『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(1)

2023-01-10 01:23:34 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (1)


◎大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №1(序論)

 これまで紹介してきました大谷氏の生前最後の著書である『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』が終わってしまったので、今回からは同じ大谷氏の主著とも言える『マルクスの利子生み資本論』全4巻(桜井書店刊、2016年)の紹介をして行きたいと思います。
  と言ってもこの全4巻にわたる著書のメインである『資本論』第3部第5篇(一部第4篇第19章)の草稿テキストの翻訳部分については、今、『マルクス研究会通信』というブログでその草稿の解読を連載中ですので(今は第19章、第21~第29章該当部分まで終えて、次の第30-32章該当部分の草稿の解読の準備中です)、翻訳テキストの部分の紹介はすべて省略して、それ以外の部分、つまり大谷氏自身が第5篇のマルクスの草稿を翻訳紹介する上で、それに関連して研究した成果を発表している部分を取り上げて紹介して行きたいと思います。もっとも紹介すると言っても、私自身が興味を持ったものや、大谷氏の解釈に疑問を持ったものなどを適宜ピックアップしたもののみを紹介するのであって、本書全体の内容が理解できるようなものとしての紹介ではないことを前もって断りしておきます。
  今回はその第1回ですから、すぐに本書の紹介に入るのではなく、その序論的なものを書いておきます。
  このブログで連載している『資本論』学習資料というのは、『資本論』第1巻の最初からその本文テキストの平易な解説と関連する資料を可能なかぎり紹介して、各自が自分で『資本論』を学んで行く上で参考にしてもらうという主旨でやっているものです。しかしそれなら、そもそも第1巻の最初のあたりを勉強している者に、第3巻の第5篇の内容を論じている本書を紹介するのは、飛躍があり過ぎるし、無理があるのではないか、という疑問が当然生じると思います。そうした疑問に少し答えておきたいと思うのです。
  私たちが『資本論』を読むのは何のためか、ということを少し考えてみましょう。もちろん、『資本論』を読み研究する動機というのは人によってさまざまであるし、あってよいのだと思いますが、やはり『資本論』が私たちが生活している現在の資本主義社会の運動法則を明らかにしていると考えるからではないでしょうか。『資本論』は現在の私たちをとりまく経済的諸現象を理論的に解明していくための基礎を与えてくれると考えるからではないでしょうか。
  そういう主旨から、このブログでの『資本論』の解説でも、できるだけ現代的な問題と関連させて論じてきたつもりなのです。そして『資本論』の冒頭の商品と貨幣の問題(第1篇)と密接に関連しているのが、第3部第5篇なのです。
  私たちが日常的に目にしている貨幣というのは、『資本論』の冒頭で分析されているものとは違っています。『資本論』では金が貨幣として取り扱われているのに、現在では日銀券という銀行券(紙幣)が貨幣として流通しています。また政府や経済学者は「通貨」の管理やその供給などと言いますが、この場合の「通貨」というのは『資本論』の冒頭で論じている貨幣とも違うように思えるし、果たしてどのように関連しているのか、という問題などもあります。こうした問題に答えていくためには、第3部第5篇でマルクスが論じている「利子生み資本」の概念がどうしても必要なのです。それが欠けていては正確な理解ができないのです。だから一見すると飛躍しているように思えますが、しかし『資本論』の冒頭の問題を現代の問題に応用して考察を加えていくためには、それを踏まえておくことが重要なのです。
  一例をあげますと、例えば「通貨」と言われているものを正確に理解することは、極めて重要なことです。というのは、一般に「通貨」と言われているものには、利子生み資本という意味での貨幣資本(monied capital)との混同があるからです。つまり厳密な意味での「通貨」(これは『資本論』の冒頭で分析されている貨幣の流通手段と支払手段という二つの機能を果たすもので、広義の流通手段ともいいます)と「利子生み資本」という意味での「貨幣資本(monied capital)」とを区別することが重要ですし、それがまた難しいことなのです。つまり『資本論』でいえば第1巻第1篇と第3巻第5篇の問題に関連していることなのです。
  それがどれほど難しいかというと、『マルクスの利子生み資本論』という4巻にものぼる大著を著した大谷氏自身が、この点であいまいであり、混乱しているほどだからです。つまりマルクスの「利子生み資本」の理論をあれだけ20年にもわたって研究してきた人が(その集大成がこれから紹介する本書なのですが)、肝心要の「利子生み資本」の概念がはっきりしていないほどなのです。
  それが証拠に、大谷氏はブルジョア的な用語である「預金通貨」をあたかもマルクス的な用語であるかに主張し、マルクス自身も肯定的に論じていたなどと主張しています。しかし実は、預金を通貨などと主張することは、まさに通貨と利子生み資本(monied capital)との区別ができていない典型なのです。なぜなら、預金は利子生み資本ではあっても、決して通貨ではありえないからです。例えば預金の振り替え決済は、確かに商品の流通を媒介しています。そしてそれを彼らは預金が支払手段として機能したのだと主張し、だからそれを「預金通貨」ということには何も問題もないというのですが、しかしこれは支払手段の機能にもとづいて諸支払が相殺されることであって、それは通貨の節約をもたらすものであって、それ自体を通貨などというのはまったく間違った捉え方なのです。
  だから現在の経済的な諸現象を理解するためには、こうした通貨と利子生み資本(monied capital)の区別ができないと一歩も先に進めないといっても過言ではないほどなのです。だからこそ、『資本論』の冒頭部分を勉強しただけだとしても、それと関連して第3巻の第5篇を理解することは決して、先走りや飛躍ではないということです。そればかりか現代的な問題を『資本論』から読み解くためには必要不可欠とさえ言えるでしょう。
  もちろん、『資本論』学習資料の「はしがき」として紹介していくものだけで、それが理解できるかどうかは、確約できませんが、少しでもそれを勉強しようという動機付けにでもなればというのが紹介者の希望なのです。

  以上、「はしがき」の序論というほどのものではありませんが、とりあえず、そうしたことを述べておいて、本論に入りたいと思います。今回は、第7章「剰余価値率」第1節「労働の搾取度」からです。やはり前回と同じように、第6章「不変資本と可変資本」から、第7章「剰余価値率」への移行をまず論じることから始めたいと思います。


◎「第6章 不変資本と可変資本」から「第7章 剰余価値率」への移行

 第6章の表題である不変資本と可変資本との区別と範疇として確立は、『資本論』全3巻の基礎になっていることを以前は確認しましたが、そこで明らかになった可変資本こそが剰余価値の唯一の源泉であることも明らかにされました。そして可変資本に対する剰余価値の比率こそ今回取り扱う剰余価値率なのです。だから前章で可変資本の概念が明らかになって初めて剰余価値率の概念も明らかになるという関係にあるわけです。
  そして剰余価値率というのは、後の第3巻で出てくる利潤率の基礎にあるものです。第3巻の表題はエンゲルス版では「資本主義的生産の総過程」となっていますが、マルクスの草稿では「総過程の諸形象化」となっています。「諸形象化」というのは、資本主義的生産の内在的な諸法則が、諸資本の競争によって転倒させられてブルジョア社会の表面に表れているもののことです。『資本論』の第1巻や第2巻で取り扱われているのは、資本主義的生産様式の内在的な諸法則をそれ自体として解明して叙述することです。だからそこでは平均的な均衡した形で諸法則が純粋なかたちで叙述されます。しかし第3巻ではそうした内在的な諸法則が諸資本の競争によって転倒させられて資本主義的生産の表面に表れている諸形象を取り扱うわけです。
  こうした第1巻と第2巻までのものと、第3巻との関係について、マルクスはスミスの価値の規定についての混乱した主張を批判するなかで次のように明らかにしています。

  〈A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。〉 (草稿集⑥145頁、下線はマルクス)

  つまりここでマルクスが〈はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し〉と述べているのは、『資本論』の第1巻や第2巻で明らかにされているものに対応しているのです。そして〈それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している〉というのは、第3巻で問題にされていることなのです。スミスはそうしたことに無自覚に、両者をただ並列させているだけであったり、混同してあっちこっちへと動揺するだけなのですが、問題はその内的関連から、その転倒した形態を説明して展開することなのです。そしてそれこそが『資本論』第3巻でマルクスが課題としていることなのです。「諸形象化」というのはそういう意味を持っています。エンゲルスの表題の変更は、こうした第3巻の独自の意義に対する無理解から来ていると言えます。
  そして資本家たちが目にしている利潤や利潤率もそうしたものの一つなのですが、それを内在的に規定している法則こそ剰余価値であり剰余価値率の法則というわけです。だからこの第7章で明らかにされているものは、それが転倒して形象化されて現れている利潤率の基礎にあるものといえるでしょう。
  それでは第7章第1節の本文を最初から見て行くことにしましょう。


第1節 労働力の搾取度


◎第1パラグラフ(剰余価値は生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる)

【1】〈(イ)前貸しされた資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まず第一に、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる。〉

  (イ) 前貸しされた資本をCとしますと、Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、とりあえずは、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われます。

  私たちは「第2篇 貨幣の資本への転化」で剰余価値を次のようにマルクスが規定していることを知りました。

  〈たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られる。それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。〉 (全集第23a巻196頁)

  だからここでマルクスが述べていることは、第2篇で述べていたことを繰り返しているとも言えます。しかし私たちは剰余価値が生産過程のうちの価値増殖過程で生み出されることも、すでに第5章第2節で知っています。だから前貸しされた資本をCとした場合に、Cが生産過程で生み出した剰余価値は、前貸資本Cの増殖分、すなわちΔCとして現われることを知っているのです。


◎第2パラグラフ(前貸資本C=c[不変資本価値]+v[可変資本価値]、生産物価値={c+v}+m[剰余価値])

【2】〈(イ)資本Cは二つの部分に分かれる。(ロ)すなわち、生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vとに分かれる。(ハ)cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。(ニ)そこで、最初はC=c+vであり、たとえば、前貸資本500ポンド=410ポンド(c)+90ポンド(v)である。(ホ)生産過程の終わりには商品が出てくるが、その価値は(c+v)+mで、このmは剰余価値である。(ヘ)たとえば、410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)である。(ト)最初の資本CはC'に、500ポンドから590ポンドになった。(チ)この二つの額の差額はmであり、90ポンドという剰余価値である。(リ)生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいのだから、生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言うことは、じつは同義反復なのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 前貸資本Cは二つの部分に分かれます。つまり、生産手段の購入に支出される貨幣額cと、労働力の購入に支出される別の貨幣額vとに分かれます。cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表しています。

  前貸資本、つまり資本家が最初に自身が持つ貨幣を商品の生産のために資本として投じるものは二つの部分に分けられます。彼はその貨幣を、生産過程に必要な原料や機械・道具など、つまり生産手段を購入するために投じます。さらにそれらの機械や道具を使って原料を加工するための労働力を購入しなけばなりません。つまり労働者を雇い入れなければならないのです。
  だから資本家が最初に持っている資本額をCとすると、それは二つの部分に、一つは生産手段に投下される貨幣額cと労働力の購入に支出される貨幣額vとに分かれるわけです。だからcは資本の価値の機能規定としては不変資本に転化される貨幣額であり、vは可変資本に転化される貨幣額ということなります。

  (ニ) そこで、最初に投下される資本C=c+vであり、たとえば、前貸資本を500ポンドとしますと、それは=410ポンド(c)+90ポンド(v)ということになります。

  そうしますと、最初に投下される資本Cは=c+vとなります。例えば、今資本家が最初に生産過程に投じる貨幣額を500ポンドとしますと、それは生産手段の購入に充てられる貨幣額c=410ポンドと労働力の購入に充てられる貨幣額v=90ポンドであれば、500ポンド(C)=410ポンド(c)+90ポンド(v)ということになります。

  (ホ)(ヘ) 生産過程の終わりには商品が出てきますが、その価値は(c+v)+mです。ここでmは剰余価値です。たとえば、410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)ということです。

  そして生産過程の終わりには生産物である商品が出てきますが、その価値は前貸しされた貨幣額(c+v)にその生産過程で増殖して生まれた剰余価値mを加えたもの、すなわち(c+v)+mになります。具体的な数値を例にしますと、商品の価値は410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)ということになり、合計590ポンドです。

  (ト)(チ) 最初の資本Cは増殖してC'になります。すなわち、500ポンドから590ポンドになったわけです。そしてこの二つの額の差額はmであり、90ポンドという剰余価値になるわけです。

  つまり前貸資本C=500ポンドは、増殖してC'=590ポンドになったのです。だからこの差額C'-C=90ポンドは、m、すなわち剰余価値になるわけです。

  (リ) 生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいのですから、生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言うことは、じつは同義反復なのです。

  生産諸要素の価値、つまり生産手段と労働力の価値は、前貸資本が最初に投じられたものですから、それが前貸資本の価値に等しいのは当たり前です。だから生産物価値がその生産要素の価値を越える部分は前貸資本の増殖分であるとか、生産された剰余価値であるというのはまったくの同義反復と言えます。

  このパラグラフはフランス語版では二つのパラグラフに分けられています。だから参考のために紹介しておきましょう。

 〈資本Cは二つの部分に、生産手段にたいして支出される一方の貨幣額c (不変資本)と、労働力に支出される他方の貨幣額v(可変資本)とに、分解される。最初はC=c+vであり、一例を挙げれば、前貸資本500ポンドスターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)である。生産作業が完了すれば、その価値が(c+v)+p(pは剰余価値)、すなわち、
   {410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)}+90ポンド・スターリング(p)
に等しい商品が、結果として生ずる。
  最初の資本CはC'に、500ポンド・スターリングから590ポンド・スターリングになった。両者の差はp、90ポンド・スターリングの剰余価値に等しい。生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいから、生産物要素の価値を越える生産物価値の超過分が、前貸資本の増加分、すなわち生産された剰余価値に等しいということは、まぎれもない同義反復である。〉 (江夏・上杉訳204頁)


◎第3パラグラフ(われわれが価値生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味している)

【3】〈(イ)とはいえ、この同義反復は、もっと詳しい規定を必要とする。(ロ)生産物価値と比較されるものは、その形成に消費された生産要素の価値である。(ハ)ところで、われわれがすでに見たように、充用される不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、ただその価値の一部分を生産物に移すだけで、他の部分は元のままの存在形態で存続している。(ニ)このあとのほうの部分は価値形成ではなんの役割も演じないのだから、ここでは捨象してよい。(ホ)それを計算に入れても、なにも変わりはないであろう。(ヘ)かりに、cは410ポンドで、312ポンドの原料と44ポンドの補助材料と過程で損耗する54ポンドの機械類から成っているが、現実に充用される機械類の価値は1054ポンドだとしよう。(ト)生産物価値の生産のために前貸しされたものとしては、われわれは、機械類がその機能によって失い、したがって生産物に移す54ポンドの価値だけを計算する。(チ)もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるとすれば、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないであろう(26a)。(リ)そうすれば、それぞれ1500ポンドと1590ポンドとになるであろう。(ヌ)差額すなわち剰余価値は相変わらず90ポンドであろう。(ル)それゆえ、われわれが価値生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、それは、前後の関連から反対のことが明らかでないかぎり、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味しているのである。〉

  (イ) とはいえ、この同義反復は、もっと詳しい規定を必要とします。

  確かに生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいというのは同義反復ですが、しかしこの増殖をもたらした原因との関連で考えると不十分なのです。前貸資本のどの部分が増殖して剰余価値を生み出したのかはこれでは分からないからです。だからこの同義反復はもっと詳しい検討と規定を必要としているのです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 生産物価値と比較されるものは、その形成に消費された生産要素の価値です。ところで、私たちがすでに知っていますように、充用される不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、ただその価値の一部分を生産物に移すだけで、他の部分は元のままの存在形態で存続しています。そのあとの残りの部分は価値形成ではなんの役割も演じないのですから、ここでは捨象してよいでしょう。

 まず〈生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分〉であり、〈生産された剰余価値に等しい〉という同義反復を考えてみましょう。
  ここでは生産物価値と比較されているのは、その生産のために消費された生産諸要素の価値です。つまりC' -C=mです。
  しかしまず確認しておくべきことは、充用された不変資本のうち機械や道具などからなっている労働手段の場合は、その価値を生産物に移転させるのは、その一部分だけであって、それ以外のものは価値形成過程には入っていきません。だからこの部分は生産物の価値を形成する要素としては無視してよいわけです。

  (ホ)(ヘ)(ト) もしそれを計算に入れたとしても、なにも変わりはないのです。例えば、cは410ポンドで、312ポンドの原料と44ポンドの補助材料と過程で損耗する54ポンドの機械類から成っていますが、現実に充用される機械類の価値は1054ポンドだとしましょう。しかし私たちは、生産物価値の生産のために前貸しされたものとしては、ただ機械類がその機能によって失い、したがって生産物に移す54ポンドの価値だけを計算すればよいのです。

  労働手段の価値のうち生産物に移転する部分だけを考えるのではなく、最初に資本家が投じた労働手段全体の価値を例え考えたとしても、結果は同じなのです。例えば資本家は最初に原料に312ポンド、補助材料に44ポンド、そして機械には1054ポンドを投じたとします。合計1410ポンドです。しかし実際に機械がその生産過程で生産物に移転する価値は54ポンドだとすると、不変資本cは合計410ポンドです。資本家は、生産過程の終わりには生産物のなかに移転された410ポンドの価値と機械としては生産過程に残ったままであるが、しかしその過程で部分的に価値を失った機械の価値1000ポンドを持っているでしょう。つまり彼が最初に投じた1410ポンドはそのまま彼が持っているのであって何も変わりはないのです。だから生産物価値の生産のために前貸された不変資本としては、ただ実際に生産過程で移転される価値部分だけを考えればよいのです。

  (チ)(リ)(ヌ) このように、もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるたとしても、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないでしょう。そうすれば、労働力の価値90ポンドを加えると、それぞれ1500ポンドと1590ポンドとになるでしょう。つまり差額すなわち剰余価値は相変わらず90ポンドなのです。

  私たちの例では可変資本vは90ポンドでしたから、それを入れて計算してみましょう。資本家は最初に原料に312ポンド、補助材料に44ポンド、機械(この場合は蒸気機関)に1054ポンド、そして労働力に90ポンドを投じたとします。合計1500ポンドです。生産物の価値は不変資本の移転分c=312+44+54=410ポンドです。可変資本v=90ポンドで剰余価値m=90ポンドですから、合計410+90+90=590ポンドです。しかし資本家は他方で生産過程で価値を減じているが依然としてそこに残っている蒸気機関の価値1000ポンドを持っているのですから、彼は合計1590ポンドを持っていることになります。つまり最初に投じた1500ポンドと生産過程の結果、彼が持っている価値1590ポンドの差額、すなわち90ポンドが彼が得た剰余価値であることが分かります。だから剰余価値としては生産過程でそのままその価値を維持している機械部分を考慮に入れたとしても同じだということです。

  (ル) そういうことですから、私たちが生産物の価値の生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、それは、前後の関連から反対のことが明らかでないかぎりは、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味していると考えてよいのです。

  フランス語版では若干変えられています。

  〈われわれが、価値生産のために前貸しされた不変資本という名のもとで--そして、ここではこれが問題になっている--理解するものは、生産の経過中に消費された生産手段の価値に限られる。〉 (江夏・上杉訳205頁)

  全集版の場合(初版も同じ)〈前後の関連から反対のことが明らかでないかぎり〉となっているのが、フランス語版では〈そして、ここではこれが問題になっている〉と変わっています。全集版では〈前後の関連から反対のことが明らか〉な場合とはどういう場合かなどいう問題が生じますが、フランス語版ではそれが避けられています。前後の関連から不変資本が磨耗部分だけではなくて、その全体が計算される場合というのは固定資本の回転などを計算する時には常に生じてきますが、これは第2部で問題になることです。

  いずれせよ、このパラグラフで確認されたことは、私たちが不変資本の価値という場合には、常に実際に生産過程で生産物にその価値を移転する部分だけを言うのだということです。


◎原注26a

【原注26a】〈26a 「われわれが充用固定資本の価値を前貸資本の一部分として計算する場合には、年末にはこの資本の残存価値を年収の一部分として計算しなければならない。」(マルサス『経済学原理』、第2版、ロンドン、1836年、269ぺージ。〔岩波文庫版・吉田訳・下巻・89ページ〕。)〉

  これは〈もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるとすれば、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないであろう(26a)〉という本文に付けられた原注です。
  つまりマルサスの述べていることは、充用した固定資本(機械や道具など)の価値を資本家が投じた前貸資本の一部分として計算するのであれば、年末にはこの固定資本の価値のうち残存している、つまり生産過程で移転させた部分を差し引いた残りの価値部分をも、資本家の年収の一部分として計算すべきだということです。つまり生産物の価値だけではなくて、その生産過程で消費された部分を差し引いた残りの固定資本の価値部分も彼の資本家の年間に得た価値としては計算すべきだということです。
  つまり固定資本の場合も、それが生産物の価値としてはその移転分だけを考えるべきだという主張と同じことをマルサスは述べているということです。だからマルクスは原注として採用したのでしょう。
  マルサスについてはこれまでにも出てきたと思われますが、『資本論辞典』から関連する部分だけを簡単に紹介しておきましょう。

  マルサス Thomas Robert Malthus(1766-1834)イギリスの経済学者.……マルサスの価値論上の立場は,スミスからリカードへと発展をたどった古典派経済学にたいして,これを前進せしめるどころか,かえってこれを積極的に破壊し,俗流経済学への途をひらくことになっている点で'科学的反動'の学説として特徴づけられる.……かくしてマルサスは,一方では商品の価値はこれが支配する労働量にひとしいといい,また他方では賃銀は労働と利潤との合計より構成されるという.したがってこのばあい利潤は.事実上価値以上の価格で商品が販売されることから生じるものとされるほかはなくなるとともに,他方商品の買手たる労働者は.労働と利潤との総和にひとしい労働量を,つまり商品にふくまれたところの労働量よりも多い労働量を提供するというのであるから.このばあい利潤は,商品をそれに投ぜられた労働最よりも多量の労働にたいして販売することによってのみ,いいかえると,商品の価値が労働によって決定されるとすれば,かかる価値以上に販売することによってのみ.ひきだされるということになる.かくしてこの相対応する二つのマルサスの価値規定は.いずれも,利潤を価絡つりあげから説明するという商人的幻想へと帰着せしめられる。……『資本論』および『剰余価値学説史』第2部においても,マルサスへの関説が見られる.それらを大別すると,マルクス自身の規定の先行者としてのマルサスの叙述の挙示,マルサスの説明の肯定的評価,人口論者としてのマルサスは先行者の剽窃者にすぎないという批判に分けられる.まず投下資本と剰余価値との関係を考察するさいに,投下資本価値のうちに使用された固定資本をも算入するならば,生産物価値のなかにもこれを算入しなければならぬというマルクスの説明にあたって,マルサスの同様の叙述が参照されている(KI-221:青木2-379:岩波2-126).……〉 (558-561頁)


◎第4パラグラフ(生産過程で新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは違っている)

【4】〈(イ)このことを前提して、C=c+vという式に帰れば、この式はC'=(c+v)+mに転化し、また、まさにそうなることによってCをC'に転化させる。(ロ)言うまでもなく、不変資本の価値は生産物にはただ再現するだけである。(ハ)だから、過程で現実に新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは違っているのであり、したがって、それは、一見そう見えるように(c+v)+mまたは410ポンド(c)+90ポンド(v)ではなく、v+mまたは90ポンド(v)+90ポンド(m)であり、590ポンドではなく、180ポンドである。(ニ)かりに、cすなわち不変資本がゼロだとすれば、言い換えれば資本家は生産された生産手段を原料も補助材料も労働用具も充用する必要がなくただ天然にある素材と労働力だけを充用すればよいというような産業部門があるとすれば、その場合には生産物に移される不変価値部分はないであろう。(ホ)生産物価値のこの要素、われわれの例では410ポンドは、なくなるであろう。(ヘ)しかし、90ポンドの剰余価値を含む180ポンドの価値生産物は、cが最大の価値額を表わすような場合とまったく同じ大きさであろう。(ト)C=(0+v)=vとなり、そして、C'価値増殖した資本=v+mとなり、C'-Cはやはりmに等しいであろう。(チ)逆にm=0ならば、言い換えれば、その価値が可変資本として前貸しされる労働力がただ等価を生産するだけだとすれば、C=c+vであり、そしてC'(生産物価値)=(c+v)+0となり、したがってC=C'となるであろう。(リ)前貸しされた資本は価値増殖してはいないであろう。〉

  (イ) このことを前提して、C=c+vという式に帰りますと、この式は生産過程の結果C'=(c+v)+mに転化し、また、まさにそうなることによってCをC'に転化させるわけです。

  このこと、つまり価値生産のために前貸しされた不変資本としては生産中に消費された生産手段の価値だけを意味するということを前提しますと、前貸資本Cは不変資本cと可変資本vとに分解します。すなわちC=c+vという式になります。この式は、生産過程で剰余価値を生み、生産物価値C'としては、移転された不変資本cと再生産された可変資本vと新たに形成された剰余価値mの合計になります。すなわちC'=(c+v)+mという式に転化します。こうして前貸資本Cは増殖された生産物価値C'に転化されるわけです。

  (ロ)(ハ) 言うまでもありませんが、前章で確認されましたように、不変資本の価値は生産物にはただ再現するだけです。だから、過程で現実に新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは当然違っています。価値生産物としては、一見そう見えますように(c+v)+mまたは410ポンド(c)+90ポンド(v)ではなく、v+mまたは90ポンド(v)+90ポンド(m)なのです。だから590ポンドではなく、180ポンドなのです。

  ここでは〈価値生産物〉と〈生産物価値〉というよく似た用語が出てきます。まず後者の〈生産物価値〉というのは、生産物の価値のことでこれまでにも出てきたものです。しかし〈価値生産物〉というのは、新しく出てきた用語で、新たに対象化された労働によって形成された価値のことです。つまり不変資本の価値は、生産物にはただ移転・保存されるに過ぎませんが、生産物の価値のうち可変資本の価値部分や剰余価値の部分は生産物に移転されたものではなく、新たに生産された価値なのです。この新たに生産された価値部分を〈価値生産物〉と述べているわけです。
  だから価値生産物というのは、生産物価値(c+v)+mのうちv+mなのです。すなわち410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)=590ポンドのうち90ポンド(v)+90ポンド(m)=180ポンドなのです。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) かりに、cすなわち不変資本がゼロだとしますと、言い換えれば資本家は生産された生産手段としては、原料も補助材料も労働用具も充用する必要がなくて、ただ天然にある素材と労働力だけを充用すればよいというような産業部門があるとしますと、その場合には生産物に移される不変価値部分はないことになるでしょう。生産物価値のこの要素、私たちの例では移転される不変資本価値410ポンドは、なくなるでしょう。しかし、90ポンドの剰余価値を含む180ポンドの価値生産物は、cが最大の価値額を表わすような場合とまったく同じ大きさでしょう。式で表しますとC=(0+v)=vとなり、そして、C'すなわち価値増殖した資本としては=v+mとなり、C'-Cはやはりmに等しいでしょう。

  もし仮に前貸資本のうち不変資本に分解する部分がゼロの産業部門があるとしますと(マルクスは第2巻でスミスのドグマを批判するなかで、例えば瑪瑙の採集産業を例としてあげています)、前貸資本Cとしては可変資本vだけになります。つまりこれまでの例で考えますと、前貸される不変資本価値cの410ポンドはなくなって、ゼロになるということです。しかしこの場合も、価値生産物としてはv+m=90ポンドの可変資本価値部分+90ポンドの剰余価値=180ポンドになって、結果は同じです。つまり不変資本価値がどうであろうと価値生産物の値は同じだということです。そして価値増資した資本C'(90ポンドv+90ポンドm)-C(90ポンドv)=90ポンドmと同じ結果が出てくるわけです。

  (チ)(リ) 逆にm=0と考えますと、言い換えますと、その価値が可変資本として前貸しされる労働力がただ等価を生産するだけだとしますと、C=c+vであり、そしてC'(生産物価値)も=(c+v)+0となって、だからC=C'となるでしょう。この場合は、前貸しされた資本は価値増殖していないことになるでしょう。

  もしm=0と仮定しますと、つまり剰余価値が生産されないということは、労働者が自身の労働力の価値を再生産するところまでしか労働しないということであり、この場合は前貸資本Cは=c+vですが、生産物価値もやはり(c+v)+0ですから、C'=Cであって生産物の価値は前貸資本の価値と同じとなるでしょう。つまり価値増殖はないということです。


◎第5パラグラフ(価値変化の純粋な分析のためには不変資本cをゼロに等しいとすることを要求する)

【5】〈(イ)われわれが事実上すでに知っているように、剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのであり、したがって、v+m=v+Δv(v・プラス・vの増加分)である。(ロ)ところが、現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大するので前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされるのである。(ハ)前貸総資本は500だったが、それが590になる。(ニ)そこで、過程の純粋な分析は、生産物価値のうちただ不変資本価値が再現するだけの部分をまったく捨象すること、つまり不変資本cをゼロに等しいとすることを要求するのであり、したがってまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのである。〉

  (イ) 私たちがすでに知っていますように、剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのです。だから、v+m=v+Δv(v・プラス・vの増加分)なのです。

  ここから、先の同義反復がさらに詳しく規定される必要がある理由が明らかにされます。前章から私たちは剰余価値は可変資本価値vの変化から生まれることを知っています。つまりvはv+mになるのですが、これはv+Δv、つまりmというのぱ可変資本価値の増殖分だということを意味しています。

  (ロ)(ハ) ところが、現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大することによって前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされるのです。前貸総資本は500でしたが、それが590になったという事実だけが目に入るのです。

  この部分はフランス語版では若干書き換えられていますので、見ておきましょう。

  〈だが、この価値変化の真の性格は、一見して明らかになるものではない。それは、前貸総資本もこの資本の可変的要素の増大の結果やはり増大するということから、生ずるのである。この資本は500であったが、590になる。〉 (江夏・上杉訳206頁)

  しかしこうしたことは先の同義反復、すなわち〈生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言う〉だけでは明らかにならないのです。つまり500がただ590になったというだけではこうした真の性格は見えなくされています。

  (ニ) そういうことからも、過程の純粋な分析は、生産物価値のうちただ不変資本価値が再現するだけの部分をまったく捨象すること、つまり不変資本cをゼロに等しいとすることを要求するのです。ということはまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのです。

  そういうことから価値の変化を純粋に考察するためには、価値の変化の起こらない、以前の価値をただ移転し保存するだけの部分、すなわち不変資本価値の部分は常にゼロにすることが必要なのです。
  ところでここでマルクスは〈したがってまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのである〉と述べていますが、これはx(変数)+a(定数)=y(変数)という関数を考える場合、これは実質上x(変数)=y(変数)の関数を考えることであり、aはただその関数の関係をグラフ上で上下左右に移動させるだけにすぎないということ、つまり可変量と可変量との関係を問う場合は、aをゼロにしたものを基本的な関係だとする「法則」について述べているのではないでしょうか(初版付属の原注によれば、微分すれば不変量はゼロになるという法則をマルクスは意図しているようです)。

  一応、この部分の初版を示しておきますと次のようになっています。

  〈だから、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうちで不変資本価値だけが再現されている部分を全く度外視することが、つまり不変資本cはゼロに等しいとすることが、したがってまた、可変量と不変量との演算において不変量が加法または減法によってのみ可変量と結びつけられるばあいの数学の一法則を適用することが、必要なのである(27)。〉 (江夏訳227-228頁)

  このように初版には現行版やフランス語版にはない原注27)が付いています。その原注も紹介しますと次のようになります(付属資料には原注27のところに紹介しておきました)。

  〈(27)「加法または減法の演算によって可変量に結びつけられている不変量は、微分すればゼロになる。」(J・ハインド『徴分学。ケンブリッジ、1831年』、126ページ。)じっさい、ある不変量の量的変化というものは実在しない。だから、微分学の法則、すなわち、ある不変量の微分はゼロに等しい、が成り立つことになる。〉 (江夏訳228頁)

  なお『61-63草稿』には次のようなメモがあとから書き加えられたものとしてあります。

  〈ここに述べた見解は、厳密に数学的に見ても正しいものである。たとえば、微分計算でy=f(X)+Cをとり、このCを定数としよう。XがX+ΔXに変化しても、この変化はCの価値を変えない。定数は変化しないのだから、dCはゼロであろう。それゆえ、定数の微分はゼロなのである。〉 (草稿集④268頁)

  (全体を7分割します。以下は(2)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(2)

2023-01-10 01:04:07 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (2)


◎第6パラグラフ(もう一つの困難は、可変資本の元来の形態から生ずる)

【6】〈(イ)もう一つの困難は、可変資本の元来の形態から生ずる。(ロ)たとえば、前例ではC'=410ポンドの不変資本+90ポンドの可変資本+90ポンドの剰余価値である。(ハ)しかし、90ポンドは、一つの与えられた量、すなわち不変量であり、したがって、それを可変量として取り扱うことは不合理のように見える。(ニ)しかし、90ポンド(v)すなわち90ポンドの可変資本は、ここではじつはただこの価値が通過する過程の象徴でしかないのである。(ホ)労働力の買い入れに前貸しされる資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに不変な価値量である。(ヘ)ところが、生産過程そのものでは、前貸しされた90ポンドに代わって、みずから活動する労働力が現われ、死んでいる労働に代わって生きている労働が現われ、静止量に代わって流動量が、不変量に代わって可変量が現われるのである。(ト)その結果は、vの再生産・プラス・vの増加分である。(チ)資本主義的生産の立場から見れば、この全過程は、労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動である。(リ)過程もその結果も、この価値のおかげである。(ヌ)それゆえ、もし90ポンドの可変資本とかみずから増殖する価値とかいう定式が矛盾したものに見えるとしても、それはただ資本主義的生産に内在する一つの矛盾を表わしているだけなのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) もう一つの困難は、可変資本の元来の形態から生じます。たとえば、前例ではC'=410ポンドの不変資本+90ポンドの可変資本+90ポンドの剰余価値です。しかし、vの90ポンドは、一つの与えられた量、すなわち不変量であり、したがって、それを可変量として取り扱うことは不合理のように見えのです。

 ここで〈もう一つの困難〉とありますが、ではその前の〈困難〉とは何かというと、それは前のパラグラフで〈現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大するので前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされる〉ということです。つまり価値変化が可変資本の変化から生じるということを理解することの〈困難〉を指しているのだと分かります。
  だからここでは価値変化が可変資本の変化から生じることを理解する困難は、可変資本そのものの元来の形態から生じるというのです。というのは可変資本というのは労働力の価値にイコールです。ということは労働力の価値というのはある与えられた一定量であって、それが「可変」、すなわち変化するというのはそれ自体が不合理に思えるからです。
  前のパラグラフの例で考えますと、生産物価値C'=410ポンドの不変資本+90ポンドの可変資本+90ポンドの剰余価値ですが、この場合、90ポンドの可変資本は、あくまでも与えられた不変量であり、それが「可変」であるとするのは不合理に見えるわけです。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト) しかし、90ポンド(v)すなわち90ポンドの可変資本は、ここではじつはただこの価値が通過する過程の象徴でしかないのです。労働力の買い入れに前貸しされる資本部分は、一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに不変な価値量です。ところが、生産過程そのものでは、前貸しされた90ポンドに代わって、みずから活動する労働力が現われ、死んでいる労働に代わって生きている労働が現われ、静止量に代わって流動量が、不変量に代わって可変量が現われるのです。だからその結果は、vの再生産・プラス・vの増加分となるのです。

  この部分はフランス語版ではやや書き換えられていますので紹介しておきましう。

  〈ところが、90ポンド・スターリング(v)、すなわち90ポンド・スターリングの可変資本は、この価値がたどる歩みにとっては、一つの象徴でしかない。第一に、二つの不変な価値が相互に交換される。90ポンド.スターリングの資本が、同じように90ポンド・スターリングに値する労働力と交換される。ところが、生産の経過中に、前貸しされた90ポンド・スターリングが労働力の価値によってではなくその運動によって、死んだ労働が生きた労働によって、固定量が流動量によって、不変量が可変量によって、いましがた置き換えられたのだ。その結果は、vの再生産・プラス・vの増量である。〉 (江夏・上杉訳207頁)

  可変資本というのは労働力の価値とイコールですが、労働力の価値そのものではありません。可変資本というのはあくまでも資本価値のうち労働力の購買に投じられた、あるいはそれに予定されている価値部分を表すに過ぎないのです。だから生産過程に労働力の価値が入っていくわけではないのです。これはある意味では不変資本についても同じことがいえます。不変資本とは生産諸手段の価値とイコールですが、生産手段の価値が生産過程に入っていくわけではありません。生産過程には生産手段が入っていき、その使用価値が生産過程で生産的に消費されるのです。同じように生産過程には労働力の価値ではなく、労働力そのものが入っていき、その使用価値が消費されるのです。そして労働力の使用価値というのは労働そのものですから、それは新たな価値を対象化するという属性を持っているのです。生産過程で生産的に消費される生産諸手段は、その過程でただ自身が持っている価値を移転するだけですが、労働力の使用価値である労働そのものは新たな労働を対象化させ、新たな価値を形成します。そしてその形成される価値が、可変資本が元来持っていた価値、すなわち労働力の価値を再生産するだけではなくて、剰余価値をも生産するのです。
  だから最初に投じられる可変資本の価値というのは、この価値が通過する過程の一つの象徴でしかなく、それはもともとはそれだけの価値を持っていたことを表していますが、生産過程で何か現実的な役割を果たすわけではないのです。ただそれが元来持っていた価値を象徴的に表しており、だから現実の労働が生み出した価値との比較でその変化を推し量ることができるだけのものです。
  労働力の価値は労働力を生産するために必要な対象化された労働であり、過去の労働、死んだ労働を表しています。しかし現実の生産過程では労働力の価値ではなくその使用価値、すなわち生きた労働が現われるのです。だから死んだ労働に代わって生きた労働、静止した量に代わって流動的な量が、すなわち不変量に代わって可変量が現われるのです。
  そしてその結果が、v、すなわち可変資本の価値の再生産と、プラスm、すなわち剰余価値、あるいは可変資本のvの増殖分Δvが現われるのです。

  (チ)(リ)(ヌ) 資本主義的生産の立場から見ますと、この全過程は、労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動であるかに見えます。その過程もその結果も、この価値のおかげでなのです。だから、もし90ポンドの可変資本とか、みずから増殖する価値とかいう定式が矛盾したものに見えたとしても、それはただ資本主義的生産に内在する一つの矛盾を表わしているだけなのです。

  この部分はフランス語版ではやや簡潔に次のように書かれています。

  〈資本主義的生産の観点から見れば、この全体は、労働力に転化された価値=資本の自発的、自動的な運動である。全過程とその結果とは、この価値=資本のおかげである。したがって、子を産む価値を表現する定式「90ポンド・スターリングの可変資本」は、矛盾するように見えても、資本主義的生産に内在する矛盾を表現しているにすぎない。〉 (江夏・上杉訳207頁)

  資本主義的生産の立場からみますと、その全過程は、資本価値の自己増殖の運動として現われます。しかしその内実をみますと労働力に転換される元来は不変な価値の自己運動であり、その自己増殖の運動なのです。
  だから「90ポンドの可変資本」という文言は、90ポンドというのはある一定量の貨幣額であり、それが「可変」というのは矛盾した表現ですが、ただ表面的に見れば、やはり90ポンドが変化して180ポンドに変わるわけなのです。同じように「みずから増殖する価値」という文言も確かにおかしなものであり、価値そのものが「増殖」するはずのないものであって、それはただ表面的にみればそのように見えるというだけのことにすぎません。しかしこうした定式が示している矛盾は、それは資本主義的生産に内在する一つの矛盾を表しているだけなのです。
  労働力が現実の生産過程で、それが価値として持っていた過去の対象化された労働に代わって生きた労働を対象化させ、それ以上の価値を形成することには何の不合理も矛盾もありません。しかし資本主義的生産はこうした内在的な関係を覆い隠し、見えなくさせているのです。それがすなわち「90ポンドの可変資本」とか「みずから増殖する価値」という矛盾した文言として表されているのです。


◎第7パラグラフ(不変資本をゼロに等しいとすることは、日常生活では人々がいつでもやっていること)

【7】〈(イ)不変資本をゼロに等しいとすることは、一見したところ奇妙に思われる。(ロ)とはいえ、それは日常生活では人々がいつでもやっていることである。(ハ)たとえば、イギリスが綿工業であげる利益を計算しようとする人は、まず第一に、合衆国やインドやエジプトなどに支払われる綿花価格を引き去る。(ニ)すなわち、彼は、生産物価値のうちにただ再現するだけの資本価値をゼロに等しいとするのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 不変資本をゼロに等しいとすることは、一見したところ奇妙に思われるかも知れません。しかし、それは日常生活では人々がいつでもやっていることなのです。たとえば、イギリスが綿工業であげる利益を計算しようとする人は、まず第一に、合衆国やインドやエジプトなどに支払われる綿花価格を引き去って計算します。つまり、彼は、生産物価値のうちにただ再現するだけの資本価値をゼロに等しいとしているのです。

  価値変化を純粋に分析するために、不変資本価値をゼロにするという方法は一見するとおかしなことのように思えるかもしれません。しかしこれは日常機にやっていることなのです。例えばイギリスが綿工業であげる利益を計算するときには、誰でもまず第一に、合衆国やインド、エジプトなどに支払われた綿花の価格を引き去って計算するでしょう。つまりそれは生産物の価値のうちただ再現するだけに過ぎない不変資本の価値をゼロにしていることと同じなのです。


◎第8パラグラフ(剰余価値の直接の源泉であり剰余価値によってその価値変化を表わされる資本部分にたいする剰余価値の比率だけではなく、前貸総資本にたいする剰余価値の比率もまた大きな経済的意義をもっている)

【8】〈(イ)もちろん、剰余価値の直接の源泉であり剰余価値によってその価値変化を表わされる資本部分にたいする剰余価値の比率だけではなく、前貸総資本にたいする剰余価値の比率もまた大きな経済的意義をもっている。(ロ)それゆえ、われわれは第3部ではこの比率を詳細に論ずるのである。(ハ)資本の一部分を労働力に転換することによって価値増殖するためには、資本のもう一つの部分は生産手段に転化されなければならない。(ニ)可変資本が機能するためには、不変資本が労働過程の一定の技術的性格に応じて適当な割合で前貸しされなければならない。(ホ)しかし、ある化学的な処置のためにレトルトやその他の容器を必要とするという事情は、分析にさいしてレトルトそのものを捨象することを妨げるものではない。(ヘ)価値創造と価値変化がそれ自体として、すなわち純粋に考察されるかぎりでは、生産手段は、不変資本のこの素材的な姿は、ただ、流動的な価値形成的な力がそこに固定されるべき素材を提供するだけである。(ト)それだから、この素材の性質も、綿花であろうと鉄であろうと、なんでもかまわないのである。(チ)また、この素材の価値もどうでもよいのである。(リ)ただ、この素材が、生産過程中に支出される労働量を吸収することができるだけの十分な量でありさえすればよいのである。(ヌ)それだけの量が与えられてさえいれば、その価値が上がろうと下がろうと、またはそれが土地や海のように無価値であろうと、それによって価値創造と価値変化との過程が影響されることはないのである(27)。〉

  (イ)(ロ) もちろん、剰余価値の直接の源泉であり剰余価値によってその価値変化を表わされる資本部分にたいする剰余価値の比率だけではなく、前貸総資本にたいする剰余価値の比率もまた大きな経済的意義をもっています。だから、私たちは第3部ではこの比率を詳細に論ずるのです。

  以上のような困難にも関わらず、私たちは生産物の価値の変化は不変資本の価値をゼロとして、可変資本の価値の変化として、捉えられることが分かりました。すなわち剰余価値の直接の源泉である可変資本の変化として捉え、可変資本vの元来の価値の増殖分Δvとして捉え、前貸総資本そのものが増殖するかに捉えるとらえ方はその原因を覆い隠すものであるとしました。
  しかしそのことは、この前貸総資本に対する剰余価値の比率が無意味なものであることを意味しません。そればかりか最初の「移行」を論じたところでも紹介しましたが、諸資本の競争が生じさせる本質的な諸関係の転倒した諸形象化の一つとして重要な経済的意義を持っています。だからこの問題は資本主義的生産の内在的な一般的諸法則を論じるこの部分ではなくて、その転倒によって生じる諸形象化が論じられる第3部の冒頭で論じられるのです。

  (ハ)(ニ)(ホ) 資本の一部分を労働力に転換することによって価値増殖するためには、資本のもう一つの部分は生産手段に転化されなければなりません。可変資本が機能するためには、不変資本が労働過程の一定の技術的性格に応じて適当な割合で前貸しされていなければならないのです。しかし、ある化学的な処置のためにレトルトやその他の容器を必要とするという事情は、分析にさいしてレトルトそのものを捨象することを妨げるものではないでしょう。

  不変資本部分をゼロにすることについてさらに言いますと、資本の一部分を労働力に転換してその価値増殖を可能にするためには、確かにもう一方の資本の一部分を不変資本に、つまり労働過程の技術的性格に応じて必要な適当な割合に応じて、資本価値を生産手段に転換させる必要があります。
  しかしそれをゼロにするということは次のような例を考えれば分かります。例えば化学的な処置をするときに、レトルトやその他の容器を必要としても、肝心の化学的な過程そのものの分析においてはレトルトや容器は化学的過程には影響しないものとして無視します。不変資本をゼロとするのはそれと同じことなのです。それらは価値変化になんの影響もないのですから、価値変化だけを純粋に分析するために不変資本をゼロにすることが必要不可欠なのです。

  (ヘ)(ト) 価値創造と価値変化をそれ自体として、つまり純粋に考察するためには、生産手段は、不変資本のこの素材的な姿は、ただ、流動的な価値形成的な力がそこに固定されるべき素材を提供するだけなのです。だから、この素材の性質も、綿花であろうと鉄であろうと、なんでもかまわないのです。

  不変資本をゼロにするということは、その使用価値も価値もゼロにするということです。しかしそれは価値の創造と価値の変化とをそれ自体として、つまり純粋にそれらを考察するためには、やはりそれは必要なことなのです。
  不変資本の使用価値をゼロするということは、生産手段をゼロにするということです。つまり生産手段の使用価値としての性質などは無関係なものとして見るということです。それらは、ただそれに労働が対象化され価値が付け加えられる素材的な存在としてあるに過ぎません。価値にとってその素材的担い手である使用価値はまったく対立的な排他的な関係にあります。だから価値とってはその素材の性質は何も問われないのです。ただ価値の素材的な担い手であればよいのです。だからそれが綿花であろと鉄であろうと、とにかく社会的な労働が対象化され得るならばそれでよいのです。

  (チ)(リ)(ヌ) また、同じことはこの生産手段という素材の価値についても言えます。それもどうでもよいのです。ただ、この素材が、生産過程中に支出される労働量を吸収することができるだけの十分な量でありさえすればよいのです。だからまた、それだけの量が与えられてさえいれば、その価値が上がろうと下がろうと、またはそれが土地や海のように無価値であろうと、それによって価値創造と価値変化との過程が影響されることはないのです。

  もちろん生産手段の使用価値だけではなくて、その価値も、過程の価値変化においては何の影響もありません。ただ生産手段の使用価値量が生産過程のなかで新たに支出される労働量を吸収しうるだけの十分な量がありさえすればよいのであって、生産手段の価値そのものはただその使用価値量と一体となっているものとして前提されているだけで、過程のなかではただやはり象徴的に存在するに過ぎず、現実の価値変化にはなんの影響も及ぼさないのです。だから生産手段はその必要な使用価値量があればよいのであって、その価値がどれだけであろうと、それが上がろうと下がろうと、あるいは海や土地のように無価値であろうと、とにかく使用価値として労働を吸収しうるものであればよいのであって、それによって価値創造と価値変化の過程には何の影響も及ぼさないのです。

  こうした関係を論じている『資本論』第3部から紹介しておきましょう。

  〈それ自体としては総資本の価値量は剰余価値量にたいしてどんな内的関係もなしてはいない。少なくとも直接にはそうである。総資本・マイナス・可変資本、つまり不変資本は、素材的要素から見れば、労働の実現のための素材的諸条件、すなわち労働手段と労働材料とから成っている。一定量の労働が商品に実現され、したがってまた価値を形成するためには、一定量の労働材料と労働手段とが必要である。つけ加えられる労働の特殊な性格に応じて、労働の量と、この生きている労働がつけ加えられるべき生産手段の量とのあいだには、一定の技術的な割合が生まれる。したがってまた、そのかぎりでは、剰余価値または剰余労働の量と生産手段の量とのあいだにも、一定の割合が生まれる。たとえば、労賃の生産のために必要な労働が1日に6時間だとすれば、労働者は、6時間の剰余労働を行なうためには、すなわち100%の剰余価値を生みだすためには、12時間労働しなければならない。彼は12時間では6時間に消費する生産手段の2倍を消費する。それだからといって、彼が6時間でつけ加える剰余価値は、6時間とか12時間とかに消費される生産手段の価値とはまったくなんの直接関係もない。この生産手段の価値はここではまったくどうでもよいのである。ただ、技術的に必要な量が問題になるだけである。原料や労働手段が安いとか高いとかいうことは、まったくどうでもよいのである。ただ、それが必要な使用価値をもっていさえすれば、そして吸収されるべき生きている労働にたいして技術的に定められた割合でそこにありさえすれば、それでよいのである。といっても、1時間では重量xポンドの綿花が紡がれてそれにはaシリングかかるということを知れば、もちろん、12時間では12xポンドの綿花=12aシリングが紡がれるということもわかるのであり、その場合には、6の価値にたいしてと同じに12の価値にたいしても剰余価値の割合を算出することができるのである。しかし生産手段の価値にたいする生きている労働の割合がここにはいってくるのは、ただ、aシリングが重量xポンドの綿花の呼び名として役だつかぎりでのことである。なぜならば、綿花の価格が変わらないかぎり、一定量の綿花は一定の価格をもっており、したがってまた逆に一定の価格は一定量の綿花の指標として役だつことができるからである。6時間の剰余労働を取得するためには、12時間の労働をさせなければならず、したがって12時間分の綿花を準備しなければならないということを知っており、また12時間のために必要なこの綿花量の価格を知っていれば、そこには、一つの回り道を通ってではあるが、綿花の価格(必要量の指標としての)と剰余価値との割合がある。しかし、その逆に原料の価格から原料の量を、たとえば6時間にではなく1時間に紡ぐことのできる量を、推定することはけっしてできない。だから、不変資本の価値と剰余価値とのあいだには、したがってまたそう資本の価値(c+v)と剰余価値のあいだにも、内的な必然的な関係はなにもないのである。〉 (全集第25a巻57頁)


◎原注27

【原注27】〈27 第2版への注。(イ)ルクレティウスの言う「無からはなにものも創造されえない」〔"nil posse creai de nihilo"〕は、自明のことである。(ロ)無からはなにも生じない。(ハ)「価値創造」は労働力の労働への転換である。(ニ)この労働力はまた、なによりもまず、人間有機体に転換された自然素材である。〉

  (イ)(ロ) ルクレティウスが言うように「無からはなにものも創造されえない」〔"nil posse creai de nihilo"〕というのは、自明のことです。確かに無からはなにも生じないのです。

  これは〈ただ、この素材が、生産過程中に支出される労働量を吸収することができるだけの十分な量でありさえすればよいのである。それだけの量が与えられてさえいれば、その価値が上がろうと下がろうと、またはそれが土地や海のように無価値であろうと、それによって価値創造と価値変化との過程が影響されることはないのである(27)〉という本文につけられた原注です。

  不変資本をゼロにするということは、あたかも無から価値を生み出すかに考えるかもしれませんが、しかし問題になっているのはそういうことではありません。価値創造と価値変化には不変資本そのものはただ前提されるだけで何の影響ももたないから無視してよいというだけのことです。
  だからルクレティウスのいうように「無からなにものも創造されない」というのは事実ですが、今言っていることはそういうことではないということです。

  (ハ)(ニ) 私たちがここで述べている「価値創造」というのは、労働力が流動化され労働として対象化されることから生じます。そしてこの労働力そのそのは、なによりもまず、人間有機体に転換された自然素材そのものなのです。だから決して無ではないのです。

  価値を創造するのは労働であって、その労働が対象化される生産手段ではありません。生産手段そのものは前提されるだけで価値創造には無関係であるということは、決して無から価値を生むということではないのです。生産手段は使用価値としては自然素材として厳として存在するし必要なのです。労働が対象化される素材がなければ確かに価値も創造されることありません。また労働力そのものも、現実には人間有機体の一機能であってそれ自体は素材的な存在です。だからこれもまたやはり無ではないのです。


◎第9パラグラフ(可変資本の価値増殖の割合、または、剰余価値の比例量を剰余価値率と呼ぶ)

【9】〈(イ)こういうわけで、われわれはさしあたりは不変資本部分をゼロに等しいとする。(ロ)したがって、前貸しされる資本はc+vからvに、また、生産物価値(c+v)+mは価値生産物(v+m)に縮小される。(ハ)価値生産物=180ポンドが与えられていて、生産過程の全継続期問にわたって流動する労働がそれで表わされるとすれば、われわれは、剰余価値=90ポンドを得るためには、可変資本の価値=90ポンドを引き去らなければならない。(ニ)90ポンド=mという数は、ここでは、生産された剰余価値の絶対量を表わしている。(ホ)しかし、その比例量、すなわち可変資本が価値増殖した割合は、明らかに、可変資本にたいする剰余価値の比率によって規定されている。(ヘ)または、m/vで表わされている。(ト)つまり、前例では90/90=100%である。(チ)この可変資本の価値増殖の割合、または、剰余価値の比例量を私は剰余価値率と呼ぶのである(28)。〉

  (イ)(ロ) こういうわけで、私たちはさしあたりは不変資本部分をゼロに等しいとします。だから当然、前貸しされる資本Cは、c+vからvに、また、生産物価値C'=(c+v)+mは価値生産物(v+m)に縮小されます。

  価値創造と価値変化を分析するために、不変資本をゼロにした場合、当然、前貸しされる資本価値Cはc+vではなく、単なるvになります。そしてまた生産物価値C'は、(c+v)+mではなくて、v+m、すなわち価値生産物だけになります。

  (ハ)(ニ) 価値生産物=180ポンドが与えられていて、生産過程の全継続期問にわたって流動する労働がそれで表わされるとしますと、私たちは、剰余価値=90ポンドを得るためには、可変資本の価値=90ポンドをここから引き去らなければなりません。90ポンド=mという数は、ここでは、生産された剰余価値の絶対量を表わしているのです。

  価値生産物というのは、生産過程で新たに対象化される労働が生み出すものです。それが180ポンドであれば、剰余価値はそこから可変資本価値=労働力の価値部分を差し引かねばなりません。だから新たに生産される価値量が決まっているなら、そこから可変資本を再生産される部分を差し引いて得られる剰余価値量90ポンドは絶対的な量です。

  (ホ)(ヘ)(ト)(チ) しかし、その比例量、すなわち可変資本が価値増殖した割合は、明らかに、可変資本にたいする剰余価値の比率によって規定されています。あるいは、m/vで表わされています。つまり、前例でいいますと90/90=100%です。この可変資本の価値増殖の割合、または、剰余価値の比例量を私は剰余価値率と呼ぶのです。

  剰余価値の量は、だから新たに対象化される労働の量(これは労働者の労働の継続時間によります)と労働力が本来持っていた価値、すなわち可変資本価値とによって決まってきます。
  剰余価値は、可変資本部分の価値変化によって生まれるものですから、それがもともとの可変資本に対してどれだけ増殖したかということが問題になります。
  そして剰余価値の比例量、可変資本が価値増殖した割合は、剰余価値の可変資本に対する割合、比率によって分かります。これは記号で表せばm/vとなります。また前例の具体的な数値だと90/90=100%となります。
  この可変資本の価値増殖の割合、あるいは剰余価値の比例量を剰余価値率というのです。


◎原注28

【原注28】〈28 (イ)これは、イギリス人が"rate of profits"〔利潤率〕"rate of intrest"〔利子率〕などの語を使うのと同じやり方で、こう呼ぶのである。(ロ)第3部を読めば、剰余価値の諸法則を知れば利潤率も容易に理解されるということがわかるであろう。(ハ)逆の行き方ではどちらも理解されないのである。〉

  (イ) これは、イギリス人が"rate of profits"〔利潤率〕"rate of intrest"〔利子率〕などの語を使うのと同じやり方で、こう呼ぶのです。

  これは〈この可変資本の価値増殖の割合、または、剰余価値の比例量を私は剰余価値率と呼ぶのである(28)〉という本文に付けられた原注です。
  剰余価値率というのは、可変資本の価値の増殖割合ですが、利潤率も資本価値の増殖割合のことであり、利子率というのも利子生み資本の増殖割合を示しています。だからこれらはよく似た比例量と考えることができるわけです。
  ただ利子率は剰余価値率や利潤率とは本質的な相違があります。というのは、剰余価値率も利潤率も剰余価値という可変資本が増殖される量によって規定されています。ただその比較するものが一方は可変資本であり、他方は総資本というに過ぎません。
  しかし利子率というのは貨幣を貸し付けて、それが返済されるときに、付いてくる貨幣額のことです。これは貸し付ける貨幣が、価値を増殖するという使用価値を持っていると考えることから生じます。しかし利子率の高を規定する根拠はどこにもありません。それはただ貨幣市場における貨幣資本(moneyed Capital)の需給によって決まってくるものだからです。
 利潤率も利子率も、これらはブルジョア社会の表面で現われているものをそのまま見たもので、資本家たちにも直接捉えられるものです。というより資本家たちは利潤率を基準にして互いに競争しあってより多くの利潤を得ようと生産を行うのです。また利子率は資本家にとっては固定費であり、前貸資本そのものに含まれたものとして現われるのです。しかしこれらはすべて第3部で論じられます。

  (ロ)(ハ) 第3部を読めば、剰余価値の諸法則を知れば利潤率も容易に理解されるということがわかるでしょう。逆の行き方ではどちらも理解されないのです。

  剰余価値の法則が分かって、そこから利潤率も分かります。これは第3部の冒頭でマルクスが明らかにしていることです。しかしブルジョア達は利潤率しか目に入らずその内的関係である剰余価値率を見ることができませんでした。だから利潤率だけを見ているだけでは、それを深いところで規定している関係である剰余価値の法則は見えないし、だからまた利潤率そのものも理解できないことになるのです。
  例えば一般的な利潤率が傾向的に低下することはブルジョア達も分かっていて、彼らは深刻な危惧を抱いていたのですが、その原因は分かりませんでした。マルクスは不変資本と可変資本の概念を解明して、利潤を規定する剰余価値が可変資本の増殖によって生じる関係を明らかにすることによって、剰余価値の、よって利潤の源泉である可変資本(労働力)が、資本主義的生産が高度化すればするほど、ますます投下される巨額の不変資本(機械や工場や道具や原料など)に比べて小さくなること、つまり利潤(剰余価値)の源泉そのものが総資本全体に比べて減少するからこそ、総資本に対する利潤(剰余価値)の割合、つまり記号で表すとm/(c+v)がcが巨額になればなるほどその割合が小さくなるということによって、一般的な利潤率も傾向的に低下することになるのだと明らかにしたのです。
 これは資本主義的生産様式の根本的な矛盾です。なぜなら、資本主義的生産は利潤を唯一の目的とも推進動機ともするものですが、しかし資本家たちはより多くの利潤を求めて切磋琢磨すればするほど、総資本のうち不変資本部分を拡大して、他方で合理化や省力化などと称して可変資本部分を削ろうとするからです。つまり利潤の拡大を求めながら、利潤の唯一の源泉である可変資本を少なくしようとするのです。これはまさに資本主義的生産の本質的な矛盾以外の何ものでもありません。

  ((3)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(3)

2023-01-10 00:37:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (3)


◎第10パラグラフ(必要労働時間と必要労働)

【10】〈(イ)すでに見たように、労働者は労働過程の一部分ではただ自分の労働力の価値、すなわち自分の必要生活手段の価値を生産するだけである。(ロ)彼は社会的分業にもとづく状態のもとで生産するのだから、自分の生活手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸という形で自分の生活手段の価値に等しい価値、または彼が生活手段を買うための貨幣に等しい価値を生産するのである。(ハ)彼の労働日のうちで彼がこのために費やす部分は、彼の平均1日の生活手段の価値に応じて、すなわちこの生活手段の生産のために必要な1日平均の労働時間に応じて、比較的大きいこともあれば小さいこともある。(ニ)彼の1日の生活手段の価値が、平均して、対象化された6労働時間を表わすとすれば、労働者はこの価値を生産するために平均して毎日6時間労働しなければならない。(ホ)かりに彼が資本家のためにではなく自分自身のために独立に労働するとしても、その他の事情が変わらないかぎり、自分の労働力の価値を生産してそれによって自分自身の維持または不断の再生産に必要な生活手段を得るためには、やはり彼は平均して1日のうちの同じ可除部分だけ労働しなければならないであろう。(ヘ)しかし、1労働日のうち彼が労働力の日価値たとえば3シリングを生産する部分では、彼はただ資本家によってすでに支払われた(28a)労働力の価値の等価を生産するだけだから、つまり新たに創造された価値でただ前貸可変資本価値を補塡するだけだから、この価値生産は単なる再生産として現われるのである。(ト)だから、1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分を私は必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶのである(29)。(チ)労働者のために必要、というのは、彼の労働の社会的形態にかかわりなく必要だからである。(リ)資本とその世界とのために必要、というのは、労働者の不断の存在はこの世界の基礎だからである。〉

  (イ) すでに見ましたように、労働者は労働過程の一部分ではただ自分の労働力の価値、すなわち自分の必要生活手段の価値を生産するだけです。

  〈労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである〉〈労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。……労働力の生産は彼自身の再生産または維持である。自分を維持するためには、この生きている個人はいくらかの量の生活手段を必要とする。だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。〉 (以上第4章第3節から)

  労働者は生産過程では生きた労働を対象化させて新たな価値を形成しますが、そのなかには、必ず彼の労働力の価値部分、つまり彼自身を維持するために必要な生活手段を生産するに必要な労働時間部分が含まれていることは明らかです。

  (ロ) 彼は社会的分業にもとづく状態のもとで生産するのですから、自分の生活手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品、たとえば糸という形で自分の生活手段の価値に等しい価値、または彼が生活手段を買うための貨幣に等しい価値を生産するのです。

  もちろん、彼が自分の労働力の価値に等しい価値を生み出すといっても、彼は彼に必要な生活手段を直接生産するわけではありません。彼は社会的な分業のもとに生産するわけですから、彼が生産するのはある特殊な使用価値であって、例えば糸等であって、ただ価値の量としては、彼が彼の労働力を維持するに必要な生活手段の価値とあるいはそれらを購入するに必要な貨幣額と同じだというに過ぎません。彼はただ糸を生産するだけですが、しかしその価値は、彼が必要とする生活手段の価値と等量であり、なければならないのです。

  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈賃金に支出される資本部分は、(剰余労働を度外視すれば)新たな生産によって補塡される。労働者は賃金を消費してしまうが、しかし彼は、彼が旧労働量を消滅させてしまったのと同じだけの新労働量をつけ加える。そして、われわれが分業によって迷わされることなく全労働者階級を考察するならば、労働者は同じ価値を再生産するだけではなく同じ使用価値を再生産するのであり、したがって、彼の労働の生産性に応じて、同じ価値、同じ労働量が、この同じ使用価値のより多くの量または少ない量をもって再生産されるのである。〉 (草稿集⑤112頁)

  (ハ)(ニ) 彼の労働日のうちで彼がこのために費やす部分は、彼が平均1日に必要とする生活手段の価値の大きさに応じて、すなわちこの生活手段の生産のために必要な1日平均の労働時間に応じて、比較的大きいこともあれば小さいこともあります。彼の1日の生活手段の価値が、平均して、対象化された6労働時間を表わすとしますと、労働者はこの価値を生産するために平均して毎日6時間労働しなければならないわけです。

  彼が労働日のうちで、この自分の労働力の価値と等しいものを生み出すために費やす部分は、彼が平均して一日に必要とする生活手段の価値の大きさに応じて、あるいはその生活手段を生産するために必要な労働時間の大小に応じて、大きいこともあれば小さいこともあります。彼の一日の生活手段の価値が、平均して対象化された6労働時間を表すとしますと、労働者はその価値を生産するためには平均して毎日6時間労働しなければならないでしょう。

  (ホ) もしかりに彼が資本家のためにではなく自分自身のために独立して労働する場合でも、その他の事情が変わらないならば、自分の労働力の価値を生産してそれによって自分自身の維持または不断の再生産に必要な生活手段を得るためには、やはり彼は平均して1日のうちの同じ可除部分だけ、つまり6時間労働しなければならないでしょう。

  例えもし彼が資本家にためにではなくて、自分自身のためだけに労働する場合であっても、その他の事情が変わらないならば、彼は自分の労働力の価値を生産してそれによって自分自身を維持するために必要な生活手段を得るために、やはり平均して一日のうち同じだけの、すなわち6時間の労働を必要とするでしょう。つまりこれは社会形態には関わらない自然必然的なものといえます。
  『61-63草稿』では次のように述べています。

  〈対象化された労働が生きた労働と交換される割合--つまり労働能力の価値と資本家によるこの労働能力の利用〔Verwertung〕との差--は、生産過程そのもののなかではそれとは別の形態をとる。すなわちここではそれは、生きた労働そのものの、どちらも時間によって測られるニつの分量への分裂として、またこのごつの分量の割合として、表わされるのである。つまり、第一には、労働者は自分の労働能力の価値を補塡する。かりに、彼の日々の生活手段の価値が1O労働時間に等しいとする。彼がこの価値を再/生産するのは、10時間労働することによってである。労働時間のうちのこの部分を、われわれは必要労働時間と呼ぶことにしよう。というのは次のようなわけである。かりに、労働材料および労働手段が--対象的な労働諸条件が--労働者自身の所有物であるとしよう。この場合、前提によって、彼が1O労働時間分の生活手段を日ごとに取得できるためには、自分自身の労働能力を再生産できるため、生存し続けることができるためには、彼は日々10時間労働しなければならず、労働時間10時間の価値を日々再生産しなければならない。彼の10時間の労働の生産物は、加工された原料と消耗された労働用具〔Arbeitswerkzeug〕とに含まれている労働時間、プラス、彼が原料に新たに付加した10時間の労働、に等しいであろう。彼が自分の生産を続けようとするならば、すなわち自分のために生産諸条件を維持しようとするならば、彼が消費できるのは、この生産物のうちのあとのほうの部分だけであろう。というのは、原料および労働手段をたえず補塡しうるためには、すなわち、10時間の労働の実現(充用)に必要なだけの原料および労働手段が日々新たに自由に使えるためには、彼は日々、原料と労働手段との価値を自分の生産物の価値から控除しなければならないからである。労働者の平均して日々必要とする生活手段の価値が1O労働時間に等しい場合には、自分の日々の消費を更新すること、また労働者として必要な生活諸条件を手に入れることができるためには、彼は日々、平均して10労働時間、労働しなければならない。彼自身が労働諸条件--労働材料および労働手段--の所有者であるかないか、彼の労働が資本のもとに包摂されているか包摂されていないか、ということをまったく度外視しても、この労働は彼自身にとって、彼自身の自己維持のために、必要であろう。労働者階級自身の維持のために必要な労働時間として、われわれは労働時間のうちのこの部分を、必要労働時間と呼ぶことができるのである。〉 (草稿集④269-270頁、/は頁が変わる所)

  (ヘ)(ト) しかし、1労働日のうち彼が労働力の日価値たとえば3シリングを生産する部分では、彼はた資本家によってすでに支払われた労働力の価値の等価を生産するだけです。つまり新たに創造された価値でただ前貸可変資本価値を補塡するだけです。だからこの価値の生産は単なる再生産として現われるのです。そういうことから、私は1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分を必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶのです。

  この部分はフランス語版では若干書き換えられていますので、紹介しておきましょう。

  〈だが、1日のうちで、彼の労働力の日価値すなわち3シリングを生産する部分では、資本家によってすでに支払われた価値の等価しか生産せず、したがって、ある価値を他の価値で償うにすぎないのであるから、この価値生産は実際上、単なる再生産でしかない。したがって、私は、1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ、この時間中に支出される労働を必要労働と名づける(4)。〉 (江夏・上杉訳209頁)

  この価値部分、つまり労働者が自分自身の労働力の価値に等しい価値を生み出した部分は、結局は、資本家が彼の労働力を購買するために支払った価値部分(可変資本価値)をただ補塡するだけに過ぎません。それは過去の労働が対象化されたものを、新しい生きた労働を対象化することによって補塡するわけです。だから〈ある価値を他の価値で償うにすぎないのであるから〉(フランス語版)、この価値部分は、実際上、単なる再生産部分として現われるのです。(ということは第2部第3篇の「再生産表式」というのは、可変資本部分について言いうるが、不変資本や剰余価値については「再生産」とはいえないということになるがどうでしょうか?)。
  そういうことから、この1労働日のうちのこの再生産がおこなわれる部分を必要労働時間と呼び、この期間中に支出される労働を必要労働と呼ぶのです。だから必要労働時間や必要労働は資本主義に固有のものではなく、あらゆる歴史に通じるものといえます。

  (チ)(リ) 必要労働時間や必要労働というのは労働者のために必要という意味ですが、だからそれは彼の労働の社会的形態にはかかわりなく必要なものなのです。もしそれを資本とその世界とのために必要だとするなら、それは、労働者の存在こそ、この世界の基礎だからです。

  必要労働時間や必要労働の「必要」というのは、当然、労働者にとって必要なものという意味ですが、それは彼の労働がどのような社会形態のもとでなされようと「必要」なものだからそう呼ぶのです。もしそれがこの資本とその世界のために「必要」だというなら、それは労働者の労働こそが、この社会を支えている基礎だということを意味するでしょう。

  同じように『61-63草稿』の上記の引用に続く部分から。

  〈同時にまた、さらに別の観点から。
  労働能力そのものの価値を再生産する--これはすなわち、労働者を消費することを日々反復できるのに必要である、労働者を日々生産することを意味する--ために必要な労働時間、言い換えれば、労働者が、彼自身労賃の形態で日々受け取り日々費消する価値を生産物に付加するのに用いる労働時間は、全資本関係が労働者階級の不断の定在を、この階級の継続的な再生産を前提し、また資本主義的生産が労働者階級の不断の現存、維持、再生産を自己の必然的前提とするかぎりは、資本家の立場からしでも、必要労働時間である。
  さらに。かりに、生産に前貸しされた資本のもつ価値が、ただ単に維持され再生産されるだけだとしよう、すなわち資本家は生産過程で新たな価値を入手しないとしよう。この場合、生産物の価値が前貸しされた資本のもつ価値に等しくなるのは、ただ、労働者が原料に、彼が労賃の形態で受け取るのと同じだけの労働時間を付加した場合、すなわち彼が自分自身の労賃の価値を再生産した場合だけだ、ということは明らかである。労働者が自分自身の日々の生活手段の価値を再生産することのために必要である労働時間は、同時に、資本が自己の価値を単に維持、再生産することのために必要である労働時間である。
  われわれは、10時間という労働時間が労賃に含まれている労働時間に等しいと仮定してきた。つまり、労働者が資本家に、労賃の価値と引き換えにその等価を返付するにすぎない労働時間は、同時に必要労働時間であり、労働者階級自身の維持のためにも、また前貸しされた資本の単な/る維持、再生産のためにも、そして最後に資本関係一般の可能性のためにも必要な労働時間である。〉 (草稿集④271-272頁)


◎原注28a

【原注28a】〈28a  {第3版への注。(イ)著者はここでは世間普通の経済用語を使っている。(ロ)われわれの記憶にあるように、137ページ〔本巻188(原)ページを見よ〕には、現実には資本家が労働者にではなく労働者が資本家に「前貸しする」のだということが指摘されている。--F・エンゲルス}〉

  (イ)(ロ) 著者はここでは世間普通の経済用語を使っています。私たちの記憶にありますように、137ページ〔本巻188(原)ページを見よ〕には、現実には資本家が労働者にではなく労働者が資本家に「前貸しする」のだということが指摘されています。

  これは〈しかし、1労働日のうち彼が労働力の日価値たとえぽ3シリングを生産する部分では、彼はた資本家によってすでに支払われた(28a)労働力の価値の等価を生産するだけだから〉という本文にエンゲルスによって付けられた注です。
  つまり〈資本家によってすでに支払われた〉という部分について、以前の説明とは若干齟齬が生じるとエンゲルスが考えたので、こうした注をつけたと思われます。エンゲルスが指摘している部分を紹介しておきましょう。

  〈労働力の価格は、家賃と同じように、あとからはじめて実現されるとはいえ、契約で確定されている。労働力は、あとからはじめて代価を支払われるとはいえ、すでに売られているのである。だが、関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提するのが、有用である。〉 (全集第23a巻228頁)

  これによればマルクス自身は〈関係を純粋に理解するためには、しばらくは、労働力の所持者はそれを売ればそのつどすぐに約束の価格を受け取るものと前提する〉と述べており、だから今回もそのように論じたことが分かります。


◎原注29

【原注29】〈29 (イ)本書ではこれまで「必要労働時間」という語を、一商品の生産に一般に社会的に必要な労働時間という意味に使ってきた。(ロ)これからは、労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間という意味でもこの語を使うことになる。(ハ)同じ術語を違った意味で使用することは不都合ではあるが、どんな科学の場合にも完全には避けられないことである。(ニ)たとえば、数学の高等部門と初等部門とを比較せよ。〉

  (イ) 本書ではこれまで「必要労働時間」という語を、一商品の生産に一般に社会的に必要な労働時間という意味に使ってきました。

  これは〈だから、1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分を私は必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を必要労働と呼ぶのである(29)〉という本文につけられた原注です。
  最初に必要労働時間という用語が出てきたのは、第1章第1節の価値の大きさを規定するものとして「社会的に必要な労働時間」という形で出てきました(全集第23a巻51頁)。あとは「社会的必要労働時間」という形でも出てきました(全集第23a巻142頁)。「必要労働時間」そのものが出てくるのは第6章になってです(全集第23a巻263頁)。

  (ロ) これからは、労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間という意味でもこの語を使うことになります。

  これからは必要労働時間は、労働力という独自の商品の生産に必要な労働時間という意味で用いられるということです。
  このように「必要労働時間」は異なる意味を持たされていると言っても、最初のものは商品の価値の大きさを規定するものであり、今回のものは労働力という独自の商品の生産に必要な労働時間ということですが、それは結局は、労働者の生活手段を生産するに必要な労働時間に帰着するわけですから、同じ商品の価値の大きさを規定するものという意味では同じものと考えられなくもありません。ただ第12パラグラフで明らかになりますが、剰余労働に対応する必要労働というのは生きた、流動状態ある労働のことです。それに対して価値の大きさを規定する必要労働時間というのはすでに対象化された過去の死んだ労働だという違いはあります。
 さらに第3部では、ある商品種類が社会的欲望に応じて生産されるために、社会の総労働から必要な部分が支出されるという意味でも「社会的必要労働時間」という用語が使われています。しかしこれも冒頭の商品の価値の量を規定する「社会的に必要な労働時間」と何か違ったものではなく、同じ物をただ違った観点からみているだけとも言えなくもないものです。

  (ハ)(ニ) 同じ術語を違った意味で使用することは不都合ではありますが、どんな科学の場合にも完全には避けられないことです。たとえば、数学の高等部門と初等部門とを比較すればそれが分かります。

  同じ用語を違った意味で使用するのは、科学では避けられないということです。それは高等数学と初等数学を比較すれば分かるというのですが、どうでしょうか。浅学の私には、よく分からないのですが、例えば「実数」というのは初等数学では「数直線上に表される数のこと」という説明がありますが、一方、ウィキベデアには「数学における実数とは、連続な量を表すために有理数を拡張した数の体系である」などという説明があります。またイギリス版の訳者は〈訳者が思いつくのは、足し算である。高等数学では引き算も負数の足し算として現われる〉と述べていますが、果たしてどうでしょうか。


◎第11パラグラフ(剰余労働時間と剰余労働)

【11】〈(イ)労働過程の第二の期間、すなわち労働者が必要労働の限界を越えて労苦する期間は、彼にとっては労働を、すなわち労働力の支出を必要とするには違いないが、しかし彼のためにはなんの価値も形成しない。(ロ)それは、無からの創造の全魅力をもって資本家にほほえみかける剰余価値を形成する。(ハ)労働日のこの部分を私は剰余労働時間と呼び、また、この時間に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と呼ぶ。(ニ)価値一般の認識のためには、価値を単なる労働時間の凝固として、単に対象化された労働として把握することが決定的であるように、剰余価値の認識のためには、それを単なる剰余労働時間の凝固として、単に対象化された剰余労働として把握することが決定的である。(ホ)ただ、この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである(30)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 労働過程の第二の期間、つまり労働者が自分の必要労働の限界を越えて労苦する期間というのは、彼にとっては労働を、すなわち労働力の支出を必要とするには違いありませんが、しかし彼のためにはなんの価値も形成しません。それは、資本家にとっては、無からの創造をもたらすものである剰余価値を形成するのです。労働日のこの部分を私は労働者にとってはその必要の限界を超えた剰余の部分として、剰余労働時間と呼び、また、この時間に支出される労働を剰余労働(surplus labour)と呼びます。

  一労働日のうち労働者が彼の必要労働時間を越えて労働する期間は、労働者にとってはやはり労苦を強いられるものですが、しかし彼のためには何の価値も形成しません。それは資本家にとって、まったくの無償によって、だから無から生み出すものであるかのように手に入れる、剰余価値を形成するのです。
  労働日のこの部分をだから労働者の必要を越える剰余の部分という意味で、剰余労働時間と呼ぶのです。そしてその時間に支出される労働を剰余労働と呼ぶことにします。
  やはり『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈したがって、前提によれば、労働者の労働する最初の10時間が必要労働時間であり、そしてこの時間は、同時に、彼が労賃の形態で受け取った、対象化された労働時間にたいする等価でしかないのである。労働者がこの10時間を越えて、この必要労働時間を越えて労働する、すべての労働時間を、われわれは剰余労働と呼ぶことにしよう。彼が11時間労働するときには、彼は1時間の剰余労働を提供したのであり、12時間労働するときには、2時間の剰余労働を提供したのである、等々。生産物が前貸しされた資本の価値を越えてもつのは、第一の場合には1時間の剰余価値であり、第二の場合には2時間の剰余価値である、等々。〉 (草稿集④272頁)

  (ニ) 価値一般の認識のためには、価値を単なる労働時間の凝固として、単に対象化された労働として把握することが決定的でありますように、剰余価値の認識のためには、それを単なる剰余労働時間の凝固として、単に対象化された剰余労働として把握することが決定的なのです。

  価値というのは単なる労働時間の凝固したものとして把握することは決定的に必要ですが、同じように剰余価値の認識のためは、剰余労働が対象化されて凝固したものとして把握することが決定的に必要なのです。
  同じく上記の引用に続く部分から。

  〈しかしどんな事情のもとでも、生産物がもつ剰余価値は、剰余労働の対象化にすぎない。そもそも価値とは対象化された労働時間にすぎないのであって、同様に剰余価値とは、対象化された剰余労働時間にすぎないのである。つまり剰余価値とは、労働者が必要労働時間を越えて資本家のために労働する労働時間に帰着するのである。〉 (草稿集④272頁)

  (ホ) この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのです。

  この部分はフランス語版ではややきつい言い方になっています。

  〈社会がまとう経済的形態の差異、たとえば奴隷制と賃労働制とは、この剰余労働が直接的な生産者である労働者に課せられ、この労働者から強奮されるところの様式によってしか、区別されないのである(5)。〉 (江夏・上杉訳210頁)

  〈しか、区別されない〉というのはややきつ過ぎる表現のように思えなくもありません。というのは両者を区別するものはそれ以外にもありそうに思えるからです。

  剰余労働というのは、必要労働がそうであるように、その社会的形態に関わりなくあるものです。ただ剰余労働が、それを支出する直接生産者から取り上げられる形態だけが、ある特定の経済的社会構成体を区別するのです。つまり奴隷制と賃労働とが区別されるのは、奴隷の剰余労働が領主によって取得される形態と労働者が資本家によって彼の剰余労働が搾取される形態との違いによって区別されるということです。前者は人格的な隷属にもとづいた直接的なものですが、後者は商品交換を通じた間接的なものです。

  ここでは『資本論』第3部から紹介しておきましょう。

  〈不払剰余労働が直接生産者から汲み出される独自な経済的形態は、支配・隷属関係を規定するが、この関係は直接に生産そのものから生まれてきて、それ自身また規定的に生産に反作用する。しかしまた、この関係の上には、生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の全姿態が築かれ、また同時にその独自な政治的姿態も築かれる。生産条件の所有者の直接生産者にたいする直接的関係--この関係のそのつどの形態は当然つねに労働の仕方の、したがってまた労働の社会的生産力の、一定の発展段階に対応している--、この関係こそは、つねに、われわれがそのうちに社会的構造全体の、したがってまた主権・従属関係の政治的形態の、要するにそのつどの独自な国家形態の、最奥の秘密、隠れた基礎を見いだすところのものである。このことは、同じ経済的基礎--主要条件から見て同じ基礎--が、無数のさまざまな経験的事情、すなわち自然条件や種族関係や外から作用する歴史的影響などによって、現象上の無限の変異や色合いを示すことがありうるということを妨げるものではなく、これらの変異や色合いはただこの経験的に与えられた事情の分析によってのみ理解されるのである。〉 (全集第25b巻1014-1015)


◎原注30

【原注30】〈30 (イ)まさにゴットシェト的な独創力でヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏が発見するところでは、剰余価値または剰余生産物の形成、そしてそれにともなう蓄積は、今日では資本家の「節約」のおかげであり、そのかわりに資本家は「たとえば利子を要求する」のであるが、これに反して「最低の文化段階では……弱者が強者から節約を強制される」というわけである。(『国民経済学原理』、82ぺージ、78ページ。)(ロ)強制されるのは、労働の節約なのか? (ハ)それとも存在しない過剰生産物の節約なのか? (ニ)ロッシャーやその仲間に、現存の剰余価値の取得についての資本家の多少とももっともらしい弁明根拠を剰余価値の発生根拠だとこじつけることを強要するものは、ほんとうの無知であるが、また、価値と剰余価値との良心的な分析にたいする、またおそらく危険な反警察的な結論にたいする弁護論的な恐怖でもあるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) まさにゴットシェト的な独創力でヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏が発見するところでは、剰余価値または剰余生産物の形成、そしてそれにともなう蓄積は、今日では資本家の「節約」のおかげであり、そのかわりに資本家は「たとえば利子を要求する」のですが、これに反して「最低の文化段階では……弱者が強者から節約を強制される」というわけです。強制されるのは、労働の節約なのか? それとも存在しない過剰生産物の節約なのでしょうか?

  これは〈ただ、この剰余労働が直接生産者から、労働者から取り上げられる形態だけが、いろいろな経済的社会構成体を、たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から、区別するのである(30)〉という本文につけられた原注です。

  ここで〈まさにゴットシェト的な〉という文言が出てきますが、新日本新書版にば訳者の次のような注が付いています。

  〈ゴットシェートはドイツの文学者で新文芸思潮を異常な偏狭さで排撃した。彼の名は高慢と鈍感の同義語になっている。〉 (369頁)

  また〈ヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー氏〉の〈トゥキュディデス〉の部分にも訳者注があり、次のように書かれています。

  〈ヴィルヘルム・ロッシャーがその著『国民経済学原理』初版の序文で「控えめな態度で自分は経済学のトゥキュディデスであると名乗った」(マルクス『剰余価値学説史』、補録、5。邦訳『全集』、第26巻、第3分冊、647ページ)ことにちなむあてこすり〉 (369頁)

  また『61-63草稿』には次のように書かれています。

  〈スミスやリカードウのような人々の現実的な思想でさえも--単に彼ら自身の卑俗な要素だけではなく--ここでは無思想として現われ、卑俗なものに転化させられる。この種の一巨匠は教授ロッシャー氏で、彼は慎み深くも自分は経済学のトゥキュディデスだと名のっている。彼とトゥキュディデスとの同一性は、おそらく、彼がトゥキュディデスについてもっている観念に、すなわち、トゥキュディデスが絶えず原因と結果とを混同していたという観念に、基づくものであろう。〉 (草稿集⑦479-480頁)

  ロッシャーは剰余価値や剰余生産物の形成とそれによる蓄積は、労働者からの搾取ではなく、資本家自身の節約のおかげだと主張しています。資本家はその節約の努力の対価とし利子を要求するというのです。
  それとは反対に、最低の文化段階では弱者が強者から節約を強制されると述べています。しかしこれに対して、マルクスは、この弱者が強制される節約というのは、労働の節約なのか、それとも存在しない剰余生産物の節約なのかと疑問を呈しています。
  恐らくロッシャーは資本家の利潤や蓄積は彼自身の消費を節約して捻出されると考えており、それに対して最低の文化段階では弱者が強者によってその消費の節欲を強制されるとそれに対比しているように思えます。つまりロッシャーはブルジョア達を擁護して彼らの蓄積は彼ら自身の努力(節約)にもとづいているのだというのです。

  (ニ) ロッシャーやその仲間に、現存の剰余価値の取得についての資本家の多少とももっともらしい弁明根拠を剰余価値の発生根拠だとこじつけることを強要するものは、ほんとうの無知ですが、また、価値と剰余価値との良心的な分析にたいする、またおそらくその危険な反警察的な結論にたいする弁護論的な恐怖でもあるのでしょう。

  だからロッシャーやその仲間のブルジョアに媚を売る売文家たちは、剰余価値の取得を資本家自身の節約によるという彼らの弁明根拠を剰余価値の発生根拠にしているのですが、その理由は彼らがまったくの無知であること、価値と剰余価値との分析がもたらす反ブルジョア的な、あるいは反警察的な結論に対する弁護論者が持つ恐怖からであろうということです。

  最後にロッシャーについてはこれまでにも何度か出てきましたが、以前紹介した『資本論辞典』の説明を再掲しておきましょう。

   ロッシャー Wilhelm Georg Friedrich Roscher (1817-1894) ドイツの経済学者. ……彼が究明しようとする歴史的発展法則なるものの概念が,いかに科学的な吟味にたええないものだったかは,彼のいわゆる〈経済発展段階説〉をみるだけでも,たちまち明瞭になる.すなわち,彼は生産の要素を自然,労働,資本の三つとなし. そのうちのどれが優位を占めるかによって,経済発展段階を(1)自然に依存する原始段階. (2)労働を主とする手工業段階. (3)機械の使用が支配的となる大工業段階の三つに区分するのであるが.このような段階区分は,少しも真の意味の歴史的発展,すなわち人間の社会的諸関係の発展をあらわすものではない.それにもかかわらず,彼の大著がたんにドイツ国内でだけではなく,多くの外国語に翻訳されて,海外(ことにアメリカ)でもひろく読まれたのは,それが古典学派にたいして理論的にあらたなものをふくんでいたからではなく,古典学派が研究の対象としたよりもはるかに広大な領域(たとえば学説史,社会政策,植民政策等々)にわたる雑多な知識にもっともらしい学問的粉飾を施していたからにすぎなかった. しかし,その影響がこのようにひろい範囲に及んでいただけに,マルタスは.ロッシャーのやり方を当時の俗学的態度の見本としてやっつける必要を痛感しており. 1862年6月16日づけのラサールあての手紙では,ロッシャーの〈折衷主義〉を口をきわめて罵倒し. その非科学性を暴露することの必要と意図とを述べている。〉 (586-587頁)


◎第12パラグラフ(剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 )

【12】〈(イ)可変資本の価値はそれで買われる労働力の価値に等しいのだから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定しており、他方、剰余価値はまた労働日の超過部分によって規定されているのだから、そこで、可変資本にたいする剰余価値の比率は、必要労働にたいする剰余労働の比率であり、言い換えれば、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 ということになる。(ロ)この二つの比率は、同じ関係を別々の形で、すなわち一方は対象化された労働の形で、他方は流動している労働の形で表わしているのである。〉

  (イ) 可変資本の価値はそれで買われる労働力の価値に等しいのですから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定していて、他方、剰余価値はまた労働日の超過部分によって規定されているのですから、だから、可変資本にたいする剰余価値の比率は、必要労働にたいする剰余労働の比率になります。言い換えますと、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 ということになるわけです。

  可変資本というのは、資本価値のうち労働力の購買に充てられる部分のことですから、それは労働力の価値にイコールです。そして労働力の価値部分というのは、労働者が生産過程で支出する労働のうち必要労働部分をなしています。他方で剰余価値というのは必要労働を越える労働、すなわち剰余労働の対象化され凝固したものですから、それは剰余労働とイコールです。
  だから可変資本に対する剰余価値の割合、すなわち剰余価値率というのは、必要労働に対する剰余労働の割合と同じになるわけです。記号で書きますと、剰余価値率m/v=剰余労働/必要労働 ということなります。

  (ロ) この二つの比率は、同じ関係を別々の形で、すなわち一方は対象化された労働の形で、他方は流動している労働の形で表わしているのです。

 剰余価値率を表す二つの比、すなわち剰余価値/可変資本も剰余労働/必要労働も同じ関係を違った形で表しているに過ぎません。剰余価値も可変資本も対象化された死んだ労働であり、その比であるのに対して、剰余労働も必要労働も現実の生きた流動状態にある労働であり、その比であることが分かります。

  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

 〈すでにみたように、剰余価値の率は、単純に、可変資本の大きさをもとにして計算されなければならない、あるいは同じことだが剰余労働/必要労働の比率として表現されなけれはならない。剰余価値/可変資本という第一の表現では、資本の変分である剰余価値の資本にたいする比率が表現されれている。それは価値比率である。必要労働にたいする剰余労働の比率では、可変資本と剰余価値の両価値とも、それら両者をはかる基本比率に還元されている。というのは、二つの価値の比率はそれらに含まれている労働時間によって規定されており、したがってそれらの価値の比はそれらの労働時間の比に等しいからである。剰余価値/可変資本ならびに剰余労働/必要労働または不払労働*/支払労働は、すべて、同じ比率の本源的、概念的な諸表現である。
  * 私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いらるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。〉 (草稿集⑨339頁)

  ((4)に続きます。)

 

 

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(4)

2023-01-10 00:06:29 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (4)

 

◎第13パラグラフ(剰余価値率は資本家による労働者の搾取度の正確な表現)

【13】〈(イ)それゆえ、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度、または資本家による労働者の搾取度の正確な表現なのである(30a)。〉

  (イ) そういうことから、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度、または資本家による労働者の搾取度の正確な表現なのです。

  フランス語版ではこのパラグラフはその前のパラグラフと一緒になって一つのパラグラフに含まれた形になっています。だから〈それゆえ〉というのはその前のパラグラフを直接受けた形で言われているのです。つまり剰余価値率というのは必要労働に対する剰余労働の割合と同じですから、必要労働を越えて強制される労働の比を表すということで、それは搾取の程度を正確に表現することになるというわけです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  剰余価値は、正確に剰余労働に等しいのであって、その増大は、必要労働の減少によって正確に測られる。絶対的剰余価値の場合には必要労働の減少は相対的である、すなわち、必要労働は、剰余労働が直接に増加されることによって相対的に減少する。必要労働が10時間で、剰余労働が2時間である場合に、いま剰余労働が2時間だけ増加されても、すなわち総労働日が12時間から14時間に延長されても、必要労働は、相変わらず10時間である。しかし必要労働は剰余労働にたいして以前には10:2、すなわち5:1の比率であったものが、いまでは10:4=5:2の比率となっている。言い換えれば、必要労働は、以前は労働日の5/6であったが、いまではもはや5/7にすぎない。つまりこの場合には、必要労働時間は総労働時間が、それゆえまた剰余労働時間が、絶対的に増大したために相対的に減少したのである。〉 (草稿集④559-560頁)


◎原注30a

【原注30a】〈30a 第二版への注。(イ)剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現ではあるが、搾取の絶対量の表現ではない。(ロ)たとえば、必要労働が5時間で剰余労働も5時間ならば、搾取度は100%である。(ハ)この場合には搾取量は5時間で計られている。(ニ)これにたいして、必要労働が6時間で剰余労働が6時間ならば、100%という搾取度には変わりはないが、搾取量は20%増大して、5時間から6時間になる。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 剰余価値率は、労働力の搾取度の正確な表現ではあるが、搾取の絶対量の表現ではありません。というのも、たとえば、必要労働が5時間で剰余労働も5時間ならば、搾取度は100%です。この場合には搾取量は5時間になっています。これにたいして、必要労働が6時間で剰余労働が6時間ならば、やはり100%という搾取度には変わりはありませんが、搾取量そのものは20%増大して、5時間から6時間になります。

  これは〈それゆえ、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度、または資本家による労働者の搾取度の正確な表現なのである(30a)〉という本文に付けられた原注です。

  〈搾取度の正確な表現〉だと言っても搾取の絶対量を正確に表現しているわけではないということです。だから同じ剰余価値率が100%でも、全体の労働時間が長くなると、必要労働もその限りでは長くなりますが、剰余労働はそれと同じ程度で長くなる場合、搾取率は同じだからと言って、労働者の負担が同じとは限らないということです。労働者に対する負担は搾取率よりも搾取の絶対量こそが問題だからです。


◎第14パラグラフ(剰余価値率m/vは、それが 剰余労働/必要労働 に転換されうることによって、労働日の二つの成分の栢互間の比率を正確にわれわれに示している)

【14】〈(イ)われわれの仮定によれば、生産物の価値は410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)であり、前貸資本は500ポンドだった。(ロ)剰余価値は90で前貸資本は500なのだから、普通の計算方法では剰余価値率(利潤率と混同されたそれ)は18%と算出され、この比率数の低さは、ケアリ氏やその他の調和論者を感動させるかもしれない。(ハ)しかし、実は剰余価値率はm/Cまたはm/(c+v)ではなくてm/vであり、つまり、90/500ではなくて、90/90=100%であって、外観上の搾取度の5倍よりも大きいのである。(ニ)いま、この与えられた場合には、われわれは労働日の絶対的な長さも、労働過程の期間(日や週など)も、最後にまた90ポンドという可変資本が一時に動かす労働者数も知らないのであるが、それにもかかわらず、剰余価値率m/vは、それが 剰余労働/必要労働 に転換されうることによって、労働日の二つの成分の相互間の比率を正確にわれわれに示しているのである。(ホ)それは100%である。(ヘ)つまり、労働者は1労働日の半分では自分のために、あとの半分では資本家のために労働したのである。〉

  (イ)(ロ) 私たちの仮定では、生産物の価値C'は410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)で、前貸資本Cは500ポンドでした。剰余価値は90で前貸資本は500なのですから、普通の計算方法、つまりブルジョア達が考える剰余価値率(つまり利潤率と混同されたそれ)は18%になります。この比率数の低さは、ケアリ氏やその他の調和論者を感動させるかもしれません。

  剰余価値率が搾取率、搾取の程度を正確に表すものだとするのでしたら、今の私たちの仮定にもとづいて計算してみますと、生産物の価値C'は410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)=590ポンドになります。それに対して資本が前貸しする資本Cは410ポンド(c)+90ポンド(v)=500ポンドです。資本家は500ポンドを前貸しして、90ポンドの剰余価値を得たのだから、剰余価値率、つまり労働者を搾取して得た利得の率は90/500=18%だと計算するでしょう。つまり資本家による搾取率は20%にも満たないものだ、と。
  この比率の低さは、ケアリ氏やその他の調和論者、交換価値の制度にもとづいて、所有、自由と平等の真の姿を求める主張、要するに資本家と労働者との調和を説く人たちを感動させるかもしれません。

 ケアリについては、『資本論辞典』の説明を紹介しておきましょう。

  ケアリー Henry Charles Careley(1793-1879) アメリカの経済学者.……彼の価値論は. 価値は再生産費によって規定されるとしている.そして人間がその欲するものを所有しうる前に克服さるべき自然の抵抗は,道具や機械の改善によって絶えず減少されるから,労働の困難から生まれる価値はしだいに減少し,蓄積された資本は絶えず価値減少するという理由で,資本と労働との調和を主張した.……この調和論を裏づけるのは,彼の人間観--associationの原理によって個人がつながっているとする人間観--であるが,マルクスは,それを最近の経済学にもちこまれたあさはかな考えだと批判している(Kr237;岩波289;国民273;選集 補3-257;青木289).……そして彼の調和論は,実は資本主義の生産諸関係を捨象したブルジョア祉会のもっとも表面的な,もっとも抽象的な単純流通のみをみて.自由・平等・労働にもとづく王国をバスティアとともに主張した馬鹿げたものだとしている(Kr229:岩波277;国民262-283;選集 補3-247;青木278).〉 (485-486頁)

  (ハ) しかし、実際は剰余価値率はm/Cまたはm/(c+v)ではなくてm/vであり、つまり、90/500ではなくて、90/90=100%であって、外観上の搾取度の5倍よりも大きいのです。

  しかし上記の計算はブルジョア達の目に写るものをそのまま見ているだけでしかなく、実際のその内的関係としてあるのは、実際の搾取度を示す剰余価値率であり、だから利潤率であるm/C、あるいはm/(c+v)ではなくて、m/vですから、実際に数値を当てはめてみると、90/500=18%ではなくて、90/90=100%だということになるのです。これは資本家たちがいうよりも5倍も大きな搾取の程度を示しているのです。 

  (ニ)(ホ)(ヘ) いま、ここで考察している時点では、私たちは労働日の絶対的な長さも、労働過程の期間(日や週など)も、最後にまた90ポンドという可変資本が同時に動かす労働者数も知らないのですが、それにもかかわらず、剰余価値率m/vは、それが 剰余労働/必要労働 に転換されうることによって、労働日の二つの成分の相互間の比率を正確に私たちに示しているのです。それは100%です。つまり、労働者は1労働日の半分では自分のために、あとの半分では資本家のために労働したのです。

  このように計算しているもとでは、私たちは労働日の長さも、労働過程の期間も、また90ポンドという可変資本が同時に働かせる労働者の数も知りません。つまりそれらの数値によっては労働者の搾取の絶対的な度合いはまた違ってくるかもしれません。すでに見たように労働日が長くなればそれだけ搾取の絶対量が増大するからです。
  しかしそうしたことが例え分からないとしても、剰余価値率というのは、必要労働に対する剰余労働の割合であるということを知ることによって、労働日の二つの成分相互間の比率を正確に知りうることになるのです。
  例えば剰余価値率が100%だということは剰余労働が必要労働と等しいということであり、だから労働者は1労働日、それがどれだけ長かろうと短かろうと、その半分は自分のために、残りの半分は資本家にために働くのだという関係が分かるわけです。


◎第15パラグラフ(剰余価値率の計算方法)

【15】〈(イ)要するに、剰余価値率の計算方法は、簡単に言えば、次のようになるのである。(ロ)まず生産物価値全体をとって、そこにただ再現するだけの不変資本価値をゼロに等しいとする。(ハ)残りの価値額は、商品の形成過程で現実に生産された唯一の価値生産物である。(ニ)剰余価値が与えられていれば、われわれはそれをこの価値生産物から引き去って可変資本を見いだすことになる。(ホ)可変資本が与えられていてわれわれが剰余価値を求める場合は、逆である。(ヘ)もし両方とも与えられていれば、可変資本にたいする剰余価値の比率m/vを計算するという最後の運算だけをやればよいのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) だから、剰余価値率の計算方法は、簡単に言いますと、次のようになります。まず生産物価値全体をとって、そこからただ再現するだけの不変資本価値をゼロに等しいとします。すると残りの価値額は、商品の形成過程で現実に生産された唯一の価値生産物となります。

  剰余価値率を求める簡単な計算方法をいいますと、それは次のようになります。
  まず生産物価値全体をみます、これは実際に売上額として資本家たちに分かります。そこからただその価値を再現するだけの前貸しされた不変資本部分(c)を、これは前貸しした資本家にとっては生産手段や原料などの購買に投じた貨幣額としてありますが、それを差し引きます。そうすると残りは生産過程で新たに形成された価値部分、すなわち価値生産物となるわけです。

  (ニ) ここから剰余価値が与えられていますと、私たちはそれをこの価値生産物から引き去って可変資本を見いだすことができます。

  ここからもし剰余価値が与えられていますと(ブルジョア達には利潤として意識されていますが)、その生産物価値から剰余価値を差し引けば可変資本の価値が見いだせます。

  (ホ) あるいは可変資本が与えられていて、剰余価値を求める場合は、その逆を、つまり生産物価値から可変資本の価値を引けばいいのです。

  あるいは可変資本の価値が与えられていますと、それは最初に彼らが労働者に支払った賃金として彼らは記帳しているはずです。その額を価値生産物から差し引けば、剰余価値が得られるのです。

  (ヘ) もし両方とも与えられているのでしたら、可変資本にたいする剰余価値の比率m/vを計算するという最後の運算だけをやればよいのです。

  もちろん、剰余価値(利潤)も可変資本(労働者に支払った賃金総額)も分かっているのでしたら、剰余価値率はその両者の比率m/vを計算すれば(利潤を賃金総額で割れば)よいことです。といってもブルジョア達は剰余価値そのものをそれ自体としてみようとしないし、よってまた剰余価値率も分かろうとはしいないでしょうが。


◎第16パラグラフ(剰余価値率の計算方法を訓練する必要)

【16】〈(イ)方法はこのように簡単ではあるが、その根底にあって読者には不慣れな見方になじむように、いくつかの例で読者を訓練しておくことが適当だと思われる。〉

  (イ) 方法はこのように簡単ですが、その根底にあって読者には不慣れな見方になじむように、いくつかの例で読者を訓練しておくことが適当でしょう。

  やや書き換えてあるフランス語版も紹介しておきましょう。

  〈この方法がどんなに簡単であっても、その適用が読者にはたやすくなるような幾つかの例によって、読者をこの方法に習熟させるのが適切である。〉 (江夏・上杉訳211頁)

  剰余価値率を求める方法は上記のように簡単ですが、しかしこの計算は実際はブルジョア達が見ている資本主義的生産の表層にある諸形象にとらわれている限りは分からないものなのです。だからその実際のやり方を具体例で示すことでその計算のやり方を理解してもらう必要があります。

  『61-63草稿』から引用しておきます。

 〈そこでわれわれは、若干の例を用いて、剰余価値についての、また剰余価値率、剰余価値が増大する割合--剰余価値の大きさを測る尺度--についてのこうした把握を明らかにしよう。これらの例は統計資料から借用したものである。だから労働時間は、ここではどこででも、貨幣で表現されて現われている。さらに、計算に現われるのは、さまざまの名称、つまりたとえば、利潤のほか、利子、租税、地代、等々の名称をもつさまざまの項目である。これらはすべて、さまざまの名称のもとにある、剰余価値のさまざまの部分である。剰余価値がさまざまの階級のあいだにどのように分配されるのか、つまり、産業資本家は剰余価値/のうちからどれだけをさまざまの項目のもとに譲り渡すのか、どれだけを自分のためにとどめるのか、ということは、剰余価値そのものの理解にとってはまったくどうでもよいことである。だが、自分は労働しない、物質的生産過程そのものに労働者として加わらないすべての人々が--どのような項目のもとでであれ--物質的生産物の価値の分け前にあずかることができるのは、ただ、彼らがこの生産物の剰余価値を自分たちのあいだで分配する場合だけだ、ということはまったく明らかである。というのは、原料およぴ機械類の価値は、資本のうちの不変価値部分は、補塡されなければならないからである。必要労働時間も同じである。というのは、労働者階級はそもそも、他人のために労働できるまえに、まず、自分自身を生かしておくために必要な分量の労働時間を労働しなければならないからである。非労働者のあいだに分配されることができるものは、労働者階級の剰余労働に等しい価値Ⅹだけであり、したがってまた、この剰余価値で買われることができる使用価値だけである。〉 (草稿集④277-278頁)


◎第17パラグラフ(剰余価値率の計算方法を習熟するための一例)

【17】〈(イ)そこでまず、1万個のミュール紡錘をそなえ、アメリカ綿から32番手の糸を紡ぎ、毎週1紡錘当たり1ポンドの糸を生産するという一紡績工場の例をとろう。(ロ)屑(クズ)は6%とする。(ハ)すると、毎週10,600ポンドの綿花が加工されて、10,OOOポンドの糸と600ポンドの屑とになる。(ニ)1871年4月にはこの綿花は1ポンド当たり7[3/4]ペンスで、10,600ポンドでは約342ポンド・スターリングになる。(ホ)1万個の紡錘は、前紡機と蒸気機関とを含めて、1紡錘当たり1ポンド・スターリング、したがって10,000ポンド・スターリングである。(ヘ)その損耗は、10%=1000ポンド・スターリング、1週間では20ポンド・スターリングである。(ト)工場建物の賃借料は、300ポンド・スターリング、週当たり6ポンド・スターリングである。(チ)石炭は(1時間1馬力当たり4ポンド、100馬力(指示器)で毎週60時間とし、建物の採暖用を含めて) 週当たり11トン、1トン当たり8シリング6ペンスで、週当たり約4[1/2]ポンド・スターリングとなる。(リ)ガスは週当たり1ポンド・スターリング、油は週当たり4[1/2]ポンド・スターリング、したがって補助材料の合計は週当たり10ポンド・スターリングとなる。(ヌ)こうして、不変価値部分は週当たり378ポンド・スターリングである。(ル)労賃は、週当たり52ポンド・スターリングである。(ヲ)糸の価格は1ポンドにつき12[1/4]ペンス、10,000ポンドでは510ポンド・スターリングであり、したがって剰余価値は510-430=80ポンド・スターリングである。(ワ)われわれは不変価値部分378ポンド・スターリングをゼロに等しいとする。(カ)というのは、それは毎週の価値形成には参加しないからである。(ヨ)そこで、毎週の価値生産物 132=52(v)+80(m)ポンド・スターリングが残る。(タ)したがって、剰余価値率は80/52であり、153%になる。(レ)10時問の平均労働日では、必要労働は3[31/33]時間で剰余労働は6[2/33]時間である。〉

  (イ)(ロ)(ハ) そこでまず、1万個のミュール紡錘をそなえ、アメリカ綿から32番手の糸を紡ぎ、毎週1紡錘当たり1ポンドの糸を生産するという一紡績工場の例をとりましょう。屑(クズ)は6%とします。すると、毎週10,600ポンドの綿花が加工されて、10,OOOポンドの糸と600ポンドの屑とになることになります。

  具体的な例と数値で説明するために、ここでは紡績業の例が挙げられています。1万個のミュール紡錘をそなえて、アメリカから輸入した綿花から32番手(これは糸の太さを表し、1番手が一番太く、数が大きくなるに従い細くなり、100番手まである)という糸を紡んで、毎週1紡錘当たり1重量ポンドの糸を生産します。その過程で出る屑綿は6%だとしますと、毎週10,600重量ポンドの綿花が加工されて、10,00重量ポンドの糸と600重量ポンドの屑が出てくることになります。

  (ニ)(ホ)(ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル) 1871年4月にはこの綿花は1ポンド当たり7[3/4]ペンスで、10,600ポンドでは約342ポンド・スターリングになりました。1万個の紡錘は、前紡機と蒸気機関とを含めて、1紡錘当たり1ポンド・スターリング、したがって10,000ポンド・スターリングです。そしてその損耗は、年間10%=1000ポンド・スターリングで、1週間では20ポンド・スターリングです。工場建物の賃借料は、300ポンド・スターリング、週当たり6ポンド・スターリングです。石炭は(1時間1馬力当たり4ポンド、100馬力(指示器)で毎週60時間とし、建物の採暖用を含めて) 週当たり11トン、1トン当たり8シリング6ペンスで、週当たり約4[1/2]ポンド・スターリングとなります。ガスは週当たり1ポンド・スターリング、油は週当たり4[1/2]ポンド・スターリング、したがって補助材料の合計は週当たり10ポンド・スターリングとなります。こうして、不変価値部分は週当たり378ポンド・スターリングとなります。労賃は、週当たり52ポンド・スターリングです。

  さて生産物量が10,000重量ポンドと600重量ポンドの屑とになりましたが、この屑は紡績過程で不可避なものであるからその価値部分も生産物価値になります。1871年4月には、綿花は1重量ポンド当たり7[3/4]ペンスで、だから10,600重量ポンドでは約342ポンド・スターリングです。1万個の紡錘は、前紡機(綿状の繊維を解きほぐし、短い繊維や夾雑物を取り除き、繊維の平行度、均整物を向上させて粗糸にする機械)と蒸気機関とを含めて、1紡錘当たり1ポンド・スターリングです。だから10,000ポンド・スターリングになります。そしてその損耗量は、年間10%、すなほち1000ポンド・スターリングで、1週間当たりでは20ポンド・スターリングです。工場建物の賃貸料は、年間300ポンド・スターリング、週当たり6ポンド・スターリングです。石炭は1時間1馬力当たり4重量ポンド、100馬力では毎週60時間として(建物の暖房用も含めて)、週当たり11トンで、1トン当たり8シリング6ペンスで、週当たり約4[1/2]ポンド・スターリングになります。だから補助材料の合計は週あたり10ポンド・スターリングです。
  こうして不変資本の価値は週あたり378ポンド・スターリングということが分かります。
労賃は、週あたり52ポンド・スターリングです。

  (ヲ) 糸の価格は1重量ポンドにつき12[1/4]ペンス、10,000ポンドでは510ポンド・スターリングであり、したがって剰余価値は510-430=80ポンド・スターリングとなります。

  生産物である糸の価格は、1重量ポンドにつき12[1/4]ペンスです。だから10,000重量ポンドでは510ポンド・スターリングになります。これが生産物価値です。
  だから剰余価値は生産物価値510ポンド・スターリングから前貸資本(不変資本378ポンド・スターリング+可変資本52ポンド・スターリング=430ポンド・スターリング)を引くと80ポンド・スターリングとなります。

  (ワ)(カ)(ヨ) 先に確認しましたように、私たちは不変価値部分378ポンド・スターリングをゼロに等しいとします。というのは、それは毎週の価値形成には参加しないからです。すると、毎週の価値生産物 は、510-378=132となります。これは52(v)+80(m)ポンド・スターリングが残る。

  15パラグラフで剰余価値率の簡単な計算方法を確認しましたように、〈まず生産物価値全体をとって、そこにただ再現するだけの不変資本価値をゼロに等しいと〉します。ということは週あたりの生産物価値510ポンド・スターリングから不変資本378ポンド・スターリングを引くと、残りは132ポンド・スターリングになります。これが価値生産物です。そしてこれは可変資本(v)+剰余価値(m)からなっています。今、可変資本は週当たり52ポンド・スターリングですから、剰余価値は80ポンド・スターリングになります。

  (タ)(レ) したがって、剰余価値率は80/52であり、153%になります。10時問の平均労働日では、必要労働は3[31/33]時間で剰余労働は6[2/33]時間です。

  こうして剰余価値率は剰余価値/可変資本、すなわち80/52から求められ、約153%です。
平均労働が10時間としますと、1労働日のうち必要労働は52/132×10=3[31/33]です。また剰余労働は80/132×10=6[2/33]となります。
  つまり労働者は自分自身のための労働時間のほぼ倍の労働時間を資本家にために貢いでいることになるわけです。あるいは、1日当たりの労働時間のほぼ3分の2を資本家によって搾取されていることになるわけです。


◎原注31

【原注31】〈31 第二版への注。(イ)初版にあげた1860年の一紡績工場の例は、事実についてのいくつかのまちがいを含んでいた。(ロ)ここの本文にあげたまったく正確な材料は、マンチェスターの一工場主によって私に提供されたものである。--(ハ)なお注意するべきことは、イギリスでは旧馬力はシリンダーの直径によって計算されたが、新馬力は指示器が示す実馬力によって計算されるということである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) 初版にあげた1860年の一紡績工場の例は、事実についてのいくつかのまちがいを含んでいました。ここの本文にあげたまったく正確な材料は、マンチェスターの一工場主によって私に提供されたものです。なお注意すべきことは、イギリスでは旧馬力はシリンダーの直径によって計算されていましたが、新馬力は指示器が示す実馬力によって計算されるということです。

  初版であげていた例には事実について間違いがあったということです。初版のこのパラグラフを一応見ておきましょう。

 〈まず、紡績業の例をあげよう。次のデータは186O年のものである。われわれの目的にとってどうでもよい諸事情は表面に出ていない。ある工場が、毎週、屑1500ポンドを含む1万1500ポンドの綿花を消費する。したがって、1ポンドの綿花が7ペンスとして、原料は336ポンド・スターリングになる。この工場は、紡錘1本当たり1万ポンド・スターリングに等しい1万本の紡錘を運転させる。この1万ポンド・スターリングのうち毎年の損耗は12[1/2]%の1250ポンド・スターリング、したがって各週24ポンド・スターリングである。蒸気機関の毎週の損耗は20ポンド・スターリング、補助材料である石炭や油等々にたいする毎週の支出は40ポンド・スターリングである。毎週の労賃は70ポンド・スターリングであり、1ポンドの糸の販売価格は1[1/10]シリング、したがって、毎週1万ポンドの糸の販売価格は550ポンド・スターリングである。したがって、資本の不変価値部分は420ポンド・スターリングである。この部分は毎週の価値形成にはかかわることがないので、この部分はゼロに等しいとする。だから、あとに残る現実の毎週の価値生産物は、130ポンド・スターリングに等しい。これから、労働者に支払われる70ポンド・スターリングの可変資本を差し引けば、60ポンド・スターリングの剰余価値が残る。剰余価値率m/v、60/70、つまり、およそ86%である。このパーセンテージは、労働力の搾取度あるいは可変資本の価値増殖度を表わしている。この工場では、毎日平均して10時間仕事が行なわれると仮定すると、必要労働はおよそ5[5/13]時間、剰余労働はおよそ4[8/13]時間である。〉 (江夏訳233-234頁)

  このように別に初版の例でも剰余価値率の計算としては十分なものですが、どうやら〈事実についてのいくつかのまちがいを含んでいた〉のだそうです。確かに第2版の場合は、剰余価値率は153%であるのに対して初版の場合は約86%です。つまり初版の方が搾取率が少なくなっています。しかし事実はそうではなくて、もっと搾取率は高かったのですから、マルクスとしては訂正して正しい事実を示す必要があったのでしょう。
  馬力の計算方法は、まあ確認すればよいことです。


◎第18パラグラフ(剰余価値率の計算方法を習熟するためのもう一つの例)

【18】〈(イ)ジェーコブは、1815年について、1クォーター当たり80シリングの小麦価格、1エーカー当たり22プッシェルの平均収穫、したがって1エーカーは11ポンド・スターリングをあげるものと仮定して、次のような計算を与えている。(ロ)それは、種々の項目が前もって補整されているためにきわめて不完全ではあるがわれわれの目的には十分にまにあう計算である。

  1エーカー当たりの価値生産

種子(小麦) 1ポンド9シリング      十分の一税、地方税、国税  1ポンド1シリング
肥料    2ポンド10シリング 地代            1ポンド8シリング
労賃    3ポンド10シリング 借地農業者利潤および利子  1ポンド2シリング
-------------- ---------------------- 
  計             7ポンド9シリング            計                                 3ポンド11シリング〉


  (イ)(ロ) ジェーコブは、1815年について、1クォーター当たり80シリングの小麦価格、1エーカー当たり22プッシェルの平均収穫、したがって1エーカーは11ポンド・スターリングをあげるものと仮定して、次のような計算を与えています。それは、種々の項目が前もって補整されているためにきわめて不完全ですが私たちの目的には十分にまにあう計算です。

  まずフランス語版を紹介しておきましょう(ただし表は省略)。

 〈データがたくさんないので非常に不備であることは確かだが、われわれの目的にとっては充分な計算がもう一つある。穀物法(1815年)にかんするジェーコブの著書から、事実を引用しよう。小麦の価格が1クォーター(8ブッシェル) 当り80シリングであって、1アルパン〔フランスの面積単位、約1エーカー〕の平均収量が22ブッシェルであるから、1アルパンは11ポンド・スターリングをもたらす。〉 (江夏・上杉訳212-213頁)

  フランス語版をみても分かりますが、これも剰余価値率を計算する方法に慣れさせるためのもう一つの例と考えられます。またこれは付属の表と一体となったもので、表にある数値をもとに書かれています。

  全集版には次のような注解64が付けられています(なお新書版では訳者による補足として本文のなかに〔  〕で括られて入っています)。

  〈(64) ウィリアム・ジェーコブ『サミュエル・ウィットブレッド氏への手紙。イギリス農業が必要とする保護に関する考察の続篇』、ロンドン、1815年、33ページ。〉 (全集第23a巻注解13頁)

  この表にもとづいて剰余価値率を計算してみましょう。
  まず生産物の価値は11ポンド20シリングです(7ポンド9シリング+3ポンド11シリング)。
そこから不変資本の価値部分3ポンド19シリングをゼロとします。そうすると価値生産物は11ポンド20シリングから3ポンド19シリングを引きますと9ポンド21シリングです。これがv+mですから、剰余価値は9ポンド21シリングから3ポンド10シリングを引いて3ポンド11シリングになります。だから剰余価値率は3ポンド11シリング/3ポンド10シリングですから、100%以上となります。つまり農業労働者は1労働日の半分より少し少ないものを自分のために働き、残りの半分より多いものを借地農業者のために(そしてそれに寄生するさまざまな階級のために)働いているということになります。


◎第19パラグラフ(上記の表の説明)

【19】〈(イ)生産物の価格はその価値に等しいという前提はつねに変わらないとすれば、剰余価値は、ここでは利潤や利子や十分の一税などといういろいろな項目に分割される。(ロ)これらの項目はわれわれにはどうでもよい。(ハ)われわれはそれらを合計して3ポンド11シリングという剰余価値を得る。(ニ)種子や肥料の3ポンド19シリングは、不変資本部分としてゼロに等しいとする。(ホ)すると、前貸可変資本3ポンド10シリングが残り、それに代わって、3ポンド10シリング・プラス・3ポンド11シリングという新価値が生産されている。(ヘ)そこで、m/v=3ポンド11シリング/3ポンド10シリング となり、100%よりも大きい。(ト)労働者は彼の労働日の半分よりも多くを剰余価値の生産のために費やし、これをいろいうな人々がいろいろな口実のもとに自分たちのあいだで分配するのである(31a)。〉

  (イ)(ロ)(ハ) これまで私たちが前提してきましたように、生産物の価格はその価値に等しいということが変わらないとしますと、剰余価値は、ここでは利潤や利子や十分の一税などといういろいろな項目に分割されます。これらの項目は私たちにとってはどうでもよいことです。私たちはそれらを合計して3ポンド11シリングという剰余価値を得るのです。

  このパラグラフはその前のパラグラフに直接繋がったものです。だからジェーコブの表の解説がなされています。
  つまりこれまでは私たちは生産物の価格をそのまま価値として計算してきました(実はこうした仮定は内在的諸法則を考察している第1巻、第2巻全体を通してのものなのです)。そういことが前提されるのでしたら、剰余価値は利潤や利子や十分の一税などもろもろの項目に分割されたものを合計したものとして計算できるということです。だから先の表では〈十分の一税、地方税、国税〉が〈1ポンド1シリング〉、〈地代〉が〈1ポンド8シリング〉、そして〈借地農業者利潤および利子〉が〈1ポンド2シリング〉ですから、合計〈3ポンド11シリング〉になります。これが剰余価値というわけです。

  (ニ)(ホ) 種子や肥料の3ポンド19シリングは、不変資本部分としてゼロに等しいとします。すると、前貸可変資本3ポンド10シリングが残ります。それに代わって、3ポンド10シリング・プラス・3ポンド11シリングという新価値が生産されていることになります。

  表の〈種子(小麦) 1ポンド9シリング〉と〈肥料 2ポンド10シリング〉は不変資本価値を表しています。だからこれはゼロにしますと、前貸総資本7ポンド9シリングは、前貸可変資本になり3ポンド10リングになります。だから可変資本+剰余価値、すなわち3ポンド10シリング+3ポンド11シリングという新価値、すなわち価値生産物が得られます。

  (ヘ)(ト) そこで、剰余価値率m/v=3ポンド11シリング/3ポンド10シリング となって、100%よりも大きいものであることが分かります。労働者は彼の労働日の半分よりも多くを剰余価値の生産のために費やして、これをいろいうな人々がいろいろな口実のもとに自分たちのあいだで分配するのです。

  次に剰余価値率を計算してみますと、剰余価値/可変資本、すなわち3ポンド11シリング/3ポンド10シリングです。これは100%を越えていることが分かります。だから剰余労働/必要労働の関係でみますと、労働者は自分のために働くよりも多く資本家のために働き、そこから生まれる剰余価値が資本家からさらにさまざまな口実のもとにいろいろな寄生虫どもらに分け与えられていることが分かるのです。


◎原注31a

【原注31a】〈31a (イ)ここにあげた計算はただ例解として通用するだけである。(ロ)すなわち、価格は価値に等しいということが想定されているのである。(ハ)第3部でわかるように、この等置は、平均価格についてさえも、このような簡単なやり方ではなされえないのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ) ここにあげた計算はただ例解として通用するだけです。つまり、価格は価値に等しいということが想定されているからです。第3部でわかりますが、実際には、この等置は、平均価格についてさえも、このような簡単なやり方ではなされえないのです。

  これは前パラグラフの最後に付けられ原注です。だからその前の18パラグラフも含めたこうした例解は限定的なものだということを指摘するものになっています。つまり価格とと価値とが一致するという前提のもとになされている計算だということです。しかしこうした前提は現実には合致しません。
  というのは第3部では市場にある商品の価格は、価値を中心にではなく、生産価格を中心に変動するのであって、だから市場価格の平均価格は生産価格になるのであって、価値にはならないのです。生産価格は価値とは乖離したものです。しかし乖離しているといっても生産価格は価値なしには説明不可能なのものです。価値が内在的にあるからこそ生産価格もまた成立するのだからです。生産価格というのは諸資本の競争によって一般的利潤率が形成されるなかで、社会的に生産された総剰余価値を諸資本が競争のなかでそれぞれの資本の大きさに応じて分け合うための価格なのです。しかし詳しくは第3部で展開されますので、ここで詳論することは控えます。

  (付属資料は(5)に続きます。)

 

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(5)

2023-01-09 23:35:01 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (5)

 

  【付属資料】 (1) 


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

 〈交換価値の一般的概念によって表現すれば、資本が生産過程の終りにもつ剰余価値は、次のことを意味している。すなわち、生産物のなかに対象化されている労働時間(言い換えれば生産物のなかに含まれている労働の分量)が、生産過程のあいだ前貸しされていた当初の資本に含まれていた労働時間よりも大きい、ということである。〉(草稿集④238頁)

《初版》 (初版では全集版の「第3篇 絶対的剰余価値の生産」が「第3章 絶対的剰余価値の生産」となっていて、そこに(1)~(5)の下位の項目番号が振られているだけである。だから「(3)剰余価値率」にはさらなる下位項目はなく、だから全集版にある「第1節 労働力の搾取度」という項目はない。)

 〈前貸資本Cが生産過程で産み出した剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、さしあたり、生産物の価値がそれの生産諸要素の価値総額を越える超過分として、現われる。〉(江夏訳225頁)

《フランス語版》

 〈前貸資本Cが生産の経過中に産み出した剰余価値は、まず、生産物要素の価値にたいする生産物価値の超過分として現われる。〉(江夏・上杉訳204頁)

《イギリス語版》

  〈(1)前貸し資本 C によって、生産過程において産み出された剰余価値が、別の言葉で云えば、資本 C の価値の自己拡大が、まずは最初に余剰として、生産物の価値の量がそれらの構成要素の価値を凌ぐものとして、我々の検討対象として現われる。〉(インターネットより)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈資本Cは二つの部分に、すなわち、生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vとに、分かれる。cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。かくして、最初はC=c+vであり、たとえば、前貸資本500ポンド・スターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)である。生産過程の終わりには生産物が出てくるが、その価値は(c+v)+mに等しく、このばあいmは剰余価値であって、たとえば、(410ポンド・スターリング(c))+90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(m)になる。最初の資本CがC'に、500ポンド・スターリングから590ポンド・スターリングになった。両者の差額は、90ポンド・スターリングの剰余価値であるmに等しい。生産諸要素の価値が前貸資本の価値に等しいから、生産物価値がそれの生産諸要素の価値を越える超過分が、前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言うことは、実は、同義反覆である。〉(江夏訳225頁)

《フランス語版》フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。

 〈資本Cは二つの部分に、生産手段にたいして支出される一方の貨幣額c (不変資本)と、労働力に支出される他方の貨幣額v(可変資本)とに、分解される。最初はC=c+vであり、一例を挙げれば、前貸資本500ポンドスターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)である。生産作業が完了すれば、その価値が(c+v)+p(pは剰余価値)、すなわち、
   {410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)}+90ポンド・スターリング(p)
に等しい商品が、結果として生ずる。
  最初の資本CはC'に、500ポンド・スターリングから590ポンド・スターリングになった。両者の差はp、90ポンド・スターリングの剰余価値に等しい。生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいから、生産物要素の価値を越える生産物価値の超過分が、前貸資本の増加分、すなわち生産された剰余価値に等しいということは、まぎれもない同義反復である。〉(江夏・上杉訳204頁)

《イギリス語版》

  〈(2)資本C は、二つの部分から成っており、一つは、生産手段に投下された貨幣総計 c 、もう一つは、労働力に支出された貨幣総計 v である。cは、不変資本となっている部分を表す、また、vは、可変資本となっている部分を表す。であるから、まずは、C = c + v と表す。仮に、前貸し資本が、500英ポンドであるとしよう。そして、その内訳が、500英ポンド= 不変分410英ポンド+ 可変分 90英ポンド(£500 = £410 const. + £90 var.)であるとしよう。そして、生産過程が終了した時、我々は、商品を手にしているであろう。その商品の価値 =(c+v)+sであり、ここの s は、剰余価値である。または、前に我々が記した数字で書けば、この商品の価値は、( 不変分410ポンド+可変分90ポンド ) + 余剰分90ポンド となるであろう。最初の資本が、今は、C からC' へと、500英ポンドから、590英ポンドへと変化したのである。その違いは、s 、または、剰余価値 90ポンドである。生産物の構成要素の価値は、前貸し資本の価値に等しいのであるから、生産物の構成要素の価値を越えた生産物の価値の超過分は、前貸し資本の拡大分、または、生産された剰余価値である 云々は、単なる同語反復にすぎない。〉


●第3パラグラフ

《初版》

 〈それにもかかわらず、この同義反覆には、もっと詳しい規定が必要である。生産物価値と比較される生産諸要素の価値は、生産物の形成において消費される生産諸要素の価値である。ところで、われわれがすでに見たように、充用される不変資本のうちで労働手段から成っている部分は、それの価値を部分的にしか生産物に引き渡さないが、他の部分は、元のままの存在形態で存続している。後者の部分は価値形成過程ではなんの役割も演じないから、ここではこの部分を全く度外視しよう。この部分を計算に入れても、なにも変わらないだろう。cは、410ポンド・スターリングに等しく、312ポンド・スターリングの原料と、44ポンド・スターリングの補助材料と、過程中に損耗する54ポンド・スターリングの機械から、成り立っているが、現実に充用される機械の価値は、1O54ポンド・スターリングだとしよう。生産物価値の生産のために前貸しされたものとしてわれわれが計算するものは、機械がそれの機能によって失いしたがって生産物に引き渡す54ポンド・スターリングの価値だけである。蒸気機関等々としてそれの元のままの形態で存続する1000ポンド・スターリングを算入すれば、われわれは、それを、前貸価値の側にも生産物価値の側にも双方の側に算入しなければならない(26a)のであって、そうすると、それぞれ1500ポンド・スターリングおよび1590ポンド・スターリングが得られることになろう。差額すなわち剰余価値は、相変わらず90ポンド・スターリングであろう。だから、われわれは、価値生産のために前貸しされた不変資本と言うとき、前後の関連から反対のことが明らかでないかぎり、いつでも、生産において消耗された生産手段の価値だけを意味しているのである。〉(江夏訳226頁)

《フランス語版》

 〈しかし、この同義反復はいっそう徹底的な検討を必要とする。生産物価値と比較されるものは、生産物の形成中に消費された生産要素の価値である。ところが、われわれがすでに見たように、使用された不変資本のうち労働手段から成る部分は、その価値の一部分しか生産物に移さないのにたいし、他の部分は旧来の形態で存続する。後者は価値形成においてどんな役割も演じないから、完全に度外視しなければならない。それを計算に入れてもなにも変わらないであろう。c=410ポンド・スターリング、すなわち、原料にたいし312ポンド・スターリング、補助材料にたいし44ポンド・スターリング、機械の損耗にたいし54ポンド・スターリングであるが、現実に使用される機械装置全体の価値は1054ポンド・スターリングに達する、と仮定しよう。われわれは、機械がその運転中に失い、まさにそのことによって生産物に移す価値54ポンド・スターリングだけを、前貸しされたものとして計算する。もしわれわれが、蒸気機関などとして旧来の形態のもとで存在しつづける1000ポンド・スターリングを計算しようとすれば、前貸しされた価値の側と、獲得された生産物の側とで、それを二重に計算しなければならないであろう(1)。こうして、1500ポンド・スターリングと1590ポンド・スターリングとが得られるから、剰余価値は相変わらず90ポンド・スターリングであろう。われわれが、価値生産のために前貸しされた不変資本という名のもとで--そして、ここではこれが問題になっている--理解するものは、生産の経過中に消費された生産手段の価値に限られる。〉(江夏・上杉訳205頁)

《イギリス語版》

  〈(3)とはいえ、この同語反復について、もう少し、詳しく調べてみよう。対比させられている二つのものは、生産物の価値と、生産過程で消費された その構成要素の価値である。これまで、我々は、労働手段をなす不変資本部分が、どのようにして、その価値の僅かな分数部分を生産に移管するか見て来た。他方の残余の価値は、それらの道具に存在し続ける。この残余部分は、価値の形成にはなんら寄与しない。我々は、現時点では、この部分については、考慮外にしておいてもいいであろう。この部分を計算に入れたとしても、何の違いも生じない。例えば、前の式、c = 410英ポンドを取り上げてみよう。この総計が、原料の価値312英ポンドと、補助材料の価値44英ポンドと、そして過程における機械の摩損分の価値54英ポンドからなっていると考えてみよう。また、使用する機械の全価値が1,054英ポンドであると考えてみよう。そして、この機械の全価値から、計54英ポンドの分のみが生産物を作り出すために前貸しされ、それが、過程において、機械が失った摩損分であると分かる。この部分が、生産物と一体になった部分の全てである。ところで、もし、我々が、同様、機械全価値の残余分に、気づくなら、それらは依然として、機械のうちに存在しつづけており、生産物に移管されるものとして、前貸しされた資本の一部であることも分かるはずである。そして、そのように、我々の計算の両側にそのことを表すならば、我々は、一方に、1,500英ポンドを、そして他方に、1,590英ポンドを置かなければならぬ。これらの二つの計の差、または剰余価値は、依然として、90英ポンドということになる。従って、この本全編を通して、内容に矛盾がない限り、我々は常に、生産手段の価値は、その過程で実際に消費された価値を意味し、その価値のみを意味するものとする。〉


●原注26a

《初版》

 〈(26a) 「充用固定資本の価値を前貸しの一部として計算すれば、われわれは必然的に、年末におけるこういった資本の残存価値を、年収の一部として計算することになる。」(マルサス『経済学原理、第2版、ロンドン、1836年』、269ページ。)〉(江夏訳226頁)

《フランス語版》

 〈(1) 「もしわれわれが、使用された固定資本の価値を、前貸しの一部を成すものとして計算すれば、一年の終りには、この資本の残存価値を、われわれの年収の一部を成すものとして計算しなければならない」(マルサス『経済学原理』、第2版、ロンドン、1836年、269ページ)。〉(江夏・上杉訳205頁)

《イギリス語版》

  なし。


●第4パラグラフ

《直接的生産過程の諸結果》

  〈総資本C=c + vで、cが不変で、vが可変だから、Cはvの関数と見ることができる。vがΔvだけ増加すれば、CはC'になる。
  したがって以下のようになる。
(1)C=c+v
(2)C'=c+(v+Δv)
等式(2) から等式(1) を引くと、差額はC'-CだからCの増分はΔC。
(3) C'-C=c+v+Δv-cv=Δv
したがって
(4)ΔC=Δv
  つまり、等式(3) から、等式(4)ΔC=Δvが得られる。しかし、C'-CはCが変化した分の大きさであるから、Cの増分に等しい。つまりΔCに等しい(=ΔC)。つまり等式(4)。あるいは、総資本の増分は資本の可変部分の増分に等しく、したがって、cないし資本の不変部分の変化は0である。このようにΔCないしΔxを研究する上では、不変資本は=0と仮定されなければならない。すなわち、考慮の外に置かれなければならない。
  vの増加を示す率はΔv/vである(剰余価値率)。Cの増加を示す率は、Δv/c+vである(利潤率)。〉(光文社文庫179-180頁)

《初版》

 〈このことを前提にしてC=c+vという式に立ち戻ると、この式はC'=(c+v)+mに転化し、まさにそうなることによってCはC'に転化する。周知のように、不変資本の価値は生産物のうちに再現しているだけのことである。だから、過程中に現実に新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とはちがっており、したがって、一見してそう見えるように、(c+v)+mまたは(410ポンド・スターリング(c))+90ポンド・スターリング(v) +90ポンド・スターリング(m)ではなく、v+mまたは(90ポンド・スターリング(v))+90ポンド・スターリング(m)であり、590ポンド・スターリングではなく、180ポンド・スターリングである。cすなわち不変資本がゼロに等しければ、換言すれば、ある産業部門があって、そこでは、資本家は、生産された生産手段をなんら充用する必要がない、つまり、原料も補助材料も労働用具もなんら充用する必要がなく、天然にある材料と労働力だけを充用すればよいとすれば、なんらの不変価値部分も生産物に移されるはずがないであろう。生産物価値中のこの要素、ここでの例では41Oポンド・スターリングは、なくなるであろうが、90ポンド・スターリングの剰余価値を含む180ポンド・スターリングの価値生産物は、依然として、cが最大の価値額を表わすようなばあいと全く同じ大きさであろう。C=(0+v)=vであり、価値増殖した資本であるC'=v+mであり、C-C'は相変わらずmに等しいであろう。逆にmがゼロに等しければ、換言すれば、可変資本としてのそれの価値が前貸しされる労働力が、等価しか生産しないとすれば、C=c+vであり、C'(生産物価値)=(c+v)+0であり、したがって、C=C'であろう。前貸資本は価値増殖しないであろう。〉(江夏訳226-227頁)

《フランス語版》

 〈このことが認められたので、式C=c+vに立ちもどろう。この式は、C'=(c+v)+pになるから、CはC'に転化したのである。周知のように、不変資本の価値は生産物のうちに再現するにすぎない。だから、生産そのものの経過中に産み出された真に新しい価値は、手に入れた生産物価値とはちがう。それは、一見そう見えるように、
  c+v+p、すなわち410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(p)ではなくて、
  v+p、すなわち{90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(p)}
それは590ポンド・スターリングではなく180ポンド・スターリングである。不変資本cがゼロに等しければ、換言すれぽ、資本家が、労働によって作り出されたどんな生産手段、すなわち原料も補助材料も労働手段も使用する必要がなく、たんに、労働力と自然が供給する素材とを使用するだけでよい生産部門があるならば、生産物に移される不変的価値部分は、なに一つありえないであろう。生産物価値のこの要素、われわれの例では410ポンド・スターリングは除去されるであろうが、90ポンド・スターリングの剰余価値を含む180ポンド・スターリングの生産された価値は、cが莫大な価値を表わすぼあいと全く同じ大きさであろう。C=(c+v)=vであり、C'(剰余価値だけ増殖した資本)=v+pであり、そして相変わらずC'-C=pであろう。逆に、pがゼロに等しければ、換言すれば、自己の価値が可変資本として前貸しされる労働力が、その等価しか生産しないならば、このばあいにはC=c+vであり、C'(生産物価値)=c+v+0であり、したがって、C=C'である。前貸資本は少しも増殖していないであろう。〉(江夏・上杉訳205-206頁)

《イギリス語版》

  〈(4)その様な意味を表すものとして、我々は、元の公式 C = c + v に戻ってみよう。我々が見て来たように、この公式は、つぎのように変形される。C' = (c + v) + s 、つまり、C が C' になる。我々は、不変資本の価値は生産物に移管されて、単に生産物に再現することを知っている。新たな、実際に過程において創造された価値、生産された価値、価値生産物は、従って、生産物の価値と同じものではない。それは、最初に表れた、(c + v) + s、または、不変資本410英ポンド+ 可変資本90英ポンド+ 剰余価値90英ポンドのようなものではなく、v + s または、可変資本90ポンド+ 剰余価値90ポンドなのである。590英ポンドではなく、180英ポンドなのである。もし仮に、c = 0 または他の言葉で云えば、もし仮に、ある工業の一部門で、資本家が、生産手段、それが原料であれ、補助材料であれ、または労働手段であれ、以前の労働によって作られたものを用いることなく、ただ、労働力と、自然から供給される材料のみを用いて生産することができるならば、この場合、生産物に移管する不変資本はないであろう。この場合の生産物の価値要素は、すなわち、我々の例であった410英ポンドは削除され、計180英ポンドが、新たな価値として創造され、または、生産された価値である。この中には、剰余価値の90英ポンドが含まれており、また、不変資本 c をいかに巨大なるものにしようと、同じ価値に留まる。つまり、我々にとっては、C = (0 + v) = v または、C'、拡大された資本= v + s であるのだから、従って、前述のとおりC'-C = sでなければならない。一方、もし、if s = 0 または別の言葉で云えば、もし、可変資本の形式で前貸しされた労働力が、その等価しか生産しないとしたら、我々にとっては、C = c + v または、C'、生産物の価値-(c + v) = 0 、または、C = C' でなければならない。前貸し資本は、この場合、その価値を拡大しなかったのである。〉


●第5パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ここに述べた見解は、厳密に数学的に見ても正しいものである。たとえば、微分計算でy=f(X)+Cをとり、このCを定数としよう。XがX+ΔXに変化しても、この変化はCの価値を変えない。定数は変化しないのだから、dCはゼロであろう。それゆえ、定数の微分はゼロなのである。〉(草稿集④268頁)

《初版》

 〈われわれが事実上すでに知っているように剰余価値は、たんに、vすなわち労働力に転換される資本部分について生ずる価値変動の結果にすぎないのであるから、v+m=v+Δv(v+vの増加分)である。ところが、現実の価値変動も価値変動の割合も、前貸総資本の可変成分増大するためにこの総資本もやはり増大するということによって、あいまいにされる。前貸総資本は5OOであったが、過程の終わりには59Oになっている。だから、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうちで不変資本価値だけが再現されている部分を全く度外視することが、つまり不変資本cはゼロに等しいとすることが、したがってまた、可変量と不変量との演算において不変量が加法または減法によってのみ可変量と結びつけられるばあいの数学の一法則を適用することが、必要なのである(27)。〉(江夏訳227-228頁)

《フランス語版》

 〈われわれがすでに知っているように、剰余価値は、v (労働力に転化される資本部分)にかかわる価値変化の単なる結果であり、したがって、v+p=v+Δv(v・プラス・vの増加分)である。だが、この価値変化の真の性格は、一見して明らかになるものではない。それは、前貸総資本もこの資本の可変的要素の増大の結果やはり増大するということから、生ずるのである。この資本は500であったが、590になる。純粋な分析のためには、生産物価値のうち不変資本の価値のみを再現する部分が度外視されることが、すなわち、不変資本の価値をゼロに等しいとすることが、必要である。これは、数学上の一法則の適用であって、この法則は、可変量と不変量とで運算を行ない、不変量が加法または減法によってだけ可変量に結びつけられるときには、いつでも用いられるものである。〉(江夏・上杉訳206頁)

《イギリス語版》

  〈(5)考察してきたことを踏まえれば、我々は、剰余価値が、純粋に、労働力に変換された資本の一部である可変資本v の価値変化の結果であることを知っている。その結果、v + s = v + v 、または、v + vの増加分 となる。であるから、いろいろと云ったとしても、ただ、「v のみが変化する。」というのが事実なのである。だが、変化の実態は、資本の可変部分の増加の結果として、同時に前貸しされた資本総計の増加ともなることから、その実態の明確さが失われる。最初は500英ポンドであったものが、590英ポンドになった。それゆえに、我々の考察を正確な結果に導くために、我々は、生産物の中の、不変資本のみが表れる部分を度外視して見なければならない。つまり、不変資本を0と、または、c = 0 としなければならない。このことは、単に、数学的公式の応用であって、我々が、不変分と可変分の大きさを、加算と減算の記号のみによって、相互に関連させられている関係として見て行く場合は、いつでもこのような方法が使われる。〉


●第6パラグラフ

《初版》

 〈もう一つの困難は、可変資本の本来の形態から生ずる。たとえば、上述の例では、C'=410ポンド・スターリングの不変資本+90ポンド・スターリングの可変資本+90ポンド・スターリングの剰余価値 である。ところで、9Oポンド・スターリングは、与えられた量、したがって不変量であり、それゆえに、これを可変量として扱うことは不合理のように見える。ところが、90ポンド・スターリング(v)すなわち90ポンド・スターリングの可変資本は、ここでは事実上、この価値が通過する過程の象徴でしかない。労働力の買い入れに前貸しされる資本部分は一定量の対象化された労働であり、したがって、買われる労働力の価値と同じに、不変の価値量である。ところが、生産過程そのものにおいては、前貸しされた90ポンド・スターリングの代わりに活動しつつある労働力が現われ、死んでいる労働の代わりに生きている労働が現われ、静止量の代わりに流動量が現われ、不変量の代わりに可変量が現われる。その結は、vの再生産・プラス・vの増加分である。資本主義的生産の立場から見れば、この全過程は、労働力に転換された、本来は不変である価値の・自己運動である。過程も、過程の結果も、この価値から生ずる。したがって、90ポンド・スターリングの可変資本すなわち自己増殖する価値という表式は、たとい矛盾しているように見えても、資本主義的生産に内在している矛盾を表現しているにすぎない。〉(江夏訳228頁)

《フランス語版》

 〈もう一つの困難は、可変資本の本源的な形態から生ずる。たとえば前述の例では、C’は、410ポンド・スターリングの不変資本・プラス・90ポンド・スターリングの可変資本・プラス・90ポンド・スターリングの剰余価値に等しい。ところで、90ポンド・スターリングは与えられた不変量であって、これを可変量として扱うのは不合理のように見える。ところが、90ポンド・スターリング(v)、すなわち90ポンド・スターリングの可変資本は、この価値がたどる歩みにとっては、一つの象徴でしかない。第一に、二つの不変な価値が相互に交換される。90ポンド.スターリングの資本が、同じように90ポンド・スターリングに値する労働力と交換される。ところが、生産の経過中に、前貸しされた90ポンド・スターリングが労働力の価値によってではなくその運動によって、死んだ労働が生きた労働によって、固定量が流動量によって、不変量が可変量によって、いましがた置き換えられたのだ。その結果は、vの再生産・プラス・vの増量である。資本主義的生産の観点から見れば、この全体は、労働力に転化された価値=資本の自発的、自動的な運動である。全過程とその結果とは、この価値=資本のおかげである。したがって、子を産む価値を表現する定式「90ポンド・スターリングの可変資本」は、矛盾するように見えても、資本主義的生産に内在する矛盾を表現しているにすぎない。〉(江夏・上杉訳206-207頁)

《イギリス語版》

  〈(6)もう少し難しい点が、初めの可変資本の形式ゆえに、提起される。我々の例によれば、C' = 不変資本410英ポンド+ 可変資本90英ポンド+ 剰余価値90英ポンドである。しかし前者の90英ポンドは、与えられたものであり、従って、不変量である。にもかかわらず、それは、不合理にも、可変量として扱われるものとして表れている。しかし、事実は、この可変資本90英ポンドという文字は、ここでは、過程に入るこの価値を示す単なる記号なのである。労働力の買いに投入される資本部分は、物質化された労働力の明確な量、購入された労働力の価値のように不変価値である。しかし、生産過程において、90英ポンドは、活動する生きた労働力となり、死んだ労働は、生きた労働によって、停止しているものは、流動するものによって、不変のものは、可変のものによって置き換えられる。その結果はvの再生産+ vの増加分となる。それゆえ、資本主義的生産の視点から見るならば、全ての過程が、最初に投入された不変価値の、労働力に変換されたところのものの、自然発生的な変化として目に入る。その過程とそれらの結果が、共に、この価値に寄与したものとして目に入る。従って、もし、「可変資本90英ポンド」というこのような表現と、または、「自己拡大するそのような価値」という表現が矛盾したものとして見えるならば、それはただ、それらが、資本主義的生産に内在する矛盾を取りだして見せて呉れたからに過ぎない。〉


●第7パラグラフ

《初版》

 〈不変資本をゼロに等しいとすることは、一見したところ奇妙である。にもかかわらず、このことは日常生活で絶えず行なわれている。たとえば、誰かが、イギリスが綿業であげている利益を計算しようとすれば、なによりもまず、アメリカ合衆国やインドやエジプト等々に支払われた綿花価格を控除する。すなわち、生産物価値のうちに再現しているにすぎない資本価値を、ゼロに等しいとするのである。〉(江夏訳228-229頁)

《フランス語版》

 〈このように不変資本をゼロに等しいとすることは、一見して奇妙に見えるかもしれないが、これこそ、日常生活で毎日行なわれている操作なのである。誰かが、大ブリテンが綿業であげる利益を計算しようとすれば、まず、合衆国やインドやエジプトなどに支払われる綿花価格を控除する。すなわち、彼は、生産物価値のうちに再現するにすぎない資本部分をゼロに等しいとするのである。〉(江夏・上杉訳207頁)

《イギリス語版》

  〈(7)最初は、不変資本を0とみなすことは、奇異な考え方であると思うであろう。だが、日常的に我々はそのようにしている。もし、例として、我々が、綿工業からの、英国の利益の大きさを計算したいと思えば、まずは第一に、我々は、アメリカ合衆国、インド、エジプトそして他の国々の綿に支払った総額を控除する。他の言葉で云えば、生産物の価値に単に再現される資本の価値が、0と置かれる。〉


●第8パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈資本はいまや、自己を再生産する価値、だからまた永続する価値として実現されているだけでなく、価値を生む価値としても実現されている。……資本は、根拠として、剰余価値にたいして自己によって根拠づけられたものにたいする様態で関わる。資本の運動とは、自己を生産しながら、同時に、根拠づけられたものとしての自己の根拠として、前提された価値として、自己自身にたいして剰余価値にたいする様態で、あるいは剰余価値にたいして自己が生みだしたものにたいする様態で関わる、というところにあるのである。農業における資本の再生産の自然的尺度であるがゆえに資本の回転の計測単位とされている一定の期間〔一年〕のうちに、資本は一定の剰余価値を生産するが、この剰余価値は、資本が一つの生産過程で生みだす剰余価値によって規定されているだけでなく、生産過程の反復の回数、すなわち一定の期間における資本の再生産の回数によっても規定されている。資本の再生産過程のなかに流通が、すなわち直接的生産過程の外部での資本の運動がとり入れられているので、剰余価値はもはや、資本が生きた労働にたいして単純に直接的に関わることによって生み出されたものとしては現われない。この関係はむしろ、資本の総運動の一契機として現われるだけである。資本は、能動的な主体--過程の主体--としての自己から出発し--そして回転では、直接的生産過程は実際、労働にたいする自己の関係からは独立した資本としての資本の運動によって規定されたものとして現われるのであって--、自己にたいして自己を増加させる価値にたいする様態で関わる。すなわち資本は、剰余価値にたいして自己によって生みだされ根拠づけられたものにたいする様態で関わり、生産源泉として、自分自身にたいして生産物にたいする様態で関わり、生産する価値として、自己自身にたいして生産された価値にたいする様態で関わるのである。したがって資本は、新たに生産された価値を、もはや、自己の現実の尺度である、必要労働にたいする剰余労働の割合によって測るのではなく、自己の前提としての自己自身で測るのである。一定の価値の資本は一定の期間のうちに一定の剰余価値を生産する。このように、前提された資本の価値で測られた剰余価値、このように、自己を増殖する価値として措定された資本、--これが利潤である。この相のもとで--つまり「永遠の相」〔specia aeterni〕のもとでではなく、「資本の相」〔specie capitalis〕のもとで--考察されれば、剰余価値は利潤なのであり、また資本は、生産し再生産する価値である資本しての自己自身のなかで、新たに生産された価値である利潤としての自己から区別されるのである。資本の生産物は利潤である。だから剰余価値の量は資本の価値の量で測られるのであり、だからまた利潤の率は、資本の価値にたいする利潤の価値の比率によって規定されているのである。〉(草稿集②552-553頁)
 〈つまり、所与の回転期間に資本が生みだす剰余価値は、それが生産に前提された資本の総価値で測られるかぎり、利潤という形態を受け取るのである。これにたいして、剰余価値は、資本が生きた労働との交換で獲得する剰余労働時間によって直接に測られている。利潤は、資本の意味でさらに展開された、剰余価値の別の形態にほかならない。剰余価値はここではむしろ、生産過程で、労働とではなく資本そのものと交換されるものと見なされる。それゆえ、資本が資本として現われるのは、自己自身の過程の媒介によって、生みだされ生産された価値としての自己に連関する、前提された価値としてであり、そしてこれによって生みだされた価値が利潤と呼ばれるのである。
  利潤という姿態への剰余価値のこの変換のところで明らかとなる二つの直接的法則は次のものである。(1)利潤として表現される剰余価値は、つねに、直接的な実在性における剰余価値がほんとうにもつ比率よりも小さい比率として現われる。というのは、それは資本の一部分で、すなわち生きた労働と交換される部分で測られる(この割合は剰余労働にたいする必要労働の割合であることが明らかとなる)のではなくて、それの全体で測られるのだからである。一資本aが生む剰余価値がどうであれ、またaにおげるcとvとの比率、つまり資本の不変部分と可変部分との比率がどうであれ、剰余価値mは、c+vで測られるときには、その現実の尺度であるvで測られるときよりも小さく現われぎるをえない。利潤、あるいは--絶対額としてではなくて、たいていの場合にそうであるように、比率として考察するなら(利潤率は資本が剰余価値を生む割合として表現された利潤である)--利潤率は、資本が労働を搾取する現実の率をけっして表現しておらず、つねにそれよりもはるかに小さな割合を表現しており、またそれが表現する割合は、資本が大きければ大きいほど、それだけますますちがったものとなる。利潤率がほんとうの剰余価値率を表現できるようなことがあるとすれば、それはただ、全資本が労賃だけに転化される、というような場合だけである。つまり、全資本が生きた労働と交換される、というような場合、だから、全資本がただ必需品として存在するだけで、すでに生産された原料の形態で存在しない(このことは抽出産業でなら生じるであろう)だけでなく、つまり原材料・イコール・ゼロであるだけでなく、生産手段もまた、それが用具の形態であれ、発展した固定資本の形態であれ、イコール・ゼロである、というような場合だげである。後者のケースは、資本に照応する生産様式の基礎の上では生じえない。a=c+vであれば、mの数がどうであれ、[m/(c+v)<m/vである]。〉(草稿集②580頁)

《61-63草稿》

 〈ところで資本を考察すれば、それははじめは三つの構成部分に分かれる(若干の産業では二つの構成部分に分かれるだけである。たとえば抽出産業ではそうである。しかしわれわれは最も完全な形態、製造業の形態をとる)、--原料、生産用具、最後に、なによりもまず労働能力と交換される資本部分。われわれがここで問題にするのは、資本の交換価値だけである。さて、資本のうち、消費された原料と生産手段とに含まれている価値部分については、それは単に生産物のなかに再現するのだ、ということをすでに見た。資本のうちのこの部分が、生産過程とは無関係にそれがもっていたそれの価値以上のものを生産物の価値に追/加することはけっしてない。われわれは資本のうちのこの部分を、生産物の価値に関連させて、資本の不変部分と呼ぶことができる。この部分の価値は、1で述べているように、増減することがありうる。しかしこの増減は、この価値が材料および生産用具の価値としてはいっていく生産過程とはなんのかかわりもない。10時間に代わって12時間の労働がなされるならば、もちろん、2時間の剰余労働を吸収するために前より多くの原料が必要である。だから、われわれが不変資本と呼ぶものは、原料が吸収しなければならない・そもそも生産過程で対象化されるべき・労働の分量に応じて、さまざまの大きさで、すなわちまた価値の大きさ、価値量で生産過程にはいるであろう。けれどもそれは、それの価値量が前貸しされた資本の総額にたいしてどんな割合を取ろうと、この価値量が変化せずに生産物中に再現するかぎり、不変である。すでに見たように、不変資本の価値量そのものは、言葉の本来の意味で再生産されるわけではない。それはむしろ、労働材料および労働手段が労働によって(それらの使用価値の点から見て)新たな生産物の要素となり、そのためにそれらの価値がこの生産物のなかに再現する、ということによって、単に維持されるにすぎない。けれどもやはり、この価値は単に、それら自身の生産に必要であった労働時間によって規定されているのである。それらが生産物中に含まれている労働時間に与えるのは、生産過程以前にそれらのなかに含まれていたのと同じ労働時間だけである。〉(草稿集④273-274頁)
  〈剰余価値は剰余労働に等しいこと、そして剰余価値の割合は剰余労働の必要労働にたいする割合であること、--これを明確に把握することがきわめて重要である。そのさい、さしあたって、利潤および利潤率についての通常の観念は完全に忘れるべきである。剰余価値と利潤とのあいだにどのような関係が生じるかは、のちに示されるであろう。〉(草稿集④277頁)
  〈資本の再生産および資本の増加のさいに、原料と機械類との価値そのものは、およそ生産過程にとってはどうでもよい、ということは明らかである。原料、たとえば亜麻をとってみよう。亜麻が、たとえばリンネルに変形されるのに、どれだけの労働を吸収できるのかは、生産段階が、技術的発展の一定の程度が所与であれば、亜麻の価値にではなくてその量にかかっており、同様に、ある機械が1OO人の労働者に与える援助はこの機械の価格にではなくてそれの使用価値にかかっている。〉(草稿集④311頁)
  〈利潤率は、前貸資本の総額(不変資本と可変資本とを合計したもの)にたいする剰余価値の割合であるが、一方、剰余価値そのものは、労働者が行なう労働量のうち、彼に賃金として前貸しされた労働量を越える超過分である。つまり、剰余価値は、資本全体との関連でではなく、ただ、可変資本すなわち賃金に投下された資本との関連で考察されるだけである。だから、剰余価値の率と利潤の率とは、二つの違った率である。といっても、利潤そのものは、一定の観点のもとで〔sub certa specie〕考察された剰余価値にすぎないのであるが。〉(草稿集⑤217頁)

《初版》

 〈もちろん、剰余価値の直接の源泉であり剰余価値によってそれの価値変動が表わされている資本部分にたいする、剰余価値の比率のみならず、前貸総資本にたいする剰余価値の比率もまた、大きな経済学上の意義をもっている。したがって、この比率については第3部で詳細に論ずることにする。資本のある一部を労働力に転換することによって価値増殖するためには、資本の他の一部が生産手段に転化されていなければならない。可変資本が機能するためには、不変資本が、労働過程の特定の技術的性格に応じて、適当な割合で前貸しされていなければならない。とはいいながら、ある化学的過程にはレトルトやその他の容器が必要だという事情があるにしても、分析にさいしてレトルトそのものを捨象してもかまわない。価値創造と価値変動とが、それ自体として、すなわち純粋に、考慮されるかぎりでは、生産手段は、不変資本のこの素材的な姿は、流動的な価値形成的な力がそこに固定すべき素材を、提供しているにすぎない。したがってまた、この素材の性質は、綿花であろうと鉄であろうと、どうでもよい。この素材の価値もどうでもよい。この素材は、生産過程中に支出されるべき労働量を吸収しうるに足る量で、存在してさえいればよい。この量が与えられていれば、それの価値が上がろうと下がろうと、それとも、それが土地や海のように無価値であろうと、このことによって、価値創造と価値変動との過程が影響を受けることはない。〉(江夏訳229頁)

《資本論第1部》

 〈彼(リカード--引用者)もまた、他の経済学者たちと同様に、剰余価値を、そのものとしては、すなわち利潤や地代などのようなその特殊な諸形態から独立には、研究したことがなかった。それだから、彼は剰余価値率に関する諸法則を直接に利潤率の諸法則と混同しているのである。すでに述べたように、利潤率は前貸総資本にたいする剰余価値の比率であるが、剰余価値率はこの資本の可変部分だけにたいする剰余価値の比率である。500ポンド・スターリングの一資本(C)が合計400ポンド・スターリソグの原料や労働手段など(c)と100ボンド.スターリングの労賃(v) とに分かれるものとし、さらに剰余価値(m) は100ポンド・スターリングだとしよう。そうすれば、剰余価値率はm/v=100ポンド/100ポンドは100%である。だが、利潤率はm/C=100ポンド/500ポンド=20%である。さらに、利潤率は剰余価値率には少しも影響しないような事情によって定まることもあるということは明らかである。のちに本書の第3部では、同じ剰余価値率が非常に違ったいろいろな利潤率に表わされうるということ、また、一定の事情のもとでは、いろいろに違った剰余価値率が同じ利潤率に表わされうるということを示すであろう。〉(全集第23b巻678-679頁)

《資本論第3部》

 〈剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量を越える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。だから、この超過分は総資本にたいしてm/Cという分数で表わされる割合をなしているのである。このCは総資本を意味するものである。こうして、われわれは剰余価値率m/vとは別ものである利潤率m/C=m/(c+v)を得るのである。
  可変資本で計られた剰余価値の率は剰余価値率と呼ぼれ、総資本で計られた剰余価値の率は利潤率と呼ばれる。この二つの率は、同じ量を二つの違った仕方で計ったものであって、尺度が違っているために同時に同じ量の違った割合または関係を表わすのである。〉(全集第25a巻53頁)
  〈それ自体としては総資本の価値量は剰余価値量にたいしてどんな内的関係もなしてはいない。少なくとも直接にはそうである。総資本・マイナス・可変資本、つまり不変資本は、素材的要素から見れば、労働の実現のための素材的諸条件、すなわち労働手段と労働材料とから成っている。一定量の労働が商品に実現され、したがってまた価値を形成するためには、一定量の労働材料と労働手段とが必要である。つけ加えられる労働の特殊な性格に応じて、労働の量と、この生きている労働がつけ加えられるべき生産手段の量とのあいだには、一定の技術的な割合が生まれる。したがってまた、そのかぎりでは、剰余価値または剰余労働の量と生産手段の量とのあいだにも、一定の割合が生まれる。たとえば、労賃の生産のために必要な労働が1日に6時間だとすれば、労働者は、6時間の剰余労働を行なうためには、すなわち100%の剰余価値を生みだすためには、12時間労働しなければならない。彼は12時間では6時間に消費する生産手段の2倍を消費する。それだからといって、彼が6時間でつけ加える剰余価値は、6時間とか12時間とかに消費される生産手段の価値とはまったくなんの直接関係もない。この生産手段の価値はここではまったくどうでもよいのである。ただ、技術的に必要な量が問題になるだけである。原料や労働手段が安いとか高いとかいうことは、まったくどうでもよいのである。ただ、それが必要な使用価値をもっていさえすれば、そして吸収されるべき生きている労働にたいして技術的に定められた割合でそこにありさえすれば、それでよいのである。といっても、1時間では重量xポンドの綿花が紡がれてそれにはaシリングかかるということを知れば、もちろん、12時間では12xポンドの綿花=12aシリングが紡がれるということもわかるのであり、その場合には、6の価値にたいしてと同じに12の価値にたいしても剰余価値の割合を算出することができるのである。しかし生産手段の価値にたいする生きている労働の割合がここにはいってくるのは、ただ、aシリングが重量xポンドの綿花の呼び名として役だつかぎりでのことである。なぜならば、綿花の価格が変わらないかぎり、一定量の綿花は一定の価格をもっており、したがってまた逆に一定の価格は一定量の綿花の指標として役だつことができるからである。6時間の剰余労働を取得するためには、12時間の労働をさせなければならず、したがって12時間分の綿花を準備しなければならないということを知っており、また12時間のために必要なこの綿花量の価格を知っていれば、そこには、一つの回り道を通ってではあるが、綿花の価格(必要量の指標としての)と剰余価値との割合がある。しかし、その逆に原料の価格から原料の量を、たとえば6時間にではなく1時間に紡ぐことのできる量を、推定することはけっしてできない。だから、不変資本の価値と剰余価値とのあいだには、したがってまた総資本の価値(c+v)と剰余価値のあいだにも、内的な必然的な関係はなにもないのである。〉(全集第25a巻57頁)

《フランス語版》

 〈剰余価値の直接の源泉であり剰余価値によって自己の価値変化が表現される資本部分にたいする、剰余価値の比率だけでなく、さらにまた、前貸総資本にたいする剰余価値の比率も、確かに、大きな経済学的重要性をもっている。したがって、われわれはこの問題を第3部で委細を尽して論ずることにする。資本の一部分が労働力への転化によって価値増殖するためには、資本の他の部分がすでに生産手段に転化されていなければならない。可変資本が機能するためには不変資本が事業の技術的性格に応じて、これに対応する比率で前貸しされていなければならない。しかし、蒸溜器その他の容器がどんな化学的操作にも用いられるからといって、その結果、分析のさいにこれらの器具が考慮されるということにはならない。価値創造と価値変化を純粋にそれ自体として考察するかぎりでは、生産手段、すなわち、不変資本のこの素材的代表者は、価値の創造主である流動的な力がそこに凝固することのできるような素材を提供するにすぎない。だから、綿花であろうと鉄であろうと、この素材の性質と価値はどうでもよい。それはただたんに、生産の経過中に支出される労働を吸収することができるほど充分な分量として、そこに存在しさえすればよい。素材のこの分量がいったん与えられれば、その価値が上がろうと下がろうと、あるいは、処女地や海のように無価値でさえあろうと、価値の創造と価値量の変化とは、それによって影響を受けることはないであろう(2)。〉(江夏・上杉訳207-208頁)

《イギリス語版》

  〈(8)勿論、剰余価値率は、剰余価値が直接的に発条する資本のその部分、その価値の変化を表す資本のその部分を分母とするものであるばかりではなく、また、前貸し資本総額を分母とするものであることも、経済的見地からは大変重要なことである。であるから、我々は、第三巻で、この率について徹底的に取り扱うつもりである。労働力に置き換えられることによって、ある部分の資本が、その価値を拡大することが可能となるためには、もう一つの別の資本部分が、生産手段へと置き換えられていることが必要である。可変資本がその機能を実行できるかどうかは、不変資本が、適切な比率で、各労働過程の特有なる技術的条件によって与えられている比率で、前貸しされていなければならない。とはいえ、化学的過程に必要なレトルトや容器が整ったからと云って、化学者に、彼の分析結果を、これらの器材の整列のみから見出すように迫ることなどありえない話である。もし、我々が、生産手段を、見るならば、価値創造との関係において見るならば、そして価値量の変化との関係において見るならば、そしてその他の関係とは切り離して見るならば、それらは、単純に、素材として表れてくる。それは、労働力が、価値を創造する力が、労働力自体を一体化する対象としての素材として表れてくる。自然も、この素材も、なんら重要ではない。ただ一つ重要なのは、生産過程において、拡大された労働を吸収するに充分な素材の供給が継続すると云うことである。一旦与えられたこのような供給で、素材の価値は上昇または下落するであろう、または、大地や海のように、それ自体になんら価値がなくなるかも知れない。だが、この事は、価値の創造 または 価値の量における変化に関してなんら影響を与えるものではない。〉

 (付属資料(2)に続きます。)

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(6)

2023-01-09 23:05:33 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (6)

 

  【付属資料】 (2)

 


●原注27

《初版》 初版にはこの原注はない。ただ第5パラグラフのあとに全集版にはない原注27が入っているので、ここではその原注27を紹介しておく。

 〈(27)「加法または減法の演算によって可変量に結びつけられている不変量は、微分すればゼロになる。」(J・ハインド『徴分学。ケンブリッジ、1831年』、126ページ。)じっさい、ある不変量の量的変化というものは実在しない。だから、微分学の法則、すなわち、ある不変量の微分はゼロに等しい、が成り立つことになる。〉(江夏訳228頁)

《フランス語版》

 〈(2) ルクレティウスが.、"nil posse creai de nihilo"と言ったように、無からはなにものも創造されえないことは自明である。価値の創造とは、労働力の労働への転化である。この労働力のほうは、まず、人間有機体に転化された自然素材の全体である。〉(江夏・上杉訳208頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: ルクレティウスが述べたことは、自明である。「無は無の創造者になることができる。」(ラテン語 ) 無からは、何も作り出せない。価値の創造は、労働力の労働への変換である。労働力自体は、慈しみ深き育成意図 ( by means of nourishing matter. 訳者として訳出はしたものの、意味不明を恐れて、原文をコピペ、「自然」というのが最適と思うが、by Natureではないので敢えて捻出してみた。) によって、人間という生物に移管されたエネルギーである。〉


●第9パラグラフ

《61-63草稿》

 〈したがって、可変であるのは、資本のうちの第3の部分、すなわち労働能力と交換される、言い換えれば労賃に前貸しされる部分だけである。第一に、それは現実に再生産される。労働能力の、あるいは労賃の価値は消滅させられ、(〔労働能力は〕価値も使用価値も)労働者によって消費される。ところがこの価値は、新たな等価によって補塡される。すなわち、労賃に対象化された労働時間に等量の生きた労働時間がとって代わるのであり、これを労働者は原料に付加する、言い換えれば生産物に物質化するのである。しかし第二に、資本のうちのこの価値部分は、ただ再生産され、単に等価によって補塡されるばかりではない。それは現実の生産過程のなかで、それ自身のなかに含まれている労働プラス超過分量の労働すなわち剰余労働、に等しい分量の労働と交換されるのであり、労働者は、彼自身の賃銀の再生産のために〔必要である〕・つまり資本のうち賃銀に帰着する価値構成部分に/含まれている・労働時間を越えて、この剰余労働を行なうのである。したがって、不変資本に含まれている労働時間をC、可変資本に含まれている労働時間をV、労働者が必要労働時間を越えて労働する時間をMと名づけるならば、P〔生産物〕に含まれている労働時間、言い換えれば生産物の価値は、C+Ⅴ+Mに等しい。当初の資本はC+Ⅴに等しかった。だから、資本の価値のうち資本の当初の価値を越える超過分はMに等しい。しかし、Ⅴの価値は、第一にⅤとして再生産され、第二にMだけ増加されているのにたいして、Cの価値は、単に生産物のなかに再現するだけである。したがって、資本のうち価値部分Ⅴだけが、それがⅤ+Mとして再生産されたことによって、変化したのである。だから、MはⅤの変化の結果にすぎず、また剰余価値が創造される割合はV:Mとして、つまり総資本のうちの価値構成部分Ⅴに含まれている労働時間が生きた労働時間と交換された割合で、あるいは同じことであるが、必要労働の剰余労働にたいする割合で、V:Mの割合で、表現されるであろう。新たに創造された価値は、ただⅤの変化の結果として、ⅤのⅤ+Mへの転化の結果として生じるだけである。資本の価値を増加させるのは、言い換えれぽ剰余価値を生むのは、資本のうちのこの部分だけなのである。したがって、剰余価値が生みだされる割合は、MのⅤにたいする割合であり、資本のうちⅤとして表現された価値部分が、再生産されるばかりでなく増大する割合である。その最良の証明は、もしⅤが単に、それ自身に含まれている労働時間に等しい労働時間によって補塡されるにすぎないのであれば、剰余価値はまったく創造されず、むしろ生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい、ということである。
  *かりにCがゼロであり、資本家は労賃(可変資本)だけしか前貸ししないとしても、Mの大きさは同じままであろう。もっとも生産物のどの部分もCを補塡しないのではあるが。
  つまり、そもそも剰余価値が、資本に対象化された労働と交換される生きた労働の超過分にほかならない、あるいは同じことであるが、労働者が必要労働を越えて労働する不払労働時間にほかならない以上、剰余価値の大きさ、剰余価値の、それが補塡する価値にたいする割合、剰余価値が増大する割合も、まさに、M:Ⅴの割合、必要労働にた/いする剰余労働の割合によって、あるいは同じことであるが、資本家によって労賃として前貸しされた労働時間の、労働の剰余にたいする、等々の割合によって規定されている。だから、必要(賃銀を再生産する)労働時間が10時間で、労働者が12時間、労働する場合には、剰余価値は2時間に等しく、前貸しされた価値が増加した割合は2:10、すなわち1/5=20%であって、このことは、不変資本部分に・Cに・含まれている労働時間の合計がどれだけであろうと、5O、6O、1OO労働時間であろうと、要するにⅩ労働時間であろうとも、したがって資本のうちの不変部分にたいする可変部分の割合がどのようなものであろうと、変わりない。すでに見たように、この不変部分の価値は、単に生産物のなかに再現するだけであって、生産過程そのもののあいだに生じる価値創造とはまったくなんのかかわりもないのである。〉(274-277頁)
 〈剰余価値の率は、つねに、可変資本にたいする剰余価値の割合によって表現される。というのは、可変資本は支払労働時間の絶対的な大きさに等しく、剰余価値は不払労働時間の絶対的な大きさに等しいからである。したがって、可変資本にたいする剰余価値の割合は、つねに、支払労働日部分にたいする不払労働日部分の割合を表現する。〉(草稿集⑤270頁)

《賃金・価格・利潤》

 〈剰余価値の率は、ほかの事情がすべて同じだとすれば、労働日のうち労働力の価値を再生産するのに必要な部分と、資本家のために遂行される剰余時間つまり剰余労働との比によって決まるであろう。したがってそれは、労働者が働いて、たんに自分の労働力の価値を再生産する、つまり自分の賃金を補塡するにすぎないような程度を超過して労働日がひきのばされる割合によって決まるであろう。〉(全集第16巻133頁)

《初版》

 〈かくして、われわれはさしあたり、不変資本部分をゼロに等しいとする。したがって、前貸資本はc+vからvに還元され、生産物価値(c+v)+mは価値生産物(v+m)に還元される。生産過程の全継続期間にわたって流動する労働は、価値生産物=180ポンド・スターリングのうちに表わされているが、この価値生産物=180ポンド・スターリングが与えられていれば、剰余価値=90ポンド・スターリングを得るためには、可変資本の価値=90ポンド・スターリングを控除しなければならない。90ポンド・スターリング=mという数は、ここでは、生産された剰余価値の絶対量を表わしている。ところが、剰余価値の割合的な量、つまり、可変資本が価値増殖した割合は、明らかに、可変資本にたいする剰余価値の割合によって規定されている。すなわち、m/vで表わされている。つまり、上述の例では、90/90=100%で表わされている。こういった、可変資本の価値増殖の割合、すなわち、剰余価値の割合的な量を、私は剰余価値率と呼ぶ(28)。〉(江夏訳229-230頁)

《フランス語版》

 〈そこで、われわれはまず、資本の不変部分をゼロに等しいとする。したがって、前貸資本c+vはvに、生産物価値(c+v)+pは生産された価値v+pに縮められる。生産された価値が180ポンド・スターリング--このなかに、生産の全継続期間中に流出する労働が現われる--に等しいと仮定すれば、90ポンド・スターリングの剰余価値を得るためには、可変資本の価値、すなわち90ポンド・スターリングを差し引かなければならない。この90ポンド・スターリングがここでは、生産された剰余価値の絶対量を表現する。その比例値、すなわち、可変資本が価値増殖した比率について見れば、それは明らかに、可変資本にたいする剰余価値の比率によってきめられ、p/vによって表現される。前例では、それは90/90=100%である。この比例値は、われわれが剰余価値率と呼ぶものである(3)。〉(江夏・上杉訳208頁)

《イギリス語版》

  〈(9)だから、まず最初は、我々は、不変資本を0と置く。前貸し資本は、その結果、c + v から vへと表記が短くなる。生産物の価値( c + v) + s に代わって、ここでは、我々は、生産された価値を、(v + s) と表す。与えられた新たに生産された価値= 180英ポンド、この額は、結果として、過程において支出された全労働を表している。そして、ここから、可変資本の90英ポンドを引けば、残りの90英ポンドが手に残り、それが剰余価値の量である。この90英ポンドの額、またはsは、生産された剰余価値の絶対量を表す。生産された相対量、または、可変資本に対する増加率、これが、可変資本に対する剰余価値の比率として得られること、または、s/v. で表されることは、云うまでもない。我々の例では、この比率は 90/90 であり、100% の増加を示す。可変資本の価値の相対的増加、または、剰余価値の相対的な大きさを、我々は、「剰余価値率」と云う。〉


●原注28

《経済学批判要綱》

  〈さきほど展開した一般的諸法則は、次のように簡単に要約することができる。現実の剰余価値は、必要労働にたいする剰余労働の割合によって、あるいは、資本の一部分の、つまり生きた労働と交換される対象化された労働の部分の、この部分に置き代わって対象化される労働の部分にたいする〔割合〕によって規定されている。ところが、利潤の形態にある剰余価値は、生産過程に前提された資本の総価値で測られるのである。だから利潤の率は--必要労働にたいする剰余価値、剰余労働の割合が同じであると前提すれば--、生きた労働と交換される資本部分の、原料および生産手段の形態で存在する資本部分にたいする割合に左右される。したがって、生きた労働と交換される部分が少なくなればなるほど、利潤の率はそれだけ小さくなる。だから、生産過程のなかで、直接的労働と比べて、資本としての資本が占める部分が大きくなるのに比例して、つまり、相対的剰余価値が--資本の価値制造力が--増大すればするほど、利潤の率はそれだけますます低下するのである。……。それゆえ、剰余価値が同じすなわち剰余労働と必要労働との割合が同じだと前提しても、利潤は不等でありうるし、またそれは、諸資本の大きさとの割合では、不等であらざるをえないのである。〉(草稿集②555頁)
  〈だから、一般的に表現すればこうなる。--資本が大きくなって利潤率が減少するとしても、それが資本の量に比例するほどでなければ、利潤の率は減少するにもかかわらず、総利潤は増大する。利潤率が資本の量に比例して減少するのであれば、その総利潤は小さかった資本のそれと同じままである、つまり不変である。利潤率が資本の量が増大するのよりも大きな割合で減少するならば、大きくなった資本の総利潤は、小さかった資本のそれに比べて、利潤率が減少するのと同じように減少する。これは、あらゆる点で、近代の経済学の最も重要な法則であり、そしてもっとも困難な諸関係を理解するための最も本質的な法別である。それは、歴史的見地から見て、最も重要な法則である。それは、その単純さにもかかわらず、これまでけっして理解されたことがなく、まして意識的に言い表わされたこともない法則である。利潤の率のこの減/少は次のことと同意である。--(1)すでに生産された生産力、および、それが新たな生産のために形成する物質的基礎。このことは、同時に、もろもろの科学力〔scientific powers〕の巨大な発展を前提する。(2)すでに生産された資本のうちの、直接的労働と交換されなければならない部分の減少。すなわち、大量の生産物に、しかもより低い価格の--なぜなら価格の総合計額は、再生産される資本・プラス・利潤に等しいのだから--大量の生産物に表現される膨大な価値の再生産に必要とされる直接的労働の減少。(3)資本の大きき一般、またそのうちの固定資本でない部分の大きさ。したがって、大規模に発展した交易の大きさ、大量の交換取引総額、市場の大きいこと、および、同時的労働の多様性。交通・通信手段等々、この膨大な過程に従事するのに(労働者が食ったり住んだり等々するために)必要な消費ファンドの現存。〉(草稿集②557-558頁)

《初版》

 〈(28) イギリス人が利潤率、利子率、等々の語を用いるのと同じやり方で、こう呼ぶのである。第3部を読むと、剰余価値の法則を知れば利潤率は理解しやすいことがわかるであろう。逆の行き方ではどちらも理解されない。〉(江夏訳230頁)

《フランス語版》

 〈(3) 人は同様に、利潤率、利子率など(英語ではrate of profitsなど)と言う。剰余価値の法則を知れば、利潤率が規定しやすくなることは、第3部でわかるであろう。これと逆の経路では、両者のどちらも見出されない。〉(江夏・上杉訳頁208)

《イギリス語版》

  〈本文注: 英国人は、同じ意味で、利益率とか利子率という言葉を使う。我々は、剰余価値の法則を知っているかぎり、この利益率はなんの神秘でもない。これらについては、第三巻で示すことになろう。だが、もし、この逆の方法を取れば、利益率から剰余価値率を考えるとなれば、我々は、その一つも、また、もう一つの方も理解することはできないであろう。〉


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈対象化された労働が生きた労働と交換される割合--つまり労働能力の価値と資本家によるこの労働能力の利用〔Verwertung〕との差--は、生産過程そのもののなかではそれとは別の形態をとる。すなわちここではそれは、生きた労働そのものの、どちらも時間によって測られるニつの分量への分裂として、またこの二つの分量の割合として、表わされるのである。つまり、第一には、労働者は自分の労働能力の価値を補塡する。かりに、彼の日々の生活手段の価値が1O労働時間に等しいとする。彼がこの価値を再/生産するのは、10時間労働することによってである。労働時間のうちのこの部分を、われわれは必要労働時間と呼ぶことにしよう。というのは次のようなわけである。かりに、労働材料および労働手段が--対象的な労働諸条件が--労働者自身の所有物であるとしよう。この場合、前提によって、彼が1O労働時間分の生活手段を日ごとに取得できるためには、自分自身の労働能力を再生産できるため、生存し続けることができるためには、彼は日々10時間労働しなければならず、労働時間10時間の価値を日々再生産しなければならない。彼の10時間の労働の生産物は、加工された原料と消耗された労働用具〔Arbeitswerkzeug〕とに含まれている労働時間、プラス、彼が原料に新たに付加した10時間の労働、に等しいであろう。彼が自分の生産を続けようとするならば、すなわち自分のために生産諸条件を維持しようとするならば、彼が消費できるのは、この生産物のうちのあとのほうの部分だけであろう。というのは、原料および労働手段をたえず補塡しうるためには、すなわち、10時間の労働の実現(充用)に必要なだけの原料および労働手段が日々新たに自由に使えるためには、彼は日々、原料と労働手段との価値を自分の生産物の価値から控除しなければならないからである。労働者の平均して日々必要とする生活手段の価値が1O労働時間に等しい場合には、自分の日々の消費を更新すること、また労働者として必要な生活諸条件を手に入れることができるためには、彼は日々、平均して10労働時間、労働しなければならない。彼自身が労働諸条件--労働材料および労働手段--の所有者であるかないか、彼の労働が資本のもとに包摂されているか包摂されていないか、ということをまったく度外視しても、この労働は彼自身にとって、彼自身の自己維持のために、必要であろう。労働者階級自身の維持のために必要な労働時間として、われわれは労働時間のうちのこの部分を、必要労働時間と呼ぶことができるのである。
  同時にまた、さらに別の観点から。
  労働能力そのものの価値を再生産する--これはすなわち、労働者を消費することを日々反復できるのに必要である、労働者を日々生産することを意味する--ために必要な労働時間、言い換えれば、労働者が、彼自身労賃の形態で日々受け取り日々費消する価値を生産物に付加するのに用いる労働時間は、全資本関係が労働者階級の不断の定在を、この階級の継続的な再生産を前提し、また資本主義的生産が労働者階級の不断の現存、維持、再生産を自己の必然的前提とするかぎりは、資本家の立場からしでも、必要労働時間である。
  さらに。かりに、生産に前貸しされた資本のもつ価値が、ただ単に維持され再生産されるだけだとしよう、すなわち資本家は生産過程で新たな価値を入手しないとしよう。この場合、生産物の価値が前貸しされた資本のもつ価値に等しくなるのは、ただ、労働者が原料に、彼が労賃の形態で受け取るのと同じだけの労働時間を付加した場合、すなわち彼が自分自身の労賃の価値を再生産した場合だけだ、ということは明らかである。労働者が自分自身の日々の生活手段の価値を再生産することのために必要である労働時間は、同時に、資本が自己の価値を単に維持、再生産することのために必要である労働時間である。
  われわれは、10時間という労働時間が労賃に含まれている労働時間に等しいと仮定してきた。つまり、労働者が資本家に、労賃の価値と引き換えにその等価を返付するにすぎない労働時間は、同時に必要労働時間であり、労働者階級自身の維持のためにも、また前貸しされた資本の単な/る維持、再生産のためにも、そして最後に資本関係一般の可能性のためにも必要な労働時間である。〉(草稿集④269-272頁)
  〈賃金に支出される資本部分は、(剰余労働を度外視すれば)新たな生産によって補塡される。労働者は賃金を消費してしまうが、しかし彼は、彼が旧労働量を消滅させてしまったのと同じだけの新労働量をつけ加える。そして、われわれが分業によって迷わされることなく全労働者階級を考察するならば、労働者は同じ価値を再生産するだけではなく同じ使用価値を再生産するのであり、したがって、彼の労働の生産性に応じて、同じ価値、同じ労働量が、この同じ使用価値のより多くの量または少ない量をもって再生産されるのである。〉(草稿集⑤112頁)

《初版》

 〈すでに見たように、労働者は、労働過程のある期間中は、自分の労働力の価値しか、すなわち、自分の必要生活手段の価値しか、生産しない。彼は、社会的分業にもとづく状態のもとで生産するのであるから、自分の生活手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品たとえば糸という形態で、自分の生活手段の価値に等しい価値を、または、彼がこの生活手段を買うための貨幣に等しい価値を、生産するのである。彼の労働日のうちで彼がこのために費やす部分は、彼の平均的な日々の生活手段の価値に応じて、つまり、この生活手段の生産に必要な平均的な日々の労働時間に応じて、より大きくもなればより小さくもなる。この日々の生活手段の価値量が、平均して、対象化された6労働時間を表わすならば、労働者は、この価値量を生産するために、平均して日々6時間労働しなければならない。彼が資本家のためではなく独立の生産者として労働するとしても、その他の事情が変わらなければ、彼は、自分の労働力の価値を生産するためには、そうすることによって自分自身の保存あるいは不断の再生産に必要な生活手段を得るためには、相変わらず、平均して、1日のうちの同じ部分だけ、労働しなければならないであろう。ところが、1労働日のうち彼が労働力の日価値たとえば3シリングを生産する部分では、彼は、資本家からすでに支払われた価値の等価しか生産しないから、つまり、新たに創造された価値をもってしては、前貸しされた可変資本価値しか補塡しないから、この価値生産は、単なる再生産としで現われている。だから、私は、労働日のうちでこの再生産が行なわれる部分を、必要労働時間と呼び、この時間中に支出される労働を、必要労働と呼ぶ(29)。それが労働者にとって必要であるのは、それが、彼の労働の社会的形態にかかわりなく必要だからである。それが資本と資本の世界にとって必要であるのは、労働者の不断の存在が、資本とその世界との基礎だからである。〉(江夏訳230-231頁)

《フランス語版》

 〈われわれがすでに見たように、労働者は、所与の生産作業が必要とする時間の一部分のあいだには、自分の労働力の価値、すなわち、自分の生計に必要な生活手段の価値しか生産しない。彼の生産が行なわれる環境は、自然発生的な社会的分業によって組織されているから、彼は自分の生活手段を直接に生産するのではなく、ある特殊な商品の形態、たとえぽ糸の形態で生産するのであって、その価値は彼の生活手段の価値、あるいは、彼がこの生活手段を買うために用いる貨幣の価値に等しい。彼の労働日のうち彼がそのために充用する部分は、彼の日々の生活手段の平均的な価値に応じて、すなわち、それを生産するために毎日必要とされる平均的な労働時間に応じて、あるいはより大きくなりあるいはより小さくなる。彼が資本家のためにではなく、自分自身のためにのみ労働するばあいでも、すべての事情が等しいままであれば、自分の暮しを立てるために、彼は相変わらず、1日のうちの同じ部分だけ平均して労働しなければならないであろう。だが、1日のうちで、彼の労働力の日価値すなわち3シリングを生産する部分では、資本家によってすでに支払われた価値の等価しか生産せず、したがって、ある価値を他の価値で償うにすぎないのであるから、この価値生産は実際上、単なる再生産でしかない。したがって、私は、1労働日のうちこの再生産が行なわれる部分を必要労働時間と名づけ、この時間中に支出される労働を必要労働と名づける(4)。労働者にとって必要というわけは、それが彼の労働の社会的形態にかかわりないからであり、資本と資本家の世界にとって必要というわけは、この世界が労働者の存在を基礎としているからである。〉(江夏・上杉訳209頁)

《イギリス語版》

  〈(10)我々が見て来たように、労働者は、労働過程の一つの時間部分では、彼の労働力の価値のみを生産する。それは、彼の生存のための価値である。ところで、彼の仕事は、労働の社会的区分に基づいており、諸関連の一部をなしているのであるから、彼は、彼自身が消費する現実に必要なものを、直接生産することはできない。それに替わって、彼は特定の商品を生産する。例えば、撚糸である。そして、その価値が、彼が必要とするものの価値と等しい。または、彼が必要とするものを買うことができる貨幣と等しいものとなる。この目的のために用いられる彼の労働日の該当部分は、彼が日々求める平均的な必要品の価値に比例して、または、同じ量となるが、それらを生産するに要する平均的労働時間に比例して、大きくもなり小さくもなる。もし、それらの必要品の価値が、平均的に、6労働時間の支出として表されるならば、その価値を生産するために、作業者は、平均6時間の作業をしなければならない。もし、資本家のために作業するのに代わって、彼自身のために独立して働くとしても、他の状況が同じであれば、依然として、同じ時間数の労働は免れない。彼の労働力の価値を生産するために、そして彼自身の保全または彼自身の再生産の継続のために、その労働量からは免れない。しかし、我々が見て来たように、彼の労働力の価値3シリングであるが、それを生産する 彼の労働日のその部分で、彼は、資本家によってあらかじめ前貸しされた彼の労働力の価値の等価分のみを生産する。
  新たに創造された価値は、ただ、前貸しされた可変資本を置き換えたものに過ぎない。このことは、次の事実による。すなわち、3シリングの新たな価値の生産は、単なる再生産の外観を取る。であるから、作業日のその部分、この再生産が行われる時間を、私は、「必要」労働時間と云う。そして、その時間に支出される労働を、私は、「必要」労働と云う。(いずれもイタリック ) 必要とは、労働者に関して云えば、彼の労働の特定の社会的形式から独立しているからであり、必要とは、資本に関して、そして、資本家の世界に関して云えば、労働者の継続的な存在に、彼等自身の存在が依拠しているからである。〉


●原注28a

《初版》 初版にはこの原注はない。

《フランス語版》 フランス語版にはこの原注は当然のことながらない。

《イギリス語版》

  〈本文注: 予め前貸しされた とある所に、エンゲルスが注を付けている。ドイツ語版第三版に追記された注 - 著者は、ここで、経済用語を通常の使用法を用いて訴えている。第6章 文節(17 )が思い起こされるであろう。そこには、真実は、労働者が資本家に前貸しするのであって、資本家が労働者に、ではないのである。と書かれている。〉


●原注29

《初版》

 〈(29) 本書ではこれまで、「必要労働時間」という言葉を、一商品の生産におしなべて社会的に必要な労働時間という意味で用いてきた。これからは、労働力という独自な商品の生産に必要な労働時間という意味でも、この言葉を用いることにする。同じ術語をちがった意味で用いることは、不都合であっても、どんな科学でも完全には避けられない。たとえば高等数学と初等数学とを比較せよ。〉(江夏訳231頁)

《フランス語版》

 〈(4) われわれはこれまで、なんらかの商品の生産に社会的に必要な労働時間を示すために、「必要労働時間」という言葉を用いてきた。われわれは今後、独自な商品--労働力--の生産に必要な労働時間を示すためにも、やはりこの言葉を用いる。同じ術語をちがう意味で用いることは、確かに不都合であるが、これはどんな科学においても避けることができない。たとえば、高等数学と初等数学を比較せよ。〉(江夏・上杉訳209頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 必要労働時間という言葉を、この著作においては、今まで、ある商品の生産のために、ある社会的条件において、必要な時間を意味するものとして用いてきた。だが、これ以降、特定の商品 労働力 の生産のために必要な時間を意味するものとしてもまた、用いる。一つの同じ言葉を違った意味に用いるのは不便であるが、これらを全て排除できる科学もない。例えば、高等数学で、初等数学の用語を用いるのと比較できよう。(訳者が思いつくのは、足し算である。高等数学では引き算も負数の足し算として現われる。)〉


●第11パラグラフ

《61-63草稿》

 〈このこと(剰余価値--引用者)が可能なのは、(商品がその価値で売られると前提すれば)、労働価格(労賃)に対象化されていた労働時間が、生産過程でこの時間を補塡する生きた労働時間よりも小さい、ということによってでしかない。資本の側で剰余価値として現われるものは、労働者の側では、剰余労働(Surplusarbeit)として現われるのである。剰余価値とは、労働者が/彼の賃銀のかたちで、彼の労働能力の価値として受け取った、対象化された労働の分量を越えて彼が与える、労働の超過分以外のなにものでもない。〉(草稿集④268-269頁)
  〈したがって、前提によれば、労働者の労働する最初の10時間が必要労働時間であり、そしてこの時間は、同時に、彼が労賃の形態で受け取った、対象化された労働時間にたいする等価でしかないのである。労働者がこの10時間を越えて、この必要労働時間を越えて労働する、すべての労働時間を、われわれは剰余労働と呼ぶことにしよう。彼が11時間労働するときには、彼は1時間の剰余労働を提供したのであり、12時間労働するときには、2時間の剰余労働を提供したのである、等々。生産物が前貸しされた資本の価値を越えてもつのは、第一の場合には1時間の剰余価値であり、第二の場合には2時間の剰余価値である、等等。しかしどんな事情のもとでも、生産物がもつ剰余価値は、剰余労働の対象化にすぎない。そもそも価値とは対象化された労働時間にすぎないのであって、同様に剰余価値とは、対象化された剰余労働時間にすぎないのである。つまり剰余価値とは、労働者が必要労働時間を越えて資本家のために労働する労働時間に帰着するのである。〉(草稿集④272頁) 
  〈ワラキアの夫役労働とイギリスの賃労働とを対比する場合、次の点をしっかりとつかまえておかなければならない。1労働者の日々の総労働時間が12時間または14時間からなり、必要労働時間がどちらの場合にも10時間にしかならないとするならば、労働者は第一の場合には週6日に6×2すなわち12時間、第二の場合には6×4すなわち24時間の剰余労働を提供することになる。第一の場合には[彼は]6日のうち1日を、第二の場合には2日を、資本家のために等価なしで労働することになる。このことは、帰するところ、1年じゅう毎週毎週、彼は週のうちの1日、または2日、またはⅹ日を資本家のために労働し、週のそのほかの日々を自分自身のために労働する、ということであろう。これは、夫役労働、たとえばワラキアのそれの場合に〔必要労働と剰余労働との〕関係が直接に姿を現わすさいの形態である。この一般的な関係はどちらの場合でも、その形態--この関係の媒介--は異なってはいるが、本質から見れば同一である。〉(草稿集④280頁) 
  〈労働せずに(使用価値の生産に直接参加せずに)生きていく人々が少しでもいるような社会が存在する場合には、社会の上部構造の全体が労働者の剰余労働を存在条件としていることは明らかである。彼らがこの剰余労働から受け取るものには二とおりある。第一に、生活の物質的諸条件であって、彼らは、労働者が自分自身の労働能力の再生産のために必要な生産物を越えて提供する生産物を分かちあい、またそれをあてにしそれによって生きていくわけである。第二に、余暇のためであろうと、直接には生産的でない諸活動(たとえば戦争や国家機関)の遂行のためであろうと、直接的に実用的な目的を追求するのではないような人間の諸能力や社会的諸力能(芸術等々、学問)の発展のためであろうと、彼らが思うままに処分できる自由な時間は、労働する大衆の側での剰余労働を前提する。すなわち、労働大衆は彼ら自身の物質的生活の生産に必要である以上の時間を物質的生産のなかで使わなければならない、ということを前提するのである。労働しない諸々の社会部分の側での自由な時間剰余労働あるいは超過労働を、労働する部分の剰余労働時間を基礎としており、一方の側での自由な発展は、労働者が彼らの全時間を、したがって彼らの発展の余地を、特定の諸使用価値の単なる生産のために使わなければならない、ということを基礎としており、一方の側での人間諸能力の発展は、他方の側での発展を押し止めるような制限を基礎としている。これまでのすべての文明や社会的発展は、これらの敵対を基礎としているのである。したがって一方では、一方の人々の自由な時間が、他方の人々の、労働のくびきにつながれた時間--彼らが単なる労働能力として定在し活動する時間--からなる超過労働時間に対応する。他方では、剰余労働は、より多くの価値に実現されるばかりでなく、剰余生産物--労働する階級が彼ら自身の生計のために必要とし消尽する限度を越える生産余剰--にも実現される。価値はなんら/かの使用価値のなかに存在する。したがって剰余価値は剰余生産物のなかに存在する。剰余労働は剰余生産のうちに存在し、そしてこの剰余生産が、直接には物質的生産に吸収されていないすべての階級の存在にとっての土台をなすのである。社会はこのように、その物質的土台をなす労働する大衆の発展喪失状態によって、つまり対立において、発展するのである。剰余生産物が剰余価値を表現することはけっして必要でない。2クォーターの小麦が以前の1クォーターの小麦と同じ労働時間の生産物であるならば、この2クォーターは以前の1クォーターよりも高い価値を表現しはしない。しかし、生産諸力の発展が一定の、所与のものとして前提されている場合には、剰余価値はつねに剰余生産物として表現される。すなわち、2時間によって造りだされた生産物〈使用価値〉の量は1時間によって造りだされた生産物の量の2倍である。さらに明確に表現すれば、労働する大衆が彼ら自身の労働能力の再生産のために、彼ら自身の生存のために必要な限度を越えて、つまり必要労働を越えて労働する剰余労働時間、剰余価値として表わされるこの剰余労働時間は、同時に剰余生産物に物質化されるのであって、この剰余生産物が、労働する階級以外の生活しているすべての階級の、社会の全上部構造の、物質的な存在基盤なのである。この剰余生産物は同時に時間を自由にして〔時間をつくって〕、これらの階級に、〔労働する能力以外の〕そのほかの能力の発展のための、思うままに処分できる時間を与える。一方の側での剰余労働時間の生産は、このように、同時に他方の側での自由な時間の生産である。人間の自然的な生存のために直接に必要な発展を越えるものであるかぎりでの人間的発展の全体が、この自由な時間の利用にほかならないのであり、この時間をその欠くべからざる土台として前提するのである。社会の自由な時間はこのように不自由な時間、つまり自分自身の生存に必要な労働時間を越えて延長された労働者の労働時間、この時間の生産によって生産されている。一方の側での自由な時間が他方の側での隷属化された時間に対応するのである。/
  ここで考察している剰余労働の形態--必要労働時間の限度を越えて〔労働時間が延長されるという形態〕--は、純粋な自然関係を越える発展が、したがってまた敵対的な発展が生じており、一方の人々の社会的発展が他方の人々の労働をその自然的土台にするような、そのような社会形態のすべてと資本とに共通のものである。
  ここで考察されているような剰余労働時間--絶対的な剰余労働時間--は資本主義的生産においても、--もう一つ別の形態をわれわれは知ることになるのではあるが--依然として土台であり続けるのである。
  ここには労働者と資本家との対立しかない以上、労働しないすべての階級は剰余労働の生産物を資本家と分かちあわなければならない。だからこの剰余労働時間は、それらの階級の物質的生存の土台を創造するばかりでなく、同時/に彼らの自由な時間を、彼らの発展の領域を創造するものである。〉(草稿集④296-299頁)
  〈資本主義的生産においては資本が労働者に彼の必要労働時間を越えて--すなわち労働者自身の労働者としての生活欲望の充足のために必要とされる労働時間を越えて--労働することを強制する、という点から見れば、このような関係としての、すなわち生きた労働にたいする過去の労働の支配としての資本が、剰余労働を、したがってまた剰余価値を創造、生産するのである。剰余労働とは、労働者の、個人の、彼の必要の諸限界を越える労働であり、事実上、社会のための労働である、--といっても、ここではさしあたり資本家が、社会の名においてこの剰余労働を取り立てるのではあるが。この剰余労働は、す/でに述べたように、一方では社会の自由な時間の土台であり、同時に他方では、社会の全発展の、また文化一般の物質的土台である。社会の大衆に彼らの直接的必要を越えるこの労働を強制するものが資本の強制であるという点から見れば、資本が文化を創造するのであり、資本が一つの歴史的社会的機能を発揮するのである。それと同時に、労働者自身の直接に物質的な諸欲望によって必要とされる時間を越える〔労働を行なうような〕、社会一般の全般的な勤勉さが創造される。〉(草稿集④305-306頁)
  〈社会が階級的敵対にもとづいているところではどこでも、したがって一方では生産諸条件の所有者が支配しており、他方では無産者、つまり生産諸条件の所有から排除された人々が労働しなければならず、自分たちの労働によって自分たちと自分たちの支配者たちとを維持しなければならないところではどこでも、支配階級のすべてが或る種の限界のなかではこの同じ強制を--たとえば奴隷制では賃労働におけるよりもはるかに直接的な形態で--加え、したがってまた同様に、単なる自然的必要によって労働に画されている限界以上に労働を強要するということ、--たしかにこのことは明らかである。だが、使用価値が優勢であるような状態のすべてにおいて、労働時間は、労働者たち自身の生活手段のほかに支配者たちに一種の家父長制的富を・ある量の使用価値を・提供するところまでそれが延長されさえするかぎり、比較的どうでもよいことである。しかし、交換価値が生産の規定的要素となるにつれて、自然的必要の限度を越える労働時間の延長はますます決定的となっていく。たとえば、奴隷制や農奴制が商業のほとんど営まれていない諸国民のもとで支配的に行なわれている場合には、過度労働は考えられない。それゆえ、奴隷/制や農奴制が最も憎むべき形態を取るのは、たとえばカルタゴ人たちのような商業国民の場合であるが、他の諸国民との関係が〔発展しているような〕時代に奴隷制や農奴制を自らの生産の土台として保持している諸国民の場合には、さらに資本主義的生産の場合には--だからたとえばアメリカ連邦の南部諸州においては--それはなおさらそうなのである。
  資本主義的生産においてはじめて、交換価値が全生産を、また社会の全編制を、支配するのだから、労働にたいしてその必要の諸限界をのりこえさせるために資本が加える強制は最大である。同様に、資本主義的生産においてはじめて、必要労働時間(社会的必要労働時間)があらゆる生産物の価値の大きさを包括的に規定するのだから、この生産のもとではじめて、労働者たちがどの対象の生産のためにも、一般的社会的な生産諸条件のもとで必要な労働時間しか使わないように一般的に強制されるととによって、ここでは労働の強度はかなり高い程度にまで達する。奴隷所有者の鞭がこの強度を、資本関係の強制がっくりだすのと同じ程度でつくりだすことはありえない。資本関係においては、自由な労働者は自分の必然的な諸欲望を満たすために、第一に自分の労働時間を必要労働時間に転化させ、自分の労働時間に一般的社会的に(競争によって)規定される程度の強度をもたせなければならず、第二に自分自身のために必要な労働時間を労働することを許される(そうすることができる)ために、剰余労働を提供しなければならない。これにたいして奴隷が自分の必然的な諸欲望を満たすのは動物がするのと同じ仕方によってであり、だからまた、どの程度まで鞭等々が奴隷に、この生活手段の代わりに労働を引き渡す気にさせることになるのか、どの程度まで鞭等々が、奴隷にとってそうするだけの動因であるのか、ということは、奴隷の自然的素質にかかっている。労働者は、自分の生活手段を自分自身のために調達するために、自分自身の生活をかちとるために、労働する。奴隷はほかのだれかによって生かしておかれ、この者によって労働することを強制されるのである。〉(草稿集④306-307頁)
  〈それゆえ、労働時間がその自然発生的ないし伝統的な諸制限を越えて進み出る--労働時間を延長する--だけで、その結果として、社会的労働が新たな生産諸部門で用いられることになるであろう。というのは、労働時間が自由になるからである--それに剰余労働は自由な時間を創造するばかりではなく、ある生産部門に縛りつけられていた労働能力を、労働一般を、新たな諸部門のために(このことが要諦〔Punkt〕である)自由にするのである--。だが、ある範囲の諸欲望の充足がかなえられればすぐに新たな諸欲望が自由となり〔満たされていないものとなり〕、創造される、というのが、人間の本性の発展法則の特質である。それゆえ資本は、労働時間を、労働者の自然的必要の充足すベく規定された限度をのりこえて、推進することによって、社会的労働の--社会の全体における労働の--分割〔社会的分業〕の増大、生産の多様性の増大、社会的諸欲望の範囲とそれらの充足の手段との拡大を推進し、したがってまた人間の生産能力の発展をも、それとともに人間のもろもろの素質の新たな諸方向での実証を推進するのである。けれども、剰余労働時間が自由な時間の条件であるのと同じく、諸欲望の範囲とそれらの充足の手段とのこうした拡大は、労働者を必然的な生活諸欲望に縛りつけることを条件としているのである。〉(草稿集④309頁)
  〈労働者に剰余労働を強制する関係は、彼の労働諸条件が彼に対立して資本として定在しているということである。彼にはどんな外的強制が加えられるわけでもないが、しかし彼は生きていくためには--商品がその価値によって規定されているような世の中では--自分の労働能力を商品として売ることを強制されるのであり、他方、この労働能力の、それ自身の価値を越える価値増殖的利用〔Verwertung〕は資本のものとなる。こうして彼の剰余労働は、生産の多様性を増加させるのと同様に、他の人々のための自由な時間を創造するのである。経済学者たちは好んでこの関係を、自然関係または神の摂理と解する。〉(草稿集④322頁)

《初版》

 〈労働者が必要労働の限度を越えて骨折りする期間、労働過程の第二の期間は、確かに、彼にとっては、労働すなわち労働力の支出を必要とするが、彼のために、一文の価値をも形成するものではない。それが形成するものは、無からの創造という全魅力をもって資本家にほほえみかけるところの、剰余価値である。私は、労働日のうちのこの部分を、剰余労働時間と呼び、この時間に支出される労働を、剰余労働(surplus labour)と呼ぶ。価値一般を認識するためには、価値を労働時間の単なる凝固として、たんに対象化された労働として、把握することが、決定的であるように、剰余価値を認識するためには、剰余価値を剰余労働時間の単なる凝固として、たんに対象化された剰余労働として、把握することが、決定的である。この剰余労働が直接的生産者である労働者から搾り取られるという形態だけが、いろいろな経済的社会構造を--たとえば奴隷制の社会を賃労働の社会から--区別しているのである(30)。〉(江夏訳231頁)

《資本論第3部》

 〈不払剰余労働が直接生産者から汲み出される独自な経済的形態は、支配・隷属関係を規定するが、この関係は直接に生産そのものから生まれてきて、それ自身また規定的に生産に反作用する。しかしまた、この関係の上には、生産関係そのものから生じてくる経済的共同体の全姿態が築かれ、また同時にその独自な政治的姿態も築かれる。生産条件の所有者の直接生産者にたいする直接的関係--この関係のそのつどの形態は当然つねに労働の仕方の、したがってまた労働の社会的生産力の、一定の発展段階に対応している--、この関係こそは、つねに、われわれがそのうちに社会的構造全体の、したがってまた主権・従属関係の政治的形態の、要するにそのつどの独自な国家形態の、最奥の秘密、隠れた基礎を見いだすところのものである。このことは、同じ経済的基礎--主要条件から見て同じ基礎--が、無数のさまざまな経験的事情、すなわち自然条件や種族関係や外から作用する歴史的影響などによって、現象上の無限の変異や色合いを示すことがありうるということを妨げるものではなく、これらの変異や色合いはただこの経験的に与えられた事情の分析によってのみ理解されるのである。〉(全集第25b巻1014-1015)

《フランス語版》

 〈必要労働の限界を越える活動期問は、確かに、労働者には労働、労働力の支出を費やさせるが、彼のためにはなんらの価値も形成しない。それは、資本家にとっては無からの創造というあらゆる魅力をそなえた剰余価値を、形成するのである。私は、労働日のこの部分を剰余時間と名づけ、それに支出される労働を剰余労働と名づける。価値一般のなかに労働時間の単なる凝固しか、実現された労働しか見ないことが、価値一般の理解にとって決定的に重要であるならば、剰余価値を剰余労働時間の単なる凝固として、実現された剰余労働として理解することも、剰余価値の理解にとって同じように重要である。社会がまとう経済的形態の差異、たとえば奴隷制と賃労働制とは、この剰余労働が直接的な生産者である労働者に課せられ、この労働者から強奮されるところの様式によってしか、区別されないのである(5)。〉(江夏・上杉訳209-210頁)

《イギリス語版》

  〈(11)労働過程の第二段階においては、彼の労働はもはや必要労働ではない。かの作業者は働き、まさに、労働力を支出する。だが、彼の労働は、もはや必要労働ではない。彼は、彼自身のためには何の価値も創造しない。彼は余剰価値を、無から創造するというとてつもない魅力を持つ余剰価値を、資本家のために創造する。労働日のこの部分を、私は余剰労働時間と云う。また、この時間中に支出された労働を、余剰労働と云う。余剰価値を正しく理解するために、以下のことは、何にも増して轡のように重要である。すなわち、剰余価値とは、剰余労働時間が凝結したものであり、他でもなく余剰労働が物体化したものである。価値の適切な把握のために云うならば、それは、多くの労働時間の単なる凝結物であり、他でもなく労働が物体化したものなのである。社会の様々な経済的形式における本質的な差異は、例えば奴隷労働を基盤とする社会と、賃金労働を基盤とする社会との差異は、ただ、いずれのケースにおいても、実際上の生産者、労働者から取り上げる余剰労働の、その様式の違いの中にある。〉


●原注30

《初版》

 〈(3O) 真にゴットシェット〔ドイツの高慢で鈍感な文芸評論家〕的な独創力でヴィルヘルム・ドヮキュディデス・ロッシアー氏が発見しているところでは、剰余価値または剰余生産物の形成は、そしてまたこれと結びついている蓄積は、今日では、資本家の「節約」のおかげであり、その代償に資本家は「たとえば利子を要求」するが、これに反して、「最低の文化段階では、……弱者が強者から節約を強制される」というわけである。(前掲書、78ページ。) 強制されるのは、労働の節約なのか、それとも、ありもしない過剰生産物の節約なのか? ロッシャー輩とその一味は、現存の剰余価値の奪取についての資本家の多少とももっともらしい弁明根拠を、剰余価値そのものの発生根拠だと極印しているが、彼らがそうせざるをえないのは、ほんとうの無知からであるばかりか、価値と剰余価値との良心的な分析にたいする、また、おそらく危険で反警察的な結論にたいする、弁解がましい恐怖からでもあるのだ。〉(江夏訳232頁)

《フランス語版》

 〈(5) ヴィルヘルム・トゥキュディデス・ロッシャー先生は、まことに立派である! 彼の発見するところでは、剰余価値または純生産物の形成、そしてまた、その結果である蓄積が、今日では資本家の倹約と節制のおかげであり、これが「利子を要求する」ことを資本家に許すものであるならば、「逆に低い文明状態では、弱者が強者によって節約し節制することを強制される」(前掲書、78ページ)のである。労働の節制が強制されるのか、または、存在もしない過剰生産物の節約が強制されるのか? ロッシャーとその一味は、創造された全剰余価値の奮取を資本家が正当化しようとする多少とももっともらしい理由をもって、剰余価値の存在理由だと論じているが、彼らをしてそう論じさせるものは、明らかに、無邪気な無知のほかに、あらゆる良心的な分析が彼らに与える懸念と、警察を満足させない結果に不本意ながら立ち入ることへの彼らの恐怖とである。〉(江夏・上杉訳210頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: ウイルヘルム トキュディデス ロッシエル氏は、あるはずもないロバの巣を発見した。彼がなした重要な発見とは、剰余価値の形成または余剰生産、そしてその結果ともなる資本の蓄積は、一つには、今日の資本家の節欲に負っており、もう一つには、文明水準の最低段階では、より強い者が、より弱き者に節約を強いたことによるのかもしれない。というものである。一体何を節約するのか? 労働をか? または資本家にとっては存在もしない剰余富裕をか? 
 ロッシエルのごとき人々をして、剰余価値の起源を説明させるものは、資本家の妥当的剰余価値を、多少なりともまことしやかに 趣向を凝らして弁明させるものは何であろうか。他でもなく、それは、彼等の実際の無知と、彼等の、価値と剰余価値の科学的な分析に対する後ろめたい恐怖である。そしてまた、そこに存在する全く居心地が悪いであろう力による結果を受け入れることに対する後ろめたい恐怖である。〉

 

(付属資料(3)に続きます。) 

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『資本論』学習資料No.32(通算第82回)(7)

2023-01-09 22:35:05 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (7)

 

  【付属資料】 (3)

 

●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈すでに見たように、資本家が労働者に支払うものは労働者の労働能力の日々の価値にたいする等価であるが、彼がその代わりに受け取るものは、労働能力をそれ自身の価値を越えて利用する〔verwerten〕権利である。労働能力を日々再生産するのに日々1O労働時間が必要である場合には、資本家は労働者を、たとえば12時間、労働させる。つまり、実際には彼は、対象化された(労賃に対象化された)10時間の労働時間を、12時間の生きた労働時間と交換するのである。ところで、資本家が、対象化された・前貸しされた資本に対象化された・労働時間と生きた労働時間とを交換した割合は、労働者の必要労働時間と、剰余労働との、つまり彼が必要労働時間を越えて労働する労働時間との割合、に等しい。だから、前者の割合は、労/働者自身の労働時間の二つの部分の割合として--必要労働時間と剰余労働との割合として--現われる。必要労働時間は、賃銀を再生産するために必要な労働時間に等しい。つまりそれは、労働者が資本家に返付する単なる等価である。労働者は一定労働時間を貨幣で受け取り、それを生きた労働時間の形態で返付する。したがって、必要労働時間は支払〔支払われた〕労働時間である。これにたいして、剰余労働にたいしてはなんの等価も支払われなかった。すなわちそれは、労働者自身にとっては、どんな等価にも対象化されなかった。それどころか、剰余労働は、資本家による労働能力の、この能力自体の価値を越えての利用〔Verwertung〕なのである。それゆえ、それは不払〔支払われなかった〕労働時間である。対象化された労働が生きた労働と交換される割合は、労働者の必要労働時間の彼の剰余労働にたいする割合に帰着し、この後者の割合は、支払労働時間の不払労働時間にたいする割合に帰着する。剰余労働に等しい剰余価値は、不払労働時間に等しい。だから、剰余価値は不払労働時間に帰着するのであり、剰余価値の高さは、剰余労働の必要労働にたいする割合、言い換えれば不払労働時間の支払労働時間にたいする割合にかかっているのである。〉(草稿集④272-273頁)
  〈したがって、剰余価値の率はもっぱら必要労働時間にたいする剰余労働時間の割合によって、一言い換えれば、労働日のうち労働者が自分の賃金の生産に要する可除部分によって、つまり賃金の生産費によって規定されているのではあるが、剰余価値の大きさのほうは、もつばら、労働日の数によって、剰余価値のこのような一定の率で充用される労働時間の絶対量によって、したがって、労賃に投下される資本の絶対的な大きさによって規定されているのである(剰余価値率が与えられている場合)。だが、利潤は、剰余価値の率ではなく、前貸資本の総価値にたいする剰余価値の絶対的な大きさの割合だから、利潤率は、明らかに剰余仰価値率によって規定されているだけではなく、同様に剰余価値の絶対的な大きさによっても規定されている。そして、この大きさは、剰余価値率と労働日数とを掛けたもの、賃金に投下される資本の大きさ、および賃金の生産費によって左右される。〉(草稿集⑤270頁)
  〈すでにみたように、剰余価値の率は、単純に、可変資本の大きさをもとにして計算されなければならない、あるいは同じことだが剰余労働/必要労働の比率として表現されなけれはならない。剰余価値/可変資本という第一の表現では、資本の変分である剰余価値の資本にたいする比率が表現されれている。それは価値比率である。必要労働にたいする剰余労働の比率では、可変資本と剰余価値の両価値とも、それら両者をはかる基本比率に還元されている。というのは、二つの価値の比率はそれらに含まれている労働時間によって規定されており、したがってそれらの価値の比はそれらの労働時間の比に等しいからである。剰余価値/可変資本ならびに剰余労働/必要労働または不払労働*/支払労働は、すべて、同じ比率の本源的、概念的な諸表現である。
  * 私は、不払労働/支払労働という表現を、すでに剰余価値率の最初の検討のさいに用いたが、それは用いらるべきではない。というのは、この表現は、労働能力への支払いでなくて、労働量への支払いということを前提にしているからである。不払労働は、ブルジョア自身の用語であって、普通でない超過時間をさしているのである。〉(草稿集⑨339頁)

《初版》

 〈可変資本の価値は、この資本で買われる労働力の価値に等しいから、また、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定しているが、剰余価値のほうは労働日の超過部分によって規定されているから、剰余価値と可変資本との比は剰余労働と必要労働との比に等しい、すなわち 剰余価値率=m/v=剰余労働/必要労働 である、ということになる。二つの比率は同じ割合を別々の形で、すなわち、一方は対象化された労働の形で、他方は流動している労働の形で、表わしている。〉(江夏訳232頁)

《フランス語版》 フランス語版では12パラグラフと13パラグラフが一つのパラグラフにまとめられている。ここではそのまとめられたものを紹介しておく。

 〈可変資本の価値は、それで買われる労働力の価値に等しく、この労働力の価値は労働日の必要部分を規定し、剰余価値のほうはこの同じ労働日の超過部分によって規定される、という事実から、次の結果が出てくる。すなわち、可変資本にたいする剰余価値の比率は、必要労働にたいする剰余労働の比率に等しい、すなわち、剰余価値率p/v=剰余労働/必要労働ということ。この二つの比は、同じ比率をちがった形態で、一度は実現された労働の形態で、もう一度は運動中の労働の形態で、表わしている。したがって剰余価値率は、資本による労働力の搾取度の、あるい資本家による労働者の搾取度の、正確な表現である(6)。〉(江夏・上杉訳210頁)

《イギリス語版》

  〈(12)一方において、可変資本の価値と、可変資本によって買われた労働力の価値は等価であり、そして、労働力の価値が、労働日の必要部分を決めるのであるから、そしてまた、他方において、剰余価値は、労働日の剰余部分によって決められるのであるから、剰余価値の可変資本に対する比率は、剰余労働の必要労働に対する比率に同じと言える。別の言葉で云えば、剰余価値率は、s / v = 剰余労働 / 必要労働 である。 両比率 s / vと、剰余労働 / 必要労働 は、同じ内容を違った方法で表している。一つは、実体となった労働と、予め組み込まれた労働との比を、もう一つは、生まれた労働と、流れ去った労働の比を表している。〉


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈剰余価値は、正確に剰余労働に等しいのであって、その増大は、必要労働の減少によって正確に測られる。絶対的剰余価値の場合には必要労働の減少は相対的である、すなわち、必要労働は、剰余労働が直接に増加されることによ/って相対的に減少する。必要労働が10時間で、剰余労働が2時間である場合に、いま剰余労働が2時間だけ増加されても、すなわち総労働日が12時間から14時間に延長されても、必要労働は、相変わらず10時間である。しかし必要労働は剰余労働にたいして以前には10:2、すなわち5:1の比率であったものが、いまでは10:4=5:2の比率となっている。言い換えれば、必要労働は、以前は労働日の5/6であったが、いまではもはや5/7にすぎない。つまりこの場合には、必要労働時間は総労働時間が、それゆえまた剰余労働時間が、絶対的に増大したために相対的に減少したのである。〉(草稿集④559-560頁)

《初版》

 〈だから、剰余価値率は、資本による労働力の搾取度の、あるいは資本家による労働者の搾取度の、正確な表現である。〉(江夏訳232頁)

《フランス語版》 12パラグラフの一部になっている。

《イギリス語版》

  〈(13)従って、剰余価値率は、資本による労働力の搾取の度合いを正確に表現するものである。または、資本家による労働者の搾取の度合いを正確に表現するものである。〉


●原注30a

《61-63草稿》

 〈{必要労働と剰余労働とのはじめの割合が10時間:2時間=5:1である場合に、いま労働が、12時間に代わって16時間、つまり4時間多く行なわれるとすれば、割合がもとのままであるためには、この4時間のうちの3[1/2]時間を労働者が、そしてそのうちの2/3時間だけを資本家が、それぞれ受け取るのでなければならない。というのは、10:2=3[1/3]:2/3=10/3:2/3=10:2だからである。ところで、「不等式の両項になんらかの数を加えれば、この式のより大きい項の比率は減少し、より小さい項の比率は増大する」、という数学的法則によって、労賃と剰余価値との比率は、超過時間が右の割合で分割される場合でさえも、不変だ、ということになるのである。以前は、[必要]労働対剰余労働は10:2=5:1(つまり5倍)であった。こんどは、13[1/3]:2[2/3]=40/3:8/3=40[:8=5:1]〔つまり相変わらず5倍であろう[。}]〉(草稿集④558-559頁)

《初版》 初版にはこの原注はない。

《フランス語版》

 〈(6) 剰余価値率は搾取度を正確に表現するが、搾取の絶対量を表現しない。たとえば必要労働が5時間に等しく剰余労働も同じく5時間に等しいと仮定すれば、このばあい搾取度は100%であって搾取の絶対量は5時間である。他方、必要労働が6時間に等しく剰余労働も6時間に等しければ、搾取度は相変わらず同一、すなわち100%であるが、搾取量は5時間から6時間に20%だけ増大したのである。〉(江夏・上杉訳210頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 剰余価値率は、労働力の搾取の度合いを正確に表すものではあるが、搾取量の絶対値を表すことにはならない。例えば、もし、必要労働が5時間であって、剰余労働も同じく5時間であるとすれば、搾取率は100%である。搾取量は、ここでは、5時間と計量される。他方、もし、必要労働が6時間で、剰余労働が6時間ならば、搾取率は前と同じく100% に留まるが、実際の搾取量は20% 増大して、5時間から6時間となる。〉


●第14パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈ある資本1OOが、ある期間には1O%、別の期間には5%の利を生むといわれるとしても、ケアリとその一派がやるように、第一のばあいには、生産物にたいする資本の分け前は1/10、したがって労働の分け前は9/10にすぎず、第二のばあいには、資本の分け前は1/20にすぎず、したがって労働の分け前は19/20であった、つまり利潤の率〔Rate des Profits〕が低下するから労働の率は上昇する、などと推論するほどまちがったことはない。1OOの資本にたいして1O%の利潤は、資本の立場からすれば当然のことであって、資本は自己の価値増殖過程の本性を意識することなどまったくなく、そのようなことも知った方がとくだと考えるのは恐慌のときだけであって、こうして、彼の資本の価値構成諸部分--材料、用具、労賃--が無差別に1O%増加したのだ、つまり1OOターレルという価値の総額としての資本が、この諸価値のある一定の単位の集合数としての資本が1O%増加したのだ、とみなすのである。しかし実際には次の点が問題となる。すなわち、(1)資本の構成諸部分は相互にどのような割合を占めていたのだろうか、また(2)資本は賃金〔Salair〕--賃金に対象化された労働時間--でどれだけの剰余労働を買ったのであろうか。もし私が資本の総額を知り、資本の価値構成諸部分相互間の割合を知り(実務的には私は、生産用具の何分のいくつが、過程のなかで損耗し、したがって現実にこの過程にはいりこむか、ということをも知らねばならないだろう)、また利潤を知れば、どれほどの剰余労働がつくりだされたかが私にわかる。資本はその3/5すなわち6Oターレルの材料(材料についてここでは便宜上、それがすべて生産の材料になり、すべて生産的に消費されるものと前提しておく)、労賃の4Oターレルからなっていたとすれば、また1OOターレルの利潤は1Oターレルであるとすれば、4Oターレルの対象化された労働時間によって買いとられた労働は、生産過程で5Oターレルの対象化された労働をつくりだしており、したがって必要労働時間の25%=1/4の剰余時間を労働し、すなわちそれだけの剰余価値〔Surpluswerth〕をつくりだしたのである。したがって労働者が12時間からなる1日の労働をするとすれば、彼は3時間の剰余時間を労働したのであり、また彼の1日の生活を維持するための彼の必要労働時間は9労働時間であった。生産のなかでつくりだされた新価値は、たしかに1Oターレルにすぎないが、しかし現実の率からすれば、この1O/ターレルは、4Oターレルにたいして計算されるべきであって、1OOターレルにたいして計算されるべきではない。6Oターレルの価値は、なんら新しい価値をつくりださなかったのであり、それをつくりだしたのは労働日である。したがって労働者は、労働力能と交換された資本を25%増加させたのであって、1O%増加させたのではない。総資本は1O%の増加分を手にいれた。1Oは4Oの25%であるが、1OOにたいしては1O%にすぎない。したがって資本の利潤率〔Profitrate des Capitals〕は、生きた労働が対象的労働を増加させる率を表わすわけではない。なぜならこの増加は、ただ労働者が彼の労賃〔Arbeitslohn〕を再生産するのにともなう剰余〔Surplus〕に等しい、すなわち労働者が自分の労賃を生産するために労働しなければならぬ分よりもさらに多く労働する時間に等しいからである。上の例で、もし労働者が資本家の労働者ではなく、1OOターレルに含まれている諸使用価値にたいして、資本にたいするものとしてではなく、たんに彼の労働の対象的諸条件にたいするものとして関係をもつのであるならば、彼は、生産過程を新たに開始するにあたって、彼が労働日期間中に消費する4Oターレルの生活手段と6Oターレルの用具および材料を所有していることであろう。彼は3/4(正しくは4/5--注解より)すなわち9(正しくは9[3/5]--同)時間労働するだけであろうし、1日の終りの彼の生産物は、11Oターレルではなく1OOターレルであり、彼はこれをふたたび上記の比率で交換し、くりかえしつづけて過程を新たに開始していくことであろう。だが彼はやはりまた3(正しくは2[2/5]--同)時間少なく労働することであろう。すなわち彼は25%の剰余労働を節約するであろう。この節約分は、彼が4Oターレルの生活手段と彼の労働時間とのあいだで行なったとされる交換の25%の剰余価値に等しい。彼の手もとに材料も用具もあるからということで、かりに彼が3時間余分に労働するとしても、1O%の新利得をつくりだしたなどと言うことは、彼の頭には浮かばないであろう。むしろ彼の頭に浮かぶのは25%であろう。というのも彼は、1/4だけ余分の生活手段を、すなわち4Oターレル分ではなく、5Oターレル分の生活手段を買うことができるからである。それに彼にとって問題になるのは使用価値なのだから、彼にとって価値をもつものは生活手段だけであろう。〉(草稿集①476-477頁)

《61-63草稿》

 〈労働者が10時間の必要労働と2時間の剰余労働とを行なう場合には、その率は、2/10=1/5=10%である。もし、12時間という全労働日を見て、労働者はそのうちの5/6を、資本家は1/6を受け取るのだ、とでも言うとすれば、誤った計算をすることになる、すなわち、搾取の率を誤って確認することになる。この場合には搾取率は1/6(12/6=2時間〔12時間×1/6は2時間〕)、すなわち16[3/2]%だというととになろう。もし生産物が計算されるとすれば、しかも、生産物のうち労賃と等価である部分にたいする剰余生産物の割合ではなくて、剰余生産物が総生産物の可除部分として計算されるとすれば、同じ誤りが生じることになる。この点は、剰余価値の規定のために非常に重要であるばかりでなく、のちに、利潤率の正しい規定にとって決定的に重要である。〉(草稿集④頁)
  〈剰余価値の率は、1労働日のなかの剰余労働の割合に等しく、したがって、各1日の労働日が生産する/剰余価値に等しい。たとえば次のとおりである。1労働日=12時間、剰余労働=2時間とすれば、この2時間は、12時間の6分の1、というよりもむしろ、われわれはそれを必要労働(すなわち、彼らに支払われた賃金。これは対象化された形態での同じ労働時間量である)にたいして1/5であると計算しなければならない。10時間の1/5=2時間(1/5=二%)。この場合には剰余価値の大きさ(個々の労働日についての)は、絶対的にその率によって規定されている。〉(草稿集⑤268-269頁)
  〈剰余価値と利潤とのあいだの特徴的な形態の相違からは次のようなことが結果として出てくる。すなわち、利潤はいつでも現実の剰余価値の割合が表現するよりも小さなそれを表現し、したがって利潤率は、資本が他人の労働をわがものにする割合を、いつでも、現実にそうであるよりもはるかに小さく表現する、ということがそれである。〉(草稿集⑧102頁)

《初版》

 〈われわれの仮定によると、生産物の価値=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)+90ポンド・スターリング(m) であり、前貸資本=500ポンド・スターリング であった。剰余価値は9Oで前貸資本は5OOであるから、通例の計算方法によると、剰余価値率(これは利潤率と混同されている)は18%に等しいと算出されるであろうし、この比率の低いことは、ケアリ氏やその他の調和論者を感動させるかもしれない。ところが、実は、剰余価値率=m/c すなわちm/(c+v) ではなくて、=m/v であり、つまり、90/500 ではなくて 90/90=100%であり、外観上の搾取度の5倍も大きい。さて、こういったばあい、労働日の絶対的な長さも、労働過程の期間(日や週等々)も、最後にまた、9Oポンド・スターリングの可変資本が同時に動かす労働者の数も、われわれが知っていないにせよ、剰余価値率m/vは、それが剰余労働/必要労働 に転換されうることこよって、労働日の二つの成分の相互聞の比率を、正確にわれわれに示している。それは1OO%である。かくして、労働者は、労働日の半分を自分のために労働し、他の半分を資本家のために労働したわけである。〉(江夏訳232-233頁)

《フランス語版》

 〈われわれの仮定によれば、生産物価値={410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(p)であり、前貸資本=500ポンド・スターリングである。剰余価値が90ポンド・スターリングに等しく前貸資本が500ポンド・スターリングに等しいということから、普通の計算方法にしたがえば、剰余価値率(利潤率と混同されている)は18%に等しいと結論することができようが、この数字の相対的な低さは、ケアリ氏やその他同じ型の調和論者を感動にあふれさせることであろう。しかし、実は、剰余価値率はp/cすなわちp/(c+v)ではなくp/vに等しい、すなわち、それは90/500ではなく90/90=100%であって、外観上の搾取度の5倍以上である。この所与の例において、われわれは、労働日の絶対的な長さも、作業の期間(日、週など)も、最後に、90ポンド・スターリングの可変資本が同時に動かす労働者の数も知らないが、それにもかかわらず剰余価値率p/vは、他の定式 剰余労働/必要労働 に変換されうることによって、労働日の二つの構成部分相互間の比率を正確に示している。この比率は100%である。労働者は、1日の半分を自分自身のために、ほかの半分を資本家のために、労働したのである。〉(江夏・上杉訳211頁)

《イギリス語版》

  〈(14)我々の例では、生産物の価値を、410ポンド不変 + 90ポンド可変 + 90ポンド余剰 と仮定した。また前貸し資本を500ポンドと仮定した。通常の勘定法に習って計算するならば、我々は、剰余価値の比率の様なもの ( 一般的には利益率と混同されているため ) として、18% を得るであろう。この比率は、カレー氏やその他の同調者達には、ご納得がいく驚きをもたらすに足る程度の低さであろう。しかし真実は、剰余価値率は、 s /C でも s /(C+v) でもない。すなわち 90/500 ではなくて、90/90 または 100% であり、一見したような外観上の搾取の度合いの 5倍以上の率なのである。我々が想定しているこの設定に関しては、実際の労働日の長さを知らず、そして労働過程が何日なのか、または何週なのかの期間をも知らず、同様、雇用されている労働者の人数も知らないが、それにも係わらず、剰余価値率 s/vに関しては、我々には、正確に、明らかにされているのである。その等価である表現、労働日の二つの部分の間の関係、剰余労働 / 必要労働によってすでに明らかにされているのである。この関係はここでは、等式の一つであり、その比率は100% である。この結果を見れば明らかなように、我々の例では、労働者は労働日の半分を自身のために働き、後の半分を資本家のために働く。〉


●第15パラグラフ

《初版》

 〈だから、剰余価値率の計算方法は、簡単に言えば、次のようになる。総生産物価値をとって、そこに再現しているにすぎない不変資本価値をゼロに等しいとする。残りの価値額が、商品の形成過程で現実に生産される唯一の価値生産物である。剰余価値が与えられていれば、それをこの価値生産物から控除して、可変資本を見いだすことになる。可変資本が与えられていて剰余価値を求めるばあいは、これとは逆である。両方とも与えられていれば、可変資本にたいする剰余価値の割合m/vを計算するという最後の演算だけをやればよい。〉(江夏訳233頁)

《フランス語版》

 〈剰余価値率の計算のために用いられる方法を要約すると、次のとおりである。われわれは、生産物価値全体をとって、そのなかに再現するにすぎない不変資本の価値をゼロに等しいとする。残る価値額が、商品の生産中に現実に産み出された唯一の価値である。剰余価値が与えられていれば、われわれは可変資本を求めるために、この額から剰余価値を控除しなければならない。可変資本が与えられていて剰余価値を求めるばあいは、逆のことが行なわれる。両者が与えられていれば、最後の運算、すなわち、可変資本にたいする剰余価値の比率p/vの計算だけをやればよい。〉(江夏・上杉訳211頁)

《イギリス語版》

  〈(15)であるから、剰余価値率の計算方法は、簡単に云えば、次のようになる。生産物の全価値を取り出し、そこに単に再現されているに過ぎない不変資本を0 と見なせば、そこにあるものが、商品を生産する過程において実際に創造された価値そのものである。もし、剰余価値量が与えられているならば、可変資本を見つけるには、そこにあるもからその剰余価値量を引けばいいだけである。もし、逆に、後者が与えられているならば、剰余価値量が求められる。共に与えられているならば、ただの最終的演算をなせばいいだけである。すなわち、s /v、 剰余価値の v 可変資本に対する比率を計算すればよい。〉


●第16パラグラフ

《61-63草稿》

 〈そこでわれわれは、若干の例を用いて、剰余価値についての、また剰余価値率、剰余価値が増大する割合--剰余価値の大きさを測る尺度--についてのこうした把握を明らかにしよう。これらの例は統計資料から借用したものである。だから労働時間は、ここではどこででも、貨幣で表現されて現われている。さらに、計算に現われるのは、さまざまの名称、つまりたとえば、利潤のほか、利子、租税、地代、等々の名称をもつさまざまの項目である。これらはすべて、さまざまの名称のもとにある、剰余価値のさまざまの部分である。剰余価値がさまざまの階級のあいだにどのように分配されるのか、つまり、産業資本家は剰余価値/のうちからどれだけをさまざまの項目のもとに譲り渡すのか、どれだけを自分のためにとどめるのか、ということは、剰余価値そのものの理解にとってはまったくどうでもよいことである。だが、自分は労働しない、物質的生産過程そのものに労働者として加わらないすべての人々が--どのような項目のもとでであれ--物質的生産物の価値の分け前にあずかることができるのは、ただ、彼らがこの生産物の剰余価値を自分たちのあいだで分配する場合だけだ、ということはまったく明らかである。というのは、原料およぴ機械類の価値は、資本のうちの不変価値部分は、補塡されなければならないからである。必要労働時間も同じである。というのは、労働者階級はそもそも、他人のために労働できるまえに、まず、自分自身を生かしておくために必要な分量の労働時間を労働しなければならないからである。非労働者のあいだに分配されることができるものは、労働者階級の剰余労働に等しい価値Ⅹだけであり、したがってまた、この剰余価値で買われることができる使用価値だけである。〉(草稿集④277-278頁)

《初版》

 〈この方法はこのように簡単であっても、この方法の根底に横たわっていて読者には不馴れな見方になじむように、幾つかの例をあげて読者を訓練しておくことが、適切だと思われる。〉(江夏訳233頁)

《フランス語版》

 〈この方法がどんなに簡単であっても、その適用が読者にはたやすくなるような幾つかの例によって、読者をこの方法に習熟させるのが適切である。〉(江夏・上杉訳211頁)

《イギリス語版》

  〈(16)この方法は極めて単純なものであるが、その根底となるこの聞き慣れない剰余価値率の考え方を適用して行くために、誤用を避けるために、幾つかの例について、読者に実習していただく。〉


●第17パラグラフ

《初版》

 〈まず、紡績業の例をあげよう。次のデータは186O年のものである。われわれの目的にとってどうでもよい諸事情は表面に出ていない。ある工場が、毎週、屑1500ポンドを含む1万1500ポンドの綿花を消費する。したがって、1ポンドの綿花が7ペンスとして、原料は336ポンド・スターリングになる。この工場は、紡錘1本当たり1万ポンド・スターリングに等しい1万本の紡錘を運転させる。この1万ポンド・スターリングのうち毎年の損耗は12[1/2]%の1250ポンド・スターリング、したがって各週24ポンド・スターリングである。蒸気機関の毎週の損耗は20ポンド・スターリング、補助材料である石炭や油等々にたいする毎週の支出は40ポンド・スターリングである。毎週の労賃は70ポンド・スターリングであり、1ポンドの糸の販売価格は1[1/10]シリング、したがって、毎週1万ポンドの糸の販売価格は550ポンド・スターリングである。したがって、資本の不変価値部分は420ポンド・スターリングである。この部分は毎週の価値形成にはかかわることがないので、この部分はゼロに等しいとする。だから、あとに残る現実の毎週の価値生産物は、130ポンド・スターリングに等しい。これから、労働者に支払われる70ポンド・スターリングの可変資本を差し引けば、60ポンド・スターリングの剰余価値が残る。剰余価値率m/v、60/70、つまり、およそ86%である。このパーセンテージは、労働力の搾取度あるいは可変資本の価値増殖度を表わしている。この工場では、毎日平均して10時間仕事が行なわれると仮定すると、必要労働はおよそ5[5/13]時間、剰余労働はおよそ4[8/13]時間である。〉(江夏訳233-234頁)

《フランス語版》 フランス語版ではこのパラグラフは三つに分けられ、最初のパラグラフと次のパラグラフのあいだに原注31に該当する原注(7)が入っているが、とりあえず、その原注は除いて、三つのパラグラフを続けて紹介し、原注(7)は原注31のところで紹介することにする。

 〈まず、紡績工場のなかに入ることにしよう。次のデータは1871年のもので、工場主自身が私に提供してくれた。この工場 は、1万本の紡錘を運転させ、アメリカ綿花で32番手の糸を紡ぎ、毎週1紡錘当り1ポンドの糸を生産する。綿花の屑は6%に達する。したがって、労働は週当り1万600ポンドの綿花を、1万ポンドの糸と600ポンドの屑とに変える。1871年4月には、この綿花は1ポンド当り7[3/4]ペンス、したがって、1万600ポンドについては端数を切り捨てた金額で342ポンド・スターリングであった。1万本の紡錘は、紡績機と蒸気機関とを含めて、1紡錘につき1ポンド・スターリング、すなわち1万ポンド・スターリングである。この紡錘の損耗は10%=1000ポンド・スターリング,毎週20ポンド・スターリングに達する。建物の賃借料は300ポンド・スターリング、週当り6ポンド・スターリングである。石炭(1時間1馬力当り4ポンド、指示器で示された100馬力(7)で週当り60時間であり、室内暖房を含む) は、週当り11トンに達し、トン当り8シリング6ペンスでは毎週4ポンド・スターリング10シリングである。同じく週当りの消費は、ガスが1ポンド・スターリング、油が4ポンド・スターリング10シリング、全補助材料が10ポンド・スターリングである。したがって、不変価値部分は378ポンド・スターリングに等しい。それは毎週の価値形成にはなんの役割も演じないから、われわれはそれをゼロに等しいとする。
  労働者の賃金は週当り52ポンド・スターリングに達し、糸の価格はポンド当り12[1/4] ペンス、1万ポンドでは510ポンド・スターリングである。したがって、毎週生産される価値は、510ポンド・スターリング-378ポンド・スターリング=132ポンド・スターリングである。いまこれから可変資本(労働者の賃金)52ポンド・スターリングを控除すれば、80ポンド・スターリングの剰余価値が残る。
  剰余価値率=80/52=153[11/13]%である。したが・て、10時間の平均労働日については、必要労働=3[31/33]時間であり、剰余労働=80/52=153[11/13]%である。〉(江夏・上杉訳211-212頁)

《イギリス語版》

  〈(17 )最初に、我々は一つのケースとして、ある紡績工場を取り上げてみる。10,000個のミュール紡錘があり、アメリカ産の綿から32番手の撚糸を紡ぎ、毎週 1紡錘当り 1重量ポンドの撚糸を生産する工場である。屑となる分は6 %と仮定する。この状況下で、週当り 10,600重量ポンドの綿が消費される。従って、600ポンドがごみ屑となる。綿の価格は、1871年4月現在では、1ポンドあたり7 3/4ペンスであった。であるから、原料価格は、約342英ポンドとなる。( 訳者注: 1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンス ) 10,000個の紡錘については、前処理機と原動力も含めて、我々が、紡錘当り1英ポンドと仮定すれば、全体では、10,000英ポンドとなる。摩損分については、10% または 年1,000英ポンド= 週20英ポンドと置く。建物の賃借料は 300英ポンド/ 年 または 6英ポンド/ 週と想定する。石炭の消費量は、(ゲージ値で100馬力、60時間の使用において、時間当り、馬力当り 4重量ポンドの石炭と、工場内の暖房用分を含めて) 週11トン トン当り8シリング6ペンスとして、週では 約4 1/2英ポンドとなる。ガスは週 1英ポンド、オイル他で 週 4 1/2英ポンドとなる。以上のように、補助材料の価格は、計 10英ポンドとなる。従って、週当りの生産物の価値の不変部分は、378英ポンドである。賃金は、週当り 52英ポンドである。撚糸の価格は、12 1/4ペンス/ 重量ポンド であるから、10,000重量ポンドでは、総計 510英ポンドとなる。剰余価値は、従って、この場合は、510 - 430 = 80英ポンドとなる。生産物の価値の不変部分を= 0 と我々は、価値の創造においては何も役割を持っていないのであるから、この部分を 0 と置く。 週当りで創造された価値としては、132英ポンドが残る。つまり、= 可変分52英ポンド + 剰余分 80英ポンドである。従って、剰余価値率は、80/ 52 = 153 11/13% である。平均労働10時間労働日とすれば、その結果は、必要労働 = 3 31/33 時間、そして 剰余労働 = 6 2/33 時間となる。〉


●原注31

《初版》 初版にはこの原注はない。

《フランス語版》

 〈(7) 注意すべきことだが、イギリスでは、旧馬力はシリンダーの直径によって計算されていたが、他方、新馬力は、指示器が示す実馬力で計算される。〉(江夏・上杉訳212頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 上記のデータは、あるマンチエスターの紡績業者( 訳者注: または紡績工 ) より私に与えられたもので、信頼できるものでる。〉


●第18パラグラフ

《61-63草稿》

 〈ジェイコブによれば、1815年には、小麦価格はクォーター当り80シリング、1エーカーの平均生産物はエーカー当り22ブッシェル(現在は32ブッシェル)、したがって1エーカーの平均生産物は11ポンド・スターリングであった。彼は、麦わらが収穫と打穀と販売場所への運搬との費用を支払うものと見積もる。そのうえで各費目を次のように計算している。--

種子(小麦)  1ポンド9シリング      十分の一税、地方税、国税  1ポンド1シリング
肥料    2ポンド10シリング 地代            1ポンド8シリング
労賃    3ポンド10シリング 借地農業者利潤および利子  1ポンド2シリング
-------------- ---------------------- 
  計             7ポンド9シリング               計                                 3ポンド11シリング
〉(草稿集④325頁)

《初版》

 〈ジェーコブは、1815年について、小麦価格は1クオーター当たり80シリング、1エーカー当たり平均収獲は22ブッシェルであり、したがって1エーカーは11ポンド・スターリングをもたらす、と仮定して、次のような計算--さまざまな項目が前もって補整されているのできわめて不完全ではあるが、われわれの目的にとっては充分である計算--を示している。

   1エーカー当たりの価値生産(ポンド・スターリングはポンドと略記した。)

種子(小麦) 1ポンド9シリング       |十分の一税、地方税、国税  1ポンド1シリング
肥料    2ポンド10シリング |地代            1ポンド8シリング
労賃    3ポンド10シリング |借地農業者利潤および利子  1ポンド2シリング
---------------+--------------------- 
  計             7ポンド9シリング       |  計                                        3ポンド11シリング〉(江夏訳234-235頁)

《フランス語版》

 〈データがたくさんないので非常に不備であることは確かだが、われわれの目的にとっては充分な計算がもう一つある。穀物法(1815年)にかんするジェーコブの著書から、事実を引用しよう。小麦の価格が1クォーター(8ブッシェル) 当り80シリングであって、1アルパン〔フランスの面積単位、約1エーカー〕の平均収量が22ブッシェルであるから、1アルパンは11ポンド・スターリングをもたらす。

  1アルパン当たりの価値生産(ポンド・スターリングはポンドと略記した。)

種子(小麦)  1ポンド9シリング      |十分の一税、地方税、国税  1ポンド1シリング
肥料    2ポンド10シリング |地代            1ポンド8シリング
労賃    3ポンド10シリング |借地農業者利潤および利子  1ポンド2シリング
---------------+--------------------- 
  計              7ポンド9シリング     |  計                                        3ポンド11シリング〉(江夏・上杉訳212-213頁)

《イギリス語版》

  〈(18) もう一つの例、ヤコブが次の様な 1815年の計算結果表を見せてくれた。予め幾つかの項目に整理したものとはいえ不完全さは免れないが、それにも係わらず、我々の目的にとっては充分である。この表では、1クォーター当りの小麦を 8シリングと仮定している。また、1エーカー当りの平均的収穫を22ブッシェルとしている。

     ヤコブの表 1エーカーの土地が 生産した価値
+----------+------------+               |    種 子      |10分の1税, 地方税, 国税    |               | 1ポンド 9シリング  | 1ポンド 1シリング    | 
+----------+------------+               |    肥 料     |    地 代     |               | 2ポンド10シリング | 1ポンド 8シリング    | 
+----------+------------+               |    賃 金     |借地農業者の利潤と利子 |               | 3ポンド10シリング | 1ポンド 2シリング    | 
+----------+------------+               |    小 計    |    小 計     |               | 7ポンド 9シリング | 3ポンド11シリング   |               +----------+------------ + 〉


●第19パラグラフ

《61-63草稿》

 〈この表のうち下段(右欄--引用者)の公租公課、地代、借地農業者利潤および利子は、借地農業者(資本家)が入手する総剰余価値だけを表わしているが、彼はこの総剰余価値の諸部分をさまざまの名称や名義のもとで国家、地主、等々に譲る。つまり、総剰余価値は3ポンド11シリングである。不変資本(種子と肥料)は3ポンド19シリングである。労働に投下された資本は3ポンド10シリングである。剰余価値と剰余価値の割合とを問題にするときには、資本のうちこの後者の部分、つまり可変部分だけを考察しなければならない。したがっていまの場合では、労賃に投下された資本にたいする剰余価値の割合は、言い換えれば、労賃に投下された資本が増加する率は、3ポンド10シリングにたいする3ポンド11シングの割合である。労働に投下された3ポンド10シリングの資本は、7ポンド1シリングの資本として再生産される。そのうち3ポンド1Oシリングは労賃の補塡だけを表わし、これにたいして3ポンド11シリングは剰余価値を表わしている。だから剰余価値は1OO%以上になる。これによれば、必要労働時間は剰余労働とまったく同じ大きさなのではなく、それにほぼ等しいことになる。したがって、12時間の標準労働日のうち6時間が資本家(この剰余価値の分け前にあずかるさまざまの人々を含めて)のものである。ところで、なるほど、たとえば8Oシリングという1クォーターの小麦のこの価格がそれの価値以上であったのだという場合、したがってそれの価格の一部分が、他の諸商品がそれらの価値以下で小麦と引き換えに売られたことによるものだ、という場合がありうる。けれども第一に、問題となっているのは、そもそも剰余価値は、したがってまた剰余価値率はどのように理解されなければならないのか、ということを明らかにすることだけである。他方では、1シェッフルの小麦の市場価格がたとえば10シリングだけそれの価値以上であるとき、このことが借地農業者の入手する剰余価値を増大させうるのは、ただ、彼が農業労働者に、標準価値〔Normalwert〕以上に上昇してしまった農業労働者の労働にたいして、標準価値を越えるこの超過分にまでは支払いをしない、という場合だけである。(なお注解(2)にはジェイコブの原文も紹介されているが省略した。)〉(草稿集④325-326頁)

《初版》

 〈生産物の価格はその価値に等しいという前提が変わらないとすれば、剰余価値は、ここでは、利潤や利子や地代等等のいろいろな項目に分割されている。これらの項目はここではどうでもよい。これらの項目を合計すると、3ポンド・スターリング11シリングという1個の剰余価値が得られる。種子や肥料の3ポンド・スターリング19シリングは、不変資本部分としてゼロに等しいとする。3ポンド・スターリング10シリングの前貸可変資本が残り、これの代わりに、(3ポンド・スターリング10シリング+3ポンド・スターリング11シリング) という等価が生産されている。したがって、m/v=3ポンド・スターリング10シリング/3ポンド・スターリング11シリング であって、1OO%よりも大きい。労働者は、自分の労働日の半分以上を、剰余価値--この剰余価値を、いろいろな人々が、いろいろな口実にかこつけて自分たちのあいだで分配している--の生産のために、費やしているのである(31)。〉(江夏訳235頁)

《フランス語版》

 〈生産物の価格がその価値に等しいという前提が変わらなければ、剃余価値はここでは利潤や利子や十分の一税など、さまざまな項目のあいだに分配されている。これらの項目はわれわれにはどうでもよいのであって、われわれはそれらを全部合算し、こうして3ポンド・スターリング=11シリングの剰余価値を手に入れる。種子や肥料の3ポンド・スターリング19シリングについては、不変資本部分としてゼロに等しいとする。3ポンド・スターリング10シリングの前貸可変資本が残るが、これにかわって、(3ポンド・スターリング10シリング+3ポンド・スターリング11シリング)という新価値が生産されたのである。剰余価値率p/vは3ポンド・スターリング11シリング/3ポンド・スターリング10シリング=100%以上である。労働者は自分の労働日の半分以上を、さまざまな人間がさまざまな口実のもとでお互いに分けあう剰余価値の生産に、用いるのである(8)。〉(江夏・上杉訳213-214頁)

《イギリス語版》

  〈(19)生産物の価格が、その価値と同じとすれば、剰余価値は、利潤とか利子とか地代 他 の項目に分配されていることを我々は見出す。これらの項目の詳細について我々は何も関心を持たない。我々は、これらをまとめて単純に足し算すれば、その合計、つまり剰余価値 3ポンド 11シリング 0ペンスを得る。種子と肥料に支払われた 計 3ポンド 19シリング 0ペンスは、不変資本であるから、我々はそれを0と置く。残りの額 3ポンド 10シリング 0ペンスは、前貸しされた可変資本であり、この結果から、新たな価値、3ポンド10シリング0ペンス+ 3ポンド11シリング0ペンス、が、ここで生産されたことになる。従って、s/v = 3ポンド11シリング/ 3ポンド10シリング であり、算出された剰余価値率は、100% 以上となる。労働者は、彼の労働日の半分以上を 剰余価値を生産するために働く。この剰余価値を、いろいろと違った人物が、いろいろと違った口実のもとに、彼等の間で分け合うのである。〉


●原注31a

《初版》

 〈(31) ここにあげた計算は例解として通用するにすぎない。すなわち、価格は価値に等しいと前提されている。第3部でわかるように、こういった等置は、平均価格についてさえ、こういった簡単なやり方で行なわれるわけではない。〉(江夏訳235頁)

《フランス語版》

 〈(8) これらの数字は、説明としてしか値うちがない。実際のところ、価格は価値に等しいと想定された。ところで、第3部で見るように、平均価格についてさえもこの等置がこれほど単純なやり方では行なわれないのである。〉(江夏・上杉訳214頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: この上記本文で示された計算は、単に説明用として表したものである。ここでは 価格 = 価値 と仮定しての話である。我々は、いずれ、第三巻 において、平均価格を仮定する場合でさえも、このような単純な方法では剰余価値率の実数をみることができないことを知るであろう。〉

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  (第7章第1節終わり。)

 

 

 

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