品はその第二の変態をとげ、したがって、第一の商品がまだその行程の前半にあるあいだに、流通の後半を通過している、ということがわかる。〉(全集第13巻72-73頁)

《初版》

  〈われわれは、これまで、商品所持者たちの関係以外には、すなわち、彼らが自分たちの労働生産物を遠ざけることによってのみ他人の労働生産物をわが物にするという関係以外には、人間相互の経済的関係をなにも知っていない。だから、ある商品所持者に他の者が貨幣所持者としてのみ相対することができるのは、後者の労働生産物が生来貨幣形態をもっており、したがって金等々の貨幣素材であるからか、または、後者自身の商品がすでに脱皮してそれの最初の使用形態を脱ぎ捨てているからである。金は、言うまでもなく、貨幣として機能するためには、どこかのある地点で商品市場にはいらなければならない。この地点は金の原産地にあるのであって、ここでは、金は、直接的な労働生産物として、同じ価値の他の労働生産物と交換しあう。ところが、この瞬間から、金は、それがつねに実現された商品価格である(52)がゆえに、実在の貨幣としてのみ機能する。金の原産地における金と諸商品との交換は別として、金は、どの商品所持者の手にあっても、彼が譲渡した商品の脱ぎ捨てられた姿態、販売の産物、すなわち第一の商品変態W-Gの産物である(53)。金が観念的な貨幣すなわち価値尺度になったのは、すべての商品が、自分たちの価値を金で測り、こうして、金を、想像的に、自分たちの脱ぎ捨てられた使用姿態あるいは価値姿態にしたからである。金が実在の貨幣になるのは、諸商品が、自分たちを全面的に譲渡することによって、金を、自分たちの現実に脱ぎ捨てられた・または転化された・使用姿態に、したからであり、したがって、自分たちの現実の価値姿態にしたからである。諸商品は、自分たちの価値姿態にあっては、自分たちの自然発生的な使用価値のいっさいの痕跡、そしてまた、産みの親である、特殊な、有用な、労働の・いっさいの痕跡を脱ぎ捨てて、無差別な人間労働という一様な社会的具象物に蛹化する。だから、貨幣を見ても、それに転化した商品がどんな種類のものであるかはわからない。ある商品は、それの貨幣形態にあっては、他の商品と全く同じに見える。だから、糞尿は貨幣ではないが、貨幣は糞尿であってもかまわない。わがリンネル織り職が自分の商品を譲渡して手に入れた二枚の金貨が、一クォーターの小麦の転化した姿態である、と仮定しよう。リンネルの販売W-Gは同時に、リンネルの購買G-Wでもある。ところが、リンネルの販売としては、この過程は、一つの運動を始めるのであって、この運動は、この過程の対立物である聖書の購買で終わる。リンネルの購買としては、この過程は、一つの運動を終えるのであって、この運動は、この過程の対立物である小麦の販売で始まったものである。W-G(リンネル-貨幣)という、W-G-W(リンネル-貨幣-聖書)の第一段階は、同時に、G-W(貨幣-ンネル)という、もう一つの運動W-G-W(小麦-貨幣-ンネル)の最終段階でもある。一商品の第一変態、すなわち、商品形態から貨幣へのこの商品の転化は、いつでも同時に、他の一商品の・第二の対立的変態、すなわち、貨幣形態から商品への・この他の一商品の再転化でもある(54)。〉(江夏美千穂訳98-100頁)

《フランス語版》 (フランス語版では、同じパラグラフが三つのパラグラフにわけられ、しかも最後のパラグラフと二番目のパラグラフとの間に二つの注が入り、最後にも注が追加されている。)

  〈われわれはこれまで、交換者たちの経済的関係以外には、すなわち、彼らが自分たちの労働の生産物を引き渡すことによってだけ他人の労働の生産物をわがものにするという関係以外には、人々のあいだの経済的関係を知っていない。したがって、一方の交換者が他方の交換者にたいし貨幣の所有者として現われるならば、次の二つのことがらのうち一つが必要になる。あるいは、彼の労働の生産物が生まれながらにして貨幣形態をもっているか、すなわち、彼自身の生産物が金や銀など、要するに貨幣材料であるか、あるいはまた、彼の商品がすでに外皮を変え、売られ、そのこと自体により最初の形態を脱いだか、そのいずれかである。貨幣として機能するためには、金は当然どこかで市場に現われなければならない。金はその原産地自体において、すなわち、労働の直接の生産物として同じ価値をもつ他の生産物と交換される場所において、市場に入りこむのである。
  ところが、この瞬間から、金はつねに実現された商品価格を表わす(18)。金の原産地における金と諸商品との物々交換は別として、金は、生産者=交換者である各人の手のなかでは、販売の、すなわち彼の商品の第一変態であるM-Aの、産物である(19)。金が観念的な貨幣、すなわち価値の尺度になったのは、諸商品が自分たちの価値を金で表現し、こうして、金を、有用な生産物という自分たちの自然形態に対立した、自分たちの想像的な価値姿態に、したからである。諸商品を普遍的に譲渡することによって、金は実在する貨幣になる。この運動は、諸商品をすべて金に変え、そのこと自体によって、金をもはや想像的にでなく実在的に、諸商品の変態された姿態にする。諸商品の日用上の形態とその本源である具体的労働との最後の痕跡が、このようにして消滅してしまったので、あとには、同じ社会的労働という一様にして無差別な原器しか残らない。貨幣片を見ても、どんな物品がそれに変換されているかは、語ることができないであろう。したがって、泥土は貨幣でなくとも、貨幣は泥土であることもある。
  (ここに注(18)と注(19)が入る。)
  さて、われわれの織工が自分の商品を譲渡して得た二個の金貨が、小麦一クォーターの変態から生ずる、と仮定しよう。リンネルの販売M-Aは、同時にリンネルの購買A-Mでもある。リンネルが売られるかぎり、この商品は、その対立物である聖書の購買をもって終結する運動を、開始する。リンネルが買われるかぎり、それは、その対立物である小麦の販売から始まった運動を、終結する。M-A-M(リンネル-貨幣-聖書) の第一段階M-A(リンネルヌ-貨幣) は、同時にもう一つの運動M-A-M(小麦-貨幣-リンネル)の最終段階A-M(貨幣-リンネル) である。ある商品の第一変態、商品形態から貨幣形態へのその移行は、つねに、他の商品の第二の全く対立した変態、貨幣形態から商品形態へのその復帰である(20)。〉(江夏・上杉訳88-89頁)

●注67

《初版》

  〈(五二)「一商品の価格は、他の一商品の価格でしか支払うことができない。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、『重農学派』、デール編、第二部、五五四ページ。)〉(江夏美千穂訳100頁)

《フランス語版》

  〈(18) 「ある商品の価格は、他の商品の価格でしか支払うことができない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、『重農学派』、デール編、第二部、五五四ぺージ)。〉(江夏・上杉訳89頁)

●注68

《初版》

  〈(53)「この貨幣を得るためには、その前に売っておかなければならない。」(同前、五四三ページ。)〉(江夏美千穂訳100頁)

《フランス語版》

  〈(19) 「この貨幣を得るためには、そ⑭前に売っておかなければならない」(同前、五四三ページ)。〉(江夏・上杉訳89頁)

 

●注69

《初版》

  〈(54)前に述べておいたように、金銀の生産者は例外であって、彼は自分の生産物をあらかじめ売っておかずにそれを交換に出すのである。〉(江夏美千穂訳頁)

《フランス語版》

  〈(20) われわれがすでに述べたように、金または銀の生産者はここでは例外をなすのであって、彼はあらかじめ買っておくことなしに自分の生産物を売る。〉(江夏・上杉訳89頁)

 

 (続く)

 

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