『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第18回「『資本論』を読む会」の案内

2009-10-28 11:45:54 | 『資本論』

『 資  本  論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 


                                    

 10月26日、新政権の下で最初の臨時国会が開かれ、鳩山由紀夫首相が初めて所信表明演説を行ないました。

 「友愛政治の実現」をスローガンに、「無血の平成維新」を断行するという内容です。

 「いのちを守り、国民生活を第一とした政治」とか「居場所と出番のある社会」、「支え合って生きていく日本」、「人間のための経済」等々、耳障りのよい言葉が羅列されています。こうした多くの美辞麗句の裏に何が隠されているのでしょうか。それを私たちは見抜かなければなりません。

 それは他ならぬ、鳩山首相の政治理念である「友愛」のスローガンそのものが明らかにしています。

 首相は8月末「Voice」に発表した≪特別寄稿≫「私の政治哲学~祖父に学んだ『友愛』の旗印」のなかで、「友愛」について、次のように説明しています。

 「現代の日本人に好まれている言葉の一つが『愛』だが、これは普通〈love〉のことだ。そのため、私が『友愛』を語るのを聞いてなんとなく柔弱な印象を受ける人が多いようだ。しかし私の言う『友愛』はこれとは異なる概念である。それはフランス革命のスローガン『自由・平等・博愛』の『博愛=フラタナティ(fraternité)』のことを指す。」

 しかしフランス革命の「自由・平等・博愛」がもたらした現実は何だったのかが問題なのです。

 マルクスは、すでに同じスローガンを掲げた1848年の「フランス共和国憲法」について、《初めから終わりまで、もっとも不誠実な企図を背後に隠した、美しい言葉の寄せ集めにすぎない》(全集第7巻511頁)と断じています。このマルクスの言葉は鳩山首相の所信表明演説にはより一層当てはまります。

 というのはこのスローガンは封建社会からの解放を唱えるブルジョア革命においてのみ、正当であり、現実的であり、偉大な意義を持ったのであって、すでに1848年の資本主義が一人立ちした段階においては、もはや一つの欺瞞でしかなく、ましてや爛熟し頽廃した今日の資本主義社会においては単に時代錯誤であるばかりではなく、醜い詭弁でしかないからです。

 このスローガンの実際の内容を、マルクスは『資本論』で次のように述べています。

 《労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の部面は、実際、天賦人権の真の楽園であった。ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。自由! というのは、一商品たとえば労働力の買い手と売り手は、彼らの自由意志によって規定されているだけだからである。……平等! というのは、彼らは商品所有者としてのみたがいに関係しあい、等価物と等価物を交換するからである。所有! というのは、だれもみな、自分の物を自由に処分するだけだからである。ベンサム!(「功利主義」の意味--引用者)  というのは、両当事者のどちらにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。》(全集23a230-1頁)

 つまり「博愛(友愛)」は、「所有」「ベンサム」というこのブルジョア社会の現実を覆い隠す“イチジクの葉”にすぎないのです。今回の演説でも、鳩山首相は、障害者など社会の弱者をすべての人々が「支え合う」「きずな」の大切さや、そうした社会の実現を訴えましたが、しかし彼が持つ何十億という個人資産をそうした「支え合い」のために、例えその一部でも差し出したという話は聞いたことがありません。現実には、彼は、崇高な理念の陰で、何十億という個人資産の「所有」にしがみつき、明日の生活にも困って「毎年3万人以上のかたがたがのいのちが、絶望のなかで絶たれているのに」、彼は妻とたった二人だけで広大な敷地を持つ邸宅と別荘を複数持ち、有り余る豊かな生活を享受しながら、そうした人たちにどんな手もさしのべようともしない立派な「功利主義」者として振る舞っているのです!

 貴方も、美辞麗句の裏に隠された鳩山政権の正体を見抜くために、『資本論』を一緒に読んでみませんか。

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第18回「『資本論』を読む会」・案内


   ■日 時  11月15日(日) 午後2時~

  ■会 場  堺市立南図書館
           (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)                  

  ■主 催  『資本論』を読む会


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第17回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2009-10-22 17:53:49 | 『資本論』

第17回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎秋祭り

 泉州地域の秋祭りの季節はほとんど過ぎていましたが、第17回「『資本論』を読む会」を開催した10月18日は、あいにく「堺まつり」と重なってしまいました。
 おかげで、祭りのパレードに参加する団体を世話するピースさんは、どうしても都合がつかず、結局、「読む会」はお休みになり、寂しい開催となりました。

 今回は「a 相対的価値形態の内実」の第6~8パラグラフの学習を行ないました。ここらあたりはなかなか難しいところでもあり、じっくり時間をかけて議論しました。さっそくその報告をしましょう。

◎《課題にすでに解決されている》とは?(第6パラグラフ)

 まず第6パラグラフ全体を紹介しておきます。今回も分節ごとに検討するために、イ)、ロ)、ハ)……と記号を付します。また関連資料は付録として後回しにします。

 イ)もっとも、リンネルの価値を構成している労働の特有な性格を表現するだけでは十分ではない。ロ)流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するけれども、価値ではない。ハ)それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる。ニ)リンネル価値を人間労働の凝固体として表現するためには、リンネル価値は、リンネルそのものとは物的に異なっていると同時に、リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」として表現されなければならない。ホ)課題はすでに解決されている。》

 まずイ)の一文は、直接、第5パラグラフを受けたものです。だからこの一文を読むと、第5パラグラフの課題が《リンネルの価値を構成している労働の特有な性格》がどのように表現されるのかを明らかにすることであったことが分かります。しかしそれが表現されるだけでは《十分ではない》というのです。何に対して十分ではないというのでしょうか。いうまでもなく、「リンネルの価値を表現する」という点ではまだ十分ではないということです。

 そしてロ)では、その不十分な理由が説明されています。第5パラグラフでは《リンネルの価値を構成している労働の特有な性格》、つまりそれが一般的人間労働であることが、その実現形態となっている裁縫労働によって目に見える形で表現されていることが明らかにされたのですが、しかし一般的人間労働ということが表現されても、それだけでは、まだ価値を表現したことにはならないのです。というのは、人間労働は価値を形成するが、価値そのものではないからです。

 というのは、ハ)、第1章で明らかになったように、価値というのは、商品に対象化された一般的な人間労働だからです。だから人間労働が商品の生産のために支出されて、その流動状態から対象的な形態になって始めて、つまり商品のなかに凝固して、始めてそれは価値になるわけだからです。

 ニ)、だからリンネルの価値をある物的な対象物に凝固したものとして表すためには、それはリンネルとは物的に異なると同時に、リンネルと他の商品と共通なある「対象性」として表す必要があるというのです。
 さて、この部分で、《リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」》という一文を如何に理解するかが問題になりました。ここで「他の商品」というのは果たして何を意味しているのでしょうか。上着のことでしょうか。もし上着なら、“リンネルと上着とに共通なある「対象性」”ということでマルクスは何をいわんとしているのでしょうか。学習会では、この「他の商品」というのは、上着ではなく、リンネルと同じようにその価値を上着で表す商品、例えば靴墨とか鉄とかを意味しているのではないか、ということになりました。つまりリンネルは自分とは物的に異なっていると同時に、リンネルが靴墨や鉄やコーヒーのような他の商品と共通してそれらの価値を表すある「対象性」として表現されなければならないのであり、それはすなわちこの場合は上着のことではないか、というわけです。だからこの「他の商品」を「上着」と捉えると、おかしくなると考えたのです。
 しかしよくよく考えてみると、そのように考えると、上着はすでに一般的な等価物になっていることになってしまいます。二商品の価値関係を考察しているこの段階で、そうした問題が論じられていると考えることが果たして妥当なのか、という疑問が禁じえません。
 そこでこの問題を考えるために、同じ部分のフランス語版を参照してみたいと思います。

 《しかしながら、リンネルの価値を産む労働の独自な性格が表現されるだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、確かに、価値を形成するが、価値ではない。それは、ある物体という形態で凝固した状態においてのみ、価値になるのである。したがって、リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、自己矛盾しているように見える。一方では、リンネルの価値を、抽象的な人間労働の純粋な凝縮として表わさなければならない。商品は価値としては、これ以外の実在をもたないからである。同時にこの凝縮は、リンネル自体とは明らかにちがったある物体という形態を帯びなければならず、この形態は、リンネルのものでありながら、リンネルにとっては他の商品と共通なものなのである。この問題はすでに解決されている。》(江夏他訳21頁)

 ここでマルクスが《リンネルの価値を表現するためにみたさなければならない諸条件は、自己矛盾しているように見える》と述べていますが、どういう点で《自己矛盾》だというのでしょうか。それは一方では、《抽象的な人間労働の純粋な凝固》として表すとともに、他方では《リンネル自体とは明らかにちがったある物体という形態》を帯びなければならないからだといわれています。
 リンネルの直接的な対象性というのは、そのゴワゴワとした使用価値です。しかしそこにはそれをどんなにすり切れるほど捜してみてもリンネルの価値そのものを見出すことはできません。だからリンネルの価値は、そのゴワゴワした対象性とは違った別のある物体形態として表さなければ目に見える形では現われて来ないのです。だからこの別のある物体というのは、それは別の商品の直接的な対象性でしかありません。しかしそれはリンネルの価値がそれによって表現されているわけですから、その別のある商品の物体形態は、リンネルの価値の物体形態でもあり、その限りではリンネルのものなのです。しかしそれはリンネルのものではあるとはいっても、しかし別の商品の直接的な対象性ですから、それは当然、別の商品の対象性でもあり、別の商品のものであることには違いはありません。だからその別のある商品の直接的な対象性は、その別の商品のものであると同時に、リンネルとの価値関係のなかでは、リンネルの価値の物体形態でもあり、その限りではリンネルのものでもあるという関係にあるわけです。だからマルクスは、それはリンネルのものであると同時に別の他の商品のものでもある「対象性」として表現される必要がある、と述べているのではないでしょうか。
 だから最初の問題に戻ると、《リンネルと他の商品とに共通なある「対象性」》という場合の《他の商品》とは、やはり「上着」であると言わなければなりません。ここでマルクスが言っていることは、上着の直接的な対象性は、当然上着のものですが、しかしそれはリンネルとの価値関係に置かれると、リンネルの価値の物的表現形態となり、リンネルの価値の対象性が目に見える形(対象性)として現われたものなのだから、その限りではリンネルのものでもある、だからその「対象性」はリンネルと上着とに共通なものだと述べているわけです。それは一方では上着の直接的な自然な対象性であると同時に、他方ではリンネルの価値が目に見える形で現われた物的な対象性でもあるわけです。

 次はホ)です。ここで《課題はすでに解決されている》とマルクスは述べているのは、どういう意味なのでしょうか。興味深いことに、それは論者によって様々に理解されているのです。少しその代表的なものを紹介してみましょう。

●山内清著『資本論商品章詳注』--〈直前の3と5の段落、すなわちリンネルの価値存在の現出過程をさす。〉
●白須五郎著『マルクス価値論の地平』--〈「課題は既に解決されている」というのは、リンネル価値の表現に関して第三パラや第五パラの叙述で既に解決済みであって、第七パラ以降の叙述が単なる補論あるいは詳論にすぎないことを示しているのであろうか。決してそうではあるまい。……そうではなくて、この文言が意味するのは、第三パラで価値表現の表層構造が確認され、更に第五パラで価値実体レベルで価値の純粋な社会的性格の表現が基本的に開明されたことによって、価値の対象性としての表現を問うこの課題の解決にとっての必要条件が既に準備されていること、このことである。〉
●松石勝彦著『資本論研究』--〈リンネル価値を「人間労働の凝固」として表現するためには、上衣とに「共通な『対象性』として表現されねばならない」が、「課題はすでに解決されている」。すなわち、第一段ですでにリンネル価値が上衣に共通な価値として表現されており、第二段では異種商品の等価表現が異種労働を人間労働一般に還元し、これの凝固・対象化が価値であることをみたのであるから、以上を総合すれば、事実上リンネル価値は「人間労働の凝固」として、上衣とに「共通な『対象性』として表現」されているのである。〉

 これらの解釈に共通するのは、《課題はすでに解決されている》というのですから、当然、それまで述べてきたことのなかですでに解決済みのことだとマルクスは言っているのだろうと解釈していることです。ところが以前にも参照させてもらった所沢の「『資本論』を読む会」では、この部分について、次のような理解を紹介しています(http://shihonron.exblog.jp/m2008-09-01/)。

〈★「課題はすでに解決されている」ことの内容は続く箇所で述べられている。〉

 つまり次に続く第7パラグラフ以降で、その内容が述べられているのだというのです。

 なんとも分かりにくいのですが、マルクスも罪な表現をしたものです。しかし実は、この問題については、マルクス自身が第二版のために準備した『補足と改訂』のなかで、ズバリ次のように述べているのです。

 《もっとも,リンネルの上着との同等性関係がリンネルに含まれている労働の抽象的人間的性格を表現するだけでは充分ではない。人間的労働すなわち流動状態にある人間的労働力は価値を形成するが,価値ではない。それは凝固した状態で,対象的形態で,価値になる。
 ところで,リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である。》(小黒訳66頁)

 ここではマルクスは《課題はすでに解決されている》などというややこしい表現は使わずに、ズバリ《リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である》と明確に述べています。つまりマルクスが《課題はすでに解決されている》ということで言いたいのは、これまでわれわれはリンネルに上着を等置してきたのだから、当然、リンネルの価値の対象的形態として、われわれが見出すのは、上着形態でしかないのだ、ということなのです。分かってみればマルクスは難しいことを言っているのではなくて、いとも簡単なことを簡単に言っているだけであることが分かるのです。

 (字数制限の関係で、区切りのよいところで切るためには、三分割しなければなりません。ご容赦ください。)

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第17回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2009-10-22 17:43:59 | 『資本論』

第17回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

◎第7パラグラフについて

 イ)リンネルの価値関係の中で、上着が、リンネルに質的に等しいものとして、すなわち同じ性質の物として、通用するのは、上着が一つの価値だからである。ロ)だから、上着は、ここでは、価値がそれにおいて現れる物として、または手でつかめるその現物形態で価値を表す物として、通用する。ハ)ところで、上着は、すなわち上着商品の身体は、たしかに単なる一使用価値である。ニ)上着が価値を表現していないのは、リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。ホ)このことは、ただ次のことを示すだけである。ヘ)すなわち、上着はリンネルに対する価値関係の内部ではその外部でよりも多くの意味をもつということである。ト)ちょうど、多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもつように。》

 このパラグラフは、当然のことですが、第6パラグラフを直接受けたものであることが分かります。つまり第6パラグラフの最後の文言、《課題はすでに解決されている》の代わりに《リンネル価値の対象的形態とは何であろうか? 上着形態である》という文言に置き換えてみると、その続き具合がよく分かります。つまりリンネルの価値は上着形態であるが、ではリンネルの価値は上着形態であるとはそもそもどういうことかをもう一度反芻しているように思えるのです。とにかく分節ごとに見ていくことにしましょう。

 イ)では、リンネルの価値の対象的形態が上着形態であるというのは、リンネルの価値関係のなかでは、上着がリンネルとと質的に等しいものとして通用しているからであり、だから上着そのものが一つの価値だからだと述べています。

 ロ)、だからここでは、上着は、価値がそれにおいて現われる物として、手でつかめる現物形態で表すものとして、通用しているのだ、ということです。

 ハ)、しかし商品体としての上着は、単なる一つの使用価値である。

 ニ)、だから上着の使用価値がその価値を表していないことは、リンネルの使用価値がリンネルの価値を表していないのと同じなのです。

 ホ)・ヘ)、だからこのことは、上着はリンネルに対する価値関係の内部では、それを単独でみている場合とは違って、より多くの意味をもつということです。これは一般に「形態規定性」とも言います。つまり上着はリンネルとの価値関係の内部では、新たな形態規定性を受け取る、帯びる、ということです。

 ト)、それはちょうど、金モールで飾られた上着のなかではその外でよりも多くの意味をもつのと同じだと述べています。
 この部分の理解で若干の議論がありました。JJ富村さんがもう一つここでマルクスが何を言いたいのかよく分からないと問題提起をしたからです。つまりこの例とその前で述べていることと、どういう点で類似しているのかということです。
 この部分はフランス語版の方が面白いので、まずそれを紹介しておきましょう。

 《それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだらなくなる、のと同じである。》(江夏他訳21-22頁)

 だからこの場合、上着に新たに付着する形態規定性(つまりその自然形態が価値の現物形態として通用するという)をマルクスは金モールに例えていると考えることができます。つまり上着はリンネルとの価値関係の外では、つまり上着を単独で見ているだけなら、ただの上着に過ぎませんが、しかしリンネルとの価値関係のなかに置かれると、まるで金モールを着た人間のように、それ以上の意味を持ちはじめるというのです。ただこの上着の金モールで着飾ったような神秘的な性格そのものはまだこの時点では潜在的であり、はっきりとは現われていません。しかしマルクスの例えはそうしたものを見据えたものと言えるのかも知れません。

 だからこのパラグラフは、それまでのリンネルの価値が上着形態によって表現された現出過程を振り返って、改めてリンネルとの価値関係におかれることによって上着に付着する新たな形態規定性を、それとして確認しているものと言えます。そうしてその点では、次のパラグラフも同じものと言うことができます。

◎第8パラグラフについて

 イ)上着の生産においては、裁縫労働という形態のもとに、人間労働力が実際に支出された。ロ)したがって、上着の中には人間労働が堆積されている。ハ)この側面からすれば、上着は「価値の担い手」である。ニ)もっとも、上着のこの属性そのものは、上着がどんなにすり切れてもその糸目からすけて見えるわけではないが。ホ)そして、リンネルの価値関係の中では、上着はただこの側面だけから、したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する。ヘ)ボタンをかけた〔よそよそしい〕上着の外観にもかかわらず、リンネルは、上着のうちに同族のうるわしい価値魂を見てとったのである。ト)しかし、上着がリンネルに対して価値を表すことは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。チ)ちょうど、個人Aが個人Bにたいして王位に対する態度をとることは、同時にAにとって王位がBという肉体的姿態をとること、したがって、顔つき、髪の毛、その他なお多くのものが国王の交替のたびに替わるということなしには、できないように。》

 イ)、ロ)、ハ)、について、これは第2節で論じられていたことを前提すれば、簡単な事実です。
 まずイ)、上着の生産においては、裁縫労働という具体的な有用労働を通じて、人間労働一般が支出されています。

 ロ)、したがって上着のなかには人間労働一般が堆積されているわけです。

 ハ)、だからこの面では上着は「価値の担い手」です。
 ここで「価値の担い手」という文言が鍵かっこで括られていますが、その前の第6パラグラフでも「対象性」が鍵かっこに入っていました。これは恐らくこの言葉を強調する意味があるのではないかと思います。われわれは「価値の担い手」という言葉から、第1章でも次のような一文があったことを思い出します。

 《使用価値は、富の社会的形態がどのようなものであろうと、富の素材的内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態においては、それは--同時に交換価値の素材的担い手をなしている。》(全集版49頁)

 第7パラグラフで出てくる「価値の担い手」は、この第1章と同じことを述べているのでしょうか。それにしては、第1章の場合は「交換価値の素材的担い手」と書いてあり、今回の場合(「価値の担い手」)とは若干異なります。以前(第2回の報告)、第1章のこの部分を検討したときにも、少し学習会で議論になった内容を紹介しましたが、そのときにも〈「一クォーターの小麦」の交換価値の「素材的担い手」になっているのは「一クォーターの小麦」という使用価値そのものなのか〉ということが問題になりました。そして結局、この第1章の場合は、そうではなく、『経済学批判』の一文を参照すると、〈「一クォーターの小麦」の「交換価値の素材的担い手をなしている」ものとしてマルクスが語っているのは、「x量の靴墨、y量の絹、z量の金」等々の諸使用価値のことであることが分かる〉と結論付けたのでした。これは「価値」の現象形態である「交換価値」の「素材的担い手」というわけですから、そのように理解できたのです。
 しかし今回の場合は、そうではありません。上着に支出された人間労働が上着のなかに堆積されており、この側面から見るなら上着は「価値の担い手」だと述べているのですから、上着が担い手になっている価値とは上着の価値以外の何物でもないのです。つまりこの場合は上着の価値は上着という物的対象のなかにあるという意味で、上着は「価値の担い手」になっていると述べているのだと思います。その意味では第1章で述べていることとは違った内容なのです。

 ニ)、だから上着が「担い手」になっている上着自身の価値は、依然として目に見えるようなものになっているわけではありません(それは現象形態にはなっていないから)。だから「上着のこの属性そのもの」、つまり上着のなかに人間労働力が堆積されて上着の価値になっているという属性、つまり抽象的人間労働の凝固体という属性そのものは、上着がどんなにすり切れても見えないわけです。

 ホ)、ところがリンネルとの価値関係におかれた上着は、ただ《この側面だけから》、つまり人間労働一般が堆積されているという側面だけから、《したがってただ体現された価値としてのみ、価値体としてのみ、通用する》と言われています。これは以前にも紹介しましたが、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》(「補足と改訂)ということと同じことを述べているように思えます。つまり上着を作るのは裁縫労働という具体的な労働であり、その具体的有用労働を通じて人間労働力一般が支出されたのですが、しかしリンネルとの価値関係におかれた上着の場合は、この具体的有用労働である裁縫労働そのものが人間労働力一般の支出形態と通用するのですから、上着はただ単に人間労働力一般だけが支出されたものとして通用しているのだというのです。上着の具体的な物的姿態を形作ったのは具体的な有用労働である裁縫労働なのですが、その裁縫労働が、ここでは、つまりリンネルとの価値関係におかれた上着においては、一般的人間労働そのものの支出形態として通用しているのですから、その裁縫労働によって形作られた上着の具体的な姿態そのものが、価値そのものとして通用している。つまり上着は、その身体で価値を表すものである「価値体」として通用しているのだ、というわけです。
 ここで「価値体」という用語がでてきますが、これは先の第3パラグラフででてきた「価値物」とどう違うのかが問題になります。しかし、それは項を改めて問題にすることにします。

 ヘ)、上着を単独で見ている限りでは、上着をいくら見ても上着のなかにある(隠された?)その価値は絶対に見えません。ところがリンネルが自分と価値関係におかれた上着をみた場合、リンネルはボタンをかけてよそよそしく振る舞い、つまり自身の価値を隠しているように見える上着なのに、そうした上着の姿そのものがリンネルにとっては、価値そのものとして見えるのだ、上着そのものの姿にリンネルのなかにある価値を上着の姿に反射させて見ているのだというわけです。

 ト)、しかし上着がリンネルに対して価値を表すということは、リンネルにとって価値が上着そのものに見える、価値が上着形態をとっている以外には不可能です。

 チ)は、上記に述べたことをまた例を上げて説明しているのですが、これも少し学習会で議論になりました。これもフランス語版の方が分かりやすそうなので、それをまず紹介しましょう。

 《同じように、私人Aは個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなければ、陛下であることを表わしえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。》(22頁)

 単なる一私人に過ぎないAが個人Bに対して王として映るのは、Aの容貌や体躯が王そのものとして見えないと、Bに対してAは王としては見えないというわけです。王位それ自体は何か目に見えるものではありません。だから王位を何か具体的なのとして平民が見ようとするなら、結局は、王位についた人物の顔かたちを王そのものとして見るしかないのだ、ということのようです。だから新しい人が王になると、顔面や毛髪やその他の色々なものを変えて、如何にも王らしく見せるのは、このためだろうというわけです。みすぼらしい格好では、いくら王だといっても誰も王としては見えない、表現されたことにはならないということかも知れません。これは例えば芸術家は如何にもそれらしい格好をするのと似ているかも知れません。
 つまりリンネルにとって上着が価値を表すためには、上着の姿そものが価値そのものになっていないと価値が目に見える形で見えたことにはならないということです。

 (「価値物」「価値体」の問題と付属資料は字数の関係で「その3」で紹介します)。

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第17回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2009-10-22 17:12:47 | 『資本論』

第17回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

 

◎「価値物」と「価値体」との区別と関連について

 最後に、「価値物」と「価値体」との区別と関連について考えてみましょう。この両概念の区別と関連を理解するということは、それぞれの用語が出てくる第3パラグラフと、第8パラグラフとの関連、その両パラグラフの間における一連の展開を知るということでもあります。
 第3パラグラフでは、リンネルが「相対的価値形態」にあるということはどういうことかが明らかにされています。そもそもリンネルが「相対的価値形態」にあるということは、本来は幻のようで捉えどころのない対象性しか持たないリンネルの価値が、上着という他の商品に関連することによって、相対的に、目に見える具体的な形ある対象性(物)として表されているということです。そしてそのためには、リンネルと同等性の関係(=価値関係)に置かれた上着は「価値物」として通用しなければならない、というのがマルクスが述べていたことです。つまり上着がリンネルとの価値関係においては、価値が「形ある物として現われているようなもの」として通用しなければならないのだということです。
 そして第4~6パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関係において「価値物」として通用するということはどういうことなのかが、価値の実体にまで遡って明らかにされています。すなわちリンネルの価値を形成する労働の独自の性格(抽象的人間労働)とそれが物的対象に凝固した状態にあるということが、上着をつくる裁縫労働と、その上着の物的な具体的な身体によって表現されていることが明らかにされているのです。
 まず第5パラグラフでは、上着をつくる裁縫労働がリンネルをつくる織布労働に等置されることによって、一般的人間労働に実際に還元されること、つまりリンネルの価値を形成した抽象的人間労働が、上着に表れている(痕跡として残っている)裁縫労働という具体的で感覚的に捉えられる労働によって表現されていることが明らかにされ、次に第6パラグラフでは、そうした一般的人間労働の実現形態として意義を持っている裁縫労働がつくったものが、まさに上着そのもの、上着のその具体的な姿であるのだから、そうした上着体そのものが一般的な人間労働の凝固したものなのだ、ということでした。
 だから、第7・8パラグラフでは、そうした一般的人間労働の実現形態である裁縫労働がつくった上着体こそが抽象的人間労働の凝固体、すなわち価値そのもの、「一般的な価値肉体」(初版本文)であること、すなわち価値がそれ自身を形あるものとして表しているもの、すなわち「価値体」であることが示されたのです。

 だから「価値物」も「価値体」も、どちらも価値を「物」として表しているものですが、「価値物」は、リンネルと上着という二商品の直接的な反省関係から導き出されたものであるのに対して、「価値体」は、なぜ自然形態が価値という抽象的なものを表しているのかを、価値の概念(実体)にまで遡ってその根拠が明らかにされたものだということができます。

 いささかヘーゲルチックに説明すると、「価値物」も「価値体」も本質的(価値)が直接的なものとして現われているものという点では同じですが、「価値物」は「価値」という二商品に内在する「本質」が二商品の直接的な反省関係によって「物」として現われたものですが、「価値体」はさらにそれを本質(価値の概念)との関連によって捉え返されたものであり、よってその(本質=価値概念の)現象形態として掴まれたものだということが出来るかも知れません。

 その意味では、故久留間鮫造氏の最初の理解は必ずしも厳密なものとはいえませんが決して間違ったものでは無かったと思います。ただ久留間氏は両概念の区別と関連について無自覚であったが故に、大谷禎之介氏の指摘に動揺し、その誤った見解に追随する結果になってしまったといえるかも知れません(ただ『貨幣論』を詳細に検討してみると、「価値体」の捉え方については、両者は一致しているものの、久留間氏は「価値物」の捉え方については、大谷説に最後まで与しなかったような感じも受けます)。

 

【付属資料】

 ここでこれまでと同じように、各パラグラフに関連する文献からの引用文を紹介しておきます。

◎第6パラグラフに関連したもの

 --は、すでに本文の読解のなかで紹介しましたので、重複を避けます。

◎第7パラグラフに関連したもの

《初版本文》

 〈使用価値または商品体はここでは一つの新しい役割を演ずるのである。それは商品価値の現象形態に、したがってそれ自身の反対物に、なるのである。それと同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な有用労働が、それ自身の反対物に、抽象的人間労働の単なる実現形態に、なる。ここでは、商品の対立的な諸規定が別々に分かれて現われるのではなくて、互いに相手のなかに反射し合っている。〉(国民文庫版51頁)

《補足と改訂》

 〈しかし,上着、上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルの価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。しかしながら,使用価値上着が価値を表現していないのは,リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは,同じ上着が,リンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも,多くの意味をもつ、ということを示すだけである。ちょうど,多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもっように。〉(小黒訳前掲文献65頁)

《フランス語版》

 《実際には、われわれがすでに見たように、上衣が等価物として置かれるやいなや、上衣はもはや自分の価値性格を証明明するための旅券を必要としない。こうした役割において、上衣自体の存在形態が価値の存在形態になる。ところが、上衣は、上衣商品の体躯は、単なる使用価値でしかなく、一着の上衣は、リンネルの任意の一片と同じように、価値を表現するものではない。このことはただたんに、上衣がリンネルとの価値関係のうちでは、この関係のぞとでよりも多くのことを意味する、ということを証明しているにすぎない。それはちょうど、金モールの衣裳をつけた多くの重要人物が、金モールをはずせば全くくだらなくなる、のと同じである。》(江夏訳21-22頁)

◎第8パラグラフに関連したもの

 なおここでは、第8パラグラフと直接関連はしていませんが、「価値体」について言及している部分の引用も紹介しておきます。

《初版本文》

 〈リンネルは、抽象的人間労働の感覚的に存在する物質化としての、したがってまた現に存在する【価値体】としての、上着に関係するのである。上着がこういうものであるのは、ただ、リンネルがこのような特定の仕方で上着に関係するからであり、またその限りにおいてのみのことである。上着の等価物存在は、いわば、ただリンネルの反射規定なのである。〉(文庫版55-56頁、【 】は引用者)

《初版付録》

 〈上着にたいするリンネルの価値関係においては、上着という商品種類が、単に、【価値体】一般として、すなわち人間労働の物体化として、リンネルに質的に等置されるだけではなくて、この価値体の一定量が、……等置されるのである。〉(文庫版136頁、【 】は引用者)
 〈しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにたいしては【価値体】として、したがってまた、単なる人間労働の具体化として、認められるであろう。そしてまたつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間労働の具体化ではなくて、裁縫労働なり農民労働なた鉱山労働なりとにかく一定の具体的な有用労働種類の具体化であることに変わりはないであろう。だから、等価物の商品を生産する特定の具体的な有用労働は、つねに必然的に、単なる人間労働の、すなわち抽象的人間労働の、特定の実現形態または現象形態として認められなければならないのである。例えば上着が【価値体】として、したがって単なる人間労働の具体化として、認められうるのは、ただ、裁縫労働が、それちおいて人間労働力が支出されるところの、すなわち、それにおいて抽象的人間労働が実現されるところの、特定の形態として認められているかぎりにおいてきみのことである。
 価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人問労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということが裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。この取り違えは不可避である。というのは、労働生産物で表わされている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無差別な人間労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が別種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてのみのことだからである。
 この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは白明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関連は不可解になるのである。〉(文庫版142-3頁、【 】は引用者)
 〈等価物が直接的に社会的な形態をもっているのは、それが他の商品との直接的交換可能性の形態をもっているかぎりにおいてのことであり、そして、それがこの直接的交換可能性の形態をもっているのは、それが他の商品にたいして【価値体として、したがってまた同等なものとして認められているかぎりにおいてのことである。だから、等価物に含まれている特定な有用労働もまた、直接的に社会的な形態にある労働として、すなわち、他の商品に含まれている労働との同等性の形態をもっている労働として、認められているのである。裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを.現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。〉(145頁、【 】は引用者)

《補足と改訂》

 〈上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば、上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして,リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての上着体に閑係するのは、上着が価値体であるからであり,そしてそのかぎりでのことである。
 いまや、明かになったことは,リンネルはその価値上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ,あますところ掌く表現された、ということである。〉(前掲65頁)
 〈リンネルの価簿関係のなかで上着形態は、すでに見たように、価値体として、その自然形態上着形態が価値形態として通用する。使用価値としてはリンネルは上着とは異なっている。価値としてはリンネルはそれとは反対である。しかし,上着がリンネルにたいして価植を表すことは,同時にリンネルにとって価殖が上着で表されていることなしには,できないことである。ちょうど,個人Aが個人Bにたいして陛下にたいする態度をとることは,同時にAにとって陛下がBという肉体的姿態をとること,したがって,顔っき,髪の毛,その他なお多くのものが,国王の交替のたびにかわることなしには,できないように。〉(前掲66頁)

《フランス語版》

 《上衣の生産では、実際に、なにがしかの人間労働力がある特殊な形態のもとで支出された。だから、人間労働がその上衣のなかに積み重ねられている。この観点からすれば、上衣は価値の担い手である。もっとも、この特性は、上衣がどんなに擦り切れていても、上衣の透いた糸目を通して外に現われるものではないが。しかも、リンネルとの価値関係においては、上衣はこれ以外のことを意味しない。上衣の外貌がどんなにあばた面であっても、リソネルは上衣のうちに、価値に満ちた姉妹魂を認めたのだ。これが、ことがらのプラトニックな側面である。上衣が自己の外面的な関係のなかに価値を実際に表わすことができるのは、同時に価値が一着の上衣という姿をとるかぎりでのことなのだ。同じように、私人Aは個人Bにたいして、Bの眼に映ずる陛下が直接Aの容貌と体躯とを帯びなけれぽ、陛下であることを表わしえないのである。陛下が人民の新たな父となるたびごとに、顔面や毛髪やその他多くの物を変えるのは、おそらくこのためであろう。》(江夏訳22頁)

《補足》(国王と臣下のもう一つの例)

 《(21) およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、他の人々が彼に対して臣下としての態度をとるからにほかならない。ところが、彼らは、彼が王であるから、自分たちは臣下なのだと思うのである。》(全集版78頁)

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第17回「『資本論』を読む会」の案内

2009-10-15 07:35:49 | 『資本論』

 『  資  本  論  』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

 

                               

 鳩山・民主党連立政権は、最初の正念場を迎えつつあります。マニフェストで謳った「子供手当て」等の諸政策実現のための財源を捻出することが問われているからです。このために、総額14.7兆円の補正予算の見直しを行い、ようやく2.5兆円(17%にあたる)を確保したと言われています。しかしこれでは10年度に「子供手当て」等の実施に必要な7.1兆円に達せず、さらに上積みをと考えているようです。

 しかし見通しはなかなか厳しい。というのは、税収が当初見込みの46兆円を大幅に下回ることが予想され(40兆円を切るとの予想)、その補填のために、結局は、また赤字国債の発行を余儀なくされつつあるからです。

 かくして、マニフェストでバラマキを約束した民主党政権のもとで、財政破綻はますます進行することは必至の状況です。

 09年度の国債の累積発行残高は592兆円(国民一人当たり463万円の借金!)、地方自治体の借金も含めると債務残高は816兆円にのぼり、国内総生産(GDP)に対する比率は174%と主要先進7ヶ国のなかでは最大です(二番目に多いイタリアでも114%、他の5ヶ国は60~70%)。

 この借金の返済をどうするのか。民主党は消費税の増税は少なくとも4年間は考えないとも言いますが、無駄を省くだけでは、この借金の返済は事実上不可能です。これらの借金は、まさに危機に陥った資本主義体制を救済するために、歴代の自民党政権が膨大な国家の財政信用膨張政策を発動することによって積み上げてきたものだからです。だから例え民主党政権であろうが、自民党と同じように、資本主義を前提にし、その体制的危機の救済を自民党と同様自らの絶対的な使命とするかぎり、この借金の泥沼から抜け出ることはことは出来ません。

 マルクスは国債の発行は、増税、しかも大衆課税である間接税(消費税)の導入とその「自動累進」化による「加重課税」を不可避にさせると次のように指摘しています。

 《国債は国庫収入を後ろだてとするものであって、この国庫収入によって年々の利子などの支払がまかなわれなければならないのだから、近代的租税制度は国債制度の必然的な補足物になったのである。国債によって、政府は直接に納税者にそれを感じさせることなしに臨時費を支出することができるのであるが、しかしその結果はやはり増税が必要になる。他方、次々に契約される負債の累積によってひき起こされる増税は、政府が新たな臨時支出をするときにはいつでも新たな借入れをなさざるをえないようにする。それゆえ、最も必要な生活手段にたいする課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体のうちに自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。それだから、この制度を最初に採用したオランダでは、偉大な愛国者デ・ウィットが彼の筬言《しんげん》のなかでこの制度を称賛して、賃金労働者を従順、倹約、勤勉にし……これに労働の重荷を背負わせるための最良の制度だとしたのである。》(『資本論』第1部全集版23b986-7頁)

 民主党政権のもとでも、資本主義の矛盾を労働者大衆にしわ寄せする以外にないことはますます明らかになるでしょう。もし民主党が労働者大衆の側に徹底して立つというのなら、資本主義そのものを克服する以外にあり得ないからです。財政の逼迫は民主党を追い詰めて、結局は、民主党も自民党と同じであり、第二自民党でしかないことを暴露するでしょう。

 貴方も民主党政権の本質を見抜くためにも、『資本論』を一緒に学びませんか。

………………………………………………………………………………

 

第17回「『資本論』を読む会」・案内


                                                                                           ■日 時  10月18日(日) 午後2時~

  ■会 場  堺市立南図書館
         (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

  ■テキスト 『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

  ■主 催  『資本論』を読む会

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第16回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2009-10-06 11:08:12 | 『資本論』

第16回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎changeの秋?

 民主党政権が誕生し、鳩山外交も上々の滑り出しのように見えます。新しい政権に変わって、われわれの生活も何か変わるのでしょうか?

 「チェンジの秋」を予感させるものの、私たちの『資本論』を読む会は相変わらずで、進捗は亀のごとくです。今回も、議論はそこそこでしたが、進んだのは、結局、二つのパラグラフと注だけでした。さっそくその報告に移ります。

◎第3パラグラフに出てくる「価値物」について若干議論

 最初にピースさんから、前回の第3パラグラフに出てくる「価値物」について、意見があり、若干、その問題について議論になりました。
 ピースさんは「報告」の解釈に理解を示してくれましたが、報告を担当した亀仙人は報告の立場は必ずしも一般的ではないこと、それは故久留間鮫造氏の最初の立場に近いが、しかし久留間氏は、そうした「価値物」の理解に立ちながら、しかし「価値体」との区別については無意識だったが故に、大谷禎之介氏の指摘に動揺し、自身の立場を捨て、大谷説に与するようになったことが紹介されました。

 しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。

 〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)

 このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりません。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそうしたものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するからです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります。

 〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されることになる。〉

 このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されていないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけでは、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現われていることにはならないからです。形あるものと顕れていないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物として存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値は表現されているとは言えないのです。

 大谷氏は〈《その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの》、これが先生(=故久留間鮫造--引用者)の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです〉とも述べています。しかし、これだと「価値体」によって始めてリンネルの価値は表現されることになり、「価値物」の段階ではまだ表現されていないことになってしまいます。しかしマルクス自身は第3パラグラフでも《他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る》と述べており、第3パラグラフの段階ですでにリンネルの価値は表現されていると述べているのです。だから大谷氏のような「価値物」理解では、こうしたマルクスの第3パラグラフの説明を理解不能にしてしまうのです。

 しかしピースさんは、大谷氏の主張にも一定の理解を示し、第3パラグラフに出てくる「価値物」、つまりリンネルとの価値関係におかれた上着が受け取る形態規定としての「価値物」と、一般に使われる場合の「価値物」とがあるのではないか、とも指摘されました。つまり大谷氏が主張されるような意味での「価値物」もありうるが、しかしそれはリンネルとの価値関係におかれた上着に付着する「価値物」の規定とは異なるものであり、だから「価値物」には二様の意味があるし、あってもよい、との意見です。これについては亀仙人は自身の意見を保留しました。

 確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られるように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそうではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れているものと捉えていることが分かるのです。しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があればやることにしましょう)。

◎第4パラグラフの位置づけ

 さて、それでは第4節の検討に入って行きましょう。まずは、例のごとく全文を紹介することからはじめます(今回から、分節ごとに検討するために、分節にイ)、ロ)、ハ)…の記号を打っていくことにします)。

 イ)われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。ロ)一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

 これまでは、パラグラフの引用に続いて、そのパラグラフに類似したそれ以外の文献を年代順に資料として紹介してきたのですが、やや煩雑に過ぎるので、それらはすべて付録に回し、すぐにパラグラフの検討に入ることにします。

 最初に問題になったのは、このパラグラフの位置づけでした。前回の報告で紹介しましたが、第3パラグラフに該当する初版付録の小項目は、「b 価値関係」でした。初版付録ではそれに続いて、「c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実」が続き、それが現行の第4パラグラフ以降にほぼ該当します。だから第3パラグラフの段階では、まだ現行の小項目「a 相対的価値形態の内実」の本題には入っておらず、本題は第4パラグラフから始まると考えることが出来きます。そして第3パラグラフまでは、そのための前提の考察と位置づけられます。つまり第3パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関係において、価値物として妥当することによって、リンネルの価値存在が表現されることが示されました。つまりリンネルが“相対的な価値の形態”--相対的に価値を表現する形式--にあることが示されたのです。だから次に問題になるのは、本題である、その「形式」の「内実」というわけです。
 ということは、「相対的価値形態の内実」というのは、相対的価値形態がその価値の実体である「抽象的な人間労働の凝固体」まで掘り下げられてそこから説明されること、すなわち「価値の概念」からその現象形態たる「価値形態」まで展開することだということが分かります。それが相対的価値形態が持っている内容(Gehalt)だというのです。
 そしてそう考えると、この第4パラグラフは、それまでの前提の考察を踏まえた、本題の入り口であり、第5パラグラフ以降への橋渡し、導入部分だということが分かるのです。だからこの第4パラグラフの内容については、やはり第5パラグラフ(あるいはそれ以降のパラグラフ)と関連させて理解する必要があるわけです。

 イ)の部分は、第1章で次のように論じていたことを思い出させます(下線は引用者)。

 《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。》(全集版52頁)

 これは価値の概念を導出する部分に該当します。つまりこの第4パラグラフでは、価値の実体である抽象的人間労働の凝固を確認するとともに、それではいまだ《幻のような同一の対象性以外》の何もでもなく、「価値の形態」--価値が形があって目に見える状態--にはなっていないことを再確認しているわけです。
 しかし同時に、われわれは第1章では次のようにも述べられていたことを思い出します(下線は引用者)。

 《もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。》(全集版51-2頁)

 つまりこの第1章では、抽象的人間労働に還元するためには、労働生産物に表れている(痕跡を残している)労働の具体的性格、裁縫労働とか織布労働といった性格も捨象され、消え失せなければならないことが言われています。しかし同じような人間労働一般への還元が第5パラグラフにも出てくるのですが、しかし同じ「還元」でも、第1章とは異なるのです。だからそれとの対比の意味も込めて、あらかじめ、ここでこうした問題が再び論じられているということも出来るのです。

 次にロ)の部分について検討しましょう。ここでは第3パラグラフで見たように、価値関係のなかでリンネルの価値が表現されたように、一商品への他の商品の価値関係のなかでは、《その商品の価値性格》《現れでる》と述べています。ここで現れでる「価値性格」とは何かが問題になりました。ピースさんは、「それは直接には目に見えないという性格のことではないか」と言いましたが、それでは内容的におかしくなります。なぜなら、価値関係のなかで価値の「直接には目に見えないという性格」が《現れでる》ということになっては意味不明だからです。
 やはりここでは「抽象的人間労働の凝固」こそが「価値性格」の内容だと考えるべきでしょう。つまり、一つは価値というのは純粋に社会的なものだということです。商品交換を通じて、その生産のために支出され、生産物に表れている具体的な諸労働が、人間労働一般に還元されることによって社会的性格をもつということ、それが価値性格の一つの側面です。さらに価値性格としては、価値を形成する労働の抽象的・社会的な性格だけではなく、それが商品という物的対象に結晶したものである、凝固したものである、という性格もあるわけです。そうした価値性格の二つの側面が二商品の価値関係のなかで現れ出てくるというのです。そして価値性格の二つの側面の現出過程を説明するのが、だいたい第5パラグラフと第6パラグラフに該当するわけです。だから次は第5パラグラフの検討に入ることにしましょう。

 (字数の関係で、第5パラグラフの検討は「その2」で掲載します。)

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第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2009-10-06 10:51:03 | 『資本論』

第16回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

◎第5パラグラフの検討

 イ)たとえば、上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって、上着に潜んでいる労働がリンネルに潜んでいる労働に等置される。ロ)ところで、たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。ハ)しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。ニ)このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。ホ)異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである(17a)。》

 まずイ)について、第2パラグラフで見たように、20エレのリンネル=1着の上着 という等式の基礎には、 リンネル=上着 があったように、ここでは リンネル=上着 の基礎には、 リンネルに潜んでいる労働=上着に潜んでいる労働 の関係(リンネルに潜んでいる労働に対する上着に潜んでいる労働の等置関係)がなりたつことが指摘されています。そして第3パラグラフでは、 リンネル=上着 の同等性の関係とは価値関係であることが指摘され、リンネルの価値が価値物である上着によって表現されていることが示されたのでした。ここでは類似した関係がその基礎にある労働に関して考察されていると言えます。
 しかし注意が必要なのは、《上着が、価値物として、リンネルに等置されることによって》と述べられていることです。だから第3パラグラフを前提にした考察だということです。第3パラグラフでは、リンネルに等置された上着は価値物として通用しなければならないことが指摘されたのですが、ではそもそも〈「価値物」として通用する〉とは、どういうことなのかが、今度は、価値の実体に遡って問題にされ、解明されているのです。

 ロ)では、その考察の前提として、《たしかに、上着をつくる裁縫労働は、リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である》ことが確認されています。これは上着とリンネルとは種類の異なる使用価値であり、よってそれらの使用価値をつくるために支出された具体的な有用労働も種類の異なるものだということです。

 次にハ)では《織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する》と言われています。ここで注意が必要なのは、第4パラグラフのところでも指摘しましたが、同じ「還元」でも、ここで述べられていることは、第1章で労働の具体的な諸属性が捨象されたのとは異なる「還元」だということです。というのは、上着が「価値物」として等置されているからです。「上着が価値物として通用する」ということは、前回(第15回)の第3パラグラフの考察でも紹介しましたが、《すなわちその唯一の素材が人間的労働から成っている物として通用する,あるいはそれゆえその肉体が人間的労働以外の何物をもあらわさない物として通用する》(「補足と改訂)ということです。あるいは初版本文では《相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである。使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な人間的な労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている》(江夏訳37頁)とも述べられています。
 つまりここで《実際に還元する》と言われているのは、裁縫労働の具体的な諸属性を捨象して、それを人間労働一般に還元するということではなくて、裁縫労働という特定の具体的な労働がそのまま人間労働一般の直接的な実現形態としてあること、すなわち、裁縫労働が抽象的人間労働が実現される特定の形態として意義をもっていることなのです。ヘーゲルチックに言い換えるならば、人間労働一般が、裁縫労働という具体的労働を通じて、直接的なものとして現われているということでもあります。あるいは第3パラグラフと類似させていうなら、裁縫労働が、人間労働一般を代表するものとして通用しているということなのです。リンネルにとっては、裁縫労働は、自分自身に対象化されているのと同質の人間労働一般を代表するものとして通用しているわけです。

 またリンネルにとっては、裁縫労働という具体的属性はそうした役割しか意味がない、ともマルクスは述べています。

 《リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。……上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。……だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない》(初版本文、同上38頁)

 もちろん、この初版本文では、この第5パラグラフ以降で展開されることが先走って述べられている部分もあるのですが、重要なのは、《実際に還元する》ということが、第1章で述べられていた「還元」とは異なる点を理解することです。

 次は、ニ)の《このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである》の部分です。
 先のハ)で、織布労働との等置は、裁縫労働そのものを両者に共通な、抽象的人間労働の直接的な実現形態にすることが指摘されたのですが、そのことによって、リンネルの価値を形成する抽象的人間労働が、抽象的人間労働の対象様式である裁縫労働という具体的労働によって目に見える形で表されているということです。つまり上着に表れている裁縫労働こそが、本来は目に見えない「思考産物」(初版本文)であるリンネルの価値を形成する抽象的人間労働の具体的な実現形態であり、それによって、目に見える形で表されているものだというのです。

 ところで、ここで《まわり道》という言葉がでてきます。リンネルは価値としては抽象的人間労働の凝固ですが、しかしそれはリンネルそのものを見るだけでは分かりません。しかしリンネルは、直接には出来ないことを、間接的には、すなわち「回り道を通って」なら出来るということです。リンネルは、《自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができる》(初版本文前掲39頁)のです。すなわち自分に上着を価値物として等置することによって、上着をつくる裁縫労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にし、そのことによって、自らの価値を形成する労働を、すなわちそれが抽象的人間労働であることを、それの直接的な実現形態である裁縫労働によって目に見える形で表すことが出来るということです。ここでは裁縫労働という具体的で感覚的なものが、抽象的人間労働という抽象的一般的なものの特定の実現形態として意義をもっているのです。

 またここでは《語られるのである》とも述べています。一体、誰が語るのでしょうか? これは少し先走りますが、第10パラグラフで、《上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである》(全集版71頁)と書かれています。ここで《商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのこと》というのは、われわれが第1章で商品の価値を分析して明らかにされたことを意味します。その商品価値の分析で明らかになったことを、リンネルが上着との価値関係のなかで、リンネル自身が語るというのですから、やはり上記の《語られるのである》も、リンネル自身が語っているものとして理解すべきでしょう。

 次は最後のホ)《異種の諸商品の等価表現だけが--異種の諸商品にひそんでいる、異種の諸労働を、実際にそれらに共通なものに、人間労働一般に、還元することによって--価値形成労働の特有な性格を表すのである》ですが、これはこれまで述べてきたことをより一般的に言い換えて、繰り返していると言えます。ここでも《実際に……還元する》ということが出てきますが、すでに述べたような意味として理解する必要があります。

◎注17aについて

 注17aについては、それほど詳しい議論はしませんでした。だから注については、分節ごとの解読は必要ないと思います。しかしとりあえず、全文をまず紹介しておきましょう。

 《(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、1836年、第2巻、267ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。》

 この注で問題になったのは、本文のこの個所の注としては、あまり相応しくないのではないかということでした。というのは、この注17aでは、フランクリンが、商品の価値を労働によって評価することによって、交換される諸労働の相違を捨象して、それらの労働を等しい人間労働に還元しているのであるが、それを意識せずにやっているのだ、というものです。しかし本文で問題になっているのは、諸労働の相違を捨象して労働一般に還元するということではなくて、むしろここで《実際に……還元する》ということで述べられているのは、具体的な労働を抽象的人間労働の直接的な実現形態にするということですから、注17aで言われていることと必ずしも合致していないのではないか、ということなのです。
 そして実際、フランス語版では、この注は削除され、この注17aとほぼ同じ内容のものが、「第4節 商品の物神性とその秘密」の注31の冒頭に若干変更されて紹介されていることが指摘されました。その部分を紹介しておきましょう。なおこの注は本文の《きわめて不完全なやり方ではあるが、経済学は確かに、価値と価値量とを分析した。(31)》(江夏他訳55頁)という部分に付けられたものです。

 《(31)ウィリァム・ペティ以後に価値をその真実の内容に還元した最初の経済学者の一人である、かの著名なフランクリンは、ブルジョア経済学が行なう分析のやり方の一例を、われわれに提供していると言ってもよい。彼は言う。「交易一般とは労働と労働との交換にほかならないから、すべての物の価値は労働によって最も正確に評価される」(スパークス編『ペンジャミン・フランクリン等の労作』、ボストン、1836年、第2巻、267ページ)。フランクリンは、物が価値をもつのは、物体が重量をもっのと全く同じように自然である、と思っている。彼の観点からすれば、この価値がどのようにして最大限正確に評価されるかを見出すことだけが、問題なのである。彼は、「どんな物の価値も労働によって最も正確に評価される」と述べながら、交換される労働の差異を捨象して同等な人間労働に還元していることに気づいてさえいない。彼はこれとはちがってこう言うべぎであったろう。長靴または短靴と机との交換は、靴製造と指物細工との交換にほかならないから、長靴の価値が最も正確に評価されるのは指物師の労働によってである! と。彼は労働一般という言葉を用いることによって、さまざまな労働の有用な性格と具体的な形態を捨象している。》(江夏訳56頁)

 このフランス語版の注の方が、最初の注17aの内容に相応しいのかも知れない。ついでに『経済学批判』のなかで、フランクリンの同じ主張について、マルクスが論じている部分も参考のために上げておこう。

 《フランクリンにあっては、労働時間は、経済学者流儀で一面的にただちに価値の尺度としてあらわされる。現実の生産物の交換価値への転化は自明のことであり、したがって問題は、その価値の大きさを測る尺度を発見することだけである。彼は言う。

 「商業は一般に労働と労働との交換にほかならないから、すべてのものの価値は、労働によって最も正しく評価される〔*〕。」
 〔*〕 "Trade in general being nothing else but the exchange of labour for labour, the value of all things is, as I have said before, most justly measured by labour."(前掲書、267ページ)。

 この場合、労働ということばのかわりに、現実的労働ということばを置き換えるならば、一つの形態の労働と他の形態の労働とが混同されていることが、ただちに発見されるであろう。商業とは、たとえば靴屋の労働、鉱山労働、紡績労働、画家の労働等々の交換であるからといって、長靴の価値は画家の労働によって最も正しく評価されるであろうか? フランクリンは逆に、長靴、鉱産物、紡糸、絵画等々の価値は、なんら特殊な質をもたない、したがってたんなる量によって測ることのできる抽象的労働によって規定される、と考えたのである〔*〕。しかし彼は、交換価値にふくまれている労働を、抽象的一般的労働、個人的労働の全面的外化から生じる社会的労働として展開しなかったから、必然的に、この外化した労働の直接的存在形態である貨幣を誤解した。だから彼にとっては、貨幣と交換価値を生みだす労働とは、なんら内面的な関連をもたず、貨幣はむしろ、技術的な便宜のために交換のなかへ外からもちこまれた用具なのである〔**〕。フランクリンの交換価値の分析は、経済学の一般的歩みにたいしては直接の影響をあたえないままにとどまった。なぜならば、彼はただ経済学の個々の問題を一定の実践上の機会にきいして取り扱ったにすぎなかったからである。
 〔*〕 前掲書。『アメリカの紙幣にかんする論評と事実』、1764年。
 〔**〕 『アメリカ政治論集』。所収、『アメリカの紙幣にかんする論評と事実』、1764年、を参照(前掲個所)。》(国民文庫65-6頁)

 (なお【付録】は字数の関係で、「その3」に掲載します。)

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第16回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2009-10-06 10:20:23 | 『資本論』

第16回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

 

【付録】

 ここでは、今回検討した、それぞれのパラグラフに関連した、他の文献からの引用文を紹介しておきましょう(下線はすべてマルクスによる強調)。

◎第4パラグラフに関連したもの

《初版本文》

 《価値としては、リンネルはただ労働だけから成っており、透明結晶した労働の凝固をなしている。しかし、現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは、しかもどの商品体でも.労働の痕跡を示しているというわけではないが、その労働は無差別な人間労働ではなく、織布や紡績などであって、これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく、むしろいろいろな自然素材と混和されているのである。リンネルを人間労働の単に物的な表現として把握するためには、それを現実に物としているところのすべてのものを無視しなければならない。それ自身抽象的であってそれ以外の質も内容もない人間労働の対象性は、必然的に抽象的な対象性であり、一つの思考産物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。ところが諸商品は諸物である。諸商品がそれであるところのもの、諸商品は物的にそういうものでなければならない。言い換えれば、諸商品自身の物的な諸関係のなかでそういうものであることを示さなければならない。リンネルの生産においては一定量の人間労働力が支出されている。リンネルの価値は、こうして支出されている労働の単に対象的な反射なのであるが、しかし、その価値は、上着にたいするリンネルの物体において反射されているのではない。その価値は、上着にたいするリンネルの価値関係によって、顕現するのであり、感覚的な表現を得るのである。リンネルが上着を価値としては自分に等置していながら、他方同時に使用価値としては上着とは区別されているということによって、上着は、リンネル-物体に対立するリンネル-価値現象形態となり、リンネルの現物形態とは違ったリンネルの価値形態となるのである(18)。

 (18)それゆえ、リンネルの価値を上着で表わす場合にはリンネルの上着価値と言い、それを穀物で表す場合にはリンネルの穀物価値と言ったりするのである。このような表現は、どれもみな、上着や穀物などという使用価値に現われるものはリンネルの価値である、ということを意味して.いるのである。》(国民文庫版46-7頁)

《補足と改訂》

 〈                 [B]
 商品の分析はわれわれに次のような結論をあきらかにした。すなわち,価値としては全ての商品は,その肉体のさまざまな多様性にもかかわらず,同じ単位のたんなる表現であり,すなわち質的に等しい,ということである。しかしながら,商品自身はあいかわらず,その価値性格のほんの少しの徴候をも自分からは示すことなく,生まれたままの自然形態にとどまっている。

 価値としては、リンネルはただ支出された人問的労働力だけから成り立っており,そしてそれゆえ,透明に結晶した労働凝固体を成している。しかし,現実にはこの結晶体は非常に濁っている。この結晶体のなかに労働が発見されるかぎりでは,しかもどの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが,その労働は無差別な人間的労働ではなくて,織布や紡績などであって,これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく,むしろいろいろな自然素材と結びついているのである。それゆえ,リンネルをそれの生産に支出された人間的労働力の単なる物的表現として把握するためには,それを現実に物としているものすべてを無視しなければならない。それ自身抽象的でありそれ以外の質も内容ももたない人間的労働のそのものの対象性は,必然的に抽象的対象性であり,一つの思考物である。こうして亜麻織物は頭脳織物となる。〉(63頁)

《フランス語版》

 〈われわれが、すべての商品は価値としては結晶した人間労働にほかならないと言えば、われわれの分析は、これらの商品を価値という抽象概念に還元しているのであるが、その前にも後にも、商品はただ一つの形態、すなわち有用物という自然形態しか所有していない。ある商品が他の商品と価値関係に置かれるやいなや、事情が全く変わる。この瞬間からある商品の価値性格は、他の商品にたいする自己の関係を規定するところの固有な属性として、現われ、確認されるのである。〉(21頁)

◎第5パラグラフに関連したもの

《初版本文》

 《20エレのリンネル=1着の上着、あるいはxエレのリンネルはy着の上着に値する、という相対的価値表現においては、上着は確かに、価値あるいは労働膠着物としてのみ認められているが、まさにそのために、労働膠着物は上着として認められ、上着は、そのなかに人間労働が凝結しているところの形態として認められているのである(18a)。使用価値である上着がリンネル価値の現象形態になるのは、リンネルが、抽象的な人間的な労働の、つまりリンネル自身のうちに対象化されている労働と同種の労働の、直接的な具象物としての・上着という素材に、関係しているからにほかならない。上着という対象は、リンネルにとっては、同種の人間労働の感覚的な・手でつかみうる・対象性として、したがって現物形態においての価値として、認められている。リンネルが価値としては上着と同じ本質をもっているから、上着の現物形態が、このように、リンネル自身の価値の現象形態になるわけである。だが、使用価値である上着のうちに表わされている労働は、単なる人間労働ではないのであって、裁断労働という特定の有用な労働である。単なる人間労働、人間労働力の支出は、確かにどのようにでも規定できるが、それ自体としては無規定である。それは、人間労働力が特定の形態で支出されるときにだけ、特定の労働として実現され対象化されうるのである。というのは、特定の労働にたいしてのみ、自然素材が、すなわち労働が対象化されている外界の物質が、相対するからである。ひとりヘーゲルの「概念」だけが、外界の素材なしで自己を客観化することを達成している(19)。

(18a)ある意味では、人間も商品と同じである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるものでもなければ、我は我なりというフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は自分をまず他人のなかに映し出してみる。人間ペテロは、自分と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて、人間としてての自分自身に関係する。ところが、ペテロにとっては、パウロの全身がまた、パウロのパウロ然なたる肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである。
(19)「概念は、初めは主観的でしかないが、外界の物質あるいは素材を必要とせずに、自己自身の活動に適合しながら自己を客観化することへと前進する。」へーゲル『論理学』、三六七ページ。所収、『エンチクロペディー、第一部、ベルリン、1840年。』

 リンネルは、人間労働の直接的実現形態としての裁断労働に関係することがなければ、価値あるいは具体化した人間労働としての・上着に、関係することができない。だが、リンネルをして上着という使用価値に興味を抱かせるものは、上着がもっている羊毛製の快適さでもなければ、ボタンをかけた上着の恰好でもなければ、上着に使用価値の特徴を与えている他のなんらかの有用な品質でもない。上着は、リンネルにとっては、リンネルの価値対象性をリンネルの糊で固めた使用対象性と区別して表わすということにしか、役立っていない。リンネルは、自分の価値をあぎ剤〔あぎは植物名。あぎ剤は駆虫剤、通経剤などのことを言う〕とか乾燥人糞とか靴墨とかで表現しても、同じ目的を達したであろう。だから、裁断労働がリンネルにとって同じように有効であるのも、それが目的にかなった生産活動あるいは有用な労働であるかぎりにおいてのことではなくて、それが特定の労働として人間労働一般の実現形態すなわち対象化様式であるかぎりにおいてのことでしかない。リンネルがその価値を上着ではなく靴墨で表現したならば、リンネルにとっては、裁断の代わりに靴墨作りが同じく、抽象的な、人間的な、労働の・直接的実現形態として認められたであろう(19a)。つまり、ある使用価値あるいは商品体が価値の現象形態あるいは等価物になるのだが、このことは、別のある商品が、上記の使用価値あるいは商品体のなかに含まれている、具体的な、有用な、労働種類--抽象的な、人問的な、労働の・直接的実現形態としての--に関係する、ということに依拠しているものでしかない。

(19a)すなわち、靴墨の調整そのものが靴墨作りと俗に呼ばれているかぎりでは。

 われわれはここでは、価値形態の理解を妨げているあらゆる困難の噴出点に立っている。商品の価値を商品の使用価値から区別すること、または、使用価値を形成している労働を、たんに人間労働力の支出として商品価値のなかに計算されているかぎりでのその同じ労働から区別することは、比較的容易である。商品または労働を一方の形態において考察するぱあいには、それを、他方の形態においては考察しないのであって、逆のばあいには逆になる。これらの抽象的な対立は、おのずから分離するものであり、したがって区別しやすい。商品にたいする商品の関係においてのみ存在する価値形態については、そうではない。使用価値あるいは商品体が、ここでは、ある新しい役割を演じている。それは、商品価値の・したがってそれ白身の反対物の・現象形態になる。同様に、使用価値のなかに含まれている具体的な、有用な、労働は、それ自身の反対物、すなわち、抽象的な、入間的な、労働の・単なる実現形態になる。商品の対立しあっている諸規定がここでは、分離するのではなく、互いに相手のうちに反射しあっている。このことは、一見したところいかにも奇妙であるが、さらに深く熟慮すると、必然的であることが明らかになる。商品はもともと、ある二面的な物、使用価値にして価値、府用な労働の生産物にして抽象的な労働膠着物なのである。だから、自分をそのあるがままのものとして表わすためには、商品はその形態を二重にしなければならない。使用価値という形態のほうは、商品が生まれつきもっているものである。この形態は、商品の現物形態である。価値形態のほうは、商品が他の諸商品との関係において初めて手に入れるものである。ところが、商品の価値形態は、それ自身やはり対象的な形態でなければならない。諸商品がもっている唯一の対象的な形態は、自分たちの使用姿態、自分たちの現物形態である。ところで、一商品たとえばリンネルの現物形態は、この商品の価値形態の正反対物であるから、この商品は、一つの別の現物形態、すなわち別の一商品の現物形態を、自分の価値形態にしなければならない。この商品は、自分自身にたいしては直接に行ないえないことを、直接に他の商品にたいして、したがって回り道をして自分自身にたいして、行なうことができるのである。この商品は、自分の価値を、自分自身の体躯であるいは自分自身の使用価値で、表現することはできないが、直接的な価値存在としての・一つの別の使用価値あるいは商品体に、関係することができる。この商品は、自分自身のなかに含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、関係することができなくても、別の商品種類に含まれている、抽象的な、人間的な、労働の・単なる実現形態としての具体的労働には、もちろん関係することができる。そうするためにこの商品に必要なことは、別の商品を等価物として自分に等置する、ということだけである。一商品の使用価値が別の一商品にたいして一般的に存在しているのは、この使用価値がこのようなやり方で別の一商品の価値の現象形態として役立っている、というかぎりにおいてのことでしかない。単純な相対的価値表現である x量の商品A=y量の商品B のなかに、量的な関係だけを考察すると、見いだされるのはまたも、相対的価値の変動にかんする前述の諸法則だけであって、これらの法則はすべて、諸商品の価値量はそれらの商品の生産に必要な労働時間によって規定されている、ということにもとついているのである。ところが、両商品の価値関係をそれの質的な側面から考察すると、上述の単純な価値表現のなかに、価値形態の秘密を、したがってまた、一言で言えば貨幣の秘密を、発見することになる(20)。

(20)へーゲル以前には、本職の論理学者たちが判断および推論の範例の形態内容さえをも見落としていたのだから、経済学者たちが素材について関心をもつことにすっかり影響されて、相対的価値表現の形態内容を見落としてきたということは、怪しむにあたらない。》(江夏訳37-40頁)

《初版付録》

 〈c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実

 上着が価値であるのは、ただ、それがそれの生産において支出された人間労働力の物的な表現であり、したがって、抽象的な人間労働の凝固であるかぎりにおいてのみのことである--抽象的な労働であるのは、上着のなかに含まれている労働の特定の、有用な、具体的な性格からは抽象されているからであり、人間労働であるのは、労働がここではただ人間労働力一般の支出としてのみ物を言うからである。したがって、リンネルは、人間労働を唯一の素材としている一物体としての上着に関係させられることなしには、一つの価値物としての上着に関係することはできないし、言い換えれば、価値としての上着に関係させられることはできない。ところが、価値としては、リンネルも同じ人間労働の凝固なのである。だから、この関係のなかでは、上着という物体が、リンネルと自分とに共通な価値実体すなわち人間労働を代表しているのである。だから、この関係のなかでは、上着はただ価値の姿としてのみ、したがってまたリンネルの価値姿態としてのみ、リンネル価値の感覚的な現象形態としてのみ、認められているのである。こうして、価値関係を媒介として、一商品の価値は、他の一商品の使用価値において、すなわち、他の、自分自身とは種類の違う一商品体において、表現されるのである。〉(文庫版135頁)

《補足と改訂》

 〈                [B]
                   ◇
 それゆえ,価値関係--他の商品との交わり--のなかでリンネルの価値は使用対象性とは異なった表現を獲得する。しかし,どのようにしてか。リンネルが上着に等しいものとして表現されることによってである,それはちょうど,キリスト教徒の羊的性格が神の仔羊との同等性において現れるのと同じである。
 しかし,上着,上着商品の身体は一つの単なる使用価値である。それゆえ,リンネルの価値はそれとは反対のもの,他の何らかの種類の使用価値,それが何であれとにかく使用価値で,表現される。しかしながら,使用価値上着が価値を表現していないのは,リンネルの任意の一片が価値を表現していないのと同じである。このことは,同じ上着が,リンネルの自分との関係のなかではこの関係の外部におけるよりも,多くの意味をもつ,ということを示すだけである。ちょうど,多くの人間は金モールで飾られた上着の中ではその外でよりも多くの意味をもっように。
 上着の生産においては,裁縫労働という形態のもとに,人間的労働力が実際に支出され,したがって,上着のなかに人間的労働が堆積されている。それゆえ,この面からすれば,上着体は価値の担い手である。もっとも,上着のこの属性そのものは,上着がどんなにすり切れてもその糸目から透けて見えるわけではないが。そして,リンネルの価値関係のなかでは,上着はただこの面だけから通用する。リンネルが自分に等しい物としての上着体に閑係するのは,上着が価値体であるからであり,そしてそのかぎりでのことである。
 いまや,明かになったことは,リンネルはその価値を上着と等しい物としての表現を通して、使用価値上着における自分自身の価値の表現を通してのみ,あますところなく表現された、ということである。〉
 〈リンネル商品は,当然のことながら頭脳をもたないのであるから,その価値を形成している労働がどの種類のものであるかを表現するために、他の方法でそれをはじめる。自分に質的に等しい物としての,価値物としての上着との関係は、上着に潜んでいる労働をリンネルにひそんでいる労働に等置する。ところで,確かに,上着をつくる裁縫労働は,リンネルをつくる織布労働とは種類の異なる具体的労働である。しかし,織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のなかの現実に等しい物に、人間的労働一般という両方に共通な性格に、実際に還元する。この回り道を通ったうえで,織布労働も,それが価値を織り出す限りにおいては,裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと,すなわち抽象的人間的労働であること,が語られるのである。〉

《フランス語版》

 〈上衣がリソネルの等価物として置かれるならば、上衣に含まれている労働は、リンネルに含まれている労働と同一であると確認される。確かに、裁断は機織とはちがう。だが、機織にたいする裁断の等式は事実上、裁断を、機織と現実に共通なものに、人間労働という性格に還元する。このような回り道をして、機織は、それが価値を織るかぎりでは衣類の裁断と区別されないということが、すなわち、抽象的な人間労働であるということが、表現されるのである。したがって、この等式は、リンネルの価値を構成する労働の独自な性格を表現している。〉(21頁)

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