第36回「『資本論』を読む会」の報告(その2)
◎第7パラグラフの冒頭の「価値物」を如何に理解すべきか?
次に問題になったのは、(ロ)の文節に出てくる「価値物」の理解についてでした。レポーターは、恐らく以前の議論を踏まえて、ここに出てくる「価値物」は、「貨幣」ではないし、そう理解すべきではない、と報告のなかで述べたのでした。レポーターのそうした主張に対しては、大きな異論は出されなかったのですが、マルクスは、ここでは〈それらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された〉とか、〈有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂〉と述べているように、物的対象が二つの属性に「分離」するとか、「分裂」すると述べており、この場合は文字通りそのように理解すべきで、それまでの具体的な使用対象性としての有用物とは物的に異なる、交換手段という新たな対象性を受け取った物的存在について述べているのではないか(それが「価値物」ではないか)、という意見が出されました。ただこの問題については、それ以上の議論にはなりませんでした。というのは、一つは、以前の議論というものについて、その場では、ハッキリとは確認できず、それを踏まえた厳密な議論ができなかったからですが、他方では、「貨幣ではないし、そうしたものとして理解すべきではない」というレポーターの主張に対して、確かにここではいまだ「貨幣」が直接には問題になっていないことは明らかなように思えたからでした。しかし、以前の解釈に一定の疑義が提起されたわけですから、やはりそれは厳密に検証されなければならないのではないかと考えます。だからここでは、以前の議論にも遡って、マルクスがこのパラグラフで「価値物」と述べているものを如何に理解すべきかについて、少し詳しく検討してみたいと思います。まず、以前の議論とはどういうものだったのかを振り返ることから始めたいと思います。
「価値物」については、第3節「価値形態または交換価値」のさまざまなところで問題にし、議論を紹介してきました(詳しくは第15回報告[その2]、第16回報告[その1]、第17回報告[その3]、第18回報告[その3]等を参照)。その主な論点は、大谷氏が「価値物」を「価値対象性が与えられているもの」、あるいは「価値対象性を持ったもの」と説明しているのに対して、それではマルクスが上着がリンネルの等価物として「価値物」として通用することによって、リンネルの価値が上着で表現されると述べていることの説明が出来ない。大谷氏の「価値物」の説明では、リンネルの価値が上着によって目に見えるように顕れているものとして捉えたことにはならない、だからそれではリンネルの価値の表現を説明できないと批判をし、「価値物」というのは、「価値の目に見える存在形態」と捉えるべきだと主張してきたのでした。例えば第16回報告(その1)では、第3節の「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」の「2 相対的価値形態」の「a 相対的価値形態の内実」の第3パラグラフに出てくる「価値物」についての議論が次のように紹介されています。
【しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。
〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)
このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりません。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそうしたものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するからです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります。
〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されることになる。〉
このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されていないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけでは、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現われていることにはならないからです。形あるものと顕れていないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物として存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値は表現されているとは言えないのです。】
ただ大谷氏が『貨幣論』(久留間鮫造著、大月書店、1979.12.24)で自説を補強するために、『資本論』から5つの引用文を紹介しているのですが(同著96-7頁)、その最後に紹介している引用文が、今回、まさに問題になっている第7パラグラフの冒頭の部分なのです。そしてこの引用文について、果たしてそれが大谷説を補強するようなものなのかについて、批判的検討を加えたのが、第18回の報告(その3)でした。その内容も少し紹介しておきましょう。
【大谷氏は、『資本論』からの引用文を紹介する前にまず久留間鮫造氏の『価値形態論と交換過程論』からの一文を長く引用したあと、次のように問題を提起しています(傍点は下線に変換)。
〈いまの引用では、等価形態に置かれる上着は、この形態に置かれたときにはじめて「価値物」になる、「価値物」としての形態規定性を与えられることになっています。ここでの「価値物」の意味は、次のところにはっきりと示されています、--「ではどのようにして上衣は--その自然形態そのものが--そのまま価値をあらわすものに、すなわち価値物になるのか……」。また、繰り返して、「抽象的人間的労働の体化物、すなわち価値物」と言われています。「価値物」がこのようなものであるとすると、それはもちろん等価形態に立つ商品についてのみ言いうることで、相対的価値形態にある商品、たとえばリンネルはつねに「価値物」ではないということになります。じっさい先生は、上着のほうについてのみ「価値物」と言っておられます。ところが、マルクスの場合には、「価値物(Wertding)」という言葉が先生が使われているのとは違った意味で使われているように思われてならない。『資本論』の第1章からその用例を示すと、次のようなものがあります。〉(『貨幣論』96頁)
そして大谷氏は『資本論』から5つの引用文を紹介しているわけです。しかしそのうちの2~4の引用文は、すでにわれわれがこの「a 相対的価値形態の内実」を詳細に検討するなかで明らかにしてきたものです(第3、第5、第10の各パラグラフに出てくる「価値物」が引用されている)。だからわれわれは大谷氏が最初と最後に引用紹介しているものだけをここでは検討すれば良いと思います。それらが、大谷氏によると、「価値物」は上着だけでなく、リンネルについても言いうる用例であり、〈「価値物」とは価値対象性をもつもの〉という概念を示すものだというわけです。果たしてそうなのか、マルクスはそうした意味で「価値物」という用語を使っているのか、それをこれからその二つの引用文について検討してみようというわけです。それは次のようなものです。
まず大谷氏が最初に引用しているのは、前にも紹介しましたが、次のような第3節の前文に出てくる文章です。
〔中略……この最初の引用文の検討については省略しますが、もし興味のある方は第18回報告を参照してください〕
次に大谷氏が最後に引用しているのは、「第4節 商品の物神的性格とその秘密」のなかにある次の一文です。〔つまり、今回、われわれが学習した第7パラグラフの冒頭部分です〕。
《労働生産物は、それらの交換の内部で、はじめてそれらのたがいに感性的に異なる使用対象性から分離された、社会的に同等な、価値対象性を受け取る。有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂がはじめて実際に発現するのは、有用物が交換を目あてに生産されるまでに、したがって、諸物の価値性格がすでにそれらの生産そのものにおいて考慮されるまでに、交換が十分な広がりと重要性とを獲得した時である。》(全集版99頁)
この一文は、一見すると、如何にも大谷氏らの「価値物」理解を正当化するように思えます。マルクスは《感性的に異なる使用対象性》と《社会的に同等な、価値対象性》を上げ、それを言い換える形で《有用物と価値物》を挙げているのですから、この場合の《価値物》は《価値対象性を受け取る》こと、つまり「価値対象性を持つもの」という大谷氏の主張を根拠づけているように見えるわけです。
しかしこの文章を良く吟味してみるとそうではありません。例えば、マルクスは《それらの交換の内部で》と書いているように、ここで問題になっているのは諸物なのです。《それらが互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べています。ここで《受け取る》のは《それら》の《諸物》であり、《それら》の《諸物》が《それらの互いに感性的に異なる使用価値から分離》されて、つまりそれらの諸使用価値と区別された存在として、《社会的に同等な、価値対象性を受け取る》と述べているのですから、この《社会的に同等な、価値対象性》というのは、ある特定の労働生産物がそうした一般的な等価物として分離されてくる事態をマルクスは述べていると考えるべきなのです。この文章は、すでに貨幣形態まで説明が終わったあとに展開されている、第4節の文章であることも考える必要があります。
また上記の引用文は、次の文章とまったく同じ内容を述べていると考えることが出来ます。
《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)
これは「第2章 交換過程」の中の一文ですが、ここで注意が必要なのは、《諸物の使用価値》が分離するのは、《諸物の交換価値》からだということです。これは先の第4節の引用文のなかにある《有用物と価値物》に該当すると考えてよいでしょう。つまりこの二つの引用文から類推するに、マルクスが先の第4節の引用文で述べている《価値物》は《交換価値》を意味していると考えられるのです。いうまでもなく、《交換価値》というのは、価値が目に見える形で現象している形態にあるものです。すなわち、上記の引用文が述べているのは、諸物の使用価値が、価値の現象形態としての《交換価値》から分離するということです。だから使用価値が分離するのは、ただ単に「価値対象性を持つもの」というような価値を内在的に持っている物からではなく、価値が現象して目に見えている物からなのです。またそれを言い換えて《直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する》とも述べています。《交換のための諸物の有用性》というのは、諸物の使用価値がただ交換のためにだけに使われるということです。つまり等価物に置かれた商品の使用価値が価値を表すためにだけに使われるということなのです。だからこれもやはり価値が目に見える形で現われた物を意味しているのです。
だからもう一度、最初の引用文に返ると、マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです。そのように理解すべきものなのです。かくして大谷氏らの主張にはまったく根拠がないことがこの引用文でも論証されるのです。】
このようにここでは結論的に【マルクスが《有用物と価値物とへの労働生産物のこの分裂》と述べている《価値物》というのは、単に「価値対象性を持つもの」といった意味ではなく、「価値が目に見える物という形で」現われているもの、つまり「一般的な等価物」、あるいは「貨幣」を意味しているのです】と述べています。レポーターは、恐らくこの以前の解釈を意識して、この第7パラグラフの冒頭でマルクスが述べている「価値物」は「貨幣ではないし、そうしたものとして理解すべきではない」と述べたのだと思います。そしてレポーターが指摘したように、この以前の考察には、一定の行き過ぎと限界があったように思えます。
まず第7パラグラフの冒頭部分では、まだ貨幣が直接問題になっているわけではないのですから、「価値物」を〈「貨幣」を意味している〉などというのは明らかに行き過ぎなのです。また以前の考察は、第3節の価値形態の分析の中での考察なので、やむを得ない面もありますが、しかし今回の第7パラグラフは第4節の物象論の中の一文であるということが十分意識されていない嫌いがあります。この第7パラグラフでは、マルクスは一貫して「労働生産物」の交換について述べていますが、決して「商品」の交換について述べているのではありません。第3節では「商品」はいわば考察の前提でした。諸商品の交換関係を前提した上で、そこに潜む商品の価値の表現形態を分析し明らかにすることが課題だったのです。しかし第4節ではそうではないのです。以前、第4節の課題について次のように指摘したことがあります。
【しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。これは次回以降の学習の対象であり、次回以降の課題になりますが、久留間氏の諸説を検討したついでに、少し先回りして簡単に論じておきましょう。
確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。】(第32回報告「その2」から)
つまり第1節~第3節は資本主義的生産様式が支配している社会の富の要素形態である「商品」を、そのまま前提して、それを観察・分析・考察することから「商品とは何か」が解明されたのでした。しかし、第4節では、商品そのものが歴史的にどのように生まれてきたのか、あるいはそもそも労働生産物が商品になるのは如何なる理由によるのかを解明することが課題なのです。
もちろん、諸商品を前提して、それを分析していく中でも、その歴史性は明らかにされうるし、されてきたのですが(価値形態の考察では、常に問題は歴史的にも取り扱われています)、しかし商品が商品でないものから(労働生産物から)、商品に如何にして何ゆえになるのかということは、商品を前提した分析では明らかにならないのです。商品を見ている限りは、それ以前のものは歴史の背後に隠されており、決してわれわれは見ることができないからです。だからマルクスはそうした問題は自ずと別の課題になるのだと述べています。そしてその課題を果たすのが、すなわち第4節なのです。
その意味では先の考察(第18回報告、その3)は、そうした第4節の課題を十分踏まえたものにはなっていない面があったと言えます。大谷氏が紹介している5つの引用文のうち前の4つは、すべて第3節の価値形態からのものであり、価値の表現形態が問題になっている部分から引用されたものです。だからそこで問題になっているのは「諸商品」であり、交換され、等置されるのは「商品」なのです。ところが5つ目の引用文だけは、第4節からのものなのです。だからこの引用文の場合は、価値形態や価値表現のそれまでの考察の延長上で考えることは必ずしも正しくは無かったと言えるでしょう。
それでは第4節の位置を意識して、第7パラグラフの冒頭に出てくる「価値物」は如何に理解すべきでしょうか。それについて、一定の見解を明らかにしたいと思います。ただし、このことは学習会で述べたことではないので、次の学習会では批判的に検討される必要があるでしょう。
まず注意しなければならないのは、すでに指摘したように、ここでは商品の価値の表現や形態が問題になっているのではないということです。第3節では商品の価値形態が問題でした。それは商品の交換関係を前提しながら、その交換関係に潜む商品の価値の表現形態を明らかにするものだったのです。しかし、今、問題になっているのは、そうした問題ではありません。ここでは交換されるのは「労働生産物」です。そして交換関係に潜む価値の表現形態ではなく、実際の交換そのもの(その歴史的な発展段階)が問題になっています。労働生産物の価値性格がハッキリ現れてくるのは、労働生産物の交換の一定の発展段階においてだということが指摘されているのです。その意味では、労働生産物の価値性格が明確に現れてきて、初めて労働生産物は「商品」になるとも言えるわけです。そうした問題を論じるなかで、「価値物」というタームが出てくるということがまず確認されなければなりません。
そしてパラグラフの本文にそって問題を考えてみますと、そこでは労働生産物が価値を持つのは、労働生産物の交換の内部においてであること、しかも、その労働生産物の交換がある程度発展して初めて、そうした労働生産物の価値性格がハッキリ現れてくるのだと述べているわけです。
われわれが商品の価値の形態を問題にした時には、交換されるのは商品であることは当然のことながら前提されていました。しかし、このパラグラフでは、労働生産物が交換され、その交換される労働生産物が価値を持つようになるのは、どういう交換の発展段階かが問題になっているのです。労働生産物は一つの有用物です。つまりそれは本来は、直接に生産者の欲望を満たすものなのです。生産者は自らの欲望を満たすために、物を作るわけです。しかし、それが価値という性格を持つのは、もはやそれが彼の、つまりその労働生産物を生産した者の欲望を満たすものとしてではないのです。それは生産者にとっては、それ以前に持っていた有用物としての性格とは違ったものとして、すでに彼には現れているのだ、というわけです。だからマルクスはそうした性格は、有用物とは〈分裂して〉現れてくると述べているのだと思います。つまり労働生産物の交換が発展して、生産者がその生産物の価値性格を意識するような段階、つまり交換を目的に生産を行うような段階、そのような段階においては、労働生産物はもはや生産者の欲望を満たす有用物ではなく、ただ彼のさまさまな欲望を満たすために必要なさまざまな他の労働生産物を彼が入手するための「手段」でしかなくなるわけです。だからここには、それが本来は持っていた有用物という属性とは分裂した、ある一つの属性が労働生産物に付け加わっているとマルクスは指摘しているわけです。それはすなわち他の労働生産物との「交換のための手段」という属性です。そしてその限りではそれは他の労働生産物と社会的に同等な性格を持ったものとして存在している、それをマルクスは「価値物」と述べているのだと思います。だから価値形態に出てくる「価値物」は、相対的価値形態にある商品の価値が一つの他の等価形態にある商品の物的姿をとって現れてきた物でしたが、このパラグラフにおける「価値物」とは、そうしたものではなく、労働生産物そのものが「価値物」として現てくるということを述べているのだと思います。
これは分かりやすくいうと、次のような事態を述べているのだと思います。労働生産物の交換がある程度発展し、生産者が交換を目的に生産するようになると、生産者はそれまでの自家消費分(有用物)とは別に、交換用の労働生産物を、それとして区別して、物的にも区別し分けるようになります。これが有用物と価値物とへの労働生産物の「分裂」、あるいは「分離」ということの実際の内容なのです。このように考えてみれば、それほど難しいことを言っているわけではないことが分かります。
マルクスは、有用物と価値物とに労働生産物が分裂する段階を、労働生産物が、すでに交換を目的に生産される段階、だから生産においてすでにその価値性格を意識する段階と述べています。これは価値形態の発展段階としては、どの段階を意味するでしょうか。それは労働生産物のうちの主に剰余物だけが、たまたま偶然に、個別的に、交換されるような段階ではないことは明らかです。だから価値形態の発展段階としては、形態 I(「簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」) の段階ではなく、形態II(全体的な、または展開された価値形態」)か、あるいは形態III(一般的価値形態)の段階だと考えられます。
形態IIというのは、ある特定の労働生産物が次々と他のさまざまな労働生産物と交換されていく段階です。これは具体例を上げて説明しますと、遊牧民族がその遊牧の過程で、接触したさまざまな定着農耕民族と自分たちの生産物である羊を小麦やジャガイモなどと交換してゆくような段階と考えることができるでしょう。羊はさまざまな労働生産物を自らの価値の表現形態にしますが、しかし羊と交換される小麦やジャガイモなどは、それらを生産する定着農耕民族にとっては依然として剰余生産物であり、彼らからみれば、この交換は依然として個別的・偶然的なものにすぎないわけです。つまり彼らから見れば、価値形態としては形態 I の段階です。しかし交換がさらに発展し、商品交換がそうした定着農耕民族までをも捉えるようになると、彼らも交換を目当てに生産するようになり、互いの労働生産物をも交換し始めるようになりますが、そうした段階では、彼らは自分たちの労働生産物の価値性格を、それまでの彼らにとっての共通の物差しであった羊で秤量し、そうして互いの労働生産物を交換するようになります。そのような発展段階が、すなわち形態IIIだったわけです。
だからマルクスがここで、労働生産物が有用物と価値物とに分裂する段階というのは、価値形態の発展段階としては、果たしてどういう発展段階を指していると考えることができるでしょうか。私は形態IIにおける、次々と自らの価値を表現して展開する労働生産物のみが、そうした発展段階に該当すると考えることができると思います。つまり自らの価値を展開して表現する商品のみが、最初から交換を目的に生産され、よってその価値性格を意識して生産されるような段階に達していると考えるわけです。先の第18回報告の考察のなかで紹介していた第2章の一文でもマルクスは次のように述べていました。
《交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。したがって、時の経過と共に、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。》(全集版23a118頁)
つまり《労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる》段階こそ、こうした段階ではないでしょうか。
もちろん、形態IIIの場合も、それ以外の多くの労働生産物も、価値性格を意識して生産するようになる段階なのですから、そうしたものに該当するのはいうまでもありません。しかしマルクスが「この瞬間から」と述べているように、そうした最初の商品が歴史的に登場するのは、どういう段階かと考えるなら、形態IIがそれに相応しいと言えるでしょう。
いずれにせよ、労働生産物が「価値物」という属性を獲得するのは、決して、形態 I のような段階ではないということ、すでに貨幣の萌芽として、労働生産物が本来持っている有用物という性格から分離した形で、ただ交換だけを目的に生産されるようになり、あらゆる他の労働生産物と交換するための手段という、新たな属性を獲得した物という意味が、すなわちマルクスがここで述べている「価値物」だと思うわけです。
これは余談ですが、たまたまNHKのBSプレミアムの番組を観ていると、北欧ノルウェーのバイキングについて、彼らがどうしてあのような極寒の不毛の地で、一大勢力を築き、さまざまなところに出かけて行くようになったのか、について解説していました。それは「干し鱈(タラ)」の製法を彼らが発明したことによるのだというのです。「干し鱈」そのものは、ある時期に大量に取れる鱈を、不漁の時の食料として利用するために保存することが目的だったと思います。つまり「干し鱈」は、当初はその限りでは一つの「有用物」に過ぎなかったのです。しかし「干し鱈」は長期の保存が可能であり、しかもそれを他の多くの隣接民族が欲しがり、彼らが持っているものと交換できるということをバイキングは知るようになるわけです。かくしてバイキングは大量の「干し鱈」を交換を目的に生産するようになり、それを持って大航海をし、それを色々な地域で、小麦や絹など彼らが必要とするさまざまなものと交換するようになっていったというのです。それが彼らが大航海に乗り出した動機であり、原動力だったというわけです。それを解説者は、「干し鱈は貨幣になった」と述べていました。つまり「干し鱈」は単なる保存食としての「有用物」から、「交換手段」という新たな対象性を獲得したのです。「干し鱈」は単なる「有用物」という対象性から、それとは区別された、その対象性から分離した「交換手段」という新たな対象性を獲得したのです。これがすなわち、ここでマルクスが述べている「価値物」ではないだろうかと思ったのでした。
(以下は「その3」に続きます。)