『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第47回「『資本論』を読む会」の案内

2012-06-14 15:31:42 | 『資本論』

『 資 本 論 』  を  読  ん  で  み  ま  せ  ん  か 

                                    

                                      
 野田政権は消費税増税のためには、社会保障改革で同党が公約したものをことごとく捨て、自民・公明案を丸飲することも辞さない構えのようである。

 与野党の協議では、すでに消費税を14年に8%、15年に10%と二段階で引き上げるとした民主党案を自民・公明が受け入れ、基本合意に達したとされている。

 あとは社会保障改革であるが、自民・公明は民主党が掲げる最低保障年金制度や後期高齢者医療制度廃止の撤回を求め、自民党の社会保障基本法案の丸飲みを要求しているという。そして野田首相は、13日、自民党案へ歩み寄る姿勢を示した。

 もはや「税と社会保障の一体改革」は有名無実化し、民主党が選挙で掲げた社会保障改革は置いてきぼりをくらい、ただ消費税増税論議だけが突っ走っていると言ってよい。しかし、これでは本末転倒も甚だしい。そもそも消費増税が必要なのは、少子高齢化社会の到来によって、現行の年金制度等がこのままでは立ち行かなくなる、だから社会保障制度全体を見直し、改革する必要がある。しかし、そのための財源が必要、だから消費増税だ、というのが同党の説明ではなかったのか。もっとも、同党の選挙向けのマニフェストでは、当面は消費増税は不要で、行政の無駄を徹底的に省けば、改革に必要な財源などはいとも簡単にひねり出せるなどとも主張してきたのではあったが。

 しかし、いまでは、その肝心要の社会保障制度の抜本的な見直しが棚上げされ、ただ消費増税だけが先走りしている。これでは国民に対する二重三重の裏切りではないか。そもそも消費増税は当面はやらないというのが民主党の約束だった筈である。にも関わらず、それを持ち出してきたことがまず一つの裏切りであり、その増税の根拠としてきた社会保障制度の改革さえ棚上げするとなれば、さらなる裏切りだからである。

 少子高齢化社会の到来とともに、社会保障費が増大していることは一つの事実である。しかし、それらはすでに何度も述べてきたように、現在の社会が資本主義の社会であるが故である。例えば年金にしても、資本が一定の年齢に達した労働者を機械的に退職に追いやる制度から不可避に必要となっているものである。高齢者の大半は、それぞれの年齢に応じた仕事を与えられるなら、幾らでも働く能力も意志も持っている。本当に社会から保障されなければならないほどの高齢に達しているような人は、決して多くはないのである。

 マルクスは一定の年齢以上のすべての子供たちや高齢者にも、それぞれの年齢に相応しい適切な労働が必要であること、例えば子供たちの場合は、教室に缶詰になって一方的に知育を押しつけられるより、教育と生産的労働とを結合した方が、教育への子供たちの意欲を引き出し、全面的に発達した個性を作り出すことができることや、さまざまな年齢層の労働者が職場で共同して働く方が、生産力を高めうるだけでなく、人間的発展の源泉になりうることを次のように指摘している。

 〈ロバート・オーエンをくわしく研究すればわかるように、工場制度から未来の教育の萌芽が芽ばえたのであり、この未来の教育は、社会的生産を増大させるための一方法としてだけでなく、全面的に発達した人間をつくるための唯一の方法として、一定の年齢以上のすべての児童に対して、生産的労働を知育および体育と結びつけるであろう。〉(『資本論』第1巻、全集23a629-30頁)

 〈結合労働人員の構成が、両性のきわめてさまざまな年齢層の諸個人からなっていることは、労働者が生産過程のために存在し生産過程が労働者のために存在するのではないという自然成長的で野蛮な資本主義的形態においては、退廃と奴隷状態との害毒の源泉であるけれども、適当な諸関係のもとでは、逆に人間的発展の源泉に急変するに違いない。〉(同上、全集23a637-638頁)

 いずれにせよ、社会保障の抜本的改革は民主党の公約である。消費増税なしでそれが可能としたのが同党の約束であったが、いまではそれは公然と反故にされ、そればかりか社会保障制度の改革まで棚上げされて、消費増税一本槍では、国民は納得できない。民主党は国民との約束を守れないなら、さっさと政権から身を引くべきではないか。

 「税と社会保障の一体改革」の欺瞞を暴くためにも、貴方も共に『資本論』を読んでみませんか。

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第47回「『資本論』を読む会」・案内


■日   時    6月17日(日) 午後2時~

■会  場   堺市立南図書館
      (泉北高速・泉ヶ丘駅南西300m、駐車場はありません。)

■テキスト  『資本論』第一巻第一分冊(どの版でも結構です)

■主  催  『資本論』を読む会(参加を希望される方はご連絡くださいsihonron@mail.goo.ne.jp)

 

 

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第46回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2012-06-14 15:15:56 | 『資本論』

第46回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎大飯原発再稼働

 野田首相は、何がなんでも大飯原発の再稼働を考えているようです。

 しかし、福島原発事故の原因はいまだ究明されたとはいえません。国会の事故調査委員会の最終報告も出ていません。原子力規制庁の発足もまだなのです。大飯の安全が確認できたと言いますが、しかし政府の安全基準なるものは、いまだ暫定的なものでしかなく、事故が起きた場合の拠点となる免震棟もありません。放射能の拡散を防ぐフィルター付きのベントもない有り様なのです。にも関わらず、野田首相は、この夏の電力事情が関電管内では逼迫しているとの理由で、「私の責任で最終判断したい」というのです。

 しかし、「私の責任」と言いますが、一体、事故が起こった場合に、どういう「責任」をとるというのでしょうか。福島原発事故で、誰かがその責任をとったということは聞いたことがありません(むしろ事故のために故郷を追われた福島の人々こそがその責任を押しつけられ、尻拭いを強いられているのではないでしょうか)。原発事故の「責任」を云々しても始まらないのです。起こってしまえば、取り返しがつかないのが原発事故です。

 それをただ目の前の電力需給の逼迫を理由に、なし崩し的に再稼働に向けて突っ走るなどということは許されるものではありません。そもそも関電が夏の電力需要に対応するために、原発以外の手段を動員する十分な対策をとったといえるでしょうか。原発を動かしたいがために、休眠中の火力発電所を動かそうともせず、それに必要な設備投資を怠ってきたのではないでしょうか。原発事故が起こった時点で、今日の事態は十分予測できたことであり、そのための対策をとる期間も無かったとはいえないのです。実際、東電は短期間に火力発電所を再稼働させ電力需要に応じています。やる気さえあればできるのです。

 関電の狙いは、停電を脅しに強引に再稼働に持ち込もうということではないでしょうか。そして野田政権は、その電力資本の言いなりなのです。

 結局、野田民主党政権は消費税増税にしても、原発推進にしても、これまでの自民党と何一つ変わることなく、資本のいいなりの政権でしかないことがハッキリしたわけです。

 とにかく腹の立つことばかりですが、しかし、まあ、本来の学習会の報告に移りましょう。今回は、第2章「交換過程」に入って二回目です。第4~6パラグラフをやりました。さっそく、その報告を行います。

◎第4パラグラフ

 報告はこれまでのように、まずパラグラフ本文を紹介し、文節ごとに記号を付して、それぞれの解読を行い、そのなかで学習会での議論も紹介していくことにします。

【4】〈(イ)どの商品所有者も、自分の欲求を満たす使用価値をもつ別の商品と引きかえにでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。(ロ)その限りでは、交換は彼にとって個人的な過程でしかない。(ハ)他方では、彼は自分の商品を価値として実現しようとする。(ニ)すなわち、彼自身の商品が他の商品の所有者にとって使用価値を持つか持たないかにはかかわりなく、自分の気にいった、同じ価値をもつ他のどの商品ででも価値として実現しようとする。(ホ)その限りでは、交換は彼にとって一般的社会的過程である。(ヘ)だが、同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であると共にもっぱら一般的社会的であるということはありえない。〉

 (イ)(ロ)
 どの商品所有者も、自分の欲しい商品とでなければ、交換しようとしません。その限りでは、交換は、彼にとっては個人的な過程でしかないでしょう。

 この場合も、商品所有者の立場から、交換過程を考察しています。これまでのパラグラフでは、商品所有者と商品そのものとの相違ということで、第2章の第1章との相違を見ていたのですが、ここでは問題をもう少し具体的に交換過程そのものを対象にして、商品所有者が商品を交換するというのは、どういう問題意識と観点からか、という形で問題を見ていることが分かります。そしてその場合の交換過程の矛盾を見ているわけです。
 これまでは商品所有者と商品との関係が考察の対象でしたが、ここでは商品所有者同士の関係が問題になっています。そしてその上で、商品所有者にとって、交換は、まずは個人的な過程であることが指摘されているのです。交換が、商品所有者にとって、「個人的な過程」であるというのは、それは商品所有者の個人的な欲望と密接不可分だからです。直接的な生産物の交換の場合、交換者は自分の欲しいと物とだけ、交換しようとします。だから相手も自分の持っているものが欲しい場合にだけ、偶然的にそれは交換されるわけです。それはまったく偶然的で個人的な過程なのです。

 (ハ)(ニ)(ホ)
 他方で、彼は自分の商品の価値を実現しようとします。つまり、彼は自分の商品が他の商品所有者にとって使用価値を持つかどうかに関わりなく、自分の気に入った同じ価値を持つ商品とであればどれとでも交換しようと思うわけです。だからこの限りでは、交換は彼にとっては、一般的社会的過程であるわけです。

 ここでは先の場合とは違って、〈彼は自分の商品を価値として実現しようとする〉とあります。つまりこの場合の交換は、決して偶然的なものではなく、個人的な欲望には関わりなく、交換を行うということです。だからすでに交換されるものは、それ自身の使用価値や個人的欲望とはかかわりのない価値として、つまり自身に対象化されている労働の一般的社会的な妥当性を示そうとしているわけです。つまりこの場合、この商品の所有者は、次々に他の諸商品と交換することを望んでいるわけです。だからこの場合は、交換は、彼にとっては社会的な過程なのです。〈交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする〉(117頁)と後にマルクスは述べていますが、自身の商品を次々に別の諸商品と交換しようとするということは、それ自体、交換の一定の社会的な発展を想定しています。マルクスは「展開された価値形態」(第二の形態)について、次のように述べています。

 〈第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる。〉(全集23a86頁)

 つまり次々と諸商品と交換しようとする場合、すでにその商品所有者にとっては、交換は一般的社会的な過程なのです。

 (ヘ)しかし、同じことはすべての商品所有者にとって言えることです。だから同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であると共にもっぱら一般的社会的であるということはありえません。

 つまり、次のようなことではないでしょうか。ある部族の一人の有能な猟師が毛皮を求めて狩猟をしながら森を移動したとします。そしてその行き先々で彼はたまたま接触した幾つかの部族と彼の獲物の毛皮を、それぞれの部族の産物と交換したとします。この場合、その一つ一つの交換は偶然的なもので、互いに欲望が互いの物を欲する限りで行われるに過ぎません。その限りでは交換は個人的な過程なのです。
 しかしその有能な猟師は、それまで一定の定着農耕の農閑期に限っていた狩猟を、生活の中心に置くようになります。つまり彼は獲物を求めて、一年を通し、この季節にはこの森に、この季節にはこの谷に、どういう動物がいるのかを知るようになり、季節によって、年々、同じルートを巡回して、獵を行い、毛皮を生産しつつ、それをそのルートで接するある程度決まった部族と交換するようになります。つまり猟師にとって、獲物の毛皮を交換して歩くことが彼自身の生活になってきます。だから彼の毛皮は最初から交換を目的に生産されることになるわけです。そうすると、猟師が遭遇する部族との交換は、ある獣の毛皮一枚はジャガイモ二袋としか交換しないというように、その交換は一定の規則性を帯びてきます。つまり猟師は、彼の毛皮を価値として交換しようとするようになります。
 しかしやがて猟師だけではなく、猟師がそれまで接触してきた部族のなかにも、交換が発展してきます。しかしすべての部族の生産物が同じように彼らの生産物を価値として実現しようとしても決してできないのです。こうした交換の発展が、それらに内包する矛盾を発展させる過程が、ここでは分析されているのではないでしょうか。

◎第5パラグラフ

【5】〈(イ)立ちいってみてみると、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品の特別な等価として意義をもち、したがって、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価として意義をもつ。(ロ)しかし、すべての商品所有者が同じことを行うのだから、どの商品も一般的等価ではなく、したがってまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較しあうための一般的相対的価値形態をもってはいない。(ハ)だから、諸商品はおよそ商品として相対しているのではなく、ただ生産物または使用価値として相対しているにすぎないのである。〉

 (イ)少し詳しく考えてみると、どの商品所有者にとっても、他の人の商品はどれも自分の商品の特別な等価として意義を持ちます。だから自分の商品は他のすべての商品に対しては一般的等価として意義を持つわけです。

 先の過程をより立ち入って考えてみましょう。〈どの商品所有者も、自分の欲求を満たす使用価値をもつ別の商品と引きかえにでなければ自分の商品を譲渡しようとはしない。……他方では、彼は……彼自身の商品が他の商品の所有者にとって使用価値を持つか持たないかにはかかわりなく、自分の気にいった、同じ価値をもつ他のどの商品ででも価値として実現しようとする〉ということは、どの商品所有者にとっても、他人の商品はどれも自分の商品に対する特殊的等価物として意義を持つということであり(展開された価値形態)、だから他方では、自分の商品は他のすべての商品に対して一般的等価物として意義をもつという関係にあるわけです(一般的等価形態)。

 つまりここでは先の「展開された価値形態」に対応する交換過程が、それ自身が内包している逆の関係、つまり「一般的価値形態」に対応する交換過程へと発展することが論じられているように思えます。

 (ロ)しかし、すべての商品所有者が同じことを行うわけですから、どの商品も一般的等価ではなく、したがってまた、諸商品は、それらが自分が価値として等置し、価値の大きさとして比較し合うための一般的相対的価値形態をもっていないことになります。

 しがし、すべての商品所有者が同じことを行い、自分の商品を一般的等価物にしようとしても、それは不可能なことです。なぜなら、ある商品の所有者が、自分の欲する諸商品と次々と交換し、だから他の諸商品を自分の商品の特殊な等価物にし、それによって自分の商品を他のすべての商品に対する一般的等価物の地位に置くということは、自分以外のすべての商品を一般的等価物から排除するということでもあるからです。しかし、すべての商品所有者が同じことをしようとするなら、すべての商品が一般的等価とはなれず、だから諸商品は、互いに自分たちを価値として等置し、価値の大きさとして比較し合うための一般的相対的価値形態をもっていないことになります。

 (ハ)だから、諸商品はおよそ商品として相対しているとは言えず、ただ生産物あるいは単なる使用価値として相対しているに過ぎなくなります。つまり交換は不可能になるわけです。

 ということは、商品は価値形態を持たないことになり、価値形態を持たないということは、それれらは商品形態を持たないということ、すなわち単なる現物形態を持っているだけになり、そうした形で相対しているだけになるわけです。つまり交換は不可能になります。

 この三つ目の矛盾は、初版本文に出てくる「価値形態IV」の場合と類似しているように思えます。初版からその部分を紹介しておきましょう。

 〈とはいえ、われわれの現在の立場では、一般的な等価物はまだけっして骨化されていない。どのようにしてリンネルがじっさいに、一般的な等価物に転化されたのであろうか? リンネルが自分の価値を、まず一つの単一の商品で相対的に表し(形態Ⅰ)、次には、すべての他商品で順ぐりに相対的に表わし(形態II)、こうして反射的に、すべての商品が自分たちの価値をリンネルで相対的に表わす(形態III)、ということによって。単純な相対的価値表現は、リンネルという一般的な等価形態がそこから発展してきた胚種であった。この発展のなかで、リンネルは役割を変える。リンネルは、自分の価値量を他の一商品で表わすことで始まり、すべての他商品の価値表現のための素材として役立つことで終わる。リンネルにあてはまることは、どの商品にもあてはまる。リンネルの発展した相対的価値表現(形態II)は、リンネルの単純な価値表現の多数のあつまりからのみ成り立っているのであって、この形態IIでは、リンネルはまだ一般的な等価物として現われていない。むしろ、ここでは、他の商品体はどれも、リンネルの等価物になっており、したがってリンネルと直接的に交換可能であり、それゆえにリンネルと位置を取り替えることができる。
 だから、われわれは最後に次の形態を得ることになる。

 形態IV
 20エレのリンネル=1着の上着、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 1着の上着=20エレのリンネル、または=u量のコーヒー、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 u量のコーヒー=20エレのリンネル、または=1着の上着、または=v量の茶、または=x量の鉄、または=y量の小麦、または=等々
 v量の茶=等々

 ところが、これらの等式のどれも、逆の関係にされると、一般的な等価物としての上着やコーヒーや茶等々が生じ、したがって、すべての他商品の一般的な相対的価値形態としての上着やコーヒーや茶等々での価値表現が生ずる。一般的な等価形態は、つねに、すべての他商品に対立して、一商品にのみ属している。だが、それは、すべての他商品に対立して、どの商品にも属している。ところが、どの商品もが、自分自身の現物形態を一般的な等価形態として、すべての他商品に対立させるならば、すべての商品が、自分たちをことごとく一般的な等価形態から排除し、したがって、自分たち自身を、自分たちの価値量の社会的に認められている表示から、排除することになる。〉(江夏訳56-58頁)

(「その2」に続きます。)

 

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第46回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2012-06-14 14:44:47 | 『資本論』

第46回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

 

 

◎交換過程の三つの矛盾

 これまで検討してきた交換過程の三つの矛盾について、それらの相互関係を如何に理解するかが、さまざまに議論されてきました。それについて、少し考えてみることにしましょう。まず三つの困難としてマルクスが述べているものについて、簡単に復習してみます。

 1)〈諸商品は、みずからを使用価値として実現しうるまえに、価値として実現しなければならない(価値として実現しうるまえに、みずからが使用価値であることを実証しなければならない)〉〔第2・3パラグラフ〕。

 2)〈同じ過程が、すべての商品所有者にとって同時にもっぱら個人的であるとともにもっぱら一般的社会的であるということはありえない〉〔第4パラグラフ〕。

 3)〈どの商品も一般的等価物ではなく、それゆえまた、諸商品は、それらが自己を価値として等置し、価値の大きさとして比較しあうための一般的相対的価値形態をもってはいない〉〔第5パラグラフ〕。

 この三つの事態について、これらを相対的に独立した「三つの矛盾」と見るか、それとも「一つの矛盾」を三つの側面から考察したものと見るべきか、ということが論じられて来たのだそうです。

  しかし、これらの三つの矛盾の相互の関係を論じるまえに、そもそもどうして交換過程では、こうした矛盾が論じられているのでしょうか。まずそれから考えましょう。

 それを考えるためには、もう一度、第1章「商品」との関連で、第2章「交換過程」の課題を明確に掴む必要があります。

 これについては、一度詳しく論じたことがあります(第44回報告)。そこでは次のように説明しました。第1章「商品」は、商品とは何かを明らかにすることでした。確かに第1章ではリンネルや上着やコーヒーや鉄や金など、さまざまな商品が登場してそれらの関係が考察されたのですが、しかしこれらはあくまでも商品とは何かを明らかにすることが目的なのです。もちろん、商品とは何かを明らかにするということは、その商品がリンネルであろうが、上着であろうが何でも良かったのですが、しかし問題は、あくまでも商品とはそもそも何かを明らかにすることでした。そしてその商品の何たるかを解明するためには、商品は自らの価値を具体的に表す存在でなければならないこと、それを商品は貨幣形態、つまり価格という形で表していることをマルクスは明らかにしたのです。だからリンネルと上着との価値関係やリンネルと他の諸商品との展開された価値形態など、さまざまな諸商品との関係が考察されたのも、そもそも商品にはどうして価格が、すなわち値札が付けられているのか、そうしたことを明らかにするために商品の価値の表現形態としての貨幣の発生を論証したのでした。

 しかし重要なことは、そうした一連の諸商品の価値関係や価値形態の考察も、あくまでも、そもそも商品とは何かを解明するためであったということです。だから第1章では、商品はそれ自体として存在するもの゛、つまりその姿においてだれもが商品として分かる物的存在として、すなわち一つの現存在として把握されたのでした。あとはこの商品が一つの自立的存在として、今度はそれ自身の運動をわれわれは分析するのですが、しかし、マルクスはその前に、商品そのもの歴史性を暴露する節を設けていました。それがすなわち第4節です。

 つまり第4節の商品の物神性というのは、商品そのものの歴史性を暴露し、商品の発生、発展、及び消滅の必然性を明らかにするのが、この節の課題でした。

 だから第2章は、第1章で明らかにされた商品をもとに、今度は自立した商品の運動が、すなわちその交換の過程が分析の対象になるのです。そして商品の運動とは、すなわち他の諸商品との交換過程そのものです。そして運動を分析するということは、その運動として現れている矛盾を解明すること、つまり交換過程に潜む矛盾を解明することでもあるのです。

 これは例えば、ある物質が運動している場合、その運動する物質を規定しようとする場合、論理的には、ここに「ある」と同時に「ない」としか説明できません。しかしある物が「ある」と同時に「ない」というのは矛盾そのものです。しかし運動しているものは、すべてこうした矛盾した規定的存在なのです。もう一つの例を上げると、古代ギリシアの哲学者ゼノンの有名なアキレスと亀の話があります。アキレスが亀に追いついたと思ったら、亀はその分だけ前に進んでおり、さらにその分の距離を追いついたと思ったら、やはり亀は、その時間だけ前に進んでいて、いつまで経ってもアキレスは亀に追いつけないという話です。これも実際にはアキレスは亀をあっというまに追い抜くという運動をしているのですが、しかしその運動を分析し規定しようとすると、こうした「悪無限」という論理的には矛盾した状態が明らかになるのです。

 交換過程は、現実の商品の交換が行われる過程であり、諸商品は実際に交換されているものとして運動しているのですが、こうした運動を分析するということは、その運動を運動たらしめている矛盾を明らかにすることになるのです。

 最初の矛盾(商品は使用価値として実現する前に、価値として実現していなければならず、価値として実現するためには、使用価値として実証していなければならない)は、価値形態では最初の「単純な価値形態」に対応するものですが、そのことは同時に、商品の交換そのものに内在する矛盾を明らかにしたものでもあるのです。その限りではその矛盾は、抽象的な形で交換を捉えたものであり、交換一般に潜む矛盾を明らかにしたものともいえるでしょう。

 それに対して、第二の矛盾(商品の交換は個人的過程であると同時に一般的過程であるということはできない)は、価値形態の「第二の形態」に対応していますが、今度は、交換一般ではなく、商品がより多くの諸商品との交換過程に入るなかでの矛盾です。一つの商品が、それ以外の他の多くの諸商品と交換過程に入るなかで生じる矛盾なのです。

 それに対して、第三の矛盾は、諸商品が相互に交換し合う社会的な関係を想定しています。それは一つの商品が、それ以外の他の多くの商品と交換するだけではなく、すべての商品が自分以外の多くの諸商品と交換し合う過程を想定して、その矛盾を見ているわけです。

 交換過程は現実の商品が実際に交換されている過程の分析ですが、しかし諸商品が交換されるということを分析すると、だからこうした矛盾が見いだされ、現実の商品の交換の発展は、こうした矛盾を解決する過程として捉えられることになるわけです。

 私たちは第1章第3節では、諸商品の交換関係の中に潜む価値の表現形態の発展を跡づけました。そこでは価値形態の発展は、商品形態の発展であり、商品の交換関係そのものの発展でもあるとの指摘がありました。次のように指摘されていました。

 〈労働生産物は、どんな社会状態のなかでも使用対象であるが、しかし労働生産物を商品にするのは、ただ、一つの歴史的に規定された発展段階、すなわち使用物の生産に支出された労働をその物の「対象的」な属性として、すなわちその物の価値として表わすような発展段階だけである。それゆえ、商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だということになり、したがってまた商品形態の発展は価値形態の発展に一致するということになるのである。〉(全集23a83頁、下線は引用者)

 またマルクスは価値形態のそれぞれがどのような交換過程を前提しているかについても、次のように述べていました。

 〈第一の形態--この形態が実際にはっきりと現われるのは、ただ、労働生産物が偶然的な時折りの交換によって商品にされるような最初の時期だけのことである。〉(同前89頁))

 〈第二の形態--展開された価値形態がはじめて実際に現われるのは、ある労働生産物、たとえば家畜がもはや例外的にではなくすでに慣習的にいろいろな他の商品と交換されるようになったときのことである。〉(同)

 〈第三の形態--新たに得られた形態は、商品世界の価値を、商品世界から分離された一つの同じ商品種類、たとえばリンネルで表現し、こうして、すべての商品の価値を、その商品とリンネルとの同等性によって表わす。リンネルと等しいものとして、どの商品の価値も、いまではその商品自身の使用価値から区別されるだけではなく、いっさいの使用価値から区別され、まさにこのことによって、その商品とすべての商品とに共通なものとして表現されるのである。それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言いかえれば諸商品を互いに交換価値として現われさせるのである。〉(同)

 つまり私たちが第1章で跡づけた価値形態の発展(単純な価値形態→展開された価値形態→一般的価値形態)は、いわば現実の商品交換の発展を前提して、そのうえで、そのそれぞれの発展段階の交換過程から、諸商品の交換を前提した上で、交換される諸商品そのものに注目して、それ以外の現実の商品交換に付随する商品所有者やその欲望等を捨象して、純粋に諸商品の交換関係だけを取り出し、商品の価値関係そのものに潜む、価値の表現形態の発展段階を分析してきたといえるのです。だからこそ、そうした商品の価値形態の発展の前提としてあった交換過程そのものが、今度は、第2章の分析の対象なのですから、諸商品の交換過程の発展が、こうした交換過程の三つの矛盾に対応していると言いうるのではないかと考えられるわけです(だからまた、当然、交換過程の三つの矛盾は、価値形態の三つの発展段階にも対応しているとも言えます)。

◎第6パラグラフ

【6】〈(イ)わが商品所有者たちは、当惑してファウストのように考えこむ。(ロ)はじめに行動ありき。(ハ)したがって、彼らは考える前にすでに行動していたのである。(ニ)商品の性質の諸法則は、商品所有者の自然本能において確認されたのである。(ホ)彼らは、彼らの商品を一般的等価としての他の何らかの商品に対立的に関係させることによってしか、彼らの商品を価値として、商品として、たがいに関係させることができない。(ヘ)このことは、商品の分析が明らかにした。(ト)だが、もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価にすることができる。(チ)だから、他のすべての商品の社会的行動がある特定の商品を排除し、この排除された商品によって他のすべての商品はそれらの価値を全面的に表示するのである。(リ)これによって、この排除された商品の現物形態が社会的に通用する等価形態となる。(ヌ)一般的等価であるということは、社会的過程によって、この排除された商品の特有な社会的機能となる。 (ル)こうして、この商品は--貨幣となる。
(ヲ)「“この者どもは、心を一つにしており、自分たちの力と権威を獣(ケモノ)にゆだねる。(ワ)この刻印のあるものでなければ、だれも物を買うことも売ることもできないようになった。(カ)この刻印とはあの獣の名、あるいはその名を表す数字である Illi unum consilium habent et virtutem et potestatem suam bestiae tradunt. Et ne quis possit emere aut vendere, nisi qui habet characterem aut nomen bestiae, aut numerum nominis ejus. ”」(ヨハネ黙示録)。〉

 (イ)(ロ)(ハ)
 商品所有者は、困り果ててファウストのように考え込みます。はじめに行動ありき。つまり彼らは、考え込む以前に行動していたのです。

 〈はじめに行動ありき〉というのは、ゲーテ『ファウスト』第1部「書斎」でのファウストの言葉ですが、この部分については、所沢の「『資本論』を読む会」の資料を紹介させて頂きます。それは次のようなものです。

●《太初(はじめ)に業(わざ)ありき》について、NHKドイツ語講座のテキストで以下のように述べられていることが紹介されました。
 聖書(ヨハネによる福音書Ⅰ章1節)の「Im Anfang war das Wort はじめに ことばがあった」について《ここで言われているdas Wort「ことば」は、おしゃべりの言語や話し言葉といういみではなく、ギリシャ語の言語ではLogos ロゴス、つまり神の意志、理念、力、神の行動とそのことば、イエス・キリスト、といった複雑な意味を込めた語です。》
《ウルフィラがロゴスをそのままの音で使わず、「ことば」と訳したのが、現代までの聖書訳の原型になっています。》《ゲーテは、ルネサンス的行動の巨人ファウスト博士に、このロゴスをこう訳させています。「誠実な心で 神聖な原文を わが愛するドイツ語に訳そう。 こう書いてある、「太初(はじめ)にことばがあった」。 ここで俺はもうつまずく、よい知恵はないものか。 ことばというものを、そう高くは尊重できぬ。 ……… 霊の力だ! 俺にはよい知恵がありありと見える。 そして安んじて記す、はじめに行動があった、と。 [注]Tat:行為、行動。ここでは人間の行動、そして神の行為という意味も込められています。》

 (ニ)つまり商品の性質の諸法則は、商品所有者の自然のおもむくままにその行動によって確認されたのです。

 (ホ)彼らは、彼らの商品を価値として、互いに関係させようとするなら、他の何らかの商品に対して、共同して、それを一般的等価として対立的に関係させることしかないのです。

 (ヘ)(ト)
 こうしたことは第1章における商品の分析があきらかにしたことです。しがしどの商品が一般的等価物になるかということは、ただ社会的行為だけが決めることです。理論的考察によって決まることではないのです。

 諸商品の交換関係が、価値形態としては一般的価値形態にまで発展せざるを得ないことは、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」のなかで明らかにされました。しかし、現実の商品の交換過程のなかで、如何なる商品が商品世界からはじき出されて、一般的等価物として登場するかは理論的に明らかになるものではないのです。それは実際の歴史的・社会的過程によって、すなわち諸商品の社会的行為だけが決めるものなのです。

 (チ)(リ)
 だから、他のすべての商品の社会的行動が、ある特定の商品を排除し、この排除された商品によって、他のすべての商品が、自分たちの価値を表現することになります。こうして、この排除された商品の現物形態が社会的に通用する等価形態になるわけです。

 (ヌ)(ル)
 一般的等価であるということは、社会的過程によって、この排除された商品の特有な社会的機能となり、こうしてこの商品は貨幣になるわけです。

 (ヲ)(ワ)(カ)(「ヨハネ黙示録」からの引用)
 
 これは書き下し文は不要と考えます。この「ヨハネの黙示録」からの引用は、このパラグラフの最初のファウストの言葉に対応させていると考えられます。

  ところでこのパラグラフの最初に出てくる〈はじめに行動ありき〉については、以前、大阪で開催していた「『資本論』を学ぶ会」のニュースで次のように論じたことがあります。参考のために紹介しておきましょう。

 〈◎「はじめに行為ありき」とは理論的破産?

 さて、マルクスは先に紹介したように、交換過程に潜む三つの矛盾を明らかにした後に、突然、第六パラグラフで〈わが商品所有者たちは、当惑してファウストのように考え込む。はじめに行為ありき。彼らは考えるまえにすでに行動していたのである。……もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価物にすることができる〉と述べています。この部分は久留間鮫造氏によれば、〈マルクスはここで、理論的に解決不可能な問題を商品所有者の行為が解決するものとして説明しているのだ〉と主張し、〈そういう「説明」は説明ではなく、理論的破産を意味するものでなければならぬとして、ここにマルクス批判の一つの根拠を見いだそうとする試みがあらわれ〉(『価値形態論と交換過程論』24頁)たのだと述べています。もちろん、久留間氏はこうした批判が根拠のないものであることを論証しているのですが、それによれば、〈貨幣は--商品生産のすべてのその他の関係と同様に--自然発生的なものであって反省の産物ではないということ、ブルジョア経済学者がしばしばいっているように「発明」されたものではないということを、いささかしゃれたいい方でいっているものにすぎない〉と説明しています。

 これはこの限りでは、正しく異論はないのですが、ただマルクスがこの第六パラグラフと、さらにこれまでの分析の結論部分と考えられる第七パラグラフに続いて、第八パラグラフから貨幣発生の歴史的考察に移っていることを考えると、こうした説明だけで果たして十分なのだろうかと考えます。

 ここではマルクスは、久留間氏がいうように貨幣は「発明」品ではなく、自然発生的な産物だというだけでなく、〈だが、もっぱら社会的行為だけが、ある特定の商品を一般的等価物にすることができる〉とも述べています。つまりどの商品が貨幣になるかは、理論の問題ではなく、現実の社会的過程によって決まるのだ、ともいっているように思えるのです。だからマルクスは第八パラグラフから商品交換の歴史的な発展を分析的にあとづけて、まず最初の一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会的接触とともに発生し、それとともに消滅すること、しかしそれはすぐに商品交換の発展につれて、特殊な種類の商品に固着し、貨幣形態に結晶すること、しかしさしあたりそれが何に固着するかは偶然的であるが、しかしますます商品交換が発展していくにつれて、最終的には貴金属に移っていくことが明らかにされています。つまり貨幣形態が最終的に貴金属に固着するには理由はあるが、しかしそれがそうなるのは社会的行為によってなるのだとしているのです。

 このようなマルクスの歴史的考察の挿入は、『資本論』では他にも多く見られます。例えば、絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産に移る間に、労働日をめぐる階級闘争の長い歴史的考察が見られます。マルクスは「第八章 労働日」の第一節の最後で次のように述べています。

 〈かくして、資本制的生産の歴史においては、労働日の標準化は、労働日の諸限度をめぐる闘争--総資本家すなわち資本家階級と総労働者すなわち労働者階級との間の一つの闘争--として現われる〉

 そして第二節から、長い歴史的考察を始めているのです。つまり絶対的剰余価値の生産を限界づける労働日の標準化そのものは、一つの社会的行為、すなわち現実の階級闘争そのものが決めるのです。そしてそうした歴史的な闘いによって制限された労働日を前提にして、資本は今度は生産様式の変革による相対的剰余価値の生産に移行すると展開していくのです。

 マルクスは『経済学批判要綱』では、〈われわれの方法が、どのような点で歴史的考察がはじまらなければならないかを、……指し示している〉(高木訳Ⅲ396頁)とか〈叙述の弁証法的な形態は、自己の限界をしっているばあいにのみ正しい〉(同Ⅴ1069頁)と述べています。交換過程のこの部分についても、マルクスはそうした歴史的考察を指し示すものとして、「ファウストの当惑」を挿入しているのだと思うのですが、どうでしょうか?〉(同ニュースNo.28)

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【付属資料】

●第4パラグラフ

《初版本文》

 〈どの商品所持者も、自分の商品を、自分の必要をみたす使用価値をもっている他の商品と引き換えにのみ、譲渡しようと思う。そのかぎりでは、交換は、彼にとっては個人的な過程でしかない。他方、彼は、自分の商品を、価値として実現しようと思う、つまり、自分自身の商品が他の商品の所持者にとって使用価値をもっていようといまいと、それを、他の気に入った同じ価値の商品でありさえすればどの商品においてでも、実現しようと思う。そのかぎりでは、交換は、彼にとっては一般的・社会的過程である。といっても、同じ過程が、どの商品所持者にとっても同時に、たんに個人的であるとともにたんに一般的・社会的である、ということはありえない。〉(72-3頁)

《フランス語版》

 〈各々の商品所有者は、自分の必要をみたす使用価値をもつ他の商品と引き換えにしか、自分の商品を譲渡しようとしない。この意味では、交換は彼にとって個別的な仕事でしかない。おまけに、彼は自分の商品を、価値として、自分の気にいる同価値のどんな商品のうちにでも実現しようとする。このばあい、自分自身の商品が他の商品所有者にとって使用価値をもっているかどうかは、問わない。この意味では、交換は彼にとって一般的な社会的行為である。だが、この同じ行為がすべての商品交換者にとって同時に、たんに個別的であるとともにたんに社会的、一般的でもあるということは、ありえない。〉(63頁)

●第5パラグラフ

《初版本文》

 〈もっと詳しく見ると、どの商品所持者にとっても、他人の商品はどれち自分の商品の特殊的な等価物と見なされ、したがって、自分の商品はすべての他商品の一般的な等価物と見なされる。ところが、すべての商品所持者が同じことを行なうから、どの商品も一般的な等価物ではなく、したがってまた諸商品は、それらが価値として等置され価値量として比較されあうところの、一般的な相対的価値形態を、もっていない。だから、諸商品は、一般的には、商品として相対するのではなく、生産物または使用価値としてのみ相対することになる。〉(73頁)

《フランス語版》

 〈もっと細かく事態を考察してみよう。各々の商品所有者にとって、他人の商品はどれも自分の商品の特殊な等価物であり、したがって、自分の商品は他のすべての商品の一般的等価物である。ところが、すべての交換者が同じ状態にあるから、どの商品も一般的等価物ではなく、諸商品の相対的価値は、これらの諸商品が価値量として比較されることのできる一般的形態を、なんらもたない。要するに、諸商品は互いに相手にたいして商品の役割を演じるのではなく、単なる生産物、あるいは使用価値の役割を演じるわけである。〉(63頁)

●第6パラグラフ

《初版本文》

 〈わが商品所持者たちは当惑のあまりファウストのように考え込む。初めに行為ありき、と。だから、彼らは、考えるよりも以前にすでに行為していたのだ。商品の本性の諸法則は、商品所持者たちの自然本能において実証されている。彼らが、自分たちの商品を、価値として、それゆえに商品として、互いに関係させることができるためには、彼らが、自分たちの商品を、一般的な等価物としてのなんらかの別の一商品に対立的に関係させる、という手段にたよるほかない。このことは、商品の分析が明らかにしたところである。ところが、社会的な行為だけが、ある特定の商品を一般的な等価物にすることができる。だから、すべての他商品の社会的な行為特定の一商品を排除し、この商品のうちに、すべての他商品が自分たちの価値を全面的に表わすことになる。このことによって、この商品の現物形態が、社会的に認められる等価形態になる。一般的な等価物であるということが、社会的過程によって、この排除さされた商品の独自な社会的機能になる。こうして、この商品は--貨幣になるのである。「彼らは心を一つにしておのこうして、がちからと権威とをけものにあたう。このしるしをもたぬすべての者に売り買いすることを得ざらしめたり。そのしるしはけものの名、もしくはその名の数字なり。」(ヨハネ黙示録。)〉(73頁)

《フランス語版》

 〈われわれの交換者たちは困り果てて、ファウストのように考える。初めに行為ありき、と。したがって、彼らは考えるよりも前にすでに行動していたのであって、彼らの自然本能は、商品の性質から生ずる法則を確認するにすぎない。彼らが自分たちの物品を価値として、したがって商品として比較できるのは、もっぱら、彼らが自分たちの物品を、これにたいして一般的等価物として置かれる他のなんらかの商品と比較することによってのことである。このことは、上述の分析がすでに証明したところである。だが、この一般的等価物は、社会的行為の結果でしかありえない。だから、特殊な一商品が、他の諸商品の共同行為によって除外されて、他の諸商品の相関的価値を表示するのに役立つわけである。このようにして、この商品の自然形態が、社会的に有効な等価形態になる。それ以後は、一般的等価物の役割がこの除外された商品の独自な社会的機能になり、この商品が貨幣になる。「彼らは心を一つにしておのがちからと権威とをけものにあたうこのしるしをもたぬすべての者に売り買いすることを得ざらしめたりそのしるしはけものの名もしくはその名の数字なり」(ヨハネ黙示録)。〉

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