第19回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎“師走”
「師走」は『語源由来辞典』によると、当て字で、語源は諸説あるそうで、正確なものは未詳だそうです。しかし主なものとしては、師匠の僧がお経をあげるために、東西を馳せる月という意味があるようです。それ以外には、「年が果てる」意味の「年果つ(としはつ)」が変化したとするものや、「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説、あるいは「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説などがあるということです。
ところで「師走」だからというわけでもないのでしょうが、第19回「『資本論』を読む会」は何とも慌ただしく、あっというまに終わってしまいました。だからあまり報告することもない状態なので、実は、報告者は困っている次第なのです。
今回は「b 相対的価値形態の量的規定性」をすべて終えました。この部分は確かにあまり難しい問題はない所ではあるのですが、しかしそれにしても簡単にやり過ぎのように、報告者には思えました。
だから報告担当の亀仙人は、敢えて難しい問題をぶつけてみました。すなわち、現行版の『資本論』では(初版付録もそうですが)、「相対的価値形態の内実」のあとに、「量的規定性」が考察されているが、初版本文では量的規定性が考察されたあとに相対的価値形態が考察されていること、また相対的価値形態の考察もその展開は現行版や初版付録とは一見すると逆の展開になっているように見えるが、これはどうしてなのか、という問題です。これは初版本文の論理的展開はどうなっているのか、という問題とも関連して(しかもマルクス自身は、本文の敍述こそ《弁証法が……はるかに鮮明》だと、初版序文で書いているわけです)、大変、興味深いテーマではありますが、しかし、やはりこれはあまりにも問題が横道に逸れ過ぎるので、またその機会があれば、論じることにして、今回は割愛したいと思います(どこかの誰かさんが「報告が長すぎる」とブツクサ言っていることもありますし)。
◎各パラグラフごとの検討
とにかくこれまで通り、パラグラフごとに簡単な解説を書いておくことにしましょう。ただ今回は、分節ごとの詳細な解読は不要と考えて、パラグラフごとに全体を解説することにします。これまで通り、最初にパラグラフ全体を紹介し、そのあとに解説をつけるという順序で行なうことにします。また関連資料は最後に回します。
【1パラグラフ】
《その価値が表現されるべき商品は、どれも、与えられた量のある使用対象--15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど--である。この与えられた商品量は、一定量の人間労働を含んでいる。したがって、価値形態は、単に価値一般だけではなく、量的に規定された価値、すなわち価値の大きさをも表現しなければならない。したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着という商品種類は、単に価値体一般として、リンネルに質的に等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに対して、一定量の価値体または等価物、たとえば一着の上着が等置されるのである。》
・まずこれまで考察してきた商品の価値の表現においては、二つの商品の等置関係の質的な面だけが考察されてきましたが、しかし実際には、その価値が表現される商品は、どれもある与えられた分量の使用対象なわけです。
第1章では、《鉄、紙などいっさいの有用物は、二重の観点から、質および量の観点から、考察されなければならない。このような物はどれも、多くの属性からなる一つの全体であり、したがって、さまざまな面で有用でありえる。これらのさまざまな面と、したがって物のいろいろな使用の仕方とを発見することは、歴史的な行為である。有用物の量をはかる社会的尺度を見つけだすこともそうである。諸商品尺度の相違は、一部は、はかられる対象の性質の相違から生じ、一部は、慣習から生じる》とされ、《使用価値の考察に際しては、一ダースの時計、一エレのリンネル〔亜麻布〕、一トンの鉄などのようなその量的規定性がつねに前提されている》と指摘されていました。
ここでは《15シェッフェルの小麦、100ポンドのコーヒーなど》が例として上げらています。ここで《シェッフェル》というのは、新日本新書版の解説によれば、「古い穀物単位」であり、その値は地域によって異なるが、1シェッフェルは23-223リットルと極めて大きな幅があることが紹介されており、プロイセンでは54.96リットルだとの説明があります。
・こうした一定量の商品は、だから一定量の人間労働を含んでいるわけです。つまり一定の価値の大きさをもっているわけです。
・だからわれわれがこれまで見てきた、価値の相対的表現である、価値形態は、単に価値一般だけでなく、量的に規定された価値、つまり価値の大きさも表現しなければならないというわけです。
・したがって、商品Bに対する商品Aの、上着に対するリンネルの、価値関係においては、上着は価値体一般としてリンネルに質的に等置されたのですが、一定量のリンネル、例えば20エレのリンネルに対しては、一定量の価値体または等価物として、例えば一着の上着が等置されるというわけです。
要するに、ここでは、われわれはこれまで相対的価値形態の質的側面を見ることによって、その内実を明らかにすることが出来たのですが、今度は、それらは同時に量的規定性をもったものであることが再確認されていると言えるでしょう。
【2パラ】
《「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、一着の上着には20エレのリンネルにひそんでいるのとまったく同じ量の価値実体がひそんでいること、すなわち、両方の商品量は等しい量の労働または等しい大きさの労働時間を費やさせることである。ところが、20エレのリンネルまたは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変動するたびに、変動する。そこで、このような変動が価値の大きさの相対的表現に与える影響について立ちいって研究しなければならない。》
・「20エレのリンネル=1着の上着 または、20エレのリンネルは一着の上着に値する」という等式の前提にあるのは、二つの商品にはまったく同じ量の価値の実体、抽象的人間労働の凝固がひそんでいるということです。つまり両方の商品の二つのそれぞれの量の生産のためには、等しい量の人間労働、または等しい大きさの労働時間が必要だということです。
・しかし、20エレのリンネルあるいは一着の上着の生産に必要な労働時間は、織布労働または裁縫労働の生産力が変われば、変化します。だから、こうした変化が価値の大きさの相対的表現にどのような影響を与えるのかを立ち入って研究する必要があるということです。
ここでは、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式においては、確かに二つのそれぞれの量の商品の価値が同じことを示していますが、しかし価値の大きさの表現としては、あくまでも一定量のリンネルの価値の大きさだけが表現されているのであって、一定量の上着の価値の大きさそのものは表現という点では問題にはなっていないこと、にもかかわらず、リンネルの価値の大きさの表現においても、上着の価値の大きさが関連してくるのだ、という指摘がありました。
【3】
《 Ⅰ リンネルの価値は変動するが(19)、上着価値は不変のままである場合。たとえば、亜麻のとれる耕地〔Boden〕がますますやせた結果、リンネルの生産に必要な労働が二倍になるとすれば、リンネルの価値は二倍になる。今や一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むにすぎないから、20エレのリンネル=1着の上着 の代わりに、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。これに対して、たとえば織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分に減少すれば、リンネル価値は半分に低下する。それに応じて、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となる。したがって、商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表現される商品Aの価値は、商品Bの価値が不変のままでも、商品Aの価値に正比例して、上昇または低下する。》
・ I リンネルの価値の大きさは変動するが、上着の価値は不変である場合。
・それは例えば、亜麻が不作の結果、リンネルの生産に必要な労働時間が二倍になるならば、リンネルの価値も二倍になります。
・だから一着の上着は20エレのリンネルの半分の労働時間を含むに過ぎないから、20エレのリンネル=2着の上着という等式になります。
・これに反して、織機の改良によって、リンネルの生産に必要な労働時間が半分になれば、リンネルの価値は半分になり、よっていまや、20エレのリンネル=半分の上着となります。したがって、商品Aの相対的価値、つまり商品Bで表された商品のAの価値は、商品Bの価値が不変でも、商品Aの価値の変動に正比例して、上昇または下落するという結論がでてきます。
ここでは「1/2着の上着」という表現がでてきますが、1/2着の上着は使用価値ではないということから、マルクスを批判する論者があることが所沢の「『資本論』を読む会」では問題になったようだという紹介があり、そこでの解説は見事であるという意見がありました。
(http://shihonron.exblog.jp/9939276/を参照)
【4】
《 Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値が変動する場合。こうした事情のもとで、たとえば羊毛の刈りとりが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になれば、20エレのリンネル=1着 の上着の代わりに、今や、20エレのリンネル=1/2着の上着 となるであろう。これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となるであろう。だから、商品Aの価値が不変のままでも、商品Aの相対的な、商品Bで表現される価値は、Bの価値変動に逆比例して、低下または上昇する。》
・II リンネルの価値が不変で、上着の価値が変動する場合。
・羊毛の刈り取りが思わしくないために、上着の生産に必要な労働時間が二倍になると、価値が二倍になり、20エレのリンネル=1/2の上着 となります。
・これに反して、上着の価値が半分に減少すれば、20エレのリンネル=2着の上着 となります。
・だから、商品Aの価値が不変でも、商品Aの相対的な価値が、商品Bで表現される場合、商品Bの価値変動に逆比例して、それは上下するといえます。
【5】
《 ⅠおよびⅡのもとでのさまざまの場合を比較してみると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかる。実際、20エレのリンネル=1着の上着 は、(1)リンネルの価値が二倍になっても、上着の価値が半分に減少しても、20エレのリンネル=2着の上着 という等式になり、また、(2)リンネルの価値が半分に低下しても、上着の価値が二倍に上昇しても、20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのである。》
・ I とIIの場合におけるさまざまな場合を比較すると、相対的価値の大きさの同じ変動が正反対の原因から生じうることがわかります。例えば「20エレのリンネル=1着の上着」が「20エレのリンネル=1/2着の上着」に変動した場合、その原因は、一つは上着の価値は変わらないのに、リンネルの価値が半分になったからであり、もう一つはリンネルの価値に変化がないのに、上着の価値が二倍に上がったから、という二つの原因が考えられました。つまり一方は価値が下がったから、他方は価値が上がったから、同じ相対的価値の変動が生じたことになるわけです。
・実際、「20エレのリンネル=1着の上着」という等式は、(1)リンネル価値が二倍になっても、あるいは上着の価値が半分になっても、「20エレのリンネル=2着の上着」になる。(2)他方、リンネルの価値が半減しても、上着の価値が二倍になっても、「20エレのリンネル=1/2着の上着」という等式になります。
【6】
《 Ⅲ リンネルおよび上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動することもある。この場合には、これらの商品の価値がどんなに変動しようと、あい変わらず、20エレのリンネル=1着の上着 である。これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値が不変のままであった第三の商品と比較すれば、すぐにわかる。すべての商品の価値が、同時に、同じ比率で、上昇または低下すれば、それらの商品の相対的価値は不変のままであろう。これらの商品の現実の価値変動は、同じ労働時間内に、今や一般的に、以前よりも多量かまたは少量の商品量が供給されるということから見てとれるであろう。》
・リンネルと上着の生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ比率で変動する場合。
・この場合には、二つの商品の価値がどんなに変動しようと、二つの商品で表される相対的価値の大きさには変動はありません。
・これらの価値の変化は、価値が不変な第三の商品と比較することによってわかります。
・すべての商品が、同時に、同じ比率で、上昇または低下するならば、それらの商品の相対的価値は不変のままです。
・これらの商品の価値の変動は、同じ労働時間内に、以前よりもより多くかより少ない商品量が供給されることから見ることができるということです。
【7】
《 Ⅳ リンネルおよび上着の生産にそれぞれ必要な労働時間、したがってこれらの商品の価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動するか、あるいは反対の方向に変動するなどなどのことがありえる。この種のありとあらゆる組あわせが一商品の相対的価値に与える影響は、Ⅰ、Ⅱ、およびⅢの場合を応用すれば、簡単にわかる。》
・IV リンネルおよび上着の生産に必要な労働時間が、よってそれらの価値が、同時に同じ方向に、しかし等しくない程度で変動したり、あるいは反対の方向に変動するなどのことはありえます。
・この種のありとあらゆる組み合わせが一つの商品の相対的価値に与える影響は、 I 、II、IIIのケースを応用すれば、簡単にわかるということです。
【8】
《 こうして、価値の大きさの現実の変動は、価値の大きさの相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にもあますところなしにも反映されはしない。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも、変動しうる。一商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありえる。そして、最後に、一商品の価値の大きさとこの価値の大きさの相対的表現とが同時に変動しても、この変動が一致する必要は少しもない(20)。》
・こうして、実際の価値の変動は、その相対的表現、あるいは相対的価値の大きさには、明確に、忠実に反映されることはありません。
・一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変でも変動するし、
・一商品の相対的価値は、その商品が変動しても、不変のままでありえます。
・だから最後に、一商品の価値の大きさとその相対的表現とが同時に変動しても、その変動が一致する必要はまったくないわけです。
【注20】
《(20) 第2版への注。価値の大きさとその相対的表現とのこうした不一致は、俗流経済学によっていつもながらの鋭敏さで利用されてきた。たとえば、次のとおり。「Aと交換されるBが騰貴するために--そのあいだにAに支出される労働は減少していないのに--Aが低落するということをひとたび認めれば、諸君の一般的価値原理は崩壊する。・・・・もしも、Aの価値がBに対して相対的に上昇するので、Bの価値がAに対して相対的に低下するということが承認されるならば、リカードが、一商品の価値はそれに体現された労働の量によってつねに規定されるという、彼の大命題の基礎にすえた根拠が崩れさる。なぜなら、もしもAの費用におけるある変動が、Aと交換されるBとの関係におけるAそれ自身の価値を変化させるだけでなく、Bの生産に必要とされる労働量には何の変動も生じなかったのにBの価値をもAの価値に対して相対的に変化させるならば、その場合には、一つの物品に支出される労働量がその価値を規制するということを断言する学説が崩壊するだけでなく、一つの物品の生産費がその価値を規制するという学説も崩壊するからである」(J・ブロードハースト『経済学』、ロンドン、一八四二年、一一、一四ページ)。
・ ブロードハースト氏は、同じように、次のように言うこともできよう。どうか一つ、10/20、10/50、10/100等々という比をよく見たまえ。10という数は不変のままなのに、その比率上の大きさ、すなわち、20、50、100という分母に対するその相対的な大きさは、たえず減少している。だから、一つの整数、たとえば、10の大きさは、それに含まれる1という単位の数によって「規制」されているという大原理は崩壊する、と。》
ここでは、商品の価値の相対的な表現が、その価値の変化を必ずしも忠実に表さないということから、だから商品の価値がそれに体現された労働の量によって規定されるというリカードの価値論の崩壊を主張するブロードバーストの誤りが、分数を例に使って、実に分かりやすく説明されています。
(字数の関係で、関連資料は「その2」になります。)