『資本論』学習資料No.42(通算第92回)(1)
◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(7)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №11)
第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第7回目です。〈序章B〉の最後の大項目である〈C 『資本論』における利子と信用〉の〈(2)貨幣取扱資本と利子生み資本〉はすでに〈B 『1861-1863年草稿』における利子と信用〉でも扱われていましたので飛ばして、次の〈(3)信用制度考察の必要とその可能性〉を見て行くことにします。
ここでは有価証券はまったく資本ではないという注目すべきマルクスの主張が紹介されています。章末注から重引しておきましょう。
〈〔81〕「まず,現存資本にたいする,あるいは将来の収益にたいする所有権原(国債,等々のような)の集積にすぎないいわゆる貨幣資本について言えば--いわゆる貨幣市場および貨幣資本の最大の部分をなすのはまさにこれらの有価証券である--,それは実際には,リカードウが国家の債権者の貨幣資本について正しく言っているように,まったく資本ではないのである。この「観念的資本」の形態についてのさらに詳しいことは,利子生み資本のところで(第3部第4章)述べるべきである。……貨幣資本の蓄積が,収入のうち資本にやがて再転化されるはずの部分がひとまず蓄蔵貨幣として遊休する,等々のことを意味するかぎりでは,このことも,同じく利子生み資本についての第4章で詳しく考察すべきである」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/41,S.360;前出邦訳『資本の流通過程』,274-275ページ。)〉(140頁)
ここではマルクスは、有価証券について、いわゆる貨幣資本といい、それは現存資本に対する所有権限(株式)、あるいは将来の収益にたいする所有権限(国債)の集積にすぎないと述べています。そしてそれらはまったく資本ではないのだ、と。あるいは「観念的資本」とも述べています。これらは後に架空資本と述べるものを指していることは明らかでしょう。
これも章末注で紹介されている第2部第1稿の一文ですが、少なくとも第3部第1稿ではこうした観点は見られません。その意味では興味深い指摘なので抜粋して紹介しておきます。
〈〔82〕「いま,固定資本についてもっと詳しく展開されるべきことは…… 次のことである。……/(3)この2種類の資本〔固定資本と流動資本〕のそれぞれは,どの程度まで,より完全な意味での資本なのか。固定資本がこの生産様式とともに発展すること,資本主義的生産様式に特徴的なこととして〔展開すること〕。信用システム等々の土台としての固定資本,--信用システムがそれ自体〔perse〕つねに将来の労働にたいする指図であるというかぎりで。この両種類の資本の神秘化。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4,1,S,267;前出邦訳『資本の流通過程』,157ページ。)〉(140-141頁)
ここでは信用システム等々の土台としての固定資本という表現とともに、信用システムはつねに将来の労働にたいする指図だとの指摘があります。次の一文も同じ問題を論じている章末注ですので、長いですが抜粋しておきます。
〈〔83〕「国民的富のうちの固定資本から成る部分は--そして,この固定資本がますます固定資本として形象化されてくるにつれて,すなわち,流動資本とのそれの特徴的な区別をますます形象化し明確にしていくにつれて--,それの価値の補填がいよいよ徐々になり,それの価値を再生産する期間は,流動資本の再生産期間の尺度である1年をはるかに越えるようになる。それゆえ,流動資本--すなわちそれの価値実現〔Verwerthung〕--が,より多く,現在の労働--われわれが現在の〔contemporaneous〕労働と呼ぶのはその年のうちになされるすべての労働のことだが--にもとづいているのにたいして,固定資本の価値実現〔Verwerthung〕は,それが,たとえば本来の機械のように,直接に狭義の労働手段として直接的生産過程において機能するのであろうと,建築物,鉄道,運河,等々のように,直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能するのであろうと,はるかに高い度合いで,将来の労働にもとづいている。自己の価値を再生産する{そしてその上さらに,あとで明らかになるであろうように,自己の所有者に,他の諸資本が生産した剰余価値からの分け前を保証するはずの}資本としては,固定資本は将来の労働(そしてこの第2の場合には剰余労働)にたいする指図証である。だからこそ,固定資本が発展するにつれて有価証券が増えるのである。この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。」(『資本論』第2部第1稿。MEGAII/4.1,S.287-288;前出邦訳『資本の流通過程』,181-182ページ。)〉(141-142頁)
ここには興味深い指摘がいろいろとあります。
(1)まずここでは流動資本の再生産期間の尺度を1年としていることです。これは現行版における再生産表式における循環期間を全体として1年とマルクスが考えていたこと(それを明示的に示している文言は見当たらないのですが)を明確に示しているように思います。
(2)「現在の労働」とマルクスがいう場合は〈その年のうちになされるすべての労働のこと〉を意味すると述もべています。これもマルクスが「生きた労働」という場合も同じでしょう。
(3)流動資本の価値実現がより多く現在の労働にもとづいているのに対して、固定資本の価値実現ははるかに高い度合いで、将来の労働にもとづいている、と指摘されています。ここで流動資本の価値実現というのは商品の価値のうち流動資本部分の価値の実現のことでしょうが、これは価値補填と考えるべきではないでしょうか。つまり流動資本部分の価値補填は、より多くその年の労働によって生産された価値によって補填されるということでしょう。それに対して固定資本の場合は、その補填は何年間にもわたって貨幣が蓄積されてようやく補填されるのですからそれらは将来の労働(つまり将来生産される労働手段等に支出される労働)によって補填されるとしているのではないでしょうか。このあたりはもう少し考えてみる必要がありそうです。
(4)固定資本のうち建築物、鉄道、運河、等々を〈直接的生産過程から独立した生産過程の一般的諸条件として機能する〉ものとしていることも興味深いです。
(5)自己の価値を再生産する資本としては固定資本は将来の労働に対する指図証書である、という注目すべき指摘があります。
(6)そしてだから固定資本が発展すると有価証券が増えるのだとも述べています。こうした固定資本との関連についての指摘は第5章(篇)ではまったくありません。
(7)そして次のようにのべています。〈この有価証券は,固定資本の価値にたいする,それゆえこの価値の将来の再生産にたいする所有権原を表わすだけでなく,同時に,それの将来の価値増殖〔Verwerthung〕にたいする権原,すなわち総資本家階級によってゆすり取られるはずの剰余価値からの分け前(利子,等々)にたいする権原をも表わしている。〉
ここらあたりは株式を想定してマルクスが述べているように思えます。もちろん、株式で集中された貨幣資本は、単に固定資本(生産手段のうち機械や建屋など)だけに投資されるわけではありません。しかしマルクスは固定資本の巨大化がそれに投資する貨幣資本の増大をもたらし、株式による貨幣資本の集中の必要を生み出すと考えているのでしょう。だから株式として集められた貨幣資本は固定資本に投資されると考えているわけです。だから固定資本が発展すると有価証券も増えるのだとしているわけです。そしてここではそうした有価証券(株式)は固定資本の価値に対する所有権限を表しており、よってその価値の将来の再生産に対する所有権限をも表すのであり、さらにはそれによる将来の価値増殖に対する権限、つまり剰余価値からの分け前を受け取る権限を表しているとしているのでしょう。
(8)そしてそれが信用制度の土台をなすのだと次のように述べています。〈つまり,この点に信用制度の発展が,同時にしかし,貨幣資本のうち,将来の労働および剰余労働とにたいする所有権原の蓄積のほかには何ものも表わしていない部分の発展が,一つの新しい物質的基礎をもつのである。〉
ここでマルクスが信用制度を固定資本との関連で論じているのは、だから株式を主に想定していると考えるべきでしょう。固定資本の増大が信用制度の発展の土台になるというのは、固定資本が大きくなれば、貨幣資本の集中がそれだけ必要になり、それは一方では利子生み資本の借り受けの増大として現れ、他方では株式の発行による貨幣資本の集中として現れるでしょう。いずれも信用制度の発展抜きには発展できないものです。だから固定資本の増大は信用制度の発展の物質的基礎なのだというわけです。そしてそうであれば、信用制度の発展というのは、集中されたり貸し付けられた貨幣資本というものがそうであるように、将来の労働あるいは剰余労働に対する所有権限の蓄積の他には何も意味しない部分の発展であるとしているのです。
(9)〈貨幣資本のうちのこの部分の蓄積は,先取りされた将来の富にたいする権原から成っており,だからまた,それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない,言い換えれば,それがそうした要素であるのは,現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしているというかぎりででしかない。〉
ここで〈貨幣資本のうちのこの部分〉というのは有価証券と考えるべきでしょう。そしてそれの蓄積は〈先取りされた将来の富にたいする権原から成って〉いるというのです。だからこそ〈それ自身はけっして現実に存在する国民的富の要素ではない〉のです。それらは〈現存する固定資本の現存する価値(価値増殖〔Verwerthung〕ではなくて)にたいする所有権原を表わしている〉のです。これは株式などを意味すると考えるべきでしょう。
(10)〈しかし,この権原はつねに,この価値が生産される前から存在しており,直接には,その価値を生産するために支出される,すなわち前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない。〉
これも株式を想定して考えるとよく分かります。株式で集められた貨幣資本は、これからそれによって価値を、すなわち剰余価値を生産するためのものです。つまり〈前貸される資本の価値以外の何ものをも代表しない〉のです。
(11)〈この場合でも,この価値を,たとえば,鉄道の価値と株主の書類鞄の中にある鉄道株の価値というように,二重に計算してはならない。この点は,国債の場合もまったく同様である。国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない。〉
株式で集められた貨幣資本は現実の鉄道に投資され固定資本を形成します。他方、株式はそれだけで架空な貨幣資本として株主の書類鞄のなかにありますが、しかしこれは価値が二重にあるのではなく、価値としては鉄道に投資されたものしか現実には存在しないということです。そしてそれは国債についても同じです。国債の場合は国家によって巻き上げられた貨幣は、国家によって消尽されてしまいます。しかし国債はそれ自体として価値をもっているかに運動していますが、しかし現実にはその価値は消尽してすでに存在しないのなのです。だから国債はただ将来の税金からの支払を受ける権限を表すにすぎないのです。つまり〈国債は,それがその所持者に分け前を保証している,年々の生産物の価値以外のいかなる価値でもない〉のです。
(12)〈しかし,こうした外観がますます生みだされるのは,国債の時価--それの評価の変動--が,それの権原の対象である価値とは直接にはかかわりのない諸事情によって決定されるからである。〉
これは架空資本の運動を意味していますが、ここではその運動そのものは深くは論じられていません。これは現行版の第29章(草稿では「II)」と番号が打たれた項目)のなかで取り扱われています。
(13)〈しかし,資本主義社会〔thecapitalist society〕の最有力筋の連中は,蓄積のこうした形態に生産や蓄積の現実の運動を従わせるように努めるのである。〉
ここではこうした有価証券、とくに株式の蓄積に生産や現実の運動を従わせようとすると指摘されています。彼らは株式の値上がりを目当てに現実の運動を考えたりするわけです。これは株式会社が一般化した現代の資本の運動を言い当てたものといえるのではないでしょうか。
以上、ここで論じられていることは少なくとも現行の第5篇ではあまりマルクスよって論じられていないことであり、だからまたその妥当性はどこまであるのかもハッキリとは分かりませんが、注目すべきでことであるのは確かです。
とりあえず、今回の大谷本の紹介はこれぐらいにしておきます。それでは『資本論』の解説に取りかかりましょう。今回は「第4篇 相対的剰余価値の生産」の「第10章 相対的剰余価値の概念」です。まずはそれぞれの位置づけから見て行くことにします。
第4篇 相対的剰余価値の生産
第10章 相対的剰余価値の概念
◎「第4篇 相対的剰余価値の生産」の位置づけ
以前、「第2編 貨幣の資本への転化」から「第3編 絶対的剰余価値の生産」への移行を論じたときに、「第1部 資本の生産過程」がどうして「第3篇 絶対的剰余価値の生産」になるのかを問い、それは資本の生産過程というのは剰余価値の生産過程だからであり、剰余価値の生産は、「第3篇 絶対的剰余価値の生産」と「第4篇 相対的剰余価値の生産」とに分けられることを指摘しました。マルクスはこの二つの形態を切り離して論じる意義について、次のように述べています。
〈この2つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)
そして絶対的剰余価値の生産は、それまでの生産様式をそのまま資本関係のなかに取り込んで行う(形式的包摂)生産ですが、相対的剰余価値の生産は生産様式そのものを資本制的生産に相応しいものに変革する(実質的包摂)過程であり、その意味では「資本の生産過程」の基本的な内容を明らかにするものといえるわけです。
マルクスはこの二つの形態について次のように述べています。
〈いずれにせよ、剰余価値のこの2つの形態--絶対的剰余価値の形態および相対的剰余価値の形態--がそれぞれ独立に別々の存在として考察される場合には、この両者には--そして絶対的剰余価値はつねに相対的剰余価値に先行するのであるが--、資本のもとへの労働の包摂の2つの別々の形態が、あるいは資本主義的生産の2つの別々の形態が対応しているのであって、このうちの第一の形態がつねに第2の形態の先行者となっている。といっても、他方また、より発展した形態である第2の形態が、第一の形態を新たな生産諸部門で導入するための基礎となることがありうるのではあるが。〉(草稿集⑨369頁)
◎「第10章 相対的剰余価値の概念」
第10章は「第4篇 相対的剰余価値の生産」の端緒をなすものとして相対的剰余価値とはそもそも何かを解明するものです。絶対的剰余価値は労働力の価値を所与として(不変数として)、剰余価値の増大をはかるために労働日を絶対的に長くすることが問題となり、労働日の限度をめぐる労働者階級と資本家階級との闘いが取り上げられました。そしてその結果、歴史的に労働日は標準労働日として法的に10時間とか8時間などと決められ たのでした。
それを踏まえて今度は労働日そのものは所与(不変数)として、剰余労働の増大を図る方法として、必要労働時間を短縮して(労働力の価値を可変数にして)、その分、剰余労働時間(剰余価値)の延長(増大)を図ろうとするものです。これが労働日が確定したあとの残された資本の方法としてあるわけです。しかし必要労働時間を短縮するために、労働力の価値そのものを縮小する必要がありますが、そのためには生産様式そのものの革命が必要なわけです。そうした資本主義的生産への労働の実質的包摂の過程こそが、相対的剰余価値の生産過程であり、相対的剰余価値の概念でもあるわけです。マルクスは次のように述べています。
〈つまり相対的剰余価値は、絶対的剰余価値から次の点で区別される。--いずれの場合にも、剰余価値は剰余労働に等しい、すなわち剰余価値の割合は、必要労働時間にたいする剰余労働時間の割合に等しい。第一の〔絶対的剰余価値の〕場合には、労働日がその限界を越えて延長され、そして、労働日がその限界を越えて延長されるのに比例して剰余価値が増大する(すなわち剰余労働時間が増大する)。第二の〔相対的剰余価値の〕場合には、労働日は一定である。この場合には、労働日のうち労貨の再生産に必要であった部分、すなわち必要労働であった部分が短縮されることによって、剰余価値、すなわち剰余労働時間が増加されるのである。第一の場合には、労働の生産性のある一定の段階が前提されている。第二の場合には、労働の生産力が高められる。第一の場合には、総生産物の一可除部分の価値、あるいは労働日の部分生産物は不変のままである。第二の場合には、この部分生産物の価値が変化する。しかしこの部分生産物の量(数)は、それの価値の減少と同じ割合で増大する。〉(草稿集④388頁)
この第10章は相対的剰余価値の概念とともにそれに関連して出てくる「特別剰余価値」の概念も含めて、なかなか理解の困難なところでもあります。これまでにも多くの論者によってさまざまに議論されてきたところです。そうしたものをすべて踏まえることはできませんが、主なものを意識して論じて行くことにしたいと思います。それでは第1パラグラフから始めましょう。
◎第1パラグラフ(以前は必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。今度は、1労働日は不変で、必要労働時間が可変になる)
【1】〈(イ)労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわれわれにとって不変量とみなされてきたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのである。(ロ)労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができた。(ハ)この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとが定まった。(ニ)必要労働時間は不変だったが、反対に1労働日全体は可変だった。(ホ)今度は、一つの労働日の大きさが与えられており、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しよう。(ヘ)線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、部分abは10時間の必要労働を、部分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしよう。(ト)そこで、どうすれば、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるだろうか? 言い換えれば、剰余労働を延長することができるだろうか?〉(全集第23a巻411頁)
(イ)(ロ)(ハ)(ニ) 労働日のうち、資本によって支払われる労働力の価値の等価を生産するだけの部分は、これまでわたしたちにとっては不変量とみなされてきましたが、それは実際にも、与えられた生産条件のもとでは、そのときの社会の経済的発展段階では、不変量なのです。労働者は、このような彼の必要労働時間を越えて、さらに2時間、3時間、4時間、6時間、等々というように何時間か労働することができました。この延長の大きさによって、剰余価値率と労働日の大きさとがきまったのでした。必要労働時間は不変だったのですが、反対に1労働日全体は可変だったのです。
これまでの「第3篇 絶対的剰余価値の生産」では、労働力の価値は与えられたものとして前提されていました。実際、ある社会の経済的な発展段階を想定した場合、労働力の価値は一定の不変量として想定することができたのです。
「第8章 労働日」の「第1節 労働日の限界」では次のように言われていました。
〈われわれは、線分 a----b が必要労働時間の持続または長さ、すなわち6時間を表わすものと仮定しよう。労働が a b を越えて1時間、3時問、6時間などというように延長されれば、それにしたがって次のような三つの違った線分が得られる。
労働日 Ⅰ a----b--c
労働日 Ⅱ a----b---c
労働日 Ⅲ a----b----c
この三つの線分は、それぞれ7時間、9時間、12時間から成る三つの違った労働日を表わしている。延長線 b c は剰余労働の長さを表わしている。1労働日は ab+bc または ac だから、1労働日は可変量 bc とともに変化する。〉
だから絶対的剰余価値の生産というのは、労働力の価値の再生産の必要な労働部分(ab)、すなわち必要労働時間が不変なままに、剰余労働時間(bc)の増大をはかるために、労働日(ac)そのものを延長しようというのが資本の飽くなき欲求として現れたものです。だから資本による途方もない労働日の延長欲求から労働者たちは自らの生活を守るために闘い労働力の価値に見合った、つまり平常な労働力の再生産を保証する労働時間を要求して、標準労働日を法的に決めることを求めたのでした。
だからこれまでの絶対的剰余価値の生産では、必要労働時間は不変だったのですが、労働日そのものは可変だったのです。
(ホ)(ヘ)(ト) 今度は、一つの労働日の大きさが与えられていて、その必要労働と剰余労働とへの分割が与えられているものと仮定しましょう。今、線分ac、すなわちa----------b--c は一つの12時間労働日を表わしており、線分abは10時間の必要労働を、線分bcは2時間の剰余労働を表わしているとしましょう。そこで、どうすると、acをこれ以上延長することなしに、またはacのこれ以上の延長にはかかわりなしに、剰余価値の生産をふやすことができるでしょうか? 言い換えますと、剰余労働を延長することができるでしょうか?
しかし労働日そのものが法的に制限されてしまったわたけですから、今度は労働日は不変で、その代わりに必要労働時間が可変のケースが問題になるわけです。
よって、一つの労働日が与えられていて、それが必要労働と剰余労働に分割される割合が変化するものと仮定します。今、1労働日12時間を線分 a----------b--c で表した場合、 ab が10時間で必要労働時間を表し、bc が剰余労働時間を表しているとします。ここでac のこれ以上の延長なしに如何にして bc すなわち剰余時間を延長しうるかが問われているわけです。
◎第2パラグラフ(剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応する)
【2】〈(イ)労働日acの限界は与えられているにもかかわらず、bcは、その終点c、すなわち同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されることによらなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見える。(ロ)かりに、a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしよう。(ハ)いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされれば、この労働日は相変わらず12時間でしかないのに、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になる。(ニ)しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能である。(ホ)剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応することになる。(ヘ)すなわち、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになる。(ト)変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割であろう。〉(全集第23a巻412頁)
(イ) 労働日acの限界は与えられているのに、bcは、その終点c、つまり同時に労働日acの終点でもあるcを越えて延長されなくても、その始点bが反対にaのほうにずらされることによって、延長されうるように見えます。
acは変わらないまま、bcを延長するためには、b点をaの方にずらせば、その分bcは大きくなるように思えます。
(ロ)(ハ) いまかりに、線分a---------b'-b--c のなかのb'-bはbc の半分すなわち1労働時間に等しいとしましょう。いま12時間労働日acのなかで点bがb'にずらされますと、この労働日は相変わらず12時間ですが、bcは延長されてb'cになり、剰余労働は半分だけふえて2時間から3時間になります。
いま仮にb点をaの方にずらした点をb'とし、b-b'はb--cの半分の1時間とします。そうしますと、acの12時間は変わりませんが、剰余労働はb--cの2時間からb'---cの3時間になります。
(ニ)(ホ) しかし、このように剰余労働bcからb'cに、2時間から3時間に延長されるということは、明らかに、同時に必要労働がabからab'に、10時間から9時間に短縮されなければ不可能です。この場合、剰余労働の延長には、必要労働の短縮が対応しているのです。
しかしこのように剰余労働がbcからb'cに、つまり2時間から3時間に延長されるためには、必要労働であるabがab'に、つまり10時間から9時間に短縮されなければなりません。つまりこの場合、剰余労働の延長には必要労働の短縮が対応しているのです。
(ヘ)(ト) つまり、これまでは労働者が事実上自分自身のために費やしてきた労働時間の一部分が資本家のための労働時間に転化することになるのです。変わるのは、労働日の長さではなく、必要労働と剰余労働とへの労働日の分割なのです。
必要労働の短縮ということは、労働者がこれまで自分自身の生活の再生産のために費やしてきた労働時間を少なくして、その分を資本家のための無償労働(不払労働)に転化するということです。労働日は不変のままに、それが必要労働と剰余労働とに分割される割合が変わるというわけです。
◎第3パラグラフ(剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、労働力の価値そのものが現実に減少する必要がある)
【3】〈(イ)他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていれば、明らかにそれ自体与えられている。(ロ)労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定する。(ハ)1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングならば、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補塡するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければならない。(ニ)この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられており(1)、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられている。(ホ)そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られる。(ヘ)12時間から10時間を引けば2時間が残り、そして、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるかは、まだわからない。(ト)もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、または/もっと少なくしか支払わないかもしれない。(チ)この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるであろうし、したがって、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。(リ)とはいえ、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎないであろう。(ヌ)彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになる。(ル)この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけであり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけであろう。(ヲ)このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるとはいえ、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されている。(ワ)このことが前提されるかぎり、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間は、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるものではなく、ただこの価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのである。(カ)労働日の長さが与えられていれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるよりほかはなく、逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのである。(ヨ)われわれの例で言えば、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、したがってまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかはないのである。〉(全集第23a巻412-413頁)
(イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)(ヘ) 他方、剰余労働の大きさは、労働日の大きさと労働力の価値とが与えられていますと、明らかにそれ自体与えられています。労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の価値の再生産に必要な労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスという金量で表わされ、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は、資本によって自分に支払われた自分の労働力の日価値を補填するためには、または自分に必要な1日の生活手段の価値の等価を生産するためには、1日に10時間労働しなければなりません。この生活手段の価値とともに彼の労働力の価値は与えられているのです。つまり、彼の労働力の価値とともに彼の必要労働時間の大きさは与えられているのです。そして、剰余労働の大きさは、1労働日全体から必要労働時間を引くことによって得られます。12時間から10時間を引けぽ2時間が残ります。しかし、どうすれば与えられた条件のもとで剰余労働を2時間よりも長く延長することができるのかは、まだわかりません。
最初に、フランス語版はやや簡潔に書かれていますので、紹介しておきましょう。
〈他方、労働日の限界と労働力の日価値とが与えられると、剰余労働の持続時間が定められる。労働力の日価値が5シリング--10労働時間が体現された金の額--に達するとすれば、労働者は、資本家から日々支払われる労働力の価値を補填するために、あるいは、彼の日々の生計に必要な生活手段の等価を生産するために、1日に10時間労働しなければならない。この生活手段の価値が彼の労働力の日価値を決定し、後者の価値が彼の必要労働の日々の持続時間を決定する。全労働日から必要労働時間を差し引いて、剰余労働の大きさが得られる。12時間から10時間を差し引けば2時間が残るが、与えられた条件のもとで剰余労働がどのようにして2時間を越えて延長することができるかは、わかりにくい。〉(江夏・上杉訳324頁)
1労働日は必要労働時間と剰余労働時間とに分かれるのですから、剰余価値の大きさは、労働日が与えられていますと、労働力の価値が決まれば、決まってきます。つまり労働力の価値、すなわち労働力の生産に必要な労働時間は、労働力の再生産に必要な労働時間、つまり必要労働時間を規定します。1労働時間が半シリングすなわち6ペンスの金量で表されるとしますと、労働力の日価値が5シリングでしたら、労働者は資本家が自分を雇用するために支払った労働力の日価値を補塡するためには10時間労働しなければなりません(5÷0.5=10)。以前にも引用しましたが〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である〉(第2篇第4章第3節)ということでした。
つまり労働者がその生活を維持するため必要な生活手段の価値によって労働力の価値は決まってくるのであり、労働力の価値が決まってくれば、彼の必要労働時間の長さは決まってくるわけです。そして与えられた労働日からそれを引けば、剰余労働の大きさが決まってきます。今、1労働日の12時間から10時間を引けば、すなわち2時間が剰余労働時間になるわけです。しかしここからこの剰余労働の2時間を如何にして大きくするかは、まだ分かっていません。
(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはもっと少なくしか支払わないかもしれません。この4シリング6ペンスという価値の再生産には9労働時間で足りるでしょう。だから、12時間労働日のうちから2時間ではなく3時間が剰余労働になり、剰余価値そのものも1シリングから1シリング6ペンスに上がることになります。しかしこの結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値よりも低く押し下げることによって得られたにすぎません。彼が9時間で生産する4シリング6ペンスでは、彼はこれまでよりも10分の1だけ少ない生活手段を処分できることになり、したがって彼の労働力の萎縮した再生産しか行なわれないことになります。この場合には、剰余労働は、ただその正常な限界を踏み越えることによって延長されるだけです。つまり、その領分がただ必要労働時間の領分の横領的侵害によって拡張されるだけです。このような方法は、労賃の現実の運動では重要な役割を演ずるかも知れませんが、ここでは、諸商品は、したがってまた労働力も、その価値どおりに売買されるという前提によって、排除されているのです。
この部分もまずフランス語版を紹介して置きしましょう。フランス語版では途中改行されています。
〈もちろん、資本家は労働者に5シリングではなく4シリング6ペンスしか、またはさらにもっと少なくしか、支払わないかもしれない。この4シリング6ペンスの価値を再生産するには9労働時間で充分であって、剰余労働はこのばあい1/6労働日から1/4労働日に、剰余価値は1シリングから1シリング6ペンスに上がるであろう。しかし、この結果は、労働者の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってのみ、得られるであろう。労働者は、彼が9時間で生産する4シリング6ペンスをもってしては、従前よりも1/10だけ少ない生活手段を手に入れるのであり、したがって、自分自身の労働力を不完全にしか再生産しないであろう。剰余労働は、その正常な限界bcからの逸脱に/よって、必要労働時間からの盗みによって、延長されるであろう。
さて、この慣行は、賃金の現実の運動で最も重要な役割の一つを演ずるのであるが、すべての商品が、したがって労働力もまた、その価値どおりに売買される、と仮定するここでは、この慣行は除外されている。〉(江夏・上杉訳324-325頁)
もちろん、資本家は労働者にその日価値である5シリングを支払う代わりに、4シリング半しか支払わないか、あるいはもっと少なくしか支払わないことはありえます。5シリングを補塡するためには、労働者は10時間を必要労働時間として支出しましたが、今度は4シリング半を補塡するためには、9時間で十分になります。そうすると確かに剰余労働は以前の2時間から3時間に拡大することになるわけです。
しかしその結果は、労働者は自身の労働力を不完全にしか再生産できないことになります。つまりこの場合の剰余労働の拡大は、資本家が労働力の再生産費の正常な限界を破って、必要労働時間を盗み取って拡大されたものにすぎないわけです。
こうした労働力の価値以下への労賃の引き下げという問題は、労賃の現実の運動を取り扱うときには大きな問題の一つになるのですが、しかしすべての商品が、だから労働力商品も含めて、その価値どおりに売買されるという想定のもとでは、こうしたことは初めから除外されているのです。
(ワ)(カ)(ヨ) だから価値どおりの販売が前提されるかぎりでは、労働力の生産またはその価値の再生産に必要な労働時間も、労働者の賃金が彼の労働力の価値よりも低く下がるという理由によって減少しうるとは考えられません。だから、問題は、労働力の価値そのものが下がる場合にのみ減少しうるのです。労働日の長さが与えられていますと、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生ずるしかありません。逆に必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生ずるわけにはゆかないのです。わたしたちの例で言いますと、必要労働時間が10分の1だけ減って10時間から9時間になるためには、だからまた剰余労働が2時間から3時間に延長されるためには、労働力の価値が現実に10分の1だけ下がるよりほかにはないのです。
この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。
〈このことがいったん認められれば、労働者の維持に必要な労働時間を短縮できるのは、彼の賃金を彼の労働力の価値以下に引き下げることによってではなく、たんにこの価値そのものを引き下げることによるしかない。労働日の限界が与えられれば、剰余労働の延長は必要労働時間の短縮から生じるのが当然であって、必要労働時間の短縮が剰余労働の延長から生じるのではない。われわれの例では、必要労働が1/10減少して10時間から9時間に減り、このため剰余労働が2時間から3時間にふえるためには、労働力の価値が現実に1/10下がらなければならない。〉(江夏・上杉訳325頁)
だから価値どおりの販売を前提しているのでしたら、労働力の生産に必要な労働時間、すなわちその価値の再生産に必要な労働時間を下げるためには、その価値そのものが下がる必要があるのです。剰余労働を拡大するために、必要労働を短縮するのではなくて(つまり賃金をその価値以下に引き下げることではなく)、必要労働そのものが短縮されたがために、剰余労働が拡大されるというにする必要があるのです。私たちの例では、必要労働が10時間から9時間に減ったから、剰余労働が2時間から3時間に増えたというようにです。しかしそのためにはいうまでもなく、労働力の価値そのものが現実に10分の1だけ減少しなければなりません。
((2)に続く。)