『資本論』学習資料No.32(通算第82回) (1)
◎大谷禎之介著『マルクスの利子生み資本論』全4巻の紹介 №1(序論)
これまで紹介してきました大谷氏の生前最後の著書である『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』が終わってしまったので、今回からは同じ大谷氏の主著とも言える『マルクスの利子生み資本論』全4巻(桜井書店刊、2016年)の紹介をして行きたいと思います。
と言ってもこの全4巻にわたる著書のメインである『資本論』第3部第5篇(一部第4篇第19章)の草稿テキストの翻訳部分については、今、『マルクス研究会通信』というブログでその草稿の解読を連載中ですので(今は第19章、第21~第29章該当部分まで終えて、次の第30-32章該当部分の草稿の解読の準備中です)、翻訳テキストの部分の紹介はすべて省略して、それ以外の部分、つまり大谷氏自身が第5篇のマルクスの草稿を翻訳紹介する上で、それに関連して研究した成果を発表している部分を取り上げて紹介して行きたいと思います。もっとも紹介すると言っても、私自身が興味を持ったものや、大谷氏の解釈に疑問を持ったものなどを適宜ピックアップしたもののみを紹介するのであって、本書全体の内容が理解できるようなものとしての紹介ではないことを前もって断りしておきます。
今回はその第1回ですから、すぐに本書の紹介に入るのではなく、その序論的なものを書いておきます。
このブログで連載している『資本論』学習資料というのは、『資本論』第1巻の最初からその本文テキストの平易な解説と関連する資料を可能なかぎり紹介して、各自が自分で『資本論』を学んで行く上で参考にしてもらうという主旨でやっているものです。しかしそれなら、そもそも第1巻の最初のあたりを勉強している者に、第3巻の第5篇の内容を論じている本書を紹介するのは、飛躍があり過ぎるし、無理があるのではないか、という疑問が当然生じると思います。そうした疑問に少し答えておきたいと思うのです。
私たちが『資本論』を読むのは何のためか、ということを少し考えてみましょう。もちろん、『資本論』を読み研究する動機というのは人によってさまざまであるし、あってよいのだと思いますが、やはり『資本論』が私たちが生活している現在の資本主義社会の運動法則を明らかにしていると考えるからではないでしょうか。『資本論』は現在の私たちをとりまく経済的諸現象を理論的に解明していくための基礎を与えてくれると考えるからではないでしょうか。
そういう主旨から、このブログでの『資本論』の解説でも、できるだけ現代的な問題と関連させて論じてきたつもりなのです。そして『資本論』の冒頭の商品と貨幣の問題(第1篇)と密接に関連しているのが、第3部第5篇なのです。
私たちが日常的に目にしている貨幣というのは、『資本論』の冒頭で分析されているものとは違っています。『資本論』では金が貨幣として取り扱われているのに、現在では日銀券という銀行券(紙幣)が貨幣として流通しています。また政府や経済学者は「通貨」の管理やその供給などと言いますが、この場合の「通貨」というのは『資本論』の冒頭で論じている貨幣とも違うように思えるし、果たしてどのように関連しているのか、という問題などもあります。こうした問題に答えていくためには、第3部第5篇でマルクスが論じている「利子生み資本」の概念がどうしても必要なのです。それが欠けていては正確な理解ができないのです。だから一見すると飛躍しているように思えますが、しかし『資本論』の冒頭の問題を現代の問題に応用して考察を加えていくためには、それを踏まえておくことが重要なのです。
一例をあげますと、例えば「通貨」と言われているものを正確に理解することは、極めて重要なことです。というのは、一般に「通貨」と言われているものには、利子生み資本という意味での貨幣資本(monied capital)との混同があるからです。つまり厳密な意味での「通貨」(これは『資本論』の冒頭で分析されている貨幣の流通手段と支払手段という二つの機能を果たすもので、広義の流通手段ともいいます)と「利子生み資本」という意味での「貨幣資本(monied capital)」とを区別することが重要ですし、それがまた難しいことなのです。つまり『資本論』でいえば第1巻第1篇と第3巻第5篇の問題に関連していることなのです。
それがどれほど難しいかというと、『マルクスの利子生み資本論』という4巻にものぼる大著を著した大谷氏自身が、この点であいまいであり、混乱しているほどだからです。つまりマルクスの「利子生み資本」の理論をあれだけ20年にもわたって研究してきた人が(その集大成がこれから紹介する本書なのですが)、肝心要の「利子生み資本」の概念がはっきりしていないほどなのです。
それが証拠に、大谷氏はブルジョア的な用語である「預金通貨」をあたかもマルクス的な用語であるかに主張し、マルクス自身も肯定的に論じていたなどと主張しています。しかし実は、預金を通貨などと主張することは、まさに通貨と利子生み資本(monied capital)との区別ができていない典型なのです。なぜなら、預金は利子生み資本ではあっても、決して通貨ではありえないからです。例えば預金の振り替え決済は、確かに商品の流通を媒介しています。そしてそれを彼らは預金が支払手段として機能したのだと主張し、だからそれを「預金通貨」ということには何も問題もないというのですが、しかしこれは支払手段の機能にもとづいて諸支払が相殺されることであって、それは通貨の節約をもたらすものであって、それ自体を通貨などというのはまったく間違った捉え方なのです。
だから現在の経済的な諸現象を理解するためには、こうした通貨と利子生み資本(monied capital)の区別ができないと一歩も先に進めないといっても過言ではないほどなのです。だからこそ、『資本論』の冒頭部分を勉強しただけだとしても、それと関連して第3巻の第5篇を理解することは決して、先走りや飛躍ではないということです。そればかりか現代的な問題を『資本論』から読み解くためには必要不可欠とさえ言えるでしょう。
もちろん、『資本論』学習資料の「はしがき」として紹介していくものだけで、それが理解できるかどうかは、確約できませんが、少しでもそれを勉強しようという動機付けにでもなればというのが紹介者の希望なのです。
以上、「はしがき」の序論というほどのものではありませんが、とりあえず、そうしたことを述べておいて、本論に入りたいと思います。今回は、第7章「剰余価値率」の第1節「労働の搾取度」からです。やはり前回と同じように、第6章「不変資本と可変資本」から、第7章「剰余価値率」への移行をまず論じることから始めたいと思います。
◎「第6章 不変資本と可変資本」から「第7章 剰余価値率」への移行
第6章の表題である不変資本と可変資本との区別と範疇として確立は、『資本論』全3巻の基礎になっていることを以前は確認しましたが、そこで明らかになった可変資本こそが剰余価値の唯一の源泉であることも明らかにされました。そして可変資本に対する剰余価値の比率こそ今回取り扱う剰余価値率なのです。だから前章で可変資本の概念が明らかになって初めて剰余価値率の概念も明らかになるという関係にあるわけです。
そして剰余価値率というのは、後の第3巻で出てくる利潤率の基礎にあるものです。第3巻の表題はエンゲルス版では「資本主義的生産の総過程」となっていますが、マルクスの草稿では「総過程の諸形象化」となっています。「諸形象化」というのは、資本主義的生産の内在的な諸法則が、諸資本の競争によって転倒させられてブルジョア社会の表面に表れているもののことです。『資本論』の第1巻や第2巻で取り扱われているのは、資本主義的生産様式の内在的な諸法則をそれ自体として解明して叙述することです。だからそこでは平均的な均衡した形で諸法則が純粋なかたちで叙述されます。しかし第3巻ではそうした内在的な諸法則が諸資本の競争によって転倒させられて資本主義的生産の表面に表れている諸形象を取り扱うわけです。
こうした第1巻と第2巻までのものと、第3巻との関係について、マルクスはスミスの価値の規定についての混乱した主張を批判するなかで次のように明らかにしています。
〈A・スミスは、はじめに価値を、またこの価値の諸成分としての利潤や賃金などの関係を、正しく把握しながら、次に逆の方向に進んで、賃金と利潤と地代との価格を前提し、それらを独立に規定して、それらのものから商品の価格を構成しようとしている。こうして、この逆転の意味するところは、はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し、次に、それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している、ということである。これに反して、リ力ードウは、法則をそのものとして把握するために、意識的に競争の形態を、競争の外観を、捨象している。〉 (草稿集⑥145頁、下線はマルクス)
つまりここでマルクスが〈はじめに彼は事柄をその内的関連に従って把握し〉と述べているのは、『資本論』の第1巻や第2巻で明らかにされているものに対応しているのです。そして〈それが競争のなかで現われるとおりの転倒した形態で把握している〉というのは、第3巻で問題にされていることなのです。スミスはそうしたことに無自覚に、両者をただ並列させているだけであったり、混同してあっちこっちへと動揺するだけなのですが、問題はその内的関連から、その転倒した形態を説明して展開することなのです。そしてそれこそが『資本論』第3巻でマルクスが課題としていることなのです。「諸形象化」というのはそういう意味を持っています。エンゲルスの表題の変更は、こうした第3巻の独自の意義に対する無理解から来ていると言えます。
そして資本家たちが目にしている利潤や利潤率もそうしたものの一つなのですが、それを内在的に規定している法則こそ剰余価値であり剰余価値率の法則というわけです。だからこの第7章で明らかにされているものは、それが転倒して形象化されて現れている利潤率の基礎にあるものといえるでしょう。
それでは第7章第1節の本文を最初から見て行くことにしましょう。
第1節 労働力の搾取度
◎第1パラグラフ(剰余価値は生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる)
【1】〈(イ)前貸しされた資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まず第一に、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる。〉
(イ) 前貸しされた資本をCとしますと、Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、とりあえずは、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われます。
私たちは「第2篇 貨幣の資本への転化」で剰余価値を次のようにマルクスが規定していることを知りました。
〈たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られる。それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。〉 (全集第23a巻196頁)
だからここでマルクスが述べていることは、第2篇で述べていたことを繰り返しているとも言えます。しかし私たちは剰余価値が生産過程のうちの価値増殖過程で生み出されることも、すでに第5章第2節で知っています。だから前貸しされた資本をCとした場合に、Cが生産過程で生み出した剰余価値は、前貸資本Cの増殖分、すなわちΔCとして現われることを知っているのです。
◎第2パラグラフ(前貸資本C=c[不変資本価値]+v[可変資本価値]、生産物価値={c+v}+m[剰余価値])
【2】〈(イ)資本Cは二つの部分に分かれる。(ロ)すなわち、生産手段に支出される貨幣額cと、労働力に支出される別の貨幣額vとに分かれる。(ハ)cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表わす。(ニ)そこで、最初はC=c+vであり、たとえば、前貸資本500ポンド=410ポンド(c)+90ポンド(v)である。(ホ)生産過程の終わりには商品が出てくるが、その価値は(c+v)+mで、このmは剰余価値である。(ヘ)たとえば、410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)である。(ト)最初の資本CはC'に、500ポンドから590ポンドになった。(チ)この二つの額の差額はmであり、90ポンドという剰余価値である。(リ)生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいのだから、生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言うことは、じつは同義反復なのである。〉
(イ)(ロ)(ハ) 前貸資本Cは二つの部分に分かれます。つまり、生産手段の購入に支出される貨幣額cと、労働力の購入に支出される別の貨幣額vとに分かれます。cは不変資本に転化される価値部分を表わし、vは可変資本に転化される価値部分を表しています。
前貸資本、つまり資本家が最初に自身が持つ貨幣を商品の生産のために資本として投じるものは二つの部分に分けられます。彼はその貨幣を、生産過程に必要な原料や機械・道具など、つまり生産手段を購入するために投じます。さらにそれらの機械や道具を使って原料を加工するための労働力を購入しなけばなりません。つまり労働者を雇い入れなければならないのです。
だから資本家が最初に持っている資本額をCとすると、それは二つの部分に、一つは生産手段に投下される貨幣額cと労働力の購入に支出される貨幣額vとに分かれるわけです。だからcは資本の価値の機能規定としては不変資本に転化される貨幣額であり、vは可変資本に転化される貨幣額ということなります。
(ニ) そこで、最初に投下される資本C=c+vであり、たとえば、前貸資本を500ポンドとしますと、それは=410ポンド(c)+90ポンド(v)ということになります。
そうしますと、最初に投下される資本Cは=c+vとなります。例えば、今資本家が最初に生産過程に投じる貨幣額を500ポンドとしますと、それは生産手段の購入に充てられる貨幣額c=410ポンドと労働力の購入に充てられる貨幣額v=90ポンドであれば、500ポンド(C)=410ポンド(c)+90ポンド(v)ということになります。
(ホ)(ヘ) 生産過程の終わりには商品が出てきますが、その価値は(c+v)+mです。ここでmは剰余価値です。たとえば、410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)ということです。
そして生産過程の終わりには生産物である商品が出てきますが、その価値は前貸しされた貨幣額(c+v)にその生産過程で増殖して生まれた剰余価値mを加えたもの、すなわち(c+v)+mになります。具体的な数値を例にしますと、商品の価値は410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)ということになり、合計590ポンドです。
(ト)(チ) 最初の資本Cは増殖してC'になります。すなわち、500ポンドから590ポンドになったわけです。そしてこの二つの額の差額はmであり、90ポンドという剰余価値になるわけです。
つまり前貸資本C=500ポンドは、増殖してC'=590ポンドになったのです。だからこの差額C'-C=90ポンドは、m、すなわち剰余価値になるわけです。
(リ) 生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいのですから、生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言うことは、じつは同義反復なのです。
生産諸要素の価値、つまり生産手段と労働力の価値は、前貸資本が最初に投じられたものですから、それが前貸資本の価値に等しいのは当たり前です。だから生産物価値がその生産要素の価値を越える部分は前貸資本の増殖分であるとか、生産された剰余価値であるというのはまったくの同義反復と言えます。
このパラグラフはフランス語版では二つのパラグラフに分けられています。だから参考のために紹介しておきましょう。
〈資本Cは二つの部分に、生産手段にたいして支出される一方の貨幣額c (不変資本)と、労働力に支出される他方の貨幣額v(可変資本)とに、分解される。最初はC=c+vであり、一例を挙げれば、前貸資本500ポンドスターリング=410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)である。生産作業が完了すれば、その価値が(c+v)+p(pは剰余価値)、すなわち、
{410ポンド・スターリング(c)+90ポンド・スターリング(v)}+90ポンド・スターリング(p)
に等しい商品が、結果として生ずる。
最初の資本CはC'に、500ポンド・スターリングから590ポンド・スターリングになった。両者の差はp、90ポンド・スターリングの剰余価値に等しい。生産要素の価値は前貸資本の価値に等しいから、生産物要素の価値を越える生産物価値の超過分が、前貸資本の増加分、すなわち生産された剰余価値に等しいということは、まぎれもない同義反復である。〉 (江夏・上杉訳204頁)
◎第3パラグラフ(われわれが価値生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味している)
【3】〈(イ)とはいえ、この同義反復は、もっと詳しい規定を必要とする。(ロ)生産物価値と比較されるものは、その形成に消費された生産要素の価値である。(ハ)ところで、われわれがすでに見たように、充用される不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、ただその価値の一部分を生産物に移すだけで、他の部分は元のままの存在形態で存続している。(ニ)このあとのほうの部分は価値形成ではなんの役割も演じないのだから、ここでは捨象してよい。(ホ)それを計算に入れても、なにも変わりはないであろう。(ヘ)かりに、cは410ポンドで、312ポンドの原料と44ポンドの補助材料と過程で損耗する54ポンドの機械類から成っているが、現実に充用される機械類の価値は1054ポンドだとしよう。(ト)生産物価値の生産のために前貸しされたものとしては、われわれは、機械類がその機能によって失い、したがって生産物に移す54ポンドの価値だけを計算する。(チ)もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるとすれば、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないであろう(26a)。(リ)そうすれば、それぞれ1500ポンドと1590ポンドとになるであろう。(ヌ)差額すなわち剰余価値は相変わらず90ポンドであろう。(ル)それゆえ、われわれが価値生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、それは、前後の関連から反対のことが明らかでないかぎり、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味しているのである。〉
(イ) とはいえ、この同義反復は、もっと詳しい規定を必要とします。
確かに生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいというのは同義反復ですが、しかしこの増殖をもたらした原因との関連で考えると不十分なのです。前貸資本のどの部分が増殖して剰余価値を生み出したのかはこれでは分からないからです。だからこの同義反復はもっと詳しい検討と規定を必要としているのです。
(ロ)(ハ)(ニ) 生産物価値と比較されるものは、その形成に消費された生産要素の価値です。ところで、私たちがすでに知っていますように、充用される不変資本のうちの労働手段から成っている部分は、ただその価値の一部分を生産物に移すだけで、他の部分は元のままの存在形態で存続しています。そのあとの残りの部分は価値形成ではなんの役割も演じないのですから、ここでは捨象してよいでしょう。
まず〈生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分〉であり、〈生産された剰余価値に等しい〉という同義反復を考えてみましょう。
ここでは生産物価値と比較されているのは、その生産のために消費された生産諸要素の価値です。つまりC' -C=mです。
しかしまず確認しておくべきことは、充用された不変資本のうち機械や道具などからなっている労働手段の場合は、その価値を生産物に移転させるのは、その一部分だけであって、それ以外のものは価値形成過程には入っていきません。だからこの部分は生産物の価値を形成する要素としては無視してよいわけです。
(ホ)(ヘ)(ト) もしそれを計算に入れたとしても、なにも変わりはないのです。例えば、cは410ポンドで、312ポンドの原料と44ポンドの補助材料と過程で損耗する54ポンドの機械類から成っていますが、現実に充用される機械類の価値は1054ポンドだとしましょう。しかし私たちは、生産物価値の生産のために前貸しされたものとしては、ただ機械類がその機能によって失い、したがって生産物に移す54ポンドの価値だけを計算すればよいのです。
労働手段の価値のうち生産物に移転する部分だけを考えるのではなく、最初に資本家が投じた労働手段全体の価値を例え考えたとしても、結果は同じなのです。例えば資本家は最初に原料に312ポンド、補助材料に44ポンド、そして機械には1054ポンドを投じたとします。合計1410ポンドです。しかし実際に機械がその生産過程で生産物に移転する価値は54ポンドだとすると、不変資本cは合計410ポンドです。資本家は、生産過程の終わりには生産物のなかに移転された410ポンドの価値と機械としては生産過程に残ったままであるが、しかしその過程で部分的に価値を失った機械の価値1000ポンドを持っているでしょう。つまり彼が最初に投じた1410ポンドはそのまま彼が持っているのであって何も変わりはないのです。だから生産物価値の生産のために前貸された不変資本としては、ただ実際に生産過程で移転される価値部分だけを考えればよいのです。
(チ)(リ)(ヌ) このように、もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるたとしても、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないでしょう。そうすれば、労働力の価値90ポンドを加えると、それぞれ1500ポンドと1590ポンドとになるでしょう。つまり差額すなわち剰余価値は相変わらず90ポンドなのです。
私たちの例では可変資本vは90ポンドでしたから、それを入れて計算してみましょう。資本家は最初に原料に312ポンド、補助材料に44ポンド、機械(この場合は蒸気機関)に1054ポンド、そして労働力に90ポンドを投じたとします。合計1500ポンドです。生産物の価値は不変資本の移転分c=312+44+54=410ポンドです。可変資本v=90ポンドで剰余価値m=90ポンドですから、合計410+90+90=590ポンドです。しかし資本家は他方で生産過程で価値を減じているが依然としてそこに残っている蒸気機関の価値1000ポンドを持っているのですから、彼は合計1590ポンドを持っていることになります。つまり最初に投じた1500ポンドと生産過程の結果、彼が持っている価値1590ポンドの差額、すなわち90ポンドが彼が得た剰余価値であることが分かります。だから剰余価値としては生産過程でそのままその価値を維持している機械部分を考慮に入れたとしても同じだということです。
(ル) そういうことですから、私たちが生産物の価値の生産のために前貸しされた不変資本と言う場合には、それは、前後の関連から反対のことが明らかでないかぎりは、いつでも、ただ生産中に消費された生産手段の価値だけを意味していると考えてよいのです。
フランス語版では若干変えられています。
〈われわれが、価値生産のために前貸しされた不変資本という名のもとで--そして、ここではこれが問題になっている--理解するものは、生産の経過中に消費された生産手段の価値に限られる。〉 (江夏・上杉訳205頁)
全集版の場合(初版も同じ)〈前後の関連から反対のことが明らかでないかぎり〉となっているのが、フランス語版では〈そして、ここではこれが問題になっている〉と変わっています。全集版では〈前後の関連から反対のことが明らか〉な場合とはどういう場合かなどいう問題が生じますが、フランス語版ではそれが避けられています。前後の関連から不変資本が磨耗部分だけではなくて、その全体が計算される場合というのは固定資本の回転などを計算する時には常に生じてきますが、これは第2部で問題になることです。
いずれせよ、このパラグラフで確認されたことは、私たちが不変資本の価値という場合には、常に実際に生産過程で生産物にその価値を移転する部分だけを言うのだということです。
◎原注26a
【原注26a】〈26a 「われわれが充用固定資本の価値を前貸資本の一部分として計算する場合には、年末にはこの資本の残存価値を年収の一部分として計算しなければならない。」(マルサス『経済学原理』、第2版、ロンドン、1836年、269ぺージ。〔岩波文庫版・吉田訳・下巻・89ページ〕。)〉
これは〈もし蒸気機関などとしてその元の形態のままで存続する1000ポンドをも計算に入れるとすれば、それを両方の側に、前貸価値の側と生産物価値の側とに算入しなければならないであろう(26a)〉という本文に付けられた原注です。
つまりマルサスの述べていることは、充用した固定資本(機械や道具など)の価値を資本家が投じた前貸資本の一部分として計算するのであれば、年末にはこの固定資本の価値のうち残存している、つまり生産過程で移転させた部分を差し引いた残りの価値部分をも、資本家の年収の一部分として計算すべきだということです。つまり生産物の価値だけではなくて、その生産過程で消費された部分を差し引いた残りの固定資本の価値部分も彼の資本家の年間に得た価値としては計算すべきだということです。
つまり固定資本の場合も、それが生産物の価値としてはその移転分だけを考えるべきだという主張と同じことをマルサスは述べているということです。だからマルクスは原注として採用したのでしょう。
マルサスについてはこれまでにも出てきたと思われますが、『資本論辞典』から関連する部分だけを簡単に紹介しておきましょう。
〈マルサス Thomas Robert Malthus(1766-1834)イギリスの経済学者.……マルサスの価値論上の立場は,スミスからリカードへと発展をたどった古典派経済学にたいして,これを前進せしめるどころか,かえってこれを積極的に破壊し,俗流経済学への途をひらくことになっている点で'科学的反動'の学説として特徴づけられる.……かくしてマルサスは,一方では商品の価値はこれが支配する労働量にひとしいといい,また他方では賃銀は労働と利潤との合計より構成されるという.したがってこのばあい利潤は.事実上価値以上の価格で商品が販売されることから生じるものとされるほかはなくなるとともに,他方商品の買手たる労働者は.労働と利潤との総和にひとしい労働量を,つまり商品にふくまれたところの労働量よりも多い労働量を提供するというのであるから.このばあい利潤は,商品をそれに投ぜられた労働最よりも多量の労働にたいして販売することによってのみ,いいかえると,商品の価値が労働によって決定されるとすれば,かかる価値以上に販売することによってのみ.ひきだされるということになる.かくしてこの相対応する二つのマルサスの価値規定は.いずれも,利潤を価絡つりあげから説明するという商人的幻想へと帰着せしめられる。……『資本論』および『剰余価値学説史』第2部においても,マルサスへの関説が見られる.それらを大別すると,マルクス自身の規定の先行者としてのマルサスの叙述の挙示,マルサスの説明の肯定的評価,人口論者としてのマルサスは先行者の剽窃者にすぎないという批判に分けられる.まず投下資本と剰余価値との関係を考察するさいに,投下資本価値のうちに使用された固定資本をも算入するならば,生産物価値のなかにもこれを算入しなければならぬというマルクスの説明にあたって,マルサスの同様の叙述が参照されている(KI-221:青木2-379:岩波2-126).……〉 (558-561頁)
◎第4パラグラフ(生産過程で新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは違っている)
【4】〈(イ)このことを前提して、C=c+vという式に帰れば、この式はC'=(c+v)+mに転化し、また、まさにそうなることによってCをC'に転化させる。(ロ)言うまでもなく、不変資本の価値は生産物にはただ再現するだけである。(ハ)だから、過程で現実に新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは違っているのであり、したがって、それは、一見そう見えるように(c+v)+mまたは410ポンド(c)+90ポンド(v)ではなく、v+mまたは90ポンド(v)+90ポンド(m)であり、590ポンドではなく、180ポンドである。(ニ)かりに、cすなわち不変資本がゼロだとすれば、言い換えれば資本家は生産された生産手段を原料も補助材料も労働用具も充用する必要がなくただ天然にある素材と労働力だけを充用すればよいというような産業部門があるとすれば、その場合には生産物に移される不変価値部分はないであろう。(ホ)生産物価値のこの要素、われわれの例では410ポンドは、なくなるであろう。(ヘ)しかし、90ポンドの剰余価値を含む180ポンドの価値生産物は、cが最大の価値額を表わすような場合とまったく同じ大きさであろう。(ト)C=(0+v)=vとなり、そして、C'価値増殖した資本=v+mとなり、C'-Cはやはりmに等しいであろう。(チ)逆にm=0ならば、言い換えれば、その価値が可変資本として前貸しされる労働力がただ等価を生産するだけだとすれば、C=c+vであり、そしてC'(生産物価値)=(c+v)+0となり、したがってC=C'となるであろう。(リ)前貸しされた資本は価値増殖してはいないであろう。〉
(イ) このことを前提して、C=c+vという式に帰りますと、この式は生産過程の結果C'=(c+v)+mに転化し、また、まさにそうなることによってCをC'に転化させるわけです。
このこと、つまり価値生産のために前貸しされた不変資本としては生産中に消費された生産手段の価値だけを意味するということを前提しますと、前貸資本Cは不変資本cと可変資本vとに分解します。すなわちC=c+vという式になります。この式は、生産過程で剰余価値を生み、生産物価値C'としては、移転された不変資本cと再生産された可変資本vと新たに形成された剰余価値mの合計になります。すなわちC'=(c+v)+mという式に転化します。こうして前貸資本Cは増殖された生産物価値C'に転化されるわけです。
(ロ)(ハ) 言うまでもありませんが、前章で確認されましたように、不変資本の価値は生産物にはただ再現するだけです。だから、過程で現実に新たに生産される価値生産物は、過程から得られる生産物価値とは当然違っています。価値生産物としては、一見そう見えますように(c+v)+mまたは410ポンド(c)+90ポンド(v)ではなく、v+mまたは90ポンド(v)+90ポンド(m)なのです。だから590ポンドではなく、180ポンドなのです。
ここでは〈価値生産物〉と〈生産物価値〉というよく似た用語が出てきます。まず後者の〈生産物価値〉というのは、生産物の価値のことでこれまでにも出てきたものです。しかし〈価値生産物〉というのは、新しく出てきた用語で、新たに対象化された労働によって形成された価値のことです。つまり不変資本の価値は、生産物にはただ移転・保存されるに過ぎませんが、生産物の価値のうち可変資本の価値部分や剰余価値の部分は生産物に移転されたものではなく、新たに生産された価値なのです。この新たに生産された価値部分を〈価値生産物〉と述べているわけです。
だから価値生産物というのは、生産物価値(c+v)+mのうちv+mなのです。すなわち410ポンド(c)+90ポンド(v)+90ポンド(m)=590ポンドのうち90ポンド(v)+90ポンド(m)=180ポンドなのです。
(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) かりに、cすなわち不変資本がゼロだとしますと、言い換えれば資本家は生産された生産手段としては、原料も補助材料も労働用具も充用する必要がなくて、ただ天然にある素材と労働力だけを充用すればよいというような産業部門があるとしますと、その場合には生産物に移される不変価値部分はないことになるでしょう。生産物価値のこの要素、私たちの例では移転される不変資本価値410ポンドは、なくなるでしょう。しかし、90ポンドの剰余価値を含む180ポンドの価値生産物は、cが最大の価値額を表わすような場合とまったく同じ大きさでしょう。式で表しますとC=(0+v)=vとなり、そして、C'すなわち価値増殖した資本としては=v+mとなり、C'-Cはやはりmに等しいでしょう。
もし仮に前貸資本のうち不変資本に分解する部分がゼロの産業部門があるとしますと(マルクスは第2巻でスミスのドグマを批判するなかで、例えば瑪瑙の採集産業を例としてあげています)、前貸資本Cとしては可変資本vだけになります。つまりこれまでの例で考えますと、前貸される不変資本価値cの410ポンドはなくなって、ゼロになるということです。しかしこの場合も、価値生産物としてはv+m=90ポンドの可変資本価値部分+90ポンドの剰余価値=180ポンドになって、結果は同じです。つまり不変資本価値がどうであろうと価値生産物の値は同じだということです。そして価値増資した資本C'(90ポンドv+90ポンドm)-C(90ポンドv)=90ポンドmと同じ結果が出てくるわけです。
(チ)(リ) 逆にm=0と考えますと、言い換えますと、その価値が可変資本として前貸しされる労働力がただ等価を生産するだけだとしますと、C=c+vであり、そしてC'(生産物価値)も=(c+v)+0となって、だからC=C'となるでしょう。この場合は、前貸しされた資本は価値増殖していないことになるでしょう。
もしm=0と仮定しますと、つまり剰余価値が生産されないということは、労働者が自身の労働力の価値を再生産するところまでしか労働しないということであり、この場合は前貸資本Cは=c+vですが、生産物価値もやはり(c+v)+0ですから、C'=Cであって生産物の価値は前貸資本の価値と同じとなるでしょう。つまり価値増殖はないということです。
◎第5パラグラフ(価値変化の純粋な分析のためには不変資本cをゼロに等しいとすることを要求する)
【5】〈(イ)われわれが事実上すでに知っているように、剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのであり、したがって、v+m=v+Δv(v・プラス・vの増加分)である。(ロ)ところが、現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大するので前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされるのである。(ハ)前貸総資本は500だったが、それが590になる。(ニ)そこで、過程の純粋な分析は、生産物価値のうちただ不変資本価値が再現するだけの部分をまったく捨象すること、つまり不変資本cをゼロに等しいとすることを要求するのであり、したがってまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのである。〉
(イ) 私たちがすでに知っていますように、剰余価値は、ただvすなわち労働力に転換される資本部分に起きる価値変化の結果でしかないのです。だから、v+m=v+Δv(v・プラス・vの増加分)なのです。
ここから、先の同義反復がさらに詳しく規定される必要がある理由が明らかにされます。前章から私たちは剰余価値は可変資本価値vの変化から生まれることを知っています。つまりvはv+mになるのですが、これはv+Δv、つまりmというのぱ可変資本価値の増殖分だということを意味しています。
(ロ)(ハ) ところが、現実の価値変化も、また価値が変化する割合も、総資本の可変成分が増大することによって前貸総資本もまた増大するということによって、不明にされるのです。前貸総資本は500でしたが、それが590になったという事実だけが目に入るのです。
この部分はフランス語版では若干書き換えられていますので、見ておきましょう。
〈だが、この価値変化の真の性格は、一見して明らかになるものではない。それは、前貸総資本もこの資本の可変的要素の増大の結果やはり増大するということから、生ずるのである。この資本は500であったが、590になる。〉 (江夏・上杉訳206頁)
しかしこうしたことは先の同義反復、すなわち〈生産物価値がその生産要素の価値を越える超過分は前貸資本の増殖分に等しいとか、生産された剰余価値に等しいとか言う〉だけでは明らかにならないのです。つまり500がただ590になったというだけではこうした真の性格は見えなくされています。
(ニ) そういうことからも、過程の純粋な分析は、生産物価値のうちただ不変資本価値が再現するだけの部分をまったく捨象すること、つまり不変資本cをゼロに等しいとすることを要求するのです。ということはまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのです。
そういうことから価値の変化を純粋に考察するためには、価値の変化の起こらない、以前の価値をただ移転し保存するだけの部分、すなわち不変資本価値の部分は常にゼロにすることが必要なのです。
ところでここでマルクスは〈したがってまた、可変量〔変数〕と不変量〔常数〕とで運算が行なわれ不変量はただ加法または減法だけによって可変量と結合されている場合の数学の一法則を応用することを要求するのである〉と述べていますが、これはx(変数)+a(定数)=y(変数)という関数を考える場合、これは実質上x(変数)=y(変数)の関数を考えることであり、aはただその関数の関係をグラフ上で上下左右に移動させるだけにすぎないということ、つまり可変量と可変量との関係を問う場合は、aをゼロにしたものを基本的な関係だとする「法則」について述べているのではないでしょうか(初版付属の原注によれば、微分すれば不変量はゼロになるという法則をマルクスは意図しているようです)。
一応、この部分の初版を示しておきますと次のようになっています。
〈だから、過程を純粋に分析するためには、生産物価値のうちで不変資本価値だけが再現されている部分を全く度外視することが、つまり不変資本cはゼロに等しいとすることが、したがってまた、可変量と不変量との演算において不変量が加法または減法によってのみ可変量と結びつけられるばあいの数学の一法則を適用することが、必要なのである(27)。〉 (江夏訳227-228頁)
このように初版には現行版やフランス語版にはない原注27)が付いています。その原注も紹介しますと次のようになります(付属資料には原注27のところに紹介しておきました)。
〈(27)「加法または減法の演算によって可変量に結びつけられている不変量は、微分すればゼロになる。」(J・ハインド『徴分学。ケンブリッジ、1831年』、126ページ。)じっさい、ある不変量の量的変化というものは実在しない。だから、微分学の法則、すなわち、ある不変量の微分はゼロに等しい、が成り立つことになる。〉 (江夏訳228頁)
なお『61-63草稿』には次のようなメモがあとから書き加えられたものとしてあります。
〈ここに述べた見解は、厳密に数学的に見ても正しいものである。たとえば、微分計算でy=f(X)+Cをとり、このCを定数としよう。XがX+ΔXに変化しても、この変化はCの価値を変えない。定数は変化しないのだから、dCはゼロであろう。それゆえ、定数の微分はゼロなのである。〉 (草稿集④268頁)
(全体を7分割します。以下は(2)に続きます。)