『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.23(通算第73回)(1)

2020-10-15 00:51:14 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.23(通算第73回)(1)

 

◎第3の「従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところ」とは?(大谷新著の紹介の続き)

  前回は大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第11章 マルクスの価値形態論」の「おわりに」で、大谷氏が〈従来の解釈とは大きく異なる解釈を述べたところがある〉(540頁)という3点のうち2つの点について紹介しましたが、今回はその第3の点について紹介して、この第11章の紹介を終えたいと思います。それは次のようなものです。

 〈開展された価値形態が析出されてくる交換関係に対応する歴史的な交換関係とは,ある狩猟民族なり遊牧民族なりが,各地の民族と交換するが,それらの民族のほうでは,この民族とだけ交換している,というものである。これにたいして,一般的価値形態を含む交換関係に対応する歴史的な交換関係とは,一方では,それらのさまざまの地方ですでに局地的に商品交換が発展し始め,そこでの諸商品がいずれもこの民族の商品あるいはそれ以外のなんらかの特定の商品と交換しようとする,そのような関係であるか,あるいは他方では,各地の民族のあいだでの商品交換が始まって,どの民族も互いに商品所持者として一つの商品世界に属していることを知っており,その上で,彼らがいずれもこの民族の商品と交換しようとする,そのような関係であろう。いずれにしても,ここには,明らかに交換関係の発展がある。
  このように,開展された価値形態をつかみだした交換関係と,一般的価値形態をつかみだす交換関係とは,一つの商品と他の多くの商品とが取り結ぶ交換関係という,その形態から見るかぎりまったく同一のものでありながら,前者にあっては,他の多くの商品がそれぞれ独立の交換場面にあるものと想定されるのにたいして,後者にあっては,他のすべての商品が同一の交換場面にあって一つの商品世界を形成しているものと想定されているのである。〉 (544頁)

  以上の三点が〈価値形態論理解の新視点〉ということのようです。
  そして大谷氏は最後に〈貨幣成立論には三つの側面がある〉と述べて、久留間鮫造氏が『価値形態論と交換過程論』のなかで展開したいわゆる「如何にして、なぜ、何によって」というシェーマ(図式)を少し言い換えて、次のように述べています。

 〈貨幣成立論には三つの側面がある。
  第1には,価値がとる形態である価値形態が,どのような発展を通じて,最終的に貨幣形態に到達するのか,という問題である。これは,どのような形態を通過しなければならないのか,ということを明らかにするという意味で,価値の形態発展の必然性の問題と言い換えることができる。この問題は,価値形態論で解明されている。
  第2には,なぜ労働生産物が商品形態を,そして最終的には貨幣形態をとらずにはいないのか,という問題である。これは,商品形態および貨幣形態そのものの必然性の問題であって,物神性論で解明されている。その要は,労働における人と人との関係に,具体的には,直接的には私的な労働である社会的総労働が社会的分業を形成しているという独自の生産関係にある。
  第3には,価値形態を発展させて,ついに貨幣形態を成立させるにいたる原動力はなにか,という問題である。これが,狭い意味での貨幣成立の必然性の問題であって,交換過程論で論じられている。その要は,一方で,商品の内在的な矛盾である使用価値と価値との矛盾が,交換過程では,商品の使用価値としての実現と商品の価値としての実現との矛盾として現われ(交換過程の矛盾),これが,ある一つの商品を商品世界から排除して一般的等価物にする社会的な共同事業を引き起こさないではいない(その結果,開展された価値形態から一般的価値形態への発農をもたらさないではいない)ということであり,他方で,商品交換の歴史的発展(このこと自体は,商品生産そのものによっても,価値形態によっても,交換過程そのものによっても説明できることではなく,社会的生産過程の歴史的な発展によってのみ理解できるものである)が,一般的等価物の機能を特定の商品に癒着させて貨幣を生み出すにいたる,ということである。
  以上の三つの側面を,端的に言い表わしたものが,マルクスの,「いかにして,なぜ,なにによって,商品は貨幣であるか」(『資本論』第1部,MEGAII/10,S,89;MEW23,S.107)という一文であることは,久留間が明らかにしたとおりである。〉 (545-546頁)

  久留間氏のシェーマについては、この『資本論』学習資料室やその前の『資本論』を読む会の報告のなかでも、何度も批判的に取り上げてきましたので、ここで改めて論じることはしませんが、大谷氏が説明している内容そのものは間違ってはいないし、それはそれで意義のあることだと思います。

  それでは本題に入ります。今回は「b 支払手段」の最後までの部分です。


◎第9パラグラフ(信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生する)

【9】〈(イ)信用貨幣は、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生するものであって、それは、売られた商品にたいする債務証書そのものが、さらに債権の移転のために流通することによって、発生するのである。(ロ)他方、信用制度が拡大されれば、支払手段としての貨幣の機能も拡大される。(ハ)このような支払手段として、貨幣はいろいろな特有な存在形態を受け取るのであって、この形態にある貨幣は大口商取引の部面を住みかとし、他方、金銀鋳貨は主として小口取引の部面に追い帰されるのである(103)。〉

  (イ) 信用貨幣は、売られた商品にたいする債務証書そのものが、債権の移転のためにふたたび流通することによって、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生します。

  これはすでにいろいろと説明してきましたが、例えばBがAに一定期日後の支払約束のもとに商品を販売した場合、Aは債務者となり、Bは債権者となって、貨幣は支払手段として機能します。今、BはAの支払約束証書(それはAの債務証書です)を受け取りますが、それを「手形」という名前で表しますと、その手形はAの債務(それを約束手形といいます)を表し、Bの債権を表しています。だからBは自分の商品の価格を手形という形で実現したのです。それはまだBの商品の価格の最終的な実現ではありませんが、しかしとりあえず債権という形で実現したのです。だからBは自分の商品の対価として受け取った手形で、例えばCから同じ価格の商品を買うことができるのです。つまりBは自分の債権をCに譲渡する代わりに商品の譲渡を受ける事ができます。この場合、しかしあくまでもAもBもCも互いの信用関係を前提していますから、BはAから受け取った手形に裏書きして(手形そのものはAの発行したものですが、Bは例えば裏書きとして自分の印鑑を押す)、Cに手渡すことになります。だからCの持つことになった手形は、Bを経由したものであることが明記されているわけです。そして同じように、Aの手形はその支払期日が来るまで(それを満期といいます)、今度はCからDあるいはE等々と渡って(裏書き譲渡され)、その度に商品の価格を実現しながら(しかしあくまでも債権という形での実現ですが)流通することができるわけです。しかしAは支払期限が来れば、その債務を支払う義務があり、そして支払われれば、それまでのすべての手形による取り引きは、決済されたことになります。しかしもしその支払が不能だということになると、すでに見ましたように、「媒介されない矛盾」によって、恐慌状態に陥ることになるわけです。
  第3部第5篇では、マルクスは『商業的窮境委員会』報告の議会証言を原注として紹介していますが、それを翻訳された大谷氏の訳者注のなかで、委員のハドソンと証人のターナの次のようなやりとりが紹介されています。

  〈「〔ハドスン〕あなたはジョウンズ=ロイド商会の手形について,それらが流通におけるなんらかの重要な品目をなしているかは疑わしいと言われました。あなたは,これらの手形が20人も30人もの手を通ることもきわめてしばしばだったこと,それらがAからBに,そしてBからCに,等々と支払われていくこと,そしてそれらは製造業地域における銀行券とまったく同様に流通の媒介物だったことをご存じないのですか?--〔ターナ〕それらは流通の最も重要な品目をなしています。それらが手から手へと渡っていくすべてのところで,それらが流通にかかわるものであること,それはもちろんです。」〉  (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第2巻178-180頁)〉

  ロイド商会というのはあの通貨学派の頭目として有名なオウヴァストンの会社で、マーチャント・バンカーという貿易業と金融業を兼ねたような会社ですが、その手形というのは、同商会が引き受けた(支払を約束した)手形のことです。こうした大手の金融機関が引き受けたものは信用度が高く、20人も30人もの手を経て流通したということです。

  こうした手形が「信用貨幣」と言われるのですが、同じように、小切手や銀行券もやはり「信用貨幣」と言われます。マルクスは手形を「本来の商業貨幣」とも述べています。

  (ロ)(ハ) 他方では、信用制度が拡大されるのにつれて、支払手段としての貨幣の機能も拡大していきます。このようなものとして貨幣は、大口商取引の部面を住みかとするようなもろもろの独自の存在形態を受け取るのですが、他方で金銀鋳貨は、主として小口取引の部面に押しこめられることになります。

  手形の流通そのものは単純な商品流通においても、貨幣の支払手段としての機能から自然発生的に生まれてきますが、さらに信用制度が拡大されて、両替業や貨幣取扱業などから銀行制度が発展してくると、貨幣は、大口取引の部面(それは主要には産業資本や商業資本などの資本家のあいだの取り引き)では、さまざまな存在形態を受け取ります。そしてその反面、金銀鋳貨は、主に小口取り引き(個人消費者と小売商との間の取り引き)に押し込められて、大口取引ではほとんど使われなくなります。
  銀行制度のもとで貨幣がどのような独自の存在形態を受け取るかについては、マルクスは第3部第5篇で論じていますが、例えば銀行業者手形、銀行信用(帳簿信用)、小切手、さらに銀行券等を挙げています。これらはすべて銀行の信用だけで創造された信用貨幣ということができます。
  ただ注意が必要なのは、確かにこれらは信用貨幣として商品の流通をそのかぎりでは媒介するのですが、しかし最終的には銀行にある預金額として決済されるための信用用具だということです。ここではそれほど詳しい説明はできませんし、不要だと思いますが、手形や小切手はあくまで最終的に貨幣が支払手段として流通するか、あるいは預金の一定額として終わるようなものなのです。だから「信用貨幣」とか「商業貨幣」などと「貨幣」と名前がついていますが、それらは流通に必要な貨幣量の一部を形成するわけではないということです。それらはあくまでも信用取引にもとづくものであって、信用をやりとりする信用諸用具であって、貨幣の節約に寄与することはあってもそれ自体が流通貨幣になるわけではないのです。この点で間違っている人が余りにも多いので注意が必要です。例えば大谷氏は次のように述べています。

  〈つまり,手形が貨幣の流通手段としての機能を果たすのであり,相殺されるかぎりはこの信用を生みだす支払手段としての貨幣は登場する必要はないので,手形は絶対的に商業貨幣として機能したことになるのである。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻345頁)

  これはある意味では諸概念が混乱している見本のような文章なのです。

  (1) まず手形が「流通手段」としての機能を果たすなどというのはまったく間違った認識です。手形はあくまでも貨幣の支払手段としての機能から生まれてくるものだからです。確かに手形は、それと引き換えに商品の譲渡を引き出すという点では、購買手段として機能しますが、しかし流通手段としてではありません。大谷氏は流通手段としての貨幣の機能には商品と貨幣とが両極に対立して存在していることが前提されるということを忘れているのです。もちろん、手形は貨幣とは異なるものですから、だからここには貨幣の流通手段としての機能などありえないのです。

  (2) もう一つの混乱は、相殺されている限りは、貨幣は支払手段として流通に出てくることはありませんが、しかしそのことは〈手形は絶対的に商業貨幣として機能した〉ということを意味しません。マルクスはどう書いているのか? 
 
  〈すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている。それらは,最終的に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは,絶対的に貨幣として機能する。〉 (大谷前掲第2巻159-160頁)

  このようにマルクスは手形が流通することを〈それ自身,支払手段として流通する〉と述べています。手形は、それぞれの債務を貨幣請求権という形でではありますが、その限りでは決済するのです(だからそれは最終的な決済、すなわち商品の価格の最終的な実現ではありませんが、債権という形での実現なのです)。だからマルクスは手形は支払手段として流通すると述べているのです。しかしそれが商業貨幣であるというのは、そうした債権の移転を行うという意味でしかないのです。何度も言いますが、それはあくまでも信用諸用具の一つでしかなく、最終的には支払手段としての現実の貨幣によって決済されるか、あるいは預金の一定額として記帳され終わるようなものなのです。だからマルクスが〈絶対的に貨幣として機能する〉と述べているのは、観念的な計算貨幣として、あるいは価値尺度として機能するという意味であり、大谷氏が理解するように〈絶対的に商業貨幣として機能〉するという意味ではないのです。ここでは大谷氏を例としてあげましたが、こうした間違いは他にもあまりにも多いのです。

  しかしもっとややこしいのは銀行券です。現在の日銀券は明らかに流通貨幣として通用しています。つまりそれは「現金」なのです。しかし日銀券も戦前の一時期は信用貨幣として大口の取引で利用されていた時期もあったのです(明治17年の「兌換銀行券条例」によって当時1円、5円、10円、20円、50円、100円、200円の7種の銀行券が発行されていました。明治の1円は現在のほぼ2万円ぐらいの重みがあったと言われています)。そうしたものがやがて少額の銀行券が発行されるようになって、小口取引でも利用されるようになると、それは補助鋳貨や紙幣と同じ流通根拠で(つまり貨幣の流通手段としての機能である象徴性や瞬過性によって)通貨として流通するようになるのです。だから銀行券は歴史的にはその性格が変わってきたという認識が重要なのです。しかしこの点は『資本論』でもそれほど明確に展開されているわけではありません。だから多くの人たちを混乱させてきたのです。

  マルクスは第3部第25章該当部分では、最初は〈生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしているように,彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしているのであって,これらのものの土台〔Basis〕は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである〉(大谷前掲書160頁)と述べながら、別のところでは〈銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない。……信用貨幣のこの形態はたんなる商業流通から出て一般的流通にはいり,ここで貨幣として機能しており,また,たいていの国では銀行券を発行する主要銀行は,国立銀行〔Nationalbank〕と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用〔Nationalcreditを〕もっていて,その銀行券は多かれ少なかれ法貨でもあるからである〉(同178頁)と述べています。さらには〈すでに単純な貨幣流通を考察したところで論証したように,現実に流通する貨幣の量は,流通の速度と諸支払いの節約とを所与として前提すれば,単純に,諸商品の価格と取引の量,等々〔によって〕規定されている。同じ法則は銀行券流通の場合にも支配する。〉(大谷本第3巻482頁)などと述べています。つまり一方では銀行券の流通は手形流通に立脚するのであって、貨幣流通に立脚するのではないといいながら、他方では銀行券流通は貨幣の流通法則に支配されると述べているのです。だから一見すると一方で否定したことを他方では肯定しているように見えるのです。だからその理解に多くの混乱が生じているのです。しかしマルクス自身はすでに『資本論』第1巻で次のように述べています。

  〈イングランド銀行は、この銀行券を用いて手形を割り引くこと、商品担保貸付をすること、貴金属を買い入れることを許された。まもなく、この銀行自身によって製造されたこの信用貨幣は鋳貨となり、この鋳貨でイングランド銀行は国への貸付をし、国の計算で公債の利子を支払った。〉 (全集第23b巻985頁)

  このように、イングランド銀行券は、〈まもなく〉〈信用貨幣〉から〈鋳貨〉になったと述べています。つまり手形を割り引いて手形流通に立脚して流通する信用貨幣から、歴史的に貨幣の流通法則に規制される鋳貨(通貨)になったと述べているのです。また『経済学批判』では、〈諸商品の交換価値がそれらの交換過程をつうじて金貨幣に結晶するのと同じように、金貨幣は通流のなかでそれ自身の象徴に昇華する。はじめは摩滅した金鋳貨の形態をとり、次には補助金属鋳貨の形態をとり、そして最後には無価値な表章の、紙券の、単なる価値章標の形態をとって昇華するのである〉(草稿集③330頁)と述べています。つまり金鋳貨が補助鋳貨になったり、無価値な表章、紙券になるのは、貨幣形態が交換過程を通じて諸商品のなかからやがては金に固着したように、一つの歴史的な過程なのだと述べています。だから銀行券も最初は額面の大きなときは大口の商業流通の内部で、手形流通に立脚して流通していたものが、やがて少額の銀行券が発行され、小口取引にそれらが出て行くようになると貨幣流通に立脚する紙券や補助鋳貨と同じものとして流通するように歴史的になっていったのだということです。そして今日の銀行券は後者のものだけが流通していると言えるでしょう。
  だからある論者は、銀行券は信用貨幣だが、兌換が停止されることによってますます限りなく紙幣に近づいたものになったのだとか何とか、わけの分からない理屈を並べていますが、ようするに何も分からないことを知ったかぶって分かったように折衷して誤魔化しているだけなのです。兌換券か不換券かといったことはここでは何ら本質的な問題ではないということが分かっていないのです。

  ところで現在の日本銀行券はいうまでもなく日本銀行によって発行されています。後に注103)のなかで紹介する日銀のバランスシートを見ると、日銀券は日銀がその信用だけで発行している債務証書という形をとっています(負債の部に記帳されている)。ではどの段階で、それは通貨になるのでしょうか。まず日銀は銀行券の印刷(生産)を独立行政法人国立印刷局(以前は財務省印刷局、大蔵省印刷局)に発注します。印刷局は製品として生産した銀行券を日銀に納入します。この段階では銀行券はまだ単なる商品資本という形態規定性をもっているだけです。素材的には確かにそれはすでに「お札」の姿形をしていますが、まだ貨幣ですらないのです。日銀に当座預金をもっている市中銀行は、常に準備としてもっている一定額の現金(日銀券と硬貨)が少なくなってきたので、日銀にある自身の当座預金から、現金を引き出します。こうして日銀券は初めて日本銀行の外に出て行きます。しかしこの段階でも、日銀券はまだ通貨ではなく、日銀にとっては利子生み資本(monied capital)であり、市中銀行にとってもやはり利子生み資本(monied capital)でしかないのです。次に一般の企業が労働者に賃金を支払うために、市中銀行にある自身の預金から日銀券を引き出したとします。しかしこの段階でもまだ日銀券は利子生み資本であって通貨ではないのです。企業がそれを労働者に支払った時点で、それは初めて通貨になるのです。それは労働力という商品を企業が購入したことによって支払手段として流通したのです。あるいは労働者が受け取った日銀券で生活手段を購入した場合、それは流通手段として流通します。だから銀行券は確かに日銀が発行しますが、現実に流通する日銀券、つまり「通貨」という規定性をもっている日銀券は、労働力や諸商品が流通する現実に規定されて、流通するに過ぎません。だから日銀には通貨を恣意的に増減させるどんな力もないのです。それは商品市場に規定されてただ受動的に流通するに過ぎないからです。さまざまな御仁があたかも日本銀行は輪転機を回せばいくらでもお金を生み出せる、ジャブジャブと通貨を供給せよなどと言ったりしていますが、これなどはまったく「通貨」の何たるかが分かっていない人の妄想の類でしかないのです。


◎原注103

【原注103】〈(103) (イ)どんなにわずかしか現金が本来の商取引にはいって行かないかを示す一例として、ロンドン最大の商社の一つ(モリソン・ディロン商会)の、1年間の貨幣収入と諸支払との一覧表をここに示しておこう。(ロ)この商会の取引高は1856年には数百万ポンドにのぼるのであるが、ここでは百万ポンド基準に縮約されている。

              (『銀行法特別委員会報告』、1858年7月、71ページ。)〉

  (イ)(ロ) 本来の商取引にはいっていく現金がどんなにわずかであるかを示す一例として、ここに、ロンドン最大の商社の一つ(モリソン・ディロン商会)の、1年間の貨幣収入と諸支払についての表を掲げておきましょう。この商会の取引高は1856年には数百万ポンド・スターリングにのぼるのですが、ここでは百万ポンド・スターリングの規模に縮小されています。

  これは第9パラグラフの最後に付けられた原注ですが、ロンドン最大の「商社」と書かれていますが、「商会」ともいわれているものは、今で言う丸紅などの「商社」(商業資本)とは若干違って、貿易金融業者といえるようなものです。だからその取り扱いはいうまでもなく大口の商取引を扱うものと言えます。だからそこでは現金取引がどんなにわずかかをそのバランスシートを示すことで明らかにしているといえます。ただこのバランスシートは、合計額が100万ポンド・スターリングになるように全体を縮小したものだということです。
  これを見ると、金貨・銀貨・銅貨は収入では合計3万ポンド弱で収入全体の約3%弱、支出は同合計1万ポンド強、つまり全体の1%強ということになるわけです。
  収入で圧倒しているのは「銀行手形、日付後払商業手形」で約53万ポンド、つまり53%強、支出では「ロンドン諸銀行あて小切手」が66万ポンド強を占めています。つまり手形や小切手の信用貨幣が収入・支出とも過半数以上を占めていることが分かります。
  因みに日本銀行のバランスシートはどうなっているのかを図示しておきます。

 (全体を3分割します。続きは(2)に)

 

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『資本論』学習資料No.23(通算第73回)(2)

2020-10-15 00:10:47 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.23(通算第73回)(2)

 

◎第10パラグラフ(商品生産が発展すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を超える)

【10】〈(イ)商品生産が或る程度の高さと広さとに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は商品流通の部面を越える。(ロ)貨幣は契約の一般的商品となる(104)。(ハ)地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わる。(ニ)この変化がどんなに生産過程の総姿態によって制約されているかを示すものは、たとえば、すべての貢租を貨幣でり立てようとするローマ帝国の試みが二度も失敗したことである。(ホ)ボアギユベールやヴォバン将軍たちがあのように雄弁に非難しているルイ14世治下のフランス農村住民のひどい窮乏は、ただ租税の高さのせいだっただけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった(105)。(ヘ)他方、アジアでは同時に国家租税の重要な要素でもある地代の現物形態が、自然関係と同じ不変性をもって再生産される生産関係にもとづいているのであるが、この支払形態はまた反作用的に古い生産関係を維持するのである。(ト)それは、トルコ帝国の自己保存の秘密の一つをなしている。(チ)ヨーロッパによって強制された外国貿易が日本で現物地代から貨幣地代(*)への転化を伴うならば、日本の模範的な農業もそれでおしまいである。(リ)この農業の窮屈な経済的存立条件は解消するであろう。
(*) 第三版および第四版では、金納地代〔Goldrente〕となっている。

  (イ) 商品生産がある程度の高さと広さとに達すると、支払手段としての貨幣の機能は、商品流通の部面をのり越えてひろがっていきます。

  支配手段は単純な商品流通のなかから自然発生的に生まれてくる、流通手段とは違った別の形態規定性を帯びた(よって違った機能を果たす)貨幣でした。しかしそれが商品生産がある程度の高さと広さになると、商品流通の部面を乗り越えて広がって行くというのです。つまり商品流通とは直接関係がない場合の「支払い」に貨幣が使われるということです。例えば「税金を支払う」というようなケースです。税金そのものは商品流通とは直接には関係のない事柄ですが、そうした場合にも支払手段の貨幣の機能が拡張してくるということです。

  (ロ) 貨幣は契約のさいに一般的に用いられる商品となるのです。

  〈一般的商品〉というのは、貨幣も商品であり、他の諸商品が特殊的商品であるのに対応して、貨幣は一般的商品だという意味で使われます。『経済学批判』には〈金と銀は貨幣としては、その概念上一般的商品である〉(全集第13巻135頁)という一文が見られます。しかしでは〈貨幣は契約の一般的商品となる〉とはどういうことでしょうか。実はこの言葉そのものはベーリの言葉をそのままマルクスが使っているのです。『批判』の関連する部分を抜粋してみましょう。そこでは注のなかでベーリの一文が紹介されています。

  〈一般的支払手段としては、貨幣は契約の一般的商品となる。--はじめはただ商品流通の領域の内部でだけだが*。けれども貨幣のこの機能の発展につれて、他のすべての支払の形態はしだいに貨幣支払に解消していく。貨幣が排他的支払手段として発達している程度は、交換価値が生産をどれだけ深くまた広くとらえているかという程度を示している。
* ベーリ、前掲書、3ページ。「貨幣は契約の一般的商品である。すなわち、将来履行されるべき大多数の財産契約を結ぶのに用いられるものである。」(全集第13巻122頁)

  これを見ますと、『批判』では『資本論』とは異なり、〈一般的支払手段としては、貨幣は契約の一般的商品となる〉と述べたあと、〈はじめはただ商品流通の領域の内部でだけだが。けれども貨幣のこの機能の発展につれて、他のすべての支払の形態はしだいに貨幣支払に解消していく〉と述べています。つまりそれまでの現物での支払に代わって貨幣での支払になっていくことについて述べています。そしてベーリは〈すなわち、将来履行されるべき大多数の財産契約を結ぶのに用いられるものである〉と述べています。だからここで〈一般的商品〉というのは、諸契約において、将来の契約の履行に際して払われるべき貨幣だという意味ではないでしょうか。
  またここには原注(104)がついていますが、それを見るとD・デフォーの『公信用に関する一論』からの引用がありますが、そこには〈取引の過程は、……販売と支払に変わって、すべての売買契約が……いまでは貨幣での価格にもとづいて定められる〉とあります。つまり売買契約が貨幣価格にもとづいて定められるという意味が貨幣が一般的商品になるという意味だとも分かります。

  (ハ) 地代や租税などは現物納付から貨幣支払に変わります。

  だから地代や租税もそれまでの現物による納付から貨幣による納付に変わっていくということです。
  日本の場合、江戸時代には幕藩体制のもと年貢という形で米による物納が決められていました(ただし一部は畑作などの場合は金・銀による納付もあったようです)、それが明治維新の地租改正によって年貢は地租に改正され、貨幣形態による納入が義務づけられたのです(地租は土地収益から算定された地価の100分の3とされた)。この地租改正によって、農民の負担が強化され、地主や農民の激しい反対を招いたと言われています(地租改正反対一揆)。そして地租の重圧から自作農民の急速な没落を招き、地租軽減は自由民権運動における中心的な要求になったと言われています。戦後の1947年に地租法は廃止され、代わって固定資産税に変わりました。(『世界大百科事典』)。

  (ニ) こうした変化が生産過程の総姿態によって制約されていることを示すのは、たとえば、すべての貢租を貨幣でり立てようとするローマ帝国の試みが二度も失敗したことです。

  物納を金納に変えるためには、農民など生産者は少なくとも生産物を商品として販売し、貨幣を入手する必要があります。つまりそれだけ商品経済が発展していることが前提されるのです。だからそれは「生産の一般的状態」(フランス語版)に依存しているのです。

  『資本論』第3巻の第47章「資本主義的地代の生成」には、次のような一文があります。

 〈本来の現物経済では、たとえば古代ローマの多くの大所有地でもカール大帝の荘園でもそうだったように、また(ヴァンサール『労働の歴史』を見よ)全中世をつうじて多少ともそうだったように、農業生産物は全然流通過程にはいらないか、またはその非常にわずかな部分がはいるだけであり、また、生産物中の土地所有者の収入を表わしている部分でさえも相対的にごくわずかな部分が流通過程にはいるだけであるが、このような現物経済が行なわれているところでは、大所有地の生産物も剰余生産物もけっしてただ農業労働の生産物だけから成っているのではない。それには同様に工業労働の生産物も含まれている。家内手工業労働や製造労働は、その基礎をなしている農業の副業として、この現物経済の基礎である生産様式の条件なのであって、ヨーロッパの古代や中世でもそうだったし、また今日でもその伝統的な組織がまだ破壊されていないインドの共同体ではそうである。〉 (全集第25巻b1008-1009頁)
 
  つまりローマ帝国の時代にはもちろん、中世になっても農業生産物は全然流通過程には入らないか、わずかな部分がはいるだけだったというわけですから、そのような状態で、貢租を貨幣でり立てようとしても失敗するのは当然だったといえるわけです。

  なおこの部分はむかし大阪市内でやっていた『資本論』を学ぶ会でも議論したことがありましたので、その「学ぶ会ニュース」№47(2000.11.1)から紹介しておきましょう。

  【まず、最初のところ(第10パラグラフ)では、支払手段としての貨幣の機能が、商品流通の部面以外にも及ぶことが指摘され、地代や租税などが現物納付から貨幣支払いに転化することが述べられています。そこでまず問題になったのが〈この転化が生産過程の総姿態によってどんなに強く制約されるかは、たとえば、あらゆる公課を貨幣で取りたてようとしたローマ帝国のこころみが二度にわたって失敗したことで証明されている〉という部分の〈ローマ帝国のこころみ〉とはどのようなものだったのかということです。これも実際には古代ローマの経済を研究しなければ分かりませんが、例によってマルクス自身が他のところで同じ問題を論じていないか調べてみました。しかし残念ながら、それを直接具体的に論じているところは見つけることは出来ませんでした。ただ第3巻の第47章「資本制的地代の発生史」の「第4節 貨幣地代」を見ると、現物納付が貨幣支払いに転化するためには〈生産過程の総姿態〉に〈強く制約される〉理由らしきものが分かるのではないかと思います。

 〈直接生産者は、このばあいには(貨幣地代の場合には--引用者)、自分の土地所有者(これが国家であれ私人であれ)にたいし、生産物でなく生産物の価格を支払わねばならない。だから、現物形態での生産物の超過分では、もはや間に合わない。それは、この現物形態から貨幣形態に転形されなければならぬ。直接的生産者は従来通り自分の生活維持手段の少なくとも最大部分をみずから生産し続けるとはいえ、彼の生産物の一部分はいまや商品に転形--商品として生産--されねばならなぬ。だから、全生産様式の性格が多かれ少なかれ変化される。全生産様式が、社会的関連からの独立性・離脱性を失う。生産費--これには今や多かれ少なかれ貨幣支出が入り込む--の関係が決定的となる〉 (青木版1122~3頁)

 つまり地代や租税を貨幣形態で支払うためには現物を一旦商品として販売しなければなりませんが、そのためにはそれだけの商品経済そのものの発展が--そしてそれだけの生産力の発展が--前提されるということです。同じ所でマルクスは次のようにも述べています。

 〈労働の社会的生産力の一定の発展なしにはこうした転形がいかに完遂されがたいかは、ローマ帝国のもとで失敗したこうした転形の種々なる試みにより、この地代のうち少なくとも国税として実存する部分を一般的に貨幣地代に転形させようとしたが現物地代に逆戻りしたことによって、証明される。こうした移行困難は、例えば、革命前にフランスでは貨幣地代が従来の諸形態の残滓によって混和、混合されていたことを見ればわかる〉 (同1123~4頁)。

  以前にも紹介したことがありますが、マルクスは古代ローマの経済に関しては、デュロ・ド・ラ・マルの『ローマ人の経済学』から抜粋ノートを作っています。それは『マルクス資本論草稿集』第2巻の「雑」の中に見ることができますが、そのマルの著書から上記の問題に関連するように思える部分をついでに重引しておきましょう。

 〈「国家の収入は、国有地からのもの、現物での貢納、賦役、また商品の輸出入に際して支払われる、あるいはある主の食料品の販売に関して徴収される、金納の税などからなっていた。そうしたやり方は、オスマン帝国においてもなお、ほとんど変化なしに存在していた。独裁官スラの時代には、また7世紀の終わりでさえも、ローマ共和国は、年々4000万フランしか徴収していなかったのであって、西暦697年……。1780年にトルコのサルタンの収入は、ピアストル銀貨による貨幣納では、たった3500ピアストル、すなわち7000万フランであった。……ローマ人とトルコ人は、その収入の最大の部分を現物で徴収していた。ローマ人の場合には、穀物の10分の1、果物の5分の1、トルコ人の場合には、生産物の2分の1から10分の1までさまざまであった」〉 (同草稿集2巻716頁)

 このようにローマ帝国では金納されたのは、商品の輸出入やある種の食料品の販売に関して徴収される税に限られ、それ以外のものはほとんど物納であったことが分かります。】

  (ホ) ボアギユベールやヴォバン将軍たちがあのように雄弁に非難しているルイ14世治下のフランス農村住民のひどい窮乏は、租税が高かったせいだけではなく、現物租税から貨幣租税に変えられたせいでもありました。

  ボアギュベール(1646-1714)は『資本論辞典』によればフランスの経済学者で『富、貨幣、租税の本質に関する論究』などの著作で〈ブルボン絶対王政治下における重商主義および高利資本に寄生された半封建的租税制度によって窮乏してゆくフランス農村社会をえがき,絶望的なかたちで分解されつつあった小農民(分益農)の立場から‘ルイ14世の官廷や彼の徴税務負人や彼の貴族などの盲目的破壊的な黄金欲'を攻撃し,財政・租税制度の改革を主張した〉(550頁)ということです。ヴォパン将軍(1633-1704)については詳し説明は見いだせませんでしたが、フランスの軍事技術者で、『国王十分一税の構想』などでコルベール重商主義に反対したという説明があります。
  『要綱』には次のようなマルクスの抜粋ノートがあります。MEGAの注解とともに紹介しましょう。

  ルイ14世、15世、16世治下のフランスでは、農村の住民にはまだ、政府に納めるべき現物税があった。(オジエ。)

  (1) 〔注解〕マリ・オジエ『公信用ならびに古代より現代にいたるその歴史について』、パリ、1842年、128、129ページ。オジエの原文では、次のようになっている。--「ルイ14世、ルイ15世、さらにルイ16世の時代になってさえもなお、現物税が……まだ存在していた。……93年以前には、……政府にたいして現物税を納めていた農村の住民がいたのである……。」--マルクスはこの箇所を、彼の抜粋ノート「完成された貨幣制度」の15ページによって引用している。〉 (草稿集②789頁)

  つまりオジエによればルイ14世(在位1643-1715)、15世(同1715-1774)、さらに16世(同1774-1792)の時代になっも、現物税が存在していたということですから、それだけ商品経済が十分には発達していなかったということでしょう。だからもっとも商品経済の発展が遅れていたであろうルイ14世の時代に、現物租税を強制的に貨幣租税に変えたということはそれだけ農民には過酷な負担を強いることになったということではないでしょうか。

  この部分も先の学ぶ会ニュースで取り上げていますので、紹介しておきます。

  【つぎに問題となったのは、ルイ14世治下の租税の過酷さを告発した人物としてマルクスが上げているボワギュベールとヴォバン将軍についてです。前者については『資本論辞典』にも出てきますが、後者はどういう人物なのかさっぱり分からなかったのです。だからそれを調べてみました。まずボワギュベールについて『辞典』を持参していない人のために少し紹介しておきましょう。

 〈ボアギュベール(1646-1714)、フランスの経済学者。1678年にルゥアンの裁判官職につき、コルベールの重商主義を攻撃した主著が筆禍をひきおこしてオーヴェルニュに追放された等のほか、経歴はあまりあきらかでない。……ブルボン絶対王政治下における重商主義および高利資本に寄生された半封建的租税制度によって窮乏していくフラン農村社会をえがき、絶望的なかたちで分解されつつあった小農民(分益農)の立場から“ルイ14世の官廷や彼の徴税請負人や彼の貴族などの盲目的破壊的な黄金欲”を攻撃し、財政・租税制度の改革を主張した。……マルクスは、イギリスにおけるペティとともに、フランスにおける古典派経済学のはじまりとして高く評価している。……(以下、略)〉

 つぎはヴォバン将軍ですが、これはなかなか見つけることが出来ませんでした。青木版『資本論』の人名索引を引くと、わずかに〈フランスの天才的軍事技師、コーベル主義の反対者〉とあるのみです。これではなぜヴォバン将軍がボアギュベールと一緒に紹介されているのか分かりません。ようやく京大西洋史研究室編『西洋史辞典』に次のような説明を見つけ出しました。

 〈ヴォーバン(1633-1707)、フランスの築城家、軍人、経済学者。貧困貴族の生まれ、10歳で孤児となり、土地の司祭の手で育てられた。フロンドの乱では反乱軍に属したが、1655年来ルイ14世の技師となり、築城に従事、のち軍人としても活躍、結局300余りの要塞の築城と補強に従い、50余の要塞の攻囲戦を指揮した。1699年科学アカデミー名誉会員となり、1703年元帥、引退後『王室の10分の1税』を著し、当時租税の負担が下層階級にのみ負わされていく不合理を説き、租税請負人、特権階級の反省を求め、税の平等を要求した。このため1707年逮捕され、著書は焼き捨てられ、失意の中に死す。重農主義者の先駆として有名。他に築城に関する著書がある〉

 つまり二人とも重農主義者であり、その社会的な地位をなげうってでも、過酷な重税にあえぐ農民の窮状を告発し、それに寄生する特権階級を攻撃した勇気ある経済学者たちであったことが分かります。】

  (ヘ)(ト) 他方、アジアでは、自然諸関係と同じ不変性をもって再生産される生産諸関係という基礎のうえで地代は現物形態をとっており、この形態が同時に国税の重要な要素ともなっているのですが、現物形態というこの支払形態が、反作用的に、古い生産形態を維持しているのです。この支払形態がトルコ帝国の自己保存の秘密の一つとなっています。

  それに対して、アジアでは、現物経済が生産関係の自然と同じ不変性の基礎になっているのですが、そこでは地代は現物形態をとっていて、この形態が国税の重要な要素になっているということです。そしてそれがまた反作用として働いて生産形態を古いままに維持することになっているということです。『資本論』の第3部第47章「資本主義的地代の生成」第3節「生産物地代」のなかで、マルクスは次のように述べています。

 〈生産物地代の形態が生産物や生産そのものの一定の種類に結びづけられているということによって、この形態には農業と家内工業との結合が不可欠だということによって、農民家族がこうしてほとんど完全な自給自足を保っていることによって、市場からも自分の外にある社会部分の生産や歴史の動きからも農畏家族が独立していることによって、要するに現物経済一般の性格によって、この形態は、静止的な社会状態の基礎をなすのにまりたくふさわしいものであって、それはわれわれがたとえばアジアで見るとおりである。〉 (全集第25巻b1020頁)

  つまり地代が現物形態をとっているということは、商品経済が未発展で、生産物のほとんどが商品とはならず自給自足的な村落共同体のなかで人々は生活しているということです。そうしたものが生産関係の安定性や不変性の基礎になっているということです。しかしそこでは人格的な従属関係にもとで、剰余労働は生産物地代として搾取されているのですが、そうした社会的関係そのものがそうしたものに支えられているということでもあるわけです。オスマン帝国の支配も、そうした剰余労働を現物の貢納として収奪はするものの、それ以外は自給自足的な安定した村落共同体のそのままにさせることが、むしろ帝国の安定になっていたということでしょうか。マルクスは同じところで〈この形態の地代の場合には、剰余労働を表わす生産物地代は、けっして農村家族の全超過労働を汲み尽くすとはかぎらない。むしろ、生産者には、労働地代の場合に比べて、超過労働をする時間をもつためのより大きな余地が与えられており、この超過労働の生産物が彼自身のものであることは、彼の最も不可欠な必要を充たす彼の労働の生産物が彼のものであるのと同様である〉(同上)と述べています。つまり農民は彼にとって必要不可欠な生活手段である生産物を自分のものとするだけではなくて、それ以上の超過労働の余地が与えられており、その生産物が彼自身のものになったというのです。もちろん、それが後には農民のなかに貧富の格差を生させ、彼らの間に搾取者と非搾取者との対立が生まれてくる余地でもあるのですが、しかしそれはまた別の話だとマルクスは述べています。

  (チ)(リ) 日本で、ヨーロッパによって押しつけられた外国貿易が現物地代から貨幣地代への転化をもたらすならば、日本の模範的な農業はおしまいです。この農業の狭隘な経済的存立条件はなくなることでしょう。

  この部分はフランス語版では次のようになっています。

  〈ヨーロッパが日本に授けた自由貿易が、この国で現物地代から貨幣地代への転換を惹き起こすならば、この国の模範的な農業は、このような革命に抵抗するには余りにも狭隘な経済条件に服しているから、万事休すである。〉 (江夏・上杉訳122頁)

  日本の封建的土地所有についてマルクスは『資本論』第1部第7篇「資本の本源的蓄積」の注192)で、次のように述べています。

  〈192  日本は、その土地所有の純封建的な組織とその発達した小農民経営とをもって、たいていはブルジョア的偏見にとらわれているわれわれのすべての歴史書よりもはるかに忠実なヨーロッパ中世の姿を示している。〉 (全集第23巻b938頁)

  この注192)がついている本文は次の一文です。

 〈ヨーロッパのどの国でも、封建的な生産は、できるだけ多くの家臣のあいだに土地を分割するということによって特徴づけられている。封建領主の権力は、どの君主のそれとも同様に、彼の地代帳の長さにではなく彼の家臣の数にもとついていたし、またこの家臣の数は自営農民の数にかかっていた(192)。〉 (全集第23巻b937頁)

  つまりマルクスの目には当時の日本の封建制度は中世社会の模範的な姿を示していたということですが、それが外国から開国を迫られ、それによって外国貿易が現物地代から貨幣地代への転化を促すなら、こうした典型的な封建制度の経済的基礎はなくなるだろうと予測しているわけです。
  日本では明治維新以前からすでに貨幣経済の発展が見られまれしたが、しかし実際に地代が年貢という形での現物(米)地代から貨幣地代に変わったのは、すでに見ましたように、明治維新の地租改正によります。しかし明治維新は、まさにペリーの来航に象徴されるように外国からの開国の強制に始まる動乱の一結果です。日本における封建社会の崩壊はマルクスの予測どおりだったといえるでしょう。


◎原注104

【原注104】〈104 「取引の過程は、財貨と財貨との交換、または引渡しと受取りから、販売と支払に変わって、すべての売買契約が……いまでは貨幣での価格にもとづいて定められる。」(〔D・デフォー著〕『公信用に関する一論』、第3版、ロンドン、1710年、8ページ。)〉

  この原注は〈貨幣は契約の一般的商品となる〉という一文に付けられたものです。すでに見たように、この一文そのものがベーリの述べているものをそのままマルクスが使っているもののようです。
  このD・デフォーの著書では、〈取引の過程〉、つまり商品の売買が、〈財貨と財貨との交換〉、つまり物々交換、〈または引渡しと受取りから〉、商品の引き渡しと貨幣の受け取りから、〈販売と支払に変わっ〉たと述べています。つまり取引が、物々交換から商品の販売と購買に変わり、さらに支払手段としての貨幣の機能にもとづいて、商品の販売と支払に変わったとその過程が述べられ、その結果〈すべての売買契約が……いまでは貨幣での価格にもとづいて定められる〉となっています。これ自体は果たして商品流通を超えた支払を意味しているのかどうかはこのままでは分かりませんが、すべての支払が貨幣によってなされるようになったという意味ともとれます。


◎原注105

【原注105】〈105  「貨幣は万物の死刑執行者となった。」財政技術は「この禍いに満ちたエキスを得るためにおそろしく多量の財貨や商品を蒸発させた蒸溜器である。」「貨幣は全人類に戦いを宣する。」(ボアギユベール『富、貨幣、租税の本質に関する論究』、デール編『財政経済学者』、パリ、1843年、第1巻、413、419、417、418ページ。)〉

  この原注は〈ボアギユベールやヴォバン将軍たちがあのように雄弁に非難しているルイ14世治下のフランス農村住民のひどい窮乏は、ただ租税の高さのせいだっただけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった〉という一文につけられたものです。だからまさにボアギュベールの著書からの引用からになっています。

  『経済批判・原初稿』では原注ではなく、〈ボアギユベールは、ペティがイギリス経済学に対して占めているのとまったく同一の重要な地位をフランス経済学に対して占めており、重金主義の熱烈な反対者の一人であるが、彼は、貨幣が他の諸商品に対する排他的な価値として、つまり支払手段(彼は特に租税の支払手段のことを考えている)および蓄蔵貨幣として現われるさまざまな諸形態について貨幣を把握している。(価値が貨幣という姿の独自の定在をもつことは、他の諸商品が価値を相対的に喪失すること、つまり他の諸商品の相対的な地位低下として現われる)〉(草稿集③76頁)という一文に続いて、ボアギュベール著作集から長い引用が行われています。そのなかに今回の原注にも紹介されている次のような一文がマルクス自身の解説付きで見ることができます。

  〈商品を貨幣に転化するために商品の価格を下げること(商品をその価値以下で販売すること)が、いっさいの窮乏の原因なのである。(同書第5章を見よ。)そして以上の意味をこめて彼は、「貨幣はいっさいの物の死刑執行人となってしまった」(同書、413ページ)と言うのである。彼は、貨幣をふやす財政術を「このいまわしい要約をつくりだすためにものすごい量の財貨や商品を蒸発させてしまう蒸留器」にたとえている。(419ページ。)貴金属の価値を下げることによって、「商品それ自身がその正当な価値を回復させられるであろう。」同書、422ページ。「貨幣は……全人類に宣戦を布告する。」(417-418ページ)〉 (草稿集③78-79頁)

  これを見ると、ボアギュベールが〈「貨幣は万物の死刑執行者となった。」〉というのは、〈商品を貨幣に転化するために商品の価格を下げること(商品をその価値以下で販売すること)が、いっさいの窮乏の原因なのである〉という意味で、それ以上の意味を込めて言われたものであることが分かります。また〈財政技術は「この禍いに満ちたエキスを得るためにおそろしく多量の財貨や商品を蒸発させた蒸溜器である。」〉という場合の〈財政技術〉というのは、〈貨幣をふやす財政術〉のことを意味していること、それを〈ものすごい量の財貨や商品を蒸発させてしまう〉、つまりそれらを犠牲にして貨幣を増やそうとすることを〈蒸溜器〉に例えていることが分かります。〈「貨幣は全人類に戦いを宣する。」〉という一文も〈「貨幣は……全人類に宣戦を布告する。」〉となっています。貨幣は全人類を犠牲にするほどに忌まわしいものだということでしょうか。


◎第11パラグラフ(支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する)

【11】〈(イ)どの国でも、いくつかの一般的な支払時期が固定してくる。(ロ)それらの時期は、再生産の別の循環運行を別とすれば、ある程度まで、季節の移り変わりに結びついた自然的生産条件にもとづいている。(ハ)それらはまた、直接に商品流通から生ずるのではない支払、たとえば租税や地代などをも規制する。(ニ)社会の全表面に分散したこれらの支払のために一年のうちの何日間かに必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な、しかしまったく表面的な撹乱をひき起こす(106)。(ホ)支払手段の流通速度に関する法則からは次のことが出てくる。(ヘ)すなわち、その原因がなんであろうと、すべての周期的な支払について、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということである(107)。
* 第一版から第四版まで、反比例、となっている。

  (イ)(ロ) どの国でも、若干の支払時期がしだいに固定して、一般的に行われるようになります。それらは、一部は--再生産上このほかの諸循環を別としてのことですが--、季節の移り変わりに結びついた生産の自然的諸条件にもとづいています。

  日本にも「五・十日(ごとび)」とか「五十払い」という言葉がありますが、毎月の5日、10日、15日、20日、25日と30日か月末を決済日とする習慣です。そのために道路が混み合ったりします。つまり支払時期が商習慣として固定してくるということです。日本の「五・十日(ごとび)」には〈赤山禅院の五日講に由来するとの説がある。赤山明神の祭日に当たる五日に参詣して懸け取りに回るとスムーズに集金できるという謂われより。〉(ウィキベデア)との説明がありますが、理由ははっきりしません。
  ここでは季節の移り変わりと結びついた生産の自然条件にもとづくと書かれています。農業の場合などは収穫期と結びついて支払時期が決まってくるということでしょうか。

  (ハ) それらはまた、直接に商品流通から生ずるのではない支払、たとえば租税や地代などをも規制します。

  そしてそうした生産の自然条件によって決まる支払時期というものは、直接には商品流通にもとづくものではないもの、例えば租税や地代などの支払をも規制するということです。地代などは農業の収穫期と結びついているのはよく分かりますが、租税もそうした商品流通から生じる支払時期に規制されてその納税期間や時期が決まってくるということでしょう。

  (ニ) これらの支払は社会の全表面に散らばって行われているのですが、一年のうちの何日間かは、そうした支払が集中するので、こうした日々の支払に必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な攪乱を、ただし、まったく表面的でしかない撹乱をひき起こします。

  諸支払いが集中するということは、すでに見ましたように、相殺によって支払手段の節約をもたらしました。しかしこれは商品流通における話です。支払手段の流通が商品流通の枠を超えた場合、支配が集中することは必ずしも相殺をもたらすとは限らないのです。例えば、租税や地代の支払が集中したからといってそれらが相殺されるということはありません。だからこうした支払いの集中は相殺による支払手段の節約に周期的な攪乱をもたらすというわけです。
  マルクスは『資本論』第3部では国債の利子支払と納税とが支払手段としての貨幣量に及ぼす影響について次のように論じています(ただし大谷氏が「流通〔Circulation〕」と訳しているところは「通貨」と訳すべきところが多いので、内容に即してそのように訳しています)。

  〈通貨〔Circulation〕の,事業の状態にはかかわりのない{したがって公衆の必要とする額が同じままでの}現実の膨張または収縮は,ただ技術的な諸原因から生じるだけである。たとえば,租税支払いの期日には銀行券(と鋳貨)が普通の程度を越えてイングランド銀行に流れ込んで,事実上通貨〔Circulation〕を,それの必要にはおかまいなしに収縮させる。国債の利子が払い出されるときにはその逆になる。〉 (大谷『マルクスの利子生み資本論』第4巻111頁)

  こうしたことから現実の商品流通とはかかわりのない貨幣の流通量の増減が生じるのですが、それが攪乱にならないように、イングランド銀行は租税支払の期日の前には追加的な貸付を行うと指摘されています。また国債の利子の支払日には商品流通に必要な貨幣量以上の通貨が出まわりますが、それらは銀行に預金され、だからそれだけ銀行の準備金が増えるわけが、そのために利子率が下がるのだと説明されています。

  (ホ)(ヘ) 支払手段の流通速度についての法則からは、次のことが出てきます。すなわち、すべての周期的な支払について、どんな出所から支払われたかにかかわりなく、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということです。

  〈支払手段の流通速度〉というのは、ある期間のあいだに同じ貨幣片が何回支払手段として通流するのかということです。しかしこの速度は二つの事情によって制約されました。一つは債権者と債務者との関係の連鎖です。もう一つは支払期限のあいだの時間の長さでした。つまり支払手段が周期的に流通する場合、その周期の長さが、支払手段の必要量に関係してくるということです。その周期が短ければ、同じ貨幣量が一定期間のあいだ何回も使われるために、全体として必要な貨幣量は減ります。そしてその反対に周期が長ければ、その分、貨幣量が増えることになります。例えば日給制と月給制とを考えた場合、日給だと支払った日のあと、短い期間に貨幣がすぐに還流してきて、次の日かあるいは数日のうちに再び同じ貨幣を給与として支払うことができますが、月給制だと支払われた貨幣が還流してくるのは一カ月以上あとになってからになります。だから前者に比べて後者の方が支払手段としての貨幣の必要量は増えるわけです。マルクスはそれを〈支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する〉と述べています。

  ところでこの部分も学ぶ会ニュースで取り上げていますので、紹介しておきます。

  【つぎに第11パラグラフの最後に出てくる「正比例」が、1版から4版までは「反比例」となっており、戦後の多くの版本でマルクスの「誤記」として「正比例」に改められたことについて、果たしてどちらが正しいのか議論がありました。まず当該のパラグラフを紹介しておきましょう。

 〈どの国でも一定の一般的な支払い期限が固定している。これらの支払い期限は、再生産の他の諸循環を度外視すれば、一部は、季節の移りかわりに結びついた生産の自然諸条件に基づいている。これらの支払い期限は、租税、地代などのような、直接には商品流通から発生するのではない諸支払いをも規制する。社会の表面全体に散らばっているこれらの支払いのために一年のうちの一定の諸期日に必要とされる貨幣の総量は、支払手段の節約に、周期的な、しかしまったく表面的な、撹乱を引きおこす。支払手段の通流速度に関する法則の帰結として、どんな期限をもつ支払いであろうと、すべての周期的支払いにとって必要な支払手段の総量は、諸支払い期間の長さに正比例する〉

 下線の「正比例」は少なくとも第1版から第4版までは「反比例」あるいは「逆比例」となっていたのです。果たしてマルクスは勘違いをしたのか、それとも戦後の翻訳者の方が間違った解釈をマルクスに押しつけているのか、どうなのでしょうか?

  学習会での議論の最終的な結論は、戦後の諸版のとおり「正比例」が正しいのではないかという結論になりました。それはこの部分についている注107のペティの説明--マルクスが「みごとに答える」と評価している--をよく検討してみれば分かります。ペティは「年4000万フランを調達するのに600万の金で足りるか」という質問に、「足りる」と答え、その理由を年4000万の支払いだが、それを毎週という短い周期で支払うならば、4000÷52(1年は52週)で、約77万、つまり100万あればよいと説明しています(実際のペティの説明は「100万の貨幣の40/52」などと説明していますが、これは要するに週に100万ずつ支払えば52週では5200万支払えるから4000万なら十分支払えるといいたいのです)。そしてまた四半期ごと(3カ月ごと)の支払いなら1000万が必要とも説明(これは4000÷4=1000)し、だから諸支払いが1週間と13週間(=四半期)のあいだのさまざまな期限で行われるなら、両者の平均としてほぼ550万と計算しています。

  つまりペティは、周期的支払いの「諸支払い期間」が短ければ短いほど、「必要な支払手段の総額」は少なくてすむと説明しているわけです。だからペティの説明どおりに理解するならば、やはり「正比例」が正しいことになり、マルクスの「誤記」だと解釈した方が良いように思えるのです。

  ところで、しかしこうした結論に異論をとなえている御仁が存在することも紹介しておきましょう。それは『資本論』の翻訳ではその「厳密さ」が評価されている長谷部文雄です。青木書店版の『資本論』では当該箇所は「逆比例」となっており、それに長谷部の次のような長い訳者注がついています(長いので一部省略)。

 〈この場合の問題は、Lange der Zahlungsperiodenという言葉を、支払い周期(1週間目とか3カ月目というような、支払い期限と支払期限との間隔)の長さと解するか、支払期間(1日間とか1週間とかいう、その間に支払いが行われるべき期間)の長さと解するかに依存するのであって、前者が大となれば、支払総額が大となるが故に支払手段の必要分量はこれに正比例し、また後者が大となれば、支払手段の流通速度が大となるが故に支払手段の必要分量はこれに逆比例する。しかるに、マルクスの本文における「支払手段の流通速度に関する法則からして……周期的な支払にとっては」という前置きからすれば、右の言葉は「支払期間の長さ」と読むべきであり、比例関係は「逆」でなければならぬと思われる〉 (276頁)

  しかし長谷部のいうような「支払期間」なるものは、少なくともペティの説明のなかでは全く行われていないのであって、やはり長谷部の理解には無理があるように思えるのですが、どうでしょうか?】


◎原注106

【原注106】〈106 1826年の議会の調査委員会でクレーグ氏は次のように述べている。「1824年の聖霊降臨節には、エディンバラの諸銀行にたいする銀行券の需要が莫大な額にのぼり、11時には銀行の手もとには1枚の銀行券も残ってはいなかった。そこであちこちのどの銀行に借りにやっても手に入れることはできなかった。ついに取引の多くはただ紙券だけですまされた。ところが、3時にはすべての銀行券が、それを出した銀行に返されていた。それはただ手から手へ渡されただけだった。」スコットランドでは銀行券の実際の平均流通高は300万ポンド・スターリングよりも少ないにもかかわらず、1年間のいくつかの支払日には、銀行業者の手もとにある銀行券が全部ひっくるめて約700万ポンドも動員される。このような時期には、銀行券は一つの独特な機能を果たさなければならない。そして、それを果たせば、銀行券を出したそれぞれの銀行に流れて帰るのである。(ジョン・フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、86ぺージ、注。〔岩波文庫版、福田訳、115-116ページ。〕)理解を助けるためにつけ加えれば、スコットランドでは、フラートンの著書が出た当時は、預金にたいして小切手ではなく銀行券だけが発行されたのである。〉

  この原注は〈社会の全表面に分散したこれらの支払のために一年のうちの何日間かに必要な貨幣量は、支払手段の節約に周期的な、しかしまったく表面的な撹乱をひき起こす〉という一文につけられたものです。
  実は、この注は、最後の〈理解を助けるためにつけ加えれば、スコットランドでは、フラートンの著書が出た当時は、預金にたいして小切手ではなく銀行券だけが発行されたのである〉という一文はマルクスのものですが、それ以外の最初の鍵括弧の部分とそのあとの鍵括弧のない部分も含めてすべてフラートンの『通貨調節論』からの抜粋です。だからとりあえず、参考のためにその少し前からその部分をフラートンの著書から紹介しておきましょう(ただし改造社版・阿野季房訳から、一部現代用語に変えました)。

  このマルクスの引用している部分はフラートンの著書の〈地方銀行業者の発券高はもっぱら当該地方における地方的取引と消費との程度によって規制され、その変動は生産と価格との変動にともなっている。そして地方銀行業者は、彼らの発券高をこのような商取引ならびに消費の範囲が規定する限度以上に増大させようとしても、余分の紙券は直ちに間違いなく彼らの手に還流するからそれは不可能であり、反対に発券高を無理に減少させようとしても、その空隙は前の場合とほとんど同じように確実に他の何らかの源泉から補充されるからやはり目的を達することは出来ない、というのであった〉(108頁)という本文につけられた注のなかの一部です。その注では各年代の議会の委員会の証言への参照指示のあと幾つかの証言が紹介されているのですが、そのなかに次のような一文があります。

  〈銀行券のうち、公衆の手にとどまり通貨として機能しているように考えられる部分は、賃金やその他の日常支出のような少額の支払に必要とされる分である。それ以上のものはすべて他の諸銀行に払い込まれるか、または直ちに発行銀行の手許に還流してしまう』。なお、一時的ないし地方的需要にもとづいて個人銀行券の過剰発行が行われる場合があっても一旦この需要がやむとそれが如何に容易にまた迅速に是正されるかという事実についての最も際立った例証は、恐らく、1826年の委員会においてギブスン・クレイグ氏(Mr.Gibson Craig)が述べた逸話のうちにこれを見いだしうると思われる(報告書268頁参照)。すなわちクレイグ氏は次のごとく言っている。『1824年の聖霊降臨祭の月曜日に、エディンバラでは銀行券に対する膨大な需要があったので、11時にはもはや1枚もわれわれの手許には残らなかった、そこで融通を得るためいろいろな銀行に順次人をやったが、一枚もえられなかった、かくて多くの取引はただ仮証書によってのみ処理されることになった。しかるに午後3時となるや一切の銀行券がそれを発行した各銀行に戻ってきた! 要するに、これらの銀行券は手から手へ転々して行ったに過ぎないのである』。〔以下第2版への追加--訳者〕これはこの種の現象の例としては唯一のものでは決してない。私がもっとも信頼すべき筋から確かめたところによれば、スコットランドにおける銀行券の実際の流通高は平均して300万ポンドを割っているにもかかわらず毎年数回は各銀行業者の所有する約700万ポンドからの紙券がことごとく活動させられることが起こるとのことである。これらの場合それらの紙券はただ単独の特別な役割を果たすのであり、一旦、この役割をはたしてしまえばそれはもとの各銀行へと還流する。〉 (109-110頁)

  ここで言われている〈聖霊降臨節〉というのは別名「ペンテコステ」というらしいですが、キリスト教の復活祭につぐ祭日の一つのようです。よく分からないのですが、日本の「五・十日(ごとび)」が〈赤山禅院の五日講に由来するとの説がある。赤山明神の祭日に当たる五日に参詣して懸け取りに回るとスムーズに集金できるという謂われより。〉(ウィキベデア)との説明がありましたが、聖霊降臨祭もそのお祭り日に支払が集中したのかも知れません。あるいはお祭りに供える貨幣が膨大だったのかも知れません。いずれにせよ、そのために支払手段の流通量が増えて、11時には銀行券が銀行からなくなってしまったのが、午後の3時にはすべて銀行に返されていたということです。つまり支払手段としての機能を果たした銀行券はすぐに銀行に預金され還流したということのようです。
  なおマルクスは〈理解を助けるためにつけ加えますと、フラートンの著書が出た当時のスコットランドでは、預金にたいして、小切手ではなくて銀行券だけが発行されたのです〉と補足しています。つまり銀行に口座をもつ顧客がそれを利用する場合、小切手で支払うというケースはスコットランドには無かったということです。だから預金を利用しようとする顧客は、それをただ銀行券で引き出して使うしか方法がなかったということなのです。だから一時的に支払手段に対する大きな需要が生じたら、銀行から銀行券がなくなってしまうというような異常な事態が生じたということでしょう。


◎原注107

【原注107】〈107 「もし一年当たり4000万を調達する必要があるとすれば、産業が必要とする回転と流通とのために、同じ600万」(の金)「でこと足りるだろうか?」という問いにたいして、ペティは、いつものような巧妙さで次のように答えている。「私は、足りる、と答える。というのは、支出は4000万だから、もし回転が、たとえば土曜ごとに受け払いをしている貧しい職人や労働者のあいだで見られるように、毎週というような短い周期であるならば、100万の貨幣の40/52でもこれらの目的が達せられるだろうからである。しかし、もし周期が、わが国の地代支払や租税徴収の慣例どおりに、四半期であるならば、その場合には1000万が必要であろう。それゆえ、一般に諸支払が1週間から13週間までのまちまちの周期でなされるものと想定すれば、40/52百万に1000万を加えたものの半分は550万だから、550万あれば十分である。」(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖、1672年』、ロンドン版、1691年、13、14ページ。〔岩波文庫版、大内・松川訳『租税貢納論』、183-184ぺージ。〕)〉

  これは〈すなわち、その原因がなんであろうと、すべての周期的な支払について、支払手段の必要量は支払周期の長さに正比例する、ということである〉という一文につけられた原注です。ペティの著書からの抜粋からほぼなっています。この問題は、すでに先に紹介した学ぶ会ニュースのなかで、その解説らしきものがありました。もう一度、その部分だけを紹介しておきましょう。

  【ペティは「年4000万フランを調達するのに600万の金で足りるか」という質問に、「足りる」と答え、その理由を年4000万の支払いだが、それを毎週という短い周期で支払うならば、4000÷52(1年は52週)で、約77万、つまり100万あればよいと説明しています(実際のペティの説明は「100万の貨幣の40/52」などと説明していますが、これは要するに週に100万ずつ支払えば52週では5200万支払えるから4000万なら十分支払えるといいたいのです)。そしてまた四半期ごと(3カ月ごと)の支払いなら1000万が必要とも説明(これは4000÷4=1000)し、だから諸支払いが1週間と13週間(=四半期)のあいだのさまざまな期限で行われるなら、両者の平均としてほぼ550万と計算しています。】

  ペティの主張の説明としてはこれで十分ではないでしょうか。


◎第12パラグラフ(支払手段の準備金)

【12】〈(イ)支払手段としての貨幣の発展は、債務額の支払期限のための貨幣蓄積を必要にする。(ロ)独立な致富形態としての貨幣蓄蔵はブルジョア社会の進歩につれてなくなるが、反対に、支払手段の準備金という形では貨幣蓄蔵はこの進歩につれて増大するのである。〉

  (イ) 支払手段としての貨幣の発展は、支払期限に債務額を支払うために貨幣を蓄積することを必要にします。

  商品流通においては勿論、それ以外においても支払うためには、その期限までに貨幣を準備しなければなりません。その貨幣をどのように入手するかに係わらず、支払うに必要な一定額になるまで、それまでの期間のあいだ貨幣を積み立てておく必要が生じます。これは流通手段の場合のように、商品を販売して入手した貨幣をいっぺんに別の商品の購入に支出するのではなく、いろいろな商品の購入に宛てるために、一時的に保持しているのとは違った性格の貨幣です。流通手段の場合には一時的に保持しているものは鋳貨準備金といって流通貨幣の一部分ですが(流通を技術的に一時止めているだけの貨幣)、支払のための準備金は、蓄蔵貨幣の一種で、流通から引き上げられた貨幣なのです。

  (ロ) 自立的な致富形態としての蓄蔵貨幣形成は、ブルジョア社会が進歩するのにつれてなくなっていきますが、それとは反対に、支払手段の準備ファンドという形態での蓄蔵貨幣形成はブルジョア社会の進展につれて増大していきます。

  もともと蓄蔵貨幣というのは、流通から引き上げられて蓄蔵される貨幣であって、それ自体が絶対的な価値として富の象徴のようなもので、“黄金熱”がそれを代表しています。こうした蓄蔵貨幣は、資本主義の初期のころ重商主義や重金主義の時代(歴史的には黄金を世界に探し求めた大航海時代がそれにあたります)に発達したものです。しかし資本主義が発展してくると、こうした蓄蔵貨幣の役割は姿を消して行きます。その代わりに支払のための準備としての蓄蔵貨幣の役割が増大してくるのです。
  しかし現代ではこうした蓄蔵貨幣そのものも銀行の預金になり、金の現物としてはほぼ中央銀行の金庫に眠るだけのものになっています。預金は預金者にとっては準備金という性格を持っていますが、社会的に見ると、それはすぐに銀行から貸し出されて、ただ帳簿上の記録としてあるだけの架空なものです。だから蓄蔵貨幣とはいえません。

  このパラグラフについてはより詳しい説明がなされている『経済学批判』から参考のために紹介しておきましょう。

 〈諸支払は、それとしてまた準備金を、支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。こういう準備金の形成は、もはや貨幣蓄蔵の場合のように流通そのものにとって外的な活動としても、また鋳貨準備の場合のように鋳貨のたんなる技術的停滞としても現われないで、むしろ貨幣が将来の一定の支払期日に手もとにあるように、だんだんに積み立てられなければならない。だから致富として考えられている抽象的形態での貨幣蓄蔵は、ブルジョア的生産の発達につれて減少するのに、交換過程によって直接に必要とされる貨幣蓄蔵は増加する、というよりはむしろ、一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収される。ブルジョア的生産が発達していればいるほど、この準備金はますます必要な最小限度に限られる。ロックは利子率の引下げについての彼の著作で、彼の時代のこの準備金の大きさについて興味ある説明をあたえている。この説明から、銀行制度が発達しはじめたばかりの時代に、イギリスでは支払手段の貯水池が一般に流通していた貨幣のどれほど大きな部分を吸収していたかがうかがい知られる。〉 (全集第13巻125頁)

  (以上で、「b 支払手段」は終わりです。【付属資料】は(3)に掲載。)

 

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『資本論』学習資料No.23(通算第73回)(3)

2020-10-14 23:47:50 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.23(通算第73回) (3)

 

【付属資料】


●第9パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

  〈これ以上先回りしなくても次のことだけは明らかはである。それは、掛買い〔Zeitkäufe〕は信用制度によって異常に拡大するということである。信用制度〔das Crediwesen〕が発展するのに比例して、つまり交換価値に基づく生産が発展するのに比例して、貨幣が支払手段としてはたす役割の方が、流通手段として、つまり売買の斡旋者〔Agent〕としてはたす役割よりも、範囲を広げてゆくであろう。事実、近代的生産様式が発展しており、したがって信用制度も発展している諸国においては、貨幣が鋳貨として現われるのは、ほとんどもっぱら生産者と消費者とのあいだの小売り取引〔der Detailhandel〕および小口取引〔der Kleinhandel〕に限られているのに対して、大口の卸売り取引の領域においては、貨幣はほとんどもつぱら一般的支払手段の形態において現われる。〉(草稿集③38頁)

《第3部草稿》

  〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。これらの手形は,その支払満期にいたるまで,それ自身,支払手段として流通するのであり,またそれらが本来の商業貨幣をなしている。およびそれらは,最終的に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは,絶対的に貨幣として機能する。というのは,この場合には貨幣へのそれらの最終的転化が生じないからである。生産者や商人のあいだで行なわれるこれらの相互的な前貸が信用制度の本来の基礎〔Grundlage〕をなしているように,彼らの流通用具である手形が本来の信用貨幣,銀行券流通等々の基礎をなしているのであって,これらのものの土台〔Basis〕は,貨幣流通(金属貨幣であろうと国家紙幣であろうと)ではなくて,手形流通なのである。〉(大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第2巻159-161頁)

  〈銀行券は,持参人払いの,また銀行業者が個人手形と置き換える,その銀行業者あての手形にほかならない。この最後の信用形態はしろうとには,とくに目につく重要なものとして現われる。なぜならば,1)信用貨幣のこの形態はたんなる商業流通から出て一般的流通にはいり,ここで貨幣として機能しており,また,たいていの国では銀行券を発行する主要銀行は,国立銀行〔Nationalbank〕と私立銀行との奇妙な混合物として事実上その背後に国家信用〔Nationalcreditを〕もっていて,その銀行券は多かれ少なかれ法貨でもあるからである。なぜならば,2)銀行券は流通する信用章標にすぎないので,ここでは,銀行業者が取り扱うものが信用そのものであることが目に見えるようになるからである。〉(同上177-178頁)

 〈商業信用{すなわち再生産に携わる〔in d.Reproduction beschätigt〕資本家が互いに与え合う信用}は,信用システムの土台をなしている。この信用を代表するものが,手形,債務証書(延払証券〔document of deferred payment〕)である。人はそれぞれ一方の手で信用を与え,他方の手で信用を受ける。さしあたりは,本質的に違った別の一契機をなす銀行業者の信用Banker's Credit〕はまったく度外視しよう。これらの手形が商人たちのあいだで,次から次への裏書きによって(しかしその間に割引が行なわれることなしに),それ自身ふたたび支払手段として流通するかぎりでは,それはAからBへ債権を移転することにすぎないのであって,関連を変えるものではまったくない。それはただ,ある人を別のある人と取り替えるだけである。ただし,この場合でさえも,決済は貨幣の介入なしに行なわれることがありうる。たとえば紡績業者Aは綿花ブローカーBに,Bは輸入業者に,手形の支払いをしなければならないとしよう。綿花を輸入する同じ輸入業者が綿糸を輸出する場合には{あるいは,同じことになるが,綿糸の輸出業者がアメリカの支払場所で綿花の輸入業者あての手形を受け取る場合には},綿糸の輸出業者は紡績業者に綿花の輸入業者あての手形で支払うことができ,綿花の輸入業者は綿糸の輸出業者に綿花ブローカーあての手形で支払うことができるのであって,彼らの相互的な債権が等しいなら,綿花プローカーと紡績業者とは自分たちの手形を互いに交換することができ,彼らの相互的な債権が等しくないなら,差額が一方の側に支払われなければならない。この場合には,この取引全体がただ綿花と綿糸との交換を媒介しているだけである。輸出業者は紡績業者を代理し,綿花ブローカーは綿花栽培者を代理しているだけである。)
  ところで,この純粋に商業的な信用〔dieser rein commercieller Credit〕の循環については,次の二つのことを言っておかなければならない。
  第1に。これらの相互的な債権の決済は資本の還流に,すなわちW-Gにかかっているが,これはただ延期されているだけのものである。紡績業者が織物業者の手形を受け取った場合には,織物業者がその支払いをすることができるのは,彼が市場に出している織物がその間に売れているときのことであり,穀物相場師が手形を取引相手のブローカーあてに振り出した場合には,ブローカーが貨幣を支払うことができるのは,その間に穀物が期待された価格で売れているときのことである,等々。つまり,これらの支払いは,再生産の,すなわち生産過程および消費過程の流動性にかかっているのである。しかし,これらの信用は相互的だから,各人の支払能力は同時に他の各人の支払能力にかかっている。というのは各人は,自分が手形を振り出したときには,自分自身の事業での資本の還流をあてにしていたか,またはその間に彼に手形の支払いをしなければならない第三者の事業での資本の還流をあてにしていたか,このどちらかでありうるからである。還流の見込みを別とすれば,支払いはもっぱら,手形振出人が還流の遅れたときに自分の債務を履行するために処分できる準備資本にかかっているのである。
  第2に。この信用システムは,現金支払いをする必要をなくしてしまうものではない。まず,大きな一部分,すなわち労賃,租税,等々は,いつでも現金で支払わなければならない。次にまた,Cから手形を支払場所で受け取ったBは,この手形が満期になる前にDへの手形の支払いをしなければならない,等々。さらに,手形の相殺は,再生産のこうした循環では(とくに本来の生産者たちのそれでは)いたるところで中断されざるをえないのである。再生産過程のところで見たように,不変資本の生産者たちは,部分的に不変資本を相互に交換する。このような場合には,手形は多かれ少なかれ相殺されることができる。下から上に向かっての線においても,すなわち,綿花ブローカーは紡績業者に,紡績業者は製造業者に,この製造業者は輸出業者に,輸出業者は輸入業者(もしかするとふたたび綿花の輸入業者)に,等々,手形を振り出さなければならない場合にも,同じことである。しかし,どこででも取引の循環が,したがってまた諸債権の反転が生じるわけではない。たとえば,石炭供給業者にたいする紡績業者と機械製造業者とのあいだではそういうことは生じない。紡績業者は自分の事業では機械製造業者にたいする反対債権をもつことはない。なぜならば,彼の生産物が機械製造業者の再生産過程にその要素としてはいることはけっしてないからである。紡績業者あての機械製造業者の手形は,現金で支払われなければならないのである。〉(大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第3巻433-437頁)

《初版》

  〈信用貨幣は、売られた商品にたいする債務証書そのものが、もう一度、債権の移転のために流通することによって、支払手段としての貨幣の機能から直接に発生する。他方、信用制度がひろがれば、支払手段としての貨幣の機能もひろがる。信用貨幣は、このようなものとして、大口商取引の部面を住み家とする独自な存在形態を受け取るが、金銀鋳貨のほうは、主として小口取引の部面に押し戻される(85)。〉(江夏訳135頁)

《フランス語版》

  〈信用貨幣はその直接的な源泉を、支払手段としての貨幣機能のうちにもっている。売られた商品にたいする債務証書そのものが、今度は、債権を他人に譲渡するために、流通するのである。信用制度が拡大するにつれて、貨幣が支払手段として果たす機能もますます発展する。信用貨幣はこのようなものとして特殊な存在形態を帯び、その形態で大口の商取引の領域に住みつくが、他方、金鋳貨や銀鋳貨は主に小売取引の領域のうちに押し返される(52)。〉(江夏・上杉訳121頁)


●原注103

《経済学批判・原初稿》

  〈(*)スレイター氏(モリソン・ディロン会社の。この会社の取引高はロンドンでも最大のものの一つである)は言う。「商取引に用いられる現金の額がいかに少ないものであるかを証明するために」、彼は、「年々数百万を越える商業取引の継続的過程を分析」しているが、「これはこの国の取引全般の適切な事例とみなすことができる。収入と支出の比率は、1856年の年間で百万ポンドの規模に縮小してある。それは以下のとおりである。
すなわち、

  (71ページ『銀行法特別委員会報告書、云々。』、1858年7月1日)〉(草稿集③39-40頁)

《初版》

  〈(85)実在する貨幣が本来の商取引のなかにはいり込むことが、どれほど少ないかの例として、ロンドンの最大商社中の一社の年間貨幣収支にかんする雛形を、ここに示しておこう。この商社の1856年における取引は、数百万ポンド・スターリングであるが、百万ポンド・スターリングという規模に縮算されている。

   (『銀行法特別委員会報告』、1858年7月、別付71ページ。)〉(135-136頁)

《フランス語版》

  〈(52) 現金が厳密な意味での商取引のなかに入っている割合がどんなにわずかであるか、このことを一例で示すために、ここでロンドンの最大商社中の一社の年間収支表を示すことにしよう。一八五六年におけるこの一社の取引は数千万ポンド.スターリングからなっているが、ここでは一〇〇万ポンド・スターリングの規模に縮算されている。

 (『銀行法特別委員会報告』、1858年7月、別付71ページ。)〉(江夏・上杉訳121-122頁)


●第10パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈商品の価格に表現された交換価値は、貨幣へのこの特有の転化〔spezifische verwandlung〕が必要となるとともに、犠牲にされなければならない。そこからボアギュベールのたとえば次のような嘆きが出てくる。--貨幣はいっさいの物の首斬り役人であり、すべてのものがそのいけにえにされなければならないモロク神であり、諸商品の専制君主である。すべての貢納の貨幣租税への転化をともなった絶対王制の台頭の時代には、貨幣はじっさいのところ現実の富がそのいけにえにされるモロク神として現われている。貨幣恐慌〔monetary panic〕の起こるときはいつも同様の状況である。貨幣は商業の下僕から商業の専制君主となったと、ボアギュベールは言っている。しかし実際には、貨幣との交換において措定されること、すなわち、貨幣が商品を代表するのではもはやなくて、商品が貨幣を代表するということは、諸価格の規定のうちに、すでに即自的には、現存しているのである。〉(草稿集①頁)

《経済学批判・原初稿》

  〈絶対君主制は、それ自身がすでに、ブルジョア的富が古い封建的諸関係とは相いれない段階にまで発展したことの産物なのであるが、絶対君主制は、辺境のあらゆる地点において〔中央部と〕同一形態の一般的権力(マハト)を行使することができなければならないことに対応して、こうした権力の物質的槓杆として一般的等価物を必要とした、つまりいつでも即応できる形態にある富--こうした形態にある富は地域的、自然的、個人的な特殊的諸関連からはまったく独立している--を必要とした。絶対君主制は貨幣形態にある富を必要としたのである。賦役と物納の制度は、賦役や物納のもつ特殊的性格に応じて、それらの利用の仕方にも特殊化の性格を与える。どのような特殊的使用価値にも直接に転換可能なものは、貨幣だけである。だからこそ絶対君主制は、貨幣が一般的支払手段に転化するように作用するのである。こうした転化は、諸生産物をそれらの価値以下で流通するようにさせる、強制された流通によってのみ、なしとげられうる。だからあらゆる租税を金納税に転化することが、絶対君主制にとっては死活問題なのである。だからこそ、以前の段階では、もろもろの給付が貨幣給付に転化するたびに、それは人格的な依存諸関係の棄却として現われ、市民社会の勝利--市民社会は自分の妨げとなるもろもろの桎梏からの解放を現金でもって買い戻したわけである--として現われたのである、--とはいえこの過程は、他方ロマン主義の側からみれば、多彩な色どりをもっていた人間の結合手段にかわって、慈悲も情もない貨幣諸関係がとってかわることとして現われるのである--ところが、諸商品の貨幣への転化を強制的におしすすめることをみずからの財政術とする絶対君主制が興隆しつつある時代になると、こんどはプルジョア経済学者自身が、貨幣とは自然的富を強制的に自分のために犠牲にしてしまう仮想の富〔der imaginaire Reichthum〕だとして、貨幣を攻撃するようになるのである。だからこそ、たとえばペティは、貨幣蓄蔵の材料としての貨幣については、事実上、イングランドの若々しい市民社会のもつ行動力にみちた一般的致富欲をたたえているだけであるのに、ルイ14世治下のボアギユベールとなると、貨幣は富の現実的な生産源泉の発展を衰弱させる一般的なわざわいの元であるから、貨幣を王座から下ろすことによってのみ、諸商品の世界、つまり現実的富とこの富の一般的享受とは、その昔にもっていた然るべき権利を回復することができるとして、貨幣を告発している。彼がまだ理解できなかったことは、金をつくるために人々と諸商品とを錬金術の蒸留器(レトルト)のなかに投げ込んだのと同じきたない財政術が、同時に、ブルジョア的生産様式の妨げとなるあらゆる関係や幻想をも蒸発させてしまって、残留物としては単純な貨幣諸関係、つまり低俗な交換価値の諸関係〔gemeine Tauschwerthverhältnisse〕しか残らないようにしたのだ、ということである。〉(草稿集③34-36頁)

  〈ボアギュベールは、ペティがイギリス経済学に対して占めているのとまったく同一の重要な地位をフランス経済学に対して占めており、重金主義の熱烈な反対者の一人であるが、彼は、貨幣が他の諸商品に対する排他的な価値として、つまり支払手段(彼は特に租税の支払手段のことを考えている)および蓄蔵貨幣として現われるさまざまな諸形態について貨幣を把握している。(価値が貨幣という姿の独自の定在をもつことは、他の諸商品が価値を相対的に喪失すること、つまり他の諸商品の相対的な地位低下として現われる。)〉(草稿集③76頁)


《経済学批判》

  〈一般的支払手段としては、貨幣は契約の一般的商品となる。--はじめはただ商品流通の領域の内部でだけだが*。けれども貨幣のこの機能の発展につれて、他のすべての支払の形態はしだいに貨幣支払に解消していく。貨幣が排他的支払手段として発達している程度は、交換価値が生産をどれだけ深くまた広くとらえているかという程度を示している**。
 * ベーリ、前掲書、3ページ。「貨幣は契約の一般的商品である。すなわち、将来履行されるべき大多数の財産契約を結ぶのに用いられるものである。」
  ** シーニアは、前掲書、221ページで言う。「すぺての物の価値は、一定の期間内には変動するものであるから、麦払手段としては、その価値の変動が最も少なく、物を買う一定の平均能力を最も長く保つようなものが選ばれる。こうして貨幣は、価値の表現または代理者となる。」逆なのだ。金、銀等は貨幣すなわち独立した交換価値の定在となっているからこそ、一般的支払手段となるのである。シーニア氏のいう貨幣の価値の大きさの持続性についての考慮が生じるときには、言いかえるならば、貨幣が諸事情に迫られて一般的支払手段として確立される時期には、ちょうど貨幣の価値の大きさの変動も認められるのである。そういう時期は、イギリスではエリザベスの治世であった。そしてバーリ卿とサー・トマス・ス、ミスとが、貴金属の目だってきた価値低下を考慮して、オックスフォード大学とケンブリッジ大学とにその地代の3分の1を小麦と麦芽で備蓄する義務を負わせる議会法を通過させたのも、この時代のことであった。〉(全集第13巻122頁)

《初版》

  〈商品生産がある程度の高さと広さに達すれば、支払手段としての貨幣の機能は、商品流通の部面以外に及ぶ。貨幣が、契約の一般的商品になる(86)。地代や租税等々が、現物給付から貨幣支払に変わる。この変化が生産過程の総姿態によってどんなに制約されているかは、たとえば、ローマ帝国がいっさいの租税を貨幣で取り立てようと試みて二度も失敗したことが、立証している。ルイ14世治下のフランス農民のものすごい窮乏は、ボァギュベールやヴォーバン元帥たちからあれほど雄弁に非難されたが、この窮乏は、たんに租税が高いことのせいであっただけではなく、現物租税から貨幣租税への転化のせいでもあった(87)。他方、アジアでは同時に国税の主な要素でもある地代の現物形態が、このアジアでは、自然諸関係が有する不易性をもって再生産される生産諸関係にもとづいているとすれば、この支払形態は反作用的に、旧式な生産形態を維持することになる。これは、トルコ帝国の自己保存の秘密の一つになっている。ヨーロッパから強制された外国貿易が、日本で、現物地代から貨幣地代への転化をひき起こすならば、日本の模範的な農業もおしまいである。この農業の狭隘な経済的存立諸条件が、解消するであろう。〉(江夏訳136頁)

《フランス語版》

  〈商品生産が発展し拡大すればするほど、支払手段としての貨幣の機能は、生産物の流通部面にますます局限されなくなる。貨幣が契約の一般的商品になる(53)。それまで現物で支払われていた地代や租税などは、それ以降貨幣で支払われる。この転換が生産の一般的状態にどんなに依存するものであるかをとりわけ示す事実は、ローマ帝国がいっさいの租税を貨幣で取り立てる試みで二度とも失敗した、ということである。ルイ14世治下のフランス農民の法外な貧困は、ボアギュベールやヴォーバン元帥たちによってあれほど雄弁に非難されたが、この貧困はたんに租税の高いことから生じたばかりでなく、租税の現物形態から貨幣形態への転換からも生じたのである(54)。アジアでは、地代が、租税の主要な要素を構成していて、現物で支払われる。そこでの停滞的な生産関係にもとづいているこの地代形態は、旧式な生産様式を反作用的に維持している。これが、トルコ帝国保全の秘密の一つなのだ。ヨーロッパが日本に授けた自由貿易が、この国で現物地代から貨幣地代への転換を惹き起こすならば、この国の模範的な農業は、このような革命に抵抗するには余りにも狭隘な経済条件に服しているから、万事休すである。〉(江夏・上杉訳122頁)


●原注104

《初版》

  〈(86)「取引の運びが変わって、財貨と財貨との交換、すなわち引き渡しと受け取りとから、販売と支払いになったので、すべての取引が……いまでは、貨幣価格にもとづいて表示されている。」(『公信用にかんする一論、第3版、ロンドン、1710年』、8ページ。)〉(江夏訳137頁)

《フランス語版》

  〈(53)「商業の運びが変わって、商品がもはや商品と交換されるのではなく売られて支払われるようになるやいなや、すべての取引は、貨幣での価格にもとづいてきめられる」(『公信用にかんする一論』、第3版、ロンドン、1710年、8ぺージ)。〉(江夏・上杉訳123頁)


●原注105

《経済学批判・原初稿》

 〈商品を貨幣に転化するために商品の価格を下げること(商品をその価値以下で販売すること)が、いっさいの窮乏の原因なのである。(同書第5章を見よ。)そして以上の意味をこめて彼は、「貨幣はいっさいの物の死刑執行人となってしまった」(同書、413ページ)と言うのである。彼は、貨幣をふやす財政術を「このいまわしい要約をつくりだすためにものすごい量の財貨や商品を蒸発させてしまう蒸留器」にたとえている。(419ページ。)貴金属の価値を下げることによって、「商品それ自身がその正当な価値を回復させられるであろう。」同書、422ページ。「貨幣は……全人類に宣戦を布告する。」(417-418ページ)〉(草稿集③78-79頁)

《初版》

  〈(87)「貨幣は万物の死刑執行吏になった。」財政技術は、「この不吉なエキスを作るためにおそろしく多量の財貨や製品を蒸発させた蒸溜器である。」「貨幣は全人類に戦いを宣している。」(ポァギュペール『富、貨幣、租税の本性にかんする論説』、デール編『財政学者』、パリ、1843年、第1巻、422、419、417ページ。)〉(江夏訳137頁)

《フランス語版》                      -

  〈(54) 「貨幣は万物の死刑執行人になった」。財政は、「この不吉なエキスを作るためにおそろしく多量の財貨や製品を蒸発させた蒸溜器である。貨幣は全人類に戦いを宣している」(ボアギニベール『富、貨幣、租税の本性にかんする論説』、デール編『財政学者』、パリ、1843年、413、417、419ページ)。〉(江夏・上杉訳123頁)


●第11パラグラフ

《初版》

  〈どの国でも、若干の一般的な支払時期が確立してくる。これらの時期は、再生産の他の諸循環を別にすれば、部分的には、季節の移り変わりに結びついた自然的生産諸条件にもとづいている。これらの時期は、租税や地代等々のような、商品流通からは直接に生ずることのない支払いをも、同様に規制する。社会の全面にわたって分散しているこれらの支払いのために一年のうちなん日間に必要な貨幣量は、支払手段の節約においての周期的だが全く表面的な撹乱を、ひき起こす(88)。支払手段の流通速度にかんする法則から、次のことが出てくる。すなわち、その起源がなんであろうと、すべての周期的な支払いについて、支払手段の必要量は支払周期の長さに反比例する、ということ(89)。〉(江夏訳137頁)

《フランス語版》  フランス語版では二つのパラグラフに分けられており,間に注が挟まっている。ここでは注を省いて紹介しておく。

  〈どの国でも、大規模な支払いについては若干の一般的な期限がきまっている。もしこれらの期限のうち幾つかのものが純粋な慣習であれば、それは一般に、季節等の周期的な変化に結びついた、再生産の周期的、循環的な運動、にもとづいている。この一般的な期限は、地代、家賃、租税などの支払いのような、商品流通からは直接に生じない支払いの時期をも、同様に規制する。一国の全土に分散しているこれらの支払いが、一年のうちの若干日に必要とする貨幣量は、周期的な、だが全く表面的な混乱を惹き起こす(55)。
  支払手段の流通速度にかんする法則から、次のことが出てくる。すなわち、すべての周期的な支払いについて、この支払いの源泉がなんであろうと、支払手段の必要量は支払期間の長さに正比例する、ということ(56)。〉(江夏・上杉訳123頁)


●原注106

《初版》

  〈(88)1826年の議会の調査委員会にたいして、クレーグ氏はこう述べている。「1824年の聖霊降臨祭の月曜日には、エジンパラでは銀行券にたいしでものすごい需要があったので、11時には、われわれの手もとにはもはや1枚の銀行券も保管されていなかった。われわれは、幾らかを借りるために次々とあちこちの銀行に人を送ったが、びた一文も手に入れることができず、多数の取引を紙片だけで決済するほかなかった。ところが、午後の3時には、すべての銀行券がすでに、それを発行した銀行に戻されていた。この銀行券は持ち主を変えただけにすぎなかった。」スコットラシドでは、銀行券のじっさいの平均流通高は300万ポンド・スターリングに達しないが、それにもかかわらず、一年間のあれやこれやの支払日には、銀行家の手もとにある、なにもかもひっくるめて約7OO万ポンド・スターリングの銀行券が、残らず動員される。こういったばあいには、銀行券はただ一つの独自な機能を果たさなければならないのであって、この機能を果たしてしまうと、銀行券は、それを発行したそれぞれの銀行に還流する。」(ジョン・フラートン『通貨調節論、第2版、ロンドン、1845年』、86ページ、註。)理解してもらうために付言しておくが、スコットランドでは、預金にたいしては、小切手ではなく銀行券だけが発行されていたのである。〉(江夏訳137-138頁)

《フランス語版》

  〈(55) クレーグ氏は、1826年の議会調査委員会にたいしこう語っている。「1824年の聖霊降臨節の月曜日に、エディンバラで銀行券の膨大な需要があったので、午前11時にはわれわれの金庫にはもはや1枚の銀行券もなかった。われわれはつぎつぎとあらゆる銀行に銀行券を探しに人を送ったが、手に入れることができず、おびただしい取引は紙片でしか仕末をつけることができなかった。ところが、午後3時にはすべての銀行券が、それを発行した銀行に戻ってきていた。銀行券は持ち主を変えたにすぎなかった」。スコットランドでは銀行券の実際の平均流通高は300万ポンド・スターリングに達しないが、1年のうちの若干の支払期日には、銀行家の手もとにあるおよそ700万ポンド・スターリングの銀行券がすべて運用されることがある。こういった事情のもとでは、銀行券が果たさねばならない機能はただ一つだけであって、この機能を果たしてしまうやいなや、これを発行した個々の銀行に戻ってくるのである(ジョン・フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、86ページ、註)。上述のことを理解させるためには、フラートンの時代には、スコットランドの銀行は預金にたいし小切手ではなく銀行券を与えた、ということを付言しておくのが適切である。〉(江夏・上杉訳123頁)


●原注107

《初版》

  〈(89)「一年当たり4OOO万を調達する必要があるとすれば、同じ6OO万(金)があれば、上記4OOO万の取引上必要とされるような回転と流通とに、充分であろうか?」という問いにたいして、ペティはいつもの巧妙さでこう答える。「充分だ。というのは、支出は4000万であるので、もし回転が、毎週土曜日に受け払いする貧しい職人や労働者のあいだで行なわれているように、たとえば毎週という短い周期であれば、1OO万の貨幣の40/52で右の目的が達成されるであろうから。だが、もし周期が、わが国の地代支払や租税徴収の慣習にしたがって3か月であれば、1OOO万が必要であろう。それゆえ、諸支払が一般に、1週間と13週間とのあいだの種々雑多な周期から成っていると想定すれば、1OO万の40/52に1000万を加えたものの半分が550万であるから、550万あれば充分である。」(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖、1672年』、ロンドン版、1691年、13、14ページ。)〉(江夏訳138頁)

《フランス語版》 

  〈(56) 「年に4000万が必要であるばあい、同じ600万で(金で)、商業上の流通と回転に充分でありえようか?」ペティはいつもの巧妙さでこう答える。「充分だ。もし回転が、土曜日ごとに受け払いする貧しい労働者や手工業者について生じるように、たとえぱ1週間目という接近した周期で行なわれれば、そのばあいには100万の40/52の貨幣でも、その目的を達成することができるだろう。もし、わが国の地代支払いまたは租税徴収の慣習にしたがい、回転の周期が3ヵ月ごとであれば、1000万が必要になろう。したがって、支払いが一般に1週間と13週間とのあいだに履行されると仮定すれば、そのばあいには、100万の40/52に1000万を加えなければならないであろうが、その半分は550万であるから、550万をもてば充分である」(ウィリアム・ペティ『アイルランドの政治的解剖』、ロンドン版、1691年、13、14ページ)。〉(江夏・上杉訳123-124頁)


●第12パラグラフ

《経済学批判》

  〈諸支払は、それとしてまた準備金を、支払手段としての貨幣の蓄積を必要とする。こういう準備金の形成は、もはや貨幣蓄蔵の場合のように流通そのものにとって外的な活動としても、また鋳貨準備の場合のように鋳貨のたんなる技術的停滞としても現われないで、むしろ貨幣が将来の一定の支払期日に手もとにあるように、だんだんに積み立てられなければならない。だから致富として考えられている抽象的形態での貨幣蓄蔵は、ブルジョア的生産の発達につれて減少するのに、交換過程によって直接に必要とされる貨幣蓄蔵は増加する、というよりはむしろ、一般に商品流通の領域内で形成される蓄蔵貨幣の一部分が、支払手段の準備金として吸収される。ブルジョア的生産が発達していればいるほど、この準備金はますます必要な最小限度に限られる。ロックは利子率の引下げについての彼の著作で、彼の時代のこの準備金の大きさについて興味ある説明をあたえている。この説明から、銀行制度が発達しはじめたばかりの時代に、イギリスでは支払手段の貯水池が一般に流通していた貨幣のどれほど大きな部分を吸収していたかがうかがい知られる。〉(全集第13巻125頁)

《初版》

  〈支払手段としての貨幣の発展は、債務額の満期日にそなえての貨幣蓄積を必要とする。貨幣蓄蔵は、独立した致富形態としては、市民社会の進歩につれて消滅するが、これとは反対に、支払手段準備金という形態では、貨幣蓄蔵は市民社会の進歩につれて増大する。〉(江夏訳138頁)

《フランス語版》

  〈貨幣が支払手段として果たす機能は、支払期日に必要となる金額の蓄積を、必要とするものだ。ブルジョア社会の発展は、致富の固有な形態としての貨幣蓄蔵を除去すると同時に、支払手段の準備金という形態のもとで貨幣蓄蔵を発展させる。〉(江夏・上杉訳124頁)

 

 

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