『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(1)

2024-02-15 20:56:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(1)


◎序章B『資本論』の著述プランと利子・信用論(5)(大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №9)

  第1巻の〈序章B 『資本論』の著述プランと利子・信用論〉の第5回目です。〈B 『1861-1863年草稿』における利子と信用〉の〈(1)「資本一般」への「多数資本」の導入〉という小項目のなかで、大谷氏は〈この『1861-1863年草稿』の執筆中に,マルクスは平均利潤率の形成と価値の生産価格への転化の問題を基本的に解決したが,これを「資本一般」のなかで取り扱うことにした結果,プランに重大な変更を加えることになった。〉(93頁)と述べています。
  ここで簡単にいわゆる「プラン問題」について触れておきましょう。マルクスは『経済学批判』(1859年)の「序文」の冒頭〈私はブルジョア経済の体制をこういう順序で、すなわち、資本土地所有賃労働、そして国家対外商業世界市場という順序で考察する。〉(草稿集③203頁)と述べています。これがいわゆる「6部構成」と言われるものです。そのあとマルクスは「資本一般」をまず論じていますが、これは上記の6部構成の最初のものでしょう。しかし現行の『資本論』には地代や賃労働についても考察の対象になっており、何よりも「資本一般」では、多数の資本が捨象されていますが、現行版では当然のことながら、入っています。だから『資本論』は当初のマルクスのプランからどのような変遷を経て現在の構成になったのか、というのが、いわゆる「プラン問題」なわけです。
  大谷氏は、そのマルクスのプランが大きく変更されたのは『資本論』の草稿である『61-63草稿』においてだと論じているわけです。
 もちろんマルクスが『61-63草稿』のなかでプランを大きく変更したことは事実ですが、しかし『61-63草稿』のなかで〈マルクスは平均利潤率の形成と価値の生産価格への転化の問題を基本的に解決した〉というのにはやや疑問があります。というのは前回見ましたように、マルクスはすでに『要綱』の段階でも一般利潤率と形成と価値の生産価格への転化を論じているからです。すでに前回紹介しましたが、もう一度、そのさわりの部分だけ紹介しておきましょう。

  〈市場価格としての価格,または一般的価格。それから,一つの一般的利潤率の措定。そのさい,市場価格によって諸資本はさまざまの部門に配分される。生産費用の引き下げ,等々。要するに,ここではいっさいの規定が,資本一般〔CapitahmAllgemeinen〕におけるのとは逆となって現われる。さきには価格が労働によって規定されたが,ここでは労働が価格によって規定される,等々,等々。〉(『経済学批判要綱』。MEGAII/1.2,S.541.)〉(117頁)

  大谷氏は『61-63草稿』のなかでマルクスがプランを変更していく過程を詳細に跡づけ、その第一歩として次のように述べています。

  〈「第3章 資本と利潤」は,「批判」体系プランの「両過程の統一,資本と利潤・利子」にあたるものであるが,利潤率低下法則までで中断している。ここで注目されるのは,剰余価値の利潤への転化には,剰余価値が前貸総資本との関連で利潤という形態を受けとる「形態的転化」と,平均利潤率が成立して諸資本が生む剰余価値とそれらに帰属する利潤とが量的に異なるようになる「実体的転化」との二段階があり,後者は前者の「必然的帰結」だとされていることである〔25〕〔26〕〔27〕。そこで,「 資本一般」は 「多数資本」を捨象したものであったから,ここでは本来,「多数資本」を前提する「実体的転化」は論じえないはずであったにもかかわらず,マルクスは次のように書く。
 「この点の詳細な考察は競争の章に属する。しかしながら,明らかに一般的であること〔das entscheidend Allgemeine〕はここでもやはり説明されなければならない。」〔28〕
 すなわち,「実体的転化」に関する「明らかに一般的であること」は「資本一般」のなかでも論じる,というのである。これは,「多数資本」捨象という,「資本一般」の対象限定を放棄する第一歩であった。しかしここでもまだ,「標準価格」(=生産価格)を「詳しく研究することは競争の章に属する」〔29〕として,この点をほとんど論じていないし,超過利潤は「まったくこの考察には属さない」〔30〕としていた。〉(93-94頁)

  次はその第二歩ですが、次のように論じています。

  〈ところが,このあと「諸学説」にはいって,ロートベルトゥスの地代論とリカードウの地代論との検討のなかで平均利潤率および生産価格をめぐる諸問題に基本的に決着をつけると,さらに第二歩を進めることになった。マルクスは,「諸学説」も終わりに近いノートXVIIIに『資本論』の第1部と第3部とのプランを三つ記したが,その最初のものがまさに,「資本と利潤」のうちの「一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章」のプラン〔31〕であって,ここではすでに有機的構成を異にする諸部門の諸資本が考察のなかに完全に取り入れられており,その4では「一般的利潤率の形成(競争)」が論じられることになっている。そのあとに書かれた「資本と利潤」のプラン〔32〕(以下,「資本と利潤」プランと呼ぶ)では,その2が「利潤の平均利潤への転化。一般的利潤率の形成。価値の生産価格への転化」であり,4には,「価値と生産価格との相違の例証」として「地代」を予定している。ここにいたって,「多数資本」捨象という対象の限定は取り払われ,かつては「競争」のなかではじめて論じられるはずであった市場価格,市場価値,生産価格などの諸範疇とそれらを成立させる競争とが,「資本一般」のなかですでに論じられることになったのである18)。〉(94頁)

  大谷氏がここで紹介しているマルクスのプランを章末注から抜粋しておきます。ただしマルクス自身は入れていない改行を入れて、分かりやすくしたものです。
  まず〈「資本と利潤」のうちの「一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章」のプラン〔31〕〉についてです。(なお第2章というのは、現行版の第2篇に該当します。)

  〈〔31〕「{「資本と利潤」に関する第3部のうち,一般的利潤率の形成が取り扱われる第2章では,次の諸点を考察するべきである。
  1.諸資本の有機的構城の相違。これは,一部には,生産段階から生じるかぎりでの可変資本と不変資本との区別によって,機械や原料とそれらを動かす労働量との絶対的な量的比率によって制約されている。このような区別は,労働過程に関連がある。また,流通過程から生じる固定資本と流動資本との区別も考察するべきである。それは,一定の期間における価値増殖を,部面の異なるにつれて相違させる。
  2.違った資本の諸部分の価値比率の相違で,それらの資本の有機的構成から生じるのではないところの相違。こうしたことが生じるのは,価値,とくに原料の価値の相違からである。たとえ原料が二つの違った部面で等量の労働を吸収すると仮定しても,そうである。
  3.これらのいろいろな相違の結果として生じる,資本主義的生産のいろいろに違った部面における利潤率の多様性。利潤率が同じで利潤量が充用資本の大きさに比例するということは,構成などを同じくする諸資本についてのみ正しい。
  4.しかし総資本については,第1章で展開したことがあてはまる。資本主義的生産においては各資本は,総資本の断片,可除部分として措定される。一般的利潤率の形成。(競争。)
  5.価値の生産価格への転化。価値と費用価格と生産価格との相違。}
  {6.リカードウの理論をさらに取り上げるために。労賃の一般的変動が一般的利潤率に,したがって生産価格に及ぼす影響。}」(『1861-1863年草稿』。MEGAII/3.5,S.1816-1817.)〉(125頁)

  次は〈そのあとに書かれた「資本と利潤」のプラン〔32〕(以下,「資本と利潤」プランと呼ぶ)〉についてです。

  〈〔32〕「第3篇「資本と利潤」は次のように分けること。1.剰余価値の利潤への転化。
剰余価値率と区別しての利潤率。2.利潤の平均利潤への転化。一般的利潤率の形成。価値の生産価格への転化。3.利潤および生産価格に関するA.スミスおよびリカードウの学説。4.地代。(価値と生産価格との相違の例証。)5.いわゆるリカードウ地代法則の歴史。6.利潤率低下の法則。A.スミス,リカードウ,ケアリ。7.利潤に関する諸学説。シスモンディやマルサスをも「剰余価値に関する諸学説」のうちに入れるべきかどうかの問題。8.産業利潤と利子とへの利潤の分裂。商業資本。貨幣資本。9.収入とその諸源泉。生産過程と分配過程との関係に関する問題もここで取り上げること。10.資本主義的生産の総過程における貨幣の還流運動。11.俗流経済学。12.むすび。「資本と賃労働」。」(『1861-1863年草稿』。MEGAII/3.5,S.1861.)〉〉(125-126頁)

  この段階では、現行の『資本論』の構成に近づいたとはいえ、まだまだ開きがあります。今回は、とりあえず、マルクスが『61-63草稿』の段階で如何にして自身の経済学批判のプランを変更して『資本論』の叙述に近づいていったかを紹介するだけにします。

  それでは本来の問題に移りましょう。今回は「第8章 労働日」「第7節 標準労働日のための闘争  イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」です。これは第8章の締めくくりの節です。


第7節 標準労働日のための闘争  イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応



◎第1パラグラフ(われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけである。)

【1】〈(イ)読者の記憶にあるように、労働が資本に従属することによって生産様式そのものの姿が変えられるということは/まったく別としても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしている。(ロ)やはり読者の記憶するように、これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。(ハ)だから、われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけである。(ニ)しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的諸事実の関連だけからでも、次のようなことが出てくる。〉(全集第23a巻391-392頁)

  (イ) 読者の記憶にありますように、労働が資本に従属することによって生産様式そのものの姿が変えられるということはまったく別としましても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしています。

  第7節には「イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」という副題が付いていますが、この節は第8章の締めくくりであり、まとめの性格も持っています。最初と(第3パラグラフまでは)、最後の部分(第6,7パラグラフ)ではそれが問題にされています(だから「諸外国に起こした反応」が問題になっているのは第4,5パラグラフになります)。
  まずここでは労働が資本に従属するということは、最初は形態的な包摂によって絶対的な剰余価値の生産が問題になりましたが、しかし資本主義的生産の本質は労働の実質的包摂、つまり生産様式そのものが資本主義的なものに変質させられることなのです。しかしそれらはまだ私たちは問題にしていません(それは相対的剰余価値の生産が問題になるときに問題にされます)。
  しかしこれまでの絶対的剰余価値の生産の範囲内でも十分に資本主義的生産の独自な性格として、剰余価値の生産あるいは剰余労働の搾取が資本に固有のものであることが明確になったと思います。

  (ロ) やはり読者が記憶していますように、これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのです。

  また第2篇の「貨幣の資本への転化」や第3篇の「絶対的剰余価値の生産」のうち第5章から第7章までにおいて前提していた労働者や労働力というのは、ただ独立した法定の年齢に達した成年労働者だけを暗黙の了解事項としており、彼らが自らの労働力商品の売り手として、資本家と契約を結ぶと考えられてきました。

  (ハ) だから、これまでの私たちの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業が、他方では肉体的にも法律的にもまだ未成年な人々の労働が主役を演じているとしますと、その場合私たちにとっては、前者はただ労働搾取の特殊な部面として、後者はただその特に適切な実例として、認められていただけです。

  だから第8章において取り上げた労働日をめぐる資本家階級と労働者階級との闘争において、一方は近代的産業のもっとも典型的な部門であった繊維産業が取り上げられ、他方では肉体的にも法律的にも未成年の労働者が主演を演じてきたのでした。
  だからこれらの歴史的素描では、労働搾取の特殊な部面と、その搾取のもっとも適切な実例として取り上げられたものといえます。

  (ニ) しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的諸事実の関連だけからでも、次のようなことが出てきます。

  しかしこうした限られた歴史的素描とはいえ、こうした歴史的諸事実の関連からだけでも、次のような結論が出てきます。


◎第2パラグラフ(第一に。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化した。)

【2】〈(イ)第一に。(ロ)水や蒸気や機械によってまっさきに革命された諸産業で、すなわち近代的生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされる。(ハ)変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化する。(ニ)それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけである(187)。(ホ)それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門が本来の工場体制をとるようになっていただけではなく、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働(188)でさえも、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見いだされた。(ヘ)それゆえ、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである(189)。〉(全集第23a巻392頁)

  (イ)(ロ) 第一に。水や蒸気や機械によってまっさきに革命された諸産業で、すなわち近代的生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされのです。

  ここではこれまで素描された歴史的諸事実の連関から見いだされる結論の第一が問題にされています。すなわち、まず確認できることは、イギリスの産業資本が勃興した最初の産業部門、すなわち紡績業や織物業において、もっとも容赦のない労働日の延長が行われたということです。

  (ハ)(ニ) 変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係とは、まず無限度な行き過ぎを生みだし、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化しました。だから、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけでした。

  機械制大工業という物質的な生産様式の発展とともに、それに対応し規定された生産者の社会的諸関係が、そうした無限度な行き過ぎを生みだし、ついでそれに反対する労働者階級の闘いや社会的取り締まりを呼び起こしたのです。そしてその取り締まりというのが、労働日を法律によって規制することであり、標準労働日の制定だったということです。しかしこれまで19世紀の前半において歴史的に取り上げてきたものは、特定の産業部門や児童や少年等に限られており、その限りではそれらの法律も例外的な立法という性格も持っていたのでした。

  (ホ)(ヘ) それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門も本来の工場体制をとるようになっていただけではなくて、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働でさえも、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見いだされたのです。だから、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのです。

  しかしそうした社会的な取り締まりは、新しい生産様式がそれらの産業部門の領域を征服し終わったときには、他の多くの生産部門においても本来的な工場制度が導入されていただけではなくて、製陶業やガラス工業のような多かれ少なかれ古くさい経営様式をもつマニュファクチュアもすでに資本主義的搾取に陥っており、さらには製パン業のような古風な手工業においても、あるいは釘製造業のような分散した家内工業でさえも、やはり資本主義的搾取のもとに陥っていたのです。
  だから立法は、その例外的性格をしだいに捨て去るか、イギリスのように立法が事細かに決めなければ始まらないところでは、どんな家でも任意に工場(factory)だと宣言することによって、工場法の適用を広げる措置を取ったりしたのです。

  ここで〈ローマ的な決疑法〉という部分には、初版とフランス語版には〈〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕〉という訳者注が挿入されています。また親日本新書版には、次のよう訳者注が付いています。

  〈決疑論とは、疑わしい個々の場合を規範に従って解決する方法で、とくにローマ・カトリックのイエズス会派がこれを用いた。一般には詭弁を意味する。法律では、細かい解釈または同種の場合をもとに個々の問題を解決するやり方〉(519頁)


◎原注186

【原注186】〈186 「これらの階級」(資本家と労働者)「のそれぞれの態度は、それらが置かれていた相対的な立場の結果だった。」(『工場監督官報告書。1848年10月31日』、113ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)〉という本文に付けられた原注です。これは監督官報告書の一文ですが、資本家と労働者のそれぞれの態度は、それらが置かれていた立場の結果だったと述べていることから、マルクスは物質的生産様式の変化が、彼らの社会的諸関係を規制し変化させるという考えを素朴に言い表していると考えたのではないでしょうか。


◎原注187

【原注187】〈187 「制限を加えられた諸業種は、蒸気力または水力による繊維製品の製造に関連するものだった。ある事業に工場監督を受けさせるためには、その事業が満たさなければならない二つの条件があった。すなわち、蒸気力または水力の使用と、特に定められた繊維の加工とである。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、8ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけである(187)。〉という本文に付けられた原注です。
  19世紀前半の工場法は、特定の産業部門(紡績業と織物業)に限定されたものだったということが、監督官報告書のなかでも工場監督を受け入れさせる二つの条件として、一つは蒸気力または水力の使用と、繊維の加工がそれであると述べています。つまり例外的な部門に限定されていたことが述べられています。、


◎原注188

【原注188】〈188 このいわゆる家内的工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の諸報告のなかに非常に豊富な材料がある。〉(全集第23a巻393頁)

 これは〈そして最後に釘製造業などのような分散的ないわゆる家内労働(188)〉という本文に付けられた原注です。
  家内的工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告に非常に豊富な材料があるということです。
  そこで『資本論』のそれ以外ところで見ることができないか調べてみますと、「第18章 時間賃金」の原注41に次のようなものを見つけることができました。

  〈41 たとえばイギリスの手打ち釘製造工は、労働の価格が低いために、みじめきわまる週賃金を打ち出すためにも1日に15時間労働しなければならない。「それは1日のうちの非常に多くの時間を占めていて、その時間中彼は11ペンスか1シリングを打ち出すためにひどい苦役をしなければならない。しかも、そのなかから2[1/2]ペンスないし3ペンスは道具の損耗や燃料や鉄屑の代価として引き去られるのである。」(『児童労働調査委員会。第三次報告書』、136べージ、第671号。)女は同じ労働時間でたった5シリングの週賃金しかかせげない。(同前、137ページ、第674号。)〉(全集第23b巻711頁)


◎原注189

【原注189】〈189 「前議会」(1864年)「の諸法律は……いろいろに違った習慣の行なわれている種々雑多な職業を包括していて、機械を動かすための機械力の使用は、もはや、以前のように法律用語での工場を構成するために必要な諸要素の一つではなくなっている。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、8ページ。)〉(全集第23a巻393頁)

  これは〈それゆえ、立法は、その例外法的性格をしだいに捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場(factory)だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである(189)。〉という本文に付けられた原注です。
  つまり原注187では工場監督官を受け入れさせるためは、蒸気力または水力の利用、特に定められた繊維の加工という二つの条件を必要としたが、今では諸法律は、ざったな職種を包括していて、機械を動かすための機械力の利用は必要な諸要素ではなくなっているということです。つまり工場法はそれだけ多くの職種に適用され、例外的なものではなくなったということのようです。


◎第3パラグラフ(第二に。標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである。)

【3】〈(イ)第二に。(ロ)いくつかの生産様式では労働日の規制の歴史が、また他の生産様式ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していることは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということである。(ハ)それゆえ、標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのである。(ニ)この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる(190)。(ホ)イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった(191)。(ヘ)それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである(192)。〉(全集第23a巻393頁)

  (イ)(ロ) 第二に。いくつかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また他の生産部門ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していますことは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということです。

  まずフランス語版を紹介しておきます。

  〈第二には、幾つかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また、ほかの部門ではこの規制についていまなお続いている闘争が、明白に証明するところによると、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、資本主義的生産がある段階に達するやいなや、できるだけ抵抗するということもなしに屈服するのである。〉(江夏・上杉訳308頁)

  初版や全集版で〈生産様式〉とあるものは、フランス語版では〈生産部門〉に訂正されており、これの方が適切であることは確かです。
  要するにこれまでの歴史的素描からも分かりますが、いくつかの生産部門やいまなお闘争が続いている生産部門では、資本主義的生産の発展がある程度の成熟段階になると、孤立した労働者は、労働力の「自由な」売り手としてはまったく無力のままに資本に屈伏するということです。

  (ハ) だから、標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級とのあいだに多かれ少なかれ隠然と行なわれていた内乱の産物なのです。

  フランス語版です。

  〈したがって、標準労働日の設定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの長期で執拗な、また多かれ少なかれ隠蔽された内乱の結果である。〉(同上)

  だから労働日を制限するための標準労働日の設定は、孤立した労働者ではなく団結した労働者階級の、資本家階級とのあいだにおける長期で粘り強い闘い、また多かれ少なかれ隠された内乱の結果なのです。

  (ニ) この闘争は近代的産業の領域で開始されるのですから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられました。

  フランス語版です。

  〈この闘争は、近代的産業の領域で開始されたのであるから、それは、この産業の祖国にほかならないイギリスで、まず宣言されざるをえなかった(158)。〉(同上) 

  この労働者階級と資本家階級との闘争は、近代産業の発展とともに開始されたのですから、この産業が始まったイギリスにおいて、まず宣戦布告されたのです。

  (ホ)(ヘ) イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったのですが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だったのです。だからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのです。

  フランス語版です。

  〈イギリスの工場労働者は近代的労働者階級の最初の選手であったし、彼らの理論家は資本の理論を攻撃した最初の選手であった(159)。したがって、工場哲学者のドクター・ユアは、資本が「労働の完全な/自由(150)」のために男らしく闘ったのに反し、「工場法という奴隷制度」を自分たちの旗に書き記したのは、イギリスの労働者階級にとってぬぐいがたい恥辱である、と言明している。〉(江夏・上杉訳308-309頁)

  このようにイギリスの工場労働者は、近代的労働者階級の最初の階級闘争を担った選手でした。彼らの理論家も資本の理論を攻撃した最初の選手だったのです。
  こういうわけで、資本の肩を持つ工場哲学者のユアは、資本は労働を自由に搾取するために男らしく闘ったのに、労働者は「工場法」という法律に依存して闘ったのはぬぐいがたい恥辱だなどと言明しているのです。

  マルクスはユアについて〈工場制度の破廉恥な弁護者としてイギリスにおいてすら悪名の高いあのユア〉(全集⑨208頁)などと述べています。また次のようにも述べています。

  ユアのような工場制度の弁護者にかぎって、つまり労働のこうした徹底的な没個性化、兵営化、軍隊的紀律、機械への隷属、打鐘による統制、酷使者による監督、精神的および肉体的活動のあらゆる発達の〔可能性の〕徹底的破壊などの弁護者にかぎって、ほんのわずかでも国家が干渉すると、個人の自由の侵害だ、労働の自由な活動の侵害だ、とわめくのである!「過度労働および強制労働。」(エンゲルス、151ページ〔『全集』、第2巻、347ページ〕。)「もしも自由意思による生産的活動が、われわれの知っている最高の喜びであるとすれば、強制労働こそ、最も残酷で、最も屈辱的な苦痛である。」(同上書、149ページ〔「全集』、第2巻、346ページ〕。)〉(草稿集⑨211頁)

  ((2)に続く。)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)

2024-02-15 20:35:16 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)


◎原注190

【原注190】〈190 大陸的自由主義の天国ベルギーも、この運動のなんの痕跡も示してはいない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢層の男女の労働者が、どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費される。そこでの従業人員各/1000人について733人は男、88人は女、135人は16歳未満の少年、44人は16歳未満の少女である。熔鉱炉などでは1000人について男668人、女149人、16歳未満の少年98人、少女85人である。なおそのうえに、成熟および未成熟の労働力の恐ろしい搾取にひきかえ、1日平均、男は2シリング8ぺンス、女は1シリング8ペンス、少年は1シリング2ペンス半という低い労賃である。だが、そのかわりに、ベルギーでは1863年には1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になった。〉(全集第23a巻393-394頁)

  これは〈この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる(190)。〉という本文に付けられた原注です。
  標準労働日を確立するための労働者階級と資本家階級との闘争は、近代産業の発祥の地であるイギリスで開始されたが、それに対して、この原注では、ベルギーを例に挙げて、イギリス以外ではそうした階級闘争の痕跡はなかったと述べています。ではベルギーでは、資本の労働に対する搾取はなかったのかというとそうではなくて、マルクスは具体的に炭鉱や鉱山におけるあらゆる年齢層の男女の労働者が働いていたが、彼らは資本によって「自由」に搾取されるまままだったと述べています。
  ベルギーにおける労働者の構成とその低賃金の状態が具体的に詳しく紹介されていますが、にもかかわらず労働者は資本の思いのままに〈どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費され〉たというのです。だからそのおかげでベルギーでは石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になったということです。


◎原注191

【原注191】〈191 (イ)今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑された。(ロ)ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、である。(ハ)今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われており、そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのである。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった(191)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは労働者階級の理論家としてロバート・オーエンが取り上げられています。文節に分けて検討しておきましょう。

  (イ)(ロ) 今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑されました。ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、です。

  オーウエンが労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律を求めて請願を行ったのは1817年でした。当時、彼はニュー・ラナークの工場主であり、実際に自分の工場で10時間労働日を採用したのです。それは共産主義のユートピアとして冷笑されましたが、それは彼の「生産的労働と児童教育の結合」の主張や彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じだったということです。
  エンゲルスは『状態』において次のように述べています。

  〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。〉((全集第2巻402頁)

  また『歴史』ではオーエンの業績について次のように述べています。

  〈オーウェンは、ロバート・ピール卿のように、みずからの工場を規制するために議会の制定法を要求することはしないで、全般的な適用のための先例として、かれの工場の取りきめや規則を提案した。かれは、児童労働と労働時間を短縮するための各種の実験を試みた。そして、その結果を、かれは、「ピール委員会」で証言した。かれは、10歳未満の児童を雇用していないこと、および全労働時間は食事のためにさかれる1時間15分をふくむ12時間である、と証言した。かれは、以前には14時間労働をさせていたが、次第にそれを短縮した。かれは、労働時間を一層短縮することを希望した。そして、そうすることによって、製造業者たちが、国内取引においても、外国貿易においても、不利な立場に立たされるであろうとは考えなかった。こうした労働時間制限は、「老若を問わず、労働者たちの健康の少なからぬ改善、育ちゆく世代の教育の大いに注目すべき改善、および国の救貧税の多大の軽減」という結果をもたらすにちがいない、とかれは確信した。かれに雇用されている人びとの「全般的な健康と気力」にみられる大きな改善は、すでに採用された諸改革の結果として生じていた。かれは、「どんな規則的な労働にでも、10歳未満の児童を雇用することが必要である」とは考えなかった。かれは、教育こそが十分に必要であると考えた。「定職がないことで、かれらが悪い習慣を身につけるという恐れはなかったのか」と質問されたとき、かれは、「わたくし自身の経験では、まったくその反対で、かれらの習慣は、その教育の程度に比例してよくなったのがわかったといわなければならない」と答えた。そして10歳から12歳の児童は、半日工としてだけ雇用してもよい、とかれは考えていた。〉(21頁)

  (ハ)  しかし今日では、第一のユートピアは工場法として実現しており、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われています。そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのです。

  ユートピアとして冷笑されたオーエンの主張し実践したものは、今では実現していると述べています。一つは児童労働の労働時間の制限については工場法として実現し、第二のユートピア、つまり「生産的労働と児童教育の結合」はすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現れているということです。そして第三のユートピア、つまり労働者のための協同組合事業については、〈反動的なごまかしの仮面として役だってさえいる〉というのです。この最後の部分はいま一つ具体的になにを指しているのか分かりません。エンゲルスはオーエンの協同組合工場や協同組合売店について次のように述べています。

  〈ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。〉(全集第23a654頁)

  また『歴史』は、1819年の法案はオーエンの法案を拡張したものだと次のように述べています。

〈結局、1819年に通過したその法律は、オーウェンの草案をきわめて大幅に水増ししたもの/であった。かれの法案は、10歳未満の児童の就労を禁止し、洗礼の記録その他から年齢証明を義務づけることによって、このことを保証するものとされていた。同法は、わずかに年齢制限を9歳と定めたにすぎなかった。オーウェンの法案は、18歳未満のすべての人びとの労働時間を、食事時間を除いて1日に10時間30分に制限するものとされたが、同法は、16歳未満の全員について、食事時間を除いて1日に12時間以上働かせることを禁止した。ナーウェンの法案は、有給で資格のある監督官の任命を規定していたが、同法は、従来どおり、このことに関しては治安判事の意向に委ねた。それは、過去16年間の経験から非実用的であることが証明された制度であったにもかかわらずである。同法はまた、綿工場のみに適用された。一方、オーウェンの法案は、20人もしくはそれ以上の人びとが雇用されているすべての綿、毛織物、亜麻、その他の工場をふくむものであった。同法の真に重要な一条項は、9歳未満の児童労働を禁止することにあった。オーウェンは、この最低年齢を12歳まで引き上げることを希望していたが、10歳という線までは譲歩した。そうであるのに、さらに9歳まで引き下げられたのであった。このことは、不十分なものではあったにせよ、一つの原則の確認ということであった。それは多分、その他のいかなる時期よりもこの時期において一層必要とされていた。〉(23-24頁)

  最後に『資本論辞典』のオーエンの項目の概要を紹介しておきましょう。

  オーエン Robert Owen (1771-1858)イギリスの空想的社会主義者・協同組合主義の創始者.…….‘人間は環境の産物である'というフランスの唯物論的啓蒙主義を信奉し,当時のイギリス産業革命の上昇期にみられた労働者の困窮・堕落をなくすため,この信念から種々の案をつくり実施した.その試みは,すでに1790年来マンチェスターの紡績工場支配人として成功をおさめたが,1800年から1825年にわたってスコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場の共同所有者および管理人として同じ方法でいっそラの好成績をあげ全欧州に名声を博した.そこでは,労働者の生活改善.その幼少年子弟の教育に成果をあげ.世界最初の幼稚園や職工の日用品を販売する工場共済店舗を創設した.しかも工場の株主には多大の利益が配当された.このオーエンのやり方は,‘純然たる事務的方法,いわば商人的打算の結果でき上がったもの'(エンゲルス)であり,専門的知識をもった実際的な博愛主義であった.この実践の上に立って,最初の著書《A New View of Society》(1813)が出版された.この博愛主義から共産主義への1820年来の移行は,彼の生涯における転換点となった.彼は.社会改良の道をふさぐ大きな障碍は.私有財産と宗教と現在の婚姻形式だと考えた.……彼は. 1819年の工場における婦人および児童労働の制限にかんする最初の法律の通過のため. 5年間の努力をしているが. 1821年来一方では協同組合(消費組合および生産組合)を提唱Lて,Co-operative Congressを結成し(1831-35).他方では,労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する国民衡平労働交換所(National Equitable Labour Exchange)を創設した(1831-34)。そして労働組合の連合に努カし全国労働組合連合(The Grand National Connsolidated Trades' Union) を成立させ(1833-34).第1回大会の議長となった.……エンゲルスは'イギリスにおいて労働者の利益のために行なわれたいっさいの社会運/動.いっさいの現実の進歩は.すべてオーエンの名前に結びついている'と評価しているが.彼は,ただ‘よく指導された労働'のみが富の源泉であると考え,暴力を否定し労働階級独自の政治的運動にたいしてはつねに否定的立場に立った.そのためオーエン主義はイギリスのチャーテイズムおよび協同運動の主流とはなりえなかった.しかし彼は.サン-シモン、フリエとともに空想的社会主義者としてマルクス、エンゲルスによって高く評価されている。……
  マルクスは,……(オーエンが)労働日制限の必要を理論的に主張し,現実にニュー・ラナークの彼の工場で実施したことを指摘し,それが当時,彼の‘生産的労働と児童の教育との結合'および協同組合と同様に,共産主義的空想として物笑いされたこと,しかし今日では第一の空想は工場法となり,第二の空想は工場法中の公けの辞句としてあらわれ,第三の空想はむしろすでに反動的欺瞞の仮面として,役立っていることを指摘している。このうち‘生産的労働と児童の教育との結合'については,それが工場制度から発生したことがオーエンの研究によって明白であることが指摘されている。そしてマルクスは,個々の工場主が工場法制定にたいして大したことはできないとはいえ,オーエンを見ることによっていかに個々の人物が活動的でありうるかが.十分証明されると評価している。彼の共産主義については,それが経済学的,論戦的に登場ずるかぎりでは, リカードの価値および剰余価値に立脚しているとした。彼の〈労働貨幣〉については,商品生産の基礎の上で,労働時間を直接に代表するものとして労働貨幣を考えたジョン・グレイの浅薄な空想論とは対立的に,オーエンは,商品生産とは正反対に対立する生産形態における直接に社会化された労働を前提としていること,それゆえ彼の労働貨幣は,共同生産物にたいする生産者の個人的分担と個人的請求権を確認するにすぎないものであって,彼はけっして労働貨幣によって商品生産の必然的諸条件を回避しようとしているものではないとしている。……〉(478-478頁)


◎原注192

【原注192】〈192 ユア(フランス訳)『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ぺージ、その他。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである(192)。〉という本文に付けられた原注です。
  ユアの上記の主張の典拠として、『工場哲学』の参照箇所を示すものです。

  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)


◎第4パラグラフ(フランスにおける労働時間の規制)

【4】〈(イ)フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてくる。(ロ)12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だったが、この法律もそのイギリス製の原物に比べればずっと欠陥の多いものである。(ハ)それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示している。(ニ)それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。(ホ)他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉(全集第23a巻394頁)

  (イ)(ロ) フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてきます。12時間法の誕生のためには2月革命が必要でしたが、この法律もそのイギリス製の原物に比べますとずっと欠陥の多いものです。

  このパラグラフから第7節の副題「イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」が問題になり、まずフランスが取り上げられています。
  フランスの工場法の成立はイギリスに比べて遅く、しかも不完全なものだったということです。工場監督官のレッドグレイヴによれば、フランスでは1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然だったということです。次のように述べています。

  〈フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。〉(草稿集④349頁)

  しかしこの1841年の法律は〈系統的な監察についての規定を含んでいないために〉(同355頁)、実際には効力のないものに終わったということです。
  もう一つの1848年に制定されたものは、2月革命の革命政府、国民会議によって制定されたものです。

  〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。〉(草稿集④349-350頁)

  しかしこれらも〈政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。〉(同350頁)とも述べています。

  (ハ)(ニ)(ホ) それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示しています。それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのですが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのでした。他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているものを、原則として宣言しているのです。

  しかしフランスの労働時間を制限する法律は、問題点はあったとしても、革命政府によって行われたという特有の長所を持っていたということです。イギリスの工場法は、最初は紡績業や織物業など繊維産業に限定して、しかも児童や少年、婦人労働者に限ったものでしたが、フランスの法律は、すべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日の制限を一緒に課してしまうというものだったということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。〉(350-351頁)


◎原注193

【原注193】〈193 『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずく次のように言われている。「工場や作業場での1日の労働の継続時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働を一定の固定した時間」(時限)「の範囲内に局限しないで、/ただ児童労働について午前5時から晩の9時までの時限が規定されているだけである。そこで、一部の工場主は、このわざわいをはらんだ沈黙が彼らに与える権利を利用して、おそらく日曜だけを除いて毎日中断なしに労働させるのである。そのために彼らは2組に分けた労働者を使用し、どちらの組も12時間より長く仕事場で過ごすことはないが、工場の作業は昼も夜も続けられる。法律は守られているが、人道のほうはどうだろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的影響」のほかに、「同じうす暗い仕事場で男女が夜間いっしょに働くことの不幸な影響」も強調されている。〉(全集第23a巻394-395頁)

  これは〈12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だった〉という本文に付けられた原注です。
  これはパリ国際統計会議の報告書から12時間法の内容について紹介しています。それによれば、労働時間を12時間に規定しているものの、それが一定の固定した範囲内に局限したものではないので、工場主たちは労働者を2組に分けて、交替して使い、中断無く昼も夜も労働させたということのようです。ただ児童労働については午前5時から晩の9時までに限定されていたということです。だから24時間中断なく労働させるということは、確かに法律には違反していないが、人道上は問題があるのだというのです。というのは夜間労働が人体に及ぼす影響もあるし、薄暗い仕事場で男女が夜間に働くにことによる「不幸な影響」もあるというわけです。


◎原注194

【原注194】〈194 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法」のもとでは仕上げ業者である。」(『工場監督官報告書。一八六一年一〇月三1日』、二〇ページにあるべーカー氏の報告。) これらの法律のいろいろに違った規定とそこから生ずる混乱とを列挙してから、ベーカー氏は次のように言っている。「もし工場所有者が法律を回避しようと思えば、これらの三つの法律の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないかは、これによってわかるであろう。」〔同前、二一べージ。〕だが、これによって弁護士諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは工場監督官のベーカーの報告が紹介されています。それによれば同じ工場主が「漂白工場および染色工場法」のもとでは、漂白業者や染色業者になり、「捺染工場法」のもとでは捺染業者になり、「工場法」のもとでは仕上げ業者になることになり、同じ人物がさまざまな規定を受けることによる混乱を指摘しているということです。そしてさまざまな法律が補足的にあちこちに立てられたために、それを回避する方法も多様になり、そのたびに裁判をやらなければならなくなるということのようです。


◎原注195

【原注195】〈195 そこで、ついに工場監督官たちも思い切って次のように言うのである。「このような反対し(労働時間の法的制限にたいする資本の)「は、労働の権利という大原則の前に屈しなければならない。……たとえ疲労がまだ問題にならなくても、自分の労働者の労働にたいする雇い主の権利が停止されて労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのである。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、54ページ。)〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉どいう本文に付けられた原注です。
  これはフランスでは最初から原則として一般的に権利として要求されているものが、イギリスではようやく最近になって一般的な原則として要求されるようになったということの例として、工場監督官報告書の一文が紹介されています。要するに「労働の権利という大原則」を掲げて、労働者の労働に対する雇主の権利が停止されて、労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのだ、と主張していることのようです。


◎第5パラグラフ(北アメリカ合衆国の8時間労働日の運動)

【5】〈(イ)北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にあった。(ロ)黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがない。(ハ)しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。(ニ)南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動だった。(ホ)ボルティモアの全国労働者大会〔95〕(1866年8月16日) は次のように宣言する。/
(ヘ)「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した(196)。」
  (ト)それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議した。(チ)「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉(全集第23a巻395-396頁)

  (イ)(ロ) 北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にありました。黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがないのです。

  アメリカの労働者階級の闘いは、アメリカの南北戦争によって南部の奴隷解放が実現して初めて、その発展が可能になったということが強調されています。それがやや文学的な表現によって述べられています。
  マルクスの合衆国大統領リンカンに宛てた書簡からも紹介しておきましょう(全文は付属資料に)。

  〈北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。〉(全集第16巻17頁)

  (ハ)(ニ) しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽しました。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動でした。

  しかし南北戦争が北軍の勝利に終わり、奴隷制度の廃止が決まると同時に、アメリカの労働運動は息を吹き返し、その成果は東から西へとアメリカ大陸を横断する鉄道のように進展した8時間労働運動だったというのです。
  全集第16巻の注解138を紹介しておきます。

  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

  また〈1歩7マイルの長靴〉という部分には新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈イギリスの童話『一寸法師』に出てくる人食い鬼が履く、1またぎで7リーグ(約21マイル)進める長靴にちなむ〉(524頁)

  (ホ)(ヘ)ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言します。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した。」

  アメリカの8時間労働運動を牽引した全国労働同盟は1866年にボルティモアの大会で創立されましたが、その宣言のなかで、アメリカの労働者を資本主義的奴隷制度から解放するためには、8時間を標準労働日とする法律の制定であるとしたのです。
  全集版には〈ボルティモアの全国労働者大会〔95〕〉には注釈95が付いています。それは次のようなものです。

  〈(95) ボルティモァの全アメリカ労働者大会は1866年8月20日から25日まで開かれた。大会には労働組合に結集した6万人以上の労働者を代表する60名の代議員が出席した。大会は次のような諸問題を討議した。すなわち、8時間労働日の法定、労働者の政治活動、協同組合、すべての労働者の労働組合への結集、およびその他の諸問題である。さらに労働者階級の政治組織である全国労働同盟(ナシロナル・レーバー・ユニオン)の設立が決議された。〉(全集第23a巻17頁)

  また全集第16巻の注解205も紹介しておきます。

 〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。〉(第16巻652-653頁)

  さらに新日本新書版にも同じ部分に次のような訳者注が付いています。

  〈恒久的全国組織の結成、8時間労働日の法定、未組織労働者の組織加盟、協同組合問題等を議題として、6万余名を擁する59の組織によって、8月20-25日に開かれた大会。マルクスは、1866年10月9日のクーゲルマン宛の手紙でこの大会を高く評価した(邦訳『全集』、第31巻、441頁)。なおマルクスは、これを「労働者総会(1866年8月16日)」と誤記した。〉(524頁)

  ついでですから、マルクスのクーゲルマン宛の手紙も見ておきましょう。

  〈私はジュネーヴの第1回大会について非常に懸念していました。しかし、大会は全体として私の予想以上にうまくいきました。フランス、イギリスおよびアメリカでの影響は思いがけないものでした。私は行くことができず、また行こうとも思いませんでしたが、ロンドンの代議員たちの綱領(『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』--引用者)を書いてやりました。私はわざとそれを、労働者の直接的な相互理解と協力が可能であり、階級闘争と労働者を階級に組織することの欲求に直接に栄養と刺激とを与えるような項目に限定しました。……(中略)……
  同時にボルティモアでひらかれたアメリカの労働者大会は私に非常な喜びをもたらしました(545)。資本にたいする闘争の組織化がここでのスローガンでした。そして不思議なことに、私がジュネーヴのために提出した要求の大部分が、労働者の正しい本能からそこでもまた提出されたのです。/
  わが中央評議会(ここで私はそれに大いに参加しました)が生命をふきこんだ当地の改革運動は、いまや巨大な抵抗しがたい規模にひろがりました。私はいつも舞台裏にいましたが、運動が軌道にのってからは、もうそれ以上これにかかわらないことにしています。
  あなたのK・マルクス〉(全集第31巻、441-442頁)。
  〈注解545--ボルティモアの労働者大会(1866年8月20-25日)には、59の労働組合と、8時間労働日のための闘争を行った他の多数の団体が代議員を派遣した。この大会では、とりわけ次の問題が論ぜられた。すなわち、8時間労働日の法律による実施およびすべての労働者の労働組合への加盟である。大会は、全国労働同盟(National Labor Union)の設立を決議した。〉(全集31巻610頁)

  (ト)(チ) それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議しました。「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。」

  アメリカの全国労働同盟の創立と同時に、ジュネーヴの第一インターナショナルの大会では、労働日の制限を、何より重要であることを宣言し、8時間労働日の制定を提案したということです。
  全集版には〈「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉と注解96が付いていますが、それは次のようなものです。

 〈(96) ここで引用された国際労働者協会ジュネーヴ大会の決議は、カール・マルクスの執筆した『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』にもとづいて採択された。(本全集、第16巻、190-199(原)ぺージを見よ。)〉(全集第23a巻17-18頁)

  というわけで、マルクスが起草した《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)の「労働日の制限」の項目を紹介しておきます。

 〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)

  ((3)に続く。)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(3)

2024-02-15 20:11:49 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(3)


◎原注196

【原注196】〈196 「われわれダンカークの労働者は次のことを宣言する。現在の制度のもとで要求される労働時間はあまりにも長すぎ、労働者のために休息や進歩のための時間を少しも残さず、むしろ、奴隷制度よりもわずかばかりましな隷属状態(“a condition of servitude but little better than siavery")に労働者を抑えつけるものである。それゆえ、1労働日は8時間で十分であり、また法律によって十分と認められなければならないということ、われわれは、強力な槓杆(テコ)である新聞に援助を求め……そして、この援助を拒むすべてのものを労働の改革と労働者の権利との敵とみなすということが決議されるのである。」(1866年、ニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議。)〉(全集第23a巻396頁)

  これは1866年8月のボルティモアの全国労働者大会の宣言の最後に付けられた原注です。ニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議が引用されています。8時間労働日の法律による制定を求め、新聞に協力を求めるという内容の決議になっています。全国労働同盟の創立大会の決議では、〈この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定である。〉とありましたから、〈ニューヨーク州ダンカーク〉でも同様の決議が行われていることが紹介されていると考えられます。


◎第6パラグラフ(大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動)

【6】〈(イ)こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次のような陳述を裏書きするのである。
(ロ)「社会の改良へのさらに進んだ諸方策は、もしあらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されるのでなければ、けっして成功への見込みをもって遂行されることはできないのである。(197)」〉(全集第23a巻396頁)

  (イ)(ロ) こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから本能的に成長した労働運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次のような陳述を裏書きするのです。「社会の改良へのさらに進んだ諸方策は、もしあらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されるのでなければ、けっして成功への見込みをもって遂行されることはできないのである。」

  ヨーロッパ、特にイギリスの10時間労働運動と北アメリカの8時間労働運動という大西洋の両岸で発達した労働運動は、ともに労働時間の制限を掲げているという点で、工場監督官サーンダースの次のような陳述を裏書きしているということです。それは、社会改良へのさらに進んだ方策のためには、あらかじめ労働日が制限されていて、厳格に強制されるのでなければ、決して成功への見込みはないというものです。

  『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

 労働日の制限についていえば、ほかのどの国でもそうだが、イギリスでも、法律の介入によらないでそれが決まったことは一度もなかった。その介入も、労働者がたえず外部から圧力をくわえなかったらけっしてなされはしなかったであろう。だがいずれにしても、その成果は、労働者と資本家とのあいだの私的な取決めで得られるはずのものではなかった。このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。〉(全集第19巻150頁)


◎原注197

【原注197】〈197 『工場監督官報告書。1848年10月31日』、112ページ。〉(全集第23a巻396頁)

  これは本文で引用されている工場監督官サーンダースの陳述の典拠を示すものです。


◎第7パラグラフ(労働者たちは団結して、階級として、資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない)

【7】〈(イ)われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえな/いであろう。(ロ)市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していた。(ハ)つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてである。(ニ)彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば白紙の上に墨くろぐろと証明した。(ホ)取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり、じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは(199)」手放さないということである。(ヘ)彼らを悩ました蛇〔97〕にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。(ト)そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない(200)。(チ)「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章〔98〕が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする(201)」のである。(リ)なんと変わりはてたことだろう!〔Quantum mutatusab illo!〔99〕〉(全集第23a巻頁396-397)

  (イ) わたしたちの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないでしょう。

  まずフランス語版を最初に紹介しておくことにします。

  〈われわれの労働者は生産の暑い室(ムロ)に入ったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めないわけにはいかない。〉(江夏・上杉訳311頁)

  以前、第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の最後の一文は次のようなものでした。

  〈この、単純な流通または商品交換の部面から、卑俗な自由貿易論者は彼の見解や概念を取ってくるのであり、また資本と賃労働との社会についての彼の判断の基準を取ってくるのであるが、いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。さっきの貨幣所持者は資本家として先に立ち、労働力所持者は彼の労働者としてあとについて行く。一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮を売ってしまってもはや革になめされるよりほかにはなんの望みもない人のように。〉(全集第23a巻231頁)

  こうして労働者は生産過程に入っていったわけですが、そこではすでに見たように苛酷な搾取の現実が待ち受けていました。そして今度はそこから出てくるときはまた違った様子でそこから出てくるのだというのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していました。つまり、商品所持者にたいする商品所持者としてです。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば白紙の上に墨くろぐろと証明していたのです。

   まずフランス語版です。

  〈彼は市場では、別の商品の所有者に対する「労働力」商品の所有者として、商人にたいする商人として、現われた。彼が自分の労働力を売ったさいの契約は、売り手と買い手双方の自由意志のあいだの合意から生じているように思われた。〉(同前) 

  この市場では労働者は労働力の所持者としてどうだったかも、やはり第2篇第4章で次のように述べられていました。

  〈労働力の売買が、その限界のなかで行なわれる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサムである。自由! なぜならば、ある一つの商品たとえば労働力の買い手も売り手も、ただ彼らの自由な意志によって規定されているだけだから。彼らは、自由な、法的に対等な人として契約する。契約は、彼らの意志がそれにおいて一つの共通な法的表現を与えられる最終結果である。平等! なぜならば、彼らは、ただ商品所持者として互いに関係し合い、等価物と等価物とを交換するのだから。所有! なぜならば、どちらもただ自分のものを処分するだけだから。ベンサム! なぜならば、両者のどちらにとっても、かかわるところはただ自分のことだけだから。彼らをいっしょにして一つの/関係のなかに置くただ一つの力は、彼らの自利の、彼らの個別的利益の、彼らの私的利害の力だけである。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、だれも他人のことは考えないからこそ、みなが、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜けめのない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業をなしとげるのである。〉(全集第23a巻230-231頁)

  つまり労働者は自身の労働力商品の所持者として資本家に相対し、商品交換の法則にもとづいて契約を交わしたのでした。だからそれは売り手と買い手の双方の自由意志の合意にもとづくものであったかに思われたのです。

  〈いわば白紙の上に墨くろぐろと〉という部分に新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈ゲーテ『ファウスト』、第1部、「書斎(第2)」の学生の言葉。手塚訳、中公文庫、第1部、137ページ〉(527頁)

  (ホ) 取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は、実は彼がそれを売ることを強制されている時間だということなのです。そしてじっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは」手放さないということが分かったのです。

  フランス語版です

  〈取引がいったん完了すると、彼がけっして「自由な当事者」でなかったということ、彼が自分の労働力を売ることを許されている時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であるということ(166)、実際には、彼を吸う吸血鬼は、「搾取すべぎ一片の肉、一筋の腱、一滴の血が彼に残っているかぎり(167)」、けっして彼を手放さないということ、が発見される。〉(同前)

  しかし労働者は彼の労働力を売り渡してしまうと、彼が決して自由な当事者ではなかったことに気づきます。彼が自由意志で労働力を売り渡したと思われたのは、実は彼にはそれ以外の選択肢がなく、ただ自分の労働力を売る以外に彼が生きていく手段がなかったからだからです。つまり彼は自由意志で売ったつもりが、そうではなく売ることを強制される関係のなかに彼がすでに置かれていたということなのです。そして実際には販売された労働力は、彼自身の生身の中に存在するわけですから、彼自身が資本によって一片の肉、一筋の腱や、一滴の血までもが搾取され搾り取られる運命にあるということなのです。

  (ヘ)(ト) 彼らを悩ました蛇にたいする「防衛」のために、労働者たちは団結しなければなりません。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならないのです。

  〈労働者たちは、「自分たちの責苦の蛇(168)」にたいして身を守るためには、結集しなければならず、また、彼らやその子孫が「自由契約」によって奴隷状態や死にいたるまで資本に売り渡されることを阻止するような乗り越せない柵、すなわち社会的障害物を、強力な集団的努力によって、階級の圧力によって、うち建てなければならない(169)。〉(同前)

  だからこうした運命にある労働者は彼らを悩ます蛇から自身の身を守るためには、労働者たちは団結しなければならないのです。個々ばらばらでは資本の支配に抵抗するすべはありません。彼らは階級として、彼ら自身が資本との関係のなかで、自分たちの同族の死とその子孫が奴隷状態に陥らないように、社会的障害物を、集団的な努力によって、階級の圧力によって、勝ち取らなければなりせん。

  〈彼らを悩ました蛇〔97〕〉の注解97は次のようなものです。

  〈(97) 彼らを悩ました蛇--ハインリヒ・ハイネの時事詩『ハインリヒ』のなかの言葉の言い変え。〔岩波文庫版、番匠谷訳『ハイネ新詩集』、273ぺージ。〕〉(全集第23a巻18頁)

  フランス語版では上記のように次のような原注168が付いています。

  〈(168) ハインリヒ・ハイネの言葉。〉(江夏・上杉訳312頁)

  新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈旧約聖書、民数記、21・4-9の物語から。なおハインリヒ・ハイネ『新詩集』、時事詩、第9「ハインリヒ」の末尾の句参照。井上正蔵訳、『ハイネ全詩集』Ⅱ、角川書店、399ページ。番匠谷英一訳、岩波文庫、273ページ。〉(527頁)

  (チ)(リ) 「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のです。しかしなんと変わりはてたことでしょうか!

  〈こうして、「人権」の華麗な目録が一つの慎み深い「大憲章」にとってかわられるが、この「大憲章」は、労働日を法定し、「労働者の売る時間がいつ終わって労働者に属する時間がいつ始まるかを、ついに明瞭に示す(170)」のである。なんと変わりはてたことだろう!〉(同上)

  それは法律によって労働日を制限することです。10時間労働日や8時間労働日の法定によって、労働者は労働力を売り渡す時間は何時終わり、何時から彼自身の時間が始まるのかを明らかにすべきなのです。
  売り渡すことのできない人権という派手な目録に代わって、売り渡す労働力を法的に制限するじみな憲章を、すなわち労働日の制限という憲章を打ち立て、労働者が売り渡す時間は何時に終わり、何時から自分の時間が始まるのかを明瞭に示す必要があるのです。しかしそれにしても、対等な商品所持者として自由意志で結んだ契約だったにも関わらず、法的保護を必要としなければならないとは、何と変わりはたてことでしょうか。

  〈「売り渡すことのできない人権」〉には新日本新書版には次のような訳者注が付いています。

  〈1776年のヴァージニアの「権利章典」ほかに由来する用語〉(527頁)

  全集版に付いている〈大憲章〔98〕〉の注解98は次のようなものです。

  〈(98) 自由の大憲章(Magna Charta Libertatum)--騎士階級と都市とに支持されて立ち上がった大封建諸侯、王臣貴族、教会諸侯たちがイギリス国王ジョン1世(欠地王) に強要した文書。1215年6月15日に署名された憲章は特に大封建諸侯のために国王の権利を制限し、また騎士階級や都市にたいするいくつかの譲歩を含んでいた。人口の主要部分である農奴には憲章はなんの権利も与えなかった。
  マルクスがここで言っているのは、イギリスの労働者階級が長い執拗な闘争で獲得した労働日制限のための諸法律のことである。〉(同前)

  新日本新書版にも次のような訳者注が付いています。

  〈イギリスの封建貴族が都市商人を見方にして王権を制限した1215年の文書。ここでは、労働日制限の諸法律をさす〉(527頁)

  〈なんと変わりはてたことだろう!〔Quantum mutatusab illo!〔99〕〉の注解99は次のようなものです。

  〈(99) なんと変わり果てたことだろう(Quanturm mutatua ab itto)--ウェルギリウスの叙事詩『アイネーイス』、第2書、詩節274の句。〔河出書房版『世界交学全集』、古典篇、ギリシア・ローマ文学篇、樋口・藤井訳、227ページ。〕〉(全集第23a巻18頁)

  新日本新書版にも次のような訳者注が付いています。

  〈ウェルギリウス『アエネイス』、第2巻、274行。泉井久之助訳、岩波文庫、上、98ページ〉(527頁)

  この最後の一文は、フランス語版ではわざわざ下線を引いて強調されていますが、イギリス語版は、この部分を次のように訳しています。

  〈なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! * ( ラテン語 ローマの詩人 ウェルギリウス )〉

  これだと労働日を法的に制限するということを偉大な変化として受け止め、それが始まったのだという理解になります。果たしてこうした理解がよいのかどうかは判断の分かれるところです。ただこのパラグラフそのものは〈われわれの労働者は生産過程にはいったときとは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるをえないであろう〉という一文で始まっています。つまり生産過程に入るために、労働者は労働力という商品の所持者として、資本と対等に、自由な意志によって契約を結んだのですが、しかしその生産過程では過酷な搾取が待っていて、労働者階級としての団結によって、それを抑止し法的に制限する法律を粘り強い闘いによって勝ち取る必要があったわけです。そのことが何と変わり果てたことか、と述べているように思えるのですが、正直に言ってよく分かりません。あるいはイギリス語版の理解が正しいとして、労働者は生産過程に入るときには、労働力という商品の所持者として資本と個別に契約を結ぶのですが、しかし生産過程における過酷な搾取に抗するためには、階級として団結して、それを抑止する法的制限を勝ち取らねばならないということから、労働者階級の階級としての団結と闘争が開始されるのだということで、〈なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! 〉と締めくくっていると考えられなくもないです。


◎原注198

【原注198】〈198 「そのうえ、これらのやり方」(たとえば1848-1850年の資本の術策)「は、あのようにしばしばなされた主張が誤りであることの争う余地のない証拠を提供した。その主張というのは、労働者には保護は必要でなく、彼らは自分の所有する唯一の財産、すなわち自分の手の労働と自分の額の汗との自由な処分権をもっている所持者だと考えられてよいということである。」(『工場監督官報告書。1850年4月30日』、45ページ。)「もしそう呼んでもよいならば自由な労働は、自由な国においてさえ、それを保護するための法律の力強い腕を必要とする。」(『工場監督官報告書。1864年10月31日』、34ページ。)「……食事をとったりとらなかったりで1日に14時間労働するのを許すこと、それは強制するのと同じことであるが……」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)〉(全集第23a巻397頁)

 これは〈取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは工場監督官報告書から三つの引用がなされていますが、すべて本文の一文を根拠づけるものになっています。
  例えば〈取引がすんだあとで発見されるのは、彼が少しも「自由な当事者」ではなかった〉という一文については、〈労働者には保護は必要でなく、彼らは自分の所有する唯一の財産、すなわち自分の手の労働と自分の額の汗との自由な処分権をもっている所持者だ〉という〈あのようにしばしばなされた主張が誤りであることの争う余地のない証拠を提供した〉と述べていることに該当します。
  また〈自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だ〉ということについても、〈食事をとったりとらなかったりで1日に14時間労働するのを許すこと、それは強制するのと同じこと〉だと述べ、〈自由な労働は、自由な国においてさえ、それを保護するための法律の力強い腕を必要とする〉という一文に該当するのではないでしょうか。


◎原注199

【原注199】〈199 フリードリヒ・エンゲルス『イギリスの10時間労働法案』、所収、『新ライン新聞。政治経済評論』、1850年4月号、5ページ。〔本全集、第7巻、233(原) ぺージを見よ。〕〉(全集第23a巻398頁)

  これは〈じっさい彼の吸血鬼は「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは(199)」手放さないということである〉という本文の引用文に付けられた原注で、その出展を示すものです。エンゲルスの『イギリスの10時間労働法案』については、以前(№39の)原注167の付属資料にその全文を掲げておきましたが、ここでは引用文と関連する前後の文章を紹介しておきましょう(赤字が関連する部分)。

  〈人々は、大工業の出現にともなって、工場主による、まったく新しい、限りなく破廉恥な労働者階級の搾取が生じたことを知っている。新しい機械は、成年男子の労働を過剰なものとした。そして、その監視のため、成年男子よりも、はるかにこの仕事に適し、しかも、いっそう安価に雇いうる婦人と児童を必要とした。工業における搾取は、したがって、ただちに労働者家族全体をとらえ、これを工場にとじこめた。婦人や児童は、極度に疲労しきって倒れるまで、日夜を分かたず働かねばならなかった。貧民労役所に収容された貧児たちは、児童にたいする需要の増大にともなって、完全な商品となった。4歳、いな3歳から、これらの児童は、ひとまとめにして、徒弟契約という形式で、いちばん高い値をつける工場主にせりおとされていった。当時の児童や婦人にたいする恥知らずの残忍な搾取、筋肉や腱の一片まで、血の最後の一滴まで、しぼりあげずにはやまない搾取にたいする思い出は、現在なおイギリスの旧世代の労働者たちのあいだにまざまざと生きている。背骨が曲がったり、手足を切断して片輪になったりして、この思い出を身にとどめているものも少なくない。しかし、そのような搾取のなごりとして、だれもかれもが、完全に身体をこわしている。アメリカのいちばんみじめな栽植農場の奴隷の運命でも、当時のイギリスの労働者のそれとくらべれば、なおすぼらしい。〉(全集第7巻239頁)


◎原注200

【原注200】〈200 10時間法案は、その適用を受ける産業部門では「労働者を完全な退廃から救い、彼らの肉体状態を保護してきた」。(『工場監督官報告書。1859年10月31日』、47ページ。)「資本」(工場における)「は、従業労働者の健康や道徳を害することなしに或る限られた時間よりも長く機械の運転をつづけることはけっしてできない。しかも、労働者たちは自分たち自身を保護することのできる立場には置かれていないのである。」(同前、8ぺージ。)〉(全集第23a巻398頁)

  これは〈そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない(200)。〉という本文に付けられた原注です。
  すべて工場監督官報告書からの抜粋だけですが、10時間労働日の法律が、その適用を受ける産業部門では、労働者の頽廃を防ぎ、肉体の状態を保護してきたことや、法律のために、資本は労働者の健康や道徳を害するような長い時間、機械を動かすことができないようになったこと、それは法律によって可能になったのであって、労働者自身にはそうしたことを求める立場には置かれていないのだと述べています。
  なおこの〈『工場監督官報告書。1859年10月31日』〉というのはレナド・ホーナーの最後の報告書になるのだそうです。1860年1月11日付けのマルクスからエンゲルスへの書簡には、〈レナード・ホーナーは職を退いた。彼の最後の短い報告書には痛烈な皮肉がいっぱいだ。この退職にはマンチェスターの工場主たちが関係していたのではないかどうか、君が明らかにしてくれることはできないだろうか?〉(全集30巻7頁)と書かれています。
  『61-63草稿』から労働時間を制限することの意義を述べているところを紹介しておきましょう。

  労働時間の自然的限界を狂暴に踏み越えるのは、ただ資本の恥知らずで傍若無人な無節制であり、--そのさい、労働は、生産諸力の発展とともに、内密のうちに濃度を高め緊張を強めるのであるが、これが、資本主義的生産にもとづく社会にさえ、標準労働日を確固とした限界に強力によって制限することを余儀なくさせた(もちろんそのさいの主動力は、労働者階級自身の反杭である)ものなのである。この制限が最初に現われたのは、資本主義的生産がその組野な時代、根棒の時代をぬけて、みずからに固有の物質的土台をつくったすぐあとのことであった。労働時間のこの強制的制限にたいして、資本は労働をより強く濃縮することをもって応じたが、それはそれでまた、一定点までくると、ふたたび絶対的な労働時間の短縮をまねいた。延長に強度でとって替わるこの傾向は、生産の比較的高い発展段側階ではじめて現われる。この代替は、社会的進歩の一定の条件である。そうして、労働者にも自由な時間が生み出される。だから、ある一定の労働における強度は他の方向での活動、すなわち労働にたいして反対に休息として現われうる、休息の機能をはたしうる活動の可能性を廃棄するのではない。〔労働日の短縮の〕⑤この過程が、イギリスの労働者階級の肉体的、道徳的、知的な改善に及ぼした非常な好影響--〔これについては〕統計が立証している--は、ここから生まれるのである。
  ⑤〔注解〕 マルクスがこうした評価に到達したのは、イギリスの工場監督官の半年ごとの報告〔の研究〕によってである。とくに、『工場監督官報告書……1859年10月31日にいたる半年間」、ロンドン、1860年、47-48および52ページを見よ。--[カール・マルクス]「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』(1864年9月28日、セント・マーティンズ・ホール、ロンドン、ロ/ング・エイカーで開催された公開集会で創立)ロンドン、1864年(『創立宣言--』、『マルクス・エンゲルス全集』、第16巻、所収)をも見よ。〉(草稿集⑨32-33頁)

  なおこの注解⑤で言及されている〈「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』〉については、第7パラグラフの付属資料に掲載しています。


◎原注201

【原注201】〈201 「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇い主の時間との区別がついに明らかにされたということである。今では労働者は、彼の売った時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるか、を知っている。そして、これについて確かな知識をもつことによって、彼自身の時間を彼自身の目的のためにあらかじめ割り当てておくことができるようになる。」(同前、52ぺージ。)「彼らを彼ら自身の時間の主人とすることによって」(諸種の工場法は)「ある精神的なエネルギーを彼らに与え、このエネルギーは、ついには彼らが政治的権力を握ることになるように彼らを導いている。」(同前、47ページ。)露骨でない皮肉と非常に用心深い表現とで、工場監督官たちは、現在の10時間法が資本家をも単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残忍性からいくらかは解放して多少の「教養」のための時間を彼に与えたということをほのめかしている。以前は「雇い主は金銭のため以外には少しも時間をもっていなかったし、労働者は労働のため以外には少しも時間をもっていなかった。」(同前、48ページ。)〉(全集第23a巻頁)

  これは〈「売り渡すことのできない人権」のはでな目録に代わって、法律によって制限された労働日というじみな大憲章〔98〕が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする(201)」のである。〉という本文に付けられた原注です。

  これも工場監督官報告書からの抜粋のあと、マルクスによって、〈露骨でない皮肉と非常に用心深い表現とで、工場監督官たちは、現在の10時間法が資本家をも単なる資本の化身としての彼に自然にそなわる残忍性からいくらかは解放して多少の「教養」のための時間を彼に与えたということをほのめかしている〉と述べています。つまり10時間法は労働者に恩恵を与えたのは当然ですが、そればかりではなく、資本家側にとっても彼らの残忍性から彼ら自身をいくから解放して、多少の教養を身につける時間を与えたのだというのです。それが〈以前は「雇い主は金銭のため以外には少しも時間をもっていなかったし、労働者は労働のため以外には少しも時間をもっていなかった。」〉という報告書の一文だということです。
  ところでここで〈同前〉とあるのは原注200で引用されていた〈『工場監督官報告書。1859年10月31日』〉のことです。今回引用されているものと関連しているものを『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。
 「①もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間を彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(同前、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④356頁

  (【付属資料】(1)に続く。)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)

2024-02-15 18:38:39 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(4)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《初版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生じうる生産様式そのもののあらゆる変形はさしおいて、剰余価値の生産あるいは剰余労働の抽出が、資本主義的生産の独自な内容と目的になっている。読者が記憶しているように、これまでに述べられた立場からすれば、独立した、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。だから、われわれの歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業が主役を演じ、他方では肉体的にも法的にも未成年者である労働が主役を演じているとすれば、われわれにとつては、前者は労働搾取の特殊な部面としてのみ意義をもち、後者はこの労働搾取の特に適切な実例としてのみ意義をもっていたわけである。とはいうものの、これから行なう説明を前もって考慮しなくとも、歴史的諸事実の単なる関連からは次のような結論が出てくる。〉(江夏訳335頁)

《フランス語版》

 〈読者が記憶しているように、労働が資本に従属していることから生ずる生産様式のあらゆる変化はさしおいて、資本主義的生産の特有な目的、すなわち真の目標は、剰余価値の生産すなわち剰余労働の強奪である。これまで展開してきた観点では、独立の、法律上親権を解除された労働者だけが、商品の所有者として資本家と契約を結びうることも、読者の記憶にある。われわれは歴史的なスケッチのなかで、一方では近代的産業に、他方では児童の労働や肉体上も法律上も未成年である者の労働に、重要な役割を与えたとしても、なおかつこの産業はわれわれにとっては労働搾取の特殊な領域でしかなかったし、この労働は労働搾取の特殊な実例でしかなかった。しかし、これからの展開の先回りをしないでも、事実の単なる説明から次のことが結論される。〉(江夏・上杉訳307頁)

《イギリス語版》

  〈(1) 労働の、資本への、隷属を生じるであろう生産様式の様々な変化を別にすれば、剰余価値の生産、または剰余労働の摘出は、資本主義的生産の特別なる終端であり目的である、絶総計であり本質である。読者はこのことを忘れることはないであろう。読者には、我々が今まで読んで来たところでは、ただ独立した労働者にのみ触れており、であるから、その労働者のみが、彼自身をして、商品の販売者として資本家との折衝に入る資格を有する。ということを思い出して貰いたい。従って、もし、我々がスケッチしてきた歴史において、一方で近代製造業が、他方で肉体的にも法的にも未熟な労働者が重要な役割を演じているとしたら、前者は我々にとっては単なる特別の部門であり、後者は、単に労働搾取の特別かつ衝撃的な事例ということである。とはいえ、我々の考察の進展の成り行きの予想は別として、我々の前にある歴史的な事実の単なる関連として、次の事に触れておく。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈第一に。水や蒸気や機械によって最初に変革が行なわれた諸産業では、すなわち、綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業のような近代的生産様式の最初の創造物では、無制限で容赦のない労働日の延長を求める資本の衝動が、まず/最初にみたされる。変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係(186)とは、まず、無制限な行き過ぎを産み出し、次にはこれと反対に、社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みつきの労働日を法的に制限し、調節し、画一にする。だから、19世紀の前半には、この取締りはたんに例外立法としてのみ現われる(187)。この取締りが新しい生産様式の最初の領域を征服しおえたときには、その間に、他の多くの生産部門が本来の工場体制に踏み入っていただけでなく、製陶業やガラス工業等々のような多少とも時代おくれの経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後に、釘製造業等々のようなあちこちに分散していたいわゆる家内労働(188)さえも、もうとっくに、工場と全く同じように、資本主義的搾取の手におちいっていたことが、わかった。だから、立法は、例外的な性格をしだいに捨て去らざるをえないか、さもなければ、イギリスのばあいのようにこの立法がローマ的な決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕的なふるまいをするところでは、労働が行なわれているどんな家でも、任意に工場(factory)だと宣言されざるをえなかった(189)。〉(江夏訳335-336頁)

《フランス語版》

 〈第一に、水、蒸気、機械によって変革された諸産業において、すなわち、木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業のような近代的生産様式の最初の創造物において、労働日をひっきりなしに情容赦なく延長しようとする資本の性向が、まず満足させられる。物質的生産様式の変化と、これに対応する社会的生産関係の変化(154)とは、かの法外な違反の第一の原因であり、この違反は次いで、釣り合いをとるために、社会的干渉--今度はこの干渉のほうが労働日をその法定の休息時間とともに画一的に制限し規制することになる--を要求する。したがって、この干渉は、19世紀前半のあいだは例外的立法としてしか現われない(155)。この干渉が新しい生産様式の最初の領域を征服してしまったときには、その間に他の多くの生産部門が厳密な意味での工場体制のなかに入っていたばかりでなく、さらになお、ガラス工業、製陶業などのよ/うな多かれ少なかれ時代遅れの経営様式をもったマニュファクチュア、製パン業のような古風な手工業、そして最後に、釘工の労働のようなあちこちに分散した家内労働(156)さえもが、工場そのものと全く同じょうに、資本主義的搾取の領域のなかに陥っていたのが、見出されたのである。したがって、立法は、その例外的な性格をだんだんと抹消するか、または、イギリスにおけるように、ローマ的決疑論〔法律問題を細かい法解釈によって決定すること〕にしたがって、労働が行なわれるどんな家屋も工場<factory>であると便宜上言明するか、そのどちらかを余儀なくされたのである(157)。〉(江夏・上杉訳307-308頁)

《イギリス語版》

  〈(2) 第一 資本家の、無制限かつやりたい放題の労働日の拡大を希求する激情は、水力、蒸気力 そして機械類によって最も早くから大変革が起こった製造業部門で、最初に満足を得た。すなわち、近代生産様式の最初の型というべき綿、羊毛、亜麻、そして絹の紡績業と織物業である。生産の物質的様式の変化、そしてそれに呼応する生産者達*の社会的諸関連の変化が、あらゆる諸関連を超えて、まず最初の特別なる拡張として出現した。そして、これに拮抗するもの、社会的要請としての規制が呼び出される。すなわち、法的な制限、規則、そして労働日とそこに含まれる休息の斉一化である。とはいえ、この規制は、19世紀前半では単に、例外的な規則*として現われる。
  この新たなる生産様式の初期的な領域が法の支配下に置かれる頃には、様相は一変、同じ工場システムを採用する他の多くの生産各部門ばかりでなく、なんとも古臭い方式で製造業、例えば製陶業、ガラス製造や、昔のまんまの手工業、例えば製パン業、さらに、いわゆる家族的業種と呼ばれる、釘製造業ですら、*完全に、資本家的搾取下と同様な状況に、彼等の工場そのものが落ち込んで久しいのであった。従って、規則は、次第に例外的性格を捨てることを余儀なくされるか、または英国では、かってのローマの詭弁家達のやり方に習って、仕事がなされる建物としての家を工場*と宣言することを余儀なくされた。〉(インターネットから)


●原注186

《初版》

 〈(186)「これらの階級(資本家と労働者)のそれぞれの態度は、それぞれの階級がおかれていた相対的な立場の結果であった。」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(154) 「これらの階級(資本家と労働者) のそれぞれの行為は、これらの階級が置かれていた相対的地位の結果であった」(『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注151: *これらの各階級 ( 資本家達と労働者達 ) の行動は、それぞれが置かれた関係における相対的関係の結果から引き起こされる。」(工場査察官報告書 1848年10月31日)〉(インターネットから)


●原注187

《初版》

 〈(187) 「制限を加えられている諸業種は、繊維製品を蒸気力または水力を用いて製造することと関連があった。ある業種に工場検査を受けさせるためには、この業種がみたさなければならない二つの条件があった。すなわち、蒸気力または水力の使用、および、特定の繊維の加工である。」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(155) 「ある工業が監督に従うべきものになってそこで労働が制限されうるためには、二つの条件が必要である。そこで水力または蒸気力が用いられることと、そこである独特な織物が製造されることとが、必要である」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注152: *規則の下に置かれる雇用者は、蒸気力または水力の助けによって行われる織物製造業に関係する者である。雇用者がその対象者であると見なされるべき者であるかどうかは、二つの条件が存在する。すなわち、流れまたは水力を利用し、かつある特殊な繊維の製造業に属すると。(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●原注188

《初版》

 〈(188) こういったいわゆる家内工業の状態については、『児童労働調査委員会』の最近の諸報告中に、非常に曲帯以官闘な材料が掲載されている。〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(156) この種の工業の状態については、「児童労働調査委員会」の最近の報告書のなかに非常に多数の情報が掲載されている。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注153: *いわゆる家族的製造業の状況については、極めて価値のある材料が、最近の、児童の雇用に関する委員会 の報告書に見出される。〉(インターネットから)


●原注189

《初版》

 〈(189) 「前議会(1864年)の諸法律には、……習慣が非常にちがっている種々雑多な職業が含まれていて、機械を動かすための機械力の使用は、もはや、以前そうであったように、法律用語での工場を構成するために必要な諸要素の一つではない。」(『1864年10月31日の工場取督官報告書』、8ページ。)〉(江夏訳336頁)

《フランス語版》

 〈(157) 「前議会(1864年)の諸法律は、方式の非常にちがった多数の事業を包括しており、機械を運転するための蒸気の使用は、もはや以前のように、法律上工場と呼ばれるものを構成するために必要な諸要素の一つではない」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、8ページ)。〉(江夏・上杉訳308頁)

《イギリス語版》

  〈本文注154: *「前委員会の法(1864) ...習慣の大きく異なる様々な職業を包含し、かつ機械類の作動を生み出す機械的な力の利用は、以前は法的な字句「工場」を構成するものであったが、もはや必要なる要素ではない。」(工場査察官報告書 1864年10月31日)〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈第二に。幾つかの生産様式〔フランス語版では「生産部門」に訂正〕では労働日の規制の歴史が、また、他の生産様式ではこの規制をめぐっていまもなお続いている闘争が、明白に示しているように、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、孤立した労働者は、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、無抵抗に屈服している。だから、標準労働日の創設は、資本家階級と労働者階級とのあいだの、長たらしく統く多かれ少なかれ隠蔽された内乱の、産物である。この闘争は、近代的産業の周囲で開始されるものであるから、この産業の祖国であるイギリスで、最初に抽出じられる(190)。イギリスの工場労働者たちは、たんにイギリスの労働者階級の選手であるばかりでなく近代的労働者階級一般の選手でもあったが、それと同じに、彼らの理論家も資本の論理に最初に挑戦したのであった(191)。だから、工場哲学者ユアは、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本にたいして、イギリスの労働者階級が、「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたのは、この階級のねぐい去ることのできない恥辱である、と非難だかしている(192)。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈第二には、幾つかの生産部門では労働日の規制の歴史が、また、ほかの部門ではこの規制についていまなお続いている闘争が、明白に証明するところによると、孤立した労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は、資本主義的生産がある段階に達するやいなや、できるだけ抵抗するということもなしに屈服するのである。したがって、標準労働日の設定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの長期で執拗な、また多かれ少なかれ隠蔽された内乱の結果である。この闘争は、近代的産業の領域で開始されたのであるから、それは、この産業の祖国にほかならないイギリスで、まず宣言されざるをえなかった(158)。イギリスの工場労働者は近代的労働者階級の最初の選手であったし、彼らの理論家は資本の理論を攻撃した最初の選手であった(159)。したがって、工場哲学者のドクター・ユアは、資本が「労働の完全な/自由(150)」のために男らしく闘ったのに反し、「工場法という奴隷制度」を自分たちの旗に書き記したのは、イギリスの労働者階級にとってぬぐいがたい恥辱である、と言明している。〉(江夏・上杉訳308-309頁)

《イギリス語版》

  〈(3) 第二 ある生産部門の労働日の規制の歴史は、そしてこの規制に係る他の部門で依然として続く闘争は、孤立させられた労働者、彼の労働力の「自由」なる売り手、かってある時点で資本主義的生産が獲得した者が、何の抵抗の力もなく、屈伏したことを結果的に証明する。従って、標準的労働日の創設は、資本家階級と労働者階級間の、どの程度隠されたものかは別として、長い市民戦争の産物である。この競技は近代工業という競技場で始まるのであるから、その最初の開始地は、工業の故郷- 英国*である。
  英国の工業労働者達は、英国のと云うだけでなく、近代労働者階級一般のチャンピオンであった。彼等の理論家達は、資本の理論に対して最初の鞭*を振り降ろした。〉(インターネットから)


●原注190

《初版》

 〈(190) 大陸的自由主義の天国であるベルギーも、この運動の痕跡をなんら示していない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢の男女の労働者は、どれだけの時間でもどんな時刻でも、完全に「自由」に消費されている。そこでの従業員各1000人のうち、733人が男、88人が女、135人が16歳未満の少年、44人が16歳未満の少女である。熔鉱炉等々では、各1000人のうち、668人が男、149人が女、98人が16歳未満の少年、85人が16歳未満の少女である。さて、なおその上に、成熟した労働力や未成熟の労働力の法外な搾取にたいして支払われるのは、1日平均、男が2シリング8ペンス、女が1シリング8ペンス、少年が1シリング2[1/2]ペンス、という低い労賃である。ところが、その代わりに、ベルギーでは、1863年には、1850年に比べて、石炭や鉄等々の輸出の量も価値も、ほぼ2倍になった。〉(江夏訳337頁)

《フランス語版》

 〈(158) 大陸の自由主義のかの天国であるベルギーは、この運鋤の痕跡を少しも示し  ていない。この国の炭鉱や金属鉱山でさえ、あらゆる年齢の男女労働者が、なんらの時間制限もなく完全な「自由」をもって消費されている。従業員1000人のうち、男733人、女88人、16歳未満の少年135人、16歳未満の少女44人である。熔鉱炉でも、やはり1000人のうち、男668人、女149人、16歳未満の少年98人、16歳未満の少女85人である。さらに付言すると、成熟または未成熟の労働力の莫大な搾取と比較すれば、賃金はさほど高くない。賃金は1日平均、男では2シリング8ペンス、女では1シリング8ペンス、少年では1シリング2[1/2]ペンスである。したがって、ベルギーは1863年には、1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量と価値をほとんど倍加した〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注155: * ベルギー 大陸の自由主義者の楽園は、この運動の痕跡を何ら残していない。炭鉱や金属鉱山の男女及びあらゆる年令の労働者達でさえ、いかなる期間、いかなる時間の長さであれ、完全なる「自由特権」を以て消費されていた。毎1,000人の雇用者のうち、男子733人、女性88人、少年135人、16歳未満の少女44。溶鉱炉他では、毎1,000人の雇用者のうち、男子668人、女性149人、少年98人、16歳未満の少女85人である。これに加えて、熟練・非熟練労働力の莫大なる搾取の結果として、低賃金である。成年男子は平均日支払額 2シリング8ペンス、女性は1シリング8ペンス、少年は1シリング2 1/2ペンス。その結果として、ベルギーの自由主義者らは、1863年、1850年に較べて、約2倍の量と価値の石炭、鉄等々の輸出を得た。〉(インターネットから)


●原注191

《イギリスにおける労働者階級の状態》

 〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。労働団体は、この要望を扇動によって促進し、工場で働く人たちの一般的な要望にしてしまった。当時マイクル・サドラーによってひきいられていたトーリ党の人道派は、この計画をとりあげて議会に提出した。サドラーは、工場制度を調査する議会委員会の任命の承認をえた。そしてこの委員会は、1832年の会/期にその報告を提出した。この報告は決定的に党派的であり、工場制度のまったくの反対者の手によって、党派的な目的のために書かれたものであった。サドラーは、自分の高貴な情熱にかられて、極度にかたよった、極度に不当な主張をおこなった。彼は、その質問のしかたからして証人を誘導し、たしかに真実はふくんでいるが、しかし、逆立ちした、かたよったかたちで真実をふくんでいる答弁をつりだした。工場主たちは、自分たちをまるで化け物のようにえがいた報告を見てびっくりし、こんどは自分たちからすすんで公式の調査をこうた。工場主たちは、いまとなっては、もっと正難報告だけしか自分たちの役にたてることができないことを知っていた。彼らは、自分たちと仲がよく、工業の制限に反対する主義をもっていた生粋のブルジョアであるウィッグ党が、政権の座を締めていることをよく知っていた。工場主たちは、まさしく生粋の自由主義的なブルジョアだけから構成される委員会を手に入れた。この委員会の報告が、私がこれまでしばしば引用したものなの燈ある. この報告は、サドラー報告よりもいくらか真実に近くなっているが、真実からそれている点は、サドラー報告とは反対の面にある。この報告は、どのページでも工場主にたいする同情、サドラー報告にたいする不信、独立の労働者と10時間法案の支持者とにたいする嫌悪の情を示している。この報告は、どこにも労働者が人間らしい生活をし、労働者にふさわしい活動をし、労働者にふさわしい意見をもつ権利を認めていない。この報告は、労働者が10時間法案を問題とするさいに、子供のことだけでなく自分自身のことも考えているのだ、といって労働者を非難している。この報告は、扇動する労働者をデマゴーグだとか、悪意のあるやつだとか、よこしまなやつ、などとよんでいる。つまりこの報告は、ブルジョアジーの味方をしているのだ--それでもなおこの報告は、工場主たちの汚れを、あらいおとすことはできなかった。それでもなお、この報告そのものの告白によって、非常に多くの卑劣な行為が工場主たちの責任とされたので、この報告によってさえ、10時間法案運動や、工場主にたいする労働者の憎悪や、サドラー委員会が工場主にたいしてあたえた冷酷きわまる名称も、完全に正当なものとなってしまうのである。ただちがうところといえば、サドラー報告が、公然かつ露骨な野蛮行為という点で工場主を非難しているのに反し、いまやこれらの野蛮行為が、たいてい文明と人道という仮面のもとでおこなわれていた、ということが明らかになったことくらいである。それでも、ランカシァを調査した医者の委員であるホーキンズ博士は、はやくもその報告の最初の第1行に、自分から10時間法案に断固賛成である旨/を明らかにしている! また委員マキントシュは、労働者を、自分たちの雇い主の利益に反して証言させることが非常に困難であるばかりでなく、さらに工場主たちも--そうでなくても、すでに労働者のあいだの騒ぎによって、いっそう大幅な譲歩を労働者にしなければならなくなっているのに--委員の視察にそなえて準備をし、工場を掃除したり、機械の運転速度を減らしたりすることなどを、かなりしばしばおこなったので、彼の報告はありのままの真実はふくんでいない、と自分で言明している。とくにランカシァにおいては、工場主たちは、作業室の監督を「労働者」といつわって委員のまえにつれだし、彼らに工場主の情けぶかいことや、労働の健全な作用や、10時間法案にたいして労働者が無関心であり、それどころか嫌悪さえしていることを証言させる、という策略をもちいた。しかしこの監督は、もはやほんとうの労働者ではけっしてない。彼らは、わりと高い賃金をいただいてブルジョアジーへの御奉公にあがり、資本家の利益になるように労働者とたたかう自分の階級からの逃亡者である。彼らの利益はすなわちブルジョアジーの利益である。また、だからこそ彼らは、工場主自身より以上に労働者から非常に憎まれている。それにもかかわらずこの報告は、製造業ブルジョアジーが自分の雇用労働者にたいしてふるまう恥辱このうえもない傍若無人さと、工業的搾取制度の全汚名とを、そのありのままの非人間的な姿で示すには、まったく十分である。この報告のなかで、一方には過度労働による病気や不具の長ったらしい記録が、他方には工場主の冷たくて打算的な国民経済学が、対置されているのをみること以上にしゃくにさわることはない。この国民経済学において、工場主は、もし自分が年々しかじかの人数の子供を不具にすることがもはやゆるされないとすれば、自分はもとより、自分といっしょにイギリス全体も破滅しなければならない、ということを数字によって証明しようとしているのである--私がついさきほど引用したユーア氏の厚顔無恥なことばは、もしもそれがあまりにも滑稽至極なものでなかったならば、もっとしゃくにさわったことであろう。
  この報告の結果が、1833年の工場法であった。この法律は、9歳以下の子供の労働を禁止し(製糸工場を除く)、9歳ないし13歳の子供の労働時問を週48時間または1日最高9時間に、14歳ないし18歳の年少者の労働時間を週69時間または1日最高12時間に制限し、食事のための休み時間を最低1時間半と規定し、18歳以下のすべての者の夜間労働をもう一度禁止した。同時に、毎日2時間の強制就学が14歳以下のすべての子供にたいして実施され、工場主は、もしも工場医の年齢証明書か、ある/いは教師の出席証明書を持たない子供を雇用すれば、処罰されることが明らかにされた。そのかわり工場主は、教師に支払うために、毎週1ペニーを子供の賃金から控除することをゆるされた。そのほか、工場医と監督官が任命された。彼らは随時工場に立ち入り、労働者を宣誓させて訊問することをゆるされ、治安裁判所へ告発することによって法律をまもらせなければならなかった。これこそユーア博士が、あのようにめちゃくちゃにののしる法律なのだ!
  この法律の結果、ことに監督官の任命の結果、労働時間は平均12時間ないし13時間に短縮され、子供はさしつかえのないかぎり大人とかえられた。それとともに、いくつかのもっともひどい病気は、ほとんど消滅してしまった。不具は、非常に虚弱な体質の場合にしか生じなくなり、労働の作用は、それほどはっきりとはあらわれなくなった。それにもかかわらずわれわれは、工場報告のなかに、つぎのような証言をふんだんにもっている。すなわち、わりとかるい病気である足関節のはれ物、脚・腰および脊椎の脆弱と疹痛、静脈瘤性の血管、下部四肢の潰瘍、一般的な虚弱、とくに下腹部の虚弱、吐き気、はげしい食欲と交替におこる食欲の欠乏、消化不良、憂うつ症、それに工場の塵埃や汚れた空気からおこる胸部疾患等々、これらすべての病気が、J・C・ホブハゥス卿の法律の規定にしたがって--すなわち12時間ないし最高13時間働く工場においても、またこのように働く個人の場合でもおこった、といった証言である。グラスゴーおよびマンチェスターからの報告を、ここではとくに参照すべきである。これらの病気は、1833年の法律のあとでもあとをたたず、今日にいたるまで労働者階級の健康を害しつづけている。ひとはブルジョアジーの野蛮な利欲心にたいして、偽善的な、文明化された形式をよそおわせることに尽力したし、また工場主たちにたいしては、法律の力によって、あまりにはなはだしい破廉恥な行為はできないようにしたが、それだけいっそう多く、彼らのいつわりの博愛を得意になって見せびらかすうわべの理由を、あたえることに尽力したのである--これがすべてであった。たとえいま新しい工場調査委員会が発足したとしても、そこに見いだすのは、ほとんどあいもかわらぬ昔のままの姿であろう。一時のまにあわせにつくられた就学義務についていえば、政府は、それと同時にりっぱな学校をつくる配慮をしなかったので、この就学義務もまったく成果をあげずじまいのかたちである。工場主たちは、仕事もできなくなった老朽労働者を先生に任命し、彼らの子供たちを毎日2時間ずつよこして、それで法律の字句にはしたがったことにしていた--子供たちはなに一つまなばなかった。そして、自分たちの職務といえ/ば、工場法をまもらせることだけにかぎられている工場監督官の報告でさえも、上述の害悪がいまなお必然的に存続している、と結論することができる資料を、十分に提供している。監督官ホーナーおよびソーンダーズは、1843年10月および12月のその報告のなかで、子供の労働をかならずしも必要としない労働部門とか、あるいはそうでもしなければ失業する大人を子供のかわりにおきかえることのできるような労働部門では、多くの工場主たちは、14時間ないし16時間、またはそれ以上も働かせている、と述べている。これらの工場主のもとには、ことに、法律の制限年齢をやっとすぎたばかりの若い連中がたくさんいる。そのほかの工場主たちは、法律を公然とおかし、休憩時間を短縮し、ゆるされた時間以上に子供たちを働かせ、告発されるがままにまかせておく。なぜなら、罰金をかけられたところで、違反によってえられる利益にくらべると、はるかに少なくてすむからである。事業がことのほかうまくいっている現在では、とくにこうした違反をやりたい誘惑を、工場主たちはつよく感じているのだ。〉(全集第2巻402-416頁)

《61-63草稿》

   〈1817年に、労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律の制定を求めてオウエン(当時、ニューラナークの工場主だった)の請願が行なわれた。1818年、1825年および1825年の法律のうちはじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。この1831年の法律(サー・J・C・ホブハウス〔の提案にもとづく〕)は、どんな木綿工場でも、21歳未満の人々を夜間に、すなわち晩の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の人々を最高毎日12時間以上、土曜日には9時間以上働かせてはならないことをきめた。(同上書、208ページ〔『全集』、第2巻、391ページ〕。)〉(⑨212頁)

《初版》

 〈(191) ロバート・オーウェンが、今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなくして、労働日の制限が必要であることを理論的に主張したばかりでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場でじっさいに採用したとき、このことは、共産主畿的ユートピアだと嘲笑された。ちょうど、彼の「生産労働と児童教育との結合」が嘲笑され、彼の産んだ労働者の協同組/合事業が嘲笑されたのと同じように。今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公の常套句として現われており、第三のユートピアはすでに、反動的欺瞞の仮面として役立ってさえいる。〉(江夏訳337-338頁)

《資本論》

  〈322 ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。ライデン大学の経済学の教授フィセリング氏もそのようなことを予感しているとみえて、つまらない俗流経済学を最もそれにふさわしい形で講述している彼の『実際経済学提要』(1860-1862年) のなかで、熱烈に大工業に反対して手工業経営のために弁じている。--(第四版へ。互いに矛盾する工場法と工場法拡張法と作業場法とによってイギリスの立法がひき起こした「新しい裁判上の紛糾」(264ページ〔本巻、318(原)ページを見よ〕)はついに堪えられないほどひどくなったので、1878年の工場および作業場法〔Factory and Workshop Act〕において、関係立法全体の単一法典化ができあがった。このイギリスの現行産業法典を詳しく批評することは、ここではもちろんできない。それゆえ、ここでは以下の覚え書だけで満足することにしたい。この法律は次のものを包括している。(1)繊維工場。ここではほとんどすべてが元のままである。10歳以上の児童に許される労働時間は、毎日5[1/2]時間、または6時間ならば土曜は休みになる。少年と婦人は5日間は10時間で、土曜は最高6[1/2]時間である。--(2)非繊維工場。ここではいろいろな規定が従来よりは(1) の規定に近くなっているが、まだ資本家に有利な例外がいくつも残されてあり、それが内務大臣の特別許可によってさらに拡張されうる場合も多い。--(3)作業場。その定義は以前の法律のなかのものとだいたい同じである。児童、少年工または婦人がそこで従業するかぎりでは、作業場は/非繊維工場とほぼ同等に取り扱われるが、細目ではやはり緩和されている点がある。--(4)児童や少年工を使用せず、18歳以上の男女の人員だけを使用する作業場。この部類にはさらに多くの緩和が適用される。--(5)家庭作業場。この場合には家族成員だけが家族の住居で従業する。いっそう弾力性のあるいろいろな規定があり、また同時に、監督官は、大臣または判事の特別許可がないかぎり、同時に住居として利用されてはいない場所にしか立ち入ることができないという制限があり、そして最後に家庭内で営まれる麦わら細工業、レース編み業、手袋製造業の無条件放任がある。そのあらゆる欠陥にもかかわらず、今なおこの法律は、1877年3月23日のスイス連邦工場法と並んで、この対象に関する抜群の最良の法律である。この法律を今述べたスイス連邦の法律と比較することは、特に興味のあることである。というのは、この比較は立法上の二つの方法の--イギリス的な、「歴史的な」、臨機応変的な方法と、大陸的な、フランス革命の伝統の上に築かれた、より一般化的な方法との--長所と短所とを非常にはっきりさせるからである。残念なことには、イギリスのこの法典は、作業場への適用に関するかぎり、大部分は今なお死丈である。--監督官の数が足りないために。--F ・エンゲルス}〉(全集第23a654-655頁)

《フランス語版》

 〈(951) ロパート・オーエンが、今世紀の最初の10年を経た直後に、労働日の制限の必要性を理論的に主張したばかりでなく、さらになお、ニュー・ラナークの自分の工場で10時間労働日を実際に設定したとき、この革新は共産主義的ユートピアとして嘲笑された。人は、彼の「生産労働と児童教育との結合」を、また、彼がまっさきに産み出した労働者の協同組合を茶化した。今日では、これらのユートピアのうち最初のものは国家の法律になり、二番目のものはすぺての工場法のなかに公式の常套句として現われており、三番目のものは反動的な術策を蔽い隠すための仮面として役立つまでにいたっている。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈本文注156: * ロバート オーエンは、1810年になって直ぐ、理論として、(1)労働日の制限の必要性を主張しただけではなく、(2)実際に、彼のニュー ラナークの工場に日10時間を導入したのである。(3)そしてまた当時、共産主義者のユートピアのようなものと笑われたが、彼の云うところは「生産的労働と児童教育との調和と、労働者達の協働的社会」だが、彼によって最初に叫ばれて知られる所となった。( ここに括弧付きの数字 (1)-(3)を訳者の都合で挿入した。以下の文面との対応を明確にするためである。) 今日、(1)最初のユートピアは、工場法である。(2)二番目となるのは、全工場法の公式的な字句として、(3)三番目は反動的な企ての隠れ蓑としてすでに使われている。以来、工場の哲学者 ユアは、資本に対して、「工場法と言う名の奴隷制度を」なる文字 ( 訳者注: 実際は「工場法を守れ」というスローガンをユアが書くとこうなるのであろう) を旗に書き込んで、男らしく「完全なる労働の自由」のために突き進んだ英国の労働者階級を、神に向かってはとても云えないような言葉で罵る*のである。〉(インターネットから)

  (付属資料(2)に続く。)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)

2024-02-15 18:21:58 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(5)


【付属資料】(2)

 

●原注192

《61-63草稿》

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)

《初版》

 〈(192) ユア(フランス語訳)『工場哲学、パリ、1836年』、第2巻、39、40、67、77ページ等々。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(160) ユア、フランス語訳『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ページなど。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(本文注157: *ユア 「フランス語訳 製造業者達の哲学」パリ 1836年 第2巻)〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《61-63草稿》

   〈「フランスでは、1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然であった。工場(原動機または持続的火力を用いている、工場(ファクトリ)、製造所(ワーク)、作業場(ワークショップ)、および、20人以上の労働者を就業させているすべての施設)における児童労働を制限するための1841年3月22日の法律(この法律の基礎となったのは、ウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号である)は死文のままであり、今日にいたるまでノール県でしか実際に施行されていない。ちなみにこの法律によれば、13歳未満の児童を、「緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさい」には、夜(午後9時から午前5時までのあいだ)でも使うことができ、13歳以上の児童を、「彼らの労働が不可欠であるならば」夜どおしでも使うことができるのである。〉(草稿集④348頁)
  〈②〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。
  第一の法律は多くの討論と熟慮とののちに承認されたが、わが国の法令であるウィリアム4世治下第3年および第4年法律第103号の諸条項にもとづいていた。この問題は諸県にあるさまざまの商工会議所に回付された。そしてけっきょく法律は、工場における労働時間の制限にたいして主張された各地方の異論にこれをできるかぎり一致させるようなかたちで承認されたのである。
  その諸条項の大要は次のとおりである。--
    1841年3月21日の法律
  児童の労働は次のところにおいては規制されるべきである。--
  原動機または持続的火力を用いている、工場、製造所、作業場、および21人以上の労働者を就業させているすべての施設。
  児童の労働は次のように規制されるべきである。--
  『8歳未満の児宣を使用してはならない。
  8歳以上12歳未満の児童は、1回の休憩時間をはさむ8時間を越えて使用してはならない。
  12歳以上16歳未満の児童は、少なくとも2回の休憩時間をはさむ12時間を越えて使用してはならない。
  16歳未満の児童の労働時間は、午前5時から午後9時までのあいだになければならない。
  児童の年齢は、戸籍吏によって無料で発行される証明書によって証明されなければならない。
  夜間とは、午後9時から午前5時までのあいだと宣言される。
  13歳未満の児童は、緊急の修理の仕事の場合、または水車の停止のさいを除いて、夜間に使用してはならない。また夜間における2時間の労働は、昼間における3時間の労働と見なされる。』」〉(④349頁)

  〈①1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……3月2日に彼らは次のように布告した。--
  『1日の労働は1時間縮小されねばならない。したがって、それが現在11時間から成っているパリではそれは10時間に短縮され、それがこれまで12時間から成っていた各県ではそれは11時間に短縮される。』
  政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。人民の政府が人民のための立法を発議するときに、この政府は、通常の労働時間がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った仮定にもとづいていたが、これに反してそれらはこうした制限をはるかに越えていたのであって*、人民は、労働日の長さが実際には3、4、5時間も短縮されるのに、こんなに突然の変化、しかもこんなに広範囲な性格をもつ変化が当面の賃銀に影響を与えることはないものと期待したのであった。しかしこの法律は、パリをも各県をも満足させず、雇主をも労働者をも満足させなかった。パリでは1日10時間、各県については11時間と規定したその不公平は……。
  *『多数の紡績工場で、労働は14時間または15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いな、もし私がよく知らされていたならば、もっと長時間でさえあったろう。』--『1848年におけるフランスの労働者階級について』、ブランキ氏著。」
  ①国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。
  ①〔注解〕レッドグレイヴの原文では次のようになっている。--
  「……そして、工業中心地においてそれから生じている悲惨な諸影響は、国民議会に、1848年9月8日、次の法律を制定させることになったが、この法律は、申し分のないものとして一般に受け入れられた。--
  『工場および製造所における労働者の1日の労働は121時間を越えてはならない。
  政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣言する権能を有する。』
  政府は、このようにしてそれに与えられた権限を行使して、1851年5月17日、許可されるべき除外例を次のように布告した。--
  『以下の職種は1848年9月8日の法律による規制には含まれない……。』」
  「労働日の延長は労働者の選択にまかされている。……それが相互に同意されている場合には、……(12時間を越える)1時間あたりの賃率は一般に彼らの通常の賃銀よりも高い」(同前、80ページ)。A・レッドグレイヴは81ページで述べている、--過度労働とそれに結びついた肉体的衰弱および精神的退廃の結果、「ルアンとリールの労働人口は……斃(タオ)れきて」、「増加がわずか」になった。また、「イギリスでは『工場障害者(クリツブルズ)』の名で呼ばれる犠牲者を出しているような種類の不具に、多くの人々が苦しめられている」(同前、81ページ)。)(④349-351頁)
  〈「児童労働調査委員会はこの数年、報告書を公刊し、多くの無法な行為を明るみに出したが、そうした行為はいまだに続いており、しかもそれらのなかには、工場や捺染場がこれまでに罪に関われたどの行為よりもはるかにひどいものがある。……議会にたいして責任を負っていて自分たちの処置を半年ごとに報告する義務を守る有給の公務員による、組織化された監察体制がなかったならば、法律はすぐに効力がないものとなるであろう。このことは、1833年の工場法に先だつすべての工場法が効果がなかったことによって証明されており、また今日フランスで--1841年の工場法が系統的な監察についての規定を含んでいないために--そうなっているとおりである」(『工場監督官報告書。1858年10月31日にいたる半年間』、10ページ)。〉(④355頁)

《初版》

 〈フランスが、イギリスのあとから、のろのろとびっこを引いてやってくる。フランスは、12時間法(193)の誕生のために2月革命を必要としたが、この法律は、イギリスの母法に比べればはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法にも、特有な長所が示されている。この方法は、すべての作業場と工場とに無差別に、同じ労働日制限一挙に課しているのに、イギリスの立法のほうは、あるときはこの点あるときはあの点で、四囲の事情の圧迫にいやいやながら屈服していて、新しい法律上の紛糾を孵化する方向に進んでいる(194)。他方、フランスの法律のほうは、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ戦い取られ、近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(194)を、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈フランスはイギリスの後についてゆっくりと進んでいる。12時間法(161)を産み出すために、フランスは2月革命(1848年) を必要とするが、この法律は、そのイギリスの母法よりもはるかに欠陥が多い。それにもかかわらず、フランスの革命的方法にもその特有な利点がある。それは、すべての作業場とすべての工場とに、無差別に同じ労働日制限を一挙に負わせるのに対し、イギリスの立法は、あるときはこの点、あるときはあの点で、いやいやながら諸事情の圧迫に屈しながら、法律上の異議という一巣の雛全体を孵化させるのに最良の手段をいつもとっている(162)。他方、フランスの法律は、イギリスでは児童や未成年者や婦人の名においてのみ闘いとられ、やっと最近一般的な権利として要求されたものを(163)、原則の名において宣言しているのである。〉(江夏・上杉訳309頁)

《イギリス語版》

  〈(4) フランスは、英国の後をゆっくりとびっこを引きながら歩く。12時間法を世にもたらすためには二月革命が必要であった。だが、この12時間法*は、英国の原形に較べれば、より不完全なものである。
  とはいえ、フランスの革命的な方式は、特別なる前進も獲得している。労働日に係る同じ制限を、作業場であろうと工場であろうと区別することなく全てに対して命じている。一方の英国法では、状況の圧力に不承不承屈している。今回はこの点で、その次はあの点でと。そして、展望もなく、途方にくれる矛盾の絡まりあう条項*だらけに堕する。
  英国では、単に、児童たち、年少者たち、女性たちで勝利を得たのみであり、僅かに最近になって、最初の一般的権利として勝利したに過ぎない。一方フランス法は、原理*そのものを宣言する。〉(インターネットから)


●原注193

《初版》

 〈(193)『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずくこう書かれている。「工場や作業場での1日の労働時間を12時間に制限しているフランスの法律は、この労働を、一定の固定した時間(時限)の範囲内に制限しないで、児童労働にかぎって午前5時から晩の9時までの時限を規定している。だから、一部の工場主たちは、この不運な沈黙が与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて毎日、間断なく労働させているのである。このために、工場主たちは、2組に分けた労働者--どちらの組も仕事場で12時間以上時を過ごすことはない--を使っているが、工場の作業のほうは、昼も夜も続けられている。法律は守られているが、人道も守られているであろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響」は別にしても、「うす暗い同じ仕事場で男女が夜間一緒に働いていることのゆゆしい影響」も、強調されている。〉(江夏訳338頁)

《フランス語版》

 〈(161) 1855年にパリで催された国際統計会議の報告では、なかんずく次のように述べられている。「工場や作業場での毎日の労/働時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働が履行されるぺき特定の時刻をきめていない。ただ児童の労働についてだけ、朝の5時から晩の9時までの時間が規定されている。したがって、工場主たちは、この不吉な沈黙が自分たちに与えてくれる権利を利用して、おそらく日曜日を除いて、毎日中断なく労働させるのである。彼らはそのために2組の別々の労働者を使うのであって、そのどの組も作業場で12時間以上を過ごすことはないが、事業所では作業が昼夜続いている。法律は守られているが、人道も同じく守られているか?」。この報告では、夜間労働が人体に及ぼす破壊的な影響のほかに、照明のひどく悪い同じ仕事場で男女が夜間一緒にいることの不吉な影響も、浮き彫りにされている。〉(江夏・上杉訳309-310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注158: * パリにある国際統計会議の報告書 1855年 には、次の様に書かれている。「工場と作業場での日労働の長さを12時間に制限するフランスの法は、この労働の時間を明確な不動の時間としては限定していない。ただ児童労働については、朝5時から夕9時の間と明記されている。であるから、工場主のある者らは、日曜日を除いては、できる限り、日が始まろうと、終わろうと、休みもなしに、自分らの作業を自分らの好きなように継続できるという、この致命的な沈黙で示されている権利を利用する。この目的のために、彼等は、2組の異なる労働者の班を利用する。班はいずれもその作業場には1回では12時間を超えないが、作業は昼も夜も続く。法は納得されたが、人間性は納得されたか?」さらに、「人体にとっての、夜間労働の破壊的な影響」に触れ、さらにまた、「夜、男女が、同じように暗い照明の中でごったに置かれることの致命的な影響」にも触れている。〉(インターネットから)


●原注194

《初版》

 〈(194) 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法』のもとでは仕上げ業者である、云々。」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のレッドグレープ氏の報告。)これらの法律のいろいろな規定と、そ/こから生ずるごたごたとを列挙したあとで、ベーカー氏はこう言う。「工場所有者が法網をくぐろうとすれば、これらの三つの国会制定法の施行を確保することがどれほど困難にならざるをえないか、ということがわかる。」ところが、このことによって弁護士諸氏に確保されているものが、訴訟なのである。〉(江夏訳338-339頁)

《フランス語版》

 〈(162) 「たとえば、私の管区では、同じ工場主が同じ事業所内で漂白業者および染色業者であり、そのかぎりで漂白業および染色業を規制する法律の適用を受け、さらに捺染業者でもあり、そのかぎりで『捺染工場法』の適用を受け、最後に仕上業者<finisher>でもあって、そのかぎりで『工場法』の適用を受けている……」(『1861年10月31日の工場監督官報告書』、20ページ中のべーカー氏の報告)。べーカー氏は、これらの法律の種々の条項をあげてそこから生ずるややこしさを浮き彫りにした後で、こうつけ加える。「工場主が法網をくぐろうとすれば、これら三つの国会制定法の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないか、ということがわかる」。だが、このことによって法律家諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注159: * 「例えば、私の地区の一人の居住者は、同じ宅地内で、漂白と染色工場法下にある漂白業者であり、同時に染色業者でもある。また捺染工場法下の捺染業者であり、工場法下の仕上げ業者である。」(工場査察官報告書 1861年10月31日におけるベイカー氏の報告) これらのいろいろと異なる対応を列挙したのち、これらに起因する複雑な状況について、ベイカー氏は、「であるから、居住者が、法を逃れる道を選ぶことになれば、これらの3つの議会法の執行を確保するにはかなりの困難性が避けられないということになるであろう。」結果として、法律家がこれに対して自信を持って云えることは、法衣を持ち出すことのみである。〉(インターネットから)


●原注195

《初版》

 〈(195) そこで、工場監督官は、おしまいにはあえてこう言う。「これらの異議(労働時間の法的制限にたいする資本の)は、労働者の権利という大前提の前に周すべきものである。……たとい疲労が問題にならなくても、労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者の時間が労働者自身のものになるような時点が、あるものだ。」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ。)〉(江夏訳339頁)

《フランス語版》

 〈(163) ついに工場監督官は、勇気を振って言う。「これらの異議(労働時問の法的制限にたいする資本の)は、労働の権利の大原則の前に屈服すべきである。……自分の労働者の労働にたいする雇主の権利が停止して労働者が自分自身を再びわがものにする、そういった一つの時点がある」(『1862年10月31日の工場監督官報告書』、54ページ)。〉(江夏・上杉訳310頁)

《イギリス語版》

  〈本文注160: * 工場査察官も、最後には敢えて、このように云っている。「これらの異議申し立て ( 資本家の、労働日の法的な制限に係る異議申し立て) は、労働の権利という大きな原理の前には屈伏せざるを得ない…. そこに、資本家の労働者に対する権利を停止する時が来る。そして労働者の時間が彼自身のものとなる。仮に、そこになんの疲労も無いとしても、勿論のことである。(工場査察官報告書 1862年10月31日)〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《アメリカ合衆国大統領エーブラハム・リンカンへ》(1865年1月7日)

  〈拝啓
  私たちは、あなたが大多数で再選されたことについて、アメリカ人民にお祝いを述べます。奴隷所有者の権力にたいする抵抗ということが、あなたの最初の選挙の控えめのスローガンであったとすると、奴隷制に死を、があなたの再選の勝利に輝く標語です。
  アメリカの巨大な闘争の当初から、ヨーロッパの労働者たちは、彼らの階級の運命が星条旗に託されていることを、本能的に感じていました。あの凄惨をきわめた大叙事詩のはじまりとなった諸准州をめぐる闘争は、広漠たる処女地を、移住民の労働と結ばせるか、それとも奴隷監督の足下にけがさせるか、を決定すべきものではなかったでしょうか?
  30万の奴隷所有者の寡頭支配が、世界の歴史上にはじめて、武装反乱の旗印に奴隷制ということばを書くことをあえてしたとき、まだ1世紀もたたぬ昔に一つの偉大な民主共和国の思想がはじめて生まれた土地、そこから最初の人権宣言(13)が発せられ、18世紀のヨーロッパの革命に最初の衝激があたえられたほかならぬその土地で、その同じ土地で反革命が系統的な徹底さをもって、「旧憲法の成立の時期に支配していた思想」を廃棄する、と得意になって吹聴し、「奴隷制こそ有益な制度であり」、それどころか、「労働と資本の関係」という大問題の唯一の解決策であると主張し、そして人間を所有する権利を「新しい建物の礎石(16)」と厚顔にも宣言したとき、そのときただちにヨーロッパの労働者階級は、南部連合派の郷紳(17)にたいする上流階級の狂熱的な支持によって不吉な警告をうけるよりもなお早く、奴隷所有者の反乱が、労働にたいする所有の全般的な神聖十字軍への早鐘をうちならすものであり、労働する人々にとっては、未来にたいする彼らの希望のほかに、彼らが過去にかちえたものまでが、大西洋の彼岸でのこの巨大な闘争において危うくされているのだということを理解しました。だからこそ彼らはいたるところで、綿業恐慌が彼/らにおわせた困苦を辛抱つよく耐えしのび(18)、彼らの目上の人々がしつこく迫った奴隷制支持の干渉にたいして熱狂的に反対し、またヨーロッパの大部分の地域からこのよき事業のために彼らの応分の血税を払ったのであります。
  北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。しかし、進歩にたいするこの障害は、内戦の血の海によって押し流されてしまいました。
  ヨーロッパの労働者は、アメリカの独立戦争が、中間階級〔ブルジョアジー〕の権力を伸張する新しい時代をひらいたように、アメリカの奴隷制反対戦争が労働者階級の権力を伸張する新しい時代をひらくであろうと確信しています。彼らは労働者階級の誠実な息子、エーブラハム・リンカンが、鎖につながれた種族を救出し、社会的世界を改造する比類のない闘争をつうじて、祖国をみちびいていく運命をになったことこそ、来たるべき時代の予兆であると考えています。
  国際労働者協会中央評議会を代表して署名(署名は略)〉(全集第16巻16-17頁)

《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)

  〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)
  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

《初版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度がこの共和国の一部を不具にしていたあいだは、独立した労働者運動はすべて麻癖状態にあった。黒人の労働が汚辱を加えられているところでは、白人の労働が解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死からは、たちまち、新しく若返った生命が発芽した。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で、大西洋から太平洋まで、ニューイングランドからカリフォルニアまでを闊歩する、8時間運動であった。ボルチモアの全国労働者大会(1866年8月16日) はこう声明している。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在における第一級の大必要事は、アメリカ連邦の州で標準労働日を8時間とする法律を、制定することである。われわれは、この輝かしい成果に到達するまで、全力を尽くすことを決意した(196)」。それと同時に(1866年9月初め)、ジュネーブの「国際労働者大会」は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、こう決議した。「労働日の制限は、この制限を欠いては解放を求める他のいっさいの努力が挫折せざるをえない一つの前提条件である、とわれわれは声明する。……われわれは、8労働時間が労働日の法的限度である、と提案する。」〉(江夏訳339頁)

《国際労働者協会総評議会の第4回年次報告》(1868年9月6日から13日にブリュッセルでひらかれたインタナショナル第3回大会のために)から

 〈総評議会は、合衆国の全国労働同盟と不断の連絡をたもっている。アメリカの同盟は、1867年8月にひらかれた同盟の前回の大会で、本年のブリュッセル大会に代表を派遣することを決議したが、時間の不足のため、この決定の実行に必要な措置をとることを怠った(205)。
  北アメリカの労働者階級の潜在的な力は、連邦政府の官営事業場で8時間労働日が法律によって実施されたことや、連邦加盟の8つないし9つの州で一般的な8時間労働法が公布されたことによって明らかである。にもかかわらず、/目下アメリカの労働者階級は、たとえばニューヨークで、8時間労働法の実施をその力に及ぶあらゆる手段をもちいて妨げようとしている反抗的な資本にたいして、必死の闘争をおこなっている。この事実は、最も有利な政治的条件のもとでさえ、労働者階級がなんであろうと重大な成果をおさめることは、彼らの勢力をきたえ集中する組織の成熟度にかかっているということを、証明している。〉(全集第16巻320-321頁)
  〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。
  全国労働同盟の指導部は、その後まもなく、ユートピア的な通貨改革の計画に没頭した。これは、銀行制度の廃止と、国家による低利信用の供与とを目標とするものであった。1870-1871年に労働組合が全国労働同盟から脱退し、1872年には同盟は実際上存在することをやめた。〉(第16巻652-653頁)

《アメリカ合衆国全国労働同盟への呼びかけ(205)(ロンドン、1869年5月12日)

 〈仲間の労働者諸君!
  わが協会の創立綱領のなかで、われわれは言明した。
--「大西洋の彼岸に奴隷制を永久化しひろめることを目的とするいまわしい十字軍に、西ヨーロッパがまっしぐらにとびこまずにすんだのは、支配階級の賢明さのおかげではなくて、イギリスの労働者階級が支配階級の犯罪的な愚行に英雄的に抵抗したおかげであった。」いまや戦争を防止するために諸君が立ち上がる番がきた。この戦争が起こるならば、その最も明白な結果は、上げ潮に向かっている労働者階級の運動が、大西洋の両側で、無期限に後退を余儀なくさせられるということであろう。
  アメリカ合衆国をイギリスとの戦争に追い込もうと必死/になっているヨーロッパ列強があることは、いまさら諸君にいうまでもない。貿易統計をひと目眺めさえすれば、ロシアの原料品輸出--そしてロシアにはこれ以外に輸出するものはないのであるが--が急速にアメリカとの競争に敗退しはじめていたときに、内戦が突如として形勢を逆転したのだということが見てとれる。アメリカの鋤を剣に変えることは、諸君の共和党の政治家が賢くも心を許した助言者に選んだあの専制国家を、まさにいま迫りくる破産から救いだす道なのである。だが、あれこれの政府の特殊的利益は別としても、急速に成長しつつあるわれわれの国際的協力を共倒れの戦争に転化することは、われわれの共通の抑圧者たちの一般的利益ではないだろうか?
  リンカン氏の大統領再選にあたってわれわれが送った祝辞のなかで、われわれは、アメリカの独立戦争が中間階級〔ブルジョアジー〕の進歩にとって重大な意義をもったのと同様に、アメリカの内戦は労働者階級の進歩にとって重大な意義をもつことになるだろうというわれわれの確信を表明した。じじつ、反奴隷制戦争の勝利の終結は、労働者階級の歴史に新しい時代をきりひらいたのである。合衆国自体のなかでも、この日以来、諸君の古い政党とその職業的政治家から憎悪の目でみられる独立した労働者階級の運動が誕生したのであった。この運動は、結実を見るためには、平和な年月を必要としている。それを破壊するためには、合衆国とイギリスのあいだの戦争が必要とされている。
  内戦の第二の明白な結果は、もちろん、アメリカの労働者の地位の悪化であった。ヨーロッパと同様、合衆国においても、国債の悪夢のような重荷は手から手へと転嫁されて、結局は労働者階級の肩におちついたのである。諸君の政治家のひとりの言うところでは、日用必需品の価格は1860年以来78%上昇したが、一方、不熟練労働者の賃金は50%、熟練労働者のそれは60%上がったにすぎない。この政治家は不満を述べていう。
  「極貧状態はいまやアメリカでは人口より急速に増大する。」
  そのうえ、労働者階級の苦難は、金融貴族、成上り貴族、そして戦争の甘い汁を吸った同様の害虫どもの新奇な贅沢とあざやかな対照をなしている。しかしそれにもかかわらず、内戦は、奴隷を解放し、その結果として諸君自身の階級の運動に精神的刺激をあたえたがゆえに、これらのことを償ってあまりあるものであった。第二の戦争は、崇高な目的や偉大な社会的必要によって清められる戦争ではなく、古い世界の型にしたがった戦争であり、それは奴隷の鎖を断つかわりに、自由な労働者のた/めの鎖を鍛えることになるであろう。そのあとに残される悲惨の堆積は、常備軍の無慈悲な剣によって労働者階級をその勇敢で正しい望みから引き離すための動機と手段とを、諸君の資本家たちにあたえることになるだろう。
  だから、労働者階級が、もはや卑屈な従者としてではなく、みずからの責任を意識した俳優、自称主人たちが戦争を叫ぶときに平和を命じることのできる独立した俳優として、いまやついに歴史の舞台を堂々と歩んでいることを世界に示すという光栄ある任務が、まさに諸君の肩にかかっているのである。
   国際労働者協会総評議会の名において(以下、略)〉(全集第16巻頁)
  〈注解(245)--全国労働同盟にあてた総評議会の呼びかけは、1869年春にイギリスとアメリカ合衆国とのあいだに戦争の危険が生まれたことに関連して、マルクスが起草し、5月11日の総評議会で読み上げられたものである。〉(全集第16巻662頁)

《フランス語版》

 〈アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部の土地を汚していたあいだは、労働者の側での独立しようとする気持はすべて麻痺したままであった。黒人の労働が汚名をきせられ屈辱を受けているところでは、白人の労働は解放されるはずがない。だが、奴隷制度の死はただちに新しい生命を孵化させた。南北戦争の第一の果実は8時間運動であって、この運動は機関車という1歩7里の長靴で、大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、駆けまわった。ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言した。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するための、現在の第一かつ最大の要求は、アメリカ連邦全州において労働日は8時間で構成されるべきだという法律を発布することである。われわれは、この光栄あ.る成果が達成されるまで全力を尽すことを決意した(164)」。同時に(1866年9月の初めに)、ジェネーヴの国際労働者大会は、ロンドンの総務委員会の提案に/もとづいて同じような決議をした。「労働日の制限は、それなしには解放を目ざすいっさいの努力が挫折せざるをえない前提条件である、とわれわれは宣言する。われわれは8時間を労働日の法定限度として提案する」。〉(江夏・上杉訳310-311頁)

《イギリス語版》

  〈(5) 北アメリカ合衆国では、共和国の一部が奴隷制度で汚れているかぎりでは、あらゆる独立した労働者の運動は、麻痺させられていた。黒き烙印が白い皮膚にあるかぎり、労働は、自分を解放することは出来ない。しかし、奴隷制度の死以後、新たな生命が直ちに開花した。市民戦争の最初の果実は、8時間運動である。この運動は、大西洋から太平洋まで、ニューイングラインドからカリフォルニアまで、一足3マイル×7倍という民謡に登場するあの深靴を実現した機関車で一気に走った。ボルチモアで開かれた労働者一般会議 ( 1866年8月16日) は、次のように宣言した。
  (6) 「現在やらなければならないことの第一で名誉ある事は、この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放することである、そのためには、アメリカ連邦全州において、標準労働日を8時間とする法を議会で制定することである。我々は、我々の全力を以て、光栄ある結果が達成されるまで、これを前進させることを決意する。」*
  (7) 同じ頃、ジュネーブの国際労働者協会の会議は、ロンドンの一般評議会の提案を受けて、次のように決議した。「労働日の制限は、それなくば、以後の改善や解放の推進が流産させられかねない前提条件である…. 会議は、8時間を労働日の法的制限として建議する。」〉(インターネットから)

 (付属資料(3)に続く。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(6)

2024-02-15 18:05:43 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(6)


【付属資料】(3)


●原注196

《初版》

 〈(196) 「われわれダンカークの労働者はこう声明する。現在の制度のもとで要求されている労働時間は、長すぎるし、労働者に休息や進歩のための時間を少しものこさず、むしろ、奴隷制度よりもわずかばかりましな隷属状態(“a condition of/ servitude but little better than siavery") に労働者を押さえつけている、と。だから、次のことを決議する。8時間が1労働日としては充分であるし法律上も充分である、と認められるべきだということ、われわれは、強力な挺子である新聞に援助を求め、……そして、この援助を拒む者をすべて、労働の改革と労働者の権利とにたいする敵と見なすということ。」(1886年のニューヨーク州ダンカークにおける労働者の決議、1866年。)〉(江夏訳339-340頁)

《フランス語版》

 〈(164) 「われわれダンカークの労働者は宣言する。現制度のもとで要求されている労働時間の長さは過大であって、休息し勉学するための時間を残すどころか、奴隷制度より余りましでもない隷属状態<a condition of servitude but little better than siavery>に労働者を陥れている。それゆえ、われわれは、8時間が1労働日として充分であり、法律上も充分であると認められるべきこと、われわれはかの強力な挺子である新聞に援助をもとめること、……また、われわれは、この援助を拒否するであろう者をことごとく、労働の改革と労働者の権利との敵とみなすこと、を決議する」(1866年、ニューヨーク州ダンカーク労働者の決議)。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈本文注161: * 「我々、ダンカークの労働者は、現在のシステムが課している労働時間の長さが、長すぎ、休息と教育のための時間が、労働者にはほとんど残されておらず、労働者を苦役に陥しめており、奴隷制度となんら変わらない状態にあると断言する。これが、何故我々が8時間の労働日で充分と決めたのかの理由である。また、充分であると法的にも承認されねばならない。何故我々が我々の助けとして力強き梃子、新聞記者を呼んだのかの理由である。…. そして、我々へのこのような助力を拒む者らを、労働改革と労働者の諸権利の獲得に対する敵と考えるかの理由である。」( ダンカークの労働者達の決議文 ニューヨーク州 1866年)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《賃金・価格・利潤》

 〈労働日の制限についていえば、ほかのどの国でもそうだが、イギリスでも、法律の介入によらないでそれが決まったことは一度もなかった。その介入も、労働者がたえず外部から圧力をくわえなかったらけっしてなされはしなかったであろう。だがいずれにしても、その成果は、労働者と資本家とのあいだの私的な取決めで得られるはずのものではなかった。このように全般的な政治活動が必要であったということこそ、たんなる経済行動のうえでは資本のほうが強いことを立証するものである。〉(全集第19巻150頁)

《初版》

 〈こうして、大西洋の両岸で生産諸関係そのものから本能的に成長した労働者運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次の陳述を確証している。「社会改良のためのさらにつつ込んだ方策は、あらかじめ労働日が制限されて、規定されたその限度が厳格に強制されなければ、けっして、成功を見込んで遂行できるものではない(197)。」〉(江夏訳340頁)

《フランス語版》

 〈こうして、大西洋の両岸で生産関係そのものから自然発生的に生まれた労働者階級の運動は、イギリスの工場監督官R・J・サーンダーズの次の言葉を裏書きしている。「労働日がまず制限され、この規定された限度が厳格に強制的に遵守されなければ、なんらかの成功の望みをもって社会の改革に向かって一歩前進することは不可能である(165)」。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈(8) この様に、大西洋の両側で労働者階級の運動が、生産の状況自体の中から、本能的に成長した。英国工場査察官 R.J. サンダースの次の言葉が、それを認めている。
 (9) 「社会の改革へと向かう更なるステップは、労働時間が制限されること、その規定が厳格に執行されることが、なんらあり得ないということでは、永久に遂行され得ない。」*( 本文注: 162 :*工場査察官報告書 1848年10月)〉(インターネットから)


●原注197

《初版》

 〈(197) 『1848年10月31日の工場監管官報告書』、112ページ。〉(江夏訳340頁)

《フランス語版》

 〈(165) 『1848年10月31日の工場監督官報告書』、112ページ。〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》 本文に挿入。


●第7パラグラフ

《国際労働者協会創立宣言》(マルクス)1864年9月28日から

  〈イギリスの労働者階級は、30年にわたって最も驚嘆すべきねばりつよさでたたかったのち、土地貴族と貨幣貴族のあいだの一時的な分裂を利用して、10時間法案を通過させることに成功した。このことが工場労働者にもたらした巨大な肉体的・精神的・知的な利益は、工場監督官の報告書に半年ごとに記録されて、いまでは各方面の承認するところとなっている。大陸の大多数の政府も、多少修正した形態でイギリスの工場法を受け入れなければならなかったし、イギリス議会そのものが、工場法の施行範囲を年々拡大しなければならなくなっている。しかし、この労働者の/ための方策の驚くべき成功には、その実際的な意義以外に、この成功の意義をさらに高める別の要因があった。これまで中間階級は、ユア博士、シーニア教授、その他同様の賢人たちのような、彼らの最も悪名高い学術機関の口をつうじて、労働時間をすこしでも法律で制限すれば、イギリス工業の弔鐘を鳴らす結果とならざるをえないこと、この工業は、吸血鬼さながらに、生血を、おまけに子供の生血までも吸わずには生きてゆけないということを予言し、好きなだけそれを論証してきた。その昔、子供殺しはモロクの宗教の秘儀となっていたが、しかしその実施は、若干のきわめて荘厳な儀式の場合に限られていて、たぶん年1回をこえなかった。そのうえ、モロクは、貧民の子供だけをえり好みするようなことはなかった。労働時間の法律的制限をめぐるこの闘争は、貧欲をおびえさせた以外に、じつに、中間階級の経済学である需要供給の法則の盲目的な支配と、労働者階級の経済学である社会的先見によって管理される社会的生産とのあいだの偉大な抗争に影響を及ぼすものであったから、なおさら激しくたたかわれた。こういうわけで、10時間法案は、大きな実践的成功であるだけにとどまらなかった。それは、原理の勝利でもあった。中間階級の経済学があからさまに労働者階級の経済学に屈服したのは、これが最初であった。〉(全集第16巻8-9頁)

《国際労働者協会暫定規約》マルクス(1864年9月28日発表)

  〈労働者階級の解放は、労働者階級自身の手でたたかいとられなければならないこと、労働者階級解放のための闘争は、階級特権と独占をめざす闘争ではなく、平等の権利と義務のため、またあらゆる階級支配の廃止のための闘争を意味すること、
  労働手段すなわち生活源泉の独占者への労働する人間の経済的な隷属が、あらゆる形態の奴隷制、あらゆる社会的悲惨、精神的退廃、政治的従属の根底にあること、
  したがって、労働者階級の経済的解放が大目的であり、あらゆる政治運動は手段としてこの目的に従属すべきものであること、
  これまでこの大目的のためにはらわれた努力はすべて、それぞれの国のさまざまな労働部門のあいだに連帯がなく、またさまざまな国々の労働者階級のあいだに兄弟的同盟のきずながなかったために失敗したこと、
  労働の解放は、地方的な問題でも一国的な問題でもなく、近代社会が存在しているあらゆる国々にわたる社会問題であり、その解決は、最も先進的な国々の実践的および理論的な協力にかかっていること、
  現在ヨーロッパの最も工業的な国々にみられる労働者階級の運動の復活は、新しい期待を生みだすとともに、古い誤りをくりかえさないようにという厳粛な警告をあたえるものであり、いまなおばらばらな運動をただちに結合するよう要請していること、
  以上の理由にもとついて、--
  1864年9月28日、ロンドン、セント・マーティンズ・ホールでひらかれた公開集会の決議によって権限をあたえられた委員会のメンバーである下名の者は、国際労働者協会の創立のために必要な措置をとった。
  われわれは宣言する。本国際協会ならびに本協会に加盟するすべての団体および個人は、真理、正義、道徳を、皮膚の色や信条や民族の別にかかわりなく、彼ら相互のあいだの、また万人にたいする彼らの行動の基準と認める。
  われわれは、自分自身のためだけでなく、各自の義務を.果たしているすべての人のために人および市民の権利を要求するのが、人たるものの義務である、と考える。義務を/伴わない権利はなく、権利を伴わない義務もない。
  この精神にたってわれわれは、次の国際労働者協会の暫定規約を起草した。
  第一条  本協会は、同一の目的、すなわち労働者階級の保護、進歩および完全な解放をめざしているさまざまな国々の労働者諸団体の連絡と協力を媒介する中心として創立された。
  第二条  協会の名称は「国際労働者協会」とする。
  第三条  1865年に、国際協会に加盟した労働者諸団体の代表をもって構成される一般労働老大会をベルギーで開催するものとする。大会は、労働者階級の共通の志望をヨーロッパにむかって宣明し、国際協会の規約を最終的に決定し、協会の活動の成功のために必要な方策を審議し、協会の中央評議会を任命すべきものとする。一般大会は年1回開催するものとする。
  第四条  中央評議会の所在地はロンドンとする。中央評議会は、国際協会に代表される諸国に所属する労働者をもって構成するものとする。中央評議会は、議長、会計、書記長、各国担当通信書記など、業務処理に必要な役員を互選するものとする。
  第五条  一般大会は、その年次会議において、中央評議会の1年間の活動について公式の報告をうけるものとする。中央評議会は、毎年大会によって任命されるが、みずから評議員を追加する権限をもつものとする。緊急の場合には、中央評議会は、所定の年次期日以前に一般大会を招集することができる。
  第六条  中央評議会は、さまざまな協力的協会のあいだの国際的仲介機関となって、各国の労働者にたえず他のすべての国々における自階級の運動の事情を知らせ、ヨーロッパのさまざまな国の社会状態の調査を共通の指導のもとに同時におこなわせ、一団体で提起されたものでも、一般的な関心のある問題はすべての団体の討議にかけ、また、たとえば国際紛争の場合のように、実際的な措置を即座にとる必要が生じたときには、加盟各団体が同時に一様の行動をとりうるようにはからうものとする。中央評議会は、適当と思われるときにはいつでも、提案のイニシアチブをとり、さまざまな全国的または地方的団体にそれを提示するものとする。
  第七条  各国の労働運動は一致団結の力によらなければ成功を確保することはできず、他方ではまた、国際中央評議会の有用性は、中央評議会と交渉をもつ相手が少数の労働者協会全国中央部であるか、それとも、多数のばらばらな地方的小団体であるかによって、大部分決定されざるをえないのであるから、国際協会の会員は、各自の国のばら/ばらな労働者諸団体を、全国的な中央機関に代表される全国的団体に結合するために、最大の努力をはらうべきである。ただし、この条項の適用が、各国で施行されている特別法に左右されるのは自明のことであり、また、法律上の障害を別にしても、いかなる独立の地方的団体も、ロンドンの中央評議会と直接に通信してさしつかえないのは、いうまでもない。
  第八条  第1回大会が開催されるまでは、1864年9月28日に選出された委員会が暫定中央評議会として行動し、さまざまな全国的労働者協会との連絡をはかり、連合王国内で会員を獲得し、一般大会の招集を準備する措置をとり、大会に提出されるべき主要な問題について、さまざまな全国的および地方的団体と協議するであろう。
  第九条  国際協会の各会員は、一国から他国へ住所を移す場合、労働者協会会員の兄弟的援助をうける。
  第十条  国際協会に加盟する労働者諸団体は、兄弟的協力の永遠のきずなで結ばれるとともに、その既存の組織をそのまま維持する。〉(全集第16巻12-14頁)

《初版》

 〈わが労働者は、生産過程にはいったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めなければならない。市場では、彼は、他の商品所持者には、「労働力」という商品の所持者として、つまり商品所持者にたいする商品所持者として、相対していた。彼が自分の労働力を資本家に売ったときの契約は、売り手と買い手との自由意志によって申し合わされた産物であるかのように見える。取引が終わったあとで発見されるのは、彼が「けっして自由な当事者ではなかった」ということであり、労働力を売ることが彼の自由である時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間だということ(198)であり、じっさい、彼の吸血鬼は、「搾取すべき一片の筋肉、一筋の腱、一滴の血でもあるかぎりは(199)」彼を手放さない、ということである。労働者たちは、自分たちを苦しめる蛇にたいして身を「防衛」するために結集すべきであるし、階級として、国法を、すなわち、資本との自由意志にもとづく契約でもって自分たちや自分たちの世代を死と奴隷状態にいたらせるまで売り渡していることを自分たち自身の手でやめさせるような、強大な社会的障害物(200)を、強要すべきである。「譲渡できない人権」のはでな目録の代わりに、法的に制限された労働日という地味な大憲章が登場し、この大憲章は、「労働者が売り渡す時間がいつ終わるか、また、労働者自身のものである時間がいつ始まるか、をとうとう明らかにしている(201)。」なんと変わり果てたことだろう!〉(江夏訳340-341頁)

《フランス語版》  フランス語版版では最後の部分は別のパラグラフにされ、二つのパラグラフに分けられている。ここでは一緒に掲載。

 〈われわれの労働者は生産の暑い室(ムロ)に入ったときとはちがった様子でそこから出てくる、ということを認めないわけにはいかない。彼は市場では、別の商品の所有者に対する「労働力」商品の所有者として、商人にたいする商人として、現われた。彼が自分の労働力を売ったさいの契約は、売り手と買い手双方の自由意志のあいだの合意から生じているように思われた。取引がいったん完了すると、彼がけっして「自由な当事者」でなかったということ、彼が自分の労働力を売ることを許されている時間は、彼がそれを売ることを強制されている時間であるということ(166)、実際には、彼を吸う吸血鬼は、「搾取すべぎ一片の肉、一筋の腱、一滴の血が彼に残っているかぎり(167)」、けっして彼を手放さないということ、が発見される。労働者たちは、「自分たちの責苦の蛇(168)」にたいして身を守るためには、結集しなければならず、また、彼らやその子孫が「自由契約」によって奴隷状態や死にいたるまで資本に売り渡されることを阻止するような乗り越せない柵、すなわち社会的障害物を、強力な集団的努力によって、階級の圧力によって、うち建てなければならない(169)。
  こうして、「人権」の華麗な目録が一つの慎み深い「大憲章」にとってかわられるが、この「大憲章」は、労働日を法定し、「労働者の売る時間がいつ終わって労働者に属する時間がいつ始まるかを、ついに明瞭に示す(170)」のである。なんと変わりはてたことだろう!〉(江夏・上杉訳311頁)

《イギリス語版》

  〈(10) 我が労働者達が、生産過程に入った時とは違った者としてそこから出て来た と云うことを、ここで、認識せねばならない。市場では、「労働力」商品の持ち主として、他の商品の持ち主達と互いに対面して立っていた。売買する者 対 売買する者として。契約によって、彼の労働力をその資本家に売るということが、言うなれば、白黒明解、彼自身を自由に処分することであると、明らかになった。取引が完結してみれば、彼はなんら「自由な取引業者」ではないことを見出す。彼が自由に彼の労働力を売る時は、なんと彼がそれを売らねばならないと、強要されていた時なのである。*」
  「事実、その時、搾取の余地が、その筋肉、神経、一滴の血に至るも、そこにある限り、吸血鬼は、彼をして離しはしないであろう。」*(本文注164: *フリードリッヒ エンゲルス の著書 「イギリスの10時間法案」)
  労働者達に「激しい苦痛をもたらす悪魔のごとき蛇」に対抗する 「保護」のために、労働者達は、彼等の頭を一つにせねばならない。そして、階級としても。法の議会通過を推進するためにも。我が労働者の売り処分を防ぐであろう社会的な固い防塁が法なのだから。各自が個々に資本と交渉することでは、自分達も自分達の家族も奴隷制度とその死に至らしめる売り処分で終わる。*
  大げさな「手離すことができない人間の権利」の大きな目録に代わって、飾りも何にもない労働日の法的制限というマグナカルタがそこにやって来た。実に、それが、いつ労働者の売りが終了するかを明確にし、いつ彼の時間が始まるかを明確にする。」なんと偉大なる変化がここに始まったことか ! * ( ラテン語 ローマの詩人 ウェルギリウス )〉(インターネットから)


●原注198

《初版》

 〈(198) 「その上、これらのやり方(たとえば1848-50年の資本の術策)は、あれほどしばしば提示された主張が誤りであることの争う余地のない証拠を、提供してくれた。その主張というのは、労働者たちはなんらの保護も必要でなく、彼らは、自分たちが所有する唯一の財産、すなわち自分たちの手の労働と自分たちの額の汗とを、処分する点で自由な当事者であると見なされてかまわない、という主張である。」(『1850年4月30日の工場監督官報告書』、45ページ)。「そう呼ぶことが許される自由な労働とは、自由な国においてさえ、こういった労働を保護すべき法律という力強い腕を必要とするものである。」(『1864年10月31日の工場監督官報告書』、34ページ。)「……食事つきまたは食事ぬきで1日に14時間、労働するのを許すことこのことは強制するのと同じことである、云々。」(『1863年4月30日の工場監督官報告書』、40ページ。)〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》

 〈(166) 「これらのやり方(たとえば、1848年から1850年までの資本の術策)は、労働者たちは保護を必要とせず、自分たちがもっている唯一の財産、すなわち自分たちの手の労働と自分たちの額の汗とを自由に処分する点では自由な当事者と見なされてよい、という非常にしばしば行なわれた主張が、虚偽であることを、争う余地なく証拠だてた」(『1850年4月30日の工場監督官報告書』、45ページ)。「そう呼んでもよいなら自由な労働は、自由な国でさえ、これを保護するための法律の強力な腕を必要とする」(『1864年10月31日の工場監督官報告善』、34ぺージ)。「食事つきまたは食事ぬきで1日に14時間労働するのを許すことは、それを強制するのと同じことである……」(『1863年4月30日の工場監督官報告書』、40ページ)。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》

  〈本文注163: *「そもそもの、その取引の数々 (1848年から1850年にかけての、資本の策動というべきもの) が、労働者達は保護を必要とはしていない、それどころか彼等が所有する彼等自身の唯一の財産- 彼等の手の労働そして彼等の額の汗 の処分については、自由な商売人と考えるべきと、何回となく繰り返し前提として叫ばれてきた主張の欺瞞性に、論争の余地がない証拠を、なによりもはっきりと提供したのである。」( 工場査察官報告書 1850年4月30日) 「自由な労働 ( もしその通りなら、そうも云えるかもしれないが) は、自由な国においてすら、それを保護するための法の強い腕を要求する。」( 工場査察官報告書 1864年10月31日) 「食事時間があろうとなかろうと、日14時間働かせることは、…. それを許容することは、強制労働となんら変わらない。等々」( 工場査察官報告書 1863年4月30日)〉(インターネットから)


●原注199

《イギリスの10時間労働法》 (エンゲルス)

 〈人々は、大工業の出現にともなって、工場主による、まったく新しい、限りなく破廉恥な労働者階級の搾取が生じたことを知っている。新しい機械は、成年男子の労働を過剰なものとした。そして、その監視のため、成年男子よりも、はるかにこの仕事に適し、しかも、いっそう安価に雇いうる婦人と児童を必要とした。工業における搾取は、したがって、ただちに労働者家族全体をとらえ、これを工場にとじこめた。婦人や児童は、極度に疲労しきって倒れるまで、日夜を分かたず働かねばならなかった。貧民労役所に収容された貧児たちは、児童にたいする需要の増大にともなって、完全な商品となった。4歳、いな3歳から、これらの児童は、ひとまとめにして、徒弟契約という形式で、いちばん高い値をつける工場主にせりおとされていった。当時の児童や婦人にたいする恥知らずの残忍な搾取、筋肉や腱の一片まで、血の最後の一滴まで、しぼりあげずにはやまない搾取にたいする思い出は、現在なおイギリスの旧世代の労働者たちのあいだにまざまざと生きている。背骨が曲がったり、手足を切断して片輪になったりして、この思い出を身にとどめているものも少なくない。しかし、そのような搾取のなごりとして、だれもかれもが、完全に身体をこわしている。アメリカのいちばんみじめな栽植農場の奴隷の運命でも、当時のイギリスの労働者のそれとくらべれば、なおすぼらしい。〉(全集第7巻239頁)

《初版》

 〈(199) フリードリッヒ・エンゲルス、前掲書〔『イギリスの10時間労働法案』〕、5ページ。〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》 フランス語版には初版や全集版にはない原注168があるので一緒に紹介しておく。

 〈(167) フリードリヒ・エンゲルス『イギリスの10時間法案』(『新ライン新聞』、1850年4月号に所収、5ページ)。
      (168) ハインリヒ・ハイネの言葉。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》  本文に挿入。


●原注200

《61-63草稿》

  〈労働時間の自然的限界を狂暴に踏み越えるのは、ただ資本の恥知らずで傍若無人な無節制であり、--そのさい、労働は、生産諸力の発展とともに、内密のうちに濃度を高め緊張を強めるのであるが、これが、資本主義的生産にもとづく社会にさえ、標準労働日を確固とした限界に強力によって制限することを余儀なくさせた(もちろんそのさいの主動力は、労働者階級自身の反杭である)ものなのである。この制限が最初に現われたのは、資本主義的生産がその組野な時代、根棒の時代をぬけて、みずからに固有の物質的土台をつくったすぐあとのことであった。労働時間のこの強制的制限にたいして、資本は労働をより強く濃縮することをもって応じたが、それはそれでまた、一定点までくると、ふたたび絶対的な労働時間の短縮をまねいた。延長に強度でとって替わるこの傾向は、生産の比較的高い発展段側階ではじめて現われる。この代替は、社会的進歩の一定の条件である。そうして、労働者にも自由な時間が生み出される。だから、ある一定の労働における強度は他の方向での活動、すなわち労働にたいして反対に休息として現われうる、休息の機能をはたしうる活動の可能性を廃棄するのではない。〔労働日の短縮の〕⑤この過程が、イギリスの労働者階級の肉体的、道徳的、知的な改善に及ぼした非常な好影響--〔これについては〕統計が立証している--は、ここから生まれるのである。
  ⑤〔注解〕 マルクスがこうした評価に到達したのは、イギリスの工場監督官の半年ごとの報告〔の研究〕によってである。とくに、『工場監督官報告書……1859年10月31日にいたる半年間」、ロンドン、1860年、47-48および52ページを見よ。--[カール・マルクス]「国際労働者協会創立宣言および暫定規約』(1864年9月28日、セント・マーティンズ・ホール、ロンドン、ロ/ング・エイカーで開催された公開集会で創立)ロンドン、1864年(『創立宣言--』、『マルクス・エンゲルス全集』、第16巻、所収)をも見よ。〉(草稿集⑨32-33頁)

《初版》

 〈(200) 10時間法案は、それが適用されている産業諸部門では、「労働者を全面的な衰退から救い、彼らの肉体状態を保護してきた。」(『1859年10月31日の工場監督官報告書』、47-52ページ。)「資本(工場における)は、就業労働者たちの健康や道徳をそこなわずには、あるかぎられた時限を越えて機械の運転を続けることができない。しかも労働者たちは自分たち自身を保護する状態におかれていない。」(同上、8ページ。)〉(江夏訳341頁)

《フランス語版》

 〈(169) 10時間法案は、それが適用される産業部門では、「労働者たちを全面的な退化から救い、彼らの肉体状態にかんするあらゆるものを保護した」(『1859年10月31日の工場監督官報告書』、47ページ)。「資本(工場における) は、労働者の健康と徳性を侵すことなしにはけっしてきまった時間以上に機械の運転を続けることができず、しかも労働者はけっして自分自身を保護することができない」(同上、8ページ)。〉(江夏・上杉訳312頁)

《イギリス語版》

  〈本文注165: *10時間法は、その法律の適用下に入った製造業の各部門において、「過去の長時間労働をする労働者達の早すぎる老衰を終結した。」( 工場査察官報告書 1859年10月31日) 資本は、(工場においては) 雇用者の健康やモラルに障害を与えることが無い様にするため、また彼等を、彼等自身を保護できない状態に置くことが無いようにするため、制限時間を超えて、機械類を運転し続けることが金輪際出来ない。」( 同上)〉(インターネットから)


●原注201

《61-63草稿》

 〈工場諸法は、「かつての長時間労働者たちの早老を終わらせた。それらは、労働者たちを彼ら自身の時間の主人とすることによって彼らにある精神的エネルギーを与えたのであって、このエネルギーは彼らを、最終的には政治権力を握ることに向けつつある」(『工場監督官報告書。185/9年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、47ページ)。〉(草稿集④355-356頁)
 〈「もっと大きい利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とが、ついにはっきりと区別されたことである。労働者はいまでは彼の売る時間聞はいつ終わっているのか、また彼自身の時間はいつ始まるのかということを知っている。そしてこのことをまえもって確実に知ることによって、彼自身の時間を彼自身の諸目的のためにまえもって予定しておくことができるようになる!」(『工場監督官報告書。1859年1O月31にいたる半年間』、ロンドン、1860年、52ページ。)このことは、標準日の制定に関連してきわめて重要である。〉(草稿集④356頁)

《初版》

 〈(201) 「もっと大きな利益は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間との区別がとうとう明らかにされたということである。労働者は、いまでは、自分の売った時間がいつ終わるかまた自分自身の時間がいつ始まるか、を知っており、そして、このことについての確実な予備知識をもっているので、自分自身の目的のための自分自身の時間を、あらかじめきめておくことができる。」(同前、52ページ。)「それら(工場法)は、労働者たちを彼ら自身の時間の主人公とすることによって、彼らに精神的なエネルギーを与え、このエネルギーが彼らを導いて政治権力を握らせるようになることもある。」(同上、47ページ。)工場監督官たちは、皮肉を抑え、非常に用心深い表現を用いて、現在の10時間法が、資本家をも、資本の単なる化身としての彼の本性的な野蛮性からある程度解放して、彼にある程度の「教養」のための時間を与えてくれた、とほのめかしている。以前は、「雇主は、金銭のため以外にはまるっきり時間をもっていなかったし、雇われ者は、労働のため以外にはまるっきり時/間をもっていなかった。」(同上、48ページ。)〉(江夏訳341-342頁)

《フランス語版》 フランス語版ではこの注は全集版のパラグラフが分割された第8パラグラフに付けられている。

 〈(170) 「さらにいっそう大きな恩恵は、労働者自身の時間と彼の雇主の時間とのあいだの区別が、ついに明瞭にきめられたことである。いまでは労働者は、自分の売った時間がいつ終わり自分に属する時間がいつ始まるかを知っている。そして、これを知ることによって自分自身の時間を自分の意図と計画にしたがって、あらかじめ手配することができるようになる」(同前、52ページ)。「労働者たちを彼ら自身の時間の主人公に仕立てることによって、工場立法は彼らに精神的なエネルギーを与えたが、このエネルギーは彼らをいつかは政治権力の掌握に導くであろう」(同前、47ページ)。工場監督官は、控え目な皮肉と非常に慎重な用語を用いて、現行の10時間法は資本家にとって利点がないわけではなかった、と仄(ホノ)めかしている。それは、資本家が単なる資本の擬人化にほかならなかったことから生じた、かの生来の残忍性から、資本家をある程度解放し、彼自身の教養のための幾らかの余暇を彼に与えた。以前には、「雇主は金銭のためにしか時間をもたず、奉公人は労働のためにしか時間をもっていなかった」(同前、48ページ)。〉(江夏・上杉訳頁)

《イギリス語版》 イギリス語版には訳者の長い余談があるが省略する。

  〈本文注166: *「さらなる特典の一つは、労働者自身の時間と、彼の雇用主の時間とを、明瞭に区別したことである。労働者は、今では、彼の売り時間がいつ終わったか、そして彼自身の時間がいつ始まるかを知っている。このことの確かな予知を有することで、彼自身の目的のために彼自身の時間を予め準備することができる。」(フリードリッヒ エンゲルス の著書 p52)「このことをして、彼等自身の時間の主人とすることで、( 諸工場法は) 彼等に意欲のエネルギーを与え、その意欲こそが、彼等を結果として、政治的な力を持つ事へと導いたのである。(同上 p47) 強烈なる皮肉と際立つ適切なる言葉で、工場査察官達は、こう云う。現実の法が、また、資本家からある種の野獣性を取り除き、単なる資本家への道に向かわせたと。そして、彼に少しばかり「文化」のための時間を与えたと。「以前は、工場主は金の事以外の時間を持たず、その使用人は労働以外の時間を持たなかった。」(同上 p48)〉(インターネットから)


  (第7節終わり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする