『資本論』学習資料No.6(通算第56回)
◎『資本論』第1巻を完成させることがマルクスにとっての「実践」
大谷禎之介氏は、最近『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』という新著を上梓されました(桜井書店2018年11月1日刊)。私自身は、まだ最初のあたりを読んだだけですが、すばらしい本だと思いました。私はこの『資本論』学習資料室のブログでも、また別の「マルクス研究会通信」というブログにおいても、大谷氏の諸説を批判的に取り上げて、遠慮の無い批判を加えてきましたが、しかしそれはやはり数多ある日本のマルクス経済学者のなかで、氏の諸説こそが最良のものであり、そこから学ぶものが多いと考えるからです。今回の著書を読んで、ますますその思いを強くしました。
本書は三つの部門に分かれ「Ⅰ 『資本論』に刻まれたマルクスの苦闘」、「II 『資本論』第2部第3部の草稿を読む」、「III 探索の旅路で落ち穂を拾う」となっています。IIには『資本論』の第2部第8草稿の全訳と大谷氏による解説が含まれ、本書のほぼ6割強を占めています(全体は582頁と浩瀚)。
しかしここで大谷氏の新著の紹介や批評をやろうというのではありません。〈第2章 「現代社会」の変革のための「資本の一般的分析」〉の最初の小項目「マルクスはなぜ『資本論』に心血を注いだのか」のなかで、大谷氏はマルクスが『資本論』第1巻の原稿を書き上げて、マイスナー書店に入稿した直後にジークフリート・マイアーに宛てて書いた書簡の一文を紹介しています。それを重引し、紹介しておきましょう。
〈「仕事のできるすべての瞬間を私の著作〔『資本論』第1巻〕を完成するために使わなければなりませんでした。この著作のために私は健康もこの世の幸福も家族も犠牲にしてきたのです。……もし人が牛のようなものでありたいと思えば,もちろん人類の苦しみなどには背を向けて自分のことだけ心配していることもできるでしょう。しかし私は,もし私の本を,少なくとも原稿のかたちででも,完全に仕上げないで倒れるようなら,ほんとうに自分を非実践的だと考えたでしょう。」(MEW31,S.54a下線と二重の下線はともにマルクスによるもの。〔〕は引用者による挿入。〉(3頁、「すべての」の下線が二重)
つまりマルクスは『資本論』第1巻を「少なくとも原稿のかたちででも,完全に仕上げ」ることを何よりも自らに課した「実践」だと見なしていたということです。
本書の内容については、またおいおい紹介していくとして、それでは第3章のパラグラフごとの解読の続きを始めましょう。
◎第13パラグラフ
【13】〈(イ)さて、価格形態の考察に戻ろう。〉
(イ) それでは価格形態の考察に戻りましょう。
これも一応一つのパラグラフになってますので、われわれも一つのパラグラフとして扱います。
これ自体は極めて短いパラグラフなので、あまり解説のしようもないとも言えます。ただマルクスは〈価格形態の考察に戻ろう〉と書いています。ということはわれわれは以前は〈価格形態の考察〉をやっていたのだが、それが途中からずれて別の考察をやっていたということになります。ではそれはどの時点で、何の考察に移ったといえるのでしょうか。
第8パラグラフにわれわれが付けた表題は【価値の尺度と価格の度量基準】というもので、これはまだ価格形態の考察だと思います。とすれば第9パラグラフ【金の価値変動はその価格の度量基準としての機能を損なわない】あたりから、第12パラグラフ【商品と金との価値変動の組み合わせによる商品価格の一般的な変動】までは、金の価値の変動が貨幣の価値尺度の機能や価格の度量基準の機能に如何なる影響を及ぼすか、あるいは諸商品の価値や金の価値の変動は諸商品の価格のどういう変動として現れてくるか、という問題が論じられています。つまり第9パラグラフからは価値変動の及ぼす影響というものに話題が転換しているといえるでしょう。だからマルクスは、第9パラグラフからは若干本来の価格形態の考察からはずれていたので、第13パラグラフから、もとの価格形態の考察に戻ろうと述べているのではないでしょうか。
◎第14パラグラフ(貨幣名は歴史的に重量名から分離する)
【14】〈(イ)金属重量の貨幣名は、さまざまな原因から、それらの最初の重量名からしだいに離れる。(ロ)中でも歴史的に決定的なのは、次の原因である。(ハ)(1)発展程度の低い諸国民のもとへの外国貨幣の導入。(ニ)たとえば、古代ローマにおいては、金鋳貨と銀鋳貨は、最初はまず外国商品として流通した。(ホ)これらの外国貨幣の呼称は、国内の重量名とは異なっている。(ヘ)(2)富が発展するにつれて、低級な貴金属は高級な貴金属によって、すなわち銅は銀によって、銀は金によって、価値尺度機能から押しのけられる--たとえこの順序があらゆる詩的年代記と矛盾していようとも(56)。(ト)たとえば、ポンドは、現実の一ポンドの銀を表す貨幣名であった。(チ)金が価値尺度としての銀を駆逐するやいなや、同じ呼称が、金と銀との価値比率に従って、おそらく1/15ポンドなどという金につけられる。(リ)貨幣名としてのポンドと、金の慣習的な重量名としてのポンドとは、今や分離される(57)。(ヌ)(3)何世紀にもわたって続けられてきた王侯による貨幣の変造。(ル)これによって、鋳貨の元来の重量からは、実際にその呼称だけが残されることになった(58)。〉
(イ) 金属重量の貨幣名は、さまざまな原因から、それらの最初の重量名からしだいに離れます。
ここでは、まず〈貨幣名〉という用語が出てきます。価格の度量基準というのは、商品の価値を尺度するために表象された貨幣商品の金の使用価値量を数量的に表すためのものでした。金の使用価値の量を測るためには、その重さを計ります。つまり習慣的には重量の基準が使われたのです。もともと相対的価値形態の分析で明らかになりましたが、相対的価値形態にある商品の価値を表す等価形態にある商品の使用価値の量的表現は、純粋に習慣的なものでした。例えば、等価形態にある上着の使用価値量を一着、2着と数える数え方は、習慣的なものです。靴なら一足、二足と数えます。金の場合はそれを重量で数えたというだけのものです。等価形態にくる諸商品と同じように貨幣金の場合も、何で数えるかは、その意味では習慣的なものであり、当初は、手近な重量単位が使われたに過ぎません。だから習慣的に決められるものなら、国王や政府が、法令で決めることもまた可能なわけです。ただ、歴史的には観念的に表象された金量という価格の度量基準についても、当初は、重量の基準がそのまま貨幣金の数量を表すものとして、すなわち度量基準として利用されたのです。そしてこの観念的に表象された貨幣金の数量を表したものを、「貨幣名」と言うのです。
〈こうして一商品の価格、すなわちその商品が観念的に転化されている金量は、いまや金度量標準の貨幣名で表現される。だからイギリスでは、1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言うかわりに、それは3ポンド17シリング10ペンス2分の1に等しいと言う。このように、すべての価格は同じ名称で表現される。諸商品がその交換価値にあたえる独自な形態は、貨幣名に転化しており、この貨幣名で諸商品は、それらがどれだけに値するかを互いに語りあうのである。〉(『批判』56頁)
だから当初は、貨幣名は、貨幣商品としての金の重量名と一致していたのです。ところがこの貨幣名は、いろいろな理由で貨幣商品の重量そのものとは離れてくるというわけです。
(ロ) 中でも歴史的に決定的なのは、次の原因です。
そしてその離れてくる主な理由として、歴史的に決定的といえるのが、次の原因だということです。
参考文献で紹介している『経済学批判』では〈あとで金属流通の性質から説明するつもりの歴史的過程は、価格の度量標準としての機能における貴金属の重量がたえず変動し減少していったのに、同じ重量名がそのまま保たれたという事情をもたらした。〉(全集第13巻54頁)と書いています。これを見ると、マルクスは〈価格の度量標準としての機能における貴金属の重量がたえず変動し減少していったのに、同じ重量名がそのまま保たれた〉ために、貨幣名が重量名と離れていった理由は、〈あとで金属流通の性質から説明するつもり〉だと述べているわけです。これはあとで出てきますが、流通手段としての機能における貨幣の象徴性や瞬過性という性質です。だから以下、歴史的に決定的な理由として述べているものの背景には、こうした貨幣の流通手段としての機能による作用が働いているということでもあるのです。
(ハ)(ニ)(ホ) (1)発展程度の低い諸国民のもとへ外国貨幣を導入する場合。たとえば、古代ローマにおいては、金鋳貨と銀鋳貨は、最初はまず外国商品として流通しましたが、これらの外国貨幣の呼称は、国内の重量名とは異なっていました。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「円」を調べてみると、次のような説明があります。
〈「円(圓)」という単位名は中国に由来する。中国では、銀は鋳造せずに塊で秤量貨幣として扱われたが(銀錠)、18世紀頃からスペインと、それ以上にその植民地であったメキシコから銀の鋳造貨幣が流入した(洋銀)。これらはその形から、「銀圓」と呼ばれた。後にイギリスの香港造幣局は「香港壱圓」と刻印したドル銀貨を発行したのはこの流れからである。「銀圓」は、その名と共に日本にも流入し、日本もこれを真似て通貨単位を「円」と改めた。1870年、日本は、香港ドル銀貨と同品位・同量の銀貨を本位貨幣とする銀本位制を採用すると決定したが、直後に伊藤博文が当時の国際情勢を鑑みて急遽金本位制に変更することを建議した。〉
(ヘ)(ト)(チ)(リ) (2)富が発展するにつれて、低級な貴金属は高級な貴金属によって、すなわち銅は銀によって、銀は金によって、価値尺度機能から押しのけられます--たとえこの順序があらゆる詩的年代記と矛盾していようとも。たとえば、貨幣名としての「ポンド」は、現実の1重量ポンドの銀に付けられたものでした。金が価値尺度としての銀を駆逐すると、同じ呼称が、つまり「1ポンド」という貨幣名が、その時の金と銀との価値比率にもとづいて、例えば1/15重量ポンドの金につけられることになります。だからこうなると重量としては1/15ポンドなのに、貨幣名としては、それを「1ポンド」と呼ぶことになるのです。だから貨幣名としてのポンドと、金の慣習的な重量名としてのポンドとは、今や分離されるのです。
(ヌ)(ル) (3)何世紀にもわたって続けられてきた王侯による貨幣の変造。これによって、鋳貨の元来の重量からは、実際にその呼称だけが残されることになったのです。
やはり『ウィキペディア』の「貨幣改鋳」から
〈イギリスでは、1282年からエドワード1世の治下で、貨幣の純度を調べる「見本硬貨検査[71]」が行われた。これは、「12人の腕のいい金細工師をともなった12人の慎重で正直なロンドン市民」からなる審査団による、王立造幣局で発行したばかりの貨幣の公開検査で、イングランド硬貨の信頼性を獲得してきた。しかし、戦争の費用を捻出するためにエドワード3世により1344年と1351年に貨幣の改鋳が行われた後、イングランドでは何度も改鋳は繰り返された。中でもヘンリー8世により1542年から1547年までに実施された改鋳は大悪改鋳 (Great Debasement) と呼ばれた。ヘンリー8世による1526年の改鋳では銀貨の純度が2分の1に、大悪改鋳では3分の1にまで引き下げられたことで、貨幣の品質は大きく低下し、物価の高騰を招いたが、貨幣の流通速度も加速された。〉等々。
◎注56
【注56】〈(56) ついでに言えば、この順序はまた一般的歴史的妥当性をもつものでもない。〉
これは〈たとえこの順序があらゆる詩的年代記と矛盾していようとも〉という一文につけられた原注です。新日本新書版では本文の〈詩的年代記〉という一文に*印がつけられ、次のような訳者の注があります。
〈古代神話では、人類の歴史は、黄金時代、銀時代、青銅時代、英雄時代、鉄時代としだいに悪くなるのであり、それがギリシアのヘシオドスの叙事詩やローマのオヴィディウスの叙事詩などにうたわれた。〉(新日本新書版第1分冊170頁)
だから貨幣の価値尺度機能を果たす貴金属が歴史的に銅、銀、金という順序に変遷してきたのは、金、銀、銅へと変遷した詩的年代記とは矛盾したのであるが、同じように、この銅、銀、金という順序そのものは、〈一般的歴史的妥当性をもつ〉わけでもないというわけです。つまりあらゆる国や地域で、歴史的に、そうした順序で貨幣を担った貴金属の種類が変遷したわけではない、ということだと思います。
◎注57
【注57】〈(57) 第2版への注。こうして、イギリスのポンドは、その元来の重量の1/3以下を、〔一七〇七年のイングランドとの〕連合以前のスコットランドのポンドはわずかに1/36を、フランスのリーヴルは1/74を、スペインのマラベーディは1/1000以下を、ポルトガルのレイはさらにもっと小さな割合を、それぞれ表しているにすぎない。〔フランス語版では、この後に注59の文章が続き、注59はなく、そして、この注57と次の注58とが入れ替えられている〕〉
これは第14パラグラフの付属資料として紹介した『経済学批判』では、本文の一部分となっています。関連部分をもう一度、紹介しておきます。
〈あとで金属流通の性質から説明するつもりの歴史的過程は、価格の度量標準としての機能における貴金属の重量がたえず変動し減少していったのに、同じ重量名がそのまま保たれたという事情をもたらした。こうしてイギリスのポンドはその元来の重量の三分の一よりもわずかを、連合以前のスコットランドのポンドはたった三六分の一を、フランスのリーヴルは七四分の一を、スペインのマラペディは一〇〇〇分の一よりもわずかを、ポルトガルのレイはもっとずっと小さな割合をあらわしている。こうして金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離したのである。*〉(全集第13巻54頁)
なおフランス語版については、付属資料を参照。
◎注58
【注58】〈(58) 第2版への注。「その呼称がこんにちではもはや観念的でしかないような鋳貨は、どの国民にあっても、最も古い鋳貨である。それらはみな、かつては現実的であったし、まさに現実的であったからこそ、それらによって計算が行われたのである」(ガリアーニ『貨幣について』、一五三ページ)。〔注57末尾の訳注参照〕〉
この注は、付属資料で紹介していますが、『経済学批判』では先に紹介した本文への注(*印)になっています。ただ〈それらはみな、かつては現実的であったし〉という部分は『批判』の注では〈しかし、すぺての鋳貨がある期間は実在的だったのであって〉となっていますが、その後にマルクスは括弧を付けて、〈これは、こんなに拡張して言ったのでは正しくない〉という一文を挿入しています。
◎第15パラグラフ(貨幣の度量基準は、最終的には法律によって規制される)
【15】〈(イ)こうした歴史的過程は、金属重量での貨幣名とその慣習的重量名との分離を世の習わしにする。(ロ)貨幣の度量基準は、一方では純粋に慣習的であり、他方では一般妥当性を要求するので、最終的には法律によって規制される。(ハ)貴金属の一定の重量部分、たとえば一オンスの金が、公的に可除部分に分割されて、ポンド、ターレルなどのような法定の洗礼名を受け取る。(ニ)その時に、貨幣の本来の度量単位として通用することになるこのような可除部分は、さらに下位の可除部分に細分されて、シリング、ペニーなどのような法定の洗礼名を受け取る(59)。(ホ)一定の金属重量が金属貨幣の度量基準であることに変わりはない。(ヘ)変えられたのは、分割と命名だけである。〉
(イ) こうした歴史的な過程によって、想像された金属重量にもとづく貨幣名と、それが実際に習慣的に決まっている重量名とが分離することがどこでおきてきます。
(ロ) 貨幣の度量基準、つまり貨幣名は、商品交換のなかで慣習的に決まってきます。だから国のさまざまな地域でそれがさまざまでありえます。しかし、商品交換が発展し、広がれば広がるほど、それはどこでも同じでなければ、商品の交換を広く普及させることはできません。だから、結局は、最終的には国によって、法律によって規制されることになるのです。
(ハ) たとえば1オンスの金が、政府によって可除部分に分割されて、ポンド、ターレルなどのような、法律で決められた名前が付けられるようになります。
日本では、以前にも紹介しましたが、1897年に制定された「貨幣法」によって、その第2条で、「純金の量目750㎎をもって価格の単位となし、これを円と称す」とされていました。
(ニ) その時に決められた、貨幣の本来の度量単位として通用することになるこのような可除部分は、さらに下位の可除部分に細分されて、シリング、ペニーなどのような法律によって決められた名前を受け取るわけです。
同じ「貨幣法」の第4条では、「貨幣の算測は10進1位の法を用い、1円以下は1円の1/100を銭と称し、銭の1/10を厘と称す」としていました。
(ホ)(ヘ) しかしこのことは、一定の金属重量が金属貨幣の度量基準であるということそのものは何の変わりもありません。変えられたのは、ただ分割の仕方とそれに付けられた名前だけです。
しかし上記のように法律で決められるのは、あくまでも貨幣である金の重量をどのような名称で呼ぶか、ということであって、金の重量が価格の度量基準となっているという点では、重量名がそのまま貨幣名であったときとは何の違いもないのです。
●「法律」の理論的位置づけについて
さてこのパラグラフでは、〈最終的には法律によって規制される〉と、〈法律〉が出てきます。つまり国家による規制が取り上げられています。これはどういう意義があるのかについて、最近出版された『資本論』の解説書、『マルクス 資本論』(佐々木隆治著、角川選書s.30.7.20刊)では次のように説明しています。
〈さて、最後に本章で新たに登場した要素である「慣習」、「法律」、「人工的な組織」などの理論的な位置づけについて確認しておきましょう。
これまで見てきたことからわかるように、これらの要素は、物象化(第一章)と物象の人格化(第二章) によって生まれてくる貨幣を、外から補完し、支えることによって、現実に機能できるようにするという役割を果たしています。逆に言えば、貨幣は物象化と物象の人格化だけでは成立することができず、かならず慣習や法律や人為的組織の媒介が必要だということになります。〉(209頁)
ただ若干、意見を差し挟みますと、著者は「慣習」や「法律」が〈本章で新たに登場した要素〉であるかに述べていますが、これは必ずしも正確とは言い難い気がします。
まず「慣習」についてですが、確かにマルクスはこのパラグラフでは〈貨幣の度量基準は、一方では純粋に慣習的であ〉ると述べています(『経済学批判』では同じことを〈度量単位、その可除部分およびそれらの名称の決定は、一方では純粋に慣習的なものであ〉ると述べています)。しかしこうしたことは果たして第3章ではじめて明らかになったというようなものでしょうか。等価物が相対的価値形態にある商品の価値をそれ自身の使用価値で表すのですが、等価物の使用価値の量の数的表現が「慣習」にもとづくことは、何も第3章で明らかになったというようなものではないのです。それは単純な価値形態の分析によってすでに明らかになっていたことなのです。例えば20エレのリンネルの価値を1着の上着で表す場合の、「1着」という等価形態にある商品の使用価値の数的表現は、純粋に習慣的なものです。〈貨幣の度量基準は、一方では純粋に慣習的であ〉るというのは、まさにこのことに基づいているのです。そもそも第1章の冒頭の部分では次のようにも述べられているのです。
〈おのおのの有用物、鉄、紙、等々は、二重の観点から、すなわち質の面と量の面とから、考察される。このよう第な物は、それぞれ、多くの属性の全体であり、したがって、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいろな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは、歴史的な行為でありうる。有用な物の量を計るための社会的な尺度を見いだすことも、そうである。いろいろな商品尺度の相違は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生ずる。〉(全集23a頁48頁、太字は引用者)
このようにマルクスは第1章の使用価値の分析において、使用価値の量を計る尺度は、あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生ずると述べていたのです。だからこそ、相対的価値形態にある商品の価値の大きさを表す等価物の使用価値量を計る尺度も、同じように〈あるものは計られる対象の性質の相違から生じ、あるものは慣習から生ずる〉と言いうるのです。つまり金の場合は金属という性質からその重量によって計られ、上着の場合は、慣習によって、1着、2着と数えるのです。だからこそ、一般的等価物である金の使用価値の量を計る度量基準というものも、純粋に慣習にもとづくと言いうるのです。このパラグラフで〈貨幣の度量基準は、一方では純粋に慣習的であ〉ると述べているのは、このように第1章で明らかにした使用価値の考察と単純な価値形態の分析にもとづいているのです。
次は「法律」ですが、これも第3章で初めて出てくるというようなものではありません。例えば「第2章 交換過程」の冒頭は次のようになっています。
〈商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなけれぽならない。商品は物であり、したがって、人間にたいしては無抵抗である。もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる。言いかえれば、それをつかまえることができる。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなけれぽならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなげればならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法的関係または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、したがって商品所有者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が章進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。〉(全集第23巻a
113頁)
このようにマルクスはすでに第2章で商品の交換を担う商品所有者間の関係は、契約をその形態とする法的関係であると述べています。この法的関係は、経済的関係そのものによって与えられているのですが、商品交換の当事者たちが、互いに商品の私的所有者として認め合う関係は、一つの法律的関係なのです。
また著者は〈「人工的な組織」〉というものも上げています。これは版によっては「人為的制度」(新日本新書版)とも訳されていますが、これは「第3節 貨幣」の「b 支払手段」で問題になります。だから、とりあえずは、おいておきましょう。
ついでに述べますと、著者は〈「慣習」、「法律」、「人工的な組織」など〉は、〈物象化(第一章)〉や〈物象の人格化(第二章) 〉を〈外から補完し、支える〉ものであるかに述べていますが、こうした捉え方は果たして正しいといえるでしょうか。物象化というのは、諸個人の社会的な関係が、諸個人が直接的には独立した私的な人格として存在しているがために、物の社会的な関係(商品相互の関係)や物そのもの(貨幣)として現れてくるということです。また政治的・法的・制度的関係というものも、やはり諸個人の社会的関係が、直接的なものとはなりえないために、一方では諸個人はただ私的な独立した人格として現れるのに対応して、彼らの共同的・公的関係が、自立化し、対立的なものになったものなのてす。だからそれらは一方は内的で、他方は外的であるというようなものではありません。それらは独立したバラバラの諸主体(諸個人)からみれば、いずれも外的であり、対立的でもあるのです。つまりそれらは諸個人を外的に規制するという点では、同じものであり、ただ一方はより抽象的なものであり(だから第1章から出てくる)、他方はより具体的なもの(だから第3章から出てくる)として分析の対象になってくるというに過ぎません。
また第2章を〈物象の人格化〉として特徴づけることも必ずしも正しいとはいえないような気がします。確かに第2章からは商品の所有者が登場しますが、それについては、マルクス自身は次のように述べていました。
〈商品は、使用価値と交換価値との、したがって二つの対立物の、直接的な統一である。だから、商品は直接的な矛盾である。この矛盾は、商品が、これまでのように(第1章でのように--引用者)、分析的に、あるときは使用価値の観点のもとで、あるときは交換価値の観点のもとで、観察されるのではなくて、(第2章では--同)一つの全体として、現実に、他の諸商品に関係させられるやいなや、発展せざるをえなくなる。諸商品の相互の現実の関係は、諸商品の交換過程なのである。〉(初版、江夏訳69頁)
〈いままで(第1章では--同)商品は、二重の観点で、使用価値として、また交換価値として、いつでも一面的に考察された。けれども商品は、商品としては直接に使用価値と交換価値との統一である。同時にそれは、他の諸商品にたいする関係でだけ商品である。諸商品相互の現実的関係は、それらの交換過程である。(そしそれが第2章の課題である--同)、それは互いに独立した個人がはいりこむ社会的過程であるが、しかし彼らは、商品所有者としてだけこれにはいりこむ。彼らのお互いどうしのための相互的定在は、彼らの諸商品の定在であり、こうして彼らは、実際上は交換過程の意識的な担い手としてだけ現われるのである。〉(『批判』全集13巻、26頁)
このようにマルクス自身は、第1章と対比して第2章を位置づけ、第2章ではじめて出てくる商品所有者について述べています。つまり第1章では商品を抽象的・分析的に、あるときは使用価値の観点から、また別の時には交換価値の観点から考察したが、商品というのはもともとはそれらが直接的に統一したものであり、第2章ではそうしたより具体的な商品を考察の対象にするが、そうすればそれは現実の諸商品の交換過程を問題にすることになり、そこでは第1章では捨象されていた商品交換の意識的な担い手としての商品所有者も分析の対象になってくるのだというに過ぎません。だから第2章の考察の対象(あるいは主題)は、使用価値と価値の直接的統一としての商品であり、それらが現実に交換される過程(そしてその交換過程の矛盾から必然的に生まれてくる貨幣)であって、決して商品所有者の考察が主題になっているとはいえないのです。だから第2章を〈物象の人格化〉として特徴づけることにはやはり首肯しがたいのです(不破哲三氏も第2章を商品所有者の考察が主題であるかのような位置づけをしていましたが)。
◎注59
【注59】〈(59) 第2版への注。デイヴィッド・アーカート氏は、その著書『常用語』〔ロンドン、一八五五年〕の中で、イギリスの貨幣の度量基準の単位である1ポンド(ポンド・スターリング)がこんにちではほぼ1/4オンスの金に等しいという途方もないこと(!)についてのべている。すなわち、「これは尺度の偽造であって、度量基準の確定ではない」〔一〇五ページ〕と。彼は、金重量のこの「偽りの命名」のうちに、他のすべての場合と同じように、文明というものの偽造の手のうちを見るのである。〉
これは〈その時に、貨幣の本来の度量単位として通用することになるこのような可除部分は、さらに下位の可除部分に細分されて、シリング、ペニーなどのような法定の洗礼名を受け取る〉という部分に付けられた原注59です。注に出てくるデイヴィッド・アーカートは1/4オンスの金を「1ポンド」というのは、「尺度の偽造」であり、「偽りの命名」だと主張するわけです。
『経済学批判』では、同じデイヴィッド・アーカートの『常用語』からの引用が注になっていますが、それが付けられている本文はまったく『資本論』とは違っています(付属資料参照)。しかし『常用語』からの引用は以下のように『資本論』より少し長めになっています。
〈*そこで、たとえばデーヴィッド・アーカート氏の『常用語』には次のように書いてある。「金の価値はそれ自身によって測られるというが、他の事物にあっては、どうしてある物質が自分の価値の尺度でありえようか? 金の価値は、虚偽の名称をつけられたそれ自身の重量によって決められるという。--そして、1オンスは何ポンド何分の一の価値があるという。これは尺度の偽造であって、度量標準の確定ではない。」〔104-105ページ〕〉(全集第13巻58-59頁)
これを見るとアーカートは、金の度量基準をあたかも「金の価値」を測るものであるかに間違って理解しています。いうまでもなく、金の度量基準というのは、金の価値ではなく、価格として表象された金の量そのものを測るためのものです。このように間違った理解に立って、アーカートは金の度量基準、あるいはその貨幣名というのは、〈虚偽の名称をつけられたそれ自身の重量によって決められる〉というのです。つまりそれは重量によって決められるのだが、その重量を表す名称は「虚偽」なのだというのです。なぜなら,1オンスの金なのに、それを「何ポンド」と称するからだ、というわけです。だから〈これは尺度の偽造であって、度量標準の確定ではない〉と断定するわけです。
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【付属資料】
●第13パラグラフ
《フランス語版》
〈価格形態の考察に立ち戻ろう。〉(77頁)
●第14パラグラフ
《経済学批判》
〈あとで金属流通の性質から説明するつもりの歴史的過程は、価格の度量標準としての機能における貴金属の重量がたえず変動し減少していったのに、同じ重量名がそのまま保たれたという事情をもたらした。こうしてイギリスのポンドはその元来の重量の3分の1よりもわずかを、連合以前のスコットランドのポンドはたった36分の1を、フランスのリーヴルは74分の1を、スペインのマラペディは1000分の1よりもわずかを、ポルトガルのレイはもっとずっと小さな割合をあらわしている。こうして金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離したのである*。度量単位、その可除部分およびそれらの名称の決定は、一方では純粋に慣習的なものであり、他方では流通の内部で一般性と必然性という性格をもたなければならないから、それは法律上の規定とならなければならなかった。だからその純形式的な業務は、政府の仕事となった**。貨幣の材料として役だった特定の金属は、社会的にあたえられていた。国を異にするにつれて、法定の価格の度量標準は、当然ちがっている。たとえばイギリスでは、金属重量としてのオンスは、ペニーウェート、グレーン、カラット・トロイに分割されるが、貨幣の度量単位としての金1オンスは、3ソヴリン8分の7に、1ソヴリンは20シリングに、1シリングは12ペンスに分割されており、したがって22カラットの金100重量ポンド(1200オンス) は、4672ソヴリン10シリングに等しい。けれども、国境が消滅する世界市場では、貨幣尺度のこういう国民的性格はふたたび消滅し、金属の一般的な重量尺度にその席をゆずるのである
*「その名称が今日ではもはや観念的なものにすぎないような鋳貨は、どの国民にあっても最古のものなのである。しかし、すぺての鋳貨がある期間は実在的だったのであって」(これは、こんなに拡張して言ったのでは正しくない)、「それらが実在的だったからこそ、それらで勘定がなされたのである。」(ガリアーニ『貨幣について』。所収、前掲書、153べージ)
**ロマン主義者のA・ミュラーは言う。「われわれの考えでは、すぺての独立の主権者は、金属貨幣に名をつけて、それに社会的な名目価値、等級、地位、称号をあたえる権利をもっている。」(A・H・ミュラー『政治学綱要』第二巻、ベルリン、1809年、288ページ)称号にかんするかぎりでは、この宮中顧問官殿の仰せのとおりであるが、彼はただ内容だけを忘れている。彼の「考え」がどんなに混乱していたかは、たとえば次の章句に現われている。「とくにイギリスのように、政府が非常な寛大さで無料で鋳造し」(ミュラー氏は、イギリス政府の役人が自分のポケットから鋳造費を出す、と信じているらしい)、「なんらの鋳造手数料も取っていない国では、鋳造価格の正しい決定がどれほど重要なことであるかということ、だからもしも政府が、金の鋳造価格をその市場価格よりもいちじるしく高く定めるならば、たとえば政府がいまのように、1オンスの金にたいして3ポンド17シリング10ベンス2分の1を支払うかわりに、1オンスの金の鋳造価格を3ポンド19シリングと定めるならば、すべての貨幣は造幣局に流入し、そこで受け取った銀は市場で安い金と交換され、こうして金はあらためて造幣局にもちこまれることとなり、鋳貨制度は混乱におちいるであろうということは、だれでもよく知っている。」(前掲書、280 、281ページ) ミュラーは、イギリスの鋳貨に秩序を維持させようとして、自分を「混乱」におちいらせた。シリングとかぺンスとかは、たんなる名称であり、銀表章と銅表章によって代理された1オンスの金の一定部分の名称であるにすぎないのに、彼は、1オンスの金が金、銀、銅で評価されると想像し、こうしてイギリス人が三重の本位〔stabdard of value 〕をもっていることを祝福している。金とならんで銀を貨幣尺度として用いることは、なるほど1816年にジョージ3世の治世第56年法律第68号によってはじめて正式に廃止された。法律のうえでは1734年にジョージ2世の治世第14年(+)法律第42号によって実質上廃止されており、慣行のうえではそれよりずっとまえに廃止されていたのである。A・ミュラーがとくに経済学のいわゆる高度の理解に達するのを可能にした事情は二つあった。一つは、経済的諸事実についての彼の広範な無知、いま一つは、哲学にたいする彼のたんなるディレッタント的な惑溺である。
(+)ジョージ2世の治世第14年は1734四年ではなく、1740年にあたる。しかし、ジョージ2世の治世には銀についての措置はおこなわれていないので、ジョージ3世の治世第14年にあたる1774年の銀貨25ポンド以上を法貨と認めるのを禁止した改革の誤記ではないかと思われる。この改革はジョージ3世の治世第14年法律第42号によっておこなわれているから、法律の番号も一致する。そうとすれば、59(原)ベージのジョージ2世も3世の誤記とみなければならない。
こうして一商品の価格、すなわちその商品が観念的に転化されている金量は、いまや金度量標準の貨幣名で表現される。だからイギリスでは、1クォーターの小麦は1オンスの金に等しいと言うかわりに、それは3ポンド17シリング10ペンス2分の1に等しいと言う。このように、すべての価格は同じ名称で表現される。諸商品がその交換価値にあたえる独自な形態は、貨幣名に転化しており、この貨幣名で諸商品は、それらがどれだけに値するかを互いに語りあうのである。貨幣のほうは計算貨幣となるのである。*
*「人がアナカルシスに、ギリシア人はなんのために貨幣を用いるか、と問うたとき、彼は答えた。計算のために、と。」(アテナイオス『学者の饗宴」第4篇、第49節。シュヴァイクホイザー編、第2巻〔120ぺージ〕、1802年)。〉(全集第13巻54-56頁)
《初版》
〈けれども、いろいろな金属重量の貨幣名は、いろいろな理由によって、それらの金属重量のもともとの重量名からしだいに離れてくるが、それらの理由のなかでも次のものが歴史的に決定的である。(1) 発展度の低い諸民族のもとへの、外国貨幣の導入。たとえば古代ローマでは、銀鋳貨や金鋳貨が最初は外国商品として流通していた。こういった外国貨幣の名称は国内の重量名とはちがっている。(2) 富の発展につれて、高級でない金属が高級な金属によって価値尺度という機能から排除される。銅は銀によって、銀は金によって。たとい、この順序が、詩のなかで歌われるどんな年代記と矛盾していようとも(46a)。たとえば、ポンドは、実在する一重量ポンドの銀にたいする貨幣名であった。金が価値尺度としての銀を排除すると、同じ名称がおそらくは、金と銀との比価に応じて1/15重量ポンド等々の金に付着する。貨幣名としてのポンドと、金の普通の重量名としてのポンドとは、いまや分離している。(3) 数世紀にわたって継承された王侯の貨幣贋造、すなわち、鋳貨のもともとの重量からじっさいは名称だけをのこした贋造。〉(86頁)
《補足と改訂》
〈2 0) これまで見てきたところによれば、再分割をともなった金属重量の慣習的度量基準とその呼称が、一番最初やはり価格の度重基準として使われた。しかし、さまざまな歴史的過程が変化をもたらした。そのうち、次のものが明らかに重要である、〉(41頁)
《フランス語版》
〈すでに見たように、金属重量として慣用の尺度標準はまた、その名称とその下位区分とによって、価格の尺度標準と して役立つのである。しかし、若干の歴史的な事情が修正をもたらす。とりわけ、(1)発展の程度の低い諸民族のあいだに外来の貨幣が導入されること。たとえば、古代ローマにおいて金貨と銀貨とが外国商品として流通したとぎのようなものである。この外国鋳貨の名称は国内の重量名とはちがう。(2)富の発展。この発展は、価値尺度の機能においては、低級な貴金属をこれよりも高級な貴金属でもって、すなわち、銅を銀でもって、また銀を金でもってとりかえる。たとえこの継承が詩的年代記に相反していても、そうなのだ。たとえばポンドという言葉は、実在の銀1ポンドにたいして用いられた貨幣名であった。金が価値尺度として銀にとってかわるやいなや、同じ名称が、金と銀との価値の割合にしたがって、おそらくは1/15ポンドの金に付着する。貨幣名としてのポンドと、金の通常の重量名としてのポンドとは、いまや別になる(7)。(3)数世紀にもわたってひきつづき行なわれてきた国王や小国王による貨幣の贋造、すなわち、銀貨の最初の重量から実際に保持されたのは名称だけだ、という贋造(8)。〉(77頁)
●注56
《初版》
〈(46a) それにしても、この順序もまた、一般的・歴史的妥当性をもつものではない。〉(86頁)
《フランス語版》 フランス語版は、注の場所も内容も異なっている。つまり現行版のこの注はフランス語版では削除されている。
〈(7) 「今日観念的である鋳貨はどの国民にとっても最も古いものであり、すべての鋳貨はある期間実在していた(この最後の主張の正しさはさほど著しいものではない)。それは実在していたから、計算貨幣の用をなしたのである」(ガリアーニ、前掲書、153ぺージ)。〉(77頁)
●注57
《経済学批判》
〈こうしてイギリスのポンドはその元来の重量の3分の1よりもわずかを、連合以前のスコットランドのポンドはたった36分の1を、フランスのリーヴルは74分の1を、スペインのマラべディは1000分の1よりもわずかを、ポルトガルのレイはもっとずっと小さな割合をあらわしている。〉(54)
《フランス語版》
〈(8) このようにして、イギリスのポンドはその最初の重量のほぼ1/4しか示さず、1701年の併合以前のスコットランドのポンドはたんに1/366、フランスのリーヴルは1/76、スペインのマラベディは1/100以下、ポルトガルのレアルはさらにはるかに小さな分数である。デヴィッド・アーカート氏はその著『日常用語』のなかで、貨幣の尺度単位としてのイギリスの一ポンド(ポンド・スターリング)が1/4オンスの金の価値しかないという、彼を恐れさせるような事実について、こう述べている。「これは尺度の贋造であって、尺度標準の確定ではない」。貨幣の尺度標準のこのような偽称のうちに、どこでも同じように、彼は文明の偽造者の手を見ているのである。〉(77-8頁)
●注58
《経済学批判》
〈*「その名称が今日ではもはや観念的なものにすぎないような鋳貨は、どの国民にあっても最古のものなのである。しかし、すぺての鋳貨がある期間は実在的だったのであって」(これは、こんなに拡張して言ったのでは正しくない)、「それらが実在的だったからこそ、それらで勘定がなされたのである。」(ガリアーニ『貨幣について』。所収、前掲書、153べージ)〉(54頁)
《初版》 なし
《フランス語版》 フランス語版にもこの注はない。
●第15パラグラフ
《経済学批判》
〈こうして金属重量の貨幣名は、その一般的な重量名から歴史的に分離したのである。度量単位、その可除部分およびそれらの名称の決定は、一方では純粋に慣習的なものであり、他方では流通の内部で一般性と必然性という性格をもたなければならないから、それは法律上の規定とならなけれぽならなかった。だからその純形式的な業務は、政府の仕事となった。貨幣の材料として役だった特定の金属は、社会的にあたえられていた。国を異にするにつれて、法定の価格の度量標準は、当然ちがっている。たとえばイギリスでは、金属重量としてのナンスは、ペニーウェート、グレーン、カラット・トロイに分割されるが、貨幣の度量単位としての金1オンスは、3ソヴリン8分の7に、1ソヴリンは20シリングに、1シリングは12ペンスに分割されており、したがって22カラットの金100重量ポンド(1200オンス) は、4672ソヴリン10シリングに等しい。〉(54-55頁)
《初版》
〈こういった歴史的な諸過程は、金属重量の貨幣名がこの重量の普通の重量名から分離することを、国民的な慣習にする。一方では純粋に慣習的であり他方では法律上の一般性と強制通用力とを必要とするところの、貨幣尺度標準の最終的な決定にさいしては、結局は、自明のことであるが、国家権力が、貴金属の一定重量部分たとえば金一オンスを重量単位として固定して、これを可除部分に分割し、それらの可除部分にポンド、ターレル等々のような任意の法定の洗礼名をつけるのである。それからは、このような可除部分が貨幣の固有の尺度単位として認められるが、この可除部分は、さらに別の可除部分に分割され、細分割され、これらの可除部分はこれらの可除部分で、シリングやぺニ一等々のような法定の洗礼名を受け取る。相変わらず、一定の金属重量が金属貨幣の尺度標準である。変わったのは、分割と命名である。〉(86-7頁)
《フランス語版》
〈貨幣名と通常の金属重量名との分離は、この歴史的進化の結果、民衆的な慣習になった。貨幣の尺度標準は、一方では純粋に因襲的であり、他方では社会的な有効性を必要とするので、ついには法律がこの貨幣の尺度標準を規制する。貴金属の一定の重量部分、たとえば金1オンスが、ポンド、エキュ等のような法律上の洗礼名を授けられる可除部分に、公式に分割される。このぼあいに厳密な意味での尺度単位として用いられるこのような可除部分が、今度は、それぞれシリング、ペニー等の法律上の名称をもつ他の可除部分に再分割される(9)。一定の金属重量が相変わらず金属貨幣の尺度標準になっている。変わったのは再分割と命名法だけである。〉(78頁)
●注59
《経済学批判》
〈*そこで、たとえばデーヴィッド・アーカート氏の『常用語』には次のように書いてある。「金の価値はそれ自身によって測られるというが、他の事物にあっては、どうしてある物質が自分の価値の尺度でありえようか? 金の価値は、虚偽の名称をつけられたそれ自身の重量によって決められるという。--そして、1オンスは何ポンド何分の一の価値があるという。これは尺度の偽造であって、度量標準の確定ではない。」〔104-105ページ〕〉(全集第13巻58-59頁)
ただしこの注の付けられている『経済学批判』の本文は〈1855年、1856年、1857年のあいだに、フランスからの金輸出にたいするフランスへの金輸入の超過は、4158万ポンド・スターリングにのぼり、他方では、銀輸入にたいする銀輸出の超過は3470万4000ポンド・スターリング*にのぼった。〉というもので、これは『資本論』では注53として抜粋されている一文のなかにある。
《初版》 なし
《補足と改訂》
〈21) p. 58)T注. p.49)21〔 〕(例)。ここに置く。デイヴィド・アーカート氏は、『常用語』のなかで、貨幣の度量基準であるイギリスの1ポンド(ポンド・スターリング)がこんにちではほぼ1/4オンスの金に等しいという途方もないことについて述べている。すなわち、「これは尺度の偽造であって、度量基準の確定ではない」--彼は、金重量のこの「偽りの命名jのうちに、他のすべての場合と同じように、文明というものの偽造の手のうちを見るのである。
2 2) p. 5 9) (本文を注意して見る。)〉(41頁)
《フランス語版》 ごれも現行版とは本文が若干違っていることもあって、注も場所も内容も異なるものになっている。
〈(9) 国がちがえば、法律上の価格の尺度標準は当然にちがう。たとえばイギリスでは、金属重量としてのオンスが、トロイウェイト〔金衡〕で計量した、ペニーウェイト、グレーン、カラットに分割される。ところが、貨幣の尺度単位としてのオンスは3ソブレン7/8に、ソプレンは20シリングに、 シリングは12ペンスに分割されるので、22カラットの金100ポンド(1200オンス)=4672ソブレン10シリングである。〉(78頁)