第33回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎大地震と原発事故
東北・関東地方が大地震と大津波によって壊滅的な被害を受けました。何万もの人命が失われ、何十万もの人々が住む家を失いました。引き続く福島原発の事故による放射能の恐怖は首都圏をも巻き込みつつあります。全国や世界からも多くの支援の手がさしのべられ、官民上げて原発の暴走をくい止めようと必死の対策がとられています。それらが奏効し、災害からの復興と事故拡大が未然に防止されることを願うばかりです。
第33回「『資本論』を読む会」はこうした大変なときに開催されました。今回から第1章の第4節「商品の物神的性格とその秘密」に入りました。今回はいつも報告を担当して頂いているピースさんがお休みなので、JJ富村さんがピンチヒッターで報告を担当してくれました。ピースさんもいつもレジュメを準備してくれていますが、JJ富村さんも大変丁寧なレジュメを準備してくれました。今回は三つのパラグラフを進んだだけでしたが、その内容を報告しましょう。
◎商品の神秘的性格はその使用価値から来るものではない
今回も、まず最初にパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに(イ)、(ロ)、……と記号をうち、それぞれについて平易に解説することにします。まず最初は第1パラグラフです。
【1】〈(イ)商品は、一見、自明な、平凡な物らしく見える。(ロ)商品の分析は、商品が形而上学的な小理屈と神学的な小言に満ちた非常にやっかいなしろ物であるということを明らかにする。(ハ)商品が使用価値である限り、その諸属性によって人間の諸欲求を満たすという観点から見ても、あるいは、人間労働の生産物としてはじめてこれらの諸属性を受け取るという観点から見ても、商品には神秘的なものは何もない。(ニ)人間がその活動によって自然素材の諸形態を人間にとって有用な仕方で変えるということは、感性的に明らかなことである。(ホ)たとえば、木材でテーブルがつくられれば、木材の形態は変えられる。(ヘ)にもかかわらず、テーブルはあい変わらず木材であり、ありふれた感性的なものである。(ト)ところが、テーブルが商品として登場するやいなや、それは感性的でありながら超感性的なものに転化する。(チ)それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する(25)。〉
(イ)商品は、一見すると、自明で、平凡なもののように見えます。
(ロ)ところが、「商品とは何か」と商品の分析を開始すると、それは非常にやっかいなものであるということが明らかになります。それは形而上学的な理屈や神学的な小言に満ちたものであるかにさえ見えるのです。
この二つの文節は、いわばこの第4節全体の導入部分のように思えます。つまりこれまでの第1章の商品の分析(第1節~第3節)を振り返って、この節(第4節)での課題を明らかにしているものと思えます。少し、その意味を込めて、書き直すと次のようになるかと思います。
〈商品というのは、われわれが日常目にしているものであり、それ自体は、ありふれたものです。しかしこれまでわれわれは商品を分析し、「商品とは何か」を考察してきたのですが、その過程で明らかになったように、「商品とは何か」を明らかにしようとすると、恐ろしくやっかいな代物であることが分かりました。そのためには、ややこしい形而上学的ともいえる理屈をこねなければならず、わけのわからない神学的な小言と同じようなことを論じなければならなかったわけです。どうして商品とは、こんなわけの分からないものなのでしょうか。これが分からないと、「商品とは何か」ということを十分に解明したとは言えないのではないでしょうか。
つまりこれまで、われわれは商品にはどうして値札がついているのかを、貨幣の発生を辿ることによって明らかにして、われわれが日常見ている商品のありのままの姿がどうしてそうなっているのかを解明したのです。しかしその解明が、どうしてあのように難しい説明にならざるを得ないのか、どうして商品というのは、そうしたわけの分からない、やっかいな説明を必要とするものなのかが、実はまだ十分解明されているとはいえないわけです。だからそれが説明されて、初めて、われわれは「商品とは何か」について十全に理解したといえるでしょう。それをこれから説明することにしましょう。〉
まあ、だいたい、こういう内容をここで言いたいわけです。そしてこれがこの第4節の課題を説明することでもあるわけです。
(ハ)商品をその使用価値の属性で見るなら、それは人間の諸欲求を満たすということや、あるいは、それが人間労働の生産物であり、そうした生産によってそうした欲求を満たす属性を受け取ったのだということなどについては、まったく神秘的なものは何もないわけです。
ここからは、まず商品の一つの属性である使用価値そのものには、何の神秘的なものはないということから、商品の神秘性はどこから来るのかを説明するための前提として、商品の何については神秘的ではないのかをまず見極めることから始めているといえます。そしてその上で、では、商品の神秘的性格はどこから来るのかを説明しようとしているわけです。だから最初の二つのパラグラフそのものは、この節の本論の前提ともいうべきものなのかも知れません。
(ニ)人間がその活動によって自然素材をさまざまにその形態を変えて、人間にとって有用なものに作り替えるということは、まったく感覚的にも理解できることであり、明らかなことです。
(ホ)(ヘ)例えば、木材でテーブルを作るならば、木材の形態は変えられますが、しかし、依然としてテーブルは木材であり、ありふれた感覚的に捉えられるものであり続けます。
ここまでは、とにかく商品の使用価値やそれをつくる労働についても、何も神秘的なものはないことが指摘されています。
(ト)(チ)ところが、テーブルがひとたび商品として登場するやいなや、それは感性的存在でありながら、それ以上のもの、超感性的なものに転化するのです。テーブルはその脚で床に立っているだけではなくて、他の商品に対しては頭で立ち、そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりはるかに奇妙な妄想を展開するようになるのです。
これまでの考察のように商品の使用価値を問題にしている限りでは、それらはすべて感性的に、つまりわれわの五感で捉えられるものであり、だからわれわれにとっては神秘的なものは何もないのですが、しかし、商品の神秘性は商品が他の商品との関係のなかで捉えられるようになると、その神秘的な性格が現われてくるのだということが、ここでまず指摘されています。それをやや文学的な表現でなされているといえるでしょう。
学習会では、まず〈それは、その脚で床に立つだけでなく、他のすべての商品に対しては頭で立ち〉の部分について、報告者のレジュメでは〈他のすべての商品に対して価値関係を取り結ぶ。脚で立つ机, 即ち, 使用価値としてではなく, 価値, 交換価値として振る舞う〉との説明がありました。これはその通りなのですが、なぜ〈頭で立ち〉と説明されているのかが今一つよく分かりません。価値関係を取り結ぶということは、他の商品との違いを示している商品の使用価値を生み出した有用な労働の諸属性を捨象して、他の商品との共通なもの、抽象的な人間労働が対象化したものに還元する必要があるわけです。そうすると、それは抽象の産物となり、そういう意味で頭の産物だから、このように述べているのではないか、という説明がありました。初版本文には次のような説明もあります。
〈リンネルを人間労働の単なる物的な表現として把握するためには、リンネルを現実に物にしているところのいっさいのものを、なによりもまず捨象しなければならない。それ自身抽象的であってその他には質も内容ももたない人間労働の対象性は、必然的に、抽象的な対象性、すなわち思考産物である。こうして亜麻織物は幻想になる。〉(江夏訳36頁)
またレジュメでは、〈そしてその木の頭から、テーブルがひとりでに踊りだす場合よりもはるかに奇妙な妄想を展開する〉の部分がよく分からないと「?」マークがついていましたが、これはこれまでの展開を振り返って論じているのではないか、つまり価値形態の発展を論じた部分の難しい展開を〈奇妙な妄想の展開〉ともじっているのではないか、との意見がありました。
さらに、第4節の表題は〈商品の物神的性格とその秘密〉ですが、そもそも〈物神的性格〉とは何だろうということになりました。レジュメでは平凡社の百科事典の「フェティシズム」の項からの引用が紹介されていましたが、〈物神〉というのは、物を神のように崇めるということ。例えば奇岩・奇石などを神が宿るものとして崇めたり、巨大な古木をご神木として崇めるというような例が紹介されました。しかし単に物を神として崇めるというだけでは、〈物神的性格〉の理解としては不十分ではないか、との指摘もあり、有井行夫著『マルクスはいかに考えたか』の内容の紹介など色々と議論がありましたが、その内容をすべて紹介してしまうと、この節の内容を先取りしてしまいかねず、よって今回は割愛したいと思います。それについてはまた論じる機会があるかと思います。
この第1パラグラフについている注25についても簡単に議論しましたので、それも紹介しておきましょう。
【注25】〈(25) 世界の残りの部分がすべて静止しているように見えた時に、中国〔China、「陶器」と同文字〕とテーブルが踊りだした--“ほかのものたちを励ますために pour encourager les autres ”--ということが思い出される。〉
これに関しては、レジュメでは全集版の注解28で次のような説明があると紹介されていました。
〈全集版の注解(28) ほかのものを励ますために(pour encourager les autres)
1848-49年の革命の敗北後、ヨーロッパでは暗い政治的反動期が始まった。そのころヨーロッパ貴族仲間は、またブルジョア仲間も霊交術や特に卓踊術に熱中していたが、他方、シナでは特に農民のあいだに強力な反封建的解放運動が広がっており、それは太平天国の乱として歴史に残っている。〉
また新日本新書版では次のような説明があることも紹介されました。
〈〔テーブルや陶器が踊るというのは心霊術の一種で、1848年の革命の敗北後ヨーロッパで大流行したが、マルクスはここで、1850年から起こった太平天国運動とそれをかけている。「中国問題」、邦訳『全集』、第15巻、490頁参照。なお、「ほかのものたちを励ますために」は、ヴォルテール『カンディード』、第23章からとられている。吉村正一郎訳、岩波文庫、129頁〉
全集版の「中国問題」の当該箇所については、埼玉・所沢の「『資本論』を読む会」のサイトでは次のように紹介されていました。
《この中国革命で独特なのは、実際はただその担当者だけである。彼らは、王朝の交替ということを除いては、どのようなスローガンももっていない。彼らは旧統治者によるよりも人民大衆によってよけいに恐れられている。彼らの使命は、保守的老衰に対立して、怪奇な、いとわしい形態における破壊、なんらの新しい建設の萌芽ももたない破壊を代表する以外にはなにもないかのように思われる。》(全集第15巻490頁)
とりあえず、この注25については、こうした資料だけを紹介しておきます。
(以下は「その2」に続きます。)