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『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(1)

2021-07-31 00:44:27 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(1)

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№2)(大谷新著の紹介の続き)

  前回、とりあげた大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きです。

  前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」の説明をとりあえず、このように簡略に表現しておきます)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁され、それは〈久留間の『価値形態論と交換過程論』の「はしがき」を虚心に読めば,そのような誤解が出てくるはずもない〉というので、ではその「はしがき」では何が書かれているのかを見たのでした。しかしそこには大谷氏が指摘するような「観点」について久留間氏自身は何も述べていないことを確認できたのです。

 それでは実際問題として、「価値形態論と交換過程論」のなかで久留間氏はどのように問題を提起しているのかを検討しようというのが今回の課題です。まず久留間氏の論文の冒頭部分を抜き書きしてみましょう。

  〈「資本論」の最初の部分の構成を見てみると、第一章が「商品」で、これが四つの節に分れている。第一節が「商品の二つの要因、使用価値および価値」、第二節が「商品で表示される労働の二重性格」、第三節が「価値形態または交換価値」、第四節が「商品の物神的性格とその秘密」。それから章がかわって、第二章が「交換過程」、その次の第三章が「貨幣または商品流通」となっている。この構成を見てみるといろいろな疑問が起きてくる。貨幣という言葉は、表題では、第三章の「貨幣または商品流通」のところにはじめてあらわれてくる、これがいわゆる貨幣論にあたるものと考えられる。しかし内容をみると、その前にすでに貨幣に関するさまざまな議論が展開されている。第一は価値形態論、第二は物神性論、第三は交換過程論で、すべて貨幣が出てくる。いったいこれらは、第三章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか。こういう疑問が当然おきてくる。第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい。それから第二には、この第三章以前の貨幣に関する議論は序論的なものだとして、この今あげた三つのもの、すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい。それから第三には、序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる。
  こういういろいろな疑問が、「資本論」の最初の部分の構成を徹底的に理解しようとするならば、きっとおきてくるにちがいない。少くともわたくしのばあいにはそうであった。特に価値形態論と交換過程論との関係、これが、34・5年前に「資本論」を読みはじめてから間もない頃から、ずいぶん長いあいだわたくしを苦しめた。どちらを読んでみても、貨幣がどのようにしてできるかについて論じているように思われる。ところがその論じかたを見てみると、全くちがっている。そのちがいは、本質的にはどういう点にあるのか。これがなかなかわからない。そしてそれに関連して、前にも述ぺたように、価値形態論の方は第一章の商品論のうちの第三節になっているが、交換過程論の方は独立した第二章になっている。これもいったいどういうわけなのかということ、これまた長いあいだ疑問のたねであった。〉 (1-2頁)

  以上が、だいたい久留間氏がこの論文を書くうえでの問題意識と考えて良いでしょう。果たしてここに大谷氏が〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉というようなものがあるといえるでしょうか。
 むしろ久留間氏自身は〈「資本論」の最初の部分の構成を見てみると〉と少なくとも第1篇全体の構成を問題にしています。そして素直に『資本論』の第1篇の展開をそれ自体として理解しようとしたが、次々と疑問が湧いてきて、なかなか理解ができなかったということを正直に吐露しておられると私には思われます。久留間氏の問題意識は、決して〈貨幣生成論という観点から見たとき〉に『資本論』の第1章の第3節や第4節、あるいは第2章のそれぞれの課題は何か、というようなものではありません。そうしたことを久留間氏の問題意識だということは、ある意味では久留間氏を貶めることではないのかとさえ私には思えるのです。久留間氏自身は〈「資本論」の最初の部分の構成を徹底的に理解しようとする〉するなかで、次々と起こってきた疑問を、ただ正直に書いているだけだと思うからです。
  少なくとも久留間氏が書いたものを読んだことがある人なら、久留間氏の問題意識は『資本論』をとにかく正確に理解しようとする姿勢で一貫しているのであって、何か恣意的に自分が勝手に設定した問題意識で『資本論』のアレコレの叙述を切り取って、手前勝手な解釈をして満足するような人では決してないし、むしろそういうことを嫌い、否定されてきた人だと思います。

 大谷氏と同様、久留間鮫造氏を師とあおぐ学者の一人である小西一雄氏は近著『資本主義の成熟と終焉』(2020.12.1桜井書店)の「あとがき」の中で久留間鮫造氏の「学風」について次のように述べています。

  〈その学風は、一言でいえば、論争史に振り回されないで、自分の頭で『資本論』に素直に立ち向かえということと、マルクスの叙述を理解するためには、そこでマルクスがなにを問題としたかということを理解することが大切であり、マルクスの問題設定を離れて勝手に解釈したり、ないものねだりをしたりするようなことはするな、ということになるだろう。〉 (209頁)

  ところが大谷氏は、『資本論』のそれぞれの章や節がそれ自体として全体の叙述のなかで何を問題にしているのかではなく、〈マルクスの問題設定を離れて〉〈貨幣生成論〉という〈観点〉から〈勝手に解釈〉して、しかもそれを久留間氏自身の問題意識であるかに主張しているのです。これは師の〈学風〉に反し、その教えを踏みにじることにならないでしょうか。とにかく久留間氏の問題意識を確認して今回は終わります。

 次回以降は、では久留間氏が設定したシェーマ(=「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)とはどういうもので、それが出てくる『資本論』のパラグラフ(第2章第15パラグラフ)でマルクスは何を問題にしているのか、久留間氏がシェーマのそれぞれに該当すると考えた、『資本論』第1章第3節(いかにして)、同第4節(なぜ)、第2章(何によって)は、実際には『資本論』の叙述のなかでそれぞれはどういう意義を持っているのか、等々ということについて、すでにこれまでにも述べてきたところですが、あらためて論じておきたいと思います。(以下、続く)

  それでは本題に移ります。今回から第2篇第4章に入ります。だから最初はこの篇・章の位置づけについて論じることから始めたいと思います。


◎表題について

 〈第2篇 貨幣の資本への転化〉、〈第4章 貨幣の資本への転化〉、〈第1節 資本の一般的定式〉

 ご覧のように、今回から第2篇に入ります。しかし第2篇には第4章という一つの章しかありません(第1篇には3つの章があり、第3篇には5つの章、第4篇は4つ、第5篇は3つ、第6篇は4つ、第7篇は5つの章です)。つまり第4篇はそれだけ特異なものなのです。これはこの篇の(そしてその唯一の章の)表題が「貨幣から資本への転化」となっていることから明らかにように、貨幣が資本に転化する必然性を解明するというそれこそ特異な性格を持っていることから来ています。
 こうしたものは一般には「移行規定」と言われています。マルクスは初版ではこうした移行規定をいろいろなところで書いていましたが、第2版ではかなり少なくなっています。しかし第2版でもこの第2篇(第4章)のように移行規定は幾つかのところで見られるのです。第1篇の第2章「交換過程」も、先の久留間鮫造氏の疑問を思い出して頂いても分かるように、一つの章としては第1章「商品」や第3章「貨幣または商品流通」に較べて極めて短いものなのに、第1章と第3章と対等の位置に置かれていますが、これも第1章と第3章を媒介し、商品から貨幣への転化を明らかにするものから来ていると以前解説しましたが、この第2章も全体としての性格は移行規定といってもよいでしょう。
 それ以外にも例えば価値形態の単純な形態から展開された形態、さらに一般的な形態へと発展する過程では、一つの形態からさらに発展した形態へと移行する必然性を明らかにする移行規定が見られました。しかしそれらはいちいち紹介するまでもないでしょう。
  初版にはありながら、第2版では消えている、こうした移行規定のなかでよく知られているものとしては、第1部「資本の生産過程」から第2部「資本の流通過程」への移行規定があります。初版には第2版の最後の一文のあと、区切りを示す線が引かれ、そのあと次のように書かれています(これが第2版ではなくなっています)。

 〈最後に、われわれが蓄積の考察へ移るさいに話の穂をとめおいたところに、なお寸時、この話の穂を再びつなげておかなければならない。資本家が5000ポンド・スターリングを前貸しし、生産過程では4000ポンド・スターリングを生産手段に、1000ポンド・スターリングを労働力--労働の搾取度は1OO%--に消費した、と仮定しよう。そうすると、たとえばXトンの鉄という生産物の価値は、6O00ポンド・スターリングになる。資本家がこの鉄をその価値どおりに売れば、彼は1000ポンド・スターリングの剰余価値を、すなわち、鉄の価値に具象化されている不払労働を、実現することになる。ところが、この鉄は販売されなければならない。資本主義的生産の直接的な結果は、商品である--たといその商品が剰余価値をはらんでいるにしても。したがって、われわれは、われわれの出発点である商品に、また商品とともに流通の領域に、投げ返されることになる。とはいっても、第2部でわれわれが考察しなければならないものは、もはや単純な商品流通ではなくて、資本の流通過程なのである。〉 (江夏訳872頁)

  このように「資本の生産過程」から「資本の流通過程」への移行の必然性が語られています。因みに第2部から第3部への移行については、未完成なマルクスの諸草稿のあれこれから寄せ集め的に編集した現行のエンゲルス版にはもちろんありませんが、第2部の最初の草稿(第1稿)の最後に掲げられている第2部第3章(篇)のプランには次のように項目としては掲げられています。

 〈したがって、この第3章の項目は次のとおりである。
 1 流通(再生産) の実体的諸条件
 2 再生産の弾力性
 3 蓄積、あるいは拡大された規模での再生産
  3a 蓄積を媒介する貨幣流通
 4 再生産過程の、並行、上向的進行での連続、循環
 5 必要労働と剰余労働?
 6 再生産過程の撹乱
 7 第3部への移行 (大谷他訳『資本の流通過程』(大月書店1982.3)294頁)

 同じように、これから私たちが学習する第2篇第4章というのも、全体としてはそうした性格をもったものなのです。

  しかし貨幣から資本へ移行すると言っても、それはそれほど簡単な問題ではありません。そして実際、この部分は戦後多くの論者によって取り上げられ、論争の種になってきた部分でもあるのです。しかしここではそうした論争に深入りする気はありませんが……。

  さて、『資本論』第1巻の表題は「資本の生産過程」です。しかしその第1篇の表題は「商品と貨幣」となっており、実際に資本の生産過程の考察が始まるのは第3篇からなのです。そして第1篇と第3篇を媒介するものが、これから学習する第2篇ということになるのです。ではどうして「資本の生産過程」を考察する前に第1篇として単純な商品流通における商品と貨幣とが問題になっているのでしょうか。その理由は『資本論』の冒頭で次のように述べられています。

  〈資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。〉 (全集第23a巻47頁)

  さらには次のような説明も紹介しておきましょう。

 〈われわれは、最も単純な経済的関係・ブルジョア的富の基素(エレメント)・としてブルジョア社会の表面に現われるような商品から出発した。例えば、生産物が生産者たちによって使用価値として生産されるだけであれば、その使用価値は商品とはならない。このことは、社会の成員のあいだに歴史的に規定された諸関係があることを前提している。ところで、もしわれわれがさらに次の問題を、すなわち、どのような事情のもとで生産物が一般的に商品として生産されるのか、あるいはどのような諸条件のもとで商品としての生産物の定在が、すべての生産物の一般的かつ必然的な形態として現われるのか、という問題を追求したならば、それは、まったく特定の歴史的生産様式である資本主義的生産様式の基礎のうえでのみ生じることだ、ということが分かったであろう。しかしそのような考察をしたとすれば、それは商品そのものの分析からは遠く離れてしまうことになったであろう。というのは、われわれがこの分析でかかわりあったのは、商品の形態で現われるかぎりでの諸生産物、諸使用価値であって、あらゆる生産物が商品として現われなければならないのは、どのような社会的経済基礎のうえでのことか、という問題ではないからである。われわれはむしろ、商品がブルジョア的生産においては富のかかる一般的、基素的(エレメンターリッシュ)な形態として見いだされる、という事実から出発する。しかし、商品生産、従ってまた商品流通は、さまざまな共同体のあいだで、あるいは同一の共同体のさまざまの器官(オルガーン)のあいだで--生産物の大部分は直接的な自己需要のために使用価値として生産され、従ってまた決して商品の形態をとらないのに--生じうる。他方、貨幣流通の方は、従ってまたそのさまざまの基素的(エレメンターリッシュ)な機能および形態における貨幣の発展は、商品流通そのもの、しかも未発達の商品流通以外には何も前提しない。もちろんこれもまた一つの歴史的前提ではあるが、しかしそれは商品の本性に従って、社会的生産過程の極めてさまざまの段階で満たされうるものである。個々の貨幣形態、例えば蓄蔵貨幣としての貨幣の発展や支払手段としての貨幣の発展を、立ち入って考察すれば、それは社会的生産過程の極めてさまざまな歴史的段階を示唆するであろう。すなわち、これらさまざまの貨幣機能のたんなる形態から生まれる歴史的区別を示唆するであろう。しかしながら、右の考察によって、蓄蔵貨幣としての、あるいは支払手段としての形態での貨幣のたんなる定在は、商品流通がいくらかでも発展しているあらゆる段階に同様に属するものであること、従ってまたそれはある一定の生産時代に制限されないものであること、それは生産過程の前ブルジョア的段階にもブルジョア的生産にも同様に固有のものであることが明らかになるであろう。しかし資本ははじめから、ある一定の歴史的過程の結果でしかありえないような、また社会的生産様式のある一定の時代の基礎でしかありえないような関係として出現するのである。〉 (草稿集④54-5頁)

  だから私たちが第1篇「商品と貨幣」で考察した単純な流通過程というものは、あくまでも十分に発達した資本主義的生産様式を前提して、ただその表層にあって、もっとも普遍的且つ基礎的な部分をなしているものを、とりあえずはそれ自体として考察するために、より具体的な資本主義的な諸関係を捨象してそれらを抽象的な関係として見たものなのです。マルクスは小売商人と個人的消費者の間の流通は、単純な流通がもっとも抽象的な形で現われているものだと述べています。だから私たちはリンネルや上着などを例にしてそれらの交換関係から考察を深めていったわけです。
  そしてこうした単純な流通が行き着いたものは貨幣(貨幣としての貨幣)でした。しかし貨幣から資本への移行というのは、実際には、歴史的に資本が生まれてくる長い複雑な過程を経たものなのです。だから歴史的には単純に貨幣に資本が直接続いているわけではないのです。しかしすでに述べましたように、私たちの課題は資本主義的生産様式の内在的諸法則の解明です。そしてブルジョア的生産様式の内部においては、単純な流通から資本へ直接移行するのだとマルクスは次のように述べています。

  〈資本の存在は、社会の経済的姿態形成〔Gestaltung〕の長期にわたる歴史的過程の結果である。弁証法的形態で叙述することは、自分の限界をわきまえている場合にのみ正しいのだということが、この地点〔貨幣の資本への移行を論ずる地点〕ではっきりとわかる。われわれにとっては単純流通の考察から資本の一般的概念が導き出されるわけだからである。その理由は、ブルジョア的生産様式の内部では、単純流通そのものが、資本の前提であるとともに資本を前提としているものとして以外には、存在しないからである。資本が単純流通から生ずると言ったからといってもなにも、資本がある永遠の理念の化体になるわけではない。資本が単純流通から生ずるということが示していることは、資本とは、交換価値を定立する労働、交換価値に立脚する生産がそこにゆきつかざるをえない必然的形態にほかならないということ、また資本は現実にまずもってそういうものとしてあるのだということである。〉 (草稿集③194頁)

  だから第2篇第4章「貨幣の資本への転化」は、資本主義的生産様式の内在的諸法則を解明して、それを〈弁証法的形態で叙述する〉ために、貨幣から資本への移行を、すなわち第1篇「商品と貨幣」と第3篇「絶対的剰余価値の生産」とを媒介する篇なのです。それは第2章「交換過程」が、商品から貨幣への移行を、すなわち第1章「商品」と第3章「貨幣または商品流通」とを媒介する章であったのと同じ役割を果たしています。
 第2章「交換過程」では、まずは商品の交換過程における矛盾が明らかにされ、その矛盾を解決するために必然的に貨幣が生み出されたように、第4章でも、第3章の結果である貨幣としての貨幣が、資本の最初の現象形態であることが明らかにされ、資本の一般的定式が与えられ、さらにその一般的定式の矛盾が指摘され、その解決のためには、単純流通から資本の生産過程への移行が必然であることが明らかにされるわけです。
 まあ、以上がおおまかに第2篇(第4章)の表題「貨幣の資本への転化」の意味するものです。それではいよいよ本文に進みましょう。


◎第1パラグラフ(資本の出発点は第1篇で考察した商品流通である)

【1】〈(イ)商品流通は資本の出発点である。(ロ)商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしている。(ハ)世界貿易と世界市揚とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのである。〉

  (イ) 商品流通は資本の出発点です。

  すでに見ましたように、第2篇あるいは第4章の表題はともに、「貨幣の資本への転化」です。つまり貨幣が資本になるということです。しかし貨幣が資本になるというのは、ただ資本主義的生産様式の社会体制を前提して、その内在的な諸法則を解明していくための、論理的な展開において言いうることです(これをマルクスは「弁証法的形態での叙述」と述べています)。「貨幣」については、これまでの第1篇のなかで明らかにされてきました。しかし「資本」はこれから明らかにされなければならないものです。だから第4章の第1節は「資本の一般的定式」となっています。つまりまず最初に資本を一般的に規定しようということです。
  「貨幣」というのは、商品流通のなかで生まれてきたものです。だから「貨幣から資本への転化」を考えるなら、当然、商品流通が資本の出発点だということは分かります。そして商品流通が資本の出発点だということは、論理的にも歴史的にも言いうることなのです。

  (ロ) 商品生産と、発達した商品流通すなわち商業とは、資本が成立するための歴史的な前提をなしています。

  この文節は、初版では〈だから商品生産と商品流通、および発達した商品流通すなわち商業とは、つねに、そのもとで資本が成立する歴史的な前提を成している〉(江夏訳143頁)となっています。またフランス語版では〈資本は、販売のための生産と商業とがすでにある発展段階に到達したばあいに、はじめて現われる〉(江夏・上杉訳129頁)となっています。
  だから商品生産と商品流通の発展は、資本が成立するための歴史的な前提だということです。商品流通がある程度発展しているところでは、すでに古代においても資本の一般的な形式が生まれていました。例えば商人資本や金貸し資本などです。彼らはGを流通させてそれをG+ΔGにすることを生業にしていました。しかしそのためには、商品生産とその流通のある程度の発展が必要だったのです。しかしこれらはまだ資本主義的生産とはいえません。しかし資本の一般的定式という点では、抽象的には言いうるのです。

 商人資本が資本主義的生産以前において歴史的に現われ、また資本主義的生産様式の発展のための歴史的前提となる理由について、『資本論』第3部から紹介しておきましょう。

  〈だから、なぜ商人資本は、資本が生産そのものを自分に従属させるよりもずっと前から、資本の歴史的形態として現われるのか、ということを見抜くことは、少しも困難ではない。商人資本の存在とある程度までの発展とは、資本主義的生産様式の発展のための歴史的前提でさえもある。というのは、(1)貨幣財産の集積の前提条件としであり、また、(2)資本主義的生産様式は、商業のための生産を前提し、個々の顧客相手ではない卸売りを、したがってまた、自分の個人的欲望をみたすために買うのではなく多数人の購買行為を自分の購買行為に集中する商人を、前提するからである。他方、およそ商人資本の発展は、生産にますます交換価値を目ざす性格を与えて生産物をますます商品に転化させるという方向に、作用する。とはいえ、商人資本の発展は、それだけでは、われわれがすぐ次にもっと詳しく見るであろうように、ある生産様式から他の生産様式への移行を媒介し説明するのには不十分である。〉 (全集第25a巻407-408頁)

  (ハ) 世界貿易と世界市揚とは、16世紀に資本の近代的生活史を開くのです。

  この文節も初版では〈16世紀における、近代の世界貿易と世界市場との創出から、資本の近代の生活史が始まる〉(江夏訳143頁)となっており、フランス語版では〈資本の近代史は、16世紀における二つの世界の商業と市場との創出に始まる。〉(江夏・上杉訳129頁)となっています。
  さて、こうした古代の商人や金貸しは、まだ資本主義的生産には繋がりませんでした。資本主義的生産が歴史的に生まれるためには、そのための歴史的な条件が必要だったからです。そうしたものは資本主義以前の諸社会のなかで育まれ、前資本主義的生産様式の崩壊の過程で準備されてきたのです。
  16世紀というのは、いわゆる大航海時代といわれる時代です。また16世紀というのは西欧世界では封建制度の末期、絶対王制の時代に該当します。その時代の世界貿易と世界市場の発展が、資本主義的生産のための原始的な蓄積を生み出したのです。こうした資本主義的生産の歴史的な発展については、『資本論』第1部の最後のところ(第7篇第24章)で問題にされますが、今は、そうした歴史的な過程を論じることが主題ではなく、論理的な展開を問題にしているのです。しかしその前に、そうした論理的な展開には、歴史的な前提があることをここで指摘していることになります。

  とりあえず、その歴史について論じている同じ『資本論』第3部から紹介しておきましょう。

  〈商業と商業資本との発展は、どこでも、交換価値を指向する生産を発展させ、その範囲を拡大し、それを多様化するとともに世界化し、貨幣を世界貨幣に発展させた。それゆえ、どこでも商業は既存の生産組織にたいしては、すなわち形態はいろいろに違っていてもみな主として使用価値に向けられている既存の生産組織にたいしては、多かれ少なかれ分解的に作用するのである。しかし、どの程度まで商業が古い生産様式の分解をひき起こすかは、まず第一に、その生産様式の堅固さと内部構成とにかかっている。また、この分解過程がどこに行き着くか、すなわち、古い生産様式に代わってどんな新しい生産様式が現われるかということは、商業によってではなく、古い生産様式そのものの性格によって定まる。古代世界では、商業の作用も商人資本の発展も、その結果はつねに奴隷経済である。また、出発点によっては、ただ、直接的生活維持手段の生産に向けられた家長制的な奴隷制度が、剰余価値の生産に向けられた奴隷制度に転化させられるだけのこともある。これに反して、近代世界ではそれは資本主義的生産様式に行き着く。このことから、これらの結果そのものがまだ商業資本の発展とはまったく別な事情によって制約されていたということになる。……
  16世紀および17世紀には、地理上の諸発見に伴って商業に大きな革命が起きて商人資本の発展を急速に推進し、これらの革命が封建的生産様式から資本主義的生産様式への移行の促進において一つの主要な契機をなしている。世界市場の突然の拡大、流通する商品の非常な増加、アジアの生産物やアメリカの財宝をわがものにしようとするヨーロッパの国々の競争、植民制度、これらのものは生産の封建的制限を打破することに本質的に役だった。しかし、近代的生産様式がその最初の時期であるマニュファクチュア時代に発展したのは、ただ、そのための条件がすでに中世のあいだに生みだされていたところだけだった。たとえばオランダをポルトガルと比較せよ。そして、16世紀に、また一部分は17世紀にも、商業の突然の拡張や新たな世界市場の創造が古い生産様式の没落と資本主義的生産様式の興隆とに優勢な影響を及ぼしたとすれば、このことはまた、逆に、すでに創出されていた資本主義的生産様式の基礎の上で起きたのである。世界市場は、それ自身、この生産様式の基礎をなしている。他方、この生産様式に内在するところの、絶えず大きな規模で生産するという必然性は、世界市場の不断の拡張に駆り立てるのであり、したがってここでは、商業が産業を変革するのではなく、産業が絶えず商業を変革するのである。商業支配権も今では大工業の大なり小なりの優勢に結びついている。例えばイギリスとオランダとを比較せよ。支配的商業国としてのオランダの没落の歴史は、商業資本の産業資本への従属の歴史である。〉 (全集第25a巻414-415頁)


◎第2パラグラフ(商品流通の最後の産物=貨幣は、資本の最初の現象形態である)

【2】〈(イ)商品流通の素材的な内容やいろいろな使用価値の交換は別として、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察するならば、われわれはこの過程の最後の産物として貨幣を見いだす。(ロ)この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態である。〉

  (イ) 商品流通の持つ素材的な内容やいろいろな使用価値の交換は別にして、ただこの過程が生みだす経済的な諸形態だけを考察しますと、私たちはこの過程の最後の産物として貨幣(貨幣としての貨幣)を見い出します。

 私たちは第1篇第3章第2節「流通手段」「a 商品の変態」の考察を素材的な面を媒介する、その形態そのものを考察しました。マルクスは次のように書いていました。

  〈そこで、われわれは全過程を形態の面から、つまり、社会的物質代謝を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。〉 (全集第23a巻頁)

  振り返ってみますと、第3章「貨幣または商品流通」の構成は、第1節 「価値の尺度」、第2節 「流通手段」、第3節 「貨幣」になっています。この最期の「貨幣」は、いわゆる「定冠詞の無い貨幣」と言われ、「第三規定の貨幣」、「貨幣としての貨幣」、「本来的な貨幣」などとも言われています。この「貨幣」こそが、流通の形態が産み出したものだとマルクスは次のようにのべています。

  流通の形態それ自体を考察してみれば、流通のなかで生成し、生み出されるものは、貨幣そのもの〔貨幣としての貨幣〕であり、それ以上の何物でもない。諸商品は流通のなかで交換されるとはいえ、流通のなかで成立するわけではない。……流通は交換価値を創造しないし、またその大きさを創造しもしない。〉 (草稿集③158頁)

  (ロ) この、商品流通の最後の産物は、資本の最初の現象形態なのです。

  そしてこの流通の形態が生み出した貨幣こそが、資本の最初の現象形態なのだというのです。『要綱』では、マルクスは次のように述べています。

 〈資本は、まず流通から、しかも資本の出発点である貨幣から生じる。すでに見たように、流通にはいりこむとともに、同時にまた流通から自分自身に立ちかえる貨幣は、貨幣がみずからを止揚する最後の形態である。この貨幣は同時に、資本の最初の概念でもあり、その最初の現象形態でもある。貨幣は、たんに流通のなかで消え去るものとしてのみずからを否定した。しかし貨幣はまた、自立的に流通に対抗するものとしてのみずからをも否定したのである。この否定をその肯定的諸規定のなかで総括してみると、それは資本の最初の諸要因〔Elemente〕を含んでいる。〉 (草稿集①293-294頁)
 〈すでにみたように、貨幣としての貨幣においては、交換価値は、すでに流通にたいして一つの自立的形態をかち得ているが、しかしこの自立的形態は否定的で消滅的な形態にすぎず、あるいは、それが固定化されれば幻想的形態であるにすぎない。貨幣は、流通にかかわってのみ、また流通にはいりこむ可能性としてのみ存在する。しかしそれは、自己を実現してしまうやいなや、この規定を失い、諸交換価値の尺度および交換手段という、以前の二つの規定に逆もどりする。流通にたいして自己を自立化させるだけでなく、また流通のなかで自己を保持するような交換価値として、貨幣が措定されるやいなや、それはもはや貨幣ではなく--というのも貨幣は貨幣そのものとしては否定的な規定を越えることはないのだから--、資本なのである。……つまり資本の最初の規定は次のとおりである。すなわち、流通から生まれ、したがって流通を前提する交換価値は、流通のなかで、また流通をとおして自己を保持すること、この交換価値は流通にはいりこむことによって、自己を失わないでいること、流通は、交換価値が消滅していく運動としてでなく、むしろ交換価値が交換価値として現実的に自己を措定する運動として、交換価値の交換価値としての実現であること、これである。〉 (草稿集①303頁)

 やや難解な書き方ですが、要するに貨幣としての貨幣というのは、例えば蓄蔵貨幣のように流通から引き出されて、そこに固定されてしまうことによってそういうものになるのですが、しかし固定されたままだと貨幣ですらなくなります。しかしそれが再び流通に入っていくとなると流通手段などの消滅的な契機になるしかないものです。それが貨幣としての貨幣の限界なのです。しかし流通から生まれながら流通に入って行っても自己を失わない貨幣というのは、すでに単なる貨幣ではなく、資本としての貨幣なのだということです。流通のなかで自己を維持し増殖する価値こそ資本そのものだからです。


◎第3パラグラフ(貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を振り返る必要はない。同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。)

【3】〈(イ)歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する(1)。(ロ)とはいえ、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧する必要はない。(ハ)同じ歴史は、毎日われわれの目の前で繰り広げられている。(ニ)どの新たな資本も、最初に舞台に現われるのは、すなわち市場に、商品市場や労働市場や貨幣市場に姿を現わすのは、相変わらずやはり貨幣としてであり、一定の過程を経て資本に転化するべき貨幣としてである。〉

  (イ) 歴史をふりかえりますと、資本というのは、土地所有者に対して、商人や高利貸とし対立しました。つまり最初は土地所有に対して、貨幣財産として、まず貨幣の形で相対したのです。

  先に見ましたように、『資本論』の叙述では単純流通の最後の産物である貨幣が、資本の最初の現象形態であることが指摘されました。
  しかし歴史的にも、資本は、最初は土地の所有者たちに対抗するかたちで、どこでもまずは貨幣の形で、貨幣財産という形で現われたのです。商人資本や高利資本がそれです。
  日本の歴史を振り返っても、江戸時代の中期から末期になると、貨幣経済はますます発展し、諸藩の財政は逼迫して、商人や高利貸し(両替商や札差)からの借財に頼るしかなく、その首根っこを押さえ込まれていました。すでに土地所有者に対して貨幣財産が対抗するものとして現われて来ていたと言えます。

  (ロ) しかしここでは、資本が生まれてくる歴史を辿る必要はありません。貨幣を資本の最初の現象形態として認識するのは、論理的な展開としてです。

  しかし資本が生まれてくる歴史を辿ることがここでの課題ではありません。ここではあくまでも貨幣の資本への転化の論理的な過程を目的にしているのです。マルクスは『批判』原初稿で次のように述べています。

  〈しかしわれわれはここでは、〔単純〕流通の資本への歴史的移行については論じないことにする。単純流通とはむしろ、ブルジョア的総生産過程のひとつの抽象的部面なのであり、この部面はそれ自身のもつ諸規定を通じて、それが、単純流通の背後に横たわり、単純流通から結果として生ずるとともに、それを生み出しもする、より深部にある過程--産業資本--の契機であり、それの単なる現象形態にすぎぬことを実証するのである。}〉 (草稿集③150-151頁)

  単純流通の諸規定を通じて、私たちはその背後にあるより深部の関係としての資本の生産過程へと展開するのですが、今はその移行の最初として、まずは資本の一般的定式を規定していこうということです。

  (ハ)(ニ) それに歴史的な過程と同じようなことは、私たちの目の前で日々繰り広げられています。どんな新たな資本も、最初に登場するのは、市場においてです。すなわち商品市場や労働市場や貨幣市場においてです。そこでは最初はやはり貨幣として登場し、一定の過程を経て資本に転化するのですから。歴史を遡って考察する必要はないのです。

  それにそもそも歴史的に生じたことは、今まさに毎日われわれの目の前で繰り広げられていることでもあるからです。なぜなら、今日でも、新たな資本として投下されるものは、まずは貨幣の形態で存在しなければなりません。その貨幣はそれまでは流通過程を経て、資本として投下されるべきものとして登場したわけです。つまり流通の産物です。そしてその貨幣は、資本として投下されます。商品市場では生産諸手段の購入のために、労働市場では労働力の購入のために、あるいは貨幣市場では利子生み資本として投下されるわけです。だから論理的に明らかにしていくことは同時に歴史的な過程を凝縮して写し出していることでもあるのです(もちろん、常に歴史的な過程と論理的な過程が照応し合うわけではなありません。マルクスは〈それは時とばあいによる〉と述べています(『要綱』草稿集①52頁))。


◎原注1

【原注1】〈(1) (イ)人身的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力と貨幣の身的な権力との対立は、次のような、フランスの二つのことわざにはっきり言い表わされている。(ロ)「領主のない土地はない。」(ハ)「貨幣に主人はない。」〔"Nulle terre sans seugner.""L'argent n'a pas de matre."〕〉

  (イ) 人身的な隷属・支配関係を基礎とする土地所有の権力と貨幣の身的な権力との対立は、次のような、フランスの二つのことわざにはっきり言い表わされています。

  この原注は〈歴史的には、資本は、土地所有にたいして、どこでも最初はまず貨幣の形で、貨幣財産として、商人資本および高利資本として相対する(1)〉という一文に付けられたものです。
  マルクスは『要綱』では、人間社会の歴史的諸形態を次の三つの段階としてみています。

  〈人格的な依存諸関係〔Abhängigkeitsverbältnisse〕(最初はまったく自然生的)は最初の社会諸形態であり、この諸形態においては人間的生産性〔menschliche Productivität〕は狭小な範囲においてしか、また孤立した地点においてしか展開されないのである。物象的依存性のうえにきずかれた人格的独立性は第二の大きな形態であり、この形態において初めて、一般的社会的物質代謝〔Stoffwechsel〕、普遍的諸関連〔universelle Beziehungen〕、全面的諸欲求〔Bedurfnisse〕、普遍的諸力能といったものの一つの体系が形成されるのである。諸個人の普遍的な発展のうえにきずかれた、また諸個人の共同体的〔gemeinschaftlich〕、社会的〔gesellschaftlich〕生産性を諸個人の社会的力能として服属させることのうえにきずかれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件をつくりだす。それゆえ家父長的な状態も、古代の状態(同じく封建的な状態)も、商業、奢侈、貨幣、交換価値の発展とともに衰退するが、同様にまた、これらのものと歩みを同じくして近代社会が成長してくるのである。〉 (草稿集①137-138頁)

  封建的な土地所有というのは人格的な支配・被支配の関係にもとづいた社会です。それに対して、商品と貨幣の関係というのは、人と人の関係が物と物との関係として現われる物象的依存性のうえに築かれた社会になります。だからそれは封建的な人格的依存性に対立したものとして現われてくるわけです。
  そうした封建的な人格的依存関係と隷属関係を否定する貨幣関係を二つのことわざがはっきりと表しているというわけです。

  (ロ) 「領主のない土地はない。」

  つまりすべての土地にはそれを所有し支配する領主がおり、その領主に隷属することなくてして、土地に関係することは出来ないのが封建社会なのです。

  (ハ) 「貨幣に主人はない。」

  それに対して貨幣には主人はありません。つまり人格的な依存関係はそこにはないということです。そもそも貨幣においては何がそれに転化したのかの痕跡も消えています。例えし尿を売って入手した貨幣であっても「臭くはない」のです。貨幣の前ではすべての人が平等で、例え昨日まで乞食をしていても、偶然によってでも(たまたま拾うとか)、彼が貨幣さえ手に入れれば、その社会的力を自らのものにすることができます。『要綱』では次のように説明されています。

  〈最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔sachlich--物象的に〕も平等が措定〔される]のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性〔Gleichgültigkeit〕と同値性〔Gleichgeltendheit〕とが物象〔Sache〕の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。〉 (草稿集①283-284頁)

 (今回は長いので、ブログには3万字以下という字数制限があるために、全体を五分割して掲載します。)

 

 

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(2)

2021-07-31 00:10:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(2)

 

◎第4パラグラフ(貨幣としての貨幣と資本としての貨幣との最初の区別は、流通形態の相違にある)

【4】〈(イ)貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけである。〉

  (イ) 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、さしあたりはただ両者の流通形態の相違によって区別されるだけです。

  ここには「貨幣としての貨幣」と「資本としての貨幣」という言葉が出てきます。そしてこの両者の区別は、その流通形態の相違として最初は捉えられるというのです。
  この両者の関係については、『マルクス経済学レキシコン 貨幣Ⅴ』栞№14のなかに大谷氏の説明がありますので、長いですが、そしてこのあとの展開部分も少し含んだ説明になりますが、関連する部分を紹介しておきましょう。さらに詳しくは直接文献に当たってみてください。

  〈「資本に関する章」の冒頭のここでは、貨幣という規定、および、貨幣の形態諸規定・諸機能がすでに理論的に前提されている。資本はまずもって、この貨幣が取る新たな形態、新たな規定としてとらえられる。それが「資本としての貨幣」である。そこで、マルクスはこの引用〔487〕を、次のように書き始めている。
  「資本としての貨幣は、貨幣としての貨幣という単純な規定を越える、貨幣の一規定である。それはより高次の実現とみなされることができるのであって、猿が発展して人間となっている、と言えるのと同様である。にもかかわらず、この場合には低次の形態が高次の形態の統括的な主体として措定されているのである。いずれにしても、資本としての貨幣貨幣としての貨幣とは区別されるものである。この新しい規定が展開されなければならない。」(下線--マルクス)
  ここではまず、資本が「資本としての貨幣」という貨幣の新たな規定としてとらえられ、これと、「貨幣としての貨幣」という貨幣の単純な規定とが対比されて、両者の関係が示されている。
  すなわち、マルクスは「貨幣に関する章」のなかで、「貨幣としての貨幣」(貨幣の第三規定) のうちには「資本としての貨幣の規定がすでに潜在的に含まれている」と述べていた(*)が、「資本としての貨幣」は、この潜在的に含まれていた規定の「実現」であり、「貨幣としての貨幣」の発展したものだとみることができる。したがって、同じ貨幣の形態であるこの両者のうち、「貨幣としての貨幣」はその「低次の形態」、「資本としての貨幣」はその「高次の形態」だということになる。ところが、このような観点から見るかぎりでは、この両者を包括する類概念は言うまでもなく貨幣、すなわち単純な規定である「低次の形態」であって、これが「高次の形態」である「資本としての貨幣」をも統括する、ということになっている。
  * マルクスは次のように書いていた、「貨幣の第三規定は、その完全な発展したかたちにおいては初めの両規定を前提しており、両規定の統一である。… …貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちには、資本としての貨幣の規定がすでに潜在的に含まれている。」(『資本論草稿集』① 、236ページ。下線--引用者)
  マルクスはこのように述べたあと、このような把握が十分かどうかは、このさきの展開のなかで次第にわかってくるだろうが、とにかく、「資本としての貨幣」が「貨幣としての貨幣」と区別されるものであることは明らかなのだから、この新しい規定をまずもって展開しなければならない、と続けているのである。〉 (22-23頁)

  ついでにマルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)も紹介しておきましょう。

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)属性では(a)(「尺度としての貨幣」--引用者)も(b)(「交換手段としての貨幣または単純な流通」--同)もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり……価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。 (全集第29巻248-249頁)


◎第5パラグラフ(商品流通の二つの形態、W-G-WとG-W-G)

【5】〈(イ)商品流通の直接的形態は、W-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、である。(ロ)しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだす。(ハ)その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのであり、資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのである。〉

  (イ) 商品流通の直接的形態は、W-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売る、です。

  「貨幣としての貨幣」と「資本としての貨幣」との区別は、最初は両者の流通形態の相違として捉えられるということでした。そこで両方の流通形態の相違をみて行きましょう。まず単純な商品流通の直接的形態は、W-G-Wでした。すなわち商品を貨幣に転化し、さらにその貨幣を商品に転化することです。

  (ロ) しかし、この形態と並んで、私たちは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買う、を見いだします。

  しかしこうした商品流通の直接的な形態とは別に、私たちはG-W-Gという別の形態を見いだします。これはまず最初に貨幣があり、それが商品に転化されたあと再び貨幣に転化されるという流通です。これは売るために買うという形態です。

  (ハ) その運動によってこのあとのほうの流通を描く貨幣は、資本に転化するのです。つまり資本になるのであって、すでにその使命から見れば、資本なのです。

  そしてこの後の方の運動を描く貨幣が、すなわち資本に転化するのです。だからG-W-Gはすでに単純流通の枠を超えています。それは潜在的には、すでに資本の流通と言えるのです。

  ここではW-G-WとG-W-Gとの関係が論じられていますが、これ自体はそれほど難しく考える必要はありません。例えば単純な商品流通W-G-Wというのは商品流通のもっとも抽象的な形態ですが、しかしこれは歴史的には、例えば自給自足的な生活をしている人たちが、時々その余剰物を交換し合う関係と言ってもいいでしょう。しかしこうした交換関係が発展すると、貨幣を流通から引き揚げて、いつでも何でも買えるものとして、すなわち一般的な富としてそれを持っていて、そしてそれを別の機会に流通に投じる人たちも出てきます。それがG-W-Gです。それも最初のうちはW-G-Wとそれほど違ったものではなく、たまたまGを流通から引き揚げて持っていたものを再び流通に投じただけなのかも知れません。そのかぎではそれはやはり消費を目的にしており、W-G-Wと同じなのですが、そうした過程のなかで、やがて一般的富としてのGを貯め込む人たちも出てきて、その増殖を願う人たちが出てきます。そしてその人たちのなかから、高く売るために、値段が安いときに買っておく、というG-W-Gが出てきます。それは貨幣を流通に投じて、やはり同じ貨幣を流通から引き出すという限りでは一つの単純流通であり、循環です。こうした単純流通からそのなかに独自の流通としてG-W-Gが出てくるわけです。そしてそれはその使命からすれば、すでに資本だ、つまり流通のなかでその増殖を目的にして貨幣を投じるものだというのです。
  これはまた違った観点からは次のようにもいえます。単純流通でありながら、資本の流通でもあるというのは、それは抽象的な契機としては単純流通だが、より具体的な関係としてみれば資本の流通であるということでもあるのです。資本家は利潤を得るためには、必ず貨幣を資本として流通に投じ、生産手段と労働力を購入して、それらを生産過程で消費してその価値の増殖を計らねばなりません。しかしただ生産過程で価値増殖ができただけでは駄目で、その増殖した価値を持つ生産物を商品として流通に投じて最初に投じた貨幣以上の貨幣を流通から引き出さねばならないのです。これは記号で表すとG-W…P…W'-G'という循環をとりますが(Pは生産過程、あるいは生産資本)、このなかで[G-W]と[W'-G']、つまり最初のGの投下、すなわち商品の購買と最後の商品の販売というのは短縮すればG-W-Gとなりますが、これらはまさに単純流通そのものなのです。ただそれを資本の循環という資本関係のなかで見た場合に、それらは資本の流通にもなるだけのことなのです。ここで言われている単純流通と資本の流通との区別と関連にはこうした意味もあります。

◎第6パラグラフ(単純流通としてG-W-Gを見る)

【6】〈(イ)流通G-W-Gをもっと詳しく見よう。(ロ)それは、単純な商品流通と同じに、二つの反対の段階を通る。(ハ)第1の段階、G-W、買いでは、貨幣が商品に転化される。(ニ)第2の段階、W-G、売りでは、商品が貨幣に再転化される。(ホ)しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動である。(ヘ)または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である(2)。(ト)この全過程が消えてしまっているその結果は、貨幣と貨幣との交換、G-Gである。(チ)私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ) 流通G-W-Gをもっと詳しく見てみましょう。それは、単純な商品流通と同じように、二つの反対の段階を通ります。第1の段階、G-W、買いでは、貨幣が商品に転化されます。第2の段階、W-G、売りでは、商品が貨幣に再転化されます。

  そこでG-W-Gの流通をもっと詳しく見てゆくと、これは単純流通としてみれば、二つの段階をとおる流通です。最初の段階はG-Wです。つまり買いです。貨幣が商品に転化されます。そして第二の段階はW-G、売りです。商品が貨幣に転化されます。つまり形態的にみるかぎりでは単純流通と見ることができます。

  (ホ) しかし、二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換して同じ商品を再び貨幣と交換するという、すなわち売るために商品を買うという総運動です。

   この単純流通として見た二つの段階の統一は、貨幣を商品と交換し同じ商品を再び貨幣と交換するということです。つまり売るために買うという総運動になります。

  (ヘ) または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動です。

  あるいは売り・買いという形態的な区別を無視すると、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動になります。

  (ト) だからこの全過程が消えてしまっているその結果だけを見れば、貨幣と貨幣との交換、G-Gになります。

  フランス語版ではこの文節で改行されています。そしてその前の文節のあいだに原注2が入っています。
  だから全過程は、その結果だけで見るなら、貨幣を貨幣と交換したことに、G-Gになります。

  (チ) 例えば私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、結局、私は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、すなわち貨幣を貨幣と交換したことになるわけです。

  例えば私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの棉花を買い、その2000ポンドの棉花をもう一度110ポンド・スターリングで売るならば、結局、私は100ポンド・スターリングと110ポンド・スターリングとを、すなわち貨幣と貨幣とを交換したことになるわけです。

  ところで、ここではマルクスは100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングとを交換したことになる、と述べています。しかしこれでは、単純流通としては疑問が生じます。なぜなら単純流通というのは等価物の交換だからです。次の第7パラグラフでは、100ポンド・スターリングと100ポンド・スターリングとの交換を持ち出していますが、その前の第6パラグラフでは等価物交換に反した数値を持ち出しているのです。これはどうしてでしょうか。
  これは恐らく第5パラグラフで、マルクスは〈商品流通の直接的形態は、W-G-W、……である。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、G-W-Gという形態、……を見いだす〉と述べ、W-G-Wと〈並んで〉独自に区別される形態としてG-W-Gを〈見いだす〉と述べています。〈見いだす〉というのは、私たち観察者が直接的な表象として日常的に目にするということです。『経済学批判』でも次のように書いています。

  〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。
      W-G-W
      G-W-G〉 (全集第13巻70頁)

  つまりマルクスは流通過程に日常的にみられる二つの形態をまずは直接見ているということではないでしょうか。そして私たちが直接に見いだすG-W-Gというのは、高く売るために安く買うという形態なのです。だからマルクスはまず直接的表象としてとらえらるG-W-Gとして、100ポンド・スターリングと110ポンド・スターリングとの交換の例を持ち出しているのだと思います。
  しかしいうまでもなくこれは等価物の交換という単純流通の枠をすでに超えていることがわかります。マルクスは『批判・原初稿』では〈G-W-Gという形態をとる現実的運動は単純流通のなかには存在しない〉とまで述べながら、しかし〈この形態がそのものとして現に行なわれていることは、明らかである〉(下線による強調はマルクス)とも述べています(草稿集③167頁)。そして〈現に行なわれている〉ものは、実際には100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと交換する過程なのです。もし100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するなら、それは単純流通の枠内ですが、しかしまったく無意味なものになります。つまり単純流通ではそれは無意味な奇妙な行為になるのです。つまりG-W-Gは、単純流通でありながらすでに単純流通ではないというある意味矛盾したものなのです。
  『経済学批判』の一文を紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。〉 (全集第13巻102-103頁)


◎原注2

【原注2】〈2 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的秩序』、543ページ。)〉

  これは〈または、買いと売りという形態的な相違を無視すれば、貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買うという総運動である(2)。〉という本文につけられた原注です。

  リヴィエールについては『資本論辞典』でもヒットしなかったのですが、ウィキペディアには、次のような説明がありました。

  〈ピエール=ポール・ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエール・ド・サン=メダール(Pierre-Paul Le Mercier de la Rivière de Saint-Médard、1719年3月10日 - 1801年11月27日)は、フランスの重農主義の経済思想家。名前は、ルメルシエ(Lemercier)と表記されることもある。
  ソミュールに生まれる。父親はトゥール納税区に勤務した財務官。1756年にケネーと知り合った。1759年から1764年まで、西インド諸島のフランス植民地マルティニークの知事を務めた。
  1767年に主著『政治社会の自然的・本質的秩序(l'Ordre naturel et essentiel des sociétés politiques) 』を公刊した。この著作は、重農主義学説の立場から本格的に政治体制について記したものである。作品のなかで、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは、「合法的専制」という統治概念を提起した。この観念は、ケネーが理想の経済秩序との関係で唱えた「正統な専制政治」の理論をさらに詳細に発展させたものであった。この作品は、ディドロやアダム・スミスによって高く評価されたが、ヴォルテールやマブリらの批判を呼んだ。政界ではディドロと親しいロシアのエカチェリーナ2世に評価され、彼女の招きによって、ル・メルシエ・ド・ラ・リヴィエールはロシアを訪問した。
  1785年公の活動から引退したが、その後の1792年に、ユートピア小説『幸福な国民またはフェリシー人の政体』を出版した。〉


◎第7パラグラフ(循環G-W-GはW-G-Wとはまったく種類の違うものである。両者の形態的相違の背後にある内容的な相違が解明されねばならない)

【7】〈(イ)ところで、もしも回り道をして同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのならば、流通過程G-W-Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白である。(ロ)それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、やはりずっと簡単で確実であろう。(ハ)他方、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものである。(ニ)そこで、まず循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけをしなければならない。(ホ)そうすれば、同時に、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。〉

  (イ)(ロ) ところで、もしも回り道をして結局同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとすることになるなら、流通過程G-W-Gはつまらない無内容なものだということは、まったく明白です。そんなことなら、それよりも、自分の100ポンドを流通の危険にさらさないで固く握っている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、ずっと簡単で確実ではないでしょうか。

 まず最初に現行版の〈つまらない無内容なもの〉は、初版では〈馬鹿げて無内容である〉(江夏訳145頁)、フランス語版では〈奇怪な過程である〉(江夏・上杉訳130頁)となっています。
  さて、先には流通G-W-Gをもっと詳しく見るとして、それは結局は100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと交換することになると説明されました。そしてそのとき「もし100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換するなら、……それはまったく無意味なものになります」と説明しました。実際、100ポンド・スターリングで2000ポンドの棉花を買って、それを再び100ポンド・スターリングで売るだけなら、最初から何もせずにいるほうがよっぽどましであって、余計な回り道をしたために、自分の100ポンド・スターリングがアクシデントで失われるような危険にさらさずに済むわけです。しかしもちろん100ポンド・スターリングを自分でしっかり握っていたからといって、貨幣蓄蔵からはその増殖はまったく望めないのですが……。

  (ハ) 他方で、商人が100ポンドで買った綿花を再び110ポンドで売ろうと、またはそれを100ポンドで、また場合によっては50ポンドでさえも手放さざるをえなくなろうと、どの場合にも彼の貨幣は一つの特有な独自な運動を描いたことになります。その運動は、単純な商品流通での運動、たとえば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかでの運動とは、まったく種類の違うものです。

  ここでもまず最初に現行版の〈一つの特有な独自な運動〉は、初版では〈独自な特異の運動〉(江夏訳145頁)、フランス語版では〈特殊的、独創的運動〉(江夏・上杉訳131頁)となっています。
  それに較べると、最初の考察のように、商人が100ポンド・スターリングで買った2000ポンドの棉花を再び110ポンドで売ったなら、それは単純流通とは異なる独自の運動をしたことになります。もっとも場合によっては110ポンド・スターリングではなく、50ポンド・スターリングででも叩き売らねばならない羽目に陥らないとも限りませんが。しかしいずれにせよ、それは単純な商品流通W-G-W、例えば穀物を売り、それで手に入れた貨幣で衣服を買うというような農夫の手のなかでの運動とは、まったく種類の違った運動なのです。だからG-W-Gという流通は、すでに潜在的には単純流通を越えた流通なのです。

  (ニ)(ホ) そこで、まず私たちは循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけをしなければなりません。そうすれば、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになることでしょう。

  しかしいずれせよ、私たちは循環G-W-GとW-G-Wという二つの流通の形態的な特徴をさらに詳しく見て行かねばなりません。そうすれば、これらの形態の相違のなかに隠れている内容における相違も見えてくるはずです。


◎第8パラグラフ(両方の形態に共通なもの)

【8】〈(イ)まず両方の形態に共通なものを見よう。
(ロ)どちらの循環も同じ2つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれる。(ハ)2つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対しており、また、買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた2人の人物が相対している。(ニ)2つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一である。(ホ)そして、どちらの場合にも、この統一は3人の当事者の登場によって媒介され、そのうちの1人はただ売るだけであり、もう1人はただ買うだけであるが、第3の1人は買いと売りとを交互に行なう。〉

  (イ) まず最初は、両方の形態に共通なものを見ることにしましょう。

  循環G-W-GとW-G-Wとの形態的相違の特徴づけを見て行く前に、この両方の形態に共通なものをまず見ておくことにしましょう。

  (ロ) どちらの循環も同じ2つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれています。

  まず両方の形態には、どちらも商品流通の二つの反対の段階、W-G、売りと、G-W、買いとに分かれています。

  (ハ) 2つの段階のどちらでも、商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対し、また、買い手と売り手という同じ経済的な仮面をつけた2人の人物が相対しています。

  そして同じことですか、二つの形態には商品と貨幣という二つの物的要素が相対し、買い手と売り手という同じ経済的な形態規定性を受けた二人の人物が相対しています。

  ここにはまず〈物的要素〉と〈経済的仮面〉という二側面の対比が見られます。これは物象とその物象の人格化(経済的役割)と言い換えてもよいでしょう。後者の〈経済的仮面〉については、以前、第2章の交換過程の最初のパラグラフに次のような説明がありました。

  〈商品は、自分で市場に行くことはできないし、自分で自分たちを交換し合うこともできない。だから、われわれは商品の番人、商品所持者を捜さなけれぽならない。商品は物であり、したがって、人間にたいしては無抵抗である。もし商品が従順でなければ、人間は暴力を用いることができる。言いかえれば、それをつかまえることができる。これらの物を商品として互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志をこれらの物にやどす人として、互いに相対しなけれぽならない。したがって、一方はただ他方の同意のもとにのみ、すなわちどちらもただ両者に共通な一つの意志行為を媒介としてのみ、自分の商品を手放すことによって、他人の商品を自分のものにするのである。それゆえ、彼らは互いに相手を私的所有者として認めあわなければならない。契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展していてもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である。この法的関係、または意志関係の内容は、経済的関係そのものによって与えられている。ここでは、人々はただ互いに商品の代表者としてのみ、したがって商品所持者としてのみ、存在する。一般に、われわれは、展開が進むにつれて、人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化でしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いに相対するのだということを見いだすであろう。〉 (全集23a113頁)

  (ニ) 2つの循環のどちらも同じ反対の諸段階の統一です。

  さらには、両方とも、こうした反対の諸段階(売りおよび買い)の統一したものです。

  (ホ) そして、どちらの場合にも、この統一は3人の当事者の登場によって媒介されています。そのうちの1人はただ売るだけであり、もう1人はただ買うだけですが、第3の1人は買いと売りとを交互に行なうことになっています。

  しかしそれらの統一のためには、両方とも第3者の登場を前提しており、その媒介によっています。例えばW-G-Wでは、穀物を売る農夫はそれを買う人を前提し、入手した貨幣で衣服を買うためには、衣服を売る人を前提しています。つまり農夫と穀物を買う人、衣服を売る人の3人の登場人物が存在しなければならないのです。
 同じことはG-W-Gでも言い得ます。商人は棉花を買いますが、そのためは棉花の販売人を前提しています。さらに商人は買った棉花を再び売るのですが、そのためには棉花を買う人を前提しています。つまり商人以外に棉花売る人、棉花を買う人の三者が媒介していることになります。このうち一人はただ売るだけ(衣服の生産者、棉花の生産者)、もう一人はただ買うだけ(穀物を買う人、棉花を買う人)、そして第3の人は買いと売りを交互に行なう人です(農夫、商人)。

  このパラグラフは初版を全面的に書き換えてます。参考のために初版を紹介しておきましょう。

  〈まず、両方の形態に共通なものを見てみよう。
  両方の循環は、同じ対立的な二つの段階、販売であるW-Gと購買であるG-Wとに、分かれる。これらの段階のどちらも、それ自体として考察すれば、なんらの差異も認められない。この過程にはいり込む要素は、両方の形態において、同じもの、商品と貨幣とである。両方の循環のどの部分でも、買い手と売り手という同じ経済的仮装が向かいあっている。双方の過程において3人の契約当事者が登場するが、1人の契約当事者だけが、交互に買い手および売り手としていつも現われるのに、他の二人の契約当事者のうち、一方は売るだけ他方は買うだけである。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。〉 (江夏訳145頁)

  それほど内容的に違いがないと言えますが、現行版(フランス語版も同じ)では〈商品と貨幣という同じ2つの物的要素が相対〉に対して〈買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけた2人の人物が相対〉という形で、〈物的要素〉と〈経済的仮面〉とが明確に対置され、次のパラグラフから物象的側面からみる場合と、その人格化(担い手)の側面からみる場合の二通りの見方をしていく布石となっているということのようです(山内 清氏の指摘)。


◎第9パラグラフ(二つの循環の直接に分かる区別)

【9】〈(イ)とはいえ、二つの循環W-G-WとG-W-Gとをはじめから区別するものは、同じ反対の流通段階の逆の順序である。(ロ)単純な商品流通は売りで始まって買いで終わり、資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わる。(ハ)前のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。(ニ)第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全過程を媒介している。〉

  (イ) 次に二つの循環の違いをみましょう。W-G-W と G-W-G という二つの循環の違いに最初に気づくのは、流通段階の順序が逆ということです。

  それでは二つの循環の形態上の相違を見て行くことにしましょう。まず最初に気づくのは、W-G-WとG-W-Gとでは、流通の段階の順序が逆になっているということです。

  (ロ) 最初の単純な商品流通は売りで始まって買いで終わります。次の資本としての貨幣の流通は買いで始まって売りで終わります。

  最初の単純な商品流通W-G-Wでは商品の売りで始まって買いで終わります。それに対して、資本としての貨幣の流通G-W-Gでは、買いで始まって売りで終わります。

  (ハ) 最初のほうでは商品が、あとのほうでは貨幣が、運動の出発点と終点とをなしています。

  だから最初のものは商品(W)が出発点と終点をなし、あとのものは貨幣(G)がそうした役割を果たしています。

  (ニ) 第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全過程の媒介者になっています。

  ということは、第一の形態W-G-Wでは、貨幣が、第二の形態G-W-Gでは、商品が全過程の媒介者になっているということです。

  よく似た内容を論じている『経済学批判』から参考のために紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉 (全集第13巻102頁)

 

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(3)

2021-07-30 23:20:43 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(3)

 

◎第10パラグラフ(二つの形態の相違、貨幣の支出と前貸)

【10】〈(イ)流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつ。(ロ)だから、貨幣は最終的に支出されている。(ハ)これに反して、逆の形態G-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を取得するためである。(ニ)彼は商品を買うときには貨幣を流通に投ずるが、それは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためである。(ホ)彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。(ヘ)それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)。〉

  (イ)(ロ) 流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は流通から脱落して使用価値として役にたちます。ですから、この場合は、貨幣は最終的に支出されたことになります。

  さらに両者の違いを見ていくことにしましょう。
  最初の流通W-G-Wでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役だつために流通から姿を消します。だから貨幣は最終的に支出されてしまっています。
 
  (ハ) これとは反対に、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として再び貨幣を取得するためです。

  これとは反対に、もう一つの逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、彼が買った商品を売って再び貨幣を取り戻すためです。

  (ニ)(ホ) つまり彼は商品を買うときには確かに貨幣を流通に投じますが、しかしそれは同じ商品を売ることによって貨幣を再び流通から引きあげるためなのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという心づもりがあってのことにほならなりません。

  だから彼はもともと貨幣を投じて商品を買うときに、最初からその買った商品を売って、最初の投じた貨幣を取り戻すことを考えているのです。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れる心づもりがあってのことにほかならないのです。

  (ヘ) それだから、この場合は、貨幣はただ前貸しされるだけなのです。

  そしてこういう貨幣の支出の仕方を、前貸というのです。

  マルクスはケネーが貨幣の「前貸」の意味を正しく説明していると次のように論じています。

  〈資本家が労働力を買う貨幣は、彼にとっては価値増殖のために投じた貨幣、つまり貨幣資本である。それは、支出されたのではなく、前貸しされているのである。(これが「前貸」--重農学派のavance--の真の意味であって、資本家がこの貨幣そのものをどこからもってくるかにはなんの関係もないのである。資本家が生産過程の目的のために支払う価値はすべて資本家にとっては前貸しされているのであって、この支払が前になされようとあとからなされようとそれに変わりはないのである。その価値は生産過程そのものに前貸しされているのである。)〉 (全集第24巻466頁)

  要するに貨幣を価値増殖を目的に投じることを「前貸」というのであり、ただ個人的な消費を目的に投じる場合を貨幣の「支出」というのだと思います。


◎原注3

【原注3】〈3 「ある物が再び売られるために買われる場合には、そのために用いられる金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためにではなく買われる場合には、その金額は費やされると言ってよい。」(ジェームズ・ステユアート『著作集』、その子、サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ。)〉

  これは本文〈彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れるという底意があってのことにほならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけなのである(3)〉につけられた原注です。
  まず細かいことですが、スティアートの著書の出版年が  初版とは違っていますが(初版では1801年となっています)、フランス語版は同じ1805年になっていますから、恐らく初版の間違いを訂正したのでしょう。
  マルクスは『剰余価値学説史』をイギリスの経済学者サー・ジェームズ・ステュアートに関する研究から始めています。冒頭、次のように述べています。

  〈重農学派よりも前には、剰余価値--すなわち利潤、利潤という姿でのそれ--は、純粋に交換から、商品をその価値よりも高く売ることから、説明されている。サー・ジェイムズ・ステュアートは、だいたいにおいて、この偏狭さから抜けでておらず、むしろその科学的な再生産者とみなされなければならない。私は「科学的な」再生産者と言う。というのは、ステュアートは、個々の資本家が商品をその価値よりも高く売ることによって彼らの手にはいってくる剰余価値をあたかも新しい富の創造であるかのように考える幻想を共有していないからである。〉 (草稿集⑤6頁、全集第36巻Ⅰ 8頁)

  また次のようにも述べています。

 〈資本の理解についての彼の功績は、特定階級の所有物である生産条件と労働能力とのあいだの分離過程が、どのようにして生じるかを指摘した点にある。資本のこの成立過程について、彼は、--それを大工業の条件としては理解しているとしても、まだそれを直接に資本の成立過程そのものとしては理解することなしに--大いに論じている。彼は、この過程を特に農業において考察している。そして、彼においては、正当に、農業におけるこの分離過程によってはじめてマニュファクチュア工業〔manufacturerIndustrie〕がそのものとして成立する。この分離過程は、A・スミスの場合にはすでに完成したものとして前提されている。〉 (草稿集⑤10-11頁、全集第36巻Ⅰ 11頁)


◎第11パラグラフ(二つの形態の相違、場所変換の担い手、一方は貨幣、他方は商品)

【11】〈(イ)形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替える。(ロ)売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまう。(ハ)商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わる。(ニ)形態G-W-Gでは逆である。(ホ)ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品である。(ヘ)買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまう。(ト)単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのであるが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのである。〉

 (イ)(ロ)(ハ) 形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。売り手は、貨幣を買い手から受け取って、別のある売り手にそれを支払ってしまいます。商品と引き換えに貨幣を手に入れることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を手放すことで終わるのです。

  さらに両者の違いを見て行きましょう。
  まず形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度場所を替えます。穀物の売り手の農夫は、買い手から貨幣を受け取って、その貨幣を別の衣服の製造者に支払います。貨幣は穀物を買う人から農夫へ、そして農夫から衣服製造者へと二度場所を替えています。農夫による穀物の販売で始まる流通の総過程は、農夫が入手した貨幣を衣服の購入で手放すことによって終わっています。

  (ニ)(ホ)(ヘ) 形態G-W-Gではそれとは逆です。ここでは、二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品です。買い手は、商品を売り手から受け取って、それを別のある買い手に引き渡してしまいます。

  それに対して、G-W-Gの形態ではそれとは逆です。ここでは二度場所を替えるのは、同じ貨幣片ではなくて、同じ商品(棉花)です。買い手(商人)は、売り手(棉花製造業者)から商品(棉花)を受け取って、それを別の買い手に引き渡してしまいます。商品(棉花)は、棉花製造業者から商人に、さらに商人から棉花の買い手へと場所を二度替えます。

  (ト) 単純な商品流通では同じ貨幣片の二度の場所変換がそれを一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移すのですが、ここでは同じ商品の二度の場所変換が貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。

  単純な商品流通W-G-Wでは、同じ貨幣片の二度の場所変換が、商品の一方の持ち手から他方の持ち手に最終的に移します。
  しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gでは、同じ商品の二度の場所変換が、貨幣をその最初の出発点に還流させるのです。


◎第12パラグラフ(貨幣の還流という現象の特徴)

【12】〈(イ)その出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかにはかかわりがない。(ロ)この事情は、ただ還流する貨幣額の大きさに影響するだけである。(ハ)還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きるのである。(ニ)要するに、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としてのその流通との感覚的に認められる相違である。〉

  (イ)(ロ) その出発点に貨幣が還流してくるということは、商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということにはかかわりがありません。そうした事情は、ただ還流してくる貨幣額の大きさに影響するだけです。

  しかしこの還流というのは、あくまでも私たちが単純流通のレベルで見ていることに注意しなければなりません。だから商品が買われたときよりも高く売られるかどうかということは、少なくとも今の時点ではかかわりがないということです。それは還流する貨幣の大きさに影響するだけで、還流という現象そのものは、ただ買われた商品が再び売られて、貨幣がもとに戻ってくることを意味するだけです。

  (ハ) 還流という現象そのものは、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが完全に描かれさえすれば、起きます。

  つまり還流という現象は、買われた商品が再び売られさえすれば、つまり循環G-W-Gが最後まで完全に行なわれれば、起きることです。

  61-63草稿には次のように書かれています。

  〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。〉 (草稿集⑤495-496頁

  (ニ) つまり、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣として流通との感覚的につかむことのできる相違なのです。

  つまりこれが単純流通のレベルで、単なる貨幣の流通と資本としての貨幣の流通との感覚的に認められる相違なのです。
  以上までが二つの流通の形態における私たちが感覚的に掴みうる相違であり、区別ということができます。そして次のパラグラフからは両方の流通・循環の内容に踏み込んだ考察が行なわれて行きます。


◎第13パラグラフ(循環W-G-Wでは貨幣の還流はただ同じことを繰り返すしかない。それに反してG-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まってくる)

【13】〈(イ)ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W-G-Wは完全に終わっている。(ロ)それでもなお、その出発点への貨幣の還流が起きるとすれば、それはただ全過程の更新または反復によって起きるだけである。(ハ)もし私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買うならば、この3ポンドは私にとっては決定的に支出されている。(ニ)私はもはやその3ポンドとはなんの関係もない。それは衣服商人のものである。(ホ)そこで私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流するが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返しの結果としてである。(ヘ)その貨幣は、私が第2の取引を終えて、また繰り返して買うならば、再び私から離れて行く。(ト)だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのである。(チ)これに反して、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。(リ)この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。(ヌ)というのは、過程の第2の段階、すなわち買いを補って最後のきまりをつける売りが欠けているからである。〉

  (イ)(ロ) ある商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買えば、貨幣はその時点で失われ、循環W-G-Wは完全に終わっています。もしそれでも、その出発点への貨幣の還流が起きたとするなら、それはただ全過程をもう一度、更新するか反復によって起きるだけです。

  循環W-G-Wでは、ある人が商品を売って貨幣を入手しても、それで別の商品を買ってしまえば、それで循環は終わってしまいます。もしそれでも、その出発点に貨幣の還流が起きたとするなら、それは全過程をもう一度、最初からやり直して反復した場合だけです。

  (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト) 例えば、私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この3ポンドで衣服を買ったならば、この3ポンドは私にとっては完全に失われ、決定的に支出されています。私はもはやその3ポンドとはなんの関係もないのです。それは衣服商人のものです。そこで私がもう一つ別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは第1の取引の結果としてではなく、ただそのような取引の繰り返した結果としてでしかありません。その貨幣はまた、私が第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うならば、再び私から離れて行きます。だから、流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。

  例えば私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売って、この3ポンド・スターリングで衣服を買ったとすれば、その3ポンド・スターリングはすでに私のものではなく、私の手から完全に失われています。その3ポンド・スターリングは私とは何の関係もありません。それは衣服商人のものになっているからです。
  そこで私はもう一つの別の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私のところに還流してきますが、それは最初の取引とは別のものであって、最初の結果ではありません。ただそうしたことの繰り返しとしてしか貨幣の還流はありえないのです。だから第2の取引を終えて、また繰り返して別の商品を買うなら、やはり貨幣は私から離れていくのです。だから流通W-G-Wでは貨幣の支出はその還流とはなんの関係もないのです。

  (チ)(リ)(ヌ) それは違って、G-W-Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって決まっています。そもそもこの還流がなければ、一連の操作は失敗したか、または過程が中断されていてまだ完了していないかでしょう。というのは、最後のGが還流していないから、つまり過程の第2の段階、すなわち買いを補う売りが欠けていることになるからです。

  それに較べますと、G-W-Gでは貨幣の還流は、その貨幣の最初の支出の仕方そのものによって決まっています。もしその支出によって入手した商品(W)が、ちゃんと売れるかどうかは、その商品によって決まるからです。もし貨幣の還流が無いということになれば、彼はその一連の操作に失敗したか、過程が中断して完了していないかでしょう。つまり商品が売れずに滞っているということです。最後のGが還流していないということは、過程の第二の段階、W-Gの過程が、欠けている、買いを補う売りが欠けているということを意味します。


◎第14パラグラフ(循環W-G-Wは使用価値を目的とし、循環G-W-Gは、交換価値を目的とする)

【14】〈(イ)循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。(ロ)それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。(ハ)これに反して、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。(ニ)それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。〉

  (イ)(ロ) 循環W-G-Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一つの商品の極で終わります。そうすると、この商品は流通から脱落して消費過程に入り消費されてしまいます。だからこの循環の目的は、使用価値、すなわちその消費や欲望充足にあるのです。

 循環W-G-W、農夫が穀物を売って、その貨幣で衣服を買うという流通は、穀物から出発して、衣服に終わり、そして衣服は流通から出て消費されるだけです。だからこの循環の目的は、使用価値であり、その消費あるいは欲望充足にあります。

  (ハ)(ニ) これとは対照的に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ極である貨幣に帰ってきます。だから、この循環を起動する動機も規定している目的も交換価値そのものなのです。

  これとは反対に、循環G-W-Gは、貨幣の極から出発して、最後にまた同じ貨幣に戻ってきます。商人は貨幣を投じて棉花を買いますが、棉花を手に入れることそのものが目的ではなく、それをさらに売って最初に投じた貨幣を回収することが目的なのです。だからこの循環は最初から最後まで貨幣が出発点であり、終決点なのです。すなわち交換価値が循環を起動する動機であり目的でもあるのです。

  61-63草稿には次のような説明が見られます。

  〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉 (草稿集④12頁)


◎第15パラグラフ(「剰余価値」=価値の増加分、または最初の価値を越える超過分)

【15】〈(イ)単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっている。(ロ)それはどちらも商品である。(ハ)それらはまた同じ価値量の商品である。(ニ)しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。(ホ)生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。(ヘ)流通G-W-Gではそうではない。(ト)この流通は一見無内容に見える。(チ)というのは同義反復的だからである。(リ)どちらの極も同じ経済的形態をもっている。(ヌ)それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。(ル)なぜならば、貨幣こそは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからである。(ヲ)まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)。(ワ)およそ或る貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。(カ)それゆえ、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。(ヨ)最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられるのである。(タ)たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られる。(レ)それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。(ソ)すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。(ツ)この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。(ネ)それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。(ナ)そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) 単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態をもっています。つまりどちらも商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかし、それらは質的に違う使用価値であり、たとえば穀物と衣服とからなっています。だからここでは、生産物交換、社会的労働がそこに現われているいろいろな素材の変換が、その運動の内容をなしています。

  単純な商品流通W-G-Wでは、両方の極は同じ経済的形態(W)を持っています。すなわち商品です。そしてそれらは同じ価値量の商品でもあります。しかしそれらは質的には違った使用価値からなっています。たとえば穀物と衣服です。
  だからここでは流通の最終結果をみますと、生産物の交換、社会的労働がそこに現されている素材の変換(社会的物質代謝)が、この運動の内容をなしているのです。

  『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉 (全集第13巻102頁)

  (ヘ)(ト)(チ)(リ)(ヌ)(ル)(ヲ) しかし、流通G-W-Gではそうではありません。この流通は一見すると無内容に見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに見えるからです。どちらの極も同じ経済的形態、つまり貨幣です。だから単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。というのは、貨幣というのは諸商品の転化した姿であり、諸商品の特殊な使用価値が消え去っている姿だからです。例えば、まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換するとすれば、つまり回り道をしてただ貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換するとすれば、それはまったく無目的でもあれば無意味でもある操作のように見えます。

  しかし資本としての貨幣の流通G-W-Gはそうしたものではありません。この運動そのものは一見すると無内容なものに見えます。なぜなら、それは同義反復を意味するだけに思えるからです。この場合も両方の極は同じ経済的形態、すなわち貨幣です。しかし単純流通のように質的に違う使用価値ではありません。貨幣というのは諸商品の価値の転化したものであり、そこでは特殊な使用価値は消え去っているからです。例えば、まず100ポンド・スターリングで棉花を買い、その棉花をやはり100ポンド・スターリングと交換するなら、それは回り道をして、ただ貨幣を貨幣と交換したに過ぎません。同じものを交換するのは馬鹿げた行為であり、それはまったく無目的で無意味な操作にしか見えません。

  (ワ)(カ)(ヨ)(タ) つまりある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってだけです。ということは、過程G-W-Gは、その両極がどちらも貨幣なのだから両極の質的な相違によって内容をもつのではなく、ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつことができるのです。最後には、最初に流通に投げこまれたよりも多くの貨幣が流通から引きあげられなければならないのです。たとえば、100ポンド.スターリングで買われた綿花が、100・プラス・10ポンドすなわち110ボンドで再び売られるというように。

  最初の部分はフランス語版では〈一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない〉となっています。つまりある貨幣額が他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってでしかないということです。だからこの流通が意味をもつとすれば、両方の極の質的相違にではなく、量的な相違でなければなりません。最後には、最初に投じた貨幣額よりも多くの貨幣が流通から引き上げられなければならないのです。例えば、100ポンド・スターリングで棉花を買い、110ポンド・スターリングで同じ棉花を販売することによって、100ポンド・スターリングが、100・プラス・10ポンド・スターリングになるということです。

  これも『経済学批判』から紹介しておきましょう。

  〈これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ぼかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉 (全集第13巻102-103頁)

  (レ)(ソ)(ツ) こうしたことから、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG なのです。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しいということになります。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼びます。

  だからこの資本としての貨幣の流通を完全な形で現すなら、それはG-W-G'でなければならないのです。ここでG'はG+ΔGの意味です。つまりG'は最初に前貸しされた貨幣額・プラス・その増殖分ということになるわけです。この増加分を、または最初の価値額を超える超過分を、私は剰余価値と呼びます。

  (ネ)(ナ) だからこの過程では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えることになります。言い換えれば自分を価値増殖するのです。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのです。

  だから資本としての貨幣の流通では、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保持するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変えて、剰余価値を付け加えることになります。すなわち価値増殖するのです。そしてこの運動こそ、価値を資本に転化させることになるのです。

 ここではマルクスは〈流通のなかで〉とは述べていますが、「単純流通のなかで」とは述べていないことに注意が必要です。マルクスはこのパラグラフを〈単純な商品流通では〉と単純な流通の話からはじめ、単純な流通では両方の極が同じ経済的形態(商品)であり、しかし質的に違った使用価値をもっていることと、同時に価値としては量的にも同じであるという特徴を述べています。
 そして単純流通のレベルでみれば〈流通G-W-G〉は〈一見無内容に見える〉と指摘します。
 そして質的に同じものは量的違いでしか内容を持たないことを指摘し、だから〈過程G-W-G〉の〈過程の完全な形態は、G-W-G' 〉だとしています。ここではただ〈過程〉としてしか述べていないことにも注意が必要です。そしてすでに言いましたが、最後も〈流通のなかで〉とは述べていますが、それは最初に述べていた〈単純な商品流通〉のなかでではすでにないことが分かるのです。

  ところでここではマルクスは剰余価値を〈それゆえ、この過程の完全な形態は、G-W-G' であって、ここでは G'=G+ΔG である。すなわちG'は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ〉と剰余価値を規定しています。
 これは剰余価値というものをそのもっとも直接的な表象として捉えられるままに規定しているといえます。いうまでもなく、剰余価値というのは労働力商品に投下された可変資本が、労働力商品の使用価値が価値を形成し、そればかりが自身が持つ価値以上の価値を生産するという特有な商品であることから生じます。
  しかしここではどうして価値が増殖するのか、といった問題はまったく問わずに、ただ前貸しされた貨幣額を超える増加分を剰余価値と呼ぶと述べているだけです。第3部にも次のような一文があります。

  〈剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量を越える超過分なのである。だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。〉 (全集第25a巻53頁)

 ここから一部の論者は前貸し貨幣額を超える増加分なら利潤とすべきではないかとか、いや、そうではなく、ここて前貸しされる貨幣額というのは労働力に投下される可変資本を抽象したものだからこれでいいのだ、などと論じている人もいます。
  しかし私たちは、いずれにせよ前貸しされた貨幣額をその理由はともあれ超える増加分を剰余価値と呼ぶのだとマルクスが規定しているのをそのまま受け入れておきたいと思います。


◎原注4

【原注4】〈4 (イ)「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいる。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)(ロ)特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてある。(ハ)「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。) (ニ)コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていないとはいえ、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めている。(ホ)ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのである。(ヘ)「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)(ト)これよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言う。(チ)「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)〉

  (イ) 「貨幣を貨幣と交換するものはない」、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者たちに向かってこう叫んでいます。(『自然的および本質的秩序』、486ページ。)

  この原注は〈まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次にまた同じ綿花を100ポンドと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、無目的でもあれば無意味でもある操作のように見える(4)〉という本文に付けられたものです。
  ここではリヴィエールの一文が紹介されています。リヴィエールの同じ文献は原注3でも引用されていました。だからリヴィエールの説明はその部分を参照してください。リヴィエールは重農主義者ですから、重商主義者に反対してこのように叫んだということでしょうか。

  (ロ)(ハ) 特に職業上から「商業」や「投機」を論じている一著作には次のように書かれてあります。「すべて商業は、種類の違う諸物の交換である。そして、利益」(商人にとっての?)「はまさにこの種類の相違から生ずる。パン1ポンドをパン1ポンドと交換しても…… なんの利益もないであろう。……それだから、商業と、ただ貨幣対貨幣の交換でしかない賭博との有益な対照……。」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究。または商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年、5ページ。)

  コーベトについては、全集の人名索引では〈コーベット,トマス Corbet,Thomas(1850ころ)イギリスの経済学者,リカードの支持者〉とあるだけです。『経済学批判』には、〈経済学者たちが商品の種々の形態規定を表示するやり方は、次の例からうかがい知ることかできるだろう〉というマルクスの書き出しのあと、幾つかの引用がなされていますが、そのなかに、コーベットの同じ著書からの引用があります(全集第13巻79頁)。

  (ニ) コーベトは、G-Gすなわち貨幣を貨幣と交換することは、ただ商業資本だけのではなく、すべての資本の特徴的な流通形態だということがわかっていませんが、少なくとも、この形態が商業の一種である投機と賭博とに共通だということは認めています。

  コーベトは、商業と賭博を〈貨幣対貨幣の交換〉という点では共通しているが、商業では種類の違う諸物の交換を媒介しているから意味があるが、賭博では意味がないといいたいようです。しかしマルクスは〈貨幣対貨幣〉、すなわちG-Gというのは、単に商業資本だけではなくて、すべての資本の特徴的な流通形態だと述べています。後に(第22パラグラフ)マルクスは〈G-G’、貨幣を生む貨幣--money which begets money--、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である〉と述べています。そして次のパラグラフ(23)では、〈売るために買うこと、または、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G-W-G'は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である〉と述べています。つまりG-Gは商業資本だけではなく、資本の特徴的な流通形態だということです。

  (ホ)(ヘ) ところが、次にマカロックが現われて、売るために買うことは投機することであり、したがって投機と商業との相違はなくなってしまう、ということを見いだすのです。「ある個人がある生産物を、再び売るために買うという取引は、すぺて事実上は一つの投機である。」(マカロック『商業・海運関係実用・理論・歴史事典』、ロンドン、1847年、1009ページ。)

  コーベトは、商業と投機の共通性を認めながら、両者の違いを論じていたのですが、その次にマカロックが現われ、売るために買うことは投機することだと主張して、投機と商業との相違を取っ払ってしまったということです。
  マカロックについては以前紹介したことがあったと思いますが、『剰余価値学説史』のなかで、〈〔マカロックは、〕リカードの経済学を俗流化した男であり、同時にその解体の最も悲惨な象徴である。……そのほか、あらゆる点で俗流経済学者であり、現存するものの弁護論者であった。喜劇に終わっているが彼の唯一の心配は、利潤の低下傾向であった。労働者の状態には彼はまったく満足しているし、一般に、労働者階級に重くのしかかっているブルジョア的経済のすべての矛盾に満足しきっている〉(全集第26巻III 219頁)等と述べています。

  (ト)(チ) マカロックよりもずっと素朴に、アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは次のように言っています。「商業は賭博であり」(この一句はロックから借用したもの)「そして、乞食(コジキ)からはなにももうけることはできない。もし長いあいだにみなのものからなにもかも巻き上げてしまったならば、あらためて賭博を始めるためには、穏やかに話し合って、もうけの大部分をもう一度返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ぺージ。)

  ピントについては全集の人名索引に〈ピントー,イザーク Pinto,Isaac(1715-1787) オランダの取引所投機師、経済著作家〉という説明があります。〈「強制公債法案とその理由〉というライン新聞に掲載された論文のなかには〈18世紀の名高い株式投機者ユダヤ人ピントは、『流通』について論じた彼の著書のなかで、株式投機を勧めている。なるほど、株式投機は何も生産しないが、しかし、流通をうながし、ポケットからポケットへの富の異動をうながす〉(全集第5巻260頁)という一文があります。

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(4)

2021-07-30 20:26:40 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回) (4)

 

【付属資料】


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈この運動は、異なる姿態をまとって現われる、すなわち価値を生産する労働へ歴史的につながるものとして現われるとともに、また他方ではブルジョア的生産、すなわち交換価値を措定する生産の体制そのものの内部においても現われる。まず最初に、半未開の、またはまったく未開の諸民族〔Völker〕のもとに、商業をいとなむ諸民族がはいりこんでくるか、あるいは自然的に異なった生産を行なってきた諸部族〔Stämme〕が接触して、自分たちの余剰〔Uelberfluß〕を交換しあう。第一のばあいがいっそう古典的な形態である。したがってこのばあいに即して考察をつづけよう。余剰を交換することは、交換および交換価値を措定する交易〔Verkehr〕である。しかしこの交易は、ただ〔余剰の]交換を範囲とするだけであって、生産そのものに付随して行なわれるにすぎない。しかし交換を勧誘する商人の出現がくりかえされ(ロンパルディア人、ノルマン人らは、ほとんどすべてのヨーロッパ諸民族にたいしてこの役割を演じている)、一つの持続的な商業が発展すると--ただこのばあいには、交換価値を措定する活動への刺激がその生産の内部的姿態から生じるのではなく、外部から生じるために、生産する民族はまだいわば受動的な商業しか営んでいない--、生産の剰余〔Surplus〕は、たんに偶然的な、おりおり存在するものであるにとどまらず、たえずくりかえされるものであらざるをえずなこうして国内的生産そのものが、流通をめざし、諸交換価値の措定をめざす傾向をもってくる。最初はその影響は、どちらかといえば素材的〔stofflich〕である。諸欲求の範囲がひろげられる。その目的は、新しい諸欲求の充足であり、したがってまた生産をより規則的なものとして増大させることである。国内生産の組織〔Organisation〕そのものが、すでに流通と交換価値とによって変容されている。しかしまだその全表面にわたって、またその奥行全体にわたって、流通によってとらえられているわけではない。これが、対外貿易の文明化作用〔civilisirende Wirkung〕と呼ばれるものである。そのばあい、交換価値を措定する運動がどの程度まで生産の全体をとらえるかは、一部は外部からのこの作用の強さに、一部は国内的生産の諸要素--分業など--がすでに発展をとげている度合いに、かかっている。たとえば一六世紀と一七世紀初めのイングランドでは、オランダ商品の輸入のために、イングランドが〔それと〕交換に提供すべき羊毛の余剰が決定的に重要となる。いまや羊毛を増産するために、耕地が牧羊地に変えられ、小規模小作制度〔Pachtsystem〕がつぶされ、領地〔estates〕からの農民追い立て〔clearing〕が生じた、等々。したがって農業は、使用価値のための労働という性格を失い、またその剰余〔Ueberschuß〕の交換は、その内的構成からみたばあいの農業にたいして無関心である性格も保った。農業は、一定の時点でそれ自体純粋に流通によって規定され、交換価値を措定する生産に転化される。それとともに、生産様式が変革されたばかりでなく、またそれに対応する旧来のいっさいの人口諸関係および生産諸関係、つまり経済的諸関係が解体された。こうしてここでは流通にとって前提されていたのは、ただ余剰としてのみ交換価値をつくりだすにすぎない生産であった。だがそれは、もつばら流通との関連でのみ行なわれる生産に、つまり交換価値をおのれの排他的内容として措定する生産にたちもどったのである。〉(草稿集①298-299頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈{交換価値がある民族の生産を、その表層全体にわたっても、またその深部までも、まだとらえてはいないのに、単純流通--これは商品と貨幣との交換、つまり媒介された形態における商品交換それ自体にすぎないが、貨幣蓄蔵にまですすむこともある--が歴史的に存立することはありうるが、それはまさに、単純流通が単に前提された出発点のあいだを媒介する運動にすぎないからである。しかしながら同時に歴史的に示されることは、流通それ自体がブルジョア的生産、すなわち交換価値を定立する生産へと通じており、流通が直接にそこから開始された土台とは別の土台を自分のためにつくり出すということである。余剰を交換することは交換および交換価値を定立する交易である。しかしこの交易は、ただ交換行為そのものにかかわっているだけであり、生産そのものと並存して行なわれる。しかし、交換を勧誘する媒介者たち(ロンバルディア人、ノルマン人など〉の出現が繰り返されるようになり、また一つの継続的な商業--そこでは、交換を定立する活動への誘因は外部からやって来るだけであって、生産の内部的姿態から生ずるものではないから、生産を行なう諸民族はただいわば受動的商業を行なうだけである--が発展してくると、生産の余剰は、ただ偶然的な余剰、その時たまたま存在しているだけの余剰にとどまらず、たあえず繰り返される余剰でなければならないし、こうして生産物それ自体が流通をい、つまり交換価値の定立を目あてにする傾向を受けとるようになる。この作用は、最初は〔形態的であるよりも〕むしろ素材的である。諸欲求の範囲が拡張される。目的は新たな諸欲求の充足である。そしてそこから生産の規則性が増し、生産が増大してゆく。国内生産の組織そのものがすでに流通および交換価値によって変容させられているとはいえ、流通はいまだ国内生産の組織をその表層の全体にわたってとらえているわけでもないし、またその深部全体をとらえているわけでもない。これがいわゆる対外商業の文明化作用〔die s.g.civilisirende Wirkung des auswärtigen Handels〕である。この場合、交換価値を定立する運動がどれだけひろく生産の全体をとらえるかは、一方では外部からのこの作用の強さによって、他方では国内の発展度によってきまる。
  たとえばイングランドでは16世紀に、オランダの産業が発展したためにイギリスの羊毛生産のもつ商業的意義が大きくなった、また他面ではとくにオランダおよびイ夕リアの諸商品に対する需要が増大した。そこで輸出用の交換手段としてより多くの羊毛を手に入れるために、農地が牧羊地に変えられ、小規模借地制度は打ちこわされ、トマス・モアが悲嘆した(告発した)、例の完全な暴力的な経済的変革がひき起こされたのである。だから農業は、使用価値のための労働であるという--直接的な生計源泉としての--性格を喪失し、農業の余剰の交換も、これまでは農業諸関係の内的構成にはかかわりがなく、外的であったが、こうした性格を喪失したのである。農業それ自体が特定の時点で、純粋に流通によって規定され始め、純粋に交換価値を定立する生産に転化され始めた。それとともに単に生産様式が変革されただけではなく、この生産様式に照応していた、いっさいの古い、伝来の人口諸関係および生産諸関係、経済的諸関係もまた、解体されたのである。つまりここ〔16世紀のイングランド〕では、流通にとって前提されていたものは、交換価値を余剰、つまり使用価値を超過する余剰という形態でしか知らなかった生産であったのだが、このような生産が、ただ流通との関連だけで行なわれる生産に、つまり交換価値を自分の直接的目的として定立する生産に、たち帰っていったのである。これこそ、単純流通が資本、つまり生産を支配する形態としての交換価値に歴史的にたち帰ってゆくことの一例である。
  こうして〔単純流通の〕運動は、直接的な使用価値を目あてにしている生産の余剰をとらえるだけであり、それはこうした諸限界の内部で行なわれるほかはないのである。その社会の内的経済構造全体が交換価値によってとらえられている度合いがいまだ小さければ小さいほど、こうした諸限界が流通にとって外面的な--固定されており、流通に対して受動的にふるまうような--極として現われる度合いは、ますます大きくなる。〔単純流通の〕運動の全体そのものが、これらの極〔生産を行なう諸民族〕に対して自立化させられると、仲介貿易〔Zwischenhandel〕として現われる。この仲介貿易の担い手たちは、古典古代世界の空隙に住まうセム族、中世社会の空際にすまうユダヤ入、ロンバルディア人、ノルマン人のように、これらの極に対して、ある時は貨幣を代表し、ある時は商品を代表する。つまり流通の異なる諸契機をかわるがわる代表するのである。商品と貨幣とは、社会的素材変換の媒介者である。〉(草稿集③148頁)

《61-63草稿》

 〈ここですでに知ることができるのは、資本についての日常の表象に最も近く、また事実上歴史的には資本の最古の定在形態である、資本の二つの形態--これは二つの機能における資本であり、それが一方または他方の形態で機能するのに応じて、それは特殊な種類の一資本として現われる--が、なぜ、われわれが資本そのものを問題にしているここでは、まったく問題とならず、むしろ資本そのものの派生的二次的な形態として展開されねばならないのか、ということである。
  本来の商人資本では、運動G-W-Gが最も明白に現われる。それゆえ、商人資本の目的が流通に投じられた価値あるいは貨幣の増加であること、また、それがこのことをなし建ける形態は、買ったのちにふたたび売る、というものであることは、むかしから目につくことであった。……商人資本は、生産の、また総じて社会の経済的構造の、さまざまの段階にある諸国民のあいだで活動を続けることができる。だからそれは、資本主義的生産様式が少しも行なわれていない諸国民のあいだで、したがって、資本がその主要な諸形態において発展するはるか以前に、活動を続けることができるのである。
  資本のもう一つの形態は、同様に非常に古いものであり、また通俗的な見解はこの形態から自分の資本概念をつくりあげたのであるが、それは利子を得るために貸し付け〔ausleihen〕られる貨幣の形態であり、利子生み貨幣資本の形態である。ここでわれわれが見るのは、貨幣がまず商品と交換され、ついでその商品がより多くの貨幣と交換されるという、運動G-W-Gではなく、運動の結果、すなわちG-Gだけである。貨幣はより多くの貨幣と交換される。それはその出発点に復帰するが、しかし増加する。……社会の生産様式がいかに低いものであろうとも、またその経済的構造がいかに未発展であろうとも、われわれはほとんどすべての国々、歴史的時代に、利子生み貨幣を、貨幣を生む貨幣を、したがって形態の上では、資本を見いだすのである。〉(草稿集④36-40頁)

《初版》

 〈商品流通は資本の出発点である。だから、商品生産と商品流通、および発達した商品流通すなわち商業とは、つねに、そのもとで資本が成立する歴史的な前提を成している。16世紀における、近代の世界貿易と世界市場との創出から、資本の近代の生活史が始まる。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈商品流通は資木の出発点である。資本は、販売のための生産と商業とがすでにある発展段階に到達したばあいに、はじめて現われる。資本の近代史は、16世紀における二つの世界の商業と市場との創出に始まる。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第2パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈資本は、まず流通から、しかも資本の出発点である貨幣から生じる。すでに見たように、流通にはいりこむとともに、同時にまた流通から自分自身に立ちかえる貨幣は、貨幣がみずからを止揚する最後の形態である。この貨幣は同時に、資本の最初の概念でもあり、その最初の現象形態でもある。貨幣は、たんに流通のなかで消え去るものとしてのみずからを否定した。しかし貨幣はまた、自立的に流通に対抗するものとしてのみずからをも否定したのである。この否定をその肯定的諸規定のなかで総括してみると、それは資本の最初の諸要因〔Elemente〕を含んでいる。〉(草稿集①293-294頁)
  〈すでにみたように、貨幣としての貨幣においては、交換価値は、すでに流通にたいして一つの自立的形態をかち得ているが、しかしこの自立的形態は否定的で消滅的な形態にすぎず、あるいは、それが固定化されれば幻想的形態であるにすぎない。貨幣は、流通にかかわってのみ、また流通にはいりこむ可能性としてのみ存在する。しかしそれは、自己を実現してしまうやいなや、この規定を失い、諸交換価値の尺度および交換手段という、以前の二つの規定に逆もどりする。流通にたいして自己を自立化させるだけでなく、また流通のなかで自己を保持するような交換価値として、貨幣が措定されるやいなや、それはもはや貨幣ではなく--というのも貨幣は貨幣そのものとしては否定的な規定を越えることはないのだから--、資本なのである。……つまり資本の最初の規定は次のとおりである。すなわち、流通から生まれ、したがって流通を前提する交換価値は、流通のなかで、また流通をとおして自己を保持すること、この交換価値は流通にはいりこむことによって、自己を失わないでいること、流通は、交換価値が消滅していく運動としてでなく、むしろ交換価値が交換価値として現実的に自己を措定する運動として、交換価値の交換価値としての実現であること、これである。〉(草稿集①303頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈流通の形態それ自体を考察してみれば、流通のなかで生成し、生み出されるものは、貨幣そのもの〔貨幣としての貨幣〕であり、それ以上の何物でもない。諸商品は流通のなかで交換されるとはいえ、流通のなかで成立するわけではない。たしかに価格および鋳貨としての貨幣もすでに、流通固有の産物にほかならないが、しかしそうであるのは〔価格および鋳貨の〕形態にかんしてだけである。〔というのも〕価格の前提は商品の交換価値であり、同様に、鋳貨もそれ自体としては、交換手段としての商品--これもまた〔流通の〕前提であった--が形態として自立化したものにほかならない〔からである〕。流通は交換価値を創造しないし、またその大きさを創造しもしない。〉(草稿集③158頁)
 〈しかし貨幣〔としての貨幣〕については、事情が異なっている。貨幣は、いわば協定にさからって流通から発生してきたような流通の産物なのである。
  貨幣は商品交換を単に媒介するだけの形態ではない。貨幣は流通過程から発生してくる交換価値の形態であり、流通のなかで諸個人が入り込んでゆく諸関連を通じておのずから生み出されてくる社会的産物である。〉(草稿集③160-161頁)

《61-63草稿》

 〈貨幣が、(貨幣蓄蔵の場合のように)流通に対立して自立化するばかりでなく、流通のなかで自己を維持する交換価値として指定されれば、それはもはや貨幣ではなく--というのは、貨幣は貨幣としては否定的な規定をこえるものではないからである--、資本である。それゆえに貨幣は、交換価値が資本の規定にまで進むさいにとる最初の形態でもあるのであり、また歴史的には資本の最初の現象形態なのであって、それゆえに歴史的にも資本そのものと混同されるのである。資本にとっては流通は、貨幣の場合のように、そのなかで交換価値が消えてしまう運動として現われるばかりではなく、そのなかで交換価値が自己を維持するところの、またそれ自身、貨幣と商品という二つの規定の変換であるところの運動として現われる。これにたいして単純な流通では、交換価値はそのようなものとして実現されるのではない。それはいつでも、それが消えてしまう瞬間に実現されるにすぎない。商品が貨幣となり、その貨幣がふたたび商品となれば、商品の交換価値規定は消えてしまうのであって、それはただ、第一の商品と引き換えに、相応の分量の第二の商品を(第二の商品を相応の分量だけ)受け取ることに役立ったのであり、これによって第二の商品はついで使用価値として消費に帰するのである。この商品はこのような形態にたいして無関心〔indifferent〕であり、それはもはや欲望の直接的対象でしかない。商品が貨幣と交換されたときに、貨幣という交換価値の形態がそのままの状態にとどまるのは、ただ、貨幣が交換の外で、流通にたいして否定的な態度をとるかぎりでのことにすぎない。貨幣が、流通にたいして否定的な態度をとることで、得ようと努める不滅性を、資本はこともあろうに、わが身を流通に委ねることによってわが身を維持するという仕方で、獲得するのである。〉(草稿集④45-46頁)

《初版》

 〈商品流通の素材的な内容であるいろいろな使用価値の交換を度外視して、この過程が産み出す経済的な譜形態だけを考察すれば、われわれは、この過程の最後の産物として、貨幣を見いだす。商品流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈使用価値の交換、すなわち商品流通の素材的な側面を無視して、この交換が産み出す経済的な形態だけを考察すれば、われわれは最後の結果として貨幣を見出す。流通のこの最後の産物が、資本の最初の現象形態である。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈理論においては、価値の概念は資本の概念に先行するが、他方またみずからを純粋に展開するためには、資本を基礎とする生産様式を前提してもいるとすれば、同じことは実践においても生じる。……価値がその純粋性と一般性において存在するということは、ある生産様式を前提しており、そこでは個々の生産物は、生産者一般のための、またそれ以上に個々の労働者のための生産物であることをやめ、流通をつうじて実現されないことには無に等しいものとなっている。……もし彼が交換価値、貨幣をつくり出さなかったとすれば、彼はなに一つつくり出さなかったことになる。こうしてこの価値規定それ自体が、社会的生産様式のあるあたえられた歴史的段階をその前提としており、それ自体その生産様式と共にあたえられた、したがって歴史的な関係なのである。
  他方、価値規定の個々の諸契機は、社会の歴史的生産過程のよりはやい段階に発展し、その結果として現われる。
  したがって、ブルジョア社会の体制の内部では、価値にはすぐに資本がつづいている。歴史においては、より不完全な価値展開の物質的基礎をなしている他の諸体制が先行する。……しかしわれわれがここに問題にするのは、すでに生成しきって、それ自身の基礎の上で運動しつつあるブルジョア社会なのである。〉(草稿集①292-293頁)
 〈貨幣は、資本が資本として現われる最初の形態である。G-W-W-G、つまり貨幣が、商品と交換され、さらに商品が貨幣と交換されること、商業の形態規定をなすところの売るために買うというこの運動商業資本〔Handelscapital〕としての資本は、経済的発展のごく初期の状態にも見いだされる。それは交換価値そのもの〔Tauschwerth als solcher〕が内容〔Inhalt〕をなし、たんに形態であるだけでなく、交換価値自身の内実〔Gehalt〕でもあるような、最初の運動である。この運動は、自分たちの生産にとって交換価値がまだまったく前提となってはいないような諸民族〔Völker〕の内部でも、またそれら諸民族のあいだでも生じることができる。この運動は、直接使用するつもりでなされるそれらの民族の生産の剰余〔Surplus〕をとらえるにすぎず、またそれら諸民族の境界でだけ生じるのである。古代ポーランド社会とか一般に中世社会のなかでのユダヤ人と同じように、全商業諸民族--古典古代におけるように--とか、またのちの時代のロンパルディア人たちは、まだ交換価値が基本的前提としてその生産様式の条件となっていなかった諸民族のあいだで、このような地歩をしめることができる。商業資本はたんに流通資本〔circulirendes Capital〕であるにすぎず、流通資本は資本の最初の形態であるが、この形態にあっては、資本は、まだけっして生産の基礎にはなっていないのである。いっそう発展した形態は、貨幣資本〔Geldcapital〕および貨幣利子〔Geldzins〕、すなわち高利〔Wucher〕であって、この高利が自立的に登場するのも、同様に初期の段階のことである。〉(草稿集①294頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈しかしわれわれはここでは、〔単純〕流通の資本への歴史的移行については論じないことにする。単純流通とはむしろ、ブルジョア的総生産過程のひとつの抽象的部面なのであり、この部面はそれ自身のもつ諸規定を通じて、それが、単純流通の背後に横たわり、単純流通から結果として生ずるとともに、それを生み出しもする、より深部にある過程--産業資本--の契機であり、それの単なる現象形態にすぎぬことを実証するのである。}〉(草稿集③150-151頁)

《61-63草稿》

 〈この流通の出発点は、貨幣、自立化した交換価値である。歴史的にも、資本形成はどこにおいても貨幣財産から出発したのであって、資本の最初の把握は、資本は貨幣、ただしある種の諸過程を通り終える貨幣である、というものである。〉(草稿集④16頁)

《直接的生産過程の諸結果》 (ここでは最新の森田訳を紹介するが、同書ではマルクスの強調個所が部分的に省略されているので、それを国民文庫版で補った。)

  〈ブルジョア的富の要素形態としての商品がわれわれの出発点であり、資本が発生するための前提であった。他方で、商品は今では資本の生産物として現われている。
  われわれの叙述がとるこのような円環は、資本の歴史的発展とも合致する。というのも、商品交換商品取引は、資本の発生条件の一つだからである。そして、この条件そのものは過去のさまざまな生産段階の上で形成され、そこでは、資本主義的生産がまだまったく存在していないか、所々にしか存在していないことが共通の特徴となっている。他方、商品交換が全面的に発達し、商品という形態がはじめて生産物の一般的で必然的な社会形態となるのは、それ自身、資本主義的生産様式の結果に他ならないのである。
  他方で、資本主義的生産が全面的に発達した社会を考察するなら、そこでは商品は、[一方では]資本の恒常的な要素的前提として現われ、他方では資本主義的生産過程の直接の結果としても現われるのである。
  商品と貨幣は資本の要素的前提であるとはいえ、両者はある一定の条件下ではじめて資本に発展する。資本形成が起こるのはただ、商品流通(貨幣流通を含む) にもとつく場合のみであり、したがって商業がすでに一定の規模にまで成長した段階においてである。だがその反対に、商品生産と商品流通はいささかも資本主義的生産様式をその定在の前提としていないのであって、むしろ、私がすでに示したように(『経済学批判』全集第13巻77頁)、「前ブルジョア的社会形態に属している」。両者は資本主義的生産様式の歴史的前提である。しかし他方では、商品がはじめて生産物の一般的形態になるのは、すなわち、あらゆる生産物が商品の形態を取らなければならず、売買が生産の余剰分のみならずその実体そのものをも捉えるようになり、さまざまな生産諸条件それ自体が総じて商品として登場し、そういうものとして流通から生産過程へと入っていくことになるのは、資本主義的生産の基礎上においてのみである。したがって、商品が一方では資本形成の前提として現われるとすれば、他方では、商品はまた、それが生産物の一般的な要素形態であるかぎりでは、本質的に資本主義的生産過程の産物でありその結果として現われるのである。それ以前の生産段階においては生産物は部分的にのみ商品の形態を取る。それに対して資本は生産物を必然的に商品として生産する。したがって、資本主義的生産が、つまりは資本が発展すればするほど、商品に関して一般的に展開してきた諸法則--たとえば価値に関わるそれ--もまた、貨幣流通のさまざまな諸形態のうちに実現されていくのである。〉(森田成也訳・光文社古典新訳文庫117-119頁)

《初版》

 〈歴史的には、資本は、どこでも、最初は貨幣の形態で、商人資本および貸付資本という貨幣財産の形態で、土地所有に相対する(1)。とはいっても、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を回顧するには及ばない。同じ歴史が、毎日われわれの眼の前で演じられている。どの新たな資本も、まず第一に、舞台には、すなわち商品市場とか労働市場とか貨幣市場とかの市場には、相変わらず、貨幣として、特定の過程を経て資本に転化すべき貨幣として、登場してくる。〉(江夏訳143頁)

《フランス語版》

 〈資本をその起源において歴史的に研究するばあい、資本はどこでも、貨幣財産として、すなわち商業資本や高利貸資本として、貨幣形態のもとで土地所有に相対しているのが、見られる(1)。だが、われわれは過去に考慮を払う必要はないのであって、われわれの眼の前で今日もなお起きていることを観察するだけで充分であろう。今日も以前と同じように、それぞれの新しい資本が、貨幣形態のもとで、特殊な過程を経て資本に転化すべき貨幣の形態のもとで、舞台に、すなわち生産物市場や労働市場や貨幣市場という市場に、登場する。〉(江夏・上杉訳129頁)


●原注1

《経済学批判要綱》

 〈貨幣は、一般的富の個体として、それ自身流通に由来して、ただ一般的なものだけを代表するにすぎぬものとして、ただ社会的結果にすぎないものとして、その占有者にたいする個人的関連をまったく想定していないのである。つまり貨幣を占有することは、貨幣の占有者の個体性の本質的諸側面のなんらかのものの発展ではなく、それは、むしろ、もろもろの没個体性〔Individualitätslose〕の占有なのである。なぜなら、この社会的〔関係〕が、同時に、一つの感性的、外的な対象としても存在しており、この対象を機械的にわがものとすることもできれば、同じくまた機械的にそれを喪失することもありうるからである。したがって貨幣の個人にたいする関連は、純粋に偶然的な関連として現われる。ところが、個人の個体性とはまったく関連していない物象にたいするこの関連こそが、同時に、この物象という性格によって、社会にたいする、つまり享楽、労働などの全世界にたいする一般的支配をその個人にあたえるのである。ちょうどそれは、たとえば一つの石を発見しさえすれば、私の個体性とはまったくかかわりなく、あらゆる科学の知識が私にあたえられることになったかのように思えるばあいと、同じことになる。貨幣の占有が、富(社会的富)にたいする関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。〉(草稿集①242-243頁)
  〈最後に、流通する貨幣としての貨幣そのものにおいては、貨幣は一方の手に現われるかと思うとまた他方の手に現われ、またどこに現われるかについては無関心であるから、さらに実態的に〔sachlich--物象的に〕も平等が措定〔される]のである。だれもが相手にたいして貨幣の所持者として現われ、交換の過程が考察されるかぎりでは、みずからが貨幣として現われる。それゆえ、無関心性〔Gleichgültigkeit〕と同値性〔Gleichgeltendheit〕とが物象〔Sache〕の形態で明示的に現存している。商品のうちにあった特殊的自然的差異性は消し去られており、また流通をつうじてたえず消し去られている。〉(草稿集①283-284頁)

《初版》

 〈(1)人身的な隷属および支配諸関係にもとづく土地所有の権力と貨幣の身的な権力との対立は、次の二つのフランスの諺のうちに明白に表現されている。すなわち、「領主のいない土地はない」、「貨幣には主人がない」、という諺である。〉(江夏訳143-144頁)

《フランス語版》

 〈(1) 人身的な支配関係と従属関係にもとづく土地所有の権力と、貨幣の身的な権力との対立は、次の二つのフランスの諺のなかに明確に表現されている。すなわち、「領主のいない土地はない」、「貨幣には主人がない」、と。〉(江夏・上杉訳129頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈貨幣の第三規定は、その完全な発展したかたちにおいては、初めの両規定を想定しており、両規定の統一である。したがって貨幣は流通の外で自立した存在をもっている。つまり貨幣は流通から抜けだしている。特殊的商品として、貨幣は、その貨幣という形態から奢侈品、つまり金銀装飾品の形態に転化されることがあり(たとえば英国の比較的古い時代のように、工芸がきわめて単純であるあいだは、銀貨幣から食器類〔Plate〕への転化、またはその反対の転化が、たえず行なわれていた。テイラーを見よ)、あるときはまた、貨幣として蓄積され〔aufgehäuft〕このようにして蓄蔵貨幣〔Schatz〕を形成することがある。貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、滞在的にはすでに含まれている。〉(草稿集①236頁)
  〈富の普遍的物質的代表物としての貨幣が流通から生じ、そしてそのようなものとしてそれ自体が流通の産物--流通とは同時により高い潜勢力〔Potenz〕をもった交換であり、交換の一つの特殊的形態でもある--であるかぎりでは、貨幣は、この第三規定においてもなお流通に関連している。つまり、貨幣は自立的なものとして流通に対立している、がしかし、このような貨幣の自立性は流通それ自身の過程にほかならない。貨幣は流通から出てくるとともに、ふたたび流通のなかにはいっていく。もしかりに流通にたいするあらゆる関連を貨幣からとり除いてしまうとすれば、貨幣は貨幣ではなくなり、一つの単純な自然対象、つまり金と銀であるにすぎない、ということになる。貨幣は、この〔第三〕規定においては、流通の前提でもあれば、またその結果でもある。貨幣の自立性とは、それ自体としては、流通への関連が停止してしまうことなのではなく、流通にたいする否定的関連のことなのである。G-W-W-Gの結果としての、この自立性のうちには、以上のことが含まれている。資本としての貨幣においては、以下の四点が貨幣それ自体にそくして措定されている、すなわち(1)貨幣が流通の前提でもあれば、またその結果でもあること、(2)それゆえ、貨幣の自立性とは、それ自体、流通にたいする否定的関連のことにほかならないが、しかしつねに流通にたいする関連ではあること、(3)流通がもはや、量的交換として、その最初の単純性のかたちで現われることはなく、生産の過程として、実在的な物質代謝〔der reale Stoffwechsel〕として現われることによって、貨幣それ自体が生産用具として措定されていることである。〉(草稿集①238頁)
  〈資本としての貨幣とは、貨幣としてのその単純な規定をこえる貨幣の規定のことである。それは、いっそう高度の実現とみなすことができる。ちょうど、猿が人間に発展するといえるのと同様に。だがそのばあいには、低次の形態が高次の形態を包摂する主体〔das Uebergreifends Subjekt〕として措定されている。いずれにしても、資本としての貨幣は、貨幣としての貨幣とは区別されている。この新しい規定が展開されねばならない。他方では、貨幣としての資本は、低次の形態への資本の後退のようにみえる。だがそれは、非資本〔Nicht-Kapital〕としてすでに、資本が存在する以前に存在しており、また資本の前提の一つをなしているところの特殊性〔Besondertheit〕において資本を措定したものにすぎない。貨幣は、その後のすべての諸関係のなかにふたたび現われてくる。しかしそのばあいには、それは、もはやたんなる貨幣としての働きをするのではない。ここもそうだが、貨幣を金融市場〔Geldmarkt〕としてのその総体にいたるまで追究することが、まずやるべき問題であるばあいには、その他の展開はあらかじめ前提にして、折にふれてとりあげるようにせざるをえない。そこでここでは、貨幣としての資本の特殊性にすすむまえに、資本の一般的規定〔allgemeine Bestimmung〕をとりあげよう。〉(290-291頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)から》

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)属性では(a)(「尺度としての貨幣」--引用者)も(b)(「交換手段としての貨幣または単純な流通」--同)もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり(ここでは貨幣の価値の、すなわち労働時間によって規定された価値の、可変性が重要になる)、蓄蔵の対象である。(この機能は、アジアでは今日なお重要なものとして現われ、また古代世界や中世では一般にそうだった。今日ではただ銀行業で従属的に存在するにすぎない。恐慌時にはふたたびこの形態での貨幣の重要性が現われる。この形態にある貨幣が、それの生み出す世界史的な幻想とともに考察される、等々。破壊的な諸属性、等々。)価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。〉(全集第29巻248-249頁)

《初版》

 〈貨幣としての貨幣資本としての貨幣とは、最初は、それらの流通形態の差異によってしか区別されない。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈貨幣としての貨幣と資本としての貨幣とは、最初はそれらの流通形態の相違によってしか区別されない。〉(江夏・上杉訳130頁)


●第5パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈どの点をとってみてもその点が、出発点であると同時にまた終結点としても現われ、しかも終結点として現われるかぎりで、出発点として現われるということは、循環〔Kreislauf〕の本性のなかにある。したがって、形態規定G-W-W-Gは、本源的な形態規定として現われるもう一つの規定、W-G-G-Wと同じように正しい。困難は、〔W-G-G-Wのばあいには〕第二の商品は〔第一の商品と〕質的に異なっているのに、〔G-W-W-Gのばあいの〕第二の貨幣はそうでないということである。貨幣はただ量的にしか異なることができないものである。〉(草稿集①215頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日)から》

  〈商品をWとし、貨幣をGとすれば、単純な流通は二つの円運動または終結形、W-G-G-WおよびG-W-W-G (このあとのほうの形は(c)(「貨幣としての貨幣」のこと--引用者)への移行をなす)を示してはいるが、しかし出発点と帰還点とはけっして一致しないか、またはただ偶然に一致するだけだ。〉(全集第29巻247-248頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈W-G-WとG-W-Gという流通の二つの形態を考察しなければならない。〉(草稿集③145頁)
 〈運動W-G-Wにおいては、素材的なものが運動の本来的内容として現われる。社会的運動はただ、個人的諸欲求を充足するための、やがて消えてゆく媒介として現われるだけである。……したがって、流通の運動そのものから生まれてくるこれ以降の形態規定についてゆくためには、われわれは、形態面〔Formseite〕である交換価値そのものがさらにいっそう展開されてゆくような側面、つまりそれが流通の過程そのものを通じてより深められた諸規定を受けとってゆくような側面のほうに、しっかりと着目してゆかなければならない。したがって貨幣の展開である形態G-W-Gの側面の方を〔展開してゆかなければならない〕。〉(草稿集③155頁)

《経済学批判》

 〈よく観察してみると、流通過程は二つの異なった循環の形態を示している。商品をW、貨幣をGと名づけるならば、この二つの形態は次のように表現することができる。
      W-G-W
      G-W-G
  この節では、もっぱら第一の形態、すなわち商品流通の直接的形態を取り扱うことにしよう。〉(全集第13巻70頁)

《61-63草稿》

 〈流通形態G-W-Gは、あるいは、過程を進みつつある貨幣、自己を増殖する価値は、単純な流通W-G-Wの産物である貨幣から出発する。したがってそれは、商品流通を前提するだけではなく、すべての貨幣形態をすでに発展させきっているような商品流通を前提する。したがって、商品流通--商品としての生産物の交換、および、貨幣とそのさまざまの形態とにおける交換価値の自立化--がすでに発展しきっている場合にのみ、資本形成は可能である。交換価値は、交換価値が出発点および結果として現われるような過程を通り終えるためには、あらかじめすでに、貨幣のかたちで自己の自立的な抽象的な姿を受け取っていなければならない。〉(草稿集④16頁)

《初版》

 〈商品流通の直接的な形態はW-G-W、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売ることである。ところが、われわれは、この形態と並んで、独自に区別された第二の形態、G-W-Gという形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買うこと、を見いだすのである。その運動においてこの後者の流通形態を描く貨幣が、資本に転化するのであり、資本になるのであって、それ自体、すなわちその使命からして、すでに資本である。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈商品流通の直接の形態は M-A-M、商品の貨幣への転化と貨幣の商品への再転化、買うために売ることである。だが、われわれはこの形態の傍らに、全くちがった別の形態、A-M-A (貨幣商品貨幣) という形態、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化、売るために買うことを、見出すのである。後者の循環運動を描く貨幣はどれも、資本に転化され、資本になるのであって、その使命からしてすでに資本である。〉(江夏・上杉訳130頁)

●第6パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈しかしながら、次に、流通を表わす本源的形態、直接的形態であるW-G-G-Wをさらにくわしく考察すれば、この形態においては、貨幣は純粋な交換手段として現われている。商品が商品と交換されることになり、貨幣はただ交換の手段として現われるだけである。第一の商品の価絡は貨幣に実現され、次いで、この貨幣でもって第二の商品の価格を実現し、以上のようなやり方でこの第二の商品を第一の商品のかわりに受けとるのである。第一の商品の価格が実現されてしまえば、たった今彼の価格を貨幣のかたちで受けとった者の目的は、第二の商品の価格を受けとることではなくて、彼は、その〔第二の〕商品を受けとるために、その商品の価格を支払うのである。それゆえ、根本において、貨幣は、彼にとって、ただ第一の商品を第二の商品と交換する目的に役立っただけなのである。たんなる流通手段としては、貨幣は、これ以外の他の目的をもっていないのである。〉(草稿集①223-224頁)
  〈G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。……貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、滞在的にはすでに含まれている。〉(草稿集①235-236頁)

《経済学批判・原初稿》

 〈すなわちG-W-Gという形態をとる現実的運動は単純流通のなかには存在しないのである。単純流通においては等価物が商品の形態から貨幣の形態へ、またその逆の方向へ、ただ移しかえられるだけである。わたくしが1ターレルを1ターレルの価値をもつ商品と交換し、そしてこの商品をふたたび1ターレルと交換するならば、これは一つの無内容な過程である。単純流通のうちに見いだせるものは、ただこれ--この形態〔G-W-G〕そのものの内容--すなわち自己目的としての貨幣だけである。この形態がそのものとして現に行なわれていることは、明らかである。量のことはおくとすれば、商業の支配的形態は、貨幣を商品と交換し、ついで商品を貨幣と交換することにある。この過程で結果が単純に前提と等量の貨幣であるとはかぎらないということも、起こりうることであり、現にまた起こってもいる。だが取引がうまく行かなければ、投げ入れた額よりも少額しか引き出せないこともありうる。ここ〔単純流通〕では〔形態G-W-Gのもつ〕意味だけを考察しておけばよい。これ以上進んだ規定性は、単純流通それ自体に属するものではないからである。単純流通それ自体においては、価値の大きさの増大は、つまり価値が増加することそれ自体が目的となるような運動は、ただ〔貨幣の〕貯蔵という形態においてしか、現われようがないのである。言い換えれば、W-Gつまり商品の販売をたえず更新して行ないながら、同時に貨幣に対してはその全行程をくまなく通過することを許さない、つまり商品が貨幣に転化したあとで、その貨幣をふたたび商品に転化させることを許さないということによって媒介されているものとしてしか、現われようがないのである。したがって貨幣は、形態G-W-Gが要求しているように交換の出発点として現われることはなく、つねに交換の結果として現われるにすぎない。売り手の側からすれば、商品は彼自身にとってはただ価格--つまりこれから定在することにならねばならぬ貨幣--としてしか意味がないのであり、彼はこのようなつかのまの形態にある貨幣〔商品〕を流通に投げ込んで、永遠の形態にある貨幣〔貨幣〕をそこから引き出してくるのであって、以上のことにかぎって、貨幣は出発点である。交換価値は、したがって貨幣も、事実上流通の前提であったが、同様にまた、交換価値の適合的な定在およびそれの増大とは、流通が貨幣貯蔵〔Geldanhäufung〕で終わるかぎりでは、流通の結果として現われるのである。〉(草稿集③167-168頁)

(続く)

 

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『資本論』学習資料No.25(通算第75回)(5)

2021-07-30 19:16:48 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.25(通算第75回) (5)

 

【付属資料】(続き)

●第6パラグラフ(の続き)

《経済学批判》

  〈商品流通W-G-Wは、その単純な形態では、貨幣が買い手の手から売り手の手に、買い手となった売り手の手から新しい売り手に移るということでおこなわれる。これでもって商品の変態は終わり、したがって貨幣の運動も、それがこの変態の表現であるかぎりでは終わる。だが、たえず新しい使用価値が商品として生産され、したがってたえずあらたに流通に投じられなければならないのだから、W-G-Wは、同じ商品所有者の側からくりかえされ、更新される。商品所有者が買い手として支出した貨幣は、彼があたに商品の売り手として現われるやいなや、その手にもどってくる。こうして、商品流通の不断の更新は、貨幣がある人の手から他の人の手へとブルジョア社会の全表面にわたって、たえず転々とするばかりでなく、同時に多数のさまざまな小さな循環を描き、限りなく違った点から出発して同じ点にもどりながら、あらたに同じ運動をくりかえす、ということに反映される。
  商品の形態転換が貨幣のたんなる位置転換として現われ、流通運動の連続性がまったく貨幣の側に帰するのは、商品はいつも貨幣と反対の方向に一歩だけ進むが、貨幣はたえず商品に代わって第二歩を進めて、商品がAと言った場所でBと言うことのためであるが、そうなると、販売のさいに商品が貨幣をその位置から引き寄せ、したがって貨幣を流通させることは、購買のさいに商品が貨幣によって流通させられるのと同様であるにもかかわらず、全運動が貨幣から出発するように見える。さらに貨幣は、いつも購買手段としての同一の関係で商品に相対するのであるが、購買手段としては、ただ商品価格の実現によって商品を運動させるだけだから、流通の全運動は、同時にならんで進行する特殊な流通行為においてにせよ、同じ貨幣片がいろいろな商品価格を順次に実現することによって、つぎつぎとおこなわれるにせよ、貨幣が商品の価格を実現することによって商品と位置を換えるというように現われる。たとえばW-G-W'-G-W"-G-W'"等々う、現実の流通過程では認められなくなる質的契機を顧慮せずに考察してみると、同じ単調な操作だけが現われる。GはWの価格を実現したのちに、順々にW'-W"等々の価格を実現し、商品W'-W"-W'"等々は、いつも貨幣の去った位置に出てくる。だから貨幣が商品の価格を実現することによって商品を流通させるように見える。価格の実現というこの機能で、貨幣はあるときはただ一回だけ位置を換え、あるときは流通の弧を通過し、あるときは出発点と復帰点とが一致する小円周を描きながら、それ自身たえず流通するのである。流通手段としては、貨幣はそれ自身の流通をもつ。だから過程を経過する諸商品の形態運動は、それ自身では運動しない諸商品の交換を媒介する貨幣自身の運動として現われる。だから諸商品の流通過程の運動は、流通手段としての貨幣の運動で--貨幣流通で--あらわされる。〉(全集第13巻81-82頁)
 〈W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-Wの形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通のたんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。
  W-G-Wの形態では、両極は同じ大きさの価値の商品であるが、同時にまた質的に違う使用価値である。それらの交換W-Wは、現実の物質代謝である。これにたいしてG-W-Gの形態では、両極は金であり、同時にまた同じ大きさの価値の金である。商品を金と交換するために金を商品と交換すること、またはその結果であるG-Gを見れば、金を金と交換することは、ばかげたことのように見える。しかしもしG-W-Gを、媒介する運動をつうじて金を金と交換することを意味するにほかならない売るために買うという公式に翻訳するならば、ただちにブルジョア的生産の支配的形態が認められる。けれども、実際には、売るために買うのではなくて、高く売るために安く買うのである。貨幣が商品と交換されるのは、その同じ商品をふたたびもっと大きい量の貨幣と交換するためであるから、両極のGとGとは質的には違っていなくても、量的には違っている。商品と貨幣は、そのものとしては商品自体の対立的諸形態、つまり同じ大きさの価値の相異なる存在様式にすぎないのに、このような量的区別は非等価物の交換を前提している。だから循環G-W-Gは、貨幣と商品という形態のもとに、いっそう発展した生産関係をひそめているのであって、単純流通の内部では、いっそう高度の運動の反映であるにすぎない。だからわれわれは、流通手段とは区別した貨幣を、商品流通の直接的形態であるW-G-Wから展開しなければならない。〉(全集第13巻102-103頁)

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G--貨幣を商品と交換したのち、すなわち購買したのち、その商品をふたたび貨幣と交換する、すなわち販売すること--を考察しよう。すでに以前に述べたように、流通の形態W-G-Wではその極W、Wは、ともに等しい価値量ではあるが質的には異なっており、だからこそこの形態では現実の素材変換が行なわれる(異なった使用価値が互いに交換される)のであり、したがってその結果であるW-W--商品と商品との交換、事実上、使用価値相互の交換--は、自明の目的をもっている。これにたいして形態G-W-G(買ったのちに売ること)では、両極G、Gは、質的に同じもの、すなわち貨幣である。そこで、もし私が、G(貨幣)をW(商品)と交換したのち、その商品(W) をふたたびG(貨幣)と変換するのなら、つまり買ったのちに売るのであれば、その結果は、私は貨幣を貨幣と交換した、ということである。じっさい、流通G-W-G(買ったのちに売ること)は、次の行為に分かれる。第1に、G-W、すなわち貨幣を商品と交換すること、すなわち買うこと。第2に、W-G、すなわち商品を貨幣と交換すること、すなわち売ること。そして、この両行為の統一、言い換えれば、両段階の経過であるG-W-G、貨幣を商品と交換したのち商品を貨幣と交換すること、買ったのちに売ること。しかし、この過程の結果は、G-G、すなわち貨幣と貨幣との交換である。もし私が1OOターレルで綿花を買い、そしてその綿花をふたたび1OOターレルで売るならば、この過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく1OOターレルであって、全運動は、私は購買によって1OOターレルを支出し、そして販売によってふたたび1OOターレルを受け取る、ということである。つまりその結果はG-Gであり、実際には、私は1OOターレルを1OOターレルと交換した、ということである。しかしこのような操作は、無目的なもの、したがってまた、ばかげたものに思われる*〔erscheinen〕。過程の終りに私がもっているのは、その始めと同じく、貨幣であり、質的に同一の商品であり、量的に同一の価値量である。過程(運動)の出発点と終点は貨幣である。同一人物が、買い手として貨幣を支出したのちに、売り手として貨幣を取り戻す。この運動で貨幣が出発する点は、貨幣が復帰する点と同じ点である。買ったのちにふたたび売るという過程であるG-W-Gでは、その極G、Gは質的に同じなのであるから、この過程が内容と目的とをもつことができるのは、ただ、この両極が量的に異なっている場合だけである。もし私が、1OOターレルで綿花を買い、そしてその同じ綿花を11Oターレルで売れば、実際には私は、1OOターレルを11Oターレルと交換したのであり、言い換えれば1OOターレルで11Oターレルを買ったのである。つまり、買ったのちに売るという流通形態G-W-Gが内容をもつのは、その極G、Gが、質的には同じもの・貨幣・であっても、第2のGが第1のGよりも高い価値量、より大きな価値額を表わすのでそれらが量的には異なっている、ということによってである。商品が買われるのは、そのあとでもっと高く売るためであり、言い換えればそれは、売られるよりも安く買われるのである。
  *このように思うのはまったく正しい。にもかかわらず、この形態は現に存在する(そしてこの場合には、目的はどうでもよいこととなる)。たとえば買い手は商品を、買ったときよりも高く売ることができないかもしれない。彼はそれを、買ったときよりも安く売らざるをえないかもしれない。どちらの場合にも、操作の結果は操作の目的と矛盾している。けれどもこのことは、このような操作も目的にかなった操作と共通にG-W-Gという形態をもっている、ということを妨げるものではない。〉(草稿集④5-7頁)

《初版》

 〈G-W-Gという流通を、もっと詳しく見てみよう。それは、単純な商品流通の過程と同じに、二つの対立する諸段階を通過してそれらの統一を形成している過程である。第1の段階、G-W、購買では、貨幣が商品に転化される。第2の段階、W-G、販売では、商品が貨幣に再転化される。だが、両段階の統一である総運動は、次のように表現される。すなわち、貨幣を商品と交換し、同じ商品を再び貨幣と交換するということ、商品を売るために買うか、あるいは、購買と販売との形態上の差異を無視すれば、貨幣で商品を買い商品で貨幣を買う(2)、ということ。ところが、この過程の結果はどうかと言えば、この結果は、貨幣と貨幣との交換、G-Gに消えてゆく。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、その2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで転売すれば、私は結局、100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と、交換したわけである。〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》  フランス語版では、二つのパラグラフに分かれて、あいだに原注(2)が入っている。ここでは別途紹介する原注を除いて紹介しておく。

 〈A-M-A の流通をもっと詳しく考察しよう。それは単純な流通と同じように、2つの対立する諸段階を通過する。購買という第1段階 A-M では、貨幣が商品に転化する。販売という第2段階 M-A では、商品が貨幣に転化する。これら両段階の全体は、貨幣を商品と交換し同じ商品を再び貨幣と交換するという運動、売るために買うということ、によって表現されるか、あるいは、購買と販売との形態的な差異を無視すれば貨幣で商品を買い商品で貨幣を買うということ、によって表現されている(2)。
  この運動は貨幣と貨幣との交換 A-A に帰着する。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、次いでこの2000ポンドの綿花を110ポンド・スターリングで売れば、私は結局100ポンド・スターリングを110ポンド・スターリングと、貨幣を貨幣と交換したわけである。〉(江夏・上杉訳130頁)

《『資本論』第2巻》

  〈資本がわれわれの前に現われた最初の現象形態(第一部第四章第一節)G-W-G' (これは(1)G-W1と(2)W1-G'とに分解される)では同じ商品が二度現われる。第一の段階で貨幣がそれに転化する商品も、第二の段階でより多くの貨幣に再転化する商品も、どちらも同じ商品である。二つの流通のこのような本質的な相違にもかかわらず、両方に共通な点は、その第一段階では貨幣が商品に転化し、第二段階では商品が貨幣に転化するということ、つまり第一段階で支出された貨幣が第二段階で再び還流するということである。二つの流通には、一方ではこのように貨幣がその出発点に還流してくることが共通であり、他方ではまた還流してくる貨幣が前貸しされた貨幣を超過しているということが共通である。そのかぎりでは、G-W…W'-G'も一般的な定式G-W-G'のうちに含まれて現われるのである。〉(全集第24巻65頁)

●原注2

《初版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ。〉〉(江夏訳144頁)

《フランス語版》

 〈(2) 「貨幣で商品を買い、商品で貨幣を買う」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的および本質的な秩序』、543ページ)。〉(江夏・上杉訳130頁)


●第7パラグラフ

《初版》

 〈ところで、回り道をして、同じ貨幣価値を同じ貨幣価値と、つまり、たとえば100ポンド・スターリングを1OOポンド・スターリングと交換しようとすれば、流通過程G-W-Gが馬鹿げて無内容であることは、全く明白である。100ポンド・スターリングを流通の危険にさらさずにしっかりともっている貨幣蓄蔵者のやり方のほうが、はるかに簡単で確実であろう。他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで転売しようと、または、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ、たたき売りせざるをえなかろうと、ともあれ、いつでも、彼の貨幣は独自な特異の運動を描いたのであって、この運動は、彼の貨幣が単純な商品流通のなかで描く運動、たとえば穀物を売り、こうして手に入れた貨幣で衣服を買う農民の手のなかで描く運動とは、全くちがう。だから、循環 G-W-G と循環 W-G-W との形態差異の特徴づけが、まずもって肝要である。そうすれば、この形態差異の背後にひそんでいる内容上の差異も、同時に明らかになるであろう。〉(江夏訳144-145頁)

《フランス語版》

 〈もしそのような回り道を通って、等価の貨幣額、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとすれば、A-M-A の流通が奇怪な過程であることは、いうまでもない。自分の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらすかわりに、それをしっかりと取っておく貨幣蓄蔵者の方法のほうが、まだましである。だが他方、商人が、100ポンド・スターリングで買った綿花を110ポンド・スターリングで再び売ろうと、それを100ポンド・スターリングで、また50ポンド・スターリングでさえ引き渡さざるをえなかろうと、どちらのばあいにも、彼の貨幣は特殊的、独創的運動をいつも描くのであって、たとえば小麦を売って上衣を買う農民の貨幣が通過する運動とは、全くちがう。したがって、われわれはまず、二つの流通形態である A-M-A と M-A-Mとの特徴的な差異を確証しなければならない。われわれはそれと同時に、この形態的な差異の背後にどんな現実的な差異が隠れているかを、示すであろう。〉(江夏・上杉訳130-131頁)


●第8パラグラフ

《61-63草稿》

 〈さしあたり、形態G-W-G(買ったのちに売ること)を考察し、それを、以前に考察した流通形態W-G-W(売ったのちに買うこと)と比較しよう。第1に、流通G-W-Gは、流通W-G-Wと同じく、異なった二つの交換行為に分かれるのであって、それらの統一が、流通G-W-Gである。つまり、G-W、貨幣を商品と交換すること、すなわち購買。この交換行為では、1人の買い手と1人の売り手とが相対している。第2に、W-G、販売、商品を貨幣と交換すること。この行為でも、同じく2人の人物が、買い手と売り手とが相対している。買い手は、ある人から買い、別の人に売る。この運動を始める買い手は、この両方の行為をなし終える。彼はまず買い、次に売る。言い換えれば、彼の貨幣は2つの段階を経過する。それは第1段階では出発点として現われ、第2段階では結果として現われる。これにたいして、彼の交換の相手となる2人の人物は、それぞれただ1つの交換行為を行なうだけである。1人は商品を売る、--これは彼が最初に交換する相手である。もう1人は商品を買う、すなわちこちらは、彼が最後に交換する相手である。つまり、1人が売る商品と、もう1人が買うさいの貨幣とは、どちらも流通の2つの対立する局面を通り終えるのではなく、それぞれただ1つの行為をなし遂げるだけなのである。この2人の人物がなし遂げる、販売と購買というこの2つの一面的な行為は、どちらもわれわれになんの新たな現象をも示さないのであるが、この過程を始める買い手が経過する総過程はそうではない。われわれはまえのものに対比して、買い手--彼はふたたび売ることになる--あるいは貨幣--これをもって彼は操作を始める--が経過する総運動を考察しよう。〉(草稿集④7-8頁)

《初版》

 〈まず、両方の形態に共通なものを見てみよう。
  両方の循環は、同じ対立的な二つの段階、販売であるW-Gと購買であるG-Wとに、分かれる。これらの段階のどちらも、それ自体として考察すれば、なんらの差異も認められない。この過程にはいり込む要素は、両方の形態において、同じもの、商品と貨幣とである。両方の循環のどの部分でも、買い手と売り手という同じ経済的仮装が向かいあっている。双方の過程において3人の契約当事者が登場するが、1人の契約当事者だけが、交互に買い手および売り手としていつも現われるのに、他の二人の契約当事者のうち、一方は売るだけ他方は買うだけである。両方の循環は、結局、同じ対立的な諸段階の統一である。〉(江夏訳145頁)

《フランス語版》

 〈まず、両形態に共通であるものを考察しよう。
  両運動とも、同じ2つの対立する諸段階、M-A である販売と A-M である購買とに分解される。両段階のどちらにおいても、2人の人物が買い手と売り手という同じ経済的仮面をつけて相対するのと同じように、商品と貨幣という2つの同じ物的要素が相対する。それぞれの運動は、同じ対立する諸段階である購買と販売との統一であって、どちらのばあいも3人の契約当事者の参加によって果たされるが、このうちの1人は売るだけ、他の1人は買うだけであるのに、第3の当事者はかわるがわる買ったり売ったりする。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第9パラグラフ

《初版》

 〈過程 W-G-W と過程 G-W-G との形態差異は、両方の過程を構成しているこつの段階を比較せずに、これら二つの段階の全経過を比較するやいなや、初めて明白になる。両方の過程を最初から区別しているものは、同じ対立的な流通諸段階の順序が逆なことである。単純な商品流通は、販売で始まり購買で終わり、資本としての貨幣の流通は、購買で始まり販売で終わる。前のばあいには商品が、後のばあいには貨幣が、運動の出発点および終点になっている。第一の形態では貨幣が、他方の形態では逆に商品が、全経過の仲介者として機能している。〉(江夏訳145-146頁)

《フランス語版》

 〈けれども、M-A-M と A-M-A との運動を最初に区別するものは、同じ対立する諸段階の順序が逆なことである。単純な流通は、販売をもって始まり、購買をもって終わる。資本としての貨幣の流通は、購買をもって始まり、販売をもって終わる。出発点と復帰点をなすものが、前者では商品であり、後者では貨幣である。媒介者として役立つものが、第一の形態では貨幣であり、第二の形態では商品である。〉(江夏・上杉訳131頁)


●第10パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態G-W-Gの最初の行為、すなわちG-W、購買は、形態W-G-Wの最後の行為、すなわち同じくG-Wである。しかし、この最後の行為で商品が買われ、貨幣が商品に転化されるのは、その商品を使用価値として消費するためである。貨幣は支出されるのである。これにたいしてG-W-Gの最初の段階としてのG-Wで、貨幣が商品に転化され、商品と交換されるのは、ただ、商品をふたたび貨幣に転化するためであり、貨幣を取り戻すため、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出すためである。したがって貨幣は、復帰するためにだけ支出されるものとして現われ、商品を媒介にしてふたたび流通から取り出されるためにだけ流通に投じられるものとして現われる。したがって、貨幣はただ、前貸しされているにすぎない。〉(草稿集④16頁)

《初版》

 〈流通 W-G-W では貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に転化する。したがって、貨幣は、最終的に支出されている。これに反して、逆の形態であるG-W-Gでは、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を収得するためである。彼は商品を買うさいに貨幣を流通のなかに投ずるが、そうするのは、ほかならぬこの商品の販売によって貨幣を流通から引き戻すためである。彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れようというたくらみのある意図があってのことにほかならない。だから、貨幣は前貸しされるだけである(3)。〉(江夏訳146頁)

《マルクスのエンゲルスへの書簡(1868年5月23日)》

  〈テユルゴは次のように言っている。あらゆる種類の事業家たちは「売るために買うということを共通にしている。…… 彼らの買い前貸しであって、この前貸しは彼らの手にふたたび帰ってくる」と。これは、じっさい、貨幣が資本として機能するところの取引であり、貨幣の出発点への貨幣の還流を条件とする取引であって、貨幣がたんに通貨として機能することを必要とするだけの、買うために売るという取引に対立するものである。売りと買いという行為の順序の相違が貨幣にごつの違った流通運動を押しつけるのである。その背後に潜んでいるものは、貨幣形態で表わされている価値そのものの違った行為なのである。〉(全集第32巻77-78頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の流通では、貨幣は最後には、使用価値として役立つ商品に変えられる。したがって、貨幣は終局的に支出される。これと逆の形態である A-M-A では、買い手は自分の貨幣を、売り手として取り戻すために与える。彼は、商品の購買によって貨幣を流通のなかに投じ、次いで、同じ商品の販売によってこの貨幣を流通から回収する。彼が貨幣を手放すにしても、それはただ、この貨幣を取り戻すという二心のある底意があってのことだ。したがって、この貨幣はたんに前貸しされるだけである(3)。〉(江夏・上杉訳131-132頁)


●原注3

《61-63草稿》

 〈「ある物がふたたび売られるために買われる場合には、使用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それがふたたび売られるためにではなくて買われる場合には、使用された金額は、支出される、と言われてよい」〈ジェイムズ・ステューアト『経済学原理の研究』、所収、『著作集』、その子サー・ジェイムズ・ステューアト将軍編、ロンドン、18O5年、第1巻、274ページ)。〉(草稿集④16-17頁)

《初版》

 〈(3)「ある物が転売されるために買われるばあいには、充用される金額は、前貸しされた貨幣と呼ばれる。それが売られるためでなく買われるばあいには、その金額は支出されたと言ってかまわない。」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、その息子サー・ジェームズ・ステュアート将軍編、ロンドン、1801年、第1巻、274ページ。)〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈(3) 「ある物が後で売られるために買われるぱあい、購買に使用される金額は、前貸しされた貨幣と言われる。ある物が売られるためにではなく買われたのであれば、その金額は支出されたと言ってよい」(ジェームズ・ステュアート『著作集』、彼の息子サー・ジェームズ・ステユアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻、274ぺージ)。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第11パラグラフ

《初版》

 〈形態W-G-Wでは、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、もう一人の売り手に支払ってしまう。商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まる総過程は、商品と引き換えに貨幣を譲り渡すことで終わる。形態G-W-Gでは、これと逆である。ここでは、同じ貨幣片ではなく同じ商品が二度位置を変える。買い手はこの商品を売り手の手もとから受け取って、これをもう一人の買い手の手もとに譲り渡す。単純な商品流通では、一方の手もとから他方の手もとへの同じ貨幣片の最終的な移行が、その貨幣片の二度にわたる位置変換によってひき起こされるが、それと同じように、ここでは、自己の最初の出発点への貨幣の還流が、同じ商品の二度にわたる位置変換によってひき起こされる。〉(江夏訳146頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の形態では、同じ貨幣片が二度位置を変える。売り手はこれを買い手から受け取って、別の売り手に渡す。運動は、商品と引き換えに貨幣を受け取ることで始まり、商品と引き換えに貨幣を引き渡すことで終わる。A-M-A の形態では、これと逆のことが生ずる。このばあい二度位置を変えるのは、同じ貨幣片ではなく、同じ商品である。買い手はこれを売り手の手もとから受け取って、別の買い手に譲り渡す。単純な流通では、同じ貨幣片の二度にわたる位置変換は、この貨幣片が一方の手から他方の手に終局的に移行することをもたらすが、それと同じように、同じ商品の二度にわたる位置変換は、このばあい、貨幣が自己の最初の出発点に還流することをもたらすのである。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

 〈第1。まずG-W-Gを、第2のGが第1のGよりも大きな価値量であるという事情は度外視して、その形態の面から考察しよう。価値はまず貨幣として、次には商品として、次にはふたたび貨幣として、存在する。それはこれらの形態を変換するなかで自己を維持し、これらの形態からそれのもとの形態に復帰する。それは2つの形態変化を通り終えるが、これらの形態変化のなかで自己を維持するのであり、したがってそれはこれらの形態変化の主体として現われる。したがってこれらの形態の変換は、価値自身の過程として現われる。言い換えれば、ここで述べられている価値は、過程を進みつつある価値であり、過程の主体である。〉(草稿集④11頁)
 〈このG-W-Gが、労働者と資本家とのあいだにおける貨幣--資本家が労賃に支出した貨幣--の還流を表現するにすぎない場合には、それ自体としてはなんら再生産過程を表わさず、ただ、買い手が同じ相手にたいしあらためて売り手になることを表わすだけである。それはまた、資本としての貨幣、すなわち、G-W-G'〔の場合のよう附に〕第二のG'が最初のGよりも大きい貨幣額、したがってGは自己増殖する価値(資本)であるというような、資本としての貨幣、を表わすものでもない。むしろそれは、同一貨幣額(しばしばさらにより少ない貨幣額)がその出発点に形式的に還流するととの表現でしかない。(ここで資本家と言っているのは、もちろん、資本家階級のことである。) だから、私が第一冊で(『経済学批判』全集第13巻101-102頁--引用者)、形態G-W-GはどうしてもG-W-G'でなければならないと言ったのは、まちがいであった。この形態が貨幣還流の単なる形態を表現しうるのは、私がそこでもすでに示唆しておいたように(『経済学批判』全集第13巻80-81頁--引用者)、貨幣のその同じ出発点への回流は、買い手があらためて売り手となるということによって説明されるからである。資本家が富裕になるのはこうした還流によってではない。彼は、たとえば10シリングを労賃として支払った。この1Oシリングで労働者は資本家から商品を買う。資本家は労働者にその労働能力の代価として、1Oシリング分の商品を与えたのである。もし彼が労働者に、1Oシリングの価格の生活手段を現物で与えたとすれば、貨幣流通はまったく生ぜず、したがってまた貨幣の還流も生じないであろう。だから、この還流という現象は資本家の致富とは無関係であり、資本家が富裕になるということは、ただ、彼が賃金として支出したものよりも多くの労働を生産過程自体において取得するということにのみ、それゆえ彼の生産物はその生産費よりも大きいけれども他方彼が労働者に支払う貨幣は労働者が彼から商品を買うための貨幣よりもけっして大きくはないということにのみ、由来しているのである。この場合、この形式的な還流は致富とは関係がなく、したがって資本としてのGを表現しない、それは、ちょうど、地代、利子および租税に支出された貨幣の、地代や利子や租税の支払者への還流のうちに、価値の増加または補塡が含まれていないのと同じである。〉(草稿集⑤495-496頁)

《初版》

 〈自己の出発点への貨幣の還流は、商品が買われたときよりも高く売れるか売れないかには、かかわりがない。こういった事情から影響を受けるのは、還流する貨幣額の大きさだけである。買われた商品が転売されるやいなや、つまり、循環G-W-Gが完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。したがって、これが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知覚することができる差異なのである。〉(江夏訳146-147頁)

《フランス語版》

 〈貨幣の自己の出発点への還流は、商品が買われたときよりも高価に売られるかどうかにかかわりがない。この事情は、戻ってくる金額の大きさに影響するだけだ。買われた商品が再び売られるやいなや、すなわち A-M-A の循環が完全に描かれるやいなや、還流という現象自体が生ずる。これこそが、資本としての貨幣の流通と単なる貨幣としての貨幣の流通との、感覚的に知ることのできる差異なのだ。〉(江夏・上杉訳132頁)


●第13パラグラフ

《61-63草稿》

 〈形態W-G-W--売ったのちに買うこと--では使用価値が、したがってまた欲望の充足が究極の目的であって、この形態そのものにはこの過程が経過したのちの過程更新の条件は直接にはない。商品は貨幣に媒介されて他の商品と交換されたのであり、いまや使用価値として流通の外に落ちる。これで運動は終りである。これにたいして形態G-W-Gの場合には、このG-W-Gという運動の、単なる形態のなかにすでに、この運動には終りがなく、その終りはすでにその更新の原理と衝動とを含んでいる、ということがあるのである。というのは、次のようなわけである。貨幣、抽象的富、交換価値が、運動の出発点であり、そしてその倍加が目的だから、また、結果も出発点も質的に同じもの、ある貨幣額あるいは価値額であり、その量的限界が過程の始めにおけるのと同様に〔W-GのGにおいても〕ふたたびそれの一般的概念の制限として現われるのだから--というのは、交換価値あるいは貨幣は、その量が増大させられればさせられるほど、その概念に相応するからであり(貨幣それ自体はあらゆる富、あらゆる商品と交換可能であるが、しかしそれが交換可能である限度は、それ自身の量、つまり価値量にかかっている)、自己増殖は、過程を開始した貨幣にとってそうであるのと同様に、過程から出てきた貨幣にとっても必要な活動だからである--、運動の終りとともに、またもやすでに、この運動の再開始の原理が与えられている、というわけなのである。貨幣は終りにもまたふたたび、それが始めにそこにあったものとして、同じ形態にある同じ運動の前提として、出てくる。このこと--富をその一般的形態で手に入れようとするこの絶対的な致富衡--こそ、この運動が貨幣蓄蔵と共通にもっているものである。〉(草稿集④20-21頁)

《初版》

 〈もちろん、W-G-Wでも自己の出発点への貨幣の還流は生じうるが、このことは、全過程の更新あるいは反覆に依拠するものであって、貨幣自身という契機の進行に依拠するものではない。私が1クォーターの穀物を3ポンド・スターリングで売り、この同じ3ポンド・スターリングで衣服を買えば、この3ポンド・スターリングは、私にとっては、終局的に支出されている。私はもはや、この3ポンド・スターリングとはなんの関係もない。この3ポンド・スターリングは衣服商人のものである。そこで、私が第2の1クォーターの穀物を売れば、貨幣は私に還涜してくるが、それは第1の取引の結果ではなく、この取引の反覆の結果でしかない。この貨幣は、私が第2の取引を終えてあらためて買うと、すぐさま私から再び離れてゆく。だから、流通W-G-Wでは、貨幣の支出は、貨幣の還流となんの関係もない。これに反して、G-W-Gでは、貨幣の還涜が、貨幣の支出のやり方そのものによってひき起こされている。この還流がなければ、操作が失敗した、すなわち、過程が中断されてまだ完了していないのである。というのは、過程の第2段階、購買を補足して完結する販売が、欠けているからである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈ある商品の販売が貨幣をもたらし、別の商品の購買がこの貨幣を持ち去るやいなや、M-A-M の循環が完結する。そうであってもなお貨幣の還流がその後で起こるならば、それは、循環の全行程が再び描かれるからにほかならない。もし私が1一クォーターの小麦を3三ポンド・スターリングで売り、この貨幣で上衣を買えば、この3ポンド・スターリソグは私にとっては終局的に支出されている。その3ポンド・スターリソグはもはや私には関係がなくなり、上衣の商人が自分のボケヅトのなかにそれをもっている。私がもう一度1クォーターの小麦を売っても無駄であって、私の受け取る貨幣は最初の取引から生じたものではなく、最初の取引の更新から生じたものである。もし私が二度目の取引を終わりまでやりとげて再度買えば、その貨幣は再び私から遠ざかる。したがって、M-A-M の流通では、貨幣の支出はその復帰となんの共通性ももっていない。A-M-A の流通ではこれと全く逆である。A-M-A では、貨幣が還流しなければ操作は不成功に終わる。運動の第二段階、すなわち購買を補完する販売が欠けているために、この運動は中断される、すなわち完結されないわけである。〉(江夏・上杉訳132-133頁)


●第14パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈流通は、商品の二つの規定から出発する、つまり、使用価値という規定、〔および〕交換価値という規定から出発する。第一の規定が支配的であるかぎりでは、流通は使用価値の自立化で終わる。つまり商品は消費の対象になる。第二の規定が支配的であるかぎりでは、流通は第二の規定で終わる、つまり交換価値の自立化で終わる。商品は貨幣になる。しかし後者の〔交換価値という〕規定において商品が生成するのは流通の過程を通ることによってはじめて起こることであるから、商品は相変わらず流通と関連しつづけている。商品が一般的労働時間の--その社会的形態において--対象化されたものであることがさらに展開されてゆくのは、この後者の規定においてである。したがって社会的労働--これは最初は商品の交換価値として現象し、つぎに貨幣として現象する--の規定をさらに展開してゆくのもまた、この後者の側面からでなければならない。交換価値は社会的形態そのものである。したがって交換価値の展開を先へすすめてゆくことは、商品をその表層に送りだす社会的過程をさらに展開すること、または〔流通という表層から〕この社会的過程のなかへ沈潜してゆくことなのである。〉(草稿集③168頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
  ……
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である。〉(草稿集④10頁)
 〈流通形態W-G-Wでは、商品は二つの変態を経過するが、その結果は、商品が使用価値としてあとに残る、ということである。この過程を経過するのは、商品--使用価値と交換価値との統一としての、あるいは使用価値としての--であって、交換価値はこの商品の単なる形態、すぐに消えてしまう〔vershwindend〕形態である。しかしG-W-Gでは、貨幣と商品とは、交換価値の異なった定在形態として現われるにすぎないのであって、交換価値は、あるときは貨幣としてその一般的な形態で、他のときは商品としてその特殊的な形態で現われ、同時に、統括するもの〔das Übergreifende〕および自己を主張するものとして、両形態のなかに現われるのである。貨幣はそれ自体〔an und fur sich〕交換価値の自立化した定在形態であるが、ここでは商品もまた、交換価値の体化物〔Inkorporation〕の担い手として現われるにすぎない。〉(草稿集④12頁)

《初版》

 〈循環 W-G-W は、ある商品の極から出発して他の一商品の極で終結し、後者の商品は流通から出て消費に帰する。したがって、消費、必要の充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環 G-W-G は、貨幣の極から出発して、この循環の終点である同じ極に移動する。だから、この循環の主な動機も決定的な目的も、交換価値そのものである。〉(江夏訳147頁)

《フランス語版》

 〈M-A-M の循環はある商品を出発点とし他の商品を終着点とするが、後者はもはや流通しないで消費に入りこむ。したがって、必要の充足、使用価値が、この循環の終局目的である。これに反して、A-M-A の循環は貨幣を出発点とし、貨幣に立ち戻る。したがって、その動機、その決定的な目的は、交換価値である。〉(江夏・上杉訳133頁)


●第15パラグラフ

《経済学批判・原初稿》

 〈交換価値は、流通の前提であるとともに結果でもあるから、流通から出てきたのと同様に、ふたたび流通のなかに入ってゆかなければならない。
  貨幣の増大、貨幣の倍増こそが、価値が自己目的として行なうところの流通形態の唯一の過程としてあること、すなわち自立化させられて交換価値としての(さしあたりは貨幣としての)形態にある自分を保持してゆく価値は同時に価値の増大の過程でもあること、価値が自分を価値として保持してゆく運動は同時に価値が自分の量的制限をのり越えてゆく運動、価値量として価値を増大させてゆく運動でもあること、そして交換価値の自立化とはそれ以外の内容をもってはいないこと、こういうことをわれわれは、貨幣を論じたさいにすでに考察しておいたし、またこうした事態は貨幣蓄蔵において実際に現われもしたのである。流通を媒介として交換価値を保持してゆく運動そのものが同時に、交換価値の自己増大運動〔Sichvermehren〕として現われる。そしてこれこそ交換価値の自己増殖なのである。交換価値の自己増殖とは、交換価値が自分を価値を創造する価値--自分自身を再生産し、その過程において自分自身を保持してゆく価値であると同時に価値として、すなわち剰余価値として、自分を定立してゆく価値--として能動的に定立することである。貨幣蓄蔵においては、まだこの過程の形態だけが与えられたにすぎない。個人を念頭におくかぎりでは、この過程は、富をある有用な形態から無用な、しかも〔特殊な〕効用をもたないことを使命〔Bestimmung〕とする形態に換えてゆく無内容な運動として現われる。経済的過程の全体を念頭におけば、貨幣蓄蔵は、金属流通そのものの諸条件の一つとして役立つにすぎない。貨幣が蓄蔵貨幣にとどまるかぎりは、貨幣は交換価値としては機能しない、つまり貨幣は想像的なものにすぎない。他面では、〔価値の〕増大--自分を価値として定立すること、流通を通じて単に自分を保持するだけでなく、流通から自分を生み出しもする価値、つまり自分を剰余価値としても定立する価値--もまた〔貨幣蓄蔵においては〕想像的なものにすぎない。〔というのも〕以前には商品の形態で存在していたのと同じ価値の大きさが、今では貨幣の形態で存在しているだけなのだから。貨幣が貨幣の形態で貯蔵されるのは、商品の形態にある貨幣が断念されるからである。貨幣を実現しようとすれば、貨幣は消費のうちに消えうせてしまう。だから価値の保持と増大といっても、抽象的で形態的なものにすぎないのである。単純流通において定立されているものは、価値の保持と増大の形態だけなのである。〉(草稿集③176-177頁)

《61-63草稿》

 〈G-W-Gにおいては、交換価値は、流通の結果として現われるのと同様に、流通の前提としても現われる。
 流通から十全な〔adäquat〕交換価値(貨幣)として結実し、自立化するが、ふたたび流通にはいり、流通のなかで、流通を通じて自己を維持し、倍加する(大きくなる)価値(貨幣)は、資本である。
  G-W-Gでは、交換価値が流通の内容であり、自己目的である。売ったのちに買うこと〔では〕、使用価値が目的であり、買ったのちに売ること〔では〕、価値そのものが目的である
  ここで二つのことを強調しなければならない。第1に、G-W-Gは過程を進みつつある〔prozessierend〕価値であり、過程--すなわち、異なった交換行為あるいは流通段階を通って経過すると同時にそれらを統括する〔übergreifend〕ような過程--としての交換価値である。第2に、この過程のなかで価値は自己を維持するばかりでなく、それはその価値量を増加させ、自己を倍加し増加させるのであり、言い換えれば、それはこの運動のなかで剰余価値を創造するのである。このように、それは自己を維持するだけではなくて自己を増殖する価値であり、価値を生む〔setzen〕価値である。〉(草稿集④10-11頁)
 〈第2。けれどもすでに述べたように、もしもG-W-Gの質的に等しい極、G、Gが量的に異なっていなかったならば、つまり、この過程で或る価値額を貨幣として流通に投げ込んだあと、同じ価値額を貨幣の形態でふたたび流通から引き出し、かくして2重のかつ対立する交換行為を通してすべてをもとのまま、運動の出発点のままにしておくのであったならば、G-W-Gは一つの無内容な運動である。むしろ、この過程の特徴的な点は、両極G、Gが質的には等しくても量的には異なっている、というところにあるのであって、そもそも交換価値そのもの--そして貨幣のかたちで存在するのは交換価値そのものである--がその本性によってなしうる唯一のことが、量的な区別なのである。購買と販売という2つの行為、貨幣の商品への転化と商品の貨幣への再転化とによって、運動の終りには、より多くの貨幣、増大した貨幣額、つまり始めに流通に投げ込まれた価値と比べて倍加された価値、が流通から出てくる。たとえば、貨幣は最初、運動の始めでは1OOターレルであったのに、運動の終りではそれは11Oターレルである。つまり価値は、自らを維持しただけではなく、一つの新しい価値を、あるいは--それをわれわれはこう呼びたいと思うのだが--剰余価値(suplus value〕を、流通の内部で生んだ〔setzen〕のである。価値が価値を生産した。言い換えれば、価値はここではじめて、自分自身を増殖するものとして現われる。こうして、運動G-W-Gのなかで現われる価値は、流通から出てきて流通のなかにはいる、流通のなかで自らを維持する、そして自分自身を増殖し剰余価値を生む、価値である。そうしたものとしては、価値は資本である。〉(草稿集④18-19頁)

《初版》

 〈単純な商品流通では、両方の極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに商品である。それらは同じ価値量の商品でもある。だが、それちは同時に、質的にちがいのある使用価値、たとえば穀物と衣服とでもある。生産物交換、すなわち、社会的労働を表現しているいろいろな素材の変換が、ここでは、運動の内容を成している。流通G-W-Gでは事情がちがう。それは、同義反覆であるから、一見したところ内容がないように見える。両極には、同一の経済的な形態規定がそなわっている。両方の極はともに貨幣である。それらはまた、使用価値として質的に区別されていない。なぜなら、貨幣はまさに、諸商品の転化した姿態であり、この姿態にあっては、諸商品の特殊な使用価値が消え去っているからである。まず100ポンド・スターリングを綿花と交換し、次いでこの同じ綿花を再び1OOポンド・スターリングと交換すること、つまり回り道をして貨幣を貨幣と、同じものを同じものと交換することは、愚かでもあり無目的でもある操作のように見える(4)。ある貨幣額を他の貨幣額と区別できるのは、総じて、その大きさによるしかない。だから、過程G-W-Gは、両極の質的な差異によって内容をもっているわけではなく--なぜならば、これらの両極は双方とも貨幣であるから--、その量的な差異によってのみ内容をもっているわけである。最後には、最初に流通に投げ入れられたよりも多くの貨幣が、流通から引き上げられる。1OOポンド・スターリングで買われた綿花が、たとえば100+10ポンド・スターリング、すなわち110ポンド・スターリングで転売される。だから、この過程の完全な形態はG-W-G'であって、ここでは、G'=G+ΔG であり、すなわち、G' は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分、に等しい。この増加分、すなわち最初の価値を越える超過分を、私は剰余価値(suplus value)と呼ぶ。だから、最初に前貸しされた価値は、流通のなかで保持されるばかりでなく、この流通のなかで自己の価値量を変え剰余価値をつけ加える、すなわち自己増殖するのである。そして、この運動が、この価値を資本に転化させる。〉(江夏訳147-148頁)

《フランス語版》

 〈単純な流通では、二つの末端が同じ経済的形態をもっており、それらは双方とも商品である。それらは、同じ価値の商品でもある。ところが、それらは同時に、たとえば小麦と上衣という、異質の使用価値である。この運動は諸生産物の交換に、社会的労働がそのなかに現われているところのさまざまな物質代謝に、帰着する。これに反して、A-M-A の流通は、同義反復であるから、一見したところ無意味であるように見える。両端は同じ経済的形態をもっている。それらは双方とも貨幣である。それらは使用価値としては、質的に全然区別されない。貨幣は商品の転化した姿態であるし、この姿態のうちに商品の特殊な使用価値が消え失せているからである。100ポンド・スターリングを綿花と交換して同じ綿花を再び100ポンド・スターリングと交換すること、すなわち、回り道をして貨幣を貨幣と、同じ物を同じ物と交換すること、このような操作は愚かでもあり、無益でもあるように見える(4)。一方の貨幣額は、それが価値を表わすかぎり、その量によってしか他方の貨幣額と区別されえない。A-M-A の運動は、その両端が双方とも貨幣であるから両端のどんな質的差異からもその存在理由を引き出さず、たんにそれらの量的差異からのみその存在理由を引き出すのである。結局、流通に投ぜられたよりも多くの貨幣が、流通から引き出される。100ポンド・スターリングで買われた綿花が100+10、すなわち110ポンド・スターリングで再び売られる。したがって、この運動の完全な形態はA-M-A' であって、そこでは、A'=A+ΔA すなわち、最初に前貸しされた金額に超過分を加えたものに等しい。この超過分あるいはこの増加分を、私は剰余価値(英語ではsuplus value)と呼ぶ。したがって、前貸しされた価値は、たんに流通のなかで保存されるだけでなく、さらにそこでその量を変え、そこで追加分を付加し、いっそう価値を増加させるのであって、この運動が、この価値を資本に転化するのである。〉(江夏・上杉訳133-134頁)


●原注4

《初版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」、とメルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ。(前掲書、486ベージ。)「商業」と「投機」を職務上論じているある著書には、こう書かれている。「どの商業も、種類のちがう諸物の交換から成り立っている。そして、利益(商人にとっての?)は、まさにこのちがいから生じている。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。だから、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、有益な対照。」(T・コービット『諸個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明、ロンドン、1841年』、5ページ。) コービットは、G-G、すなわち貨幣と貨幣を交換することは、たんに商業資本のだけではなくすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、少なくとも、この形態が、商業の一種である投機賭博とに共通である、ということは認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うことは投機することであり、したがって、投機と商業とのちがいはなくなってしまう、ということを見いだしている。「ある個人が転売するために生産物を買う取引はどれも、事実上は投機である。」(マカロック『商業の実用……辞典、ロンドン、1847年』、1056ページ。) アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、これよりはるかに素朴にこう言っている。「商業は賭博であり(この一句はロックから借用したもの)、乞食相手では儲けられない。もし人が長期にわたって皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話しあって、儲けの大部分を返してやらなければならないであろう。」(ピント『流通および信用論、アムステルダム、1771年』、231ぺージ。)〉(江夏訳148-149頁)

《フランス語版》

 〈(4) 「人は貨幣を貨幣と交換しない」と、メルシエ・ド・ラ・リヴィエールは重商主義者に向かって叫ぶ(前掲書、486ページ)。商業投機職務上論じているある著書には、こう書かれてある。「どの商業も、種類のちがう物の交換から成っており、利益(商人にとっての?) はまさにこの相違から生ずる。1ポンドのパンを1ポンドのパンと交換しても、なんの利益もないであろう。……これが、商業と、貨幣と貨幣との交換でしかない賭博との、よいコントラストを説明するものだ」(T・コーベト『個人の富の原因と様式との研究、または、商業と投機との原理の説明』、ロンドン、1841年)。コーベトは、A-A.貨幣と貨幣との交換は、たんに商業資本だけのではなく、さらにすべての資本の特徴的な流通形態である、ということがわかっていないにしても、なおかつ彼は、商業の特殊な一種である投機の流通形態が賭博の流通形態であるということを認めている。ところが、次にマカロックがやってきて、売るために買うのは投機することであるということを見出し、したがって投機と商業との差異をどれもこれもうち倒す。「ある個人が再び売るために生産物を買う取引はどれも、実際には投機である」(マカロック『商業の……実用辞典』、ロンドン、1847年、1009ページ)。アムステルダム取引所のピンダロス〔ギリシアの叙情詩人〕であるピントは、もちろん、はるかにもっと素朴である。「商業は賭博である(ロックから借用の一句)。そして、乞食相手では儲けることができない。もし人が長い間に皆の者からなにもかも巻きあげてしまえば、彼は、賭博を再開するためには、穏やかに話し合って利益の最大部分を返してやらなければならないであろう」(ピント『流通・信用論』、アムステルダム、1771年、231ページ)。〉(江夏・上杉訳134頁)

 

 

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