『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)

2024-03-14 15:36:44 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.41(通算第91回)(5)


【付属資料】(1)


●第1パラグラフ

《61-63草稿》

  〈われわれは、絶対的剰余価値および相対的剰余価値という二つの形態を切り離して考察したが、同時に、この二つの形態は互いに結びついているということ、また、相対的剰余価値が発展するのとまさに時を同じくして、絶対的剰余価値が極限にまで駆り立てられるということを示した。すでに見たように、この二つの形態を切り離すことによって、労賃と剰余価値との関係におけるもろもろの違いが明らかになるのである。生産力の発展が所与であれば、剰余価値はつねに絶対的剰余価値として現われるのであって、とりわけ剰余価値の変動は、ただ総労働日の変化によってのみ可能である。労働日が所与のものとして前提されれば、剰余価値の発展は、ただ相対的剰余価値の発展としてのみ、すなわち生産力の発展によってのみ可能である。〉(草稿集⑨367頁)

《初版》

 〈これまでと同じように、この節でも、労働力の価値、したがって、労働日のうちで労働力の再生産または維持に必要な部分は与えられた不変量である、と想定する。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈本章でもこれまでと同じように、労働力の日価値、したがって、労働者が労働力を再生産しあるいは維持するにすぎない労働日部分は、不変量であると見なす。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》 英語版では第9章は第11章になっている。

  〈(1) この章でも、これまでと同様に、労働力の価値と、その結果として労働力を再生または維持するために必要な労働日のある部分については、ある一定の大きさがすでに与えられているものとする。〉(インターネットから)


●第2パラグラフ

《初版》

 〈このように前提すれば、剰余価値率と同時に、個々の労働者が一定の時間内に資本家に引き渡す剰余価値量も与えられている。たとえば必要労働が、1日に6時間で、3シリング=1ターレルの金量で表現されているとすれば、1ターレルは、1個の労働力の日価値、すなわち、1個の労働力の買い入れた前貸しされる資本価値である。さらに、剰余価値率が100%であれば、1ターレルの可変資本は1ターレルの剰余価値量を産む、すなわち、労働者は1日に6時間の剰余価値量を引き渡すわけである。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈1平均労働力の日価値が3シリングあるいは1エキュであって、これを再生産するために1日に6時間が必要であると想定しよう。資本家は、このような1労働力を買うために1エキュを前貸ししなければならない。この1エキュは資本家にどれだけの剰余価値をもたらすであろうか? それは剰余価値率に依存している。剰余価値率が50%であれば、剰余価値は3時間の剰余労働を代表する半エキュであろうし、100% であれば、6時間の剰余労働を代表する1エキュに上がるだろう。こうして、労働力の価値が与えられれば、剰余価値率が、個々の労働者によって生産される剰余価値量を規定する。〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈(2) このことにより、個々の労働者が一定期間において資本家に供する剰余価値の率・量が、同時に与えられたものとなる。すなわち、仮に、必要労働が日6時間であり、ある一定量の黄金= 3 シリングで表されるならば、かくして、その3 シリングが、一労働力の日価値 あるいは、一労働力を購入するために前貸しした資本の価値となる。さらに、もし、剰余価値率が = 100% であるならば、この可変資本の3シリングが、3シリングの剰余価値の量を生産する。または、その労働者が、6時間に等しい剰余労働の量を資本家に1日あたりで供給する。〉(インターネットから)


●第3パラグラフ

《初版》

 〈ところが、可変資本は、資本家が特定の生産過程において同時に使用するあらゆる労働力の総価値を表わす貨幣表現である。だから、1個の労働力の日価値が1ターレルであれば、毎日100個の労働力を搾取するためには100ターレルの資本が、毎日n個の労働力を搾取するためにはnターレルの資本が、前貸しされなければならない。だから、前貸可変資本の価値は、1個の労働力の平均価値に使用労働力の数を掛けたものに等しい。したがって、労働力の価値が与えられていれば、可変資本の価値の大きさすなわち可変資本量は、わが物にされた労働力の量あるいは同時に使用される労働者のが変動するにつれて、変動することになる。〉(江夏訳342頁)

《フランス語版》

 〈可変資本は、資本家が同時に使用するすべての労働力の価値の貨幣表現である。可変資本の価値は、1労働力の平均価値に個々の労働力の数を乗じたものに等しい。したがって、可変資本の量は、使用される労働者の数に比例する。資本家が日々100労働力を搾取すれば、それは1日に100エキュに達し、n労働力を搾取すればnエキュに達する〉(江夏・上杉訳313頁)

《イギリス語版》

  〈 (3) ところで、資本家の可変資本というのは、彼が同時に雇った全労働力の総価値の貨幣表現のことである。従って、その価値は、一労働力の平均価値に、雇った労働力の数を掛けたものに等しい。であるから、与えられた労働力の価値に基づき、可変資本の大きさは、同時に雇った労働者の数によって、直接的に変わる。もし、一労働力の日価値が = 3 シリングであるならば、日100労働力を搾取するためには、300シリングの資本が前貸しされねばならない。日n労働力を搾取するためには、3シリングのn倍の資本が前貸しされねばならない。(訳者挿入 云うまでもないことではあるが、前段で示されるように、剰余価値率=100% として計算される。) 〉(インターネットから)


●第4パラグラフ

《初版》

 〈1ターレルの可変資本すなわち1個の労働力の日価値が、毎日1ターレルの剰余価値を生産すれば、100ターレ/ルの可変資本は毎日100ターレルの剰余価値を生産するし、nターレルの可変資本は毎日 1ターレル×n の剰余価値を生産する。だから、生産される剰余価値の量は、個々の労働者の労働日が引き渡す剰余価値に使用労働者の数を掛けたものに等しい。ところで、さらに、個々の労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられていれば、剰余価値率によって規定されるのであるから、同じ前提のもとでは、次のような結論が出てくる。それは、与えられたある可変資本が生産する剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に剰余価値率を掛けたものに等しい、あるいは、同時に搾取される労働力の数と1個1個の労働力の搾取度との複比によって規定される、という結論である。〉(江夏訳342-343頁)

《フランス語版》  フランス語版には全集版にはない原注(1)があるので、本文の次に紹介しておく。

 〈同様に、1労働力の価格である1エキュが1エキュの日々の剰余価値を生産すれば、100エキュの可変資本は100エキュの剰余価値を生産し、nエキュの資本は 1エキュ×n の剰余価値を生産するであろう。したがって、可変資本が生産する剰余価値量は、可変資本から支払いを受ける労働者の数に個々の労働者が1日にもたらす剰余価値量を乗/じたもの、によって規定される。そして、個々の労働力の価値が知られていれば、剰余価値量は剰余価値率、換言すれば労働者の必要労働にたいする剰余労働の比率、に依存している(1)。したがって、次のよう法則が得られる。可変資本によって生産される剰余価値の量は、この前貸資本の価値に剰余価値率を乗じたものに等しく、あるいは、1労働力の価値にその搾取度を乗じ、さらに、同時に使用される労働力の数を乗じたもの、に等しい。

  (1) 本文では、1平均労働力の価値が一定であるばかりでなく、「資本家に使われているすべての労働者が平均労働力にほかならないことが、依然として想定されている。生産される剰余価値が搾取される労働者の数に比例して増加せず、そのさい労働力の価値が一定ではない、という例外的なばあいもある。〉(江夏・上杉訳313-314頁)

《イギリス語版》

  〈(4) 同様に、もし、3シリングの可変資本、一労働力の日価値が、日3シリングの剰余価値を生産するとしたら、300シリングの可変資本は、日300シリングの剰余価値を生産する。そして、3シリングのn倍のそれは、日3シリング×n なる剰余価値を生産する。従って、生産される日剰余価値の量は、一労働者が供給する一労働日の剰余価値に、雇われた労働者の数を乗じた量と等しいものになる。しかも、さらに付け加えるならば、一労働者が生産する剰余価値の量は、労働力の価値が与えられたものならば、剰余価値率によって決まる。この法則は、次のように云える。剰余価値量は、前貸しされた可変資本の量に、剰余価値率を乗じた量となる。別の言葉で云えば、同一の資本家によって同時に搾取される労働力の数と、個々の労働力の搾取される率と、一労働力の価値、の各項目の複乗算によって求められる量となる。〉(インターネットから)


●第5パラグラフ

《初版》 初版には第5パラグラフに該当するものはない。

《フランス語版》

 〈したがって、剰余価値の量をP、個々の労働者によって日々生産される剰余価値をp、1労働者にたいする支払いのために前貸しされる可変資本をv、可変資本の総価値をV、1平均労働力の価値をf、その搾取度を t'(剰余労働)/t(必要労働)、使用される労働者の数をn、と名づければ、次のような式が得られる。

     =p/v×V
  P {
     =f×t'/t×n

  さて、ある積の諸因数の数値が同時に逆比例して変化すれば、この積の数値は変わらない。〉(江夏・上杉訳314頁)

《イギリス語版》  二つのパラグラフに分けられている。

  〈(5) 剰余価値の量を S 、個々の労働者によって日平均として供給される剰余価値を s 、1個人の労働力の購入に前貸しされた日可変資本を v 、可変資本の総計を V 、平均労働力の価値を P 、その搾取率を、(a'/a) (剰余労働 / 必要労働) 、そして雇われた労働者数を n としよう。我々は次の式を得る。

S = (s/v) × V

S = P × (a'/a) × n

  (6) 以下のことは、常に想定されている。労働力の平均価値だけではなく、資本家によって雇われる労働者も、平均的な労働者なのである。時に、搾取される労働者数に比例して生産される剰余価値が増加しないという例外的ケースもあるが、この場合では、労働力の価値が一定値に留まってはいない。( 云わずもがなではあるが、訳者注: 労働力の価値が上昇する。)〉(インターネットから)


●第6パラグラフ

《初版》

 〈だから、一定量の剰余価値の生産では、一方の要因の減少は他方の要因の増加でもって補填できるわけである。可変資本が減少し、同時に同じ割合で剰余価値率が高くなれば、生産される剰余価値の量は不変である。資本家は、前記の前提のもとでは、毎日100人の労働者を搾取するためには100ターレルを前貸ししなければならず、しかも剰余価値率が50%であるとすれば、この100ターレルの資本は、50ターレルの剰余価値、すなわち 100×3労働時間 の剰余価値を産む。剰余価値率が2倍になれば、すなわち、労働日が6時間から9時間に延長されるのではなく、6時間から12時間に延長されれば、50ターレルという半減された可変資本も、やはり50ターレルの剰余価値、すなわち 50×6労働時間 の剰余価値を産む。だから、可変資本の減少は、労働力の搾取度を右の減少に比例して引き上げれば補填できるし、または、就業労働者の数の減少は、労働日を右の減少に比例して延長すれば補填できるわけである。したがって、ある程度の限界内では、資本が搾り出しうる労働の供給は、労働者の供給に依存していない(202)。逆に、剰余価値率が減少しても、この減少に比例して可変資本の量または就業労働者の数が増せば、生産される剰余価値の量は変わらない。〉(江夏訳343頁)

《フランス語版》 フランス語版では、このパラグラフは5つのパラグラフに分けられてより詳しい説明になっている。ここでは五つのパラグラフをすべて紹介する。

 〈したがって、一定量の剰余価値の生産では、その諸因数中のある一因数の減少が他の因数の増大によって相殺されることがある。
  こんなわけで、剰余価値率の減少は、可変資本または使用される労働者の数がこれに比例して増大すれば、生産される剰余価値量に影響を及ぼすものではない。
  100人の労働者を100%の率で搾取する100エキュの可変資本は、100エキュの剰余価値を生産する。剰余/価値率を半減しても同時に可変資本を倍加すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。
  これとは逆に、可変資本は減少するがそれに反比例して剰余価値率が増大すれば、剰余価値量は相変わらず同じである。資本家が100人の労働者に日々100エキュを支払い、これらの労働者の必要労働時間が6時間、剰余労働時間が3時間に達する、と仮定せよ。100エキュの前貸資本は50%の率で自己増殖して、50エキュあるいは 100×3労働時間=300労働時間 の剰余価値を生産する。さて今度は資本家が自分の前貸しを100エキュから50エキュに半減しても、すなわち、もはや50人の労働者しか雇い入れなくても、それと同時に剰余価値率を2倍にすることに、あるいは結局同じことになるが、剰余労働を3時間から6時間に延長することに成功すれば、彼はやはり同じ剰余価値量を獲得するであろう。50エキュ×100/100エキュ=100エキュ×50/100=50エキュ であるからだ。労働時間で計算すれば、50労働力×6労働時間=100労働力×3時間=300労働時間 が得られるのである。
  したがって、可変資本の減少が、これに比例する剰余価値率の引き上げによって相殺されることもあれば、あるいは、使用される労働者の減少が、これに比例する労働日の延長によって相殺されることもある。こうして、資本によって搾取可能な労働量は、ある程度は、労働者の数から独立したものになる(2)。〉(江夏・上杉訳314-315頁)

《イギリス語版》

  〈(7) であるゆえ、剰余価値の一定量の生産においては、一要因の減少は他の増加で補完されるであろう。もし、可変資本が減少しても、同時に、剰余価値率が同じ比率で上昇すれば、剰余価値量は、変化なく留まる。もし、我々の前段の仮定で見るとして、資本家が、日100人の労働者を搾取するために、300シリングを前貸しせねばならぬとしたら、剰余価値率が50%として、この可変資本300シリングは、剰余価値150シリング、または、100人×3 労働時間 の剰余価値を産む。もし仮に、剰余価値率が2倍、(訳者注: 100%) または、労働日の超過が6時間から9時間に代わって6時間から12時間となり、 同時に可変資本が半分に減らされた つまり150シリングになったとすれば、剰余価値は、同様にして150シリング、または50人×6労働時間の剰余価値を産む。可変資本の減少は、このように、労働力の搾取率の比例的上昇によって補完される。または、労働日の拡大に相当する雇用労働者数の減少によって補完される。ある一定の限界はあるものの、かくして、資本によって搾取される労働の供給は、労働者の供給からは独立している。*1〉(インターネットから)


●原注202

《61-63草稿》

  〈労働の価値または労働時間の価格というこの表現では、価値概念は完全に消し去られているだけでなく、それと直接に/矛盾するものに転倒されている。標準的な労働日の一部分(つまり労働能力の再生産に必要な部分)しか体現されていない価値が、労働日全体の価値として現われる。このようにして、12時間労働の価値は、12時間労働で生産される商品の価値が6シリングに等しいにもかかわらず、そうなるのももともと12時間労働が6リングを表わすからであるにもかかわらず、3シリングに等しいのである。したがって、これは、たとえば代数学における√-2と同じような不合理な表現なのである。とはいえ、それは、生産過程の必然的な結果として生ずる表現なのである、つまり労働能力の価値の必然的な現象形態なのである。その不合理な表現は、すでに労賃という言葉自体のなかにある。そこでは労働の賃金イコール労働の価格イコール労働の価値なのである。しかし、労働者の意識のなかでも資本家の意識のなかでも同じように生きているこの没概念的な形態は、実生活において直接的に現われる形態なのであるから、それゆえこの形態こそ、俗流経済学が固執するところの形態なのである。彼らは、他のすべての諸科学から区別される経済学の独自性は次の点にあるというのである。すなわち他の諸科学が、日常の諸現象の背後にか〈れている、そして日常の外観(たとえば、地球をめぐる太陽の運動のような)とたいていは矛盾する形態にある本質を暴露しようとするのにたいして、経済学の場合には、日常の諸現象を同じく日常的な諸表象のうちへたんに翻訳することをもって科学の真の事業だと言明してはばからない、と。労働能力の価値が、労働の価値として、または貨幣で表現された労働の価格としてその日常的表現(その通俗的な姿)をえて、ブルジョア社会の表面に現われるさいの、この転倒した派生的形態にあっては、支払労働と不払労働のあいだの区別は完全に消し去られている。なぜといって、労賃とはまさに労働日の支払いのことだし、それは、労働日との等価、--実際のところ--労働日の生産物との等価なのだからである。それだから、生産物に含まれている剰余価値は、実際、一つの目にみえない、神秘的な性質から説明するほかはなく、不変資本から導きだすほかはないのである。この〔労働の価格という〕表現こそが、賃労働と賦役労働のあいだの区別を成すものであり、労働者自身の思い違いを生んでいるのである。〉(草稿集⑨350-351頁)

《初版》

 〈(202) この基本的法則を、俗流経済学者の諸氏は知っていないように思える。彼らは、さかさにされたアルキメデスたちは、需婆と供給とで労働の市場価格がきまるということのうちに見いだしたものは、世界を土台から変えるための支点ではなく、世界を静止させるための支点である、と思っている。〉(江夏訳344頁)

《資本論』第3部補遺》

 〈1 価値法則と利潤率
  この二つの要因のあいだの外観上の矛盾の解決はマルクスの原文が公表されてからもそれ以前と同様にさまざまな論議をかもすであろうということは、予想されることだった。ずいぶん多くの人々が完全な奇跡を期待していた。そして、いま彼らは失望落胆している。というのは、自分たちが予期していた手品のかわりに、簡単で合理的な、散文的で平凡な、対立の調停が目の前に現われたからである。いちばん喜んで失望しているのは、いうまでもなく例のローリア閣下である。彼はついにあのアルキメデスの挺子の支点を見つけたのだ。この支点からやれば彼のような一寸法師でもマルクスの堅固な巨大な建築を空中に持ち上げて粉砕することができるというのである。彼は怒って叫ぶ。こんなものが解決だというのか? こんなものはただのごまかしではないか!〉(全集第25b巻1136頁)

《フランス語版》

 〈(2) この基本法則は俗流経済学者諸君には知られていないようであって、これら逆さにされた新アルキメデスたちは、需要供給による労働の市場価格の規定のうちに、世界を隆起させるのではなく世界を静止状態に保っておくための支点を見出した、と信じている。〉(江夏・上杉訳315頁)

《イギリス語版》 訳者の余談がながながとついているが、省略する。

  〈本文注: 1 *この初歩的な法則は、アルキメデスが逆さまになったような俗流経済学者には未知のようなもので、供給と需要で労働の市場価値を決める場合の梃子の支点を見出したと思っているらしい。その梃子の支点が、世界を動かすようなことはなく、その動きを止めるものと思っているらしい。(訳者注: この梃子の支点、剰余価値(率と量)こそ、資本主義社会を拡大し、資本主義世界を変革して行くものなのであるが、その認識を欠いている。〉(インターネットから)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈それにもかかわらず、労働者の数または可変資本の大きさを、剰余価値率の引き上げまたは労働日の延長でもって補填するばあいには、飛び越えられない絶対的な限界がある。労働力の価値がどれだけであろうと、したがって、労働者の維持に必要な労働時間が2時間であろうと10時間であろうと、1人の労働者が毎日生産することのできる総価値は、いつでも、24労働時間の対象化である価値よりも小さいし、対象化されている24労働時間の貨幣表現が12シリングまたは4ターレルであれば、この金額よりも小さい。われわれの前記の前提によると、労働力そのものを再生産するためには、または、労働力の買い入れに前貸しされた資本価値を補填するためには、毎日6労働時間を必要とするが、この前提のもとでは、100%の剰余価値率すなわち12時間労働日で、毎日50O人の労働者を使用している50Oターレルの可変資本は、毎日、50Oターレルの剰余価値または 6×500労働時間 の剰余価値を生産することになる。200%の剰余価値率すなわち18労働時間で、毎日100人の労働者を使用している100ターレルの資本は、200ターレルの剰余価値量または 18×100労働時間〔マイスナー第2版およびフランス語版では「12×100労働時間」に訂正〕の剰余価値量しか生産しない。そしてまた、この資本の総価値生産物、すなわち、前貸資本の等価・プラス・剰余価値は、けっして、毎日4OOターレルまたは 24×100労働時間 という額に達することができない。平均的な労働日の絶対的な限度は、本来いつでも24時間より短いのであって、可変資本を剰余価値率の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、または、搾取される労働者の数を労働力の搾取度の引き上げでもって補填することの絶対的な限度、を成しているのである。この明白な法則は、後述する資本の傾向--この傾向は、資本が使用/する労働者の数、または労働力に転換される資本の可変成分を、最小限度に縮小するものであって、できるだけ大きな剰余価値量を生産するという資本のもう一つの傾向とは矛盾している--から生ずる多くの現象を説明するためには、重要である。逆に、使用される労働力の量または可変資本の量が増大しても、剰余価値率に比べて減少の速度がおそければ、〔マイスナー第2版では「剰余価値率の減少に比例していなければ」〕生産される剰余価値の量は低下する。〉(江夏訳344-345頁)

《資本論》

 〈資本主義体制の一般的基礎がひとたび与えられれば、蓄積の進行中には、社会的労働の生産性の発展が蓄積の最/も強力な槓杆となる点が必ず現われる。……労働の社会的生産度は、一人の労働者が与えられた時間に労働力の同じ緊張度で生産物に転化させる生産手段の相対的な量的規模に表わされる。彼が機能するために用いる生産手段の量は、彼の労働の生産性の増大につれて増大する。……だから、労働の生産性の増加は、その労働量によって動かされる生産手段量に比べての労働量の減少に、または労働過程の客体的諸要因に比べてのその主体的要因の大きさの減少に、現われるのである。〉(全集第23b巻811-812頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは三つのパラグラフに分けられている。三つ一緒に紹介しておく。

 〈しかし、この種の相殺は一つの乗り越えがたい限界に出会う。24時間という自然日は平均労働日よりも必ず長い。だから、平均的な労働者が1時間に1/6エキュの価値を生産しても、平均労働日はけっして4エキュの日価値をもたらすことができない。4エキュの価値を生産するためには、平均労働日は24時間を必要とするからである。剰余価値については、その限界はなおいっそう狭い。もし日々の賃金を補填するために必要な労働日部分が6時間に達するならば、自然日のうち残るのは18時間だけであって、生物学の法剥は、この18時間のうちの一部を労働力の休息のために要/求する。労働日を18時間という最高限度に延長して、この休息の最低限度として6時間を想定すれば、剰余労働は12時間にしかならず、したがって、2エキュの価値しか生産しないであろう。
  500人の労働者を100% の剰余価値率で、すなわち6時間が剰余労働に属する12時間の労働をもって、使用する500エキュの可変資本は、日々500エキュあるいは 6×500労働時間 の剰余価値を生産する。日々100人の労働者を200%の剰余価値率で、すなわち18時間の労働日をもって、使用する100エキュの可変資本は、200エキュあるいは 12×100労働時間 の剰余価値しか生産しない。その生産物は総価値で、1日平均400エキュの額あるいは 24×100労働時間 にけっして達することができない。したがって、可変資本の減少が剰余価値率の引き上げによって、または結局同じことになるが、使用される労働者の数の削減が搾取度の上昇によって、相殺できるのは、労働日の、したがって、労働日に含まれる剰余労働の、生理的な限界内にかぎられる。
  全く明白なこの法則は、複雑な現象の理解にとって重要である。われわれはすでに、資本が最大限可能な剰余価値を生産しようと努力することを知っているし、後には、資本がこれと同時に、事業の規模に比較してその可変部分あるいはそれが搾取する労働者の数を最低限に削減しようと努めることを見るであろう。これらの傾向は、剰余価値量を規定する諸因数中のある一因数の減少がもはや他の因数の増大によって相殺されえなくなるやいなや、あい矛盾したものになる。〉(江夏・上杉訳315-316頁)

《イギリス語版》  やはり訳者余談がながながと続くが省略する。

  〈 (8) 雇用される労働者数の減少に対する補填、または前貸しされた可変資本の量に対する補填は、剰余価値率の上昇によって補填されるものではあるが、それは労働日の超過時間によるものであって、従って、それは、超えることが出来ない限界を持っている。労働力の価値がどの様なものであれ、労働者の生命維持のための必要労働時間が2時間であれ10時間であれ、労働者が生産し得る全価値は、日の始まりから日の終りまで、常に、24時間の労働によって体現される価値よりは少ない。もし12シリングが24時間の労働が実現するものの貨幣的表現であるとしたら、12シリングよりは少ない。我々の前の前提によれば、日6時間の労働時間が労働力自体の再生産に必要である、または、その労働力の購入に前貸しされた資本の価値を置き換えるものである。1,500シリングの可変資本が、500人の労働者を雇用し、剰余価値率100% 12時間労働日であれば、日剰余価値1,500シリング または6×500労働時間を生産する。300シリングの資本が日100人の労働者を雇用し、剰余価値率200% または18時間労働日であれば、単に、600シリングの剰余価値量を生産する、または、12×100労働時間のそれである。そうして、だが、全生産物の価値、前貸しされた可変資本の価値+剰余価値であるが、それは、日の始めから日の終りまでの、計1,200シリング または、24×100労働時間に届くことはあり得ない。( 剰余価値率がどうなるかを、計算すればよい。訳者のお節介ではあるが。) 平均労働日の絶対的限界- これは自然そのものにより、24時間より常に少ない- は、可変資本の減額に対してより高い剰余価値率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。または、搾取される労働者の減員に対してより高い搾取率で補填する場合に、絶対的な限界を設ける。(訳者注: 一番目の法則) この誰でも分かる法則は、資本の、出来得る限り雇用する労働者数をこのように少なくする性向(今後とも作用し続ける) から生じる多くの現象を解く上で非常に重要である。また、別の性向として、出来得る限りの大きな剰余価値量を求めることから、前者とは逆に、可変資本部分を労働力に変換することもある。これまでのこととは全く違って、(訳者注: 以下が二番目の法則) 雇用された労働者数、または可変資本量が増大したとしても、剰余価値率の同比の下落はないし、生産される剰余価値量の下落もありはしない。〉(インターネットから)


●第8パラグラフ

《初版》

 〈第三の法則は、生産される剰余価値の量が剰余価値率と前貸可変資本の量という二つの要因によって規定される、ということから生ずる。剰余価値率あるいは労働力の搾取度、および、労働力の価値あるいは必要労働時間の長さが、与えられていれば、可変資本が大きければ大きいほど生産される価値および剰余価値の量がいっそう大きい、ということは自明である。労働日の限界が与えられ、労働日の必要成分の限界も与えられていれば、1人の単独資本家が生産する価値および剰余価値の量は、もっぱら、この資本家が動かす労働量によってきまる、ということは明白である。ところが、この労働量は、与えられた仮定のもとでは、この資本家が搾取する労働力の量あるいは労働者の数によってきまり、この数のほうは、この資本家が前貸しする可変資本の大きさによってきめられる。だから剰余価値率が与えられ労働力の価値が与えられていれば生産される剰余価値の量は前貸可変資本の大きさに正比例する。ところが、いまや周知のように、資本家は自分の資本を二つの部分に分ける。彼は一方の部分を生産手段に支出する。これは彼の資本の不変部分である。彼は他方の部分を生きている労働力に転換する。この部分は彼の可変資本を成している。同じ生産様式の基礎上でも、生産部面がちがえば、不変成分と可変部分とへの資本の分割がちがってくる。同じ生産部面のなかでも、この割合は、生産過程の技術的基礎や社会的結合が変わるにつれて変わる。しかし、ある与えられた資本が不変成分と可変成分とにどう分かれていようとも、すなわち、前者にたいする後者の比率が1:2であろうと1:10であろうと1:xであろうと、いま定められた法則は、そのことで影響を受けることはない。とい/うのは、さきの分析によると、不変資本の価値は、なるほど生産物価値のうちに再現しても、新しく形成される価値生産物のなかにははいり込まないからである。1000人の紡績工を使うためには、もちろん、100人の紡績工を使うために必要とするよりも多くの原料や紡錘等々を必要とする。しかし、これらの追加生産手段の価値は、増加することも減少することも不変なこともあろうし、大きいことも小さいこともあるだろうが、それだからといって、これらの生産手段を動かす労働力の価値増殖過程にはなんら影響を及ぼさない。だから、ここで確認された法則は、次のような一般的形態をとる。相異なる諸資本によって生産される価値および剰余価値の量は労働力の価値が与えられていて労働力の搾取度が等しい大いさのばあいにはこれらの資本の可変成分の大きさにすなわちこれらの資本のうち生きている労働力に転換される成分の大きさに正比例する。〉(江夏訳345-346頁)

《フランス語版》  フランス語版ではこのパラグラフは二つのパラグラフに分けられている。二つ一緒に紹介しておく。

 〈価値とは実現された労働にほかならないから、資本家の生産させる価値量がもっぱら彼の動かす労働量に依存することは、自明である。彼は同数の労働者を用いて、労働者の労働日がより長くまたはより短く延長されるのに応じて、労働量をより多くまたはより少なく動かすことができる。ところが、労働力の価値と剰余価値率とが与えられていれば、換言すれば、労働日の限界と、労働日の必要労働と剰余労働への分割とが与えられていれば、資本家の実現する剰余価値を含んでいる価値の総量は、もっぱら、彼が働かせる労働者の数によって規定され、労働者の数そのものは、彼が前/貸しする可変資本の量に依存している。
  そのばあい、生産される剰余価値の量は前貸しされる可変資本の量に正比例する。ところで、産業部門がちがえば、総資本が可変資本と不変資本とに分割される割合は非常にちがう。同種の事業では、この分割は技術的条件と労働の社会的結合とに応じて変化する。ところが、周知のように、不変資本の価値は、生産物のうちに再現するのに対し、生産手段に付加される価値は、可変資本、すなわち前貸資本のうち労働力に変わる部分からのみ生ずる。ある与えられた資本が不変部分と可変都分とにどのように分解しても、前者と後者の比が 2:1,10:1, 等々であっても、すなわち、使用される労働力の価値に比べた生産手段の価値が増大しても減少しても不変のままであっても、それが大きくても小さくても、どうでもよいのであって、それは生産される価値量にはやはり少しも影響を及ぼさない。このばあい、前貸資本が不変部分と可変部分とに分割される割合がどうありうるにしても、上述の法則を種々の産業部門に適用すれば、次の法則に到達する。平均労働力の価値とその平均搾取度が種々の産業で同等であると仮定すれば生産される剰余価値の量は使用される資本の可変部分の大きさに正比例するすなわち労働力に変えられる資本都分に正比例するのである。〉(江夏・上杉訳316-317頁)

《イギリス語版》

  〈(9) 三番目となる法則 (訳者注: 一番目、二番目の法則に続くものとして) が、二つの要素、剰余価値率と前貸しされた資本の量で、生産される剰余価値の大きさが確定されることから導かれる。剰余価値率、または労働力の搾取度 と、労働力の価値、または必要労働時間 が、与えられるならば、可変資本が大きくなればなるほど、生産された価値の量も剰余価値の量も大きくなる、のは自明であろう。もし、労働日の制限が与えられるならば、また、必要労働部分の制限が与えられるならば、一資本家が生産する剰余価値量は、彼が設定した労働者の数に明確に、排他的に依存する。つまり、前に述べた条件の下では、労働力の量に依存し、または、彼が搾取する労働者の数に依存する。そして、その数そのものは、前貸しされた可変資本の量によって決まるのである。従って、与えられた剰余価値率と、与えられた労働力の価値によって、生産される剰余価値の大きさは、直接的に、前貸しされた可変資本の大きさによって変化する。さて、ここで、資本家は彼の資本を、二つの部分に分割することを思い出して欲しい。その一部分を彼は、生産手段に配置する。これは資本の不変部分である。もう一つの部分を彼は、生きた労働力に配置する。この部分は、彼の可変資本を形成する。社会的な生産様式が同じ基盤の上にあっても、資本の不変部分と可変部分との分割線は、生産部門が違えば、異なった引かれ方をする。同じ生産部門であっても、同様に異なり、技術的な条件や生産過程の社会的な構成の変化に応じてこの関係は変化する。しかし、与えられた資本が、いかなる比率で不変と可変に分割されたとしても、そして後者、可変部分の不変部分に対する比率が、なんであれ、1:2 または 1:10 または 1:x,であれ、ここに置かれた法則は何の影響も受けない。なぜなら、我々の以前の分析によれば、不変資本の価値は、生産物の価値に再現されるが、新たに生産された価値、新たに創造された価値である生産物には入り込まないからである。1000任の紡績工を雇用するためには、100人を雇用する以上の原材料、紡錘等々が勿論のこと必要となる。とはいえ、これらの追加的な労働手段の価値が上昇しようと、低下しようと、変化なく保持されようと、それが大きかろうと小さかろうと、そこに投入された労働力による剰余価値の生産過程には、何の影響も生じない。従って、前述の法則は、かくて、次のような形式をとる。異なる資本により生産される価値の大きさと剰余価値の大きさは、-- 与えられた労働力の価値とその搾取率が同じならば、-- 直接的に、これらの資本の可変部分を構成する大きさにより変化する。すなわち、生きた労働力に変換されたそれらの構成部分に応じて変化する。〉(インターネットから)

 (【付属資料】(2)に続く。)

 

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